シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「ほほう…」
こいつは今が旬だしな、とブルーの向かいでハーレイが箸でつまんだもの。二人きりで過ごせる週末の昼食、ブルーの部屋のテーブルで。
両親も一緒の夕食とは違って、二人でゆっくり食べられる昼食。ブルーの母が作った茶碗蒸しの中から出て来たユリ根。
これの時期だ、とハーレイがユリ根を頬張ったから。
「ユリ根、今なの?」
今頃の時期に採れるものなの、ユリの根っこだよね?
「根っこと言うか、球根と言うか…。旬は今だな、もっと遅くに出荷することもあるようだが」
おせち料理に人気の食材なんだ、ユリ根はな。その時期に合わせて出荷したなら高値で売れる。だから貯蔵しておいて、その時期に合わせて売りに出す、と。
それに年中、売ってはいるしな…。旬と言ってもピンと来ないかもしれないが。
「ふうん…? でも、採れるのは秋なんだね」
百合の根っこだから、普通の野菜とはちょっと違うけど…。
同じ地面の中にあるものでも、ジャガイモとかとは違うよね、ユリ根。
これを採っちゃったら、来年は花が咲かないどころか、その場所に百合は無いんだもの。
どういう仕組みになっているのか、謎なのがユリ根。
球根を人間が食べてしまったら、百合は絶滅しないだろうか、と考え込んでいたら、ハーレイに教えられたこと。
球根があれば百合は何年でも同じ場所から咲くものだけれど、花から種も出来るのだと。それに茎から球根の子供が生まれる種類の百合もある。ムカゴと呼ばれる球根の子供。
「つまりだ、何がなんでも球根が無ければ駄目だというわけじゃない」
人間様の方でも、それを承知で球根を頂戴するって仕組みだ。百合がすっかり消えちまったら、ユリ根どころじゃないだろうが。
「それはそうかも…。絶滅するまで食べていたんじゃ駄目だよね」
地球を滅ぼしてしまった人たちがやっていたことと変わらないものね。人間の都合で、どんどん自然を駄目にしちゃって、最後は地球まで…。
今の時代は、滅びそうになってた植物だって、きちんと増やして地球に戻っているけれど…。
そういう技術を持ってるからって、百合を絶滅させちゃ駄目だね、食べてしまって。
球根を掘り上げて食べてしまっても、別の方法で子孫を増やせるらしい百合。
その百合の球根が出回るのが秋だと言うなら、百合の花の季節が終わってからだろう。夏の間に百合の花をあちこちで見掛けていたから、百合は夏の花。
(テッポウユリも、鬼百合も夏…)
いろんな百合が咲くんだっけ、と思い出していたら、ポンと頭に浮かんで来た花。遠い昔に前の自分が眺めていた百合。白いシャングリラにも百合の花はあった、と蘇った記憶。真っ白な百合。
「えーっと…。シャングリラでも食べればよかったね」
せっかく食べ物があったのに…。前のぼくたち、見逃しちゃってた…。
「はあ?」
いったい何を食べると言うんだ、食えるものは食うのがシャングリラだったと思ったが?
無駄なものなど乗せていない船だ、食べられる物に気付かなかったとは思えんが…。
「百合だよ、公園に咲いていた百合」
ブリッジから見える公園にもあったし、他の公園にもあったじゃない。真っ白な百合が。
「…あの百合か…。だが、あの百合の球根は食えないぞ」
見た目は同じようなものかもしれんが、食用じゃないな。
あの百合からはユリ根は採れんぞ、たとえユリ根の存在を知っていたとしても。
百合の種類が違うんだ、と笑うハーレイ。白い鯨で咲いていた百合と、ユリ根の採れる百合は。
シャングリラの百合の根に毒は無いけれど、食べようとすると苦いらしい、と。
「そうだったの?」
百合なら何でもいいわけじゃないんだ、ユリ根って…。
「ユリ根を採るのは鬼百合とかだな、お前も鬼百合は知ってるだろう?」
それと山百合といった所か、ユリ根用に栽培されてる百合は。
「んーと…。シャングリラの百合は、根っこが食べられなかった百合だってことは…」
食べようとしなかったわけじゃなくって、食べられないから食べなかっただけで…。
消されちゃってた食材じゃないんだね、ユリ根。SD体制の時代でも。
「いや、消されていたんだと思うがな?」
食えるものなら、そういう百合を植えてた筈だぞ。食えない百合を植える代わりに。
今の時代だから食ってるだけだろ、こいつを食うのは日本の食文化らしいしな。
俺たちには馴染みの食材なんだが、他の地域に出掛けて行っても無いんじゃないか?
文化が似ている中国だと、百合は薬だし…。
食う楽しみって言うよりも前に、まずは薬としての効き目だ。
遥かな昔の日本と中国、それが百合を食用にしていた地域。料理に使うか、薬にするか。
どちらの文化も、SD体制の時代に統一された文化の基本に選ばれることは無かったから。
「…日本と中国だったら、消されちゃってるね…」
百合の根っこは食べられるってこと、前のぼくたちは知らなかったんだね。
「そうなるな。前の俺たちが生きた頃には、百合と言ったら観賞用だ」
綺麗な花を眺めて楽しむ。そいつが百合を植える意味だな、公園とかに。
「一年に一度しか咲かないけどね」
今と同じで夏に咲いたら、次の年まで花は咲かなくて…。冬になったら茎も枯れるし。
「うむ。何処にあったのかも分からなくなるほど、何も残っちゃいないんだ」
そういう花なのに、あったんだよなあ、シャングリラにも。
…よく考えたら、なんとも不思議な話だが。
「シャングリラの花、四季咲きが基本だったのにね」
実が食べられる木の花とかは別だったけれど、眺めるだけの花の方は。薔薇もそうだったし…。
でなきゃ丈夫で、花が咲いてない時も葉っぱが艶々してるとか。
「そうなんだよなあ…。百合は全く当てはまらんな」
年に一度しか咲かない上に、姿すらも無い季節がある、と…。
なんだってアレが色々な所に植わっていたのか、謎だとしか言いようがないってな。
「言い出しっぺは誰だっけ?」
誰かが百合って言わなかったら、きっと植わっていないよ、百合は。
もっと別の花を選んで植えたと思うんだけど…。四季咲きで綺麗な花が咲くのを。
「さて…。しかし、誰かが言った筈だよな」
そうでなければ、百合があんなにあちこちにあった筈がない。
一ヶ所だけならまだ分かるんだが、百合は本当に色々な場所で咲いてたからなあ…。
観賞用の花の中には、四季咲きではない花も無くはなかった。例えばエーデルワイスとか。
特別な目的で植えられた花なら、それでもいい。ただし、一ヶ所くらいなもの。
けれども、そうではなかった百合。
ブリッジが見えたシャングリラで一番大きな公園はもとより、居住区域に鏤めてあった幾つもの公園でも咲いていた。白い百合の花が。
誰が植えようと言ったのだったか、二人揃って考え込んでいたのだけれど。不意にブルーの頭に浮かんだ、懐かしい顔。
「そうだ、ヒルマン…!」
ヒルマンだったよ、百合を植えようって言い出したのは。
一年に一度しか咲かないけれども、人間にとっては、とても大切な花だから、って…!
「それか…。うん、ヤツだっけな、人の歴史には欠かせない花だと主張したんだ」
ただの花とは違う花だと言ったんだった。
…聖母の百合だと、聖母マリアの象徴は百合の花なんだと。
受胎告知の天使は必ず百合を持っているし、ずっと昔には教会を飾った花だった、とな。
「うん…。だから白い百合…」
白でなくっちゃいけなかったんだよ、百合の花の色は。聖母の百合は白だったから。
「シャングリラの百合は白しか無かったっけな」
いろんな公園に植えてあったのに、全部白い花で。
「今は百合の花の色、色々あるよね」
白だけじゃなくて、ピンクも黄色も、赤い百合も。
「前の俺たちが生きてた頃でも、人類の世界にはあったんだが?」
今と同じに色とりどりの百合が揃っていた筈だがな?
「そうだっけ…。前のぼくたちが白を選んだだけだったよね」
白でなくちゃ、って。聖母の百合は白なんだから、って…。
一年に一度しか花が咲かないのに、シャングリラにもあった百合の花。
SD体制の時代にも消されることなく残っていた神、その神の母のシンボルの百合。聖母の花。
どうせならば、とマドンナ・リリーにこだわった。名前の通りに聖母の百合。
その花よりも美しいから、と後の時代にもてはやされた白い百合を選びはしなかった。美しさを取るより、聖母の象徴そのものの百合が欲しかったから。
ただ、公園にマドンナ・リリーは咲いていたけれど…。
「あの百合の花…。飾れなかったね、教会には」
シャングリラに教会は作らなかったし、あの百合を飾るための特別な場所は無かったよ。
「そうだな、本当にあれを飾るべき場所には飾らなかったな…」
教会が無いんじゃ仕方ないんだが、薔薇とかと同じ扱いだったな、百合の花も。
切って飾るなら眺めるためでだ、神様にお供えするための花じゃなかったっけな…。
個人的に供えて祈ってたヤツなら、中にはいたかもしれないが。
部屋に飾りたいと貰って帰って、神様にお供えしていたヤツがな。
そういう仲間はいたかもしれない、と口にしてから「待てよ?」と顎に手を当てたハーレイ。
SD体制にも最後の良心はあったのか、と。
「最後の良心?」
…なんなの、それは。最後の良心って、どういう意味…?
「SD体制そのものと言うより、SD体制を創り上げたヤツらのお蔭だろうが…」
ミュウ因子を排除出来ない仕組みになっていたことは、今のお前も知ってるだろう。
マザー・システムにはそのためのプログラムが存在しなかった。因子は特定出来ていたのに。
人間の進化ってことを思えば、ミュウ因子を排除出来ないようにするのは当然だが…。そいつが賢明な判断ってヤツだが、その他に、だ。
神にもなれないようにプログラムしてあったんだな。
「え? 神様って…」
神様になれないって、マザー・システムが?
「グランド・マザーだ、SD体制を支え続けた諸悪の根源だ」
前の俺も直接見てはいないが、あの機械。
その気になったら、聖母になれていた筈だぞ。
自分こそが神の母だと名乗って、宇宙に君臨していたならば、どうなったろうな?
「あ…!」
やって出来ないことはないよね、グランド・マザーなんだから。
国家主席よりも偉い機械で、機械だから寿命も尽きることはないし…。
神様なんだと言われちゃったら、きっと人類は素直に信じて、機械に従っていたんだろうね。
これは神様の命令だから、って、どんなことでも。
神様の考えはいつでも正しいものだし、それが正しいんだと思い込んで…。
前の自分たちが生きた時代には、聖地だった地球。
グランド・マザーはその聖地にいた。死の星だった地球の深い地の底に。
地球の本当の姿を知る者は限られ、グランド・マザーに会える者となったら更に少なかった。
正体は機械なのだと分かってはいても、グランド・マザーは全ての母。
SD体制の時代に生まれた人間の全てを把握していて、出生の鍵も握っていた。どう交配して、人工子宮に送り込むかの指示を出せた機械。末端のマザー・システムに。
全ての人間の母を気取っていた機械だから、聖母だと自ら名乗ることさえも出来た筈。
あの時代にも生き残った唯一の神を生み出した聖母。
自分はそれと同じなのだと、自分こそが神の母なのだと。
神になっていたかもしれない機械。
聖母を名乗って、あの時代に生きた人間たちの心の拠り所だった神の母の座に就いてしまって。
「…ねえ、ハーレイ。もしも、グランド・マザーが聖母だったら…」
前のぼくたちはどうしたと思う?
神様のお母さんが決めたことなら仕方がない、って諦めて殺されていたんだと思う…?
アルタミラから脱出しようとしないで、神様を怒らせちゃった自分が悪かったんだ、って。
「まさか。それでも俺たちは逆らったろうさ」
いくら神様の命令だろうが、黙って殺される馬鹿はいないぞ。
死に物狂いで逃げ出したろうな、前の俺たちがやったのと全く同じように。
「そうだよね?」
ハーレイだって諦めないよね、生き残ろうって頑張るでしょ?
それなら別に、グランド・マザーが聖母でもかまわなかったんじゃあ…。
神様のお母さんだと名乗っていたって、前のぼくたちにとっては同じことだよ。
グランド・マザーでも、聖母だとしても、必死に逃げるしかないってだけで。
だからあんまり変わらないよ、と言ったのだけど。
グランド・マザーの呼び名が変わるだけだと考えたのだけれど。
「いいや、呼び名の問題じゃない。…それだと俺たちは神を失う」
聖母に逆らう以上は、そうなる。
神様のお母さんに逆らったヤツらを、神様が守って下さると思うか?
どんな顔をして神様に祈ればいいと言うんだ、神様のお母さんに逆らって生き延びた人間が。
「そっか、神様がいなくなるんだ…」
…そうなっちゃうよね、神様のお母さんが「殺せ」と命令したんだから。
神様だって、それが正しいって思ったわけだし、殺したつもりの人間がお祈りしてたって…。
どうしてこいつは生きているんだ、って考えるだけで、お願い、聞いてはくれないよね…。
「もちろん、聞いてはくれないってな」
祈っても無駄とか、そういう以前の問題だ。俺たちは神様に振り向いてなんか貰えない。
お前、その状態でも戦えたか?
ミュウを滅ぼそうとしている機械の裏をかいては、仲間を助け出せたのか?
アルテメシアで前のお前が助け出して来た、ミュウの子供たち。
子供たちの救出にしてもそうだし、アルテメシアに着くよりも前。前のお前が物資を奪って命を繋いでいた頃にしたって、お前はきちんと頑張れたのか…?
「…神様がいないわけだよね?」
助けて下さい、ってお祈り出来る神様。
ぼくも出来るだけ頑張るけれども、ぼくに力を貸して下さい、ってお願い出来る神様が。
「ああ。縋れる神様は何処にもいない」
神様のお母さんに逆らったからには、もう助けては貰えないんだ。
「…とても辛いかも…」
どんなにお祈りしてみた所で、神様には届かないなんて。
力を貸しては貰えないなんて…。
悲しすぎると思った、神からの救いが来ない人生。神の母に逆らってしまった報い。
奇跡は起こらず、ほんの小さな手助けさえもして貰えないのかと考えていたら。
「それどころじゃないぞ、心の支えが何も無いんだ」
俺たちの方を向いて下さらない神様なんだぞ、あれは殺しておくべき人間だったのだから、と。
神様にとっては、前の俺たちはゴミでしかないというわけだ。
祈る声は決して届きやしないし、下手に祈れば殺されちまうということもある。
まだ生き残っていやがったのかと、祈りの声で見付かっちまって。
祈ればそういう結果を招きかねない、それではウッカリ祈れもしない。神様に祈りたい気持ちになった時にも、見えない力に縋りたい時も。
…人類には神様がいるのにな?
俺たちが祈れる神様はいなくて、目に見える世界が全てってことだ。これはキツイぞ。
「…ミュウの神様を作るしかない?」
ぼくたちの神様はこれなんだよ、って、人類とは別の神様を。
ぼくには神様の姿が見えるし、声だってちゃんと聞こえるから、って言えばなんとか…。
今のぼくが言ったら「嘘っぱちだ」と思われるけれど、前のぼくなら信じて貰えそうだよ。
「確かに、前のお前だったら、ミュウの神様をでっち上げることは出来ただろうな」
なにしろ唯一のタイプ・ブルーだ、普通のミュウには全く見えない神様の姿を見ていたとしても不思議ではない。そういう神様が存在するんだと、お前が言えば仲間たちは信じていただろう。
だがな、他のヤツらはそれで良くても、作ったお前はその神様に縋れるのか?
仲間たちがいくら祈っていたって、像や祭壇を作っていたって、その神様は偽物なんだ。
お前が作った偽物の神で、本当は何処にもいやしない。
そんな神様に縋れるというのか、前のお前は…?
神に見放された世界が辛いというなら、自分たちのための神を作るしかないけれど。
前の自分ならば作れただろうと思うけれども、自分が作った偽物の神。その神に自分が縋れるかどうかと尋ねられたら、答えは否で。
「…無理かも…」
他のみんなが祈っている時に、一緒にお祈りは出来るだろうけど…。しなきゃ駄目だけど。
そうじゃない時はお祈りなんかは出来ないよ。…だって、偽物の神様なんだから。
ぼくが勝手に作ったんだよ、信じることなんて出来やしないよ。
「無理で当然だ、それが普通の反応だ」
自分が作った偽物の神に祈って縋れるようになったら、お前の心は病んでしまっている。
その状態では人類には勝てん。
偽物の神様に縋る指導者と、それに従う者たちばかりじゃ、とても人類には勝てないだろうな。
強い意志ってヤツを持てない指導者なんぞは、何の役にも立たないんだから。
「…ジョミーをシャングリラに連れて来ても?」
ジョミーだったら、前のぼくより意志が強かったと思うんだけど…。
「そのジョミーを指導するのは誰なんだ、ってトコが問題だろうが」
自分で作った神様を信じるようなお前の後継者となれば、ジョミーの資質も生きてはこない。
せいぜい教会の跡継ぎだろうさ、偽物の神様を崇めるためのな。
「そうなっちゃうの?」
ジョミーは強い子だったけれども、教会の跡を継いでおしまい?
「恐らくはな」
きっとナスカにも行けてはいないぞ、アルテメシアでシャングリラごと沈められちまって。
偽物の神様に祈ることだけしか出来ない船だと、あそこで持ち堪えはしなかったろう。
前の俺だって、お前と一緒に神様を拝んでいたわけだしな?
存在しない神様に「助けて下さい」と祈るばかりで、脱出手段も考え出せないキャプテンだ。
もちろん、お前もワープなんかは考えもせずに、ジョミーと一緒に礼拝だな。
生き延びるための策も講じられないまま、沈んだのだろうシャングリラ。
偽物の神に縋るしかなくて、それが全てになっていた船。
そうならないよう、グランド・マザーには神になれないプログラムが組まれていたのだろう、と語るハーレイ。
いつか生まれてくるミュウたちが神を失わないよう、人類と同じに神に救いを求められるよう。
神が救いを与えるかどうかは別だけれども、心の支えは必要だから。
「最初からプログラムがそうなっていた、と考えた方が辻褄が合うんだ、こいつはな」
グランド・マザーは自分で思考する機械だった。誰にも命令されることなく。
あれだけの年数を統治し続けていたんだからなあ、神になることを思い付かない筈がない。
自分の置かれた状況ってヤツを計算していけば、聖母を名乗るのが上策だと。
神様の母親になれるものなら、グランド・マザーは間違いなくその道を選んでいたぞ。
「そうなのかも…」
ただの機械より、神様のお母さんの方が強いに決まっているしね。
神様のお母さんだと名乗ってしまえば、人類はグランド・マザーの正体も忘れてしまいそう。
地球には神様のお母さんが住んでるらしい、って考えるだけで…。
「そう思うだろう? そうなっちまえば、もう文字通りにグランド・マザーの天下だったんだ」
人類は大人しく従い続けるし、それとは逆に逆らっちまったミュウに未来は無かっただろう。
心の支えを失くしちまった人間ってヤツは弱いんだから。
…しかし、グランド・マザーは聖母にはなれなかったんだ。
そいつが出来ない仕組みだったんだろうな、ミュウ因子の排除が出来なかったのと同じでな。
今となっては分からないが…、とハーレイが浮かべた苦い笑み。
あくまで俺の想像に過ぎん、と。
「…データとかは無いの?」
グランド・マザーのプログラムがどうなっていたのか、そういうデータ。
SD体制が倒れた後なら、そういうデータも手に入れられたと思うんだけど…。
「それがだな…。肝心のデータは、地球と一緒に燃えちまったらしい」
マザー・システム自体は宇宙に広がるネットワークで、何処の星にも端末があった。
アルテメシアで言えばテラズ・ナンバー・ファイブがそうだな、あれが支配をしていたわけだ。
端末さえ無事なら、グランド・マザーが倒されたとしても、システムは破壊出来ない筈だったと言われているんだが…。生憎とそうはならなかったってな、端末が壊されちまったから。
そういうシステムになっていたせいか、グランド・マザーのプログラムに関するデータは全て、地球に置かれていたようだ。万一の時に代わりを作ろうっていう発想が無かったんだな。
だからすっかり燃えちまった、と聞かされたグランド・マザーに関するデータ。
どういう構造になっていたかは他のデータから分かったけれども、それを動かしたプログラムの詳しい部分は謎のままだったという。どんな仕掛けが施されていたか、プログラムを作った人間は誰だったのかも。
キースが全宇宙に向かって流させた映像、その中で語っていた真実。グランド・マザーにミュウ因子を排除するプログラムは無い、ということくらいしか、今も明らかになってはいない。
他にも隠されたプログラムが幾つも組み込まれていたかもしれないのに。
ハーレイが話した、「神になれない」ような仕掛けも。
「…グランド・マザーが神様になれないプログラム…」
組み込んでくれた人がいたのかな?
