シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「こんにちは!」
学校の帰り道に、ブルーが出会った人。バス停から家まで歩く途中で。
顔馴染みの御主人で、家だって近い。でも、その家では犬を飼っていたろうか?
元気に挨拶したのだけれども、ついつい犬を見てしまう。御主人が握ったリードの先の。
「えっと、この犬…」
前からいたの、と訊いてみた。飼い始めたなら、母が教えてくれそうだから。子犬がいるとか、通ったら犬が座っていたとか。
「孫のだよ。預かってるんだ、旅行中でね」
ペットのホテルよりも犬は嬉しいだろう、と笑顔の御主人。好きな時間に散歩に行けるし、顔を知っている人の家でもあるし、と。
こうして話をしている間も、パタパタと尻尾を振っている犬。とても嬉しそうに。
犬には詳しくないのだけれど、多分、昔の日本の犬の一種。大きい犬だ、とは思わなかったし、柴犬という種類だろうか。茶色い毛皮で、ピンと立った耳。
「吠えないね」
ぼくを見たって、と見詰めた犬。散歩中の犬に近付きすぎたら、吠えることだって多いのに。
「人が好きなんだよ、撫でてみるかい?」
吠えないし、もちろん噛みもしないよ、と御主人が言ってくれたから。
「いいの?」
身体を屈めて撫でてみた背中。猫とは違った手触りだけれど、温かな身体。命の温もり。それにパタパタ振られる尻尾。ちぎれそうなほどに、右に左に。
御機嫌なのだ、と分かるのが尻尾。そうやってブンブン振られていたら。
顔を見たなら喜んでいると分かるけれども、それよりも分かりやすいのが尻尾。振られる尻尾は御機嫌な印、人に出会って振られる時は…。
(大好きの印…)
その人のことが大好きですよ、と尻尾を振って伝える犬。会えてとっても嬉しいです、と。
本当に人が好きなのだ、と尻尾のお蔭で分かるから。自分も好かれているようだから、御主人に尋ねることにした。今もパタパタ揺れている尻尾、それが気になってたまらない。
「尻尾、触ってみてもいい?」
嫌がられるわけじゃなかったら、と眺めた尻尾。きっと大事な尻尾だろうし、触られたら嫌かもしれないから。飼っている人なら大丈夫でも、会ったばかりの自分は駄目とか。
ちょっぴり心配だったのだけれど、「もちろんだよ」と答えた御主人。
「嫌がる犬もいるらしいけどね、触って貰うと喜ぶから」
どうぞ、と出して貰えたお許し。いきなり尻尾は失礼かな、と背中から撫でて、尻尾に触れた。そうっと、御機嫌そうな尻尾に。
(ちょっとだけ…)
引っ張るわけじゃないからね、と触った尻尾。犬は怒りはしなかった。代わりに尻尾がブンブン振られて、手にパタパタと当たったくらい。「もっと、もっと」と。
それが嬉しくて、暫く夢中で犬と遊んだ。背中を撫でたり、尻尾に触らせて貰ったり。御主人が犬を座らせてくれて、握手をさせて貰ったり。
いつまでも遊んでいたかったけれど、御主人も犬も散歩の途中。これから出掛ける所らしいし、あまり引き止めても悪いだろう。
(きっと沢山歩きたいよね?)
道端で止まって遊んでいるより、元気に散歩。公園に行くとか、他にも色々。
そう思ったから、「ありがとう」と御主人に告げたお別れ。「楽しかった」と頭を下げて。
さよなら、と手を振った時にも揺れていた尻尾。「また遊んでね」とパタパタと。学校の帰りに会った時には、また遊ぼうと。
御主人と一緒に歩き出しても、犬の尻尾は揺れたまま。「楽しかったね」と言うように。
初めて出会った、柴犬らしい茶色の犬。ご近所さんの家に、今だけいる犬。
(可愛かったな…)
小さい犬じゃなくても可愛いよ、と家に帰っても思い出す。おやつの間も、二階の部屋に戻った後も。なんて気のいい犬だったろうと、あんなに尻尾を振ってくれて、と。
勉強机の前に座って、楽しかった時間に思いを馳せた。初対面なのに、吠えたりしないで尻尾も触らせてくれた犬。うっかり名前を聞き忘れたほど、アッと言う間に仲良しになれた。
猫も好きだけれど、犬もいい。
さっきみたいに、尻尾で自分の気持ちを伝えてくれるから。嬉しい時にはブンブン振って。
(猫の尻尾は、ちょっぴり気取った感じ…)
犬とは全然違うよね、と考えてしまうのが猫たちの尻尾。しなやかな尻尾を得意そうに立てて、澄まし顔で歩いてゆく猫たち。
尻尾はピンと立てているもの、犬のようにパタパタ振ったりはしない。猫たちならば。
(怒った時には振っているけど…)
たまに見掛ける猫同士の喧嘩。道端とか、この家の庭とかで。
睨み合ったまま姿勢を低くして、右に左に振られる尻尾。不機嫌そうな声で唸りながら。尻尾を地面すれすれに振って、バサリ、バサリと音がするよう。
…ゆっくりと振るものだから。喧嘩の相手よりも自分が強い、と威嚇するために振る尻尾。
猫が尻尾を左右に振るのは、そういう時。普段はピンと立てているだけ、驚いた時は…。
(…尻尾、パンパンに膨らんじゃって…)
まるでブラシのようになる。怒った時にも、同じに膨らむ猫たちの尻尾。フーッと怒って、毛を逆立てて。身体中の毛が逆立ったならば、尻尾の毛だって逆立つから。
(犬でも猫でも、尻尾で分かるよ)
どういう気持ちか、眺めただけで。御機嫌なのか、不機嫌なのか。
仲間同士なら分かって当然、人間にだって通じる気持ち。「怒ってます」とか、「楽しいです」とか、尻尾の様子を見るだけで。
御機嫌でパタパタ振られる尻尾や、ションボリと垂れてしまった尻尾。それを見たなら、ピンとくる気持ち。まるで言葉が通じなくても。
便利だよね、と思った尻尾。犬や猫たちが持っている尻尾。仲間はもちろん、自分たちの言葉を知らない人間にだって、尻尾が気持ちを伝えてくれる。ブンブン振ったりするだけで。
(とっても便利に出来てるよね…)
ああいう風に、尻尾で気持ちを伝えられたら素敵なのに。犬や猫たちの尻尾みたいに、自分にも尻尾。今の自分はサイオンがとても不器用になって、思念波もろくに紡げないから…。
(代わりに尻尾…)
あったらいいな、と考えた尻尾。今の自分についていたなら、きっと尻尾は役に立つ。パタパタ振っていたならば。嬉しそうにブンブン揺れていたなら。
尻尾があったら、ハーレイも一目で分かってくれる。どんなに好きでたまらないのか、会えたら嬉しくてたまらないのか。
ハーレイに会ったら、パタパタ振られる自分の尻尾。帰り道に会った犬の尻尾みたいに。
(キスは駄目だ、って叱られたら…)
どれほどしょげてしまうのかだって、尻尾がハーレイに教えてくれる。
ついさっきまでパタパタ振られていたのが、ションボリとなって垂れ下がって。心そのままに、萎れた葉っぱみたいになって。
(…ホントに分かりやすいよね?)
ぼくの気持ち、と思う「尻尾がある」自分。言葉では上手く伝わらなくても、頼もしい尻尾。
それに尻尾は正直なのだし、嘘をついたりしないもの。心をそのまま映し出す鏡。
誰だってそれを知っているから、ハーレイにもきっと分かる筈。嬉しい気持ちも、悲しい気分も伝わる尻尾。
元気にパタパタ振られているのか、寂しそうに垂れてしまっているか。
見れば気持ちが分かるのが尻尾、思念波では伝えられなくても。…上手く言葉に出来なくても。
もしも尻尾を持っていたなら、今よりも素敵。そんな気分がしてくる尻尾。
とことん不器用になったサイオン、それの代わりに尻尾があったら便利なのに、と。
(尻尾、欲しいな…)
ぼくにも尻尾があればいいのに、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「あのね、尻尾があったらいいと思わない?」
「はあ?」
尻尾って何だ、と怪訝そうなハーレイ。「俺に尻尾があるといいのか?」と。
「違うよ、尻尾が欲しいのは、ぼく…。尻尾は尻尾で、本物の尻尾」
動物って、尻尾を見れば気持ちが分かるでしょ?
喜んでるとか、ガッカリだとか、怒ってるのとかも、全部、尻尾に出ちゃってる。
犬とか猫が持ってる尻尾はそういう仕組みで、心の中身が表れるよね?
気持ちを伝えるためのもの、と説明したら、ハーレイも「そうだな」と頷いた。
「確かに尻尾は分かりやすいが、犬の尻尾が欲しいのか?」
犬の尻尾は、猫よりも分かりやすいしな。俺のお勧めは犬の尻尾だが…。
「ハーレイもやっぱり、そう思う? 猫より犬の尻尾がいい、って」
だけど欲しいのは、本物の犬の尻尾じゃなくって、猫の尻尾が欲しいわけでもなくて…。
ぼくに尻尾があったらいいな、って。
本当に本物のぼくの尻尾で、ぼくのお尻に生えてる尻尾。ちゃんと毛皮もくっついたヤツ。
尻尾があったら、思念波の代わりに直ぐに分かるよ。ぼくの気持ちがハーレイにもね。
ちょっと尻尾の方を見たなら、心の中身が丸ごと尻尾に出てるんだから。
ハーレイに会えて嬉しい気持ちも、ハーレイが好きでたまらないのも。
きっと今なら、ちぎれそうなくらいに振ってると思う。…ぼくに尻尾がついていたらね。
ハーレイが来てくれたから嬉しいんだもの、と言葉で伝えた自分の気持ち。
尻尾があったら、もうそれだけで伝わるのに。パタパタと振れば、直ぐに分かって貰えるのに。
「…こんな風に言葉にしなくてもいいよ、尻尾があれば」
ハーレイが尻尾を見てくれるだけで、ぼくの気持ちが分かるんだもの。
だから欲しいな、と話した尻尾。うんと不器用な思念波の代わりに、ぼくに尻尾、と。
「なるほどなあ…。そういう理由で尻尾が欲しい、と」
お前の気持ちは分からないでもないんだが…。
本物の尻尾を持つんだったら、お前の場合はウサギの尻尾になっちまうのか?
ウサギの尻尾か、と尋ねられたから、キョトンとした。質問の意味が掴めなくて。
「…ウサギ?」
どうしてウサギの尻尾になるわけ、ハーレイのお勧めの尻尾じゃないよ?
お勧めは犬の尻尾だって言っていなかった?
…ぼくにくっつける尻尾の話とは違ったけれど…。分かりやすい尻尾のことだったけれど。
心の中身を伝えやすいのは犬の尻尾なんでしょ、そうじゃないの?
猫よりも犬、と「俺のお勧めだ」と言われた尻尾を挙げたのだけれど。
「そいつは尻尾の分かりやすさで、お前の尻尾の話じゃないぞ」
お前が尻尾を持つんだったら、その方向で考えないとな。…お前に似合いそうな尻尾を。
それでウサギの尻尾なのかと訊いたんだ。
俺たちはウサギのカップルだからな、お互い、ウサギ年だから。
ついでにお前がチビだった頃は、ウサギになりたかったそうだし…。元気に走り回れるウサギ。
お前がウサギになっていたなら、俺も茶色のウサギになるって話をしてたと思うんだが…?
「そうだっけね! 白いウサギと茶色のウサギ…」
ぼくたちが一緒に暮らせるように、ハーレイが巣穴を広げてくれるんだっけ。ぼく用の巣穴だと狭すぎるから、もっと広くて立派な巣穴になるように。
それなら、ぼくが尻尾を貰うんだったら、ウサギの尻尾。
犬の尻尾よりも、ウサギの尻尾の方がピッタリ。…ぼくの姿は人間だけどね。
あれ?
でも、ウサギって…。
素敵な尻尾が見付かったよ、と思ったウサギの尻尾。自分らしくて、ハーレイもお勧め。
もしも尻尾をつけて貰えるなら
、断然、ウサギ、と考えたけれど。ウサギに決めた、と真っ白な尻尾を夢見たけれども、その尻尾。フワフワの毛皮のウサギの尻尾。
ウサギは尻尾をどう動かしているのだろう?
嬉しかったらパタパタ振るとか、ションボリしたら垂れ下がるとか。ウサギの尻尾は、そういう動きをしていたろうか…?
(…幼稚園の時、ウサギの小屋…)
お気に入りでいつも覗いていた。ウサギと友達になりたくて。友達になれたら、自分もウサギになれるだろうと考えて。
熱心に見ていたウサギだけれども、肝心の尻尾のことを知らない。ピョンピョン跳ね回っていたウサギたちは、尻尾で気持ちを伝えて来たりはしなかったから。
(…尻尾よりは、耳…)
ウサギの気持ちは耳で分かった。ピンと立てたり、神経質にピクピクさせていたりと。
嬉しい気持ちや悲しい気持ちを伝える時には、ウサギは耳を使ったろうか?
幼かった自分はそこまで観察しなかったけれど、尻尾の代わりに耳で表現していただとか。
(尻尾も使うかもだけど…)
人間にまでは通じない。ウサギ同士でしか分からないだろう、尻尾で表すウサギの気持ち。
これでは駄目だ、と気が付いた。
いくら自分に似合うとしても、ウサギの尻尾では気持ちが伝わらない。
誰よりもそれを知って欲しい人に、ハーレイに分かって貰えない。
ウサギが尻尾をどう動かしたら御機嫌なのか、ハーレイは知らないだろうから。ウサギの尻尾が欲しいと思った、自分だってまるで知らないから。
言葉を使って伝えなくても、思念波が駄目でも、自分の気持ちが伝わる尻尾。
欲しい尻尾はそういう尻尾で、ウサギの尻尾では話にならない。気持ちが伝わらないのでは。
「…ハーレイ、ウサギの尻尾は駄目だよ」
ウサギ年のぼくにはピッタリだけれど、素敵だと思ったんだけど…。
使えないよ、と小さな溜息。「ウサギの尻尾は、ちっとも役に立たないみたい」と。
「何故だ? お前に似合いそうだと思うんだが…」
真っ白でフワフワの尻尾だしなあ、犬よりもお前らしいぞ、ずっと。それに可愛いじゃないか。
ウサギの尻尾は何故駄目なんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「良く似合うのに」と。
「見た目は駄目じゃないんだけれど…。ウサギの尻尾、ぼくも好きだけど…」
でもね、ウサギが尻尾をどう動かすのか、ぼくは少しも知らないんだよ。
幼稚園の時に何度も見てたけれども、嬉しい時の動かし方とか、悲しい時の様子とか…。
どうなってたのか、ホントに知らない。耳の方なら、尻尾よりかは分かるけど。
普通の人はきっとそうだよ、ハーレイだって詳しくないでしょ?
ウサギの尻尾の動かし方、と言ったら「確かにな…」と苦笑したハーレイ。
「俺にもウサギの尻尾は分からん。見るなら耳だな、お前が正しい」
ウサギの尻尾は可愛らしくても、くっつける意味が無いってことか。お前の気持ちが伝わらない尻尾じゃ、ただの飾りになっちまうしな。
そうなってくると、犬の尻尾か、猫の尻尾になるんだろうが…。
お前に似合う尻尾となったら、どれなんだか…。ウサギがいいと思ったのになあ…。
ウサギの尻尾が駄目ってことはだ、何の尻尾が似合うんだろうな…?
犬にも猫にも、尻尾の種類は色々あるし…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みまでして。
「俺のお勧めは犬なんだが…」と言っていたくせに、猫の尻尾も挙げてみている。長毛種の猫の尻尾もいいとか、シャム猫の尻尾も捨て難いとか。
「…チビのお前じゃ、シャム猫の尻尾は今一つ似合わないんだが…」
大きくなったら似合うと思うぞ、ああいう澄ました尻尾もな。とびきりの美人になるんだから。
フサフサの猫の尻尾も似合いそうだな、犬の尻尾も悪くはないが…。
猫もなかなか…、とハーレイの考えは「似合うかどうか」の方に傾いてゆくものだから。
「似合う尻尾が一番いいに決まっているけど、ウサギの尻尾は駄目だったでしょ?」
気持ちが伝わる尻尾でなくちゃ。…ぼくが言葉を使わなくても、思念波がまるで駄目でもね。
そういう尻尾、あったらホントに便利だろうと思わない?
ハーレイに会えて嬉しい時には、尻尾も御機嫌。ぼくが不機嫌なら、尻尾も不機嫌。
気持ちは尻尾が伝えてくれるわけだから…。
ハーレイがキスを断った時も、尻尾はとても便利だよ?
ぼくは怒ってプウッと膨れていなくても済むし、ハーレイも「ケチ!」って言われないしね。
「代わりに尻尾が言うんだろうが。…俺に向かって、「ハーレイのケチ!」と」
言葉かどうかはともかくとして、「ケチ!」と動いている尻尾。
その上、プウッと膨れてるんだな。お前の膨れっ面の代わりに、それは見事に。
尻尾が膨らんじまっているのか、そいつは見ないと分からんわけだが…。
それでも見れば分かるって仕組みなんだな、とハーレイはお手上げのポーズ。両手を軽く広げてみせて、「そりゃたまらんな」と。
言葉と顔とでケチ呼ばわりか、尻尾に「ケチ!」と言われるのか。どう転んだって、ハーレイはケチと言われる立場で、膨れっ面もされるわけだから。
「尻尾、良さそうだと思うんだけど…」
不器用なぼくでも、思念波の代わりに尻尾があったら、言葉無しでも伝わるから…。
尻尾はとても役に立つから、尻尾、ホントに欲しいんだけどな…。
ぼくの気持ちが伝わる尻尾、と繰り返したら、「ふうむ…」と少し翳ったハーレイの瞳。尻尾の話には似合わない、深い瞳の色。お日様が急に翳ったように。
「お前の気持ちが伝わる尻尾か…。その尻尾は、今のお前より…」
前のお前に欲しかったな、とハーレイは意外な言葉を口にした。ソルジャー・ブルーだった前の自分には、尻尾なんかは要らないのに。尻尾が無くても困らないのに。
最強のサイオンを誇っていたのがソルジャー・ブルー。思念波の扱いだって、誰よりも上。
なのに、どうして尻尾が欲しいと言うのか、まるで分からないものだから…。
「…前のぼくにって…。なんで?」
前のぼくなら、思念波、ちゃんと使えたんだよ。尻尾は要らなかったんだけど…。
尻尾がついていなくったって、前のぼく、困りはしなかったよ…?
「お前には必要無かっただろうな、尻尾なんぞは」
そのくらいは俺にも分かっている。前のお前に尻尾が要らないことは充分、承知してるが…。
欲しかったのは俺だ、お前に尻尾があったらな、と。
ソルジャー・ブルーに尻尾があったら、俺の役に立ってくれただろうに、と思うんだ。
「尻尾がハーレイの役に立つって…。どうしてなの?」
前のぼくの心、そんなに覗いてみたかった?
心は遮蔽していたけれども、ハーレイの前では緩めていたよ?
わざわざ尻尾で確かめなくても、前のハーレイはぼくの心を覗き込めたと思うんだけど…。
滅多に読まれなかったけれどね、と優しかった前のハーレイを想う。余程でなければ、読まれはしなかった心の中身。…隠し事を秘めていた時だって。フィシスを見付けた時のこととか。
前のハーレイなら心を覗けた筈なのだけれど、どうして尻尾が欲しいのだろう?
尻尾で何を知りたかったのだろう、と首を捻っていたら…。
「俺が尻尾を欲しがる理由か? 尻尾に気持ちが表れるからだ」
お前がいくら隠していたって、お前の心が丸分かりだろうが。…尻尾があれば。
誰が見たって、尻尾なら分かる。お前が何を考えてるのか、どういう気持ちでいるのかが。
だから、尻尾さえついていればだな…。
メギドに飛ぼうとしていた時だ、と真っ直ぐに覗き込まれた瞳。前のハーレイとの別れの時。
白いシャングリラのブリッジに行って、ハーレイにだけ告げていた別れ。触れた腕から、そっと思念を滑り込ませて。「ジョミーを支えてやってくれ」と。
ハーレイだけに密かに伝えた、前の自分が死に赴くこと。二度とシャングリラに戻らないこと。
それにブリッジの誰もが気付いた、と今のハーレイに指摘された。
尻尾は嘘をつけないから。心の中身が、そのまま尻尾に出てしまうから。
「どんなにお前が隠していたって、無駄だってな。…お前に尻尾がくっついていれば」
顔には出さずに立っていてもだ、尻尾にちゃんと出ているわけだ。…お前の気持ち。
もうシャングリラには戻れないんだ、と尻尾は知っているんだからな。
シュンと萎れてしまっているのか、元気が無いか。…どっちにしたって、言葉通りじゃないのは分かる。ナスカの仲間たちの説得、それだけだったら、尻尾はそうはならないからな。
「…そうなのかも…」
尻尾は心と繋がってるから、ホントに尻尾に出ちゃうかも…。前のぼくの心、隠していても。
「ほら見ろ、否定出来んだろうが」
そうなっていれば、みんなが気付いてお前を止めたぞ。ジョミーだってな。
お前に尻尾がありさえすれば、俺はお前を失くさなかった。…みんなが止めてくれるんだから。
俺が動けなかったとしたって、ブリッジのヤツらが全員でな。
止められちまえば、振り払ってまでは行けんだろうが。力にしたって、ジョミーがいるし。
違うのか、うん?
前のお前に尻尾があったら、お前は行けやしなかった。
俺にだけコッソリ言葉を残して、一人きりでメギドに行こうとしてもな。
尻尾は大いに役に立つんだ、というのがハーレイの主張。ソルジャー・ブルーを失わずに済む、とても大切で役立つ尻尾。本当は何をしようというのか、尻尾を見れば分かるから。
「お前の尻尾が、お前の命が消えちまうのを防ぐってな」
尻尾は嘘をつけないからなあ、お前の心をそっくりそのまま、鏡みたいに映すんだから。
お蔭で俺たちは前のお前を止められる、とハーレイが語る尻尾の役目。ブリッジの仲間に真実を伝えて、前の自分を止めさせること。「ソルジャー・ブルーを行かせては駄目だ」と。
「…そんな尻尾、マントで隠しておくよ」
どうせ尻尾はマントの下だし、誰も覗けはしないもの。…ぼくの尻尾がどうなっていても。
見えない尻尾はどうしようもないでしょ、気付く仲間は一人もいないよ。
最初から見えていないんだから、と尻尾を隠してくれるマントに感謝したのに…。
「マントに隠れて見えないってか? 其処の所は心配は要らん」
邪魔なマントは、俺が「失礼します」とめくるまでだ。お前の尻尾が良く見えるように。
お前からの思念を受け取った後に、掴んでめくっちまってな。
ブリッジのヤツらにも、ジョミーにも尻尾が見えるように…、とハーレイは笑う。マントの下に隠していたって、捲れば尻尾は出て来るから、と。
「めくるって…。ホントに失礼だと思うけど?」
ソルジャーのマントを、みんなの前で捲るだなんて。…尻尾を丸見えにしちゃうなんてね。
エラが怒るよ、と眉を顰めたけれども、「非常時だしな?」とハーレイは澄ました顔。
「失礼だとしても、ソルジャーの命には代えられん」
お前を失くしちまうよりかは、ソルジャーに無礼を働いた方が遥かにマシだ。そう思わんか?
「そんなことをしたら、恋人同士だってバレちゃうよ?」
ハーレイがぼくを失くしたくないこと、ブリッジどころか、船のみんなに。シャングリラ中に。
「いや、バレたりはしないってな」
お前の尻尾を皆に見せるのも、立派にキャプテンの仕事の内だ。マントをめくっちまうのも。
ソルジャー・ブルーは嘘をついているんだ、と全員に知らせなきゃいけないだろうが。
前のお前を失くしちまったら、大損害ってヤツなんだから。…それこそ取り返しがつかん。
お前の思念を受け取っただけじゃ、黙って見送るしか無かったんだがな…。
他のヤツらはお前の言葉を信じてたんだし、前の俺には証明しようがないんだから。
これは嘘だと、本当は二度と戻らないんだ、という俺だけが知っていたことを。
其処の所が変わってくる、とハーレイの顔に溢れる自信。「前のお前に尻尾があれば」と。
ソルジャー・ブルーをメギドに行かせはしないと、全員で止めてみせるから、と。
「俺の役目は、前のお前にちょいと無礼を働くことで…」
マントをめくって尻尾を披露だ、嘘をつけない正直なお前の尻尾をな。
お前がいくら嘘をついても、尻尾は正直者だから…。誰が見たって、嘘だと見破れるんだから。
これもキャプテンの役目なんだ、とハーレイが言うのも間違いではない。ソルジャー・ブルーを失う道より、失わない道を選ぶのもまた正しいから。
その道を選んで進んだ結果が、どうなろうとも。…地球に着くのが遅れようとも。
「…尻尾、そういう風に使うの?」
ぼくの尻尾、と見詰めた恋人。ソルジャー・ブルーの嘘を尻尾で、皆に暴きたかったハーレイ。
嘘をつけないだろう尻尾を、ブリッジの皆に「こうだ」とマントをめくって見せて。
「前のお前についていたならな」
俺の役に立つと言っただろうが、前のお前に尻尾がくっついていれば。…欲しかった、ともな。
しかしだ、今のお前じゃなあ…。尻尾、あっても大して変わりはしないぞ。
どんな尻尾がついていたって、今のお前の人生ってヤツは変わらんさ。
まるで同じだ、と笑ったハーレイ。「尻尾があろうが、無かろうが、全く同じだよな」と。
「大違いだと思うけど…」
尻尾はとても便利なんだし、ぼくの気持ちをハーレイに伝えてくれるから…。
ホントに尻尾があればいいのに、前のぼくには要らないけれど。前のぼくだと、尻尾があったら大変なことになっちゃうから…。メギドに行けなくなってしまって。
「今のお前も尻尾は要らんと思うがな?」
お前の心の中身だったら、俺には手に取るように分かるさ。…尻尾が無くても、表情だけで。
それにだ、心の欠片も幾つも零れているし…。前のお前だった頃と違ってな。
さっきまでは尻尾で弾んでいたぞ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「あればいいな」と、心の欠片がキラキラ零れていたが、と。
「今はションボリしているようだが…。前のお前の話になって」
前の俺を独りぼっちにしちまったことや、メギドなんかを思い出してな。…尻尾のせいで。
どうだ、俺の読みは間違ってるか?
お前に尻尾はついちゃいないが、俺にはこう見えているんだが…?
「…間違ってない…」
ハーレイが言うこと、当たっているよ。…尻尾が欲しくてはしゃいでいたのも、今はションボリしてるのも。…ちょっぴりだけどね、ションボリなのは。
「ほらな、きちんと当てただろうが。…だからお前に尻尾は要らない」
俺にはいつでも、お前の気持ちが分かっているんだ。尻尾が無くても、お前の気持ちは全部。
尻尾無しでも、何も問題無いってな。俺には伝わっているんだから。
「でも、キスをしてくれないじゃない!」
ぼくの気持ちが分かっているなら、ハーレイはキスをくれる筈だよ!
キスして欲しいの、本当にホントなんだから…。尻尾があったら、ちゃんと見えるんだから!
「そいつも俺には分かっているぞ。お前の心は尻尾無しでも丸見えだしな」
しかし、それとキスとは話が別だ。分かっていたって、叶えてやれないこともある。
キスが駄目な理由、嫌というほど何度も説明してやったがな?
まだ足りないなら、いくらでもお前に聞かせてやるが。
「ハーレイのケチ!」
分かってるんなら、キスしてくれてもいいじゃない…!
尻尾が無くても分かるほどなら、ぼくにキスしてくれてもいいのに…!
ケチなんだから、とプウッと膨れてやったら、「ふむふむ…」と楽しげなハーレイの顔。
「お前のお得意の膨れっ面だな。それを尻尾でやるとなったら…」
どんな具合になるやらなあ?
尻尾もプウッと膨れちまうのか、それとも怒った猫の尻尾みたいにユサユサ揺れるか。
犬の膨れっ面は知らんが、そういう時の尻尾はどうなっているのやら…。
もっとも、お前は尻尾でやるより、顔の方がいいと思うがな?
俺もお前の顔を見ていられるわけだし、尻尾よりかは顔でお願いしたいモンだが。
「え?」
顔って何なの、なんで尻尾より顔になるわけ?
ぼくに尻尾がついていたって、膨れるのは顔がいいって言うの…?
膨れた顔の方が好きなの、と丸くなった目。尻尾で気持ちを表せるのなら、膨れっ面をしなくていいのに。ハーレイだって、いつも「フグだ」と言っている顔を見なくて済むのに。
「お前が膨れないというのは、まあ、有難くはあるんだが…」
可愛らしい顔のままなわけだし、膨れっ面よりはいいんだが…。問題はお前の尻尾なんだ。
もしもお前に尻尾があったら、そっちにも気を配らなきゃいかん。
俺の考えで合っているのか、間違ってるのか、そういったトコ。
尻尾は嘘をつけないからなあ、念のために確認しておかないと。お前の顔と尻尾と、両方。
「…じゃあ、ハーレイの視線がズレちゃうの?」
ぼくの顔から尻尾の方に?
膨れっ面なのか、そうじゃないのか、ハーレイは尻尾を見て確かめるの?
「そうなるだろうな、尻尾があれば」
お前の心が零れていたって、顔も尻尾も確かめないと…。
そいつが礼儀というモンだろうが、お前には尻尾があるんだから。嘘をつけない尻尾がな。
正直者な尻尾がどうなっているか、それをきちんと確かめること。忘れないように、顔と両方。
顔は笑顔でも、尻尾は膨れてフグのようかもしれないから。…尻尾は嘘をつかないから。
「初めてのキスをしようって時になっても、まずは尻尾の確認かもな」
俺はともかく、お前の気持ちが大切だから…。
キスをしたい気分になってるかどうか、顔を見て、次は尻尾を見る、と。
尻尾の確認を忘れちゃならん、とハーレイは大真面目な顔だから。
「それって、雰囲気が台無しだよ!」
ぼくの顔から視線を逸らして、尻尾だなんて!
キス出来るんだ、ってドキドキしながら待っているのに、尻尾を確認するなんて…!
酷い、とプンスカ怒ってやった。「あんまりだよ」と、「それでもホントに恋人なの?」と。
「そう思うんなら、尻尾は要らないってことだろうが。…今のお前には」
俺だってお前の顔だけを見てキスをしたいし、尻尾にまで気を配るのは遠慮したいしな。
もっとも、その迷惑な尻尾ってヤツ。
前のお前には、ついていた方が良かったな、と思わないでもないんだが…。
尻尾がついてりゃ、前の俺はお前を失くしていないんだから。
「それはそうかもしれないけれど…。前のハーレイ、喜んだかもしれないけれど…」
前のぼくだって、尻尾を確認してからのキスは喜ばないよ!
