シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(…これが野菜で出来てるの?)
本当に、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
綺麗な花や葉っぱの形に彫られた彫刻。鳥や龍だってあるのだけれども、その材料はどれも…。
(野菜に、フルーツ…)
キュウリで出来た花や白鳥、それから亀。ニンジンで彫られた龍や火の鳥。赤いカブラを彫った薔薇やら、メロンを丸ごと使って彫り上げた花籠なんかも。
材料はこれ、と言われなければ分からないほどの芸術品。本物そっくりに見える花まで。
この作品たちは名前もそのまま、ベジタブルカービングにフルーツカービング。野菜を彫ったらベジタブル。果物を彫ったら、フルーツカービングになるらしい。
(復活して来た文化なんだ…)
SD体制が崩壊した後、復活して来た様々な文化。遠い昔に地球のあちこちで生まれた料理や、伝統文化や、他にも色々。
この彫刻たちも、その一つ。元はタイという国の宮廷の文化。食卓を美しく彩るために、様々な花や鳥などを彫った。野菜に果物、食べられる素材ばかりを使って。
今の時代は趣味でやる人が多いという。タイの文化を復活させた地域はもちろん、この地域にもいる愛好家たち。
新聞に載っている作品の一部は、この地域の人が彫ったもの。花も、細かく彫られた鳥も。
(柔らかい材料を彫るんだしね?)
野菜や、パイナップルなどの果物。歯で簡単に噛み切れるのだし、木彫りや石の彫刻とは違う。楽々と彫れて、簡単なのだと思ったのに。
愛好家が多いのも、直ぐに上達出来るからだと考えたのに…。
嘘、と大きく見開いた瞳。新聞の記事を読み進めたら。
(使うの、ナイフが一本だけなの?)
ベジタブルカービングも、フルーツカービングも、専用のナイフが一本だけ。道具はそれだけ、どちらにも使える共通のナイフ。相手が野菜でも、果物でも。
鳥やら花やら、色々な形を彫り上げなくてはいけないのに。細かい部分まで彫り込まなければ、繊細な鳥は出来上がらない。翼を広げたキュウリの白鳥も、誇らしげなニンジンの火の鳥だって。
(こんなに細かいのを彫っていくのも…)
メロンを丸ごと刳りぬいた花籠、それを作るのもナイフ一本。途中で道具を変えたりはしない。挑む相手が野菜だろうと、果物だろうと。
硬い部分を彫ってゆく時も、柔らかな部分に細かい彫刻を施す時も。
(彫刻刀は使わないんだ…)
初心者向けの教室だったら、用意しているらしいけれども。普通の彫刻と同じように。
どういう風に彫ればいいのか、初心者にはまるで謎だから。野菜や果物の硬さがどうかも、まだ見当がつかないから。
(…コツを掴んだら、彫刻刀は卒業…)
これからはナイフを使いましょう、と渡されるナイフ。それも一本、彫刻刀なら色々あるのに。目的に合わせて、違うタイプのを使えるのに。
(…何を彫るのも、このナイフだけ…)
凄い、と改めて眺めた作品の数々。花も、花籠も、鳥たちも、龍や亀なども。
ナイフ一本でこんなに彫れるだなんて、と。花を彫るのも、鳥の羽根を彫るのも、道具は同じ。
きっと、ナイフをどう使うかで変わる彫り方。こう彫りたいなら、こんな具合、と。
(ぼくには無理…)
そんな器用な彫り方はとても出来ないよ、と感心しながら戻った部屋。おやつのケーキと紅茶をのんびり味わった後で、もう一度さっきの新聞を見て。
勉強机の前に座って、考えてみたベジタブルカービング。それにフルーツカービングも。
人間が地球しか知らなかった頃に、タイで生まれた工芸品。ナイフ一本だけで彫り上げる、花や鳥たち。野菜や果物、食べられる材料だけを使って。
どれも見事なものだったけれど、自分にはとても彫れそうにない。ナイフしか使えないのでは。大まかに彫るのも、細かい模様を刻み込むのも、全く同じナイフだけでは。
美術の授業で彫刻刀を使うのだって、鮮やかとは言えない腕前の自分。
(おっかなびっくり…)
彫刻刀の刃は鋭いから、先生に何度も脅された。木を削っていて、自分の手までウッカリ一緒に削らないように、と。
手を滑らせたら削ってしまうし、そうでなくても何かのはずみで削りがちだから、と。
それから、笑顔で注意もされた。「シールドなんかは反則ですよ」と。
今の時代は、サイオンは使わないのがマナー。彫刻刀で削ってしまわないよう、手にシールドを張るのは反則。あくまで自分で注意すること、それが大切なことだから、と。
(反則したくても、出来ないから!)
やっている子も多かったけれど、使えなかった反則技。サイオンを上手く扱えないから、片手にシールドを張っておくのは無理。
(…両方の手にだって張れないよ…)
彫刻刀での怪我を防ぐシールド、それを左手にだけ張りたくても。彫刻刀の刃が怖くても。
いつもビクビク、怪我をしないかと。手まで一緒に削らないかと。
幸い、一度もしていない怪我。とても慎重にやっていたからか、たまたま運が良かったのか。
彫刻刀で怪我をした子は、何人か見ているのだから。保健室に連れて行かれた子たち。
(ぼくが果物や野菜を彫ろうとしたら…)
きっと怪我してしまうのだろう。今日まで無事に過ごして来たのに、あっさりと。
野菜はともかく、果物は滑りやすそうな感じ。甘いメロンもパイナップルも、みずみずしい分、水気がたっぷり。彫っている間に、ツルッと滑ってしまいそう。
おまけにナイフ一本で彫ってゆくのだから、余計に手元が危ういだろう。彫刻刀とは違うから。
(力加減が難しそうだよ…)
どういう具合に彫りたいのかは、ナイフを握った自分次第。彫刻刀なら、目的に合わせて選んで替えてゆけるのに。「今度はこっち」と。
そうする代わりに、変えるナイフの使い方。刃先で彫るとか、全体を上手く使うとか。
(使い方、想像もつかないんだけど…)
ナイフなんかでどうやるの、と首を傾げても分からない。繊細な模様の彫り方も。クルンと中を刳りぬいた花籠、それをナイフで彫る方法も。
あれを彫る人たちは器用だよね、と本当に感心してしまう。ナイフ一本で色々な形、花も鳥も、龍も作るのだから。
(ぼくと違って、ホントに器用…)
自分だったら、出来上がる前に怪我をして終わり。ナイフでスパッと指とかを切って。大騒ぎで怪我の手当てをするだけ、絆創膏や傷薬で。
(絶対、そっち…)
そうなるのが目に見えている。ナイフ一本で挑んだら。
野菜や果物、それを使って花や鳥たちを彫り上げようと挑戦したら。
世の中には器用な人がいるよね、と感動させられるベジタブルカービング。果物を使うフルーツカービングも。
彫刻刀も使わずに彫るなんて、と技術の高さを思ったけれど。ナイフ一本で仕上げる腕前、その素晴らしさに脱帽だけれど。
(…あれ?)
ナイフ、と掠めた遠い遠い記憶。ナイフで彫ってゆくということ。
前のハーレイもそうだった、と蘇って来た前の自分の記憶。何度も目にした、ハーレイの趣味。木の塊から色々なものを彫っていた。実用品から、宇宙遺産のウサギまで。
(あのウサギ、ホントはナキネズミで…)
宇宙のみんなが騙されてるよ、と呆れるしかない木彫りのウサギ。今の時代は博物館にあって、百年に一度の特別公開の時は長蛇の列。
ナキネズミだとは誰も知らないから。「ミュウの子供が沢山生まれますように」と、ハーレイが彫ったウサギのお守り、そう信じられているものだから。
ナキネズミがウサギに化けたくらいに、酷い腕前の彫刻家。前のハーレイはそうだったけれど、使った道具はナイフだけ。それも一本きりのナイフで、彫刻刀は使わなかった。
何を彫るにも、いつでもナイフ。それだけを使って作った木彫りの作品たち。
(ハーレイ、ホントは器用だったの?)
あまりにも下手な彫刻だったし、不器用なのだと頭から思っていたけれど。不器用すぎる下手の横好き、そうだと評価していたけれど。
ナイフ一本で彫っていたなら、ベジタブルカービングやフルーツカービングと同じこと。
新聞で眺めた綺麗な彫刻、あれを彫るのもナイフ一本。前のハーレイがやっていたのと同じに。
(木の方がずっと硬いんだから…)
果物や野菜よりも硬い素材を、ナイフ一本で彫っていたハーレイ。彫刻刀を使いもせずに。
もしかしたら、芸術的センスが無かっただけで、本当は器用だったのだろうか。ナイフがあれば何でも彫ることが出来たハーレイは。…酷すぎた腕の彫刻家は。
そうだったのかも、と今頃になって気付いたこと。前のハーレイは器用だったのでは、と。
(芸術品の出来は最悪だったけど…)
ナキネズミがウサギに化ける腕だったけれど、実用品の方は違った。スプーンとかなら、見事に仕上げていたハーレイ。注文する仲間が大勢いたほど、評価が高かった木彫りの実用品。
それを思うと、彫刻の才能はあったのだろうか。まるで才能が無かったのなら、ナイフ一本では無理だという気がしてくる木彫り。彫刻刀を使っていいなら、別だけれども。
(スプーンを一本、彫るにしたって…)
自分にはとても彫れそうにない。ナイフ一本しか使えないのでは。
彫刻刀を使って彫ろうとしたって、木の塊から彫るのは無理。どう削るのかが分からないから。鉛筆で下絵を描いてみたって、大まかな形を削り出すのも難しそうに思えるから。
(やっぱりハーレイ、才能があったの?)
あんなに下手くそだったのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、ハーレイ、器用だった?」
本当は手先が器用だったの、ハーレイは…?
「はあ?」
何の話だ、と目を丸くしているハーレイ。「料理の話か?」と。「包丁さばきは自信があるが」などと言っているから、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「今のハーレイだと、料理なのかもしれないけれど…。前のハーレイの話だよ」
木彫りで色々作っていたでしょ、だから手先が器用だったのかな、って…。
ハーレイ、何でも作れたから。
「ほほう…。俺の芸術をやっと認めてくれたのか?」
今のお前にも馬鹿にされたが、ようやく腕を分かってくれたか。いいだろ、例のナキネズミ。
勝手にウサギにされちまったが、あれは立派にナキネズミだしな?
「そっちじゃなくって、前のハーレイの彫り方だよ」
ナイフ一本で彫っていたでしょ、どんな物でも。…スプーンも、他の芸術品も。
「その通りだが?」
あれさえあれば何処でも彫れたし、お蔭で色々作れたってな。暇な時にはナイフを出して。
例のナキネズミも、ブリッジで彫っていたくらいだから。
ナイフ一本で出来る趣味だ、とハーレイが見せた誇らしげな顔。「他に道具は何も要らん」と。木の塊とナイフさえあれば、後は下絵用の鉛筆くらい、と。
「スケッチよりも簡単だぞ? スケッチブックが要らないからな」
それに何処でも出来るのがいい。俺が座れる場所さえあったら、木彫りを始められるんだから。
「やっぱり…! ナイフ一本だけだよね、あれ」
前のハーレイ、本当は器用だったんじゃないの?
ナイフ一本で何でも彫っていたなんて、物凄く器用だったとか…。だって、ナイフが一本だよ?
彫刻刀とかじゃないんだもの。…彫刻だったら、普通は彫刻刀なのに…。
何を彫りたいかで、使う彫刻刀だって変わるものでしょ?
それなのにナイフだけなんて…。ホントに凄すぎ、前のハーレイ。
「なんだ、今頃気が付いたのか? 前の俺が使っていた道具の凄さに」
確かにナイフ一本で彫るというのは難しいだろうな、慣れていないと。…前の俺みたいに。
器用だったことを分かって貰えて光栄なんだが、何故、今なんだ?
どうして今頃、前の俺の木彫りの腕に注目したんだ、お前は?
それが謎だ、と鳶色の瞳に見詰められたから、「えっとね…」と始めた新聞の話。
「今日の新聞に載ってたんだよ、とても綺麗な花とか鳥の彫刻が」
彫刻なのに、材料が野菜と果物で…。ベジタブルカービングとフルーツカービング。
どっちもナイフ一本だけで彫るんです、って書いてあったからビックリしちゃって…。
「あれか、丸ごと食える彫刻だな」
使った部分にもよるんだろうが、その気になったら食っちまえるヤツ。あれは凄いよな。
出来も凄いが、野菜や果物を芸術品にしちまう所がなあ…。
実に凄い、とハーレイも知っていたベジタブルカービングとフルーツカービング。野菜や果物をナイフ一本で彫って仕上げる彫刻。
知っているなら作れるのだろうか、と胸を躍らせて、ぶつけた質問。
「ハーレイも出来る?」
あれって、ハーレイにも作れるの?
包丁さばきには自信があるって言っていたよね、ベジタブルカービングも出来たりする…?
「ナイフと包丁とは違うしな…。それに今の俺は木彫りをやってはいないから…」
挑んでみたって無理なんだろうが、前の俺なら出来ただろう。
彫るものが木から野菜に変わるだけだし、果物だって彫れただろうな。
「本当に? 前のハーレイ、ホントに出来たの?」
もしかしたら、って思ってたけど、あんな凄いのも作れたわけ…?
野菜や果物を彫ってあったの、とても綺麗で芸術品って感じだったよ?
前のハーレイが作った芸術品って、ナキネズミがウサギになっちゃうくらいに酷くって…。
「見本さえ見せて貰えれば彫れたな、こういう風に彫ってくれ、と」
前の俺たちが生きた時代に、ああいう文化は無かったが…。昔の写真でもあれば。
こいつは野菜で出来ているんだ、と花の写真でも渡して貰って、野菜を寄越してくれればな。
どういう形に仕上げればいいか、それさえ分かれば充分だ。
ナイフ一本で彫ってみせたさ、薔薇の花だろうが、小鳥だろうが。
簡単なもんだ、と自信たっぷりだけれど。見本さえあれば出来たと、本人も言っているけれど。
前のハーレイが本当に器用だったとしたなら、彫刻の出来はどうして酷かったのだろう?
芸術的なセンスが無かったにしても、綺麗な花や小鳥を彫れる腕前があったなら…。
「…野菜や果物の花や小鳥は彫れるのに…。上手に彫れたって言ってるのに…」
前のハーレイ、なんで駄目だったの?
「駄目って、何がだ?」
ちゃんと彫れると言っただろうが、とハーレイは野菜と果物のつもりでいるようだから。
「木彫りだよ! 前のハーレイが作った彫刻!」
どれも酷かったよ、実用品じゃなかったヤツは。…スプーンとかなら上手かったけれど。
だけど、芸術だって言ってた彫刻、とんでもない出来のヤツばっかりで…。
宇宙遺産のウサギもそうだし、ヒルマンが頼んだフクロウはトトロになっちゃったでしょ?
もっと上手に彫れた筈だよ、野菜や果物で花や小鳥が彫れるなら。
本物そっくりのナキネズミだとか、空を飛びそうなフクロウだとか…。
どうして彫れなかったわけ、と問い詰めた。素晴らしい腕があったのに、と。
「そりゃあ、作れたかもしれないが…。やれと言われれば…」
しかし、それを芸術とは言わんだろうが。本物そっくりに彫るってだけじゃ。
「芸術って?」
「独創性ってヤツだ、同じ彫るなら独創性が大切だ。彫刻家としての俺の腕だな」
同じ木の塊を彫るにしたって、俺の魂のままに彫るんだ。
本物そっくりに作るんじゃなくて、これはこうだ、と俺の魂が捉えた姿に仕上げるんだな。
ナキネズミにしても、ヒルマンの注文だったフクロウにしても。
「…それ、ホント?」
前のハーレイには、そう見えたわけ?
ナキネズミはウサギみたいに見えてて、フクロウはトトロだったって言うの…?
「いや、それは…。その…」
そう見えたというわけではなくて…。
俺の独創性を発揮する前に、こう、基本になる彫刻と言うか…。
普通に彫るなら、こう彫るべきだ、という当たり前の手本というヤツがだな…。
何処にも無かったモンだから、というのがハーレイの言い訳。
ベジタブルカービングや、フルーツカービングのように見本があったならば、と聞かされた話。ナキネズミもフクロウも、基本の形があったら手本に出来たんだが、と。
一理あるとは思うけれども、ナキネズミはともかく、フクロウの方。
ミュウが作り出した生き物ではないし、データベースを端から探せば、彫刻の写真もあった筈。それこそ様々な形のものが。
だから生まれてくる疑問。ハーレイの話は本当だろうか、と。
「お手本が何処にも無かったから、って言うんだね?」
それがあったら前のハーレイでも、凄い芸術品を彫り上げることが出来たわけ?
ナキネズミはウサギにならなくて済んで、フクロウはちゃんとフクロウのままで…。
きちんとしたのを彫れたって言うの、お手本になる基本の彫刻があれば…?
本当なの、と問いただしたら、「どうだかなあ…」とハーレイは顎に手を当てた。
「見本はこうだ、と資料を貰ったとしても…。はてさて、出来はどうなったんだか…」
木の塊と向き合っちまえば、俺の考えが入っちまうしな?
下絵をきちんと描いていたって、「こうじゃないんだ」と何処かで変えたくなっちまう。
この通りに彫ったら、そいつは俺の作品じゃない、と思い始めて。
そうやってあちこち変えていったら、見本とは別のが出来ちまうから…。
「本当に?」
言い訳にしか聞こえないんだけれども、ハーレイの彫刻の腕が酷かったのは芸術なの?
本当は上手に彫れるんだけれど、ハーレイが好きに彫ってた結果があれなわけ?
ナキネズミがウサギになってしまったのも、フクロウがトトロになっちゃったのも。
「芸術っていうのは、そういうもんだと思うがな?」
世の中の芸術ってヤツを見てみろ、彫刻でも絵でも、何でもいいから。
これを彫りました、って言われていたって、その通りに見えない彫刻が山ほどあるだろうが。
絵の方にしても、凄い美人をモデルにしたのに、落書きみたいに見えるヤツとか。
俺の木彫りもそれと同じだ、とハーレイは大真面目に言い切った。「芸術品だ」と。
木彫りの腕とはまるで関係無く、魂のままに彫った作品。酷いようでも俺の自慢の作品だ、と。
「ナキネズミがウサギに見えるヤツらが悪いんだ。…フクロウがトトロに見えるのもな」
俺が違うと言っているんだ、作った俺の言葉が正しい。俺の芸術なんだから。
そういや、お前…。前の俺にも言わなかったか?
「言うって…。何を?」
何のことなの、とキョトンとしたら、「今と同じだ」と答えたハーレイ。
「きちんと上手に彫れないのか、と言ってくれたぞ」
全く違うものに見えるし、酷すぎると。…俺の芸術作品を。
「いつのこと?」
それって、いつなの、ハーレイが何を彫っていた時?
「いつだっけかなあ…。お前に言われたことは確かで…」
お前なんだから、ナキネズミってことだけは有り得ない。トォニィがナスカで生まれた時には、お前は眠ってたんだしな。
フクロウの方も、お前、存在自体を知らなかったから違うわけで…。
あれは何だったか、俺が彫ってた芸術品は、だ…。
そうだ、鶏を彫ろうとしてたんだっけな、あの時の俺は。
「鶏?」
ハーレイ、鶏なんかも彫ってた?
下手くそな木彫りは幾つも見たけど、鶏も誰かの注文だったの?
「俺が彫りたかったというだけなんだが…。ちょっといいじゃないか、鶏も」
シャングリラでも飼っていたしな、本物をじっくり見られるだろうが。生きたモデルを。
雄鶏を彫ったらいいかもしれん、と思い付いたんだ。
朝一番に時をつくるし、なかなかに堂々としているからなあ…。雄鶏ってヤツは。
「思い出した…!」
あったよ、ハーレイが彫ってた鶏。
ハーレイの芸術作品だったし、どう見ても鶏じゃなかったけれど…。
確かにあった、と浮かび上がって来た記憶。前のハーレイが彫った雄鶏。
最初の出会いは、キャプテンの部屋へ泊まりに出掛けて行った時。恋人同士になっていたから、たまに泊まったハーレイのベッド。恋人の部屋で過ごす時間が好きだったから。
その日も夜に出掛けてみたら、ハーレイが机で向き合っていた木の塊。木彫りを始める前の常。
暫くじっと木を見詰めてから、鉛筆で線を描いてゆく。彫ろうとしている物の下絵を。
そこそこ大きな塊だったし、興味津々で問い掛けた自分。ハーレイの手許を覗き込みながら。
「今度は何が出来るんだい?」
スプーンとかではなさそうだけれど、君の得意な芸術だとか…?
「鶏ですよ。雄鶏を彫ってみようと思いまして…」
雌鶏と違って絵になりますしね、雄鶏は。高らかに鳴いている時などは、特に。
あの堂々とした姿を彫り上げられたら、この木も大いに満足かと…。スプーンになるより。
いい作品に仕上げてみせますよ、とハーレイは自信満々だったけれど、日頃の腕が腕だけに…。
(ちっとも期待出来ない、って…)
前の自分は考えた。ハーレイの腕では、雄鶏など彫れるわけがない、と。
そうは思っても、雄鶏と聞けば好奇心がむくむくと湧いて来るもの。白いシャングリラの農場で時をつくっている雄鶏。立派な鶏冠を持った鶏。
ハーレイが彫ったら何が出来るか、ちゃんと雄鶏に見えるかどうか。
其処が大いに気になる所で、行く末を見届けたくなった。結果はもちろん、彫ってゆく間も。
下絵では雄鶏らしく見えているのが、どんな形に出来上がるかを。
木彫りの雄鶏が完成するまで、時々、泊まりに来ようと思った自分。ハーレイがナイフで彫っているのを、側で見学するために。
何度か足を運ぶ間に、木の塊から雄鶏が姿を現したけれど。雄鶏が生まれる筈なのだけれど…。
「…別の物になって来ていないかい?」
君は雄鶏だと言っていたよね、とハーレイが彫っている木を指差した。
「ぼくの目には、これが雄鶏のようには見えないけれど」と。
「…そうでしょうか?」
雄鶏のつもりなのですが、と彫る手を止めて眺め回したハーレイ。持ち上げてみたり、真横からしげしげ見詰めたりと。
その結論が「雄鶏ですよ?」と出たものだから、「違うだろう?」と呆れ返った。雄鶏らしくは見えない木。どう贔屓目に見ても、譲っても。
「雄鶏だなんて…。これじゃアヒルだよ、本物のアヒルはシャングリラにはいないけど…」
君もアヒルは知っているだろう、鶏とは違うことくらいは。…これはアヒルだね。
クチバシも駄目だし、尻尾の辺りも、本物の雄鶏とは違いすぎるよ。
雄鶏らしく見せるんだったら、あちこち直してやらないと…。
ちょっと貸して、とハーレイから奪った雄鶏とナイフ。
「ぼくが上手に直してあげる」と宣言して。
ハーレイに「どいて」と椅子を譲らせて、自分が机の前に座って。
さて、と彫り始めた木彫りの雄鶏。左手で持って、右手にナイフ。
ハーレイの部屋では恋人同士で過ごすのだから、とうに外していた手袋。ソルジャーの手袋は、二人きりの時には外すもの。他の衣装は着けていたって。
素手で木彫りに取り掛かったけれど、硬かったのが素材の木。バターのように切れはしないし、削るだけでも一苦労。ほんの僅かな修正でさえも。
(えっと…?)
どう直すのがいいのかな、とナイフを握って悪戦苦闘する内に…。
「危ない!」
叫びと共に飛んで来た、ハーレイの緑のサイオンの光。
アッと思ったら、シールドされていた左手。ハーレイが放ったサイオンで。
それが弾いたナイフの刃。左手にグサリと食い込む代わりに、キンと響かせた金属音。
「………?」
ナイフを持ったまま、呆然と見詰めた自分の手許。何が起こったのか、直ぐ分からなくて。
「良かった…。お怪我は無いですか?」
ブルー、と呼び掛けるハーレイの声で、やっと気付いた。さっき自分が見舞われた危機に。
「…大丈夫だけど……」
なんともないよ、と返事してから、ナイフを置いて眺めた左手。
もう少しで怪我をする所だった。ハーレイがシールドしてくれなかったら、雄鶏の木彫りを削る代わりに、自分の左手をナイフで抉って。
手袋をはめていないから。
爆風も炎も防げる手袋、ソルジャーの手を守る手袋は、自分で外してしまったから。
もしもナイフで抉っていたら、とゾッとした左手。木が硬いだけに、上手く削ろうと力を入れていたナイフ。あれが左手を襲っていたなら、掠り傷では済まなかっただろう。
(…当たった所が悪かったら…)
ノルディに縫われていたかもしれない。パックリと口を開いた傷を。
「いったい何をなさったのです?」と尋ねられながら、何針も。「手袋はどうなさいました」と睨み付けられて、包帯をグルグル巻き付けられて。
助かった、とホッと息をついて、「ありがとう」とハーレイに御礼を言った。自分では気付いていなかったのだし、ハーレイが弾いてくれなかったら、間違いなく怪我をしていたから。
「…君のお蔭で助かったよ。もう少しで、ノルディにお説教をされる所だったかも…」
縫うような傷になっていたなら、酷く叱られただろうね。「手袋を外すとは何事です」と。
油断してたよ、こういう作業をしている時こそ、あの手袋が役に立つのに…。
ナイフの怖さを思い知ったけど、君は怪我をしたりはしないのかい?
手に包帯を巻いた姿は、まるで覚えが無いんだけれど…?
「慣れていますからね、これが私の趣味ですし」
怪我をするようでは、話になりはしませんよ。ゼルたちにも叱られてしまいます。
「何をウカウカしとるんじゃ!」と。…手を怪我したなら、舵が握れなくなりますから。
「慣れているのは分かるけれども、最初の頃は?」
君だって最初は初めての筈だよ、木彫りをするのは。…ナイフには慣れていそうだけれど…。
厨房でもナイフを使っていたけど、木と野菜とは違うだろう?
「そうですね。慣れなかった頃は、こういう時に備えてシールドですよ」
キャプテンは手が大切ですから、怪我をしないよう、シールドしながら彫っていました。
それならナイフが当たったとしても、切れる心配はありませんから。
「…ぼくにもそれを言ってくれれば良かったのに…」
左手をシールドするくらいのことは、ぼくには何でもないんだから。
「忘れていました、初心者でらっしゃるということを」
私の作品を直すだなどと仰ったので…。木彫りには慣れてらっしゃるつもりでおりました。
あなたが木彫りをなさらないことは、誰よりも知っている筈ですのに…。
ブルー、申し訳ありません。…あなたにお怪我をさせる所でした。私の不注意のせいで。
無事で良かった、と左手に落とされたハーレイのキス。左手にも詫びるかのように。
ハーレイの彫刻は下手だけれども、木彫りの腕はいいらしい、と思った自分。その時に、ふと。
自分と違って、怪我をしないで彫れるのだから。
雄鶏には見えないような物でも、アヒルにしか見えない木の塊でも。
「…前のハーレイ、腕は良かったんだね、本当に」
木彫りの腕は確かだったよ。ぼくよりも、ずっと。
「おっ、認めたか?」
俺の芸術を分かってくれたか、今頃になってしまったが…。前のお前は認めてくれなかったが、そうか、認めてくれるのか。俺も頑張った甲斐があったな、何と言われても。
「怪我をしないで彫れたんだもの。それだけで充分、凄いと思うよ」
前のハーレイなら、ベジタブルカービングも、きっと出来たね。フルーツカービングだって。
ナイフだけで花とか鳥とかを彫って、シャングリラの食卓を飾れそう。
ソルジャー主催の食事会なら、思い切り腕を揮えそうだよ。テーブルに飾れば映えるものね。
「前の俺が知っていさえすればな、あの文化をな…」
果物や野菜で見事な彫刻が作れるんだ、ということを。そうすりゃ、俺の評価も上がった。
厨房を離れた後にしたって、趣味の範囲で野菜や果物をナイフで彫って。
「無かったっけね、あんな文化は…」
ヒルマンもエラも、見付けて来たりはしなかったから…。見付けていたら素敵だったのに。
前のハーレイの出番が増えるし、評価もグンと上がっていたよ。果物や野菜を彫る度に。
木彫りは駄目でも、こういうヤツなら凄く綺麗に彫れるんだ、って。
そういえば、あの雄鶏はどうなったっけ?
ぼくが直そうとして怪我をしかけた雄鶏、ちゃんと雄鶏に仕上がってた…?
「あれなら、お前に散々笑われて終わりだったが?」
完成した後に、「何処から見たってアヒルだ」と言われちまってな。直せもしない、と。
「ごめん…。あの時のぼくも、腕はいいんだと思ったけれど…」
ハーレイの木彫りの腕はいいけど、その腕を使って出来上がるものが酷かったから…。
やっぱり下手くそなんだよね、って思うしかなくて、あの雄鶏も…。
出来上がったらアヒルにしか見えなかったから、と肩を竦めた。
どうしてああなっちゃうんだろうね、と。
「前のハーレイ、本当に腕は良かったのに…」
怪我をしないで彫れたのもそうだし、ナイフ一本で何でも彫れたのだって上手な証拠。
木彫りの腕は確かなんだよ、なのにどうして変な物ばかりが出来上がったわけ?
ナキネズミはウサギで、フクロウはトトロで、雄鶏はアヒルになっちゃったなんて。
「さてなあ…? そいつはお前の思い込みっていうヤツで…」
前の俺は下手ではなかったんだ。木彫りも、そいつで出来上がる物も。
芸術っていうのはそうしたモンだろ、理解して貰うまでには時間がかかる。
とても有名な芸術家にしても、作品が本当に評価されたのは、死んじまった後の時代だとかな。
「…宇宙遺産のウサギは今でもウサギのままだよ、理解されてないよ?」
誰が見たって、ナキネズミには見えないんだから。…ウサギで通っているんだから。
「しかし、あれは立派な宇宙遺産だぞ。評価はされてる」
キャプテン・ハーレイの木彫りの腕も、立派に評価されたってな。
ああして宇宙遺産になってだ、特別公開される時には大勢の人が並んで見物するんだから。
「言い訳にしか聞こえないけど…」
ナキネズミがウサギになっちゃったことは、どうするの?
ウサギと間違えられちゃったから、ミュウの子供が沢山生まれますように、ってお守りで…。
ナキネズミのままだと、ただのオモチャで終わりなんだよ、あのウサギは。
「どうだかな? 前の俺なら、ベジタブルカービングだって出来たんだ」
やろうと思えば作れたわけで、そういう文化が無かっただけで…。
俺の木彫りの腕は確かだ、だからこそ宇宙遺産のウサギも見事に彫れたってな。
「…野菜や果物を彫るのを見てれば、みんなの評価も変わってたかな?」
ナキネズミもフクロウも、ハーレイの芸術作品なんだ、って。…下手なんじゃなくて。
「そうかもなあ…」
実は綺麗な物も彫れるんです、と腕前を披露するべきだったか…。
生憎とチャンスは無かったわけだが、野菜や果物で花だの鳥だのを見事に彫って。
スプーンやフォークを彫っていたんじゃ、俺の本当の腕は分かって貰えないしな、とハーレイが浮かべた苦笑い。「ナイフ一本で彫れる凄さを、披露するチャンスを逃しちまった」と。
前の自分たちが生きた時代に、ベジタブルカービングは無かったから。フルーツカービングも。
ナイフ一本で野菜や果物に施す彫刻、それを愛でるという文化も。
今の時代なら、ハーレイの腕を生かせそうなのに。ナイフ一本で彫刻する腕、それを生かす場がありそうなのに。
「…ねえ、今のハーレイにはホントに無理なの?」
ベジタブルカービングとかは出来そうにないの、木彫りをやっていないから…?
包丁でお魚とかを上手に切れても、野菜や果物に彫刻は無理…?
「やってみたことがないからなあ…。やろうと思ったことだって無いし」
いつか試すか、お前と一緒に。
料理のついでに、ちょいと綺麗に飾りを作ってみるっていうのも悪くはないぞ。
食卓を凝った彫刻で飾れて、果物だったら後で丸ごと食えるしな。
「一緒にって…。ぼく、今度こそ怪我をしそうだよ!」
左手、シールド出来ないんだから…。美術の授業の、彫刻刀だって怖いんだから…!
「今度は俺も怪我をするかもしれないぞ。今の時代は、サイオンは使わないのが基本だからな」
俺だって使わないのが好みで、もうキャプテンでもないわけだから…。
左手をグサリとやっちまうかもな、前の俺なら使い慣れてた筈のナイフで。
だが、野菜や果物は木彫りよりかは、柔らかい分だけ彫りやすいし…。
手が滑らないように気を付けていれば、木彫りよりは怪我も少ないだろう。
怪我をしたって、前のお前が危なかったみたいな、縫うような怪我にはならんだろうし…。
「だったら、二人で練習してみる?」
ぼくは初心者だから、彫刻刀で彫る所から。…ハーレイは最初からナイフ一本で。
「それもいいなあ、前の俺たちに戻ったつもりで」
きっと楽しいぞ、野菜や果物を彫ってみるのも。
前のお前は彫刻刀を使っちゃいないが、今のお前は彫刻刀なら使えるからな。
どうだ、と誘って貰ったから。
ナイフ一本で木彫りをしていた、ハーレイからの誘いだから。
結婚した時にも覚えていたなら、二人であれこれ彫ってみようか。
野菜や果物をナイフ一本で、それに彫刻刀で。
今のハーレイの腕前はどうか、本当に綺麗に彫れるのか。変な芸術にならないで。
野菜や果物で出来た花やら、鳥たちやら。
ハーレイと二人で綺麗に彫れたら、きっと最高に楽しい筈。
前の自分たちは全く知らなかったもので、今ならではの文化だから。
蘇った青い地球に来たから、そんなものをナイフで、彫刻刀で彫れるのだから…。
木彫りとナイフ・了
※出来上がった作品は散々でしたが、木彫りの腕だけは確かだったらしい、前のハーレイ。
野菜やフルーツも、ナイフ一本で彫れたかもしれません。あの時代に、それがあったならば。
パソコンが壊れたせいで2月になった、1月分の2度目の更新。今月は普通に2度目です。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
本当に、とブルーが見詰めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
綺麗な花や葉っぱの形に彫られた彫刻。鳥や龍だってあるのだけれども、その材料はどれも…。
(野菜に、フルーツ…)
キュウリで出来た花や白鳥、それから亀。ニンジンで彫られた龍や火の鳥。赤いカブラを彫った薔薇やら、メロンを丸ごと使って彫り上げた花籠なんかも。
材料はこれ、と言われなければ分からないほどの芸術品。本物そっくりに見える花まで。
この作品たちは名前もそのまま、ベジタブルカービングにフルーツカービング。野菜を彫ったらベジタブル。果物を彫ったら、フルーツカービングになるらしい。
(復活して来た文化なんだ…)
SD体制が崩壊した後、復活して来た様々な文化。遠い昔に地球のあちこちで生まれた料理や、伝統文化や、他にも色々。
この彫刻たちも、その一つ。元はタイという国の宮廷の文化。食卓を美しく彩るために、様々な花や鳥などを彫った。野菜に果物、食べられる素材ばかりを使って。
今の時代は趣味でやる人が多いという。タイの文化を復活させた地域はもちろん、この地域にもいる愛好家たち。
新聞に載っている作品の一部は、この地域の人が彫ったもの。花も、細かく彫られた鳥も。
(柔らかい材料を彫るんだしね?)
野菜や、パイナップルなどの果物。歯で簡単に噛み切れるのだし、木彫りや石の彫刻とは違う。楽々と彫れて、簡単なのだと思ったのに。
愛好家が多いのも、直ぐに上達出来るからだと考えたのに…。
嘘、と大きく見開いた瞳。新聞の記事を読み進めたら。
(使うの、ナイフが一本だけなの?)
ベジタブルカービングも、フルーツカービングも、専用のナイフが一本だけ。道具はそれだけ、どちらにも使える共通のナイフ。相手が野菜でも、果物でも。
鳥やら花やら、色々な形を彫り上げなくてはいけないのに。細かい部分まで彫り込まなければ、繊細な鳥は出来上がらない。翼を広げたキュウリの白鳥も、誇らしげなニンジンの火の鳥だって。
(こんなに細かいのを彫っていくのも…)
メロンを丸ごと刳りぬいた花籠、それを作るのもナイフ一本。途中で道具を変えたりはしない。挑む相手が野菜だろうと、果物だろうと。
硬い部分を彫ってゆく時も、柔らかな部分に細かい彫刻を施す時も。
(彫刻刀は使わないんだ…)
初心者向けの教室だったら、用意しているらしいけれども。普通の彫刻と同じように。
どういう風に彫ればいいのか、初心者にはまるで謎だから。野菜や果物の硬さがどうかも、まだ見当がつかないから。
(…コツを掴んだら、彫刻刀は卒業…)
これからはナイフを使いましょう、と渡されるナイフ。それも一本、彫刻刀なら色々あるのに。目的に合わせて、違うタイプのを使えるのに。
(…何を彫るのも、このナイフだけ…)
凄い、と改めて眺めた作品の数々。花も、花籠も、鳥たちも、龍や亀なども。
ナイフ一本でこんなに彫れるだなんて、と。花を彫るのも、鳥の羽根を彫るのも、道具は同じ。
きっと、ナイフをどう使うかで変わる彫り方。こう彫りたいなら、こんな具合、と。
(ぼくには無理…)
そんな器用な彫り方はとても出来ないよ、と感心しながら戻った部屋。おやつのケーキと紅茶をのんびり味わった後で、もう一度さっきの新聞を見て。
勉強机の前に座って、考えてみたベジタブルカービング。それにフルーツカービングも。
人間が地球しか知らなかった頃に、タイで生まれた工芸品。ナイフ一本だけで彫り上げる、花や鳥たち。野菜や果物、食べられる材料だけを使って。
どれも見事なものだったけれど、自分にはとても彫れそうにない。ナイフしか使えないのでは。大まかに彫るのも、細かい模様を刻み込むのも、全く同じナイフだけでは。
美術の授業で彫刻刀を使うのだって、鮮やかとは言えない腕前の自分。
(おっかなびっくり…)
彫刻刀の刃は鋭いから、先生に何度も脅された。木を削っていて、自分の手までウッカリ一緒に削らないように、と。
手を滑らせたら削ってしまうし、そうでなくても何かのはずみで削りがちだから、と。
それから、笑顔で注意もされた。「シールドなんかは反則ですよ」と。
今の時代は、サイオンは使わないのがマナー。彫刻刀で削ってしまわないよう、手にシールドを張るのは反則。あくまで自分で注意すること、それが大切なことだから、と。
(反則したくても、出来ないから!)
やっている子も多かったけれど、使えなかった反則技。サイオンを上手く扱えないから、片手にシールドを張っておくのは無理。
(…両方の手にだって張れないよ…)
彫刻刀での怪我を防ぐシールド、それを左手にだけ張りたくても。彫刻刀の刃が怖くても。
いつもビクビク、怪我をしないかと。手まで一緒に削らないかと。
幸い、一度もしていない怪我。とても慎重にやっていたからか、たまたま運が良かったのか。
彫刻刀で怪我をした子は、何人か見ているのだから。保健室に連れて行かれた子たち。
(ぼくが果物や野菜を彫ろうとしたら…)
きっと怪我してしまうのだろう。今日まで無事に過ごして来たのに、あっさりと。
野菜はともかく、果物は滑りやすそうな感じ。甘いメロンもパイナップルも、みずみずしい分、水気がたっぷり。彫っている間に、ツルッと滑ってしまいそう。
おまけにナイフ一本で彫ってゆくのだから、余計に手元が危ういだろう。彫刻刀とは違うから。
(力加減が難しそうだよ…)
どういう具合に彫りたいのかは、ナイフを握った自分次第。彫刻刀なら、目的に合わせて選んで替えてゆけるのに。「今度はこっち」と。
そうする代わりに、変えるナイフの使い方。刃先で彫るとか、全体を上手く使うとか。
(使い方、想像もつかないんだけど…)
ナイフなんかでどうやるの、と首を傾げても分からない。繊細な模様の彫り方も。クルンと中を刳りぬいた花籠、それをナイフで彫る方法も。
あれを彫る人たちは器用だよね、と本当に感心してしまう。ナイフ一本で色々な形、花も鳥も、龍も作るのだから。
(ぼくと違って、ホントに器用…)
自分だったら、出来上がる前に怪我をして終わり。ナイフでスパッと指とかを切って。大騒ぎで怪我の手当てをするだけ、絆創膏や傷薬で。
(絶対、そっち…)
そうなるのが目に見えている。ナイフ一本で挑んだら。
野菜や果物、それを使って花や鳥たちを彫り上げようと挑戦したら。
世の中には器用な人がいるよね、と感動させられるベジタブルカービング。果物を使うフルーツカービングも。
彫刻刀も使わずに彫るなんて、と技術の高さを思ったけれど。ナイフ一本で仕上げる腕前、その素晴らしさに脱帽だけれど。
(…あれ?)
ナイフ、と掠めた遠い遠い記憶。ナイフで彫ってゆくということ。
前のハーレイもそうだった、と蘇って来た前の自分の記憶。何度も目にした、ハーレイの趣味。木の塊から色々なものを彫っていた。実用品から、宇宙遺産のウサギまで。
(あのウサギ、ホントはナキネズミで…)
宇宙のみんなが騙されてるよ、と呆れるしかない木彫りのウサギ。今の時代は博物館にあって、百年に一度の特別公開の時は長蛇の列。
ナキネズミだとは誰も知らないから。「ミュウの子供が沢山生まれますように」と、ハーレイが彫ったウサギのお守り、そう信じられているものだから。
ナキネズミがウサギに化けたくらいに、酷い腕前の彫刻家。前のハーレイはそうだったけれど、使った道具はナイフだけ。それも一本きりのナイフで、彫刻刀は使わなかった。
何を彫るにも、いつでもナイフ。それだけを使って作った木彫りの作品たち。
(ハーレイ、ホントは器用だったの?)
あまりにも下手な彫刻だったし、不器用なのだと頭から思っていたけれど。不器用すぎる下手の横好き、そうだと評価していたけれど。
ナイフ一本で彫っていたなら、ベジタブルカービングやフルーツカービングと同じこと。
新聞で眺めた綺麗な彫刻、あれを彫るのもナイフ一本。前のハーレイがやっていたのと同じに。
(木の方がずっと硬いんだから…)
果物や野菜よりも硬い素材を、ナイフ一本で彫っていたハーレイ。彫刻刀を使いもせずに。
もしかしたら、芸術的センスが無かっただけで、本当は器用だったのだろうか。ナイフがあれば何でも彫ることが出来たハーレイは。…酷すぎた腕の彫刻家は。
そうだったのかも、と今頃になって気付いたこと。前のハーレイは器用だったのでは、と。
(芸術品の出来は最悪だったけど…)
ナキネズミがウサギに化ける腕だったけれど、実用品の方は違った。スプーンとかなら、見事に仕上げていたハーレイ。注文する仲間が大勢いたほど、評価が高かった木彫りの実用品。
それを思うと、彫刻の才能はあったのだろうか。まるで才能が無かったのなら、ナイフ一本では無理だという気がしてくる木彫り。彫刻刀を使っていいなら、別だけれども。
(スプーンを一本、彫るにしたって…)
自分にはとても彫れそうにない。ナイフ一本しか使えないのでは。
彫刻刀を使って彫ろうとしたって、木の塊から彫るのは無理。どう削るのかが分からないから。鉛筆で下絵を描いてみたって、大まかな形を削り出すのも難しそうに思えるから。
(やっぱりハーレイ、才能があったの?)