どう思考しても、神様になることを絶対に思い付かないように。
「多分な。…少なくとも、俺はそういう気がする」
いつか必ずミュウが生まれてくるっていうのを知っていたのが、アレを作った人間たちだ。
そのミュウが進化の必然だったら、心の支えが必要になる。
人類はミュウを排除しようと必死なんだし、生き延びるためには力も心の強さも要るんだ。
しかしだ、いくら心を強く持とうと思っていたって、時には神にも祈りたくなる。
そんな部分も持っていてこそ、本当の人間らしさが持てる。…力だけでは駄目だってな。
だから、神様を失くしちまったら、ミュウの未来は真っ暗ってわけだ。
ミュウがそういう目に遭わないよう、グランド・マザーは神にはなれないプログラムだった。
お蔭で前の俺たちも神様に祈ることが出来たし、マドンナ・リリーだって植えられたんだ。
シャングリラに教会は作らなかったが、神様にゆかりの百合の花をな。
「…そうだね、神様を失くしちゃったら、マドンナ・リリーを植えるどころじゃなかったね…」
神様のお母さんはグランド・マザーそのもので、前のぼくたちはそれに逆らったんだから。
白い百合を植えてお祈りしたって、絶対に聞いては貰えないものね。
「…祈る気持ちは大切だからな、前の俺たちに神様を残してくれたことには感謝すべきだろう」
もっとも、他の神様は全部纏めて消してしまっていたんだが…。
太陽の神様も月の神様も、ありとあらゆる神様をな。
「うん…。前のぼくたちが生きてた時代の神様は一人しかいなかったものね」
だけど、SD体制を敷いて人間を支配するなら、そういう風にするしかなかっただろうし…。
文化を幾つも消してしまったのも、色々な神様を消したのも同じ。
でも、そのプログラムをグランド・マザーに組み込んでくれた人に、会って御礼を言いたいね。
前のぼくたちのために、神様を残す仕掛けをしてくれた人。
「俺もお前と同じ気持ちだな、会える筈など無いんだが…」
きっと神様をよく知っていた学者か、とても詳しい研究者というヤツだったんだろう。
人間にとって神様がどれほど大切なものか、それを本当に知っていた人だな。
全ての母を名乗る機械が、聖母だと名乗らないように。
自分自身が神になることを、決して考え付かないように。
そういうプログラムが必要なことに気付けたほどに、神という存在に詳しかった人。人間の心の支えになることも、力だけでは人間は生きていけないことも知っていた誰か。
学者だったのか、研究者だったか、その人物が関わっていたから、グランド・マザーは最後まで神になることは出来ずに終わった。神の母を、聖母を名乗ることなく。
グランド・マザーが聖母だと自称していなかったから、前の自分たちも神を持つことが出来た。人類と同じ神に祈って、白いシャングリラに白い百合を植えた。
人の歴史には欠かせない花だと、これは聖母の花なのだから、と。
白い鯨の公園に幾つも咲いていた純白のマドンナ・リリー。
遥かな昔は教会を飾った、聖母の象徴だった白百合。
その百合を植えることが出来た自分たち、神を失わずに済んだミュウたち。
ミュウの心を守るプログラムを、グランド・マザーに組み込んでくれた人間は…。
「…誰だったんだろうね?」
神様に詳しかった人。…前のぼくたちのために、神様を残してくれた人…。
「さあなあ…。そいつも地球と一緒にすっかり燃えちまったしな…」
グランド・マザーに直接関係していた人間が誰か、そのデータも地球にあったようだし…。
もう分からないな、グランド・マザーのプログラムがどうなっていたかと同じで。
聖母になれない仕掛けをした人が誰だったのかも、もう調べようがないってな。
礼を言いたい気持ちになっても、会えるわけもない人なんだがな…。とうの昔に死んじまって。
「そうだけど…。そのプログラムはホントに凄いよ」
ミュウ因子の排除を禁止するより、よっぽど凄いね。
そっちの方なら、大抵の学者や研究者は思い付いたんだろうし…。
SD体制が始まるよりも前に、ミュウは生まれていたんだから。ミュウ因子が存在するんだってことに、人間がちゃんと気付いたほどに。
ミュウの因子を見付けさえすれば、排除出来ないようにすることも簡単に思い付くけれど…。
機械が神様になっちゃいけないっていうのは、誰でも気が付くことじゃないよ?
グランド・マザーを動かし始めて、それから「しまった」と思いそうだよ。
「確かにな…。神様は目には見えないからな」
データとして出てくるミュウ因子と違って、計算したって何も出てきやしないだんだし…。
こういう風になったらマズイ、と見抜く頭脳を持っていなけりゃ、無理だったかもな。
ついでに、神様が人間にとって、どれほど大切な存在なのか。
それを知っていた人にだけしか、出来ない発想だったかもしれないなあ…。
SD体制の時代の幕が開く前に、滅びゆく地球でグランド・マザーを作った人間たち。
多くの研究や会議を重ねて、プログラムを組んだのだろう人たち。
ミュウ因子の排除を禁止していたプログラムの存在は今でも広く知られるけれども、機械が神にならないようにと組まれたプログラムは知られていない。本当にあったか、無かったのかも。
けれど、あの時代に生きた自分たちだから、分かること。
そういうプログラムは存在したのに違いないと。誰かが作って組み込んだのだと。
今では名前も分からない誰か。
神に詳しく、人の心にどう働くかも、よく知っていた学者か研究者。
その人間が神になることを禁止したから、グランド・マザーは最後まで機械のままだった。神の母だと名乗ることなく、聖母の名前を騙ることなく。
お蔭で神を失くさずに済んだ、前の自分たちとシャングリラ。
白いシャングリラのあちこちに咲いていた花、聖母の百合のマドンナ・リリー。
前の自分たちを救ったプログラムを、グランド・マザーに組み込んだ誰か。
神に詳しかった学者か、それとも研究者だったのか。
その人物は何処へ行ったのか、今も何処かで暮らしているのか。宇宙の何処かで新しい身体で、新しい人生を生きているのだろうか…。
「グランド・マザーのプログラムを組んでくれた人…」
今も神様を大切にしている人なんだろうね、きっと何処かで。
神様の所に今はいるのかもしれないけれども、生きてる時には神様を大事に思っている人。
「だろうな、自分じゃ何も覚えちゃいないだろうがな…」
グランド・マザーに関わったことも、そういうプログラムを組み込んだことも。
綺麗に忘れて生きてるんだろうが、神様を大切にしてることだけは多分、間違いないだろう。
そういう人にしか出来んプログラムだ、「神になるな」というプログラムは。
もしかしたら、この町に住んでいる人かもしれないが…。
会った所で、向こうは何も覚えちゃいないし、俺たちだって「あの人だ」と分かりはしない。
実に残念だが、こいつは今更、どうしようもないことだってな。
ハーレイが言う通り、あのプログラムを組んでくれた人には出会えない。
会って御礼は言えないけれども、前の自分たちの未来を救ってくれた人だから。
心の支えを失わないよう、神を失くしてしまわないよう、グランド・マザーが聖母になることを禁じてくれた人だから。
「…えっと…。会いに行くことは出来ないけれども、御礼、言おうよ」
気持ちだけでも、きちんと御礼を言っておきたいよ。
顔も名前も分からなくても、その人に御礼。
「ふうむ…。聖母の百合って話をしながら、ユリ根を食ってしまったんだが…」
茶碗蒸しを食べ終えてしまったわけだが、まあ、いいか…。
ユリ根が採れる百合と聖母の百合とは、別物だしな。
「ぼくも食べちゃったよ、茶碗蒸し。ユリ根ごと全部…」
だけど、ユリ根のお蔭でシャングリラの百合を思い出したし、聖母の百合だって気付いたし…。
きっと許して貰えるよ。
マドンナ・リリーの球根を掘って、食べちゃったっていうわけじゃないしね。
だから御礼、とハーレイと二人、窓の向こうに頭を下げた。
この町にいるか、宇宙の何処かか、天国にいるのだろう人に。
「ありがとう」と。
前の自分たちに、神を残してくれた人。
グランド・マザーが聖母になってしまわないよう、プログラムしてくれた優しい人。
その人のお蔭でミュウが生き残り、白いシャングリラが地球まで辿り着けたから。
青く蘇った地球の上まで、ハーレイと一緒に来られたから。
いつまでも、何処までも、二人で生きてゆける場所。
前の自分が夢に見た地球で、ハーレイと二人、手を繋ぎ合って何処までも歩いてゆけるから…。
聖母の百合・了
※神になることが出来なかった、グランド・マザー。恐らくは、プログラムのせいで。
真相は今も謎ですけれど、ミュウたちが神を失わないよう、手を打った人がいたのでしょう。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(おっ…!)
こいつはいいな、とハーレイの目に留まった野菜。ブルーの家には寄れなかった日、買い出しに寄った馴染みの食料品店で。
秋タマネギの山がドッサリ、新入荷の文字が躍っている。産地直送、美味しいタマネギで評判の高い場所からの。今朝、掘り上げたばかりだと書かれたタマネギ、山と積まれたタマネギの袋。
細かい網の袋に詰まったタマネギはどれも、料理のし甲斐がありそうで。
(美味いんだよなあ、秋タマネギも)
知る人ぞ知るというヤツだ、とタマネギの山と向き合った。春のものと違って生で食べるのには向かないけれども、熱を加えると春タマネギより甘くなるのが秋タマネギ。
それを知らない人が秋タマネギを買うと、「採れたてだから」と春タマネギと同じつもりで生で食べては、「辛かった」と文句を言うものだから。売られる時にも注意書きなど無いものだから、辛いと思われているのが秋タマネギ。実の所は春タマネギより甘いのに。
(…ちょっと一言、書いておけばと思うんだがな?)
そうすれば誤解も解けるだろうに、と秋タマネギを眺めるけれども、「余計なお世話だ」という顔をしている秋タマネギ。「分かる人には分かるのだ」とばかりに自信たっぷり。
採れたての誇り、名産地から来たという誇り。
余計なことなどして貰わずとも、どんどん売れてゆくのだから、と。
誇らしげなタマネギの山をグルリと見回していたら、ポンと頭に浮かんだメニュー。
(今夜はオニオングラタンスープといくか)
シンプルだけども、秋タマネギの真価を引き出す料理。薄くスライスしたタマネギをじっくり、時間をかけて炒める所が肝だから。飴色になるまで、弱火でゆっくり。
コンソメスープを加えて煮込んで、耐熱容器にそうっと入れて。注いだスープの上にバゲット、目の詰まった田舎パンでもいい。それからグリュイエールチーズをたっぷりと乗せてオーブンへ。
炒めたタマネギを更に煮込んで、仕上げにオーブンと三段階も加熱するスープ。
熱を加えれば甘くなる秋タマネギにはピッタリの料理、今の季節にも似合いの料理。冷える日もあるし、今日も夕方の風がひんやりしていたから。
よし、と買うことに決めたタマネギ。
入荷したばかりの品なのだからと、タマネギが詰まった網袋を二つ、レジに持ってゆく籠の中に入れた。家で保存しておくのに丁度いい量、このくらいの量なら傷む前に使い切れるから。
肉に野菜に…、と買い込んで車で家に帰って。
冷蔵庫に入れるものは先に、と仕分けて片付け、着替えた後に戻ったキッチン。ドンと置かれた網袋が二つ、中身はタマネギ。
(秋タマネギなあ…)
オニオングラタンスープ用に一個、と取り出した。淡い緑色にも見える皮を纏ったタマネギを。残りのタマネギは、吊るしておくのが一番の保存方法だけれど…。
(この長さでは無理、と)
タマネギの頭と言ったらいいのか、出荷される前は葉っぱがついていた部分。その部分の長さが充分にあれば、タマネギを吊るしておくことが出来る。袋に入れずに、そのままで。
隣町に住む両親の家だと、そうやって幾つも吊るしてあるもの。葉っぱの部分を残して貰って、紐で縛って。風がよく通る、物置の軒下に吊られたタマネギの束。
このタマネギでは真似られないから、紐で縛れる部分が無いから。せめて袋ごと、とキッチンの棚の端っこを上手く使って吊るした。風の通る場所に。経験的にも、此処が一番。
(沢山あるなら、ガレージに吊るしてやるんだがな?)
食料品店ではなくて、農家から買って、紐で縛ってドッサリと。ガレージの屋根に棒を渡して。
けれども、一人暮らしでは…。
(そういうわけにもいかないってな)
大量のタマネギを使い切れるか、そこが難しい所だから。
熱を加えたら甘くて美味しい秋タマネギだって、煮込み料理などを大量に仕込めはしないから。
最高の保存方法を知っているというのに、使えない自分。袋ごと吊るすのが精一杯。
さて、と取り掛かろうとしたオニオングラタンスープ。
まずはこいつを炒めてからだ、とタマネギの皮を剥こうとしたら。
(…ん?)
不意に掠めた、遠い遠い記憶。遥かな遠い時の彼方で、タマネギの皮を剥いていた自分。それに前のブルー、少年の姿で隣に立って手にはタマネギ。
今のブルーと見た目はそっくり同じなブルーが、タマネギの皮を剥いていた。山と積まれたのを一つ取っては、ペリペリと。
(…あいつがタマネギ…)
そういえば、と懐かしい記憶が蘇って来た前の自分がいた厨房。名前だけは立派にシャングリラだった船の厨房、其処で料理をしていた自分。
タマネギを使う料理の時には、前のブルーが刻むのを手伝ってくれていたことが何度もあった。目にしみるからと、泣きながら。
タマネギを切ったら傷つく細胞、そこから出てくる硫化アリル。それに目をやられて、ポロポロ零していた涙。とんでもないね、と泣き笑いといった表情で。
涙は流しているのだけれども、顔には笑み。傍で見ていても愉快だったタマネギと戦うブルー。
「しみるんだったら、シールドすればいいんじゃないか?」
簡単だろうが、目の周りだけをシールドだ。そうすりゃ涙もピタリと止まると思うがな?
「でも、ぼくがやってるのは料理だよ?」
…料理の準備って言うべきなのかな、タマネギを刻む所だけだし…。
そんな時までシールドしていちゃ、人間らしくないと思わない?
だからやらない、と答えたブルー。
タマネギで涙も出ないようでは人らしくないし、このままでやるのがいいんだから、と。
それを言うなら、タマネギを切っても涙が出ない人間だって少なくないのに。
前の自分も含めて厨房を仕事場にしていた料理人たちは、誰も泣いてはいなかったのに。
(前のあいつなあ…)
今のブルーに瓜二つだった頃の、少年の姿をしていたブルー。
タマネギにやたら弱かったような気がする、刻む度に涙が零れるほど。零れた涙が頬を伝って、タマネギの上にポタリと落ちたりしていたほど。
それを面白がって来ていた、厨房まで。タマネギを刻みに、それは嬉しそうに。
(あいつのオモチャじゃなかったんだが…)
オモチャではなくて、大切な食料だったタマネギ。前のブルーが奪ってくる度、傷まないように気を付けて貯蔵していたものだ。吊るしておくなど、当時は思いもしなかったけれど。
そのタマネギを使うとなったら来ていたっけな、と前のブルーを思い出す。今も鮮やかに脳裏に浮かぶ、ブルーがしていた泣き笑い。涙を流して、けれど笑って。
大量のタマネギを厨房に運んでおいたら、いそいそとやって来たブルー。
(あいつと一緒に皮を剥いて、だ…)
剥き終わったら、せっせと刻んだ。船の仲間たちの胃袋を満たすのに、充分な量のタマネギを。その日の料理に必要な分を、料理に合わせた切り方で。
薄切りだったり、微塵切りだったり、輪切りにしたり。
それは様々なタマネギの料理を作ったけれども、今日のようなオニオングラタンスープは…。
(やっていないな)
作っちゃいない、と手際よく薄切りにした秋タマネギ。次はじっくり炒めてゆく。
そうやって炒めたタマネギにコンソメを入れたオニオンスープは、船で何度も作ったけれど。
バゲットや田舎パンを浮かべて、グリュイエールチーズを乗せて焼き上げるのは無理だった。
そこまで凝ることは出来なかったのが当時の厨房。
オニオンスープが限界だった。バゲットも田舎パンも浮かんではいない、とろけたチーズも無いスープ。ただのオニオンスープしか。
何度もブルーとタマネギを刻んで、オニオンスープを作った自分。
オニオンスープなら作れたけれども、オニオングラタンスープは作れなかった船。
(俺が厨房を離れた後は…)
どうだったのか、と遠く遥かに流れ去った時の彼方を思う。
前の自分がキャプテンになっても、厨房は変わらなかった筈。食材は前のブルーが人類の船から奪ったものを使っていたから、手に入った食材に合わせて決められたメニュー。厨房にあった鍋やフライパンも、ブルーが奪って来た物資。
(船に元からあったヤツだって、使っちゃいたが…)
ウッカリ焦がして駄目になったりすれば取り替え、新しい物に。その程度の変化が厨房の全て、劇的に変わりはしなかっただろう。
厨房はずっと厨房だったし、場所さえ移りはしなかった。あの船の頃は。
(しかしだな…)
キャプテンとして舵を握っていた船は、後にすっかり変わったから。
見た目も中身もまるで違った、白い鯨に大変身を遂げたから。
(…あれから後だと…)
厨房も別物になった筈だぞ、と考えた所でハタと気付いた。
白いシャングリラにはあったのだった、と蘇った記憶。
自分は作っていなかったけれど、ちゃんとオニオングラタンスープが。
シャングリラの農場で採れたタマネギと、船で育てた牛のミルクから作ったチーズを惜しみなく使って。シャングリラで実った小麦のバゲット、それをパリッと乾かして入れて。
白い鯨で作られるようになった、熱々のオニオングラタンスープ。
仲間たちにも好評だった、と顔を綻ばせながら炒めてゆくタマネギ。少しでも焦げたら台無しになるから、弱火で時間をかけてじっくり。タマネギが透き通ったくらいでは足りない、これからが腕の見せ所。全部が均等に飴色になるまで、鍋底が焦げてしまわないように、気を付けて。
前のブルーが何度も刻んでいたタマネギ。涙をポロポロ零しながら。
けれども今はブルーの手伝いは無くて、鍋の中身は自分が一人で刻んだタマネギ。それを思うと少し寂しい、小さなブルーはいるのだけれども、まだ手伝ってはくれないから。
今のブルーもタマネギを切ったら涙をポロポロ零すだろうか、と小さなブルーを思い描いたら、重なった前のブルーの顔。タマネギと格闘していた時の泣き笑い。
前の自分が厨房を離れてしまった後には、ブルーはタマネギと戦うのをやめてしまったけれど。
「君がいないのに、つまらないじゃないか」と戦線離脱で、それっきり。
シャングリラが白い鯨になった後にも、戦ったりはしていないだろう。それにソルジャーだったブルーが一人で厨房に行けば、タマネギ相手の戦いどころか、視察だと取られてしまったろう。
ブルーが「刻んでみたい」と言っても、「ソルジャーがなさることではありませんから」などと言われて断られたろう、タマネギ刻みは。
代わりに厨房のスタッフがリズミカルに刻んで、「今日のメニューは…」と説明しながら始める料理。「このタマネギで作る料理は今日はこれです」と。
まさか本当にタマネギを刻みに出掛けてはいないと思うんだが…、と浮かべた苦笑い。
いくらタマネギ刻みを懐かしく思っても、厨房に行っても前の自分はいないのだから。居場所はブリッジに変わってしまって、タマネギ刻みをすることは無かったのだから。
前のブルーが厨房に行くなら本当に視察くらいなものだ、とタマネギを炒めながら考える。前のブルーは見ただろうかと、オニオングラタンスープが出来る所を、と。
途端に浮かび上がった記憶。前のブルーと、今、作っているオニオングラタンスープがピタリと重なった。これからコンソメを入れて味を整え、バゲットを浮かべるつもりのスープ。
(…あいつの好物…)
前のブルーの好物だった。厨房で作られ、青の間のキッチンで仕上げられていた熱々のオニオングラタンスープ。とろりと溶けたチーズがたっぷり入ったスープが。
青の間のキッチンにオーブンは置かれていなかったから、温め直していたのだけれど。
厨房のオーブンで焼き上げたものを、またグツグツと滾り出すまで。
(たまに、出来立て…)
それが食べたいと出て来ていた。青の間で一人で食べるのではなくて、食堂まで。
シャングリラの仲間たちが集まる食堂。オニオングラタンスープが供される時に来たなら、もう間違いなく出来立てのものが食べられるから。
温め直したスープではなくて、オーブンから出されたばかりの火傷しそうな熱さのものを。まだグツグツと滾っているのを、スプーンで掬って。
ブルーが食堂にやって来た時は、前の自分も一緒に食べた。ソルジャーの視察についてゆくのと同じ具合に、ブルーと二人で。
(…そうだ、あいつと…)
食事したのだった、白いシャングリラの食堂で。
ブルーのお目当ての熱々のオニオングラタンスープはもちろん、他の料理も。スープとセットで運ばれてくる魚料理や、肉料理。その時々で違ったメニュー。
普段は出来ない、ブルーとの食事。キャプテンだった自分は食堂で食べていたけれど、ブルーは青の間で食事をしていた。ソルジャーの威厳を高めるためにと作り上げられた、広大な部屋で。
誰が決めたのか、ソルジャーの食事は厨房から運ばれ、青の間のキッチンで仕上げられるもの。皆と一緒に食事はしなくて、それもブルーの偉さを示していたのだけれど。
ブルーは食堂に来なかったから、朝の報告と称して青の間で二人で食べていた朝食以外は、常に別々の場所での食事。ブルーは青の間、前の自分は他の仲間と同じ食堂。
朝食の他にブルーと一緒に食事が出来る機会と言ったら、ソルジャー主催の食事会くらいで…。
(あれだと、他のヤツらも一緒で…)
エラやヒルマンといった長老の面々、食事会に招待された者たち。
ブルーと二人で話すチャンスなど無いに等しく、同じテーブルにいたというだけ。一緒に食事をしたというだけ、私的な会話は殆ど交わせはしなかった。
けれど、ブルーが食堂にやって来た時は…。
まるで違った、食事の雰囲気。二人で食べていた朝食のテーブルに似ていた食事。
(あいつと二人で食べたんだ…)
出来立てのオニオングラタンスープ目当てで、ブルーが食堂に来た時は。
他の仲間たちもいたのだけれども、ソルジャーとキャプテン、二人きりで使っていたテーブル。視察ではなくても、似たようなもの。
ソルジャーと他の仲間が同じテーブルなど許されはしないし、ソルジャーに付き従う者も必要。
だから自分が選ばれた。ソルジャーの視察にはキャプテンがつくものだったから。
目的は全く違ったものでも、ソルジャーと一緒にいるべき者はキャプテンだろう、と。
(…あの食事はデートだったのか?)
