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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あれっ、ウサギだ…)
 それに大きい、とブルーが眺めたもの。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
 ウサギと言っても本物ではなくて、彫刻のウサギ。道沿いの家の門扉の前に置かれていた。道をゆく人によく見えるように、空きスペースの真ん中に。
 なんという石か、ブルーグレーの石を彫り上げて作ったウサギ。座った形でコロンと丸い。
(おじさんの趣味かな?)
 この家の御主人は顔馴染み。
 よく出来ている、と石のウサギの頭を撫でた。側に屈み込んで。
 膝の下あたりまで高さがあるほど、大きなウサギ。石は綺麗に磨き上げられて、触るとスベスベしている表面。いい天気だから、太陽の光で温まって…。
(本物のウサギみたいにホカホカ…)
 あったかい、と背中や尻尾も撫で回していたら、突然、上から声がした。
「ブルー君、今、帰りかい?」
 えっ、と見上げると、門扉の向こうに家の御主人。慌ててピョコンと頭を下げた。
「こんにちは! ウサギ、勝手に触っちゃって…」
 ごめんなさい、と謝ったけれど、御主人は「かまわないよ」と門扉を開けて表に出て来た。
「道を通る人に見て貰うために置いたんだしね。見るのも触るのも、お好きにどうぞ」
 でなきゃ置いてる意味がないよ、と笑顔の御主人。「撫でて貰えばウサギも喜ぶからね」とも。
「このウサギ、おじさんが作ったの?」
「まさか。粘土のウサギだったらともかく、石の彫刻なんかは作れないよ」
 腕も無ければ、道具も無いさ、と御主人はウサギの頭をポンと叩いた。「とても無理だね」と。
 ブルーグレーの石で出来たウサギは、御主人の友達が作ったらしい。石の彫刻を趣味にしている人。せっかく見事に出来たのだから、大勢の人に見て貰いたい、と巡回中。
 この家の御主人の所にやって来たように、彫り上げた人の友達の家を順番に。一週間ほど飾って貰って、次の家へと引越してゆく。運ぶ途中で壊れないよう、梱包されて。
 そう聞くととても立派だけれども、石のウサギは「趣味の作品」。
 何かの賞を取ったわけではないという。今の所は、コンクールなどに出されてもいない。本当にただの趣味の彫刻、知り合いの家を順に回ってゆくだけの。



 御主人の話では、「ただの趣味」のウサギ。ちゃんとウサギに見えるどころか、今にもピョンと跳ねそうなのに。座っているのに飽きてしまったら、「遊びに行こう」と。
 石で出来ていても、生き生きしているブルーグレーの大きなウサギ。いい彫刻だと思うのに…。
「これでも賞は取れないの?」
 凄く素敵なウサギなのに…。動き出しそうなほど、よく出来てるけど…。
「ただの趣味ではねえ…。コンクールなんかに出してみたって、難しいんじゃないかな」
 本人もそれが分かっているから、こんな具合に展覧会をしているんだよ。あちこちの家で。
 もっとも、趣味で彫るだけはあって、いっぱしのことを言ってるけどね。
 この石の中にはウサギがいたとか、そういう一人前の台詞を。
 上手なんだか、下手なんだか…、と御主人はウサギを眺めている。「それでウサギだよ」と。
「ウサギって…。この石の中に?」
 これ、とウサギを指差した。ブルーグレーの石の塊を。…今はウサギになっている石。
「そうさ。この石はウサギになりたかったらしいよ、こういうウサギに」
 同じ動物でも、ライオンとかでは駄目なんだ。犬も駄目だし、猫も駄目だね。ウサギでないと。
 ウサギになりたい石なんだから、と笑った御主人。
 このウサギを彫った人が言うには、ウサギになりたい石の中にはウサギがいるもの。ただの石にしか見えないようでも、中にはウサギが住んでいる。それを彫り出すのが彫刻家。
 石に隠れているウサギを見付けて、「出して欲しい」という声を聞いて。
「そうなんだ…。最初からウサギが入ってたんだね」
 この石の中に、このウサギが。…それを見付けたのが、おじさんの友達…。
「そうらしいねえ、彫った本人に言わせると。この石にはウサギが隠れてたようだ」
 昔からそう言われるようだよ、彫刻をする人の間では。…その友達から聞いたんだけどね。
 本当の彫刻家は、彫るものの声を聞くらしい。…いや、見付ける目を持ってるのかな?
 彫ろうとしている材料の中に何がいるのか、何になりたいと思っているか。
 石だけでなくて、木の彫刻でも同じだね。名作と言われる彫刻なんかは、どれも彫刻家が中身を上手く彫り出した結果だという話だよ。
 彼に言わせれば、このウサギだって「ウサギになりたい」と言っていたわけだから…。
 声だけは聞こえたというわけなのかな、ちゃんとウサギになっているしね。



 名作と呼べるかどうかはともかく、と御主人はウサギを撫でていた。「でもウサギだね」と。
 それから暫くウサギを眺めて、撫で回したりして、「ありがとう」と御礼を言って家に帰った。石のウサギにも、「さようなら!」と手を振って。
 自分の部屋で制服を脱いで、ダイニングに行って、おやつを食べながら考えたこと。さっき見て来た、石で出来たウサギ。あの家の門扉の前に置かれて、今も座っているのだけれど…。
(ウサギになりたかった石…)
 御主人はそう言っていた。ブルーグレーの石の元の形は知らないけれども、中にウサギを隠していた石。今のウサギになる前は。
(丸い石だったか、ゴツゴツの石か、ぼくには分からないけれど…)
 御主人の友達はあの石に出会って、「ウサギの石だ」と中身を見抜いた。彫刻が趣味の人だから分かった、石の正体。さっきの御主人や自分が見たって、きっとウサギは見付からない。
(ああいう色の石の塊…)
 石があるな、とチラリと眺めて、そのまま通り過ぎるのだろう。ウサギには気付かないままで。石の中に隠れて、「外に出たいな」と、待ち焦がれているウサギが入っているのに。
(分かる人にしか、分からないウサギ…)
 そう考えると面白い。ウサギを隠していた石のこと。
 河原などにある丸い石だったか、山にあるようなゴツゴツの石か。ウサギは其処に隠れていた。あの御主人の友達が見付け出すまで、「ウサギを彫ろう」と考えるまで。
 自分はウサギを見付けることは出来ないけれども、とても素敵だという気がする。ああいう風にウサギなんかが、石の中から出てくるなんて。
(地球の上には、石が一杯…)
 山にも川にも、海辺にも石が転がっている。それは沢山、数え切れないほどの石たちが。
 丸い石やら、ゴツゴツの石や。抱え切れないような石から、ヒョイと持ち上げられる石まで。
 大理石のような石になったら、石切り場から切り出されもする。彫刻の素材や、建築用にと。
 そういう石に隠れたものを、見付け出すのが彫刻家。「この石は何になりたいのだろう?」と。
 石をじっくり見ている間に声がするのか、一目で中身が分かるのか。
 色々なものになりたい石を、彫刻家たちが彫ってゆく。石の声を聞いて、中に隠れたものを。
 今も昔も、せっせと彫っては石の中身を外に出す。帰り道に見たウサギみたいに。



 地球の上には石が沢山、ウサギになりたい石もいる。ライオンとかになりたい石も、他の動物が隠れている石も。
(地球じゃなくって、他の星でも…)
 探してみたなら、ウサギになりたい石が見付かるのだろうか?
 彫刻家ではない自分には無理でも、それが趣味の人や、プロの彫刻家が探しに出掛けたならば。
 地球は一度は滅びたけれども、生命を生み出した母なる星。
 その地球の上にある石だったら、ウサギもライオンも知っている。滅びる前の地球には、沢山の生き物たちがいた。地球は彼らの姿を見ていて、石たちも記憶しただろう。ウサギやライオンや、空を飛んでゆく鳥たちを。
(ちゃんと知ってるから、石の中にもウサギやライオン…)
 彼らの姿が入り込む。ウサギになりたい石も生まれれば、ライオンになりたい石だって。
 けれど、地球とは違う星。
 テラフォーミングされた星の上にも、そういった石はあるのだろうか?
 今は宇宙に幾つも散らばる、人間が暮らしている星たち。生命の欠片も無かった星でも、年月をかけて整備していって。木や草を植えて、海も作って。
 その星の上にも石はある。それこそ人が来るより前から、何も棲んでいない星だった頃から。
 其処にあった石はどうなのだろうか、中にウサギは入っているのか。
(最初からウサギがいない星でも、ウサギになりたい石とかがあるの?)
 中にウサギを隠している石。「早く出たいな」と、ウサギになれる日を待っている石。そういう石が他の星にもあるのか、それともまるで無いというのか。
(ウサギとかが住んでた、地球の石でないと…)
 中にウサギは入っていなくて、いい彫刻は作れないだとか。彫刻家たちが頑張ってみても、中にいるものが無かったならば、名作は生まれて来ないとか。
(まさかね…?)
 今の時代は、彫刻家だって大勢いる。あちこちの星で活躍している芸術家たち。
 石を相手にする彫刻家も多いわけだし、地球の石だけでは足りないだろう。どれほど地球の石が多くても、山にも川にも沢山の石が転がっていても。
 地球の石でしか名作を彫ることが出来ないのならば、彫刻家の数もグンと減ってしまいそう。



(…石を探しに地球に来るのも…)
 大変だよね、と思う宇宙の広さ。ソル太陽系の第三惑星、水の星、地球。
 此処まで来ないと「名作を作れる石」に出会えないなら、彫刻家を志す人だって減る。ふらりと山や河原を歩いてみたって、「石の声」に出会えないのなら。地球でしか、それが出来ないなら。
(地球に来るには、時間もお金も…)
 かかるのだから、彫刻家の卵たちは諦めてしまうことだろう。余程の才能が無い限り。師と仰ぐ人が褒めちぎってくれて、「君なら出来る」と何度も励ましてくれない限り。
(褒めて貰ったら、いつかは地球の石を使って名作を、って思うだろうけど…)
 そうでない人は「どうせ才能が無いのだから」と投げ出してしまって、それでおしまい。地球の石にさえ出会えていたなら、名作を彫れたかもしれないのに。
(そんなのだったら、彫刻をする人、ホントにうんと少なくなって…)
 高名な彫刻家は地球の人ばかりで、でなければ地球から近い星の人。いつでも気軽に石を探しに地球まで旅が出来る人。
 けれど、そうなってはいない。ソル太陽系から遠く離れた星にも、彫刻家たちは大勢いる。石があったら、とても見事な作品を彫り上げる人たちが。
 「地球の石でないと駄目だ」と聞いたことなどは無いし、何処の星でも彫刻に向いた石はある。大理石だって、他の様々な石だって。
(他所の星でも、きっと、神様が色々な魂…)
 それを石の中に入れるのだろう、と考えながら戻った二階の自分の部屋。
 空になったカップやケーキのお皿を、「御馳走様」とキッチンの母に返してから。
(…さっきのウサギは、地球の石だけど…)
 地球の石だから、中にウサギが入っていたって少しも不思議は無いけれど。
 他の星でも、きっと神様が、石の中に色々入れてくれるに違いない。人間が暮らすようになった星なら、石の中にもウサギや、ライオン。犬や猫だって、鳥だって。
(人が暮らせる星になったら、彫刻家になりたい人も生まれてくるし…)
 その人たちが困らないよう、神様が石に魂を入れる。ウサギやライオンを隠しておく。
 今の仕組みはきっとそうだ、と勉強机の前に座って頬杖をついた。
 何処の星でも、ウサギが入った石が見付かるのだろう、と。人間が暮らす星なら、きっと。



 今日の自分が出会ったウサギは、石の彫刻。ブルーグレーの石を彫り上げたもの。
 あのウサギを家の前に飾っていた御主人の友達は、石の中に隠れたウサギを見付けた。彫刻家が石を目にした時には、「何になりたい石」なのか分かる。ウサギだろうと、ライオンだろうと。
(木彫りも同じなんだよね?)
 石と同じで、木の中に何かが隠れているもの。御主人はそう話していた。石と木とでは、素材が違うというだけのこと。中にいるものを「見付けて」外に出してやるのが彫刻家。
 あちこちの星の石に神様が魂を入れるのだったら、木だって同じことだろう。テラフォーミングして木を植えたならば、その星の上には人間が住む。ちゃんと環境が整ったなら。
(海を作って、川とかも出来て…)
 もう充分だ、と判断されたら、作業員たちは引き揚げて行って、代わりに移住してゆく人たち。其処で人間たちが暮らし始めたら、石にも木にも、神様が魂を入れてゆく。
(彫刻をする人がそれに出会ったら、中のウサギとかが見付かるように…)
 中に隠れたものを見付けて彫っては、いろんな彫刻が出来るのだろう。地球でなくても、元々は何も棲んでいなかったような星でも。
 神様が中に入れた魂、ウサギやライオンを見付け出しさえすれば。木や石を彫る彫刻家たちが、中に隠れた色々なものを、上手く彫り上げてやったなら。
(そうやって、何処の星でも、名作…)
 地球でなくても、素晴らしい彫刻が生まれるのだ、と思った所で気が付いた。
 帰り道に見た石のウサギは、なかなかの出来。今にも跳ねてゆきそうだったのに、コンクールで賞を取ってはいない。あの御主人は「難しいだろうね」と言ったけれども、上手ではあった。
 けれど、あれとは正反対のものを、前の自分は知っている。
(前のハーレイ…)
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が愛した人。キャプテン・ハーレイと呼ばれていた人。
 前のハーレイは木彫りを趣味にしていたけれども、とても下手くそな腕前だった。あれが本当の下手の横好き、「彫らない方がマシ」と言えるほど。
 何を彫っても、ハーレイが目指した「芸術品」が出来はしなかった。彫ろうとしていたものとは違った彫刻が出来て、誰もが笑ったり、顔を顰めたり。
 どう見ても、「そうは見えない」から。まるで違った「変なもの」しか出来ないから。



 木彫りが趣味でも、お世辞にも「上手い」とは言えなかったのが、前のハーレイ。懸命になって芸術品を彫れば彫るほど、「下手だ」と呆れられ、墓穴を掘っていたようなもの。
 スプーンやフォークといった実用品なら、それは上手に彫れたのに。頼んで彫って貰う仲間も、何人もいたほどなのに。
 けして「腕が悪かった」わけではない彫刻家が、前のハーレイ。腕が悪いのなら、実用品などを彫っても下手くそな筈。曲がったようなスプーンが出来たり、歪んだフォークが出来上がったり。
 けれど、そうなってはいない。
 実用品なら引っ張りだこの腕前、芸術品だけが「とんでもない出来」に仕上がったのなら…。
(…ひょっとして、ハーレイ…)
 神様が木の中に入れた魂、それを見ないで芸術品を彫っていたのだろうか?
 石や木たちの声が聞こえる、本物の彫刻家たちとは違って。…「これを彫るのだ」という自分の考えだけで、木に挑んでいた「彫刻家」。
 木という素材を相手にするのが上手かっただけの、芸術とは無縁の製作者。学校の授業で工作をするのと同じレベルで、「上手く彫れる」というだけのことで。
(前のハーレイ、そうだったのかも…)
 なまじ上手に彫れるものだから、ハーレイ自身は芸術家気取り。ナイフ一本で器用に仕上げて、スプーンもフォークも誰もが喜ぶ出来だったから。
 ところがハーレイの中身はと言えば、「木の声なんかは聞こえない人」。本物の彫刻家の域には達していなくて、木の塊の中に「何かがいる」とは気付かないタイプ。
 木の中に何が隠れているのか、それを見ないで強引に彫っていったなら…。
(…ナキネズミだって、ウサギになるよね?)
 前のハーレイが、彫ろうとしていたナキネズミ。
 赤いナスカで生まれたトォニィ、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。ミュウの未来を担う子供で、誰もが誕生を喜んだ。古い世代も、新しい世代も。
 そのトォニィの誕生を祝って、前のハーレイは自慢の木彫りを始めた。ブリッジで仕事の合間を見付けて、いつものナイフ一本で。トォニィにオモチャを作ってやろうと。
 きっとトォニィも喜ぶだろうと、ナキネズミを彫ることにしたハーレイ。ミュウとは馴染み深い生き物、思念波を使える動物を。…けれど出来上がったものは、誰が見たってウサギそのもの。



 ああなったのは、ハーレイの腕のせいではなくて、「彫刻家ではなかった」せいなのだろう。
 前の自分は深い眠りの中にいたから、現場を見てはいないけれども…。
(…ハーレイがナキネズミを彫るために…)
 倉庫に出掛けて、取り出して来た木の塊。趣味の彫刻のためにと残しておいた、シャングリラで育てた木材用の木の切れ端。狂いが出ないよう乾燥させては、取り出して彫っていたけれど…。
(これにしよう、って選んで、倉庫の中から出して来たヤツ…)
 その木の中に隠れていたのは、ナキネズミではなくて、ウサギだったに違いない。ナキネズミになりたい木とは違って、ウサギになりたいと思っていた木。
(でもハーレイには、木の声なんかは聞こえなくって…)
 木の中にいるものも見えはしなかった。彫刻家ではなくて、「木」という素材を彫るのが得意なだけだから。スプーンやフォークを上手く作れる、器用なだけのただの人間。
 ハーレイは「ウサギになりたい」木とは気付かず、木の塊を彫り進めた。自分が彫ろうと思った動物、ナキネズミを木から彫り出すために。
 けれど中には、ウサギだけしか入っていない木。ナキネズミなどは何処にもいない。ハーレイが頑張って彫れば彫るほど、ウサギは外に出たくなるから…。
(中のウサギが、我慢できずに出て来ちゃって…)
 ハーレイの木彫りが完成した時、其処にいたのは一匹のウサギ。…ナキネズミとはまるで違った尻尾の、長い二本の耳をしたウサギ。
(…出来上がったのが、ウサギだったから…)
 トォニィの母のカリナはもちろん、他の仲間たちも「ウサギなのだ」と思い込んだ。ハーレイも「違う」と言えはしなくて、それっきり。
 トォニィは「ウサギになった」ナキネズミを大切にし続け、後の時代まで残った「ウサギ」。
 「ミュウの子供が沢山生まれるように」という祈りがこもった、お守りなのだと信じられて。
 今ではウサギは宇宙遺産で、博物館の収蔵庫の中。レプリカの展示も大人気。
(…なんでナキネズミがウサギになるの、って思ってたけど…)
 前のハーレイの木彫りの腕にも呆れたけれども、原因は「ウサギになりたかった木」。
 それなら分かる、ナキネズミがウサギに変身したこと。前のハーレイが選んだ木には、ウサギが入っていたのなら。…ナキネズミが入っていなかったなら。



 きっとそういうことなんだ、と納得がいった「宇宙遺産のウサギ」。今のハーレイに聞かされるまでは、今の自分も「ウサギなのだ」と思い込んでいた、ナキネズミの木彫り。
(前のハーレイが作った、他の木彫りも…)
 あれと同じで、無理やり彫るから変な出来上がりになったのだろう。
 ヒルマンが頼んだ、知恵の女神ミネルヴァの使いのフクロウ。それはトトロになってしまった。SD体制が始まるよりもずっと昔の日本で愛された、可愛いオバケのトトロの姿に。
 他にも酷い彫刻は沢山、どれも原因は同じだと思う。前のハーレイが強引に彫ったこと。
(木の声を聞いてあげないから…)
 神様が木たちに与えた魂、その声を聞かずに彫ったハーレイ。自分が彫ろうと思ったものを。
 そのせいで酷くなったんだ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。前のハーレイ、木の声をちゃんと聞いていた?」
 神様に貰った魂の声を、前のハーレイは、きちんと聞こうとしていたの…?
「はあ? 魂って…?」
 魂の声を聞いていたかと言われても…。前の俺は、そういう仕事をしてはいないが…?
 俺がキャプテンだったことを抜きにしてもだ、前の俺たちが生きた時代に、そんな仕事は…。
 今の時代も無いんじゃないのか、ずっと昔の地球にだったら、幾つもあった職業なんだが。
 神様の声を聞く人間とか、魂を呼び出す人間だとか、と見当違いなことを言い出したハーレイ。とうの昔に廃れてしまった、古典や歴史の世界の職業の名前を挙げ始めて。
「そうじゃなくって、木彫りだってば!」
 前のハーレイ、いろんなものを彫っていたでしょ、シャングリラで!
 あれを彫る前に、木の声を聞いてあげていたのか、それを質問しているんだよ…!
「木の声だって?」
 いったいお前は何が言いたいんだ、木は喋らないと思うがな…?
 黙って生えているだけなんだし、せいぜい葉っぱや枝が擦れて鳴るだけで…。
「それは生きてる木のことじゃない! ぼくが言うのは、木彫り用の木!」
 伐採した木の残り、貰って倉庫に仕舞っていたでしょ?
 あれを使って何かを彫る時、その木の声を聞いていたのか、知りたいんだよ…!



