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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(ふふっ…)
 美味しそう、とブルーが眺めたアップルパイ。学校から帰って、おやつの時間に。
 母の手作り、サクッとした艶やかなパイ皮の下に、甘く煮てある金色のリンゴ。大好きなパイの一つだけれども、それをお皿に載せてくれた母が、熱い紅茶をカップに淹れながら。
「バニラアイスを添えてもいいわよ、今日は冷えないみたいだから」
 昼間もポカポカ暖かかったし、たまにはアイスも食べたいでしょう?
「ホント!?」
 いいの、いつもは「冷えるから駄目」って言われちゃうのに…。
「今日は特別。でも、食べ過ぎちゃ駄目よ?」
 アップルパイじゃなくて、アイスの方。沢山食べないって約束するなら。
「約束する!」
 もっと頂戴、って言わないから。ママが許してくれる分だけ。
「はいはい、それじゃ取って来るわね」
 ママが入れるわ、と母が冷凍庫から取って来てくれたバニラアイス。それにスプーンも、掬ってお皿に盛り付けるために。
 けれど、最近は滅多に出番が無いアイス。暫く蓋を開けていないから、固く凍って…。
「ママ、もっと入れて。これじゃ少なすぎ…」
 スプーンに山盛り一杯も無いよ、食べた気分がしないよ、これじゃ。
「分かってるけど…。アイスがもう少し柔らかくなってくれないと無理ね」
 見れば分かるでしょ、固いのよ。ほらね、スプーンは刺さるんだけど…。



 削るくらいしか出来ないのよ、と母がアイスを削ろうとしたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。この時間ならば、ハーレイではなくて、お客さん。ご近所さんとか。
 出るのは母だし、「自分でやるよ」と伸ばした手。
「アイス、続きはぼくがやるから…。スプーン、ちょうだい」
 食べ過ぎないよ、大丈夫。スプーンに山盛り、あと二杯くらい。
「約束、ちゃんと守るのよ?」
 それから、アイスを冷凍庫にきちんと返しておくこと。忘れないでね、溶けちゃうから。
 食べ始める前に冷凍庫、と注意してからスプーンを残して出て行った母。玄関の方へ。そのまま戻って来ないものだから、きっと立ち話をしている筈。お客さんと。
(んーと…)
 そろそろかな、とスプーンで掬ってみたアイス。丁度いい柔らかさになっていたから、滑らかなアイスを上手に掬えた。盛り付けた感じも、お店みたいに綺麗な形。
 スプーンに山盛り二杯分、とアップルパイの隣に添えて、閉めたアイスクリームの蓋。
(食べる前に、ちゃんと冷凍庫…)
 溶けちゃうもんね、と返しに出掛けた冷凍庫。キッチンまで。
 アイスはこの辺、と扉を開けたら、色々詰まっている中身。他の味のアイスや、食材やら。
(綺麗…)
 模様みたい、と眺めた、冷凍できるガラスの器に咲いた花。表面についた氷の花。
 指で触ったら溶けてしまうけれど、細かくて綺麗で…。
「ブルー?」
 開けっ放しにしないでちょうだい、冷凍庫の中身、溶けちゃうでしょう…!
 何をしてるの、と母に叱られて、慌てて閉めた冷凍庫。
「ごめんなさい…!」
 ちょっと中身に見惚れちゃってた、と謝って戻ったダイニング。お皿に盛られたバニラアイスは無事だったから、美味しく食べた。アップルパイと一緒に頬張って。



 素敵だった今日のおやつの時間。思いがけなく食べられたアイス。「駄目」と言われずに。
 御機嫌で二階の部屋に戻って、座った勉強机の前。頬杖をついて。
(氷の花…)
 綺麗だったよね、と思い浮かべた冷凍庫。ガラスの器に咲いていた花、とても小さな氷の結晶。
 氷が張るような真冬になったら、この部屋の窓にも咲いたりする花。窓のガラスを彩る花たち、様々な模様を描き出しながら。
 今の季節はまだ咲かないから、冷凍庫でしか出会えない。とても綺麗な花なのに。
(神様が作る花なんだものね?)
 綺麗で当然、と冷凍庫で見た氷の花たちを思い出す。冬に窓ガラスを飾る花たちも。
 氷の花は、生きた花ではないけれど。命を持ってはいないのだけれど。
 それでも自然が作り出す花で、神様が作って咲かせる花。
 冬の間しか咲いてくれない、寒い日だけに開く花たち。太陽の光で溶けてしまうまで、ガラスの表に咲き続ける花。
(白くて、キラキラ光ってて…)
 冬の日の窓には花が一杯、と窓に視線を遣ったのだけれど。あそこに咲くよ、と雪景色と一緒に頭に描いてみたのだけれど…。
(氷の花…?)
 怖い、と急に掠めた思い。「氷の花は怖い」と思う自分がいる。
 あれは嫌い、と。怖くてとても恐ろしいから、と。



(なんで…?)
 変だ、と手繰ってみた記憶。
 ガラスに咲いた氷の花が何故怖いのかと、指で触れれば直ぐに溶けるような花なのに、と。
 冷凍庫の中に咲いていたのを触った時にも、凍えはしなかった自分の右手。氷の花は儚いから。指の先から手を凍らせはしないから。メギドで凍えた悲しい記憶を秘めた右手でも。
(あんなの、怖くない筈なのに…)
 どうして怖いの、と前の自分の記憶を手繰る。今の自分ではない筈だから。
 氷の花、と遥かな時の彼方へ遡ったら…。
(アルタミラ…!)
 実験動物として囚われていた頃、低温実験のために入れられたケース。
 中の温度が下がり始めると、強化ガラスで出来たケースに氷の花が幾つも開き始める。ケースの端の方からだったり、下から一気に咲き始めたり。
 氷の花が次から次へと咲いてゆくのだけれども、その花に囲まれた自分の身体は…。
(シールドしないと、寒すぎて火傷…)
 多分、凍傷と言うのだろう。まるで火傷のように痛くて、肌も身体も損なわれてゆく。
 何度もやられて、治療をされて。傷が癒えたら、次の実験。
 絶対零度のガラスケースもあったと思う。
 白衣を纏った研究者たちに、「化け物」と罵られて、押し込められて。
 凍りついてゆくケースの中で一人、氷の花が咲くのを見ていた。また咲き始めた、と。
 今日は何処まで耐えられるだろうと、とても寒いと、寒すぎて死んでしまいそうだ、と。



 大嫌いだった、と思い出した低温実験のケース。
 強化ガラスに咲く氷の花は怖くて、まるで死の世界に咲いているかのよう。氷の花たちに身体をすっかり埋め尽くされたら、きっと自分は死ぬのだから。
 けれど…。
(好きだったよ…?)
 嫌いだった筈の氷の花が。今の自分ではなくて、前の自分が。
 白いシャングリラの展望室やら、降り立ったアルテメシアやら。其処で目にした氷の花たち。
 綺麗、と溶けてゆくまで見ていた。飽きることなく、冷たい氷の結晶たちを。
 なんて素敵な花なのだろうと、神様が咲かせた氷の花だ、と。
(神様…?)
 ふと引っ掛かった、「神様」という言葉。今の自分なら、神様の花でいいけれど。
 前の自分は、どうして神だと思ったのだろう。神様が咲かせる花なのだ、と。
 低温実験の時に見たのは、地獄で咲いた氷の花。命を奪おうとして咲き始める花。
 命は失わなかったけれども、酷い凍傷を負わされた花。
 あの花たちを、神が咲かせたわけがないのに。
 咲かせる者がいたとしたなら、神ではなくて悪魔だろうに。



(でも、神様…)
 前の自分は、確かにそうだと思って見ていた。展望室で、アルテメシアで。
 綺麗な花だと見惚れたけれども、神が咲かせたと考えた理由が全くの謎で分からない。悪魔の花なら、まだ分かるのに。…慣れて平気になっただけなら、まだしも理解できるのに。
 何故なの、と首を捻っていたら聞こえたチャイム。今度はお客様ではなかった。窓に駆け寄ってみたら門扉の向こうで手を振るハーレイ。前の生から愛した恋人。
(キャプテン・ハーレイ…)
 もしかしたら知っているかもしれない、氷の花の記憶のことを。前の自分が神様の花だと考えた理由、それをハーレイは知っているかも、と。
 そう思ったから、ハーレイと部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。氷の花って知っている?」
 氷で出来た花のことだよ、本物の生きた花じゃなくって。
「花氷か?」
 もちろん俺も知ってはいるが…。涼しげでいい感じだな、あれは。
「え?」
 涼しそうって…。それ、夏みたいに聞こえるよ?
「夏のものだろうが、花氷は。…冬でもパーティーとかに行ったら、飾ってあるかもしれないが」
 花を閉じ込めて凍らせたヤツだろ、花氷。お前が言ってる氷の花は。
「違うよ、本物の花じゃないって言ったよ、ぼくは」
 冬になったら窓に出来るでしょ、氷の花。寒い日に窓のガラスに咲いてる、氷の結晶。
「あれか、氷の花というのは。…言われてみれば、確かに花だな」
 車の窓にも咲いてるぞ。寒い朝だと、もう一面に白い氷の花ってな。
「分かってくれた? その氷の花、今日、冷凍庫で見たんだけれど…」
 アイスクリームを入れようとしたら、ガラスの器に一杯咲いてて、とっても綺麗で…。
 見惚れちゃってて、冷凍庫の戸が開けっ放しで、ママにちょっぴり叱られちゃった。
 今のぼくもアレ、好きなんだけど…。氷の花は大好きだけど…。



 前のぼくは嫌いだったみたい、とアルタミラにいた頃の話をした。強化ガラスのケースで開いた氷の花。命を奪う花が怖くて、恐ろしかったと。
 それなのに、好きになっていた花。神様が咲かせる花だと思って見ていたくらいに。
「…どう考えても悪魔の花でしょ、低温実験の時に咲くんだから」
 ぼくはいつでも死んでしまいそうで、このまま死んでしまうのかも、って思ってて…。
 神様が咲かせる花のわけがないよ、あれは地獄に咲いていた花で、悪魔の花。
 だけど前のぼくは、神様の花だと考えるようになっちゃって…。綺麗だな、って見惚れてて。
 そうなった理由、ハーレイ、知らない?
 前のぼくが「氷の花は、神様が咲かせる花なんだ」って、思い始めた理由は何か。
「…俺がか?」
 そいつは前の俺のことだな、とハーレイが自分の顔を指差したから。
「うん、ハーレイなら知ってるかも、って…」
 前のハーレイ、ぼくの一番の友達だったし、友達の後は、恋人同士。
 ずっと同じ船で暮らしていたから、ハーレイだったら、知っているかもしれないでしょ?
「そう来たか…。だが、いつも一緒にいたってわけではないからなあ…」
 俺が知らない間ってことも、まるで無いとは言えないぞ?
 ゼルとかヒルマンとか、仲間は大勢いたんだから。…あいつらが知っていたかもしれん。
 神様で、それで氷の花なあ…。
 地獄に咲いていた筈の花が、神様の花になる理由だな…?



 果たして俺が知ってるかどうか…、とハーレイは腕組みをしたけれど。遠い記憶を手繰り寄せてみては、眉間に皺を何度も刻んでいたけれど…。
「アレだ、シャングリラの窓だ」
 白い鯨になる前の、と探り当てたらしい氷の花。それに纏わる遠い遠い記憶。
「シャングリラ…?」
 それに、白い鯨になる前だなんて…。そんな頃なの、前のぼくの話?
「いいから聞け。こいつはお前が思っているほど、単純なモンじゃないってな」
 シャングリラって名前があったかどうかも怪しいくらいに、ずっと昔の話なんだ。一番最初は。
 前のお前が、俺と一緒に歩いていた頃。…今のお前みたいなチビの頃だな。
 まだリーダーにもなっていなくて、俺の後ろにくっついていた。でなきゃ、隣を歩いていたか。
 そうやって俺と歩いていた時、たまたま窓の側を通った。あの船にも窓はあっただろ?
 窓の向こうは宇宙なんだし、船の中より遥かに寒い。恒星の近くを飛んでいない時は。
 そういう時には、窓に氷の花が咲いてた。真っ暗な宇宙に星が幾つか、それと氷の花とだな。
 俺たちにとっちゃ、馴染みの景色というヤツなんだが…。
 そいつをお前が怖がったんだ。きっと、気付いてしまったんだな、氷の花だということに。
 これは嫌い、と窓の側でブルブル震え始めて…。
「思い出した…!」
 何が見えるの、って窓を覗き込んだら、星の代わりに氷の花が咲いていて…。
 いつもだったら気にならないのに、ガラスケースで咲いていた花とおんなじだ、って…。



 前の自分が重ねた記憶。窓のガラスと、低温実験の時の強化ガラスで出来たケースと。
 どちらにも咲いた氷の花。…凍らせて命を奪い取ろうと、幾つも幾つも咲いていった花。
 俄かに怖くなったのだった。アルタミラの時代が蘇るようで、凍ってゆくケースに引き戻されてしまいそうで。
 氷の花が咲いているから、氷の花は恐ろしいから。咲いたら死ぬかもしれないから。
 ガクガクと震え始めた身体。「怖い」とハーレイにしがみ付いて。
 「どうしたんだ?」とハーレイは抱き締めてくれたけれども、氷の花は恐ろしい。アルタミラで何度も咲いていたから、咲いたら凍ってゆくのだから。身体も命も、何もかもが。
 泣きながら「怖いよ」と訴えた自分。「これは嫌い」と、「死んでしまう」と。
 逃げ出したいのに、少しも動いてくれない足。氷の花が咲いた窓から逃れられない。ハーレイの身体に縋り付いたまま、ブルブルと震え続けていたら…。
「なんだ、こいつが怖いのか。こんなのはだな…」
 震えなくても、こうすりゃ消える。なんてことはないさ、こういう船の中ならな。
 此処はアルタミラじゃないんだから、とハーレイが「見てろ」と指で溶かした氷の花。ガラスの表面をスイと撫でるだけで。
 「ほんの少しだけ凍った程度じゃ、人間の体温には勝てないんだぞ」と。
 こうだ、とハーレイの指が溶かしてくれた氷の花。一本の線を描くように。
「でも…。怖いよ、ぼくには出来なかったよ」
 実験でケースに入れられた時は、ただ寒いだけで、ぼくの指まで凍っていって…。
 あんな凍った指で撫でても、氷の花は消えやしないよ。もっと沢山咲いていくだけで、触ったら指にも花が咲いちゃう。…きっとそうだよ、一度も触っていなかったけど…。
「…可哀相に…。お前、すっかり、そういうモンだと思い込んでしまっているんだな」
 此処だと俺たちの方が強くて、こんな花なんか、触っただけで消えちまうんだが…。
 お前が怖くて触れないなら、俺が代わりに消してやる。氷の花くらいお安い御用だ、幾つでも。
 一つ残らず消せってことなら、手で撫でちまえば終わりなんだが…。
 そうするよりかは、きっとこっちの方がいい。いいか、こういう具合にだな…。



 よく見ていろよ、と大きな指でチョンとつついては、消していってくれた氷の花。温かな指先で溶かしてしまって、跡形もなく。
 氷の花は消せるものなのか、と目を丸くして眺めていたら、「消えるだろ?」と優しい声。
 怖がらなくても、船の中では俺たちの方が遥かに強いんだから、と。
 ついでだから絵でも描いてみるか、とハーレイが窓に描いていった絵。船にはいない鳥や動物、花や果物。けして上手くはなかったけれども、心が温かくほどけていった。
 氷の花は人に勝てはしないと、こんな風に絵を描かれちゃうんだ、と。
 絵を描くついでに、綴られた文字。「ハーレイ」、それに「ブルー」と二人の名前。
「…ハーレイ、窓に書いてくれたね、ぼくたちの名前」
 絵を描いた後に、サインみたいに。…相合傘じゃなかったけれど。
「相合傘か…。あの時の名前、並べて書いてはいたんだけどな」
 恋人同士ってわけじゃなくてだ、一番古い友達同士。並べて書いても変じゃないだろ?
 だから消さずに放っておいたし、後で誰かが見てたんじゃないか?
 こんな所で落書きしたなと、二人がかりで遊んでいたなと。…お前も書いたと思い込まれて。
 それに相合傘、あの頃の俺たちは知らないだろうが。
 相合傘は昔の日本の文化で、前の俺たちが生きた時代は何処にも無かったんだから。



 無理に決まっているだろうが、と苦笑いされた相合傘。窓に書けなかった悪戯書き。
 氷の花はとても怖かったけれど、それから後にも、ハーレイと一緒に窓の側を歩いて、氷の花が咲いていたなら、消して貰えた。気付いて足が止まった時には。
 「怖くないから」と、ハーレイの指で。
 絵を描いてみたり、文字を書いたり、何度も、何度も。「これで消える」と、武骨な指で。
 その内に慣れて、氷の花は怖くなくなったのだけど。
 咲いている窓の側を通っても、「凍っているな」と眺めるだけで、氷の花が怖かったことさえ、いつしか忘れていたのだけれど…。
 白い鯨に改造されたシャングリラ。其処に作った展望室。いつかは青い地球を見ようと。
 雲海の星、アルテメシアの雲に潜んで、もう子供たちを迎え始めていた頃。
 ある夜、ブリッジでの勤務を終えて、一日の報告に来たハーレイ。
 青の間でキャプテンの仕事を済ませた後に、「懐かしい物を見に行きませんか」と誘われた。
「遅い時間ですが、今でしたら誰もいないでしょうから…」
 如何ですか、私とご一緒に。…夜の散歩に。
「散歩って…。懐かしい物というのは、なんだい?」
 公園なのかな、それとも農場に行くとでも?
「おいでになれば分かりますよ」
 行き先は船の展望室です、この時間だと外は真っ暗でしょうが…。
 元々、雲しか見えませんしね。昼でも夜でも、あまり変わりはしないでしょう。…外の景色は。
 けれど、この時間が一番いいのですよ。懐かしい物をお見せするには。



 ハーレイは笑みを浮かべたけれども、心当たりが全く無かった「懐かしい物」。
 展望室は新しく出来た施設なのだし、懐かしくなるほど長い時間が流れてはいない。何を眺めに行くのだろうか、と思いながらも頷いた。
 ハーレイとは今も一番の友達同士で、二人でいたなら満ち足りた時間を過ごせるから。
 懐かしい物が見られると言うなら、なおのこと。…それが何かは分からなくても。
 青の間から二人、誰もいない夜の通路を歩いて、辿り着いた暗い展望室。ガラスの向こうは夜の闇だし、明かりも灯っていなかったから。ぼんやりと淡く、足元を照らす光だけしか。
 其処に入って見回したけれど、何があるというわけでもない。休憩用の椅子やテーブル、それが幾つか置かれているだけ。もちろん懐かしい家具とは違って、展望室に合わせて作られたもの。
 他には大きなガラス張りの窓、展望室という名前通りに。
 いつかは向こうに青い地球が見える日が来るだろうけれど、今は雲しか見えない窓。
 アルテメシアの太陽はとうに沈んでいるから、夜の雲が外を流れてゆくだけ。星の光さえ見えはしなくて、限りなく闇に近いのが窓。
 まるで漆黒の宇宙のように。
 アルテメシアまで旅をして来た、真っ暗な宇宙空間のように。



 こんな所にいったい何が、と側に立つハーレイの顔を見上げたら。
「覚えていらっしゃいませんか?」
 この窓ですよ、とハーレイが近付いたガラス窓。此処に、と指差した氷の花。
 宇宙よりかは暖かいけれど、地表から遠い雲の中では、気温はとても低いから。時にはこうして氷の花が咲いたりするから、昼の間はガラスを温めたりもする。氷の花がガラスを覆い尽くして、外の景色が全く見えなくならないように。たとえ雲しか見えなくても。
 けれど夜間は、そのシステムも殆ど働きはしない。誰も来ない夜が多いのだから、窓の端までは温めなくてもいいだろう、と。
 だから窓ガラスの端の方から咲き始めている氷の花。美しい模様を描きながら。
「これは…?」
 窓が凍っているだけのように見えるけど…。この窓に意味があるのかい?
「やはり忘れてらっしゃいましたか、その方がいいことなのですが…」
 こうして凍っている窓です。氷の花が咲いている窓。
 ずっと昔に、あなたが怖いと仰って…。窓の側で震えて動けなくなって、泣いてしまわれて。
 お忘れですか、と問われて思い出した。
 氷の花がとても怖かったことを。ハーレイの大きな身体に縋って震えたことを。
「…あったね、ぼくにもそういう頃が」
 この花を見たら、アルタミラに引き戻されそうで…。ガラスケースに閉じ込められて、身体ごと凍ってゆきそうで。
 怖かったんだよ、本当に。…氷の花が咲いた時には、いつも死ぬかと思っていたから。
「今は平気でらっしゃいますか?」
 御覧になっても、お分かりにならなかったくらいですから…。
 大丈夫だとは思うのですが、氷の花はもう、ただの氷の花なのですか?
「そうだよ、今はただの氷の花なんだとしか思わない」
 水分が凍って出来る結晶、それだけかな。…それに綺麗だ、氷の花は。
 治ったよ、君のお蔭でね。
 君が何度も消してくれたから、平気になった。氷の花は直ぐに消せるし、絵も描けるから。