マントをめくって、みんなに尻尾を見せる方なら、今のぼくなら許すけど…。
前のハーレイが辛かったことを知っているから、それは許してあげるんだけれど…。
だけど、キスの前に尻尾を確認してたら怒るよ?
今のぼくでも、前のぼくでも、それはホントに怒るんだからね…!
「よし。だったら尻尾は要らない、と」
尻尾があったらそうなっちまうし、尻尾は無いのが一番だ。
猫のも犬のも、ウサギの尻尾も。…欲しがらなくても、お前には必要無いんだから。
お前の心はきちんと顔で分かるから、という言葉。
褒められたのか、サイオンの扱いが不器用なのを馬鹿にされたのか。
少し複雑な気分だけれども、ソルジャー・ブルーに尻尾があれば、と思ったハーレイ。尻尾さえあればメギドに飛ぶのを止められたのだ、と考えるハーレイの気持ちは分かるから…。
「…今度は嘘はつかないよ」
前のぼくみたいな嘘は、絶対つかない。
ハーレイがぼくの尻尾をみんなに見せなくちゃ、って思うようなのは。…マントの下になってる尻尾を、「失礼します」って出さなきゃいけないようなのは。
もうやらない、と約束しようとしたのだけれど。
「その必要も無いだろ、今は」
お前が嘘をついたとしたって、その嘘にお前の命は懸かってないからな。
前のお前の頃と違って、今は平和な時代だから…。命懸けの嘘は無理なんだから。
「そうだっけ…!」
嘘をついても、ハーレイに叱られるだけでおしまい。
前のハーレイにやったみたいに、悲しませたりはしないから…。
ハーレイを置いて行ったりしないし、独りぼっちにさせもしないよ。…いつまでも一緒。
ぼくに尻尾が欲しかったなんて、もう絶対に言わせないから…!
サイオンが不器用になってしまって、気持ちを表す尻尾が欲しいと思うくらいの自分だけれど。
尻尾が欲しいと考えたけれど、不器用な自分に合わせたように、今は世界もすっかり平和。
だから尻尾を欲しがらなくても、幸せに生きてゆけるだろう。
猫の尻尾も犬の尻尾も、もちろんウサギの尻尾だって。
わざわざ尻尾を見て貰わなくても、心の中身はハーレイに筒抜けらしいから。
さっきもハーレイは心を見事に言い当てたのだし、尻尾は無くてもかまわない。
尻尾なんかを見てはいないで、顔だけを真っ直ぐ見ていて欲しい。
青い地球にハーレイと二人で生まれ変わって、一緒に生きてゆくのだから。
ハーレイの瞳で顔だけを見詰めて貰える世界の方が、ずっと幸せに違いないから…。
尻尾があれば・了
※ブルーが欲しいと思った尻尾。ハーレイは、前のブルーに尻尾が欲しかったとか。
確かに尻尾があった場合は、メギドへ飛べなかったかも。そして今は、尻尾は要らない世界。
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学校の帰り道に、ブルーが出会った人。バス停から家まで歩く途中で。
顔馴染みの御主人で、家だって近い。でも、その家では犬を飼っていたろうか?
元気に挨拶したのだけれども、ついつい犬を見てしまう。御主人が握ったリードの先の。
「えっと、この犬…」
前からいたの、と訊いてみた。飼い始めたなら、母が教えてくれそうだから。子犬がいるとか、通ったら犬が座っていたとか。
「孫のだよ。預かってるんだ、旅行中でね」
ペットのホテルよりも犬は嬉しいだろう、と笑顔の御主人。好きな時間に散歩に行けるし、顔を知っている人の家でもあるし、と。
こうして話をしている間も、パタパタと尻尾を振っている犬。とても嬉しそうに。
犬には詳しくないのだけれど、多分、昔の日本の犬の一種。大きい犬だ、とは思わなかったし、柴犬という種類だろうか。茶色い毛皮で、ピンと立った耳。
「吠えないね」
ぼくを見たって、と見詰めた犬。散歩中の犬に近付きすぎたら、吠えることだって多いのに。
「人が好きなんだよ、撫でてみるかい?」
吠えないし、もちろん噛みもしないよ、と御主人が言ってくれたから。
「いいの?」
身体を屈めて撫でてみた背中。猫とは違った手触りだけれど、温かな身体。命の温もり。それにパタパタ振られる尻尾。ちぎれそうなほどに、右に左に。
御機嫌なのだ、と分かるのが尻尾。そうやってブンブン振られていたら。
顔を見たなら喜んでいると分かるけれども、それよりも分かりやすいのが尻尾。振られる尻尾は御機嫌な印、人に出会って振られる時は…。
(大好きの印…)
その人のことが大好きですよ、と尻尾を振って伝える犬。会えてとっても嬉しいです、と。
本当に人が好きなのだ、と尻尾のお蔭で分かるから。自分も好かれているようだから、御主人に尋ねることにした。今もパタパタ揺れている尻尾、それが気になってたまらない。
「尻尾、触ってみてもいい?」
嫌がられるわけじゃなかったら、と眺めた尻尾。きっと大事な尻尾だろうし、触られたら嫌かもしれないから。飼っている人なら大丈夫でも、会ったばかりの自分は駄目とか。
ちょっぴり心配だったのだけれど、「もちろんだよ」と答えた御主人。
「嫌がる犬もいるらしいけどね、触って貰うと喜ぶから」
どうぞ、と出して貰えたお許し。いきなり尻尾は失礼かな、と背中から撫でて、尻尾に触れた。そうっと、御機嫌そうな尻尾に。
(ちょっとだけ…)
引っ張るわけじゃないからね、と触った尻尾。犬は怒りはしなかった。代わりに尻尾がブンブン振られて、手にパタパタと当たったくらい。「もっと、もっと」と。
それが嬉しくて、暫く夢中で犬と遊んだ。背中を撫でたり、尻尾に触らせて貰ったり。御主人が犬を座らせてくれて、握手をさせて貰ったり。
いつまでも遊んでいたかったけれど、御主人も犬も散歩の途中。これから出掛ける所らしいし、あまり引き止めても悪いだろう。
(きっと沢山歩きたいよね?)
道端で止まって遊んでいるより、元気に散歩。公園に行くとか、他にも色々。
そう思ったから、「ありがとう」と御主人に告げたお別れ。「楽しかった」と頭を下げて。
さよなら、と手を振った時にも揺れていた尻尾。「また遊んでね」とパタパタと。学校の帰りに会った時には、また遊ぼうと。
御主人と一緒に歩き出しても、犬の尻尾は揺れたまま。「楽しかったね」と言うように。
初めて出会った、柴犬らしい茶色の犬。ご近所さんの家に、今だけいる犬。
(可愛かったな…)
小さい犬じゃなくても可愛いよ、と家に帰っても思い出す。おやつの間も、二階の部屋に戻った後も。なんて気のいい犬だったろうと、あんなに尻尾を振ってくれて、と。
勉強机の前に座って、楽しかった時間に思いを馳せた。初対面なのに、吠えたりしないで尻尾も触らせてくれた犬。うっかり名前を聞き忘れたほど、アッと言う間に仲良しになれた。
猫も好きだけれど、犬もいい。
さっきみたいに、尻尾で自分の気持ちを伝えてくれるから。嬉しい時にはブンブン振って。
(猫の尻尾は、ちょっぴり気取った感じ…)
犬とは全然違うよね、と考えてしまうのが猫たちの尻尾。しなやかな尻尾を得意そうに立てて、澄まし顔で歩いてゆく猫たち。
尻尾はピンと立てているもの、犬のようにパタパタ振ったりはしない。猫たちならば。
(怒った時には振っているけど…)
たまに見掛ける猫同士の喧嘩。道端とか、この家の庭とかで。
睨み合ったまま姿勢を低くして、右に左に振られる尻尾。不機嫌そうな声で唸りながら。尻尾を地面すれすれに振って、バサリ、バサリと音がするよう。
…ゆっくりと振るものだから。喧嘩の相手よりも自分が強い、と威嚇するために振る尻尾。
猫が尻尾を左右に振るのは、そういう時。普段はピンと立てているだけ、驚いた時は…。
(…尻尾、パンパンに膨らんじゃって…)
まるでブラシのようになる。怒った時にも、同じに膨らむ猫たちの尻尾。フーッと怒って、毛を逆立てて。身体中の毛が逆立ったならば、尻尾の毛だって逆立つから。
(犬でも猫でも、尻尾で分かるよ)
どういう気持ちか、眺めただけで。御機嫌なのか、不機嫌なのか。
仲間同士なら分かって当然、人間にだって通じる気持ち。「怒ってます」とか、「楽しいです」とか、尻尾の様子を見るだけで。
御機嫌でパタパタ振られる尻尾や、ションボリと垂れてしまった尻尾。それを見たなら、ピンとくる気持ち。まるで言葉が通じなくても。
便利だよね、と思った尻尾。犬や猫たちが持っている尻尾。仲間はもちろん、自分たちの言葉を知らない人間にだって、尻尾が気持ちを伝えてくれる。ブンブン振ったりするだけで。
(とっても便利に出来てるよね…)
ああいう風に、尻尾で気持ちを伝えられたら素敵なのに。犬や猫たちの尻尾みたいに、自分にも尻尾。今の自分はサイオンがとても不器用になって、思念波もろくに紡げないから…。
(代わりに尻尾…)
あったらいいな、と考えた尻尾。今の自分についていたなら、きっと尻尾は役に立つ。パタパタ振っていたならば。嬉しそうにブンブン揺れていたなら。
尻尾があったら、ハーレイも一目で分かってくれる。どんなに好きでたまらないのか、会えたら嬉しくてたまらないのか。
ハーレイに会ったら、パタパタ振られる自分の尻尾。帰り道に会った犬の尻尾みたいに。
(キスは駄目だ、って叱られたら…)
どれほどしょげてしまうのかだって、尻尾がハーレイに教えてくれる。
ついさっきまでパタパタ振られていたのが、ションボリとなって垂れ下がって。心そのままに、萎れた葉っぱみたいになって。
(…ホントに分かりやすいよね?)
ぼくの気持ち、と思う「尻尾がある」自分。言葉では上手く伝わらなくても、頼もしい尻尾。
それに尻尾は正直なのだし、嘘をついたりしないもの。心をそのまま映し出す鏡。
誰だってそれを知っているから、ハーレイにもきっと分かる筈。嬉しい気持ちも、悲しい気分も伝わる尻尾。
元気にパタパタ振られているのか、寂しそうに垂れてしまっているか。
見れば気持ちが分かるのが尻尾、思念波では伝えられなくても。…上手く言葉に出来なくても。
もしも尻尾を持っていたなら、今よりも素敵。そんな気分がしてくる尻尾。
とことん不器用になったサイオン、それの代わりに尻尾があったら便利なのに、と。
(尻尾、欲しいな…)
ぼくにも尻尾があればいいのに、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、問い掛けた。
「あのね、尻尾があったらいいと思わない?」
「はあ?」
尻尾って何だ、と怪訝そうなハーレイ。「俺に尻尾があるといいのか?」と。
「違うよ、尻尾が欲しいのは、ぼく…。尻尾は尻尾で、本物の尻尾」
動物って、尻尾を見れば気持ちが分かるでしょ?
喜んでるとか、ガッカリだとか、怒ってるのとかも、全部、尻尾に出ちゃってる。
犬とか猫が持ってる尻尾はそういう仕組みで、心の中身が表れるよね?
気持ちを伝えるためのもの、と説明したら、ハーレイも「そうだな」と頷いた。
「確かに尻尾は分かりやすいが、犬の尻尾が欲しいのか?」
犬の尻尾は、猫よりも分かりやすいしな。俺のお勧めは犬の尻尾だが…。
「ハーレイもやっぱり、そう思う? 猫より犬の尻尾がいい、って」
だけど欲しいのは、本物の犬の尻尾じゃなくって、猫の尻尾が欲しいわけでもなくて…。
ぼくに尻尾があったらいいな、って。
本当に本物のぼくの尻尾で、ぼくのお尻に生えてる尻尾。ちゃんと毛皮もくっついたヤツ。
尻尾があったら、思念波の代わりに直ぐに分かるよ。ぼくの気持ちがハーレイにもね。
ちょっと尻尾の方を見たなら、心の中身が丸ごと尻尾に出てるんだから。
ハーレイに会えて嬉しい気持ちも、ハーレイが好きでたまらないのも。
きっと今なら、ちぎれそうなくらいに振ってると思う。…ぼくに尻尾がついていたらね。
ハーレイが来てくれたから嬉しいんだもの、と言葉で伝えた自分の気持ち。
尻尾があったら、もうそれだけで伝わるのに。パタパタと振れば、直ぐに分かって貰えるのに。
「…こんな風に言葉にしなくてもいいよ、尻尾があれば」
ハーレイが尻尾を見てくれるだけで、ぼくの気持ちが分かるんだもの。
だから欲しいな、と話した尻尾。うんと不器用な思念波の代わりに、ぼくに尻尾、と。
「なるほどなあ…。そういう理由で尻尾が欲しい、と」
お前の気持ちは分からないでもないんだが…。
本物の尻尾を持つんだったら、お前の場合はウサギの尻尾になっちまうのか?
ウサギの尻尾か、と尋ねられたから、キョトンとした。質問の意味が掴めなくて。
「…ウサギ?」
どうしてウサギの尻尾になるわけ、ハーレイのお勧めの尻尾じゃないよ?
お勧めは犬の尻尾だって言っていなかった?
…ぼくにくっつける尻尾の話とは違ったけれど…。分かりやすい尻尾のことだったけれど。
心の中身を伝えやすいのは犬の尻尾なんでしょ、そうじゃないの?
猫よりも犬、と「俺のお勧めだ」と言われた尻尾を挙げたのだけれど。
「そいつは尻尾の分かりやすさで、お前の尻尾の話じゃないぞ」
お前が尻尾を持つんだったら、その方向で考えないとな。…お前に似合いそうな尻尾を。
それでウサギの尻尾なのかと訊いたんだ。
俺たちはウサギのカップルだからな、お互い、ウサギ年だから。
ついでにお前がチビだった頃は、ウサギになりたかったそうだし…。元気に走り回れるウサギ。
お前がウサギになっていたなら、俺も茶色のウサギになるって話をしてたと思うんだが…?
「そうだっけね! 白いウサギと茶色のウサギ…」
ぼくたちが一緒に暮らせるように、ハーレイが巣穴を広げてくれるんだっけ。ぼく用の巣穴だと狭すぎるから、もっと広くて立派な巣穴になるように。
それなら、ぼくが尻尾を貰うんだったら、ウサギの尻尾。
犬の尻尾よりも、ウサギの尻尾の方がピッタリ。…ぼくの姿は人間だけどね。
あれ?
でも、ウサギって…。
素敵な尻尾が見付かったよ、と思ったウサギの尻尾。自分らしくて、ハーレイもお勧め。
もしも尻尾をつけて貰えるなら
、断然、ウサギ、と考えたけれど。ウサギに決めた、と真っ白な尻尾を夢見たけれども、その尻尾。フワフワの毛皮のウサギの尻尾。
ウサギは尻尾をどう動かしているのだろう?
嬉しかったらパタパタ振るとか、ションボリしたら垂れ下がるとか。ウサギの尻尾は、そういう動きをしていたろうか…?
(…幼稚園の時、ウサギの小屋…)
お気に入りでいつも覗いていた。ウサギと友達になりたくて。友達になれたら、自分もウサギになれるだろうと考えて。
熱心に見ていたウサギだけれども、肝心の尻尾のことを知らない。ピョンピョン跳ね回っていたウサギたちは、尻尾で気持ちを伝えて来たりはしなかったから。
(…尻尾よりは、耳…)
ウサギの気持ちは耳で分かった。ピンと立てたり、神経質にピクピクさせていたりと。
嬉しい気持ちや悲しい気持ちを伝える時には、ウサギは耳を使ったろうか?
幼かった自分はそこまで観察しなかったけれど、尻尾の代わりに耳で表現していただとか。
(尻尾も使うかもだけど…)
人間にまでは通じない。ウサギ同士でしか分からないだろう、尻尾で表すウサギの気持ち。
これでは駄目だ、と気が付いた。
いくら自分に似合うとしても、ウサギの尻尾では気持ちが伝わらない。
誰よりもそれを知って欲しい人に、ハーレイに分かって貰えない。
ウサギが尻尾をどう動かしたら御機嫌なのか、ハーレイは知らないだろうから。ウサギの尻尾が欲しいと思った、自分だってまるで知らないから。
言葉を使って伝えなくても、思念波が駄目でも、自分の気持ちが伝わる尻尾。
欲しい尻尾はそういう尻尾で、ウサギの尻尾では話にならない。気持ちが伝わらないのでは。
「…ハーレイ、ウサギの尻尾は駄目だよ」
ウサギ年のぼくにはピッタリだけれど、素敵だと思ったんだけど…。
使えないよ、と小さな溜息。「ウサギの尻尾は、ちっとも役に立たないみたい」と。
「何故だ? お前に似合いそうだと思うんだが…」
真っ白でフワフワの尻尾だしなあ、犬よりもお前らしいぞ、ずっと。それに可愛いじゃないか。
ウサギの尻尾は何故駄目なんだ、とハーレイの鳶色の瞳が瞬く。「良く似合うのに」と。
「見た目は駄目じゃないんだけれど…。ウサギの尻尾、ぼくも好きだけど…」
でもね、ウサギが尻尾をどう動かすのか、ぼくは少しも知らないんだよ。
幼稚園の時に何度も見てたけれども、嬉しい時の動かし方とか、悲しい時の様子とか…。
どうなってたのか、ホントに知らない。耳の方なら、尻尾よりかは分かるけど。
普通の人はきっとそうだよ、ハーレイだって詳しくないでしょ?
ウサギの尻尾の動かし方、と言ったら「確かにな…」と苦笑したハーレイ。
「俺にもウサギの尻尾は分からん。見るなら耳だな、お前が正しい」
ウサギの尻尾は可愛らしくても、くっつける意味が無いってことか。お前の気持ちが伝わらない尻尾じゃ、ただの飾りになっちまうしな。
そうなってくると、犬の尻尾か、猫の尻尾になるんだろうが…。
お前に似合う尻尾となったら、どれなんだか…。ウサギがいいと思ったのになあ…。
ウサギの尻尾が駄目ってことはだ、何の尻尾が似合うんだろうな…?
犬にも猫にも、尻尾の種類は色々あるし…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みまでして。
「俺のお勧めは犬なんだが…」と言っていたくせに、猫の尻尾も挙げてみている。長毛種の猫の尻尾もいいとか、シャム猫の尻尾も捨て難いとか。
「…チビのお前じゃ、シャム猫の尻尾は今一つ似合わないんだが…」
大きくなったら似合うと思うぞ、ああいう澄ました尻尾もな。とびきりの美人になるんだから。
フサフサの猫の尻尾も似合いそうだな、犬の尻尾も悪くはないが…。
猫もなかなか…、とハーレイの考えは「似合うかどうか」の方に傾いてゆくものだから。
「似合う尻尾が一番いいに決まっているけど、ウサギの尻尾は駄目だったでしょ?」
気持ちが伝わる尻尾でなくちゃ。…ぼくが言葉を使わなくても、思念波がまるで駄目でもね。
そういう尻尾、あったらホントに便利だろうと思わない?
ハーレイに会えて嬉しい時には、尻尾も御機嫌。ぼくが不機嫌なら、尻尾も不機嫌。
気持ちは尻尾が伝えてくれるわけだから…。
ハーレイがキスを断った時も、尻尾はとても便利だよ?
ぼくは怒ってプウッと膨れていなくても済むし、ハーレイも「ケチ!」って言われないしね。
「代わりに尻尾が言うんだろうが。…俺に向かって、「ハーレイのケチ!」と」
言葉かどうかはともかくとして、「ケチ!」と動いている尻尾。
その上、プウッと膨れてるんだな。お前の膨れっ面の代わりに、それは見事に。
尻尾が膨らんじまっているのか、そいつは見ないと分からんわけだが…。
それでも見れば分かるって仕組みなんだな、とハーレイはお手上げのポーズ。両手を軽く広げてみせて、「そりゃたまらんな」と。
言葉と顔とでケチ呼ばわりか、尻尾に「ケチ!」と言われるのか。どう転んだって、ハーレイはケチと言われる立場で、膨れっ面もされるわけだから。
「尻尾、良さそうだと思うんだけど…」
不器用なぼくでも、思念波の代わりに尻尾があったら、言葉無しでも伝わるから…。
尻尾はとても役に立つから、尻尾、ホントに欲しいんだけどな…。
ぼくの気持ちが伝わる尻尾、と繰り返したら、「ふうむ…」と少し翳ったハーレイの瞳。尻尾の話には似合わない、深い瞳の色。お日様が急に翳ったように。
「お前の気持ちが伝わる尻尾か…。その尻尾は、今のお前より…」
前のお前に欲しかったな、とハーレイは意外な言葉を口にした。ソルジャー・ブルーだった前の自分には、尻尾なんかは要らないのに。尻尾が無くても困らないのに。
最強のサイオンを誇っていたのがソルジャー・ブルー。思念波の扱いだって、誰よりも上。
なのに、どうして尻尾が欲しいと言うのか、まるで分からないものだから…。
「…前のぼくにって…。なんで?」
前のぼくなら、思念波、ちゃんと使えたんだよ。尻尾は要らなかったんだけど…。
尻尾がついていなくったって、前のぼく、困りはしなかったよ…?
「お前には必要無かっただろうな、尻尾なんぞは」
そのくらいは俺にも分かっている。前のお前に尻尾が要らないことは充分、承知してるが…。
欲しかったのは俺だ、お前に尻尾があったらな、と。
ソルジャー・ブルーに尻尾があったら、俺の役に立ってくれただろうに、と思うんだ。
「尻尾がハーレイの役に立つって…。どうしてなの?」
前のぼくの心、そんなに覗いてみたかった?
心は遮蔽していたけれども、ハーレイの前では緩めていたよ?
わざわざ尻尾で確かめなくても、前のハーレイはぼくの心を覗き込めたと思うんだけど…。
滅多に読まれなかったけれどね、と優しかった前のハーレイを想う。余程でなければ、読まれはしなかった心の中身。…隠し事を秘めていた時だって。フィシスを見付けた時のこととか。
前のハーレイなら心を覗けた筈なのだけれど、どうして尻尾が欲しいのだろう?
尻尾で何を知りたかったのだろう、と首を捻っていたら…。
「俺が尻尾を欲しがる理由か? 尻尾に気持ちが表れるからだ」
お前がいくら隠していたって、お前の心が丸分かりだろうが。…尻尾があれば。
誰が見たって、尻尾なら分かる。お前が何を考えてるのか、どういう気持ちでいるのかが。
だから、尻尾さえついていればだな…。
メギドに飛ぼうとしていた時だ、と真っ直ぐに覗き込まれた瞳。前のハーレイとの別れの時。
白いシャングリラのブリッジに行って、ハーレイにだけ告げていた別れ。触れた腕から、そっと思念を滑り込ませて。「ジョミーを支えてやってくれ」と。
ハーレイだけに密かに伝えた、前の自分が死に赴くこと。二度とシャングリラに戻らないこと。
それにブリッジの誰もが気付いた、と今のハーレイに指摘された。
尻尾は嘘をつけないから。心の中身が、そのまま尻尾に出てしまうから。
「どんなにお前が隠していたって、無駄だってな。…お前に尻尾がくっついていれば」
顔には出さずに立っていてもだ、尻尾にちゃんと出ているわけだ。…お前の気持ち。
もうシャングリラには戻れないんだ、と尻尾は知っているんだからな。
シュンと萎れてしまっているのか、元気が無いか。…どっちにしたって、言葉通りじゃないのは分かる。ナスカの仲間たちの説得、それだけだったら、尻尾はそうはならないからな。
「…そうなのかも…」
尻尾は心と繋がってるから、ホントに尻尾に出ちゃうかも…。前のぼくの心、隠していても。
「ほら見ろ、否定出来んだろうが」
そうなっていれば、みんなが気付いてお前を止めたぞ。ジョミーだってな。
お前に尻尾がありさえすれば、俺はお前を失くさなかった。…みんなが止めてくれるんだから。
俺が動けなかったとしたって、ブリッジのヤツらが全員でな。
止められちまえば、振り払ってまでは行けんだろうが。力にしたって、ジョミーがいるし。
違うのか、うん?
前のお前に尻尾があったら、お前は行けやしなかった。
俺にだけコッソリ言葉を残して、一人きりでメギドに行こうとしてもな。
尻尾は大いに役に立つんだ、というのがハーレイの主張。ソルジャー・ブルーを失わずに済む、とても大切で役立つ尻尾。本当は何をしようというのか、尻尾を見れば分かるから。
「お前の尻尾が、お前の命が消えちまうのを防ぐってな」
尻尾は嘘をつけないからなあ、お前の心をそっくりそのまま、鏡みたいに映すんだから。
お蔭で俺たちは前のお前を止められる、とハーレイが語る尻尾の役目。ブリッジの仲間に真実を伝えて、前の自分を止めさせること。「ソルジャー・ブルーを行かせては駄目だ」と。
「…そんな尻尾、マントで隠しておくよ」
どうせ尻尾はマントの下だし、誰も覗けはしないもの。…ぼくの尻尾がどうなっていても。
見えない尻尾はどうしようもないでしょ、気付く仲間は一人もいないよ。
最初から見えていないんだから、と尻尾を隠してくれるマントに感謝したのに…。
「マントに隠れて見えないってか? 其処の所は心配は要らん」
邪魔なマントは、俺が「失礼します」とめくるまでだ。お前の尻尾が良く見えるように。
お前からの思念を受け取った後に、掴んでめくっちまってな。
ブリッジのヤツらにも、ジョミーにも尻尾が見えるように…、とハーレイは笑う。マントの下に隠していたって、捲れば尻尾は出て来るから、と。
「めくるって…。ホントに失礼だと思うけど?」
ソルジャーのマントを、みんなの前で捲るだなんて。…尻尾を丸見えにしちゃうなんてね。
エラが怒るよ、と眉を顰めたけれども、「非常時だしな?」とハーレイは澄ました顔。
「失礼だとしても、ソルジャーの命には代えられん」
お前を失くしちまうよりかは、ソルジャーに無礼を働いた方が遥かにマシだ。そう思わんか?
「そんなことをしたら、恋人同士だってバレちゃうよ?」
ハーレイがぼくを失くしたくないこと、ブリッジどころか、船のみんなに。シャングリラ中に。
「いや、バレたりはしないってな」
お前の尻尾を皆に見せるのも、立派にキャプテンの仕事の内だ。マントをめくっちまうのも。
ソルジャー・ブルーは嘘をついているんだ、と全員に知らせなきゃいけないだろうが。
前のお前を失くしちまったら、大損害ってヤツなんだから。…それこそ取り返しがつかん。
お前の思念を受け取っただけじゃ、黙って見送るしか無かったんだがな…。
他のヤツらはお前の言葉を信じてたんだし、前の俺には証明しようがないんだから。
これは嘘だと、本当は二度と戻らないんだ、という俺だけが知っていたことを。
其処の所が変わってくる、とハーレイの顔に溢れる自信。「前のお前に尻尾があれば」と。
ソルジャー・ブルーをメギドに行かせはしないと、全員で止めてみせるから、と。
「俺の役目は、前のお前にちょいと無礼を働くことで…」
マントをめくって尻尾を披露だ、嘘をつけない正直なお前の尻尾をな。
お前がいくら嘘をついても、尻尾は正直者だから…。誰が見たって、嘘だと見破れるんだから。
これもキャプテンの役目なんだ、とハーレイが言うのも間違いではない。ソルジャー・ブルーを失う道より、失わない道を選ぶのもまた正しいから。
その道を選んで進んだ結果が、どうなろうとも。…地球に着くのが遅れようとも。
「…尻尾、そういう風に使うの?」
ぼくの尻尾、と見詰めた恋人。ソルジャー・ブルーの嘘を尻尾で、皆に暴きたかったハーレイ。
嘘をつけないだろう尻尾を、ブリッジの皆に「こうだ」とマントをめくって見せて。
「前のお前についていたならな」
俺の役に立つと言っただろうが、前のお前に尻尾がくっついていれば。…欲しかった、ともな。
しかしだ、今のお前じゃなあ…。尻尾、あっても大して変わりはしないぞ。
どんな尻尾がついていたって、今のお前の人生ってヤツは変わらんさ。
まるで同じだ、と笑ったハーレイ。「尻尾があろうが、無かろうが、全く同じだよな」と。
「大違いだと思うけど…」
尻尾はとても便利なんだし、ぼくの気持ちをハーレイに伝えてくれるから…。
ホントに尻尾があればいいのに、前のぼくには要らないけれど。前のぼくだと、尻尾があったら大変なことになっちゃうから…。メギドに行けなくなってしまって。
「今のお前も尻尾は要らんと思うがな?」
お前の心の中身だったら、俺には手に取るように分かるさ。…尻尾が無くても、表情だけで。
それにだ、心の欠片も幾つも零れているし…。前のお前だった頃と違ってな。
さっきまでは尻尾で弾んでいたぞ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
「あればいいな」と、心の欠片がキラキラ零れていたが、と。
「今はションボリしているようだが…。前のお前の話になって」
前の俺を独りぼっちにしちまったことや、メギドなんかを思い出してな。…尻尾のせいで。
どうだ、俺の読みは間違ってるか?
お前に尻尾はついちゃいないが、俺にはこう見えているんだが…?
「…間違ってない…」
ハーレイが言うこと、当たっているよ。…尻尾が欲しくてはしゃいでいたのも、今はションボリしてるのも。…ちょっぴりだけどね、ションボリなのは。
「ほらな、きちんと当てただろうが。…だからお前に尻尾は要らない」
俺にはいつでも、お前の気持ちが分かっているんだ。尻尾が無くても、お前の気持ちは全部。
尻尾無しでも、何も問題無いってな。俺には伝わっているんだから。
「でも、キスをしてくれないじゃない!」
ぼくの気持ちが分かっているなら、ハーレイはキスをくれる筈だよ!
キスして欲しいの、本当にホントなんだから…。尻尾があったら、ちゃんと見えるんだから!
「そいつも俺には分かっているぞ。お前の心は尻尾無しでも丸見えだしな」
しかし、それとキスとは話が別だ。分かっていたって、叶えてやれないこともある。
キスが駄目な理由、嫌というほど何度も説明してやったがな?