 今日の帰りに聞いたからね、と披露した話。顔馴染みの御主人に教えて貰ったこと。
 ブルーグレーの石の中にいて、御主人の友達に彫って貰って出て来たウサギ。中にウサギがいる石なのだ、と見付けて貰えて、今は立派なウサギの彫刻。門扉の前にチョコンと座って。
 彫刻の類はそういったもので、「中にいるもの」を彫り出してゆく。木の彫刻でも同じだ、と。
「ぼくが見たウサギは、あの石の中にいたんだよ。…ウサギの彫刻になる前にはね」
 丸い石だったのか、ゴツゴツの石かは知らないけれど…。中にウサギが入った石。
 そういう石を何処かで見付けて、中のウサギを出してあげたのがアレなんだよ。
「中に入っているってか…。その手の話はよく聞くな」
 古典の世界でも、定番ではある。
 木の中に有難い神様の姿が隠れているとか、そんな具合で。…それを彫ったら霊験あらたかで、お参りの人が大勢やって来たという話は多いぞ。
 今の時代も、何になりたいのか、耳を傾ける彫刻家とかは少なくないよな、うん。
 いい素材なんかが手に入った時は…、と今のハーレイは知っていた。石や木の声、それを捉えて中に隠れたものたちを彫ってゆく人。彫刻家と呼ばれる人たちのことを。
「ほらね。昔もそうだし、今だって同じなんだけど…」
 前のハーレイ、そういうのをちゃんと見付けてた?
 木彫りをしようと木を取り出したら、木の声を聞いてあげていたわけ?
 中には何が隠れているのか、何になりたいと思ってる木か。…声の通りに彫ってあげてた?
 石の中にいたウサギみたいに…、と問い掛けたけれど。
「いや…? なんたって、木彫りは俺の趣味だったしな?」
 今の俺は全くやっていないが、前の俺はあれが好きだった。いい息抜きにもなるもんだから。
 木の塊とナイフさえあれば、何処でも直ぐに始められるし…。
 空いた時間にポケットから出せば、ブリッジだろうが、休憩室だろうが、俺の憩いの空間だ。
 其処で気ままに彫ってゆくんだから、何を彫ろうが俺の自由だと思わんか?
 木の塊なんかの指図は受けんぞ、俺は彫りたいものを彫るんだ。…その時の気分で。
 スプーンやフォークの注文が入っていたなら別だが、そうでなければ気の向くままだな。
 こいつがいいな、と思い立ったら、そいつを彫ってゆくだけだ、と返った答え。
 予想した通り、ハーレイは「聞いていなかった」。木の塊の中に隠れたものたちの声を。



 それでは駄目だ、と零れた溜息。前のハーレイの彫刻が「下手だ」と評判だったのは、木の中にいるものを無視したから。…声を聞こうとしなかったから。
「やっぱりね…。ハーレイ、聞いていなかったんだ…」
 木の塊が何になりたいのか、まるで聞こうとしなくって…。中にいるのは何だろう、って眺めてみたりもしなかったから…。
 それでウサギになっちゃったんだよ、ウサギになるのも仕方がないよ。
「ウサギだと? 俺はウサギを見てもいないが…?」
 お前が言ってる、ブルーグレーの石で出来てるウサギってヤツ。石の彫刻で、そこそこ大きさがあるんだったら、夜の間も出しっ放しだと思うんだが…。
 気を付けて車を走らせていれば、此処へ来る途中に気付いただろうが、生憎と…。
 違う方でも見てたんだろうな、ウサギは知らん。…それで、ウサギがどうかしたのか?
 見ておけと言うなら帰りに見るが、とハーレイは勘違いをした。ブルーグレーの石で出来ていたウサギ、それが話の中心なのだと。…石のウサギではなくて、木のウサギのことを言いたいのに。
「違うってば。…石のウサギに出会ったお蔭で、前のハーレイのことに気が付いたんだよ」
 前のハーレイがやっちゃったことで、宇宙遺産になってるウサギ…。
 博物館でレプリカが展示されてるけれども、ハーレイ、あれはウサギじゃないって言ったよね?
 ぼくには今でもウサギに見えるし、博物館の説明なんかもウサギになっているけれど…。
 でも、本当は前のハーレイが彫ったナキネズミ。
 トォニィが生まれたお祝いに作って、プレゼントしてあげたナキネズミで…。
 いったい何処がナキネズミなの、って思っていたけど、今日のウサギで分かったよ。あの石の中にはウサギが入っていたらしい、って聞いて来たから。
 宇宙遺産のウサギになった木、ウサギが入った木だったんだよ。…あの石と同じで。
 ウサギになりたい、って思っていたのに、前のハーレイが無理やり彫ったから…。
 木の声は少しも聞いてあげずに、中にいるものも探さないままで…。
 ハーレイ、自分が彫りたいものが出来たら、好きなように彫っていたんでしょ?
 あの木もそうだよ、中にはウサギが隠れてたのに…。ウサギになりたい木だったのに…。
 トォニィにナキネズミを贈るんだ、って決めて勝手に彫っていくから…。
 ウサギの木なのに、ナキネズミにしようと思ってどんどん彫っちゃったから…。



 それでウサギになったのだ、と今のハーレイに向かって詰った。彫刻家の魂を持っていなかった前のハーレイを。実用品なら上手に彫れても、芸術品はまるで駄目だった彫刻家を。
「ハーレイが酷いことをするから、ウサギも酷い目に遭ったんだよ…!」
 いい彫刻家と出会えていたなら、ちゃんと最初から素敵なウサギになれたのに…。
 前のハーレイに捕まってしまったお蔭で、ナキネズミにされそうになっちゃって…。そんなの、ウサギも嫌だろうから、頑張ったんだよ。
 ハーレイがせっせと彫ってる間に、必死に抵抗し続けて。「ウサギになるんだ」って。
 うんと頑張って暴れ続けて、なんとかウサギになれたんだと思う。…下手なウサギだけど。
 でも、ナキネズミにされちゃうよりかはずっといいよね、ウサギなんだから。
 下手くそな出来のウサギでもね、と赤い瞳を瞬かせた。「ナキネズミにされるよりはマシ」と。
「おいおいおい…。そういう話になっちまうのか?」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギなんだと思われちまって…。今もやっぱりウサギのままで、宇宙遺産にされちまってて…。
 あれが悔しいと思っているのに、お前はウサギだと言いたいのか?
 俺はナキネズミを彫ったつもりでも、出来上がったものは、木の中にいたウサギなんだと…?
 正真正銘、ウサギなのか、とハーレイが目を丸くするから、「そうだけど?」と返してやった。
「あれはウサギだよ、何処から見ても。…誰が見たってウサギだものね」
 そうなっちゃうのも当然だってば、元からウサギなんだから。…木の中に隠れて、ウサギになる日を待っていたウサギだったんだから。
 ヒルマンに彫ってあげたんだっていう、フクロウの木彫りだってそうでしょ?
 トトロにしか見えないフクロウだったけど、あれもハーレイが無茶をしたからだよ!
 本当はトトロになりたかった木を、フクロウにしようと彫ったから…。
 フクロウが出来上がるわけがないよね、木の中にいたのはトトロなんだもの…!
 どれもハーレイが悪いんだよ、と恋人の顔を睨み付けた。「木の声を聞いてあげないから」と。
「ちょっと待ってくれ。ウサギはともかく、トトロはだな…」
 トトロは子供向けの映画で、それに出て来たオバケに過ぎん。トトロは実在してなくて…。
「でも、魂はありそうじゃない!」
 魂があったら、ちゃんと神様が入れてくれるよ。木の中にも、石の中にもね…!



 前にハーレイに見せて貰った、遠い昔のトトロの映画。断片しか残っていない映画だけれども、ハーレイの記憶に刻まれた中身は温かかった。人間が自然を愛していた頃、思いをこめて作られた映画だったから。
 SD体制の時代までデータが残ったほどだし、オバケのトトロにも、立派に魂が宿っていそう。
 地球が滅びてしまった後にも、神様の手で拾い上げられて。…壊れないように守られて。
 白いシャングリラの中で育った、木にまで入り込むほどに。トトロになりたいと願う木の塊が、あの船の中にも生まれるほどに。
「うーむ…。トトロが入った木だったと言うのか、俺がフクロウを彫っていた木は?」
 ヒルマンがフクロウを頼んで来たから、腕によりをかけて彫ろうと選んだ木だったんだが…。
 あれの中にはフクロウはいなくて、代わりにトトロがいたんだな?
 でもって、トォニィにナキネズミを彫ってやった木には、ウサギが入っていやがった、と…。
 どっちも中身が外に出たがるから、フクロウはトトロになってしまって、ナキネズミはウサギに化けたってか…?
 俺の彫刻が下手だったのは、俺が選んだ木に入っていたヤツらのせいか…?
 フクロウもナキネズミも、そのせいで変になっちまったのか、とハーレイが嘆くものだから…。
「自業自得って言うんでしょ、それ。…木の声を聞いてあげないんだもの」
 何になりたいと思っている木か、ちゃんと聞いてから彫っていたなら、前のハーレイでも上手く彫ることが出来たんじゃないの?
 スプーンやフォークは上手に彫れたし、不器用だったわけじゃないんだから。
 だけど、芸術品は無理。…木の声を聞いてあげもしないし、中にいるものも探さないんだもの。
 これが本物の彫刻家の人たちだったら、きちんと探して彫るんだものね?
 ぼくが見て来たウサギもそうだよ、趣味の彫刻らしいけど…。コンクールに出しても、賞とかは取れないみたいだけれども、とても上手に出来てたってば。今にも跳ねて行きそうなほどに。
 あれを彫った人は、ちゃんと「石の中にウサギがいる」って見抜いていたんだよ…?
 ウサギの石だって分かってたんだよ、それでウサギを彫ったんだよ…!
 同じ趣味でも、前のハーレイのとは大違い。
 石の声を聞いて、中に隠れたウサギを見付けて、きちんと出してあげたんだから。
 ウサギになりたい木を捕まえて、ナキネズミにしようとしたハーレイとは違うんだから…!



 ホントのホントに大違いだよ、と下手な彫刻家だった恋人を責めた。「あんまりだよ」と。
 ウサギになりたかった木や、トトロになりたいと思っていた木。そういう木たちの声を聞こうとしないで、好き勝手に彫ろうとしたハーレイ。
 それでは木だって可哀相だし、出来上がった彫刻も可哀相。ウサギになろうと思っていたのに、「ナキネズミだ」と主張されるとか、トトロなのにフクロウにされるとか。
「ぼくだったら、悲しくて泣いちゃうよ…。自分が自分じゃなくなるだなんて…」
 ウサギに生まれたのにナキネズミだとか、トトロだったのにフクロウだとか。…悲しすぎるよ。
 宇宙遺産になったウサギは、みんなが間違えてくれたお蔭で、ちゃんとウサギになれたけど…。
 でも、ハーレイは今も「ナキネズミだ」って言うんだから。…本当はウサギの筈なのに。
 ハーレイに木の声が聞こえていたなら、そんなことにはならないんだよ…?
 出来上がった彫刻も褒めて貰えて…、と尖らせた唇。「前のハーレイ、ホントに酷すぎ」と。
「…要するにお前は、前の俺は彫刻家として、失格だったと言いたいんだな?」
 彫ろうと向き合った木の声が聞こえる才能が無くて、木の中身だって見えなくて。
 中身はウサギだと気付きもしないで、そいつで無理やりナキネズミを彫ろうと悪戦苦闘していた大馬鹿野郎。…そんなトコだろ、木の魂に逆らっちまって、下手なヤツしか彫れない人間。
 彫刻家としては失格な上に、才能の欠片も皆無だった、と。
 やらない方がマシな趣味だと言うわけか、とハーレイが眉間に寄せた皺。「下手だったが」と。
「スプーンやフォークは上手だったし、やらない方がマシだとまでは言わないけれど…」
 だけどウサギやトトロなんかは、芸術性の欠片も無いから…。
 その割に、ウサギが残っているけど…。百年に一度の特別公開、大人気のウサギなんだけど…。
 博物館をぐるっと取り巻く行列が出来るらしいもんね、と思い浮かべた宇宙遺産のウサギ。今はウサギとして知られている、キャプテン・ハーレイが彫ったナキネズミ。
「宇宙遺産のウサギだったら、立派なもんだぞ。…名前が少々、不本意だが」
 俺はナキネズミを彫ったというのに、ウサギだなんて間違えやがって…。今もそのままで…。
 とはいえ、芸術は後世に残ってこそだし、前の俺にも才能ってヤツがきちんとだな…。
「あったって言うの? あれが今でも残っているのは、ウサギが出て来てくれたからでしょ!」
 ハーレイがナキネズミにしようとしたって、ウサギになろうと頑張ったウサギ。
 ナキネズミだったら宇宙遺産になるのは無理だ、ってハーレイも言っていたじゃない…!



 宇宙遺産のウサギは、ミュウの子供が沢山生まれるようにという祈りがこもった大事なお守り。
 ウサギは豊穣と多産のシンボル、皆が勘違いをしてしまったから、ウサギは残った。宇宙遺産の指定を受けて、博物館に収められて。
 ただのナキネズミの木彫りだったら、オモチャとして扱われただろう。宇宙遺産になって残りはしないで、時の流れに消えていたのに違いない。
 ウサギにしか見えなかったお蔭で、ナキネズミの木彫りは今まで残った。前のハーレイがいくら頑張って「ナキネズミにしよう」と彫り進めたって、「ウサギになりたい」と思った木。
 彫ろうとしている木の声も聞かない、酷い彫刻家の腕にも負けずに、表に姿を現したウサギ。
「あのウサギが頑張ってくれたお蔭で、前のハーレイの彫刻が今でも残ってるんだよ」
 ナキネズミにされてたまるもんか、って、諦めないで、ちゃんとウサギになったから。
 ウサギに見える姿を手に入れたから、宇宙遺産のウサギなんだよ。
 木の中にいたウサギに感謝してよね、ハーレイの才能だなんて言わずに。無理やりナキネズミにしようとされても、ウサギは頑張ったんだから。
「…俺の腕ではないってか?」
 宇宙遺産のウサギがあるのは、前の俺が心をこめて彫ったお蔭だと思うんだが…。
「違うよ、木の中のウサギのお蔭!」
 ウサギが隠れていてくれたことと、頑張って表に出てくれたこと。その両方だよ、あのウサギが今も宇宙に残っている理由はね…!
 いつか本物の宇宙遺産のウサギに会えた時には御礼を言わなきゃ、とハーレイに注文をつけた。
 展示ケースの前に立ったら、「出て来てくれてありがとう」と。
 木の中のウサギが出て来たお蔭で、立派に宇宙遺産になれたし、今でも残る芸術だから。彫ったハーレイの腕はどうあれ、美術の教科書にも載るほどだから。
「御礼を言えって言われてもだな…。俺にとってはナキネズミだが…」
 あれは断じてウサギじゃなくてだ、ナキネズミというヤツなんだが…?
 訂正できる機会が無いだけだ、とハーレイは不満そうだけれども。
「ウサギになったから、宇宙遺産になって今まで残れたんでしょ!」
 ナキネズミじゃ残れないんだから!
 ただのオモチャの一つなんだし、何処かに消えて行方不明でおしまいだから…!



 絶対、残っていないからね、とハーレイに言葉をぶつけてやった。「残るわけが無いよ」と。
 木彫りのオモチャのナキネズミなどは、実際、残りそうにないから。
「しかしだな…。俺はナキネズミを彫ったのに…」
 そいつをウサギにされちまった上に、そのウサギにだな…。
 御礼を言わなきゃいけないのか、とハーレイは呻いているけれど。情けなさそうな顔をしているけれども、ナキネズミは今もウサギ扱い。前のハーレイが彫った頃から、ずっと。
 木の中のウサギの声も聞かずに、ナキネズミにしようと彫ったから。…ウサギらしい姿になってきたって、強引に彫った結果だから。
(木の声を聞いてあげもしなかった、酷い彫刻家が悪いんだしね?)
 ナキネズミがウサギになってしまうのは当たり前だし、悪いのは前のハーレイだと思う。
 それに、そんな彫刻家の作品が今まで残っているのも、木の中にいたウサギのお蔭。懸命に声を上げていたって、ナキネズミにされてゆくだけだから、と抵抗を続けたウサギが強かったお蔭。
 いつか本物の彫刻に会えた時には、ハーレイが何と文句を言っても、御礼を言おう。
 「出て来てくれてありがとう」と。
 前のハーレイがナキネズミにしようと彫り続けても、ちゃんと姿を見せたウサギに。
 ナキネズミにならずに、ウサギの姿になったウサギに。
 お蔭で、前のハーレイがトォニィのために作った木彫りを、今の自分が見ることが出来る。赤いナスカでは深い眠りの中にいたから、見そびれてしまったのだけど。
 とても下手くそな木彫りを眺めて、「ウサギだ」「いやいやナキネズミだ」と喧嘩も出来る。
 「ナキネズミだ」と譲ろうとしないハーレイと二人、傍から見たなら馬鹿みたいな喧嘩を。
(…ウサギに、御礼を言わなくちゃね…)
 今の時代まで宇宙遺産になって残れたのは、木の中のウサギのお蔭だから。
 ハーレイは無視して彫ったけれども、ウサギが頑張ってウサギの形になってくれたから。
 木の中に隠れていたウサギ。なりたかった姿を手に入れたウサギ。
 それにペコリと頭を下げよう、ハーレイが隣で「ナキネズミだぞ?」と低く唸っていても…。



              彫刻家と魂・了


※前のハーレイが作った、宇宙遺産の木のウサギ。実はナキネズミだったそうですが…。
 ウサギの形になったのは、木の中に隠れていた魂のせいかも。ウサギの姿になりたかった木。
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(お白粉…)
 昔は有毒だったんだ、とブルーが驚いた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 記事に添えられている、昔の美女の絵。多分、江戸時代の浮世絵だろう。誰が描いたものかは、新聞には書かれていないけれども。
 髪を結い上げた、白い肌の女性。今の感覚だと「美人なの?」と思うけれども、その時代ならば絶世の美女。だからこそ絵のモデルにもなる。女性の肌は雪のように白い。
(色の白いは七難隠す、って…)
 言われたくらいに、白い肌が美しいとされていた時代。
 当時の日本は小さな島国、おまけに鎖国をしていたほど。白人の血などは殆ど入って来なくて、日本人と言えば黄色人種。けして「白い」とは呼べない肌。肌が白くても、白人ほどには。
(この絵の人は真っ白だけど…)
 実際、真っ白だったという。まるで雪のように、白い絵具を塗ったかのように。
 その白い肌の秘密が「お白粉」。白い粉を溶いて、肌にたっぷりと塗り付けた。黄色人種の肌の色など、欠片も見えなくなるように。顔はもちろん、首にも、襟元から覗く胸にまで。
(そうすれば、誰でも真っ白な肌で…)
 素晴らしい美人になれるのだけれど、お白粉には毒が含まれていた。
 材料だった鉛の中毒、肌から身体に回ってゆく毒。本人の身体を蝕むばかりか、赤ん坊の乳母をしていた場合は、その子供にまで。
 胸元まで塗り付けられたお白粉、それを飲んでしまう赤ん坊。お乳と一緒に、何も知らずに。
 鉛の中毒は恐ろしいもので、毒が全身に回った時には命も失くしてしまったという。
(…そんな…)
 お化粧で命を落とすなんて、と思うけれども、誰もやめようとはしなかった。お白粉の毒が原因なのだと分かった後にも、やめずに使い続けた人たち。
(鉛のお白粉の方が、肌に綺麗にのびるから…)
 鉛を含まないお白粉なんて、と使いたがらなかった人が多かった。命よりも肌が大切だ、と。
 そんな時代だから、女性ばかりか、役者も鉛の中毒になった。舞台に立つには、白い肌がいい。より美しく、と鉛の毒を知っても使い続けたという。「美しい」ことが役者の仕事だから。
 女性も役者も、まさに命懸けだった白い肌。お白粉の毒で、命を落としてしまった時代。



 なんてことだろう、と震え上がった。記事に添えられた浮世絵の美女も、お白粉で命を落とした可能性がある。こうして浮世絵に描かれた後には、鉛の中毒になってしまって。
 其処まで誰もが追い求めていた「白い肌」。
 当時の日本で生きた人なら、肌は「真っ白ではない」ものなのに。お白粉で覆い隠さない限り、何処か黄色くなるものなのに。
 どんなに肌が白い人でも、白人の肌には敵わない。黄色人種に生まれた以上は。
(ぼくだと、生まれつき真っ白だけど…)
 今の自分は、色素を全く持たないアルビノ。まるで色素を持っていないから、肌は真っ白、瞳も赤い。瞳の奥を流れる血の色、それを映した透き通る赤。
(昔の日本人だって…)
 こういうアルビノに生まれて来たなら、理想の肌を手に入れただろう。七難隠すという肌を。
(だけど、肌だけ白くても…)
 他が駄目だよ、と眺める浮世絵。古典の授業で教わるように、「緑の黒髪」が美女の条件。緑と言っても色とは違って、艶やかさをそう表すだけ。本当の髪の色は黒。夜の闇のように黒い髪。
(アルビノだったら、髪の毛が黒くなくなっちゃって…)
 瞳の色も黒くなくなる。昔の日本人が見たなら、そういう女性は美人どころか…。
(雪女みたい、って怖がられちゃった…?)
 人間離れしているのだから、どれほど美しい顔立ちでも。肌が雪のように白くても。
 それでは駄目だ、と思うアルビノ。「昔の日本じゃ、誰も相手にしてくれないよね」と。
 真っ白な肌を持つのがアルビノだけれど、自分のようなミュウに生まれなかったら、アルビノはとても大変らしい。今の時代は誰もがミュウだし、誰も困りはしないのだけれど…。
(お日様に当たったら、肌は火傷で…)
 日焼けくらいでは済まなかった。真っ赤に焼けて、時には火ぶくれが出来たほど。
 だから極力、避けた日光。日焼け止めを塗って、帽子を被って、手足も出来るだけ服で覆って。
(昔だったら…)
 やっぱり真っ白な肌は大変。
 お白粉の毒は無関係でも、場合によっては。
 色素を持たないアルビノに生まれてしまった時には、弱すぎる肌を守らなければいけないから。



