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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ママ、お土産だ」
 ただいま、と帰って来た父の手に薔薇の花束。真紅の薔薇が何本くらいあるのだろうか。それは大きな、リボンまでついた立派な花束を抱えている父。子供のように楽しそうな笑顔で。
 ブルーもたまたま部屋から下りて来た所だったから、何事なのかとビックリしたけれど。
 母の方はもっと驚いたようで、目をパチパチと瞬かせて。
「…今日は記念日だったかしら?」
 ごめんなさい、私、忘れているかも…。ごくごく普通の夕食なのよ、今日も。
「記念日っていう感じだろう?」
 ほら、と父が手渡した薔薇の花束。両手で受け取った母は途惑いながら。
「何の日だったの、本当に思い出せないんだけれど…」
 こんなに素敵な花束を貰う資格が無いわね、私ったら。だって、忘れているんだもの。
「いや、記念日っぽいというだけでだな…」
 そういった風に束ねて貰って、リボン付きでと頼んだんだ。記念日じゃないさ。
 帰りに花屋が目に付いたからな、たまにはプレゼントもいいだろうと…。
 いつもママには世話になっているし、料理だって、うんと美味しいからな。
「あらまあ…。それで花束のお土産なの?」
 凄く大きいわよ、この花束。三十本どころではないでしょ、薔薇。
「安かったからな」
 仕入れすぎたのか、たまたま安い時期だったのか…。
 店の表に書いてあったのさ、特売だって。それで入って買ったってわけだ。
 買わなきゃ損ってモンだろう。どの薔薇も安かったんだから。



 本当に薔薇が特売だったかどうか、それは父にしか分からないけれど。
 プレゼントして驚かせようと定価で買って帰ったのかもしれないけれども、笑っている父。特売だったから豪華に五十本だと、同じ薔薇なら華やかな真紅がいいだろうと。
 大喜びで花束を抱え、香りをたっぷり吸い込んだ後はリボンを解いて生けてゆく母。
 薔薇たちが映える大きな花瓶に手際よく入れて、飾ったリビング。ダイニングの大きなテーブルにも一輪、特に美しく見えそうなものを選び出して。
「記念日でもないのに花束だなんて、嬉しいものね。ありがとう」
 これだけ沢山貰ってしまうと、今日は特別って気分になるわ。まるでお姫様になったみたいよ。
「そうだろう?」
 だから買ったのさ、日頃の感謝の気持ちをこめて。
 安売りっていうのに気付いたからには、ドカンと買って帰らないとな。うんと豪華に。



 薔薇が一輪あるというだけで、いつもより華やかだった夕食のテーブル。
 ハーレイの姿は無かったけれども、笑顔が溢れていた食卓。
 少女のようにはしゃいでいた母、父もサプライズが上手く行ったと満足そうに薔薇を見ていた。テーブルに飾られた真紅の薔薇を。
 ダイニングのテーブルには、母が育てた薔薇が飾られる日もあるけれど。庭の花たちもハサミで切られて生けられるけれど、あれだけの花束の中から選ばれた薔薇は特別に見える。
 今、地上にある真紅の薔薇たちの女王。それがテーブルに誇らかに咲いているかのように。
(…パパ、凄いのを買って来たよね…)
 五十本の薔薇の花束なんて、とパチクリと何度もした瞬き。記念日でもないのに特大の花束。
 薔薇の香りはリビングに満ちて、ダイニングに飾られた一輪からも漂っていて。
 家の空気までが薔薇の香りに染まったかのようで、それは素敵な父の贈り物。五十本の薔薇。
 母が庭で育てている薔薇たちでは、あそこまで惜しげもなくは切れない。そんなに沢山の薔薇を切ったら、庭に一輪も残らないから。残ったとしても、哀れな姿になるだろう薔薇の木。
 庭に薔薇の花が咲いていたって、特別すぎるプレゼント。
 艶やかに部屋を彩る薔薇たち、漂う香りと、喜ぶ母と。



 夕食の後は部屋でのんびりしてから、入ったお風呂。パジャマに着替えてベッドの端っこに腰を下ろしたら、また思い出した薔薇の花束。「お土産だ」と母に渡していた父。香り高かった真紅の薔薇たち、見事な薔薇が五十本も。
(流石に二階までは…)
 あの薔薇たちの匂いも届かないかな、と思ったけれど。薔薇の香りを含んだ空気は一階だけかと考えたけれど、気付いた間違い。
 両親の部屋にも一輪飾ってあるのだった。母が嬉しそうに運んで行っていた、「これはお部屋に飾っておくわね」と。両親の部屋の扉を開けたら、薔薇の香りがするのだろう。部屋の何処かに、真紅の薔薇。五十本の中から選ばれた薔薇。



(あれだけあったら…)
 上手に分ければ、家のあちこちに飾れるだろう。
 リビングの花瓶にドッサリ生けても、他にも幾つもの使い道。ダイニングのテーブルと、両親の部屋に一輪ずつ飾ってあるように。一輪ずつでも華やかな薔薇。
(…ぼくの部屋には無いけどね?)
 その気になったら貰えただろうに、欲しいかどうかも訊かれなかった。薔薇は沢山あったのに。
 欲しかったとも、残念だとも思いはしないけれども、仲間外れになってしまった。この部屋には薔薇が一輪も無くて、薔薇の香りも漂いはしない。
(…子供だし、それに男の子だし…)
 多分、普通は訊かないと思う。「薔薇の花、部屋に持って行く?」とは。
 それに欲しがりもしないだろう。男の子の場合は、薔薇の花など。
(ピアノとかの発表会に出て、貰ったとしても…)
 興味など無いのが男の子だろう、貰った花束の中身には。薔薇であろうと、他の花だろうと。
 花束を貰って得意満面でも、たったそれだけ。花の香りや美しさよりも、鼻高々な気分が大切。花束を抱えて記念写真を撮った後には、母親に生けて貰っておしまい。
 花束の形を失った花は、男の子の目を楽しませたりはしないだろう。美しく香り高く咲こうが、部屋を豊かに彩ろうが。
 花瓶に花があるというだけ、男の子にとっては、それだけのこと。
 チラリと眺めることはあっても、花よりも遊びや食べることに夢中。花束を貰った時の嬉しさは覚えていたって、中身の花にはもはや見向きもしないのだろう。



 すっかり忘れ去られていそうな、花束だった花たちの末路。元は花束だった花たち。
(ぼくが貰っても、そうなっちゃいそう…)
 習い事は何もしていないけれど、もしも発表会などに出掛けて、貰ったとしたら。バイオリンやピアノや、フルートなどの発表会。上手く出来たと、見に来てくれた人に花束を貰ったら。
 きっとそうだ、と思ったけれど。
 花束を貰う値打ちが無いのが今の自分で、そのせいで薔薇も部屋に一輪も無いのだけれど。
(パパのお土産…)
 自分の部屋にも充分飾れる量の花束、五十本もの真紅の薔薇。それを抱えて帰って来た父。
 花束を貰って、「記念日だったかしら」と尋ねていた母。記念日には花束がつきものだから。
 早い話が、誕生日や何かの記念日だったら…。
(花束、貰えるものなんだよね?)
 今はまだ貰う値打ちも無さそうな子供だけれども、いつか大きくなったなら。
 ハーレイと結婚して二人で暮らし始めたならば、きっと貰えることだろう。
 母が父から貰っているように、誕生日や記念日の度に花束。
 その頃には値打ちも分かる筈だし、大喜びで部屋に飾るのだろう。幾つもに分けて、リビングや他の部屋などに。薔薇でなくても、どんな花でも。



 待ち遠しいと思えてしまう、自分が花束を貰える日。ハーレイが花束を贈ってくれる日。仕事の帰りに買って帰って、「ほら」と渡してくれるのだろう日。
 誕生日や何かの記念日の度に。薔薇はもちろん、ハーレイが贈りたいと思ってくれた花を幾つも束ねた花束。
(前のぼくは花束、貰ってないけど…)
 ハーレイとは長く一緒に暮らしていたのに、恋人同士だったのに、ただの一度も。
 それにハーレイ以外の誰かも、花束をくれはしなかった。ただの一つも。
 前の自分が贈られた花は、子供たちに貰った白いクローバーを編んだ花冠だけ。シャングリラの公園に咲いたクローバー、それを集めて編まれた冠。
 花冠は幾つも貰ったけれども、他には貰わなかった花。誰からも贈られなかった花束。
 白いシャングリラでは誰もが敬意を表したソルジャー。
 なのに花束を貰ってはいない、恋人だったハーレイからも、仲間たちからも。



(エーデルワイスは…)
 白い鯨に咲いていた、純白のエーデルワイス。子供たちに高山植物を教えるためにとヒルマンが作ったロックガーデン、其処で開いた「高貴な白」の名前を持つ花。
 皆が摘むことを禁じられたそれを、ソルジャーだけは「摘んでもいい」と言われたけれど。
 青の間に飾るために摘んで帰ってもいいと許可されたけれど、プレゼントしては貰っていない。ただの一輪も、あの船にいた誰からも。
(前のぼく、断っちゃったしね?)
 ソルジャーだからと、特別扱いされたいとは思っていなかったから。
 仲間たちが摘むことの出来ないエーデルワイスを、青の間にだけ飾るつもりも無かったから。
 自ら摘むことを断った以上、贈ってくれる者もいないだろう。ソルジャーの部屋に飾るためにと手折ってまでは。



 それに、シャングリラと呼ばれていた船。ミュウの箱舟だった船。
 白い鯨になった後には、花の絶えない船だったけれど。
 ブリッジの見える大きな公園も、居住区に鏤められていた憩いの場所にも、様々な草花や木々の花たちが幾つも咲いていたのだけれど。
(あの花、切って来て、船のあちこちに…)
 飾られていたのだった、皆の心を和ませるために。休憩室やら、多くの仲間が訪れる部屋に。
 墓碑公園の白い墓碑にも、花はいつでも手向けられていた。きちんと花輪に編まれたものやら、訪れた仲間が摘んで来た花が。
 そんな具合に、白いシャングリラから花が消えることは一度も無かったけれど。
(…でも、花屋さんは無かったんだよ…)
 通貨や店が存在しなかったことを抜きにしたって、花屋は作れなかっただろう。あの船で暮らす誰もが毎日、好きなだけの花を買って帰れはしなかったろう。
 花の絶えない船といえども、それほどの量の花は無かった。思い付いた時に、欲しいだけの花を個人が抱えて部屋に帰れはしなかった船。
 今の自分の父が「土産だ」と買って来たような五十本の薔薇など、皆が欲しがっても揃わない。一人分なら揃ったとしても、皆の分にはとても足りない。シャングリラ中の薔薇を切ったって。
 花はあっても、数に限りがあった船。皆が好きなだけ花を貰えはしなかった船。
 それを誰もが分かっていたから、白いシャングリラに花束を贈る習慣などは無かった。
 記念日を祝うための花束も、個人的なプレゼントとしての花束も、何も。



 父が薔薇の花を買って来た店。「安かったから」と、母への土産に真紅の薔薇を五十本も。
 仕事の帰りにフラリと立ち寄り、父は抱えて帰ったけれど。
(…シャングリラからは縁の遠いお店?)
 父が寄った、花屋という店は。好きなだけの花をドンと買い込み、花束を作って貰える店は。
 花はあっても、花屋は無理だったシャングリラ。それだけの花が揃わなかった白い船。
 美しい花たちの姿や香りは皆の心を和ませたけれど、生きてゆくのに欠かせないというものとは違う。花が無くても死にはしないし、飢えに苦しむことだって無い。
 あれば心を潤すけれども、無いからといって乾いて死んでしまいもしない。白い鯨になるよりも前は、花が何処にでもあるような船ではなかったのだから。
 生活に欠かせないものではないから、けして大量には無かった花。皆の癒しになる分だけ。
(花の係だって…)
 公園を手入れしていた者たちだけで、花を飾ることを専門にしていた係は一人もいなかった。
 シャングリラに飾られていた花の係は、公園担当の者たちが兼ねて、その時々に盛りの花たちを幾つか切っては飾っていただけ。自分が担当していた場所に。
 皆が愛でる花さえ、そうだったから。専門の係が必要なかった船だから。
 個人用の花など用立てられる船ではなかった、贈り物用の花束などは。
 五十本もの真紅の薔薇の花束を個人用にと作れはしなくて、他の花でも事情は同じ。一人分なら工面出来ても、全員の分は無理だった船。花屋など開けるわけがなかったシャングリラ。



(…それでハーレイも…)
 花を贈ってくれなかったのだろうか、前の自分に?
 抱えるほどの大きな花束はもちろん、ほんの一輪の花さえも。
 前の自分は何も貰っていないから。ただの一度も、前のハーレイから花を貰ってはいないから。
(ハーレイ、薔薇が似合わないって言われていたけれど…)
 薔薇の花が似合わないと評判だったハーレイだけれど、贈る方なら何も問題は無かっただろう。真紅の薔薇を手にして歩いていたって、プレゼントならば誰も笑いはしなかっただろう。
(…恋人にプレゼントするんだってバレたら、大変だけど…)
 ソルジャーの部屋に飾るためだと言ったら、誰もが納得していたと思う。
 前の自分は「青の間に飾る花が欲しい」と一度も頼みはしなかったのだし、無欲なソルジャー。皆が摘めなかったエーデルワイスを飾ってもいいと許可が下りても、摘まなかったほど。
 そんなソルジャーの部屋に花をと、キャプテン自ら用意していても、誰も疑いはしないだろう。却ってハーレイを褒めたかもしれない、「キャプテンだけあって気が回る」と。皆の気持ちを良く知っていると、ソルジャーの部屋には是非とも花を、と。



 ソルジャー用だと言いさえすれば、係の者たちが張り切って揃えそうな花。
 「そこの薔薇を一つ」と頼んだとしても、きっと一輪では終わらない。「また咲きますから」と幾つも切って渡しただろう。五十本は無理でも、五本くらいなら。
 五本渡して、係はハーレイに「他の公園へもどうぞ」と言ったかもしれない。薔薇が咲いている公園を挙げて、もっと多くの薔薇が揃うと。
 白いシャングリラを端から回れば、五十本の薔薇も夢ではなかった。時期さえ良ければ、真紅の薔薇を五十本揃えることだって。
 個人用には無理なものでも、ソルジャーの部屋に飾るためなら。
 けれども、ハーレイは一度もくれなかった花。五十本の薔薇を贈るどころか、ただの一輪も。
 花屋が無かったシャングリラ。そのせいだろうか、仲間たちが花を贈り合ってはいなかった船で暮らしていたから、花を貰えなかったのだろうか?
(…それで貰えなかったわけ?)
 白いシャングリラには花屋など無くて、花束を贈り合う恋人たちがいなかったから。
 彼らが花を贈れないのに、ソルジャーとキャプテンという立場にいるのをいいことにして、花を贈ってはマズイと思っていたのだろうか、ハーレイは?
 その気になったら、真紅の薔薇を五十本でも、ハーレイは用意出来ただろうに。
(…やっぱり、ハーレイ、気を遣ってた…?)
 白いシャングリラの仲間たちに。恋人に花を贈りたくても、花屋が無かった船の仲間に。
 明日、ハーレイに訊いてみようか、そのせいでくれなかったのか。
 薔薇の花束も、エーデルワイスも、ほんの一輪の小さな花も。
 明日はハーレイが来る土曜日だから。午前中から、ずっと二人で過ごせるのだから。



 一晩眠っても、忘れなかった花のこと。前の自分が貰い損ねた、ハーレイからの花の贈り物。
 朝食のテーブルで薔薇の花を見たら、ますます気になり始めたから。もう訊かずにはいられない気分、貰えなかった花の贈り物の謎を解きたくてたまらない。
 だからハーレイが訪ねて来るなり、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「…あのね、ハーレイが花をくれなかったの、花屋さんが無かったから?」
 そのせいだったの、ぼくにプレゼントしてくれなかったのは?
「はあ? 花って…」
 なんでお前に花を贈らなきゃいかんのだ。菓子ならともかく、花はないだろう。
「今のハーレイじゃなくて、前のハーレイだよ」
 ぼくに一度も花を贈ってくれなかったよ、花束も、花を一本とかも。
 ちゃんと恋人同士だったのに、ハーレイは一度も花を贈ってくれなかったから…。
 シャングリラには花屋さんが無かったせいなのかな、って。
 他の仲間たちは花のプレゼントを贈れないのに、ソルジャーだから、って特別扱いは出来ないと思っていたのかな、って…。
 記念日とかには花を贈るでしょ、恋人に。…そういう花のプレゼントを一度も貰ってないよ。
「おいおい、記念日って…。分かってるのか、前の俺たちには無かったぞ」
 記憶をすっかり失くしちまって、誕生日は覚えちゃいなかった。つまり誕生日は存在しない。
 ついでに結婚記念日も無いな、前の俺たちは結婚出来ずに終わったんだから。
「…そうだけど…。記念日、確かに無かったけれど…」
 そのせいで花をくれなかったの、前のハーレイは?
 花を贈れない仲間たちに遠慮したんじゃなくって、ぼくたちに記念日が無かったから…?
「いや、思い付きさえしなかった」
 前のお前に、花をプレゼントするってことをな。
 思い付いていたなら、仲間たちに遠慮はしてないぞ。
 …誰にも言えない秘密の恋人同士だったんだ。だったら、そいつを利用したっていいだろう。
 ソルジャーの部屋に飾るためにと、キャプテンの権限で花を集めるくらいはな。



 前の俺なら実行したぞ、とハーレイは大真面目な顔だから。その顔からして、本当に前の自分に贈るための花をかき集めたのに違いないから。
「…ハーレイが思い付かなかったの、やっぱり花屋さんが無かったせい?」
 花束を買えるお店が無かったせいなの、それで花束を用意しようと思わなかったの?
 …花束もそうだし、花だって。
 売ってるお店が何処にも無いから、花束も花も思い付かないままだった…?
「花屋が無かったからと言うより、問題は習慣ってヤツの方だな」
 シャングリラには全く無かっただろうが、花を贈るという習慣が。
 白い鯨になるよりも前は、花は殆ど無かった船だぞ。まるで無かったとは言わないが…。
 あの船にだって、少しくらいは花が咲く植物もあったわけだが、それだけのことだ。
 その上、記憶をすっかり失くしていたのが俺たちだったし、花を贈ろうという発想が無い。
 記念日だろうが、なんであろうが、プレゼントに花だと思わないんだな。
 そんな俺たちが白い鯨を手に入れたって、花を贈ろうと思い付くか?
 元々無かった習慣なんだし、花が手に入る時代になっても、花は花でしかないってな。
「…そういえば、ぼくもフィシスには…」
 お菓子なんかを贈りはしたけど、花は一度も…。
「贈ってないだろ?」
 お前がフィシスに贈るんだったら、それこそシャングリラ中の花を集めて贈れたのにな?
 フィシスの部屋が埋もれちまうほどの花をかき集めたって、誰も文句は言わなかった筈だぞ。
「そう思う…。フィシス用なら、ホントにドッサリ集められそう…」
 だけど、思い付きさえしなかったよ、ぼく。
 花の香りの香水は色々と作らせたけれど、花を贈るなんてことは、ちっとも…。
 フィシスも欲しいって言わなかったし、余計だったかもね。
 …きっとフィシスも知らなかったんだね、花の贈り物があるってことを。
 ずっと水槽で育てられてて、機械が教えた知識しか無くて、花は貰っていなかったんだよ…。



