忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あれ…?)
 一枚だけ黄色、とブルーが見上げた木の葉。学校からの帰り、バス停から家まで歩く途中に。
 黄色く色づいている葉っぱ。他の葉はまだ緑色なのに、一枚だけが。
 気の早い紅葉、楓ではなくて桜だけれど。葉っぱの形も、佇まいだって楓とは違う木だけれど。
(紅葉の季節…)
 もう少ししたら、木々が色づく季節。
 一年中、緑色の葉をしている木たち以外は、どの木の葉っぱも染まってゆく。綺麗な色に。赤や黄色や、その木ならではの色合いに。
(やっぱり楓が一番だよね)
 あれが紅葉の代表だよ、と思い浮かべた楓の木。「モミジ」と呼ばれるのが楓。人によっては、モミジという言葉が「楓」の名前だと信じているほど。
 そうなるだけあって、楓の紅葉は美しい。赤く染まった木は、さながら紅葉の女王のよう。他の木々には出せない色合い、重なり合う葉が描き出す濃さや、鮮やかさや。
 それも葉っぱが小さい楓が最高、と楓の木たちを探しながら歩く。道沿いにある家の庭の中に。
 葉が小さいと、繊細に色づくものだから。葉っぱの数だけ、違った色も生まれるから。
 家に着くまでに見た楓は幾つも、家の庭にもある楓。
 制服を脱いで、おやつを食べながらダイニングの窓の向こうに眺めて、その後には二階の自分の部屋の窓からも。
(あの種類の楓が、一番綺麗に見えるんだよ)
 いつだったか、母が教えてくれた。
 楓の種類は多いけれども、葉が小さいほど色づいた時が綺麗なのだと。品良く、小さな葉を持つ楓。小さい葉だから、見た目も繊細。庭に植えたのも、そういう楓、と。
(楓の種類、ホントに沢山…)
 赤ちゃんの手を思わせるような楓の葉。「紅葉のような手」と言うほどだから。
 帰り道に見た楓も色々、どの木も楓ならではの葉っぱ。人の手のような。
 大きな葉をした楓の木やら、他にも様々な種類がある。最初から葉が赤くて、「もう紅葉?」と驚かされるものやら、葉っぱの縁がノコギリのようにギザギザになっている楓やら。



 種類が沢山ある楓。庭の持ち主の好みに合わせて、選んで植えてある木たち。今の自分には楓は普通で、紅葉の季節になれば目につく。「あそこにもある」と、何処に行った時でも。
(シャングリラには、楓、無かったけれど…)
 今の自分には馴染み深い木、紅葉の代表格の楓は。
 白いシャングリラにあった公園、あそこで紅葉していた木たちは、他の木だった。人の手の形の葉を持つ楓ではなくて。
(楓の木、とても綺麗なのにね?)
 紅葉の季節を迎えなくても、青楓と呼ばれる青葉の季節。それを眺めに行く人も多い。幾重にも重なる、繊細な葉を。写真を撮ろうと、カメラを構える人だって。
 けれど、そういう楓の木。白いシャングリラに無かったばかりか、一度も見かけなかったような気がする。アルテメシアで地上に降りた時にも。
 育英都市の街路樹はもちろん、テラフォーミングされていた山の中にも無かった楓。見ていないように思える楓。前の自分は、ただの一度も。
(なんで…?)
 覚えていないのか、本当に無かったものなのか。
 綺麗な木だけに、あっても良かったと思うんだけど、と不思議な気分。SD体制の時代でも。
(別に、邪魔にはならないよね…?)
 楓の木くらい、機械の時代の邪魔にはならない。ただの木なのだし、不都合は何も無いだろう。公園に植えても、テラフォーミングした山に植えても。
(…ぼくが忘れてしまったのかな…?)
 楓に関心が無かったものか、愛でる余裕が無かったのか。どうなのだろう、と首を捻った所へ、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊くことにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、ハーレイが腰を落ち着けるなり。
「あのね、楓の木は無かった?」
 紅葉って言うでしょ、楓のこと。あの楓の木は無かったかな…?
「はあ? 楓って…?」
 無かったか、って俺の家の庭のことを言ってるのか?
 無いことはないぞ、お前が気付いていなかっただけで。



 俺の家の庭にも楓はある、と答えたハーレイ。庭の何処かに植えてあるらしい。
 ハーレイの家の庭にもある楓。どんな楓か、そちらも訊いてみたいのだけれど、今はそれよりも楓が問題。前の自分が見ていないように思う楓が。
「ごめん。今の時代じゃなくって、シャングリラ…」
 前のぼくたちが生きてた頃だよ、SD体制の時代の話。楓の木、植えていたのかな、って…。
「シャングリラには植えていなかったぞ」
 どの公園にも楓は無かった。いろんな公園を作った船だが、楓は一本も無かったっけな。
 キャプテンの俺が言ってるんだし、間違いはない、と断言された。やはり無かった楓の木。白いシャングリラの何処を探しても。
「それは分かっているけれど…。前のぼくの記憶に残っていないから」
 あの船で楓を見たんだったら、覚えていそう。忘れたにしても、思い出せると思うんだよ。
 でもね、前のぼく…。アルテメシアに降りた時にも、見ていない気がして来ちゃって…。
 あそこの街路樹、秋には紅葉していたのにね。山に植えられてた、色々な木も。
 だけど楓の記憶が無くて…。何処かの家とか公園だったら、植えていたかもしれないけれど…。
 前のぼくが其処には行かなかっただけで、と説明した。「楓の木を見た覚えが無い」と。
「なんだ、そっちの方なのか。シャングリラの中だけの話じゃなくて」
 そりゃ無いだろうな、楓の木なんか。あの時代なら、アルテメシアには無いさ。
 他の星でも無理じゃないか、と返った答え。いとも簡単に、「無かっただろう」と。
「え? 無かったって…」
 アルテメシアに無いだけじゃなくて、他の星にも無いって言うの?
 テラフォーミングの時の都合で、アルテメシアには向かなかった木だったわけじゃなくって…?
「そうなるな。楓の木は何処にあるものなんだ?」
 特別に栽培するのでなければ…、という質問。どういう所で育つ木なのか。
「…日本とか?」
 今のぼくたちが住んでる地域。ずっと昔は、日本っていう島国があった場所…。
「その通りだ。俺たちがモミジって呼んでる楓は、この地域じゃありふれた木なんだが…」
 イロハカエデが有名なんだが、そいつはこの辺りに分布しているわけだ。
 お前も充分、承知しているように、地球の上には様々な植物があってだな…。



 青く蘇った地球も、滅びる前の青かった地球も、それは様々な植生があった。地球のあちこち、其処ならではの植物たちが育つもの。自然の中では。
 遠い昔に、SD体制の時代の文化の基本に選ばれた地域。機械が統治しやすいようにと、多様な文化が消された世界がSD体制の時代の宇宙。
 此処の文化を元にして世界を組み立てよう、と機械が選び出した地域に、楓の木は全く無かったらしい。人の手の形の小さな葉を持つ、今の自分に馴染みの木は。
「なんと言っても、日本風の庭が似合いの木だからなあ…。楓ってヤツは」
 お前の家や俺の家にあるような庭でも、植えておいたら見栄えはするが…。
 一番しっくり来そうな場所は、日本風の庭だと思わんか?
 どう思う、と尋ねられたから頷いた。実際、楓の名所と言ったら、その手の庭になるのだから。
「そうだね、そういう庭が似合うよ。あんまり沢山無いけれど…」
 日本風です、っていう大きな公園とかに行かなきゃ、本格的なのは見られないけれど。
「家がこういう造りだからなあ…。日本風の庭にしちまったら、今一つ似合わなくなるし…」
 やたら庭だけ浮いちまうだとか、家がおかしく見えるとか…。本格的な庭は無理だぞ。
 個人の家で作ろうとしたら難しい、とハーレイが指摘する通り。絵に描いたような日本風だと、家まで日本風の造りにしないと似合わない。遠い昔にそうだったように。
 ハーレイが教える古典の世界の時代だったら、庭にも山にも似合った楓。日本だったら。
 けれどSD体制の時代の基本になった文化には合わず、その文化があった地域にも無かった木。楓を愛でる文化が無いなら、植える必要も無いだろう、と考えたのがグランド・マザー。
 機械が「要らない」と判断したから、楓は何処にも植えられなかった。いつか地球が蘇った時に備えて、専用の施設で保存されてはいても。…「楓」という種を絶やさないように。
「そうなんだ…。今だと、山にも沢山生えているのにね」
 楓の木、と思い浮かべる紅葉の名所。木々の錦が染め上げる山には、楓の紅葉も混じるもの。
「そのように再現したからな。地球で植物がまた育つようになった時代に」
 もっとも、いくら楓の紅葉が綺麗だと言っても、楓ばかりが植わっている山は無いんだが…。
 俺たちが住んでる地域の中には、楓だけだという山は無い。森や林にしたってそうだ。
 本物の日本だった頃から、色々な木たちが育っていたわけで、そいつを元に戻したんだから。
 この地域の植生を再現しようと、もう一度、日本に似合いの山や林を作ろうとな。



 ところが、他の地域に行くと…、とハーレイが話してくれたこと。
 他の地域にもある紅葉の季節。楓を指すモミジのことではなくて、木々の葉が色づく紅葉の方。
「同じ紅葉でも、この地域のとはまるで違っているらしい。もちろん、地域によるんだが…」
 其処に生えてる木の種類によっては、味気ないほど同じ色で塗り潰されてしまうそうだぞ。
 この辺りだと、赤や黄色や、それは色々な色が混じっているんだが…。
 古典の時代から「紅葉の錦」と呼んでたくらいに、色とりどりなのが紅葉なんだがな。
「おんなじ色って…。そんな景色になっちゃうの?」
 ちょっと想像できないけれど…。街路樹とかなら、どれも揃って黄色や赤になるけれど…。
 山や森とかが同じ色って、同じ種類の木ばかりだったら、そういうことになっちゃうのかな…?
 ぼくが知ってる紅葉じゃないよ、と驚いたけれど、写真で見たようにも思う。他の地域で誰かが撮影した写真。一面の黄色に染まった森と、それを映した湖と。
 今の青い地球の上の何処かに、そんな景色もあるのだろう。揃って同じ色に染まる山や森やら。
「其処で暮らしている人間にすれば、そっちが普通なんだがな。色とりどりの紅葉じゃなくて」
 それだけ地球が広いってことだ、紅葉だけでも景色がすっかり違うくらいに。
 もっとも機械はお気に召さなくて、統一しちまっていたわけだが…。山で育てる木の種類まで。
 楓は似合わない世界なんだ、と判断したなら、公園からも除外しちまって。
 味気ない時代だったよな、とハーレイがフウとついた溜息。「前の俺たちには普通だが」と。
「楓が無いよ、って気付きもしていなかったしね…。前のぼくでも」
 あの頃だったら、楓とは違った一面の色の紅葉も、きっと何処にも無いね。山も林も、すっかりおんなじ色に塗り潰されちゃうような紅葉…。
「そこまで見事にテラフォーミングしていた、星が存在しなかったからな」
 あくまで人間が暮らす範囲を整える、というのが基本だから…。それ以外の場所は手つかずで。
 一番テラフォーミングが進んだ、ノアでもそいつは無理だったろう。見渡す限りの紅葉はな。
 しかし今では、この地球の上で見ることが出来る。
 そういう紅葉が普通になってる地域に行ったら、誰だって。…俺も、お前も。
 もっとも、俺は同じ色に染まる紅葉よりかは、この地域の紅葉が好きなんだが…。
 赤や黄色や、同じ赤でも、木によって違う色になっちまう山。
 色とりどりの山が好きだな、紅葉を眺めに出掛けてゆくってことになったら。



 紅葉は錦に限るんだ、と話すハーレイの好みは様々な色に染まる山。同じ楓も赤は色々、其処に黄色や橙色の葉を持つ木たちが混じる。まるで絵具のパレットのように。
「錦ってヤツは一色じゃないだろ、色が一つしか無きゃ錦とは呼ばん」
 それに錦秋とも言うわけで…。秋は錦に染まってこそだ。山も林も、色とりどりにな。
 紅葉を見るなら錦でないと、とハーレイがこだわる、様々な色に染まる秋。他の地域だと、違う所もあるらしいのに。一面の紅葉がそっくり同じ色に染まって。
「ハーレイがそう思うのは…。それは古典の先生だから?」
 錦に限る、って言ってるのは。古典の世界の時代の紅葉は、今と同じで錦だから…。色々な色が混じってるもので、一色だけの紅葉じゃないから。
 前のハーレイだと、紅葉どころじゃないけれど…、と付け加えた。白いシャングリラの公園でも色づいた、冬に葉を落とす落葉樹たち。船の中で人工的に作っていた秋、その頃になれば。
 けれど、紅葉狩りに出掛けられるほどの規模ではなかった。あの船で生きたミュウたちの中で、紅葉見物をしていたのは前の自分だけ。アルテメシアに降りた季節が秋だったなら。
「俺の紅葉についての意見ってヤツか? どうだかなあ…」
 古典の教師は、あまり関係なさそうだが…。言葉の方なら、色々と知ってるんだがな。
 紅葉を詠み込んだ和歌や俳句や、そういったものも馴染み深くはあるんだが…。
 錦に限る、と思っちまうのは、ガキの頃から見慣れた景色だからだろう。前の俺だと、あの船の中で見ていた紅葉が全てだったが…。楓なんかは無かった船で。
 そういや、楓か…。今じゃ紅葉は楓なんだな、前の俺たちの頃には無かった楓。
 主役が変わっちまったのか、とハーレイは顎に手を当てる。「楓だな…」と、考え込むように。
「どうかしたの?」
 今は確かに、紅葉は楓なんだけど…。楓のことを「モミジ」って呼んでる人までいるくらいに。
 面白いよね、前のぼくたちが生きてた頃には、楓は何処にも無かったのにね。
 地球が蘇った時に備えて、保存してあっただけなんでしょ、と今のハーレイに習った知識を確認するように口にした。前の自分が楓を一度も見なかったのは、記憶違いではなかったから。
「いや、楓だと思ってな…」
 今の俺には紅葉と言ったら錦なわけで、そういう紅葉を見ようと思えば、この地域の山だ。
 楓が自然に育っている山、赤や黄色で色とりどりの山が好みになっちまうんだが…。



 その楓…、とハーレイは「楓だ」と繰り返した。「楓にも色々な種類があるのが地球だ」と。
「俺たちが知ってる楓となったら、さっきから話している楓。それになるのが今なんだが…」
 一面の黄色や赤の紅葉になっちまう地域、其処にも楓はちゃんとあるな、と思ってな。
 前のお前が行きたがってた砂糖カエデの森がある辺りも、そういう紅葉になるらしいから。
 色が混ざっていない紅葉だな、同じ種類の木ばかりが生えているせいで。
 お前が行きたがってた頃には、その森だって無かったんだが、と言われた砂糖カエデの森。前の自分が夢見た地球は、本当は青くなかったから。蘇る兆しさえも持たない、死の星のままで。
「ホントなの? 砂糖カエデの森がある辺りは、同じ色をした紅葉になるの…?」
 この辺りとは違うんだ、と目を丸くした。砂糖カエデの森がある地域には詳しくない。いつかは行きたい場所だけれども、まだ下調べもしていないから。
「そうらしいんだが…。俺もこの目で見ちゃいないがな」
 で、その砂糖カエデの森。…よく考えてみろよ、前のお前の夢の森だろうが。その森で採れた、本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキの朝飯を食うというヤツが。
 前のお前は行き損ねたから、今度は俺と行くんだっけな。結婚して旅行が出来るようになれば。
 出来立てのシロップでキャンディーも作って食うんだろう、とハーレイは忘れずにいてくれた。前の自分が描いた夢より、もっと大きくなった夢。今の自分が抱いた夢。
 メープルシロップを作る季節は、まだ森の中に雪がたっぷり。その雪に煮詰めた樹液を流せば、柔らかなキャンディーが出来るという。メープルシロップと同じ風味のキャンディーが。
 それが食べたくて「行くなら、そういう季節がいいな」と注文したのが今の自分。冬に積もった雪が解け始める、メープルシロップの材料の樹液を集める季節に旅をしよう、と。
「ハーレイ、覚えていてくれたんだ…。キャンディーのことも」
 砂糖カエデの話は何度もしていたけれど、そっちは前のぼくの頃からの夢だから…。今のぼくの夢はキャンディーの方で、前のぼくの夢に、ちょっぴりオマケ。
 砂糖カエデの森もやっぱり、一面のおんなじ色の紅葉になるのかな…?
 黄色くなるのか、赤くなるのか、ぼくはちっとも知らないけれど。
「赤いらしいぞ。ずっと昔は、国旗の模様にもなっていたんだ」
 砂糖カエデが名物だった国の国旗のド真ん中には、赤く染まった砂糖カエデの葉だったから。
 つまり一面の赤になるわけだな、砂糖カエデの森へ紅葉の季節に行けば。



 赤だけじゃ錦にならないが…、と今のハーレイの好みではない色なのが砂糖カエデの森が染まる秋。様々な色が入り混じってこその錦なのだし、砂糖カエデの森の紅葉は失格。
「俺の好みの紅葉にはなってくれないわけだが、その砂糖カエデを考えてみろ」
 紅葉は抜きで、メープルシロップもホットケーキも、キャンディーの夢も抜きにして。
 砂糖カエデっていうくらいだから、楓とついているよな、名前に。
 いわゆる紅葉の楓と同じに楓の文字、と言われてみれば、その通り。砂糖カエデの名前の中には楓の文字が含まれている。紅葉の楓と同じ響きが。
「うん…。でも、楓とは違うよね?」
 今のぼくたちが知ってる、紅葉の楓。あれは昔の日本の辺りにあった楓で…。今でもそう。
 SD体制の時代には無かった楓なんだし、砂糖カエデとは違うものだよ。砂糖カエデの方なら、ちゃんとあったんだもの。…メープルシロップは消えていなかったから。
 シャングリラには本物のメープルシロップは無かったけどね、と苦笑する。船の中では、育てることは無理だった砂糖カエデの木。
 だから「地球で」と夢を見ていた。いつか地球まで辿り着いたら、砂糖カエデから採れた本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキを食べようと。地球の草で育った牛のミルクのバターも添えて、それは贅沢な朝食を。
「砂糖カエデは健在だったな、前の俺たちの時代にも。文化が消されていなかったから」
 ホットケーキは馴染みの食べ物なんだし、メープルシロップが欠かせない。砂糖カエデを育てて作っていかないと。…シャングリラでは無理で、合成品しか無かったんだが。
 それでもメープルシロップを作っていたほど、前の俺たちにも馴染み深かったのが砂糖カエデというヤツだ。前のお前が憧れていたくらいにな。
 その砂糖カエデの木なんだが…。
 お前が言うように種類は全く違うものだが、同じ楓には違いない。砂糖カエデの方だって。
 楓と名前がついている以上は、楓の内だ、とハーレイは話すのだけれど。
「んーと…。確かに名前は、ちゃんと楓とつくけれど…」
 別のものでしょ、紅葉の楓と砂糖カエデは。
 だって少しも似ていないじゃない、前のぼくだってデータくらいしか知らないけれど…。
 紅葉の楓と違うってことは直ぐに分かるよ、育つ地域が違うにしたって。



 名前に楓とつくだけだよね、と砂糖カエデを頭に描いた。前の自分が夢見た木だから、葉っぱの形くらいは分かる。紅葉の楓に似ているようでも、まるで違った木なのだと。
 けれど…。
「そうでもないんだ、どっちも同じに楓だから。…砂糖カエデも、紅葉の楓も」
 名前に楓とつくだけじゃない。紅葉の楓と砂糖カエデは、無縁ってわけじゃないってな。
 この地域だと砂糖カエデは生えてはいないが、紅葉の楓なら幾らでも生えて育ってくる。山でも森でも、林でも。…種が散らばりさえすれば。
 その楓から蜜が採れるらしいぞ、花の蜜ではなくて樹液だ。砂糖カエデの樹液みたいに。
 楓の幹に穴を開ければ採れるそうだ、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。
 幹から樹液を集めるのならば、メープルシロップと変わらない。砂糖カエデの樹液を煮詰めて、濃くしたものがメープルシロップ。樹液が一番多く流れる、雪解けの季節に集める樹液。
「それ、本当?」
 紅葉の楓から蜜が採れるって…。樹液だなんて、そんなの、聞いていないけど…。
 楓の木は何処の山にもあるけど、あれは山の中に好きに生えてるだけで…。
 雪解けの季節に樹液を集めに行く人なんかは、何処の山にもいないんじゃないの?
 いるんだったら、楓の樹液で出来ている蜜がお店に並んでいそうだから…。メープルシロップの瓶の隣に、楓の木から採れたシロップの瓶。
 だけど、一度も見たことないし…。ぼくのママだって、買ってこないし…。
 採れるんだったら、ぼくも食べたことがある筈だよ、と疑わしい気持ち。ハーレイが嘘をついているとは思わないけれど、元の情報が間違っていたら、嘘ではなくても嘘になる。間違った情報を信じてしまって、それを話しているのでは、と考えたりもしてしまう。楓の樹液などは知らない。
「お前が疑っちまう気持ちも、分からないではないんだが…」
 この辺りの山じゃ集めてないしな、楓の樹液というヤツを。もちろん、専門の人だっていない。
 だが、俺は嘘など言ってはいないぞ。楓の木からも樹液は採れる。蜜と呼べるほど甘いのが。
 楓の種類と、その木が育っている環境によるって話なんだが…。
 どの楓でも採れるというわけじゃないし、同じ種類の楓の木でも、場所が違えば駄目らしい。
 砂糖カエデが生えている森は、冬になったらうんと寒くなる場所にあるだろう?
 それと同じに、寒い山の中がいいって話だ。…砂糖カエデの森ほどには寒くないそうだがな。



 本当に嘘じゃないんだぞ、とハーレイは念を押すように言った。「俺が嘘などつくもんか」と。
「嘘をつくなら、もっと上手な嘘をつく。お前が疑わないような嘘を」
 ただし、そういう嘘をつくなら、お前のためになる嘘だ。お前を騙した方がいいと思った時に。
 もちろん、嘘だと話しはしない。嘘をつく理由が要らなくなって、嘘だと明かせる時までは。
 お前のためになる時だけしか、俺は嘘などついたりしない。それは分かっているんだろう…?
 違うのか、と瞳を覗き込まれた。「前の俺の頃から、そうだったが」と。
「…そうだけど…。前のハーレイが嘘をついていた時は、いつだって、そう…」
 ぼくが本当のことを知ったら、悲しくなってしまう時とか、泣いてしまいそうな時だとか。
 ハーレイの気持ちは分かっていたから、心を読んだりはしなかったよ。嘘を信じておくだけで。話して貰える時が来たなら、ハーレイは話してくれるから…。
 だけど、楓の話なんかは、そんなものとは違うでしょ?
 「お前、アッサリ騙されたな」って、今すぐにだって笑い飛ばせそう。ただの楓のことだから。
 冗談に決まっているだろう、って言われちゃっても、おかしくないし…。
 ぼくが砂糖カエデの森にこだわってるのは本当だもの、と鳶色の瞳を見詰め返した。とびきりの冗談を言われたのではと、もっともらしい嘘の話では…、と。
「冗談なあ…。それも悪くはないんだが…。今のお前はチビだしな?」
 今のは嘘だ、と俺が言ったら、きっとプンプン怒るんだろう。「酷いよ!」と膨れて、唇だって尖らせて。そんなお前も可愛らしいし、やってみたいような気もするが…。
 残念なことに、楓の話は嘘じゃない。楓と名前がつくだけあって、砂糖カエデと似てるんだ。
 この地域にもある楓の木から採れるってだけで、甘い樹液には違いない。そいつを集めてやって煮詰めれば、立派なシロップが出来上がる。
 本物のメープルシロップにも負けない、楓の樹液から作るシロップがな。
「えーっ!?」
 ホントに本物のメープルシロップが出来ちゃうの?
 砂糖カエデの木とは違った楓でも…?
 ぼくたちがモミジって呼んでる楓からでも、メープルシロップが採れるだなんて…。
 ハーレイが嘘を言ってないなら、それ、本当のことなんだよね…?
 冗談でもないって言うんだったら、楓の木からも、メープルシロップ、採れるんだ…。



 前のぼくの夢だったメープルシロップ、この地域にもあったわけ、と目をパチクリと瞬かせた。
 砂糖カエデの木が生えている森は、此処からはずっと遠い地域にある。紅葉の色合いが此処とは全く違うくらいに、遠く離れた海の向こう。
 この地域の紅葉は色とりどりの錦だけれども、砂糖カエデの森の辺りは何処まで行っても一面の赤。他の色の葉は混じっていなくて、砂糖カエデの葉の赤い色だけ。他の種類の木の森だったら、一面の黄色にもなるのだろう。その色だけで塗り潰されて。
 錦のような紅葉を見慣れた今の自分には、想像もつかないその光景。それほどに遠い、何もかも違う気候と風土の、砂糖カエデの森が広がる場所。
 わざわざ其処まで出掛けなくても、メープルシロップに出会えるらしい。砂糖カエデの樹液から出来る、シロップにこだわらないのなら。
「…普通の楓のシロップでいいなら、メープルシロップ、此処にもあるんだ…」
 海の向こうまで出掛けなくても、楓の木がちゃんと生えているから。…種類が違う楓でも。
 庭に生えてる楓みたいなヤツだよね、と指差した庭。母が「この種類が綺麗だから」と植えた、小さな葉をつける楓の木を。
「あれの仲間になるんだろうなあ、楓だと書いてあったから」
 どういう名前の楓なのかは、詳しく書かれちゃいなかった。其処まで書かなくても、写真だけで楓だと分かるような楓だったから…。
 俺たちが見れば、ただの楓にしか見えないんだろう。楓に詳しい人くらいしか、区別がつかないようなヤツだな。こういう葉だからコレだ、と名前が出てくるような人でなければ。
 俺もたまたま、思い付いて調べていたんだが…。楓だっけな、と。
 お前とメープルシロップの話をした後、何かのはずみに、砂糖カエデだと気が付いた。楓という名前がついているなと、だったら普通に生えてる楓はどうなんだ、と。
 同じ楓なら採れそうな気がするじゃないか、とハーレイが言うメープルシロップ。砂糖カエデの木とは違っても、楓には違いないのだから。
「ハーレイ、それで調べてみたの…?」
 この地域に生えてる楓の木からも、メープルシロップが採れるかどうか。
 そんなの、ぼくは思い付きさえしなかったよ。だって楓は楓なんだし、砂糖カエデとは別の木になってしまうから…。第一、ぼくにとってはモミジで、楓はモミジなんだってば。