(お化粧だって、怖い時代があったんだね…)
 鉛の中毒になっちゃうなんて、と驚かされた昔のお白粉。今日まで全く知らなかった。
 今はもちろん、何の心配も無いけれど。お化粧品を使っていたって、どれも安全なものばかり。
 遥かな昔に「身体に悪い」と騒がれたらしい、太陽からの紫外線だって…。
(ミュウには、なんの危険も無いから…)
 まるで問題にはならない時代。夏の日盛りに外を歩いていたって、日が燦々と照ったって。
 身体の中を流れるサイオン、それが防いでいる紫外線の害。遠い昔は恐れられたもの。
(日焼けしちゃったら、皺が増えるって…)
 そう言われた時代もあったらしいけれど、今の時代は日焼けしたって、老化したりはしない肌。ミュウは外見の年齢を止められるのだし、若い姿で年を止めれば、若いまま。
(顔だけ若くて、皺が増えちゃう人もいないし…)
 やはりサイオンは凄いと思う。アルビノの自分が、太陽の下でも平気なのと同じ。
 夏になったら、日焼けしている人だって多い。子供でなくても、大人でも。
(お休みを取って、海とか山とか…)
 出掛けて行って太陽を浴びて、すっかり日焼け。腕に半袖の跡がつく人や、水着の跡がくっきり残る人たちもいる。太陽の下で過ごした証拠で、本人たちは至って満足。
 夏だけでなくて、一年中、日焼けで真っ黒な人も少なくはない。
 きっと太陽が照っている時に、せっせと外でジョギングや散歩。そうして自慢の日焼けを保つ。日差しが弱い冬になっても、「今の内だ!」と外に飛び出して行って。
(真っ白よりかは、日焼けした方が…)
 健康的に見えるものね、と自分だって思う。青白い肌より、断然、小麦色の肌。
 アルビノの自分には無理だけれども、友達はみんな、自分みたいな「真っ白な肌」の代わりに、適度に日焼け。…夏になったら。
 夏でなくても白すぎはしなくて、「男の子らしい」肌の色だから。



 ああいう肌の方が健康的だよ、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。空になったカップやお皿を、キッチンの母に返してから。
(夏になったら、友達はみんな…)
 日焼けしているし、それ以外の季節も自分のように白くはない。「色の白いは七難隠す」という言葉は女性向けだから、男の自分が真っ白な肌をしていても…。
(江戸時代でも、誰も褒めてはくれないかも…)
 役者になって舞台に立つなら、「お白粉無しでも白い肌」だけに、大人気かもしれないけれど。顔もこういう顔立ちだから、女性を演じる「女形」になっていたならば。
 けれど自分は「今」の生まれで、江戸時代などに生きてはいない。真っ白な肌でも、いいことは何も無さそうな感じ。ひ弱に見えるというだけで。
(ぼくが日焼けをしていたら…)
 どんな風だろう、と壁の鏡を覗いてみた。もっと健康的に見えるか、悪戯っ子のようにも見えるだろうか、と。
 前にも少し、考えたことがあるけれど。…あの時はハーレイと二人だった。
 今日は一人だし、鏡の向こうをじっと眺めて、自分の顔の観察から。日焼けしている肌を持った自分は、どんな具合になるのだろうか、と。
(んーと…?)
 今と同じに銀色の髪でも、まるで違ってくる印象。肌の色が白くなかったら。
 際立って見える赤い瞳も、肌が日焼けをしていたならば、今ほどには目立たないだろう。周りの肌色に溶けてしまって、「赤かったかな?」と思われる程度で。
(今だと、みんな振り返るけど…)
 銀色の髪に赤い瞳で、ソルジャー・ブルー風の髪型の子供。すれ違ったら、誰もが驚く。本物のソルジャー・ブルーみたいだ、と振り返って見たりもするのだけれど…。
(日焼けしてたら、もうそれだけで…)
 ソルジャー・ブルーとは変わる印象。同じ髪型でも、銀の髪でも。
(ああいう髪型の子供なんだ、って…)
 眺めて終わりで、瞳の色にも気付かないまま、通り過ぎる人も多いと思う。真っ白な肌なら赤い瞳は目立つけれども、小麦色の肌に赤い瞳だと、「茶色かな?」と思われたりもして。



 光の加減で瞳の色が違って見えるのは、よくあること。それと同じで、肌の色でも起こりそうな錯覚。白い肌なら赤く見える瞳が、小麦色の肌なら茶色っぽく見えてしまうとか。
(同じぼくでも、日焼してたら、かなり違うよ…)
 ホントに違う、と勉強机の前に座って考えてみる。「日焼けした自分の姿」というのを。今とは全く違う肌の色、真っ白な肌でなかったならば、と。
(アルビノなんだし、日焼けは難しそうだけど…)
 小麦色の肌など夢のまた夢、ほんのりと肌に色がついたら、それだけで上等だという気がする。真っ白な肌を少しだけでも、普通の肌色に近付けられたら。
(そうなったら、うんと健康的…)
 自然に作れる肌の色はそれが限界でも、お化粧したなら、小麦色の肌にもなれるだろう。太陽の光をたっぷりと浴びて、こんがりと焼けた肌の色に。
 遠い昔の人たちは「白い肌になりたい」と願ったけれども、その逆で。
 鉛の毒を含んだお白粉、身体に毒だと分かった後にも、「白くなりたい」と使い続けた日本人。彼らとは逆に、真っ白な肌を日焼けした色に変えてみる。お白粉とは違う、化粧品で。
(いろんな色があるもんね?)
 肌に乗せてゆく化粧品。母がドレッサーの前で使っているもの。
 元の肌の色に合わせて選ぶようだけれど、きっと色々な色がある筈。同じ人でも、日焼けしたら色が変わるから。日焼けする前の化粧品だと、それまでの肌の色には合わない。
(日焼けの色を隠したいなら、そのままの色でいいけれど…)
 こだわる人なら、買い替えたりもするのだろう。「今の肌なら、この色がいい」と。
 それから、生まれつきの肌の色も様々。自分みたいなアルビノもいれば、とても濃い色の人も。
(ブラウみたいに黒い肌だと、そういう色の…)
 化粧品が売られていると聞いたことがある。白くなるための化粧品ではなくて、黒い肌をもっと美しく見せるためのもの。艶やかになるのか、どう変わるのかは知らないけれど。
(黒い肌でも、そうなんだから…)
 ハーレイのような褐色の肌でも、それに合わせて様々な色合いの化粧品。
 褐色の肌を引き立たせるとか、逆に控えめに見せるとか。真っ白にするのは不自然だとしても、ほんの少しだけ控えた褐色。それだけで印象が変わるだろうから。



 思い浮かべた、褐色の肌を持つ恋人。前の生から愛した人。
(ハーレイかあ…)
 青い地球の上に生まれ変わった今も、褐色の肌を持つハーレイ。前のハーレイと全く同じに。
 あの褐色の肌は、とてもハーレイに似合うと思う。柔道も水泳もプロ級の腕を持っているから、なんとも強くて逞しい感じ。
(夏に半袖を初めて見た時は、ドキッとしたし…)
 柔道着を着たハーレイだって、かっこいい。褐色の肌をしているお蔭で、より強そうに見えると思ってしまう。日焼けした人が健康的に見えるのと同じで、あの褐色も「元気の色」。
(ハーレイの肌が、あの色だから…)
 自分が日焼けした肌になったら、ハーレイの横に並んで立てば似合うだろうか?
 二人で街を歩いていたなら、「お似合いのカップル」だと誰もに思って貰えるだろうか…?
(今のぼくだと、全然違う色なんだけど…)
 お白粉も塗っていないというのに、雪のように白い色素の無い肌。アルビノだから、もう本当に真っ白でしかない肌の色。
 そんな自分があのハーレイと並んでいたら、とても弱そうに見えることだろう。空に輝く太陽の日射し、それを浴びてもいないような肌。
(お日様の下で散歩をしたり、ジョギングしたり…)
 そういった運動などとは無縁の、ひ弱な人間。肌の色だけで、そう思われそう。
 実際、弱く生まれたけれども、それ以上に弱く見えるアルビノ。…肌の色が白いというだけで。小麦色の肌になれはしなくて、日焼けしたとしても、ほんのちょっぴり。
(このままだったら、そうなるけれど…)
 化粧品を使って「日焼けした肌」を作り出したら、ガラリと変わるだろう印象。銀色の髪と赤い瞳は同じままでも、今とは違って見える筈の姿。
 「日焼けした肌」でハーレイと一緒に歩いていたなら、健康的なカップルだと思って貰えそう。二人とも運動が好きなカップル、ジョギングだとか、水泳だとか。
(ハーレイ、ひ弱な恋人を連れているんじゃなくて…)
 趣味のスポーツで知り合ったような、元気一杯の恋人とデート。傍目にはそう映るのだろう。
 真っ白な肌の自分でなければ、「化粧した肌」でも、日焼けした肌の恋人ならば。



 そんな話もしたんだっけ、と思い出す。ハーレイと二人で、「ぼくが日焼けしたら?」と。
 あの時は、自然な日焼けばかりを考えていた。海に出掛けて日光浴とか、ハーレイが引っ張ってくれるゴムボートに乗って沖まで出掛けて、その間に日焼けするだとか。
 化粧品などは思いもしなくて、日焼け止めとか、日焼け用のオイルの話をしただけ。化粧品など縁が無いから、そうなって当然なのだけど。
 けれども、今日の自分は違う。お白粉の記事を読んだお蔭で、化粧品というものに気が付いた。黒い肌でも、褐色の肌でも、それに似合いの化粧品がある。
(ぼくみたいな肌でも、小麦色になれる化粧品…)
 きっと売られているだろうから、それを使えば出来上がるのが日焼けした肌。アルビノの自分の限界を越えて、ほんのりとした日焼けよりもずっと、こんがりと小麦色の肌。
 化粧品で日焼けした肌を作ってみようかな、と思っていた所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ぼくが日焼けしてたら、どう思う?」
 うんと元気な子供みたいに、小麦色に。…夏になったら沢山いるでしょ、日焼けした子供。
 大人の人でも大勢いるよね、ああいう肌をした、ぼくはどう?
 今じゃないけど…。前のぼくと同じ背丈に育って、ハーレイとデートに行ける頃だけど。
「日焼けって…。しかも、小麦色ってか?」
 ハーレイは目を丸くした。「この前も言ったが、こんがり焼くのは無理ってモンだろ」と。どう考えても無理に決まってる、というのがハーレイの意見。「太陽で火傷しちまうぞ」と。
「分かってるってば、ぼくだと火傷しちゃうってことは…」
 ほんのちょっぴり日焼けするだけでも、きっと火傷をしちゃうんだよ。真っ赤になって、痛くて皮も剥けちゃって…。それでもいいから、って頑張ったって、日焼け出来るのは少しだけ。
 だからホントに小麦色になるのは無理だけど…。
 どう頑張っても無理だけれども、お化粧品を使えば出来るよ。ぼくだってね。
「化粧品だと?」
 いったい何を使うと言うんだ、日焼け止めだと日焼けを防いじまう方だぞ?
 日焼け用のオイルは、肌を保護してくれるモンだが…。
 そいつを何度も塗り重ねたって、お前の肌だと、小麦色にはなれそうもないが…?



 その前に痛くて泣いちまうんだ、とハーレイは呆れたような顔。「無茶はいかんぞ」と。
「お前は、日焼けで泣いた経験、無いらしいから…。その分、余計に大変だ」
 普通はチビの間に泣いて、日焼けで痛くなっちまうのを避けるサイオンを身につけるんだが…。
 お前の場合はそうじゃないだろ、身体が大きくなっているから、痛い部分も増えるんだぞ?
 子供の背中と大人の背中じゃ、大きさがまるで違うんだから。
 小麦色の肌など、アルビノの身体じゃ無理なんだし…。やめておくんだな、そんな挑戦。
 結果はとっくに見えてるじゃないか、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ホントに焼くって言っていないよ、お化粧品って言ったじゃない」
 昔のお白粉の逆だってば。
 今日の新聞に載っていたんだよ、ずっと昔はお白粉に毒があったんだ、って…。鉛の毒が入ったお白粉。肌が白いほど美人なんだ、って思われてたから、鉛の中毒が多かった、って…。
「おっ、そんな記事が載ってたか?」
 化粧も命懸けだった時代の話だよなあ、毒だと分かっちまった後は。…きっとその前から、何か変だと思っていた人はいたんだろうが…。
 鉛入りのお白粉は毒なんだ、と分かった後にも、使いたいヤツが大勢いたのが凄い所だ。
 人間、綺麗になるためだったら、命も惜しくないのかもなあ…。
 俺にはサッパリ分からんが、とハーレイがフウと零した溜息。「何も其処までしなくても」と。
「ぼくも分からないよ。いくら綺麗だって褒めて貰っても、死んじゃったらおしまい…」
 生まれ変わって来られた時には、記憶は無くなっちゃってるから。…ぼくたちみたいに、神様が奇跡を起こしてくれない限りは。
 それなのに命懸けでお化粧なんて、って考えていたら、日焼けの方に頭が行っちゃって…。
 ぼくだと生まれつき真っ白だけれど、お化粧したら違う色にもなれるよね、って思ったんだよ。
 肌の色って色々あるでしょ、ハーレイみたいな褐色だとか、ブラウみたいな黒だとか…。
 どんな肌でも、それに合わせたお化粧品があるものね…?
「確かにあるなあ、黒い肌だとビックリだよな」
 何度も見てるが、化粧をしようと取り出すケース。…なんて呼ぶんだか、小さな鏡つきのヤツ。
 あれの蓋をパカッと開けてみるとだ、中身がちゃんと真っ黒なんだ。
 顔にパタパタはたいてるんだが、俺が見たってよく分からん。化粧する前と、どう違うのか。



 学生時代によく見たもんだ、とハーレイは懐かしそうな顔。柔道も水泳も、あちこちの地域から選手が来るから、黒い肌の女性もいたという。
 試合で汗を流した後には、着替えて懇親会などもあった。其処で見ていた化粧する女性。
「そっか…。やっぱり黒い肌だと、お化粧品だって黒いんだよね?」
 だったら小麦色のもあるでしょ、日焼けしている人用に。…顔だけ違う色にならないように。
 ぼくが言うのは、そういうお化粧品のこと。それを使えば、ぼくだって小麦色の肌になれるよ。うんと健康的な感じで、ハーレイと並んだら絵になりそう。
 スポーツで知り合ったカップルみたいで、ハーレイの恋人にピッタリじゃない…?
 真っ白な肌のぼくよりも、と自信たっぷりで提案した。「ちゃんとお化粧すればいいよね」と。きっと賛成して貰えるだろう、と考えたのに…。
「お前なあ…。健康的なカップルってヤツは、ともかくとしてだ…」
 俺の気持ちはどうなるんだ?
 小麦色の肌に見えるよう、化粧しているお前を連れてる、俺の気持ちは…?
 ちゃんと其処まで考えたのか、と問い掛けられた。「俺の気持ちまで考えてるか?」と。
「え? ハーレイの気持ちって…」
 それならきちんと考えたってば、やっぱり絵になる方がいいでしょ?
 真っ白な肌で、見るからに弱そうなぼくを連れているより、元気一杯に日焼けしている、ぼく。
 ハーレイは運動が大好きなんだし、そういうぼくが好きだよね、って…。
 ひ弱に見えるぼくよりも、と瞳を瞬かせた。中身は変わらず弱いままでも、見た目だけでも健康そうなら、ハーレイに似合いの恋人だから。
「何を考えているんだか…。お前らしいと言ってしまえば、それまでだがな」
 いいか、俺は今のままのお前が好きなんだ。…今のお前が。
 間違えるなよ、チビのお前っていう意味じゃない。チビなのは横に置いておいて、だ…。
 俺はアルビノのお前が好きだと、前にも言ったと思うがな?
 前のお前が成人検査で失くしちまった、金色の髪と水色の瞳。それを知ってはいるんだが…。
 俺がこの目で見ていたお前は、出会った時からアルビノだった。金色と水色のお前は知らない。
 だから、お前はアルビノに限る。…アルビノだからこそ、俺が知ってるお前なんだ。
 なのに日焼けをするって言うのか、わざわざ化粧で小麦色の肌に…?



 それはお前の姿じゃないぞ、とハーレイは少しも喜ばなかった。小麦色の肌の恋人になったら、とてもハーレイに似合うのに。…ひ弱な恋人を連れているより、絵になるのに。
「日焼けした、ぼく…。小麦色の肌のぼくだと、駄目なの…?」
 本当に日焼けするんじゃないから、ぼくは「痛い」って泣いたりしないよ?
 出掛ける前に、お化粧するのに時間がかかるかもしれないけれど…。でも、今のぼくより、肌の色はずっと、丈夫そうな感じになるんだから…。
 いいと思うよ、と重ねて言った。本物の日焼けは大変な上に、小麦色の肌にもなれそうにない。けれど化粧をするなら簡単、そのための時間を取りさえしたら。
「小麦色の肌になったお前か…。試してみたいと言うんだったら、止めはしないが…」
 化粧をするって手もあるんだが、俺としては白い肌のままのお前がいいな。
 そういうお前しか知らない、ってことは抜きにしたって、真っ白な肌のお前がいい。健康そうに日焼けしている、小麦色の肌のお前よりもな。
 断然、白だ、と一歩も譲らないハーレイ。「白い肌のお前の方がいい」と。
「どうして? …なんで、白い肌のぼくの方がいいわけ?」
 白い肌だと、誰が見たって弱そうにしか見えないよ?
 普通に白いだけならいいけど、ぼくはアルビノなんだから。…少しも色が無くて、真っ白。
 そんな色のぼくを連れているより、小麦色の肌が良さそうだけど…。お化粧で小麦色に見せてるだけでも、本当は真っ白な肌のままでも。
 ちゃんと上手にお化粧をすれば、きっと自然に見えるから…。お化粧だなんて、バレないから。
 そういうぼくと並んでいたら、絶対に絵になりそうなのに…。
 弱そうなぼくとデートするより、ハーレイだって鼻高々だと思うんだけど…。
 元気そうな恋人の方がいいでしょ、と繰り返した。柔道と水泳で鍛えた今のハーレイ。その隣に並んで歩くのだったら、同じように鍛えていそうな恋人、と。
 身体が華奢に出来ていたって、日焼けしていれば印象は変わる。「細いけれども、強いんだ」と勘違いだってして貰える。「ああ見えてもきっと、スポーツが上手いに違いない」と。
「俺はそのようには思わんが?」
 柔道部のヤツらを連れて歩くのとは違うんだ。…誰と歩こうが俺の勝手で、俺の趣味だぞ。
 俺が「素敵だ」と思ったからこそ、連れて歩くのが恋人だろうが。



 それに、真っ白な肌のお前の方が守り甲斐がある、とハーレイは笑みを浮かべてみせた。
 「そう思わんか?」と。「小麦色の肌をしたお前だったら、そうはいかんぞ」とも。
「お前が元気一杯だったら、俺の出番が無くなるだろうが」
 化粧とはいえ、小麦色の肌になっちまったら、見た目は元気一杯だしなあ…。弱くはなくて。
 そんなお前を連れていたって、俺としては、あまり愉快じゃないぞ?
 お前と一緒なことは嬉しくても、さて、どう言えばいいんだか…。
 真っ白な肌のお前だったら、もう見るからに弱そうだしなあ、強い俺が守ってやれるんだが…。小麦色の肌で元気一杯のお前となったら、守る必要、無さそうだろうが。
 お前は充分、強いわけだし、俺の後ろに隠れる代わりに、一緒に戦いそうだから。
 今はすっかり平和な時代で、戦う敵など何処にもいないわけだが、イメージってヤツだな。
 強いお前だとそうなっちまうし、弱いお前の方がいい、とハーレイは至極真面目な顔。小麦色の肌の元気な恋人よりも、真っ白な肌の弱そうな恋人の方がいいのだ、と。
「弱いぼくがいいって…。そういうものなの?」
 ハーレイが連れて歩く恋人、見た目からして弱そうなのがいいの…?
「俺としてはな。そっちの方が俺の好みだ」
 恋人を守ってやれる強さを誇れるんだぞ、弱そうなのを連れてたら。…俺が守っているんだと。
 しかしだ、元気一杯で強そうなのを連れていたなら、大人しく守られていそうにないし…。
 俺が「隠れていろ」と言っても、「ぼくも戦う!」と出て来そうでな。
「でも、ハーレイには似合いそうだと思うんだけど…」
 一緒に戦いそうな恋人。…柔道の技で投げ飛ばすだとか、そういうことが出来そうな、ぼく。
 ハーレイも自慢できそうじゃない、と恋人の鳶色の瞳を見詰めた。今のハーレイはプロの道への誘いが来たほど、柔道も水泳も腕が立つ。とても強いのだし、それに相応しい恋人が似合い。
「そいつはお前の思い込みだな、残念ながら」
 お前が何と言っていようが、俺の考えは変わりやしない。周りのヤツらがどう見ようとも。
 「弱そうなのを連れているな」と思われたって、お前の肌はだ…。
 健康そうな小麦色より、今の真っ白な肌がいい。少し日に焼けても、火傷しそうな白いのが。
 そういうお前に俺は惹かれるし、わざわざ化粧で小麦色なんかにしなくても…。
 お前が納得いかんというなら、逆を想像してみるんだな。…逆のケースを。