 ミュウの女神と呼んだフィシスにも、花を贈りはしなかった自分。
 フィシスは女性だったのに。
 父が「土産だ」と、記念日でなくても薔薇の花束を買って帰った母と同じに女性だったのに。
 そのフィシスさえも花を一度も貰わなかったなら、男だった自分に花などは…。
 花束はもちろん、ほんの一輪の花にしたって、そんな贈り物は…。
「…前のぼく、花のプレゼントを貰えなくって当然だよね…」
 フィシスだって貰っていなかったんだし、男だったぼくが貰えるわけがなかったね…。
 花屋さんがあるとか無いとか、そういう問題以前の問題…。
「そうでもないぞ。…お前が俺から花を貰い損ねちまった件に関しては」
 思い付かなかった俺が悪かったんだ。お前に花を贈るってことを。
 …確かに花をプレゼントするって習慣を持ってはいなかったんだが、チャンスならあった。
 エーデルワイスでも贈れば良かった、前のお前に。
「え?」
 どうしていきなりエーデルワイスが出て来るの?
 薔薇とかじゃなくて、エーデルワイス?
 あれは花束に出来るほどには咲いてなかったよ、株が増えてからも。
 全部摘んでも大きな花束を作れはしないし、他の花の方がいいんじゃないの?
 見栄えだって薔薇の方がずっと上だし、エーデルワイスを贈るよりかは。



 清楚な花ではあったけれども、花束に向くとは思えないのがエーデルワイス。
 他の仲間たちが摘めない花でも、貴重な花でも、花束にするには地味すぎる花。青の間の光には映える白でも、白い花なら他にも色々。香り高い百合の花だって。
 それなのに何故、エーデルワイスの名前が出るのか、本当に不思議だったのだけれど。
「…あの花、お前は何度も眺めに行ってただろうが。また咲いたね、と」
 お前が好きな花だと分かってたんだし、ヒルマンたちだって摘んでもいいと許可を出してた。
 しかし、お前は一度も摘まずに、静かに見ていただけだった。花が咲く度に。
 そんなお前に、「摘んでもいいと思いますが」と何度も声を掛けていたのが俺だ。お前の隣で。
 そう言う代わりに、俺がプレゼントすれば良かったってわけだ、エーデルワイスを。
 ソルジャー用にと摘むんだったら、何の問題も無かったんだから。
 お前があの花を好きだったことは誰でも知ってたんだし、俺が代わりに摘んでいたって、文句は出ない。遠慮しがちなソルジャーだからと、みんな納得しただろう。
 そうやって摘んだエーデルワイスを大急ぎで青の間に運んで行っても、不思議に思うヤツなんかいない。萎れちまう前に届けなければ駄目なんだしなあ、走っていたってかまわんだろうが。
 …俺は届けるべきだったんだ、前のお前にエーデルワイスを。
 花束じゃなくて一本だけでも、前のお前が好きだった花を。
「そっか…。それで、エーデルワイス…」
 そのプレゼント、欲しかったかも…。
 前のハーレイが摘んで来てくれた、エーデルワイスのプレゼント…。



 もしもハーレイから、エーデルワイスを貰っていたら。プレゼントされていたのなら。
 きっと大切な、忘れられない思い出の花になっただろう。
 前の自分がハーレイから貰った、唯一の花の贈り物。
 真紅の薔薇とは比べようもない小さな花でも、一輪だけしか無かったとしても。
 花束にはなっていない花でも、ほんの一輪だけのエーデルワイスでも。
 それが欲しかったと心から思う、今となっては、もう戻れない昔だけれど。白いシャングリラは時の彼方に消えてしまって、エーデルワイスを見ていた前の自分も、もういないけれど。
「…すまん、全く気が付かなくて」
 気が利かないヤツだな、前の俺もな。…お前と何度も見ていたのになあ、エーデルワイス。
 それに、お前はスズランの花束の話も、何度も俺としていたのにな…。
「スズラン?」
 なんなの、スズランの花束って?
 前のぼく、スズランが好きだったっけ…?
「忘れちまったか、シャングリラにあった恋人同士の習慣だ」
 言い出しっぺはヒルマンだったな、シャングリラで最初のスズランが咲いた時だったか。
 SD体制が始まるよりもずうっと昔の地球のフランス、其処では五月一日の花だと。
 恋人同士でスズランの花束を贈り合うんだという話が出て、スズランが増えたら定着したぞ。
 若い連中が摘んでいたんだ、シャングリラに咲いてたスズランをな。
「あったね、そういう花束が…!」
 だけど、ぼくたちが摘めるスズランの花は何処にも無くて…。
 若い恋人たちの分しか無くって、ぼくもハーレイも、スズラン、贈れなかったんだっけ…。



 五月一日に恋人同士で贈り合う花束、スズランを束ねた小さな花束。
 贈りたくても、自分たちの分のスズランを手に入れられなかったから。自分たちの部屋で育てて贈るわけにもいかなかったから、いつか地球で、と約束し合った。
 地球に着いたら、スズランの花束を贈り合おうと。
 前の自分はハーレイのために探すつもりだった、森に咲く希少なスズランを。ヒルマンに聞いた森のスズラン、栽培されたものより香りが高いという花を。
 そんな夢まで見せてくれたのが、若い恋人たちが贈り合っていたスズランの小さな花束。可憐なスズランを摘んで纏めた、小さな小さな白い花束。
 あれがシャングリラにあった、たった一つだけの花の贈り物だったのだろうか?
 花を贈る習慣が無かった白いシャングリラで、スズランだけが贈り物にされていたろうか?
 恋人たちが想いを託した小さな花束、五月一日のスズランだけが。
 公園で摘まれて贈り合われた、小さな小さな花束だけが…。



 スズランの他にもあっただろうか、とハーレイに尋ねてみたけれど。
 花の贈り物は白いシャングリラにもっと幾つもあっただろうか、と訊いたのだけれど。
「どうだかなあ…。アルタミラからの脱出組には、スズランも関係なかったからな」
 誰も摘んではいなかった筈だぞ、若いヤツらがやってただけだ。
 花を贈ろうって発想自体が無かった世代が俺たちなだけに、その後から来た習慣となると…。
 馴染みが薄くて忘れちまった可能性もあるな、あったとしても。
 だから他にもあるかもしれん。…特別な時にはコレだった、っていう花の贈り物がな。
「うん…。あったのかもしれないね」
 ぼくはスズラン、忘れちゃっていたし…。
 今のぼくになってからも思い出したのに、すっかり忘れてしまっていたし…。
 ハーレイもぼくも忘れてしまった花の贈り物、スズランの他にもあったのかもね。
「こればっかりは、今はなんとも分からないんだが…。無いとも言い切れないってことだな」
 それでだ、お前、スズランの花束か、薔薇とかの花束か、どっちがいい?
「えっ、どっちって…?」
 どういう意味なの、どっちがいい、って?
「選ばせてやると言っているんだ、今は花屋があるからな」
 スズランも買えるし、薔薇だってドカンと買える時代だということだ。
 どっちがいいんだ、いずれお前の好きな方を買ってプレゼントしてやるが…?
「んーと…。くれるんだったら、両方がいいな」
 スズランの花束は特別なんだし、五月一日には買って欲しいよ。
 だけど、薔薇とかの花束も欲しいんだもの。…両方がいいな、スズランも薔薇も。
 ママがパパから貰ってたんだよ、記念日でもないのに薔薇の花束。
 綺麗な赤い薔薇の花をね、五十本も買って貰っていたから…。
 その花束のせいで気が付いたんだよ、前のぼくは花を貰ってないって。
 だからいつかは買って欲しいよ、スズランも、薔薇とかの花束も…。



 記念日にはプレゼントして欲しいな、と強請ったら。
 スズランの花束の他にも花束のプレゼントが欲しい、と欲張りなお願いをしたら。
「そりゃまあ、なあ?」
 選ばせてやると言いはしたがだ、お前は俺の嫁さんになるって勘定で…。
 嫁さんとなれば記念日に花束をプレゼントするのは当然だな、うん。
 …プロポーズの時にも贈ってやろうか、デカい花束。
 五十本どころか、百本の薔薇の花束ってヤツを。
「百本も…?」
 ぼく、男なのに、薔薇を百本も贈ってくれるの、プロポーズの時に?
 そんなに沢山貰っちゃったら、どんな顔をして持って帰るの、この家まで…?
 ハーレイが車で送ってくれるのは分かっているけど、それまでの間。
 大きな薔薇の花束を抱えてレストランの中とか、町の中とかを歩いて行くわけ…?
 なんだか、とっても恥ずかしいんだけど…。
「ふうむ…。だが、欲しそうな顔をしてるぞ、お前」
 茹でダコみたいに真っ赤になろうが、それでも持って歩きたいって顔。
 百本の薔薇を抱えて幸せ一杯で、俺と並んで歩きたい、ってな。
「分かっちゃった…?」
 恥ずかしいのは本当だけれど、ハーレイからなら欲しいんだよ。
 前のぼくが貰い損なった分まで、うんと大きな薔薇の花束。スズランの花束も欲しいけど…。
「よし、任せておけ」
 五月一日になったらスズラン、記念日には薔薇とかの花束だな?
 でもって、プロポーズの時には、お前が幸せ自慢をしながら歩ける花束。
 貰いました、って真っ赤な顔して、それでも得意満面になれる百本の薔薇の花束がいい、と。
 気が変わったら言うんだぞ?
 もっと薔薇の数を増やして欲しいとか、薔薇よりも他の花が欲しい気分になっただとかな。



 望み通りの花束を贈ってプロポーズしよう、とハーレイが片目を瞑るから。
 いつかは貰えるらしい花束、スズランの花束も、大きな薔薇の花束も。
 前の自分は花の贈り物をハーレイから貰い損なったけれど、今の自分は貰えるから。
 スズランの花束も、薔薇の花束も貰えるのだから、その日を楽しみにしていよう。
 同じ家で暮らせるようになったら、記念日でなくても、きっとハーレイなら花束をくれる。
 昨日の夜に、父が「土産だ」と大きな薔薇の花束を抱えて帰って来たように。
 ハーレイもきっと、素敵なプレゼントをくれる。
 それを貰ったら、二人でゆっくり過ごす部屋の花瓶にたっぷりと生けて、他の部屋にも。
 寝室にも、ダイニングのテーブルの上にも、ハーレイに貰った花を飾ろう。
 前の自分は貰い損ねた花だけれども、今はいくらでも花を贈って貰えるから。
 沢山の花が花屋に溢れる、青い地球の上に来たのだから。
 最初に二人で暮らす家に飾る、幸せな花はなんだろう?
 ハーレイが抱えて帰って来てくれる花の束。
 立派な薔薇の花束を貰っても、スズランの小さな花の束でも、きっと嬉しい。
 ハーレイがくれる花ならば。
 前の自分が貰い損ねた、花のプレゼントを貰えるのなら…。




             花の贈り物・了

※シャングリラには無かった「花を贈る」という習慣。あったのはスズランの花束だけ。
 そのスズランも贈り合えなかった二人ですけど、今度はハーレイから花束が、いつの日か…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











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(余っちまったな…)
 こいつだけが、とハーレイが袋から出したハンバーガー。
 ブルーの家には寄れなかった日、家に帰って。着替えを済ませて、ダイニングのテーブルの上にポンと置いてあった袋の中から。きちんと包装されたハンバーガーが一つ。特に変わった中身ではなくて、ごくごく普通のハンバーガー。
 学校に行けば、授業の前に柔道部の朝練の指導がある。走り込みなどに自分も付き合って身体を動かす、そういう方針。指導する者がのんびり見ているだけでは、部員たちも力が入らないから。
(それに、俺だって身体を動かしたいしな?)
 早く起きた日は出掛ける前に軽くジョギングするほどの運動好き。逃したくない、自分も身体を動かせるチャンス。放課後は柔道部を本格的に指導するから、運動の量は毎日、充分。
 会議で柔道部に行けそうにない日は、朝から存分に動いておく。
 だから帰りにブルーの家へ出掛けて行っても、運動不足になったりしないし、なまらない身体。ジムに出掛けて泳いだりして、常に鍛えてある身体。



 朝からキビキビ運動する上、放課後も身体を動かす毎日。昼食だけでは腹が減るから、と出勤の途中で買ってゆくパン。近所の馴染みのパン屋で買ったり、食料品店で買ってみたりと。
 その日の気分でサンドイッチや、調理パンなど色々なパン。新作があったら買い込むけれども、特に定番があるわけでもない。好き嫌いが無いから、どんなパンでも食べられる。
 今日は柔道部の教え子たちにも御馳走しようと多めに買った。放課後の方のクラブ活動、それを途中で抜けなければならないと分かっていたから。一時間ほど経った所で、会議のために。
 最後まで指導してやれない詫びだ、と差し入れに買って行ったのに。部員たちの頭数を勘定して買ってやったのに…。
(今日に限って、休みやがって…)
 家の都合ということだけれど、きっとサボリだと踏んでいる。
 三人も足りなかったから。部活以外で見掛けた時にも、いつも一緒にいる仲良し組が。
(怒りはしないが…)
 遊びたい盛りの年頃なのだし、出掛けたくなる日もあるだろう。それに練習をサボって損をしたことにも気付かないのが彼らの年齢。重ねた稽古の分だけ力がつくと知るには、まだ早い。
 サボリで損をしているのは彼ら、だから自分は怒りはしない。いずれ自分で気付くがいいと。



 咎める気持ちは起こらないけれど、「余っちまったじゃないか」と眺めるハンバーガー。袋から出されて、テーブルの上にポツンと一個。
 差し入れに持って行った幾つものパン、この一個だけが残ってしまった。ハンバーガーは他にもあったものだから、選ばれなかった不運な一個。たまたま手に取って貰えなかっただけ。
(仕方ないがな…)
 食べ盛りの教え子たちが揃ってはいても、元が多めに買ってあったパン。一人で幾つも欲しがる生徒もいるわけなのだし、おかわり用にと。
 そこへ三人も休んだのでは、こうなることもあるだろう。選ばれ損ねたハンバーガー。
 残った理由はハンバーガーのせいなどではない。ほんの偶然、教え子たちの気分でそうなった。もう一個、と思った生徒がハンバーガーを選んでいたなら、他のが残った筈だから。
 あるいは最初にハンバーガーを選ぶ生徒が多かったならば、やはり残っていないから。
 少し不運なハンバーガー。冷めても美味しい、人気の高いものなのに。
(晩飯に食うか…)
 夕食の支度を始める前に、このまま齧ってもいいのだけれど。
 それでは残ったハンバーガーが可哀相だし、きちんと味わってやろうと思った。買ってしまった責任を取って、美味しく食べてやらなければ。
 ちょっとお洒落に皿に載せれば、これも一品になるのだから。

 

 手際よく夕食を作ってテーブルに並べ、ハンバーガーを温め直した。出来立ての風味を出すにはこのくらい、と様子を見ながら。
 温まったそれを皿に盛り付け、椅子に腰掛けて…。
(ナイフとフォークの出番だってな!)
 そうして食べれば、ハンバーガーでも立派な一品。手で持つ代わりにナイフとフォーク。
 たまにこういう洒落た店がある。ハンバーガーを注文したなら、ナイフとフォークを添えて出す店。それを使って切り分けながら食べるのもいいし、食べやすく切って手に持ってもいい。
 マナーにうるさくない店だったら、二つに切ってから齧り付くのもオツなもの。
(いつかはブルーと…)
 そういう店に行くのもいいな、とナイフで切ったハンバーガー。
 今日はフォークを使って食べよう、と手は使わないで頬張っていたら。
 こうして食べれば随分違うと、同じハンバーガーとも思えないな、と笑みを浮かべてフォークで口へと運んでいたら…。



(…ん?)
 あいつと食ったか、と不意に頭を掠めた記憶。
 小さなブルーとハンバーガーを、と。
 いつか行きたいデートではなくて、二人で食べたような気がする。こんな風に、と。
 皿に載せられたハンバーガー。添えられていたナイフとフォークで。
(ハンバーガーを買って行ってはいない筈だが…)
 ブルーへの土産に買ってはいない。わざわざ買って持って行くほど珍しくもないものだから。
 前の自分たちが生きた時代の思い出も無いし、ハンバーガーを土産にする理由が無い。
(土産に持って行かなきゃ出ないぞ、ハンバーガーは)
 料理が得意なブルーの母。ブルーの好物ならばともかく、そんな話を聞いてはいない。大好物で食べたがるなら別だけれども、そうでなければハンバーガーなど出て来ないだろう。
 凝った中身のハンバーガーも多いとはいえ、来客向けではない料理だから。
 それが売り物の専門店にでも行かない限りは、洒落た料理とは呼べない代物。



 だから一度も食べてはいないと思うのだけれど、何故か食べたと記憶がざわめく。
 ブルーと一緒に、ハンバーガーを。
 今と同じにナイフとフォークで、少し気取った食べ方で。
(いったい何処で食べたんだ…?)
 小さなブルーの家で食べてはいないのだったら、可能性があるのはシャングリラ。前のブルーと暮らしていた船、前の自分が舵を握ったシャングリラしか有り得ない。
(しかしだな…)
 シャングリラにはハンバーガーなどは無かった筈で、ナイフとフォーク付きともなれば尚更。
 無い筈の食べ物を皿に盛り付け、ナイフとフォークで食べたことなど…。
(どう考えても、あったわけが…)
 ないじゃないか、と正した勘違い。何かと混同したのだろうと。
 今の自分も三十八年も生きているのだし、積み重ねて来た記憶のどれか。ブルーくらいの年頃の教え子たちと食べに出掛けたとか、そういったものと。
 対外試合の帰りに食事に行くことも少なくないから、ハンバーガーをリクエストされたことでもあるのだろう。豪華版のが食べたいと。
 きっとそうだ、とハンバーガーをナイフで切ろうとした途端。
(違う…!)
 シャングリラだった、と鮮やかに蘇って来た遠い遠い記憶。
 あの船でハンバーガーを食べたと、こうやってナイフとフォークで切って、と。



 忘れ果てていた前の自分の思い出。キャプテン・ハーレイが食べたハンバーガー。
 事の起こりはファーストフードを巡る雑談、白いシャングリラが出来上がってから。自給自足で生きてゆく船、白い鯨の生活が軌道に乗ってから。
 長老と呼ばれたヒルマンたち四人と、前の自分とブルーが集まった会議。終わった後も会議室で雑談していた所からして、定例の会議だったのだろう。
 どうしたわけだか、ファーストフードの話になった。通貨さえも無いシャングリラでは出来ない買い食い、街角で買って食べたりするのがファーストフード。ヒルマンが仕入れて来た知識。
「フィッシュ・アンド・チップス?」
 なんだいそれは、と尋ねたブラウ。名前からして魚のように思えるけれど、と。
「白身魚のフライと、ジャガイモを揚げたものとがセットになっていたようだよ」
 魚は主にタラだったらしい、と答えたヒルマン。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球のイギリス、その国の路上で売られていたもの。買うと新聞紙や専用の紙に包んで渡され、熱々のフライを歩きながら、もしくは座って食べた。きちんとした場所に座るのではなく、公園のベンチなどの手軽な場所で。
 早い話が、気の向いた時に、気の向くままに食べていいのがファーストフード。
 小腹が空いたと思ったら買って、その場で食べてもかまわないもの。
 フィッシュ・アンド・チップスが好まれた頃より後の時代は、ハンバーガーが取って代わった。地球の上にあった大抵の国に広がったというハンバーガー。お国柄に合わせて味付けを変えて。



「ハンバーガーねえ…」
 どんな感じの食べ物なんだい、とブラウは興味津々で。
「平たく言えば、専用のパンにハンバーグを挟んだものなんだがね…」
 今の時代もあるようだよ。遠い昔と似たような見た目の、ハンバーガーという食べ物がね。
 人類の世界に行ったならば、と笑ったヒルマン。
 雲海の下のアルテメシアに降りれば売られているだろうと。
 ただし、ハンバーガーを食べる時にはナイフとフォーク。行儀よく皿の上で切って、と。
「ナイフとフォークじゃと?」
 歩きながら食べる話はどうなったんじゃ、と髭を引っ張ったゼル。
 それではテーブルが無いと食べられそうにないし、ファーストフードらしくないんじゃが、と。
「今の時代に合うと思うかね? その食べ方が」
 マザー・システムが許しそうかね、何処でも此処でも、気の向くままに食べることなど。
 社会の秩序とやらが乱れてしまって、良くないと言われそうだがね?
 好きな時に好きな所で食べてもいい社会ならば、成人検査も必要ないんじゃないのかね。社会のルールを叩き込むのがマザー・システムで、我々は弾き出されたのだよ?
「言われてみれば、その通りだねえ…」
 なんでもかんでも、型にはめなきゃ気に入らないのがマザー・システムってヤツだったっけ。
 たかが食べ物のことにしたって、人間が自由にしていい世界はお気に召さない仕組みなんだね。
 あたしは嫌だね、そんな世界は。
 息が詰まるったらありやしないよ、食べる自由も無いだなんてね。