 もう大丈夫、と笑みを浮かべたら、「安心いたしました」と嬉しそうな顔。
「下手な絵でしたが、描いた甲斐があったというものです。…あなたが忘れて下さったなら」
 氷の花は綺麗なものだ、と仰るくらいに、あなたの心が癒えたのでしたら。
 では、懐かしむとしましょうか。…そのためにお連れしたのですから。
 相変わらず下手なままなのですが、とハーレイが指で窓に描いた絵。猫だろうか、と長い尻尾の動物の絵が出来てゆくのを眺めていたら、「ちゃんとナキネズミに見えますか?」という質問。
 昔、描いた頃にはナキネズミは船にいませんでしたが、今はいますよ、と。
「ナキネズミだって?」
 それは違うだろう、これは猫だよ。何処から見たって、猫でしかない。
 ナキネズミを描くなら、顔をもっと長く描かないと…。それに尻尾も、もっと大きく…。
 あれ?
 ぼくが描いても、なんだか少し…。
 違うような、と首を傾げながら自分も描いた。氷の花たちを指で溶かしながら、手袋に覆われた指で辿ってゆきながら。
 窓に咲いている氷の花は、今はもう怖くはなかったから。
 ただの絵を描くためのキャンバス、自然が作った画用紙でしかなかったから。
 でも描けない、とハーレイの絵と見比べてしまったナキネズミ。どちらも下手くそ、子供たちが見たなら何の動物だと思うだろう?
 ハーレイの絵は猫だけれども、自分の絵は正体不明の生き物。猫でもリスでもネズミでもない、宇宙の何処にも住んでいそうにない動物。
 足が四本あるだけの。…細長い顔と、大きな尻尾を持っているだけの。



 こんな筈では、と嘆きたくなった自分の絵心。きっとガラスが悪いのだ、と睨んだキャンバス。氷の花を指で溶かして描くのでなければ、もっと上手に描けるんだから、と。
(どうせ、朝には消えるんだし…)
 窓の向こうが明るくなったら、ガラスを温めるシステムが動く。朝一番に来る仲間もいるから、その時に窓がすっかり凍っていないように、と。
 下手くそな絵も消える筈だ、と窓ガラスを綺麗に掃除してくれるシステムにも期待していたら。
「御存知ですか、ブルー?」
 神様が咲かせる花だそうですよ、氷の花は。
 二人で絵を描いてしまいましたが、そうやって壊した花たちは。…どの花も、全部。
「そうなのかい?」
 神様だなんて、ぼくには信じられないけれど…。
 この花たちが怖かった頃は、地獄の花だと思っていたから。…地獄だったら悪魔だろう?
 悪魔の花なら分かるけれども、神様がこれを咲かせるのかい?
「ずっと昔に、そう言った人がいたそうですよ」
 私はヒルマンに聞いたのですが…。
 休憩時間に此処へ来てみたら、丁度、少しだけ咲いていまして…。
 ヒルマンが子供たちに説明しようと、氷の花を見せに連れて来たのです。咲いているよ、と。
 なんでも、人間が地球しか知らなかった時代の話だそうで…。
 その頃にはガラス窓がとても高価で、何処の家にもあるというものではなかったとか。
 そういう時代に、ガラス窓に咲いた氷の花を見上げた女性が言ったそうです。
 「神様が咲かせて下さる氷の花」だと。
 外はすっかり冬の寒さでも、神様が守って下さっているから寒くはない、と。
 神に仕える修道女の言葉だと言っていましたね、ヒルマンは。…後に聖女になった人だと。



 寒い真冬に、神が咲かせる氷の花。
 聖女の言葉だと言われてみれば、氷の花は確かに美しかった。それに自分も、氷の花が怖かったことを忘れていた間は、綺麗だと思って眺めていた。地獄の花だとは考えもせずに。
(…怖いの、すっかり忘れちゃってたし…)
 怖かった頃には、ハーレイが何度も消してくれたのが氷の花たち。
 その時代は懐かしい思い出になって、今は二人で絵だって描ける。ナキネズミは上手く描けないけれども、二人揃って下手だけれども。
 ハーレイに見せられた「懐かしい物」と、優しくて遠い思い出と。
 氷の花たちに絵を描いた後で、ヒルマンが子供たちに話した言葉を聞かされたから…。
「神様の花だ、って素直に納得しちゃったんだっけ…」
 悪魔が咲かせる花じゃなくって、神様が咲かせる氷の花。
 だからとっても綺麗な花で、怖い花なんかじゃなかったんだよ、って…。
「あの時、俺も言ったっけな。…前のお前に」
 もっと昔に、俺がそいつを知っていれば、と。
 チビのお前が震えてた時に、「神様が咲かせる花なんだから怖くないぞ」と言ってやれたら…。
 そうすれば、お前、もう少し早く、怖くなくなっていたんだろうに。
「…ううん、知らなくて良かったんだよ。あの頃のぼくは」
 身体も心も子供だったし、きっと受け止められないと思う。神様の花だって聞いたって。
 聞いていたなら、神様のことを恨んでいたかもしれないよ。
 ぼくにとっては地獄の花だし、悪魔が咲かせる花とおんなじだったんだから。
 どうして神様は、ぼくの身体を凍らせる花を咲かせたんだろう、って恨んでいそう。…本当に。
 前のハーレイから聞いた時には、ぼくは神様、信じていたから…。
 アルタミラの地獄も、きっと何かの意味があったと考えるようになっていたから良かっただけ。
 氷の花は神様が咲かせる花なんだ、ってハーレイの話を丸ごと信じられただけ…。



 丁度いい時に聞けたんだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。あの時だったからこそ、神様が咲かせる花だと信じられたのだ、と。
「ホントだよ? チビだった頃なら、きっと駄目だよ」
 信じないどころか、神様を嫌いになっていたかも…。神様も悪魔も一緒なんだ、って。
 人類のための神様なんだし、ミュウにとっては悪魔だよね、って。
「なら、いいが…」
 俺が話すの、遅すぎたというわけでないならいいんだが…。
 もっとも、ヒルマンの話を聞かなきゃ、前の俺は知らないままなんだがな。氷の花は誰が作って咲かせているのか、そんな話は。
「だろうね、キャプテンの仕事には入っていなかったから…。氷の花は誰が作るかなんて」
 キャプテンの仕事は、氷の花で窓が埋まってしまわないよう、メンテナンスをさせること。
 そっちの方でしょ、システムが故障しちゃわないように。
 …前のぼくとハーレイが描いたナキネズミの絵も、残ってしまって窓が汚れないよう、きちんと掃除させなくちゃ。朝一番には、窓をすっかり綺麗に仕上げるシステムで。
 あの時の絵は酷かったけれど、またハーレイと遊びたいな。
 今度は上手く描いてみたいよ、ナキネズミの絵。…ちゃんとナキネズミに見えるように。
「そうだな、冬になったらな」
 この部屋の窓にも、氷の花は咲くんだろうし…。夜なら絵だってよく目立つだろう。外が暗くて見えやすいからな、あの時と同じで。
 だが、この部屋では相合傘は書けないぞ。今の時代は相合傘でも、絶対に駄目だ。
 傘の絵だけなら描いたっていいが、俺とお前の名前を並べて書くのはいかん。
「やっぱり駄目…?」
 直ぐにゴシゴシ消してしまうのでも、相合傘は駄目なの、ハーレイ…?
「当然だろうが、此処はお前の部屋でだな…」
 俺とお前が恋人同士だってこと、お母さんたちは知らないだろうが。
 そういう間は、相合傘は禁止だ、禁止。…名前だけなら書いてもいいがな。でなきゃ傘だけ。
 恋人同士だと分かるようなヤツは、絵でも文字でも、書く前に俺が端から止める。
 氷の花さえ全部消したら、書く場所は何処にも無いんだからな。



 その代わり…、とハーレイがパチンと瞑った片目。「いつかは…」と。
「俺の車の窓に書いちまっても、許してやる」
 車の窓にも氷の花は咲くからな。寒い朝だと、ビッシリ真っ白になっちまうほどに。
「いいの!?」
 相合傘も書いちゃっていいの、本当に…?
 うんと大きく相合傘を書いて、見せびらかしながら走ろうね。
 氷の花が咲いた朝には、相合傘をつけて、二人でドライブ。ぼくとハーレイの車だよ、って。
「お前の気持ちは、分からないでもないんだが…」
 生憎と、車の窓に咲いた氷の花はだ、アッと言う間に溶けるってな。
 でないと外が見えないからなあ、運転どころじゃないだろうが。
「えーっ!?」
 酷いよ、それじゃ書いてもいいっていうだけじゃない!
 ドライブに行く前に消えてしまうんなら、そんなの、意味が無いんだから…!



 あんまりだよ、と怒ったけれども、いつか書きたい相合傘。今の時代だから書けるもの。
 傘の絵を描いて、ハーレイと自分の名前を並べて、幸せな気分。
 神様が咲かせる氷の花を指で溶かして、「ハーレイ」に「ブルー」。
 車の窓だと直ぐに溶けるのなら、今度も窓のガラスに書こう。
 白いシャングリラの展望室には敵わないけれど、ハーレイと二人で暮らす家で一番大きい窓に。
 とても寒い日に、家からは出ずに。
 ハーレイと二人で窓に向かって、指で書いてゆく相合傘。
 神様が咲かせる氷の花たち、それを指先で溶かして消して。
 白くなった窓に幾つも幾つも、幸せな相合傘と名前を。
 それが済んだら、次はナキネズミの絵も描こう。
 ハーレイと自分と、どちらが上手く描き上げることが出来るかの勝負。
 きっと今度は負けないから。
 負けてしまっても、神様が氷の花を咲かせてくれたら、またハーレイに挑めるから…。




              氷の花・了


※前のブルーが恐れた氷の花。低温実験のせいですけれど、ハーレイのお蔭で消えた恐怖感。
 落書きをして遊んでいたのも、今では懐かしい思い出の一つ。またハーレイと、描きたい絵。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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「俺もすっかり、お客様は卒業していたんだなあ…」
 いいことなんだが、とハーレイが唐突に口にした言葉。
 爽やかに晴れた土曜日の午後、ブルーの家の庭でのんびりティータイムの後、部屋に戻ったら。
「卒業って?」
 ブルーがキョトンと見開いた瞳。言葉の意味がよく分からない。
 卒業も何も、ハーレイはとっくに「お客様」ではないと思うから。両親も一緒の夕食の時には、いつでも普段着のメニュー。特別な御馳走が並びはしないし、家族の一員なのだと思う。
 本当の家族ではなくて、親戚というわけでもないけれど。友達とも少し違うけれども、お客様の扱いとは違う。お客様なら、食事は御馳走。飾る花だって、もっと豪華に。
 そう思ったから、「ずっと前からそうじゃない?」と傾げた首。「お客様じゃないよ」と。
 今頃になって何故そんなことを言うのだろう、と不思議でたまらないのだけれど。
「そうなんだが…。俺も分かっちゃいるんだが…」
 さっき、しみじみと思ったんだよな。本当に卒業していたんだな、と。
「…庭に何かあった?」
 ぼくは気が付かなかったけれども、お客様は卒業っていう印。
 お茶もお菓子も、いつも通りだと思ったけれど…。何かピンと来るものがあったの?
「テーブルの上のことじゃなくてだ、お母さんが通って行ったろ」
 俺たちがお茶を飲んでいた時に。…ケーキを食ってた時だったかもしれないが。
「ママ…?」
 そういえば…。通ってったっけ、向こうの方を。



 庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。ブルーのお気に入りの場所。初めてのデートの記念の場所で、天気のいい日はハーレイと一緒に出掛けることも。
 今日の午後もそうで、母が用意をしてくれた。ポットにたっぷりのお茶と、焼き立てのケーキ。それをハーレイと楽しんでいたら、庭の端を通って行った母。
 洗濯物を取り込むための籠を抱えて、物干しがある方向へ。テーブルからは見えない物干し。
 暫く経ったら、洗濯物を入れた籠を手にして戻って行った。よく乾いたろう洗濯物を。
 たったそれだけ、他には何もしていない筈で…。
「ママがどうかした?」
 通っただけだよ、庭の端っこを。横切って行って、ちょっとしてから戻って行って。
「洗濯籠を持っていただろ、お母さんは」
 行きは空ので、帰りは中身が入ったヤツ。今日は天気がいいからな。洗濯日和というヤツだ。
「それ、普通だよ?」
 いつも通って行くじゃない。ぼくたちが庭にいる時は。
 あそこでお茶を飲んでいる日は、お天気がいいに決まっているし…。
 洗濯物だってよく乾くから、ママが通るの、当たり前だよ。
「よくあることだな、今ならな」
 この前もそうだし、その前だって多分、通っていた筈だ。
 俺も何とも思わなかったし、現に今日だって、「いい天気だな」と眺めていたんだが…。



 夏休みの頃はどうだった、と問い掛けられた。白いテーブルと椅子が据えられた頃。最初の間は別のテーブルと椅子で、ハーレイが運んで来てくれていたキャンプ用。それが気に入りになったと気付いて、父が買ってくれたのが今のテーブルと椅子。
 其処に何度も座ったけれども、夏休みの間は暑かったから…。
「えっと…。涼しい内しか座ってないから、通らないんじゃない?」
 午前中の涼しい時間に座ってたんだし、洗濯物はとっくに干した後だよ。朝の間に。
 取り込むのはお昼の後だろうから、その頃にはぼくたち、いないってば。中に入って。
「それはそうかもしれないが…。朝の間に干したんだろうが…」
 いい天気だったら、色々と干したくならないか?
 普段の洗濯物の他にも、後から洗って追加だ、追加。物干しが空いていたならな。
「追加って…。洗濯物って、そういうものなの?」
 ママだって沢山洗う日はあるけど、あれは追加じゃないと思うよ。最初から決めてた洗濯物。
 今日はこれだけ、って決めている分を、洗ってるんだと思うんだけど…。
「お前、チビだから分からないかもなあ…。自分で洗濯しないんだろうし」
 とてもいい天気で、干したらパリッと乾きそうな日は、洗濯物を追加したい気分になるもんだ。
 こんな日はきっと良く乾くんだ、と空を見上げたら欲が出ちまう。
 ちょっとシーツも洗ってみようとか、シーツを洗うなら、ついでに他にも大物を、とか。
 あれも、これもと洗って干したい気分になるのが洗濯だってな。
 夏の日は特にそうなるもんだ。洗って干したら、アッと言う間に乾くんだから。



 他の季節とはまるで違う、とハーレイが語る夏の太陽。同じ洗濯物を干しても、乾く時間が春や秋とは大違いだと。追加の洗濯物を干しに行く頃には、先のが乾き始めていると。
 確かに夏の日射しは強い。あれにかかれば、洗濯物だって本当に早く乾くのだろう。でも…。
「ママは一度も通ってないよ?」
 洗濯物の追加は無かったんだよ、朝の間に洗ってしまって。
 だって昼間は暑くなるでしょ、あのテーブルと椅子は木の下にあるから涼しかったけれど…。
 庭はお日様が照っていたんだし、其処を通ったら痛いくらいに暑いもの。
 ママもそんなの嫌だと思うよ、早い間に干しておいたら、後は取り込むだけでいいでしょ?
「なるほどな。…なら、秋になってからはどうだった?」
 お母さんはやっぱり通らなかったか、俺たちがいるような時間は暑いから。
「んーと…?」
 どうだったろう、と手繰った記憶。
 残暑の頃には、見なかった気がする洗濯籠を手にした母。今日のように庭のテーブルにいても。
 けれど、いつからか馴染みの光景。庭の向こうを、母が横切ってゆく姿。
 ただ通って行くだけとは違って、声を掛けてゆく時だってある。
 「お茶やお菓子は如何ですか?」と、おかわりを届けるべきかどうかを、少し離れた所から。
 洗濯籠を抱えたままで。にこやかな笑顔をこちらに向けて。



 そうなったのは、多分、秋から。午後のお茶を庭で楽しんでいたら、通るから。朝の間に干した洗濯物が乾いた時間に、物干しまで取り込みに行くわけなのだし…。
「季節が変わったからじゃないの?」
 ぼくたちが庭に出ている時間も、午後ばっかりになっちゃったから。
 きっと洗濯物を入れる時間と重なるようになったんだよ。ママが通って行く時間と。
「お前の推理も、まるで外れちゃいないだろうが…」
 残念ながら、そいつは違うな。俺がお客様ではなくなったんだ、そのせいだ。
 それでお母さんに出くわすわけだな、あそこにいると。
「どういう意味なの?」
 さっきも卒業って言っていたけど、ママが通ると、どうしてお客様じゃなくなるわけ?
「お母さんが通って行くと言うより、洗濯籠だな」
 いつも洗濯籠を持ってるわけだが、お客様の前を洗濯籠を抱えて通るのか?
 中身が空の時ならまだしも、帰りは取り込んだ洗濯物が籠に入っているんだろうが。
 お客様なら、ちょっと失礼だと遠慮しないか?
 庭の花を抱えて通るならともかく、洗濯物ってヤツの場合は。
 いくら洗ってあると言っても、洗濯物には違いない。見せちゃいけない舞台裏だろ。
「そういえば…」
 洗濯籠の中身、タオルとかだけじゃないもんね…。他にも色々、洗濯した物。
 纏めて取り込んでいるんだろうし、お客様には見せられないかも…。



 部屋やテーブルを彩る花とは違った洗濯物。お客様に披露するものではない。洗って干したら、後はきちんと片付けるもの。来客の目には触れない場所へ。
 そういう洗濯物が入った籠を抱えて、母が通って行った庭。今日も、いつもと変わりなく。
 考えてみれば、わざわざあそこを通らなくても、裏口から行ける物干し場。庭を通るより、裏口から出た方が近いのだけれど、いつからか通るようになった母。
 庭で一番大きな木の下、ハーレイと二人で白いテーブルと椅子にいたならば。洗濯籠を手にして通ってゆく母、行きも帰りも庭の端っこを。
「…なんでかな?」
 ママが通るの、どうしてなのかな…。物干しに行くなら、裏口の方が近いのに…。
 庭を通って行くってことは、ぼくたちを監視してるとか?
 洗濯物を取りに行くようなふりをしながら、ぼくとハーレイを見張っているとか…。
「それは無いだろ、俺たちのことは全くバレていないんだから」
 生まれ変わる前は恋人同士で、今も恋人同士だってことはバレてない。監視は必要無いだろう。
 しかしだ、別の意味での監視と言うか、注意と言うか…。
 窓からしげしげ見てるよりかは、庭を通って行く方がずっと自然だぞ?
 お茶やお菓子の追加が要るのか、さりげなく見ていけるだろうが。声だって掛けて行けるしな。
 だが、それだけのために、庭まで出て来るというのもなあ…。
「ちょっと失礼な感じがするよね」
 見張ってます、っていう感じだし…。ぼくたちだって、気になっちゃうし。
「テーブルの側まで来るんだったら、別に失礼でも何でもないが…」
 離れた場所から見るとなったら、失礼だろう。
 そうは言っても、窓越しに見てちゃ、よく分からんし…。出て来たら気を遣わせもするし。



 だから洗濯物のついでなんだ、とハーレイが視線を遣った窓。白いテーブルと椅子がある庭。
 軽く頷いて視線を戻して、唇に浮かべた穏やかな笑み。
「洗濯物を取り込む時にだ、ちょっと通って、俺たちの方の様子も見る、と」
 どんな具合か直ぐに分かるし、声も掛けられるし、洗濯物も取り込みに行ける。一石二鳥だ。
 そうしているのは、俺が客ではないからなんだ、と今頃になって気付いたってな。
 お客様を卒業したのは嬉しいことだが、今日まで気付かなかっただなんて…。
 俺も鈍いな、お母さんの姿は散々見ていた筈だってのに。
「鈍くないでしょ。だって、そんなの考えなくてもいいことなんだし」
 ハーレイ、すっかり家族みたいなものだもの。晩御飯、御馳走なんかじゃないし。
 お客様なら、いつでも御馳走ばかりの筈だよ。普段は無理でも、週末は用意が出来るんだから。
 いきなり来るっていうわけじゃなくて、来るのが分かっているんだもの。
「それは違いないな。週末でも凝った御馳走ばかりになってはいない、と」
 俺専用の茶碗と箸が無いってだけだな、其処だけはお客様用で。…家族じゃないから。
 ついでに洗濯物も別々だよなあ、お母さんが洗濯籠を抱えて通っていても。
 やっぱり家族じゃないってことだな、お客様ではないんだが。