 想像力を逆に働かせてみろ、と言われたけれども、分からない。逆というのは何だろう?
「…逆って?」
 逆のケースって、どんな意味なの?
 ぼくの肌の色は真っ白なんだし、逆になったら小麦色だよ。…もう何回も言ったけれども。逆にしたなら何だって言うの、ぼくが最初から小麦色の肌の子供っていう意味なの…?
 今のアルビノのぼくじゃなくって…、と自分の顔を指差したけれど、ハーレイは「逆だぞ?」と即座に否定した。「逆と言ったら、逆なんだ」と。
「よく考えてみるんだな。…幸いにして俺たちは、前の通りに生まれ変わって来たが…」
 お前も俺も、前とそっくり同じ姿になれる器を手に入れたんだが、其処の所が問題だ。
 さっきからお前は、自分のことばかり言ってるが…。アルビノよりも小麦色の肌だとか、化粧で小麦色の肌を手に入れるとか。
 そいつはお前の問題なんだが、もしもだな…。俺が白い肌だったらどうするんだ?
 お前はアルビノのままだったとしても、今の俺の肌が、褐色じゃなくて白い肌だったら…?
 真っ白なお前には及ばないにしても、白い肌をした人間ってヤツは幾らでもいるんだからな…?
 こういう肌の俺でなければどうなんだ、とハーレイが指先でトンと叩いた自分の手。前と少しも変わらない色で、とても馴染みの深い褐色。
 その肌の色が、この褐色ではなかったら。…白い肌に生まれたハーレイだったら、どうだろう?
(…顔立ちも身体も、前のハーレイと同じだけれど…)
 肌の色が白くなってたら…、と恋人の姿をまじまじと見た。
 眉間に刻まれた癖になった皺、それは同じでも、肌が白ければ見た目が変わる。鳶色の瞳を囲む肌だって、やはり同じに白くなる。武骨な手だって、逞しくて太い首筋だって。
「…なんだかハーレイじゃないみたい…」
 ハーレイの顔だけど、ハーレイじゃないよ。…肌の色が白くなっちゃったら。
 ぼくの知ってるハーレイじゃなくて、だけどやっぱりハーレイで…。ハーレイなんだけど…。
「よし。その俺の姿は、強そうに見えるか?」
 今の俺と少しも変わらないくらい、強そうな姿のハーレイなのか…?
「…強そうかって…。うーん…」
 どうなんだろう、白い肌でも、ハーレイには違いないんだけれど…。



 白い肌を持っている人間でも、強い人なら大勢いる。プロのスポーツ選手も沢山。
 だから「白い肌の人は弱い」などとは思わないけれど、それを見慣れたハーレイの身体で考えるならば、答えは違ってきてしまう。
 褐色の肌に慣れているから、その色が白くなったなら。…今よりもずっと薄い色になって、白い肌だと言える姿になったなら。
「…ハーレイが白くなっちゃったら…。逞しさ、ちょっぴり減っちゃうかも…」
 今とおんなじ強さのままでも、見た目が弱い気がするよ。ホントにそんなに強いのかな、って。
 日焼けした人と、していない人なら、日焼けした人の方が強そうに見えてくるのと同じで。
 …ハーレイの肌の色、日焼けなんかじゃないんだけれど…。
「ほら見ろ、お前もそうだろうが。ただし、俺とは逆なんだが」
 俺が同じ強さを持っていたって、肌の色一つで印象が変わる。強そうなのか、弱そうなのか。
 前の俺は柔道なんかは全くやっていなかったんだが、お前が知ってた俺はこういう姿だし…。
 白い肌になってしまっていたなら、お前、ガッカリしていたかもなあ…。再会した時に。
 ただのキャプテンでも、褐色の肌を持っていただけで、見た目の逞しさが何割かは増していたと思うし…。それがすっかり無くなっちまって、白い肌になった俺だとな。
 白い肌だと、弱いハーレイに見えないか、という質問。「前よりも腕は立つんだがな」と。
「そうなのかも…。なんだか弱くなっちゃったかも、って…」
 でも、ハーレイはハーレイなんだし、直ぐに慣れるよ。
 最初はビックリしちゃいそうだけれど、今のハーレイが強いってこともじきに分かるし…。
 ぼくなら少しも困らないってば、同じハーレイなんだもの。
 肌の色が前とは違うってだけで、顔立ちとかは前のハーレイとおんなじだから…。
 その内に慣れて平気になるよ、と言ったのだけれど、ハーレイは「そうか?」と返して来た。
「慣れてしまえば、それでいいのかもしれないが…」
 だが、どちらかを選べるんなら、元のままの俺がいいだろう?
 褐色の肌を失くしちまって白い肌になった、何処か弱そうに見える俺よりは。
 お前は強そうに見えた時代を知ってるんだし、その頃の俺と同じだったら、と思わんか…?
「うん…」
 選べるんなら、その方がいいよ。…白い肌より、褐色の肌をしたハーレイの方が…。



 肌の色で強さは変わらないけど、と頷いた。選べるものなら、褐色がいいに決まっているから。白い肌をしたハーレイよりかは、褐色の肌のハーレイがいい。
「分かったか? それと同じだ、俺の方もな」
 生まれ変わって健康的な小麦色の肌になったお前より、真っ白な肌のお前がいいわけで…。
 守り甲斐があるし、連れて歩きたいと思うお前は、真っ白な肌の弱そうなお前だ。
 お前がアルビノに生まれてくれてて、本当に良かった。
 弱い身体になっちまったのは可哀相だが、それでもやっぱり、今のお前が一番いい。…俺はな。
 日焼けしたお前に再会してたら、俺も途惑う。
 お前が白い肌をした俺に会うのと同じくらいに、いや、それ以上にショックだろうなあ…。
 健康的なお前だなんて、とハーレイが嘆きたくなるのも分かる。
 サイオンは不器用だったとしたって、とても健康に生まれていたなら、ハーレイには恋人を守ることが出来ない。「大丈夫か?」と気遣わなくても、健康そのもの。倒れもしなくて元気一杯。
「そうだよね…。パタリと倒れてしまいもしないし、病気で寝込んだりもしないし…」
 いつ見ても元気一杯のぼくで、ハーレイの隣ではしゃいでるだけ。…疲れもせずに。
 ハーレイはとてもガッカリだろうし、なんだか悪い気がするから…。
 そうなっていたら、ぼく、白くなろうと頑張ったかも…。
 ハーレイに前のぼくを見せたくて、せっせとお化粧するんだよ。白い肌で弱く見えるように。
 二人で並んで歩いてる時は、ひ弱な感じになるように。
 …命懸けでお化粧していた人の気持ちが、今、少しだけ分かったよ。
 ハーレイが喜んでくれるんだったら、命懸けでも、お化粧、するかも…。
 したくなるかも、と思った昔のお白粉。それが毒だと分かった後にも使い続けた、小さな島国で生きた人たち。肌を美しく見せるためにと、鉛が入っていた毒のお白粉を身体に塗って。
「命懸けで化粧するだって?」
 穏やかじゃないな、お前、何をするつもりなんだ…?
「さっきの話だよ、昔のお白粉…」
 毒なんだって分かっていたのに、使うなんて、と思ったけれど…。
 ハーレイに素敵なぼくを見て貰うためなら、ぼくだって使っちゃうのかも…。毒のお白粉でも。
「ああ、あれなあ…」
 そういう女性もいたかもしれんな、健気な人が。…毒でも、恋人に喜んで貰おうと使った人。



 命が懸かっていたとしたって、やはり気になるものなんだろうな、とハーレイが言う肌の色。
 遠い昔の日本の女性は、真っ白な肌が美人の条件だからと、毒のお白粉を使い続けた。少しずつ身体を蝕んでゆく鉛の毒に気付いた後にも、「これが一番いいお白粉だから」と。
 毒入りではない新しいお白粉、それが毒入りのものと変わらない品質になるまでは。
(…ハーレイのためなら、ぼくだって…)
 きっと使おうとするのだろう。小麦色に日焼けする肌に生まれていたなら、アルビノだった前の自分の真っ白な肌に近付けるために。
(…ぼくが小麦色の肌をしてたら、ハーレイだって気にするし…)
 いくら慣れても、前の自分の白い肌を思い出すだろう。「ブルーの肌はこうじゃなかった」と。それと同じに自分も気にする。「前のぼくなら、こうじゃない」と。もっと白い肌をしていたと。
(真っ白な肌に戻れるんなら、毒のお白粉でも使っちゃいそう…)
 前の通りであろうとして。ハーレイが今も見たいであろう、真っ白な肌を見せようとして。
「ねえ、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃない身体に生まれてしまってて…」
 すっかり日焼けしてしまってたら、白くなろうと頑張るけれど…。
 毒のお白粉は使わなくても、お日様に当たらないようにするとか、頑張って白くするけれど…。
 ハーレイが白い肌に生まれていたら、どうするの?
 ぼくと出会って記憶が戻っても、ハーレイの肌が今の褐色じゃなかったら…?
 どうすると思う、と尋ねてみた。褐色の肌を手に入れようと努力するのか、しないのか。
「俺の場合か? もちろん、日焼けしようとするな」
 元が白い肌がこの色になるまで、日焼けするのは大変そうだという気がするが…。
 化粧よりかは、自然な日焼けが一番だ。
 お前みたいに弱くはないしな、太陽の下を走り回っても倒れちまうことは無いモンだから。
 暇を見付けてはせっせと日焼けで、こういう色を手に入れるまで頑張ることは間違いないぞ。
 化粧なんぞは誤魔化しだ、とハーレイは日焼けするらしい。褐色の肌に生まれなかったら、前と同じ色を手に入れるために。
 「肌の色だけで逞しさが増す」という、褐色の肌。
 白い肌より強く見える色を、前のハーレイとそっくり同じな色を身体に取り戻すために、重ねる努力。夏の盛りの頃はもちろん、他の季節も太陽の光を浴び続けて。



 化粧はしないで、自分で色を取り戻すのが今のハーレイ。褐色の肌になりたいのならば、化粧をすれば簡単なのに。いくらでも楽に染められるのに。
「お化粧じゃなくて、日焼けするなんて…。ハーレイらしいね、今のハーレイ」
 うんと大変そうな道でも、日焼けの方を選ぶんだ。…直ぐに手に入る化粧品じゃなくて。
「当たり前だろうが、俺はお前とは違うしな?」
 お前が日焼けしようとしたって限界があるし、化粧品だと言うのも分かる。
 小麦色の肌に生まれちまった時にも、化粧品で白くしようとするのも。
 しかしだ、俺の場合はガキの頃から外ばかり走り回っていたしな、白い肌でも日焼けしたろう。白い肌に生まれていたとしたって、お前と再会する頃になったら、この通りっていう褐色に。
 もっとも、俺はこの肌の色が好きなんだが…。
 生まれた時からこの色なんだし、白くなりたいと思ったことなど一度も無いぞ。
 前の俺の記憶が戻って来ようが、戻って来るより前だろうが…、とハーレイは笑う。これが今の俺の肌の色だから、と。
「ぼくもそうだよ、生まれた時から真っ白だから」
 日焼けした肌の方がいいよね、って思ったことは一度も無いけれど…。ぼくはぼくだから…。
 ハーレイと日焼けの話をしていたりして、ちょっぴり憧れてしまっただけで。
 …ぼくの肌の色、ハーレイだって、このままの色がいいんだね?
 デートする時に連れて歩くの、弱そうに見える白い肌のぼくでも…?
「うむ。日焼けしたように見える化粧まではしなくていい」
 俺は守り甲斐のあるお前が好きだし、そういうお前を連れて歩くのが俺の幸せなんだから。
 自然に日焼けをしちまった時は、話は別になるんだがな。
 それに、お前が…。
 どうしてもやってみたいと言うなら、止めないが。
 人間、誰しも、持っていないものに憧れる。お前が小麦色の肌が欲しいなら、俺は止めない。
 化粧してでも、そういう色になってみたいと思うんだったら、それもいいだろう。



 好きにしていいぞ、と言われたけれども、化粧する気は無くなった。
 いいアイデアだと考えたけれど、ハーレイに似合いの恋人の肌だと思ったけれど…。
(…でも、ハーレイが好きな肌の色は真っ白で…)
 アルビノだったソルジャー・ブルーの肌の色。今の自分が持っている色。
 自分もハーレイの肌は褐色がいいし、ハーレイも本当に白い肌の「ブルー」が好きなのだろう。
 そう繰り返して言っていたから、小麦色をした肌の「ブルー」より、白い肌の「ブルー」。
 ハーレイが好きな、その色に生まれて来た自分。
 色素を持たないアルビノに生まれて、小麦色には日焼けできない真っ白な肌。
 違う色に生まれて来たのだったら、懸命に白くしようとしたって、今の自分の肌の色は…。
(今のハーレイだって、一番好きな真っ白の筈で…)
 小麦色の肌など必要ない、とハーレイが断言しているのだから、化粧はしない。
 健康的な肌の色も素敵だと思うけれども、自分はこの色。
 ハーレイが一番好きでいてくれる色は、前と同じに真っ白な色のアルビノの肌。
 その色なのだと分かっているから、小麦色の肌になってみたりはしない。
 命懸けで毒のお白粉を使って白くしなくても、最高の色の肌を持っているのが自分だから。
 ハーレイが好きな色の肌があるなら、それ以上は何も望まないから…。



             肌とお白粉・了

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(降り出しそう…)
 大丈夫かな、とブルーが眺めた窓の外。学校から帰る途中の、路線バスの中で。
 今にも降り出しそうな空。大粒の雨か、小雨になるかは分からないけれど。
(…ホントに降りそう…)
 こんなに暗くなっちゃうなんて、と雲を眺めて不安で一杯。「降り始めたら、どうしよう」と。
 学校を出る時、「曇ってるよ」と思ってはいた。最後の授業が始まる頃から曇り始めて、授業が終わる頃には無かった青空。広い空の何処を探しても。
 けれど、朝、家を出る前の天気予報では、雨だとは言っていなかった。午後は「曇り時々晴れ」だったのだし、降らないだろうと考えた。単に曇っているだけで。
(じきにお日様が顔を出すとか、お日様無しでも…)
 青空が見えて来ないだけだよ、と終礼の後は真っ直ぐバス停に向かった。グラウンドの横を通り過ぎてから、校門を抜けて。
 いつも帰りに使うバス停、其処に立って待った路線バス。その間にも空はどんどん暗さを増していったけれど、雨の予報は出ていなかったし…。
(降るにしたって、まだ平気、って…)
 まだ当分は降らないだろう、と思った自分。夕方から降るとか、夜が雨だとか、そんな具合で。
 何の根拠も無いというのに、「大丈夫」などと楽観的に。
 そう思ったから、「傘を借りよう」と学校に戻りはしなかった。急な雨の日には、貸して貰える学校の傘。降り始める前なら、まだ充分に数がある筈なのに。
(家に帰る方が、ずっと早いよ、って…)
 バス停にある時刻表を見て、出した結論。もうすぐバスがやって来る。それに乗ったら、幾つかバス停を通った後に、家の近くのバス停に着く。
(傘を借りに、学校に戻っていたら…)
 そのバスは行ってしまうだろう。次のバスを待つことになるから、その間に…。
(雨が降り始めて、傘の出番で…)
 帰りの道は雨の中になるかもしれない。
 じきに来るバスに乗って帰れば、雨に遭わずに帰れても。…一粒の雨にも出会わないまま、家の中に入ることが出来ても。



 傘を借りに戻って行ったばかりに、雨になっては馬鹿々々しい。それに降らない可能性も充分。だから要らない、と傘は借りずに、バスに乗り込む道を選んだ。
 なのに、すっかり降りそうな空。こんなに暗くなるなんて。
(……傘……)
 雨の予報が出ていなかったから、折り畳み傘も持ってはいない。あったら心強いのに。
 ここまで空が暗くなるなら、やっぱり学校に戻れば良かった。「降りそうですから、傘を貸して下さい」と、頼めば直ぐに借りられたのに。
(ぼくの馬鹿…)
 道を間違えちゃったかも、と窓から暗い空を仰いで、祈るような気持ち。「降らないで」と。
 今にも降りそうな空だけれども、もう少しだけ降らないでいて欲しい、と。
(家に帰るまで…)
 なんとか降らずに持ってくれれば、と祈り続けて、ようやく着いた家の近所のバス停。普段より長く感じた道のり、バスはいつもと同じ速さで走っていたのに。
(まだ大丈夫…)
 降っていないよ、とバスから降りた途端に、ポツリと頭に落ちた雨粒。まるで降りるのを待っていたかのように。
 冷たい、と頭に手をやる間に、もう次の粒が降って来た。その手に、足の下の地面に。
(降って来ちゃった…!)
 止まないかな、と空を見上げたら、顔にも落ちて来た雨粒。パラッと降っただけで通り過ぎる雨ではなさそうな感じ。
(ママが迎えに来てくれたら…)
 いいんだけどな、と急ぎ足で家を目指して歩いた。「ママ、お願い」と。
 母が迎えに来てくれないなら、道沿いの家の誰かが気付いて、「持って行きなさい」と傘を一本貸してくれるとか。「返してくれるのは、いつでもいいよ」と。
(だけど、降り出しちゃったから…)
 庭には誰も出ていない。庭仕事をしていた人も、とうに家へと入っただろう。
 降って来る雨を防ぎたくても、不器用なサイオンではシールドは無理。走って帰っても、時間が少し短くなるだけ。濡れてしまうのは変わらないから、体力を無駄に費やすだけ。



 下手に疲れてしまうよりは、と降る雨の中をトボトボ歩いて、家に着いたら、しっとりと濡れてしまった制服。すっかり湿って、雨の雫が落ちそうな髪。
 門扉を開けて庭を横切る間も雨で、玄関の扉を濡れた手で開けた。扉をパタンと閉めてから…。
「ただいま、ママ…」
 タオルちょうだい、と奥に向かって呼び掛けた。このままでは家に上がれない。靴下まで濡れているわけなのだし、歩いた後に水の雫が点々と落ちもするだろうから。
「おかえりなさい、ブルー! タオルって…?」
 濡れちゃったの、とタオルを持って来た母は、きっと鞄が濡れたと思っていたのだろう。傘では防ぎきれなかった雨粒、それが濡らした通学鞄。
 ところが玄関先にいたのは、びしょ濡れの息子。鞄どころか、髪も制服も、何もかもが。
 母は見るなり「大変!」と叫んで、タオルで頭を拭くように言った。追加のタオルを取ってくる間、髪だけでもしっかり拭くように、と。
 パタパタと奥へ走って行った母が、大きなバスタオルを持って戻って来て…。
「ブルー、早くお風呂に入りなさい」
 これを羽織って、とバスタオルで身体を包まれた。「床は濡れてもいいから、上がって」とも。
「お風呂って…?」
「身体がすっかり冷えているでしょ、こういう時には、お風呂が一番」
 ああ、でも、お湯を入れなくちゃ…。お風呂の準備には早い時間だから、お湯がまだ…。
 だけど、シャワーを浴びてる間に、お湯も溜まるわ、と連れて行かれたバスルーム。大きなバスタオルにくるまれたままで、通学鞄を取り上げられて。
 バスルームに着いたら、手前の部屋で制服を脱がされ、母がコックを捻ったシャワー。熱そうな湯気が立っているそれと、バスタブに落とし込まれるお湯と。
「ほら、ブルー。早く入って、シャワーから浴び始めなさい」
 着替えはママが用意しておくから、しっかり中で温まるのよ。
 お湯が溜まるまではシャワーを浴びて、溜まってきたら、ゆっくり浸かって。
 そうしなさい、と母は大慌てで、「早く」と急かすものだから…。
「はーい…」
 ちゃんと温まるよ、大丈夫。…ごめんなさい、ママをビックリさせて…。