あんなに下手くそだったのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、ハーレイ、器用だった?」
本当は手先が器用だったの、ハーレイは…?
「はあ?」
何の話だ、と目を丸くしているハーレイ。「料理の話か?」と。「包丁さばきは自信があるが」などと言っているから、「そうじゃないよ」と首を横に振った。
「今のハーレイだと、料理なのかもしれないけれど…。前のハーレイの話だよ」
木彫りで色々作っていたでしょ、だから手先が器用だったのかな、って…。
ハーレイ、何でも作れたから。
「ほほう…。俺の芸術をやっと認めてくれたのか?」
今のお前にも馬鹿にされたが、ようやく腕を分かってくれたか。いいだろ、例のナキネズミ。
勝手にウサギにされちまったが、あれは立派にナキネズミだしな?
「そっちじゃなくって、前のハーレイの彫り方だよ」
ナイフ一本で彫っていたでしょ、どんな物でも。…スプーンも、他の芸術品も。
「その通りだが?」
あれさえあれば何処でも彫れたし、お蔭で色々作れたってな。暇な時にはナイフを出して。
例のナキネズミも、ブリッジで彫っていたくらいだから。
ナイフ一本で出来る趣味だ、とハーレイが見せた誇らしげな顔。「他に道具は何も要らん」と。木の塊とナイフさえあれば、後は下絵用の鉛筆くらい、と。
「スケッチよりも簡単だぞ? スケッチブックが要らないからな」
それに何処でも出来るのがいい。俺が座れる場所さえあったら、木彫りを始められるんだから。
「やっぱり…! ナイフ一本だけだよね、あれ」
前のハーレイ、本当は器用だったんじゃないの?
ナイフ一本で何でも彫っていたなんて、物凄く器用だったとか…。だって、ナイフが一本だよ?
彫刻刀とかじゃないんだもの。…彫刻だったら、普通は彫刻刀なのに…。
何を彫りたいかで、使う彫刻刀だって変わるものでしょ?
それなのにナイフだけなんて…。ホントに凄すぎ、前のハーレイ。
「なんだ、今頃気が付いたのか? 前の俺が使っていた道具の凄さに」
確かにナイフ一本で彫るというのは難しいだろうな、慣れていないと。…前の俺みたいに。
器用だったことを分かって貰えて光栄なんだが、何故、今なんだ?
どうして今頃、前の俺の木彫りの腕に注目したんだ、お前は?
それが謎だ、と鳶色の瞳に見詰められたから、「えっとね…」と始めた新聞の話。
「今日の新聞に載ってたんだよ、とても綺麗な花とか鳥の彫刻が」
彫刻なのに、材料が野菜と果物で…。ベジタブルカービングとフルーツカービング。
どっちもナイフ一本だけで彫るんです、って書いてあったからビックリしちゃって…。
「あれか、丸ごと食える彫刻だな」
使った部分にもよるんだろうが、その気になったら食っちまえるヤツ。あれは凄いよな。
出来も凄いが、野菜や果物を芸術品にしちまう所がなあ…。
実に凄い、とハーレイも知っていたベジタブルカービングとフルーツカービング。野菜や果物をナイフ一本で彫って仕上げる彫刻。
知っているなら作れるのだろうか、と胸を躍らせて、ぶつけた質問。
「ハーレイも出来る?」
あれって、ハーレイにも作れるの?
包丁さばきには自信があるって言っていたよね、ベジタブルカービングも出来たりする…?
「ナイフと包丁とは違うしな…。それに今の俺は木彫りをやってはいないから…」
挑んでみたって無理なんだろうが、前の俺なら出来ただろう。
彫るものが木から野菜に変わるだけだし、果物だって彫れただろうな。
「本当に? 前のハーレイ、ホントに出来たの?」
もしかしたら、って思ってたけど、あんな凄いのも作れたわけ…?
野菜や果物を彫ってあったの、とても綺麗で芸術品って感じだったよ?
前のハーレイが作った芸術品って、ナキネズミがウサギになっちゃうくらいに酷くって…。
「見本さえ見せて貰えれば彫れたな、こういう風に彫ってくれ、と」
前の俺たちが生きた時代に、ああいう文化は無かったが…。昔の写真でもあれば。
こいつは野菜で出来ているんだ、と花の写真でも渡して貰って、野菜を寄越してくれればな。
どういう形に仕上げればいいか、それさえ分かれば充分だ。
ナイフ一本で彫ってみせたさ、薔薇の花だろうが、小鳥だろうが。
簡単なもんだ、と自信たっぷりだけれど。見本さえあれば出来たと、本人も言っているけれど。
前のハーレイが本当に器用だったとしたなら、彫刻の出来はどうして酷かったのだろう?
芸術的なセンスが無かったにしても、綺麗な花や小鳥を彫れる腕前があったなら…。
「…野菜や果物の花や小鳥は彫れるのに…。上手に彫れたって言ってるのに…」
前のハーレイ、なんで駄目だったの?
「駄目って、何がだ?」
ちゃんと彫れると言っただろうが、とハーレイは野菜と果物のつもりでいるようだから。
「木彫りだよ! 前のハーレイが作った彫刻!」
どれも酷かったよ、実用品じゃなかったヤツは。…スプーンとかなら上手かったけれど。
だけど、芸術だって言ってた彫刻、とんでもない出来のヤツばっかりで…。
宇宙遺産のウサギもそうだし、ヒルマンが頼んだフクロウはトトロになっちゃったでしょ?
もっと上手に彫れた筈だよ、野菜や果物で花や小鳥が彫れるなら。
本物そっくりのナキネズミだとか、空を飛びそうなフクロウだとか…。
どうして彫れなかったわけ、と問い詰めた。素晴らしい腕があったのに、と。
「そりゃあ、作れたかもしれないが…。やれと言われれば…」
しかし、それを芸術とは言わんだろうが。本物そっくりに彫るってだけじゃ。
「芸術って?」
「独創性ってヤツだ、同じ彫るなら独創性が大切だ。彫刻家としての俺の腕だな」
同じ木の塊を彫るにしたって、俺の魂のままに彫るんだ。
本物そっくりに作るんじゃなくて、これはこうだ、と俺の魂が捉えた姿に仕上げるんだな。
ナキネズミにしても、ヒルマンの注文だったフクロウにしても。
「…それ、ホント?」
前のハーレイには、そう見えたわけ?
ナキネズミはウサギみたいに見えてて、フクロウはトトロだったって言うの…?
「いや、それは…。その…」
そう見えたというわけではなくて…。
俺の独創性を発揮する前に、こう、基本になる彫刻と言うか…。
普通に彫るなら、こう彫るべきだ、という当たり前の手本というヤツがだな…。
何処にも無かったモンだから、というのがハーレイの言い訳。
ベジタブルカービングや、フルーツカービングのように見本があったならば、と聞かされた話。ナキネズミもフクロウも、基本の形があったら手本に出来たんだが、と。
一理あるとは思うけれども、ナキネズミはともかく、フクロウの方。
ミュウが作り出した生き物ではないし、データベースを端から探せば、彫刻の写真もあった筈。それこそ様々な形のものが。
だから生まれてくる疑問。ハーレイの話は本当だろうか、と。
「お手本が何処にも無かったから、って言うんだね?」
それがあったら前のハーレイでも、凄い芸術品を彫り上げることが出来たわけ?
ナキネズミはウサギにならなくて済んで、フクロウはちゃんとフクロウのままで…。
きちんとしたのを彫れたって言うの、お手本になる基本の彫刻があれば…?
本当なの、と問いただしたら、「どうだかなあ…」とハーレイは顎に手を当てた。
「見本はこうだ、と資料を貰ったとしても…。はてさて、出来はどうなったんだか…」
木の塊と向き合っちまえば、俺の考えが入っちまうしな?
下絵をきちんと描いていたって、「こうじゃないんだ」と何処かで変えたくなっちまう。
この通りに彫ったら、そいつは俺の作品じゃない、と思い始めて。
そうやってあちこち変えていったら、見本とは別のが出来ちまうから…。
「本当に?」
言い訳にしか聞こえないんだけれども、ハーレイの彫刻の腕が酷かったのは芸術なの?
本当は上手に彫れるんだけれど、ハーレイが好きに彫ってた結果があれなわけ?
ナキネズミがウサギになってしまったのも、フクロウがトトロになっちゃったのも。
「芸術っていうのは、そういうもんだと思うがな?」
世の中の芸術ってヤツを見てみろ、彫刻でも絵でも、何でもいいから。
これを彫りました、って言われていたって、その通りに見えない彫刻が山ほどあるだろうが。
絵の方にしても、凄い美人をモデルにしたのに、落書きみたいに見えるヤツとか。
俺の木彫りもそれと同じだ、とハーレイは大真面目に言い切った。「芸術品だ」と。
木彫りの腕とはまるで関係無く、魂のままに彫った作品。酷いようでも俺の自慢の作品だ、と。
「ナキネズミがウサギに見えるヤツらが悪いんだ。…フクロウがトトロに見えるのもな」
俺が違うと言っているんだ、作った俺の言葉が正しい。俺の芸術なんだから。
そういや、お前…。前の俺にも言わなかったか?
「言うって…。何を?」
何のことなの、とキョトンとしたら、「今と同じだ」と答えたハーレイ。
「きちんと上手に彫れないのか、と言ってくれたぞ」
全く違うものに見えるし、酷すぎると。…俺の芸術作品を。
「いつのこと?」
それって、いつなの、ハーレイが何を彫っていた時?
「いつだっけかなあ…。お前に言われたことは確かで…」
お前なんだから、ナキネズミってことだけは有り得ない。トォニィがナスカで生まれた時には、お前は眠ってたんだしな。
フクロウの方も、お前、存在自体を知らなかったから違うわけで…。
あれは何だったか、俺が彫ってた芸術品は、だ…。
そうだ、鶏を彫ろうとしてたんだっけな、あの時の俺は。
「鶏?」
ハーレイ、鶏なんかも彫ってた?
下手くそな木彫りは幾つも見たけど、鶏も誰かの注文だったの?
「俺が彫りたかったというだけなんだが…。ちょっといいじゃないか、鶏も」
シャングリラでも飼っていたしな、本物をじっくり見られるだろうが。生きたモデルを。
雄鶏を彫ったらいいかもしれん、と思い付いたんだ。
朝一番に時をつくるし、なかなかに堂々としているからなあ…。雄鶏ってヤツは。
「思い出した…!」
あったよ、ハーレイが彫ってた鶏。
ハーレイの芸術作品だったし、どう見ても鶏じゃなかったけれど…。
確かにあった、と浮かび上がって来た記憶。前のハーレイが彫った雄鶏。
最初の出会いは、キャプテンの部屋へ泊まりに出掛けて行った時。恋人同士になっていたから、たまに泊まったハーレイのベッド。恋人の部屋で過ごす時間が好きだったから。
その日も夜に出掛けてみたら、ハーレイが机で向き合っていた木の塊。木彫りを始める前の常。
暫くじっと木を見詰めてから、鉛筆で線を描いてゆく。彫ろうとしている物の下絵を。
そこそこ大きな塊だったし、興味津々で問い掛けた自分。ハーレイの手許を覗き込みながら。
「今度は何が出来るんだい?」
スプーンとかではなさそうだけれど、君の得意な芸術だとか…?
「鶏ですよ。雄鶏を彫ってみようと思いまして…」
雌鶏と違って絵になりますしね、雄鶏は。高らかに鳴いている時などは、特に。
あの堂々とした姿を彫り上げられたら、この木も大いに満足かと…。スプーンになるより。
いい作品に仕上げてみせますよ、とハーレイは自信満々だったけれど、日頃の腕が腕だけに…。
(ちっとも期待出来ない、って…)
前の自分は考えた。ハーレイの腕では、雄鶏など彫れるわけがない、と。
そうは思っても、雄鶏と聞けば好奇心がむくむくと湧いて来るもの。白いシャングリラの農場で時をつくっている雄鶏。立派な鶏冠を持った鶏。
ハーレイが彫ったら何が出来るか、ちゃんと雄鶏に見えるかどうか。
其処が大いに気になる所で、行く末を見届けたくなった。結果はもちろん、彫ってゆく間も。
下絵では雄鶏らしく見えているのが、どんな形に出来上がるかを。
木彫りの雄鶏が完成するまで、時々、泊まりに来ようと思った自分。ハーレイがナイフで彫っているのを、側で見学するために。
何度か足を運ぶ間に、木の塊から雄鶏が姿を現したけれど。雄鶏が生まれる筈なのだけれど…。
「…別の物になって来ていないかい?」
君は雄鶏だと言っていたよね、とハーレイが彫っている木を指差した。
「ぼくの目には、これが雄鶏のようには見えないけれど」と。
「…そうでしょうか?」
雄鶏のつもりなのですが、と彫る手を止めて眺め回したハーレイ。持ち上げてみたり、真横からしげしげ見詰めたりと。
その結論が「雄鶏ですよ?」と出たものだから、「違うだろう?」と呆れ返った。雄鶏らしくは見えない木。どう贔屓目に見ても、譲っても。
「雄鶏だなんて…。これじゃアヒルだよ、本物のアヒルはシャングリラにはいないけど…」
君もアヒルは知っているだろう、鶏とは違うことくらいは。…これはアヒルだね。
クチバシも駄目だし、尻尾の辺りも、本物の雄鶏とは違いすぎるよ。
雄鶏らしく見せるんだったら、あちこち直してやらないと…。
ちょっと貸して、とハーレイから奪った雄鶏とナイフ。
「ぼくが上手に直してあげる」と宣言して。
ハーレイに「どいて」と椅子を譲らせて、自分が机の前に座って。
さて、と彫り始めた木彫りの雄鶏。左手で持って、右手にナイフ。
ハーレイの部屋では恋人同士で過ごすのだから、とうに外していた手袋。ソルジャーの手袋は、二人きりの時には外すもの。他の衣装は着けていたって。
素手で木彫りに取り掛かったけれど、硬かったのが素材の木。バターのように切れはしないし、削るだけでも一苦労。ほんの僅かな修正でさえも。
(えっと…?)
どう直すのがいいのかな、とナイフを握って悪戦苦闘する内に…。
「危ない!」
叫びと共に飛んで来た、ハーレイの緑のサイオンの光。
アッと思ったら、シールドされていた左手。ハーレイが放ったサイオンで。
それが弾いたナイフの刃。左手にグサリと食い込む代わりに、キンと響かせた金属音。
「………?」
ナイフを持ったまま、呆然と見詰めた自分の手許。何が起こったのか、直ぐ分からなくて。
「良かった…。お怪我は無いですか?」
ブルー、と呼び掛けるハーレイの声で、やっと気付いた。さっき自分が見舞われた危機に。
「…大丈夫だけど……」
なんともないよ、と返事してから、ナイフを置いて眺めた左手。
もう少しで怪我をする所だった。ハーレイがシールドしてくれなかったら、雄鶏の木彫りを削る代わりに、自分の左手をナイフで抉って。
手袋をはめていないから。
爆風も炎も防げる手袋、ソルジャーの手を守る手袋は、自分で外してしまったから。
もしもナイフで抉っていたら、とゾッとした左手。木が硬いだけに、上手く削ろうと力を入れていたナイフ。あれが左手を襲っていたなら、掠り傷では済まなかっただろう。
(…当たった所が悪かったら…)
ノルディに縫われていたかもしれない。パックリと口を開いた傷を。
「いったい何をなさったのです?」と尋ねられながら、何針も。「手袋はどうなさいました」と睨み付けられて、包帯をグルグル巻き付けられて。
助かった、とホッと息をついて、「ありがとう」とハーレイに御礼を言った。自分では気付いていなかったのだし、ハーレイが弾いてくれなかったら、間違いなく怪我をしていたから。
「…君のお蔭で助かったよ。もう少しで、ノルディにお説教をされる所だったかも…」
縫うような傷になっていたなら、酷く叱られただろうね。「手袋を外すとは何事です」と。
油断してたよ、こういう作業をしている時こそ、あの手袋が役に立つのに…。
ナイフの怖さを思い知ったけど、君は怪我をしたりはしないのかい?
手に包帯を巻いた姿は、まるで覚えが無いんだけれど…?
「慣れていますからね、これが私の趣味ですし」
怪我をするようでは、話になりはしませんよ。ゼルたちにも叱られてしまいます。
「何をウカウカしとるんじゃ!」と。…手を怪我したなら、舵が握れなくなりますから。
「慣れているのは分かるけれども、最初の頃は?」
君だって最初は初めての筈だよ、木彫りをするのは。…ナイフには慣れていそうだけれど…。
厨房でもナイフを使っていたけど、木と野菜とは違うだろう?
「そうですね。慣れなかった頃は、こういう時に備えてシールドですよ」
キャプテンは手が大切ですから、怪我をしないよう、シールドしながら彫っていました。
それならナイフが当たったとしても、切れる心配はありませんから。
「…ぼくにもそれを言ってくれれば良かったのに…」
左手をシールドするくらいのことは、ぼくには何でもないんだから。
「忘れていました、初心者でらっしゃるということを」
私の作品を直すだなどと仰ったので…。木彫りには慣れてらっしゃるつもりでおりました。
あなたが木彫りをなさらないことは、誰よりも知っている筈ですのに…。
ブルー、申し訳ありません。…あなたにお怪我をさせる所でした。私の不注意のせいで。
無事で良かった、と左手に落とされたハーレイのキス。左手にも詫びるかのように。
ハーレイの彫刻は下手だけれども、木彫りの腕はいいらしい、と思った自分。その時に、ふと。
自分と違って、怪我をしないで彫れるのだから。
雄鶏には見えないような物でも、アヒルにしか見えない木の塊でも。
「…前のハーレイ、腕は良かったんだね、本当に」
木彫りの腕は確かだったよ。ぼくよりも、ずっと。
「おっ、認めたか?」
俺の芸術を分かってくれたか、今頃になってしまったが…。前のお前は認めてくれなかったが、そうか、認めてくれるのか。俺も頑張った甲斐があったな、何と言われても。
「怪我をしないで彫れたんだもの。それだけで充分、凄いと思うよ」
前のハーレイなら、ベジタブルカービングも、きっと出来たね。フルーツカービングだって。
ナイフだけで花とか鳥とかを彫って、シャングリラの食卓を飾れそう。
ソルジャー主催の食事会なら、思い切り腕を揮えそうだよ。テーブルに飾れば映えるものね。
「前の俺が知っていさえすればな、あの文化をな…」
果物や野菜で見事な彫刻が作れるんだ、ということを。そうすりゃ、俺の評価も上がった。
厨房を離れた後にしたって、趣味の範囲で野菜や果物をナイフで彫って。
「無かったっけね、あんな文化は…」
ヒルマンもエラも、見付けて来たりはしなかったから…。見付けていたら素敵だったのに。
前のハーレイの出番が増えるし、評価もグンと上がっていたよ。果物や野菜を彫る度に。
木彫りは駄目でも、こういうヤツなら凄く綺麗に彫れるんだ、って。
そういえば、あの雄鶏はどうなったっけ?
ぼくが直そうとして怪我をしかけた雄鶏、ちゃんと雄鶏に仕上がってた…?
「あれなら、お前に散々笑われて終わりだったが?」
完成した後に、「何処から見たってアヒルだ」と言われちまってな。直せもしない、と。
「ごめん…。あの時のぼくも、腕はいいんだと思ったけれど…」
ハーレイの木彫りの腕はいいけど、その腕を使って出来上がるものが酷かったから…。
やっぱり下手くそなんだよね、って思うしかなくて、あの雄鶏も…。
出来上がったらアヒルにしか見えなかったから、と肩を竦めた。
どうしてああなっちゃうんだろうね、と。
「前のハーレイ、本当に腕は良かったのに…」
怪我をしないで彫れたのもそうだし、ナイフ一本で何でも彫れたのだって上手な証拠。
木彫りの腕は確かなんだよ、なのにどうして変な物ばかりが出来上がったわけ?
ナキネズミはウサギで、フクロウはトトロで、雄鶏はアヒルになっちゃったなんて。
「さてなあ…? そいつはお前の思い込みっていうヤツで…」
前の俺は下手ではなかったんだ。木彫りも、そいつで出来上がる物も。
芸術っていうのはそうしたモンだろ、理解して貰うまでには時間がかかる。
とても有名な芸術家にしても、作品が本当に評価されたのは、死んじまった後の時代だとかな。
「…宇宙遺産のウサギは今でもウサギのままだよ、理解されてないよ?」
誰が見たって、ナキネズミには見えないんだから。…ウサギで通っているんだから。
「しかし、あれは立派な宇宙遺産だぞ。評価はされてる」
キャプテン・ハーレイの木彫りの腕も、立派に評価されたってな。
ああして宇宙遺産になってだ、特別公開される時には大勢の人が並んで見物するんだから。
「言い訳にしか聞こえないけど…」
ナキネズミがウサギになっちゃったことは、どうするの?
ウサギと間違えられちゃったから、ミュウの子供が沢山生まれますように、ってお守りで…。
ナキネズミのままだと、ただのオモチャで終わりなんだよ、あのウサギは。
「どうだかな? 前の俺なら、ベジタブルカービングだって出来たんだ」
やろうと思えば作れたわけで、そういう文化が無かっただけで…。
俺の木彫りの腕は確かだ、だからこそ宇宙遺産のウサギも見事に彫れたってな。
「…野菜や果物を彫るのを見てれば、みんなの評価も変わってたかな?」
ナキネズミもフクロウも、ハーレイの芸術作品なんだ、って。…下手なんじゃなくて。
「そうかもなあ…」
実は綺麗な物も彫れるんです、と腕前を披露するべきだったか…。
生憎とチャンスは無かったわけだが、野菜や果物で花だの鳥だのを見事に彫って。
スプーンやフォークを彫っていたんじゃ、俺の本当の腕は分かって貰えないしな、とハーレイが浮かべた苦笑い。「ナイフ一本で彫れる凄さを、披露するチャンスを逃しちまった」と。
前の自分たちが生きた時代に、ベジタブルカービングは無かったから。フルーツカービングも。
ナイフ一本で野菜や果物に施す彫刻、それを愛でるという文化も。
今の時代なら、ハーレイの腕を生かせそうなのに。ナイフ一本で彫刻する腕、それを生かす場がありそうなのに。
「…ねえ、今のハーレイにはホントに無理なの?」
ベジタブルカービングとかは出来そうにないの、木彫りをやっていないから…?
包丁でお魚とかを上手に切れても、野菜や果物に彫刻は無理…?
「やってみたことがないからなあ…。やろうと思ったことだって無いし」
いつか試すか、お前と一緒に。
料理のついでに、ちょいと綺麗に飾りを作ってみるっていうのも悪くはないぞ。
食卓を凝った彫刻で飾れて、果物だったら後で丸ごと食えるしな。
「一緒にって…。ぼく、今度こそ怪我をしそうだよ!」
左手、シールド出来ないんだから…。美術の授業の、彫刻刀だって怖いんだから…!
「今度は俺も怪我をするかもしれないぞ。今の時代は、サイオンは使わないのが基本だからな」
俺だって使わないのが好みで、もうキャプテンでもないわけだから…。
左手をグサリとやっちまうかもな、前の俺なら使い慣れてた筈のナイフで。
だが、野菜や果物は木彫りよりかは、柔らかい分だけ彫りやすいし…。
手が滑らないように気を付けていれば、木彫りよりは怪我も少ないだろう。
怪我をしたって、前のお前が危なかったみたいな、縫うような怪我にはならんだろうし…。
「だったら、二人で練習してみる?」
ぼくは初心者だから、彫刻刀で彫る所から。…ハーレイは最初からナイフ一本で。
「それもいいなあ、前の俺たちに戻ったつもりで」
きっと楽しいぞ、野菜や果物を彫ってみるのも。
前のお前は彫刻刀を使っちゃいないが、今のお前は彫刻刀なら使えるからな。
どうだ、と誘って貰ったから。
ナイフ一本で木彫りをしていた、ハーレイからの誘いだから。
結婚した時にも覚えていたなら、二人であれこれ彫ってみようか。
野菜や果物をナイフ一本で、それに彫刻刀で。
今のハーレイの腕前はどうか、本当に綺麗に彫れるのか。変な芸術にならないで。
野菜や果物で出来た花やら、鳥たちやら。
ハーレイと二人で綺麗に彫れたら、きっと最高に楽しい筈。
前の自分たちは全く知らなかったもので、今ならではの文化だから。
蘇った青い地球に来たから、そんなものをナイフで、彫刻刀で彫れるのだから…。
木彫りとナイフ・了
※出来上がった作品は散々でしたが、木彫りの腕だけは確かだったらしい、前のハーレイ。
野菜やフルーツも、ナイフ一本で彫れたかもしれません。あの時代に、それがあったならば。
パソコンが壊れたせいで2月になった、1月分の2度目の更新。今月は普通に2度目です。
PR
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。桜の季節が終わって新年度スタートに伴うドタバタも終了、私たちは今年も不動の1年A組。担任はグレイブ先生です。もうすぐ朝のホームルームが始まりますけど、ここに困った問題が。
「…キース先輩、まだ来ませんよ?」
「変だよなあ…。欠席、昨日までの筈だぜ」
昨日の夜には帰った筈で、とサム君が。
「アレだろ、大学の同期の寺の法要だろ? なんか飛行機で」
「そうみたいねえ、キースの大学、お坊さんの世界じゃエリート大学らしいものね」
全国区で学生が集まるのよね、とスウェナちゃん。
「何処まで行ったんだったかしら? 遠かったわよね、飛行機なほどに」
「電車も通ってはいますけどねえ…」
あそこは流石に飛行機の方が早いですよ、とシロエ君。
「でも、最終便で飛んだとしたって、今日は学校に来る筈ですけど」
「飛行機、飛ばなかったとか?」
そういうこともあるし、とジョミー君が言い、マツカ君も。
「その可能性はありますね。だとしたら今日は欠席ですか…」
「この時間に来てなきゃ、それっぽいよな?」
来ねえもんな、とサム君が教室の扉の方を眺めた所で予鈴がキンコーンと。暫く経ったら本鈴が鳴って、グレイブ先生が靴音も高く現れて。
「諸君、おはよう。…それでは今から出席を取る」
グレイブ先生は順に名を呼び、キース君の所になると。
「キース・アニアン…。欠席だったな」
よし、と名簿をペンで叩いてますから、欠席の連絡があったのでしょう。飛行機、飛ばなかったんでしょうか、そういうケースもありますよねえ?
グレイブ先生はキース君の欠席理由を言わなかったため、飛行機が飛ばなかったんだと思った私たちですが。休み時間に携帯端末を操作していたシロエ君が「えっ?」と。
「なんだよ、どうかしたのかよ?」
サム君の問いに、シロエ君は。
「いえ…。キース先輩が乗る予定だった飛行機、ちゃんと飛んでますよ?」
「「「え?」」」
まさか、と顔を見合わせた私たち。
「最終便は飛んだかもしれねえけどよ、他の便かもしれねえぜ?」
欠航しちまって、最終便も満席で乗れなかったとか、とサム君が意見を述べましたけれど。
「その線は、ぼくも考えました。…でもですね、昨日の便は全部飛んでるんですよ」
定刻通りのフライトです、とシロエ君。
「ついでに、こっちの空港の方も調べましたけど…。せいぜい五分遅れの到着くらいで」
「マジかよ、それじゃキースは飛行機、乗ってねえのかよ?」
「さあ…。帰っては来たのかもしれませんが…」
法要疲れで今日は欠席ということも、とシロエ君は心配そうな顔。
「キース先輩に限って、それだけは無さそうなんですけれど…。それが本当に休みとなったら…」
「相当に具合が悪いってこともあるよね、うん」
風邪は無いだろうけど食あたりとか、とジョミー君が。
「遠い所まで行ったわけだし、法要の他にも観光とかに連れて貰っていそうだし…。珍味だからって何かを食べてさ、あたったとか」
「「「あー…」」」
それはあるかもしれません。地元の人なら慣れた味でも、観光客の舌には合わないというケース。普通だったら「不味い」と残してしまう所を「もったいないから」と食べそうなのがキース君です。無理をして食べて、自分は良くても身体が悲鳴を上げたとか…。
「…やっぱり、食あたりの線でしょうか?」
シロエ君が見回し、スウェナちゃんが。
「風邪よりは、そっちがありそうよねえ…」
「そうですよねえ…。明日は来られるといいんですけど、キース先輩」
早く治るといいですよね、というシロエ君の台詞で、欠席理由は食あたりに決定してしまいました。何を食べたんでしょうか、キース君。早く治るといいんですけど…。
キース君の欠席で一人欠けた面子。とはいえ、法要で一昨日からお休みでしたし、それが一日延びただけ。こんな日もあるさ、と放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ揃って出掛けて行ったんですけど…。
「かみお~ん♪ 授業、お疲れ様!」
「いらっしゃい。キースが一足お先に来てるよ」
「「「えっ!?」」」
なんで、とビックリ、会長さんの言葉通りにソファに座っているキース君。「よっ!」と軽く右手を挙げて。
「すまん、急いで来てみたんだが…。最後の授業の後半に滑り込んでもな…」
無駄に迷惑を掛けるだけだからこっちに来た、とキース君。
「コーヒーだけで待っていたんだ、一人だけ菓子を食うのも悪いし」
「…キース先輩、食あたりだったんじゃないんですか?」
シロエ君が口をパクパクとさせて、キース君は不審そうな顔。
「食あたりだと? 何処からそういう話になったんだ、シロエ」
「え、えっと…。先輩が乗る筈だった飛行機は全部飛んでましたし、欠席となったら食あたりという線じゃないかと…。地元密着型のグルメで」
「そういうものなら御馳走になったが、俺はそんなに腹は弱くない!」
もっとも、まるでハズレというわけでもないが…、とキース君。
「法要の後で食べに行かないか、と誘って貰って車で出掛けた。それが欠席の原因ではある」
「…食あたりとは違うのに…ですか?」
「ああ。美味しく食べて、ちゃんと車で空港まで送って貰ったんだが…。おっと」
菓子が来たか、とキース君が言葉を切って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「今日はイチゴのジャンボシュークリーム! はい、どうぞ!」
イチゴたっぷりだよ! と配って回られた大きなシュークリームが乗っかったお皿。飲み物の注文も取って貰ってティータイムですけど、キース君の欠席転じて放課後だけ登校って、いったい何があったんでしょう…?
「…実はな、飛行機に間に合わなかったんだ」
最終便に乗り損なった、とキース君はシュークリームを頬張りながら報告を。
「仕方ないから朝一番の便で、と思ったんだが、これが満席で…。次の便にキャンセル待ちで乗れたが、こっちの空港で荷物が出るのが遅れたりして…」
なんだかんだで学校には間に合わなかったんだ、とキース君。そういうケースも想定したため、朝一番で学校に欠席の連絡をしたのだそうで。
「…乗り損なったんですか、最終便…」
まさか空港で転んだとか、とシロエ君が尋ねると。
「いや、そうじゃない。…空港に着いた時には離陸して行く飛行機が見えたな」
俺が乗る筈だったヤツが、ということは…。道が混んでましたか?
「渋滞したらマズイから、と早めに出ては貰ったんだが…。途中で踏切に捕まったんだ!」
「「「踏切?」」」
「そうだ、電車の踏切だ!」
そこで全てが狂ってしまった、とキース君はブツブツと。
「一本通過するだけなんだが、その電車が途中でトラブルらしくて…。閉まった踏切が開いてくれんのだ、信号か何かの関係で!」
「「「あー…」」」
それは不幸な、と誰もが納得。踏切は一つ間違えたら事故になりかねない場所、一度閉まったらそう簡単には開きません。たとえ電車が止まっていても。
「…電車の駅がすぐそこだったら、駅員さんが駆け付けて対応出来るんだろうが…」
「近くに駅が無かったんですか?」
「あるにはあったが、立派な無人駅だったんだ!」
どうにもならん、と頭を振っているキース君。結局、踏切は多くの車を踏切停止に巻き込んだままで閉まり続けて、後ろからは何も知らない車が次々来る始末で。
「…バックで出ようにも、横道に入ろうにも、逃げ場無しでな…」
やっとのことで踏切が開いて、キース君を乗せた同期のお坊さんはスピード違反ギリギリの速度で突っ走ってくれたらしいのですけど、目の前で離陸して行ってしまった最終便。キース君は法要があったお寺に逆戻り、もう一泊して帰って来たというわけで…。
「開かずの踏切だったんですか…」
踏切相手じゃ勝てませんね、とシロエ君。
「お疲れ様でした、キース先輩。…食あたりだなんて言ってすみませんでした」
「いや、地元グルメは本当だから別に…。ただ、あの踏切には泣かされた」
いくら電車とぶつからないためだと分かってはいても、あの遮断機が恨めしかった、とキース君は嘆いています。何度も時計を見ては焦って、次第に諦めの境地だったとか。
「なんとか乗れるように頑張ってやる、と言ってはくれたが、ヤバイというのは分かるしな…」
「そうだろうねえ、刻一刻と時間は過ぎてゆくわけなんだし」
あった筈の余裕が削られてゆくのは非常に辛い、と会長さん。
「ぼくみたいに瞬間移動が出来れば、「失礼するよ」と車から消えて終わりだけどさ」
「俺にあんたの真似が出来るか!」
「うん、だからこそ飛行機に乗り損なって放課後ギリギリの登校だよねえ…」
踏切ってヤツは最強だよね、と会長さんは笑っています。「普通人だと勝てない」と。
「あれは瞬間移動で抜けるか、踏切の上を飛び越えるか…。どっちにしたってサイオンが無いと」
「かみお~ん♪ ぼくも踏切、抜けられちゃうよ!」
引っ掛かったら瞬間移動で通るもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「周りに人はいないかな~、って見てからパッと!」
「「「うーん…」」」
そういう技は私たちにはありません。遮断機が下りたらそこでおしまい、電車の通過を黙って待つだけ。たとえ飛行機が飛んでゆこうが、乗る予定だった電車が走り去ろうが。
「…踏切、ホントに最強っぽいね…」
アレに捕まったらおしまいだもんね、とジョミー君も言ってますけど、事故防止には欠かせないのが踏切。遮断機が下りてくれるからこそ、電車とぶつからずに済むわけで…。
「…それはそうだが、俺のような目に遭ってしまうと恨むぞ、踏切」
「なまじ最強の相手なだけに、文句も言えませんからねえ…」
文句があるなら黙って電車とぶつかってこい、と叱られそうです、とシロエ君が零した言葉に、会長さんが「そうか、踏切…」と呟いて。
「踏切があったらいいんだけどね?」
「「「へ?」」」
踏切って、何処に踏切があればいいんでしょう? 通行人には迷惑っぽい踏切ですけど…?
キース君が捕まってしまった開かずの踏切。そうでなくても通行するには困り物なのが踏切だという流れだったと思いますけど、「あったらいいのに」と会長さんの妙な台詞が。
「あんた、踏切の肩を持つのか、いくら自分は引っ掛からないのか知らないが!」
俺はあいつのせいで欠席になってしまったんだが、とキース君が噛み付くと。
「えーっと、本物の踏切じゃなくて…。それっぽいモノ…?」
「「「それっぽい…?」」」
ひょっとしてオモチャの踏切でしょうか、電車の模型を走らせる時とかについてくるヤツ。電車好きの人だと本格的なのを家の敷地内で走らせて駅だの踏切だのと…。
「ううん、電車を走らせるわけでもないんだな。…相手は勝手に走って来るから」
「「「はあ?」」」
何が走って来るというのだ、と顔を見合わせ、キース君が。
「イノシシか? 確かにヤツらは墓地で暴れるしな、踏切で遮断出来たら有難いんだが…」
こう、警報機が鳴って遮断機が下りたらイノシシが入れない仕組みとか…、と。
「そっち系で何か開発するなら、ウチの寺にも是非、分けてくれ!」
「うーん…。それはイノシシを止める方だし…」
ぼくが思うのとは逆のモノかも、と会長さん。
「ぶつかりたくないという意味ではイノシシに似てはいるんだけどさ…。止めるよりかは、通過させた方がマシっぽいかな、と」
「なんですか、それは?」
意味が全く謎なんですが、とシロエ君が口を挟むと、会長さんは。
「アレだよ、アレ。…何かって言えばやって来る誰か」
「「「あー…」」」
理解した、と無言で頷く私たち。その名前を出す馬鹿はいません、来られたら真面目に困りますから、名前を出すのもタブーなソルジャー。別の世界から来る会長さんのそっくりさんで…。
「アレが来た時に遮断機が下りて、ぼくたちとアレの間をキッチリ分けてくれればねえ…」
「なるほど、アレだけが勝手に走り去るわけだな、遮断機の向こうを」
そういう踏切なら俺も欲しい、とキース君。
「たとえ開かずの踏切だろうが、有難いことだと合掌しながら通過を待つな」
「ぼくもです! お念仏は唱えませんけど、踏切に文句は言いませんよ」
アレとぶつからずに済むのなら…、とシロエ君も。私だって欲しい踏切ですけど、会長さんのサイオンとかで作れませんかね、その踏切…?
別の世界から踏み込んで来ては、迷惑を振り撒いて去ってゆくソルジャー。歩くトラブルメーカーと名高いソルジャーと遭遇せずに済むなら、踏切の設置は大歓迎です。遮断機が下りているせいで「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に入れなくなるとか、会長さんの家に行けないオチでも。
「あんた、作れるのか、その踏切を?」
サイオンでなんとか出来そうなのか、と開かずの踏切の恨みも忘れたらしいキース君。
「作れるんなら、是非、作ってくれ! アレとぶつからない踏切を!」
「会長、ぼくからもお願いします! 文句は絶対、言いませんから!」
ぶるぅの部屋に入れなくても表で待っていますから、とシロエ君も土下座せんばかりで。
「会長の家に出掛けた時にエレベーター前で三時間待ちでも、本当に黙って待ってますから!」
「俺もだぜ。まだ遮断機が上がらねえのかよ、なんて言わねえよ、それ」
踏切は事故防止のためにあるんだからよ、とサム君も賛成、ジョミー君たちも。
「作れるんなら作ってよ! 閉まりっ放しの踏切になってもいいからさ!」
「そうよね、開かずの踏切になってしまっても、ぶつかるよりずっといいものねえ…」
「ぼくもです。…踏切、作れそうですか?」
マツカ君までがお願いモードで、私たちもペコペコ頭を下げたんですけど。
「…どうだろう? なにしろ相手はアレだからねえ…」
接近を感知して遮断機を下ろす所からして難しそうだ、と会長さん。
「電車と違って、定刻に走っているわけじゃないし…。信号機だって無いんだし…」
「そうだな、時刻表も信号も無視の方向だな、アレは」
俺の家の墓地に出るイノシシと変わらん、とキース君が溜息を。
「これから行きます、と予告して走って来るわけでもなし、踏切は無理か…」
「ぼくのサイオンがもう少しレベルが高かったらねえ…」
来るぞと思った所で遮断機を下ろすんだけれど、と会長さんも残念そうに。
「でもって、後は通過待ちでさ…。走り去るのを待つってだけなら、どんなにいいか…」
「やはり無理だというわけだな?」
開かずの踏切以前に設置が無理なんだな、とキース君が尋ねると。
「それもそうだし、アレの方がね…。踏切があっても、乗り越えて走って来そうだってば」
「「「うわー…」」」
電車の方から飛び出して来たのでは勝てません。けれど相手はアレでソルジャー、踏切できちんと待っていたって、遮断機の向こうから出て来そうです、はい~。
あったら嬉しいソルジャー遮断機、けれども実現は不可能っぽい夢のアイテム。それさえあったら何時間でも通過を待てる、と誰もが思っているんですけど。
「…いろんな意味で難しいんだよ、ぼくも出来れば欲しいんだけどね…」
アレとぶつからないで済む踏切、と会長さんが言った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と飛び込んで来たのが当のソルジャー、ふわりと翻った紫のマント。空いていたソファにストンと腰掛け、「ぼくにもおやつ!」と。
「オッケー、ちょっと待っててねーっ!」
キッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がイチゴのジャンボシュークリームと紅茶を持って戻って来て、ソルジャーは「ありがとう」とシュークリームにフォークを入れながら。
「…キースが災難だったんだって?」
「あ、ああ…。飛行機に乗り損なったというだけなんだが」
「開かずの踏切だったんだってね、踏切は何かと面倒だよねえ…」
ノルディとドライブしている時にも捕まっちゃうし、とソルジャー、相槌。
「車ごと瞬間移動で抜けられないこともないんだけれど…。こっちの世界のルールもあるしね」
踏切くらいは我慢しようと思っていた、と言うソルジャー。
「だけど、ブルーとぶるぅは我慢してないみたいだねえ? さっきの話じゃ」
「う、うん…。まあ…。時と場合によるけれど…」
「かみお~ん♪ ちゃんと待ってることも多いよ、踏切!」
電車がすぐに通るんだったら待つんだもーん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと。
「どんな電車が走って来るかな、って見てて、手を振る時だってあるし!」
「そうなのかい?」
「うんっ! 運がいいとね、沢山の人が電車から手を振ってくれるの!」
それが楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。確かに小さな子供が手を振っていたら、振り返してくれる人も多そうです。ソルジャーは「なるほどねえ…」と顎に手を当てて。
「踏切はコミュニケーション手段としても役立つわけだね、手を振るとかで」
「それはまあ…。ぶるぅみたいな子供の場合は…」
「だったら、作ってみる価値はあるね! その踏切!」
「「「はあ?」」」
ソルジャーとぶつからないように踏切を作れないかという話だったと思うんですけど、ソルジャーが自分でその踏切を作るんですか…?
