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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(ふうん…?)
 知らなかった、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 スイートピーの花に似ている、桃色の花。写真に添えられた説明によると、豆の花らしい。その花の記事につけられた見出しが…。
(最初の植物…)
 青い地球が宇宙に蘇った時、一番最初に地球の大地に根付いた植物。それがこの豆。
 テラフォーミング用の植物たちではないのに、たっての希望で植えられたもの。植物が根付いていない惑星、其処で育つよう改良された色々な植物たちと一緒に。
 今の青い地球の最初の植物、そう呼ばれる花。テラフォーミング用の植物だったら、様々な星で最初に育つものだから。いわば基本の植物たちで、あって当然。
 それとは別に育った植物、まるで奇跡であるかのように。青く蘇った水の星の上で。
(豆だったんだ…)
 地球に根を張った最初の植物。
 死の星だった地球が燃え上がった後、戻って来た澄んだ青い空と海。清らかな水が流れる大地。まだ生命の影が無くても、それらが生きてゆける環境。
 もう大丈夫、とテラフォーミングが始まった時に、この豆も一緒にやって来た。蘇った地球で、青い星の上で育つようにと、専用の植物たちに混じって。



 遠い昔に、赤いナスカで一番最初に根付いた植物。メギドの炎で滅ぼされた星。
 ミュウが手に入れた、打ち捨てられた植民惑星。何を育てようかと若い世代が色々試して、この豆が立派に根を張った。赤い大地でも生きてゆける、と。
(とっても強い植物だから…)
 赤いナスカで産声を上げた、初めての自然出産児。SD体制の時代に生まれた「本物の」子供。
 トォニィがこの世に誕生した時、母のカリナに夫のユウイが被せてやった花冠。豆の花を編んで作り上げて。「この豆はとても強いから」と。
 その話ならば、今のハーレイからも聞いたのだけれど…。
(パパのお花…)
 桃色の花を咲かせる豆には、そういう名前があるらしい。「パパのお花」と呼ばれる豆。
 トォニィがそう呼んでいたから、と書かれた記事。
 幼かった頃に、父のユウイをシャングリラでの事故で亡くした後に。
(ユウイが育てた豆だったから…)
 葬儀の時に、トォニィが摘んで来て墓標の前に置いた花。「パパのお花、一杯、咲いてた」と。
 赤いナスカが無くなった後も、トォニィはそれを忘れなかった。
 桃色の花を咲かせる豆は、ナスカに根付いた最初の植物。父のユウイが育てたのだ、と。



 ミュウと人類が和解した後、残された聖地、死の星の地球。人間が生まれた母なる星。
 地殻変動が続く地球には、誰一人降りることは出来ない。あまりにも危険で、降りたとしても、人に出来ることは何も無いから。
 白いシャングリラも地球を離れて去ったけれども、そのシャングリラにあった桃色の花。ただの平凡な豆の花でも、トォニィにとっては父の思い出の花だった。赤いナスカで咲いていた花。
 トォニィはそれを、どうしても地球に根付かせたかった。父がナスカでそうしたように。
 いつの日か、地球が蘇ったら。
 青い水の星が宇宙に戻って来たなら、この豆を地球に植えたいと。
 父の、ナスカの思い出のために。地球を目指しての旅の途中で、死んでいった多くの仲間たち。彼らの、ミュウたちの思いをこめて、地球の大地に父が育てた豆を植えようと。
(ぼくの名前も入ってる…)
 遠い昔に、トォニィが悼んで名前を挙げた、白いシャングリラの仲間たちの中に。
 カリナやユウイの名前と並んで、ソルジャー・ブルーも、ジョミーも、ハーレイたちも。



 けれど、トォニィが生きている間には、ついに叶わなかった夢。
 もちろん、白いシャングリラが宇宙を飛んでいた間にも。
(…シャングリラの解体、トォニィが決めたことだったもんね…)
 箱舟の役目はもう終わったから、とシャングリラを解体させたトォニィ。もう要らない、と。
 そのトォニィは、豆の種子を残しておくことにした。
 トォニィには予感があったのだろうか、後の世代に託すことになるかもしれない、と。
 「いつか」と保存用のケースに密閉した豆。いつか地球へ、と。
 白いシャングリラで育てていた豆が、最後に結んだ種たちを入れて。
(…あの船で採れた最後の豆…)
 シャングリラが解体された後にも、豆はあちこちの星で育ったけれど。船の仲間たちが豆の種を運んで、様々な場所で育てたけれど。
 白い船で採れた最後の豆は、ケースで保存され続けた。誰も蒔かずに、植えることなく。
 トォニィがいなくなった後にも、いつか地球へと運ぶ日のために。
 それがトォニィの望みだったから。…ミュウの思いを、と託した種子だったから。



 長い歳月と共に、少しずつ命を取り戻した地球。毒素をすっかり洗い流して、澄んだ海と空とを蘇らせて。地形は変わってしまったけれども、生命が生きてゆける大地も。
(地球が昔みたいに青い星になって…)
 テラフォーミングを始めることが決まった時。
 トォニィの願いを叶えなければ、と種子の一部が取り出された。密閉されていたケースから。
 全部の種子を植えてしまったら、駄目になった時に取り返しがつかないことになる。トォニィが残した豆だからこそ、地球に植える意味があるのだから。
(他の星におんなじ豆があっても、あの豆の子孫っていうだけだもんね?)
 見た目は全く同じ豆でも、トォニィが託した豆とは違う。重さが、意味が、存在意義が。
 誰もが充分に分かっていたから、ケースを開いて、その一部だけを取り出した豆。
 試験的にと、テラフォーミング用の植物たちと一緒に、豆は地球へと運ばれて行った。根付いてくれればいいのだが、と研究者たちの祈りを乗せて。
(…後の手順は、普通のテラフォーミングと同じ…)
 地球の生命力に任せて、其処で育てる植物たち。人間は手を加えることなく、見守るだけで。
 そうして地球が幾つもの命を育て始めて、最初の植生調査が行われた時。
 豆は立派に根付いていた。
 青い地球の上に、トォニィが望んでいた通りに。
 丁度、花が咲く季節だったという。桃色の豆の花が開いて、風に揺れていたと。



(残りの豆も運んだんだ…)
 豆たちは地球で生きてゆけると分かったから。トォニィの夢が叶ったから。
 今がその時だと、ケースから出された残りの種子。
 白いシャングリラがあった時代を、今の時代の礎になったミュウたちの思いを地球に運ぼうと。
 豆たちは地球の大地に蒔かれて、幾つもの花を咲かせたという。
 花が咲いたら実を結んでは、どんどん増えていった豆たち。青い地球の上で。
(だけど、見ないよ?)
 パパのお花は、この辺りで見掛けたことが無い。郊外の野原でも、林や森の中でも。
 この町には咲いていないみたい、と記事を読み進めたら。
(咲いている地域、違うんだ…)
 パパのお花が咲いているのは、マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある辺り。
 そういう遠く離れた地域で、自然に咲く花になっていた。広い野原や、河原などで。
 生命力が強い豆だから、何処でも育つらしいけれども、あえて広げることもない、と。
 一番最初に、その花が確認された場所。其処で咲かせておくのがいいと、自然に咲いて広がってゆくのが似合いの豆だと。
(この辺で、パパのお花を見るなら…)
 植物園に出掛けてゆくか、種を買って花壇で育てるか。
 それ以外に見られる方法は無くて、何処にも自生していない。パパのお花は、遠く離れた地域で咲いているものだから。その場所でしか、自然の中にはいないのだから。



 植物園に行くか、種から自分で育てるか。それが桃色の豆の花を此処で見る方法。
 種は園芸店に行ったら、手に入ると書かれているけれど…。
(パパのお花かあ…)
 そこまで頑張って花を見なくても、という気もするから。植物園まで見に出掛けるのも、自分で種を蒔いて育てるのも、どちらも少し面倒だから。
(あの豆に、別にこだわり、無いしね…?)
 ナスカの時代を自分は知らない。深い眠りに就いていたから、パパのお花も目にしてはいない。その花を編んで、ユウイが作った花冠も。
 前の自分とは縁が無いのがパパのお花で、「地球に最初に根付いた植物」と新しい知識が増えただけ。赤いナスカの最初の植物、それが地球でも一番最初、と。
 それだけだから、「いつか本物を見られたらいいな」と思う程度で帰っていった自分の部屋。
 勉強机の前に座って、広げたシャングリラの写真集。ハーレイとお揃いの豪華版。
(パパのお花…)
 咲いてるのかな、と写真をチェックしていったけれど、公園には無い桃色の花。季節が違うかもしれないけれども、写真を撮らせたのはトォニィ。
(…パパのお花が、無いわけないよね?)
 いつか地球に、と種子を託したトォニィだから。
 パパのお花が咲いていない時期に、写真を撮らせた筈がないから。
 きっとカメラマンを何度も呼んでまででも、花の咲く季節に撮らせると思う。ミュウたちの命を乗せた箱舟、其処で開いたパパのお花を。
 白いシャングリラの写真を後世に伝えるのならば、パパのお花も忘れたりせずに。



 何処かに咲いている筈だから、と思い浮かべたシャングリラ。
 幾つもあった公園の他に、植物が育つ場所といったら…。
(…農場かな?)
 パパのお花は、豆科の植物。今の時代は観賞用でも、あの時代ならば食用に育てていただろう。野原や河原に咲くのではなくて、実を食べるために農場の何処か。
(…ウッカリしてた…)
 今のぼくのつもりで考えてたよ、とページをめくって開いた農場の写真。懐かしいな、と大きな写真を眺めて、「あった」と見付けた小さな桃色。
 広い農場の隅っこの方に、豆らしき畑が写っていた。其処に桃色の花が幾つも。
 ルーペを使って拡大してみたら、新聞で見た写真そっくりの豆。パパのお花という名前の豆。
(トォニィ、大事に育ててたんだね…)
 自給自足で生きる時代が終わった後にも、白いシャングリラでパパのお花を。
 豆を食べるなら、好きに選べる時代になっても。シャングリラを降りて店に出掛けたら、新鮮な豆も調理した豆も、選び放題の時代が来ても。
 父のユウイが育てていた豆、それをいつの日か青い地球へ、と。
 蘇った青い地球に植えようと、その時まで大切に育ててゆこうと。
(…シャングリラ育ちの豆でないとね…)
 地球まで運ぶ意味が無いから、白い鯨を解体するまで育て続けていたトォニイ。
 写真を撮らせる時期も決めたに違いない。農場の写真を撮るのだったら、この花の時期、と。



 トォニィらしい、と写真集を閉じて、棚に戻して。
(パパのお花かあ…)
 もっとトォニィと話したかったよ、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。パパのお花は知ってるよね?」
「はあ?」
 なんだそりゃ、と鳶色の目が丸くなったから、「パパのお花」と繰り返した。
「トォニィのパパのお花だよ。桃色の豆の花だったんでしょ?」
 前にハーレイが教えてくれたよ、ナスカに最初に根付いたんだ、って。
 トォニィが生まれた時に、ユウイがカリナに贈った花冠の花もその豆だった、って…。
「あれか…。そういや、今じゃそういう名前だな」
 パパのお花と呼んでるらしいな、あの豆のことを。
「そのパパのお花…。地球に最初に運ばれたってこと、知っていた?」
 トォニィが種を保存させてて、それを地球まで持ってったって…。
 シャングリラで育てた最後の種が、今の地球に最初に植えられたんだ、って…。
「そりゃまあ…。けっこう有名な話だからな」
 前の俺の記憶が戻る前から知っていたなあ、あれが最初の花だってことは。
 テラフォーミング用の植物以外じゃ、一番最初に地球に根付いたヤツなんだ、と。
「ぼくは今日まで知らなかったよ」
 新聞にパパのお花が載ってて、写真も、記事も…。それで分かったんだよ、パパのお花のこと。
 この地域だと咲いてないから、話を聞けるチャンスも無いし…。
「まあ、学校でも教えないしな」
 義務教育の範囲じゃないから、お前の年じゃまだ知らんだろう。
 お前が今日の新聞で読んだみたいに、いつの間にか覚えていくもんだ。あれが最初、と。
 パパのお花が咲いてる地域じゃ、事情は少し違っているかもしれないが…。
 学校に行ったら一番最初に、習う話かもしれないけどな。



 蘇った地球に来たユウイの豆。トォニィが種を保存させたお蔭で、パパのお花が地球で開いた。今の地球の最初の植物として。シャングリラ育ちの豆が芽吹いて。
「トォニィ、とっても偉いよね…」
 色々なものを、ちゃんと伝えていったよ。今の時代まで。
 アルテラがボトルに書いたメッセージも残しておいたし、前のハーレイの木彫りだって。
「…そいつは例のウサギだな?」
 宇宙遺産になっちまった、俺のナキネズミ。あれはウサギじゃないっていうのに。
 お前までウサギにしか見えないと言うが、俺が彫ったのはナキネズミなんだ…!
「苛めるつもりじゃないんだってば。ウサギはどうでもいいんだよ、今は」
 トォニィはきちんと残したよね、っていう話。ハーレイの木彫りも、パパのお花も。
 パパのお花が一番凄いよ、シャングリラ育ちの種をそのまま、ケースで保存させたんだから。
 畑で育てていくんだったら簡単だけれど、毎年、種が採れるけれども…。
 それじゃ駄目だ、ってシャングリラがあった時代の種。
 地球が青くなるのは、いつになるかも分からないのに…。それまで残しておいてくれ、って。
 トォニィがいなくなった後にも、約束を守って貰えるように。
「それはまあ…。偉いソルジャーではあったんだろう」
 あいつが最後のソルジャーだったし、それに相応しい立派な人間に育ってくれた。導いてくれる大人は誰もいなかったのにな、若い世代のヤツらばかりで。
 しかしだ…。



 間違って伝わっちまったよな、とハーレイが口にした不思議な言葉。
 どういう意味で言っているのか、まるで分からない言葉の中身。木彫りのナキネズミがウサギに化けてしまったように、他にも何かあるのだろうか?
「…間違ったって…。何が?」
 ウサギの他にも間違っているの、トォニィが残してくれた何かが…?
「そんなトコだな、間違ってるのはパパのお花だ」
 パパのお花で知られているのに、丸ごと間違いなんだから。
「間違いって…。パパのお花は、パパのお花だよ?」
 トォニィのパパのユウイが育てていた豆。食べるための豆が、普通の花になっちゃったけど…。
 それは時代の流れなんだし、間違いなんかじゃないと思うよ。
 あの豆を育てて船で食べてたミュウの思い出で、ナスカの思い出。
 みんなの思い出が詰まっているけど、トォニィのパパが育てていたから、今はパパのお花。
「パパのお花と呼ばれちゃいるが、だ…」
 それ以前に、お前の思い出だろうが。ユウイやトォニィが出て来る前に。
 あいつらより古い世代のお前で、前のお前の思い出なんだ。
「…前のぼく?」
 パパのお花が咲いてた時には、ぼくは眠ってしまっていたよ…?
 ユウイがカリナに被せてあげた花冠も、ユウイのお葬式も、何も知らずに…。



 なのにどうして思い出なの、とキョトンと瞳を見開いたら。
 「前のぼくには関係ないよ」と、鳶色の瞳の恋人の顔を見ていたら…。
「お前、忘れてしまったのか…」
 あの豆、誰が作ったのか。
 パパのお花と呼ばれている豆、前のお前が作ったのにな…?
 すっかり忘れちまったんだな、と言われたけれども、忘れるも何も、不可能なこと。前の自分が如何に強くても、最強のタイプ・ブルーでも。
「作るって…。ぼくは植物、作れないよ?」
 前のぼくのサイオンがいくら強くても、神様じゃなかったんだもの。
 エラがどんなに「ソルジャーは偉い人ですから」って宣伝したって、神様になんかなれないよ。
 だから無理だよ、植物を作り出すなんて。…パパのお花を作るだなんて。
「確かに一から作れやしない。それはお前の言う通りだが…」
 パパのお花は、前のお前が改良したんだ。
 シャングリラの中でも元気に育って、ナスカでも地球でも立派に根を張る植物にな。
「え…?」
 改良って…。そういうのは係がいたじゃない。品種改良が専門の仲間。
 シャングリラでも丈夫に育つように、って色々な工夫をしていたよ。
 ヒルマンだって研究してたし、前のぼくの出番は無い筈だけど…?
「専門の係もヒルマンもいたが…。そいつが上手くいかなかったんだ」
 パパのお花になっちまった豆に関しては。
 あの時代はまだ、ヒルマンが研究の中心だったな、白い鯨じゃなかったから。
 覚えていないか、育ててた豆が全部枯れそうになってしまって…。
「ああ…!」
 思い出したよ、枯れそうだった豆。うんと弱くて、ホントに枯れそう…。



 あったんだっけ、と蘇って来た遠い昔の記憶。前の自分と豆の思い出。
 パパのお花は、前の自分が作り出した奇跡の豆だった。…本当かどうかはともかくとして。
 シャングリラを白い鯨に改造する前、将来を見据えて試験的に作っていた畑。自給自足で生きてゆくための船にするなら、そういう技術も必要だから。
 其処で育てていた農作物。小麦にジャガイモ、キャベツやトマトも作ったけれど…。
「どうしても豆が上手くいかんのう…」
 サッパリ駄目じゃ、とゼルがぼやいた会議の席。豆の栽培だけは難しい、と。
「船ってヤツと、相性が悪いんじゃないのかい?」
 宇宙船だしさ、とブラウが即座に言ったくらいに、駄目だったのが豆の栽培。ヒルマンも溜息をつくばかりだった。
「豆は本来、強い植物の筈なのだがね…」
 どういうわけだか、この船では順調に育ってくれないようだ。豆は保存にも向いているのだし、出来れば上手く育てたいのだが…。
 世代交代させるどころか、蒔いた種を成長させるだけでも精一杯だし…。
 諦めるしかないのだろうかね、ブルーが奪って来てくれた種が尽きるようなら。



 出来る限りは頑張ってみるが、とヒルマンが条件を色々と変えて育ててみた豆。
 けれども、豆はどんどん弱くなっていって、これが最後だと蒔いた種さえ…。
「ハーレイ、聞いたよ。豆が枯れそうなんだって?」
 前の自分の耳にも届いた、豆たちの噂。最後の豆を蒔いたけれども、駄目なようだと。
「そのようです。日に日に弱っていきまして…」
 ソルジャーも御覧になりますか?
 今の苗が最後の種ですから。…これが枯れたら、豆の栽培はもう致しませんので…。
「…そうなるだろうね、船では生きられないようだから…」
 無駄な労力はかけられない。最後の豆なら、ぼくも苗を見ておきたいよ。
「分かりました。ご案内させて頂きます」
 この通りです、とハーレイが連れて行ってくれた、豆を植えた畑。他の作物が立派に育っている中、見るからに元気の無い豆の苗たち。
 ヒョロリと細い茎をしていて、育ちそうもない弱々しさ。何処から見ても。
「…枯れそうだと噂が流れるわけだね、こんな姿だと…」
 生きて欲しいと思うけれども…。この苗が無事に育ってくれたら、この船でも豆が採れるのに。
「我々もそう願っていますが、難しいでしょう」
 今までで一番、発芽状態も悪いそうです。
 宇宙船という環境が悪いのでしょうか、豆の種には悪影響を及ぼすのかもしれません。
 最初の頃に植えた分の種は、もう少し丈夫でしたから…。
 あれも育ちはしませんでしたが、次の代の種を収穫できるくらいにまでは…。



 この船で豆は無理なようです、とハーレイがついた深い溜息。
 苗を眺めても育ちそうになくて、明日にでも枯れてしまいそうだけれど。なんとか無事に育ってくれないだろうか、と見ている内に思い付いたこと。
「この苗に触ってもいいかい?」
 傷めないよう、気を付けるから。…ほんの少しだけ。
「どうなさるのです?」
 怪訝そうな顔をしたハーレイに、「励ますんだよ」と声を返した。
「元気づけようかと思ってね…。この苗たちを」
 本で読んだよ、植物は声を掛けてやれば元気に育つんだろう?
 それに音楽も聴くらしいからね、思念波も届くかもしれない。だから…。
 頑張って、と順に触れていった豆の苗たち。弱々しい茎を損ねないよう、指先でそっと。
 ぼくがいるから大丈夫、と思念で語って、「強くなって」と。
 枯れてしまわないで元気に生きてと、心からの祈りをこめて思念を。
 聞こえているなら生きて欲しいと、きっと元気になれる筈だと。
 そうしたら…。



