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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




元老寺の除夜の鐘で古い年を送って、ピカピカの新年。冬休みが終わればお雑煮大食い大会だとか、水中かるた大会だとか。一連の行事が終わった途端に迎えた週末、お正月気分も延長戦。会長さんの家でダラダラ過ごした土日の後は月曜、学校に行く日だったのですが。
「なんかさ、今日はおかしくない?」
雰囲気変だよ、とジョミー君が朝の教室で言い出しました。私たち七人グループが揃って直ぐのことです。最後に来たのってマツカ君だっけ…?
「雰囲気が変とはどういうことだ?」
俺は全く気付かなかったが、とキース君が返すと、ジョミー君は。
「じゃあ、マツカは? 特に何にも思わなかった?」
「はい…。門衛さんもいつも通りでしたよ? 貼り紙とかも無かったですし」
「そういう変じゃなくってさあ…。男の先生!」
「「「は?」」」
男の先生がどうかしましたか、私は今朝は先生自体に会ってませんが…。男も女も。男の先生、何処かで何かをしてましたかねえ、グラウンドに穴を掘っていたとか?
「そんなんじゃなくて! 一人も会わなかったんだけど!」
いつもなら誰か会う筈なのに、とジョミー君。運がいいのか悪いと言うのか、普段だったら教室まで来る途中に出くわすそうです、そして挨拶。
「…偶然じゃねえの?」
むしろ毎回会う方が不思議だ、とサム君が。
「俺たちが校門前で揃った時にはよく会うけどよ…。俺なんかブルーの家に朝のお勤めに行ってるせいかな、瞬間移動で登校が多いし、そうは会わねえぜ」
「私もジョミーほどではないわねえ…」
百発百中ってコトは無いわね、とスウェナちゃんも。
「きっと偶然よ、変だとしたなら今日のジョミーの運だと思うわ」
「俺も全く同意見だな」
男の先生にはちゃんと会ったからな、とキース君。
「えっ、何処で!?」
いつの間に、とジョミー君が訊くと。
「柔道部の部室だ、朝練をやってる後輩に伝言があったからなあ、メモを置きに」
其処で教頭先生に会った、という話。ほらね、やっぱり男の先生、ちゃんと学校にいるじゃないですか、ジョミー君が変なだけですってば…。



「…ぼくの運勢の問題なわけ?」
一人も会わなかった理由は、とジョミー君は不安そうな顔。
「もしも運なら、今日のぼくって大吉なのか、大凶か、どっち?」
「知るか、お前の運勢なんか」
俺は占い師じゃないからな、とキース君。
「第一、どうして大吉と大凶の二択になるんだ、もっと他にもあるだろうが」
「…一人も会わなかったわけだし、凄い吉なのか凄い凶かと思ったんだけど…」
「とことん極端なヤツだな、お前」
おみくじでももっと奥が深いぞ、とキース君は呆れた顔で。
「おみくじを置く寺も多いからなあ、俺の家にも見本のカタログが来るわけだ。置きませんかと」
「へえ…! それって面白そうですね!」
キース先輩の家におみくじ、とシロエ君が食い付きました。
「置いてみませんか、除夜の鐘とかの時に引きますから!」
「駄目だな、おみくじってヤツは普段から順調に出てこそだからな」
宿坊のお客様だけでは心許ない、とキース君。
「毎日のように団体様のお参りがあるとか、観光名所の寺だとか。そういう寺なら置いた甲斐もあるが、ウチでは手間が増えるだけだな」
だから置かない、と前置きしてから。
「そのカタログで見ていると、だ…。とんでもない運勢があったりするしな」
「どんなのですか?」
今日のジョミー先輩にピッタリですか、とシロエ君が訊くと。
「ピッタリかどうかは分からんが…。凶のち大吉、という凄いのがあった」
「「「凶のち大吉!?」」」
なんですか、その天気予報みたいなおみくじは? 本気でそういうおみくじがあると?
「あるらしいぞ。この近辺で採用している場所だとあそこだ、南の方のお稲荷さんだ」
「「「えーーー!!!」」」
そんなカッ飛んだおみくじを置いていますか、あそこのお稲荷さん。ちょっと引きたい気もしますけれど、凶のち大吉ならともかく、その逆だったら大変ですし…。
「おみくじは遊びじゃないからな。今日のジョミーの運勢は知らん」
フィシスさんにでも訊いてこい、とキース君が切り捨て、後は普段の雑談に。先生に会ったか会わないかなんて、別に占いにもなりませんってば…。



朝の雑談、話はあっちへ、こっちへと。とはいえ、ジョミー君が振ったネタは健在で。
「店だと、最初の客が女性なら吉だと聞くな」
キース君が何処かで聞いて来た話。店を開けて最初に入って来たお客が女性だったら、その日は儲かると言うんだそうです。けっこう有名な話だそうで…。
「それって、男の人しか行かない店でも?」
ジョミー君の質問に、キース君は「馬鹿か」と一言。
「状況に合わせて考えろ! そんな調子だから、男の先生に会わなかった程度で変だの何だの言い出すんだ」
「そうですよ。ジョミー先輩、気にしすぎですよ、偶然ですって」
でも…、とシロエ君が顎に手を当てて。
「最初のお客さん絡みのネタなら、ぼくも聞いたことがありますね。…何処のお店かは忘れましたが、中華料理のお店の話で」
「どんなのだよ?」
面白いのかよ、とサム君が反応。シロエ君は「そうですねえ…」と。
「お店にしてみれば、あまり嬉しくはないんでしょうが…。無関係な人には面白いですね」
「ほほう…。どういうネタだ?」
俺も気になる、とキース君が尋ねて、私たちも。シロエ君は「炒飯ですよ」とニッコリと。
「最初のお客さんが炒飯を注文しちゃうと、その日は儲からないんだそうです」
「「「へええ…!」」」
それは面白い、と思いました。そのお店で開店の前から待って注文したいくらいです。もちろん炒飯、それから居座ってどうなりそうかと見届けるとか…。
「ね、そういう気持ちになるでしょう? だからお店には嬉しくない、と言ったんです」
「なるほどな…。そうなってくると、今日のジョミーはどうなんだろうな」
何かあるかもしれないな、とキース君。
「お前、やっぱり、フィシスさんの所へ行って来い。お前の今後に興味がある」
「嫌だよ、ネタにされるのは!」
ぼくはオモチャじゃないんだから、とジョミー君は拒否しましたけれども、俄然、知りたくなってしまった私たち。フィシスさんの所へ行く、行かないと騒いでいたら…。
「静粛に!」
嘆かわしい、と飛んで来たグレイブ先生の声。いつの間に来ていたんですか~!



予鈴が鳴ったのには気付いていました。でもでも、グレイブ先生の足音は独特、軍人さんみたいにカツカツと靴の踵を鳴らしてやって来るだけに、それを合図に静かになるのがお約束。そのカツカツが聞こえなかった、と声の方を振り向いてビックリ仰天、クラスメイトも全員、目が点。
「諸君、おはよう」
君たちの日頃の生活態度が良く分かった、とグレイブ先生は顰めっ面で。
「要するにアレだ、私の足音が猫の首の鈴というわけだな。聞こえてから黙れば叱られずに済む、そういう態度だと思っていいかね?」
「「「………」」」
誰も反論出来ませんでした。グレイブ先生の言葉は正しく、靴音が合図だったのですから。不意を突かれたショックも大きいですけど、それ以上に…。
「私の格好がどうかしたかね、これがそんなに気になるのかね?」
それではこの先どうするつもりだ、と厳しい視線がクラスをグルリと。眼鏡の向こうの眼光は鋭く、いつも通りのグレイブ先生なのですが…。
「諸君の無駄口を減らすためにも、此処で説明しておこう。…イメチェンだ」
「「「イメチェン?」」」
それはいったい…、とオウム返しに見事にハモッたイメチェンなる言葉。グレイブ先生はツイと眼鏡を押し上げて。
「イメチェンという言葉を諸君が知らないとまでは思わないがね? イメチェン、すなわちイメージチェンジ。イメージを変えようという意味なのだが?」
こうだ、と黒板にチョークで大きく「イメチェン」の文字。すると本気でイメチェンですか?
「もちろん、私個人の趣味ではない。神聖なる職場で個人の趣味には走れないものだ」
これは学校の方針なのだ、とグレイブ先生はイメチェンの文字を指差しました。
「諸君も知っての通りだと思うが、間もなく入試のシーズンだ。下見の生徒もそろそろやって来ることだろう。本校は授業をしている間も、見学者を広く受け入れている」
教室にまでは入らせないが、という話。この学校がそういう姿勢で下見の生徒を受け入れることは知っています。私だって下見に来た日は平日、普通に授業をやってる日でした。授業中の教室は外から覗くだけにして、あちこち自由に歩いて回って…。
そうそう、あの日に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に最初に入ったんです、生徒会室から迷い込んじゃって。凄く立派なお部屋だっただけに、大金持ちの特待生用のお部屋なのかと思いましたっけ、あのお部屋。それが今では溜まり場ですけど…。



下見に来た頃にはいろんなことが…、と懐かしく思い出しました。試験本番の日にも色々、会長さんとバッタリ出会って合格グッズを買わないか、と持ち掛けられたり、買わずに滑ってしまったり。不合格になってしまったというのに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に助けて貰って…。
補欠合格だったことやら、それに至るまでの苦労なんかや、頭の中は走馬灯。でも…。
「いいかね、イメージが大切なのだよ。イメージが」
イメージだ、と繰り返すグレイブ先生から目が離せません。クラス中の視線がグレイブ先生の方へと釘付け状態、余所見をする人は誰もいなくて。
「本校の売りは、自由な校風だと諸君も知っているだろう。しかし、我が校を見に来ただけでは、その校風を体験できるチャンスは非常に少ない」
特に授業の時間ともなれば…、と言われてみればその通り。生徒は授業を聞いていますし、先生の方は教えているだけ。何処が自由なのかはサッパリ分からず、他の学校と似たり寄ったり。
下見に来た時の私にしたって、「この学校に決めた」と思った理由は下見した印象ではなかった筈です。それまでに聞いた噂や情報、そういったもので選んだ筈で…。
「諸君も下見でこの学校に決めたわけではないだろう。そういう生徒も中にはいる。しかし多くは事前の情報などで選んでいるわけで…。それでは下見の値打ちが少ない」
もっと幅広く生徒を獲得したいのだ、とグレイブ先生は黒板のイメチェンの文字をチョークで丸く囲みました。
「何の気なしに寄ってみただけ、という下見の生徒もガッチリと掴む。配布している願書を手にして帰って貰う。…そのためのイメージチェンジなのだよ、諸君」
この姿を見れば自由な校風の端っこくらいは掴めるだろう、とグレイブ先生。首から上はいつものグレイブ先生でしたが、下が問題。キッチリ着込んだスーツの代わりに紺色の着物、いわゆる和服というヤツです。男物のそれをビシッと着こなし、羽織までが。
着物に靴だと似合わないだけに、足元は足袋と草履でした。これでは足音がカツカツと高く鳴るわけもなくて、ペッタペッタと鳴っていたのか、はたまたズッズッと摺り足だったか。何にしたって静かにするための合図は聞こえず、叱られる羽目に陥ったわけで…。
「今日から当分、授業の際には着物となる。他の先生方も着物で授業をなさるわけだし、いちいち驚かないように。平常心で臨みたまえ」
「「「………」」」
平常心だ、と念を押されても、これが冷静でいられるでしょうか? 先生方が揃ってイメチェンだなんて、どう考えても話題沸騰だと思うんですけど~!



入試を控えて先生方が打ち出したイメチェン、着物作戦。下見に来た生徒のハートを掴むためには有効でしょうが、既に通っている生徒からすればお笑いネタかもしれません。女の先生だと、バラエティー豊かに華やかに着こなしておられそうですが…。
「我々のイメチェン計画だがね。…イメチェンは男子教員のみだ」
「「「へ?」」」
何故に男の先生だけか、と思ったら。
「女性が着物を着るとなったら、何かと手間がかかってしまう。着付けもそうだが、ヘアスタイルも普段のままでは似合わない先生も多いのだからな」
「「「あー…」」」
なるほど、と私たちは揃って納得。ミシェル先生なら髪飾りでもつければパーフェクトですし、飾りは無しでもいいでしょう。けれどロングヘアのエラ先生だと結い上げなくてはいけないわけで、ブラウ先生などはドレッドヘアだけに、どうすればいいのか謎な髪型。
「ついでに、女性が着物となったら華美な方へと走りがちだ。それではファッションショーになってしまう、と男子教員のみのイメチェンとなった」
女性教師は普段通りだ、とグレイブ先生はイメチェン計画の全貌を話して、「なお」と追加で。
「体育の先生も気になるだろうが、そちらは作務衣だ」
「「「作務衣!?」」」
作務衣ってアレですか、お坊さんの普段着と言うか作業服と言うか…。たまに元老寺でキース君が着てたりしますが、それを体育の先生が…?
「作務衣は動きやすく出来ているそうだ、お坊さんはアレを着て大工仕事や山仕事などもするらしい。イメチェン計画が出た当初には、柔道などの道着という案もあったのだがね…」
それではサッカーなどの授業でイメージが狂う、とグレイブ先生。指導内容と噛み合わない服で教えていたのでは何が何だか、下見の生徒も混乱するだろうと選ばれた作務衣。
「そういうわけで、シャングリラ学園の男子教員は今日から着物だ。朝のホームルームの前の時間に礼法室で揃って着替えというわけだ」
私も其処で着付けをした、と聞いた途端にピンと来ました、ジョミー君がさっきしていた話。男の先生に会わなかった、という事件の裏には着替えタイムがあったのです。男の先生は礼法室で着替えをしていて、ジョミー君とは出会わず仕舞いで…。
「では、諸君。今日も一日、真面目に授業を受けるように」
出欠を取る、と出席簿が開かれ、いつもの朝のホームルームが形だけは戻って来ましたが…。なんだか気分が落ち着かないです、お正月に逆戻りしちゃったような…?



グレイブ先生がホームルームを終えて出て行った後は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまいました。なにしろイメチェン、男の先生がもれなく着物だと言うのですから。クラスメイトも騒いでますけど、私たちだって。
「すげえな、ジョミー! お前のカンって凄かったのな!」
見直したぜ、とサム君がジョミー君の背中をバンバン叩いて、キース君も。
「…すまない、適当に聞き流していて悪かった。お前の運勢とはまるで違っていたようだ」
「ほらね、だから変だって言ったのに…。雰囲気がさ」
ぼくだって一応、タイプ・ブルー、と言いかけたジョミー君にシロエ君が鋭くシッ! と。
「その話、此処ではタブーですよ。周りは一般生徒ですから」
「ご、ごめん…。でもさ。ぼくのカンだって当たる時には当たるんだよ」
「そのようだな。…しかし、イメチェンとは…」
思い切ったことを、とキース君。
「この学校らしいと言えばそうだが、着物姿を売りにして来たか…」
「そんな学校、確かに何処にも無さそうだわねえ…」
遊んでるわね、とスウェナちゃん。
「先生方だって遊びたいのよ、それでイメチェンしちゃっているのよ」
「着物で済んだだけマシだったかもしれないなあ…」
下手をしたらハロウィンもどきになっていたかもな、というキース君の意見に「うん」と頷く私たち。遊び心溢れる学校なだけに、そういうチョイスも有り得ます。そっちだったら女の先生も全員仮装で、魔女やら妖精やらが校内を闊歩していたわけで…。
「…遊び過ぎないために着物なのかもね」
ジョミー君が呟き、シロエ君が。
「恐らく、そんなトコでしょう。ウチの学校、ノリの良さではピカイチですから」
何処と比べても負けません、というシロエ君の読みは大当たりでした。授業が始まってから分かった真実、着物なるものの奥の深さと先生方のノリの良さ。
「…裃も着物の内だしな…」
「何処の御老公だよ、ってスタイルも着物には違いないよな…」
ゼル先生にはハマり過ぎだぜ、と大ウケしていた御老公スタイル、杖をつきつつ教室に入るなり、「この紋所が目に入らぬか!」と突き付けられたシャングリラ学園の紋章入りの立派な印籠。裃で来たのはヒルマン先生、どっちも確かに着物ですけどね…。



昼休みの校内はイメチェンの話題で盛り上がっていて、教室も食堂もワイワイガヤガヤ。私たちは午後の授業に備えて情報収集、古典の時間に教頭先生が来る筈です。
「…教頭先生、八丁堀だって?」
そういう噂が、とジョミー君。食堂でのランチタイムが終わって教室に戻って来たんですけど…。
「なんだよ、八丁堀ってよ?」
何処のお堀だよ、とサム君が返すと、ジョミー君は。
「…何だったかなあ、なんかそういう…。ショボイ役人だって噂で」
「俺も聞いたな、奥さんと姑に頭が上がらない小役人のスタイルでいらっしゃるとか」
ずっと昔に大流行りした時代劇らしい、とキース君。
「確か必殺仕事人だ。親父が好きで再放送を何度も見ているからなあ、あれの主役のことだろう」
通称が八丁堀だった筈、というキース君の解説で思い出しました。噂に高い必殺シリーズ、それのしがない同心だった、と。それじゃ刀も差してますかね、教頭先生?
「それがさ…。刀は持っていないらしくて、余計にショボイって」
だけどガタイはいいから別物らしい、とジョミー君が集めて来た情報を披露しました。着ている着物と役どころはショボくても、教頭先生の立派なガタイで格好良く見えるらしいのだ、と。
「「「へえ…」」」
それは楽しみ、と迎えた古典の授業。チャイムが鳴って、ワクワクと前の扉に注目していたのですが、カラリと開いたのは後ろの扉で。
「「「え?」」」
なんで先生が後ろから…、とクラス全員が振り返ったら。
「御免下さいませ、ウィリアム・ハーレイでございます」
腰の低すぎる挨拶と自己紹介の言葉。そういえばこういうキャラでしたっけ、八丁堀。ガタイが良すぎて別物だとしか思えませんけど、着物は本当に八丁堀スタイル、ただし刀無し。
教頭先生は八丁堀よろしく教室の脇をスタスタと歩いて教卓まで行くと、教科書を広げて。
「授業を始める。…居眠りした生徒は切って捨てるから、心して授業を聞くように」
「質問でーす!」
男子の一人が手を挙げました。
「刀が無いのに、どうやって切って捨てるんですか、ハーレイ先生!」
「それはもちろん、成績の方だ。切り捨て御免だ、満点を取ろうが評価はしない」
「「「うわー…」」」
ヤバイ、と真っ青、1年A組。満点が通用しないとなったらヤバすぎですって、八丁堀…。



試験勉強なんかはせずとも、全科目で満点を取れると噂の1年A組。何かと言えば混ざって来たがる会長さんのお蔭です。表向きは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーとなっていますが、実の所は会長さんのサイオンが成せる業。
定期試験の度にクラスに混ざって試験を受けつつ、問題の答えをクラスメイトの意識の下へと送り込むという凄い技です。これさえあれば誰でも満点、勉強なんかは何もしなくても百点が取れて、成績だって最高の評価がつくんですけど。
その満点を評価しない、と言われてしまえば文字通りの切り捨て、バッサリ切られて成績表には見るも無残な評価がついてしまうでしょう。
「…誰だよ、イメチェンなんかを言い出したのはよ…」
居眠りしたら終わりじゃないかよ、と誰かがぼやいて、教頭先生が「ふむ」と。
「何か聞こえて来たようだが…。切り捨てていいか?」
「「「い、いいえ!」」」
困ります! とクラス中が声を揃えました。木の葉を隠すなら森の中。誰が言ったか分からなければ無問題だ、と思ったのに。
「…ほほう、困る、と…」
この辺りから聞こえたのだが、と教卓を離れた教頭先生。机の間の通路をスタスタ、ぼやいた生徒の持ち物らしい机を指でトントンと。
「いいか、私は仕事人ということになっているからな。諸君の年では知らない生徒も多いと思うが、殺しを請け負う凄腕の剣客と言えば分かるか?」
「「「は、はいっ!」」」
教室中の生徒の背筋がピシイッと伸びて、教頭先生が「よし」と腕組み。
「私は柔道十段だ。気配に敏いし、仕事人並みに勘が冴えていると言っていいだろう。試験でなくても、遠慮なく切る。この役どころをしている内はな」
私を敵に回さないように、と八丁堀、いえ、教頭先生はスタスタと教卓に戻ってゆくと。
「朝のホームルームでイメチェンの話は諸君も聞いているだろう。イメチェンするからには徹底的に、というのが私の信条だ。切られたくなければ頑張ることだ」
居眠りはその場で切り捨てる、と怖い台詞が。居眠りでなくとも授業中に御機嫌を損ねてしまえば叩き切られてしまう結末、成績表には強烈な評価。
(((ヤバすぎる…)))
死ぬ、と1年A組、顔面蒼白。未だかつてない強敵登場、切り捨て御免の仕事人では誰も太刀打ち出来ませんってば~!



クラス中を恐怖の坩堝に叩き込んでくれた教頭先生は、授業が終わると悠然と去ってゆきました。来た時と同じに後ろの扉から、コソコソと本物の仕事人のように。
「…ヤバイぜ、イメチェン、いつまでなんだよ…!」
俺って切られていねえよな、と机を叩かれた男子生徒が震え上がって、他のクラスメイトもザワザワと。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーでも仕事人には勝てないのか、と。
「なあ、どうなんだよ、何か方法ねえのかよ!?」
切られたら終わりらしいけど、と縋るような目で見られた私たち。あの仕事人をどうにかしてくれと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーで、と。
「えーっと…。ぶるぅが出て来てくれないと…。でなきゃ、ブルーか」
どっちか必要、とジョミー君が返して、キース君も。
「すまん、俺たちでは手も足も出せん。…不思議パワーは管轄外だ」
「そこを何とか…! 俺、マジで切られそうだったから!」
机を叩かれた男子が土下座で、他の生徒も口々に「頼む」と言い出しましたが、会長さんがクラスのみんなに約束したのは百点満点、他は約束していません。テストの他にも一位を取らせると公言してはいるのですけど、成績の切り捨てなんかは一度も無かったことですし…。
「…どうしようもないよね、ぼくたちだけじゃあ?」
ジョミー君が私たちを見回し、シロエ君も。
「ええ。ぼくたちの手に負えないことだけは確かですね」
「それじゃ、なんとか頼んでくれよ! 生徒会長と、そるじゃぁ・ぶるぅに!」
俺、このままだと確実に死ぬから、と土下座の男子生徒が床に額を擦り付け、他の生徒も首をコクコク。土下座男子はクラスのムードメーカーなだけに、彼が切られたら教室がお通夜ムードになるのは確実です。ムードメーカー、すなわち少々、言葉が多め。
「…俺、絶対にまた何か言うから! 余計なことを!」
普段だったら笑って流して貰えるけれども仕事人じゃあ…、と土下座する男子。どういう基準で教頭先生が切るか分からず、切られたら最後、成績表が無残なことに…。
「…どうするよ? 俺たちじゃ役に立たねえけどよ…」
サム君が改めて言うまでもなく、何の力も無い私たち。けれど、このまま放置も出来ず…。
「ブルーに相談するしかないな…。それと、ぶるぅに」
キース君がフウと溜息をついて、私たちは放課後、終礼が終わると同時に「頑張ってくれ」とクラス全員の期待を背負って送り出されました。仕事人対策、会長さんは持ってますかねえ…?



