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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(最古のペット…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 ペットは色々いるのだけれども、どの動物が一番昔から人間の側にいるか、という内容の記事。人間が地球しか知らなかった頃から、一緒に暮らしていた動物。
(猫と犬…)
 よく知られたのは、その二つ。絵や彫刻が見付かっていたのも猫と犬。今の時代も人気は高い。
 ペットとしての歴史の中では、猫に軍配が上がるという。愛玩動物だったから。ネズミの駆除もしたのだけれども、人間に可愛がられた動物。餌を貰って、家の中で人間と一緒に暮らして。
 犬は実用的な動物、元々は狩りのパートナー。獲物を追うのに便利だったし、家の番だってしてくれる。夜の間に恐ろしい動物がやって来たなら、激しく吠えて。人間に危険を知らせてくれて。
 猫か犬かのどちらかだろう、と思われがちな最古のペット。
 けれど…。
(ホラアナグマ…)
 石器時代の洞窟の中から、飼育跡が見付かったのがホラアナグマ。猫や犬よりずっと昔で、まだ人間が文字さえも持っていなかった頃に飼った動物。
 ただし、ホラアナグマは大きな動物だった。アナグマと違って、体長は三メートル近い。とうに絶滅していたらしくて、温厚だったか獰猛だったか、それは分からないそうだけれども。
 あまりにも大きいホラアナグマ。猫や犬とは比較にならない。
 だから飼育した跡があっても、ペットかどうかは分からなかった。牛や豚のように、食べようとして飼っていた可能性だって高いのだから。子供の頃から育てておいたら、沢山の肉が手に入る。
(結論は…)
 出ないままに地球が滅びておしまい。
 様々な研究をしに出掛けようにも、とても調査は出来なかった地球。
 大気は汚染され始めていたし、古い遺跡を調べたくても、調査には危険が伴ったから。



 そうやって地球は滅びてしまって、次にやって来た機械の時代。SD体制が敷かれた時代は…。
(管理社会…)
 出産さえも機械がコントロールしていたほどだし、ある意味、人間が機械のペット。
 機械が統治しやすいようにと多様な文化も消してしまって、記憶処理だって当たり前。何もかも機械の都合で決められ、人間はそれに従っただけ。機械が命令するままに生きて。
(ホントに機械のペットだよ…)
 一般社会で暮らす者たちも、軍人たちも。猫や犬とまるで変わらない。
 ネズミを駆除して生きる代わりに社会を守るか、猟犬や番犬がそうだったように、機械に反旗を翻す者を狩ったりすることを仕事にするか。…人間の姿をしていただけの猫や犬たち。
 SD体制の時代の人間たちは、そういう位置付け。彼らが気付いていなかっただけで。
 けれど機械は知っていたから、ペットの研究をされては困る。最古のペットでも、可愛がられる愛玩動物の方のペットでも。
 深く研究されてしまったら、人間も実はペットなのだと気付かれるから。
 何かのはずみで「我々もそうだ」と見破られたら、綻びが生じるSD体制。最初はほんの小さな切っ掛け、其処から穴が広がってゆく。蟻の穴から堤が崩れてゆくように。
(それで研究されないまま…)
 機械が良しとしない研究、そんなものを手掛ける学者はいない。教える学校もあるわけがない。
 ペットはペットで可愛がるだけ、深く考えたりせずに。猫でも犬でも、他の動物でも。
 そういう風に機械が仕向けていたから、途絶えてしまったペットの歴史を探る研究。技術は進歩していたのに。有毒な地球の大気の中でも、その気になったら発掘は可能だったのに。
 誰も研究しなかったせいで、最古のペットは分からないまま、地球は激しく燃え上がった。SD体制の崩壊と共に、地震と火山の噴火が起こって。
 遺跡も当然失われたから、もう不可能になった研究。何も残っていないのでは。



 分からなくなった最古のペット。猫だったのか犬か、それともホラアナグマだったのか。
 誰も答えを出せはしないし、研究だってもう出来ない。手掛かりは何処にも無いのだから。
 でも…。
(ナキネズミ?)
 思いがけない動物の名前が一番最後に載っていた。前の自分が馴染んだ動物、白いシャングリラではお馴染みだったナキネズミ。あの船の中でミュウが開発した動物。リスとネズミから。
 どうして名前が出て来るのだろう、と記事を読んだら、載せる理由は確かにあった。
 人類はともかく、ミュウの時代の最古のペットは、ナキネズミだと書かれた記事。今では人間は誰もがミュウだし、最古のペットではあるだろう。ミュウという種族が飼っていたペット。
 今は滅びた動物だけれど、遠く遥かな時の彼方で白いシャングリラで生きたナキネズミ。
 初代のミュウたちを乗せていた船で、ミュウの歴史の始まりの船で。
 そんなわけだから、ナキネズミだって最古のペットという扱いになるらしい。今の時代では。
 確かにあれが最初だったと、ミュウが飼い始めた一番古いペットだった、と。



(うーん…)
 間違ってはいないと思う、と戻った二階の自分の部屋。おやつを食べ終えて、新聞を閉じて。
 ナキネズミもペットだと言われてみれば、そうなのだろう。白いシャングリラに猫や犬などは、本物のペットはいなかったけれど。
 自給自足で生きてゆく船に、本物のペットを飼う余裕などは無かったから。
 船にネズミは出ないのだから、駆除するための猫は要らない。猟犬も番犬も、出番など無い。
 不要な生き物は乗せなかった船がシャングリラ。生き物を飼うには、様々な物が必要だから。
(幸せの青い鳥だって…)
 たった一羽の小鳥でさえも、飼えなかったのがシャングリラだった。誰も許しはしなかった。
 それがソルジャーの望みでも。前の自分の夢の小鳥で、地球への憧れを託す青い鳥でも。幸せを運ぶ鳥だというから、欲しかったのに。地球の青色を纏った鳥が。
(鳥など何の役にも立たんわ、って…)
 ゼルにバッサリと切り捨てられた青い鳥。
 同じ理屈で、蝶さえも飛んでいなかった船。花が咲いてもミツバチだけ。空を飛ぶのもミツバチだけで、鳥の影すらも無かった船。
 青い小鳥を飼えなかったから、せめてと選んだ青い毛皮のナキネズミ。
 何種類かの毛皮のナキネズミたちがいたのだけれども、「この血統を育ててゆこう」と青いのに決めた。前の自分が。
 青い小鳥は飼えないのだから、青い毛皮のナキネズミで我慢しておこう、と。



 そうやって生まれたナキネズミ。青い毛皮を持った血統のだけを繁殖させて。
 彼らは船の中を自由に歩いて、ミュウの仲間たちと思念で会話をしていたけれど。
(ナキネズミだって…)
 愛玩動物の方ではなくて、実用的なペットだろう。犬と同じで、仲間たちの役に立つペット。
 あれを開発した目的からして、そうだったから。思念波を上手く扱えない子供たちの思念を中継するよう、パートナーになって生きるようにと。
 ナキネズミは可愛らしかったけれど、撫でたりするためにいたのではない。思念波の中継をするために作り出されて、船で飼われていた動物。愛玩用ではなかったのだ、と考えたけれど。
 誰もナキネズミを愛玩用に飼ってはいなかったよね、と遠く遥かな時の彼方を思ったけれど…。
(違ったっけ…!)
 そうじゃなかった、と蘇って来た前の自分の記憶。シャングリラにいたナキネズミ。
 さっきの新聞にあった記事では、ミュウの最古のペットの動物。初代のミュウたちが飼っていたペット。愛玩動物ではなかったけれども、愛玩用のナキネズミもいた。
 ほんの初期だけ、ナキネズミという動物が生まれて間もない頃だけ。
(試作品ってわけじゃないけれど…)
 色々な色や模様の毛皮を持って生まれたナキネズミたち。交配していた血統によって、真っ白な毛皮や、黒や、ブチやら。
 飼育室のケージには何種類もいて、どれも性質は全く同じ。毛皮の色が違っただけ。前の自分が「これにしよう」と選んだ青い毛皮のとは。
 青い毛皮を持っていなかったナキネズミたちは、「青いのを育てる」と決まった時点で、飼育室から出ることになった。其処にいたって、意味が無いから。開発は終わったのだから。
 何匹もいた、青い毛皮の血統以外のナキネズミ。
 彼らは愛玩動物になった。思念波で会話が出来るペットで、希望者が部屋で飼える生き物。
 「飼いたい」と名乗りを上げたなら。「一匹欲しい」と声を上げたら。



 もう開発は終わったから、と飼育室から出されたナキネズミたち。白や茶色や、黒やブチやら、個性豊かな毛皮を纏っていた彼ら。
 どのナキネズミも、希望者が端から引き取って行ったのだけれど…。
(凄い人気で…)
 希望者がとても多かった。なんと言っても、ペットを飼うことが出来るのだから。
 おまけに、毛皮の色こそ様々だけれど、思念波で会話が出来る動物。猫や犬とは全く違って。
 きちんと世話さえしてやったならば、一緒に暮らせる小さな友達。まるで人間の友達みたいに、色々な話が出来る友達。…少し言葉がたどたどしくても。人間とは姿が違っていても。
 ナキネズミがどういう動物なのかは、とうに誰もが知っていた。開発中だった段階で。
 それを一匹貰えるのだから、大勢の仲間が「欲しい」と名乗り出たナキネズミ。配れる数より、遥かに多い人数が。ナキネズミの数を軽く上回るほどの仲間たちが。
(…あれって、クジ引きだったっけ…?)
 誰がナキネズミを貰うことにするか、決めるクジ引き。希望者たちは全員、クジを引く。それに当たれば一匹貰えて、ペットが飼えるという仕組み。
(白とか、茶色とかだって…)
 最初からクジに書いておいたら、恨みっこなし。どのナキネズミが当たっても。
 クジ引きと言えば、薔薇の花びらから作られたジャムもクジ引きだった。少しだけしか作れないジャム、全員にはとても行き渡らない。いつもクジ引き、ブリッジの仲間も引いていたクジ。
 ナキネズミが当たるクジ引きの方が、薔薇のジャムより先だったことは間違いないけれど。
(…シャングリラで何かを決めるんだものね?)
 投票で決めたわけでないなら、クジ引きをする方だろう。ナキネズミが欲しい仲間はクジ引き。
 そうだった筈、と思うけれども…。



(ナキネズミ希望の仲間のクジ引き…)
 きっと賑やかだっただろうに、そのクジ引きが記憶に無い。
 クジ引き会場の光景はもちろん、いつやったのかも、まるで全く。…ほんの小さな欠片さえも。
 当たったと喜ぶ仲間たちの顔も、貰ったナキネズミを抱いて帰ってゆく姿も。
(でも、ナキネズミ…)
 青い毛皮のナキネズミ以外は、仲間たちのペットになった筈。
 飼っていた仲間は確かにいた。白や茶色や、ブチの毛皮のナキネズミたちを。
 公園で遊ばせている姿をよく見掛けたし、肩に乗っけていた仲間だって。ずっと後にジョミーがそうしたように。「仲良しなんだ」と一目で分かる微笑ましさ。
 けれど、そうなる前の過程がスッポリ抜け落ちてしまった記憶。あのナキネズミたちの配り方。希望者たちでクジを引いたか、それとも他の方法だったか。
(ナキネズミ、どうやって配ったの?)
 大人数だった希望者たちは、様々な毛皮のナキネズミたちをどんな方法で分けたのだろう。皆で公平にクジ引きしたのか、もっといい方法があったのか。
 いくら考えても思い出せない。ナキネズミを分けた方法が。それをしていた会場さえも。



 ホントに忘れてしまったみたい、と遠い記憶を探っている間に、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、訊いてみようと考えた。
 前のハーレイはキャプテンなのだし、船のことには詳しい筈。ナキネズミを配った方法だって、きっと覚えているだろうから。
 まずナキネズミの話をしないと…、と持ち出した最古のペットの話題。
「あのね、ハーレイ…。一番古いペットは何か知ってる?」
 人間が最初に飼い始めたペット。…今はペットも色々いるけど。
「猫だろ、でなきゃ犬だよな。どっちも長い歴史があったと聞いてるし…」
 他にも「これじゃないか」と名前が挙がった動物はいたが、結局、結論は出なかった。
 研究が進んで答えが出るよりも前に、地球が滅びてしまったからな。
「そうなんだけど…。ハーレイが言ってる通りだけれど…」
 今日の新聞で読んだんだけどね、ナキネズミが一緒に載ってたよ。あれも最古のペットだって。
「はあ? ナキネズミが最古のペットって…」
 どうすりゃそういうことになるんだ、あれは新しい生き物だぞ?
 前の俺たちの船でリスとネズミから作ったわけで…。
 最新のペットだと言うなら分かるが、最古のペットと言われてもなあ…。
「ぼくもビックリしたけれど…。でも、本当に最古のペットだったよ」
 人間のペットとしては新しいけど、ミュウが飼い始めた最初のペット。だから一番古いんだよ。
 ミュウにとっては最古のペットで、それまではミュウがいないんだから。
「なるほどなあ…。一番最初のミュウが飼ってりゃ、そうなるな」
 あのナキネズミが最古のペットか、面白い話もあるもんだ。だが、違いないな、その説で。
 ミュウの最古のペットとなったら、ナキネズミということになるよな…。



 新しく作った動物でもな、と愉快そうに笑っているハーレイ。「あれが最古か」と。
 ナキネズミの記憶は充分に戻って来ただろうから、「それでね…」と疑問をぶつけてみた。
「あのナキネズミ、どうやって配ったんだっけ?」
「…配る?」
 なんのことだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「あれは配っていたんじゃないが」と。
 思念波の扱いが下手な子供たちのパートナーとして、一匹ずつ渡す仕組みだったぞ、と。
「それは青い毛皮のナキネズミでしょ?」
 ジョミーに渡したレインと同じで、そのために育てていたナキネズミ。
 あれに決まる前に、色々なのがいたじゃない。…試作品って言っていいかは分かんないけど…。白や茶色や、ブチの毛皮のナキネズミたち。
 青い毛皮の血統を育てると決まった後には、あのナキネズミたちを配った筈だよ。
 欲しい仲間にあげようとしたら、希望者の方が多くって…。分けてあげられるナキネズミより。
 ナキネズミの数が足りなかったから、あれはクジ引きで分けたんだった?
 毛皮の色も一緒にクジに書いておいて、当たった人が貰って行った…?
「おいおい、相手はナキネズミだぞ?」
 動物とはいえ、思念波で会話が出来るんだ。薔薇のジャムとは違うってな。
 きちんと個性を持ってるんだし、自分で考えたりもする。それをクジ引きで分けるだなんて…。
 いくら公平でも、そいつは酷いというモンだ。…ナキネズミは物じゃないんだから。
「じゃあ、どうやったの?」
 クジ引きは駄目で、物じゃないって言うのなら。
 どうやって分けたの、ナキネズミの数より希望者の方がずっと多かったのに…。
「ん? 簡単なことだ、お見合いだ」
「お見合い…?」
 えーっと、それってどういう意味?
 お見合いって、いったい何をするわけ…?



 なあに、と首を傾げた言葉。「お見合い」そのものが分からない。初めて耳にしたのだから。
 今の自分は知らない言葉で、前の自分も恐らくは知らなかった筈。知っていたなら、お見合いでピンと来るだろうから。「そうやって配ったんだっけ」と。
 「お見合い」と口にしたハーレイの方も、「ありゃ?」と顎に手をやって…。
「…そうか、お見合い、古典の授業じゃ出て来ないよなあ…」
 もっと昔の話ならするが、お見合いの時代は話の肝ってわけじゃないしな、お見合いが。
 古典ってほどだし、昔のことだ。ずっと昔の日本にあった結婚のためのシステムだな。
 この人と結婚してみないか、という顔合わせが「お見合い」だったんだ。先に写真とかは貰っていたらしいがな。…どういう人かが分かるように。
 しかし会うのは初めてってわけで、「この人となら、やっていけそうだ」と考えたら、そういう返事をする。両方がそう思っていたなら、結婚に向けて話が進んで行くんだな。
 逆に断られてしまった時には、それっきりだ。相手に嫌だと言われちまったら駄目だろうが。
「…なんだか凄いね、恋をするかどうかを決めるために会うの?」
 そのためだけに会うわけなんでしょ、一目惚れでもしない限りは大恋愛は難しそう…。
 今みたいにミュウじゃない時代だから、ちょっと会っただけで本当のことは分からないのに…。
 第一印象が最悪の人でも、ホントは相性ピッタリってことも、ありそうなのに。
「そりゃあるだろうな、珍しいことじゃなかっただろう」
 断っちまった相手が実は最高の恋人ってケースは、きっと山ほどあっただろうさ。
 それでも、俺が授業で話したみたいに、手紙の交換だけで相手が決まった時代よりかはマシだ。
 ちゃんと顔を見て話が出来るし、どういう人かを自分の目で確かめられるんだから。
「それはそうだけど…。手紙の時代よりマシだけど…」
 だけど、やっぱり嬉しくないよ。そのやり方だと、運命の相手に出会うの、難しそうだから…。
 会えていたって、ウッカリ断っちゃいそうだから…。



 恋をするには向いてないよ、と思った「お見合い」。運命の相手に一目惚れとは限らないから。
 最初は派手に喧嘩をしたって、後で惹かれる恋だって多い筈だから。
 お見合いが何かは分かったけれども、問題はナキネズミの配り方。ナキネズミと結婚するような仲間はいなくて、ペットを欲しがっていただけで…。
「…ハーレイ、ナキネズミのお見合いって、なに?」
 ナキネズミと結婚するんじゃないのに、お見合いをしてどうするの?
 お見合いの意味が無さそうだけれど、あのナキネズミたち、そうやって配っていたんだよね…?
「そのままの意味だ、文字通りにお見合いというヤツだ」
 お互いの相性を確かめるってな、その人間とナキネズミが仲良く暮らしていけるかどうか。
 簡単なことだろ、ナキネズミは喋れるんだから。…思念波を使えば、誰とでもな。
 希望者は順に、ナキネズミたちと面会なんだ。毛皮の色にこだわらないなら、全部とでもな。
 そして選ぶのは人間ではなくて、ナキネズミたちの方だったんだぞ、と言われてみれば…。
「思い出した…!」
 ホントにお見合いだったっけ…。毛皮の色にこだわった仲間も、そうでない人も。
 ナキネズミが中で待っている部屋に入るんだっけね、ちょっぴり緊張している顔で…。



 お見合いという言葉が相応しかった、ペットのナキネズミの配り方。一緒に暮らす相手を選んでいたのは、実はナキネズミの方だった。数が少なくて、希望者の方が多かったから。
 お見合い用の部屋で待つナキネズミが一匹、其処へ一人ずつ入って行った仲間たち。
 部屋の中では記録係も待っていた。ナキネズミの飼育を担当していた仲間で、彼らが点数を記録する。お見合いを終えた仲間が出て行った後で、その仲間につけられた点数を。
 ナキネズミが決めていた点数。入って来た仲間と思念で話して、今の人間はこの点数、と。
「誰がナキネズミをペットに貰うか、あの点数で決まったんだっけ…?」
 一番点数が高かった人が、ナキネズミを貰えたんだっけ…?
「いや。…それだと本物のお見合いと同じで、失敗しちまうこともあるだろ?」
 さっき、お前も言っただろうが。第一印象が最悪のヤツが、相性ピッタリってこともあるしな。
 ナキネズミのお見合いだって同じだ、一度だけで決めてしまうよりかは、ゆっくりと…。
 時間はたっぷりあったわけだし、点数の高いヤツらを集めて、お試し期間だ。
 ナキネズミは順番に泊まり歩いていたのさ、候補になった仲間たちの部屋を幾つもな。
 何回も回って決めるヤツもいれば、一回目で決めたナキネズミもいた。
 この人間が気に入ったから、一緒に暮らしてゆくんだとな。
「そうだっけね…」
 一生、人間と暮らしてゆくんだものね。相性のいい人が、断然いいに決まっているし…。
 みんないい人ばかりの船でも、性格とか好みは色々だから…。
「うむ。俺とゼルだと全く違うし、ヒルマンとでも違ってくるんだし…」
 ナキネズミに一人選べと言ったら、ヤツらの好みが出るんだろう。俺は断られてゼルだとか。
 その辺はきちんとしてやらないとな、ナキネズミたちが幸せに生きていけるように。
 交配のリストから外れたヤツらで、カップルも作れないんだから。



