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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(重たそうな荷物…)
 ドッサリだよね、とブルーが眺めた若い女性。学校からの帰りに乗り込んだバスで。
 先から乗っていた女性だけれども、彼女が座った座席の横の床。其処に置かれている荷物。膝の上にあるバッグとは別に、それは重そうな荷物が一つ。
(ワインの瓶まで入ってる…)
 蓋が無いタイプの買い物袋で、溢れるほどにギッシリ詰まった中身。ワインの瓶も覗いている。町の中心部の食料品店まで行って来たのだろう。珍しい食材も豊富に揃った、大きな店へ。
(あれだけ重たい荷物だと…)
 サイオンを使って持っていたって、マナー違反とは言われない。
 誰もがミュウになった時代は、「人間らしく」が社会のマナーでルール。出来るだけサイオンは使わないのが、一人前の大人というもの。本当に困ってしまった時や、必要な時を除いては。
 手に余る重さの荷物を持つなら、サイオンを使ってもかまわない。サイオンも「力」の一つではある。筋肉の力ではないというだけで。
 それを使って「重い荷物」を軽々と運んでいたとしたって、皆、温かく見守るだけ。落とさずに頑張って運べるようにと、心の中で応援しながら。
 あの女性だって、きっとそうしたのだろう。買った荷物をそうやって持って、バスに乗り込んで家に帰る途中。今は荷物は床の上だし、持つ必要は無いのだけれど。
(ぼくだと、サイオン、無理なんだけどね…)
 どんなに重い荷物であろうと、腕の力だけで持つしかない。不器用すぎる今の自分のサイオン、使いたくても使えない力。「これを持ちたい」と考えたって。
(いいな…)
 ああいう荷物を、サイオンで軽く持ち上げること。それが出来たら、と願ってしまう。
 そうする間に、女性は降車ボタンを押した。次のバス停で降りるために。
 バスが停まったら、バッグを持つのとは違う方の手で、床の買い物袋を持った。腰掛けていた席から立ち上がりながら。
(やっぱりサイオン…)
 軽そうにスッと持ち上げたから、間違いない。サイオンで支えて軽くした荷物。空気みたいに。
 なのに…。



(えっ?)
 羨ましいな、と眺めた女性の足がよろけた。降りるために、お金を払った所で。
 いきなり、重たくなったらしい荷物。あの重そうな買い物袋に、引き摺られるようにバランスが崩れてしまった身体。一瞬だけれど。
(…失敗したの?)
 もうサイオンでは支えていない買い物袋。とても重そうに提げている女性。よろけていなくても見ただけで分かる、「荷物が重い」という事実。さっきは軽く持ち上げたのに。
(サイオンで上手く支えられないんだ…)
 集中していれば出来るけれども、何かのはずみで駄目になる人。「お金を払おう」と意識が別の方へと向いた途端に、サイオンが使えなくなったのだろう。それで慌てて、元には戻せないまま。
(ホントに重そう…)
 ぼくみたいに不器用な人なんだろうか、と降りてゆく女性を見送っていたら…。
(あ…!)
 降りた先のバス停にいた、若い男性。彼が女性の大きな荷物に手を伸ばした。ごくごく自然に、「ぼくが持つよ」という風に。
(持ってあげるんだ!)
 恋人だったら当然だよね、と思った荷物。あれほど重い荷物なのだし、おまけに女性は不器用でサイオンを上手く扱えない。此処は恋人の出番だろう。
 けれど女性は、重そうな買い物袋の持ち手の片方しか…。
(渡してない…)
 もう片方は女性の手の中、男性と二人で買い物袋を持つ形になった。半分ずつ、というように。
 男性と女性と、一緒に仲良く提げてゆく荷物。ワインの瓶まで入った袋。
 サイオンはもう使っていないのか、ズシリと重たそうなのを。
 それでも二人で笑い合いながら、それは楽しそうに、足取りも軽く。
(んーと…?)
 どうしてサイオンを使わないの、と思っている間にバスが動き出して、遠ざかっていった二人の姿。重たい荷物を、分け合うように持ったまま。
 二人で一つの買い物袋を、半分ずつ提げて重さを分かち合いながら。



 サイオンを使わなかったカップル。女性の方も、本当は上手くサイオンを扱えるのに違いない。バスを降りるまでは軽々と荷物を持っていたのだし、降りる時に使うのをやめただけ。
(うんと軽そうに持っていたんじゃ、荷物は持って貰えないかも…)
 それに二人で提げることにしても、幸せが減るのかもしれない。空気のように軽い荷物を二人で持っても、「半分ずつ」という気がしないだろうから。
 きっとそうだ、と思ったけれども、それよりも前に、あの大荷物。ワインの瓶まで入った袋。
 あれほどの買い物をして来ることを、男性が知っていたのなら…。
(迎えに行ってあげればいいのにね?)
 バスで来させずに車を出すとか、買い物に一緒に出掛けるだとか。
 そうしていたなら、女性は荷物を持たないで済む。車だったら乗せておくだけ。二人で買い物に出掛けたのなら、男性が持つとか、最初から二人で持つだとか。
 そっちの方が、と考えたけれど。女性に重たい荷物を持たせた、男性が悪く思えたけれど。
 仲が良さそうなカップルだったし、もしかしたら…。
(あの女の人、買い物のことは話してなくて…)
 男性の家に招かれただけで、待ち合わせ場所がバス停だったかもしれない。到着時間を知らせておいたら、男性が其処に来てくれるから。
 せっかく家に行くのだから、と女性が用意して来た食材。ワインまで買って。
(家に着いたらお料理を作って、二人でパーティー?)
 それとも友達も招くのだろうか。買い物袋に詰まっていたのが全部食材なら、二人で食べるには多すぎるから。もっと大勢、人がいないと食べ切れない。
(内輪の婚約パーティーとか…?)
 其処まで大袈裟なものではなくても、友達を呼んで「結婚を決めた」と披露するだとか。
(そうなのかもね?)
 男性の方は、ケータリングでも頼むつもりでいたかもしれない。気軽に頼める店も多いし、家で料理をするよりもずっと楽だから。
 けれど、手料理の方がいい、と女性が考えてサプライズ。
 「作るから」とも、「食材も用意していくから」とも伝えないまま、一人で買い物。重たすぎる荷物を一人で運んで、あの路線バスに乗り込んで。



 そうだったのかも、と合点がいった。女性が一人で大荷物なのも、サプライズの内。男性の方はビックリしたろう、「その荷物は何?」と。
 一目で分かることだけど。ワインの瓶まで覗いているから、「食材なんだ」と。
 女性が料理を作ろうと思って買って来たことも、それが「内緒の計画」だったということも。
(そんなのも素敵…)
 待っている恋人を驚かせたくて、重たい荷物を提げていた女性。サイオンで軽く持てる筈のを、降りる時には「腕の力だけで」提げる形に切り替えたのも。
(ビックリして貰って、喜んで貰えて、荷物も二人で一緒に提げて…)
 きっと幸せに違いない。どんなに荷物が重くったって。
 そう思っている間に、着いた自分が降りるバス停。さっきの女性と同じに降車ボタンを押して、席から立ち上がったのだけど。バスのステップも降りたけれども…。
 降りる途中で、描いた夢。
 もしも自分が重たい荷物を、ドッサリと持っているのなら…。
(ハーレイがいたらいいのにね?)
 降りようとしている、このバス停に。今、足がついた、この場所に。
 にこやかな笑顔で、「持ってやろう」と手を差し伸べてくれるハーレイ。「重そうだから」と、「俺に寄越せ」と。
 本当にハーレイが立っていたなら、「持つぞ」と言ってくれたなら…。
(それを断って、二人で荷物…)
 仲良く提げて行くのがいいよ、と思うけれども、自分の荷物は通学鞄。中身はせいぜい教科書やノート、ワインの瓶なんかは入らない。重くなっても、たかが知れている鞄の重さ。
 それに通学鞄というのは、生徒が一人で提げてゆくもの。学校に出掛けてゆく時に。そのために作られた鞄なのだし、一人で持つように出来ている。形そのものが。
 鞄の重さも問題だけれど、形の方も大いに問題。ハーレイと二人では提げられない。
(…まだ早いってこと?)
 結婚できるくらいの年にならないと、ああいう風にして重たい荷物を提げるのは。
 恋人と重さを分かち合うのは、二人で一つの荷物を持って歩くには。
 やってみたいと思ってみたって、自分がバスから提げて降りる荷物は、通学鞄なのだから。



(あんなの、いいな…)
 重い荷物を持ってたカップル、と家に帰っても思い出す。おやつの後で、自分の部屋で。
 勉強机に頬杖をついて、あのカップルの姿を頭に描く。仲が良さそうだった二人は、今頃は何をしているのかと。
 男性の家に着いたら、多分、一休みしただろう。お茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして。
 買い物をして来た女性がホッと一息入れた後には、重そうだった荷物の中身の出番。中から色々出て来た食材、それで女性が料理を始めていそうな時間。
 野菜を刻んだり、皮を剥いたり、肉に下味をつけたりして。パーティーの時間に、丁度美味しく出来上がるように、あれやこれやと。
(男の人も手伝うのかも…)
 女性が「私が勝手に決めたことだし、一人でやるわ」と言ったって。
 「ぼくもやるよ」と出来る範囲で、二人一緒にキッチンに立って。腕に覚えがある人だったら、役割分担。「これはぼくが」と、「こっちは君が」と、キッチンでの作業を割り振って。
 料理が下手なら、お皿の用意をするだとか。「その料理に合いそうなお皿は、どれだろう?」と女性の意見を聞いては、使いやすいように並べていって。
 料理が出来たら、お客を迎えてパーティーの始まり。
 重たそうだった袋から覗いていたワイン、あれの封を切って。みんなで賑やかに乾杯して。
(ぼくが、ああいうのをやるんなら…)
 ハーレイの家に行くことになる。
 何ブロックも離れた所で、何も持たずに訪ねてゆくにも、路線バスのお世話にならないと無理。
 ハーレイだったら、時間がたっぷりある休日なら楽々と歩いて来るけれど。…天気が良ければ、軽い運動と散歩を兼ねて。時には回り道までして。
(…ぼくは歩けないし、ただ行くだけでもバスなんだから…)
 バス停に着く時間を知らせておいたら、ハーレイは待っていてくれるだろう。帰りに見掛けた、重い荷物の女性を待っていた男性のように。バス停に立って、「もうすぐだよな」と。
 そのハーレイを驚かせるには、約束の時間よりもずっと早くに家を出る。
 ハーレイの家の近くのバス停、其処へと向かうバスに乗らずに、違う方へと行くバスに乗りに。
 いつものバス停からバスに乗っかって、まずは街まで出掛けて行って…。



 さっきの女性も行ったのだろう、街の大きな食料品店。珍しい食材も沢山揃ったお店に入る。
 ズラリと並んだ食料品の棚。新鮮な野菜や肉のコーナー、瓶詰や缶詰なども一杯。二階にだって棚が山ほど、揃わないものなど無さそうな店。
 どんな食材の名前を挙げても、「それでしたら…」と案内される棚。そういう店で買い物から。
(ぼくは飲めないけど、ワインも買わなきゃ…)
 ハーレイはお酒が大好きなのだし、ワインの瓶は欠かせない。赤ワインにしても、白ワインとかロゼワインでも。…ワインには詳しくないけれど。
(このお料理なら、どれが合いますか、って…)
 店で訊いたら、きっと教えて貰える筈。予算に合わせて、「このワインなど如何ですか?」と、棚から瓶を取り出してくれて。
 ワインの瓶は重たいけれども、店の籠に入れて貰って提げる。サイオンで支えられはしないし、自分の腕の力だけで。ガラスのボトルと、中に詰まったワインの重みが凄くても。
(ワインの瓶には負けないんだから…)
 目当ての食材も、メモを見ながら買い込んでゆく。作ろうと思う料理の分だけ、肉や魚や野菜などを。予算の範囲で、けれど出来るだけ上等なのを。
(婚約披露のパーティーとかじゃなくっても…)
 お客は誰も招いていなくて、ハーレイと二人きりの食卓でも、食材はきっとドッサリ山ほど。
 身体が大きいハーレイは普段から沢山食べるし、かなりの量を用意しなくては。それに数だって多いほど喜んで貰えそう。大皿に盛った料理が一つだけより、二つも、三つも。
(お料理が幾つも並んでいたら、それだけで嬉しくなるもんね?)
 食が細い自分でも、色々な料理があれば嬉しい。どれから食べようか、どういう味かと、並んだ料理を目にしただけで心が躍る。「食べ切れるかな?」と少し心配でも。
 だから沢山食べるハーレイには、料理の数も多いほどいいに違いない。「こんなにあるのか」と目移りするほど、色々な料理を作って並べて。
(それだけのお料理を、ハーレイが満腹するほど作るなら…)
 籠の重さは、とんでもないことになるだろう。
 食材だけでも重いというのに、選んで貰ったワインの瓶まで入った籠。会計のためにレジに行くにも、よろめきながらになるのだろうか。「この籠、ホントに重いんだけど…!」と。



 会計が済んだら、もう後戻りは出来ない荷物。それがどんなに重くても。食料品店の人が詰めてくれた中身が、腕が痺れるほどの量でも。
(普通の人なら、そこでサイオン…)
 バスの中で女性がやっていたように、重たい荷物もサイオンで支えてヒョイと提げてゆく。凄い重さをものともしないで、楽々と店の扉の外へ。
 けれど不器用な自分の場合は、そうはいかない。レジの人が「重いですよ?」と声を掛けながら渡す袋は、もう本当に「重い」もの。「ありがとうございます」と受け取ったって、サイオンでは支えられないから。
(…レジの人たち、「大丈夫かな」って見送っていそう…)
 重たすぎる袋にヨロヨロしながら、店を出て行く客の姿を。「サイオンは使わないのかな?」と不思議がったり、「使わない主義の人なのかな?」と感心しつつも、危なっかしいと思ったり。
 なにしろ荷物を落としてしまえば、ワインの瓶が割れそうだから。ワインの他にも瓶詰だとか、脆い食材が詰まっているかもしれないから。
(卵だって、落っことしたらメチャメチャ…)
 使いたい数の卵が無事でも、割れてしまったらやっぱり悲しい。割れた卵で、予定外のお菓子や料理なんかを作るにしても。
 そうならないよう、頑張るしかない。ワインの瓶も、瓶詰も、卵も割らないように。重たすぎる荷物をしっかりと持って、バス停のある所まで。
(バス停の椅子が、空いていたならいいけれど…)
 運悪くどれも塞がっていたら、重たい荷物を提げたまま。人が少なければ、バス停の所で足元に置いてもいいのだけれども、人が多かったらそれも無理。他の人たちの邪魔になるから。
(大きな荷物は、立つ場所を塞いじゃうもんね?)
 提げたり、抱えたりするのがマナーで、普通の人なら、サイオンの出番。軽々と支えて、バスが来るのを待てばいいだけ。荷物には指の一本だけでも添えて。
(…それが出来たら、苦労しないよ…)
 バス停までの道でよろけはしないし、必死の思いで重い袋を提げてもいない。泣きそうな気分になりもしないし、「バスはまだかな?」と何度も伸び上がるだけ。
 「まだ来ないかな」と時刻表を見ては、バスが走って来る方向を。



 ところが、そうはいかない自分。タイプ・ブルーとは名前ばかりで、サイオンの扱いはとことん不器用。思念波さえもろくに紡げないのだし、荷物をサイオンで支えるのは無理。
(誰も気付いてくれないよね?)
 サイオンで荷物を支えられないから、ヨロヨロと立っているなんて。
 ワインの瓶まで詰まった袋を、腕の力だけで提げているなんて。
(そういう主義の人なんだ、って思われちゃって…)
 誰も声など掛けてはくれない。椅子に座った人が「持ちましょうか?」と言ってくれるだとか、隣に立っている人が「重そうですね」と力を貸してくれるとか。
 とても小さな子供だったら、「あら、お使い?」と持ってくれる人もいるのだろうに。赤ん坊を抱いたお母さんでも、空いた方の手を貸してくれるだろうに。…サイオンを使えば簡単だから。
(だけど、ぼくだと…)
 チビの姿の今でさえ、きっと、「腕の筋肉を鍛えているのか」と勘違いされておしまいだろう。
 ひ弱そうに見える子供だけれども、スポーツでもやっているのだろうと。
(今でもそうだし、ハーレイの家に行くような頃のぼくだったら…)
 前の自分とそっくり同じ姿に育って、見た目はすっかり一人前。サイオンを上手く扱えないとは誰も思わないし、「使わない理由があるんだな」と眺めるだけ。「重そうなのに、大変だ」と。
 誰一人助けてくれないのだから、バスに乗るだけでも一苦労。
 バス停で待って、やっとバスが来て、乗り込む時にも提げてゆく荷物。とても重いのに。
(うんと重たいのを、バスの中まで引っ張り上げて…)
 ようやくのことで乗った車内に、空いた座席はあるのだろうか。ハーレイの家に行く途中だし、きっと世間の人も休日。土曜日だとか、日曜日だとか。
(お休みの日には、空いてる路線も多いけど…)
 それとは逆に混むバスもある。平日の昼間は空いていたって、休日の昼間はギュウギュウ詰め。もしもそういう路線だったら、バスの中でも荷物を提げているしかない。
(空いてる席が一つも無いなら、座れないし…)
 今日の女性がやっていたように、座席の脇の床にも置けない。車内が人で一杯だったら、荷物を置くと邪魔になる。邪魔にならなくても、誰かの足が当たったら…。
(ワインの瓶とかは大丈夫でも、卵は割れちゃう…)
 それが嫌なら、自分で提げているしかない。腕が痺れても、卵が壊れてしまわないように。



 考えただけでも大変そうな、ハーレイの家に出掛けるまでの道のり。
 ハーレイの家だけを目指すのだったら、約束の時間に間に合うバスに乗るだけなのに。ゆっくりのんびり支度をしてから、「そろそろだよね」とバス停に行って。
(でも、ハーレイを喜ばせようと思ったら…)
 先に街まで出掛けて買い出し、それも自分には重すぎる量の食料品だのワインだのを。
 店で買う間も「重いんだけど…」と籠を提げて歩いて、店を出た後はもっと大変。運が悪いと、ハーレイと待ち合わせているバス停に着くまで、重たい荷物を提げ続けるしかないのだから。
 そうは思っても、今日のカップルがあまりに幸せそうだったから…。
 あんな風に自分もやってみたいから、頑張るだけの価値はあるだろう。ハーレイの家に出掛ける前に、街の食料品店へ。食材を買って、作りたい料理に似合うワインも買い込んで。
(物凄く重たい袋になっても、頑張って提げて、バスに乗っかって…)
 ハーレイの家の近所のバス停に着く。
 約束の時間に、よろめきながら重たい荷物を手にして、バスのステップを降りて。
 そんな姿で、自分がバスから降りて来たなら…。
(ハーレイ、きっとビックリして…)
 大慌てで荷物を持とうとしてくれるだろう。
 帰りに見掛けた男性みたいに、「俺に寄越せ」と手を伸ばして。あの褐色の腕を差し出して。
 柔道と水泳で鍛えた逞しい腕は、重い荷物も楽々と持てるだろうけれど。「指でも持てるぞ」と言いかねないのがハーレイだけれど、其処で荷物を渡しはしない。
 渡してしまったら、ハーレイに内緒で買い出しに行った意味が無くなるから。
 ヨロヨロしながら其処まで運んで、頑張った意味も、消えて無くなる。
(ハーレイに持って貰うんだったら、一緒に買い出しに出掛けてるってば…)
 こういう料理を作りたいから、と頼んで車を出して貰って。
 あるいは二人で路線バスに乗って、街の大きな食料品店まで。
 そうしなかったのは、ハーレイをビックリさせたいからでもあるけれど…。
(重たい荷物を、半分ずつ…)
 二人で分けて持ちたいから。
 ハーレイに持ち手の片方を渡して、もう片方は自分が持つ。二人で一つの荷物を提げに。