「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かう途中にも出会ったイメチェン中の先生たち。印籠を持った御老公姿のゼル先生には「お供を募集中なんじゃ」と声を掛けられ、バイトしないかと美味しい話が男子たちに。
成績も出欠も問われない特別生ならではのアルバイトだと、毎日登校するだけに有望株だと殆ど名指しのスカウトでしたが、キース君たちは。
「すみません、今、急いでいるので…」
「ほう? 時給は相場より高く出すんじゃが、バイトせんのか?」
「特別生は他にもいますから! 数学同好会の部室に行けば誰かがたむろっています」
パスカルだとかボナールだとか、とキース君が言い抜け、シロエ君も。
「セットもので二人の募集でしたら、B組のセルジュ先輩も有望です! 相棒がいます!」
「ふうむ…。欠席大王のジルベールがバイトをしてくれるかのう…?」
「セルジュ先輩とセットなら希望があります、あの二人だったら目立ちますよ!」
ぼくたちなんかより華があります、とシロエ君も必死の言い逃れ。ここで捕まってバイト契約をしているどころではなく、仕事人対策をしなくては…!
「華と来たか…。確かにそうじゃのう、引き立て役は華があるほどいいからのう…」
わしも目立つし、とゼル先生は私たちのグループの男子を放って数学同好会の部室の方へと向かいました。運が良ければジルベールが其処で捕まるでしょうし、ジルベール抜きでもセルジュ君は部室にいる筈ですから、バイトを頼めばいいわけですし…。
「…バイト、楽しそうで儲かりそうなんだけどね…」
ジョミー君が名残惜しげにチラリと振り返り、サム君も。
「悪くねえんだよなあ、御老公のお供で教室を回って印籠を出せばいいんだからよ」
それで時給があれだけかあ…、と残念な気持ちは男子の誰もが抱いていたと思います。しかし、私たちには重大な使命というヤツがあって、1年A組のみんなのためにも先を急ぐしかありません。バイトで儲ける話が如何に美味しくても、クラスメイトが優先ですって…!



かくして駆け込んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でしたが、出迎えてくれた「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんは呑気なもので。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
「やあ、イメチェンとやらも面白そうだね」
ゆっくり羽を伸ばして行ってよ、と会長さんが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がバナナと黒糖クリームのティラミスとやらのタルトを出してくれました。飲み物の注文も取ってくれましたが、今はおやつよりも用件が先で。
「あんた、此処から見てたんだったら、俺たちのクラスを何とかしてくれ!」
このままではお先真っ暗だ、とキース君が単刀直入に。
「教頭先生が仕事人モードになっているんだ、一人切られるトコだったんだ…!」
「ああ、あれねえ…。他のクラスとか学年でも切っていたねえ、ハーレイ」
「「「ええっ!?」」」
既に被害者が出ていたんですか、切り捨て御免の仕事人。とはいえ初日のことなんですから、まさか本当に切り捨てられてはいないと思うんですけれど…。
「甘いね、君たちのクラスは居眠っていたというわけじゃないから死んでないだけで…」
他のクラスではバッサリ切られた、と会長さんは証言しました。教頭先生が授業の時に持ってくる生徒の名前が書かれた帳面、それに「済み」のマークが書かれているとか。
「「「…済み…?」」」
「そう。切り捨てました、という印だよ。仕事は終わった、と」
「じゃ、じゃあ…。それを書かれたら、成績は…」
どうなっちゃうの、というジョミー君の問いに、会長さんはアッサリと。
「そりゃあ、最低最悪ってね。幸い、学年末だから…。一学期と二学期の分も合わせて成績がつくから、それまでの成績が良かった場合は1ってことにはならないけどねえ…」
「「「…1…」」」
つまり本当に最低なのか、と仕事人の怖さを思い知りました。私たちのクラスの土下座男子は今日の所は無事だったようですが、明日以降は…。
「うん、切られたら終わりということだね。彼に限らず、クラスの誰でも」
「お、おい! あんた、俺たちのクラスをフォローしてくれるんじゃなかったのか!」
キース君が食い下がりましたが、会長さんは。
「個人的なフォローはやっていないよ、考えてみたまえ、今日までのことを」
あくまで1年A組のみ、と言われて思えばその通り。1年A組、終わりましたか…?



個人的なフォローはしていない、と断言されてしまった以上は、どうすることも出来ません。仕事人と化した教頭先生、居眠った生徒を端からバッサリ。定期試験が何もしなくても満点なだけに、居眠る生徒は日頃から多いわけですし…。
「やむを得ん。俺たちで居眠る前に起こすか?」
キース君が提案しましたけれども、ピンポイントで送れる思念波、一般人向けに使えるレベルになっていません。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるで、全員でやれば効くかもですけど…。
「…居眠りそうなのを見付けたら思念波で合図してですね…」
それから「せーの」で起こしましょう、とシロエ君が呼び掛けましたが、相手は必殺仕事人。私たちが連絡を取り合っている間に居眠りに気付いてバッサリなのでは…。
「そ、そっか…。時間が足りないか…」
ジョミー君が唸って、サム君も。
「思念波で気付かれるってことだってあるぜ、誰か居眠ってるみたいだな、って」
「「「うわー…」」」
これぞ藪蛇、そういう恐れも充分あります。いくら教頭先生が仕事人でも、黒板にせっせと書いてる間は気付かない可能性もゼロではなくて…。
「ど、どうしよう…?」
「諦めて切られて貰うしかないか…?」
ブルーが乗り気でない以上はな、とキース君が肩を落とした所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と翻った紫のマント。ソルジャーが来たみたいですけど、この人こそ何の役にも立ちはしないな、と思っていたら。
「なんかハーレイ、イメチェンだって?」
普段と雰囲気が全然違うね、とソルジャーがタルトを頬張って。
「コソコソと出入りするのはともかく、居眠った生徒を端からバッサリ! 柔道十段はダテじゃないねえ、惚れ惚れとしちゃう仕事ぶりだよ!」
あの着物姿に思わず惚れそう、とズレているのがソルジャーの視点。そのバッサリが困るんですってば、切り捨てられたら成績がアウトなんですから…。
「えーっ? あのハーレイ、カッコイイけどなあ…」
ずっとイメチェンしてればいいのに、とソルジャーならではの迷惑発言。イメチェンが早く終わってくれないと、1年A組、古典の成績が最悪なことになる被害者続発なんですが…!



「困るだなんて…。ぼくはハーレイのカッコ良さに見惚れているのにさ…」
仕事人なハーレイだったら嫁に行ってもいいくらい、とズレまくっている異世界からのお客様。会長さんはフォローしないと言い切りましたし、諦めるしかないのでしょうか?
「いいじゃないか、別に。君たちの成績が下がるわけでなし」
あのハーレイは実にカッコイイから、とソルジャーは「嫁に行きたい」を連呼。とっくに結婚しているくせに嫁に行くも何も…、とブツブツ言っていた私たちですが。
「待てよ、あいつが嫁に行くなら使えるぞ」
キース君が妙な発言を。
「使えるって?」
何に、とジョミー君が尋ねると、キース君は。
「…仕事人の弱みは嫁だった筈だ。嫁と姑の最強コンビで毎回、話が終わる仕組みだ」
「「「へ?」」」
そうだったっけ、と乏しい知識を総動員して、キース君の話も聞いてみたらば、必殺シリーズの王道がソレ。大トリを飾る仕事を果たした八丁堀が家に帰ると、嫁と姑にコケにされた挙句、仕事で儲けた報酬までをも掻っ攫われるというシナリオで…。
「姑が足りない気がしないでもないが、この際、嫁だけでいいだろう。あいつが押し掛けて仕事の報酬を寄越せとゴネれば、懲りて仕事をしなくなる……かもしれない」
あくまで希望的観測なんだが…、とキース君がソルジャーを眺めて、ソルジャーが。
「…ぼくが鬼嫁? あのハーレイの?」
「あんた、とりあえず、惚れたんだろうが! だったら、嫁に行ってくれ!」
ついでに婿をいびってくれ、と無茶な注文、無理すぎる頼み。そんな仕事を頼んじゃったら、私たちがソルジャー相手に仕事の報酬を支払う羽目になりそうですが…。
「いいよ、タダ働きになっちゃっても。…仕事の成果を取り上げちゃったらいいんだろう?」
済みのマークを消してしまえばいいんだよね、とソルジャーがニコリ。
「でもねえ…。カッコイイ姿も見ていたいから、1年A組限定でどう?」
「有難い! もしかして、サイオンでやってくれるのか?」
帳面に細工をしてくれるのか、とキース君が確認をすると、ソルジャーは。
「そうじゃなくって、必殺シリーズの王道ってヤツ! どんなものかは分かったから!」
そっちのコースで楽しくやるよ、とソルジャーはウキウキしています。詳しくは今夜の中継で、なんて言ってますけど、いったい何をやらかすんでしょう…?



その夜、私たちは会長さんの家で夕食を御馳走になることに。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から揃って瞬間移動で、ソルジャーも一緒に寄せ鍋パーティー。それが終わると、ソルジャーが「行ってくるね」と姿を消して、壁に現れた中継画面。その向こうでは…。
「こんばんは、ハーレイ」
教頭先生の家のリビングにソルジャーがパッと現れ、ニコッと笑って。
「えーっと、婿殿、だったっけ? …仕事人のお嫁さんの台詞は」
「…は? え、ああ…。まあ、そうですが」
仕事人がどうかしましたか、と怪訝そうな教頭先生はとっくに私服。ソルジャーは笑顔で近付いてゆくと。
「婿殿、イメチェンしてる間の仕事だけどねえ…。1年A組の分だけ、済みのマークは無効にしておいてくれるかな?」
そのマークはぼくが貰うから、と艶やかな笑みが。
「婿殿の報酬は奪ってなんぼで、だけどカッコイイ君だって見たい。1年A組につけた済みのマークをぼくが奪って、君はせっせと仕事をするんだ。バッサバッサと切り捨て御免で」
1年A組の分の報酬をぼくにくれるなら…、とソルジャーが教頭先生の首に両腕を回して、頬にチュッとキスを。教頭先生は耳まで真っ赤になりましたけれど。
「ね? 悪い取り引きじゃないだろう? 婿殿のためには毎晩、こういうキスをあげるから」
代わりに1年A組の分の済みのマークを寄越すように、というソルジャーの提案、教頭先生はその場でオッケーしてしまいました。更に…。
「そのぅ…。仕事をもっと頑張った時は、キスが増えるとか、そういうのは…」
無いのでしょうか、と欲張りな台詞。ソルジャーは「いいよ」と即答で。
「ぼくは仕事人姿に惚れたんだ。イメチェン期間中、君のカッコ良さを山ほど見られるんなら、いくらでも! 頬っぺたどころか本気のキスでもプレゼントしたいくらいだよ!」
ねえ、婿殿? と悩殺の微笑み、教頭先生、もうフニャフニャで。
「が、頑張ります…! 1年A組でも切って切りまくります!」
「いいねえ、そこでゲットした済みのマークをぼくが奪うということで…!」
イメチェン万歳! とソルジャーがブチ上げ、教頭先生も仕事人に徹する決意を固めて…。



「え、マジかよ!? 俺たち、切られても無効だって!?」
次の日、例の土下座男子が躍り上がって、1年A組に溢れる大歓声。イメチェンで仕事人と化した教頭先生がいくら切ろうが、1年A組だけは成績に響かないということになったのですから。
「すげえな、やっぱ、そるじゃぁ・ぶるぅの力は思い切り効くんだなあ…!」
「頼みに行って貰った甲斐があったよな、そるじゃぁ・ぶるぅに御礼、よろしくな!」
「「「う、うん…」」」
今回は「そるじゃぁ・ぶるぅ」は全く関係ないんだけれど、という裏事情は決して言えはしなくて、ソルジャーならぬ「そるじゃぁ・ぶるぅ」の株がググンと上がりました。二時間目にあった古典の授業は、いつも通りに居眠りの生徒が続発で…。
「御免下さいませ。ハーレイでございます」
机の側まで出掛けて行っての、この台詞。言われたら切られてしまうわけですが、切られたマークを書かれた所で無効なのだと知っているのが1年A組、眠りまくりの切られまくりで。
『うん、カッコイイねえ…』
惚れ惚れするねえ、と思念波が届き、何事かと思えばソルジャーが教室の後ろに立っていました。私たちにだけ姿が見えるよう、シールドを張って。
『現場を見ちゃうと一層惚れるよ、こっちのハーレイの意外な魅力を発見だよ…!』
ずうっとイメチェンしてて欲しいくらい、とウットリしているソルジャーの思考はサッパリ謎で分かりません。けれども、お蔭で1年A組、切られても無事に済むわけですし…。
(((あそこの馬鹿は放っておこう…)))
蓼食う虫も好き好きなんだ、と私たちはソルジャーを放置することに決めました。教頭先生は家へ帰ればソルジャーに「婿殿」とキスが貰えて万々歳。もっと仕事を頑張ろう、と居眠る生徒を切りまくりですが、他のクラスの学年末の成績表は…。
「どうなるんだろう?」
「…俺たちには関係無いからな…」
居眠るヤツらが悪いんだ、とキース君。イメチェン期間はまだ続きます。入試直前まで続きますから、今日も必殺仕事人。ゼル先生のお供はセルジュ君とジルベールですし、シャングリラ学園のイメチェン作戦、下見の生徒にウケますように~!




             変えたい印象・了


※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 男の先生が全員、着物でイメチェン、そういう計画。シャングリラ学園ならではです。
 仕事人な教頭先生の切り捨て御免が怖いですけど、ソルジャーが役に立ったというお話。
 次回は 「第3月曜」 10月19日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、9月といえば秋のお彼岸シーズン。はてさて、今年は…?
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv










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「おーい、ブルー!」
(えっ?)
 いきなり呼ばれて、ギョッとしたブルー。大きな声で叫んで駆けて来る友達。グラウンドの側に立っていた時、意外な方から。周りに生徒は大勢いるのに、友達は真っ直ぐ走って来て。
「何してんだよ、こんな所で?」
 先に行くね、って言っていたから、教室の方か、図書室なんだと思ってたのにさ…。
 なんでグラウンドの方なんかに、と訊かれたけれど。
「えーっと…」
 どう答えようかと泳がせた視線、友達は直ぐに気付いたらしい。人が大勢いる理由にも。
「ああ、ハーレイ先生な!」
 カッコいいよなあ、ハーレイ先生。柔道と水泳だけじゃないんだよなあ、なんでも出来て。
 うっわー、今の見たかよ、ブルー!?
 あんなトコからロングパスだぜ、しかも囲まれていたのによ…!
 すげえ、と興奮している友達。もちろん周りの生徒たちだって、歓声を上げて大騒ぎ。昼休みにグラウンドでサッカーに興じているハーレイ。サッカー部の生徒に誘われてプレー中らしい。
 食堂でランチを食べていた時、聞こえて来たハーレイの名前とサッカーの話。もう始まるから、急いで見物に行かなくては、と。
 思わず耳を澄ませてしまったハーレイの名前。ウサギだったら、長い耳がピンと立っただろう。幸い、耳が立ちはしないから、ランチ仲間は気付かなかった。ハーレイの名にも、サッカー見物に行くと話した生徒の声にも。
 見たい、と思ったハーレイのサッカー。それも誰にも邪魔をされずに、ワクワク心を躍らせて。感想を話し合ったりしないで、ハーレイの姿だけを見詰めて。
 ランチ仲間が気付かなかったのは好都合だ、と考えた。彼らも話を聞いていたなら、見に行くに決まっているのだから。
 「お前も行くだろ?」と肩を叩かれて、みんな揃ってゾロゾロと移動。グラウンドに着いたら、たちまち始まる賑やかな会話、ハーレイだけを見てはいられない。視線は逸らさずに済んだって。グラウンドをじっと見ていられたって、生返事することは出来ないから。



 切れてしまうだろう集中力。友達の会話を聞き逃すまいと、生返事をしてしまわないよう、と。
 ハーレイの姿に夢中になれないサッカー見物。そうならないよう、ランチ仲間と別れて行こうと決めたグラウンド。一人の方がきっと素敵で、ハーレイのプレーに酔えるだろうから。
 そう思ったから、「先に行くね」と出て来た食堂。何気ないふりを装ってトレイを返して、まだ座っているランチ仲間に手を振って。行き先は教室でも図書室でもなくて、グラウンド。
 もう始まっていたサッカーの試合、山と溢れる見物人。噂を聞き付けて一人、また一人と増える観客、ハーレイの腕と人気が凄いという証拠。
 頬を紅潮させて見ていた試合。ハーレイが決める見事なシュートや、サッカー部の主将たちでも手も足も出ない巧みなドリブル。この腕だからこそ誘われたのだ、と誰が見ても分かる。
 本当に凄い、と見入っていた所で、「おーい、ブルー!」と呼ばれてしまった。別れて来た筈のランチ仲間たちに発見されて。
(バレちゃった…)
 サッカー見物に来ていたこと。たちまちランチ仲間に囲まれ、一緒に見るしかなくなった。先に心配していた通りに、自分に向かって掛けられる声。
 皆、ハーレイを褒め称えるから、それは嬉しいのだけれど。あれこれ感想を話しながらの見物も楽しいものだけれども、ほんのちょっぴり、残念な気分。「一人で見ていたかったのに」と。
 ハーレイはプレー中に気付いて、自分に向かって手を振ってくれた。余裕たっぷりのハーレイの姿に、またも上がった大きな歓声。ボールを追いつつ、観客の方へと手を振るのだから。
 そのハーレイは、友達の声で自分に気付いてくれたのだけれど。
 「おーい、ブルー!」と呼びながら駆けて来たランチ仲間がいなかったならば、きっと気付いてくれないままで終わっただろうと思うのだけれど…。
(手なんか、振ってくれなくていいから…)
 ゆっくり眺めていたかった。他の生徒の中に混じって、ハーレイだけを。友達との会話に時間を割かずに、集中力を持って行かれずに。
 ハーレイがボールを操る姿を、誰にも邪魔をされることなく。



 その内に鳴ってしまったチャイム。昼休みが終わる時間が近い、と知らせる予鈴。それを合図に終わってしまったサッカーの試合。ハーレイが「今日はここまで」とボールを手にして。
 試合を終えたハーレイはサッカー部の生徒たちのもので、彼らと一緒に去ってゆくから。やがて授業も始まるのだから、夢の時間はこれでおしまい。心が躍ったサッカー見物。
 校舎の方へと歩く途中も、ランチ仲間たちはハーレイのプレーに感動しきりで、興奮していて。
「お前、いいよな…。あんな中で手まで振って貰えて」
 あれって、お前に振ってたんだろ、名前は呼んでなかったけど。
 ドリブルしていた最中なんだぜ、余裕だよなあ…。俺がやったら、ボールは消えるぜ。
「うんうん、俺でも取られて終わりだ。とても目なんか離せやしない」
 ハーレイ先生、ちゃんと全部が見えてるんだよな、周りのヤツらがどう動くかも。
 カッコいいよな、サッカーでも相当いい線いってたんだろうな、柔道とかが好きだっただけで。
 本当にブルーが羨ましくなるなあ、あんなの見たら…。
 ハーレイ先生と友達みたいなものなんだし…。家にだって来て貰えるんだし。
 いいな、と羨ましがるランチ仲間たち。今日の昼休みのヒーローのハーレイ、皆が憧れる先生を独占できるなんて、と。
 誰もが称賛していたハーレイ。何度も上がっていた歓声。
 そんな試合の真っ最中に振って貰えた手は誇らしいけれど、やっぱり残念でたまらない。自分は注目を浴びなくていいから、一人でこっそり見たかった、と。
 他の生徒の群れに混じって、ただの観客の一人になって。ハーレイだけを目で追い続けて、弾む心で。サッカーもあんなに上手なんだと、あの凄い人がぼくの恋人、と。



 学校が終わって家に帰っても、まだ残念な気持ちが消えてくれない。ハーレイの雄姿をじっくり見ていたかったと、ランチ仲間が自分を見付けなかったなら、と。
 グラウンドに行くとは言わなかったのに。いつもの自分の行動からすれば、グラウンドよりかは図書室で調べ物なのに。そうでなければ、教室の方。何か用事を思い出して。
(なんでバレちゃったの…?)
 ぼくがあそこに混じっていたこと、と考えてみる。おやつをモグモグ頬張りながら。母が作った美味しいケーキを、フォークで口へと運んでは。
 サッカーを見ようと群がっていた大勢の生徒たち。あの中でどうしてバレたのだろう、と。
(前のぼくならバレるだろうけど…)
 白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。ブリッジが見える広い公園や天体の間などに、皆を集めて混じったとしても、直ぐにバレただろう自分の居場所。
 仰々しかったソルジャーの服で。紫のマントや、誰も着ていなかった白と銀との上着のせいで。他の仲間たちが着ていた制服、それとは全く違ったから。
 でも、今は普通の制服なのに。同じ学校に通う男子は全員同じで、色も形もそっくり同じ。髪の色にしても、銀色の生徒は何人もいる。赤い瞳は自分一人だけれども、あれだけの群れに混じってしまえば分からない。幾つもの顔が周りに一杯、それにグラウンドを見ていたのだし…。
(ぼくの目、見えなかったと思うんだけどな…)
 ランチ仲間たちが来た方からは。後ろか、せいぜい斜め後ろから自分の姿を見付けた筈。
 だから違う、と断言出来る赤い瞳という特徴。他には何があるだろう?
(チビだけど…)
 学校でもチビの部類に入るのだけれど、男子では一番のチビだけれども。似たような背丈のチビならいるし、と零れた溜息。
 自分一人が目立つほどチビではない筈なのに、見付かっちゃった、と。
 ハーレイのサッカーを一人でゆっくり見損ねちゃったと、どうして見付かったんだろう、と。