まだ足りないなら、いくらでもお前に聞かせてやるが。
「ハーレイのケチ!」
分かってるんなら、キスしてくれてもいいじゃない…!
尻尾が無くても分かるほどなら、ぼくにキスしてくれてもいいのに…!
ケチなんだから、とプウッと膨れてやったら、「ふむふむ…」と楽しげなハーレイの顔。
「お前のお得意の膨れっ面だな。それを尻尾でやるとなったら…」
どんな具合になるやらなあ?
尻尾もプウッと膨れちまうのか、それとも怒った猫の尻尾みたいにユサユサ揺れるか。
犬の膨れっ面は知らんが、そういう時の尻尾はどうなっているのやら…。
もっとも、お前は尻尾でやるより、顔の方がいいと思うがな?
俺もお前の顔を見ていられるわけだし、尻尾よりかは顔でお願いしたいモンだが。
「え?」
顔って何なの、なんで尻尾より顔になるわけ?
ぼくに尻尾がついていたって、膨れるのは顔がいいって言うの…?
膨れた顔の方が好きなの、と丸くなった目。尻尾で気持ちを表せるのなら、膨れっ面をしなくていいのに。ハーレイだって、いつも「フグだ」と言っている顔を見なくて済むのに。
「お前が膨れないというのは、まあ、有難くはあるんだが…」
可愛らしい顔のままなわけだし、膨れっ面よりはいいんだが…。問題はお前の尻尾なんだ。
もしもお前に尻尾があったら、そっちにも気を配らなきゃいかん。
俺の考えで合っているのか、間違ってるのか、そういったトコ。
尻尾は嘘をつけないからなあ、念のために確認しておかないと。お前の顔と尻尾と、両方。
「…じゃあ、ハーレイの視線がズレちゃうの?」
ぼくの顔から尻尾の方に?
膨れっ面なのか、そうじゃないのか、ハーレイは尻尾を見て確かめるの?
「そうなるだろうな、尻尾があれば」
お前の心が零れていたって、顔も尻尾も確かめないと…。
そいつが礼儀というモンだろうが、お前には尻尾があるんだから。嘘をつけない尻尾がな。
正直者な尻尾がどうなっているか、それをきちんと確かめること。忘れないように、顔と両方。
顔は笑顔でも、尻尾は膨れてフグのようかもしれないから。…尻尾は嘘をつかないから。
「初めてのキスをしようって時になっても、まずは尻尾の確認かもな」
俺はともかく、お前の気持ちが大切だから…。
キスをしたい気分になってるかどうか、顔を見て、次は尻尾を見る、と。
尻尾の確認を忘れちゃならん、とハーレイは大真面目な顔だから。
「それって、雰囲気が台無しだよ!」
ぼくの顔から視線を逸らして、尻尾だなんて!
キス出来るんだ、ってドキドキしながら待っているのに、尻尾を確認するなんて…!
酷い、とプンスカ怒ってやった。「あんまりだよ」と、「それでもホントに恋人なの?」と。
「そう思うんなら、尻尾は要らないってことだろうが。…今のお前には」
俺だってお前の顔だけを見てキスをしたいし、尻尾にまで気を配るのは遠慮したいしな。
もっとも、その迷惑な尻尾ってヤツ。
前のお前には、ついていた方が良かったな、と思わないでもないんだが…。
尻尾がついてりゃ、前の俺はお前を失くしていないんだから。
「それはそうかもしれないけれど…。前のハーレイ、喜んだかもしれないけれど…」
前のぼくだって、尻尾を確認してからのキスは喜ばないよ!
マントをめくって、みんなに尻尾を見せる方なら、今のぼくなら許すけど…。
前のハーレイが辛かったことを知っているから、それは許してあげるんだけれど…。
だけど、キスの前に尻尾を確認してたら怒るよ?
今のぼくでも、前のぼくでも、それはホントに怒るんだからね…!
「よし。だったら尻尾は要らない、と」
尻尾があったらそうなっちまうし、尻尾は無いのが一番だ。
猫のも犬のも、ウサギの尻尾も。…欲しがらなくても、お前には必要無いんだから。
お前の心はきちんと顔で分かるから、という言葉。
褒められたのか、サイオンの扱いが不器用なのを馬鹿にされたのか。
少し複雑な気分だけれども、ソルジャー・ブルーに尻尾があれば、と思ったハーレイ。尻尾さえあればメギドに飛ぶのを止められたのだ、と考えるハーレイの気持ちは分かるから…。
「…今度は嘘はつかないよ」
前のぼくみたいな嘘は、絶対つかない。
ハーレイがぼくの尻尾をみんなに見せなくちゃ、って思うようなのは。…マントの下になってる尻尾を、「失礼します」って出さなきゃいけないようなのは。
もうやらない、と約束しようとしたのだけれど。
「その必要も無いだろ、今は」
お前が嘘をついたとしたって、その嘘にお前の命は懸かってないからな。
前のお前の頃と違って、今は平和な時代だから…。命懸けの嘘は無理なんだから。
「そうだっけ…!」
嘘をついても、ハーレイに叱られるだけでおしまい。
前のハーレイにやったみたいに、悲しませたりはしないから…。
ハーレイを置いて行ったりしないし、独りぼっちにさせもしないよ。…いつまでも一緒。
ぼくに尻尾が欲しかったなんて、もう絶対に言わせないから…!
サイオンが不器用になってしまって、気持ちを表す尻尾が欲しいと思うくらいの自分だけれど。
尻尾が欲しいと考えたけれど、不器用な自分に合わせたように、今は世界もすっかり平和。
だから尻尾を欲しがらなくても、幸せに生きてゆけるだろう。
猫の尻尾も犬の尻尾も、もちろんウサギの尻尾だって。
わざわざ尻尾を見て貰わなくても、心の中身はハーレイに筒抜けらしいから。
さっきもハーレイは心を見事に言い当てたのだし、尻尾は無くてもかまわない。
尻尾なんかを見てはいないで、顔だけを真っ直ぐ見ていて欲しい。
青い地球にハーレイと二人で生まれ変わって、一緒に生きてゆくのだから。
ハーレイの瞳で顔だけを見詰めて貰える世界の方が、ずっと幸せに違いないから…。
尻尾があれば・了
※ブルーが欲しいと思った尻尾。ハーレイは、前のブルーに尻尾が欲しかったとか。
確かに尻尾があった場合は、メギドへ飛べなかったかも。そして今は、尻尾は要らない世界。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年もお花見の季節がやって来ました。行き先は毎年色々ですけど、何処へ行くかが問題で。露店が立ち並ぶ名所もいいですし、人が少ない穴場も狙い目。桜便りが届き始めたら今年も相談、ええ、桜前線はまだ到達していないんですけど…。春休みですから、会長さんの家に集まって。
「メジャーな穴場って無いのかな?」
有名だけど人が少なめのトコ、とジョミー君。
「たまにはそういう所がいいなあ、すっごい名所だけど人は少ないってヤツ」
「…それはお天気次第だろうねえ…」
天気予報が上手く外れれば…、と会長さんが返しました。
「大雨の筈がカラッと晴れたとか、そういうヤツ。ついでに車や観光バスでしか行けない場所で」
そういう所へ瞬間移動で出掛けて行ったら可能だけれど、という返事。
「だけど、出たトコ勝負だよ? フィシスの占いで何処まで分かるか…」
お花見の吉日は読めても、場所まではちょっと…、と会長さん。
「あらかじめ候補を絞っておいたら、場所ごとに占っては貰えるけれど…」
でも直前まで分からないんじゃなかろうか、ということですから難しそうです。観光案内に載っているような名所の桜で人少なめを狙おうってヤツ。
「そうなるね。豪華なお弁当とかを用意するには、ちょっと難しすぎるかな」
「「「うーん…」」」
やっぱり無理か、と私たちもガックリですけど、キース君が。
「いや、まるで無いというわけではないぞ。俺にも一つ心当たりが…」
「マジかよ、それって何処なんだよ?」
サム君が食い付き、ジョミー君も。
「どこ、どこ? 行ってみたいんだけど!」
「お前もサムもよく知っている場所ではあるな。璃慕恩院の桜はそれは見事で…」
「総本山じゃねえかよ!」
あそこで弁当食えるのかよ、とサム君の突っ込み。キース君や会長さんが属する宗派の総本山が璃慕恩院です。
「…食っている人がいるとは聞かんが、まるで禁止でもないだろう」
場所によっては、ということですけど、桜が一番綺麗に見える所はメインの建物がよく見える場所だということで…。
「あそこで弁当を広げるんなら精進だろうな」
阿弥陀様から丸見えだから、という話。お花見で精進弁当ですか?
お花見はお弁当も楽しみの内。お花見弁当という言葉が存在しているくらいに、必要不可欠な感じです。教頭先生をスポンサーにして豪華弁当を調達する年もあるだけに…。
「嫌だよ、精進弁当なんて!」
おまけに璃慕恩院だなんて、とジョミー君がプリプリと。
「そんな所でお花見しちゃったら、坊主フラグが立ちそうだよ!」
「「「坊主フラグ?」」」
「フラグだってば、来年の春には坊主コースのある大学に入っているとか!」
「いいじゃねえかよ、御仏縁ってことで」
俺と一緒に入学しようぜ、と誘うサム君はお坊さんコースに抵抗は無し。切っ掛けさえあればいつ入学してもいいという覚悟、二年間の寮生活も全く苦にならない人で…。
「冗談じゃないよ、専修コースは二年コースしか無いんだから!」
一年コースはいつ出来るのさ、とジョミー君の文句が始まりました。忙しい人のための一年コースが出来る話は聞いてますけど、現時点ではまだ出来ていません。
「俺は近々だと聞いているが…」
「ぼくもだね。ただ、寮を建てる場所の方がちょっと難アリだしねえ…」
ゴーサインがなかなか出ないようだ、と会長さん。難アリってことは、祟る土地だとか…?
「祟る土地なら、お坊さんの寮にはもってこいだけど…。いつでもお経が流れているから」
「それじゃ、どういう難アリですか?」
シロエ君の質問に、会長さんは。
「…土地に歴史がありすぎちゃって…。建てる前には発掘なんだよ」
「「「あー…」」」
それがあったか、と誰もが納得。いろんな宗派の総本山が存在しているアルテメシアは、歴史だけは無駄にあったりします。下手に掘ったら何が出るやら、場合によってはせっかくの土地が使えなくなるオチもアリ。難航する理由が分かりました。
「つまりアレですね、発掘費用だけがかかって、結局、何も建てられないということも…」
「そうなんだよねえ、これが個人や会社の土地なら、まだマシだけどさ」
発掘費用は璃慕恩院の負担になるから問題なのだ、と会長さんの説明が。宗派のためにと集めた資金を使う発掘、寮の建設。「失敗しました、駄目でした」では信者さんたちに申し訳なさすぎて、未だに踏み切れないんだとか。お寺の世界も大変です…。
話は他所へとズレましたけれど、ジョミー君の言う「坊主フラグ」を立てては駄目だと璃慕恩院でのお花見は却下。そもそも、「人の少ない名所」がいいと言い出したのがジョミー君ですし…。
「璃慕恩院もいいと思うんだがなあ、俺としてはな」
あそこの桜を知っている俺のイチオシなんだが、とまだ言っているキース君。けれど…。
「こんにちはーっ!」
遅くなってごめん、とフワリと翻る紫のマント。すっかり忘れてしまってましたが、お花見の相談にはソルジャーも来る予定でしたっけ…。
「ごめん、もうちょっと早く出ようとしたんだけど、会議が長くなっちゃって…。それで、今年はお寺でお花見だって?」
「そのコースなら却下されたよ、ついさっき」
会長さんが言うと、ソルジャーは「えーっ!」と。
「そうだったんだ…。ちょっと覗き見してない間に、お寺は却下されちゃったわけ?」
楽しそうだと思ったのに、と言ってますけど、ソルジャー、忘れていませんか?
「え、忘れるって…。何を?」
「忘れてないなら、最初から聞いていなかったんだろうね。お寺でお花見なら精進弁当!」
仏様のいらっしゃる場所で肉は無理で、と会長さん。
「肉も魚も抜きのお花見! それでもいいなら、もう一度お寺で検討するけど…」
一人増えた分の意見も尊重しなければ、とソルジャーに譲歩しましたが。
「精進弁当になるだって!? それは却下だよ、ぼくだって!」
ちっとも美味しくなさそうじゃないか、とソルジャーは顔を顰めました。
「ぼくの意見を言っていいなら、むしろその逆! ちょっと季節が早すぎるけど、バーベキューをするのもいいねえ、桜の下で!」
「「「バーベキュー!?」」」
それはお花見からズレていないか、と思いましたが、楽しそうだという気もします。お弁当だの、露店で売ってるタコ焼きだのが桜見物のお供だと思い込んでいましたけれど…。
「バーベキューねえ…。たまに、そういうのもいいかもね」
人の来ない穴場の桜でやるのもいいね、と会長さん。私たちも心を惹かれていますし、今年はそれでいいでしょう。お寺の桜で精進弁当なコースに向かって突っ走るよりは、断然、賑やかにバーベキューですよ!
そういうわけで決まったお花見バーベキューは、無事に開催されました。満開の桜の下で肉や野菜をジュウジュウと焼いて。上等のお肉を買って来て下さった教頭先生はもちろん、ソルジャーにキャプテン、それに「ぶるぅ」と大人数での大宴会が先週のことで…。
「かみお~ん♪ 面白かったね、お花見バーベキュー!」
とっても素敵だったけど…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれた会長さんの家。シャングリラ学園の新学期は既にスタートしています。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に出掛けていた日々、何故に今頃、お花見の話題?
「んとんと…。精進弁当でもめていたでしょ、お花見の場所を決める前!」
「…それ以前に、ジョミーの坊主修行でもめた気がするが?」
俺の記憶が確かならな、とキース君。
「坊主のフラグがどうだこうだと…。あれさえ無ければ、精進弁当の花見だったかもしれないな」
「それは無いでしょう、誰かさんが却下ですよ」
バーベキューだと言い出した人が、とシロエ君が言い、マツカ君も。
「まず無いでしょうね、精進弁当でお花見コースは」
「それなんだけど…。精進弁当も美味しいよ?」
食わず嫌いは良くないと思うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「うんと美味しい精進料理も沢山あるしね、お弁当風にアレンジしたら良さそうだけど…」
「駄目だな、精進料理は所詮は精進料理でしかないからな」
寺で育った俺に言わせれば…、とキース君。
「確かに、モノによっては美味い。しかし、肉や魚の美味さには勝てないものだ」
「そうでもないと思うんだけど…。本場のヤツなら」
「「「本場?」」」
「この国の偉いお坊さんが沢山、修行に行ってた中華の国だよ!」
あそこの精進料理は一味違うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は自信満々。
「今日のお昼は、そのお料理! 精進料理で、お肉もお魚も全部抜きだよ!」
「「「精進料理!?」」」
ヒドイ、と上がった悲鳴が幾つか。キース君も「どうして此処に来てまで精進料理…」と呻いてますから、誰の気持ちも同じでしょう。よりにもよって精進料理…。
今日はハズレだ、と思ってしまったお昼御飯。そのせいかどうか、ソルジャーだって現れません。美味しいお菓子に釣られて出て来ることが多いのに…。
「…精進料理は、正直、俺の家だけで沢山なんだがな…」
いつも精進料理というわけではないが、とキース君もぼやいたお昼御飯ですけど、さて、ダイニングに出掛けてみれば。
「「「…中華料理?」」」
大きなテーブルにズラリと並んだ、美味しそうな中華料理の数々。なんだ、嘘だったんですか!
「はい、どんどん食べてね!」
「「「いっただっきまーす!」」」
大喜びで食べ始めた私たち。ソルジャーもちゃっかりやって来ました、「中華だってね?」と。私服に着替えたソルジャーまでが舌鼓を打つ、素晴らしい出来の中華料理。精進料理だなんて、すっかり騙されてしまってましたよ!
「うん、ぼくだって騙されたよ。…こんなオチなら、もっと早くに来ていれば…」
おやつもちゃんと食べられたのに、とソルジャーが残念そうに言った所で。
「嘘じゃないもん、精進だもん!」
本当だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が料理の説明をし始めました。正確に言えば、料理と言うより材料の方。私たちが肉や魚やカニだと思っていたものは…。
「「「全部ニセモノ!?」」」
信じられない、と口に運んで味わってみても、舌触りまでが本物そっくり。でも…。
「…言われてみれば、違うような気もして来ましたね…」
「そうだな、微妙に違う気もするな…」
だが肉なんだ、とキース君が頬張り、ソルジャーも「カニなんだけどねえ…」と。
「こんな精進料理もあるのが、こっちの世界っていうわけなんだ?」
「そうだよ、こんなのも素敵でしょ?」
「確かに美味しいとは思うけど…。でもねえ、ぼくはやっぱり本物がいいねえ…」
本物の肉が一番だよ、と言うソルジャー。
「たまには精進料理もいいけど、本物の肉の方がいいかな」
「俺もだな。…修行となったら精進料理でまっしぐらなのが坊主だし…」
あんたとは気が合いそうだ、とキース君が珍しくソルジャーと意気投合しています。味は同じでも本物がいいと、肉は本物に限るものだと。
とはいえ、美味しく食べた昼食。味に文句はありませんでした。食後の飲み物はジャスミンティーもあれば、好みでウーロン茶やコーヒーだって。それを片手に移ったリビング、ソルジャーがまたまた「肉は本物」と言い出して。
「さっきもキースと話してたけど、紛い物より、断然、本物! だってねえ…」
精進料理はベジタリアン向けの料理みたいなものだろう、と身も蓋もない台詞。
「ベジタリアンって…。あれは本来、お坊さん向けの…」
修行のための料理なんだよ、と会長さん。
「この国ではホントに君たちがそっぽを向きそうな料理になっちゃったけれど、本場はねえ…」
「そだよ、お坊さんたちも、お肉な気分になることもあるし!」
我慢するより、ニセモノのお肉を食べる方が健康的だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。けれどソルジャーは「それじゃ駄目だね」とブツブツと。
「偽物は所詮は偽物なんだよ、それで満足しているようじゃ…。肉はガッツリ食べてこそだよ」
「まったくだ。俺も修行が明けた時には、まずは肉だと思ったからな」
あの修行は実に辛かった、とキース君の思い出話が。住職の資格を取るために璃慕恩院で三週間も修行していた時の体験談。肉抜きの日々で本当に参っていたのだそうで…。
「座禅を組む方の宗派になるとだ、肉抜きの修行が年単位になってくるからな…」
南無阿弥陀仏の方で良かった、と合掌しているキース君。
「もっとも、あっちの坊主にしたって、寺を抜け出して肉を食うのは間違いないが」
「そうでもしないと持たないからねえ、この国ではねえ…」
ぶるぅが作ったような精進料理も無いわけだから、と会長さん。
「黙認だよ、上の人たちも。…自分だって修行時代は抜け出して肉で、その後も肉だし」
「そういうものかい?」
ソルジャーの問いに、会長さんは。
「托鉢の修行に出たお坊さんたちに、すき焼きを御馳走する信者さんもいるしね。偉いお坊さんたちはタクシーで街まで出掛けて行って、焼肉とかを食べるのが普通だからさ」
「なるほど、肉を食べるのはやっぱり大切、と…」
これはハーレイにもしっかり教えておかなければ、と言うソルジャー。もしかしてキャプテン、ベジタリアンってことはないですよね?
「それは無いねえ、バーベキューにも来てただろう?」
肉をガンガン食べてた筈だよ、とソルジャーの答え。それじゃ、お肉を遠慮しがちだとか…?
ソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」が住む世界では、シャングリラの中が世界の全てだと聞いています。外から補給船は来なくて、奪わない限りは増えない物資。そんなシャングリラの船長をやっているのがキャプテン、貴重なお肉は他の人に、と遠慮するかもしれません。
ソルジャーや「ぶるぅ」は外の世界で食べ放題でも、シャングリラの人たちには出来ない裏技。キャプテンだって自分の力では出られないだけに、お肉の量を控えているかも。キャプテン稼業も大変なんだな、と思っていたら…。
「え? 肉の量なら、ぼくのシャングリラでは公平なのが大原則だけど?」
体格に合わせて多少の違いがある程度、とソルジャーが説明し始めました。栄養不足に陥らないよう、きちんと計算してあるメニュー。子供用とか、大人用とか。
「だから、ハーレイが食堂に行けば、肉は多めだね。あの体格を維持する必要があるからねえ…」
キャプテンが栄養失調で倒れたのではシャングリラの航行に支障が出るし、という話。それじゃ、どうしてキャプテンにお肉を食べる大切さを今更教えなきゃいけないんですか?
「ああ、それはねえ…! ほら、こっちの世界で昔に言われていただろう? 草食系って」
「「「…草食系?」」
なんだったっけ、と首を捻った私たち。聞いた覚えはあるんですけど…。
「うーん…。君たちの場合は若すぎる上に、万年十八歳未満お断りだから、そうなるかもねえ…」
ぼくでさえ知っている言葉なのに、とソルジャーは呆れているようです。
「いいかい、草食系ってヤツには対になる言葉があるんだよ。肉食系、とね」
「「「肉食系…」」」
それも聞いた、と思ったものの、やっぱりピンと来なくって。みんなで顔を見合わせていたら、ソルジャーが「ホントに興味が無かったんだねえ…」と、しみじみと。
「草食系とか肉食系っていうのはねえ…。個人の好みの問題だね!」
「…ベジタリアンか、そうでないかか?」
キース君が訊くと、「違うね」とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「セックスってヤツに積極的なのが肉食系でね、消極的なのが草食系だよ!」
「「「あー…」」」
アレか、と思い出しました。恋人が欲しいとも思わないとか、恋人がいても、ソルジャーみたいに貪欲な方ではない人だとか。そういう人たちを草食系って呼んでた時代がありましたっけね…。
草食系に肉食系。ソルジャーがキャプテンに「食べるのが大切」と教えたい肉は、同じ肉でも動物ではなくてソルジャーの肉。それも肉体、いわゆる身体。
やっと分かった、と思う間もなく、ソルジャーは。
「そんなわけでね、ハーレイには肉食系であって欲しいわけだよ、ガッツリと食べて!」
肉の大切さを説かなければ、と大真面目。
「精進料理なお坊さんでも肉を食べるなら、お坊さんじゃないハーレイは、もっと!
「あのねえ…。もう充分に肉食系だと思うけどねえ、君の世界のハーレイは」
多少ヘタレかは知らないけれど、と会長さん。
「君のパートナーをやってるわけだし、肉食系で間違いないよ。…君は肉食系だろう?」
「もちろんだよ! ライオンにもピラニアにも負けはしないね!」
それくらいの勢いで肉食系だ、とソルジャー、キッパリ。
「毎日のように肉を食べたいし、本当だったら、朝から晩まで食べていたいねえ…!」
ハーレイの仕事柄、なかなか休暇が取れないけれど…、とソルジャーのぼやき。
「だから、特別休暇の時には、ハーレイもぼくも、お互い、ガッツリ!」
肉をどんどん食べるわけだよ、と次の休暇が気になるソルジャーみたいですけど、突然、ハタと気付いたように。
「…そういえばさ…。ぼくのハーレイは肉食だけどさ、こっちのハーレイはどうなわけ?」
「「「は?」」」
「あのハーレイだよ、ブルーに恋して三百年以上のヘタレなハーレイ!」
あれは草食系なんだろうか、という質問に「うーん…」と悩んだ私たち。
「…草食系ということになるのか、教頭先生は?」
肉食系ではないようだから、とキース君が言うと、サム君が。
「そうじゃねえだろ、単に機会が無いってだけだぜ」
でなきゃブルーを追い掛けねえよ、と主張するサム君は会長さんと今も公認カップルです。会長さんの家での朝のお勤めがデート代わりな、爽やか健全なお付き合いですけど。
「ぼくもサム先輩に賛成です。…肉食系だと思いますけど?」
どう考えても、とシロエ君も。
「…そうなるのか?」
「そっちの方だと思うんですけど?」
キース先輩の説が間違ってます、とシロエ君。私もそうだと思いますです、教頭先生は草食系とは違いますってば…。
教頭先生は草食系なのか、肉食系か。ソルジャーの質問にキース君が「草食系だ」と答えたことから、大いにもめた私たち。草食系なのか、そうじゃないのか、もめた挙句に、キース君が。
「…俺が間違っていたかもしれん。肉食系だという気がしてきた」
「ほらな、肉食系だって俺が最初から言ったじゃねえかよ」
やっと認める気になったか、とサム君がフウと溜息を。
「で、間違っていたと認める根拠はなんだよ、今まで頑固に草食系って言ってたくせによ」
「…いや、そもそもの話の原点ってヤツに立ち帰ってだな…。坊主について考えてみた」
「「「坊主?」」」
なんだそれは、と誰もが首を傾げましたが、キース君は。
「精進料理だ、坊主は本来、肉を断つもので…。だから精進料理が生まれたわけで、だ」
「ですよね、ぶるぅが作った本場のヤツは凄かったですよ」
肉まで再現する勢いが、とシロエ君。
「肉は食べられない立場の人でも、やっぱり食べたい欲求は出てくるでしょうしね」
「そこだ、俺が考えを変えた理由は。…本場の精進料理が食べられる坊主は知らんが、この国の場合は精進料理はとことん本気で肉が無いわけで…」
修行中だった時の俺もそうだ、とキース君は職業の辛さを嘆きながら。
「そんな坊主が、肉断ちの修行が明けた時にはどうなると思う?」
「えーっと…。キース、確かハンバーガーが食べたいって言ってたよね?」
でもって本気でハンバーガー、とジョミー君が言う通り。住職の資格を取る道場から帰って来たキース君はハンバーガーの店に行ったのでした。そして大きいのをバクバクと…。
「俺の場合はアレで済んだが、焼肉に繰り出すヤツもいるんだ。大抵はそのコースだな」
自分の胃袋の状態も知らずに突っ込んで行って酷い目に遭う、とキース君。
「肉断ちの期間が長かったんだぞ、いきなり食っても腹を壊すとか、胸やけするとか…。それでも食べたくなるのが坊主だ。どうなってもな」
教頭先生もそのタイプと見た、とキース君は意見を変えた理由を述べ始めました。
「教頭先生は草食系でらっしゃるだろう、と俺が判断したのは、ブルーだけだと仰ってるのと、いつものヘタレぶりからなんだが…」
しかし、とキース君が改めて語る、修行明けのお坊さんの無茶な食べっぷり。
「教頭先生もそのクチなんだ。肉は食べたいが、修行中だといった所か…。肝心の肉が無い状態だからな」
ブルーが全く相手にしない、という結論。肉が無ければ確かに嫌でも肉断ちですねえ…。
教頭先生は肉食系だ、とキース君が断定した理由は説得力がありました。教頭先生は肉が食べたくても食べられない状態でいらっしゃいます。お肉、すなわち会長さん。本当は肉食系だというのに、草食系だと勘違いされるほどの肉断ち生活継続中で…。
「なるほどねえ…。こっちのハーレイは肉食系なのに、草食系の生活を余儀なくされている、と」
肉が無いのでは仕方がないか、と頷くソルジャー。
「それで分かったよ、やたらとブルーに御執心なわけが!」
肉を食べたくて仕方ないんだ、とソルジャーは会長さんの方をチラリと。
「こんなに美味しそうな肉があるのに、まるで食べられないんじゃねえ…。それは辛いよ」
お坊さんですらも精進料理で肉の偽物を作るというのに、と気の毒に思っている様子。
「抜け道も無しで、肉断ち生活が三百年以上も続いてるなんて…。可哀相としか…」
なんて可哀相な日々なんだろう、とブツブツと。
「それでも肉を諦めないって所がねえ…。とてもパワフルだと言えばいいのか、エネルギッシュだと言うべきか。修行中のお坊さんも真っ青だよ、これは」
肉断ちが長い分だけよりパワフルになるのだろうか、と言うソルジャー。
「三百年以上も食べてない分、余計に食べたくなるものなのかな?」
「俺の経験からすれば、そういうことになるんだろうな」
後は周りの坊主仲間や座禅の宗派の坊主の行動からしても、とキース君もすっかり方向転換。
「食えなかった分だけ、より食いたくなる。…肉というのはそういうものだ」
「そうなんだ…。それじゃ、ぼくのハーレイでもそうなるのかな?」
「「「え?」」」
なんのことだ、と思ったのですが、ソルジャーは。
「ぼくのハーレイだよ、肉食系で肉はガッツリ食べたいハーレイ!」
特別休暇の時にはそれはパワフルで…、とウットリと。
「ぼくをガツガツ食べるわけだけど、あのハーレイもさ…。肉断ちをすれば、肉を食べたい気持ちがもっと強くなるって勘定かな?」
「…それはまあ…。推して知るべしと言っていいのか、肉断ちの経験者からしてみれば…」
普通は食べたくなるだろうな、とキース君。
「住職の資格を取りに出掛けた修行道場の時もそうだったが、今でも短期間の肉断ちがある」
お盆の時やお彼岸だな、という解説。
「それの間は、早く終わって肉を食いたい気持ちになるのはお約束だ」
未だにそうだ、と語るキース君、ついこの間の春のお彼岸でも肉断ちだったそうですよ~!
ソルジャー曰く、キャプテンも肉断ちをすれば、肉を食べたい気持ちが強くなる勘定か、という話ですが。キース君の答えは肯定、ただし本物の肉だった場合。ソルジャーは暫し考え込んで。
「肉断ちねえ…。肉断ちが明けた時のハーレイのパワフルさってヤツは是非とも味わいたいけど、その前がねえ…」
肉断ちってことは、ぼくとの関係を断つってわけで、と悩み中。
「ぼくの方でも肉断ちになるし、そこがなんとも困った所で…」
「たまには肉を断ってみたまえ!」
君の場合は貪欲すぎだ、と会長さん。
「ライオンなんだかピラニアなんだか知らないけどねえ、年がら年中、がっついてるし!」
「だって、根っから肉食系だしね!」
セックスの無い人生なんて! とソルジャーはブルッと肩を震わせて。
「そんな人生、とんでもないよ。こっちのハーレイは本当に我慢強いというか…。ん…?」
待てよ、と顎に手を当てるソルジャー。
「…こっちのハーレイも肉食系で、肉断ち中で…。でもって、パワフル…」
「ハーレイは別にパワフルってことはないけれど?」
鼻血体質でヘタレまくり、と会長さんがツンケンと。
「肉断ちだって、仕方ないからやってるだけでさ…。自発的にやってるわけじゃないしね」
何ら評価に値しない、とバッサリで。
「あんなのを我慢強いと言ったら、我慢が泣きながら身を投げるね!」
何処かの崖から、と酷い言いよう。けれど、ソルジャーは「そうだけど…」と曖昧な返事。
「それはそうかもしれないけれどさ、肉食系のハーレイには違いないわけで…」
「だから迷惑するんだよ! このぼくが!」
「分かってるってば、そこの所も。…でもね、あのハーレイは使えるかな、って思ってさ」
「…何に?」
変な使い道じゃないだろうね、と会長さんが尋ねると。
「実験台だよ、実験動物でもいいかもしれない。肉食系だの草食系だのは、本来、動物向けの分類ってヤツらしいしね」
「まあね。…人間の場合は菜食主義者って言い方だとか、ベジタリアンとか…」
肉食です、って言い方はわざわざしないだろうね、と会長さん。あえて言うなら雑食というのが人間という生き物らしいですけど、ソルジャー、教頭先生を実験動物にして何をしたいと?