 そうしたいのだし、ハーレイが手を伸ばして来たって、「いいよ」と断る。
 「だけど、半分だけお願い」と荷物の持ち手を片方だけ。「ハーレイが持つのは、こっち側」と二つある持ち手の片方を託す。ハーレイの、褐色の逞しい手に。
 そうして持ったら、半分になる荷物の重さ。半分だったら、きっとよろけもしなくて…。
(ハーレイとお喋りしながら楽しく歩いて、家に着くんだよ)
 素敵だよね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつか荷物を持ってくれる?」
 ぼくが重そうな荷物を持っていたなら、ハーレイ、半分、持ってくれない…?
 全部じゃなくって、半分だけ。…半分だけ持って欲しいんだけど…。
「はあ? 半分って…。どういう意味だ?」
 お前の荷物を持つんだったら、お安い御用というヤツで…。重くなくても、引き受けてやるが?
 ついでに重たい荷物にしたって、お前が持てる程度のヤツなら、俺にとっては軽いモンだな。
 半分と言わず、全部纏めて寄越しちまっていいんだが…。俺にわざわざ断らなくても。
 お前が「お願い」と言い出す前から、俺が横から奪ってそうだが?
 恋人に重たい荷物を持たせるような馬鹿はいないぞ、とハーレイは余裕たっぷりだけれど。重い荷物を持っていたなら、ヒョイと取り上げてしまいそうだけど…。
「ううん、全部じゃ駄目なんだよ」
 半分だけっていうのが幸せ。…ぼくとハーレイと、二人で持つのが。
 ぼくが持つ分、半分になっても重たくてもね。ぼくはサイオンで持つのは無理だし、もう本当に重くっても。
 …でも、それまでは一人で持ってたんだし、半分になったら、きっと楽だよ。
 今日の帰りに、そういう人を見掛けたから…。
 ぼくと違って、ちゃんとサイオンが使える女の人だったけど…。
 凄く重そうな荷物だよね、って見ていた時には、サイオンで楽に持ち上げたんだけど…。
 バス停に着いて降りる時には、サイオン、使っていなかったんだよ。
 急によろけたから、ぼくと同じで不器用なのかと思ったら…。
 そうじゃなくって、サイオンを使わなかったのは、わざとらしくて…。そうなったのはね…。



 バス停で恋人が待っていたから、と話した帰り道の光景。二人で一つの荷物を提げて、楽しげに歩いていったカップル。
 ワインの瓶まで詰め込んだ袋、それを半分ずつ持って。サイオンは使わず、重たいままで。
 「あんな風に二人で歩きたいよ」と、「だから半分だけがいい」と。
「ハーレイが一人で持ってしまったら、荷物を二人で分けられないもの…」
 重さも半分ずつにしたいよ、ハーレイとぼくとで、半分こで。
 重たくっても半分がいい、と繰り返した。腕が痺れるほど重たい荷物を提げ続けた後でも、と。
「腕が痺れるほどって…。そんな荷物を提げ続けるって、いったいどういう状況なんだ?」
 お前は何をやらかすつもりだ、家から持って来るんじゃないのか、その荷物は?
 あのバスはそれほど混みはしないぞ、とハーレイが挙げる路線バス。それはハーレイの家へ直接向かう時のバスで、街へ出掛けた帰りに乗ってゆくバスではない。食料品店で買い出しを済ませた後に乗り込むだろうバスとは。
「えっとね…。ぼくが乗るバス、それじゃないから…」
 バスの路線は調べてないから、空いているのかもしれないけれど…。乗ってみたらね。
 でも、今のぼくは知らないわけだし、混んでいるかもしれないじゃない。…バス停だって。
 ハーレイの家に出掛ける前に、買い物をして行きたいんだよ。今日の女の人みたいに。
 バス停で待ってた男の人は、きっと知らなかったんだろうから…。買い物をして来ることを。
 知っていたなら一緒に行くでしょ、そんな重たい荷物を一人で持たせてないで。
 でも…。あのサプライズも素敵だろうと思うから…。
 ぼくも買い出し、と未来の計画を打ち明けた。実行できるのはずっと先だし、話してしまっても大丈夫。その日が「いつ」かは、自分にも分からないのだから。
「サプライズって…。それで食料品店に行くってか?」
 俺と待ち合わせた時間よりも早くに出掛けて、街の方まで回って来て?
 食材を山ほど買い込んだ上に、ワインまで買って来るって言うのか、お前は酒は駄目なのに。
 ついでにバスが混んでいたなら、重たい荷物を提げっ放しで、座れもしなくて…。
 とんでもない目に遭いそうなのに、お前、街まで出掛けたいのか…?
「だって、サプライズっていうのは、そういうものでしょ?」
 ハーレイがうんとビックリしちゃって、喜んでくれるのが一番。荷物がとっても重たくっても。



 だから楽しみに待っていてね、と微笑んだ。そのサプライズは、ずっと未来のことだから。
「ぼくが学校に通っている間は、多分、無理だと思うから…。よっぽど運が良くないと」
 早い間にハーレイと婚約できていたなら、そういうのだって出来そうだけど…。
 今はチビだし、婚約どころじゃないものね。…サプライズはきっと何年も先になっちゃうから。
 でも頑張る、と右手をキュッと握った。
 前の生の最後にメギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くした右の手。悲しい記憶を秘めた右手が、今度は凄い重さに耐える。左手も一緒に添えるけれども、重い荷物を持つために。
 山ほどの食材と、作りたい料理に似合うワインが入った袋を提げてゆくために。
「ふうむ…。俺を驚かせるために、買い出しに出掛けて行くってか…」
 そいつがお前の夢なのか?
 俺が待ってるバス停までに、重たい荷物で苦労したって。…サイオンで支えて持てはしなくて、バス停でも、バスの中でも座れないままで…。
 床とかに置けるチャンスも無くって、腕がすっかり痺れちまっても…?
 サプライズで提げて来ると言うのか、とハーレイが訊くから頷いた。
「そうだよ、あれをやってみたくて…。それに荷物を二人で持つっていうのもね」
 あのカップルは、とても幸せそうだったから…。
 見ていたぼくまで幸せになって、こんな夢まで見られるくらいに。半分ずつの荷物がいいとか、ハーレイの家に出掛ける前には、街まで買い出しに行こうとか…。
 いいと思うでしょ、ハーレイだって…?
 そのサプライズ、と鳶色の瞳を覗き込んだ。「ハーレイだって、嬉しくならない?」と。
「…それはまあ…。俺だって、お前と二人で荷物を持つのは、楽しそうだと思うんだが…」
 お前の夢の方はともかく、俺としてはだ…。
 そういった時は、俺がお前を迎えに出掛けて行くのがいいな。…バス停で待っているよりも。
 迎えに行くなら車の出番で、車を出したら、もちろん街での買い出しもだ…。
 お前と一緒にしたいと思うわけなんだが?
 バス停で待つよりそっちがいいな、とハーレイが言うから驚いた。自分の夢とは逆様だから。
「…そうなの?」
 ハーレイは迎えに来る方がいいわけ、バス停で待っているよりも…?
 買い出しもぼくと一緒に行くって、本当にそんなのがいいの…?



 それじゃサプライズにならないじゃない、と首を傾げた。楽しさが半減しそうだから。
「ぼくと一緒に出掛けて行ったら、何を作るのか分かってしまうよ…?」
 メモを見ながら籠にどんどん入れてる間は、分からないかもしれないけれど…。
 ワインを買ったらバレてしまうよ、ぼくはワインの選び方なんか分からないんだもの。…お店の人に訊くしかないでしょ、「このお料理に合うのは、どれなんですか?」って。
 ハーレイも横で聞いていたなら、おしまいじゃない…!
 ぼくが作りたいお料理がバレちゃう、と肩を竦めた。食材だけでは謎のままでも、ワイン選びで料理の名前がバレるのだから。
「バレるって…。そんなに必死に隠さなくても、食材を選ぶ所から一緒がいいと思わんか?」
 こういう料理を作るんだから、と言ってくれれば、俺だって食材を選んでやれる。
 同じ野菜を買うんだったら、こっちの方がお勧めだとか。…肉なら、これが美味そうだとか。
 サプライズも悪くはないんだがなあ、共同作業も楽しいもんだぞ?
 食材選びから二人でやって、料理も一緒に作るってヤツ。…俺がお前を手伝って。
 それに第一、お前の腕ってヤツがだな…。
 お前、サプライズで見事に料理が出来るのか…?
 俺の舌を唸らせるほどの美味い料理が、と尋ねられたら自信が無い。今のハーレイの料理の腕はなかなかのもの。プロ顔負けとも言えそうなほどに。
(前に財布を忘れた時に…)
 昼食代を借りに行ったら、「丁度良かった」と、ハーレイのお弁当を分けて貰えた。
 他の先生たちは留守だから、とハーレイが作って来た特製弁当。「クラシックスタイルだぞ」と自慢していた、二段重ねの本格的な和食のもの。
(あんなのも作っちゃうんだし…)
 パウンドケーキも焼けるハーレイ。
 「どうしても、俺のおふくろの味には焼けないんだが」などと言ってはいても。
 それほどの料理の腕の持ち主、そのハーレイに「美味い」と喜んで貰える料理は、今の自分には作れない。少なくとも、今の段階では。
 料理は調理実習くらいしか経験が無くて、レシピを見ながらそれを再現出来たら上等。
 結婚が決まって母に教えて貰うにしたって、ハーレイほどの腕に上達するには時間が必要。



(…ママに習って、頑張ったって…)
 結婚式の日まではアッと言う間で、サプライズの日は、それまでの何処か。料理の腕は、大して上がっていないのだろう。今と全く変わらないままか、少しはマシという程度で。
「…ハーレイを感心させるお料理、難しいかも…」
 どれも上手に作れないとか、一つくらいしか上手く出来ないとか…。そうなっちゃいそう。
 ぼくは頑張ったつもりでいたって、ハーレイの方が、ずっとお料理、上手だから…。
 凄いお料理はきっと無理だよ、と項垂れた。本当にそうなるだろうから。
「ほらな。お前が一人で買いに出掛けて、重たい荷物を提げて来たって、その有様だ」
 そうなるよりかは、買い出しの時から一緒に出掛けて、食材も俺が選んだ方が確かだぞ?
 何を作りたいのか言ってくれれば、肉も魚も、野菜も選んでやれるから。
 食材選びも、日頃の経験ってヤツが大切で…。お前、目利きも出来ないだろうが。
 違うのか、と言われれば、そう。食材を買いに出掛けた経験はまるで無いから、どういう具合に選べばいいのか分かりはしない。魚だったら、魚としか。肉にしたって、豚や牛としか。
「そうだよね…。ぼくだと、ホントに分かってないから…」
 シチュー用とか、ステーキ用とか、そういう風に書いてあるのしか選べないかも…。
 ハーレイだったら、「この料理にはこれだ」って選べるんだろうけど。色々なのがお店に並んでいても。お勧めの魚が色々あっても。
 だからハーレイに任せておくのがいいんだろうけど、でも、荷物…。
 お店で沢山買った荷物を、ハーレイと二人で持ちたいんだよ。
 お料理に合うワインも選んで、うんと重たくなった荷物を。…レジで袋に詰めて貰ったら、凄い重さでよろけそうなのを。…普通の人なら、サイオンで支えて持つようなヤツを。
 それをハーレイと分けたいんだけど…。ぼくが半分、ハーレイが半分。
 ホントに二人で半分ずつ、と頼み込んだ。それでいいなら、買い出しも一緒に行くから、と。
「おいおいおい…。荷物を二人で持つんだったら、買い出しも俺と一緒でいいって…」
 お前ってヤツは、サプライズで料理をするよりも前に、其処がいいのか?
 俺に内緒で買い出しに行って、重たい荷物を提げて来ようって理由はそれか…?
 美味い料理で驚かせるより、凄い荷物で俺の度肝を抜くのか、バスからヨロヨロ降りて来て…?
 「半分持って」と頼むためにだけ、その大荷物を抱えてやって来るってか…?



 なんてヤツだ、とハーレイは呆れているけれど。「荷物なのか?」と目まで丸いけれども…。
「ぼくが最初に、羨ましいな、って思った時には、荷物を持ってただけだったしね…」
 あのカップルは、二人で一つの荷物を持っていただけ。話の中身も聞こえなかったし…。
 重たそうな荷物を持ってた理由は何だったのかな、っていうのは、後から考えたこと。
 バスが走り出してからと、家に帰ってからとで、本当のことは謎なんだけど…。
 でも、ハーレイだって、ぼくの想像、間違っていないと思うでしょ?
「まあ…。当たりだろうな、お前が色々考えてるヤツで」
 きっと今頃は、パーティーの用意で大忙しって所だろう。二人で料理か、女性の腕の見せ所かは知らんがな。…こればっかりは、現場を見ないと分からんことだ。知り合いでなけりゃ。
 それでお前は、あれこれ想像している間に、色々とやりたくなっちまった、と。
 荷物を二人で持つだけじゃなくて、買い出しに出掛けてサプライズだとか。
 しかし、お前は料理の経験は少ないわけだし、腕を磨けるチャンスの方も無さそうだしな…?
 料理は俺に任せておいてだ、荷物だけ、お前も持ってみるか?
 お前の憧れの山ほどの荷物は、俺が選んで買ってやるから。食材も。それにワインの方も。
 それでどうだ、とハーレイが訊くから、「いいの?」と瞳を瞬かせた。食材選びも、料理に合うワインを選ぶのも全部、ハーレイだなんて。…自分は荷物を持つだけだなんて。
「そんなのでいいの、ぼくは荷物を持つだけなんて…?」
 半分だけ持ってみたいから、って我儘を言ってるだけだよ、それじゃ…?
「我儘も何も、美味い料理の方がいいだろ? 同じ食うなら」
 お前が悪戦苦闘するより、経験者の俺に任せておけ。うんと美味いのを食わせてやるから。
 前の俺は厨房出身だったし、今の俺も料理は好きだしな?
 お前は買い出しの荷物だけ持ってくれればいい、と言われたけれど…。
「ハーレイがお料理するんだったら、手伝いたいな。…料理をするのは無理そうだけど」
 前のぼくだって、ハーレイが厨房にいた頃だったら、タマネギを刻んだりしていたよ?
 ジャガイモの皮も剥いてたんだし、今でも少しは手伝えると思う。
 調理実習でやったこととか、簡単なことしか出来ないけれど…。でも…。
 何もやらないより、ずっとマシだと思うから…。
 買い出しを二人でやった時には、ぼくもハーレイのお手伝い…。駄目…?



 迷惑をかけたりしないから、と頼んでみた。「ぼくも手伝いたいんだけれど」と。
 ハーレイの邪魔にならない範囲で、お手伝い。タマネギを細かく刻んでみるとか、ジャガイモの皮を剥くだとか。
「ぼくがやったら焦げちゃいそうだし、お鍋とかには触らないから…。お手伝いだけ」
 包丁で怪我をしそうだったら、「駄目だ」って止めてくれればいいから。
「手伝いなあ…。そのくらいなら、いいだろう」
 同じ切るのでも、カボチャは任せられないが…。あれは固いし、お前だと怪我をしかねない。
 だから何でもいいわけじゃないが、やりたいことは俺に訊け。「やっていいか」と。
 大丈夫だな、と思った時には任せるから。
 お前のペースでやればいいさ、とハーレイは笑顔で許してくれた。俺は急かしはしないから、と「落ち着いてゆっくりやるといい」と。
「ホント?」
 ハーレイがやるより時間がかかっても、いいって言うの?
 鮮度が命のお魚とかだと、ぼくのペースじゃ駄目なんだけど…。
「安心しろ。その辺のことも、ちゃんと考えて任せることにするから。…お前の分の作業はな」
 お前が楽しんでするんだったら、止める理由は無いんだし…。
 重たい荷物を持ちたがるのも、俺は「駄目だ」と止めにかかってはいないんだから。
 ただし荷物は半分だけだぞ、サプライズとやらで全部を一人で買って来るなよ?
 俺が一緒に買いに出掛けて、最初から半分ずつだからな、と念を押された。一人で重たい荷物を持つなと、「サプライズよりは、二人で料理だ」と。
 料理と言っても、ハーレイが料理をするのだけれど。自分は手伝うだけなのだけれど。
「ありがとう、ハーレイ!」
 最初から半分ずつの荷物でも、二人で持てたら幸せだから…。
 お料理だって、ハーレイがやってるのを横で手伝えたら、それだけでぼくは充分だから…!



 ハーレイが「一緒に行こうな」と約束してくれたから、いつか二人で買い出しに行こう。
 街の大きな食料品店まで二人で出掛けて、山のように買って、重たい荷物を半分ずつ持とう。
 ワインの瓶まで入った袋の、持ち手を二人で片方ずつ。重さを二人で半分に分けて。
 家に着いたら、ハーレイがそれで料理を作る。「今日はこれだな」と、慣れた手つきで。
 そのハーレイを手伝いながら、色々なことを教えて貰おう。料理の他にも、様々なことを。
(お皿は其処とか、お鍋は此処とか…)
 そういう風に習って覚えて、ハーレイの家に慣れていったら…。
(結婚だよね?)
 待ち焦がれていた結婚の日がやって来るから、その頃には料理も覚えていたい。
 幾つも上手に作るのは無理でも、一つくらいは「美味いな」と言って貰えるものを。
 ハーレイに「美味い!」と褒めて貰えて、沢山食べて貰える何かを。
(何でも美味しいって言いそうだけど…)
 嬉しそうな顔で食べて貰える何かが作れたらいい。
 基本の中の基本みたいな料理でいいから、自信を持って作れる料理。
(ママが焼いてるパウンドケーキは、ハーレイのお母さんのとおんなじ味で…)
 おふくろの味だと聞いているから、あのケーキはマスターするつもり。
 そうは言っても、パウンドケーキだけが自慢のお嫁さんより、やっぱり得意な料理も持ちたい。
 「おかえりなさい!」とハーレイを迎えて、「今日はこれだよ」と披露できる何か。
 重たい荷物を提げて二人で買い出しをしたら、そういう料理も覚えられたらいい。
 今の腕ではまるで駄目でも、半分ずつの荷物を持てる時が来たなら…。



             半分ずつの荷物・了


※ブルーが見掛けた、荷物の重さを分かち合うカップル。将来、やってみたいと描いた夢。
 叶う時は来そうですけど、ハーレイに任せる部分が大きいかも。荷物の重さを分ける程度で。
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「水切りという遊びがあってだな…」
 知ってるか、と始まったハーレイの雑談。ブルーのクラスで、古典の時間に。
 生徒の集中力が切れて来た時、織り込まれるのが雑談の時間。居眠りしそうな生徒も起きるし、他の生徒も興味津々で耳を傾ける。
 今日の話題は「水切り」なるもの。ハーレイ曰く、調理用語の「水切り」とは全く違うらしい。
「俺が言うのは、石の水切りというヤツだ」
 水の上を石がピョンピョン跳ねて行くんだな、投げてやっただけで。
 普通はドボンと沈みそうだが、そうはならない。先へ先へと弾んで飛んでゆくわけで…。
 だが、サイオンは一切使わないんだ、この遊びには。
 それでも石は水の上を跳ねて飛んでゆく、と言うものだから。
「本当ですか?」
 何人もの生徒が上げた声。サイオン無しで、石が跳ねてゆくわけがない。水の上などを。
 石は水より重いものだし、水に投げたら沈むもの。それが常識、跳ね返ることは無いのだから。
「俺が嘘をつくと思うのか? お前たちを全員騙してやろう、と狙った時なら別だがな」
 しかし、その手の嘘の時には、後で本当のことを言ってる筈だぞ。「騙されたな」と。
 今日の話は嘘じゃない。石の水切りに、サイオンは一切要らないんだ。
 なんと言っても、ずっと昔からあった遊びだからなあ…。この地球の上に。
 人間が地球しか知らなかった時代で、ミュウなんかは何処にもいない頃から。…世界中でな。
 広い水面と石さえあれば出来た、という遊び。石の水切り。
 投げられた石が跳ねた回数を競って遊んだらしい。沈むまでに何度、弾んだのか。
「世界記録ともなれば、信じられないような数だったんだぞ」
 八十回くらいは跳ねたそうだ、と聞かされて皆が仰天した。水面に向かって投げられた石ころ、それが跳ねるだけでも驚きなのに、八十回など、凄すぎるから。
「八十回ですか?」
 誰もがポカンと口を開ける中、ハーレイは「嘘じゃないぞ?」と楽しそうな顔。
「今の時代だと、サイオンなんてヤツがあるから…。ちと厄介になっちまったが」
 昔みたいに世界記録は無理だろうなあ、実際、記録は破られてないし。
 そもそも、記録を取ろうってヤツが何処にもいないんだがな。