 そう謝ってから、「着替え、お願い」と頼んで入ったお風呂。バスタブのお湯は、まだ底の方に溜まり始めているだけだから…。
(もっと溜まるまで、シャワーを浴びて…)
 温まらなくちゃ、と浴びたら、「熱い!」と悲鳴を上げそうになった。思わずお湯の温度を確認したくらいに。「ママ、慌てていて、間違えちゃった?」と。
(…いつもとおんなじ…)
 だけど熱い、と感じるシャワー。熱湯を浴びているかのように。
 バスタブに落とし込まれるお湯も、溜まり始めているお湯も熱い。本当に火傷しそうなくらい。
 普段の温度と変わらないなら、自分の方が冷えたのだろう。いつもお風呂に入る時より、遥かに下がってしまった体温。
(中まで冷えてしまっているのか、外側だけか…)
 其処までは分からないけれど。体温を測ってはいないけれども、冷えたのは確か。心地良い筈のお湯の温度を、「熱すぎる」と思うくらいにまで。
(風邪を引いちゃったら大変だから…)
 しっかり温まらないと、と我慢して熱いシャワーを浴びた。バスタブにお湯が満ち始めるまで。
(半分ほどは溜まったから…)
 もういいかな、と足を踏み入れてみて「熱い!」と引っ込め、けれど浸からないと温まらない。少しずつ慣らして、そうっと入って、ゆっくりと身体を沈めていって…。
(ホントに熱すぎ…)
 お鍋で茹でられているみたい、と思うけれども、それは気のせい。冷えた身体が「熱い」と錯覚しているだけ。「熱すぎるから」と水で温度を下げてしまったら…。
(お風呂でも冷えて、もう本当に…)
 風邪を引くのに決まっているから、溜まってゆくお湯に肩まで浸かった。立ち昇る湯気で顔まで熱いけれども、これだって我慢しなくては。
(……右手……)
 右手もちゃんと温めないと、とバスタブの中で何度もキュッと固く握った。
 前の生の最後に、メギドで冷たく凍えた右手。ハーレイの温もりを失くしてしまって、悲しみの中で死んでいった前の自分。あの時の悪夢を呼ばないように、右手を温めてやらなくては。



 溜まったお湯にゆっくり浸かって、のぼせるくらいに温まってから、手に取ったタオル。身体の水気を軽く拭って、「次はバスタオル」と浴室を出たら。
(パジャマ…?)
 着替え用にと置かれていたのは、服ではなくて寝る時のパジャマ。それから、パジャマの上から羽織れるようにと大きめの上着。
 夜だったなら分かるけれども、まだ日が沈んでもいない時間。パジャマを着るには早すぎる。
 そう思ったから、廊下に顔だけ出して叫んだ。
「ママ、なんでパジャマ!?」
 ぼくが着る服は何処へ行ったの、此処にあるのはパジャマじゃない!
 服を持って来て、と呼び掛けたけれど、やって来た母は何も持ってはいなかった。
「パジャマでいいのよ。寝なきゃ駄目でしょ、風邪を引いちゃうから」
 あんなに濡れてしまっていたのよ、制服もシャツも、びしょ濡れだったわ。身体の芯まで冷えている筈よ、お風呂だけでは足りないの。
 ベッドに入って寝ていなさい、と母が言うから抗議した。
「平気だってば!」
 お風呂、ちょっぴり熱かったけれど、ちゃんと我慢して浸かったし…。もう平気。
 服をちょうだい、パジャマでベッドじゃ、病気になったみたいじゃない!
 ぼくは平気、と頬を膨らませたのに、母は許してくれなくて。
「駄目よ、暖かくして寝ていないと…。おやつだったら、部屋に運んであげるから」
 先に帰って待っていなさい、と強引に二階に追い上げられた。仕方なく行くしかなかった部屋。扉を開けて中に入ったら、母が届けに来たケーキのお皿と、ホットミルクと。
 湯気を立てているカップの中身は、前にハーレイが教えてくれたシロエ風。風邪の予防にいいというマヌカの蜂蜜たっぷり、それにシナモンを振りかけてあるホットミルク。
(…風邪を引きそうだから、シロエ風…)
 此処までされたら、どうしようもない。濡れて帰った自分が悪い。
(昼間からパジャマで、風邪でもないのにベッドの中…)
 仕方ないけど、と椅子に腰掛けてケーキを頬張る。いつも以上に熱く思えるホットミルクも。
 やはり身体の内側まで冷えているのだろう。シロエ風のミルクが熱いのならば。



 シュンとしながら、食べ終えたおやつ。母が見張っている中で。
 「御馳走様」と空になったカップを置いたら、ベッドに入るように言われた。上掛けもすっぽり肩まで引き上げられて。
「出ちゃ駄目よ? ベッドで本を読むのも駄目」
 また冷えちゃうから、と本まで禁じられる始末。これでは本当に「寝ている」しかない。宿題は出ていないけれども、その宿題で思い出した。学校と関係がある恋人を。
「ママ、ハーレイは…?」
 来てくれるかどうか分からないけど、もし来てくれたら、起きてもいい?
 ちゃんと服を着て暖かくするから、起きて話をしてもいいでしょ…?
 いつものテーブルと椅子の所で、と窓辺のテーブルを指差した。上掛けの下から、手の先だけを覗かせて。
「起きるって…。あんなに濡れて冷えちゃったんでしょ、大事を取って寝ていなさい」
 今日は一日、ベッドにいること。そのくらいしないと駄目なのは、分かっているでしょう?
 ブルーは身体が弱いんだから、と母が心配すのも分かる。弱い身体は直ぐに熱を出すし、風邪を引くことも珍しくない。帰り道に雨でずぶ濡れだなんて、母は心臓が縮み上がったに違いない。
 けれど、気になるハーレイのこと。
 このままベッドの住人だったら、ハーレイが仕事の帰りに訪ねて来てくれたって…。
「ぼくが寝てたら、晩御飯、どうなっちゃうの?」
 今はいいけど、晩御飯…。おやつは此処で食べられたけど…。
「食べられそうなら、此処で食べればいいでしょ。おやつと同じよ、ママが運んであげるから」
 温まりそうなメニューにしなくっちゃ、と母は思案をしているよう。夕食の支度まで、段取りが狂ってしまったろうか。母が思っていた料理は中止で、別の料理になるだとか。
 母には迷惑を掛けっ放しで、それは悪いと思うのだけれど…。
「…ママ、ハーレイの晩御飯は?」
 来てくれた時は、ハーレイ、何処で食べるの?
 晩御飯を食べずに帰ることはないでしょ、せっかく来てくれるんだから…。
 だけど、ぼくがベッドで寝たままだったら、ハーレイの御飯…。
 ぼくの晩御飯は此処になるなら、ハーレイは何処で晩御飯なの…?



 それが心配になって尋ねた。母に料理で迷惑をかけることよりも先に、恋人が気になるのは我儘だけれど、本当に気掛かりなのだから。
「ハーレイ先生なら、その時次第ね。…先生が来て下さるかどうか、そっちが先でしょ?」
 いらっしゃったら、晩御飯は食べて帰って頂くけれど…。先生、お一人暮らしだから。
 ブルーが此処で晩御飯なんだし、先生も此処になるかしら?
 先生が此処は嫌だと仰らなければね。
 お嫌だったら、先生にはダイニングで召し上がって頂くわ、と母が言うから声を上げた。
「ハーレイ、そんなの言うわけないよ!」
 ぼくと一緒に食べるのは嫌なんて、絶対に言いやしないんだから!
 ハーレイも此処で晩御飯だよ、ハーレイの分も運んで来てよ。土曜日とかのお昼御飯みたいに。
 ちゃんと二人分、此処に運んで来て、と頼んだけれど。ハーレイも此処で夕食なのだ、とホッと安心したのだけれど…。
「…どうかしら? ブルーはベッドで寝てるわけだし…」
 ブルーが病気で寝込んでいる時は、ハーレイ先生、いつもママたちと食事をなさってるわよ?
 野菜スープを作りに来て下さっても、先生のお食事はダイニングじゃない。
 此処で食べてはいらっしゃらないわ、と母に指摘された。「いつもそうでしょ?」と。
「……そうだっけ……」
 ぼくは病気で起きられないから、御飯、一緒に食べられなくて…。
 野菜スープを持って来てくれても、ハーレイの御飯は持って来ていないね…。
「ほら、ごらんなさい。暖かくして寝ていることね」
 ハーレイ先生と一緒に御飯を食べたいのなら。
 本当に風邪を引いてしまったら、晩御飯どころじゃないでしょう…?
 ベッドで本を読むのも駄目よ、と念を押してから、母は部屋から出て行った。空になったカップなどを載せたトレイを手に持って。
(…風邪を引いちゃったら、ホントに病気…)
 夕食までに具合が悪くなったら、この部屋でハーレイと二人で食べることは出来ない。
 ハーレイが見守る中で一人きりで食べるか、野菜スープのシャングリラ風を作って貰うのか。
 病人だったら、ベッドを出られはしないから。…椅子に座らせて貰えないから。



 ハーレイは両親と夕食を食べて、自分は此処で一人の夕食。ハーレイと同じメニューでも、下のダイニングに下りては行けない。
(ぼくだけ先に食べて、ハーレイは後でママたちと…)
 きっとそうなることだろう。そうでなければ、野菜スープのシャングリラ風が今夜の夕食。前の生から好んだ素朴なスープで、ハーレイが作ってくれるのだけれど…。
(一人で御飯も、シャングリラ風も、どっちも嫌だよ…)
 晩御飯を食べるなら、ハーレイと一緒に食べたいんだもの、とベッドの中で丸くなる。今の間に温まらないと、晩御飯が駄目になってしまいそう。雨に濡れたせいで、風邪を引いてしまって。
(…風邪引いたら、嫌だ…)
 引きたくないよ、と考える内に、ウトウトと落ちた眠りの淵。暖かなベッドは気持ちいいから、いつしか瞼を閉じてしまって。
 夢も見ないでぐっすり眠って、時間が静かに流れて行って…。
「おい、ブルー?」
 耳に届いた優しい声。気遣うような響きの、大好きでたまらないハーレイの声。
「あれっ、ハーレイ?」
 ふと目を開けたら、ハーレイが側で見下ろしていた。ベッドの脇で、大きな身体を屈めて。
「すまんな、起こしちまったか? よく寝てるとは思ったんだが…」
 ちょっと声だけ掛けてみるかな、と思ったら、起こしちまったようだ。…声がデカすぎたか。
 それはともかく、お前、帰りに濡れちまったって?
 帰る途中で雨に降られて、家に帰った時にはびしょ濡れ。…頭の天辺から足の先まで。
 玄関に靴が干してあったぞ、よく乾くように水を吸い取る紙を沢山詰め込んで。
 お前の靴だろ、あんなになるまで濡れたのか…?
 濡れた服は此処には無いようだがな、とハーレイが部屋を見回しているから頷いた。
「…うん…。制服とかはママが洗濯してると思う…」
 ぼくの鞄も下じゃないかな、濡れちゃったから…。鞄、その辺に置いてある…?
 通学鞄、と身体を起こして探そうとしたら、叱られた。
「こら、起きるな。風邪を引くだろうが」
 お前の鞄なあ…。見当たらないなあ、やっぱり何処かで干してるんじゃないか?



 そう簡単には乾かんからな、とハーレイは部屋を眺めて、「無いな」と鞄探しを放棄した。母が何処かに干しているなら、此処で見付かるわけがないから。
「鞄は無いが、中身の方は無事だと思うぞ。学校指定の鞄ってヤツは、優れものだから」
 外側はすっかり濡れちまっても、教科書やノートなんかは濡れない。…雨に降られた程度なら。池や川なんかにドボンと落ちたら、流石に防ぎ切れないんだがな。
 明日の朝には鞄もすっかり乾くだろうさ、とハーレイは保証してくれた。乾いた鞄に明日の分の教科書やノートを詰めて、登校できるといいんだが、と。
「そうしたいよ、ぼくも…。時間割、ちゃんと準備しないと…」
 明日の授業は何だっけ、と勉強机の方を見ようとして、また止められた。「お前は寝てろ」と。
「俺が見てやる。あれだな、明日の時間割」
 よし、とハーレイは勉強机の所まで行って、時間割表を確かめてくれた。ついでに必要な教科書も引き出しから出して、勉強机の上に揃えて…。
「あれでいいだろ、登校できそうなら鞄の中身はあんな所だ」
 今日と同じ教科のヤツは抜けてるから、ちゃんと忘れずに入れるんだぞ?
 それにノートだ、お前のノートを勝手に見るというのもなあ…。ノートは自分で追加してくれ。
 学校に来られるようならな、とハーレイは椅子を運んで来た。窓際に置いてあった、ハーレイの指定席の椅子。それをベッドの脇に持って来て、「さて」と座って…。
「明日の準備はしてやったから、大人しくベッドで寝てるんだぞ?」
 ノートと抜けてる分の教科書、明日の朝、自分で足せるといいな。…乾いた鞄に入れるために。
「ありがとう、ハーレイ…。行きたいな、学校…」
 このまま風邪を引くのは嫌だよ、とハーレイの顔を見上げた。「休みたくない」と。
「その心意気があれば、気持ちの面では大丈夫だな」
 元気でいるぞ、という心構えも大切なんだ。「病は気から」と言うだろう?
 しかし、お前が濡れちまったのは本当で…。
 靴も鞄もびしょ濡れってトコが心配だ。寒気、しないか?
 寒くないか、とハーレイが訊くから「大丈夫だよ」と微笑んだ。
「今はちっとも…。ベッドの中は暖かいから」
 帰って直ぐにお風呂に入って、おやつの後はずっとベッドで寝ていたしね。



 お風呂は熱すぎたんだけど、と正直に白状しておいた。いつもの温度で火傷しそうだったほど、冷えていたのは本当だから。
「だけど、きちんとお湯に浸かって温まったし…。その後はベッドの中だから…」
 今は少しも寒くなんかないよ、寒気なんかもしないから…。ぼくなら、平気。
「それなら、いいが…。唇も紫色になっちゃいないし、冷え切っちまった分は取り戻したか」
 お母さんから聞かされた時は、正直、寿命が縮んだぞ。お前がずぶ濡れになっただなんて。
 俺もウッカリしていたな…。お前の守り役、失格らしい。恋人の方も怪しいもんだ。
 ただでも身体が弱いお前を、ずぶ濡れにしちまったんだから。
 俺のせいだ、とハーレイが溜息をつくから、首を傾げた。何のことか、まるで分からないから。
「え? 失格って…」
 なんでハーレイが失格になるの、守り役も、それに恋人の方も…?
 ぼくは一人で家に帰って、帰りに雨が降って来ただけで…。ハーレイは何も悪くはないよ…?
「それがそうでもないってな。…お前が気付いていなかっただけで」
 俺はお前が帰って行くのを見てたんだ。たまたまグラウンドを通り掛かった時に。
 雨が降りそうなのは分かってたんだし、傘を持ってるのか訊けば良かった。…追い掛けてな。
 お前、用意はいい方だから、折り畳みの傘、鞄に入れているのかと思ったんだが…。
 前に忘れたことがあったし、とハーレイは覚えていてくれた。雨の予報を知っていたのに、鞄に折り畳みの傘を入れるのを忘れて登校した日。
(学校で借りられる傘、全部なくなっちゃってて…)
 ハーレイに傘を借りに行ったら、バス停まで送ってくれたのだった。貸してくれた傘とは別に、ハーレイの傘に入れて貰って、相合傘で。…幸せだった、相合傘の思い出。
「折り畳みの傘、雨の予報が出ていない日は持っていないよ」
 今日の予報は曇り時々晴れだったから…。傘は鞄に入れなかったし、帰りもきっと大丈夫、って思い込んでて、学校の傘、借りて来なくって…。
「そうだったのか…。確かに予報じゃ、そうなってたな」
 俺も降らないと思ってたんだが、午後から雲行きが変わっちまった。…降りそうな方へ。
 次からは気を付けんとな。お前が傘を持たずに歩いていたなら、呼び止めて傘を持たせないと。
 今日みたいに、急に降りそうな日には、お前を見掛けたら追い掛けてって。



 ずぶ濡れになってからでは遅いんだ、とハーレイは「すまん」と謝ってくれた。ハーレイは何も悪くないのに、何度も、何度も。
「お前の手も冷えちまっただろ? 身体中、すっかり濡れたんではなあ…」
 今は温かくなってるが、と上掛けの下でハーレイの手に包み込まれた右手。前の生の終わりに、メギドで冷たく凍えた右の手。
 その手にハーレイが温もりを移してくれる。「温めてよ」と頼まなくても、右手だけを上掛けの下から出さなくても。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 ハーレイに何度も謝らせちゃって。…ハーレイは悪くなんかないのに…。
 ぼく、学校の傘のことを考えてたのに、「家に帰った方が早いよ」ってバスに乗っちゃって…。
 借りに戻って行けば良かった。バスが一本遅くなっても、帰る時間は遅くならないのに…。
 悪いのは、ぼくの方なんだよ、と謝った。実際、そうだと思うから。
 学校で傘を借りずに帰ったばかりに、母にも、ハーレイにも心配をかけた。母には、うんと迷惑までも。「大変!」と悲鳴を上げさせた上に、お風呂の用意に、靴や鞄の手入れもさせて…。
「そう思うんなら、風邪を引かずにいることだ。ベッドでしっかり温まって」
 お母さんも俺も、其処が一番心配だからな。お前が寝込んでしまわないかと、気が気じゃない。
 だからベッドの中で過ごして、明日は元気に登校してくれ。そいつが一番嬉しいな、うん。
 晩飯、此処で食ってやるから。
 お前と一緒に此処で食うさ、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。「それでいいだろ?」と。
「ホント?」
 ハーレイも此処で食べてくれるの、パパやママと一緒に下で食べずに…?
 ぼくは下では食べられないから、この部屋で…?
「ああ。お母さんから聞いたしな」
 ずぶ濡れになっちまった話の続きに、晩飯のことを教えて貰った。
 お前がベッドに押し込まれた時、晩飯の心配をしていた、とな。
 俺が仕事の帰りに寄ったら、飯を御馳走になるもんだから…。その場所が何処になるのか、と。
 お前さえ元気でいてくれるんなら、晩飯を此処で食うってくらいは何でもない。
 晩飯を食える元気があるなら、俺はそれだけでホッとするから。



 お前と一緒に食べるくらいはお安い御用だ、と言われて気付いたこと。
 ハーレイとは何度も一緒に食事をしたけれど、この部屋で夕食を食べたことは一度も無い、と。
 夕食はいつも、両親も交えてダイニングで和やかに食べるもの。そういう決まり。
(決まりがあるってわけじゃないけど…)
 ごくごく自然にそうなった。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋人同士だったことを、両親は知らない。ただの友達だと思っているから、今の自分が十四歳にしかならない子供なせいで…。
(ハーレイが子供の相手をするのは大変だろう、って…)
 そう考えたのが両親だった。「子供のお相手ばかりをさせては申し訳ない」と。
 だから夕食は両親も一緒にダイニングで。…ハーレイが年相応の話し相手と寛げるように。
 その決まりが今夜は崩れるらしい。ハーレイが此処で食事だったら、初めての二人きりの夕食。夏休みに星を見ながら庭で食べたのと、お月見の夜を除いたら。
「ねえ、ハーレイ…。晩御飯を此処で二人で食べるの、初めてだね」
 お昼御飯はいつも二人だけれども、晩御飯はママが呼びに来るから…。用意が出来た、って。
 パパもママも一緒にダイニングでしか食べていないよ、この部屋は一度も無いんだよ。
「そういや、そうだな」
 お前にスープを食わせに来たりしているもんで、気が付かなかった。
 寝ているお前を起こしたりして、何度も食わせたモンだから…。野菜スープのシャングリラ風。
 いいか、しっかり温まっておけよ?
 俺と一緒に、此処で晩飯を食いたかったら。
 野菜スープのシャングリラ風じゃなくて、お前のお母さんが作る料理を。
「分かってる…。風邪を引いちゃったら、ハーレイのスープになっちゃうってことは…」
 具合が悪くなってしまったら、そうなるんでしょ…?
「その通りだ。病人が食うのは病人食だと決まってる。特にお前は、食欲が落ちやすいから…」
 前のお前だった頃から、あの野菜スープしか食えなくなるんだ。
 そうならないよう、夜まで大人しく寝ていることだな、ベッドから出ずに。
 冷えた身体をきちんと温めておいてやったら、風邪だって逃げて行くだろう。
 退屈だったら、俺が話を聞かせてやるから。