 青い毛皮のナキネズミ以外は、増やさない。白いシャングリラで決まった方針。青い毛皮を持つ血統を育ててゆこう、と前の自分が言った時から。
 他の血統はもう不要なのだし、繁殖させても無駄になるだけ。餌や飼育の手間がかかるだけ。
 子孫を増やす必要は無い、と教えられていたから、ナキネズミたちは素直に従った。
 自分とは違う毛皮を持つ仲間同士より、人間と一緒に生きてゆく道。それを行こうと。
 そうやって青い毛皮以外のナキネズミたちは、いつしか消えていったのだけれど…。
「ナキネズミ…。ちょっと可哀相だったかな…」
 可哀相なことをしちゃったのかな、前のぼく…。
「何故だ?」
 あいつらは充分に幸せだったぞ、自分好みの飼い主を見付けて、一緒に暮らして。
「でも…。カップルも作れないんだよ?」
 子供が生まれちゃうから駄目、って教えられちゃって。
 いくら幸せでも、同じナキネズミと恋も出来ずに、人間と暮らしていくだけなんて…。
「それはそうだが、ヤツらにその気があったなら…」
 カップルを作ろうと思っていたなら、俺たちが止めても無駄だぞ、無駄。
 恋はそういうモンだろうが。周りが止めても、どんなに障害だらけの恋でも、突っ走るってな。
「そう…なのかな?」
「分かっちゃいないな、恋ってヤツが」
 ナキネズミのことだと思っているから、そういう間抜けなことを言うんだ。
 お前自身で考えてみろ。
 もしもお前がナキネズミだったら、どういう風になっちまうかを。



 ちょっと置き換えてみるんだな、とハーレイが指差した自分の顔。「お前もだが」と。
「よく聞けよ? …前の俺がナキネズミだったとしよう。色は茶色でも何でもいいが」
 そしてお前もナキネズミなんだ、俺が茶色なら、お前は白ってトコかもな。
 カップルになるのは駄目だ、と教えられていたって、公園とかで俺に会ったらどうする?
 白い毛皮のナキネズミのお前が、茶色い毛皮のナキネズミの俺に会っちまったら。
「決まってるじゃない、恋をするよ…!」
 会った途端に大好きになるし、ハーレイで胸が一杯になるよ。人間じゃなくてナキネズミでも。
「ほらな、俺だって全く同じだ。ナキネズミのお前に一目惚れだな」
 惚れちまったら、お前に会いたくなるじゃないか。
 公園に行けば会えるんだろうし、飼い主に何かと理由を付けては、公園に行こうと考える。
 きっとお前が来るだろうしな、何度も公園に通っていたら。
「ぼくも…!」
 同じだよ、ぼくも公園に行くよ。…飼い主に頼んでハーレイに会いに。
 その内に時間が分かって来るから、おんなじ時間に散歩して貰って、ハーレイとデート。
 飼い主同士が話している間に、ハーレイと遊んで、お喋りをして…。
「分かったか?」
 そうやって仲良くなっちまってみろ、どんどん一緒にいたくなるもんだ。
 公園で会うだけじゃ物足りなくなって、もっと他にも会えるチャンスを作りたくなるぞ。
「そうなっちゃうかも…」
 頑張っちゃうかも、ハーレイに会いに行きたくなって。
 飼い主の人と一緒でなくても、船の中は自由に歩けるもんね…?
 ナキネズミは勝手に歩いちゃ駄目、って決まりは何処にも無かったんだし…。
 部屋からも好きに出られた筈で、と思い出したナキネズミの知能。ボタンを押せば扉は開く。
 自分で扉を開けられるのなら、きっと部屋だって抜け出すだろう。
 散歩の時間以外の時でも、ハーレイに会おうとするのだろう。
 一緒に過ごして、ハーレイとカップルになりたくて。
 ハーレイからもプロポーズされて、きっと幸せ一杯で…。



 そうなったならば、もう言い付けには従えない。いくら決められていたことでも。
 人間と一緒に生きるペットになった時点で、そうするようにと教え込まれていても。
「ぼく、ハーレイに恋をしちゃったら、決まりがあっても守れないよ…!」
 カップルは駄目、って言われていたって、我慢出来っこないんだから…!
 オス同士だから子供は絶対生まれないけど、でも、カップルは駄目なんだろうし…。
「駄目だろうなあ、カップル希望の他のヤツらの手前もあるから」
 許して貰えそうにはなくても、俺だって、とても我慢は出来ん。…お前に恋をしちまったら。
 お前もそうだろ、決まりがあっても俺とカップルになりたくなる。
 だからこそ例に出したんだ。…俺たちの立場で考えてみろ、と。
 これが本物のナキネズミにしても同じだ、同じ。恋をしたならカップルはいたな。
 どんなに人間が禁止したって、あいつらの恋は止められん。
 なまじ思念波が使えるだけに、ソルジャーに直訴するだとか…。
 青の間に二匹でコッソリ入って、「どうしても結婚したいんです」と訴えるとかな。
「…そんなのが来たら、前のぼく、その恋、許してしまいそうだよ…」
 まだハーレイとは恋人同士じゃなかったけれども、真剣なのは分かるもの。
 ヒルマンやエラと喧嘩になっても、「許してあげて」って頼みそうだよ。
「ほら見ろ、お前が許可を出したら、めでたくカップル成立ってな」
 充分に恋は出来たってわけだ、ソルジャーも味方をしてくれるんだし…。
 それでもカップルがいなかったのは、ヤツらにその気が無かったというだけのことだな。
「どうしてなのかな?」
 恋をしようと思っていたなら、出来たのに…。なんでカップル、いなかったのかな?
「きっと満足だったんだろう。人間と暮らしてゆくのがな」
 自分で選んだパートナーの人間なんだし、最高に気の合う相手ではある。…人間なだけで。
 その人間から餌を貰って、おやつも貰って、ついでに仕事は何も無いってな。
 青い毛皮に生まれていたなら、子供たちのサポートをするって役目があるんだが…。
「…仕事は何もしなくて良くって、御飯とおやつを貰って暮らして…」
 後は遊んでいればいいって、本当にペットそのものだね。愛玩動物の方のペットだよ、それ。
「そのようだなあ…」
 最古のペットはダテじゃないなあ、ナキネズミ。…愛玩用のも立派にいたわけだな。



 恋をしようと考えたならば、カップルにもなれたナキネズミ。青い毛皮を持っていなくても。
 白や茶色やブチの毛皮で、自分とは全く違う毛皮の持ち主とでも。
 けれども、恋をしなかった彼ら。パートナーの人間と一緒に暮らして、いつの間にやら、船から消えたナキネズミ。真っ白なのも、茶色のも。ブチも、真っ黒な毛皮のも。
 それでもきっと、彼らは幸せだったのだろう。
 恋をしてカップルを作らなくても、一匹の子孫も残さずに消えてしまっても。
「ねえ、ハーレイ…。あのナキネズミたち、きっと幸せだったよね?」
 生きてた印は何も残らなかったけど…。
 ナキネズミは青い毛皮なんだ、って誰もが思い込んじゃったけれど。
 白とか茶色だったナキネズミの子供、一匹も生まれないままになっちゃったから…。
「なあに、恋をしようって方もそうだが、子孫の方にもこだわる必要は無いからな」
 欲しいと思えば作っただろうし、思わなければ要らないってことだ。
 ついでに、俺とお前が恋をしたって子孫は出来ん。…お前、子供は産めないんだから。
「そうだね…。ぼく、男だから、子供は無理…」
 欲しいと思うことも無いけど、でも、恋人は絶対、欲しいよ。
 ハーレイがいない人生だなんて、寂しすぎて考えられないもの。
「其処の所が、あのナキネズミたちとの大きな違いだな」
 恋人を欲しがるという所。カップルで生きたいと思う所だ。
 だが、あいつらが恋をしていたら…。前のお前が、恋を許してやっていたなら…。
「ナキネズミ、青い毛皮のだけじゃなかったね…」
 仕事をしているナキネズミは青い毛皮だろうけど、そうじゃないのも何匹もいたよ。
 白とかブチとか、茶色だとか。
 好きに恋してカップルになって、生まれる子供も毛皮の色は色々だもの。



 様々な色や模様の毛皮のナキネズミたちが住んでいる船。ナキネズミのカップルが何組も住んでいるだろう船。
 白いシャングリラは、そういう船でも良かったかもしれない。前の自分は、きっとナキネズミの恋を許していただろうから。けして「駄目だ」とは言わなかったと思うから。
 そうやって増えたナキネズミたちの餌が要るなら、必要な分を作らせて。
 元は自分たちが開発していた生き物なのだし、冷たく見捨てはしなかっただろう。二度と子供が生まれないよう、手術をさせろと言いもしないで。
 けれど、色々な毛皮のナキネズミたちは恋をしなくて、それっきり。
 彼らの子孫は生まれないまま、ナキネズミは青い毛皮になった。青い毛皮の血統だけが、子孫を増やしていったから。飼育係が育てていたのは、青い毛皮のものだけだから。
「…ぼくなら絶対、ハーレイに恋をするけれど…」
 ハーレイがいなくちゃ寂しくて生きていけないけれども、ナキネズミ…。
 どうして恋をしなかったんだろ、ペットになってたナキネズミたちは?
 人間と暮らして満足してても、何処かで恋に落ちそうなのに…。
「そいつも説明は出来るってな。俺とお前がナキネズミなら、というヤツで」
 お前がナキネズミで、人間と一緒に暮らしてて…。
 公園に行けば他のナキネズミにも会えるわけだが、そのナキネズミの中にだな…。
 俺がいなかったら、お前はどうする?
 ナキネズミは何匹もいるというのに、俺とは違うナキネズミしかいなかったとしたら…?
 それでも、お前は恋をするのか?
 俺は何処にもいないわけだが、お前、どうする…?
「…ハーレイがいないなら、恋はしないよ」
 恋をする必要、無いんだもの。…だって、ハーレイはいないんだから。
「俺の方でもそうだってな。お前というナキネズミがいないなら、恋はしないんだ」
 そしてシャングリラのナキネズミどもは、そうだったのさ。
 恋をしたいと思うナキネズミが何処にもいなくて、恋はしないで終わっちまった、と。



 運命の相手に出会わなかったから、恋も無しだ、と言われたから納得した理由。
 白や茶色やブチのナキネズミたちが、船から消えてしまった理由。
 運命の相手がいなかったのなら、恋だってきっと生まれない。カップルも、彼らの子孫たちも。
 そういうことなら、前の自分も今の自分も、最高に幸せなのだろう。
 ナキネズミ同士でも恋に落ちるほど、駄目だと教えられていたってカップルになるだろう二人。
 ハーレイという運命の相手と出会って、二人で生まれ変わって、また巡り会えて、恋人同士。
 前の自分たちの恋の続きを、これからも一緒に生きてゆくから。
 青い地球の上で、いつまでも幸せに生きるのだから。
 ハーレイと二人で、手を繋ぎ合って。
 今度こそ決して手を離さないで、結婚して、何処までも幸せな道を…。




            最古のペット・了


※ミュウの時代の最古のペットは、ナキネズミ。そして実際、ペットだったのもいたのです。
 けれども、恋をしないで終わった彼ら。運命の相手がいないのだったら、恋はしませんよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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(ペンギンのカップル…)
 雛もいるね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 ダイニングのテーブルで広げた新聞、可愛らしいペンギンが並んでいた。此処からは遠い地域の動物園にいる、名物ペンギン。人気者で子育て上手なカップル。
 仲良く寄り添う二羽の足元、よちよち歩きだろう雛。なんとも微笑ましい写真。
(ふうん…?)
 ペンギンのことは良く知らないけれど、というのが正直な所。姿は分かりやすいけれども、生態などには詳しくない。ペンギンだよね、と思うだけ。
(寒い所に住んでるペンギンばかりじゃ…)
 ないらしい、と父に教わった程度。「氷の国だと思っていたら、大間違いだぞ?」と。
 ペンギンの中には、サボテンの生える所で暮らす種類もいるのだと聞いた。氷ではなくて、熱い砂地が大好きなのが。
 そういう所のペンギンだったら、飼育するのに特別な部屋は全く要らない。この地域の動物園で飼おうというなら、屋根さえあれば屋外だって。
(氷の国から、サボテンの生える所までって…)
 極端すぎるよ、と言えばいいのか、逞しいのか。ペンギンという名前の種族。
 このペンギンはどちらなのかも分からない。写真に氷は写っていないし、屋外なのだと見分けがつくような物も景色も何も無いから。
 氷の国のペンギンなのか、暖かい場所のペンギンなのか。
 そのくらいは書いて欲しいよね、と改めて見詰めたペンギンのカップル。可愛い雛つき。
 ヒゲペンギンだなんて言われても…、と捻った首。いったい何処のペンギンだろう、と。



 生息地が分からないペンギン。氷の国のペンギンだろうか、ヒゲペンギンは?
(ゼルにヒルマン…)
 ヒゲと言ったら、あの二人だよ、と遥かな時の彼方を思う。前の自分の仲間たち。髭を生やしていた二人。今でも直ぐに浮かぶくらいに。
 けれど、ヒゲペンギンというのは種類なのだし、髭とついてもメスだっている。ヒゲペンギンが全部オスだったならば、たちまち絶滅するのだから。
 髭のあるメスのペンギンも…、と記事を読み進めて驚いた。
(え!?)
 ニールとロイ。
 そういう名前のペンギンのカップル、名物ペンギンと書かれた二羽。左がロイで、右にいるのがニールだと解説してあった。「とても仲のいいカップルです」と。
(男みたいな名前だけど…)
 ニールもロイも、男性の名前だと思う。普通に聞いたら、そういう感じ。
 だから、どちらかは男っぽい名前のメスだろうか、と考えた。ニールか、もしかしたら、ロイ。鳥には雌雄の区別がつきにくい種類も多いものだ、と聞いているから。
 馴染みの深い鶏だって、ヒヨコの間はオスかメスかが分かりにくいもの。ヒゲペンギンの場合も同じで、オスのつもりでロイと名付けたら、メスだったとか。オスのニールがメスだったとか。
(猫で間違えた友達もいたし…)
 生まれた子猫たちに名前を付けて大失敗。男の子なのに、女の子だった失敗談。
 ニールとロイもきっとそうだ、と考えたのに。
 ペンギンのプロの飼育係も、間違えて名前を付けたのだろうと、クスッと小さく笑ったのに。



(……嘘……)
 間違えたんじゃなかったんだ、とポカンと眺めた新聞記事。もう一度、写真を確かめたほどに。
 驚いたことに、ニールとロイはオス同士。正真正銘、どちらもオス。
 けれども、二羽で暮らしている所に、他のメスたちを入れてやっても、知らん顔。そんな鳥などいないかのように、お互いしか目に入らない。ニールも、ロイも。
 いつも一緒に仲良く巣作り、とはいえオスだから生まれない卵。それを承知で、他のカップルがやって来る。オスとメスとのカップルだけれど、子育てする気が無いペンギンが。
 そういうカップルが置いて行った卵、ニールとロイは大喜び。預かった卵でも、自分たちの卵。温めてやれば雛が孵るし、子供を育てられるのだから。
 巣作りをした甲斐があった、と交代で温める卵。雛が孵ったら、きちんと世話する。餌を運んで食べさせてやって、一人前の大人になるまで。
 だから人気者のニールとロイ。動物園でも一番の子育て上手なカップル。
 オス同士でも、メスには見向きもしない二羽でも。
(…ペンギンだよ…?)
 人間同士ならばともかく、相手はペンギン。自然の中で生きてゆく動物。子孫を増やして。
 動物園で暮らすペンギンなのだし、自然界とは違うのだろうか?
 ニールとロイはそれでいいの、と読み進めた記事には「色々あります」と記されていた。
 実は多いらしい、オス同士でカップルになってしまう鳥。ヒゲペンギン以外の種類の鳥だって。動物園ではなくて、自然の中で暮らす鳥たちでも。
 一生、添い遂げる鳥だった時は、後からメスを加えてやってもオス同士のまま。もうカップルは決まっているから、生涯、二羽で生きるのだから。
 たまたまオスが多かった年に生まれた鳥なら、そうなるらしい。翌年にメスが余っていたって、取り替えないらしい自分の相手。
 オス同士では雛が生まれなくても。巣作りをしても、意味が無くても。



 ビックリした、と丸くなった目。ニールとロイは特別なペンギンなどではなかった。
 たまたま動物園にいたから、注目を浴びているというだけ。もしも自然の中にいたなら、普通に生活してゆくのだろう。やっぱり同じに、他のカップルの卵を預かって孵してやって。
(うーん…)
 鳥の世界にもオス同士のカップルがいるなんて、と戻った二階の自分の部屋。
 勉強机の上に頬杖をついて、思い返した新聞記事。ペンギンでなくても、オス同士でカップルになることが多いらしい鳥。種類は様々、一生、添い遂げる鳥だって。
 どういう鳥で起こり得るのか、あの記事には書かれていなかったけれど…。
(鶴は…?)
 丹頂鶴はどうなんだろう、と頭に浮かんだ美しい鳥。この地域のずっと北の方に棲む丹頂鶴。
 あれも一生、添い遂げる鳥。湿原の神という意味の名前を持っている鳥、サルルンカムイ。遠い昔のアイヌの言葉で。
 前に新聞で読んで、悲しくなった。つがいの丹頂鶴の愛の深さに、前の自分たちが重なって。
(パートナーの鶴が死んじゃっても…)
 その側を離れずにいるという鶴。死骸を狙うキツネやカラスを追い払いながら。
 すっかり骨になってしまっても、まだ離れないで守り続ける。雨で流されたり、雪の下に隠れて見えなくなってしまうまで。相手の身体が消える時まで。
 そうなってから、やっと何処かへ飛んでゆくという丹頂鶴。新しいパートナーを探して。
(…前のぼくの身体、メギドで無くなっちゃったから…)
 シャングリラに戻りはしなかった身体。漆黒の宇宙に消えてしまって。
 もしも身体が残っていたなら、ハーレイはそれを守れたのに。魂は飛び去ってしまっていても。語り掛けても、声が返りはしなくても。
 そう思ったから、悲しかった鶴。
 前のハーレイには、守りたくても守る身体が無かったから。きっと守りたかっただろうに、と。
 それをハーレイに尋ねてみたら、本当にその通りだった。地球に着くまで守っただろう、と。
 もう動かなくなった身体を、保存するための柩に入れて。青の間に置いて、何度も通って。



 ハーレイと二人、鶴の姿に重ねた前の自分たち。
 前のハーレイを置いて行った自分と、置き去りにされたハーレイと。身体だけでも、ハーレイの許に残っていたなら、幾らかは救いになった筈。
 魂はもう戻らなくても、死んだ身体でも、寄り添うことは出来るのだから。
 手を握ることも、そっと口付けをすることも。
 パートナーを失くした丹頂鶴が、いつまでも側を離れないように。骨になっても、離れずに守り続けるように。
(きっとオス同士のカップルでも…)
 かまわないのだろう、と今になって思う丹頂鶴。湿原の神、サルルンカムイ。
 あの話をハーレイとしていた時には、其処まで思っていなかったけれど。鳥の世界では、オスとメスとがカップルなのだと考えていたし、鶴たちの愛の深さについて二人で語り合っただけ。
 鶴のように共に生きてゆこうと、今度こそ二人、離れはしないと。
(…鶴の舞…)
 雪解けの前に、鶴たちは雪原で舞うという。
 一生を共に生きる相手を見付け出すために、翼を広げて、鳴き交わして。
 とうに相手がいる鶴たちは、愛の絆を確かめるように。
 パートナーを探して舞う鶴たちは、若い鶴ばかり。これから共に生きる相手を求めて、初めての舞を舞う若い鶴たち。
 その中に混じって、パートナーを失くした鶴も舞うらしい。相手を失くして、たった一羽で。
 共に生きようと誓った相手は、もういないから。…身体さえも消えてしまったから。
 そういう悲しい鶴が舞う舞。
 愛を確かめ合うカップルたちの中で、新しい世代の鶴たちの中で、寂しく舞を舞い続ける。もう戻ってはこない相手を求めるように。本当だったら二羽で舞う筈の舞を、たった一羽で。
(…ぼくとハーレイも、離れちゃったら、そういう鶴になっちゃうよ…)
 独りぼっちで、悲しい舞を舞う鶴に。共に舞う相手は、もういないから。
 けれど、今度はハーレイと共に生きてゆく。死ぬ時も二人、何処までも一緒。
 そう約束を交わしているから、残されて一羽で舞わなくてもいい。
 お互い、悲しい舞は舞わない、という話で終わってしまったけれど。丹頂鶴よりもずっと、強い絆を育んでゆこうと、見詰め合って終わりだったのだけれど…。