 SD体制の時代が挟まったせいじゃないぞ、とハーレイはクラスを見回した。
 機械が統治していた時代は、様々な文化が消された時代。世界記録を作って遊ぶ余裕も無かった時代だけれども、「石の水切り」の新しい記録が生まれない理由は、それではない、と。
「石の水切りは今でもある。遊んでるヤツも多いわけだが、時代は変わった」
 人間は誰でもミュウになったのが今の時代だ。みんながサイオンを持ってる時代。
 サイオンを使えば、石を水の上で跳ねさせるくらいは簡単だから…。千回だって可能だろう。
 そんな時代に、サイオンを使ったか、使わないかを正確に測定してまでは…。
 誰も記録を作らないよな、元々が遊びなんだから。…スポーツじゃなくて。
 そしてサイオンなんかがあるから、純粋に遊ぼうという人間の方も…。
 大昔ほどには数がいないというわけだ。サイオンでズルをしたくなっちまうし、本人にその気が無くてもだな…。
 もう少しだけ、と願えば石は跳ねちまうだろ?
 サイオンの力を受けちまって、というハーレイの説明は正しい。サイオンを使わないのが社会のマナーになってはいても、誰しも使いたくなるもの。何かのはずみに、少しくらいは。
 まして遊びに夢中になったら、無意識に使いもするだろう。水の上を跳ねて飛んでゆく石、その回数を競うのだったら「あと一回」と願ってしまう。石に向かって。
 そうすれば石は一回余計に弾んで、「もっと」と思えば幾らでも。
 サイオンを使った人間の方では、まるで自覚を持たなくても。「もっと飛べばいいのに」と願う気持ちだけで、石を眺めているつもりでも。
 サイオンがあるから、きちんと記録を作るとなったら「ただの遊び」では済まない時代。
 腕に覚えのある人を集めて、サイオンの測定をしながら競うことになる。其処までやって新しい記録を作らなくても、と誰もが考え、今は更新されない記録。水の上で石が跳ねた回数。
「スポーツだったら、世界記録にこだわるヤツらも多いんだが…」
 ただの遊びじゃ、どうにもならん。
 ついでに、石の水切り自体も、遊んでる内にサイオンが絡んでしまうから…。
 「使わないぞ」と自分を戒めながら遊ぶとなったら、それは遊びと呼べるんだか…。
 そんなわけでだ、このクラスだと、純粋に遊べそうなのは…。
 サイオンってヤツを気にもしないで、石を投げて気軽に楽しめるのはだな…。



 ハーレイが其処で言葉を切ったら、クラス中の生徒の視線が集中した。ブルーの上に。
(まだ名前、呼ばれていないのに…!)
 酷い、と思ったら挙げられた名前。「あそこのブルーだ」と。
 ドッと笑ったクラスメイトたち。確かにサイオンを気にもしないで、気軽に遊べそうだから。
 サイオンがとことん不器用なのは、周知の事実。クラスの誰もが知っていること。
(これでもタイプ・ブルーなのに…!)
 ちゃんと出席簿にも書かれている。生徒のサイオンタイプが何かは、何処の学校でも。
 最強のサイオンを誇るタイプ・ブルーは、前の自分が生きた頃ほど珍しくはない。あの時代には前の自分と、ジョミーと、ナスカの子供たちしかいなかったけれど。
 気が遠くなるほどの時が流れて、タイプ・ブルーもずいぶん増えた。そうは言っても、その数はけして多くない。現に、このクラスでも自分一人だけ。
 本当だったら、「タイプ・ブルーなんだって?」と羨ましがられて、尊敬されて、注目の的。
 空を飛べるのか、瞬間移動は出来るのかなどと、皆が「力」を知りたがる筈。
(こんな所で、笑われてなくて…)
 もっと凄くて、何でも出来て、と悔しいけれども、これが現実。
 ハーレイが名前を挙げる前から、皆がこっちを見ていたくらい。「ブルーなんだ」と、不器用なサイオンの持ち主の方を。
 もしも自分が、石の水切りとやらをしようとしても…。
(サイオンなんかは使えないから、自分の力で投げるしか…)
 方法が無くて、石はドボンと沈むのだろう。ただの一回すら弾みもせずに。
 水の上で石が跳ねる遊びは、誰からも聞いたことが無い。跳ねると思ったことさえも無い。
 もちろんコツなんか習っていないし、やり方だって分からない。
「ブルーだったら、もう間違いなく、昔の人間と同じ気分で遊べるだろうな」
 サイオンでズルをしようとしたって、あいつの力じゃ無理だから。
 だが、他のヤツらには難しい。「あと一回」と思えば石は跳ねちまうだろ?
 その辺を心してやってみるんだな、石の水切りに挑むのなら。さて…。
 授業に戻る、と背中を向けたハーレイ。
 みんなの笑いの渦を残して。…笑いの渦の中心に、「不器用なタイプ・ブルー」を置いて。



 とんでもなかった古典の授業。正確に言うなら、雑談の時間。
(今日のハーレイ…)
 酷かったよね、と家に帰ってプリプリと怒る。おやつを美味しく食べ終えた後で、自分の部屋に戻って来て。勉強机の前に座って、今日の出来事を思い返して。
(あんまりだってば…)
 サイオンを全く気にもしないで、石の水切りで遊べる生徒。その例に名前を出すなんて。
 いくら不器用でも、それが本当のことであっても。…クラスのみんながよく知っていても。
(…ぼくだって、タイプ・ブルーなんだよ…?)
 前の自分と何処も変わらない。サイオンタイプも、秘めている筈の能力も。
 けれど、表に出て来ない力。出そうとしたって出ても来なくて、石の水切りなど出来はしない。水面に向かって石を投げたら、沈んでしまって跳ねてくれない。本当に、ほんの一回さえも。
(うー…)
 前の自分だったら、そんなことにはならないのに。
 サイオンを上手く使いさえすれば、世界記録を軽く破れる。八十回くらいは簡単なのだし、千回だろうと容易いこと。なにしろ「ソルジャー・ブルー」だったから。
(シャングリラにあったプールの水面だって…)
 沈みもしないで、水の上を歩いてゆけたほど。
 白い鯨に改造した後、船の中に作られたプール。前のハーレイが其処で泳いでいた時、その横に並んで「歩いて」いた。「ぼくは君みたいに泳げないしね」と、プールの水面を足で踏みながら。
(だけど、今だと…)
 歩くどころか、たちまちドボンと沈むだけ。
 プールに足を踏み出したら。「水の上を歩こう」と考えたなら。
 不器用すぎる今の自分は、プールの水面などを歩けはしない。「タイプ・ブルー」は名前だけ。それに見合った能力となれば無いも同然、思念波さえもろくに紡げないレベル。
(うんと小さい、幼稚園の子でも…)
 今の自分よりはマシにサイオンを使う。それは器用に。
 情けないくらいに「駄目」なのが自分、どうにもこうにもならないサイオン。
 タイプ・ブルーでなかったならば、クラスメイトも、あそこまで笑いはしないのに。



 笑い転げていたクラスメイトたち。「ブルーだったら、確かにそうなる」と可笑しそうに。
 とことん不器用になったサイオン、それは石にも作用はしない。「跳ねて欲しい」と心の底から願っていたって、まるで反映されたりはしない。
(ぼくの力じゃ、どんな小さな石ころだって…)
 跳ねさせられやしないんだから、と分かっている。水面に石を弾かせるなどは、絶対に無理。
 サイオンを使わない方にしたって、やはり跳ねてはくれない石。どうすれば石が水の上で跳ねて飛んでゆくのか、仕組みを全く知らないから。
(どう転がっても、出来やしないよ…)
 水切りなんて、と膨れていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来たから、もう早速に文句を言った。テーブルを挟んで、向かい合わせで座るなり。
「酷いじゃない、今日の古典の授業!」
 なんでぼくなの、ぼくの名前をあそこで出すの?
 これでも、ぼくはタイプ・ブルーで、ぼくのクラスには一人だけしかいないのに…!
「タイプ・ブルーなあ…。確かに名簿にもそう書いてあるが、お前の場合は名前だけだし…」
 俺は本当のことを言ったまでだぞ、サイオン抜きで石の水切りを楽しめそうなヤツの名前を。
 みんなも笑ってくれてただろうが、それは楽しそうに。俺が授業に戻った後にも、まだ笑い声がしていたからな。あっちこっちで。
 雑談ってヤツは生徒に楽しんで貰ってこそだ、とハーレイは謝りさえしない。石の水切りは好評だったし、クラスの生徒の心を見事に掴んだのだから。
 でも…。
「ハーレイは、それでいいかもしれないけれど…。ぼくは笑われちゃったんだよ!?」
 ぼくの名前が出てくる前から、みんなこっちを見ていたし…。
 ハーレイがホントに名前を出すから、クラスのみんなが大笑いで…。
 あんまりじゃない、と不満をぶつけた。不器用すぎるのが悪いとはいえ、タイプ・ブルーだとも思えないサイオン。それを笑われてしまったわけだし、酷すぎる、と。
 なんとも意地悪すぎる恋人。
 あそこで名前を出して来なくても、雑談は充分、クラスのみんなが楽しめた筈。
 石が水の上で跳ねてゆくなど、それだけで「凄いこと」だから。俄かには信じられないほどに。



 何も自分を「笑いの種」に使わなくても、とプンプン怒った。「水切りだけでいいのに」と。
「だってそうでしょ、みんなビックリしていたじゃない!」
 サイオンなんかを使わなくても、石が水の上で跳ねるだなんて…。昔からあった遊びだなんて。
 その話だけで止めてくれればいいのに、ぼくの名前を出すのは酷いよ…!
 ホントに酷い、と膨れたけれども、ハーレイはこう問い掛けて来た。
「なら、訊くが…。そのせいで酷い目に遭ったのか、お前?」
 恥ずかしくて顔が真っ赤になっちまったとか、情けなかったとか、そんな気持ちは別にして。
 俺の授業が終わった後で、誰かに苛められでもしたか?
 笑いの種にされちまったのが原因で…、と鳶色の瞳が覗き込む。「どうだったんだ?」と。
「…ううん……」
 誰も苛めてなんか来ないよ、「やっぱり、お前だったよな」とかは言われたけれど…。誰だって直ぐにピンと来るしね、ぼくだってこと。
 「本当にタイプ・ブルーなのかよ?」って、笑う友達もいたけれど…。でも…。
 苛めた子なんか誰もいないよ、と素直に答えた。
 今の時代は、他の誰かを苛めるような人間はいない。広い宇宙の何処を探しても、どんな辺境の星や基地などに出掛けてみても。
 人間はみんなミュウになったし、ミュウは優しい生き物だから。他の人間の心が見える生き物、そうなればとても出来ない「苛める」こと。相手に与えた痛みの分だけ、自分の心に跳ね返るのが伝わるから。…心を読もうとしていなくても。
 そうやって長い時が流れて、今は誰一人「苛めない」。
 今日も同じで、「サイオンが不器用すぎる」ことを誰もが笑いはしたって、ただそれだけ。皆で笑ってしまえばおしまい、それを種にして苛めはしない。授業が終わった後になっても。
「ほらな。誰もお前を苛めてないなら、問題なんかは無いじゃないか」
 お前が苛められたんだったら、俺も謝らなきゃいけないが…。苛められる種を作ったんだし。
 しかし、そうなってはいない。みんなが賑やかに笑っただけで、それで全部だ。
 ああいった話の種を上手に作ってやるのも、教師の腕の見せ所でだな…。
 クラスの生徒の心を掴んで、ドッと笑って貰うというのが大切なんだぞ、あの手の話は。
 ついでに、サイオンがうんと不器用なヤツが、お前でなければ…。



 名前を挙げてはいないかもな、とハーレイは笑んだ。「お前だからだぞ」と。
「俺が名前を出しちまったのは、お前がクラスにいたからかもなあ…」
 丁度いいのが一人いるぞ、と目に付いたのがお前だったから。
「え?」
 ぼくじゃなかったら、黙っていたわけ?
 名簿とかで誰か分かっていたって、その不器用な子が、ぼくじゃなかったら…?
 どうしてなの、と目をパチクリと瞬かせた。あの雑談を他のクラスでしたなら、ハーレイは名を挙げないかもしれないという。同じように不器用な生徒が一人いたって、伏せたまんまで。
「何故ってか? ごく単純な理由だってな、深く考えてみなくても」
 なんと言っても、お前は俺の恋人だ。いくらチビでも、学校じゃ俺の教え子でも。
 恋人なんだし、みんなに散々笑われちまって赤っ恥でも、ちゃんと許してくれそうじゃないか。
 今みたいに怒って膨れていたって、俺がきちんと「お前でないと」と言ったなら。
 俺の雑談の手伝いが出来たと、お前、思ってくれないのか?
 お前がいなけりゃ、あそこまで皆を笑わせることは出来ないからなあ…。お前の名前を出さない内から、みんなお前を見ていたろうが。「さては、あいつか」と。
 其処で「誰かは想像に任せておく」と終わらせるのと、お前の名前を出しちまうのと…。
 どっちが笑いの種になるかは、考えなくても分かるだろう?
 お前のクラスだったお蔭で、最高に笑って貰えたんだぞ。お前が手伝ってくれたからだな、俺は名前を出しただけだが。
 お前は立派に俺の手伝いをしてくれたんだ、とハーレイは真っ直ぐ見詰めて来た。鳶色の瞳で。
 「そう思わんか?」と、「お前だったから、遠慮なく名前を言えたんだが」と。
「えーっと…。不器用なのが、ぼくだったから…?」
 ぼくはハーレイのお手伝いをしたわけ、「こんなに不器用なのが一人います」って…?
 石の水切り、サイオン抜きでしか遊べないほど、うんと不器用なタイプ・ブルーの生徒が…?
 ぼくの名前だけで、ハーレイの雑談のお手伝いって…。
 そうだったんだ、と気付かされたら悪い気はしない。クラス中の生徒が笑ったけれども、それでハーレイの手伝いが出来たというのなら。
 恋人が授業でやった雑談、それが見事に成功したのが、自分の名前が使われた結果だったなら。



(…みんなに笑われちゃったけれども、あれがハーレイのお手伝い…)
 不器用な生徒が自分でなければ、ハーレイは名前を出さずに終わっていたかもしれない。
 笑われた子が怒っていたって、「すまん」と謝るしかないから。
 「俺を手伝ってくれただろう?」と言うにしたって、御礼が必要。「これで許してくれ」と後でお菓子を渡してやるとか、「次の宿題、お前は出さなくてもいいぞ?」と許可を出すとか。
 けれど、そうではなかった自分。名前を出されて笑われたって、「お手伝い」。大好きな恋人の手伝いが出来て、それは「自分にしか出来ないこと」で…。
 それを思うと、ついつい緩んでしまう頬。許せてしまう、ハーレイのこと。
 さっきまで「酷い!」と怒っていたのに、頬を膨らませもしていたのに。
「どうした、急に黙っちまって? 膨れっ面もやめてしまって、もうニコニコとしているし…」
 お前、嬉しくなってきたのか、俺の手伝いだと聞いた途端に?
 恋人だからこそ出来る手伝いで、他の生徒じゃ出来やしないと聞いちまったら…?
 分かりやすいヤツだな、お前ってヤツは。…お前らしいと言っちまったら、それまでなんだが。
 一人前の恋人気取りでいると言っても、まだ子供だし…。見た目通りのチビだしな?
 心がそのまま顔に出るよな、とハーレイは可笑しそうな顔。「機嫌、直ったじゃないか」と。
「そうだけど…。だって、ホントに嬉しかったから…」
 顔に出ちゃうのも仕方ないでしょ、どうせ、ぼくは子供でチビだってば!
 前のぼくとは全然違うよ、まだ十四年しか生きていなくて、生きた中身も平和すぎるから…。
 嬉しかったら顔に出ちゃうし、悲しい時でも、怒った時でも、それはおんなじ。
 前のぼくみたいに、何があっても表情を変えずにいるなんて、無理。
 三百年ほど生きた後なら、今のぼくでも、頑張ったら出来るかもしれないけれど…。
 でも今は無理で、何でもかんでも顔に出ちゃうよ、本当に子供なんだから…!
 どう頑張っても無理だからね、と繰り返してから、子供ついでに訊いてみた。
 「石の水切りは、どうやるの?」と。
 笑われてしまった原因は、それ。
 水面に石を投げてやったら、弾んで飛んでゆくという雑談。
 サイオンを使えば簡単そうでも、サイオンなどは無かった頃から、地球にあった遊び。
 教室で聞いた話は其処まで、どうすれば石がサイオン抜きでも跳ねるかは聞いていないから。



 子供は好奇心旺盛なもの。同じ子供なら、石の水切りの秘密を知りたい。
 学校では何も聞いていないし、教えて貰ってもいいだろう。こうしてハーレイと二人なのだし、不思議な話の種明かしを。
「サイオンを少しも使わなくても、石が跳ねるって言ったよね? 水の上で…?」
 ずっと昔の世界記録だと、八十回くらいは飛んでくものだったんでしょ?
 どういう仕組みになっているわけ、石は水より重いのに…。投げ込んだら沈みそうなのに。
 それにハーレイ、あんな話をするくらいだから…。水切り、上手に出来るんじゃないの?
 サイオンは抜きで、石を投げたって。…サイオンは少しも使わなくても。
 世界記録に届くくらいは無理だとしても…、と尋ねてみた。ハーレイはきっと、水切りが上手いだろうから。今のハーレイなら、出来る筈だという気がするから。
「そりゃまあ、なあ…? 雑談の種にしてたわけだし…」
 まるで出来ないんじゃ話にならんぞ。お前みたいな質問をするヤツがいたら、困るだろうが。
 「仕組みは知らん」なんて言おうものなら、話自体が「嘘くさい」ってことになっちまう。石が水の上で跳ねるだなんて、嘘に違いないと普通は思うだろうからな。
 とはいえ、世界記録には遠すぎる。八十回なんて、俺には無理だ。
 上手く飛んでも、せいぜい十回くらいってトコか。二十回の壁は厚すぎるってな、サイオンってヤツを使わないなら。
 俺の限界は其処なんだが…、と話すハーレイは、水切りを父に習ったという。隣町に住む、釣り名人のハーレイの父。
 釣りに出掛けたら、川でも池でも水面はある。石の水切りは水面があったら何処でも出来るし、小さい頃から仕込まれたハーレイ。「こうやるんだ」と、水切りのコツを。
「ハーレイの先生、お父さんなんだ…」
 お父さんが得意だったの、趣味の釣りだけじゃないんだね。
 釣りに行くなら、水面は何処でもあるけれど…。水面が無いと、釣りは無理なんだけど…。
「うむ。魚ってヤツは、水の中にしか住まないからな」
 そういう魚が相手の趣味が釣りってヤツだし、水が相手の色々な技もついてくる。
 釣り仲間の間じゃ、水切りの名人、特に珍しくもないってな。
 親父もそうだし、俺に教えないわけがない。「よく見てろよ?」と石をブン投げてな。



