シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(綺麗…)
緑色だ、とブルーはテーブルに置かれた瓶を見詰めた。
学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中。そのテーブルに置かれていた瓶。
それほど大きな瓶ではない。すらりと細くてジュースの瓶かと思うほど。でなければシロップ、中身を水やソーダで割って飲むもの、そういう液体に似合いの瓶。
けれど瓶には無いラベル。なんのラベルも貼られていなくて、剥がした跡さえ見付からなくて。
(綺麗な緑色だけど…)
濃い緑ではなく、黄緑色といった所か。芽吹いたばかりの若葉の緑をした澄んだ液体、トロリとしているようにも見える。恐らく飲み物なのだろうけれど。
(なあに?)
こんな飲み物は見たことがない。これを薄めたジュースも知らない。学校に行っている間に母が作って詰めたのだろうか、この瓶に?
このまま飲むのか、それとも薄めて飲むものなのか。
(どっち…?)
正体不明、と眺めていたら。どんな味かと想像していたら、母が来たから。
「ママ、これなあに?」
何の瓶なの、と指差した。緑色の液体が詰まった瓶を。そうしたら…。
「オリーブ油よ。オリーブは知っているでしょう?」
あの実から採れるの、色々な種類があるんだけれど…。
これはお友達に頂いたの、と母が手に取り、瓶を少しだけ傾けた。液体は確かに油のようで。
出来たばかりのオリーブ油。搾ったばかりの新鮮なものを貰ったという。
「これからがオリーブ油のシーズンらしいわよ」
今年一番に出来たオリーブ油がこれで、オリーブだけしか使っていないの。だから上等。
お料理に使うオリーブ油と違って、このまま食べられるオリーブ油なのよ。
「ふうん…?」
オリーブ油を食べるって…。どうするの、ドレッシングとか…?
「違うわ、それも美味しいんだけど…。ホントにこのまま食べるのがいいの」
パンにつけると美味しいのよ。トーストじゃなくて、バゲットとかにね。
「…パンにつけるの?」
バターみたいに、と不思議に思ったブルーだけれど。パンに塗るならジャムやバターで、油など思いもしなかったけれど。
母の話では普通だという。オリーブ油で食べるのが似合いのパンにはオリーブ油だと。
今まではブルーに合わせてバターやジャムにしていたけれども、食べていた頃もあったのだと。ブルーが小さくてミルクや離乳食しか食べていなかった頃までは。
「パパと二人でよく食べてたのよ、オリーブ油で」
でも、ブルーみたいな子供の舌にはどうかしら…。好き嫌いとは別の話で、大人の舌とは味覚が違ってくるでしょう?
食べても美味しくないかもしれないわ、オリーブ油のパン。
だけどブルーには、今はハーレイ先生が下さるマーマレードがあるしね。お気に入りでしょう、あの夏ミカンのマーマレード。
ブルーはあっちにしておきなさいな、その方がきっとブルー向けよ。
ママたちは明日は久しぶりにオリーブ油にしてみるわ、と言われた翌朝、ハーレイがやって来る土曜日の朝。目覚めたブルーがダイニングに行くと、母が焼いたバゲット、それにオリーブ油。
(んーと…)
ブルーには母がトーストを焼いてくれたけれど、マーマレードを塗ったけれども。
同じテーブルにいる父と母とは、小さな器にあの緑色のオリーブ油を入れているから。千切ったバゲットにオリーブ油をつけて、それだけで口に運んでいるから。
(ジャムもバターも、なんにも無し…)
本当にあのオリーブ油だけ。塩も胡椒も振っていないし、ドレッシングですらない油。味付けをしたなら分かるけれども、油だけでパン。まるで想像がつかないから。
「ママ、オリーブ油で食べるバゲットって…。美味しいの?」
ぼくの舌には合わないかも、って言っていたけど、それ、ママたちには、とっても美味しい?
「もちろんよ。そうでなければ食べていないわ、オリーブ油でね」
バターやジャムに変えちゃってるわよ、とっくの昔に。どっちも家にあるんですもの。
気になるのなら試してみる?