小さなブルーとデートする時は、あの家の庭で一番大きな木の下。其処に据えられたテーブルと椅子でお茶の時間にするのがデート。
「いつもの場所とは違う所で食事したいよ」と、強請ったブルーに応えてやった。キャンプ用のテーブルと椅子を運んで行ったのが最初、車のトランクに詰め込んで。
ブルーがとても気に入ったから、今ではブルーの父が買った白いテーブルと椅子が置いてある。自分が車で運ばなくても、いつでもデートが出来るようにと。
もっとも、ブルーの両親はデートだとは思っていないけれども。一人息子のお気に入りの場所、其処でのお茶だと頭から信じているけれど。
それがあるから、前のブルーとの食堂での食事が引っ掛かる。デートだったろうか、と。
どうだったろう、と考えながら耐熱容器に注いだオニオンスープ。バゲットを一切れ、その上にグリュイエールチーズをたっぷりと乗せて、オーブンに入れた。後は焼くだけ、と。
焼き上がるのに合わせて御飯をよそって、他の料理もダイニングのテーブルに運んでおいた。
前の自分よりも上だと自負する料理の腕前、オニオンスープを作る間に並行して全部調理済み。
けれど「今夜のメインはこれだ」と思うのがグツグツと滾るオニオングラタンスープ。
火傷しないよう、スプーンで掬って息を吹きかけ、口に含んだ瞬間に…。
(デートだったっけな…!)
前のあいつとコレを食ったのはデートだった、と天から降って来た答え。前の自分が聞いた声。
食堂へオニオングラタンスープを食べに来た時、悪戯っぽい笑みを浮かべていたブルー。
「たまにはキャプテンと視察を兼ねて食事もいいね」と、ブルーは「視察」と言ったけれども。
心の声が、ブルーの思念が「デートなんだよ」と告げて来た。
「今日は食堂でデートだからね」と、「こういうデートも素敵だろう?」と。
前のブルーと何度もしていた、食堂でのデート。食堂でオニオングラタンスープが出る日。
(周りに人目もあったってのに…)
食事していた仲間たち。「ソルジャーがおいでだ」と見ていた者たち。
そんな中でのデートなのだから、前のブルーはよほど自信があったのだろう。自分の心を読めはしないと、思念の欠片も拾える者など一人もいない、と。
とはいえ、ソルジャーの好物のオニオングラタンスープ。
青の間へ食事を運ぶ形では、出来立てのものを出せないことは本当だったから。
(これが普通のグラタンだったら、温め直しで済むんだが…)
味もそれほど変わらないけれど、オニオングラタンスープの場合は浮かべたバゲットがふやけてしまう。パリッと乾かしておいた筈のバゲット、それの持ち味が駄目になる。
そうならないよう、ブルーが食べに出て来るだけの理由にはなった、あのスープは。
出来立てのものを食べたいから、と青の間ではなくて食堂で食事をしたがる理由はそれで充分。
今の自分がこうして食べても、「ふやけちまったら駄目だろうな」と思うから。
とろけたチーズと絡み合うバゲット、それがオニオングラタンスープの醍醐味だから。
食べる間に幾つも幾つも、前のブルーとの食事の思い出。
白いシャングリラでは隠し通した恋だったけれど、食堂でこっそり重ねたデート。
出来立てのオニオングラタンスープが食べたかったソルジャー、だからたまには食堂で、と。
ソルジャーが食堂で食べるのだったら、キャプテンも一緒に食べて当然、と皆が納得した理由。
(あいつ、覚えているんだろうか…?)
小さなブルーは今も忘れていないのだろうか、前の自分がデートの口実にしていたスープを。
是非とも訊いてみたいけれども、肝心のオニオングラタンスープ。
これを作ってやることは出来ない、野菜スープのシャングリラ風とは違うのだから。どう見ても普通の料理でしかなくて、ブルーに御馳走してはやれない。
ならば、ブルーと一緒に食べるためには…。
(…後で通信を入れておくとするかな)
食事と後片付けが済んだら、ブルーの母に。
その頃合いなら、ブルーも自分の部屋に戻っているだろうから。
(誰が作っても、オニオングラタンスープって所は変わらないしな?)
多少味付けが違ったとしても、白いシャングリラで作っていたのは前の自分ではないし、さほど問題無いだろう。オニオングラタンスープの特徴、それさえ備わっていたならば。
そう考えたから、食事の後でブルーの母に通信を入れて、土曜日の昼食に作って欲しいと頼んだオニオングラタンスープ。
快諾してくれたブルーの母に、「ブルー君には内緒でお願いします」と付け加えておいた。
「シャングリラの思い出で驚かせたいので」と、「あの船で食べていたんですよ」と。
そうして迎えた週末の土曜日、青空の下を歩いてブルーの家へ出掛けて。
タマネギの話すらもしないで二人で過ごして、昼食に出て来た熱々のオニオングラタンスープ。
小さなブルーはどうやら忘れてしまったらしくて、グツグツと滾るスープに目を輝かせて、早速スプーンを手にしているから。
「おいおい、いきなり食っちまうのか?」
確かに火傷しそうな間に食うのが美味いわけだが、それはシャングリラの思い出だぞ?
「えっ?」
思い出って、オニオングラタンスープが…?
それとも溶けてるチーズか何か…?
「両方ってトコか、オニオングラタンスープと中身のタマネギとだな」
オニオングラタンスープは前のお前の好物だろうが、それも大好物ってヤツだぞ、最上級の。
「そうだっけ?」
好き嫌いは全く無かったんだし、凄い好物って言われても…。
今のぼくもオニオングラタンスープは大好きだけれど、前のぼくもこれが好きだったわけ…?
「好きだったとも。…食堂まで食べに出て来たほどにな」
青の間まで運ばれたスープじゃ駄目だ、と出来立てを食べにやって来るんだ。
バゲットがすっかりふやけちまって台無しになるから、出来立ての味に限るんだ、ってな。
「ああ…!」
そういうのもあったね、シャングリラのオニオングラタンスープ。
食堂に行ったらホントに出来立て、オーブンから出したばかりの熱々が食べられたんだっけ…!
思い出した、と叫んだブルー。
でも、あれは君とのデートの口実、と。
「だって、ああでもしないとデートなんかは出来ないし…。二人きりで食事」
朝御飯は一緒に食べていたけど、他の場所でも食べたいじゃない。
だからオニオングラタンスープの日だって聞いたら、たまに出掛けていたんだよ。出来立てのを食べる方が美味しいから、って。
「デートの口実の方はともかく、バゲットがふやけちまって駄目だってのがな…」
大袈裟なことを言いやがって。…このスープに入っているバゲットだって、すぐふやけるぞ?
こうして昔話をしながら食っていたんじゃ、普通に食うよりふやけるだろうさ。
「そうだけど…。前のぼくだって、嘘は言ってないよ?」
出来立ての方が美味しかったことは本当だもの。
温め直して食べるヤツだと、バゲット、ホントにすっかり柔らかくなっちゃってたから…。
「しかしだ、お前が食べに来る度に、厨房のヤツらが申し訳なさそうにしてただろうが」
ソルジャーに食堂で食事をさせるなんて、と謝りに来たこともあったと思うが…?
「出来立ての味をお届け出来るようにと努力していますが、上手くいきません」と。
そりゃそうだろうな、俺だって元は厨房にいたから分かったさ。
オニオングラタンスープってヤツは、バゲットを入れてチーズを乗せたら時間との勝負な料理になるぞ、と。時間が経つほどバゲットはスープを吸ってしまってふやけるんだから。
「…厨房の人には悪かったけど…。でも…」
他の仲間たちは喜んでたよ?
ぼくが食堂で食事をしてたら、大喜びで見ていたじゃない。
今日はソルジャーも一緒の食事だ、って。
前のぼくと食事が出来るチャンスは、食事会とかに呼ばれない限りは無かったんだから。
確かにブルーが言う通り。
ソルジャーと一緒の食事というのは、仲間たちを大いに喜ばせた。あのとんでもない青の間まで作って、特別な人だと徹底させてあったのがソルジャー。雲の上の人のようなもの。
実際、飛べたブルーだけれど。雲の上を飛べる唯一の存在だったけれども。
そのソルジャーが自分たちと一緒に食事をしていて、メニューも同じ。
仲間たちが喜ばないわけがない。たとえテーブルが違ったとしても、同じテーブルで食べられる人はキャプテンだけしかいなかったとしても。
「…まったく、悪知恵の働くヤツだな」
オニオングラタンスープに目を付けたっていうのもそうだし、食堂で食事をする方も。
仲間たちが喜ぶからいいと来たもんだ、本当の所は俺とデートをしようと出て来てたくせに。
「そのくらいのことはいいじゃない」
誰も気付いていなかったんだし、嘘も方便って言うんだし…。
それにホントに美味しかったよ、出来立てのオニオングラタンスープ。…青の間まで運んで来たスープだとね、バゲット、どうしてもふやけちゃうから…。チーズばかりが自己主張だよ。
だけど、ハーレイ、思い出してくれたんだ…?
前のぼくが食堂で食べていたのも、ハーレイとデートをしていたことも。
「まあな。…この間、こいつを作っていたらな」
作ってる間に色々と思い出して来て…。
食い始めたら、これを食べながらデートだったと気が付いた。
前のお前が「デートなんだよ」って寄越した思念が、パッと浮かんで来たんだよなあ…。
まさかシャングリラで食っていたとは思わなかったが、と苦笑した。
夕食にこれを作ろうと決めた時にも、タマネギを買って帰った時も…、と。
「秋タマネギにピッタリの料理だからなあ、オニオングラタンスープはな」
熱を加えると甘くなるんだ、秋タマネギは。春のヤツよりずっと甘いぞ、加熱してやれば。
ところが生で食おうとしたらだ、うんと辛いと来たもんだ。
そのせいで「秋タマネギは辛い」と思い込んでるヤツが多いな、こうして美味くなるのにな。
「うん、美味しいよね、ママのオニオングラタンスープも」
タマネギがトロトロでとっても甘いよ、秋タマネギだから余計に美味しいんだね。
またハーレイと一緒に食べたいな、これ。
「食ってる真っ最中だろうが。…なのにもう次の予約をしようというのか、お母さんに?」
「そうじゃなくって…。ハーレイと二人で食べたいんだよ」
前のぼくたちは、他の仲間もいる所でしかこれを食べられなかったから…。
だけど今なら、ホントのホントに二人っきりで食べられるようになるんだから。
ぼくが育って大きくなったら、ハーレイの家で、ハーレイが作ったのを食べたいよ。
秋タマネギでなくてもいいから、ハーレイのオニオングラタンスープ…。
「なるほどなあ…。そういう意味での「また」ってことだな」
前の俺たちのデートみたいに、お前と二人でこいつを食べる、と。今度は俺が作ったヤツを。
そういや、前の俺はお前にオニオンスープしか作ってやれなかったしなあ…。
俺が厨房で料理してた頃には、オニオングラタンスープがまだ作れない船だったからな。
白い鯨になった後に生まれた料理なんだし、前の俺は作っていないんだよなあ…。
今度はお前に作ってやろう、と約束をした。
秋タマネギが出回る季節になったら、とびきり美味いオニオングラタンスープを、と。
「…それでだ、俺たちが結婚したなら、タマネギ、ガレージに吊るすとするか」
屋根の所に棒を渡して、吊るせるタマネギを農家で買って。
「吊るす?」
なんでタマネギを吊るしちゃうわけ、そうするとタマネギ、美味しくなるの?
「違うな、タマネギは吊るしておくと長持ちするんだ」
しかし、普通に売ってるヤツだと吊るそうにも紐で結べない。
タマネギの葉っぱが生えてた部分が長めに残っていないと駄目なんだ。その部分に紐をギュッと結んで、風の通る場所に吊るしてやるのさ。
親父の家だと物置の軒下に吊るしてるんだが、俺の家だとガレージだな、と…。
「面白そう…!」
タマネギを吊るすのなんて初めて聞いたよ、ママに教えてあげたいな。
…でも、それ、農家から買わないと駄目だね、タマネギを作っている農家から。
「俺の場合は、買って来た時の網の袋ごと吊るしているが?」
それだけでも少しは違うもんだぞ、ガレージじゃなくてキッチンの棚の端っこだがな。
ところで、お前…。
タマネギを切ったら涙がポロポロ出て来るタイプか?
「涙…? どうなんだろう…?」
下の学校の調理実習で、タマネギの入ったシチューをみんなで作ったけれど…。
ぼくのグループ、タマネギの係はぼくの友達だったから…。
ぼくはタマネギ切っていないよ、だから涙が出るのかどうかは知らないよ。
だけど、どうして涙が出るのか訊いてくるわけ…?
小さなブルーはタマネギのことも綺麗に忘れてしまっているようで。
前の自分がタマネギの成分に弱かったことも、タマネギをオモチャ扱いしていたことも、まるで覚えていないらしいから。
「…ふうむ…。俺としては興味があるんだがなあ、今のお前とタマネギの関係」
シャングリラの思い出、オニオングラタンスープとタマネギなんだと言っただろうが。
前のお前は、タマネギを切ったら涙がボロボロ出るタイプだった。
そいつが面白かったらしくて、お前はタマネギを刻みに来たんだ、厨房までな。
俺がタマネギの料理を作ろうと準備していたら、嗅ぎ付けて何処からかやって来るって寸法だ。
でもって、ポロポロ涙を零してタマネギを刻んでいたんだ、お前は。
「えーっと…。それって、シールドは…?」
前のぼくなら目だけシールド出来た筈だよ、なんでしないの?
シールドしちゃえば、タマネギを何個刻んでいたって、涙は出ないと思うんだけど…。
「お前、本当に忘れちまったんだな、前のお前が好きだったオモチャ」
タマネギを刻むのにシールドなんかは要らないんだと言ってたが?
それじゃ人間らしくないとか、そういったことを。
タマネギを刻んだら涙はポロポロ出て来るものでだ、放っておくのが一番と言うか…。
涙が出るのを面白がっては、泣き笑いの顔で刻んでいたなあ、せっせとな。
俺が厨房にいなくなったら、「ハーレイがいないのに、つまらない」と卒業しちまったが。
「泣き笑いって…。前のぼくって、そんなにタマネギ、好きだったわけ…?」
そこまでしながら刻んでたわけ、タマネギを…?
「うむ。ここまで話しても思い出さないなら、後は実地でやるしかないな」
俺たちの家に吊るしたタマネギ、お前、自分で刻んでみろ。
そうすればきっと思い出すだろうさ、ただし涙が出てくれば、だがな。
今のお前がタマネギが平気なタイプだったら、トントン刻んでおしまいだろうが…。
俺が思うに、今のお前も多分駄目だな、タマネギはな。
結婚した後のお楽しみに取っておこう、と片目を瞑った。
前のブルーとタマネギの思い出、泣き笑いしながらタマネギを刻んでいたブルー。
あの頃のブルーは今の小さなブルーと同じに少年の姿だったから。
そっくり同じか、もう少しばかり育ったくらいの姿だったから、泣き笑いの顔も少年の顔。
けれど、今度はソルジャー・ブルーと同じ背丈に育ったブルーが泣くらしい。
もしもタマネギに弱かったならば、涙がポロポロ出るタイプなら。
(…はてさて、今度もタマネギをオモチャにしたがるのかどうか…)
サイオンがまるで不器用だしな、と心の中で漏らした笑い。
シールドが出来たブルーだったからこそ、タマネギで遊んでいたかもしれない。防ごうと思えば防げる攻撃、タマネギが繰り出す硫化アリル。
けれども、今のブルーは防ぐ手立てを持っていないから、一度で懲りるということもある。
タマネギなんかは二度と御免だとそっぽを向くとか、半分も刻まずに逃げ出すだとか。
(そっちだったら、泣き笑いの顔は見られないのか…)
育ったブルーの泣き笑いの顔も見たかったんだが、と思うけれども、蓋を開けてのお楽しみ。
ブルーの記憶が戻って来たなら、前と同じにやりたがるかもしれないから。
泣き笑いの顔で刻むタマネギ、それがしたくてタマネギ料理を食べたがるかもしれないから。
いつかブルーと結婚したなら、農家からタマネギを沢山買おう。
ガレージの屋根に棒を渡して、紐で縛ったタマネギを幾つも吊るしておこう。
使う時には、そこから外して取ってくる。料理に必要な数のタマネギを。
そうしてブルーと二人で食べよう、白いシャングリラにあったオニオングラタンスープを。
前のブルーとデートしていた時は必ず食べていたものを。
タマネギを刻むブルーの泣き笑いの顔も、運が良ければ見られるだろう。
前のブルーは育った後にはタマネギ刻みをやめていたから、一度も拝んでいない顔。
もしも今のブルーがタマネギ刻みが大の苦手で、二度とやろうとしなくても。
「ぼくは手伝わないからね!」と逃げて行っても、タマネギはドッサリ買い込もう。
そしてシャングリラでの思い出の味を何度も作ろう、二人きりで暮らせる温かな家で。
グツグツと滾る出来立てのオニオングラタンスープを、前のブルーが好きだった味を…。
タマネギの記憶・了
※白いシャングリラで作られていた、オニオングラタンスープ。前のブルーが好んだ料理。
出来立ての味を口実に、ハーレイと食堂でデートをしていたのです。仲間に内緒で堂々と…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(わあ…!)