 「俺のは一緒に洗って貰えん」とハーレイがおどける洗濯物。どんなに天気がいい日にも、と。
 母が抱えた洗濯籠には、ハーレイの分の洗濯物は今は入っていないけれども…。
「頼めば出来ると思うよ、それ」
 きっとママなら洗ってくれるよ。前にハーレイのシャツを洗ったでしょ、汚れちゃった時に。
 乾くまではパパのを着てて下さい、って代わりのも渡していたじゃない。
 だから出来るよ、ハーレイの分の洗濯物を一緒に洗って貰うのも。
「そりゃまあ、頼めば出来るんだろうが…。俺が無精者になっちまうってな」
 洗濯もしない無精な男。「今日はこれだけお願いします」と、洗濯物まで運んで来て。
「それってなんだか面倒そうだね、持って来なくちゃいけないし…」
 洗って乾いた洗濯物だって、持って帰らなくちゃいけないんだし。
「まったくだ。そんな余計な手間をかけるより、自分で洗った方が早いぞ」
 そうすりゃ溜め込むことだって無いし、洗ったばかりのサッパリしたのを着られるし。
「ハーレイ、洗濯してるんだ…」
 一人暮らしだから、やってて当然なんだけど…。やらなかったら大変だけど。
「プレスもするって言っただろうが、ワイシャツのな」
 いくら機械に任せるにしても、セットするのは俺なんだから。
 綺麗に洗ったワイシャツを入れて、スタートボタンを押してやらんとプレスは出来ん。
 しかし、そいつが性分ってヤツだ。いちいちクリーニングに出すより、自分でやるのが。



 それに…、と始まった洗濯の話。自分で洗濯しているハーレイ。出掛ける時には、雨が降ったりしたら困るから部屋干しだけれど、外に干すのが好きなんだ、と。
「俺は断然、物干し派だな。同じ洗濯物を干すなら、庭の物干しが最高だ」
 気持ちいいだろ、お日様の匂いで。
 庭の物干しで乾かさないと、あの匂いはついて来ないってな。
 タオルでも何でも、嬉しい気分になるんだよなあ…。お日様の匂いがするってだけで。
「ぼくも好きだよ、お日様の匂い」
 顔を洗ってタオルで拭く時、ふわっと匂いがするのが好き。お日様だよね、って。
「俺もそいつを楽しみに干しているってわけだが…」
 お前の所に来るようになって、最近、ご無沙汰気味なんだが…。
 今ならではの贅沢だよなあ、お日様の匂いの洗濯物。
「そうだね、地球の太陽だものね」
 お日様の匂いも地球のお蔭で、今のぼくたちだけの贅沢。…地球に来たから。
「おいおい、地球の太陽ってヤツは最高の贅沢ではあるが…」
 最高と言う前に、太陽そのものの方を考えてみろよ?
「えっ…?」
 そっか、シャングリラだと太陽の光は無かったね…。
 いつだって船の中だけなんだし、太陽の光と似たような照明だけだったから…。
「それ以前にだ、シャングリラでは洗濯物を外に干せたのか?」
 船の外って意味じゃなくてだ、太陽に似せた光が照らしていた所。
 其処に干せたら、お日様の匂いの偽物くらいは可能だったと思うんだがな…?
 植物もすくすく育ったわけだし、洗濯物を一日、ああいう光に当ててやったら。
「…干してない…」
 洗濯物なんか干していないよ、シャングリラでは。
 白い鯨になる前の船も、ちゃんと改造して植物とかを育てられる船が出来上がっても…。



 太陽に似せた光はあっても、白いシャングリラでは干していなかった洗濯物。昼の間は、燦々と光が降っていたのに。まるで船の外の、アルテメシアの太陽に照らされているかのように。
 けれど、洗濯物に宿ることは一度も無かった、お日様の匂い。
 巨大な白い鯨の中には、洗濯物の干場が無かったから。明るい光が降り注ぐ場所には。
 船には大勢の仲間がいたから、全員の分を並べて干せはしないし、乾かす場所は乾燥室。洗った物は全部、服もタオルも乾燥室で乾かしていた。昼間の光は使わないで。
「…洗濯物を干している所、公園とかでも見てないね…」
 あそこだったら、きっと気持ち良く乾いたのに…。ブリッジの下の大きな公園。
 人工の風も吹いてたんだし、お日様の匂いになりそうなのに。
「洗濯物は良く乾くだろうが、公園の景色が台無しだぞ?」
 ブリッジから見たって、洗濯物がズラリと干してあるのが分かるわけだし…。
 そいつは流石にどうかと思うぞ、そういう所も物干しを作らなかった理由じゃないのか?
 思い付かなかったってこともあるんだろうがな、改造前の船だと乾燥室しか無かったわけだし。
 洗濯の後は機械を使って乾燥なんだ、と誰もが頭から思い込んでたもんだから…。
 干して乾かそうって発想自体が無かっただろうな、あの馬鹿デカイ公園を目にしていたってな。



 キャプテンだった俺も含めて…、とハーレイが言うのが正解だろう。公園の景色が台無しという以前の問題、太陽の光で乾かすことを思い付かなかった前の自分たち。
 洗濯物は乾燥室で乾かすもので、機械の仕事。自分たちで干して取り込むだなんて、前の自分も考えなかった。干せそうな場所はあったのに。
 干したならきっと、お日様の匂い。本物の太陽には敵わなくても、きっと素敵な匂いになった。
 それに…。
「ちょっぴり干してみたかったかも…」
 お日様の匂いはどうでもいいから、乾燥室じゃなくて物干しに干したかったかも…。
「干すって、何をだ?」
 お日様の匂いを貰うためじゃなくて、ただ干すだけって、何を干すんだ。
「ぼくのマントと、ハーレイのマント」
 一緒に並べて干してあったら、幸せだったと思うんだよ。並んでるね、って。
 乾燥室を使わなかったら、そういう景色を見られていたかも…。
「百歩譲って、物干しを作っていたとしても、だ…」
 ソルジャーのマントは別格だろうと思うがな?
 此処はソルジャー専用です、と決めてあってだ、お前のマントだけが干してあるんだ。
「別格って…。キャプテンは二番目に偉かったじゃない」
 並べて干してもいいと思うよ、ハーレイのマント。ぼくのと一緒に。
「…確かに俺は、あの船で二番目に偉いことにはなってたが…」
 それでも、俺のマントとお前のマントを並べて干しはしないだろう。
 お前はソルジャーなんだから。
「えーっ?」
 並べて干すのが効率的だと思うけど…。マントはマントで、纏めて洗って。
 ぼくのの隣にハーレイのマントで、干しに行く時も、取り込む時も、一緒だったら早いのに…。



 手間が省けていいじゃない、と言ったけれども、考えてみれば別扱いにされそうな自分。
 ソルジャーだった前の自分を、エラは何かと特別扱いしたがった。ソルジャーだから、と。
 きっとマントも、並べて干しては貰えない。ハーレイのマントと纏めた方が早そうでも。
「…やっぱり駄目かな、ハーレイのマントと並べて干すの…」
 エラが文句を言いに行くかな、「並べて干すとは何事ですか」って。
「そんなトコだな、エラなら絶対、許しはしないぞ。…やたらうるさく言ってたんだし」
 俺が思うに、シャングリラに物干し場があったとしたなら、お前だけは別になるってな。
 隣同士が駄目などころか、干す場所からして違うんだ。俺とか、他の仲間たちとは。
「何それ…」
 どうして場所まで別になるわけ、隣同士が駄目っていうのは分かるけど…。
「お客様の前じゃ、洗濯籠を抱えて歩きはしないのと同じ理屈だ」
 舞台裏ってヤツは決して見せないってな。お客様ではなくて、船の仲間でも。
 ソルジャーの衣装を干す所なんか、もう絶対に見せられん。要はマントと上着だな。
 そいつが物干しに干してあったら、それと一緒に干してあるアンダーとかの持ち主も分かるぞ。お前なんだ、と。それじゃマズイし、お前の分の干場は別だ。
「何が駄目なの、服の持ち主が分かったら?」
 ぼくの服だと気が付いたって、少しも問題無さそうだけど…?
「有難味ってヤツが無くなるだろうが。…ソルジャーのな」
 どんなにエラが「ソルジャーは偉い」と宣伝したって、ただの人間になっちまう。
 お前のアンダーだの、下着だのが干してあったなら。
 目にしたヤツらは「ソルジャーもこれを着るんだな」と思うわけでだ、有難味も何も…。下着を見られちまったら。



 まるで駄目だ、とハーレイが首を振る下着。「ソルジャーの下着は見せられないぞ」と。
「考えてもみろよ、青の間まで作って祭り上げてたソルジャーなのに…」
 その辺に下着が干してあったら、ソルジャーの威厳が吹っ飛んじまう。こんな下着か、と誰でも興味津々、まじまじと眺められるんだから。
「でも、下着…。誰かが洗っていたんだよ?」
 前のぼくは自分で洗っていないし、洗う係がいたわけで…。その人は見るよね、ぼくの下着を。
 アンダーも上着も、洗濯に出した服とかは全部。
「その通りだが、何のための部屋付き係なんだ?」
 舞台裏を見るヤツは限られていたし、知られていないも同然だ。前のお前の洗濯物は。
 青の間が出来るよりも前から、専属の係がいただろうが。
「えーっと…?」
 そんなに前から、ぼくのための係があったっけ?
 ちっとも覚えていないよ、そんなの。青の間が出来てからのことだよ、部屋付きの係。
 それまでは誰もいなかった筈、と言っているのに、ハーレイは「いた」と断言した。部屋付きの係ではなかったけれども、似たような役目をしていた者が、と。
「よく思い出してみるんだな。…白い鯨が出来る前のこと」
 前のお前の洗濯物は、どうしてた?
 シャワーとかの後で、お前、そいつをせっせと洗ってたのか?
「んーと…?」
 洗濯物は…。洗っていないよ、ソルジャーになるよりも前からずっと。
 アルタミラから逃げ出した後は、洗濯の係、何人もいたし…。
 洗濯用の籠に入れておいたら、誰の服でも、ちゃんと洗って貰えたから…。



 自分で洗濯していない筈、ということは確か。最初から洗っていないのだから。
 洗濯係の仲間が洗った洗濯物は、頃合いを見て貰いに出掛けた。乾燥室に山と積まれた中から、自分の分を選び出して。服も下着も。
(…だけど、お風呂は…)
 ソルジャーという肩書きがついて間もなく、バスルームが別になってしまった。他の皆とは。
 船で一番偉いのだから、と一人だけで使うことになったバスルーム。いつでも好きにシャワーを浴びたり、バスタブにゆったり浸かれるようにと。
 お風呂好きだったから嬉しいけれども、使っていない時間が殆どだから。空いているから、他の仲間にも使って貰おうと提案したのに、エラに「駄目です」と切り捨てられた。
(ちゃんと扉に札を下げたら、使っていない時間が分かるのにね?)
 そのアイデアさえ却下されてしまったバスルーム。其処でシャワーを浴びた後には、バスタブにゆっくり浸かった後には、どうしただろう?
 洗濯物は自分で洗っていないし、放っておいたわけでもないし…。
(…抱えて帰った…?)
 持って行って着替えた服の代わりに、袋に入れて。ソルジャーの上着も、着替えたマントも。
 けれど、その後が思い出せない。持って帰って…、と考え込んでいたら。
「お前の服。…部屋に置いておいたら、取りに来なかったか?」
 留守にしてる間に、洗濯物を入れた袋ごと。朝飯の間とか、適当な時に。
「そうだっけ…!」
 消えていたっけ、前のぼくが着替えた服とかは全部…。
 食堂へ行ってた間とかに部屋から消えてしまって、その代わりに…。



 いつの間にか消えた洗濯物。それを入れておいた袋ごと。洗濯物の袋が消えたら、洗い上がった服や下着が届いていた。どれも所定の場所にきちんと。
「…ぼくの服、誰かが洗ってくれてた…」
 洗って乾かした服も下着も、ちゃんと部屋まで届いていたよ。ぼくは頼んでいないのに…。
「ほら見ろ、係がいたってことだ」
 あの時代だと、部屋付きの係ってわけじゃなくって、洗濯係の中の誰かだが…。
 何人か係が選んであって、そいつらの仕事だったんだな。前のお前の服を洗うのは。
「…なんで、そんな係?」
 みんなと同じで良さそうなのに、どうして係が決めてあったわけ?
「エラだ、エラ。…全部あいつが決めていたんだ」
 バスルームを分けるほどだったんだぞ、ソルジャーは特別なんだから、と。
 そこまでやるなら、とことん別にするべきだろうが、ソルジャーは。
 もちろんソルジャーの洗濯物を、他のヤツらの洗濯物と一緒に洗えはしないってな。まだ制服が出来てなくても、お前の分は別だったんだ。
 制服が出来たら、なおのことだぞ。もう完全に別扱いで、洗う係は細心の注意を払ってた、と。
 洗う時には、綻びが無いか端までチェック。マントの隅の隅までな。
 糸がほつれていたりしたなら、洗った後には服飾部門で直して貰って部屋に届ける。
 下着とかでも同じことだな、くたびれる前に新品と取り替えて届けないとな?
 ソルジャーの服は上から下まで、威厳ってヤツに溢れてないと…。
 アンダーの下になって見えない下着も、一分の隙もあってはならん、といった具合で。



 そんなお前の洗濯物を、他のヤツらが見る場所なんかに干せるもんか、と笑うハーレイ。公園に物干しを作ったとしても、お前の分は其処には無いな、と。別の場所だと。
「あの船で物干し場を思い付いていても、お前の洗濯物はだな…」
 俺のと並べて干して貰えるわけがなくてだ、何処かに専用の干場があった、と。
 人工の光と風を使って乾かすにしても、居住区にあった公園の一つを貸し切りとかでな。
「…そうなっちゃうわけ?」
 干してある間は、その公園は立ち入り禁止で。…ぼくの下着とかを仲間に見られないように。
「当然だろうが。同じ下着でも、俺のだったら、あのデカイ公園に干されていそうだが…」
 この大きさからしてキャプテンのだな、とマントや制服がセットでなくても気付かれそうだが。
 俺だけが無駄にデカかったからな、シャングリラでは。
「そうかもね…。ハーレイのだったら、大きさだけで分かっちゃうかも…」
 ハーレイにも係、ついてたの?
 前のぼくみたいに、洗濯物を持って行ったり、届けてくれたりする係。
「まあな。キャプテンってヤツは忙しいからな、いつの間にやら出来ちまってた」
 お前よりかは後だと思うが、白い鯨になるより前から洗濯係はついてたわけで…。
 ただし、洗って届けてくれるというだけだ。キャプテンはソルジャーじゃないからな。
 俺の洗濯物、お前のと一緒に洗ったりしてはいないと思うぞ。
 お前の分だけは丁寧に別に洗っていてもだ、俺のは十把一絡げってトコか。
 キャプテンの制服とマントは慎重に扱っていたんだろうが、アンダーや下着は適当だろうさ。
 干すにしたって、皆のと一緒に一番デカイ公園行きだ。
 大勢の仲間が眺めるわけだな、「このデカイ下着はキャプテンのだろう」と。
 そしてお前の分はだな…。



 まるで別の場所で干されてるんだ、とハーレイが挙げてゆく公園。白いシャングリラの居住区に幾つも鏤めてあった、小さな公園のどれかだろうと。
「つまりだ、俺のマントとお前のマントは、並べて干せやしないってな」
 並べるどころか、うんと離れて干されるという運命だ。シャングリラに物干しがあったって。
「今のぼくたちと一緒だね…」
 洗濯物を並べて干してみたくても、絶対に無理。
 今もそうでしょ、ぼくのはママが干してるんだし、ハーレイのはハーレイが家で干すから。
「洗濯物を並べて干すって…。前の俺はお前の家族じゃないが?」
 並べて干すような理由が無いだろ、今と同じで。
 洗濯するのも干すのも別々、家族でないなら、それで少しも可笑しくはないが…?
「でも、一番の友達だったよ。ハーレイだって言っていたでしょ、最初の頃に船のみんなに」
 俺の一番古い友達なんだから、って。…そう紹介してくれていたよ、ぼくを。
 友達の後は、恋人同士だったのに…。家族みたいなものだったのに…。
 それなのに、洗濯物は別…。
 干すのが別々ってことは無くても、洗うの、別々だっただなんて…。
「仕方ないだろうが、前のお前はソルジャーなんだ」
 エラがせっせと特別扱いさせてたんだし、どうしようもない。バスルームも別だったんだから。
 洗濯物を俺と一緒にするわけないだろ、俺のは他の仲間たちのと纏めて洗ってもいいが…。
 お前の分は特別だ。デカイ公園に下着を干されてしまいそうな俺とは、別にしないと。
「一緒に洗って欲しかったよ!」
 他の仲間たちの分は諦めるけれど、ハーレイの分の洗濯物…。
 船で二番目に偉かったんだし、ぼくのと一緒に洗ってくれても良さそうなのに…!



 母が抱えていた洗濯籠のように、ハーレイの分と自分の分とを、一緒に入れて運んで干して。
 洗う時からずっと一緒で、取り込む時にも、干す時も一緒。
「…いつも一緒が良かったのに…」
 ハーレイのと、ぼくの洗濯物。…ぼくだけ別扱いにされずに。
「さっきから何度も言っているだろ、シャングリラでは無理だったんだ」
 前のお前はバスルームまで別のソルジャーだったし、舞台裏を見られるわけにはいかん。
 デカイ公園に下着を干されて、皆が「キャプテンのだ」と眺めていても良かった俺とは違う。
 一緒に洗うのも干すのも無理な洗濯物でだ、そういう運命の二人だった、と。
 今の俺たちでさえ、無理なんだぞ?
 お前の洗濯物を洗っているのはお母さんだし、俺のは俺の家で洗うんだし。
「…結婚するまで、一緒は無理?」
 ぼくの洗濯物とハーレイのとを、一緒に干すのは無理なわけ?
 ハーレイがお客様ではなくなっていても、ママが洗濯籠を抱えて庭を通っていても。
「そういうことだな、俺は無精者にはなりたくないし」
 自分が着た物は自分で洗って、プレスだってする。
 お前のお母さんが「洗いますよ」と言ってくれても、「お願いします」とは言わないな。
 この家でウッカリ汚しちまったら、その時は頼むかもしれないが…。
 実際、前にもシャツを洗って貰ったからな。



 それ以外では決して頼まん、とハーレイは自分で洗濯を続けそうだから。せっかく洗濯物の話が出たのに、前の自分たちと全く同じで、当分は別々に洗って干すしか無さそうだから。
「じゃあ、結婚したら一緒に干せるんだよね?」
 ぼくのとハーレイのを一緒に洗って、一緒に干して。
 やっと並べて干せるようになるね、前のぼくたちだと無理だったけど…。
 物干しがあっても、前のぼくは別にされそうだから。…洗うのまで別にされちゃってたから…。
「お前がソルジャーになる前だったら、一緒に洗っていたかもなあ…」
 シャングリラって名前も無かった頃の船なら、お前のも俺のも纏めて洗濯。
 いや、体格が違いすぎたから、やっぱり別か…。
 洗う前に仕分けをしてただろうしな、似たようなサイズのを纏めて洗うのが一番だから。
 乾燥室で乾燥させたら、サイズ別に揃えていたんだし…。
 デカすぎた俺のと、一番のチビだったお前の分とは、あの頃から別々だったんだろうな。
「きっとそうだよ、確かめようがないけれど…」
 あんな頃の記録は残ってないから、確認しようがないけれど…。きっと別々。洗うのも、洗った後で乾燥させるのも、全部。
 …早く一緒に干してみたいよ、ハーレイとぼくの洗濯物。
 一緒に洗って、お日様の下に並べて干して。…とても幸せになれると思うよ、そうしたら。
 ぼくたち、ホントに家族だよね、って。
「幸せって…。洗濯物にまで夢を見るのか、お前は」
 結婚したら俺のと一緒に洗えるだとか、一緒に並べて干そうだとか。
「ハーレイが最初に言ったんじゃない。もうお客様は卒業だな、って」
 家族とおんなじ扱いだから、ママが洗濯物の籠を持って通って行くんだって。
 だから、ハーレイと結婚したら、本物の家族で洗濯も一緒。洗うのも、干すのも。
「うーむ…。まあ、そいつも楽しみにしておくんだな」
 洗濯物を一緒に干すってだけでも、お前が幸せになれるんなら。
 今はまだまだ出来ないわけだし、俺と結婚して家族になったらそうするんだ、と。