 とんでもないよ、と肩を竦めていたブラウ。
 実際の所は、ハンバーガーを食べる自由が無かったわけではないけれど。食べたくなったら店に行けばいいし、人類たちはハンバーガーの味を充分に満喫出来たのだけれど。
 そうは言っても、ファーストフードだった時代のように何処でも食べていいわけではない。道を歩きながら齧る代わりに、皿に載せられたものをナイフとフォークで行儀よく。
 たまには手に持ってガブリと齧る子供もいるだろうけれど、あくまで店の中でだけ。店の外では出来ない食べ方、マナー違反になってしまうから。



 時代の流れが変えてしまった、ハンバーガーの食べ方なるもの。
 昔と同じに存在するのに、ファーストフードと呼ばれていた頃の面影を失くしたハンバーガー。
 ヒルマンが言うには、SD体制の時代でなくても、食べる作法は時代に合わせて変化した。
 ハンバーガーの話とは違うけれども、皿という食器が普及する前は、人間はパンを皿の代わりに使ったらしい。料理はパンに盛り付けて出され、最後はパンまで食べておしまい。
 ナイフやフォークが無かった時代は、王侯貴族も料理は手づかみ。その食べ方が普通なのだし、マナー違反では決してなかった。後の時代の人間が見たら、信じられないと驚くだけで。あれでも王様なのだろうかと呆れるだけで。
 そんな具合だから、ハンバーガーの食べ方にしても、SD体制に入る前からナイフとフォークで食べる方法はあったという。ファーストフードとは少し違ったハンバーガー。特別な具材を使ったものとか、手で食べるには些か大きすぎたハンバーガーだとか。
 マザー・システムが編み出した食べ方ではない、ナイフとフォーク。
 それに限定されたというだけ、歩きながら自由に食べる代わりに。



 雑談の種だったファーストフードから、ハンバーガーへと変わった話題。
 遠い昔に地球の上で広がり、今も食べられているハンバーガー。食べ方が少々変わった程度で、ハンバーガー自体はさほど変わっていないと言うから。今でも人気らしいから。
「あたしたちも食べていたのかねえ?」
 記憶をすっかり失くしちまって、ハンバーガーって聞いてもピンと来なかったけれど…。
 今も人類が食べてるんなら、あたしたちだって、成人検査の前には食べていたんだろうか…?
「そう思うがね?」
 我々が子供だった頃にもハンバーガーはあった筈だし、きっと食べてもいただろう。残念ながら記憶を失くして、何も覚えていないだけでね。
「ふうむ…。そうなると、一度、ハンバーガーを食べてみたいもんじゃのう…」
 食べた所で、記憶は戻って来ないんじゃろうが…。食べた筈だと聞かされるとのう…。
 どんな味だか気になるわい、とゼルが言い出し、ブラウも食べたそうだったから。
 二人の表情を見ていたブルーが「作れるのかい?」と口を開いた。
「専用のパンと、ハンバーグだと言っていたけれど…。それはシャングリラで作れそうかい?」
 作れるのなら、作ってみるのも悪くはないと思うんだけどね?
 手間がかかるなら、一度きりでもいいだろう。
 ゼルとブラウは食べたいわけだし、この船に来た子供たちには思い出の味になるのだし…。
 作ってみる価値はありそうだけどね、ハンバーガー。



 出来るものなら作ってみよう、と他ならぬソルジャーの提案だから。
 食べたかったゼルとブラウは賛成、ヒルマンもエラも反対を唱えはしなかった。前の自分も。
 何より、子供たちが喜びそうな企画。
 ヒルマンが調べたデータを参考にして厨房のスタッフたちが頑張り、ハンバーガーは完成した。船の仲間たちの数に合わせて、山のような数のハンバーガーが。
 せっかくだからと、普段は青の間で食べるソルジャーまでが一緒の食事。視察よろしく、食堂を見渡せる場所のテーブルに着いて、同席したのは前の自分だけ。
 そうして出されたハンバーガー。今の時代に合わせて皿に載せられ、ナイフとフォークを添えた形で。記憶を失くしていない子供たちには、それがハンバーガーの食べ方だから。



 ハンバーガーを覚えていた子供たちは皆、歓声を上げて喜んだ。シャングリラでハンバーガーを食べられるなんて夢にも思っていなかった、と。
 食べた記憶を全く持たない仲間たちも…。
「へえ…。俺たちは昔、こういうのを食っていたっていうのか…!」
 何処にでもあるって言うんだったら、間違いなく食べた筈だよなあ…。
「そうだよな、思い出せないけどな」
 何度も食べていたんだろうなあ、十四年間は普通に生きていたんだし…。
 なのに全く覚えてないって、機械ってヤツは酷いもんだな。記憶を奪ってしまうなんてな。
 思い出せないのが残念だ、と誰もが見ていたハンバーガー。食べる前にと、じっくりと。
 そこへヒルマンが、「遠い昔には手で食べていたものだった」と始めた説明。
 SD体制の時代に入ってナイフとフォークに決まったけれども、元々は手に持って食べたもの。その時代にもナイフとフォークで食べたとはいえ、主流は手だ、と。
 それを耳にした仲間たちは皆、ハンバーガーを手に取った。断然こうだ、と。
 食べ方は忘れてしまったのだし、マザー・システムが決めたマナーなど知ったことではないと。手に持った方が食べやすそうだと、サンドイッチのようなものなのだし、と。
 ナイフとフォークで食べる子供たちを他所に、ハンバーガーに齧り付いていた仲間たち。
 大きく口を開けて「美味しい」と顔を綻ばせるのを、前のブルーも見ていたけれど…。



 おもむろにナイフとフォークを手にしたブルー。ハンバーガーを手に取る代わりに。
 何故、と驚いたものだから。
「…それでお召し上がりになるのですか?」
 皆、手に持って食べているというのに、どうしてナイフとフォークなどを…。
 あなたはマザー・システムを他の者たち以上に、酷く憎んでおいででしょうに。
「それは確かにそうなんだけれど…」
 マザー・システムに従うつもりは無いんだけれども、この手袋じゃね…。
 食べても問題無いんだろうけど、普通のサンドイッチと違って、中のソースが…。
 これがくっついたら、どうするんだい?
 拭くものを取りに行ったら済むことだけれど、ぼくが自分で行けるとでも?
「そうですね…」
 あなた自身がお出掛けになったら、厨房の者たちが恐縮してしまうのは確かですね。
 かと言って、私が代わりに取りに行っても、結果は同じことですし…。ソルジャーへの気配りが足りなかったと慌てる姿が見えるようです。
 持って来てくれと頼んだとしても、やはり謝られてしまうのでしょうね…。



 ブルーが言うことは正しかった。ソルジャーの正装の一部の手袋、それは人前では外さない。
 素手でハンバーガーを持つことは出来ず、ソースがついても舐め取れもしない。他の仲間たちは指の汚れも気にしないけれど、ブルーの場合はそうはいかない。
 汚れたからと拭きに行ったら、ナイフとフォークしか用意しなかった者たちが謝るから。
 食事が済んでも早々に席を立てはしないし、洗いに行くことも出来ないから。
 それでナイフとフォークなのか、と納得せざるを得なかった。マザー・システムが人間に強いた食べ方なのだと分かってはいても、手袋のせいで手で食べる道を選べないのかと。
「…ハーレイも手で食べないのかい?」
 君は手袋をしていないのに、とブルーは目を丸くしたのだけれど。
 ソースがついたら舐めてくれてもかまわないのに、と言ってくれたのだけれど。
「あなたにお付き合いさせて頂きますよ」
 子供たちはともかく、大人たちは皆、手で食べている者ばかりですし…。
 一人くらいはソルジャーと同じに、ナイフとフォークで食べる者がいないと寂しいでしょう。
 手で食べたならばどんな具合か、あなただけがお分かりになれないのでは…。
 私も分からないままにしておくことにしますよ、キャプテンですから。
 我慢するのは慣れていますからね、あなたと同じで、このシャングリラでの立場のせいで。



 長老として皆を束ねる立場のゼルもブラウも、ハンバーガーを手で食べていたのに。
 ヒルマンも手に持って齧り付いていたし、日頃は礼儀作法にうるさいエラでさえも迷いなく手を使っていたのに、ナイフとフォークで食べていたブルー。
 「この手袋では仕方ないから」と、けれども、それを顔には出さずに。
 自分の流儀はこうだとばかりに、涼やかな顔でハンバーガーを口へと運んだ。自分には似合いの食べ方だからと言うように。この食べ方が気に入っていると、これが好きだと。
 あまりにも自然に食べていたから、誰一人として気付かなかった。ブルーがナイフとフォークを使っていたことに、手を使ってはいなかったことに。
 それに付き合った前の自分。ブルーと同じに、ナイフとフォークで食べたハンバーガー。
 二人揃ってナイフとフォークを使っていたから、余計に目立たなかったのだろう。食事の後にも誰からも訊かれはしなかった。
 ナイフとフォークで食べたのは何故かと、手を使わなかったことに理由はあるのかと。
 誰もが思い込んでいた。ハンバーガーは皆、手で食べていたと。
 その習慣が無い、ナイフとフォークで育った子供たち以外は、皆、手だったと。



(そうだったっけなあ…)
 白い鯨にハンバーガーはあったのだった、と思い出した。
 多分、あの時だけだろう。あれよりも後に作ったとしても、定番のメニューになってはいない。前の自分の記憶には無いし、あっても今は思い出せない程度の代物。
 けれども、白いシャングリラの思い出が詰まった食べ物。一度きりしか出なかったとしても。
 前のブルーが本当の意味では味わい損ねた、皆が手で食べたハンバーガー。
 常にはめていた手袋のせいで、ナイフとフォークで食べるしかなかったハンバーガー。
 前の自分はブルーに付き合えるだけで幸せだったし、ナイフとフォークで良かったけれど。損をしたとは微塵も思っていなかったけれど、ブルーの方はどうだったのか。
(…あいつだって、きっと…)
 ソルジャーとしての自分を厳しく律していたから、恐らく苦ではなかっただろう。
 厨房で働く仲間たちの心を思い遣っての、自然と選んだ道だったろう。
 そうは言っても、前のブルーは食べ損なった。皆が喜んで手で食べていたハンバーガーを。
(…今のあいつは、何度も手に持って食べてるんだろうが…)
 思い出したからには、ハンバーガーを手で食べられる時代だと教えてやりたい。
 ナイフとフォークで食べた時代はとうに終わって、ブルーの手にも今は手袋は無いのだと。
 今の時代はハンバーガーは手で食べるもので、洒落た店でだけナイフとフォーク。
 週末にブルーの家に出掛ける時には、持って行ってやろう、ハンバーガーを。
 柔道部員の教え子たちに差し入れてやっても残るくらいに、当たり前になった食べ物を。



 そう決めたことを、土曜日になっても覚えていたから。
 忘れずに心のメモにあったから、ブルーの家へと歩いて出掛ける途中にハンバーガーが美味しい店に立ち寄った。色々な種類があるのだけれども、一番ありふれたハンバーガーを。
 白いシャングリラで食べたハンバーガー、それと同じにシンプルなものを。
 二つ買って袋に入れて貰って、生垣に囲まれたブルーの家に着いて。
 門扉を開けに来てくれたブルーの母に、ハンバーガー入りの袋を渡して頼んだ。
「これを昼御飯に出して頂けますか?」
 お手数をおかけしますが、お皿に移して、ナイフとフォークを付けて頂いて。
「ええ、もちろん。でも…」
 ブルーはこのままでも食べられますわよ、普段はそうしていますもの。
 家で作りはしませんけれども、お友達と一緒に買って食べたりしている時は。
「いえ、それが…。シャングリラの思い出なんですよ」
 ナイフとフォークで食べるというのが大切なんです、ハンバーガーを。
「え…?」
 シャングリラではナイフとフォークでしたの、ハンバーガーを食べる時には…?
「そういう時代ではあったんですが…。シャングリラでは違いましたね」
 皆、手を使って食べていました。私の記憶にあるのは一度だけですが…。
 けれど、その時、ブルー君はナイフとフォークでしか食べられなかったんです。
 ソルジャー・ブルーの衣装はもちろん御存知でしょうが、あの衣装とセットの手袋のせいで。
「あらまあ…!」
 確かに手袋をはめたままでは、ハンバーガーは手では食べられませんわね…。
 あの手袋がどういう素材だったかは知りませんけれど、感覚は手と同じだったと聞きますし…。
 そんな手袋なら、ハンバーガーのソースもくっつきますわね、弾く代わりに。



 ブルーの母は笑顔で快く引き受けてくれた。ナイフとフォークをつけることを。
 それからブルーの部屋に行ったら、案の定、お土産を待っていたブルー。二階の窓から見ていて袋に気付いたのだろう。お菓子か何かに違いないと。
 「そう慌てるな」と、「昼飯まで待て」と言ってやったら、ブルーは何度も時計を眺めて。
 やっと訪れた昼食の時間、温め直されて運ばれて来たハンバーガーが載った皿。頼んだ通りに、ナイフとフォークも添えてあるから。
「えーっと…?」
 ハーレイのお土産、ハンバーガーだったってことは分かったけれど…。
 なんでナイフとフォークなの?
 この大きさなら、ナイフとフォークを使うよりかは、齧った方がいいんじゃないの?
 それともハーレイ、お行儀よく食べるのが好きだとか…?
「いいから、そいつで食ってみろ」
 ナイフとフォークで食べる方法も知ってるんなら、丁度いい。
 あの手の店のヤツとは違うが、こいつも充分、ナイフとフォークで食べられるからな。
「うん…」
 ハーレイがそういう風に言うなら、ナイフとフォークに意味があるんだね?
 お行儀のことかな、齧った方が食べやすそうな気がするんだけどな…。



 絶対に齧った方が早い、とナイフとフォークで切っているブルー。
 今の時代は手で食べるのが当たり前になったハンバーガーを。よほど大きいとか、中身が凝ったものを出す店でなければ、ナイフとフォークは使わないものを。
 それを一口サイズの大きさに切って、不思議そうに口に運んでいるから。この食べ方にどういう意味があるのかと、しきりに首を傾げているから。
「そうやって食ったら、何かを思い出さないか?」
 ナイフとフォークで切って食ってたら、思い出しそうなことは何か無いのか?
「思い出すって…。何を?」
 ハンバーガーだよ、シャングリラには無かったと思うんだけど…。
 前のハーレイとは食べていないと思うんだけどな、ハンバーガーなんか。
「本当にそうか? …俺もそうだと思い込んでたし、無理もないがな」
 お前、今だとナイフとフォークを使わなくてもいいわけで…。
 わざわざ面倒なことをしなくても、手に持ってガブリと齧れるんだが?
「…んーと…。手でって…。ナイフとフォークって…」
 そっか、前のぼくが食べていたんだ、ナイフとフォークで…!
 他のみんなは手で食べてたのに、ぼくは手袋をはめていたから…。
 手袋をはめたままで手で食べちゃったら、厨房のみんなに迷惑をかけてしまいそうだ、って…!



 思い出した、とブルーは顔を輝かせた。シャングリラにもハンバーガーがあったっけ、と。
「あの時だけかもしれないけれど…。他には思い出せないんだけど…」
 ハーレイが付き合ってくれたんだっけね、ナイフとフォークで食べるのに。
 ぼく一人だと寂しいだろう、って、ハーレイも手では食べなかったよ。
 …ごめんね、ぼくに付き合わせちゃって。
 あの時も後で謝ったけれど、思い出したから、今も謝らなくちゃ。
 ハーレイだって手で食べたかっただろうに、前のぼくのせいで食べ損なってしまったんだから。
「なあに、そいつは気にしなくてもいいってな」
 前の俺もお前に言った筈だぞ、俺はお前と一緒なのが嬉しかったんだ。
 食べ損なったとも、損をしたとも思っちゃいないさ、今でもな。
 …それでだ、前の俺たちが手では食べ損なったハンバーガーだが…。
 今度は遠慮なく手で食えるんだぞ、ナイフとフォークの時代はとっくに過去だってな。
 過去の過去へと戻った時代と言うべきなのかもしれんが、今じゃ手に持って食うのが普通だ。
 洒落た店にでも行かない限りは、ナイフとフォークはつかないだろうが。
「ホントだね…!」
 何処でも手に持って食べるものだよね、ハンバーガー。
 それに、お店で買って出て来て、歩きながら食べても叱られないし…。
 公園のベンチとかで食べていたって何も言われないし、ハンバーガー、昔に戻ったんだね。
 前のぼくたちが生きてた頃より、ずうっと昔に。
 ヒルマンが話をしてた通りに、今のハンバーガーはファーストフードになってるものね…!



 だから手で食べてもかまわないよね、とブルーが訊くから、「もちろんだ」と応えてやって。
 面倒なナイフとフォークは放り出しておいて、二人で頬張ったハンバーガー。
 ブルーは手袋をはめていない手で、自分は前の自分だった頃と同じに手袋の無い手で。
 ナイフとフォークを使わずに食べるハンバーガーの味は格別だけれど。
 前の自分たちの記憶がある分、本当に美味しく思えるけれど。
 ハンバーガーにナイフとフォークを添えて出す店は、今の時代もちゃんとあるから。こだわった素材で料理とも呼べるハンバーガーを作る洒落た店だって、幾つもあるから。
「前のお前は、仕方なくナイフとフォークで食ってたわけだが…」
 今度のお前は、ナイフとフォークで食うのが普通なハンバーガーの店も知ってるようだしな?
 いつか食事に連れて行ってやろう、そういう店へも。
 俺と二人なら、シャングリラの思い出もちゃんとある分、ハンバーガーの美味さが引き立つぞ。
 あの船で食ったヤツより美味いと、これはハンバーガーと呼ぶより料理だよな、と。
「…お店でも手で食べていい?」
 ナイフとフォークがついていたって、手で食べちゃってもいいのかな?
 パパやママとお店に行った時には、そういうものだと思ってたからナイフとフォークで食べてたけれど…。
 前のぼくのことを思い出したら、手で食べたいな、っていう気がするんだけれど…。
「どうだかなあ…」
 ナイフで切ってから、手に持つっていう食べ方はあるし、まるで駄目でもないだろう。
 手で食べてみてもいいですか、と訊いてからなら、いいんじゃないか?



 マナー違反にならない店なら好きにすればいい、と微笑んでやった。
 前のお前が食べ損ねた分まで、存分に手で食べればいいさ、と。
「じゃあ、そうする!」
 お店だったら、手を拭くものを出してくれるしね、頼まなくても。
 前のぼくみたいに遠慮しなくても、お店のサービスにちゃんと入っていそうだもの。
「違いないな。店に入ればサッとテーブルに置かれるからなあ、おしぼりとかが」
 手を拭けるものは最初からテーブルの上に出てくるもんだ、と。
 ならば、お前が手に持って食べても許される店を探すとするかな、ハンバーガーの店。
 うんと美味くて、雰囲気もいい店をゆっくり探しておこう。
 お前が両手で持って齧れるくらいに、ボリュームのある店もいいよな、食べ切れなくても。
 残しちまったら、俺が綺麗に食ってやるから。
「うんっ!」
 いつか行こうね、ハンバーガーのお店。
 こういうハンバーガーもいいけど、シャングリラのよりも、ずっと素敵なハンバーガー。
 それを二人で手で食べられるお店、いつか二人で行かなくっちゃね…!