 初めて見た時は驚いたのだ、とハーレイが語る石の水切り。水面を跳ねて行った石。
「サイオンなのかと思ったんだが、親父は「違う」とハッキリ言った」
 そんなズルなどしてはいないと、「サイオンを使えば、もっと遠くまで飛ぶもんだ」とも。
 「お前も、コツを覚えれば出来るようになる」と、何度も石を投げるんだよなあ…。
 こうやって、と池に向かって、勢いをつけて。「こういう石を選んで、こう」と。
 「覗き込み過ぎて落ちるんじゃないぞ?」と注意もされていたハーレイ。初めて見た日は、食い入るように池を見詰めていたものだから。石が飛んでゆく方に向かって、「凄い!」と叫んで。
「勢いっていうのは分かったけれど…。石を選ぶの?」
 小さい石だとよく跳ねるだとか、同じ大きさなら軽い石の方がいいだとか…?
 石の重さは色々だものね、と河原の石を思い浮かべる。水が磨いた丸っこい石は、大きさが似た石でも重さが違っているもの。石の詳しい名前はともかく、軽い石やら、重い石やら。
「選ぶってトコは間違いないが…。重さはあまり関係ないな」
 もちろんデカすぎる石じゃ駄目だし、重すぎる石もまるで話にならないが…。
 これくらいだな、という大きさだったら、跳ねやすい石というのがあるんだ。色や重さとは違う基準だな、石の形が大切だから。
 平たい石が一番なんだ、とハーレイは手で示してくれた。「こんな具合に」と形を作って。
 水切りに丁度いい石が見付かったら、水面に向かって投げてやるだけ。
 サイオンなんかは使いもしないで、手だけで石に回転をつけて。それから水に投げる時の角度、それも狙って投げ込むのがコツ。長く跳ねさせるには、スピードも大事。
「んーと…? 最初に石を選んで…」
 幾つも落ちてる石の中から、ピッタリの石を選ぶんだね?
 平たくて、よく飛びそうな石。それを見付けたら、後は投げるだけ…。
 でも、回転をつけてやるとか、石を投げる時の角度とか…。それにスピードも要るんだよね?
 やっぱりそれって難しそうだよ、手品みたい…。
 普通に石を投げただけだと駄目なんだ、と頭の中に描いていたイメージと比べてみる。あの話を教室で聞いた時には、どんな石でも跳ねるものだと考えたから…。
(ウサギみたいにピョンピョン跳ねて…)
 飛んでゆくのだと思い込んでいた。鋭い角度で跳ねてゆくとは思いもせずに。



 石の水切りは、言葉通りに「切るように」石が飛んでゆく。ピョンピョンではなく、ピッピッと水の面を切るようにして。
 サイオンを使わずに飛ぶだけあって、本当にまるで手品のよう。石さえ選べばいいと言っても、回転をつけたり、投げる角度を狙ったり。その上、速いスピードも要る。
「…ハーレイでも二十回の壁があるなら、ぼくの壁だと一回かも…」
 一回も跳ねずにドボンと沈んで、それっきり。…そんな感じになっちゃいそう。
 サイオンを使ってズルも出来ないし、使わずに投げても、絶対に上手くいきっこないし…。
 駄目に決まってる、と肩を落とした。
 ハーレイは雑談の時に「サイオンの心配をせずに遊べそう」だと言ったけれども、そんな自分に水切りは無理。子供の頃から練習を積んだハーレイでさえも、十回くらいしか跳ねないのなら。
「そう悲観したモンでもないぞ?」
 要はコツだし、練習さえすれば、お前でも出来る。二回か三回でいいのならな。
 下手なヤツでも、そのくらいは出来るようになるから、とハーレイに励まされた。才能が無いと嘆く人でも、一回くらいなら石を跳ねさせられる、と。
「ホント?」
 ぼくなんかでも、ちゃんと水切り、出来るの…?
 石の選び方は覚えられても、その先が大変そうなんだけど…。身体が弱いから、キャッチボールとかは滅多にしなくて、投げるだけでも難しくって…。
 角度の方ならまだ分かるけれど、回転なんかは無理だってば。石を回転させるんでしょ?
 野球をやってる友達なんかが、ボールに回転をつけて投げたりするけれど…。
 いつも「凄い」って見ているだけで、ぼくには真似が出来ないんだもの。
 ストンと落っこちていくボールとか…、と思い浮かべた変化球。「こうやるんだぜ」と投げ方をレクチャーして貰っても、一度も投げられたことが無い。ボールの持ち方までがせいぜい。
「変化球なあ…。俺も投げられるが、あれに比べりゃ簡単だぞ?」
 一度覚えりゃ、どんな石でも上手く回転させられるから。
 ボールみたいに大きくはないし、回転をつけるのも楽だってな。それに向いてる石を使えば。
 お前に才能が無いにしたって、一回くらいは跳ねるようになるさ。
 でなきゃ昔に流行りやしないぞ、水切りなんていう遊びが。



 あくまで回数を競っていたんだから、というのがハーレイの励まし。より多く石を跳ねさせれば勝ちで、そんな遊びが普及するには、下手な人間もいないと駄目だ、と。
「俺だと十回くらいなわけだが、ずっと昔の世界記録は八十回を越えてたわけで…」
 八十回も跳ねさせられるヤツが一人で遊んでいたって、誰も注目してくれないぞ?
 十回ほどしか出来ないヤツだの、もっと少ないヤツらだの…。そんなヤツらが「凄い」と褒めてくれたからこそ、腕が上がって記録も残った、と。
 どんなスポーツだってそうだろ、輝いているヤツはほんの一部だ。プロと呼ばれる連中は。
 水切りだってそれと同じで、ずっと昔に流行ってた頃は、下手くそなヤツらが星の数ほどいたと思うぞ。一回跳ねれば上等だ、というような才能の無い連中が。
 だから、お前も頑張ればいい。まずは一回、其処からだよな。
 幸いなことに、お前の場合は、サイオンというズルが出来ないわけだから…。一回だけでも石が跳ねたら、それはお前の実力だ。もう間違いなく、本物の水切りが出来たってな。
 その一回をモノにしたなら、後はお前の努力次第で上を目指せる。二回、三回と。
 三回くらいが限界だろうとは思うんだがなあ、一回きりでは終わらんだろう。いくら下手でも、きちんと練習しさえしたなら。
 お前の腕でも三回くらいは…、とハーレイが言うから、是非やってみたい。三回も続けて跳ねてくれなくても、一回くらいは跳ねさせてみたい。頑張って投げて、サイオンは抜きで。
「ぼくでも投げられるようになるなら、やってみたいな」
 どうせサイオンは使えないんだから、ホントに実力。魔法か手品みたいな水切り、やりたいよ。
 ハーレイ、ぼくに教えてくれない?
 石の選び方とか、どうやって回転をつけて投げるか、そういうのを…。
 お願い、とペコリと頭を下げた。せっかく話を聞いたからには、水切りを覚えてみたいから。
「教えてやりたいのは山々なんだが…」
 しかし、そこそこ大きな水面が無いと、アレを教えるのは無理だ。
 池とか川とか、そういった場所。
 学校のプールなら、初心者用の大きさとしては充分なんだが、石が沈んで迷惑をかけるし…。
 次にプールを使うシーズンがやって来た時に、石拾いもしなきゃいかんから。
 お前一人なら、まだいいとしても、他の生徒も来ちまうからな。練習しようって連中が。



 学校でやってりゃ、そうなるだろう、というハーレイの意見は間違っていない。
 今の季節は使われていない、学校のプール。其処で休み時間にハーレイと水切りの練習をやっていたとしたなら、他の生徒もやって来る。
(ハーレイ、人気者だから…)
 それだけで覗きに来る生徒が大勢。「水切り」などという珍しい遊びの練習となれば、入門する生徒が引きも切らないことだろう。「ハーレイ先生!」と、石まで沢山用意して来て。
(こういう石がいいんですよね、ってホントに山ほど…)
 大勢の生徒が石を持参で、次から次へとプールに投げたら、来年のプールはきっと大変。水泳の授業が始まる前には、何処の学校でもプールの掃除をするけれど…。
(水を抜いて掃除をしようとしたら、石が一杯沈んでて…)
 拾うだけで時間がかかりそうだし、場合によっては「水切り」の練習をしていた生徒を集めて、「石拾い」ということになるかもしれない。「自分で投げた石には、自分で責任を持て」と。
(プールの掃除は、業者さんだけど…)
 石拾いなどは、普通の学校のプール掃除には必要ないこと。綺麗に洗って磨くだけだし、まるで関係ない石拾いの方は「投げた生徒」がするのだろうか…?
「…プールに石を投げ込んじゃったら、確かにホントに大変かも…」
 来年、プールを使う前には、ぼくも呼ばれて「石を拾いなさい」って言われちゃいそう。
 水切りの練習をやっていたのはバレてるんだし、他の生徒もみんな呼ばれて。
「分かったか? 俺だって、きっと呼ばれるぞ」
 お前たちの石拾いの監督ついでに、俺だって拾わされるんだ。投げさせてたのは俺だから。
 そうなっても俺は気にしないんだが、やはり教師としてはだな…。
 学校に迷惑はかけられないから、プールはいかん。初心者向けには似合いの場所でも、あそこで練習するのは駄目だ。
 諦めるんだな、とハーレイは腕組みをした。このポーズが出たら、お許しは無理。
「…水切り、教えて欲しいのに…」
 学校のプールで出来るんだったら、昼休みとかに頑張るのに…。
 石だって毎日、気を付けて探して、いいのを集めて、学校に持って行くのにな…。
 そしたら早く上手くなるのに…。直ぐには無理でも、ぼくでも出来るようになるのに…。



 学校のプールは駄目だなんて、と残念な気分。駄目な理由は分かっていても。
「いい場所、他にあればいいのに…。学校に大きな池があるだとか…」
「無茶を言うな。今の学校じゃ、そういう池は無いと分かっているんだろうが」
 俺もお前に教えてやりたい気持ちはあるが、今は無理だな。プールは使えないんだから。
 いつかお前が大きくなったら、デートのついでに練習するか。
 池がある公園は幾つもあるしな、景色が綺麗な池もあちこちにあるってわけで…。そういう所に出掛けた時には、石を拾って投げればいい。…白鳥とかがいたら駄目だが。
 石が当たったら可哀相だろう、というのは分かる。普通に投げるだけならまだしも、跳ねてゆく石は水鳥たちには危険すぎるから。…飛び過ぎた時に怪我をさせかねないから。
「分かってる…。鳥がいる時には投げないよ」
 ぼくにはそんなつもりが無くても、跳ねちゃった石が当たっちゃうこともありそうだもの。
 二回くらいしか跳ねない石でも、浮かんでる鳥は、急には避けられないもんね?
「そういうこった。石が飛んで来たら逃げはするがな…」
 中には動きが鈍いのもいるし、疲れてる鳥もいるモンだから…。逃げ損なったら可哀相だ。
 気を付けて石を投げることだな、潜ってる鳥もいたりするから、ちゃんと確かめて。
 それに、デートに行けるようになったお前なら…。
 親父に習うという手もあるぞ、とハーレイは思わぬ提案をした。「親父はどうだ?」と。
「お父さんって…。ハーレイのお父さん、名人だよね?」
 水切り、とても上手いとか…?
 ハーレイは二十回の壁があるとか言っていたけど、お父さんには壁が無いとか…?
 八十回は無理だろうけれど、と質問したら、「それは流石に無理ってモンだ」と返った答え。
「親父が其処まで凄いんだったら、今日の授業で自慢してるな」
 俺の親父は、サイオンが普通の時代でなければ、世界記録に挑んでいたかもしれないと。
 親父の方でも、きっとその気で記録を目指していただろう。公式記録には残らなくても、ずっと昔の世界記録と並ぶヤツとか、抜けそうな数を叩き出そうと。
 それは親父には難しすぎるが、なんたって、俺の師匠だぞ?
 「こう投げるんだ」と教えた腕はダテじゃない。
 今も現役で投げてるからなあ、教え方は俺より上手いんじゃないか…?



 ハーレイの父の趣味は釣り。水面が無いと出来ない趣味。
 今でも釣りに出掛けた時には、気が向けば投げるらしい石。落ちている石をヒョイと拾っては、回転をつけて、角度を狙って。
 釣りを始める前に投げたり、竿を仕舞った後だったり。
 もちろんサイオンは使いもしないで、石が跳ねた回数を数えるという。自分が出した最高記録を塗り替えられるか、それとも駄目か、と水を切ってゆく石を見送りながら。
「釣りを始める前か、後って…。釣りの間は投げないの?」
 魚がかかるのを待っている時間、とても長いと思うんだけど…。狙ってる魚によるだろうけど。
 退屈しのぎに投げればいいと思うんだけどな、練習にもなるし。
 腕がグンと上がりそうなのに、と首を傾げたら、「釣りの最中だぞ?」と呆れたハーレイ。
「魚は水の中にいるんだ、そんな所へ石を投げ込んでみろ」
 餌なら寄っても来るんだろうが、石だと魚が逃げちまうじゃないか。…怖がっちまって。
「そっか…。鳥でも逃げてしまうんだものね…」
 魚も逃げるね、頭の上を石がピョンピョン跳ねて行ったら。…音にもビックリするんだろうし。
 だけど、水切り…。
 面白い遊びだね、石と水面があれば何処でも出来るんだから。
「サイオンが普通になった今では、上手く出来ても尊敬しては貰えないがな。昔のようには」
 世界記録を作ろうって動きが無くなるくらいだ、上手く投げてもサイオンだろうと思われる。
 本人は全く使ってなくても、傍から見ればそうなるだろうし…。
 下手な間は、無意識の内にサイオンを使っちまうだろうし。
 俺だって、正直、使っていないという自信は無い。十回を越えたら危ういかもなあ、もう少しと思うモンだから。…自分では使っていないつもりでも。
 この俺でさえ、その始末だ、とハーレイが明かす水切りの事情。今の時代は、誰もがサイオンを持っているから、昔のようには数えられない記録。ただの遊びにサイオンの計測装置は無粋。
「それがちょっぴり残念かも…」
 ぼくなら、サイオン、少しも関係ないのにな…。
 ハーレイが授業で言ったみたいに、ぼくだけは昔の人と同じに遊べるんだよ。
 うんと不器用で、サイオンなんかは使いたくても使えないから…。ホントに実力なんだから。



 石が跳ねていく回数を増やせはしないよね、と零した溜息。
 今の時代は、ハーレイでさえも「自信が無い」と言うほど、誰もがズルをしそうな時代。跳ねてゆく石に向かって「もう少し」と願ってしまって、無意識の内に使うサイオン。
 けれども、今の自分には無理。どんなに強く願ってみたって、石は跳ねてはくれないから。
「お前が石を投げた場合は、実力か…。サイオンでズルは出来なくて」
 皮肉だよなあ、今のお前も前と同じでタイプ・ブルーなのに。
 前のお前なら、水の上でも平気で歩いてたのに…。石をサイオンで跳ねさせるどころか、少しも濡れずに水の上を歩いていたもんだ。
 あの力は何処へ行ったんだか…。とことん不器用になっちまって。
「今だと沈んでおしまいだよ!」
 石の水切りも出来ないけれども、ぼくだって沈んじゃうってば!
 プールでも池でも、水の上なんかを歩こうとしたら、ドボンと沈んでしまうんだよ…!
 もう真っ直ぐに落っこちちゃって…、と嘆いた自分の不器用さ。石さえ跳ねさせられない力は、自分の身体も支えてくれない。重いものは沈む水の上では。
「真っ直ぐにドボンと沈むのか。その姿が目に浮かぶようだが…」
 沈んじまうようなお前がいいな、とハーレイが浮かべた優しい笑み。
 石の水切りでさえもズルが出来ない、不器用なサイオンを持った今のお前が…、と。
「…なんで?」
 沈んじゃうほど不器用なんだよ、そんなぼくの何処がいいって言うの?
 クラスのみんなも笑っちゃうほど、ぼくのサイオン、不器用すぎてどうしようもないのに…。
「何度も言ったと思うがな? そんなお前だから、今度こそ俺が守ってやれると」
 前のお前だと、俺にはとても守れなかったが、今のお前なら…。
 水切りの練習中に池にドボンと落ちてしまっても、飛び込んで助けられるしな?
「ホントだ、前のぼくだったら…。落っこちたって、濡れもしないんだものね」
 バランスを崩したら、すぐにシールドを張ってしまって、落っこちた池からヒョイと上がって。
 助けに飛び込んで貰わなくても、ちゃんと自分で。
「そうなんだよなあ、前のお前だと」
 俺の出番は全く無かった。…今のお前が同じ力を持っていたって、そうなるんだが…。



 お前は持っちゃいないから、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「今度はお前を守らせてくれ」と、「不器用なお前は、俺が守る」と。
 水切りの練習をしている最中に池に落ちたら、今の自分は沈むだけ。ドボンと真っ直ぐ。
 そうなった時は、ハーレイが飛び込んで助けてくれて、ちゃんと岸にも押し上げてくれる。
 頼もしい腕でグイと支えて、「早く上がれ」と。
 そのハーレイは、真剣な顔でこう口にした。
「しかしだ…。頼むから、お前は池には落ちてくれるなよ?」
 濡れたら風邪を引いちまうから、と気を付けるように念を押されたけれど。
 そう注意するハーレイの気持ちも、分からないではないけれど…。
 落ちてみたい気がしないでもない。
 水切りの練習中に落ちた時には、ハーレイが飛び込んで、直ぐに引き上げてくれるから。
 「石でも上手に跳ねていくのに、お前が落ちてどうするんだ」と、小言なんかを言いながら。
 ゴシゴシ拭かれて、「風邪を引くぞ」と心配されて、そんな時間もきっと幸せだろう。
 水の上を歩けない不器用な自分になったからこそ、池の水にも落っこちられる。
 冷たくても、風邪を引いてしまっても、ハーレイと持てる幸せな時間。
 だから池にも落ちたっていい。石を思い切り投げたはずみに、頭からドボンと落っこちても…。



              石の水切り・了


※石の水切りという遊び。サイオンが普通な時代の今、ズルが出来ないのはブルーくらい。
 サイオンが不器用になってしまったせいですけど、その分、ハーレイに守って貰えるのです。
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(あれっ、ウサギだ…)
 それに大きい、とブルーが眺めたもの。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 ウサギと言っても本物ではなくて、彫刻のウサギ。道沿いの家の門扉の前に置かれていた。道をゆく人によく見えるように、空きスペースの真ん中に。
 なんという石か、ブルーグレーの石を彫り上げて作ったウサギ。座った形でコロンと丸い。
(おじさんの趣味かな?)
 この家の御主人は顔馴染み。
 よく出来ている、と石のウサギの頭を撫でた。側に屈み込んで。
 膝の下あたりまで高さがあるほど、大きなウサギ。石は綺麗に磨き上げられて、触るとスベスベしている表面。いい天気だから、太陽の光で温まって…。
(本物のウサギみたいにホカホカ…)
 あったかい、と背中や尻尾も撫で回していたら、突然、上から声がした。
「ブルー君、今、帰りかい?」
 えっ、と見上げると、門扉の向こうに家の御主人。慌ててピョコンと頭を下げた。
「こんにちは! ウサギ、勝手に触っちゃって…」
 ごめんなさい、と謝ったけれど、御主人は「かまわないよ」と門扉を開けて表に出て来た。
「道を通る人に見て貰うために置いたんだしね。見るのも触るのも、お好きにどうぞ」
 でなきゃ置いてる意味がないよ、と笑顔の御主人。「撫でて貰えばウサギも喜ぶからね」とも。
「このウサギ、おじさんが作ったの?」
「まさか。粘土のウサギだったらともかく、石の彫刻なんかは作れないよ」
 腕も無ければ、道具も無いさ、と御主人はウサギの頭をポンと叩いた。「とても無理だね」と。
 ブルーグレーの石で出来たウサギは、御主人の友達が作ったらしい。石の彫刻を趣味にしている人。せっかく見事に出来たのだから、大勢の人に見て貰いたい、と巡回中。
 この家の御主人の所にやって来たように、彫り上げた人の友達の家を順番に。一週間ほど飾って貰って、次の家へと引越してゆく。運ぶ途中で壊れないよう、梱包されて。
 そう聞くととても立派だけれども、石のウサギは「趣味の作品」。
 何かの賞を取ったわけではないという。今の所は、コンクールなどに出されてもいない。本当にただの趣味の彫刻、知り合いの家を順に回ってゆくだけの。



