シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
新しい年が明け、今日は一月十五日。小正月とかいうヤツです。ちょうどお休み、会長さんの家でゆっくりしようと揃ってお出掛け。バス停からの道は雪もちらついて寒かったですが、マンションの中は暖房が効いてポカポカ、会長さんの家のリビングもポカポカで…。
「かみお~ん♪ 今日は十五日だしね!」
はいどうぞ、と出て来たものは熱い紅茶やコーヒーならぬ緑茶でした。何故に、と目を疑えば、お次は蓋つきの器が運ばれて来たからビックリです。これってスフレじゃないですよね?
「なに、これ?」
ジョミー君が指差すと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと。
「小豆粥だよ、十五日だもん!」
「小豆粥?」
「えとえと、無病息災だったっけ?」
どうだっけ、と会長さんに視線が向けられ、会長さんが。
「邪気払いと一年間の健康を祈る行事だし、無病息災って所かな。キースは家で食べて来ていそうだけれど」
「ああ、おふくろに食わされたな」
此処で食ったら二回目だ、とキース君。
「ぶるぅ、アレンジしてくれてるのか? 中華風とか」
「ううん、普通に小豆粥だけど…。カボチャを入れて中華風のも美味しいよね、ってブルーに言ったら、今日のは普通に炊くべきだ、って…」
小正月だし、という答え。縁起物はアレンジするより正統に、とのことらしいですが、小豆粥かあ…。同じお粥なら中華風とか、アワビ粥とか…。
「ダメダメ、今日はこれの日だから!」
文句を言わずにキッチリ食べる! と会長さん。うーん、これって美味しいのかな? どうなんだろう、と一口、食べてみたら。
「「「美味しい!!!」」」
小豆しか入っていないお粥が、ふっくら、ホコホコ。小豆はホクホク、お米もトロリと蕩けそうです。何か工夫をしたお粥なのか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕なのか。
「あのね、小豆はきちんと浸けておくのがコツでね、それからね…」
しっかりと炊けば美味しいんだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。うん、この味なら小豆粥でも充分オッケー、立派に午前のおやつかも~!
驚いてしまった小豆粥ですが、美味しかったら誰も文句はありません。一週間ほど前に七草粥を御馳走になっていますし、新年早々、お粥、二回目。次に食べるならどんなお粥がいいだろう、とお粥談義に花が咲いたり。
「中華風が美味いぜ、粥といえばよ」
胡麻油が食欲をそそるんだよな、とサム君が言えば、シロエ君も。
「いろんなお粥がありますからねえ、中華風。鶏肉入りとか、干し貝柱とか…」
「中華もいいがだ、俺はアワビ粥も捨て難い」
隣の国の、とキース君。私も「それ、それ!」と叫んじゃったり。アワビ粥は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が何度も作ってくれました。中華の国のお隣の名物らしいですけど。
「粥はあの辺りの国に限るな、ポリッジよりもな」
ポリッジは駄目だ、とキース君の眉間にちょっぴり皺が。ポリッジって確かお粥ですよね? そんなに駄目なの?
「ポリッジといえば不味いというほどの代物だぞ、あれは」
よくもあんなに不味いものを食えるもんだ、とブツブツブツ。キース君、ポリッジ、食べたんですか…? もしや本場で?
「いや、本場というわけじゃない。一種、トラウマと言うべきか…」
「「「トラウマ?」」」
「あっちの方の本にはよく出るからなあ、一度食いたいと思ってな…。それで、おふくろに」
シャングリラ学園に入るよりも前の話だが、と溜息が一つ。ポリッジなるものに興味津々だった中学時代のキース君。わざわざ街の輸入食料品店まで自分で出掛けて、オートミールなるものを買って帰って、「作ってくれ」とイライザさんにお願いしちゃったらしいのですが。
「…で、どうでした?」
ぼくもポリッジは未経験で、とシロエ君が訊けば。
「………。二度目は要らんな」
「そこまでですか!?」
「興味があるなら、お前も食え! ぶるぅに作って貰ってな!」
あれは体験しないと分からん、とキース君はそれは不快そうな顔。
「しかもだ、俺がウッカリ買ったばかりに、親父もおふくろも食い物を無駄にしてはいかんと言い出して…。それから暫く、俺の朝飯はオートミールのオンパレードだった!」
ポリッジだけでもクソ不味いのに、と嘆き節が。素材からして不味かったですか、噂に聞くポリッジなるお粥…。
キース君曰く、とてつもなく不味いらしいポリッジ。それに比べれば小豆粥でも天国のお粥と呼べそうなほどの勢いだそうで。
「坊主の俺なら極楽のお粥と呼ぶべきなのかもしれないが…。今日のぶるぅの小豆粥なら、もう間違いなく極楽だな。お前たちも是非、ポリッジを試してみてくれ」
「遠慮します!」
不味いと聞いたら誰でも嫌です、とシロエ君が即答しました。
「いくらぶるぅでも、不味いものを料理したなら、絶対、不味いに決まってますから!」
「うんうん、俺も死にたくはねえし」
同じ食うなら美味いものをよ、とサム君がすかさず相槌を。
「材料からして不味いんだろ、それ。キースがトラウマになったんだからよ」
「どう転んでも不味かったからな!」
あの朝飯は二度と御免だ、とキース君はそれこそ吐き捨てるように。
「腐ってもシリアルの一種だと言うから、俺なりに色々、試しはしたんだ! ミルクだけでは普通に不味いし、蜂蜜も砂糖も入れたんだが!」
レーズンなんかも入れたんだが、と苦々しい顔。
「どんなに工夫を凝らしてみてもだ、クソ不味いものは不味いんだ! あれだけは駄目だ!」
よくもあんなもので粥を作りやがって、とキース君がののしれば、会長さんがのんびりと。
「仕方ないねえ、元々が馬の餌だしね?」
「「「は?」」」
「オートミールはオーツ麦でさ、小麦が出来ない地域じゃ主食になってたけれど…。ちゃんと小麦が取れる場所では馬に食べさせる餌だったんだよ」
「だったら、俺は馬が食うものを食ったのか!?」
なんで馬の餌が粥になるんだ、とキース君は唖然としていますけれど。
「栄養だけは満点らしいよ、オートミールは」
それでポリッジで病人食にも…、と会長さん。
「お粥は病人食にもよく使うしね? 何処の国でも考えることは同じなんだよ。君たちだって小豆粥と聞いてあまり嬉しくなさそうだったし」
「「「うーん…」」」
病人食のお粥は確かに美味しくありません。ポリッジもそうだと言われれば納得なんですけれども、実に奥深いお粥の世界。同じお粥を病人食で食べるんだったら、中華風とかアワビ粥とかの国が断然いいですよね?
そういう話になるのを見越していたんでしょうか、お昼御飯はなんと参鶏湯。アワビ粥の国のお料理です。鶏肉と一緒にじっくり煮込んだ高麗ニンジン、クルミに松の実、それからニンニク。糯米が入ってお粥風と言えばお粥風で。
「「「いっただっきまーす!」」」
寒い冬だけに、トロトロの煮込みが美味しい季節。これもお粥の一種だよね、と舌鼓を打って、一緒に出されたチヂミもパクパク。こんなお昼が食べられるんなら小豆粥の日もいいものです。御馳走様、と食べ終えてリビングに移動して…。
「お粥の日も悪くなかったね」
当たりだよね、とジョミー君が言い、キース君も。
「そうだな、美味い粥なら文句は言わん。ポリッジだけは本当に勘弁だが…」
あれを美味しく食える人間がいたら尊敬する、と顔を顰めてますから、よっぽどなんでしょう、ポリッジとやら。ついでに材料のオートミールも。そんな感じでワイワイガヤガヤ、お粥や食べ物を語っていたら。
「かみお~ん♪ ちょっと早いけど、おやつにどうぞ!」
はい! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が長方形に切られた「おこし」のようなものをお皿に盛り付けて運んで来ました。他にもお菓子はあるそうですけど、ティータイムまでにスナック感覚でどうぞ、という趣向。
「おこしですか?」
シロエ君が手を伸ばし、私たちも遠慮なく取って、一口齧って。
「美味いぜ、これ! なんか蜂蜜が利いてるよな!」
「蜂蜜よりも濃い味じゃない? ちょっと美味しいわよ、このおこし」
サム君とスウェナちゃんが称賛するとおり、普通のおこしより甘さがあります。それに材料も、おこしとは少し違って見えるんですけど…。
「おこしじゃないよね、なんだろう?」
ジョミー君が首を捻って、キース君も。
「どちらかと言えば焼き菓子に分類されそうなんだが…。ナッツという味でもなさそうだな」
「えっとね、フラップジャックなんだけど…」
「「「フラップジャック?」」」
なんですか、それは? 名前からして、おこしと別物。クッキーとかの一種ですかね、それともビスケットに入りますかね…?
甘くてサクサク、食べ応えのあるフラップジャック。こんなお菓子は初めてかも、と齧りながらも正体が気になるところです。これってクッキー?
「んーとね、フラップジャックはフラップジャックだと思うんだけど…」
クッキーよりかはビスケットかな、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「お菓子の本だと、ビスケットとかショートブレッドの辺りに載ってることが多いしね」
「ショートブレッドか…。紅茶の国の菓子だな、それは」
キース君が返すと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「そうなの! フラップジャックは紅茶の国だと調理実習で作るみたいだよ!」
「「「調理実習?」」」
「うんっ! 簡単だからね、ちょちょっと混ぜて焼くだけだしね!」
オーブンで、という返事。何をちょちょっと混ぜるんでしょうか、この舌触りは薄くスライスしたアーモンドとかに似てはいますが、味はナッツじゃないですし…。
「決め手はゴールデンシロップなの! お砂糖を作った残りの蜜で作るの、紅茶の国のシロップなんだよ!」
さっき急いで買いに行ったの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はエッヘンと。
「キースが美味しくないって言うから、美味しいのを作ってみようと思って!」
「なんだと!? すると、こいつの材料は…」
まさか、とキース君の顔色が変わって、会長さんがクスクス笑い出しました。
「そのまさかだよ。オートミールさ、フラップジャックの材料は」
「「「ええっ!?」」」
美味しいじゃないか、と改めて齧る私たち。これって普通に美味しいですよ?
「キース先輩、ポリッジは本当に不味いんですか?」
シロエ君が問い詰め、キース君は。
「ほ、本当に不味かったんだ! オートミールそのものも不味かったんだが!」
「そうですか? 料理の仕方がまずかったんじゃあ…?」
「俺はきちんとレシピを調べておふくろに渡した、本当だ!」
それにおふくろは料理上手だ、と言われても美味しいフラップジャック。こうなってくるとポリッジが不味い話も嘘くさいです。嘘だろう、と決め付けた私たちだったのですが…。
「「「…ごめん、悪かった…」」」
ホントに不味い、と揃って嘆いたおやつの時間。論より証拠、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ってくれたポリッジ、オートミールのミルク粥。もう最悪に不味いんですけど~!
不味いとしか言えない味のポリッジ。これに比べれば小豆粥は本当に天国だか極楽の味だった、とキース君に平謝りに謝っていたら。
「こんにちはー!」
「「「!!?」」」
誰だ、と振り返った先に私服のソルジャー。「珍しそうなものを食べてるね」と近付いて来て、空いていたソファにストンと座って、フラップジャックに手を伸ばして。
「うん、美味しい! 甘くてサクサク、こういうお菓子も好きだな、ぼくは」
「なら、ポリッジも是非、食ってくれ!」
美味いんだぞ、とキース君が自分の器を指差し、私たちも揃って「美味しい」と連呼。ソルジャーは興味をそそられたらしく、ポリッジを注文しましたが…。
「なんだい、これは? …ぶるぅの料理とも思えないけど…」
どっちかと言えばぼくの世界のぶるぅの料理、と絶妙な表現をしたソルジャー。悪戯小僧で大食漢な「ぶるぅ」は料理をしませんけれども、もしも作ったらこういう味かもしれません。「ぶるぅ」に悪意が無かったとしても。
「あんたでも無理な味か、やっぱり」
キース君が訊くと、ソルジャーは「うん」と。
「栄養剤なら多少不味くても我慢するけど、食べ物はねえ…。こういうのはちょっと」
地球の食べ物とも思えない、と不味さの表現、また一つ進化。
「これはいったい、何ものだい? ノルディと食べて来た美味しい食事も吹っ飛ぶじゃないか」
「ポリッジと言う名の粥なんだが」
俺のトラウマになった粥だ、とキース君。
「材料自体が不味いんだ、と言ったら、ぶるぅが同じ材料で美味い菓子を作ってきたもんでな…。俺が嘘つき呼ばわりをされて、気の毒に思ったぶるぅがポリッジをな」
「それをぼくにも食べさせたわけ!?」
不味かった、とソルジャーはペッペッと吐き出す真似をした後、フラップジャックをパックリと。
「でもって、こっちが美味しいお菓子の方だった、と…。これは美味しいから、まあいいけど」
それにノルディと食べたお粥も良かったし、と笑顔のソルジャー。中華粥でも食べましたか?
「ううん、今日はパルテノンの料亭で豪華な新春メニュー! 締めが小豆粥で!」
小豆粥を食べる日なんだってね、とソルジャーは至極御機嫌です。なるほど、小豆粥は縁起物だという話ですし、締めの御飯が小豆粥になったわけですか…。
美味しい小豆粥を食べて来たソルジャー、ポリッジの不味さも許せる模様。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の小豆粥と同じでじっくりと炊いてあったのでしょう。テーブルのポリッジは片付けられて、代わりに冬ミカンのムースタルトが出て来ました。飲み物も紅茶にコーヒー、ココア。
「いいねえ、地球の食べ物はこうでなくっちゃ!」
ソルジャーは嬉々としてフォークを入れつつ、部屋をぐるりと見回して。
「…あれ? 小豆粥の日だけど、粥杖は?」
「「「は?」」」
「だから、粥杖! 小豆粥の日にはセットなんだろ?」
ノルディに聞いたよ、と言われましても…。粥杖って、なに?
「知らないわけ? ぼくでさえもノルディに教わったのに!」
そしてお尻を叩かれたのに、と妙な台詞が。
「「「お尻?」」」
ソルジャー、何か悪さをしたのでしょうか? 覚えが悪くてお尻を一発叩かれたのか、エロドクターだけにセクハラなのか。何故にお尻、と誰もが首を捻りましたが。
「え、粥杖はお尻を叩くものだと言われたよ? 騙されてはいないと思うんだけど…」
ちゃんと床の間に飾ってあったんだしね、と言葉はますます謎な方へと。何が床の間にあったんですって?
「粥杖だよ! こう、木の棒でさ、神社で配るとノルディは言ったよ」
そして神社の焼印があった、とソルジャーは両手で棒の大きさを示しました。四十センチくらいの長さらしくて、それが料亭の床の間にあったという話。
「何に使うんだろ、って眺めていたらさ、「こうですよ」ってノルディが握って、ぼくのお尻をパシンと一発! なんか、そういうものらしくって」
「「「…え?」」」
そんなの知らない、と会長さんの方に視線を向ければ、「嘘じゃないよ」という答えが。
「粥杖というのは嘘じゃない。小正月に小豆粥を炊いた木の燃え残りを使うって話もあるけど、今じゃ普通に作るかな。昔はメジャーな行事だったらしい」
「ノルディもそういう話をしてたね、小豆粥の日には粥杖でお尻を叩き合ってた、って」
「マジかよ、それ!?」
なんで尻なんかを叩くんだよ、というサム君の疑問は私たちにも共通の疑問。エロドクターのセクハラだったというわけじゃなくて、粥杖なるもの、ホントにお尻を叩くんですか…?
「叩いてたらしいよ、ずっと昔は」
会長さんがソルジャーの言葉を肯定したため、私たちは揃ってビックリ仰天。お尻なんかを叩き合うとか、叩くとか。それにどういう意味合いがあると?
「あれかよ、ケツを叩くってヤツかよ?」
急がせる時とかによく言うよな、とサム君が。そういえば「早く宿題をやってしまえ」とか、仕事を急げとか、そういう時には「尻を叩く」と言うような気が。しっかりやれ、と気合を入れる時なんかにも。
「ふうん…? お尻を叩くって、そういう意味もあったんだ…」
やる気を出させるためにお尻を…、とソルジャーが感心していますから、粥杖でお尻を叩く方にはまるで別の意味があるんでしょうか?
「そうだけど? ぼくがノルディに聞いた話じゃ、なんか子宝を授かるらしいよ」
「「「子宝?」」」
「うん。粥杖でお尻を叩いて貰うと妊娠するって話だったね。ついでに、女性が男性のお尻を叩けば、その男性の子供を授かるっていう話もあって」
つまりは子種を授かるのだ、とソルジャーは説明してますけれど…。本当にそれで正解ですか?
「正解だねえ、ブルーがノルディに聞いてきた話。もっとも、ブルーのお尻を叩いたところで子供なんかは生まれないけどね」
ノルディはいったい何を考えて叩いたのやら、と会長さん。するとソルジャーは大真面目に。
「夫婦和合に協力しますよ、って叩いてくれたよ?」
ぼくのハーレイがビンビンのガンガンになるようにという願いをこめて、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「子宝を授かるくらいの勢いでヤッて貰えるといいですね、ってノルディがね!」
「はいはい、分かった」
勝手に好きなだけ授かってくれ、と会長さんが手をヒラヒラと。
「良かったねえ、粥杖を飾っているような老舗で小豆粥を食べられて。君の自慢話はちゃんと聞いたし、後は帰ってご自由にどうぞ」
夫婦で存分に楽しんでくれ、と追い出しにかかった会長さんですが。
「ちょっと待ってよ、それだけだったらとうの昔に帰っているから!」
食事が済んだらぼくの世界へ直行で…、とソルジャーは私たちの方へと向き直りました。
「ぼくは用事があって来たんだ、こっちへね」
「「「用事?」」」
不味いポリッジに引っ掛かってましたし、おやつ目当てではなさそうです。ソルジャー、いったい何の用事が…?
「粥杖だけどね…。ノルディに色々聞いたんだけどね」
詳しい話を、とソルジャーはソファに座り直すと。
「元々は小豆粥を炊くのに使った棒だけれども、今じゃ神社で授与するくらいで小豆粥には使ってないって話だったね」
「そうと決まったわけでもないから! 小豆粥用に授与する神社もあるから!」
そこを間違えないように、と会長さんが反論を。
「棒の先に御札が挟んである、って神社もあるんだ。無病息災、厄除け祈願の御札がね。粥杖を頂いて家に帰って、御札を玄関とかに貼るってわけだよ。そして粥杖の方は…」
お粥を炊くのかと思ったのですが、今の世の中、木を燃やしての調理は一般的ではありません。ゆえに粥杖、小豆粥を炊く時にお粥をかき混ぜるものらしくって。
「しっかり混ぜて無病息災、縁起物のお粥の出来上がりだから! そこの粥杖、お粥用だから!」
本来の意味で使っている、という話ですが、ソルジャーの方は。
「でもさ、その粥杖でお尻を叩けば子宝だろう?」
「そ、それは…。粥杖というのはそういうものだし、お尻を叩けばそうなるだろうね…」
「ほらね、神社で貰ったヤツでも子宝を授かる棒なんだよ! 粥杖は!」
そういう役目を担い続けて千年以上、と言うソルジャー。そこまでの歴史を背負ってましたか、粥杖とやら。
「らしいよ、ノルディが自信たっぷりに由緒を教えてくれたしねえ…。そして子宝を授かる棒っていうことで独自の進化を遂げた地域もあるんだってね?」
「「「進化?」」」
「そう! 子宝祈願に特化した粥杖、木で出来たアレの形なんだよ!」
男だったら誰でも持ってるアレの形、とソルジャーはそれは嬉しそうに。
「アレを象った、一メートル近い大きな棒でさ。そういう棒が粥杖な地域があるって言ったよ、ノルディはね! それで女性のお尻を叩けば、もれなく子宝!」
小豆粥の日の行事らしい、とソルジャーは膝を乗り出して。
「その粥杖を聞いた途端に閃いたんだ! これは使えると!」
「……何に?」
会長さんが嫌そうな顔で言っているのに、ソルジャーの方は気にも留めずに高らかに。
「ヘタレ直し!!」
「「「ヘタレ直し?」」」
なんですか、それは? 粥杖を使って何をすると?