 おやつを食べ終わって部屋に戻って、本を読んでいたら聞こえたチャイム。昼休みにサッカーをしていたハーレイ、友達も羨む今日のヒーローがやって来た。仕事が早く終わったからな、と。
 母がお茶とお菓子を運んでくれたテーブル、それを挟んで向かい合わせに座ったら…。
「お前、見に来てくれたんだな。俺のサッカー」
 サッカー部のヤツらが宣伝していたわけでもないのに、あんなに大勢見に来るとはなあ…。
 まさか、お前まで来てくれるとは思わなかったぞ。何処で噂を聞き付けたんだか。
「食堂にいたら聞こえたんだよ、他の生徒が喋ってたのが」
 もう始まるから急がないと、って。ぼくは食べてる最中だったけれど。
 だから最初から見てはいないんだけど…。ぼくが見てたの、嬉しかった?
 わざわざ手まで振ってくれたし…。あれで余計に大騒ぎだったよ、見てた人たち。
「そりゃまあ、なあ? お前がいると分かれば張り合いが出るさ」
 いい所を見せたくなるってもんだろ、恋人が見に来ているんだから。
 学校じゃ恋人扱い出来んが、カッコいいサッカーを見せてやるのは当然だ、うん。
「でも…。ぼくはコッソリ見ようと思っていたのに…」
 他のみんなの中に混じって、ぼくがいるのが分からないように。手なんか振って貰うよりかは。
「どうしてコッソリ見たかったんだ?」
 堂々と見てればいいだろうが。悪いことをするわけじゃないんだから、コソコソせずに。
「だって、ハーレイ、楽しそうだったから…」
 サッカーに夢中のハーレイは凄く楽しそうだったし、カッコ良かったし…。
 そういうハーレイを見たかったんだよ、ぼく一人だけで。ドキドキしながら、一人でこっそり。
 誰にも邪魔をされない所で、ゆっくり見ていたかったのに…。
「おいおい、そいつは俺としては嬉しくないんだが?」
 せっかくお前が来てるというのに、知らずにサッカーしているだなんて。
「そうなの?」
「決まってるだろう…! さっきも言ったが、恋人の前だぞ」
 張り切っていこうって気になるじゃないか。生徒相手でも、昼休みのサッカー試合でも。
 ヘマをしないで、カッコ良く。ボールは絶対に取らせないぞ、と。



 同じ試合なら、観客の中に恋人がいる方がいいに決まっている、とハーレイは言うものだから。より素晴らしいプレーが出来る、と力説するから。
「じゃあ、バレちゃって良かったのかな…」
「バレた?」
 いるのが俺にバレたってことか、それなら俺には最高の瞬間だったわけだが…。
 お前が見に来てくれてるんだ、と嬉しくなるじゃないか。来ると思っちゃいなかったんだし。
「そうじゃなくって…。ハーレイにもいるのがバレちゃったけど…」
 ぼくの友達にバレちゃったんだよ、グラウンドで試合を見ていたことが…!
 一人で見よう、って別れて来たのに、いるのを見付けられちゃったんだよ…!
「なるほど…。それでお前の友達が叫んでいたのか、お前の名前を」
 誰か遅れて来たヤツなのかと思ってたんだが、違ったんだな。
 お前がいるのを発見したから、名前を呼びながら走って来たという所か。
「うん…。なんでバレたんだろ、ぼくだってことが」
 先に行くね、って食堂を出たから、普段だったら図書室か教室。グラウンドにはいない筈だよ。あんなに大勢集まっていたら、ぼくなんかには気が付かないと思うんだけど…。
「目立つからだろ、お前の姿」
 あそこにいるな、と直ぐに分かるさ。生徒が山ほど集まっていても。
「目立つって…。制服はみんな同じだよ? 学年とかで分かれていないし、それこそ山ほど…」
 銀色の髪の生徒も多いし、ぼくと変わらないくらいにチビの生徒も、ちゃんといるのに…!
「やれやれ…。お前、分かっていないんだな。目立つってことが」
 同じ制服で立っていたって、似たような背格好だって。何処か違うぞ、お前の場合は。
「何が違うの?」
 他のみんなと何処が違うの、目の色は確かに違うけど…。ぼくだけ赤い瞳だけれど。
「それとは違うな、雰囲気ってヤツだ」
 お前を取り巻く空気が違うと言うべきか…。とにかく、ハッと人目を引く。
 俺がお前に惚れているのとは別の話で、お前は視線を惹き付けるんだ。其処にいるだけで。



 遠目でも分かる、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。後姿でも充分に、と。
「俺でなくても分かる筈だぞ、お前なんだと。大勢の中に混じっててもな」
 人混みだろうが、みんな揃って体操服で群れていようが。あれじゃないか、と直ぐに目がいく。
「そういうものなの?」
 だからバレちゃったの、ぼくがサッカーを見に行ってたのが…?
 探すつもりで来たんじゃなくても、ぼくがいるのが分かっちゃった?
「多分な。それに友達なら、俺と同じで親しいわけだし…」
 普通以上に見付けやすいと思うぞ、特徴ってヤツを知っているから。まずは目がいく、そしたら誰かと考え始める。情報が多いほど答えが出るのが早いわけだな、お前なんだと。
 それが分かれば、後は名前を呼ぶだけだ。お前の友達がやってたように。
 ん…?
 待てよ、と首を捻ったハーレイ。前のお前もやらなかったか、と。
「やるって、何を?」
「コッソリってヤツだ、今日のお前が目指してたヤツ」
 俺のサッカー、コッソリ見ようとしたんだろうが。友達にも俺にも気付かれずに。
 お前は失敗しちまったんだが、前のお前もやっていたような…。そういうコッソリ。
「え…? 前のぼくって…」
 コッソリと何を見に行くっていうの、ハーレイの日誌は見てないよ?
 ホントに一度も読んじゃいないし、第一、他のみんなに混じって読みには行けないじゃない!
 大勢でハーレイの部屋まで押し掛けてみても、絶対、入れてくれないんだから。
 航宙日誌が目当てなんだ、って直ぐに見破られて、扉に鍵をかけられちゃって…!
「いや、そういうのじゃなくてだな…。コッソリ何かを見るんじゃなくて…」
 お前がコッソリ隠れるってヤツだ、今日のお前が隠れたつもりでいたように。周りに生徒が大勢いるから、すっかり溶け込んだ気になって。…お前、いるだけで目立つのに。
 前のお前も似たようなモンで、それがコッソリ…。そうだ、お忍びだったんだ…!
「お忍び?」
「そういう言葉があるんだが…。今の時代は、そうそう出番が無いからなあ…」
 身分を隠して出歩くことだな、お忍びってのは。偉い人だと分かっちまったら、普通の暮らしが出来ない人たちがやっていたんだ。特別扱いされない暮らしをしてみたくってな。



 今は存在しない貴族や王族、そんな人々。買い物に行こうが、旅に出ようが、何処でも特別扱いされる。気軽に買い食い出来はしなくて、一人で旅行も出来ない有様。
 そういう暮らしは面白くない、と考えた人は、身分を隠して出掛けて行った。普通の身分の人に混じって、同じような服を身に着けて。普通の身分に見えていたなら、自由に動き回れたから。
「色々な人がいたらしいなあ、貴族は入りもしないような酒場がお気に入りだとか」
 其処に入って飲むだけじゃなくて、楽器を奏でてチップを貰っていた人だとか。
 もちろん客の方では知らない、貴族だなんて思いもしない。チップをはずんで、一緒に飲んで。朝まで歌って踊り明かして、すっかり友達になっちまうんだ。「また来いよ」ってな。
 それと同じだな、前のお前も。王様や貴族ほどじゃなかったが、特別扱いを嫌がって…。
 他のみんなと同じにしたくて、せっせと努力をしてたんだ。コッソリ普通の暮らしをしようと。
「そういえば…!」
 やっていたっけ、みんなと違いすぎたから…。
 ソルジャーなのは仕方ないけど、こんなのは望んでいないから、って。
 やたらと目立つし、前よりもずっと偉そうな感じにされちゃって…。それが嫌だから、コッソリみんなと同じふり。これさえ無ければ普通だよね、って。
 確かにアレってお忍びだったよ、いつも失敗してたけど…。一度も成功しなかったけど…!



 時の彼方から戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーだった前の自分がやっていたこと。なんとか普通になろうとして。他の仲間たちと同じになりたくて。
 遠い昔に、前のハーレイと暮らしたシャングリラ。まだ白い鯨になる前の船で、制服が生まれて間もない頃に。
(あの服、目立ち過ぎたから…)
 ソルジャー用にと作られた制服は、思った以上に特別すぎた。誰も着てはいない白と銀の上着、大袈裟に過ぎる紫のマント。それを普段から着ろと言われても、迷惑なだけ。やたらと目立つし、他の仲間たちからも「特別な人」という目で見られてしまう。制服のせいで。
(あれを着せられる前は、もっと普通に色々話してくれたのに…)
 エラが「ソルジャーには敬語で話すように」と注意したって、聞かない者も多かった。リーダーだった頃と同じに、親しい口調で話してくれた仲間たち。立ち話だって普通に出来た。
 ところが、御大層な例の制服。あれを着た途端、明らかに変わった仲間たちの自分への接し方。何処から見たって、彼らとはまるで違うから。ソルジャーの上着も、紫のマントも。
(注意しなくちゃ、って顔に書いてあって…)
 誰もが敬語に切り替えてしまい、たまに普通に話してくれても、気付いた瞬間、謝罪の言葉。
 何処へ行っても、誰と話しても、それは変わりはしなかった。ソルジャーなのだ、と服が教える肩書き。近くに寄って向き合う前から、姿が見えたその時から。
 つまりは充分に準備できた時間、ソルジャー向けの敬語に切り替える時間。あの制服を見たら、心の中で。きちんと敬語で話さなければと、ソルジャーに失礼がないように、と。
(みんな、緊張しちゃってて…)
 今までとは違う付き合いになった仲間たち。自分は何も変わらないのに、開いてしまった皆との距離。これは困る、と前の自分は考えた。元の関係に戻すためには、どうすれば…、と。
 明らかに制服が悪いと分かる。それを着るまでは、こんな風ではなかったのだから。



 前と同じに仲間たちの中に溶け込みたいから、普通に話して欲しかったから。
(あの制服さえ無かったら、って…)
 脱いでしまえば、きっと緊張しないだろう仲間。ソルジャーなのだ、と身構えないで済むから、口調も元に戻る筈。敬語なんかは出て来なくなるに違いない。
 そう思ったから外したマント。何処から見たって偉そうなのだし、これが一番悪いのだ、と。
 マントを脱いだら、後はせいぜい上着だけ。皆は着ていない上着だけれども、マントとは性質が全く違う。単なる制服、そういうデザイン。威圧感などは与えない筈。
(それに、上着さえ着ていれば…)
 ちゃんと制服は着ているのだから、誰も文句はつけないだろう。マントを省略したというだけ。たまにはそういう着こなしだって、と心の中で作った言い訳。今日はマントを着けない日、と。
 これで仲間たちの口調も元の通り、と颯爽と出掛けて行ったのに。どうしたわけだか、たちまちバレた。「ソルジャー、今日はマントは無しですか?」などと掛けられた声。出会う仲間に。
 せっかくマントを外して来たのに、と途惑う間に、飛んで来たエラ。そのお姿では困ります、と着けるように言われた紫のマント。「直ぐにマントを着て下さい」と。
 そうなるからには、どうやら上着も問題らしい。自分一人しか着ていないのだし、白い上着では何かと目立つ。それさえ脱いだら皆と変わりはしない筈、と次は上着も脱ぐことにした。ブーツが少し気になるけれども、足元までは誰も見ないだろう、と。
 今度こそ、と皆と同じになったつもりで歩いた船の中。けれど、やっぱりバレてしまった自分の正体。敬語で会話をすべきソルジャー、出会う誰もがそう扱った。「上着は窮屈ですか?」とか。
(誰も普通に喋ってくれなくて…)
 エラにも苦情を言われる始末。「ご自分の立場がお分かりですか?」と。
 これでは何の意味も無い、とスゴスゴと戻った自分の部屋。上着まで脱いでも駄目なのだから。
(一度、しみついちゃったことって…)
 変わらないのだ、と前の自分が零した溜息。制服のせいで皆が敬語に切り替えること。
 そうすべきだと皆は思っているから、自分が姿を見せた途端に、口調がガラリと変わるらしい。あの制服を着ていなくても、自分の姿を見ただけで。…前はそうではなかったのに。



 その日、仕事を終えたハーレイが部屋を訪ねて来てくれたから。
 「入って」と勧めた、いつもハーレイが座る椅子。そして早速、今日の出来事を打ち明けて…。
「どうしてバレてしまうんだろう? ぼくだってことが」
 ぼくはぼくだけど、敬語で話さなければ駄目になっちゃった方の、制服のぼく。
 あの服のせいだ、って思ったから脱いで行ったんだけど…。あれさえ着てなきゃ、みんな普通に話してくれると思ったんだけど…。
 駄目だったんだよ、みんながぼくだと気付いちゃうから。近付くよりも前に。
 直ぐ側に行くまでにバレるってことは、服のせいだけじゃないってことで…。やっぱり髪かな?
 この色の髪は目立つ色だし、それのせいかな…?
「さあ…。ソルジャーの他にも、銀の髪の者はおりますが?」
 確かに目立つ色ではありますが、彼らをソルジャーと見間違える者がおりますでしょうか?
「うーん…。この髪、染めたらいいかな?」
 もっと目立たない、黒とか茶色に。そしたら誰も身構えないから、普通の言葉に戻りそうだよ。
 敬語で話す準備が出来ていない内に、目の前にぼくが来ちゃうんだから。
「髪を染めておいでになっても、直ぐにバレると思うのですが…?」
 どんなに目立たない色になさっても、ついでに制服も脱いでおられても。
 ソルジャーは独特の雰囲気を纏っておいでですから、直ぐ分かります。きっと、誰が見ても。
 ずっと前からそうでしたよ。…ご自分では全くお分かりになっておられないだけで。



 何処におられても、どんな格好でも分かりますね、とハーレイに断言されてしまった。髪の色を変えても、制服を脱いでも無駄だろうと。きっと誰もが敬語で話すに違いないと。
「そんなの、ぼくは困るんだけれど…。普通に話して欲しいんだけど…」
 バレない方法、何か無いかな?
 ぼくが纏っている雰囲気とやらを消せる方法。君なら何か思い付かないかな、いい方法を。
「そうですねえ…。これと言った方法は思い付かないのですが…」
 私と一緒にお歩きになるのは、控えられたらどうでしょう?
「どうしてだい?」
「私も目立ちますからね。この図体もそうですが…。キャプテンですから」
 皆とは制服も違っていますよ、あなたと同じで。
 悪目立ちする私と一緒にいらっしゃったら、あなたも余計に目立たれるわけで…。
 ソルジャーがキャプテンと一緒においでになった、と皆が緊張しますから。普段以上に。
 つまり、あなたが望んでおられる普通の会話が遠ざかります。お一人で歩いておられるよりも。
 ですから、制服を脱いだり、髪を染めたりと努力をなさるおつもりでしたら、お一人で。
 私が目印になってしまいますからね、ソルジャーが此処にいらっしゃる、と。
「それじゃ、君と一緒に歩こうとしたら…。バレるってことだね、どう努力しても?」
 頑張って方法を見付け出しても、独特の雰囲気を消せたとしても。
 他のみんなと変わらないように見える方法、なんとか手に入れられたとしても…。
 君と一緒に歩いているだけで、それの効き目は無くなってしまうわけなんだ?
「そうなるでしょうね、私がお側にいたのでは…」
 私の身体は小さく出来ませんから、どうしても目立ってしまいます。
 これからも努力をなさるのでしたら、何処へ行かれるにも、お一人でどうぞ。



 より目立たない道をお求めならば、とハーレイは提案してくれた。キャプテンとしての役目以外では、近付かないようにするから、と。目立ちたくない前の自分を、無駄に目立たせないように。
 「あなたのお気持ちは分かりますよ」と、穏やかに微笑んでいたハーレイ。
 特別扱いは嫌なものだし、元の通りに話して欲しいと願う気持ちも理解できると。
(いい方法が早く見付かるといいですね、って言ってくれたけれど…)
 それが見付かっても、ハーレイと一緒に歩いていたなら、効き目は全く無くなるらしい。自分は目立っていなかったとしても、ハーレイが皆の目を引き付けるから。
(キャプテンだ、って誰でも気付くし…)
 そうなれば、一緒にいる人間にも向くだろう視線。あれは誰か、と浴びる注目。正体を知ろうと思って見たなら、きっと分かってしまうだろう。目立たないけれどソルジャーだ、と。
 其処で正体がバレてしまえば、元の木阿弥。皆は敬語で話し始めて、いつもと何も変わらない。前と同じに話の輪の中に加わりたくても、開いてしまう距離。ソルジャーだから。
(…せっかくハーレイも一緒なのに…)
 仲間たちと楽しく話したいのに、ハーレイがいるとそれが出来ない。自分一人ならば上手くいく方法を見付け出せても、ハーレイが効き目をすっかり消してしまうから。
 それでは少しも楽しめない、と思った自分。一番の友達だったハーレイ、そのハーレイと一緒に仲間たちの間に溶け込むことが出来ないなんて、と。
 一番の友達と歩くことさえ出来ないのでは意味が無い、と諦めたお忍び。正体を知られないよう努力すること。制服を脱ぐのも、髪を染めようかと考えるのも。
(ハーレイと一緒に歩けないなんて…)
 つまらないから、と前の自分は結論付けた。
 まだハーレイと恋人同士ではなかったけれども、二人でいるのが好きだったから。二人で一緒に歩きたかったし、それをやめたくはなかったから。



 そう決めたのが前の自分で、目立たないよう努力するのを諦めたのに。髪を染めるのも、制服を脱ぐのもやめたというのに、今のハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てて。
「お前、あれっきり、やらなくなったが…」
 どうすればいいのか俺に相談してから後は、バッタリやらなくなっちまったが…。
 心境に変化があったのか?
 お前がマントを脱いでいたとか、挙句に上着も着なかっただとか、エラから報告は来てたんだ。俺も一応、キャプテンだしなあ、ソルジャーの情報も入ってくる、と。
 ところが、お前、二度とやらかさなかったんだ。せっかく相談に乗ってやったのに…。
 一緒に歩かないようにしよう、と提案してやったのに、きちんと制服を着込んじまって…。髪を染めると言っていたのも、一度も試さないままで。
 いったい何があったと言うんだ、俺に相談した後で?
「ハーレイに相談したからだってば!」
「はあ?」
 俺は真面目に答えたじゃないか、俺と一緒に歩かないのが一番だ、とな。
 目立たないようにしたいんだったら、悪目立ちする俺とは離れておくのがいい、と。
「それだよ、ハーレイと一緒にいられないんだよ!」
 ハーレイといるだけで、ぼくの正体もバレる、って言ったの、ハーレイじゃない!
 キャプテンなのと、身体のせいとで、ハーレイはとても目立つから…!
「その通りだが、どうしてお前が努力するのをやめるんだ?」
 お前はお前で頑張ってみればいいと思うのに、なんだって試しもしなかったんだか…。
 髪の毛を染めて制服を脱ぐとか、お前らしさを消す方法を。
「ハーレイが一緒にいると効かない方法なんて、探しても意味が無いんだよ!」
 上手に誤魔化せるようになったとしたって、ハーレイのいない時だけだなんて…。
 君と一緒に他の仲間と楽しめないなら、努力する意味が無いじゃない!
 ぼくの一番の友達はハーレイだったし、いつも一緒にいたかったんだよ、離れるんじゃなくて!



 恋だと気付いてはいなかったけれど、特別な存在だったハーレイ。前の自分の一番の友達。
 お忍びに未練はあったけれども、ハーレイと一緒にいる時は正体を隠せないらしい自分。一番の友達が側にいるだけで、誰なのかバレるらしいから。
 それでは駄目だ、と諦めた自分。誰よりも一緒にいたい人と離れなければいけないなんて、と。
「…そうだったのか…」
 お前が努力を投げ出した理由、俺だったんだな。…俺と一緒だとバレちまう、と。
 髪の毛を染めようかとまで言っていたのに、やけにアッサリ諦めたなと思っていたら…。
「うん。…だって、ハーレイと離れていないと効かないだなんて、そんな方法…」
 見付け出しても意味が無いでしょ、いくら普通に扱って貰える方法でも。
 みんなが普通に話してくれても、きっと楽しくないんだよ。…其処にハーレイがいなかったら。
 どうしてハーレイはいないんだろう、って考えてしまうに決まっているもの。
 …でも、今のぼくでも、ハーレイといたらバレちゃうね。
 目立たないように隠れようとしても、今日よりも、ずっと。周りが普通の生徒ばかりなら、まだマシだけど…。ハーレイと二人なら、アッと言う間に見付かっちゃうよ。あそこにいるな、って。
「お前、今度も隠れたいのか?」
「そんなことないけど…」
 ハーレイをコッソリ見られなかったのは残念だけれど、今は普通の生徒だもの。
 みんなが敬語で話しはしないし、正体がバレても、前みたいに困りはしないんだけど…。
「今のお前は普通の生徒で、将来も普通の嫁さんだろ?」
 男にしたって、嫁さんには違いないんだから。
 俺と一緒に暮らす嫁さんで、誰もお前を特別扱いして困らせることはない筈だぞ。
 俺の嫁さん、それで全部だ。今度のお前は。…俺と一緒に何処に行っても。



 だからバレてもかまわないよな、とハーレイの顔に浮かんだ笑み。
 俺と一緒にいるばっかりに、お前が此処にいるんだとバレてしまっても、と。
「いいよ、ハーレイと二人でいられるのなら。バレちゃっても」
 だけど、制服は学校の生徒の間だけしか着られないから…。
 制服を着なくなった後だと、今よりもうんと目立つかも、ぼく…。
「おいおい、其処は逆なんじゃないか?」
 制服の群れの中にいる方が目立つぞ、お前。…前のお前の制服みたいな感じでな。
 みんなの個性が減っている分、分かりやすくなっているんだな。あそこにお前、と。
 だからだ、普通の服になっちまったら、バレにくくなると思うんだが?
 色々な服の人がいるしな、実に賑やかに。
「前と同じだよ、ハーレイといたら目立つんだよ!」
 ぼくが制服を着ていなくても、同級生とかはハーレイのことを知っているもの!
 街とかでハーレイを見付けた途端に、隣のぼくまで見付けるんだよ!
 前のぼくがハーレイと一緒にいたなら、直ぐにソルジャーだとバレた頃みたいに!
「そういうことか…。あの頃と同じか」
 俺の隣にお前がいるな、とバレるわけだな、俺が発見されちまうから。
 そいつは確かにそうなんだろうな、教師ってヤツは教え子に直ぐに見付かっちまうし。



 歩いていようが、買い物に行こうが…、と苦笑するハーレイ。あいつらは目ざとい、と。
「前の学校で教えたヤツらも覚えているしな、俺のことを」
 思わん所で声を掛けられたりするもんだ。「ハーレイ先生!」と、いろんなヤツらに。すっかり大人になったヤツから、今の学校の連中までな。
 いつかはお前も巻き添えなわけか、そうやって俺が見付かった時は。
「そうなんだけど…。いいよ、バレちゃっても」
 だって、ハーレイはぼくのだから。
「おっ?」
 お前のと来たか、この俺が?
「そう! ぼくのハーレイだよ、って自慢するからバレても平気」
 バレたら、みんなに自慢するんだよ。いいでしょ、って。ハーレイはぼくのだからね、って。
「自慢って…。今日のコッソリと違っていないか?」
 友達にも内緒で、俺を見ようとしていたくせに。
 他の生徒の中に混じって、誰にも見付からないように。…バレちまってたが。
「今だからだよ、ハーレイと一緒にいられる時間が少ないからだよ!」
 だから誰にも邪魔をされずに、ゆっくり見ていたかっただけ!
 結婚したら、いつもハーレイと一緒だし…。隠れなくても、いろんなハーレイを見られるし…。
 だから、コッソリはやめて、バレた時には見せびらかすよ!
 ぼくの大好きなハーレイだもの。ぼくのハーレイなんだもの…!