本来の姿は肉食系なのに、会長さんが全く相手にしていないせいで、草食系だと勘違いまでされてしまった教頭先生。肉は一度も食べられないまま、肉断ち生活が三百年以上。その教頭先生を実験動物に使いたいのがソルジャーで…。
「こっちのハーレイも、根本的にはぼくのハーレイと同じってトコが重要なんだよ」
肉食系という所が大切、と指を一本立てるソルジャー。
「今は絶賛肉断ち中だけど、その肉がもっと食べられなくなったらどうなるかなあ、って…」
「「「へ?」」」
食べられないも何も、教頭先生は元から肉を食べてはいません。これ以上どうやれば肉断ちになると言いたいんだか、まるでサッパリ謎なんですが…。
「分からないかな、ハーレイは一応、肉というものを見ているわけだよ」
食べられないだけで…、と言うソルジャー。
「ブルーの姿は見られるわけだし、話だって出来る。これは完全な肉断ちじゃないね」
修行中のお坊さんは肉さえ見られないんだろう、とキース君に質問が。
「…俺の場合はそうだったな。道場から出ることは出来なかったし、肉は夢にしか出なかった」
托鉢をする方の坊主だったら、托鉢中には肉屋の前も通るだろうが…、ということですけど。
「そっちは別にいいんだよ! 托鉢に行ったら肉が食べられることもあるって聞いたし!」
ぼくが言うのは肉と全く出会えないケース、とソルジャーはニヤリ。
「今のハーレイはブルーという肉に出会えはする。それが全く会えなくなったら、完全な肉断ちになるんだよ! 修行中のキースと同じようにね!」
肉は夢にしか出て来ない日々、とソルジャーの視線が教頭先生の家の方向に。
「そういう生活に追い込んでみたら、肉断ちが明けたら何が起こるか…。それを見てから判断しようと思ってさ」
「何の判断?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「決まってるじゃないか、ぼくのハーレイにも肉断ちをさせるかどうかだよ!」
実験で素晴らしい結果が得られた時には、ぼくのハーレイでも肉断ちを! とグッと拳を握るソルジャー。
「ちゃんと実験しさえすればね、肉断ちが明けた時を励みに耐えられるから!」
ぼくまで肉断ちな生活に…、と言ってますけど、本気でしょうか。そもそも、実験してまで効果を確認しない限りは肉断ちをしたくないらしいですし、成功するとも思えませんが…?
肉食系なキャプテンが肉断ちをした場合、肉断ちが明けたらパワフルだろうと夢見るソルジャー。けれども、それをするとなったらソルジャーの方も肉断ちな日々。思わしい結果が出ないのだったら肉断ちは嫌だ、と目を付けたのが教頭先生で…。
「こっちのハーレイとブルーが会えないように細工をすればね、肉断ちの効果があるかどうかが分かるよ、きっと!」
ちょっとやってもいいだろうか、という質問に、会長さんが「好きにすれば?」と。
「君の提案は大抵、迷惑なんだけど…。ハーレイ絡みは特にそうだけど、会わずに済むなら、ぼくとしては別に…」
「いいのかい? 肉断ち明けが大変になるかもしれないけれど…」
いきなり押し倒されちゃったりとか…、とソルジャーが確認していますけど、会長さんは。
「どうせヘタレだし、その程度で済むに決まっているしね。…万一の場合は、君が責任を持って対処したまえ、ハーレイをぼくから引き剥がすとか!」
「了解。…今回の実験に関しては、君とハーレイとをくっつけたい件は抜きにしておくよ」
ぼくは自分のセックスライフが大事だからね、とソルジャーは何処までも自分中心。
「ぼくのハーレイと最高のセックスが出来るんだったら、君の方は放置でいいんだよ!」
「はいはい、分かった。あまりアヤシイ言葉は使わないように!」
さっきから乱発しているからね、と会長さんが釘を。
「大人しくするんだったら、ハーレイくらいは好きにしていいよ」
「ありがとう! それじゃ、早速!」
「…どうするんだい?」
「サイオンの壁っていうヤツだよ!」
会えないように細工するだけ、とソルジャーの指がヒラリと動いて、キラッと青いサイオンが。…えっと、今ので終わりですか?
「そうだけど? こっちのブルーとハーレイの間に、見えない壁が出来たわけ!」
自覚が無くても決して会えない仕組みになってる、とソルジャーは得意満面です。
「たとえばブルーが買い物に行って、ハーレイも同じ店に行ったとするだろ? でもねえ、普通だったらバッタリ会うのが会えないんだな!」
棚の向こうですれ違うだとか、行きたい方向が変わるとか…、と得々と話しているソルジャー。店に入らずに回れ右とか、行きたかった店が別物になるとか、それは凄いらしいサイオンの壁。取り払うまでは決して会えないって、本当でしょうか…?
会長さんと教頭先生の間にソルジャーが設けた、サイオンの壁。教頭先生と会長さんは決して出会えず、教頭先生は会長さんの姿も見られない上に声も聞けないそうですが…。
「…あれって、ホントに有効なわけ?」
この一週間、確かに会っていないけど、とジョミー君が首を傾げた次の土曜日。私たちは会長さんの家に遊びに来ていますけれど、その会長さんは教頭先生に会っていないそうで。
「…ぼくにも分からないんだけどねえ、不思議なほどに会わないねえ…」
学校の中も出歩いたのに、と会長さん。
「ブルーが言ってたサイオンの壁は、ぼくにも仕組みが全く謎で…。何処にあるのか分かりもしないし、どう働くかも分からないけど…」
でも会わない、と会長さんは証言しました。教頭先生が授業をしている教室の前で、出て来るのを待ったことまであるそうですが…。
「…ぼくとしたことが、ウッカリ用事を思い出してさ。ちょっと急いでゼルの所に行ってる間に、授業時間が終わったんだよ!」
戻った時にはハーレイはもういなかった、と挙げられた例。もちろん教頭室は何度も訪ねたらしいのですけど、いつ行っても留守で会えないらしく。
「ブルーのサイオンは凄すぎるとしか言いようがないね。あそこまでの技はぼくにも無理だよ」
「なるほどな…。あんたの方では、そうやって会おうとしてみるほどだし、遊びだろうが…」
教頭先生の方は辛いかもな、とキース君。
「偶然だと思ってらっしゃるとはいえ、一週間も会えないとなると…」
「そうみたいだね。昨日の夜に覗き見をしたら、部屋で溜息をついていたよ」
ぼくの写真を見ながらね…、と苦々しい顔。
「どうしてお前に会えないのだろうな、なんて零していたねえ、諦めの悪い!」
「それでこそだよ、肉断ちはね!」
肉には夢でしか会えない毎日、とソルジャーがパッと出現しました。
「今までだったら姿だけでも拝めていた肉がもう無いんだし…。ハーレイの辛さは増す一方だね、サイオンの壁を解くまでは!」
「…いつまでやるわけ?」
その肉断ち、と会長さんが訊くと。
「キースの修行とやらに合わせて三週間! それだけやったら、もう完璧に!」
肉への思いが強まるであろう、という読みですけど、ソルジャーは分かっていないようです。実験が見事に成功したなら、ソルジャーも肉断ち三週間なコースになるわけですが…?
ソルジャーが設置したサイオンの壁とやらは解かれないまま、三週間が経過しました。ゴールデンウィークの間も教頭先生は会長さんに会えずじまいで、溜息は深くなる一方で。ようやくソルジャーが勝手に始めた実験が終わる日がやって来ました。
「…今日らしいですね?」
「そうみたいだねえ、ぼくの快適な生活も今日でおしまいってね」
少し寂しい気持ちもしたかな、と会長さんが呟くリビング。私たちは会長さんの家に集まり、ソルジャーが来るのを待っています。土曜日ですから、学校は休み。
「ふうん…。寂しいと思ってくれたんだ? オモチャが無くって寂しいという意味だろうけど…」
君とハーレイの仲も一歩くらいは前進かな、とソルジャーが空間を超えて現れて。
「さてと…。解いてみようかな、サイオンの壁!」
こんな感じで、と青いサイオンがキラッと光って、どうやら壁は消えたようです。とはいえ、元から会長さんにも分からなかったのがサイオンの壁。消えた所で何が起こるというわけでもなく、私たちはのんびりと…。
「かみお~ん♪ 今の季節はコレだよね!」
ビワが美味しい季節だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が切り分けてくれたビワのタルト。それを食べながら、賑やかにお喋りしていたら…。
「あれっ、お客さんかな?」
ちょっと見てくる! とチャイムの音で駆け出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」。直ぐに転がるように戻って来て…。
「えとえと、ハーレイ、来ちゃったのー!」
「「「ええっ!?」」」
なんでまた、と驚いた所へ「邪魔をしてすまん」と教頭先生が頬を染めながら入って来ました。手には真紅の薔薇の花束、あまりの大きさに何本あるのか分かりません。百本かも、と誰もがポカンと眺めるそれを、教頭先生は「ブルーにと持って来たんだが…」と手にしたままで。
「どうしたわけだか、まるで会えずに三週間も経ってしまって…。それでだな…」
思い余って来てしまった、と教頭先生は真っ赤な顔で照れています。
「お前に会えたら、あれも言わねば、これも言わねばと毎日考え続けていたわけで…」
そんな私の熱い想いを歌にしてみた、と教頭先生はいきなり歌い始めました。それは熱烈なラブバラードを。多分、替え歌なんでしょうけど、会長さんの名前を連呼するヤツを。
「「「………」」」
ここまでするか、と呆れ返った私たち。歌うなんて思いもしませんでしたよ…!
朗々とラブバラードを熱唱した後、教頭先生は呆然としている会長さんに真紅の薔薇の花束を押し付けるように渡して、それから「愛している…!」と両腕でギュッと。会長さんが驚き呆れて動けないのをどう受け取ったか、キスまでしようとしたのですけど…。
「おっと、そこまで!」
ぼくがブルーに殺されちゃうから、とソルジャーの青いサイオンが光って教頭先生の姿は消滅しました。瞬間移動で、駐車場にあった車とセットで家に送り返されたみたいです。
「た、助かった…。危なかったよ、ぼくも魂が抜けてたと言うか…」
「だろうね、ラブバラードが凄かったしねえ…」
ぼくは感動しているけれど、とソルジャーは嬉々とした表情で。
「ラブバラードで愛の告白、それに真紅の薔薇の花束! おまけに抱き締めてキスだなんて!」
三週間も肉断ちしたならこうなるのか、と実験の効果を改めて噛み締めているようです。
「これは大いに期待出来るね、ぼくのハーレイだとどうなると思う?」
「さあねえ…。ラブバラードを歌うかどうかは保証しないよ?」
あれはハーレイならではの暴走ぶりかも、と会長さんが念を押しましたけれど。
「うん、分かってる。薔薇の花束も、ぼくのハーレイには無理だしねえ…。シャングリラから自力で出られないんじゃ、ちょっと買いには行けないからね!」
でも、その分は別の所で凄い効果が現れるのに違いない、とソルジャーは肉断ちを決意しました。この週末にキャプテンと二人で楽しんだ後は、キッパリ肉断ち。より効果を高めたいからと、必要最低限しか顔を合わせないよう、サイオンの壁も張るとか言って。
「楽しみだねえ…。ソルジャーとキャプテンじゃ、まるで会わないっていうのは無理だけど…」
三週間後の肉断ちが解けたハーレイのパワーが楽しみだよ、とウキウキ帰ったソルジャーだったのですけれど…。
「だから、肉断ちは辛いと言っただろうが!」
この俺が、とキース君が怒鳴る、放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。ソルジャーは肉断ち三日目にして愚痴を零しに現れ、「まだ二週間と四日もある」とグチグチと。
「…それは分かっているんだけれど…。君も苦労をしたっていうのは…」
だけどぼくには耐えられなくて、と愚痴るソルジャーは肉断ちには向いていませんでした。修行そのものが無理だったと言うか、結局の所…。
「…今日、来ないっていうことはさ…」
愚痴を言いに来ないからには挫折したよね、とジョミー君が指摘する週末。私たちはソルジャーが肉断ちに失敗したに違いない、と笑い合いましたが、「失礼な!」と来ないからには…。
「…うん、間違いなく失敗だね」
一週間分の効果くらいは出てると思ってあげたいけどね、と会長さん。けれど、キャプテンが忙しい時には一週間くらいのお預けだって普通にあるわけで…。
「三週間だからこそ、意味があるんだと俺は思うが」
「ぼくもだよ。…ハーレイのラブバラードの強烈さは忘れられないねえ…」
あのクオリティが欲しいのだったら三週間耐えろ、と会長さん。私たちもそう思います。肉断ちするなら三週間です、ソルジャー、頑張って三週間耐えてみませんか~?
肉が食べたい・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
肉が食べられない、お坊さんの世界。肉断ちの生活が長くなるほど、食べたくなるとか。
そこに目を付けたソルジャー、肉断ちを考案したわけですけど。教頭先生、凄すぎですね…。
次回は 「第3月曜」 7月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月は梅雨の季節。雨の日の月参りが辛いキース君に…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
今年もお花見の季節がやって来ました。行き先は毎年色々ですけど、何処へ行くかが問題で。露店が立ち並ぶ名所もいいですし、人が少ない穴場も狙い目。桜便りが届き始めたら今年も相談、ええ、桜前線はまだ到達していないんですけど…。春休みですから、会長さんの家に集まって。
「メジャーな穴場って無いのかな?」
有名だけど人が少なめのトコ、とジョミー君。
「たまにはそういう所がいいなあ、すっごい名所だけど人は少ないってヤツ」
「…それはお天気次第だろうねえ…」
天気予報が上手く外れれば…、と会長さんが返しました。
「大雨の筈がカラッと晴れたとか、そういうヤツ。ついでに車や観光バスでしか行けない場所で」
そういう所へ瞬間移動で出掛けて行ったら可能だけれど、という返事。
「だけど、出たトコ勝負だよ? フィシスの占いで何処まで分かるか…」
お花見の吉日は読めても、場所まではちょっと…、と会長さん。
「あらかじめ候補を絞っておいたら、場所ごとに占っては貰えるけれど…」
でも直前まで分からないんじゃなかろうか、ということですから難しそうです。観光案内に載っているような名所の桜で人少なめを狙おうってヤツ。
「そうなるね。豪華なお弁当とかを用意するには、ちょっと難しすぎるかな」
「「「うーん…」」」
やっぱり無理か、と私たちもガックリですけど、キース君が。
「いや、まるで無いというわけではないぞ。俺にも一つ心当たりが…」
「マジかよ、それって何処なんだよ?」
サム君が食い付き、ジョミー君も。
「どこ、どこ? 行ってみたいんだけど!」
「お前もサムもよく知っている場所ではあるな。璃慕恩院の桜はそれは見事で…」
「総本山じゃねえかよ!」
あそこで弁当食えるのかよ、とサム君の突っ込み。キース君や会長さんが属する宗派の総本山が璃慕恩院です。
「…食っている人がいるとは聞かんが、まるで禁止でもないだろう」
場所によっては、ということですけど、桜が一番綺麗に見える所はメインの建物がよく見える場所だということで…。
「あそこで弁当を広げるんなら精進だろうな」
阿弥陀様から丸見えだから、という話。お花見で精進弁当ですか?
お花見はお弁当も楽しみの内。お花見弁当という言葉が存在しているくらいに、必要不可欠な感じです。教頭先生をスポンサーにして豪華弁当を調達する年もあるだけに…。
「嫌だよ、精進弁当なんて!」
おまけに璃慕恩院だなんて、とジョミー君がプリプリと。
「そんな所でお花見しちゃったら、坊主フラグが立ちそうだよ!」
「「「坊主フラグ?」」」
「フラグだってば、来年の春には坊主コースのある大学に入っているとか!」
「いいじゃねえかよ、御仏縁ってことで」
俺と一緒に入学しようぜ、と誘うサム君はお坊さんコースに抵抗は無し。切っ掛けさえあればいつ入学してもいいという覚悟、二年間の寮生活も全く苦にならない人で…。
「冗談じゃないよ、専修コースは二年コースしか無いんだから!」
一年コースはいつ出来るのさ、とジョミー君の文句が始まりました。忙しい人のための一年コースが出来る話は聞いてますけど、現時点ではまだ出来ていません。
「俺は近々だと聞いているが…」
「ぼくもだね。ただ、寮を建てる場所の方がちょっと難アリだしねえ…」
ゴーサインがなかなか出ないようだ、と会長さん。難アリってことは、祟る土地だとか…?
「祟る土地なら、お坊さんの寮にはもってこいだけど…。いつでもお経が流れているから」
「それじゃ、どういう難アリですか?」
シロエ君の質問に、会長さんは。
「…土地に歴史がありすぎちゃって…。建てる前には発掘なんだよ」
「「「あー…」」」
それがあったか、と誰もが納得。いろんな宗派の総本山が存在しているアルテメシアは、歴史だけは無駄にあったりします。下手に掘ったら何が出るやら、場合によってはせっかくの土地が使えなくなるオチもアリ。難航する理由が分かりました。
「つまりアレですね、発掘費用だけがかかって、結局、何も建てられないということも…」
「そうなんだよねえ、これが個人や会社の土地なら、まだマシだけどさ」
発掘費用は璃慕恩院の負担になるから問題なのだ、と会長さんの説明が。宗派のためにと集めた資金を使う発掘、寮の建設。「失敗しました、駄目でした」では信者さんたちに申し訳なさすぎて、未だに踏み切れないんだとか。お寺の世界も大変です…。
話は他所へとズレましたけれど、ジョミー君の言う「坊主フラグ」を立てては駄目だと璃慕恩院でのお花見は却下。そもそも、「人の少ない名所」がいいと言い出したのがジョミー君ですし…。
「璃慕恩院もいいと思うんだがなあ、俺としてはな」
あそこの桜を知っている俺のイチオシなんだが、とまだ言っているキース君。けれど…。
「こんにちはーっ!」
遅くなってごめん、とフワリと翻る紫のマント。すっかり忘れてしまってましたが、お花見の相談にはソルジャーも来る予定でしたっけ…。
「ごめん、もうちょっと早く出ようとしたんだけど、会議が長くなっちゃって…。それで、今年はお寺でお花見だって?」
「そのコースなら却下されたよ、ついさっき」
会長さんが言うと、ソルジャーは「えーっ!」と。
「そうだったんだ…。ちょっと覗き見してない間に、お寺は却下されちゃったわけ?」
楽しそうだと思ったのに、と言ってますけど、ソルジャー、忘れていませんか?
「え、忘れるって…。何を?」
「忘れてないなら、最初から聞いていなかったんだろうね。お寺でお花見なら精進弁当!」
仏様のいらっしゃる場所で肉は無理で、と会長さん。
「肉も魚も抜きのお花見! それでもいいなら、もう一度お寺で検討するけど…」
一人増えた分の意見も尊重しなければ、とソルジャーに譲歩しましたが。
「精進弁当になるだって!? それは却下だよ、ぼくだって!」
ちっとも美味しくなさそうじゃないか、とソルジャーは顔を顰めました。
「ぼくの意見を言っていいなら、むしろその逆! ちょっと季節が早すぎるけど、バーベキューをするのもいいねえ、桜の下で!」
「「「バーベキュー!?」」」
それはお花見からズレていないか、と思いましたが、楽しそうだという気もします。お弁当だの、露店で売ってるタコ焼きだのが桜見物のお供だと思い込んでいましたけれど…。
「バーベキューねえ…。たまに、そういうのもいいかもね」
人の来ない穴場の桜でやるのもいいね、と会長さん。私たちも心を惹かれていますし、今年はそれでいいでしょう。お寺の桜で精進弁当なコースに向かって突っ走るよりは、断然、賑やかにバーベキューですよ!
そういうわけで決まったお花見バーベキューは、無事に開催されました。満開の桜の下で肉や野菜をジュウジュウと焼いて。上等のお肉を買って来て下さった教頭先生はもちろん、ソルジャーにキャプテン、それに「ぶるぅ」と大人数での大宴会が先週のことで…。
「かみお~ん♪ 面白かったね、お花見バーベキュー!」
とっても素敵だったけど…、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出迎えてくれた会長さんの家。シャングリラ学園の新学期は既にスタートしています。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に出掛けていた日々、何故に今頃、お花見の話題?
「んとんと…。精進弁当でもめていたでしょ、お花見の場所を決める前!」
「…それ以前に、ジョミーの坊主修行でもめた気がするが?」
俺の記憶が確かならな、とキース君。
「坊主のフラグがどうだこうだと…。あれさえ無ければ、精進弁当の花見だったかもしれないな」
「それは無いでしょう、誰かさんが却下ですよ」
バーベキューだと言い出した人が、とシロエ君が言い、マツカ君も。
「まず無いでしょうね、精進弁当でお花見コースは」
「それなんだけど…。精進弁当も美味しいよ?」
食わず嫌いは良くないと思うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「うんと美味しい精進料理も沢山あるしね、お弁当風にアレンジしたら良さそうだけど…」
「駄目だな、精進料理は所詮は精進料理でしかないからな」
寺で育った俺に言わせれば…、とキース君。
「確かに、モノによっては美味い。しかし、肉や魚の美味さには勝てないものだ」
「そうでもないと思うんだけど…。本場のヤツなら」
「「「本場?」」」
「この国の偉いお坊さんが沢山、修行に行ってた中華の国だよ!」
あそこの精進料理は一味違うの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は自信満々。
「今日のお昼は、そのお料理! 精進料理で、お肉もお魚も全部抜きだよ!」
「「「精進料理!?」」」
ヒドイ、と上がった悲鳴が幾つか。キース君も「どうして此処に来てまで精進料理…」と呻いてますから、誰の気持ちも同じでしょう。よりにもよって精進料理…。
今日はハズレだ、と思ってしまったお昼御飯。そのせいかどうか、ソルジャーだって現れません。美味しいお菓子に釣られて出て来ることが多いのに…。
「…精進料理は、正直、俺の家だけで沢山なんだがな…」
いつも精進料理というわけではないが、とキース君もぼやいたお昼御飯ですけど、さて、ダイニングに出掛けてみれば。
「「「…中華料理?」」」
大きなテーブルにズラリと並んだ、美味しそうな中華料理の数々。なんだ、嘘だったんですか!
「はい、どんどん食べてね!」
「「「いっただっきまーす!」」」
大喜びで食べ始めた私たち。ソルジャーもちゃっかりやって来ました、「中華だってね?」と。私服に着替えたソルジャーまでが舌鼓を打つ、素晴らしい出来の中華料理。精進料理だなんて、すっかり騙されてしまってましたよ!
「うん、ぼくだって騙されたよ。…こんなオチなら、もっと早くに来ていれば…」
おやつもちゃんと食べられたのに、とソルジャーが残念そうに言った所で。
「嘘じゃないもん、精進だもん!」
本当だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が料理の説明をし始めました。正確に言えば、料理と言うより材料の方。私たちが肉や魚やカニだと思っていたものは…。
「「「全部ニセモノ!?」」」
信じられない、と口に運んで味わってみても、舌触りまでが本物そっくり。でも…。
「…言われてみれば、違うような気もして来ましたね…」
「そうだな、微妙に違う気もするな…」
だが肉なんだ、とキース君が頬張り、ソルジャーも「カニなんだけどねえ…」と。
「こんな精進料理もあるのが、こっちの世界っていうわけなんだ?」
「そうだよ、こんなのも素敵でしょ?」
「確かに美味しいとは思うけど…。でもねえ、ぼくはやっぱり本物がいいねえ…」
本物の肉が一番だよ、と言うソルジャー。
「たまには精進料理もいいけど、本物の肉の方がいいかな」
「俺もだな。…修行となったら精進料理でまっしぐらなのが坊主だし…」
あんたとは気が合いそうだ、とキース君が珍しくソルジャーと意気投合しています。味は同じでも本物がいいと、肉は本物に限るものだと。
とはいえ、美味しく食べた昼食。味に文句はありませんでした。食後の飲み物はジャスミンティーもあれば、好みでウーロン茶やコーヒーだって。それを片手に移ったリビング、ソルジャーがまたまた「肉は本物」と言い出して。
「さっきもキースと話してたけど、紛い物より、断然、本物! だってねえ…」
精進料理はベジタリアン向けの料理みたいなものだろう、と身も蓋もない台詞。
「ベジタリアンって…。あれは本来、お坊さん向けの…」
修行のための料理なんだよ、と会長さん。
「この国ではホントに君たちがそっぽを向きそうな料理になっちゃったけれど、本場はねえ…」
「そだよ、お坊さんたちも、お肉な気分になることもあるし!」
我慢するより、ニセモノのお肉を食べる方が健康的だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。けれどソルジャーは「それじゃ駄目だね」とブツブツと。
「偽物は所詮は偽物なんだよ、それで満足しているようじゃ…。肉はガッツリ食べてこそだよ」
「まったくだ。俺も修行が明けた時には、まずは肉だと思ったからな」
あの修行は実に辛かった、とキース君の思い出話が。住職の資格を取るために璃慕恩院で三週間も修行していた時の体験談。肉抜きの日々で本当に参っていたのだそうで…。
「座禅を組む方の宗派になるとだ、肉抜きの修行が年単位になってくるからな…」
南無阿弥陀仏の方で良かった、と合掌しているキース君。
「もっとも、あっちの坊主にしたって、寺を抜け出して肉を食うのは間違いないが」
「そうでもしないと持たないからねえ、この国ではねえ…」
ぶるぅが作ったような精進料理も無いわけだから、と会長さん。
「黙認だよ、上の人たちも。…自分だって修行時代は抜け出して肉で、その後も肉だし」
「そういうものかい?」
ソルジャーの問いに、会長さんは。
「托鉢の修行に出たお坊さんたちに、すき焼きを御馳走する信者さんもいるしね。偉いお坊さんたちはタクシーで街まで出掛けて行って、焼肉とかを食べるのが普通だからさ」
「なるほど、肉を食べるのはやっぱり大切、と…」
これはハーレイにもしっかり教えておかなければ、と言うソルジャー。もしかしてキャプテン、ベジタリアンってことはないですよね?
「それは無いねえ、バーベキューにも来てただろう?」
肉をガンガン食べてた筈だよ、とソルジャーの答え。それじゃ、お肉を遠慮しがちだとか…?
ソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」が住む世界では、シャングリラの中が世界の全てだと聞いています。外から補給船は来なくて、奪わない限りは増えない物資。そんなシャングリラの船長をやっているのがキャプテン、貴重なお肉は他の人に、と遠慮するかもしれません。
ソルジャーや「ぶるぅ」は外の世界で食べ放題でも、シャングリラの人たちには出来ない裏技。キャプテンだって自分の力では出られないだけに、お肉の量を控えているかも。キャプテン稼業も大変なんだな、と思っていたら…。
「え? 肉の量なら、ぼくのシャングリラでは公平なのが大原則だけど?」
体格に合わせて多少の違いがある程度、とソルジャーが説明し始めました。栄養不足に陥らないよう、きちんと計算してあるメニュー。子供用とか、大人用とか。
「だから、ハーレイが食堂に行けば、肉は多めだね。あの体格を維持する必要があるからねえ…」
キャプテンが栄養失調で倒れたのではシャングリラの航行に支障が出るし、という話。それじゃ、どうしてキャプテンにお肉を食べる大切さを今更教えなきゃいけないんですか?
「ああ、それはねえ…! ほら、こっちの世界で昔に言われていただろう? 草食系って」
「「「…草食系?」」
なんだったっけ、と首を捻った私たち。聞いた覚えはあるんですけど…。
「うーん…。君たちの場合は若すぎる上に、万年十八歳未満お断りだから、そうなるかもねえ…」
ぼくでさえ知っている言葉なのに、とソルジャーは呆れているようです。
「いいかい、草食系ってヤツには対になる言葉があるんだよ。肉食系、とね」
「「「肉食系…」」」
それも聞いた、と思ったものの、やっぱりピンと来なくって。みんなで顔を見合わせていたら、ソルジャーが「ホントに興味が無かったんだねえ…」と、しみじみと。
「草食系とか肉食系っていうのはねえ…。個人の好みの問題だね!」
「…ベジタリアンか、そうでないかか?」
キース君が訊くと、「違うね」とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「セックスってヤツに積極的なのが肉食系でね、消極的なのが草食系だよ!」
「「「あー…」」」
アレか、と思い出しました。恋人が欲しいとも思わないとか、恋人がいても、ソルジャーみたいに貪欲な方ではない人だとか。そういう人たちを草食系って呼んでた時代がありましたっけね…。
草食系に肉食系。ソルジャーがキャプテンに「食べるのが大切」と教えたい肉は、同じ肉でも動物ではなくてソルジャーの肉。それも肉体、いわゆる身体。
やっと分かった、と思う間もなく、ソルジャーは。
「そんなわけでね、ハーレイには肉食系であって欲しいわけだよ、ガッツリと食べて!」
肉の大切さを説かなければ、と大真面目。
「精進料理なお坊さんでも肉を食べるなら、お坊さんじゃないハーレイは、もっと!