会長さんが作りたかったソルジャー遮断機、夢の踏切。けれど無理だと諦めの境地だった所へ来たのがソルジャー、しかも「踏切を作ってみる価値はある」という発言。
「…君が踏切を作るのかい?」
どういうヤツを、と会長さん。
「まさか本物じゃないだろうねえ、それは法律に反するからね!」
踏切は勝手に設置出来ない、とソルジャーに釘を。
「此処に踏切があればいいのに、と思ったとしても作れないんだよ、許可が出ないと!」
「ふうん…? 面倒なんだね、踏切ってヤツは」
「電車がスムーズに走れるようにという意味もあるし、事故を起こさないためでもあるし…。色々と決まりがややこしいんだよ、踏切は!」
「本物はそうかもしれないけれど…。君が言ってたようなヤツならいいんだろう?」
ぶつからないように作る踏切、とソルジャーは会長さんを見詰めて。
「ぼくとぶつからないようにしたいんだっけね、君の理想の踏切は?」
「…そ、そうだけど…。でも、そこまで分かってくれているなら、踏切は別に…」
要らないと思う、と会長さん。
「君が自分で心得てくれればいいだけのことで、踏切で遮断しようとまでは…。君にも事情があるんだってことは知っているから」
こっちの世界でストレス解消してるんだよね、という確認にソルジャーは。
「その通り! SD体制で苦労しているぼくにとっては、こっちの世界はパラダイス!」
ついでに地球だし余計に美味しい、と満面の笑顔。
「おまけに君たちとも遊べるんだしね、今度は踏切で遊んでみたいと!」
「「「踏切?」」」
どう遊ぶのだ、と思いましたが、ソルジャー遮断機な踏切だったら、遮断機を越えて出て来るソルジャーとぶつからないように逃げ回るだとか、そういうゲームをするんでしょうか?
「えーっと…。コミュニケーションとしては、それも面白いんだけど…」
鬼ごっこみたいでいいんだけれど、と言うソルジャー。…その踏切、他に遊び方がありますか?
「遊び方と言うより、踏切の仕組みが別物かな、うん」
「「「別物?」」」
どんな踏切を作る気でしょうか、ソルジャー遮断機と似たような感じで、かつ別物の踏切って?
踏切で遊びたいと言い出したソルジャー、基礎になるものは会長さんのアイデアの筈。ソルジャーが暴走している時でも遮断機が下りて待てば済むだけ、暴走ソルジャーが去って行ったら踏切が開いて通れる仕組みだと思いましたが…。
「そう、そこなんだよ、踏切は電車と人とが出会う場所なんだよ!」
片方は待って、片方は通過してゆく場所で…、とソルジャーは指を一本立てました。
「…でもね、さっき、ぶるぅが言ってたみたいに、電車に手を振る人もいるわけで…。電車の方でも手を振るわけで!」
「それは電車が手を振るっていう意味じゃないから!」
乗客だから、と会長さんが間違いを正すと、「分かってるってば!」という返事。
「そのくらいは分かるよ、だけどアイデアが出来たんだよ! 踏切を使ってコミュニケーション、うんと仲良くなれる方法!」
「「「…へ?」」」
ソルジャーと仲良くなるんでしょうか、踏切の向こうを暴走中の? 今でも充分に仲がいいんだと思ってましたが、もっと仲良くしたいんですかね?
「だから、別物だと言ったじゃないか! 踏切の仕組みが!」
まるで違うのだ、とソルジャー、キッパリ。
「この踏切はね、ある意味、開かずの踏切に近いものかもねえ…」
「「「開かずの踏切?」」」
「そうだよ、行く先々で踏切に出会って通れなかったら、開かずの踏切みたいだろう?」
「…何を作る気?」
何処へ行っても君とバッタリ出会う仕組みじゃないだろうね、と会長さんが訊くと。
「惜しい! もうちょっとってトコだよ、出会いの踏切には違いないしね!」
「「「…出会いの踏切?」」」
ますます分からん、と首を捻った私たちですが、ソルジャーは。
「そのまんまだよ、出会うんだよ! 踏切があれば!」
「…誰に?」
会長さんの問いに、ソルジャーが「出会いで察してくれたまえ」と。
「もうハーレイしかいないじゃないか、こっちの世界の!」
「「「教頭先生!?」」」
教頭先生と出会う踏切って、どんなのですかね、しかも開かずの踏切ですよね…?
ソルジャー曰く、出会いの踏切。それを作ると教頭先生に出会うって…。どういう仕組みの踏切でしょうか、まるで全く謎なんですけど…。
「平たく言うとね、ブルー限定の踏切なんだよ、ぼくじゃなくって、こっちのブルーで!」
そこのブルー、とソルジャーが指差す会長さんの顔。
「ブルーが歩くと出くわす踏切、行く先々でハーレイとぶつかる羽目になるってね!」
「「「ええっ!?」」」
どういうヤツだ、と思いましたが、ソルジャーは自信満々で。
「ぼくはブルーと違って経験値が遥かに高いからねえ、もう簡単なことなんだよ! ブルーとこっちのハーレイの間をちょちょっと細工するだけで!」
「何をするわけ?」
会長さんの声が震えていますが、ソルジャーが気にする筈などが無くて。
「出会えるようにと行動パターンをシンクロさせれば、それでオッケー! 何処へ行ってもバッタリ出会えて、挨拶するしか無いってね!」
出会ったからには挨拶だろう、と極上の笑み。
「ただでも教師と教え子なんだし、別の方面だとソルジャーとキャプテンって関係になるし…。無視して通るというのは無いねえ、それにハーレイはブルーにぞっこん!」
たとえブルーが無視したとしても、ハーレイからは挨拶が来る、と鋭い指摘も。
「一度目は偶然で済むだろうけれど、何度も重なれば偶然とは思えないからねえ…。ハーレイにしてみれば運命の出会いで、もう間違いなく赤い糸だよ!」
そういう糸があるらしいじゃないか、とソルジャーは自分の左手の小指を右手でキュッと。
「小指と小指で赤い糸なんだってね、いつか結婚する二人! それで結ばれているに違いないとハーレイが思い込むのが見えるようだよ、出会いの踏切!」
「迷惑だから!」
そんな踏切は要らないから、と会長さんが叫びましたが、ソルジャーにサラッと無視されて。
「素晴らしいよね、運命の赤い糸に引かれて出会う踏切! ブルー限定!」
「だから、要らないと言ってるのに!」
「ダメダメ、こうでもしないと出会えないしね、もう永遠に!」
「出会いたいとも思わないから!」
あんなのと出会う趣味は無いから、と懸命に断る会長さん。けれどソルジャーは自分の素敵なアイデアに夢中、これは諦めるしか道は無いんじゃあ…?
出会いの踏切は御免蒙ると、お断りだと会長さんは必死に言ったのですけど。ソルジャーは「照れないで、ぼくに任せておいてよ」と片目をパチンと。
「踏切の話が出たのも何かの縁だし、キースが開かずの踏切に捕まって飛行機に乗り遅れたのも、神様からのお告げなんだよ! 出会いの踏切を作れという!」
「お、お告げって…。神様って、それは絶対、違うと思う…!」
キースが出掛けた先はお寺で…、と会長さんが「違う」と主張し、キース君も。
「神様の線は限りなく薄いと思うんだが…。そりゃまあ、行った先の寺の境内にはお稲荷さんの祠もあったが、主役は仏様でだな…!」
「そこはどうでもいいんだよ! 神様だろうが、仏様だろうが、細かいことは!」
誰のお告げかは細かいことだ、とソルジャーも負けてはいませんでした。
「とにかく、ぼくはお告げを受けたし、受けたからには引き受けなくちゃね! ブルーよりも強いサイオンを持っているというメンツにかけても、ここは踏切!」
出会いの踏切を作らなくては、とソルジャーが立てた右手の人差し指。
「えーっと…。まずはブルーで…」
スイッと指が円を描いて、私たちは「ん?」と。
「今の、なんだよ?」
サム君が訊いて、ジョミー君が。
「さあ…? 別になんにも見えなかったけど…?」
いつもだったら青いのがキラッと光る筈で、と言い終わらない内に、ソルジャーの指がスッと壁の方へ。あの方向には本館があったと思います。教頭室も入っている本館。
「お次が、こっち、と。よし、ハーレイは仕事中だし…」
こんな感じで、とスイッと円が描かれ、それから左手の指も出て来てチョイチョイと。えーっと、何かを結んでるように見えますが…?
「はい、正解! 結んだってね、別にやらなくてもいいんだけれど…。ビジュアルってヤツも大切かなあ、と思ってね!」
運命の赤い糸を結んでみましたー! とソルジャーは胸を張りました。
「これで出会いの踏切は完璧、行く先々でバッタリと!」
「ちょ、ちょっと!」
ぼくは頼んでいないんだけど、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーの耳には聞こえないのか、都合よく聞き間違えているのか。
「遠慮しないで、受け取っておいて! ぼくのプレゼント、出会いの踏切!」
お幸せにー! と消えたソルジャー、自分の世界へ帰ってしまったみたいですねえ…?
「…出会いの踏切って…」
迷惑にもほどがあるだろう、と会長さんはプリプリと。
「行く先々でハーレイとバッタリで運命の糸って、有り得ないから! それ自体が!」
「それは運命の糸の方なのか、バッタリ出会う方か、どっちだ?」
キース君の問いに、「両方だよ!」と会長さん。
「ぼくとハーレイの間に赤い糸なんかがあるわけがないし、バッタリ出会う方だって無いね! ぼくとハーレイの行き先が重なることなんて無い!」
現に今日だって帰るだけだし…、と会長さんがフンと鼻を鳴らして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「えとえと…。瞬間移動で帰っちゃうんだし、ハーレイと会う場所、何処にも無いよね…」
「ほらね、ぶるぅもそう言ってるし! 会うわけがないよ!」
あれはブルーの脅しも入っているのだろう、と会長さん。
「いくらブルーでも、出会いの踏切とやらを簡単に作れるわけが…。信じて引きこもったら負けってことだよ、人間、大いに出歩かないとね!」
今日は帰って寝るだけとはいえ、この先も存分に出歩いてなんぼ! と会長さんは出会いの踏切を否定しました。騙されたらぼくの負けだから、と。
「…というわけでね、ブルーの罠には引っ掛からないよ。あ、そろそろ帰る時間だっけ?」
「そうだな、今日は邪魔をした」
早い時間から押し掛けてすまん、とキース君が謝ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ううん、お客様は大歓迎! いつでも来てね!」
「そう言って貰えると有難い。…じゃあ、また明日」
帰ろうか、と立ち上ったキース君と前後して私たちも溜まり場に別れを告げることに。鞄を手にして壁をすり抜け、生徒会室から廊下へと出て歩き始めましたが…。
「あっ、忘れたあ!」
ぶるぅの部屋に携帯端末を置き忘れて来た、とジョミー君が鞄の中を探って、「無い…」と。
「ちょっと取ってくる、少し待ってて!」
「ウッカリ者だねえ…。ちゃんと届けに来たってば」
はい、と会長さんが現れて携帯端末を手渡し、ジョミー君が「ありがとう!」と返した所へ。
「おっ、お前たち、今、帰りか?」
良かったら飯でもおごってやろう、という声が。まさかまさかの教頭先生、これって偶然会っただけですよね、そうですよねえ…?
何故だかバッタリ出会ってしまった教頭先生、それに会長さん。もちろん会長さんはギョッとした筈ですが、そこは教頭先生をオモチャにして長いだけあって、平然と。
「晩御飯、おごってくれるって? ぼくの好みの店は高いよ?」
ついでに、みんなのタクシー代も出してくれるんだろうね、と注文を付けられた教頭先生は。
「任せておけ! 何処へ行くんだ、いつものパルテノンの焼肉屋か?」
「それもいいけど、たまに串カツの店もいいかな、と…。ねえ、ぶるぅ?」
「うんっ! 活けの車海老とかを揚げてくれるの、美味しいんだよ!」
あそこがいいな! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。そのお店には何度も行ってますけど、ハッキリ言って高いです。とても串カツとは思えないお値段、そういうお店。けれど教頭先生は…。
「分かった、私の車とタクシーで行こう。誰が私の車に乗るんだ?」
「「「え、えーっと…」」」
どうしようか、と会長さんを除いた面子でジャンケンで決めたんですけれど…。狙ったかのように柔道部三人組が乗ることになったんですけれど…。
「…おい、怖くないか?」
有り得ないことが起こっていないか、とキース君に訊かれたタクシーの車内。そう、教頭先生の車に乗って行く筈だったキース君がジョミー君と一緒に乗っています。
「うん、怖い…。ブルーがあっちに乗ってるだなんて…」
信じられないよね、とジョミー君も。私たちは学校前でタクシーを二台止めたんですけど、どうしたわけだか、タクシーの車内は芳香剤の匂いが効きすぎていました。一台は異様にオレンジの香りで、もう一台は先にお坊さんの団体様でも乗せていたのかと思うほどの抹香臭さで。
「…あいつが自分で選んだ道だが、予言通りになってるぞ」
教頭先生と出会いまくりだ、とキース君がタクシーの後ろを眺めて、ジョミー君が。
「だよねえ、キースと交代だなんて…」
どうかと思う、と頭を振っているジョミー君。運転手さんには言えませんけど、こちらが抹香臭い一台。会長さんならシールドで防ぐとか方法は色々ありそうな気がするというのに、オレンジの香りの車を見送った後のがコレだと知ったらキース君を捻じ込んで行ったのでした。
「…俺なら職業柄、慣れているだろうとは言いやがったが…」
「ブルーも思い切り、同業者だよね?」
しかも緋色の衣なんだけど、とジョミー君。伝説の高僧、銀青様が会長さんのもう一つの顔。遊びに行く時にそっちの顔は遠慮したかったのかもしれませんけど、教頭先生の車に乗って行くだなんて、例の踏切に引っ掛かったりしてないでしょうね…?
これが出会いの踏切の始まり、もう次の日から会長さんは行く先々で教頭先生とバッタリ出くわす運命に陥ってしまいました。学校はもちろん、買い物に出掛けた店でバッタリ、道でもバッタリ会うというのが恐ろしいです。
「…ど、どうしよう…。ハーレイが勘違いし始めてるのが分かるんだけど…」
運命を感じちゃってるみたいで、と会長さんが愚痴る放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。今日も今日とてバッタバッタと出会いまくりで、昼御飯も一緒に食べる羽目になったのだとか。
「教職員専用食堂も悪くないけど…。ぶるぅもおごって貰えるんだけど…」
なんだって二日に一度というハイペースであそこで食事なのだ、と嘆かれたって困ります。教頭先生とバッタリ会うから誘われるわけで、会わなきゃ誘われないわけで…。
「それは確かにそうなんだけど…! 会ったからにはおごらせてやる、と考えちゃうのも間違いないけど、ハーレイの方では、そろそろ運命…」
赤い糸を夢見ているらしくって、と会長さんが見ている自分の小指。
「このまま行ったら、その内、いつも花束を抱えて歩きかねないから! 学校はともかく、外で買い物とか、散歩の時には!」
「…まるで無いとは言い切れないな。そのパターンもな」
元から惚れてらっしゃるんだし…、とキース君。
「出会いの踏切とはナイスなネーミングだったと思うしかないな、あんたが花束を貰うようになった暁にはな」
「そういうつもりは無いんだってば! 運命の糸も、花束を貰うパターンってヤツも!」
会長さんが反論すると、キース君は。
「しかしだ、あんた、婚約指輪も確かあるんじゃなかったか? 受け取らないで突っ返しただけの高い指輪が」
「「「あー…」」」
あったっけ、と思い出してしまったルビーの指輪。教頭先生が思い込みだけで買ってしまって、家に死蔵してらっしゃるヤツが。
「…そいつの出番が来るかもしれんぞ、花束の次は」
「嘘…。ハーレイがアレを持ち出すだなんて…」
「運命だしなあ、後は時間の問題じゃないか?」
今のペースで会い続けていたら、夏休みまでには指輪が出そうだ、とキース君。私たちだってそう思います。ソルジャーが仕掛けた出会いの踏切、それの遮断機が上がらない限り…。
こうして会長さんと教頭先生は出会いまくりで、花束も登場しそうな勢いに。私たちが校内で見掛ける教頭先生はいつも御機嫌、会長さんとセットで晩御飯も何度も御馳走になりました。豪華な食事が食べられるだけに、私たちは教頭先生と同じでホクホクですけど…。
「…今日も会えるかな、教頭先生」
帰りにバッタリ会えるといいな、とジョミー君が大きく伸びをしている放課後。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋は今日も平和で、会長さんだけが黄昏れていて。
「…もう勘弁して欲しいんだけど…。この部屋からウッカリ出てしまうパターン…」
「それはあんたの責任だろうが。俺たちは知らん」
「キース先輩が言う通りですよ。気を付けていれば、出ないで済むと思うんですけど…。あ、今日は中華が食べたいですねえ、豪華にフカヒレ尽くしとか」
「美味そうだよなあ、今日はフカヒレで頼んでくれよ!」
よろしく、とサム君に声を掛けられた会長さんは。
「…サムの頼みだったら、喜んで…。ただし、ハーレイと会ったらだけど」
出来れば会いたくないんだけれど、とブツブツブツ。サム君とは公認カップルと称して付き合えるくせに、教頭先生はお呼びじゃないのが会長さんです。でも…。
「今日も会っちゃうと思うわよ? また野次馬とか、そういう感じで」
「…ぼくは自己嫌悪に陥りそうだよ…!」
スウェナちゃんが言う野次馬というのは、会長さんが一番沢山引っ掛かったケース。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から外に出なければ教頭先生には会わないというのに、何処かのクラブで何かが起こって野次馬多数、というのに釣られて出てしまうパターン。
「今日も野次馬かな、陸上部で新記録が出るかも、って噂だったし」
新記録だったら間違いなくお祭り騒ぎになるし、とジョミー君がフカヒレ尽くしの中華に期待で、私たちもドキドキワクワクです。新記録が出たら、真っ先に走って出掛けなくては…!
「ぼくは此処から動かないからね!」
「…あんた、そう言いつつ、百パーセントの確率で釣られているだろうが!」
自制心というのは無いのか、とキース君が笑った所へ、部屋の空気がユラリと揺れて。
「…自制心…。それがあったら困らないよ…」
ぼくとしたことがやりすぎた、とバタリと床に倒れたソルジャー。お芝居にしては上手すぎですけど、まさかホントに倒れたんですか…?
あのソルジャーが倒れるなんて、と思ったんですが、お芝居ではありませんでした。キース君たちがソファに寝かせて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が額を冷やして、暫く経つと。
「…出会いの踏切、最高だと思ってたんだけど…。ぼくとハーレイにもかけたんだけど…」
会長さんたちの出会いっぷりが素晴らしかったので、ソルジャーは自分とキャプテンに仕掛けたらしいのです。ただし、グレードアップして。
「…ぼくとバッタリ出会ったら、ヤる! 青の間でなくても、とにかく何処かで!」
備品倉庫の奥とか場所は一杯…、と話すソルジャーが仕掛けた出会いの踏切は大人の時間とセットだった模様。これは素敵だと満喫しまくっていたようですけど…。
「…ぼくはハーレイのパワーを舐めてたみたいで、もう限界で…。体力、気力のどっちも限界、三日間ほどこっちに泊めて…」
このままでは確実に抱き殺される、と呻くソルジャー、出会いの踏切を解除するだけの力も無いのだとか。空間移動をしてきたサイオンがあれば出来ると思いますけどね?
「…それがさ…。空間移動はエイッと飛べばいいんだけど、出会いの踏切の解除の方は…」
より繊細なサイオンの操作が必要で…、とソファで伸びているソルジャーは本当に逃げて来たみたいです。自分が懲りてしまっただけに、会長さんに仕掛けた踏切も解除するそうですけど…。
「…今日の所は無理そうですね?」
寝込んでますしね、とシロエ君が言って、ジョミー君が。
「ぶるぅが運んで行ったしねえ…。ブルーの家まで。…あっ、陸上部!」
記録が出たんじゃないかな、という声の通りに騒いでいる声が聞こえて来ます。これは是非とも駆け付けなければ、そして会長さんが釣られて出て来て…。
「「「フカヒレ尽くし!」」」
ダッシュで行けーっ! と私たちは部屋を飛び出しました。出会いの踏切が有効な内に御馳走になってなんぼです。教頭先生、今夜は中華でどうぞよろしく、フカヒレ尽くしでお願いします~!
出会いの踏切・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが考案した出会いの踏切、効果は抜群みたいですけど、ソルジャーもドツボに。
自分とキャプテンにも仕掛けた結果は、心身ともに疲労困憊。倒れるほどって、凄すぎかも。
次回は 「第3月曜」 3月21日の更新となります、よろしくです~!
パソコンが壊れてUPが遅れてしまった先月。今月は無事に間に合いました…。
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、2月は節分、恒例の七福神巡り。けれど今年は厄が多めで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。桜の季節が終わって新年度スタートに伴うドタバタも終了、私たちは今年も不動の1年A組。担任はグレイブ先生です。もうすぐ朝のホームルームが始まりますけど、ここに困った問題が。
「…キース先輩、まだ来ませんよ?」
「変だよなあ…。欠席、昨日までの筈だぜ」
昨日の夜には帰った筈で、とサム君が。
「アレだろ、大学の同期の寺の法要だろ? なんか飛行機で」
「そうみたいねえ、キースの大学、お坊さんの世界じゃエリート大学らしいものね」
全国区で学生が集まるのよね、とスウェナちゃん。
「何処まで行ったんだったかしら? 遠かったわよね、飛行機なほどに」
「電車も通ってはいますけどねえ…」
あそこは流石に飛行機の方が早いですよ、とシロエ君。
「でも、最終便で飛んだとしたって、今日は学校に来る筈ですけど」
「飛行機、飛ばなかったとか?」
そういうこともあるし、とジョミー君が言い、マツカ君も。
「その可能性はありますね。だとしたら今日は欠席ですか…」
「この時間に来てなきゃ、それっぽいよな?」
来ねえもんな、とサム君が教室の扉の方を眺めた所で予鈴がキンコーンと。暫く経ったら本鈴が鳴って、グレイブ先生が靴音も高く現れて。
「諸君、おはよう。…それでは今から出席を取る」
グレイブ先生は順に名を呼び、キース君の所になると。
「キース・アニアン…。欠席だったな」
よし、と名簿をペンで叩いてますから、欠席の連絡があったのでしょう。飛行機、飛ばなかったんでしょうか、そういうケースもありますよねえ?
グレイブ先生はキース君の欠席理由を言わなかったため、飛行機が飛ばなかったんだと思った私たちですが。休み時間に携帯端末を操作していたシロエ君が「えっ?」と。
「なんだよ、どうかしたのかよ?」
サム君の問いに、シロエ君は。
「いえ…。キース先輩が乗る予定だった飛行機、ちゃんと飛んでますよ?」
「「「え?」」」
まさか、と顔を見合わせた私たち。
「最終便は飛んだかもしれねえけどよ、他の便かもしれねえぜ?」
欠航しちまって、最終便も満席で乗れなかったとか、とサム君が意見を述べましたけれど。
「その線は、ぼくも考えました。…でもですね、昨日の便は全部飛んでるんですよ」
定刻通りのフライトです、とシロエ君。
「ついでに、こっちの空港の方も調べましたけど…。せいぜい五分遅れの到着くらいで」
「マジかよ、それじゃキースは飛行機、乗ってねえのかよ?」
「さあ…。帰っては来たのかもしれませんが…」
法要疲れで今日は欠席ということも、とシロエ君は心配そうな顔。
「キース先輩に限って、それだけは無さそうなんですけれど…。それが本当に休みとなったら…」
「相当に具合が悪いってこともあるよね、うん」
風邪は無いだろうけど食あたりとか、とジョミー君が。
「遠い所まで行ったわけだし、法要の他にも観光とかに連れて貰っていそうだし…。珍味だからって何かを食べてさ、あたったとか」
「「「あー…」」」
それはあるかもしれません。地元の人なら慣れた味でも、観光客の舌には合わないというケース。普通だったら「不味い」と残してしまう所を「もったいないから」と食べそうなのがキース君です。無理をして食べて、自分は良くても身体が悲鳴を上げたとか…。
「…やっぱり、食あたりの線でしょうか?」
シロエ君が見回し、スウェナちゃんが。
「風邪よりは、そっちがありそうよねえ…」
「そうですよねえ…。明日は来られるといいんですけど、キース先輩」
早く治るといいですよね、というシロエ君の台詞で、欠席理由は食あたりに決定してしまいました。何を食べたんでしょうか、キース君。早く治るといいんですけど…。
キース君の欠席で一人欠けた面子。とはいえ、法要で一昨日からお休みでしたし、それが一日延びただけ。こんな日もあるさ、と放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ揃って出掛けて行ったんですけど…。
「かみお~ん♪ 授業、お疲れ様!」
「いらっしゃい。キースが一足お先に来てるよ」
「「「えっ!?」」」
なんで、とビックリ、会長さんの言葉通りにソファに座っているキース君。「よっ!」と軽く右手を挙げて。
「すまん、急いで来てみたんだが…。最後の授業の後半に滑り込んでもな…」
無駄に迷惑を掛けるだけだからこっちに来た、とキース君。
「コーヒーだけで待っていたんだ、一人だけ菓子を食うのも悪いし」
「…キース先輩、食あたりだったんじゃないんですか?」
シロエ君が口をパクパクとさせて、キース君は不審そうな顔。
「食あたりだと? 何処からそういう話になったんだ、シロエ」
「え、えっと…。先輩が乗る筈だった飛行機は全部飛んでましたし、欠席となったら食あたりという線じゃないかと…。地元密着型のグルメで」
「そういうものなら御馳走になったが、俺はそんなに腹は弱くない!」
もっとも、まるでハズレというわけでもないが…、とキース君。
「法要の後で食べに行かないか、と誘って貰って車で出掛けた。それが欠席の原因ではある」
「…食あたりとは違うのに…ですか?」
「ああ。美味しく食べて、ちゃんと車で空港まで送って貰ったんだが…。おっと」
菓子が来たか、とキース君が言葉を切って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「今日はイチゴのジャンボシュークリーム! はい、どうぞ!」
イチゴたっぷりだよ! と配って回られた大きなシュークリームが乗っかったお皿。飲み物の注文も取って貰ってティータイムですけど、キース君の欠席転じて放課後だけ登校って、いったい何があったんでしょう…?
「…実はな、飛行機に間に合わなかったんだ」
最終便に乗り損なった、とキース君はシュークリームを頬張りながら報告を。
「仕方ないから朝一番の便で、と思ったんだが、これが満席で…。次の便にキャンセル待ちで乗れたが、こっちの空港で荷物が出るのが遅れたりして…」
なんだかんだで学校には間に合わなかったんだ、とキース君。そういうケースも想定したため、朝一番で学校に欠席の連絡をしたのだそうで。
「…乗り損なったんですか、最終便…」
まさか空港で転んだとか、とシロエ君が尋ねると。
「いや、そうじゃない。…空港に着いた時には離陸して行く飛行機が見えたな」
俺が乗る筈だったヤツが、ということは…。道が混んでましたか?
「渋滞したらマズイから、と早めに出ては貰ったんだが…。途中で踏切に捕まったんだ!」
「「「踏切?」」」
「そうだ、電車の踏切だ!」
そこで全てが狂ってしまった、とキース君はブツブツと。
「一本通過するだけなんだが、その電車が途中でトラブルらしくて…。閉まった踏切が開いてくれんのだ、信号か何かの関係で!」
「「「あー…」」」
それは不幸な、と誰もが納得。踏切は一つ間違えたら事故になりかねない場所、一度閉まったらそう簡単には開きません。たとえ電車が止まっていても。
「…電車の駅がすぐそこだったら、駅員さんが駆け付けて対応出来るんだろうが…」
「近くに駅が無かったんですか?」
「あるにはあったが、立派な無人駅だったんだ!」
どうにもならん、と頭を振っているキース君。結局、踏切は多くの車を踏切停止に巻き込んだままで閉まり続けて、後ろからは何も知らない車が次々来る始末で。
「…バックで出ようにも、横道に入ろうにも、逃げ場無しでな…」
やっとのことで踏切が開いて、キース君を乗せた同期のお坊さんはスピード違反ギリギリの速度で突っ走ってくれたらしいのですけど、目の前で離陸して行ってしまった最終便。キース君は法要があったお寺に逆戻り、もう一泊して帰って来たというわけで…。
「開かずの踏切だったんですか…」
踏切相手じゃ勝てませんね、とシロエ君。
「お疲れ様でした、キース先輩。…食あたりだなんて言ってすみませんでした」
「いや、地元グルメは本当だから別に…。ただ、あの踏切には泣かされた」
いくら電車とぶつからないためだと分かってはいても、あの遮断機が恨めしかった、とキース君は嘆いています。何度も時計を見ては焦って、次第に諦めの境地だったとか。
「なんとか乗れるように頑張ってやる、と言ってはくれたが、ヤバイというのは分かるしな…」
「そうだろうねえ、刻一刻と時間は過ぎてゆくわけなんだし」
あった筈の余裕が削られてゆくのは非常に辛い、と会長さん。
「ぼくみたいに瞬間移動が出来れば、「失礼するよ」と車から消えて終わりだけどさ」
「俺にあんたの真似が出来るか!」
「うん、だからこそ飛行機に乗り損なって放課後ギリギリの登校だよねえ…」
踏切ってヤツは最強だよね、と会長さんは笑っています。「普通人だと勝てない」と。
「あれは瞬間移動で抜けるか、踏切の上を飛び越えるか…。どっちにしたってサイオンが無いと」
「かみお~ん♪ ぼくも踏切、抜けられちゃうよ!」
引っ掛かったら瞬間移動で通るもん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「周りに人はいないかな~、って見てからパッと!」
「「「うーん…」」」
そういう技は私たちにはありません。遮断機が下りたらそこでおしまい、電車の通過を黙って待つだけ。たとえ飛行機が飛んでゆこうが、乗る予定だった電車が走り去ろうが。
「…踏切、ホントに最強っぽいね…」
アレに捕まったらおしまいだもんね、とジョミー君も言ってますけど、事故防止には欠かせないのが踏切。遮断機が下りてくれるからこそ、電車とぶつからずに済むわけで…。
「…それはそうだが、俺のような目に遭ってしまうと恨むぞ、踏切」
「なまじ最強の相手なだけに、文句も言えませんからねえ…」
文句があるなら黙って電車とぶつかってこい、と叱られそうです、とシロエ君が零した言葉に、会長さんが「そうか、踏切…」と呟いて。
「踏切があったらいいんだけどね?」
「「「へ?」」」
踏切って、何処に踏切があればいいんでしょう? 通行人には迷惑っぽい踏切ですけど…?
キース君が捕まってしまった開かずの踏切。そうでなくても通行するには困り物なのが踏切だという流れだったと思いますけど、「あったらいいのに」と会長さんの妙な台詞が。
「あんた、踏切の肩を持つのか、いくら自分は引っ掛からないのか知らないが!」
俺はあいつのせいで欠席になってしまったんだが、とキース君が噛み付くと。
「えーっと、本物の踏切じゃなくて…。それっぽいモノ…?」
「「「それっぽい…?」」」
ひょっとしてオモチャの踏切でしょうか、電車の模型を走らせる時とかについてくるヤツ。電車好きの人だと本格的なのを家の敷地内で走らせて駅だの踏切だのと…。
「ううん、電車を走らせるわけでもないんだな。…相手は勝手に走って来るから」
「「「はあ?」」」
何が走って来るというのだ、と顔を見合わせ、キース君が。
「イノシシか? 確かにヤツらは墓地で暴れるしな、踏切で遮断出来たら有難いんだが…」
こう、警報機が鳴って遮断機が下りたらイノシシが入れない仕組みとか…、と。
「そっち系で何か開発するなら、ウチの寺にも是非、分けてくれ!」
「うーん…。それはイノシシを止める方だし…」
ぼくが思うのとは逆のモノかも、と会長さん。
「ぶつかりたくないという意味ではイノシシに似てはいるんだけどさ…。止めるよりかは、通過させた方がマシっぽいかな、と」
「なんですか、それは?」
意味が全く謎なんですが、とシロエ君が口を挟むと、会長さんは。
「アレだよ、アレ。…何かって言えばやって来る誰か」
「「「あー…」」」
理解した、と無言で頷く私たち。その名前を出す馬鹿はいません、来られたら真面目に困りますから、名前を出すのもタブーなソルジャー。別の世界から来る会長さんのそっくりさんで…。
「アレが来た時に遮断機が下りて、ぼくたちとアレの間をキッチリ分けてくれればねえ…」
「なるほど、アレだけが勝手に走り去るわけだな、遮断機の向こうを」
そういう踏切なら俺も欲しい、とキース君。
「たとえ開かずの踏切だろうが、有難いことだと合掌しながら通過を待つな」
「ぼくもです! お念仏は唱えませんけど、踏切に文句は言いませんよ」
アレとぶつからずに済むのなら…、とシロエ君も。私だって欲しい踏切ですけど、会長さんのサイオンとかで作れませんかね、その踏切…?
別の世界から踏み込んで来ては、迷惑を振り撒いて去ってゆくソルジャー。歩くトラブルメーカーと名高いソルジャーと遭遇せずに済むなら、踏切の設置は大歓迎です。遮断機が下りているせいで「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に入れなくなるとか、会長さんの家に行けないオチでも。
「あんた、作れるのか、その踏切を?」
サイオンでなんとか出来そうなのか、と開かずの踏切の恨みも忘れたらしいキース君。
「作れるんなら、是非、作ってくれ! アレとぶつからない踏切を!」
「会長、ぼくからもお願いします! 文句は絶対、言いませんから!」
ぶるぅの部屋に入れなくても表で待っていますから、とシロエ君も土下座せんばかりで。
「会長の家に出掛けた時にエレベーター前で三時間待ちでも、本当に黙って待ってますから!」
「俺もだぜ。まだ遮断機が上がらねえのかよ、なんて言わねえよ、それ」
踏切は事故防止のためにあるんだからよ、とサム君も賛成、ジョミー君たちも。
「作れるんなら作ってよ! 閉まりっ放しの踏切になってもいいからさ!」
「そうよね、開かずの踏切になってしまっても、ぶつかるよりずっといいものねえ…」
「ぼくもです。…踏切、作れそうですか?」
マツカ君までがお願いモードで、私たちもペコペコ頭を下げたんですけど。
「…どうだろう? なにしろ相手はアレだからねえ…」
接近を感知して遮断機を下ろす所からして難しそうだ、と会長さん。
「電車と違って、定刻に走っているわけじゃないし…。信号機だって無いんだし…」
「そうだな、時刻表も信号も無視の方向だな、アレは」
俺の家の墓地に出るイノシシと変わらん、とキース君が溜息を。
「これから行きます、と予告して走って来るわけでもなし、踏切は無理か…」
「ぼくのサイオンがもう少しレベルが高かったらねえ…」
来るぞと思った所で遮断機を下ろすんだけれど、と会長さんも残念そうに。
「でもって、後は通過待ちでさ…。走り去るのを待つってだけなら、どんなにいいか…」
「やはり無理だというわけだな?」
開かずの踏切以前に設置が無理なんだな、とキース君が尋ねると。
「それもそうだし、アレの方がね…。踏切があっても、乗り越えて走って来そうだってば」
「「「うわー…」」」
電車の方から飛び出して来たのでは勝てません。けれど相手はアレでソルジャー、踏切できちんと待っていたって、遮断機の向こうから出て来そうです、はい~。
あったら嬉しいソルジャー遮断機、けれども実現は不可能っぽい夢のアイテム。それさえあったら何時間でも通過を待てる、と誰もが思っているんですけど。
「…いろんな意味で難しいんだよ、ぼくも出来れば欲しいんだけどね…」
アレとぶつからないで済む踏切、と会長さんが言った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と飛び込んで来たのが当のソルジャー、ふわりと翻った紫のマント。空いていたソファにストンと腰掛け、「ぼくにもおやつ!」と。
「オッケー、ちょっと待っててねーっ!」
キッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がイチゴのジャンボシュークリームと紅茶を持って戻って来て、ソルジャーは「ありがとう」とシュークリームにフォークを入れながら。
「…キースが災難だったんだって?」
「あ、ああ…。飛行機に乗り損なったというだけなんだが」
「開かずの踏切だったんだってね、踏切は何かと面倒だよねえ…」
ノルディとドライブしている時にも捕まっちゃうし、とソルジャー、相槌。
「車ごと瞬間移動で抜けられないこともないんだけれど…。こっちの世界のルールもあるしね」
踏切くらいは我慢しようと思っていた、と言うソルジャー。
「だけど、ブルーとぶるぅは我慢してないみたいだねえ? さっきの話じゃ」
「う、うん…。まあ…。時と場合によるけれど…」
「かみお~ん♪ ちゃんと待ってることも多いよ、踏切!」
電車がすぐに通るんだったら待つんだもーん! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと。
「どんな電車が走って来るかな、って見てて、手を振る時だってあるし!」
「そうなのかい?」
「うんっ! 運がいいとね、沢山の人が電車から手を振ってくれるの!」
それが楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。確かに小さな子供が手を振っていたら、振り返してくれる人も多そうです。ソルジャーは「なるほどねえ…」と顎に手を当てて。
「踏切はコミュニケーション手段としても役立つわけだね、手を振るとかで」
「それはまあ…。ぶるぅみたいな子供の場合は…」
「だったら、作ってみる価値はあるね! その踏切!」
「「「はあ?」」」
ソルジャーとぶつからないように踏切を作れないかという話だったと思うんですけど、ソルジャーが自分でその踏切を作るんですか…?
会長さんが作りたかったソルジャー遮断機、夢の踏切。けれど無理だと諦めの境地だった所へ来たのがソルジャー、しかも「踏切を作ってみる価値はある」という発言。
「…君が踏切を作るのかい?」
どういうヤツを、と会長さん。
「まさか本物じゃないだろうねえ、それは法律に反するからね!」
踏切は勝手に設置出来ない、とソルジャーに釘を。
「此処に踏切があればいいのに、と思ったとしても作れないんだよ、許可が出ないと!」
「ふうん…? 面倒なんだね、踏切ってヤツは」
「電車がスムーズに走れるようにという意味もあるし、事故を起こさないためでもあるし…。色々と決まりがややこしいんだよ、踏切は!」
「本物はそうかもしれないけれど…。君が言ってたようなヤツならいいんだろう?」
ぶつからないように作る踏切、とソルジャーは会長さんを見詰めて。
「ぼくとぶつからないようにしたいんだっけね、君の理想の踏切は?」
「…そ、そうだけど…。でも、そこまで分かってくれているなら、踏切は別に…」
要らないと思う、と会長さん。
「君が自分で心得てくれればいいだけのことで、踏切で遮断しようとまでは…。君にも事情があるんだってことは知っているから」
こっちの世界でストレス解消してるんだよね、という確認にソルジャーは。
「その通り! SD体制で苦労しているぼくにとっては、こっちの世界はパラダイス!」
ついでに地球だし余計に美味しい、と満面の笑顔。
「おまけに君たちとも遊べるんだしね、今度は踏切で遊んでみたいと!」
「「「踏切?」」」
どう遊ぶのだ、と思いましたが、ソルジャー遮断機な踏切だったら、遮断機を越えて出て来るソルジャーとぶつからないように逃げ回るだとか、そういうゲームをするんでしょうか?
「えーっと…。コミュニケーションとしては、それも面白いんだけど…」
鬼ごっこみたいでいいんだけれど、と言うソルジャー。…その踏切、他に遊び方がありますか?
「遊び方と言うより、踏切の仕組みが別物かな、うん」
「「「別物?」」」
どんな踏切を作る気でしょうか、ソルジャー遮断機と似たような感じで、かつ別物の踏切って?
踏切で遊びたいと言い出したソルジャー、基礎になるものは会長さんのアイデアの筈。ソルジャーが暴走している時でも遮断機が下りて待てば済むだけ、暴走ソルジャーが去って行ったら踏切が開いて通れる仕組みだと思いましたが…。
「そう、そこなんだよ、踏切は電車と人とが出会う場所なんだよ!」
片方は待って、片方は通過してゆく場所で…、とソルジャーは指を一本立てました。
「…でもね、さっき、ぶるぅが言ってたみたいに、電車に手を振る人もいるわけで…。電車の方でも手を振るわけで!」
「それは電車が手を振るっていう意味じゃないから!」
乗客だから、と会長さんが間違いを正すと、「分かってるってば!」という返事。
「そのくらいは分かるよ、だけどアイデアが出来たんだよ! 踏切を使ってコミュニケーション、うんと仲良くなれる方法!」
「「「…へ?」」」
ソルジャーと仲良くなるんでしょうか、踏切の向こうを暴走中の? 今でも充分に仲がいいんだと思ってましたが、もっと仲良くしたいんですかね?
「だから、別物だと言ったじゃないか! 踏切の仕組みが!」
まるで違うのだ、とソルジャー、キッパリ。
「この踏切はね、ある意味、開かずの踏切に近いものかもねえ…」
「「「開かずの踏切?」」」
「そうだよ、行く先々で踏切に出会って通れなかったら、開かずの踏切みたいだろう?」
「…何を作る気?」
何処へ行っても君とバッタリ出会う仕組みじゃないだろうね、と会長さんが訊くと。
「惜しい! もうちょっとってトコだよ、出会いの踏切には違いないしね!」
「「「…出会いの踏切?」」」
ますます分からん、と首を捻った私たちですが、ソルジャーは。
「そのまんまだよ、出会うんだよ! 踏切があれば!」
「…誰に?」
会長さんの問いに、ソルジャーが「出会いで察してくれたまえ」と。
「もうハーレイしかいないじゃないか、こっちの世界の!」
「「「教頭先生!?」」」
教頭先生と出会う踏切って、どんなのですかね、しかも開かずの踏切ですよね…?
ソルジャー曰く、出会いの踏切。それを作ると教頭先生に出会うって…。どういう仕組みの踏切でしょうか、まるで全く謎なんですけど…。
「平たく言うとね、ブルー限定の踏切なんだよ、ぼくじゃなくって、こっちのブルーで!」
そこのブルー、とソルジャーが指差す会長さんの顔。
「ブルーが歩くと出くわす踏切、行く先々でハーレイとぶつかる羽目になるってね!」
「「「ええっ!?」」」
どういうヤツだ、と思いましたが、ソルジャーは自信満々で。
「ぼくはブルーと違って経験値が遥かに高いからねえ、もう簡単なことなんだよ! ブルーとこっちのハーレイの間をちょちょっと細工するだけで!」
「何をするわけ?」
会長さんの声が震えていますが、ソルジャーが気にする筈などが無くて。
「出会えるようにと行動パターンをシンクロさせれば、それでオッケー! 何処へ行ってもバッタリ出会えて、挨拶するしか無いってね!」
出会ったからには挨拶だろう、と極上の笑み。
「ただでも教師と教え子なんだし、別の方面だとソルジャーとキャプテンって関係になるし…。無視して通るというのは無いねえ、それにハーレイはブルーにぞっこん!」
たとえブルーが無視したとしても、ハーレイからは挨拶が来る、と鋭い指摘も。
「一度目は偶然で済むだろうけれど、何度も重なれば偶然とは思えないからねえ…。ハーレイにしてみれば運命の出会いで、もう間違いなく赤い糸だよ!」
そういう糸があるらしいじゃないか、とソルジャーは自分の左手の小指を右手でキュッと。
「小指と小指で赤い糸なんだってね、いつか結婚する二人! それで結ばれているに違いないとハーレイが思い込むのが見えるようだよ、出会いの踏切!」
「迷惑だから!」
そんな踏切は要らないから、と会長さんが叫びましたが、ソルジャーにサラッと無視されて。
「素晴らしいよね、運命の赤い糸に引かれて出会う踏切! ブルー限定!」
「だから、要らないと言ってるのに!」
「ダメダメ、こうでもしないと出会えないしね、もう永遠に!」
「出会いたいとも思わないから!」
あんなのと出会う趣味は無いから、と懸命に断る会長さん。けれどソルジャーは自分の素敵なアイデアに夢中、これは諦めるしか道は無いんじゃあ…?