 祈るような気持ちで豆の畑を後にしてから、何日か過ぎて訪ねて来たハーレイ。
 まだ青の間では
なかったけれども、ソルジャーとして住んでいた部屋に。
「ソルジャー、どんな魔法をお使いになったのです?」
 そう言われたから驚いた。ハーレイが何を言っているのか、まるで分からなかったから。
「魔法?」
 何処から魔法になるんだい?
 最近は物資を奪いに出ていないから…。サイオンも殆ど使っていないと思うけれどね?
「先日の豆です、枯れそうだった豆の苗です」
 ソルジャーが触っておられた苗が…。
 あの苗たちが、見違えるように元気に育ち始めて…。
 御覧下さい、と促すハーレイと畑に出掛けて行ったら、他の者たちも騒いでいた。
 奇跡のようだと、枯れそうだった豆が生き返ったと。
 本当に元気になっていた豆。これがあの時の苗だろうか、と目を瞠ったほどに。
「…ぼくは何もしていないけど…」
 思念で励ましてやっただけだよ、一本ずつ。「頑張って」とね。
 生きて欲しい、と豆たちに伝えてやっただけで…。
「それではやはり、サイオンでしょうか?」
 ソルジャーのサイオンが豆たちに作用したのでしょうか、それで元気に生き返ったと?
 この通り、とても生き生きとした丈夫な姿をしておりますが…。
「さあ…?」
 それは、ぼくにも分からないよ。
 ただ励ましてやっただけだし、言葉を掛けるのと同じ。
 偶然なんじゃないのかな…。この苗たちは、元から強い豆だったのかもしれないよ。
 最初の間はひ弱そうでも、育つ時期が来たら丈夫になるとか。



 たまたまだろう、と言ったのだけれど、ぐんぐん育っていった豆。日毎に大きく、蔓を伸ばして花も咲かせて。
 やがて次々と実った豆たち、どの豆も充分に次の世代を育てられそうなものばかり。立派な豆を選んで蒔いたら、次の代からも健康そのもの。
 そうして代を重ねる間に、どれよりも強い作物になった。どんな畑でも育つ豆。畑のスペースが足りないから、と畝の間に蒔かれた時も。
「お前、忘れていたようだが…。だからこそナスカに行ったんだ、アレが」
 何を植えればいいだろうか、って話になったら、あの豆に限る。
「そうだったんだ…」
 ユウイが植えたの、あの豆が丈夫な豆だったから…。
「選ばれて当然の作物だろうが、何処に植えても育つ豆だぞ。畝の間の固い土でも」
 お前は眠っちまっていたから知らないだろうが、誰が見たって強い豆だし…。
 ナスカで一番最初に根付いたことも、何の不思議もないってな。元々、丈夫な豆なんだから。



 白いシャングリラの時代になったら、豆は強くて当たり前だった。植えておいたら、育って茎を伸ばすもの。ぐんぐんと伸びて花を咲かせて、ドッサリと実をつけるもの。
 若い世代も増えていったから、とうに誰もが忘れ去っていた「生き返った」こと。
 頑丈な豆の初代は弱くて、今にも枯れそうな苗だったのに。駄目だと皆が思っていたのに。
「あの豆なあ…。今から思えば、本当にお前のサイオンじゃないか?」
 生き返って丈夫になっちまった理由。
 前のお前をジョミーが生かしたみたいにな。…アルテメシアで。
「そっか、そういうのもあったっけね…」
 ぼくの命、あそこでおしまいになる筈だったのに…。
 ジョミーが「生きて」って願ってくれたお蔭で延びたよ、ナスカまで行けたくらいにね。
 あれと同じだね、豆の苗が元気に生き返ったの…。
 強い祈りは奇跡を起こすから。…前のぼくだって、生きられたから。
 だから、あの豆の苗たちも、弱っていたのに元気になって…。
 強くなって、って願っていたから、本当に強くなっちゃった。
 シャングリラで一番丈夫な作物はアレだ、って畑の係が思うくらいに。
「まったくだ。…前の俺だって、そういうつもりになっていたしな」
 たまに、キャプテンの指示を仰いでくることがあった。…農場担当のヤツらがな。
 空いたスペースに何を植えるか、候補を幾つも並べ立てて。
 そういった時に豆がリストに入っていたなら、迷わなかったな。豆だ、と指示を飛ばしてた。
 他の作物なら出来が悪くなることもあるが、豆だけは優秀だったんだから。
 何処に植えてもドッサリ実るし、豆は保存に向いているしな。



 そのシャングリラの丈夫な豆…、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。
 「あれは、お前の豆なんだ」と。
「前のお前が、一番最初にあの豆を作り出したのに…。初代はお前が生み出したのに…」
 お前がいなけりゃ、あの苗は枯れて、シャングリラに豆は無い筈だった。
 船と相性が悪い作物、頑張るだけ労力の無駄なんだから。
 なのに、お前が豆を作った。…凄すぎる豆を。
 そうやって、ナスカでも地球でも根付くような豆が出来たのに…。頑丈な豆が生まれたのに。
 誰もが綺麗に忘れちまって、トォニィの時代は誰も覚えていなかったってな。
 最初はお前の豆だったことも、生き返った奇跡の豆だったことも。
 お蔭で今ではパパのお花になっちまったぞ、お前の豆。
 あれをユウイが育てられたのも、前のお前が丈夫すぎる豆を作り出したお蔭だったのに…。
「パパのお花でかまわないよ。ぼくも忘れていたんだから」
 新聞で読んでも、「凄い」って感動していただけ。
 トォニィがシャングリラで採れた最後の豆を、地球のために残しておいてくれたこととか…。
 その豆がホントに地球に運ばれて、一番最初に根付いたこととか。
 とても凄くて、夢みたいな話なんだもの。
 シャングリラで最後に採れた豆が地球に来たんだよ?
 ちゃんと地球まで運んで貰って、テラフォーミング用の植物でもないのに立派に育って…。
 植生調査の時には花が咲いていたなんて、もう本当に夢みたい…。
 だからね、パパのお花でいいよ。
 ユウイが育てた豆だったから、トォニィは種を残しておいて地球まで運ばせてくれた。
 前のぼくが作ったシャングリラの豆を、ミュウの自慢の丈夫な豆をね。
 もしもユウイが豆を育てなかったら、種は残っていないよ、きっと。
 地球で最初に根付いた植物、別の何かになったんだよ。
 ユウイが育てて、トォニィが残して、あの豆は地球まで旅をしちゃった。
 青くなった地球で一番最初に、頑張って花を咲かせるように。
 種を落として次の世代も、ちゃんと生まれて次々に育っていけるようにね…。



 パパのお花のままでいいよ、と微笑んだけれど。それでかまわないと思うけれども…。
「…でも、残念。パパのお花は、ぼくたちの地域じゃ咲いていないから…」
 いつか見たいな、咲いているトコ。
 今は食べるための豆じゃなくって、花を楽しむ植物になっているみたいだけれど…。
「あれを見たいって…。植物園か?」
 何処の植物園にも、パパのお花はあると思うが…。この町でも、他の町のでも。
 有名な花だし、もしかしたらだ、一年中、咲かせているかもしれないな。
 ほんの少し気温を弄ってやったら、いくらでも育つ豆なんだから。…元が頑丈な豆なわけだし。
「ううん、植物園じゃなくって…」
 本当に自然に生えている場所。種を落として、その種からまた生えて来る場所。
 其処で見たいな、ちょっぴり遠い場所だけど…。
 マードック大佐とパイパー少尉の墓碑がある場所、その辺りの地域の花らしいから。
「そうだな、いつか行くとするかな」
 元々は前のお前が作り出した豆で、お前の豆と呼ぶのが正しい豆なんだし…。
 そいつが一番最初に地球に根付いたわけだし、それが咲くのを見に行かないって手はないな。
 きっと綺麗だぞ、広い野原に一面にアレが咲いていたなら。
 それにだ、マードック大佐とパイパー少尉の墓碑と言ったら、恋人たちの名所じゃないか。
 結婚式を挙げたカップルが花を捧げに行くって場所。
 最後まで一緒だった二人にあやかりたいから、と墓碑がある森の入口までな。
 俺たちも豆を見に出掛けたら、二人に報告しようじゃないか。
 お蔭で地球まで来られましたと、今は幸せですから、とな。



 いつか二人で行ってみような、とハーレイも頷いてくれたから。ハーレイは決して約束を破りはしないから…。
 前の自分とそっくり同じ背丈に育って結婚したら、二人であの豆を見に出掛けよう。
 此処からは遠い地域だけれども、桃色の花を咲かせる季節に、パパのお花を。
 マードック大佐とパイパー少尉の墓碑にも、二人で挨拶をして。
「ねえ、ハーレイ…。いつか行こうね、パパのお花が咲いてる季節に」
 一番綺麗に咲いている時に、二人で散歩。…パパのお花で一杯の野原。
 豆が実ってる時期じゃ駄目だよ、パパのお花を見に行かなくちゃ。名前はパパのお花だもの。
「パパのお花ってことでいいのか、本当に…?」
 元はお前が作り出した豆で、ブルーの豆とか、ソルジャー・ブルーの豆なんだろうに…。
 そっちの名前はなくなっちまって、豆は食べずに花を見る植物になっちまったのに。
「いいんだってば、今はそういうことみたいだから」
 ぼくも新聞で感動しちゃったくらいだよ?
 トォニィはとっても素敵なことをしてくれたんだ、って。
 それにね、豆は、うんと美味しいのが山ほど採れる時代だから…。
 パパのお花の豆を食べなくても、食べる豆、選び放題だから…。
 豆じゃなくって、パパのお花がピッタリだよ、名前。
 だから二人で花を見るんだよ、パパのお花は眺めて楽しむ植物だものね。



 きっと行こうね、とハーレイと交わした、パパのお花を見に行く約束。
 青く蘇った水の星の上に、一番最初に根付いた植物。
 トォニィの思いを受け継いだ花で、シャングリラから地球までやって来た花。
 元は丈夫な豆だったけれど、優秀な作物だったのだけれど。
 今の時代は、パパのお花の名前通りに、花を愛でるのが桃色の花を咲かせる豆。
 花が咲く季節に出会えた時には、摘んだりしないで、ハーレイと二人で眺めよう。
 桃色の花が風に揺れるのを、パパのお花が咲いているのを。
 前の自分が作り出した豆、トォニィが地球に植えて欲しいと残した豆。
 豆よりもずっと遅くなったけれど、ハーレイと一緒に青い地球まで来られたから。
 今度は幸せに生きてゆけるから、パパのお花は摘んだりしない。
 パパのお花にも、幸せに咲いて欲しいから。
 咲いた後には種を落として、青い地球の上で、いつまでも咲き続けていて欲しいから。
 パパのお花に負けないくらいに幸せになろう、地球に着くのは遅れたけれど。
 きっと遅れて着いた分だけ、幸せのオマケも増えるだろうから、幸せに歩いてゆくのだから…。




              ナスカの豆・了


※蘇った地球で最初に育った植物は、トォニィが保存させていた豆。名前は「パパのお花」。
 けれど、その豆を最初に作り出したのは、前のブルーだったのです。丈夫になった奇跡の豆。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




ゴールデンウィークも真っ最中で、春真っ盛り…いえ、初夏という気もする季節です。今日は会長さんの家でダラダラ、何処も混んでるというのが理由。シャングリラ号に行きたい気もしましたけど、会長さんが催してくれる歓迎イベントが困り物ですし…。
「あれさえ無ければいいんだけどなあ、シャングリラ号…」
歓迎イベントが嬉しくないし、とジョミー君が零して、キース君も。
「まったくだ。ロクな目に遭ったことが無いしな、ブルーのせいで」
「心外だねえ…。ぼくはソルジャーとして心を砕いているんだけどね?」
どうして分かってくれないのだ、と会長さんは不満そうですが。
「心を砕くだと? 俺たちの心を砕きまくるの間違いだろうが、もう粉々に!」
「そうです、そうです。完膚なきまでに打ちのめされると言うか、再起不能と言うべきか…」
会長の気持ちは分かるんですが、とシロエ君からも嘆き節。
「狙って外すのか、狙っているのか知りませんけど、いつも何処かがズレてるんです!」
「そうかなあ…? ババを引くのはハーレイになるよう、ちゃんと気を付けてるつもりだけど…」
「そのババが余計だと言っているんだ!」
だからシャングリラ号はパスした、とキース君。
「混んでいようが、つまらなかろうが、ゴールデンウィークを平和に過ごすなら地球に限る!」
「…本当に何処も混んでますけどね…」
空いてる所はマツカ先輩の別荘くらいなものですよ、とシロエ君がフウと。
「でも、マツカ先輩にも、そうそうご迷惑はかけられませんし…」
「ぼくはかまいませんけれど?」
何処か手配をしましょうか、とマツカ君が訊いてくれましたけど。
「いいよ、別に。ブルーの家でもゆっくりできるし」
御飯もおやつも美味しいし、とジョミー君が答えて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ 毎日お客様だもん!」
今日ものんびりしていってね! と笑顔一杯、元気一杯。家事万能でお料理大好き「そるじゃぁ・ぶるぅ」に任せておけば、手作りお菓子や素敵な食事がドンと出るのが会長さんの家、此処で過ごせるなら特に問題ないですよね?



そんなこんなで今日も集まっているわけですけど、何故だか話題はお祭りへと。混んでいるから行かないくせに、露店巡りの醍醐味がどうとか。
「やっぱりアレだよ、クジつきのだよ」
当たると串カツもう一本とか、そういうのが…、とジョミー君。
「当たった時の嬉しさが凄いし、本気で当たれば串カツどころか豪華商品だよ?」
「あれなあ…。当たらないのがお約束だろうが」
少なくとも俺は当たったことがないが、とキース君が難しい顔を。
「大当たりです、と言われて喜んだことはあるがだ、その大当たりがまた問題で…」
「キース先輩、今、当たらないと言いませんでしたか?」
シロエ君が突っ込むと。
「話は最後まで聞いてくれ。俺が欲しかったのはゲーム機でだな…」
親父は買ってくれなかったからな、と言われて納得、アドス和尚が駄目と言ったら駄目でしょう。子供のお小遣いで買うには高すぎる品、露店の当たりを狙うしか道が無さそうです。
「とにかく当てようと小遣いをせっせとつぎ込みまくって、やっと大当たりを引いたんだが…」
「ゲーム機、貰えなかったわけ?」
当たりなのに、とジョミー君が尋ねると。
「当たりは当たりでも、別物だった。…空くじ無しが売りの露店で、クジを引いたらハズレでもデカイ煎餅が一枚貰えるヤツで」
「あー、ソース煎餅な!」
あれは美味いよな、と頷くサム君。お店によって形は色々、ソース煎餅。お好み焼き風にソースを塗ってくれて、青海苔なんかもついたりします。露店ならではの味で、会長さんたちとお出掛けしたら誰かが買ってる定番で…。
「お前、ソース煎餅で大当たりなのかよ、すげえじゃねえかよ」
まず当たらねえぜ、という言葉通りに、私たちのお出掛けでも会長さんがサイオンで反則しない限りは二枚当てるのも難しいヤツ。でも…。
「いや、俺は当てた。だが、ゲーム機が当たる方じゃなくてだ、煎餅を十枚貰ったんだ!」
「「「じゅ、十枚…」」」
それは非常に豪華ですけど、食べるのもとても大変そう。キース君も食べ切れずに友達に大盤振る舞いしちゃったんだそうで、ゲーム機は貰えず仕舞いだったとか…。



「あの手の露店はまず当たらん。当たったとしても、煎餅十枚がオチだ」
俺の知り合いで目的の物を当てたヤツはいない、とキース君はキッパリと。
「まだ宝くじの方がマシなんだろうが、これまた当たったヤツを知らんな…」
「分かります。当たったとしても金額少なめ、本当に凄いのは当たらないって聞きますよね」
だからこそ夢が大きいんでしょうが…、とシロエ君が相槌を打つと。
「あら、当たる時には当たるでしょ? でないと成立しないわよ、あれは」
当たり番号も発表されるんだし…、とスウェナちゃん。
「私たちの周りに強運な人がいないってだけで、誰かは絶対当たっているのよ」
「それは言えるね、宝くじならね」
露店と違ってズルは出来ない、と会長さんが。
「露店の方ならチェックされてるわけでもないから、当たりくじ無しとか、大当たりが出たってキースの時みたいに誤魔化すとかね」
「おい、あれは誤魔化しだったのか!?」
ソース煎餅十枚は実は本物の当たりだったのか、とキース君が目を丸くすると。
「当たり前だよ、煎餅用と景品用のクジを使い分けてはいないんだし…。大当たりです、って差し出されたクジをどう扱うかは露店の人の心ひとつだよ」
「ちょっと待て! だったら、あそこで俺がゴネてたら…」
「ゲーム機が貰えていたんだろうねえ、仕組みが分かる年だったらね」
少なくとも大の大人相手に誤魔化せはしない、という指摘。
「付き添いで親が来ていたとかでも、ゲーム機は貰えた筈なんだよ。ソース煎餅十枚じゃなくて」
「…俺は騙されたというわけなのか?」
「そうとも言うけど、ソース煎餅で納得したなら、君にも落ち度はあるからねえ…」
過失がゼロとは言い切れない、と会長さんは可笑しそうに。
「露店のクジだと、売ってる人も海千山千、相手を見て結果を決めるってね!」
「くっそお、俺はゲーム機を当てていたのか、あの時…」
「そういうことだね、今となっては時効だけどね」
露店のクジでも当たる時には当たるんだよ、と会長さん。
「だからね、宝くじだって当たる時は当たる! 運が良ければ!」
「会長、やっぱり運なんですか?」
「運次第だねえ…!」
露店のクジも宝くじも、と会長さん。世の中、やっぱり運が大切…?



どうやら露店で大当たりしたらしいキース君。海千山千の店主に陥れられ、ゲーム機の代わりにソース煎餅十枚というオチですけれど。それにしたって当たる時には当たるものだ、と理解しました。宝くじだって、きっと…。
「うん、宝くじは当たるよ、絶対に!」
「「「???」」」
誰だ、と思わず振り返った声。会長さんではない筈だ、と見れば紫のマントがフワリと揺れて。
「こんにちは! 遊びに来たよ、ぶるぅ、おやつは?」
「かみお~ん♪ 今日はヨモギと胡桃のパウンドケーキなの!」
草餅が美味しいシーズンだしね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに走り、ソルジャーの分のパウンドケーキと紅茶をササッと用意。ソルジャーは早速、ケーキにフォークを入れながら。
「宝くじはね、当たるものだよ、狙っていけば!」
「「「は?」」」
「だって、一種の博打だろ? こっちの世界のを見てた感じじゃ」
「それはまあ…。博打と言えないこともないけど…」
当たらなかったら紙屑だし、と会長さんが答えると。
「そう、そこなんだよ、外すと紙屑! でもねえ、宝くじだと狙えるからね」
「…何を?」
どう狙うんだ、と会長さん。
「馬券とかなら、事前の情報で狙うというのは常識だけど…。宝くじだと狙えないよ?」
どの番号が当たりそうとか、当たりやすいとか、そういうのも無いし…、と言ってから。
「待てよ、アレかな? 当たりが出やすい売り場で買うっていうヤツかい?」
「あるらしいねえ、そういうのも! 買いに行くツアーもあるんだって?」
「「「ツアー!?」」」
なんだそれは、と驚きましたが、ソルジャーが言うには宝くじを買いに出掛けるツアー。エロドクターから聞いたのだそうで、会長さんも「あるね」と証言。
「当たりくじが出ると評判の売り場へ連れてってくれるツアーだよ。けっこう評判」
「人気らしいね? でもねえ、ぼくが言うのはそれじゃないしね」
買っただけでは狙いようが無いし、と言うソルジャー。当たりくじが出やすい売り場で買うのが限界っぽいんですけど、そんな宝くじをどう狙うと?