 洗濯物なあ…、とハーレイは呆れた顔だけれども、幸せな夢がまた一つ出来た。
 いつかは並べてお日様の下に干す洗濯物。ハーレイの分と、自分の分と。
 前の自分たちには出来なかったことで、物干し場さえも無かった船がシャングリラ。
(だけど今だと、物干し、あるしね…)
 ハーレイと二人で暮らす家の庭にも、お日様が燦々と照らす物干し。
 洗濯をしたら、地球の太陽の匂いが素敵な服になるよう、ハーレイの分と並べて干そう。
 お日様に当てても色が褪せずに、パリッと乾く気持ちいい服を。
 良く乾いたら、次のデートに出掛ける時には、二人でそれを着て行こう。
 手を繋ぎ合って、幸せに。
 今日は何処まで行ってみようかと、洗濯日和の青空の下を…。




            二人の洗濯物・了


※シャングリラでは干していなかった洗濯物。その上、ソルジャーの洗濯物には専属の係が。
 ブルーとハーレイの洗濯物を並べて干すのは、結婚するまで無理なのです。その時が楽しみ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(うーん…)
 ぼくって運動不足なのかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 健康な身体を作るためには、まずは運動。軽く身体を動かすだとか、少し多めに歩くとか。同じ道を歩いてゆくにしたって、早足で行けば運動になる。急いだ分だけ、使うエネルギー。
 とにかく日頃の運動が大切、それが体力づくりの秘訣。
(ぼくって、身体が弱いけど…)
 生まれつきの体質なのだけれども、改善の余地はあるかもしれない。
 直ぐに寝込んだり、風邪を引いたり、弱すぎる身体。前の自分とそっくり同じに。もしも丈夫な身体になれたら、学校を休まなくていい。「ハーレイに会えなかった」と思わなくて済む。
(学校、バスで行ってるし…)
 体育の授業も見学が多いし、運動不足なのかもしれない。いわゆる運動は殆どやらずに過ごしているから。やりたくても出来ない身体だから。
(走ったら、直ぐに疲れちゃって…)
 もう駄目だ、と手を挙げて見学するのが体育の授業。たまに頑張ったら、後で寝込んだり。
 そうならないよう、運動は控えているのけれども、控えすぎて逆に弱いのだろうか。運動不足になってしまって、少しも丈夫になれないだとか。
(ありそうだよね…)
 運動しようと自分で思ったことが無い。いつだって「無理」と考えるだけ。
 これでは健康になれはしないし、自分は間違っていたかもしれない。体力づくりをしないから。運動不足な日々を重ねているだけだから。



 日頃の運動が大切なのだ、と書いてある記事。スポーツや体操も記者のお勧めなのだけど。
(散歩しましょう、って…)
 走ったり、体操したりといった運動が向かない人は。無理をしないで自分のペースで、のんびり出掛けてゆく散歩。それがピッタリだという話。
(最初は家の近くから始めて…)
 少しずつ距離を伸ばしていったら、かなり運動になるらしい。散歩する距離も時間も伸びるし、その分、体力もついてゆく。始めた頃より、ぐんぐんと。
(五分歩くのと三十分だと、それだけで全然違うよね…)
 難しい計算をしなくても分かる、散歩の理屈。確かに運動になるだろう。体力もついて、健康な身体が作れそう。バス通学をやめて、徒歩で通えるようになる日も来るかもしれない。
(でも、散歩…)
 魅力的だけれど、帰って直ぐに散歩に出ないと、ハーレイが来てしまいそう。仕事帰りに寄ってくれる日は予告無しだし、「今日は大丈夫」と言い切れないから。
(おやつを食べて、ゆっくりしてたら…)
 知らない間に経っている時間。それから歩いて出掛けて行ったら、帰る時間は当然、遅い。沢山歩けない間だったら、五分で戻って来られるけれど…。
(歩く時間と距離が伸びたら…)
 五分の散歩が三十分になって、もっと増えたりするかもしれない。今日は沢山散歩したから、と胸を張って家まで帰って来たら、ハーレイの車が…。
(ガレージに停まっていそうだよ…)
 それは困る、と思った散歩。体力づくりは大切だけれど、ハーレイと過ごす時間も大切。一分も無駄にしたくはないから、ハーレイを待たせてしまうだなんて、とんでもない。



 おやつの後で散歩に行くのは駄目となったら、逆にするしかないだろう。
(先に散歩して、おやつは家に帰ってから…)
 それなら無理なく散歩に行ける。ハーレイが訪ねて来るよりも前に。
 けれど、散歩の後におやつを食べてしまったら、今度は胃袋の方が問題。美味しく食べて自分の部屋に戻った途端に、鳴りそうなチャイム。
(ハーレイが来たら、お茶とお菓子で…)
 母が部屋まで運んでくれる。その時のお菓子が入りそうにない。おやつでお腹一杯だから。
(お茶も、殆ど飲めないかも…)
 せっかくハーレイと二人きりなのに、食べられないお菓子。飲めないお茶。それは寂しいから、避けたいコース。特に、お菓子がハーレイの好物のパウンドケーキだった時には。
(逆にするのは駄目みたい…)
 やっぱり、おやつの時間が先。おやつを食べてから出掛ける散歩。
 のんびりゆっくり食べていないで、「御馳走様」と立ち上がって。「行って来ます」と颯爽と。
 最初は家の近くから。無理をしないよう、少しずつ距離を伸ばして歩いて、体力づくり。



(だけど、おやつを食べたら直ぐに散歩に行くなんて…)
 難しそうだよ、と零れる溜息。おやつの余韻を楽しみたいのに、そうする代わりに歩くなんて。紅茶の香りもケーキの匂いも、全部投げ捨てて行くなんて。
(…もっとゆっくりしたいのに…)
 今みたいに、新聞なんかも読んで。母とお喋りしたりもして。
 それをしないで出掛けたとしても、気分を上手く切り替えられても…。
(今度は、寄り道…)
 散歩の途中で猫に会ったら、声を掛けて撫でて、遊んでいそう。時間が経つのを忘れたままで。綺麗な花が咲いていたって、同じようなことになるだろう。その家の人が庭にいたなら、ついつい話し込んでしまって。「何の花なの?」と訊いた後には、あれこれお喋り。
 そういう散歩を楽しんだ後で家に帰ったら、ガレージに停まっていそうなハーレイの車。
(待たせちゃってて、ママがハーレイとお喋りしてて…)
 きっとガッカリするのだろう。もっと急いで帰って来れば良かった、と。
(散歩、ホントに無理そうだよ…)
 ハーレイを待たせてしまうことになるか、二人きりのお茶の時間を満喫出来ない羽目に陥るか。二つに一つで、どちらになっても悲しい結末。
(駄目だよね…)
 それに、散歩にお勧めだと書かれている休日。好きな時間に出掛けられるから、平日は無理だという人も是非、と。
 その休日はハーレイと二人で過ごしているから、散歩に出掛ける時間は無い。ハーレイを放って散歩だなんて、と考えたけれど。
(…ちょっと待ってよ…?)
 使えるかも、と気付いた散歩。
 運動不足だから、休日くらいは散歩したい、と言えばハーレイと二人で出掛けられるかも…!



 いいアイデアだ、と頷いて帰った自分の部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返した後で。足取りも軽く階段を上って。
(ハーレイと散歩…)
 素敵だよね、と座った勉強机の前。ハーレイと二人で散歩に行けたらいいな、と。
 きっと、ちょっとしたデートの気分。手を繋いでは歩けなくても、二人並んで歩くだけでも。
(ご近所さんに、「恋人です」って紹介するのは無理だけど…)
 尋ねられても、「ぼくの学校の先生です」としか言えないけれど。
 それでも、ハーレイと散歩したなら、きっと楽しい。体力づくりに出掛ける散歩。
(一時間くらいは歩きましょう、って書いてあったし…)
 休日に出掛ける散歩の目安は一時間。ただでも運動しない日なのだし、そのくらい、と。
 一時間もあれば、色々な所へ歩いてゆける。少し離れた公園だとか、普段は行かない方だとか。
 ハーレイが此処まで歩いて来る道を、逆に辿ってみることだって。
(三十分あったら、何処まで歩いて行けるかな?)
 いつもハーレイが見ながら歩いて来る景色。それをどのくらい楽しめるだろう、三十分の間に。道は何通りもあるらしいから、見られる景色も選んだコースで変わる筈。
(喉が渇いたら、一休みだって…)
 喫茶店には入れなくても、缶ジュースを買って飲むだけのことでも、立派にデート。二人一緒に散歩に出掛けて、あちこち歩いて、お喋りもして。
(これなら、ハーレイも断らないよね?)
 体力づくりのための散歩で、健康な身体を作るための散歩。弱い身体も丈夫になりそう。
 もしもハーレイが来てくれたならば、早速、提案してみよう。休日は二人で散歩に行こうと。



 帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と胸を高鳴らせていたら、聞こえたチャイム。
(やった…!)
 チャンス到来、と顔を輝かせてハーレイを待った。母の案内で部屋に来るのを。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね…。運動不足は良くないよね?」
 今日の新聞にも書いてあったけど、運動不足は身体に良くないんでしょ?
「運動不足か…。あまり感心したことではないな、そいつはな」
 身体ってヤツは、動かしてやらんと駄目になる。日頃から自分で気を付けないとな。
「やっぱり…。それじゃ、散歩に行ってくれない?」
 お休みの日だったら、一時間くらいがお勧めだって。散歩する時間。
「俺なら、ジョギングしているが?」
 わざわざ散歩に出掛けなくても、普段から。休みの日だって、走る時は走る。
 早く目が覚めたらジョギングなんだし、そいつが無くても、此処まで歩いて来ているんだぞ?
 散歩は必要無いってな。俺は運動不足じゃないし。
「ハーレイじゃなくて、ぼくだってば!」
 運動不足みたいなんだよ、学校はバスで行ってるし…。体育は殆ど見学だから。
 これじゃ丈夫になれやしないよ、ちっとも運動しないんだもの。
 健康な身体を作るためには、運動するのが大切だって書いてあったよ、新聞に。
 今のままだと、ぼくの身体は弱いまま。
 だけどスポーツとかは無理だし、散歩が一番良さそうだから…。



 お休みの日は二人で散歩しようよ、と切り出した。時間がたっぷりある休日。
「学校がある日は、散歩は難しそうだから…」
 ぼくが散歩をしている間に、ハーレイが家に来ちゃうとか…。待たせちゃったら悪いでしょ?
 だから、お休みの日に二人で散歩。それなら待たせる心配も無いし…。
「お前なあ…。散歩というのは口実だろうが」
 体力づくりだの、健康な身体がどうのと言ったら、俺が賛成しそうだからな?
 「そいつはいいな」とアッサリ信じて、もう今週の土曜日からでも二人で散歩に行きそうだ。
 しかし、お前の狙いは違うという気がするが?
 俺とのデートが目的だろうが、体力づくりにかこつけて。二人きりで外を歩こう、とな。
「なんで分かったの!?」
 散歩しようって言っただけだよ、どうして其処まで分かっちゃったの?
 ぼくの心が零れていたとか、顔にそう書いてあったとか…?
「大当たりってヤツか…。散歩だと誘って、本音はデート、と」
 そんな所じゃないかと思って、カマをかけてみただけなんだが…。
 お前が思い付きそうなことは、俺だって思い付くってな。心が零れていなくても。
「ハーレイ、酷い…!」
 ぼくを騙して、本当のことを言わせるなんて…!
 散歩に行きたいと思ってる理由、ちゃんと秘密にしてたのに…。
 体力づくりのための散歩で、ハーレイだって運動不足は良くないって認めていたくせに…!



 運動不足は駄目なんでしょ、と詰め寄ってみても、ハーレイは腕組みをしているだけ。
 「それとこれとは話が別だ」と、眉間の皺まで少し深くして。
「俺とのデートが目的だったら、散歩に付き合う必要は無いな」
 デートは断固、御免蒙る。傍目には散歩に見えたとしても。
「…ぼくが運動不足なのに?」
 丈夫な身体を作りたくって、運動しようと思ってるのに…。運動不足じゃ駄目なのに。
「足りているだろうが、お前の運動」
 休みの日に散歩しなくても。それも一時間も歩こうだなんて、やり過ぎってもんだ。
「足りていないよ、足りるわけがないよ!」
 学校だって、歩いて通っていないんだし…。体育の授業も見学ばっかり…。
 一時間くらいは歩かなくちゃ駄目だよ、運動不足なんだから…!
「お前が健康だったらな。…バス通学をしているくらいに弱いんだぞ、お前」
 体育だってそうだ。丈夫な生徒がサボろうとしても、見学の許可は下りないぞ。お前が弱いのが分かっているから、授業の途中でも抜けられる。手を挙げるだけで。
 それと同じで、運動の量にも個人差ってヤツがあるってな。
 今のお前には、今の生活で丁度いいんだ。運動の量は充分、足りてる。
 本当に運動不足だったら、それだけで病気になっちまったりするんだから。

 それに運動の方も、やり過ぎると毒だ、と叱られた。お前は知らないだろうがな、と。
「運動部のヤツらにしたって、そうだ。お前の何倍も運動してるが…」
 お前から見たら、健康そうに見えているんだろうが…。あれだって加減が必要なんだぞ?
 やり過ぎちまうと身体を壊す。鍛えるつもりが逆になるんだ。
「…そうなの?」
 毎日、沢山運動してたら、うんと丈夫になれそうだけど…。
 柔道部の人だって、柔道の他に走り込みとかもしているし…。凄く丈夫に見えるのに…。
「其処が落とし穴になるわけだ。もっと頑張れば成果が出る、と思い込んじまって」
 走り込みでも、誰でも同じようにはいかん。長い距離を走るのが得意なのもいれば、短い距離を凄い速さで走り抜くのが得意なヤツとか。マラソン選手と、短距離の違いは分かるだろ?
 柔道部のヤツらも、マラソン向けのと、短距離向けのがいるってな。
 そいつらに同じ指導は出来ん。根性でやれ、と怒鳴り付けても、いい結果なんか出ないんだ。
 走り込みもそうだし、柔道の練習も体力に合わせてやらないと…。
 いくら生徒が「まだ出来ます」と言っていたって、適当な所で休ませるとか、色々とな。
 それだけ注意をしてやっていても、無理をする馬鹿もいるんだが…。
 今日はここまで、と言っておいても、自主練習を勝手に始めちまって、やり過ぎる馬鹿が。
 ん…?



 待てよ、とハーレイが傾げた首。運動のし過ぎと、それから散歩、と。
「…運動をし過ぎる馬鹿は沢山…。それに散歩で…」
 引っ掛かるな、と顎に手を当てるから。
「どうかしたの?」
 誰か、そういう生徒がいたの?
 運動だけじゃ足りないから、って散歩もしていて、やり過ぎちゃった…?
「いや、ちょっと…。俺の教え子に限っては…」
 運動のし過ぎの方はともかく、散歩でトドメを刺すようなヤツはいないと思うんだが…。
 誰かに聞いた話かもしれん、他のクラブの先生から。運動部は色々あるからな。
 その辺の山とかを登るクラブの生徒だったら、自主練習で散歩してるってことも…。
 違う、生徒の話じゃなかった。…前のお前だ。
「前のぼく…?」
 ぼく、何かやった?
 運動のやり過ぎなんかは、一度も無いと思うけど…。散歩でトドメを刺すことだって。
 今のぼくと同じで弱かったんだし、どっちも絶対、やっていないよ。
「いいや、お前が忘れちまっているだけだ」
 お前は俺の真似をしたんだ、挙句にやり過ぎちまったってな。お前には無理なことだったのに。
「ハーレイの真似って…。何の真似?」
 料理じゃないよね、やり過ぎるんなら。…それに散歩もついて来るなら。
「さっきからの話そのままだ。運動ってヤツだ」
 運動のし過ぎだ、俺の真似をして。前の俺も頑丈だったから。
「…やっていないと思うけど…。運動なんか…」
 前のぼくだって、今と同じで運動不足。運動もしないし、散歩もしないよ。歩いていたのは視察くらいで、運動なんか…。それに散歩も、していないってば。
「やってただろうが、最初の頃に。…チビだった頃に」
 ブラウたちと一緒に船の中の散歩。シャングリラという名前だけだった船の頃だな。
「ああ…!」
 歩いてたっけね、ブラウたちと。今日はこっち、って連れて行かれて。



 思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかった船で暮らし始めた頃の自分。
 燃えるアルタミラから脱出した船で、ハーレイが作ってくれた友達。「俺の一番古い友達だ」と連れて回って、紹介して。子供の姿と強すぎるサイオン、孤立しても不思議ではなかったのに。
 エラとブラウも、その中にいた。子供だった自分を心配してくれた二人。
(いつも、「散歩に行こう」って…)
 船のあちこちを連れ回された、散歩の時間。運動不足は良くないから、と健康のために。子供のままで成長を止めた身体が、もう一度育ち始めるように。
「…前のぼく、散歩してたっけ…。ブラウたちと一緒に」
 いろんなコースで歩いていたけど、メインの通路を必ず一度は通るんだよ。一番長いし、これが散歩のコースの基本、って。
「思い出したか? お前が散歩をしている時に、だ」
 その横を走って通り過ぎて行くのが俺だった。色々な場所で。
「うん…。歩いていたら、ハーレイが走って来るんだよ」
 後ろから来て追い越してったり、前の方から走って来たり。
 ぼくたちはゆっくり歩いているのに、ハーレイはアッと言う間に通り過ぎちゃって…。
 行っちゃった、って見送っていたら、また後ろから走って来るとか、走って戻って来るだとか。



 体力づくりにと通路を走っていたハーレイ。「身体がなまっちまうしな?」と。
 散歩している間にすれ違ったり、何度も追い越されたりするものだから。いつ出会っても、風のように走り去ってゆくから、ある日、ハーレイを捕まえて訊いた。
「ハーレイ、いつもどのくらい走っているの?」
 ぼくたちの横を何度も通って行くけど、コースが短いわけじゃないよね?
 走っているから、ぼくよりもずっと長い筈だよね。ハーレイがいつも走るコースは…?
「そうだな…。俺が走っている距離か…」
 足の向くまま、気の向くままって感じだし…。これだけだ、と決めてるわけじゃないんだが…。
 お前の散歩程度のコースだったら、三倍は軽く走っているな。
 調子が良ければ、五倍って日もあるんだぞ。今日はいける、と思った時は。
「三倍も…?」
 それに五倍も走る時があるの、歩くだけでも大変なのに…。そんなに長いコースだったら。
 ぼく、そんなには走れないよ。散歩するだけで精一杯だよ。
「だろうな、お前は丈夫じゃないし…。それにチビだし」
 無理をしない程度に、頑張って散歩するんだぞ。運動不足にならないように。
 ちゃんと大きく育たないとな、しっかり身体を動かして。
 長い間、あんな狭い檻で暮らしていた上、成長まで止めていたんだから。
「分かってるよ」
 この船で子供はぼくだけなんだし、早く大きくならなくちゃ…。
 ハーレイみたいに大きくなるのは無理だろうけど、ぼくだって育つ筈なんだもの。



 アルタミラの檻で長く成長を止めていた分、早くみんなに追い付きたい。大人になりたい。
 そう思ったから、伸ばそうとした散歩の距離。
 成長するには運動なのだと分かっていたから、ハーレイに三倍と聞いた翌日、いきなりに。
「ブルー、散歩の時間は終わりだよ?」
 まだ歩くのかい、此処で終わりにしておかないで?
 あたしとエラは休憩だけどね、とブラウが訊くから、「ちょっとだけだよ」と笑顔で答えた。
「もう少し、一人で歩いてくる。早く大きくなりたいから」
 ハーレイは、ぼくたちの三倍も走っているんだって。今日はまだ会っていないけど…。
 そんなに走れるハーレイだから、きっとあんなに大きいんだよ。
 だから、ぼくだって頑張らなくちゃ。走れない分、少しでも歩いた方がいいでしょ?
 ぼくだけ子供でチビなんだもの、とブラウたちと別れて歩き始めた。
 今日のコース、と自分で選んで、張り切って。
 ハーレイは三倍と言っていたのだし、自分も三倍、歩いてみようと。
 それだけ歩けば、きっと体力づくりになる筈。もっと健康な身体になれるし、背も伸びる筈。
 今の散歩を続けてゆくより、遥かに効果があるだろうから。