「ヘタレ直しと言えば決まっているだろう!」
ヘタレと言えばたった一名! とソルジャーは胸を張りました。
「こっちのハーレイ、それはとんでもないヘタレだからねえ…。粥杖を使って直すべきだと!」
子宝と聞けば使うしかない、と解説が。
「あの棒で男性のお尻を叩けば、その男性の子種を授かるらしいしね? つまり、こっちのハーレイのお尻を粥杖で叩くと、子種を授けるパワーが伝わる!」
ヘタレなアソコにパワーが漲る筈なのだ、という凄い発想。私たちは声も出ませんでしたが、ソルジャーの喋りは滔々と。
「そういう風に使えそうだし、ヘタレ直しをしようと提案しに来たわけだよ。そしたらケツを叩くってサムの言葉が来ちゃって、グンと自信が深まっちゃって!」
やるっきゃない! とグッと拳を握るソルジャー。
「お尻を叩けばやる気が出るって言うんだろう? やる気、すなわちヤる気ってね!」
ガンガンと攻める方向で…、と粥杖の解釈はエライ方へと。
「こっちのハーレイのお尻を粥杖で叩けば、ヘタレが直ると思うんだ! もう叩くしか!」
「…それで直ると?」
あんなヘタレが、と会長さんが鼻で笑いましたが、ソルジャーは。
「やってみなくちゃ分からないってね! 叩くしかないと思うんだけど!」
ちょっと粥杖を借りて来て…、と本気でやる気。借りるって、何処で粥杖を?
「ノルディに連れて貰った店だよ、粥杖を飾っているからね! 夜の営業時間までの間に瞬間移動で杖を拝借、ハーレイのお尻を叩きに行こうと!」
君も来たまえ、と会長さんに矛先が。
「なんでぼくが!」
「ハーレイのヘタレが直れば色々とお世話になるだろ、ハーレイのアソコに!」
「そっちの趣味は全く無いから!」
「そう言わずに!」
ヘタレさえ直れば素晴らしい男になるんだから、と相変わらずの思い込み。会長さんにはその手の趣味は無いというのに、自分がキャプテンと夫婦なばかりに会長さんにも教頭先生との恋や結婚を押し付けがちなのがソルジャーです。
「ぼくがハーレイのお尻を叩いても効果は高いと思うけどねえ、君も叩いて!」
そして子種を貰ってくれ、と強引に。会長さんは教頭先生のヘタレ直しに興味も無ければ、子種なんかも要りはしないと思うんですが…?
粥杖を借りて教頭先生の家へ出掛けよう、とソルジャーは会長さんを口説きにかかりました。是非ともお尻を叩いてやろうと、ヘタレを直して素晴らしい男にしてやるべきだと。
「子種をガンガン授ける杖だよ、おまけにお尻を叩けばやる気も出てくるんだしね!」
「だから、そういう趣味なんか無いと!」
「食わず嫌いは良くないよ! 一度くらいは食べられてみる!」
ヘタレの直ったハーレイに、とソルジャーは譲らず、会長さんは仏頂面で聞いていたのですけど。
「…待てよ、ハーレイのお尻を叩けばいいわけか…」
これはいいかも、と顎に手を。
「分かってくれた? ハーレイのヘタレが直ればいいっていうことを!」
「うん。ヘタレ直しという名目があれば、お尻を叩き放題っていう事実にね」
思いっ切り引っぱたくチャンス! と会長さんの発想も斜め上でした。
「何かと言えば妄想ばっかりしている馬鹿のお尻を思いっ切り! ヘタレ直しは大義名分、その実態は単にお尻を叩きたいだけ!」
「ちょ、ちょっと待って! ぼくが言うのはそういうのじゃなくて!」
「君にもメリットはあると思うよ、粥杖ってヤツが欲しくないかい?」
借りるんじゃなくてマイ粥杖、と会長さん。
「マイ粥杖? …なんだい、それは?」
「そのものズバリさ、君専用の粥杖だってば!」
やる気が出てくる棒のことだ、と会長さんはニッコリと。
「君のハーレイのお尻を叩けば、君が子種を授かるわけだよ! パワーアップのためのアイテム、君の青の間に一本、粥杖!」
「…神社へ貰いに行くのかい?」
「それじゃイマイチ有難味がない。君のハーレイ、木彫りが趣味だろ? これぞ粥杖、っていう棒を彫って貰って、それを使って小豆粥を炊けばバッチリ粥杖!」
正真正銘の粥杖誕生、と会長さんの唇に笑みが。
「サイオンを使えば、粥杖が燃えないようにシールドしながら小豆粥を炊ける。そうやって出来た粥杖で君のハーレイのお尻を一発、こっちのハーレイには何十発と!」
ヘタレ直しで叩きまくれば場合によっては効くであろう、という見解。
「たとえハーレイには効かなくっても、君はマイ粥杖をゲット出来るし、悪い話じゃないと思うけど? 作るんだったら、その粥杖でハーレイのヘタレ直しもね!」
うんと立派な粥杖がいい、と言っていますが、その粥杖で教頭先生のお尻を何十発も…?
「えーっと…。今から作るって…。間に合うわけ?」
マイ粥杖は欲しいけれども、とソルジャーが首を捻りました。
「小豆粥の日、今日だろう? 今から帰ってぼくのハーレイに彫らせていたので間に合うかな?」
時間的にかなり厳しい気が、と真っ当な意見。けれど、会長さんは「大丈夫!」と。
「本物の粥杖にこだわるんなら、小豆粥の日は今日じゃない。一ヶ月ほど先のことだよ」
「一ヶ月?」
「今は暦が昔と違っているからねえ…。粥杖が始まった頃の暦で計算すると、一ヶ月ほどズレが出るわけ。えーっと、本物の小正月は、と…」
いつだったかな、と壁のカレンダーをチェックしに行った会長さんが戻って来て。
「うん、いい具合に週末と重なっていたよ。ぼくたちの学校もバッチリお休み! 屋上で小豆粥を炊こうよ、竈は用意しておくからさ」
「それはいいかも…。その日に小豆粥を炊くのに使えば、その粥杖は本物なんだね?」
ぼくのハーレイが彫ったヤツでも、とソルジャーが訊くと、会長さんは。
「小正月の日に小豆粥を炊きさえすれば粥杖だよ! 神社で授与して貰わなくても!」
「その話、乗った!」
マイ粥杖、とソルジャーが会長さんの手をガシッと握って。
「ぼくのハーレイのパワーアップが第一なんだね、マイ粥杖! それのオマケがこっちのハーレイのヘタレ直しで、粥杖はぼくが貰っていいと!」
「もちろんさ。ヘタレ直しはどうでもいいから、君が大いに活用したまえ」
「ありがとう! マイ粥杖を持てるだなんて…。言ってみるものだね、ヘタレ直しをしてみよう、っていう話も!」
こっちのハーレイのヘタレも見事に直るといいね、とソルジャーは嬉しくてたまらない様子。それはそうでしょう、マイ粥杖が貰えるというのですから。
「マイ粥杖かあ…。それはやっぱり、アレの形にすべきかな?」
「君の好みでいいと思うよ、それと君のハーレイの木彫りの腕次第だね」
「ハーレイに頑張って彫って貰うよ、来月までに! 材料の木は何でもいいわけ?」
ぼくの世界の木でいいのかな、という質問に、会長さんは。
「材料はこっちで用意するよ。一応、指定があるからね」
「そうなんだ?」
「柳の木っていうのが主流で、アレの形に彫るって地方は松なんだけど…。どっちがいい?」
「松に決まっているだろう!」
断然、松で! とソルジャーがマイ粥杖で目指す所はキャプテンのためのパワーアップのアイテムでした。教頭先生のヘタレ直しは既に二の次、三の次ですね…。
マイ粥杖を作って貰えると決まったソルジャーは上機嫌で夕食時まで居座り、寄せ鍋を食べて帰って行きましたけれど。
「お、おい…。粥杖って、あんた、本気なのか?」
本気でやる気か、とキース君が会長さんに問い掛け、シロエ君も。
「いいんですか、パワーアップのアイテムだなんて…。そんな迷惑なものを作らなくても…」
「平気だってば、アイテムの使用は向こうの世界に限られるしね?」
あっちのハーレイも充分にヘタレ、と会長さんが。
「ブルーがこっちに連れて来たって、バカップルくらいが限界なんだよ。粥杖でお尻を引っぱたいても人の目があれば大丈夫ってね!」
コトに及ぶだけの度胸は無い! と言われてみればそうでした。ソルジャー曰く、「見られていると意気消沈」。悪戯小僧の「ぶるぅ」が覗きをやっているだけで駄目だと噂のヘタレっぷり。たとえ粥杖でパワーアップしても、その辺りは直りそうになく…。
「なるほど、あっちは安心なわけか…。しかし教頭先生の方は…」
どうなんだ、というキース君の問いに、会長さんは「もっとヘタレだし!」とアッサリと。
「これでヘタレが直る筈だ、と叩いてやっても直るわけがない。だけどブルーは効くと信じてヘタレ直しを提案して来たし、この際、日頃の恨みをこめて思いっ切り!」
引っぱたく! と会長さんの決意は揺らぎなく。
「そのためにも立派な粥杖を作って貰わないとね、木彫りが得意なブルーの世界のハーレイに! ここはやっぱり一メートルで!」
ブルーもそういうタイプの粥杖が欲しいようだし…、と会長さん。
「松の木を用意しなくっちゃ。どう彫るかはあっちのブルーとハーレイ次第で!」
「「「………」」」
一メートルもの長さの粥杖が出来てくるのか、と溜息しか出ない私たち。しかもソルジャーのお好みはアレの形です。ロクでもないのが彫り上がるんだな、と遠い目になれば、会長さんが。
「そういう形をしているからこそ、こっちのハーレイが釣られるってね!」
「「「は?」」」
「粥杖を作るイベントに招待してから、お尻をガンガン叩くつもりでいるんだけれど…。普通だったら痛くなったら逃げるものだよ、黙って叩かれていいないでね」
けれどもヘタレ直しとなれば…、と会長さんはニンマリと。
「これで効くのだと、ヘタレが直ると信じて叩かれ続けるわけだよ、ハーレイは!」
たとえお尻が腫れ上がろうとも! と強烈な台詞。教頭先生、大丈夫かな…?
そうして二度めの小正月。旧暦の一月十五日の朝、私たちは会長さんのマンションに集合となりました。折からの寒波で寒いんですけど、小豆粥を炊く場所は屋上です。如何にも寒そう、とコートにマフラー、手袋なんかで重装備。会長さんの家の玄関に着いてチャイムを押すと。
「かみお~ん♪ ブルーも来ているよ!」
後はハーレイを待つだけなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。暫くは暖かい所に居られそうだ、とホッと一息、リビングに案内されてみれば。
「やあ、おはよう。どうかな、ぼくのハーレイの腕は?」
ジャジャーン! とソルジャーが持ち上げて見せた、一メートルはあろうかという太い棒。アレの形だと言われればそうかな、と思いますけど、細長い松茸でも通りそうな感じ。
「こだわったのはね、この先っぽの辺りでさ…」
リアルに再現してみましたー! とか威張っていますが、松茸にしては妙な傘だという程度にしか見えません。万年十八歳未満お断りの団体様に自慢するだけ無駄なのでは…。
「うーん、やっぱり分かってくれない? でもねえ、もうすぐ値打ちの分かる人が来るからね!」
そっちに期待、と言い終わらない内にチャイムの音が。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねて行って、「ハーレイ、来たよーっ!」という声がして。
「今、行くからーっ!」
会長さんが叫び、私たちはコートやマフラーを再び装備。玄関まで行くと、防寒スタイルの教頭先生が立っておられて。
「おはよう、今日は粥を御馳走してくれるとブルーに聞いたのだが…」
「そうだよ、小正月には小豆粥だしね」
古典の教師なら知ってるだろう、と会長さん。
「本格的に炊いてみたいし、屋上に竈を用意したんだ。もちろん薪で炊くんだよ」
「ほほう…。それはなかなか美味そうだな」
竈で炊いた飯は美味いものだし、と教頭先生は頷いておられます。どうやら粥杖を作る話はまるで御存知ないようで…。
「とにかく寒いし、小豆粥を炊きながら温まろう、っていうのもあるから!」
会長さんがエレベーターの方へと促し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「小豆粥、準備、きちんとしてあるからね! 後は炊くだけ!」
「というわけでね、今日はよろしく」
ぼくも楽しみにしてたんだ、と言うソルジャーに教頭先生が「こちらこそ」と笑顔で挨拶を。言い出しっぺはソルジャーですけど、全く気付いておられませんね?
屋上に着くと、風が比較的マシな辺りに竈が据えてありました。種火は投入してあったらしく、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が薪を手際よく入れればボッと炎が。
「えとえと、炊けるまでお鍋に触らないでね!」
小豆粥が駄目になっちゃうから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。大きな土鍋が竈にかけられ、薪をどんどん燃やせば煮えるという仕組みですが。
「これで薪をつつけばいいと?」
ソルジャーが例の棒をヒョイと取り出し、教頭先生に「見てよ」と笑顔を。
「粥杖なんだよ、この棒は! 小豆粥を炊くのに使えばパワーが宿ると聞いたから!」
「粥杖…ですか?」
「古典の教師なら知らないかな? これでお尻を叩いて貰えば子宝が!」
そういうパワフルなアイテムなのだ、とソルジャーがこだわりの先っぽとやらを教頭先生の鼻先に突き付け、教頭先生の目が真ん丸に。
「…こ、これは…!」
「見ての通りだよ、子宝祈願でパワーアップならこの形! ぼくのハーレイがこだわって彫って、これからパワーを入れるわけ!」
こうやって、と先っぽの方から竈の焚口にグッサリと。けれどもシールドされているだけあって、粥杖は焦げもしませんでした。ソルジャーは鼻歌まじりに薪を突き崩しながら。
「ぶるぅ、もっと空気を入れた方がいい?」
「そだね、火力は強い方がいいね!」
アヤシイ形の粥杖が薪をガサガサかき混ぜ、舞い上がる火の粉。やがてグツグツと鍋が煮え始め、小豆粥がしっかり炊き上がって…。
「はい、食べて、食べてー!」
寒いからしっかり温まってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がお椀に小豆粥を取り分け、お箸と一緒に全員に配ってくれました。うん、なかなかに美味しいです。竈の威力は大したものだ、と寒風の中で啜っていれば。
「はい、粥杖! 注目、注目ーっ!」
そしてハーレイはお尻を出して! とソルジャーが小豆粥を食べ終え、粥杖を高々と振り上げて。
「これでお尻を引っぱたいたら、子種がバッチリ! きっとヘタレも直るから!」
「…ヘタレ?」
なんのことですか、と尋ねた教頭先生、会長さんに「立って!」と立ち上がらされて。
「ヘタレ退散ーっ!」
バッシーン! とソルジャーの気合を込めた一撃。「うっ!」と呻いた教頭先生のお尻に向かって、今度は会長さんが粥杖を。
「ヘタレ直しーっ!」
ビシーッ! と激しい音が響いて、教頭先生は慌てて両手でお尻を庇われたのですが…。
「ダメダメ、粥杖は叩いてなんぼ! これでヘタレが直るんだし!」
ソルジャーが叩き、会長さんが。
「ブルーが考えてくれたアイデアなんだよ、ぐんぐんヘタレが直る筈だと!」
さあ、頑張っていってみよう! と粥杖攻撃、二人前。教頭先生はソルジャーからの「パワーアップのアイテムなんだよ、ぼくのマイ粥杖!」という囁きに負けて、逃げる代わりに耐え続けて。
「…ハーレイ、欠席だったって?」
週明けの放課後、ソルジャーが「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を訪ねて来ました。
「そうなんだよねえ、ゼルたちの噂じゃ、なんか痔だとか」
そういうことになってるらしい、と会長さん。ソルジャーは深い溜息をついて。
「おかしいなあ…。あれだけ叩けばヘタレも直って万々歳だと思ったんだけど…」
「ほら、ヘタレのレベルが違うから! 君のハーレイの方はどうだった?」
「凄かったよ! 粥杖でポンとお尻を叩けば、グンとパワーが!」
実に素晴らしいアイテムが手に入ったものだ、とソルジャーは御満悦でした。キャプテンの場合は一発叩けばパワーが漲るらしいのですけど。
「…教頭先生、思いっ切り叩かれすぎたしね…」
帰りは車にも乗れなかったものね、とジョミー君。
「欠席なさるのも仕方ないだろう。ダメージはかなり大きいと見た」
当分は再起不能じゃないか、とキース君が頭を振っている横で、会長さんとソルジャーはヘタレ直しの次なるプランを練っていました。
「君のハーレイには効いたってトコを強調してやれば、まだまだいけるね」
「腰が痛くて欠席だなんて言っていないで、ヤリ過ぎで休んで欲しいものだねえ…」
マイ粥杖ならいつでも貸すよ、とソルジャーは気前がいいんですけど。ヘタレ直しに効くと信じているようですけど、会長さんの目的はそれじゃないですから! 教頭先生、ヘタレ直しだと思わずに逃げて下さいです。でないとお尻が壊れますよう~!
小正月のお粥・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
小正月の粥杖の話は、本当です。平安時代には宮中でも女官たちがやっていたくらい。
マイ粥杖を作ったソルジャーですけど、教頭先生には受難だった日。お大事に、としか…。
次回は 「第3月曜」 10月21日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、9月とくれば、秋のお彼岸。当然、厄日になるわけですけど…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ほう…?)
進水式か、とハーレイが目を留めた新聞記事。土曜日の朝、朝食のテーブルで開いた新聞。
ブルーの家へと出掛けてゆくには早すぎるから、片付けの前にのんびりと。愛用のマグカップにたっぷりと淹れたコーヒー、それをお供に。
観光用の大型客船がデビューするらしい。その船の進水式の記事と写真と。色とりどりの祝いのテープが舞う中、堂々と聳え立つ大きな船体。
(船なあ…)
本物だな、と笑みが零れた。宇宙船とは違って船だ、と。
この写真の船は海へ出てゆく、進水式を経て。青い水が満ちた世界へ船出するから進水式。水の中へと進んでゆく船、蘇った地球の大海原へ。
今の時代は、海ならぬ宇宙へ船出してゆく宇宙船の建造も少なくはない。そちらの場合も、海をゆく船の場合と同じに進水式があると聞いてはいるのだけれど。
暗い宇宙に水など無いのに、進水式でもいいのだろうか?
もっと適切な言い方があっても良さそうなのに、と素朴な疑問が浮かんでくる。どう呼ぶのかを咄嗟には思い付かないけれど。宇宙船の場合の、進水式にあたる言葉は出て来ないけれど。
(俺はサッパリ知らないからなあ…)
前の自分はキャプテンとはいえ、進水式とは縁が無かった。
シャングリラはアルタミラから脱出する時点で既に出来ていたし、後に改造されたというだけ。地球を目指す途中で加わったゼルたちの船も、人類軍が持っていた船を接収して使ったのだから。
つまり建造していない船。三百年以上も宇宙を旅していたのに、ただの一隻も。
(ギブリとかなら…)
小型艇なら作ったけれども、今で言うなら車の感覚。いちいち名前をつけてもいないし、特別な儀式をするという発想自体が無かった。要は動けばいいだけのこと。
キャプテンだった前の自分でさえもその有様だし、今の自分は更に縁が無い。ただの古典の教師などでは、進水式には呼ばれない。親戚や親しい友人が船を建造するならともかく…。
(そっちだって、まるで無いからなあ…)
わざわざ船を建造してまで何かしようという友人はいない。それに親戚も。
自分とは無縁の世界だけれども、幸い、記事には進水式についても詳しく書かれているようで。
(観光の目玉の船だからだな…)
ホテル並みの設備を備えた大型客船、これから様々な所へ出掛けてゆくのだろう。青く輝く海を旅して、クルーズを楽しむ人々を乗せて。
こういう新しい船が出来た、と目を引くようになっている記事。ブルーと二人で乗ってゆくには些か早すぎるけれど、進水式には興味があるから。
(読んでおくとするか)
あれはどういうものなのだ、と進水式の解説を読み始めたら。
前の自分とは縁が無かった式典の内容を追って行ったら、馴染みのテープが入った薬玉の他に、ウイスキーのボトル。あるいはシャンパン、この地域ならではの日本酒までが。
とにかく酒の入ったボトルで、進水式にはつきものだという。
(ボトルだと?)