出会いの踏切は御免蒙ると、お断りだと会長さんは必死に言ったのですけど。ソルジャーは「照れないで、ぼくに任せておいてよ」と片目をパチンと。
「踏切の話が出たのも何かの縁だし、キースが開かずの踏切に捕まって飛行機に乗り遅れたのも、神様からのお告げなんだよ! 出会いの踏切を作れという!」
「お、お告げって…。神様って、それは絶対、違うと思う…!」
キースが出掛けた先はお寺で…、と会長さんが「違う」と主張し、キース君も。
「神様の線は限りなく薄いと思うんだが…。そりゃまあ、行った先の寺の境内にはお稲荷さんの祠もあったが、主役は仏様でだな…!」
「そこはどうでもいいんだよ! 神様だろうが、仏様だろうが、細かいことは!」
誰のお告げかは細かいことだ、とソルジャーも負けてはいませんでした。
「とにかく、ぼくはお告げを受けたし、受けたからには引き受けなくちゃね! ブルーよりも強いサイオンを持っているというメンツにかけても、ここは踏切!」
出会いの踏切を作らなくては、とソルジャーが立てた右手の人差し指。
「えーっと…。まずはブルーで…」
スイッと指が円を描いて、私たちは「ん?」と。
「今の、なんだよ?」
サム君が訊いて、ジョミー君が。
「さあ…? 別になんにも見えなかったけど…?」
いつもだったら青いのがキラッと光る筈で、と言い終わらない内に、ソルジャーの指がスッと壁の方へ。あの方向には本館があったと思います。教頭室も入っている本館。
「お次が、こっち、と。よし、ハーレイは仕事中だし…」
こんな感じで、とスイッと円が描かれ、それから左手の指も出て来てチョイチョイと。えーっと、何かを結んでるように見えますが…?
「はい、正解! 結んだってね、別にやらなくてもいいんだけれど…。ビジュアルってヤツも大切かなあ、と思ってね!」
運命の赤い糸を結んでみましたー! とソルジャーは胸を張りました。
「これで出会いの踏切は完璧、行く先々でバッタリと!」
「ちょ、ちょっと!」
ぼくは頼んでいないんだけど、と会長さんが慌てましたが、ソルジャーの耳には聞こえないのか、都合よく聞き間違えているのか。
「遠慮しないで、受け取っておいて! ぼくのプレゼント、出会いの踏切!」
お幸せにー! と消えたソルジャー、自分の世界へ帰ってしまったみたいですねえ…?
「…出会いの踏切って…」
迷惑にもほどがあるだろう、と会長さんはプリプリと。
「行く先々でハーレイとバッタリで運命の糸って、有り得ないから! それ自体が!」
「それは運命の糸の方なのか、バッタリ出会う方か、どっちだ?」
キース君の問いに、「両方だよ!」と会長さん。
「ぼくとハーレイの間に赤い糸なんかがあるわけがないし、バッタリ出会う方だって無いね! ぼくとハーレイの行き先が重なることなんて無い!」
現に今日だって帰るだけだし…、と会長さんがフンと鼻を鳴らして、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「えとえと…。瞬間移動で帰っちゃうんだし、ハーレイと会う場所、何処にも無いよね…」
「ほらね、ぶるぅもそう言ってるし! 会うわけがないよ!」
あれはブルーの脅しも入っているのだろう、と会長さん。
「いくらブルーでも、出会いの踏切とやらを簡単に作れるわけが…。信じて引きこもったら負けってことだよ、人間、大いに出歩かないとね!」
今日は帰って寝るだけとはいえ、この先も存分に出歩いてなんぼ! と会長さんは出会いの踏切を否定しました。騙されたらぼくの負けだから、と。
「…というわけでね、ブルーの罠には引っ掛からないよ。あ、そろそろ帰る時間だっけ?」
「そうだな、今日は邪魔をした」
早い時間から押し掛けてすまん、とキース君が謝ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ううん、お客様は大歓迎! いつでも来てね!」
「そう言って貰えると有難い。…じゃあ、また明日」
帰ろうか、と立ち上ったキース君と前後して私たちも溜まり場に別れを告げることに。鞄を手にして壁をすり抜け、生徒会室から廊下へと出て歩き始めましたが…。
「あっ、忘れたあ!」
ぶるぅの部屋に携帯端末を置き忘れて来た、とジョミー君が鞄の中を探って、「無い…」と。
「ちょっと取ってくる、少し待ってて!」
「ウッカリ者だねえ…。ちゃんと届けに来たってば」
はい、と会長さんが現れて携帯端末を手渡し、ジョミー君が「ありがとう!」と返した所へ。
「おっ、お前たち、今、帰りか?」
良かったら飯でもおごってやろう、という声が。まさかまさかの教頭先生、これって偶然会っただけですよね、そうですよねえ…?
何故だかバッタリ出会ってしまった教頭先生、それに会長さん。もちろん会長さんはギョッとした筈ですが、そこは教頭先生をオモチャにして長いだけあって、平然と。
「晩御飯、おごってくれるって? ぼくの好みの店は高いよ?」
ついでに、みんなのタクシー代も出してくれるんだろうね、と注文を付けられた教頭先生は。
「任せておけ! 何処へ行くんだ、いつものパルテノンの焼肉屋か?」
「それもいいけど、たまに串カツの店もいいかな、と…。ねえ、ぶるぅ?」
「うんっ! 活けの車海老とかを揚げてくれるの、美味しいんだよ!」
あそこがいいな! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。そのお店には何度も行ってますけど、ハッキリ言って高いです。とても串カツとは思えないお値段、そういうお店。けれど教頭先生は…。
「分かった、私の車とタクシーで行こう。誰が私の車に乗るんだ?」
「「「え、えーっと…」」」
どうしようか、と会長さんを除いた面子でジャンケンで決めたんですけれど…。狙ったかのように柔道部三人組が乗ることになったんですけれど…。
「…おい、怖くないか?」
有り得ないことが起こっていないか、とキース君に訊かれたタクシーの車内。そう、教頭先生の車に乗って行く筈だったキース君がジョミー君と一緒に乗っています。
「うん、怖い…。ブルーがあっちに乗ってるだなんて…」
信じられないよね、とジョミー君も。私たちは学校前でタクシーを二台止めたんですけど、どうしたわけだか、タクシーの車内は芳香剤の匂いが効きすぎていました。一台は異様にオレンジの香りで、もう一台は先にお坊さんの団体様でも乗せていたのかと思うほどの抹香臭さで。
「…あいつが自分で選んだ道だが、予言通りになってるぞ」
教頭先生と出会いまくりだ、とキース君がタクシーの後ろを眺めて、ジョミー君が。
「だよねえ、キースと交代だなんて…」
どうかと思う、と頭を振っているジョミー君。運転手さんには言えませんけど、こちらが抹香臭い一台。会長さんならシールドで防ぐとか方法は色々ありそうな気がするというのに、オレンジの香りの車を見送った後のがコレだと知ったらキース君を捻じ込んで行ったのでした。
「…俺なら職業柄、慣れているだろうとは言いやがったが…」
「ブルーも思い切り、同業者だよね?」
しかも緋色の衣なんだけど、とジョミー君。伝説の高僧、銀青様が会長さんのもう一つの顔。遊びに行く時にそっちの顔は遠慮したかったのかもしれませんけど、教頭先生の車に乗って行くだなんて、例の踏切に引っ掛かったりしてないでしょうね…?
これが出会いの踏切の始まり、もう次の日から会長さんは行く先々で教頭先生とバッタリ出くわす運命に陥ってしまいました。学校はもちろん、買い物に出掛けた店でバッタリ、道でもバッタリ会うというのが恐ろしいです。
「…ど、どうしよう…。ハーレイが勘違いし始めてるのが分かるんだけど…」
運命を感じちゃってるみたいで、と会長さんが愚痴る放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。今日も今日とてバッタバッタと出会いまくりで、昼御飯も一緒に食べる羽目になったのだとか。
「教職員専用食堂も悪くないけど…。ぶるぅもおごって貰えるんだけど…」
なんだって二日に一度というハイペースであそこで食事なのだ、と嘆かれたって困ります。教頭先生とバッタリ会うから誘われるわけで、会わなきゃ誘われないわけで…。
「それは確かにそうなんだけど…! 会ったからにはおごらせてやる、と考えちゃうのも間違いないけど、ハーレイの方では、そろそろ運命…」
赤い糸を夢見ているらしくって、と会長さんが見ている自分の小指。
「このまま行ったら、その内、いつも花束を抱えて歩きかねないから! 学校はともかく、外で買い物とか、散歩の時には!」
「…まるで無いとは言い切れないな。そのパターンもな」
元から惚れてらっしゃるんだし…、とキース君。
「出会いの踏切とはナイスなネーミングだったと思うしかないな、あんたが花束を貰うようになった暁にはな」
「そういうつもりは無いんだってば! 運命の糸も、花束を貰うパターンってヤツも!」
会長さんが反論すると、キース君は。
「しかしだ、あんた、婚約指輪も確かあるんじゃなかったか? 受け取らないで突っ返しただけの高い指輪が」
「「「あー…」」」
あったっけ、と思い出してしまったルビーの指輪。教頭先生が思い込みだけで買ってしまって、家に死蔵してらっしゃるヤツが。
「…そいつの出番が来るかもしれんぞ、花束の次は」
「嘘…。ハーレイがアレを持ち出すだなんて…」
「運命だしなあ、後は時間の問題じゃないか?」
今のペースで会い続けていたら、夏休みまでには指輪が出そうだ、とキース君。私たちだってそう思います。ソルジャーが仕掛けた出会いの踏切、それの遮断機が上がらない限り…。
こうして会長さんと教頭先生は出会いまくりで、花束も登場しそうな勢いに。私たちが校内で見掛ける教頭先生はいつも御機嫌、会長さんとセットで晩御飯も何度も御馳走になりました。豪華な食事が食べられるだけに、私たちは教頭先生と同じでホクホクですけど…。
「…今日も会えるかな、教頭先生」
帰りにバッタリ会えるといいな、とジョミー君が大きく伸びをしている放課後。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋は今日も平和で、会長さんだけが黄昏れていて。
「…もう勘弁して欲しいんだけど…。この部屋からウッカリ出てしまうパターン…」
「それはあんたの責任だろうが。俺たちは知らん」
「キース先輩が言う通りですよ。気を付けていれば、出ないで済むと思うんですけど…。あ、今日は中華が食べたいですねえ、豪華にフカヒレ尽くしとか」
「美味そうだよなあ、今日はフカヒレで頼んでくれよ!」
よろしく、とサム君に声を掛けられた会長さんは。
「…サムの頼みだったら、喜んで…。ただし、ハーレイと会ったらだけど」
出来れば会いたくないんだけれど、とブツブツブツ。サム君とは公認カップルと称して付き合えるくせに、教頭先生はお呼びじゃないのが会長さんです。でも…。
「今日も会っちゃうと思うわよ? また野次馬とか、そういう感じで」
「…ぼくは自己嫌悪に陥りそうだよ…!」
スウェナちゃんが言う野次馬というのは、会長さんが一番沢山引っ掛かったケース。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から外に出なければ教頭先生には会わないというのに、何処かのクラブで何かが起こって野次馬多数、というのに釣られて出てしまうパターン。
「今日も野次馬かな、陸上部で新記録が出るかも、って噂だったし」
新記録だったら間違いなくお祭り騒ぎになるし、とジョミー君がフカヒレ尽くしの中華に期待で、私たちもドキドキワクワクです。新記録が出たら、真っ先に走って出掛けなくては…!
「ぼくは此処から動かないからね!」
「…あんた、そう言いつつ、百パーセントの確率で釣られているだろうが!」
自制心というのは無いのか、とキース君が笑った所へ、部屋の空気がユラリと揺れて。
「…自制心…。それがあったら困らないよ…」
ぼくとしたことがやりすぎた、とバタリと床に倒れたソルジャー。お芝居にしては上手すぎですけど、まさかホントに倒れたんですか…?
あのソルジャーが倒れるなんて、と思ったんですが、お芝居ではありませんでした。キース君たちがソファに寝かせて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が額を冷やして、暫く経つと。
「…出会いの踏切、最高だと思ってたんだけど…。ぼくとハーレイにもかけたんだけど…」
会長さんたちの出会いっぷりが素晴らしかったので、ソルジャーは自分とキャプテンに仕掛けたらしいのです。ただし、グレードアップして。
「…ぼくとバッタリ出会ったら、ヤる! 青の間でなくても、とにかく何処かで!」
備品倉庫の奥とか場所は一杯…、と話すソルジャーが仕掛けた出会いの踏切は大人の時間とセットだった模様。これは素敵だと満喫しまくっていたようですけど…。
「…ぼくはハーレイのパワーを舐めてたみたいで、もう限界で…。体力、気力のどっちも限界、三日間ほどこっちに泊めて…」
このままでは確実に抱き殺される、と呻くソルジャー、出会いの踏切を解除するだけの力も無いのだとか。空間移動をしてきたサイオンがあれば出来ると思いますけどね?
「…それがさ…。空間移動はエイッと飛べばいいんだけど、出会いの踏切の解除の方は…」
より繊細なサイオンの操作が必要で…、とソファで伸びているソルジャーは本当に逃げて来たみたいです。自分が懲りてしまっただけに、会長さんに仕掛けた踏切も解除するそうですけど…。
「…今日の所は無理そうですね?」
寝込んでますしね、とシロエ君が言って、ジョミー君が。
「ぶるぅが運んで行ったしねえ…。ブルーの家まで。…あっ、陸上部!」
記録が出たんじゃないかな、という声の通りに騒いでいる声が聞こえて来ます。これは是非とも駆け付けなければ、そして会長さんが釣られて出て来て…。
「「「フカヒレ尽くし!」」」
ダッシュで行けーっ! と私たちは部屋を飛び出しました。出会いの踏切が有効な内に御馳走になってなんぼです。教頭先生、今夜は中華でどうぞよろしく、フカヒレ尽くしでお願いします~!
出会いの踏切・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーが考案した出会いの踏切、効果は抜群みたいですけど、ソルジャーもドツボに。
自分とキャプテンにも仕掛けた結果は、心身ともに疲労困憊。倒れるほどって、凄すぎかも。
次回は 「第3月曜」 3月21日の更新となります、よろしくです~!
パソコンが壊れてUPが遅れてしまった先月。今月は無事に間に合いました…。
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、2月は節分、恒例の七福神巡り。けれど今年は厄が多めで…。
(行っちゃった…)
帰っちゃった、とブルーが見送ったテールライト。遠ざかってゆく車の光。
ハーレイの愛車の後ろに灯っているライト。金曜日の夜、「またな」と帰って行ったハーレイ。前のハーレイのマントと同じ色の車を運転して。濃い緑色をした愛車に乗って。
懸命に手を振るのだけれども、ハーレイからはもう見えないだろう。テールライトは遠ざかって消えていったから。夜の住宅街の向こうへ。
(あーあ…)
溜息をついて入った庭。見送りに出ていた道路から。門扉を閉めて鍵をかけたら、ハーレイとは別の世界の住人。チビの自分はこの家に住んで、ハーレイの家は何ブロックも離れた所。
(さよならだなんて…)
今日は学校があった日だから、ハーレイが帰りに寄ってくれただけでも運がいい。学校の仕事が長引いた日には、訪ねて来てはくれないから。
それは分かっているのだけれども、寂しい気持ちは拭えない。ついさっきまでは、あれこれ話が出来たのに。二人きりで部屋でお茶を飲んだり、両親も一緒の夕食だって。
(ホントに色々、お喋りしてて…)
ハーレイの声に、姿に、夢中だった自分。「ハーレイと一緒なんだよ」と。
キスは駄目でも恋人同士で、大好きでたまらないハーレイ。側にいられるというだけで。温かな声が耳に届いて、穏やかな瞳を見られるだけで。
幸せ一杯で過ごしていたのに、楽しい時間はアッと言う間に過ぎるもの。気付けばとっくに通り過ぎていて、こうして終わりがやって来る。
食後のお茶の時間も終わって、帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
ガレージに停めていた愛車に乗って、エンジンをかけて走り出して。
そのハーレイが乗った車はもう見えない。「あそこだよ」と分かるテールライトも。
表の道路に戻ってみたって、何処にも見えないテールライト。夜の道路があるだけで。道沿いの家に灯る灯りや、街灯の光があるだけで。
庭から家の中へと入って、戻った二階の自分の部屋。ハーレイとお茶を飲んでいた部屋。
其処にハーレイの姿は無いから、零れてしまった小さな溜息。さっきまで一緒だったのに、と。
(寂しいよ…)
ハーレイが運転して行った車。濃い緑色の車の助手席に乗って、ハーレイの家に帰りたいのに。自分も車に乗ってゆけるなら、それが出来たら幸せなのに。
ハーレイが開ける運転席とは、違った方の扉を開けて。シートに座って、扉を閉めて。
そしたら車が走り出しても、寂しい気持ちになったりはしない。自分も一緒に乗っているから、夜の道を二人で走るのだから。
ほんの短いドライブだけれど、ハーレイの家に着くまでの道を。ガレージに車が滑り込むまで、ハーレイがエンジンを止めるまで。
(そうしたいけど、まだまだ無理…)
十四歳にしかならない自分は、当分はこうして見送るだけ。
今日の自分がそうだったように、家の表の道路に出て。ハーレイに「またね」と手を振って。
車が行ってしまうのを。…テールライトが見えなくなるのを。
お風呂に入ったら、後は寝るだけ。パジャマ姿で、窓の向こうを覗いてみた。カーテンは閉めたまま、上半身と頭を突っ込んで。
庭園灯が灯った庭と生垣、それをぼんやり見下ろしていたら、通った車。黒っぽい影とライトが見えただけなのだけれど、表の道路を走って行った。ハーレイの車が去ったのと同じ方向へ。
(ハーレイの車も…)
こんな風に此処から見ることがある。濃い緑色は夜の暗さに溶けてしまって、シルエット。光が当たった時以外は。街灯だとか、庭園灯だとか。
はっきり見えるのはテールライトで、「帰って行くんだ」と分かる遠ざかる光。
普段は表で見送るけれども、病気の時には窓からお別れ。今のようにカーテンの陰に入って。
(起きちゃ駄目だ、って言われても…)
ハーレイが「しっかり眠って早く治せよ?」と灯りを消して部屋を出たって、足音が消えた後、何度見送ったか分からない。
こっそりと起きて、カーテンを閉めた窓の陰から。ハーレイに気付かれないように。
テールライトが消えてゆくのを、遠ざかって見えなくなってゆくのを。
(ああいう時には、ホントに寂しい…)
外で見送る時よりも、ずっと。表の通りに立って手を振る時よりも。
きっと心が弱くなっているからだろう。病気のせいで、弱ってしまった身体と一緒に心まで。
窓から車を見送りながら、涙が零れる時だって。
「帰っちゃった」と。
ハーレイの車は行ってしまって、テールライトももう見えないよ、と。
今の車で思い出しちゃった、と離れた窓。ハーレイはとっくに家に着いただろうし、ゆっくりと寛いでいそうな時間。熱いコーヒーでも淹れて。
置いて帰ったチビの恋人、自分の心も知らないで。
(テールライト…)
なんて寂しい光だろう、とベッドに腰掛けて考えた。消えてゆく光は寂しいよ、と。
テールライトを点けて帰って行ったハーレイ、愛おしい人はまた来るのだと分かっていても。
それっきりになってしまいはしなくて、再び会えると分かっていても。
(今日だと、明日には…)
夜が明けたら土曜日なのだし、またハーレイに会うことが出来る。
休日だから、車の出番は無いけれど。天気のいい日は、ハーレイはいつも歩いて来るから。雨が降る日や、降りそうな時だけ、車でやって来るハーレイ。休みの日には。
仕事の帰りに寄ってくれる日は、いつでも車。今日も車で来ていたように。
テールライトが消えていっても、ハーレイにはまた会えるのだけれど。ほんの短い間のお別れ、どんなに会えない日が続いたって、せいぜい数日なのだけれども。
(でも、会えるって分かっていたって…)
悲しすぎる光がテールライト。いつ見送っても、何度、大きく手を振っても。
さよなら、と小さくなってゆく光。
ハーレイを乗せた車が点けている光、恋人の居場所はどんどん遠くなってゆくから。
さっきまで家の前にいたのに、遠ざかって消えてしまうから。
(さよならの光…)
テールライトはそうだよね、と思った途端に、胸を掠めていったこと。
前の自分は見ていない。
シャングリラが去ってゆく光を。白い鯨のテールライトを、「さよなら」と消えてゆく光を。
(テールライトじゃなかったけれど…)
白いシャングリラも、暗い宇宙で後ろから見れば、幾つかの光が灯っていた。鯨のヒレのように見える部分などには、位置を示すための青い色の灯り。
それにエンジンの強い光も、テールライトのようなもの。「あそこにいる」と分かるから。
漆黒の宇宙を飛んでいたって、シャングリラの居場所を教えた光。
けれど、メギドに飛んだ自分は…。
(テールライト、見送れなかったんだよ…)
白い鯨が去ってゆくのを、自分が守ったシャングリラを。
命と引き換えに守り抜いた船を、無事に飛んでゆくシャングリラを。
あの時の自分は泣きじゃくっていたから、それどころではなかったけれど。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、悲しくて泣いていたのだけれど。
(…だけど、シャングリラが見えていたなら…)
シャングリラがいた赤いナスカと、あんなに離れていなかったなら。メギドとナスカが、もっと近い場所にあったなら。
泣きながらも、きっと見送れた。白いシャングリラが旅立つのを。
自分は其処には戻れないけれど、あそこにハーレイがいるのだと。
ハーレイがしっかりと舵を握って、シャングリラは地球に向かうのだと。
遠ざかってゆくテールライトを、エンジンの光を見送っただろう。光が宇宙に溶けてゆくのを。漆黒の闇に吸い込まれるように、「さよなら」と消えてゆく光を。
メギドが爆発する時まで。前の自分の命の焔が、それと一緒に消える時まで。
あるいは倒れて命尽きるまで、意識が闇に飲まれるまで。
もしも、そうしていられたら。白いシャングリラを見送れたなら。
(ハーレイとの絆…)
切れてしまった、と思わずに済んだかもしれない。ハーレイの温もりを失くしていても。
シャングリラの居場所を教えてくれる、テールライトの光の向こう。それを点けた船、ミュウの仲間たちを乗せた白い箱船。光の中にはハーレイもいる。テールライトを点けている船に。
ハーレイの温もりは消えたけれども、今は見送るだけなのだから、と。
温もりをくれた温かな腕は、あの光と一緒にあるのだから、と。
(さよならだけれど、ハーレイは見えているものね…)
姿そのものは見えないけれども、ハーレイが舵を握る船。シャングリラの光が見えているなら、ハーレイが見えているのと同じ。ハーレイを乗せた船なのだから。
右手が凍えていたとしたって、ギュッと握ったかもしれない。自分の意志で。
失くしてしまったハーレイの温もり、それを右手に取り戻そうと。
白いシャングリラのテールライトを見送りながら。「あそこにハーレイはいるのだから」と。
絆は切れてしまっていないと、今もハーレイとは繋がっている、と。
(ハーレイの姿は見えなくっても…)
白いシャングリラが其処に在るなら、ハーレイも其処に確かにいる。あの箱舟の舵を握って。
キャプテンの務めを果たさなければ、と真っ直ぐに前を見詰めて立って。
テールライトが遠くなったら、絆は細くなってゆくけれど。きっと切れたりしないだろう。船がどんなに遠くなっても、光が闇に溶けていっても。
ワープして視界から消えていっても、切れることなく続きそうな絆。ハーレイと前の自分の間を繋ぎ続ける、細いけれども強い糸。けして切れずに、繋がったままの。
白いシャングリラを、テールライトを見送ることが出来たなら。
右の瞳は撃たれてしまって潰されたから、左の目でしか見られなくても。
半分欠けてしまった視界が、涙で滲んでぼやけていても。
(…シャングリラ、見送りたかったかも…)
そう思ったら零れた涙。両方の瞳から、涙の粒が盛り上がって。溢れて流れて、頬を伝って。
守った船を見送ることさえ、出来ずに終わった前の自分。
シャングリラからは遠く離れていたから、ジルベスター・エイトとナスカの間は遠すぎたから。
もっと近くにシャングリラがいたら、テールライトを見送れたのに。
「さよなら」と、「いつか地球まで行って」と。
自分の命は尽きるけれども、シャングリラは無事に飛び立てたから。暗い宇宙へ船出したから、遠くなってゆくのがテールライト。白い鯨が旅立った証。
それさえ見られず、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。
前の自分は、なんと悲しい最期だったか、と思うと止まらない涙。
テールライトが見えていたなら、皆の旅立ちを見送ったのに。ハーレイとの絆もきちんと自分で結び直して、右手をギュッと握ったろうに。
温もりは消えてしまったけれども、こうして思い出せるから、と。
シャングリラが遠くへ去ってしまっても、自分の命が此処で尽きても、ハーレイとの絆は切れてしまいはしないから、と。
きっと笑みさえ浮かべただろうに、見送れなかったシャングリラ。遠ざかる光を、漆黒の宇宙を飛んでゆく船のテールライトを。
(見たかったよ…)
シャングリラの光が遠くなるのを、テールライトが消えてゆくのを。
けれども、出来なかったこと。シャングリラから遠く離れたメギドで死んでいった自分。
本当に悲しくてたまらないから、胸が締め付けられるようだから…。
(明日は、ハーレイに…)
うんと甘えることにしよう、と両腕で抱き締めた自分の身体。ハーレイは此処にいないから。
明日になっても覚えていたなら、大きな身体に抱き付いて、頬をすり寄せたりもして。
ハーレイと一緒に地球に来られたと、今はこうして幸せだから、と。
それがいいよね、と潜り込んだベッド。今の自分はチビの子供で、両親と地球で暮らしている。子供部屋だって持っているから、こうして眠れる自分用のベッド。
青の間にあったベッドよりずっと小さいけれども、心地良い眠りをくれる場所。
一晩眠れば、明日はハーレイが来てくれる。ハーレイに会ったら、抱き付いて、甘えて…。
(…メギドの夢は嫌だけれどね?)
あそこでシャングリラを見送りたかった、と考えていたせいで、メギドの悪夢が訪れたら困る。怖くて夜中に飛び起きる夢。前の自分が死んでゆく夢。
メギドの夢を見ませんように、と祈りながらウトウト眠ってしまって、気付けば其処はメギドの中で。青い光が消えてしまった制御室。発射されることはないメギド。
とうに壊れて、後は沈んでゆくだけだから。爆発のせいで、装甲も破壊されているから。
(…シャングリラ……)
あんな所に、と見付けた船。遠いけれども、白い鯨だと分かる船。
爆発で穴が開いた装甲、それの向こうに広がる宇宙。漆黒の闇にポツンと灯ったテールライト。
長い年月、其処で暮らしたから、シャングリラの光を間違えはしない。
遠く離れて、小さな光の点になっても。星たちの中に紛れていても。
(シャングリラは無事に飛び立てたんだ…)
良かった、と漏らした安堵の息。もう大丈夫だと、白い鯨は飛べたから、と。
メギドの炎に飲まれはしないで、仲間たちを乗せて飛び立った船。この宙域から去ってゆく光。
シャングリラの無事を確かめられたら、思い残すことは何も無い。
(どうか地球まで…)
白いシャングリラの仲間たちが幸せであるように。ミュウの未来が幸多きものであるように。
シャングリラの舵を今も握っているだろう恋人、ハーレイもどうか青い地球へ、と捧げた祈り。
自分は共に行けないけれども、皆は幸せに青い地球へ、と。
冷たいと感じはしなかった右手。
皆の幸せを祈る間も、右手は凍えていなかった。ただ、シャングリラを見送っただけ。
無事に飛べたと、テールライトが宇宙の闇に消えてゆくのを。
(あれ…?)
何処、と見回した自分の周り。パチリと開いた両方の瞳。右の瞳は砕けてしまった筈なのに。
なんだか変だ、と思った自分はベッドの上。朝の光がカーテンの向こうから射して来る。
(…今のって、夢…)
前のぼくのつもりで夢を見てた、と気が付いた。夢が覚めたから、チビの自分がいるのだと。
子供部屋に置かれたベッドの上に。十四歳の自分用のベッドに。
(あの夢って…)
メギドの夢でも全然違う、と見詰めた右手。この手は冷たく凍えなかったし、いつもの悲しさや苦しさも無い。「やり遂げた」という思いがあるだけ。
シャングリラは無事に飛び立てたから。ミュウの仲間たちとハーレイを乗せて、宇宙に船出して行ったから。宇宙の何処かにあるだろう地球、其処を目指して。…ミュウの未来へ。
夢の中身が変わっていたのは、きっとテールライトのことを考えたせい。
シャングリラのそれを見送りたかった、と眠る前に思って泣いていたから。白いシャングリラのテールライトを見送れたならば、前の自分は悲しい最期を迎えずに済んでいただろう、と。
そう思ったから、夢の中身が変わった。
同じメギドの夢だけれども、白いシャングリラを見送る夢に。
いつもと全く違った夢。目覚めた後にも、鮮やかに思い出せる夢。
だから、ハーレイが訪ねて来た時、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日はハーレイに甘える予定だったんだけど…」
そういうつもりでいたんだけれど、と言ったらハーレイは怪訝そうな顔。
「予定だって?」
なんだ、甘える予定というのは。…それに、その予定がどうかしたのか?
それだけでは何も分からんぞ、というハーレイの疑問は当然だろう。普段だったら、ハーレイが何をやっていようが、甘える時には甘えるから。
断りも無しにチョコンと膝の上に座るとか、いきなりギュッと抱き付くだとか。
「予定だってば、甘えようと思っていたんだよ。…昨日の夜から」
甘えるつもりだったんだけど…。変わっちゃったよ、夢を見たせいで。…ぼくの気分が。
「夢ということは…。メギドなのか?」
違うな、メギドの夢を見たなら、甘える方に行く筈だ。お前、いつでもそうなんだから。
いったい何の夢を見たんだ、甘えたい気分が消し飛ぶだなんて…?
「えっとね…。甘えたい気分が消えたって言うより、ぼくが満足しちゃったんだよ」
昨日の夜には、ハーレイに甘えるしかない、って思うくらいに悲しくて…。
涙まで出ちゃったほどなんだけれど、その悲しさが無くなっちゃった。夢のお蔭で。
見たのはメギドの夢だったけれど、ぼくの手、凍えなかったんだよ。いつも右手が凍えるのに。
「ほほう…。その夢には俺が出て来たのか?」
俺はお前を助けられたのか、メギドの夢に登場して…?
「ううん、出て来たのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
メギドを沈めにやって来たのか、とハーレイが訊くから、「違うよ」と首を横に振った。
「ただシャングリラが出て来ただけ。うんと遠くを飛んでいたけど…」
あれは確かにシャングリラだったよ、夢の中のぼくにも分かっていたから。
だって見間違えるわけがないもの、シャングリラが宇宙を飛んでゆく姿。
無事に飛び立ったことが分かったから、と説明した。
ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、それを見られて安心した、と。いつもの夢なら、独りぼっちで泣きじゃくるけれど、ハーレイも無事だと分かったお蔭で泣かずに済んだ、と。
「ホントだよ? ちゃんとシャングリラが見えたから…」
シャングリラなんだ、って分かる光だったから、泣いたりしないでホッとしてたよ。ハーレイもあの船に乗っているから、みんなと地球まで行くんだよね、って。
ぼくは一緒に行けないけれども、みんなが無事ならそれでいい、って…。
シャングリラは飛んで行っちゃったけれど、光を見ながらお祈りしてた。夢の中でね。
「…あんな所から見えたのか、それが?」
お前が夢に見るってことはだ、今日まで忘れてしまってただけで、見えていたのか?
もちろん肉眼じゃ見えないだろうが、サイオンの目では見えていたとか…?
「見えなかったよ、そんな力が残っていたわけがないじゃない」
メギドからシャングリラを探せるほどなら、前のぼくは生きて戻っていたよ。
大怪我をしてても、シャングリラまで。…ジョミーを呼んで、途中まで迎えに来て貰って。
力は少しも残っていなくて、シャングリラが無事かどうかも知らないままで終わったけれど…。
無事でいて欲しい、って思いながら死んだのが前のぼくなんだけど…。
でもね、シャングリラを見送りたかった、って思ったんだよ。
昨日の夜に、ハーレイの車を見送った後で。
お風呂に入って、それから暫く起きていて…。窓の外もちょっぴり眺めたりして。
ハーレイが車で帰って行く時は、テールライトが見えるから…。じきに見えなくなるけどね。
シャングリラだって、後ろから見たらエンジンとかの光、テールライトに見えるでしょ?
それを見送りたかったな、って考えちゃって…。
メギドで独りぼっちになっても、シャングリラの光が見えていたなら良かったかも、って。
だって、みんなが乗ってる船だよ?
シャングリラなんだ、って見送ることが出来たら、前のぼく、泣かなかったかも、って…。
でも、シャングリラは見えなかったし、前のぼくは悲しすぎたよね、って…。
そう思ったから、ハーレイに甘えるつもりだったんだよ。…今日、会ったらね。
色々と考えてしまったせいで夢を見ちゃった、と打ち明けた。
メギドの悪夢は見たくないのに、メギドの夢を見てしまった、とも。夢の中身は、まるで違っていたけれど。独りぼっちで泣きじゃくりながら、死んでゆく夢ではなかったけれど。
「夢のぼく、やっぱり独りぼっちでいたけれど…。誰も側にはいなかったけれど…」
それでも泣いていなかったんだよ、いつもの夢とは違ってね。
右手が凍えて冷たい感じもしなかった。この話、さっきもしていたでしょ?
同じように死んでしまう夢でも、シャングリラを見送ることが出来たら、幸せみたい。
シャングリラがどんどん遠くなっていって、消えてしまうような夢でもね。
夢の中のぼく、どうして平気だったのかな…?
シャングリラはぼくを置いて行くのに、ぼくは一人で死んじゃうのに…。
今のぼくが幸せに生きてるからかな、おんなじようにテールライトを見てても。
ハーレイの車、帰って行っても、また来るもんね。
テールライトが見えなくなっても、もうハーレイに会えなくなるってわけじゃないから。
それと重なっちゃったのかな、と傾げた首。
「夢の中のぼくは、今のぼくと重なっちゃってたかな?」と。
夢にいたのは前の自分でも、今の自分の幸せな経験を何処かに持っていたのだろうか、と。
「そのせいだろうな、シャングリラは行ってしまうんだから」
行ったきり二度と戻って来ないし、お前は独りぼっちのままだ。余計に寂しくなりそうだぞ。
いや、前のお前なら、そうは思わなかったかもしれん。
本当にシャングリラの光が見えていたなら、満足だったかもしれないな。
前のお前は、今のお前よりも遥かに我慢強かった。…仲間たちのことが最優先で、自分のことはいつも後回しで。
そのせいでメギドまで行っちまったんだ、仲間たちとシャングリラを守ろうとして。
だからシャングリラの無事を知ったら、独りぼっちで死ぬ運命でも、幸せに思ったかもしれん。
自分の役目を果たせたんだし、ミュウの未来が続いてゆくのを、その目で確かめたんだから。
シャングリラの光が遠ざかってゆくなら、それは仲間たちが生き延びた証拠。メギドの劫火から無事に逃れて、ミュウの未来へと旅立った証。
「前のお前なら、幸せな気持ちで見送ったかもしれないな」と話したハーレイなのだけれども。
ふと曇ったのが鳶色の瞳。「俺は無理だな」と。
「…俺には、とても出来んだろう。遠ざかってゆく光を見送ることは」
お前のようには出来ないな。…たとえ夢でも、俺には無理だ。
「え…?」
ハーレイが見送る光ってなあに、何が無理なの?
「夢でも無理だと言っただろうが。今の俺じゃなくて、前の俺だな」
前のお前がシャングリラが飛んで行くのを見なかったように、前の俺だって見ていない。
シャングリラじゃなくて、前のお前だが…。
お前がメギドへ飛んで行くのを、前の俺は見てはいないんだ。…青い光が遠ざかるのを。
ジョミーの話じゃ、お前、消えちまったらしいしな?
瞬間移動で行ってしまって、何処へ飛んだかも分からなかった。お前が行ってしまった方向。
シャングリラのレーダーに映っていた点、その内の一つが消えてしまって、それっきりだ。
次にお前が現れた場所は、もうレーダーでは捉えられない所になっていたんだろう。
お前がそれを意図していたのか、そうじゃないのかは分からんが…。
青い光に包まれたお前が飛んで行くのを、もしも肉眼で見ていたら…。
レーダーに映った点にしたって、そいつがどんどん遠くなっていって、消えちまったら…。
きっと一生、悔やみ続けた、とハーレイの手が伸びて来て握られた右手。
今日の夢では凍えていないし、「温めてよ」と頼んだわけではないというのに。甘える予定も、夢のお蔭で変わったと伝えた筈なのに。
けれどハーレイは褐色の両手で、右手をすっぽりと包んでいるから…。
「…なんでハーレイは見送れないの?」
前のぼくが飛んで行く姿を。…肉眼でも、それにレーダーでも。
見送りたかった、って言うんだったら分かるけれども、その逆だなんて…。
前のぼくは其処まで考えてないし、飛べるだけの距離を稼ぎたくって瞬間移動したんだけれど。
どうしてそんなことを言うの、とハーレイの顔を見詰めたら…。
「いいか、見送ったら、お前を失くしてしまうんだぞ?」
俺が見ている青い光は、二度と戻って来やしない。…お前はそのために行ったんだから。
青い光が見えなくなったら、お前とはもうお別れだ。レーダーから影が消えた時にも。
前のお前が見送りたかったシャングリラには、ちゃんと未来があるだろう?
お前が見ていた夢の中でも、現実に起こった出来事でもな。シャングリラは無事に地球まで辿り着いたし、消えてしまいやしなかった。沈んだりしないで、未来があった。
しかし、お前にはそいつが無いんだ。…メギドに向かって飛ぶお前には。
未来なんか無くて、死んじまうだけだ。俺から遠くなればなるほど。
そうなることが分かっているのに、俺が見送れると思うのか…?
「あ…!」
ホントだ、前のぼくとシャングリラだったら、まるで逆様…。
おんなじように消えて行っても、遠くなっていく光でも…。
前のぼくだと本当に消えて、戻って来ない光だものね…。シャングリラの光は宇宙に消えても、別の所へ旅をしてゆくだけなんだけれど…。
全然違うよ、どっちも遠くなる光だけれど。
前のハーレイがぼくを見送れないのは、前のぼくは戻って来ないから…。
それで「無理だ」と言ったのか、と分かったハーレイの言葉の理由。ハーレイの胸にある思い。
もしも戻って来ないのだったら、テールライトは見送れない。
今のハーレイが乗っている車、それの光が消えて行ったら、もうお別れだと言うのなら。二度とハーレイに会えはしなくて、テールライトが見えなくなった時が別れの瞬間ならば。
(…お別れなんだ、って分かっていたって、見送れないよ…)
テールライトが見えなくなったら、別れを思い知らされるから。あまりにも悲しすぎる別れを、現実を目の前に突き付けられてしまうから。
さよならと一緒に「またね」があるから、見送れる車のテールライト。「また来てね」と大きく手を振りながら。テールライトが見えなくなるまで、車が行ってしまうまで。
メギドでシャングリラを見送る夢だって、多分、同じこと。
また見ることは叶わなくても、シャングリラは未来がある船だから。夢も希望も乗っている船、別れた途端に消えてしまいはしないから。
「そっか…。ぼく、あんな夢まで見ちゃったから…」
テールライトを見送ることって、幸せなんだと思ったのに…。
さよならの光でも、幸せな光。見送っていたら、心が温かくなる光。ちょっぴり寂しい気持ちがしたって、見られないよりもずっといいよね、って…。
でも…。
そうじゃない時もあるんだね。…前のハーレイだと、幸せどころか悲しいだけの光だから。
見られない方が良かったんだ、って今でも思うほどだから…。前のぼくが飛んで行った時の光。
「まあな…。前の俺にはな」
今の時代だと、チビのお前が思う通りに幸せな光になるんだろうが。…余程でなければ。
「ホント?」
「考えてもみろ、「またな」と嘘をついたりすることはないだろう?」
俺が「またな」と帰った時には、ちゃんとまた会いに来るんだし…。
誰だってそういう具合だろうが、俺に限らず。
遠くへ旅立つ宇宙船だって、とハーレイが優しく撫でてくれた右手。「お前の手だな」と。
「前の俺はお前を失くしちまったが、お前でさえも帰って来たんだ。俺の所へ」
今はそういう時代なんだぞ、
すっかり平和で戦いも何も無い時代。
技術もずいぶん進んだんだし、どんなに遠くへ行った船でも、いつかは帰って来るもんだ。前の俺たちが生きた頃だと、行ったきりになる船も珍しくはなかったが…。
戻って来たって、乗組員が世代交代しちまってるとか。人類だけに、年を取り過ぎちまって。
しかし今だと、そういうことは起こらないから…。
他の星へ移住するんです、と引越したヤツも、それっきりにはならないだろう?
郵便も届けば、通信だってあるからな。直接会える機会は少なくなっちまっても。
「そうだね…!」
宙港とかまで見送りに行っても、飛んで行く船、ちゃんと帰って来るものね…。
乗って行った人が次の便には乗ってなくても、「またね」って約束したらいつかは会えるもの。
会えないままになったりしないよ、何年か会えずに待つってことはあってもね。
パパやママの友達だってそうだもの、と頷いた。遠い星へと引越して行った知り合いの人。
「あの船だな」と父が夜空を指差したことも何度かあった。友達が乗っている船だ、と。
消えてゆく光を父と一緒に見上げたけれども、友達はまた会いに来た。宇宙船に乗って、他所の星から。「大きくなったな」と頭を撫でてくれたりもして。
そういうものか、と納得した今の時代のこと。今は悲しいテールライトは無いらしい。
ハーレイが「俺は無理だな」と夢に見るのさえ嫌がったような、遠ざかって消えてゆく光は。
二度と戻れない場所へ向かって、真っ直ぐに飛んでゆく光は。
平和な時代になったんだね、と考えていたら、ハーレイが右手を返してくれた。「お前のだ」と優しい笑みを浮かべて。
「今日のお前は、温めなくてもいいらしいしな? メギドの夢を見たくせに」
俺の方が逆に欲しがっちまった、お前の手を。…前のお前を思い出したら、不安になって。
前のお前がメギドへ飛んで行く時の光、夢でも見たくはないからなあ…。
それでだ、今のお前の場合は、テールライトが好きなのか?