 そしてハーレイが聞かせてくれた、色々な話。ベッドの中で退屈しないようにと。
 子供時代の思い出話や、悪ガキだった頃の武勇伝やら。ハーレイの父と釣りに出掛けた時の話も沢山、ハーレイの母が庭で育てる花などの話も。
(…こういう時間も幸せだよね…)
 ぼくはベッドから出られないけど、と思う間に、訪れた眠気。ずぶ濡れになった疲れが出たか、冷えた身体が温まったせいで眠くなったのか。
 なんだか眠い、と欠伸を幾つか、それきり眠ってしまったらしくて…。
「…ブルー?」
 そっと額に当てられた手。ふうわりと浮上する意識。「ハーレイの手だ」と、直ぐに分かって。
 目を覚ましたら、ハーレイが側で微笑んでいた。ベッドに屈み込むようにして。
「熱は無いようだな、よく寝ていたぞ。…元気が出たか?」
 大丈夫なようなら、飯にするかな。お母さんが運んで来てくれたから。
 ほらな、とハーレイが示した窓辺のテーブル。其処にハーレイの椅子はまだ無いけれども、上に載せられた湯気を立てる器。温かいスープかシチューだろうか、食欲をそそる匂いもする。
「…起きていいの?」
 ママ、起きていいって言っていた?
 それともベッドで食べなきゃ駄目なの、病気になってる時みたいに…?
 ぼくは此処かな、と上掛けを被ったままで問い掛けた。ハーレイの椅子はベッドの側だし、その椅子で食べるつもりだろうか、と。テーブルの上から、料理だけを此処へ持って来て。
「起きていいぞ。お母さんもそう言っていたしな」
 熱が無いなら、ベッドから出て食べてもいいと。…だが、冷えちまったら駄目だから…。
 パジャマだけだと身体が冷えるし、暖かくして起きるんだぞ。
 そら、これを着ろ、とハーレイが手にした上着。母が渡して行ったのだろう。お風呂を出た後に羽織ったものより、ずっと大きな父の服。
(うわあ、大きい…)
 ベッドから下りて袖を通したら、本当にダブダブ。けれど腰の下まで丈があるから暖かい。
 ハーレイが「こりゃ大きいな」と袖口を折り返してくれて、袖丈は余らなくなった。それを着て窓際の椅子に腰を下ろしたら、「これもだ」と膝に母のストール。暖かな膝掛け。



 足には靴下とスリッパも履いて、少しも寒いと感じない部屋。陽だまりのような暖かさ。
「ふむ。これで良し、と…」
 寒くないな、とハーレイが自分の椅子を運んで来たから、向かい合わせで囲んだテーブル。上に夕食が載っているけれど、両親が一緒ではない食卓。
(ママ、温かい食事にしてくれたんだ…)
 クリームシチューに、ボリュームたっぷりの焼き野菜。沢山食べるハーレイ用にと、母が考えた料理だろう。野菜の他に鶏肉やソーセージも鏤められたオーブン用の皿。
「熱い内に食えよ? 冷めちまったら、お母さんの心遣いが台無しだからな」
 俺も遠慮なく頂くとするか、とハーレイが取り分けている焼き野菜。思った通りに豪快に。
「ハーレイ、沢山食べるんだね…」
 お肉とソーセージが一杯…。野菜の量も凄いけど…。ぼくだと、其処のジャガイモだけで…。
 お腹が一杯になっちゃいそう、と見詰めるジャガイモ。小ぶりのものに幾つも切り込みを入れて焼いてあるから、一切れがジャガイモ一個分。
「これか? とりあえず、これが一皿目だが?」
 俺が食べる量、お前、いつでも見てるだろうが。…お母さんだって承知だってな。
 で、お前、そんなに少しでいいのか、もっと沢山食わないと…。栄養をつけんと風邪を引くぞ?
 今日は頑張って食っておけ、と焼き野菜を皿に追加された。ジャガイモも、それに鶏肉も。
「…こんなに沢山?」
 シチューだけでも充分なのに、と言ったけれども、ハーレイは至極真面目に答えた。
「駄目だな、身体が冷えちまった時は栄養補給も大切なんだ」
 しっかり食べればエネルギーになるし、身体を内側から温めてくれる。そのくらいは食え。
 ソーセージまでは入れてないんだ、文句を言わずによく噛みながら食うんだな。
 風邪を引きたいのか、と軽く睨まれたら、とても言い返せない。
 ハーレイにも母にも心配をかけたし、此処で本当に風邪を引いたら、ハーレイは自分の責任だと考えそうだから。「俺がついていたのに、無理をさせた」と。
(ママだって、起きて御飯を食べさせたから、って…)
 自分を責めるに決まっているから、風邪などは引いていられない。部屋でハーレイと食べたいと頼んだ以上は、きちんと食べねば。…栄養不足で風邪を引かないように。



 頑張らなくちゃ、と口に運んだ焼き野菜。シチューをスプーンで掬う合間に、少しずつ。
(ジャガイモ、一個でいいんだけどな…)
 そう思っても、ハーレイがじっと見据えているから、追加されたジャガイモも食べてゆく。切り込み通りに薄く切っては、頬張って。
「ジャガイモ、ちょっぴり多すぎるけど…。なんだか幸せ…」
 夜なのに、ハーレイと二人で御飯。パパもママもいなくて、二人きりだよ。
 ハーレイが見張っているけどね、と焼き野菜の皿の鶏肉をフォークでつついた。こんなに沢山、食べられそうもないんだけれど、と。
「食えと言っただろ、そのくらいは。…ソーセージも追加されたいのか?」
 恨むんだったら、雨を恨むんだな。お前を頭からずぶ濡れにした、今日の帰りの雨を。
 とっくに止んでしまっているが、とハーレイは可笑しそうに笑った。天気予報に無かった雨は、一時間ほどで止んだのだという。言われてみれば、お風呂の後で部屋に戻った時には…。
(…雨の音、聞こえていなかった…?)
 窓の向こうは見ていないけれど、青空が覗いていたろうか。曇り時々晴れの予報通りに。
「あの雨、止んでしまってたんだ…。ぼくはずぶ濡れになったのに…」
「運が無かったというわけだな。傘を借りずに帰っちまったことといい…」
 今日のお前はツイていなかったが、今、幸せなら、「終わり良ければ全て良し」ってな。
 ただし、いくら幸せだからって、余計なことを考えるなよ?
 お前がベッドの住人になりそうな危機だからこそ、今夜は此処で晩飯なんだ。
 其処の所を忘れるな、と釘を刺されても、幸せな気分は止まらない。夕食の時にハーレイと二人きりになるなど、家の中では初めてだから。
(星を見た時も、お月見も、外…)
 庭のテーブルと椅子だったわけで、家の中にいる両親からも見える場所。
 けれども今は自分の部屋で、両親はダイニングで食事中。
(ぼくとハーレイ、二人きりだよ…)
 おまけに夕食、と思うと顔が綻ぶ。
 今は夕食の席に両親がいるのが当たり前だけれど、いつかはハーレイと二人きりで食べる夕食。結婚して一緒に暮らし始めたら、夕食は二人で。



 その時間を少し先取りしたようで、心がじんわり温かくなる。今は本当に二人きりだから。
「余計なことを考えるな、って言うけれど…。でも…」
 結婚したら、いつもこうでしょ、ハーレイと二人で晩御飯。…パパもママもいなくて。
「まあな。…そうなることは否定はしない」
 もっとも、お前はパジャマなんかを着てはいないと思うんだが…。
 俺が仕事から帰って来るような時間は、まだ充分に起きている筈だ。欠伸もしないで。
 たまには帰りを待っていられなくて、寝ちまってる日もあるかもしれんが。
 晩飯も先に食っちまってな、とハーレイが言うから、目を丸くした。
「…そんなに遅くなる日もあるの?」
 学校のお仕事、ずいぶん遅くまであるんだね…。ぼくが寝ちゃっているほどなんて…。
「仕事とはちょっと違うだろうな。他の先生との付き合いってヤツだ、酒や食事や」
 俺は車で仕事に行くから、酒は飲まずに運転手だが…。
 けっこう遅くなっちまうってな、大いに盛り上がった時なんかは。
「そうなんだ…」
 お仕事だったら仕方ないよね、他の先生たちと出掛けるのも大切なんだもの。それは分かるよ、きっとシャングリラの頃と同じこと。
 他の人たちと仲良くしないと、どんな仕事も上手くいかないのは当たり前だよね…?
 そういうことなら我慢するよ、と笑顔を見せた。「一人で先に晩御飯でも」と。
「分かってくれるというのがいいなあ、前のお前の記憶に感謝だ」
 見た目通りのチビの恋人なら、今頃は「酷い!」と怒って膨れていそうだから。
 とはいえ、お前が家にいる以上は、早く帰れるようにはするが。
 お前を寂しがらせたくはないしな、「お先に失礼」と帰る日だって、あってもいいだろう。先に帰りたいヤツらだけを乗せて、一足お先に帰っちまう日。
「先に帰るって…。お酒は飲まなくても、他の先生たちと一緒に食事でしょ?」
 毎日だったら寂しいけれども、滅多に無いことなんだから…。
 たまには楽しんで来てくれていいよ、ぼくは一人で晩御飯を食べて、先に寝てるから。
「みんなでワイワイやるのもいいが…。お前の側が一番なんだ、と知ってるだろう?」
 前の俺だった頃からそうだし、今だってそうだ。…早く帰りたい日だってあるさ。
 だが、今の所は、俺もだな…。



 帰らなきゃいけない家があるから、とハーレイは苦笑しているけれども、二人きりの夕食。
 両親はいなくて、幸せな時間。
 まるで未来に来てしまったように、ハーレイと二人で暮らしている家に来たかのように。
(ぼくの部屋だけど、ぼくの部屋だっていう感じがしないよ…)
 とても心が満たされているし、今夜はきっと、メギドの悪夢も襲っては来ない。雨に濡れていた身体はすっかり温まったし、心も温まったから。
(ハーレイが「食べろ」って、沢山ぼくに食べさせちゃって…)
 身体の内側からも温まったし、右手が凍えてもいない。身体中、もうポカポカと暖かい気分。
 それに、こうして二人で向かい合っていたら、どんな悪夢も逃げてゆくから。
 メギドの悪夢は遠い昔で、今の自分には幸せな未来が待っているのだから。
(また帰り道で雨に降られて、ずぶ濡れになってしまった時は…)
 こんな日だって悪くない。
 パジャマの上から父の大きな服を羽織って、膝の上には母のストールでも。
 食事が済んだら、「冷えちまう前に、ベッドに戻れよ?」とハーレイに注意される夜でも。
 そうは言っても、この次からはハーレイが追って来そうだけれど。
 空模様が怪しい日に、校門に向かって歩いていたなら、「傘は持ったか?」と。
(そっちも、うんと幸せだよね…?)
 傘を持たされたら、もうずぶ濡れにはなれないけれども、きっと幸せ。
 ハーレイが気にかけていてくれるという証拠だから。
 仕事を放って追って来てくれて、「持って帰れ」と傘を渡してくれるのだから。
 今日はずぶ濡れになってしまったけれども、きっと風邪など引いたりはしない。
(身体も心も、こんなにポカポカあったかいから…)
 大丈夫、と勉強机の上を眺める。ハーレイが出して揃えてくれた、明日の授業の教科書を。
 明日の朝には、あれとノートを通学鞄に詰め込もう。母が乾かしてくれた鞄に。
 そして元気に学校に行こう、ハーレイにも母にも、心配なんかをかけないように…。



           雨に濡れても・了


※帰り道で、雨に降られてしまったブルー。傘を持っていなかったせいで、濡れた全身。
 家に着いたら直ぐにお風呂で、ベッドで寝かされる羽目に。けれど、ハーレイと幸せな時間。

 ハレブル別館は、次回から月に1度の更新になります。
 毎月、第3月曜に更新、よろしくお願いします。
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 今年もクリスマスシーズンがやって来た。シャングリラにも、クリスマスツリーが登場する。
 ブリッジが見える広い公園にドンと、見上げるくらいに大きなツリーで、夜にはライトアップ。昼間も見に来る人は多くて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も、その中の一人。
「今年も、じきにクリスマスかあ…」
 悪戯は我慢しなくっちゃ、と心に誓う「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、悪戯が生き甲斐な悪戯小僧。船の仲間たちを困らせるけれど、この季節だけは、当人も困る。
「悪い子供には、サンタさん、鞭をくれるって言うもんね…」
 プレゼントの代わりに鞭が届くなんて、と考えただけでも、泣きそうな気分。クリスマスの朝に目を覚ましたら、靴下の中身が鞭一本では、最低最悪。悲しすぎるし、それは避けたい。
 だから「悪戯は我慢」なわけで、船の仲間たちには嬉しい季節と言えるだろう。そうでなくてもクリスマス気分で、誰もが幸せそうな顔をしている。
(…大人にだって、プレゼントが届くわけだし…)
 いい仕組みだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が眺める先に、小さめのクリスマスツリー。船の名物の「お願いツリー」で、「クリスマスに欲しい物」を書いたカードを吊るせばいい。
(子供のカードは、サンタさんが見てるらしいけど…)
 大人が書いたカードは、恋人とか、友達などが見付けて、書いてある物をプレゼントする仕様。これが切っ掛けで、カップルが誕生することもある。
(……うーん……)
 何をお願いしようかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は考えたけれど、直ぐには思い浮かばない。
(…よく考えてから、お願いしたいよね…)
 年に一度のクリスマスな上、「悪戯を我慢」の御褒美なのだし、うんと素敵な物をプレゼントに届けて貰いたい。
 「お願いツリー」は、まだ飾られたばかり、ゆっくり考えて頼むべきだろう。
「うん、それがいいよね!」
 クリスマスまでは日があるもん、と、外に出掛けることにした。船にいたって悪戯は出来ない。人類の世界で悪戯も無理だけれども、遊ぶ分には、まるで問題無いのだから。



 というわけで、シャングリラから、ヒョイと瞬間移動をして、アタラクシアの町に降り立った。もちろん町もクリスマスシーズン、あちこちに飾りやクリスマスツリーが煌めいている。
(綺麗なんだけど、食べられないしね…)
 見て回るよりもグルメ活動、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、町を歩いて、何処に入るか考える。行きつけの店も多いとはいえ、隠れた名店を探すのもいい。
(何処がいいかな…)
 ご飯にするか、おやつにするか、其処も問題、とキョロキョロしながら歩く間に、とある看板が目に入った。
「…うどん屋さん…?」
 こんなお店、此処にあったかな、と首を捻って、よく見てみたら、開店記念サービスの張り紙。新規オープンの店となったら、無視するわけにはいかないだろう。
(入らないなんて、グルメじゃないしね!)
 うどん屋さんでも入らなくちゃ、と早速、「のれん」をくぐって中に入った。
「いらっしゃいませー!」
 只今、開店記念でサービス中です、とカウンターの中から、気の良さそうな店主がニコニコと、サービスの説明をしてくれた。
「うどん、おかわり自由ですよ!」
「えっ、ホント!?」
「もちろん、食べ切れる分までですけどね」
 残した場合は、その一杯の分のお値段は頂戴いたします、と店主は壁のメニューを指差した。
「どれを注文して頂いてもかまいません。ただし、おかわりは、同じ品になります」
「きつねうどんを注文したら、おかわり、きつねだけ?」
「ええ。ついでに、残してしまわれた時は、きつねうどんを二杯分のお支払いです」
「そっかあ…。でもでも、どれを選んでもいいんだよね?」
 お値段、きつねより高くても、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、確認する。店主は笑顔で保証してくれた。一番高い品を何杯食べても、完食出来たら、支払いは一杯分だけです、と。



(…当たりのお店に来ちゃったよ!)
 何杯だって入るもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、もう嬉しくてたまらない。悪戯小僧でもあるのだけれど、胃袋の方も底抜けだった。何杯だろうが、軽いものだし、食べまくれるのはいい。
(…どれにしようかな?)
 うどんにも色々あるもんね、と壁を眺めて、「月見うどん?」と、一枚の紙をまじまじと見る。
(…月はなくても、うどんで月見…?)
 これって、どういう意味なんだろう、と読み直しても、サッパリ分からない。
(月って、お月様だろうけど…)
 絵本くらいしか知らないや、と悩む「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、「月」を見たことがなかった。アタラクシアとエネルゲイアがある、育英惑星アルテメシアは、衛星を持っていない。本来の月とは「地球の月」のことで、「お月様」の正体はソレ。
(アルテメシアには、月が無いから、月見うどん…?)
 空に月なんか無いのにね、と、店主に聞いてみることにした。
「あのね、あそこの紙のは、どういう意味なの? うどんで月見って?」
 すると店主は、とびきりの笑顔で「よくぞ気付いて下さいました!」と、「サービスです!」とばかりに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」をカウンターに招いて、座らせてくれた。
「お食事の前に、一杯どうぞ! おっと、お子様でしたね…」
 それじゃ暖かい甘酒で、と食前酒が「タダで」ついて来たから、驚きのサービスぶり。それから店主は、紙の意味を話し始めた。
「アルテメシアには、月が無いでしょう? 私が育った星には、あったんですよ」
 ステーションを出た後に、行った星にもあったんですが、と店主は懐かしそう。アルテメシアに移って店を出したけれど、此処には「月が無い」ものだから、思い入れをこめて「月見うどん」。
「空に無いなら、せめて、うどんで月を見たいじゃないですか!」
 地球の月には敵いませんがね、と店主が語る「地球の月」とは、「お月様」のこと。店主も見た経験は無いらしいけれど、それは美しいものらしい。
 昔の地球では、月が一番綺麗な季節に、「月見」という催しまでがあったという。その季節には「月見バーガー」や「月餅」と、月に因んだ食べ物が登場していたほどだと、店主は教えてくれた。
「そっかあ! だったら、月見うどんで!」
 お願いしまぁーす! と注文してから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は食べまくったけれど、店主は嫌な顔の一つもしないで、「また来て下さいね!」と、開店記念クーポンもプレゼント。
 食べて食べまくって、お腹一杯、最高の店に当たった。



 明日も行こう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が決意したくらい、「月見うどん」は美味しかった。店主の自慢のメニューなのだろう。
 町を歩いて「腹ごなし」をして、それから船に帰ったのだけれど…。
(月見うどん、美味しかったよね…)
 チャンスがあったら、月見バーガーとかも食べてみたいな、と自分の部屋で考えていて、ハタと気付いた。
(月見バーガー、店主さんのいた星だと、あったらしいし…)
 聞いた時には「アルテメシアにも、いつか登場しそう!」と、食い意地だけだったけれど、その「月」が問題。
 店主の話では、月見は「昔の地球」で始まったわけで、きっと今でも「ある」に違いない。
(サンタクロースに頼むんだったら、コレしかないよ!)
 それにしよう、と「お願いツリー」まで、瞬間移動で、急いでカードに書き込んだ。その内容は「来年のお月見のチケット、下さい」。
 店主は「地球に行ける人なら、お月見も出来るんでしょうけどねえ…」と、一般人には行けない「人類の聖地」に思いを馳せていた。
 その地球にしかない「お月見」のチケットがあれば、お月見の時に地球まで行ける。
(地球に行ったら、場所を覚えて…)
 大好きなブルーに教えてあげれば、ブルーも「憧れの地球」に行くことが出来るだろう。
(これで良し、っと!)
 名案だよね、と「お願いツリー」にカードを吊るして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はピョンピョン跳ねて部屋まで帰って行った。
 「来年のお月見の季節になったら、地球の座標をゲット出来るよ!」と、上機嫌で。



 さて、そこまではいいのだけれど、今年も「そるじゃぁ・ぶるぅ」の「お願い事」は、気の毒なキャプテンを悩ませることになってしまった。
「…ソルジャー…。少しよろしいでしょうか?」
 ぶるぅが、こんな願い事を、とハーレイは、回収したカードを手にして、夜に青の間を訪れた。青の間には、この時期の名物の「炬燵」が置かれている。
「どうしたんだい? また変なことでも?」
 まあ、ミカンでも食べたまえ、とブルーは、ハーレイを炬燵に招いて、向かいに座らせた。
「それが…。これはどういう意味でしょう?」
 お月見のチケットとは、と怪訝そうなハーレイだけれど、ブルーは、直ぐにピンと来た。日頃、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出掛けの時は、行先くらいは探っている。今日は、はしゃいでいた分、気になって様子を見てもいた。
「ああ、それか…。地球だと思うよ、地球にしか、お月見の催しは無いだろうしね…」
 実は昼間にこういうことが、とブルーの解説を聞いて、ハーレイは唸った。
「どうするんです? そんなもの、手には入りませんよ?」
「うん。変えて貰うしかないだろうね…。ぶるぅ!」
 ちょっとおいで、というブルーの思念で、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はパッと現れた。
「なあに? おやつ、くれるの?」
「ミカンくらいならね。それより、これは、どういう意味だい?」
 ブルーが指差す「お願いカード」を見るなり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は張り切って答えた。
「あのね、地球のお月見イベントだよ! チケットがあれば、行けるでしょ?」
「なるほどね…。でも、ぶるぅ…」
 行き方を知っているのかい、とブルーは苦笑して問い掛けた。
「こういうチケットは、どうやって行くか、知っていないと、どうにもならないよ?」
「えっ、そうなの!?」
 ホント、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は目を丸くしたけれど、ブルーは、可笑しそうだった。
「知らなかったのかい? 最寄りの宙港とか、そういうのが書かれているだけで…」
 往復は自分でなんとかしないとね、と教え諭した。「行き方を知っている」ことが前提だから、チケットだけを貰った場合は、無駄になるのだ、と。



(…いい考えだと思ったのに…)
 お月見チケットは、貰っても無駄だなんて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はガッカリしたけれど、子供なだけに立ち直りも早い。「無駄になる」ものを頼むよりかは…。
(役に立つものを頼むべきだよね!)
 何にしようかな、と考えた末に頼んだ品が、ハーレイをホッとさせたのは言うまでもない。
 クリスマスイブの日の夜、ハーレイは例年通りに、サンタクロースの衣装を纏って、袋を担いで「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋を訪れた。
(よしよし、今年も罠の類は仕掛けていないな、いいことだ)
 悪戯も我慢していたし、鞭は勘弁しておいてやる、と「キャプテンのサンタ」は、プレゼントをベッドの側に並べてゆく。
(まったく、ソルジャーはともかく、なんで他の奴らまでから…)
 悪戯小僧にプレゼントなんだ、とハーレイは、ぼやくけれども、そのハーレイも、プレゼントを用意していたりする。長老たちと一緒に贈る品の他にも、個人的に「コレがいいな」と選んで。
(どいつもこいつも、甘すぎだぞ!)
 たまには鞭の年があっても、いいと思うが…、と真っ白な付け髭をしごきながらも、そんな酷いプレゼントはしない。
 なんだかんだで「愛されている」のが「そるじゃぁ・ぶるぅ」で、ベッド大好き、土鍋も好きで寝床にしている、「いつまで経っても、6歳のまま」の、可愛らしい子供なのだから。



 そして、クリスマスの朝、パチンと目を覚ました「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、ベッドの側の床を目にして歓声を上げた。
「わぁーい! サンタさん、ちゃんと来てくれたよ!」
 ぼくが頼んだプレゼントは、この箱かな、と「いい子の、ぶるぅへ」とカードが添えられている箱を開けると、大当たり。
「凄いや、これならステージ映えしそう!」
 いつものマントも悪くないけど、と広げて羽織って、鏡の前に立ってみる。普段のマントに似ているけれども、さりげなく光沢があって、それでいて上品さが漂う逸品。
「サンタさん、特注してくれたんだね!」
 気に入っちゃったあ! と大喜びの「そるじゃぁ・ぶるぅ」は知らないけれど、本当に特注の品だった。ソルジャー・ブルー自ら、アタラクシアの町に降りて注文した品で、超のつく高級品。今は希少な「絹」で出来ていて、染めも「貝紫」という高価な染料が使われている。
「マントもいいけど、他にも色々! これはお菓子で、こっちは、と…」
 悪戯を我慢してて良かったあ! とワクワクしながらプレゼントを開けてゆく内に、ブルーから思念が飛んで来た。
『ぶるぅ、誕生日おめでとう! 公園でケーキが待ってるよ』
 早くおいで、と言われて初めて「そうだっけ、今日は誕生日!」と気付いたくらいに、すっかり忘れ果てていた。誕生日の日は「クリスマス」だった、ということを。
「待ってて、すぐ行く!」
 急がなくっちゃ、と「どっちのマントにしようかな?」と考えたものの、ステージ映えと頑丈さとは両立しないかもしれない。
(ケーキがついたら、染みになっちゃうかも…)
 普段のマントにしておこうっと、と決めた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、特注のマントが特殊加工してあることにも気付かなかった。よくよく箱を確かめていたら、「丸洗い出来ます」と書いた紙が入っているのが分かったのに。



「かみお~ん♪ メリークリスマス!」
 今日も悪戯は我慢するね、と瞬間移動で公園に飛んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、大歓声で迎え入れられた。
「「「ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!」」」
 大好きなブルーも、船の仲間も、みんな公園に揃っている。厨房のクルーが数人がかりで大きなケーキ運び込んで来て、バースデーパーティーが賑やかに始まった。
 みんな笑顔で、心から祝って、悪戯小僧に「ハッピーバースデー!」。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年もお誕生日、おめでとう!