いったい何に使うのだろう、と首を捻ったら、酒のボトルは船首にぶつけて割るものだった。
事の起こりはSD体制が始まるよりも遠い昔のイギリスでの話、進水式では赤ワインのボトルを船に投げ付けて割ったという。最初は男性がやっていたけれど、後に女性の役目とされた。
(割れなかったら縁起が悪いのか…)
ぶつけられたボトルが見事に割れなかった船は、縁起が良くないとされてしまうらしい。ケチがついてしまう、その船の旅路。
(そいつは女性も大変だな…)
失敗出来んぞ、と思ったけれども、失敗した人もあったろう。そういった船に本当に悪いことが起こったかどうかは、この記事もさほど触れてはいない。縁起でもないから、成功例がメイン。
ボトルを結び付けた綱が船首に当たるようにと支えの綱を切り離すケースや、文字通りに投げてぶつけるケースや。
(投げて割ったら、クリーニング代が貰えるのか…)
これは愉快だ、と頬が緩んだ。ボトルを直接ぶつけられる場所から投げたのだったら、ボトルが見事に割れた途端に酒が女性の服にかかるから。御祝儀として女性が貰えるクリーニング代。
ガラスの破片は飛んで来ないらしい、そうならないよう網の袋で覆われたボトル。
飛んで来るのは船に当たった酒の雫で、ウイスキーだったり、シャンパンだったり。
前の自分たちが生きたSD体制の時代には無かった習わし、船首にボトルを投げて割ること。
船は名付けたらそれで終わりで、人類軍の旗艦といえども特別な儀式は無かったらしい。主要な者たちが完成した船を見て回るだけで、軍事式典と同列のもの。
ところが今では宇宙船でもまずは命名式、それが終わったら進水式。
(ふうむ…)
幕を外して船名を披露する命名式と、ボトルを投げ付けて割る進水式。宇宙船でも名前は同じに進水式だった、水の中ではなくて空へゆくのに。宇宙へと船出してゆくのに。
その宇宙船にも、ボトルを投げ付けるのが今の時代の習慣だという。ウイスキーやらシャンパン入りのボトルをぶつけて割るのが。
SD体制が崩壊した後、復活して来た遠い昔の進水式。船の前途を祝うボトルで、やはり女性が投げるもの。宇宙船のための進水式でも。
(血の繋がった本当の家族が暮らす世界になったからだろうな)
進水式が復活したのは、多分、そのせいなのだろう。
次の世代へと考える感覚が世界に戻って来たから。自分の代だけで終わりではないと、受け継ぐ者たちが大勢いるのだと誰もが考えるようになったから。
船を造ったら、その船と、それを使う者たちの上に幸あれと。
幸福な前途が待っているよう、思いをこめて投げ付けるボトル。見事に割れてくれるようにと。
今だからこそだ、と浮かんだ笑み。
前の自分が生きた時代には、「次の世代」という感覚は…。
(俺たちしか持っていなかったってな)
ミュウという種族を絶やすまい、と誰もが祈り続けた船。箱舟だった白いシャングリラ。
アルタミラから脱出した直後は、生きてゆくだけで精一杯だった船だけれども、アルテメシアの雲海に隠れ住んでからは次の世代を育て続けた。救出して来たミュウの子供たちを。
赤いナスカでは本当の意味での子供たちも出来た、自然出産児だったトォニィたち。次の時代を生きる者たち、人工子宮ではなくて母の胎内から生まれた子たち。
正真正銘の「次の世代」を生み出したのが前の自分たちだった、ミュウの未来を。
けれど、その自分たちが乗っていた白いシャングリラには…。
(進水式なんかは無かったんだ…)
歴史を変えた船だったのに。今の時代も、白いシャングリラは憧れの宇宙船なのに。
白い鯨が時の流れに連れ去られてから長く経った今も、一番人気の宇宙船。遊園地に行けば白い鯨を模した遊具があって当たり前、写真集もグッズも模型もある船。
なのに進水式は無かった、船は最初からあったから。
メギドの炎で燃え上がった地獄、アルタミラにポツンと置き去りにされていた人類の船。たった一隻だったけれども、あったお蔭で皆の命が助かった。それに乗って脱出することが出来た。
今も忘れない、コンスティテューションという名前だった船。命を救ってくれた船。
(あれがシャングリラになった時にも…)
人類が名付けた名前よりも、と改名されたシャングリラ。理想郷の意味を持つ名前。
その名前は皆で決めたとはいえ、命名式などはしなかった。船のあちこちに取り付けられていたコンスティテューションという名前のプレート、その上にペタリと紙を貼っただけで。
誇らしげに「シャングリラ」と記された紙が、お祭り騒ぎで貼られただけで。
せっかく名前をつけたというのに、行われなかった命名式。あの船がシャングリラになった時。
(白い鯨に改造した後も…)
儀式の類は無かったのだった、既に名前はあった船。何かをしようと思い付きさえしなかった。改造が済んで使えるようになった部分から、順に使っていっただけ。
全てが完成した後には…。
(ブルーが青の間に移って終わりか?)
そうだったような気がする、確か。
皆を導く立場のソルジャー、そのソルジャーの威厳を高めるためにと作った青の間。演出だった青の間の構造、本当は必要なかった広さや水を湛えた貯水槽。
前のブルーは嫌がったけれど、出来てしまえば移るしかない。ソルジャーの引越しが締め括りになっていたのだと思う、白い鯨への大改造は。
今の平和な時代だったら、盛大に祝っていたのだろうに。本当にお祭りだっただろうに。
(隠れ住んでた船ではなあ…)
人類の船に見付からないよう、隠れ続けたシャングリラ。
改造が終わっても、祝う余裕などは何処にも無かった。新しい船を使いこなしてゆくのが肝心、自給自足の生活も軌道に乗せねばならない。
すべきことは山のようにあったし、祝いよりも先に生きてゆかねばならないのだから。
(だが、あの時代に進水式があったなら、だ…)
今のように進水式というものがあったら、白い鯨になったシャングリラにボトルくらいは投げただろう。生まれ変わったようなものだし、進水式をしてやらねば、と。
それも特別に高級な酒のボトルをぶつけて。
あの頃なら、まだ酒は合成品ではなかったから。前のブルーが奪った物資が積まれていたから、酒だってあった。その中でも一番上等なものを選んでいたろう、シャングリラのために。これから皆で生きてゆく船、白い鯨の前途を祝って。
ボトルは女性が投げるというから、シャングリラなら…。
(エラか、ブラウか…)
多分、どちらかが投げたのだろう。船を代表する女性はあの二人だから。
新聞記事には、SD体制が始まるよりも遠い昔に進水式に出た女王陛下も載っていた。九十歳に手が届きそうな高齢の女王陛下でも、新しく出来た空母のためにとボトルをぶつけていたという。流石に投げてはいなかったけれど。ボトルを船へとぶつけるボタンを押したのだけれど。
女王陛下がぶつけたボトルは見事に割れた。女王陛下の名前を冠した空母の船首で。
(…こいつは面白い話が出来るぞ)
白いシャングリラにボトルを投げ付けるブラウかエラ。
今日の話題に丁度いいな、と小さなブルーを思い浮かべた。
ブルーが守った白い船。自分が舵を握っていた船。あのシャングリラが出来上がった時、こんな儀式をやっていたなら…、と。
新聞をゆっくりと読んだお蔭で生まれた話題。シャングリラには無かった進水式。
今日の最初の話はこれだ、とブルーの家へと出掛けて行った。ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、小さなブルーに尋ねてみる。
「進水式を知ってるか?」
新しい船を造った時には、進水式をするんだが…。普通の船でも、宇宙船でも。
前の俺たちが生きた頃には無かったんだが、今は復活して来たわけだな。SD体制の時代よりもずっと昔に、地球で生まれたヤツなんだが。
「うん、映像なら見たことがあるよ」
それに写真も。綺麗なテープが一杯だったよ、船が出来上がったことのお祝いでしょ?
「そうか、知っていたか。だったら、ボトルの方はどうなんだ?」
「…ボトル?」
なんなの、ボトルって?
それって進水式に使うの、ぼくはそんなの知らないよ…?
テープは沢山あったけれど、とブルーが首を傾げているから。
「ボトルだ、酒のな。…中身の酒は、どんな酒でもいいそうだ」
ウィスキーとか、シャンパンだとか。この地域だと日本酒ってこともあるらしい。
船だけじゃなくて、宇宙船の時にも使うらしいぞ。進水式という言葉も、酒のボトルも。
「…お酒なの?」
船とか宇宙船の進水式でお酒って…。それって、人間が飲むわけじゃなくて?
進水式に出た人たちが乾杯するんじゃないの…?
「残念ながら、全く違うようだな」
酒を飲むヤツがいるんだとしたら、人間じゃなくて船の方だ。
宇宙船や船が酒を飲むんだ、美味い酒をな。
船首に瓶ごとぶつけて割るものらしい、と話してやった。仕入れたばかりの進水式の知識を。
ボトルをぶつける儀式が始まったと言われる十八世紀には、赤ワインだった酒。ボトルを投げる役目を女性に決めたのが、十九世紀の初めのイギリス皇太子だ、と。
「ついでに、ボトルが上手く割れなかったら駄目なんだそうだ」
縁起の悪い船になっちまうらしい、その船は。…女性は責任重大だぞ。
事実かどうかは分からないそうだが、前のお前がこだわっていたタイタニック号。救命ボートの数が足りなくて大惨事になってしまったから、ってシャングリラに救命艇を欲しがっていたろ?
あのタイタニックの進水式では、ぶつけたボトルが一回目で割れなかったって話もある。
そんな話が今の時代まで伝わるくらいに大切なわけだ、ボトルを上手く割るってことはな。
「そうなんだ…。ホントに責任重大なんだね、任せられた人は」
だけど、シャングリラでもやりたかったよ、そういうのを。
最初の間は進水式どころじゃなかったけれども、白い鯨になった時なら…。
あの頃だったら、船のみんなも心に余裕が出来てたし…。
シャングリラって名前をつけた頃より、ずっと立派な素敵な船が出来たんだし。
…やりたかったな、進水式。
前のぼくたちが生きてた頃には無かったものなら、仕方ないけど…。
そうは思うけど、惜しかったな…。
シャングリラは前のぼくたちの世界の全てで、本当に箱舟だったんだから。
思った通りに、「シャングリラでやりたかった」と言い出したブルー。今までにブルーが映像や写真で見ていたような進水式ならば、色とりどりのテープが舞うというだけだから。パーティーで鳴らすクラッカーと見た目は変わらないから、何とも思わなかったのだろう。
ただのお祭り、薬玉を割って騒ぐようなもの。船が大きい分、大掛かりなだけ。
自分も今日までそう思っていたから、ボトルを船首にぶつける儀式は知らなかったから。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
シャングリラでもやってやりたかった、って。
白い鯨が完成した時、ボトルをぶつけてやるべきだった、と思うよなあ…。
今じゃそういうことをするんだ、と知っちまったら。
あの時代でもデータベースを調べていればだ、見付かった可能性はあったのにな。
「そうだね、SD体制よりも前の時代のデータも沢山残っていたし…」
シャングリラの名前も、ずうっと昔の小説に出て来た架空の地名をつけてたんだし…。
進水式とか、ボトルをぶつけて割るものだとかも、上手くいったら分かってたのかも…。
「運が良ければ、分かっていた可能性も充分あるよな」
ヒルマンとエラに任せておいたら、ちゃんと見付けて来たかもしれん。
ただなあ…。前の俺に進水式って発想が無かっただけにだ、「調べてくれ」とは頼めなかった。
進水式って言葉自体は、本とかで知ってはいた筈なんだが…。
シャングリラは最初から出来上がってた船で、一から造った船じゃないしな。
「…ぼくも同じだよ、それに関しては」
前のハーレイと同じで本で読んではいたんだと思う、タイタニックも知っていたんだから。
だけど、シャングリラに進水式をしてあげなくちゃ、っていう考えが無かったよ。
ぼくたちが造った船じゃなかったから、そのせいかな…。
元からあった船を大きく改造しただけで、新しく造ったわけじゃないから。
失敗だった、と小さなブルーは肩を竦めた。ぼくたちの箱舟だったのに、と。
「…白い鯨になったお蔭で、本物の箱舟になってくれたのに…」
シャングリラの中だけで生きていけたし、新しい仲間も乗せられるようになったのに…。
そんな立派な船が出来たのに、進水式をしなかったなんて…。
大きさも形も全く違う船が出来たんだったら、新しく造ったのと同じなのにね。
「まったくだ。…前の俺もウッカリしてたのかもなあ…」
改造している間もエンジンは一度も止まらなかったし、名前もシャングリラのままだったし…。
姿こそ劇的に変わりはしてもだ、同じ船だと何処かで思っていたんだろうな。
そのせいで、改造が終わった後にも「これで終わった」としか考えなくて。
出来上がったからにはもう安心だ、と肩の荷を下ろして、それっきりっていうトコだろう。
白い鯨に「よろしく頼むぞ」とボトルの酒を振舞う代わりに、俺が一杯やったんだろうな。
「やっと終わったな」とゼルたちと一緒に、ささやかな慰労会ってヤツを。
「…だろうね、前のハーレイもお酒が好きだったから…」
それに、シャングリラの改造が済んだら、もう本物のお酒は手に入らなくなるんだから。
最初から分かっていたことなんだから、本物のお酒にさよならのパーティー。
そういうことになっていたんじゃないかな、シャングリラにぶつけてあげる代わりに。
「…どうやら、そいつで当たりのようだぞ」
やたら良心が痛むからなあ、前の俺が美味しく飲んだんだろうさ。飲ませてやるべき白い鯨には御馳走しないで、ゼルたちとな。
…申し訳ないことをしたなあ、シャングリラには。
飲める筈の酒をキャプテンだの機関長だのが飲んでしまって、一滴も貰えなかったんだからな。
本当に悪いことをしちまった、と苦笑するしかないボトル。前の自分が飲んだだろう酒。
白いシャングリラにぶつけてやっていたら、立派な儀式になったのに。
「ミュウの未来をよろしく頼む」と、白い鯨になったシャングリラの船出を祝ってやれたのに。
けれど、今ではもう遅いわけで、シャングリラは時の彼方に消えた。進水式をして貰えずに。
「…俺がゼルたちと飲んじまった酒、シャングリラにぶつけてやるべきだったな…」
合成品じゃなくて本物の酒の、最高のボトルをシャングリラに。
「ぼくもそうしてあげたかったよ。でも…」
ボトル、宇宙で投げるんだよね?
最後の改造は重力の無い宇宙でやったし、星の上じゃないから空気も無いし…。
そんな所でボトルを投げたら、どうなってたかな?
上手く割れなくて、縁起の悪い船になっちゃった…ってことはないよね、シャングリラ…?
「さてなあ…」
割り損なうどころか、思い切り派手に割れそうだがな、と遠い昔の記憶を手繰った。
前の自分が持っていた記憶。キャプテン・ハーレイとして見ていた宇宙。
大気も重力も無い宇宙空間なら、止めようと力をかけない限りは投げた物体は止まらない。
衛星軌道上の人工衛星が何もしなくても飛び続けるのと同じ理屈で、きっとボトルも。
宇宙空間で酒のボトルをシャングリラに向かって投げたなら…。
とんでもないスピードで突っ込みそうだが、と軽く両手を広げてみせた。
投げた時のスピードを少しも失わないまま、真っ直ぐに飛んで行くわけなんだが、と。
「そりゃあ景気よく割れると思うぞ、凄いスピードでブチ当たるんだし」
木端微塵に砕けるんじゃないか、元の形がどうだったのかも分からないほどに。
酒も見事に飛び散っちまって、宇宙空間にフワフワと幾つもの酒の塊がだな…。
デカい塊やら、小さいヤツやら、無重力ならではの眺めってトコだ。
「そういえばそうだね、宇宙空間なら…」
ぼくは普通に飛んでいたから、そういう感覚、すっかり忘れてしまっていたけど…。
スピードがついたら止まらないよね、お酒のボトルだったとしても。
「うむ。だから、シャングリラは縁起のいい船になった筈だと思うんだが…」
上手く割れればいいって言うんだ、そこを見事に木端微塵に砕けるんだからな。
もう最高に縁起のいい進水式ってもんだぞ、俺たちの箱舟にはもってこいの。
「うん。…それで、そのボトルは誰が投げるの?」
進水式のボトルは女の人が投げるものなんでしょ?
「俺も考えたが、あの時代ならエラかブラウだな」
フィシスがいたなら、そこはフィシスの出番なんだが…。
前のお前がミュウの女神だと言ってたんだし、間違いなくフィシスの役目だったろうが…。
白い鯨が出来た時にはフィシスはいないし、エラかブラウしかないだろう。なんと言っても長老だしなあ、誰も文句は言わないってな。
「ブラウ、とっても投げたがりそうだね」
任せときな、ってウインクする顔が浮かんできちゃうよ。
「俺もそう思う。…逆に遠慮をするのがエラだ」
私などに上手く出来るでしょうか、と指名されても尻込みしそうだ、控えめ過ぎて。でもって、ブラウを推薦するんだ、「私よりも上手くやるでしょう」とな。
もしもシャングリラの進水式をやっていたなら、船首にボトルをぶつけるのなら。投げる役目はブラウだったか、それともエラが選ばれたのか。
どちらだったかは分からないけれど、「投げるんだったら宇宙服は無しで」とブルーが微笑む。
「前のぼくが外に連れて出るから、宇宙服なんかは要らないよ」
きちんとシールドしてから出ればね、エラやブラウだって大丈夫。
今のぼくには出来ないけれども、前のぼくなら簡単だもの。シールドの中から投げたボトルも、ちゃんと宇宙を飛んで行く筈だよ。瞬間移動でシールドの外に放り出すから。
「…宇宙服は無し、って…。そうなるのか?」
前のお前なら、確かに簡単なことなんだろうが…。エラやブラウが腰を抜かさないか?
「平気だってば、前のぼくの力は二人とも知っていたんだから」
今のぼくがやるって言ったら、真っ青になって逃げそうだけれど、前のぼくなら平気だと思う。ブラウなんかは、「生身で宇宙とは嬉しいねえ」って大喜びでついて来そうだよ。
それに、見た目を考えてみてよ。
宇宙服を着込んで進水式だなんて、とても無粋だと思わない?
どんなに上等なお酒のボトルを持って出たって、上手にぶつけて割ったって。
「それもそうだな…」
あんな武骨なヤツを着ていちゃ、女性かどうかも分からんなあ…。
背格好以前の問題だからな、宇宙服っていうヤツは。
シャングリラに宇宙服は当然あったし、白い鯨になる前から何度も使われていた。生身で宇宙へ出られる人間は、ブルーだけだったと言ってもいい。
他の者でも短時間ならシールドすることが可能だったけれど、ほんの僅かな時間だけ。それでは危険でとても出られない、船の外へは。だから誰でも必要とした宇宙服。
そうは言っても、船外作業をする者だけしか宇宙服を着たりはしないから。白い鯨への改造中の視察、それに出る時もブルー以外は小型艇に乗るのが普通だったから。
ブラウやエラが宇宙服を着たのは見たことが無い。少なくとも今の記憶には無い。宇宙服という珍しい姿を拝むのも悪くないとは思ったけれども、ブルーが言う通り、女性に見えはしないし…。
「…あいつらが宇宙服を着ていた場合は、進水式が台無しなのか…」
わざわざ女性を選んで役目を任せた意味が無いのか、見た目の問題というヤツで。
「そう思うけど?」
シャングリラの進水式をするんだったら、ちゃんと長老の服でなくっちゃ。
前のぼくはもちろんソルジャーの服だし、エスコートって言うの?