俺の車を見送った後で、色々と考え事をして、ついでに泣いてたようだがな…?
「…泣いてたのは、前のぼくのことを考えてたからで…」
前のぼく、可哀相だったよね、って。…シャングリラを見送れなかったから。
夢でシャングリラを見送ったぼくは、いつもの夢よりずっと幸せだったんだけど…。
今のぼくは寂しいよ、テールライトは。「またね」の光で、また会えても。
ハーレイの車を見送るだけで、一緒に帰れないんだから。
「なるほどなあ…。また会えるんだと分かっていたって、寂しい光に見えるってことか」
しかしだ、今は無理でも、いつかはお前も俺と一緒に帰れるんだぞ?
何処へ出掛けても俺の車で、俺の隣に座ってな。…テールライトを見送る代わりに。
その日を楽しみにしていちゃどうだ?
いつかはアレに乗るんだから、と思っていれば、幸せな光に見えて来そうだぞ。
何事も気の持ちようだってな、テールライトをどう思うかも。
「前のぼくなら出来そうだけれど、今のぼくは強くないんだよ!」
シャングリラの光を夢で見送って、幸せだったぼくみたいには…!
あんな風に強くなれやしないよ、今のぼくはうんと弱虫になってしまったもの…!
だからね…。
今日はゆっくりしていってね、と立ち上がって回り込んだテーブル。ハーレイが座る、向かい側へと。椅子の後ろから両手を回して抱き付いた。
「テールライトは遅いほどいいよ」と。
遠くなるのはゆっくりでいいと、うんとゆっくり走らせて、と。
「ゆっくり走れば、見えなくなるまでの時間が少しは長くなるでしょ?」
だからお願い、テールライトが遠くなるのを遅くしてよね。
「おいおい、今日は天気がいいから、俺は車じゃないんだが?」
此処まで歩いて来ちまったんだし、テールライトを遅くするも何も…。
そいつは出来ない相談で…、とハーレイは苦笑しているけれど。譲る気持ちなど全く無いから、車で来てはいない恋人に出した注文。
「じゃあ、帰る時はゆっくり歩いて!」
ハーレイ、歩くの、速いんだもの…。大股でぐんぐん行っちゃうから。
「ゆっくりか…。俺が覚えていたならな」
帰る時まで覚えていたなら、注文通りに歩いてやろう。ちょっと遅めに。
「約束だよ?」
ぼくも約束、忘れないから、ハーレイもちゃんと覚えておいて。今日の帰りはゆっくりだよ!
メギドの夢まで見ちゃった日だから、と大きな身体に甘えて約束。「絶対だよ?」と。
いくら幸せな部分があっても、遠ざかってゆくテールライトは、やっぱり何処か寂しいから。
見送れる強さを今の自分は持っていないから、甘えたくなる。
早く一緒に帰れるようになりたいから。
ハーレイの車のテールライトを見送るよりかは、同じ車で帰りたいから…。
テールライト・了
※前のブルーには見送れなかった、ナスカを離れてゆくシャングリラが遠ざかってゆく光。
もしも見ることが出来ていたなら、きっと満足だったのでしょう。自分の務めを全て終えて。
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月10日になったことをお詫びいたします。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
帰っちゃった、とブルーが見送ったテールライト。遠ざかってゆく車の光。
ハーレイの愛車の後ろに灯っているライト。金曜日の夜、「またな」と帰って行ったハーレイ。前のハーレイのマントと同じ色の車を運転して。濃い緑色をした愛車に乗って。
懸命に手を振るのだけれども、ハーレイからはもう見えないだろう。テールライトは遠ざかって消えていったから。夜の住宅街の向こうへ。
(あーあ…)
溜息をついて入った庭。見送りに出ていた道路から。門扉を閉めて鍵をかけたら、ハーレイとは別の世界の住人。チビの自分はこの家に住んで、ハーレイの家は何ブロックも離れた所。
(さよならだなんて…)
今日は学校があった日だから、ハーレイが帰りに寄ってくれただけでも運がいい。学校の仕事が長引いた日には、訪ねて来てはくれないから。
それは分かっているのだけれども、寂しい気持ちは拭えない。ついさっきまでは、あれこれ話が出来たのに。二人きりで部屋でお茶を飲んだり、両親も一緒の夕食だって。
(ホントに色々、お喋りしてて…)
ハーレイの声に、姿に、夢中だった自分。「ハーレイと一緒なんだよ」と。
キスは駄目でも恋人同士で、大好きでたまらないハーレイ。側にいられるというだけで。温かな声が耳に届いて、穏やかな瞳を見られるだけで。
幸せ一杯で過ごしていたのに、楽しい時間はアッと言う間に過ぎるもの。気付けばとっくに通り過ぎていて、こうして終わりがやって来る。
食後のお茶の時間も終わって、帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
ガレージに停めていた愛車に乗って、エンジンをかけて走り出して。
そのハーレイが乗った車はもう見えない。「あそこだよ」と分かるテールライトも。
表の道路に戻ってみたって、何処にも見えないテールライト。夜の道路があるだけで。道沿いの家に灯る灯りや、街灯の光があるだけで。
庭から家の中へと入って、戻った二階の自分の部屋。ハーレイとお茶を飲んでいた部屋。
其処にハーレイの姿は無いから、零れてしまった小さな溜息。さっきまで一緒だったのに、と。
(寂しいよ…)
ハーレイが運転して行った車。濃い緑色の車の助手席に乗って、ハーレイの家に帰りたいのに。自分も車に乗ってゆけるなら、それが出来たら幸せなのに。
ハーレイが開ける運転席とは、違った方の扉を開けて。シートに座って、扉を閉めて。
そしたら車が走り出しても、寂しい気持ちになったりはしない。自分も一緒に乗っているから、夜の道を二人で走るのだから。
ほんの短いドライブだけれど、ハーレイの家に着くまでの道を。ガレージに車が滑り込むまで、ハーレイがエンジンを止めるまで。
(そうしたいけど、まだまだ無理…)
十四歳にしかならない自分は、当分はこうして見送るだけ。
今日の自分がそうだったように、家の表の道路に出て。ハーレイに「またね」と手を振って。
車が行ってしまうのを。…テールライトが見えなくなるのを。
お風呂に入ったら、後は寝るだけ。パジャマ姿で、窓の向こうを覗いてみた。カーテンは閉めたまま、上半身と頭を突っ込んで。
庭園灯が灯った庭と生垣、それをぼんやり見下ろしていたら、通った車。黒っぽい影とライトが見えただけなのだけれど、表の道路を走って行った。ハーレイの車が去ったのと同じ方向へ。
(ハーレイの車も…)
こんな風に此処から見ることがある。濃い緑色は夜の暗さに溶けてしまって、シルエット。光が当たった時以外は。街灯だとか、庭園灯だとか。
はっきり見えるのはテールライトで、「帰って行くんだ」と分かる遠ざかる光。
普段は表で見送るけれども、病気の時には窓からお別れ。今のようにカーテンの陰に入って。
(起きちゃ駄目だ、って言われても…)
ハーレイが「しっかり眠って早く治せよ?」と灯りを消して部屋を出たって、足音が消えた後、何度見送ったか分からない。
こっそりと起きて、カーテンを閉めた窓の陰から。ハーレイに気付かれないように。
テールライトが消えてゆくのを、遠ざかって見えなくなってゆくのを。
(ああいう時には、ホントに寂しい…)
外で見送る時よりも、ずっと。表の通りに立って手を振る時よりも。
きっと心が弱くなっているからだろう。病気のせいで、弱ってしまった身体と一緒に心まで。
窓から車を見送りながら、涙が零れる時だって。
「帰っちゃった」と。
ハーレイの車は行ってしまって、テールライトももう見えないよ、と。
今の車で思い出しちゃった、と離れた窓。ハーレイはとっくに家に着いただろうし、ゆっくりと寛いでいそうな時間。熱いコーヒーでも淹れて。
置いて帰ったチビの恋人、自分の心も知らないで。
(テールライト…)
なんて寂しい光だろう、とベッドに腰掛けて考えた。消えてゆく光は寂しいよ、と。
テールライトを点けて帰って行ったハーレイ、愛おしい人はまた来るのだと分かっていても。
それっきりになってしまいはしなくて、再び会えると分かっていても。
(今日だと、明日には…)
夜が明けたら土曜日なのだし、またハーレイに会うことが出来る。
休日だから、車の出番は無いけれど。天気のいい日は、ハーレイはいつも歩いて来るから。雨が降る日や、降りそうな時だけ、車でやって来るハーレイ。休みの日には。
仕事の帰りに寄ってくれる日は、いつでも車。今日も車で来ていたように。
テールライトが消えていっても、ハーレイにはまた会えるのだけれど。ほんの短い間のお別れ、どんなに会えない日が続いたって、せいぜい数日なのだけれども。
(でも、会えるって分かっていたって…)
悲しすぎる光がテールライト。いつ見送っても、何度、大きく手を振っても。
さよなら、と小さくなってゆく光。
ハーレイを乗せた車が点けている光、恋人の居場所はどんどん遠くなってゆくから。
さっきまで家の前にいたのに、遠ざかって消えてしまうから。
(さよならの光…)
テールライトはそうだよね、と思った途端に、胸を掠めていったこと。
前の自分は見ていない。
シャングリラが去ってゆく光を。白い鯨のテールライトを、「さよなら」と消えてゆく光を。
(テールライトじゃなかったけれど…)
白いシャングリラも、暗い宇宙で後ろから見れば、幾つかの光が灯っていた。鯨のヒレのように見える部分などには、位置を示すための青い色の灯り。
それにエンジンの強い光も、テールライトのようなもの。「あそこにいる」と分かるから。
漆黒の宇宙を飛んでいたって、シャングリラの居場所を教えた光。
けれど、メギドに飛んだ自分は…。
(テールライト、見送れなかったんだよ…)
白い鯨が去ってゆくのを、自分が守ったシャングリラを。
命と引き換えに守り抜いた船を、無事に飛んでゆくシャングリラを。
あの時の自分は泣きじゃくっていたから、それどころではなかったけれど。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手が凍えて、悲しくて泣いていたのだけれど。
(…だけど、シャングリラが見えていたなら…)
シャングリラがいた赤いナスカと、あんなに離れていなかったなら。メギドとナスカが、もっと近い場所にあったなら。
泣きながらも、きっと見送れた。白いシャングリラが旅立つのを。
自分は其処には戻れないけれど、あそこにハーレイがいるのだと。
ハーレイがしっかりと舵を握って、シャングリラは地球に向かうのだと。
遠ざかってゆくテールライトを、エンジンの光を見送っただろう。光が宇宙に溶けてゆくのを。漆黒の闇に吸い込まれるように、「さよなら」と消えてゆく光を。
メギドが爆発する時まで。前の自分の命の焔が、それと一緒に消える時まで。
あるいは倒れて命尽きるまで、意識が闇に飲まれるまで。
もしも、そうしていられたら。白いシャングリラを見送れたなら。
(ハーレイとの絆…)
切れてしまった、と思わずに済んだかもしれない。ハーレイの温もりを失くしていても。
シャングリラの居場所を教えてくれる、テールライトの光の向こう。それを点けた船、ミュウの仲間たちを乗せた白い箱船。光の中にはハーレイもいる。テールライトを点けている船に。
ハーレイの温もりは消えたけれども、今は見送るだけなのだから、と。
温もりをくれた温かな腕は、あの光と一緒にあるのだから、と。
(さよならだけれど、ハーレイは見えているものね…)
姿そのものは見えないけれども、ハーレイが舵を握る船。シャングリラの光が見えているなら、ハーレイが見えているのと同じ。ハーレイを乗せた船なのだから。
右手が凍えていたとしたって、ギュッと握ったかもしれない。自分の意志で。
失くしてしまったハーレイの温もり、それを右手に取り戻そうと。
白いシャングリラのテールライトを見送りながら。「あそこにハーレイはいるのだから」と。
絆は切れてしまっていないと、今もハーレイとは繋がっている、と。
(ハーレイの姿は見えなくっても…)
白いシャングリラが其処に在るなら、ハーレイも其処に確かにいる。あの箱舟の舵を握って。
キャプテンの務めを果たさなければ、と真っ直ぐに前を見詰めて立って。
テールライトが遠くなったら、絆は細くなってゆくけれど。きっと切れたりしないだろう。船がどんなに遠くなっても、光が闇に溶けていっても。
ワープして視界から消えていっても、切れることなく続きそうな絆。ハーレイと前の自分の間を繋ぎ続ける、細いけれども強い糸。けして切れずに、繋がったままの。
白いシャングリラを、テールライトを見送ることが出来たなら。
右の瞳は撃たれてしまって潰されたから、左の目でしか見られなくても。
半分欠けてしまった視界が、涙で滲んでぼやけていても。
(…シャングリラ、見送りたかったかも…)
そう思ったら零れた涙。両方の瞳から、涙の粒が盛り上がって。溢れて流れて、頬を伝って。
守った船を見送ることさえ、出来ずに終わった前の自分。
シャングリラからは遠く離れていたから、ジルベスター・エイトとナスカの間は遠すぎたから。
もっと近くにシャングリラがいたら、テールライトを見送れたのに。
「さよなら」と、「いつか地球まで行って」と。
自分の命は尽きるけれども、シャングリラは無事に飛び立てたから。暗い宇宙へ船出したから、遠くなってゆくのがテールライト。白い鯨が旅立った証。
それさえ見られず、独りぼっちで泣きじゃくりながら死んだソルジャー・ブルー。
前の自分は、なんと悲しい最期だったか、と思うと止まらない涙。
テールライトが見えていたなら、皆の旅立ちを見送ったのに。ハーレイとの絆もきちんと自分で結び直して、右手をギュッと握ったろうに。
温もりは消えてしまったけれども、こうして思い出せるから、と。
シャングリラが遠くへ去ってしまっても、自分の命が此処で尽きても、ハーレイとの絆は切れてしまいはしないから、と。
きっと笑みさえ浮かべただろうに、見送れなかったシャングリラ。遠ざかる光を、漆黒の宇宙を飛んでゆく船のテールライトを。
(見たかったよ…)
シャングリラの光が遠くなるのを、テールライトが消えてゆくのを。
けれども、出来なかったこと。シャングリラから遠く離れたメギドで死んでいった自分。
本当に悲しくてたまらないから、胸が締め付けられるようだから…。
(明日は、ハーレイに…)
うんと甘えることにしよう、と両腕で抱き締めた自分の身体。ハーレイは此処にいないから。
明日になっても覚えていたなら、大きな身体に抱き付いて、頬をすり寄せたりもして。
ハーレイと一緒に地球に来られたと、今はこうして幸せだから、と。
それがいいよね、と潜り込んだベッド。今の自分はチビの子供で、両親と地球で暮らしている。子供部屋だって持っているから、こうして眠れる自分用のベッド。
青の間にあったベッドよりずっと小さいけれども、心地良い眠りをくれる場所。
一晩眠れば、明日はハーレイが来てくれる。ハーレイに会ったら、抱き付いて、甘えて…。
(…メギドの夢は嫌だけれどね?)
あそこでシャングリラを見送りたかった、と考えていたせいで、メギドの悪夢が訪れたら困る。怖くて夜中に飛び起きる夢。前の自分が死んでゆく夢。
メギドの夢を見ませんように、と祈りながらウトウト眠ってしまって、気付けば其処はメギドの中で。青い光が消えてしまった制御室。発射されることはないメギド。
とうに壊れて、後は沈んでゆくだけだから。爆発のせいで、装甲も破壊されているから。
(…シャングリラ……)
あんな所に、と見付けた船。遠いけれども、白い鯨だと分かる船。
爆発で穴が開いた装甲、それの向こうに広がる宇宙。漆黒の闇にポツンと灯ったテールライト。
長い年月、其処で暮らしたから、シャングリラの光を間違えはしない。
遠く離れて、小さな光の点になっても。星たちの中に紛れていても。
(シャングリラは無事に飛び立てたんだ…)
良かった、と漏らした安堵の息。もう大丈夫だと、白い鯨は飛べたから、と。
メギドの炎に飲まれはしないで、仲間たちを乗せて飛び立った船。この宙域から去ってゆく光。
シャングリラの無事を確かめられたら、思い残すことは何も無い。
(どうか地球まで…)
白いシャングリラの仲間たちが幸せであるように。ミュウの未来が幸多きものであるように。
シャングリラの舵を今も握っているだろう恋人、ハーレイもどうか青い地球へ、と捧げた祈り。
自分は共に行けないけれども、皆は幸せに青い地球へ、と。
冷たいと感じはしなかった右手。
皆の幸せを祈る間も、右手は凍えていなかった。ただ、シャングリラを見送っただけ。
無事に飛べたと、テールライトが宇宙の闇に消えてゆくのを。
(あれ…?)
何処、と見回した自分の周り。パチリと開いた両方の瞳。右の瞳は砕けてしまった筈なのに。
なんだか変だ、と思った自分はベッドの上。朝の光がカーテンの向こうから射して来る。
(…今のって、夢…)
前のぼくのつもりで夢を見てた、と気が付いた。夢が覚めたから、チビの自分がいるのだと。
子供部屋に置かれたベッドの上に。十四歳の自分用のベッドに。
(あの夢って…)
メギドの夢でも全然違う、と見詰めた右手。この手は冷たく凍えなかったし、いつもの悲しさや苦しさも無い。「やり遂げた」という思いがあるだけ。
シャングリラは無事に飛び立てたから。ミュウの仲間たちとハーレイを乗せて、宇宙に船出して行ったから。宇宙の何処かにあるだろう地球、其処を目指して。…ミュウの未来へ。
夢の中身が変わっていたのは、きっとテールライトのことを考えたせい。
シャングリラのそれを見送りたかった、と眠る前に思って泣いていたから。白いシャングリラのテールライトを見送れたならば、前の自分は悲しい最期を迎えずに済んでいただろう、と。
そう思ったから、夢の中身が変わった。
同じメギドの夢だけれども、白いシャングリラを見送る夢に。
いつもと全く違った夢。目覚めた後にも、鮮やかに思い出せる夢。
だから、ハーレイが訪ねて来た時、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日はハーレイに甘える予定だったんだけど…」
そういうつもりでいたんだけれど、と言ったらハーレイは怪訝そうな顔。
「予定だって?」
なんだ、甘える予定というのは。…それに、その予定がどうかしたのか?
それだけでは何も分からんぞ、というハーレイの疑問は当然だろう。普段だったら、ハーレイが何をやっていようが、甘える時には甘えるから。
断りも無しにチョコンと膝の上に座るとか、いきなりギュッと抱き付くだとか。
「予定だってば、甘えようと思っていたんだよ。…昨日の夜から」
甘えるつもりだったんだけど…。変わっちゃったよ、夢を見たせいで。…ぼくの気分が。
「夢ということは…。メギドなのか?」
違うな、メギドの夢を見たなら、甘える方に行く筈だ。お前、いつでもそうなんだから。
いったい何の夢を見たんだ、甘えたい気分が消し飛ぶだなんて…?
「えっとね…。甘えたい気分が消えたって言うより、ぼくが満足しちゃったんだよ」
昨日の夜には、ハーレイに甘えるしかない、って思うくらいに悲しくて…。
涙まで出ちゃったほどなんだけれど、その悲しさが無くなっちゃった。夢のお蔭で。
見たのはメギドの夢だったけれど、ぼくの手、凍えなかったんだよ。いつも右手が凍えるのに。
「ほほう…。その夢には俺が出て来たのか?」
俺はお前を助けられたのか、メギドの夢に登場して…?
「ううん、出て来たのはシャングリラ…」
「シャングリラだと?」
メギドを沈めにやって来たのか、とハーレイが訊くから、「違うよ」と首を横に振った。
「ただシャングリラが出て来ただけ。うんと遠くを飛んでいたけど…」
あれは確かにシャングリラだったよ、夢の中のぼくにも分かっていたから。
だって見間違えるわけがないもの、シャングリラが宇宙を飛んでゆく姿。
無事に飛び立ったことが分かったから、と説明した。
ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、それを見られて安心した、と。いつもの夢なら、独りぼっちで泣きじゃくるけれど、ハーレイも無事だと分かったお蔭で泣かずに済んだ、と。
「ホントだよ? ちゃんとシャングリラが見えたから…」
シャングリラなんだ、って分かる光だったから、泣いたりしないでホッとしてたよ。ハーレイもあの船に乗っているから、みんなと地球まで行くんだよね、って。
ぼくは一緒に行けないけれども、みんなが無事ならそれでいい、って…。
シャングリラは飛んで行っちゃったけれど、光を見ながらお祈りしてた。夢の中でね。
「…あんな所から見えたのか、それが?」
お前が夢に見るってことはだ、今日まで忘れてしまってただけで、見えていたのか?
もちろん肉眼じゃ見えないだろうが、サイオンの目では見えていたとか…?
「見えなかったよ、そんな力が残っていたわけがないじゃない」
メギドからシャングリラを探せるほどなら、前のぼくは生きて戻っていたよ。
大怪我をしてても、シャングリラまで。…ジョミーを呼んで、途中まで迎えに来て貰って。
力は少しも残っていなくて、シャングリラが無事かどうかも知らないままで終わったけれど…。
無事でいて欲しい、って思いながら死んだのが前のぼくなんだけど…。
でもね、シャングリラを見送りたかった、って思ったんだよ。
昨日の夜に、ハーレイの車を見送った後で。
お風呂に入って、それから暫く起きていて…。窓の外もちょっぴり眺めたりして。
ハーレイが車で帰って行く時は、テールライトが見えるから…。じきに見えなくなるけどね。
シャングリラだって、後ろから見たらエンジンとかの光、テールライトに見えるでしょ?
それを見送りたかったな、って考えちゃって…。
メギドで独りぼっちになっても、シャングリラの光が見えていたなら良かったかも、って。
だって、みんなが乗ってる船だよ?
シャングリラなんだ、って見送ることが出来たら、前のぼく、泣かなかったかも、って…。
でも、シャングリラは見えなかったし、前のぼくは悲しすぎたよね、って…。
そう思ったから、ハーレイに甘えるつもりだったんだよ。…今日、会ったらね。
色々と考えてしまったせいで夢を見ちゃった、と打ち明けた。
メギドの悪夢は見たくないのに、メギドの夢を見てしまった、とも。夢の中身は、まるで違っていたけれど。独りぼっちで泣きじゃくりながら、死んでゆく夢ではなかったけれど。
「夢のぼく、やっぱり独りぼっちでいたけれど…。誰も側にはいなかったけれど…」
それでも泣いていなかったんだよ、いつもの夢とは違ってね。
右手が凍えて冷たい感じもしなかった。この話、さっきもしていたでしょ?
同じように死んでしまう夢でも、シャングリラを見送ることが出来たら、幸せみたい。
シャングリラがどんどん遠くなっていって、消えてしまうような夢でもね。
夢の中のぼく、どうして平気だったのかな…?
シャングリラはぼくを置いて行くのに、ぼくは一人で死んじゃうのに…。
今のぼくが幸せに生きてるからかな、おんなじようにテールライトを見てても。
ハーレイの車、帰って行っても、また来るもんね。
テールライトが見えなくなっても、もうハーレイに会えなくなるってわけじゃないから。
それと重なっちゃったのかな、と傾げた首。
「夢の中のぼくは、今のぼくと重なっちゃってたかな?」と。
夢にいたのは前の自分でも、今の自分の幸せな経験を何処かに持っていたのだろうか、と。
「そのせいだろうな、シャングリラは行ってしまうんだから」
行ったきり二度と戻って来ないし、お前は独りぼっちのままだ。余計に寂しくなりそうだぞ。
いや、前のお前なら、そうは思わなかったかもしれん。
本当にシャングリラの光が見えていたなら、満足だったかもしれないな。
前のお前は、今のお前よりも遥かに我慢強かった。…仲間たちのことが最優先で、自分のことはいつも後回しで。
そのせいでメギドまで行っちまったんだ、仲間たちとシャングリラを守ろうとして。
だからシャングリラの無事を知ったら、独りぼっちで死ぬ運命でも、幸せに思ったかもしれん。
自分の役目を果たせたんだし、ミュウの未来が続いてゆくのを、その目で確かめたんだから。
シャングリラの光が遠ざかってゆくなら、それは仲間たちが生き延びた証拠。メギドの劫火から無事に逃れて、ミュウの未来へと旅立った証。
「前のお前なら、幸せな気持ちで見送ったかもしれないな」と話したハーレイなのだけれども。
ふと曇ったのが鳶色の瞳。「俺は無理だな」と。
「…俺には、とても出来んだろう。遠ざかってゆく光を見送ることは」
お前のようには出来ないな。…たとえ夢でも、俺には無理だ。
「え…?」
ハーレイが見送る光ってなあに、何が無理なの?
「夢でも無理だと言っただろうが。今の俺じゃなくて、前の俺だな」
前のお前がシャングリラが飛んで行くのを見なかったように、前の俺だって見ていない。
シャングリラじゃなくて、前のお前だが…。
お前がメギドへ飛んで行くのを、前の俺は見てはいないんだ。…青い光が遠ざかるのを。
ジョミーの話じゃ、お前、消えちまったらしいしな?
瞬間移動で行ってしまって、何処へ飛んだかも分からなかった。お前が行ってしまった方向。
シャングリラのレーダーに映っていた点、その内の一つが消えてしまって、それっきりだ。
次にお前が現れた場所は、もうレーダーでは捉えられない所になっていたんだろう。
お前がそれを意図していたのか、そうじゃないのかは分からんが…。
青い光に包まれたお前が飛んで行くのを、もしも肉眼で見ていたら…。
レーダーに映った点にしたって、そいつがどんどん遠くなっていって、消えちまったら…。
きっと一生、悔やみ続けた、とハーレイの手が伸びて来て握られた右手。
今日の夢では凍えていないし、「温めてよ」と頼んだわけではないというのに。甘える予定も、夢のお蔭で変わったと伝えた筈なのに。
けれどハーレイは褐色の両手で、右手をすっぽりと包んでいるから…。
「…なんでハーレイは見送れないの?」
前のぼくが飛んで行く姿を。…肉眼でも、それにレーダーでも。
見送りたかった、って言うんだったら分かるけれども、その逆だなんて…。
前のぼくは其処まで考えてないし、飛べるだけの距離を稼ぎたくって瞬間移動したんだけれど。
どうしてそんなことを言うの、とハーレイの顔を見詰めたら…。
「いいか、見送ったら、お前を失くしてしまうんだぞ?」
俺が見ている青い光は、二度と戻って来やしない。…お前はそのために行ったんだから。
青い光が見えなくなったら、お前とはもうお別れだ。レーダーから影が消えた時にも。
前のお前が見送りたかったシャングリラには、ちゃんと未来があるだろう?
お前が見ていた夢の中でも、現実に起こった出来事でもな。シャングリラは無事に地球まで辿り着いたし、消えてしまいやしなかった。沈んだりしないで、未来があった。
しかし、お前にはそいつが無いんだ。…メギドに向かって飛ぶお前には。
未来なんか無くて、死んじまうだけだ。俺から遠くなればなるほど。
そうなることが分かっているのに、俺が見送れると思うのか…?
「あ…!」
ホントだ、前のぼくとシャングリラだったら、まるで逆様…。
おんなじように消えて行っても、遠くなっていく光でも…。
前のぼくだと本当に消えて、戻って来ない光だものね…。シャングリラの光は宇宙に消えても、別の所へ旅をしてゆくだけなんだけれど…。
全然違うよ、どっちも遠くなる光だけれど。
前のハーレイがぼくを見送れないのは、前のぼくは戻って来ないから…。
それで「無理だ」と言ったのか、と分かったハーレイの言葉の理由。ハーレイの胸にある思い。
もしも戻って来ないのだったら、テールライトは見送れない。
今のハーレイが乗っている車、それの光が消えて行ったら、もうお別れだと言うのなら。二度とハーレイに会えはしなくて、テールライトが見えなくなった時が別れの瞬間ならば。
(…お別れなんだ、って分かっていたって、見送れないよ…)
テールライトが見えなくなったら、別れを思い知らされるから。あまりにも悲しすぎる別れを、現実を目の前に突き付けられてしまうから。
さよならと一緒に「またね」があるから、見送れる車のテールライト。「また来てね」と大きく手を振りながら。テールライトが見えなくなるまで、車が行ってしまうまで。
メギドでシャングリラを見送る夢だって、多分、同じこと。
また見ることは叶わなくても、シャングリラは未来がある船だから。夢も希望も乗っている船、別れた途端に消えてしまいはしないから。
「そっか…。ぼく、あんな夢まで見ちゃったから…」
テールライトを見送ることって、幸せなんだと思ったのに…。
さよならの光でも、幸せな光。見送っていたら、心が温かくなる光。ちょっぴり寂しい気持ちがしたって、見られないよりもずっといいよね、って…。
でも…。
そうじゃない時もあるんだね。…前のハーレイだと、幸せどころか悲しいだけの光だから。
見られない方が良かったんだ、って今でも思うほどだから…。前のぼくが飛んで行った時の光。
「まあな…。前の俺にはな」
今の時代だと、チビのお前が思う通りに幸せな光になるんだろうが。…余程でなければ。
「ホント?」
「考えてもみろ、「またな」と嘘をついたりすることはないだろう?」
俺が「またな」と帰った時には、ちゃんとまた会いに来るんだし…。
誰だってそういう具合だろうが、俺に限らず。
遠くへ旅立つ宇宙船だって、とハーレイが優しく撫でてくれた右手。「お前の手だな」と。
「前の俺はお前を失くしちまったが、お前でさえも帰って来たんだ。俺の所へ」
今はそういう時代なんだぞ、
すっかり平和で戦いも何も無い時代。
技術もずいぶん進んだんだし、どんなに遠くへ行った船でも、いつかは帰って来るもんだ。前の俺たちが生きた頃だと、行ったきりになる船も珍しくはなかったが…。
戻って来たって、乗組員が世代交代しちまってるとか。人類だけに、年を取り過ぎちまって。
しかし今だと、そういうことは起こらないから…。
他の星へ移住するんです、と引越したヤツも、それっきりにはならないだろう?
郵便も届けば、通信だってあるからな。直接会える機会は少なくなっちまっても。
「そうだね…!」
宙港とかまで見送りに行っても、飛んで行く船、ちゃんと帰って来るものね…。
乗って行った人が次の便には乗ってなくても、「またね」って約束したらいつかは会えるもの。
会えないままになったりしないよ、何年か会えずに待つってことはあってもね。
パパやママの友達だってそうだもの、と頷いた。遠い星へと引越して行った知り合いの人。
「あの船だな」と父が夜空を指差したことも何度かあった。友達が乗っている船だ、と。
消えてゆく光を父と一緒に見上げたけれども、友達はまた会いに来た。宇宙船に乗って、他所の星から。「大きくなったな」と頭を撫でてくれたりもして。
そういうものか、と納得した今の時代のこと。今は悲しいテールライトは無いらしい。
ハーレイが「俺は無理だな」と夢に見るのさえ嫌がったような、遠ざかって消えてゆく光は。
二度と戻れない場所へ向かって、真っ直ぐに飛んでゆく光は。
平和な時代になったんだね、と考えていたら、ハーレイが右手を返してくれた。「お前のだ」と優しい笑みを浮かべて。
「今日のお前は、温めなくてもいいらしいしな? メギドの夢を見たくせに」
俺の方が逆に欲しがっちまった、お前の手を。…前のお前を思い出したら、不安になって。
前のお前がメギドへ飛んで行く時の光、夢でも見たくはないからなあ…。
それでだ、今のお前の場合は、テールライトが好きなのか?
俺の車を見送った後で、色々と考え事をして、ついでに泣いてたようだがな…?
「…泣いてたのは、前のぼくのことを考えてたからで…」
前のぼく、可哀相だったよね、って。…シャングリラを見送れなかったから。
夢でシャングリラを見送ったぼくは、いつもの夢よりずっと幸せだったんだけど…。
今のぼくは寂しいよ、テールライトは。「またね」の光で、また会えても。
ハーレイの車を見送るだけで、一緒に帰れないんだから。
「なるほどなあ…。また会えるんだと分かっていたって、寂しい光に見えるってことか」
しかしだ、今は無理でも、いつかはお前も俺と一緒に帰れるんだぞ?
何処へ出掛けても俺の車で、俺の隣に座ってな。…テールライトを見送る代わりに。
その日を楽しみにしていちゃどうだ?
いつかはアレに乗るんだから、と思っていれば、幸せな光に見えて来そうだぞ。
何事も気の持ちようだってな、テールライトをどう思うかも。
「前のぼくなら出来そうだけれど、今のぼくは強くないんだよ!」
シャングリラの光を夢で見送って、幸せだったぼくみたいには…!
あんな風に強くなれやしないよ、今のぼくはうんと弱虫になってしまったもの…!
だからね…。
今日はゆっくりしていってね、と立ち上がって回り込んだテーブル。ハーレイが座る、向かい側へと。椅子の後ろから両手を回して抱き付いた。
「テールライトは遅いほどいいよ」と。
遠くなるのはゆっくりでいいと、うんとゆっくり走らせて、と。
「ゆっくり走れば、見えなくなるまでの時間が少しは長くなるでしょ?」
だからお願い、テールライトが遠くなるのを遅くしてよね。
「おいおい、今日は天気がいいから、俺は車じゃないんだが?」
此処まで歩いて来ちまったんだし、テールライトを遅くするも何も…。
そいつは出来ない相談で…、とハーレイは苦笑しているけれど。譲る気持ちなど全く無いから、車で来てはいない恋人に出した注文。
「じゃあ、帰る時はゆっくり歩いて!」
ハーレイ、歩くの、速いんだもの…。大股でぐんぐん行っちゃうから。
「ゆっくりか…。俺が覚えていたならな」
帰る時まで覚えていたなら、注文通りに歩いてやろう。ちょっと遅めに。
「約束だよ?」
ぼくも約束、忘れないから、ハーレイもちゃんと覚えておいて。今日の帰りはゆっくりだよ!
メギドの夢まで見ちゃった日だから、と大きな身体に甘えて約束。「絶対だよ?」と。
いくら幸せな部分があっても、遠ざかってゆくテールライトは、やっぱり何処か寂しいから。
見送れる強さを今の自分は持っていないから、甘えたくなる。
早く一緒に帰れるようになりたいから。
ハーレイの車のテールライトを見送るよりかは、同じ車で帰りたいから…。
テールライト・了
※前のブルーには見送れなかった、ナスカを離れてゆくシャングリラが遠ざかってゆく光。
もしも見ることが出来ていたなら、きっと満足だったのでしょう。自分の務めを全て終えて。
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月10日になったことをお詫びいたします。
「クシャン!」
ブルーの口から、いきなり飛び出したクシャミ。
それもハーレイと一緒に過ごす土曜日、午前中のお茶の時間に突然に。
「大丈夫か?」
ハーレイが心配そうな顔をするから、「平気だよ」と笑顔で答えた。
「ちょっとムズムズしちゃっただけ…。ホントに平気」
もう出ないでしょ、と言ったのに。
「どうなんだか…。昨夜は少し冷えたからなあ、風邪引いてないか?」
メギドの夢は見なかったようだが、身体を冷やしちまったかもな。知らない間に。
午後のお茶も此処にするべきだろう。庭じゃなくって。
「えーっ!?」
そんな、と見開いてしまった瞳。
いい天気だから、午後は庭のテーブルに行こうと考えていた。庭で一番大きな木の下、真っ白な椅子とテーブルがある。初めてのデートの思い出の場所が。
其処で過ごそうと思っていたのに、駄目だなんて。
ハーレイにも「行こうね」とウキウキ話して、とても楽しみにしていたのに。
けれど「当然だろう」という顔のハーレイ。「今のクシャミを聞いちまうとな」と。
「お前、身体が弱いんだから…。気を付けないと」
用心に越したことはないんだ、今日は一日、お前の部屋だな。
庭のテーブルと椅子は逃げやしないし、次の機会でいいじゃないか。
そうするべきだ、とハーレイは譲らない。庭は駄目だ、と。
たった一回クシャミが出ただけ、繰り返してはいないのに。それに空には雲一つ無くて、絶好のデート日和なのに。
庭のテーブルと椅子は特別な場所。デート気分になれる場所。諦めるなんて、とんでもない。
だから…。
「…ママに注文しておいたのに…。ハーレイの好きなパウンドケーキ…」
あそこで初めてのデートをした時も、パウンドケーキを食べたでしょ?
飲み物は冷たいレモネードだったけど、今の季節にはママは作ってくれないから…。
ケーキだけでも同じにしたくて、昨日からママに頼んでたのに…。
ちゃんと準備をしたんだよ、と真剣な顔で訴えたけれど。
「パウンドケーキなら、此処でも食える。…そうか、あれを頼んでくれたんだな」
楽しみだなあ、お前のお母さんのパウンドケーキは絶品だしな?
お母さんには昼飯の時に言えばいいだろ、午後のお茶は此処に変更だ、と。
運ぶ先が此処に変わるだけのことだ、何の問題も無いだろうが。
部屋でお茶だ、とハーレイの意見は変わらなかった。「お母さんには俺が言ってやる」と。
「ママにはまだ言っていないんだよ」
パウンドケーキは頼んだけれども、何処で食べるかは言っていないから…。
「そうだったのか?」
俺はてっきり、昨日からかと…。パウンドケーキを頼んだついでに言ったんだろう、と。
「お天気がどうなるか分からないでしょ? 天気予報が外れる日だってあるもんね」
それに朝はちょっぴり雲があったよ、ぼくが朝御飯を食べてた時は。
曇ったら駄目だし、お昼御飯の後で頼めばいいよね、って…。
ママがお皿を下げに来た時に、午後のお茶は庭のテーブルがいいな、って言えばいいから。
まだ計画を話していない、と説明したら、ハーレイは「なるほど」と頷いたけれど。
「最初から天気次第だったというわけか。お前の計画」
それなら雨が降ったと思えば、諦めやすいというもんだ。確かに朝は雲もあったし…。
曇って雨になっちまったら、庭に出るのは無理なんだから。
やめておくんだな、と窓の向こうを見るハーレイ。「いい天気でないと外は無理だ」と。
「今はとってもいい天気じゃない!」
天気予報でも一日晴れだし、雨なんか絶対、降らないよ!
ぼくのクシャミは一回だけでしょ、今日は庭でデートしたいんだってば!
「何と言おうが、駄目なものは駄目だ。俺はクシャミを聞いたんだから」
クシャミしているお前も見たしな、動かぬ証拠というヤツだろうが。
庭でお茶など、俺は許さん。お前が風邪を引きたいのならば、話は別になるんだが…。
風邪を引いたら病院で注射になっちまうぞ、と脅された。
もちろん学校は欠席になるし、注射をされて薬を貰ってベッドの住人。そっちが好きか、と。
学校を休む方はともかく、注射と薬。「お前は注射が好きだったのか?」と。
「注射も薬も大嫌いだよ!」
知っているでしょ、ぼくがどっちも嫌いなこと!
だから病院は嫌いなんだよ、行ったら注射をされるんだから!
「ほら見ろ、行きたくないんだろうが。病院ってトコに」
風邪を引いたら病院行きだぞ、お前の場合は。こじらせちまうと厄介だからな、弱いから。
そうならないよう、予防するのが一番の薬というもんだ。庭に出たりはしないでな。
しかし、一向に治らんなあ…。お前の注射嫌いというヤツ。
「だって筋金入りだもの…」
うんと小さい頃からそうだよ、注射は痛くて大嫌い。平気な人が信じられないよ。
「分かっちゃいるが…。今のお前もそうだってことは」
前のお前の時からだしなあ、そう簡単には治らんだろうな。…その注射嫌い。
フウとハーレイがついた溜息。「チビはともかく、注射嫌いのソルジャーなんて」と。
「今のお前は、まだチビだから…。苦手な子供もたまにいるしな」
お前よりもっと大きな子だって、「痛いですか?」と心配そうに訊くヤツがいる。それも男で。
だから、お前はいいんだが…。問題は前のお前の方だな、あれは酷かった。
注射が嫌いだったというのを、知ってる仲間は少なかったが…。
ノルディが注射を始めた頃には、もう医務室が出来ていたからな。専用の部屋が。
あそこで「嫌だ」と叫んでいたって、お前の悲鳴は外には聞こえん。
まだソルジャーじゃなくてリーダーだったが、外まで聞こえていないんだから…。
お前が注射が苦手だってことは、ヒルマンたちしか知らんだろうな。ブラウにエラにゼル、あの四人の他には一人もいない筈だぞ。
リーダーだった頃の悲鳴を聞かれなくって良かったな。
お蔭でソルジャーが上げた悲鳴も、誰も知らないままなんだから。
「うー…」
医務室があって良かったと思うよ、ノルディが注射を打ち始めた時に。
ぼくの部屋でも打たれたけれども、診察に行っても打たれたから…。「嫌だよ」って言っても、勝手に用意を始めちゃって。…「これですっかり治るから」って。
いつも「嫌だ」って騒いでたけど、あの悲鳴…。外に聞こえてたら大変だよね…。
後でソルジャーになった時に、と今の自分でも分かること。
仲間たちに悲鳴を聞かれていたなら、ソルジャーになっても威厳も何も無かっただろう。エラがどんなに旗を振っても、ヒルマンたちがせっせと祭り上げても。
立派な制服を作って着せても、所詮は注射を嫌がる子供。身体だけ大きく育っていたって、心は子供と変わっていない、と。
中の声が漏れない医務室が無ければ、仲間たちにも聞こえる悲鳴。「注射は嫌だ」と大騒ぎで。
幸い、そうはならずに済んだのだけれど。知っている仲間はゼルたちだけだったけれど。
医務室のお蔭でバレずに済んでも、慣れることだけは無かった注射。アルタミラでの恐怖が心に深く刻まれ、どうしても消えなかったから。
人体実験の時に打たれた注射。血を抜く時にも刺された針。そういった日々を生きていたから、注射は怖いものでしかない。いつまで経っても、長い年月が流れ去っても。
「前のぼく…。注射、青の間が出来ても嫌だったしね」
ノルディが診察に来るようになって、メディカル・ルームには滅多に行かなくなっても。
それでも嫌なものは嫌だし、何処で打たれても、注射は注射なんだから。
「青の間なあ…。其処は「最後まで」と言うべきだぞ」
前のお前は、最後まで注射嫌いのままだったんだ。ジョミーが来たって、変わらなかった。
ジョミーもやっぱり知らなかったが、お前は注射嫌いのままで…。
そういや、ナスカでは注射、していないのか?
あそこで目覚めて、キースが逃げるのを止めようとしていただろうが。格納庫で。
トォニィとセットで、メディカル・ルームに搬送されてた筈なんだが…。
あの時は注射はどうだったんだ、しないで済んだとは思えないが?
「されたよ、青の間に戻ってからね」
メディカル・ルームでは応急手当で、それから青の間に戻されて…。
注射はしないで済むんだな、って安心してたら、ノルディが来ちゃったんだよ…!