 前のハーレイだって手では食べ損なったんだから、とブルーは気にしているけれど。
 損をした気は、前の自分も今の自分もしていない。
 ブルーに合わせてやれたということ、それだけで充分だったから。
 前の自分は、幸せな気持ちに包まれて食べていたのだから。
 ナイフとフォークを使って食べていた、白いシャングリラのハンバーガー。
 今は手で食べるのが普通の時代になったから。
 洒落た店でも、手で食べることを、多分、断られはしないから。
 いつかブルーが大きくなったら、好きなだけ食べさせてやろう、ハンバーガーを。
 もう手袋など要らない手で。手袋をはめていない手で。
 前のブルーが焦がれ続けた青い地球の上で、こだわって作られた美味しいハンバーガーを。
 きっと幸せの味がする。
 ブルーと二人で、手に持ってそれを食べたなら。
 前の自分たちが使ったナイフとフォークは、今は要らない時代だから…。




            ハンバーガー・了

※シャングリラの食堂で、一度だけ出たハンバーガー。ナイフとフォークを添えた形で。
 けれど手で食べた船の仲間たち。前のブルーは出来ませんでしたが、今の時代なら大丈夫。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




春爛漫。ソルジャー夫妻と「ぶるぅ」も交えて桜見物、今年も豪華にお弁当を持って。今日はあっちだ、次はこっちだと渡り歩いて桜の舞台は北の方へ移り、お花見の旅も終了です。ソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」は旅を続けているかもしれませんが…。
「今年の桜も綺麗だったよね!」
今日だと何処の桜だろうか、とジョミー君。シャングリラ学園は年度始めの一連のお祭り騒ぎも終わって通常授業が始まっています。よって本日は真面目に授業で、放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来ているわけですけれど。
「うーん…。何処だろうねえ、ぼくがザッと見た所では…」
賑わってる場所はこの辺り、と会長さんが挙げた有名どころ。かなり北の方、けれど名前は知らない人がないほどの名所。桜前線、ずいぶん北上したようです。会長さんはサイオンで遠くの桜名所をチェックしているようですが…。
「あれ?」
「どうかしたのか?」
何かあったか、とキース君。会長さんは「まあ…」と答えて。
「いつものお花見ツアーだよ。ブルーたちが行ってるみたいだね」
「なるほどな。俺たちは通常運転の日々だが、あいつらは未だに花見気分か」
桜好きだしな、という言葉に頷く私たち。ソルジャーは桜の花が一番好きなのだそうで、自分のシャングリラの公園にも植えてあるようです。それを貸し切っての宴会なんかもやらかすくせに、私たちの世界の桜も大好き。機会さえあればせっせとお出掛け。
「桜があったら湧くヤツだからな、特に不思議でもないと思うが」
わざわざ声に出さずとも…、とキース君が言うと会長さんは。
「桜見物だけならね」
「何か余計なことをしてやがるのか、あいつらは?」
猥談の類はお断りだぞ、と先手を打ったキース君。桜名所でのイチャつきっぷりを披露されても困りますから、妥当な判断と言えるでしょう。けれど、会長さんは「そうじゃなくって」と。
「ただの買い物なんだけど…。いわゆる露店で」
「それがどうかしたか?」
「お気に召さないみたいなんだよ、商品が」
その割に前にじっと立ってる、とサイオンの目を凝らしている様子。暫しそのまま沈黙が続いていますけれども、ソルジャーは何の露店の前に?



露店と言えばお祭りの花。色々なものが売られますけど、いわゆる老舗や名店の類とは違います。アルテメシアのお花見の場合は、そうしたお店の出店なんかも見かけることはありますが…。基本的に何処か抜けてるというか、期待しすぎると負けなのが露店。
「お気に召すも何も…。露店だろうが」
そうそう洒落た商品があるか、とキース君が突っ込み、スウェナちゃんも。
「食べ物にしても、お土産にしても、普通のお店とは違うわよねえ?」
「店によっては衛生的にも問題大ってケースもありますからね」
公園の水道で水を調達しているだとか、とシロエ君。
「そういった店に出会ったんでしょうか、見るからに水道水っぽいとか?」
「どうだかなあ…。あいつ、サイオンが基本だしよ…」
店主の心が零れてたかもな、とサム君も。
「水道水でボロ儲けだとか、そんな思念を拾っちまったら、店の前で睨むかもしれねえなあ…」
「チョコバナナだけど?」
水道水も何も、と会長さんが沈黙を破りました。
「「「チョコバナナ?」」」
「そう、チョコバナナ。…まだ寒いだけに、食べようかどうか迷ってるのかと思ったけれど…」
「それはあるかもしれないな」
あれは温かい食い物ではない、とキース君。
「しかし甘いし、あいつが好きそうな食い物ではある」
「ぼくもそう思って見てたんだけど…。どうも何かが違うらしくて」
「「「は?」」」
「じーっと露店を見ていた挙句に、買わずに立ち去ったトコまではいい。ただ…」
その後の台詞がなんとも不思議で、と会長さんは首を傾げています。
「あいつは何とぬかしたんだ?」
「それがさ…。あっちのハーレイに笑い掛けてさ、「まだまだだよね」と」
「「「へ?」」」
チョコバナナの何が「まだまだ」なのか。それだけでも充分に意味不明なのに、会長さんが言うにはキャプテン、「そうですね」と笑顔で頷き返したらしく。
「…チョコバナナでか?」
分からんぞ、とキース君が呟き、私たちも揃って困り顔。ソルジャー夫妻がチョコバナナの露店にうるさいだなんて、そんな現象、有り得ますか…?



「念のために訊くが、チョコバナナだな?」
キース君が確認を取って、会長さんが。
「うん、間違いなくチョコバナナだよ。振り返って露店の方を見てたし、間違いないね」
「チョコバナナって…。キャプテン、そんなの食べるかなあ?」
うんと甘いよ、とジョミー君。キャプテンは教頭先生のそっくりさんで、甘い食べ物が苦手な所も同じです。チョコバナナなんかは一度食べれば二度と食べそうにないんですけど…。
「食わねえと評価出来ねえんじゃねえの?」
まだまだとか判断出来ねえぜ、とサム君の非常に冷静な意見。
「どういう理由か分からねえけど、チョコバナナに燃えているんじゃねえかな…」
「ブルーたちがかい?」
そうなんだろうか、と会長さんが首を捻ると「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えとえと…。お花見であちこち出掛けてた時、チョコバナナの露店、見ていたよ?」
買って食べてはいないけど、という証言が。
「欲しいのかな、って思ったんだけど…。なんか、小さめ?」
「「「小さめ?」」」
バナナが小さすぎたでしょうか。ああいう露店のバナナの大きさ、ほぼ同じだと思いますけど。
「んーとね、あっちのハーレイに言ってたよ? 小さいよね、って」
「「「はあ?」」」
ますます分からん、と私たち。やはりキャプテンはチョコバナナの味に目覚めたとか?
「ぼくにも分かんないんだけど…。なんて言ったかなあ、君の方がずっと立派、だったかな?」
「ちょっと待った!」
ぼくはそんなの聞いてないけど、と会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「その話、ヒソヒソ話だったのかい?」
「えっとね…。ブルーがハーレイの袖を引っ張って、小さな声で言ってたよ?」
「もういい、大体のことは分かった」
それはバナナが違うんだ、と会長さんは顔を顰めました。
「ブルーが言うのはチョコバナナのバナナのことじゃなくって、全く別物…」
「「「別物?」」」
「言いたくないけど、あっちのハーレイの大事な部分の話なんだよ!」
「「「あー…」」」
分かった、とゲンナリした顔の私たち。キャプテンのアソコのサイズとバナナを比べてましたか、それで「まだまだ」だというわけですね…?



猥談の類はお断りだと思っていたのに、無邪気なお子様、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が食らわせてくれたバナナ攻撃。チョコバナナの話は忘れるに限る、と記憶を手放し、迎えた週末。会長さんの家に出掛けてワイワイ楽しくやるんですけど。
「かみお~ん♪ 今日はしっとりオレンジケーキ!」
今が旬なの、と春のオレンジを使ったケーキが出て来ました。オレンジのスライスも乗っかっていて綺麗です。紅茶やコーヒーなども揃って、さあ食べるぞ、とフォークを握った所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と背後で声が。私服のソルジャー登場です。エロドクターとデートなのかな?
「え、この服かい? お花見の帰りに寄ったからだよ、ハーレイとぶるぅは先に帰ったよ」
混んでくる前に桜見物、と相変わらずお花見ツアー中。いいお天気の中で桜を眺めて、キャプテンはブリッジへお仕事に。「ぶるぅ」はソルジャー不在のシャングリラの留守番をしつつ、買って帰ったお弁当グルメだそうですけれど。
「ぼくは大好きな地球でゆっくり! ケーキ、ぼくのもあるんだよね?」
「あるよ、おかわり用もあるから食べてってね!」
ちょっと待ってねー! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がキッチンに跳ねてゆき、すぐにケーキとソルジャー好みの熱い紅茶が。ソルジャーは空いていたソファに腰を下ろして。
「いいねえ、地球で過ごす時間は! ぼくのハーレイは仕事だけどさ」
「君の仕事は?」
会長さんが訊けば、ソルジャーはケロリとした顔で。
「あるわけないだろ、ぼくの仕事は少なめの方がいいんだよ。仕事すなわち戦闘だしね!」
平和に越したことはないのだ、という正論。
「この所はずいぶん平和だからねえ、ちょっと趣味なんかも始めてみたり…」
「ふうん? それはいいことだね、暇だからとノルディとランチやディナーでは芸がないしね」
趣味が出来れば毎日も充実してくるだろう、と会長さん。
「君にしてはマシな思い付きだよ、趣味を持とうという発想は」
「あっ、分かる? ぼくにピッタリな趣味を見付けたものだから…」
最近はそれに凝っているのだ、とソルジャーは得意満面で。
「ハーレイの趣味とも重なっているし、これがなかなか素敵なんだよ」
「へえ? 夫婦で共通の趣味を持つのはいいことだよね」
お互いに評価し合えるし、と会長さんもソルジャーの趣味を褒めてますけど。ソルジャーの趣味って何なのでしょうね、キャプテンは確か木彫りでしたが…?



キャプテンの趣味と重なるらしい、ソルジャーが始めた趣味なるもの。やはり木彫りの類だろうか、と考えていると。
「木彫りはねえ…。木が硬いからね、けっこう根気が要るらしいんだよ」
ぼくにはイマイチ向いてなくて、とソルジャーが。
「彫り上がる前に投げ出しちゃうのがオチってヤツだよ、木彫りの場合は」
「それじゃ別のを彫ってるのかい?」
柔らかい素材も色々あるしね、と会長さん。
「君の世界じゃそういう素材も多そうだ。簡単に彫れるけど、焼くとか薬品に浸けるとかしたら充分に丈夫になりそうなヤツが」
「ああ、あるねえ! 子供用の粘土なんかにもあるよ、作って乾かせば頑丈です、って」
保育セクションの子供がよく彫っている、とソルジャーは笑顔。なんでも粘土の塊を捏ねて、それをヘラで削っていったら立派な彫刻、乾かして置物を作れるそうで。
「同じ粘土で花瓶とかも出来ると聞いているねえ、丈夫で水漏れしないヤツをね」
「君も粘土を彫ってるわけ?」
「違うね、ぼくが彫っているのは実用品!」
彫る過程からして楽しめるのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「削りクズも無駄にはならない上に、完成したヤツも食べて美味しく!」
「「「は?」」」
食べるって…。それじゃ野菜のカービングとか? 野菜を彫って花とかを作る細工は非常に有名です。ソルジャーはあれをやってるのでしょうか、ベジタブルカービングというヤツを?
「うーん…。あれも野菜と言うのかな? 青いヤツは料理に使うと聞いているけど…」
「パパイヤなの?」
青いパパイヤは野菜だよ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「炒め物とかにしても美味しいし! 完熟した後は果物だよね!」
「うん、そんな感じ」
ぶるぅもカレーに使ってたよね、とソルジャーは大きく頷きました。
「なんか高級食材だって? 青い間は」
「「「へ?」」」
青い間は高級食材、なおかつカレーに使える何か。ついでに野菜と呼ぶかは微妙で、彫って食べられる何かって…。なに?



木彫りでは木が硬すぎるから、と別の素材に走ったソルジャー。食べられる何かを彫っていることは確かですけど、まるで見当がつきません。パパイヤの線だけは消え去ったものの、青い間は高級食材。それでカレーって…。私たちが顔を見合わせていると。
「あっ、分かったあ!」
ピョーンと飛び跳ねた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「そっかあ、それでチョコバナナなんだね、まだまだだ、って!」
「「「えっ?」」」
何故にチョコバナナ、と思ったのですが、ソルジャーは。
「そうなんだよ! ぶるぅは分かってくれたんだ? チョコバナナは芸術性がないよね」
丸ごとのバナナにチョコを被せただけだから、と鼻でフフンと。
「ひと手間加えればバナナも芸術! バナナ彫刻!」
「「「バナナ彫刻!?」」」
なんじゃそりゃ、と声が引っくり返ってしまったものの、青いバナナは言われてみれば高級食材。普通のバナナならお安いところを、どう間違えたかグンと高くて専門店にしか無いと聞きます。その青バナナを使ったカレーを何度も御馳走になりましたっけ…。
それにしたって、バナナ彫刻。柔らかくって彫りやすいでしょうが、どうやって彫るの?
「知らないかなあ、バナナ彫刻! なんか職人さんもいるみたいだよ?」
一時期評判だったらしい、とソルジャーに教わった私たちの世界のバナナ彫刻なる芸術。ソルジャーはエロドクターから教えられたという話で。
「桜にはまだ少し早い時期にね、中華料理を御馳走になって…。デザートの一つが揚げたバナナの飴絡めだったものだから…」
そこから出て来たエロドクターの薀蓄、バナナ彫刻。文字通りバナナに彫刻を施し、それは見事に仕上げる人がいるのだそうです。けれども相手がバナナなだけに、どんなに見事なものを彫っても作品の寿命は当日限り。パックリもぐもぐ、食べておしまい。
「ほら、ぼくはハーレイの素敵なバナナが好物だしね?」
「その先、禁止!」
喋ったらその場で帰って貰う、と会長さんがイエローカードを出したのですけど、それで止まるようなソルジャーではなく。
「ハーレイのバナナと言えばもちろん分かるよねえ? 男なら誰でも、もれなく一本!」
「退場!!」
さっさと帰れ、とレッドカードが出たものの。ソルジャー、帰りはしないでしょうねえ…。



エロドクターからソルジャーが聞いた、バナナ彫刻なる芸術。そのソルジャーの好物のバナナ、やはりキャプテンのアソコのことで。そういえば「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお花見の時にアヤシイ話を聞いたんだっけ、と揃って遠い目をしていれば…。
「とにかく、ぼくはハーレイのバナナが大好物! だけど、いつでも何処でも食べられるものではないからねえ!」
ぼくはともかくハーレイはキャプテン、と深い溜息。
「仕事でブリッジに出掛けてる時に食べたくなっても、ぼくは手も足も出ないから…」
「当然だろう!」
そんな所へ食べに行くな、と会長さんが怒鳴りました。
「君はよくても、君のハーレイにとっては最悪すぎる展開だから!」
「そうなんだよねえ、見られていると意気消沈なのがハーレイだしねえ…。おまけに、ぼくたちの仲はとっくにバレバレになっているのに、まだバレていないつもりだから…」
ブリッジでの熱いひと時は無理、と実に残念そうなソルジャー。
「ハーレイさえその気になってくれれば、ぼくはブリッジでも気にしないのに…」
「他のクルーにも迷惑だよ、それ! こっちの世界では犯罪だから!」
公衆の面前でやらかした場合はしょっ引かれるから、と会長さんが刑法とやらを並べ立てています。猥褻物がどうとかこうとか、刑法何条がどうのとか。
「いいかい、そういったことは人前でしない!」
「うーん…。ぼくは見られて燃えるってタチではないんだけれども、夢ではあるかな…」
ぼくとハーレイとの熱い時間を是非見て欲しい、と言われて固まってしまいましたが、見て欲しい相手はソルジャーのシャングリラのクルーだそうで。
「君たちはもう、見てると言ってもいいくらいだしね! 問題はぼくの世界なんだよ、どうにもハードル高くてねえ…」
いろんな意味で、と溜息再び。
「そんなわけでさ、ハーレイのバナナはブリッジとかでは食べられない。それをノルディに愚痴っていたらさ、バナナ彫刻を教わったわけ!」
ハーレイのアソコを食べてるつもりでバナナをパクリ、とソルジャー、ニコニコ。
「それだけでも充分にドキドキするけど、彫刻するならじっくり見るしね? このバナナから何が彫れるか、どんな作品が隠れているかとドキドキワクワク見られるんだよ!」
同じバナナでも見る目が変わる、と語るソルジャー。バナナ彫刻、本気でやってるみたいですけど、何が出来るの?



「えっ、バナナ彫刻? 色々彫れるよ?」
バナナの中から生まれる芸術、とソルジャーは今までに彫った作品を挙げました。最初はキャプテンのアソコを忠実に再現、美味しく齧ったらしいですが。
その後、木彫りが趣味のキャプテンからのアドバイスも受け、今では有名な彫刻をバナナで再現だとか、そういうレベル。
「ちなみに昨日はこんなのを彫った! どうかな、出来は?」
ぼくのシャングリラ! と思念で宙に浮かんだ映像はバナナに彫られたシャングリラでした。バナナの中に実に見事なシャングリラ。不器用なソルジャーの作品だとも思えませんが…。
「あっ、君たちもそう思う? ぼくって、意外な才能があったらしくて!」
バナナを彫らせたら一流なんだよ、と自慢したくなるのも無理のない出来。エロドクターが教えたというバナナ彫刻職人とやらにも負けない腕前らしくって。
「それでね、バナナ彫刻を更に極めるべく、新しい境地に挑もうかと!」
「もっと芸術性を高めるとか?」
会長さんの問いに、ソルジャーは。
「趣味と実益とを兼ねるんだよ! バナナ彫刻で!」
今は単なる趣味だから、と言われましても、既に実益を兼ねているような気がします。キャプテンのアソコを頬張る代わりに彫っているバナナ、空腹ならぬ欲望を満たしているのでは…。
「うん、欲望に関してはね。…彫る前にバナナをまじまじと眺めて、ハーレイのアソコを思い浮かべて熱い溜息! それからハーレイのアソコを扱うつもりで大切に!」
ドキドキしながらバナナを彫るのだ、とソルジャーはバナナ彫刻の心構えを披露しました。
「ハーレイのアソコで芸術なんだよ、バナナといえども粗末にしてはいけないってね! 彫った削りクズは必ず食べる! 口に入れてはアレのつもりで!」
ゴクンと美味しく飲み下すのだ、と唇をペロリ。
「ハーレイのアレは一滴残らず飲んでこそだし、バナナの削りクズだってね!」
「退場!!!」
もう本当に出て行ってくれ、と会長さんが眉を吊り上げてますが、ソルジャーは我関せずで。
「バナナを敬う気持ちが大切! そんなバナナを、より丁重に!」
もっと心をこめて彫るべし、とソルジャーはそれはウットリと。
「これを極めれば、きっと! ぼくとハーレイとの夜の時間も、今よりももっと!」
充実するのだ、と自信たっぷりですけれど。バナナ彫刻で夜が充実って、大人の時間のことなのでしょうか? バナナ彫刻なんかで充実しますか、そんな時間が…?