エラでもブラウでも、ボトルを投げられる場所まで連れてってあげるよ、宇宙服は無しで。
「エスコートと来たか…」
今のお前じゃ、チビで話にならないが…。
前のお前が一緒だったら、そりゃあ素晴らしい絵になる進水式になっただろうな。
ソルジャーのエスコートで出てったブラウか、エラがボトルを投げるんだから。
最高の酒が入ったボトルを白い鯨に思い切りぶつけて、見事に粉々に割れるんだからな。
白い鯨の船首にぶつかって砕ける、進水式の成功を知らせるボトル。宇宙に飛び散る最高の酒。
その光景をシャングリラの船内に中継していたならば、お祭り騒ぎだっただろう。
色とりどりのテープが無くても、たった一本のボトルがあれば。
「…ねえ、ハーレイ…。エラたち、調べなかったのかなあ?」
ヒルマンもエラも、データベースで調べ物をするのが大好きだったし、得意だったのに…。
色々なことを知っていたのに、進水式のことは調べていなかったのかな…?
「調べてたのかもしれないが…」
前の俺たちが全く聞いていないだけで、実は調べていたかもしれん。
しかしだ、進水式なんかでお祭り騒ぎをしているよりかは、船の維持だぞ、あの時期だったら。
出来上がったばかりのデカイ船をだ、しっかり維持していかなきゃならん。
そいつが最優先ってもんだろ、現にシャングリラの中を結んでいた乗り物だって何回止まった?
他にもあちこち不具合が出ては、キャプテンの俺までが船中を走り回っていたんだが…。
「それはそうだけど…。大変な時期ではあったんだけど…」
でも、シャングリラの外からボトルをぶつけて割るくらいはね…。
お酒のボトルが当たったくらいで船体に傷はついたりしないよ、頑丈に出来ていたんだから。
その程度の衝撃で計器が狂ったりもしない筈だし、やっても何も問題なんかは…。
みんなが持ち場を離れて見てても、ボトルを一本、船にぶつけたらおしまいなんだよ?
ほんの少しの時間で済むし、と言われてみればその通りで。
前のブルーがエラかブラウとわざとゆっくり移動したとしても、五分もかからないわけで。
それを思うと、やるだけの価値は充分にあった進水式。シャングリラの船首にぶつけるボトル。
前の自分がゼルたちと一緒に「慰労会だ」と称して飲むより、立派な酒の使い道。
白い鯨になったシャングリラでは、本物の酒は手に入らなくなったのだから。それを承知の上で船に積んであった酒の残りを飲んでいたのだから、飲んでしまった中の一本くらいは…。
シャングリラに振舞っておけば良かった、白い鯨に。最高の酒を、進水式で。
「…あいつら、調べ損なったのか?」
データベースで見落としてたのか、進水式と言えば色とりどりのテープなんだ、と写真だけで。
どういうことをするのが進水式なのか、きちんと調べずにいたっていうのか…?
「きっと二人とも、進水式だと思っていなかったんだよ。ヒルマンもエラも」
前のぼくやハーレイと同じで、改造なんだと思っていて。
だから、改造が終わった時には何かしなくちゃ、と考えもしなくて、進水式は調べてなくて…。
そのせいで知らなかったんじゃないかな、ボトルのことを。
調べ損ねたっていうんじゃなくって、最初から調べていないと思う…。
「そうだったのか?」
まるで調べてないって言うのか、エラもヒルマンも、進水式を?
あの調べ物好きが二人揃って、改造なんだと思い込んでて、調べなかったと…?
「そうでないなら、やっていそうだと思うけど?」
ボトルを一本割るだけなんだよ、それでシャングリラの進水式だ、って言えるんだよ?
船のみんなも喜んだだろうし、白い鯨になったお祝いもきちんと出来たんだし…。
「うーむ…。そうかもしれんな、調べていない、と…」
最初から調べていないんだったら、あの二人でも気が付くわけがないしな…。
白い鯨になっちまってから、かなり経ってから何かのはずみに「こんなのがあったか」と知って歯軋りしていたのかもしれないが…。
その場合は自分の胸に収めちまって、わざわざ話しに出ては来ないよな、失敗談を。
今となっては分からない真相。
ヒルマンもエラも遠い時の彼方に消えてしまって、本当のことを訊くことは出来ない。進水式について調べていたのか、調べようとも思わないままで白い鯨の改造が終わってしまったのか。
けれどシャングリラは、ミュウの歴史を作った船だったから。
白い鯨は、ミュウの箱舟だったから。
「やってやりたかったな、SD体制の時代の最初で最後の進水式」
あの時代には誰もやってはいなかったんだし、シャングリラが地球に着いた後には、SD体制は崩壊しちまったんだし。
もしも俺たちがやっていたなら、最初で最後の進水式になったんだがなあ…。
「そうだよね。色とりどりのテープは無くても、ボトルをぶつけるだけだったらね…」
ホントに簡単に出来ちゃったんだよ、そのくらいなら。
本物のお酒はまだ何本も船にあったし、エラかブラウがエイッと一本投げるだけだし…。
前のぼくがシャングリラの外に連れて出掛けて、「此処から投げて」って、投げて貰って。
シールドの向こうに瞬間移動で放り出したら、ボトルは真っ直ぐ飛んで行くしね。
きっと見事に割れただろうボトル。白い鯨の船首に当たって。
色とりどりのテープは無かったとしても、進水式をしてやれただろう。白いシャングリラが海へ出てゆくための。宇宙という名の星が散らばる大海原へと船出するための。
「…シャングリラにお酒、あげたかったな…」
ハーレイたちが飲んでしまうより、シャングリラにお酒。最高に美味しい、お酒を一本。
「飲ませるわけではないかもしれんが…」
俺が読んだ記事には洗礼だとも書いてあったし、酒を振舞うというわけではないかもしれん。
どちらかと言えば、清めの酒って方かもしれんが、実際の所はどうなんだかなあ…。
俺がすっかり飲んじまうよりは、シャングリラに飲ませてやりたかったとは思うがな。
「そうなんだ?」
御馳走するって意味じゃないかもしれないんだ…。
だけど、前のハーレイたちが飲んじゃうよりかは、シャングリラにあげたかったよ、お酒。
あの船はホントに、ぼくたちの大切な船だったから。
シャングリラが無ければ、ぼくたちは地球を目指すことさえ出来なかったんだから…。
アルタミラから助けてくれたのもシャングリラだった、とブルーが懐かしそうにしているから。
時の彼方に消えてしまった白い鯨を赤い瞳で見詰めているから。
「…なあに、進水式をして貰えなくても、あの船は充分、幸せだったさ」
前の俺たちは散々苦労をかけちまったが、地球に着いた後はのんびり暮らしていたろうが。
トォニィたちを乗せて宇宙を旅して、最後は無事に引退したし…。
それに酒なら飲み放題だぞ、今のシャングリラは。
「えっ?」
今ってなんなの、シャングリラはもう何処にもないのに…。
どうしてお酒が飲み放題なの、今だなんて…?
「シャングリラ・リングだ、結婚式で飲み放題だ」
今は結婚指輪になってるだろうが、シャングリラは。
結婚式に酒はつきものだしなあ、それも最高に美味い酒が。
「ああ…!」
ホントだ、今はあちこちでお酒を飲んでるんだね、シャングリラは。
いろんな所の結婚式に呼ばれて、上等なのを。
ボトルをぶつけて貰う代わりに、左手の薬指に嵌めて貰って、グラスに入った美味しいのを…。
白いシャングリラは消えたけれども、その船体の金属から作られるのがシャングリラ・リング。
結婚するカップルがたった一度だけ、申し込むことが出来る結婚指輪。
抽選で当たれば、シャングリラは結婚指輪の形でそのカップルの許へと旅立つ。結婚式で左手の薬指に嵌めて貰って、新しい道を歩み始める。結婚を祝う乾杯の酒をグラスに注いで貰って。
それが今の時代に生まれ変わった、シャングリラの進水式なのだろう。白い鯨から姿を変えて、一対の結婚指輪になって。
シャングリラ・リングが自分たちの手元に来てくれたならば、心をこめて御馳走しよう。
前の生から愛し続けたブルーと結婚する日の酒を。婚礼のためにと用意した美酒を。
ボトルごとぶつけはしないけれども、懐かしい船に乾杯の酒を。
ブルーと二人で船出する日に、かつてやり損ねた白いシャングリラの進水式を…。
進水式のボトル・了
※白いシャングリラでは、行われなかった進水式。お酒のボトルは出番が無いまま。
けれど今では、結婚指輪に生まれ変わったシャングリラ。乾杯の美酒を飲み放題なのです。
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(カレーってヤツは、一晩寝かせると美味いんだ)
だから今夜はカレーなんだ、と帰宅したハーレイが開けてみた鍋。ふわりと立ち昇るスパイスの香り。よし、と頷いて蓋をする。温めるのは着替えてから。
ブルーの家には寄れなかった日、最初から無理だと分かっていた日。会議の予定で、間違いなく長引くものだったから。今までの経験からしても、けして早めには終わらない。
それを考えて、昨日の夜に仕込んだカレー。少しの量でも本格的にと、手抜きはせずに。
(丁度いい具合に出来上がったぞ)
作ってから今までに経った時間で馴染んだろう味、スパイスもしっかり効いている筈。鍋の中でトロリとしていた金色、温め直すのが楽しみではある。
いそいそとキッチンを後にして着替え。スーツを脱いでネクタイも外して、家で寛ぐ時の服に。
(さて、と…)
次は飯だ、と戻ったキッチン。鍋の中身を確認してから、焦がさないようにゆっくりかき混ぜて弱火で温めてゆく。フツフツと滾り始める頃には、それは美味しそうなカレーの匂い。
同じようにとろみがついたものでもシチューなどではこうはいかない、カレーならではの複雑に絡み合った香りが食欲をそそる。味も香りも様々なスパイス、それがカレーの命だから。
グツグツと煮立ったビーフカレー。タマネギなどの具はミキサーにかけて滑らかに。レストランなどで出てくるカレーの風味を目指した、今回の分は。ジャガイモやニンジンがゴロゴロと入ったカレーも好きだけれども、今日はプロ風。一晩寝かせて更に美味しくなった筈。
(カレーはコレに限るってな)
寝かせておくのが一番なんだ、と温まったカレーを炊き立ての御飯にたっぷりとかけた。自分が一人で食べるのだから、惜しみなく。
ダイニングのテーブルに運んで、早速頬張る。熱々のカレーを白い御飯に絡めてやって。
(…久しぶりだぞ、この味も)
美味い、と顔が綻ぶ満足の味。昨日から仕込んでおいたからこそ、この味が出来る。ゆっくりと寝かせたカレーならでは、作り立てとは違ったコクとまろやかさ。
一晩寝かせられない時には、鍋ごと水で急冷するのも悪くない。それから温め直してやったら、この味わいに少し近付く。母がプロの料理人から習った裏技。「急ぐなら、これが一番です」と。
自分も母から教わったから、カレーを作ったら冷やしたものだ。
(一晩置くより、食いたいじゃないか)
鍋にたっぷり作ったのなら、その場で食べたい。一晩もお預けを食らっているより。
とはいえ、最近は御無沙汰のコースだけれど。
大きな鍋にドカンと山ほど、作ることはしなくなったのだけれど。
(なんたって、ブルーに会っちまったしな?)
前の生から愛した恋人、まだ十四歳にしかならないブルー。
青い地球の上で再び出会えたけれども、恋人同士で一緒に住むにはブルーは少々幼すぎた。年も背丈もまだまだ足りない、結婚出来るほどではない。ブルーの家を訪ねて会うのが精一杯。
仕事が早く終わった時には出掛けてゆくから、夕食はブルーの家で食べることになる。ブルーの両親もいるテーブルで。
そんなわけだから無くなってしまった、カレーを大鍋で大量に仕込んで何日も食べるお楽しみ。
作ったその日に鍋ごと冷やして出来立てを味わい、次の日には一晩寝かせた味。二日続いても、飽きないカレー。朝と昼とは違う料理を食べているのだし、二日続きでも楽しめる。三日も続けて食べることもある、三日目はカツを乗せたりもして。
そうでなければ、カレーを使った料理を色々。カレー風味のグラタンもいいし、今の自分が住む地域だからこそ作れるカレーうどんだとか。
すっかり遠くなってしまった、大鍋一杯のカレーの日々。一晩寝かせたカレーでさえも、久々に作ったという始末。会議のお蔭で作れたカレーで、怪我の功名と言うかもしれない。本当だったらカレーを仕込んで出掛けるよりかは、ブルーと会っていたいのだから。
今日はブルーに会えなかったから、それが怪我。一晩寝かせたカレーはとても美味だけれども、これを孤独に食べているより賑やかなブルーの家がいい。
けれど、恋しくなってきたカレー。ブルーに会うまではドカンと作って食べていたな、と。
思い出したら、次から次へと浮かんでくる味。カレーを使った料理の数々。あれも作れる、この料理も、と。カレーが無ければ出来ないアレンジ、今では作れそうもない。大鍋に一杯のカレーを仕込むことなど出来ないのだから。
(だが、いずれは…)
また、あの料理を楽しめる。大鍋でカレーをドカンと作って、それをベースに色々アレンジ。
いつかブルーと結婚したなら、二人で暮らし始めたならば。
ブルーの家まで出掛けなくても、いつでも食事は一緒だから。大鍋で仕込んでおいたカレーも、ブルーと二人で食べるのだから。
作ったその日は、鍋ごと冷やして出来立てのカレー。次の日は一晩寝かせたカレー。二日続けて楽しんだ後は、どんな料理を作ろうか。ブルーの意見も聞いてやらねば…。
(カレーも色々作らないとな?)
この地域ならではのカレーライスもいいけれど。何日も食べるのも楽しいけれど。
同じカレーでも、本場だというインド風やら、スープのようなタイカレーやらも面白い。まるで違った味わいのカレー、ナンで食べたり、御飯にかけたり。
カレー粉を使った料理も多いし、全部をブルーに披露していたら何日かかるか。
(そいつもきっと、いいもんだぞ)
自分と同じで好き嫌いが全く無いブルー。食は細いけれど、何でも食べる。前の生で餌と水しか無かったアルタミラ時代が影響したのか、幼い頃から無かったと聞く好き嫌い。
そのブルーならば、どんなカレーも食べてくれるし、お気に入りだって出来るだろう。この味が好きだ、と喜んでくれるカレーの料理。なにしろカレー料理は本当に数が多いのだから。
(カレーライスにしたって、だ…)
今日のカレーはビーフだけれども、チキンやポークや、シーフードなど。
入れる具もそうだし、カレー粉の配合で味が変わって面白いもの。火を噴きそうなほど辛い味もあれば、幼い子供でも喜んで食べる甘口もある。
(俺のオリジナルだって出来るしな?)
気に入った味のカレー粉を混ぜて作るのが自分のオリジナル。これとこれだ、と混ぜてケースに詰め込んでおいて、使いたい時に出してくる。
ただ、絶品のものが出来ても、二度と再現出来ないこともあるけれど。この割合で混ぜた筈だと記憶を頼りに混ぜ合わせてみても、上手くいかないオリジナル。
(スパイスってヤツは難しいんだ)
ほんの少しの加減の違いで味がガラリと変わってしまう。カレー粉と呼ばれる粉の中身は、実に様々なスパイスを混ぜたものだから。素人ではなかなか作れないから。
そもそもスパイスを買いに行っても、どれがいいやら…、とカレーライスを頬張っていて。
料理の腕とカレー粉作りはまた別物だと、本場に行けば家の数だけカレーの味があるのだし、とカレーの世界の奥の深さを考えていて…。
(待てよ…?)
今の自分はとてつもない贅沢をしているのでは、と気が付いた。
たかだかカレーライスだけれど。昨日の夜に作って一晩寝かせたカレーをたっぷり、白い御飯にかけただけだけれど。サフランライスを炊いたのならばともかく、ただの白い御飯。
しかし…、と眺めたカレーの皿。口に運んでみたカレーライス。
味も香りも、スパイスが作り出している。ターメリックにクミン、カルダモンなど。数種類ではとても出来ない、作り出せないカレーの味。
(シャングリラでは…)
カレー粉は合成品だった。何種類ものスパイスが必要なカレー粉の本物を作れはしなかった。
白い鯨にあった農業用のスペース、其処は必需品となる作物の栽培が最優先だったから。穀物に野菜、それから果物。一部のスパイスはあったけれども、カレー粉が作れるほどのスパイスを栽培してはいなかった。そのスパイスが無くても困りはしないから。
(合成品でも、カレー粉だけはあったんだがなあ…)
ピリッとした風味を料理に加えてくれるカレー粉、それは当時も存在したから。カレー粉を使う料理は残っていたから、白いシャングリラにもあったカレー粉。合成してまで。
SD体制の時代に消された食文化の中には、カレーライスも、本場インド風のカレーも含まれていたのだけれども、カレー粉は立派に生き残っていた。SD体制が基本として選んだ文化の料理にカレー風味が根付いていたから。
(前の俺が厨房で料理をしていた頃には…)
カレー粉はまだ本物だった。スパイスをふんだんに使った香り高いカレー粉、それを振り入れて作った様々な料理。
あの頃は、船に必要な物資はブルーが奪って来ていたから。人類の輸送船に積まれたカレー粉は全て本物、合成品ではなかったから。
けれども、時代は移り変わるもの。前の自分は厨房からブリッジに居場所を移してキャプテンになったし、シャングリラも巨大な白い鯨に改造された。船の中だけで生きてゆけるように。物資を奪って生きるのではなくて、自分たちの手で全てを賄える船に。
(自給自足の船になっちまって…)
一気に落ちたカレー粉の風味。スパイスが命のカレー粉の味が一番顕著に落ちたかもしれない。他の調味料はスパイスが全てではなかったから。ケチャップもマヨネーズも、ビネガーなども。
食料の生産が安定してゆけば、白い鯨でも充分に作れたケチャップやマヨネーズといったもの。
ところがカレー粉はそうはいかなかった、何種類ものスパイスが材料なのだから。味も香りも、スパイスが生み出すものなのだから。
(…これだけが足りない、ってわけじゃなかった…)
足りないスパイスが一種類なら、あるいは二種類くらいだったら、合成品を作り出すのもきっと簡単だっただろう。本物の味には及ばないまでも、近い味のものを作れただろう。
けれど、カレー粉に使うスパイスは「殆どが無い」といった状態。
船で作れるスパイスの方が遥かに少なく、残りは合成するしかなかった。自然が生み出す香りや味を。一つ一つが個性に満ちている様々なスパイス、それに近いものを。
最初に作られた合成品のカレー粉は不評で、「料理が黄色くなっただけだ」と言われた有様。
見た目こそカレー風味だけれども、食べてもカレーの味がしないと。
(あそこで諦めなかった所がなあ…)
前の俺たちの執念かもな、と可笑しくなった。食い物の恨みは怖いと言うし、と。
黄色いだけのカレー粉では駄目だ、と合成品の試行錯誤が続いた日々。ヒルマンが幾つもの案を出しては、合成品が試作されていた。
「ちょっと辛すぎるんじゃないのかい?」
辛いだけだよ、とブラウが一蹴したこともあった、「辛ければいいってもんじゃないよ」と。
「今度のヤツは、ちと甘すぎるのう…」
何を入れたというんじゃ、コレに。ワシらが目指すのはカレー粉じゃぞ?