             由来が大切・了


※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございます。
 管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、いなくなってから、もう7年が経ちます。
 2007年の11月21日が初めての出会いで、創作をするようになって17年目。
 毎日シャン学では良い子の「ぶるぅ」ばかりとはいえ、原点だった悪戯小僧も大好きです。
 お誕生日のクリスマスには必ず記念創作、すっかり暮れの風物詩になりました。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、18歳のお誕生日、おめでとう!
 2007年のクリスマスに、満1歳を迎えましたから、17年目の今年で18歳です。
 アニテラの教育ステーションだと、18歳は最上級生になるわけですが…。
 ステーションを卒業だなんて、メンバーズも目前。ただし、「いい子」だったら…。

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)












(そっか、遠足…)
 その帰りなんだ、とブルーが眺めた下の学校の生徒たち。学校からの帰りに、バス停から家まで歩く途中で目にした光景。少し前の方を賑やかに歩いてゆく姿。
 普段だったら、この時間にはあまり見かけない。遊んでいる子供たちには出会うけれども、下校してゆく子たちの方は。
 リュックサックを背負った子供たち。遠足の続きみたいにはしゃいで、笑い合いながら。水筒の中身を飲んだりもして。
(中身、ジュースなんだ…)
 驚いたけれど、話の内容からして、水筒に詰まった中身はジュース。自分が通っていた頃は禁止だったけれども、今は許されているのだろうか?
「先生、気が付かなかったね!」
「大丈夫だって言っただろ? バレやしない、って」
 先生の近くで飲まなかったら大丈夫だ、と得意そうな顔の男の子。如何にもヤンチャそうな顔。
(…常習犯…)
 いつもやってる子供なんだ、とポカンとしてから気が付いた。やっぱり今でも水筒にジュースは駄目なんじゃない、と。
 遠足の時も、普段の時も、水筒の中身はお茶か水だけ。下の学校はそういう決まり。
(お茶の種類は決まってないから…)
 麦茶の子もいたし、他にも色々。紅茶を入れていた子は知らないけれど…。
(ミルクティーとかでなければ、良かったのかな?)
 紅茶も「お茶」には違いないから、たっぷりのミルクと砂糖入りでなければ許されそう。普通に淹れただけの紅茶で、過剰な味付けをしていないなら。
(甘いミルクティーだと、ジュースとおんなじ…)
 それを水筒に詰めていたなら、きっと先生に叱られる。「水筒の中身はお茶と水だけ!」と。
(だけど、ジュースを入れてくる子は…)
 自分の周りにも何人かいた。常習犯も、「遠足の時だけ」だった友達も。
 遠足となれば楽しみたいから、ジュースを詰めたくなるのも分かる。広々とした野原や、視界が開ける山の天辺。其処でお弁当を食べる時には、お供はジュース、と。



(ふふっ…)
 今の子たちも、みんな同じ、と微笑みながら帰った家。リュックの子たちを追い抜いて。
 制服を脱いで、ダイニングでおやつを頬張りながら考える。さっきのジュースと水筒のこと。
 今の学校では遠足に行っていないのだけれど…。
(学校に水筒を持って行くなら…)
 ジュースを中に詰めてゆくのは、やっぱり禁止。下の学校の頃と同じに。
 食堂でジュースを買うことだったら、許されるのに。お昼休みに飲んでいたって、叱られない。もちろん放課後も、他の短い休み時間でも。
(なんでかな…?)
 学校でジュースが売られているのに、禁止されるのが水筒のジュース。買って飲むのも、持ってくるのも同じだろうに。
 ジュースの味が変わりはしないし、冷たい温度も保っておける容器が水筒。
(誰も持っては来ないけれどね…)
 水筒を持って来ている生徒は、きちんとお茶を詰めてくる。先生に叱られないように。それに、同じジュースを飲むのだったら、水筒に入れて持って来るより買う方がいい。
 昼休みと帰りで違うジュースが飲めるし、その時の気分で選びも出来る。どれにしようか悩んでみたり、新しい味に挑戦したり。
(だけど、遠足とかに行くなら…)
 水筒にジュースを入れる生徒も現れるだろう。下の学校の子が、今もそうしているように。
 今の所は、遠足の予定は無いけれど。…水筒の出番がありそうな行事も。
 それでもいつか行くとなったら、ジュースを詰める子は絶対にいる。先生がどんなに「駄目」と言っても、持ち物リストに「ジュースは禁止」と書かれていても。
(水筒のジュース…)
 なんで駄目なの、と考えてみても出て来ない答え。
 学校に行けばジュースが買えるし、自分だって何度も飲んでいる。お昼休みや、夏の暑い頃には短い休み時間にだって。
 なのに水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、先生にバレたら叱られる。規則を破って詰める子たちは、今も大勢いるというのに。ジュースは人気が高い飲み物で、今は学校でも買えるのに。



 分からないよ、と考えながら戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えてから。
(水筒の中身…)
 お茶でなくても、ジュースでもかまわないように思う。下の学校の頃ならともかく、今の学校の方ならば。
(下の学校だと、ジュースは売っていなくって…)
 食堂も無かったほどなのだから、「ジュースは禁止」も分からないではない。水筒の中身として禁止する前に、学校そのものがジュースが飲めない場所だったから。
(小さい子供は、好きなものばかり欲しがるから…)
 健康のことなどを考慮した上で、ジュースは禁止だったのだろう。「美味しいから」と甘いものばかり飲んでいたのでは、身体に悪いし、虫歯の原因にもなりそう。
 けれども、今の学校は違う。もっと育った子たちが行く場所、義務教育の最終段階。卒業したら十八歳だし、結婚だって許される年。
(自分のことには、自分で責任…)
 きちんと考えて行動するよう教えられるし、ジュースを買って飲むのも自由。飲み過ぎないよう注意しながら、自分で好きに選んで買って。
 それが許されているというのに、どうして水筒にジュースを詰めては駄目なのだろう。禁止する理由が、いったい何処にあるのだろう…?
(買って飲むのも、水筒に入れて持って行くのも…)
 同じなのに、と思えるジュース。
 どちらかと言えば、水筒に詰めて家から持って行く方が…。
(健康的だと思うんだけど…)
 朝に搾ったオレンジのジュースや、作ったばかりの野菜のジュース。冷やしたままで放課後まで持つし、買ったジュースよりも身体に良さそう。
(食堂でもジュースは売っているけど…)
 生徒の数が多いのだから、その場でオレンジを搾ってはいない。野菜ジュースも、沢山の野菜をミキサーで砕いて作ってはいない。店で売られているジュースと同じ種類のジュースで…。
(注文したら、コップに注いでくれるってだけで…)
 家で作るのとは全然違う。健康的だと言えそうなのは、家で作ったジュースの方。



 考えるほどに、水筒に詰めて持って行く方が良さそうなジュース。野菜ジュースも、オレンジを搾ったジュースでも。その日の間に飲んでしまうなら、きっと傷みはしないから。
(絶対、そっちが良さそうなのに…)
 水筒にジュースを詰めてゆくのは禁止で、ジュースは学校で買って飲むもの。なんとも不思議で奇妙な決まり。下の学校ならまだ分かるけれど、今、通っている学校では。
(ハーレイだったら知ってるかな?)
 ジュースを詰めてはいけない理由。禁止する方の教師なのだし、知らない方がおかしいだろう。
 何故、禁止なのか、訊いてみたいな、と思っていたら聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事の帰りに来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。水筒にジュースは、なんで駄目なの?」
「はあ? ジュースって…?」
 何の話だ、とハーレイは目を丸くした。「水筒がどうかしたのか?」と。
「水筒にジュース…。今日の帰りに、下の学校の子たちを見掛けたんだよ。遠足だったみたい」
 みんなリュックを背負っていてね、とても賑やかだったんだけど…。
 その子供たちが、水筒にジュースを入れていたんだよ。お茶の代わりに。
 水筒にジュースは禁止だったけど、今も禁止のままなんだけど…。それでも入れていた子たち。
 ああいうの、今のハーレイも、やった?
 ぼくは一度もやってないけど…。ママに頼んだことも無いけど…。
 ジュースを入れて欲しいだなんて、と下の学校の頃のことを話して、ハーレイの答えはどうかと待った。水筒にジュースを入れていたのか、規則を守ってお茶や水だったか。
「俺か? 俺が学校に行ってた頃だな、下の学校」
 水筒の中身はジュースだったか、そうでないかと訊かれると…。
 デカイ声ではとても言えんがなあ…。これでも一応、今は教師というヤツだから。
 とはいえ、お前も知っての通りの悪ガキだ。武勇伝は幾つも聞いてるだろう?
 その辺で察しがつかないか、とハーレイが浮かべた悪戯っ子のような表情。悪ガキだったという子供時代は、ハーレイだって水筒にジュースを入れていた。
 遠足などに行く時ばかりか、普通に登校する日でも。
 搾り立てのオレンジジュースでなくても、冷蔵庫にあった市販のジュースの類も。



 健康的ではなさそうなジュースも、水筒に入れた子供時代のハーレイ。遠足でなくても、普通の日でも。「ジュースが飲みたい」と思った時には、迷いもしないで。
「それ、駄目なんでしょ。ハーレイが行ってた学校だって」
 入れてもいいっていう学校なら、大きな声で話せるものね。「悪ガキだから」って言わなくてもいいし、誰に喋っても良さそうだもの。
 そのジュース…。今の学校でも禁止されてるけど、どうしてなの?
 ジュースだったら、学校で売られているじゃない。食堂にもあるし、自動販売機だって。
 わざわざ水筒に詰めなくっても、いろんなジュースが飲めちゃうよ。昼休みと放課後で違うのを買ったら、水筒で持って行くよりも楽しそうだけど…。水筒だとジュースは一種類だけ。
 それに、水筒に詰めるんだったら、健康的なジュースを持って行けるじゃない。家でお母さんが作ってくれたオレンジジュースや、野菜ジュースとかを。
 そっちの方が身体に良さそう、とジュースについての意見を述べた。禁止するより、家で作ったジュースの持ち込みを許せばいいのに、と。
 そうしたら…。
「ああ、それはな…。お前が言うのも、確かに一理あるんだが…」
 ジュースの種類が問題なんだ。水筒に詰める中身ってヤツが。
 禁止されてる理由はそれだ、とハーレイが言うから驚いた。家からジュースを持って行く方が、いいことが沢山ありそうなのに。
「えっ、どうして?」
 家で作ったジュースだったら、うんと新鮮だし、栄養だってたっぷりだよ?
 オレンジジュースなら搾ったばかりで、野菜ジュースもミキサーで作ったばかりなんだし…。
 学校の食堂で買えるジュースより、ずっと健康にいいと思うよ。食堂のジュースは、工場とかで作ったジュースをコップに入れてるだけなんだから。
 買ったジュースを詰めるにしたって、そっちはそっちで、お小遣いが減らなくなるもんね?
 ジュースを買うお金、払わなくてもいいんだもの。家から水筒で持って行ったら。
 そうでしょ、ハーレイ?
 ジュースの種類が問題だって言うんだったら、決まりを作ればいいじゃない。こういうジュースだったらいい、ってメーカーを指定するだとか…。



 その方法なら、市販のジュースも絞り込める。学校の食堂や自動販売機で買えるジュースと同じものだけ、などと指定してやれば。
 家で作るジュースは栄養豊富に決まっているから、問題になるのはきっと市販のジュース。味は良くても栄養のバランスが良くないものとか、学校としては勧められないものも多いだろう。
 てっきりそうだと思ったけれども、ハーレイは「違うな」と苦笑い。
「下の学校でジュースが禁止な理由は、栄養バランスなんかも絡んでいるんだが…」
 お前が通っている学校だと、ちょいと事情が変わってくる。そう単純ではないってな。
 栄養面とか、小遣いのことを考えるんなら、ジュースの持ち込みも許してやれるんだが…。
 通ってる生徒の顔ぶれってヤツを思ってみろ。一番上の学年だったら、十八歳の子だっている。誕生日が四月のヤツらなんかは、もう早々に十八歳だな、一番上になった途端に。
 あの学年が卒業したら、上の学校に行くわけで…。
 上の学校に行けば、ちょっぴり大人の仲間入りってことになるだろう?
 二十歳になれば大人だからな、とハーレイが言う、今の時代の「成人」の年。二十歳になったら立派な大人で、酒を飲むことも許される。
 上の学校には二十歳になった先輩も大勢通っている上、二年も経てば自分たちも二十歳を迎えて大人。そういう学校に入れる時を、間近に控えているものだから…。
 一番上の学年の生徒たちの場合は、大人になる日をちょっと先取り、アルコール入りのジュースなんかを飲んでみたくもなるという。
 アルコールと言っても、ほんの少しだけ。酔っぱらうほどでもないジュース。
「学校としては、そういうジュースを、水筒に入れて持ってこられちゃ困るしな?」
 見た目だけだと、普通のジュースとまるで区別がつかないから…。
 元のジュースの入れ物があれば、直ぐに酒だと分かるんだがなあ…。水筒に詰められたら、もう分からん。「ちょっと寄越せ」と、取り上げて味見しない限りは。
 だから禁止だ、とハーレイは怖い顔をした。「学校で酒は論外だぞ」と。
「お酒って…。水筒にジュースを入れちゃ駄目なの、そんな理由なの?」
 絶対に駄目、って言っておいたら、誰もしないと思うけど…。お酒は二十歳からだもの。
 誰でもきちんと知ってることだし、学校になんか持ってこないよ。
 ジュースがあったらそれで充分、お酒まで飲もうとしなくたってね。



 第一、学校は勉強の場所、と瞳を瞬かせた。其処に酒など持ち込まなくても、飲みたいのならば家でコッソリ飲めばいい、と。
「そう思わない? 家なら、先生にバレて叱られたりもしないし…」
 好きな時間に部屋でコッソリ、それが安全。…ぼくは飲みたいとは思わないけれど。
「お前だったら、そうなるのかもしれないが…。馬鹿にしちゃいかんぞ、誘惑ってヤツを」
 あと一年で上の学校なんだ、と思い始めたら、飲んでみたくなるヤツらも出てくる。
 どうせだったら一人で飲むより、友達と飲みたくなるモンだ。水筒に入れて回し飲みとか、同じ日に揃って持ってくるとか。
 どんな味なのか、ワクワクしながら飲むアルコールは格別だってな。…学校って場所で。
 先生にバレたら大変なんだが、と話すハーレイは「悪ガキ」のような顔にも見える。今は教師で叱り付ける方の立場にいるのに、それとは逆の立場の悪ガキ。
「…ハーレイ、経験ありそうだね」
 学校に水筒を持って出掛けて、中身はお酒が混じったジュース。…下の学校でジュースを入れて行っていたなら、次の学校でも似たようなことをやりそうだけど…?
 そういう経験は一度も無いの、と興味津々。「ハーレイなら、やっていそうだよ」と。
「無いとは言わんな、悪ガキだしな?」
 駄目だと言われりゃ、余計に挑戦してみたくなる。規則を破るのもスリル満点というヤツで…。
 だが、勘違いをしてくれるなよ?
 悪さをするのも大好きだったが、やるべきことはきちんとやってた。勉強も、もちろん宿題も。
 そういや、水筒にジュースってか…。
 同じ理由で禁止だったな、あの船でも。
「船?」
 何処の船なの、学校から乗りに行くような船…?
 ぼくの学校では行ってないけど、学校によっては色々あるよね。船に乗り込んで、湖を回って、水質検査の体験をしたりする学校とか…。帆船で沖に出て行くだとか。
「体験学習用の船だな、お前が言うのは」
 その手の船でも、もちろん水筒にジュースを詰めるのは禁止だろう。
 乗っていく子供が下の学校の子でも、お前と同じ学校でも。しかしだな…。



 俺が言う船はそれじゃない、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。「シャングリラだ」と。
「シャングリラと言えば、前の俺たちが乗ってた船だ。…白い鯨だ」
 覚えていないか、あの船の決まり。水筒とジュースで何かを思い出さないか…?
「えーっと…?」
 シャングリラだよね、白い鯨の方の…。あの船で水筒とジュースって…?
 ジュースは食堂に行けば飲めたよ、とキョトンとした。白い鯨に改造する前の船の頃でも、何か飲むなら食堂で注文。「これが飲みたい」と係に言えば、出て来た色々な種類の飲み物。
「基本は食堂、そうでなければ休憩室だな。飲み物が欲しくなった時には」
 休憩室にもジュースなんかは揃っていたから、自分で好きに選んで飲めば良かったんだが…。
 それが出来ない時もあったろ、休憩室とか食堂に出掛ける時間が無い時。届けて貰うという手もあったが、もっと手軽に飲み物を持って行きたいのなら…。
 水筒だったぞ、と挙がった容器の名前。
 持ち場に飲み物を運んで行きたい時には、休憩室か食堂で詰めてゆくのがシャングリラの規則。水筒の中身を詰める時には、必ず其処で。…自分の部屋で詰めるのではなくて。
「そうだっけ…!」
 水筒、そういう決まりだっけね、白い鯨になった後には。
 それまでは、水筒を持って行かなきゃいけないくらいに、大きな船じゃなかったから…。仕事の途中で喉が乾いたら、ちょっと戻って休憩室とか、食堂だとか…。
 其処で飲めたよ、と今も覚えている飲み物。改造前の船の頃には、水筒の出番は殆ど無かった。忙しい時に一部の仲間が使っただけで、出番が少ないなら決まりも要らない。
 ところが、改造した後の船は、改造前とは比較にならない巨大な船。食堂や休憩室はあっても、其処まで出掛ける時間が惜しい、と思う者やら、持ち場を離れられない者やら。
 お蔭で水筒が脚光を浴びた。
 持ち場を離れず、食事する者も少なくなかったから。メンテナンスなどに入った時は。
 それに機関部など、高温になる区画も増えた。船が大きくなった分だけ。
 食堂や休憩室に足を運ばず、何処ででも水分を摂れる水筒。飲みたい時に蓋を開ければ、欲しい量だけ飲むことが出来る。紅茶だろうがコーヒーだろうが、ジュースだろうが。
 けれど、水筒には決まりがあった。白いシャングリラだけのための規則が。