宝くじは絶対に当たる、と豪語しながら出て来たソルジャー。しかも「狙っていけば当たる」という話ですが、相手は馬券じゃありません。ただの抽選、狙って当たるようなものでは…。
「普通ならね! だけど、ぼくたちなら狙えるから!」
「「「ぼくたち?」」」
「ぼくとか、ブルーとか、ぶるぅとか! そこはサイオン!」
抽選の時にズバリ細工を、と飛び出しました、反則技が。確かに百発百中でしょうが、それってフェアではありませんから…!
「あのねえ…。流石のぼくもね、それだけはやっていないから!」
ウッカリやってしまわないよう、宝くじだって買わない主義だ、と会長さんは苦い顔。
「宝くじを買ってしまえば、当たって欲しいと思うものだし…。無意識の内にやらかさないとは言えないからねえ、サイオンで介入」
「なんだ、宝くじ、やらないんだ?」
「ぼくは露店のクジまでだよ!」
それも大当たりは狙わない、とキッパリ言い切る会長さん。
「ソース煎餅だの串カツだのを当てる時にも、数は少なめ、煎餅十枚の大当たりなんかは避けて通るのが鉄則だから!」
サイオンはそういうズルをするための能力じゃない、と珍しく正論。いつもだったらサイオンを使って悪戯するとか、そういった方向で遠慮なく使っているくせに…。
「なるほどねえ…。宝くじはやらない主義だった、と」
「一般人の感覚ってヤツを忘れちゃったら駄目なんだよ!」
世間を上手く渡って行けない、と会長さんは大真面目。
「君みたいに一般社会から弾き出された世界で生きているならともかく、ぼくたちは普通の人との交流もきちんとあるからね!」
「うーん…。ぼくの感覚、ズレているかな、宝くじなら狙えばいい、って…」
「ズレまくりだよ! 少なくとも、此処じゃ通用しないね!」
やるんだったら自分の世界でやってくれ、と会長さんが言うと、ソルジャーは。
「やりたい気持ちは山々だけどさ…。ぼくの世界には宝くじが無くて」
「「「え?」」」
「不健全ってことになるみたいだよ? 宝くじを当てて一攫千金というのはね」
ぼくの世界には向かないらしい、という話ですが。…不健全ですか、宝くじ…?



年に何度か大々的に宣伝されるほど、お馴染みなのが宝くじ。夢を当てようと買う人だって多いんですけど、不健全だとは思いませんでした。馬券はともかく、宝くじにハマッて身を滅ぼしたという例はそうそう無さそうですし…。
「こっちの世界じゃそうだろうけど、ぼくの世界はSD体制! そこが問題!」
完全な管理社会だから…、とソルジャーは顔を顰めました。
「職業だって機械が決めるほどだよ、つまりは貰えるお金なんかも決まってるわけで…」
「そうか、臨時収入なんかは駄目なんだ?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「アルバイトくらいは出来るけどねえ、働きもしないで大金がドカンと入るのはマズイ。宝くじが当たりましたから、って楽な人生を送る人がいたんじゃ駄目なんだよ」
それを真似たい人が出て来て社会がメチャメチャになってしまう、と頭を振っているソルジャー。
「きちんと計算されてる社会で、例外なんかは有り得ない。大金を稼ぎたいと言うなら、それなりのコースに乗るしかない!」
機械に配属された就職先で出世する以外に道は無いのだ、と聞かされて、改めて知ったSD体制の世界の怖い側面。宝くじで夢も見られないなんて…。
「ね、夢が全く無い世界だろう? …そういう世界が嫌になったら、もう飛び出して海賊になるしか道は無いねえ、それなら略奪し放題だし、一攫千金も夢じゃないしね!」
もっとも追われる身になるけれど…、と当然な話。
「捕まらなければ楽な世界だよ、海賊ってヤツは。ぼくたちも一時期、お世話になったし」
「そう聞いてるねえ…。君の性格、そっちで色々と影響された?」
「さあ…? 宝くじがあったら狙いたいというのは、海賊仕込みかもしれないけどね!」
一攫千金は狙ってこそだし、と言ってますけど、ソルジャーの世界には無い宝くじ。私たちの世界で狙っていくのは会長さんが駄目出ししてますし…。
「…駄目かな、宝くじを狙っていくというのは?」
「当たり前だよ、第一、君は狙わなくてもお小遣いには不自由していないだろ!」
ノルディに好きなだけ貰える筈だ、と会長さん。
「ノルディはたっぷり持ってるんだし、そっちで貰ってくれたまえ! 宝くじなんかには手を出さないで、健全に!」
「…不健全なのも好きなんだけど…」
社会から弾き出されちゃったのがぼくたちだから、と言われましても。宝くじには介入しないで露店のクジくらいにして貰わないと、私たちの世界がうんと迷惑しますってば…。



サイオンで宝くじを当てられるらしい会長さんやソルジャーたち。なんとも凄い能力ですけど、会長さんはそれを封印中。宝くじだって買わずに封印、なのに別の世界から来たソルジャーがやってみたいのが宝くじ。会長さんはブツブツと。
「君が不健全なのが好みだろうが、SD体制が何と言おうが、宝くじだけは駄目だからね! それこそ、ぼくたちの世界がメチャメチャだから!」
夢を買いたい人たちが大いに迷惑するから、と文句を言われたソルジャーは。
「うーん…。宝くじの世界を楽しみたいけど、露店じゃイマイチ…」
「ソース煎餅十枚でいいだろ!」
「そんなのはつまらないんだよ! もっとワクワクするのを希望!」
宝くじ的なワクワク感を…、と刺激を求めているソルジャー。いっそ馬券でも買ってみたら、と思わないでもないですが…。
「そうだ、買うのが駄目なら売ればいいんだ!」
「「「へ?」」」
宝くじを売るって…。ソルジャーがですか…?
「そう! 買ってドキドキ、それが駄目なら売ってドキドキ、ワクワクだよ!」
「…勝手に宝くじを売ったら犯罪だろうと思うけど?」
確か決まりがあった筈だ、と会長さん。
「露店レベルならいいんだろうけど、宝くじとなると…。一般人は扱えないと思うよ、それを誤魔化して売るとなったら、宝くじを買うのと同じくらいに迷惑だから!」
「そうなのかい? でもね、ぼくのは露店と変わらないからね!」
露店よりもっと慎ましいかも、と妙な発言。露店より慎ましい宝くじって…?
「え、どうして慎ましいかって? 大勢の人に売り出すつもりじゃないからだよ!」
ターゲットはたった一人だけ! とソルジャーは指を一本立てて。
「その人が何度も買ってくれればいい仕組み! もう、当たるまで何度でも!」
「…その一人って、まさか…」
ぼくの知ってる誰かのことではないだろうね、と会長さんが訊くと。
「ピンポーン! 君もとってもよく知ってる人!」
それに此処にいるみんなも知ってる、と私たちをグルリと見渡すソルジャー。
「ズバリ、こっちのハーレイってね!」
「「「ええっ!?」」」
教頭先生だけに売り出す宝くじって…。当たるまで何度でも、だなんて、どんな宝くじ…?



ソルジャー曰く、ターゲットは教頭先生一人だけという宝くじ。何度も買ってくれるリピーターを狙うみたいですけど、教頭先生が宝くじなんかを買うんでしょうか?
「宝くじねえ…。ハーレイも買ってはいないけどね?」
ぼくとは全く違う理由で、と会長さん。
「運が悪いという自覚はあるんだ、どうせ買っても当たらないから買ってない。そんなハーレイが手を出すとは思えないけどねえ…」
たとえ販売者が君であっても、と会長さんが意見を述べましたが。
「それは普通の宝くじだろ、ぼくが狙いたかったヤツ!」
「そうだけど?」
「ぼくが売るのは露店のクジの御親戚だよ、ハーレイにだけ美味しい宝くじだよ!」
空くじ無しでハズレ無し、ということは…。しかも美味しいなら、ソース煎餅とか串カツ系のクジを売るんですか?
「違うよ、もっと美味しいもの! 当たったら、ぼくの下着とか!」
「「「下着!?」」」
「そう、下着! いわゆるパンツ!」
そういうのが当たる美味しいクジで…、とソルジャーは笑顔。
「もっと素敵な当たりクジになれば、ぼくとキスとか、添い寝だとかね…!」
「ちょ、ちょっと…!」
そんなクジは困る、と会長さんが肩をブルッと震わせて。
「不健全にもほどがあるだろ、その宝くじ! そりゃあ、ハーレイには美味しいだろうけど!」
「ぼくは不健全なのが好みなんだよ、健全すぎる世界に追われる身だしね!」
SD体制の世界で苦労してるし、とソルジャーお得意の必殺技が。
「日頃から苦労をしまくっている、ぼくの楽しみをこれ以上減らさないで欲しいね! 宝くじを買うのが駄目なら、売る方で!」
こっちのハーレイに不健全な宝くじを売り付けるのだ、とソルジャーは譲りませんでした。
「心配しなくても、宝くじだから! そう簡単には当たらないから!」
「でも、当たったらパンツなんだろう!?」
「当たればね!」
当たらなかったらパンツなんかは貰えないから、とソルジャー、ニッコリ。でもでも、さっき、空くじ無しとか言いませんでしたか、パンツでなくても何か貰えるんじゃ…?



ソルジャーが売りたい、空くじ無しの宝くじ。当たればソルジャーのパンツとかが貰えるだけに、その他のくじが心配です。ハズレた場合はどうなるんでしょう、串カツとかソース煎餅とか…?
「…串カツも美味しいんだけどねえ…」
仕込んでおくのもちょっといいかな、とソルジャーは首を捻りました。
「ぶるぅ、串カツの美味しい店と言ったら、やっぱりアレかな? パルテノンの…」
「んとんと、活けの車海老とかを揚げてくれるトコ?」
「うん! あそこがぶるぅもお勧めかい?」
「んーとね、美味しいお店は色々あるけど…。食材がいいのはあそこだよ!」
お肉もお魚も野菜も最高! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「こだわりの食材を揚げるお店だから、お値段も高くなっちゃうけれど…」
「値段は別にかまわないんだよ、ぼくが支払うわけじゃないから! 食べるだけだから!」
「「「は?」」」
またエロドクターとデートだろうか、と思った私たちですが。
「違うってば! ぼくと一緒に食べに行くのは、こっちのハーレイ!」
「「「教頭先生!?」」」
「そうだよ、空くじ無しだからね!」
ハズレくじだとハーレイに尽くして貰う方向で…、とソルジャーはニヤリ。
「ぼくと一緒に食べに行けるなら、まだしも当たりな方なんだよ、うん」
「…もっと外れたら?」
会長さんが心配そうに尋ねると。
「そういう時はね、ぼくのハーレイの分まで持ち帰りコースで豪華弁当を買わされるとか!」
「「「あー…」」」
つまりソルジャーの財布代わりにされるのか、と理解してしまったハズレくじの正体。けれど当たればソルジャーのパンツや、キスや添い寝をゲットなんですね?
「そう簡単には当たらないけどね、宝くじだしね!」
ついでにこっちのブルーの分も混ぜておこう、とニコニコと。
「ぼくの以上に当たりにくいけど、ブルーのキスと添い寝もね!」
「勝手に決めないで欲しいんだけど!」
「パンツよりかはマシだろう?」
それともパンツを当てて欲しいのか、という質問が。会長さん、もしやピンチですか…?



ソルジャーが教頭先生だけに売り付ける宝くじ。当たればソルジャーのキスや添い寝で、パンツなんかも貰えるとか。それの会長さんバージョンも混ぜたいソルジャー、キスや添い寝よりもパンツを当てて貰った方がいいのかという逆襲で。
「いいかい、キスとか添い寝だったら、その場限りで済むんだよ? 最悪、サイオニック・ドリームで逃げるという手もあるけど、パンツはねえ…」
ハーレイの手元に残るからね、とズイと前へと。
「そんな記念品を当てられるよりは、キスと添い寝の方がいいかと思うけど…。君がパンツを希望だったら、ここはパンツで!」
「ぱ、パンツ…?」
「もちろん使用済みに限るよ、洗濯はしても一度は履いたパンツでないと!」
まるで値打ちが無いからね、と言われた会長さんは顔面蒼白。
「な、なんでパンツなんかをハーレイに…!」
「じゃあ、キスと添い寝! 大丈夫、そうそう当たるわけがないから!」
ぼくの分の方が当たりやすいようにしておくから、とソルジャーは自信たっぷりで。
「なんて言ったっけ、組違いだっけ…? そんな感じで仕込んでおくよ」
沢山の組の中に君の分は一つだけ、と言い切るソルジャー。他の組だと同じキスや添い寝でもソルジャーになるのだそうで、会長さんバージョンはとてもレアなもので。
「平気だってば、君の分のクジはただの釣り餌! まず当たらない!」
そして君のを混ぜるからには儲けは山分けでどうだろうか、と殺し文句が。
「宝くじだよ、暴利をむさぼるつもりなんだよ! 君も是非!」
「…山分けというのは魅力的だね、それに当たりはまず出ない、と…」
「出ないね、本物の宝くじが滅多に当たらないのと同じでね!」
ぼくと二人で儲けよう! と唆された会長さんは…。
「その話、乗った!」
「そうこなくっちゃ! それじゃ早速、宝くじ作りを!」
「いいねえ、本物っぽく凝って作ってみようか?」
「どうせならこだわりたいからね!」
第一回の分を二人で作ろう、と結束を固めた会長さんとソルジャーは宝くじ作りを始めました。第一回ってことは二回、三回と続くんでしょうか、毎週、毎週、抽選だとか…?



フカヒレ丼の昼食を挟んで、宝くじ作りを続けた二人。ああだこうだと凝りまくった末に出来た宝くじの山、全部を買ったらお値段、いくらになるんでしょう?
「このクジを全部…? えーっと、一枚これだけだから…」
ソルジャーが電卓をカタカタ叩いて、「はい」と見せられた数字に目を剥いた私たち。とてもじゃないですが全部は無理です、本物の宝くじの一等賞より強烈な値段じゃないですか~!
「そりゃね…。そうでなければ宝くじとは言えないからねえ…」
当たりクジを確実に買えるようなのは駄目じゃないか、とソルジャーが言って、会長さんも。
「ハーレイの懐具合からして、一度に無理なく買える枚数、十枚くらいって所かなあ…」
「そんなトコだね! でもって空くじ無しだからねえ、ぼくに御馳走もしなくっちゃ!」
「…使うかどうかは、ハーレイ次第になるけどね…」
宝くじだから、と会長さん。
「交換しなけりゃ一等賞でも手に入らないのが宝くじだし、君に御馳走するかどうかも…」
「そうなるけどねえ、宝くじをまた買いたかったら、交換しないと!」
売っているのはぼくなんだから、と得意満面。
「ぼくの機嫌を損ねちゃったら、もう買えないよ? 君は売りには行かないだろう?」
「…一人で売りに行く気は無いねえ、ボロ儲けでもね!」
ちょっとアヤシイ宝くじだけに…、と会長さんは腰が引け気味。それはそうでしょう、キスと添い寝が当たるかもしれない宝くじです。パンツは当たらないみたいですけど。
「パンツはぼくの分だけだね! もちろん、当たればプレゼント!」
本当に履いたパンツをプレゼントする、と平気な顔で言えるソルジャー、きっと心臓に毛が生えているというヤツじゃないかと…。
「え、心臓? 毛なら他にも…。でも、流石にパンツについているのをプレゼントはねえ…」
「もういいから!」
下品な話はお断りだ、と会長さんがブチ切れました。
「そんな話をしている間に宝くじ! ハーレイに売りに行くんだろう!」
「そうだったっけね、二人で行くのがいいのかな?」
「ハーレイの気分を盛り上げるには、他の面子はいない方がいいね」
だけど様子は見たいだろうから…、と中継画面が用意されました。教頭先生のお宅のリビングが映し出されています。私たちは此処から見物なんですね、行ってらっしゃい~!



瞬間移動で飛び出して行った、会長さんとソルジャーと。二人の出現に教頭先生はビックリ仰天、けれども直ぐに立ち直って。
「ホットの紅茶でいいですか? それとクッキーで」
「どうぞ、おかまいなく。今日は勧誘に来ただけだからね!」
ソルジャーが浮かべた極上の笑み。
「宝くじを買ってみないかい? 君にしか売らない宝くじでね、今回が第一回で!」
「宝くじ…ですか?」
「そうなんだよ! 空くじ無しが売りなんだけどさ、当たればキスとか添い寝とかがね!」
「…キスに添い寝…」
ゴクリと生唾を飲み込む教頭先生。ソルジャーは「そう」と大きく頷いて。
「ぼくからのキスに、ぼくの添い寝が当たるんだけど…。大当たりの時は、これがブルーになるんだな! 君の大好きな本物のブルーに!」
こっちのブルー、と会長さんを指差すソルジャー。
「大当たりだけに、そう簡単には出ないけど…。こまめに買っていれば、いつかは!」
「…当たるのですか?」
「君の運も関係するけどね! それから、クジの交換を忘れないことと!」
ハズレくじの方でも疎かにしてたら罰が当たるよ、とニコニコと。
「でもって、当たりの中にはパンツもあって!」
「パンツですか?」
「うん、本物の下着のパンツ! こっちはブルーが嫌がっちゃってね、ぼくのパンツしかないんだけれど…。同じブルーだし、当てるだけの価値は!」
「ありそうですね!」
鼻息の荒い教頭先生、ソルジャーのパンツでもいいらしいです。会長さんが「スケベ」と呟き、ソルジャーと二人、仲良く並んで。
「それで、宝くじ、買うのかな? …ブルーの説明で中身は分かったようだけど」
「買うに決まっているだろう! もう全部でも!」
「ふうん…? 全部買ったら、この値段だよ?」
買えるわけ? と訊かれた教頭先生、もうガックリと肩を落として。
「…では、十枚で…」
「オッケー、今日の所は十枚ってことで」
それじゃ抽選をお楽しみに、と宝くじを売り付けた極悪人が二人。当たりますかねえ、宝くじ?



第一回の抽選会は、その日の内に行われました。サイオン抜きでの抽選を売りにしたいから、と会長さんが用意したダーツ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサイオンで凄い速さでクルクル回転させている所へ私たちが矢を順番に。
「…これって一応、フェアなんだよなあ?」
俺たちのサイオンは思念波くらいが限界だしよ、とサム君が。
「そうだな、俺もサイオニック・ドリームは髪の毛限定でしか使えんし…」
あんな速さで回っているダーツの的なんかが見えたら凄すぎだ、とキース君も。こうして順番に投げていった矢、当たりの組や番号なんかが決まりましたが。
「…やっぱり簡単には当たらないねえ…」
サイオン抜きじゃね、と笑うソルジャー。教頭先生がお買いになった十枚は全て外れたらしく。
「ぼくと串カツでデートが三枚、豪華弁当を買ってくれるのが五枚、ケーキを買ってくれるのが残りの二枚だね!」
「「「うわー…」」」
気の毒すぎる、と思いはしても、抽選はズルはしていません。ソルジャーと会長さんは何番が何のクジだったのかを書き付けた紙を瞬間移動で教頭先生に届けに出掛けて、その様子も中継してくれました。教頭先生、なんとも残念そうですが…。
「…次回の宝くじはいつですか?」
「君次第だけど…。御希望とあれば、次の土曜日でも!」
ねえ? とソルジャーが会長さんの方を眺めて、会長さんも。
「もっとペースを上げろと言うなら、毎日だってかまわないんだよ? 君の財布が大丈夫なら」
「それなら、毎日買わせて貰う! 抽選も毎日になるのだろう?」
「それはもちろん。…だけど外したクジの分はちゃんとフォローしなくちゃね」
今日の所はブルーと串カツでデートが三回、豪華弁当プレゼントが五回にケーキが二回、と指折り数える会長さん。教頭先生は「よし!」と財布を取り出して。
「…では、豪華弁当お二人分が五回と、ケーキが二回と…。その分がこれで」
「ありがとう! 串カツはいつ出掛けようか?」
「そうですねえ…。あなたがお暇でらっしゃる時に御馳走させて頂きますよ」
パルテノンのあの店ですね、と教頭先生は約束を。あのお店、私たちもたまに出掛けますけど、お値段、半端じゃありません。教頭先生、宝くじを当てるよりも前に破産コースじゃあ…?