 一人きりで歩き始めた通路。メインの通路を真っ直ぐ進んで、其処から次のフロアへと。
 ブラウたちとの散歩と違って一人なのだし、少し大人に近付いた気分。面倒を見てくれる大人がついていなくても大丈夫、と。
 一人で歩ける、と始めた散歩。いつもの距離よりもっと長くと、三倍歩いて行かなくちゃ、と。
(二回目までは…)
 普段と変わりなく歩いてゆけた。疲れもしないで、足がだるいとも思わないで。
 三回目は少し疲れたけれども、ゴールしたら急に出て来た欲。これで三倍、と思ったら。
(調子のいい日は、五倍って言ってた…)
 いつも三倍の距離を走ってゆくハーレイ。誰よりも頑丈な身体のハーレイ。
 そのハーレイをお手本にしたら、きっと今より丈夫になれる。背だって早く伸びるだろう。
(ぼくだって、五倍…)
 歩けそうだよ、と眺めた通路。三倍の距離を歩いたのだし、五倍までは残り二回だから。
 きっと調子がいい日なんだ、と歩きたくなった五倍の距離。
 今日はハーレイと全く出会わないけれど、それだけ歩いていれば会えそうな気もしたから。
(ハーレイが走って来たら、自慢しなくちゃ…)
 頑張って三倍歩いたんだよ、とチビの自分の成長ぶりを。こんなに沢山歩けるんだから、と。
(凄いな、って褒めてくれるよ、きっと…)
 だから残りも頑張らなくちゃ、と四回目を歩いて、どうしようかと悩んだ五回目のコース。
 身体が重くて足も疲れているのだけれども、これを歩けば五倍になる。いつもの五倍。
(…ハーレイは五倍も走るんだから…)
 ぼくは歩いているだけだから、と自分自身を励ました。走るより歩く方が楽、と。



 歩ける筈だ、と足を前へ進めて、あと少しだけ、あと少しだけ、と頑張って歩き続けたコース。やっとの思いで辿り着いたゴール。
 其処から自分の部屋まで歩いて、すっかり疲れ果ててしまった身体。足は重くて鉛のよう。息も切れるし、身体はだるくて重たいし…。
(ハーレイ、一度も会えなかった…)
 食事の時には一緒だったけれど、散歩していた最中に。散歩の時には、よく出会うのに。通路を走るハーレイに。自分の三倍や五倍のコースを、軽々と走ってゆくハーレイに。
(会いたかったな…)
 せっかく今日は頑張ったのに。会ったら自慢したかったのに。
 「今で三倍だよ」とか、「五倍なんだよ」とか。誇らしげに告げて、「凄いな」と褒めて貰えていたなら、きっと身体も軽かったのに。心がグンと元気になって、それと一緒に。
 けれど、ハーレイには会えないまま。
 頑張る自分を見て貰えないまま、ゴールした上に、今は自分の部屋。終わってしまった五倍もの散歩。足も身体も重いし、だるい。
 疲れちゃった、と座ったベッド。
 座ったら、横になりたくなった。ちょっと休めば、楽になりそうな身体。
 ベッドなら足をしっかり支えてくれるし、身体ごと受け止めてくれるから。シーツの海に沈んでいたなら、息切れもきっと治るから。



 少しだけベッドで休んでいよう、と靴を脱いで身体を投げ出した。ふんわり沈んだ、気持ちいい海。ひやりとしたシーツが肌に心地良くて、そのまま瞼を閉じてしまって…。
「おい、ブルー?」
 不意に上から聞こえて来た声。
「…ハーレイ…?」
 どうしたの、と瞼を開けたら、暗かった部屋。とうに夜だと分かる、常夜灯だけが灯った部屋。船の外は漆黒の宇宙だけれども、昼と夜で変わる中の明るさ。夜になったことを示す照明。
 それでもハーレイの姿は見えたし、覗き込まれていることも分かった。
「灯りも点けずにどうしたんだ、お前」
 倒れてるのかと思ったら…。ベッドで昼寝か、そのまま夜になっちまったんだな。
「疲れちゃって、寝てた…」
 ちょっとだけのつもりだったのに…。もう夜なんだ?
「いったい何をやったんだか…。疲れただなんて」
 飯の時間だぞ、来ないから呼びに来てやったんだ。ほら、起きろ。
「うん、行くよ」
 ごめんね、ぐっすり眠っちゃってて…。
 ほんのちょっぴりだけのつもりで、夜になったのも知らなかったよ。



 起き上がってベッドから下りようとしたら、グラリと揺れて回った天井。身体が傾いで、アッと言う間に倒れ込んだベッド。手をつく暇さえも無いまま、ドサリと。
「どうした、ブルー!?」
 よろけたのか、とハーレイが慌てて戻って来た。出ようとしていた扉の方から。
「なんだか変…」
 身体に力が入らないみたい…。重くて、だるくて…。
 起きられないよ、と言っている間に、額に当てられた大きな手。冷たい、と首を竦めたら…。
「熱があるじゃないか…!」
 かなり高いぞ、待ってろよ、ブルー!?
 直ぐにヒルマンを呼んで来るから、そのまま寝てろ!
 起きるんじゃないぞ、と飛び出して行ったハーレイが連れて戻ったヒルマン。熱を測られ、何をしたのか質問された。風邪などとは違うようだから、と。
「…散歩しただけ…。ちょっと頑張って…」
 いつものコースの五倍ほど…。今日は調子が良さそうだから、って…。
「それは散歩と言わないよ、ブルー。…無理のし過ぎだ」
 身体が疲れすぎたんだ。急に体力を使いすぎたから、身体が驚いてしまって熱が出ている。
 ハーレイのように頑丈だったらともかく、元々、身体が弱いわけだし…。
 散歩は、ほどほどにしておかないとね。
 運動のし過ぎは、逆に身体を壊してしまう。これに懲りたら、無理はしないことだ。



 当分は部屋で寝ていなさい、と処方された薬と、ハーレイが運んで来てくれた夕食のトレイ。
 ベッドの上に起こして貰って、嫌いな薬と、食べられそうもない夕食をぼんやり見ていたら…。
「すまん、俺のせいだな」
 お前が薬を飲む羽目になっちまったのも、飯を食えそうにないのも、全部。
 …本当にすまん。
 俺のせいだ、とハーレイが何度も繰り返すから。
「なんでハーレイが謝るの?」
 熱が出たのは、ぼくが無理して歩いたからだよ。ヒルマンもそう言っていたでしょ?
「その散歩…。俺の真似をして歩いていたんだろうが」
 いつものコースの五倍と言ったろ、その話は昨日お前にしたばかりなんだ。
 俺はどれだけ走っているのか、お前が訊いて来たもんだから…。
 調子が良ければ五倍だと答えて、頑張って散歩するように言った。運動しろとな。
 お前、そのせいで歩くつもりになったんだろうが。いきなり、いつものコースの五倍も。
「そうだけど…」
 ハーレイの話で思い付いたけれど、やろうと決めたのはぼくなんだよ?
 途中でやめずに、頑張って最後まで歩いてたのも。
「その時間に走りに行けば良かった。…今日に限って、俺は走らなかったんだ」
 料理の試作に夢中になってて、たまにはいいかと…。走らない日もあるからな。
 明日に纏めて走ればいい、と料理の方を続けちまった。
 そいつも含めて俺のせいなんだ、お前が倒れてしまったのは。



 歩いているお前を見付けたら、きっと止めていたんだ、とハーレイが強く噛んだ唇。
 こうなったのは、走りに行かなかった俺の責任だ、と。
「…料理なんか放って走れば良かった。そうすりゃ、お前を止められたんだ」
 五倍も歩いてしまうより前に。…三倍くらいは歩いちまった後だったかもしれないが。
「なんで分かるの、止めるだなんて」
 ぼくがしてるの、ただの散歩かもしれないよ?
 …ハーレイに会ったら自慢しなくちゃ、と思ってたけど、その前に分かるわけないじゃない。
 いつもより沢山歩いているのか、いつもの散歩か。
「分かるさ、そのくらいは簡単にな」
 お前、一人じゃ散歩しないだろ。いつだって、エラやブラウが一緒だ。
 あいつらがいれば、普段通りだと分かる。いないんだったら、何かが変だ。
 俺は止まって、お前の話を聞くべきだろうが。…歩いてるんだ、と自慢話をされるにしても。
「そっか…。そうだね、変だったかもね…」
 ぼくが一人で散歩してたら、それだけで。
 自慢しなくても、ハーレイに色々訊かれそう…。それに叱られてしまいそうだよ。
「叱りはしないが…。俺のせいで始めたことなんだから」
 しかし、止めなきゃならないことは確かだな。お前の身体は弱いんだから。
 ヒルマンもお前に話していたろう、無理のし過ぎは良くないと。
 運動は身体にいいことなんだが、やり過ぎちまうと、逆に身体を壊すんだ。
 お前には軽い散歩が似合いで、俺の真似はただの無茶でしかない。それをお前に伝え忘れた。
 どれだけ走るの、と訊かれた時にだ、ちゃんと教えておけば良かった…。



 本当に俺のせいなんだ、と悔やみながら看病してくれたハーレイ。喉を通りそうな食事を口まで運んでくれて、苦手だった薬も「嫌いでも飲めよ」と飲ませてくれて。
 幸い、熱は翌日の朝には微熱に下がって、数日ですっかり治ったけれど…。
「前のお前もやらかしたってな、運動不足は良くないと言って」
 俺に向かって言ってはいないが、勝手に自分で思い込んじまった結果がアレだ。
 同じことを二回もやらなくていい。運動のし過ぎは身体に毒だ。
 ただの散歩でも過ぎれば毒だし、わざわざ俺と散歩をしてまで無理をすることはないってな。
 お前は運動不足じゃない。さっきも言った通りに足りてる、充分にな。
「でも、散歩…。ハーレイと一緒に歩きたいのに…!」
 きっとデートの気分になれるよ、その辺を散歩するだけでも…!
 ちょっと離れた公園までとか、一時間もあれば色々な所へ行けるんだから…!
「分かった、分かった。…俺と一緒に散歩なんだな」
 いずれ、お前が無理をしないよう、様子を見ながら連れてってやる。
 コースはもちろん、時間の配分なんかも考えてな。此処で休憩を五分だとか。
「ホント?」
 連れてってくれるの、ぼくを散歩に?
 色々とコースを考えてくれて、休憩時間も挟んでくれて…?
「本当だ。…ただし、お前と結婚したらな」
 散歩でデートと洒落込もうじゃないか、お洒落なカフェに寄ったりもして。
 今よりもずっと楽しい散歩が出来るってもんだ、手だって繋いで歩けるしな?
「ハーレイのケチ…!」
 散歩、今でも行けるのに…!
 ハーレイのことを「恋人です」って言えなくっても、この辺を歩きに行けるのに…!
 喫茶店とかには入れなくても、ぼくは缶ジュースで充分なのに…!



 それでいいから連れて行ってよ、と強請っても「駄目だ」の一点張り。
 「運動のし過ぎは良くないからな」と、「前のお前も散歩で寝込んでしまったろうが」と。
 どう頑張っても、許して貰えない散歩。
 運動は充分に足りているから、弱い身体には無理をしないのが一番だから。
(…体力づくりも駄目なんて…)
 これならいけると思ったのに、と悔しいけれども、いつかは連れて行って貰える散歩。
 結婚したなら、もう「駄目だ」とは言われずに。
 散歩がしたい気分になったら、ハーレイが色々と考えてくれて。
 その時はハーレイと二人で歩こう、無理をしないよう決めて貰ったコースや時間で。
 「今日は歩いてデートなんだね」と、カフェで休憩したりしながら。
 歩く時には、二人、しっかり手を繋ぎ合って。
 二人ならきっと、幸せに歩いてゆけるから。
 普通の散歩の五倍の距離でも、きっと少しも疲れもしないで、幸せも元気も一杯だから…。




              散歩と運動・了


※運動不足は良くないから、とハーレイと散歩に行こうとしたブルー。デートは無理でも、と。
 断られた上に、前の生でやった無茶の話も出て来る始末。散歩は、育ってからのお楽しみ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(ふうん…?)
 綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 真っ白なロングドレスの女性と、黒の燕尾服の男性たち。女性はブーケを持っているから…。
(結婚式…?)
 様々なデザインの純白のドレス。袖なしのドレスばかりだけれども、ウェディングドレスにしか見えないデザイン。肘まである白い手袋だって。
 それに男性は燕尾服だし、結婚式だと思ったのに。ずいぶん大勢のカップルが揃ったものだと、目を丸くして記事を読み始めたのに…。
(オーパンバル…)
 社交界デビューのためのイベントらしい。地球が滅びるよりも前の時代に、オーストリアという国があった辺りの地域。其処で二月のカーニバルの頃に開催される舞踏会。
 今も、地球が滅びる前にも、オーストリアでは最大の行事だと書かれているけれど。
(SD体制の時代は、無かったんだ…)
 消えてしまっていたオーパンバル。そもそも地球が無かったのだし、オーストリアだって宇宙の何処にも無かった時代。オーパンバルがあるわけがない。前の自分が生きた時代には。
(これも復活して来たヤツで…)
 死の星だった地球が蘇った後、あちこちの地域で特色を出そうと復活させた色々なもの。これもその一つで、今は立派に地域に定着している行事。
 二月になったら、オーパンバル。
 純白のロングドレスを纏って、ブーケを手にした女性たち。頭にはお揃いの小さな冠。燕尾服の男性にリードされて。
 広いホールに入場したら、始まるワルツ。それは軽やかにステップを踏んで。



 オーストリアでは、とても人気のイベントらしい。
 人間が地球しか知らなかった時代、「会議は踊る」と言われたウィーン会議が始まりだという。由緒ある行事、オーパンバル。
(一度、消えちゃっているんだけどね?)
 いくら由緒があったとしたって、地球と一緒に。人間が地球を離れた時に。
 ついでに社交界も今の時代は無い筈だけど、と記事を読み進めたら。王様も貴族もいない筈、と首を捻って読んでいったら…。
(とっくの昔に…)
 無くなっていた社交界。地球が滅びる前の時代に。SD体制が始まるよりも、遥かな昔に。
 オーパンバルは、イベントと化していたらしい。地球のあちこちから見物の人が訪れるような。
(特訓なわけ?)
 舞踏会の最初に踊り始めるのが、燕尾服の男性と白いドレスの女性たち。
 社交界があった頃には、社交界にデビューする女性たちが踊っていたのだけれど。その社交界が無くなった後は、これに出るためにダンスの特訓を積んだほど。
 最大の行事のオーパンバルで、白いドレスで踊るには。
 黒い燕尾服を着て、舞踏会の幕開けを飾るデビュタントの女性をリードするには。
(オーディションなんだ…)
 今も昔も、オーディションで選ばれるデビュタントの女性と、お相手の男性。カップルでダンス教室に通って、せっせとダンスの腕を磨いて。
 選りすぐりのカップルが踊るわけだから、綺麗に揃ったステップのダンス。
 彼らの華やかなダンスが済んだら、他の客たちも踊り始める。見物していた場所を離れて、広いホールで。純粋にダンスを楽しむために。



 オーパンバルに踊りにやって来る人は、いいけれど。デビュタントと呼ばれる白いドレスを着た女性たちと、お相手の男性たちのダンスを眺める人はいいのだけれど。
 見物される男性と女性、オーディションで選ばれるカップルたち。ダンス教室で特訓を積んで、二人で何度も練習をして…。
(そっちは、とっても大変そう…)
 踊りを楽しむどころではなくて、練習だから。それも特訓、ダンス教室に通ってまで。
 けれど人気は高いという。オーパンバルは歴史が長くて、由緒もたっぷり。
 その幕開けを飾ってみたい、と地球のあちこちからオーディションに挑むカップルが多数。地球だけではなくて他の星からも、受けに来る人がいるくらい。
 よほどダンスが上手くなければ、きっと合格しないだろう。大勢の人が受けるのでは。
(ぼくには関係なさそうだけどね?)
 お相手の男性はハーレイだけれど、前の生からのカップルだけれど。
 白いドレスは結婚式の時に着るだけ、その一度だけ。それにダンスも踊らない。結婚式の時も、他の場所でも。ワルツなんかは、きっと一生。
 踊りたいとも思わないから。オーパンバルを目指すつもりも無いのだから。



 おやつを食べ終えて部屋に帰って、勉強机の前に座ったら、思い出したオーパンバルの記事。
 あれからケーキを食べたりしている間に、すっかり忘れてしまっていたのに。
 舞踏会の幕開けを飾るカップル、結婚式かと思ったくらいに綺麗な写真だったけれども…。
(カップルで頑張るわけだよね?)
 オーディションで選ばれるのは、ダンスが上手なカップルだから。男性と女性を別々に選んで、組み合わせるわけではないのだから。
(あれに出たいと思ったら…)
 恋人と一緒に踊りたいなら、カップルで頑張るしかないダンス。もっと上手くと、今よりもっと上手になろうと。誰にも負けない腕前になって、オーディションを突破しなければ、と。
 他の星からも受けに来るカップルがあるというほどのオーディション。この地球の上の、色々な地域からだって。
 特訓を積んだカップルばかりが挑むのだろうし、其処で選ばれるほどの腕前になれるレッスン。それを二人で乗り切ってゆくには、愛がなければ…。
(無理だよね?)
 きっと物凄い猛特訓。ダンス教室の厳しい指導に、自主練習にとダンス漬けの日々。
 楽しくデートに出掛ける代わりにダンス教室、来る日も来る日も二人でステップ。もっと上手に踊らなければと、もっと上手くと。
(喫茶店に行くのも、食事に行くのも…)
 きっとダンスの練習のついで。お茶を飲んでから教室に行くとか、教室の帰りに食事するとか。メインはダンスで、お茶や食事の方がオマケになるデート。
 二人一緒にオーパンバルで踊るなら。オーディションを突破したいのなら。



 ハードなのだろう、ダンスの特訓。デートに行ってもダンスの話題で、きっと何処かで練習も。此処で少し、と二人で踊る。上手にステップを踏むために。
(こんなの嫌だ、と思っても…)
 投げ出せはしないダンスの練習。相手は頑張りたいのだから。もっと練習したいのだから。
 男性と女性、どちらが「嫌だ」と投げ出したって、喧嘩になってしまうだろう。下手をしたならカップル解消、「もっとダンスが上手な人を見付けたら?」と。
 容易に想像出来る結末、片方がダンスを投げ出した時。ダンスの練習ばかりは嫌だと、猛特訓の日々はもう沢山だ、と。
 けれど、喧嘩別れになってしまわないで、見事にデビューを果たすカップル。黒い燕尾服と白いドレスで、オーパンバルの幕開けを飾って。
(将来は絶対、結婚だよ…)
 あの写真で見たカップルたちは、そういうカップルばかりだろう。二人一緒に越えたハードル、手を取り合って踊り続けて。ダンス教室でも、デートに出掛けた先でも、きっと。
 頑張り続けて、オーディションを突破した仲のいい二人。
 そんな二人が結婚しない筈がない。二人一緒に頑張った末に、晴れ舞台で踊ったのだから。
 記事には書かれていなかったけれど、そうなのだろうと思うカップル。
 オーパンバルで踊った後には、いつか二人で結婚式。女性は白いウェディングドレスを纏って、ブーケを持って。男性もお洒落な服を着込んで。
 大勢の人たちと踊る代わりに、自分たちだけが主役になって。



 きっとそうだ、と思い浮かべたハッピーエンド。あの写真で見たカップルの数だけ、待っているだろう結婚式。揃ってワルツを踊るのではなくて、思い思いの日に、それぞれの場所で。
 高いハードルを越えた二人は、それだけの絆があるのだから。
 ダンスの練習の日々が辛くても、どちらも投げ出さなかったのだから。
(うんと頑張って、ダンスの練習…)
 才能のあるカップルばかりとは限らないのに。二人揃って最初からダンスが上手いのだったら、ダンス教室は要らないと思う。特訓しなくても踊れるのだから。
(どっちかが下手か、二人とも下手か…)
 今のままではオーディションには受からない、と思うから通うダンス教室。もっと上手く、と。
 そうやって教室に通っていたって、上達の速度は揃いはしない。片方の腕前がグンと伸びても、もう片方は上手くいかないだとか。
(それでも二人で頑張るんだよ…)
 二人一緒にオーパンバルで踊りたいから。選ばれてステップを踏みたいから。
 挫けそうになっても、負けないで。もっと上手にと、頑張ればきっと出来る筈だと。二人一緒に選ばれるためには、お互いが上手くならなければ、と。
(もっと上手な人と組んだら、選ばれそうだ、って思っても…)
 そんな考えは捨てて頑張る。恋人のために、懸命に。自分のことだけを考えないで。
 自分の方が上手だったら、相手も上手くなれるようにと積む練習。自分が下手なら、相手の足を引っ張らないよう、猛特訓。もっと上手くと、誰よりも上手く踊れるようにと。