 それに、今の自分は、もうソルジャーとは違うから。
 正体がバレても、特別扱いされてしまいはしないから。仲間たちとの距離が開きもしないから。
 目立ってもいいし、注目されてもかまわない。
 どんなに目立ってしまったとしても、ただのブルーで、ハーレイのお嫁さんだから。
「そう思うでしょ? 前のぼくとは全然違うよ」
 見付かっちゃっても、ぼくは困りはしないんだよ。得意になれることはあっても。
 ぼくがハーレイのお嫁さん、って嬉しくなることは何度もあっても。
「ふむふむ、ただのブルーで嫁さんなんだな、今度のお前は」
 バレちまっても、周りのヤツらの態度が変わるってわけでもない、と。誰もが敬語になっちまうことも、特別扱いを始めることも。
「ホントにただのブルーだもの。…ただのハーレイのお嫁さんの」
 今度はハーレイの方が、ぼくより特別。みんなに人気のハーレイ先生。
 柔道と水泳の腕がプロの選手並みで、サッカーだって上手くって…。今日みたいに大勢の生徒が集まっちゃうしね、ハーレイがいるっていうだけで。
「まあなあ…。生徒に人気はあるな」
 ずっと前にいた学校のヤツらも、街で出会ったら声を掛けてくるし…。
 クラブで教えた生徒だったら、未だに憧れのヒーローみたいな扱いになるのも間違いない、と。
 俺は今度も目立つわけだな、キャプテンじゃなくなったんだがなあ…。



 お前を巻き添えにするのも同じか、とハーレイは苦笑いをしているけれど。
 そのハーレイと一緒にいたなら、今の自分も前と同じに目立ってしまうのだけれど。
(…ぼくは今度は平気だしね?)
 友達が敬語になってしまったり、距離が開いたりはしないから。本当にただのブルーだから。
 ハーレイのお嫁さんになるというだけで、他には何も変わらないから。
 正体がバレてしまった時には、今は大人気のハーレイの隣で、ハーレイは自分のものだと自慢をすることにしよう。「ぼくのハーレイなんだから」と。ハーレイの腕にギュッと抱き付いて。
 そう、今度はバレてしまってもいい。目立つ姿でもかまわない。
 自分が特別扱いされない世界で、幸せに生きてゆけるのが今の自分だから。
 ハーレイの方が目立つ世界で、大きな身体と一緒に歩いて。
 早く見付けて欲しいくらいに、きっと心が弾むのだろう。
 幸せを自慢したいから。「ぼくのハーレイだよ」と、幸せ一杯で誰もに自慢出来るのだから…。




           目立つのは嫌・了


※雰囲気だけで人目を惹いてしまうのがブルー。前の生でも、普通なふりをするだけ無駄。
 ハーレイと一緒だと、更に人目を惹くのですけど、ソルジャーではない今は、それも幸せ。
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(うーむ…)
 相変わらず高い、とハーレイが唸ってしまった広告。なんて値段だ、と。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で開いた新聞。まだコーヒーは淹れていなくて、少し座って一休み。鍋や食器は綺麗に洗って片付けたから、一仕事終わった、といった感じで。
 帰宅して夕食を作る間に、新聞にも目を通したけれど。ザッと一通り見たというだけ、興味深い記事を中心に。その読み方だと、見落としてしまうものもある。授業で使う雑談ネタとか。
 だから、こうして改めて読む。何か無いかと、読むべきものは、と。
 そうやって読むと視点が変わって、見えなかったものが見えて来るから…。
(キャプテン・ハーレイの航宙日誌…)
 さっきは気付いていなかった。立派なカラーの広告なのに。
 キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴っていた文字をそっくりそのまま、再現してある復刻版。文字の滲みや掠れ具合まで、それは忠実に写し取ったもの。
 日誌を読み込む研究者向けで、装丁までが本物と同じ。表紙の色やデザインはもちろん、厚みもサイズも同じに出来ているという品。
(本物は簡単に読めないからなあ…)
 宇宙遺産になってしまって、収蔵庫に収められている航宙日誌。特別公開もされたりはしない。触れられるのは、ごくごく一部の研究者だけ。選ばれた一流の学者だけしか読めない日誌。
 けれど、研究には欠かせない日誌、学者たちは研究費用で買って揃える。自分の書庫に。
 本来はそういう本だけれども、学者でなくても欲しい人間はいるものだから。
(…俺が行ってる理髪店の店主も…)
 欲しいんだった、と苦笑い。キャプテン・ハーレイのファンだと語った店主。そうとは知らずに通っていたのに、最近になって聞かされた。
 航宙日誌も全巻揃えているそうだけれど、持っていないのが復刻版。いつかはそれも、と店主が口にしていた夢。「孫や曾孫が笑うけれども、欲しいんですよ」と。



 身近な所にもいる、復刻版の航宙日誌が欲しい一般人。意外にニーズがあるのだろうか、たまに目にする立派な広告。研究者ならば、広告が無くても買う筈なのに。それが必要なのだから。
 しかし、と眺めてみた広告。ズラリ並んだ、前の自分の日誌そっくりな復刻版たち。
(まったく、とんでもない値段だな…)
 これ一冊で普通の本が何冊買えることやら、と考えてしまう。航宙日誌の中身だけなら、手軽に買える文庫版まで揃っているのに、この値段。それだけの手間がかかっているとは承知だけれど。そうでなくても、研究者向けの専門書の類は高いのだけれど…。
(こいつの原価はどれだけなんだか…)
 原価と言ってもコレじゃなくて、とクックッと笑った前の自分の航宙日誌。シャングリラでは、こんなに高くはなかった、と。
 高いも何も、シャングリラには無かった通貨や店。ゆえに値段がつきはしないし、売る相手さえいなかった。高かろうとも、在庫一掃セールでも。



 売ろうにも売れなかったんだが、と考え始めた前の自分の日誌の原価。今の時代は復刻版でさえ目を剥くような値がついているけれど、元々の値段はどんなものかと。
 あれを書くのにかかった費用はどのくらいかと、それを勘定するならば…、と。
(俺が書く手間賃などは要らんし…)
 航宙日誌を書いておくことはキャプテンの仕事の内だけれども、半分は自分の趣味でもあった。今日はどういう日だったかと、日誌を書きながら思い返す時間が好きだったから。
 一日の出来事を思い出しては綴るのだから、その日を二回味わえる。過ぎた時間を自分の好みのペースに戻して、もう一度。
(どんな日だって、いいことの一つや二つはあるもんだしなあ…)
 目が回るような思いをしていた日でも、何処かにコロンと宝物のように素敵な時間。コーヒーを飲む暇さえ無かったんだ、と嘆きたい日でも、誰かに貰った一言が嬉しかったとか。
(…前のあいつを失くしちまうまでは、そういう日誌だったんだ…)
 ブルーを失くして、独りぼっちになるまでは。絶望と孤独に囚われるまでは。
 前のブルーが長い眠りに就いてしまって、目覚めなくても。青の間で眠り続けるブルーを見舞うことしか出来ない日々でも、素敵な時間はあったから。
 仲間たちと過ごす間もそうだし、青の間にブルーを見舞う時には、いつも幸せだったから。まだ生きていてくれるのだと。このまま深く眠っていたなら、ブルーは地球まで行けるのかも、と。
 日々の出来事から幸せを拾い上げては、噛み締めた時間。航宙日誌を書いていた時間。
 もっとも、見付けた幸せのことを日誌に記しはしなかったけれど。無駄なことだと全部省いて、淡々と書いておいたのだけれど。



 半分は趣味で書いていたなら、貰える筈もない手間賃。好きでやっていることなのだから。
 それにキャプテンには無かった給料。通貨が存在していない船に給料は無くて、働いてもそれを貰えはしない。残業代だって支払われはしない、ブリッジ勤務を終わらせた後に書いていたって。
 手間賃はタダな航宙日誌。色々な意味で、タダでしかない。それがタダだと、他の費用は…。
(紙と、表紙と、インクに羽根ペン…)
 いわゆる実費というヤツだ、と思い浮かべた、日誌を書くのに必要だったもの。日誌の本体と、文字を書くための文具。
 レトロな羽根ペンを愛用していたけれども、羽根ペンになる前は、普通のペン。何処にでもある普通のペンで綴っていたのが初期の頃の日誌。
(羽根ペンにしても…)
 今でこそ高い値段の文具で、小さなブルーが買い損なったくらいだけれど。今の自分の誕生日に贈ろうと買いに出掛けて、手も足も出なかったほどなのだけれど。
 前の自分が使っていたのは、買った羽根ペンなどではなかった。前のブルーが奪った物資の中にあった羽根ペン。大量に混ざっていたものだから、不自由しないで使い続けた。ブルーを失くしてしまった後にも、前の自分が命尽きるまで。
(奪ったヤツだし、タダみたいなもんだな)
 それを載せていた人類の船に、代金は払っていないから。ブルーが奪ってそれでおしまい。白い羽根ペンも、それに合わせたペン先も。
(インクは船で作って貰っていたが…)
 いくら丁寧に保管しておいても、羽根ペンと一緒に手に入れたインクは古くなったら使えない。物資を奪う時代が過ぎたら、専用に作って貰っていた。
 とはいえ、さほど高いものでもなかっただろう。他のペンにも使うインクを、自分専用のインク壺に入れて貰っていただけだから。「これに頼む」と、愛用の物を係に渡して。



 使っていた文具はそんな具合で、航宙日誌を綴っていた紙も、最初は平凡なノートだった。船に何冊もあったノートで、前のブルーが奪ったもの。
(纏まった量になって来た頃に…)
 何冊か纏めて綴じたのだった。ノートを挟めるファイルノートを倉庫で貰って、それに挟んで。
 背表紙にあった、タイトルを書いた紙片を入れられる部分。其処に「航宙日誌」の文字と、中のノートを綴った年号などを書き入れた。後になって分かりやすいようにと。
 それを本棚に突っ込んでみたら、グンと値打ちが増した気がした航宙日誌。ノートの形で並べておくより、断然、こっちの方がいい。一冊の本を書き上げたようで、ノートの時とは重みが違う。綴り続けた日々の価値まで、上がったように思えたから。
(もっと見栄えを良くしたくてだな…)
 ファイルノートでこれだけ値打ちが出るのだったら、本物の本の形にしたなら素晴らしくなるに違いない。本の中身の価値はともかく、見た目に栄える。こうして本棚に並べた時に。
 そう思ったから、製本しようと考えた。暇を見付けて、少しずつ。元のノートを分解してから、丁寧に糸で綴ってゆく。出来上がったら表紙をつけて…、と。
 作業自体は経験済みだし、時間をかければ充分に出来る。ノートを本に仕上げることも。
 早速、次の日から取り掛かったノートの製本だけれど。
(ブルーが手伝いに来やがって…)
 何処で嗅ぎ付けたか、たまたま部屋を訪ねて来た時、自分が作業中だったのか。本にするのだと知ったブルーは、いそいそと手伝いにやって来た。
 「料理のレシピを本にする時、ぼくも一緒にやったから」と助手に名乗りを上げたブルー。本にするなら手伝うからと、二人で作った方が早いと。



 有難そうに聞こえるブルーの申し出。二人でやれば確かに早いし、大いに助かるのだけれど。
 問題は本にしたい中身で、料理のレシピとは全く違う。日々の出来事を綴った日誌で、ブルーが興味津々のノート。いったい何を書いているのかと、隙を狙って盗み見ようとしている日誌。
 「手伝ってくれ」と言おうものなら、まさしくブルーの思う壺。手伝いと称して、堂々と読める航宙日誌。製本しながら、次から次へと。
 その手は食わない、と断ったけれど、諦めないのがブルーだから。
(追い払うのが大変だったんだ…!)
 さて、と作業に取り掛かったら、ヒョイと現れるものだから。「手伝おうか?」と。
 ブルーが顔を覗かせる度に、「いや、大丈夫だ」と身体で隠した航宙日誌。その度に作業は一時中断、まずはブルーを追い払うこと。好奇心の塊が部屋にいたのでは、決して続けられないから。
 初期の日誌は自分で製本、表紙も自分で作っていた。レシピ本の時の要領で。
 その内に本作りの好きな仲間が気付いて、「最初から本に書けばいい」と専用の物を作り上げてくれた。立派な本の形だけれども、何も書かれていない物を。しかも、こだわりの一冊を。
 何度もデザインを訊きに来てくれて、サイズも色々検討して。表紙の色を好みで選べて、入れる文字の色も書体も選べた専用の日誌。一冊使い終わる頃には、また新しい物を作ってくれた。
(あれが今でも残ってるヤツの原型なんだ…)
 前の自分の制服が出来た後、表紙の色を制服に合わせて渋い茶色に、と注文したら。
 本作りが好きな仲間たちは喜んで応じてくれた。その上、それまでの航宙日誌の方まで、それと揃いに出来るようにと新しい表紙を作ってくれた。
 「自分で作り直せるだろうし、揃いの表紙の方がいいから」と。
 仲間たちの好意で貰った表紙を付け替えていたら、やはり現れたブルー。「手伝おうか?」と。二人でやった方が早いと、料理のレシピの本作りは一緒にやったじゃないか、と。
 もちろん、お帰り願ったけれど。中身を読まれてはたまらないから。



 本物のキャプテン・ハーレイの航宙日誌は、そうやって出来た本だった。原価はせいぜい、紙と表紙とインク代。綴るのに使った糸や接着剤、それを入れても微々たるもの。
(タダとは言わんが、その辺の本より安いんじゃないか?)
 日記帳の値段くらいだろうな、と結論付けた。沢山書けて、本の形になっているような日記帳。今の自分も使っているから、少しも高くないことは分かる。ノートよりかは高いけれども、普通の本を買うよりは安い。同じような形の本を買ったら、作者などに支払う分が上乗せされるから。
(やっぱり、べらぼうに高いぞ、これは)
 原価を思えば、ぼったくりにしか見えない値段の復刻版。気軽に買えはしない本。
 けれど、そっくりには出来ている。前の自分の遠い記憶が「違う」と言いはしないから。本当にとてもよく出来ていると、こんな日誌が部屋にあった、と懐かしさが心に広がるから。
 遠く遥かな時の彼方で、せっせと書いていた日誌。ブルーが覗き込もうとする度、身体で隠して「俺の日記だ」と守り続けた航宙日誌。
(いつから書いていたんだっけな…?)
 ブルーを部屋から追い出す時には、「俺の日記だ」が決まり文句だった。常に敬語で話すようになっても、その時だけは。恋人同士になった後にも、一度も読ませはしなかった日誌。
 決まり文句になった言葉は、恐らくは最初からのもの。製本していた時からのものか、それとも日誌を書き始めて直ぐに使っていたか。
(あいつが黙っているわけがないし…)
 きっと一冊目のノートの頃から来ていただろう。いったい何を書いているのかと、覗き見たくて何度でも。その度に決まり文句を使って、ノートをパタリと閉じたろうけれど。
 その一冊目は、いつから書いていたのだろうか。前の自分の航宙日誌。



 はて…、と考え始めたこと。一番最初の日付はいつのものだったろうか、と。
 キャプテンだから、と書いていたのが航宙日誌。シャングリラでの日々の出来事、それを綴っていた日誌。初めの間は、倉庫で貰った平凡なノートに、普通のペンで。
(いきなり初日から書くか…?)
 キャプテンになったその日に書くだろうか、と浮かんだ疑問。それこそ「キャプテンに就任」と書いて終わりになりそうだから、書いていないと思うのだけれど。
 船のあちこちを把握してから、書き始めそうな気がするのだけれど。
 何故だか、「書いた」という記憶。自分はその日も日誌を書いたと、確かに書いていたのだと。
(だが、書くようなことがあるのか、初日に…?)
 キャプテンに就任、と書いたら終わりだろう初日。それを自分は書いたのだろうか、短い文を。右も左も分からないような新米キャプテンなのに、倉庫でノートを貰って来て。
(一人前に航宙日誌ってか…?)
 スタイルにこだわる方ではないが、と自分でも不思議に思える記憶。書くようなことも無かっただろうに、航宙日誌を書き始めた理由が分からない。
 データベースにアクセスしたなら、無料で見られる本物の航宙日誌の文字をそっくり写し取ったもの。それを読んだら、記憶の小箱を開けられるけれど。
 前の自分が綴った文字から、その時の思いを読み取れるけれど。
(こういうのはだな…)
 簡単に出来る種明かしよりも、手掛かりを一つ、二つと集めて思い出すのが楽しいから。日誌を書いていた時のように、過ぎた時間を追体験できるものだから。
(よし…!)
 考え事をするなら書斎なんだ、と移動を決めた。熱いコーヒーも淹れて行って、と。



 そうして移った、気に入りの書斎。いつもの椅子に腰を下ろして、コーヒーを一口。
 あの頃には本物のコーヒーを飲んでたっけな、と思い出が一つ蘇る。白いシャングリラになった後には、キャロブのコーヒーだったけれども。
 さてと、と手繰り始めた記憶。キャプテンになった初日のこと。
(羽根ペンはまだ無かった時代で、普通のペンで…)
 そのペンで何を書いたのだろうか、前の自分は?
 まだキャプテンの部屋も無かったし、元の部屋をそのまま使っていた。厨房時代の部屋で、机は愛用していた木製。白い鯨が出来た時にも、それを運んで行ったほど。木で出来た机は年月と共に味わいが増すし、磨いてやるのが好きだったから。
 机だけは立派にキャプテン・ハーレイ。初日から整っていたと言える舞台装置で、レトロだった趣味の品なのだけれど。
 他には特に無かった持ち物。キャプテンならばこれ、といったもの。制服も無くて、動きやすい服を着ていただけ。厨房時代と変わらないものを。
(キャプテンになったし、キャプテン・ハーレイではあったんだが…)
 就任式も特に無かった。今日からキャプテン、そういった感じ。
 ブリッジの仲間と挨拶を交わして、「よろしく」と握手した程度。船の仲間が揃いはしないし、乾杯だってしていない。キャプテンという職が出来ただけだし、祝い事とは違うから。
(厨房の方なら、引き継ぎを済ませたんだがなあ…)
 自分が抜けたら、色々と変わってくるだろう厨房。手作りのレシピ本を譲り渡して、愛用の鍋やフライパンなども「大事に使ってやってくれ」と仲間に譲った。「後は頼むぞ」と。



 けれど、ブリッジの方では違った。操船技術も持たないキャプテン、レーダーの見方も知らない有様。引き継ぎどころか、新入り同然。求心力だけを買われて就任したのだから。
 着任したって、ブリッジでは役に立たないキャプテン。それでもいいから、と請われたのだし、恥じることなど無かったけれど。
(いずれは操舵も覚えるから、と挨拶はしたが…)
 あの段階では基礎も分かっていなかったのだし、計器の一つも読み取れはしない。そんな自分がキャプテンになって、初日は何をしたのだろうか。
(ボーッと立ってもいられないしな…)
 座っていたってそれは同じで、いたずらに場所を塞ぐだけ。
(視察にでも出掛けて行ったのか?)
 それはブルーの役目の筈だが、と考えたけれど。視察の時にはブルーが先に立って、前の自分は後ろを歩いた。ソルジャーと並んで歩ける立場にいなかったから。キャプテンだから。
 けれど、自分がキャプテンになった頃のブルーは…。
(まだリーダーで…)
 ソルジャーという呼び名は無かった。あくまでリーダー、皆のために物資を奪うだけ。あの頃のブルーは視察をしてはいなかった。
 そうなってくると…。
(俺の役目だよな?)
 船内を視察して回るのは、と蘇った記憶。かなりの間は、前の自分がやっていた視察。
 ブルーがソルジャーになるまでは。…キャプテンを従えて堂々と歩き始めるまでは。