白くてフワフワ、とブルーが覗き込んだ庭。学校の帰りに、バス停から家まで歩く途中で。
生垣越しに白い花を咲かせた植木鉢を見付けて、何の花かと見たのだけれど。白い花とは違った正体。ふんわり膨らんだ綿の実だった、花が咲いた後に実った実が弾けた真っ白な綿。
幾つもの白い綿を咲かせた、綿の木の鉢。木ではないかもしれないけれど。
(あんなの、あった…?)
前からあったら、気付いていそうな場所にある鉢。花の間は綿だと気付かず、眺めて通り過ぎた可能性も低くはない。名前を知らない花は沢山あるのだから。
(家の人がいたら、訊いたりすることもあるけれど…)
なんの花なの、と興味津々で。見た目が変わった花だったならば、訊こうと機会を狙いもする。けれど、綺麗なだけの花なら「何の花?」と首を傾げて終わったりもするし、この綿だって…。
(そう思っていたかもしれないけれど…)
流石に綿の実が弾け始めたら、目を引きそうな綿の鉢植え。「綿が咲いてる」と。
こんなに沢山、白い綿の実が咲く前に。幾つも幾つも弾ける前に。
なのに知らない、綿の鉢植え。学校に行く日はいつも通るのに、そうでない日も通るのに。
綿の鉢なんてあったかな、と立ち止まったまま覗いていたら。
「おや、もう気が付いてくれたのかい?」
嬉しいね、と出て来た、この家の御主人。小さい頃から知っている人。
「えーっと…。この鉢、前からあった?」
ちっとも気付いてなかったけれど、と尋ねたら「まさか」と返った笑み。
「ブルー君が多分、第一号だよ。発見者のね」
この鉢は今日貰ったんだ、と教えて貰った。それもお昼を過ぎてから。御主人の知り合いが家で育てた鉢の一つをくれたのだという。上手く行けば年を越せるから、と。
「ふうん…。それじゃ、やっぱり綿の木なの?」
来年も咲くなら、木なのかな、これ…?
「さあねえ…。そう何年もは無理なんだろうし、草じゃないかな。年を越す草もあるからね」
この綿も上手く冬を越せれば面白いんだけどね、と話す御主人。綿の花はタチアオイの花に少し似ていて、一日の間に色が変わってゆくらしい。咲いた時には薄いクリーム色だけれども、翌朝になったら萎んでピンク。そういう花。
色が変わる花が咲き終わったら、日に日に膨らみ始める実。緑色の実が熟して茶色くなったら、ポンと弾けて綿の実が咲く。真っ白な綿が。
二度も楽しめるのが綿の鉢植え、本物の花と綿で出来た花と。
「じゃあ、来年は花が見られるの?」
「失敗しないで上手に育てられればね」
せっかくだから一つ持って行くかい、と訊かれた綿の実。最初の発見者にプレゼントだよ、と。
もちろん貰うことにした。綿の実なんかを触ったことは一度も無いから。
どうぞ、とハサミでチョキンと切って貰った綿の花。本当は花とは違って、綿の実。
フワフワの綿の実を持って家に帰ったら、母が「あら?」と驚いた。
「綿の実、何処で頂いたの?」
それとも学校で育ててたかしら?
「ううん、帰りに貰ったんだよ。ぼくが発見者第一号だって」
だから貰えた、と得意になって説明して。大切に部屋に持って帰って机の上に飾っておいた。
綿の実はすっかり乾いているから、もう水などは要らないから。花が終わった後の実が弾けて、中の種を落とそうとしているのが真っ白な綿だから。
おやつを食べにダイニングに出掛けて、また戻って来た机の前。コロンと綿の実が一個。
(これもホントに花みたいだよ)
色を変えるという綿の花の話を聞いて来たから、これは実なのだと思うけれども。茶色く乾いてしまっているから、正真正銘、実なのだけれど。
綿の木にはフワフワの綿が咲くのだと教えられたら、納得しそうな感じもする。側まで出掛けて子細に観察しない限りは、実だとは気付かないままで。
(ハーレイにも見せてあげたいな…)
本物の綿の実は初めて見たから、珍しいものには違いない。栽培している畑に行ったら、一面にあるとは思うけれども、住宅街には無さそうな花。
ハーレイは今日は来てくれるだろうか、貰ったその日に自慢したいのに。
見せたい人がやって来るかは学校次第で、会議があったら駄目なことが多い。他にもハーレイの仕事は色々、柔道部の指導が長引いた時も来られないから、気掛かりな今日。
(来てくれるかな…)
駄目な日なのかな、と本を読みながらも、ついつい目が行く白い綿の実。真っ白な綿を咲かせた不思議な実。四つにパカリと割れたらしくて、綿が詰まった部屋が四個くっつき合っている。
(この中に、種…)
何処から見たって、肝心の種は見えないけれど。綿にすっぽり包まれていて。
(…こんな種でも、ちゃんと自然に育つんだよね?)
まさか人間が種を取り出して蒔いてくれるまで、待つようなことはないだろう。それでは滅びてしまうから。自分で種を落とせないなら、人の手を借りるしかないのなら。
自然は凄い、と考えてしまう。フワフワの綿にもきっと役目があるのだろう。中に詰まった種を守るとか、そういった大切な役割が。
(それを横取りするのが人間…)
綿を採ろうと、栽培して。中の種など捨ててしまって、フワフワの綿だけを持ってゆく。これは使えると、たっぷりと。畑一面に弾けた綿の実、それを端から。
綿の木が頑張って作った種は地面に落ちて芽を出す代わりに、多分、ゴミ扱いだろう。
ちょっと酷い、と思ったけれども、人間の都合で育てるものなら山ほどあるから…。
(考えすぎたら、お肉も野菜も食べられないしね?)
この考えはやめておこう、と綿の実を楽しむことにした。フワフワの綿が植物から生まれてくる不思議。モコモコの羊とかなら分かるけれども、綿の木は鉢に植わっていたのに。
面白いよね、と真っ白な綿を指でつついたり、見当たらない種は何処にあるかと考えたり。本は放って眺めていたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。この時間なら間違いなくハーレイ。
(やった…!)
綿の実を見て貰えるよ、と大喜びで部屋で待ち受けて、テーブルを挟んで腰掛けた。ハーレイは気付いてくれるだろうか、と綿の実は勉強机の上に置いたままで。
「おっ、綿の実か?」
直ぐに見付けてくれたハーレイ。もしかしたら、心が零れていたかもしれないけれど。ワクワクしている時にはありがちなことで、心の欠片がポロポロ零れているらしいから。
「貰ったんだよ、学校の帰りに」
その家の人も、貰ったばかりなんだって。綿の木が植わっている鉢を。
ぼくが発見者第一号だったから、綿の実、一つ貰えたんだよ。
「ほほう…。それで俺に自慢したかった、と」
得意そうな心が零れていたから、何かと思えば綿の実だったと来たもんだ。確かに滅多に見ないものだし、気持ちは分かる。お前も本物は初めてだろう?
「うん、写真でしか見たことないよ」
だから嬉しくなっちゃって…。不思議な実だよね、綿が採れるなんて。動物だったらフワフワの毛皮は普通だけれども、綿の木に毛皮はついていないし、植物なのに…。
「まあな、変わった植物ではある」
それでだ、綿の実を貰ったんなら…。お前、糸紡ぎはしないのか?
「糸紡ぎ?」
なにそれ、なんで糸紡ぎになるの?
「こいつから糸が取れるだろうが」
お前の言ってるフワフワの動物の毛と同じでだ、綿の実も糸になるんだぞ?
この実だけだと、ほんの少ししか取れそうにないが、立派な糸に。
綿から取ったのが木綿なんだから、と言われてみれば、その通り。
フワフワの姿で「綿だ」とばかり思ったけれども、綿が栽培される主な理由は、糸に仕上げる方だろう。それで織り上げる木綿の布やら、そういったもの。
そこまでは考えていなかった。この実から糸が取れるだなんて。
「ハーレイ、やったことあるの?」
糸紡ぎなんかを直ぐに思い付くくらいなんだし、ハーレイもやった?
「俺はやってはいないんだが…。おふくろが挑戦していたぞ」
糸を紡ぐ所からやってみたい、と糸車まで家にあったっけなあ…。何処で手に入れたのかは俺も知らんが、今でも家に置いてる筈だぞ。誰かに譲ったという話は聞かんし。
「そうなの?」
だったら、この実からでも糸が取れるんだね、木綿の糸が。
「うむ。…ただし、このままでは無理だがな」
実から外したら、直ぐに取れそうな感じに見えるが、そうじゃなかった。
種を取り出してから、綿をほぐしてやらないと駄目だ。ブラシみたいな道具で梳いてやったり、綿打ち弓ってヤツで打ったり。紡ぎやすくなるように綿を打つんだ、それが欠かせん。
もっとも、綺麗な糸を紡ぐんでなければ、梳くだけでも出来るって話だが…。
どちらにしたって、あの実だけだと沢山の糸は取れないな。
糸紡ぎをやってみたいと言うなら止めはしないが、今のままの方が見栄えはするぞ。
「フワフワしていて綺麗だもんね」
糸にしちゃったら、ほんのちょっぴりになるんだろうし…。
あのまま持っておくのがいいよね、せっかく貰ったんだから。
糸紡ぎに興味はあったけれども、この実をほぐして糸にしてみても僅かな量に違いない。綺麗な綿の実、花のような実を壊すよりかは、このままの方が素敵だろう、と勉強机から持って来た。
ハーレイに「ほらね」と見せて自慢して、フワフワの綿を触っていたら。
指の先で柔らかな綿を感じていたら…。
(あれ…?)
何処かで綿を触った記憶。
こんな風に、ふんわりした綿を。温もりが優しい綿の塊を。
「どうしたんだ?」
いきなり首を傾げちまって、何を考え込んでいるんだ、お前…?
「んーと…。前にもこういうのを触ったかな、って」
なんだか、そういう気がするんだよ。綿の実、前に何処かで触ったことがあるような…。
「学校か?」
下の学校で育てていたんじゃないのか、お前じゃなくても他の学年の生徒だとか。
花壇や畑に植わっていたなら、触るだけなら叱られたりはしないだろうし…。
小さい頃なら好奇心ってヤツも強いからなあ、お前、触りに行ったんじゃないか?
「そうかも…。でもね、下の学校の頃より前みたい…」
もっと前だよ、触っていたなら。
幼稚園かな、先生たちが植えていたのかな?
綿が採れたらクリスマスツリーの飾りに出来るし、育ててたかも…。
それをちょっぴり触っていたかな、フワフワだよ、って。
ホントにずいぶん昔だから、と返した途端に掠めた記憶。
綿を触っていた指先からスイと蘇った、遠い遠い時の彼方の記憶。こうして綿を触った自分。
「そっか、シャングリラだ…!」
前のぼくだよ、こうやって綿を触ってたのは。あの船で綿の実、触っていたよ。
「なんだって?」
シャングリラだって言われても…。綿の畑なんかは無かったわけで…。
「ううん、そういう作物じゃなくて…」
何かを作るために育てていたんじゃなくって、何か出来たらいいね、ってヤツ。
沢山採れたら何か作れるかもしれない、っていうヤツだったよ、シャングリラの綿は。
毎年、ヒルマンが育ててたんだよ、子供たちのために。
「そうか、あったっけな、綿の畑も…!」
本格的に栽培しようってヤツじゃなかったからなあ、すっかり忘れちまってた。
シャングリラで育てていた作物の出来は、全部キャプテンの俺に報告が来ていたが…。個人的なヤツだと除外されるし、あの綿もそいつと同じ扱いだったんだ。
不作だろうが豊作だろうが、シャングリラでの生活に影響するわけじゃない。不作だったら他の手段を考えないと、っていう方向にも行かないからな。
…そのせいで綺麗に忘れたわけだな、俺の管轄じゃないってことで。
そこそこの広さはあった畑なのに、個人的な持ち物だったプランターと同列で考えていたか…。役割はあって無かったようなものだからなあ、あの綿の畑。
シャングリラでは合成されていた繊維。制服の生地も、リネン類なども、合成された繊維の糸を織り上げたもの。
全員の分を賄えるだけの自然の繊維は作れないから。限られた空間だけが全ての宇宙船では。
充分なスペースと労力が無いと、そういったものは作れないから。
だから繊維は合成するもの。それがシャングリラのやり方だったし、人類の世界の方にしたって天然素材の布が溢れていたわけではない。当たり前のように存在していた化学繊維。
その情報をデータベースから引き出して使い、同じような生地を作っていた。服も、リネンも。
人類の世界に引けを取らなかった、シャングリラで作られた合成の繊維。
けれど、そのシャングリラでヒルマンが綿を育てていた。子供たちの教材にするために。
「あの綿なあ…。最初は綿とは言わなかったな、ヒルマンは」
蚕を飼おうと言ったんだった。…同じやるなら絹が面白いと。
「虫が吐く糸から出来るんだものね、絹は」
綿と同じで、とっても不思議。ヒルマンが教材に使いたかった気持ちは分かるよ。
餌にする桑が要るから駄目だってことになっちゃったけど…。
余計な虫まで飼えんわい、ってゼルも反対してたしね。
蝶がいなかったシャングリラ。花が咲いても、蝶が舞うことは一度も無かった。
自給自足で生きてゆく船に、蝶の役目は無かったから。人の心を和ませることしか出来ない蝶。それを飼うだけの余裕は無いから、蝶は不要と判断された。
つまり、余計な虫は飼えなかったシャングリラ。蚕も大量の絹が採れないのなら余計な虫。餌の桑まで必要になって、手間がかかってしまう虫。
「もしも蚕を飼っていたらだ、ミツバチの他にも虫がいる船になったんだがなあ…」
ついでに蚕は蛾になるわけだし、蝶の親戚みたいなもので…。
蝶のように綺麗な虫じゃなくても、ミツバチだけしかいない船よりマシだったかもしれないぞ。
生き物の影があるっていうのは悪くないしな、蛾だとしてもな。
「でも、蛾になるよりも前の芋虫がね…」
エラが乗り気じゃなかったんだよ、生理的に受け付けないとか言って。
凄い量の桑を食べるらしいから、っていうのが表向きの理由だったけど…。ハーレイも何処かで聞いてた筈だよ、エラがブラウに愚痴を零すトコ。「飼うことに決まったらどうしよう」って。
「…そういうのもあったな、エラの愚痴なあ…」
俺やヒルマンには言って来なかったが、ブラウには何度も零していたな。「芋虫なんて」と。
しかしだ、ブラウは「別にいいんじゃないのかい?」って笑うばかりで全く話にならなくて…。
仕方ないからゼルを味方につけたんだよなあ、「芋虫だから」とは言いもしないで。
とにかく無駄だと、一匹だけでも桑の葉がこんなに必要になる、と。
芋虫が苦手だったエラ。成人検査よりも前の記憶は失くしていたのに、酷く嫌っていた芋虫。
蚕も芋虫には違いなかったから、「蚕を飼おう」というヒルマンの計画は頓挫した。長老の内の二人が反対となれば、子供たちの教材にするためだけに蚕は飼えない。
ヒルマンは考え直さざるを得ず、蚕の代わりに持ち出したのが綿。蚕と違って餌が要らない、と強調して来た綿花の長所。
「ヒルマン、蚕で懲りてたのかなあ…。綿には餌が要らないから、って」
そこが一番いい所だよ、なんて言っていたけど、畑のスペースはちゃっかり持って行ったよね。
「蚕を飼ったら、これよりも広い桑畑が必要になるわけだから」ってデータまで出して。
「策士だったな、エラとゼルの主張を逆手に取っちまってな」
これだけの綿を植えたとしたって、蚕用の桑なら何匹分で…、と言われたら誰も文句は言えん。
農場の空きスペースを使うわけだし、反対する理由は何処にも無いし…。
お蔭で立派な綿の畑が出来ちまったってな、あの船の中に。
キャプテンの俺でも忘れていたほど、報告不要の畑ってヤツが。個人所有のプランターだの植木鉢だのと同列にしては、やたら広いのがドッカンとな。
ヒルマンが手に入れた、教材用の綿畑。世話をしていたのは農場担当の仲間だけれども、指揮はヒルマンが執っていたから、世話係は自分だと名乗っていた。責任者も自分なのだから、と。
何本もの綿が植えられた畑、ヒルマンは子供たちを連れて行っては解説していた。これの栽培は紀元前五千年まで遡るのだと、想像もつかない遠い昔から人間は綿を育てていたと。
花が咲いて実がなり、その実が熟して弾けた後には子供たちの出番。フワフワの綿の実を摘んだ子供たち、遊びを兼ねての綿の収穫。
「ぼくも子供たちと一緒に摘んでたよ、綿を」
それで覚えていたみたい…。こんな手触りだったんだ、って。
ぼくはすっかり忘れていたのに、ぼくの手がちゃんと覚えていたよ。前のぼくの身体はメギドと一緒に消えちゃったのに…。今の身体は別の身体なのに、綿の手触りはこうだった、って。
「ふうむ…。俺も何度か触ってはいたが…」
農場に視察に出掛けた時に、こう、ふんわりと弾けていたりするだろう?
ついつい触ってしまっていたなあ、動物でもないのに毛が生えてやがる、と。
しかし、お前ほどには馴染みが無かったらしい。こいつを触ってもピンと来ないし…。あの時のアレだと思いもしないし、前の俺とは付き合いがどうやら浅かったようだ。
…待てよ、前のお前と綿との付き合いと言えば…。
お前、紡いでいなかったか?
「えっ?」
紡ぐって…。何を?
「綿に決まっているだろうが。ヒルマンたちは、最終的には糸を紡いでいたんだぞ」
綿の実を摘んで終わりじゃなかった、糸にするまでが勉強の時間だったんだ。
覚えていないか、ヒルマンたちの糸紡ぎ。
シャングリラには糸を紡ぐための糸車も乗っていたんだが…、と聞かされて蘇ってきた記憶。
白い鯨にあった糸車、器用だったゼルが資料を見ながら作ったもの。温かみのある木材で。その糸車で糸を紡いだ、ヒルマンや子供たちに教えて貰って。
ソルジャーはとても暇だったから。子供たちの遊び相手を仕事にしていたくらいだから。
「…忘れちゃってた、ハーレイが綿の畑を忘れていたのとおんなじで…」
綿が採れたら、糸紡ぎをするのを見に行ってたのに。
子供たちに誘われて、教えて貰って、ぼくも糸紡ぎをしてたのに…。
「お前、けっこう上手かった筈だぞ、糸を紡ぐの」
裁縫の腕はサッパリだったが、どういうわけだか、糸は上手に紡ぐんだ。そうやって紡いだ糸を使うのは下手くそなくせに。
ブラウが対抗意識を燃やしていたなあ、「あたしだって、やれば出来るんだよ」とな。
「そうだっけね…。ブラウも紡ぎに来てたんだっけ」
ちょっと貸しな、って取られちゃうんだよ、糸車。
子供たちが紡いでいる時だったら取らないけれども、ぼくやヒルマンがやってた時には。
白いシャングリラの綿畑と、木で出来た糸車と。合成ではない木綿の糸を紡ぎ出していた糸車。
興味を抱いた仲間たちも多くて、糸紡ぎの競争をやったこともあった。
綿が豊作だった年にやった競争、紡ぐ速さを競った競争。速さはもちろん、糸の出来栄えも。
すっかり忘れていたのだけれども、大勢の仲間が参加していた。
「ハーレイ、糸紡ぎの競争のことを覚えてる?」
どれだけ速く紡げるかっていうのと、紡いだ糸が綺麗かどうかで大勢で勝負したんだけれど…。
あの競争、誰が勝ったのか、ハーレイ、覚えていない…?
「…忘れちまったが、俺じゃないことは確かだな」
俺だけは数から外しておけ。それ以外の誰かが勝者ってことで。
「外しておけって…。ハーレイも競争していたの?」
糸紡ぎをしてたの、あの時に…?