バナナ彫刻を極めて充実、ソルジャーとキャプテンの夜の時間とやら。どうやったら充実するのやら、と知りたくもない謎に捕まる思考。ソルジャーがそれに気付かない筈もないわけで…。
「君たちだって知りたいよねえ? ぼくの趣味の世界!」
バナナ彫刻を実演しなくちゃ、と満面の笑みを浮かべるソルジャー。
「だけど、お腹が減っていてはね…。ぼくのハーレイがいれば、食欲は二の次、三の次でさ…。まずは身体の欲望の方から満たすんだけれど、ここではねえ…」
「かみお~ん♪ お昼御飯も食べて行ってね!」
「いいのかい? 喜んで御馳走になることにするよ!」
自分から催促しておいて「いいのかい?」も何もないのですけど、それがソルジャー。バナナ彫刻の実演タイムは昼食の後ということになって…。
「お昼、海鮮ちらし寿司だよーっ!」
朝一番に仕入れて来たの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が用意してくれ、豪華海鮮ちらし寿司。食べる間くらいはバナナ彫刻は忘れたい、とソルジャーの喋りを無視しまくってひたすら食べて。
「「「美味しかったー!」」」
御馳走様、と合掌したらソルジャーが。
「それじゃ、バナナ彫刻を始めようか! 丁度いいしね」
「「「は?」」」
「道具が揃っているんだよ、ここは」
「「「道具?」」」
ダイニングのテーブルを見回しましたが、テーブルの上には空になった海鮮ちらし寿司の器やお吸い物の器、食後に出て来た緑茶の湯呑み。後はお箸にお箸置きに、と食事関連のアイテムばかりのオンパレードで。
「何処に道具があるというんだ?」
刃物は無いが、とキース君。
「あんた、道具が揃ったと言うが、何か勘違いをしてないか?」
「してないねえ…。バナナ彫刻は食べるものだよ、ダイニングで彫るのが正しいよね」
まずはバナナ、とソルジャーの視線が「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「ぶるぅ、バナナはあったよね?」
「うんっ! 朝御飯に便利なフルーツだしね!」
待っててねー! とキッチンに駆けて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はバナナの房を抱えて戻って来ました。そっか、お菓子にもよく使いますし、房で買うのがお得ですよね…。



ダイニングのテーブルにドカンとバナナの大きな房が。そして食器は湯呑みを残して片付けられてしまいましたが、ソルジャーは止めもしなくって。
「…湯呑みしかないぞ?」
これで彫れるのか、とキース君の疑問が一層深まり、私たちだって。
「湯呑みでバナナが彫れますか?」
シロエ君が悩み、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「んとんと…。コンニャクを切るのに湯呑みを使うよ、その方が美味しく煮えるから!」
「そういえばコンニャクには湯呑みだったか…」
確かに使うな、とキース君も。柔道部の合宿で料理当番をやっていた頃、コンニャクを湯呑みで千切ったそうです。シロエ君とマツカ君も思い出したようで。
「湯呑みでしたね、コンニャクは…」
「でも、千切るのと彫るのとは…」
違いますよ、とマツカ君。
「コンニャクは切り口が均一でない方がいいから、と湯呑みだったんじゃないですか?」
「そうでしたね…。彫刻するなら断面は均一になる方が…」
湯呑みはちょっと、とシロエ君がバナナと湯呑みを見比べています。けれど道具とやらはテーブルの上に揃っていた筈、食器が消え失せた今となっては…。
「やっぱ、湯呑みかよ?」
それしかねえよな、とサム君が言って、ジョミー君が。
「他に無いよね、湯呑みなんだよね?」
だけど、どうやって彫るんだろう…、と答えは全く浮かばない模様。私だって立場は同じです。どう考えても湯呑み以外に道具らしきものは無いんですけど、湯呑みなんかでどう彫ると?
「頭が固いね、君たちは…」
もっと発想を柔軟に、とソルジャーがバナナを房からポキリと一本折り取りました。
「道具ならちゃんとあるんだよ。テーブルの上に、正統なのが」
始めようかな、とソルジャーの指がバナナの皮をスイスイと剥いて、半分くらいを覗かせて。
「ぶるぅ、レモン汁をくれるかな? バナナ彫刻には欠かせないんだ」
「かみお~ん♪ 色が変わるのを防ぐんだね!」
「ご名答! ぶるぅは料理の達人だしねえ、頼もしいよね」
レモン汁をよろしく、というソルジャーの注文に応えて手早く用意されたレモン汁入りのガラスの器。いよいよバナナ彫刻ですけど、彫るための道具はやっぱり湯呑み…?



どうなるのだろう、と固唾を飲んで見守る私たち。ソルジャーはバナナの白い実をじっと睨んでいるようでしたが…。
「このバナナにはぶるぅが入っているねえ、悪戯小僧の方のぶるぅが」
そんな感じだ、と一人前の彫刻家のような台詞を口にし、「さて」と伸ばされた手が掴んだものは爪楊枝。海鮮ちらし寿司、奥歯に何か挟まりましたか?
「失礼な! 年寄りみたいに言わないでくれる?」
これは道具、とソルジャーの指先が爪楊枝をしっかり固定すると。
「「「…えっ?」」」
爪楊枝の先がバナナにグッサリ。ぐりぐりと抉って、ヒョイと一部を取り出して、口へ。いわゆるバナナの削りクズらしく、ソルジャーは口をモグモグさせながら。
「こうやって彫っていくんだよ、バナナ! 爪楊枝で!」
「湯呑みじゃないのか?」
違ったのか、と訊くキース君に、「当たり前だろ」という返事。
「湯呑みなんかでグイとやったらバナナが折れてしまうだろ? バナナは繊細なんだから!」
ハーレイのアソコと同じでとってもデリケートなのだ、と爪楊枝の先がヒョイヒョイと。
「…なんか彫刻できてるみたい?」
爪楊枝で、とジョミー君が見詰めて、サム君が。
「ぶるぅの顔っぽくなってきたよな、丸っこくてよ」
「爪楊枝なんかで彫れるんですね…」
知りませんでした、とシロエ君。
「湯呑みだったら道具になるかと思いましたが、爪楊枝ですか…」
「知らないのかい? こっちの世界のバナナ彫刻職人だって爪楊枝らしいよ、ノルディに聞いた」
そして彫ったらレモン汁を…、と完成したらしい部分に指と爪楊枝でレモン汁を塗ってゆくソルジャー。バナナ彫刻を趣味にしただけあって、なかなか手際が良さそうです。
「こうやって彫って、もう彫らなくても大丈夫だな、という所はしっかりレモン汁をね…」
そうしないと黒くなっちゃうからね、と彫っては削りクズをモグモグ、レモン汁をペタペタ。そうこうする内、バナナは見事に彫り上がって…。
「はい、バナナからぶるぅが出来ましたー!」
ジャジャーン! とソルジャーが掲げるバナナに悪戯小僧な「ぶるぅ」の彫刻。ホントにバナナに彫れるんですねえ、ちゃんと「ぶるぅ」に見えますってば…。



バナナ彫刻の「ぶるぅ」は食べてもいいらしいですが、彫られた姿は悪戯小僧。齧ったら最後、祟りに見舞われるような気がしないでもありません。怖くて誰もが腰が引ける中、ソルジャーは。
「なんだ、誰も食べようとは思わないんだ? じゃあ、ぼくが」
あんぐりと口を開け、それは美味しそうにバナナ彫刻の「ぶるぅ」をモグモグモグ。食べてしまうと「今日のハーレイも美味しかった」と妙な台詞が。
「「「ハーレイ?」」」
「もちろん、ぼくの世界のハーレイだよ! バナナ彫刻の心得の一つ!」
バナナを彫る時と食べる時にはハーレイのアソコと心得るべし! とイヤンな掟が。
「でもって、この趣味を実益の方へと向けるためには! これから此処で初挑戦!」
もう一本バナナを貰っていいかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお尋ねが。「うんっ!」と元気な返事が返って、バナナがもう一本、ポキリと折られて房から外れて。
「さてと…。ホントのホントに初挑戦だし、上手く行くかどうか…」
バナナの中には何がいるかな、と黄色い皮を剥いて白い中身と向き合ったソルジャー、彫るべきものを見出したらしく。
「第一号はハーレイらしいね、是非彫ってくれ、という声がするよ」
バナナの中からハーレイの声が! と嬉しそうに。
「あっ、間違えたりしないでよ? ぼくのハーレイの声なんだからね!」
こっちのヘタレなハーレイじゃなくて、と失礼極まりない発言。とはいえ、教頭先生がヘタレなことは誰もが認める事実ですから、文句を言い出す人などいなくて…。
「それじゃ彫るから、ちょっと静かにしててよね」
ぼくは忙しくなるんだから、とソルジャーは再び爪楊枝を。けれど…。
「「「ええっ!?」」」
静かにしろ、と言われたことも忘れて叫んでしまった私たち。ソルジャーにギロリと睨み付けられて、慌てて肩を竦めましたが。
(((あ、有り得ない…)))
これは無いだろ、と唖然呆然。ソルジャーは爪楊枝を指で構える代わりに、口でしっかりと咥えていました。そしてバナナへと顔を近付け、爪楊枝の先でクイッと彫って…。
(((やっぱりそうかーっ!!)))
口で彫るのか、とビックリ仰天、まさかの口でのバナナ彫刻。爪楊枝はお口で使うものですが、口に咥えて使うようには出来ていません。ソルジャーお得意のバナナ彫刻、こんなやり方で彫れるんでしょうか…?



ソルジャーが咥えた爪楊枝。バナナ相手に頭をせっせと上下させては彫って、削って。削りクズは何回かに纏めてモグモグ、その間は爪楊枝が口から離れています。レモン汁を塗っている時も。
「うーん…。なかなか上手く行かないね、これは」
「まず無理だろうと思うけど?」
そんな方法、と会長さんが切って捨てると、ソルジャーは。
「ダメダメ、これを極めなくっちゃ! 趣味と実益!」
「どの辺が?」
「口で彫ろうというトコが!」
これで口の使い方が上達するに違いない! とグッと拳を握るソルジャー。
「爪楊枝を上手に操るためには、舌での操作も欠かせないんだ。舌の動きが細やかになるし、爪楊枝を咥えて彫ってる間に口の方だってより滑らかに!」
こうして鍛えて御奉仕あるのみ! とソルジャーが高らかに言って、会長さんの手がテーブルをダンッ! と。
「そんな練習、自分の世界でやりたまえ!」
「見学者がいないと張り合いが無いし!」
普通のバナナ彫刻と違って大変な作業になるんだから、とソルジャーは私たちをグルリと見回しました。
「これだけの数の見学者がいれば、ぼくも飽きずに作業が出来る。一日一本、バナナ彫刻! 今日から欠かさず、毎日一本!」
そして御奉仕の腕を上げるのだ! と燃えるソルジャーですけれど。その御奉仕とかいうヤツは大人の時間の何かですよね、今までに何度も聞いていますし…。
「もちろんだよ! ぼくがハーレイのアソコを口で刺激しようという時のことで!」
「退場!!!」
今度こそ出て行け、と会長さんが絶叫しているのに、ソルジャーは。
「御奉仕にはねえ、口と舌とが大切なんだよ! 同じバナナ彫刻をするんだったら趣味と実益!」
ハーレイのアソコに見立てたバナナを彫って、ついでに口と舌とを鍛えて、とソルジャーの背中に燃え上がるオーラ。退場どころか、爪楊枝をしっかり咥え直して…。
「んー…」
もうちょっと、とバナナ彫刻に挑むソルジャー。会長さんが顔を顰めてますから、よほど最悪な姿なんだと思いますけど、よく分かりません。万年十八歳未満お断りの団体様の前で熟練の技を披露したって、意味が全く無いんじゃあ…?



口に爪楊枝を咥えて、彫って。ソルジャーの渾身の作のバナナ彫刻、キャプテンの肖像は辛うじて完成したものの。
「…まだまだだよねえ…」
こんな出来では、とソルジャーが眺め、会長さんが。
「口で彫ったにしてはマシだし、初挑戦とも思えないけど?」
これ以上鍛えることもあるまい、と褒めちぎる姿は明らかにソルジャーの再訪を防ぐためのもの。私たちも懸命に「凄い」と讃える方向で。
「俺は見事だと思うがな? これだけ彫れればベテランの域だ」
キース君がバナナ彫刻の出来栄えを褒めて、シロエ君も。
「ええ、初心者とは思えませんよ! もう充分に熟練ですって!」
「ぼくも凄いと思うけどなあ、こんなの絶対、真似出来ないよ」
凄すぎるよね、とジョミー君も称賛を惜しみませんでした。サム君もマツカ君も、スウェナちゃんも私も、ありとあらゆる褒め言葉の限りを尽くしたのに…。
「駄目だね、趣味の世界は奥が深いんだよ。自分が納得しない限りは精進あるのみ!」
およそソルジャーの台詞とも思えぬ、精進なるもの。目指す所はバナナ彫刻の上達などではないのでしょうが…。
「決まってるじゃないか、バナナ彫刻の先にある御奉仕だよ!」
ぼくのハーレイがビンビンのガンガンになる御奉仕なのだ、とソルジャーはそれはキッパリと。
「そういう熟練の技を目指してバナナ彫刻! 毎日、一本!」
頑張って彫って彫りまくる、と決意を固めてしまったソルジャー、明日から毎日来そうです。休日の今日と明日はいいとして、もしかしなくても平日だって…?
「そうだよ、こういった道は日々の鍛錬が大切だしね!」
一日サボれば腕がなまって駄目になるのだ、とソルジャーが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が大真面目な顔で。
「うん、お稽古って大切らしいものね! ハーレイだって、よく言ってるし!」
「「「はあ?」」」
教頭先生が何の稽古を、と派手に飛び交う『?』マーク。けれども「そるじゃぁ・ぶるぅ」は純真無垢な瞳を輝かせて。
「えっ、柔道部の朝稽古とかで言ってない? 一日休めば自分に分かる、二日休めば先生に分かる、三日休めばみんなに分かる、って!」
だからお稽古、大切だよね! とエッヘンと。お稽古は大切なんでしょうけど、今、その言葉を言わないで~!



教頭先生の口癖らしい、稽古をサボるなという戒め。このタイミングで言われてしまうと私たちには逃げ場が無くなり、ソルジャーには大義名分が。
「ふうん…。こっちのハーレイ、いいこと言うねえ…!」
バナナ彫刻、頑張らないとね! とソルジャーが彫り上がったキャプテンのバナナ彫刻にチュッとキスをして。
「明日はバナナから何が生まれるかな、ぼくの技術も磨かなくっちゃ!」
そしてハーレイが大いに喜ぶ、と赤い瞳がキラキラと。
「ぼくのハーレイ、御奉仕は嫌いじゃないからね! やるぞって気持ちが高まるらしくて、ぼくにも大いに見返りってヤツがあるものだから!」
たとえ肩凝りが酷くなろうが、一日一本、バナナ彫刻! と迷惑な闘志は高まる一方。
「ぶるぅ、バナナは常備しといてよ? ぼくが毎日、彫りに来るから!」
「かみお~ん♪ 任せといてよ、バナナもレモンも新鮮なのを用意しとくね!」
「「「うわー…」」」
死んだ、と突っ伏す私たち。ソルジャーの御奉仕とやらの腕が存分に上達するまで、来る日も来る日もバナナ彫刻、それもアヤシイ語りがセット。黙って彫っててくれるだけならいいんですけど、口が塞がってても、爪楊枝を咥えていない時間は確実に何度も訪れるわけで…。
「えっ、黙ってたらつまらないかな、君たちは?」
もっと喋った方がいいかな、とソルジャーはバナナ彫刻片手にニンマリと。
「ぼくは思念波の方も得意だからねえ、口で彫ってる間も思念で喋れるってね!」
明日からはそっちのコースにしてみようか、と恐ろしすぎる提案が。
「君たちも退屈しなくていいだろ、思念で色々喋った方が!」
「要りませんから!」
誰も希望を出してませんから、とシロエ君が必死の反撃を。
「そういうのはですね、キャプテンの前でやって下さい、きっと喜ぶと思いますから!」
「何を言うかな、こういう努力は秘めてこそだよ!」
ハーレイが全く知らない所で地道な努力を積んでこそ! とソルジャーは譲りませんでした。
「いいね、明日から一日一本、バナナ彫刻! ぼくの素敵なトークつきで!」
御奉仕とは何か、口でヤることの素晴らしさと真髄とは何処にあるのか。それを思念でみっちりお届け、と宣言されて泣きの涙の私たち。バナナ彫刻、見た目は見事なんですけれど…。
「君たちの知識もきっと増えるよ、そしてぼくにはハーレイと過ごす素敵な時間!」
バナナ彫刻を始めて良かった、と感慨に耽っているソルジャー。迷惑すぎる趣味の世界は当分続いていきそうです。ソルジャーが道を極めるのが先か、私たちが討ち死にするのが先か。爪楊枝を咥えてバナナ彫刻、一日一本、彫るなと言っても彫るんでしょうねえ…。




            バナナの達人・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーが始めたバナナ彫刻ですけれど…。実は本当にあったりします。
 爪楊枝で彫るというのも本当。ソルジャーは極められるんでしょうか、迷惑ですけどね…。
 次回は 「第3月曜」 11月18日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、10月はマツカ君に脚光が。キース君が一日弟子入りで…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(わあ…!)
 とっても綺麗、とブルーが見付けた天使の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 ダイニングの広いテーブルの上で広げた新聞、その中に天使。もちろん、本物ではないけれど。
 SD体制が始まるよりも遠い昔に描かれたという天使の絵。
 足首まである衣を纏って、背に白い翼。幼い子供を守るように立つ、天の御使い。
(優しそうな顔…)
 天使に性別は無いと言うけれど、まるで聖母のような笑み。子供に向けられた慈母の表情。
(守護天使…)
 そんな説明がついていた。この幼子を見守る天使。
 絵の中の天使だけに限らず、人には誰でも守護天使がいるものなのだ、とも。
 生まれた時から命が終わる時まで、側にいる天使。それが守護天使で、人の数だけ、神が地上に遣わすという。誰の側にも天使が一人。
 この絵に描かれた子供さながら、守りの天使がついていると。



 遠い昔の絵画の天使は、それは優しそうで、清らかで。
 天上のものだと一目で分かる。宇宙とは違った、別の空から舞い降りた天使。人を守るために。
(…ぼくにもいるの?)
 守護天使が、とキョロキョロ周りを見回したけれど、姿が見えるわけがない。自分の目にも映るものなら、とうの昔に出会ってしまって、顔見知りになっているだろうから。
 たとえ言葉は交わせなくても、自分の側にはいつも天使が立っているのだと気付くから。
(…友達だって、天使がいるって言わないものね…)
 見えている人はいないのだろう。守護天使が守ってくれていたとしても。
 多分、選ばれた人にだけしか見えない存在、きっと天使はそういうもの。目には見えない。
(この絵を描いた人は天使に会えたのかな?)
 会えたのだろう、と考えてしまうほど、絵の中の天使は美しかった。どんな人をモデルに選んで描いても、本物の天使を見たことがなければ、この表情は描けないだろうと。人ならざる者が持つ聖性だって。
(…だけど、ぼくには見えないみたい…)
 自分の周りに天使はいないし、いるかどうかも分からない。気配さえしない。
 それに今では大勢の神様。
 SD体制の時代が終わって、消されていた神たちが戻って来た世界。太陽の神も、月の神様も。他にも沢山、色々な神が。
 人の姿をした神だけではなくて、ハーレイの財布に入っている銭亀だっている。長寿のお守り、それからお金が増えるようにと財布に入れておく小さな亀。
 隣町に住むハーレイの両親の家には、無事カエルもいると教わった。出掛けた人が無事に家まで帰れるようにと、玄関に座るカエルの置き物。それも神様。