 水筒を持って出掛けてゆくなら、自分の部屋では詰められない中身。ジュースにしても、紅茶やコーヒーにしても。
 中身は必ず、食堂や休憩室で詰めてゆくこと。普通の飲み物を入れる代わりに、仕事中には禁止されている酒を詰められたら大変だから。
 合成の酒しか無かった船でも、酒は酒。飲みたい仲間は少なくないし、水筒という便利な容器が出来れば、持ち運びたい者も現れかねない。「仕事中にも一杯やろう」と。
「俺が思うに、今も昔も変わっちゃいないな、其処の所は」
 水筒にジュースを入れちゃいかん、と言っておかないと、アルコール入りのジュースを持ち込む生徒が出ちまう学校だとか…。
 中身を詰めるなら食堂と休憩室にしろ、と規則を作って決めておかないと、自分の持ち場で酒を飲みかねないヤツらが乗ってた船だとか。
 ずいぶん時が流れちまって、地球がすっかり青くなっても、水筒の中身は変わらないらしい。
 決まりが無ければ、ろくでもないことを考え付くヤツらがいるってこった。
 学校だろうが、白い鯨だろうが…、とハーレイは懐かしそうな顔。白いシャングリラが、今でも見えているかのように。
「シャングリラの水筒、そうだったね…。ジュースじゃなくて、お酒だったけど」
 お酒を詰めて仕事に行っちゃう仲間が出たら、大変だから…。中身を詰められる場所が決まっていて、自分の部屋からは詰めて行けない仕組み。必ず食堂か休憩室で、って。
 あんな決まりを作らなくても、前のぼくなら、お酒なんかは詰めないけれど…。
 水筒を持って何処かに行くなら、中身はジュースか紅茶だけれど…。
 ぼくはコーヒーも苦手だから、と顔を顰めた。「お酒も駄目だけど、コーヒーも駄目」と。
「お前の場合は、酒を飲んだら酔っ払っちまっていたからなあ…」
 ほんのちょっぴり舐めただけでも、真っ赤な顔になっちまうくらいに酒に弱くて。
 あれじゃ水筒に酒を入れたら、船の何処かで行き倒れだな。
 飲んだら倒れて眠っちまって、俺たちが探しに行く羽目になるんだ。行方不明のソルジャーを。
 眠っていたんじゃ、思念波だって返って来ないし、さぞかし苦労したろうさ。探し出すまでに。
 お前はそのくらいに酒が駄目だったし、水筒に酒を入れようとも思わなかっただろうが…。
 酒好きだった、前の俺なんかになるとだな…。



 欲しいと思うこともあった、と語るハーレイ。「水筒にコッソリ詰めてでもな」と。
 ブリッジでの勤務が長く続いた日ともなったら、帰り際には一杯やりたい気分だった、と。
「ゼルやブラウと「お疲れ様」と飲むってわけだ」
 あの二人もいける口だったしなあ、部屋に戻る前に、ちょいと飲みたいじゃないか。
 誰かの部屋へ飲みに行くんじゃ、余計な時間がかかっちまうし…。軽く一杯、一口だけな。
 そういう酒が欲しいじゃないか、と今のハーレイは言うのだけれど。
「でも…。お酒なんかは飲んでないでしょ?」
 前のハーレイも、ゼルも、ブラウも。…誰かの部屋で飲んではいたって、ブリッジなんかじゃ。
「それがだな…」
 やはり大きな声では言えんが、とハーレイがクッと漏らした笑い。教師になった今のハーレイの悪ガキ時代と同じくらいに、大きな声では言えないこと。
 前のハーレイが生きた時代に、白いシャングリラのブリッジで起きていた出来事。明らかに遅くなりそうな日には…。
「ゼルがお酒を持ってたの!?」
 部屋から持って来てたって言うの、知らん顔してブリッジまで…?
 水筒の中身を詰めるんだったら、休憩室か食堂で、って決まっていたのに、それを破って…?
「そうなるな。…決まりは決まりで、ゼルは破っていたことになる」
 もちろん百も承知の上で、マントの下にコッソリ隠して持って来ていたな。
 酒専用の水筒と言うか、ちょいとレトロなアイテムと言うか…。
 ゼルのお手製だぞ、こういうので…。スキットルという名前なんだが。
 携帯用の酒の容器だ、歴史はけっこう長くてだな…。
 尻ポケットに突っ込んでおくのに都合のいい形に出来てるんだ、とハーレイが両手で示した形。
 「こんな厚みで、こう曲がってて…」と教えて貰ったスキットル。
 水筒を平たい形に潰して湾曲させたら、それに似た感じになるのだろうか。真鍮で出来ていたという、ゼルお手製のスキットルの形。
 見たような気がしないでもない。遠く遥かな時の彼方で、白いシャングリラで。
 ハーレイの仕事はまだ終わらないかと、青の間から思念でブリッジを探った時に。
 そのスキットルを、マントの下から取り出すゼルを。



 遠い記憶を手繰り寄せてみれば、やはり見ていたスキットル。「変わった形の水筒だ」と思って眺めていたのだけれども、注目したのは形だけ。「ゼルの趣味かな?」と。
 水筒だけに、中身はゼルの好みのジュースかコーヒーなどだと、前の自分は信じていたのに…。
「あれって、中身はお酒だったの!?」
 おまけに今のハーレイの話じゃ、水筒そのものがお酒専用…。
 SD体制が始まるよりも、ずっと昔の時代からあったのがスキットルで…。ゼル、そんなものを作っていたんだ…。ブリッジにお酒を持ち込むために…。
「雰囲気ってヤツが大切なんじゃ、とゼルは何度も言ってたぞ」
 昔の地球の船乗りたちも、スキットルに酒を入れていたんだ、と。携帯用だから、船乗りだって持っていただろう。…人間が地球しか知らなかったような時代から。
 船を操りながら一杯やるならコレに限る、と作って来たのがスキットルだ。
 もっとも、ゼルがスキットルを持っていたのは、俺とブラウとゼルだけの秘密だったがな。
 エラは知らんぞ、そういうものがあったことさえ。
 ゼルのマントの下まで調べちゃいないからな、とハーレイは軽く肩を竦めた。「とても言えん」などと、シャングリラで一番うるさかったエラの名前を挙げて。
「当然じゃない。ブリッジにお酒を持ち込むなんて…。お酒専用の水筒だなんて」
 バレたら怒るよ、エラだったら。…眉を吊り上げて、凄い勢いで。
 普通の水筒を持って行くのも、全部禁止になっちゃいそう…。飲み物を飲むなら食堂に行くか、休憩室のどちらかで、って決まりが出来て。
 エラならきっとそうするよ、と光景が目に浮かぶよう。「今日から水筒は禁止です!」と厳しい顔で宣言するエラ。皆が集まる食堂か何処かで、仁王立ちして。
「お前だって、そう思うだろ? エラは怖いと」
 俺もゼルたちも、そいつは充分、分かっていたさ。だからだな…。
 バレないように気を付けてたぞ、と前のハーレイたちは用心していたらしい。ゼルがコッソリと持ち込んでいたスキットル。それがバレたら、水筒が禁止になりかねない。シャングリラ中で。
 そうならないよう、エラがブリッジから引き揚げない日は、飲めなかった酒。
 一杯やりたい気分になっても、どれほど疲れた日であっても。
 エラが「お先に」と姿を消してくれたら、「お疲れ様」と回し飲み。スキットルを出して。



 前のハーレイたちが飲んでいた酒。白いシャングリラのブリッジで。
 ゼルがマントの下に隠したスキットルを出したら、蓋を開けて、順に回していって。
「回し飲みって…。いいんだ、それで…?」
 キャプテンと機関長と航海長なのに、ブリッジでお酒…。専用の水筒まで出して…。
 そんなのでいいわけ、他のブリッジクルーがいても…?
 一番怖いエラにバレなきゃ、水筒の中身がお酒になっちゃってても…?
 みんなに示しがつかないんじゃあ…、と心配になった、前のハーレイたちがエラに内緒でやっていたこと。水筒の中に酒を入れて持ち込み、ブリッジで順に回し飲み。
 いくら仕事が終わった後でも、ブリッジで酒。しかも水筒の中に仕込んで、船の決まりを破っていたのがゼルなのだから。
「ブリッジのヤツらか? そっちは気付いていないと思うぞ、スキットルなんて」
 コアブリッジでは飲んでないからな。…俺たちが飲んでいたのは出口だ、出口。
 あそこだったら誰の目にも入るわけがない、と前のハーレイたちは酒を飲む場所も選んでいた。船の航行の中心になるのが、ハーレイたちの席があった中央。コアブリッジと呼ばれた船の心臓。
 コアブリッジを囲むようにして、他のクルーたちが配置されていた。操舵を担当する者も。
 其処を離れれば、常駐する者は誰もいなかったブリッジという所。白いシャングリラで一番広い公園、その端に浮かぶ「方舟」の名を持つブリッジ自体は、無人の場所が多かった。
 仕事が終わればコアブリッジを出て、もうアルコールの匂いも上までは届かない出口の近くで、コッソリと開けるスキットル。…ゼルがマントの下から出して。
 それが前のハーレイたちの楽しみ。遅くまで仕事をしていた時には、ブリッジで酒。
「…ぼくにも今日まで内緒だったんだね?」
 エラに内緒にしておいたのは、正しいことだと思うけど…。
 バレてしまったら、シャングリラ中から水筒が無くなりそうだけど…。でも、前のぼくは…。
 其処までうるさくなかったのに、と面白くない。「ぼくにも内緒だっただなんて」と。
「お前が気付かなかっただけだろ、俺もわざわざ話しちゃいないが…」
 隠しておこうとも思っちゃいない。だから、お前が見ようと思えば見られた筈だぞ、水筒の中。
 実は酒だということくらい…、と言われれば、そんな気もしてきた。
 前のハーレイは「見るな」と止めなかったし、ゼルもブラウも何も気にしていなかった。
 「ソルジャーに見られているかもしれない」とは、二人とも言わなかったのだから。



 ゼルとブラウと、前のハーレイ。ブリッジで酒を飲んでいた三人。
 彼らが恐れたのはエラの視線で、ソルジャー・ブルーの目ではなかった。ソルジャー・ブルーに覗き見されたら、どんな悪事も筒抜けなのに。サイオンの目は壁を通すし、サイオンの耳はどんな音でも聞き逃さない。…見聞きしようとしさえしたなら。
(前のぼくの方が、エラよりもずっと簡単に…)
 ゼルたちの秘密を知ることが出来た。マントの下のスキットルとか、その中身だとか。
 わざわざブリッジまで出向かなくても、青の間から覗くだけでいい。ゼルがマントの下に隠したスキットルを見付け出したら、中身の方は…。
(ハーレイたちの会話を聞いてみるとか、ゼルの部屋を監視してみるだとか…)
 そうすれば分かったことだろう。「あの水筒に酒を詰めている」と。
(前のぼく、なんで気付かなかったわけ…?)
 ハーレイたちがブリッジでお酒を飲んでいたことに…、と手繰ってみた記憶。前の自分は、どう思ったのか。ゼルたちの怪しい行動を。
(…スキットルっていう名前は知らなかったけど…)
 妙な形をした水筒だったら、知っていた。普通の水筒を押し潰したような、平たい水筒。ゼルがマントの下から出すのも、何度もサイオンで見ていたと思う。
 けれども、ゼルの趣味だとばかり考えていた。あの水筒の形も、マントの下に隠していたのも。
 仕事の途中に飲むのだったら、ブリッジにだって飲み物はある。休憩室から運ぶ時やら、食堂に出前を頼む時やら。多忙な時には、食事もブリッジで摂っていたほど。
(そんな場所だったし、普通の水筒だと、仕事気分が抜けないから、って…)
 ゼルが特別に作った水筒、それがスキットルだと信じていた。スキットルの名は知らないで。
 マントの下に隠しているのも、仕事とプライベートな時間の切り替えのため。仕事が終わったら出して飲もう、というゼルの考え方だろう、と前の自分は思い込んだ。
(それで話が繋がっちゃうから…)
 疑いさえもしなかった、スキットルの中身。
 あの水筒の中身は、ゼルが食堂か休憩室で詰めて貰ったものだ、と。
 まさか部屋から詰めて来たとは思いもしないし、酒だと気付く筈もない。仕事の後で、ハーレイたちが順に回して飲んでいたって。…その場所にエラの姿が無いのが、常だって。



 もう少し気を付けさえしたなら、きっと分かっていたのだろう。スキットルの中身が何なのか。白いシャングリラを預かるキャプテン・ハーレイが、ゼルたちと何を飲んでいたのか。
「…前のぼく、ちょっぴり間抜けだったかも…」
 スキットルのことは知っていたのに、変な形の水筒だとしか思ってなくて…。
 水筒なんだし、中身はジュースかコーヒーなんだ、って思い込んでて、信じたままで…。
 ジュースだったら、仕事の後で回し飲みなんかしないよね…。コーヒーとかでも。
 部屋に帰ったらゆっくり飲めるし、休憩室とか食堂に寄ってもいいんだから。
 あんな所で飲まなくたって…、と溜息をついた、前の自分の間抜けっぷり。何度も現場を見たというのに、酒だと見抜けなかったのだから。
「そのようだな。…キャプテンが酒を飲んでたのになあ、ブリッジで」
 航海長も機関長も一緒に、出口とはいえ、ブリッジで酒だ。…しかも禁止されてる水筒の中身。絶対に酒を入れちゃならん、と決まりも作っていたわけで…。
 思い込みとは酷いもんだな、と笑われた。「お前は酒が苦手だったが、間抜けすぎるぞ」と。
「うーん…。ホントに間抜けで、ソルジャー失格…」
 ハーレイたちを叱るつもりはないけど、気付かないのは、あんまりだしね。
 船のみんなに気を配っているつもりでいたって、お酒にも気付かないようじゃ、駄目だってば。
 でも…。前のハーレイたちでも水筒にお酒だったら、今の学校の生徒たち…。
「持って来そうだろ、アルコール入りのジュースってヤツを」
 水筒にジュースを入れて来るのを許可した時には、ジュースみたいなふりをして。
 背伸びしてみたい年頃なんだし、好奇心の方も一杯だ。「酒というのは、どんな味か」と。
 今の俺でも、ちゃんと覚えがあるんだぞ?
 悪ガキとはいえ、今は教師になっているような俺でもな。…他のヤツらは言わずもがなだ。
 「ジュースは駄目だ」と禁止してても、コッソリと入れて持ってくるのが生徒ってヤツで…。
 前の俺たちの時代みたいに、毎日が命懸けの日々じゃないから、余計にな。
 決まりを破って、アルコール入りのジュースを飲みたくなるってモンだ、と聞かされた話。今のハーレイの体験談も交えて、水筒とジュースの関係について。
「そうみたい…」
 持って来たくもなっちゃうね、それ…。水筒にジュースを入れていいなら。



 そういう理由で水筒にジュースは禁止なのか、と納得した。
 前のハーレイたちでさえもが、ブリッジでコッソリと飲んでいた酒。ゼルお手製のスキットルという酒専用の水筒に入れて、仕事の後に。
 あの船でも水筒に酒だったならば、今の時代の学校だったら、もう充分にありそうなこと。上の学校への進学を控えた最上級生たちが、水筒に酒を忍ばせること。
「どうだ、分かったか?」
 水筒にジュースを入れて来るのが、学校で禁止されてる理由。
 下の学校だと事情が違うが、ジュースが買える学校に上がっても、駄目な理由は酒なんだ。
 前の俺たちみたいな輩は、何処にでもいる。…時代がすっかり変わっちまっても。
 それと知らずに、今の俺もやってしまったようだが…、とハーレイは可笑しそうな顔。ブリッジならぬ学校へ酒を持って行ったのが、今のハーレイ。アルコール入りのジュースを水筒に入れて。
「分かったけど…。前のハーレイたちがやってたことは…」
 どうなるって言うの、シャングリラの決まりを破ってたんだよ?
 前のぼくは気付いていなかったんだし、どうすることも出来ないけれど…。エラが気付いてたら大変なんだよ、ブリッジの中でお酒だなんて。
 シャングリラ中の水筒が禁止になっちゃいそうだし、ハーレイたちも凄く叱られそう…。
「時効だ、時効。…何年経ったと思ってるんだ?」
 地球がすっかり青くなるほど、とんでもない時が流れた後だぞ。とっくに時効というヤツだ。
 それに、酒のせいでヘマをやってはいないしな。俺も、ブラウも、もちろんゼルも。
 シャングリラは立派に地球まで行った、と言われたらグウの音も出ない。仕事の後にはコッソリ酒でも、ゼルの水筒の中身が酒でも、前のハーレイたちは役目を果たしたのだから。
 それにハーレイは、恋人だった前の自分をメギドで失くしてしまった後は…。
(独りぼっちで辛かったんだし、お酒くらいは…)
 大目に見ないといけないだろう。
 悲しくて辛くて、眠れない夜も幾つもあったに違いない。それでも夜が明けたら仕事で、制服を着込んでブリッジに立った。シャングリラの指揮を執るために。
 夜遅くまで仕事をしたなら、「お疲れ様」とゼルたちと一杯やって別れて、また独りぼっち。
 一人きりの部屋に帰る前には、酒くらい飲んでいたっていい。水筒の中に隠した酒でも。



 そう思ったから、ハーレイの瞳を真っ直ぐ見詰めて謝った。
「ごめんね、ハーレイ…」
「なんだ、どうした?」
 いきなり何を謝ってるんだ、お前、なんにもしてないだろうが。
 それともアレか、水筒にジュースを入れていたのか、コッソリと…?
 酒なんか入れて行く筈がないし、学校には無いお気に入りのジュース、持ち込んだのか…?
 何のジュースだ、とハーレイが勘違いしたものだから、「前のぼくだよ」と俯いた。
「…前のぼく、いなくなっちゃって…。ハーレイを独りぼっちにしちゃって…」
 ジョミーを支えてあげてくれ、って言わなかったら、ハーレイの好きに出来たのに…。
 前のぼくがハーレイを縛ってしまって、シャングリラを地球まで運ばせちゃって…。
 お酒くらい無いといられないよね、独りぼっちで残されちゃったら。ブリッジの仕事が終わった後も、ハーレイは独りぼっちだし…。ゼルのお酒を分けて貰って、息抜きしなくちゃ…。
「馬鹿にするなよ、キャプテン・ハーレイを。…あの時は酒に逃げてはいない」
 どんなに辛い毎日だろうが、ブリッジでは普段通りの俺だ。顔にも出しちゃいなかった。
 ゼルが「どうじゃ」とスキットルを出しても、「お疲れ様」の一杯程度で終わりだったな。
 もっと飲もうとしてはいないぞ、ただの一度も。勝ち戦の時は、ゼルもブラウも御機嫌になって「もうちょっと」などと、二人で飲んでいたもんだが…。俺にも「もっと飲め」とか言って。
 しかしだ、前のお前に頼まれたことを果たすためには、俺がきちんと頑張らないと。
 勝ち戦で祝勝気分の時でも、コッソリ水筒に隠してあるような酒は、一杯分で充分なんだ。
 そして前の俺が地球まで我慢した分、今では酒も飲み放題で…。
 青い地球の水で仕込んだ酒だぞ、ゼルが持ってた合成の酒の何万倍も美味いってな。
 お前も帰って来てくれたんだし、もう最高の気分で飲める。お前と行きたかった地球の酒をだ。
 ただなあ…。その最高に美味いと思っている酒…。
 お前と飲めないのが残念だがな、とハーレイが言うものだから。本当に残念そうな顔だから…。
(お酒、やっぱり…)
 今度のぼくは飲めるといいな、と心から思う。
 前の自分が酒が苦手で、飲むと悪酔いしていたけれど。…ハーレイと飲めはしなかったけれど。
 けれど、今度は飲めたらいい。今のハーレイも気に入りの酒を、いつか二人で。



(今のぼくだと、学校に本物のジュースを持って行くのがせいぜいで…)
 アルコール入りのジュースなどは絶対に無理だけれども、もっと大きくなったなら。
 学校に酒を持っては行かないけれども、前の自分と同じ背丈に育った時には、酒が飲める体質になれたらいいと思ってしまう。
 ハーレイと暮らせるようになったら、二人で飲んでみたいから。
 「お前と飲めないのが残念だがな」と、ハーレイを寂しそうな顔にさせたくないから。
 乾杯をしたり、「お疲れ様」と、ハーレイのグラスに注いだりして、楽しむ酒。
 そんな時間が持てたらいい。今も昔も、酒が大好きなハーレイのために。
 きっと幸せな時間になるから、ほんの一杯でも酒が飲めたら嬉しい。
 「美味しいね」と微笑み交わして、キスを交わして。
 青い地球の水で仕込んだ酒を酌み交わしながら、二人きりの時をゆっくり過ごせたならば…。



               水筒と中身・了


※白いシャングリラで決められていた、水筒の中身。詰める場所まで指定していたほど。
 なのに、ブリッジでコッソリ飲まれていた酒。前のハーレイとゼルとブラウだけの、息抜き。
 
 先月も書いていた通り、ハレブル別館の月2更新は、今月で最後です。
 来年の1月からは月に1度の更新、第3月曜のみになります。よろしくお願いします。
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