 丹頂鶴も同じかどうかはともかく、オス同士でつがいになるという鳥。カップルになって、共に生きるオスたちは珍しくない。
 新聞に載っていたヒゲペンギンのニールとロイが、子供まで育てているように。
(ハーレイも、ぼくも…)
 人間の世界では珍しいけれど、鳥の世界なら、普通のカップル。周りの鳥たちも気にしない。
 そういうものだと考えているし、平気で卵も預けてゆく。「お願いします」と、産み落として。自分たちは子育てに向いていないから、孵して育ててやって下さい、と。
(巣作りも無駄にはならないんだよね…)
 自分たちの子供は生まれなくても、誰かが卵を置いてゆくから。きちんと温めて孵してやって、一人前になるまで育てる雛。餌を運んで、面倒を見て。
 おまけに、生きる場所によっては人気者。ニールとロイみたいに、新聞にも載って。
 きっとSD体制の時代だった頃も、人気者の鳥になれただろう。オス同士でも、子育てが上手い仲良しカップル。動物園で巣作りをして、他のカップルの卵を孵して。
(…前のぼくたち、鳥に生まれた方が良かった?)
 ミュウに生まれて酷い目に遭うより、ハーレイと二人。
 鳥なのだから二羽だけれども、頑張って二人でせっせと巣作り。オス同士でも、鳥の仲間たちは全く変だと思いはしない。鳥の世界では珍しくないことだから。
 そうやって巣が出来上がったら、誰かが卵を預けに来ないか、二人で待つ。巣はあるのだから、次は卵、と。早く卵を温めたいと、雛が孵ったら育ててやろうと。
 その内に預かる誰かの卵。子育てに向かないカップルの卵。
 ハーレイと交代で温めてやって、きちんと孵して、二人で育てて…。



(うんと幸せだったかも…)
 ミュウになるより、動物園で人気者の鳥。オス同士でも子育て上手だから。
 SD体制の時代でもきっと、幸せに生きられただろうカップル。そっちの方が良かったかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、問い掛けた。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ヒゲペンギンって知ってる?」
 ペンギンの仲間なんだけど…。そういう名前の種類のペンギン。
「はあ?」
 なんだ、そいつは有名なのか?
 ヒゲペンギンというのは初めて聞いたが、何か変わったことでもするのか、そのペンギンは?
「やっぱり知らない?」
「すまん、ペンギンには詳しくないしな」
 この地域に棲んでる鳥じゃないから、そうそうお目にかかれんし…。どうも馴染みが薄いんだ。
 しかし髭とは、まるでゼルだか、ヒルマンなんだか…。そのヒゲペンギン。
「ニールとロイだよ」
 ゼルやヒルマンじゃなくって、ニール。…それからロイ。
「なんだそりゃ?」
 そういう名前がついているのか、何処のペンギンかは知らないが…。ニールとロイだと?
「うん、ペンギンの名物カップル」
 此処じゃなくって、遠い地域の動物園にいるんだけれど…。
 ニールとロイって名前なんだよ、オス同士のカップルなんだって。だけど、子育て上手で人気。
 ちゃんと巣を作って、他のカップルの卵を孵して、雛を育てているんだよ。



 でも珍しいことじゃないんだって、と話して聞かせた新聞記事。オス同士のカップルは普通だという鳥たちの世界。動物園でなくても、自然界でも。
 一生、添い遂げる鳥でも同じ、と言ったら「うーむ…」と唸っているハーレイ。鳥の世界では、そうだったのかと。
「…後からメスを入れてやっても、オス同士のカップルは壊れないんだな?」
 とうに相手は決まっているから、そのままでいいということか…。
 オス同士だと子孫は生まれないのに、他のカップルの卵を孵して育てたりもする、と。
「それ、ハーレイも知らなかった?」
 今のぼくより年上なのに…。色々なことを知っているのに。
「おいおい、何でも知ってるんだと思うなよ?」
 サッパリ分からんことも多いぞ、畑違いというヤツだ。そういう分野も多いんだから。
「そうかもだけど…。ハーレイ、鳥には詳しいから…」
 青い鳥が窓にぶつかった時も、オオルリだって直ぐに教えてくれたし…。
 ツバメが海を渡る時には、群れじゃなくって一羽ずつで飛ぶのも知っていたでしょ?
「それとこれとは、話が全く違うってな。オオルリやツバメはどうか知らんが…」
 鳥の世界じゃ、オス同士のカップルが普通だってか?
 しかも一生、同じカップルで暮らす鳥でも、一度オス同士でカップルになっちまったら、後からメスがやって来たって、見向きもしないと来たもんだ。
 比翼の鳥って言葉があるほどなんだし、夫婦なんだと思っていたが…。
 オスとメスとのカップルばかりで、オス同士のカップルがいたとしたって、珍しいのかと…。
「比翼の鳥は比翼の鳥だよ、いつも一緒に飛ぶんでしょ?」
 オス同士でも、一生、添い遂げるんだから。…メスが来たって、そっちの方には行かないで。
 前にハーレイと鶴の話をしたじゃない。一生、相手を変えないっていう丹頂鶴。
 パートナーの鶴が死んじゃった時も、死体がすっかり消えてしまうまで側を離れない鳥。
 あの鶴にだって、オス同士のカップル、いそうな感じ…。記事には書いてなかったけれど。
「いるかもなあ…」
 オス同士のカップルが壊れないなら、丹頂鶴の世界にもいるかもしれん。
 よくよく観察してみたら驚くかもなあ、「あのカップルはオス同士だぞ」とな。



 丹頂鶴の生態に詳しい人なら、きっと答えも知ってるだろうが、とハーレイは顎に手を当てた。
 「俺たちからすれば意外なんだが、普通なのかもしれないな」と。
 なにしろ鳥の世界の中では、珍しくないのがオス同士のカップル。一生、添い遂げるのが普通の鳥でも。丹頂鶴も、そのタイプの鳥。
「なんとも不思議な感じだなあ…。前にお前と話してた時は、まるで思いもしなかった」
 前の俺たちに鶴を重ねてはいたが、オス同士のカップルは俺たちくらいなモンだろうと…。
 きっと他にはいないだろうと思っていたのに、実は珍しくもなかったってか。
 丹頂鶴がそういう鳥とは限らないがな。
「でしょ? 鳥の世界では普通なんだよ、オス同士でカップルになってても」
 だからね…。前のぼくたちも、鳥同士だったら、とても幸せだったかな、って…。
「鳥同士?」
 前の俺たちって、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイがか?
「そうだよ、名前は全然違っていたかもだけど」
 鳥なんだもの、ソルジャーとかキャプテンって呼ばれることは無いものね。
 ブルーとハーレイって名前でもなくて、それこそニールとロイだとか…。
 あっ、あそこ…。鳩!



 飛んで来たよ、と見付けた鳩。窓の向こうに、つがいの鳩。
 庭の木の枝に並んで止まって、仲が良さそうなカップルだけれど…。
「あれもオス同士かもしれないよ?」
 だって鳥だし、鳩の世界でもオス同士のカップル、普通なのかもしれないもの。
「鳩は見た目じゃ分からんからなあ、どれがオスだか、メスなんだか」
 オス同士が普通の世界だったら、そういうカップルかもしれん。巣を作っていても、卵を温めていても、まるで区別がつかんだろう。…他のカップルの卵だなんて、誰も夢にも思わないしな。
 しかし、どうして前の俺たちの話になるんだ?
 鶴の話をしていたからか、ああいう風に生きたかったのか…?
「そうじゃなくって…。あの時代だと、鶴だって、きっと動物園にいただろうしね」
 今みたいに自由に飛んではいなくて、保護して貰って、安全に生きていたと思うよ。動物園で。
 その動物園、決められたスペースはあるだろうけど、同じ檻でもミュウより立派。
 あんな狭苦しい檻じゃなくって、運動するための場所だってあるよ。
 鶴でも、他の色々な鳥でも、オス同士のカップルは人気者だよ、動物園なら。子育てが上手で、仲良しカップル。…ヒゲペンギンのニールとロイみたいに。
 動物園の鳥でなくても、オス同士のカップル、鳥の世界では普通でしょ?
 恋人同士だってことを隠さなくても平気なんだよ、何処で暮らしていたとしたって。
 シャングリラの中では、誰にも言えなかったけど…。
 最後まで秘密にするしかなくって、「さよなら」のキスも出来ないままで…。
「其処か、前の俺たちが鳥同士だったら、と考えた理由…」
 誰にも隠す必要は無くて、動物園なら人気者にもなれていて…。
 ミュウじゃないから追われもしないし、酷い人体実験なんかも一切無いっていうことか…。



 確かに幸せだったかもな、とハーレイも見ている鳩のカップル。枝に止まった、つがいの鳩。
 羽繕いをしてやったりもして、仲睦まじくて、本当に微笑ましいカップル。一休みしたら、また何処かへと飛んでゆくのだろう。離れないで、二羽で。
「きっと幸せだったと思うよ、前のぼくたち…」
 ミュウじゃなくて、鳥に生まれていたら。動物園の鳥でも、外で暮らしている鳥でも。
 今の地球みたいに沢山の自然は無いだろうけど、動物園でなくても、きっと安全。
 天敵がいたって、ミュウに生まれるより、ずっと安全な時代だったよ。
 ミュウだと、ホントに殺されるしかなかったから。…檻に入れられて酷い実験だとか。
 でもね、鳥だと、追い掛けられても頑張って逃げればいいんだし…。
 人間だって、鳥が追われていることに気が付いた時は、助けようとしてくれるでしょ?
「まあな…。人類も基本は、優しい生き物ってヤツには違いなかった」
 平和に暮らして、友達を作って、助け合って生きていたからな。
 ミュウの子供を通報していた養父母にしても、そういう子供じゃなかったら…。ごくごく普通の子供だったら、きちんと世話して可愛がってた。機械が教えた通りにな。
 キースみたいな軍人でなけりゃ、殺すことなんて考えやしない。人間はもちろん、動物だって。
 鳥が天敵に追われていたなら、皆、助けようとしただろう。それこそ大勢、集まって来て。
「ほらね、鳥の方がミュウより安全な時代だったんだよ」
 ミュウは見付かったら撃ち殺されておしまいだけれど、鳥を撃つ人は誰もいないよ?
 追い掛けられてる鳥を助けようとして、オモチャの銃を撃つ子供とかはいるんだろうけれど…。
 前のぼくたちが生きてた時代は、そういう時代。
 だから、前のハーレイとぼくも、鳥に生まれていたら幸せ。
 人類に殺されかけたりすることはないし、狭い檻に閉じ込められもしないし…。



 きっと幸せに生きてゆけたよ、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。前の生から愛したハーレイ。
 けれど、恋人同士だったことは、誰にも言えはしなかった。最後の別れを告げる時さえ、キスも出来ずに終わった二人。…ミュウに生まれてしまったから。鳥には生まれ損なったから。
「鳥のハーレイと二人だったら、絶対、幸せだった筈だよ」
 二人じゃなくて、二羽だけど…。それでも鳥の目から見たなら、二人でしょ?
 おんなじ姿の鳥同士だから、やっぱり二人。…オス同士でも、鳥の世界だったら普通。
 一生、一緒に生きてゆく鳥で、ハーレイとカップルになるんだよ。一目で好きになっちゃって。
 いつもハーレイと二人で暮らして、巣だって頑張って一緒に作って…。
 そういうの、素敵だと思わない?
 あそこにいる鳩も、本当にオス同士かも…。幸せそうだよ、ああいう風に暮らせていたら。
 前のぼくたちが、ミュウじゃなくて鳥に生まれていたら…。
「それはそうかもしれないが…。幸せに生きてゆけたんだろうが…」
 お前、本当にそれで良かったのか?
 前のお前と前の俺とが、ミュウじゃなくて鳥のカップルだったら…。
 オス同士のカップルが普通の世界で、俺もお前も一目惚れして、一緒に生きてゆけたなら。



 幸せなのは間違いないだろう、とハーレイも認めた鳥たちの世界。SD体制の時代でも。
 ミュウのように追われて狩られはしないし、人類だって守ってくれる。天敵に襲われそうな姿を見たなら、大人も子供も助けようとしてくれる筈。「鳥が危ない」と大騒ぎして。
 そういう平和な世界で暮らして、場合によっては人気者。動物園で脚光を浴びる名物カップル、「オス同士なのに、子育て上手な鳥たちがいる」と。
 二人一緒に巣作りをして、他のカップルの卵を孵したりもして生きてゆく日々。寿命の長い鳥もいるから、人類と変わらない年月だって共に生きられるのだけれど…。
「いいか、幸せ一杯の人生だったとしても…。鳥なんだが、此処は人生ってことにしておこう」
 前のお前も、前の俺だって、大満足の人生を生きて、死ぬ時も一緒だったとしても…。
 心臓が同時に止まるくらいに、仲のいいカップルだったとしても。
 その時限りのカップルってことになっていたかもしれないぞ?
 うんと幸せに生きて死んでいっても、それっきりでな。
「…それっきりって?」
 その時限りのカップルだなんて、どういうことなの…?
「俺たちみたいに、生まれ変わりはしないってことだ。…こんな風には」
 前とそっくり同じ姿に生まれもしないし、前の自分が誰だったのかも思い出さない。
 記憶を持ってはいないわけだな、今の俺たちとは全く違って。
 それじゃ、会っても分からんだろうが。俺もお前も、お互いに何一つ覚えていないんだから。
「なんで…?」
 どうしてそういうことになってしまうの、鳥でも、ぼくとハーレイだよ?
 運命の恋人同士なんだし、生まれ変わっても、きっと分かるよ。…ハーレイも、ぼくも。
「お前なあ…。忘れちまったのか、お前の聖痕を…?」
 今のお前が持っているヤツだ。俺は一度しか見てはいないが…。
 そいつがお前に現れるまで、俺もお前も、前の自分が誰だったのかを全く知らなかったんだぞ?
 俺は散々、「キャプテン・ハーレイの生まれ変わりか?」と訊かれたモンだが、笑ってた。
 他人の空似だと思い込んでいたし、前のお前の写真を見たって、何も思いはしなかった。
 こういう顔の人がいたなら好きになるとか、そんなことさえ、一度も考えなかったってな。



 あの聖痕が現れなければ、俺もお前も記憶は戻っていない筈だ、という指摘。
 それまでは前世のことなど忘れて、全く違う人生を生きていた二人。ハーレイは今のハーレイの人生だけしか見てはいなくて、ソルジャー・ブルーだったチビの自分も。
「俺が思うに、きっと聖痕に意味があったんだろう」
 あの傷がお前に現れたこと。…お前が聖痕を持っていたこと。
 前のお前がメギドで撃たれた時の傷だろ、あの聖痕は。…傷そのものは何も残っちゃいないが、同じ場所から血が噴き出した。前のお前が撃たれた通りに。
 そういう傷を負ったお前の生まれ変わりだ、と分かる印が聖痕なんだ。
 だから、お前も俺も気付いた。今のお前は誰なのか。…それを知っている自分は誰か、と。
 そして記憶が戻ったわけだな、自分が誰かが分かったから。
「そうだけど…。聖痕が無ければ、ぼくたちの記憶は戻っていないの?」
 ハーレイに会っても何も思い出せないままなの、あの聖痕が無かったら…?
「多分な。現に、聖痕が俺たちの記憶を戻してくれたんだから」
 その聖痕を、誰がお前に刻んだのかが問題だ。…今のお前の身体にな。
 前のお前は、命と引き換えに未来を作った。シャングリラを守って、ミュウの未来を。
 お前がメギドを沈めなかったら、今の平和なミュウの時代も、青い地球もありはしないんだ。
 いつかは出来ていたとしたって、きっと遥かに長い時間がかかっただろう。…実際の歴史より、ずっと長くて気の遠くなるような時間がな。
 そいつを短縮したのがお前で、だからこそ今も英雄なんだ。…ソルジャー・ブルーは。
 お前だからこそ、俺と一緒に此処まで来られた。聖痕を持って、生まれ変わって。
 俺はそうだと思ってる。神様が奇跡を起こしたんだと、それがお前の聖痕なんだと。
 お前も聖痕は奇跡だと思っているだろう?
 だがな…。



 ただの鳥だと、そんな奇跡は起こりやしない、と真っ直ぐに見詰めてくる鳶色の瞳。
 どんなに人気者の鳥のカップルでも、SD体制の時代に注目を浴びていた鳥だとしても、と。
「…鳥は鳥だというだけに過ぎん。未来を変える力などは持っていないんだからな」
 だから、前の俺たちが鳥のカップルに生まれていたなら、その時限りの仲ってことだ。
 鳥のお前は、聖痕を貰えやしないだろうが。
 世界の役に立ってはいないし、神様が奇跡を起こす理由が無いからな。…ただの鳥では。
 聖痕が無けりゃ、俺もお前も、前の俺たちの記憶を思い出すことは無い。
 鳥として幸せに生きて死んだら、次に巡り会うことがあっても、もう覚えてはいないんだ。同じお前に出会えたとしても、もう一度恋に落ちたとしても。
「そんな…。ハーレイもぼくも、忘れてしまうの?」
 二人で一緒に生きていたのに、とても幸せだったのに…。
 オス同士でも二人で巣作りをして、他のカップルの卵を温めて孵して、雛を育てて…。
「酷なようだが、そうなるだろうが」
 鳥だった時は、俺たちに奇跡は起こらない。…聖痕が現れる前の俺たちと同じ状態だ。
 お互いに何も覚えていなくて、出会っても何も思い出さない。
 恋に落ちても、今のお前と今の俺とがいるだけだ。…ただの教師と教え子のな。
 前と同じに幸せに生きてはゆけるんだろうが、巣作りしたことも、卵を温めていたことも…。
 一緒に孵した雛のことさえ、思い出すことはないわけだな。
 神様が奇跡を起こさなかったら、記憶は戻りはしないんだから。



 それでも鳥が良かったのか、と訊かれたら、否。鳥が良かったとは、とても言えない。
 ハーレイと一緒に生まれ変わっても、恋に落ちても、それがハーレイだと気付かないなら。
 新しい人生を二人で幸せに生きてゆけても、前の生のことを忘れてしまっているのなら。
 鳥のカップルに生まれていたなら、聖痕を貰うことは出来ない。前の記憶は戻りはしない。どう頑張っても、鳥は鳥だから。…世界を、未来を変える力を持たないから。
「…鳥に生まれてたら、うんと幸せだっただろうと思うけど…」
 ハーレイと幸せに生きて行けたと思うけど…。
 だけど、やっぱり人間でいい。…ミュウに生まれた前のぼくでいいよ。
 生きてゆくのが辛い人生でも、アルタミラで酷い目に遭わされても。…何度も何度も死にそうになって、死んだほうがマシだと思ったくらいの地獄でも。
 やっと逃げ出しても、幸せになれても、ハーレイとは秘密の恋人同士で…。
 さよならのキスも出来ずに別れて、独りぼっちで死んじゃっても。
 それでも、こうしてハーレイに会える人生が断然いいよ。…どんな目に遭っても、辛くっても。
 鳥に生まれてたら、もっと幸せに生きていられたとしても。
「俺も全く同感だ。前のお前を失くしちまって、辛かったが…」
 魂は死んでしまったような気持ちで、地球までの道を生きたわけだが…。
 それでも頑張って生きただけあって、もう一度、お前と青い地球で巡り会えたしな?
 お前の辛さには敵いやしないが、俺だって苦労はしてたんだ。鳥に生まれてれば楽だったのに。本当に鳥のカップルだったら、ずいぶんと楽な人生で…。
 ありゃ…?