「悪いか、俺がやってたら」
付き合いってヤツでな、やらざるを得ない立場に追い込まれて…。
初心者どころか初めてだから、と言っても逃がしちゃ貰えなかった。
…俺をそこまで追い込めるヤツだ、誰かは想像出来るだろうが。
生憎と、そいつが勝ったかどうかも覚えていない。前のお前が勝ったかどうかも。
ハーレイも自分も忘れてしまった、糸紡ぎ競争を勝ち抜いた誰か。優勝の栄冠を手にした誰か。
誰だったのだろう、遠いあの日の糸紡ぎの勝者。
ハーレイではなかったというのだったら、前の自分か、ブラウか、熟練のヒルマンか。あるいは前のハーレイを競争に引き摺り込んだ誰か、それとも他の仲間だったか。
そして紡いだ糸はどうなったのだろう?
競争の時の糸の行方も気になるけれども、毎年、毎年、紡がれた糸。綿が採れる度に、白い鯨にあった糸車で子供たちや前の自分が紡いでいた糸…。
「あの糸か? …俺は報告を受けちゃいないが…」
必要不可欠な作物ってわけじゃないしな、そいつから出来た糸も同じだ。私物と同じ扱いだな。
キャプテンに報告する義務は無いし、ヒルマンからも正式に聞いてはいない。…キャプテンへの報告という形ではな。
だが、ヒルマンは俺の飲み友達でもあったわけでだ…。そっちの方なら何回か聞いた。
「今年は染色にも挑戦しようと思ってね」だとか、「ランチョンマットが出来た」だとか。
色々なことに使っていたと思うぞ、服にはなっていない筈だが。
「シャングリラは誰でも制服だったものね…」
おんなじデザインの服を着ている人がいなくても、誰でも制服。
前のぼくでも、ハーレイでも。…フィシスの服だって、ちゃんと制服だったんだものね。
綿から糸を紡いだならば、木綿の布が織れるのだけれど。
シャングリラに木綿の制服は無くて、綿は服にはならなかった。糸に紡がれて、その後のことは前のハーレイにも分からない、糸の行方は、糸から何が出来たのかは。
それでも毎年、育てていた綿。ヒルマンが育てた綿畑。真っ白な綿の実が幾つも、幾つも。
「…あの綿、クリスマスツリーの飾りにもなった?」
クリスマスツリーはあった筈だけど、あの綿、使っていたのかなあ…?
雪の飾りは綿でやるでしょ、クリスマスツリー。
「どうだっけなあ…」
悪いが、俺も覚えちゃいない。…なにしろ、綿はキャプテンへの報告義務が無かったからな。
クリスマスツリーの方もどうだか…。
あった筈だと思うわけだが、何処にあったか、どんなのだったか、サッパリだ。
思い出すべき時じゃないのか、忘れちまったというだけなのか。
どっちにしたって、俺の頭にクリスマスツリーは浮かんで来ないし、雪の飾りも謎ってことだ。
そういう飾りがついてたかどうか、それ自体を覚えていないんだからな。
本物の綿で飾っていたのか、合成品の綿だったのか。…どうにもならんな、この状態じゃ。
ハーレイにも思い出せないというシャングリラの綿の使い道。糸に紡いだ綿の行方も、紡がずに雪の飾りになった綿が幾らかあったかどうかも。
白いシャングリラと一緒に時の彼方に消え去った綿。ヒルマンが育てていた綿畑。
今日、綿の実をくれた人は「上手く育てれば年を越せるよ」と言ったけれども、シャングリラの綿の木は年を越して育っていたろうか?
次の年にも同じ株から花を咲かせて、真っ白な綿の実をつけただろうか…?
「いや、それは無いな」
あの綿畑の綿は一年限りだ。次の年には種蒔きをやって、また一からの出発だってな。
「…言い切れるの?」
あそこはキャプテンの管轄じゃないって言っているのに、言い切っていいの?
ヒルマンが年を越させて育てていた年も、何度かあるかもしれないよ…?
「キャプテンだからこそ、言い切れるんだ」
綿畑は俺の管轄ではなかったわけだが、子供たちの教育方針の方は報告が上がってくるからな。
教材として育てるからには、種蒔きをするトコからなんだ。
種蒔きで始まって、糸紡ぎで終わる。…それがシャングリラの綿ってヤツだ。
糸を紡ぐ頃には綿畑はもう空っぽだった、とハーレイは証言してくれた。収穫を終えた綿の木は農場の係が全部取り去り、翌年に向けて土作りを始めていた筈だ、と。
「しかし、糸紡ぎか…」
あのシャングリラに糸車があって、前のお前が上手に糸を紡いでいたと来たもんだ。
お前、糸車で指を怪我していなかったか?
「してないよ、怪我なんかするわけがないよ」
前のぼくは手袋をはめていたもの。指を怪我するわけがないでしょ、あの手袋をしていれば。
糸を紡ぐ時だって外していないよ、でも、なんで?
ぼくの失敗、気になるわけ…?
「そうじゃなくてだ、眠り姫だ」
「え…?」
「前のお前が十五年間も眠っちまっていたのは、そのせいかとな」
眠り姫は糸車で指を怪我して眠っちまうし、前のお前もそうだったのか、と思ったんだが…。
「えーっと…。ハーレイ、ぼくにキスしてくれた?」
寝ているぼくに。…十五年も眠り続けたぼくに。
「キスしないわけがないだろうが」
そりゃあ何度も、こっそりとな。…誰も青の間に来ない時に。
「ハーレイがキスしても目が覚めないなら、眠り姫じゃないよ」
王子様のキスで起きない眠り姫なんて、何処にもいないと思うんだけど…。
「確かにな…!」
糸車で怪我をしたんだったら、あれで起きなきゃいかんしなあ…。
別の呪いで眠り続けたわけだな、前のお前は十五年も。
王子様のキスでも目が覚めなかった眠り姫。
白いシャングリラで糸を紡いでいたソルジャー。それは上手に、糸車で。
「…糸紡ぎ、いつまでやっていたっけ?」
「アルテメシアを離れるまでだな。前のお前は充分、起きてた」
だから訊いたんだ、糸車で指を怪我しなかったか、と。…眠っちまう前に。
「ナスカは?」
あそこでは糸紡ぎ、やっていないの?
…ナスカの畑は他の作物を育てるために使っていたから、綿を植えるのは無理だけど…。
シャングリラの方では出来た筈だよ、あの綿畑をまた使い始めたらいいんだから。
「畑はあっても、子供たちがいないだろうが」
子供たちのための教材なんだぞ、綿を育てるのも、糸紡ぎも。
「トォニィたちは?」
「そういう学習を始めるよりも前に、ナスカが燃えちまったんだ」
お前は大きく育ったトォニィたちにも会ってるわけだが、勘違いをするなよ?
トォニィはまだ三歳だったし、糸紡ぎを教わる年じゃないんだ。
「そっか…」
小さかったっけね、育つ前のトォニィ。
今のぼくでも受け止められそうなほどに小さかったし、あれじゃ糸紡ぎは無理だよね…。
もう三年ほど育ってからやっと、種蒔きが出来るくらいだったかも…。
アルテメシアから宇宙へ逃げ出した後は、作られなかった綿畑。紡がれることが無くなった白い綿の実。糸紡ぎの車は何処へ行ったろう?
前の自分が糸を紡いだ糸車は。…ゼルが作った木の糸車は。
「さてなあ…。倉庫の奥にはあったんだろうが…」
俺の管轄外だとはいえ、処分するならヒルマンから報告が来た筈だ。糸車が教材だった以上は、勝手に処分は出来ないわけで…。
しかし倉庫に突っ込む分には、俺に報告なんかは来ない。…何処に突っ込んでいたやらなあ…。
「カナリヤの子たちが紡いだかな?」
倉庫の何処かで糸車を見付けて、何に使うのかを誰かに訊いて。
また綿畑も作り始めて、其処で採れた綿を紡いでたかな…?
「それは俺にも分からんが…」
なにしろ死んじまってるからなあ、その頃には俺もとっくの昔に。
カナリヤの子たちを育てていたのはフィシスなんだし、フィシスが糸車を覚えていたら…。
そういう道具で糸紡ぎをしたな、と思い出したら、倉庫で探していたかもしれん。
探せば必ず見付かるだろうし、また糸紡ぎをしていたってことも無いとは言えんな。
記録には何も無い筈だがな、とハーレイは腕組みをしているけれど。
前のハーレイたちが命を捨てて救ったという子供たちにも、糸を紡いで欲しかった。
白いシャングリラで綿を育てて、骨董品とも言える糸車で。前の自分が糸を紡いでいた、ゼルが作った木の糸車で。
「どうなんだかなあ…」
今となってはサッパリ謎だな、カナリヤの子たちが糸車を見たのかどうかもな。
「分からないよね…」
もしも糸紡ぎをしていたとしても、何処にも記録が無いのなら。
あの糸車がどうなったのかも、誰にも調べられないんだね…。
前の自分たちが生きた頃から、気が遠くなるような時が流れて青い地球まで蘇った。
ハーレイと二人、その地球の上に生まれ変わって来たのだけれども、今の時代までは伝わらずに消えた出来事の数も多いから。
何処を探しても、残されていない記録の一つ。白いシャングリラの糸車。
前の自分が糸を紡いでいたということも、その糸車がどうなったかも。
「…ハーレイの家には、今も糸車があるんだよね?」
「おふくろの趣味の道具だったし、それこそ突っ込んであると思うぞ」
また紡ごうか、と思わないとも限らないしな、誰かに譲っていないんだったら家にある筈だ。
「あるんだったら、いつか紡いでみたいな、綿を」
「…俺が不器用なのを笑うつもりか?」
糸紡ぎの腕、俺はお前にまるで敵わなかったわけでだ、今の俺だって練習していないんだし…。
お前と勝負ってことになったら、また負けそうな気がするんだが。
「そうじゃないってば、今のぼくだって初心者なんだよ?」
前のぼくよりサイオンの扱いが不器用なんだし、糸紡ぎだって下手になってるかも…。
でも、シャングリラの思い出だもの。糸車があるならやってみたいよ、糸紡ぎを。
「分かった、お前が親父たちの家まで行けるようになった頃まで覚えていたらな」
そしたら、おふくろに頼んでやろう。
次に行く時は糸紡ぎをするから、糸車を探して欲しいんだが、と。
だが、絶対に指を怪我するなよ、と言われたから。
また十五年も眠られたのではたまらんからな、とハーレイがジロリと睨むから。
「前のぼくだって、指なんか怪我していないよ!」
それに王子様のキスで起きるよ、もしも怪我して眠ったとしても。
糸車の呪いに捕まっちゃっても、ぼくはきちんと目を覚ますから…!
「そうだな、今のお前なら起きてくれそうだな」
前のお前の時と違って、眠り続けて力を残して、メギドを沈める必要なんかは無いんだからな。
「うん、それにハーレイを一人にはしないよ」
独りぼっちにさせたりしないよ、眠りもしないし、メギドなんかにも行かないよ。
だって、ぼくだってハーレイと離れたくなんかないんだもの。
…前のぼくは仕方なかったけれども、今のぼくはずうっと一緒なんだよ、ハーレイと。
死ぬ時も一緒って言ってあるでしょ、だから糸車の呪いも大丈夫だよ。
そう、今度はいつまでも、何処までも一緒。
糸紡ぎの車で指を怪我しても、ハーレイのキスで目が覚める。
そして何処までも、いつまでも幸せに、青い地球の上で手を繋ぎ合って生きてゆく。
だからいつかは糸を紡ごう、隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に出掛けて。
ハーレイの母が持っているという糸車。
それでハーレイと二人で紡ごう、白いシャングリラで紡いだ思い出の糸を。
真っ白な綿の実から綿を取り出して、糸車にかけて。
ハーレイが勝つか、自分が勝つか。
白いシャングリラでの日々を思い出しては笑い合いながら、紡ぐ速さを競い合いながら…。
綿と糸車・了
※シャングリラで育てられていた綿花。子供たちの教材用で、糸紡ぎまでやっていたくらい。
前のブルーが上手に紡いだ糸。青い地球でも、ハーレイと二人で紡げそうですね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
新しい年が明け、今日は一月十五日。小正月とかいうヤツです。ちょうどお休み、会長さんの家でゆっくりしようと揃ってお出掛け。バス停からの道は雪もちらついて寒かったですが、マンションの中は暖房が効いてポカポカ、会長さんの家のリビングもポカポカで…。
「かみお~ん♪ 今日は十五日だしね!」
はいどうぞ、と出て来たものは熱い紅茶やコーヒーならぬ緑茶でした。何故に、と目を疑えば、お次は蓋つきの器が運ばれて来たからビックリです。これってスフレじゃないですよね?
「なに、これ?」
ジョミー君が指差すと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと。
「小豆粥だよ、十五日だもん!」
「小豆粥?」
「えとえと、無病息災だったっけ?」
どうだっけ、と会長さんに視線が向けられ、会長さんが。
「邪気払いと一年間の健康を祈る行事だし、無病息災って所かな。キースは家で食べて来ていそうだけれど」
「ああ、おふくろに食わされたな」
此処で食ったら二回目だ、とキース君。
「ぶるぅ、アレンジしてくれてるのか? 中華風とか」
「ううん、普通に小豆粥だけど…。カボチャを入れて中華風のも美味しいよね、ってブルーに言ったら、今日のは普通に炊くべきだ、って…」
小正月だし、という答え。縁起物はアレンジするより正統に、とのことらしいですが、小豆粥かあ…。同じお粥なら中華風とか、アワビ粥とか…。
「ダメダメ、今日はこれの日だから!」
文句を言わずにキッチリ食べる! と会長さん。うーん、これって美味しいのかな? どうなんだろう、と一口、食べてみたら。
「「「美味しい!!!」」」
小豆しか入っていないお粥が、ふっくら、ホコホコ。小豆はホクホク、お米もトロリと蕩けそうです。何か工夫をしたお粥なのか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕なのか。
「あのね、小豆はきちんと浸けておくのがコツでね、それからね…」
しっかりと炊けば美味しいんだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。うん、この味なら小豆粥でも充分オッケー、立派に午前のおやつかも~!
驚いてしまった小豆粥ですが、美味しかったら誰も文句はありません。一週間ほど前に七草粥を御馳走になっていますし、新年早々、お粥、二回目。次に食べるならどんなお粥がいいだろう、とお粥談義に花が咲いたり。
「中華風が美味いぜ、粥といえばよ」
胡麻油が食欲をそそるんだよな、とサム君が言えば、シロエ君も。
「いろんなお粥がありますからねえ、中華風。鶏肉入りとか、干し貝柱とか…」
「中華もいいがだ、俺はアワビ粥も捨て難い」
隣の国の、とキース君。私も「それ、それ!」と叫んじゃったり。アワビ粥は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が何度も作ってくれました。中華の国のお隣の名物らしいですけど。
「粥はあの辺りの国に限るな、ポリッジよりもな」
ポリッジは駄目だ、とキース君の眉間にちょっぴり皺が。ポリッジって確かお粥ですよね? そんなに駄目なの?
「ポリッジといえば不味いというほどの代物だぞ、あれは」
よくもあんなに不味いものを食えるもんだ、とブツブツブツ。キース君、ポリッジ、食べたんですか…? もしや本場で?
「いや、本場というわけじゃない。一種、トラウマと言うべきか…」
「「「トラウマ?」」」
「あっちの方の本にはよく出るからなあ、一度食いたいと思ってな…。それで、おふくろに」
シャングリラ学園に入るよりも前の話だが、と溜息が一つ。ポリッジなるものに興味津々だった中学時代のキース君。わざわざ街の輸入食料品店まで自分で出掛けて、オートミールなるものを買って帰って、「作ってくれ」とイライザさんにお願いしちゃったらしいのですが。
「…で、どうでした?」
ぼくもポリッジは未経験で、とシロエ君が訊けば。
「………。二度目は要らんな」
「そこまでですか!?」
「興味があるなら、お前も食え! ぶるぅに作って貰ってな!」
あれは体験しないと分からん、とキース君はそれは不快そうな顔。
「しかもだ、俺がウッカリ買ったばかりに、親父もおふくろも食い物を無駄にしてはいかんと言い出して…。それから暫く、俺の朝飯はオートミールのオンパレードだった!」
ポリッジだけでもクソ不味いのに、と嘆き節が。素材からして不味かったですか、噂に聞くポリッジなるお粥…。
キース君曰く、とてつもなく不味いらしいポリッジ。それに比べれば小豆粥でも天国のお粥と呼べそうなほどの勢いだそうで。
「坊主の俺なら極楽のお粥と呼ぶべきなのかもしれないが…。今日のぶるぅの小豆粥なら、もう間違いなく極楽だな。お前たちも是非、ポリッジを試してみてくれ」
「遠慮します!」
不味いと聞いたら誰でも嫌です、とシロエ君が即答しました。
「いくらぶるぅでも、不味いものを料理したなら、絶対、不味いに決まってますから!」
「うんうん、俺も死にたくはねえし」
同じ食うなら美味いものをよ、とサム君がすかさず相槌を。
「材料からして不味いんだろ、それ。キースがトラウマになったんだからよ」
「どう転んでも不味かったからな!」
あの朝飯は二度と御免だ、とキース君はそれこそ吐き捨てるように。
「腐ってもシリアルの一種だと言うから、俺なりに色々、試しはしたんだ! ミルクだけでは普通に不味いし、蜂蜜も砂糖も入れたんだが!」
レーズンなんかも入れたんだが、と苦々しい顔。
「どんなに工夫を凝らしてみてもだ、クソ不味いものは不味いんだ! あれだけは駄目だ!」
よくもあんなもので粥を作りやがって、とキース君がののしれば、会長さんがのんびりと。
「仕方ないねえ、元々が馬の餌だしね?」
「「「は?」」」
「オートミールはオーツ麦でさ、小麦が出来ない地域じゃ主食になってたけれど…。ちゃんと小麦が取れる場所では馬に食べさせる餌だったんだよ」
「だったら、俺は馬が食うものを食ったのか!?」
なんで馬の餌が粥になるんだ、とキース君は唖然としていますけれど。
「栄養だけは満点らしいよ、オートミールは」
それでポリッジで病人食にも…、と会長さん。
「お粥は病人食にもよく使うしね? 何処の国でも考えることは同じなんだよ。君たちだって小豆粥と聞いてあまり嬉しくなさそうだったし」
「「「うーん…」」」
病人食のお粥は確かに美味しくありません。ポリッジもそうだと言われれば納得なんですけれども、実に奥深いお粥の世界。同じお粥を病人食で食べるんだったら、中華風とかアワビ粥とかの国が断然いいですよね?
そういう話になるのを見越していたんでしょうか、お昼御飯はなんと参鶏湯。アワビ粥の国のお料理です。鶏肉と一緒にじっくり煮込んだ高麗ニンジン、クルミに松の実、それからニンニク。糯米が入ってお粥風と言えばお粥風で。
「「「いっただっきまーす!」」」
寒い冬だけに、トロトロの煮込みが美味しい季節。これもお粥の一種だよね、と舌鼓を打って、一緒に出されたチヂミもパクパク。こんなお昼が食べられるんなら小豆粥の日もいいものです。御馳走様、と食べ終えてリビングに移動して…。
「お粥の日も悪くなかったね」
当たりだよね、とジョミー君が言い、キース君も。
「そうだな、美味い粥なら文句は言わん。ポリッジだけは本当に勘弁だが…」
あれを美味しく食える人間がいたら尊敬する、と顔を顰めてますから、よっぽどなんでしょう、ポリッジとやら。ついでに材料のオートミールも。そんな感じでワイワイガヤガヤ、お粥や食べ物を語っていたら。
「かみお~ん♪ ちょっと早いけど、おやつにどうぞ!」
はい! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が長方形に切られた「おこし」のようなものをお皿に盛り付けて運んで来ました。他にもお菓子はあるそうですけど、ティータイムまでにスナック感覚でどうぞ、という趣向。
「おこしですか?」
シロエ君が手を伸ばし、私たちも遠慮なく取って、一口齧って。
「美味いぜ、これ! なんか蜂蜜が利いてるよな!」
「蜂蜜よりも濃い味じゃない? ちょっと美味しいわよ、このおこし」
サム君とスウェナちゃんが称賛するとおり、普通のおこしより甘さがあります。それに材料も、おこしとは少し違って見えるんですけど…。
「おこしじゃないよね、なんだろう?」
ジョミー君が首を捻って、キース君も。
「どちらかと言えば焼き菓子に分類されそうなんだが…。ナッツという味でもなさそうだな」
「えっとね、フラップジャックなんだけど…」
「「「フラップジャック?」」」
なんですか、それは? 名前からして、おこしと別物。クッキーとかの一種ですかね、それともビスケットに入りますかね…?