毎日抽選コースを選択なさった教頭先生は、順調に搾取されてゆかれました。当たりそうで当たらないのが宝くじ。ここの数字が一つ違えばソルジャーのパンツだったのに、なんていうのもお約束です、キスも添い寝もそういった具合。
「…なんだか申し訳ない気がするぞ、俺は」
この数字は俺が投げた分の矢だ、とキース君が当たりの番号を見詰めて、シロエ君が。
「それを言うなら、昨日のぼくもそうでしたよ。一つズレていたら、パンツだったんですよ!」
「…この際、パンツでいいから当たらねえかなあ…」
でないと教頭先生の財布がマジでヤバイぜ、とサム君が心配する通りに、教頭先生の懐具合は悪化の一途を辿っています。宝くじを毎日十枚ずつはいいんですけど、なにしろ空くじ無しが売り。宝くじを売るソルジャーに訪ねて来て欲しければ、ハズレくじのフォローが必須なわけで。
「今日のハズレくじ、確かステーキハウスよね?」
スウェナちゃんが訊いて、マツカ君が「ええ」と。
「それと、そこの名物のカツサンドですよ。特上の分と、そうでないのと」
「とんでもない値段のカツサンドだよね、特上の方でなくてもね…」
美味しいけどさ、とジョミー君。ステーキハウスの自慢のお肉を挟んだサンドイッチは何度か食べましたけれど、ちょっとしたお店のランチコースが食べられそうなお値段です。特上ともなれば老舗フレンチのランチの値段で、それをソルジャーにプレゼントするのがハズレくじで…。
「…このまま行ったら、もう間違いなく破産だな…」
せめてパンツが当たってくれれば、とキース君が溜息をついた所へ、当たり番号を教頭先生に告げに出掛けた悪人二人が御帰還で。
「やったね、今日はカツサンドを買って帰ろう! ハーレイの分も、特上で!」
「あそこのは特別美味しいからねえ…。ついでにぶるぅの分もどうだい?」
「いいかもね! 特上のクジは六枚もあったし、ぶるぅに一枚プレゼントもね!」
一枚で二人前だから、とソルジャーはウキウキ、教頭先生から毟ったお金を数えています。明日もこういう光景だろうと思うと誰もが溜息三昧、ソルジャーが「なんだい?」と顔を上げて。
「宝くじが全く当たらないのはハーレイの運の問題だよ? 間違えないで欲しいね」
「ぼくもブルーに賛成だね。ハーレイが好きで買っているんだ、何の問題も無さそうだけど?」
それに…、と会長さんが浮かべた微笑み。
「ハーレイだって努力をするみたいだよ? 自分の運が良くなるように」
「「「はあ?」」」
運って鍛えられるものだったでしょうか、努力で何とかなるものですか…?



教頭先生が買う宝くじは全く当たらないまま、迎えたその週の土曜日のこと。会長さんの家へ遊びに行ったら、先にソルジャーが到着していて。
「今日はハーレイ、運を貰いに行くらしいね!」
「「「えーっと…?」」」
何のことだろう、と悩む私たち。教頭先生が運が良くなるよう努力をなさると聞きはしたものの、あれから何も変わっていません。どういう努力かも謎だと思ってたんですが…。運を貰いに出掛けるだなんて、運って貰えるものでしたっけ…?
「行く所に行けば貰えるようだよ、そういう運をね!」
ズバリ宝くじが当たる運、とソルジャーの口から謎の台詞が。それってどういう運ですか?
「宝くじが当たるようになるって運だよ、これから貰いに出掛けるんだよ!」
「…何処へだ?」
話がサッパリ見えないんだが、とキース君が訊けば、会長さんが。
「宝くじが当たると有名な神社! そこへお参りに行こうと決めたらしくて、今から出発!」
ほら、と出て来た中継画面。教頭先生が愛車に乗り込み、ご出発で。目的地まではかなりかかる、とパッと消された画面が再び登場した時にはお昼すぎでした。美味しく食べたレモンクリームソースとチキンのパスタ、その味がまだ舌に残ってますが…。
「…御祈祷ですか?」
神社の中っぽいんですが、とシロエ君。教頭先生は如何にも神社といった感じの建物の中に座っておられて、其処へ神主さんが登場、バッサバッサと大きな御幣を振って。
「…願わくばパンツとキスと添い寝が当たりますようにと、かしこみ、かしこみまお~す~」
「「「うわー…」」」
なんてこったい、と誰もが愕然、凄い祝詞もあったものです。こんな祝詞を上げて貰って大丈夫なのかと青ざめましたが、会長さんが言うには、この神社は宝くじの当選祈願で名高い神社。当てるための御祈祷料さえ納めてくれれば、後は何でもありなのだそうで。
「それにね、祝詞というヤツはさ…。定型文は一応あるけど、毎回、作るものなんだよ」
「「「え?」」」
「御祈祷の度に新しく書くのがお約束! だからパンツと言われれば書く!」
キスも添い寝もきちんと書くのだ、というわけですから、神主さんが朗々と読み上げていた紙にはしっかり「パンツ」と書かれていたのでしょう。キスも添い寝も。そこまでキッチリ頼んだからには、御利益があるといいですけどねえ…。



パンツとキスと添い寝が当たりますように、と御祈祷して貰った教頭先生。再び車を運転して戻って来られた頃には夕方でしたが、絶大な自信に溢れておられるようで。
「今日は宝くじを三十枚買ってみることにするか…」
パンツとキスと添い寝にそれぞれ十枚、と当てる気満々、そこへ会長さんとソルジャーが宝くじを売りに出掛けて行って。
「三十枚ねえ…。大きく出たねえ?」
「あの神社の御利益、どうなんだろうね?」
楽しみではある、と私たちに今日も任された抽選、みんなでダーツを順番に投げて。
「「「あ、当たった…?」」」
それも添い寝が、と何度も眺める当たり番号、教頭先生がお買いになった三十枚の内の一枚としっかり重なっています。もしやレア物と噂の会長さんの添い寝では、と焦りましたが…。
「組違いだねえ…」
この組だとぼくの方の添い寝、とソルジャーがクッと喉を鳴らして。
「でもまあ、当たったんだしね? ちょっと行ってくるよ、今夜は添い寝に」
「…添い寝だけにしておいてくれるんだろうね?」
会長さんが念を押したら、ソルジャーは。
「さあ、どうだか…。御祈祷までして当てた添い寝だよ、ちょっとサービスするのもいいかも…」
痴漢行為の一つや二つ…、と瞬間移動で飛び出して行ったソルジャーでしたが…。



「当たったのですか!?」
添い寝のクジが、と感極まった教頭先生。私たちは中継画面に目を凝らしていて、会長さんは監視モードに入っています。ソルジャーが不埒な真似をしたなら止めようというわけですけれど。
「当たったんだよ、ぼくの添い寝が! それでね、今日まで色々とお世話になったから…」
ハズレのクジで御馳走して貰った御礼をしなくっちゃ、とソルジャーは教頭先生の腕をグイと掴んで引っ張りました。
「せっかくだからね、添い寝ついでにお触りタイム! ぼくの方から!」
「…は?」
「分からないかな、もう、この辺とか、この辺とかをね…!」
じっくりしっかり触ってあげる、とソルジャーの手が伸びた教頭先生の大事な所。途端に教頭先生の鼻からツツーッと赤い筋が垂れ、次の瞬間…。
「「「あー…」」」
いつものパターンか、と見入ってしまった鼻血の噴水、教頭先生は仰向けに倒れてゆかれました。添い寝して貰ってもいない内から、もうバッタリと。
「うーん…。床で添い寝は趣味じゃないけど…」
ソルジャーが零して、会長さんが中継画面の方に向かって。
「床でいいから! 余計なサービスはしなくていいから!」
「じゃあ、床で…。なんだか寝心地、良くないけどねえ…」
背中とかが痛くなってしまいそう、とソルジャーはブツクサ、「次はパンツにしてくれないかな」なんて文句を言ってます。えーっと、宝くじ、まだ売り付けると…?
「当然じゃないか! 売れる間は売るってね! そうだろ、ブルー?」
「まあねえ、素敵な儲け話だしね?」
当たりが出ることは証明されたし、まだ売れる! と会長さん。教頭先生、破産なさるまで毟られそうな感じです。それまでにレア物の会長さんの添い寝が当たるか、ソルジャーのパンツが当たるのか。教頭先生、ご武運をお祈りしておりますから、しっかり当てて下さいね~!




               当てたい幸運・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生限定で、ソルジャーが作った宝クジ。教頭先生、せっせと散財したくなるわけで…。
 ついに御祈祷を頼んだ結果、当たりクジが出たのに、お約束な結末に。気の毒すぎかも?
 次回は 「第3月曜」 7月19日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、6月は雨がシトシトな季節。気分が下がってしまうわけで…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv









(ツバメが低く飛ぶと、雨…)
 学校の帰り道、ブルーが思い出したこと。バス停から家まで歩く途中で。
 何故だか、不意に。雨が降るどころか晴れているのに、空には雲の欠片も無いのに。
(さっきの鳥…)
 シジュウカラだろうか、身体が小さかったから。道路を挟んだ家の生垣、垣根から垣根へ飛んで渡っていった鳥。歩いてゆく道の少し前の方、其処をスイッと。道路を横切って、低い所を。
 ツバメみたいに空を滑るような飛び方ではなかった、小さな小鳥。
 きっと、そのせいで思い出したツバメの言い伝え。
 ツバメが低い所を飛んだら、雨が降るのが近いのだという。人間が地球しか知らなかった頃に、日本の人たちがそう伝えていた。
 前にハーレイの授業で聞いたこと。雑談の時間に、「知っているか?」と。
 ツバメの餌は虫らしい。雨が近くなると空気は湿気を帯びてゆくから、虫たちの翅は重くなる。高い所を飛ばなくなるから、それを捕まえるツバメも低く飛ぶという。
 時には、地面すれすれなくらい、人間の目よりも低い所を。
 その言い伝えを思い出したけれど、さっきの小鳥はツバメではなくて別の鳥。
(…ツバメ、見ないよ?)
 今日だけではなくて、昨日も、もっと前の日だって。
 最近、いない、と気が付いた。春にツバメがやって来てから、何度も姿を目にしていたのに。
(もう渡っちゃった…?)
 季節は秋になっているから、南の国へ。
 それほど寒いとも思わないけれど、昼間は暑いくらいの日もあるけれど…。
(ツバメ、身体が小さいから…)
 冷えてしまうのも早いだろう。人間には大したことはなくても、小さな小鳥の身体では。
 凍えたら長い旅は無理だし、早い間に飛んでゆくのに違いない。暖かい間に、南の国へと。



 きっとそうだ、と考えながら帰った家。ツバメには出会わないままで。
 制服を脱いで、ダイニングでおやつ。それから戻った二階の部屋。勉強机の前に座って、眺めた窓の向こうの空。やっぱりツバメは飛んでいなくて、違う小鳥が飛び過ぎて行った。
 知らない間に姿を消したツバメたち。子育てを済ませて、群れを作って南の国へ。
 ハーレイの授業で教えて貰った、ツバメたちの飛び方の天気予報。それも来年までは無理。
 いないのだから、低く飛んではくれないから。ツバメは旅に出たのだから。
(南の国まで…)
 頑張るんだね、と思ったツバメ。寒い冬に凍えてしまわないよう、暖かく過ごせる南の国へと。
 小さい身体で海を渡って、信じられないほど遠い所まで。此処とはまるで違う地域へ。
 でも…。
(ツバメ、寝る時はどうするの?)
 眠りもしないで飛び続けるなんて、どう考えても無理なこと。人間だって寝不足になれば、頭が働かないのだから。うっかり居眠りしてしまっていて、机に頭をぶつけるのだから。
 小さなツバメが旅をするには、何処かで眠らなければならない。一日で着けるような場所とは、全く違う南の国。何日かかるか、想像もつかないほどの距離。
 途中で眠るしかなさそうだけれど、その寝場所。
 上手い具合に島があるのか、それとも船に降りるのか。海の上なら、船も通っている筈だから。
(えーっと…?)
 ツバメでなくても、旅をする鳥。渡りのルートは決まっているらしいし、それに合わせて…。
(島ってあるの?)
 休める島がある場所を通ってゆくのだろうか、と考えたけれど、広がっている筈の大海原。南の国まで辿り着くには、島伝いでは無理そうな感じ。肝心の島が途切れてしまって。
 船だって、いつも同じ場所にあるとは限らない。
 人間の都合で動いてゆくから、鳥たちのために海に浮かんではいないから。



 考えるほどに、無さそうなツバメの休憩場所。翼を休めるだけならともかく、眠れる場所や島が無ければ、南の国には着けないのに。疲れてしまって海に落っこちそうなのに。
(…どうなってるの?)
 ツバメの寝場所は何処にあるの、と首を捻っていたら、チャイムの音。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、訊いてみようと切り出した。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、ツバメのことなんだけど…」
「ツバメ?」
 いきなり何だ、と怪訝そうだから、「ツバメだよ」と繰り返した。
「小鳥のツバメ…。前に教えてくれたでしょ。授業の時に、雑談で」
 ツバメが低く飛ぶと雨だ、って昔の日本の言い伝えを。
 今日の帰りに思い出したけど、ぼくが見た鳥はツバメじゃなくって、別の小鳥で…。
 気が付いたんだよ、最近、ツバメを見ないよね、って。
「ああ、ツバメか…。行っちまったろうな」
 南の国へ飛んでったろう。此処はこれから寒くなるから。
「もう行っちゃったの?」
 ツバメにはやっぱり寒すぎるんだね、今の季節でも。
「そいつはどうだか分からんが…。年にもよるしな、気温ってヤツは」
 しかし、ツバメは九月の終わりには集まるもんだ。旅に備えて、あちこちからな。
 決まったねぐらというヤツがあって、河原が多いと聞いてるが…。茂ってる葦に隠れられるし。
 其処に沢山集まって来てだ、暫くの間は大騒ぎらしいぞ。ツバメだらけで。
 渡る仲間が全部揃ったら、一斉に旅に出るわけだ。
 春に南からやって来たヤツも、今年生まれた若いツバメも。



 ねぐらに集まるツバメたち。旅に出る前に、あちこちの場所から集合して。
 何日か賑やかに騒ぎ続けて、それから南へ旅立つという。隠れ場所だった、ねぐらを離れて。
「群れで渡って行くんだね」
 お父さんのツバメも、お母さんのツバメも、子供のツバメも。
 ねぐらで初めて会った仲間も、みんな一緒に群れを作って。
「まあ、最初はな」
 群れなんだろうな、最初の間は。
「最初?」
 なんなの、最初の間って。…群れを作って旅に出るんでしょ、みんなでねぐらに集まってから。
「そういう仕組みになってはいるが…」
 集まってから旅に出るわけなんだが、ツバメってヤツは、群れじゃ渡らん。
「え?」
 群れじゃないって、どういうことなの?
 みんなで一緒に旅に出るんでしょ、途中でグループに分かれちゃうの?
 仲良しの仲間と一緒に飛ぶとか、家族で飛んでゆくだとか。
「グループでもない。一羽ずつ飛んでいるんだそうだ」
 海の上でツバメの渡りに出会った人たちがそう言っている。一羽ずつ飛んで来るんだ、と。
 群れでドッサリ来るんじゃなくって、一羽通って行ったと見てたら、また一羽、とな。
「一羽ずつって…。それじゃ、寝る時だけ島に集合?」
 ねぐらに集まる時と同じで、夜になったら、みんなで島に降りるとか。
「そうなるな」
 島でもバラバラってことはないだろう。集まっている方が安全だから。
 何処にでも天敵はいるもんだしなあ、一羽だけだと狙われやすい。その点、群れだと安心だ。
 沢山いるな、と敵の方でも腰が引けるってことはあるから。



 群れでは渡らないツバメ。海の上では一羽ずつ。けれど夜には島で一緒に眠るらしいから…。
「やっぱり島はあるんだね」
 ツバメが旅をする時には、島。ちゃんとみんなで降りるんだから。
「島って…。今度は何の話だ?」
 お前、ツバメと言ってなかったか、ツバメの次は島なのか?
「そっちを訊こうと思ってたんだよ。ツバメ、どうやって旅をするのか」
 南の国には、一日で着けるわけないし…。うんと遠いし、どうするのかな、って。
 寝ないと飛べなくなってしまうし、休憩できる島が要るでしょ?
 南の国まで渡る途中に、降りて眠れる島とかが無いと…。
 島があるなら、安心だよね。地図に載らない小さな島でも、ツバメには充分、広いだろうし。
「おいおい、島って…。いつもあるとは限らんぞ?」
 まるで無いってこともないがだ、島が途切れる場所だってある。何処まで飛んでも海って所。
 昼の間にせっせと飛んでも、島なんか見えて来ない場所がな。
「島が無いって…。じゃあ、どうするの?」
 船があったら降りられるけれど、船があるとは限らないんだし…。
 ツバメ、寝ないで飛んで行くわけ、降りられる島が見えて来るまで…?
「それじゃ身体が持たんだろうが。飛ぶだけの力は蓄えてるから、飛び続けられるが…」
 人間と同じで、寝ないと馬鹿になっちまう。頭が回らなくなって。
 だからツバメは飛びながら寝るんだ。寝不足で馬鹿にならないようにな。
「飛びながら寝るって…。落っこちちゃうよ?」
 居眠りしちゃって、机に頭をぶつけるのと同じ。気が付いたら海の中じゃない…!
「それが、片目は開いているらしい。ちゃんと起きてて、周りも見ている」
 身体が半分ずつ眠るわけだな、目を瞑っている方の半分だけが。
「半分ずつって…。器用すぎるよ!」
 身体の半分はグッスリ寝ていて、片方は起きているなんて…!
 それで寝られて疲れが取れるって、ツバメ、物凄く器用なんだけど…!



 前のぼくでも絶対に無理、と悲鳴を上げた。
 片方の目を瞑りながら飛ぶツバメたち。目を瞑った方の身体の半分、それは飛びながらも眠って休憩。寝不足で頭が鈍らないよう、身体の半分を眠らせて飛ぶ。
 そんな飛び方は、ぼくでも無理、と。
「ぼくがツバメなら、落っこちちゃう…」
 身体を半分、眠らせるなんて出来ないから…。疲れてしまって落っこちちゃうよ。
 寝不足になって頭が疲れて、アッと思ったら海の中だよ、落っこちちゃって。
「落ちるって…。今のお前がか?」
 サイオンがとことん不器用だしなあ、落ちるよりも前に飛べんと思うが。
「前のぼくでも落っこちるよ!」
 身体を半分眠らせるんだよ、それで飛べると思っているの?
 前のぼくが目を片方閉じたら、そっちの半分、寝られると思う?
 其処まで器用なことが出来るなら、前のぼくの寿命はもっと長かったよ、絶対に…!
 休憩時間が倍になるから、身体が疲れないんだもの。
「そんなトコだろうな、前のお前でも無理だろう」
 人間の身体はツバメと違うし、半分だけ起きているのはなあ…。
 出来ないのが普通で、出来たら、それこそ化け物だ。ミュウどころじゃない、別の生き物。
 ツバメは器用に出来ちゃいるがだ、そのツバメ…。



 もしも、と鳶色の瞳に見詰められた。「お前がツバメだったとしたら…」と。
「お前、不器用なんだしな?」
 ツバメになっても、そいつはきっと変わらんだろう。
 お前がツバメになっていたなら、俺が一緒に飛んでやるから。
 普通は一羽ずつ渡るらしいが、そんなことは言っていられないってな。
「え…?」
 ハーレイが一緒に飛んでくれるって、どういう意味?
「片方ずつ眠れないんだろ、お前」
 身体の半分は眠らせておいて、もう片方は起きるってヤツ。
 それが出来なくて落っこちちまうと、お前、自分で言ったじゃないか。
「うん…。多分、ツバメになっても無理…」
 不器用だから、他のツバメなら出来ることでも出来そうにないよ。
 片方だけ眠ればいいんだから、って他のツバメが教えてくれても、ぼくには無理そう…。
「ほらな。だから俺が一緒に飛んでやるんだ、お前とな」
 前に話してやらなかったか、比翼の鳥というヤツを。
 二羽で一緒に飛んでゆく鳥だ、いつも決して離れないで。
 一緒に飛ぶから、翼も目玉も片方ずつしか持っていないってな。身体は一つなんだから。
「聞いたね、そういう鳥のお話」
 雄と雌とがいつも一緒で、何処へ行く時も離れないって。
「俺たちは雄のツバメ同士だが、そんな感じで支えてやるさ」
 身体は一つになってなくても、お前が眠って落っこちないよう、俺が頑張って支えてやる。
 海に落っこちそうになるよりも前に、お前の翼を俺が支えて。
 眠くて飛べないお前の身体を、俺が半分ずつ眠らせてやれるわけだな、うん。
 俺と一緒なら飛べるだろ、お前。自分では眠れなくてもな。
「そうかも…!」
 身体を片方休められら、きっと落ちずに飛んで行けるね。
 ぼくが眠ってしまっていたって、身体の半分、ハーレイが起こしてくれそうだから。