 今の時代は、数え切れないほどの神様がいるらしい。神様同士は仲良くしていて、喧嘩したりは決してしないと聞いている。
 財布に銭亀を入れていたって、亀と守護天使は取っ組み合いの喧嘩はしない。口喧嘩だって。
 今はそういう時代なのだけれど、生憎と見えない守護天使。ダイニングの家具が目に入るだけ。
 いると言われても証拠などは無くて、本当はいないかもしれない。
(…でも…)
 前の自分たちが生きた時代も、消えなかった神。
 人は人工子宮から生まれ、血が繋がった本物の家族が無かった歪んだ時代。機械が統治し、人が機械に従った時代にも神だけはいた。
 統治しやすいよう、多様な文化も様々な神も消し去っていたのがSD体制。それでも人から神というものを取り上げたりはしなかった。一人だけに絞ってしまったけれど。
 SD体制の時代にも残った、唯一の神。クリスマスの日に馬小屋で生まれて、人間の犯した罪を背負って十字架についたと伝わる神の子。
 その神の使いが天使だと言うなら、背に翼を持った者だと言うなら。
(…やっぱり、ちゃんといるのかな?)
 見えていないだけで、自分の側にも守護天使が。
 この絵に描かれた子供と同じに、優しく微笑む天使が側にいるかもしれない、今だって。
 周りを歩いているかもしれない、床を踏む音さえ立てもしないで。



 翼を背負った天の御使い。高い空から、宇宙とはまるで違った空から舞い降りる天使。
 前にハーレイと庭から仰いだ天使の梯子。雲間から射す光の梯子を天使は行き来するという。
(ハーレイ、ぼくなら天使みたいに飛ぶだろうって…)
 「さぞかし綺麗に飛ぶんだろうな」とハーレイは言っていたけれど。
 今の自分は空を飛べないと知らなかったから、そういう言葉が出て来たけれど。
 もしも前の自分と同じように空を飛べたとしたって、本物の天使が飛ぶ姿にはきっと敵わない。
 自分には翼が無いのだから。
 天使の背にある純白の翼、それを自分は持たないから。
(前のぼくみたいに空を飛べても…)
 背中には無い、真っ白な翼。空を舞うための大きな翼。
 サイオニック・ドリームを使って作り出しても、幻の翼に過ぎない代物。ただの幻影。
(空を飛んでる姿だったら、天使の勝ち…)
 天使の翼は本物だから。
 鳥と同じに空を飛べるし、それを使って天使の梯子を行き来することが出来るのだから。



 翼を広げて飛んでゆく天使。
 新聞に載っている絵の守護天使は足で地面に立っているけれど、空を飛んでいる天使の絵だって沢山見て来た。雲間を舞ったり、天から地上に舞い降りようとする所だったり。
(綺麗だよね…)
 この絵の天使が飛んでゆく姿も、容易に想像出来るから。どんな風かと悩まなくても、白い翼を広げた姿が目に浮かぶから。
 ハーレイが夢を見たのも分かる。
 今の自分が天使のように空を舞うのを見たいと、天使の梯子を昇る姿を見てみたいと。
(絶対、無理…)
 ハーレイに見せてあげたくなったし、努力しようと決心してはいるけれど。
 いつか二人でプールに行ける時が来たなら、水の中で浮くコツをハーレイに習って、空気の中を飛んでいた頃の感覚を掴んで、空を目指そうとは思うけれども。
 そうやって空を飛べたとしたって、翼まではきっと作れない。今の自分の力では、とても。
 不器用すぎる自分のサイオン、なんとか翼を作れたとしても…。
(きっとヘンテコになっちゃうんだよ)
 純白の翼は生えているだけで、空を飛んでも全く動きもしないとか。
 空の世界で溺れかかっていそうな感じで、バタバタと無様に羽ばたくだとか。

 

 だからハーレイには諦めて貰うしかないだろう。この絵に描かれた天使のような自分の姿は。
 翼を広げて舞い上がる姿は、見せられないに決まっているから。
 前の自分がシャングリラの外を飛んだ時と同じに、翼など無い姿が限界。
 飛んでゆく速度は加減出来ても、背中に翼を生やせはしない。
(前のぼくでも、やってないしね?)
 自由自在に飛べたけれども、天使の真似などしていない。
 サイオニック・ドリームも操れたけれど、天使の翼を生やしてなんか…、と思ったけれど。
(…あれ?)
 天使の真似、という言葉が心の端っこに引っ掛かった。
 一度も考えたこともないのに、その筈なのに。
 純白の翼を背中に広げて飛んだ記憶は全く無いのに、何故か引っ掛かる「天使の真似」。
 もしかしたら、自分はやったのだろうか?
 生まれ変わってくる時に記憶を落っことしただけで、天使を気取っていたのだろうか?
 遠い昔に、白い鯨で。
 楽園という名の白い船から、翼を広げて飛び立ったろうか…?



 気になってしまった、天使の真似。守護天使の絵が載った新聞を閉じても、おやつを食べても、心から消えてくれない言葉。引っ掛かったままで抜けてゆかない言葉。
 ケーキをすっかり食べ終えた後も、紅茶を飲んでも、消えずに心に留まったまま。
 空になったお皿やカップをキッチンの母に返しに行っても、階段を上って部屋に戻っても。
(天使の真似…)
 どうしてこんなに引っ掛かるのか、と勉強机の前に座って頬杖をついた。遠い記憶を、きちんと探ってみなければ、と。
(…背中に翼…)
 前の自分なら出来ただろう。幻の翼を見事に作り出せただろう。
 いとも容易く、サイオニック・ドリームで一瞬の内に。
 まるで本物の天使さながら、自然に羽ばたくだろう翼を。空を飛んでゆく鳥たちを真似て。
 でも…。
(…やってないと思う…)
 本当にそんな記憶は無いから。
 生まれ変わって来た時に落として来たのだとしたら、心に引っ掛かることも無いだろうから。
 今は持たない記憶だったら、きっと反応することもない。
 成人検査と人体実験で記憶をすっかり失くしてしまった、前の自分がそうだったように。
 シャングリラの中で何を見ようと、何を食べようとも、引っ掛かってはこなかった。心を掠めることは無かった。これが気になる、と見詰め直すことはただの一度も。
 それがあるから、天使の真似事をやった記憶を失くしていたなら反応しないと断言出来る。
 なのに一向に消えてはくれない、「天使の真似」という言葉。
 やった記憶が無いのだったら、とうに心から抜け落ちている筈なのに。
 抜け落ちる前に、引っ掛かりもせずに通り過ぎてゆくだけなのに。



(なんで…?)
 やっていない筈の天使の真似。翼を生やした天使の真似事。
 けれども心から消える代わりに、ますます気になる一方だから。天使の真似という言葉の響きが引っ掛かるから、遠い記憶を手繰っていたら。
 きっと何かがある筈なのだと、遠く遥かな時の彼方へ記憶の旅を続けていたら…。
(子供たち…!)
 あの子たちだ、と蘇って来た幾つもの顔。前の自分がアルテメシアから救い出した子たち。
 幼かった子たちに取り囲まれて、口々に訊かれたのだった。
 天使は本当にいるのかと。
 神が遣わすという天の使いは存在するのかと、自分たちを助けてくれなかったけれど、と。
 ミュウと発覚して、ユニバーサルに追われた子供たち。天使は彼らを救わなかった。
「…それは、天使も忙しいから…」
 あちこちで仕事があるんだから、と答えたけれど。
「でも、ヒルマン先生が言ってたよ。守護天使、って」
 人間には必ず天使がついているんでしょ?
 生まれた時から守ってくれるのが守護天使だから、いつでも側にいるものだ、って…。
 どんな時でもついてるんだし、それが守護天使のお仕事で…。
 他のお仕事で何処かへ行ったり、忙しくなったりはしないと思う…。



 本当はソルジャーが天使なんでしょ、と無垢な瞳を輝かせていた子供たち。
 ソルジャーがみんなの守護天使でしょ、と。
 空も飛べるし、自分たちを助けてシャングリラに連れて来てくれた、と。
 本当は背中に翼があるんだと、この船に乗っている仲間たち全部の守護天使だ、と。
「ぼくには翼は生えていないよ、見れば分かるだろう?」
 背中にあるのはマントだけだよ、それしか見えないと思うんだけれど…。
「隠してるだけでしょ、ソルジャーは?」
 本当はちゃんと生えているのに、隠してるんでしょ?
 見せて欲しいな、ちょっとでいいから。
 天使の翼を見せて欲しいよ、と前の自分にせがんだ子たち。
 ソルジャーの背中の天使の翼、と。



(…前のぼく、どうしたんだっけ?)
 子供たちが見たいと願った翼。隠しているのだと思い込んでいた天使の翼。
 頼まれたのなら見せてもいいのに、サイオニック・ドリームを使えば見せられたのに。
 見せる代わりに、断った自分。
 ぼくは天使じゃないんだから、と。
 背中に翼は生えていないと、前の自分は断った。無いものは見せてあげられないよ、と。
(…子供たちの夢…)
 無邪気な子たちの夢を壊してしまった自分。天使の翼を見せる代わりに。
 幼い子たちの願いくらいは叶えてやっても良かったのに、と前の自分のケチっぷりに呆れ返ったけれど。子供たちの夢を壊すなんて、と酷い自分を責めたくなってしまったけれど。
(違う…!)
 ケチだったからでも、夢を壊そうとしたのでもない、と蘇った記憶。前の自分が考えたこと。
 子供たちには、神を信じて欲しかった。
 救いの手を差し伸べてくれるという神の存在を、神の使いの守護天使を。
 目には見えなくても、人を守ってくれる神。
 誰の許にも天使を遣わし、その見返りなど求めない神を。



 もしも前の自分が、あそこで翼を見せていたなら。天使の真似をしていたならば。
(ぼくが天使だっていうことになってしまって…)
 子供たちは本来いるべき筈の守護天使を顧みなくなる。目に見える天使を信じてしまって、前の自分が守護天使なのだと思い込んで。
 それでは救いは何処からも来ない。神の助けは届きはしない。
 自分は守護の天使ではなくて、ただの人間なのだから。神の使いではないのだから。
 子供たちを、白いシャングリラを守ることは出来ても、たったそれだけ。
 世界を救えはしない存在、神の前には小さな命の一つに過ぎないのが自分。
 どんなにサイオンが強かろうとも、人の器には大きすぎる力をその身に宿していようとも。
 人は人だし、天使ではない。
 守護天使に取って代わりは出来ない、神が遣わした本物の天使などではないのだから。



 天使の翼を見せる代わりに、「天使はいるよ」と子供たちに教えた前の自分。
 見えないけれども、守護天使は誰の側にもついているのだから、と。
 守護天使は必ず側にいるから、それを信じてお祈りしなくちゃいけないよ、と。
「はーい!」
「ヒルマン先生もそう言ってたよ!」
 でも本当はソルジャーが守護天使なのかと思っちゃった、と取り巻く子たちに「違うよ」と肩を竦めて、苦笑して。「ぼくはソルジャーで、ただの人間」と子供たちの誤りを正してやって。
 翼など生えていない証拠に、瞬間移動はしないで歩いて帰った青の間。
 深い海の底を思わせる自分の部屋へと帰ったけれども…。



(天使は何処かに…)
 いるのだろうか、と溜息を零した前の自分。
 守護天使は自分の側にいるのかと、目に見えないというだけだろうか、と。
 地獄だったとしか言いようがない、アルタミラの檻で過ごした時代。過酷な人体実験の果てに、育つことさえ放棄した自分。成長を止めて、自分が何歳なのかも忘れて。
 あの時代の自分が神に助けを求めたかどうか、もうそれすらも覚えていない。いつの間にやら、祈ることさえ前の自分は忘れ果てていた。どうせ救いは来ないのだから、と。
 神を再び思い出したのは、燃えるアルタミラの上だったろう。
 ハーレイと二人、燃え上がり崩れゆく地面を走って、幾つものシェルターを開けて回った時。
 間に合うようにと、自分たちが行くまで生きていてくれと、確かに何処かで祈っていた。言葉に出してはいなかったけれど、目には見えない神に向かって。
 そうして祈りを思い出した後、見失っていた神を再び見出した後。
 アルタミラから逃げ出した船で、この船で何度祈ったことか。
 白い鯨になるより前から、神に祈りを捧げたことか。
 このシャングリラに、ミュウに未来が開けるようにと。救いの手をどうか自分たちに、と。
 神がいるなら、守護天使がついているのなら。
 どうか、と祈り続けた自分。
 船の仲間たちも皆、神に祈っていただろう。ゼルやブラウたちも、前のハーレイも。
 白いシャングリラに教会は無くても、祈る心は誰もが持っていたのだから。



 けれども、最後まで来なかった助け。差し伸べられなかった、神の子の腕。
 天使はシャングリラに舞い降りては来ず、神の子の母も現れなかった。ただの一度も。
 代わりに下った地獄の劫火。再び襲ったメギドの炎。
 それがシャングリラを、仲間たちを焼いてしまわないよう、前の自分はメギドへと飛んだ。白い鯨を守るためにと、長い年月を共に暮らしたハーレイへの想いも未練も捨てて。
 そうやって飛んで、辿り着いたメギド。それを沈めて自分は死んだ。
 何の奇跡も起こらないままで。
 救いは何処からも来なかったままで。
 見えざる神も、守護の天使も、自分を救いはしなかった。
 仲間たちを守る盾となって死にゆく前の自分を、たった一人で暗い宇宙に散った自分を。



(前のぼくは…)
 最後に神に祈っただろうか、と思ったけれど。
 息絶える前に、もう一度神に縋ったろうかと考えたけれど、そんな記憶は何処にも無かった。
 青い光が溢れるメギドで、泣きじゃくりながら死んでいった自分。
 最後まで持っていたいと願った、右の手にあったハーレイの温もり。それを失くして、死よりも悲しい絶望の中で。
 もうハーレイには二度と会えないと、絆が切れてしまったからと。
 冷たく凍えてしまった右手。
 悲しみの中でミュウの未来を、ハーレイたちの幸せを祈りはしたけれど。
 その時に神を思ったかどうか、神に祈っていたのかどうか。
 改めて思うと、まるで何処にも無い自信。
 何に向かって祈っていたのか、自分でも本当に分からない。
 たった一つだけ、確かなこと。
 前の自分は何も祈りはしなかった。死にゆく自分のことについては、欠片でさえも。
 切れてしまったハーレイとの絆を繋いでくれとも、またハーレイに会えるようにとも。
 何も祈らないままで死んでしまった、祈りたいとさえ思わなかった。
 深い悲しみと絶望の只中にいては、もうどうしようもなかったから。
 神が救ってくれることさえ、想像しようもなかったから。



 祈らないままで、神に縋ろうとも思わないままで、前の自分の命は尽きた。
 神がいるとも思えない場所で、地獄の劫火を造り出すメギドの制御室で。
(だけど、聖痕…)
 前の自分がキースに撃たれた時の傷痕、それが刻まれていた今の自分の身体。
 SD体制が始まるよりも遥かな昔に、特別に神に愛された人。神の子が十字架で負わされた傷、神の苦難を思い続けた人の身にだけ、神が与えたと伝わる聖痕。神の子と全く同じ傷痕。
 神の子の傷とは違うけれども、今の自分も持っていた。身体には何の痕も無いのに、夥しい血を溢れ出させた幾つもの傷を。前の自分が負った傷と同じ、聖痕現象と診断された不思議な傷を。
 傷痕が浮かび上がるのと同時に戻った記憶。
 前の自分が持っていた記憶、それにハーレイまでが生まれ変わって戻って来た。
 前と全く同じ姿で、この地球の上に。前の自分が焦がれ続けた、ハーレイと目指した青い地球の上に。しかも蘇った青い地球。前の自分が生きた頃には、何処にも無かった青い水の星。
 前の自分は、何も祈りはしなかったのに。
 地球に行けるとも思わなかったし、ハーレイと再び巡り会えるとも思っていなかったのに。
 自分についてはただの一つも、ほんの小さな欠片でさえも、祈りもしないで死んだのに。



 祈った覚えは何も無いのに、聖痕を抱いて生まれた自分。
 青い地球の上にハーレイと二人、生まれ変わって来た自分。
 祈らなかった自分の代わりに、ハーレイが神に祈りを捧げてくれたのだろうか。
 目には見えない神が起こした本物の奇跡。聖痕と、それに生まれ変わりと。
 これだけの奇跡を起こせるのが神、神がいるから起こった奇跡。
 ならばどうして、前の自分たちを神は一度も救ってくれなかったのだろう?
 ミュウの未来が開けるようにと、救いの道をと、誰もが祈っていた筈なのに。
 前の自分も、ハーレイたちも。白いシャングリラの仲間たちも皆、それを祈っていたろうに。
(…神様、うんとケチだったわけ…?)
 奇跡を起こす力を持っているのに、救ってはくれなかった神。
 シャングリラに天使は舞い降りないまま、神の手は差し伸べられることなく、仲間たちを乗せた白い箱舟は地球を目指した。
 辿り着いた地球でも、神は誰をも救わなかった。
 グランド・マザーを倒したジョミーも、ジョミーを探しに地の底へ下りたハーレイたちも。
 リオの命さえも無残に奪った、ジョミーを助けに地球へ向かった勇敢なミュウの命さえをも。
 神が奇跡を起こしさえすれば、誰の命も地球で潰えはしなかったろうに。
 そう出来るだけの充分な力、それが神にはあっただろうに。



 起こすべき時に奇跡を起こさず、天使も寄越さなかった神。
 ジョミーやリオやハーレイたちにも、守護の天使はいたのだろうに。
 なんともケチだと、これでは神などいないのと何も変わりはしない、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから。
 これはハーレイにも話さなければ、とテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「…あのね、神様、いるんだよね?」
 まさか、いないってことはないよね、目には見えないっていうだけだよね…?
「当たり前だろう、でなきゃ俺たちは此処にいないぞ」
 こうして二人で座っちゃいないし、お茶も飲めなきゃ、菓子も食えんと思うがな…?
「そうだよね…。でも…」
 ハーレイ、変だと思わない?
 神様が本当にいるんだったら、何かが変だと思うんだけど…。



 前のぼくたちは神様に助けて貰っていない、と今の自分が抱いた疑問を口にした。
 何度も神に祈っていたのに、一度も聞いては貰えなかった、と。
「神様もそうだし、守護天使だって…。何の役にも立ってはいないよ」
 アルタミラにいた頃も、シャングリラで宇宙に逃げ出した後も。
 ナスカはメギドで燃やされちゃったし、前のハーレイたちだって地球で死んじゃったんだし。
「確かにな…。あまり役立ったとは思えんな」
 俺も何度も祈ってはいたが、せいぜいシャングリラが無事だった程度…。
 後は、お前を取り戻せたことか。
 前の俺だった間は叶わなかったが、こうしてお前に会えたんだしな。
「…ハーレイ、祈ってくれていたわけ?」
 前のぼくは泣きながら死んでしまって、何のお祈りもしなかったけれど…。
 ぼくの代わりに、前のハーレイがちゃんとお祈りしてくれてたんだ…?
「ああ。まさかこうして取り戻せるとは思わなかったが、また会いたいとな」
 其処が何処でもかまわないから、もう一度お前に会わせてくれと。
 俺をお前のいる所まで連れて行って欲しいと、一日も早く俺の命を終わらせてくれと。
「じゃあ、神様はやっぱり…」
 何処かにいるっていうことなんだね、ハーレイがお祈りしていた通りになったのなら。
「いらっしゃる筈だと俺は思うが?」
 現にこうして、俺たちは地球で会えたんだ。
 しかも前のお前が行きたかった青い地球ってヤツだぞ、前の俺たちが生きた頃には無かった星。
 死の星だった地球しか無かった筈だというのに、お前の夢まで叶っただろうが。
 これが神様の力でなければ何だと言うんだ、それにお前は聖痕まで持っているんだからな。



 神がいるという確かな証拠が今の俺たちだろうが、というハーレイの言葉は正しいと思う。
 けれど、それなら前の自分たちには、どうして救いが来なかったのか。
 あんなに誰もが祈っていたのに、白いシャングリラの皆が祈りを捧げたろうに。
「…神様、ホントにいるんだったら、助けてくれれば良かったのに…」
 前のぼくたちを放っておかずに、シャングリラごと。
 …前のぼくは仕方ないとしたって、ハーレイたちまで地球で死んじゃうことになったんだよ?
 ジョミーなんかは可哀相だよ、最後まで苦労ばっかりで…。
 前のぼくよりずっと短い間だけしか生きられなくって、楽しいことだって、ほんの少しで。
 神様が奇跡を起こしてくれていたら、ジョミーも長生き出来たのに…。
「そいつは俺も思いはするが、だ…。神様に見捨てられたようにも思わないではないんだが…」
 しかし、そう考えるのは間違いってヤツだ。
 奇跡を体験しちまったばかりに、あの時だって、と考えちまう。神様の力なら出来た筈だ、と。
 確かに、神様がやろうと思えば出来ただろう。それは間違いないと思うが…。
 俺が思うに、時がまだ来ていなかったんだろうな。
「え?」
 時ってなんなの、どういう意味…?
「前にも言ったろ、全てのわざには時がある、と」
 聖書の言葉だ。…前の俺だった頃は特に印象には残らなかったし、心に留めてもいなかった。
 だがな、今ならよく分かるんだ。
 生きるに時があり、死ぬるに時があり…。
 全ての物事には起こるべきタイミングがあるってことだな、奇跡ってヤツも時が来ないと神様は決して起こしてくれない。
 前の俺たちが生きた時代は、そういう時代だったんだ。神様が奇跡を起こさない時代。どんなに祈って祈り続けても、奇跡は起こりやしなかったってな。



 その代わりに…、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
 奇跡を起こす代わりに、神様はミュウの時代が始まるための種を蒔いて下さった、と。
「神様は、今の俺たちが生きてる平和な時代を立派に作って下さったんだ」
 今じゃ人間はみんなミュウだろ、前の俺たちが夢見た世界が本当に実現したってわけだ。
 しかし、そいつを作るためには、ミュウが生まれて来なけりゃいかん。
 沢山のミュウが次から次へと生まれる時代が来ないことには、ミュウの時代も始まらない。
 それが前の俺たちが生きた時代だ、始まりの時代。
 神様が蒔いた種から大勢のミュウが生まれて、前のお前も、俺もその中の一人だったんだな。
「それはそうかもしれないけれど…。始まりの時代だったけど…」
 だけど、神様は一度も助けてくれなかったよ?
 神様が種を蒔いたんだったら、あんな酷い目に遭っていたのを助けてくれても良かったのに…。
 アルタミラもそうだし、ナスカだって。
 …ミュウは二回も全滅しかかったんだよ、神様が助けてくれなかったから…!