 消えちまったな、とハーレイが眺めた窓の外。
鳩のカップルはもういなかった。
 いつの間に姿を消していたのか、止まっていた枝さえ揺れてはいない。きっと二人で話していた間に、何処かへ飛んで行ったのだろう。二羽で仲良く翼を広げて。
「…鳩のカップル、行っちゃったね…」
 たっぷり休んで満足したから、次の所へ行っちゃったかな。…公園だとか、でなきゃ自分の巣に戻ったとか。
「そうなんだろうな、あそこじゃ餌も多くはないし…」
 もっと沢山食える場所を目指して行っちまったか、巣に帰ったか。
 二羽で揃って来ていたんだし、巣には卵は無いだろうがな。卵があるなら、片方は残って温めてやらんと駄目なんだから。
「卵…。あの鳩、やっぱりオス同士かな?」
 巣は作ったから、誰か卵を産んでおいてね、って二人で遊びに出てたとか…?
 「お願いします」って言いにくい鳩のカップルでも、留守の時なら勝手に卵を置いて行けるし。
 帰ったら卵があるといいね、って言いながら帰って行くのかな…?
「さてなあ…?」
 その辺の事情は俺にも分からん、どうやって卵を預かるのかは。
 第一、あれがオス同士のカップルだったのかどうか、それも分からなかったんだが…?
「んーと…。オス同士だったら、ヒルマンとゼル?」
 さっきのカップル、ずっと昔はヒルマンとゼルって名前だったとか…?
「…それだけは無いだろ、ヒルマンたちだぞ?」
 あいつらが恋人同士だったとは、俺は全く聞いたことすら無いんだが…?
「そうだよね…」
 ヒルマンとゼルなら、隠す必要は無いんだし…。堂々と恋人宣言したよね、恋をしてたら。
 みんなの前でキスなんかもして、手だって繋いで歩いてるよね…。



 鳩のカップルがオス同士でも、ヒルマンとゼルのわけがないよね、と目をやった外。
 ハーレイも「当たり前だろうが」と笑って見ている、鳩のカップルがいた辺りの木の枝。
 きっとヒゲペンギンの名物カップル、ニールとロイも、ヒルマンとゼルではないだろう。彼らが鳥に生まれ変わって、カップルになってはいない筈。
 白いシャングリラでは多分、前の自分たちだけだった。男同士のカップルは。
 だから隠すしかなかったけれど。…鳥の世界では当たり前でも、人の世界では普通ではなかった男同士のカップルで恋をしていたから。
 その上、ソルジャーとキャプテンだった二人。
 シャングリラの命運を左右しかねない二人だったから、余計に隠し通したけれど。
 今度は恋を隠さなくても済む世界だから、二人、幸せに生きてゆく。
 鳥に生まれた方が良かったかも、とは少しも考えないで。
 いつか結婚出来る時が来たなら、ハーレイと同じ家で暮らして。
 前の生からの恋の続きを、前よりもずっと幸せな生を。
 いつまでも、何処までも、手を繋ぎ合って、生まれ変わって来た、この地球の上で…。




          つがいの鳥・了


※鳥の世界では珍しくない、雄同士のカップル。SD体制の時代でも、鳥だったなら安全。
 ミュウよりも幸せに暮らせそうですけど、前の生の記憶がある、今の人生を貰える方が幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、また新年を迎えました。恒例のお雑煮大食い大会で教頭先生たちに闇鍋を食べさせたり、水中かるた大会で優勝したりと1年A組は新年早々絶好調です。水中かるた大会優勝の副賞は先生方による寸劇だったんですけれど…。
「かみお~ん♪ 昨日の寸劇、最高だったね!」
みんなとっても喜んでたし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今日は土曜日、朝から会長さんの家にお邪魔しています。
「リクエストが沢山あったからねえ、やっぱりやらなきゃ駄目だろうと」
お応えした甲斐があった、と会長さんも。
「ハーレイのバレエは伝説だしさ、たまには披露しておかないと」
「かなり普通じゃなかったがな…」
ただのバレエじゃなかったろうが、とキース君が突っ込むと。
「そりゃまあ…。一応、寸劇ってことになってるし…。先生が二人は必要なんだし」
「あんたが最初にやらかした時は、グレイブ先生も踊っていたと思ったが?」
白鳥の湖の王子役で、とキース君。
「なのに今回は踊りは無しだったぞ、グレイブ先生は」
「演目が赤い靴だしねえ? 踊らなくてもいいんだよ、グレイブは」
最後にハーレイの足を切り落とす役さえ演じてくれれば、と会長さんの返事。昨日のグレイブ先生は一人で何役もこなした挙句に、踊り続ける足を切り落とす首切り役人で…。
「教頭先生の足に一撃、あれは本気がこもってましたよ」
多分、とシロエ君が呟き、サム君も。
「グレイブ先生、一年間、ババを引かされまくっているもんなあ…」
「誰かさんのせいでね…」
誰かが1年A組に来るせいで、とジョミー君。
「本気だって出るよ、足に一撃」
「ぼくのせいだと言うのかい?」
会長さんが訊いて、私たちは揃って首を縦に。会長さんは「心外だなあ…」と頭を振ると。
「グレイブにも娯楽を提供しているつもりだけどねえ? 毎年、毎年」
「娯楽どころか、地獄だろうが!」
娯楽はあんたの勘違いだ、とキース君。その認識で間違ってないと思いますです、グレイブ先生、毎年、毎年、会長さんがやって来るだけで地獄ですってば…。



それはともかく、昨日の寸劇。赤い靴の元ネタはもちろん童話で、靴を履いている限りは踊り続ける呪いがかかった女性のお話。同じタイトルのバレエ映画があるのだそうで、会長さんは童話とバレエを混ぜたのです。
教頭先生は白鳥の湖みたいな白いチュチュに赤いトウシューズで登場、ひたすら色々な踊りを披露し続け、グレイブ先生は赤い靴の童話の靴屋の女将さんとか老婦人とかをこなしまくって、最後が首切り役人なオチ。
グレイブ先生の斧の一撃、教頭先生の踊りが止まっておしまいでしたが…。赤いトウシューズだけが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーということで、勝手に脱げて踊りながら去ってゆくという拍手喝采の寸劇でしたが…。
「何度も訊くがな、なんでグレイブ先生は踊りは無しになっていたんだ!」
踊れる筈だぞ、とキース君。
「バレエの技はサイオンで叩き込まれた筈だし、今だって!」
「分かってないねえ、何年経ったと思っているのさ」
その技を叩き込まれた時から…、と会長さんがフウと溜息。
「グレイブはあれっきりバレエの方は放置なんだよ、誰かと違って」
「「「あー…」」」
教頭先生は今もバレエ教室に足を運んでおられますけど、グレイブ先生については噂も聞いていません。やっぱり習っていなかったんだ…。
「普通は習わないと思うよ、バレエなんかは。ハーレイの方が例外なんだよ」
そして技術がどんどん上がる、と会長さん。
「昨日のバレエも凄かっただろう、回転したって軸足は少しもブレなかったし」
「それはまあ…。技術の凄さは認めるが…」
認めるんだが、とキース君はまだブツブツと。
「教頭先生だけに絞って笑い物にするというのはだな…」
「いいんだってば、グレイブの下手な踊りも一緒に披露するより、あっちの方が!」
そのための題材なんだから、と会長さんは『赤い靴』の利点を挙げました。
「履いてる間は踊りまくるのが赤い靴だよ、自分の意志とは関係無く!」
「それはそうだが…」
「バレエの技術をもれなく披露! ついでにグレイブは斧で一撃、そしてスカッと!」
あれ以上のネタはそうはあるまい、と会長さんは自画自賛。教頭先生のバレエを披露で大ウケでしたし、グレイブ先生が踊ってなくても拍手はとっても大きかったですよね…。



ともあれ、教頭先生のバレエの技が光った昨日の寸劇。実に上達なさったものだ、とワイワイ賑やかに騒いでいたら…。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、とフワリと翻った紫のマント。別の世界からのお客様の登場です。
「ぶるぅ、ぼくにも紅茶とケーキ!」
「オッケー、ちょっと待っててねーっ!」
今日は柚子のベイクドチーズケーキなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと用意を。ソルジャー好みの紅茶の方も。
「ありがとう! うん、美味しい!」
それでね…、とソルジャーは柚子のケーキを頬張りながら。
「昨日のハーレイの寸劇だけどさ、あれはなんだい? ぼくにはイマイチ分からなくてさ」
「「「は?」」」
「覗き見していたけど、意味が今一つ…。あの靴が問題だったのかな?」
赤いトウシューズ、とお尋ねが。
「履いてる限りは踊り続けるとか何とか言ったし、グレイブが斧で切り付けた後は、あの靴だけが踊りながら去って行っちゃったし…」
「赤い靴の話、知らないのかい?」
もしかして、と会長さん。
「有名な童話なんだけどねえ、君は読んではいないとか?」
「うん、知らない。どういう童話だったんだい?」
まるで知らない、と言うソルジャーのために、私たちは口々に説明していたのですが。
「かみお~ん♪ これで分かると思うの!」
ちゃんと絵本になっているから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が差し出した本。赤い靴の絵本、持っていたんだ…。
「ああ、あれかい? 寸劇に備えての参考資料に買ったんだけど?」
会長さんが答えて、ソルジャーは「ふうん…」と絵本をパラパラめくっていって。
「分かった、赤い靴というのが大切なんだね、主人公はやたらこだわってるけど」
「靴も買えないような子供が初めて貰った靴なんだよ?」
心に残って当然だろう、と会長さん。そのせいで赤い靴が大好きになっちゃうんですよね、あのお話の主人公…。



ソルジャーは絵本がよほど気に入ったのか、何度も読み返してからパタンと閉じて。
「足を切り落とすまで踊り続ける赤い靴かあ…。なんだか凄いね」
切り落とした後まで足だけが踊って行っちゃうなんて、とソルジャーが言うと、会長さんが。
「神様の罰ってことになっているけど、元ネタはそういう病気らしいね」
「「「病気?」」」
なんですか、それは? 踊りまくる病気が存在すると?
「ハンチントン病っていうヤツで…。それじゃないかと言われているよ」
元々は舞踏病と言ったくらいだから、と聞いてビックリ、赤い靴は元ネタがありましたか!
「裏付けってヤツは無いけれど…。その辺から来てるんじゃないかって話」
「ふうん…。踊り続ける病気なのかい?」
そんな病気が、と驚くソルジャー。
「ぼくの世界じゃ聞かないねえ…。舞踏病の方も、ハンチントン病も」
「君の世界だと、根絶済みだと思うよ、それ」
遺伝する病気らしいから、と会長さんが返すと、「なるほどね!」と頷くソルジャー。
「そうなのかもねえ、ぼくの世界は遺伝子治療は基本だからね」
そういう因子は除去するだろう、と流石は未来の医学です。遺伝病くらいは簡単に治せてしまうんだろうな、と皆で感心していたら…。
「でもねえ、赤い靴はとっても使えそうだよ、パワフルだから!」
「「「はあ?」」」
何に使うと言うんでしょうか、赤い靴なんか? ソルジャーの正装は白いブーツですけど、それを赤いブーツにしたいとか?
「うーん…。それも悪くはないんだけれど…。履いている間はサイオン全開っていうのもね」
そして人類軍の船を端から沈める、と怖い台詞が。その船、人が乗ってますよね?
「そりゃ、乗ってるよ! でもねえ、相手は人類だから!」
向こうが殺しにやって来るんだし、こっちから逆に殺したって全く問題無し! とソルジャーならではの見解が。
「赤いブーツでパワフルに殺しまくるのもいいけれど…。どうせだったら、もっと有意義に!」
「何をしたいわけ?」
赤いブーツで、と会長さんが尋ねて、私たちも知りたいような知りたくないような。あれだけ絵本を読んでいたんですし、何か思い付いたことは確かですよね?



赤い靴はパワフルで使えそうだ、と言い出したソルジャー。赤いブーツを履いて人類を殺しまくるという話も出ましたが、それよりも有意義な使い方となると…。
「もちろん、夫婦の時間だよ! パワフルとなれば!」
ハーレイとパワフルにヤリまくるのだ、とソルジャーの口から斜め上な言葉が。
「赤い靴を履くのは、ぼくじゃなくって、ぼくのハーレイ!」
「「「え?」」」
赤い靴はキャプテンの方が履くって、それを履いたらどうなるんですか?
「決まってるじゃないか、夫婦の時間と言った筈だよ! ヤリまくるんだよ!」
赤い靴を履いている限りはガンガンと、とグッと拳を握るソルジャー。
「赤という色は特別なんだろ、こっちの世界じゃ! だから赤い靴!」
ノルディに聞いた、とソルジャーは知識を披露し始めました。
「赤は性欲が高まる色だとかで、赤い下着が流行るって言うし…。健康のために赤いパンツを履く人もいるし、赤は特別な色なんだよ! そこが大事で!」
「…赤い靴の童話は無関係だと思うけど?」
神様がお怒りになった理由はそこじゃない、と会長さん。
「今はともかく、あの童話の時代は教会は厳しかったから…。赤い靴で教会は論外なんだよ」
そしてお葬式の時に赤い靴が駄目なのは今でも同じ、とキッパリと。
「決まりを破った上に、自分を育ててくれた人のお世話もしないで舞踏会に行ってしまうから…。そんなに踊りが好きなんだったら踊り続けろ、という罰だってば!」
「細かいことはいいんだよ! ぼくのハーレイは気にしないから!」
赤い靴の童話はサラッと聞かせるだけだから、と言うソルジャー。
「要はそういう童話があってさ、それに因んだ赤い靴っていうことで!」
性欲も高まる色なんだから、とソルジャーは笑顔。
「この靴を履いてる間はヤリまくれる、と暗示をかければオッケーってね!」
「「「暗示?」」」
「そう! ハーレイは疲れ知らずでヤリまくれるだけのパワーを秘めているからねえ…」
漢方薬のお蔭でね! とソルジャー、得意げ。
「ただねえ、元がヘタレだからねえ…。ぼくへの遠慮があったりするから…」
ぼくが壊れるほどヤリまくれと言っても腰が引けちゃって…、と零すソルジャー。つまりは赤い靴を履かせて、キャプテンの心のタガをふっ飛ばそうというわけですか…?



ソルジャーが魅せられた赤い靴。狙いはどうやら、私の考えで合っていたようで。
「ピンポーン! 赤い靴を履くというのが大切!」
脱がない限りはヤリまくるってことで、とソルジャーは頬を紅潮させて。
「もう最高の暗示なんだよ、赤い靴を履いたらヤるしかないと!」
「なるほどねえ…。赤い靴とは、いいアイデアかもしないけれど…」
靴だけに少々難アリかもね、と会長さん。
「えっ、難アリって…。どの辺が?」
ぼくのアイデアは完璧な筈、と怪訝そうなソルジャー。
「赤い靴はただの靴だけどねえ、暗示をかけるのはぼくなんだよ? ぼくが暗示を解かない限りは、ハーレイはヤッてヤリまくるんだよ!」
「…その暗示。靴を履いてる間だけだろ?」
「そうだけど? だからこその赤い靴なんだよ! 早速何処かでゲットしないと!」
こっちの世界で適当なヤツを買って帰ろう、と言うソルジャーですが。
「買って帰るんだ? …無粋な靴を」
「無粋だって!?」
失礼な! とソルジャーは柳眉を吊り上げました。
「赤い靴の何処が無粋だと? ロマンだってば、赤い靴の話と同じでさ!」
もう永遠にヤリ続ける仕様の赤い靴、と夢とロマンが炸裂しているみたいですけど、会長さんは。
「どうなんだか…。靴を履いてコトに及ぶと言うのはねえ…」
君が気にしないなら、そこはどうでもいいんだけれど、と一呼吸置いて。
「ただねえ、ヤリまくっても脱げない靴を買うとなったら、デザインがねえ…」
下手な靴だと脱げるであろう、と会長さん。
「君の目的は激しい運動を伴うんだよ? それでも脱げない靴となると…」
スニーカーとか、ブーツだとか…、と会長さんは例を挙げました。
「そういう無粋な靴になるけど、君はその手の靴を買うわけ?」
「…そ、そういえば…。ハーレイが普段に履いている靴…」
脱げにくい仕様の靴ではあるけど、運動したら脱げるかも、とソルジャーは「うーん…」と。
「ああいう靴を買おうと思っていたけど、脱げちゃうんだ?」
「多分ね、だからスニーカーとかの無粋な靴だね!」
ロマンも何も無さそうな靴、と会長さん。ソルジャーの野望はこれでアッサリおしまいですかね、赤い靴は脱げてしまうんですしね?



ソルジャーが夢見る赤い靴。履いている限りはキャプテンと大人の時間なのだ、と野望を抱いたみたいですけど、靴はアッサリ脱げるというのが会長さんの指摘。脱げてしまったら靴の呪いならぬ暗示の方も解けちゃいますから…。
「…赤い靴というのは無理があったか…」
ソルジャーが腕組みをして、会長さんが。
「そもそも、靴はそういう時には脱ぐものだしね? 履いたままなんて誰も考えないよ」
路上で襲い掛かる類の暴漢くらいなものであろう、とクスクスと。
「君の暗示がかかっていたなら、暴漢並みの勢いってことも有り得るけれど…。肝心の靴が脱げてしまっちゃ、話にも何もならないってね!」
「…じゃあ、靴下で!」
「「「靴下!?」」」
いったい何を言い出すのだ、と目を剥いた私たちですけれども、ソルジャーの方は本気でした。
「うん、靴下! 靴下だったら脱げないしね!」
それに限る、と頭の中身を切り替えたらしく。
「赤い靴の代わりに赤い靴下! これで完璧!」
「…もう好きにしたら?」
その辺で買って帰ったら、と会長さんが投げやりに。
「今は冬だし、靴下も沢山ある筈だよ。分厚いヤツから普通のヤツまで、選び放題で」
「分かった、買いに行ってくる!」
直ぐ帰るから、と立ち上がったソルジャーに「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと…。お昼御飯は食べないの? もう帰っちゃうの?」
「え、直ぐに帰ると言ったけど?」
「うん、だから…。帰っちゃうんでしょ、靴下を買って」
ちょっと残念、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。お客様大好きだけにガッカリしているみたいです。
「お昼、寒いからビーフシチューにするんだけれど…。朝から沢山仕込んだんだけど…」
「もちろん食べるよ、直ぐに帰るから!」
ちゃんとこっちに帰って来るから、と言われてビックリ、帰るって…こっちに帰るんですか?
「そうだけど? ぼくにも色々と都合があるしね」
じゃあ、行ってくる! とソルジャーは会長さんの家に置いてある私服にパパッと着替えてパッと姿を消しました。赤い靴下を買いにお出掛けですけど、まさかこっちに戻るだなんて…。



赤い靴の童話から、良からぬアイデアに目覚めたソルジャー。履いている限りはヤリまくる靴をキャプテンに履かせるつもりで、それが駄目なら赤い靴下。暗示をかけるらしいですから、靴下を買ったら真っ直ぐ帰ると思っていたのに…。
「ただいまーっ!」
買って来たよ、とソルジャーが紙袋を提げて戻って来ました。会長さんもよく行くデパートの。
「ホントにこの時期、色々あるねえ、赤い靴下! もう迷っちゃって!」
でもシンプルなのが一番だよね、と中から出て来た赤い靴下。キャプテン用だけに大きいです。
「靴下だったら、靴と違ってそう簡単には脱げないし…。これでバッチリ!」
「はいはい、分かった」
それ以上はもう言わなくていい、と会長さん。
「何しに戻って来たかはともかく、そろそろお昼時だから!」
「かみお~ん♪ ビーフシチュー、マザー農場で貰ったお肉なんだよ!」
それをトロトロに煮込んだから、と聞いて大歓声。料理上手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕に、マザー農場の美味しいお肉は最高の組み合わせというヤツです。ダイニングに向かってゾロゾロと移動、ビーフシチューに舌鼓。ソルジャーもシチューを口に運びながら。
「これも赤だね、考えようによってはね!」
濃い赤色、と指差すシチュー。
「やっぱり赤にはパワーがあるんだよ、シチューも赤いし、肉だってね!」
生の肉は赤いものなんだし…、とニコニコと。
「赤はパワフルな色で間違いなし! だからね、赤い靴下だって!」
「君の好きにすればいいだろう!」
食事中にまで余計な話を持ち出すな、と会長さんが睨み付けましたが。
「何を言うかな、食事が済んだら忙しくなるし!」
「「「え?」」」
忙しいって…何が?
「赤い靴下だよ、ぼくが暗示をかけるんだから!」
「なんだ、帰るって意味だったのか…。だったら、別に」
今の間に好き放題に喋るがいい、と会長さん。食事が済んだら消えるんだったら、私たちも別に気にしません。赤い靴下だろうが、独演会だろうが、好きにすれば、と思ったんですが…。



「「「教頭先生!?」」」
昼食を食べ終えた私たちを待っていたものは、予想もしていなかった展開でした。食後のコーヒーや紅茶を手にして戻ったリビング、ソルジャーも紅茶を飲んだらお帰りになるものだと信じていたのに、さにあらずで。
「そうだよ、こっちのハーレイなんだよ!」
まずは試してみないとね、と買って来た赤い靴下を手にしたソルジャー。
「履いている限りは解けない暗示をかけられるかどうか、一応、実験しておかないと!」
「迷惑だから!」
そんな実験にハーレイを使うな、と会長さんが怒鳴り付けました。
「ヤリまくるだなんて、困るんだよ! 第一、ハーレイは鼻血体質だから!」
暗示をかけてもヤリまくる前に倒れるから、という意見は正しいだろうと思います。ソルジャーや会長さんが悪戯する度に鼻血で失神、そういうのを何度も見て来ましたし…。
「いきなりそっちはやらないよ! 赤い靴の通りにするんだけれど!」
「「「へ?」」」
「踊る方だよ、踊り続けるかどうかを試すんだよ!」
それならいいだろ、とソルジャーが広げてみせる赤い靴下。
「これはバレエの靴とは違うし、爪先で立って踊るっていうのは無理かもだけど…。とにかく踊り続けるように、という暗示をね!」
「…踊る方かあ…」
そっちだったら害は無いか、と会長さん。
「そういうことなら、好きにしたら? バレエだろうが、フラメンコだろうが」
「フラメンコなんかも踊れるんだ? こっちのハーレイ」
「バレエと同じで隠し芸だよ、バレエほどには上手くないけど」
「分かった、他にも色々な踊りが出来そうだねえ!」
こっちの世界は踊りが多いし、とソルジャー、ニッコリ。
「盆踊りだけでもバラエティー豊かにあるみたいだし…。バレエに飽きたら、それもいいねえ!」
「飽きたらって…。どれだけ踊らせるつもりなのさ?」
「赤い靴下を履いてる限り!」
夜も昼も踊り続けるんだろう、とソルジャーは赤い靴の絵本をしっかり覚えていました。こんなソルジャーに目を付けられてしまった教頭先生、踊りまくる羽目に陥るんですか…?