もっとピリッとさせんかい、とゼルが文句を言ったりもした。
利き酒ならぬ利きカレーといった所だったろうか。
厨房のスタッフに試作した合成品を使ったカレーソースを作らせて、集まってはそれを味見していた前の自分たち。ゼルにヒルマン、ブラウにエラ。もちろんブルーも。
(合格したヤツを、食堂で試しに使わせてみて…)
仲間たちの舌で審査して貰って、アンケートを取った。それに基づいて、改善すべきと思われる点を改善してみて、また利きカレーで、それから食堂で出してアンケート。
よくぞ投げ出さなかったと思う、「もうこのくらいにしておこう」と。黄色くなったらもう充分だと、ピリッとするならそれだけでいいと。
何度も何度も繰り返した試作、利きカレーに加えて仲間たちへのアンケート。
(なんとかカレー粉は出来たんだが…)
もうこれ以上は無理だろう、とヒルマンが判断するまで試作を重ねて出来たカレー粉。改良する余地は残されておらず、それが完成品だとされた。シャングリラではこれが限界だ、と。
そうして生まれたカレー粉だけれど、香ばしくはなかった、本物のようには。味わいも本物には遠く及ばず、何処かぼんやりとしていたカレー粉。味も香りも。
かつて食べていた本物のカレー粉、その味を知る仲間たちが残念がったほどに。
この船にも充分な数のスパイスがあればと、栽培出来る余裕があれば、と。
(子供たちだって、違うと言っていたからなあ…)
保護したミュウの子供たち。
皆、シャングリラに来るよりも前は、養父母の家やレストランなどで本物のカレー粉が使われた料理を食べていたから、直ぐに気付いた。カレー風味の料理の違いに。
船に来たばかりで「合成品」という言葉をまだ知らない子でも、この船のカレーは少し違うと。見た目はそっくり同じだけれども、今まで食べていたものとは違うと、首を傾げた子供たち。
どうしてこういう味がするのかと、この船のカレーはあんまりカレーらしくないと。
ナスカがメギドに滅ぼされた後、前のブルーを喪った後。
シャングリラはアルテメシアに向かって、星を丸ごと手に入れた。かつて追われた雲海の星を。
あの星で補給した物資の中には、カレー粉も入っていたのだった。
(誰が言い出したんだったか…)
今となっては思い出すことも出来ないけれども、補給物資に決まったからには、発言権があった誰かだろう。かつて利きカレーをしていた中の誰かか、あるいは厨房の誰かだったか。
「本物のカレー粉を使った料理を食べてみたい」という要望が書かれた書類にサインした自分。
自給自足の船であっても、たまにはカレー粉もいいであろう、と。
補給すべき物資のリストは係に回され、カレー粉が調達されて来た。本物のカレー粉が存在した頃よりも遥かに増えた人数、それに充分対応出来る量の。
厨房では早速、カレー粉を使った料理が作られ、食堂で皆に供された。白いシャングリラで養殖していた魚のムニエル、それのカレーソース。
「本物の味だ」と大喜びした仲間たち。カレーソースは確かにこういう味だった、と。
遠い昔に本物を食べていた者たちにとっては、懐かしい味。嬉しい味。
後から船に来て育った者には、もっと懐かしくて嬉しい味。養父母たちと食べた味なのだから。
彼らは養父母の記憶を失くしていないし、鮮やかに思い出せただろう。かつて本物のカレー粉を使った料理を食べていた日々を。
食堂で弾けた沢山の笑顔。アルタミラからの古参の仲間も、アルテメシアで保護された者も。
大感激だった者も少なくなかった、アルテメシアで加わった若い仲間たち。
(アレで感激していたヤツは…)
誰と誰か、と覚えている顔を数えてゆく。カレーソースのムニエルを嬉々として頬張った年若い仲間たち。シドも、リオも、ヤエもそうだった。シャングリラに来てから長く経つのに。
もっと年若いニナやマヒルやヨギたちだって…、と彼らを思い浮かべていて…。
(ジョミーもか…!)
あの席にはジョミーもいたのだった、と気が付いた。ソルジャーとして多忙を極めた時期だったけれど、どういうわけだか、あの時、ジョミーも食堂にいた。
前の自分もいたわけなのだし、食事をしながら皆と打ち合わせでもしていただろうか?
(…そいつは思い出せないんだが…)
どうしてジョミーと前の自分があそこにいたのか、全く思い出せないけれど。
「ママの味だ」と言っていたジョミー。
前のブルーがシャングリラに連れて来させた頃の姿に、十四歳の少年に戻ったかのように綻んだ顔。嬉しそうだった笑顔。
ずっと昔にこれを食べたと、母が作った魚料理と同じ味だと。
(あれくらいか…?)
ジョミーが見せた人間らしさ。ソルジャーではなくて、ジョミーという人間に戻った顔。
地球を目指しての戦いに次ぐ戦いの中で、一度だけ見せた笑顔だったかもしれない。あの他には思い出せないから。ジョミーの笑顔は、ただの一つも。
赤いナスカが在った頃には、ジョミーも明るく笑っていたのに。宇宙を流離っていた時代の暗い表情、それをすっかり拭い去って。
古参の仲間と新しい世代の対立が起きても、ジョミーは笑顔を失わなかった。赤いナスカに根を下ろしたいと願う世代のためにと、笑顔で頑張り続けていた。どうすべきかと迷った時にも、迷う心を見せることなく。強くあらねばと、皆の力にならなければと。
けれど、ナスカを失った後は笑わなくなってしまったジョミー。常に厳しい顔だった。冷酷とも言える表情でもあった、感情などもう持ってはいないと氷のような瞳をしていた。
そのジョミーが笑顔を見せた瞬間、それがカレーソースの魚のムニエルを食べた時。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味の料理。
(そうか、あの時のカレー粉でなあ…)
合成ではなかった本物のカレー粉が引き出した、ジョミーの笑顔。凍っていた心がほんの一瞬、溶けて光が射し込んだように。本当はこういう顔で笑うと、本当のジョミーはこうなのだと。
(あれがジョミーの、おふくろの味ってヤツだったのか…)
今の自分は、ブルーの母が焼くパウンドケーキが好物だから。隣町に住む母の味と同じだと顔が綻んでしまうから。
あの時のジョミーも、カレーソースの味を「同じだ」と思ったのだろう。ジョミーを育てた母が作った魚料理と同じ味がする、本物のカレー粉を使った料理。
味の記憶は大きいのだな、と改めて思ったジョミーの笑顔。本物のカレー粉で生まれた笑顔。
(こいつは、ブルーに…)
話してやらねば、「カレー粉のことを覚えているか?」と。
前のブルーも参加していた利きカレーはもちろん、ブルーがいなくなった後の話も。ジョミーが見せた笑顔のことも。
(シャングリラ風のカレーと言っても…)
あの頃はカレーライスは無かったのだし、カレー風味の料理は今でも色々。
カレー粉の話をするのに相応しいものと言ったら、カレー風味のソースだろうか。白身魚によく合うソース。ジョミーの笑顔を引き出したソース。
とはいえ、ブルーも覚えているだろう、合成品のカレー粉はもう何処にも無くて。
(本物のカレー粉しか無いんだよなあ、今の時代は…)
どんなカレー粉でもスパイスは本物、その配合を変えてあるだけ。前の自分たちが懸命に作った合成品など、今は存在しないから。
(…カレーライスにしておくかな)
カレーソースだと、ブルーの母に手間をかけさせてしまうから。買って来てかけるだけのカレーソースはあるのだけれども、それをかける料理を作らないとソースはかけられない。
だからカレーライスにしようと思った。御飯を炊いて貰うだけで済むから、レトルトのカレーを食料品店で買って行けばいい。
ただし、ブルーの母が用意した料理が無駄にならないよう、予め通信を入れておいて。
「昼食はカレーを買って行きますから、御飯だけ炊いておいて下さい」と。
そうそう、「ブルー君には内緒でお願いします」とも言わねばならない、思い出話は会ってからゆっくり語りたいから。ブルーが「カレー」で思い出してしまったら、つまらないから。
準備を整えて待った土曜日、買っておいたレトルトカレーを二つ持って出掛けた。自分の分と、ブルーの分と。
門扉を開けに来たブルーの母にそれを渡すと、怪訝そうな顔で。
「カレーでしたら、いくらでも作りましたのに…」
何か特別なカレーなのかと思いましたけれど、ごくごく普通のカレーですわね…?
「そうなんですが…。出来合いという所がポイントなんですよ」
シャングリラでは、カレー粉は合成品しか無かったんです。
今の時代は合成品はありませんから、気分だけでも…。
ですから、これは袋ごと温めただけで持って来て頂けますか?
御飯にかけるのは、ブルー君と私でやりますから。
二階のブルーの部屋に行ったら、案の定、ブルーに「お土産は?」と訊かれた。カレーが入った袋を渡すのを窓から見ていたのだろう。「昼飯まで待て」と言ったら、期待に満ちた瞳のブルー。どんな御馳走が出て来るのかと。
けれど、昼食の時間にブルーの母が運んで来たものは、白い御飯が盛られた皿と…。
「えーっと…。カレーライス?」
これって普通のレトルトカレーみたいに見えるけど、何か特別?
「いいや、その辺で普通に売られているレトルトカレーだが…?」
しかしだ、袋を破ってかけながらでいい、ちょっと考えてみるんだな。
「何を…?」
ただのカレーだよ、とブルーがレトルトカレーを御飯の上にかけているから。
「そうか、本当にただのカレーか? …まあ、確かに今では普通なんだが…」
シャングリラじゃ、うんと贅沢どころか、食えやしなかったぞ、こんなカレーは。
前の俺が厨房で料理をしていた頃には、食おうと思えば食えたんだが…。
もっとも、あの頃はカレーライスってヤツが無くてだ、カレーソースとか、カレー風味だとか。
そういうヤツさえ、真っ当なのを食えなくなっちまったのが白い鯨なんだが…?
「そうだ、スパイスが無かったんだっけ…!」
シャングリラで本物のカレー粉を作るのは無理で、合成品になっちゃって…。
最初のは「料理が黄色くなっただけだ」なんて言われてしまって、頑張って改良したっけね。
ヒルマンが色々考えてみては、ゼルやブラウたちとカレーソースを食べてみて。
ちょっと辛すぎるとか、甘すぎるだとか、その度にヒルマンが調整してて。
やっと出来たけど、本物のカレー粉と全く同じにはなってくれなくて、ぼんやりした味…。
「思い出したか?」
あれを考えれば、こいつは本当に贅沢なカレーというわけだ。本物のカレー粉なんだから。
カレーライスなんぞは何処にも無かった時代だったが、今度は合成品の方が無くなっちまった。
何処でもカレー粉はスパイスで出来てて、あの味はもう何処を探しても無いんだよなあ…。
それを考えたら面白いもんだ、とカレーライスをスプーンで口に運んでいたら。
ブルーが赤い瞳でじっと見詰めて、こう訊いて来た。
「…ハーレイ、あの後、本物を食べた?」
シャングリラのカレー粉は合成品になってしまったけれども、それよりも後。
前のぼくが死んでしまった後なら、本物のカレー粉を手に入れることは出来たよね?
アルテメシアでも、ノアでも、何処の星でも、カレー粉は売られていたんだろうし…。
それとも、カレー粉は補給しないで、合成品のままだったわけ…?
「その話もしておかんとな。…前のお前は、もういなかったが…」
前の俺もキャプテンの仕事をしていただけでだ、半ば死んじまったようなものだったんだが…。
この間、カレーを食ってて思い出したんだ。シャングリラにあったカレー粉のことを。
そしたら色々と出て来た中にな、本物のカレー粉も混ざっていたさ。
アルテメシアを落とした後に、補給したいと出された要望書。そいつの一つがカレー粉だった。
カレー粉くらいはいいだろう、とサインをしたんだ、前の俺は。
それで本物のカレー粉がシャングリラにやって来たってわけだが、それで作ったカレーソース。魚のムニエルにかけて出したら、船のみんなが大喜びでな…。
その中にジョミーも入っていたんだ、「ママの味だ」と喜んでいた。子供みたいな顔をして。
…前のお前が死んじまった後、ジョミーは笑わなくなっちまったが…。
あいつの唯一の笑顔かもしれん、あの時、カレーソースのムニエルで見せた笑顔がな。
「そっか…」
ジョミーは笑ってくれてたんだね、お母さんの味にもう一度会えて。
本物のカレー粉を使ったソースが魚にかかっていたから、お母さんの味になったんだね…。
シャングリラに来た子供は誰でも、カレーの味が違うと思っていたんだから。
それならいい、と微笑んだブルー。
ジョミーが少しでも笑顔を見せてくれていたのなら、と。
「…だって、ジョミーが笑わなくなってしまったのは、ソルジャーだったから…」
ソルジャーなんかにされてしまって、地球を目指すしかなかったから。
前のぼくがジョミーを選んだからだよ、ぼくの後継者はジョミーにしよう、って。
ぼくがジョミーを見付けなかったら、ジョミーにはもっと違う人生があったんだよ。
あれだけサイオンが強かったんだもの、シロエみたいにバレたりしないで生きられたかも…。
サムやスウェナとも、教育ステーションでちゃんと再会出来ていたかも…。
ジョミーの人生、ぼくのせいで台無しになっちゃったんだよ、ソルジャーにされて。
もしもソルジャーになっていなかったら、きっと沢山笑って生きて…。
「そうではないと思うがなあ…」
最初の間はお前を恨みもしたんだろうが、最後までお前のせいだと思っちゃいないだろう。
まるで笑わなくなっちまったのも、前のお前がいなくなった後だ。
せいせいした、と笑う代わりに、あいつは笑わなくなった。
あいつ自身が色々と考えた末に決めたんだろうさ、その生き方を。
感情を殺して、笑わないままで、真っ直ぐに地球へ。
自分で決めた生き方だったら、誰も恨まないし、後悔も無かったと思うんだがな…。
前の自分ですらも恐ろしいと思ったほどの、ブルー亡き後のソルジャー・シン。
人類軍の救命艇さえも「沈めろ」と命じたほとに容赦なかったソルジャー。
ジョミーには考えがあると信じていたから、それでも自分は何も言わずに従ったけれど。苦言の一つも呈すること無く、地球までついて行ったのだけれど。
(…あいつには、あいつの生き方ってヤツがあったんだ…)
きっとジョミーにしか分からなかった、本当の思い。トォニィでさえも知らなかったろう。
それを語る前にジョミーは地球の地の底で逝って、前の自分も死んでしまった。
だから分からない、ジョミーの思い。どうして笑わなかったのか。感情を殺してしまったのか。
後悔は無かったと思うけれども、ブルーも気にしていたのなら。
自分のせいで笑わなくなったと思っていたなら、ジョミーの笑顔を思い出したとブルーに語れたことは大いに価値がある。
あの時だけしか見ていないけれど、確かにジョミーは笑ったのだから。
本物のカレー粉を使ったカレーソースで、「ママの味だ」と嬉しそうに。
少年だった頃の姿を思い出したほどに、それは明るく笑ったから。
ブルーはカレーライスをスプーンで掬って、「ジョミーのお母さんの味…」と口に運んで。
「…他にもあるかな、ジョミーの笑顔」
前のぼくが死んでしまった後にも、ちゃんと笑ってくれていたかな…。
笑わなかった、って言われているのに、カレーソースでジョミーは笑顔になったんだから。
何も記録が無いっていうだけで、ジョミー、他にも笑っていたことがあったのかなあ…。
「どうだかなあ…」
思い出せるといいんだがなあ、カレーで一つ思い出せたし。
お前がそれで救われるんなら、もっと幾つも頑張って思い出したいが…。
「ううん、頑張ってくれなくていいよ。…何かのはずみに思い出したら、また教えて」
それだけでいいよ、努力してまで思い出さなくてもかまわないよ。
だって、前のハーレイには笑う余裕も無かったんだし…。
前のぼくが死んでしまった後には、ただ生きてたっていうだけだ、って…。
ぼくがジョミーを支えてあげて、って頼んだから、地球まで行くしかなくて…。
「なあに、俺だって笑う時には笑っていたさ」
笑い話だって幾つもしてやったろうが、前のお前がいなくなった後の。
とんでもない買い物をしちまったヤツらとか、そういったのをな。
お前は何も心配するな、と言ってやったけれども、辛かった前の自分の生。
前のブルーがいなくなった後は、ジョミー以上に笑わない人生だっただろう。
ジョミーは自分で笑わない道を選んだけれども、前の自分は笑うことが出来なくなった人生。
どんなに愉快なことがあっても、心の底から楽しめたことは一度も無かった。魂はとうに死んでいたから、前のブルーと一緒に逝ってしまったから。
そうやって笑うことさえ忘れて、ひたすらに地球を目指したけれど。
地球に着いたら全て終わると、ブルーの許へと旅立てるのだと、それだけを思っていたけれど。
今はブルーとまた一緒だから、二人で青い地球に来たから。
「…カレー粉なあ…。今はこうしてレトルトカレーを持ってくるしか無かったわけだが…」
いずれは俺の自慢のカレー料理を披露せんとな、お前と二人で食える時が来たら。
お前の家で食うんじゃなくって、ちゃんと俺の家で。
「うん、楽しみにしているからね」
今のハーレイ、料理は前より得意だって言うし…。
カレー粉を使った料理も沢山あるから、とっても楽しみ。
ハーレイが作ってくれるカレーを早く食べたいよ、毎日カレーでもいいくらいだよ。
「おいおい…。まあ、そういうコースもあるわけだがな」
でっかい鍋でドカンと作って、そいつを毎日食べるんだ。
最初は出来立てのヤツを食ってだ、次の日は一晩寝かせたカレー。これが実に美味い。
それから後はだ、カレーを使った色々な料理を作ろうっていう寸法だ。
カレーグラタンとか、今の時代ならではのカレーうどんとかをな。
白いシャングリラには無かった本物のカレー粉。合成品しか無かったカレー粉。
今は本物のカレー粉が何処にでもあるし、カレー料理も山のようにある。
ナンで食べるインド風のカレーに、スープにも似たタイカレー。
他にもカレーの料理は色々、ブルーには端から披露して食べさせてやりたいけれど。
いつかブルーと結婚したなら、まずは今ならではのカレーライスから始めよう。
ビーフにチキンに、それからポーク。
地球の海の幸がたっぷり入った、シーフードカレーも作ってやろう。
何種類ものスパイスだけで出来ている、シャングリラには無かった本物のカレー粉。
「贅沢なものが食える時代だよな」と、ブルーに微笑み掛けながら。
「もっと辛いのも作れるわけだが、お前、挑戦してみるか?」とパチンと片目を瞑りながら…。
カレーの風味・了
※シャングリラから消えてしまった、本物のカレー粉。人類との戦いに入った後の時代まで。
そしてカレー粉が船に戻った時、ジョミーが見せた笑顔。おふくろの味の記憶は大切なもの。
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(…キース…?)