 ならば視察に出たのだろうか、とブリッジの景色や扉などを思い浮かべていたら。
(待てよ…?)
 外側からスイと開いた扉。其処から入って来たブルー。
 「行こう」と誘われたのだった。キャプテンなら船を知らなくては、と。ブリッジだけでは船の全ては分かりはしないし、ぼくと一緒に見て回ろう、と。
(思い出した…!)
 君は厨房一筋で来ていたからね、と船の中を連れ回してくれたのがブルー。次はこっち、と。
(俺だって充分、詳しかったが…)
 厨房が居場所だったとはいえ、備品倉庫の管理人をも兼ねていた。ブルーが奪った物資の分配も前の自分がしていたほど。倉庫に入れたり、必要な仲間に配ったり。
 「見当たらない物があるなら、ハーレイに訊け」とまで言われた自分。だからキャプテンに、と頼まれた。船の仲間を纏め上げるには適任だ、と。そういう人間が必要だから、と。
 厨房だけに籠っていたなら、そんな自分は出来上がらない。船のあちこちに出掛けていたから、詳しくなった船の中やら仲間の事情。
 けれど流石に、機関部などの奥となったら管轄外。部外者は邪魔になるだけだろう、と遠慮して入っていなかったから。
 そうした所へもブルーと二人で出掛けて行った。キャプテンなのだし、遠慮は要らない。確かに知っておくべき所。船の心臓なのが機関部。
 ゼルが出て来て、「こっちだ」と案内してくれた。「気を付けろよ」と注意しながら、立ち入り禁止の区画までをも。「キャプテンだったら見ておけよ」などと、分かりやすく説明してくれて。
(厨房にもブルーと行ったっけな…)
 其処は充分知っているから、と言っているのに、腕を引っ張られて入った厨房。
 昨日まで一緒に料理をしていた仲間たちが拍手で迎えてくれた。「おめでとう」と、凄い出世をしたものだ、と。
 祝って貰った、キャプテン就任。
 リーダーのブルーも一緒なのだし、と心尽くしの祝いの一皿。「食べて行ってくれ」と、笑顔で作ってくれた仲間たち。けして豪華ではなかったけれども、美味しかったと今でも思う。ブルーと二人で食べる分だけ、皿に盛られていた料理は。



 隈なく回った船の中。全部の通路を歩いたのでは、と思うくらいに。一回りしたな、と自分でも分かったものだから。
(帰ろうとしたら…)
 ブリッジに向かう通路の方へと足を向けたら、「まだ見ていない所があるよ」とブルーにクイと引かれた袖。「キャプテンなら船を見ておかなくちゃ」と。
「船って…。もう見たじゃないか」
 全部お前と回った筈だぞ、それこそ奥の奥までな。見落とした所は無いと思うが…。
「でも…。アルタミラでしか見ていないよね?」
 この船の全体像ってヤツは、と微笑んだブルー。だからハッキリ知らない筈、と。
 アルタミラでは駆け込んだだけの船だったのだし、きっと分かっていないと思う、と。
「いや、見たが…」
 これでもキャプテンになったわけで、だ…。
 難しいことは何も分からないが、どんな船かは知っておかんと…。
 ゼルたちもそういう考えだったし、ちゃんと見せては貰ったんだ。それこそ色々な角度から。
 絵を描けと言われても困っちまうが、船の姿なら把握してるぞ。こういう船だ、と。
「それって、全部データでしょ?」
 アルタミラでは肉眼だったけど、今は宇宙に出てるから…。
 船を外から見るのは無理だし、ハーレイが見たのは元からあったデータの筈だよ。
 船外活動、最低限しかしていないもの。船の姿を掴めるほどには、誰も離れていないんだよ。
 ぼくは何度も外に出たから、よく分かる。
 たったあれだけ離れたくらいじゃ、船は壁にしか見えないよね、って。



 本物の船を見せてあげる、とブルーは腕を引っ張った。「こっちに来て」と。
 まさか格納庫に行くつもりでは、と思う間に、連れて行かれた先にはハッチ。補修などで船外に出る時に使う、減圧室の先の小さなもの。宇宙服を着た人間が二人、辛うじて擦れ違えるくらいのサイズの円形の扉。
「ま、待て、出るのか!?」
 此処から外へ出ようと言うのか、この向こう側は宇宙なんだが…!
 こんな所から外へ出るのか、格納庫にある船を使うんじゃなくて…?
「大丈夫。ハーレイくらいは守れるからね」
 それに格納庫の船なんか…。誰も一度も使っていないし、それこそアテにならないよ。
 ぼくに任せておいてくれれば、ちゃんと案内してあげるから。
 この船が外からどう見えるのかも、ハーレイが見たいと思う角度も。
「なら、宇宙服を…!」
 ちょっと戻って探してくるから、待っていてくれ。減圧室には置いてないしな、宇宙服。
 俺が着られるデカいサイズのヤツ、直ぐ見付かるといいんだが…。
 とにかく急いで行ってくるから…!
「要らないってば、宇宙服なんか」
 ぼくは一度も着たことが無いよ、あんなのを着たら動きにくいと思うけど?
 視界だって狭くなってしまうと思うから…。そのまま出るのが一番なんだよ、船を見るなら。
 強化ガラスを通して見るより、肉眼の方がずっといいから…!
「ま、待ってくれ…!」
 お前はそれで大丈夫なのかもしれないが…!
 俺は宇宙に出たことは無くて、宇宙服だって、まだ一度もだな…!



 着てみたことが無いんだが、と言い終わらない内に、ブルーが開けてしまったハッチ。
 円形に開いた穴の向こうは真空なのだし、吸い出されると思ったけれど。
「大丈夫だと言ったよね?」
 ハーレイ、ちゃんと息が出来てる筈だよ、外にも放り出されてないし…。
 この減圧室、少しも減圧しなかったのにね?
「そのようだ…。これもお前の力なのか?」
 生きた心地もしなかったんだが、何も起こらん。お前、ハッチを開けちまったのに。
「ぼくはいつでも、ハッチも開けずに飛び出してるよ?」
 瞬間移動で出て行くんだから、壁なんか無いのと変わらないしね。
 だけど、今日はハーレイがビックリしないようにと、此処に来たんだ。
 いきなり宇宙に飛び出して行けば、ホントに驚くだろうから…。ハッチを通って外に行くなら、他のみんなと全く同じ。
 宇宙服があるか無いかの違いだけだよ、船外活動の時は、みんな此処から出るんだから。
 ほら、其処が宇宙。ハッチの向こう。
 あの真っ暗な所はすっかり宇宙なんだよ、船の外壁を通り抜けたら。



 行こう、とブルーに手を引かれた。いつの間にか消えていた重力。二人揃って床を離れて、壁に開いた丸い穴へと。元は閉まっていたハッチ。其処を通って、船の外へと。
 息は少しも苦しくはなくて、周りの温度も変わらないまま。まるで見えないカプセルに入って、宇宙に浮いているかのように。
 ブリッジでも見ていた瞬かない星、それが幾つか散らばる空間。星と船とを除いた所は真っ暗な闇で、遥か彼方に恒星が一つ。
 その星の光で浮かび上がったシャングリラ。元はコンスティテューションだった船。
 ブルーは何もしていないように見えるけれども、船との距離が離れてゆく。最初は聳え立つ壁に見えたのが、壁の周りに少しずつ宇宙が見え始めて。
「こんな船なのか…」
 外から見たなら、こういう風に見えるのか…。見せて貰ったデータのままだが、やっぱり違う。
 俺がこの目で見ているせいか、本物なんだって感じがするな。
 この船の中にみんなが乗ってて、俺たちが生きてる世界がそっくり乗っかってるんだ、と。
「ね、見に出て来て良かっただろう?」
 ハーレイはこの船のキャプテンなんだよ、これからハーレイが守っていく船。
 ぼくも守るけど、船のみんなの暮らしを守っていくのはハーレイ。ぼくは物資を奪うだけだし、それを上手に使っていくのはキャプテンの仕事。食べるのも、船を修理するのも。
「そうなるんだな…」
 みんなの命を守るんだよなあ、この船を焦がさないように。
 昨日までならフライパンだったが、今日からは船を焦がさないのが俺の仕事だ。
 こうして見るとデカイ船だな、フライパンとは比較にならん。…焦がさないのは大変そうだが、焦がしちまったらエライことになるし…。
 頑張らないとな、船のみんなを守れるように。この船もきちんと守ってな…。



 これがシャングリラという船なのか、とブルーのお蔭で実感出来た。船の中だけを歩いたのでは掴めなかっただろう感覚。この船が全てなのだ、と分かった。自分たちの世界を乗せている船。
「ハーレイ、船を何処から見たい?」
 一周してはみたけれど…。此処からだとかなり遠いしね。
 もっと近くで見てみたい所、あるんだったら近付いてみるよ?
 船全体は見えなくなるけど、しっかり見たいと思う部分があるのなら…。
「ブリッジの方が気になるな…」
 俺の居場所になる所だしな、見られるものなら見ておきたいと思うんだ。
 このくらいの距離のままでいいから、ブリッジが見える方へと回ってくれないか?
「了解。…それじゃ、近付いてみるね」
 ブリッジを外から覗けるトコまで。みんなの顔が見えるくらいに。
「待て、近付くって…! そんな所まで接近したら…」
 ブリッジのヤツらが慌てるだろうが、俺たちが外に出ているだなんて知らないんだから…!
 操船ミスをしたらどうする、とんでもない方向へ舵を切るとか…!
「平気だってば、見えないようにしておくから」
 ぼくたちが外を飛んでいることが、分からなければいいんだしね。
 宇宙だけしか見えなかったら、いつもと同じなんだから。



 任せておいて、と笑みを浮かべたブルー。姿を消すのは簡単だから、と。
 人類の輸送船に近付く時には、よく使う手だとブルーは言った。サイオンで乱反射させる情報、姿が見えなくなるのだという。其処にいるのに、いないかのように。宇宙の闇に溶けてしまって。
 今から思えば、後に生まれたステルス・デバイスの原点だろう。
 そして真空の宇宙空間で生きていられたのは、ブルーが張っていたシールドのお蔭。あの時点で使いこなせる仲間は、ブルーの他にはいなかったけれど。
 ブルーは前の自分を連れて宇宙を移動し、ブリッジの方へと近付いて行った。強化ガラスの直ぐ側まで。中にいる者たちが見える所まで。
「あそこがハーレイの席だったんだよ、空いてるだろう?」
 誰も座っていない、あの席。これからハーレイが座る場所はあそこ。
 キャプテンの席がきちんと決まるか、決まらないかは分からないけど…。
 あそこだと思っておけばいいかな、今日はあそこに座っていたしね。
「そうか、あそこか…」
 あそこに座って指揮を執るのか、これから先は。
 このシャングリラが焦げちまわないように、みんなが安心して暮らせるように。
「うん。…ハーレイがキャプテンになってくれて良かった」
 本当にハーレイで良かったと思う、この船のキャプテン。
 ぼくの命を預けられるよ、君にならね。
 そう思ったから、「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と言ったけど…。
 改めて思うよ、こうして君と二人でいると。
 ハーレイがキャプテンで良かったな、って…。君と二人なら大丈夫だ、って。



 本当だよ、と柔らかく笑ったブルーと一緒に、船をもう一度一周して。さっきのハッチから中に戻って、ブルーが閉ざした宇宙への扉。宇宙は壁の向こうになった。重力も床に戻って来た。
「はい、おしまい。…これで視察は済んだよ、全部」
 ハーレイ、キャプテンの仕事、頑張って。
 ぼくと二人で焦がさないように守って行こうね、シャングリラを。
「ああ、分かってる。お前の期待を裏切らないようにしないとな」
 焦げたじゃないか、と睨まれないよう、精進するさ。…なったばかりの新米だがな。
 努力しよう、とブルーと別れて戻ったブリッジ。自分のための席に座って、眺めた強化ガラスの向こう。漆黒の闇が広がる宇宙を、ブルーと二人で飛んだのだった、と。
 誰も気付いてはいなかったけれど、ブリッジの外を、確かに二人で。船を眺めに。真空の宇宙を移動しながら、あらゆる角度で見て来た船。自分たちの生きる世界を乗せている船。
(この船を守る…)
 シャングリラという名の、仲間たちと一緒に生きてゆく船を。世界の全てに等しい船を。
 それを預かるキャプテンとして。文字通り、船の長として。
 今はまだ右も左も分からないけれど、計器もレーダーも読めないけれど。
 こうしてキャプテンになったからには、操舵を覚えて、船を自在に動かしてゆこう。
 宇宙まで視察に連れて行ってくれた、まだ少年の姿のブルー。
 「ハーレイがキャプテンになって良かった」と、ブルーは言ってくれたから。その信頼と期待を裏切らないよう、しっかりと立ってゆかなければ。
 ブルーと二人で、この船を守る。今日から、自分はキャプテンだから。
 フライパンから舵に持ち替えて、船を操ることを覚えて。



 決意を新たにしたブリッジ。漆黒の宇宙を飛んでゆく船で、いつかは自分がこれを動かそうと。
 ブルーが望む通りの場所へと、自分で船の舵を握って。
(頑張らないと、と思ったんだ…)
 着実に前へ進んでゆこうと、一日たりとも無駄にすまいと。一足ずつ前へ歩み続けて、一日でも早く船を操れるキャプテンに、と。この決意こそが最初の一歩、と。
(何をしたわけでもなかったんだが…)
 決意してみても、意味が読み取れない計器。どう使うのかも分からないレーダー。もちろん舵を握れはしないし、「触らせてくれ」とも言えずに終わった初日。キャプテンになった最初の日。
 けれど、此処から進んでゆかねばならない自分。真のキャプテンへの道を。
 だから書こうと思ったのだった、自分の歩みを綴る日誌を。
 ブリッジの皆が共有している記録とは別に、個人的なものを。日々の出来事を書き留めようと。
 そう考えたから、勤務時間が終わった後に出掛けた倉庫。ノートを一冊貰って帰った。いつもと変わらない部屋へ。昨日までいた厨房時代と、何も変わっていない部屋へと。
 机に向かって広げたノート。それにレシピを記す代わりに、記した自分の一日の記録。今日から船のキャプテンになった、と書き始めたのだったか、一行目は。
 船をあちこち視察したことや、機関部の奥に初めて入ったことなどは確かに書いたけれども。
(ブルーと宇宙を飛んでいたことは…)
 微塵も書きはしなかった。ブリッジの仲間は知らないのだから、伏せておこうと。宇宙服を着て出たならともかく、ブルーの力で生身で出掛けていたのだから、と。
(あれが前の俺の、隠し事の始まり…)
 全てを書いたわけではなかった航宙日誌。「俺の日記だ」とブルーにも見せなかったけれども、個人的な思いを記してはいない。ブルーとの恋も、二人で過ごした時間のことも。
(そうか、初日からブルーとのことを隠していたか…)
 こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。恋をしていたわけでもないのに、伏せてしまったブルーとの思い出。二人で宇宙から眺めていた船、宇宙服も無しで。
 明日は小さな今のブルーに話してやろう。「初日から嘘を書いていたぞ」と。
 土曜日だから、ブルーの家を訪ねてゆく日だから。



 そして次の日、小さなブルーと向かい合わせで座った部屋。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで切り出した。
「俺の日誌のこと、覚えているか?」
 前の俺のだ、キャプテン・ハーレイの航宙日誌。…あれにそっくりの復刻版が出てるだろ?
「買う決心がついたの、ハーレイ?」
 やっと買うの、とブルーが瞳を煌めかせるから。
「いや、高いなと広告を見てて…。べらぼうな値段の本だろうが」
 元の日誌はタダのようなモンだったのに、と考えていたら、あれこれと思い出してだな…。
 それでだ、俺のキャプテン初日の日誌なんだが…。
「日誌、初日から書いてたの?」
 真面目だったんだね、ちゃんと初日も書いたんだ…。もっと後からかと思っていたのに。
「まあな。それも真っ赤な嘘というヤツを」
「え? 嘘って…」
 ありもしないことを書いておいたとか、凄くカッコ良く脚色したとか…?
「その逆だ。お前が連れて行ってくれた視察を伏せた」
 実に劇的な出来事だったが、前の俺は書かなかったんだ。お前と一緒に視察したことを。
「視察って…。あちこち案内してあげたのに?」
「そいつは書いてあるんだが…。締め括りのヤツだ、宇宙からの視察」
 お前、連れて行ってくれただろうが。船を見るなら外からでないと、と。宇宙服も無しで。
「…あれ、書いてないの?」
「うむ。どうせ仲間は誰一人として気付いちゃいないし、その方がいいかと…」
 宇宙服も着ないで外に出るなど、キャプテンがすべきことでもないしな。
「酷い…!」
 ハーレイに船を見せてあげなくちゃ、と思ったから連れて行ったのに…!
 二人きりで船の外に出たのに、何も書かずに済ませたなんて…!



 酷い、とブルーは膨れたけれど。暫くは膨れっ面だったけれど、初日から書かれずに伏せられてしまった、キャプテン・ハーレイが経験したこと。宇宙からシャングリラを眺めた事実。
 それを書かずに済ませたほどだし、一事が万事だと悟ったようで…。
「…だったら、前のぼくとのことは…」
 宇宙からの視察も書いてないんじゃ、恋人同士になってからのことも…。
「何も書くわけがないってな」
 あの視察以上にマズイだろうが、後になって誰かが読んだ時に。…お前とのことを書いたなら。
「今度の日記も同じなんだね。今のハーレイが書いてる日記」
 日誌じゃなくって日記だけれども、ぼくのこと、書いていないんでしょ?
「今のトコはな。どうせ元から覚え書きだし」
 航宙日誌とはまるで違うぞ、本当に日記なんだから。後進のために書いてもいないし。
「いいけどね…。ぼくのこと、生徒としか書いていなくても」
 他の生徒と区別がつかない書き方でも仕方ないけれど…。
 今はいいけど、今度は結婚するんだから。ずっとそれだと、ぼく、怒るからね?
 それと、前のハーレイの航宙日誌…。



 いつかは買って欲しいんだけど、と強請られた。例の高価な復刻版。
 今のブルーは、それの秘密を知っているから。書かれたままの文字を見たなら、蘇ってくる遠い日々の思い出。其処に書かれた文字以上のことを、今の自分は読み取れるから。
(きっと買わされちまうんだろうなあ…)
 結婚して二人で暮らし始めたら、あの高い本を丸ごと全部。前の自分が綴り続けた長い日誌を、最初の巻から終わりの巻まで。
(おまけに、その日は何があったか、解説も無理やり…)
 させられることになりそうだけれど、きっと幸せだろうから。
 ブルーと二人で開く日誌は、前の自分が手に入れられなかった幸せの中で読むのだから。
 「知らんな」とケチなことは言わずに、ブルーに説明してやろう。
 「この日はだな…」と、隠し事はぜずに、正直に。前の自分の想いもこめて。
 きっとブルーには、最初から恋をしていたから。
 アルタミラで初めて出会った時から、きっと惹かれていた筈だから…。




            航宙日誌の始まり・了

※前のハーレイが書いていた航宙日誌。ブルーとのことは、初日から書かなかったのです。
 けれど、復刻盤を見たなら、全てを思い出せる筈。いつか買って、ブルーに解説することに。
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(ふうん…?)
 綺麗、と小さなブルーが眺めたガラスの靴。学校から帰っておやつの時間に広げた新聞、其処に載っていた美しい靴。
 幼い頃に読んだお伽話から抜け出したように、澄んだ輝き。イメージそのまま、キラキラと光る透明な靴。クッションの上に置かれて、お姫様が履くのを待っているよう。
 なんて素敵な靴なんだろう、と添えられた記事を読んでみたら。
(大切な人へのプレゼントにどうぞ、って…)
 本当に本物のガラスの靴。履いて歩くのは難しいけれど、履いても割れはしない靴。小さなヒビさえ出来はしなくて、足にピッタリ合うらしい。ガラスだから歩けないだけで。硬いガラスは足の動きに添って柔らかく曲がらないから、靴擦れなどが出来てしまって。
 足のサイズにピッタリ合わせて、大切な人へのプレゼント。そうするためのガラスの靴。
(大切な人だから…)
 もしも自分が贈るのだったら、ハーレイということになるけれど。
(違うよね、多分…)
 ガラスの靴を履くには大きすぎる足。サイズは特注になってしまいそう。ガラスの靴はピッタリ合うのが売りらしいけれど、基本のサイズはあるだろうから。
(微調整して作るんだよね?)
 きっとその方が効率的。一から作ってゆくよりも。
(ハーレイのサイズで作って下さい、って頼んだら、待ち時間、うんと長いかも…)
 それでも出来るとは思うけれども、貰うのなら自分の方だろう。ガラスの靴はお姫様の靴だし、写真の靴も女性向け。すらりとして華奢で、踵が高くて。



 何処から見ても、男性用ではないデザイン。お伽話の世界の靴。
 自分も男には違いないけれど、貰うなら多分、自分の方。いつかハーレイのお嫁さんになるし、花嫁衣装も着るのだから。
(だけど、貰っても…)
 似合いそうにないガラスの靴。チビの自分が履いてみたって、学校でやる劇の登場人物のよう。懸命に役を演じているだけ、大人の役でも子供は子供。お姫様でも、王子様でも。
(もっと大きくならないと…)
 ガラスの靴は似合わないだろう。サイズがピッタリ合っていたって、劇の衣装にしかならない。金色の紙で出来た冠などと同じで、子供に似合いの舞台用の小物。少しも値打ちが無さそうな靴。いくら綺麗に光っていたって、履いているのは子供だから。
(ぼくが履いても似合うようになるのは…)
 前の自分と同じに育って、結婚出来るくらいの年頃。花嫁衣装が着られる頃。
 だから、この靴もプロポーズ用の靴なのだろう。お伽話に憧れる女の子にプレゼントするより、プロポーズ。大切に想う恋人に渡して、履いて貰って。
(指輪よりかは…)
 こっちの方が好みかも、と考えた。
 プロポーズには指輪がつきものだけれど、指輪は結婚指輪で充分。婚約指輪なんかは要らない。貰ったところで嵌めることもないし、つけてゆく場所も無いのだから。
 それよりはガラスの靴がいい。指輪と違って飾っておけるし、いつも眺めて幸せな気分。見れば浮かぶだろうプロポーズの言葉、貰った時の気持ちなんかも。貰った場所も。
 そう思ったら…。
(ガラスの靴…)
 この靴が欲しくなって来た。煌めくお伽話の靴。本当に履けるガラスの靴を、ハーレイから。
 「お前の足に合う筈なんだが」と。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、忘れられないガラスの靴。透き通ったガラスで出来た靴。足にピッタリのガラスの靴は…。
(シンデレラだよね)
 ガラスの靴を履いたお姫様。憧れの王子様とダンスを踊って、幸せ一杯のハッピーエンド。
 今の自分もハーレイとハッピーエンドを迎えるのだから、ガラスの靴が似合うと思う。使わない婚約指輪などより、ガラスの靴でプロポーズ。
 それがいいな、と夢を膨らませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ワクワクしながら切り出した。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、靴をプレゼントしてくれる?」
 今じゃなくって、ぼくが大きくなってから。…靴のプレゼント。
「はあ?」
 靴ってなんだ、俺と一緒にジョギングするのか、そのための靴か?
「違うよ、ガラスの靴だってば!」
 シンデレラが履いてたガラスの靴だよ、今日の新聞に載ってたんだよ!
 とっても綺麗なガラスの靴。足にピッタリに作って貰えて、本当に履ける靴だって。硬いから、歩くのには向いてないらしいけど…。
 「大切な人へのプレゼントにどうぞ」って書いてあったから、きっと恋人用だと思う。ガラスの靴でハッピーエンドになるお話でしょ、シンデレラは?
 だからね…。