 秋になったら綺麗に色づくのが楓、と思い込んでいた今の自分。前の自分が生きた頃には、目にしなかった楓の木を。…秋の山や庭を鮮やかに彩る木だと、「楓」の名には気も留めないで。
 考えてみれば、砂糖カエデにも「楓」と名前がついているのに。同じ「楓」の名前を持つなら、同じ性質を持っていたとしても、不思議なことなど何もないのに。
「…ぼく、モミジだと思い込んじゃってた…。楓のこと…」
 砂糖カエデも楓なのにね、モミジの楓とおんなじ楓。同じ名前がついているなら、モミジの楓が砂糖カエデと似てたとしたって、少しもおかしくないんだけれど…。
 気付かなかったよ、と前の自分の夢の一つを思い出す。青い地球まで辿り着いたら、あるだろう砂糖カエデの森。その森で採れる本物のメープルシロップをかけて、ホットケーキを食べる夢。
「俺はお前より、二十四年ほど長く生きてるからな。…ついでに古典の教師でもある」
 古典を生徒に教えるからには、言葉ってヤツに敏感だ。ピンとくるのが早いってな。
 砂糖カエデとモミジの楓の共通点にも、気付いちまったというわけで…。
 前のお前がメープルシロップにこだわっていたっけな、と調べてみたのがモミジの楓だ。楓には違いないからなあ…。もしかしたら、アレからもメープルシロップが採れるのかもしれん、と。
 それで調べて見付けたんだが、それっきり忘れちまってた。
 お前と話すことは多いが、話題も多いもんだから…。それに、採れるのは北の方だし。
 この辺りの山で採れるんだったら、俺も覚えていたろうが、とハーレイの指が叩いた自分の額。「ウッカリ者め」と、「調べたのはかなり前だろうが」と。
「北の方…。場所を選ぶって言っていたよね、この辺りの山じゃ採れないの?」
 うんと寒い所へ行かなきゃ無理なの、楓の木からメープルシロップを作るのは…?
 砂糖カエデの森があるのと同じくらいに、冬は寒くて夏は涼しい所でないと…?
「どうなんだかなあ…。この近くにも、雪がドッサリ積もるような場所もあるんだが…」
 平均したなら、暖かすぎるってことになるのか、気温の差が小さすぎるのか。
 楓の樹液を集めようって人は誰もいないし、山に行っても採ってる所は見かけんな。
 きちんと探せば、採れる場所だって、まるで無いことはないんだろうが…。
 何処かの山の斜面だったら大丈夫だとか、この谷ならば、って場所があるだとか。
 楓の木からメープルシロップを作ってみよう、と思い立った人が調べさえすれば、それに適した場所や木なんかは、見付かりそうではあるんだが…。この辺りの山でも、何本かは。



 ただし採れても、趣味の範囲を出ないだろうな、とハーレイが浮かべた苦笑い。自分用にと少し採るならともかく、商売になるほどは採れないだろう、と。
「商売って…。この辺りの山だと、趣味の範囲だって言うんなら…」
 ハーレイが言ってる、北の方で採れる楓のメープルシロップ、ちゃんと商売になってるの?
 お店で見かけたことは無いけど、何処か大きな食料品のお店に行ったら、それ、売られてる…?
 売ってるんなら欲しいんだけど、と出て来た欲。
 本物の砂糖カエデのメープルシロップは家の食卓でもお馴染みだけれど、楓のシロップの方には出会っていない。この地域で採れる楓のメープルシロップがあると言うなら、そちらも是非とも、味わいたいもの。ホットケーキにたっぷりとかけて。
「残念なことに、其処に行かなきゃ買えないってな」
 なにしろ採れる所が限られてるから、大々的には売り出していない。蘇った青い地球の恵みは、欲張って沢山採り過ぎないのが今の時代の約束事だぞ。
 美味いシロップが評判を呼んで、飛ぶように売れることになったら、沢山作る方法は何だ?
 その山に生えてる他の木を切って、楓ばかりを植えることだろうが。それもメープルシロップが採れる種類の楓だけだな、他の種類の楓は無しで。
 それじゃ、昔の人類と何も変わらない。地球の自然を自分たちの都合に合わせて、好きなようにした人類と。…山を削って、木を切り倒して、原野を切り拓いていった挙句に何が残った…?
 地球の滅びは、そういう所から始まったんだ。最初は生きるための開墾、それがどんどん進んでいったら、手が付けられなくなっちまった。自然は滅びて、元に戻せなくなってしまって。
 そうならないよう、今の時代は、地球の恵みを欲張って奪わないのが約束だから…。
 楓の木から採れるメープルシロップにしても、同じことだな。その年に其処で採れた分だけを、近くの店で売っている。…その程度だったら、採り過ぎちまうことは無いから。
 欲しい人は出掛けて行って買うのだ、と教えられた。
 店で売られているシロップの他に、それを使ったお菓子やホットケーキが食べられる店も設けてあるという。けれど、あくまで「其処まで訪ねて来た人」にだけ。
 いくら気に入っても、頼んで取り寄せることは出来ないらしい。また欲しいのなら、その場所へ出掛けて手に入れること。…お菓子もホットケーキも同じで、其処だけでしか味わえない。
 どんなに美味しいと思っても。…其処まで行くのに、どれほど時間がかかろうとも。



 楓の木から採れるメープルシロップ。この地域でも採れる、砂糖カエデではない楓のシロップ。あると聞いたら食べてみたいのに、この町では手に入らない。其処まで出掛けて行かないと。
「…そうなんだ…。楓のシロップ、食べてみたかったのに…」
 お店に行っても売っていなくて、取り寄せることも出来ないだなんて…。
 北の方まで行くのは遠いよ、ぼくの家からだと旅行になっちゃう。泊まりがけでしか、無理…。砂糖カエデの森がある場所も遠いけれども、楓のシロップが食べられる所も遠いってば。
 せっかく教えて貰ったのに…、とガックリと肩を落としてしまった。
 前の自分が知らなかった楓、その楓から採れる甘いメープルシロップ。一度でいいから、どんな味なのか舐めてみたいのに。…買えるものなら、瓶だって買ってみたいのに。
「こらこら、しょげるな。今は食べられない、っていうことくらいで」
 いつか俺と一緒に行けばいいだろ、そっちの方も。…砂糖カエデの森を目指すみたいに。
 俺の車で出掛けてゆくか、他の交通手段を使うか、それはその時に考えるとして…。
 お前が食べてみたいんだったら、旅行に行くとしようじゃないか。せっかくだから、楓の木から樹液が採れる季節にな。…そしたら、出来立てを食えるんだから。
 雪の上に流して作るキャンディーまでは、あるかどうかは知らないが…、とハーレイが提案してくれた旅行。楓の木から採れるメープルシロップ、それを味わいに行ける旅。
「連れてってくれるの?」
 メープルシロップくらいしか無いような場所でも、ぼくを旅行に連れてってくれる…?
 周りはホントに山があるだけで、観光地とは違っても。…見に行くものは何も無くても…?
「当然だろうが。旅の目的は楓の木のメープルシロップなんだぞ?」
 他にも観光しようだなんて、欲張らなくても充分だ。お前の笑顔が見られさえすれば。
 それに遠くても、同じ地域の中だから…。
 砂糖カエデの森に行くよりは、ずっと近くて簡単だからな。思い立った時に出掛ければいいし、宿だって直ぐに見付かるだろう。他の地域じゃないんだから。
 お安い御用だ、とハーレイは頼もしい言葉をくれた。「俺が旅行に連れてってやる」と。
「ありがとう!」
 ハーレイと一緒だったら、うんと楽しい旅行になるよね。
 凄い田舎で、周りに何にも無くっても。…泊まる場所だって、とても小さいホテルでも…。



 きっとハーレイなら、いつか連れて行ってくれるだろう。楓の木から採れるメープルシロップ、それを味わえる所まで。其処でしか売られていないシロップの瓶を、お土産に買える所まで。
(でも、あの楓からメープルシロップが採れるだなんて…)
 ずっとモミジだと思っていたよ、と庭の楓の木を眺める。母が選んだ、小さな葉の楓。その方が繊細で綺麗だから、と幾つもの種類の中から選んで。
 メープルシロップが採れる楓は、あの楓の木と似ているだろうか。もっと大きい葉の楓だとか、背が高いだとか、何か特徴があるのだろうか…?
(ハーレイは、普通の楓みたいだ、って…)
 話していたから、見た目はさほど変わらない楓なのだろう。「モミジの楓だ」と思う程度で。
 そんな楓から、甘い樹液が採れるという。
 砂糖カエデの森でなくても、メープルシロップが出来上がる。樹液を集めて煮詰めされすれば。
 なんとも不思議な星が地球だ、と思わないではいられない。メープルシロップは砂糖カエデから採れるものだと信じていたのに、前の自分は楓も知らなかったのに。
「ねえ、ハーレイ。…地球って凄いね、楓からもメープルシロップが採れるだなんて」
 砂糖カエデの森からは遠く離れていたって、この地域でもメープルシロップ…。
 同じ楓の仲間の木だから、モミジの楓からも甘いシロップが採れるんだね。楓の種類と、気候がきちんと揃っていれば。
「そうだろう? 地球も凄いし、前の俺たちが知らなかったことも山ほどだ」
 楓の木は何処にも無かっただとか、紅葉を眺めに出掛けてゆくことだとか…。前の俺たちには、思いもよらないことばかりだよな、今の時代は。
 それに、今の俺たちが知らないことも沢山ある。
 楓の木から採れるメープルシロップの味は、今の俺だって知らないし…。あるらしい、と知っているだけのことで、食ってみたことは無いんだから。
 お前と一緒に色々と探して見付けていこうな、そういったもの。
 今ならではの味も文化も、楽しみ方も。…いつか二人で暮らし始めたら。
 幾つも見付けていかないとな、とハーレイが微笑むから、大きく頷いた。笑みを浮かべて。
「うんっ!」
 ハーレイと幾つも見付けていこうね、いろんなものを。…前のぼくたちが知らなかったこと。


 北の方にある、メープルシロップが採れる場所にも行こうね、と約束をした。指切りをして。
 いつか大きくなった時には、ハーレイと二人で出掛けてゆこう。楓の木から樹液が採れる季節を選んで、泊まりがけで。どんな味がするのか、ワクワクしながら。
 そして本物の砂糖カエデの森にも行こう。錦のような紅葉ではなくて、赤一色に染まる森。秋に行っても出来立てのメープルシロップは食べられないから、雪解けの頃に。
 前の自分の夢を叶えに、今の自分のキャンディー作りの夢も叶えに。
 幾つもの夢を叶えてくれる、青い地球。蘇った青い水の星。
 夢がどんどん増えてゆく地球に、ハーレイと二人で生まれて来たから、今の自分は幸せ一杯。
 砂糖カエデの森の他にも、メープルシロップが採れる場所に出掛けてゆけるから。
 前の自分は見たこともなかった楓の木から、甘いシロップが採れるそうだから。
 口に含んだら、きっと幸せの味がするだろう、楓の木の樹液のメープルシロップ。
 ハーレイと二人で旅に出掛けて、ホットケーキやお菓子を味わってみたら。
 そしてお土産に、瓶に入ったシロップも買おう。
 其処でしか買えない幸せの味を、青い地球の恵みの、楓の木のメープルシロップを…。



             楓のシロップ・了


※前のブルーが憧れた、砂糖カエデから採れるメープルシロップ。地球に描いた夢の一つ。
 ところが今では、別の楓からも作れるのだとか。ハーレイと行きたい所が、また増えました。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











PR
「開かずの間だとか、開かずの扉というのがあってだな…」
 今の時代には無いようだがな、と始まったハーレイお得意の雑談。ブルーのクラスで。
 生徒たちの集中力が切れて来た時は、雑談で気分を切り替えさせる。人気でもある、ハーレイが話す色々なこと。今日のテーマは「開かずの間」。
 遠い昔は、そう呼ばれる部屋があちこちにあった。「開かずの扉」というものも。部屋も扉も、開けると良くないことが起きると思われていた。不吉な場所だと。
 けれども、度胸試しで入って、御褒美を貰った人もいたらしい。人間が宇宙を知らなかった頃、ずっと昔の日本のお城の天守閣で。
 白鷺城の名で知られたお城。天守閣には、人間ではないお姫様が住んでいたという。恐れて誰も入らない中、一人の小姓が上った階段。彼はお姫様に度胸を褒められ、入った証を貰って帰った。
「そういうわけでだ、彼は出世を遂げたらしいぞ。並みの人間より度胸があるから」
 立派な人物になったんだろうな、なにしろ武士の時代だから。
「でも、先生…。開かずの間は、開けちゃ駄目なんですよね?」
 その天守閣も駄目なんじゃあ…、という質問。生徒の一人が手を挙げて。
「本来はな。だから恐れられて、開かずの間だと言われるんだが…」
 白鷺城で入った小姓は、其処の主に気に入られたんだ。
 そんな時には、不吉なことが起こる代わりに、力を貸して貰えたりもする。面白いことにな。
 必ずしも、開けたら駄目なものとも限らんようだ、という解説。
 今の時代は、開かずの扉も、開かずの間なども無いそうだけれど。地球にも、他の惑星にも。
「先生、いつ頃まであったんですか?」
「そうだな…。人間が目には見えないものを信じていた時代までだから…」
 SD体制の時代に入っちまったら、駄目だったろうな。
 白鷺城はもう無かっただろうが、何処かに他の何かが存在していたとしても。
 SD体制だと、機械が最高権力者だったわけだから…。国家主席も機械が選んでいたんだし。
 機械が開かずの間だの扉だのを、許しておくと思うのか?
 どう考えても無理だろうが、という、もっともな話。
 もしもあったら、爆破して開けて、それでおしまいだったろう。機械は効率しか求めないから。誰も開けられない部屋や扉は、非効率的な代物だから。



 そう言い切られた「開かずの間」。開けてはならない「開かずの扉」も。
 機械だったら、強引に開ける。中にお姫様が住んでいようと、不吉なことが起こる扉だろうと。
 開けてしまえば、もう問題は起こらないから。開けっ放しになった部屋では、怪異の類は二度と起こりはしないのだから。
(あの時代じゃね…)
 そうなっちゃうよ、と納得できる。「ハーレイが言うと、説得力があるよ」とも。
 前のハーレイは、機械の時代を生きたのだから。それも機械が殲滅しようとしていた、異分子の側のミュウとして。ミュウの仲間たちを乗せた箱舟、白いシャングリラのキャプテンとして。
 けれど、ハーレイの正体は秘密。誰も知らない、「キャプテン・ハーレイ」だったこと。今ではただの古典の教師で、この学校で教えているだけ。
 開かずの間について語った後には、「授業に戻るぞ」とやっているのだから。教科書を広げて、教室の生徒を見回して。
(開かずの間の話は、これでおしまい…)
 ぼくも授業、と切り替えた気持ち。前の自分たちが生きた時代の話も此処まで、と。
 そうやって授業に戻った後には、忘れてしまった開かずの間。放課後になっても思い出さずに、学校の門を出て、路線バスに乗って帰った家。
 制服を脱いで、おやつを食べても、やっぱり同じに忘れたまま。おやつと、母との話に夢中で。
 食べ終えた後で、「御馳走様」と戻った二階の自分の部屋。扉を開けて入ろうとした途端、例の話を思い出した。開けてはならない、開かずの間。…開かずの扉。
(ちゃんと開くけど…)
 ぼくの部屋のは、と開けて入って、座った勉強机の前。この家に開かずの間などは無い。何処の扉も簡単に開くし、入れない部屋は一つも無い。他所の家にも無さそうだけれど…。
(ずっと昔はあったんだよね?)
 ハーレイはそう言っていた。
 お城の天守閣でなくても、あちこちにあった開かずの間。
 今の時代は消えてしまって、もう無いらしい。人間ではないお姫様が住む天守閣だの、開けたら不吉なことを呼び込む扉だのは。
 SD体制が敷かれた時代を挟んだせいで、宇宙からすっかり消し去られて。



(機械が許さない、開かずの間かあ…)
 確かにそうだ、という気がする。機械ならばそうするのだろう、と。
 前の自分が押し込められた、アルタミラにあった狭い檻。大勢のミュウが殺されていった、檻が並んでいた研究所。檻から外に出された時には、人体実験の対象になる。誰であろうと、ミュウと判断されたなら。
(酷い実験、幾らでもあって…)
 殺された仲間の残留思念を、前の自分は感じていた。実験室に連れてゆかれる度に。
 嬲り殺しにされた者やら、「死にたくない」と叫びながら死んでいった者やら。彼らの無念は、あそこに残ったかもしれない。前の自分が知らなかっただけで。
 アルタミラの研究所はメギドの炎で星ごと焼かれたけれども、他の惑星にもミュウを閉じ込める施設はあった。育英都市から移送されたミュウを、研究のために「飼っていた」場所も。
 そういう施設なら、開かずの間も出来ていたろうか。ミュウは精神の生き物だから…。
(…思念体みたいな形で残って、幽霊になって…)
 死んだ後にも蹲っている檻があるとか、死んだ筈のミュウが彷徨い歩く実験室とか。
 あっても不思議ではない、幽霊が出る檻や、実験室や。…研究者たちも気味悪がって、入ろうとしない実験室。覗きたがらない、幾つかの檻。
(だけど、部屋ごと…)
 爆破されちゃって終わりだよね、とハーレイの話と重ねてみる。授業の時間に聞いた雑談。
 効率だけしか求めない機械は、開かずの間など許さない。研究者たちが入りたがらない実験室は役に立たないし、覗きたがらない檻でも同じ。その檻は使えないのだから。
(幽霊が出るから、って噂が立ったら…)
 実験室も檻も、爆破しそうなマザー・システム。
 誰も恐れて近寄らないなら、遠隔操作で破壊することも出来たろう。機械ならではの方法で。
(監視カメラとかが幾つもあるから…)
 その回線を転用したなら、送れるだろう爆破の命令。人間が爆破出来ないのならば、爆発物だけ仕掛けさせておいて、機械が起爆させるだけ。
 マザー・システムなら、そうするだろう。開かずの間など木っ端微塵にしてしまって。
 幽霊になっても消されるミュウ。人類は恐れて近寄らなくても、機械は何も恐れないから。



 人類の世界だと、消されてしまう開かずの間。ミュウの幽霊が蹲っていたり、彷徨い歩くと噂の部屋。機械はそれを良しとしないし、端から爆破してしまって。
(シャングリラには幽霊、出なかったけど…)
 あの船だったら、開かずの間も出来ていたろうか。
 誰かが其処に住み着いたなら。思いを残して幽霊になって、船にいたいと考えたなら。
(…ハンス…)
 真っ先に浮かんで来た名前。アルタミラから脱出する時、命を落としてしまったハンス。ゼルの弟。宇宙船など、誰も動かしたことが無かったせいで起こった事故。
 「離陸する時は乗降口を閉める」ということ、基本中の基本も知らなかった前の自分たち。
 ハンスは其処から放り出されて、燃える地獄に落下していった。ゼルが必死に握っていた手が、力を失ってしまった時に。「兄さん!」と叫ぶ声を残して。
 ハンスが投げ出された乗降口は、二度と使われはしなかった。何処にも着陸しなかった船だし、使う必要など無かったから。誰も降りたり、乗ったりはしない船だから。
 開きも閉じもしなかったけれど、考えようによっては、あの扉は…。
(開かずの扉…)
 扉はあっても開かないのだから、開かずの扉と呼ぶことも出来る。「開かずの間」だとか、扉の話があった時代なら、それに纏わる話も出来そう。
 扉を開けば、ハンスの幽霊が出るだとか。そうなった時は、ゼルが喜んで開けそうだけれど。
 他の仲間たちは避けていたって、ゼルだけが宇宙服を着込んで。命綱もつけて。
 誰もいない時を見計らっては、開けてみる扉。「今日もハンスに会えるだろうか」と。
 けれど、開かずの扉は無かった。乗降口は閉まっていただけ、一度も開かなかっただけ。
(ハンスの幽霊、出なかったしね…)
 ゼルは「会いたい」と言っていたけれど、出会えたと耳にしたことはない。開かずの扉になっていた乗降口、あの辺りに何度も行っていたのに。…ハンスを探し求めるように。
(だけど、ハンスは出て来ないままで…)
 ハンスの他にも、幽霊の話を聞いてはいない。
 ミュウの箱舟なら、機械に支配されてはいないし、幽霊が出ても消されないのに。開かずの間も扉も、あの船だったら立派に存在できたのに。



 なのに出なかった、誰かの幽霊。聞いたことが無い、幽霊の噂。もちろん開かずの間など無い。開かずの扉も、船には無かった。白いシャングリラにも、改造前の船にも、一つも。
 前の自分があの船からいなくなった後にも、幽霊が出たとは聞いていないけれど…。
(もしかして、出た…?)
 ナスカで死んだ仲間たち。メギドの犠牲になった者たち。
 彼らが船に現れたろうか、赤いナスカはもう無かったから。彼らが残りたがっていた星、手放すことを拒んだ星。それはメギドの炎に焼かれて、砕けて宇宙に散ってしまった。どんなにナスカに残りたくても、砕けた星には留まれない。星が壊れて消えた後には。
 行き場所を失くしてしまった彼ら。ナスカで命を落とした者たち、彼らは船に戻ったろうか。
 白いシャングリラの居住区の中に、彼らの部屋は暫くはあった筈だから。ナスカにあった家とは別に、以前から暮らしていた部屋が。
(其処に戻って来ていたら…)
 出会う仲間も現れた筈。掃除のために入っていったら、死んだ筈の者がいただとか。夜が更けて照明を暗くした通路を、歩く姿を見かけたとか。
 誰かの幽霊が出るとなったら、出来そうなのが開かずの間。通路は通らねばならない場所だし、封鎖することは出来ないけれども、部屋なら閉じてしまえばいい。厳重に扉をロックして。
(入れないようにするのが一番…)
 そうすれば出会わない幽霊。誰も入りはしないのだったら、部屋の住人にも出会わないから。
 白いシャングリラにあっただろうか、幽霊が出ると評判の部屋。施錠されたままの開かずの間。
(どうなんだろう…?)
 今の時代には多分、伝わっていない。そういう部屋があったとしても。
 シャングリラはとうに解体されて、時の彼方に消え失せた船。写真集が編まれるくらいに人気の高い船だけれども、細部の構造までを知っているのは専門の研究者たちくらいだろう。
(そんな人たちが調べる資料に、幽霊の出る話なんかは…)
 恐らく記されてはいない。船の設計図にも、補修などの際のデータなどにも。
 超一級の歴史資料で、シャングリラや初代のミュウについて調べる時には参考にされる、有名な本。前のハーレイが綴り続けた航宙日誌。あの中にもきっと、書かれてはいない。
 幽霊が出る部屋があったとしても。…シャングリラに開かずの間があっても。



 キャプテン・ハーレイが綴った日誌の中身は、日々の出来事を書き留めたもの。シャングリラを纏め上げていたキャプテンの視点で、ただ淡々と。
(幽霊が出る、って噂なんかは…)
 書きそうにないし、開かずの間が出来てしまったとしても、封鎖した事実を書き記すだけ。どの区画の何処を閉鎖したのか、原因の方は何も書かずに。
(でも、ハーレイなら…)
 幽霊が出たなら知っているよね、と考えなくても分かること。たとえ噂でも、その結果として、船に開かずの間が出来たなら。閉鎖された部屋があったなら。
 気になって仕方ないものだから、訊いてみたいと思っていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。今日の授業で、開かずの間の話をしてたでしょ?」
 シャングリラの中にも、ああいう部屋があったかな、って…。開かずの間、あった?
「はあ? 開かずの間って…。シャングリラにか?」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「あればお前も知ってるだろうが」と。
「前のぼくが生きてた間だったら、もちろん知っているけれど…。その後だってば」
 入ったら良くない部屋っていうのが、開かずの間でしょ。人間じゃないお姫様が住んでるとか。
 シャングリラにだって、ナスカが壊れてしまった後ならありそうだよね、って…。
 ナスカで死んだ仲間の幽霊が出るから、誰も入らないように閉めた部屋とか。
 そういう開かずの間なんだけど、と尋ねたけれども、ハーレイは「無いな」と直ぐに答えた。
「生憎と、幽霊の話は無かった。出ると噂になった部屋もな」
 ナスカで死んだ連中はみんな、真っ直ぐ天国に行ったんだろう。あの船にまた戻って来るより、天国の方がいいに決まってる。もう戦いは無いんだから。
 誰も戻って来やしなかったし、幽霊を見たという話も聞いてはいない。
 出るんだったら、今のお前が言ってる通りに、開かずの間にすることも検討するんだがな。他の仲間の不安を煽っちゃ、地球までの道が厄介になる。
 「入っちゃいかん」と閉鎖するのが一番だ。幽霊の噂が船に広がって、誰もが怯え始める前に。
 不安ってヤツは、ミュウの場合は、ぐんぐん広がっちまうから…。
 一人が怖いと思い始めたら、思念波のせいで、アッと言う間に誰もに伝染しちまうからな。