「あのねえ…。もう充分に肉食系だと思うけどねえ、君の世界のハーレイは」
多少ヘタレかは知らないけれど、と会長さん。
「君のパートナーをやってるわけだし、肉食系で間違いないよ。…君は肉食系だろう?」
「もちろんだよ! ライオンにもピラニアにも負けはしないね!」
それくらいの勢いで肉食系だ、とソルジャー、キッパリ。
「毎日のように肉を食べたいし、本当だったら、朝から晩まで食べていたいねえ…!」
ハーレイの仕事柄、なかなか休暇が取れないけれど…、とソルジャーのぼやき。
「だから、特別休暇の時には、ハーレイもぼくも、お互い、ガッツリ!」
肉をどんどん食べるわけだよ、と次の休暇が気になるソルジャーみたいですけど、突然、ハタと気付いたように。
「…そういえばさ…。ぼくのハーレイは肉食だけどさ、こっちのハーレイはどうなわけ?」
「「「は?」」」
「あのハーレイだよ、ブルーに恋して三百年以上のヘタレなハーレイ!」
あれは草食系なんだろうか、という質問に「うーん…」と悩んだ私たち。
「…草食系ということになるのか、教頭先生は?」
肉食系ではないようだから、とキース君が言うと、サム君が。
「そうじゃねえだろ、単に機会が無いってだけだぜ」
でなきゃブルーを追い掛けねえよ、と主張するサム君は会長さんと今も公認カップルです。会長さんの家での朝のお勤めがデート代わりな、爽やか健全なお付き合いですけど。
「ぼくもサム先輩に賛成です。…肉食系だと思いますけど?」
どう考えても、とシロエ君も。
「…そうなるのか?」
「そっちの方だと思うんですけど?」
キース先輩の説が間違ってます、とシロエ君。私もそうだと思いますです、教頭先生は草食系とは違いますってば…。
教頭先生は草食系なのか、肉食系か。ソルジャーの質問にキース君が「草食系だ」と答えたことから、大いにもめた私たち。草食系なのか、そうじゃないのか、もめた挙句に、キース君が。
「…俺が間違っていたかもしれん。肉食系だという気がしてきた」
「ほらな、肉食系だって俺が最初から言ったじゃねえかよ」
やっと認める気になったか、とサム君がフウと溜息を。
「で、間違っていたと認める根拠はなんだよ、今まで頑固に草食系って言ってたくせによ」
「…いや、そもそもの話の原点ってヤツに立ち帰ってだな…。坊主について考えてみた」
「「「坊主?」」」
なんだそれは、と誰もが首を傾げましたが、キース君は。
「精進料理だ、坊主は本来、肉を断つもので…。だから精進料理が生まれたわけで、だ」
「ですよね、ぶるぅが作った本場のヤツは凄かったですよ」
肉まで再現する勢いが、とシロエ君。
「肉は食べられない立場の人でも、やっぱり食べたい欲求は出てくるでしょうしね」
「そこだ、俺が考えを変えた理由は。…本場の精進料理が食べられる坊主は知らんが、この国の場合は精進料理はとことん本気で肉が無いわけで…」
修行中だった時の俺もそうだ、とキース君は職業の辛さを嘆きながら。
「そんな坊主が、肉断ちの修行が明けた時にはどうなると思う?」
「えーっと…。キース、確かハンバーガーが食べたいって言ってたよね?」
でもって本気でハンバーガー、とジョミー君が言う通り。住職の資格を取る道場から帰って来たキース君はハンバーガーの店に行ったのでした。そして大きいのをバクバクと…。
「俺の場合はアレで済んだが、焼肉に繰り出すヤツもいるんだ。大抵はそのコースだな」
自分の胃袋の状態も知らずに突っ込んで行って酷い目に遭う、とキース君。
「肉断ちの期間が長かったんだぞ、いきなり食っても腹を壊すとか、胸やけするとか…。それでも食べたくなるのが坊主だ。どうなってもな」
教頭先生もそのタイプと見た、とキース君は意見を変えた理由を述べ始めました。
「教頭先生は草食系でらっしゃるだろう、と俺が判断したのは、ブルーだけだと仰ってるのと、いつものヘタレぶりからなんだが…」
しかし、とキース君が改めて語る、修行明けのお坊さんの無茶な食べっぷり。
「教頭先生もそのクチなんだ。肉は食べたいが、修行中だといった所か…。肝心の肉が無い状態だからな」
ブルーが全く相手にしない、という結論。肉が無ければ確かに嫌でも肉断ちですねえ…。
教頭先生は肉食系だ、とキース君が断定した理由は説得力がありました。教頭先生は肉が食べたくても食べられない状態でいらっしゃいます。お肉、すなわち会長さん。本当は肉食系だというのに、草食系だと勘違いされるほどの肉断ち生活継続中で…。
「なるほどねえ…。こっちのハーレイは肉食系なのに、草食系の生活を余儀なくされている、と」
肉が無いのでは仕方がないか、と頷くソルジャー。
「それで分かったよ、やたらとブルーに御執心なわけが!」
肉を食べたくて仕方ないんだ、とソルジャーは会長さんの方をチラリと。
「こんなに美味しそうな肉があるのに、まるで食べられないんじゃねえ…。それは辛いよ」
お坊さんですらも精進料理で肉の偽物を作るというのに、と気の毒に思っている様子。
「抜け道も無しで、肉断ち生活が三百年以上も続いてるなんて…。可哀相としか…」
なんて可哀相な日々なんだろう、とブツブツと。
「それでも肉を諦めないって所がねえ…。とてもパワフルだと言えばいいのか、エネルギッシュだと言うべきか。修行中のお坊さんも真っ青だよ、これは」
肉断ちが長い分だけよりパワフルになるのだろうか、と言うソルジャー。
「三百年以上も食べてない分、余計に食べたくなるものなのかな?」
「俺の経験からすれば、そういうことになるんだろうな」
後は周りの坊主仲間や座禅の宗派の坊主の行動からしても、とキース君もすっかり方向転換。
「食えなかった分だけ、より食いたくなる。…肉というのはそういうものだ」
「そうなんだ…。それじゃ、ぼくのハーレイでもそうなるのかな?」
「「「え?」」」
なんのことだ、と思ったのですが、ソルジャーは。
「ぼくのハーレイだよ、肉食系で肉はガッツリ食べたいハーレイ!」
特別休暇の時にはそれはパワフルで…、とウットリと。
「ぼくをガツガツ食べるわけだけど、あのハーレイもさ…。肉断ちをすれば、肉を食べたい気持ちがもっと強くなるって勘定かな?」
「…それはまあ…。推して知るべしと言っていいのか、肉断ちの経験者からしてみれば…」
普通は食べたくなるだろうな、とキース君。
「住職の資格を取りに出掛けた修行道場の時もそうだったが、今でも短期間の肉断ちがある」
お盆の時やお彼岸だな、という解説。
「それの間は、早く終わって肉を食いたい気持ちになるのはお約束だ」
未だにそうだ、と語るキース君、ついこの間の春のお彼岸でも肉断ちだったそうですよ~!
ソルジャー曰く、キャプテンも肉断ちをすれば、肉を食べたい気持ちが強くなる勘定か、という話ですが。キース君の答えは肯定、ただし本物の肉だった場合。ソルジャーは暫し考え込んで。
「肉断ちねえ…。肉断ちが明けた時のハーレイのパワフルさってヤツは是非とも味わいたいけど、その前がねえ…」
肉断ちってことは、ぼくとの関係を断つってわけで、と悩み中。
「ぼくの方でも肉断ちになるし、そこがなんとも困った所で…」
「たまには肉を断ってみたまえ!」
君の場合は貪欲すぎだ、と会長さん。
「ライオンなんだかピラニアなんだか知らないけどねえ、年がら年中、がっついてるし!」
「だって、根っから肉食系だしね!」
セックスの無い人生なんて! とソルジャーはブルッと肩を震わせて。
「そんな人生、とんでもないよ。こっちのハーレイは本当に我慢強いというか…。ん…?」
待てよ、と顎に手を当てるソルジャー。
「…こっちのハーレイも肉食系で、肉断ち中で…。でもって、パワフル…」
「ハーレイは別にパワフルってことはないけれど?」
鼻血体質でヘタレまくり、と会長さんがツンケンと。
「肉断ちだって、仕方ないからやってるだけでさ…。自発的にやってるわけじゃないしね」
何ら評価に値しない、とバッサリで。
「あんなのを我慢強いと言ったら、我慢が泣きながら身を投げるね!」
何処かの崖から、と酷い言いよう。けれど、ソルジャーは「そうだけど…」と曖昧な返事。
「それはそうかもしれないけれどさ、肉食系のハーレイには違いないわけで…」
「だから迷惑するんだよ! このぼくが!」
「分かってるってば、そこの所も。…でもね、あのハーレイは使えるかな、って思ってさ」
「…何に?」
変な使い道じゃないだろうね、と会長さんが尋ねると。
「実験台だよ、実験動物でもいいかもしれない。肉食系だの草食系だのは、本来、動物向けの分類ってヤツらしいしね」
「まあね。…人間の場合は菜食主義者って言い方だとか、ベジタリアンとか…」
肉食です、って言い方はわざわざしないだろうね、と会長さん。あえて言うなら雑食というのが人間という生き物らしいですけど、ソルジャー、教頭先生を実験動物にして何をしたいと?
本来の姿は肉食系なのに、会長さんが全く相手にしていないせいで、草食系だと勘違いまでされてしまった教頭先生。肉は一度も食べられないまま、肉断ち生活が三百年以上。その教頭先生を実験動物に使いたいのがソルジャーで…。
「こっちのハーレイも、根本的にはぼくのハーレイと同じってトコが重要なんだよ」
肉食系という所が大切、と指を一本立てるソルジャー。
「今は絶賛肉断ち中だけど、その肉がもっと食べられなくなったらどうなるかなあ、って…」
「「「へ?」」」
食べられないも何も、教頭先生は元から肉を食べてはいません。これ以上どうやれば肉断ちになると言いたいんだか、まるでサッパリ謎なんですが…。
「分からないかな、ハーレイは一応、肉というものを見ているわけだよ」
食べられないだけで…、と言うソルジャー。
「ブルーの姿は見られるわけだし、話だって出来る。これは完全な肉断ちじゃないね」
修行中のお坊さんは肉さえ見られないんだろう、とキース君に質問が。
「…俺の場合はそうだったな。道場から出ることは出来なかったし、肉は夢にしか出なかった」
托鉢をする方の坊主だったら、托鉢中には肉屋の前も通るだろうが…、ということですけど。
「そっちは別にいいんだよ! 托鉢に行ったら肉が食べられることもあるって聞いたし!」
ぼくが言うのは肉と全く出会えないケース、とソルジャーはニヤリ。
「今のハーレイはブルーという肉に出会えはする。それが全く会えなくなったら、完全な肉断ちになるんだよ! 修行中のキースと同じようにね!」
肉は夢にしか出て来ない日々、とソルジャーの視線が教頭先生の家の方向に。
「そういう生活に追い込んでみたら、肉断ちが明けたら何が起こるか…。それを見てから判断しようと思ってさ」
「何の判断?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「決まってるじゃないか、ぼくのハーレイにも肉断ちをさせるかどうかだよ!」
実験で素晴らしい結果が得られた時には、ぼくのハーレイでも肉断ちを! とグッと拳を握るソルジャー。
「ちゃんと実験しさえすればね、肉断ちが明けた時を励みに耐えられるから!」
ぼくまで肉断ちな生活に…、と言ってますけど、本気でしょうか。そもそも、実験してまで効果を確認しない限りは肉断ちをしたくないらしいですし、成功するとも思えませんが…?
肉食系なキャプテンが肉断ちをした場合、肉断ちが明けたらパワフルだろうと夢見るソルジャー。けれども、それをするとなったらソルジャーの方も肉断ちな日々。思わしい結果が出ないのだったら肉断ちは嫌だ、と目を付けたのが教頭先生で…。
「こっちのハーレイとブルーが会えないように細工をすればね、肉断ちの効果があるかどうかが分かるよ、きっと!」
ちょっとやってもいいだろうか、という質問に、会長さんが「好きにすれば?」と。
「君の提案は大抵、迷惑なんだけど…。ハーレイ絡みは特にそうだけど、会わずに済むなら、ぼくとしては別に…」
「いいのかい? 肉断ち明けが大変になるかもしれないけれど…」
いきなり押し倒されちゃったりとか…、とソルジャーが確認していますけど、会長さんは。
「どうせヘタレだし、その程度で済むに決まっているしね。…万一の場合は、君が責任を持って対処したまえ、ハーレイをぼくから引き剥がすとか!」
「了解。…今回の実験に関しては、君とハーレイとをくっつけたい件は抜きにしておくよ」
ぼくは自分のセックスライフが大事だからね、とソルジャーは何処までも自分中心。
「ぼくのハーレイと最高のセックスが出来るんだったら、君の方は放置でいいんだよ!」
「はいはい、分かった。あまりアヤシイ言葉は使わないように!」
さっきから乱発しているからね、と会長さんが釘を。
「大人しくするんだったら、ハーレイくらいは好きにしていいよ」
「ありがとう! それじゃ、早速!」
「…どうするんだい?」
「サイオンの壁っていうヤツだよ!」
会えないように細工するだけ、とソルジャーの指がヒラリと動いて、キラッと青いサイオンが。…えっと、今ので終わりですか?
「そうだけど? こっちのブルーとハーレイの間に、見えない壁が出来たわけ!」
自覚が無くても決して会えない仕組みになってる、とソルジャーは得意満面です。
「たとえばブルーが買い物に行って、ハーレイも同じ店に行ったとするだろ? でもねえ、普通だったらバッタリ会うのが会えないんだな!」
棚の向こうですれ違うだとか、行きたい方向が変わるとか…、と得々と話しているソルジャー。店に入らずに回れ右とか、行きたかった店が別物になるとか、それは凄いらしいサイオンの壁。取り払うまでは決して会えないって、本当でしょうか…?
会長さんと教頭先生の間にソルジャーが設けた、サイオンの壁。教頭先生と会長さんは決して出会えず、教頭先生は会長さんの姿も見られない上に声も聞けないそうですが…。
「…あれって、ホントに有効なわけ?」
この一週間、確かに会っていないけど、とジョミー君が首を傾げた次の土曜日。私たちは会長さんの家に遊びに来ていますけれど、その会長さんは教頭先生に会っていないそうで。
「…ぼくにも分からないんだけどねえ、不思議なほどに会わないねえ…」
学校の中も出歩いたのに、と会長さん。
「ブルーが言ってたサイオンの壁は、ぼくにも仕組みが全く謎で…。何処にあるのか分かりもしないし、どう働くかも分からないけど…」
でも会わない、と会長さんは証言しました。教頭先生が授業をしている教室の前で、出て来るのを待ったことまであるそうですが…。
「…ぼくとしたことが、ウッカリ用事を思い出してさ。ちょっと急いでゼルの所に行ってる間に、授業時間が終わったんだよ!」
戻った時にはハーレイはもういなかった、と挙げられた例。もちろん教頭室は何度も訪ねたらしいのですけど、いつ行っても留守で会えないらしく。
「ブルーのサイオンは凄すぎるとしか言いようがないね。あそこまでの技はぼくにも無理だよ」
「なるほどな…。あんたの方では、そうやって会おうとしてみるほどだし、遊びだろうが…」
教頭先生の方は辛いかもな、とキース君。
「偶然だと思ってらっしゃるとはいえ、一週間も会えないとなると…」
「そうみたいだね。昨日の夜に覗き見をしたら、部屋で溜息をついていたよ」
ぼくの写真を見ながらね…、と苦々しい顔。
「どうしてお前に会えないのだろうな、なんて零していたねえ、諦めの悪い!」
「それでこそだよ、肉断ちはね!」
肉には夢でしか会えない毎日、とソルジャーがパッと出現しました。
「今までだったら姿だけでも拝めていた肉がもう無いんだし…。ハーレイの辛さは増す一方だね、サイオンの壁を解くまでは!」
「…いつまでやるわけ?」
その肉断ち、と会長さんが訊くと。
「キースの修行とやらに合わせて三週間! それだけやったら、もう完璧に!」
肉への思いが強まるであろう、という読みですけど、ソルジャーは分かっていないようです。実験が見事に成功したなら、ソルジャーも肉断ち三週間なコースになるわけですが…?
ソルジャーが設置したサイオンの壁とやらは解かれないまま、三週間が経過しました。ゴールデンウィークの間も教頭先生は会長さんに会えずじまいで、溜息は深くなる一方で。ようやくソルジャーが勝手に始めた実験が終わる日がやって来ました。
「…今日らしいですね?」
「そうみたいだねえ、ぼくの快適な生活も今日でおしまいってね」
少し寂しい気持ちもしたかな、と会長さんが呟くリビング。私たちは会長さんの家に集まり、ソルジャーが来るのを待っています。土曜日ですから、学校は休み。
「ふうん…。寂しいと思ってくれたんだ? オモチャが無くって寂しいという意味だろうけど…」
君とハーレイの仲も一歩くらいは前進かな、とソルジャーが空間を超えて現れて。
「さてと…。解いてみようかな、サイオンの壁!」
こんな感じで、と青いサイオンがキラッと光って、どうやら壁は消えたようです。とはいえ、元から会長さんにも分からなかったのがサイオンの壁。消えた所で何が起こるというわけでもなく、私たちはのんびりと…。
「かみお~ん♪ 今の季節はコレだよね!」
ビワが美味しい季節だもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が切り分けてくれたビワのタルト。それを食べながら、賑やかにお喋りしていたら…。
「あれっ、お客さんかな?」
ちょっと見てくる! とチャイムの音で駆け出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」。直ぐに転がるように戻って来て…。
「えとえと、ハーレイ、来ちゃったのー!」
「「「ええっ!?」」」
なんでまた、と驚いた所へ「邪魔をしてすまん」と教頭先生が頬を染めながら入って来ました。手には真紅の薔薇の花束、あまりの大きさに何本あるのか分かりません。百本かも、と誰もがポカンと眺めるそれを、教頭先生は「ブルーにと持って来たんだが…」と手にしたままで。
「どうしたわけだか、まるで会えずに三週間も経ってしまって…。それでだな…」
思い余って来てしまった、と教頭先生は真っ赤な顔で照れています。
「お前に会えたら、あれも言わねば、これも言わねばと毎日考え続けていたわけで…」
そんな私の熱い想いを歌にしてみた、と教頭先生はいきなり歌い始めました。それは熱烈なラブバラードを。多分、替え歌なんでしょうけど、会長さんの名前を連呼するヤツを。
「「「………」」」
ここまでするか、と呆れ返った私たち。歌うなんて思いもしませんでしたよ…!
朗々とラブバラードを熱唱した後、教頭先生は呆然としている会長さんに真紅の薔薇の花束を押し付けるように渡して、それから「愛している…!」と両腕でギュッと。会長さんが驚き呆れて動けないのをどう受け取ったか、キスまでしようとしたのですけど…。
「おっと、そこまで!」
ぼくがブルーに殺されちゃうから、とソルジャーの青いサイオンが光って教頭先生の姿は消滅しました。瞬間移動で、駐車場にあった車とセットで家に送り返されたみたいです。
「た、助かった…。危なかったよ、ぼくも魂が抜けてたと言うか…」
「だろうね、ラブバラードが凄かったしねえ…」
ぼくは感動しているけれど、とソルジャーは嬉々とした表情で。
「ラブバラードで愛の告白、それに真紅の薔薇の花束! おまけに抱き締めてキスだなんて!」
三週間も肉断ちしたならこうなるのか、と実験の効果を改めて噛み締めているようです。
「これは大いに期待出来るね、ぼくのハーレイだとどうなると思う?」
「さあねえ…。ラブバラードを歌うかどうかは保証しないよ?」
あれはハーレイならではの暴走ぶりかも、と会長さんが念を押しましたけれど。
「うん、分かってる。薔薇の花束も、ぼくのハーレイには無理だしねえ…。シャングリラから自力で出られないんじゃ、ちょっと買いには行けないからね!」
でも、その分は別の所で凄い効果が現れるのに違いない、とソルジャーは肉断ちを決意しました。この週末にキャプテンと二人で楽しんだ後は、キッパリ肉断ち。より効果を高めたいからと、必要最低限しか顔を合わせないよう、サイオンの壁も張るとか言って。
「楽しみだねえ…。ソルジャーとキャプテンじゃ、まるで会わないっていうのは無理だけど…」
三週間後の肉断ちが解けたハーレイのパワーが楽しみだよ、とウキウキ帰ったソルジャーだったのですけれど…。
「だから、肉断ちは辛いと言っただろうが!」
この俺が、とキース君が怒鳴る、放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。ソルジャーは肉断ち三日目にして愚痴を零しに現れ、「まだ二週間と四日もある」とグチグチと。
「…それは分かっているんだけれど…。君も苦労をしたっていうのは…」
だけどぼくには耐えられなくて、と愚痴るソルジャーは肉断ちには向いていませんでした。修行そのものが無理だったと言うか、結局の所…。
「…今日、来ないっていうことはさ…」
愚痴を言いに来ないからには挫折したよね、とジョミー君が指摘する週末。私たちはソルジャーが肉断ちに失敗したに違いない、と笑い合いましたが、「失礼な!」と来ないからには…。
「…うん、間違いなく失敗だね」
一週間分の効果くらいは出てると思ってあげたいけどね、と会長さん。けれど、キャプテンが忙しい時には一週間くらいのお預けだって普通にあるわけで…。
「三週間だからこそ、意味があるんだと俺は思うが」
「ぼくもだよ。…ハーレイのラブバラードの強烈さは忘れられないねえ…」
あのクオリティが欲しいのだったら三週間耐えろ、と会長さん。私たちもそう思います。肉断ちするなら三週間です、ソルジャー、頑張って三週間耐えてみませんか~?
肉が食べたい・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
肉が食べられない、お坊さんの世界。肉断ちの生活が長くなるほど、食べたくなるとか。
そこに目を付けたソルジャー、肉断ちを考案したわけですけど。教頭先生、凄すぎですね…。
次回は 「第3月曜」 7月18日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月は梅雨の季節。雨の日の月参りが辛いキース君に…。
(えーっと…?)
困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
困っちゃった、とブルーが瞬かせた瞳。
今日は土曜日、訪ねて来てくれたハーレイと過ごしていたのだけれど。部屋のテーブルを挟んで向かい合わせで、のんびりと昼食の後のお茶。その最中に途切れた会話。
何をしたわけでも無かったのに。楽しく話が弾んでいたのに、何かのはずみにプッツリと。
(ハーレイだって…)
黙っちゃった、と向かい側に座る恋人を見詰めた。どうしよう、と。
ハーレイの瞳もこちらを見ている。「どうしたんだ?」と尋ねるように。けれど会話は途切れてしまって、それっきり。ハーレイからは何も話してくれない。
(何か、話さないと…)
せっかく二人で過ごせる休日、黙って座ったままなんて、嫌。甘えてくっつく時ならともかく、こうして離れていたのでは。…間にテーブルがある状態では。
なんでもいいや、とミーシャの話をすることにした。ハーレイの母が飼っていた猫。ハーレイがまだ子供だった頃に、隣町の家で。真っ白で甘えん坊だったミーシャ。
思い付いたからミーシャのこと、と。「ミーシャのお話、何か聞かせて」と強請ろうと。
「えっとね…」
口を開いたら、「それでだな…」と重なって来たハーレイの言葉。まるで同時に、合図でもして二人で話し始めたように。ハーレイも何か思い付いたのだろうか、話の種を?
それを聞く方が断然いいよ、と「先に喋って」と促したけれど。
「お前が先でいいだろう。話したいこと、あるんだろうが」
優先してやる、と譲って貰っても困る。大したことではないわけなのだし、ハーレイが先に話をすべき。なのにハーレイは、後からでいいと言うものだから…。
「じゃあ、同時に喋ればいいじゃない」
それで決めようよ、ぼくが先なのか、ハーレイが先か。
話の中身を少し聞いたら、どっちを優先すればいいのか、きっと分かると思うから。
それがいいよ、と提案した。お互いの話を口にしてみて、中身のありそうな話を先にしようと。
ハーレイも賛成してくれたから、合図して声を揃えたのだけれど。同時に話し始めたけれども、蓋を開けたら、ハーレイの方もミーシャのこと。「何か知りたいことはあるか?」と。
二人揃って吹き出した。どちらもミーシャだったのだから。
「ビックリしちゃった、ハーレイもミーシャの話だなんて」
それも話があるんじゃなくって、訊きたいことはあるかだなんて。面白いよね。
「俺も驚いちまったが…。お互い、ネタに詰まっちまったらミーシャなんだな」
お前も俺も、と可笑しそうなハーレイ。「此処にミーシャはいないんだがな?」と。
「そうみたい…。だけど、ミーシャは可愛いから…」
前に見せて貰った写真もそうだし、今までに聞いた話もだよ。
生のお魚は嫌いで焼いて欲しがるとか、木から下りられなくなっちゃったとか。
「確かに山ほどあるんだよなあ、ミーシャの話は。…それに間違ってもいないだろう」
ミーシャも今では天使なんだし、この選択で正しいってな。
「え? 天使って…」
どうして天使、と目を丸くした。ミーシャが天使だと、どうかしたのだろうか?
「それはまあ…。死んじまったから、猫の天使だ。生まれ変わっていなければ、だが」
死んだら天使になると思うぞ、猫だって。…もちろん、ミーシャも。
「それでミーシャは天使なんだね、今は天国の猫だから。…今も天国で暮らしてるんなら」
だけど、なんでミーシャで正しいわけ?
ぼくとハーレイがお喋りするのに、二人揃ってミーシャだったこと…。どう正しいの?
分からないよ、と傾げた首。本当にまるで謎だったから。
「天使が通って行ったからさ」
当たり前のように返った答え。ますます意味が掴めない。
「なにそれ?」
天使が通って行くって何なの、ぼくは天使なんか見なかったよ?
「知らないか?」
そういう言葉があるんだが…。ずっと昔の言葉だがな。
会話が不意に途切れた時。さっきのように急に静かになってしまった、その時間のこと。
それを「天使が通って行った」と言うらしい。人間が地球しか知らなかった遠い昔の言葉。
「今の場合はミーシャなんだな、猫の天使だ」
俺もお前も、ミーシャの話を始めたってことは、そうなんだろう。…きっとミーシャだ。
もっとも、ミーシャは何処かに新しく生まれちまって、別の天使かもしれないが…。
ミーシャの名前が出て来たってだけで、本物の天使が通ったかもな。絵とか彫刻にいる天使。
とにかく天使だ、とハーレイが教えてくれたこと。「天使が通る」という言葉。
「なんだか素敵な言葉だね。それにミーシャなら…」
猫の天使なら、きっと可愛いよ。背中に翼が生えている猫。
「そうだな、ミーシャは真っ白だったし…。白い翼だって似合うだろう」
三毛だのブチだの、そういう猫なら、どんな翼が生えるんだろうな?
猫の天使の翼はどれでも白いんだったら、似合わない猫もいると思うぞ。
「模様によるよね、もしかしたら翼も模様つきかも…。ブチとか、トラとか」
どっちにしたって、白いミーシャが一番似合うよ、天使の翼。毛皮も翼も真っ白だから。
通って行ったの、ミーシャだったら、どっちに歩いて行ったのかな?
庭の方から入って来たのか、ドアの方から来て窓から出て行ったのか…。
天使は空を飛べるんだものね、二階の窓でも入口で出口。
「さてなあ…。俺たちの目には見えないからなあ、天使ってヤツは」
それに本物の天使だったかもしれないぞ。ミーシャじゃなくて、人の姿の方の天使だ。
「何かの用事で通ったわけ?」
「そうなるんだろうな、守護天使なら側にいるモンだろうし」
俺やお前を側で見守るのが仕事なんだから、今だって側にいなくちゃな。
「通って何処かに行きはしないよね、守護天使なら」
離れちゃったら、天使のお仕事、出来ないし…。通り過ぎるわけがないもんね。
「そういうこった。…だからさっきのは、通りすがりの天使だな」
ミーシャにしたって、本物の天使の方にしたって。…猫の天使でも本物と言うかもしれないが。
しかし、普通に「天使」と言ったら、そいつは絵とかでお馴染みのヤツで…。
待てよ…?
天使の定義ってヤツはともかく、とハーレイは顎に手を当てた。「その天使だ」と。
「ずっと昔に、こういう話をしなかったか?」
そう訊かれたから、キョトンとした。
「話って…。天使?」
ハーレイと天使の話をしたわけ、今日みたいに…?
「そうだ、今日のと全く同じだ。猫の天使か、本物の天使かは別にしてだな…」
天使が通って行くというヤツ。話が途切れちまった時には、天使が通っているんだ、とな。
「…今じゃなくって、前のぼくたち?」
今のぼくは初めて聞いた話だし、前のぼくたちのことだよね…?
「そうなるな。…話したという気がするんだが…。さっき天使が通ったな、といった具合に」
話が途切れたら、天使が通る。…そういう話をしてた気がする。
「それって、青の間? それよりも前?」
青の間が出来る前にしてたの、天使の話を?
まだハーレイとは恋人同士じゃなかった頃かな、天使が通って行ったのは…?
「どうだったんだか…。俺たちの間を通ったのかどうか…」
あんな風だった、と思いはするんだが…。もっと大勢いたような…。二人きりじゃなくて。
青の間でも集まることはあったし、青の間なのかもしれないが…。
違うな、あれは青の間じゃなかった。…会議室だ。
「会議室?」
あの部屋だよね、と思い浮かべた会議室。白いシャングリラでゼルたちとよく会議をしていた。てっきりそうだと考えたのに、ハーレイは「前の会議室だぞ」と付け加えた。
「白い鯨になる前の船だ、あそこにも会議室があっただろうが」
覚えていないか、ヒルマンのヤツが言い出したんだ。…其処で会議をやっていた時に。
正確に言うなら会議の後だな、雑談の時間といった所か。
「ああ…!」
ホントだ、天使が通ったんだよ。あの時も、さっきみたいにね。
思い出した、と蘇った記憶。遠く遥かな時の彼方で通り過ぎた天使。自分たちの前を。
まだ白い鯨ではなかった船で。元は人類のものだった船に「シャングリラ」と名付けて、宇宙を旅していた頃のこと。
とうにソルジャーだった前の自分と、キャプテンだった前のハーレイ。それにゼルたち、長老と呼ばれ始めていた四人。その六人で色々と会議をしたものだった。会議室と呼んでいた部屋で。
あの時は何の会議だったか、船のことか、それとも物資などのことか。
いつものように会議を進めて、終わった後も会議室に残って話していたら、急に途切れた会話。六人もいるのに、プッツリと。
静かになってしまった部屋。何の前触れもなく声が途絶えて、ただ沈黙が流れるばかり。空気は和やかなままなのに。…誰が怒ったわけでもないのに。
(…どう話そうか、って…)
今日の自分と全く同じ。何の話を持ち出せばいいか、どうすれば自然に会話が戻って来るか。
見回してみれば、皆がタイミングを考えているのが分かる。何を話そうかと、いつがいいかと。
(他のみんなも考えてたから…)
様子を見た方がいいのだろうか、と思っていたら…。
「通って行ったね」
ヒルマンが口にした不思議な言葉。何も通ってはいないのに。人も、その他の生き物も。
白い鯨になる前の船に、人間以外の生き物はいない。誰か入って来たならともかく、それ以外で何か通りはしない。
「ちょいとお待ちよ、あんた、頭は確かかい?」
ブラウの質問は当然のもので、誰も「失礼だ」と止めはしなかった。「頭は確かかい?」という酷い言葉でも。…それをブラウが言わなかったら、他の誰かが言っただろうから。
だから遮られずに続けたブラウ。「誰も通っちゃいないよ、此処は」と。
「それとも外の通路をかい?」
あんた、余所見をしていたわけかい、そんなに退屈だったかねえ…?