それから間もなく、ソルジャーが「さて…」とソファから立ち上がったので、出掛けるんだと誰もが思ったんですけれど。
「もうハーレイを呼んでもいいかな?」
「「「え?」」」
呼ぶって、教頭先生を? 此処へですか?
「そうだけど…。踊らせるんなら、家は広いほどいいからねえ!」
ハーレイの家は此処より狭いし、とソルジャーが言う通り、会長さんの家は広いです。マンションの最上階のフロアを丸ごと使っているんですから。
「ハーレイを此処に呼ぶだって!?」
冗談じゃない、と会長さんが言い終えない内にキラリと光った青いサイオン。ソルジャーがサイオンを使ったらしくて、教頭先生がリビングの真ん中にパッと。
「…な、なんだ!?」
何事なのだ、と周りを見回した教頭先生に、ソルジャーが。
「こんにちは。見ての通りに、此処はブルーの家なんだけど…。ちょっと協力して欲しくてねえ、ぼくの大事な実験に!」
「…実験……ですか?」
「そう! 一種の人体実験だけれど、薬を使うわけじゃないから!」
身体に害は無い筈だから、とソルジャーは笑顔全開で。
「害があるとしたら、筋肉痛になるくらいかな? だけど、君は普段から鍛えているし…。そっちの方も平気じゃないかと」
「筋肉痛とは…。それはどういう実験ですか?」
「赤い靴だよ。昨日の寸劇、凄かったねえ!」
君の踊りはぼくも覗き見させて貰ったよ、と踊りの凄さを褒めるソルジャー。
「あれほどの踊りをモノにするには、ずいぶん練習したんだろうねえ?」
「ええ、教室にはずっと通っていますから…」
「頼もしいよ! それなら踊り続けていたって大丈夫だよね?」
「…踊りですか?」
それはどういう…、と尋ねた教頭先生に、ソルジャーが「これ!」と突き付けた赤い靴下。
「この靴下を履いてくれるかな? そしたら分かるよ!」
君が履いてる靴下を脱いで…、と言ってますけど。教頭先生、素直に履き替えるんですかねえ?



「…赤い靴下…」
もしやそれは、と靴下を見詰める教頭先生。
「普通の靴下のように見えますが、赤い靴の話が出て来るからには、履いたら最後、踊り続けるしかない靴下でしょうか…?」
「大正解だよ! 実はね、ぼくが本当に目指す所は踊りじゃなくって…」
「やめたまえ!」
言わなくていい、と会長さんが止めに入りましたが、ソルジャーは。
「誰かが言うなと喚いてるけど、きちんと説明しておかないとね? ぼくが目指すのは、夫婦の時間を盛り上げるための靴下で!」
「…はあ?」
怪訝そうな顔の教頭先生。それはそうでしょう、赤い靴の話とソルジャーの発想が結び付くわけがありません。ソルジャーは「分からないかなあ?」と頭を振って。
「履いてる間はヤリまくる靴下を作りたいんだよ! もうガンガンと!」
自分の意志とは関係なしに無制限に…、と言われた教頭先生はみるみる耳まで真っ赤になって。
「そ、その靴下を作るための実験台ですか…?」
「話が早くて助かるよ! ぼくのハーレイに履かせたくってね、その前に君の協力を…」
お願い出来る? と訊かれた教頭先生、鼻息も荒く「はい!」と返事を。
「喜んでやらせて頂きます! …それで、そのぅ…。私の相手は…」
ヤリまくる相手は誰になるのでしょう、という疑問は尤もなもの。ソルジャーは「えーっと…」と首を捻って。
「ぼくだと嬉しくないんだろうし…。ブルーの方がいいんだよね?」
「もちろんです!」
「ブルーなら、其処にいるからさ…。頑張ってみれば?」
「はいっ!」
この靴下を履けばいいのですね、とソルジャーから赤い靴下を受け取る教頭先生。ソルジャーが先に言っていた踊りの話や筋肉痛の件は頭から抜け落ちてしまったようです。会長さんも気付いたみたいで、怒る代わりにニヤニヤと。
「聞いたかい、ハーレイ? 人体実験、頑張るんだね」
「うむ。…これに履き替えればいいのだな」
赤い靴ならぬ赤い靴下とは面白い、と履いていた靴下を脱いでおられる教頭先生。鼻血体質のくせにやる気満々、赤い靴下を履けばヘタレも直ると思ってたりして…?



教頭先生が脱いだ靴下は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が片付けようとしたんですけど、会長さんが「待った!」と一声。
「そんな靴下、置いておかなくてもかまわないから! 臭いだけだから!」
「…く、臭い…?」
そうだろうか、と衝撃を受けてらっしゃる教頭先生。会長さんはフンと鼻を鳴らして。
「自分じゃ分からないものなんだよ、この手の悪臭というヤツは! ぶるぅ、ハーレイの家に送っておいて!」
「オッケー、洗濯物のトコだね!」
消えてしまった教頭先生の靴下、ご自分の家の洗濯物の籠へと瞬間移動で放り込まれたようです。まだ呆然と裸足で立っておられる教頭先生に、ソルジャーが。
「気にしない、気にしない! ブルーも照れているんだよ!」
「…そ、そうでしょうか…?」
「そりゃあ照れるよ、ヤリまくろうって言うんだよ? さあ、気を取り直して!」
赤い靴下を履いてみようか! と促すソルジャー。教頭先生も「そうですね!」と。
「では、早速…。どちらの足から履いてもいいのですか?」
「特にそういう決まりは無いねえ、履くということが大切だからね!」
「分かりました。それでは、失礼いたしまして…」
よいしょ、と右足を上げて立ったままでの靴下装着。続いて左足にも装着で…。
「「「………」」」
どうなるのだろう、と固唾を飲んで見守っていた私たち。両足に赤い靴下を履いた教頭先生の左足が床に下ろされ、初めて両足で立った途端に。
「「「!!?」」」
バッ! と高く上がった教頭先生の右足、頭の上までといった勢いで。バレエでああいうポーズがあるな、と思う間もなく…。
「「「わあっ!」」」
私たちの声と重なった野太い声。教頭先生が上げた驚きの声で、その声の主は凄い速さでクルクルと回転中でした。左足を軸に、さっき上げていた右足を曲げたり伸ばしたりしながらクルクル、いわゆるバレエの回転技で。
「「「うわー…」」」
本当に踊る靴下だったか、と見ている間もクルクル回転、バレエの技術はダテではなかったようです。トウシューズが無くても回れるんですねえ、それなりに…。



いきなり始まった、教頭先生の大回転。グランフェッテと言うんでしたか、バレエの連続回転技は三十二回転がお約束。グルングルンと回り続けた教頭先生、回り終えたら深々とお辞儀、これまたバレエでやるお辞儀。
「あれ、止まってない?」
お辞儀してるけど、とジョミー君が言い終わる前に、教頭先生の片足がまたバッと上がって、今度は両足でクルクル回転しながら移動してゆきます。あれもバレエの技でしたよね?
「うん。…その内にジャンプも出るんじゃないかな、何を踊るつもりかは知らないけれど」
足任せってトコか、と会長さんが無責任に言った所へ、教頭先生の声が重なって。
「なんなのだ、これは! あ、足が勝手に…!」
「ブルーの説明を聞いていただろ、赤い靴だって!」
それに昨日の寸劇も…、と会長さん。
「赤い靴の代わりに靴下なんだよ、履いてる間は踊り続けるしかないってね!」
「わ、私はそうは聞かなかったが…!」
「ヤリまくれると思ったのかい? ブルーは筋肉痛になるとも言ってたけどねえ!」
まずは踊りで実験なんだよ、と会長さんは声を張り上げました。
「ブルーがかけてる暗示らしいよ、その靴下を履いてる限りは踊り続けろって!」
「そ、そんな…!」
これではただの間抜けでしか…、と叫ぶ間も止まらない足、お得意のバレエの華麗な技が次々と。ソルジャーが「素晴らしいよ!」と拍手して。
「フラメンコとかも出来るんだってね? 次はそっちで!」
「ふ、フラメンコ…!?」
教頭先生にはその気は無かったと思います。けれども、赤い靴下なだけに…。
「「「わわっ!?」」」
優雅なバレエの足さばきから変わったステップ、これは明らかにフラメンコ。会長さんが手拍子を打って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の手にはカスタネットが。
「「「オ・レ!」」」
さあ踊れ! と私たちも手拍子、フラメンコの次は誰が言ったか盆踊り。外の寒さも吹き飛ぶ熱気がリビングに溢れて、教頭先生は次から次へと踊りまくって、踊り狂いながら。
「ま、まだ踊るのか? 止まらないのか…!」
どうして靴下でこんなことに、と叫ぶだけ無駄な止まらない足、赤い靴下で踊る両足。このまま踊るだけなんですかね、あの靴下…。



履いたらヤッてヤリまくれると教頭先生が信じた、赤い靴下。教頭先生の足は休むことなく踊り続けて、たまにお辞儀やポーズなんかで一瞬止まって、また踊るという有様で。
「悪くないねえ、こういうのもさ」
君がハーレイを呼ぶと言い出した時には焦ったけれど、と会長さん。
「ハーレイの家で踊らせておけ、と思ったけれども、これもなかなかオツなものだよ」
「そうだろう? 高みの見物に限るからねえ、他人を見世物にする時はさ」
君の家だからこそ、美味しいおやつを食べながら見られるというもので…、とソルジャーも。
「ハーレイの家で見るんだったら、お菓子とかは持ち込みになっちゃうからね」
「かみお~ん♪ ここなら作って食べられるもんね!」
ハーレイがちょっと邪魔だけど、とヒョイとよけながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで来てくれるお菓子や飲み物。踊り続けている教頭先生は全くの飲まず食わずですけど。
「…おい、いい加減、止めたらどうだ」
何時間踊らせているんだ、あんた…、とキース君が。
「もうすぐ晩飯になるんだが…。ずっと踊っておられるんだが!」
「ああ、そうか…。晩御飯ねえ、ぼくも食べたら帰って本番が待ってたっけね!」
赤い靴下の本物でハーレイと楽しむんだった、とソルジャー、ようやく気が付いたらしく。
「踊り続けられるってことは分かったし、本番の方も実験しないと…!」
「ちょ、ちょっと…!」
本番って何さ、と会長さんが言うよりも早く、キラリと光った青いサイオン。教頭先生の踊りが止まって、もうヘトヘトといった足取りながらもフラフラと…。
「え、ちょっと…!」
何を、と後ずさりした会長さんの両肩にガシッと置かれた教頭先生の両手。そのまま会長さんを床へ押し倒し、のしかかったからたまりません。
「「「ひいいっ!!」」」
会長さんも私たちも悲鳴で、シロエ君が。
「と、止めないと…! ヤバイですよ、これ!」
「よし!」
行くぞ、と駆け出したキース君たち柔道部三人組でしたけど。
「「「………」」」
まるで必要なかった救助。教頭先生は踊り続けて血行が良くなりすぎていたのか、鼻血の海に轟沈なさっておられました。赤い靴下、効いたみたいですけど、意味は全く無かったですねえ…。



こうして赤い靴下の効果が証明されて、ウキウキと帰って行ったソルジャー。失神してしまった教頭先生を瞬間移動で家へと送り返して、まだ何足も袋に入っていた赤い靴下をしっかり持って。
教頭先生に襲われかかった会長さんはプリプリ怒っていましたけれども、あれは未遂で実害は無かったわけですし…。
「いいけどね…。あの程度だったら、よくあるからね」
ブルーが何かと焚き付けるせいで、とブツブツと。それでも頭に来ているらしくて、憂さ晴らしだとかで、夜は大宴会。ちゃんこ鍋パーティーの後はお泊まりと決まり、夜食も食べて騒ぎまくって、眠くなった人からゲストルームに引き揚げて…。
「…来なかったな?」
あの馬鹿は、とキース君が尋ねた次の日の朝。ダイニングに揃って朝食の時です。
「来てないと思うよ、ぼくは知らない」
最後まで起きていたのはシロエだっけ、とジョミー君が言うと。
「そうですけど…。ぶるぅと一緒にお皿とかをキッチンに運びましたけど、見ていませんね」
「来るわけねえだろ、ウキウキ帰って行ったんだしよ」
あっちの世界で過ごしてるんだぜ、とサム君が。
「赤い靴下、どうなったのかは知らねえけどよ…。基本、夜には来ねえよな」
「そうよね、夜中は来ないわねえ…」
キャプテンが忙しい日は別だけど、とスウェナちゃん。確かに、そういう時しか夜には現れないのがソルジャーです。夫婦の時間とやらの方が優先、こっちの世界に来るわけがなくて。
「…すると、危ないのは今日の昼間か…」
赤い靴下の自慢に来るかもしれん、とキース君が呟き、会長さんが。
「レッドカードだね、もう間違いなく!」
あんな靴下の自慢をされてたまるものか、という姿勢。私たちだって御免ですけど、レッドカードが効かない相手がソルジャーです。意味不明な話を延々と聞かされる覚悟はしておこう、とトーストや卵料理やソーセージなんかを頬張っていたら。
「えとえと…。赤い靴の絵本、誰か見なかった?」
リビングから消えていたんだけれど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。朝一番に片付けに行ったら無かったのだそうで、誰かが持って行ったのかと思ったらしいのですが。
「「「えーっと…?」」」
心当たりのある人はいませんでした。ソルジャーが持って行ったんでしょうかね、キャプテンに赤い靴の話を説明するにはピッタリですしね…?



赤い靴の絵本は出て来ないままで、ソルジャーの方も来ないまま。平和に午前中が終わって、お昼御飯は煮込みハンバーグ。美味しく食べて、リビングに移って紅茶やコーヒーを飲んでいたら。
『誰か助けてーーーっ!!!』
「「「???」」」
誰だ、と顔を見合わせましたが、欠けている面子は一人もいません。気のせいだったか、と紅茶にコーヒー、それぞれのカップを傾けようとした所へ。
『助けてってば、誰でもいいからーーーっ!!!』
「…何か聞こえたな?」
あの馬鹿の声に似ているようだが、とキース君。
「似てるけど…。なんで、ぼくたちに救助要請?」
シャングリラの危機ってわけでもなさそうだけど、とジョミー君が言い、マツカ君が。
「誰でもいいなら、違いますよね?」
「ブルーを名指しじゃねえからなあ…?」
俺たちじゃシャングリラは助けられねえし、とサム君がリビングをキョロキョロと。
「けどよ、助けは要るんじゃねえのか? 何か知らねえけど」
「状況が全く分かりませんしね、どう助けるのかも謎ですよねえ…」
きっと何かの冗談でしょう、とシロエ君が纏めかけたのですが。
『赤い靴下だよ、赤い靴下が脱げないんだよーーーっ!!!』
昨夜からずっとヤられっぱなしで、とソルジャーの悲鳴。
『いくらぼくでも、このままだと本気で壊れるから! もう本当に壊れちゃうから…!』
腰が立たないくらいじゃ済まない、という思念には泣きが入っています。赤い靴下で壊れそうだということは…。
「自分で何とかすればいいだろ、君が暗示をかけたんだから!」
靴下くらいは脱がせたまえ! と会長さんが思念を投げ付けると。
『それが出来たら困らないってば、本当に赤い靴なんだってばーーーっ!!!』
脱げなくなってしまったのだ、とソルジャーの思念は涙混じりで、おまけに何度も乱れがちで。
『今だってヤられまくってるんだよ、もう死にそうだよ…!』
「思念を送ってこられるんなら、脱がせられるだろ!」
君の力なら充分に、と会長さんが言うのも納得です。ソルジャーのサイオンは会長さんとは比較にならないレベルなんですし、赤い靴下を脱がせるくらいは楽勝だと思ったんですけれど。



『ぶるぅだってば、ぶるぅが赤い靴下を…!!!』
赤い靴の絵本を読んだらしい、と泣き叫んでいるソルジャーの思念。キャプテン用にと持って帰った絵本を悪戯小僧の「ぶるぅ」までが読んで、赤い靴下に悪戯したようで…。
『脱げないようにしちゃったんだよ、もう本当に脱げないんだよ…!!』
ぼくもハーレイも努力はしたのだ、という絶叫。
『でも、ハーレイは元々脱げないように暗示をかけてあったし、ぼくはヤられてる最中なだけに、集中するにも限度があるし…。ああっ!』
ダメ、と乱れている思念波。キャプテンにヤられまくっている最中だけに無理もないですが。
『こ、こんな調子じゃ、ぶるぅにも敵わないんだよ…! お願い、誰かーーーっ!!』
ハーレイの赤い靴下を脱がせてくれ、と頼まれたって困ります。救助に行くにはソルジャーの世界へ空間移動が必要な上に、私たちの力で「ぶるぅ」なんかに勝てるかどうか…。
「…まず無理だな?」
俺たちで勝てるわけがないな、とキース君が腕組みをして、会長さんが。
「ぼくとぶるぅでも、二人がかりで勝てるかどうかは謎だしねえ…」
『そう言わないで! 誰か助けてーーーっ!!!』
もう本当に壊れてしまう、と叫ぶ思念に、会長さんは。
「赤い靴の絵本を読んだからには、脱げなくなったら、どうするかは分かっているだろう?」
『ま、まさか…』
「足を切り落とせばいいってね! それが嫌なら、そのままで!」
ヤられておけ! と会長さんが張った思念波を遮断するシールド。普段だったら、ソルジャー相手に効果は全く無いんですけど、今回は…。
「…静かになった?」
もう聞こえない、とジョミー君が耳を澄ませて、シロエ君が。
「どうせ何日か経ったら来ますよ、恨み言を言いに」
「だろうね、助けてくれなかったと文句を言うんだろうけど、自業自得と言うものだし…」
それまで平和を楽しんでおこう、と会長さんが紅茶をコクリと。ソルジャーが持って帰った赤い靴下、エライ結末になったようですけど、赤い靴の話は本来、そういう話。壊れるのが嫌なら足を切り落とせばいいんですから、放っておくのが一番ですよね~!