 プロポーズしてくれる時はそれがいいな、と注文した。足にピッタリのガラスの靴。婚約指輪を貰うよりもガラスの靴がいい、と。
「そうなのか? 婚約指輪よりもガラスの靴なあ…」
 まあ、お前、確かに指輪は嵌めそうにないが…。プレゼントしても。
「シャングリラ・リングは欲しいし、嵌めるよ! シャングリラから作る指輪だもの!」
 それに結婚指輪はちゃんと嵌めるよ、シャングリラ・リングじゃなくっても!
 抽選に外れて普通の指輪になってしまっても、ハーレイとお揃いの指輪なんだから!
 前のぼくたちは嵌められなかった、結婚してる印なんだから…!
「そいつは俺も何度も聞かされてるが…。それ以外の指輪はあまり興味が無いんだろ?」
 婚約指輪は贈るつもりだが、お前、仕舞っておくだろうしな。…つける代わりに。
「うん、そんな指輪は嵌めないよ。大切にするけど、宝石の指輪は、ぼくはあんまり…」
 つけて行くような場所も無いしね、高い指輪を買って貰っても。
 ハーレイと結婚出来れば充分、婚約指輪も要らないくらい。結婚指輪だけで。
 でも…。
 プロポーズにガラスの靴もいいな、と思うから…。ハッピーエンドのお姫様の靴。
 婚約指輪を貰うよりかは、断然、そっち。うんと幸せな気分になれそう。
「…男物の靴は無いと思うぞ?」
 なにしろガラスの靴なんだしなあ、普通、男には贈らんだろうし…。
「それでもいいから! 新聞に載っていたガラスの靴も、女の人の靴だったから!」
 ホントにシンデレラが履きそうな靴で、踵も高くて…。あの靴が欲しいよ、シンデレラの靴。
 夢みたいに綺麗なガラスの靴が。
「なるほど…。要はハッピーエンドなんだな、お前の夢は?」
 宝石のついた指輪を貰うより、ハッピーエンドのガラスの靴。
「そう!」
 幸せになれそうな気分がするでしょ、ガラスの靴を貰ったら。
 プロポーズされて指輪を嵌めてみるより、足にピッタリのガラスの靴を履く方が。



 絶対、幸せになれそうだから、と強請った靴のプレゼント。気が早すぎる話だけれど。まだまだ結婚出来はしなくて、プロポーズの日も来ないのだけれど。そうしたら…。
「そうだな、今は時間切れにもならないしな」
 ガラスの靴もいいかもしれんな、あれの魔法は時間が来たら解けちまうんだから。
「え…?」
 時間切れってなあに、それに今って…?
 ハーレイ、魔法を見たことがあるの、時間切れになっちゃうシンデレラの靴を…?
「シンデレラに会ったことは無いがだ、似たような人なら知っていた」
 前のお前だ。時間が来たら魔法が解けて、ソルジャーに戻っちまうんだ。
 俺だけの大切なお姫様なのに、魔法の時間が終わっちまったら…。
「あ…!」
 そうかも、前のぼくならシンデレラかも…。舞踏会には行かなかったけど。
 ハーレイとダンスもしていないけれど、恋人でいられた時間は確かに魔法だったかも…。
 みんなに内緒で、知られるわけにはいかなくて…。
 恋人同士でいられる時間が終わっちゃったら、前のぼく、ソルジャーに戻っておしまい…。



 シンデレラは夜にお城の舞踏会へと出掛けるけれども、前の自分も夜の間だけのお姫様。昼間は白いシャングリラを守るソルジャー、夜になったらハーレイの恋人のお姫様。
 ダンスの代わりに抱き締めて貰って、キスを交わして、二人きりの甘い時間が始まる。ガラスの靴を履いて踊る代わりに、ソルジャーの靴を脱いでしまって。
 靴だけでなくて、マントも上着も何もかも脱いで。ハーレイと抱き合って愛を交わして、二人で寄り添い合って眠って。恋人同士の夜を過ごして、朝になったら…。
「お前、靴を履いて行っちまった」
 シンデレラは靴を落としてゆくのに、お前は履いて行っちまうんだ。
 元のソルジャーに戻ってしまって、お姫様のお前は消えちまう。俺の前からいなくなるんだ…。
「それを言うなら、ハーレイもじゃない…!」
 お姫様じゃなくて王子様だけど、靴を履いたら元のキャプテン。
 前のぼくの恋人は消えてしまったよ、キャプテンの靴を履いちゃったら。
「まあな。…お互い様ってトコか」
 お前はソルジャーで、俺はキャプテン。恋人同士の顔は誰にも見せられなかった。
 夜の間だけしか、魔法はかからなかったんだ。前の俺たちが恋人でいられる魔法はな…。



 昼間も恋はしていたけれども、皆の前ではキスは出来ない。抱き合うことも、手を繋ぐことも。
 前の自分も前のハーレイも、お互い、夜だけの恋人同士。
 魔法の時間が終わった後には、靴を落としてさえ行けなかった二人。シンデレラが片方落とした靴は、ハッピーエンドに繋がったのに。シンデレラの足にピタリと合って。
「前のぼくたち、靴も落とせなかったよね…」
 魔法の時間が終わっちゃったら靴を履くんだし、両方履くしかなかったから。右も左も。
 制服を着たら、靴も履かなきゃ…。
「靴を片方だけっていうのは有り得なかったからなあ、俺たちの場合」
 キャプテンにしてもソルジャーにしても、だらしないってことになっちまう。
 靴を片方しか履いてないんじゃ、寝ぼけてるとしか見えないからな。両方きちんと履かないと。
「そうでしょ? ぼくがやっても、ハーレイがやっても、エラに叱られてしまいそう」
 片方の靴はどうしたのです、って怖い顔をして睨まれて。急いで履いて来て下さい、って。
 でもね…。前のぼくたち、靴を落としては行けなかったけど、その必要は無かったと思わない?
 片方の靴を持って探しに出掛けなくても、誰だか分かっていたんだから。…自分の恋人。
 前のぼくもハーレイも、ちゃんと恋人、分かっていたでしょ?
 何処にいる人で、どんな人なのか。顔も名前も、何もかも全部。
「違いないな…!」
 靴を落としちゃ行けなかったが、最初から落とす必要も無い、と。
 俺はお前を間違えやしないし、お前だって俺を間違えやしない。靴を頼りに探さなくても、船の中で会えば分かるってもんだ。
 他のヤツらが周りにいたから、出会ってもキスは出来なかったし、プロポーズも出来なかったというだけのことで…。前の俺たちには、片方だけの靴は要らなかった、と。
 持ち主は誰か、お互いに知っていたんだからな。



 それに、とハーレイが浮かべた笑み。「靴が頼りでも苦労しないぞ」と。
「俺はともかく、お前の場合は靴を見ただけで誰か分かったからな」
 あの靴の持ち主が分からないヤツは、シャングリラには一人もいなかったろうさ。
 あれを履ける足の持ち主を探さなくても、同じデザインの靴は他に一つも無かったんだから。
「ぼくだけだったしね、あんな靴…」
 他には誰も履いてなかったよ、あんなに目立つブーツなんかは…!
「そういうこった。俺の靴なら他に幾つも…って、サイズで分かるか」
 同じデザインの靴が山ほどあっても、俺の靴のサイズは特大っていうヤツだしなあ…。
「当たり前だよ、長老の靴は全部おんなじだったけど!」
 キャプテンの靴と長老の靴は、同じデザインになってたものね。男性用でも、女性用でも。
 それに、仲間の靴だって。…男性用のはハーレイたちのと良く似ていたよ。パッと見ただけじゃ分からないほど、見掛けはそっくり。
 でも、前のぼくだって、サイズで誰だか直ぐに分かったよ。靴の持ち主。
 ハーレイが靴を片方落として行ったら、「この大きさなら、ハーレイだな」って。
「そうなんだよなあ…。俺の足だけが無駄にデカかったんだ」
 ミュウは大抵、虚弱に出来ていたもんだから…。アルテメシアで新しい仲間が増えていっても、前の俺みたいにデカい身体の持ち主は一人もいなかったっけな。
 あの図体に見合った靴を履いてたのは俺しかないし、他のヤツらには大きすぎる靴で…。落ちていたなら、俺の靴だと分からないヤツは誰もいないか。
 お前の場合はつまらないんだな、恋人探し。
 俺が片方落として行っても、誰の靴か直ぐに分かるんだから。
「ハーレイもでしょ!」
 先にハーレイが言い出したんだよ、ぼくの靴は見ただけで分かるって!
 ピッタリの足の持ち主は誰なのか探さなくても、同じデザインの靴は無いんだから、って!



 前の自分も前のハーレイも、探す必要が無かった靴の持ち主。片方落としていった恋人。
 誰に見せてもデザインかサイズで分かってしまうし、自分たちだって同じこと。
 つまらないような気もするのだけれども、逆に考えれば探さなくても出会える恋。片方だけでも靴があったら、それだけで。誰の靴かと、一目見ただけで。
(お互い、探さなくても済むんだっていう方が凄いよね…?)
 シンデレラの王子は国中を探させるのだから。片方だけのガラスの靴を家臣に持たせて、それがピッタリの人は誰かと。誰とダンスを踊ったのかと、自分が恋をした人は、と。
 そうしなくても、恋の相手が直ぐに分かったのが前の自分たち。考えようによっては、お伽話の恋人たちよりずっと上。探す必要も無いのだから。靴が片方ありさえすれば。
(シンデレラよりも凄いよ、これって…)
 本当に運命の恋人同士、と前の生へと思いを馳せていたら、ハーレイに声を掛けられた。
「そういえば…。お前、羨ましがっていたっけな?」
 俺に何度も言っていたもんだ、そんなのがいいな、と。
「羨ましいって…。何が?」
 何が羨ましかったの、前のぼくは?
「前の俺の靴だ。さっきから話題になっている靴」
 キャプテンだった俺が履いてた靴だな、ゼルやヒルマンのと全く同じでサイズ違いの。
 シャングリラで一番デカいサイズで、他のヤツが履いたら脱げそうなヤツ。
「靴って…。なんで?」
 どうしてハーレイの靴が羨ましいわけ、あの靴、船に溢れていたよ?
 ゼルやブラウのは全く同じで、男性用の靴も見た目は殆どおんなじで…。
 ハーレイの靴って言わなくっても、シャングリラの中には山ほどあったと思うんだけど…!
 ゼルの靴でもヒルマンの靴でも、どれでも羨ましそうなんだけど…!



 まるで記憶に無い話。平凡だったキャプテンの靴。長老たちは揃いのデザインだったし、男性の制服に合わせた靴も似たようなもの。並んで立ったらそっくり同じに見えたくらいに。
 あんな靴の何処が良かったのだろう?
 シャングリラでは本当にありふれた靴で、珍しくもなんともなかった靴。通路に片方落っこちていても、誰の靴か分からないほどに。ハーレイの特大の靴でなければ。
 どう考えても平凡な靴で、前の自分が目を留めそうにもないのだけれど。
(羨ましいって言ってたんだし、何かいいトコ、あったんだよね…?)
 きっとその筈、あの靴ならではの魅力が何処かに。
 履き心地だろうか、と思ったけれども、ソルジャーの靴の履き心地が悪いわけがない。比べれば遥かに上だった筈で、足にピッタリだった筈。それこそシンデレラの靴のように。
(履いてることを忘れるくらいの靴だったよ…?)
 大袈裟なブーツだったけれども、軽やかで、重みを感じさせなくて。
 それでいて防御力はとても高かった。衝撃などから守ってくれた頼もしい靴。いつも着けていた手袋と同じ。身体に負担をかけない素材で、それは丁寧に作られていた靴。
 起きている間は、何処へ行くにもあの靴を履いていたのだから。船の中でも、船の外でも。
 常に足を包み続ける靴だし、不快感を与えないように。締め付け過ぎたり、緩すぎたりでは話になりはしない靴。身体の一部であるかのように、馴染んでいないといけない靴。
 ソルジャーのための靴だったのだし、シャングリラの中では最高の履き心地の靴だった筈。他の仲間とは足のサイズが変わってくるから、誰が履いても最高の靴とは言えないけれど。
 ハーレイだったら足が入らないし、他の仲間でも靴擦れが出来たかもしれない。
 とはいえ、前の自分にとっては、シンデレラの靴のようだった靴。前の自分のためだけの靴。
 そういう靴を履いていたのに、どうしてハーレイの靴が羨ましかったのだろう?
 いくらでも船にありそうな靴が。落っこちていても、持ち主が全く分からないような靴が。
 …サイズの問題を抜きにさえすれば。ハーレイの靴なら、サイズで一目瞭然だから。



 分からないや、と首を傾げて考え込んでいたら、「忘れちまったか?」と可笑しそうな声。
 あんなに羨ましがっていたのに、と。
「前のお前は、あの靴が羨ましかったんだ。船に溢れていた靴がな」
 何処から見たって平凡な靴で、ありふれたデザインだったんだが…。おまけに地味だし。
 しかしだ、お前、前の俺が朝にアレを履く時、よく言ってたぞ。
 俺の足元を覗き込んでは靴を眺めて、指差したりして。
 ハーレイの靴は普通でいいね、と。ぼくのと違って、みんな履いてる靴だから、とな。
「ああ…!」
 そうだったっけ、普通なのが羨ましかったんだ…!
 ハーレイの靴はみんなと同じで、ゼルもヒルマンもブラウも履いてて…。他の仲間もよく似てる靴で、おんなじ靴が船に一杯。誰の靴だか分からないくらい。
 でも、ぼくの靴はシャングリラで一人だけしか履いてなくって、誰も同じじゃなかったから…。少しも普通じゃなかったから…!
 思い出した、と手を打った。
 前の自分が履いていたのは、よく目立つブーツ。上着に合わせたデザインのもので、白くて縁に銀の装飾。しなやかな素材で出来ていたけれど、邪魔なものではなかったけれど。
(靴じゃなくって、ブーツなんだよ…)
 ブーツも靴の一種だとはいえ、ハーレイたちの靴とは違う。あちらはごくごく普通のデザイン、ズボンの裾から覗くもの。制服が主役で靴は脇役、大して人目を引いたりはしない。
 ブーツの方だと、ズボンの裾はブーツの中に入るのに。ブーツも立派に制服の一部、履いていることを前提にして服もデザインされていたのに。
 男性用に作られた制服の靴も、ハーレイたちの靴と殆ど同じ。誰も履いてはいなかったブーツ。靴はズボンの裾から覗いて、脇役でしかないものだった。
 前の自分の靴だったブーツは、目立つブーツは、どちらかと言えば…。
(女性用の制服の靴とおんなじ…)
 あっちはブーツ、と零れた溜息。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がそうだったように。
 其処を何度も見詰め直しては、「女性用かも…」と溜息を漏らしていたように。



 蘇って来た前の自分の記憶。男性は履いていなかったブーツ。自分の他には、ただの一人も。
 男性用のブーツと言えば、修理などの時の作業用。人前に出る時は履き替えるもので、ブーツで船内を歩いていたりはしなかった。よほど急いでいる時以外は。
 けれど、女性はいつでもブーツ。制服がそういうデザインだったし、子供の頃から。小さい間は短いブーツで、大きくなったら長い丈になっていたブーツ。
「ハーレイ、前のぼくが履いてた靴だけど…」
 ぼく一人しか履いていなかったことも普通じゃないけど、ブーツだったことも普通じゃないよ。
 あの船でブーツを履いていた人、男の人には誰もいなくて…。
 作業服とかを入れなかったら、ブーツは女性用の靴。女の人の制服の靴がブーツだったよ。
「思い出したか、そこが問題だったんだよなあ…」
 お前、何度も文句を言うんだ、「この靴は女性用だと思うんだけど」と、俺だけに。
 服飾部門のヤツらに文句を言えはしないし、会議にかけて変えるわけにもいかないし…。
 もっと早くに気付いていたなら、デザインの段階で変えられたろうが…。後の時代でも、素材が完成するまでだったら、多分、変更出来たんだろうが。
 …お前、気付くのが遅すぎたんだな、男でブーツはお前だけだということに。
 前の俺だって、お前が文句を言うまで全く気付かなかったし、無理もないとは思うんだが。
「うん…。ぼくもホントにウッカリしてたよ」
 ハーレイたちの靴とは違う、ってトコばかり見てて、船全体が見えていなくって…。
 前のハーレイと恋人同士になった後だよ、女の人の制服だったらブーツなんだ、ってことに気が付いたのは。…それまではちっとも知らなかったよ、ホントだよ。
 きっと、カップルを見ていることが増えたからだね、あそこにも恋人同士の二人がいる、って。
 ぼくがハーレイと恋人同士だって宣言出来たら、あんな風に一緒にいられるのに、って…。
 だから女の人の方を見ながら、ぼくの姿を重ねてた。ハーレイと二人で歩きたくって。
 そうやって何度も眺めていたから、ブーツにも気が付いちゃった。男の人はハーレイと同じ靴を履いてて、女の人の靴はブーツだよね、って。
 …おまけにデザイン、そっくりなんだよ。前のぼくのブーツと女の人のと、殆ど同じで…。
 だってそうでしょ、どっちも似たような形なんだよ、並べてみたら。



 色は全く違うんだけど、と今も鮮やかに思い出すことが出来る、女性たちが履いていたブーツ。制服のスカートと同じ色のブーツで、縁の飾りが金色だった。
 どういうわけだか、ソルジャーだった前の自分のブーツと瓜二つのように思えたそれ。そういうデザイン、縁飾りが少し控えめなだけ。女性用の方が。
 ハーレイはもちろん、服飾部門の者たちも含めて誰も気付いていなかったけれど、一度気付くとそう見えた。ソルジャーのブーツは女性用だと、それとそっくり同じ形で、男性用の靴とは少しも似ていないと。
 たった一人だけ、ブーツを履いた男性だった前の自分には。女性と同じブーツの前の自分には。
「酷いと思うよ、あのデザイン。…なんで女の人用なわけ?」
 ハーレイと恋人同士になった後に出来たブーツだったら、嬉しいけれど…。ぼく一人だけが違う靴でも、女の人用と同じブーツでも。
 偶然なんだ、って分かっていたって、ハーレイの恋人用のデザインみたいな気分だから。
 二人で一緒に歩く時には、こっそりハーレイの恋人気分。…並んで歩けなくったって。
 だけど、そうじゃなかったんだもの…。ブーツの方が先にあったんだもの。
「お前、ブーツについては文句ばっかりだったな」
 同じ制服でも、上着の模様は「お揃いだね」と大喜びをしていたくせに。
 俺と恋人同士になった後で気付いて、「ハーレイのと同じ」と何度も触っていたくせに…。前の俺の上着についていた模様、お前の上着と揃いになっていたからな。
 ブーツも前向きに考えればいいと思うんだがなあ、俺の恋人になっていたんだから。女性用のがピッタリじゃないか、俺とこっそりカップル気分で。
 なのに、それを言ったらお前は怒り出すんだ、「ブーツは別だ」と。このブーツだけは、とても許す気分になれないと。
「決まってるじゃない、上着の模様と靴のデザインとは違うんだよ?」
 上着だったら、ソルジャーとキャプテンがお揃いでも変じゃないんだよ。恋人同士でなかったとしても、シャングリラを纏める二人だから。
 でも、ソルジャーのブーツと女性用のブーツ、同じデザインにしておく意味があるわけ?
 いざという時には戦いに出るのがソルジャーなんだよ、船を守って戦う役目。
 ソルジャーはそういう仕事だけれども、女の人たちは全く違うよ?
 戦いになんか参加しないし、ブリッジにいてもレーダーだとか分析担当…。
 ソルジャーとは立場が違いすぎるし、同じデザインの靴にする意味が全く無いんだけれど…!



 どう考えても納得出来ない、と未だに腹が立つブーツ。女性用と同じだったデザイン。
 前のハーレイと恋人同士になっていたって、複雑な気持ちは拭えなかった。女性みたいだ、と。
 しかも最初から、そういうデザイン。他の男性は普通の靴だったのに。
「おいおい…。俺と恋人同士にならなきゃ、お前、気付かなかったんだろうが」
 そんなに文句を言ってやるなよ、誰も悪気は無かったんだ。あのデザインにしようと考え付いたヤツも、それでいいと決めた前の俺たちも。
 ただなあ…。ちょいと気になる点はあるなあ、今になってみたら。
「今って…。ハーレイ、何かを思い出したの?」
 誰かがブーツの話をしてるの、聞いたとか?
 前のぼくが眠ってしまった後とか、いなくなってしまった後とかに…?
「いや、そうじゃないが…。お前でも分かることだな、うん」
 ジョミーのブーツだ、お前のとそっくり同じじゃなかった。上着のデザインが違ったように。
 そいつに合わせて変えてあったんだと思いたいんだが、もしかしたらだ…。
「…デザインした人、前のぼくのブーツに気付いてたわけ?」
 あの通りにしたら女性用と同じデザインになる、って気が付いてたから変えちゃった?
 ぼくだけだったら、誰も気付きはしないけど…。
 ジョミーも同じブーツを履いたら、気付かれるかもしれないものね?
 履いてる人が一人増えたら、その分、目に付きやすくなるから。ブーツの男の人が二人、って。
 でなきゃ、ジョミーが気付くだとか。…「このブーツ、女の人のと同じだけど?」って。
「今となっては謎なんだがなあ、可能性ってヤツはゼロではないな」
 お前の制服をデザインしたヤツ、職業柄、いつも仲間たちの服を見ていただろうし…。
 それこそ、お前と同じくらいに後になってから、ミスに気付いたかもしれん。やっちまったと。
 しかし、自分から「変更します」と言えば墓穴だ。理由を訊かれて、怒鳴り付けられて。
 …それはマズイ、と自分一人の腹に収めてたら、ジョミーが来たってこともある。
 服のデザインを任せられたから、ブーツのデザイン、直したかもなあ、バレないように。
 ソルジャーの制服はブーツなんだと、女性用のブーツとは全く違う、と。
「…それ、酷くない?」
 怒っていいかな、ぼくのはやっぱり女の人の靴だったんだ、って…!
 ジョミーのブーツは男性用だけど、ぼくのはホントに女性用のブーツだった、って…!