退屈だったら部屋に帰ればいいじゃないか、とブラウは容赦なかったけれども、ヒルマンは余裕たっぷりに言った。
「違うね、通ったのは此処をだよ。…天使が通って行ったんだ」
今のように会話が途切れた時には、そう言ったそうだ。人間が地球にいた頃にはね。
遠い昔に地球で生まれた、「天使が通る」という言葉。賑やかな会話が急に途切れて、代わりに訪れる静かすぎる時間。そうなる理由は、天使が其処を通ってゆくから。
「天使が此処を通っただって?」
それは素敵だ、と前の自分は考えた。「此処を天使が通ったのなら、嬉しいな」と。
天使が通って行ったと言うなら、シャングリラにも天使がいるということ。たとえ通っただけにしたって、訪れなければ通りはしない。船に入らないと会議室には来られないから。
一日に何度か船に来るのか、それとも船に住んでいるのか。どちらにしても、天使はいる。人類から隠れ続ける船でも、何処にも寄らずに暗い宇宙を飛んでゆくだけのシャングリラでも。
そう話したら、ヒルマンは「なるほどねえ…」と髭を引っ張った。
「天使が通って行ったのならば、それは天使がいるからだ、と…」
我々にも天使がついているという証明なのだね、さっき天使が通ったことは?
「いい考えだと思わないかい?」
天使だなんて、皆は笑うだろうけれど…。ぼくは信じてみたいと思うよ。
神様がいるなら、天使も何処かにいるんだろう。…この船を天使が通ってゆくなら、神様が船を見て下さっているということだ。そう信じたいよ、この船にも天使はいるんだ、とね。
「あたしだって、もちろん信じたいさ」
笑いやしないよ、とブラウが応じて、「わしもじゃな」とゼルが頷いた。エラも「ええ」と。
人類に迫害されていたのがミュウ。星ごと滅ぼされそうになった所を、懸命に宇宙へと逃げた。人類が捨てた船を見付けて、乗り込んで。…シャングリラと名付けて、今も宇宙を流離うだけ。
そんな船にも天使が来るなら、誰だって信じてみたくなるもの。その存在を。神の使いを。
もしも天使が通ったのなら、と弾んだ話。
さっきの沈黙が嘘だったように、それは賑やかに話し続けた。会議室を通った天使のことを。
天使が通り過ぎた時には、会議は済んでいたのだけれど。とうに終わって雑談していた時だったけれど、その前から天使はいただろう。いつ通ろうかと、この会議室の何処かに立って。
天使が見ていたろう会議。何を話すのか、何を相談しているのかと。
会議の中身も天使は聞いたに違いないから、神に伝えてくれるといい。この船のことを、此処で生きているミュウたちのことを。
これからも上手くいくように。この船で生きてゆけるようにと、神に頼んでくれたらいい。この船に住んでいるのなら。…住んでいなくても、訪れるなら。
それが最初に「天使が通って行った」時。シャングリラの中を、神の使いが。
(…猫の天使じゃなかったけれど…)
今の平和な時代と違って、そんな夢を描けはしなかった時代。猫も船にはいなかった。白い鯨になった後にも、猫がやっては来なかった。
けれど、シャングリラにもいた天使。時々、通ってゆく天使。会話や会議の最中に、スッと。
「天使が通ると縁起がいい、って話にもなっていなかった?」
いいことがあるよ、って思っていたよ。…前のぼく、何度もそう思ってた。
今日は天使が通ったんだし、きっと何もかも上手く行くんだ、って。
「あったな、そういう話もな。最初は俺たちの間だけだったが…」
シャングリラ中に広がったっけな、とハーレイも思い出してくれた天使のこと。シャングリラで喜ばれた天使。さっきのように通り過ぎたら、急に静けさが訪れたなら。
天使が通った会議の議題。…会議の途中や、終わった後に天使が通って行った時。
上手くゆく案件が多かったから、「天使が神に伝えるのだ」と言い始めたのは誰だったか。神に伝えてくれたお蔭で、あの時の件は上手く運んだ、と。天使が力を貸してくれたと。
そう言ったのはエラだったろうか、それともブラウだったのか。
今では思い出せないけれども、いつの頃からか、そういうことになっていた。会議に常に集まる六人、前の自分とキャプテン、それに長老の四人の間では。
「今日の会議は天使が通ったから大丈夫だ」といった具合に。難しい案件だった時にも、天使が通れば上手くゆくように思えた会議。…駄目なことも、もちろん多かったけれど。
(いつも、そうやって話してたから…)
白い鯨への改造のために、大人数での会議が増え始めた時。いつもの六人以外の仲間も交えて、様々なことを決め始めた頃。
何かの会議で、やはり同じに天使が通って、しんと静まり返った席。どうしようか、と慣れない仲間が顔を見合わせる中で、ゼルが沈黙を打ち破った。
「なあに、大丈夫じゃ。天使がついておるからな」
今も通って行ったわい、とやったものだから、たちまちざわついた仲間たち。天使どころか何も通っていなかったのに、と。
皆の反応は、最初に「天使が通った」時と同じもの。ずっと昔に、六人だけの会議の席で。
ヒルマンとエラが説明するまで、ゼルは正気を疑われていたことだろう。「気は確かか?」と。
他の仲間が天使の話を知った時。不意に会話が途切れた時には、天使が通ってゆくということ。
もうその頃には、「縁起がいい」と前の自分やゼルたちは思っていたものだから…。
「あれから船中に広がったよね。…天使のことも、通ると縁起がいいってことも」
ヒルマンたちも上手く説明してくれたけれど、あの会議、上手くいったから…。
何を決めていたかは忘れたけれども、結果がとても良かったから。
みんな信じてくれたんだよ、と今でも思い出せること。
「天使が通るといいことがある」と、船に一気に広まった噂。会話が急に途切れた時には、神の使いが通ってゆく。天使は話を聞いていたから、上手く運ぶよう、神に伝えてくれるのだと。
「アッと言う間に、みんなに伝わっちまったな。通ってくれると縁起がいい、と」
天使が通って行ってくれたら、神様に伝えて貰えるんだから。
上手くいきそうもないことで悩んでいたって、呆気なく解決しちまうだとか。
まさしく神様のお蔭なんだ、と思っちまうのが人間だ。天使が伝えてくれたからだ、と。
しかし、そいつを狙って沈黙してみたってだ、駄目なんだよなあ…。
今、黙ったなら、天使が通ってくれる筈だ、と口を噤んでも、他の誰かが喋っちまって。
心理的な効果ってヤツを狙って、何度も仕掛けてみていたんだが…。
キャプテンだしな、とハーレイが言っている通り。
「天使が通ると上手くゆく」と仲間たちは思っているわけなのだし、上手い具合に話が途切れてくれれば「縁起がいい」と考える。「きっと上手くいく」と前向きにもなる。
前のハーレイはそれを狙ったけれども、何故か失敗してばかり。天使が通りはしなかった。
「不思議だったよね、あれ…。通る時には通るのにね、天使」
会議の時でも、食堂とかで話していた時も。…休憩室でも、白い鯨のブリッジでもね。
どんなに話が弾んでいたって、会議で意見が飛び交ってたって、天使が通っちゃうんだよ。
誰も黙ろうと思ってないのに静かになるから、「あれ?」って見回しちゃったほど。
こんなに大勢で喋っているのに、どうして全員、話すのをやめてしまったんだろう、って。
あれは本当に不思議だったよ、と今の自分でも思うこと。
前のハーレイが何度仕掛けても、天使は通らなかったのに。…会話は途切れなかったのに。
白い鯨でも、そうなる前のシャングリラでも。
通って欲しいと願ってみたって、天使は通りはしなかった。静けさの中を通る天使は。
何の前触れもなく下りる沈黙、其処を通ってゆく天使は。
願っても通りはしなかった天使。通るようにと仕向けてみたって、起こらなかった急な静けさ。
それがあったら、仲間たちも喜んだだろうに。困難に立ち向かってゆく時は、特に。
「…どうして駄目だったんだろう…?」
前のハーレイが仕掛けてみたって、静かにならなかったんだろう…?
会議の途中に、「また失敗だ」って顔をしてたよ、何回もね。天使が通らなかったから。
通るようにハーレイが仕掛けているのに、誰かが喋って駄目にしちゃって。
一度も成功しなかったっけ、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。「どうしてかな?」と。
「だからこそだろ、本当に天使が通るんだ、って気がしてたのは」
狙ってみたって、通ってくれはしないんだ。…今、頼む、と俺が思っても。
このタイミングで急に静かになったなら、と何度仕掛けても、上手くいくことは無かったな。
俺の努力では、どうしても作り出せなかったもの。そいつが天使が通り過ぎる時の静けさだ。
自由に作り出せていたなら、俺は天使をきちんと信じていられたかどうか…。
疑わしいぞ、とハーレイがフウとついた息。「俺が天使がいるように演出してたんではな」と。
「そうなんだけど…。それが出来ていたら、偽物の天使だったんだけど…」
前のハーレイが作った偽物の天使。「今、通ったぞ」って仲間たちに言うためだけの。
みんなが大喜びをしたって、ハーレイは知っているわけだから…。偽物なことを。
前のぼくだって、ちゃんと気付くよ。ハーレイが作った偽物なんだ、って。
だけど、天使は作れないまま。ハーレイもぼくも、天使を信じていたけれど…。シャングリラの仲間たちも信じていたけど、天使は通っていたよね、きっと。
急に静かになってしまうのは、其処を天使が通って行くから。…ヒルマンも、今のハーレイも、おんなじことを言ったけれども…。
天使、いるよね?
本物の天使は何処かにいるよね、ぼくたちの目には見えないだけで…?
シャングリラの中も、さっきのぼくの部屋も、ホントに天使が通ったんだよね…?
「いるに決まっているだろう。…天使がいないわけがない」
お前の聖痕、誰がくれたのかを考えてみれば分かるだろうが。
そいつは神様が下さったもので、本当に奇跡そのものだってな。…誰が見たって。
神様がいらっしゃるとなったら、天使も同じにいるってことだろ?
天使は神様のお使いなんだし、神様の御用であちこちに飛んで行くんだから。
前の俺たちが生きてたシャングリラにも、今の地球にも…、とハーレイは言った。天使は宇宙の何処にでもいるし、何処へでも飛んでゆくのだと。
純白の翼を広げて天から舞い降りて来ては、神に与えられた用を済ませて、天へ帰ってゆく。
「必要だったら、何往復でもするんだろう。…一日の間に忙しくな」
お前に聖痕が現れた時も、天使は見に来ていたんじゃないか?
守護天使の他にも、神様が寄越したお使いの天使。…ちゃんと聖痕が現れるかどうか、俺たちが無事に出会えるかどうかを確かめるために。
きっと俺たちが出会った後には、真っ直ぐに飛んで行ったんだろう。神様に報告するために。
聖痕がきちんと現れたことと、俺たちが再会出来たことをな。
そういう天使がきっといたさ、というのがハーレイの意見。天使は大勢いるんだから、と。
「…さっき通ったのは、その天使かな?」
猫のミーシャの天使じゃなくって、ぼくの聖痕を見に来た天使。
ぼくがハーレイと再会出来るか、神様のお使いで確かめに来ていた天使なのかな…?
「どうだかなあ…。俺もお前も、ミーシャの名前を出しちまったが…」
猫の天使が通っていたのか、本物の天使か、其処の所は分からんな。…見えないんだから。
俺たちの目に天使の姿は見えんし、通り過ぎたことが分かるってだけだ。さっきみたいに。猫の天使でも、本物の天使の方でもな。
だが、さっきのが、聖痕の時に神様が寄越した天使だとしたら…。
俺たちの様子を見に来たってか?
あの時と同じ天使が通って行ったと言うなら、仕事は俺たちを見ることだよな?
「そう。ぼくたちが幸せにしてるかどうかをね」
ハーレイとぼくが、どうしているかを見に来たんだよ。神様のお使いで、ぼくの家まで。
それなら此処も通って行くよね、ぼくの部屋の中を確かめないと駄目なんだから。
「神様が偵察に寄越したわけだな、この家まで」
今日は土曜で、俺が確実に来る日だから。…俺に用事が入ってないのも確認して。
「うん。ハーレイに他の用事があったら、土曜日でも来られないものね」
天使はきちんと知ってるんだよ、ハーレイの予定も、ぼくの家も、部屋も。
それでね、天使、まだその辺にいそうだから…。
こう横切って、そっちの方にいると思う、と指差した窓とは反対の方。天使は窓からこの部屋に入って、今も部屋の中にいる筈だよ、と。
(…天使は部屋にいるんだし…)
ぼくたちの様子を見に来たんだし、と考えたこと。
聖痕の時に来た天使だったら、自分たちが幸せに過ごしているのを喜ぶ筈。天使を寄越した神様だって、その報告を待っているだろうから…。
「キスをしてよ」とハーレイに強請ってみることにした。恋人同士の唇へのキス。
椅子から立って、ハーレイが腰掛ける椅子の方に行って、その膝の上にチョコンと座って。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくにキスして」
天使が部屋にいる間に。ぼくはとっても幸せだよ、って神様に報告して貰えるから。
ハーレイとちゃんと恋人同士で、キスだってして貰ってたから、って…。
だからお願い、と見上げた恋人の鳶色の瞳。「早くしないと、天使が行っちゃう」と。
「分かった、キスだな?」
俺たちが幸せにしてるってことを、神様に報告して貰うための。
うんと心のこもったキスだな、俺の大切な恋人用の…?
「そうだよ、恋人同士のキス」
恋人同士のキスでなくっちゃ駄目だよ、挨拶のキスじゃ神様もガッカリしちゃうでしょ?
天使も報告するのに困るよ、本当にぼくが幸せかどうか、挨拶のキスじゃ分からないから。
ぼくの唇にキスをしてよね、と念を押してから、閉ざした瞼。
「これでハーレイのキスが貰えるよ」と。
いつも「駄目だ」と叱られるキスが、恋人同士の唇へのキスが。
きっと貰える、とワクワクしながら目を閉じたのに。
神様に報告して貰うためのキスだし、間違いなく唇にキスの筈だ、と考えたのに…。
唇ではなくて、額に貰ってしまったキス。
ハーレイの温かな唇がそっと落とされた先は、額の真ん中。
唇に貰える筈だったのに。…そういうキスを頼んでいたのに、いつもと同じに額へのキス。
とても優しいキスだったけれど。
ハーレイの想いは伝わったけれど、欲しかったキスとは違うのだから…。
あんまりだ、と見開いた瞳。ハーレイをキッと見上げて怒った。
「これは違うよ!」
ぼくが頼んだキスと違うし、恋人同士のキスじゃなくって挨拶のキス…。
こんなの駄目だよ、天使だってきっと呆れているよ。…ぼくたち、仲が良くないかも、って。
ハーレイはぼくを恋人扱いしていないんだし、これじゃ神様もガッカリしそう、って…。
やり直してよ、と睨んだ意地悪な恋人。「せっかく天使が来てくれたのに」と。
けれど、ハーレイは動じなかった。大きな手でクシャリと撫でられた頭。
「チビにはこれで充分だ。神様もそう仰るさ」
天使がキスの報告をしたら、「子供にはそれで丁度いい」とな。幸せそうで良かった、とも。
「ハーレイ、酷い!」
ちゃんとしたキスでも、神様、喜んでくれる筈だよ…!
ぼくはチビでも、前はハーレイと何度もキスをしてたんだから。…ぼくも覚えているんだから!
チビでも、普通のチビじゃないんだよ、ぼく。
なのにチビ扱いしてるだなんて、ハーレイ、ホントに酷いんだから…!
「俺に言わせりゃ、お前みたいなチビにだな…」
子供相手にキスをする方が、よっぽど酷い。キスが何かも分からないような子供にな。
だからお前にキスはしないし、前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと言ってある。
俺は間違ってはいない筈だぞ、神様だって俺の味方をして下さると思うんだがな…?
いい恋人だ、と褒めて貰えそうな気もするぞ。お前が何と言っていたって、キスしないから。
ケチと言われようが、睨まれようがな。
俺が正しい、と譲らないのがハーレイだから、「ハーレイのケチ!」と叫んでやった。
ついでに胸をポカポカ叩いて、「ハーレイの馬鹿!」と。
恋人の気持ちも分からない馬鹿で、おまけにケチ。こんなに酷い恋人なんて、と。
天使だって呆れて飛んで行きそうと、神様に「酷い恋人です」と報告されたいの、と。
キスもくれない恋人だなんて、誰が聞いても酷いから。
きっと神様も「酷い」と思うだろうし、天使も「幸せそうでした」とは言えないだろうから。
そうなる前にやり直して、と迫ったキス。額ではなくて、唇に。
「頬っぺたにキスっていうのも駄目だよ、ちゃんと唇!」
恋人同士のキスは唇だっていうこと、チビでも知っているんだから…!
天使が神様に「ハーレイは酷い」って言いに行く前に、やり直しのキス…!
でないと「酷い恋人」になっちゃうからね、とハーレイを睨み付けたのに。ハーレイの膝の上に座って、プンスカ怒ってやったのに…。
「キスはともかく、今のお前は幸せだろ?」
違うのか、よくよく考えてみろ。…前のお前はどうなったんだ、俺とキスしていたお前は?
あんまり思い出させたくはないが、お前は泣きながら死んじまった。メギドで独りぼっちでな。
それに比べりゃ、今のお前はずっと幸せで、おまけに青い地球にある家で暮らしてる。
俺だって同じ町に住んでるだろうが、キスは駄目だというだけで。
これでも幸せじゃないと言うのか、お前は充分、幸せに生きてる筈なんだがな…?
どうなんだ、と尋ねられたら、とても言えない。「幸せじゃない」などという言葉は。
唇へのキスが貰えないだけで、「不幸だ」と言えるわけがない。
いくらハーレイがケチな恋人でも。…キスをくれない、意地悪で酷い恋人でも。
「…そうだけど…。ぼくは幸せなんだけど…」
前のぼくだった頃よりも、ずっと。…メギドで死んじゃった時よりは、ずっと。でも…。
ハーレイのキス、と肩を落としているのに、キスはやっぱり貰えなかった。「分かってるな」と見据えられて。
「チビのお前に、キスはまだまだ早いんだ。…早すぎるってな」
幸せなんだと分かっているなら、天使に報告して貰え。神様の所へ行って貰って。
お前は俺と、幸せに暮らしているんだとな。この地球の上で、それは幸せに。
色々と文句も言っちゃいるがだ、ケチな恋人でもいないよりかはマシだろう?
今の幸せを神様に報告して貰うことが大切だ。…お前に聖痕を下さった、神様にな。
天使が報告してくれたならば、もっと幸せになれるんだぞ、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今よりもずっと、前よりも遥かに幸せに…、と。
「俺と一緒に暮らし始めたら、もう最高に幸せだろうが」
その幸せを神様から貰うためには、天使の報告が大切なんだ。お前は幸せに生きている、とな。
不幸だなんて言っていたんじゃ、神様もムッとなさっちまうぞ。
「分かってるけど…。その幸せって、いつかは、でしょ?」
今すぐ貰えるわけじゃなくって、まだずっと先…。
ハーレイと結婚出来る年が来ないと、最高の幸せ、貰えないんだけれど…。
「いつか必ず叶うんだ。其処の所を忘れちゃいかん」
シャングリラの会議で通った天使も、そうだったろうが。直ぐに願いは叶わなかったが…。
白い鯨は立派に出来たし、他にも色々、願いを叶えてくれたんだから。
天使が通った会議は縁起がいい、と言われたくらいにな。…天使はきちんと聞いていたんだ。
神様にどれを伝えればいいか、どの願いを叶えて貰うべきかを。
今のお前の幸せだって、それと同じだ。天使が通って行ったからには、叶うってな。
何でもかんでも叶いやしない、というわけで、今はキスは駄目だが。
「そうだったっけね…」
叶わなかったこともあったけれども、天使が通った会議の中身は、沢山叶えて貰えたよ。
神様にちゃんと届いてたんだね、前のぼくたちがお願いしたかったこと。
白い鯨を作り上げることも、いつか地球まで行くってことも。
ミュウと人類が手を取り合える世界は、どうすれば手に入るのかも…。
白い鯨になる前の船で、白いシャングリラで、何度も何度も重ねた会議。雲を掴むような議題の時だってあった。座標も分からない地球のこととか、人類との和解の方法だとか。
そうした会議を開いていた時、スイと黙って通り過ぎた天使。皆の言葉が不意に途切れて、ただ静けさが満ちている中を。
(…天使、何度も通ってたっけ…)
姿は誰にも見えなかったけれど、気配も感じはしなかったけれど。
それでも天使は通り過ぎたし、会議の途中に通った天使は願いを届けてくれたのだろう。どれを届けるべきかを選んで、神の所に。白い翼を広げて天へと飛び立って行って。
(前のぼくたちのお願い、天使が神様に届けてくれていたから…)
青い水の星は何処にも無かったけれども、白いシャングリラは地球まで行けた。
地球には行けずに終わった自分も、青い地球まで来ることが出来た。聖痕を持って、ハーレイと再び巡り会って。…前の自分とそっくり同じに育つ身体と命を貰って。
「…ぼくのお願い、いつか叶えて貰えるんだし…」
欲張りだったら、神様の罰が当たっちゃうかもしれないね。
こんなに幸せに生きているのに、幸せじゃない、って膨れっ面で怒っていたら。
天使が神様に報告しちゃって、ぼくの幸せ、減らされるかも…。
「分かったか? チビ」
今度も願いを叶えて貰いたかったら、キスはだな…。
どうするんだっけな、とハーレイが訊くから、「我慢だよね」と頷いた。
本当はキスを貰いたいけれど、それは欲張りらしいから。
「…前のぼくと同じに大きくなるまで、我慢する…」
ハーレイのキスは欲しいけれども、ぼくは充分、幸せだから…。
前のぼくよりずっと幸せで、もっと幸せになれるんだから…。
我慢するよ、と見上げた恋人の顔。まだ膝の上に座ったままで。
いつか大きくなった時には、ハーレイから貰える唇へのキス。
今はまだキスは貰えないけれど、キスは駄目でも幸せだよ、と見えない天使に呼び掛けた。
部屋を横切って行った天使に、幸せかどうかを見に来ただろう天使に。
(ぼくはホントに幸せだから…)
幸せ一杯に過ごしているから、ちゃんと神様に伝えてね、と。
ハーレイに「ケチ」と言ったけれども、それは自分の小さな我儘。
本当はハーレイはとても優しくて、唇にキスをくれないだけ。
たったそれだけ、チビの自分はとても幸せ。
ハーレイと二人で過ごせる時間は幸せなのだし、これからもずっと幸せだよ、と…。
天使が通る時・了
※会話が急に途切れる時には、天使が通って行ったのだ、という遠い昔の地球の言い伝え。
シャングリラでは、「会議の時に天使が通ると縁起がいい」と、皆に喜ばれていたようです。
「こらあっ、そこ!」
今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。
漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。
授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。
放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。
下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。
その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
でも…。
隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
彼らだったら、どうだっただろう?
どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
そのことが、とても。
人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
けれど…。
もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
人の心を食う化け物、と言われた理由も。
ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。
そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
…どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。
人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。
その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。
遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
そして導き出した結論があれだ。
SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。
お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。
機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。
しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。
間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。
前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
今度は守って貰うだけ。
ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。
読まれる心・了
※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
今、何をしてた、と響き渡ったハーレイの声。教室中に、窓のガラスまで揺れそうなほどに。
ブルーも含めて教室の皆が驚いた。いったい何が起こったのかと、誰もが目を丸くしている中。並んだ机の間の通路を、ゆっくりと歩いてゆくハーレイ。一足、一足、踏みしめるように。
やがて止まった、一人の男子生徒の側。彼の机を指でトン、と叩くと…。
「出せ、今のを」
此処に、と促す机の上。「今のを此処に出すんだな」と。
「何もしていません!」
男子生徒は叫んだけれども、顔には「違う」と書かれている。そういう表情なのだから…。
「俺には何か見えたんだがな?」
確かに見たぞ、とハーレイの方も譲らない。「早く出せ」と。
「見間違いです、先生の!」
「…そうか?」
俺はそうとは思わんが、とハーレイが手を突っ込んだ机。「なら、確かめてみるとするか」と。中を探って、引っ張り出して来た漫画の本。「読んでたろうが」と机の上に。
男子生徒は顔色を変えたけれども、それでも懸命に言い張った。
「いえ、この本は休み時間から入れてただけで…」
授業のチャイムが鳴ったんで、此処に入れたんです。別に鞄に入れなくても…。
みんな色々入れてますよね、漫画でなくても。お弁当とか、本だとか…。
漫画の本だって同じなんです、と必死の言い訳。ハーレイに発見されたのだったら、読んでいたことは確実なのに。それでも彼は「やっていない」と繰り返すから…。
「いい度胸だ。なら、手を出せ」
「え?」
目を見開いた男子生徒に、ハーレイはこう言葉を続けた。
「出したくないなら、手を出さなくてもいいんだが…。この距離だったら簡単だからな」
言わない以上は、読むしかなかろう。…お前の心。
手を握れたら俺も楽だが、出さないのなら仕方ない。いいから、そのまま座ってるんだな。
「せ、先生…?」
「お前が潔白だったら謝る。俺の目が節穴なんだから」
だが、違ったなら、宿題をサービスするからな?
お前は授業中に漫画で、俺に嘘までついたんだ。やっていない、と。…さて、読むとするか。
俺か、お前か、どっちの言うことが正しいか…、とハーレイがスウッと細めた目。
「待って下さい!」
読んでました、と男子生徒は白状した。「すみませんでした」と肩を落として、ションボリと。
「やっぱりか…。嘘をつくだけ無駄だってな。こいつは俺が貰っておく」
後で職員室まで取りに来い、と没収されてしまった漫画。それに一人だけに出された宿題。自白した分、サービスだとかで少なめに。他の生徒よりは遥かに多いけれども。
「お前が白状していなかったら、本当はこれだけ出したいトコだ」と、サービスで減らした量を強調されて。
「これに懲りたら他のヤツらも気を付けろ」と、ハーレイは教室の前に戻った。「続けるぞ」と授業の続き。何も起こりはしなかったように。
授業が終わって、ハーレイが去って行った後。男子生徒の机の周りは賑やかだった。他の男子に取り囲まれて、呆れられて。
「馬鹿だよな、お前。…なんで漫画を読んでたんだよ」
ハーレイ先生、背が高いんだぜ。他の先生より、ずっと上から見えるじゃねえかよ。
机の下で読んでいたって丸見えだ、とワイワイと騒ぐ男子たち。「読むなら他の時間だ」とも。
「読みたかったんだよ、続きが気になって…」
丁度いいトコで、授業のチャイムが鳴ったから…。読みたくなるだろ、そういう時って?
「…それで没収されてしまったら、続きどころじゃねえと思うぜ」
ハーレイ先生、丸ごと持ってっちまったじゃねえか。取りに行けるの、放課後だぞ?
それまで全く読めやしねえし、読めねえ上に宿題のオマケも貰っていりゃあ、世話ねえよ。
もう本当に馬鹿としか…。他に言いようがねえってモンで…。
教室中が呆れてるぜ、と男子生徒の友人たちは容赦ない。「女子も馬鹿だと思ってるぞ」と。
「……俺も自分でそう思う……」
俺が馬鹿だった、と項垂れている生徒。ハーレイが「後で」と言ったからには、もう放課後まで読めない漫画。取り戻すまでは、どんなに続きが気になっても。その上、宿題まで出された彼。
(ホントに馬鹿かも…)
分かってないよね、と思ってしまう。ハーレイにバレてしまった時点で、もう隠したって無駄というもの。「やっていません」と嘘をついても、心を読まれておしまいなだけ。
さっきハーレイが言っていたように、「俺か、お前か、どっちが正しい?」と読まれる心。
(タイプ・ブルーの生徒だったら、大丈夫かもしれないけれど…)
心の遮蔽が強くなるから、そう簡単には読まれない。先生が読もうと頑張ったって。
とはいえ、前の自分が生きた頃より増えてはいても、今も少ないタイプ・ブルー。大抵の生徒は心を読まれたら、おしまい。叱られるだとか、没収だとか、宿題を沢山サービスだとか。
放課後になったら、例の男子は「また叱られるよな…」とハーレイの所に出掛けて行った。没収された漫画を返して貰いに、付き添いの友達も何人か連れて。
それを見送った後に家に帰って、いつものようにダイニングでおやつ。母の手作り、熱い紅茶も淹れて貰って、のんびりと。
「御馳走様」と二階の部屋に戻ったら、思い出した男子生徒の顔。今日の出来事、それも古典の授業中のこと。没収されてしまった漫画と、宿題サービス。
(ぼくなら、ハーレイの授業の時間に漫画なんて…)
絶対、読まない、と勉強机の前に座って考える。漫画でなくても、他の本でも。どんなに続きが気になっていても、そんなものより、ハーレイの授業の方が好き。
下を向いて何か読んでいたなら、ハーレイの顔が見られない。大好きな声だって聞き逃すから。心が他所に行ってしまって、恋人を忘れてしまうから。
せっかく、其処にいてくれるのに。学校では「ハーレイ先生」でも。
(他の先生の授業の時でも、やらないけどね?)