ぼくが会った時より老けてるけれど、とブルーが見付けたキースの写真。
学校から帰って、ダイニングでおやつを食べていた時に。母が用意してくれたケーキと、紅茶。ふと目に留まったテーブルの新聞、それを広げたらキースがいた。国家主席の姿のキース。
前の自分が出会った頃には、キースの顔には無かった皺。それが幾つか刻まれたキース、様々な苦労が皺の形で現れたろうか。国家主席に昇り詰めるまでには、色々とあったに違いないから。
(いくらマザー・システムが作った人間にしても…)
周りの者たちはそうだと知らないのだから、妬みから来る嫌がらせなども多かっただろう。上に行けば行くほど、蹴落とそうとする人間も増えて、順風満帆ではなかったと思う。
(…この記事には何も書いてないけど…)
キースが味わった苦労は何も。恐らく、キースは何をした人間だったかを紹介しようと書かれた記事。自分で新聞を読むようになった子供たちにも分かるように、と。
学校で習う歴史の復習、そういった感じ。SD体勢を終わらせることを決断した指導者、機械に作り出された生命体でも人類の良心とも言える人間だった、と。
国家主席として成し遂げた偉業と、その前の彼についても少し。
メンバーズ・エリートだった頃には、ナスカを滅ぼしたミュウの敵だったとも。
記事の殆どは国家主席のキースについてのものだから。
(前のぼくのことは…)
名前だけしか書かれてはいない。
シャングリラに囚われていたキースの脱出を阻もうとしたことも、メギドで対峙したことも。
「ソルジャー・ブルーとも出会っていた」と簡潔に記され、たったそれだけ。前の自分が地球を目指したことが全ての始まりだと言われているから、出会った事実は書かねばならない。キースも歴史を変えた英雄の中の一人なのだし、英雄同士が顔を合わせたことは重要だから。
出会って何があったわけでもないけれど。ただ会っただけで、それでおしまい。シャングリラの格納庫ではキースが逃亡しただけだったし、メギドの方でも似たようなもの。キースは前の自分と会ったけれども、メギドを沈められてしまったのだから。つまりはキースの作戦ミス。
メギドの制御室で自分を取り押さえようとして失敗したのか、先を越されてしまったのか。今も真相は謎とされていて、何があったのかは誰も知らない。
(キースがぼくを撃ったっていうのも、仮説だしね…)
聖痕が現れた頃の自分は、それすらも知らなかったのだけれど。瞳からの出血で受診した病院、そこで出会った医師の話で初めて耳にした仮説。
本当に自分がソルジャー・ブルーの生まれ変わりだった、と分かった後に調べてみた。どうして仮説とされているのか、なんとも不思議だったから。
撃たれた方の自分にしてみれば、一大事件。キースが最初から急所を狙っていたなら、あの場で倒れていただろうから。メギドを沈められずに死んでしまって、歴史も変わった筈なのだから。
そうして調べて分かったこと。生前のキースは何も語りはしなかった。書き残してもいない。
あの時、メギドで何があったか、前の自分に何をしたのか。誰にも語らず、データすら残さず、キースは時の彼方へと消えた。SD体勢の崩壊と共に、地球の地の底に埋もれて消えた。
(キースがぼくを撃った話は…)
弾倉の弾の残りを数えた、当時の部下から流れた仮説。弾倉が一つ足りなかったことも、部下は気付いて覚えていた。キースの銃の手入れをしていた一兵卒。
階級の低い者の場合は銃の手入れも自分でするのが普通だけれども、キースほどの地位の者だと部下に任せてチェックをするだけ。きちんと手入れが終わった銃を調べて、「よし」と頷く。
そんな具合だから、メギドで使われた銃も、当たり前に部下が手入れをしていた。普段と同じにキースから受け取り、不具合などが無いかどうかを確かめ、「どうぞ」と返した。
彼にとっては仕事の一つで、弾倉の装填も任務の内。弾が、弾倉が使われたのなら。
(…それで使ったらしい、って気付いて…)
かなりの数の弾が減っていて、弾倉も一つ消えていたから。キースが銃を使ったことは確かで、それも一発や二発ではないと気付いた部下。ならばキースは何を撃ったのか、銃口の先にいたのは誰か。状況を思えば、該当する者は一人しかいない。ソルジャー・ブルー。
けれどキースは語らなかったし、一兵卒の身では質問など出来ない。訊いた所で、本当のことを話して貰えるとも限らない。「戯れに撃った」と言われれば終わり、単なる射撃練習だったと。
だから沈黙を守った部下。上官が何も言わないのなら、と。
その彼が口を開いた時には、SD体制は終わっていた。キースも死んでしまっていた。
前の自分が英雄として讃えられ始めたからこそ、彼は沈黙を破って話した。遠い昔に数えた弾の残りと、一つ消えていた弾倉のことを。
キースはソルジャー・ブルーを撃ったのだろうと、証拠は何も無いのだけれど、と。
それが「キースはソルジャー・ブルーを撃った」と今も伝わる仮説。証拠が無いから、一兵卒の証言として記録されているだけ。
(キースと、前のぼくとのことは…)
メギドで出会ったことしか知られてはいない。何らかの形で出会った筈だ、と。
前の自分がメギドの内部に入り込んだ後、「狩りに出掛ける」と部下のセルジュに指揮を任せて出て行ったキース。彼を追い掛けたというマツカ。
公式な記録はたったそれだけ、減っていた弾と消えた弾倉のことはあくまで仮説。
データは残っていなかったから。長い沈黙を破って証言した部下、裏付けを取ろうと学者たちが調べにかかったけれども、当時の記録は何処にも無かった。破棄されたという形跡さえも。
なにしろ、ただの銃だから。射撃練習に使っていようが、実戦だろうが、全てを記録しておくとなれば膨大な量になってしまって手に負えない。一日単位でデータを残しはしない。しかも個人の持ち物としての単位では。
あったけれども、無かったも同然だった当時の記録。キースが所属していた部隊の者たちの銃は全て纏めて一つの記録で、前の自分を攻撃しようとして同士討ちになった船も含まれたから。
爆沈した船と一緒に消えた銃やら弾倉やらは膨大な数で、特定出来なかったキースの銃。それに弾倉、真相は掴めないままになってしまった。本当に弾は減っていたのか、弾倉が一つ無かったというのは事実かどうか。
だから今でも分からない。仮説は仮説で、公式記録になってはいない。
キース自身が語らないまま、時の彼方に消えたから。何も言わずに死んでいったから。
(…どうして黙っていたんだろう…)
前の自分を撃ったことを。どうしてキースは何も語らず、書き残すこともなかったのだろう。
反撃されて巻き込まれそうになった所をマツカに救われたことが情けなかったか、守る筈だったメギドを沈められたことが恥だったのか。
メンバーズ・エリートとしてのプライドが許さなかったかもしれない、どちらであっても。
(あの頃のキースは…)
シロエが命懸けで手に入れた出生の秘密は知りもしなくて、メンバーズとしてミュウという種を殲滅しようとしていただけ。マザー・システムが命じるままに、疑いもせずに。
そういう立場にいたキースだから、誰にも言わずにいたかもしれない。前の自分を撃ったということ。メギドの制御室にいるのを見付けて、撃ち殺そうとしていたこと。
肝心の敵を殺し損ねてしまったのだから。
息の根を止めてメギドを守るつもりが、瀕死の自分にまんまと沈められたのだから。
キースは使命を果たせはしなくて、マツカが救いに来なかったならば命も失くしていた所。
失敗と呼ぶには大きすぎた代償、メギドは破壊されてしまってシャングリラまで取り逃がした。とても成功とは言えなかった作戦、ナスカを崩壊させられただけ。ミュウの殲滅は叶わなかった。
前の自分を殺せていたなら、結果は違っていたのだろうに。
だからキースは誰にも言わずに、書き残しもせずに逝ったのか。
(それとも…)
思う所があったのだろうか、前の自分に。
撃ったことを話せなくなるような何か、黙っておこうと決意せざるを得なかった何か。
メギドを沈められてしまった後には、残党狩りを命じたと伝わるキースだけれど。あえて命令を無視したマードック大佐、彼の決断と共に今も知られているのだけれど。
なんとも謎だ、とキースの記事が載った新聞を閉じて、おやつの残りを食べ終わって。それから自分の部屋に帰って、座った勉強机の前。
机の上に頬杖をついて謎を考えてみるのだけれども、解けないパズル。
キースが最後まで誰にも話さず、記録も残していなかった理由。ソルジャー・ブルーを撃ったというのに、彼自身が言った「伝説のタイプ・ブルー・オリジン」に弾を何発も撃ち込んだのに。
キースが沈黙を守っていたから、前のハーレイでさえも知らなかった前の自分の最期。
メギドでキースに撃たれていたことを、前のハーレイは知りもしなかった。キースが誇らしげに語っていたなら、何処かで記録を目にしたろうに。地球を目指した旅の途中で、キースの輝かしい過去の戦歴として見付け、怒り狂っていたろうに。
(あいつを殴り損なった、って…)
地球で出会ったのに殴る代わりに挨拶をしてしまったのだ、と悔やんだハーレイ。
キースが何をしたのか全く知らなかったから、人類を代表する国家主席に礼を取った、と。
今もハーレイはキースを許してはいない。前のハーレイが殴り損なった分だとばかりに憎んで、嫌って、キースの名を冠した花さえも八つ裂きにしてやりたいと言っていたほど。
けれども、自分の思いは違う。
ハーレイのようにキースを嫌いはしないし、憎んでもいない。
(あの時のままで時間が止まっていたなら、嫌ってたかもしれないけれど…)
青い地球の上に生まれ変わって、その後のキースを知ったから。
どう生きたのかを知っているから、キースに対して憎しみなど無い。ほんの小さな欠片さえも。
前の自分との出会いがどうあれ、最後にはミュウを認めてくれたのがキース。
彼が動いてくれなかったら、SD体制が崩壊した後、ミュウと人類とが手を取り合えるまでには長い時間がかかっただろう。彼がスウェナ・ダールトンに託した、全人類に向けてのメッセージ。あれが放送されなかったなら、人類はミュウを敵だと思ったままだったかもしれないから。
キースの心が何処で変わったのかも知りたいけれども、歴史の上ではマツカの功績。ひたすらにキースに尽くし続けたミュウの青年、彼がキースを変えたと言われる。それに出生の秘密を暴いたシロエと、この二人がキースの心を動かしたのだと。
キースが考えを変える切っ掛けになった人物、その中に前の自分は含まれていない。何の影響も与えたことになってはいない。
シャングリラとメギドで出会っていただけ、対峙しただけ。
(でも、本当に…?)
そうだったろうか、キースは何も思いはしなかったのだろうか?
前の自分を撃ったことを誰にも話さないまま、記録も残さずに逝ってしまったキース。ミュウの長に何発も撃ち込んだのなら、話を上手く持って行ったら英雄扱いだっただろうに。
たとえメギドを沈められていようが、防ごうと戦ったのだから。メギドの炎も止められるほどの力を秘めたタイプ・ブルーと、伝説のタイプ・ブルー・オリジンと戦って生還したのだから。
(…だけど、キースは黙ったままで…)
英雄にはならず、戦績も記録されなかったから、前のハーレイも気付かなかった。キースが前の自分を撃ち殺そうとしていたことに。
(あの時のキース…)
言葉を交わす暇すら無かったけれども、心も読み取れなかったけども。
前の自分に銃口を向けたキースの心を占めていたのは、使命感だけではなかった気がする。
メギドを沈めにやって来たミュウ、それを倒すのなら弾は一発で済むのだから。最初に見舞った弾が心臓を貫いていたら、自分は斃れていたのだから。
そうする代わりに、急所を外し続けたキース。今のハーレイは「嬲り殺しにしやがったのか」と怒ったけれども、それとは違ったように思える。
前の自分への強い憎しみや恨みでそうしていたのではない、と。
落ち着いて考えられる今だからこそ、余計にそうだと思えてくる。獲物を追い詰めた狩人の如く振舞っていたキースだけれども、自分は本当に単なる獲物だっただろうか、と。
何発も、何発も撃って来たキース。銃弾を浴びても張れたシールド。最初は防げなかったのに。三発も撃ち込まれてから、ようやくシールドしたというのに。
それだけの時間をキースは前の自分に与えた。最初の一発で倒す代わりに。
使命感だけで撃っていたなら、有り得ない。狩りを楽しんでいたのだとしても…。
(蹲っていたってメギドは止められない、って…)
反撃してみせろ、と言ったキースを覚えている。シールドを張っていた自分に。
まるで自分がメギドを止めるのを待っていたようにも思えるキース。そうしてみせろとキースは確かに言ったのだ。メギドが止まれば、前の自分の勝ちなのに。
どうしたら、そう考えるのか。そんな考えになったというのか。
前の自分がメギドを止めていたら、キースの立場が無いというのに。追い詰めた筈の獲物に牙を剥かれて、散々な目に遭うというのに。
結果的にメギドは沈んだけれども、キースの出世は止まらなかった。メギドを失ったことは罪に問われず、最後には国家主席にもなった。
けれども、そこまでキースが読んでいたとは思えない。メギドを沈められても自分の戦績に傷は付かないと、まさか知ってはいなかったろう。
あの時点では、キースは自分の生まれを知らなかったのだから。
人類の指導者になるべくマザー・システムが生み出した生命、それゆえに何をしようとも頂点に昇り詰められるのだと気付いていたわけがないのだから。
考えれば考えるほどに分からなくなる、キースの思い。
最初の一発で前の自分を殺さなかったことも、反撃してみせろと言っていたことも。
あの時に既に、キースの心は変わり始めていたのだろうか。ミュウに向ける目、それが少しずつ変わりつつあった時なのだろうか。
単なる人類の敵とは違うと、ただの異分子とは違うらしいと。
そう考えていたのなら分かる、前の自分が何処までやれるか、見定めようとしていたのなら。
最初の一発で倒してしまえば、何も起こりはしないから。
ミュウの長が何処まで出来るものなのか、それを見られはしないから。
下手をすれば巻き添えになっていたというのに、キースは見ようとしたのだろうか。自分の身を危険に晒すことになっても、前の自分の覚悟のほどを。
ミュウという種族を守るために何処まで出来るというのか、やれるのかを。
命を捨てても仲間たちを守ることが出来るか、それとも果たせず倒れて死ぬか。ミュウの長には何が出来るか、どれほどの覚悟を持っているのか、それをキースは見たかったのか。
…そして自分は望み通りの結果を出せたというのだろうか?
キースがそれを待っていたなら、前の自分もキースの心を確実に変えた。
記録は何も残されてはいないけれども、ミュウに対する考え方を。
恐らくはナスカでミュウと出会って変わり始めていただろう心、それを大きく変えたのだろう。
ミュウも人だと思う方へと。
どう扱うかは別だけれども、マザー・システムに命じられるままに機械的に消していた考え方は終わったのだろう。
異分子とはいえ人は人だと、慎重に見極める必要があると。
そうしてキースはマツカを側に置き続け、子細に観察していたのだろう。利用するのではなく、どうするべきかを。ミュウという種族を、ミュウの今後をどうしてゆくのが最良なのかと。
国家主席にまで昇り詰めた時、答えは恐らく出ていたのだろう。
ミュウが何者かをグランド・マザーに問い質すことも、結果によってはマザー・システム自体に反旗を翻すことも。
多分そうだ、と思えるけれど。やっと答えが出て来たけれども、何処にも証拠は残っていない。
キースが何を考えていたかも、何を思って前の自分を撃ったのかも。
(ぼくがメギドから生きて戻って、キースと話が出来ていたら…)
国家主席になったキースと話せていたなら、キースの思いを聞けただろうか?
どうしてメギドで一発で殺してしまわなかったか、反撃してみせろと言ったのか。
それを自分が聞けていたなら…。
(歴史も変わった?)
赤かったという地球に降りたミュウたちの中に、ジョミーの他に前の自分もいれば。
キースと話が出来ていたなら、全てが変わっていたかもしれない。
グランド・マザーをもっと容易く倒せていたとか、同じように地球が燃え上がっても、犠牲者は出ずに終わっていたとか。
ジョミーもキースも、前のハーレイたちも死なずに地球から離れられる道。
そういう道も開けていたかもしれない、キースと自分が話せていたら。分かり合うことが出来ていたなら、歴史がすっかり変わってしまって。
どうなんだろう、と考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムが鳴った。窓から見れば、手を振るハーレイ。門扉の所で、こちらに向かって。
せっかくハーレイが来てくれたのだし、自分の考えを話したくなった。ハーレイはキースを嫌うけれども、誰かに聞いて欲しいから。
テーブルを挟んで向かい合わせで、恐る恐るこう切り出してみた。
「あのね…。キースのことなんだけど…」
「なんだ?」
キースの野郎がどうかしたか、と案の定、不快そうなハーレイ。眉間にも皺が刻まれたけれど、話したい気持ちは止められないから。
「…ぼくのこと、どう考えていたのかなあ、って…」
「はあ?」
どうって、前のお前のことをか?
「そう。…嫌いだったのか、もっと他の感情もあったのか」
単に憎んでいただけじゃなかった、っていう気がするんだよ。
前のぼくがメギドから生きて戻っていたとしたなら、キースと話が出来たんだけど…。
地球に降りた時に、キースとゆっくり。
そしたら歴史も変わっていたかも、って思うんだけれど…。
「話だと? 問答無用で撃つようなヤツとか?」
前のお前を嬲り殺しにしようとしたのがキースなんだぞ、分かっているのか?
「でも…。反撃してみせろって言ったよ、キースは」
それじゃメギドは止められないぞ、って確かに言っていたんだよ。
だからね…。
ぼくは考えたんだけれど、と自分の見解を披露した。
キースは前の自分が何処まで出来るかを見ていたのだと、ミュウの長の覚悟を知りたいと思って一発で殺さなかったのだ、と。
「お前なあ…。そいつは考えすぎってもんだろ」
あいつがそういう考えだったら、もっと早くに決着がついていそうだが…。
前の俺たちが必死に頑張らなくても、人類がさっさと降伏するとか、地球への道が開けるとか。
「…そうなのかな?」
あれでもキースは頑張ってくれていたんだと思うんだけど…。
シャングリラが地球まで早く行けるように、グランド・マザーにも働きかけて。
「おいおい、地球へ行こうと最後のワープをしたシャングリラを待っていたのはメギドだぞ?」
それも六基と来たもんだ。…途中で止まりはしたんだが…。
メギドなんぞを用意して待っていたのがキースだ、最終的にはグランド・マザーに逆らったが。
いいか、キースはそういうヤツでだ、前のお前を撃った時からミュウに対する考え方を変えつつあったとは思えんが…。
俺にはとても思えないんだが、お前の考えではそうなるんだな?
…お前はつくづくキース好きだからな、いい方へと考えちまうんだろうなあ、どんなことでも。
あんな酷い目に遭ったくせに、とハーレイはフウと溜息をついて。
「お前ときたら、キースの嫁にまでなるくらいだしな?」
「えっ?」
お嫁さんってなんなの、ぼくはキースと結婚なんかはしてないよ…?
「例のシリーズだ、お前が何度も見ている夢だ」
チビのお前をキースが嫁にしようと待ち構えてるんだろ、何度結婚しかかったんだ?
「…三回かな?」
覚えてるのは三回だけれど、もっと他にも見ているのかな…?
起きたら忘れている夢もあるし、ひょっとしたら三回だけじゃないかも…。
「ほら見ろ、お前がキースに好意を持ってる証拠だってな」
でなきゃ結婚しないだろうが、いくら夢でも。
お前はキースを嫌うどころか、嫁に行くくらいに好きだってことだ。
「…嫌いじゃないけど、お嫁さんはちょっと…」
お嫁さんになるならハーレイだけだよ、そうでないとホントに困るんだけど…。
あの夢でもいつも困ってるんだし、キースのお嫁さんっていうのは嫌だよ。
「知らんぞ、今夜はその夢じゃないか?」
キースのことをじっくり考え続けたみたいだからなあ、また結婚する夢だと思うが。
「そうなるわけ?」
ぼくは真面目に考えてたのに、あの夢をまた見てしまうわけ…?
「そうじゃないかと俺は思うが…。よし、楽しみに待つとするかな」
明日は土曜日だし、どうなったのかを訊くことにする。俺は朝から来るわけなんだし。
「酷い…!」
酷いよ、ハーレイ、ぼくにあの夢、見ろって言うの?
キースのお嫁さんになれって言うわけ、あの夢はもう懲り懲りなのに…!
酷い、と抗議したのだけれども、ハーレイは取り合ってはくれなかった。「明日が楽しみだ」と面白がるだけで、キースの話も「考えすぎだ」の一言で終わり。
そのハーレイが夕食を食べて帰って行った後、お風呂に入って、パジャマに着替えて。
(あんな夢なんかは見ないんだから…!)