 酷い、とハーレイに訴えたけれど。
 種だけを蒔いて、後は助けずに放っておくなど酷すぎないかと言ったのだけれど。
「…そこも間違えちゃいけないトコだな。神様が考えておられたことを」
 神様は、前の俺たちに「自分たちの力で生きろ」と仰ったんだ。
 奇跡や救いをアテにしないで、自分たちの力で生き抜いてみろと。
 それが出来ないなら、ミュウに未来は無いだろうとな。
「…どうして?」
 神様は何でも出来る筈なのに、どうしてミュウを放っておくの?
 ほんのちょっぴり、前のぼくたちが祈った分だけ、助けてくれても良さそうなのに…。
「それが勘違いというヤツだ。神様は試しておられたわけだな、ミュウの強さを」
 甘やかさないで、自分たちの足で歩いていけと前の俺たちを放っておかれた。
 自分の足では歩けないような種族に未来があるか?
 神様が力を貸してくれなきゃ、一歩も進めないような弱い種族に。
「無いかもね…」
 なんとか先へは進めたとしても、いつか滅びてしまいそう。
 人類がミュウを滅ぼしにかからなくっても、あんまり弱いと勝手に滅びてしまうよね。
 次の世代が生まれないとか、生まれて来たって弱すぎて育たないだとか…。
 トォニィたちみたいに強い子供は生まれて来なくて、先細りになって消えちゃったかもね…。
「そういうことだ。神様は過保護じゃなかったってことだ」
 甘やかす代わりに、色々な試練に遭わせたってな。これを頑張って乗り越えろと。
 そうやってミュウが生きてゆくために、必要なだけの助けは下さっていたんだろう。
 前のお前が持っていたような、とんでもない強さのサイオンとかな。
「そっか…」
 まるで助けてくれなかったっていうわけじゃないんだね、前のぼくが気付いてなかっただけで。
 前のぼくのサイオンも神様がくれたものだったんなら、神様は役に立ってたね…。
 あれが無ければメギドを沈める力だって無くて、ミュウもシャングリラもおしまいだものね…。



 前の自分が祈り続けても、何処からも救いは来なかったけれど。
 シャングリラに天使は舞い降りては来ず、神の手も差し伸べられなかったけれど。
 神があえて自分たちを試していたのだったら、わざと突き放していたのだったら。
「…ねえ、ハーレイ。前のぼくにも天使がついていたのかな?」
 誰にでも守護天使がついているって言うけど、前のぼくにもいたのかな…?
 前のぼくは一度も会えなかったし、天使がいるって信じられるようなことも起こらなくって…。
 ホントにいるのか心配になったくらいだけれども、天使はちゃんとついてたのかな…?
「いたと思うぞ、姿は一度も見えなくてもな」
 お前がメギドに飛んで行った時も、天使は一緒に行ったんだろう。
 そうしてお前を最後まで守って、ついていたんだと思うがな…。お前が倒れてしまわないよう、隣で支えていたかもしれん。お前は酷く弱っていたのに、あれだけのことが出来たんだから。
「…そうだね、支えてくれてたのかもね…」
 ハーレイの温もりを失くしちゃうほど痛かったんだし、気絶していたって不思議じゃないもの。
 なのに最後まで頑張れた力、天使が隣で支えてくれてたお蔭かも…。
 ぼくは気付いていなかったけれど、ホントはメギドで独りぼっちじゃなかったんだね。
 天使が一緒にいてくれたんだね、メギドまで一緒に来てくれたくらいに頼もしい天使。真っ白な翼が煤だらけになっても、汚れちゃっても、ぼくと一緒にいてくれた天使…。



 天使の翼や純白の衣に、メギドの中で舞い上がった煤がつくのかどうかは分からないけれど。
 前の自分がサイオンで砕いた床や通路の塵を浴びても、天使の翼や衣は真っ白なままで、眩しいくらいに輝いていたかもしれないけれど。
 前の自分にも、ついていたらしい守護天使。メギドで命が尽きる時まで。
「…今も守護天使はいるのかな?」
 今のぼくにもついているかな、真っ白な翼を持った天使が。
「うむ。きっと前のと同じヤツがな」
 天使に向かってヤツって言うのもどうかと思うが、人でもないし…。同じお方じゃ固すぎるし。
 前のお前と同じ天使がついていそうな気がするな、俺は。
「ホント?」
 前とおんなじ天使がぼくに…?
 今だって側についててくれるの、今のぼくは前よりずっと弱虫になっちゃったのに…。
「そんなお前だからこそ、同じ天使でなくっちゃな」
 きっと同じだと思っちまうわけだ、お前が幸せになれるのを見届けようとしていそうだな、と。
 天使にしたって、きっと気掛かりってヤツだと思うぞ、前のお前がああなったから。
 今度こそ幸せになってくれないと、と名乗り出そうだと思うんだよなあ、神様が守護天使を誰にするかを考えてた時に。
 私がやります、って誰にも役目を譲ろうとせずに、今度もお前の守護天使をしていそうだぞ。
 メギドでも支えてくれる天使だ、守護天使としては最強じゃないか。
 それが今度は幸せになれる道へ向かって、お前を支えてくれるってな。



 最強の天使が真っ白な翼を大きく広げて、俺たちの結婚式までお前を連れて行ってくれるさ、とハーレイが優しく微笑むから。
 間違いなく前と同じ天使がいるに違いない、と言ってくれるから、守護天使は今も見守っていてくれるのだろう。
 前の自分をメギドで支えてくれていた天使。力尽きて倒れてしまわないよう、最後まで隣にいてくれた天使。
 きっと、その天使が青い地球まで自分を連れて来てくれた。
 ハーレイと二人で生きてゆける場所へ、前の自分が焦がれた地球へ。
 天使の姿は見られないけれど、自分の目には見えないけれど。
 きっと今度こそ、幸せになれる。
 最強の天使が結婚式まで導いて行ってくれるのだから。
 ハーレイと二人で歩き出す日へ、手を繋ぎ合って共に歩み出す日へと。
 前の自分にもついていた天使。真っ白な翼の頼もしい天使が、今も守ってくれるのだから…。




              守護天使・了

※シャングリラの頃には、現れなかった守護天使。神の奇跡も起こらないいまま終わった時代。
 それでも守護天使は、前のブルーの側にいたのでしょう。同じ天使が、今のブルーにも…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











(んーと…)
 綺麗なんだけど、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
 ダイニングのテーブルで何気なく広げてみたのだけれども、そこに青い薔薇。神秘的な青を身に纏った花。幾重にも重なり合った花弁がそれは美しく、完璧と言っていい形の薔薇。
 写真に写っているのは一輪、たった一輪で人を魅了する。気品に満ちた薔薇ならでは。
(とっても綺麗…)
 遥かな遠い時の彼方で、前の自分が夢見た地球の青いケシの花。人を寄せ付けない高い峰にだけ咲くという青に焦がれ続けた、いつか青いケシを地球で見たいと。その青を思わせる青い薔薇。
 けれど、記事には「幻」の文字。
 写真の薔薇は遠い昔に花開いたもので、本物の花はとうの昔に咲いて散った後。
 だから幻、青い薔薇はもう見られないから。



(今は無いんだ…)
 本当に青い薔薇の花。気高く青く咲き誇る品種。
 この新聞に載っているような薔薇は何処にも無いという。広い宇宙を捜し回っても、様々な手を尽くしたとしても、青い薔薇の花には出会えない。
 白い薔薇に青い色水を吸わせて染めた青なら、扱っている花屋もあるらしいけれど。
(…青い薔薇、宇宙から消えちゃった…)
 SD体制が始まるよりも遠い昔に、一度は完成した青い薔薇。人は青い薔薇を愛でていた。青い色水を与えなくても、最初から青く咲く薔薇を。
 けれども、その青は今は幻。こんな写真でしか残っていない。青い薔薇は普通の方法で生まれた花ではなかったから。何度もの交配を繰り返して出来た、自然の青とは違ったから。
 青い色素を持っていない薔薇。青くするには青い色素を持たせればいい、と考えた遠い遠い昔の研究者たち。青い薔薇の花は、彼らの研究室から生まれて来た。薔薇の愛好家の庭ではなくて。
 SD体制の時代の人間たちが人工子宮から生み出されたように、青い薔薇は研究室で生まれた。人が組み込んだ青い色素を作るための遺伝子、それを抱いて。
(普通の薔薇じゃないんだ、これ…)
 まさしく創り出された薔薇。人間の手で、自然の摂理を歪めて。
 そういう花なら、今は無いのも頷ける。
 前の自分たちがリスとネズミから創り出した生き物、ナキネズミ。彼らの姿も宇宙から消えた。繁殖力が衰えていって、最後の個体が死んでしまって。
 ナキネズミをどうやって創り出すのか、繁殖力を保つためにはどうすればいいか。データは充分あったけれども、人間はそれを使わなかった。
 人が手を加えすぎた生き物は、後世に残すべきではないから。自然の摂理は守るものだから。
 それを守らなかった人間たちのせいで、地球は滅びてしまったから。
 青い薔薇の花も、青い毛皮を纏ったナキネズミたちも、残さないことを選んだ新しい時代。人は自然に従うべきだ、と。



 そうやって消えた青い薔薇。もう見られない神秘の青。
 SD体制の時代には幾つもあったという。様々な花の形や咲き方、創り出した人や施設の名前をつけられた青い薔薇の品種が。
 薔薇園があれば、当たり前のように青い薔薇の花。公園にも、個人の庭にも咲いていた青。前の自分が生きた時代は、青い薔薇が溢れていた時代。
(…前のぼくは…)
 本物の青を見てる筈だよ、と思ったけれども、記憶に無い。青い薔薇の花は。神秘的な青は。
 首を捻って、遠い記憶を探ってみる。白いシャングリラにあった公園。ブリッジが見える大きな公園、居住区に幾つも鏤めてあった小さな公園。
 端から思い浮かべてみるのに、青い薔薇を見た覚えがない。ただの一輪も。
(青い薔薇、咲いていなかったわけ?)
 前の自分が長く暮らしたシャングリラには。白い鯨の公園には。
 あちこちの公園で四季咲きの薔薇たちが咲いていたのに。
 愛でるだけではもったいないから、と萎れてきた花で薔薇の花のジャムを作った女性たちもいた船なのに。大勢の仲間たちが薔薇を眺めて、姿や香りに癒されていた筈なのに…。



 あれだけ沢山の薔薇があったら、青も混じっていそうなもの。今の時代は幻の青。
 どうして記憶に無いのだろうか、と不思議に思いながら食べ終えたおやつ。キッチンの母に空になったお皿やカップを渡して、部屋に戻って、引っ張り出したシャングリラの写真集。ハーレイとお揃いの豪華版。順にページを繰ってゆくけれど…。
(やっぱり無い…)
 公園の写真はルーペで拡大出来る仕様で、細かい所までよく見える。花壇を彩る花の種類も。
 もしかしたら、と端から端まで拡大してみても、青い薔薇の花は写っていない。ごくごく普通の薔薇があるだけ、赤やピンクや黄色や白や。いくら探しても、見付からない青。
 どおりで記憶に無かったわけだ、とついた溜息。
 シャングリラで咲いていなかったのなら、青い薔薇など知らないだろう。
(…前のぼく、奪い損なった?)
 青い薔薇の苗を奪い損ねてしまっただろうか、人類の世界の育苗施設や種苗店から。
 それとも栽培が難しかったろうか、楽園という名の宇宙船の中では。
(…そういうことも…)
 あったかもしれない、人工的に創り出された薔薇だから。
 高い峰にしか咲かない青いケシと同じで、気難しい花。簡単には育てられない品種。
 きっとそうだろうとは思ったけれども、青い薔薇の方に問題があったと思うけれども。
(奪い損ねた方なら嫌だな…)
 前の自分の力が及ばず、手に入れられなかった方だったら。
 青い薔薇が欲しいと皆が願ったのに、叶えられなかったソルジャーだったら情けないから。



 白いシャングリラが完成した時、人類から物資を奪って生きる生活から自給自足に切り替えた。全てを船の中だけで賄い、二度と奪わない生活へと。
 そのために必要な植物や動物、そういったものを調達したのが前の自分で、最後の略奪。人類の施設や農場などから奪って持ち帰り、それを育てた。
 薔薇もリストに入っていたから、苗木を幾つも奪った筈。赤い花のや、白い薔薇やら。
(…青も入っていた筈なのに…)
 奪って来たなら、育てる過程で失敗するとも思えないのに、公園には無い青い薔薇。
 こうなった理由をハーレイに訊きたい、どうして青い薔薇が無いのか。
 前の自分が奪い損ねたせいで青い色の薔薇が無かったのなら、仲間たちに悪いことをしたから。
 写真だけでも魅せられてしまった神秘の青。
 それを見たいと願っただろう、白いシャングリラの仲間たちに申し訳ない気持ちだから。



 奪い損ねた方ではなくて、宇宙船の中では育てられない品種だったと思いたい。気難しい薔薇はとても無理だと、誰かが言ったという方がいい。
 前の自分の失敗よりは…、と考えていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓に駆け寄って見下ろしてみれば、門扉の向こうで手を振るハーレイ。これはチャンスだと振り返した手。
 ハーレイが部屋まで来てくれた後に、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで問い掛けた。
「あのね…。ハーレイ、青い薔薇の花、知っている?」
 綺麗な青い花が咲く種類の薔薇のことなんだけど…。
「青い薔薇か…。たまに染めたのを売っているよな」
 花屋の店先で見たことはあるが、あの青い薔薇がどうかしたのか?
「それじゃなくって、本物の青いの…」
 染めた青だと偽物でしょ?
 元は白とかで、青い薔薇じゃないよ。
「はあ? 要は青けりゃいいんだろうが」
 本物も偽物もあるもんか。青い薔薇と言ったら、青い色水を吸わせて青くしたヤツだ。
「だから、本物の青い薔薇だってば!」
 染めなくっても咲いた時から青い薔薇だよ、きっと蕾も青いんだよ。
 だって元から青いんだから。そういう色をした花が咲く薔薇で、青い花しか咲かないんだから!



 新聞に写真が載っていたよ、と説明をした。神秘的な青い色の薔薇。
 今の時代は幻だけれど、前の自分たちが生きた頃には本物が咲いていたらしい、と。
「ホントのホントに青い薔薇だよ、とっても綺麗な写真だったよ」
 でもね…。今は何処にも無い薔薇だって。
 ナキネズミと同じで、人間が手を加えすぎてて、だから残らなかったって…。
「そういや、そうだな」
 青い薔薇ってヤツは人工的に創り出された品種だった筈だ。青い色素を組み込んでな。
「…ハーレイ、そこまで知ってたの?」
 薔薇には青い色素が無いって、そんなトコまで。
「今、思い出した。…今まで綺麗に忘れていたが…」
 そいつを聞いたら思い出したぞ、ヒルマンには先見の明があったってことを。
「え…?」
 なんでヒルマンの名前が出て来るの、ヒルマンが薔薇の係だった…?
「いや。それにシャングリラには無かったぞ。青い薔薇なんぞは一本もな」
 ヒルマンのお蔭で、青い薔薇だけは無かった船だ。
 他の色の薔薇は揃っていたがだ、青は要らないということでな。



 青い薔薇は最初から要らないものだった、とキャプテンだったハーレイが断言したから。
 どうやらヒルマンの指示らしいから。
「青い薔薇…。前のぼくが奪い損なったんじゃないの?」
 人類の世界から薔薇の苗を色々奪って来た時、青だけは奪い損なったとか…。
「それで青い薔薇と言っていたのか?」
 シャングリラの写真集を見ていたようだが、青い薔薇が咲いていないと気付いて。
「うん…。前のぼくが奪い損なったんなら、みんなに悪いことをしたと思って…」
 あんなに綺麗な花が咲く薔薇なのに、シャングリラには咲いていなかったなんて。
 育てるのが難しいから無かったんなら仕方ないけど、前のぼくのせいで無かったのなら。
「それは逆だな、あの薔薇は無い方が良かったんだ」
 いくら綺麗な花が咲こうが、シャングリラに青い薔薇は要らない。
 そう言い出したのがヒルマンだったし、青い薔薇は植えずに終わったってな。
「なんで?」
 とても綺麗な花なのに…。写真で見たって、ビックリするほど綺麗だったのに。
「不自然だからだ、青い薔薇の花は」
 覚えていないか、ヒルマンたちと会議をやってた時のこと。
 白い鯨に改造した船に何を植えるか、何度も会議をしていた筈だが…。その中の薔薇だ、薔薇の品種は沢山あるから、どれにするかを決めた会議だ。
 何色がいいとか、どういう形の花が咲くのがいいだろうか、とかな。
「…そっか、あの時にやった会議で…」
 青は要らないって決まったんだっけね、シャングリラには。
 他の薔薇は色々あってもいいけど、青だけは植えないことにしよう、って。



 蘇って来た、遠い遠い記憶。前の自分がソルジャーとして出席していた会議の席。
 前のハーレイと、長老の四人。最終決定権を持った六人が集った会議。
 薔薇を植えることは既に決まっていたから、次は植えるべき薔薇の選択。色々な品種が存在するだけに、最終的には候補の中から船の仲間たちが投票で決めることになったのだけれど…。
「青い薔薇だけはやめておこう」
 他の色はともかく、青だけは…、と色そのものを候補から外そうとしたヒルマン。
「なんでだい?」
 青はソルジャーの名前の色じゃないか、とブラウが即座に噛み付いた。
 どうして駄目なのか分からないねと、青い薔薇ばかりでもいいくらいだよ、と。
「ソルジャーの名前の色と言われれば…。確かに青はブルーなのだが…」
 そういう意味では、青い薔薇も悪くはないのだがね…。
 しかし、青い薔薇の歴史を考えてみると、私はどうも気が乗らない。
 青い薔薇の花言葉は「不可能」だと言われていたのだよ。遠い昔には。
「不可能じゃと?」
 それはどういう意味なんじゃ、とゼルが訝り、他の者たちも。…ただ一人、エラを除いては。
「早い話が、出来ないという意味のことだね」
 どう頑張っても、青い薔薇の花は作れない。
 人間が努力に努力を重ねても、青い薔薇は生まれなかったのだよ。