 頑張るのだろうカップルたち。オーパンバルで踊った後には、きっと結婚式になる。二人一緒に越えたハードル、しっかりと結ばれた絆。
 愛が深いから頑張れたのか、頑張ったから愛が深まったのか。ダンスの練習ばかりの日々でも、ろくにデートも出来ないほどでも、頑張った二人。
(どっち…?)
 愛の深さで頑張れたのか、頑張った結果が深い愛なのか。
 どちらもありそう、という気がする。深い愛なら、より深く。付き合い始めたばかりの恋でも、二人で踊る間に、深く。この人とずっと一緒にいたい、と。
 きっと両方あるんだよね、と考えた恋。踊る間に深くなった恋も、最初から深く愛していたから頑張れたという恋人たちも。
 オーパンバルで踊るカップルの中には、きっと幾つもの恋模様。喧嘩になったカップルだって。もう嫌だ、と片方が練習を投げ出そうとして。それでも引き止められて踊って、深まった恋。
 やっぱりこの人しかいない、と。
 辛くても練習を続けてゆこうと、この人と踊りたいのだから、と。



 色々だよね、と思う恋。カップルの数だけ、恋も色々。ハッピーエンドのカップルたちでも。
 きっと結婚するのだろうと分かる、高いハードルを二人で越えたカップルでも。
(…前のぼくだと、どうだったのかな?)
 ハーレイと二人で頑張ったから恋に落ちたか、恋していたから頑張れたのか。
 今の平和な時代とは違う、前の自分たちが生きていた時代。ミュウだというだけで虐げられて、生きる権利さえも無かった時代。
 そんな時代を二人で生きた。ソルジャーとキャプテン、そういう立場で。
 船を、仲間を守るソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。
 いつも二人で頑張り続けた。ミュウという種族が滅びないよう、船が沈んでしまわないよう。
 そうして二人で頑張ったから、ハーレイと恋に落ちたのか。
 それとも、ハーレイに恋していたから、前の自分は頑張れたのか。
(えーっと…?)
 どうだったろう、と思うけれども、きっと最初から特別な二人。
 ダンスは踊っていないのだけれど、ダンス教室に通って猛特訓もしていないけれども…。
(出会った時から、命懸けだよ…)
 メギドの炎で燃えるアルタミラの地獄で出会った。同じシェルターに閉じ込められて。
 前の自分が壊したシェルター、自分でも信じられない力で。
 何が起こったのかも分からないまま、呆然としていた前の自分。ハーレイの声が聞こえるまで。「お前、凄いな」と声を掛けられるまで。
(ハーレイが、他にも仲間がいるって…)
 同じようにシェルターに閉じ込められた仲間、それを助けに二人で走った。炎を、割れる地面を避けて。崩れ落ちて来る瓦礫を掻い潜って。
(自分が逃げるだけだったら…)
 冒さなくても良かった危険。他の仲間を助けに行かずに、真っ直ぐに船へ向かっていたら。
 なのに自分も前のハーレイも、二人とも逃げはしなかった。最後の一人を助け出すまで、他にはいないと確認するまで。



 これで最後だ、と開けたシェルター。閉じ込められていた仲間を逃がして、それから二人で船に向かった。空まで赤く燃えていた地獄、深い亀裂が走る地面を懸命に駆けて。
 一つ間違えたら、無かった命。炎の渦に巻き込まれても、裂けた地面に飲み込まれても。
(ダンスするより、凄く頑張ったんだけど…!)
 それで恋してしまったろうか、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくたち、ダンスよりもうんと頑張ったよね?」
「はあ?」
 何の話だ、と見開かれたハーレイの鳶色の瞳。鳩が豆鉄砲でも食らったように。
(いけない…!)
 ハーレイに通じるわけがない。ずっと考え続けていたから、話を省略し過ぎていた。大失敗、とコツンと叩いた自分の額。「ぼくって馬鹿だ」と。きちんと説明しなければ。
「えっとね…。オーパンバルっていうのは知ってる?」
 オーストリアのイベントらしいんだけど…。昔は社交界デビューの舞台だった、って…。
「前に何かで見掛けたな。若いカップルが踊るヤツだろ、一番最初に」
「そう、それ…! 今日の新聞に記事が載ってて、最初に踊るカップルの人たち…」
 オーディションで選ばれるんだって。それもカップルで。
 だから二人で合格するには、うんと練習しなくっちゃ…。ダンス教室に通って特訓。
 地球だけじゃなくて、他の星からもオーディションを受けにやって来るから、とても大変。
 デートの代わりに毎日ダンスで、デートに行ってもダンスだよ、きっと。
 こんなの嫌だ、って投げ出しちゃったら大喧嘩になって、カップル解消になっちゃいそう…。
「如何にもありそうな話だな。どっちが嫌になっても駄目、と」
 合格するぞ、と二人でダンスを頑張るわけか。そいつは仲良くなれそうだ、うん。
「でしょ? 元から仲が良かった人なら、もっと仲良くなるんだよ」
 二人一緒に頑張るんだもの、どんどん絆が深くなりそう。…喧嘩別れをしなかったらね。



 ダンスの練習を頑張り続けて、オーディションを突破したカップルたち。オーパンバルで踊った二人は、きっと結婚すると思う、とハーレイに話したら「そうだろうな」と返った言葉。
 それだけの絆が出来るだろうと、二人で頑張ったんだから、と。
「二人で楽しく遊ぶ代わりに、来る日も来る日も練習だしな?」
 もうやめた、と放り出したら、いくらでも遊びに行けるのに…。それをしないで練習なんだ。
 戦友と言ってもいいくらいだよな、戦場じゃなくて舞踏会だが。
「ハーレイもそう思うんだ…。あれに出られたカップルは結婚するよね、きっと」
 それでね、ダンスを頑張ったカップルだって結婚するんだから…。
 前のぼくたちも、それと似たようなものだったかな、って考えちゃって…。
 アルタミラで出会って、二人でシェルターを開けて回っていたじゃない。逃げ出さないで、他の仲間を助けようとして。火とか地震とか、とても危ない場所だったのに。
 命懸けで二人で頑張ってたから、ハーレイに恋をしちゃったかな、って…。
 ダンスの練習なんかよりもずっと、頑張ってたでしょ、ぼくとハーレイ。
「アルタミラか…。確かに二人で頑張っちゃいたが…」
 俺はお前に一目惚れしたつもりなんだが?
 二人一緒に頑張ったから、というヤツが無くても、お前に出会った瞬間に恋をしてたってな。
 もっとも、恋だと気付くまでには、とんでもない時間がかかったわけだが。
「ぼくも…。ハーレイに会った時から、ずっと特別だと思ってたから…」
 二人で一緒に頑張らなくても、ぼくたち、ちゃんと恋してた?
 頑張ったのと恋は、何も関係無かったのかな…?
「いや、恋をしていたから頑張れたんだと俺は思うぞ」
 あんな地獄でも、お前と一緒だったから、俺は頑張れた。もう逃げよう、と投げ出さないで。
 時間が経てば経ってゆくほど、どんどん危険になっていくのに…。
 そいつに気付いていた筈なのに、俺もお前も逃げ出さなかった。最後の仲間を助け出すまで。
 お前とでなけりゃ、俺は逃げたかもしれないな。これ以上はもう危ないから、と。



 助け出せなかった仲間がいたかもしれん、とハーレイに言われて気が付いた。前の自分も、同じだったかもしれないと。一緒にいたのがハーレイだったから、最後まで逃げなかったのかも、と。
「…前のぼくも、途中で逃げていたかも…。ハーレイと一緒じゃなかったら」
 危ない所へ走って行かずに、途中の何処かで諦めて。…もう充分に頑張ったよね、って。
 だったら、ダンスもそうなのかな?
 オーパンバルに出ようと思って、ダンスの練習をしてるカップル。
 恋しているから、練習、最後まで頑張れるのかな?
 もうやめた、って投げ出したりせずに、オーディションを受ける日が来るまで、ずっと。
「多分な。オーディションの日も、朝から二人で練習じゃないか?」
 最後の最後まで諦めちゃいかん、と早起きをして。二人一緒に何処かで踊って。
 それだけ頑張ったカップルだったら、選ばれなくても、恋はそのまま続くんじゃないか?
 「お前のせいで選ばれなかった」と喧嘩になりはしないと思うぞ、片方が失敗したとしたって。
 ずっと二人で頑張ったんだし、俺なら「失敗のことは気にするな」と言ってやるだろう。
 相手が「ごめん」と泣いていたとしても、「充分、頑張ったじゃないか」とな。
「前のぼくたちも、そうだったよね…」
 ハーレイが操舵の練習をする時、酷い目に遭わせちゃったけど…。
 一度も喧嘩にならなかったよね、ぼく、怒鳴られても仕方ないようなことをしてたのに…。
 最悪なコースばかりを選んで、ハーレイを先導してたんだから。
「お前の気持ちは分かっていたしな」
 俺のためを思ってやってるんだ、ということは。
 怒るわけがないだろ、死ぬような思いをさせられたって。ゼルたちに苦情を言われてたって。
 第一、お前に惚れていたんだ。喧嘩しようとも思わなかったな、あの時の俺は。



 そう簡単に恋は壊れやしないさ、とハーレイが微笑む。本物の恋をしていたら、と。
「俺たちの場合は、恋だと気付いていなかったが…」
 それでも壊れやしなかった。お前が俺をしごいた程度じゃ。
 ダンスの練習を頑張っているカップルだって、本物の恋をしていればきっと大丈夫なんだ。
 どんなに辛い練習の日々でも、二人ならな。
「そうだよね…。きっと頑張れるよね」
 今は下手でも、上手くなろう、って。デートの代わりにダンス教室でも、毎日練習ばかりでも。
 二人で練習出来るだけでも、幸せな気分になれるのかも…。踊る時は二人一緒だから。
 だけど、オーパンバル…。前のぼくたちの時代には無かったんだって。
 今はとっても有名だけれど、SD体制が始まる前にも、有名だったらしいんだけど…。
「そりゃ無いだろうな、あの頃は地球も死の星だったし」
 オーストリアも何も無かった時代だ、オーパンバルがあったわけがない。
「ダンスの方は、あったのかな?」
 オーパンバルはワルツで始まるんだって。選ばれたカップルが揃ってワルツ。
「ワルツにダンスか…。俺はシャングリラじゃ踊っていないぞ」
 ダンスってヤツとは無縁だったな、今の俺ならガキだった頃に踊らされたが…。
 体育の時間に少しやるしな、ワルツは習っちゃいないんだが。
「ぼくも、シャングリラでは踊っていないよ」
 今のぼくなら、ちょっぴり習っているんだけれど…。下の学校の体育の授業で。
 でも、シャングリラの頃には一度も…。
 舞踏会用の部屋だって一つも無かったものね、シャングリラには。
「やろうと思えば、天体の間とかで出来ないこともなかったろうが…」
 あそこだったら、公園よりかは舞踏会向きだ。広いし、床もしっかりしてたし。
 だがなあ…。



 生憎とそんな優雅なイベントは無い船だったな、と笑うハーレイ。
 オーパンバルでワルツどころか、そもそもドレスも燕尾服も無かったんだから、と。
「結婚式を挙げるカップルだって制服だったぞ、ウェディングドレスが無かったからな」
 舞踏会のために白いドレスを作るくらいなら、そっちを先に作らんと…。燕尾服だって。
「ホントだね…」
 ぼくね、最初に写真を見た時、結婚式だと思ったんだよ。真っ白なドレスだったから。
 ずいぶん沢山のカップルだよね、って記事を読んだらオーパンバル…。女の人はブーケも持っていたんだけれど…。
 シャングリラには無かったっけね、ウェディングドレス。…みんな制服だったから。
 あの時代は、きっとダンスも無いよね。誰も踊っていなかったもの。
「そういうわけでもなかったようだぞ」
 シャングリラで踊っていたヤツがいたな、と知っているわけじゃないんだが…。
「えっ?」
 それじゃ誰なの、誰がダンスを踊っていたの?
 シャングリラで踊っていた人を知らないんなら、誰が踊るの…?
「あの船でないなら、人類だろうが」
 人類の世界にはあったんだ。ダンスも、それに舞踏会も。…前の俺は知らなかったがな。
 ヒルマンもエラも話しちゃいないし、あの二人も知らなかったんじゃないか?
 前の俺たちとは縁の無い世界で、調べてみたって国家機密ということもあるし。
「国家機密って…。ダンスなのに?」
 どうしてダンスが国家機密なの、暗号入りの踊りだったとか…?
 舞踏会で踊るダンスの種類で、何かコッソリ伝えてたとか…。



 ワルツの他にもダンスの種類は色々ある、と今の自分は知っているから。同じワルツでも、曲が幾つもあることも知っているものだから。
 国家機密と聞いた途端に、頭に浮かんだものは暗号。ダンスの種類や、曲名で作れそうなもの。
「暗号だったの、前のぼくたちの頃のダンスは?」
 この曲が流れたら、こういう意味、って。…このダンスだったら、こうだとか。
「お前、発想が豊かだな…。俺は思いもしなかったが」
 あの時代にダンスがあったってことを思い出しても、そいつを知った時にもな。暗号だなんて。
 ダンスと言ったら、ただ踊るだけだ。
 パルテノンのお偉方とかが踊っていたんだ、前の俺たちが生きてた頃は。
 ずっと前に読んだ本にあったぞ、読んだのは今の俺なんだがな。
 パルテノンは最高機関だったし、内情は極秘扱いということもある。国家機密で。
 どういう風に勤務してるか、元老たちの仕事は何だったのか。
 あの連中は、パルテノン専用の食器で晩餐会を開いてたんだぞ。食器の話はしたろうが。
 そんな世界があったわけだし、舞踏会の方もありそうな気がしてこないか?
「…あったのかもね…。舞踏会だって…」
 って、本当に踊っていたの?
 ハーレイ、本で読んだんだって言ったよね?
 前のぼくたちが知らなかっただけで、人類の世界には舞踏会がちゃんとあったわけ…?



 オーパンバルは無かった時代。それは新聞の記事で分かったけれども、舞踏会。
 前の自分が生きた時代に、舞踏会があったとは初耳だった。
 シャングリラにはダンスも無かったのに。…白いシャングリラでは、誰も踊らなかったのに。
「…舞踏会なんか、何処でやってたの…?」
 それにダンスは何処で教えるの、ジョミーは習っていなかったよ?
 前のぼく、ずっと見ていたけれども、学校でダンスの授業なんかは一度も無くて…。
 もしかして、見落としちゃってたのかな?
「違うな、お前の記憶が正しい」
 あの時代には、義務教育では教えちゃいない。今の俺が読んだ本にも、そう書いてあった。
 ダンスをしたのは、偉い連中だけなんだ。
 パルテノンに入れるようなエリートだけだな、いわゆる特権階級ってトコか。
 出世して偉くなった時には、舞踏会に出席できるってな。
 その時に備えて、ダンスを教える教育ステーションなんかもあったんじゃないか?
 エリートの心得事なんだから、と仰々しく。
 …そうだ、あいつなら踊れたかもな。
 俺の嫌いなキース・アニアン、あの野郎なら。



 国家主席にまでなったんだから、とハーレイが忌々しそうに顰める眉。
 キースが国家主席に就任したのは、首都惑星ノアを捨ててからだけれど、その前に元老になっているから。
「元老と言ったらパルテノンだしな、もちろん舞踏会の世界だ」
 あいつが行ってたステーションとは、まるっきり違う世界から来たヤツばかりだが…。
 同じエリートでも種類が違って、軍人じゃなかったわけなんだが。
 其処へ入れと言われた以上は、踊った可能性もある。…舞踏会に出席させられたらな。
「舞踏会って…。キースがダンス…?」
「招待されたら断れないぞ?」
 いくら似合わないと思っていたって、上からの命令は絶対だ。出掛けて行くしか無いだろうが。
 そして如何にもありそうな話だ。キースは嫌われていたらしいからな、パルテノンでは。
 畑違いの軍人なんだし、生え抜きのヤツらには煙たいだけだ。
 困らせてやろうと開きそうだぞ、舞踏会を。皆でワルツを踊ったりして。
「ワルツって…。そんなの踊れたわけ?」
 マザー・イライザが教えていたってことはないよね、まだ水槽にいた頃に…?
 教えておいても、練習しないと知識だけでは役に立ちそうもないし…。
「そういう教育はしなかったろうな、マザー・イライザは」
 軍人にしようと育ててたんだし、E-1077も軍人向けだ。メンバーズにも二種類ってな。
 キースみたいな軍人になるか、パルテノンに入って元老になるか、その二つだ。
 だからキースは、ダンスなんかは習っちゃいない筈なんだが…。舞踏会向きじゃないんだが…。
 必要となったら練習するだろ、軍人なんだし飲み込みは早い。
「えーっ!?」
 それじゃホントに、キースはワルツを踊ってたわけ…?
 舞踏会に出たかどうかはともかく、キースは負けず嫌いな人間だったし…。
 パルテノン入りをしちゃったんなら、ワルツ、意地でも覚えていそう…。
 招待されてから慌てるよりも、先に自分で覚えてそうだよ。



 キースはそういう人間だった、と今の自分にも確信できること。必ず先手を打つ人間。置かれた立場の遥か先を読んで、必要な手を打っておこうとするタイプ。
 ならば、ワルツも覚えただろう。パルテノンの元老たちが舞踏会を開く人種なら。いつか自分も招かれる可能性があるのなら。
(ワルツを踊るキースって…)
 全く想像出来ないけれども、練習相手も想像出来ない。舞踏会なら、キースが踊る相手は女性。
 けれど、キースが女性を相手に、ワルツの練習をするのかどうか。
「えっと…。キースがワルツを練習するなら、相手の人がいないと駄目だけど…」
 誰と練習したのかな、キース…?
 部下に女の人、一人だけ混じっていたらしいけど…。その人と練習してたと思う?
 ひょっとしたら、マツカだったのかな?
 部下だった人を連れて来るより、マツカの方が使いやすいから。
「その線は濃いな。俺もマツカだという気がするぞ」
 顎で使っていたらしいからな、キースの好きに出来るってもんだ。
 オーパンバルのための特訓じゃないが、空いた時間に「来い」と呼んではワルツの練習。
 マツカがステップを踏み間違えたら、「馬鹿野郎!」と怒鳴り付けてな。
「…練習してるトコ、見てみたいかも…」
 ちょっとでいいから、どんな感じか。キースがワルツを踊っているのを。
「俺もだ、キースは嫌いだがな」
 嫌いだからこそ、笑いと話の種ってヤツだ。きっと最初は下手なんだから。
 どんなに軍人としての腕が凄くても、それとワルツは別だしな?
 柔道と水泳が全く別なのと同じ理屈で、いきなりワルツを踊れと言われても身体が動かん。
 思うようにステップが踏めない間に、是非とも見せて貰いたいもんだ。
 あの野郎が「くそっ!」と舌打ちするのを、「上手くいかん」と仏頂面になる所をな。



 最初から上手く踊るのは無理だ、というハーレイの意見は正しいと思う。銃を撃つのとは、使う筋肉がまるで違うだろうから。色々な格闘技にしても。
(キースがワルツを覚えるんなら、猛特訓…)
 新聞で読んだ、オーパンバルを目指すカップルのように。もっと上手くと、練習を積んで。
 女性の部下を使うよりかは、マツカを相手に練習をしていそうだけれど…。
「キースのワルツ…。マツカと一緒に練習したって、きっと恋にはならないよね?」
 どんなに二人で頑張ってみても、上手く踊れるようになっても。
「当然だろうが、あいつはそういうヤツじゃないしな」
 前のお前を撃つようなヤツだ、ミュウだったマツカの扱いだって酷かったろう。
 練習の時に失敗したなら、自分のミスでもマツカのせいだな。マツカがミスをしちまった時は、怒鳴るだけでは済まんぞ、きっと。殴るとか、平手打ちだとか…。
 そんなやり方で練習していて、どうやれば恋になるって言うんだ。有り得んな。
 その上、あいつは軍人としても一流なんだぞ、鍛えた身体はダテじゃない。
 運動神経も凄いわけだし、サッサと覚えちまうから…。
 努力するも何も、ほんの少しだけ無駄に時間を使わされた、と考えて終わりなんじゃないか?
「…そうなんだろうね…」
 完璧なメンバーズ・エリートだから…。きっと覚えるのも早いよね、ワルツ。
 でも、キース、本当にワルツを踊ったのかな?
「さてなあ…?」
 記録を調べりゃ、残っているかもしれないな。…あいつのパルテノン時代。
 誰かが舞踏会に招待したとか、確かに出席していただとか。
 だが…。