 あんまりだよ、とプンスカ怒ろうとしたら、「推測だぞ?」と宥められた。偶然だということもあるから、怒ってやるなと。それに本当だったとしたって、とっくに時効なのだから、と。
「お前の靴に話を戻そう。ブーツのデザインの方じゃなくてな」
 女性用に見えたって件はともかく、お前はブーツで、前の俺は船に溢れていた靴。
 そいつが羨ましかったんだろうが、前の俺の靴。…ブーツじゃなくて普通だったから。
 誰でも履いてて、目を引くこともないからな。前のお前の靴と違って。
「うん…。ハーレイの靴、ホントに普通の靴だったもの…」
 前のぼくは目立ち過ぎるブーツで、ぼくしか履いていなかったんだよ。ホントにぼくだけ。
 それに、ソルジャーの役目をやってる限りは脱げないし…。あの靴もソルジャーの制服だから。
 ぼくもおんなじ靴にしたい、って注文したって、絶対に無理。服に合わないから。
 ソルジャーはソルジャーの服しか着ていられないし、靴だって同じ。
 みんなと同じ制服なんかは着られないでしょ、そんな我儘、言えないものね…。
 ぼくもああいう靴がいいとか、あの靴がいいから普通の制服を着てみたいとかは。



 前の自分が羨ましがったハーレイの靴。他の仲間たちと同じような靴。片方だけ通路に転がっていても、誰の靴だか分からないほどに。サイズを調べない限り。
(ハーレイの靴なら、見たら誰でも分かるけど…)
 前の自分が落とした靴なら、きっと分からなかっただろう。同じサイズの靴を履いている仲間が多くて、その中の誰の靴なのか。それこそ船中、持ち主を探して回らない限り。
 けれども、前の自分の靴は違った。一人だけブーツで、目立つデザイン。片方だけでも、直ぐに持ち主が分かってしまう。この靴だったらソルジャーだ、と。
 たった一人だけ、違ったデザイン。他の仲間は履いていない靴。
 そういう靴を履いているのだ、と自覚させられたら、羨ましく感じたのだった。他の仲間たちと似たデザインの靴のハーレイが。長老たちとはそっくり同じで、男性用の制服の靴ともそっくり。見た目だけなら区別がつきはしなかった。長老用の靴と男性用の靴は。
(みんな、ああいう普通の靴…)
 女性はともかく、男性ならば。ブーツではなくて、ズボンの裾から覗く靴。
 ずっと昔は自分もそういう靴だったのに、と何度もハーレイの靴を見ていた。制服が出来る前の時代は、普通の靴を履いていたから。
(ブーツなんかは…)
 多分、履いてはいなかっただろう。物資に混ざっていたとしたって、好んで選びはしなかった。ブーツが好きで履いていたなら、記憶に残っているだろうから。
(歩きにくいし…)
 ソルジャーのブーツならばともかく、ファッションとして選ぶブーツの方は。
 人類軍の制服のブーツは別だけれども、普通に売られていただろう物は。今の自分も、ブーツを履きはしないから。短いブーツも、長いブーツも。



 普通の靴が一番いい、と羨ましかった前のハーレイの靴。ああいう靴を履けたなら、と。
 ソルジャーの制服を着ている限りは、けして履くことは出来ない靴。
「お前、何度も普通の靴を履きたがって…」
 履いてみたい、と俺に言うんだ、そんなこと出来やしないのにな。
 いいな、と眺めて、羨ましがって、時々、夜に…。
「ハーレイの靴を借りてみたっけね、ぼくにも履かせて、って」
 ちょっと脱いで貸して、って借りてたんだよ、ハーレイが椅子に座っている時に。
 青の間でしかやってないけど、借りて履いてみて、「似合うかい?」って。
 ブカブカの靴で、ぼくに似合うわけないのにね…。大きすぎて直ぐに脱げちゃってたし。
 でも、憧れの靴だったから、と時の彼方から戻って来た記憶。
 いつか平和を手に入れたならば、ソルジャーが要らなくなったなら。
 普通の靴をまた履いてみたいと願った自分。ハーレイが履いているような靴を。ブーツではない普通の靴を。
 その日を夢に見ていたのだった、前の自分は。ハーレイの靴を眺めて、借りて履いてみては。
「そういや、俺が選んでやるって言ったんだっけな」
 お前が靴の話をした時。…ソルジャーの制服が要らなくなったら、普通の靴を履きたい、と。
 その時にお前が履くための靴は、俺がピッタリのを選んでやるから、って…。
「そうだっけね…。ハーレイ、最初の靴を履いた時にも、ぼくに付き合ってくれたしね…」
 まだシャングリラじゃなかった船で、サイズが無くって探していた靴。
 ハーレイの足は大きすぎたし、ぼくはチビで足が小さかったし…。
 足に合う靴が見付からなくって、ハーレイは靴に切れ目を入れてて、ぼくは詰め物。前のぼくの足にピッタリの靴が見付かるまでは待っててやる、ってハーレイ、約束してくれたものね。



 まだシャングリラの名前が無かった船。最初から船に積まれていた靴も、前の自分が奪う物資に紛れていた靴も、ありふれたサイズの靴ばかり。特大のと子供用のは混じっていなかった。
 皆が自分に合う靴を選んで履いていた中、一番最後まで足にピッタリの靴が無かった二人。前のハーレイと、前の自分と。
 ハーレイは「俺の靴が先に見付かっても、履かずに待つ」と言ってくれたし、前の自分も思いは同じ。ハーレイの靴が見付かるまでは、と。
 そんな日々の果てに思い切って奪った、靴ばかりが詰まっていたコンテナ。大きな茶色の革靴はハーレイの足に丁度良かったし、小さな白い革靴は自分の足に似合いのサイズ。誂えたように。
 二人揃って手に入れられた、履くことが出来たピッタリの靴。
 あの頃からの運命だろう、と前のハーレイは微笑んだのだった。
 「普通の靴を履かれる時には、あなたの靴は私が選んで差し上げますよ」と。
 恋人として、心をこめて。
 足に合ったサイズと、似合いのデザイン。そういう靴を探して差し上げますから、と。



 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが言ってくれたこと。靴を選んでくれる約束。前の自分にピッタリの靴を、ソルジャーのブーツとは違う普通の靴を。
「…ぼくの靴、選んで貰い損なっちゃった…」
 死んじゃったから仕方ないけど、普通の靴を選んで貰える時代にもなっていなかったけど…。
「ふうむ…。だったら、今度は選んでやろうか?」
 お前はソルジャーとは違うわけだし、どんな靴を履くのも自由だしな。
 …って、お前、ガラスの靴が欲しいんだったか。歩けるようには出来ていないらしいが…。
「ガラスの靴…。靴の話を思い出したら、余計、欲しいかも…」
 ハーレイが選んでくれる約束、ぼくはすっかり忘れてたけど…。
 もしも選んでくれるんだったら、ガラスの靴がいいな。本当に履けるガラスの靴。
 歩くのはちょっと無理みたいだから、デートには履いて行けないけれど…。飾るだけだけど。
「よし、プロポーズの頃に俺が覚えていたらな」
 そいつをお前にプレゼントしよう、足にピッタリのを注文して。
 「俺と結婚してくれるんなら、この靴を履いて欲しいんだが」と。
「ホント?」
 買ってくれるの、ガラスの靴を?
 プロポーズの時はそれを履けばいいの、「うん」って返事して、足にピッタリの靴…?
「指輪よりもロマンチックだろうが。…お前、宝石の指輪に興味は無いんだからな」
 だったら、ガラスの靴の方がいいだろ、お前の足にしか合わない靴。
 お前に靴を選んでやるのは、前の俺の約束だったんだから。
 それに、お前も欲しいらしいしな、本当に履けるガラスの靴が。
「うん…!」
 あの靴が欲しいよ、ハーレイから。
 きっと最高に幸せな気分になれるよ、ぼくの足にピッタリのガラスの靴を履けるなら…!



 いつかハーレイと結婚する時、宝石のついた婚約指輪は要らないけれど。
 高い指輪なんかは要らないけれども、ガラスの靴は強請ってみようか。
 本当に履けるガラスの靴。
 前の自分は、ハーレイに靴を選んで貰い損なったから。普通の靴を選んで貰う前に、ハーレイと別れてしまったから。泣きじゃくりながら、独りぼっちで死んでしまって。
 けれど今度は青い地球の上、ハッピーエンドのガラスの靴。
 片方だけの靴ではなくて、ハーレイに両方、買って貰って。右足の靴も、左足の靴も。
 「履いてくれるか?」と差し出されるだろう、キラキラと煌めくガラスの靴。
 ハーレイからのプロポーズの言葉、それに応えて綺麗なガラスの靴を履く。
 「ありがとう」と、「君が選んでくれたんだよね」と。
 ガラスの靴では歩けないけれど、伸び上がって甘いキスを交わそう。
 プロポーズの返事はしたのだから。ハーレイと二人、幸せに生きてゆけるのだから…。




              ガラスの靴・了


※シャングリラでは、ブーツを履いていた男性はソルジャーだけ。前のブルーが憧れた靴。
 いつかハーレイに選んで貰う筈だったのが、普通の靴。今度は選んで貰えるのです。
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「クシャン!」
 風邪かな、と小さなブルーが竦めた首。学校から家に帰った途端に出たクシャミ。自分の部屋で制服を脱いで着替えていたら、いきなりクシャンと。
(風邪、引いちゃった…?)
 帰り道に少し冷たかった風。バス停から家まで歩く途中で。ほんの僅かな時間だけれども、肌に冷たく感じた風で身体を冷やしてしまったろうか?
(出てたのは顔と手だけでも…)
 身体も冷えたのかもしれない。冷たいな、と感じた空気が肌を伝って、服の下まで。
 きちんとウガイも済ませたとはいえ、心配な風邪。生まれつき弱いブルーの身体は、油断したら風邪を引くのだから。
(明日は土曜日なのに…)
 ハーレイと一緒に過ごせる日。風邪を引いたらそれが台無し、お茶も食事も楽しめない。楽しい休日が駄目になったら大変だから、と着替えを済ませたら一直線にキッチンへ。おやつにするならダイニングだけれど、とにかくキッチン。其処の食料品の棚。
(ハーレイの金柑…)
 これだ、と手に取ったガラス瓶。中に詰まった金柑の甘煮、隣町に住むハーレイの母がコトコト煮込んで作ったもの。「風邪の予防にいいんだぞ」とハーレイがくれた頼もしい金柑。
(三個ほど…)
 食べておかなくちゃ、と小さな器に取り出した。風邪を引きそうな時はこれが一番、と。
 その様子を母が見ていたお蔭で、シロエ風のホットミルクも貰えた。「今日はこれでしょ?」とケーキと一緒に出て来たミルク。
(風邪に効くんだよね?)
 これもハーレイに教えて貰った、セキ・レイ・シロエの好物だったという飲み物。歴史に名前を残した少年、シロエが注文していたミルク。マヌカの蜂蜜とシナモンが入ったホットミルク。



 金柑の甘煮を三個と、シロエ風のホットミルク。おやつのケーキも美味しかったから、温まった身体。けれど二階の部屋に戻ったら、窓の向こうで風の音。きっとさっきより冷えるだろう風。
(あんまり寒くならないといいな…)
 夜中に冷えると、メギドの悪夢を見てしまうから。そうならないよう、ハーレイに貰った右手を包むサポーターをはめて眠るのだけれど、忘れてしまうこともある。今は幸せな毎日だから。
(ウッカリ忘れてしまうんだよね…)
 今の自分の小さな右手。それが今より大きかった頃に、どんな思いをしたのかを。時の彼方で、ハーレイの温もりを失くした自分。右手が凍えてとても冷たいと、泣きながら死んだ前の自分。
 悲しい記憶を秘めた右の手、普段は忘れているけれど。メギドのことも、右手が凍えたことも。
(ハーレイが来てくれると温かいのに…)
 心も身体も温かくなる。声を聞いただけで心が弾むし、温かく幸せにほどける心。大きな身体に抱き付いたならば、優しく温かいハーレイの温もり。
 ハーレイの膝の上に座って甘えて、あれこれ話をしたいのに。心も身体も温めたいのに。
(来なかった…)
 今日は仕事で遅いみたい、と零れた溜息。ハーレイが来てくれる時間は過ぎてしまったから。



 寂しい気持ちで本を読んでいたら、夕食前にまたクシャミが出た。もう少ししたら母が呼ぶ声が聞こえるだろう頃合いで。クシャンと、一つ。
(ホントに風邪かも…)
 部屋は暖かくしてあるのだから、冷えたせいではなさそうなクシャミ。俄かに覚えた心細さ。
 今のクシャミが本当に風邪で、明日の土曜日が駄目になったらどうしよう、と。
(ハーレイは来てくれるだろうけど…)
 お見舞いに来てくれるだろうとは思うけれども、たったそれだけ。風邪でベッドの住人だったら楽しさ半減、全滅と言ってもいいかもしれない。二人でお茶を飲めはしないし、食事も出来ない。ハーレイは「寝てろ」と言うに決まっているから、向かい合わせで座れはしない。
 同じ風邪でも平日だったら、事情はまるで違うのに。大抵はハーレイが仕事帰りに来てくれる。前の自分が大好きだった、素朴な野菜スープを作りに。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。前の自分の病人食。同じスープを作って貰って、食べる間に昔語りを聞かせて貰ったり。
 平日に風邪で寝込んだのなら、幸せな時間を味わうことが出来るけれども、休日の風邪は素敵な時間を減らすだけ。ベッドから起きることも出来ずに、一日が終わってしまうのだから。
 せっかくハーレイが来てくれるのに。午前中から訪ねて来てくれて、夕食の後のお茶まで一緒。それが吹き飛ぶ風邪は嫌だ、と頭を振った。
(金柑も食べたし、シロエ風のミルクも…)
 だから大丈夫、と思いたいのに、さっき出たクシャミ。二度目だなんて、と怖くなるクシャミ。



 気のせいだよね、と不安を打ち消しながら食べた夕食。ハーレイの席が空いたテーブル。両親と囲んだ夕食だけれど、食べ終えた後に出たクシャミ。それも立て続けに三回も。
「あらあら…。やっぱり風邪なんじゃないの?」
 今日はお風呂は入らない方が、と母の心配そうな顔。「その方がいいわ」と。
「やだ!」
 お風呂は入る、と主張した。物心ついた頃から、こういう時でも入るのがお風呂。熱があっても入りたいほど、お風呂に入るのが大好きだから。
 ソルジャー・ブルーだった頃から、そう。無理をしてでも入っていた。暖かなバスタブのお湯に浸かるのが好きで、幸せな時間だったから。
 今の自分が幼い頃からお風呂好きなのも、そのせいだろう。文字通り寝込んでしまわない限り、お風呂は入ると決めている自分。母は「本当にお風呂好きだわねえ…」と溜息をついて。
「じゃあ、入ってもいいけれど…。温まったら、直ぐに寝るのよ」
 それから、早めに入ること。食べて直ぐだと消化に悪いし、もう少ししたら。
「はーい!」
 一時間ほどしたら入るよ、それでいいでしょ?
 お風呂が済んだら本も読まないで、ちゃんとベッドに入るから!



 約束を守って入ったお風呂。パジャマを着て部屋に戻った後には、急いでベッドに潜り込んだ。風邪を引いてはたまらないから、暖かい間に寝るのが一番、と。
 なのに、夜中にぽっかり覚めた目。見上げた暗い部屋の天井。
 サポーターをつけるのを忘れた割には、メギドの悪夢は見ていない。他の怖い夢も。けれども、目覚めてしまった自分。どうしてだろう、と考えてみたら。
(喉がちょっぴり…)
 痒いような、くすぐったいような感じ。放っておいたら痛みへと変わる、風邪の前兆。
(ハーレイのお母さんの、金柑の甘煮…)
 あれを食べなきゃ、と思っているのに、今度は睡魔。金柑を食べに行かせるものか、と包み込む眠気。それに捕まったら駄目なのに。風邪の悪魔の思う壺なのに。
(…金柑…)
 起きて金柑、と考える自分と、「寝ていればいい」と誘う声と。どちらがいいのか、迷っている間に捕まった睡魔。ウトウトと目を瞑ってしまって、そのまま落ちた眠りの淵。
 眠りは心地良かったけれども、暖かくて幸せだったけれども…。



 次に目覚めたら朝になっていて、起きるなり「クシャン!」と出て来たクシャミ。風邪の悪魔に捕まった。クシャミが何度も出て来る上に、少し熱い身体。喉にも痛み。
 このくらい、と起き上がろうとしていた所へ、運悪く通り掛かった母に聞かれたクシャミ。扉を開けて入って来た母は、見るなり「風邪ね」と見破った。
「今日は起きないで寝ていなさい」
 今なら熱も高くないから、大人しく寝てれば治る筈よ。朝御飯は持って来てあげるから。
 薬も飲むのよ、嫌がらないで。
「でも、ママ…! 今日はハーレイが…!」
 来てくれるんだよ、土曜日だから。
 このくらいの風邪なら大丈夫だから、ハーレイには風邪って言わないで…!
 来てくれなかったら大変だもの、どうせぼくは風邪で寝てるんだから、って…!
「心配しなくても、来て下さるわよ」
 普通の日でも、風邪を引いたら来て下さるでしょ、お仕事が忙しくない時は。大丈夫よ。
 一応、連絡はしておくけれど、と出て行った母。
 ハーレイ先生にも都合があるだろうから、風邪を引いたことは伝えなければ、と。



 母が連絡をしようと思う気持ちは、よく分かる。たまにハーレイがくれるお土産、お菓子などの食べ物ばかりだけれど。…買って来ようと思っているなら、今日だと無駄になるだろうから。
 風邪で寝込んだ病人には向かない食べ物やお菓子、それを買ったら大変だから。
 けれど、ハーレイには風邪を引いたと伝わるわけで、寝ていることも知られてしまう。いつもの調子で訪ねて来たって、自分はベッドの住人なのだと。
(ぼくが寝ているから、来ないなんてこと、きっとないよね…?)
 ジムや道場に出掛けてしまって、午後からしか来てくれないだとか。それが心配。ハーレイにも行きたい場所はあるだろうし、やりたいことも多い筈だから。
(…ひょっとして、夜に来てくれるだけ…?)
 平日のように、野菜スープを作るためだけに。他の時間はハーレイ自身のために使って。
 そうなってしまったらどうしよう、と気掛かりな所へ母が届けてくれた朝食。トレイに乗せて。小さめのホットケーキが一枚、それにシロエ風のホットミルク。
 栄養をつけないと治らないから、と頑張って食べて、嫌いな薬も飲んだ。「起きちゃ駄目よ」と母に念を押されて、大人しく横になったけれども。
(…ハーレイ、ちゃんと来てくれる…?)
 もう少ししたら、休日にハーレイが来る時間。今日はどうだか分からないけれど。車で何処かに出掛けてしまって、夜まで来ないかもしれないけれど…。



 時計を見たら悲しくなるから、壁の時計に背を向けた。枕元の目覚まし時計は見えはしないし、これで時間は分からない。ハーレイが来てくれる筈の時間がとっくに過ぎてしまっていても。
(…来てくれないなら、時計なんかは見えなくていいよ…)
 それに身体が熱っぽい、と瞳を閉じてウトウトし始めて。…どのくらい眠っていたのだろうか、不意に温かな声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?」
 寝ちまってるのか、それならそれでかまわないんだがな。
「…ハーレイ…?」
 聞きたくてたまらなかった声。目を開けてみたら、ベッドの側に座っていたハーレイ。いつもの指定席の椅子を運んで来て、すぐ側に。
「すまんな、起こしちまったか?」
 寝てたのにな、とハーレイが申し訳なさそうな顔をするから、「ううん」と返した。
「ちょっとウトウトしていただけ…。ハーレイ、来てくれないかと思って」
 もし来なかったら、とても寂しいから…。時計を見たくなくて、目を瞑ってた…。
「ふうむ…。俺が来たのに気付かなかったし、寝てたんだろうが…。起こしちまったな」
 でもまあ、今は大丈夫か。
 風邪を引いても、薬も病院も、何でもあるし。…ちょっとばかり目を覚ましちまっても。
「え…?」
 どういう意味なの、何でもあるって…?
 もしかして前のぼくのことなの、ハーレイ、何か思い出したの…?
「まあな。…お前、しょっちゅう風邪を引くのに、なんだって今まで忘れてたんだか…」
 ついでに、思い出す切っ掛けっていうのも要らないらしいな、場合によっては。
 風邪だと聞いたら思い出すなら、とうの昔に思い出してた筈だからなあ…。



 お前はちゃんと寝ていろよ、と額に当てられた大きな手。普段は温かいと思う手なのに、今日はひんやり心地良い。きっと熱があるせいだろう。
 ハーレイは指で前髪を優しく梳いてくれてから、そっと手を離して。
「覚えてるか? お前の初めての風邪」
「風邪…?」
「昔話さ、シャングリラのな」
 いや、そんな名前さえ無かった頃か…。あれはコンスティテューションだっけな、人類がつけた名前ってヤツは。
 そいつで暮らしていた頃の話だ、まだ暮らしとも言えなかったか…。ゴチャゴチャしてて。
 いいか、眠くなったら眠っちまえよ、頑張って起きていないでな。
 寝るのも風邪の薬の内だ、とハーレイが言うから、素直にコクリと頷いたけれど。
「…眠くなったら寝るから、聞かせて。ハーレイの話」
 前のぼくの初めての風邪の話って、どんなのだったの…?
 やっぱり熱を出しちゃったのかな、喉が痛くてクシャミもしてた?
 教えて、どんな風だったのか…。
「どんな風も何も、風邪だったが? 今みたいにな」
 流行っていたってわけでもないのに、前のお前が引いちまったんだ。
 きっと気が緩んじまったせいってヤツだな、そういう時には風邪に罹りやすくなるもんだ。
 アルタミラから無事に脱出して、船のみんながホッとしていた頃だしな。