 御主人の話では、「ただの趣味」のウサギ。ちゃんとウサギに見えるどころか、今にもピョンと跳ねそうなのに。座っているのに飽きてしまったら、「遊びに行こう」と。
 石で出来ていても、生き生きしているブルーグレーの大きなウサギ。いい彫刻だと思うのに…。
「これでも賞は取れないの?」
 凄く素敵なウサギなのに…。動き出しそうなほど、よく出来てるけど…。
「ただの趣味ではねえ…。コンクールなんかに出してみたって、難しいんじゃないかな」
 本人もそれが分かっているから、こんな具合に展覧会をしているんだよ。あちこちの家で。
 もっとも、趣味で彫るだけはあって、いっぱしのことを言ってるけどね。
 この石の中にはウサギがいたとか、そういう一人前の台詞を。
 上手なんだか、下手なんだか…、と御主人はウサギを眺めている。「それでウサギだよ」と。
「ウサギって…。この石の中に?」
 これ、とウサギを指差した。ブルーグレーの石の塊を。…今はウサギになっている石。
「そうさ。この石はウサギになりたかったらしいよ、こういうウサギに」
 同じ動物でも、ライオンとかでは駄目なんだ。犬も駄目だし、猫も駄目だね。ウサギでないと。
 ウサギになりたい石なんだから、と笑った御主人。
 このウサギを彫った人が言うには、ウサギになりたい石の中にはウサギがいるもの。ただの石にしか見えないようでも、中にはウサギが住んでいる。それを彫り出すのが彫刻家。
 石に隠れているウサギを見付けて、「出して欲しい」という声を聞いて。
「そうなんだ…。最初からウサギが入ってたんだね」
 この石の中に、このウサギが。…それを見付けたのが、おじさんの友達…。
「そうらしいねえ、彫った本人に言わせると。この石にはウサギが隠れてたようだ」
 昔からそう言われるようだよ、彫刻をする人の間では。…その友達から聞いたんだけどね。
 本当の彫刻家は、彫るものの声を聞くらしい。…いや、見付ける目を持ってるのかな?
 彫ろうとしている材料の中に何がいるのか、何になりたいと思っているか。
 石だけでなくて、木の彫刻でも同じだね。名作と言われる彫刻なんかは、どれも彫刻家が中身を上手く彫り出した結果だという話だよ。
 彼に言わせれば、このウサギだって「ウサギになりたい」と言っていたわけだから…。
 声だけは聞こえたというわけなのかな、ちゃんとウサギになっているしね。



 名作と呼べるかどうかはともかく、と御主人はウサギを撫でていた。「でもウサギだね」と。
 それから暫くウサギを眺めて、撫で回したりして、「ありがとう」と御礼を言って家に帰った。石のウサギにも、「さようなら!」と手を振って。
 自分の部屋で制服を脱いで、ダイニングに行って、おやつを食べながら考えたこと。さっき見て来た、石で出来たウサギ。あの家の門扉の前に置かれて、今も座っているのだけれど…。
(ウサギになりたかった石…)
 御主人はそう言っていた。ブルーグレーの石の元の形は知らないけれども、中にウサギを隠していた石。今のウサギになる前は。
(丸い石だったか、ゴツゴツの石か、ぼくには分からないけれど…)
 御主人の友達はあの石に出会って、「ウサギの石だ」と中身を見抜いた。彫刻が趣味の人だから分かった、石の正体。さっきの御主人や自分が見たって、きっとウサギは見付からない。
(ああいう色の石の塊…)
 石があるな、とチラリと眺めて、そのまま通り過ぎるのだろう。ウサギには気付かないままで。石の中に隠れて、「外に出たいな」と、待ち焦がれているウサギが入っているのに。
(分かる人にしか、分からないウサギ…)
 そう考えると面白い。ウサギを隠していた石のこと。
 河原などにある丸い石だったか、山にあるようなゴツゴツの石か。ウサギは其処に隠れていた。あの御主人の友達が見付け出すまで、「ウサギを彫ろう」と考えるまで。
 自分はウサギを見付けることは出来ないけれども、とても素敵だという気がする。ああいう風にウサギなんかが、石の中から出てくるなんて。
(地球の上には、石が一杯…)
 山にも川にも、海辺にも石が転がっている。それは沢山、数え切れないほどの石たちが。
 丸い石やら、ゴツゴツの石や。抱え切れないような石から、ヒョイと持ち上げられる石まで。
 大理石のような石になったら、石切り場から切り出されもする。彫刻の素材や、建築用にと。
 そういう石に隠れたものを、見付け出すのが彫刻家。「この石は何になりたいのだろう?」と。
 石をじっくり見ている間に声がするのか、一目で中身が分かるのか。
 色々なものになりたい石を、彫刻家たちが彫ってゆく。石の声を聞いて、中に隠れたものを。
 今も昔も、せっせと彫っては石の中身を外に出す。帰り道に見たウサギみたいに。



 地球の上には石が沢山、ウサギになりたい石もいる。ライオンとかになりたい石も、他の動物が隠れている石も。
(地球じゃなくって、他の星でも…)
 探してみたなら、ウサギになりたい石が見付かるのだろうか?
 彫刻家ではない自分には無理でも、それが趣味の人や、プロの彫刻家が探しに出掛けたならば。
 地球は一度は滅びたけれども、生命を生み出した母なる星。
 その地球の上にある石だったら、ウサギもライオンも知っている。滅びる前の地球には、沢山の生き物たちがいた。地球は彼らの姿を見ていて、石たちも記憶しただろう。ウサギやライオンや、空を飛んでゆく鳥たちを。
(ちゃんと知ってるから、石の中にもウサギやライオン…)
 彼らの姿が入り込む。ウサギになりたい石も生まれれば、ライオンになりたい石だって。
 けれど、地球とは違う星。
 テラフォーミングされた星の上にも、そういった石はあるのだろうか?
 今は宇宙に幾つも散らばる、人間が暮らしている星たち。生命の欠片も無かった星でも、年月をかけて整備していって。木や草を植えて、海も作って。
 その星の上にも石はある。それこそ人が来るより前から、何も棲んでいない星だった頃から。
 其処にあった石はどうなのだろうか、中にウサギは入っているのか。
(最初からウサギがいない星でも、ウサギになりたい石とかがあるの?)
 中にウサギを隠している石。「早く出たいな」と、ウサギになれる日を待っている石。そういう石が他の星にもあるのか、それともまるで無いというのか。
(ウサギとかが住んでた、地球の石でないと…)
 中にウサギは入っていなくて、いい彫刻は作れないだとか。彫刻家たちが頑張ってみても、中にいるものが無かったならば、名作は生まれて来ないとか。
(まさかね…?)
 今の時代は、彫刻家だって大勢いる。あちこちの星で活躍している芸術家たち。
 石を相手にする彫刻家も多いわけだし、地球の石だけでは足りないだろう。どれほど地球の石が多くても、山にも川にも沢山の石が転がっていても。
 地球の石でしか名作を彫ることが出来ないのならば、彫刻家の数もグンと減ってしまいそう。



(…石を探しに地球に来るのも…)
 大変だよね、と思う宇宙の広さ。ソル太陽系の第三惑星、水の星、地球。
 此処まで来ないと「名作を作れる石」に出会えないなら、彫刻家を志す人だって減る。ふらりと山や河原を歩いてみたって、「石の声」に出会えないのなら。地球でしか、それが出来ないなら。
(地球に来るには、時間もお金も…)
 かかるのだから、彫刻家の卵たちは諦めてしまうことだろう。余程の才能が無い限り。師と仰ぐ人が褒めちぎってくれて、「君なら出来る」と何度も励ましてくれない限り。
(褒めて貰ったら、いつかは地球の石を使って名作を、って思うだろうけど…)
 そうでない人は「どうせ才能が無いのだから」と投げ出してしまって、それでおしまい。地球の石にさえ出会えていたなら、名作を彫れたかもしれないのに。
(そんなのだったら、彫刻をする人、ホントにうんと少なくなって…)
 高名な彫刻家は地球の人ばかりで、でなければ地球から近い星の人。いつでも気軽に石を探しに地球まで旅が出来る人。
 けれど、そうなってはいない。ソル太陽系から遠く離れた星にも、彫刻家たちは大勢いる。石があったら、とても見事な作品を彫り上げる人たちが。
 「地球の石でないと駄目だ」と聞いたことなどは無いし、何処の星でも彫刻に向いた石はある。大理石だって、他の様々な石だって。
(他所の星でも、きっと、神様が色々な魂…)
 それを石の中に入れるのだろう、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
 空になったカップやケーキのお皿を、「御馳走様」とキッチンの母に返してから。
(…さっきのウサギは、地球の石だけど…)
 地球の石だから、中にウサギが入っていたって少しも不思議は無いけれど。
 他の星でも、きっと神様が、石の中に色々入れてくれるに違いない。人間が暮らすようになった星なら、石の中にもウサギや、ライオン。犬や猫だって、鳥だって。
(人が暮らせる星になったら、彫刻家になりたい人も生まれてくるし…)
 その人たちが困らないよう、神様が石に魂を入れる。ウサギやライオンを隠しておく。
 今の仕組みはきっとそうだ、と勉強机の前に座って頬杖をついた。
 何処の星でも、ウサギが入った石が見付かるのだろう、と。人間が暮らす星なら、きっと。



 今日の自分が出会ったウサギは、石の彫刻。ブルーグレーの石を彫り上げたもの。
 あのウサギを家の前に飾っていた御主人の友達は、石の中に隠れたウサギを見付けた。彫刻家が石を目にした時には、「何になりたい石」なのか分かる。ウサギだろうと、ライオンだろうと。
(木彫りも同じなんだよね?)
 石と同じで、木の中に何かが隠れているもの。御主人はそう話していた。石と木とでは、素材が違うというだけのこと。中にいるものを「見付けて」外に出してやるのが彫刻家。
 あちこちの星の石に神様が魂を入れるのだったら、木だって同じことだろう。テラフォーミングして木を植えたならば、その星の上には人間が住む。ちゃんと環境が整ったなら。
(海を作って、川とかも出来て…)
 もう充分だ、と判断されたら、作業員たちは引き揚げて行って、代わりに移住してゆく人たち。其処で人間たちが暮らし始めたら、石にも木にも、神様が魂を入れてゆく。
(彫刻をする人がそれに出会ったら、中のウサギとかが見付かるように…)
 中に隠れたものを見付けて彫っては、いろんな彫刻が出来るのだろう。地球でなくても、元々は何も棲んでいなかったような星でも。
 神様が中に入れた魂、ウサギやライオンを見付け出しさえすれば。木や石を彫る彫刻家たちが、中に隠れた色々なものを、上手く彫り上げてやったなら。
(そうやって、何処の星でも、名作…)
 地球でなくても、素晴らしい彫刻が生まれるのだ、と思った所で気が付いた。
 帰り道に見た石のウサギは、なかなかの出来。今にも跳ねてゆきそうだったのに、コンクールで賞を取ってはいない。あの御主人は「難しいだろうね」と言ったけれども、上手ではあった。
 けれど、あれとは正反対のものを、前の自分は知っている。
(前のハーレイ…)
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。キャプテン・ハーレイと呼ばれていた人。
 前のハーレイは木彫りを趣味にしていたけれども、とても下手くそな腕前だった。あれが本当の下手の横好き、「彫らない方がマシ」と言えるほど。
 何を彫っても、ハーレイが目指した「芸術品」が出来はしなかった。彫ろうとしていたものとは違った彫刻が出来て、誰もが笑ったり、顔を顰めたり。
 どう見ても、「そうは見えない」から。まるで違った「変なもの」しか出来ないから。



 木彫りが趣味でも、お世辞にも「上手い」とは言えなかったのが、前のハーレイ。懸命になって芸術品を彫れば彫るほど、「下手だ」と呆れられ、墓穴を掘っていたようなもの。
 スプーンやフォークといった実用品なら、それは上手に彫れたのに。頼んで彫って貰う仲間も、何人もいたほどなのに。
 けして「腕が悪かった」わけではない彫刻家が、前のハーレイ。腕が悪いのなら、実用品などを彫っても下手くそな筈。曲がったようなスプーンが出来たり、歪んだフォークが出来上がったり。
 けれど、そうなってはいない。
 実用品なら引っ張りだこの腕前、芸術品だけが「とんでもない出来」に仕上がったのなら…。
(…ひょっとして、ハーレイ…)
 神様が木の中に入れた魂、それを見ないで芸術品を彫っていたのだろうか?
 石や木たちの声が聞こえる、本物の彫刻家たちとは違って。…「これを彫るのだ」という自分の考えだけで、木に挑んでいた「彫刻家」。
 木という素材を相手にするのが上手かっただけの、芸術とは無縁の製作者。学校の授業で工作をするのと同じレベルで、「上手く彫れる」というだけのことで。
(前のハーレイ、そうだったのかも…)
 なまじ上手に彫れるものだから、ハーレイ自身は芸術家気取り。ナイフ一本で器用に仕上げて、スプーンもフォークも誰もが喜ぶ出来だったから。
 ところがハーレイの中身はと言えば、「木の声なんかは聞こえない人」。本物の彫刻家の域には達していなくて、木の塊の中に「何かがいる」とは気付かないタイプ。
 木の中に何が隠れているのか、それを見ないで強引に彫っていったなら…。
(…ナキネズミだって、ウサギになるよね?)
 前のハーレイが、彫ろうとしていたナキネズミ。
 赤いナスカで生まれたトォニィ、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。ミュウの未来を担う子供で、誰もが誕生を喜んだ。古い世代も、新しい世代も。
 そのトォニィの誕生を祝って、前のハーレイは自慢の木彫りを始めた。ブリッジで仕事の合間を見付けて、いつものナイフ一本で。トォニィにオモチャを作ってやろうと。
 きっとトォニィも喜ぶだろうと、ナキネズミを彫ることにしたハーレイ。ミュウとは馴染み深い生き物、思念波を使える動物を。…けれど出来上がったものは、誰が見たってウサギそのもの。



 ああなったのは、ハーレイの腕のせいではなくて、「彫刻家ではなかった」せいなのだろう。
 前の自分は深い眠りの中にいたから、現場を見てはいないけれども…。
(…ハーレイがナキネズミを彫るために…)
 倉庫に出掛けて、取り出して来た木の塊。趣味の彫刻のためにと残しておいた、シャングリラで育てた木材用の木の切れ端。狂いが出ないよう乾燥させては、取り出して彫っていたけれど…。
(これにしよう、って選んで、倉庫の中から出して来たヤツ…)
 その木の中に隠れていたのは、ナキネズミではなくて、ウサギだったに違いない。ナキネズミになりたい木とは違って、ウサギになりたいと思っていた木。
(でもハーレイには、木の声なんかは聞こえなくって…)
 木の中にいるものも見えはしなかった。彫刻家ではなくて、「木」という素材を彫るのが得意なだけだから。スプーンやフォークを上手く作れる、器用なだけのただの人間。
 ハーレイは「ウサギになりたい」木とは気付かず、木の塊を彫り進めた。自分が彫ろうと思った動物、ナキネズミを木から彫り出すために。
 けれど中には、ウサギだけしか入っていない木。ナキネズミなどは何処にもいない。ハーレイが頑張って彫れば彫るほど、ウサギは外に出たくなるから…。
(中のウサギが、我慢できずに出て来ちゃって…)
 ハーレイの木彫りが完成した時、其処にいたのは一匹のウサギ。…ナキネズミとはまるで違った尻尾の、長い二本の耳をしたウサギ。
(…出来上がったのが、ウサギだったから…)
 トォニィの母のカリナはもちろん、他の仲間たちも「ウサギなのだ」と思い込んだ。ハーレイも「違う」と言えはしなくて、それっきり。
 トォニィは「ウサギになった」ナキネズミを大切にし続け、後の時代まで残った「ウサギ」。
 「ミュウの子供が沢山生まれるように」という祈りがこもった、お守りなのだと信じられて。
 今ではウサギは宇宙遺産で、博物館の収蔵庫の中。レプリカの展示も大人気。
(…なんでナキネズミがウサギになるの、って思ってたけど…)
 前のハーレイの木彫りの腕にも呆れたけれども、原因は「ウサギになりたかった木」。
 それなら分かる、ナキネズミがウサギに変身したこと。前のハーレイが選んだ木には、ウサギが入っていたのなら。…ナキネズミが入っていなかったなら。



 きっとそういうことなんだ、と納得がいった「宇宙遺産のウサギ」。今のハーレイに聞かされるまでは、今の自分も「ウサギなのだ」と思い込んでいた、ナキネズミの木彫り。
(前のハーレイが作った、他の木彫りも…)
 あれと同じで、無理やり彫るから変な出来上がりになったのだろう。
 ヒルマンが頼んだ、知恵の女神ミネルヴァの使いのフクロウ。それはトトロになってしまった。SD体制が始まるよりもずっと昔の日本で愛された、可愛いオバケのトトロの姿に。
 他にも酷い彫刻は沢山、どれも原因は同じだと思う。前のハーレイが強引に彫ったこと。
(木の声を聞いてあげないから…)
 神様が木たちに与えた魂、その声を聞かずに彫ったハーレイ。自分が彫ろうと思ったものを。
 そのせいで酷くなったんだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。前のハーレイ、木の声をちゃんと聞いていた?」
 神様に貰った魂の声を、前のハーレイは、きちんと聞こうとしていたの…?
「はあ? 魂って…?」
 魂の声を聞いていたかと言われても…。前の俺は、そういう仕事をしてはいないが…?
 俺がキャプテンだったことを抜きにしてもだ、前の俺たちが生きた時代に、そんな仕事は…。
 今の時代も無いんじゃないのか、ずっと昔の地球にだったら、幾つもあった職業なんだが。
 神様の声を聞く人間とか、魂を呼び出す人間だとか、と見当違いなことを言い出したハーレイ。とうの昔に廃れてしまった、古典や歴史の世界の職業の名前を挙げ始めて。
「そうじゃなくって、木彫りだってば!」
 前のハーレイ、いろんなものを彫っていたでしょ、シャングリラで!
 あれを彫る前に、木の声を聞いてあげていたのか、それを質問しているんだよ…!
「木の声だって?」
 いったいお前は何が言いたいんだ、木は喋らないと思うがな…?
 黙って生えているだけなんだし、せいぜい葉っぱや枝が擦れて鳴るだけで…。
「それは生きてる木のことじゃない! ぼくが言うのは、木彫り用の木!」
 伐採した木の残り、貰って倉庫に仕舞っていたでしょ?
 あれを使って何かを彫る時、その木の声を聞いていたのか、知りたいんだよ…!