 ミュウの長所であると同時に、弱点でもあった思念波というもの。瞬時に伝達可能な感情、負の感情ほど広がりやすい。怯えや恐怖といった類の、皆の不安を煽るものほど。
 だからハーレイの判断は正しい。幽霊が出ると噂が立ったら、その場所を閉鎖してしまうこと。誰も立ち入らない部屋になったら、もう幽霊には出会わない。開かずの間が船に生まれるだけで。
「やっぱり、開かずの間にしちゃうんだ…。シャングリラに幽霊が出る部屋があったら」
 だけど幽霊、出ていないんだね。…みんな天国に行っちゃったから。
「そういうこった。ナスカを離れろと指示を出しても、残ったようなヤツらだけにな」
 シャングリラに戻って地球を目指すより、天国に行こうと思うだろうさ。
 前のお前なら、メギドにいたかもしれないが…。前に話をしてたみたいに、ポツンと一人で。
 …って、あったじゃないか、開かずの間が。シャングリラにも。
 思い出したぞ、とポンと手を打ったハーレイ。「そうだ、あの船にもあったんだ」と。
「あったって…。何処に?」
 幽霊なんかは出なかった、って言ったじゃない。それなのに、なんで開かずの間なの?
 そんな部屋がいったい何処にあったの、と興味津々。前の自分が知らないからには、死んだ後に出来た開かずの間。ナスカの悲劇とは別の原因、それで生まれた閉鎖された部屋。
 居住区の中か、まるで関係ない場所か。…開かずの間は何処にあったのだろう?
「何処にって…。お前も知ってる筈なんだが?」
 もちろん今のお前と違って、前のお前だ。ソルジャー・ブルーだった頃のことだな。
 それは立派な開かずの間がだ、白い鯨にあったわけだが…?
 お前もよくよく知ってる部屋だ、と言われても何も思い出せない。白いシャングリラの幾つもの部屋を頭の中に描き出してみても、船の構造図を描いてみても。
「開かずの間って…。そんな部屋、ぼくは知らないよ?」
 今のぼくは何も覚えていないし、前のぼくの記憶の中もおんなじ。
 シャングリラにあった部屋を端から数えてみたって、「これだ」っていう部屋、無いけれど…。
 居住区の中の誰かの部屋なら、忘れちゃったかもしれないけれど…。
「やれやれ、灯台下暗しか…」
 馴染み深すぎて、ピンと来ないって所だな。
 立派な部屋だと話してやっても、よくよく知ってる部屋だと説明してやっても。



 今日の俺の話をきちんと思い出してみろ、とハーレイが挙げた例の雑談。遠い昔の日本にあった開かずの間。白鷺城の天守閣のこと。
 とうの昔に、時の流れに消えてしまった白鷺城。天守閣には人間ではないお姫様がいた。迂闊に入ると祟るのだけれど、御褒美を貰った小姓もいた場所。
「えっと…。天守閣の話がどうかしたの?」
 面白いとは思うけど…。普通の人は祟られちゃうのに、御褒美を貰った人がいたなんてね。
「その天守閣だ。そっくりじゃないか、シャングリラにあった開かずの間と」
 シャングリラの方のも、天守閣と言ってもいい場所だしな。
 ああいう形はしちゃいなかったが、そう呼んだっておかしくなかった場所だ。開かずの間は。
 天守閣だ、とハーレイが繰り返すから、首を傾げた。心当たりが無かったから。
「…天守閣って…。ブリッジは誰でも入れたよ?」
 ブリッジクルーじゃない人だって、立ち入り禁止じゃなかったもの。非常時は入れないけれど。
 それとも、そっちを言ってるの?
 普通の仲間は入れない時があったりするから、ブリッジのことを「開かずの間だ」って…?
「ブリッジなあ…。確かに入れない時はあったが、あのブリッジは天守閣とは言わんだろう」
 天守閣は城の中でも一番立派なんだが、城のシンボルみたいなモンだ。
 どんなに立派に作ってみたって、戦争の時には役立たなかった。…ブリッジと違って。
 もっとも、シャングリラの天守閣の方は、守りの力にはなっていたんだが…。
 本物の天守閣に比べりゃ、船の役には立ったんだがな。
 見た目だけってことは無かったぞ、と言われても、やはり分からない。天守閣のようだと思える部屋も、開かずの間になっていそうな部屋も。
「ハーレイ、それって…。何処のことなの?」
 いくら考えても答えが出ないよ、天守閣だった開かずの間って、どの部屋の話…?
「なあに、簡単なことだってな。白い鯨で一番立派で、天守閣のような部屋なんだから…」
 前のお前が暮らしてた頃の青の間だ。…立派だったろ、とても広くて。
 そして、お前がお姫様だな。天守閣に住んでた、祟りがあると評判の綺麗なお姫様だ。
「えっ…?」
 青の間が天守閣っていうのはいいけど、お姫様って…。どうして、ぼくがお姫様なの…?

 ぼくは祟ったりしてないよ、と目をパチクリと瞬かせた。
 青の間で暮らしたソルジャー・ブルー。部屋付きの係が設けられたほど、大きかった部屋で。
 ソルジャーと皆に敬われはしても、青の間に来る者を拒みはしない。むしろ来客は歓迎な方で、誰でも自由に来て欲しかった。ソルジャーだから、と遠慮しないで、もっと気軽に。
 そうは思っても、滅多に来てくれはしなかったけれど。…一緒に遊んだ子供たちでさえ。
「前のぼく、祟るわけじゃないのに…。みんな、あんまり来てくれなくて…」
 寂しかったよ、ハーレイたちがあんな部屋を作るから…。こけおどしの貯水槽までつけて。
 ソルジャーはとても偉いんだから、って敬うように仕向けてしまって、ぼくは独りぼっち。青の間にいる時にはね。…誰も遊びに来てくれなくて。
 子供たちだって、滅多に来てくれなかったから、と今のハーレイに文句を言った。そういう風にしてしまったのは、前のハーレイと長老たちなのだから。
「其処だ、其処。…お前の部屋と、開かずの間が良く似ている所」
 青の間はソルジャーの部屋で恐れ多いから、係以外は立ち入らない。部屋付きの係や食事係や、メンテナンスの担当者やら。
 そういう係のヤツを除けば、出入りするのは俺やゼルたちや、フィシスといった所だし…。
 他のヤツらが入る時には、許可を得ようとしていたっけな。
 今は入ってもいい時間なのか、入っても咎められないか。お前の都合を確認していたわけだが、祟りを避けているようじゃないか。下手に入って、お前の機嫌を損ねないように。
 お前は別に祟りやしないし、機嫌も損ねはしないんだがな…、とハーレイは笑う。
 「天守閣のお姫様のようじゃないか」と、「誰もが入るのを遠慮するんだから」と。
「…言われてみれば、そのお話に似てるかも…」
 前のぼくは何にも言ってないのに、勝手に遠慮されてしまって。…誰も来なくて。
 誰でも好きに入っていいのに、そんなの、分かって貰えなくって…。
 子供たちだって、ヒルマンやエラが叱ってたんだよ、「青の間で騒いじゃいけません」ってね。そう言われたら、そうそう遊びに来ないよね…。子供たちは賑やかに遊びたいんだから。
 大きな声で笑って、駆け回って…、と零れる溜息。それが自由に出来ない場所には、子供たちは遊びに来てくれない。余程でなければ、子供たちの方から「ソルジャー!」とは。
 どうしても直ぐに知らせたい何かや、一緒に遊びたいことでも出来ない限りは。



 無邪気な幼い子供たちさえ、そういう有様。ソルジャーの部屋に遊びに来てはくれない。船中を走り回っていたって、その続きには入って来ない。青の間だけは避けて通って。
 大人ともなれば、子供たち以上に遠慮したのがソルジャーの居室。入りたいなら、許可など必要無かったというのに、いつも部屋付きの係が訊きに来た。
 「こういう用件で、お会いしたい者が来ておりますが」と、用件と客の名前を告げて。青の間に通していいかどうかを、ソルジャーの機嫌を窺うように。
 わざわざ自分に尋ねなくても、答えは決まっていたというのに。「いいよ」と答えていた自分。いつも答えは「いいよ」ばかりで、「駄目だ」と言いはしなかったのに。
(係が訊きにやって来るのは、まだマシな方で…)
 そうでなければ、係が用件を取り次ぐだけ。客は直接入って来ないで、返事だけを貰って帰ってゆく。…それで充分、満足して。「ソルジャーにお答え頂けた」と。
「…青の間、開かずの間になっちゃってたんだ…。鍵はかかっていなかったけど…」
 開けても何にも起こらないけど、ホントに開かずの間みたいな場所。
 ハーレイが「天守閣に似た部屋だ」って言うのも分かるよ、ソルジャーが暮らす部屋だものね。
 ソルジャーはミュウの長だったんだし、シンボルみたいなものだから…。
 それに青の間、前のぼくがサイオンを使えさえしたら、船を丸ごとシールドしたりも…。外には一歩も出て行かなくても、あの部屋に、ぼくがいさえしたらね。
「うむ。本物の天守閣よりも役立つ部屋だったよなあ、あの青の間は」
 貯水槽はこけおどしに過ぎなかったが、お前の力が凄かったから。最強のミュウで、一人きりのタイプ・ブルーでな。
 お姫様の代わりに、そういうお前が住んでいた、と…。シャングリラにあった開かずの間には。
 ついでに、度胸試しの小姓も突っ込んで行ったじゃないか。
 白鷺城の話と同じにな…、とハーレイは可笑しそうだけれども、小姓とは誰のことだろう?
「度胸試しって…。誰が?」
 子供たちの中の誰かなのかな。それとも、子供たちなら誰でも、度胸試しの小姓だとか…?
「もっと大きな子供だったぞ。ジョミーだ、ジョミー」
 突っ込んで行って、ちゃんと褒美も貰ってたように思うんだが…。
 前のお前の前で怒鳴って、家に帰して貰ったじゃないか。



 二度と帰れない筈の家にな、とハーレイがニヤリと笑ってみせる。「あれこそ度胸試しだ」と。
 あんな度胸は誰も持たないと、「誰があそこから入るんだ?」と。
「そうだ、あの時のジョミーの通路…!」
 普通じゃなかったんだっけ…。ちゃんと青の間までやって来たけど、ジョミーが来た場所…。
 思い出したよ、と鮮やかに蘇った記憶。
 白いシャングリラで苛立ち、孤立していたジョミーを、青の間に来るよう、呼び寄せた時。
 「ソルジャー・ブルー」の姿を探し求めて走るジョミーに、二通りの入口の情報を送った。彼が読み取る思念の中に織り交ぜて。
 緩やかな弧を描くスロープ、その端にある誰もが通ってくる入口。ハーレイたちも、部屋付きの係も、たまに入ってくる来客も。
 それが一つ目の入口の情報、もう一つは非常用通路の方。緊急事態に備えて設けられたもので、スロープの途中に出て来られる。スロープを歩いて上らなくても、エレベーターのように。
 どちらの通路の入口にだって、警備員などが詰めてはいない。係が見張っているわけでもない。
 とはいえ、遠慮するべき通路が非常用のもの。
 ソルジャーの生活空間に繋がるスロープ、それを省いて入り込むなどは無礼だから。一刻を争う時ならともかく、そうでないなら、スロープを歩いて上るべき。急ぎの用があったとしても。
「前のぼく、ジョミーに、入口を二つ教えたのに…」
 スロープの下から入ってくる方と、途中に出られる非常用のと。
 どういう具合に使い分けるのか、それも送った筈なのに…。非常用の通路は使われない、って。
 便利で早く来られるけれども、みんなが遠慮する通路。
 ハーレイたちだって使わないんだ、ってジョミーに送ったんだけど…。いくら酷く怒っていたにしたって、読み取れないことは無さそうなのに…。
 ジョミーの力なら充分、読めたよ、と前の自分が読み取らせた思念の中身を思う。
 初めて自分の意志で心を読んでいたジョミー、そんな彼でもきちんと読めていた筈だ、と。
「迷いもしないで、真っ直ぐ突っ込んで来たんだろ?」
 非常用の方の通路から。
 前の俺でさえ、遠慮して使いはしなかったヤツ。
 どんなに気持ちが焦っていたって、ソルジャーのお前に、無礼な真似は出来ないからなあ…。



 お前を待たせちまった時でも使っていない、と苦笑するハーレイ。「キャプテンだしな?」と。
 夜になったら、青の間へ一日の報告に来ていたキャプテン。報告が終われば、ただのハーレイ。前の自分と恋人同士で、二人きりの甘い時間を過ごした。キスを交わして、愛を交わして。
 だから急いでくれてもいいのに、ハーレイは「キャプテンとして」礼儀作法を守った。非常用の通路を使いはしないで、代わりにスロープを走って上ったりもして。
「そうだね…。ハーレイは、いつも走っていたね」
 非常用の通路で来れば早いのに、ちゃんと入口から入って来て。「遅くなりました」って、前のぼくに謝ったりもして…。
「そりゃまあ…なあ? お前はソルジャーなんだから」
 俺の恋人である前にソルジャー、そして俺だってキャプテンだ。其処の所はきちんとしないと。下手に甘える癖がついたら、何かのはずみに出ちまうから。…他のヤツらが見てる時にな。
 そいつはマズイ、と今のハーレイが口にする通り。ソルジャーとキャプテンが恋人同士だと皆に知られるわけにはいかない。白いシャングリラを、仲間たちを纏めてゆくためには。
 だからハーレイは常に敬語で話し続けて、非常用の通路も使わなかった。遅くなった夜は、早く青の間に来て欲しいのに。…そんな夜更けに、誰も見咎めはしないのに。
「分かってるけど…。でも、ハーレイでも使っていなかった通路…」
 それをジョミーが使うだなんてね、迷いもせずに。…どういう通路か、承知の上で。
 ジョミーなら、やると思ったけれど。
 真面目にスロープなんかを上って、会いに来るとは思っていなかったけど…。
 ジョミー、本当にやっちゃった、と今でも思い出せる、あの日の光景。スロープの途中に開いた非常用の通路と、其処から姿を現したジョミー。皆が使う入口を通りもせずに。
「お前に礼なんかを取っていられるか、っていうクソ度胸だよな」
 後からお前に話を聞いて、みんなが呆れ返ったもんだ。俺も、ヒルマンも、ゼルたちも。
 エラは「なんて無礼な!」と顔を顰めたし、ヒルマンは自分の教育不足を嘆いてたっけな。船で一番偉いのは誰か、それを厳しく教えておくべきだった、と。
 ジョミーはお前とは初対面だったし、それだけでも礼を取るべきなのに…。
 その上、お前はミュウの長だぞ。
 いくらジョミーが「自分はミュウじゃない」と、思い込んでいたにしたってなあ…。



 年長者だとか、目上の人への礼儀ってヤツはどうなったんだ、とハーレイが軽く広げた両手。
 SD体制の時代といえども、そういった礼儀はあったから。学校の教師や目上の人には、敬語で話す。初対面なら、きちんと挨拶。育英都市でも徹底された、基本の基本。
 ジョミーは、それらを綺麗に無視した。挨拶はもちろん、敬語も使いはしなかった。スロープの途中に現れるほどだし、敬意の欠片も抱いてはいない。「ソルジャー・ブルー」に。
 シャングリラで暮らす仲間たちなら、恐れ多くて入れないのが青の間なのに。子供たちでさえ、遠慮していた部屋だったのに。
「前のぼくはジョミーに恨まれてたから、ああなって当然なんだけど…」
 ぼくが成人検査を妨害したせいで、酷い目に遭ったと思い込んじゃっていたんだから…。
 その憎いぼくを怒鳴りに来ようって言うんだものね。礼儀作法なんかは無視だってば。
 それにしても、凄い度胸だったけど…。
 普通は誰も使わない、って教えた方の通路を選んで、青の間に突っ込んで来ちゃったからね。
 ジョミーらしい、って嬉しかったよ。…怒る気なんかは、まるで無くって。
 自分の心を信じているから、そういうことが出来るんだもの。周りに何と言われていても。
 そんなジョミーなら、きっと立派なソルジャーになる、って思ったから…。
 嬉しくて、褒めてあげたいくらいで、ずっとこの強さを持ってて欲しい、って…。
「それで褒美に家に帰してやったってか?」
 度胸試しに出掛けた小姓は、お姫様から、天守閣に来たという証拠の品を貰ったんだが…。
 それを皆に見せて、度胸を認めて貰ったわけだが、ジョミーは家に帰れたんだな?
 お姫様のお前に褒めて貰って…、とハーレイが訊くから、「まさか」と肩を竦めてみせた。
「違うこと、知っているんでしょ」
 家に帰したのは、前のぼくの計算だったってこと。…帰っても、家には何も無いから。
 ジョミーがお母さんたちと暮らした痕跡、ユニバーサルの職員がすっかり消してしまって。何も無い家を見てしまったら、ジョミーも船に戻るだろう、って…。
「その話は、前の俺だって聞いて知ってはいるが…」
 しかし、ジョミーの方にしてみりゃ、褒美ってヤツだ。
 青の間まで突っ込んで行った甲斐があった、と思って満足していたろうさ。
 度胸試しの小姓じゃないがだ、もう本当に最高の褒美を手に入れた、って具合でな。

 意気揚々と帰って行っただろうが、というハーレイの指摘は間違っていない。
 前の自分の意図に気付かなかったジョミーは、「せいせいした」という顔だった。自分の人生を滅茶苦茶にしてしまった、ミュウの長に「勝った」わけだから。
 お蔭で家に帰ってゆけるし、もうシャングリラにいなくてもいい。ミュウの船に閉じ込められた日々は終わりで、自由を手に入れたのだから。
(うーん…)
 あれが開かずの間だったのか、と気付いた青の間。…前の自分が暮らしていた部屋。
 船の仲間たちの多くにとっては、入ることさえ恐れ多かった開かずの間。おまけに、ハーレイが授業の時に話した白鷺城の天守閣よろしく、度胸試しに来た小姓まで。
「そっか、青の間…。ホントに開かずの間だったんだ…」
 前のぼくは鍵なんかかけてないのに、「入るな」とも言っていないのに…。
 ハーレイたちが「ソルジャーは偉い」って言い続けたせいで、開かずの間になってしまってて。
 なんだか酷い、と寂しい気分。前の自分は生きていたのに、まるで人ではなかったかのよう。
 誰も部屋には来てくれないなら、度胸試しの小姓しかやって来ないなら。
 白鷺城の天守閣に住んでいたお姫様のように、ひっそりと其処にいるというだけ。皆と変わらず生きているのに、ソルジャーだったというだけなのに。
「仕方ないだろう、前のお前はそういう立場にいたんだから」
 ソルジャーのお前がいてくれたからこそ、皆の心を一つに出来た。…どんな時でも。
 そうするためには、お前が普通のミュウのようではマズイんだ。皆の気持ちが弛んじまって。
 お前には気の毒なことをしちまったが、あの時代だから仕方ない。お前も分かっていただろう?
 それに、青の間。…お前がいなくなった後には、立派に開かずの間になったぞ。
 正真正銘、開かずの間だな。ジョミーは引越ししなかったから。
 誰も暮らしていない部屋だし、普段は立ち入ることもないし…、と言われた青の間。前の自分がいなくなった直後は、ベッドの寝具も片付けられていたという。枠だけを残して。
 それでは寂しすぎるから、と暫くしてから、元の通りに戻されたけれど。
 部屋の主が今もいるかのように、枕も上掛けも整えられて。
 そうなった部屋は、誰が入って行っても良かった。もうソルジャーはいないのだから。
 けれども人の出入りは見られず、前のハーレイが訪れた時も、ナキネズミしかいなかった部屋。



 どうして、そうなったのだろう。前の自分がいないのだったら、入っても誰も咎めはしない。
 部屋付きの係を通さなくても、ソルジャーの都合を確かめなくても。
「…なんで開かずの間になっちゃったの?」
 ジョミーが引越ししていないんなら、好きに見学すればいいのに…。出入りは自由なんだから。
 まさか、ぼくの幽霊が出るって噂でも立った…?
 そういうことなら、ハーレイが閉鎖させなくっても、誰も行かないだろうけど…。
 元から開かずの間みたいな部屋だったしね、と瞳を瞬かせた。幽霊が出るなら、開かずの間にもなるだろう。ソルジャー・ブルーの幽霊にしても、幽霊には違いないのだから。
「いや、そんな噂は立っていないが…。お前の幽霊なんかはな」
 お前の幽霊が出ると言うなら、俺が真っ先に会いに出掛ける。キャプテンの役目だとか、上手いことを言って。…幽霊になった、お前に会いに。
 そうしたかったが、お前は出てはくれなくて…。俺はいつでも一人だったな、あの部屋で。
 たまにレインが来ていたくらいで、昔話をしていたもんだ。いなくなっちまったお前のことを。
 それ以外だと、会議なんかでも使っちゃいたが…。
 前のお前がソルジャーだった頃は、あそこで会議をしていたこともあったしな。シャングリラの天守閣みたいな部屋とも言えるし、重要なことを決める会議にはお誂え向きだ。
 そうは言っても、部屋の主がいないわけだから…。前のお前が暮らしているような感じだよな。
 ベッドも元のままで置いてあるんだし、ちょっと部屋を留守にしているっていうだけで。
 …だから、トォニィがシャングリラを解体させていなかったら。
 お前、あそこにいたんじゃないか?
 そう問われたから、キョトンとした。前の自分が、青の間にいるということは…。
「ぼくに、メギドから引越せって?」
 前のぼくは、メギドで幽霊になって座っていたかもしれないから…。
 シャングリラはいつ通るんだろう、ってポツンと一人で、残骸に座って、ぼんやりと。
 前のハーレイが迎えに来てくれて、天国に行ったと思っていたけど…。
 そうする代わりに、青の間に一人で引越すの?
 トォニィたちが、メギドの残骸を片付けにやって来た時に。
 ハーレイは迎えに来てくれてなくて、仕方ないから、シャングリラの方に引越すわけ…?



 あんまりじゃない、と睨んだ恋人の鳶色の瞳。「幽霊になった、ぼくを放っておくなんて」と。
「ぼくにシャングリラに引越せだなんて…。酷すぎない?」
 いくら青の間があるって言っても、開かずの間になって残っていても…。
 ハーレイと離れて独りぼっちで、そんな所で暮らしていくなんて…。
「そうじゃない。ちゃんとお前を迎えには行くが、そうじゃなくてだ…」
 青の間にお前はいないというのに、勝手に「いる」ことになっちまうんだな。青の間がそのまま残っているから、ミュウの神様みたいになって。
 お前の魂は青の間に住んでいるってことになるんだ、というハーレイの話に驚かされた。本当は其処にいないというのに、「いる」ことになるソルジャー・ブルー。神様のように。
「…記念墓地より凄いね、それ…」
 青の間を貰って、神様みたいに住んでるなんて。…前のぼくは、とっくに死んでいるのに。魂もハーレイと一緒に行ってしまって、青の間の中は空っぽなのに…。
「しかし、無いとは言えんだろう? お前は伝説のソルジャーなんだ」
 ミュウの時代の礎になった初代のソルジャーで、今の時代も大英雄だぞ?
 シャングリラが宇宙に残り続けていたなら、ソルジャーも代替わりしてゆくし…。ソルジャーと言っても名前だけだが、トォニィが次の誰かを指名して、また次の代も。
 そうやってソルジャーが継がれていったら、青の間に住む前のお前の所にはだな…。
 代々のソルジャーが挨拶に行くとか、そんな習慣まで生まれそうだぞ。
「挨拶って…?」
 何をするの、と傾げた首。開かずの間に住む初代のソルジャーに挨拶なんて、と。
「もう文字通りに挨拶だな。白鷺城の天守閣にいた、お姫様の場合はそうだったんだ」
 毎年、城の主がきちんと挨拶に行く。今年もよろしくお願いします、と礼を尽くして。すると、お姫様が城の未来を話してくれた。こういうことが起こるだろう、と。
 お前も未来を告げるんじゃないか、というのがハーレイの読み。ソルジャー・ブルーが青の間に住んで、開かずの間になっていたならば。…青の間に「いる」と思われていたら。
「シャングリラの未来を、ぼくが話すの…?」
 それって、フィシスの役目なんだと思うけど…。
 前のぼくは漠然と未来が見える程度で、予知なんかまるで無理だったけど…?