バレたら心を読まれるだとか、没収だとか、そういうのとは関係無しに。学校は勉強をする所。先生の授業を聞きに行く場所、休み時間や放課後以外は。
勉強をするために登校したのに、他のことなんて、とんでもない。いつも真面目に聞く優等生。余所見もしないし、他のことをコソコソやったりもしない。
(でも、授業中に他の色々なこと…)
やっている生徒は時々いる。漫画を読むとか、大胆な場合はコッソリお弁当だとか。
どんなことでも、先生にバレたら、今日の生徒と同じコースで…。
(隠すだけ無駄…)
やっていないと主張したって、心の中身を読まれておしまい。「全部、心に書いてあるが」と。
バレた後には叱られる。隠そうとしていたことも含めて、それは厳しく。
下の学校の頃から、何度も見て来た叱られる生徒。先生に心を読まれてしまって、隠そうとしたことの分までお仕置き。宿題サービスとか、先生のお手伝いだとか。
やっていない、と隠しおおせた生徒は一人も見たことが無いのだから…。
(タイプ・ブルーがいなかったんだよ)
きっとそうだ、と考えた。悪さをしていて、先生に見付かった生徒の中には一人も。自分が通う学校では。…下の学校でも、今の学校でも。
そうでなければ、先生もタイプ・ブルーだったか。悪さを発見した先生の方も。
(先生もタイプ・ブルーだったら…)
いくら生徒がタイプ・ブルーでも、敵わない。力不足の子供は勝てない。
心を遮蔽しようとしたって、経験不足。子供なのだし、上手く心を隠せはしない。先生の方が、何枚も上手。タイプ・ブルー同士の対決でも。
(ぼくだって、タイプ・ブルーだけれど…)
力不足とか、経験不足以前の問題。とことん不器用になったサイオン。前の自分の頃と比べて、雲泥の差どころの騒ぎではない。サイオンは無いも同然なくらい。
前と同じにタイプ・ブルーでも。最強の筈のタイプ・ブルーに生まれて来ても。
そのサイオンを上手く扱えないから、心の中身は読まれ放題。先生に横に立たれたら。睨んで、「手を出しなさい」と言われなくても、きっと。
わざわざ手まで握らなくても、とうに心が零れているから。「バレちゃった」と。
(悪い生徒じゃなくて良かった…)
ホントに良かった、とホッと安堵の息をついたら、気付いたこと。
悪さをしていたのが先生にバレて、隠そうとしても無駄だということ。当然だよね、と叱られた生徒を見ていたけれど。「ぼくなら、しない」とも思ったけれど…。
その隠し事、と心を掠めたこと。隠そうとする生徒と、暴く先生との攻防戦。今日までに自分が見て来た勝負は、悉く先生の勝ちだった。どう隠したって、先生に敵いはしないから。
(今の時代だと、普通だけど…)
自分もすっかり慣れていた。隠そうとしても、心を読まれてしまうこと。授業中の悪さが先生にバレたら、何処の学校でも起こるのだろう。
そういう場面に限らなくても、心を読むということは普通。人間はみんな、ミュウだから。
社会のマナーで、読まないのがルールになっているだけ。まだまだ小さな子供同士なら…。
(当てっこだとか…)
そんなゲームをしたりもする。色々な物を一人が隠して、他のみんなで捜しにゆく。隠し場所は何処か、心を読んで。「何処なのかな?」と心を覗き込んで。
そういう遊びで、隠した方も読まれないように努力するもの。サイオンの扱いが上手い子供は、偽の情報を流すことだってある。「あそこだよ」と全く違う場所を心に思い浮かべて。
人気の高い遊びだけれども、サイオンが不器用な自分は全く出来ない。どう頑張っても、隠した子の心が見えないから。覗き込むことさえ出来ない始末。
(ぼくの友達、あのゲームは…)
ルールを変えてくれていた。不器用すぎる自分のために。他の子たちは、元のルールで楽しんで遊べる筈なのに。
(ぼくが何にも読めないから…)
心の中身を読ませる代わりに、言葉でヒントを出す方法。「大きな木だよ」とか、「水がある」とか。大きな木ならば、公園には何本も生えているのに。水がある場所も幾つもあるのに。
ヒントでも充分、楽しめたゲーム。隠し場所は木の側の水飲み場だったり、そんな具合で。
サイオンはまるで駄目な自分も、そうやって遊んでいたけれど。心の中身を読み取れないから、ルールを変えて貰ったけれど…。
(みんなミュウだから、誰も変だと思わないだけで…)
心を読まれるのは、自分の力が足りないから。先生に悪さがバレてしまうのも、遊びで頑張って隠した何かが、発見されてしまうのも。
どちらも、心を隠し通せない自分が悪い。力不足で、自分の責任。
でも…。
隠せずに読まれてしまうこと。心の中身を読まれてしまって、知られること。
(人類だったら…)
今はもう宇宙の何処にもいない、人類と名乗っていた種族。前の自分が生きた時代に、ミュウを殲滅しようと努力した者たち。
彼らだったら、どうだっただろう?
どういう風に感じたのだろう、心を読まれるということを。心の中身を他の誰かが容易く読んでゆくというのに、自分は全く読めはしなくて、欠片も掴めないことを。
(怖くない…?)
そのことが、とても。
人類同士なら何も起こらなくても、ミュウと出会ったら起こる出来事。自分にしか見えない筈の心を、心の中身を知られてしまう。
それが敵意でなかったとしても。好意だとしても、口にする前に。
素敵な何かをプレゼントしようと、驚かせたくて何処かに隠して持っていたって。
(…怖いし、それになんだか嫌だ…)
ぼくだって、と思った「心を読まれる」こと。いつも心が零れてしまって、何かと失敗しがちな自分。ハーレイはもちろん、友達相手にコッソリ計画してみても。
いったい何度失敗したのか、自分でも数え切れないほど。つい最近のことだけでも。
心の中身がバレてしまっても、けして嫌だと思いはしない。怖いと思うことだって無いし、逆に情けない気持ちになるだけ。「ぼくって、駄目だ」と。「また失敗だよ」と、肩を落として。
(今は、誰でもミュウだから…)
そういう世界に生きているから、サイオンが不器用な自分のせいだと思うだけ。もっと器用なら読まれはしないし、不器用なのも自分の個性。
他の人たちには簡単なことが出来なくたって、ミュウには違いないのだから。サイオンは自分も持っているのに、使いこなせないだけだから。
けれど…。
もしもサイオンが無かったら。…不器用に生まれたわけではなくて、自分が人類だったなら。
(…サイオンなんかは持っていなくて、この世界に独りぼっちなら…)
戦争も武器も無い平和な世界が、恐ろしく見えるかもしれない。殺されたり、追われたりしない世界でも。誰も自分を嫌わなくても、とても親切な人ばかりでも。
周りの人たちは、心の中身を読むのだから。言葉にしなくても、「どうぞ」と欲しかったものを差し出して来たり、手を貸してくれたりするのだから。
(ぼくには当たり前だけど…)
不器用なのだし、なんとも思いはしない。物心ついた時には、そういう世界にいたのだから。
自分は上手く読めないけれども、他の人たちは心を読み取る世界。「ぼくって駄目だ」と思っていれば良かった世界。ゲームのルールも変えて貰って。
そんなものだ、と幸せに生きて来たのだけれども、たった一人の人類だったら恐ろしいだろう。心を読まれているというのに、自分の方では欠片も読めはしないのだから。
しかも自分とは異なる種族。家族でもなければ友達でもない、そんな者たちに囲まれて、一人。
(…ミュウが嫌われたの…)
無理もないかも、と今頃、分かった。人類がミュウを恐れた理由。
人の心を食う化け物、と言われた理由も。
ミュウは土足で人の心に踏み込むから。遮蔽できない人類の心、それを端から読み取るから。
恐れ、忌み嫌い、蔑む気持ち。「化け物」とミュウを嘲笑いつつも、人類はいつも恐れていた。この瞬間にも、心を読まれているのだと。自分の心はミュウに筒抜けなのだから、と。
(…アルタミラでも、いつも怖がられてた…)
気味悪がられていた自分。たった一人のタイプ・ブルーで、それは酷い目に遭わされたのに。
自分も人類を恐れていたのに、彼らの方でも怖がっていた。「化け物だから」と、人類とは違う生き物だと。
触れることさえ嫌がる気配を感じたくらいに、ミュウを嫌悪した人類たち。研究者たちも、檻を管理していた者たちも。
そうだったのか、と今になってやっと理解した。人類がどうしてミュウをあんなに恐れたのか。人の心を食う化け物だと忌み嫌ったのか。
(今のぼくは、幸せに育って来たから…)
何も怖がりはしないだけ。自分の心を読まれることも、自分ではまるで読めないことも。
不器用なのだし仕方がない、と残念に思っていたくらい。「もっと器用になりたいよ」と。
けれど突然、今のような世界に放り込まれてしまったら。
此処で幸せに育つ代わりに、ある日いきなり、心を読める人ばかりが住む世界に向かって、突き落とされてしまったら…。
(絶対、怖い…)
怖くて、とても気味悪い。自分は心を読めもしないのに、周りの人々は読むのが普通。どういう仕組みになっているのか、言葉にする前に先回りされる。あらゆる場面で。
自分には、それが出来ないのに。…相手が何を思っているのか、その欠片さえも見えないのに。
(…ホントに怖くて、どうしたらいいか分からなくって…)
きっと外にも出られなくなる。外に出たなら、心の中身を誰もに読まれてしまうのだから。何を考えながら歩いているのか、皆に筒抜けなのだから。
…どうして気付かなかったのだろう。その怖さに。恐ろしさに。
人類がミュウに覚えるだろう恐怖、それを微塵も考えもせずに、歩み寄れると思ったのだろう。ミュウと人類とは手を取り合えると考えた自分。ソルジャー・ブルーだった、前の自分。
あまりにも考えなしだった。人類の心を思うことさえしなかった。
ミュウがサイオンを封印するなら、歩み寄れたのかもしれないけれど…。
(サイオンを持ったままだったら…)
忌み嫌われてしまって当然、恐れられるのも当然のこと。
人類にすれば、歩み寄りたくもないだろう。近付いたならば、一方的に読まれる心。隠す術さえ持っていないのに、勝手に心を覗き込まれて。
ミュウ同士ならば、隠せるのに。読まれたくないことは隠しておけるし、それが出来ないなら、自分の力が足りないだけ。そういう時には、「読まないで欲しい」と伝えることも出来るのに。
人類には心を隠す方法が無かったのだ、と気が付いた。不器用な今の自分と違って、サイオンを持たなかった人類。ミュウならそれを持っているのに、人類は持っていなかった。
サイオンが不器用な今の自分には、少しだけ分かる人類がミュウに覚えた恐怖。
(…間違えちゃってた…)
前の自分の考え方。心から願った、ミュウと人類との共存。
けれども、サイオンを捨てるか、封印でもしない限りは、人類はミュウを怖がるだけ。ミュウに近付いたら、心を読まれてしまうから。「読まないで」と伝えることも出来ずに。
その状態では、歩み寄れていた筈もない、と考えていたら、聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。ミュウは怖いね」
「はあ?」
どう怖いんだ、と瞬いた鳶色の瞳。「お前も俺も、ミュウなんだが?」と。
「そうだけど…。人類から見たミュウのことだよ」
「なんだって?」
人類ってことは、前の俺たちの時代の話か、それは?
確かに人類軍と派手に戦いはしたが…。勝ったわけだし、怖かったのかもしれないが…。
「えっとね…。戦いが始まってからじゃなくって、それよりも前」
今日のハーレイ、生徒に注意してたでしょ?
漫画の本を没収してたよ、その前に脅していたじゃない。心を覗けば全部分かる、って。
あれで気が付いたよ、あの力、人類には怖いんだよ。…自分の心を読まれちゃうこと。隠そうとしても隠せなくって、何もかも知られてしまうってこと。
今のぼくだと分かる気がするよ、人類はきっと怖かったんだ、って。
ぼくのサイオン、とことん不器用になって、あの頃の人類とそれほど変わらないんだから。
「なるほどな…。今のお前は、心を読まれないように遮蔽することは出来ないか…」
前のお前ならば完璧だったが、それとは逆というわけだな。
「そう、読むことも出来ないんだよ」
ホントに人類と似たような感じ。…ミュウの世界に一人だけ混じってしまったみたいに。
ぼくは慣れてるから平気だけれども、人類は怖かったと思う。…ミュウが現れたら、心の中身をすっかり読まれてしまうんだから。
その人類とミュウが初めて顔を合わせたのが、前のぼくたちが生きてた時代、と説明した。心を読まれることを恐れる種族と、心を読むのが当たり前の種族。
「前のぼくの考え、間違っていたよ。…そう思っちゃった」
ソルジャー・ブルーは甘かったんだ、って。人類の気持ちをまるで分かっていなかったんだよ。
「分かっていないって…。どういう風にだ?」
前のお前も色々と考えていた筈だが、とハーレイが首を捻るから。
「ミュウのことを理解して貰おう、っていう考え方。…分かり合えると思っていたこと」
人類とミュウは兄弟なんだ、って思ってたけど、それは間違ってはいないんだけど…。
サイオンを捨てなきゃ駄目だったんだよ、本当に分かり合いたかったら。
ミュウだけが人類の心を読めるというのは、ちっとも公平なことじゃないでしょ?
サイオンを捨てることが無理なら、封印する方法を開発するとか…。
「封印するって…。APDか?」
人類のヤツらが開発していた、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あんな具合に、サイオンが効かないようにする道具を、人類が持てば良かったと…?
「違うよ、APDは人類が開発したんだけれど…。人類に作らせていたんじゃ駄目」
作って下さい、ってお願いするんじゃなくって、ぼくたちが開発するべきだったんだよ。
サイオンを無効化する方法を、自発的にね。…人類がミュウを怖がらなくても済むように。
そうしていたなら、人類も考えてくれていたかも…。話し合うことを。
「ふうむ…。そいつは一理あるかもしれないな」
キースの野郎が捕虜になってた時、ジョミーに訊いたそうだ。「星の自転を止められるか」と。
ジョミーは、「やってみなければ分からない」と答えたらしいんだが…。
その時、キースはこう言った。「その力がある限り、分かり合うことは出来ない」とな。
「…そうなんだ…」
星の自転とは違うけれども、人の心を読むのも同じサイオンだから…。
サイオンがあったら駄目ってことだよね、キースがジョミーに言った言葉は…。
遠い昔に、キースがジョミーに投げ掛けた問い。それに、その答えを受けてぶつけた言葉。
キースには見えていたのだろうか。人類とミュウの間に横たわる溝、深い問題の根本が。
前の自分は気付かないままで終わったけれども、キースは見抜いていたろうか?
サイオンという力の怖さも、それがあったら人類がミュウを恐れることも。
「…キース、気付いていたのかな…。どうして人類はミュウを怖がるのか」
ミュウには心を読み取る力があるから、心を隠すことが出来ない人類にとっては怖い存在。
そのままだと分かり合うなんて無理で、サイオンを捨てて来ないと駄目だ、って。
「…多分な。しかし、キースはそれを克服したんだろう」
ミュウはサイオンを持ったままでいたのに、手を取り合う道を選んだんだから。
あいつを褒めたいとは思わないんだが、その点は評価してやってもいい。
ミュウへの恐れを克服出来た所だけはな、とハーレイが言うから、尋ねてみた。
「それが出来たのって…。キース、心を読まれない訓練を積んでいたからかな?」
とても凄かったよ、キースの心理防壁は。…本当にこれが人類なのか、って思うくらいに。
そういう心を持っていたから、他の人類も努力次第で何とか出来ると思ったのかな…?
「むしろ逆だと思うがな? 俺は」
前のお前も、それにジョミーも少しは読んだと聞いているしな、あいつの心。…違うのか?
「そうだけど…。それがあったら、どうして逆なの?」
分からないよ、と瞳を瞬かせたら、「読んだんだろう?」と返った言葉。
「お前もジョミーも、読まれないように訓練していたキースの心を読んじまった」
読まれる恐怖を知ったわけだな、キースが初めて知った恐怖だ。…ミュウの本当の恐ろしさ。
こうして心に入り込むのかと、防ぐ方法は無いらしい、とも。
そいつを思い知らされちまって、その上で色々と考えることになったんだろう。人類の指導者としてな。人類とミュウに分かれた現状をどうするべきか、次の時代にどう繋ぐのか。
ミュウ因子の排除というのも含めて、キースは何年も考え続けた。
そして導き出した結論があれだ。
SD体制もマザー・システムも時代遅れだという、大演説。
自分がグランド・マザーに粛清されても、人類が正しい道を選んで進んでゆけるように、と。
お蔭で今の平和な時代がある、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「キースの選択は正しかった」と、ミュウへの恐怖を克服出来たからこそだ、と。
「あいつが決断していなかったら、もっと長引いていただろう。…地球までの道は」
ミュウの時代が訪れるのも、遅くなっていたに違いないな。
「…キース、偉いね…」
心を読まれて怖かったんなら、徹底的に退治してもいいのに…。そうするつもりだったのに。
ナスカをメギドで焼いた時には、そういうつもりだったんだよ。…一人残らず滅ぼすつもり。
でも、考えを変えちゃった…。いろんな条件が重なったにしても、キースが一人で考えて。
だから偉いよ。グランド・マザーは、そういう風にしろとは絶対、言わないのに…。
マザー・イライザも、そんな風には、キースを育てていない筈なのに…。
「どうなんだかなあ…。偉かったことは確かだろうが…」
時代はミュウに味方していた。トォニィたちが生まれたことも、ジョミーの両親や、スウェナのようなミュウの理解者が現れたことも、その証拠だ。
キースが決断しなかったとしても、いずれはミュウの時代になった。…キースが国家主席の間は無理でも、次の時代か、その次にはな。
「そうだろうけど…。そうなる前にキースが決めたよ、ミュウと一緒に生きてゆくことを」
キースは本当に偉かったんだよ。ミュウを受け入れる決断が出来ただなんて。
ぼくなら、怖くて出来たかどうか…。
心を読まれることの怖さも知ったんだったら、余計にミュウが怖くなりそう。
「…出来そうにないのは、今のお前か?」
前のお前なら、自分がどんな思いをしたって、世界を優先しそうだからな。
「うん…。今のぼくだよ、ミュウの怖さに気が付いた、ぼく」
サイオンがとことん不器用なせいで、今頃、分かったんだけど…。人類の気持ち。
「今のお前は弱虫だしな? そんな考えになっちまうほど」
もしも自分が人類だったら、と考えただけで怖いと思っちまう弱虫。
キースとは違うさ、人類の世界を背負うためだけに作り出されたヤツとはな。
機械に作り出された割には、人間くさいヤツだったが…、という所で止まった言葉。
「おっと、あいつを褒めすぎちまった。…俺としたことが、お前のせいで」
キースの野郎を偉いだなんて、俺の台詞とも思えんな。
まったく…、とハーレイは苦々しい顔。「俺はあいつが嫌いなのに」と。
「ううん、ハーレイもキースを分かってくれているんだな、って嬉しいよ、ぼく」
いつもキースの悪口ばかりで、会ったら一発殴りたいとか、そんなのばかり。
だけど、ハーレイもちゃんと分かってるんだよね。…本当のキースは偉いってことが。
ホントに嬉しい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
ハーレイのキース嫌いは酷くて、何度も心を痛めたから。「ぼくのせいだ」と。
前の自分がメギドで撃たれなかったら、キースは其処まで憎まれていない。撃たれた傷痕と同じ聖痕、それをハーレイが見ていなかったら。
「…俺は分かりたくもないんだが…」
キースの偉さなんていうのは分かりたくないし、認めるつもりも無いんだが?
お前に釣られて、ついつい余計なことまで話してしまっただけで。
俺はキースを許しはしない、とハーレイの眉間の皺が深めになったけれども。
「いつか分かるよ、ハーレイにもね。…そして嫌いじゃなくなるってば」
ハーレイがキースを嫌いになったの、前のぼくを撃ったせいだから…。
でもね、ぼくはハーレイの所に帰って来たでしょ、チビだけど。
まだ小さいけど、大きくなったら、前のぼくと同じになるんだよ。…ホントにそっくり。
だからキースは悪くないってば、ぼくは帰って来たんだから。
「…そいつはキースのお蔭じゃないと思うがなあ…」
あいつは全く関わっちゃいないぞ、お前が生きて帰って来たことに関しては。
これは神様が起こした奇跡で、聖痕までつけて下さっただろうが。
聖痕のお蔭で、キースの罪がバレちまったってな。…前のお前に何をしたのか。
あいつの心は読めなかったが、神様が教えて下さった。あいつが隠してやがったことを。
あの馬鹿野郎が何処に逃げても、見付けた時には、俺は必ず殴ってやる。
生憎とまだ出会えないがだ、許してやるつもりは全く無いぞ。…この手であいつを殴るまでは。
しかし、お前は此処にいるよな、と大きな手で頭をクシャリと撫でられた。
「俺のブルーだ」と、「うんと不器用だが、お前だよな」と。
「…本当にお前なんだろうか、と思っちまうくらいに、サイオンは不器用になっちまったが…」
おまけにチビだが、お前は俺のブルーなんだ。…前の俺が失くしちまったお前。
生きて帰って来てくれたんだよな、もう一度、俺の目の前に。
「そうだよ、これが今のぼく。…人類みたいになっちゃったけど」
サイオンは殆ど使えないから、タイプ・ブルーだなんて、嘘みたいだよね。…誰が見たって。
お蔭で、人類の気持ちが分かったけれど…。ミュウが本当に怖かったんだ、って。
前のぼくの考え、やっぱり間違ってた?
ミュウはサイオンを捨てるべきだったの、でなきゃ封印するだとか…?
サイオンを持ったままで人類と分かり合おうなんて、ぼくの考え、甘すぎたかな…?
「間違っちゃいないさ、前のお前は。…前のお前の考え方は」
今の時代は、人間はみんなミュウばかりだ。誰もがサイオンを持っているだろう?
お前みたいに不器用なヤツでも、サイオンはちゃんと備わっている。それが大切なことなんだ。
普段は心を読んだりしないし、それが社会のマナーでもある。
だがな、派手な喧嘩をしちまった時とか、友達との仲がこじれた時には、サイオンの出番だ。
こういう風に考えてます、と相手に直接伝えられるし、心を読んで貰うことも出来る。
心を読むのが得意じゃないお前も、「読んで下さい」と明け渡されたら読めるだろ?
そうやって誰もが分かり合える世界、そいつがミュウの世界だってな。
心の底から分かり合えるからこそ、平和なんだ。…戦いも無ければ、武器も要らない。
本気の喧嘩は、何処からも起こらないからな。殴り合いになっても、その場限りでおしまいだ。後でよくよく考えてみれば、「悪かったかな」と思うモンだから…。
其処に気付いたら、言葉にしにくい気持ちは心を見て貰う。それで解決しちまうわけで…。
こういう社会は、サイオン抜きでは無理なんだ。…人類に合わせて封印したなら、もう駄目だ。
だから、前のお前は間違っていない。サイオンは人間に必要な進化だったんだから。
「そっか…。サイオンのお蔭で、平和な時代になったんだよね…」
サイオンを封印してしまっていたら、今もミュウ同士で何処かで戦争だったかも…。
お互いの心が分からなかったら、本気の喧嘩がこじれてしまって、戦争になってしまうから…。
間違えていなかったんなら良かった、とホッとついた息。前の自分の考え方。
サイオンはあっても良かったんだ、と。
「…前のぼく、間違えちゃったのかと思ったよ…」
人類から見たら、ミュウはとっても怖そうだから…。そんな感じがしちゃったから。
とても怖いと思われてたのに、怖い力を振りかざしながら「仲良くしよう」って言う方が無理。
それに気付かないで過ごしてたなんて、間抜けだよね、って思っちゃったから…。
でも、間違えてはいなかったんだ…。サイオンが必要な進化だったら。
「当然だろうが、それでこそミュウだ。…ミュウはサイオンを持っていてこそなんだぞ」
そいつを封印しちまうだとか、無効化してまで人類に媚を売ってもなあ…。
何の解決にもなりやしないぞ、平和な時代は来やしない。…サイオン抜きの世界だなんて。
前のお前のことだとはいえ、否定しちゃいかん、自分をな。
間違えたように思えていたって、そいつが正しかったんだから。
「…自分を否定したら駄目って言うなら、ぼくの不器用さは?」
とっても不器用で、思念波もろくに使えなくって…。心はいつも読まれ放題。
ハーレイにも、友達にも、ぼくの考え、筒抜けになってしまうんだけど…。
脅かしてやろう、ってワクワクしてても、その前に気付かれちゃうんだけれど…。
「そいつも俺には愛おしいってな、守り甲斐があって」
もう本当に不器用だからなあ、危なっかしくて見ちゃいられない。
お前ときたら、其処の窓から落っこちたら骨が折れるんだろうし…。池に落ちたら溺れるし。
そうならないよう、俺が一生、お前を守るしかないってな。
前のお前なら、俺が守られる方だったんだが…。
お前を守る、と偉そうなことを言っていたって、シャングリラごとお前に守られていたからな。
前のお前みたいな無茶はするなよ、と釘を刺されたけれど。
鳶色の瞳に見据えられたけれど、ハーレイの心配はもう要らない。
平和な時代に命懸けの無茶はもう出来ないから、それに弱虫になってしまったから…。
今度は守って貰うだけ。
ハーレイに側で守って貰って、幸せに生きてゆけばいいだけ。
不器用すぎて心を読むことも出来ないけれども、読まれる一方なのだけれども。
人類と違って、ちゃんとミュウなのだし、何も怖がらなくてもいい。
周りが器用な人ばかりでも、心を読める人ばかりでも。
みんなが自分を気遣ってくれるし、必要だったら遊びのルールも変えてくれたりする世界。
其処に生まれてハーレイと二人、手を繋ぎ合って生きてゆく。
青い地球の上で、何処までも二人、幸せに微笑み交わしながら…。
読まれる心・了
※人類が何故、ミュウを恐れたのか、今になって理解したブルー。心を読まれる恐ろしさを。
そしてキースは、読まれる怖さを知ったからこそ、あの選択をしたのかも。考え抜いた末に。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
寒い季節がやって来ました。今年の冬は意外に早くて、残暑が終わってからの秋が短め。気付けばすっかり冬な雰囲気、風邪だって流行り始めています。私たち七人グループの中でも流行を真っ先に取り入れた人が…。
「ハーックション!」
くっそぉ…、と口を押さえるキース君。早々と風邪を引いてしまって、三日も欠席。ようやっと登校して来たのが今日で、それでもクシャミを連発です。
「…移さないでよね、その風邪」
私たちだって困るんだから、とスウェナちゃん。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来てるんですけど、キース君のクシャミがあるわけで…。
「かみお~ん♪ キースの周りはブルーがシールドしているから大丈夫だよ!」
ウイルスは通さないもんね! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「キースも病院に行くんだったら、シールドして行けば良かったのに…」
「「「は?」」」
キース君は既に風邪を引いています。治療のために病院に行くなら、他の人たちに移さないようマスクでしょうけど、そこをシールドでクリアですか?
「それもあるけど…。シールドしてたら、風邪は引かなかったと思うの!」
だってブルーがそう言ってたもん、ということは…。キース君の風邪は病院仕込み?
「悪かったな! 病院仕込みで!」
そんなつもりは無かったんだ、とキース君は仏頂面。
「俺はこれからのシーズンに備えて予防接種に行っただけで…」
「それってインフルエンザかよ?」
サム君が訊くと、「ああ」と返事が。
「坊主が引いたら話にならんし、毎年、受けているんだが…。それを受けに行って貰って来た」
マスクを持って行くのを忘れた、と無念そう。
「俺の隣に明らかに風邪なご老人が座ってしまってな…。あからさまに席を移れもしないし…」
それは坊主としてどうかと思う、という姿勢は正しいですけど、そのご老人から貰ったんだ?
「そうなるな。…予防接種の副作用かと思ったんだが、どうやら違った」
本物の風邪だ、とまたまたクシャミ。全快するまでは遠そうですねえ…。
流行の最先端を行ってしまったキース君。インフルエンザに罹ってしまえばお坊さんの仕事は出来ませんから、予防接種は当然でしょう。けれど、受けに行った先で風邪を貰って三日も休んだのでは本末転倒とか言いませんか?
「そうなんだが…。月参りにも行けなかったし、親父が文句をネチネチと…」
「「「あー…」」」
気の毒に、と合掌してしまった私たち。キース君は月に何度か遅刻して来て、そういう時には月参りです。檀家さんの家をお坊さんスタイルで回って来た後、制服に着替えて登校なパターン。それがズッコケちゃったんですねえ、風邪のせいで?
「風邪もそうだが、声の方がな…。掠れてしまって出なかったわけで、どうにもならん」
「喉は坊主の命だからねえ…」
マスクしてても声さえ出ればね、と会長さん。
「一人しかいないお寺なんかだと、マスクで月参りもしたりするから…」
「親父にもそう言われたんだ! 情けないヤツだと!」
ついでに親父に借りまで出来た、と呻くキース君。行く予定だった月参りをアドス和尚が引き受けた結果、凄い借りが出来てしまったのだそうで…。
「どういう形で返すことになるのか分からんが…。最悪、お盆まで持ち越しかもな」
「「「お盆?」」」
「卒塔婆だ、卒塔婆! あの時の貸しだ、と俺に卒塔婆書きのノルマがドカンと…」
「「「…卒塔婆書き…」」」
それは毎年、夏になったらキース君を苦しめている作業。山ほどの卒塔婆をアドス和尚と手分けして書いているそうですけど、そこまで借りを返せないままだと…。
「…もしかして全部も有り得ますか?」
シロエ君の言葉に、キース君は。
「…大切な檀家さんの分は親父が書くんだろうが…。最悪のケースも考えないと…」
出来ればそれまでに分割の形で返しておきたい、と苦悶の表情。
「とにかく風邪は二度と御免だ、気を付けないと…」
なんだってこうなったんだか、と言いたい気持ちは分かります。インフルエンザの予防接種に出掛けて風邪って、空しいにも程がありますよねえ…。
とはいえ、無事に終わったのがキース君の予防接種で、次の週には風邪も全快。土曜日も会長さんの家に集まってダラダラ過ごしていたんですけど。
「こんにちはーっ!」
キースの風邪が治ったってね、と現れた別の世界からのお客様。「ぼくにもおやつ!」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に注文をつけていますけれども、野次馬ですか?
「うーん…。野次馬ってわけでもないんだけれど…」
予防接種のことでちょっと、と妙な台詞が。
「「「予防接種?」」」
「うん。…キースは風邪を引いちゃったけれど、インフルエンザには罹らないんだよね?」
「それはまあ…。多分、としか言えないが」
罹る時には罹るらしいし、とキース君。
「あんたの世界ではどうだか知らんが、俺たちの世界では当たり外れがあるからな」
「当たり外れって?」
「打ったワクチンと同じウイルスなら罹らないんだが、別物だと罹る」
インフルエンザのウイルスには種類が幾つかあるからな、とキース君が説明を。
「運が悪いと、別のを端から貰ってしまって罹るケースも皆無ではない」
俺の知り合いにもコンプリートをしたヤツが…、と恐ろしい実話。お坊さん仲間の人らしいですけど、去年の冬にインフルエンザをコンプリートしたらしいです。ワクチンを打ったヤツ以外の。
「…それはある意味、強運だとか言いませんか?」
普通はそこまで出来ませんよ、とシロエ君が言うと。
「俺もそう思う。そいつ自身もそう思ったらしくて、宝くじを大量に買ってみたそうだ」
「へえ…。当たったのかよ、その宝くじ」
サム君の問いに、キース君は。
「当たったらしいぞ、金額は教えて貰えなかったが…」
「「「…スゴイ…」」」
宝くじが当たるんだったら、インフルエンザのコンプリートもいいでしょう。熱とかで多少辛かろうとも、大金がドカンと入るんですしね?