トォニィの手術は無事に済んだから、今度はこっち、って!
「ほほう…。やっぱり最後まで注射だったのか」
俺がいないのに、よく頑張ったな。最後の注射。…ノルディの例の戦法か?
お前が逃げ出さないように。
「そうだよ!」
他に方法なんか無いでしょ、ぼくに注射をしたかったら…!
「確かにな。あれは効くよな、いいアイデアだ」
ノルディは優れた策士でもあったということだな。注射嫌いのソルジャーの件に関しては。
「笑わないでよ…!」
ぼくにとっては笑い事じゃなかったんだよ、あれは!
どんなに注射は嫌だと言っても、あれをやられたら逃げられないから…!
今でも鮮やかに思い出せること。遠く遥かな時の彼方で、注射を嫌った前の自分。ソルジャーになってもそれは変わらず、注射嫌いは治らなかった。
ノルディが注射をしようとしたって、ハーレイが側にいないと打たせなかったほど。「嫌だ」と突っぱね、ノルディに「出て行け」と命令したり。
どう頑張っても、怖くて我慢出来ないから。針が刺さるのが嫌でたまらないから。
けれど、ハーレイはキャプテンで多忙。ブリッジにいたり、データのチェックをしていたり。
「来て」と思念を飛ばしてみたって、来られない時も珍しくない。注射の付き添いよりも重要な仕事、それがハーレイを待っていたなら。キャプテンの仕事の真っ最中なら。
だからと言って、ハーレイがいないのに注射を打つなど耐えられない。絶対に嫌で、腕に針など刺されたくない。いくらソルジャーでも、皆の長という立場でも。
そんな調子だから、注射を打つべきタイミングを逃してしまうことも多かった。早期治療で治る所を、こじらせて寝込んでしまうだとか。
シャングリラが白い鯨になったら、余計に増えたそういうケース。船が大きくなり、自給自足で生きる形に変わったから。それに伴って、キャプテンの仕事も多くなったから。
注射を拒否してこじらせた場合、何日もベッドから離れられない。ノルディが診察にやって来る度、お決まりの台詞はこうだった。
「ソルジャー、これで懲りてらっしゃると思いますから…。次は早めに治療を受けて下さい」
単に診察を受けるのではなくて、注射です。「打ちましょう」と私が言った時には。
キャプテンがおいでになれないから、と断ったり、後回しにしたりはせずに。
「それが出来るなら苦労はしないよ」
ぼくだってね、とノルディに背中を向けていた自分。まるで聞く耳を持たないで。
病気になったら自分も辛いし、酷い時には、起き上がることさえ出来ないほど。ハーレイが作る野菜のスープも、横になったまま飲んでいたほどに。
けれども、注射はもっと怖くて恐ろしい。病気で辛い思いをするより、熱や痛みで苦しむより。
病気の苦痛は、その内に消えるものだから。我慢していれば、いずれ消え失せるから。
そういう風には消えなかったのが、アルタミラで打たれた注射の苦痛。直接流し込まれた毒物もあれば、実験の前段階として打たれた薬品もあった。気を失うまで続いた苦痛。注射のせいで。
それがあるから、嫌だった注射。「大丈夫ですよ」と言うハーレイが側にいなければ。
「これは怖くない注射なんだ」と分かる言葉が貰えなければ。
平気で注射を打てる仲間たち、彼らが英雄に見えたほど。「なんと心が強いのだろう」と。
自分にはとても無理だから。彼らのように「早く治したいから、注射を打ちに」と、ノルディの所を訪ねようとも思わないから。
注射は嫌で、恐ろしいもの。出来れば打たずに済ませたいもの。
そう考える日々を送っていたら、ある日、ハーレイがやって来た。いつもならブリッジで仕事をしている筈の時間に、青の間まで。
「ソルジャー、視察のお時間です」
参りましょう、と言われたけれども、まるで覚えの無い予定。視察だなどと。
「視察って…。ぼくは聞いてはいないけれども?」
誰からも何も聞いていないし、君だって何も話さなかったよ?
朝食の時に、と指摘した。ソルジャーとキャプテンの朝食の時間、表向きは朝の報告の時間。
ハーレイとは既に恋人同士だったけれども、一日の予定は朝食の時に聞くことも多い。こういう予定になっております、とハーレイが念を押す形で。
それを聞いてはいなかった。視察があるなら、行き先や時間の確認をする筈なのに。
「朝にはございませんでした。…今日になってから、急に決まりましたので…」
ご一緒にお出掛け頂けませんか、こういう視察はソルジャーのお仕事の一つですから。
「そういうことなら、嫌だと言いはしないけど…。緊急事態じゃないだろうね?」
「視察ですから、ごくごく平和なものですよ」
ご心配には及びません、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。「参りましょうか」と。
「何処へ行くんだい?」
ぼくの都合もあるからね、と尋ねた行き先。ハーレイと視察に出掛ける時には、自分の方が先に立って通路を歩くから。キャプテンを従えるという形で。
行き先によって道順も変わるし、何処へ行くのかと訊いたのだけれど。
「本日はメディカル・ルームの視察になります」
「え…?」
メディカル・ルームの視察って…。それはまた珍しい話だね?
誰かのお見舞いに行くと言うなら分かるけれども、そんな所で視察だなんて…。
新しい医療機器でも出来たのかい、と質問したら、「いいえ」と返って来た返事。ただの視察に行くだけのことで、たまにはメディカル・ルームの方も、と。
(普段の視察ルートじゃないし…)
頻繁に覗く場所ではないから、こういうこともあるだろう。急に決まった話だとはいえ、前から依頼があったとか。…ハーレイがそれに割ける時間が無かっただけで。
そうなのだろう、と考えながら、ハーレイと一緒に出掛けて行った。誰に出会うかも分からない通路、恋人同士の会話は無しで。ソルジャーとキャプテンらしい話を交わしながら。
船の中を結ぶ乗り物、コミューターの中でも、誰もいないのに真面目な顔で。
そうやって着いたメディカル・ルーム。
ハーレイが「どうぞ」と、扉の脇の開扉ボタンを押した途端に…。
「痛いの、嫌ーっ!」
いきなり聞こえて来た悲鳴。幼い子供たちが騒いでいた。ヒルマンが一緒にいるのだけれども、嫌だと叫んで、走ったりもして。
「これは…?」
いったい何が始まるんだい、と丸くなった目。子供たちは何故、こんな所に集められたのか。
涙を浮かべて泣いている子も、何人もいるものだから驚いた。何をしようというのだろう、と。
「ようこそ、ソルジャー。是非一度、御覧になって頂きたいと思いまして…」
予防接種の日ですから、とノルディが答えて、ヒルマンも「そういうことでね…」と頷いた。
「付き添いなのだよ、私はね。子供たちだけだと、収拾がつかないものだから…」
見ての通りだ、いつも逃げようと大騒ぎでねえ…。目を離すと逃げてしまうのだよ。
看護師たちが見張っていたって、子供は実にすばしっこいから。
「教授のお蔭で助かっていますよ。…教授の言い付けは、子供たちも守りますからね」
それでも騒ぎになりますが…。注射の日だというだけで。
困ったものです、とノルディが漏らした溜息。「けれど、必要なことですから」と。
白い鯨になったシャングリラは、アルテメシアからこういう子たちを救い出す。ミュウだと判断された子供を、処分される前に。
彼らを助け出すのを仕事としている潜入班や救出班。所属する者たちは外の世界と接触するし、救い出された子供も船の外からやって来る。
つまり外界からのウイルスの侵入、それの危険があるのが今。
虚弱な者が多いミュウだけれども、幼い子供たちは更に身体が弱いもの。病気になったら治りが遅いし、重症化することだって。
そうならないよう、予防接種をするのだという。定期的に集めて、全員に注射。
(……注射だなんて……)
聞いただけでも、震え上がってしまった前の自分。ソルジャーだけに顔には出なかったけれど、心の中では逃げ出したいほど。自分が打たれるわけではなくても。
見るのも嫌だ、と思っているのに、予防接種を見届けるのが視察で、ソルジャーの仕事。逃げて帰れはしないのが自分。
平静な顔を装って立って、子供たちを眺めているしかなかった。「嫌だ」と騒ぐ子供たちを。
逃げようとする子は、ヒルマンが「止まりなさい」と呼び止めて叱る。すぐ終わるから、並んで順番を待つように、とも。
嫌がる子たちは順に並ばされ、一人ずつ注射をされていった。「痛いよ」と泣き叫びながら。
「大丈夫よ、ほら、痛くないでしょ?」
もう終わったわ、と看護師たちが慰めていた。注射を受ける子供たちを。
注射の前には「痛くないから」と言い聞かせてやって、真っ最中には「我慢してね」と。
(ぼくも、あんな感じでハーレイに…)
慰めて貰っているんだから、と見ていた予防接種の光景。
やっぱり注射は怖いじゃないか、と。
アルタミラの地獄を知らない子たちも、「嫌だ」と恐れるのが注射。チクリと刺さる針だけで。それが刺さっても、恐ろしいことは何も起こらないのに。
(病気の予防で、治療みたいなものなのに…)
それでも「怖い」と大騒ぎする子供たち。ヒルマンがいないと脱走する子もいるほどに。
ならば、注射で酷い目に遭った自分が嫌がるのは至極当然なこと。視察する立場でも怖くなる。あそこで注射を受けているのが自分なら、と。
順に並んで注射だなんて、考えただけでも恐ろしすぎる。自分の番がやって来るのを、ブルブル震えて待つなんて。一人終わったら、順番が一つ進むだなんて。
子供たちの予防接種が済んだら、青の間に帰るだけだったけれど。ハーレイはブリッジの方へは行かずに、そのまま後ろについて来たから、チャンスとばかりに苦情を言った。
ベッドが置かれたスペースまで辿り着いた途端に、クルリと後ろを振り返って。
「…ハーレイ。今の視察のことなんだけれど…。どうしてあんな視察の予定を入れたんだい?」
ぼくが注射が嫌いなことは、百も承知の筈だけれどね?
君も、ノルディも、ずっと前から知っている筈だ。注射をどれだけ嫌っているか。
予防接種の視察だなんて…。ぼくが見るのも嫌がるだろうと、君たちは考えなかったとでも?
怖くてたまらなかったんだけどね、と睨み付けた。どういった意図であの視察を、と。
きっとハーレイは詫びるだろうと考えたのに。「私の配慮が足りませんでした」と、謝る筈だと思ったのに…。
まるで違っていた反応。「そうでしょうとも」と笑みを宿した鳶色の瞳。
「ですから、視察にお連れしました」
あれは嫌だ、と仰ることは最初から分かっておりますからね。…だからこそです。
「どういうことだい?」
君の嫌がらせか、それともノルディの方なのか…。ぼくは君たちの恨みを買ったのかい?
全く覚えが無いんだけれどね、嫌がらせをされるような覚えは何も無いんだけれど…?
「視察だと申し上げました。嫌がらせのために、そんな手の込んだことは致しません」
復讐でしたら、もっと私的に攻撃させて頂きます。…私も、ノルディも。
よろしいですか、先ほどの視察は、子供たちの予防接種に立ち会うというのが目的です。他には意図はございません。
ただ、いつか…。十年もすれば、あの子供たちの中の誰かが、看護師になる日も来そうです。
それでもお逃げになりますか?
ノルディが看護師になった子供を連れて来ていても、注射は嫌だと。
今と同じに「嫌いだから」と、私がお側にいない時には、ノルディを追い出したりもして…?
「…そ、それは……」
あの子供たちの中から看護師が?
ノルディが連れて来ると言うのかい、ぼくに注射をする時の助手に…?
無理だ、と震えてしまった声。「それだと、ぼくは逃げられない」と。
メディカル・ルームで泣き叫んでいた子供たち。予防接種は、注射は嫌だと。ヒルマンが睨みを利かせていたって、逃げようとする子がいたほどに。
あの子供たちが大きくなっても、ソルジャーの自分は今と同じに特別な存在。シャングリラを、ミュウを導く唯一の者で、誰もが敬意を表する相手。
(…今は一緒に遊んでることもあるけれど…。大きくなったら、ソルジャーの意味も…)
分かってくるのが子供たち。自分たちとは違うのだ、と。他の仲間たちとも全く違う、と。雲の上の人のような存在、そうなるようにとエラたちが仕向けたのがソルジャー。
そのソルジャーが、注射が嫌いで逃げ回るなどは有り得ない。
「ハーレイがいないと絶対に嫌だ」と、悲鳴を上げることだって。
とても特別な存在なのだし、幼い子供と同じことなどする筈が無い。白いシャングリラを束ねるソルジャー、偉大なミュウの長ともなれば。
成長した子供たちが看護師としてやって来たなら、逃げ場を失うのが自分。ノルディの手には、大嫌いな注射器があったって。「注射します」と宣言されたって。
「…逃げられないじゃないか、あの子たちを連れて来られたら…!」
ソルジャーは注射が苦手なんだ、と呆れられるか、船中に噂が広がるか…。
そうなったらエラたちがいくら頑張っても、ぼくの威厳は台無しで…。それを避けたいなら…。
黙って注射されるしか、と酷い顔色で言ったけれども、ハーレイの方は動じなかった。
「お分かり頂けて何よりです。これはノルディのアイデアでして…」
子供たちが育って看護師の道を選んでくれたら、ソルジャーに注射をする時の助手に選ぶとか。
何度も注射を打ち損ねましたからねえ、あなたが逃げてしまわれるので…。
ですから、助手をつけるそうです。この方法なら、あなたに逃げ場はありませんから。
「ぼくは困るよ…!」
注射は嫌いだと何度も言ったし、今も逃げ回っているんだけれど…!
病気で寝込んだ方がマシだよ、無理やり注射をされるよりかは…!
なんという酷いアイデアなのだ、と嘆いたけれども、それが実行に移される日がやって来た。
ノルディの希望で、子供たちのための予防接種を何度となく視察させられる内に。
ある日、体調を崩した自分。軽い眩暈と発熱だけれど、ノルディが診察に来たものだから、横になったままで釘を刺しておいた。「注射はお断りだからね」と。
「ちょっと眩暈がするだけなんだよ、注射は要らない」
本当は薬も嫌だけれども、そっちは我慢して飲んでおくから。…注射は無しで。
「分かっております」
キャプテンはお留守のようですからね、と答えたくせに、ノルディが思念で呼び寄せた看護師。何年か前には幼い少女で、注射を嫌がって泣いていた女性。
見覚えがある、と思う間も無く、彼女はベッドの直ぐ側に来た。
「ソルジャー、注射の前に消毒しますので…」
腕を出して頂けますでしょうか、と微笑んだ看護師。かつて遊んでやっていた少女。注射嫌いの相手とも知らず、それはにこやかな白衣の天使。
(ハーレイに…)
来てくれるように連絡してから、なんとか時間稼ぎをしよう、とハーレイの居場所を探るまでもなく、ノルディから飛んで来た思念。看護師の女性には分からないよう、相手を絞って。
「キャプテンはお忙しいですから」と。
此処へはお越し頂けませんと、手が空くまでには二時間ほどはかかるでしょう、とも。
(そんな…!)
嘘だろう、と思念で船の中を探れば、本当に忙しくしていたハーレイ。機関部の者と何かを打ち合わせながら、メインエンジンに近い区画で見ている図面。
これは駄目だ、と一目で分かった。
エンジントラブルとは違うけれども、オーバーホールに向けての調整中。どのタイミングで実施するのか、その間の船の航路をどう設定するべきなのかなど。
二時間で済んだらまだ早い方で、下手をしたなら夜までかかる。休憩や食事の時間は取れても、青の間までは来られない。たかが注射の付き添いには。
これまでだったら、こういう時でも逃げられた。「注射は嫌だ」とノルディを追い払って。注射するならハーレイと一緒に出直して来いと、絶対に腕は出さないから、と。
ところが、今の自分の状況。
ベッドの側には看護師の女性、以前は幼い少女だった彼女。「ソルジャー?」と首を傾げている女性は何も知らない。注射嫌いなソルジャーのことも、ノルディの恐ろしい計画のことも。
ハーレイを呼んでも、来てくれる可能性はゼロ。
そして看護師の女性の仕事は、ノルディの注射を手伝うこと。手際よく腕を消毒して。
(…仕方ない…)
注射は怖くて嫌だなどと此処で言えはしないし、差し出した腕。手袋はしていなかった。具合の悪い日は外しているから、看護師は袖をめくるだけ。肘の上まで。
「この辺りですね」と消毒をされて、ノルディが鞄から出した注射器。それに薬液も。
看護師に「後は私が」と言って代わると、しっかりと掴まれてしまった腕。
「やはりソルジャーには、私が注射致しませんと…」
看護師も注射は打てるのですが、失礼があってはいけませんから。
下手だからとても痛かっただとか、後からアザになったとか…。
他の者ならよろしいのですが、ソルジャーの腕では練習させられませんし。
では、と打たれてしまった注射。
頼みの綱のハーレイ無しで。「大丈夫ですよ」と安心させてくれる、付き添いは無しで。
(…痛いのは誰でも同じだよ…!)
ノルディがやっても、看護師でも、と心の中だけで上げていた悲鳴。
上手でも下手でも変わりはしないと、針が刺さるこれが嫌なんだから、と。
アルタミラでは、容赦なく針を刺されていたから。研究者たちの注射の腕など、気にしたことは無かったから。
どんな注射でも、必ず苦痛をもたらすだけ。上手く刺さろうが、下手で何度も刺し直そうが。
注射針への恐怖は今でも消えないまま。
病気が治る注射なのだと分かっていたって、腕に刺さる針はアルタミラと同じなのだから。
首尾よく注射を打ったノルディは、薬を処方して帰って行った。「お大事に」と看護師の女性と共に。「夜には熱も下がりますよ」と。
夕方までに熱は下がったけれども、注射のお蔭だとは思いたくない。本当に酷い目に遭わされた上に、注射針がとても嫌だったから。
部屋付きの係が届けた夕食、それを食べてから薬を飲んで、ベッドでウトウトしていたら…。
「ソルジャー、遅くなりました」
お加減の方は如何ですか、とハーレイがやって来たものだから…。
「遅すぎだよ!」
具合が悪いと知っていたなら、もっと急いで走って来ればいいだろう!
お蔭で、ぼくは注射を打たれてしまったじゃないか、と文句をぶつけた。
「君が来ないから、それは酷い目に遭ったんだ」と。
ノルディが勝手に注射を打ったと、逃げられないように助手の看護師まで連れて、と。
「遅くなったことはお詫び致しますが…。注射の件なら、前から申し上げておりましたよ」
子供たちの予防接種の視察に、初めてお連れした時から。
何度もお供をしておりますから、ソルジャーも覚悟はしておられたかと…。
今日のような時には、看護師の出番が来るのだと。…違いますか?
御存知だった筈ですが、と鳶色の瞳は揺らがなかった。ひたと上から見下ろすだけで。
「それは確かに聞いたけれども…!」
注射の計画は知っていたけど、まさか実行するなんて…!
「計画は実行してこそです。ノルディも喜んでおりました。これからはきちんと注射出来ると」
私も早く治って頂けるとなれば嬉しいですよ。こじらせたりはなさらないで。
今までは酷くなられる度に、私が忙しくしていたせいだ、と胸を痛めておりましたから…。
早めに注射をしておられたら、と何度思ったか分かりません。
ですが、これからは…。大丈夫ですね、とハーレイの顔に安堵の色。「良かった」と。
「君が自分を責める必要なんかは無いから、前の通りにして欲しいけど…!」
ノルディが助手付きで注射を打つのは、ぼくには怖いだけなんだから…!
「いえ、駄目です」
大切なのはソルジャーのお身体ですからね。…充分に自覚なさって下さい、お立場を。
ソルジャーの代わりになれる者など、この船には誰もいないのですから。
お分かりですね、と言い聞かせられて、逆らえなかった前の自分。
注射の付き添いは、ハーレイから看護師に変わってしまった。ハーレイが忙しい時は。どんなに呼んでも、来てくれそうにない時には。
「大丈夫ですよ」と優しい言葉をくれるハーレイは来なくて、代わりに看護師。シャングリラに来た頃は幼い子だった、今は育った看護師たち。
彼女たちは何も知らなかったから、ノルディの助手を務めるだけ。注射嫌いのソルジャーの心が叫んでいるとも知らないで。「注射は嫌だ」と、「助けて、ハーレイ!」と。
ソルジャーの心は遮蔽されていて、思念は漏れはしないから。どんなに悲鳴を上げていたって。
「…あれ、酷かったよ…。ノルディと、前のハーレイと…」
言い出したのはノルディだけれども、ハーレイが賛成しなかったら出来ない計画じゃない!
ぼくは嫌だと言っていたのに、あの方法で何度も注射…。
「そうか? 早く治って良かったじゃないか、こじらせる前に」
いい手だったと俺は思っていたんだが…。ああでもしないと、お前は逃げてしまうから。
だが、今のお前には使えない手だな。
正真正銘、本物のチビで、注射は嫌だと泣き叫んだって、誰も変には思わないしなあ…。
「そうだよ、それに注射は今のぼくも嫌いで、苦手なんだよ!」
注射なんかはされたくもないし、病院も薬も嫌いだってば…!
前のぼくの記憶が残ってるんだよ、ぼくも分からないような何処かに…!
「そうなんだろうな、その点は大いに同情するが…」
注射は嫌だと分かっているなら、午後のお茶は部屋にしようじゃないか。
お前が風邪を引いちまったら、待っているのは注射なんだしな?
庭のテーブルでお茶にするのは次でいいだろ、今日は大事を取るんだな。クシャミが出たし。
「ハーレイ、酷い…!」
あれからクシャミは出ていないじゃない、一回しかしていないのに…!
クシャミ、一回くらいだったら、小さな埃を吸っただけでも出ちゃうのに…!
意地悪、と頬を膨らませたけれど、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。
庭のテーブルでお茶は駄目だと、「お前に風邪は引かせられないからな」と。
「ハーレイのケチ!」と怒ったけれども、そのハーレイ。
今のハーレイも、注射の付き添いはしてくれない。まだ家族ではないのだから。前のハーレイのように忙しくなくても、仕事が入っていない時でも。
それを思うと、やっぱり注射は避けたい気分。庭のテーブルでお茶にしたくても。
ハーレイの好きなパウンドケーキで、庭でデートと洒落込みたくても。
(…風邪を引いたら、注射だから…)
午後のお茶の場所は、この部屋で我慢しておこう。本当は庭に出たいのだけれど。
懐かしい記憶が戻って来たって、嫌な注射は嫌なまま。今の自分も、注射は嫌いなのだから…。
注射をする羽目に陥らないよう、この部屋で大人しく過ごすことにしよう。
ハーレイと二人で過ごせる土曜日、それだけで充分幸せだから。
風邪さえ引いていなかったならば、明日は二人で庭にも出られるだろうから…。
注射の方法・了
※今のブルーも注射が嫌いですけど、そうなったのは前の生で繰り返された人体実験のせい。
注射嫌いだったソルジャー用に、ノルディが考えた助手をつけること。逃げられませんよね。
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
ブルーの口から、いきなり飛び出したクシャミ。
それもハーレイと一緒に過ごす土曜日、午前中のお茶の時間に突然に。
「大丈夫か?」
ハーレイが心配そうな顔をするから、「平気だよ」と笑顔で答えた。
「ちょっとムズムズしちゃっただけ…。ホントに平気」
もう出ないでしょ、と言ったのに。
「どうなんだか…。昨夜は少し冷えたからなあ、風邪引いてないか?」
メギドの夢は見なかったようだが、身体を冷やしちまったかもな。知らない間に。
午後のお茶も此処にするべきだろう。庭じゃなくって。
「えーっ!?」
そんな、と見開いてしまった瞳。
いい天気だから、午後は庭のテーブルに行こうと考えていた。庭で一番大きな木の下、真っ白な椅子とテーブルがある。初めてのデートの思い出の場所が。
其処で過ごそうと思っていたのに、駄目だなんて。
ハーレイにも「行こうね」とウキウキ話して、とても楽しみにしていたのに。
けれど「当然だろう」という顔のハーレイ。「今のクシャミを聞いちまうとな」と。
「お前、身体が弱いんだから…。気を付けないと」
用心に越したことはないんだ、今日は一日、お前の部屋だな。
庭のテーブルと椅子は逃げやしないし、次の機会でいいじゃないか。
そうするべきだ、とハーレイは譲らない。庭は駄目だ、と。
たった一回クシャミが出ただけ、繰り返してはいないのに。それに空には雲一つ無くて、絶好のデート日和なのに。
庭のテーブルと椅子は特別な場所。デート気分になれる場所。諦めるなんて、とんでもない。
だから…。
「…ママに注文しておいたのに…。ハーレイの好きなパウンドケーキ…」
あそこで初めてのデートをした時も、パウンドケーキを食べたでしょ?
飲み物は冷たいレモネードだったけど、今の季節にはママは作ってくれないから…。
ケーキだけでも同じにしたくて、昨日からママに頼んでたのに…。
ちゃんと準備をしたんだよ、と真剣な顔で訴えたけれど。
「パウンドケーキなら、此処でも食える。…そうか、あれを頼んでくれたんだな」
楽しみだなあ、お前のお母さんのパウンドケーキは絶品だしな?
お母さんには昼飯の時に言えばいいだろ、午後のお茶は此処に変更だ、と。
運ぶ先が此処に変わるだけのことだ、何の問題も無いだろうが。
部屋でお茶だ、とハーレイの意見は変わらなかった。「お母さんには俺が言ってやる」と。
「ママにはまだ言っていないんだよ」
パウンドケーキは頼んだけれども、何処で食べるかは言っていないから…。
「そうだったのか?」
俺はてっきり、昨日からかと…。パウンドケーキを頼んだついでに言ったんだろう、と。
「お天気がどうなるか分からないでしょ? 天気予報が外れる日だってあるもんね」
それに朝はちょっぴり雲があったよ、ぼくが朝御飯を食べてた時は。
曇ったら駄目だし、お昼御飯の後で頼めばいいよね、って…。
ママがお皿を下げに来た時に、午後のお茶は庭のテーブルがいいな、って言えばいいから。
まだ計画を話していない、と説明したら、ハーレイは「なるほど」と頷いたけれど。
「最初から天気次第だったというわけか。お前の計画」
それなら雨が降ったと思えば、諦めやすいというもんだ。確かに朝は雲もあったし…。
曇って雨になっちまったら、庭に出るのは無理なんだから。
やめておくんだな、と窓の向こうを見るハーレイ。「いい天気でないと外は無理だ」と。
「今はとってもいい天気じゃない!」
天気予報でも一日晴れだし、雨なんか絶対、降らないよ!
ぼくのクシャミは一回だけでしょ、今日は庭でデートしたいんだってば!
「何と言おうが、駄目なものは駄目だ。俺はクシャミを聞いたんだから」
クシャミしているお前も見たしな、動かぬ証拠というヤツだろうが。
庭でお茶など、俺は許さん。お前が風邪を引きたいのならば、話は別になるんだが…。
風邪を引いたら病院で注射になっちまうぞ、と脅された。
もちろん学校は欠席になるし、注射をされて薬を貰ってベッドの住人。そっちが好きか、と。
学校を休む方はともかく、注射と薬。「お前は注射が好きだったのか?」と。
「注射も薬も大嫌いだよ!」
知っているでしょ、ぼくがどっちも嫌いなこと!
だから病院は嫌いなんだよ、行ったら注射をされるんだから!
「ほら見ろ、行きたくないんだろうが。病院ってトコに」
風邪を引いたら病院行きだぞ、お前の場合は。こじらせちまうと厄介だからな、弱いから。
そうならないよう、予防するのが一番の薬というもんだ。庭に出たりはしないでな。
しかし、一向に治らんなあ…。お前の注射嫌いというヤツ。
「だって筋金入りだもの…」
うんと小さい頃からそうだよ、注射は痛くて大嫌い。平気な人が信じられないよ。
「分かっちゃいるが…。今のお前もそうだってことは」
前のお前の時からだしなあ、そう簡単には治らんだろうな。…その注射嫌い。
フウとハーレイがついた溜息。「チビはともかく、注射嫌いのソルジャーなんて」と。
「今のお前は、まだチビだから…。苦手な子供もたまにいるしな」
お前よりもっと大きな子だって、「痛いですか?」と心配そうに訊くヤツがいる。それも男で。
だから、お前はいいんだが…。問題は前のお前の方だな、あれは酷かった。
注射が嫌いだったというのを、知ってる仲間は少なかったが…。
ノルディが注射を始めた頃には、もう医務室が出来ていたからな。専用の部屋が。
あそこで「嫌だ」と叫んでいたって、お前の悲鳴は外には聞こえん。
まだソルジャーじゃなくてリーダーだったが、外まで聞こえていないんだから…。
お前が注射が苦手だってことは、ヒルマンたちしか知らんだろうな。ブラウにエラにゼル、あの四人の他には一人もいない筈だぞ。
リーダーだった頃の悲鳴を聞かれなくって良かったな。
お蔭でソルジャーが上げた悲鳴も、誰も知らないままなんだから。
「うー…」
医務室があって良かったと思うよ、ノルディが注射を打ち始めた時に。
ぼくの部屋でも打たれたけれども、診察に行っても打たれたから…。「嫌だよ」って言っても、勝手に用意を始めちゃって。…「これですっかり治るから」って。
いつも「嫌だ」って騒いでたけど、あの悲鳴…。外に聞こえてたら大変だよね…。
後でソルジャーになった時に、と今の自分でも分かること。
仲間たちに悲鳴を聞かれていたなら、ソルジャーになっても威厳も何も無かっただろう。エラがどんなに旗を振っても、ヒルマンたちがせっせと祭り上げても。
立派な制服を作って着せても、所詮は注射を嫌がる子供。身体だけ大きく育っていたって、心は子供と変わっていない、と。
中の声が漏れない医務室が無ければ、仲間たちにも聞こえる悲鳴。「注射は嫌だ」と大騒ぎで。
幸い、そうはならずに済んだのだけれど。知っている仲間はゼルたちだけだったけれど。
医務室のお蔭でバレずに済んでも、慣れることだけは無かった注射。アルタミラでの恐怖が心に深く刻まれ、どうしても消えなかったから。
人体実験の時に打たれた注射。血を抜く時にも刺された針。そういった日々を生きていたから、注射は怖いものでしかない。いつまで経っても、長い年月が流れ去っても。
「前のぼく…。注射、青の間が出来ても嫌だったしね」
ノルディが診察に来るようになって、メディカル・ルームには滅多に行かなくなっても。
それでも嫌なものは嫌だし、何処で打たれても、注射は注射なんだから。
「青の間なあ…。其処は「最後まで」と言うべきだぞ」
前のお前は、最後まで注射嫌いのままだったんだ。ジョミーが来たって、変わらなかった。
ジョミーもやっぱり知らなかったが、お前は注射嫌いのままで…。
そういや、ナスカでは注射、していないのか?
あそこで目覚めて、キースが逃げるのを止めようとしていただろうが。格納庫で。
トォニィとセットで、メディカル・ルームに搬送されてた筈なんだが…。
あの時は注射はどうだったんだ、しないで済んだとは思えないが?
「されたよ、青の間に戻ってからね」
メディカル・ルームでは応急手当で、それから青の間に戻されて…。
注射はしないで済むんだな、って安心してたら、ノルディが来ちゃったんだよ…!
トォニィの手術は無事に済んだから、今度はこっち、って!
「ほほう…。やっぱり最後まで注射だったのか」
俺がいないのに、よく頑張ったな。最後の注射。…ノルディの例の戦法か?
お前が逃げ出さないように。
「そうだよ!」
他に方法なんか無いでしょ、ぼくに注射をしたかったら…!
「確かにな。あれは効くよな、いいアイデアだ」
ノルディは優れた策士でもあったということだな。注射嫌いのソルジャーの件に関しては。
「笑わないでよ…!」
ぼくにとっては笑い事じゃなかったんだよ、あれは!
どんなに注射は嫌だと言っても、あれをやられたら逃げられないから…!
今でも鮮やかに思い出せること。遠く遥かな時の彼方で、注射を嫌った前の自分。ソルジャーになってもそれは変わらず、注射嫌いは治らなかった。
ノルディが注射をしようとしたって、ハーレイが側にいないと打たせなかったほど。「嫌だ」と突っぱね、ノルディに「出て行け」と命令したり。
どう頑張っても、怖くて我慢出来ないから。針が刺さるのが嫌でたまらないから。
けれど、ハーレイはキャプテンで多忙。ブリッジにいたり、データのチェックをしていたり。
「来て」と思念を飛ばしてみたって、来られない時も珍しくない。注射の付き添いよりも重要な仕事、それがハーレイを待っていたなら。キャプテンの仕事の真っ最中なら。
だからと言って、ハーレイがいないのに注射を打つなど耐えられない。絶対に嫌で、腕に針など刺されたくない。いくらソルジャーでも、皆の長という立場でも。
そんな調子だから、注射を打つべきタイミングを逃してしまうことも多かった。早期治療で治る所を、こじらせて寝込んでしまうだとか。
シャングリラが白い鯨になったら、余計に増えたそういうケース。船が大きくなり、自給自足で生きる形に変わったから。それに伴って、キャプテンの仕事も多くなったから。
注射を拒否してこじらせた場合、何日もベッドから離れられない。ノルディが診察にやって来る度、お決まりの台詞はこうだった。
「ソルジャー、これで懲りてらっしゃると思いますから…。次は早めに治療を受けて下さい」
単に診察を受けるのではなくて、注射です。「打ちましょう」と私が言った時には。
キャプテンがおいでになれないから、と断ったり、後回しにしたりはせずに。
「それが出来るなら苦労はしないよ」
ぼくだってね、とノルディに背中を向けていた自分。まるで聞く耳を持たないで。
病気になったら自分も辛いし、酷い時には、起き上がることさえ出来ないほど。ハーレイが作る野菜のスープも、横になったまま飲んでいたほどに。
けれども、注射はもっと怖くて恐ろしい。病気で辛い思いをするより、熱や痛みで苦しむより。
病気の苦痛は、その内に消えるものだから。我慢していれば、いずれ消え失せるから。
そういう風には消えなかったのが、アルタミラで打たれた注射の苦痛。直接流し込まれた毒物もあれば、実験の前段階として打たれた薬品もあった。気を失うまで続いた苦痛。注射のせいで。
それがあるから、嫌だった注射。「大丈夫ですよ」と言うハーレイが側にいなければ。
「これは怖くない注射なんだ」と分かる言葉が貰えなければ。
平気で注射を打てる仲間たち、彼らが英雄に見えたほど。「なんと心が強いのだろう」と。
自分にはとても無理だから。彼らのように「早く治したいから、注射を打ちに」と、ノルディの所を訪ねようとも思わないから。
注射は嫌で、恐ろしいもの。出来れば打たずに済ませたいもの。
そう考える日々を送っていたら、ある日、ハーレイがやって来た。いつもならブリッジで仕事をしている筈の時間に、青の間まで。
「ソルジャー、視察のお時間です」
参りましょう、と言われたけれども、まるで覚えの無い予定。視察だなどと。
「視察って…。ぼくは聞いてはいないけれども?」
誰からも何も聞いていないし、君だって何も話さなかったよ?
朝食の時に、と指摘した。ソルジャーとキャプテンの朝食の時間、表向きは朝の報告の時間。
ハーレイとは既に恋人同士だったけれども、一日の予定は朝食の時に聞くことも多い。こういう予定になっております、とハーレイが念を押す形で。
それを聞いてはいなかった。視察があるなら、行き先や時間の確認をする筈なのに。
「朝にはございませんでした。…今日になってから、急に決まりましたので…」
ご一緒にお出掛け頂けませんか、こういう視察はソルジャーのお仕事の一つですから。
「そういうことなら、嫌だと言いはしないけど…。緊急事態じゃないだろうね?」
「視察ですから、ごくごく平和なものですよ」
ご心配には及びません、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。「参りましょうか」と。
「何処へ行くんだい?」
ぼくの都合もあるからね、と尋ねた行き先。ハーレイと視察に出掛ける時には、自分の方が先に立って通路を歩くから。キャプテンを従えるという形で。
行き先によって道順も変わるし、何処へ行くのかと訊いたのだけれど。
「本日はメディカル・ルームの視察になります」
「え…?」
メディカル・ルームの視察って…。それはまた珍しい話だね?
誰かのお見舞いに行くと言うなら分かるけれども、そんな所で視察だなんて…。
新しい医療機器でも出来たのかい、と質問したら、「いいえ」と返って来た返事。ただの視察に行くだけのことで、たまにはメディカル・ルームの方も、と。
(普段の視察ルートじゃないし…)
頻繁に覗く場所ではないから、こういうこともあるだろう。急に決まった話だとはいえ、前から依頼があったとか。…ハーレイがそれに割ける時間が無かっただけで。
そうなのだろう、と考えながら、ハーレイと一緒に出掛けて行った。誰に出会うかも分からない通路、恋人同士の会話は無しで。ソルジャーとキャプテンらしい話を交わしながら。
船の中を結ぶ乗り物、コミューターの中でも、誰もいないのに真面目な顔で。
そうやって着いたメディカル・ルーム。
ハーレイが「どうぞ」と、扉の脇の開扉ボタンを押した途端に…。
「痛いの、嫌ーっ!」
いきなり聞こえて来た悲鳴。幼い子供たちが騒いでいた。ヒルマンが一緒にいるのだけれども、嫌だと叫んで、走ったりもして。
「これは…?」
いったい何が始まるんだい、と丸くなった目。子供たちは何故、こんな所に集められたのか。
涙を浮かべて泣いている子も、何人もいるものだから驚いた。何をしようというのだろう、と。
「ようこそ、ソルジャー。是非一度、御覧になって頂きたいと思いまして…」
予防接種の日ですから、とノルディが答えて、ヒルマンも「そういうことでね…」と頷いた。
「付き添いなのだよ、私はね。子供たちだけだと、収拾がつかないものだから…」
見ての通りだ、いつも逃げようと大騒ぎでねえ…。目を離すと逃げてしまうのだよ。
看護師たちが見張っていたって、子供は実にすばしっこいから。
「教授のお蔭で助かっていますよ。…教授の言い付けは、子供たちも守りますからね」
それでも騒ぎになりますが…。注射の日だというだけで。
困ったものです、とノルディが漏らした溜息。「けれど、必要なことですから」と。
白い鯨になったシャングリラは、アルテメシアからこういう子たちを救い出す。ミュウだと判断された子供を、処分される前に。
彼らを助け出すのを仕事としている潜入班や救出班。所属する者たちは外の世界と接触するし、救い出された子供も船の外からやって来る。
つまり外界からのウイルスの侵入、それの危険があるのが今。
虚弱な者が多いミュウだけれども、幼い子供たちは更に身体が弱いもの。病気になったら治りが遅いし、重症化することだって。
そうならないよう、予防接種をするのだという。定期的に集めて、全員に注射。
(……注射だなんて……)
聞いただけでも、震え上がってしまった前の自分。ソルジャーだけに顔には出なかったけれど、心の中では逃げ出したいほど。自分が打たれるわけではなくても。
見るのも嫌だ、と思っているのに、予防接種を見届けるのが視察で、ソルジャーの仕事。逃げて帰れはしないのが自分。
平静な顔を装って立って、子供たちを眺めているしかなかった。「嫌だ」と騒ぐ子供たちを。
逃げようとする子は、ヒルマンが「止まりなさい」と呼び止めて叱る。すぐ終わるから、並んで順番を待つように、とも。
嫌がる子たちは順に並ばされ、一人ずつ注射をされていった。「痛いよ」と泣き叫びながら。
「大丈夫よ、ほら、痛くないでしょ?」
もう終わったわ、と看護師たちが慰めていた。注射を受ける子供たちを。
注射の前には「痛くないから」と言い聞かせてやって、真っ最中には「我慢してね」と。
(ぼくも、あんな感じでハーレイに…)
慰めて貰っているんだから、と見ていた予防接種の光景。
やっぱり注射は怖いじゃないか、と。
アルタミラの地獄を知らない子たちも、「嫌だ」と恐れるのが注射。チクリと刺さる針だけで。それが刺さっても、恐ろしいことは何も起こらないのに。
(病気の予防で、治療みたいなものなのに…)
それでも「怖い」と大騒ぎする子供たち。ヒルマンがいないと脱走する子もいるほどに。
ならば、注射で酷い目に遭った自分が嫌がるのは至極当然なこと。視察する立場でも怖くなる。あそこで注射を受けているのが自分なら、と。
順に並んで注射だなんて、考えただけでも恐ろしすぎる。自分の番がやって来るのを、ブルブル震えて待つなんて。一人終わったら、順番が一つ進むだなんて。
子供たちの予防接種が済んだら、青の間に帰るだけだったけれど。ハーレイはブリッジの方へは行かずに、そのまま後ろについて来たから、チャンスとばかりに苦情を言った。
ベッドが置かれたスペースまで辿り着いた途端に、クルリと後ろを振り返って。
「…ハーレイ。今の視察のことなんだけれど…。どうしてあんな視察の予定を入れたんだい?」
ぼくが注射が嫌いなことは、百も承知の筈だけれどね?
君も、ノルディも、ずっと前から知っている筈だ。注射をどれだけ嫌っているか。
予防接種の視察だなんて…。ぼくが見るのも嫌がるだろうと、君たちは考えなかったとでも?
怖くてたまらなかったんだけどね、と睨み付けた。どういった意図であの視察を、と。
きっとハーレイは詫びるだろうと考えたのに。「私の配慮が足りませんでした」と、謝る筈だと思ったのに…。
まるで違っていた反応。「そうでしょうとも」と笑みを宿した鳶色の瞳。
「ですから、視察にお連れしました」
あれは嫌だ、と仰ることは最初から分かっておりますからね。…だからこそです。
「どういうことだい?」
君の嫌がらせか、それともノルディの方なのか…。ぼくは君たちの恨みを買ったのかい?
全く覚えが無いんだけれどね、嫌がらせをされるような覚えは何も無いんだけれど…?
「視察だと申し上げました。嫌がらせのために、そんな手の込んだことは致しません」
復讐でしたら、もっと私的に攻撃させて頂きます。…私も、ノルディも。
よろしいですか、先ほどの視察は、子供たちの予防接種に立ち会うというのが目的です。他には意図はございません。
ただ、いつか…。十年もすれば、あの子供たちの中の誰かが、看護師になる日も来そうです。
それでもお逃げになりますか?
ノルディが看護師になった子供を連れて来ていても、注射は嫌だと。
今と同じに「嫌いだから」と、私がお側にいない時には、ノルディを追い出したりもして…?
「…そ、それは……」
あの子供たちの中から看護師が?
ノルディが連れて来ると言うのかい、ぼくに注射をする時の助手に…?