 そう、ハーレイとなら何処までも飛べる。
 海の上に降りられる島が無くても、翼を休められる船が何処にも見えなくても。
 眠りながらでも、ハーレイの翼に支えて貰って。きっと落っこちたりはしないで。
「良かった…。ツバメになっても、ハーレイがいれば落っこちないよ」
 うんと不器用なツバメでも。…身体の半分、寝ながら飛べないようなツバメでも。
「安心しろ。俺は絶対、お前を落としはしないから」
 前の俺みたいに、お前を失くすのは御免だからな。眠る時間が無くなったって、お前を支える。
 俺は半分寝たりはしないで、両方とも起きて、お前と飛ぶんだ。休める所に降りられるまで。
 だが、ツバメか…。
 ツバメなんだな、とハーレイが溜息を零したから。
「どうかしたの?」
 ハーレイ、ツバメに何か思い出でもあるの?
「思い出というか…。幸福な王子って話、知らないか?」
 王子様の像と、ツバメが出て来る話なんだが。
「知ってる。古い童話だよね」
 前のぼくたちが生きてた頃より、ずっと昔に生まれた童話。人間が地球しか知らなかった頃に。
「ツバメは幸せの鳥なんだが…。世界中、何処でもそうだったらしい。昔からな」
 日本でも同じで、ツバメは幸せを運んで来ると言われていたんだが…。
 あの話、思い出しちまった。幸福な王子。



 ハーレイの顔は、溜息と同じに少し曇っているようで。
 ツバメは幸せを運ぶ鳥なのに、何故、そうなるのか分からないから。
「幸福な王子…。幸せを運ぶよね、あのお話に出て来るツバメも」
 お金が無くて困っている人に、宝石や金を届けてあげて。…貧しい人たちを沢山助けて。
 王子様の像は、すっかり剥げてしまうけど…。
 宝石も金も剥がれてしまって、最後は捨てられちゃうんだけれど。
「それだ、それ。…俺が言うのは、そこの所だ」
 前のお前みたいだと思ってな。幸福な王子の話が、そのまま。
「えっと…。前のぼくって、あのツバメが?」
 王子様のお手伝いで幸せを配りに、あちこちに飛んで行ってたツバメ?
「ツバメじゃなくて、王子の方だ」
 とても綺麗な像だったのにな、町の自慢の立派な像。
 なのに、王子は優しかったから…。自分の身体を飾る金も宝石も、何もかも全部与えちまった。
 それがあったら助かる人たち、そういう人が貰うべきだと、ツバメに頼んで運んで貰って。
 まるでお前だ、前のお前にそっくりだ。
 シャングリラに乗ってたミュウの仲間たちに、自分の幸せを分けて、せっせと分け与えて。
 自分の幸せは全部後回しで、いつも仲間が優先だった。「みんなのために」と。
 そうやって生きて、最後はメギドで命まで捨てて…。
 前のお前の生き方ってヤツは、幸福な王子そのままなんだが…。



 その生き方、とハーレイがまた零した溜息。フウと大きく、辛そうな顔で。
「俺が手伝っちまったような気がしてな…」
 前のお前が王子の像なら、俺はツバメの方なんだ。
 お前の身体を飾る宝石や金を、お前に言われるままに剥がして、運んだツバメ。
 すっかりみすぼらしくなるまで、最後に残った金箔を剥がしちまうまで。
「そうだった…?」
 前のハーレイがツバメだったなんて、どうしてそういうことになるわけ?
 ハーレイはいつも守ってくれたよ、ぼくのことを。
 いつだって優しくて、チビだった頃からずっと一緒で…。ツバメとは違うと思うけど…。
「それはお前の心のことで、お前とはまた別だってな」
 前のお前という存在。ソルジャー・ブルーと呼ばれた人間。
 俺が一番古い友達で、お前の恋人だったのに。
 友達にしたって、恋人にしたって、俺はお前を誰よりも先に守らなきゃいけなかったのに…。
 俺がキャプテンだったばかりに、お前の幸せ、どんどん分けてしまったような…。
 お前を優先してやる代わりに、他の仲間に届けに行って。…前のお前の分の幸せ。
 しかもメギドに行くと知ってて、前の俺は止めなかったんだ。
 あの話のツバメそのものだろうが、王子の像から目の宝石を抜き取ったツバメ。
 それを抜いたら、王子の目は見えなくなっちまうのに。
 そうなることが分かっているのに、ツバメは王子に頼まれるままに、抜き取っちまった。
 やっては駄目だと思っていたって、それが王子の望みだったから。
 前の俺がしたのも、それと全く同じだってな。
 メギドに行くんだと分かっていたのに、お前を止めはしなかった。
 そうすることが前のお前の望みで、お前が行ったら仲間の命を助けることが出来るんだから。



 本当にツバメそのものだった、とハーレイが悔しげに噛んだ唇。
 「俺は幸福な王子の像から、何もかもを剥がしたツバメなんだ」と。
「ツバメが最後に剥がしていくのは、金箔だったが…。目の宝石じゃなかったんだが…」
 順番なんかはどうでもいいんだ、俺がそいつをやっちまったことが問題だ。
 前のお前の幸せを全部、仲間たちに配って分けちまったこと。
 金箔や宝石を剥がす代わりに、あの船で皆が生きてゆくのに必要な幸せというヤツを。
 本当だったら、前のお前が持っていた筈の幸せを。
 …悪いことをしちまった、前のお前に。
 俺は運んじゃいけなかたのに…。
 いくらお前の望みがそれでも、運んじまったら、お前の幸せも命も、全部…。
「それがハーレイの仕事だったんだもの、仕方がないよ」
 キャプテンなんだし、船の仲間を守らなきゃ。仲間たちの命も、幸せだって。
 船の仲間が幸せでないと、キャプテン失格になっちゃうよ?
 それにハーレイも、あのお話のツバメとおんなじ。
 ツバメは王子様のお手伝いをしている間に、南の国へ渡り損ねて死んじゃった…。
 寒くなってしまって、身体が凍えて。
 王子様に「さよなら」って伝えるのだけが精一杯で。
 ハーレイは凍えて死んでしまう代わりに、地球に着くまで、ずっと悲しんで泣き続けてた。
 ぼくが死んだのは自分のせいだ、って何度も何度も後悔して。
 …ごめんね、ぼくの手伝いをさせて。
 前のぼくの幸せ、仲間たちに運んで分けてあげて、って頼んでしまって。



 ごめん、とハーレイに謝った。「そんなつもりじゃなかったんだよ」と。
 ハーレイが前の自分の上に重ねた、幸福な王子。遠い昔に書かれた童話。
 幸福な王子は、自分の身体を飾る宝石や金を失くして、みすぼらしくなってゆくけれど。輝きを失くしてゆくのだけれども、前の自分はそうではなかった。
 宝石も金も無かった船でも、ソルジャーとして皆を導かねばならない立場でも。
 最後はメギドで命まで捨ててしまったけれども、輝きはきっと失くしていない。みすぼらしくもなってはいない。大切なものは持っていたから、それを失くしはしなかったから。
「前のぼく、幸せを分けてしまったかもしれないけれど…」
 多分、本当にそうだったんだとは思うけれども、幸せだったよ。…どんな時でも。
 前のぼくは幸せだったから…。シャングリラで暮らしていられただけで。
 幸せじゃないと思ったことなんか一度も無いよ。
 ぼくの幸せ、いつもしっかり持っていたから。…誰にも分けてしまわないで。
「そうなのか?」
 お前、何もかも分けちまったのに…。俺がそいつを配っていたのに、持っていたのか?
 誰にも分けずに持っていたなんて、俺には信じられないんだが…?
「ちゃんと持っていたよ、分けないままで独り占めだよ」
 分けてしまうわけないじゃない。…ぼくの側にいてくれた、友達で恋人だった前のハーレイを。
 誰にも分けるつもりなんか無いし、頼まれたって分けてあげない。
 前のハーレイは前のぼくだけのもので、一番大切な友達で恋人だったんだから。
 いつも頑張っていられたのだって、ハーレイが一緒に飛んでいてくれたからなんだよ。
 ツバメになって海の上を飛んでいく時みたいに、支えてくれて。
 ぼくが眠って落っこちないように、ハーレイが隣を離れずに飛んでいてくれて。



 前のハーレイと一緒に飛んでいたから幸せだった、と微笑んでみせた。
 ハーレイと二人で海を越えて飛んで、いつも支えて貰っていたと。
「ホントだよ? 前のハーレイと、いつでも一緒」
 眠っちゃっても、ハーレイが隣を飛んでくれていたから、落ちずに飛んでいられたよ。
 もう駄目だ、って海に落ちたりしないで、最後まで飛んで行けたんだよ。
 …地球までは飛べなかったけど…。南の国には着けなかったけど。
「お前もツバメか、王子じゃないのか?」
 王子の像だと思うんだがなあ、前のお前は。
 幸せを全部ツバメに配らせちまって、何もかも失くしちまった王子。…命さえもな。
「王子様じゃないよ、あのお話の王子みたいに偉くはなかったよ」
 ぼくの幸せは誰にも分けずに、最後まで独り占めだったから。誰にも配らなかったから。
 ハーレイを分けてあげたりしないよ、ぼくの大事な恋人だもの。
 だから幸せは失くしていないよ、全部配ってはいないんだよ。…一番大切だった分はね。
 それで失敗しちゃったのかな?
 自分の幸せを独り占めして抱えていたから、罰が当たって落としたかな…?
 ハーレイの温もり、最後まで持っていたかったのに…。
 メギドで失くして右手が凍えて、前のぼく、泣きながら死んじゃった…。独りぼっちで。
 幸せを独り占めしていた罰かな、誰にも分けてあげないよ、って。
「馬鹿。…前のお前は配り過ぎたくらいだ、王子よりもな」
 自分の幸せを配り続けて、全部みんなに分けちまって。
 最後は俺とも離れちまった、前のお前は独り占めしようとしていたのにな…?
 俺を誰にも配らないのが、お前の幸せだったのに…。
 その俺を仲間たちのために分けちまったんだ、最後の最後に。
 キャプテンの俺がいなくなったら、シャングリラはどうにもならないんだから。



 お前は俺まで配っちまった、とハーレイが零した深い溜息。「本当に全部配ったんだ」と。
「幸せを配る手伝いをしてた、ツバメまでお前は配っちまった」
 ツバメは俺だったんだから。…俺がお前の幸せを分けて、仲間に配っていたんだから。
 そのツバメまでも、前のお前は仲間たちのために残していった。
 シャングリラを地球まで運ばせるために、みんなが幸せになれるようにと。
 幸福な王子は、ツバメを失くしやしなかった。
 ツバメは最後に凍えて死ぬまで、王子の側にいたんだから。…何処へも飛んで行かないで。
 王子に「さよなら」のキスをした後、ツバメは王子の足元に落ちて死んじまうがな…。
 その瞬間に、王子の鉛の心臓も壊れてしまうだろうが。
 王子は最後までツバメと一緒だったんだ。死んで天国に昇る時まで。
 …だがな、前のお前は最後は一人きりだった。仲間たちのために俺を残して行ったんだから。
 そうじゃないのか、と言われれば、そう。
 幸福な王子はツバメと離れなかったけれども、前の自分はツバメと別れてメギドに飛んだ。
 ツバメの仕事は、幸せを運ぶことだったから。
 前の自分がいなくなった後も、皆に幸せを配り続けて欲しかったから。
 キャプテンとして船の舵を握って、宇宙の何処かにある筈の地球へ。
 青く輝く水の星まで、シャングリラを運んで欲しかったから。
(…前のぼく、ツバメまで配っちゃったの…?)
 幸福な王子は宝石も金も失くした後にも、ツバメと一緒だったのに。
 鉛の心臓が壊れる時まで、ツバメは王子の側にいたのに。
 それを思えば、前の自分は本当に幸せを全部配ってしまった、幸福な王子だったのだろう。
 皆に幸せを運ぶツバメを、前のハーレイを皆に配ってしまったから。
 ツバメがいないと青い地球まで行けはしない船、それをツバメに託したから。
 誰にも分けずに独り占めしていた、前のハーレイ。
 そのハーレイを皆に配って、一人きりでメギドに飛び去った自分。
 これでいいのだと、ハーレイの温もりだけを右手に持って。
 ずっと一緒だと、心はハーレイと一緒なのだと、ツバメとも別れて、たった一人で。



 そうやってメギドに飛んだというのに、温もりを落として失くした自分。
 幸せのツバメを仲間たちに配って、独りぼっちで泣きじゃくりながらメギドで死んだ。ツバメは側にいなかったから。幸福な王子でも配らなかった、ツバメまで配ってしまったから。
 自分の幸せを配り尽くして、独りぼっちで死んでいったけれど。
 死よりも恐ろしい絶望と孤独、それに包まれて前の自分の命は終わってしまったけれど…。
「えっとね…。前のぼく、ホントに配り過ぎちゃったかもしれないけれど…」
 前のハーレイまで配ってしまって、独りぼっちになっちゃったけど…。
 ちゃんと幸せだよ、またハーレイと生まれて来たよ?
 青い地球まで来られたんだよ、前のぼくは地球まで飛ぶよりも前に落っこちたのに…。
 南の国には辿り着けなくて、海に落っこちちゃったのに…。
 ハーレイと離れて飛んでいたから、支えて貰えなくなって、もう飛べなくて…。
 だけど地球だよ、ハーレイと二人で青い地球に生まれて、また会えたんだよ。
「そいつが神様の御褒美ってヤツだ」
 幸福な王子の話と同じで、頑張ったから。
 神様が天国に運ぶ代わりに、地球に連れて来て下さったってな。
 お前、その方が嬉しいだろうが。天国で暮らしていたかもしれんが、青い地球の方が。
「青い地球、ずっと見たかったから…。天国よりも、今の地球の方がいいよ」
 ハーレイも御褒美、貰ったんだね。ぼくと一緒に地球に来たもの。
 頑張って幸せを配っていたから、神様が御褒美、くれたんだね。
「どうだかなあ…?」
 俺の場合は、お前が貰った御褒美のオマケ、そんな所じゃないかという気がするんだが…。
 なにしろ幸せを配っただけだし、配っていたのは前のお前の幸せだから。
 お前、俺がいないと、どうにもならないようだしな?
 側でしっかり支えてやれ、って神様が俺をオマケにつけたんじゃないか、御褒美のオマケ。
「オマケじゃないと思うけど…。ハーレイがいないと駄目なのはホント」
 落っこちてしまうよ、寝てしまって。…半分眠って飛ぶなんてことは出来ないんだから。
「今度も支えてやらんとなあ…」
 前よりも不器用になっちまった分、余計に一人じゃ飛べそうにないしな、今のお前は。



 しかし…、とハーレイが顰めた眉。「今度は俺と飛ぶだけだぞ」と。
「俺と一緒に飛ぶのはいい。…いくらでも支えて飛んでやるから」
 前の俺と同じで、お前の側で。お前が不器用なツバメだったら、海に落っこちないように。
 だが、幸せは配るんじゃないぞ、前のお前とは違うんだから。
 幸せを分ける仲間はいないが、今から念を押しておく。…配るんじゃない、と。
 お前だけの幸せをしっかり持ってろ、誰にも分けたり配ったりせずに。
 欲張りなヤツだと思われたってだ、今度のお前は分けなくていい。お前の幸せはお前のものだ。
 お前が一人で大事に抱えて、誰にも分けずに独り占めってな。
「独り占めって…。誰にも分けずに、欲張りだなんて…」
 それでいいの、そんなことをしちゃっても…?
 お菓子でも何でも、独り占めより、分けた方がいいと思うけど…。
 その方が幸せな気分になれるし、分けて貰った人も幸せになれるのに…。
「絶対に分けちゃいかん、と言ってはいないぞ、俺は」
 お前だけの幸せを分けちゃ駄目だ、と言っているんだ。…前のお前がやったみたいに。
 俺まで配ってしまっただろうが、お前は独り占めしたかったのに。
 幸福な王子の話でさえもだ、王子はツバメを配ってしまいやしなかったのに。
 それなのに、お前は配っちまった。
 前のお前の幸せをせっせと、皆に運んで届け続けていたツバメをな。これも要るだろう、と。
 確かにツバメを配らなければ、シャングリラは地球まで行けたかどうか怪しいが…。
 それでも配りすぎだぞ、あれは。
 ツバメまで配った幸福な王子じゃ、可哀相すぎる。いくら立派な王子でもな。
 だから今度は配るんじゃない。お前だけの幸せは配らないで持ってろ、神様も許して下さるさ。
 前のお前が配り過ぎたからな、仲間たちのことばかりを考え続けて。
 ツバメも配っておかないと、と俺を仲間たちのために船に残して、一人で飛んで行っちまった。
 幸福な王子でも、ツバメは最後まで配りはしないで、一緒に天国に昇るのに…。
 ツバメの方だって、王子を残して南の国へは行かずに残っていたのにな…?
 凍えて死ぬんだと分かっていたって、ツバメは王子の側にいたんだ。
 王子には自分が必要だからと、支えて一緒に飛ばなければ、と。
 そのツバメを配ってしまったのが前のお前ってヤツで、配られたツバメの気分ときたら…。



 俺も悲しい気持ちだったが、お前はもっと辛かったよな、と大きな手で優しく撫でられた頭。
 「ツバメまで配っちまったなんて」と、「何もかも配っちまったなんて」と。
 今度のお前は、ちゃんと幸せにならないと…、と微笑むハーレイが側にいてくれるから。
 前の自分を支え続けて、飛んでいてくれたのがハーレイだから…。
(きっと幸せになれるんだよ)
 いつか大きく育ったら。
 前の自分と同じに育って、ハーレイと二人で暮らし始めたら。
 眠ってしまって海に落っこちないよう、今度もハーレイと一緒に飛ぼう。
 ツバメは一羽ずつ海を渡って飛んでゆくけれど、ツバメだとしても、ハーレイと二人。
 前の自分がそうだったように、ハーレイの翼に支えて貰って。
 いつまでも、何処までも、ハーレイと二人で青い地球の上を飛び続けよう。
 二人なら、きっと幸せだから。
 今度はハーレイと離れないから、もうハーレイまで配らなくてもいいのだから…。




             幸福な王子・了


※幸福な王子そのものだった、とハーレイが言う、前のブルーの生き方。全てを皆に配って。
 最後はツバメまで配ったのですが、今度はツバメと何処までも一緒。長い渡りをする時にも。
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(ふふっ…)
 美味しそう、とブルーが眺めたアップルパイ。学校から帰って、おやつの時間に。
 母の手作り、サクッとした艶やかなパイ皮の下に、甘く煮てある金色のリンゴ。大好きなパイの一つだけれども、それをお皿に載せてくれた母が、熱い紅茶をカップに淹れながら。
「バニラアイスを添えてもいいわよ、今日は冷えないみたいだから」
 昼間もポカポカ暖かかったし、たまにはアイスも食べたいでしょう?
「ホント!?」
 いいの、いつもは「冷えるから駄目」って言われちゃうのに…。
「今日は特別。でも、食べ過ぎちゃ駄目よ?」
 アップルパイじゃなくて、アイスの方。沢山食べないって約束するなら。
「約束する!」
 もっと頂戴、って言わないから。ママが許してくれる分だけ。
「はいはい、それじゃ取って来るわね」
 ママが入れるわ、と母が冷凍庫から取って来てくれたバニラアイス。それにスプーンも、掬ってお皿に盛り付けるために。
 けれど、最近は滅多に出番が無いアイス。暫く蓋を開けていないから、固く凍って…。
「ママ、もっと入れて。これじゃ少なすぎ…」
 スプーンに山盛り一杯も無いよ、食べた気分がしないよ、これじゃ。
「分かってるけど…。アイスがもう少し柔らかくなってくれないと無理ね」
 見れば分かるでしょ、固いのよ。ほらね、スプーンは刺さるんだけど…。