 それなのに未来を話すわけ、と質問したら、「そうなるかもな」という返事。
「時が流れりゃ、話はどんどん変わってゆくから…。お前が青の間にいるって話と同じでな」
 初代のソルジャーが今もいるとなったら、話に枝葉がついていくんだ。
 そして代々のソルジャーの方も、そのつもりで挨拶に行くわけだから…。お前の姿を見たんだと思うソルジャーだって出てくるだろう。見えてようやく一人前とか、色々と。
 シャングリラが解体されなかったら、お前、本当に青の間に住んでたかもな。伝説になって。
 本当はとっくに天国に行ってしまって、何処を探しても「いない」のに。
 青の間に行けば、今もソルジャー・ブルーが其処に暮らしている、と誰もが信じていて。
 伝説っていうのは、そういうもんだ。…何処からか生まれて、皆が信じて、伝わってゆく。
 シャングリラ、トォニィの代で解体されてて良かったな。変な伝説が出来なくて。
 流石に今の時代までは残っていやしないが、とハーレイが語るシャングリラ。解体されずに残り続けたなら、伝説が出来ていたかもしれない。青の間に住む、前の自分の伝説が。
「うん…。トォニィに感謝しなくっちゃ」
 前のぼくは神様なんかじゃないしね、そんな伝説が出来ても困るよ。シャングリラの未来を読むことだって出来ないし…。挨拶に来て貰っても。
 トォニィ、ホントにいい決断をしてくれたよね…。シャングリラ・リングも残してくれたから。
 ただ解体して終わりじゃなくて…、と思いを馳せた白い船。
 白いシャングリラは今も生き続けている。結婚指輪に姿を変えて、その船体の一部分が。
「そうだな、シャングリラ・リングがあるからなあ…」
 頑張って抽選で当てないと。申し込むチャンスは一度きりだが、お前ならきっと当てられるさ。
 なんと言っても、シャングリラの開かずの間の主なんだから、とハーレイが瞑った片目。
 「お前のためにあったような船だし、きっとお前なら当てられる」と。
 開かずの間の主になっていた方は、別にどうでもいいけれど。青の間にも未練は無いけれど。
 白いシャングリラが姿を変えた、結婚指輪を引き当てることが出来るなら…。
 青の間で生きた、前の自分に期待したい。シャングリラをきっと呼んでくれると。
 シャングリラ・リングをハーレイと嵌めて、幸せに生きてゆきたいから。
 平和になった今の時代にとても相応しい、白く輝く結婚指輪。
 出来るなら、それを左手に嵌めたい。ハーレイと幸せに生きてゆける証の指輪を、薬指に…。



             開かずの間・了


※まるで開かずの間のようだった、ソルジャー・ブルーが暮らす青の間。それも生前から。
 皆が遠慮して入らないのに、ジョミーは突入したのです。度胸試しに出掛けた小姓みたいに。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv














(お嫁さん…!)
 花嫁さんだ、とドキンと跳ねたブルーの心臓。学校から帰って、おやつの時間に。
 読んでいた新聞、其処に見付けた花嫁の横顔。髪を結い上げて頭にティアラ。真っ白なレースのベールも被って。
(えーっと…?)
 キョロキョロと見回したダイニング。いるのは自分一人だけ。母はキッチンで、暫くは来ない。これはチャンス、と記事に集中することにした。おやつよりも気になる、花嫁の記事。
(ふふっ…)
 思った通りに素敵な中身。婚約から始まる、結婚式までの準備が色々書かれていて。
 新居を探す時のポイントや、用意するべき家具だとか。なんともワクワクする内容。自分一人で考えていても、詳しいことなど分からないから。
(ぼくだと、住む家は決まっているし…)
 結婚したら、ハーレイの家に住もうと決めている。前はこの家とどっちにしようか、ちょっぴり悩みもしたけれど。
(結婚式で着る、ドレスも色々…)
 真っ白にするか、華やかな色のドレスも着てみるか。白無垢もあるし、試着だけでも大変そう。第一、ドレスか白無垢なのかも決めていないから悩ましい。
 結婚式の式場だって、と共感させられる、結婚式までに決めるあれこれ。思った以上に、花嫁になる前は忙しいらしい。人によっては美に磨きをかけ、習い事にも熱を入れたり。
 そうなんだ、と読み進めていった記事の結びは…。
(マリッジブルーに気を付けて?)
 なにそれ、と思った知らない言葉。初めて目にした「マリッジブルー」。
 とても気になる言葉だけれども、母に尋ねるわけにはいかない。きっと変な顔をされるから。
(そんな言葉、何処で聞いてきたの、って…)
 訊き返されたら困ってしまう。まさか、この記事で読んだなどとは言えないし…。
(前のぼくが知っていればいいけど…)
 知っているかも、と期待をかけたソルジャー・ブルー。三世紀以上も生きた間に、一度くらいは耳にしているかもしれない。あるいはライブラリーの本で見たとか、そんな具合に。



 前の自分の記憶を手繰るなら、続きは部屋で。ダイニングで考え込むよりも。
 おやつの残りを綺麗に食べ終え、キッチンの母にお皿やカップを返して部屋に戻った。気になる言葉を心の中で繰り返しながら、けれど顔には出さないで。
(マリッジブルー…)
 どんなのだろう、と勉強机の前に座って、さっきの続き。今の自分が知らない言葉。
 マリッジブルーと言うほどなのだし、結婚式までの流れを追った花嫁向けの記事だったから…。
(結婚は分かるけど、ブルーって?)
 マリッジは結婚、其処まではいい。続く「ブルー」が全くの謎。
 自分の名前でないことは分かる。今の時代も大英雄の、ソルジャー・ブルーではないことも。
 ブルーは色の名前だけれども、それのことでもないだろう。花嫁の衣装は純白なのだし、青色の出番は無さそうな感じ。「青いドレスを着たい」という場合は別として。
(他にブルーっていうものは…)
 何か無いかな、と指を折ってみても、まるで分からない。ブルーはブルーで、青い色としか。
 前の自分の遠い記憶を手繰っていっても、やはり無かった。マリッジブルーという言葉は。
(うーん…)
 結婚しなかった前の自分。恋さえ秘密のままで終わって、結婚式を挙げてはいない。ハーレイと二人で地球に着いたら、と漠然と夢を見ていただけで。
(結婚式のことなんか…)
 思い描けはしなかった。もちろん準備をするわけがないし、下調べさえもしていない。具体的な話を詰めるより前に、寿命の終わりが来てしまったから。
(地球まで辿り着けなかったら、結婚どころじゃないものね…)
 ハーレイと二人きりで暮らすことは出来ず、死の瞬間までソルジャーとキャプテン。恋に落ちたことは誰にも言えずに、黙って死んでゆくしかない。
 そうなることが分かってしまえば、夢さえも見られない結婚。
 白いシャングリラで幸せそうな恋人たちを目にする度に、羨ましいと思っただけ。二人で生きてゆける彼らが、いつか地球まで行けるのだろうカップルたちが。
 そんな日々では、結婚式について調べようとは思わない。自分とは縁が無いものなのだし、深く知るほど、悲しみが増してゆくだけだから。…「ぼくには無理だ」と。



 そのせいで知らなかったのだろうか、マリッジブルーという言葉。
 結婚式を挙げるつもりで調べていたなら、誰もが出くわすものかもしれない。本の中やら、白いシャングリラのデータベースの情報やらで。
(ぼくは知らないけど…)
 前のハーレイも縁が無さそうな言葉だけれども、今のハーレイ。青い地球の上に生まれ変わったハーレイだったら、この言葉も知っているのだろうか?
 なんと言っても大人なのだし、三十八年も生きている。友人たちの結婚式にも呼ばれたりして、沢山持っていそうな知識。それに自分との結婚のことも、心に留めてくれているから。
(ハーレイが来たら訊いてみたいけど、こんなの、メモに…)
 書き留めて机に置いてはおけない。「マリッジブルー」などと記したメモは。
 部屋の掃除は自分でしているけれども、母だって部屋に入ってくる。洗濯物を届けに来るとか、他にも色々。それも自分が学校に出掛けて留守の間に。
(机の上だと、ママが見ちゃうよ…)
 だから駄目だ、と諦めた机。分かりやすくても、母に見付かるような場所には置けないメモ。
 そうは思っても、引き出しの中に仕舞っておいたら、そのまま忘れてしまいそう。開けた時には思い出せても、肝心のハーレイが来ている時には、頭の端っこを掠めもせずに。
(メモの隠し場所…)
 それさえあったら書いておくのに、使えそうな場所が閃かない。部屋のあちこちに視線を配って見回してみても、ただの一つも。
 この調子だと、今日、ハーレイが来てくれなかったら、マリッジブルーという言葉は…。
(忘れてしまって、永遠の謎…?)
 何のことだったかも分からないまま、日が経って記憶の海に沈んで。
 それとも結婚を決めた時には、何処かで教えて貰えるだろうか?
(気を付けて、って書いてあったんだから…)
 花嫁にとっては、とても大事で気を付けなければいけないこと。そうだとしたら、誰かが教えてくれそうでもある。「マリッジブルーに気を付けて」という注意とセットで。
 結婚式に向けての準備の途中で、マリッジブルーの説明をして。
 「こういうものに気を付けなさい」と、対処法とかも親切に話してくれたりして。



 ちゃんと教えて貰えるかもね、と考えていたら聞こえたチャイム。窓から覗いたら、ハーレイが大きく手を振っていた。門扉の前で。
 来てくれたからには訊かなくちゃ、と部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ハーレイ…。マリッジブルーっていうのを知ってる?」
「なんだって?」
 いきなり何を言い出すんだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「お前、いったいどうしたんだ?」と鳶色の瞳を丸くして。
「今日の新聞に載ってたんだけど…。ぼくの知らない言葉なんだよ」
 前のぼくの記憶を探ってみたって、出て来ないから…。ハーレイなら知っているかと思って…。
 花嫁さんの記事に書いてあった、と説明をした。それで初めて知ったのだから。
「結婚式までの流れって…。お前、そんな記事を読んでいたのか」
 おやつの時間にダイニングでとは恐れ入ったな、しかも花嫁の写真付きだろ?
 よくもまあ…、とハーレイは呆れ返った様子。「お前も大した度胸じゃないか」と。
「大丈夫、ママには見付かっていないから。…ちゃんと、いないの確かめたもの。読む前に」
 それでね、その記事の一番最後にあったんだよ。マリッジブルーに気を付けて、って…。
 結婚する人なら知っているから、書いてなかっただけなのかな…。ひょっとしたら。
 だけど、ぼくは全然知らないし…。前のぼくだって知らないみたいだし…。
 マリッジブルーってどういうものなの、結婚する時には当たり前なの?
 ハーレイは聞いたことがあるの、と最初の言葉を繰り返した。「知っているの?」と。
「うーむ…。マリッジブルーと来たか…」
 チビのお前の口から聞くとは、とハーレイが眉間に寄せた皺。心当たりはあるらしい。
「知ってるんだね、ハーレイは?」
 その顔だったら、そうだもの。マリッジブルーを知ってるんでしょ?
「まあな。…今の俺くらいの年になってりゃ、普通は知っているだろう」
 花嫁の方の事情にしたって、結婚相手は男だから。…男の方でも耳にするってな、その言葉。
「じゃあ、教えてよ」
 ぼくに話しても問題ないなら、マリッジブルーの意味を教えて。
 子供の間は早すぎる、って言うんだったら諦めるけど…。ハーレイ、其処は厳しいものね。



 チビだからキスもしてくれないし、と上目遣いにチラと睨んだ。「ハーレイのケチ」と、日頃の恨みをこめた視線で。
 マリッジブルーはどうなのだろうか、子供の自分は聞けないままに終わるだろうか…?
「知りたいと言うなら、仕方ないな…。チビには言えない話でもないし」
 もっとも、お前が満足するかどうかは知らないが。…花嫁の気分の問題だからな、特別な何かが待っているってわけじゃないから。
 マリッジブルーというヤツは…、とハーレイが教えてくれたこと。花嫁の気分を指す言葉。
 嬉しい筈の結婚式を控えているのに、気分が沈んでしまう花嫁。結婚の日が近付くにつれて。
 どういうわけだか、そうなる女性がとても多いから、出来た言葉がマリッジブルー。
 マリッジは思った通りに結婚、ブルーの方には「落ち込む」という意味もあるらしい。結婚式に向けて心が弾む代わりに、涙ぐんだりする人も。
「えーっ!? マリッジブルーって、そういうものなの?」
 結婚式って、最高に幸せな日だと思うんだけど…。その後もずっと幸せなんだよ、結婚して。
 なのに悲しくなるなんて…。何か変だよ、本当にそれで合ってるの?
 何か勘違いしていない、と信じられない気分で訊いた。「それって記憶違いじゃないの?」と。
「俺が間違いを教えてるってか? これに関しては、そいつは無いな」
 やっぱり本当に知らなかったんだな、マリッジブルー。…チビのお前じゃ仕方がないが…。
 耳にするような機会も無いしな、こんなチビだと。
 結婚式に招待されても、御馳走しか見ていそうにないし、と痛い所を突かれたけれど。
「前のぼくだって知らないよ! 今のぼくなら、ハーレイに会う前はそうだけど…」
 パパやママと結婚式に行った時には、ケーキの方ばかり見てたから。…美味しそう、って。
 でも、前のぼくでも知らないんだから、ぼくが知らなくても仕方ないでしょ!
 チビのせいだけにしないでよ、と尖らせた唇。前の自分はチビの子供ではなかったから。
「そりゃまあ、前の俺たちが生きてた時代じゃなあ…」
 前のお前がいくら知識を増やしていたって、お目にはかかれなかっただろう。
 結婚する気でデータベースを探してみてもだ、果たして出会えていたのかどうか…。
 あの時代には、マリッジブルーなんかは無かったモンだから。
 人類の世界にも無かったんなら、船だけが全てのミュウだって縁が無いってな。



 SD体制の時代は今とは違う、とハーレイは説明してくれた。
 機械が統治していた世界。大人の社会と子供の社会は、機械が分けてしまっていた。子供たちは十四歳になったら、養父母と別れて新たな生活。それまでの記憶を処理されて。
 子供時代の記憶が薄れて、養父母の顔さえ曖昧になる成人検査。その後に教育ステーションへと送られ、やがて見付ける生涯の伴侶。結婚するコースに入ったならば。
 結婚が決まれば、幸せ一杯の未来があるだけ。何処で暮らすか、養父母になるのか、一般社会の構成員の道を選ぶのか。そういったことを決めて始める生活。愛する人と結婚して。
 順風満帆の結婚生活、それまでの道も希望に溢れた明るい道。マリッジブルーの出番は何処にも無かったという。花嫁は幸せを掴み取るだけで。
「…それじゃどうして、今の時代はマリッジブルーがあるの?」
 前のぼくたちが生きた頃より、ずっと素敵な時代なのに。
 人類とミュウのことはともかく、機械に記憶を消されるような時代じゃないし…。うんと平和な世界なんだし、幸せの量も桁違いだよ…?
 悲しくなる筈がないじゃない、と首を傾げた。今は本当に幸せな時代なのだから。
「素敵な時代だからこそだな。…マリッジブルーになっちまうのは」
 SD体制よりも前の時代にも、マリッジブルーはあったんだ。ずっと昔から言われていた。
 しかし、機械が治めた時代じゃ、誰もそいつに罹りやしない。失うものが無いからな。
 今の時代は、失くしちまうものが増えたんだ。結婚しようという花嫁たちは。
 失くしちまったら悲しいだろうが、とハーレイが言うから驚いた。
「え…? 失くすって…。何を失くすの?」
 いろんな幸せが手に入るのに、と訊き返した。結婚までの準備だけでも、忙しい中で幾つも掴む幸せ。二人で暮らすための家やら、その家に入れるための家具やら。
「そういったものは手に入るんだが…。幸せ一杯に見えるんだがな…」
 よく考えてみろよ、結婚したら何処で二人で暮らすんだ?
 親と一緒の家に住むなら、さほど問題は無いんだが…。大抵は家を出て行くだろうが。
 生まれ育った大好きな家や、いつも一緒だった自分の家族。そいつがすっかり消えちまう。
 近い所に引越しするなら、思い立った時に会いに行くのも簡単だが…。
 人によっては、故郷の星を離れてゆくこともあるんだし…。ワープしなけりゃ行けない場所へ。



 家も家族も、時には故郷も。…色々なものを失くす花嫁。
 幸せになる代わりに失くしてしまう。愛する人と暮らせるけれども、それまでの日々は何処かへ消える。生まれ育った家での暮らしも、毎日顔を合わせた家族も、全てが過去になってしまって。
「SD体制の時代だったら、その心配は無かったんだが…。本物の家族じゃないからな」
 ついでに機械が記憶を処理してしまうわけだし、子供時代に帰りたいとも思わない。
 そういう風に育っていたなら、結婚となれば幸せだけしか無かったんだ。失くすものなど持っていないんだから。…育ててくれた親も、懐かしい家も。
 ところが今だと、そうはいかない。マリッジブルーになっちまうわけだ、失うことが寂しくて。
 だから、お前も気を付けろよ?
 俺の嫁さんになるんだからな、と念を押されてもピンと来ない。マリッジブルーになるなんて。
「ぼく…? ぼくは平気だと思うけど…」
 ずっと昔から、ハーレイと一緒。今のぼくに生まれてくる前からね。
 今の方が寂しいくらいだと思うよ、ハーレイと離れ離れだもの…。せっかく会えても、一緒には暮らせないんだもの。今日もハーレイ、夜になったら帰っちゃうしね。
 だけど、結婚した後は一緒。前のぼくたちだった時より、うんと近くにいられるよ。
 ソルジャーとキャプテンなんかじゃないしね、部屋も別々じゃないんだから。
 そうやってハーレイと暮らしてゆけたら、今よりもずっと幸せでしょ?
 マリッジブルーになるわけがないよ、絶対に。結婚する日がまだ来ない、って悲しい気持ちで、カレンダーを見ていることはあっても。
 きっとぼくには関係ないよ、と自信たっぷりで言ったのだけれど。マリッジブルーに陥るようなことは有り得ない、と思ったけれど…。
「本当か…? お前、きちんと考えてみたか?」
 前のお前なら、結婚しても失うものは何も無かったんだが…。
 SD体制の時代に生きていた上に、人類以上に記憶を失くしていたからな。
 成人検査よりも前の記憶を、お前は持ってはいなかった。検査にパスした人類だったら、幾らか残っていたのにな。養父母のことも、育った家や故郷も。
 そいつをすっかり失くしていたし、その辺りは人類のヤツらと同じだ。
 結婚したって何一つ失くしはしないってわけで、未来への夢がたっぷりで。



 失くすものと言ったらシャングリラだな、とハーレイが話す白い船。ミュウの箱舟だった船。
 いつか地球まで辿り着いたら、二人で降りようと約束していた。ミュウを端から抹殺してゆく、忌まわしい機械が治める時代。それが終わって、箱舟が要らなくなったなら。
 平和になったら、ソルジャーとキャプテンの役目も終わるし、恋を明かしても許される。
 その時が来たら船を出ようと、地球の上にある小さな家で二人きりの暮らしを始めようと。
 ハーレイと二人で生きてゆける代わりに、戻れなくなる白い船。シャングリラが宇宙に旅立って行っても、見送ることしか出来ない二人。
 もうソルジャーではないのだから。…キャプテンでもないハーレイと二人、船を降りると決めた以上はもう戻れない。白い鯨が何処へ行こうと。
「シャングリラは失くしちゃうけれど…。青の間なんかは惜しくはないよ」
 あんな大袈裟な部屋は要らないし、ハーレイと二人で暮らせるだけの家があれば充分。
 シャングリラだって、二人きりでいられる家に比べたら、ずっと値打ちが落ちちゃうもの。
 思い出は一杯詰まっているけど、幸せな思い出には、全部ハーレイがいるんだから。
 そのハーレイと一緒だったら平気だよね、と微笑んだ。白いシャングリラを失くしたとしても、前の自分は少しも寂しくないのだから。
「前のお前なら、そうだった。お前が言ってる通りにな」
 失くす家族や家の記憶は、とっくに失くしちまった後だ。人類のヤツら以上に、跡形も無く。
 帰りたいと思う家も無ければ、会いたいと思う親だっていない。
 ゼルやブラウたちがシャングリラと一緒に行っちまっても、あいつらは友達だったから…。
 機会があったらまた会える、と手を振って別れられただろう。「またいつか」と。
 そして何年も会えないままでも、そう寂しくはないんだろうな。俺と暮らしているのなら。
 だが、今は…。
 お父さんもお母さんもいるだろうが、とハーレイに覗き込まれた瞳。
 「今のお前は、記憶を失くしちゃいないんだ」と。
 生まれた時からずっと一緒で、血の繋がった本物の両親。SD体制の時代の養父母ではなくて。
 この家で両親に守られて育って、結婚して家を離れる時まで、別れは来ない。
 けれど、結婚した後は違う。
 結婚式を挙げて帰ってゆくのは、この家ではなくてハーレイの家。其処が新しい家になるから。



 ハーレイの家は、同じ町の中にあるけれど。ハーレイは歩いてやってくることもあるけれど。
 その家は、此処の窓から覗いてみたって、屋根の端さえ見えない所に建っている。何ブロックも離れた場所に。
 そんな所に移り住んだら、父と母には、今のようには会えなくなる。一日に何度も顔を合わせて笑い合ったり、食事をしたりも出来ない暮らし。
 両親に会いに毎日帰ってゆけはしないし、何かの時に手を借りたいと思っても無理。
「お前が一人で留守番してても、お母さんのおやつは出て来ないんだぞ」
 今のお前なら、お母さんが買い物に出掛けていたって、ちゃんとおやつがあるんだが…。
 そいつが無くなっちまう上にだ、お前は昼間は独りぼっちだ。
 上手く時間を潰せたとしても、待っていたって、俺しか帰って来ないんだし…。
 お前の暮らしは変わっちまうぞ、というハーレイの指摘。今の暮らしと、結婚した後の暮らしは全く違うものだ、と。
「ホントだ、今と全然違う…」
 ママのおやつが無いのは分かっていたけれど…。ママがいない家に行くんだから。
 ハーレイが大好きな、ママのパウンドケーキのレシピを習って、お嫁に行こうと思ったけど…。
 頑張ってケーキを焼いてみたって、味見してくれるママがいないんだね。
 この家で練習している間は、ママが色々教えてくれて、味のアドバイスもしてくれるのに…。
 そのママがいないよ、と気が付いた。「母がいない」という意味に。
 今なら何処かに出掛けていたって、直ぐに帰って来てくれる母。そんなに長くは待たなくても。
 ほんの少しでも遅くなったら、「ごめんなさいね」と謝られる日も。
 父も昼間は仕事だけれども、夜になったら帰って来る。休日は家にいることも多い。庭の芝生を刈り込んでみたり、母の花壇を手伝ったりも。
 両親の姿は、いつもあるのが当たり前。家族が揃う朝食と夕食、それ以外にも何度も会って。
 夜中にだって、困った時には声を掛ければ起きてくれる両親。「どうしたの?」と母が部屋から顔を覗かせて、父も「どうした?」と出てきてくれて。
 その人たちがいなくなる。…ハーレイの家に引越したら。
 ハーレイの家と両親の家は全く違うし、家中の部屋を覗いてみたって父も母もいない。二人とも帰って来てはくれなくて、離れてしまって、独りぼっち。何ブロックも離れた場所で。



(でも、ハーレイが…)
 いてくれるものね、と思ったけれども、そのハーレイも仕事に出掛けている間は留守。夏休みや春休みなどの時を除けば、週末以外はいつも学校。朝になったら出勤してゆく。
(帰って来るのは、早い時でも今日みたいな時間…)
 午後のおやつには間に合わない。ポツンと一人で食べるしかない、三時のおやつ。
 この家にいても、おやつを一人で食べている日も多いけど。今日もそうだったし、お蔭で新聞の花嫁の記事を読めたのだけれど。
(…ママはキッチンにいたか、庭に出てたか…)
 とにかく家の何処かにはいたし、独りぼっちとは言えないだろう。「ママ、何処?」と呼べば、声が返っただろうから。「此処よ」と、「何か用事なの?」と。
 けれど、ハーレイの家での独りぼっちは違う。本当に自分一人で留守番。
(ハーレイは今頃、授業中かな、って…)
 時間割の写しを眺めてみても、ハーレイの様子は分からない。どんな教室で、生徒に何を教えているか。授業の途中の雑談の時間で、笑い声が上がっているかどうかも。
(前のぼくなら、ハーレイが船の何処にいたって…)
 知りたいと思えば見ることが出来た。青の間から軽く思念で探って、居場所を見付けて。
 あの頃のように、覗き見さえも出来ない自分。ハーレイが留守で寂しくなっても、悲しい気分になってしまっても。
(…留守番してたら、悲しい気分になっちゃうんだから…)
 独りぼっちで留守番の日々が始まる前にも、そういう予感に包まれていそう。幸せ一杯の結婚と一緒にやってくる孤独、家にポツンと一人きりの日々を想像して。
(考えただけでも、寂しくなってしまっているし…)
 そうなる時が近付いて来たら、本当に悲しくなるかもしれない。「もうすぐ独りぼっちだ」と。
 昼の間は独りぼっちで、おやつの時間も一人きり。
 気晴らしにパウンドケーキを作ろうと思い立っても、「おっ、焼いたのか?」というハーレイの声を聞ける時間はずっと先。仕事が終わって帰って来てから。
 「上手く焼けたかな?」と試食するのも一人きりだし、母は味見をしてくれない。端っこの方を二人で食べてみたくても、母はいなくて一人だから。



 結婚を控えた花嫁が罹る、マリッジブルー。幸せ一杯の日々が待っているのに、引き換えに何を失うのかを考えて。…それが寂しくて、とても不安で。
 マリッジブルーがそういうものなら、今、こうやって考え事をしている自分も…。
「…ぼく、罹っちゃいそう…。ハーレイが言ってる、マリッジブルー…」
 パパもママもいなくて独りぼっちで、ハーレイが仕事の間は留守番。
 一人きりだよ、って気が付いちゃったら、悲しくてポロポロ泣いちゃうかも…。ハーレイの家に引越した後に。
 そうなっちゃうのを想像したって、きっとホントに泣いちゃうから…。
 これってマリッジブルーだよね、とハーレイに訊いたら、「間違いないな」という答え。
「やっぱり、そうなっちまうのか…。前のお前じゃないからな」
 今のお前なら、本当にマリッジブルーになりかねん。今でもお前は不安そうだし、俺との結婚が決まった後には、本物のマリッジブルーというヤツに。
 酷くなったら、「結婚なんかしたくない」と言い出すこともあるらしいから…。
 そうならないよう、俺が気を付けてやらないと。
 お前がマリッジブルーになっちまった時は、早めの治療を心掛けて。
 未来の俺の嫁さんのために頑張らないとな、とハーレイは努力をするらしいけれど、結婚相手に治せるだろうか、マリッジブルーが?
 その結婚が不安なのに。…ハーレイとの結婚が、寂しさや悲しさを運んで来るから怖いのに。
「ハーレイが治してくれるって…。どうやって?」
 ぼくは結婚したら独りぼっちで、うんと悲しい日が待っていそうで不安なんだよ?
 ハーレイに会ったら、もっと不安になりそうだけど…。もうすぐ結婚式の日が来ちゃう、って。
 だってそうでしょ、ハーレイがデートに誘いに来るのは、ぼくと結婚するからで…。
 そんなハーレイと会っていたって、ぼくは悲しくなる一方で…。
 家から出たくなくなりそう、と正直な気持ちを口にした。マリッジブルーになってしまったら、きっと毎日が不安だから。結婚式のことを考えただけで、気分が沈みそうだから。
「俺だって、それは承知してるが…。たまには気晴らしといこうじゃないか」
 まだ結婚もしない内から不安になってちゃ、人生、つまらないからな。
 心配し過ぎは前のお前の時からの癖だ、もっと大らかに構えないと。今は平和な時代なんだし。