 今日の帰りに聞いたからね、と披露した話。顔馴染みの御主人に教えて貰ったこと。
 ブルーグレーの石の中にいて、御主人の友達に彫って貰って出て来たウサギ。中にウサギがいる石なのだ、と見付けて貰えて、今は立派なウサギの彫刻。門扉の前にチョコンと座って。
 彫刻の類はそういったもので、「中にいるもの」を彫り出してゆく。木の彫刻でも同じだ、と。
「ぼくが見たウサギは、あの石の中にいたんだよ。…ウサギの彫刻になる前にはね」
 丸い石だったのか、ゴツゴツの石かは知らないけれど…。中にウサギが入った石。
 そういう石を何処かで見付けて、中のウサギを出してあげたのがアレなんだよ。
「中に入っているってか…。その手の話はよく聞くな」
 古典の世界でも、定番ではある。
 木の中に有難い神様の姿が隠れているとか、そんな具合で。…それを彫ったら霊験あらたかで、お参りの人が大勢やって来たという話は多いぞ。
 今の時代も、何になりたいのか、耳を傾ける彫刻家とかは少なくないよな、うん。
 いい素材なんかが手に入った時は…、と今のハーレイは知っていた。石や木の声、それを捉えて中に隠れたものたちを彫ってゆく人。彫刻家と呼ばれる人たちのことを。
「ほらね。昔もそうだし、今だって同じなんだけど…」
 前のハーレイ、そういうのをちゃんと見付けてた?
 木彫りをしようと木を取り出したら、木の声を聞いてあげていたわけ?
 中には何が隠れているのか、何になりたいと思ってる木か。…声の通りに彫ってあげてた?
 石の中にいたウサギみたいに…、と問い掛けたけれど。
「いや…? なんたって、木彫りは俺の趣味だったしな?」
 今の俺は全くやっていないが、前の俺はあれが好きだった。いい息抜きにもなるもんだから。
 木の塊とナイフさえあれば、何処でも直ぐに始められるし…。
 空いた時間にポケットから出せば、ブリッジだろうが、休憩室だろうが、俺の憩いの空間だ。
 其処で気ままに彫ってゆくんだから、何を彫ろうが俺の自由だと思わんか?
 木の塊なんかの指図は受けんぞ、俺は彫りたいものを彫るんだ。…その時の気分で。
 スプーンやフォークの注文が入っていたなら別だが、そうでなければ気の向くままだな。
 こいつがいいな、と思い立ったら、そいつを彫ってゆくだけだ、と返った答え。
 予想した通り、ハーレイは「聞いていなかった」。木の塊の中に隠れたものたちの声を。



 それでは駄目だ、と零れた溜息。前のハーレイの彫刻が「下手だ」と評判だったのは、木の中にいるものを無視したから。…声を聞こうとしなかったから。
「やっぱりね…。ハーレイ、聞いていなかったんだ…」
 木の塊が何になりたいのか、まるで聞こうとしなくって…。中にいるのは何だろう、って眺めてみたりもしなかったから…。
 それでウサギになっちゃったんだよ、ウサギになるのも仕方がないよ。
「ウサギだと? 俺はウサギを見てもいないが…?」
 お前が言ってる、ブルーグレーの石で出来てるウサギってヤツ。石の彫刻で、そこそこ大きさがあるんだったら、夜の間も出しっ放しだと思うんだが…。
 気を付けて車を走らせていれば、此処へ来る途中に気付いただろうが、生憎と…。
 違う方でも見てたんだろうな、ウサギは知らん。…それで、ウサギがどうかしたのか?
 見ておけと言うなら帰りに見るが、とハーレイは勘違いをした。ブルーグレーの石で出来ていたウサギ、それが話の中心なのだと。…石のウサギではなくて、木のウサギのことを言いたいのに。
「違うってば。…石のウサギに出会ったお蔭で、前のハーレイのことに気が付いたんだよ」
 前のハーレイがやっちゃったことで、宇宙遺産になってるウサギ…。
 博物館でレプリカが展示されてるけれども、ハーレイ、あれはウサギじゃないって言ったよね?
 ぼくには今でもウサギに見えるし、博物館の説明なんかもウサギになっているけれど…。
 でも、本当は前のハーレイが彫ったナキネズミ。
 トォニィが生まれたお祝いに作って、プレゼントしてあげたナキネズミで…。
 いったい何処がナキネズミなの、って思っていたけど、今日のウサギで分かったよ。あの石の中にはウサギが入っていたらしい、って聞いて来たから。
 宇宙遺産のウサギになった木、ウサギが入った木だったんだよ。…あの石と同じで。
 ウサギになりたい、って思っていたのに、前のハーレイが無理やり彫ったから…。
 木の声は少しも聞いてあげずに、中にいるものも探さないままで…。
 ハーレイ、自分が彫りたいものが出来たら、好きなように彫っていたんでしょ?
 あの木もそうだよ、中にはウサギが隠れてたのに…。ウサギになりたい木だったのに…。
 トォニィにナキネズミを贈るんだ、って決めて勝手に彫っていくから…。
 ウサギの木なのに、ナキネズミにしようと思ってどんどん彫っちゃったから…。



 それでウサギになったのだ、と今のハーレイに向かって詰った。彫刻家の魂を持っていなかった前のハーレイを。実用品なら上手に彫れても、芸術品はまるで駄目だった彫刻家を。
「ハーレイが酷いことをするから、ウサギも酷い目に遭ったんだよ…!」
 いい彫刻家と出会えていたなら、ちゃんと最初から素敵なウサギになれたのに…。
 前のハーレイに捕まってしまったお蔭で、ナキネズミにされそうになっちゃって…。そんなの、ウサギも嫌だろうから、頑張ったんだよ。
 ハーレイがせっせと彫ってる間に、必死に抵抗し続けて。「ウサギになるんだ」って。
 うんと頑張って暴れ続けて、なんとかウサギになれたんだと思う。…下手なウサギだけど。
 でも、ナキネズミにされちゃうよりかはずっといいよね、ウサギなんだから。
 下手くそな出来のウサギでもね、と赤い瞳を瞬かせた。「ナキネズミにされるよりはマシ」と。
「おいおいおい…。そういう話になっちまうのか?」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギなんだと思われちまって…。今もやっぱりウサギのままで、宇宙遺産にされちまってて…。
 あれが悔しいと思っているのに、お前はウサギだと言いたいのか?
 俺はナキネズミを彫ったつもりでも、出来上がったものは、木の中にいたウサギなんだと…?
 正真正銘、ウサギなのか、とハーレイが目を丸くするから、「そうだけど?」と返してやった。
「あれはウサギだよ、何処から見ても。…誰が見たってウサギだものね」
 そうなっちゃうのも当然だってば、元からウサギなんだから。…木の中に隠れて、ウサギになる日を待っていたウサギだったんだから。
 ヒルマンに彫ってあげたんだっていう、フクロウの木彫りだってそうでしょ?
 トトロにしか見えないフクロウだったけど、あれもハーレイが無茶をしたからだよ!
 本当はトトロになりたかった木を、フクロウにしようと彫ったから…。
 フクロウが出来上がるわけがないよね、木の中にいたのはトトロなんだもの…!
 どれもハーレイが悪いんだよ、と恋人の顔を睨み付けた。「木の声を聞いてあげないから」と。
「ちょっと待ってくれ。ウサギはともかく、トトロはだな…」
 トトロは子供向けの映画で、それに出て来たオバケに過ぎん。トトロは実在してなくて…。
「でも、魂はありそうじゃない!」
 魂があったら、ちゃんと神様が入れてくれるよ。木の中にも、石の中にもね…!



 前にハーレイに見せて貰った、遠い昔のトトロの映画。断片しか残っていない映画だけれども、ハーレイの記憶に刻まれた中身は温かかった。人間が自然を愛していた頃、思いをこめて作られた映画だったから。
 SD体制の時代までデータが残ったほどだし、オバケのトトロにも、立派に魂が宿っていそう。
 地球が滅びてしまった後にも、神様の手で拾い上げられて。…壊れないように守られて。
 白いシャングリラの中で育った、木にまで入り込むほどに。トトロになりたいと願う木の塊が、あの船の中にも生まれるほどに。
「うーむ…。トトロが入った木だったと言うのか、俺がフクロウを彫っていた木は?」
 ヒルマンがフクロウを頼んで来たから、腕によりをかけて彫ろうと選んだ木だったんだが…。
 あれの中にはフクロウはいなくて、代わりにトトロがいたんだな?
 でもって、トォニィにナキネズミを彫ってやった木には、ウサギが入っていやがった、と…。
 どっちも中身が外に出たがるから、フクロウはトトロになってしまって、ナキネズミはウサギに化けたってか…?
 俺の彫刻が下手だったのは、俺が選んだ木に入っていたヤツらのせいか…?
 フクロウもナキネズミも、そのせいで変になっちまったのか、とハーレイが嘆くものだから…。
「自業自得って言うんでしょ、それ。…木の声を聞いてあげないんだもの」
 何になりたいと思っている木か、ちゃんと聞いてから彫っていたなら、前のハーレイでも上手く彫ることが出来たんじゃないの?
 スプーンやフォークは上手に彫れたし、不器用だったわけじゃないんだから。
 だけど、芸術品は無理。…木の声を聞いてあげもしないし、中にいるものも探さないんだもの。
 これが本物の彫刻家の人たちだったら、きちんと探して彫るんだものね?
 ぼくが見て来たウサギもそうだよ、趣味の彫刻らしいけど…。コンクールに出しても、賞とかは取れないみたいだけれども、とても上手に出来てたってば。今にも跳ねて行きそうなほどに。
 あれを彫った人は、ちゃんと「石の中にウサギがいる」って見抜いていたんだよ…?
 ウサギの石だって分かってたんだよ、それでウサギを彫ったんだよ…!
 同じ趣味でも、前のハーレイのとは大違い。
 石の声を聞いて、中に隠れたウサギを見付けて、きちんと出してあげたんだから。
 ウサギになりたい木を捕まえて、ナキネズミにしようとしたハーレイとは違うんだから…!



 ホントのホントに大違いだよ、と下手な彫刻家だった恋人を責めた。「あんまりだよ」と。
 ウサギになりたかった木や、トトロになりたいと思っていた木。そういう木たちの声を聞こうとしないで、好き勝手に彫ろうとしたハーレイ。
 それでは木だって可哀相だし、出来上がった彫刻も可哀相。ウサギになろうと思っていたのに、「ナキネズミだ」と主張されるとか、トトロなのにフクロウにされるとか。
「ぼくだったら、悲しくて泣いちゃうよ…。自分が自分じゃなくなるだなんて…」
 ウサギに生まれたのにナキネズミだとか、トトロだったのにフクロウだとか。…悲しすぎるよ。
 宇宙遺産になったウサギは、みんなが間違えてくれたお蔭で、ちゃんとウサギになれたけど…。
 でも、ハーレイは今も「ナキネズミだ」って言うんだから。…本当はウサギの筈なのに。
 ハーレイに木の声が聞こえていたなら、そんなことにはならないんだよ…?
 出来上がった彫刻も褒めて貰えて…、と尖らせた唇。「前のハーレイ、ホントに酷すぎ」と。
「…要するにお前は、前の俺は彫刻家として、失格だったと言いたいんだな?」
 彫ろうと向き合った木の声が聞こえる才能が無くて、木の中身だって見えなくて。
 中身はウサギだと気付きもしないで、そいつで無理やりナキネズミを彫ろうと悪戦苦闘していた大馬鹿野郎。…そんなトコだろ、木の魂に逆らっちまって、下手なヤツしか彫れない人間。
 彫刻家としては失格な上に、才能の欠片も皆無だった、と。
 やらない方がマシな趣味だと言うわけか、とハーレイが眉間に寄せた皺。「下手だったが」と。
「スプーンやフォークは上手だったし、やらない方がマシだとまでは言わないけれど…」
 だけどウサギやトトロなんかは、芸術性の欠片も無いから…。
 その割に、ウサギが残っているけど…。百年に一度の特別公開、大人気のウサギなんだけど…。
 博物館をぐるっと取り巻く行列が出来るらしいもんね、と思い浮かべた宇宙遺産のウサギ。今はウサギとして知られている、キャプテン・ハーレイが彫ったナキネズミ。
「宇宙遺産のウサギだったら、立派なもんだぞ。…名前が少々、不本意だが」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギだなんて間違えやがって…。今もそのままで…。
 とはいえ、芸術は後世に残ってこそだし、前の俺にも才能ってヤツがきちんとだな…。
「あったって言うの? あれが今でも残っているのは、ウサギが出て来てくれたからでしょ!」
 ハーレイがナキネズミにしようとしたって、ウサギになろうと頑張ったウサギ。
 ナキネズミだったら宇宙遺産になるのは無理だ、ってハーレイも言っていたじゃない…!



 宇宙遺産のウサギは、ミュウの子供が沢山生まれるようにという祈りがこもった大事なお守り。
 ウサギは豊穣と多産のシンボル、皆が勘違いをしてしまったから、ウサギは残った。宇宙遺産の指定を受けて、博物館に収められて。
 ただのナキネズミの木彫りだったら、オモチャとして扱われただろう。宇宙遺産になって残りはしないで、時の流れに消えていたのに違いない。
 ウサギにしか見えなかったお蔭で、ナキネズミの木彫りは今まで残った。前のハーレイがいくら頑張って「ナキネズミにしよう」と彫り進めたって、「ウサギになりたい」と思った木。
 彫ろうとしている木の声も聞かない、酷い彫刻家の腕にも負けずに、表に姿を現したウサギ。
「あのウサギが頑張ってくれたお蔭で、前のハーレイの彫刻が今でも残ってるんだよ」
 ナキネズミにされてたまるもんか、って、諦めないで、ちゃんとウサギになったから。
 ウサギに見える姿を手に入れたから、宇宙遺産のウサギなんだよ。
 木の中にいたウサギに感謝してよね、ハーレイの才能だなんて言わずに。無理やりナキネズミにしようとされても、ウサギは頑張ったんだから。
「…俺の腕ではないってか?」
 宇宙遺産のウサギがあるのは、前の俺が心をこめて彫ったお蔭だと思うんだが…。
「違うよ、木の中のウサギのお蔭!」
 ウサギが隠れていてくれたことと、頑張って表に出てくれたこと。その両方だよ、あのウサギが今も宇宙に残っている理由はね…!
 いつか本物の宇宙遺産のウサギに会えた時には御礼を言わなきゃ、とハーレイに注文をつけた。
 展示ケースの前に立ったら、「出て来てくれてありがとう」と。
 木の中のウサギが出て来たお蔭で、立派に宇宙遺産になれたし、今でも残る芸術だから。彫ったハーレイの腕はどうあれ、美術の教科書にも載るほどだから。
「御礼を言えって言われてもだな…。俺にとってはナキネズミだが…」
 あれは断じてウサギじゃなくてだ、ナキネズミというヤツなんだが…?
 訂正できる機会が無いだけだ、とハーレイは不満そうだけれども。
「ウサギになったから、宇宙遺産になって今まで残れたんでしょ!」
 ナキネズミじゃ残れないんだから!
 ただのオモチャの一つなんだし、何処かに消えて行方不明でおしまいだから…!



 絶対、残っていないからね、とハーレイに言葉をぶつけてやった。「残るわけが無いよ」と。
 木彫りのオモチャのナキネズミなどは、実際、残りそうにないから。
「しかしだな…。俺はナキネズミを彫ったのに…」
 そいつをウサギにされちまった上に、そのウサギにだな…。
 御礼を言わなきゃいけないのか、とハーレイは呻いているけれど。情けなさそうな顔をしているけれども、ナキネズミは今もウサギ扱い。前のハーレイが彫った頃から、ずっと。
 木の中のウサギの声も聞かずに、ナキネズミにしようと彫ったから。…ウサギらしい姿になってきたって、強引に彫った結果だから。
(木の声を聞いてあげもしなかった、酷い彫刻家が悪いんだしね?)
 ナキネズミがウサギになってしまうのは当たり前だし、悪いのは前のハーレイだと思う。
 それに、そんな彫刻家の作品が今まで残っているのも、木の中にいたウサギのお蔭。懸命に声を上げていたって、ナキネズミにされてゆくだけだから、と抵抗を続けたウサギが強かったお蔭。
 いつか本物の彫刻に会えた時には、ハーレイが何と文句を言っても、御礼を言おう。
 「出て来てくれてありがとう」と。
 前のハーレイがナキネズミにしようと彫り続けても、ちゃんと姿を見せたウサギに。
 ナキネズミにならずに、ウサギの姿になったウサギに。
 お蔭で、前のハーレイがトォニィのために作った木彫りを、今の自分が見ることが出来る。赤いナスカでは深い眠りの中にいたから、見そびれてしまったのだけど。
 とても下手くそな木彫りを眺めて、「ウサギだ」「いやいやナキネズミだ」と喧嘩も出来る。
 「ナキネズミだ」と譲ろうとしないハーレイと二人、傍から見たなら馬鹿みたいな喧嘩を。
(…ウサギに、御礼を言わなくちゃね…)
 今の時代まで宇宙遺産になって残れたのは、木の中のウサギのお蔭だから。
 ハーレイは無視して彫ったけれども、ウサギが頑張ってウサギの形になってくれたから。
 木の中に隠れていたウサギ。なりたかった姿を手に入れたウサギ。
 それにペコリと頭を下げよう、ハーレイが隣で「ナキネズミだぞ?」と低く唸っていても…。



              彫刻家と魂・了


※前のハーレイが作った、宇宙遺産の木のウサギ。実はナキネズミだったそうですが…。
 ウサギの形になったのは、木の中に隠れていた魂のせいかも。ウサギの姿になりたかった木。
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(お白粉…)
 昔は有毒だったんだ、とブルーが驚いた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 記事に添えられている、昔の美女の絵。多分、江戸時代の浮世絵だろう。誰が描いたものかは、新聞には書かれていないけれども。
 髪を結い上げた、白い肌の女性。今の感覚だと「美人なの?」と思うけれども、その時代ならば絶世の美女。だからこそ絵のモデルにもなる。女性の肌は雪のように白い。
(色の白いは七難隠す、って…)
 言われたくらいに、白い肌が美しいとされていた時代。
 当時の日本は小さな島国、おまけに鎖国をしていたほど。白人の血などは殆ど入って来なくて、日本人と言えば黄色人種。けして「白い」とは呼べない肌。肌が白くても、白人ほどには。
(この絵の人は真っ白だけど…)
 実際、真っ白だったという。まるで雪のように、白い絵具を塗ったかのように。
 その白い肌の秘密が「お白粉」。白い粉を溶いて、肌にたっぷりと塗り付けた。黄色人種の肌の色など、欠片も見えなくなるように。顔はもちろん、首にも、襟元から覗く胸にまで。
(そうすれば、誰でも真っ白な肌で…)
 素晴らしい美人になれるのだけれど、お白粉には毒が含まれていた。
 材料だった鉛の中毒、肌から身体に回ってゆく毒。本人の身体を蝕むばかりか、赤ん坊の乳母をしていた場合は、その子供にまで。
 胸元まで塗り付けられたお白粉、それを飲んでしまう赤ん坊。お乳と一緒に、何も知らずに。
 鉛の中毒は恐ろしいもので、毒が全身に回った時には命も失くしてしまったという。
(…そんな…)
 お化粧で命を落とすなんて、と思うけれども、誰もやめようとはしなかった。お白粉の毒が原因なのだと分かった後にも、やめずに使い続けた人たち。
(鉛のお白粉の方が、肌に綺麗にのびるから…)
 鉛を含まないお白粉なんて、と使いたがらなかった人が多かった。命よりも肌が大切だ、と。
 そんな時代だから、女性ばかりか、役者も鉛の中毒になった。舞台に立つには、白い肌がいい。より美しく、と鉛の毒を知っても使い続けたという。「美しい」ことが役者の仕事だから。
 女性も役者も、まさに命懸けだった白い肌。お白粉の毒で、命を落としてしまった時代。