           赤い靴の呪い・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 赤い靴のお話からソルジャーが思い付いたのが、赤い靴下。履いている間は、ノンストップ。
 教頭先生で実験も済ませて自信満々、けれど、ぶるぅの悪戯で赤い靴のお話そのもの…。
 次回は 「第3月曜」 10月18日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、9月は秋のお彼岸なシーズン。今年はサボるという方向で…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









(あれ…?)
 なんだかいつもと感じが違う、とブルーが立ち止まった場所。学校からの帰り道。
 バス停から家まで歩く途中で、普段と全く同じ道筋。其処にあるのは見慣れた生垣の家なのに。学校がある日は毎日通るし、今朝も通っていった筈。その時は感じなかった違和感。
(えーっと…?)
 この家の人は…、と住人の名前を確認しようと眺めたポストで気が付いた。門扉の隣にポストがつけてあるのだけれど…。
(変わっちゃってる…!)
 ポストに書かれた名前は同じ。幼い頃から知っている名前で、この家に住む御主人と奥さん。
 それは変わっていないのだけれど、ポストのデザインと色がすっかり。見慣れたポストは消えてしまって、違うポストがくっついていた。
(このせいなんだ…)
 家に比べれば小さいポスト。生垣のアクセントのように。
 だからポストの前に立つまで気付かなかった。小さな箱の存在に。郵便や新聞などを飲み込み、雨や風から守る箱。
 あると分かったら、前に見ていた箱との違いは…。
(大きいよね?)
 しげしげと見詰めた新しいポスト。まるで変わってしまったデザイン。前のポストは、ごくごく平凡だったと思う。特に目を引くものでもなくて。
 けれど今のは、小さな家の形のポスト。屋根の部分が蓋なのだろう。カラフルに塗られて、窓や玄関扉まで。オモチャの家かと思うくらいに。
 こんなに違うと、別の人が住んでいるかのよう。書かれた名前は同じなのに。会った時には挨拶している、顔馴染みの御主人と奥さんなのに。



 変身を遂げた郵便受け。門扉の隣の小さなポスト。家の印象が変わったくらいに、意外なほどの存在感。家の形をしているとはいえ、本物の家とは比較にならないミニサイズなのに。
 ポストでこんなに変わるなんて、と生垣や家全体を見回してから、また見たポスト。カラフルで可愛い小さな家。
(御主人の趣味かな?)
 それとも奥さんの方だろうか、と考え込んでいたら、出て来た御主人。庭の手入れをしに、家の裏からクルリと回って。
「ブルー君?」
 今、帰りかい、と穏やかな笑顔。
「こんにちは! えっと…」
 訊いていいのかな、と迷ったポスト。どう切り出せば…、と出て来ない言葉。そうしたら…。
「ポストだろう?」
 すっかり変身したからねえ、と可笑しそうに近付いて来た御主人。ポストの側まで。
 生垣越しにポストの屋根を触って、「こう開けるんだよ」と上げてくれた蓋。やっぱりパカリと屋根が開く仕掛け。窓と玄関はただの飾りで、そちらの方は開かないらしい。
 けれど、飾りの窓と玄関。それも開きそうに見えるくらいに、きちんと作り込まれたポスト。
 御主人の話では、遠い地域に住む娘さんからのプレゼント。結婚して、其処に引越して行った。その娘さんが子供たちと一緒に選んだポスト。
 「素敵なポストを見付けたから」と届けられた箱。お孫さんが描いた絵や手紙もついて。



 そういうわけで、御主人が取り付けた新しいポスト。前のポストは外してしまって。
「あっちの地域だと、こういうのが普通らしいんだけどね。娘が言うには」
 家の形は当たり前だそうだよ、他にも色々あるらしくって…。車なんかの形のも。
 せっかく送ってくれたんだから、と付けてみたけれど、この家には、どうも…。
 前のポストの方がいいような、と御主人は何処か心配そうだから。
「似合っていると思うけど…」
 このポストも、と触ってみたポスト。窓と玄関はホントに飾りだ、と。
「そうかい? これも似合うかい?」
「ホントはちょっとビックリしたけど…。気が付いた時は」
 いつもと感じが違ったから。…なんでだろう、って立ち止まっちゃった。この家の前で。
「そうだろうねえ、ポストは家の顔だから」
 家の感じも変わると思うよ、これが変わってしまっただけでね。
「え…?」
 家の顔って…。家の形のポストだから、っていう意味じゃないよね?
 キョトンとしたら、「まあね」とポストの屋根をつついた御主人。
「普通は玄関のことを言うんだけどね。…家の顔と言えば」
 ただ、この辺りだと、どの家も生垣ばかりだし…。庭もあるから、玄関は道を通る人の目には、直ぐに飛び込んでは来ないだろう?
 だからポストが顔なんだよ。こういう人が住んでいます、といった所かな。
「そっか…!」
 分かった、と顔を輝かせたら、御主人はポストを指差した。
「私はこんな顔になったらしいよ、この家の顔はこうだから。…なんだかねえ…」
「ハンサムだと思う!」
 とても素敵なポストだもの。まるで本物の家みたいで。
「ありがとう、ちょっと自信がついたよ。…このポストとも仲良くやっていけそうだ」
 実は恥ずかしかったものでね、と照れた御主人。「前のポストは地味だったのに」と。
 とはいえ、今日からはこういう顔だし、どうぞよろしく、と。



 カラフルなポストの家と別れて、自分の家まで帰って来て。
(ポストって、家の顔なんだ…)
 まじまじと眺めた、門扉の横にあるポスト。ごくありふれた形のポストで、さっきの小さな家の形のポストのようにはいかないけれど。パッと人目を引きはしないけれど…。
(でも、お隣のとは違うしね?)
 何処の家のも似たようなポスト、それでも何処か違うもの。大きさや素材や、塗ってある色で。家の前からグルリと見渡せる範囲に、そっくり同じポストは無い。ただの一つも。
 さっきの御主人が言った通りに、ポストは家の顔なのだろう。郵便物を届けてくれる人も、新聞配達をしている人も、この顔を見ながら入れるのだろう。「此処は、こういう顔の家だ」と。
 そうなってくると…。
(ハーレイが見てるの、ぼくの顔なの?)
 いつもハーレイが鳴らすチャイムも、ポストと同じに門扉の側。きっとポストも見ている筈。
 「ブルーの顔だな」と眺めているのか、それとも父か、あるいは母の顔なのか。
(…どの顔なわけ?)
 ポストには父と母の名前と、自分の名前。誰の顔でも良さそうだけれど、家の顔なら家族全員が揃うのだろうか?
(家の形のポストは、おじさんの顔だって言ってたし…)
 ならば、このポストも父の顔になるのか、悩ましい所。父らしいと言えば父らしいポスト。母の顔にも思えたりするし、なんとも謎なポストの正体。
 家の顔なのは確からしいけれど、いったい誰の顔なのかが。



 考え込みながら暫く見詰めて、門扉を開けて入った庭。本物の家の顔らしい玄関、其処を通って家の中へと。自分の部屋で着替えを済ませて、おやつを食べにダイニングに行くと…。
「ブルー、家の前で何をしてたの?」
 直ぐに入らずに立っていたでしょ、と母に訊かれた。何処かの窓から見ていたのだろう。
「ポストを見てた…」
「あら。郵便、来てた?」
 お買い物の帰りに、持って入って来たんだけれど…。あれから後にまた来たのかしら?
 それとも取り忘れた分があったかしら、と母が見ている庭の方。ポストがある辺り。
「見てただけだよ、ポストは家の顔だから」
「家の顔…?」
 ポストがそうなの、と怪訝そうな母。きっと玄関がそうだと思っているだろうから…。
「あのね…。ホントは玄関のことらしいんだけど…」
 今日の帰りに聞いたんだよ。ママも知ってるでしょ、あそこの家。
 ポストが違うのに変わっちゃってて、おじさんが「この家の顔なんだよ」って…。
 玄関は道から見えないけれども、ポストは何処も見えるから…。家の顔がポストなんだって。



 そう言ってたよ、と説明したら、「そういう意味ね」と微笑んだ母。「確かにそうね」と。
「道を通っていくだけの人なら、玄関よりもポストの方だわ」
 庭とかも見て歩くけれども、住んでいる人の名前はポストに書いてあるんだし…。
 家の顔になるわね、ポストだって。…玄関だけじゃなくて。
「そうでしょ? それでね…」
 うちのポストは、パパの顔になるの?
 それともママなの、うちのポストはどっちなの…?
「どっちって…。どうして?」
「ポストが変わっちゃってた家のおじさん、あのポストが自分の顔だって…」
 今日からこういう顔になるから、よろしく、って言っていたんだけれど…。
「それはたまたま、おじさんの方に会っちゃったからよ」
 おばさんも一緒の時に会ったら、二人分の顔ってことになるわよ。…きっと、そう。
 家の顔でしょ、おじさんもおばさんも、そのポストから分かる顔ってことね。
 うちだと、パパやママはもちろん、ブルーの顔も入るのよ。ポストの顔に。
「…ホント?」
 ぼくの名前も書いてあるけど、あのポスト、ぼくの顔にもなるの…?
「ええ、そうよ。家の顔だから、みんなの顔よ」
 パパもママもブルーも、ああいう顔ね。ポストが家の顔になるなら。
 ポストを見た人には分かるわけね、と母に教えられて、「なるほど」と納得したポスト。家族の顔は全部ポストが代表してくれて、父も母も自分も、あのポストの顔。
 特に変わったポストでなくても、ポストは家の顔だから。どの家のも、何処か違っているから。



 おやつを食べ終えて部屋に戻って、また考えてみたポストのこと。勉強机に頬杖をついて。
 門扉の脇にある小さなポストに、父や母の他に自分の顔もあるのなら…。
(ハーレイは、ぼくの顔だって見てるんだ…)
 あそこに立って待っている間に、あのポストに。チャイムを鳴らしてから、母が迎えに出てゆくまでに。ほんの少しの間だけれども、ポストを見たなら、其処にはチビの自分の顔も…。
(見えるんだよね?)
 そう思ったら、ポストを磨いてあげたい気分。柔らかな布でキュッキュッと。
 もっと素敵になるように。ポストと一緒に素敵な自分を、ハーレイに見て貰えるように。
 そのハーレイの家のポストは、どういう形だっただろう?
(えーっと…?)
 一度だけ遊びに出掛けた時に、ドキドキしながら鳴らしたチャイム。門扉の所にポストもあった筈だから、と記憶を辿って思い出してみて…。
(ハーレイらしいよ)
 一人暮らしなのに、沢山入りそうだったポスト。家族が大勢暮らしていても。
 きっと教師をやっているから、郵便物が多いのだろう。書類がギッシリ詰まった大きな封筒も。そういった物がはみ出さないよう、新聞だって奥まで入るようにと大きめのポスト。
 ハーレイならば、そうするだろう。後から困ってしまわないよう、余裕たっぷりにしておいて。
 人柄が滲み出ているハーレイのポスト。
 本当にポストは家の顔なんだね、と考えたけれど…。



(…家の顔…?)
 不意に浮かんだシャングリラ。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた船。
 あの船にポストはあっただろうか?
 船に乗っていた仲間たちにとっては、シャングリラが家のようなもの。そのシャングリラには、ポストなんかは…。
(あるわけないよね…)
 ミュウに郵便は届かないから、シャングリラにポストを作っても無駄。家の顔ならぬ、船の顔になるポストは無かった。
 そして船の中でも無かった郵便。仲間同士で手紙を遣り取りするためのシステムは無くて、郵便配達は無かった船。だから個人の部屋にだって…。
(…ポスト、要らない…)
 届く郵便物が無いなら、作る必要が無いポスト。仲間たちの顔のポストは要らない。それぞれの部屋はあったけれども、部屋の顔になるポストは無かったと思う。
 居住区を思い浮かべてみたって、無かったポスト。通路にドアが並んでいただけ。
(それじゃ、招待状とかは…?)
 ソルジャー主催の食事会には、欠かせなかったものが招待状。エラが考案した仰々しいもの。
 出席者には招待状を出したわけだし、何処かに届けられた筈。それは何処に届いたのだろう?
 首を捻って考えたけれど、招待状を届けに行ってはいない。誰が配ったかも覚えていない。
(ぼくが貰った招待状は…)
 薔薇のジャムを作っていた女性たちからの招待状。白いシャングリラに咲いていた薔薇、それを使って香り高いジャムが作られていた。量が少ないから、希望者はクジ引きだったけれども。
 前の自分はクジを引かずに一瓶貰って、ジャムが出来る度にお茶会に招待されていた。ジャムを作る女性たちだけの内輪のお茶会、其処に招かれて行っていたものの…。
(招待状を持って来たのは、部屋付きの係…)
 ソルジャーだった自分はポストを覗いていないし、青の間にポストは無かった筈。あったなら、何度も覗いてみたろう。ソルジャーは暇だったのだから。
 何か届いていないだろうか、と覗きに行くには格好の場所が郵便受け。



 青の間には無かった、と言い切れるポスト。其処に招待状が届けられたら、係よりも先に覗きに出掛ける。何も届いていない時でも、きっと何度も覗いてみる。
(…暇だったものね?)
 部屋付きの係は常に控えているわけではないし、ポストを覗くのは格好の暇つぶし。あの部屋にポストがあったとしたなら、入口しか考えられないから。長いスロープを下りて行った先の。
(あそこまで歩いて行って、覗いて…)
 ポストに何か入っていたなら、ウキウキと手にして戻るのだろう。空だったとしても、この次は何かあるといいな、と考えながら戻ってゆく。もしもポストがあったなら。
(…覗くだけでも楽しいしね?)
 入口から離れたベッドからでも、サイオンで中は覗けるけれど。そうはしないで、歩いてゆく。これも大事な仕事とばかりに、部屋付きの係に任せはしないで。
(でも、覗いてはいないんだから…)
 青の間には存在しなかったポスト。覗きたくても、無かったポスト。前の自分の部屋の顔。
 ならば、他の仲間たちの部屋はどうだったろう?
 ポストを目にした覚えが全く無い居住区。どの部屋も全部、揃いの扉。通路にズラリと。
 其処に暮らす仲間たちに出された、ソルジャー主催の食事会への招待状。誰の部屋にもポストが無いなら、招待状は何処に届いたのだろう?
 確かにエラが印刷させていたし、御大層な封筒まであったのに。



 まるで分からない、招待状の届け方。ポストがあったら、其処に入れれば済むけれど…。
 いくら記憶を手繰り寄せてみても、見た覚えが無いポストというもの。今の時代なら、ポストは家の顔なのに。何処の家の前にもあるものなのに。
(まさか、手渡ししてたとか…?)
 白いシャングリラの仲間たちの部屋に、ポストは無かったのだから。…それでも招待状を出していたなら、出席する仲間に直接渡すしか無さそうな感じ。配る係が「どうぞ」と捕まえて。
 それだと目立ちそうだけれども、ソルジャー主催の食事会なら、いいのだろうか。
(…エラが強調していたものね、招待されるのは名誉なことだ、って…)
 他の仲間たちも見ている所で招待状を渡していたなら、余計に名誉な感じではある。招待された仲間は嬉しいだろうし、目にした仲間も「いつかは自分も」と励みに考えたりもして。
(やっぱり、手渡し…?)
 そうだったかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが来てくれたから、早速訊いてみることにした。今日もハーレイが見ていただろう、家のポストを思い浮かべて。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラにポストは無かったよね?」
「はあ?」
 ポストだって、と丸くなった鳶色の瞳。「ポストというのは郵便ポストか?」と。
「郵便受けだよ、何処の家にもポストはあるでしょ?」
 ハーレイの家にも、ぼくの家にも。
 今日ね、ご近所さんが「ポストは家の顔だから」って言っていたんだよ。
 ぼくの家だと、パパとママとぼくの顔になってて、ハーレイの家だとハーレイの顔。
 でも、シャングリラだと、ポストはあった…?
 居住区の部屋には、仲間たちが住んでいたけれど…。ポスト、無かったような気がして…。
「家の顔か…。言われてみれば、ポストはそういう感じだな」
 住んでいる人の個性が出てくる代物ではある。似たようなポストでも色が違うとか。
 だが、シャングリラには、郵便というシステムそのものが無かったからな…。



 今の時代とは事情が違うぞ、とハーレイが口にする通り。前の自分の記憶でも同じ。
 シャングリラに郵便が無かったからには、きっとポストも無かっただろう。そんな船の中で何か届けるとしたら、さっき自分が考えたように…。
「…だったら、招待状は手渡しだった…?」
 ソルジャー主催の食事会には、招待状があったでしょ?
 エラが立派なのを印刷してたし、封筒だって…。あれは他の仲間も見ている前で渡してた?
 みんなの部屋にポストが無かったんなら、そういうことになっちゃうよね…?
「まさか。招待状なら、きちんと部屋に届けていたさ」
 そうでなければ変だろう。いったい何処で渡すと言うんだ、仕事場だとか食堂か?
 ただのメモならそれでもいいが、ソルジャーからの招待状だぞ?
 そいつを食堂だの、機関部だので渡すだなんて…。ソルジャーの威厳が台無しだろうが。
 エラが絶対に許しやしないぞ、「なんということをするのです!」とな。
「招待状、部屋に届けてたんだ…」
 いそうな時間に、部屋の扉をノックして?
 そういえばチャイムもついていたかな、居住区の部屋は。
「おいおい、其処まで面倒なことをしなくても…。あの部屋にだって、一応は…」
 郵便受けはあったんだ。其処に入れておけば、住人が留守でも届くってな。
「あったの、郵便受けなんか…?」
 シャングリラには郵便、無かったのに…。招待状を入れるためにだけ、作ってたとか?
「そうじゃない。郵便受けという名前がついてもいなかった」
 ただの書類の差し入れ口だな、俺の部屋にもあっただろうが。
 作っておかんと不便じゃないか。いろんな部署での会議とかもあるし、先に資料を配るとか…。
 そういった時に突っ込んでおくための場所があってだ、招待状も其処に配ったわけだな。



 部屋の住人が戻って来るまで待てるもんか、と言われてみれば確かにあった郵便受け。そういう名前は無かったけれども、留守の間にも、書類などを部屋に入れられるようにと作られたもの。
 キャプテンの部屋の扉の内側、時々、書類が入っていた。束になっていたり、一枚だったり。
(…ハーレイが部屋にいる時だって…)
 急ぎではない書類だったら、其処からコトンと入れられたもの。キャプテンの仕事は、ブリッジだけではなかったから。部屋に持ち帰って片付ける仕事や、航宙日誌を書くことだって。
 ハーレイの部屋で仕事が終わるのを待っている間に、何か書類が届いた時。「何か来たよ?」と覗きに出掛けて、「ほら」とハーレイに渡したりもした。時にはメモを読み上げたりも。
(…うん、メモだって入ってた…)
 都合のいい時間に連絡を、と書かれたメモやら、他にも色々。
 遠い記憶が蘇るけれど、やはり無かったという記憶。キャプテンの部屋には、郵便受けと呼べるものが備わっていたのだけれど…。
「…それ、青の間には無かったよ?」
 前のぼくの部屋には、郵便受けは…。あったら覗きに行った筈だし、無かったと思う…。
「お前の場合は必要無いしな、そんな仕組みは」
 ソルジャーなんだぞ、用があったら直接出向いて話をするのが礼儀ってもんだ。
 書類にしたって、渡すんだったら部屋付きの係を通さないと…。
 ソルジャーが自分で届いてるかどうかを調べに出掛けて、それを読むなんて言語道断だってな。
 エラが聞いたら、思いっ切り顔を顰めるぞ。「ソルジャーのお手を煩わせるなど、いったい何を考えているのです!」って声が何処かから聞こえて来ないか、そりゃあ物凄い剣幕でな。
 しかし、青の間には必要無くても、仲間たちの部屋には必要だった。郵便受けの親戚がな。
「だけど、それ…。家の顔にはならないね…」
 書類の差し入れ口っていうだけなんだし、何処の部屋でも同じだよ。個性はゼロ。
 扉の脇についてただけでしょ、幅も形もそっくりのが。…一番便利なサイズのヤツが。
「そもそも家じゃないからな」
 中に住んでる人間はいても、あれを家とは呼びにくいよなあ…。
 それぞれの城には違いなくても、我が家と言えるレベルにまでは達していなかったから。



 ただの部屋だ、とハーレイが指摘する通り。居住区の部屋は家とは違った。
 キャプテンなどの部屋を除けば、どの部屋も全く同じ構造。間取りはもちろん、内装でさえも。
 あの時代でも、人類が暮らす世界だったら、自由に変更出来たのに。同じ高層ビルにあっても、個人の好みで内装も間取りも変えられたのに。
 けれど、シャングリラでは不可能だった。自給自足で生きてゆく船では、個人の自由にならないことも多かったから。これが最適な構造なのだ、と決められた部屋は変えられない。
 個人で変更出来た範囲は、家具とそれを置く場所くらい。他は全く同じ部屋。
「…シャングリラ、なんだか寂しい船だね…」
 どの部屋も、まるで同じだなんて。…住んでいる人が違うだけなんて…。
 ポストを家の顔にしたくても、どの部屋も同じじゃ無理だよね。同じ部屋しか無いんだから。
「そうだな…。同じ部屋がズラリと並んでたんだし、病院みたいな感じだが…」
 考えようによってはホテルにもなる。そっちならそれほど寂しくないぞ。
「ホテル?」
「うむ。似たような部屋が並ぶだろうが、ホテルってトコも」
 豪華ホテルだと、そうでもないがな。…全部の部屋が違う内装になっていたりして。
 しかし、一般的なヤツなら、同じフロアならどの部屋も似たり寄ったりだ。…そうだろう?
 それにシャングリラには、スイートルームもあったわけだし…。其処もホテルと同じだな。
「スイートルームって?」
 あったっけ、そんな立派な部屋が?
 キャプテンの部屋とか、長老の部屋なら大きかったけど…。あれのことなの?
「そんなケチくさいヤツじゃなくって、もうとびきりのスイートルームだ」
 お前やフィシスの部屋だな、うん。…普通の仲間の部屋だったら、幾つ入ることやら…。
「あの部屋、そういう扱いになるの?」
「当然だろうが、特大だぞ?」
 青の間にしても、天体の間にしても、とてつもない広さを誇ってたわけで…。
 あれがスイートルームでなければ、なんだっていう話になるぞ。…ホテルならな。
「…スイートルーム…」
 うんと高くて豪華な部屋のことだよね、それ?
 立派なホテルとか豪華客船にあって、他の部屋とは桁違いの広さと設備がある部屋で…。