 落ち込んでる時はデートに限る、とハーレイは自信満々だった。
 「行かない」と言っても、宥めてデート。車で出掛けて、ドライブに食事。
 不安な気持ちが消えるようにと、明るい話題を持ち出して。結婚した後の夢も沢山話して、心を軽くするという。「結婚したら素敵な暮らしが始まるんだ」と思えるように。
「頑張ってみても、なかなか治らないから、厄介なのがマリッジブルーらしいんだが…」
 俺たちの場合は、普通のカップルとは事情が違う。…幸いなことに。
 お前も俺も生まれ変わりで、前の俺たちは結婚できずに終わっちまった。いつか地球まで行けた時には、結婚しようと誓ってたのに。
 その俺たちが青い地球まで来られたんだぞ?
 前の俺たちが生きた頃には、何処にも無かった青い地球まで。…それも平和な世界にな。
 そして俺たちは結婚するんだ、今度こそ誰にも邪魔をされずに。皆に祝福して貰って。
 運命ってヤツに引き裂かれちまった、前の俺たちの約束の分まで果たせる結婚式なんだから…。幸せの量が桁違いだよな、他の沢山のカップルとは。
 そうじゃないのか、と問われれば、そう。
 前の自分たちは、恋したことさえ明かせなかった。本当に最後の最後まで。
 けれど今度は恋を明かして、結婚式を挙げて、お揃いの指輪も嵌められる。左手の薬指に嵌める結婚指輪を、白いシャングリラには無かったものを。
「そうだね。前のぼくたちの分まで、一緒に結婚式だっけ…」
 ぼくの中には前のぼくがいるし、ハーレイの中には前のハーレイ。
 違う身体になっちゃったけれど、新しい別の命だけれど…。でも、魂はおんなじだから…。
 今度こそ幸せになれるんだっけね、ハーレイも、ぼくも。
 前のぼくが行きたかった地球で結婚して…、と遠く遥かな時の彼方に思いを馳せる。前の自分が諦めざるを得なかった夢。
 青い地球まで辿り着くことと、ハーレイと二人で地球で暮らすこと。
 それが叶うのが今の自分の結婚式で、結婚したら前の自分が諦めた夢がまた開き始める。地球でやりたいと願ったことを、ハーレイと一緒に実現させてゆくという夢。
 ヒマラヤまで青いケシを見に行くとか、五月一日にスズランの花を贈り合うとか。
 今の自分の夢も加えてゆくから、幾つもの夢。新婚旅行は宇宙から青い地球を見る旅。



 そういう日々を始めるためには、まずはハーレイと結婚すること。
 マリッジブルーで寂しいなどと言っていないで、悲しい気持ちになっていないで。今の自分には寂しいことでも、前の自分に比べたら…。
「…パパもママもいなくて、独りぼっちは寂しいけれど…。前のぼくより、ずっとマシだね」
 待っていればハーレイが帰って来るから、ぼくは一人じゃないんだもの。
 本当に悲しい独りぼっちは、前のぼくが知っているんだから…。
 ぼくの右の手、と見詰めた右手。前の生の終わりに冷たく凍えた、悲しい記憶が残った右の手。
「そうだろう? お前が落ち込んじまっていたって、前のお前の悲しさよりかはマシなんだ」
 そいつを思い出せとは言わんが、今のお前の幸せってヤツを噛みしめないとな。
 どれだけ恵まれて生きているのか、これから先にも、どれだけの幸せが待っているのか。それを思えば、お前のマリッジブルーはだな…。
 大したことではないだろうが、と鳶色の瞳がゆっくり瞬く。「じきに治るさ」と。
「うん、いっぺんに治ってしまいそうだね。…前のぼくの分まで、って思ったら」
 今のぼくがどんなに寂しがっても、前のぼくには負けるから…。
 メギドで独りぼっちになっちゃった時は、寂しいなんて思う余裕も無かったから…。ハーレイの温もりを失くしてしまって、右手がとても冷たくて。
 もう二度と会えやしないんだ、って泣きじゃくりながら死ぬしかなくて…。
 あの悲しさを思い出したら、マリッジブルーなんか消し飛んじゃうよ。直ぐに治って、元通り。
 いつものぼくが戻って来るよ、と断言できる。「寂しいだなんて言ってられないよ」と。
 ハーレイの温もりを失くしたことに気付いた、メギドで最期を迎えた時。
 右手にハーレイの温もりは無くて、切れてしまったと思った絆。
 あれよりも深い悲しみを前の自分は知らない。別れの痛みも、孤独も、それに絶望だって。
 今の自分も知るわけがないし、きっと知ることも無いだろう。
 マリッジブルーで沈み込んでいても、落ち込んでいても、あの悲しみには及ばないから。
「ほらな。今のお前は幸せなんだし、それをしっかり捕まえないと」
 前のお前の夢だった結婚、今度は堂々と出来るんだから。
 この家を出るのは寂しいだろうが、嫁に来るんだと言い出したのはお前だし…。
 嫁に来るつもりで話を進めているしな、お前ってヤツは、いつだって。



 それに…、とハーレイが浮かべた笑み。「俺の家は同じ町にあるしな?」と。
「お前の足では少し遠いが、俺なら歩いて来られる距離だ。たったそれだけしか離れてないぞ」
 その気になったら、いつでも会いに行けるんだ。
 俺が仕事に出掛けている間に、寂しくなったらバスにでも乗って。
 SD体制の時代と違って、お母さんたちのことを忘れちまいはしないしな?
 どんな顔だったか、家は何処だったか、お前はいつでも鮮やかに思い出せるってわけだ。会いに行こうと思えば行けるし、実に素晴らしい時代じゃないか。
 結婚しようが、何年経とうが、お前の家は此処にある。お母さんたちも此処で待っててくれて、いつでも迎えてくれるんだから。
 寂しがってる暇があったら、家に帰るためのバスの路線でも考えておけ、と笑われた。
 まだ結婚もしない内から、あれこれ頭を悩ませないで。寂しい独りぼっちの時間を思って、涙を溢れさせないで。
「うん…。寂しい気持ちになってしまったら、そうするよ」
 ハーレイの家から此処に来るには、どのバスに乗れば良かったっけ、って考える。何分くらいで着くバスだったか、途中のバス停の名前は何か。
 本当にそんなに遠くないものね、他の星に行くんじゃないんだから…。
 パパもママも家に帰れば会えるし、寂しくなったら会いに帰ればいいんだから…。
 家の場所も、パパとママの顔も覚えているもの、と今の自分の幸せを思う。きっと一生、忘れることは無い両親。自分が生まれ育った家。何歳になろうと、何百年と生きようと。
(…でも、前のぼくは覚えていなかったんだよ…)
 前の自分は、十四歳の誕生日まで育ててくれた養父母を忘れた。成人検査で忘れたものか、後の過酷な人体実験がそうさせたのか。それさえも今は分からない。
 SD体制の時代の仕組みからして、成人検査を受けた直後は覚えていた可能性もある。おぼろにぼやけた顔になっても、「これがパパとママ」と思える人を。
 けれどアルタミラの檻にいる間に、何もかも忘れて消えてしまった。両親の顔も、育った家も。
 あの時代には、成人検査をパスした子供たちさえ、ごく曖昧な記憶しか持っていなかった。誰が自分を育てていたのか、どういう家で育ったのかも。
 そういう時代を生きて死んでいった、前の自分に比べたら…。



 とても贅沢な悩みなのだ、と気付かされたマリッジブルーというもの。
 独りぼっちが寂しいだとか、両親のいない家で暮らすのが悲しいだとか。両親のことも、育った家の場所も、記憶はとても鮮やかなのに。…望みさえすれば会いに行けるのに。
「ねえ、ハーレイ…。今の時代の花嫁さんたちは仕方ないけど…」
 ぼくがマリッジブルーに罹ったなんて言っていたなら、とても我儘で贅沢だよね。
 パパもママもちゃんと覚えているのに、会いたい時には会いに行けるのに…。
 寂しくなるから結婚するのが不安だなんて、とコツンと叩いた自分の額。前の自分の悲しすぎる記憶を思い出したら、贅沢はとても言えないから。…我儘なことも。
「分かったか? 前のお前の頃に比べりゃ、今のお前は幸せ者だということが」
 しかしだ、マリッジブルーになっちまうお前も今だからこそで…。
 前のお前なら、そんな風には決してならない。…失くしちまうものが無かったからな。
 マリッジブルーは今のお前の特権なんだし、今ならではの花嫁の気分を味わっちゃどうだ?
 うんと我儘なマリッジブルーになれる贅沢、それを存分に楽しむのもいいと思うがな…?
 なってみるのもいいかもしれん、と言われたけれども、マリッジブルーになったら辛い。寂しい気持ちに包まれるのだし、楽しみな筈の結婚式の日が近付いて来たら落ち込むらしいし…。
「楽しんでみろって…。ぼくは落ち込んでるんだよ?」
 ハーレイと結婚するのが不安で、とても寂しくて…。パパとママの家にいようかな、って…。
 もう結婚は断ろうかな、って思ってるかもしれないのに…?
 それでどうやって楽しむの、とハーレイの顔を睨んでやった。楽しめる筈が無さそうだから。
「普通はそうかもしれないが…。浮上した時の気分が最高だろうが、お前の場合は」
 前のお前のことを思い出して、今がどれほど幸せなのかに気付いたら。
 俺としては味わって欲しいんだがなあ、落ち込んだ気分から一気に天国気分ってヤツを。
 お前の気分が浮上する度に、そりゃあ素晴らしい笑顔が見られそうだから。
 「早くハーレイと結婚したいな」と言いそうだしなあ、落ち込んでたお前は消えちまって。
 そいつを是非とも見たいもんだ、とハーレイは半ば本気のようだから…。
「罹ってもいいの、マリッジブルー…?」
 治すのはとても厄介なんでしょ、普通の人が罹ったら…。ぼくだと治せそうだけど。
 ホントに治ってしまいそうだけど、治るまでは、涙がポロポロ零れていたりもするんだよ…?



 もうハーレイとは結婚しない、と家から一歩も出たがらないかも、と最悪のケースを挙げてみたけれど。…ハーレイがデートに誘いに来たって、部屋に閉じこもりそうだと話したけれど。
「そういうことなら、お前は部屋で踏ん張っていろ」
 俺はお前の部屋の前に座って、せっせと話し掛けてやるから。…お前が浮上しそうなことを。
 その内に扉がそうっと開くんだ、「やっぱり、ちょっと出掛けたいかも」と。
 そしたらお前を外に連れ出して、とびきりの笑顔に戻してやる。最高の気分で過ごせるように。早く結婚したい気持ちで、ワクワクと家に帰れるように。
 お前のマリッジブルーを治せる俺の特権、俺だって楽しみたいからなあ…。
 結婚が決まったら是非、罹ってくれ、とハーレイがパチンと瞑った片目。「よろしく頼む」と。
 「マリッジブルーのお前も素敵に違いないぞ」と、「本当に今ならではだから」と。
 ハーレイには期待されているけれど、マリッジブルーに罹った時には、落ち込む自分。楽しみに指折り数えた結婚式の日、それが不安に思えてきて。…寂しい気持ちで一杯になって。
 今の自分は、色々と失くすらしいから。
 両親と暮らす今の家やら、いつも自分を見守ってくれる両親がいてくれる生活やら。
 前の自分なら、何も失くさなかったのに。…白いシャングリラを失うだけで、手に入れる幸せの方が遥かに多かったのに。
(だけど、今だって、ハーレイが…)
 結婚した後は、とても幸せにしてくれるのだし、両親も家も消えてしまいはしない。
 会いたくなったら会いにゆけるし、バスに乗ったら一人で遊びに行ける家。ハーレイが出掛けて留守の間に、寂しい気持ちになったなら。…母のおやつが食べたくなったら。
(たまにはバスで家に帰って、ママと一緒にパウンドケーキ…)
 ハーレイの大好物のケーキを作って、持って帰るのもいいかもしれない。「ママと焼いたよ」と綺麗に包んで、リボンをかけてみたりもして。
(大丈夫だよね、マリッジブルーになっちゃったって…?)
 きっとハーレイが慰めてくれるし、治してくれるに違いない。不安な気持ちになったって。
 「結婚しない」と言い出すようなマリッジブルーも、きっと怖くはないだろう。
 落ち込んだって、ハーレイがいてくれるから。
 ハーレイが笑顔に戻してくれて、幸せな気分で結婚式の日を二人で待てる筈なのだから…。



            マリッジブルー・了


※前のブルーの記憶には無かった、マリッジブルー。SD体制の時代は無かったのです。
 平和な今の時代ならでは、ブルーも罹ってしまいそう。でも、きっとハーレイが治療する筈。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(えっと…)
 今日のおやつ、とブルーが頬張っていたパウンドケーキ。学校から帰って、ダイニングで。
 母の手作り、オレンジがたっぷり。ケーキの上にも、生地の中にも。口の中に広がるオレンジの味。爽やかな酸味と、それに甘さと。
 美味しいよね、と食べている間に気付いたこと。パウンドケーキが好きな恋人。
(ハーレイの好きなパウンドケーキは…)
 やっぱり母の手作りだけれど、オレンジとは違ってプレーンなもの。本当に基本の材料だけの。
 小麦粉と砂糖と、バターと卵。どれも一ポンドずつ使って焼くから「パウンド」ケーキ。それがハーレイの大好物で、母が作るのが大切な所。
 どうしたわけだか、母が焼いたら「おふくろの味」になるらしい。隣町で暮らすハーレイの母が作るパウンドケーキと、そっくり同じ味わいに。
 同じ材料とレシピで焼いても、ハーレイには再現できない味。何度焼いても、頑張ってみても。
 その味のケーキを作れるのが母で、すっかり魅せられているハーレイ。「美味いんだよな」と。
(オレンジの味のパウンドケーキも、好きみたいだけど…)
 そちらの方は、おふくろの味だと聞いてはいない。「お母さんのケーキは美味いな」としか。
 ハーレイの「おふくろの味」になるのは、プレーンなパウンドケーキだけ。小麦粉と砂糖、卵とバターで焼き上げたシンプルなもの。
(オレンジが少し入っただけでも、味が変わって来ちゃうから…)
 同じパウンドケーキにしたって、ハーレイの「おふくろの味」にはなれない。美味しいケーキになれるだけ。
 それを思うと、お菓子というのは面白い。ほんの少しの材料だけで、違う味わいになるケーキ。
 しかもプレーンなパウンドケーキを焼いてみたって、作り手で味が変わるだなんて。
(ぼくもパウンドケーキ、上手く焼けるようになりますように…)
 それが自分の未来の夢。
 今の自分はチビの子供で、料理は調理実習くらい。母と一緒にお菓子作りもしていない。
 だから知らない、母のパウンドケーキのレシピ。作る所をしっかり見学したことも無いし、まだ分からないケーキの秘密。
 どうすれば母と同じに焼けるか、ハーレイが好きな「おふくろの味」に出来上がるのか。



 前にハーレイから聞いたこと。「作り手の癖かもしれないな」と。
 パウンドケーキの材料を同じに計っていたって、レシピが同じだったって…。
(作る人の癖が出るんだろう、って…)
 材料を混ぜてゆく時だとか、混ぜ合わせる時間やタイミングなどや。ハーレイの母が持っている癖と、母の癖とが同じなら…。
(おんなじ味のパウンドケーキになるものね?)
 いつかはそれをマスターしたい。母に習って、レシピもきちんと教わって。
 今は「教えて」と言えないけれども、ハーレイとの結婚が決まった後なら、もう堂々と頼んでもいい。「ハーレイはこれが好きなんだから」と、「ママの作り方のコツを教えて」と。
 そうして頼んで、修業を始めるパウンドケーキ。ハーレイが好きなプレーンなもの。おふくろの味と同じケーキを作れるようになったなら…。
 次は他の味のパウンドケーキにチャレンジ、そちらの方も上手く出来たら褒めて貰えるだろう。「この味のケーキも美味いじゃないか」と、「おふくろの味にも負けていないぞ」と。
(ぼくが作るケーキの味はこれ、っていうのが出来たら嬉しいよね…)
 今日のようなオレンジ風味でもいいし、バナナやナッツを入れてもいいし、チョコレートでも。
 プレーンはハーレイの「おふくろの味」が最高だから、それ以外の味のパウンドケーキ。食べたハーレイが「ブルーのだな」と思ってくれれば、きっと幸せ。
 何処かで同じ味のケーキを口にした時に。「こいつはブルーのケーキじゃないか」と。
 それを食べたら、家に帰って話して欲しい。「今日はお前のと同じケーキを食ったんだぞ」と。楽しそうな顔で、「お前が焼いて持って来たのかと思っちまった」という報告。
(ママのケーキで、そう言ってたもんね…)
 あまりにも良く似ていたらしくて、「おふくろがコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と笑ったハーレイ。そんなことなど有り得ないのに、そう思うくらいに似ていた味。
 それと同じに、「ブルーの味」のパウンドケーキを作れたらいい。
 ハーレイのお気に入りのケーキで、自分にしか焼けないパウンドケーキ。料理上手なハーレイが「たまには俺も焼いてみるかな」と挑戦したって、同じ味にはならないケーキ。
 「どうなってるんだ?」とレシピを確かめてみても、ハーレイが何度頑張ってみても。
 作り手の癖が出てくるケーキは、きっと出来上がりが違うから。同じレシピで焼き上げたって。



(ふふっ…)
 そんなケーキを焼ける日が来たら素敵だよね、と戻った二階の自分の部屋。
 勉強机の前に座って、未来への夢を膨らませる。「ブルーの味」は何のケーキになるのか、と。プレーンなパウンドケーキだったら「おふくろの味」で、母の味。
 違う風味のパウンドケーキが「ブルーの味」になるのだけれども、どの味だろうと。
(…オレンジとか?)
 直ぐに浮かんだのが、さっき食べたばかりのオレンジ風味。生地にもオレンジ、ケーキの上にも薄くスライスしたオレンジを幾つも並べて焼き上げたもの。
 あれもいいかな、と考えたけれど、オレンジの個性で変わるだろうか?
 たまに食料品店に行くと、いろんな種類のオレンジが並ぶ。母が買って来るオレンジの種類も、その日の気分で変わるようだし…。
(うーん…)
 酸味の強いオレンジだとか、果肉の色が赤いものとか。使ったオレンジの種類次第で、ケーキの風味も変わりそう。生地の中にも混ぜ込むのだから。
(このオレンジだ、って買って来たって…)
 同じ味とは限らないオレンジ、幾つも買ったら酸っぱいものやら、甘いものやら。自然が作ったオレンジの個性、同じ枝に実った兄弟の実でも。
(選んだ実で味が変わっちゃいそう…)
 オレンジの味は色々だしね、と考えていたら掠めた思い。「オレンジだった」と。
 夏ミカンに少し似ているオレンジ。皮の色が濃いのがオレンジの方で、隣同士に並んでいたら、きっと分かると思うけれども…。
(…オレンジの木…)
 沢山の実をつけるオレンジは、白いシャングリラにも植えていた。
 花の季節にはいい香りがするから、農場だけでなくて公園にも。船の中で作り出した四季でも、初夏に幾つも咲いていた花。それが終われば青い実がつく。
(最初は小さな緑色の実で…)
 やがて色づき、食べ頃になったら係の者たちが収穫した。子供たちも手伝いに出掛けたりして、手の届く場所の実を手を一杯に伸ばして取って。



 あって良かった、と前の自分が思ったオレンジ。果樹は幾つもあったけれども、その中でも。
 白い鯨が出来た頃には、他の果実と同じ認識。「今年も沢山実っている」と見ていた程度だったオレンジ。けれど事情はガラリと変わった。前の自分の命の終わりが見えて来た頃に。
(オレンジスカッシュ…)
 レモンではなくて、オレンジを使った酸っぱい飲み物。それが好きだったのがジョミー。
 前の自分が次のソルジャーに選んだ少年、成人検査を妨害して。…リオに命じて、シャングリラまで連れて来させて。
 何かと逆らってばかりだった彼は、船に馴染もうとしなかった。「ぼくはミュウじゃない」と、頑なに。ソルジャー候補になった後には、「この船にもあるんだ」と笑顔になった好きな飲み物。
 オレンジスカッシュが大好きだったと、「ママが作ってくれてたんだよ」と。
(…オレンジスカッシュは、オレンジを搾るだけだし…)
 搾った果汁にソーダ水を加えて、後は好みでレモンや砂糖。誰が作っても、それほど味に違いは出ないことだろう。甘みが強いか、酸っぱいかといった僅かな違いがあるだけで。
 ジョミーの母が作っていたのも、オレンジの個性で味が変わったに違いない。「酸っぱいよ」と砂糖を加えた日だとか、「もっとソーダ!」と足していた日とか。
 だからシャングリラのオレンジスカッシュも、ジョミーには懐かしい味だったろう。母の味とは違うものだと思いはしないで、「家でも飲んだ」と食堂で見たら注文して。
 けれど…。
(ジョミーにだって、お母さんの味…)
 きっとあっただろう、今のハーレイに「おふくろの味」があるように。
 母が焼くプレーンなパウンドケーキがとてもお気に入りで、「俺のおふくろのと同じ味だ」と、いつも喜んでいるように。
 それと同じに、ジョミーにも何かあったのかもしれない。「おふくろの味」というものが。
(前のぼくたちは、記憶をすっかり失くしてて…)
 成人検査と、繰り返された過酷な人体実験が奪い去った子供時代の記憶。何もかもを。
 養父母がいたことも、生まれ育った家があったことも、全て忘れた前の自分。ハーレイたちも。
 何も覚えていなかったのだし、「おふくろの味」は存在しない。母親の記憶が無いのでは。
 アルテメシアで船に迎えた子供たちからも、特に聞いてはいないけれども…。



(ジョミーにもあった…?)
 舌が覚えていた「おふくろの味」。ジョミーを育てた母が作った料理の味。
 オレンジスカッシュを懐かしんだジョミーは、母の料理やお菓子の記憶を失くさないまま。全て心に残したままで、白いシャングリラに連れて来られた。成人検査は妨害されたのだから。
(小さい間に船に来た子は、おふくろの味って思うくらいには…)
 味覚が完成されていないし、見た目が同じ料理が出たなら、それだけで満足したのだろう。この船でも家と同じ料理が食べられる、と。味の違いには気も留めないで。
(だけど、ジョミーは…)
 目覚めの日の朝まで養父母と過ごして、朝食も一緒に食べて別れた。その上、記憶を消されてはいない。あの朝に食べた最後の食事も、鮮やかに覚えていたのだろう。
(おふくろの味も、きっと幾つもあったんだよね…?)
 今のハーレイだとパウンドケーキがそうだけれども、ほんの一例。他にも「おふくろの味」だと思う料理はある筈、食べた途端に「これだ!」と舌に蘇る記憶。
 十四年間を養父母と暮らしたジョミーも、同じだったに違いない。シャングリラで懐かしく思う料理を口に入れても、「ママの味だ」と思えずに過ごしていただけで。
(同じ味の料理があったんだったら、ぼくやリオには…)
 話しただろうと思うから。「ぼくのママのと同じ味がしたよ」と、「あれが大好き!」と。
 次から食堂で見かけた時には、迷わずに注文する料理。「ママのを食べているみたいだよ」と、最高の笑顔で頬張って。
 そういう話を知らないからには、無かったらしい「おふくろの味」。白いシャングリラの食堂に行っても、懐かしいものはオレンジスカッシュだけ。オレンジを搾ってソーダを加えただけの。
(おふくろの味の料理は、何処にも無くって…)
 食べたいと思っても違った味。ジョミーの母のとは違う味付け、見た目は同じ料理でも。
 これを家でも食べていたのだ、と選んでトレイに載せてみたって、口に運んだら覚える違和感。一口目で「違う」と舌が訴えるか、食べてゆく間に気付くのか。
(今のぼくだって、ママのと違うお料理だったら…)
 食べる内に「違う」と気が付く筈。直ぐにはそうだと分からなくても、「いつものじゃない」と感じ取って。母の料理と重ねてみたなら、何処かが違う味なのだから。



 幸いなことに、今の自分は「母の料理」を食べるのが基本。もちろん、ケーキなどのお菓子も。
 お蔭で他のを口にしたって、特に何とも思いはしない。学校の食堂で食べるランチも、外出した時に両親と入る、レストランで出てくる料理でも。
(学校のランチも、レストランのも、其処で作った味ってだけで…)
 美味しかったらそれでいい。母の料理と違っていたって、その料理はそれで満足の味。こういう味になってるんだ、とスプーンやフォークで食べた後には「美味しかった」と「御馳走様」で。
 母の料理は家でいつでも食べられるのだし、こだわる理由は何も無いから。家とは違った味わいだって、料理はちゃんと美味しいのだから。
(…ママの料理に慣れていたって、違う味でも美味しいし…)
 味が違うと考えもせずに、食べているのが食堂のランチ。昼休みにはランチ仲間と一緒に注文、賑やかなお喋りの方に夢中で。「ママの味じゃない」と気付きもせずに。
 けれども、母の作る料理を二度と食べられないのなら。…食べたくても家に帰れないなら、今の自分も探すだろう。「ママのと同じ味のがいいよ」と、「同じ味がするお店は無いの?」と。
(ジョミーは、そうなっちゃったんだ…)
 成人検査でミュウと判断され、帰れなくなってしまった家。二度と会えなくなった両親。
 もっとも、SD体制の時代だったら、ミュウでなくてもそうなのだけれど。目覚めの日を迎えた子供を待つのは記憶の消去で、もう戻れない養父母の家。「おふくろの味」は食べられない。
(それでも、機械が忘れさせるから…)
 教育ステーションに向かう子たちは、おふくろの味を覚えてはいない。里心など持たないように記憶を処理され、過去を振り返りはしないから。
 普通の人生を送っていたなら、何の問題も無かったジョミー。SD体制の時代の子に相応しく、養父母の記憶は薄れてしまって。
 ところがジョミーは、記憶を一切失くすことなくシャングリラに来た。養父母のことも、育った家も、くっきりと心に刻まれたままで。
(おふくろの味だって、忘れてなくて…)
 「オレンジスカッシュがある」と喜んだほどだし、他の料理や菓子の記憶も消えてはいない。
 だとしたら、どんなに寂しかったろうか、あの船で。
 母の料理と同じものだ、とトレイに載せても、「おふくろの味」などしなかった船で。