 なんてことだろう、と震え上がった。記事に添えられた浮世絵の美女も、お白粉で命を落とした可能性がある。こうして浮世絵に描かれた後には、鉛の中毒になってしまって。
 其処まで誰もが追い求めていた「白い肌」。
 当時の日本で生きた人なら、肌は「真っ白ではない」ものなのに。お白粉で覆い隠さない限り、何処か黄色くなるものなのに。
 どんなに肌が白い人でも、白人の肌には敵わない。黄色人種に生まれた以上は。
(ぼくだと、生まれつき真っ白だけど…)
 今の自分は、色素を全く持たないアルビノ。まるで色素を持っていないから、肌は真っ白、瞳も赤い。瞳の奥を流れる血の色、それを映した透き通る赤。
(昔の日本人だって…)
 こういうアルビノに生まれて来たなら、理想の肌を手に入れただろう。七難隠すという肌を。
(だけど、肌だけ白くても…)
 他が駄目だよ、と眺める浮世絵。古典の授業で教わるように、「緑の黒髪」が美女の条件。緑と言っても色とは違って、艶やかさをそう表すだけ。本当の髪の色は黒。夜の闇のように黒い髪。
(アルビノだったら、髪の毛が黒くなくなっちゃって…)
 瞳の色も黒くなくなる。昔の日本人が見たなら、そういう女性は美人どころか…。
(雪女みたい、って怖がられちゃった…?)
 人間離れしているのだから、どれほど美しい顔立ちでも。肌が雪のように白くても。
 それでは駄目だ、と思うアルビノ。「昔の日本じゃ、誰も相手にしてくれないよね」と。
 真っ白な肌を持つのがアルビノだけれど、自分のようなミュウに生まれなかったら、アルビノはとても大変らしい。今の時代は誰もがミュウだし、誰も困りはしないのだけれど…。
(お日様に当たったら、肌は火傷で…)
 日焼けくらいでは済まなかった。真っ赤に焼けて、時には火ぶくれが出来たほど。
 だから極力、避けた日光。日焼け止めを塗って、帽子を被って、手足も出来るだけ服で覆って。
(昔だったら…)
 やっぱり真っ白な肌は大変。
 お白粉の毒は無関係でも、場合によっては。
 色素を持たないアルビノに生まれてしまった時には、弱すぎる肌を守らなければいけないから。



(お化粧だって、怖い時代があったんだね…)
 鉛の中毒になっちゃうなんて、と驚かされた昔のお白粉。今日まで全く知らなかった。
 今はもちろん、何の心配も無いけれど。お化粧品を使っていたって、どれも安全なものばかり。
 遥かな昔に「身体に悪い」と騒がれたらしい、太陽からの紫外線だって…。
(ミュウには、なんの危険も無いから…)
 まるで問題にはならない時代。夏の日盛りに外を歩いていたって、日が燦々と照ったって。
 身体の中を流れるサイオン、それが防いでいる紫外線の害。遠い昔は恐れられたもの。
(日焼けしちゃったら、皺が増えるって…)
 そう言われた時代もあったらしいけれど、今の時代は日焼けしたって、老化したりはしない肌。ミュウは外見の年齢を止められるのだし、若い姿で年を止めれば、若いまま。
(顔だけ若くて、皺が増えちゃう人もいないし…)
 やはりサイオンは凄いと思う。アルビノの自分が、太陽の下でも平気なのと同じ。
 夏になったら、日焼けしている人だって多い。子供でなくても、大人でも。
(お休みを取って、海とか山とか…)
 出掛けて行って太陽を浴びて、すっかり日焼け。腕に半袖の跡がつく人や、水着の跡がくっきり残る人たちもいる。太陽の下で過ごした証拠で、本人たちは至って満足。
 夏だけでなくて、一年中、日焼けで真っ黒な人も少なくはない。
 きっと太陽が照っている時に、せっせと外でジョギングや散歩。そうして自慢の日焼けを保つ。日差しが弱い冬になっても、「今の内だ!」と外に飛び出して行って。
(真っ白よりかは、日焼けした方が…)
 健康的に見えるものね、と自分だって思う。青白い肌より、断然、小麦色の肌。
 アルビノの自分には無理だけれども、友達はみんな、自分みたいな「真っ白な肌」の代わりに、適度に日焼け。…夏になったら。
 夏でなくても白すぎはしなくて、「男の子らしい」肌の色だから。



 ああいう肌の方が健康的だよ、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。空になったカップやお皿を、キッチンの母に返してから。
(夏になったら、友達はみんな…)
 日焼けしているし、それ以外の季節も自分のように白くはない。「色の白いは七難隠す」という言葉は女性向けだから、男の自分が真っ白な肌をしていても…。
(江戸時代でも、誰も褒めてはくれないかも…)
 役者になって舞台に立つなら、「お白粉無しでも白い肌」だけに、大人気かもしれないけれど。顔もこういう顔立ちだから、女性を演じる「女形」になっていたならば。
 けれど自分は「今」の生まれで、江戸時代などに生きてはいない。真っ白な肌でも、いいことは何も無さそうな感じ。ひ弱に見えるというだけで。
(ぼくが日焼けをしていたら…)
 どんな風だろう、と壁の鏡を覗いてみた。もっと健康的に見えるか、悪戯っ子のようにも見えるだろうか、と。
 前にも少し、考えたことがあるけれど。…あの時はハーレイと二人だった。
 今日は一人だし、鏡の向こうをじっと眺めて、自分の顔の観察から。日焼けしている肌を持った自分は、どんな具合になるのだろうか、と。
(んーと…?)
 今と同じに銀色の髪でも、まるで違ってくる印象。肌の色が白くなかったら。
 際立って見える赤い瞳も、肌が日焼けをしていたならば、今ほどには目立たないだろう。周りの肌色に溶けてしまって、「赤かったかな?」と思われる程度で。
(今だと、みんな振り返るけど…)
 銀色の髪に赤い瞳で、ソルジャー・ブルー風の髪型の子供。すれ違ったら、誰もが驚く。本物のソルジャー・ブルーみたいだ、と振り返って見たりもするのだけれど…。
(日焼けしてたら、もうそれだけで…)
 ソルジャー・ブルーとは変わる印象。同じ髪型でも、銀の髪でも。
(ああいう髪型の子供なんだ、って…)
 眺めて終わりで、瞳の色にも気付かないまま、通り過ぎる人も多いと思う。真っ白な肌なら赤い瞳は目立つけれども、小麦色の肌に赤い瞳だと、「茶色かな?」と思われたりもして。



 光の加減で瞳の色が違って見えるのは、よくあること。それと同じで、肌の色でも起こりそうな錯覚。白い肌なら赤く見える瞳が、小麦色の肌なら茶色っぽく見えてしまうとか。
(同じぼくでも、日焼してたら、かなり違うよ…)
 ホントに違う、と勉強机の前に座って考えてみる。「日焼けした自分の姿」というのを。今とは全く違う肌の色、真っ白な肌でなかったならば、と。
(アルビノなんだし、日焼けは難しそうだけど…)
 小麦色の肌など夢のまた夢、ほんのりと肌に色がついたら、それだけで上等だという気がする。真っ白な肌を少しだけでも、普通の肌色に近付けられたら。
(そうなったら、うんと健康的…)
 自然に作れる肌の色はそれが限界でも、お化粧したなら、小麦色の肌にもなれるだろう。太陽の光をたっぷりと浴びて、こんがりと焼けた肌の色に。
 遠い昔の人たちは「白い肌になりたい」と願ったけれども、その逆で。
 鉛の毒を含んだお白粉、身体に毒だと分かった後にも、「白くなりたい」と使い続けた日本人。彼らとは逆に、真っ白な肌を日焼けした色に変えてみる。お白粉とは違う、化粧品で。
(いろんな色があるもんね?)
 肌に乗せてゆく化粧品。母がドレッサーの前で使っているもの。
 元の肌の色に合わせて選ぶようだけれど、きっと色々な色がある筈。同じ人でも、日焼けしたら色が変わるから。日焼けする前の化粧品だと、それまでの肌の色には合わない。
(日焼けの色を隠したいなら、そのままの色でいいけれど…)
 こだわる人なら、買い替えたりもするのだろう。「今の肌なら、この色がいい」と。
 それから、生まれつきの肌の色も様々。自分みたいなアルビノもいれば、とても濃い色の人も。
(ブラウみたいに黒い肌だと、そういう色の…)
 化粧品が売られていると聞いたことがある。白くなるための化粧品ではなくて、黒い肌をもっと美しく見せるためのもの。艶やかになるのか、どう変わるのかは知らないけれど。
(黒い肌でも、そうなんだから…)
 ハーレイのような褐色の肌でも、それに合わせて様々な色合いの化粧品。
 褐色の肌を引き立たせるとか、逆に控えめに見せるとか。真っ白にするのは不自然だとしても、ほんの少しだけ控えた褐色。それだけで印象が変わるだろうから。



 思い浮かべた、褐色の肌を持つ恋人。前の生から愛した人。
(ハーレイかあ…)
 青い地球の上に生まれ変わった今も、褐色の肌を持つハーレイ。前のハーレイと全く同じに。
 あの褐色の肌は、とてもハーレイに似合うと思う。柔道も水泳もプロ級の腕を持っているから、なんとも強くて逞しい感じ。
(夏に半袖を初めて見た時は、ドキッとしたし…)
 柔道着を着たハーレイだって、かっこいい。褐色の肌をしているお蔭で、より強そうに見えると思ってしまう。日焼けした人が健康的に見えるのと同じで、あの褐色も「元気の色」。
(ハーレイの肌が、あの色だから…)
 自分が日焼けした肌になったら、ハーレイの横に並んで立てば似合うだろうか?
 二人で街を歩いていたなら、「お似合いのカップル」だと誰もに思って貰えるだろうか…?
(今のぼくだと、全然違う色なんだけど…)
 お白粉も塗っていないというのに、雪のように白い色素の無い肌。アルビノだから、もう本当に真っ白でしかない肌の色。
 そんな自分があのハーレイと並んでいたら、とても弱そうに見えることだろう。空に輝く太陽の日射し、それを浴びてもいないような肌。
(お日様の下で散歩をしたり、ジョギングしたり…)
 そういった運動などとは無縁の、ひ弱な人間。肌の色だけで、そう思われそう。
 実際、弱く生まれたけれども、それ以上に弱く見えるアルビノ。…肌の色が白いというだけで。小麦色の肌になれはしなくて、日焼けしたとしても、ほんのちょっぴり。
(このままだったら、そうなるけれど…)
 化粧品を使って「日焼けした肌」を作り出したら、ガラリと変わるだろう印象。銀色の髪と赤い瞳は同じままでも、今とは違って見える筈の姿。
 「日焼けした肌」でハーレイと一緒に歩いていたなら、健康的なカップルだと思って貰えそう。二人とも運動が好きなカップル、ジョギングだとか、水泳だとか。
(ハーレイ、ひ弱な恋人を連れているんじゃなくて…)
 趣味のスポーツで知り合ったような、元気一杯の恋人とデート。傍目にはそう映るのだろう。
 真っ白な肌の自分でなければ、「化粧した肌」でも、日焼けした肌の恋人ならば。



 そんな話もしたんだっけ、と思い出す。ハーレイと二人で、「ぼくが日焼けしたら?」と。
 あの時は、自然な日焼けばかりを考えていた。海に出掛けて日光浴とか、ハーレイが引っ張ってくれるゴムボートに乗って沖まで出掛けて、その間に日焼けするだとか。
 化粧品などは思いもしなくて、日焼け止めとか、日焼け用のオイルの話をしただけ。化粧品など縁が無いから、そうなって当然なのだけど。
 けれども、今日の自分は違う。お白粉の記事を読んだお蔭で、化粧品というものに気が付いた。黒い肌でも、褐色の肌でも、それに似合いの化粧品がある。
(ぼくみたいな肌でも、小麦色になれる化粧品…)
 きっと売られているだろうから、それを使えば出来上がるのが日焼けした肌。アルビノの自分の限界を越えて、ほんのりとした日焼けよりもずっと、こんがりと小麦色の肌。
 化粧品で日焼けした肌を作ってみようかな、と思っていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが日焼けしてたら、どう思う?」
 うんと元気な子供みたいに、小麦色に。…夏になったら沢山いるでしょ、日焼けした子供。
 大人の人でも大勢いるよね、ああいう肌をした、ぼくはどう?
 今じゃないけど…。前のぼくと同じ背丈に育って、ハーレイとデートに行ける頃だけど。
「日焼けって…。しかも、小麦色ってか?」
 ハーレイは目を丸くした。「この前も言ったが、こんがり焼くのは無理ってモンだろ」と。どう考えても無理に決まってる、というのがハーレイの意見。「太陽で火傷しちまうぞ」と。
「分かってるってば、ぼくだと火傷しちゃうってことは…」
 ほんのちょっぴり日焼けするだけでも、きっと火傷をしちゃうんだよ。真っ赤になって、痛くて皮も剥けちゃって…。それでもいいから、って頑張ったって、日焼け出来るのは少しだけ。
 だからホントに小麦色になるのは無理だけど…。
 どう頑張っても無理だけれども、お化粧品を使えば出来るよ。ぼくだってね。
「化粧品だと?」
 いったい何を使うと言うんだ、日焼け止めだと日焼けを防いじまう方だぞ?
 日焼け用のオイルは、肌を保護してくれるモンだが…。
 そいつを何度も塗り重ねたって、お前の肌だと、小麦色にはなれそうもないが…?



 その前に痛くて泣いちまうんだ、とハーレイは呆れたような顔。「無茶はいかんぞ」と。
「お前は、日焼けで泣いた経験、無いらしいから…。その分、余計に大変だ」
 普通はチビの間に泣いて、日焼けで痛くなっちまうのを避けるサイオンを身につけるんだが…。
 お前の場合はそうじゃないだろ、身体が大きくなっているから、痛い部分も増えるんだぞ?
 子供の背中と大人の背中じゃ、大きさがまるで違うんだから。
 小麦色の肌など、アルビノの身体じゃ無理なんだし…。やめておくんだな、そんな挑戦。
 結果はとっくに見えてるじゃないか、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ホントに焼くって言っていないよ、お化粧品って言ったじゃない」
 昔のお白粉の逆だってば。
 今日の新聞に載っていたんだよ、ずっと昔はお白粉に毒があったんだ、って…。鉛の毒が入ったお白粉。肌が白いほど美人なんだ、って思われてたから、鉛の中毒が多かった、って…。
「おっ、そんな記事が載ってたか?」
 化粧も命懸けだった時代の話だよなあ、毒だと分かっちまった後は。…きっとその前から、何か変だと思っていた人はいたんだろうが…。
 鉛入りのお白粉は毒なんだ、と分かった後にも、使いたいヤツが大勢いたのが凄い所だ。
 人間、綺麗になるためだったら、命も惜しくないのかもなあ…。
 俺にはサッパリ分からんが、とハーレイがフウと零した溜息。「何も其処までしなくても」と。
「ぼくも分からないよ。いくら綺麗だって褒めて貰っても、死んじゃったらおしまい…」
 生まれ変わって来られた時には、記憶は無くなっちゃってるから。…ぼくたちみたいに、神様が奇跡を起こしてくれない限りは。
 それなのに命懸けでお化粧なんて、って考えていたら、日焼けの方に頭が行っちゃって…。
 ぼくだと生まれつき真っ白だけれど、お化粧したら違う色にもなれるよね、って思ったんだよ。
 肌の色って色々あるでしょ、ハーレイみたいな褐色だとか、ブラウみたいな黒だとか…。
 どんな肌でも、それに合わせたお化粧品があるものね…?
「確かにあるなあ、黒い肌だとビックリだよな」
 何度も見てるが、化粧をしようと取り出すケース。…なんて呼ぶんだか、小さな鏡つきのヤツ。
 あれの蓋をパカッと開けてみるとだ、中身がちゃんと真っ黒なんだ。
 顔にパタパタはたいてるんだが、俺が見たってよく分からん。化粧する前と、どう違うのか。



 学生時代によく見たもんだ、とハーレイは懐かしそうな顔。柔道も水泳も、あちこちの地域から選手が来るから、黒い肌の女性もいたという。
 試合で汗を流した後には、着替えて懇親会などもあった。其処で見ていた化粧する女性。
「そっか…。やっぱり黒い肌だと、お化粧品だって黒いんだよね?」
 だったら小麦色のもあるでしょ、日焼けしている人用に。…顔だけ違う色にならないように。
 ぼくが言うのは、そういうお化粧品のこと。それを使えば、ぼくだって小麦色の肌になれるよ。うんと健康的な感じで、ハーレイと並んだら絵になりそう。
 スポーツで知り合ったカップルみたいで、ハーレイの恋人にピッタリじゃない…?
 真っ白な肌のぼくよりも、と自信たっぷりで提案した。「ちゃんとお化粧すればいいよね」と。きっと賛成して貰えるだろう、と考えたのに…。
「お前なあ…。健康的なカップルってヤツは、ともかくとしてだ…」
 俺の気持ちはどうなるんだ?
 小麦色の肌に見えるよう、化粧しているお前を連れてる、俺の気持ちは…?
 ちゃんと其処まで考えたのか、と問い掛けられた。「俺の気持ちまで考えてるか?」と。
「え? ハーレイの気持ちって…」
 それならきちんと考えたってば、やっぱり絵になる方がいいでしょ?
 真っ白な肌で、見るからに弱そうなぼくを連れているより、元気一杯に日焼けしている、ぼく。
 ハーレイは運動が大好きなんだし、そういうぼくが好きだよね、って…。
 ひ弱に見えるぼくよりも、と瞳を瞬かせた。中身は変わらず弱いままでも、見た目だけでも健康そうなら、ハーレイに似合いの恋人だから。
「何を考えているんだか…。お前らしいと言ってしまえば、それまでだがな」
 いいか、俺は今のままのお前が好きなんだ。…今のお前が。
 間違えるなよ、チビのお前っていう意味じゃない。チビなのは横に置いておいて、だ…。
 俺はアルビノのお前が好きだと、前にも言ったと思うがな?
 前のお前が成人検査で失くしちまった、金色の髪と水色の瞳。それを知ってはいるんだが…。
 俺がこの目で見ていたお前は、出会った時からアルビノだった。金色と水色のお前は知らない。
 だから、お前はアルビノに限る。…アルビノだからこそ、俺が知ってるお前なんだ。
 なのに日焼けをするって言うのか、わざわざ化粧で小麦色の肌に…?