甘くてサクサク、食べ応えのあるフラップジャック。こんなお菓子は初めてかも、と齧りながらも正体が気になるところです。これってクッキー?
「んーとね、フラップジャックはフラップジャックだと思うんだけど…」
クッキーよりかはビスケットかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お菓子の本だと、ビスケットとかショートブレッドの辺りに載ってることが多いしね」
「ショートブレッドか…。紅茶の国の菓子だな、それは」
キース君が返すと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「そうなの! フラップジャックは紅茶の国だと調理実習で作るみたいだよ!」
「「「調理実習?」」」
「うんっ! 簡単だからね、ちょちょっと混ぜて焼くだけだしね!」
オーブンで、という返事。何をちょちょっと混ぜるんでしょうか、この舌触りは薄くスライスしたアーモンドとかに似てはいますが、味はナッツじゃないですし…。
「決め手はゴールデンシロップなの! お砂糖を作った残りの蜜で作るの、紅茶の国のシロップなんだよ!」
さっき急いで買いに行ったの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はエッヘンと。
「キースが美味しくないって言うから、美味しいのを作ってみようと思って!」
「なんだと!? すると、こいつの材料は…」
まさか、とキース君の顔色が変わって、会長さんがクスクス笑い出しました。
「そのまさかだよ。オートミールさ、フラップジャックの材料は」
「「「ええっ!?」」」
美味しいじゃないか、と改めて齧る私たち。これって普通に美味しいですよ?
「キース先輩、ポリッジは本当に不味いんですか?」
シロエ君が問い詰め、キース君は。
「ほ、本当に不味かったんだ! オートミールそのものも不味かったんだが!」
「そうですか? 料理の仕方がまずかったんじゃあ…?」
「俺はきちんとレシピを調べておふくろに渡した、本当だ!」
それにおふくろは料理上手だ、と言われても美味しいフラップジャック。こうなってくるとポリッジが不味い話も嘘くさいです。嘘だろう、と決め付けた私たちだったのですが…。
「「「…ごめん、悪かった…」」」
ホントに不味い、と揃って嘆いたおやつの時間。論より証拠、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ってくれたポリッジ、オートミールのミルク粥。もう最悪に不味いんですけど~!
不味いとしか言えない味のポリッジ。これに比べれば小豆粥は本当に天国だか極楽の味だった、とキース君に平謝りに謝っていたら。
「こんにちはー!」
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返った先に私服のソルジャー。「珍しそうなものを食べてるね」と近付いて来て、空いていたソファにストンと座って、フラップジャックに手を伸ばして。
「うん、美味しい! 甘くてサクサク、こういうお菓子も好きだな、ぼくは」
「なら、ポリッジも是非、食ってくれ!」
美味いんだぞ、とキース君が自分の器を指差し、私たちも揃って「美味しい」と連呼。ソルジャーは興味をそそられたらしく、ポリッジを注文しましたが…。
「なんだい、これは? …ぶるぅの料理とも思えないけど…」
どっちかと言えばぼくの世界のぶるぅの料理、と絶妙な表現をしたソルジャー。悪戯小僧で大食漢な「ぶるぅ」は料理をしませんけれども、もしも作ったらこういう味かもしれません。「ぶるぅ」に悪意が無かったとしても。
「あんたでも無理な味か、やっぱり」
キース君が訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「栄養剤なら多少不味くても我慢するけど、食べ物はねえ…。こういうのはちょっと」
地球の食べ物とも思えない、と不味さの表現、また一つ進化。
「これはいったい、何ものだい? ノルディと食べて来た美味しい食事も吹っ飛ぶじゃないか」
「ポリッジと言う名の粥なんだが」
俺のトラウマになった粥だ、とキース君。
「材料自体が不味いんだ、と言ったら、ぶるぅが同じ材料で美味い菓子を作ってきたもんでな…。俺が嘘つき呼ばわりをされて、気の毒に思ったぶるぅがポリッジをな」
「それをぼくにも食べさせたわけ!?」
不味かった、とソルジャーはペッペッと吐き出す真似をした後、フラップジャックをパックリと。
「でもって、こっちが美味しいお菓子の方だった、と…。これは美味しいから、まあいいけど」
それにノルディと食べたお粥も良かったし、と笑顔のソルジャー。中華粥でも食べましたか?
「ううん、今日はパルテノンの料亭で豪華な新春メニュー! 締めが小豆粥で!」
小豆粥を食べる日なんだってね、とソルジャーは至極御機嫌です。なるほど、小豆粥は縁起物だという話ですし、締めの御飯が小豆粥になったわけですか…。
美味しい小豆粥を食べて来たソルジャー、ポリッジの不味さも許せる模様。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の小豆粥と同じでじっくりと炊いてあったのでしょう。テーブルのポリッジは片付けられて、代わりに冬ミカンのムースタルトが出て来ました。飲み物も紅茶にコーヒー、ココア。
「いいねえ、地球の食べ物はこうでなくっちゃ!」
ソルジャーは嬉々としてフォークを入れつつ、部屋をぐるりと見回して。
「…あれ? 小豆粥の日だけど、粥杖は?」
「「「は?」」」
「だから、粥杖! 小豆粥の日にはセットなんだろ?」
ノルディに聞いたよ、と言われましても…。粥杖って、なに?
「知らないわけ? ぼくでさえもノルディに教わったのに!」
そしてお尻を叩かれたのに、と妙な台詞が。
「「「お尻?」」」
ソルジャー、何か悪さをしたのでしょうか? 覚えが悪くてお尻を一発叩かれたのか、エロドクターだけにセクハラなのか。何故にお尻、と誰もが首を捻りましたが。
「え、粥杖はお尻を叩くものだと言われたよ? 騙されてはいないと思うんだけど…」
ちゃんと床の間に飾ってあったんだしね、と言葉はますます謎な方へと。何が床の間にあったんですって?
「粥杖だよ! こう、木の棒でさ、神社で配るとノルディは言ったよ」
そして神社の焼印があった、とソルジャーは両手で棒の大きさを示しました。四十センチくらいの長さらしくて、それが料亭の床の間にあったという話。
「何に使うんだろ、って眺めていたらさ、「こうですよ」ってノルディが握って、ぼくのお尻をパシンと一発! なんか、そういうものらしくって」
「「「…え?」」」
そんなの知らない、と会長さんの方に視線を向ければ、「嘘じゃないよ」という答えが。
「粥杖というのは嘘じゃない。小正月に小豆粥を炊いた木の燃え残りを使うって話もあるけど、今じゃ普通に作るかな。昔はメジャーな行事だったらしい」
「ノルディもそういう話をしてたね、小豆粥の日には粥杖でお尻を叩き合ってた、って」
「マジかよ、それ!?」
なんで尻なんかを叩くんだよ、というサム君の疑問は私たちにも共通の疑問。エロドクターのセクハラだったというわけじゃなくて、粥杖なるもの、ホントにお尻を叩くんですか…?
「叩いてたらしいよ、ずっと昔は」
会長さんがソルジャーの言葉を肯定したため、私たちは揃ってビックリ仰天。お尻なんかを叩き合うとか、叩くとか。それにどういう意味合いがあると?
「あれかよ、ケツを叩くってヤツかよ?」
急がせる時とかによく言うよな、とサム君が。そういえば「早く宿題をやってしまえ」とか、仕事を急げとか、そういう時には「尻を叩く」と言うような気が。しっかりやれ、と気合を入れる時なんかにも。
「ふうん…? お尻を叩くって、そういう意味もあったんだ…」
やる気を出させるためにお尻を…、とソルジャーが感心していますから、粥杖でお尻を叩く方にはまるで別の意味があるんでしょうか?
「そうだけど? ぼくがノルディに聞いた話じゃ、なんか子宝を授かるらしいよ」
「「「子宝?」」」
「うん。粥杖でお尻を叩いて貰うと妊娠するって話だったね。ついでに、女性が男性のお尻を叩けば、その男性の子供を授かるっていう話もあって」
つまりは子種を授かるのだ、とソルジャーは説明してますけれど…。本当にそれで正解ですか?
「正解だねえ、ブルーがノルディに聞いてきた話。もっとも、ブルーのお尻を叩いたところで子供なんかは生まれないけどね」
ノルディはいったい何を考えて叩いたのやら、と会長さん。するとソルジャーは大真面目に。
「夫婦和合に協力しますよ、って叩いてくれたよ?」
ぼくのハーレイがビンビンのガンガンになるようにという願いをこめて、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「子宝を授かるくらいの勢いでヤッて貰えるといいですね、ってノルディがね!」
「はいはい、分かった」
勝手に好きなだけ授かってくれ、と会長さんが手をヒラヒラと。
「良かったねえ、粥杖を飾っているような老舗で小豆粥を食べられて。君の自慢話はちゃんと聞いたし、後は帰ってご自由にどうぞ」
夫婦で存分に楽しんでくれ、と追い出しにかかった会長さんですが。
「ちょっと待ってよ、それだけだったらとうの昔に帰っているから!」
食事が済んだらぼくの世界へ直行で…、とソルジャーは私たちの方へと向き直りました。
「ぼくは用事があって来たんだ、こっちへね」
「「「用事?」」」
不味いポリッジに引っ掛かってましたし、おやつ目当てではなさそうです。ソルジャー、いったい何の用事が…?
「粥杖だけどね…。ノルディに色々聞いたんだけどね」
詳しい話を、とソルジャーはソファに座り直すと。
「元々は小豆粥を炊くのに使った棒だけれども、今じゃ神社で授与するくらいで小豆粥には使ってないって話だったね」
「そうと決まったわけでもないから! 小豆粥用に授与する神社もあるから!」
そこを間違えないように、と会長さんが反論を。
「棒の先に御札が挟んである、って神社もあるんだ。無病息災、厄除け祈願の御札がね。粥杖を頂いて家に帰って、御札を玄関とかに貼るってわけだよ。そして粥杖の方は…」
お粥を炊くのかと思ったのですが、今の世の中、木を燃やしての調理は一般的ではありません。ゆえに粥杖、小豆粥を炊く時にお粥をかき混ぜるものらしくって。
「しっかり混ぜて無病息災、縁起物のお粥の出来上がりだから! そこの粥杖、お粥用だから!」
本来の意味で使っている、という話ですが、ソルジャーの方は。
「でもさ、その粥杖でお尻を叩けば子宝だろう?」
「そ、それは…。粥杖というのはそういうものだし、お尻を叩けばそうなるだろうね…」
「ほらね、神社で貰ったヤツでも子宝を授かる棒なんだよ! 粥杖は!」
そういう役目を担い続けて千年以上、と言うソルジャー。そこまでの歴史を背負ってましたか、粥杖とやら。
「らしいよ、ノルディが自信たっぷりに由緒を教えてくれたしねえ…。そして子宝を授かる棒っていうことで独自の進化を遂げた地域もあるんだってね?」
「「「進化?」」」
「そう! 子宝祈願に特化した粥杖、木で出来たアレの形なんだよ!」
男だったら誰でも持ってるアレの形、とソルジャーはそれは嬉しそうに。
「アレを象った、一メートル近い大きな棒でさ。そういう棒が粥杖な地域があるって言ったよ、ノルディはね! それで女性のお尻を叩けば、もれなく子宝!」
小豆粥の日の行事らしい、とソルジャーは膝を乗り出して。
「その粥杖を聞いた途端に閃いたんだ! これは使えると!」
「……何に?」
会長さんが嫌そうな顔で言っているのに、ソルジャーの方は気にも留めずに高らかに。
「ヘタレ直し!!」
「「「ヘタレ直し?」」」
なんですか、それは? 粥杖を使って何をすると?
「ヘタレ直しと言えば決まっているだろう!」
ヘタレと言えばたった一名! とソルジャーは胸を張りました。
「こっちのハーレイ、それはとんでもないヘタレだからねえ…。粥杖を使って直すべきだと!」
子宝と聞けば使うしかない、と解説が。
「あの棒で男性のお尻を叩けば、その男性の子種を授かるらしいしね? つまり、こっちのハーレイのお尻を粥杖で叩くと、子種を授けるパワーが伝わる!」
ヘタレなアソコにパワーが漲る筈なのだ、という凄い発想。私たちは声も出ませんでしたが、ソルジャーの喋りは滔々と。
「そういう風に使えそうだし、ヘタレ直しをしようと提案しに来たわけだよ。そしたらケツを叩くってサムの言葉が来ちゃって、グンと自信が深まっちゃって!」
やるっきゃない! とグッと拳を握るソルジャー。
「お尻を叩けばやる気が出るって言うんだろう? やる気、すなわちヤる気ってね!」
ガンガンと攻める方向で…、と粥杖の解釈はエライ方へと。
「こっちのハーレイのお尻を粥杖で叩けば、ヘタレが直ると思うんだ! もう叩くしか!」
「…それで直ると?」
あんなヘタレが、と会長さんが鼻で笑いましたが、ソルジャーは。
「やってみなくちゃ分からないってね! 叩くしかないと思うんだけど!」
ちょっと粥杖を借りて来て…、と本気でやる気。借りるって、何処で粥杖を?
「ノルディに連れて貰った店だよ、粥杖を飾っているからね! 夜の営業時間までの間に瞬間移動で杖を拝借、ハーレイのお尻を叩きに行こうと!」
君も来たまえ、と会長さんに矛先が。
「なんでぼくが!」
「ハーレイのヘタレが直れば色々とお世話になるだろ、ハーレイのアソコに!」
「そっちの趣味は全く無いから!」
「そう言わずに!」
ヘタレさえ直れば素晴らしい男になるんだから、と相変わらずの思い込み。会長さんにはその手の趣味は無いというのに、自分がキャプテンと夫婦なばかりに会長さんにも教頭先生との恋や結婚を押し付けがちなのがソルジャーです。
「ぼくがハーレイのお尻を叩いても効果は高いと思うけどねえ、君も叩いて!」
そして子種を貰ってくれ、と強引に。会長さんは教頭先生のヘタレ直しに興味も無ければ、子種なんかも要りはしないと思うんですが…?
粥杖を借りて教頭先生の家へ出掛けよう、とソルジャーは会長さんを口説きにかかりました。是非ともお尻を叩いてやろうと、ヘタレを直して素晴らしい男にしてやるべきだと。
「子種をガンガン授ける杖だよ、おまけにお尻を叩けばやる気も出てくるんだしね!」
「だから、そういう趣味なんか無いと!」
「食わず嫌いは良くないよ! 一度くらいは食べられてみる!」
ヘタレの直ったハーレイに、とソルジャーは譲らず、会長さんは仏頂面で聞いていたのですけど。
「…待てよ、ハーレイのお尻を叩けばいいわけか…」
これはいいかも、と顎に手を。
「分かってくれた? ハーレイのヘタレが直ればいいっていうことを!」
「うん。ヘタレ直しという名目があれば、お尻を叩き放題っていう事実にね」
思いっ切り引っぱたくチャンス! と会長さんの発想も斜め上でした。
「何かと言えば妄想ばっかりしている馬鹿のお尻を思いっ切り! ヘタレ直しは大義名分、その実態は単にお尻を叩きたいだけ!」
「ちょ、ちょっと待って! ぼくが言うのはそういうのじゃなくて!」
「君にもメリットはあると思うよ、粥杖ってヤツが欲しくないかい?」
借りるんじゃなくてマイ粥杖、と会長さん。
「マイ粥杖? …なんだい、それは?」
「そのものズバリさ、君専用の粥杖だってば!」
やる気が出てくる棒のことだ、と会長さんはニッコリと。
「君のハーレイのお尻を叩けば、君が子種を授かるわけだよ! パワーアップのためのアイテム、君の青の間に一本、粥杖!」
「…神社へ貰いに行くのかい?」
「それじゃイマイチ有難味がない。君のハーレイ、木彫りが趣味だろ? これぞ粥杖、っていう棒を彫って貰って、それを使って小豆粥を炊けばバッチリ粥杖!」
正真正銘の粥杖誕生、と会長さんの唇に笑みが。
「サイオンを使えば、粥杖が燃えないようにシールドしながら小豆粥を炊ける。そうやって出来た粥杖で君のハーレイのお尻を一発、こっちのハーレイには何十発と!」
ヘタレ直しで叩きまくれば場合によっては効くであろう、という見解。
「たとえハーレイには効かなくっても、君はマイ粥杖をゲット出来るし、悪い話じゃないと思うけど? 作るんだったら、その粥杖でハーレイのヘタレ直しもね!」
うんと立派な粥杖がいい、と言っていますが、その粥杖で教頭先生のお尻を何十発も…?
「えーっと…。今から作るって…。間に合うわけ?」
マイ粥杖は欲しいけれども、とソルジャーが首を捻りました。
「小豆粥の日、今日だろう? 今から帰ってぼくのハーレイに彫らせていたので間に合うかな?」
時間的にかなり厳しい気が、と真っ当な意見。けれど、会長さんは「大丈夫!」と。
「本物の粥杖にこだわるんなら、小豆粥の日は今日じゃない。一ヶ月ほど先のことだよ」
「一ヶ月?」
「今は暦が昔と違っているからねえ…。粥杖が始まった頃の暦で計算すると、一ヶ月ほどズレが出るわけ。えーっと、本物の小正月は、と…」
いつだったかな、と壁のカレンダーをチェックしに行った会長さんが戻って来て。
「うん、いい具合に週末と重なっていたよ。ぼくたちの学校もバッチリお休み! 屋上で小豆粥を炊こうよ、竈は用意しておくからさ」
「それはいいかも…。その日に小豆粥を炊くのに使えば、その粥杖は本物なんだね?」
ぼくのハーレイが彫ったヤツでも、とソルジャーが訊くと、会長さんは。
「小正月の日に小豆粥を炊きさえすれば粥杖だよ! 神社で授与して貰わなくても!」
「その話、乗った!」
マイ粥杖、とソルジャーが会長さんの手をガシッと握って。
「ぼくのハーレイのパワーアップが第一なんだね、マイ粥杖! それのオマケがこっちのハーレイのヘタレ直しで、粥杖はぼくが貰っていいと!」
「もちろんさ。ヘタレ直しはどうでもいいから、君が大いに活用したまえ」
「ありがとう! マイ粥杖を持てるだなんて…。言ってみるものだね、ヘタレ直しをしてみよう、っていう話も!」
こっちのハーレイのヘタレも見事に直るといいね、とソルジャーは嬉しくてたまらない様子。それはそうでしょう、マイ粥杖が貰えるというのですから。
「マイ粥杖かあ…。それはやっぱり、アレの形にすべきかな?」
「君の好みでいいと思うよ、それと君のハーレイの木彫りの腕次第だね」
「ハーレイに頑張って彫って貰うよ、来月までに! 材料の木は何でもいいわけ?」
ぼくの世界の木でいいのかな、という質問に、会長さんは。
「材料はこっちで用意するよ。一応、指定があるからね」
「そうなんだ?」
「柳の木っていうのが主流で、アレの形に彫るって地方は松なんだけど…。どっちがいい?」
「松に決まっているだろう!」
断然、松で! とソルジャーがマイ粥杖で目指す所はキャプテンのためのパワーアップのアイテムでした。教頭先生のヘタレ直しは既に二の次、三の次ですね…。
マイ粥杖を作って貰えると決まったソルジャーは上機嫌で夕食時まで居座り、寄せ鍋を食べて帰って行きましたけれど。
「お、おい…。粥杖って、あんた、本気なのか?」
本気でやる気か、とキース君が会長さんに問い掛け、シロエ君も。
「いいんですか、パワーアップのアイテムだなんて…。そんな迷惑なものを作らなくても…」
「平気だってば、アイテムの使用は向こうの世界に限られるしね?」
あっちのハーレイも充分にヘタレ、と会長さんが。
「ブルーがこっちに連れて来たって、バカップルくらいが限界なんだよ。粥杖でお尻を引っぱたいても人の目があれば大丈夫ってね!」
コトに及ぶだけの度胸は無い! と言われてみればそうでした。ソルジャー曰く、「見られていると意気消沈」。悪戯小僧の「ぶるぅ」が覗きをやっているだけで駄目だと噂のヘタレっぷり。たとえ粥杖でパワーアップしても、その辺りは直りそうになく…。
「なるほど、あっちは安心なわけか…。しかし教頭先生の方は…」
どうなんだ、というキース君の問いに、会長さんは「もっとヘタレだし!」とアッサリと。
「これでヘタレが直る筈だ、と叩いてやっても直るわけがない。だけどブルーは効くと信じてヘタレ直しを提案して来たし、この際、日頃の恨みをこめて思いっ切り!」
引っぱたく! と会長さんの決意は揺らぎなく。
「そのためにも立派な粥杖を作って貰わないとね、木彫りが得意なブルーの世界のハーレイに! ここはやっぱり一メートルで!」
ブルーもそういうタイプの粥杖が欲しいようだし…、と会長さん。
「松の木を用意しなくっちゃ。どう彫るかはあっちのブルーとハーレイ次第で!」
「「「………」」」
一メートルもの長さの粥杖が出来てくるのか、と溜息しか出ない私たち。しかもソルジャーのお好みはアレの形です。ロクでもないのが彫り上がるんだな、と遠い目になれば、会長さんが。
「そういう形をしているからこそ、こっちのハーレイが釣られるってね!」
「「「は?」」」
「粥杖を作るイベントに招待してから、お尻をガンガン叩くつもりでいるんだけれど…。普通だったら痛くなったら逃げるものだよ、黙って叩かれていいないでね」
けれどもヘタレ直しとなれば…、と会長さんはニンマリと。
「これで効くのだと、ヘタレが直ると信じて叩かれ続けるわけだよ、ハーレイは!」
たとえお尻が腫れ上がろうとも! と強烈な台詞。教頭先生、大丈夫かな…?