 削るくらいしか出来ないのよ、と母がアイスを削ろうとしたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。この時間ならば、ハーレイではなくて、お客さん。ご近所さんとか。
 出るのは母だし、「自分でやるよ」と伸ばした手。
「アイス、続きはぼくがやるから…。スプーン、ちょうだい」
 食べ過ぎないよ、大丈夫。スプーンに山盛り、あと二杯くらい。
「約束、ちゃんと守るのよ?」
 それから、アイスを冷凍庫にきちんと返しておくこと。忘れないでね、溶けちゃうから。
 食べ始める前に冷凍庫、と注意してからスプーンを残して出て行った母。玄関の方へ。そのまま戻って来ないものだから、きっと立ち話をしている筈。お客さんと。
(んーと…)
 そろそろかな、とスプーンで掬ってみたアイス。丁度いい柔らかさになっていたから、滑らかなアイスを上手に掬えた。盛り付けた感じも、お店みたいに綺麗な形。
 スプーンに山盛り二杯分、とアップルパイの隣に添えて、閉めたアイスクリームの蓋。
(食べる前に、ちゃんと冷凍庫…)
 溶けちゃうもんね、と返しに出掛けた冷凍庫。キッチンまで。
 アイスはこの辺、と扉を開けたら、色々詰まっている中身。他の味のアイスや、食材やら。
(綺麗…)
 模様みたい、と眺めた、冷凍できるガラスの器に咲いた花。表面についた氷の花。
 指で触ったら溶けてしまうけれど、細かくて綺麗で…。
「ブルー?」
 開けっ放しにしないでちょうだい、冷凍庫の中身、溶けちゃうでしょう…!
 何をしてるの、と母に叱られて、慌てて閉めた冷凍庫。
「ごめんなさい…!」
 ちょっと中身に見惚れちゃってた、と謝って戻ったダイニング。お皿に盛られたバニラアイスは無事だったから、美味しく食べた。アップルパイと一緒に頬張って。



 素敵だった今日のおやつの時間。思いがけなく食べられたアイス。「駄目」と言われずに。
 御機嫌で二階の部屋に戻って、座った勉強机の前。頬杖をついて。
(氷の花…)
 綺麗だったよね、と思い浮かべた冷凍庫。ガラスの器に咲いていた花、とても小さな氷の結晶。
 氷が張るような真冬になったら、この部屋の窓にも咲いたりする花。窓のガラスを彩る花たち、様々な模様を描き出しながら。
 今の季節はまだ咲かないから、冷凍庫でしか出会えない。とても綺麗な花なのに。
(神様が作る花なんだものね?)
 綺麗で当然、と冷凍庫で見た氷の花たちを思い出す。冬に窓ガラスを飾る花たちも。
 氷の花は、生きた花ではないけれど。命を持ってはいないのだけれど。
 それでも自然が作り出す花で、神様が作って咲かせる花。
 冬の間しか咲いてくれない、寒い日だけに開く花たち。太陽の光で溶けてしまうまで、ガラスの表に咲き続ける花。
(白くて、キラキラ光ってて…)
 冬の日の窓には花が一杯、と窓に視線を遣ったのだけれど。あそこに咲くよ、と雪景色と一緒に頭に描いてみたのだけれど…。
(氷の花…?)
 怖い、と急に掠めた思い。「氷の花は怖い」と思う自分がいる。
 あれは嫌い、と。怖くてとても恐ろしいから、と。



(なんで…?)
 変だ、と手繰ってみた記憶。
 ガラスに咲いた氷の花が何故怖いのかと、指で触れれば直ぐに溶けるような花なのに、と。
 冷凍庫の中に咲いていたのを触った時にも、凍えはしなかった自分の右手。氷の花は儚いから。指の先から手を凍らせはしないから。メギドで凍えた悲しい記憶を秘めた右手でも。
(あんなの、怖くない筈なのに…)
 どうして怖いの、と前の自分の記憶を手繰る。今の自分ではない筈だから。
 氷の花、と遥かな時の彼方へ遡ったら…。
(アルタミラ…!)
 実験動物として囚われていた頃、低温実験のために入れられたケース。
 中の温度が下がり始めると、強化ガラスで出来たケースに氷の花が幾つも開き始める。ケースの端の方からだったり、下から一気に咲き始めたり。
 氷の花が次から次へと咲いてゆくのだけれども、その花に囲まれた自分の身体は…。
(シールドしないと、寒すぎて火傷…)
 多分、凍傷と言うのだろう。まるで火傷のように痛くて、肌も身体も損なわれてゆく。
 何度もやられて、治療をされて。傷が癒えたら、次の実験。
 絶対零度のガラスケースもあったと思う。
 白衣を纏った研究者たちに、「化け物」と罵られて、押し込められて。
 凍りついてゆくケースの中で一人、氷の花が咲くのを見ていた。また咲き始めた、と。
 今日は何処まで耐えられるだろうと、とても寒いと、寒すぎて死んでしまいそうだ、と。



 大嫌いだった、と思い出した低温実験のケース。
 強化ガラスに咲く氷の花は怖くて、まるで死の世界に咲いているかのよう。氷の花たちに身体をすっかり埋め尽くされたら、きっと自分は死ぬのだから。
 けれど…。
(好きだったよ…?)
 嫌いだった筈の氷の花が。今の自分ではなくて、前の自分が。
 白いシャングリラの展望室やら、降り立ったアルテメシアやら。其処で目にした氷の花たち。
 綺麗、と溶けてゆくまで見ていた。飽きることなく、冷たい氷の結晶たちを。
 なんて素敵な花なのだろうと、神様が咲かせた氷の花だ、と。
(神様…?)
 ふと引っ掛かった、「神様」という言葉。今の自分なら、神様の花でいいけれど。
 前の自分は、どうして神だと思ったのだろう。神様が咲かせる花なのだ、と。
 低温実験の時に見たのは、地獄で咲いた氷の花。命を奪おうとして咲き始める花。
 命は失わなかったけれども、酷い凍傷を負わされた花。
 あの花たちを、神が咲かせたわけがないのに。
 咲かせる者がいたとしたなら、神ではなくて悪魔だろうに。



(でも、神様…)
 前の自分は、確かにそうだと思って見ていた。展望室で、アルテメシアで。
 綺麗な花だと見惚れたけれども、神が咲かせたと考えた理由が全くの謎で分からない。悪魔の花なら、まだ分かるのに。…慣れて平気になっただけなら、まだしも理解できるのに。
 何故なの、と首を捻っていたら聞こえたチャイム。今度はお客様ではなかった。窓に駆け寄ってみたら門扉の向こうで手を振るハーレイ。前の生から愛した恋人。
(キャプテン・ハーレイ…)
 もしかしたら知っているかもしれない、氷の花の記憶のことを。前の自分が神様の花だと考えた理由、それをハーレイは知っているかも、と。
 そう思ったから、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。氷の花って知っている?」
 氷で出来た花のことだよ、本物の生きた花じゃなくって。
「花氷か?」
 もちろん俺も知ってはいるが…。涼しげでいい感じだな、あれは。
「え?」
 涼しそうって…。それ、夏みたいに聞こえるよ?
「夏のものだろうが、花氷は。…冬でもパーティーとかに行ったら、飾ってあるかもしれないが」
 花を閉じ込めて凍らせたヤツだろ、花氷。お前が言ってる氷の花は。
「違うよ、本物の花じゃないって言ったよ、ぼくは」
 冬になったら窓に出来るでしょ、氷の花。寒い日に窓のガラスに咲いてる、氷の結晶。
「あれか、氷の花というのは。…言われてみれば、確かに花だな」
 車の窓にも咲いてるぞ。寒い朝だと、もう一面に白い氷の花ってな。
「分かってくれた? その氷の花、今日、冷凍庫で見たんだけれど…」
 アイスクリームを入れようとしたら、ガラスの器に一杯咲いてて、とっても綺麗で…。
 見惚れちゃってて、冷凍庫の戸が開けっ放しで、ママにちょっぴり叱られちゃった。
 今のぼくもアレ、好きなんだけど…。氷の花は大好きだけど…。



 前のぼくは嫌いだったみたい、とアルタミラにいた頃の話をした。強化ガラスのケースで開いた氷の花。命を奪う花が怖くて、恐ろしかったと。
 それなのに、好きになっていた花。神様が咲かせる花だと思って見ていたくらいに。
「…どう考えても悪魔の花でしょ、低温実験の時に咲くんだから」
 ぼくはいつでも死んでしまいそうで、このまま死んでしまうのかも、って思ってて…。
 神様が咲かせる花のわけがないよ、あれは地獄に咲いていた花で、悪魔の花。
 だけど前のぼくは、神様の花だと考えるようになっちゃって…。綺麗だな、って見惚れてて。
 そうなった理由、ハーレイ、知らない?
 前のぼくが「氷の花は、神様が咲かせる花なんだ」って、思い始めた理由は何か。
「…俺がか?」
 そいつは前の俺のことだな、とハーレイが自分の顔を指差したから。
「うん、ハーレイなら知ってるかも、って…」
 前のハーレイ、ぼくの一番の友達だったし、友達の後は、恋人同士。
 ずっと同じ船で暮らしていたから、ハーレイだったら、知っているかもしれないでしょ?
「そう来たか…。だが、いつも一緒にいたってわけではないからなあ…」
 俺が知らない間ってことも、まるで無いとは言えないぞ?
 ゼルとかヒルマンとか、仲間は大勢いたんだから。…あいつらが知っていたかもしれん。
 神様で、それで氷の花なあ…。
 地獄に咲いていた筈の花が、神様の花になる理由だな…?



 果たして俺が知ってるかどうか…、とハーレイは腕組みをしたけれど。遠い記憶を手繰り寄せてみては、眉間に皺を何度も刻んでいたけれど…。
「アレだ、シャングリラの窓だ」
 白い鯨になる前の、と探り当てたらしい氷の花。それに纏わる遠い遠い記憶。
「シャングリラ…?」
 それに、白い鯨になる前だなんて…。そんな頃なの、前のぼくの話?
「いいから聞け。こいつはお前が思っているほど、単純なモンじゃないってな」
 シャングリラって名前があったかどうかも怪しいくらいに、ずっと昔の話なんだ。一番最初は。
 前のお前が、俺と一緒に歩いていた頃。…今のお前みたいなチビの頃だな。
 まだリーダーにもなっていなくて、俺の後ろにくっついていた。でなきゃ、隣を歩いていたか。
 そうやって俺と歩いていた時、たまたま窓の側を通った。あの船にも窓はあっただろ?
 窓の向こうは宇宙なんだし、船の中より遥かに寒い。恒星の近くを飛んでいない時は。
 そういう時には、窓に氷の花が咲いてた。真っ暗な宇宙に星が幾つか、それと氷の花とだな。
 俺たちにとっちゃ、馴染みの景色というヤツなんだが…。
 そいつをお前が怖がったんだ。きっと、気付いてしまったんだな、氷の花だということに。
 これは嫌い、と窓の側でブルブル震え始めて…。
「思い出した…!」
 何が見えるの、って窓を覗き込んだら、星の代わりに氷の花が咲いていて…。
 いつもだったら気にならないのに、ガラスケースで咲いていた花とおんなじだ、って…。



 前の自分が重ねた記憶。窓のガラスと、低温実験の時の強化ガラスで出来たケースと。
 どちらにも咲いた氷の花。…凍らせて命を奪い取ろうと、幾つも幾つも咲いていった花。
 俄かに怖くなったのだった。アルタミラの時代が蘇るようで、凍ってゆくケースに引き戻されてしまいそうで。
 氷の花が咲いているから、氷の花は恐ろしいから。咲いたら死ぬかもしれないから。
 ガクガクと震え始めた身体。「怖い」とハーレイにしがみ付いて。
 「どうしたんだ?」とハーレイは抱き締めてくれたけれども、氷の花は恐ろしい。アルタミラで何度も咲いていたから、咲いたら凍ってゆくのだから。身体も命も、何もかもが。
 泣きながら「怖いよ」と訴えた自分。「これは嫌い」と、「死んでしまう」と。
 逃げ出したいのに、少しも動いてくれない足。氷の花が咲いた窓から逃れられない。ハーレイの身体に縋り付いたまま、ブルブルと震え続けていたら…。
「なんだ、こいつが怖いのか。こんなのはだな…」
 震えなくても、こうすりゃ消える。なんてことはないさ、こういう船の中ならな。
 此処はアルタミラじゃないんだから、とハーレイが「見てろ」と指で溶かした氷の花。ガラスの表面をスイと撫でるだけで。
 「ほんの少しだけ凍った程度じゃ、人間の体温には勝てないんだぞ」と。
 こうだ、とハーレイの指が溶かしてくれた氷の花。一本の線を描くように。
「でも…。怖いよ、ぼくには出来なかったよ」
 実験でケースに入れられた時は、ただ寒いだけで、ぼくの指まで凍っていって…。
 あんな凍った指で撫でても、氷の花は消えやしないよ。もっと沢山咲いていくだけで、触ったら指にも花が咲いちゃう。…きっとそうだよ、一度も触っていなかったけど…。
「…可哀相に…。お前、すっかり、そういうモンだと思い込んでしまっているんだな」
 此処だと俺たちの方が強くて、こんな花なんか、触っただけで消えちまうんだが…。
 お前が怖くて触れないなら、俺が代わりに消してやる。氷の花くらいお安い御用だ、幾つでも。
 一つ残らず消せってことなら、手で撫でちまえば終わりなんだが…。
 そうするよりかは、きっとこっちの方がいい。いいか、こういう具合にだな…。



 よく見ていろよ、と大きな指でチョンとつついては、消していってくれた氷の花。温かな指先で溶かしてしまって、跡形もなく。
 氷の花は消せるものなのか、と目を丸くして眺めていたら、「消えるだろ?」と優しい声。
 怖がらなくても、船の中では俺たちの方が遥かに強いんだから、と。
 ついでだから絵でも描いてみるか、とハーレイが窓に描いていった絵。船にはいない鳥や動物、花や果物。けして上手くはなかったけれども、心が温かくほどけていった。
 氷の花は人に勝てはしないと、こんな風に絵を描かれちゃうんだ、と。
 絵を描くついでに、綴られた文字。「ハーレイ」、それに「ブルー」と二人の名前。
「…ハーレイ、窓に書いてくれたね、ぼくたちの名前」
 絵を描いた後に、サインみたいに。…相合傘じゃなかったけれど。
「相合傘か…。あの時の名前、並べて書いてはいたんだけどな」
 恋人同士ってわけじゃなくてだ、一番古い友達同士。並べて書いても変じゃないだろ?
 だから消さずに放っておいたし、後で誰かが見てたんじゃないか?
 こんな所で落書きしたなと、二人がかりで遊んでいたなと。…お前も書いたと思い込まれて。
 それに相合傘、あの頃の俺たちは知らないだろうが。
 相合傘は昔の日本の文化で、前の俺たちが生きた時代は何処にも無かったんだから。



 無理に決まっているだろうが、と苦笑いされた相合傘。窓に書けなかった悪戯書き。
 氷の花はとても怖かったけれど、それから後にも、ハーレイと一緒に窓の側を歩いて、氷の花が咲いていたなら、消して貰えた。気付いて足が止まった時には。
 「怖くないから」と、ハーレイの指で。
 絵を描いてみたり、文字を書いたり、何度も、何度も。「これで消える」と、武骨な指で。
 その内に慣れて、氷の花は怖くなくなったのだけど。
 咲いている窓の側を通っても、「凍っているな」と眺めるだけで、氷の花が怖かったことさえ、いつしか忘れていたのだけれど…。
 白い鯨に改造されたシャングリラ。其処に作った展望室。いつかは青い地球を見ようと。
 雲海の星、アルテメシアの雲に潜んで、もう子供たちを迎え始めていた頃。
 ある夜、ブリッジでの勤務を終えて、一日の報告に来たハーレイ。
 青の間でキャプテンの仕事を済ませた後に、「懐かしい物を見に行きませんか」と誘われた。
「遅い時間ですが、今でしたら誰もいないでしょうから…」
 如何ですか、私とご一緒に。…夜の散歩に。
「散歩って…。懐かしい物というのは、なんだい?」
 公園なのかな、それとも農場に行くとでも?
「おいでになれば分かりますよ」
 行き先は船の展望室です、この時間だと外は真っ暗でしょうが…。
 元々、雲しか見えませんしね。昼でも夜でも、あまり変わりはしないでしょう。…外の景色は。
 けれど、この時間が一番いいのですよ。懐かしい物をお見せするには。



 ハーレイは笑みを浮かべたけれども、心当たりが全く無かった「懐かしい物」。
 展望室は新しく出来た施設なのだし、懐かしくなるほど長い時間が流れてはいない。何を眺めに行くのだろうか、と思いながらも頷いた。
 ハーレイとは今も一番の友達同士で、二人でいたなら満ち足りた時間を過ごせるから。
 懐かしい物が見られると言うなら、なおのこと。…それが何かは分からなくても。
 青の間から二人、誰もいない夜の通路を歩いて、辿り着いた暗い展望室。ガラスの向こうは夜の闇だし、明かりも灯っていなかったから。ぼんやりと淡く、足元を照らす光だけしか。
 其処に入って見回したけれど、何があるというわけでもない。休憩用の椅子やテーブル、それが幾つか置かれているだけ。もちろん懐かしい家具とは違って、展望室に合わせて作られたもの。
 他には大きなガラス張りの窓、展望室という名前通りに。
 いつかは向こうに青い地球が見える日が来るだろうけれど、今は雲しか見えない窓。
 アルテメシアの太陽はとうに沈んでいるから、夜の雲が外を流れてゆくだけ。星の光さえ見えはしなくて、限りなく闇に近いのが窓。
 まるで漆黒の宇宙のように。
 アルテメシアまで旅をして来た、真っ暗な宇宙空間のように。



 こんな所にいったい何が、と側に立つハーレイの顔を見上げたら。
「覚えていらっしゃいませんか?」
 この窓ですよ、とハーレイが近付いたガラス窓。此処に、と指差した氷の花。
 宇宙よりかは暖かいけれど、地表から遠い雲の中では、気温はとても低いから。時にはこうして氷の花が咲いたりするから、昼の間はガラスを温めたりもする。氷の花がガラスを覆い尽くして、外の景色が全く見えなくならないように。たとえ雲しか見えなくても。
 けれど夜間は、そのシステムも殆ど働きはしない。誰も来ない夜が多いのだから、窓の端までは温めなくてもいいだろう、と。
 だから窓ガラスの端の方から咲き始めている氷の花。美しい模様を描きながら。
「これは…?」
 窓が凍っているだけのように見えるけど…。この窓に意味があるのかい?
「やはり忘れてらっしゃいましたか、その方がいいことなのですが…」
 こうして凍っている窓です。氷の花が咲いている窓。
 ずっと昔に、あなたが怖いと仰って…。窓の側で震えて動けなくなって、泣いてしまわれて。
 お忘れですか、と問われて思い出した。
 氷の花がとても怖かったことを。ハーレイの大きな身体に縋って震えたことを。
「…あったね、ぼくにもそういう頃が」
 この花を見たら、アルタミラに引き戻されそうで…。ガラスケースに閉じ込められて、身体ごと凍ってゆきそうで。
 怖かったんだよ、本当に。…氷の花が咲いた時には、いつも死ぬかと思っていたから。
「今は平気でらっしゃいますか?」
 御覧になっても、お分かりにならなかったくらいですから…。
 大丈夫だとは思うのですが、氷の花はもう、ただの氷の花なのですか?
「そうだよ、今はただの氷の花なんだとしか思わない」
 水分が凍って出来る結晶、それだけかな。…それに綺麗だ、氷の花は。
 治ったよ、君のお蔭でね。
 君が何度も消してくれたから、平気になった。氷の花は直ぐに消せるし、絵も描けるから。



 もう大丈夫、と笑みを浮かべたら、「安心いたしました」と嬉しそうな顔。
「下手な絵でしたが、描いた甲斐があったというものです。…あなたが忘れて下さったなら」
 氷の花は綺麗なものだ、と仰るくらいに、あなたの心が癒えたのでしたら。
 では、懐かしむとしましょうか。…そのためにお連れしたのですから。
 相変わらず下手なままなのですが、とハーレイが指で窓に描いた絵。猫だろうか、と長い尻尾の動物の絵が出来てゆくのを眺めていたら、「ちゃんとナキネズミに見えますか?」という質問。
 昔、描いた頃にはナキネズミは船にいませんでしたが、今はいますよ、と。
「ナキネズミだって?」
 それは違うだろう、これは猫だよ。何処から見たって、猫でしかない。
 ナキネズミを描くなら、顔をもっと長く描かないと…。それに尻尾も、もっと大きく…。
 あれ?
 ぼくが描いても、なんだか少し…。
 違うような、と首を傾げながら自分も描いた。氷の花たちを指で溶かしながら、手袋に覆われた指で辿ってゆきながら。
 窓に咲いている氷の花は、今はもう怖くはなかったから。
 ただの絵を描くためのキャンバス、自然が作った画用紙でしかなかったから。
 でも描けない、とハーレイの絵と見比べてしまったナキネズミ。どちらも下手くそ、子供たちが見たなら何の動物だと思うだろう?
 ハーレイの絵は猫だけれども、自分の絵は正体不明の生き物。猫でもリスでもネズミでもない、宇宙の何処にも住んでいそうにない動物。
 足が四本あるだけの。…細長い顔と、大きな尻尾を持っているだけの。