 それはお前の姿じゃないぞ、とハーレイは少しも喜ばなかった。小麦色の肌の恋人になったら、とてもハーレイに似合うのに。…ひ弱な恋人を連れているより、絵になるのに。
「日焼けした、ぼく…。小麦色の肌のぼくだと、駄目なの…?」
 本当に日焼けするんじゃないから、ぼくは「痛い」って泣いたりしないよ?
 出掛ける前に、お化粧するのに時間がかかるかもしれないけれど…。でも、今のぼくより、肌の色はずっと、丈夫そうな感じになるんだから…。
 いいと思うよ、と重ねて言った。本物の日焼けは大変な上に、小麦色の肌にもなれそうにない。けれど化粧をするなら簡単、そのための時間を取りさえしたら。
「小麦色の肌になったお前か…。試してみたいと言うんだったら、止めはしないが…」
 化粧をするって手もあるんだが、俺としては白い肌のままのお前がいいな。
 そういうお前しか知らない、ってことは抜きにしたって、真っ白な肌のお前がいい。健康そうに日焼けしている、小麦色の肌のお前よりもな。
 断然、白だ、と一歩も譲らないハーレイ。「白い肌のお前の方がいい」と。
「どうして? …なんで、白い肌のぼくの方がいいわけ?」
 白い肌だと、誰が見たって弱そうにしか見えないよ?
 普通に白いだけならいいけど、ぼくはアルビノなんだから。…少しも色が無くて、真っ白。
 そんな色のぼくを連れているより、小麦色の肌が良さそうだけど…。お化粧で小麦色に見せてるだけでも、本当は真っ白な肌のままでも。
 ちゃんと上手にお化粧をすれば、きっと自然に見えるから…。お化粧だなんて、バレないから。
 そういうぼくと並んでいたら、絶対に絵になりそうなのに…。
 弱そうなぼくとデートするより、ハーレイだって鼻高々だと思うんだけど…。
 元気そうな恋人の方がいいでしょ、と繰り返した。柔道と水泳で鍛えた今のハーレイ。その隣に並んで歩くのだったら、同じように鍛えていそうな恋人、と。
 身体が華奢に出来ていたって、日焼けしていれば印象は変わる。「細いけれども、強いんだ」と勘違いだってして貰える。「ああ見えてもきっと、スポーツが上手いに違いない」と。
「俺はそのようには思わんが?」
 柔道部のヤツらを連れて歩くのとは違うんだ。…誰と歩こうが俺の勝手で、俺の趣味だぞ。
 俺が「素敵だ」と思ったからこそ、連れて歩くのが恋人だろうが。



 それに、真っ白な肌のお前の方が守り甲斐がある、とハーレイは笑みを浮かべてみせた。
 「そう思わんか?」と。「小麦色の肌をしたお前だったら、そうはいかんぞ」とも。
「お前が元気一杯だったら、俺の出番が無くなるだろうが」
 化粧とはいえ、小麦色の肌になっちまったら、見た目は元気一杯だしなあ…。弱くはなくて。
 そんなお前を連れていたって、俺としては、あまり愉快じゃないぞ?
 お前と一緒なことは嬉しくても、さて、どう言えばいいんだか…。
 真っ白な肌のお前だったら、もう見るからに弱そうだしなあ、強い俺が守ってやれるんだが…。小麦色の肌で元気一杯のお前となったら、守る必要、無さそうだろうが。
 お前は充分、強いわけだし、俺の後ろに隠れる代わりに、一緒に戦いそうだから。
 今はすっかり平和な時代で、戦う敵など何処にもいないわけだが、イメージってヤツだな。
 強いお前だとそうなっちまうし、弱いお前の方がいい、とハーレイは至極真面目な顔。小麦色の肌の元気な恋人よりも、真っ白な肌の弱そうな恋人の方がいいのだ、と。
「弱いぼくがいいって…。そういうものなの?」
 ハーレイが連れて歩く恋人、見た目からして弱そうなのがいいの…?
「俺としてはな。そっちの方が俺の好みだ」
 恋人を守ってやれる強さを誇れるんだぞ、弱そうなのを連れてたら。…俺が守っているんだと。
 しかしだ、元気一杯で強そうなのを連れていたなら、大人しく守られていそうにないし…。
 俺が「隠れていろ」と言っても、「ぼくも戦う!」と出て来そうでな。
「でも、ハーレイには似合いそうだと思うんだけど…」
 一緒に戦いそうな恋人。…柔道の技で投げ飛ばすだとか、そういうことが出来そうな、ぼく。
 ハーレイも自慢できそうじゃない、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。今のハーレイはプロの道への誘いが来たほど、柔道も水泳も腕が立つ。とても強いのだし、それに相応しい恋人が似合い。
「そいつはお前の思い込みだな、残念ながら」
 お前が何と言っていようが、俺の考えは変わりやしない。周りのヤツらがどう見ようとも。
 「弱そうなのを連れているな」と思われたって、お前の肌はだ…。
 健康そうな小麦色より、今の真っ白な肌がいい。少し日に焼けても、火傷しそうな白いのが。
 そういうお前に俺は惹かれるし、わざわざ化粧で小麦色なんかにしなくても…。
 お前が納得いかんというなら、逆を想像してみるんだな。…逆のケースを。



 想像力を逆に働かせてみろ、と言われたけれども、分からない。逆というのは何だろう?
「…逆って?」
 逆のケースって、どんな意味なの?
 ぼくの肌の色は真っ白なんだし、逆になったら小麦色だよ。…もう何回も言ったけれども。逆にしたなら何だって言うの、ぼくが最初から小麦色の肌の子供っていう意味なの…?
 今のアルビノのぼくじゃなくって…、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「逆だぞ?」と即座に否定した。「逆と言ったら、逆なんだ」と。
「よく考えてみるんだな。…幸いにして俺たちは、前の通りに生まれ変わって来たが…」
 お前も俺も、前とそっくり同じ姿になれる器を手に入れたんだが、其処の所が問題だ。
 さっきからお前は、自分のことばかり言ってるが…。アルビノよりも小麦色の肌だとか、化粧で小麦色の肌を手に入れるとか。
 そいつはお前の問題なんだが、もしもだな…。俺が白い肌だったらどうするんだ?
 お前はアルビノのままだったとしても、今の俺の肌が、褐色じゃなくて白い肌だったら…?
 真っ白なお前には及ばないにしても、白い肌をした人間ってヤツは幾らでもいるんだからな…?
 こういう肌の俺でなければどうなんだ、とハーレイが指先でトンと叩いた自分の手。前と少しも変わらない色で、とても馴染みの深い褐色。
 その肌の色が、この褐色ではなかったら。…白い肌に生まれたハーレイだったら、どうだろう?
(…顔立ちも身体も、前のハーレイと同じだけれど…)
 肌の色が白くなってたら…、と恋人の姿をまじまじと見た。
 眉間に刻まれた癖になった皺、それは同じでも、肌が白ければ見た目が変わる。鳶色の瞳を囲む肌だって、やはり同じに白くなる。武骨な手だって、逞しくて太い首筋だって。
「…なんだかハーレイじゃないみたい…」
 ハーレイの顔だけど、ハーレイじゃないよ。…肌の色が白くなっちゃったら。
 ぼくの知ってるハーレイじゃなくて、だけどやっぱりハーレイで…。ハーレイなんだけど…。
「よし。その俺の姿は、強そうに見えるか?」
 今の俺と少しも変わらないくらい、強そうな姿のハーレイなのか…?
「…強そうかって…。うーん…」
 どうなんだろう、白い肌でも、ハーレイには違いないんだけれど…。



 白い肌を持っている人間でも、強い人なら大勢いる。プロのスポーツ選手も沢山。
 だから「白い肌の人は弱い」などとは思わないけれど、それを見慣れたハーレイの身体で考えるならば、答えは違ってきてしまう。
 褐色の肌に慣れているから、その色が白くなったなら。…今よりもずっと薄い色になって、白い肌だと言える姿になったなら。
「…ハーレイが白くなっちゃったら…。逞しさ、ちょっぴり減っちゃうかも…」
 今とおんなじ強さのままでも、見た目が弱い気がするよ。ホントにそんなに強いのかな、って。
 日焼けした人と、していない人なら、日焼けした人の方が強そうに見えてくるのと同じで。
 …ハーレイの肌の色、日焼けなんかじゃないんだけれど…。
「ほら見ろ、お前もそうだろうが。ただし、俺とは逆なんだが」
 俺が同じ強さを持っていたって、肌の色一つで印象が変わる。強そうなのか、弱そうなのか。
 前の俺は柔道なんかは全くやっていなかったんだが、お前が知ってた俺はこういう姿だし…。
 白い肌になってしまっていたなら、お前、ガッカリしていたかもなあ…。再会した時に。
 ただのキャプテンでも、褐色の肌を持っていただけで、見た目の逞しさが何割かは増していたと思うし…。それがすっかり無くなっちまって、白い肌になった俺だとな。
 白い肌だと、弱いハーレイに見えないか、という質問。「前よりも腕は立つんだがな」と。
「そうなのかも…。なんだか弱くなっちゃったかも、って…」
 でも、ハーレイはハーレイなんだし、直ぐに慣れるよ。
 最初はビックリしちゃいそうだけれど、今のハーレイが強いってこともじきに分かるし…。
 ぼくなら少しも困らないってば、同じハーレイなんだもの。
 肌の色が前とは違うってだけで、顔立ちとかは前のハーレイとおんなじだから…。
 その内に慣れて平気になるよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「そうか?」と返して来た。
「慣れてしまえば、それでいいのかもしれないが…」
 だが、どちらかを選べるんなら、元のままの俺がいいだろう?
 褐色の肌を失くしちまって白い肌になった、何処か弱そうに見える俺よりは。
 お前は強そうに見えた時代を知ってるんだし、その頃の俺と同じだったら、と思わんか…?
「うん…」
 選べるんなら、その方がいいよ。…白い肌より、褐色の肌をしたハーレイの方が…。



 肌の色で強さは変わらないけど、と頷いた。選べるものなら、褐色がいいに決まっているから。白い肌をしたハーレイよりかは、褐色の肌のハーレイがいい。
「分かったか? それと同じだ、俺の方もな」
 生まれ変わって健康的な小麦色の肌になったお前より、真っ白な肌のお前がいいわけで…。
 守り甲斐があるし、連れて歩きたいと思うお前は、真っ白な肌の弱そうなお前だ。
 お前がアルビノに生まれてくれてて、本当に良かった。
 弱い身体になっちまったのは可哀相だが、それでもやっぱり、今のお前が一番いい。…俺はな。
 日焼けしたお前に再会してたら、俺も途惑う。
 お前が白い肌をした俺に会うのと同じくらいに、いや、それ以上にショックだろうなあ…。
 健康的なお前だなんて、とハーレイが嘆きたくなるのも分かる。
 サイオンは不器用だったとしたって、とても健康に生まれていたなら、ハーレイには恋人を守ることが出来ない。「大丈夫か?」と気遣わなくても、健康そのもの。倒れもしなくて元気一杯。
「そうだよね…。パタリと倒れてしまいもしないし、病気で寝込んだりもしないし…」
 いつ見ても元気一杯のぼくで、ハーレイの隣ではしゃいでるだけ。…疲れもせずに。
 ハーレイはとてもガッカリだろうし、なんだか悪い気がするから…。
 そうなっていたら、ぼく、白くなろうと頑張ったかも…。
 ハーレイに前のぼくを見せたくて、せっせとお化粧するんだよ。白い肌で弱く見えるように。
 二人で並んで歩いてる時は、ひ弱な感じになるように。
 …命懸けでお化粧していた人の気持ちが、今、少しだけ分かったよ。
 ハーレイが喜んでくれるんだったら、命懸けでも、お化粧、するかも…。
 したくなるかも、と思った昔のお白粉。それが毒だと分かった後にも使い続けた、小さな島国で生きた人たち。肌を美しく見せるためにと、鉛が入っていた毒のお白粉を身体に塗って。
「命懸けで化粧するだって?」
 穏やかじゃないな、お前、何をするつもりなんだ…?
「さっきの話だよ、昔のお白粉…」
 毒なんだって分かっていたのに、使うなんて、と思ったけれど…。
 ハーレイに素敵なぼくを見て貰うためなら、ぼくだって使っちゃうのかも…。毒のお白粉でも。
「ああ、あれなあ…」
 そういう女性もいたかもしれんな、健気な人が。…毒でも、恋人に喜んで貰おうと使った人。



 命が懸かっていたとしたって、やはり気になるものなんだろうな、とハーレイが言う肌の色。
 遠い昔の日本の女性は、真っ白な肌が美人の条件だからと、毒のお白粉を使い続けた。少しずつ身体を蝕んでゆく鉛の毒に気付いた後にも、「これが一番いいお白粉だから」と。
 毒入りではない新しいお白粉、それが毒入りのものと変わらない品質になるまでは。
(…ハーレイのためなら、ぼくだって…)
 きっと使おうとするのだろう。小麦色に日焼けする肌に生まれていたなら、アルビノだった前の自分の真っ白な肌に近付けるために。
(…ぼくが小麦色の肌をしてたら、ハーレイだって気にするし…)
 いくら慣れても、前の自分の白い肌を思い出すだろう。「ブルーの肌はこうじゃなかった」と。それと同じに自分も気にする。「前のぼくなら、こうじゃない」と。もっと白い肌をしていたと。
(真っ白な肌に戻れるんなら、毒のお白粉でも使っちゃいそう…)
 前の通りであろうとして。ハーレイが今も見たいであろう、真っ白な肌を見せようとして。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃない身体に生まれてしまってて…」
 すっかり日焼けしてしまってたら、白くなろうと頑張るけれど…。
 毒のお白粉は使わなくても、お日様に当たらないようにするとか、頑張って白くするけれど…。
 ハーレイが白い肌に生まれていたら、どうするの?
 ぼくと出会って記憶が戻っても、ハーレイの肌が今の褐色じゃなかったら…?
 どうすると思う、と尋ねてみた。褐色の肌を手に入れようと努力するのか、しないのか。
「俺の場合か? もちろん、日焼けしようとするな」
 元が白い肌がこの色になるまで、日焼けするのは大変そうだという気がするが…。
 化粧よりかは、自然な日焼けが一番だ。
 お前みたいに弱くはないしな、太陽の下を走り回っても倒れちまうことは無いモンだから。
 暇を見付けてはせっせと日焼けで、こういう色を手に入れるまで頑張ることは間違いないぞ。
 化粧なんぞは誤魔化しだ、とハーレイは日焼けするらしい。褐色の肌に生まれなかったら、前と同じ色を手に入れるために。
 「肌の色だけで逞しさが増す」という、褐色の肌。
 白い肌より強く見える色を、前のハーレイとそっくり同じな色を身体に取り戻すために、重ねる努力。夏の盛りの頃はもちろん、他の季節も太陽の光を浴び続けて。



 化粧はしないで、自分で色を取り戻すのが今のハーレイ。褐色の肌になりたいのならば、化粧をすれば簡単なのに。いくらでも楽に染められるのに。
「お化粧じゃなくて、日焼けするなんて…。ハーレイらしいね、今のハーレイ」
 うんと大変そうな道でも、日焼けの方を選ぶんだ。…直ぐに手に入る化粧品じゃなくて。
「当たり前だろうが、俺はお前とは違うしな?」
 お前が日焼けしようとしたって限界があるし、化粧品だと言うのも分かる。
 小麦色の肌に生まれちまった時にも、化粧品で白くしようとするのも。
 しかしだ、俺の場合はガキの頃から外ばかり走り回っていたしな、白い肌でも日焼けしたろう。白い肌に生まれていたとしたって、お前と再会する頃になったら、この通りっていう褐色に。
 もっとも、俺はこの肌の色が好きなんだが…。
 生まれた時からこの色なんだし、白くなりたいと思ったことなど一度も無いぞ。
 前の俺の記憶が戻って来ようが、戻って来るより前だろうが…、とハーレイは笑う。これが今の俺の肌の色だから、と。
「ぼくもそうだよ、生まれた時から真っ白だから」
 日焼けした肌の方がいいよね、って思ったことは一度も無いけれど…。ぼくはぼくだから…。
 ハーレイと日焼けの話をしていたりして、ちょっぴり憧れてしまっただけで。
 …ぼくの肌の色、ハーレイだって、このままの色がいいんだね?
 デートする時に連れて歩くの、弱そうに見える白い肌のぼくでも…?
「うむ。日焼けしたように見える化粧まではしなくていい」
 俺は守り甲斐のあるお前が好きだし、そういうお前を連れて歩くのが俺の幸せなんだから。
 自然に日焼けをしちまった時は、話は別になるんだがな。
 それに、お前が…。
 どうしてもやってみたいと言うなら、止めないが。
 人間、誰しも、持っていないものに憧れる。お前が小麦色の肌が欲しいなら、俺は止めない。
 化粧してでも、そういう色になってみたいと思うんだったら、それもいいだろう。



 好きにしていいぞ、と言われたけれども、化粧する気は無くなった。
 いいアイデアだと考えたけれど、ハーレイに似合いの恋人の肌だと思ったけれど…。
(…でも、ハーレイが好きな肌の色は真っ白で…)
 アルビノだったソルジャー・ブルーの肌の色。今の自分が持っている色。
 自分もハーレイの肌は褐色がいいし、ハーレイも本当に白い肌の「ブルー」が好きなのだろう。
 そう繰り返して言っていたから、小麦色をした肌の「ブルー」より、白い肌の「ブルー」。
 ハーレイが好きな、その色に生まれて来た自分。
 色素を持たないアルビノに生まれて、小麦色には日焼けできない真っ白な肌。
 違う色に生まれて来たのだったら、懸命に白くしようとしたって、今の自分の肌の色は…。
(今のハーレイだって、一番好きな真っ白の筈で…)
 小麦色の肌など必要ない、とハーレイが断言しているのだから、化粧はしない。
 健康的な肌の色も素敵だと思うけれども、自分はこの色。
 ハーレイが一番好きでいてくれる色は、前と同じに真っ白な色のアルビノの肌。
 その色なのだと分かっているから、小麦色の肌になってみたりはしない。
 命懸けで毒のお白粉を使って白くしなくても、最高の色の肌を持っているのが自分だから。
 ハーレイが好きな色の肌があるなら、それ以上は何も望まないから…。



             肌とお白粉・了

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(降り出しそう…)
 大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
 今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
 こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
 学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
 けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
 青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
 いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
 まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
 何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
 そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
 バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
 そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
 帰りの道は雨の中になるかもしれない。
 じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。



 傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
 なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
 雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
 ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
 道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
 今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
 なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
 降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
 冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
 止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
 いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
 母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
 庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
 降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。



 下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
 門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
 タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
 濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
 ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
 母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
 パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
 これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
 ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
 だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
 バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
 着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
 お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
 そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
 ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。



 そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
 温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
 だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
 バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
 普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
 其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
 しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
 もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
 お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
 風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
 右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
 前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。



 溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
 着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
 夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
 そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
 ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
 服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
 あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
 ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
 お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
 服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
 ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
 先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
 湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
 此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
 仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
 やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。



 シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
 「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
 また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
 来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
 ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
 いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
 今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
 ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
 けれど、気になるハーレイのこと。
 このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
 今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
 温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
 母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
 来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
 晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
 だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
 ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?



 それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
 いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
 ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
 先生が此処は嫌だと仰らなければね。
 お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
 ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
 ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
 ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
 ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
 野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
 此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
 ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
 野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
 ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
 本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
 ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
 夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
 ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
 病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。



 ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
 きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
 晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
 引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
 夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
 耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
 ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
 ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
 それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
 帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
 玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
 お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
 濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
 ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
 通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
 お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?



 そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
 外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
 明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
 明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
 よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
 今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
 それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
 学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
 ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
 このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
 元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
 しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
 靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
 寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
 帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。



 お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
 今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
 お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
 俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
 ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
 俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
 なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
 ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
 俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
 雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
 お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
 前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
 ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
 今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
 俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
 次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
 今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。



 ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
 今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
 その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
 ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
 借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
 悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
 学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
 お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
 だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
 晩飯、此処で食ってやるから。
 お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
 ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
 ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
 ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
 お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
 俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
 お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
 晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。



 お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
 ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
 夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
 ごくごく自然にそうなった。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
 そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
 だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
 その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
 お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
 パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
 お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
 寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
 いいか、しっかり温まっておけよ?
 俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
 野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
 具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
 前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
 そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
 冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
 退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。



 そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
 子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
 ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
 なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
 そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
 目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
 大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
 ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
 ママ、起きていいって言っていた?
 それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
 ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
 熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
 パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
 そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
 ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
 ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。



 足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
 寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
 クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
 俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
 お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
 お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
 俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
 で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
 今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
 シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
 しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
 ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
 風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
 ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
 自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。



 頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
 そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
 夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
 ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
 恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
 とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
 窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
 今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
 ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
 お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
 其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
 庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
 けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
 おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
 今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。



 その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
 結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
 もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
 俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
 たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
 晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
 学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
 俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
 けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
 お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
 他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
 そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
 見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
 とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
 お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
 毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
 たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
 前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
 だが、今の所は、俺もだな…。



 帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
 両親はいなくて、幸せな時間。
 まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
 とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
 身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
 それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
 メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
 こんな日だって悪くない。
 パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
 食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
 そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
 空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
 傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
 ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
 仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
 今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
 大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
 明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
 そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。



           雨に濡れても・了


※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
 家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。

 ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
 毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
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