そうして二度めの小正月。旧暦の一月十五日の朝、私たちは会長さんのマンションに集合となりました。折からの寒波で寒いんですけど、小豆粥を炊く場所は屋上です。如何にも寒そう、とコートにマフラー、手袋なんかで重装備。会長さんの家の玄関に着いてチャイムを押すと。
「かみお~ん♪ ブルーも来ているよ!」
後はハーレイを待つだけなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。暫くは暖かい所に居られそうだ、とホッと一息、リビングに案内されてみれば。
「やあ、おはよう。どうかな、ぼくのハーレイの腕は?」
ジャジャーン! とソルジャーが持ち上げて見せた、一メートルはあろうかという太い棒。アレの形だと言われればそうかな、と思いますけど、細長い松茸でも通りそうな感じ。
「こだわったのはね、この先っぽの辺りでさ…」
リアルに再現してみましたー! とか威張っていますが、松茸にしては妙な傘だという程度にしか見えません。万年十八歳未満お断りの団体様に自慢するだけ無駄なのでは…。
「うーん、やっぱり分かってくれない? でもねえ、もうすぐ値打ちの分かる人が来るからね!」
そっちに期待、と言い終わらない内にチャイムの音が。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねて行って、「ハーレイ、来たよーっ!」という声がして。
「今、行くからーっ!」
会長さんが叫び、私たちはコートやマフラーを再び装備。玄関まで行くと、防寒スタイルの教頭先生が立っておられて。
「おはよう、今日は粥を御馳走してくれるとブルーに聞いたのだが…」
「そうだよ、小正月には小豆粥だしね」
古典の教師なら知ってるだろう、と会長さん。
「本格的に炊いてみたいし、屋上に竈を用意したんだ。もちろん薪で炊くんだよ」
「ほほう…。それはなかなか美味そうだな」
竈で炊いた飯は美味いものだし、と教頭先生は頷いておられます。どうやら粥杖を作る話はまるで御存知ないようで…。
「とにかく寒いし、小豆粥を炊きながら温まろう、っていうのもあるから!」
会長さんがエレベーターの方へと促し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「小豆粥、準備、きちんとしてあるからね! 後は炊くだけ!」
「というわけでね、今日はよろしく」
ぼくも楽しみにしてたんだ、と言うソルジャーに教頭先生が「こちらこそ」と笑顔で挨拶を。言い出しっぺはソルジャーですけど、全く気付いておられませんね?
屋上に着くと、風が比較的マシな辺りに竈が据えてありました。種火は投入してあったらしく、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が薪を手際よく入れればボッと炎が。
「えとえと、炊けるまでお鍋に触らないでね!」
小豆粥が駄目になっちゃうから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。大きな土鍋が竈にかけられ、薪をどんどん燃やせば煮えるという仕組みですが。
「これで薪をつつけばいいと?」
ソルジャーが例の棒をヒョイと取り出し、教頭先生に「見てよ」と笑顔を。
「粥杖なんだよ、この棒は! 小豆粥を炊くのに使えばパワーが宿ると聞いたから!」
「粥杖…ですか?」
「古典の教師なら知らないかな? これでお尻を叩いて貰えば子宝が!」
そういうパワフルなアイテムなのだ、とソルジャーがこだわりの先っぽとやらを教頭先生の鼻先に突き付け、教頭先生の目が真ん丸に。
「…こ、これは…!」
「見ての通りだよ、子宝祈願でパワーアップならこの形! ぼくのハーレイがこだわって彫って、これからパワーを入れるわけ!」
こうやって、と先っぽの方から竈の焚口にグッサリと。けれどもシールドされているだけあって、粥杖は焦げもしませんでした。ソルジャーは鼻歌まじりに薪を突き崩しながら。
「ぶるぅ、もっと空気を入れた方がいい?」
「そだね、火力は強い方がいいね!」
アヤシイ形の粥杖が薪をガサガサかき混ぜ、舞い上がる火の粉。やがてグツグツと鍋が煮え始め、小豆粥がしっかり炊き上がって…。
「はい、食べて、食べてー!」
寒いからしっかり温まってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお椀に小豆粥を取り分け、お箸と一緒に全員に配ってくれました。うん、なかなかに美味しいです。竈の威力は大したものだ、と寒風の中で啜っていれば。
「はい、粥杖! 注目、注目ーっ!」
そしてハーレイはお尻を出して! とソルジャーが小豆粥を食べ終え、粥杖を高々と振り上げて。
「これでお尻を引っぱたいたら、子種がバッチリ! きっとヘタレも直るから!」
「…ヘタレ?」
なんのことですか、と尋ねた教頭先生、会長さんに「立って!」と立ち上がらされて。
「ヘタレ退散ーっ!」
バッシーン! とソルジャーの気合を込めた一撃。「うっ!」と呻いた教頭先生のお尻に向かって、今度は会長さんが粥杖を。
「ヘタレ直しーっ!」
ビシーッ! と激しい音が響いて、教頭先生は慌てて両手でお尻を庇われたのですが…。
「ダメダメ、粥杖は叩いてなんぼ! これでヘタレが直るんだし!」
ソルジャーが叩き、会長さんが。
「ブルーが考えてくれたアイデアなんだよ、ぐんぐんヘタレが直る筈だと!」
さあ、頑張っていってみよう! と粥杖攻撃、二人前。教頭先生はソルジャーからの「パワーアップのアイテムなんだよ、ぼくのマイ粥杖!」という囁きに負けて、逃げる代わりに耐え続けて。
「…ハーレイ、欠席だったって?」
週明けの放課後、ソルジャーが「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を訪ねて来ました。
「そうなんだよねえ、ゼルたちの噂じゃ、なんか痔だとか」
そういうことになってるらしい、と会長さん。ソルジャーは深い溜息をついて。
「おかしいなあ…。あれだけ叩けばヘタレも直って万々歳だと思ったんだけど…」
「ほら、ヘタレのレベルが違うから! 君のハーレイの方はどうだった?」
「凄かったよ! 粥杖でポンとお尻を叩けば、グンとパワーが!」
実に素晴らしいアイテムが手に入ったものだ、とソルジャーは御満悦でした。キャプテンの場合は一発叩けばパワーが漲るらしいのですけど。
「…教頭先生、思いっ切り叩かれすぎたしね…」
帰りは車にも乗れなかったものね、とジョミー君。
「欠席なさるのも仕方ないだろう。ダメージはかなり大きいと見た」
当分は再起不能じゃないか、とキース君が頭を振っている横で、会長さんとソルジャーはヘタレ直しの次なるプランを練っていました。
「君のハーレイには効いたってトコを強調してやれば、まだまだいけるね」
「腰が痛くて欠席だなんて言っていないで、ヤリ過ぎで休んで欲しいものだねえ…」
マイ粥杖ならいつでも貸すよ、とソルジャーは気前がいいんですけど。ヘタレ直しに効くと信じているようですけど、会長さんの目的はそれじゃないですから! 教頭先生、ヘタレ直しだと思わずに逃げて下さいです。でないとお尻が壊れますよう~!
小正月のお粥・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
小正月の粥杖の話は、本当です。平安時代には宮中でも女官たちがやっていたくらい。
マイ粥杖を作ったソルジャーですけど、教頭先生には受難だった日。お大事に、としか…。
次回は 「第3月曜」 10月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、9月とくれば、秋のお彼岸。当然、厄日になるわけですけど…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ほう…?)
進水式か、とハーレイが目を留めた新聞記事。土曜日の朝、朝食のテーブルで開いた新聞。
ブルーの家へと出掛けてゆくには早すぎるから、片付けの前にのんびりと。愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それをお供に。
観光用の大型客船がデビューするらしい。その船の進水式の記事と写真と。色とりどりの祝いのテープが舞う中、堂々と聳え立つ大きな船体。
(船なあ…)
本物だな、と笑みが零れた。宇宙船とは違って船だ、と。
この写真の船は海へ出てゆく、進水式を経て。青い水が満ちた世界へ船出するから進水式。水の中へと進んでゆく船、蘇った地球の大海原へ。
今の時代は、海ならぬ宇宙へ船出してゆく宇宙船の建造も少なくはない。そちらの場合も、海をゆく船の場合と同じに進水式があると聞いてはいるのだけれど。
暗い宇宙に水など無いのに、進水式でもいいのだろうか?
もっと適切な言い方があっても良さそうなのに、と素朴な疑問が浮かんでくる。どう呼ぶのかを咄嗟には思い付かないけれど。宇宙船の場合の、進水式にあたる言葉は出て来ないけれど。
(俺はサッパリ知らないからなあ…)
前の自分はキャプテンとはいえ、進水式とは縁が無かった。
シャングリラはアルタミラから脱出する時点で既に出来ていたし、後に改造されたというだけ。地球を目指す途中で加わったゼルたちの船も、人類軍が持っていた船を接収して使ったのだから。
つまり建造していない船。三百年以上も宇宙を旅していたのに、ただの一隻も。
(ギブリとかなら…)
小型艇なら作ったけれども、今で言うなら車の感覚。いちいち名前をつけてもいないし、特別な儀式をするという発想自体が無かった。要は動けばいいだけのこと。
キャプテンだった前の自分でさえもその有様だし、今の自分は更に縁が無い。ただの古典の教師などでは、進水式には呼ばれない。親戚や親しい友人が船を建造するならともかく…。
(そっちだって、まるで無いからなあ…)
わざわざ船を建造してまで何かしようという友人はいない。それに親戚も。
自分とは無縁の世界だけれども、幸い、記事には進水式についても詳しく書かれているようで。
(観光の目玉の船だからだな…)
ホテル並みの設備を備えた大型客船、これから様々な所へ出掛けてゆくのだろう。青く輝く海を旅して、クルーズを楽しむ人々を乗せて。
こういう新しい船が出来た、と目を引くようになっている記事。ブルーと二人で乗ってゆくには些か早すぎるけれど、進水式には興味があるから。
(読んでおくとするか)
あれはどういうものなのだ、と進水式の解説を読み始めたら。
前の自分とは縁が無かった式典の内容を追って行ったら、馴染みのテープが入った薬玉の他に、ウイスキーのボトル。あるいはシャンパン、この地域ならではの日本酒までが。
とにかく酒の入ったボトルで、進水式にはつきものだという。
(ボトルだと?)
いったい何に使うのだろう、と首を捻ったら、酒のボトルは船首にぶつけて割るものだった。
事の起こりはSD体制が始まるよりも遠い昔のイギリスでの話、進水式では赤ワインのボトルを船に投げ付けて割ったという。最初は男性がやっていたけれど、後に女性の役目とされた。
(割れなかったら縁起が悪いのか…)
ぶつけられたボトルが見事に割れなかった船は、縁起が良くないとされてしまうらしい。ケチがついてしまう、その船の旅路。
(そいつは女性も大変だな…)
失敗出来んぞ、と思ったけれども、失敗した人もあったろう。そういった船に本当に悪いことが起こったかどうかは、この記事もさほど触れてはいない。縁起でもないから、成功例がメイン。
ボトルを結び付けた綱が船首に当たるようにと支えの綱を切り離すケースや、文字通りに投げてぶつけるケースや。
(投げて割ったら、クリーニング代が貰えるのか…)
これは愉快だ、と頬が緩んだ。ボトルを直接ぶつけられる場所から投げたのだったら、ボトルが見事に割れた途端に酒が女性の服にかかるから。御祝儀として女性が貰えるクリーニング代。
ガラスの破片は飛んで来ないらしい、そうならないよう網の袋で覆われたボトル。
飛んで来るのは船に当たった酒の雫で、ウイスキーだったり、シャンパンだったり。
前の自分たちが生きたSD体制の時代には無かった習わし、船首にボトルを投げて割ること。
船は名付けたらそれで終わりで、人類軍の旗艦といえども特別な儀式は無かったらしい。主要な者たちが完成した船を見て回るだけで、軍事式典と同列のもの。
ところが今では宇宙船でもまずは命名式、それが終わったら進水式。
(ふうむ…)
幕を外して船名を披露する命名式と、ボトルを投げ付けて割る進水式。宇宙船でも名前は同じに進水式だった、水の中ではなくて空へゆくのに。宇宙へと船出してゆくのに。
その宇宙船にも、ボトルを投げ付けるのが今の時代の習慣だという。ウイスキーやらシャンパン入りのボトルをぶつけて割るのが。
SD体制が崩壊した後、復活して来た遠い昔の進水式。船の前途を祝うボトルで、やはり女性が投げるもの。宇宙船のための進水式でも。
(血の繋がった本当の家族が暮らす世界になったからだろうな)
進水式が復活したのは、多分、そのせいなのだろう。
次の世代へと考える感覚が世界に戻って来たから。自分の代だけで終わりではないと、受け継ぐ者たちが大勢いるのだと誰もが考えるようになったから。
船を造ったら、その船と、それを使う者たちの上に幸あれと。
幸福な前途が待っているよう、思いをこめて投げ付けるボトル。見事に割れてくれるようにと。
今だからこそだ、と浮かんだ笑み。
前の自分が生きた時代には、「次の世代」という感覚は…。
(俺たちしか持っていなかったってな)
ミュウという種族を絶やすまい、と誰もが祈り続けた船。箱舟だった白いシャングリラ。
アルタミラから脱出した直後は、生きてゆくだけで精一杯だった船だけれども、アルテメシアの雲海に隠れ住んでからは次の世代を育て続けた。救出して来たミュウの子供たちを。
赤いナスカでは本当の意味での子供たちも出来た、自然出産児だったトォニィたち。次の時代を生きる者たち、人工子宮ではなくて母の胎内から生まれた子たち。
正真正銘の「次の世代」を生み出したのが前の自分たちだった、ミュウの未来を。
けれど、その自分たちが乗っていた白いシャングリラには…。
(進水式なんかは無かったんだ…)
歴史を変えた船だったのに。今の時代も、白いシャングリラは憧れの宇宙船なのに。
白い鯨が時の流れに連れ去られてから長く経った今も、一番人気の宇宙船。遊園地に行けば白い鯨を模した遊具があって当たり前、写真集もグッズも模型もある船。
なのに進水式は無かった、船は最初からあったから。
メギドの炎で燃え上がった地獄、アルタミラにポツンと置き去りにされていた人類の船。たった一隻だったけれども、あったお蔭で皆の命が助かった。それに乗って脱出することが出来た。
今も忘れない、コンスティテューションという名前だった船。命を救ってくれた船。
(あれがシャングリラになった時にも…)
人類が名付けた名前よりも、と改名されたシャングリラ。理想郷の意味を持つ名前。
その名前は皆で決めたとはいえ、命名式などはしなかった。船のあちこちに取り付けられていたコンスティテューションという名前のプレート、その上にペタリと紙を貼っただけで。
誇らしげに「シャングリラ」と記された紙が、お祭り騒ぎで貼られただけで。
せっかく名前をつけたというのに、行われなかった命名式。あの船がシャングリラになった時。
(白い鯨に改造した後も…)
儀式の類は無かったのだった、既に名前はあった船。何かをしようと思い付きさえしなかった。改造が済んで使えるようになった部分から、順に使っていっただけ。
全てが完成した後には…。
(ブルーが青の間に移って終わりか?)
そうだったような気がする、確か。
皆を導く立場のソルジャー、そのソルジャーの威厳を高めるためにと作った青の間。演出だった青の間の構造、本当は必要なかった広さや水を湛えた貯水槽。
前のブルーは嫌がったけれど、出来てしまえば移るしかない。ソルジャーの引越しが締め括りになっていたのだと思う、白い鯨への大改造は。
今の平和な時代だったら、盛大に祝っていたのだろうに。本当にお祭りだっただろうに。
(隠れ住んでた船ではなあ…)
人類の船に見付からないよう、隠れ続けたシャングリラ。
改造が終わっても、祝う余裕などは何処にも無かった。新しい船を使いこなしてゆくのが肝心、自給自足の生活も軌道に乗せねばならない。
すべきことは山のようにあったし、祝いよりも先に生きてゆかねばならないのだから。
(だが、あの時代に進水式があったなら、だ…)
今のように進水式というものがあったら、白い鯨になったシャングリラにボトルくらいは投げただろう。生まれ変わったようなものだし、進水式をしてやらねば、と。
それも特別に高級な酒のボトルをぶつけて。
あの頃なら、まだ酒は合成品ではなかったから。前のブルーが奪った物資が積まれていたから、酒だってあった。その中でも一番上等なものを選んでいたろう、シャングリラのために。これから皆で生きてゆく船、白い鯨の前途を祝って。
ボトルは女性が投げるというから、シャングリラなら…。
(エラか、ブラウか…)
多分、どちらかが投げたのだろう。船を代表する女性はあの二人だから。
新聞記事には、SD体制が始まるよりも遠い昔に進水式に出た女王陛下も載っていた。九十歳に手が届きそうな高齢の女王陛下でも、新しく出来た空母のためにとボトルをぶつけていたという。流石に投げてはいなかったけれど。ボトルを船へとぶつけるボタンを押したのだけれど。
女王陛下がぶつけたボトルは見事に割れた。女王陛下の名前を冠した空母の船首で。
(…こいつは面白い話が出来るぞ)
白いシャングリラにボトルを投げ付けるブラウかエラ。
今日の話題に丁度いいな、と小さなブルーを思い浮かべた。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。あのシャングリラが出来上がった時、こんな儀式をやっていたなら…、と。
新聞をゆっくりと読んだお蔭で生まれた話題。シャングリラには無かった進水式。
今日の最初の話はこれだ、とブルーの家へと出掛けて行った。ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、小さなブルーに尋ねてみる。
「進水式を知ってるか?」
新しい船を造った時には、進水式をするんだが…。普通の船でも、宇宙船でも。
前の俺たちが生きた頃には無かったんだが、今は復活して来たわけだな。SD体制の時代よりもずっと昔に、地球で生まれたヤツなんだが。
「うん、映像なら見たことがあるよ」
それに写真も。綺麗なテープが一杯だったよ、船が出来上がったことのお祝いでしょ?
「そうか、知っていたか。だったら、ボトルの方はどうなんだ?」
「…ボトル?」
なんなの、ボトルって?