 ようやく気付いたジョミーの気持ち。「家に帰りたい」と前の自分に訴えたジョミー。
(前のぼく、ジョミーに恨まれてた…?)
 白いシャングリラに連れて来たことを、二度と両親には会えないようにしたことを。成人検査が何であろうと、ジョミーにとっては些細なこと。結果が全て。
(記憶を消されたら、どうなっちゃうかは…)
 具体的には知らないのだから、漠然とした恐怖があっただけ。「記憶を消されそうになった」と覚えていたって、消された結果は分からない。どの程度まで記憶を失くすか、どうなるのかは。
(ジョミーのママが作った料理の味とかも…)
 忘れてしまう結果になっていたなど、あの時のジョミーが知るわけがない。もっと後になって、ソルジャー候補としての勉強が始まるまでは。…人類の社会の本当の仕組みを教わるまでは。
 そんな調子だから、シャングリラに連れて来られたジョミーは、今の幸せな自分と違って…。
(お母さんたちがいる家には帰れなくって、おふくろの味も食べられなくて…)
 それきりになってしまったのだった。
 育ててくれた養父母の記憶や、育った家や食べた料理の鮮明な記憶を抱いたままで。
 今の自分がそうであるように、十四歳の誕生日を迎えた後にも、何一つ記憶を失くすことなく。
 覚えているのに帰れない家、会えない両親。食べることが出来ない「おふくろの味」。どうして全てを失ったのかと、さぞ悔しかったことだろう。悲しくて辛くて、どうしようもなくて。
(…前のぼくのせいだ、って思うよね…)
 そういう立場に追い込まれたのは、成人検査を妨害されたからなのだ、と。邪魔をしたミュウの長が悪いと、「ぼくはミュウとは違うのに」と。
 ジョミーにとっては余計なお世話で、パスしたかった成人検査。どういう結果をもたらす検査か知らなかったら、単なる通過儀礼だから。
(前のぼくが邪魔をしたからだ、って…)
 最初は確かに恨まれていた。弱り果てた身体で無理をしてまで、ジョミーを救い出したのに。
 残り少ない寿命を自ら削ると承知で、テラズ・ナンバー・ファイブと対峙し、成人検査を無事に中断させたのに。
 けれど、ジョミーは怒っただけ。「ぼくの未来を滅茶苦茶にした」と。
 ミュウの船になど来たくなかったと、「何もかもソルジャー・ブルーのせいだ」と。



 白いシャングリラに迎えられた後も、船に馴染もうとしなかったジョミー。何日経っても、ただ怒るだけで。…やり場のない怒りを、誰彼かまわずぶつけるだけで。
(キムとも喧嘩していたし…)
 青の間に初めてやって来た時も、「家に帰せ」と怒鳴られたほど。ミュウとしての自覚はまるで持たずに、「家に帰れば元通りの日々が戻ってくる」と信じたままで。
 成人検査を終えた子供は、養父母の許にはいられないのに。ミュウでなくても記憶を消されて、教育ステーションへと旅立つのに。
 ジョミーが通っていた学校でも、「目覚めの日」の後に歩む進路を教えただろうに、何もかもを自分に都合よく解釈していたジョミー。「家に帰れば元の暮らしが始まる」と。
 そんなことなど有り得ないのが人類の社会。ジョミーが家に帰ってみたって、養父母の家からは消された痕跡。「ジョミー」という子が、その家にいたという証。
 ジョミーの持ち物も、ジョミーの写真も、ユニバーサルの職員たちが処分して。成人検査をパスしていった子たちと同じに、「そういう子供がいた」ことを示す一切を。
(家に帰れば、それが分かって目が覚めるだろう、って…)
 そう考えて、ジョミーを家に帰したけれど。リオをつけて帰してやったけれども、前の自分は、あの時のジョミーの「帰りたい気持ち」まで汲み取ったろうか?
 どうして家に帰りたがるのか、それほどまでに家を恋しがるのか。
 ただ帰りたいだけなのだろう、と「目を覚まさせる」ために帰した自分。帰れる家など、もはや何処にも無いと分かれば戻るだろう、と。
 ジョミーが帰っていった家には、何も残っていないと承知していたから。ユニバーサルから派遣された職員、彼らが作業を終えた後。ジョミーの痕跡が残る全てを処分して。
(お母さんたちは、作業の間は子育てを終えた特別休暇で…)
 家を留守にして出掛けていたから、本当に「空っぽ」になった家。それを見たなら、ジョミーも諦めるしか道はない筈。「自分の居場所は此処ではない」と、「家は何処にも無いんだから」と。
(それが分かれば、家に帰りたいと思う気持ちも…)
 ジョミーの中から消える筈だ、と考えたのが前の自分。そうするためにジョミーを家に帰した。
 けれど分かっていたのだろうか、ジョミーの気持ちを本当の意味で…?
 両親を、家を恋しがった心を。「帰りたい」と願った、ジョミーの強い思いのことを…?



 前の自分には無かった記憶。子供時代の記憶を全て失くして、養父母も家も、欠片さえも残さず頭の中から消えた後。成人検査よりも前の記憶は、何も無いまま。
 子供には養父母がつくということ、十四歳の誕生日までは養父母の家で育てられること。知識は持っていたのだけれども、無かった実感。…両親とは何か、家とはどういう場所なのか。
 アルテメシアの雲海の中に潜む前から、データベースや本で知ってはいた。両親のことや、家というもの。子供は其処で育ってゆくと。
 雲海の星に隠れ住んでからは、もっと詳しい情報を得た。親子連れで遊びに出掛ける姿や、家がある場所や。…知ったつもりになっていた「家族」。養父母と子供が共に暮らす家。
(十四歳になるまで、一緒に暮らして…)
 後は目覚めの日が来て別れるだけ、と思っていたのが養父母と子供。親に懐く子も、前の自分は知っていたのに…。
(…本当は分かっていなかったかも…)
 今の自分なら分かるけれども、前の自分には掴めなかった感情。養父母と引き離される悲しみ、それがどれほどのものなのか。…幼い子供でも、親を慕って泣いていたりもしたのだから…。
(もっと大きくなってたジョミーは、お母さんたちのこと…)
 忘れ難くて、帰りたかったことだろう。養父母と暮らしていた家へと。
 成人検査で記憶を消されていない以上は、日が経つごとに辛くなるだけ。家に帰りたい気持ちが強くなってゆくだけ。
(もしも、今のぼくが…)
 ジョミーがそうなってしまったように、見知らぬ誰かに攫われたなら。
 「今日から此処で暮らすように」と、まるで知らない遠い所に連れてゆかれて、閉じ込められてしまったならば。
(ハーレイのことは抜きにしたって、パパもママもいなくて…)
 自分の部屋に帰れはしないし、もちろん家にも帰れない。攫われてしまったのだから。
 「家に帰して」と泣き叫んだって、聞いてはくれない悪人たち。善人のように振舞っていても、誰もが悪人。家に帰してくれはしないし、新しい暮らしに馴染むようにと強いるだけ。
(ママのケーキが食べたくっても…)
 違うケーキを差し出される。「これも美味しいケーキだから」と。



 そんなの嫌だ、と思った暮らし。両親と無理やり引き離されて、二度と帰れはしない家。とても耐えられはしない毎日、両親が、家が恋しくて。
 母が作ったのと同じ料理やケーキが出たなら、きっと涙が零れてしまう。食べながらポロポロと零れ落ちる涙。「ママが作ったケーキじゃないよ」と、「ママのはこんな味じゃなかった」と。
(今のぼくだと、そうなっちゃって…)
 同じ境遇に置かれていたのが、シャングリラに連れて来られたジョミー。
 本物の両親とは違ったけれども、親を慕う気持ちは同じだったろう。記憶を消されずに船に来た以上は、攫われたのと変わらない。成人検査のことを抜きにして考えたなら。
(…ジョミーに悪いことをしちゃった…)
 前の自分が「親」の記憶を持ってはいなかったせいで。「家」のことも忘れていたせいで。
 それがどれほど大切なものか、まるで分かっていなかった。帰りたがったジョミーの気持ちさえ逆に利用したほど、酷かった自分。
(ぼくが攫われて、やっとの思いで逃げ出して…)
 懐かしい家に帰り着いたら、全てが消えているなんて。…部屋も両親も、何もかもが全部。
 考えただけで、足元が崩れて落ちてゆきそう。世界がそっくり壊れてしまって、虚無の闇の底へ飲まれてしまうみたいに。
(…ぼくだったら泣いて、泣きじゃくって…)
 自分を攫った悪人たちの所へ戻ろうだなんて、きっと夢にも思いはしない。そうする代わりに、両親を探すことだろう。ふらふらと町を彷徨い歩いて、「パパ、ママ、何処…?」と。
 疲れ果てたら家に戻って、何も無い床で眠るのだろう。「朝になったら、元通りかも」と。
 一晩眠って目を覚ましたなら、消えているかもしれない悪夢。朝の光が恐ろしい夢を払い除け、前の通りの一日が始まる。両親が戻って、朝食の匂いがダイニングの方から漂って来て。
(そうなるよね、って思って、信じて…)
 何と言われても、悪人たちが暮らす場所には戻らない。
 「此処にいたなら殺されますよ」と諫められても、けして縦には振らない首。
 「そんなの嘘だ」と、「パパもママも帰って来るんだから」と。
 二人が戻るまで待っていなきゃ、と言い張る自分が目に浮かぶよう。それが駄目なら、頑張って探しに行くんだから、と。



 やっと分かった、ジョミーの行動。リオを振り回して、ユニバーサルの者たちに捕まった理由。
 あんな状況で、両親を、家を、諦められる筈がない。ようやく家に戻れたからには、元の通りに生きてゆきたいと願うだろう。ミュウの船になど戻ることなく、両親の側で。
(だって、攫われたんだから…。今のぼくと少しも変わらない年で…)
 あの時のジョミーは、目覚めの日に全てを失った。十四歳の誕生日を迎えた日に。
 それを思えば、今の自分の方が半年くらいは年上。誕生日はとうに過ぎた後なのに、ジョミーと同じに振舞いそうな子供。「家に帰して」と泣いて騒いで、帰った後にも諦めないで。
(今のぼくでも、絶対、捕まっちゃうんだよ…)
 リオの言うことを聞きもしないで、ユニバーサルの保安部隊に包囲されて。…前の自分が踏んでいたように、シャングリラに戻ってゆく代わりに。
(帰るわけなんか無いんだから…)
 もっと分かってあげれば良かった。ジョミーがどんな気持ちでいたのか、帰りたいと願い続けていたか。…理解しようにも、前の自分には無理だったけれど。
(子供時代のことは、何も覚えていなかったから…)
 ジョミーの気持ちは分からないものね、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ジョミーはぼくを恨んでたかな?」
 とても恨んで憎んでたのかな、前のぼくのこと…。
「はあ? 恨むって…」
 なんでまた、とハーレイは怪訝そうな顔。「いったい、いつの話なんだ?」と。恨んでいたならソルジャーを継いでいるわけがないと、「ソルジャー候補にもなりはしないぞ」と。
「それよりも前の話だよ。…一番最初に船に来た時」
 前のぼくが成人検査を妨害したけど、リオだって救出に向かわせたけど…。
 無理やり連れて来ちゃったようなものでしょ、ジョミーは来る気は無かったんだから。
 成人検査をちゃんとパスして、教育ステーションに行くつもりだったし…。
 それを攫って連れて来たのが前のぼくだよ、リオに任せて救出させて。
 救出って言ったら聞こえはいいけど、ミュウの自覚が無かったジョミーには迷惑だよね…。
 おふくろの味も無かったような船だし、いいことは何も無いんだから…。



 あんな船なんか、ジョミーにとっては楽園どころか地獄だよね、と呟いた。
 シャングリラの名前は「楽園」だけれど、ジョミーから見れば楽園の欠片も無かった船、と。
「…そう思わない? 最初の時から楽園じゃなくて、その後だって…」
 ソルジャー候補になってからだって、ジョミーには悲しいだけの船だよ。…シャングリラは。
「穏やかじゃないな、悲しいだとか、地獄だとか。…前の俺たちの自慢の船を捕まえて」
 お前は何が言いたいんだ?
 さっき妙なことを言っていたよな、おふくろの味も無かったような船だった、と。
 何処から「おふくろの味」が出るんだ、前の俺たちが生きた時代に「おふくろの味」なんていうヤツはだな…。宇宙の何処を探したって、だ…。
 存在しなかった筈なんだが、と鳶色の瞳が瞬きをする。「俺には意味が分からないんだが」と。
「そうだけど…。オレンジスカッシュ、覚えてる…?」
 オレンジを搾って、ソーダを合わせた飲み物。ジョミーはあれが好きだったでしょ?
 シャングリラにオレンジを植えてて良かったと思ったよ、欲しい時に好きなだけ飲めるから。
 植えても直ぐには育たないものね、と話したオレンジ。充分な数の実をつける木に育つまでには何年もかかるものだから。
「オレンジスカッシュか…。そういや、ジョミーの好物だったな」
 よく食堂で頼んでるのを見たが、確かにオレンジの木が必要だ。いつでも好きに飲みたいなら。
 それで、そのオレンジがどうかしたのか?
 それともオレンジスカッシュの方か、とハーレイが訊くから、「オレンジスカッシュだけど」と答えを返した。ジョミーが養父母の家で暮らした頃に好んだ、懐かしい味の飲み物だから。
「オレンジスカッシュは、ジョミーがお父さんとお母さんの家で飲んでたヤツで…」
 これがとっても好きだったんだ、って前のぼくにも話してくれたよ。眠ってしまう前の頃にね。
 シャングリラにもオレンジスカッシュがあって良かった、って嬉しそうな顔で。
 だけど、オレンジスカッシュの他にもあったと思う。ジョミーが好きだった、いろんな食べ物。
 今のハーレイ、ぼくのママが作るパウンドケーキが大好きでしょ?
 おふくろの味のケーキなんだ、って何度も言っているじゃない。おんなじ味がするんだ、って。
 あのケーキみたいに、ジョミーが知ってた「おふくろの味」。
 お母さんの料理やお菓子の味が幾つもあった筈なのに、その味、ぼくが取り上げちゃった…。



 前のぼくがね、と俯いた。「きっとジョミーは、とっても悲しかったよね」と。
 成人検査で記憶を奪われなかったジョミーだからこそ、覚えていただろう「おふくろの味」。
 SD体制が敷かれた時代は、誰もが忘れてしまったもの。成人検査の日を境にして。
 成人検査をパス出来なかった前の自分たちも、すっかり失くしていた記憶。養父母の顔も、家も故郷も、子供時代に持っていた記憶は全部。
 自分自身に記憶が無いから、両親や家を恋しがっていたジョミーの気持ちは分からない。どんな思いでそれを求めるのか、どうして家に帰りたがるのか。
 シャングリラにいた古参のミュウたちは誰もが記憶を失くしていたし、若い世代は幼かった頃に船に来たから理解できないジョミーの気持ち。両親も家も、記憶がおぼろになってしまって。
 そんな具合だから、周りはジョミーを分かってくれない者ばかり。
 帰りたいと強く願う気持ちも、両親を慕い続ける心も。
「…今のぼくなら分かるんだけど…。パパもママも、ちゃんといてくれるしね」
 生まれた時から、この家で大きくなったから…。攫われたりしたら、きっと泣いちゃう。ぼくの命が危ないから、って言われたとしても、「そんなの嘘だ」って。
 嘘に決まってるから家に帰して、って泣いて騒いで、ジョミーみたいに帰っちゃうんだよ。
 でも、前のぼくには分からなくって…。
 ジョミーを家に帰した理由も、ハーレイが知っている通り。帰してあげよう、って親切に思ったわけじゃなくって、全部、計算。
 何も無い家に帰ってみたって、思い知らされるだけだから。…この家にはもう帰れない、って。
 そしたらジョミーは帰って来るよ、って考えてたから、リオに家まで送らせたけど…。
 それで帰って来るわけがないよね、今のぼくなら帰らないもの。…パパとママが帰って来るまで家で待つとか、何処にいるのか探しに行くとか…。
 ホントに分かっていなかったよ、と零れた溜息。両親を、家を、忘れてはいなかったジョミーの気持ちを理解できなかった前の自分。
「俺も分かっちゃいなかったなあ…」
 前の俺にも、ジョミーの気持ちはまるで分かっちゃいなかった。…前のお前と同じでな。
 ミュウの世界に馴染めないから、逃げ出したんだとばかり思っていたが…。
 そうじゃなかったかもしれないな。…今のお前が思う通りに。



 今の俺なら分かる気がする、とハーレイも頷いたジョミーの気持ち。シャングリラを飛び出し、家に帰ろうと無謀なことをしたけれど…。
「俺もお前と同じだな。おふくろが作ってくれる料理や、育った家が突然消えちまったら…」
 いや、消えたんじゃなくて、家も料理もちゃんとあるのに、戻れないってことになったなら…。
 強引に取り上げられてしまったわけだし、それをやったヤツを恨みたくもなる。
 許すもんか、と憎んで恨んで、脱走することだって考えそうだ。
 何処かに閉じ込められたんならな…、と今のハーレイだって逃げ出すらしい。自分を攫った悪人どもが暮らす場所から、脱走という手を使ってでも。
「やっぱり…? ハーレイだって逃げるんだ…」
 ぼくだと「帰して」って泣くしかないけど、ハーレイは脱走するんだね?
 シャングリラからだと、脱走するのはとても大変そうだけど…。雲の海の中を飛んでいるから。
 小型艇を操縦できる腕前が無いと無理そうだよ、と白いシャングリラを思い浮かべた。白い鯨を思わせる船は雲海の中に潜んでいたから、生身では逃げ出せそうにない。…空を飛べないなら。
「まったくだ。そう簡単には逃がしちゃくれんな、あの船からは」
 それでも逃げようと頑張ってみるさ、スプーンで掘るとはいかないだろうが…。
 掘ってみたって雲の海では、逃げ道なんぞは無いからな。…俺の場合は。
 空を飛べるんなら、スプーンを使ってみる手もあるが、とハーレイが言うからキョトンとした。
「スプーンって…?」
 それって何なの、スプーンってどういう道具のこと…?
 脱走するのに役に立つの、と尋ねたスプーン。自分が知っているスプーンと言ったら、スープやシチューを掬うもの。プリンを食べたり、アイスクリームも。他のスプーンのことは知らない。
「俺が言ってるのは、そのスプーンだが?」
 飯だの菓子だのを食おうって時に使うスプーンで、それ以外に使い道は無い。
 だがな、そういう脱獄方法があったらしいぞ、ずっと昔は。
 人間が地球しか知らなかった頃には、監獄だって地面の上にあるもんだから…。
 食事のために持ってるスプーンで、せっせと床を掘っていくんだ。毎日、毎日、少しずつな。
 掘ったら土がゴミになるだろ、そいつはズボンの中に隠して捨てに行く。労働とかで、土のある場所に出られる時に。…でないとバレてしまうからなあ、穴を掘ってるのが。



 穴を掘るための道具ではない、小さなスプーン。食事用にと渡されたそれ。
 頼りないスプーンで床を掘っては、掘った分の土をコッソリと捨てていた囚人。スプーン一本で頑張り続けて、何年もかかって監獄の外へ出てゆくためのトンネルを掘る。
 この床からこう掘っていったら塀の向こうだ、と努力を重ねた脱獄犯。あちこちの国で、様々な理由で囚われの身になっていた囚人。
 彼らはスプーンで掘って掘り続けて、ついには自由を手に入れたけれど。監獄の塀の向こうへと逃げ出して行ったけれども、ジョミーには最後まで無かった自由。
 シャングリラに連れ戻された後には、ソルジャー候補で、やがてはソルジャー。
「…ハーレイだったら、スプーンで掘ってでも逃げるのに…」
 なんとか逃げる方法は無いだろうか、って頑張って穴を掘るらしいのに…。
 今のぼくだって、「家に帰して」って泣いて大騒ぎをすると思うのに、ジョミー、可哀相…。
 家に帰ろうとして連れ戻された後は、もう逃げたりは出来なかったよ。…シャングリラから。
 ジョミーのお父さんとお母さんは元気に生きていたのに…。会えないで、家にも帰らないまま。
 そのままでジョミーは地球で死んじゃったよ、お母さんたちのこと、忘れてないのに…。
 生きていたなら、またお母さんたちに会えて、おふくろの味も食べられたのに…。
 ジョミーが好きだった料理やお菓子…、と瞳からポロリと零れた涙。
 両親を忘れなかったジョミーは、どんなにか、食べたかったことだろう。子供だった頃に食べた料理を、おふくろの味を。…オレンジスカッシュとは違う本物を。
 きっと最後までジョミーは忘れていなかったんだ、と思うと涙が止まらない。前の自分は少しも気付いていなかったけれど、今の自分には分かるから。
 ジョミーが会いたかった両親のことも、帰りたいと思った家がどんなに大切かも。
「こら、泣くな。…泣くんじゃない」
 今のお前が泣くことはないんだ、とうに過ぎちまったことだから。…メギドと同じで。
 お前が悲しむ気持ちも分かるが、そいつがジョミーの運命というヤツだったんだ。人間の力ではどうしようもない、歴史の流れがそうさせた。
 …ジョミーに其処を歩かせたってな、前のお前をメギドに飛ばせてしまったように。
 それに、あの時代じゃ仕方ない。
 SD体制の時代だからなあ、おふくろの味は食べられないのが、当たり前で普通だったんだ。



 成人検査で記憶を消されちまうんだから、とハーレイがフウと零した溜息。「酷い時代だ」と。
「前の俺たちほどではなくても、誰の記憶も曖昧だった。…子供時代に関しては」
 懸命に逆らっていたシロエでさえもだ、両親の顔はおぼろだったと言うからなあ…。
 シナモンミルクにマヌカ多め、と覚えていたって、味の方までハッキリ覚えていたかは謎だ。
 そういう飲み物が好きだったんだ、という記憶はあっても、家で飲んでた味はどうだか…。
 そんな時代に、ジョミーは両親も家も覚えたままでいられた。…おふくろの味も、忘れないで。
 普通は忘れちまう所を、覚えていられただけでも良かった。この味だった、とピンと来るのを、俺たちの船では食えないままでいたとしたって。
 ジョミーは幸せだったと思うぞ、前のお前のお蔭で記憶を失わずに済んで。
 お前が妨害しなかったならば、全部忘れていたんだからな、とハーレイは前の自分の肩を持ってくれるけれども、そうなのだろうか。…ジョミーは幸せだっただろうか…?
「…そうなのかな…?」
 お母さんたちのことを覚えていたって、おふくろの味は食べられなくて…。
 そういう話を誰かにしたって、誰も分かってくれなくて…。
 辛い思いをしなかったのかな、ソルジャー候補にされて閉じ込められちゃった後には…?
 もう船からは二度と逃げられなかったんだよ、とジョミーの瞳を思い出す。明るい若葉の緑色。いつも明るく煌めいていた瞳、けれどナスカが滅びた後には冷たく凍っていたという瞳。
「きっと分かってくれていたさ。…自分は幸せ者なんだ、とな」
 あんな時代に、育ててくれた両親のことや、育った家を忘れずにいられた幸せな子供。
 それが自分だと、ジョミーは分かっていた筈だ。…他のヤツらには分からなくても、自分でな。
 でなきゃ地球まで行っていないぞ、途中で船から逃げちまって。
 ソルジャー候補として鍛えられた後には、もう充分にサイオンが強くなっていたから…。
 まだシャングリラがアルテメシアに隠れていた間に、脱走してな。
 今度こそ家に帰るんだからと、それこそスプーン一本ででも。
 部屋の床から穴を掘ってゆけば、いつかは外に出られるからな、とハーレイがおどける。正規の出口を使わずに船から脱出するなら、スプーンも役に立ちそうだぞ、と。
「ジョミーなら、そうかもしれないね!」
 普通のスプーンをサイオンで硬くして、少しずつ掘って。…穴が掘れたら、空を飛んでって。



 そうやって逃げて行ったかもね、と愉快な気分。ジョミーならばスプーンで、シャングリラから逃げてゆけそうだから。
 けれどジョミーは脱走しないで、白いシャングリラに留まった。前の自分に言われるままに。
 ソルジャー候補として頑張った後は、ソルジャー・シンとして皆を導いて。
 前の自分がいなくなってから、人類軍との戦いの末に、最初に落としたアルテメシア。
 かつて追われた雲海の星は、ジョミーが生まれ育った星。両親が今もいる可能性が高い星。
 調べさせたならば、きっと分かっただろう。両親が健在であることが。
 けれどジョミーは「調べろ」とさえも言いはしなくて、偶然会えた筈のチャンスも退けた。白い鯨を追っていたスウェナ・ダールトン、アルテメシアでの幼馴染。
 ジョミーの両親と親交があった彼女が、「会ってゆかないか」と誘っていたというのに。
 直接、ジョミーの両親に会えと言いはしないで、彼らの養女に紹介するという形で。
「…ジョミー、お母さんたちに会わないままになっちゃった…」
 アルテメシアに戻った後なら、また会えたのに…。おふくろの味も、食べられたのに…。
 お母さんなら、きっと覚えていた筈だから。…ジョミーが好きだった料理のことも。
 それなのに、ジョミー…。
 前のぼくが、みんなを頼んだせいで…。ミュウのみんなの未来のことを…。
 息抜きをしても良かったのに、と項垂れた。アルテメシアを落とした時なら、会いに行くことも出来た両親。丸一日は一緒にいられなくても、昼食か夕食を懐かしい家で食べることは出来た。
 「ジョミーはこれが好きだったわね」と、母が作ってくれた料理を。…おふくろの味を。
「いいや、それもお前のせいじゃない。ジョミーが自分で決めたんだ」
 前のお前がいなくなった後は、ああいう風にしようと選んだ。
 ジョミー自身が、あの生き方を。
 誰に言われたわけでもないのに、自分で心を凍らせちまって。それこそ氷みたいにな。
 俺の意見も聞きやしなかった、とハーレイが眉を顰めているのは、降伏して来た救命艇までも、爆破させていたことだろう。人類軍の船だというだけのことで。
 救命艇は武装していないのに。…彼らに攻撃の意図などはなくて、助けを求めただけなのに。
 そんな船さえ沈めさせたほどに、感情を殺して生きていたジョミー。
 彼が自分で選んだとはいえ、その生き方でジョミーは幸せだったのだろうか…?