キースと結婚などしてたまるものかと、ぷりぷりと怒って入ったベッド。腹が立って眠れないと思っていたのに、いつの間にやらウトウトと落ちた眠りの世界。
そうしたら…。
(えーっと…)
ゆったりとソファに腰掛けたキース。その後ろ姿。
あの夢なのだ、と直ぐに気付いた。悔しいけれども、本当に見てしまったらしい、と。
(…コーヒー飲んでる…)
こちらに背を向け、コーヒーを傾けているキース。多分、マツカが淹れたコーヒー。
けれどもマツカは見当たらなくて、どうやらキースは一人きりで部屋にいるらしいから。
(お嫁さんシリーズでも、この際、話…)
話がしたい、と考えた自分。夢の中だから、難しいことはすっかり忘れていたけれど。
前の自分をどう思ったのかを訊きたかったことなど思い出せなくて、けれど話がしてみたくて。
キースの前へと回り込んだら、キースが「うん?」と視線を上げた。
国家主席だけれども、若いキースが。前の自分が出会った頃と同じに若いキースが。
「どうした、何か用でもあるのか?」
「…えっとね、ちょっと話をしてみたくって…」
「お前のドレスのデザインのことか?」
それならマツカも呼ばんといかんな、細かい打ち合わせはマツカに任せてあるんだし。
「ううん、そうじゃなくて…」
ドレスはどうでもいいんだけれども、お嫁さんのこと…。
キースがぼくを選んだことだよ、ウェディングドレスまで注文しちゃって。
なんでお嫁さんがぼくになるの、と訊いてみた。
ぼくはソルジャー・ブルーだけれど、と。
「…キースの敵だよ、なのにどうしてお嫁さんなの?」
ぼくの他にも、人間は沢山いるんだけれど…。ぼくにしなくても、ホントにいっぱい。
「俺は運命だと思っているが?」
お前と出会ったのも、結婚しようと色々と準備していることもな。
「なんで運命?」
「メギドに来たのはお前だろうが」
俺が待っていると承知の上で来たわけだろうが、違うのか?
「それはそうだけど…。ぼくが自分で行ったんだけど…」
でも、お嫁さんになりに行ったわけではないんだから、と反論した。
ぼくには役目があったから、と。
夢の中でも、ほんの少しだけ微かに覚えていた自分の正体。メギドを目指した本当の理由。
「ミュウの長としてか?」
「うん。…ぼくがみんなを守らなくちゃ、って」
だから行ったんだよ、メギドまで。…お嫁さんになろうと思ったんじゃないよ、ホントだよ。
キースが間違えちゃってるだけだよ、ぼくはソルジャー・ブルーなんだから。
「…俺はそいつに興味があったな、お前が何処まで出来るのかに」
「え…?」
何処までって…。ぼくはみんなを守るだけだよ、お嫁さんになりに行ったんじゃなくて。
ソルジャー・ブルーだからメギドに行ったよ、たったそれだけ。
だけどキースがぼくを見付けて、お嫁さんにするって…。
何処まで出来るかっていうのはどういう意味、と尋ねたけれど。
キースが何を言っているのか掴めないから、キョトンと見詰めてしまったけれど。
「…さあな? どういう意味なんだろうな」
とにかく、俺はお前が嫌いではないぞ。ミュウの長だろうが、ソルジャー・ブルーだろうが。
でなければ嫁に欲しいと思わん、とキースがポンと叩いたソファ。自分の隣。
俺と話がしたいんだったら、此処に座って話さないか、と。
(…キースの隣?)
話をしたい気はするのだけれども、キースの隣は危なそうで。
座ったら最後、キスの一つもされてしまいそうで、座っていいのか、断るべきか。
(…どうしよう…)
悩んでいる内に、パチリと覚めた目。
とうに朝日が照らしている部屋、キースの答えは聞き損なった。
今になって思い出した問い。前の自分をどう思っていたか、それを訊こうとしていたのだった。
夢の中でも、夢の世界のキースでも。
憎んでいたのか、そうではないのか、前の自分を最初の一発で殺さなかった理由は何なのか。
(…キース、何処まで出来るのか、って…)
それに興味があったと言った。
夢の中の自分は首を傾げるしかなかったけれども、あれがキースの答えだろうか。
前の自分が仲間たちを守るために何処まで出来るか、それを知りたいと思っていたと。
あくまで夢の世界のキースで、本物のキースではないのだけれど。
夢の続きを見るには、もう遅い時間。眠り直す前に目覚ましが朝だと告げそうな時間。
(…夢は見たけど、ちゃんと訊けなかった…)
けれども、夢の世界のキースは答えをくれた。「何処まで出来るか、興味があった」と。
本物ではないキースの言葉。夢の世界に住むキースの言葉。
ベッドから起きて、顔を洗って着替えをして。朝食も食べて待っている内に、ハーレイが訪ねて来てニヤリと笑った。「昨夜の夢はどんな具合だった?」と。
「夢の世界でキースに会えたか?」
今度こそ結婚しちまった…ってわけじゃなさそうだな、お前、機嫌がいいからな。
あの夢を見たら俺に文句を言うのが常だし、あの夢、見ないで済んだのか?
「…見たんだけど…。結婚する夢じゃなかったよ」
キースのお嫁さんになる予定だったけど、結婚式を挙げる中身じゃなくて…。
少しだけキースと話したんだよ、前のぼくのことを。
メギドに行った理由もちゃんと言ったよ、みんなを守るためだった、って。
夢の中だから、ちょっぴり間違えていそうだけれど…。
ソルジャー・ブルーだったことは覚えていたけど、深刻さは分かっていなかったかも…。
でもね、キースは言ったんだよ。
ぼくが何処まで出来るというのか、それに興味があったんだ、って。
…夢の中のぼくには意味が分かっていなかったけれど、起きたら分かった。
キースはやっぱり、前のぼくが何処まで出来るのかを見てみたかったんだ、って。
ぼくの願望が入っているかな、と話した夢のキースの言葉。
考えていたことが夢にそのまま現れただけで、現実はそうではなかったのかな、と。
「…本物のキースは、そうは思っていなかったのかな?」
前のぼくが何処まで出来るかなんて、キースはどうでも良かったのかな…?
「そうだと思うが?」
だからこそ前のお前を嬲り殺しにしようとしたんだ、あいつはな。
お前が何を考えていたか、どれだけの覚悟でメギドに行ったか、キースに分かるわけがない。
第一、あの野郎がお前と話をするか、とハーレイは苦い顔付きだから。
それが正しいのかもしれないけれど。
キースは前の自分を獲物としてしか見ていなかったのかもしれないけれど。
(真相は謎…)
弾倉に残った弾の数を数えたキースの部下の証言だけが根拠になっている仮説よりも謎。
キースが何を思っていたのか、どうして前の自分を最初の弾で殺さなかったのか。
謎は今でも解けはしないし、前の自分がキースに撃たれた事実でさえもが未だに仮説。決定的な証拠は出なくて、「そういう説もある」と言われているだけ。
けれど、何処かで本物のキースに出会えたら。
尋ねてみたいという気がする。
何を思って前の自分を撃ったか、反撃してみせろと言ったのか。
(…夢のキースが言っていたのが、本当だったら…)
そうしたら、きっとハーレイだって。
キースが嫌いで今も許さず、憎み続けているハーレイだって。
(…キース嫌いが治りそうだよ)
前の自分を嬲り殺しにしようとしたのではなくて、見定めようとしていたのなら。ミュウの長の覚悟を見たかったのなら、あのやり方にもキースの信念があったのだから。
(でも、キースとは会えないよね…)
会えはしないと分かっている。そんな奇跡は起こりはしないと。
だから気長に説得するしかないのだろう。キースが嫌いなハーレイを。
いつか結婚するハーレイ。二人で暮らしてゆくハーレイ。
そのハーレイとは、SD体制を終わらせてくれたキースの話もしたいから。
前の自分が出会ったキースの思い出も語り合いたいから。
何より、いつまでも悲しんで欲しくないから、「殴り損なった」と悔やんで欲しくないから。
ハーレイの傷を癒すためにも、キース嫌いを治したい。
たとえキースと結婚してしまう夢が立派なシリーズになろうとも。
いつかはハーレイにも笑顔でキースを語って欲しい。癒えた心で、穏やかな顔で。
「あいつも決して悪いヤツではなかったんだな」と、「ヤツも英雄には違いないしな」と…。
解けない謎・了
※今の時代も仮説のままの、キースがブルーを撃ったこと。証拠は残っていないのです。
どうして撃ったか、それを知りたいと思ったブルー。夢で出会ったキースの言葉も謎のまま。
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(えーっと…)
ブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。ダイニングのテーブルに置かれていた新聞、それを広げてみたのだけれど。
(サボテンが一杯…)
赤茶けた岩砂漠とでも言うのだろうか、荒地にニョキニョキと生えたサボテン。人間の背よりも丈が高くて、枝分かれしている独特の姿。「西部劇の舞台でお馴染みです」と書かれてあった。
(西部劇かあ…)
SD体制が始まるよりも遥かな遠い昔に生まれた西部劇。当時に撮影された映画などが人気で、愛好家も多い。詳しいことは知らないけれども、父が見ていたことがあるから舞台は分かる。
今ではこういう景色もある地球。サボテンしか見えない岩砂漠。
その気になったら緑の大地も作れるだろうに、あえて荒れ地で生きているものはサボテンだけ。
(ホントに元気になったよね、地球)
前の自分が生きた頃には、地球は死の星だったのに。
こんな砂漠を作らなくても、地表は砂漠化していたという。前のハーレイも見た赤かった地球。生きているものなど何も無かった。陸にも、母なる海の中にも。
SD体勢の崩壊と同時に地球は燃え上がり、地上の全てが生まれ変わった。汚染された大気も、何一つ棲めなかった海も、朽ち果てた大地も、何もかもが。
蘇った地球に戻った生態系。地球が滅びる前の姿に合わせて、こういう岩の砂漠まで。
人間が住みやすい場所にするなら、砂漠よりは緑の平原だけれど、そうしないのが今のやり方。遠い昔に地球が滅びた理由の一つがそれだったから。
人の都合で川の流れを変えてしまったり、沢山の水を汲み上げたりして作った農地。本来の姿を失った大地は急速に砂漠化していった。元々は人が住んでいた場所、そこまでが砂の嵐に埋もれて消えた。人が犯した大きな過ち。自然を大きく変えてしまうこと。
遥かな昔の反省をこめて、今の地球には砂漠もある。砂の砂漠も、岩の砂漠も。
歴史の彼方で白いシャングリラが辿り着いた頃には、地球は砂漠の星だったのに。
あの赤い地球を見た人々に「今は砂漠もあるんです」と言おうものなら、「あの頃も砂漠だ」と苦々しい顔をされそうだけれど、本当に今もある砂漠。ただしサボテンが生えている砂漠。
(ちゃんと命は戻ってるんだよ、砂漠にも)
サボテンの他にもいる筈の生き物、写真に写っていないだけで。鳥も虫も蛇も、他にも色々。
前の自分が生きた時代の砂漠とは違う、何もかもが。同じ砂漠でも、きちんと命が息づく場所。
もっとも、前の自分は地球は青いと頭から信じていたけれど。
様々な命が生まれて来た地球、辿り着いたなら何処もかしこも生命の輝きで一杯だろうと。
それを見たいと願っていた。青い地球を彩る命の数々。
(でも、サボテンは…)
流石に夢見ていなかった気がする、こんなサボテンだらけの荒地は。岩の砂漠は。
いつか母なる地球に着いたら見たかったものは、人を寄せ付けない高い峰に咲くという青いケシやら、シャングリラにもあったエーデルワイスが自生している姿やら。
サトウカエデの森もあるのだと思っていた地球、その森で採れたメイプルシロップで食べたいと願ったホットケーキ。地球の牧草を食んで育った牛のミルクのバターもつけて、と。
そういった夢を見ていたんだよ、と思ったけれど。
西部劇の舞台になった砂漠も、ニョキニョキと生えているサボテンも、前の自分が焦がれ続けた地球の姿には無かった筈だ、と新聞の写真を眺めたけれど。
(…あれ?)
サボテンという言葉が引っ掛かった。心の何処かに、微かにカサリと。
西部劇の世界にニョッキリと生えたサボテンではなくて、ただ「サボテン」という言葉。
前の自分は地球のサボテンを夢見たろうか?
すっかり忘れてしまったけれども、岩の砂漠に生えているようなサボテンを。
(…サボテンなわけ?)
そんな記憶は無いんだけれど、と首を捻って閉じた新聞。サボテンよりもまずはおやつ、と。
食べる間に考えてみても、やはりサボテンの記憶は無くて。
(気のせいだよね?)
きっと何かの勘違い、とキッチンの母に空になったお皿やカップを返して戻った部屋。勉強机の前に座って、改めてサボテンを思い浮かべてみた。さっきの新聞記事のサボテン。
(いくらなんでも…)
前の自分が憧れた中に、サボテンは入っていないだろう。西部劇が大好きだったならともかく、それ以外ではサボテンを夢見る理由が無いから。
(他の種類のサボテンにしたって…)
見たいと焦がれる植物とは少し違うと思う。夢もロマンも無さそうなサボテン。
サトウカエデの森のようにメイプルシロップが採れるのだったら、それは素敵な植物だけれど。高い峰にしか咲かない青いケシやエーデルワイスだったら、見に行く価値もあるのだけれど。
(サボテンだしね…?)
人の役には立ちそうもないし、夢が広がる植物でもない。多分。
けれど、頭から消えないサボテン。どうしたわけだか、しっかりと心に絡み付いたまま。
サボテンは何かの役に立つのだろうか、前の自分が夢見る価値があっただろうか…?
(ドラゴンフルーツ…)
役に立つと言えば、そのくらいしか思い付かない。あれはサボテンの実なのだから。
美味しい果物には違いないけれど、今ならではの味覚の一つ。白い鯨では育てていないし、前の自分は食べてはいない。味を知らないのでは、見たいとも思わないだろう。いつか地球に着いたらドラゴンフルーツが実るサボテンを見に出掛けたいと夢見もしない。
(それとも、前のぼくが奪ったわけ?)
シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃に。食料は人類の輸送船から奪うものだった時代に、ドラゴンフルーツも奪って来たのだろうか。他の食料と一緒にコンテナに入っていたとかで。
それならば食べて気に入ったかもしれないけれども、そういうのとは違う感覚。
サボテンの記憶はもっと別の、と心が訴えている違和感。ドラゴンフルーツの味は違う、と。
ならば何だと言うのだろう。サボテンだった、と思う自分は。
(サボテンは役に立たないのに…)
あんなのだよ、と思い浮かべたさっきの写真。赤い岩砂漠に生えていたサボテン。
白いシャングリラには、あれは無かったと断言出来る。あのサボテンは何処にも無かった、と。
(それに、棘だらけ…)
種類にもよるけれど、サボテンは大抵、棘があるもの。鋭い棘を生やしているもの。
栗のイガでもゼルが「危険じゃ」と言ったほどだし、役立たずで棘だらけのサボテンなどは…。
(あるわけないよね、シャングリラに)
うん、と納得したのだけれど。まだ引っ掛かってくるサボテンの記憶。
サボテンの棘が刺さったかのように、心から抜けてくれないサボテンという言葉。あった筈などないものなのに。白い鯨で役に立たないサボテンを育てたわけがないのに。
(絶対、無いって…!)
役に立たないし、棘だらけだし、と思うけれども、だんだん自信が無くなって来た。サボテンの棘が心に刺さって抜けないから。今も刺さったままだから。「サボテンなのだ」と。
(サボテンなんかは、シャングリラには…)
必要無かった筈の植物。余計なものなど乗せていなかった船がシャングリラ。
役に立たないから、蝶さえも飛んでいなかった。青い小鳥も飼えなかった。そのシャングリラに役立たずのサボテンがあったと言われれば驚くしかない、「なんでそんなものが」と。
誰も導入しようとしないし、育てた筈もないのだけれど。
やっぱりサボテンの棘が抜けない、心に刺さった「サボテン」の名前。不思議なことに。
(…ハーレイに訊く?)
まさかあったとは思えないけれど、あったなら知っているだろう。キャプテンは船の全てを把握していたのだから、サボテンがあれば。誰かがコッソリ育てていたというのでなければ。
(…コッソリだったら、ぼくだって…)
もっと記憶がハッキリ残っていそうではある。それを育てていた仲間の顔や名前まで。どうしてサボテンをコッソリ育てているのだろう、と疑問に思ったことだろうから。
なんとユニークなことをするのかと、そんなにサボテンが気に入ったのか、と。
ハーレイに訊くのが確実そうなサボテンの記憶。仕事の帰りに寄ってくれれば、と思っていたらチャイムが鳴った。窓に駆け寄ってみれば、門扉の所で手を振るハーレイ。丁度いいタイミングで来てくれた恋人。
母がお茶とお菓子を置いて行ったテーブルを挟んで向かい合うなり、訊いてみた。
「あのね、サボテンを覚えてる?」
「サボテン?」
なんだそれは、とハーレイの鳶色の瞳が丸くなるから。
「やっぱり無いよね…。サボテンなんか」
役に立たないし、棘だらけで危ない感じだし…。あったわけがないよね、サボテンは。
「なんの話だ?」
どうやら植物のサボテンらしいが、サボテンがどうかしたのか、お前?
「んーと…。シャングリラにサボテン、あったかなあ、って…」
ドラゴンフルーツは食べていないと思うんだけど…。他のサボテン。
「前の俺は料理はしてないぞ。サボテンは食えるそうだがな」
お前の言ってるドラゴンフルーツはサボテンの実だが、そうじゃないサボテン。
「そうだったの?」
他のサボテンの実も食べられるの、ドラゴンフルーツじゃないサボテンも?
「実だって食えるが、サボテン料理というのがあるんだ」
種類によっては、サボテンそのものを料理しちまう。野菜と同じ扱いだな。
サラダにもするし、炒めたり、フライにするだとか…。もちろん棘は綺麗に抜いて。
「へえ…!」
棘があるのに、それを抜いてまで食べるんだ?
そこまでするなら美味しいんだろうね、サボテンの料理。
「らしいな、俺も食ったことは一度もないんだが…」
ドラゴンフルーツがせいぜいなんだが、いつかは食ってみたいもんだな、サボテン料理。
お前と好き嫌い探しの旅をする時は、是非とも食いに行こうじゃないか。俺たちの口に合うのかどうか、サボテン料理を色々とな。
サボテンの名産地だという、かつてメキシコと呼ばれた国があった辺りの地域。サボテン料理は其処の名物で、SD体制の時代には無かった食べ物らしい。サボテンを食べる文化が独特過ぎて。
ドラゴンフルーツは果物だったから残ったけれども、サボテンそのものを料理するのは。
「…それじゃ、シャングリラにサボテンがあったのかも、っていうのは、ぼくの勘違い…?」
前のぼくたちが生きてた頃には、サボテン、野菜じゃなかったんだし…。
シャングリラで育てる意味が無いよね、食べられないんじゃ。
「だろうな、サボテンなんぞがあるわけがないぞ」
食おうって文化が無かったからには、あの船では役に立たんしなあ…。花と違って癒されるってわけでもないし…。棘だらけでウッカリ触れもしないし、公園にだって向かないんだ。
今の時代も、その辺の公園にサボテンなんかは植わっていないぞ、危ないからな。子供が触って怪我でもしたら大変だから、って所だろうが…。
それにサボテンは寒さに弱いし、公園に植えたら冬の間は特別な世話が要るだろう。囲いをして霜や雪から守ってやらんと…。それだけの手間をかけた挙句に、子供が怪我しちゃ話にならん。
つまりだ、今の時代でもサボテンってヤツは、役に立つどころか手間だけかかって…。
いや、待てよ…?
役に立つどころか手間だけと来たか…。
ちょっと待ってくれ、と眉間を指でトントンと叩いているハーレイ。
そうすれば記憶が戻るかのように、まるで魔法の仕草のように。「サボテンなあ…」と呟いて。
「…サボテンには色々と種類があって、だ…」
同じサボテンとはとても思えん姿形のが山のようにあって、大きさだって色々で…。
中には食えたり、薬になったり、人間様の役に立つものも…って、そうだ、思い出したぞ!