 こんな筈では、と嘆きたくなった自分の絵心。きっとガラスが悪いのだ、と睨んだキャンバス。氷の花を指で溶かして描くのでなければ、もっと上手に描けるんだから、と。
(どうせ、朝には消えるんだし…)
 窓の向こうが明るくなったら、ガラスを温めるシステムが動く。朝一番に来る仲間もいるから、その時に窓がすっかり凍っていないように、と。
 下手くそな絵も消える筈だ、と窓ガラスを綺麗に掃除してくれるシステムにも期待していたら。
「御存知ですか、ブルー?」
 神様が咲かせる花だそうですよ、氷の花は。
 二人で絵を描いてしまいましたが、そうやって壊した花たちは。…どの花も、全部。
「そうなのかい?」
 神様だなんて、ぼくには信じられないけれど…。
 この花たちが怖かった頃は、地獄の花だと思っていたから。…地獄だったら悪魔だろう?
 悪魔の花なら分かるけれども、神様がこれを咲かせるのかい?
「ずっと昔に、そう言った人がいたそうですよ」
 私はヒルマンに聞いたのですが…。
 休憩時間に此処へ来てみたら、丁度、少しだけ咲いていまして…。
 ヒルマンが子供たちに説明しようと、氷の花を見せに連れて来たのです。咲いているよ、と。
 なんでも、人間が地球しか知らなかった時代の話だそうで…。
 その頃にはガラス窓がとても高価で、何処の家にもあるというものではなかったとか。
 そういう時代に、ガラス窓に咲いた氷の花を見上げた女性が言ったそうです。
 「神様が咲かせて下さる氷の花」だと。
 外はすっかり冬の寒さでも、神様が守って下さっているから寒くはない、と。
 神に仕える修道女の言葉だと言っていましたね、ヒルマンは。…後に聖女になった人だと。



 寒い真冬に、神が咲かせる氷の花。
 聖女の言葉だと言われてみれば、氷の花は確かに美しかった。それに自分も、氷の花が怖かったことを忘れていた間は、綺麗だと思って眺めていた。地獄の花だとは考えもせずに。
(…怖いの、すっかり忘れちゃってたし…)
 怖かった頃には、ハーレイが何度も消してくれたのが氷の花たち。
 その時代は懐かしい思い出になって、今は二人で絵だって描ける。ナキネズミは上手く描けないけれども、二人揃って下手だけれども。
 ハーレイに見せられた「懐かしい物」と、優しくて遠い思い出と。
 氷の花たちに絵を描いた後で、ヒルマンが子供たちに話した言葉を聞かされたから…。
「神様の花だ、って素直に納得しちゃったんだっけ…」
 悪魔が咲かせる花じゃなくって、神様が咲かせる氷の花。
 だからとっても綺麗な花で、怖い花なんかじゃなかったんだよ、って…。
「あの時、俺も言ったっけな。…前のお前に」
 もっと昔に、俺がそいつを知っていれば、と。
 チビのお前が震えてた時に、「神様が咲かせる花なんだから怖くないぞ」と言ってやれたら…。
 そうすれば、お前、もう少し早く、怖くなくなっていたんだろうに。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ。あの頃のぼくは」
 身体も心も子供だったし、きっと受け止められないと思う。神様の花だって聞いたって。
 聞いていたなら、神様のことを恨んでいたかもしれないよ。
 ぼくにとっては地獄の花だし、悪魔が咲かせる花とおんなじだったんだから。
 どうして神様は、ぼくの身体を凍らせる花を咲かせたんだろう、って恨んでいそう。…本当に。
 前のハーレイから聞いた時には、ぼくは神様、信じていたから…。
 アルタミラの地獄も、きっと何かの意味があったと考えるようになっていたから良かっただけ。
 氷の花は神様が咲かせる花なんだ、ってハーレイの話を丸ごと信じられただけ…。



 丁度いい時に聞けたんだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。あの時だったからこそ、神様が咲かせる花だと信じられたのだ、と。
「ホントだよ? チビだった頃なら、きっと駄目だよ」
 信じないどころか、神様を嫌いになっていたかも…。神様も悪魔も一緒なんだ、って。
 人類のための神様なんだし、ミュウにとっては悪魔だよね、って。
「なら、いいが…」
 俺が話すの、遅すぎたというわけでないならいいんだが…。
 もっとも、ヒルマンの話を聞かなきゃ、前の俺は知らないままなんだがな。氷の花は誰が作って咲かせているのか、そんな話は。
「だろうね、キャプテンの仕事には入っていなかったから…。氷の花は誰が作るかなんて」
 キャプテンの仕事は、氷の花で窓が埋まってしまわないよう、メンテナンスをさせること。
 そっちの方でしょ、システムが故障しちゃわないように。
 …前のぼくとハーレイが描いたナキネズミの絵も、残ってしまって窓が汚れないよう、きちんと掃除させなくちゃ。朝一番には、窓をすっかり綺麗に仕上げるシステムで。
 あの時の絵は酷かったけれど、またハーレイと遊びたいな。
 今度は上手く描いてみたいよ、ナキネズミの絵。…ちゃんとナキネズミに見えるように。
「そうだな、冬になったらな」
 この部屋の窓にも、氷の花は咲くんだろうし…。夜なら絵だってよく目立つだろう。外が暗くて見えやすいからな、あの時と同じで。
 だが、この部屋では相合傘は書けないぞ。今の時代は相合傘でも、絶対に駄目だ。
 傘の絵だけなら描いたっていいが、俺とお前の名前を並べて書くのはいかん。
「やっぱり駄目…?」
 直ぐにゴシゴシ消してしまうのでも、相合傘は駄目なの、ハーレイ…?
「当然だろうが、此処はお前の部屋でだな…」
 俺とお前が恋人同士だってこと、お母さんたちは知らないだろうが。
 そういう間は、相合傘は禁止だ、禁止。…名前だけなら書いてもいいがな。でなきゃ傘だけ。
 恋人同士だと分かるようなヤツは、絵でも文字でも、書く前に俺が端から止める。
 氷の花さえ全部消したら、書く場所は何処にも無いんだからな。



 その代わり…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「いつかは…」と。
「俺の車の窓に書いちまっても、許してやる」
 車の窓にも氷の花は咲くからな。寒い朝だと、ビッシリ真っ白になっちまうほどに。
「いいの!?」
 相合傘も書いちゃっていいの、本当に…?
 うんと大きく相合傘を書いて、見せびらかしながら走ろうね。
 氷の花が咲いた朝には、相合傘をつけて、二人でドライブ。ぼくとハーレイの車だよ、って。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…」
 生憎と、車の窓に咲いた氷の花はだ、アッと言う間に溶けるってな。
 でないと外が見えないからなあ、運転どころじゃないだろうが。
「えーっ!?」
 酷いよ、それじゃ書いてもいいっていうだけじゃない!
 ドライブに行く前に消えてしまうんなら、そんなの、意味が無いんだから…!



 あんまりだよ、と怒ったけれども、いつか書きたい相合傘。今の時代だから書けるもの。
 傘の絵を描いて、ハーレイと自分の名前を並べて、幸せな気分。
 神様が咲かせる氷の花を指で溶かして、「ハーレイ」に「ブルー」。
 車の窓だと直ぐに溶けるのなら、今度も窓のガラスに書こう。
 白いシャングリラの展望室には敵わないけれど、ハーレイと二人で暮らす家で一番大きい窓に。
 とても寒い日に、家からは出ずに。
 ハーレイと二人で窓に向かって、指で書いてゆく相合傘。
 神様が咲かせる氷の花たち、それを指先で溶かして消して。
 白くなった窓に幾つも幾つも、幸せな相合傘と名前を。
 それが済んだら、次はナキネズミの絵も描こう。
 ハーレイと自分と、どちらが上手く描き上げることが出来るかの勝負。
 きっと今度は負けないから。
 負けてしまっても、神様が氷の花を咲かせてくれたら、またハーレイに挑めるから…。




              氷の花・了


※前のブルーが恐れた氷の花。低温実験のせいですけれど、ハーレイのお蔭で消えた恐怖感。
 落書きをして遊んでいたのも、今では懐かしい思い出の一つ。またハーレイと、描きたい絵。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











「俺もすっかり、お客様は卒業していたんだなあ…」
 いいことなんだが、とハーレイが唐突に口にした言葉。
 爽やかに晴れた土曜日の午後、ブルーの家の庭でのんびりティータイムの後、部屋に戻ったら。
「卒業って?」
 ブルーがキョトンと見開いた瞳。言葉の意味がよく分からない。
 卒業も何も、ハーレイはとっくに「お客様」ではないと思うから。両親も一緒の夕食の時には、いつでも普段着のメニュー。特別な御馳走が並びはしないし、家族の一員なのだと思う。
 本当の家族ではなくて、親戚というわけでもないけれど。友達とも少し違うけれども、お客様の扱いとは違う。お客様なら、食事は御馳走。飾る花だって、もっと豪華に。
 そう思ったから、「ずっと前からそうじゃない?」と傾げた首。「お客様じゃないよ」と。
 今頃になって何故そんなことを言うのだろう、と不思議でたまらないのだけれど。
「そうなんだが…。俺も分かっちゃいるんだが…」
 さっき、しみじみと思ったんだよな。本当に卒業していたんだな、と。
「…庭に何かあった?」
 ぼくは気が付かなかったけれども、お客様は卒業っていう印。
 お茶もお菓子も、いつも通りだと思ったけれど…。何かピンと来るものがあったの?
「テーブルの上のことじゃなくてだ、お母さんが通って行ったろ」
 俺たちがお茶を飲んでいた時に。…ケーキを食ってた時だったかもしれないが。
「ママ…?」
 そういえば…。通ってったっけ、向こうの方を。



 庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。ブルーのお気に入りの場所。初めてのデートの記念の場所で、天気のいい日はハーレイと一緒に出掛けることも。
 今日の午後もそうで、母が用意をしてくれた。ポットにたっぷりのお茶と、焼き立てのケーキ。それをハーレイと楽しんでいたら、庭の端を通って行った母。
 洗濯物を取り込むための籠を抱えて、物干しがある方向へ。テーブルからは見えない物干し。
 暫く経ったら、洗濯物を入れた籠を手にして戻って行った。よく乾いたろう洗濯物を。
 たったそれだけ、他には何もしていない筈で…。
「ママがどうかした?」
 通っただけだよ、庭の端っこを。横切って行って、ちょっとしてから戻って行って。
「洗濯籠を持っていただろ、お母さんは」
 行きは空ので、帰りは中身が入ったヤツ。今日は天気がいいからな。洗濯日和というヤツだ。
「それ、普通だよ?」
 いつも通って行くじゃない。ぼくたちが庭にいる時は。
 あそこでお茶を飲んでいる日は、お天気がいいに決まっているし…。
 洗濯物だってよく乾くから、ママが通るの、当たり前だよ。
「よくあることだな、今ならな」
 この前もそうだし、その前だって多分、通っていた筈だ。
 俺も何とも思わなかったし、現に今日だって、「いい天気だな」と眺めていたんだが…。



 夏休みの頃はどうだった、と問い掛けられた。白いテーブルと椅子が据えられた頃。最初の間は別のテーブルと椅子で、ハーレイが運んで来てくれていたキャンプ用。それが気に入りになったと気付いて、父が買ってくれたのが今のテーブルと椅子。
 其処に何度も座ったけれども、夏休みの間は暑かったから…。
「えっと…。涼しい内しか座ってないから、通らないんじゃない?」
 午前中の涼しい時間に座ってたんだし、洗濯物はとっくに干した後だよ。朝の間に。
 取り込むのはお昼の後だろうから、その頃にはぼくたち、いないってば。中に入って。
「それはそうかもしれないが…。朝の間に干したんだろうが…」
 いい天気だったら、色々と干したくならないか?
 普段の洗濯物の他にも、後から洗って追加だ、追加。物干しが空いていたならな。
「追加って…。洗濯物って、そういうものなの?」
 ママだって沢山洗う日はあるけど、あれは追加じゃないと思うよ。最初から決めてた洗濯物。
 今日はこれだけ、って決めている分を、洗ってるんだと思うんだけど…。
「お前、チビだから分からないかもなあ…。自分で洗濯しないんだろうし」
 とてもいい天気で、干したらパリッと乾きそうな日は、洗濯物を追加したい気分になるもんだ。
 こんな日はきっと良く乾くんだ、と空を見上げたら欲が出ちまう。
 ちょっとシーツも洗ってみようとか、シーツを洗うなら、ついでに他にも大物を、とか。
 あれも、これもと洗って干したい気分になるのが洗濯だってな。
 夏の日は特にそうなるもんだ。洗って干したら、アッと言う間に乾くんだから。



 他の季節とはまるで違う、とハーレイが語る夏の太陽。同じ洗濯物を干しても、乾く時間が春や秋とは大違いだと。追加の洗濯物を干しに行く頃には、先のが乾き始めていると。
 確かに夏の日射しは強い。あれにかかれば、洗濯物だって本当に早く乾くのだろう。でも…。
「ママは一度も通ってないよ?」
 洗濯物の追加は無かったんだよ、朝の間に洗ってしまって。
 だって昼間は暑くなるでしょ、あのテーブルと椅子は木の下にあるから涼しかったけれど…。
 庭はお日様が照っていたんだし、其処を通ったら痛いくらいに暑いもの。
 ママもそんなの嫌だと思うよ、早い間に干しておいたら、後は取り込むだけでいいでしょ?
「なるほどな。…なら、秋になってからはどうだった?」
 お母さんはやっぱり通らなかったか、俺たちがいるような時間は暑いから。
「んーと…?」
 どうだったろう、と手繰った記憶。
 残暑の頃には、見なかった気がする洗濯籠を手にした母。今日のように庭のテーブルにいても。
 けれど、いつからか馴染みの光景。庭の向こうを、母が横切ってゆく姿。
 ただ通って行くだけとは違って、声を掛けてゆく時だってある。
 「お茶やお菓子は如何ですか?」と、おかわりを届けるべきかどうかを、少し離れた所から。
 洗濯籠を抱えたままで。にこやかな笑顔をこちらに向けて。



 そうなったのは、多分、秋から。午後のお茶を庭で楽しんでいたら、通るから。朝の間に干した洗濯物が乾いた時間に、物干しまで取り込みに行くわけなのだし…。
「季節が変わったからじゃないの?」
 ぼくたちが庭に出ている時間も、午後ばっかりになっちゃったから。
 きっと洗濯物を入れる時間と重なるようになったんだよ。ママが通って行く時間と。
「お前の推理も、まるで外れちゃいないだろうが…」
 残念ながら、そいつは違うな。俺がお客様ではなくなったんだ、そのせいだ。
 それでお母さんに出くわすわけだな、あそこにいると。
「どういう意味なの?」
 さっきも卒業って言っていたけど、ママが通ると、どうしてお客様じゃなくなるわけ?
「お母さんが通って行くと言うより、洗濯籠だな」
 いつも洗濯籠を持ってるわけだが、お客様の前を洗濯籠を抱えて通るのか?
 中身が空の時ならまだしも、帰りは取り込んだ洗濯物が籠に入っているんだろうが。
 お客様なら、ちょっと失礼だと遠慮しないか?
 庭の花を抱えて通るならともかく、洗濯物ってヤツの場合は。
 いくら洗ってあると言っても、洗濯物には違いない。見せちゃいけない舞台裏だろ。
「そういえば…」
 洗濯籠の中身、タオルとかだけじゃないもんね…。他にも色々、洗濯した物。
 纏めて取り込んでいるんだろうし、お客様には見せられないかも…。



 部屋やテーブルを彩る花とは違った洗濯物。お客様に披露するものではない。洗って干したら、後はきちんと片付けるもの。来客の目には触れない場所へ。
 そういう洗濯物が入った籠を抱えて、母が通って行った庭。今日も、いつもと変わりなく。
 考えてみれば、わざわざあそこを通らなくても、裏口から行ける物干し場。庭を通るより、裏口から出た方が近いのだけれど、いつからか通るようになった母。
 庭で一番大きな木の下、ハーレイと二人で白いテーブルと椅子にいたならば。洗濯籠を手にして通ってゆく母、行きも帰りも庭の端っこを。
「…なんでかな?」
 ママが通るの、どうしてなのかな…。物干しに行くなら、裏口の方が近いのに…。
 庭を通って行くってことは、ぼくたちを監視してるとか?
 洗濯物を取りに行くようなふりをしながら、ぼくとハーレイを見張っているとか…。
「それは無いだろ、俺たちのことは全くバレていないんだから」
 生まれ変わる前は恋人同士で、今も恋人同士だってことはバレてない。監視は必要無いだろう。
 しかしだ、別の意味での監視と言うか、注意と言うか…。
 窓からしげしげ見てるよりかは、庭を通って行く方がずっと自然だぞ?
 お茶やお菓子の追加が要るのか、さりげなく見ていけるだろうが。声だって掛けて行けるしな。
 だが、それだけのために、庭まで出て来るというのもなあ…。
「ちょっと失礼な感じがするよね」
 見張ってます、っていう感じだし…。ぼくたちだって、気になっちゃうし。
「テーブルの側まで来るんだったら、別に失礼でも何でもないが…」
 離れた場所から見るとなったら、失礼だろう。
 そうは言っても、窓越しに見てちゃ、よく分からんし…。出て来たら気を遣わせもするし。



 だから洗濯物のついでなんだ、とハーレイが視線を遣った窓。白いテーブルと椅子がある庭。
 軽く頷いて視線を戻して、唇に浮かべた穏やかな笑み。
「洗濯物を取り込む時にだ、ちょっと通って、俺たちの方の様子も見る、と」
 どんな具合か直ぐに分かるし、声も掛けられるし、洗濯物も取り込みに行ける。一石二鳥だ。
 そうしているのは、俺が客ではないからなんだ、と今頃になって気付いたってな。
 お客様を卒業したのは嬉しいことだが、今日まで気付かなかっただなんて…。
 俺も鈍いな、お母さんの姿は散々見ていた筈だってのに。
「鈍くないでしょ。だって、そんなの考えなくてもいいことなんだし」
 ハーレイ、すっかり家族みたいなものだもの。晩御飯、御馳走なんかじゃないし。
 お客様なら、いつでも御馳走ばかりの筈だよ。普段は無理でも、週末は用意が出来るんだから。
 いきなり来るっていうわけじゃなくて、来るのが分かっているんだもの。
「それは違いないな。週末でも凝った御馳走ばかりになってはいない、と」
 俺専用の茶碗と箸が無いってだけだな、其処だけはお客様用で。…家族じゃないから。
 ついでに洗濯物も別々だよなあ、お母さんが洗濯籠を抱えて通っていても。
 やっぱり家族じゃないってことだな、お客様ではないんだが。



 「俺のは一緒に洗って貰えん」とハーレイがおどける洗濯物。どんなに天気がいい日にも、と。
 母が抱えた洗濯籠には、ハーレイの分の洗濯物は今は入っていないけれども…。
「頼めば出来ると思うよ、それ」
 きっとママなら洗ってくれるよ。前にハーレイのシャツを洗ったでしょ、汚れちゃった時に。
 乾くまではパパのを着てて下さい、って代わりのも渡していたじゃない。
 だから出来るよ、ハーレイの分の洗濯物を一緒に洗って貰うのも。
「そりゃまあ、頼めば出来るんだろうが…。俺が無精者になっちまうってな」
 洗濯もしない無精な男。「今日はこれだけお願いします」と、洗濯物まで運んで来て。
「それってなんだか面倒そうだね、持って来なくちゃいけないし…」
 洗って乾いた洗濯物だって、持って帰らなくちゃいけないんだし。
「まったくだ。そんな余計な手間をかけるより、自分で洗った方が早いぞ」
 そうすりゃ溜め込むことだって無いし、洗ったばかりのサッパリしたのを着られるし。
「ハーレイ、洗濯してるんだ…」
 一人暮らしだから、やってて当然なんだけど…。やらなかったら大変だけど。
「プレスもするって言っただろうが、ワイシャツのな」
 いくら機械に任せるにしても、セットするのは俺なんだから。
 綺麗に洗ったワイシャツを入れて、スタートボタンを押してやらんとプレスは出来ん。
 しかし、そいつが性分ってヤツだ。いちいちクリーニングに出すより、自分でやるのが。