「ねえ、ハーレイ…。ジョミーは幸せだったと思う…?」
 いくら自分で決めたにしたって、感情なんか見せない生き方。それ、辛くない…?
 悲しい時には悲しいものだし、泣きたい時だってありそうなのに…。
 氷みたいな目をしているのは辛そうだよ、と顔を曇らせた。その頃のジョミーは、今の時代まで残る写真でしか知らないけれど。
「俺にもジョミーの心の中までは分からんが…。決して読ませはしなかったからな」
 しかし、俺よりはきっとマシだったろう。俺はお前を失くしちまって、独りぼっちだったが…。
 未来の希望ってヤツも無かったが、ジョミーは違う。…俺と同じ目で地球を見ちゃいなかった。
 ジョミーが見ていた地球は約束の場所で、希望の地だった。還り着くべき、母なる星。
 もしも辿り着いて、平和な時代を手に入れていたら。死なずに生きていたのなら…。
 キャプテンだった俺がお前を追い掛けて逝っちまっても、ジョミーには笑顔が戻っただろう。
 暫くの間はシャングリラ中が喪に服したとしても、それが済んだら。
 俺の喪なんぞたかが知れてる、とハーレイは笑う。「ほんの数日間だろう」と。それが終われば普段通りに戻る船。ジョミーも涙を流した後には、太陽のようだった笑みを取り戻して。
「ジョミーが昔のジョミーみたいに、明るく笑う筈だったんなら…」
 お母さんたちにも、会おうとしてた?
 シャングリラが地球まで無事に辿り着いて、SD体制が終わったら。…平和になったら。
 またシャングリラでアルテメシアを目指して戻って、お母さんたちの家を探して。
 会いに行こうとしていたのかな、と尋ねてみたら、「そうだろうな」と返った答え。
「ジョミーが忘れていないからには、きっと消息を調べさせただろう。…落ち着いた後に」
 もっとも、アルテメシアに戻っていたなら、無駄足なんだが…。
 ジョミーの両親はコルディッツに行ってしまっていたしな、育てていた小さな娘と一緒に。
 運が良ければ、シャングリラで会えていたんだろうに…。上手くいかんな、人生ってヤツは。
 ジョミーが名簿を確かめていれば…、とハーレイが言うコルディッツで救ったミュウたち。強制収容所に入れられた彼らの名簿の中に、人類が二人混じっていた。かつてのジョミーの両親が。
「やっぱり、ぼくのせいだ…」
 ジョミーがお母さんの作る料理を、二度と食べられなかったのは。
 心を凍らせてしまってなければ、名簿だってきっと、見た筈なのに…。



 前のぼくが頼んじゃったからだよ、と胸が締め付けられるよう。ミュウの未来を託さなければ、もっと余裕があっただろうジョミー。同じように地球を目指したとしても。
「気にするな。お前のせいじゃないんだから」
 ジョミーが自分で決めたことだし、あいつは満足していただろう。…そんな気がする。
 傍から見たなら辛そうに見えても、悲しいように思える最期だとしても。
 そしてだな…。
 さっさと生まれ変わっているんじゃないのか、死んじまった後は。
 すっかり平和になった世界に、あいつが最初に言い出した自然出産で。
 俺たちよりも遥かに早く地球に生まれて、本物の家族と一緒に暮らして、おふくろの味だ。成人検査なんかはもう無い時代に、お母さんの料理をたらふく食ってな。
 おふくろの味を堪能してたに違いないぞ、というのがハーレイの読み。ジョミーはとうに地球に生まれて、おふくろの味で育ったのだ、と。
「そうなったかな…?」
 食べられないままで終わった分まで、おふくろの味を食べられたかな…。
 オレンジスカッシュしか無かった船の分まで、ジョミーが食べたかった何かを…?
「お前に聖痕を下さった神様なんだぞ、ちゃんとジョミーにも御褒美があるさ」
 生まれ変わりの記憶は無かったとしても、ジョミーらしく元気に、幸せに生きて。
「そうだよね…!」
 ぼくたちが御褒美を貰えるんだもの、ジョミーも貰った筈だよね。うんと素敵なのを…。
 お母さんが作ったお菓子やお料理、好きなだけ食べて大きくなって…。
 大人になってもおふくろの味、と浮かべた笑み。ジョミーならそんな大人だよね、と考えて。
 きっとジョミーも地球に生まれて、また食べられたことだろう。おふくろの味を。
 前の人生とは違う料理やお菓子に変わっていたって、「これが好き」と笑顔になれる味。
 今のハーレイにおふくろの味のパウンドケーキがあるように、きっとジョミーにも。
 そうであって欲しい、と心から思う。ジョミーも神様に御褒美を貰って、おふくろの味、と。
 今の自分は幸せだから。今は誰もが幸せに暮らせる平和な時代で、蘇っている青い地球。
 それを作ってくれたジョミーも、幸せになっていて欲しい。
 前のジョミーが両親を、家を恋しがった理由が、自分にもやっと今頃になって分かったから…。



            ジョミーの気持ち・了


※シャングリラに迎えられた直後に、家に帰ったジョミーですけど、何故、帰ったのか。
 前のブルーには、想像もつかなかった理由なのかもしれません。両親を覚えていたのが原因。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(んー…)
 まだまだチビだ、とブルーが覗いた鏡。学校から帰って、おやつの後で。
 自分の部屋の壁に掛かっている鏡。朝一番には髪に寝癖がついていないか、覗くそれ。鏡の中に映った自分は、やっぱりチビ。いつも通りに。
(背丈が少しも伸びてないから…)
 身体は育っていないわけだし、顔立ちが変わるわけがない。昨日までの顔と。
 目が大きくて、丸みを帯びている輪郭。何処から見たって子供の顔。大人びた部分は、ちっとも無くて。頬っぺただって柔らかそうで、ほんのりと子供らしい薔薇色。
(前のぼくとは違う顔だよ)
 ホントに違う、と見詰める姿。前のぼくは「こうじゃなかった」と。
 遠く遥かな時の彼方で、メギドで死んだソルジャー・ブルー。新しい命と身体を貰って、地球の上に生まれ変わってくる前に持っていた姿。それとはあまりに違いすぎる今。
(チビの頃なら、こうだったけど…)
 アルタミラの檻で成長を止めていた頃だったら、この姿。成人検査を受けた直後のままだから。
 もっとも、鏡は見なかったけれど。こうして鏡を覗き込もうにも、鏡なんかは無かった檻。実験動物を入れる檻には、鏡は要らない。
(実験に連れて行かれた時に…)
 磨き抜かれた壁に映るのや、強化ガラスのケースに映った姿をぼんやり見た程度。「ぼくだ」と何の感慨も無く。「まだ生きている」と思う程度で。
 アルタミラから脱出した船でも、初期の頃には、そうそう鏡を覗いてはいない。部屋には多分、無かった鏡。あったとしても、さほど興味は無かっただろう。覗いた記憶が無いのだから。
(鏡があったの、バスルームとか…)
 顔を洗う時には洗面台の鏡に映っていたし、バスルームにも鏡は確かにあった。それを覗いて、整えていた髪や服装などや。少年の姿だった頃には、たったそれだけ。
(今だと、何度も…)
 見るんだけどな、と考える鏡。部屋でも、それに洗面所でも。
 鏡の向こうを覗いてはガッカリ、今日みたいに肩を落としてしまう。「育ってないよ」と。
 チビの自分が映っているだけ、まるで子供の姿が其処にあるだけだから。



 なんとも酷い、と悲しくなってしまう顔。十四歳にしかならない、今の自分の顔立ち。
(少しも変わってくれないんだから…)
 今のハーレイと出会った時から、全く変わってくれない姿。一ミリさえも伸びない背丈。身体が育ってくれない以上は、顔立ちだって変わらない。子供っぽい顔でいるしかない。
 いつになったら育つのだろうか、前の自分と同じ姿に。ハーレイがキスをくれる背丈に。
 前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイはキスをしてくれない。キスはいつでも、頬と額にくれるだけ。恋人同士の唇へのキスは貰えない自分。
(育たないとキスも駄目なままだし、ハーレイの家にも遊びに行けないし…)
 今のままでは困るんだけど、と思っても鏡に映るのはチビ。毎日のように覗いてみても。少しは育っているだろうかと、期待を抱いて覗き込んでも。
(凄い速さで育つのは無理だろうけれど…)
 劇的な変化を遂げるのは無理、と溜息をついて、勉強机の前に座った。鏡から離れて。
 どんなに鏡を見詰めていたって、チビの自分が映るだけ。見る間に育っていったりはしない。
(かぐや姫とは違うんだから…)
 日毎に育って、アッと言う間に大人の姿に成長するのは無理だと思う。ミュウと言っても普通の人間、月の都のお姫様とは違うから。
 成長するなら、前の自分がそうだったように、ごくごく普通のスピードで。
 アルタミラから脱出した後、少しずつ背が伸び、子供の顔から大人びた顔に変わったように。
(早く育つといいんだけどな…)
 かぐや姫とは違う生まれでも、奇跡みたいに一瞬で育ってくれたら素敵、と夢見る奇跡。
 ある朝、起きたら、小さくなっているパジャマ。袖もズボンも短くなって、ボタンだって外れてしまっていて。
(前のぼくの背丈で、ぼくのパジャマを着ようとしたら…)
 きっとそういうことになる。小さすぎて身体に合わないパジャマ。
 其処から覗いた手足は華奢で細いけれども、「細っこい」子供の手足とは違う。目にした途端に気付くだろう。「前のぼくだ」と、「育ったんだ」と。
 起きて鏡を覗きに行ったら、待ち焦がれていた姿が映る。前の自分にそっくりな顔が。
 ずっと欲しかった顔と背丈が手に入る奇跡、そういう奇跡があればいいのに。



 神様が起こしてくれないかな、と思ってはみても、ただの「我儘なお願い」なだけ。今の姿でも生きてゆくのに困りはしないし、奇跡が起こるわけがない。聖痕とはまるで違うから。
(奇跡は無理だし、かぐや姫とも違うんだし…)
 凄い速さで育つことなど、前の自分でさえ無理だったこと。急成長を遂げることなど。見る間に育って、大人の姿を手に入れるなど。
(育たなくちゃ、って思っていなかったから…)
 今の自分とは異なる事情。前の自分は、「大人になろう」と急いでなどはいなかった。
 もう充分に強かったサイオン。子供の姿でも問題も不自由もありはしなくて、育ちたいと切実に思う理由が無い。「今の姿じゃ駄目なんだ」と成長を急ぐ理由など。
 だから、檻の中では長く止めていた成長を再び始めただけで、前の自分は普通に育った。日毎に大きくなりはしないで、ゆっくりと自然なスピードで。
 あれだけのサイオンを持っていてさえ、ゆるやかに育って大きくなった。前の自分の背丈まで。
(急に成長するなんて…)
 前のぼくでもやっていないよ、と思ったはずみに気が付いた。
 一度だけ、やっていたことに。劇的な変化を身体に起こして、すっかり変わってしまった姿。
(成長じゃなくて、変身だけど…)
 そう、「変身」という言葉が相応しいだろう。サナギが蝶へと脱皮するように、ミュウへと変化した自分。それまでの「人類」という姿から。ただの平凡な少年から。
(中身がミュウに変わっちゃったら…)
 外見まで同じに変化を遂げた。一瞬の内に色素が消し飛び、アルビノになって。
 銀色の髪に赤い瞳で、抜けるような肌を持ったアルビノ。前の自分はそういう姿に変化した。
 今の時代は、「ソルジャー・ブルー」と言ったらアルビノなのだけど。誰が聞いてもアルビノを思い描くけれども、そうではなかった本来の姿。
(金色の髪で、水色の瞳…)
 それが本当の色だったっけ、と思い出す。前の自分が持っていた色。
 成人検査よりも前の記憶は失くしたけれども、辛うじて残った最後の記憶。検査を受けに行った施設の待合室で、壁に映っていた姿。
 金髪に水色の瞳の少年、前の自分はそれを見ていた。見るともなしに、「ぼくの姿だ」と。



 そうだったよね、と蘇って来た前の自分の記憶。急成長を遂げる代わりに、抜け落ちた色素。
 ミュウに変化した証のように、アルビノに変わってしまった自分。それまでの色を失って。
(あの姿、何処に行っちゃったんだろ?)
 金色の髪と水色の瞳を、今の自分は持ってはいない。青い地球の上に生まれた時から、アルビノだった今の自分。母のお腹から生まれて来た時、既に持ってはいなかった色素。
 お蔭で名前が「ブルー」になった。
 前の自分と同じ名前でも、何処にも青い色は無い。けれど「ブルー」で、ソルジャー・ブルーに因んだ名前。タイプ・ブルーに生まれた子供で、アルビノだからと名付けられて。
(ソルジャー・ブルーは大英雄だし、パパとママが付けるのも分かるけど…)
 今ならではの名前だけれども、前の自分の「本当の姿」は何処に消え失せたのだろう?
 青い色を持っていた「ブルー」は。…金色の髪と水色の瞳は?
(失くしちゃったの…?)
 この地球の上に生まれてくる時、前の自分の本当の色を。生まれた時から持っていた色を。
 今の自分は生まれつきアルビノの子供だったし、それですっかり慣れているけれど。銀色の髪と赤い瞳を持った顔しか知らないけれど。
(…前のぼくなら、この顔の時には違ってた色…)
 十四歳になるまでは違う色を持ち、ミュウに変化してアルビノになった。
 子供時代の記憶は全く残っていないし、思い出せない本来の姿。幼かった頃はどんな顔立ちで、鏡の向こうに何を見たのか。「ぼくの顔だよ」と眺めていただろう顔。
 映っていたのは金色の髪と水色の瞳、それを何処かに落としたろうか…?
 今の自分は「知らない」から。そういう色を持った自分を、ほんの僅かな欠片でさえも。
(…前のぼくの記憶がある、っていうだけで…)
 ぼくは知らない、と椅子から立って、覗きに出掛けた壁にある鏡。さっき覗いていた鏡。
 其処に映った自分の姿に、金色の髪と水色の瞳を重ねようとしても、重ならない。ほんの少しも重なりはしない。どう頑張っても、金色と水色を重ねたくても。
(…そういう色に見えてくれないよ…)
 なんと言っても、今の自分が十四年間も見て来た顔だから。銀色の髪も、赤い瞳も。
 物心ついた時には、とうにこの色。アルバムの写真も全部そうだし、これが自分の色だから。



 あの色のぼくとは別人だよね、と戻った勉強机の前。鏡に映ったチビの自分に背中を向けて。
(本当のぼく…)
 何処へ行ったの、と考えてしまう。金色の髪に水色の瞳、それを確かに持っていた自分。
 あれは幻だったろうか、と勉強机に頬杖をついて、失くした姿を追ってみる。記憶の中に確かにあるのに、今は持ってはいない色。今の自分が生まれた時には、無かった色。
(鏡を見たって、上手く重ならないくらいだし…)
 幻でもいいのかもしれない。時の彼方に消えてしまった、蜃気楼のように儚い幻。
 前の自分は三世紀以上も生きたけれども、あの色を身体に持っていたのは十四年だけ。その上、記憶に残っているのは、成人検査の直前に壁に映った姿。他には何も覚えていない。
(長い人生の中の、ほんの一瞬…)
 ホントに一瞬だけだったよね、と思う色。それだけでも、まるで幻みたい、と。
 おまけに今の自分にとっては、「持っていたことがない姿」。金色の髪も、水色の瞳も。
 今の自分が金色と水色を取り戻したなら、両親は驚くことだろう。一人息子に何が起きたかと、目を丸くして。「これはブルーの色じゃない」と、二人とも慌てふためいて。
(…病院に連れて行かれちゃうかもね?)
 何かの病気で色が突然変わったろうか、と大きな病院へ。痛いわけでも何でもないのに、両親が揃って付き添って。
 そう思うと、なんだか面白い。身体に持っている色が変われば、病院なんて、と。
(前のぼくだと…)
 色が抜け落ちたら「ミュウになった」と銃で撃たれたのに、今の自分は病院で診察。今の自分と違った色の髪や瞳に変化したなら。
 どちらも同じに色が変わるだけで、自分の中身は変わらないのに。前の自分も、今の自分も。
 ミュウに変化した前の自分も、心は変わらなかったというのに、容赦なく銃を向けられた。誰も話を聞いてくれなくて、「何もしない」と訴えた言葉も聞き流されて。
(時代が違うと、ぼくの扱い、変わっちゃうんだ…)
 成人検査などは無い時代。それに血が繋がった本物の両親と暮らしている自分。
 そんな自分の髪と瞳の色が変わったら、撃たれはしないで、病院へ診察に連れてゆかれる。父が急いで車を出して、母が「大丈夫?」と心配しながら、車の中で手を握ってくれて。



 時代と環境、それに境遇。そういったものが違っただけで、自分への扱いも変わるらしい。前の自分と同じように「持っている自分の色」が変わっても、別の色へと変化をしても。
(…だったら、最初は金色の髪に水色の瞳のぼくで…)
 その色に生まれた今の自分が、ある日アルビノになったなら、と想像してみる。金色の髪が銀に変わって、水色の瞳は色を失くして血の色の赤。
 両親がそれを目にしたならば、やはり大慌てで病院に連れて行かれそう。「大変!」と父の車に乗せられて。母に手をしっかり握り締められて。
 きっと大騒ぎになるんだよ、と考えていたら、頭の中に浮かんだこと。今の自分が行った病院。
(そうだ、聖痕…!)
 前兆だった右の瞳からの出血。両親は「病院に行かないと」と車を走らせ、ずいぶん心配そうにしていた。瞳には傷が無いと聞いても、出血したのは本当だから。
 その後に起きた、学校での本物の聖痕現象。ハーレイと再会を果たした途端に、右の瞳や両方の肩から溢れ出した血。左の脇腹からも流れた鮮血、前の自分がキースに撃たれた傷の通りに。
(凄く痛くて、気絶しちゃって…)
 救急搬送された自分。ハーレイが付き添っていてくれたことさえも覚えてはいない。酷い痛みで意識を失くして、目覚めた時には病院のベッド。
 それほどの激痛、同時に戻った膨大な記憶。前の自分がミュウに変化した、成人検査の衝撃にも匹敵しそうな感じ。あの時の今の自分のショックは。
(今のぼくは、元からミュウだけど…)
 記憶が戻った時のショックで、アルビノに変化したとしたなら、どうだったろう。
 金色の髪と水色の瞳を失くしてしまって、銀色の髪と赤い瞳に変わったら。
(ホントに前のぼくとそっくり…)
 もう文字通りに、ソルジャー・ブルーの誕生と言っていい光景。
 ソルジャー・ブルーが成人検査でアルビノになった話は、今も有名だから。元は金色の髪だったことも、水色の瞳を持っていたことも。
(ぼくが同じに変化しちゃったら、パパもママもビックリで、ぼくもビックリ…)
 両親は腰が抜けそうなくらいに驚くだろう。一人息子がアルビノになってしまったら。
 自分も驚きそうだけれども、直ぐに納得するのだろうか。前の自分の記憶が戻っているのなら。



 色が抜け落ちた姿を鏡で眺めて、目をパチクリとさせそうな自分。「これが、ぼくなの?」と。
 病院のベッドに横たわったままで、アルビノになってしまった自分を鏡で見たら。
(ぼくの色は何処へ行っちゃったの、ってビックリするのか、納得か、どっち…?)
 これが本当の自分の色だ、と素直に受け入れるだろうか。記憶が戻っているのだったら、何度も見ていた色の筈。自分ではなくて、前の自分が。
(チビの頃には、鏡はそんなに見ていないけど…)
 育った後にもアルビノだったし、アルタミラから脱出した後も三百年は馴染んだ姿。今の自分の色を失くしても、素直に納得しそうではある。「この姿だって、ぼくだよね?」と。
 けれど、周りはどうだろう。両親はともかく、他の人たちの反応は…、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、早速、訊いてみることにした。
 テーブルを挟んで向かい合わせで、ハーレイだったらどうなるのかと。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがアルビノじゃなかったら、どうしてた?」
「はあ?」
 どういう意味だ、と怪訝そうなハーレイ。「そいつは、今のお前のことか?」と。
「そう。金色の髪と水色の瞳を持った、ぼくだよ。…前のぼくの色を知っているでしょ?」
 成人検査を受ける前にはこうだったよ、って記憶を見せたし、アルテメシアを落とした後には、前のぼくのデータも見てるよね。育った家とか、養父母のデータとかと一緒に。
 もしも、今のぼくが金髪で水色の瞳だったら…。そんなぼくでも、ハーレイの記憶は戻ったの?
 教室に入って出会った時に、と問い掛けた。まずは其処から訊かないと、と。
「俺の記憶か? 戻るだろうなあ、そんなお前でも聖痕は現れるんだろうから」
 どんな瞳と髪の色でも、聖痕は出てくるんだろう。あれは奇跡で、神様が起こしたものだから。
 お前と俺とを出会わせるために、きちんと時と場所とを選んで。
 人騒がせな場所ではあったが…、とハーレイが浮かべた苦笑。教室のあちこちで上がった悲鳴や叫び声。他のクラスにも騒ぎは飛び火で、救急車までが来たのだから。
「やっぱり記憶は戻るんだ…。ぼくの髪や瞳が違う色でも」
 それでね、ちょっと訊きたいんだけど…。
 聖痕が身体に出ちゃったショックで、ぼくがアルビノになってしまったら、どう思う?
 前のぼくがアルビノに変わったみたいに、今のぼくの色も変わってしまったら…?