 俺は調べてやらないぞ、とハーレイは今も、キース嫌いが治らないけれど。
 調べてくれる気も無さそうだけれど、いつか結婚した後に思い出したら、調べてみようか。遠い昔に、キースがワルツを踊っていたか。舞踏会に招待されたのか。
「ねえ、ハーレイ。…もしもキースが、ワルツを踊っていたんなら…」
 ぼくもワルツを踊ってみたいよ、ハーレイと。
 オーパンバルに出たいとは思わないけど、前のぼくたちが生きた時代にもワルツなんだし…。
 前のぼくたちが知らなかっただけで、踊っていた人がいたんだから。
「俺とワルツを踊りたいってか?」
 背丈が違い過ぎるぞ、おい。
 新聞で写真を見たんだろうが。身長の差がデカすぎるカップル、写っていたか?
「うーん…。そう言えば、そんなカップル、いなかったかも…」
 前のぼくとハーレイみたいに、うんと背が違うカップルは。
 あれは揃えたわけじゃなくって、踊りにくいから、そういうカップルがいなかっただけ…?
「そういうことだが?」
 上手く踊れやしないからなあ、オーディションを突破するのは無理だ。
 当然、俺とお前がワルツを踊ろうとしても、お前が俺の足を踏むどころじゃなくて…。



 派手に転ぶか、俺にぶつかるか…、とハーレイが浮かべる苦笑い。
 「華麗なステップは踏めそうにないな」と。
 チビの自分が育ったとしても、身長の差は今の半分ほどにしか縮まない。前の自分と同じ背丈に育っても。
 身長の差が大きすぎるから、難しいかもしれない、ハーレイとワルツを踊ること。
 けれど、転びながらでも踊れるのなら、少し踊ってみたい気がする。
 ハーレイとなら、きっと息が合う筈だから。
 前の生からの恋の続きを、二人で生きてゆくのだから。
 どんなに沢山練習を積んだオーパンバルのカップルよりも、しっかりと結ばれている絆。
 息はピッタリ合うだろうから、いつか二人で踊ってみたい。
 前の自分たちは知らなかったワルツを、青い地球の上で。
 転びながらでも、きっと素敵な時間。
 ハーレイのリードでくるりと回って、転びそうでも、下手くそでも…。



             恋人のワルツ・了


※復活している昔のイベント、オーパンバル。其処で踊るために特訓する間に、強くなる絆。
 ブルーとハーレイも頑張れそうなワルツですけど、時の彼方で、キースも踊っていたのかも。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




巷にクリスマスの飾りが溢れる季節がやって来ました。キース君にとってはクリスマスは修行を思い出させるものらしいですけど、私たちにはまるで関係ありません。今年も会長さんの家で賑やかにパーティーでしょうし、まだ一ヶ月あると言っても楽しみな日々。
「かみお~ん♪ 明日はみんなでお出掛けする?」
それとも遊びに来る? と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。金曜日の放課後、いつもの溜まり場での質問です。会長さんの家でダラダラ週末もけっこう定番、それもいいなと思ったのですが。
「…なんか、サル顔なんだよねえ…」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と視線がジョミー君に集中しました。サル顔って、誰が?
「あ、ごめん。昨日の夕刊の記事なんだけど…。植物園便り」
「「「植物園便り?」」」
動物園なら分かりますけど、植物園でサル顔というのは何でしょう。園長さんがサル顔だったとか、植物の紹介をしていた人とか…?
「ううん、サル顔の花だったんだよ」
「「「花!?」」」
何処の世界にそんな花が、と誰もが突っ込む中で、会長さんが「ああ…」と手を打って。
「あれかい、モンキー・オーキッドかい?」
「そう、それ! すっごいサル顔!」
もうサルにしか見えなくて、とジョミー君は興奮しています。なんでもオーキッドだけに蘭だそうですが、花のド真ん中にサルの顔の模様がついているとか。
「それがさ、サルをプリントしたみたいにそっくりなんだよ、そのままサルでさ!」
まさにサル顔、と語るジョミー君と一緒に、会長さんも。
「一時期、話題になってたからねえ…。サル顔すぎるとネットなんかで」
「おい、本当にサルなのか?」
モンキー・オーキッドと言うからにはサルなんだろうが、とキース君が訊くと。
「この上もなくサルだったねえ! ぼくも実物は見ていないけれど」
どの花もサルで、と会長さんが言い出し、ジョミー君も「そうらしいよ」と。
「植物園で咲き始めました、って書いてあってさ…。他にも色々なサルがいるからお楽しみに、っていう紹介でさ」
あのサルを是非見てみたい、という話ですけど。植物園に出掛けてサル顔の花を見物しようというわけですか…?



ジョミー君曰く、サル顔の花。会長さんが「論より証拠」と部屋に備え付けの端末で検索してくれたモンキー・オーキッドは本当にサル顔でした。蘭の花の真ん中にババーンとサルが。
「見に行くんなら、今はこれだけにしておくのがいいよ」
サルのバリエーションは本物で堪能するのがお勧め、と会長さん。
「ぼくも写真でしか知らないけどねえ、それは色々なサル顔があるから」
「…そうなのか?」
俺は初耳だが、とキース君が画面を覗き込んで。
「これだけでも充分にサルっぽいんだが、まだまだサルがいるというのか?」
「ハッキリ言うなら、序の口だね、これは。…ジョミーが見たのも、これだよね?」
「うん。もしかして、心を読み取ってた?」
「まあね。ズバリそのものを見せたかったら、情報はしっかり掴まないとね」
昨日の夕刊の写真はこれだ、と会長さんが言う通り、写真には植物園便りという記事がついていました。アルテメシアの植物園の。
「へええ…。今がモンキー・オーキッドの旬なのかよ」
こんなサルの、とサム君が記事を読み、「他にもサルがいるってか?」と怪訝そうに。
「花だろ、これ? 他の花でもサルなのかよ?」
「モンキー・オーキッドなら、もれなくサルだね。ぼくが保証する」
もう本当にサルすぎるから、と会長さん。
「誰が見たってサルなんだけどね、現地じゃサルではないんだなあ…。これが」
「「「へ?」」」
モンキー・オーキッドという名前どおりにサルじゃないんですか、この花は?
「ドラキュラらしいよ、品種名としては。…サルじゃなくって」
「「「ドラキュラ?」」」
それは吸血鬼ではないのだろうか、と思いましたが、会長さんは大真面目な顔で。
「ドラキュラはドラキュラでも、吸血コウモリ。聞いたことはあるだろ、吸血コウモリは」
「それはまあ…。知らなくもないが」
キース君が返すと、「そのドラキュラ」と会長さん。
「吸血コウモリの顔がついてるってことで、ドラキュラなんだよ」
「「「えーっと…」」」
サルだろう! と総員一致の反論が。されどドラキュラが本名らしいモンキー・オーキッド。これは本物、ちょっと見に行きたい気分ですよね!



というわけで、翌日の土曜日、私たちは植物園へとお出掛けすることになりました。雪が降りそうな寒さですけど、たまには冬の植物園。寒さ除けにも急げ、急げと温室目指してまっしぐらで。
「かみお~ん♪ 温室、あったかいね!」
ここだけ夏だね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。着込んで来たコートや上着はお役御免で、それでも暑い気がする温室。さて、モンキー・オーキッドは何処でしょう?
「蘭のコーナーは向こうらしいな」
キース君が案内板をチェックし、南国の植物が茂った中をゾロゾロと移動。週末なのに人は全くいません、そういえば入る時から誰もいなかったような…。
「植物園って冬は暇なのかしら?」
スウェナちゃんの疑問に、会長さんが「暇だろうね」と即答しました。
「寒風吹きすさぶ中、だだっ広い庭を見て回りたいような人は思い切り少数派だし…。温室の中は暖かいけど、バスや車で横づけってわけにもいかないからね」
最高に賑わうのは冬じゃなくって桜のシーズン、と会長さん。
「いろんな種類の桜が山ほど植えられているし、桜を見るにはいいらしいよ? 見るだけでもね」
「「「見るだけ?」」」
「桜のコーナーは春は飲食禁止なんだよ。お弁当とかは他所で食べて下さい、と」
「それじゃお花見になりませんよ?」
駄目じゃないですか、とシロエ君。
「やっぱりお弁当は桜を見ながら食べたいですし…。桜があっても、お弁当禁止じゃあ…」
「それなりに他の花もあるしね、桜は見るだけ、お弁当は他で! それでも賑わう!」
だけど冬場は閑古鳥、と会長さんはグルリと見回して。
「この温室には他に誰もいないし、外も写真の愛好家が何人かいる程度かなあ…」
「モンキー・オーキッドで宣伝してても来ないわけ?」
ぼくたちしか、とジョミー君が頭を振って、サム君が。
「普通こねえだろ、それだけ見るのに入園料を払って寒い中をよ」
「うーん…。あの記事に上手いこと乗せられたかなあ?」
「いいんじゃないかな、一見の価値はあると思うよ、モンキー・オーキッド」
この植物園は何種類も育てているからね、と会長さんが先に立って蘭のコーナーの方へと向かってゆきます。誰も来ていないとは拍子抜けですが、その分、ゆっくり堪能できそう。サル顔の花のバリエーションってどんなのでしょうね、花の色とかかな…?



それから数分後、私たちは温室の中でケタケタと笑いまくっていました。誰もいないのをいいことにしてゲラゲラ、ケラケラ、これが笑わずにいられようか、といった感じで。
「サ、サルだぜ、本気で! もうサルにしか見えねえって…!」
「これなんか歯をむき出してますよ、威嚇してるのか、笑ってるのか…」
「こっちもサルだよ、なんでこんなにサルだらけなんだろ…!」
見に来て良かった、とジョミー君もお腹を抱えて爆笑中。モンキー・オーキッドのコーナーはサル顔をした蘭がズラリ揃って、あっちもこっちもサルだらけで。
「ドラキュラじゃないわね、やっぱりサルよね?」
「どう見てもサルだな、俺にはサルにしか見えないからな」
だが学名は違うのか…、とキース君が「ドラキュラ属」と書かれた札に呆れ顔。
「…吸血コウモリはサルに似ているのか、そうなのか?」
「どっちかと言えば、ぼくはブタだと思うけどねえ…」
でなければネズミ、と会長さんが。
「誰がドラキュラと名付けたのかは知らないけれどさ、明らかにネーミングのミスだよ、これは」
「だよなあ、サルだもんなあ、これも、これもよ」
サルの顔がついているとしか見えねえしよ、とサム君が言う通り、どの蘭も見事なまでにサル。吸血コウモリだと言われてもサル、サル以外には見えませんってば…。



色も形も様々なモンキー・オーキッド。それと同じにサルの顔も色々、表情のバリエーションが豊かすぎるだけに笑うしかなく、散々笑って笑い転げて、植物園を後にして…。
「凄かったよねえ、モンキー・オーキッド」
あそこまでとは…、とジョミー君が改めて感動している会長さんの家のリビング。私たちは植物園の側のハヤシライスが有名だというお店で食事し、あまりに寒いので反則技の瞬間移動で会長さんの家まで帰って来ました。今は紅茶やコーヒー、ココアなんかで寛ぎ中で。
「あのサル顔は凄すぎたな…。どういう意図でサルなんだかな」
サルの顔にしておけば虫が来るわけでもなさそうだし…、とキース君。
「天敵を追い払うのにサルの顔なら話は分かるが、本物のサルに比べて小さすぎるし…」
「吸血コウモリの顔にしたって、小さすぎだね」
本当に何の意味があるのやら…、と会長さんも。
「揃いも揃ってサル顔なんだし、偶然にしては凄すぎるけど…。蘭の心は読めないからねえ、どうしてサルかは分からないよね」
まだ定説も無いようだ、という話。それじゃ、まさかの遊び心とか?
「遊び心か…。それだと人間に見て貰えることが大前提だし、ウケた所で種の繁栄に繋がるとは限らないからねえ…」
乱獲されて絶滅しそうだ、と会長さん。それは確かに言えてます。植物園で見て貰える間はマシでしょうけど、大流行したらエライことですし…。
「何を思ってやっているのか謎ですね、モンキー・オーキッド…」
ぼくたちは楽しませて貰いましたが、とシロエ君が言った所へ。
「こんにちはーっ!」
「「「!!?」」」
フワリと翻った紫のマント、ソルジャーが姿を現しました。
「遊びに来たよ、今日はなんだか珍しい所へ行っていたねえ!」
「植物園かい? たまにはそういう場所もいいだろ、勉強になるし」
会長さんがそう答えると。
「…勉強だって? 笑いに行った、の間違いだろう?」
サル顔の花で、とソルジャーはしっかり把握していて。
「ぼくも覗き見していたけどさ…。此処へ来る前に瞬間移動で実物も見に行って来たんだけどさ」
あれは凄すぎ、とソルジャーもまたモンキー・オーキッドで笑いまくって来たようです。あれだけサル顔の花が揃えば、そりゃ、見るだけで笑えますしね…。



モンキー・オーキッドを堪能して来たらしいソルジャーは、やはりサル顔が気になる様子で。
「進化の必然ってヤツだろうけど、なんでサル顔?」
「それが分かったら、ぼくは論文を発表してるよ!」
万人が納得するような理由を見付けられたら最強だから、と会長さん。
「銀青として坊主の世界では名が売れてるけど、学者の世界じゃ無名だからねえ…。そっち方面で売り出せるんなら、論文くらいは書いてみせるよ!」
「…つまり、現時点ではサル顔の理由は謎なんだ?」
「これだ、っていう説は出てないねえ…。少なくとも、ぼくが知ってる限りでは」
「ふうん…。だったら、遊び心もいいかもねえ…」
あのサル顔は使えそうだ、と妙な発言。ソルジャー、サル顔が好みでしたか?
「ううん、そういうわけじゃなくって…。サルでなくてもいいんだよね、と思ってさ」
「「「はあ?」」」
モンキー・オーキッドはサル顔だからこそウケたんだろうと思います。会長さんが一時期話題を呼んだと言ってましたし、私たちだって大いに笑ったわけですし…。サル顔じゃないモンキー・オーキッドなんかに、なんの価値があると?
「価値観は人それぞれだからね!」
この顔が好きな人もいる、とソルジャーは自分の顔を指差して。
「サルの顔の代わりに、ぼくの顔! そういう蘭も素敵だろうと思わないかい?」
「「「へ…?」」」
なんですか、そのヘンテコな花は? ソルジャーの顔の蘭ですって?
「そう! 名付けてブルー・オーキッド…じゃ駄目かな、ただの青い蘭だし…。でも、ぼくの顔がついているならブルー・オーキッドで決まりだよねえ?」
そういう花も良さそうだけど、と言われましても。
「…品種改良する気かい?」
君のシャングリラで、と会長さん。
「モンキー・オーキッドを持って帰って、君の顔になるよう細工をすると?」
「まさか。そこまでの手間はかけられないよ。…それに簡単には出来そうもないし」
品種改良となったら何年かかるか…、という指摘。
「ぼくの世界の技術がいくら進んでいたって、今日作って明日とはいかないんだよ」
「そうだろうねえ…」
相手は植物なんだから、と会長さんも頷きましたが、それじゃソルジャーの顔の蘭は夢物語?



モンキー・オーキッドならぬ、ソルジャーの顔をしたブルー・オーキッド。品種改良が無理なんだったら、ただの話の種だろうと思った私たちですけれど。
「作れないことはないんだよ。ぼくの顔のブルー・オーキッドをね」
「…どうやって?」
会長さんが訊くと、ソルジャーは。
「ごく単純な仕組みだけど? サイオンを使えば一発じゃないか、サイオニック・ドリーム!」
「「「ええっ!?」」」
あのサル顔をソルジャーの顔と取り替えるんですか、サイオニック・ドリームで?
「そう。…でもねえ、サルの顔がベースというのは嬉しくないしね…」
もっと綺麗な蘭にしたい、とソルジャーならではの我儘が。
「上手く嵌め込めれば何でもいいしね、胡蝶蘭でもカトレアでも!」
美しい花でキメたいのだ、とソルジャーは膝を乗り出しました。
「ぼくは是非とも作ってみたいし、一鉢、プレゼントしてくれないかな?」
「自分で買えばいいだろう!」
お小遣いに不自由はしていないくせに、と会長さんの切り返し。
「ノルディにたっぷり貰ってるんだろ、ランチやディナーに付き合っては!」
「それはそうだけど…。ブルー・オーキッドは使えるよ?」
こっちのハーレイだってウットリするに決まっているし、と笑顔のソルジャー。
「ぼくがブルー・オーキッドを見事に完成させたら、こっちのハーレイにもプレゼントで!」
「迷惑だから!」
そんなプレゼントでハーレイを喜ばせるつもりはない、と会長さんはけんもほろろに。
「ぼくの写真をコッソリ集めているってだけでも腹が立つのに、ぼくの顔つきの花なんて! いくらモデルが君の顔でも、見た目は全く同じなんだし!」
お断りだ、とはね付けた会長さんですが。
「そうなんだ…? それじゃ、君には別の蘭をプレゼントしようかなあ…」
「…ぼくに?」
「そうだよ、最高の蘭を作って君に! 名付けてハーレイ・オーキッド!」
全部の顔がハーレイなのだ、とソルジャーが胸を張り、私たちは頭を抱えました。サル顔の花なら楽しめますけど、教頭先生の顔なんて…。しかも表情がバリエーション豊かにあったりしたら、頭痛の種にしかなりませんってば…!



ソルジャーの顔なブルー・オーキッドどころか、教頭先生の顔なハーレイ・オーキッド。そんな凄まじい蘭は御免蒙る、と会長さんも考えたようで。
「わ、分かったってば、それを作られるくらいだったらブルー・オーキッドでいいってば!」
「じゃあ、お小遣い」
花屋へ蘭を買いに行くから、とソルジャーが右手を出しました。
「蘭は高いと聞いているしね、財布ごとくれると嬉しいんだけど…」
「それは断る! とりあえずこれだけ、これで買えるだけの蘭にしておいて!」
これだけあったら充分だろう、と会長さんはお札を数えて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に持って来させた別の財布に突っ込むと。
「はい、どうぞ。胡蝶蘭だろうが、カトレアだろうが、好きに買って来れば?」
「ありがとう! それじゃ早速、行ってくるね!」
蘭が充実している花屋は何処だろう、とソルジャーは会長さんの家に置いてある私服に着替えてウキウキと。「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお勧めの花屋さんを幾つか挙げて貰って、瞬間移動でパッと姿がかき消えて…。
「…行っちまったぜ?」
なんか蘭を買いに…、とサム君が窓の外を指差し、シロエ君が。
「ブルー・オーキッドとやらを作るんですよね?」
「らしいな、あいつの顔がズラリと並んだ蘭をな…」
どういう蘭になるというんだ、とキース君がフウと溜息を。
「モンキー・オーキッドからどうしてこうなる、俺たちは平和に植物園を楽しんだのに…」
「それを言うなら、ぼくもだよ! こんな方向に行っちゃうだなんて思わないから!」
分かっていたなら見に行こうとは言わなかった、とジョミー君も。
「おまけにブルー・オーキッド作りを断った時はハーレイ・オーキッドだなんて言われても…」
「考えようによっては、そっちの方がモンキー・オーキッドに近そうだけどね」
ぼくの顔よりはサルっぽい、と会長さん。
「だけど、ハーレイの顔がくっついてる蘭が部屋にあったら悪夢だし…」
「教頭先生の方がそれっぽい顔には違いねえけどな…」
歯をむき出した顔だって、なんとなく想像つくもんなあ…、とサム君がモンキー・オーキッドと重ねているようですけど、ハーレイ・オーキッドは見たくありません。ソルジャーの顔なブルー・オーキッドだけで充分、表情も一つで充分です~!