 それに…、と始まった洗濯の話。自分で洗濯しているハーレイ。出掛ける時には、雨が降ったりしたら困るから部屋干しだけれど、外に干すのが好きなんだ、と。
「俺は断然、物干し派だな。同じ洗濯物を干すなら、庭の物干しが最高だ」
 気持ちいいだろ、お日様の匂いで。
 庭の物干しで乾かさないと、あの匂いはついて来ないってな。
 タオルでも何でも、嬉しい気分になるんだよなあ…。お日様の匂いがするってだけで。
「ぼくも好きだよ、お日様の匂い」
 顔を洗ってタオルで拭く時、ふわっと匂いがするのが好き。お日様だよね、って。
「俺もそいつを楽しみに干しているってわけだが…」
 お前の所に来るようになって、最近、ご無沙汰気味なんだが…。
 今ならではの贅沢だよなあ、お日様の匂いの洗濯物。
「そうだね、地球の太陽だものね」
 お日様の匂いも地球のお蔭で、今のぼくたちだけの贅沢。…地球に来たから。
「おいおい、地球の太陽ってヤツは最高の贅沢ではあるが…」
 最高と言う前に、太陽そのものの方を考えてみろよ?
「えっ…?」
 そっか、シャングリラだと太陽の光は無かったね…。
 いつだって船の中だけなんだし、太陽の光と似たような照明だけだったから…。
「それ以前にだ、シャングリラでは洗濯物を外に干せたのか?」
 船の外って意味じゃなくてだ、太陽に似せた光が照らしていた所。
 其処に干せたら、お日様の匂いの偽物くらいは可能だったと思うんだがな…?
 植物もすくすく育ったわけだし、洗濯物を一日、ああいう光に当ててやったら。
「…干してない…」
 洗濯物なんか干していないよ、シャングリラでは。
 白い鯨になる前の船も、ちゃんと改造して植物とかを育てられる船が出来上がっても…。



 太陽に似せた光はあっても、白いシャングリラでは干していなかった洗濯物。昼の間は、燦々と光が降っていたのに。まるで船の外の、アルテメシアの太陽に照らされているかのように。
 けれど、洗濯物に宿ることは一度も無かった、お日様の匂い。
 巨大な白い鯨の中には、洗濯物の干場が無かったから。明るい光が降り注ぐ場所には。
 船には大勢の仲間がいたから、全員の分を並べて干せはしないし、乾かす場所は乾燥室。洗った物は全部、服もタオルも乾燥室で乾かしていた。昼間の光は使わないで。
「…洗濯物を干している所、公園とかでも見てないね…」
 あそこだったら、きっと気持ち良く乾いたのに…。ブリッジの下の大きな公園。
 人工の風も吹いてたんだし、お日様の匂いになりそうなのに。
「洗濯物は良く乾くだろうが、公園の景色が台無しだぞ?」
 ブリッジから見たって、洗濯物がズラリと干してあるのが分かるわけだし…。
 そいつは流石にどうかと思うぞ、そういう所も物干しを作らなかった理由じゃないのか?
 思い付かなかったってこともあるんだろうがな、改造前の船だと乾燥室しか無かったわけだし。
 洗濯の後は機械を使って乾燥なんだ、と誰もが頭から思い込んでたもんだから…。
 干して乾かそうって発想自体が無かっただろうな、あの馬鹿デカイ公園を目にしていたってな。



 キャプテンだった俺も含めて…、とハーレイが言うのが正解だろう。公園の景色が台無しという以前の問題、太陽の光で乾かすことを思い付かなかった前の自分たち。
 洗濯物は乾燥室で乾かすもので、機械の仕事。自分たちで干して取り込むだなんて、前の自分も考えなかった。干せそうな場所はあったのに。
 干したならきっと、お日様の匂い。本物の太陽には敵わなくても、きっと素敵な匂いになった。
 それに…。
「ちょっぴり干してみたかったかも…」
 お日様の匂いはどうでもいいから、乾燥室じゃなくて物干しに干したかったかも…。
「干すって、何をだ?」
 お日様の匂いを貰うためじゃなくて、ただ干すだけって、何を干すんだ。
「ぼくのマントと、ハーレイのマント」
 一緒に並べて干してあったら、幸せだったと思うんだよ。並んでるね、って。
 乾燥室を使わなかったら、そういう景色を見られていたかも…。
「百歩譲って、物干しを作っていたとしても、だ…」
 ソルジャーのマントは別格だろうと思うがな?
 此処はソルジャー専用です、と決めてあってだ、お前のマントだけが干してあるんだ。
「別格って…。キャプテンは二番目に偉かったじゃない」
 並べて干してもいいと思うよ、ハーレイのマント。ぼくのと一緒に。
「…確かに俺は、あの船で二番目に偉いことにはなってたが…」
 それでも、俺のマントとお前のマントを並べて干しはしないだろう。
 お前はソルジャーなんだから。
「えーっ?」
 並べて干すのが効率的だと思うけど…。マントはマントで、纏めて洗って。
 ぼくのの隣にハーレイのマントで、干しに行く時も、取り込む時も、一緒だったら早いのに…。



 手間が省けていいじゃない、と言ったけれども、考えてみれば別扱いにされそうな自分。
 ソルジャーだった前の自分を、エラは何かと特別扱いしたがった。ソルジャーだから、と。
 きっとマントも、並べて干しては貰えない。ハーレイのマントと纏めた方が早そうでも。
「…やっぱり駄目かな、ハーレイのマントと並べて干すの…」
 エラが文句を言いに行くかな、「並べて干すとは何事ですか」って。
「そんなトコだな、エラなら絶対、許しはしないぞ。…やたらうるさく言ってたんだし」
 俺が思うに、シャングリラに物干し場があったとしたなら、お前だけは別になるってな。
 隣同士が駄目などころか、干す場所からして違うんだ。俺とか、他の仲間たちとは。
「何それ…」
 どうして場所まで別になるわけ、隣同士が駄目っていうのは分かるけど…。
「お客様の前じゃ、洗濯籠を抱えて歩きはしないのと同じ理屈だ」
 舞台裏ってヤツは決して見せないってな。お客様ではなくて、船の仲間でも。
 ソルジャーの衣装を干す所なんか、もう絶対に見せられん。要はマントと上着だな。
 そいつが物干しに干してあったら、それと一緒に干してあるアンダーとかの持ち主も分かるぞ。お前なんだ、と。それじゃマズイし、お前の分の干場は別だ。
「何が駄目なの、服の持ち主が分かったら?」
 ぼくの服だと気が付いたって、少しも問題無さそうだけど…?
「有難味ってヤツが無くなるだろうが。…ソルジャーのな」
 どんなにエラが「ソルジャーは偉い」と宣伝したって、ただの人間になっちまう。
 お前のアンダーだの、下着だのが干してあったなら。
 目にしたヤツらは「ソルジャーもこれを着るんだな」と思うわけでだ、有難味も何も…。下着を見られちまったら。



 まるで駄目だ、とハーレイが首を振る下着。「ソルジャーの下着は見せられないぞ」と。
「考えてもみろよ、青の間まで作って祭り上げてたソルジャーなのに…」
 その辺に下着が干してあったら、ソルジャーの威厳が吹っ飛んじまう。こんな下着か、と誰でも興味津々、まじまじと眺められるんだから。
「でも、下着…。誰かが洗っていたんだよ?」
 前のぼくは自分で洗っていないし、洗う係がいたわけで…。その人は見るよね、ぼくの下着を。
 アンダーも上着も、洗濯に出した服とかは全部。
「その通りだが、何のための部屋付き係なんだ?」
 舞台裏を見るヤツは限られていたし、知られていないも同然だ。前のお前の洗濯物は。
 青の間が出来るよりも前から、専属の係がいただろうが。
「えーっと…?」
 そんなに前から、ぼくのための係があったっけ?
 ちっとも覚えていないよ、そんなの。青の間が出来てからのことだよ、部屋付きの係。
 それまでは誰もいなかった筈、と言っているのに、ハーレイは「いた」と断言した。部屋付きの係ではなかったけれども、似たような役目をしていた者が、と。
「よく思い出してみるんだな。…白い鯨が出来る前のこと」
 前のお前の洗濯物は、どうしてた?
 シャワーとかの後で、お前、そいつをせっせと洗ってたのか?
「んーと…?」
 洗濯物は…。洗っていないよ、ソルジャーになるよりも前からずっと。
 アルタミラから逃げ出した後は、洗濯の係、何人もいたし…。
 洗濯用の籠に入れておいたら、誰の服でも、ちゃんと洗って貰えたから…。



 自分で洗濯していない筈、ということは確か。最初から洗っていないのだから。
 洗濯係の仲間が洗った洗濯物は、頃合いを見て貰いに出掛けた。乾燥室に山と積まれた中から、自分の分を選び出して。服も下着も。
(…だけど、お風呂は…)
 ソルジャーという肩書きがついて間もなく、バスルームが別になってしまった。他の皆とは。
 船で一番偉いのだから、と一人だけで使うことになったバスルーム。いつでも好きにシャワーを浴びたり、バスタブにゆったり浸かれるようにと。
 お風呂好きだったから嬉しいけれども、使っていない時間が殆どだから。空いているから、他の仲間にも使って貰おうと提案したのに、エラに「駄目です」と切り捨てられた。
(ちゃんと扉に札を下げたら、使っていない時間が分かるのにね?)
 そのアイデアさえ却下されてしまったバスルーム。其処でシャワーを浴びた後には、バスタブにゆっくり浸かった後には、どうしただろう?
 洗濯物は自分で洗っていないし、放っておいたわけでもないし…。
(…抱えて帰った…?)
 持って行って着替えた服の代わりに、袋に入れて。ソルジャーの上着も、着替えたマントも。
 けれど、その後が思い出せない。持って帰って…、と考え込んでいたら。
「お前の服。…部屋に置いておいたら、取りに来なかったか?」
 留守にしてる間に、洗濯物を入れた袋ごと。朝飯の間とか、適当な時に。
「そうだっけ…!」
 消えていたっけ、前のぼくが着替えた服とかは全部…。
 食堂へ行ってた間とかに部屋から消えてしまって、その代わりに…。



 いつの間にか消えた洗濯物。それを入れておいた袋ごと。洗濯物の袋が消えたら、洗い上がった服や下着が届いていた。どれも所定の場所にきちんと。
「…ぼくの服、誰かが洗ってくれてた…」
 洗って乾かした服も下着も、ちゃんと部屋まで届いていたよ。ぼくは頼んでいないのに…。
「ほら見ろ、係がいたってことだ」
 あの時代だと、部屋付きの係ってわけじゃなくって、洗濯係の中の誰かだが…。
 何人か係が選んであって、そいつらの仕事だったんだな。前のお前の服を洗うのは。
「…なんで、そんな係?」
 みんなと同じで良さそうなのに、どうして係が決めてあったわけ?
「エラだ、エラ。…全部あいつが決めていたんだ」
 バスルームを分けるほどだったんだぞ、ソルジャーは特別なんだから、と。
 そこまでやるなら、とことん別にするべきだろうが、ソルジャーは。
 もちろんソルジャーの洗濯物を、他のヤツらの洗濯物と一緒に洗えはしないってな。まだ制服が出来てなくても、お前の分は別だったんだ。
 制服が出来たら、なおのことだぞ。もう完全に別扱いで、洗う係は細心の注意を払ってた、と。
 洗う時には、綻びが無いか端までチェック。マントの隅の隅までな。
 糸がほつれていたりしたなら、洗った後には服飾部門で直して貰って部屋に届ける。
 下着とかでも同じことだな、くたびれる前に新品と取り替えて届けないとな?
 ソルジャーの服は上から下まで、威厳ってヤツに溢れてないと…。
 アンダーの下になって見えない下着も、一分の隙もあってはならん、といった具合で。



 そんなお前の洗濯物を、他のヤツらが見る場所なんかに干せるもんか、と笑うハーレイ。公園に物干しを作ったとしても、お前の分は其処には無いな、と。別の場所だと。
「あの船で物干し場を思い付いていても、お前の洗濯物はだな…」
 俺のと並べて干して貰えるわけがなくてだ、何処かに専用の干場があった、と。
 人工の光と風を使って乾かすにしても、居住区にあった公園の一つを貸し切りとかでな。
「…そうなっちゃうわけ?」
 干してある間は、その公園は立ち入り禁止で。…ぼくの下着とかを仲間に見られないように。
「当然だろうが。同じ下着でも、俺のだったら、あのデカイ公園に干されていそうだが…」
 この大きさからしてキャプテンのだな、とマントや制服がセットでなくても気付かれそうだが。
 俺だけが無駄にデカかったからな、シャングリラでは。
「そうかもね…。ハーレイのだったら、大きさだけで分かっちゃうかも…」
 ハーレイにも係、ついてたの?
 前のぼくみたいに、洗濯物を持って行ったり、届けてくれたりする係。
「まあな。キャプテンってヤツは忙しいからな、いつの間にやら出来ちまってた」
 お前よりかは後だと思うが、白い鯨になるより前から洗濯係はついてたわけで…。
 ただし、洗って届けてくれるというだけだ。キャプテンはソルジャーじゃないからな。
 俺の洗濯物、お前のと一緒に洗ったりしてはいないと思うぞ。
 お前の分だけは丁寧に別に洗っていてもだ、俺のは十把一絡げってトコか。
 キャプテンの制服とマントは慎重に扱っていたんだろうが、アンダーや下着は適当だろうさ。
 干すにしたって、皆のと一緒に一番デカイ公園行きだ。
 大勢の仲間が眺めるわけだな、「このデカイ下着はキャプテンのだろう」と。
 そしてお前の分はだな…。



 まるで別の場所で干されてるんだ、とハーレイが挙げてゆく公園。白いシャングリラの居住区に幾つも鏤めてあった、小さな公園のどれかだろうと。
「つまりだ、俺のマントとお前のマントは、並べて干せやしないってな」
 並べるどころか、うんと離れて干されるという運命だ。シャングリラに物干しがあったって。
「今のぼくたちと一緒だね…」
 洗濯物を並べて干してみたくても、絶対に無理。
 今もそうでしょ、ぼくのはママが干してるんだし、ハーレイのはハーレイが家で干すから。
「洗濯物を並べて干すって…。前の俺はお前の家族じゃないが?」
 並べて干すような理由が無いだろ、今と同じで。
 洗濯するのも干すのも別々、家族でないなら、それで少しも可笑しくはないが…?
「でも、一番の友達だったよ。ハーレイだって言っていたでしょ、最初の頃に船のみんなに」
 俺の一番古い友達なんだから、って。…そう紹介してくれていたよ、ぼくを。
 友達の後は、恋人同士だったのに…。家族みたいなものだったのに…。
 それなのに、洗濯物は別…。
 干すのが別々ってことは無くても、洗うの、別々だっただなんて…。
「仕方ないだろうが、前のお前はソルジャーなんだ」
 エラがせっせと特別扱いさせてたんだし、どうしようもない。バスルームも別だったんだから。
 洗濯物を俺と一緒にするわけないだろ、俺のは他の仲間たちのと纏めて洗ってもいいが…。
 お前の分は特別だ。デカイ公園に下着を干されてしまいそうな俺とは、別にしないと。
「一緒に洗って欲しかったよ!」
 他の仲間たちの分は諦めるけれど、ハーレイの分の洗濯物…。
 船で二番目に偉かったんだし、ぼくのと一緒に洗ってくれても良さそうなのに…!



 母が抱えていた洗濯籠のように、ハーレイの分と自分の分とを、一緒に入れて運んで干して。
 洗う時からずっと一緒で、取り込む時にも、干す時も一緒。
「…いつも一緒が良かったのに…」
 ハーレイのと、ぼくの洗濯物。…ぼくだけ別扱いにされずに。
「さっきから何度も言っているだろ、シャングリラでは無理だったんだ」
 前のお前はバスルームまで別のソルジャーだったし、舞台裏を見られるわけにはいかん。
 デカイ公園に下着を干されて、皆が「キャプテンのだ」と眺めていても良かった俺とは違う。
 一緒に洗うのも干すのも無理な洗濯物でだ、そういう運命の二人だった、と。
 今の俺たちでさえ、無理なんだぞ?
 お前の洗濯物を洗っているのはお母さんだし、俺のは俺の家で洗うんだし。
「…結婚するまで、一緒は無理?」
 ぼくの洗濯物とハーレイのとを、一緒に干すのは無理なわけ?
 ハーレイがお客様ではなくなっていても、ママが洗濯籠を抱えて庭を通っていても。
「そういうことだな、俺は無精者にはなりたくないし」
 自分が着た物は自分で洗って、プレスだってする。
 お前のお母さんが「洗いますよ」と言ってくれても、「お願いします」とは言わないな。
 この家でウッカリ汚しちまったら、その時は頼むかもしれないが…。
 実際、前にもシャツを洗って貰ったからな。



 それ以外では決して頼まん、とハーレイは自分で洗濯を続けそうだから。せっかく洗濯物の話が出たのに、前の自分たちと全く同じで、当分は別々に洗って干すしか無さそうだから。
「じゃあ、結婚したら一緒に干せるんだよね?」
 ぼくのとハーレイのを一緒に洗って、一緒に干して。
 やっと並べて干せるようになるね、前のぼくたちだと無理だったけど…。
 物干しがあっても、前のぼくは別にされそうだから。…洗うのまで別にされちゃってたから…。
「お前がソルジャーになる前だったら、一緒に洗っていたかもなあ…」
 シャングリラって名前も無かった頃の船なら、お前のも俺のも纏めて洗濯。
 いや、体格が違いすぎたから、やっぱり別か…。
 洗う前に仕分けをしてただろうしな、似たようなサイズのを纏めて洗うのが一番だから。
 乾燥室で乾燥させたら、サイズ別に揃えていたんだし…。
 デカすぎた俺のと、一番のチビだったお前の分とは、あの頃から別々だったんだろうな。
「きっとそうだよ、確かめようがないけれど…」
 あんな頃の記録は残ってないから、確認しようがないけれど…。きっと別々。洗うのも、洗った後で乾燥させるのも、全部。
 …早く一緒に干してみたいよ、ハーレイとぼくの洗濯物。
 一緒に洗って、お日様の下に並べて干して。…とても幸せになれると思うよ、そうしたら。
 ぼくたち、ホントに家族だよね、って。
「幸せって…。洗濯物にまで夢を見るのか、お前は」
 結婚したら俺のと一緒に洗えるだとか、一緒に並べて干そうだとか。
「ハーレイが最初に言ったんじゃない。もうお客様は卒業だな、って」
 家族とおんなじ扱いだから、ママが洗濯物の籠を持って通って行くんだって。
 だから、ハーレイと結婚したら、本物の家族で洗濯も一緒。洗うのも、干すのも。
「うーむ…。まあ、そいつも楽しみにしておくんだな」
 洗濯物を一緒に干すってだけでも、お前が幸せになれるんなら。
 今はまだまだ出来ないわけだし、俺と結婚して家族になったらそうするんだ、と。



 洗濯物なあ…、とハーレイは呆れた顔だけれども、幸せな夢がまた一つ出来た。
 いつかは並べてお日様の下に干す洗濯物。ハーレイの分と、自分の分と。
 前の自分たちには出来なかったことで、物干し場さえも無かった船がシャングリラ。
(だけど今だと、物干し、あるしね…)
 ハーレイと二人で暮らす家の庭にも、お日様が燦々と照らす物干し。
 洗濯をしたら、地球の太陽の匂いが素敵な服になるよう、ハーレイの分と並べて干そう。
 お日様に当てても色が褪せずに、パリッと乾く気持ちいい服を。
 良く乾いたら、次のデートに出掛ける時には、二人でそれを着て行こう。
 手を繋ぎ合って、幸せに。
 今日は何処まで行ってみようかと、洗濯日和の青空の下を…。




            二人の洗濯物・了


※シャングリラでは干していなかった洗濯物。その上、ソルジャーの洗濯物には専属の係が。
 ブルーとハーレイの洗濯物を並べて干すのは、結婚するまで無理なのです。その時が楽しみ。
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