 成人検査とは違うけれども、ショックは大きかったんだから、と話した聖痕現象。激しい痛みと酷い出血、それに膨大な記憶までが戻って来た瞬間。
「…あれでアルビノに変化したって、おかしくないと思うんだけど…」
 元からアルビノだったお蔭で、変化しなかっただけかもね。…もう失くす色は無いんだから。
 だけど、金髪で水色の瞳を持ったぼくなら、前と同じに色が抜けそう…。全部、すっかり。
 聖痕が身体に出た途端にね、と肩を竦めてみせた。「そうなっていたら、ビックリした?」と。
「驚くなんてモンじゃないんだろうな…。俺の目の前で、お前がアルビノになったなら」
 お前が帰って来てくれたんだ、と喜びもするが、きっと度肝を抜かれるんだろう。とんでもない現象を見たわけだしなあ、お前の色素が一瞬の内に消えるんだから。
 俺も驚くが、教室中の生徒がパニックじゃないか?
 まるでソルジャー・ブルーだからなあ、色素を失くしてアルビノに変化するなんて。
 歴史の授業で教わるんだし…、とハーレイが言っている通り。ソルジャー・ブルーについて習う時には、成人検査の所から。「色素を失くしてアルビノになった」と始まる授業。
「そうだよね…。クラスのみんなも、ビックリ仰天…」
 ぼくがソルジャー・ブルーみたいになった、って大騒ぎだよね、アルビノに変化しちゃったら。
 さっきまでいた金色の髪と水色の瞳を持っていたぼくが、銀髪で赤い瞳になったら…。
 気絶しちゃったら、瞳の色は分からないかもしれないけれど…。
 どの辺で変化するかによるよね、と瞬きをした。聖痕が現れた瞬間だったら、暫くは瞳も開いていた筈。ハーレイが教室に入って来た時、右の瞳から出血を起こしたのだから。
「聖痕が出るだけじゃないんだな? お前に出会った瞬間の変化」
 瞳の色まで変わっちまって、髪の毛の色も変化して…。ついでに大量出血、と。
 俺もパニックに陥りそうだが、前の俺の記憶が戻ってくれればストンと納得しそうではある。
 お前なんだ、と直ぐに分かるから。…アルビノに変わっちまうのも無理はない、と。
 しかしだ…。俺はともかく、お前を運んでゆく先の病院ってヤツが問題だぞ。
 救急車を呼んでも、救急隊員が慌てるだろう、とハーレイは頭を振っている。何処へ搬送すればいいのか、彼らが頭を悩ませそうだ、と。
 聖痕からの大量出血も大変だけれど、失くした色素。それは出血のせいでは消えない。
 原因不明の出血と、消えてしまった色素。運ぶ病院を決めるのに、きっと困るのだろう、と。



 受け入れる病院は何処になるんだ、と言われてみれば難しそう。聖痕現象の前兆の時に、診察を受けた大病院。あそこに運ばれるにしても…。
「聖痕だけなら、前に診てくれた先生で決まりなんだけど…」
 ぼくがソルジャー・ブルーの生まれ変わりじゃないか、って言ってた先生。目からの出血、あの先生が診てくれていたしね。傷も無いのに血が出るなんて、って色々と調べて。
 だから身体中から血が出ていたって、傷は何処にも無いってことが分かれば、あの先生だよ。
 最初の間は、怪我の専門家の先生たちが診そうだけれど…。手術が必要なのかも、ってね。
 怪我なら急いで手術しなくちゃ、と自分が起こした聖痕現象を思う。両肩と左の脇腹から溢れる鮮血は早く手当てをしないといけない。場所が場所だけに、命が危ういかもしれないから。
 実際、救急搬送された時には、そうだったという。輸血や手術の用意をしながら、到着を待った病院の医師たち。けれども患者の服を剥いだら、怪我は無かったものだから…。
(最初に診てくれた、あの先生…)
 聖痕現象だと見抜いた医師の出番になった。前兆の時から診ていたわけだし、適任だろうと。
 症状が聖痕現象だけなら、あの医師だけでいいのだけれど。他の医師の出番は皆無だけれども、色素を失くした現象の方は、管轄が違うような気がする。引き金は聖痕だとしても。
「お前の色素まで抜けちまったなら、どの先生が診るやらなあ…」
 あの先生も診るんだろうが、聖痕よりも厄介なのがアルビノのような気がするぞ。原因は聖痕にしたってな。…あの先生がそれを見抜いてくれても、お前、アルビノなんだから…。
 直ぐには退院できないんじゃないか、聖痕だけの時と違って。
 入院ってことになっちまうかもな、とハーレイが言うから驚いた。聖痕は直ぐに帰れたのに。
「え? 入院って…」
 どうして入院しなきゃ駄目なの、ぼくはアルビノになっただけだよ?
 髪の毛と目の色は失くしちゃったけど、他の色に変わってしまっただけで…。
 沢山の血が流れ出すよりマシじゃないの、と傾げた首。何故、アルビノだと入院なのかと。
「そのアルビノが厄介だって言っただろうが。…聖痕よりも」
 聖痕だったら、お前の身体に傷は一つも無いわけだから…。
 何度も繰り返す恐れが無いなら、特に心配要らんだろう。酷い出血さえ起こさないなら。
 だが、アルビノだとそうはいかない。お前の体質、すっかり変わっちまったんだし。



 聖痕と違って本当に身体に起こった変化だ、とハーレイは指でテーブルをトンと叩いた。
 「金色の髪に水色の瞳のお前は、何処にもいなくなったんだから」と。
「聖痕は出血が収まっちまえば、傷なんか一つも無いんだが…。元のお前の肌に戻って」
 しかし、アルビノの方は違うぞ。聖痕から出血するのが止んでも、髪や瞳の色は戻って来ない。いつまで待っても色は抜けたままで、戻りそうにないと分かったら…。
 其処から先が大変だってな。お前はいきなり、アルビノとして生きてゆくことになるんだから。
 まずは、お前が色素を失くしたことで、身体に起こった変化を確かめてやらないと。
 そいつが医者の仕事だよな、と言うハーレイにキョトンとした。どうして医者の出番なのかと。
「…なんでお医者さん? 聖痕の方なら分かるけど…」
 大怪我をしたみたいに見えるし、ホントに凄い血だったから…。検査も色々してたけど…。
 アルビノの方なら、色が変わっただけじゃない。お医者さんが調べて「アルビノです」って診断したら終わりじゃないの?
 それだけでしょ、と首を傾げた。実際、今の自分は病院とは無縁。虚弱な身体の方はともかく、アルビノの方では行かない病院。定期検査にも、健康診断にも。
 なのに病院がどう関わるのか、本当に不思議に思ったのだけれど。
「さっきも言ったぞ、アルビノの方が厄介だと。…聖痕よりも」
 お前の体質は変わっちまって、身体から色素が無くなったんだ。それも一瞬で消し飛んで。
 失くしちまった色素の方は、お前の身体を守っていたようなモンだから…。そうなる前には。
 アルビノになった身体の負担を補えるだけの、充分なサイオン。そいつがきちんと働いてるかを調べないと。…そこで病院の出番になるってな。
 生まれつきのアルビノだった場合は、今の時代は全く問題ないんだが…。
 前の俺たちの頃と同じで、サイオンが身体の弱い部分を自然に補ってくれるから。…アルビノに生まれて色素が無いなら、そういう身体に相応しく。
 ところが、お前は生まれつきのアルビノじゃないからなあ…。いきなり変化したってだけで。
 その上、サイオンが不器用と来た。病院の方でも、不器用なのは把握してるから…。
 検査しようとするだろうさ、というハーレイの指摘。アルビノの身体が抱えた弱点、それを補うサイオンが使えているかの検査。
 なにしろ突然変化したのだし、タイプ・ブルーでもサイオンを上手く扱えない子供だから。



 サイオンを自由に使いこなせるなら、早めに退院できそうだが、とハーレイに言われて、やっと気付いた。今の自分の不器用すぎるサイオン、それが大いに問題なのだと。
「そうなのかも…。今のぼく、ホントに不器用だから…」
 生まれた時からアルビノだったし、サイオンで補えてるけれど…。元からこういう身体だから。
 だけど途中で変わっちゃったら、サイオンがついていかないかも…。不器用すぎて。
 アルビノは光に弱いんだよね、色素が無いから。…目とかが痛くなっちゃうの?
 上手くサイオンで補えなかったら…、と目をパチパチと瞬かせた。今の自分はまるで平気だし、空の太陽を見上げたりもする。もちろん、太陽は眩しすぎるけれど。
「そうらしいなあ、サイオンで補えなかった時代は大変だったという話だぞ」
 真夏でなくても、サングラスをかけたりしたらしい。でないと光で目をやられるから。
 肌の日焼けも酷かったと聞くな、日光で火傷しちまうんだ。肌が真っ赤に焼けてしまってな。
 もっとも、前のお前の場合は、まるで気にしちゃいなかったが…。今のお前と全く同じで。
 宇宙を旅していた頃はともかく、アルテメシアに落ち着いた後も、平気で外に出ていただろう?
 太陽が燦々と照っていようが、目が痛かったとも、日焼けしたとも言いもしないで。
 前のお前も、無意識にやっていたんだろうなあ…。生まれつきじゃなくても、変化した時から。
 アルタミラの檻に押し込められるよりも前から、もう早速に。
 成人検査の機械を壊して、アルビノになった途端にな…、というハーレイの言葉に頷いた。
「そうだと思う。あの部屋も明るかったんだけど…。眩しいって思わなかったから」
 ぼくの目の色と髪の毛の色が変わっちゃった、ってビックリしただけで、たったそれだけ…。
 眩しくって目がチカチカしたなら、きっと覚えているだろうしね。太陽の光じゃなくっても。
「うむ。その後、直ぐに撃たれたらしいが、目が痛かったなら忘れはしないだろう」
 それも変化の一部分だから、「あの時はこういう風になった」と、ずっと後まで。お前の人生、あそこで丸ごと変わっちまって、別の人生になったんだしな。
 そういう記憶が無いと言うなら、前のお前は上手にサイオンでカバーしたんだ。色素を失くした瞳の弱さを、変化と同時に実に素早く。
 なんと言っても、完璧なタイプ・ブルーだったんだから…。
 今の不器用なお前と違って、サイオンを直ぐに使いこなすことが可能だった、と。どういう風に使えばいいのか、アルビノの弱点を補うことも含めてな。



 光に弱いというアルビノ。身体がそれに変化したなら、弱くなった部分はサイオンで補う。前のお前はそうだったろう、というのがハーレイの読み。最強のサイオンの持ち主に相応しい能力。
「しかしだ、今の不器用なお前だと…。その方面の力も、駄目な可能性が高いしな?」
 元がとことん不器用なんだし、サイオンで上手く補うどころか、ただ途惑ってるだけだとか…。
 補えてるにしても、生まれつきのアルビノの場合と違って、足りない部分があるかもしれん。
 そういったことがハッキリするまで、病院に留め置きになるんじゃないか?
 検査の内容までは知らんが、眩しがらずに見えているのか、肌は日焼けに弱くないかだとか…。色々な項目について調べて、「大丈夫だ」とお墨付きが出るまで入院とかな。
 預かっちまった病院の方にも責任ってヤツがあるじゃないか、と大真面目な顔をするハーレイ。急に色素を失くした患者を診察したなら、その患者が普通に暮らせるかどうかを調べねば、と。
 アルビノ特有の弱点をサイオンで補えない状態となれば、生活のためのアドバイスも必要。強い日差しは避けるべきだとか、サングラスをかけるようにとか。
 検査が済んで結果が出るまで、留め置かれたままになる病院。聖痕現象の方は収まっていても、失くした色素が問題だから。
「それじゃハーレイに会えないじゃない!」
 病院から家に帰れないんじゃ、ハーレイに会えないままになっちゃう…。
 検査にどのくらいかかるか分からないけど、その間は入院なんだから。家に帰れないで、何度も検査。アルビノでも普通に生きていけるか、お医者さんたちが調べ終わるまで…。
 入院してたらハーレイに会えなくなっちゃうじゃない、と困ってしまった。
 金色の髪と水色の瞳を持って生まれて、それを失くしたら、前のハーレイが良く知っていた姿が戻ってくるけれど。アルビノの姿になるのだけれども、肝心のハーレイに会えないらしい。暫くの間は家に帰れず、検査入院になりそうだから。
「いや、其処は心配しなくても…。ちゃんと見舞いには行ってやるから」
 学校の仕事が終わりさえすれば、自分の時間が取れるんだし…。直ぐに車を走らせて。
 行き先がお前の家になるのか、病院なのかの違いだけだな、俺にとっては。
 心配するな、とハーレイは微笑むけれども、病院の部屋へ見舞いに来て貰っても…。
「来てくれるのはいいんだけれど…。再会の場所が病院だなんて…」
 やっとハーレイに会えたっていうのに、ゆっくり話も出来ないだなんて…!



 そんなの嫌だ、と頬を膨らませた。病室なんかで再会したって、二人きりで話せる時間は短い。あの日、ハーレイが来たのは夜だった。学校への報告などにも時間がかかったのだろう。
 家だったから夜でも良かったけれども、病院の場合はそうはいかない。面会時間はもう終わっていて、話せたとしても僅かだけ。
(ただいま、ハーレイ、って言えるかどうか…)
 母が病室に付き添っていたら、きっと口には出来ない言葉。「帰って来たよ」という言葉も。
 ハーレイが家まで来てくれたから、母に頼めた我儘なこと。「暫く二人きりにして」と。
 母は「お茶の支度をしてくるわね」と出て行ったけれど、病院の部屋だとどうなるだろう。外の廊下に出るだけだったら、じきに戻って来るのだろうし…。
(ただいま、ってハーレイに言うことは出来ても、抱き合ったりはしてられないよ…)
 ハーレイの方でも、ベッドの側に立っているだけで終わりそう。あるいは枕元の椅子に座って、そっと手を握ってくれるだけ。…抱き締める代わりに。
 それでは困る。「せっかくの再会が台無しだよ」と文句を言ったら、ハーレイに問い掛けられたこと。「なんでまた、アルビノじゃなかったらなんてことを考えてるんだ?」と。
「俺がお前に出会った時には、お前、アルビノだったじゃないか。…生まれつきの」
 途中で変化したってわけじゃないだろ、前と違って。なのに、どうしてこだわるんだか…。
 今のお前がアルビノに変化しちまった時は、困ったことになりそうだっていうのにな?
 お前もそれは困るんだろうが、と鳶色の瞳に覗き込まれたから、「そうだけど…」と口籠った。
「ぼくも困ってしまうんだけれど、でも、気になってしまったんだよ」
 えっとね…。家に帰って鏡を見てたら、前のぼくのことを思い出しちゃって…。
 今のぼくだと、生まれた時からアルビノだから、髪も瞳もこういう色。
 だけど、前のぼくは成人検査を受ける前には、金色の髪に水色の瞳をしてたわけだし…。
 その色、ぼくは欠片も持ってはいないんだよ。小さい時から、ずっとこの色。
 ハーレイと二人で青い地球に生まれ変わって来たけど、前のぼくの色は無くなっちゃった。前のぼくが持ってた、金色の髪と水色の瞳は最初から持っていなかったから。
 今のぼくはね、前のぼくの色を失くしてしまったみたいだから…。
 どんなに鏡を覗いてみたって、金色の髪に水色の瞳の顔は重なって来ないから…。
 本当のぼくは何処へ行ったのかな、って…。だって、この色だと別人だもの。



 顔立ちは同じでも別のぼくだよ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。自分でも違うと思う印象。まるでそっくり同じ顔立ちでも、髪と瞳の色が違えば別人になる。
「そう思わない? 双子なんです、って言っても似てない双子…」
 双子だったらそっくりだけれど、本物のぼくとアルビノのぼくだと、似ていないってば。
 それくらい違って見える筈なのに、今のぼくは最初からアルビノで…。前のぼくは何処に行ってしまったのかな?
 金色の髪に水色の瞳のぼくは…、と消えない疑問。今の自分が欠片さえも持っていない色。
「本物って…。本物のお前は、今のお前だろ? 銀色の髪に赤い瞳のアルビノ」
 前のお前の記憶はともかく、俺が知ってるお前は、そうだ。…最初からな。
 燃えるアルタミラで出会った時には、お前はとっくにアルビノだった。前の俺と一緒に暮らしたお前も、ずっとアルビノのままだったろうが。…色素は戻って来なかったから。
 俺は、金色の髪に水色の瞳のお前は知らん。前のお前が見せてくれた記憶の中でしか。
 後はテラズ・ナンバー・ファイブが持ってたデータだ、前の俺たちに関するデータ。前のお前の子供時代のデータの中には、そういうお前の写真もあったが…。
 お前の記憶の通りだったな、と考えただけで、何の感慨もありはしなかった。本物のお前だ、と思いもしないし、データをきちんと残したいとも思わなかったな。
 お前の養父母や、育った家のデータの方には俺も興味があったんだが…。それにお前の誕生日。
 そういったことは、いつかお前に教えてやろうと、頭に叩き込んだんだがな。
 俺の命が終わった後に…、と笑ったハーレイ。
 「逝ってしまった前のお前の所に行ったら、話してやろうと思ってたんだ」と。
 そう考えていたハーレイの目には、「本物」に見えなかった金色の髪に水色の瞳の「ブルー」という名の子供の写真。アルビノではない頃の姿は、本物らしく見えなかったと聞かされたから…。
「…こっちの姿が本物なの?」
 前のハーレイにはそう見えたって言うの、アルビノの方が本物のぼくの姿なんだ、って…。
「そうなるが? ついでに今の俺が見たって、お前の姿はアルビノでこそだ」
 金色の髪と水色の瞳のお前がいたって、ピンと来ないぞ。お前だと分かりはするんだが…。
 そういや、こういう色だったよな、と前のお前の記憶やデータを思い出したりするだろうが…。
 本物のお前の色じゃないな、と思うだろうなあ…。今のお前はこういう姿になったのか、と。



 きっと残念に思うんだぞ、とハーレイはアルビノに軍配を上げた。「それが本物のお前だ」と。
「俺が知ってるお前はそれだし、アルビノのお前が本物だろう」
 お前は本物の色を失くしたわけじゃなくてだ、最初から本物のお前の色で生まれて来たんだ。
 途中で色が抜けるとなったら大変だしなあ、病院に入院ってことになるかもかもしれないし…。
 面倒が無くて良かったじゃないか、と言われたアルビノ。今の自分の生まれつきの色。
「本物のぼくは、アルビノなわけ…? 前のぼくが最初に持ってた方の色じゃなくって…?」
 いくら鏡を覗いてみたって、重ならないとは思っていたんだけれど…。
 金色の髪も、水色の瞳も、ちっともぼくらしい感じがしなくて…。別人みたい、って。
 アルビノの方が本物だったら、重ならなくても不思議じゃないよね。こっちが本物なんだから。前のぼくがちょっぴり持っていた色は、成人検査で消えちゃったし…。
 あっちが仮の姿なのかな、と首を捻った。「本物のぼくは、ホントはアルビノ?」と。
「アルビノの方が本物なんだと思うがな? でなきゃ、あの色にはならんだろう」
 ミュウに変化すると色素を失くすと言うんだったら、シャングリラはアルビノばかりになるぞ?
 俺もアルビノなら、ゼルやブラウもアルビノだ。あの船の仲間はみんなミュウだし…。
 爆発的な変化でアルビノになると仮定したって、それだとジョミーが当てはまらない。あいつは前のお前以上に、凄いサイオンを爆発させてミュウになったが…。
 アルビノになっちゃいないだろうが、ジョミーと言えば金髪だ。緑の瞳も健在だったぞ。
 前のお前しかいなかったよなあ、アルビノのミュウは。…それが「本物」だという証拠だ。あの姿こそが、本物の前のお前の姿だってな。
 銀色の髪に赤い瞳のアルビノのお前、とハーレイが押した太鼓判。「あれがお前だ」と。
「うーん…。今のぼく、本物の色を失くしたわけじゃなくって、最初から本物だったわけ…?」
 前のぼくが違う姿をしていただけなの、ミュウになる前の間だけ…?
 記憶はちっとも残ってないけど、人類の世界で育てられてた十四年間だけが違う姿で…。
「俺はそうだと思ってるんだが? 今のお前が本物の姿をしているんだと」
 生まれつきのアルビノで、不器用なサイオンでも弱点をカバー出来てるお前。前の俺が知ってた頃のお前と、そっくり同じ色を持ったお前がな。
 第一、今のお前がだ…。金色の髪と水色の瞳に生まれていたら。
 名前は「ブルー」になっていたのか、今のお前は前と同じで「ブルー」なんだが…?



 其処の所はどうなるんだ、と投げられた問い。「お前の名前はブルーだったか?」と。
「今のお前が持ってる名前は、アルビノだった前のお前の名前なんだが…」
 同じアルビノの子供だから、と付けて貰った名前らしいが、そいつはどうなる?
 ちゃんと「ブルー」になっていたのか、という質問。金色の髪と水色の瞳に生まれていても。
「どうだろう…?」
 そっちでもブルーになっていたかな、瞳の色が水色だから…。水色も青の内だしね。
 前のぼくだって、名前は「ブルー」だったもの。きっと水色の瞳からだよ、育ててくれたパパとママが名付けたんだと思う。…前のぼくが忘れてしまった人たち。
 今は本物のパパとママだけど、ぼくの名前はどうなったのかな…?
 アルビノに生まれていなかったなら…、と考えてみた。金色の髪と水色の瞳だったら、どういう名前が付いたのだろう。両親は何と名付けただろう…?
 アルビノではない子供だったら、きっと「ソルジャー・ブルー」の名前を貰いはしない。いくら英雄の名前とはいえ、まるで似ていない子供では。
(身体が弱いのも分かってたんだし、英雄の名前なんか思い付かないよ…)
 それでも「ブルー」と名付けたとしたら、瞳の色の水色から。
 けれど両親は、別の名前を選んだ可能性もある。瞳の水色にはこだわらないで、自分たちの子に相応しい名前をあれこれ考えて。幾つも幾つも、候補を挙げて。
(アルビノだったから、直ぐにブルーに決まったけれど…)
 何日も色々考えた末に、違う名前にしそうな両親。咄嗟には例を思い付かないけれど。
 そうなったかも、と考えていたら、「ブルーの名前は貰えそうか?」とハーレイに尋ねられた。
「どうだ、金髪に水色の瞳のお前だった時も、お前は「ブルー」になれそうなのか?」
 俺が思うに、かなり難しそうなんだが…。
 アルビノのお前が生まれて来たなら、迷わずに「ブルー」だっただろうがな。
 誰だって最初に連想するぞ、と言われたソルジャー・ブルーの名前。両親もそうだったお蔭で、今の自分の名前はブルー。でも…。
「…金髪に水色の瞳だったら、違う名前になっちゃいそう…」
 水色の瞳で、ブルーにするかもしれないけれど…。前のぼくは多分、そうなんだけど…。
 今のぼくだと、パパとママが違う名前にしそう。二人で色々、素敵な名前を考えて…。



 両親が可愛い一人息子のために選んだ、今の自分に似合いの名前。ソルジャー・ブルーの名前を貰う代わりに、水色の瞳に因んで「ブルー」と付ける代わりに。
 幼い頃から呼ばれていたなら、その名前で馴染んでいそうだけれど。「ブルー」とは違う名前になっても、それが自分の名前だと思っていそうだけれど。
「…ぼくの名前、違うのになってたら…。それって困るよ、ブルーじゃない、ぼく…」
 記憶が戻ってくる前だったら、少しも困らないけれど…。どんな名前でも、好きなんだけど。
 前のぼくが誰だったのかを思い出した後に、違う名前で呼ばれちゃったら…。
 ハーレイにもそっちで呼ばれるんだよね、と途惑うしかない、「ブルー」とは違っている名前。家はともかく、学校でハーレイに呼ばれる時には、別の名前になるのだから。
「俺も困ってしまうぞ、うん。…違う名前のお前だなんて」
 お前の家なら、お母さんたちも事情を知っているから、ブルーと呼んでいいんだろうが…。
 学校で混乱してしまいそうだ、授業中でも、それ以外の場所で会った時でも。
 いつも学校でお前がやってる、「ハーレイ先生」どころじゃないぞ。お前は「先生」と付けさえすればいいわけなんだし、「ハーレイ……先生?」と間が空いても問題ないが…。
 俺の場合は、全く違う名前でお前を呼ばんといかん。間違っても「ブルー」と言えやしなくて。
 お前は「ブルー」じゃないんだからなあ、他に立派な名前があって。
 先生たちもお前の友達もみんな、そっちの名前に慣れているんだから、とハーレイが振っている頭。「ウッカリ呼び間違えちまった時には、俺が注目されちまう」と。
「ホントだね…。誰と間違えてるんだろう、って思われるだけならいいけれど…」
 何度も間違えて呼んだりしてたら、ぼくとハーレイの正体がバレてしまうかも…。
 ハーレイは見た目がキャプテン・ハーレイだし、ぼくの方だって、アルビノに変わっちゃったりしていたら。…前のぼくだった頃とそっくり同じに、色素を失くしてアルビノだったら…。
 そうなっちゃっても、「渾名なんだ」って、誤魔化すことは出来るかもしれないけれど…。
 ハーレイはキャプテン・ハーレイにそっくりなんだし、ぼくはアルビノなんだから…。
 「ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイごっこで付けたんだ」って、誤魔化して渾名。
 なんとか誤魔化せそうだけれども、ハーレイ、ちょっぴり子供っぽいかも…。
 ぼくの家で「ブルー」って呼んで遊んでいるならいいけど、学校でも渾名で呼ぶなんて。
 廊下とかで会った時ならいいけど、授業中に渾名は、みんなに笑われそうだよね…?



 渾名で呼ばれる子もいるけれど、とクスクス笑った。クラスのムードメーカーなんかは、名簿の名前で呼ばれる代わりに渾名のことも多いから。…茶目っ気の多い先生ならば。
 ハーレイも渾名を使うけれども、「ソルジャー・ブルーごっこ」の名前はどうかと思う。学校で呼ぶべき名前ではなくて、聖痕を持った自分の守り役の時に使う名前だから。
「まったくだ。…俺がお前を「ブルー」と呼んだら、「また間違えた」と生徒が笑うぞ」
 俺の威厳が台無しだよなあ、何度も間違えちまっていたら。
 しかし俺には、お前は「ブルー」なんだから…。切り替えようとしても難しいだろう。
 そうならないよう、神様は色々と考えた上で、今のお前に本当の姿を最初から下さったんだ。
 アルビノの子だから「ブルー」になるよう、途中で色素を失くしてしまって困らないように。
 もっとも、お前が金色の髪と水色の瞳に未練があるなら、いつか髪の毛を染めてもいいが。
 銀色だから綺麗に染まる筈だぞ、というハーレイの案。今の学校の生徒の間は無理だけれども、卒業してハーレイと暮らし始めたら、髪を染めてもいいらしい。前の自分が持っていた色に。
「金髪に染めるの? 瞳の色は…?」
 赤いままだと、前のぼくの色にならないんだけど…。水色でなくちゃ。
「色がついてるレンズを入れれば水色になるぞ。そうしてみたいか?」
 前のお前の瞳の水色、レンズで再現できそうだがな…?
 そういう色を持ってた頃より、大きく育っちまっているが、とハーレイが持ち出した、瞳の色を変えられるレンズ。今の赤から、前の自分が持っていたあの水色に。
「えーっと…。別人になってしまいそうだけど、ちょっと興味はあるかな、それ…」
 今のぼくが知らない色をしたぼく、と瞳を輝かせた。今の自分はその色を持っていないから。
「そういうお前とデートするのも楽しそうだな、前の俺が知らない色だしなあ…」
 その色を持った前のお前に、直接会ってはいないから。…その色を知っているってだけで。
 機会があったらやってみるか、とハーレイが笑顔を向けてくれるから、いつかやってみようか。
 髪を金色に染めて、水色の瞳になるレンズ。そういう色になって、「ねえ、似合う?」と。
 銀色の髪に赤い瞳の今の姿も好きだけれども、ソルジャー・ブルーではない自分。
 前の自分とは違った色をした、「似ていない自分」になってみるのも悪くない。
 金色の髪と水色の瞳に姿を変えた自分になっても、ハーレイなら好きでいてくれるから。
 「今日は別人のお前とデートなんだな」と、おどけた顔で腕を差し出してくれそうだから…。



            違っていた色・了


※今のブルーは生まれた時からアルビノですけど、前のブルーは、元は金髪で水色の瞳。
 今度もその色を持っていたなら、事情が色々、違っていたかもしれません。聖痕で変化とか。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv












Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]