蘭を買おうと瞬間移動で出掛けて行ったソルジャーは、半時間ほど経った頃に戻って来ました。それは見事な白い胡蝶蘭の鉢を抱えて、御機嫌で。
「どうかな、これ? お店の人のお勧めのヤツで!」
おつりはこれだけ、と会長さんに返された財布、中身は殆ど消えたようです。
「…思い切り奮発したみたいだねえ?」
「それはもう! ぼくのハーレイにプレゼントするんだし、ケチケチ言ってはいられないよ!」
これだけの数のぼくの顔がついた立派なブルー・オーキッド、とソルジャーは胡蝶蘭の鉢を床にドンと置き、暫し眺めて。
「…全部が同じ顔の花より、バラエティー豊かな方がいいよね?」
「好きにすれば?」
サイオニック・ドリームを使うのは君だ、と会長さんが言い終わらない内に、胡蝶蘭の鉢を青いサイオンがフワッと包んで、スウッと消えて。
「どうかな、ブルー・オーキッド! こんな感じで!」
作ってみたよ、という声で覗き込んでみた胡蝶蘭の花。白い花弁はそのままですけど…。
「「「うーん…」」」
ブルーだらけだ、と声を上げたのは誰だったのか。胡蝶蘭の花のド真ん中の辺り、モンキー・オーキッドで言えばサルの顔がついていた辺りにソルジャーの顔が。何処から見たってソルジャーか、会長さんにしか見えない顔がくっついています。
「素敵だろう? 笑顔のぼくもいれば、真面目なぼくもね!」
憂い顔から色っぽいのまで揃えてみましたー! というソルジャーの言葉通りに、バラエティー豊かな表情の数々。まさにモンキー・オーキッドならぬブルー・オーキッド、よくも作ったと感心するしかないわけで。
「さてと、ぼくのハーレイにプレゼントするには、検疫が必須なんだけど…」
そんなことに時間をかけている間に花が駄目になる、とソルジャーは鉢を丸ごとシールドしちゃったみたいです。
「これでよし、っと…。花には触れるけど、ウイルスとかは通さない!」
ぼくのシールドは完璧だから、と言いつつソルジャーの衣装に着替えて、鉢を抱えて。
「今日はハーレイにこれをプレゼント! 喜んで貰えたら、こっちのハーレイの分も作るよ!」
いいアイデアをありがとう! と消えてしまいました、おやつも食べずに。モンキー・オーキッドに想を得たブルー・オーキッドとやらを披露しようと急いで帰ったみたいです。今日はキャプテン、暇なんですかね、いつもは土日も仕事なんだと聞きますけどね…?



ソルジャーがいそいそと帰って行った後、私たちの方はポカンとするしかなくて。
「ブルー・オーキッドねえ…」
あんなのが果たしてウケるんだろうか、と会長さんが悩んでいます。
「ただの花だし、ブルーの顔がついているってだけで…。モンキー・オーキッドの方が自然の産物なだけに、遥かに凄いと思うけどねえ?」
「俺も同意だが、あいつらの感性は謎だからな…」
案外、あれで大感激かもしれん、とキース君。
「花かと思えば実はあいつの顔が幾つもついているんだ、喜ばれないとは言い切れないな」
「キャプテン、ソルジャーにベタ惚れだしね…」
あんな蘭でもいいのかも、とジョミー君も。
「普通の胡蝶蘭よりもずっといいとか、素晴らしいとか言い出しそうだよ」
「教頭先生でも言いそうだよな、それ」
ブルーの顔がついていればよ、とサム君が頭を振りながら。
「あれがウケたら作りに来やがるんだろ、教頭先生用のヤツをよ」
「そうらしいねえ…」
困ったことに、と会長さんも頭痛がするらしく。
「ウケないことを祈るのみだよ、ブルー・オーキッドは一鉢あれば充分なんだよ、この世界にね」
「会長、細かいことですが…。この世界にはもうありませんよ、ブルー・オーキッド」
持って帰ってしまいましたよ、とシロエ君からの突っ込みが。
「この世界に一鉢と言うんだったら、こっち用に作って貰わないといけないわけですけれど」
「そんな言霊、要らないから!」
お断りだから、と叫んだ会長さん。
「ブルー・オーキッドはさっきの一鉢、それで充分! これでバッチリ!」
増えられてたまるか、と数珠を取り出し、ジャラッと繰って音を鳴らして、それから何やら意味不明な呪文を朗々と。えーっと、今のは…?
「前言撤回の呪文と言うか、お経を間違えた時に使うと言うか…。今の言葉は間違いでしたと、すみませんでしたと罪業消滅の大金剛輪陀羅尼ってヤツで」
「…おい、それで言霊もいけるのか?」
消えてくれるか、とキース君が尋ね、会長さんは「さあ…?」と首を傾げて。
「やらないよりかはマシなんだよ、うん。効いてくれれば御の字じゃないか」
是非効いてくれ、と数珠をジャラジャラ。呪文が効いたらいいんですけどね…?



そして翌日。相変わらずの寒さでお出掛けしたくはない空模様だけに、私たちは会長さんの家に押し掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ってくれた蒸しサバランの柚子風味に舌鼓を打っていました。柚子が美味しい季節だよね、と。そこへ…。
「こんにちはーっ!」
ぼくにもサバラン! と降ってわいたソルジャー、空いていたソファにストンと座ると。
「ぶるぅ、温かいココアもお願い! ホイップクリームたっぷりで!」
「オッケー! ちょっと待っててねーっ!」
サッとキッチンに走った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が注文の品を揃えて、ソルジャーは満足そうにサバランを頬張りながら。
「昨日のブルー・オーキッドだけどね…。ぼくのハーレイに凄く喜ばれてしまってね!」
「「「あー…」」」
忘れていた、と誰もが溜息、本当に綺麗に忘れていました。会長さんの呪文が効いたか、はたまた忘れたい気持ちが働いたのかは謎ですけれど。
「なんだい、そのつまらない反応は! あの花の素晴らしさが分かってる?」
ぼくのハーレイは本当に大感激だったのに、と唇を尖らせているソルジャー。
「どの花にもあなたがいるのですね、って端から眺めて、もうウットリと…。見惚れた後には夫婦の時間で、「こういう顔のあなたも欲しかったですね」って!」
「「「はあ?」」」
「分からないかな、真っ最中の顔! もう最高に色っぽいらしくて!」
そういう顔の花もあったら良かったのに、というのがキャプテンの意見だったみたいです。まさかソルジャー、そのリクエストに応えたとか…?
「ピンポーン! それを言われて作らなかったら嘘だろう?」
ちゃんと立派に作って来た、とソルジャーは威張り返りました。
「ぼくのハーレイがグッとくるらしい表情、それをハーレイの記憶から再現、最高に色っぽい花が咲きまくりのブルー・オーキッドが誕生ってね!」
こんな感じで! と胡蝶蘭の鉢がパッと出現、ソルジャーは「是非、見てくれ」と。
「昨日のとは一味違うんだよ! うんと色っぽく変身したから!」
「ぼくは見たいと思わないから!」
「ぼくたちも遠慮しておきます!」
会長さんとシロエ君が同時に声を上げたんですけど、ソルジャーは鉢を引っ込めません。やっぱり見るしかないんですかね、グレードアップしたブルー・オーキッド…。



さあ見ろ、すぐ見ろと迫るソルジャー、断り切れない私たち。仕方なく眺めたブルー・オーキッドの花は昨日とはまるで違っていました。お色気全開、そんな表情のソルジャーの顔があれこれ揃って咲き誇っている状態で…。
「…なんとも酷いのを作ったねえ、君は…?」
昨日のヤツの方が素敵だったのに、と会長さんが文句を言うと、ソルジャーは指をチッチッと左右に振って。
「分かってないねえ、この素晴らしさが! ハーレイの心を掴むにはコレ!」
お蔭で朝から素敵に一発! と満足そうな顔。
「いつもだったら、朝から一発はとてもハードル高いんだよ! ハーレイときたら、ブリッジに行かなきゃ駄目だと言うから、まず無理なんだけど、これを見せたらもうムラムラと…!」
これだけの数の色気たっぷりの顔を見てしまったら我慢も何も…、とニコニコニッコリ。
「本物のぼくでコレを見ようと、一気にベッドに押し倒されてね、それは激しく…!」
「もういいから!」
その先のことは言わなくていいから、と柳眉を吊り上げる会長さん。
「コレの素晴らしさは理解したから、サッサと持って帰りたまえ!」
「言われなくても直ぐに戻すよ、大事なブルー・オーキッドだからね!」
ぼくの青の間に飾っておかなきゃ、と胡蝶蘭の鉢は消えましたけれど。
「…素晴らしさを分かってくれたんだったら、こっちのハーレイにも贈らなくちゃね!」
あれと同じのを作ってあげよう、とソルジャーからの申し出が。
「ぼくのハーレイにウケた時には、こっちのハーレイの分も作ると言ったしね!」
「作って貰わなくてもいいから!」
「そう言わずにさ! ブルー・オーキッドの良さは分かってくれたんだろう?」
「こっちのハーレイにはモンキー・オーキッドで沢山なんだよ!」
サル顔の花をプレゼントくらいで丁度いいのだ、と会長さんは必死の逃げを。
「どうせ値打ちが分からないんだし、ハーレイにはサルで充分だってば!」
「ダメダメ、せっかくブルー・オーキッドが出来たんだから!」
モンキー・オーキッドなんてとんでもない、とソルジャーの方も譲りません。
「君そっくりのぼくの顔だよ、そういう顔でお色気たっぷり、ブルー・オーキッド! それをプレゼントしなくっちゃ!」
それでこそ二人の絆も深まると言ってますけど、会長さんと教頭先生に絆なんかはありません。あったとしたってオモチャにするとか、そういう絆ですってば…。



会長さんとソルジャーはブルー・オーキッドを巡って押し問答。サル顔の花がとんだ方向へ行ってしまった、と私たちは溜息をつくしかなくて。
「…元ネタはサルだったんだがなあ…」
昨日は植物園で笑っていたのに、何をどう間違えたらこうなるんだ、とキース君がぼやいて、ジョミー君も。
「ブルー・オーキッドにしたってそうだよ、最初は色々な表情ってだけで…」
単なるモンキー・オーキッドのブルーバージョンだった、とブツブツと。
「そりゃさあ…。歯をむき出してる顔とかは混ざってなかったけどさあ…」
「そういう顔だとお笑いにしかなりませんしね…」
シロエ君が大きな溜息を。
「教頭先生に贈るにしたって、お笑い系の顔ならまだマシだって気もしますけどね」
「それはブルーが却下するんじゃないですか?」
きっとプライドが許しませんよ、とマツカ君。
「元ネタがモンキー・オーキッドにしたって、自分の顔で笑いを取りたいタイプではないと思うんですけど…」
「確かにな。身体を張った悪戯をしやがることはあっても、笑いを取ったというのはな…」
俺の記憶にも全く無い、とキース君が頷き、スウェナちゃんも。
「無いわね、売りは超絶美形だものね」
「お笑い系で作ってくれ、って頼んだらいけそうな気はするけどよ…」
ブルーのプライドが粉々だよな、と嘆くサム君。
「でもよ、このままだと、作らねえってわけにはいきそうにねえし…」
「お笑い系で纏めて貰え、と助言してみるか?」
駄目元だしな、とキース君が「おい」とソルジャーと会長さんの間に割って入りました。
「なんだい、今は忙しいんだけど!」
「そうだよ、ぼくはブルーを追い返すのに忙しくって!」
ブルー・オーキッドなんかを作らせるわけには…、と会長さんがキッと睨んでいますが。
「それなんだがな…。お笑い系で纏めて貰ったらどうだ?」
「「お笑い系?」」
見事にハモッた、会長さんとソルジャーの声。キース君は「ああ」と答えると。
「お色気路線が嫌だと言うなら、モンキー・オーキッドと同じでお笑い系だ」
そういう顔で纏めて貰えば問題無い、と言ってますけど、会長さんが賛成しますかねえ…?



「…ちょっと訊くけど、お笑い系というのは、ぼくの顔で…?」
このぼくの、と会長さんが自分の顔を指差し、ソルジャーも。
「ぼくの顔で笑いを取れと? そういう意味でお笑い系だと言ったのかい?」
「その通りだが…。具体例は直ぐには思い付かんが、モンキー・オーキッドで言えば歯をむき出していたサルがあったし、あんな具合でどうだろうかと」
「「あれだって!?」」
あのサルの顔か、とまたもハモッた会長さんの声とソルジャーの声。
「なんだって、ぼくがそういう顔をハーレイに披露しなくちゃいけないのさ!」
「ぼくの方もそうだよ、ぼくは歯をむき出してサルみたいに笑いはしないから!」
有り得ない表情のオンパレードは作りたくない、とソルジャーが喚き、会長さんも文句たらたら。
「いいかい、ぼくは超絶美形が売りなんだよ? お笑い路線じゃないんだよ!」
「…そうか…。なら、仕方ないな。普通に作って貰うしかないな、ブルー・オーキッド」
俺はきちんと意見を述べたが却下なんだな、とキース君がクルリと背を向けて。
「…邪魔をした。後は存分に喧嘩してくれ、歯でも牙でもむき出してな」
「当然だよ! この迷惑なブルーを叩き出すためなら牙だってむくよ!」
でも歯を向き出したお笑い顔をハーレイにサービスするのは嫌だ、と怒鳴った会長さんですが。
「…ん? 牙をむくのと、歯をむき出すのと…」
似たようなものか、と独り言が。
「笑いを取るんだと思っているから間違えるわけで、牙をむくなら…」
「「「牙?」」」
牙がどうかしたか、と私たちもソルジャーも首を捻ったわけですけれど。
「そうだ、牙だよ! そうでなくても、あれはドラキュラ!」
「「「は?」」」
「元ネタのモンキー・オーキッド! ドラキュラ属だと言った筈だよ、吸血コウモリ!」
あの顔はサルじゃなかったんだっけ、と会長さんは天啓を受けたらしくて。
「ブルー・オーキッドだと思い込んでるからヤバイわけだよ、正統派のドラキュラ属だったら!」
「…どうなるんだい?」
君の考えが謎なんだけど、とソルジャーが訊くと。
「そのまんまだよ! ブルー・オーキッドを作ると言うなら、是非、ドラキュラで!」
元ネタに忠実にやってくれ、と拳を握った会長さん。元ネタとくればモンキー・オーキッドになるわけですけど、それだとサル顔でお笑いですよ…?



ブルー・オーキッドを作るのであれば元ネタ通りに、と会長さん。元ネタは昨日、植物園で笑いまくったサル顔の団体、お笑い系は嫌だと言っていたくせにどうなったのかと思ったら。
「ドラキュラだしねえ? 吸血コウモリもドラキュラも血を吸うわけでね、牙を使って」
そこを忠実に再現するのだ、と会長さんはニンマリと。
「お色気たっぷりなブルー・オーキッド、大いに結構! ハーレイは絶対、触ろうとする!」
「…そりゃそうだろうね、ぼくのハーレイも触ってみていたしね?」
そしてムラムラと来て本物のぼくを押し倒した、というソルジャーの証言。
「触りたくなることは間違いないよ。こっちのハーレイもハーレイだしね!」
「その先なんだよ、元ネタを使ってくれというのは! 触ったら、こう、牙でガブリと!」
「「「え?」」」
ガブリなのか、と驚きましたが、会長さんは「ドラキュラだよ?」と。
「ハーレイの指に噛み付いて血を吸うわけだよ、ぼくが作って欲しいブルー・オーキッドは!」
「…そ、それは…。サイオニック・ドリームでそれをやれと?」
ソルジャーの声が震えて、会長さんが。
「出来ないことはないだろう? ぼくよりも凄いと日頃から自慢しているわけだし!」
「そうだけど…。血を吸う花なんて、まるっきりのホラー…」
「ホラー路線の何が悪いと? …どうせだったら、もっとホラーな路線もいいねえ…」
血を吸いまくったらブルー・オーキッドがぼくに化けると思い込ませるとか、とニヤニヤと。
「もちろん、ホントに血を吸うわけじゃないけどさ…。ただの夢だけどさ」
「ふうん…? それで最終的には鉢ごと君に化けるように調整しておけと?」
そういうサイオニック・ドリームを仕掛けるのか、とソルジャーも興味を引かれたようで。
「君だと思ってガバッと押し倒したら、鉢がガシャンで正気に返るというオチかい?」
「それもいいけど、この際、ホラーでスプラッタとか」
「「「スプラッタ?」」」
「最後は食われてしまうオチだよ、もっと血を吸わせようと頑張っている内に!」
突然ガブリと指先を噛み砕かれてしまうのだ、と会長さん。噛み砕くって…教頭先生の指先をブルー・オーキッドが?
「そう! 慌てて指を引っこ抜こうにも、もう抜けなくて!」
「いいねえ、そのままハーレイをバリバリ食べてしまうというホラー仕立ても…!」
胡蝶蘭の花にくっついた顔がハーレイを食べるからホラーでスプラッタか、とソルジャーも乗り気になってしまって、会長さんはやる気満々で…。



ブルー・オーキッドの二鉢目は昼食を挟んで作り上げられ、ソルジャーと会長さんが瞬間移動で教頭先生の家へお届けに。私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に中継して貰って見ていましたが、教頭先生は大感激で。
「なるほど、サイオニック・ドリームの花なのですね。そしてドラキュラなのですか…」
「うん。君の血をたっぷり吸わせてやったら、いずれはブルーに化けるかも…」
なにしろブルー・オーキッドだから、とソルジャーが得々と説明を。
「サイオニック・ドリームのブルーだからねえ、どう扱うのも君の自由だよ」
「らしいよ、君の妄想の全てをぶつけてくれても、ちゃんと応える仕様だってさ」
この素晴らしいブルー・オーキッドで楽しんでくれ、と会長さんとソルジャーが二人掛かりで背中を押しまくり、瞬間移動で帰って来て。
「さて、ハーレイはどうするかな?」
「ぼくの読みでは、もう早速に血を吸わせると思うけどねえ…?」
思い込みの激しさはピカイチだから、と会長さん。中継画面の向こうでは教頭先生が白い胡蝶蘭の花をしみじみと眺め…。
「ふうむ…。実に色っぽいブルーだな…。これが血を吸う、と」
どんな感じだ、とチョンと指先で触れた途端に、ガブリとやられたらしいです。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が中継画面にサイオニック・ドリームを付け加えてくれ、教頭先生が見ているビジュアルが登場、白い花がやがてほんのりピンク色に。
「ほほう…。血を吸えば花の色が変わるのか。ならば、全部の色が変われば、花がブルーに化ける仕組みかもしれないな…」
是非とも血を吸って貰わねば、と教頭先生は次から次へと花にくっついた顔を指先でチョンと。そうして触ってゆく内に…。
「うわあっ!?」
教頭先生の悲鳴に重なった鈍い音。指先が砕けたみたいです。血も飛び散って、教頭先生は慌てて指を引っ込めようとなさいましたが…。
「ぬ、抜けない!? や、やめてくれ、ブルー!!」
私が誰だか分からないのか、と響く絶叫、ゴリゴリと嫌な音を立てて教頭先生は既に手首まで食われつつあって。
「「「うわー…」」」
思わず目を逸らしたくなる悲惨な光景、教頭先生もサイオニック・ドリームであることを忘れているようです。バリバリ、ボリボリ、骨が砕けて肉が啜られて…。



「…はい、一巻の終わりってね」
ぼくに綺麗に食べられました! と会長さんが高らかに宣言、スプラッタなホラーの時間は終了。食べられた筈の教頭先生が床に倒れていて、ブルー・オーキッドの鉢がその脇に。
「…君もやるねえ、ぼくもここまでのサイオニック・ドリームは久しぶりだよ」
人類軍を相手にホラーな攻撃をお見舞いしたってここまでのは滅多に…、と言うソルジャー。
「でもまあ、君に食べられたんだし、ハーレイも多分、本望だろうね」
「どうなんだろう? 懲りずに触るかな、ブルー・オーキッド」
「血を吸われている間は、極楽気分になる仕様だしね」
気分は天国、と微笑むソルジャーも抜け目なく仕掛けをしていたらしいです。そうなってくると、教頭先生、天国目当てに…。
「…また血を吸わせて遊ぶんでしょうか?」
「でもって、やり過ぎて食われるオチだぜ、バリバリと…」
それでもきっと懲りねえんだよ、とサム君が唸って、私たちもそうだと思いました。モンキー・オーキッドから生まれたブルー・オーキッド、ホラーな鉢と、ソルジャーの世界の美味しい鉢と。二通りのが出来ちゃいましたが、どっちがいいかと言われたら…。
「…美味しい鉢の方だよねえ?」
「教頭先生はそれの存在を御存知ないがな…」
ホラーな鉢でも美味しいだろう、とキース君。またバリバリと食われちゃっても、懲りずに触っていそうです。下手なホラー映画よりもスプラッタな中継、また見る機会が来そうな感じ。ブルー・オーキッドの花が枯れるまで、きっとホラーでスプラッタですね…?




             顔を持った蘭・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーがサイオニック・ドリームで作った、ブルーの顔をしている蘭。それも二種類。
 教頭先生用はホラーですけど、癖になるかも。なお、モデルの蘭は実在してます、本当です。
 次回は 「第3月曜」 6月21日の更新となります、よろしくです~!

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 こちらでの場外編、5月といえばGW。シャングリラ号で楽しく過ごした結果は…。
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