 まだ船の中は綺麗に片付いてはいなかったが、という言葉を聞いたら思い出した。脱出してから間もない船で、前の自分が引いてしまった風邪のことを。
 人類がアルタミラの宙港に捨てて行った船。物資を沢山積んでいた船は、急な脱出には不向きと判断されたのだろう。乗員は他の船に乗り換えて逃げて、置き去りにされた宇宙船。
 コンスティテューション号はそういう船で、ミュウにとっては命を救ってくれた船。これからは此処で生きてゆこうと、希望を与えてくれた船。どうやら追手も来ないようだから。
 今と同じに綺麗好きだった前の自分は、通路などに雑然と置かれた荷物を片付けようと考えた。移動しやすい船になるだろうし、広いスペースも取れるようになる。きっと快適な船になるから、とにかく整理整頓を、と。
 やり始めたらハーレイが手伝ってくれて、次第に他の仲間たちも加わっていった。そんな日々の中、クシャン、と一つ出たクシャミが切っ掛け。風邪の兆候。
 前の自分は全く気付かず、その日も片付けを続けたけれど。荷物を倉庫に運び込んだり、空いた所を掃除したりと。



 片付けや掃除は埃が舞うから、埃のせいだと思ったクシャミ。他の仲間も、ブワッと埃が舞った時などに何度もクシャミをしていたから。
 けれど、その日の夜になったら、だるかった身体。何故だか手足が重く感じた。片付けが済んで夕食の時間を迎えた頃には。
(椅子に座ってても、だるかったんだよ…)
 普段だったら、座った時には一休み。ホッとする筈の椅子だというのに、座っているのに必要な力。身体がふらつかないように。ウッカリ滑り落ちないように。
 なんとか食べ終えて自分の部屋に帰ろうと歩き出したら、ハーレイに声を掛けられた。食堂から通路に出て直ぐの場所で。
「おい、どうした?」
 食事、嫌いなメニューだったか?
 ちゃんと食べてはいたようだが…。ああいう味のは好きじゃなかったとか。
「違うよ、今日のも美味しかったよ」
 なんでもないよ、食べ終わるまでに少し時間がかかっただけで。
「…なんでもないって…。そういう風には見えないぞ、お前」
 元気が無い、と覗き込まれた瞳。今と同じに穏やかな光を湛えた鳶色の瞳で。
 何かあったかと、いつもと様子が違うんだが、と。
「なんだかだるい…。それだけだよ」
 ちょっと身体がだるくって…。椅子に座っていたら、落っこちそうな感じになっちゃって…。
「働きすぎか?」
 お前、小さいのに、頑張って荷物を運ぶから…。疲れてしまっているんじゃないのか、あちこち掃除もして回るしな?
「そんなことはないと思うけど…」
 ちゃんと休憩だってしてるし、働きすぎにはならないよ。でも、重い荷物を持ちすぎたかな?
 サイオン無しでも持てるかも、って試していた分、疲れたかもね。



 一晩寝たら治っちゃうよ、とハーレイと別れて戻った部屋。暫くベッドに転がっていたら、手も足も軽くなったから。「今の間に」とシャワーを浴びに出掛けて行った。埃を落として、すっきりした気分で寝たかったから。
(うん、平気…)
 熱いシャワーで温まったら、だるかったことなど嘘のよう。やっぱり疲れただけだったんだ、と眠る時に着る服に着替えて、ベッドに入った。ぐっすり眠れば、きっと明日には元通りだから。
 もう大丈夫、と眠りに落ちて、どのくらい経った頃だったろうか。
(暑い…?)
 じっとりと汗ばんだ肌で目が覚めた。空調が誤作動したのだろうか、室温が高くなるように。
(ぼくじゃ、修理は出来ないし…)
 下手に止めたら、宇宙船の部屋は寒くなることを知っている。それを利用した倉庫があるから。暑くなる壊れ方をしていたとしても、スイッチを切れば冷蔵庫のようになるだろう部屋。
(明日になったら、ゼルに頼んで…)
 誤作動にせよ、壊れたにせよ、自分ではどうにも出来ない空調。ゼルは機械に強いそうだから、直ぐに直してくれるだろう。それまでの我慢。
(シールドを張るほどじゃないよね、こんなの)
 アルタミラで何度もやられた人体実験。鉄さえ溶けそうな高温だとか、何もかも凍りそうな低温だとか。それは酷い目に遭っていたから、汗ばむ程度の暑さでサイオンは使いたくない。
(こんなのを被っていなければ…)
 暑くないよ、と上掛けを剥いだら、一瞬、ひんやりしたのだけれど。気持ち良かったのは僅かな時間で、今度は寒くなってきた。歯がガチガチと鳴り出すほどに。
 慌てて上掛けを被り直したら、やっぱり暑いような気がする。身体が熱の塊になったみたいに。
(暑いんだよね?)
 これが邪魔、と剥がした上掛け。空調もおかしいようだけれども。
 上掛けを剥がすのを待っていたように、いきなり寒くなったから。適温だった時間は少しだけ。



(この部屋、暑いの? それとも寒いの…?)
 何度も上掛けを被っては剥いで、剥いでは被って。暑さと寒さに襲われ続けて、すっかり疲れてしまった身体。なんとも酷い空調だけれど、朝まで我慢するしかない。
 あまりに疲れてしまっていたから、もうシールドも考え付きはしなくて。
(暑い方だと汗をかくから…)
 きっと寒い方がまだマシだよね、と上掛け無しで寝ることにした。身体を丸く縮めていたなら、暖かくなるような気もするから。凍死するほどの寒さなどではないのだから。
 そうして眠って、ふと気が付いたら、動かすことさえ辛かった身体。鉛のように重たい手足。
 何かが変だ、と思うより前に酷い寒気が襲って来た。外からではなくて、身体の中から。空調が壊れていたのではなくて、寒さの元は自分の身体だと今頃になって気付いた始末。
(どうしよう…)
 多分、身体の具合が悪い。頭も重いように思うし、恐らく病気なのだろう。人体実験で酷い目に遭わされた後には、よくあったこと。身体が重くて動かないのも、ガタガタ震え出すことも。
 けれども、自分で治したことなどは無い。ただの一度も。
 そういう時には、アルタミラでは人類が治療していたから。次の実験をするために。
 たった一人しかいないタイプ・ブルーは、死なせたらもう実験出来ない。新しいデータを二度と取れない、タイプ・ブルーに関しては。
 だから研究者たちは治療をさせた。死んでしまわないよう、適切な処置を。医学を修めた白衣の者たち、彼らが専用の部屋に運び込んでは、何度も何度も治療し続けた。
(だけど、治し方…)
 ぼくは知らない、と嘆くしかない。自分の身体の面倒でさえも、見られなかったのが檻だから。あの檻の中で、ただ生かされていただけだから。
 治療される時は専用の部屋で、白衣の者たちがしていた処置。それが終われば檻に戻され、餌と水とで飼われていた。必要に応じて水に薬が入れられたけれど、自分にとってはあくまで飲み水。薬の味がしていただけで、どう効いたのかもよく分からない。
 まるで知らない、自分の身体の治し方。こういう時にはどうすればいいのか、手掛かりさえも。



 何をすればいいのか、どうすべきなのか。本当に何も思い付かないから、どうしようもなくて。朝になったらしいことは分かっても、起きられないままでベッドの上。
 なんとか手繰り寄せた上掛けを頭から被って、ブルブル震えているしかなかった。寒さは少しも減らないけれど。上掛けを強く巻き付けていても、凍えてしまいそうだけど。
 そうやって一人震え続けて、ベッドの上で丸まっていたら…。
「ブルー?」
 どうしたんだ、とハーレイの声が降って来た。部屋まで見に来てくれたハーレイ。朝食を食べに来なかったから、と心配して。
「…ハーレイ…?」
 上掛けから顔を覗かせてみたら、見慣れた大きな身体があった。屈み込むように。
 そう、今のハーレイがベッドの側にいるように。あの時は、椅子は無かったけれど。ハーレイは遠い日を今も忘れていなくて。
「驚いたんだぞ。お前の部屋を覗きに行ったら、ベッドでブルブル震えていて」
 ちゃんと上掛けは被ってるんだし、部屋だって暖かかったのにな。
「だって、寒かった…」
 冷凍庫に入ったみたいだったよ、寒くて凍えてしまいそうで。手も足も、とても冷たくて…。
「そう言うから、俺が触ってみたら熱いんだ」
 冷たいどころか火傷しそうに。…そこまで熱くはなかったんだろうが、そう思えたな。
 お前が冷たいと言ったもんだから、俺もそのつもりで触ってみたし。



 前のハーレイの手が触った額。寒さが和らいだ気がした手。暖かくなった、とホッとしたのに、聞こえた声は逆だった。「冷たい」ではなくて、「熱いじゃないか」。
 何故、と思わず見開いた瞳。今もこんなに寒いのに、と震えながらハーレイを見上げたら…。
「こりゃ、風邪だな。熱があるから寒いんだ」
 身体はうんと熱いんだがなあ、自分じゃ分からないんだな。だから寒くて震えてしまう。
「風邪…?」
 なんなの、ぼくはどうなっちゃったの…?
「風邪は風邪だな、そういう病気だ。お前、クシャミもしてるだろうが」
 喉だってきっと痛い筈だぞ、どうなんだ?
「うん、少し…。それに身体が重くて起きられないよ」
「だろうな、これだけ熱があればな。誰だってそうなっちまう」
 昨日の夜から、お前、だるいと言ってたし…。あの時からもう風邪だったんだ。
 しかし、どうすりゃいいんだか…。俺も風邪としか分からないしな。
 治し方は全く知らないんだ、と済まなそうな顔をしたハーレイ。俺じゃ駄目だ、と。
 今から思えば不思議な話。今のハーレイならばともかく、前のハーレイが風邪と見破ったこと。
「…ハーレイ、よく風邪なんか知ってたね」
 あの頃はまだ、みんな記憶が曖昧で…。知らないことも沢山あって、そっちが普通だったのに。
 前のぼくだって、身体の具合が悪いことしか自分じゃ分からなかったのに…。
「お前の他にも友達、いたしな」
 一番古い友達は前のお前だったが、他にも大勢いたろうが。
 お前と違ってチビじゃなかったから、友達を作りやすかったんだ。向こうも話しやすいしな。
 前のお前も馴染みのヤツなら、ヒルマンだとか。



 そのヒルマンを呼びに走ってくれたハーレイ。「ちょっと待ってろ」と。
 ヒルマンは調べ物が得意な男で、思わぬ怪我や病気の時には頼りになった。船に最初からあった薬や包帯、そういったものを調べ尽くしていたから。
 まだ来ていなかったノルディの時代。応急手当も、その後の治療もヒルマンがやっていた時代。
 ハーレイが連れて来たヒルマンは、熱を測ったり、口を開けさせて覗き込んだりして。
「風邪だね、これは。治すためには栄養と、薬と…。後は睡眠だよ」
 食べられそうなものをしっかりと食べて、よく眠るように、と言われたのに。
 薬も幾つか処方して貰って、我慢してきちんと飲み込んだのに…。
「思い出したよ、ぼく、アルタミラの夢が怖くって…」
 薬を飲んだら思い出すんだよ、アルタミラで飲まされていた薬のことを。
 毒は飲まされていなかったけれど、薬の味は実験のことを思い出すから…。治療される時に薬を飲んだし、薬入りの水も飲まされたから。
「ああ、あの頃のお前はな」
 今のお前がメギドの悪夢を見るのと同じで、アルタミラの夢を見ちまっていた。
 具合が悪くなった時には、身体が思い出すんだろう。酷い実験で苦しかったと、今と似たような目に遭わされたと。
 そこへ薬を飲んでたわけだし、余計に思い出しちまうよなあ…。アルタミラで飲まされてた時はどうだったのかを、お前の意識がある時にも。



 眠らなければと思っていたのに、熱にうかされると襲ってくる悪夢。研究者たちが来て、入れと命じる強化ガラスのケース。高温の蒸気が噴き出して来たり、液体窒素が注ぎ込まれたり。
 身体が熱いと高温実験の夢で、寒気がする時は低温実験。他の実験の夢も幾つも繋がって来た。頭の中を掻き乱される心理探査や、身体に負荷をかける実験。
 その度に悲鳴を上げて目が覚め、少しも眠った気分がしない。眠れば地獄に連れ戻されるから。ヒルマンは「眠るように」と言ったのに。そうしないと多分、治らないのに。
 それでも眠るのは怖い、と震えていた所へ、ハーレイが様子を見に来てくれた。「昼飯だぞ」と消化の良さそうなスープの器をトレイに乗せて。
 「食べられそうか?」と訊かれたスープは飲めたけれども、問題は薬。飲み込んだら、舌と口に一気に蘇ってくる忌まわしい記憶。アルタミラの地獄で飲んだ味だ、と。
 この味がまた悪夢を連れて来るだろうから、ハーレイに向かって「眠れないよ」と訴えた。夢を見るから怖くて無理だ、と。眠っても直ぐに目覚めてしまうと、自分の悲鳴で目が覚めると。
「お前、眠れないと言うもんだから…」
 俺が仕事を抜けて来たんだ、食事のトレイを返しに行ってな。仕事と言っても、片付けて掃除をするだけだったが。…あの頃はまだ、厨房の係じゃなかったし。
「そうだね、ぼくと一緒に片付けてただけ…」
 だからハーレイが抜けても平気。誰も困りはしなかったものね、代わりの人はいるんだから。
「頼むと言うだけで良かったからなあ、料理の途中やキャプテンってわけじゃないからな」
 直ぐに抜けられたさ、お前の看病をすると言ったら。お前、あの船じゃチビだったしな。



 「来てやったぞ」と部屋に戻って来てくれたハーレイ。椅子をベッドの側に運んで来て、座って大きな手を差し出した。「ほら」と、「手を出せ」と。
 上掛けの下から手を出してみたら、その手をそっと包み込んだ手。「俺がいるから」と。
「こうして握っていてやるから。…これなら夢も見ないだろ?」
 此処はアルタミラの檻じゃないんだ、お前は独りぼっちじゃない。酷い実験なんかも無い。
 怖い夢なんか見なくていいんだ、安心して眠っていればいい。俺がお前の側にいるから。
 大丈夫だぞ、と握ってくれた、温かくて大きなハーレイの手。
 ふわりと心が軽くなったようで、瞼を閉じても感じた思念。寄り添ってくれるハーレイの心。
 それきり悪夢は襲って来なくて、やっと眠れた。夢も見ないで、ぐっすりと深く。
 目覚めたら、もう夕食の時間。誰かが届けに来てくれたのだろう、二人分の食事が机にあった。普通の食事がハーレイ用で、もう一つのトレイに病人用のスープ。
 ハーレイは自分の食事を後回しにして、スプーンでスープを食べさせてくれた。「お前、身体が弱っているしな」と、「夢のせいで酷く消耗しちまってるし」と。
 嫌いな薬も、ハーレイが口に入れてくれたら嫌な味が少し和らいだ。これは病気が治る薬、と。
 ハーレイが食事を食べ終える頃には、船の中は夜へと移る頃合い。通路などの明かりが暗くなる時間、夜間に仕事をする者以外は部屋に戻ってベッドで眠る。
「さてと…。そろそろトレイを返しに行かんと」
 厨房の明かりが消えちまうしなあ、朝食の準備をした後は。
 もう帰ろうか、ってトコで仕事を増やしちゃ申し訳ない。俺だって寝なきゃならないし。
「…ハーレイ、帰るの?」
「当たり前だろ、此処は俺の部屋じゃないからな」
 お前の部屋だし、俺のベッドも何も無い。それじゃどうにもならんだろうが。



 人間、夜はきちんと眠らないとな、とハーレイはトレイを手にして出て行った。昼間よりも暗い通路へと。厨房にトレイを返しに出掛けて、それから部屋に戻るのだろう。ハーレイの部屋に。
 ポツンと一人、残された部屋。ハーレイが消し忘れて行ったらしい照明。
(夜は消さなきゃ…)
 個人の部屋の明かりを何時に消すかは、住人の自由。自動で消えたりしない照明。エネルギーを無駄に使わないよう、消さなければと思うけれども。
(…身体、重たい…)
 独りぼっちになったせいなのか、心細くて力が入らない身体。さっき薬を飲んだ筈なのに、また熱が上がるのかもしれない。手足が冷えて来たようだから。
(治ってないんだ…)
 熱が出たら襲ってくる悪夢。昨夜は夢は見なかったけれど、今夜はどうなってしまうのか。熱と寒気に苛まれたなら、明日の朝には今朝よりも酷い状態になっているかもしれない。
(…ぼく、どうなるの…?)
 怖い、と身体を震わせていたら、開いた扉。其処から入って来たハーレイ。
「待たせたな」
「え?」
 ハーレイ、帰ったんじゃなかったの?
 此処はハーレイの部屋じゃない、って言っていたでしょ、どうしたの…?
「シャワーを浴びに行って来たのさ、服も着替えてあるだろうが」
 さっきの服とは違う筈だぞ、覚えてないかもしれないがな。お前、病気でボーッとしてるし。



 今夜は此処でついててやる、とハーレイは手を握ってくれた。ベッドの側の椅子に腰掛けて。
「俺がいるから安心して眠れ。お前、一人じゃ怖いんだろうが」
 一晩中、ろくに眠れなかったら、治るどころじゃないからな。ちゃんと眠って治さないと。
「それじゃハーレイ、眠れないよ」
 椅子に座って寝るなんて…。座ったままなんて、無理だってば。
「俺は頑丈だから、何処でも眠れる」
 アルタミラの檻を考えてみろ。あれに比べりゃ、椅子は充分、立派な寝床だ。
「でも…。椅子とベッドは全然違うよ」
「いいんだ、お前のベッドはお前専用だ。お前には大きいベッドだろうが…」
 二人も寝られる大きさじゃないぞ、どう見たってな。
 それよりは床の方がいい。椅子も悪くないが、床に座って寝る手もある。お前の手を離さないで眠るためには、そっちの方がいいかもな。
 お前のベッドの端っこを借りて、俺の身体を少し乗っけて。
 とにかく、お前は眠ることだ。俺が朝までついててやるから。
 俺が椅子で寝るか、床で寝るかは、俺がゆっくり考えるさ。お前が眠っちまってからな。



 心配しないでぐっすり眠れ、と握ってくれた大きな手。温かくてがっしりしていた手。
(ホントに椅子とか床で寝る気なの…?)
 まさか、と思ったハーレイの言葉。きっと自分が深く眠ったら、部屋に帰ってゆくのだろうと。朝まで覚めないだろう眠りに入ったと見たら、手を離して。
(…それでもいいよ…)
 今だけでも眠れたら充分だから、と目を閉じて、いつの間にか眠ってしまって。
 ふと目覚めたら部屋は暗くて、独りなのだと思ったけれど。
(ハーレイ…)
 直ぐ目の前にあったハーレイの寝顔。眠る前に聞いた言葉通りに、ハーレイは床に座って眠っていた。胸の辺りまでをベッドに乗せて、握っている手は離さないままで。
(…ホントに寝てる…?)
 ハーレイの手を握り返してみたら、キュッと力が返ったけれど。握り返してくれたのだけれど、ハーレイは夢の中らしい。微かに笑みを浮かべただけで、何の言葉も返らないから。
(朝まで一緒にいてくれるんだ…)
 一人じゃないよ、と安心し切って落ちていった眠り。恐ろしい夢は見なかった。
 朝になったら、「起きたのか?」とハーレイの優しい笑顔。「昨日よりずっと顔色がいい」と。
 ハーレイは朝食を取りに行ってくれて、今度は自分で食べられた。嫌いな薬も我慢して飲んだ。その日もハーレイはついていてくれて、眠る時には握ってくれた手。
 次の日には熱が出ることはなくて、そうやって最初の風邪は治った。ハーレイがしっかり握ってくれた手、その手に悪夢を防いで貰って。



「…思い出したよ、前のぼくの風邪…」
 ハーレイに手を握って貰ってたんだよ、一晩中、側にいてくれて…。床で眠って。
「お前のベッドじゃ眠れなかったしな、狭かったし」
 それに、心配だったんだ。…あの時、お前が引いちまった風邪。
 医者はいないし、薬だって船にある分だけで…。無いものは手に入れようがない。医者も薬も。
 こじらせちまったら、どうしようかと…。風邪で死ぬこともあるんだから。
「そうだったの?」
 ハーレイ、あの時、もう知ってたの?
 風邪をこじらせたら、死んじゃうこともあるんだってこと。
「…ヒルマンから話は聞いていたんだ。お前には言わなかったがな」
 熱が上がってゆくようだったら、気を付けないといけないと。衰弱が酷くなったらマズイと。
 しかしだ、病気ってヤツは不安になったら治らないもんだ。治ると信じていないとな。
 だから黙ってついていたんだ、お前が弱らないように。
 「大丈夫だから」と言ってやるのが一番の薬で、お前も安心するだろう?
 俺の心配は知られちゃ駄目だ、と思ってはいても心配だった。お前の熱が下がるまではな。
 俺がお前にしてやれることは、手を握ることしか無かったんだから。
 あれ以上の薬は手に入らないし、医者もいなかったんだから…。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 だけど、今のはただの風邪だよ。薬だってあるし、お医者さんもいるし…。
「まあな。だが、早いトコ治したいだろ?」
 早く治せば、明日の午後には俺と二人でお茶が飲めるかもしれんしな?
 こんなベッドの所じゃなくって、いつもの椅子とテーブルに行って。そのためにも、だ…。



 今日は無理やり起きようとせずに、話を聞きながら寝てることだな、と言われたから。
「ぼくの手、ちゃんと握ってくれる?」
 あの時みたいに、と差し出した手を「もちろんだ」と握ってくれた手。
「こうしてしっかり握っててやるが、スープはどうする?」
 俺がお前の手を握ってたら、野菜スープが作れないんだが…。俺の手、塞がってるからな。
「スープよりもハーレイの手の方がいいから、食事はママに任せるよ」
 朝はママが作った食事を食べたし、お昼も作ってくれると思う。ハーレイの分も。
 今日の風邪、食欲は落ちてないから、ママの食事で大丈夫。
 だからハーレイは手を握っててよ、この手もちゃんと効くんだから。
 前のぼくの風邪、この手に治して貰ったんだから…。
 握っていてね、と強請った手。風邪を治せるハーレイの優しい大きな手。
 たまにはこういう風邪の治療もいいだろう。
 思い出したから、初めての風邪を。前の自分が罹った風邪を。
 まだ野菜スープも無かったけれども、ハーレイが治してくれた風邪。
 あの時のように、ハーレイの手で風邪を治して貰うのも。
 しっかりと手を握って貰って、ウトウトしながら心と身体を休められる幸せなひと時も…。




            初めての風邪・了


※アルタミラから脱出して間もない頃に、前のブルーが罹った風邪。しかも悪夢まで。
 そんなブルーが弱らないよう、側にいたのがハーレイなのです。眠っている間も手を握って。
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