 青の間はスイートルームだったのだ、と聞かされた途端に、こけおどしだった無駄に広い部屋が立派な部屋に思えて来た。まるでフィシスの部屋のように。
 ハーレイが言うスイートルームは、フィシスの部屋の方でも同じ。天体の間の奥にあった部屋。
 天体の間は皆が集まるホールを兼ねていたのだけれども、普段は基本的には無人。其処を自由に使っていたのがフィシスで、フィシスの居間のようなもの。
 フィシスの部屋に住みたかった女性は、きっと大勢いただろう。天体の間に置かれたテーブルと椅子でお茶を楽しんだり、広い部屋をゆったり散歩してみたり。
(フィシスみたいなドレスは無くても、うんと贅沢な気分だよね…?)
 同じお茶でも、居住区の部屋で飲むより断然いい。お姫様になった気分になれる部屋。
 フィシスの部屋が女性の憧れだったら、青の間で暮らしたかった男性も多かっただろうか…?
 そちらもスイートルームなのだし、とハーレイに尋ねてみたのだけれど。
「えっとね…。前のぼくの部屋、欲しかった仲間が大勢いたかな?」
 青の間で暮らせたら素敵だよね、って思っていた男の人たち、多かったのかな…?
「お前の部屋か…。誰もいなかったんじゃないのか?」
 一度も調べてみたことは無いが、そんな仲間はいないと思うぞ。
「いないって…。青の間、スイートルームなんだよ?」
 フィシスの天体の間と同じなんだし、シャングリラの中のスイートルーム。うんと広くて。
 青の間はどうか知らないけれども、フィシスの部屋には、憧れてた女の人、多い筈だよ。
 あそこを一人で好きに使えて、お茶だってゆっくり飲めるんだから…!
「そっちは大勢いただろう。調べなくても想像がつく」
 だがな、青の間だと多分ゼロだな。…暮らしたがるヤツは誰もいなかったと思うんだが…?
「青の間の何処がいけないの?」
 フィシスの部屋と同じで広いよ、明るくないのが嫌われるのかな…?
「違うな、責任つきって所だ」
「責任…?」
 なんなの、それ…。責任つきって、どういうこと?
「その通りの意味だ。…青の間は誰の部屋なんだ?」
 あそこに住んだら、ソルジャーなんだぞ。シャングリラを守ってゆかなきゃならん。
 フィシスの方なら、ちょっとくらい夢も見られるが…。ソルジャーはなあ…。



 憧れるどころの騒ぎじゃないぞ、とハーレイは重々しく瞬きをした。
 フィシスならばミュウの女神というだけ、未来が読めれば充分な存在とも言える。そういう力を持っていたなら、誰でもなれそうな女神がフィシス。天体の間で暮らせる女性。
 タロットカードで未来を読み取り、それを告げれば良かったフィシス。告げた未来にフィシスは何の責任も無い。嵐が来ようが、災いだろうが、それを避けるのはフィシスの仕事ではない。
 だから誰でも夢を見られる。フィシスのように暮らせたら、と。
 けれど、ソルジャーはそうではない、と語るハーレイ。白いシャングリラを、仲間たちの未来を守ってゆくのがソルジャーの役目。青の間に住むなら、その仕事までがついて来る。
 居住区の部屋で暮らしていたなら、守って貰う方だったのに、ガラリと変わってしまう生活。
 守られる者から、守る者へと。
 導かれる立場から、導く者へと。
 ソルジャーはそういう存在だから。青の間を居室にするのだったら、ソルジャーとして生きねばならないから。



 そうだろうが、と真っ直ぐに見詰めるハーレイ。「違うのか?」と。
「責任ってヤツが重すぎるってな、ソルジャーの方は」
 フィシスだったら、責任はうんと軽いんだがなあ…。未来さえ読めりゃいいんだから。
 だがソルジャーだと、そうはいかない。未来さえ変えていかなきゃならん。…前のお前がやったみたいに、自分を犠牲にすることになっても。
 お前がメギドに行っちまう前から、誰だって承知していただろうさ。ソルジャーが背負っている責任ってヤツも、それがどれほど重いものかも。
 青の間に住めば、もれなくそれがついてくる。…誰も住みたがらないな、そんな部屋には。
 どんなに広くて立派だろうが、住み心地が良さそうに見えていようが。
「…青の間、スイートルームなのに…」
 嫌われちゃうわけ、少しも人気が無いってわけ…?
 フィシスの部屋なら住みたい人が大勢いるのに、青の間はゼロになっちゃうだなんて…。
「当たり前だろうが。ウッカリ其処に入ったが最後、とんでもない責任を背負うんだから」
 値段が高すぎて泊まれないような、豪華ホテルのスイートルームの方がまだマシだ。
 そっちだったら、コツコツ貯めれば泊まれる日だって来るからな。泊まる値打ちも充分にある。
 責任つきの青の間よりかは、誰だってそっちを選ぶだろうさ。
「そういうものなの?」
 青の間だって、スイートルームみたいなものなのに…。他の部屋とは違うのに。
「個性の無い居住区の部屋にいたなら、守って貰える立場だからな」
 間取りや内装を変えられなくても、住めば都というヤツだ。ミュウの楽園には違いない。其処に住んでりゃ、人類の手から一応は逃れられるんだから。
 せっかく気楽な部屋があるのに、責任つきの部屋に移りたいか?
 それも船全体を守る立場のソルジャーなんかを、やりたいヤツはいないだろうな。
 というわけでだ、青の間という名前のスイートルームは、誰一人、希望しないってな。
 フィシスの部屋なら大人気でも、青の間の方は予約どころか問い合わせも来ない状態だろうさ。
「うーん…」
 問い合わせる人もゼロってわけなの、青の間だと…?
 予約したい人だって誰もいなくて、泊まりたい人は一人もいないんだ…?



 なんとも酷い、と頭を抱えたくなった青の間。喜ばれないらしいスイートルーム。無駄に広くて立派だった部屋は、本当に役立たずで誰も欲しがらなかった部屋。
 スイートルームでもその有様か、と溜息を零していたのだけれど。
「…お前の部屋はスイートルームだったが…。とびきり上等の部屋だったんだが…」
 他の部屋にも個性はあったぞ。…青の間ほどではなかったがな。
「個性って…。何処に?」
「部屋の顔だな、家の顔とも言えるかもしれん」
 どの部屋にもあった郵便受けだ。…そういう名前じゃなかったんだが。
「無いって言っていたじゃない!」
 ただの部屋だって言ったの、ハーレイだよ?
 何処も同じで、郵便受けだって全部おんなじ。部屋の顔も何も、あるわけがないよ…!
「それがだ、少しはあったってな。…誰の部屋にも」
 中には全くこだわらないヤツもいたが、そうでなければ、ささやかな工夫はあったんだ。
 同じような扉が並ぶわけだし、此処が自分の部屋なんだ、という主張だな。
 郵便受けの所に、ネームプレートをつけているヤツが多かった。…番号の他に。
 ネームプレートをつけるって所で、まずは個性の表れだろうが。
 そのプレートの文字の書き方、それに凝ってるヤツもいた。こだわりのサインをしてみるとか。
 他にも色々、自分ならではの工夫だな。
 ちょっとした飾りをくっつけてみたり、絵をあしらったり、出来る範囲で。



 覚えていないか、と尋ねられたら、ぼんやりと浮かんで来た記憶。
 白いシャングリラの居住区の部屋と、扉の横のネームプレート。書かれた名前を確認する前に、住人が分かる部屋が幾つもあった。プレートの色とか、添えられた飾りやイラストなどで。
 女性だけではなくて、男性でも。舵輪の飾りをあしらった者や、他にも様々。
「…あったね、色々なネームプレートが…」
 シャングリラでも、ポストは家の顔だったわけ?
 家じゃなくって部屋だったけれど、それでも其処に住んでる仲間の顔だったんだ…?
「そうなるな。お前の部屋には、肝心のポストが無かったんだが…」
 住んでいます、っていうネームプレートにこだわりたくても、ポストが無いと…。
 残念だったな、前のお前は。…部屋はあっても、家の顔を貰い損なったんだな。
「そうだよ、おまけに喜ばれないスイートルームだったよ!」
 うんと広い部屋なんかを押し付けられてて、それなのにポストは無しなんだよ…!
「気持ちは分かるが、そう怒るな」
 今度は俺と同じポストを持てるだろうが。
 まだまだ先だが、俺と一緒に暮らす時には、俺たちの家の顔のポストなんだぞ?
 俺とお前の名前を書いてだ、家の前にそいつを取り付けるわけで…。
「本当だ…!」
 ハーレイとぼくの顔になるんだね、家の顔のポスト。
 今のポストから、二人用のポストに変えちゃっていいの?
「もちろんだ。こういう話にならなくてもだ、お前の好みを訊かんとなあ…」
 どういうポストを選びたいのか、まずは其処から考えないと…。
 個性溢れるポストがいいとか、地味でもいいから使い勝手のいいのだとかな。



 俺たちの家に相応しいポストにしようじゃないか、とハーレイがパチンと瞑った片目。
 「前のお前は、ポストを持ってなかったしな?」と。
 せっかく言って貰えたのだし、いつかハーレイと結婚する時は、ポストも二人で選んでみよう。
 どんなポストが売られているのか、それを調べて、あれこれ探して。
 今日の帰りに見掛けた家のポストみたいに、イメージがガラリと変わってもいい。
 ハーレイと二人で暮らし始めたら、ハーレイらしい顔をしている今のポストから、二人の顔に。
 ポストは家の顔だから。
 ハーレイと自分の顔になるのが、二人で暮らす家の前にあるポストなのだから…。




           家とポストと・了


※シャングリラには無かった、郵便ポスト。家の顔ですけど、工夫した人もいた郵便受け。
 船の中でも、個性が出ていたネームプレート。今度は、ブルーも郵便ポストを持てるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(んーと…)
 気持ち良さそう、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 青い海辺で、ヤシの木に架かったハンモック。大きな二本のヤシの木の幹、それの間に。両方の端を幹に結んで、架け渡して。
 写真を撮るためだからだろうか、誰も乗ってはいないけれども…。
(乗ってみたいな…)
 このハンモックに。此処からは遠い南の地域の、海辺に架かった白いハンモック。
 きっと気持ちがいいのだろう。上に寝転んでも、座るようにして乗っかっても。
 ゆらゆらと揺れて、まるで青い空に浮いているようで。ハンモックではなくて、見えない空気に支えられて。
 前の自分は飛べたけれども、それとは違う感覚だろう。自分の力で浮いているより、こうやって浮ける方がいい。ハンモックの上に乗っかって。青い海と空を眺めながら。
 写真に写った広い海も空も、南国の青をしているから。
 もう本当に真っ青な空と、目が覚めるように青い海。前の自分が焦がれた青より、地球の青より濃い青色。澄んだ青色、海も空も。
(こういう青空…)
 それに海だって、自分は知らない。写真や映像で知っているだけ。
 こういった空や海がある場所、南の地域に旅をしたことが一度も無いから。
(前のぼくだって…)
 知らない青空、濃い青の海。場所によってはサンゴ礁があって、緑色にも見える海。
 白いシャングリラが長く潜んだ、アルテメシアには無かった南国の景色。一面の雲海に覆われた星は、テラフォーミングされた星だったけれど…。
(…ヤシの木が普通にあるような場所は…)
 何処にも無かったのだった。
 南国の植生が似合う場所には、築かれなかった育英都市。アタラクシアもエネルゲイアも、ごくありふれた気候だったから。人間が暮らすのに丁度いい気温の、標準的な。



 前の自分が生きた時代は、それが普通の都市だった筈。
 テラフォーミング中の星を除けば、何処の星でも似たり寄ったり。人間が生きてゆければ充分、多彩な気候を作り出すより、標準型の都市がいい。その方が何かと便利だから。
(…育英都市だと、そうなっちゃうよね?)
 どの子供たちも同じ環境、それで育てるのが一番いい。教育はもちろん、暮らす場所だって。
 生まれ育った環境によって、人は変わってゆくものだから。南国育ちの子供だったら、大らかな子に。寒さが厳しい場所で育てば、辛抱強い頑張り屋。
 そういう傾向があると聞くから、あの時代ならば差が出ないようにしていただろう。育英都市を設けるのならば、アルテメシアのような気候の場所にしようと。
(大人が暮らしている星だったら…)
 酷寒の星もあったと思う。資源の採掘用などで。
 暑すぎる星も、同じ理由で存在していただろうとは思う。
 けれど、こういう南国の景色。ヤシの木にハンモックを吊るしたりして、楽しめる場所は…。
(何処かにあった…?)
 娯楽のためにと、標準型ではない気候にした都市。南国風に整えられた環境。
 あの時代にもあったのだろうか、人間がのんびり生きられる場所。其処に子供の影が無くても、大人たちが人生を満喫してゆける場所。
 ヤシの木にハンモックを架けて。青い海と空を眺めて、風に吹かれて。



 暖かい星なら出来ただろうか、と考えてみた南国風の都市。
 資源の採掘や軍事拠点に使わないなら、育英都市も作らないなら、可能かもしれないヤシの木が育つ暖かな場所。此処なら出来る、と海を作って、整備していって。
 余裕が無い星だと出来ないよね、と前の自分が生きた時代の宇宙を思い浮かべていたら…。
(ノア…!)
 ふと思い出した、首都惑星ノア。人類の最初の入植地。
 地球を思わせる青い星だったけれど、白い輪が「違う」と告げていた。地球には無かった、白い色の輪。あれは氷で出来ていたのか、それとも白い岩だったのか。
 肉眼で見たことは無かったけれども、前の自分も知っていた星。あそこには、確か…。
(あったと思う…)
 ヤシの木が生えている海辺。そういう記憶。
 あった筈だ、と言い切れるけれど、どうして知っているのだろう?
 ノアの知識は持っていたものの、南国風の景色まで。海辺に生えていた筈のヤシの木、濃い青の空と海までを。
(…ソルジャーとして必要なの?)
 その知識は、と問い掛けた時の彼方にいた自分。ソルジャー・ブルーだった自分。
 地球ならともかく、ノアのヤシの木や海辺の景色。
 同じノアでも、パルテノンに纏わる情報だったら、まだ分かるけれど。パルテノンがヤシの木に囲まれていたなら、青い海辺にあったのなら。
 そう思うけれど、まるで引っ掛からないパルテノンのこと。
 ヤシの木があった景色の辺りに、人類の最高機関は無かったらしい。少しも繋がらない記憶。
 パルテノンとは別だったと分かる、ノアの海辺に生えたヤシの木。



(なんで…?)
 どうしてヤシの木が出て来ちゃうわけ、と戻った二階の自分の部屋。…新聞を閉じて。
 あの新聞が始まりだよね、と座った勉強机の前。海辺のヤシの木とハンモック。
(…前のぼく、なんでヤシの木なんか…)
 知っていたの、と不思議でたまらない。
 首都惑星だったノアの知識は必要だとしても、ヤシの木を知っていた理由。ノアにはヤシの木が生える海辺があるのだ、と。
 役に立ちそうもない知識なのに、前の自分は覚えていた。何処かで目にしただけだったならば、直ぐに忘れてしまったろうに。膨大な記憶の海に沈んで、それきりになって。
 なのに忘れずに、今でも思い出せるなら…。
(ハンモックに乗りたかったとか…?)
 記憶にあるのはヤシの木だけれど、其処に吊るしたハンモック。それに揺られて、青い空と海を見たかったとか。…今の自分が写真を眺めて、「乗ってみたいな」と思ったように。
 まさかね、と否定しかけたけれども、可能性としては…。
(ゼロじゃないかな?)
 白いシャングリラで生きる間に、色々な夢を描いていたのが自分だから。
 焦がれ続けた、青い地球に。
 いつか地球まで辿り着いたら、あれもこれもと描いた夢。青い地球でやりたかったこと。
 もしかしたら、ヤシの木の記憶も、その中の一つ。ヤシの木と、その幹に吊るすハンモックと。
 ノアにはヤシの木があるのだと知って、「いいな」と思って抱いた夢。
 きっと地球にもあるだろうから、ヤシの木にハンモックを吊るしたいと。
 アルテメシアでは見られない青の海と空とを、ハンモックに揺られながら楽しむ。青い地球まで辿り着けたと、こんな景色も見られるのだと。



 前の自分が憧れそうな夢。地球の海辺で、ヤシの木に吊るすハンモック。
 寝転んで乗ったり、座って乗ったり、それは素敵に違いないから。南国の青い空と海とを、風に揺られて心ゆくまで。…ハンモックがゆらゆら揺れる間に、ウトウトと眠ったりもして。
(そうなのかも…?)
 本当にハンモックだったのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、前のぼく…。ヤシが好きだった?」
 好きだったのかな、今でも思い出せるほど。…今のぼくになっても、忘れないほど。
「はあ?」
 ヤシってなんだ、と見開かれた瞳。鳶色の瞳が、「何事なんだ」と。
「ヤシの木だってば、暖かい所に行けばあるでしょ」
 それにハンモックを吊るしたりもするよね、海の側に生えてるヤシの木だったら。
「あるなあ、ヤシの木も、そいつに吊るすハンモックも」
 南の方だと名物ってヤツだ、旅の案内でも定番だ。のんびり過ごしてみませんか、とな。
 しかし、どうして前のお前になるんだ?
 ヤシが好きだったか、と俺に訊くなんて、何処からヤシになったと言うんだ。
「えっと…。ヤシの木とハンモックの写真…」
 新聞に載ってて、今のぼくでも、こういう景色は見てないよ、て思ったんだけど…。
 前のぼくも知ってるわけがないけど、それなのに…。
 覚えてたんだよ、前のぼくが。ノアのヤシの木、知ってたんだよ。ノアにあった、って。
 だから、ハンモックに憧れたかな、って…。
 ヤシの木だけだと、「そういう木だな」で終わりそうだけれど、ハンモックがあれば話は別。
 いつか地球まで辿り着いたら、海辺で乗ってみたいよね、って思っていそう。
「なるほどなあ…」
 それでヤシだと言い出したのか。ヤシの木と、吊るすハンモックと。



 ヤシな、と大きく頷くハーレイ。「確かにお前の夢ではあった」と。
「ついでに、お前が考えた通り、ハンモックもセットになってたな」
 前のお前の夢の中では、ヤシの木と言えばハンモックだ。そいつを吊るして楽しもうと。
「やっぱり、そう?」
 それでノアのも知ってたのかな、あそこにヤシの木が生えていたこと。
 前のぼくは肉眼でノアを見ていないけれど、ちゃんと覚えているんだよ。ノアの景色を。
 データベースの情報だろうね、ヤシの木が生えている海辺。
 きっと地球にもあるだろうから、早く本物のヤシの木を地球で見たいよね、って…。
「最終的には、そういう夢になっていたんだが…。逆だ、逆」
 前のお前が考えた順番、逆だってな。
「逆?」
 どういう意味なの、逆だなんて。…考えた順番が逆って、なに?
「そのままの意味だ、文字通りに逆というヤツだ」
 地球よりも先に、ノアのヤシの木があったんだ。白い鯨を作る時にな。
「え…?」
 ノアが先だなんて、それにシャングリラの改造って…。ヤシの木は何処で出て来るの?
 前のぼくの夢、なんでシャングリラに繋がってるの?
「覚えていないか、いろんな公園、作ったろうが」
 ミュウの楽園にするんだから、とデカイ公園の他にも幾つも。…居住区の中に。
 ヤシの木とハンモックも、その時にあった話だな。
 南国風って案が出たんだ、会議の席で。言い出したのはゼルとブラウだ、そいつがいいと。
「そうだっけね…!」
 思い出したよ、ノアのヤシの木。あの二人が写真を持って来たっけ…。



 シャングリラを改造しようという時、何度も開かれた様々な会議。大人数での会議はもちろん、長老の四人とソルジャーとキャプテンだけの会議も。
 南国風の公園の案は、長老たちが集まる席で出て来た。六人だけの小さな会議で。
 ブラウとゼルが欲しがったもの。船に作ろうと考えた公園。
 ヤシの木を植えて、それにハンモックを吊るす。二本のヤシの間に架け渡してもいいし、一本のヤシの幹に吊るす方法も。
 「ノアではこうだ」と、資料の写真を出して来た二人。珍しくヒルマンとエラではなくて。
「楽しそうだと思わないかい、こういうのもさ」
 海は無いけど、ヤシを植えることは出来るじゃないか、というのがブラウの提案。
「その海もじゃ、本物は無理でも映像という手があるからのう…」
 上手い具合に投影したなら、海辺の気分を出せるじゃろう。波の音も流してやればいいんじゃ。
 シャングリラの中に南国風の公園なんじゃぞ、まさに楽園というヤツじゃ。
 夢じゃ、ロマンじゃ!
 現にノアでは、こうやって実現しておるわい、とゼルが指差したヤシの木の写真。ハンモックが吊るされ、その向こうには青い海と空。
 ノアの海は人工とはいえ、本物の海。シャングリラで海は不可能だけれど、映像技術で補うと。
 公園を幾つも作るわけだし、一つくらいはこういう公園も、と。