無理だ、と震えてしまった声。「それだと、ぼくは逃げられない」と。
メディカル・ルームで泣き叫んでいた子供たち。予防接種は、注射は嫌だと。ヒルマンが睨みを利かせていたって、逃げようとする子がいたほどに。
あの子供たちが大きくなっても、ソルジャーの自分は今と同じに特別な存在。シャングリラを、ミュウを導く唯一の者で、誰もが敬意を表する相手。
(…今は一緒に遊んでることもあるけれど…。大きくなったら、ソルジャーの意味も…)
分かってくるのが子供たち。自分たちとは違うのだ、と。他の仲間たちとも全く違う、と。雲の上の人のような存在、そうなるようにとエラたちが仕向けたのがソルジャー。
そのソルジャーが、注射が嫌いで逃げ回るなどは有り得ない。
「ハーレイがいないと絶対に嫌だ」と、悲鳴を上げることだって。
とても特別な存在なのだし、幼い子供と同じことなどする筈が無い。白いシャングリラを束ねるソルジャー、偉大なミュウの長ともなれば。
成長した子供たちが看護師としてやって来たなら、逃げ場を失うのが自分。ノルディの手には、大嫌いな注射器があったって。「注射します」と宣言されたって。
「…逃げられないじゃないか、あの子たちを連れて来られたら…!」
ソルジャーは注射が苦手なんだ、と呆れられるか、船中に噂が広がるか…。
そうなったらエラたちがいくら頑張っても、ぼくの威厳は台無しで…。それを避けたいなら…。
黙って注射されるしか、と酷い顔色で言ったけれども、ハーレイの方は動じなかった。
「お分かり頂けて何よりです。これはノルディのアイデアでして…」
子供たちが育って看護師の道を選んでくれたら、ソルジャーに注射をする時の助手に選ぶとか。
何度も注射を打ち損ねましたからねえ、あなたが逃げてしまわれるので…。
ですから、助手をつけるそうです。この方法なら、あなたに逃げ場はありませんから。
「ぼくは困るよ…!」
注射は嫌いだと何度も言ったし、今も逃げ回っているんだけれど…!
病気で寝込んだ方がマシだよ、無理やり注射をされるよりかは…!
なんという酷いアイデアなのだ、と嘆いたけれども、それが実行に移される日がやって来た。
ノルディの希望で、子供たちのための予防接種を何度となく視察させられる内に。
ある日、体調を崩した自分。軽い眩暈と発熱だけれど、ノルディが診察に来たものだから、横になったままで釘を刺しておいた。「注射はお断りだからね」と。
「ちょっと眩暈がするだけなんだよ、注射は要らない」
本当は薬も嫌だけれども、そっちは我慢して飲んでおくから。…注射は無しで。
「分かっております」
キャプテンはお留守のようですからね、と答えたくせに、ノルディが思念で呼び寄せた看護師。何年か前には幼い少女で、注射を嫌がって泣いていた女性。
見覚えがある、と思う間も無く、彼女はベッドの直ぐ側に来た。
「ソルジャー、注射の前に消毒しますので…」
腕を出して頂けますでしょうか、と微笑んだ看護師。かつて遊んでやっていた少女。注射嫌いの相手とも知らず、それはにこやかな白衣の天使。
(ハーレイに…)
来てくれるように連絡してから、なんとか時間稼ぎをしよう、とハーレイの居場所を探るまでもなく、ノルディから飛んで来た思念。看護師の女性には分からないよう、相手を絞って。
「キャプテンはお忙しいですから」と。
此処へはお越し頂けませんと、手が空くまでには二時間ほどはかかるでしょう、とも。
(そんな…!)
嘘だろう、と思念で船の中を探れば、本当に忙しくしていたハーレイ。機関部の者と何かを打ち合わせながら、メインエンジンに近い区画で見ている図面。
これは駄目だ、と一目で分かった。
エンジントラブルとは違うけれども、オーバーホールに向けての調整中。どのタイミングで実施するのか、その間の船の航路をどう設定するべきなのかなど。
二時間で済んだらまだ早い方で、下手をしたなら夜までかかる。休憩や食事の時間は取れても、青の間までは来られない。たかが注射の付き添いには。
これまでだったら、こういう時でも逃げられた。「注射は嫌だ」とノルディを追い払って。注射するならハーレイと一緒に出直して来いと、絶対に腕は出さないから、と。
ところが、今の自分の状況。
ベッドの側には看護師の女性、以前は幼い少女だった彼女。「ソルジャー?」と首を傾げている女性は何も知らない。注射嫌いなソルジャーのことも、ノルディの恐ろしい計画のことも。
ハーレイを呼んでも、来てくれる可能性はゼロ。
そして看護師の女性の仕事は、ノルディの注射を手伝うこと。手際よく腕を消毒して。
(…仕方ない…)
注射は怖くて嫌だなどと此処で言えはしないし、差し出した腕。手袋はしていなかった。具合の悪い日は外しているから、看護師は袖をめくるだけ。肘の上まで。
「この辺りですね」と消毒をされて、ノルディが鞄から出した注射器。それに薬液も。
看護師に「後は私が」と言って代わると、しっかりと掴まれてしまった腕。
「やはりソルジャーには、私が注射致しませんと…」
看護師も注射は打てるのですが、失礼があってはいけませんから。
下手だからとても痛かっただとか、後からアザになったとか…。
他の者ならよろしいのですが、ソルジャーの腕では練習させられませんし。
では、と打たれてしまった注射。
頼みの綱のハーレイ無しで。「大丈夫ですよ」と安心させてくれる、付き添いは無しで。
(…痛いのは誰でも同じだよ…!)
ノルディがやっても、看護師でも、と心の中だけで上げていた悲鳴。
上手でも下手でも変わりはしないと、針が刺さるこれが嫌なんだから、と。
アルタミラでは、容赦なく針を刺されていたから。研究者たちの注射の腕など、気にしたことは無かったから。
どんな注射でも、必ず苦痛をもたらすだけ。上手く刺さろうが、下手で何度も刺し直そうが。
注射針への恐怖は今でも消えないまま。
病気が治る注射なのだと分かっていたって、腕に刺さる針はアルタミラと同じなのだから。
首尾よく注射を打ったノルディは、薬を処方して帰って行った。「お大事に」と看護師の女性と共に。「夜には熱も下がりますよ」と。
夕方までに熱は下がったけれども、注射のお蔭だとは思いたくない。本当に酷い目に遭わされた上に、注射針がとても嫌だったから。
部屋付きの係が届けた夕食、それを食べてから薬を飲んで、ベッドでウトウトしていたら…。
「ソルジャー、遅くなりました」
お加減の方は如何ですか、とハーレイがやって来たものだから…。
「遅すぎだよ!」
具合が悪いと知っていたなら、もっと急いで走って来ればいいだろう!
お蔭で、ぼくは注射を打たれてしまったじゃないか、と文句をぶつけた。
「君が来ないから、それは酷い目に遭ったんだ」と。
ノルディが勝手に注射を打ったと、逃げられないように助手の看護師まで連れて、と。
「遅くなったことはお詫び致しますが…。注射の件なら、前から申し上げておりましたよ」
子供たちの予防接種の視察に、初めてお連れした時から。
何度もお供をしておりますから、ソルジャーも覚悟はしておられたかと…。
今日のような時には、看護師の出番が来るのだと。…違いますか?
御存知だった筈ですが、と鳶色の瞳は揺らがなかった。ひたと上から見下ろすだけで。
「それは確かに聞いたけれども…!」
注射の計画は知っていたけど、まさか実行するなんて…!
「計画は実行してこそです。ノルディも喜んでおりました。これからはきちんと注射出来ると」
私も早く治って頂けるとなれば嬉しいですよ。こじらせたりはなさらないで。
今までは酷くなられる度に、私が忙しくしていたせいだ、と胸を痛めておりましたから…。
早めに注射をしておられたら、と何度思ったか分かりません。
ですが、これからは…。大丈夫ですね、とハーレイの顔に安堵の色。「良かった」と。
「君が自分を責める必要なんかは無いから、前の通りにして欲しいけど…!」
ノルディが助手付きで注射を打つのは、ぼくには怖いだけなんだから…!
「いえ、駄目です」
大切なのはソルジャーのお身体ですからね。…充分に自覚なさって下さい、お立場を。
ソルジャーの代わりになれる者など、この船には誰もいないのですから。
お分かりですね、と言い聞かせられて、逆らえなかった前の自分。
注射の付き添いは、ハーレイから看護師に変わってしまった。ハーレイが忙しい時は。どんなに呼んでも、来てくれそうにない時には。
「大丈夫ですよ」と優しい言葉をくれるハーレイは来なくて、代わりに看護師。シャングリラに来た頃は幼い子だった、今は育った看護師たち。
彼女たちは何も知らなかったから、ノルディの助手を務めるだけ。注射嫌いのソルジャーの心が叫んでいるとも知らないで。「注射は嫌だ」と、「助けて、ハーレイ!」と。
ソルジャーの心は遮蔽されていて、思念は漏れはしないから。どんなに悲鳴を上げていたって。
「…あれ、酷かったよ…。ノルディと、前のハーレイと…」
言い出したのはノルディだけれども、ハーレイが賛成しなかったら出来ない計画じゃない!
ぼくは嫌だと言っていたのに、あの方法で何度も注射…。
「そうか? 早く治って良かったじゃないか、こじらせる前に」
いい手だったと俺は思っていたんだが…。ああでもしないと、お前は逃げてしまうから。
だが、今のお前には使えない手だな。
正真正銘、本物のチビで、注射は嫌だと泣き叫んだって、誰も変には思わないしなあ…。
「そうだよ、それに注射は今のぼくも嫌いで、苦手なんだよ!」
注射なんかはされたくもないし、病院も薬も嫌いだってば…!
前のぼくの記憶が残ってるんだよ、ぼくも分からないような何処かに…!
「そうなんだろうな、その点は大いに同情するが…」
注射は嫌だと分かっているなら、午後のお茶は部屋にしようじゃないか。
お前が風邪を引いちまったら、待っているのは注射なんだしな?
庭のテーブルでお茶にするのは次でいいだろ、今日は大事を取るんだな。クシャミが出たし。
「ハーレイ、酷い…!」
あれからクシャミは出ていないじゃない、一回しかしていないのに…!
クシャミ、一回くらいだったら、小さな埃を吸っただけでも出ちゃうのに…!
意地悪、と頬を膨らませたけれど、ハーレイは「駄目だ」の一点張り。
庭のテーブルでお茶は駄目だと、「お前に風邪は引かせられないからな」と。
「ハーレイのケチ!」と怒ったけれども、そのハーレイ。
今のハーレイも、注射の付き添いはしてくれない。まだ家族ではないのだから。前のハーレイのように忙しくなくても、仕事が入っていない時でも。
それを思うと、やっぱり注射は避けたい気分。庭のテーブルでお茶にしたくても。
ハーレイの好きなパウンドケーキで、庭でデートと洒落込みたくても。
(…風邪を引いたら、注射だから…)
午後のお茶の場所は、この部屋で我慢しておこう。本当は庭に出たいのだけれど。
懐かしい記憶が戻って来たって、嫌な注射は嫌なまま。今の自分も、注射は嫌いなのだから…。
注射をする羽目に陥らないよう、この部屋で大人しく過ごすことにしよう。
ハーレイと二人で過ごせる土曜日、それだけで充分幸せだから。
風邪さえ引いていなかったならば、明日は二人で庭にも出られるだろうから…。
注射の方法・了
※今のブルーも注射が嫌いですけど、そうなったのは前の生で繰り返された人体実験のせい。
注射嫌いだったソルジャー用に、ノルディが考えた助手をつけること。逃げられませんよね。
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。新年が明けて一連のドタバタ行事も終わって、ホッと一息、お次はバレンタインデーといった所です。入試なんかもありますけれども、合格グッズの販売員は未だにさせて貰えませんし…。
「やりてえよなあ、グッズ販売…」
サム君がぼやく、放課後の中庭。寒風吹きすさぶ中を「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へと移動する途中です。
「無理だよ、ブルーとリオさんが独占状態だし…。それに第一、ぼったくりだし」
あの値段をお客さんに言える勇気は無い、とジョミー君。
「相手は中学生なんだよ? なのにお値段、高すぎだってば!」
「それは言えるな、俺も自分が副住職になったら痛感したぞ」
下手な法事の御布施並みだ、とキース君も。
「クソ寒い中を月参りに行っても、貰える御布施は合格ストラップの値段にもならん」
「…そこまでなわけ?」
月参りよりも高かったわけ、とジョミー君が呆れて、シロエ君が。
「そうですか…。プロのお経よりも高かったんですか、あのストラップ…」
「でも、ある意味、プロの仕事よ、あれは? ぶるぅが手形を押してるんだし」
ちゃんと点数が取れるストラップだし、とスウェナちゃん。
「私は買っていないけど…。効き目はあるでしょ、ぶるぅなんだもの」
「そうですよね…」
今年も入試シーズンが近付いて来たらストラップ作りですね、とマツカ君が言う通り、そのシーズンになったら「そるじゃぁ・ぶるぅ」は忙しくなります。三日間ほどおやつは手抜き、いや作り置き。でもでも、そのシーズンはまだ先ですから…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれた、いつもの溜まり場。暖房が効いたお部屋で熱い紅茶にコーヒー、温かいオレンジスフレなんかも。
「「「いっただっきまーす!」」」
これが最高! とスプーンで掬って熱々をパクリ、冬はやっぱりスフレですよね!
合格グッズの値段の高さに始まり、あっちへこっちへと飛びまくる話題。もはやカオスと化してますけど、この賑やかさが放課後の醍醐味だよね、と思っていたら。
「えっとね、昨日のマジックショー、見てた?」
夜にテレビでやっていたヤツ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「いや、俺は…。その時間には本堂で親父の手伝いを…」
仏具の手入れをさせられていた、とキース君がブツブツ、ジョミー君は。
「ぼくは別のを見てたんだけど…。マジックショーは特に興味もないし…」
「ぼくもです。機械弄りをしていましたね」
作業部屋で、とシロエ君が続いて、サム君もマツカ君も、スウェナちゃんも私も、マジックショーを見てはいませんでした。何かいいこと、あったんでしょうか?
「あのね、とっても凄かったの! 脱出マジック!」
鎖で縛られて手錠もかけられて鉄の箱なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「すっごく分厚い鉄の箱の中に入れられてたのに、その人、ちゃんと出て来ちゃったの!」
なんでも「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言うには、その鉄の箱はレールの上に乗せられ、ジリジリと移動してゆく仕掛け。時間内に脱出できなかったら箱は海へとドボンだそうで。
「海に落ちたら大変でしょ? 引き上げてくれる前に溺れちゃうかも…」
「そりゃそうだけどよ…。ああいうヤツって、ほぼ大丈夫だぜ?」
ちゃんと出られるのがお約束だし、とサム君が笑うと、シロエ君が。
「…どうでしょう? たまにニュースになっていませんか、脱出マジック失敗の事故」
「あるな、スタッフが救出しなければ死んでいたという恐ろしいのもな」
あの手のマジックにリスクはつきもの、とキース君が頷いています。
「自分がショーをやらかすからには、多分、覚悟の上なんだろうが…」
「えとえと、覚悟はどうでもいいの! 凄かったから!」
普通の人にもサイオンはちゃんとあるんだね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「「「はあ?」」」
サイオンって…。アレは私たちの仲間だけが持つ特殊能力で、存在も極秘の筈ですが…。一般人なんかが持っているわけないんですけど、何処からサイオン?
謎だ、と思った「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオン発言。シャングリラ学園でさえも「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーの一言で誤魔化してあるのがサイオン、普通の人が持っているならエライことです。けれど、言い出しっぺの「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「だって、サイオンだよ、脱出マジック! 鎖をほどいて、鉄の箱から大脱出!」
どっちもサイオンが無ければ無理だし、とマジックショーを勘違いしているようです。脱出マジックは種も仕掛けもあるもの、その道のプロならサイオンなんかは…。
「俺は要らないと思うんだが…。あの手のマジックにサイオンなんぞは」
何か仕掛けがある筈だ、とキース君が返すと、会長さんが。
「ぼくもそう言っているんだけどねえ…。それこそずっと昔から言ってるんだけど…」
もう何十年言っていることか、と会長さん。
「テレビで脱出マジックを見る度に、ぶるぅが「凄い!」と喜ぶからさ…」
「「「あー…」」」
素直なお子様、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。マジックの種には気付きもしないで、手放しで褒めてしまうのでしょう。
「でもでも、ホントに凄いんだもん! 普通の人でもサイオンだもん!」
ホントに凄いの! と言い張る「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿に、会長さんが苦笑い。
「この段階まで到達するのに、何年かかったことやらねえ…」
昔はショーを見る度に「仲間発見!」と大騒ぎだったらしいです。急いで連絡を取らなければ、と思念波を飛ばしかかったこともあったとか。
「…なるほどな。そうなる気持ちは分からんでもない」
仕掛けがあると思わなければ瞬間移動で片付きそうだ、とキース君が頷くと。
「違うもん! 仕掛けじゃないもん、本物だもん!」
ああいう時だけ瞬間移動で大脱出! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えーっと、火事場の馬鹿力? 普通の人でも出来るんだってば、頑張れば!」
「…それが出来たら、ぼく、もうちょっと楽なんだけど…」
これでもタイプ・ブルーだから、とジョミー君が割って入りました。
「瞬間移動が出来る素質はある筈なのにさ、隣の部屋にも飛べないし!」
「それなら、ジョミーも脱出マジック、頑張ってみる?」
火事場の馬鹿力でサイオンの力が目覚めるかも! と無邪気な「そるじゃぁ・ぶるぅ」ですけど。目覚めなかったら事故になりますよ、そっちの方が有り得そうです~!
会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」と全く同じなサイオンを持っているのがタイプ・ブルーで、現時点ではジョミー君も含めて三人だけ。
ところがジョミー君のサイオンときたら、私たちと変わらずヒヨコレベルで思念波を使うのが精一杯といった状態です。坊主頭限定でサイオニック・ドリームを一ヶ月近く使い続けたキース君の方がまだマシなわけで。
「ハッキリ言うがな、ジョミーに脱出マジックなんぞをやらせても無駄だ」
俺たちが救助に向かわされる方だ、とキース君がバッサリと。
「俺でさえもサイオニック・ドリームを使えるようになる前が実に大変で…」
「そうでしたっけね、先輩、派手にサイオン・バースト…」
ぶるぅの部屋が吹っ飛びましたっけ、とシロエ君。
「そういや、あれが切っ掛けだったんだよなあ、ぶるぅの部屋の公開イベント」
今じゃ学園祭の定番だけどよ、とサム君も。
「キースでさえもあの騒ぎだしよ、ジョミーが火事場の馬鹿力ってヤツをやったらよ…」
「成功したらいいんですけど、バーストした時は…」
凄くマズイような、とマツカ君が。
「キースの騒ぎの時に聞いていたような気がします。ジョミーがサイオン・バーストしたら…」
「シャングリラ学園が丸ごと吹っ飛ぶのよねえ?」
マズすぎるわよ、とスウェナちゃん。
「やめときましょうよ、ジョミーに脱出マジックの才能があるとは思えないもの」
「まったくだ。シャングリラ学園が吹っ飛んだとなったら、俺たちもただでは済まないぞ」
下手をしなくても退学だ、とキース君が顔を顰めています。
「この馬鹿のせいで退学は御免蒙りたい」
「馬鹿って、何さ!」
「俺はそのままを言ったまでだが?」
サイオンを上手く扱えないお前が悪い、とピッシャリと。
「瞬間移動も出来ないからこそ、そう言われるんだ。…一般人でも出来るのにな?」
脱出マジック、という指摘に「マジックだから!」とジョミー君。
「ぼくと一緒にしないで欲しいよ、あっちは仕掛けがあるんだからさ!」
出来て当然、と喚いてますけど、瞬間移動は夢ではあります。ヒョイと飛べたら便利でしょうけど、アレって本当にタイプ・ブルーしか出来ないのかな…?
サイオンを持っているなら使いたいのが瞬間移動。でも、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がやっているだけで、他の人がやった話は知りません。ソルジャーや「ぶるぅ」は別の世界の人だけに話が別ですし…。
「瞬間移動はタイプ・ブルーでないと無理なんですか?」
シロエ君の質問に、会長さんが。
「そういうことになっているねえ、ぼくとぶるぅしか使えないし」
「違うよ、マジックショーの人がやってるんだから、多分、誰でも!」
頑張ったら使えちゃうんじゃないかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「タイプ・ブルーとかグリーンとかは普通の人には無いもん、だからサイオンがあれば誰でも!」
普通の人より上手く出来ちゃう筈だもん! とマジックショーを信じている「そるじゃぁ・ぶるぅ」は根っからお子様、私たちにだって瞬間移動が出来るものだと思っています。
「そうは言われても、無理なものは無理だと思うんだが…」
実際、出来んし、と唸るキース君、ちょっと夢見たことがあるらしいです。
「出来たらいいな、と頑張ってみたが、どうすればいいのかもサッパリ分からん」
「だよねえ? ぼくにも分からないんだよ」
やってみたいとは思うんだけど、とジョミー君が相槌を打った所へ。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもスフレ! と飛び込んで来たお客様。例によってソルジャー登場です。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! ちょっと待っててねーっ!」
スフレは焼くのに時間がかかるし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が紅茶をサッと。スフレもオーブンに入れて来たようです。おかわり用にと用意してあったみたいですけど、流石の素早さ。
一方、現れたソルジャーは空いていたソファにストンと座って。
「面白そうな話題だねえ…。瞬間移動だって?」
「そうなの! 昨日のマジックショーが凄かったの!」
こんなのだよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は思念で伝達した様子。ソルジャーは「ふうん…」と納得、「そう見えないこともないよね、これは」と。
「それで普通の人でも瞬間移動が出来ると言ってるんだね、ぶるぅはね?」
「うんっ! ホントに瞬間移動だもん!」
でなきゃ鉄の箱ごと海にドボンで大変だもん! という主張。マジックショーの人、本当に瞬間移動が出来る人間に技を認められるとは、天晴れな…。
脱出マジックは瞬間移動だと信じ込んでいる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは数々の脱出マジックの話を聞かされ、「これだと無理もないよね、うん」と。
「マジックの仕掛けは知らないけどさ…。瞬間移動だと思い込むのが普通かな?」
「仕掛けじゃないもん、本物だもん!」
そう叫んでから「あっ、スフレ!」と飛び出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、ホカホカの出来立てを持って戻って来ました。
「はい、オレンジのスフレ! しぼまない内に熱いのを食べてね!」
「ありがとう! ぶるぅのスフレは絶品だしね!」
美味しい! とスプーンで頬張ったソルジャー、スフレをパクパク食べながら。
「瞬間移動の話だけどねえ、タイプ・ブルー以外は無理なのか、ってヤツ」
「ああ、君だったら詳しいのかな?」
ぼくより若いけど、サイオンがあるだけで追われる世界に住んでいるし、と会長さん。
「ぼくたち以上に追い詰められるケースも多いだろうから、レアケースとかもありそうだよね」
「ぶるぅの言ってる火事場の馬鹿力だね?」
タイプ・ブルー以外の人間に瞬間移動は出来るかどうか、とソルジャーが言って、会長さんが「そうなんだけど…。どう?」と。
「やった人間はいるのかな? そのぅ…。言いにくいんだけど…」
「いいって、いいって! アルタミラのことだろ、実験動物だった時代の話!」
あの頃だったら究極の極限状態なんだけど…、とソルジャーは「うーん…」と首を捻って。
「実を言うとさ、このぼくでさえも、アルタミラではやっていないんだよ。瞬間移動は」
「「「ええっ!?」」」
まさか、と驚いた私たちですが、「本当だから!」と返したソルジャー。
「出来ていたなら、それこそ脱出マジックだよ! 他の檻にいる仲間も逃がして大脱出だよ、大人しく実験されていないで!」
船を奪ってトンズラしている、と言われてみればその通り。それじゃ、瞬間移動はいつから出来るようになったと言うんですか?
「えーっと…。ある程度、船が落ち着いてからかな? 心に余裕が出来てからだね」
それまではサイオンの上達なんかはとてもとても…、とソルジャーは両手を広げてお手上げのポーズをしています。火事場の馬鹿力はアルタミラ脱出の時に閉じ込められてた場所をサイオンでブチ壊した程度、瞬間移動は後付けでしたか…。
ソルジャーでさえも最初は出来なかったらしい瞬間移動。そうなってくると、やっぱりタイプ・ブルー以外の人間には無理な技ですか?
「どうなんだろうね? 現時点では、君たちの世界と同じでタイプ・ブルーに限定だけど…」
しかも遅咲きの力だったけど、とソルジャー、苦笑。
「ただねえ、ぶるぅは生まれて直ぐから使えたからねえ、環境の方も大切かもね?」
「「「環境?」」」
「そう、環境! 火事場の馬鹿力を使うにしたって、心の余裕が要るのかもねえ…」
死ぬか生きるかの状況では発動しなかったから、と挙げられたソルジャーのアルタミラ時代。真空だの高温だの、絶対零度だののガラスケースや、有毒ガスやら。「此処から出られさえすれば」という極限状態に置かれていたって、瞬間移動は出来なかったとか。
「今だったら余裕でヒョイと出られるのに、あの頃のぼくは馬鹿だったよねえ…」
素直に実験されていたし、とブツクサと。
「だからね、きっと「此処は安心して暮らせる場所だ」という前提が要るんだよ! 心の余裕!」
そういう安全な場所で非常事態に追い込まれたならば、あるいはタイプ・ブルー以外の人間でも瞬間移動が出来るかも、というのがソルジャーの仮説で。
「ふうん…? ぶるぅはともかく、誰か出来そうだった例でもあると?」
君のシャングリラで、と会長さんが尋ねると。
「一回だけね!」
たったの一回だけなんだけど、とソルジャーは指を一本立てました。
「しかも、それを知ってるのはぼく一人だけ!」
「「「えっ?」」」
なんで、と驚いた私たち。タイプ・ブルーしか出来ない筈の瞬間移動に成功しかけた人がいるのに、どうしてソルジャーしか知らないんですか?
「それはねえ…。深い事情があると言うべきか…」
「機密事項なわけ?」
君のハーレイも知らないとなると、と会長さんは言ったのですけど。
「まさか! 機密事項だったら、こんな所で喋っていないよ」
「でも、君だけしか知らないんだろう?」
「なんて言うかな、プライバシー…? 人間、誰でも知られたくないことはあるよね」
こう色々と…、と頷くソルジャー。瞬間移動が出来そうだったとなれば誇って良さそうですけど、それを知られたくないって、どういうこと…?
ソルジャーのシャングリラで一度だけあったらしい、瞬間移動未遂。やった人間の存在はソルジャーだけしか知らないとなると…。
「もしかして、戦闘要員には不向きだとか?」
そんなタイプだから内緒だろうか、と会長さん。
「瞬間移動が出来るとなったら、君のシャングリラじゃ戦闘班に回されそうだし…。そっち方面の訓練にも実戦とかにも向きそうにない人材なのかい?」
だから本人も黙っているとか、という質問ですけど、ソルジャーは。
「違うね! それに本人には自覚無しだしね、瞬間移動をやりかけたという!」
「…だったら、どうして秘密なのさ?」
その才能を伸ばしてやれば良さそうなのに、と会長さんは首を傾げたのですけれど。
「ズバリ、恥ずかしさの問題かな!」
「「「恥ずかしさ?」」」
ソルジャーの口から出るとは思えない言葉。およそ恥じらいとは縁の無いソルジャー、そのソルジャーが赤の他人の恥ずかしさなどを考えるとも思えませんが…?
「うん、セックスなら楽しく喋りまくるんだけどさ! 恥じらわないで!」
「そういう話は今はいいから!」
瞬間移動の件を喋ってくれたまえ、と会長さん。
「どう恥ずかしいと言うんだい? 君の台詞とも思えないけど…?」
「だってねえ…。知られたいかい、トイレ事情を?」
「「「トイレ?」」」
「そう、トイレ!」
現場はトイレだったのだ、とソルジャーは斜め上な現場を口にしました。トイレって…。どう間違えたらトイレで瞬間移動になると?
「それは簡単な話だけどね? 危機的状況に陥ったわけで…」
「トイレでかい?」
いったい何が起こったのだ、と会長さんも見当がつかないようですけれど。
「いわゆる脱出マジックと同じ状況! なんとかして出ないとマズイという!」
「…どんなトイレなわけ?」
「普通だけど?」
ぼくのシャングリラの普通のトイレ、という返事。どう転がったら、普通のトイレが脱出マジックに繋がりますか…?
タイプ・ブルーしか出来ないと噂の瞬間移動をしかかった人。現場はソルジャーの世界のシャングリラのトイレということですけど、トイレで脱出マジックだなんて、どんな状況?
「至って普通のトイレなんだけどねえ、それも共同トイレじゃなくって個人用の」
ぼくのシャングリラは一人一部屋が基本だから、とソルジャーは威張り返りました。バストイレつきの個室が貰えるのだそうで、多分、私たちがシャングリラ号に乗せて貰う時に使うゲストルームのようなものでしょう。あのトイレ、何か問題ありましたっけ?
「強いて言うなら、思念波シールドが裏目に出たって所かなあ…」
「「「思念波シールド?」」」
「ぼくの世界はホントにあの船が世界の全てだからねえ、プライバシー保護のために個室は覗き見できない仕様! トイレともなれば、もっと強力に!」
入っていることすら分からないレベルで思念波を漏らさないトイレ、とソルジャーの解説。
「そんなトイレに入って鍵をかけたって所までは良かったんだけど…」
「ひょっとして、鍵が壊れたとか?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「ピンポーン!」と。
「その通りだよ、壊れちゃったんだよ! 不幸なことに!」
なんでも用足しが済んで出ようとしたら、トイレの鍵が開かなかったとか。共同トイレだったら他の人が来た時に「閉じ込められた」と言えば済みますけど、個人の部屋では…。
「そうなんだよ、誰も来ないってね! 叫ぶだけ無駄!」
防音の方も完璧だから、とソルジャー自慢のシャングリラの設備。それが裏目に出てしまった悲劇、トイレに閉じ込められた男性、誰にも助けて貰えなくて。
「また、運の悪いことにさ…。当番明けで部屋に帰ったトコだったしねえ、不在に気付いて訪ねて来る人も全くいないという状況!」
「「「うわー…」」」
それは嫌だ、と誰もが震え上がりました。トイレに閉じ込め、助けが来るまで何時間かかるか謎な状況。トイレの中だけに、食料も水も無いですし…。
「ね、危機的な状況だろう? もう脱出しか無いという!」
鍵のかかったトイレの個室から脱出マジック! と言われなくても、誰だって出たくなるでしょう。鍵が開かないならまさしく密室、脱出マジックの出番ですってば~!
ソルジャーのシャングリラで起こった、個室のトイレに閉じ込めな事故。水も食料も無し、しかも当番明けで当分は誰も来てくれないという恐ろしさ。誰でも脱出したくなります、もしもマジックが使えるのなら。でも、脱出マジックは種も仕掛けもあるわけで…。
「脱出マジックとは其処が違うね、トイレの個室は! 仕掛けなんかは無いんだから!」
出るなら自力、とソルジャーはニッと。
「ぼくが瞬間移動をするのは、ぼくのシャングリラでは常識だしね? 出るならソレだと!」
「えっ、でも…。タイプ・ブルーしか出来ないんじゃあ…?」
君の世界でもそうだったんじゃないのかい、と会長さんが確かめてますが。
「まあね。だけど、火事場の馬鹿力なんだよ、ぶるぅが言ってる脱出マジックの人みたいに!」
とにかく出たい一心で、とソルジャー、クスクス笑いながら。
「俺は出てやると、此処から出るんだと精神統一! そして!」
「「「…出られたとか?」」」
出てしまったのか、と私たちの声が重なりましたけれど。
「そこで出てたら、タイプ・ブルー以外でも瞬間移動は可能なんだと言い切ってるよ、ぼくは!」
「…駄目だったわけ?」
未遂だったのか、と会長さんが訊くと。
「ぼくが救出しちゃったんだよ、非常事態だと気付いたからね!」
精神統一中の彼の思念をキャッチした、と自分の能力の高さを誇るソルジャー。
「シャングリラ中の誰も気付いていなかったけどね、ぼくだけは!」
「…それで?」
「可哀相だから駆け付けてあげたよ、瞬間移動で!」
でもって個室の鍵をガチャリと開けた、という発言。外側からなら開けられたそうで、ソルジャーが開けたその瞬間に、中にいた男性はまさに瞬間移動の直前だったという話で。
「あと三秒ほど遅れていたら、もう間違いなく出ていたね! 瞬間移動で!」
この道のプロだからこそ分かる、とソルジャーはハッキリ証言しました。
「だから言えるんだよ、タイプ・ブルー以外でも瞬間移動が出来ないことは無いってね!」
ただし極限状態でないと無理そうだけど、と深い溜息。
「あれ以外に例は見たこともないし、報告だって上がってこないし…。でもねえ…」
唯一の例がアレでは可哀相で報告できやしない、と言うソルジャー。おまけに瞬間移動の寸前だった男性に「出来そうだった」との自覚はゼロらしく、ゆえに未だに「出来ない」と言われる瞬間移動。現場がトイレじゃ仕方ないですかね、誇れる場所ではないですしねえ…?
ソルジャーが目撃していたらしい瞬間移動未遂なるもの。「トイレから瞬間移動で脱出未遂は恥ずかしいだろう」と考えたソルジャーのお蔭で報告はされず、今も誰一人知らない話。やりかけていた人もそうだと気付いていなかったのでは、これはもう…。
「…タイプ・ブルー以外には出来ないと思われていても仕方ないだろう?」
瞬間移動、というソルジャーの言葉に頷くしかない私たち。でもでも、出来そうだった人は確かにいたわけですね?
「その点はぼくが生き証人だよ、ちゃんと現場を見たんだから!」
瞬間移動のプロのぼくが、とソルジャーが言い切り、会長さんが。
「ちなみに、タイプは何だったんだい? そのトイレの人のサイオン・タイプ」
参考までに聞きたいんだけど、という質問は多分、会長さんもソルジャーだからでしょう。サイオンを持った仲間たちを纏める最高責任者みたいなものだけに、他の世界で起こったことでも頭に入れておきたい、と…。
「ああ、彼かい? ごくごく平凡、タイプ・グリーンだよ」
ハーレイと同じ、とソルジャーの答え。
「どうせだったらハーレイにやって欲しかったねえ、栄えある瞬間移動未遂、第一号は!」
「…トイレでかい?」
「別にトイレでもかまわないじゃないか、どうせ助けるのはぼくなんだから!」
それに知らない仲でもないし…、とソルジャー、ニコニコ。
「ハーレイがトイレに閉じ込められていたら、もちろん助けて、御礼に一発!」
「…それもトイレで?」
「たまにはトイレも刺激的だよ、まだトイレではヤッてないけど!」
「やらなくていいから!」
そしてその先は言わなくていい、と柳眉を吊り上げた会長さんですが、「待てよ?」と顎に手を当てて…。
「…栄えある第一号がハーレイねえ…?」
「いいと思うんだけどね、残念なことに他人がやってしまったけどね!」
第一号の座を持って行かれた、とソルジャーは悔しそうですけれど。
「うん、分かる。でも、それは君の世界に限定だから…」
「えっ?」
「こっちの世界じゃ、第一号はまだ出ていないんだよ!」
誰も瞬間移動未遂はやっていない、と会長さん。その通りですけど、それが何か…?
私たちの世界では誰もやっていない、タイプ・ブルー以外の瞬間移動や瞬間移動未遂。ソルジャーの世界ではトイレに閉じ込められたタイプ・グリーンの男性が第一号だそうですが…。
「第一号の座、こっちじゃ空席のままだってね! 此処で一発、脱出マジック!」
「「「へ?」」」
なんのこっちゃ、と会長さんの顔をポカンと見詰めたら。
「決まってるだろう、タイプ・グリーンがやったというなら、同じタイプ・グリーンの人間がこっちにも一人!」
それもブルーが第一号の座に着け損なったハーレイが! と拳を握る会長さん。
「極限状態に置かれた場合は出来るというなら、イチかバチか!」
「かみお~ん♪ ハーレイがやってくれるの、脱出マジック?」
見てみたぁ~い! と飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えとえと、鎖と手錠で鉄の箱がいいな、海にボチャンは無理かもだけど…!」
「そこまでやったら大袈裟だしねえ、普通に閉じ込めだけでいいかな」
トイレの代わりにトイレ無しで…、と妙な発言。
「「「トイレ無し?」」」
どういう意味だ、と目を見開いた私たちですが、会長さんはニヤニヤとして。
「トイレ無しだよ、文字通りだよ! トイレに行くなら脱出しろと!」
仮設トイレもつけてやらない極限状態! と突き上げる拳。
「鉄の箱に入って貰う前にね、「頑張ってね」と栄養ドリンク! ただし、下剤入り!」
「「「うわー…」」」
嫌すぎる、と誰もが思った下剤入り。それでトイレの無い空間に閉じ込められたら…。
「ほらね、出るしかないってね! 瞬間移動で!」
上手くいったら記念すべき第一号の座に輝けるであろう、と会長さん。
「トイレのためにと脱出したって、脱出には違いないわけで…。トイレから脱出するってわけでもないから、きちんと記録も残せるわけで! 第一号と!」
「…それは分かるけど、第一号になれるっていうだけで入るかい?」
こっちのハーレイが脱出マジック用の箱なんかの中に入るだろうか、というソルジャーの疑問に、会長さんは自信たっぷりに。
「入るね、餌はこのぼくだからね!」
もう喜んで入る筈だ、と言ってますけど、会長さんが餌って、何をすると…?
ソルジャーの世界では第一号の座を名も無い男性が持って行ってしまった、タイプ・ブルー以外の瞬間移動未遂。私たちの世界では例が無いだけに、第一号を教頭先生にやらせようというのが会長さんの案ですけれど。
鉄の箱に入れて脱出マジックもどき、トイレ無しで事前に下剤つき。下剤の件は沈黙を守っておけばいいとしても、教頭先生がチャレンジなさるとは思えません。なのに会長さん曰く、喜んで入るらしい教頭先生、餌は会長さんなのだとかで。
「ぼくが餌だよ、これで釣れなきゃハーレイじゃないね!」
「何をする気さ、君が餌って?」
「それはもちろん! 脱出に見事成功したなら、ぼくと熱くて甘い一夜を!」
「「「ええっ!?」」」
いいんですか、そんな御褒美を出したりして?
「お、おい…! あんた正気か、成功なさるかもしれないんだぞ…!」
キース君が突っ込み、シロエ君も。
「そうですよ、前例はあったと言うんですよ!? 記録に残っていないというだけで!」
「しかもトイレだぜ、その時よりも遥かにトイレが切実な極限状態じゃねえかよ!」
トイレ無しで下剤つきなんだから、とサム君は真っ青。なにしろ会長さんに惚れて今でも公認カップル、教頭先生に盗られてたまるかといった所かと思いますが…。
「別にいいんだよ、成功しても! 熱くて甘い一夜なだけだし!」
会長さんはケロリとした顔、ソルジャーが「うーん…」と。
「信じられない話だけどさ…。君が自分からハーレイと…」
甘い一夜を過ごすだなんて、とソルジャーも首を振ったのですけど。
「えっ、単なるお汁粉パーティーだけど? 他におぜんざいとか、チョコレートフォンデュも!」
「「「チョコレートフォンデュ?」」」
「そうだよ、今が美味しいシーズン! 寒い冬にはお汁粉とかで!」
熱くて甘い夜を過ごそう! と会長さんは勝ち誇った笑み。つまりは本当に甘いんですね、お砂糖とかの甘みたっぷり、それを徹夜で食べまくると…。
「うん、ハーレイにとっては地獄の一夜! 甘い食べ物は苦手だからねえ!」
でも二人なら喜んで食べてくれるであろう、と恐ろしい罠。教頭先生、何か勘違いをして釣られそうですけど、脱出マジックに成功したなら、苦手な甘い食べ物で熱い徹夜パーティーと…。
かくして決まった、教頭先生の脱出マジック。鉄製の箱はシャングリラ号でも使う丈夫なコンテナを転用、外からガシャンと鍵をかければ絶対に開かない仕組みらしいです。それを会長さんのマンションの屋上に設置、教頭先生に入って頂くとかで…。
「そうと決まれば、早速、ハーレイに話をつけないとね!」
もう今夜にでも、と会長さんの鶴の一声、私たちは家へと帰る代わりに会長さんのマンションへ揃って瞬間移動。豪華寄せ鍋の夕食の後で、会長さんが時計を眺めて。
「そろそろいいかな、ハーレイも食後の休憩タイムに入ったからね」
「らしいね、コーヒーを淹れているしね」
ソルジャーも「よし」と。後はお決まりの青いサイオン、教頭先生の家のリビングへと瞬間移動で飛び込んで行って…。
「な、なんだ!?」
仰天しておられる教頭先生に、会長さんが。
「ちょっとね、君に提案があって…。脱出マジックに挑まないかい、鉄の箱から瞬間移動で外へ出られたら大成功な!」
「しゅ、瞬間移動と言われても…。それはタイプ・ブルーにしか出来ないだろう…!」
「現時点ではね。…それがね、ブルーの世界で成功しかけた人がいるらしくって…」
君と同じタイプ・グリーンの男性、と会長さん。
「非公式記録で、ブルーしか知らないらしいんだけど…。個室のトイレに閉じ込められちゃって、其処から出たい一心で!」
「…トイレなのか?」
「らしいよ、閉じ込められてるってコトに気付いて貰えるまでに何時間かかるか謎って状況! 自分で出なけりゃ、そのままトイレの中だからねえ…」
ある意味、一種の極限状態、と会長さんがソルジャーに「ねえ?」と。
「そういうこと! たまたま、ぼくが発見したから救出したけど…。あと三秒ほど遅れていたなら、彼は立派に瞬間移動をしていたね!」
場所がトイレだったから彼の名誉のためにも伏せておいた、とソルジャーは笑顔。
「だからね、君も頑張れば出られると思うんだよ! しかも出られたら豪華な御褒美!」
「…御褒美…ですか?」
何か貰えるというのでしょうか、と怪訝そうな教頭先生に向かって、会長さんが。
「ぼくとの甘い一夜だけど? 冬の夜は何かと冷えるしねえ…」
ぼくと一晩、という甘い一言、教頭先生が脱出マジックを承諾なさったのも無理はないかと…。
脱出マジックは週末の土曜日、私たちは朝から会長さんのマンションに出掛けてゆきました。屋上でやるイベントなだけに防寒対策はバッチリです。
「かみお~ん♪ もう鉄の箱、準備出来てるの!」
それにハーレイもブルーも来てるよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。教頭先生は少しでも身体を軽くしたいのか、スポーツ用の防寒ウェアを着用、ソルジャーは普通にセーターの上から厚手のコートという私服。
会長さんもソルジャーと似たようなもので、「じゃあ、行こうか」とゾロゾロ、エレベーターで屋上へ行けば…。
「「「うわあ…」」」
ドカンと置かれた鉄製のコンテナ、会長さんとソルジャーが言うには「宇宙空間に放り出しても潰れない」という頑丈さ。けれども換気用の設備は一応あるのだそうで…。
「だから、何時間入っていたって窒息の心配は無いってね! 要は気合で!」
頑張って脱出してみたまえ、と会長さん。教頭先生はコンテナをコンコンと叩いてみて。
「…アレか、シャングリラ号で一番分厚いヤツなのか、これは?」
「そうだけど? でもねえ、同じ瞬間移動で脱出するなら、このくらいの壁を景気よく!」
それでこそ記録にもなるというもので…、と会長さんは笑みを浮かべて「はい」と栄養ドリンクの瓶を差し出しました。
「こういう時にはファイト一発! これを飲んでタフなパワーをつけて!」
「すまんな、朝飯はしっかり食べて来たのだが…。お前の心遣いが実に嬉しいな、うん」
これは頑張って脱出せねば、と教頭先生はドリンクを開けて一気飲み。…あれって下剤入りなんですよね、蓋は閉まってたみたいですけど…。
『ぼくにかかれば、未開封でも下剤くらいは入れられるんだよ! 簡単に!』
会長さんから届いた思念は、教頭先生にだけは届かなかったみたいです。空になったドリンク剤の瓶を「御馳走様」と会長さんに返して、颯爽とコンテナに入ってゆかれて。
「よし、準備はいいぞ。閉めてくれ」
「かみお~ん♪ ハーレイ、頑張ってね~!」
脱出マジック、とっても楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がワクワク飛び跳ねている中、柔道部三人組がコンテナの扉をガシャンと閉めて、会長さんが鍵をガチャリと。
これでコンテナの中は密室状態、蟻も出られないらしいですけど、教頭先生のサイオンは果たして発動するんでしょうか…?