話は宝くじへと向かいましたが、横から止めに入ったソルジャー。「ぼくはワクチンの話をしたいんだけど」と。
「ワクチンって…。何さ?」
君の世界ならインフルエンザのワクチンもさぞかし完璧だろう、と会長さん。
「こっちの世界じゃ、今年はコレが流行りそうだ、っていうのを作って予防接種だけど…」
「あんたの世界の技術だったら、全部纏めていけるんじゃないか?」
医療は進んでいるんだろう、とキース君も。
「それで嘲笑いに来たというわけか。ただでも風邪を貰ってしまった俺の場合は、ワクチンの方もハズレを引いていそうだと!」
「…そうじゃなくって…。ぼくの世界にも無いワクチンについての話なんだよ」
「「「無い!?」」」
ザッと後ろへ下がりそうになった私たち。椅子さえなければそうなったでしょう。
「き、君はどういうウイルスについて語りたいわけ!?」
悲鳴にも似た会長さんの声、私たちも気分は同じです。ワクチンが無いような感染症がソルジャーの世界のシャングリラで流行してるんだったら…。
「頼む、帰ってくれ!!」
俺たちにそれを移す前に、とキース君。
「ウイルスってヤツは侮れないんだ、健康保菌者というのもいるんだ!」
「そうだよ、君は罹っていないつもりでいてもね、実は罹っていてウイルスを撒き散らしているってこともあるから!」
シールドだって効くのかどうか…、と会長さんは震え上がっています。
「どんなウイルスか分からないけど、君子危うきに近寄らず! 用心に越したことはないから!」
「そうです、とにかく帰って下さい!」
話の方は落ち着いたらまた聞きますから、とシロエ君も。
「初期段階での封じ込めってヤツが大切なんです、終息してから来て下さい!」
「シロエが言ってる通りだってば、早く帰ってくれたまえ!」
この部屋は直ぐに消毒するから、と会長さん。別の世界のウイルスだなんて怖すぎな上に、ワクチンが無いと聞いたら恐怖は倍どころか無限大ですから~!
こうして追い出しにかかっているのに、ソルジャーは悠然とソファに腰掛けたままで。
「移る心配なら大丈夫! 移った人は一人も無いしね」
「だけど患者がいるんだろう!」
残りは全員、君も含めて健康保菌者ということも…、と会長さんが指を突き付けました。
「君のシャングリラでは耐性のある人が多いとしてもね、こっちの世界は別だから!」
「そうだぞ、俺は風邪だけで沢山なんだ! この冬は!」
これ以上の感染症は御免蒙る、とキース君も言ったのですけど。
「…アレは普通は移らないと思うよ、罹ってるのはずっと昔から一人だけだし」
「そういう油断が怖いんだよ!」
感染症には色々あるから、と会長さん。
「潜伏期間が二十年とかいうのもあるしね、おまけにワクチンは無いんだろう?」
「そうなんだよねえ、そもそも作ろうと思っていなかったから!」
「「「は?」」」
「ワクチンって方法を思い付かなかったんだよ、対症療法しか考えてなくて!」
それと精神論だろうか、と言ってますけど、病気の人に精神論って、気力で克服しろっていう意味ですか?
「そんなトコだね、精神を鍛えれば克服できると! ヘタレくらいは!」
「「「ヘタレ?」」」
「そう、ヘタレ! 患者はぼくのハーレイなんだよ、君たちも知っている通り!」
どうしようもなくヘタレなのがハーレイ、とソルジャー、ブツクサ。
「ぶるぅが覗きに来たら駄目だし、そうでなくてもヘタレるし…」
「…それは感染症とは違うんじゃないかと思うけど?」
君のハーレイだけの問題だろう、と会長さん。
「第一、ワクチンを作るだなんて…。あれはウイルスの抗体ってヤツを作るわけでさ、ウイルスも無さそうなヘタレの抗体をどうやって作ると?」
「…ウイルスだとは限らないけど、抗体だったら作れそうだと思うんだよ!」
キースの風邪のお蔭で思い付いた、とソルジャーが目を付けた予防接種だのワクチンだの。キャプテンのヘタレにワクチンだなんて、そんなのホントに作れますか…?
ソルジャーが感染症を持ち込んだわけではないらしい、と分かってホッと一息ですけど、今度はワクチンが問題です。キャプテンのヘタレに効くワクチンが作れるかどうかも問題とはいえ、既に発症してるんだったら、ワクチンを作っても無駄なんじゃあ…?
「それがそうでもないんだよ。劇的に効くって例もあるから!」
ワクチンを後から接種しても、と言うソルジャー。
「こっちの世界はどうか知らないけど、ぼくの世界じゃとにかくワクチン! 駄目で元々、ガンガン打つって方向で行くねえ、感染症には!」
なにしろ宇宙は広すぎるから…、という話。新しい惑星に入植するにはリスクがつきもの、未知のウイルスが潜んでいることもあるそうです。そういう時にはワクチン開発、患者にどんどん打つらしくって。
「これが効くってこともあるんだよ、だからワクチンは後からでもいける!」
「…まあ、ぼくたちの世界でも、そういう例は皆無じゃないけど…」
たまに奇跡のように治ってしまう人が…、と会長さん。打つ手が無いという感染症の重症患者にワクチン接種で、治るという例。
「でもねえ…。ヘタレはウイルスじゃないし、本人の気の持ちようだから…」
「あながちそうとも言い切れないよ? 何か原因があるかもだしね!」
だから抗体を作りたいのだ、と言ってますけど、どうやって…?
「簡単なことだよ、ハーレイは二人いるからね!」
こっちの世界に更にヘタレなハーレイが! とソルジャーは教頭先生の家の方へと指を。
「あのハーレイを使ってワクチン製造! 抗体を作る!」
「…それなら、わざわざ作らなくても…。とうに抗体、出来ていそうだよ?」
三百年以上もヘタレてるんだし、と会長さん。
「ヘタレ続けて三百年以上、きっと抗体もある筈で…」
「それじゃ駄目なんだよ、その程度だったら、ぼくのハーレイも抗体を持っていそうだし!」
あれも元からヘタレだから、と言われてみればその通りです。キャプテンにだって出来ていそうな抗体、それでもヘタレのままだとなると…。
「そう、もっと強力な抗体ってヤツが必要なんだよ!」
より重症なヘタレに対応出来る抗体! とグッと拳を握るソルジャー。より重症なヘタレに対応って、そんなワクチン、作れますか…?
ソルジャー曰く、キャプテンに打つためのワクチンは教頭先生を使って製造。しかも強力な抗体が必要、より重症なヘタレに対応出来るように、ということですが…。
「…君はいったい何をする気さ、ハーレイに?」
ぼくにはサッパリ分からないけど、と会長さんが尋ねて、私たちも「うん」と。ソルジャーは「そうかなあ?」と首を傾げて。
「簡単なことだと思うけど? ハーレイが重症なヘタレになったら、抗体だって出来るしね!」
「「「…重症?」」」
今でも充分に重症だろうと思いますけど、まだ足りないと?
「足りないねえ! ヘタレ具合じゃ、ぼくのハーレイとどっこいと見たね!」
環境のせいで余計にヘタレて見えるだけだ、と言うソルジャー。
「ブルーがハーレイを受け付けないから万年童貞、それが災いしているだけ! もしもブルーとデキていたなら、ヘタレ具合は似たようなものかと!」
こっちのハーレイがヤレる環境にいたとしたなら、鼻血体質もとっくに克服しているだろう、とソルジャーはキッパリ言い切りました。
「ぼくのハーレイも、最初の間は、何かと遠慮がちだったしねえ…」
今のようなハーレイになれるまでには色々と…、とソルジャーは昔語りモードに入ろうとしましたけれども、会長さんが素早くイエローカードを。
「その先、禁止! 今はワクチンの話だから!」
「…そうかい? これからが面白いんだけど…。でもまあ、いいか…」
大切なのはワクチンだから、とソルジャーは気持ちを切り替えたようで。
「要は、こっちのハーレイを今よりヘタレに! その状態になれば、強い抗体が出来るんだよ!」
「…今よりヘタレって、どんな具合に?」
ちょっと想像つかないんだけど、と会長さんが訊くと。
「それはもちろん、ヘタレMAX! 君の顔もまともに見られないとか、そういうレベル!」
出会っただけで顔を赤くして俯くだとか…、とブチ上げるソルジャー。
「その辺はサイオンでどうとでも出来るよ、ハーレイの精神をチョイと弄れば!」
「…わざとヘタレにしてしまうと?」
「その通り! 君にも悪い話じゃないから!」
ハーレイで色々と苦労をしてるじゃないか、と笑顔のソルジャー。それは確かに間違ってませんねえ、教頭先生の思い込みの激しさはピカイチですしね?
教頭先生をサイオンで重度のヘタレに仕立てて、ヘタレの抗体を作ろうというソルジャーの案。日頃から教頭先生に一方的に愛されている会長さんからすれば、悪い話ではないわけで…。
「なるほど、ハーレイが今よりヘタレにねえ…」
そうなればぼくも追われないだろうか、という呟きにソルジャーが。
「まるで追われないとは言わないけれど…。君への愛は消えないからね! でもさ…」
せいぜい「読んで下さい」とラブレターを渡して逃げ去る程度、と溢れる自信。
「そのラブレターだって、小学生だか幼稚園児だか、ってレベルになるのは間違いないね!」
「そうなんだ? だったら、ぼくは当分の間、平和に生活出来るってことか…」
「お金を毟るのは難しいかもしれないけどね!」
ヘタレたら貢ぐ度胸があるかどうか、と言ってますけど、会長さんは。
「お金に不自由はしてないし…。ハーレイが静かになると言うなら、多少のことは我慢するよ。どうせいつかは治るんだろう? 重度のヘタレも」
「そりゃあ、永遠にっていうわけじゃないよ」
ワクチンが出来たら用済みだから、とソルジャー、アッサリ。
「で、作ってもいいのかな? ヘタレのワクチン」
「面白そうだし、やってみたら? …ヘタレの抗体があるかどうかは謎だけど」
「ありがとう! それじゃ早速…」
「ハーレイに相談しに行くのかい?」
ワクチン作りの、と会長さんが訊いたのですが。
「相談なんかをするとでも? 逃げられるに決まっているじゃないか!」
自分がヘタレになるだなんて、とソルジャーは指を左右にチッチッと。
「ぼくはハーレイに会いに行くだけ、そして話をしてくるだけ!」
「…それでどうやったらヘタレになるのさ?」
「サイオンで意識の下に干渉! 細かい作業をするなら会わないとね!」
遠隔操作では上手くいかないものだから…、と本気のソルジャー。
「ぼくと楽しくお茶を飲んでから送り出したら、ヘタレ発動! もう重症の!」
それは凄いヘタレが出来るであろう、とソルジャーはソファから立ち上がりました。
「行ってくるから、サイオン中継で様子を見ててよ。ヘタレのワクチン、頑張らなくちゃ!」
善は急げ、と瞬間移動で消えたソルジャー。行き先は教頭先生の家ですよね?
会長さんの家に残された私たちの前には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオン中継の画面を出してくれました。教頭先生のお宅が映っています。ソルジャーがチャイムを押していますが…。
「どちらさまですか?」
「ぼくだけど?」
それだけで分かったらしい教頭先生、いそいそと玄関の扉を開けに出て来て。
「これはようこそ…! 寒いですから入って下さい」
「ありがとう。…君の家にホットココアはあるかな?」
「ああ、好物でらっしゃいましたね。…直ぐにご用意いたしますから」
リビングへどうぞ、と教頭先生はソルジャーを招き入れてキッチンでホットココアの用意を。クッキーも添えて歓迎モードで、自分用にはコーヒーで。
「…それで、本日の御用件は?」
「ちょっとね、ぼくのハーレイの健康のことで相談が…。かまわないかな?」
「もちろんです。私で分かることでしたら」
「助かるよ。…実は体質のことで悩んでいてさ…。あれって改善できるものかな?」
君は頑丈そうだけれども、ぼくのハーレイの方はちょっと…、と言うソルジャー。
「君ほど体力とかは無いだろうしね、もっと頑丈になってくれたら色々と…」
「何か問題でもあるのですか?」
「夫婦の時間のパワーってヤツだよ、頑丈になれば長持ちするかと…」
あっちの方も、と意味深な台詞に、教頭先生は「そうですねえ…」と顎に手を当てて。
「生憎と私は、そちらの方では経験が無くて…。ですが、可能性としては有り得ますね」
「じゃあ、君の体力をぼくのハーレイが身に付けたならばパワーの方も…」
「増してくるかもしれません。…断言することは出来ませんが…」
「分かった。だったら、ちょっと協力してくれるかな?」
データを取ってみたいから、とソルジャーが何処からか出した注射器。教頭先生は「血液の方のデータですか?」と目を剥きましたが、ソルジャーは。
「ぼくの世界は医療も進んでいるからねえ…。血液検査で色々なことが分かるんだよ」
「そうでしたか。では、どうぞお好きなだけお取り下さい」
教頭先生が袖をまくって、ソルジャーが「そんなに沢山は要らないから」と採血を。注射器に一本分っていう量ですねえ、教頭先生には大した量でもないんでしょうね。
ソルジャーは教頭先生に「献血の御礼」と頬にキスして帰って来ました。瞬間移動で。教頭先生は感激の面持ちで頬を触っていらっしゃいます。ちっともヘタレていませんよ?
「それはどうかな? その場でヘタレちゃ、つまらないしね」
じきに効果が、とソルジャーが指差している中継画面。教頭先生、嬉しそうに頬を撫でていらっしゃったのが、いきなりボンッ! と真っ赤な顔に。
「「「???」」」
何事なのか、と思いましたが、教頭先生は両方の頬に手を当てると…。
「…き、キスをして貰えたとは…。まさか頬に…」
嬉しいけれども恥ずかしすぎる、と教頭先生とも思えぬ台詞が。
「ど、どうすればいいのだ、私は…! か、顔がどんどん熱くなるのだが…!」
なんという恥ずかしい、いや嬉しい、と怪しすぎる反応、いったいどうなっているのでしょう?
「ほらね、ヘタレに拍車がかかった! たったあれだけで顔が真っ赤に!」
後はどんどんヘタレてゆくだけ、とソルジャーはニヤニヤしています。
「ヘタレる前の血液は採ったし、キッチリと保存しておいて…。重症のヘタレに抗体が出来た頃にもう一度採血してから比較して、と…」
「そうか、比べれば分かるんだ? 違いがあれば」
ヘタレの抗体があるのかどうかは知らないけれど、と会長さんが大きく頷いています。
「抗体らしきものが見付かったら、それでワクチンを作るんだね?」
「そういうこと! ぼくは頑張るから!」
ワクチンなんかは作ったこともないんだけれど、と言うソルジャーはド素人でした。そんなのでワクチンが作れるでしょうか、素人なのに…?
「任せといてよ、ダテにソルジャーはやってないから!」
「「「は?」」」
「ソルジャー稼業をやってる間に、研究所にだって潜入したから!」
研究者たちと一緒に仕事もしたから大丈夫! と自信たっぷり、あちらの世界のドクター・ノルディの情報も参考にするそうです。ただしコッソリ忍び込んで。
「さっき採ったハーレイの血液だってね、メディカルルームで分析だから!」
そしてヘタレのワクチンを作ろう! と拳を突き上げているソルジャー。ヘタレの抗体だの、ワクチンだのって、どう考えても無理じゃないかと思いますけどね…?
そんなこんなで始動してしまった、ヘタレのワクチンを作るプロジェクト。ソルジャーに重症のヘタレになるよう仕掛けをされた教頭先生は…。
「…ずいぶんヘタレて来たよね、あれは」
ぼくに会ったら俯くんだから、と会長さんがクックッと笑う週末。今や教頭先生は会長さんの前では恋に恋する乙女さながら、視線を上げることすら出来ない始末。会釈しながら脇を通り過ぎ、頬を真っ赤に染めて通過で。
「あんた、面白いからと頻繁に出歩いているだろうが!」
普段だったら学校の中は滅多に歩いていないくせに、とキース君。
「わざわざ教頭室のある本館まで行ったり、教頭先生の授業が終わった頃合いで出て来たり…」
「出歩かないと損だろう? あんなハーレイ、そうそう見られやしないんだから!」
楽しんでなんぼ、というのが会長さんの持論です。教頭先生は自分がどうしてヘタレたのかも分かっておられず、自分で集めた会長さんの写真や抱き枕も正視出来ない状態らしくて。
「ぼくの写真はまだマシなんだよ、ブルーの写真は完全にアウト」
見るだけで鼻血、とクスクスと。
「ブルーがせっせと贈ったからねえ、きわどいのを…。今までだったら夜になったら楽しんでオカズにしていたけれども、もう駄目でさ」
「「「おかず?」」」
「けしからぬ気分になりたい時の必須アイテム!」
それを見ながら盛り上がるのだ、と説明されて分かったような、分からないような。…ともあれ、今の教頭先生はオカズとやらも要らない状態なんですね?
「そうらしいねえ、孤独に噴火するだけの度胸も無いようだね!」
「かみお~ん♪ ブルーの写真に「おやすみ」のキスも出来ないみたい!」
頬っぺたが真っ赤になって駄目なの! と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」も覗き見をしているみたいです。いつもだったら会長さんが止めているのに、それをしないということは…。
「…お子様が見ていても大丈夫なレベルにヘタレちゃいましたか…」
凄いですね、とシロエ君が教頭先生の家の方角へ目を遣り、サム君も。
「そこまでっていうのが半端じゃねえよな、ラブレターも来ねえっていうのがよ…」
「渡せる度胸は既に無さそうだよ?」
俯いて横を通るようでは、とジョミー君。日を重ねるごとに酷くなるヘタレ、果たして何処までヘタレるのやら…。
教頭先生がヘタレまくって二週間。もはや会長さんと会ったらサッと物陰に隠れるレベルで、熱い視線だけが届くそうです。心拍数も上がりまくりで、口から心臓が飛び出しそうなほどにドキドキな恋する乙女だとか。
「…まだヘタレるのかな?」
もう相当に重症だけど、とジョミー君が首を捻っている土曜日、会長さんの家のリビング。空気がユラリと揺れたかと思うと、ソルジャーがパッと御登場で。
「こんにちは! そろそろヘタレの抗体が出来ていそうだからねえ!」
今日は採血に来てみましたー! と注射器を持参。でも、教頭先生はヘタレまくりで、ソルジャーとお茶なんかを飲める状態ではありませんけど?
「そこの所は、ぼくもきちんと考えた! ぼくなりに!」
この姿で行けば無問題! とソルジャーの姿がパッと変わってキャプテンに。えーっと、サイオニック・ドリームですかね、その姿って…?
「そうだけど? この格好なら、ハーレイだって気にしないからね!」
ちょっと行ってくる! と瞬間移動で消えたソルジャー、いえ、キャプテン。私たちが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の中継画面を覗き込んでいると、ソルジャーは例によってチャイムを鳴らして。
「こんにちは、お邪魔致します」
「…は?」
どうしてあなたが、と出迎えた教頭先生はキャプテンの正体に気付かないまま、リビングでコーヒーなんかを出しておられます。ソルジャーは怪しまれないように熱いコーヒーを傾けながら。
「…いえ、先日、ブルーがこちらで相談に乗って頂いたとかで…。体質のことで」
「そういえば…。血液検査の結果はどうだったのでしょう?」
「とてつもなく健康でいらっしゃることが分かりましたね、もう驚きです」
私などではとてもとても…、とキャプテンの演技を続けるソルジャー。
「それでですね、追加の検査をしたいそうですが、ブルーは時間が取れないのだそうで…」
「ああ、それで代理でいらっしゃったというわけですか」
「はい。ブルーに送って貰いました。…そのぅ、失礼ですが…」
「血ですね、どうぞご遠慮なく」
お取り下さい、と袖をまくった教頭先生。キャプテンならぬソルジャーとも知らずに血液提供、後はコーヒー片手に健康談義。ヘタレるのは会長さんやソルジャー相手だけなんですねえ、まったく普通に見えますってば…。
キャプテンのふりをして出掛けたソルジャーは、やがて嬉しそうに帰って来ました。
「やったね、ハーレイの血液をゲット!」
あれだけあったら比較も出来るし、と教頭先生の血はソルジャーの世界へ送られたようです。帰ったら直ちに分析開始で、ヘタレの抗体が見付かった時はワクチン作りに入るとか。
「無事に見付かるといいんだけどねえ、ヘタレの抗体!」
「…ぼくにはあるとは思えないけどね?」
そんな代物、と会長さんが頭を振っていますが、ソルジャーは「きっとある筈!」と譲りません。
「あれだけ酷いヘタレなんだよ、今のハーレイは! そうでなくてもハーレイはヘタレだし、二人ともそうだし…。調べれば何かが見付かる筈で!」
「それが見付かったらどうするわけ?」
「決まってるだろう、もう最初からの目的通り! ぼくのハーレイにワクチンを打つ!」
そしてヘタレを克服なのだ、とソルジャーの主張。本当にヘタレの抗体があるなら、ワクチンも夢ではないんでしょうけど…。
「抗体さえあれば、ワクチンは出来る! もう別人のように生まれ変わったハーレイだって出来る筈だよ、それでヘタレが治るんだから!」
どうしてこんな簡単な方法に今まで気付かなかったんだろう、とソルジャーは自分の頭をコツンと叩いて。
「キースの風邪には感謝してるよ、お蔭でアイデアが生まれたからね!」
「い、いや…。俺は普通に予防接種に出掛けただけで、だ…」
「それは毎年行っているだろ、ぼくだって知っていたんだし…。風邪を貰ってくれたからこそ、予防接種とワクチンに注目出来たんだよ!」
君が今回の功労者だ、とキース君の手をグッと握って握手なソルジャー。
「ワクチンが見事に完成したなら、君に感謝状を贈らないとね!」
「い、要らん! 俺はそういうつもりで風邪を引いたわけではないんだし…!」
明らかに腰が引けているのがキース君。それはそうでしょう、ソルジャーからの感謝状なんて、欲しいような人は誰もいませんし…。
「要らないのかい? …ぼくのシャングリラじゃ凄く有難がられるけどねえ…」
ソルジャーからの感謝状は、と重ねて言われても「要らん」と断るキース君。ソルジャーは「欲が無いねえ…」と呆れて帰ってゆきました。おやつも食事も食べずにです。ワクチン作りをするつもりですね、そのために急いで帰りましたね…?
重症のヘタレな教頭先生の血液を採って帰ったソルジャー。今頃はヘタレる前の血液のデータと比較検討中だろうか、とワクチンの話に花が咲いている夕食の席。今夜は会長さんの家にお泊まり、寒いですから豪華寄せ鍋でワイワイと。其処へ…。
「あった、あったよ、ヘタレの抗体!」
もう間違いなくアレに違いない、とソルジャーが姿を現しました。白衣ですけど、本気で研究してたんですか?
「当たり前じゃないか、ちょっとノルディの意識を弄って、メディカルルームの設備を借りて!」
分析していたら前は無かったものを発見! と頬を紅潮させるソルジャー。
「アレこそヘタレの抗体なんだよ、あれを増やしてぼくのハーレイに打ってやればね!」
「…ヘタレが治ると?」
会長さんが自分の器に肉を入れながら尋ねると。
「そうだと思うよ、だってヘタレの抗体なんだし! こっちのハーレイの重症のヘタレから生まれた奇跡の産物、あの抗体から夢のワクチン!」
「はいはい、分かった。…寄せ鍋は食べて行くのかい?」
締めはラーメンと雑炊だけど、と会長さんが誘ったのですが、ソルジャーは。
「そんな時間は無いってね! こんな時こそ、ぼくの普段の食生活の出番!」
栄養剤だけで充分足りる、と消えてしまったソルジャーの姿。寸暇を惜しんでワクチン開発、そんな所だと思われます。でも、ヘタレの抗体って本当に存在するんでしょうか?
「…どうなんだか…。確かに今のハーレイは重症のヘタレだけれど…」
ヘタレはウイルスじゃないと思う、と会長さん。
「俺もそう思う。…ウイルスなら感染しそうだからな」
でもって、あいつが確実に感染している筈だ、とキース君。
「あれだけ濃厚に接触していれば、移らないわけがないと思うぞ。…ヘタレのウイルス」
「そうですねえ…。でも、移ってはいないようですしね?」
ヘタレるどころか逆ですから、とシロエ君も。
「健康保菌者という線もありますけれど…。それにしたって、感染してれば多少はヘタレが…」
「…出そうだよねえ?」
あんなにパワフルなわけがない、とジョミー君だって言っていますし、私だってそう思います。ソルジャーがヘタレていないからには、ヘタレのウイルスは無いでしょう。抗体だって無いと思いますけど、ソルジャーは何を発見したと…?
存在しない筈のヘタレのウイルス、ついでに抗体。けれどソルジャーは教頭先生の血液から何かを発見した上、ワクチンを開発したわけで…。
「聞いてよ、ついに出来たんだよ!」
ヘタレのワクチン! とソルジャーが降ってわいた一週間後。例によって会長さんの家で過ごしていた週末、ソルジャーは最高に御機嫌で。
「完成したのが二日前でさ、直ぐにハーレイに打ったわけ!」
「ちょ、ちょっと…! 安全性も確かめないで!?」
いきなり使ってしまったのか、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーはケロリとしたもので。
「え、問題は無いだろう? こっちのハーレイが持ってた抗体なんだし、最初から人間が持ってたわけで…。しかも瓜二つのハーレイだからね!」
そのまま使って問題無し! と胸を張ったソルジャー。
「それにさ、ワクチンは凄く効いたんだよ! もうハーレイはヘタレ知らずで!」
「ま、まさか…」
「本当だってば、現に昨日もガンガンと! あまりの凄さにぶるぅが土鍋から出て来ていたけど、見られていたってヘタレなかったし!」
大満足の夜だったのだ、とソルジャーは意味不明な言葉をズラズラと並べ始めました。会長さんが柳眉を吊り上げ、レッドカードを叩き付けて。
「退場!!!」
「言われなくても、帰るから! ヘタレが治ったハーレイと楽しく過ごしたいしね!」
特別休暇も取ったんだから、とソルジャーは得意満面です。
「あ、そうだ。…こっちのハーレイはワクチンを作る必要があるから、まだまだ当分、ヘタレのままで置いておくからね!」
「…ワクチンはもう出来たんだろう?」
「もっと強力なのが欲しいじゃないか! もっとヘタレたら、抗体だって凄いのが!」
君もハーレイがヘタレてる間は楽が出来るし…、とソルジャーは一方的に語りまくって姿を消してしまいました。ヘタレのワクチンは完成した上、効果もあったみたいです。あのソルジャーが大満足なレベルとなると…。
「…おい、ヘタレのウイルスは存在したのか?」
「そうらしいね…」
この世界にはまだまだ謎が多い、と会長さんが深い溜息。ヘタレのウイルス、あったとは…。
次の日は日曜、ソルジャーは再び会長さんの家に現れ、ワクチンの効能を熱く語りまくり。会長さんがレッドカードを叩き付けたら、「おっと、続き!」と慌てて帰りましたけど…。
「…途中で抜けて来やがったのか…」
迷惑な、とキース君。ソルジャーはキャプテンがシャワーを浴びている間に来たのです。
「…続きってことは、まだまだやるってことですよねえ…」
シロエ君が大きな溜息、サム君が。
「汗をかいたらシャワーだって言ってやがったしなあ、また来るぜ、きっと」
「体力勝負の運動なんだって言っていたしね…」
汗もかくよね、とジョミー君。ソルジャーが言うにはキャプテンのパワーは上がりまくりで、熱棒とやらもガンガン熱くなりつつあるとか。発熱してなきゃいいんですけど…。
「…待てよ、発熱…?」
もしかしたら、と会長さんが考え込んで。
「…キース、それからシロエにマツカ。…ハーレイは先週、鼻風邪を引いてなかったかい?」
「そういえば…。何度か鼻をかんでいらっしゃったな」
「ええ、そうです。それが何か?」
ただの鼻風邪でしたけど、と答えるシロエ君たち。会長さんは「それか…」と腕組みをして。
「それだよ、ヘタレの抗体とやら! ハーレイが持ってた風邪のウイルス!」
「「「ええっ!?」」」
「ブルーはそれを培養したわけ、でもって感染したのが向こうのハーレイで…。風邪で頭がボーッとしちゃって、ヘタレな気持ちが消えたと見たね!」
「「「あー…」」」
ボーッとしてれば、有り得ないこともやりかねません。それじゃキャプテン、只今、順調に発熱中だというわけですか?
「うん、多分…。風邪が治れば、きっと正気に戻ってヘタレになるかと…。鼻風邪の症状が出ていないから分からないんだよ、風邪だってことが!」
だけどブルーはワクチンの効果だと思っているから…、と頭を抱える会長さん。
「効いたと信じているってことはさ、またワクチンを作ろうとするんだよ、ハーレイで!」
「…これからが風邪のシーズンだしなあ、抗体とやらも出来ていそうだな…」
ヤツの勘違いに過ぎないんだが、とキース君が呻いてもソルジャーは聞く耳を持たないでしょう。まあ、会長さんには平和な状態が続くんですから…。
「…冬の間は教頭先生、ヘタレっぱなしかよ?」
「そうなってしまうみたいですねえ…」
風邪のウイルスだと気付かない限りは、とサム君とシロエ君が顔を見合わせ、私たちも。
「…これでいいのかな?」
「あいつがヘタレの抗体なんだと思っているんだ、放っておこう」
俺たちには実害が無いようだから、とキース君。会長さんにも教頭先生からの熱いアタックとかが一切無いわけですし…。
「それじゃ、ヘタレのウイルスは存在していたってことでいいですね?」
シロエ君が纏めにかかって、会長さんが。
「ブルーが自分で気付くまではね、真実に」
いつかは派手な風邪のウイルスに当たって気付くであろう、という見解。その日が来るまで、キャプテンは風邪のウイルスでパワーアップな日々らしいです。教頭先生はワクチン作りのためにヘタレにされたままですけれども、それで平和になるんだったら重症のヘタレも大歓迎です~!
ヘタレの抗体・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
キース君が貰った風邪から、ソルジャーが思い付いたのがヘタレのワクチンを作ること。
そして開発したわけですけど、抗体の正体はまるで別物。まあ、平和ならそれでいいかも…?
次回は 「第3月曜」 6月20日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月といえばGWですけど、連休が終わった後の話で…。