 ヤシの木を植えて、ハンモック。遊び心が溢れる公園。映像の海が広がる公園。
 南国風に整えるのだし、制服では暑いほどの場所。きっと楽しい公園になる、と二人は言った。
「制服なんかは脱いじまってさ、のんびりするのに良さそうだよ」
 あたしたちだって、とてもマントは着てられないね。制服抜きの公園ってのも素敵じゃないか。
 それにヤシの実は食べられるって話だよ、とヤシの木の写真をつついたブラウ。写真の中では、実などは実っていなかったけれど。
「ヤシの木にも色々あるそうじゃぞ」
 食えるヤツならナツメヤシにココヤシ、他にも美味いのがあるかもしれん。
 ヤシもそうじゃし、南国風の気温に調整するなら、他の植物も育てられるでな、とゼルも語ったヤシの木の魅力。実が食べられる所もいいんじゃ、と。
 二人はヤシの木を推したけれども…。
「ヤシの実か…。それは全員に行き渡るのかね?」
 ナツメヤシにしても、ココヤシにしても、とヒルマンが述べた自分の意見。船の仲間たちに実を配れないなら、私は賛成出来ないが、と。
「そうですよ。でなければ不公平なことになります」
 たった一つの公園でしか、ヤシの実が採れないというのなら。…皆に配る分が採れないのなら。
 美味しい実ならば、貰えない者から不満が出ます。貰えないとはどういうことか、と。
 私も賛成出来ません、とエラもヒルマンと同じ考え。
 実をつける木を育てるのならば、皆に等しく行き渡るだけの数を育ててゆくべきだ、と。
 農場ほどには大規模でなくても、何処の公園でも実をつける木たち。
 南国風の公園でしか育たないヤシは、皆が平等に実を食べられないなら、許可出来ないと。



 居住区に作る小さな公園の一つ、植えられるヤシの木は多くはない。一番広くなりそうな場所を選んだとしても、皆に行き渡るだけの実など採れない。どう考えても不可能なこと。
 ゼルとブラウは顔を見合わせ、二人で相談し合ってから。
「それなら、眺めるだけのはどうじゃ」
 ヤシの実は食えなくてもいいじゃろう。美味い実がなる木しか植えないわけではないし…。
 南国風の景色を演出するために、ヤシの木を植えてやればいいんじゃ。
 それでどうじゃ、とゼルは方針を切り替えた。公園のヤシの木は観賞用だ、と。
「あたしもそれでいいと思うよ、ヤシの木は充分、使えるからね」
 ハンモックを吊るせば、ゆったり海辺の気分ってヤツだ。映像で出来た海でもね。
 そういう公園、一つくらいはあったって…、とブラウも諦めなかったけれど。
「映像の海は確かに素敵でしょうが…。ハンモックの方が問題です」
 皆が平等に使えるのですか、それを使いたいと思った時に?
 順番待ちをしている間に、休憩時間が終わるようではいけませんよ、とエラが顰めた眉。
 公園は憩いの場所になるのだし、皆が満足出来ないと…、と。
「難しいだろうと思うがね…。ヤシの木の数には限りがあるから」
 ハンモックは幾つも吊るせないよ、とヒルマンも乗り気にならなかった。ヤシの木と映像の海がある公園、それは人気が高くなるに決まっているのだから。ハンモックだって、乗りたがる仲間が列を作って並ぶだろうから。
 「どう思うかね?」とヒルマンが意見を尋ねたハーレイ。キャプテンの考え方はどうだ、と。
「…キャプテンとしては、それは賛成出来かねます」
 争いの種にはならないでしょうが、やはり不満は燻るかと…。その公園で遊び損ねた者の間で。
 いずれは飽きて順番待ちの列が無くなるとしても、それまでの期間が厄介です。
 ソルジャーはどう思われますか?
 魅力的ではあるのですが、とハーレイに問われた南国風の公園。ヤシの木とハンモック、それに映像の海が売り物になるという公園。
「…素敵だろうとは思うけれども、不平等な公園というのもね…」
 公園の趣旨から外れているような気がするよ。作るからには、やっぱり皆が楽しめないと…。



 良くないだろう、と前の自分も退けた。南国風の公園を作るという案を。
 他の仲間たちに諮るまでもなく、反対多数で通らなかった、ヤシの木とハンモックがある公園。映像の海を投影しようと、ゼルとブラウが言った公園。
 けれど、白い鯨が出来上がった後に…。
(海辺にヤシの木…)
 それにハンモック、とデータベースで改めて調べてみた情報。ふと思い付いて。
 出て来た写真と映像たち。一気に惹き付けられた風景。
 ゼルとブラウがこだわった理由はこれだったのか、と真っ青な海に目を奪われた。青い空にも。
 アルテメシアには無い色の青。空も、海の青も。
 その青を背にして並ぶヤシの木、其処に架かったハンモック。吹き渡る風が見える気がした。
 青く煌めく海を渡って、ヤシの梢の葉を鳴らして。吊るされたハンモックを揺すっていって。
(…乗っかってる人の写真もあって…)
 一人で寝転んでいる人もいれば、二人並んで腰掛ける人も。本を読んでいる人だって。
 見るからに気持ち良さそうだった、ノアの海辺のハンモック。ヤシの木陰も、白い砂浜も。
(きっと、地球なら…)
 地表の七割が海の地球なら、このノアよりも広い海辺があるのだろう。
 ヤシの木が並ぶ砂浜を一日歩いたとしても、まだまだ先が続くのだろう。砂浜も海辺も、ヤシの木だって。二日歩いても、三日歩いても、青い海辺も空も砂浜も、その果てがまるで見えなくて。
 きっとそうだ、と思った地球。
 南国風の公園どころか、歩いても果てが見えない海辺。何処まで行っても続くヤシの木、砂浜も青く透き通る海も。濃い青色が眩しい空も。
 それを見たい、と食い入るように眺めた映像。それから写真。ノアの海辺に生えたヤシの木。
 まずはノアまで、そして青い地球へ。
 白いシャングリラで宇宙を旅して、ミュウの存在を人類に認めさせて。
 いつか地球まで辿り着いたら、ヤシの木がある広い海辺で、ハンモックに。濃い青色をした空を見上げて、南国の青に染まった海が奏でる波の音を聴いて。



(あれで行きたくなっちゃって…)
 前のハーレイとの夢に追加した。地球に着いたら、やりたいことの一つとして。
 ヤシの木がある海辺に出掛けて、ハンモックに揺られて過ごすこと。南国の風を味わうこと。
 友達同士だった頃から、地球でやろうと決めていた。恋人同士になった後にも。
 ハンモックに乗るなら二人でもいいし、並べて吊られたハンモックに乗って過ごすのもいい。
 どちらでも、きっと素敵だから。語らいながら風に揺られて、真っ青な空と海を眺めて。
 鮮やかに蘇って来た記憶。前の自分が夢に見たこと。
「そっか、前のぼくの夢だったんだ…」
 ヤシの木と、それにハンモック。地球にもあるよね、って思い込んでて…。
 あの頃の地球には、青い海なんか無かったのに。…ヤシの木だって、何処にも無かったのに…。
 ノアにあったから、とても素敵に見えたから…。
 いつかハーレイと地球に着いたら、ハンモックに乗ろうと思っていたんだっけ…。
「元々はゼルとブラウの夢なんだがな」
 あいつらが夢を見ていなかったら、前のお前はどうだったんだか…。
 公園の案にもアッサリ反対していたからなあ、お前だけでは思い付かなかったかもしれないな。
 ゼルとブラウは遊び心の塊だったが、前のお前は違ったし…。
 わざわざノアのデータを調べて、ヤシの木とハンモックを見付けたかどうか、怪しいモンだ。
「そうかもね…」
 ヤシの木のことは本で知っていたけど、ハンモックは知らなかったかも…。
 知っていたって、ヤシの木に吊るすことまでは多分、知らないよ。興味津々で調べないから。
 シャングリラの中だと、ハンモックの出番は無いんだもの。
 あったとしたなら、何かの理由でベッドが足りなくなっちゃった時。床で寝るのも難しい、ってことになったら、ハンモック、吊るすだろうけれど…。
「シャングリラでやるなら、そいつだろうなあ…」
 まるで大昔の船みたいだな、実際、使っていたらしいしな?
 船室がうんと狭い船だと、人数分のベッドが置けないから。下っ端はコレだ、とハンモック。
 偉いヤツらは、もちろんベッドで寝ていたんだが。



 船長だったら船長室だ、と教えて貰った遠い昔の船のこと。まだ帆船の時代だった頃。それより後の時代になっても、使われていたハンモック。狭い船では。
 シャングリラでは出番が無くて良かった、とホッと安堵の息をついたら…。
「船はともかく、今のお前はどうなんだ?」
 ハンモック、と鳶色の瞳に見詰められた。そいつの出番はありそうか、と。
「えっ…?」
 出番って…。ぼくの部屋には、ちゃんとベッドが置いてあるから…。
 きっと出番は無いと思うよ、この部屋が駄目でも、ゲストルームにベッドがあるしね。
「そうじゃなくてだな…。寝床に使う話とは別だ、前のお前の夢の話だ」
 今のお前も、ハンモック、乗ってみたいのか?
 新聞で見たと言っていただろ、ヤシの木に吊るしてあるヤツを。
 今の地球にはちゃんとあるんだ、前のお前が夢に見た通りのハンモックがな。
 お前もそいつに乗ってみたいか、と訊いているんだが…。
「えーっと…。気持ち良さそうだと思うけど…」
 乗ってみたいな、って思っていたけれど…。前のぼくの夢を忘れていても。
 あれに乗っていたら、青い空に飛んで行けそうだから。
 今のぼくは空を飛べないけれども、ハンモックに乗ったら空に浮けるよ。ハンモックに揺られて空を見てたら、きっと本当に飛んでる気分。風だって周りを吹いていくでしょ?
 それにね、前のぼくの夢を思い出したから…。
 本当にあれに乗ってみたいよ、ぼくだけじゃなくて、ハーレイと。
 前のぼくがやりたかったみたいに、ハーレイと二人で、ヤシの木に吊るしたハンモック。
 同じハンモックに乗ったっていいし、隣同士で吊るしてあるのに乗るのもいいよね。



 今のぼくだって乗りたいみたい、とハーレイに話したハンモック。真っ青な空と海がある場所、ヤシの木が何本も並ぶ海辺で。南国の青が広がる中で。
「前のぼくの夢、今なら叶いそうだから…」
 本物の地球のヤシの木もあるし、ハンモックだって吊るしてあるんだから。
「今のお前も乗りたいわけだな、前のお前と全く同じに」
 なら、いつか行くか?
 今は無理だが、お前が大きく育ったら。…俺と結婚して、旅に行けるようになったなら。
「連れてってくれるの?」
 ヤシの木がある所へ、ハンモックに乗りに…?
 ハーレイと二人で乗りに行けるの、ヤシの木に吊るしたハンモックに…?
「もちろんだ。前のお前の夢は叶えると約束しただろ、地球でやろうとしていた夢は」
 思い出したなら、端から全部。…旅に出るのも、何をするのも。
 今のお前の夢でもあるなら、叶えないわけがないってな。お安い御用というヤツだ。
 ハンモック、乗りに行こうじゃないか。前のお前の夢を叶えるのに、ピッタリの場所へ。
 ああいう場所は山ほどあるしな、お前が好きに選ぶといい。何処へ行くかは。
「…幾つもあるんだ、ヤシの木にハンモックを吊るしてる場所…」
 地球は広いものね、海があってヤシの木が生えている場所も、きっと沢山。
 何処にしようか迷っちゃうかも、あんまり沢山ありすぎて…。
「そうなるだろうな、前の俺たちが生きた頃とは違うんだから」
 あの時代だと、前のお前の夢が叶う場所は、ノアくらいだったことだろう。他の星だと、多分、余裕が無かったろうさ。ヤシの木が自然に育つ海辺を作れるほどには。
 しかし今なら、そういう星も少なくないぞ。テラフォーミングの技術が進んでいるからな。
 そして地球だと、御覧の通りというわけだ。
 前のお前が夢見た通りに、すっかり青い水の星だしな?
 暖かい南の方に行ったら、海辺にヤシの木は珍しくもないという寸法だ。ハンモックを吊るして昼寝も出来れば、のんびり本も読めるってな。
 行列を作って並ばなくても、好きな所に吊るして貰って。それこそ朝から晩までだって。



 星空の下で乗っているヤツもいるわけで…、とハーレイが話してくれた、ハンモック事情。青い海と空が夜の色に染まって、降るような星が瞬く頃にも、ヤシの木にハンモックはあるらしい。
 其処で眠りたい人もいるから、星空を見たい人もいるから。
「ハンモック、夜も乗れるんだ…。昼間だけじゃなくて…」
 そんなの、思いもしなかったよ。前のぼくも、今のぼくだって。
 星を見るのも素敵だろうね、波の音が良く聞こえそう。…昼間よりも、ずっと。
 ハーレイはヤシの木、見たことがある?
 植物園の温室とかじゃなくって、本当に海辺に生えているヤシ。
「もちろん、あるぞ。…ハンモックにも乗ってるが?」
 船でのベッド代わりじゃなくてだ、ヤシの木に吊るしてあるヤツに。
「…ハーレイ、先に乗っちゃったんだ…」
 ぼくと乗ろうね、って約束したのに、先に一人で…。
 約束したのは前のぼくだから、今のぼくとは違うんだけど…。
「すまん、あの時はまだ、お前のことを思い出してはいなかったから…」
 ヤシの木がある所まで来たら、コレだよな、と何も考えずに乗っちまった。一緒に行ってた連中とな。一人に一つで、そりゃあのんびりと…。
 お前との約束、覚えていたなら、「俺は乗らない」と別行動にしたんだが…。
 一人で海に泳ぎに行くとか、サイクリングに出掛けるだとか。
「…分かってるけど、ちょっと残念…」
 ハーレイと一緒に乗りたかったよ、青い地球でハンモックに乗る時は。
 二人一緒にドキドキしながら、どんな感じか、ヤシの木とハンモックを何度も眺めて。
「俺もだな…。なんだって、先に一人で乗っちまったんだか…」
 お前と一緒に俺もワクワクしたかった。こいつは初めて乗るモンだが、と。
 船なら嫌と言うほど乗ったが、ヤシの木に吊るしたハンモックなぞは前の俺だって知らないし。
 初めて乗るなら、お前と乗りたかったのに…。それが最高だったのに…。
 とんだ失敗をしちまった。記憶さえ戻っていたならなあ…。
 お前とはまだ出会ってなくても、俺にはお前がいたんだってことに気付いていたら…。
 これじゃ、お前と出掛けて行っても、感動ってヤツが少なめで…。そうだ!



 ハンモックは先に乗っちまったが…、とハーレイが浮かべた楽しそうな笑み。
 「ヤシの木の方なら、愉快なヤツが残っているぞ」と。
「とびきりのヤツだ、今の時代の地球ならではだな」
 サルにヤシの実を採って貰わないか、という提案。それなら俺も初めてだから、と。
「…サル?」
 サルって何なの、ヤシの実を採るなら、動物のサルのことだよね…?
「そのサルさ。そういう文化を復活させてる地域があるんだ」
 人間が地球しか知らなかった時代に、サルを使ってヤシの実を採っていたんだな。木に登るのはサルの得意技だし、人間がやるより早いから。
 其処へ出掛けて、「お願いします」と注文をしたら、サルに命令してくれるんだ。ヤシの木から実を採って来い、とな。
 すると目の前で、サルがヤシの木に登っていって、だ…。ちゃんと実を抱えて戻って来る。
 その実を「どうぞ」と渡して貰って、俺たちが頂戴するわけだ。
 ココヤシだからな、中のジュースを美味しく飲む、と。
 サルの飼い主が、殻を割ってストローを刺してくれるから。
「面白そう…!」
 それは食べられるヤシの実なんだね、ゼルとブラウが公園に植えようと思っていたヤシ。
 船のみんなに行き渡らないから、駄目だって言われちゃったヤシ…。
「そうなるな。だが、俺たちが旅で出掛ける先なら、ヤシの実だってドッサリだ」
 なにしろ本物の地球だからなあ、ヤシの木も山ほどあるってな。…もちろん、実だって。
 俺とお前がおかわりしたって、ヤシの実は減りもしないんだろう。ヤシだらけだから。
「それなら、何度も頼めるね。また見たいから、ってサルにヤシの実」
 喉が渇いたよ、って思う度に注文してたって。…他にもお客さんが大勢いたって。
「大丈夫だろうな、其処ならヤシの実は珍しくもないモノなんだから」
 この話は俺の教師仲間から聞いたんだ。其処へ行くなら、是非やって来い、と。
 俺は話を聞いただけだし、この目で見てはいないから…。



 お前とヤシの木を見に行く時には、其処にしよう、と勧めてくれたハーレイ。
 その場所も海辺で、見渡す限りにヤシの木が続いているそうだから。白く輝く砂浜だって。
「ハーレイ、其処って、ハンモックもあるよね?」
 ヤシの木に吊るしたハンモック。…それに乗るのも大切なんだよ、約束だから。
 前のぼくたちだった頃から、地球に着いたら、二人で乗ろうっていう約束…。
「あるに決まっているだろう。でなきゃ、お前を誘わないってな」
 ちゃんと聞いたから間違いはない。俺に教えてくれたヤツだって、ハンモックに乗ってのんびり過ごしていたそうだ。それこそ朝から晩までな。
 ついでに海辺にコテージがあって、其処に泊まれる。窓の下は直ぐに海なんだ。
 泊まった部屋から泳ぎに行けるのが売りらしいから、俺が潜りに出掛けて行ったら、美味い魚も獲れるってな。頼めばそいつを料理してくれると聞いてるが…?
「ホント!?」
 なんだか凄いね、ハンモックに乗れるだけじゃないんだ…。
 サルがヤシの実を採って来てくれて、中のジュースをストローで飲めて…。
 それに魚も獲れちゃうんだね、泊まってる部屋から潜りに出掛けて。
「うむ。なかなかにいいと思わんか? …ハンモックはウッカリ乗っちまったが…」
 お前のことを覚えていなくて、俺だけ先に乗って失敗したんだが…。
 その分、しっかり埋め合わせってヤツをしないとな。今の俺に出来る限りのことを。
 せっかく二人で地球に来たんだ、前の俺は死の星だった地球しか見られなかったが…。
 お前はそれすら見られなかったが、今じゃ立派な本物の青い地球だしな?
 ハンモックにも乗りに行かなきゃいかんし、他にも約束は山ほどだ。
 お前と地球まで来られたからには、どれも端から叶えてやるのが俺の役目というヤツだよな。



 今を大いに楽しまないと、とハーレイが約束してくれたから。
 青い地球まで二人で来たから、いつかヤシの木を見に出掛けよう。
 前の自分が憧れた景色を、真っ青な空と海を従えて、すっくと伸びている本物のヤシを。
 南国の海辺でヤシの木を仰いで、夢だったハンモックにも二人で乗ろう。
 ハーレイと同じのに揺られてもいいし、隣同士のハンモックだって。
 濃い青の空と海を眺めて、星が降る夜に乗るのもいい。風に揺られるハンモックに。
 そうやって二人、のんびりと過ごす。
 喉が渇いたら、サルが採って来てくれたヤシの実の中のジュースを飲んで。
 ハーレイがコテージから海に潜って、「美味そうだぞ」と獲った魚を二人で食べて。
(きっと、幸せ…)
 二人で乗ろう、と約束していたハンモック。
 先にハーレイが一人で乗ってしまったけれども、そのくらいはきっと小さなこと。
 本物の地球に来られた幸せ、その大きさに比べたら。
 前の自分が夢に見ていた、青い水の星でハーレイと二人で生きる幸せ。
 それを大いに楽しんでゆこう、ハーレイがそう言ってくれたから。
 いつかは二人でハンモックに乗って、ヤシの木を見上げられるのだから…。




            ヤシの木の夢・了


※前のブルーの夢の一つだった、地球でハンモックに乗るということ。ヤシの木に吊るして。
 ハーレイは記憶が戻る前に乗ってしまいましたけど、そのお蔭で増えた、幸せな未来の約束。
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