 薔薇を愛する人はもとより、研究者までが創り出そうと挑戦したのが青い薔薇。
 けれども、青い色素を持たなかった薔薇は、青い花を咲かせはしなかった。どう頑張っても紫に見える花が限界、自然からは生まれて来なかった青。
「その薔薇を青くしてしまった頃から、地球は壊れていったと言うね」
 自然の力では作れない青を、人間が薔薇に持たせた頃から。
「そうなのかい?」
 ぼくは薔薇の歴史に疎いのだけれど、青い薔薇の花が出来た頃から、地球は滅びに向かったと?
「ええ。そのようです、ソルジャー」
 エラも肯定した、青い薔薇の誕生と地球の自然が壊れ始めた時期との一致。
 交配を繰り返しても青い色の薔薇は作れないから、と人間たちは薔薇に青い色素を組み込んだ。遺伝子を弄って、まるで神のように。
 そうして生まれた本当に青い花の薔薇。不可能という花言葉を与えられていた筈の奇跡の薔薇。人は神秘の青に魅せられ、幾つもの品種が生まれたけれども、地球は青さを失っていった。
 本当だったら、薔薇と同じに青い筈の地球。青い薔薇には「地球の青」という名の品種まで存在したというのに、その青が消えていった地球。
「…青い薔薇に吸われちまったのかい?」
 青い色を、と瞬きしたブラウ。偶然とはとても思えないから、と。
「そうではないがだ、人間が驕りすぎたのだよ」
 不可能を可能に出来たくらいの技術があれば、と人間は思い上がってしまった。
 出来ないことなどありはしないと、何でも人の意のままになると勘違いをしてしまったのだね。



 まるで万能の神になったかのように、驕り高ぶってしまった人間たち。
 青い薔薇までも創り出せた時代、自然そのものも変えてしまえると誰もが考え、実行した。人に都合がいいように。住みたい所に住めるようにと、川の流れも変えてしまって。
 そうやって綻び始めた地球。歯車が狂い、軋み始めた地球が持っていた本来の力。
 毒素を洗い流してくれる筈の水は、毒の水へと変わっていった。毒の水は母なる海に流れ込み、海までが毒に変わってしまった。大気も汚染され、木々も草も窒息し始めた地球。
 テラフォーミングの技術は進んでいたのだけれども、愚かな人間たちの力は、滅びゆく地球にはもはや通用しなかった。
 青い薔薇の新しい品種は創り出せても、青い地球を取り戻すことは出来なかった学者や研究者。
 彼らは諦めるしかなかった、地球をもう一度青くすることを。
 自分たちの力では不可能なのだと、青い薔薇の花言葉を地球に重ねるより他には無かった。
 地球の青さを取り戻すためには、人間の方が変わるしか道は無いのだろうと。
 自分たちの代わりに、地球を蘇らせるための人間と世界が必要だろうと。
 彼らはSD体制を敷くことを決めて、地球を離れざるを得なかった。地球も人間も、何もかもを機械に任せる世界。
 そうして人類は地球を離れて、古い世代は滅びていった。機械が人工子宮から生み出す、新しい時代の人間たちに全てを託して。
 遠い何処かへ旅立って行った、彼らのその後は分からないという。何処を目指したか、どの星で最後の人間が命尽きたのかも。



 地球の滅びは、青い薔薇から始まったわけではないけれど。
 青い薔薇が地球の青さを吸い取ったわけではないのだけれども、人の驕りが生み出したのが青い薔薇。遠い昔には「不可能」の花言葉を持っていた花、青い色素を持たなかった薔薇。
「…そういう薔薇を植えるというのは、どうかと私は思うわけだよ」
 美しいことは認めよう。…しかし、私には不自然に見える。今はありふれた青い薔薇でも。
 最初の生まれが不自然だったと知っているからか、この船には植えたくないのだよ。
 シャングリラの中の自然は人工的に作るしかないが、だからこそ。
 我々の手で作るしかない楽園だからこそ、自然が息づく船にしたいと思わないかね。
 人が創った青い薔薇が無い、自然な世界。本来の色の薔薇だけしか無い、温かい船に。
「そうかもねえ…」
 ヒルマン、あんたの言う通りかもしれないね。
 綺麗だからって、青も欲しいと無理やり自然を捻じ曲げたのが青い薔薇ならね…。
 青い薔薇はやめた方がよさそうだねえ、とブラウが頷き、前の自分も頷いた。前のハーレイも。もちろん、ゼルも。



 そうして決まった、青い薔薇を導入しないこと。
 植える薔薇の品種の候補を書き出して皆が投票した時、当然のように出て来た質問。青い薔薇が一つも無いのは何故かと、これでは片手落ちではないかと。
 ヒルマンは会議の時にしたのと同じ説明をしてから、こう問い掛けた。
 「それでも欲しいと言う者があれば、もう一度、会議をしてみるが…。どうするかね?」と。
 欲しい者は手を、と挙手を促した声に、一つも挙げられなかった手。
 シャングリラで暮らす仲間たちは皆、青い薔薇の無い船の方がいいと考えていた。美しさだけで選んだのでは駄目だと、中身まで見て選ばねば、と。
 青い薔薇は全員一致で植えないことになり、青以外の薔薇が選ばれた。赤やピンクや、白い花。薔薇が本来持っていた色、それを宿した薔薇ばかりが。
 前の自分が選ばれた薔薇の苗を奪って、立派に育った白いシャングリラの薔薇の数々。四季咲きだったから、薔薇の花はいつでも咲いていた。船の何処かで。青以外の薔薇が。
 アルテメシアで救い出して船に迎えた子供たちには「青色が無い」と何度も言われたけれども、その度にヒルマンが丁寧に教えた。子供たちにも理解できるよう、分かりやすく。
 「この船には必要ない花なのだよ」と語り聞かせたヒルマン。
 青が欲しいなら薔薇の代わりに地球へ行こうと、地球の青こそが本物の青い色なのだと。



 薔薇の花も咲いていた楽園だったけれど、青い薔薇が無かったシャングリラ。
 前の自分が奪い損ねたせいではなかった、それは要らない色だった。
「そっか、青い薔薇…」
 シャングリラには要らない花だったんだね、いくら綺麗でも。
 ブラウが「全部青でもいいくらいだよ」って言っていたって、青は要らない色だったんだ…。
「うむ。前のお前は奪い損なったんじゃなくて、奪わなかっただけだ」
 最初からリストに入っちゃいなかったんだな、青い薔薇は。
 他の色だと、けっこう細かい指定があったような記憶もあるが…。この品種がいい、って具合で色々とな。花が綺麗だとか、香りがいいとか。
 しかし、青だけは必要なかった。
 前のお前は買い物に出掛けたわけじゃないから、そういう機会は無かったろうが…。
 「お買い得です」と青い薔薇がセールになっていたって、財布の紐を緩めはしない、と。
 いくら安くても要らない色では、安物買いの銭失いってヤツになっちまうからな。
「ふふっ、青い薔薇のバーゲンセールなんだ?」
 十本纏めてこの値段です、って書いてあっても、買って帰ったら叱られるんだね、ヒルマンに。
 青い薔薇なんかは頼んでないのに、無駄な買い物をしちゃって無駄遣いだ、って。



 前の自分は薔薇の苗を奪って帰ったけれども、買っていたならバーゲンセールもあったろう。
 青い薔薇がグンと安い時とか、他の色の薔薇とセットで割引になるような時だとか。
 それに釣られて買ってしまうとは思わないけれど、買っていたらきっと叱られた。ソルジャーに向かってヒルマンが怒った、「無駄遣いだ」と。
 想像してみて愉快な気分になったのだけれど、その青い薔薇。店はともかく、苗を奪いに入った場所でも、その他の場所でも…。
「…ハーレイ…。ぼく、青い薔薇を見た記憶が無いよ」
 苗を奪いに行った時には、青い薔薇もあった筈なのに。リストを見ながら「これと、これ」って感じで確認してたし、薔薇の花は山ほど見てたのに…。
 だけど、青いのを見ていないんだよ、絶対にあったと思うんだけど…。あれだけの薔薇が揃った場所なら、青が無い筈がないんだけれど。
 それにね、他の所でも同じ。
 前のぼくはアルテメシアに何度も降りたり、サイオンで様子を探ったりしてた。公園も、色々な施設なんかも。
 その時に「薔薇が咲いてるな」って思った記憶は確かにあるのに、青い薔薇の花、知らないよ。
 見たことがないとは思えないけど、ホントに覚えていないんだよ…。
「神様が消して下さったんだろうさ」
 前のお前が何処かで見ていた青い薔薇。
 ずうっと昔にヒルマンが言ってた通りになったからなあ、自然な世界を取り戻すために。
 本物の青い薔薇はもう何処にも無いんだ、二度と作られることもない。
 だから余計な記憶ってヤツだ、青い薔薇のことを覚えていたら。
 今の時代を生きてゆくには要らないものだし、神様が消して下さったんだと思うがな…?



 生まれ変わってくる時に、と微笑むハーレイ。
 青い薔薇の無い世界に向かって旅立つのだから、余計なものは忘れてしまえ、と。
「そう思わないか? …今の俺たちには要らないものだぞ、青い薔薇は」
 覚えていたって、欲しくなったって、買いにも行けやしないってな。
 もう一度見たいって気分になっても、お前が見付けた写真くらいしか無いってヤツだし。
「じゃあ、ハーレイも青い薔薇は…」
 覚えてないわけ、青い薔薇の花。
 前のぼくたちはシャングリラに植える薔薇のことで会議もしたのに、あの頃には青い薔薇の花が普通に存在してたってことを…?
「お前があったと言い出さなければ、あったことすら忘れてたろうな」
 今の俺にとっては青い薔薇は色水で染めたものだし、それしか知らん。それで全部だ。
 もっとも、前の俺にしたって、データで見たっていうだけだが。
 シャングリラに植えてはいなかったんだし、本物の青い薔薇ってヤツには出会っていない。
 お前は確かに本物を何処かで見てたんだろうが…。
 薔薇の苗を奪いに出掛けた時もそうだし、アルテメシアに降りた時にも。
「そうだよねえ…?」
 前のぼくが見てない筈がないよね、青い薔薇が咲いている所。
 やっぱり神様が消してしまったのかな、それは余計な記憶だから、って。
 綺麗だったからもう一度、って探しに行っても、本物にはもう会えないんだし…。
 ずうっと昔はこういう薔薇がありました、っていうデータだけ。
 ヒルマンが言ってた「地球の青」とか、絶対、前のぼくは探していたと思うんだけど…。
 何処かで偶然見付けたりしたら、「これがそうか」って、前に立って飽きずに眺めていそう。
 フィシスの水槽の前に立ってた時と同じで、地球を見ているつもりになって。



 前の自分が生きた時代は、存在していた青い薔薇。本当に青い薔薇の花。
 色水を吸わせて染めるのではなくて、蕾の時から青く咲くのだと約束されていた青い薔薇。青い色素を持っていた薔薇。人の手でそれを組み込まれて。
 ヒルマンが語った「地球の青」という品種は、是非見たかった。
 白いシャングリラに持ち帰ることは出来ない花でも、その名前だけで何時間でも佇めただろう。青い薔薇の前に。「地球の青」と呼ばれる青を見詰めて。
 きっと自分は探していたに違いない。
 地球の高い峰に咲くという青いケシに焦がれていたほどなのだし、「地球の青」と名付けられた青い薔薇の花を、きっと。青い薔薇が咲いているのを見たなら、「地球の青」は無いかと。
 憧れの青に出会うためにだけ、薔薇園に降りもしただろう。多くの品種が咲く薔薇園なら、その青もきっとあるだろうから。「地球の青」を育てているだろうから。
 前の自分の力があったら、見付けていない筈がない。目指す青色を、「地球の青」を。
 そうでなくても、アルテメシアを探っていたなら、何処かで見た筈の青い薔薇。「地球の青」の他にも、様々な品種の青い薔薇を前の自分は見たのだろう。
 花びらの先がツンと尖ったものやら、こんもりと丸く咲くものやら。幾重にも重なった花びらが重たそうな薔薇やら、引き締まった印象を受けるものやら。
 けれども、記憶に全く無い薔薇。
 ほんの小さな欠片さえも失くしてしまっているらしい、前の自分が見た筈の薔薇。
 新聞で写真を眺めた時にも、「あれだ」と思いはしなかったから。
 綺麗だと見入って、今の時代は無いらしいと知って、驚いていた程度だから。
 あれほどに神秘的な青なら、きっと記憶にある筈なのに、と。



 青い薔薇を忘れてしまった自分。わざわざ探しに出掛けただろう、「地球の青」さえも。
 データでしか知らないハーレイが忘れてしまったのなら分かるけれども…、と思った所でハタと気付いた。そのハーレイも本物の青い薔薇に出会っていたのでは、と。
「ねえ、ハーレイ…。青い薔薇、ハーレイも本物を見ていたんじゃないの?」
 ノアとかでシャングリラの外に出たんなら、青い薔薇、咲いていそうだけれど…。
 アルテメシアを落とした後にも、ハーレイは外に出ていたんでしょ?
 何処かで見てると思うんだけどな、本物の青い薔薇の花が咲いているのを。
「うーむ…。お前だけじゃなくて、俺も見ていたのか?」
 見たのにすっかり忘れちまったと言いたいわけだな、前の俺の方も。
 …薔薇の花なら、お前が言う通りに、あちこちで見た。通り掛かった公園とかにも、ジョミーと出掛けたユニバーサルだのパルテノンでも、薔薇は咲いてた筈なんだ。
 ついでに、星を陥落させたら、降伏して来た人類が歓迎の席を設けていたことも多かったし…。
 そういう席には必ずあったな、薔薇をドカンと生けた花瓶やら、そういったもの。
 一色で纏めたヤツばかりじゃない、色々な色の薔薇を生けてた花瓶もあった。
 俺はそいつを見ていた筈だし、「薔薇があるな」と思った記憶もきちんとあるんだが…。



 しかし…、とハーレイが考え込んでいるから、やはり、と思って訊いてみた。
「でも、ハーレイにも青の記憶は無いんだね?」
 青い薔薇の花を見たっていう記憶は、一つも残っていないんだ…?
 沢山の薔薇を見てたんだったら、青も混ざっていた筈なのに。
「そのようだ。…いくら考えても思い出せんと来たもんだ、これが」
 前のお前を失くしちまって、とっくに魂は死んでたわけだが、それと記憶は別問題だ。何処かで青い薔薇を見たなら、欠片くらいは残るだろう。眺めて通り過ぎただけでも、「青かった」と。
 薔薇を見たって記憶はあるのに、青い薔薇を覚えていないとなると…。
 お前と同じで、神様が綺麗に消して下さったんだろうな。
 青い薔薇なんかは見てもいないと、そんな花には出会っていないと。
「…ハーレイも忘れちゃったってことは、あったらおかしいものだから?」
 今の時代にあるわけがなくて、存在してはいけないもの。
 青い薔薇はそういう花だったから、ぼくもハーレイも忘れてしまったのかな…?
「多分な。神様の粋なお計らいってヤツだ」
 存在しないものに執着しないようにと、綺麗サッパリ記憶から消して下さったってな。
 お前の記憶に残ってた場合、お前、探そうとしないか、それを…?
「んーと…。普通の青い薔薇だったら、今は無いんだ、って素直に諦めそうだけど…」
 ちょっと危ない薔薇があるかな、ヒルマンが言ってた「地球の青」っていうヤツ。
 そういう名前の青い薔薇があるって聞いていたから、前のぼくが探していそうなんだよ。
 もしも何処かで見付けていたなら、絶対、飽きずに見ていそう…。地球の色だ、って。
 その記憶が今も残ってたんなら、ハーレイが言うみたいに探すと思う…。
 今は無いんだって分かっていたって、何処かにサンプルが残っているんじゃないか、って。



 諦め切れずに探しそうな薔薇が「地球の青」。前の自分が見ただろう花。
 今でも青いケシの花を見たいと思っているのと同じに、「地球の青」も見たいと探しただろう。今はもう無い花と分かっても、もしかしたら、と懸命に。
 そうならないよう、神は記憶を消し去ってくれた。青い薔薇を目にした記憶を全部。
 今の時代には、青い薔薇は存在しないから。作られることも二度と無いから。
 遠い昔に、ナキネズミが絶滅したのと同じで、今の自分は決して会えないものだから。
 でも…。
「ハーレイ、ぼく、ナキネズミは忘れてないよ?」
 青い薔薇みたいに、前のぼくたちが作った生き物だったのに。
 今の時代は、ナキネズミはもう二度と生まれて来ないのに…。
 だけど、ナキネズミの記憶はきちんと残ったままだよ、探したって会えっこないんだけどな。
 青い薔薇みたいに忘れていたって、ちっとも不思議じゃないんだけれど…。
「それは違うだろ、ナキネズミは青い薔薇とは全く違うぞ」
 青い薔薇は人間の我儘から生まれた花なんだ。見た目が綺麗だというだけでな。あれが無くても誰も困らん、色水で染めた青い薔薇があれば充分だ。
 だが、ナキネズミは見て楽しむためのものじゃない。
 作ろうと思った理由ってヤツはなんだった?
「んーと…。思念波を上手に使えない子供をサポートするためで…」
 だからジョミーにも渡しておいたよ、ナキネズミ。
 シャングリラに直ぐに馴染めなかったら、ジョミーをサポートしてくれるしね。
「ほら見ろ、ナキネズミは役に立つ上に、大切な生き物だったんだ」
 前の俺たちの船には必要な生き物だったし、観賞用の青い薔薇とは違うってな。
 だから忘れてしまわないわけだ、今の時代には要らないものでも。
 お前も俺も忘れないのさ、青い薔薇をすっかり忘れちまった俺たちでもな…。



 ナキネズミのことは覚えているのに、二人揃って忘れてしまった青い薔薇。
 白いシャングリラには無かった色の薔薇の花。
 蘇った青い地球のある宇宙に、もう青い花が咲く薔薇は無い。
 前の自分が探しただろう、見ていただろう「地球の青」という名前の青い薔薇も。
 青い薔薇は時の彼方に消えてしまった、人の手が自然を歪めて創り出した花は。
(…青い薔薇、もう無いんだね…)
 その花が幾つも咲いていた時代に生きていた筈の、自分たちの記憶の中にさえ。
 写真を見てさえ思い出せない、今は幻となった薔薇。
 今の時代の薔薇の色には、青は無いのが当たり前。青い薔薇はもう何処にも無い。
 遠い昔にヒルマンが「要らない」と言った通りに、失われた青。
(…地球の青と引き換えになっちゃった…?)
 そんな気もする、青い薔薇の青は青い地球へと還って行ったと。
 前の自分が飽きずに眺めた、「地球の青」が纏っていた青も。
 青い薔薇の色が地球に戻って、蘇った青い水の星。
 其処に青い薔薇はもう無いけれども、惜しい気持ちは起こらない。
 本物の地球の青を自分は手に入れたから。
 ハーレイと二人、青い地球の上に生まれ変わって、幸せに生きてゆけるのだから…。




             青い薔薇・了

※地球が滅びに向かった時代に、完成していた青い薔薇。「地球の青」という品種までが。
 けれど今では失われていて、ブルーもハーレイも覚えていない、白い船には無かった薔薇。
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