それって進水式に使うの、ぼくはそんなの知らないよ…?
テープは沢山あったけれど、とブルーが首を傾げているから。
「ボトルだ、酒のな。…中身の酒は、どんな酒でもいいそうだ」
ウィスキーとか、シャンパンだとか。この地域だと日本酒ってこともあるらしい。
船だけじゃなくて、宇宙船の時にも使うらしいぞ。進水式という言葉も、酒のボトルも。
「…お酒なの?」
船とか宇宙船の進水式でお酒って…。それって、人間が飲むわけじゃなくて?
進水式に出た人たちが乾杯するんじゃないの…?
「残念ながら、全く違うようだな」
酒を飲むヤツがいるんだとしたら、人間じゃなくて船の方だ。
宇宙船や船が酒を飲むんだ、美味い酒をな。
船首に瓶ごとぶつけて割るものらしい、と話してやった。仕入れたばかりの進水式の知識を。
ボトルをぶつける儀式が始まったと言われる十八世紀には、赤ワインだった酒。ボトルを投げる役目を女性に決めたのが、十九世紀の初めのイギリス皇太子だ、と。
「ついでに、ボトルが上手く割れなかったら駄目なんだそうだ」
縁起の悪い船になっちまうらしい、その船は。…女性は責任重大だぞ。
事実かどうかは分からないそうだが、前のお前がこだわっていたタイタニック号。救命ボートの数が足りなくて大惨事になってしまったから、ってシャングリラに救命艇を欲しがっていたろ?
あのタイタニックの進水式では、ぶつけたボトルが一回目で割れなかったって話もある。
そんな話が今の時代まで伝わるくらいに大切なわけだ、ボトルを上手く割るってことはな。
「そうなんだ…。ホントに責任重大なんだね、任せられた人は」
だけど、シャングリラでもやりたかったよ、そういうのを。
最初の間は進水式どころじゃなかったけれども、白い鯨になった時なら…。
あの頃だったら、船のみんなも心に余裕が出来てたし…。
シャングリラって名前をつけた頃より、ずっと立派な素敵な船が出来たんだし。
…やりたかったな、進水式。
前のぼくたちが生きてた頃には無かったものなら、仕方ないけど…。
そうは思うけど、惜しかったな…。
シャングリラは前のぼくたちの世界の全てで、本当に箱舟だったんだから。
思った通りに、「シャングリラでやりたかった」と言い出したブルー。今までにブルーが映像や写真で見ていたような進水式ならば、色とりどりのテープが舞うというだけだから。パーティーで鳴らすクラッカーと見た目は変わらないから、何とも思わなかったのだろう。
ただのお祭り、薬玉を割って騒ぐようなもの。船が大きい分、大掛かりなだけ。
自分も今日までそう思っていたから、ボトルを船首にぶつける儀式は知らなかったから。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
シャングリラでもやってやりたかった、って。
白い鯨が完成した時、ボトルをぶつけてやるべきだった、と思うよなあ…。
今じゃそういうことをするんだ、と知っちまったら。
あの時代でもデータベースを調べていればだ、見付かった可能性はあったのにな。
「そうだね、SD体制よりも前の時代のデータも沢山残っていたし…」
シャングリラの名前も、ずうっと昔の小説に出て来た架空の地名をつけてたんだし…。
進水式とか、ボトルをぶつけて割るものだとかも、上手くいったら分かってたのかも…。
「運が良ければ、分かっていた可能性も充分あるよな」
ヒルマンとエラに任せておいたら、ちゃんと見付けて来たかもしれん。
ただなあ…。前の俺に進水式って発想が無かっただけにだ、「調べてくれ」とは頼めなかった。
進水式って言葉自体は、本とかで知ってはいた筈なんだが…。
シャングリラは最初から出来上がってた船で、一から造った船じゃないしな。
「…ぼくも同じだよ、それに関しては」
前のハーレイと同じで本で読んではいたんだと思う、タイタニックも知っていたんだから。
だけど、シャングリラに進水式をしてあげなくちゃ、っていう考えが無かったよ。
ぼくたちが造った船じゃなかったから、そのせいかな…。
元からあった船を大きく改造しただけで、新しく造ったわけじゃないから。
失敗だった、と小さなブルーは肩を竦めた。ぼくたちの箱舟だったのに、と。
「…白い鯨になったお蔭で、本物の箱舟になってくれたのに…」
シャングリラの中だけで生きていけたし、新しい仲間も乗せられるようになったのに…。
そんな立派な船が出来たのに、進水式をしなかったなんて…。
大きさも形も全く違う船が出来たんだったら、新しく造ったのと同じなのにね。
「まったくだ。…前の俺もウッカリしてたのかもなあ…」
改造している間もエンジンは一度も止まらなかったし、名前もシャングリラのままだったし…。
姿こそ劇的に変わりはしてもだ、同じ船だと何処かで思っていたんだろうな。
そのせいで、改造が終わった後にも「これで終わった」としか考えなくて。
出来上がったからにはもう安心だ、と肩の荷を下ろして、それっきりっていうトコだろう。
白い鯨に「よろしく頼むぞ」とボトルの酒を振舞う代わりに、俺が一杯やったんだろうな。
「やっと終わったな」とゼルたちと一緒に、ささやかな慰労会ってヤツを。
「…だろうね、前のハーレイもお酒が好きだったから…」
それに、シャングリラの改造が済んだら、もう本物のお酒は手に入らなくなるんだから。
最初から分かっていたことなんだから、本物のお酒にさよならのパーティー。
そういうことになっていたんじゃないかな、シャングリラにぶつけてあげる代わりに。
「…どうやら、そいつで当たりのようだぞ」
やたら良心が痛むからなあ、前の俺が美味しく飲んだんだろうさ。飲ませてやるべき白い鯨には御馳走しないで、ゼルたちとな。
…申し訳ないことをしたなあ、シャングリラには。
飲める筈の酒をキャプテンだの機関長だのが飲んでしまって、一滴も貰えなかったんだからな。
本当に悪いことをしちまった、と苦笑するしかないボトル。前の自分が飲んだだろう酒。
白いシャングリラにぶつけてやっていたら、立派な儀式になったのに。
「ミュウの未来をよろしく頼む」と、白い鯨になったシャングリラの船出を祝ってやれたのに。
けれど、今ではもう遅いわけで、シャングリラは時の彼方に消えた。進水式をして貰えずに。
「…俺がゼルたちと飲んじまった酒、シャングリラにぶつけてやるべきだったな…」
合成品じゃなくて本物の酒の、最高のボトルをシャングリラに。
「ぼくもそうしてあげたかったよ。でも…」
ボトル、宇宙で投げるんだよね?
最後の改造は重力の無い宇宙でやったし、星の上じゃないから空気も無いし…。
そんな所でボトルを投げたら、どうなってたかな?
上手く割れなくて、縁起の悪い船になっちゃった…ってことはないよね、シャングリラ…?
「さてなあ…」
割り損なうどころか、思い切り派手に割れそうだがな、と遠い昔の記憶を手繰った。
前の自分が持っていた記憶。キャプテン・ハーレイとして見ていた宇宙。
大気も重力も無い宇宙空間なら、止めようと力をかけない限りは投げた物体は止まらない。
衛星軌道上の人工衛星が何もしなくても飛び続けるのと同じ理屈で、きっとボトルも。
宇宙空間で酒のボトルをシャングリラに向かって投げたなら…。
とんでもないスピードで突っ込みそうだが、と軽く両手を広げてみせた。
投げた時のスピードを少しも失わないまま、真っ直ぐに飛んで行くわけなんだが、と。
「そりゃあ景気よく割れると思うぞ、凄いスピードでブチ当たるんだし」
木端微塵に砕けるんじゃないか、元の形がどうだったのかも分からないほどに。
酒も見事に飛び散っちまって、宇宙空間にフワフワと幾つもの酒の塊がだな…。
デカい塊やら、小さいヤツやら、無重力ならではの眺めってトコだ。
「そういえばそうだね、宇宙空間なら…」
ぼくは普通に飛んでいたから、そういう感覚、すっかり忘れてしまっていたけど…。
スピードがついたら止まらないよね、お酒のボトルだったとしても。
「うむ。だから、シャングリラは縁起のいい船になった筈だと思うんだが…」
上手く割れればいいって言うんだ、そこを見事に木端微塵に砕けるんだからな。
もう最高に縁起のいい進水式ってもんだぞ、俺たちの箱舟にはもってこいの。
「うん。…それで、そのボトルは誰が投げるの?」
進水式のボトルは女の人が投げるものなんでしょ?
「俺も考えたが、あの時代ならエラかブラウだな」
フィシスがいたなら、そこはフィシスの出番なんだが…。
前のお前がミュウの女神だと言ってたんだし、間違いなくフィシスの役目だったろうが…。
白い鯨が出来た時にはフィシスはいないし、エラかブラウしかないだろう。なんと言っても長老だしなあ、誰も文句は言わないってな。
「ブラウ、とっても投げたがりそうだね」
任せときな、ってウインクする顔が浮かんできちゃうよ。
「俺もそう思う。…逆に遠慮をするのがエラだ」
私などに上手く出来るでしょうか、と指名されても尻込みしそうだ、控えめ過ぎて。でもって、ブラウを推薦するんだ、「私よりも上手くやるでしょう」とな。
もしもシャングリラの進水式をやっていたなら、船首にボトルをぶつけるのなら。投げる役目はブラウだったか、それともエラが選ばれたのか。
どちらだったかは分からないけれど、「投げるんだったら宇宙服は無しで」とブルーが微笑む。
「前のぼくが外に連れて出るから、宇宙服なんかは要らないよ」
きちんとシールドしてから出ればね、エラやブラウだって大丈夫。
今のぼくには出来ないけれども、前のぼくなら簡単だもの。シールドの中から投げたボトルも、ちゃんと宇宙を飛んで行く筈だよ。瞬間移動でシールドの外に放り出すから。
「…宇宙服は無し、って…。そうなるのか?」
前のお前なら、確かに簡単なことなんだろうが…。エラやブラウが腰を抜かさないか?
「平気だってば、前のぼくの力は二人とも知っていたんだから」
今のぼくがやるって言ったら、真っ青になって逃げそうだけれど、前のぼくなら平気だと思う。ブラウなんかは、「生身で宇宙とは嬉しいねえ」って大喜びでついて来そうだよ。
それに、見た目を考えてみてよ。
宇宙服を着込んで進水式だなんて、とても無粋だと思わない?
どんなに上等なお酒のボトルを持って出たって、上手にぶつけて割ったって。
「それもそうだな…」
あんな武骨なヤツを着ていちゃ、女性かどうかも分からんなあ…。
背格好以前の問題だからな、宇宙服っていうヤツは。
シャングリラに宇宙服は当然あったし、白い鯨になる前から何度も使われていた。生身で宇宙へ出られる人間は、ブルーだけだったと言ってもいい。
他の者でも短時間ならシールドすることが可能だったけれど、ほんの僅かな時間だけ。それでは危険でとても出られない、船の外へは。だから誰でも必要とした宇宙服。
そうは言っても、船外作業をする者だけしか宇宙服を着たりはしないから。白い鯨への改造中の視察、それに出る時もブルー以外は小型艇に乗るのが普通だったから。
ブラウやエラが宇宙服を着たのは見たことが無い。少なくとも今の記憶には無い。宇宙服という珍しい姿を拝むのも悪くないとは思ったけれども、ブルーが言う通り、女性に見えはしないし…。
「…あいつらが宇宙服を着ていた場合は、進水式が台無しなのか…」
わざわざ女性を選んで役目を任せた意味が無いのか、見た目の問題というヤツで。
「そう思うけど?」
シャングリラの進水式をするんだったら、ちゃんと長老の服でなくっちゃ。
前のぼくはもちろんソルジャーの服だし、エスコートって言うの?
エラでもブラウでも、ボトルを投げられる場所まで連れてってあげるよ、宇宙服は無しで。
「エスコートと来たか…」
今のお前じゃ、チビで話にならないが…。
前のお前が一緒だったら、そりゃあ素晴らしい絵になる進水式になっただろうな。
ソルジャーのエスコートで出てったブラウか、エラがボトルを投げるんだから。
最高の酒が入ったボトルを白い鯨に思い切りぶつけて、見事に粉々に割れるんだからな。
白い鯨の船首にぶつかって砕ける、進水式の成功を知らせるボトル。宇宙に飛び散る最高の酒。
その光景をシャングリラの船内に中継していたならば、お祭り騒ぎだっただろう。
色とりどりのテープが無くても、たった一本のボトルがあれば。
「…ねえ、ハーレイ…。エラたち、調べなかったのかなあ?」
ヒルマンもエラも、データベースで調べ物をするのが大好きだったし、得意だったのに…。
色々なことを知っていたのに、進水式のことは調べていなかったのかな…?
「調べてたのかもしれないが…」
前の俺たちが全く聞いていないだけで、実は調べていたかもしれん。
しかしだ、進水式なんかでお祭り騒ぎをしているよりかは、船の維持だぞ、あの時期だったら。
出来上がったばかりのデカイ船をだ、しっかり維持していかなきゃならん。
そいつが最優先ってもんだろ、現にシャングリラの中を結んでいた乗り物だって何回止まった?
他にもあちこち不具合が出ては、キャプテンの俺までが船中を走り回っていたんだが…。
「それはそうだけど…。大変な時期ではあったんだけど…」
でも、シャングリラの外からボトルをぶつけて割るくらいはね…。
お酒のボトルが当たったくらいで船体に傷はついたりしないよ、頑丈に出来ていたんだから。
その程度の衝撃で計器が狂ったりもしない筈だし、やっても何も問題なんかは…。
みんなが持ち場を離れて見てても、ボトルを一本、船にぶつけたらおしまいなんだよ?
ほんの少しの時間で済むし、と言われてみればその通りで。
前のブルーがエラかブラウとわざとゆっくり移動したとしても、五分もかからないわけで。
それを思うと、やるだけの価値は充分にあった進水式。シャングリラの船首にぶつけるボトル。
前の自分がゼルたちと一緒に「慰労会だ」と称して飲むより、立派な酒の使い道。
白い鯨になったシャングリラでは、本物の酒は手に入らなくなったのだから。それを承知の上で船に積んであった酒の残りを飲んでいたのだから、飲んでしまった中の一本くらいは…。
シャングリラに振舞っておけば良かった、白い鯨に。最高の酒を、進水式で。
「…あいつら、調べ損なったのか?」
データベースで見落としてたのか、進水式と言えば色とりどりのテープなんだ、と写真だけで。
どういうことをするのが進水式なのか、きちんと調べずにいたっていうのか…?
「きっと二人とも、進水式だと思っていなかったんだよ。ヒルマンもエラも」
前のぼくやハーレイと同じで、改造なんだと思っていて。
だから、改造が終わった時には何かしなくちゃ、と考えもしなくて、進水式は調べてなくて…。
そのせいで知らなかったんじゃないかな、ボトルのことを。
調べ損ねたっていうんじゃなくって、最初から調べていないと思う…。
「そうだったのか?」
まるで調べてないって言うのか、エラもヒルマンも、進水式を?
あの調べ物好きが二人揃って、改造なんだと思い込んでて、調べなかったと…?
「そうでないなら、やっていそうだと思うけど?」
ボトルを一本割るだけなんだよ、それでシャングリラの進水式だ、って言えるんだよ?
船のみんなも喜んだだろうし、白い鯨になったお祝いもきちんと出来たんだし…。
「うーむ…。そうかもしれんな、調べていない、と…」
最初から調べていないんだったら、あの二人でも気が付くわけがないしな…。
白い鯨になっちまってから、かなり経ってから何かのはずみに「こんなのがあったか」と知って歯軋りしていたのかもしれないが…。
その場合は自分の胸に収めちまって、わざわざ話しに出ては来ないよな、失敗談を。
今となっては分からない真相。
ヒルマンもエラも遠い時の彼方に消えてしまって、本当のことを訊くことは出来ない。進水式について調べていたのか、調べようとも思わないままで白い鯨の改造が終わってしまったのか。
けれどシャングリラは、ミュウの歴史を作った船だったから。
白い鯨は、ミュウの箱舟だったから。
「やってやりたかったな、SD体制の時代の最初で最後の進水式」
あの時代には誰もやってはいなかったんだし、シャングリラが地球に着いた後には、SD体制は崩壊しちまったんだし。
もしも俺たちがやっていたなら、最初で最後の進水式になったんだがなあ…。
「そうだよね。色とりどりのテープは無くても、ボトルをぶつけるだけだったらね…」
ホントに簡単に出来ちゃったんだよ、そのくらいなら。
本物のお酒はまだ何本も船にあったし、エラかブラウがエイッと一本投げるだけだし…。
前のぼくがシャングリラの外に連れて出掛けて、「此処から投げて」って、投げて貰って。
シールドの向こうに瞬間移動で放り出したら、ボトルは真っ直ぐ飛んで行くしね。
きっと見事に割れただろうボトル。白い鯨の船首に当たって。
色とりどりのテープは無かったとしても、進水式をしてやれただろう。白いシャングリラが海へ出てゆくための。宇宙という名の星が散らばる大海原へと船出するための。
「…シャングリラにお酒、あげたかったな…」
ハーレイたちが飲んでしまうより、シャングリラにお酒。最高に美味しい、お酒を一本。
「飲ませるわけではないかもしれんが…」
俺が読んだ記事には洗礼だとも書いてあったし、酒を振舞うというわけではないかもしれん。
どちらかと言えば、清めの酒って方かもしれんが、実際の所はどうなんだかなあ…。
俺がすっかり飲んじまうよりは、シャングリラに飲ませてやりたかったとは思うがな。
「そうなんだ?」
御馳走するって意味じゃないかもしれないんだ…。
だけど、前のハーレイたちが飲んじゃうよりかは、シャングリラにあげたかったよ、お酒。
あの船はホントに、ぼくたちの大切な船だったから。
シャングリラが無ければ、ぼくたちは地球を目指すことさえ出来なかったんだから…。
アルタミラから助けてくれたのもシャングリラだった、とブルーが懐かしそうにしているから。
時の彼方に消えてしまった白い鯨を赤い瞳で見詰めているから。
「…なあに、進水式をして貰えなくても、あの船は充分、幸せだったさ」
前の俺たちは散々苦労をかけちまったが、地球に着いた後はのんびり暮らしていたろうが。
トォニィたちを乗せて宇宙を旅して、最後は無事に引退したし…。
それに酒なら飲み放題だぞ、今のシャングリラは。
「えっ?」
今ってなんなの、シャングリラはもう何処にもないのに…。
どうしてお酒が飲み放題なの、今だなんて…?
「シャングリラ・リングだ、結婚式で飲み放題だ」
今は結婚指輪になってるだろうが、シャングリラは。
結婚式に酒はつきものだしなあ、それも最高に美味い酒が。
「ああ…!」
ホントだ、今はあちこちでお酒を飲んでるんだね、シャングリラは。
いろんな所の結婚式に呼ばれて、上等なのを。
ボトルをぶつけて貰う代わりに、左手の薬指に嵌めて貰って、グラスに入った美味しいのを…。
白いシャングリラは消えたけれども、その船体の金属から作られるのがシャングリラ・リング。
結婚するカップルがたった一度だけ、申し込むことが出来る結婚指輪。
抽選で当たれば、シャングリラは結婚指輪の形でそのカップルの許へと旅立つ。結婚式で左手の薬指に嵌めて貰って、新しい道を歩み始める。結婚を祝う乾杯の酒をグラスに注いで貰って。
それが今の時代に生まれ変わった、シャングリラの進水式なのだろう。白い鯨から姿を変えて、一対の結婚指輪になって。
シャングリラ・リングが自分たちの手元に来てくれたならば、心をこめて御馳走しよう。
前の生から愛し続けたブルーと結婚する日の酒を。婚礼のためにと用意した美酒を。
ボトルごとぶつけはしないけれども、懐かしい船に乾杯の酒を。
ブルーと二人で船出する日に、かつてやり損ねた白いシャングリラの進水式を…。
進水式のボトル・了
※白いシャングリラでは、行われなかった進水式。お酒のボトルは出番が無いまま。
けれど今では、結婚指輪に生まれ変わったシャングリラ。乾杯の美酒を飲み放題なのです。
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