シャングリラにサボテンはあったようだぞ、お前の勘違いでも記憶違いでもなくて。
「ホント?」
何か役に立つサボテンがあったの、あの船に?
ぼくはすっかり忘れているけど、ぼくもそのサボテンのお世話になってた…?
「いや、違う。お前がサボテンの世話になるどころか…」
逆だ、逆。シャングリラにあったサボテンは、全く逆のサボテンだった。
「えっ?」
逆っていうのはどういう意味なの、いったいどんなサボテンだったの?
「文字通りに逆っていうことだ。人間様の役には立たない」
前の俺たちにも、船で飼ってた動物たちにも、まるで役に立たない、ただのサボテン。
世話されるばかりで、恩返しは一度もしなかった。
役立たずの極め付けってヤツだな、あのシャングリラにあったこと自体が奇跡のような。
普通だったら「これは駄目だ」と放り出されて終わりだったぞ、あのサボテンは。
シャングリラの中には、役に立たないものなど一つも無かったからな。
前のお前が「青い鳥を飼いたい」と言っても、却下されたのがシャングリラだ。
だが、あの役立たずのサボテンはのうのうと乗っていたんだ、何もしないでドッカリとな。
ヤツが来たのはまさに偶然というヤツで…、とハーレイが浮かべた苦笑い。
「前のお前が奪った物資の中にだ、コッソリ紛れていやがったんだ」
覚えていないか、ヤツがシャングリラに来た時のこと。
このくらいのサボテンが植わった鉢が混ざっていただろうが、と手で示された小さな球形。
本当に小さな、直径三センチほどの丸い形をハーレイが指で作っているから。
「そうだっけ…?」
丸いサボテンみたいだけれども、そんなの、シャングリラにあったかなあ…?
ぼくは全然覚えていないよ、サボテンが物資に混ざってたことも。
「そうだろうなあ、その様子じゃな。すっかり忘れてしまったようだが…」
ヒルマンの金鯱と言えば分かるか、あのサボテン。
「ああ…!」
思い出したよ、あったね、金鯱!
ヒルマンが育てていたんだっけね、何の役にも立たないサボテンだったけど…!
シャングリラが白い鯨になるよりも昔、前の自分が物資を奪って、それで生活していた頃。
ある時、人類の輸送船から失敬して来たコンテナの中に、何故か混ざっていたサボテンの鉢。
さっきハーレイが手で作ったような小さなサボテンが植えられた鉢が一個だけ。
どう見ても船の役には立ちそうにない上、小さいながらも鋭い棘を纏ったサボテン。廃棄処分にするしかない、と捨てる方へと選り分けられた。それがシャングリラの鉄則だから。役に立たないものは廃棄し、そうでないものは出番が来るまで倉庫で保管、と。
ところが、サボテンが混ざっていたと聞き付けたヒルマンが鉢を検分しにやって来たことから、ガラリと変わったサボテンの運命。
ヒルマンはサボテンを矯めつ眇めつ調べた末に、前の自分たちを招集した。キャプテンは当然、ゼルにブラウにエラといった面々。誰もがまだまだ若かったけれど。
シャングリラでの決定権を持つ者たちを集めて、サボテンの鉢を指差したヒルマン。テーブルに置かれた小さな鉢を。
「このサボテンだがね…。廃棄処分に決まったようだが、かまわないのなら…」
私が育ててみたいのだがね。…何の役にも立たないことは承知なのだが。
「育てるって、また…。なんでだい?」
今、役に立たないって言わなかったかい?
なんだってそんなものを育てようって言うのさ、エネルギーと時間の無駄じゃないか。
分からないねえ、とブラウが頭を振って、前の自分たちも頷いた。役に立たない上に棘だらけのサボテン、それを育てて何になるのか、と。
「これは大きくなるらしいのだよ、今はまだ小さいサボテンだがね」
ほんの子供だ、赤ん坊と言ってもいいくらいの年の頃だろう。育てばもっと大きくなるそうだ。直径が一メートルになると言うから、いやはや、この姿からは想像もつかない大きさで…。
そこまで育とうというサボテンだけに、花が咲くのは三十年後だということだよ。
「三十年だって?」
ちょいとお待ちよ、三十年って、十年の三倍の三十年かい?
そんなに経たないと花が咲かない赤ん坊なのかい、このおチビさんは…?
ブラウが思わず「おチビさん」と呼んでしまったくらいに小さなサボテン。三十年後までは花が咲かないらしいサボテン。
誰もが唖然としたのだけれども、それがサボテンの正体だった。二百年とも言われる長い寿命を持ったサボテン、金鯱という名前があるらしい。
「この金鯱は人類の世界で人気だそうだよ、ただし問題は寿命の長さだ」
花が咲くまでに三十年だけに、どのくらい経てば花を見られるかを考えてもみたまえ。
いいかね、今から育てて三十年もかかるのだよ…?
「…教育ステーションを卒業してから、直ぐに育て始めても長そうだねえ…」
大負けに負けて、ステーション時代に育て始めたと勘定しても…、と考え込んだブラウ。
その金鯱の鉢を抱えて社会に出てから二十六年、そんなに経たないと花は無理か、と。
養父母になるコースに進んだのなら、最初の子供が成人検査を受けて旅立った後になるね、と。
「えらく気の長い話だな、おい」
最初の子供は、いつまで経っても花の咲かないサボテンを見ながら育つわけか、と呆れたゼル。
次に来た子供も成人検査を受ける二年ほど前まで花を見られそうもないじゃないか、と。
サボテンの金鯱は花が咲くまでに三十年かかるもの。ブラウが計算していた通りに、成人検査を受けた直後から育て始めても、社会に出てから二十六年が経つまで花は咲かない。
養父母になるなら、二人目の子供が成人検査を受けて巣立ってゆく二年前まで咲かない花。先の子供は花が咲くことさえ知らないままで旅立つことになるだろう。
養父母になってから金鯱を育て始めたのなら、二人目の子供も花が咲くのを見られない。子供は十四歳で成人検査を受けるものだし、二人育てても二十八年、三十年には足りないから。
そういう平凡な人生を歩む者たちと違って、地位のある者。高い地位と収入を得ている者なら、高価な金額をポンと支払い、直ぐに花の咲く金鯱の立派な鉢を買えるシステムらしいけれども。
「へえ…。メンバーズ様の御用達かい、このサボテンは?」
これは一般人向けらしいけどね、とブラウが鉢を顎でしゃくった。
もっと育って立派になったら、メンバーズ様が高い値段でお買い上げになるのかい、と。
「そんな所だろう。直ぐに花が咲く金鯱を買えるとなったら、そういう人種になるだろうね」
メンバーズ・エリートだの、元老だのという社会を牛耳る連中だけの特権だよ。
だから育ててみたいわけだよ、幸い、時間はたっぷりとあるし…。
寿命の長いミュウの船には、ピッタリの植物だと思わないかね?
三十年は人類にとっては人生の三分の一になってしまうが、我々はそうではないのだから。
「いいねえ、ちょいと偉くなった気分になれるよ」
今はチビでも、いずれはメンバーズ様がお買い上げになるような立派な姿になるんだし…。
そんな御大層なサボテンってヤツが、あたしたちの船にあるっていうのも素敵じゃないか。
育ててみよう、とブラウが賛成、ゼルも「俺も賛成だな」と手を挙げた。役に立たなくても実に愉快な話だから、と。
前の自分も、ハーレイも、エラも異存は無かった。
ごくごく少数の人類のエリート、彼らだけが直ぐに花が咲くのを見られるサボテン。他の者なら三十年も待たないと花を見られないサボテン、それを育てるのも一興だろうと。
ミュウにとっては、三十年は大したものではないのだから。十年の三倍に過ぎないのだから。
そうしてシャングリラで育てることに決まった小さなサボテン。ほんの赤ん坊だった頃の金鯱。
ヒルマンが正体に気付いたお蔭で、廃棄処分を免れた。宇宙に捨てられてゴミになる代わりに、船の中に居場所を得ることが出来た。何の役にも立たないけれども、花さえ咲かないのだけれど。三十年が経たない限りは、ただの棘だらけの丸いサボテン。
そのサボテンの鉢をヒルマンがせっせと世話していた。白い鯨になる前の船で。
「…シャングリラを改造しようって話が出始めた頃だぞ、花が咲いたのは」
ヒルマンがサボテンを育て始めた時には、誰も想像さえしなかったがなあ、改造だなんて。
…それだけの技術を前の俺たちが手に出来るなんて、夢にも思っていなかった頃だ。いつまでもあの船で宇宙を旅していくんだろうと信じていたがな、前の俺でさえも。
「うん、ぼくだって…」
ずっとあの船で、修理をしながら旅をするんだと思ってた。前のぼくが物資を奪いながら。
自給自足で生きていける船なんて、考えてさえもいなかったよ。白い鯨の欠片さえもね。
…だけど、あのサボテンの花が咲いた頃には、そういう話になっていたんだよ。
三十年なんて大したことはないって思って育てていたけど、そういう意味では凄かったかも…。
とんでもない長い年数をかけて育って、やっと花が咲いたあのサボテン。
シャングリラがすっかり生まれ変わるような話が出て来る頃まで、花を咲かせずにいたなんて。
「まったくだ。気が長いにも程があるってな」
ほんのこれくらいだったのに、花が咲く頃にはデカく育っていたからなあ…。
ついでに、花が咲くようになっても、まだまだ育つと来たもんだ。
「そうだったよね…」
ヒルマンが言った通りにぐんぐん育っていったんだっけ。
育つスピードは遅かったけれど、人類だったら、育ち切るより前に寿命が尽きただろうけど。
寿命は二百年ともヒルマンが話していた金鯱。直径一メートルくらいに育つのだとも。
予言通りに、それは大きく育ったのだった、あのサボテンは。
サボテンの鉢を手に入れたシャングリラの改造が無事に終わって、白い鯨になった後にも…。
「まだ育っている最中だったっけね、サボテンは…」
寿命が尽きる気配さえ無くて、少しずつ大きくなっていって。
「逞しく生きてやがったなあ…」
最初の姿はこんなのだった、と言っても信じて貰えないくらいにデカくなっちまって。
あいつ専用の場所まで貰って、次の代まで育てられていて…。
ヒルマンの世話が上手かったんだろうな、あんなにでっかく育ったってことは。
人類のお偉方だって、これほど立派な金鯱を持っちゃいないだろう、と思って見ていたもんだ。
パルテノンの庭にはあったかもしれんが、個人じゃとても持てなかっただろう。
自分の寿命が尽きてしまって、世話するどころじゃなくなるからな。
…今と違って血の繋がった家族はいないし、代々、受け継いでいくのは無理なんだから。
「そうだよね…。後継者に譲る、っていう発想は無さそうだし…」
人類は自分のことだけしか考えていない種族だったし、次の誰かに譲りはしないね。
そうするくらいなら捨ててしまえとか言い出しそうだよ、自分が死んだら処分しろ、って。
「如何にもありそうな話だな。…寄付すらしそうになさそうだな、うん」
これがミュウなら、次の世代のためにと残しておくものなんだが…。
次の世代の金鯱を育てていたっていうのも、そのためなんだが、人類だとな…。
自分が死んだら墓場まで持って行きそうだよなあ、実際の所はどうなっていたのか知らないが。
「処分しろ」と遺言を遺したとしても、マザー・システムが回収させた可能性もある。なにしろ高価なサボテンだしなあ、処分よりかは高く売り付けた方がいいかもしれん。
…マザー・システムがどう考えていたか、俺は知りたいとも思わんが…。
人類が遺した遺言でさえも、機械が勝手に踏みにじっていたとは考えたくもないし、知りたくもないな。…いくら人類でも、同じ人間には違いない。
そいつらが愛した金鯱をマザー・システムが掻っ攫っては、利用していたとしたら腹が立つ。
死んじまったからもういいだろう、と遺言も無視して売っていたとかな。
本当に考えたくもない、とハーレイが呻くように呟く通り。
マザー・システムならやりかねなかった、人類の遺言を握り潰して、遺産を奪ってしまうこと。恐らく本当にやっていたただろう、金鯱だけのことに限らず。
養父母として生きた人類のささやかな財産も、権力者たちの財産も。
次の世代など存在しなかったのが人類の社会なのだし、何もかも奪われていったのだろう。その持ち主の命が尽きれば、マザー・システムに。高価な金鯱も、ささやかな物も。
シャングリラに乗っていた金鯱は仲間たちに愛され、次の世代までが育てられていたけれど。
最初の金鯱がいなくなった後も、次の金鯱が立派に育って後を継げるようにと。
多分、幸運だった金鯱。
シャングリラに連れて来られた時こそ廃棄処分の危機だったけれど、その後は持ち主がコロコロ変わりもしないで育っていった。
前の自分が生きていた間も、その後もずっと世話をしていた係はヒルマン。
地球でヒルマンが命尽きるまで、金鯱の世話は最初に金鯱を育て始めた人物のまま。金鯱の方が先に寿命が尽きてしまって、ヒルマンが地球で死んだ時には、二代目が船にいたのだから。
人間が全てミュウになった今の時代なら、そういう金鯱も珍しいことはないけれど。あの時代に生きた金鯱の中では、同じ人間が最後まで世話した唯一の金鯱だっただろう。
シャングリラの他にはミュウの船は無くて、金鯱は人類のものだったから。二百年も生きる金鯱よりも遥かに寿命の短い、人類の時代だったのだから。
それを思うと、愛おしい金鯱。
すっかり忘れてしまっていたけれど、シャングリラにあった丸いサボテン。
「ねえ、ハーレイ。…あれって、名前はあったんだっけ?」
金鯱っていう名前じゃなくって、あのサボテンだけについてた名前。
ぼくがブルーとか、ハーレイがハーレイって名前みたいに、あれにも何か。
「いや、ヒルマンは金鯱とだけ…」
でなきゃサボテンだな、それで充分通じたからなあ、アレしか無かったんだから。
シャングリラには他のサボテンは乗っていなくて、あの金鯱と跡継ぎが乗っていただけだ。
わざわざ名前を付けるまでもないし、金鯱かサボテンとしか聞いていないが…。
しかし名前はあったかもなあ、俺が聞いてはいなかっただけで。
船の仲間たちが自分で好きな名前を付けては、そいつで呼んでいたかもしれん。ペット感覚で、名付けた仲間の数だけ名前があったとしても俺は驚かないぞ。
「その可能性もあるかもね。…ヒルマンだって、本当は名前を付けていたかも…」
ハーレイは何か名前を付けた?
前のぼくは名前を付けてないけど、前のハーレイは名前を付けてあげたの、あの金鯱に?
「名付けていたなら覚えているさ。あの船にサボテンがあったことをな」
…忘れちまっていたとしてもだ、お前にサボテンと訊かれた途端にアレだと思い出しただろう。前の俺が名前を付けてたヤツだと、その名前ごとな。
「そっか…」
ハーレイも名前は付けてないんだね、あの金鯱はずうっと船にいたのに。
シャングリラが改造されるよりも前から船に乗ってて、大きく育って花を咲かせて、代替わりもしたサボテンなのに…。
ちょっと残念、名前があったなら知りたかったな。ヒルマンが付けてた名前でもいいし、仲間の誰かがコッソリ呼んでた名前でも。
…長いこと一緒にいたサボテンなんだもの、名前を付ければ良かったかな、ぼくも。
今となっては、名前があったかどうかも分からないサボテン。ヒルマンが世話をしていた金鯱。
ミュウの船ならではの気長なペットのような植物だった。何の役にも立たなかったけれど、花が咲くまで三十年もかかったという代物だったのだけれど。
「…ハーレイ、あのサボテンはトォニィの時代もあったかな?」
ちゃんと二代目から三代目に変わって乗っていたかな、シャングリラに…?
「多分な。なんでサボテンなんだ、と言われながらも乗ってただろうな」
そもそも、ジョミーもアレの由来を知ってたかどうか…。
俺は話した覚えなんか無いし、ヒルマンがジョミーに言ったかどうかも分からんし…。
ジョミーの代で既に謎だったかもな、あのサボテンがどういう理由でシャングリラに来ることになったのか。廃棄処分にされる所を救われたとは思っていなかったかもな、ジョミーもな。
なんたって、ジョミーが船に来た時には、二代目になっていたんだから。
「そういえば…。ジョミーが来た時には、とっくに二代目…」
最初の金鯱はいなくなってて、二代目が育ってたんだっけ…。それと跡継ぎの三代目と。
それじゃジョミーは知らなかったかもね、一代目が船に来た理由。
シャングリラにはサボテンも乗ってるんだ、って思っておしまいだったかも…。
どうしてサボテンが乗っかってたのか、不思議にも思わないままで。
シャングリラが白い鯨になるよりも前から、役立たずなのに乗っていたサボテン。捨てられずに堂々と船に居座り、代替わりまでした丸いサボテン。
あの金鯱もきっと、他の木たちと一緒に引越したのだろう。白いシャングリラが解体される時、アルテメシアか他の何処かの惑星に。
アルテメシアに行ったとしたなら、今もシャングリラの森の何処かにいるかもしれない。大きく育った丸いサボテンが、もう何代目か数えられないほどに代替わりをした金鯱が。
「…金鯱、今も人気なの?」
もうメンバーズとか、元老とかはいないけど…。今でも金鯱、人気なのかな?
「人気らしいぞ、ミュウと同じで長生きだからな」
二百年ほど生きるわけだし、並みのペットより一緒にいられる期間が長い。
花を咲かせる楽しみもあるし、デカく育つのも見ていられるし…。
育てている人は多いらしいぞ、いわゆるサボテン愛好家だな。
俺たちもまた育ててみてもいいかもしれんな、前の俺たちが育て始めたくらいのヤツから。
今度は名前も付けてやってだ、デカくなるまでちゃんと世話して。
「いいかもね。…かなり大きくなっちゃうんだけど」
家の中に置いたら凄いことになってしまいそうだけど、大きくなったら庭に置く…?
雪とかが降っても大丈夫なように、ちゃんと温室を作ってやって。
「そいつもいいなあ、リビングにデカイ金鯱がいるのも面白いがな」
ギリギリまでリビングでデカくしてから外に出すかな、運び出すのも大変そうだが…。
今のお前じゃ瞬間移動でヒョイと運べやしないし、俺が抱えて運んで行くしかなさそうだがな。
人間が全てミュウになった今は、誰でも気軽に育てて大きく出来るサボテン。丸い金鯱。
花が咲くまでの三十年はミュウの世界では長くはないから。
メンバーズも元老院もマザー・システムも消えて、ミュウの時代になったから。
金鯱は高価なサボテンではなくて、愛好家が好きに育てているもの。花を咲かせて楽しむもの。
そういう時代に生まれ変わって、青い地球の上でハーレイと一緒に生きてゆく。
今度も前の自分たちのように、サボテンを育ててみるのもいい。
小さな金鯱の鉢を買って来て、こんなに大きく育てられたと、そろそろ花が咲きそうだと。
前のように大きく育ってしまったら、ハーレイが苦労しそうだけれど。
「こんなにデカイのを俺が運ぶのか」と、温室まで抱えてゆく羽目になっていそうだけれど。
けれども、それも平和の証。青い地球に二人で来られたからこそ、金鯱を運ぶことになる。
だから自分も鉢を運ぶのを手伝おう。ハーレイと一緒に抱えてゆこう。
「落とさないでよ」と声を掛けたら、「落とすなよ?」と返りそうな声。
ハーレイと二人で大きな金鯱の鉢を抱えて、庭の温室まで笑い合いながらの引っ越し作業。
青い地球の上で、今度はハーレイと一緒に育てた金鯱の鉢を抱え上げて…。
船とサボテン・了
※役に立たない植物などは無かった船がシャングリラ。それなのに育てられていたサボテン。
廃棄処分を免れてまで、改造前からずっと船にいた立派な金鯱。ミュウの箱舟ならではの話。
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