タイプ・ブルーにしか出来ないと噂の瞬間移動。ソルジャーの世界では非公式ながらタイプ・グリーンの男性が成功しかかったという話、私たちは鉄製のコンテナを見守りました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「成功したら報告しなくちゃいけないしね!」と動画を撮影中です。
「ハーレイ、ちゃんと出られるかなあ? 脱出マジックの人みたいに!」
「さあねえ…。ああいう人たちはプロだからねえ、ハーレイの場合はどうなるか…」
それにそろそろ下剤が効いてくる頃だけど、と会長さん。
「即効性ではピカイチなんだよ、もうグキュルルとお腹が鳴っていそうだけどね?」
「うん、鳴ってる。…軽くパニック状態ってトコ」
ソルジャーはコンテナの中をサイオンで覗き見しているようです。
「出ようという気持ちが変化しつつはあるようだけど…。出ないとヤバイという方向へは向かっているけど、サイオンの集中って意味ではどうだろう?」
「…失敗しそうなコースかい?」
ぼくはどっちでもいいんだけどねえ、と会長さんが笑っています。
「成功したなら公式記録で、ハーレイのお株が上がるわけだけど…。ぼくからの御褒美はアレだしねえ? それに失敗しちゃった時には馬鹿にすればいいっていうだけだしね!」
同じタイプ・グリーンとも思えないと呆れてやるだけだ、と言い終わらない内に…。
『と、トイレ!! トイレに行かねばーーーっ!!!』
もう駄目だあ! と響き渡った教頭先生の思念波、歴史的瞬間を見届けようと乗り出した私たちですけれど。
ドオン!! と爆発音が響いて、マッハの速さで駆け抜けて行った大きな人影。「トイレ!」と声の限りに絶叫しながら。
「…い、今の…」
教頭先生? とジョミー君が目をパチクリとさせて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「…えとえと…。コンテナ、穴が開いちゃったあ~!」
こんなの、脱出マジックじゃない~! と指差す先には穴が開いたコンテナ、極限状態のサイオンで破壊されたようです。
「…こう来たか…。脱出マジックは失敗だね、うん」
せっかく下剤で緊迫感を盛り上げたのに、と会長さんがフウと溜息、ソルジャーが。
「再挑戦はあるのかい?」
「ハーレイ次第ってトコかな、多分、やるだけ無駄だろうけど…」
こういうオチにしかならないと思う、と会長さんはスッパリと。やっぱり瞬間移動はタイプ・ブルーしか出来ないってことになるんでしょうか、この結末では…?
「そうなるねえ…。ブルーの世界でも非公式記録だし、ぼくたちの世界じゃこの有様だし…」
脱出マジックはプロに限るよ、と会長さんが言い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「普通の人でも出来ちゃうのに~! ハーレイがやったら、記録になるのに~!」
やっぱりコンテナが海にドボンなコースでないと本気で脱出できないのかなあ? とガッカリしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」は未だに気付いていないようです。瞬間移動と脱出マジックは全く違うということに。
「…教頭先生でもアレってことはさ、ぼくがやってもさ…」
「似たようなコースだと思うぜ、やめとけよ、ジョミー」
脱出マジックも瞬間移動もプロに任せておくとしようぜ、とサム君の意見。私たちもそう思います。教頭先生、再チャレンジはするだけ無駄です、次も絶対、下剤でトイレなオチですってば~!
脱出する方法・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が挑むことになった脱出マジック、見事に失敗。破壊して出ればいいんですしね。
実際は、アニテラのマツカがやっているので、タイプ・グリーンなら出来てしまう可能性も。
さて、シャングリラ学園番外編、今年で連載終了ですので、残り一年となりましたが…。
毎日更新の場外編は続きますので、シャングリラ学園生徒会室の方も御贔屓下さい。
次回は 「第3月曜」 2月21日の更新となります、よろしくです~!
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、1月は元老寺で迎える元日から。檀家さんの初詣があって…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。新年が明けて一連のドタバタ行事も終わって、ホッと一息、お次はバレンタインデーといった所です。入試なんかもありますけれども、合格グッズの販売員は未だにさせて貰えませんし…。
「やりてえよなあ、グッズ販売…」
サム君がぼやく、放課後の中庭。寒風吹きすさぶ中を「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へと移動する途中です。
「無理だよ、ブルーとリオさんが独占状態だし…。それに第一、ぼったくりだし」
あの値段をお客さんに言える勇気は無い、とジョミー君。
「相手は中学生なんだよ? なのにお値段、高すぎだってば!」
「それは言えるな、俺も自分が副住職になったら痛感したぞ」
下手な法事の御布施並みだ、とキース君も。
「クソ寒い中を月参りに行っても、貰える御布施は合格ストラップの値段にもならん」
「…そこまでなわけ?」
月参りよりも高かったわけ、とジョミー君が呆れて、シロエ君が。
「そうですか…。プロのお経よりも高かったんですか、あのストラップ…」
「でも、ある意味、プロの仕事よ、あれは? ぶるぅが手形を押してるんだし」
ちゃんと点数が取れるストラップだし、とスウェナちゃん。
「私は買っていないけど…。効き目はあるでしょ、ぶるぅなんだもの」
「そうですよね…」
今年も入試シーズンが近付いて来たらストラップ作りですね、とマツカ君が言う通り、そのシーズンになったら「そるじゃぁ・ぶるぅ」は忙しくなります。三日間ほどおやつは手抜き、いや作り置き。でもでも、そのシーズンはまだ先ですから…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
授業、お疲れ様! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれた、いつもの溜まり場。暖房が効いたお部屋で熱い紅茶にコーヒー、温かいオレンジスフレなんかも。
「「「いっただっきまーす!」」」
これが最高! とスプーンで掬って熱々をパクリ、冬はやっぱりスフレですよね!
合格グッズの値段の高さに始まり、あっちへこっちへと飛びまくる話題。もはやカオスと化してますけど、この賑やかさが放課後の醍醐味だよね、と思っていたら。
「えっとね、昨日のマジックショー、見てた?」
夜にテレビでやっていたヤツ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「いや、俺は…。その時間には本堂で親父の手伝いを…」
仏具の手入れをさせられていた、とキース君がブツブツ、ジョミー君は。
「ぼくは別のを見てたんだけど…。マジックショーは特に興味もないし…」
「ぼくもです。機械弄りをしていましたね」
作業部屋で、とシロエ君が続いて、サム君もマツカ君も、スウェナちゃんも私も、マジックショーを見てはいませんでした。何かいいこと、あったんでしょうか?
「あのね、とっても凄かったの! 脱出マジック!」
鎖で縛られて手錠もかけられて鉄の箱なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「すっごく分厚い鉄の箱の中に入れられてたのに、その人、ちゃんと出て来ちゃったの!」
なんでも「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言うには、その鉄の箱はレールの上に乗せられ、ジリジリと移動してゆく仕掛け。時間内に脱出できなかったら箱は海へとドボンだそうで。
「海に落ちたら大変でしょ? 引き上げてくれる前に溺れちゃうかも…」
「そりゃそうだけどよ…。ああいうヤツって、ほぼ大丈夫だぜ?」
ちゃんと出られるのがお約束だし、とサム君が笑うと、シロエ君が。
「…どうでしょう? たまにニュースになっていませんか、脱出マジック失敗の事故」
「あるな、スタッフが救出しなければ死んでいたという恐ろしいのもな」
あの手のマジックにリスクはつきもの、とキース君が頷いています。
「自分がショーをやらかすからには、多分、覚悟の上なんだろうが…」
「えとえと、覚悟はどうでもいいの! 凄かったから!」
普通の人にもサイオンはちゃんとあるんだね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「「「はあ?」」」
サイオンって…。アレは私たちの仲間だけが持つ特殊能力で、存在も極秘の筈ですが…。一般人なんかが持っているわけないんですけど、何処からサイオン?
謎だ、と思った「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオン発言。シャングリラ学園でさえも「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーの一言で誤魔化してあるのがサイオン、普通の人が持っているならエライことです。けれど、言い出しっぺの「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「だって、サイオンだよ、脱出マジック! 鎖をほどいて、鉄の箱から大脱出!」
どっちもサイオンが無ければ無理だし、とマジックショーを勘違いしているようです。脱出マジックは種も仕掛けもあるもの、その道のプロならサイオンなんかは…。
「俺は要らないと思うんだが…。あの手のマジックにサイオンなんぞは」
何か仕掛けがある筈だ、とキース君が返すと、会長さんが。
「ぼくもそう言っているんだけどねえ…。それこそずっと昔から言ってるんだけど…」
もう何十年言っていることか、と会長さん。
「テレビで脱出マジックを見る度に、ぶるぅが「凄い!」と喜ぶからさ…」
「「「あー…」」」
素直なお子様、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。マジックの種には気付きもしないで、手放しで褒めてしまうのでしょう。
「でもでも、ホントに凄いんだもん! 普通の人でもサイオンだもん!」
ホントに凄いの! と言い張る「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿に、会長さんが苦笑い。
「この段階まで到達するのに、何年かかったことやらねえ…」
昔はショーを見る度に「仲間発見!」と大騒ぎだったらしいです。急いで連絡を取らなければ、と思念波を飛ばしかかったこともあったとか。
「…なるほどな。そうなる気持ちは分からんでもない」
仕掛けがあると思わなければ瞬間移動で片付きそうだ、とキース君が頷くと。
「違うもん! 仕掛けじゃないもん、本物だもん!」
ああいう時だけ瞬間移動で大脱出! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えーっと、火事場の馬鹿力? 普通の人でも出来るんだってば、頑張れば!」
「…それが出来たら、ぼく、もうちょっと楽なんだけど…」
これでもタイプ・ブルーだから、とジョミー君が割って入りました。
「瞬間移動が出来る素質はある筈なのにさ、隣の部屋にも飛べないし!」
「それなら、ジョミーも脱出マジック、頑張ってみる?」
火事場の馬鹿力でサイオンの力が目覚めるかも! と無邪気な「そるじゃぁ・ぶるぅ」ですけど。目覚めなかったら事故になりますよ、そっちの方が有り得そうです~!
会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」と全く同じなサイオンを持っているのがタイプ・ブルーで、現時点ではジョミー君も含めて三人だけ。
ところがジョミー君のサイオンときたら、私たちと変わらずヒヨコレベルで思念波を使うのが精一杯といった状態です。坊主頭限定でサイオニック・ドリームを一ヶ月近く使い続けたキース君の方がまだマシなわけで。
「ハッキリ言うがな、ジョミーに脱出マジックなんぞをやらせても無駄だ」
俺たちが救助に向かわされる方だ、とキース君がバッサリと。
「俺でさえもサイオニック・ドリームを使えるようになる前が実に大変で…」
「そうでしたっけね、先輩、派手にサイオン・バースト…」
ぶるぅの部屋が吹っ飛びましたっけ、とシロエ君。
「そういや、あれが切っ掛けだったんだよなあ、ぶるぅの部屋の公開イベント」
今じゃ学園祭の定番だけどよ、とサム君も。
「キースでさえもあの騒ぎだしよ、ジョミーが火事場の馬鹿力ってヤツをやったらよ…」
「成功したらいいんですけど、バーストした時は…」
凄くマズイような、とマツカ君が。
「キースの騒ぎの時に聞いていたような気がします。ジョミーがサイオン・バーストしたら…」
「シャングリラ学園が丸ごと吹っ飛ぶのよねえ?」
マズすぎるわよ、とスウェナちゃん。
「やめときましょうよ、ジョミーに脱出マジックの才能があるとは思えないもの」
「まったくだ。シャングリラ学園が吹っ飛んだとなったら、俺たちもただでは済まないぞ」
下手をしなくても退学だ、とキース君が顔を顰めています。
「この馬鹿のせいで退学は御免蒙りたい」
「馬鹿って、何さ!」
「俺はそのままを言ったまでだが?」
サイオンを上手く扱えないお前が悪い、とピッシャリと。
「瞬間移動も出来ないからこそ、そう言われるんだ。…一般人でも出来るのにな?」
脱出マジック、という指摘に「マジックだから!」とジョミー君。
「ぼくと一緒にしないで欲しいよ、あっちは仕掛けがあるんだからさ!」
出来て当然、と喚いてますけど、瞬間移動は夢ではあります。ヒョイと飛べたら便利でしょうけど、アレって本当にタイプ・ブルーしか出来ないのかな…?
サイオンを持っているなら使いたいのが瞬間移動。でも、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がやっているだけで、他の人がやった話は知りません。ソルジャーや「ぶるぅ」は別の世界の人だけに話が別ですし…。
「瞬間移動はタイプ・ブルーでないと無理なんですか?」
シロエ君の質問に、会長さんが。
「そういうことになっているねえ、ぼくとぶるぅしか使えないし」
「違うよ、マジックショーの人がやってるんだから、多分、誰でも!」
頑張ったら使えちゃうんじゃないかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「タイプ・ブルーとかグリーンとかは普通の人には無いもん、だからサイオンがあれば誰でも!」
普通の人より上手く出来ちゃう筈だもん! とマジックショーを信じている「そるじゃぁ・ぶるぅ」は根っからお子様、私たちにだって瞬間移動が出来るものだと思っています。
「そうは言われても、無理なものは無理だと思うんだが…」
実際、出来んし、と唸るキース君、ちょっと夢見たことがあるらしいです。
「出来たらいいな、と頑張ってみたが、どうすればいいのかもサッパリ分からん」
「だよねえ? ぼくにも分からないんだよ」
やってみたいとは思うんだけど、とジョミー君が相槌を打った所へ。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもスフレ! と飛び込んで来たお客様。例によってソルジャー登場です。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! ちょっと待っててねーっ!」
スフレは焼くのに時間がかかるし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が紅茶をサッと。スフレもオーブンに入れて来たようです。おかわり用にと用意してあったみたいですけど、流石の素早さ。
一方、現れたソルジャーは空いていたソファにストンと座って。
「面白そうな話題だねえ…。瞬間移動だって?」
「そうなの! 昨日のマジックショーが凄かったの!」
こんなのだよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は思念で伝達した様子。ソルジャーは「ふうん…」と納得、「そう見えないこともないよね、これは」と。
「それで普通の人でも瞬間移動が出来ると言ってるんだね、ぶるぅはね?」
「うんっ! ホントに瞬間移動だもん!」
でなきゃ鉄の箱ごと海にドボンで大変だもん! という主張。マジックショーの人、本当に瞬間移動が出来る人間に技を認められるとは、天晴れな…。
脱出マジックは瞬間移動だと信じ込んでいる「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ソルジャーは数々の脱出マジックの話を聞かされ、「これだと無理もないよね、うん」と。
「マジックの仕掛けは知らないけどさ…。瞬間移動だと思い込むのが普通かな?」
「仕掛けじゃないもん、本物だもん!」
そう叫んでから「あっ、スフレ!」と飛び出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、ホカホカの出来立てを持って戻って来ました。
「はい、オレンジのスフレ! しぼまない内に熱いのを食べてね!」
「ありがとう! ぶるぅのスフレは絶品だしね!」
美味しい! とスプーンで頬張ったソルジャー、スフレをパクパク食べながら。
「瞬間移動の話だけどねえ、タイプ・ブルー以外は無理なのか、ってヤツ」
「ああ、君だったら詳しいのかな?」
ぼくより若いけど、サイオンがあるだけで追われる世界に住んでいるし、と会長さん。
「ぼくたち以上に追い詰められるケースも多いだろうから、レアケースとかもありそうだよね」
「ぶるぅの言ってる火事場の馬鹿力だね?」
タイプ・ブルー以外の人間に瞬間移動は出来るかどうか、とソルジャーが言って、会長さんが「そうなんだけど…。どう?」と。
「やった人間はいるのかな? そのぅ…。言いにくいんだけど…」
「いいって、いいって! アルタミラのことだろ、実験動物だった時代の話!」
あの頃だったら究極の極限状態なんだけど…、とソルジャーは「うーん…」と首を捻って。
「実を言うとさ、このぼくでさえも、アルタミラではやっていないんだよ。瞬間移動は」
「「「ええっ!?」」」
まさか、と驚いた私たちですが、「本当だから!」と返したソルジャー。
「出来ていたなら、それこそ脱出マジックだよ! 他の檻にいる仲間も逃がして大脱出だよ、大人しく実験されていないで!」
船を奪ってトンズラしている、と言われてみればその通り。それじゃ、瞬間移動はいつから出来るようになったと言うんですか?
「えーっと…。ある程度、船が落ち着いてからかな? 心に余裕が出来てからだね」
それまではサイオンの上達なんかはとてもとても…、とソルジャーは両手を広げてお手上げのポーズをしています。火事場の馬鹿力はアルタミラ脱出の時に閉じ込められてた場所をサイオンでブチ壊した程度、瞬間移動は後付けでしたか…。
ソルジャーでさえも最初は出来なかったらしい瞬間移動。そうなってくると、やっぱりタイプ・ブルー以外の人間には無理な技ですか?
「どうなんだろうね? 現時点では、君たちの世界と同じでタイプ・ブルーに限定だけど…」
しかも遅咲きの力だったけど、とソルジャー、苦笑。
「ただねえ、ぶるぅは生まれて直ぐから使えたからねえ、環境の方も大切かもね?」
「「「環境?」」」
「そう、環境! 火事場の馬鹿力を使うにしたって、心の余裕が要るのかもねえ…」
死ぬか生きるかの状況では発動しなかったから、と挙げられたソルジャーのアルタミラ時代。真空だの高温だの、絶対零度だののガラスケースや、有毒ガスやら。「此処から出られさえすれば」という極限状態に置かれていたって、瞬間移動は出来なかったとか。
「今だったら余裕でヒョイと出られるのに、あの頃のぼくは馬鹿だったよねえ…」
素直に実験されていたし、とブツクサと。
「だからね、きっと「此処は安心して暮らせる場所だ」という前提が要るんだよ! 心の余裕!」
そういう安全な場所で非常事態に追い込まれたならば、あるいはタイプ・ブルー以外の人間でも瞬間移動が出来るかも、というのがソルジャーの仮説で。
「ふうん…? ぶるぅはともかく、誰か出来そうだった例でもあると?」
君のシャングリラで、と会長さんが尋ねると。
「一回だけね!」
たったの一回だけなんだけど、とソルジャーは指を一本立てました。
「しかも、それを知ってるのはぼく一人だけ!」
「「「えっ?」」」
なんで、と驚いた私たち。タイプ・ブルーしか出来ない筈の瞬間移動に成功しかけた人がいるのに、どうしてソルジャーしか知らないんですか?
「それはねえ…。深い事情があると言うべきか…」
「機密事項なわけ?」
君のハーレイも知らないとなると、と会長さんは言ったのですけど。
「まさか! 機密事項だったら、こんな所で喋っていないよ」
「でも、君だけしか知らないんだろう?」
「なんて言うかな、プライバシー…? 人間、誰でも知られたくないことはあるよね」
こう色々と…、と頷くソルジャー。瞬間移動が出来そうだったとなれば誇って良さそうですけど、それを知られたくないって、どういうこと…?
ソルジャーのシャングリラで一度だけあったらしい、瞬間移動未遂。やった人間の存在はソルジャーだけしか知らないとなると…。
「もしかして、戦闘要員には不向きだとか?」
そんなタイプだから内緒だろうか、と会長さん。
「瞬間移動が出来るとなったら、君のシャングリラじゃ戦闘班に回されそうだし…。そっち方面の訓練にも実戦とかにも向きそうにない人材なのかい?」
だから本人も黙っているとか、という質問ですけど、ソルジャーは。
「違うね! それに本人には自覚無しだしね、瞬間移動をやりかけたという!」
「…だったら、どうして秘密なのさ?」
その才能を伸ばしてやれば良さそうなのに、と会長さんは首を傾げたのですけれど。
「ズバリ、恥ずかしさの問題かな!」
「「「恥ずかしさ?」」」
ソルジャーの口から出るとは思えない言葉。およそ恥じらいとは縁の無いソルジャー、そのソルジャーが赤の他人の恥ずかしさなどを考えるとも思えませんが…?
「うん、セックスなら楽しく喋りまくるんだけどさ! 恥じらわないで!」
「そういう話は今はいいから!」
瞬間移動の件を喋ってくれたまえ、と会長さん。
「どう恥ずかしいと言うんだい? 君の台詞とも思えないけど…?」
「だってねえ…。知られたいかい、トイレ事情を?」
「「「トイレ?」」」
「そう、トイレ!」
現場はトイレだったのだ、とソルジャーは斜め上な現場を口にしました。トイレって…。どう間違えたらトイレで瞬間移動になると?
「それは簡単な話だけどね? 危機的状況に陥ったわけで…」
「トイレでかい?」
いったい何が起こったのだ、と会長さんも見当がつかないようですけれど。
「いわゆる脱出マジックと同じ状況! なんとかして出ないとマズイという!」
「…どんなトイレなわけ?」
「普通だけど?」
ぼくのシャングリラの普通のトイレ、という返事。どう転がったら、普通のトイレが脱出マジックに繋がりますか…?
タイプ・ブルーしか出来ないと噂の瞬間移動をしかかった人。現場はソルジャーの世界のシャングリラのトイレということですけど、トイレで脱出マジックだなんて、どんな状況?
「至って普通のトイレなんだけどねえ、それも共同トイレじゃなくって個人用の」
ぼくのシャングリラは一人一部屋が基本だから、とソルジャーは威張り返りました。バストイレつきの個室が貰えるのだそうで、多分、私たちがシャングリラ号に乗せて貰う時に使うゲストルームのようなものでしょう。あのトイレ、何か問題ありましたっけ?
「強いて言うなら、思念波シールドが裏目に出たって所かなあ…」
「「「思念波シールド?」」」
「ぼくの世界はホントにあの船が世界の全てだからねえ、プライバシー保護のために個室は覗き見できない仕様! トイレともなれば、もっと強力に!」
入っていることすら分からないレベルで思念波を漏らさないトイレ、とソルジャーの解説。
「そんなトイレに入って鍵をかけたって所までは良かったんだけど…」
「ひょっとして、鍵が壊れたとか?」
会長さんの問いに、ソルジャーは「ピンポーン!」と。
「その通りだよ、壊れちゃったんだよ! 不幸なことに!」
なんでも用足しが済んで出ようとしたら、トイレの鍵が開かなかったとか。共同トイレだったら他の人が来た時に「閉じ込められた」と言えば済みますけど、個人の部屋では…。
「そうなんだよ、誰も来ないってね! 叫ぶだけ無駄!」
防音の方も完璧だから、とソルジャー自慢のシャングリラの設備。それが裏目に出てしまった悲劇、トイレに閉じ込められた男性、誰にも助けて貰えなくて。
「また、運の悪いことにさ…。当番明けで部屋に帰ったトコだったしねえ、不在に気付いて訪ねて来る人も全くいないという状況!」
「「「うわー…」」」
それは嫌だ、と誰もが震え上がりました。トイレに閉じ込め、助けが来るまで何時間かかるか謎な状況。トイレの中だけに、食料も水も無いですし…。
「ね、危機的な状況だろう? もう脱出しか無いという!」
鍵のかかったトイレの個室から脱出マジック! と言われなくても、誰だって出たくなるでしょう。鍵が開かないならまさしく密室、脱出マジックの出番ですってば~!
ソルジャーのシャングリラで起こった、個室のトイレに閉じ込めな事故。水も食料も無し、しかも当番明けで当分は誰も来てくれないという恐ろしさ。誰でも脱出したくなります、もしもマジックが使えるのなら。でも、脱出マジックは種も仕掛けもあるわけで…。
「脱出マジックとは其処が違うね、トイレの個室は! 仕掛けなんかは無いんだから!」
出るなら自力、とソルジャーはニッと。
「ぼくが瞬間移動をするのは、ぼくのシャングリラでは常識だしね? 出るならソレだと!」
「えっ、でも…。タイプ・ブルーしか出来ないんじゃあ…?」
君の世界でもそうだったんじゃないのかい、と会長さんが確かめてますが。
「まあね。だけど、火事場の馬鹿力なんだよ、ぶるぅが言ってる脱出マジックの人みたいに!」
とにかく出たい一心で、とソルジャー、クスクス笑いながら。
「俺は出てやると、此処から出るんだと精神統一! そして!」
「「「…出られたとか?」」」
出てしまったのか、と私たちの声が重なりましたけれど。
「そこで出てたら、タイプ・ブルー以外でも瞬間移動は可能なんだと言い切ってるよ、ぼくは!」
「…駄目だったわけ?」
未遂だったのか、と会長さんが訊くと。
「ぼくが救出しちゃったんだよ、非常事態だと気付いたからね!」
精神統一中の彼の思念をキャッチした、と自分の能力の高さを誇るソルジャー。
「シャングリラ中の誰も気付いていなかったけどね、ぼくだけは!」
「…それで?」
「可哀相だから駆け付けてあげたよ、瞬間移動で!」
でもって個室の鍵をガチャリと開けた、という発言。外側からなら開けられたそうで、ソルジャーが開けたその瞬間に、中にいた男性はまさに瞬間移動の直前だったという話で。
「あと三秒ほど遅れていたら、もう間違いなく出ていたね! 瞬間移動で!」
この道のプロだからこそ分かる、とソルジャーはハッキリ証言しました。
「だから言えるんだよ、タイプ・ブルー以外でも瞬間移動が出来ないことは無いってね!」
ただし極限状態でないと無理そうだけど、と深い溜息。
「あれ以外に例は見たこともないし、報告だって上がってこないし…。でもねえ…」
唯一の例がアレでは可哀相で報告できやしない、と言うソルジャー。おまけに瞬間移動の寸前だった男性に「出来そうだった」との自覚はゼロらしく、ゆえに未だに「出来ない」と言われる瞬間移動。現場がトイレじゃ仕方ないですかね、誇れる場所ではないですしねえ…?
ソルジャーが目撃していたらしい瞬間移動未遂なるもの。「トイレから瞬間移動で脱出未遂は恥ずかしいだろう」と考えたソルジャーのお蔭で報告はされず、今も誰一人知らない話。やりかけていた人もそうだと気付いていなかったのでは、これはもう…。
「…タイプ・ブルー以外には出来ないと思われていても仕方ないだろう?」
瞬間移動、というソルジャーの言葉に頷くしかない私たち。でもでも、出来そうだった人は確かにいたわけですね?
「その点はぼくが生き証人だよ、ちゃんと現場を見たんだから!」
瞬間移動のプロのぼくが、とソルジャーが言い切り、会長さんが。
「ちなみに、タイプは何だったんだい? そのトイレの人のサイオン・タイプ」
参考までに聞きたいんだけど、という質問は多分、会長さんもソルジャーだからでしょう。サイオンを持った仲間たちを纏める最高責任者みたいなものだけに、他の世界で起こったことでも頭に入れておきたい、と…。
「ああ、彼かい? ごくごく平凡、タイプ・グリーンだよ」
ハーレイと同じ、とソルジャーの答え。
「どうせだったらハーレイにやって欲しかったねえ、栄えある瞬間移動未遂、第一号は!」
「…トイレでかい?」
「別にトイレでもかまわないじゃないか、どうせ助けるのはぼくなんだから!」
それに知らない仲でもないし…、とソルジャー、ニコニコ。
「ハーレイがトイレに閉じ込められていたら、もちろん助けて、御礼に一発!」
「…それもトイレで?」
「たまにはトイレも刺激的だよ、まだトイレではヤッてないけど!」
「やらなくていいから!」
そしてその先は言わなくていい、と柳眉を吊り上げた会長さんですが、「待てよ?」と顎に手を当てて…。
「…栄えある第一号がハーレイねえ…?」
「いいと思うんだけどね、残念なことに他人がやってしまったけどね!」
第一号の座を持って行かれた、とソルジャーは悔しそうですけれど。
「うん、分かる。でも、それは君の世界に限定だから…」
「えっ?」
「こっちの世界じゃ、第一号はまだ出ていないんだよ!」
誰も瞬間移動未遂はやっていない、と会長さん。その通りですけど、それが何か…?
私たちの世界では誰もやっていない、タイプ・ブルー以外の瞬間移動や瞬間移動未遂。ソルジャーの世界ではトイレに閉じ込められたタイプ・グリーンの男性が第一号だそうですが…。
「第一号の座、こっちじゃ空席のままだってね! 此処で一発、脱出マジック!」
「「「へ?」」」
なんのこっちゃ、と会長さんの顔をポカンと見詰めたら。
「決まってるだろう、タイプ・グリーンがやったというなら、同じタイプ・グリーンの人間がこっちにも一人!」
それもブルーが第一号の座に着け損なったハーレイが! と拳を握る会長さん。
「極限状態に置かれた場合は出来るというなら、イチかバチか!」
「かみお~ん♪ ハーレイがやってくれるの、脱出マジック?」
見てみたぁ~い! と飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「えとえと、鎖と手錠で鉄の箱がいいな、海にボチャンは無理かもだけど…!」
「そこまでやったら大袈裟だしねえ、普通に閉じ込めだけでいいかな」
トイレの代わりにトイレ無しで…、と妙な発言。
「「「トイレ無し?」」」
どういう意味だ、と目を見開いた私たちですが、会長さんはニヤニヤとして。
「トイレ無しだよ、文字通りだよ! トイレに行くなら脱出しろと!」
仮設トイレもつけてやらない極限状態! と突き上げる拳。
「鉄の箱に入って貰う前にね、「頑張ってね」と栄養ドリンク! ただし、下剤入り!」
「「「うわー…」」」
嫌すぎる、と誰もが思った下剤入り。それでトイレの無い空間に閉じ込められたら…。
「ほらね、出るしかないってね! 瞬間移動で!」
上手くいったら記念すべき第一号の座に輝けるであろう、と会長さん。
「トイレのためにと脱出したって、脱出には違いないわけで…。トイレから脱出するってわけでもないから、きちんと記録も残せるわけで! 第一号と!」
「…それは分かるけど、第一号になれるっていうだけで入るかい?」
こっちのハーレイが脱出マジック用の箱なんかの中に入るだろうか、というソルジャーの疑問に、会長さんは自信たっぷりに。
「入るね、餌はこのぼくだからね!」
もう喜んで入る筈だ、と言ってますけど、会長さんが餌って、何をすると…?
ソルジャーの世界では第一号の座を名も無い男性が持って行ってしまった、タイプ・ブルー以外の瞬間移動未遂。私たちの世界では例が無いだけに、第一号を教頭先生にやらせようというのが会長さんの案ですけれど。
鉄の箱に入れて脱出マジックもどき、トイレ無しで事前に下剤つき。下剤の件は沈黙を守っておけばいいとしても、教頭先生がチャレンジなさるとは思えません。なのに会長さん曰く、喜んで入るらしい教頭先生、餌は会長さんなのだとかで。
「ぼくが餌だよ、これで釣れなきゃハーレイじゃないね!」
「何をする気さ、君が餌って?」
「それはもちろん! 脱出に見事成功したなら、ぼくと熱くて甘い一夜を!」
「「「ええっ!?」」」
いいんですか、そんな御褒美を出したりして?
「お、おい…! あんた正気か、成功なさるかもしれないんだぞ…!」
キース君が突っ込み、シロエ君も。
「そうですよ、前例はあったと言うんですよ!? 記録に残っていないというだけで!」
「しかもトイレだぜ、その時よりも遥かにトイレが切実な極限状態じゃねえかよ!」
トイレ無しで下剤つきなんだから、とサム君は真っ青。なにしろ会長さんに惚れて今でも公認カップル、教頭先生に盗られてたまるかといった所かと思いますが…。
「別にいいんだよ、成功しても! 熱くて甘い一夜なだけだし!」
会長さんはケロリとした顔、ソルジャーが「うーん…」と。
「信じられない話だけどさ…。君が自分からハーレイと…」
甘い一夜を過ごすだなんて、とソルジャーも首を振ったのですけど。
「えっ、単なるお汁粉パーティーだけど? 他におぜんざいとか、チョコレートフォンデュも!」
「「「チョコレートフォンデュ?」」」
「そうだよ、今が美味しいシーズン! 寒い冬にはお汁粉とかで!」
熱くて甘い夜を過ごそう! と会長さんは勝ち誇った笑み。つまりは本当に甘いんですね、お砂糖とかの甘みたっぷり、それを徹夜で食べまくると…。
「うん、ハーレイにとっては地獄の一夜! 甘い食べ物は苦手だからねえ!」
でも二人なら喜んで食べてくれるであろう、と恐ろしい罠。教頭先生、何か勘違いをして釣られそうですけど、脱出マジックに成功したなら、苦手な甘い食べ物で熱い徹夜パーティーと…。
かくして決まった、教頭先生の脱出マジック。鉄製の箱はシャングリラ号でも使う丈夫なコンテナを転用、外からガシャンと鍵をかければ絶対に開かない仕組みらしいです。それを会長さんのマンションの屋上に設置、教頭先生に入って頂くとかで…。
「そうと決まれば、早速、ハーレイに話をつけないとね!」
もう今夜にでも、と会長さんの鶴の一声、私たちは家へと帰る代わりに会長さんのマンションへ揃って瞬間移動。豪華寄せ鍋の夕食の後で、会長さんが時計を眺めて。
「そろそろいいかな、ハーレイも食後の休憩タイムに入ったからね」
「らしいね、コーヒーを淹れているしね」
ソルジャーも「よし」と。後はお決まりの青いサイオン、教頭先生の家のリビングへと瞬間移動で飛び込んで行って…。
「な、なんだ!?」
仰天しておられる教頭先生に、会長さんが。
「ちょっとね、君に提案があって…。脱出マジックに挑まないかい、鉄の箱から瞬間移動で外へ出られたら大成功な!」
「しゅ、瞬間移動と言われても…。それはタイプ・ブルーにしか出来ないだろう…!」
「現時点ではね。…それがね、ブルーの世界で成功しかけた人がいるらしくって…」
君と同じタイプ・グリーンの男性、と会長さん。
「非公式記録で、ブルーしか知らないらしいんだけど…。個室のトイレに閉じ込められちゃって、其処から出たい一心で!」
「…トイレなのか?」
「らしいよ、閉じ込められてるってコトに気付いて貰えるまでに何時間かかるか謎って状況! 自分で出なけりゃ、そのままトイレの中だからねえ…」
ある意味、一種の極限状態、と会長さんがソルジャーに「ねえ?」と。
「そういうこと! たまたま、ぼくが発見したから救出したけど…。あと三秒ほど遅れていたなら、彼は立派に瞬間移動をしていたね!」
場所がトイレだったから彼の名誉のためにも伏せておいた、とソルジャーは笑顔。
「だからね、君も頑張れば出られると思うんだよ! しかも出られたら豪華な御褒美!」
「…御褒美…ですか?」
何か貰えるというのでしょうか、と怪訝そうな教頭先生に向かって、会長さんが。
「ぼくとの甘い一夜だけど? 冬の夜は何かと冷えるしねえ…」
ぼくと一晩、という甘い一言、教頭先生が脱出マジックを承諾なさったのも無理はないかと…。
脱出マジックは週末の土曜日、私たちは朝から会長さんのマンションに出掛けてゆきました。屋上でやるイベントなだけに防寒対策はバッチリです。
「かみお~ん♪ もう鉄の箱、準備出来てるの!」
それにハーレイもブルーも来てるよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。教頭先生は少しでも身体を軽くしたいのか、スポーツ用の防寒ウェアを着用、ソルジャーは普通にセーターの上から厚手のコートという私服。
会長さんもソルジャーと似たようなもので、「じゃあ、行こうか」とゾロゾロ、エレベーターで屋上へ行けば…。
「「「うわあ…」」」
ドカンと置かれた鉄製のコンテナ、会長さんとソルジャーが言うには「宇宙空間に放り出しても潰れない」という頑丈さ。けれども換気用の設備は一応あるのだそうで…。
「だから、何時間入っていたって窒息の心配は無いってね! 要は気合で!」
頑張って脱出してみたまえ、と会長さん。教頭先生はコンテナをコンコンと叩いてみて。
「…アレか、シャングリラ号で一番分厚いヤツなのか、これは?」
「そうだけど? でもねえ、同じ瞬間移動で脱出するなら、このくらいの壁を景気よく!」
それでこそ記録にもなるというもので…、と会長さんは笑みを浮かべて「はい」と栄養ドリンクの瓶を差し出しました。
「こういう時にはファイト一発! これを飲んでタフなパワーをつけて!」
「すまんな、朝飯はしっかり食べて来たのだが…。お前の心遣いが実に嬉しいな、うん」
これは頑張って脱出せねば、と教頭先生はドリンクを開けて一気飲み。…あれって下剤入りなんですよね、蓋は閉まってたみたいですけど…。
『ぼくにかかれば、未開封でも下剤くらいは入れられるんだよ! 簡単に!』
会長さんから届いた思念は、教頭先生にだけは届かなかったみたいです。空になったドリンク剤の瓶を「御馳走様」と会長さんに返して、颯爽とコンテナに入ってゆかれて。
「よし、準備はいいぞ。閉めてくれ」
「かみお~ん♪ ハーレイ、頑張ってね~!」
脱出マジック、とっても楽しみ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がワクワク飛び跳ねている中、柔道部三人組がコンテナの扉をガシャンと閉めて、会長さんが鍵をガチャリと。
これでコンテナの中は密室状態、蟻も出られないらしいですけど、教頭先生のサイオンは果たして発動するんでしょうか…?
タイプ・ブルーにしか出来ないと噂の瞬間移動。ソルジャーの世界では非公式ながらタイプ・グリーンの男性が成功しかかったという話、私たちは鉄製のコンテナを見守りました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は「成功したら報告しなくちゃいけないしね!」と動画を撮影中です。
「ハーレイ、ちゃんと出られるかなあ? 脱出マジックの人みたいに!」
「さあねえ…。ああいう人たちはプロだからねえ、ハーレイの場合はどうなるか…」
それにそろそろ下剤が効いてくる頃だけど、と会長さん。
「即効性ではピカイチなんだよ、もうグキュルルとお腹が鳴っていそうだけどね?」
「うん、鳴ってる。…軽くパニック状態ってトコ」
ソルジャーはコンテナの中をサイオンで覗き見しているようです。
「出ようという気持ちが変化しつつはあるようだけど…。出ないとヤバイという方向へは向かっているけど、サイオンの集中って意味ではどうだろう?」
「…失敗しそうなコースかい?」
ぼくはどっちでもいいんだけどねえ、と会長さんが笑っています。
「成功したなら公式記録で、ハーレイのお株が上がるわけだけど…。ぼくからの御褒美はアレだしねえ? それに失敗しちゃった時には馬鹿にすればいいっていうだけだしね!」
同じタイプ・グリーンとも思えないと呆れてやるだけだ、と言い終わらない内に…。
『と、トイレ!! トイレに行かねばーーーっ!!!』
もう駄目だあ! と響き渡った教頭先生の思念波、歴史的瞬間を見届けようと乗り出した私たちですけれど。
ドオン!! と爆発音が響いて、マッハの速さで駆け抜けて行った大きな人影。「トイレ!」と声の限りに絶叫しながら。
「…い、今の…」
教頭先生? とジョミー君が目をパチクリとさせて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「…えとえと…。コンテナ、穴が開いちゃったあ~!」
こんなの、脱出マジックじゃない~! と指差す先には穴が開いたコンテナ、極限状態のサイオンで破壊されたようです。
「…こう来たか…。脱出マジックは失敗だね、うん」
せっかく下剤で緊迫感を盛り上げたのに、と会長さんがフウと溜息、ソルジャーが。
「再挑戦はあるのかい?」
「ハーレイ次第ってトコかな、多分、やるだけ無駄だろうけど…」
こういうオチにしかならないと思う、と会長さんはスッパリと。やっぱり瞬間移動はタイプ・ブルーしか出来ないってことになるんでしょうか、この結末では…?
「そうなるねえ…。ブルーの世界でも非公式記録だし、ぼくたちの世界じゃこの有様だし…」
脱出マジックはプロに限るよ、と会長さんが言い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「普通の人でも出来ちゃうのに~! ハーレイがやったら、記録になるのに~!」
やっぱりコンテナが海にドボンなコースでないと本気で脱出できないのかなあ? とガッカリしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」は未だに気付いていないようです。瞬間移動と脱出マジックは全く違うということに。
「…教頭先生でもアレってことはさ、ぼくがやってもさ…」
「似たようなコースだと思うぜ、やめとけよ、ジョミー」
脱出マジックも瞬間移動もプロに任せておくとしようぜ、とサム君の意見。私たちもそう思います。教頭先生、再チャレンジはするだけ無駄です、次も絶対、下剤でトイレなオチですってば~!
脱出する方法・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生が挑むことになった脱出マジック、見事に失敗。破壊して出ればいいんですしね。
実際は、アニテラのマツカがやっているので、タイプ・グリーンなら出来てしまう可能性も。
さて、シャングリラ学園番外編、今年で連載終了ですので、残り一年となりましたが…。
毎日更新の場外編は続きますので、シャングリラ学園生徒会室の方も御贔屓下さい。
次回は 「第3月曜」 2月21日の更新となります、よろしくです~!
パソコンが壊れたため、実際のUPが2月5日になったことをお詫びいたします。
修理期間中、「シャングリラ学園生徒会室」の方で、経過報告を続けていました。
予告なしに更新が止まる時があったら、そちらのチェックをお願いします。
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、1月は元老寺で迎える元日から。檀家さんの初詣があって…。