どんな味なのか、食べてみるといいわ。味見だけでも。
はい、と母が自分のバゲットを一口サイズに千切ってくれた。渡されたそれに母の器のオリーブ油をつけて、頬張ってみたブルーだけれど。
(えーっと…?)
期待した味とは違った風味。澄んだ緑の味はしなくて、バターとも全く違った味で。
「どう、美味しい?」
ブルーの舌にはどうかしら。ママとパパには、とても美味しい味なんだけれど…。
「うーん…。ちょっぴり美味しい…のかな?」
嫌いじゃないけど、想像してたのと違う味。もっと濃い味がするかと思った、油だから。
「おいおい、油の味だと美味くないだろうが、せっかくのパンが」
油臭いバゲットはパパは勘弁願いたいな。このサラリとした味がいいんだ、オリーブ油は。
ブルーの年だと、まだ分からないかもしれないがな。
もう少し大人にならないと…、と父がバゲットにオリーブ油をつけて、母もそうしながら。
「このオリーブ油…。ハーレイ先生にもお出ししましょうか」
今日のお昼に。バゲットを添えられるメニューにして。
「そうだな、美味いオリーブ油だしな」
本当に本物の搾り立てだし、きっと喜んで下さるだろう。ブルーの分はバターにして。
「ぼくもオリーブ油でいいよ!」
オリーブ油で食べるよ、バターじゃなくて。ハーレイと同じのを食べたいよ…!
「あらあら…。ブルーは本当にハーレイ先生が大好きなのねえ…」
子供らしくバターにしてもいいのに、背伸びするのね。分かったわ、ブルーもオリーブ油ね。
朝食が済んだら、部屋の掃除で。首を長くして待つ内に訪れたハーレイ。
ブルーの部屋でお茶とお菓子を楽しみながら過ごした午前中の時間、オリーブ油のことは頭からすっかり消えてしまった。忘れてしまった、ものの見事に。
母が昼食を運んで来るまで、思い出しもしなかったオリーブ油だけれど。昼食のパスタと一緒にサラダの器とバゲットが二切れ載せられたお皿、それとオリーブ油の小皿。
白い小皿に緑色をしたオリーブ油。母が「ごゆっくりどうぞ」と去ってゆくと。
「ほほう…。こいつは美味そうだな」
小皿のオリーブ油に鳶色の目を細めるハーレイ。美味しそうだと緩んだ頬。
「…美味しそう?」
ハーレイにはそんな風に見えるの、このオリーブ油が?
ママのお友達がくれたんだけど…。ぼくも今朝、少し食べてみたけど、普通だよ?
好きでも嫌いでもないって感じで、美味しそうとまでは思わないけれど…。
「そりゃあ、お前はチビだしな?」
子供の舌には少し早いな、オリーブ油の美味さというヤツは。
搾り立てだろ、このオリーブ油。見れば分かるさ、新鮮なオリーブ油だってことが。
早速試してみるとするかな、搾り立ての味。
褐色の指がバゲットを千切って、小皿のオリーブ油の緑に浸して。
うん、いける、と頬張るハーレイ。流石は地球だと、搾り立ての地球のオリーブ油だと。
「実に美味いな、シャングリラのよりも断然美味い」
比べようって方が間違っているが、それでもやっぱり比べちまうな。あの船の味と。
「…シャングリラ?」
オリーブ油なんかあったっけ?
それでパンなんか食べていたっけ、シャングリラで…?
「忘れちまったか?」
オリーブ油で食ってたヤツだっていたぞ、搾り立ての油が出来る頃には。
こいつでパンを食うのが美味い、とヒルマンが調べて来たんだったか…。オリーブの木を植えたからには有効活用、あれこれ調べた中の一つでパンを食うのにオリーブ油だ。
オリーブの木は沢山あったろ、と言われてようやく思い出した。
食用にするための油を採ろうと、農場で何本も育てていた木。一年中、緑の葉をしたオリーブ。秋になったら実る実を採って、それを搾って油を作った。白いシャングリラのオリーブ油。
合成の油よりも本物を、と作っていたのがオリーブ油だった。
「そうだったっけ…」
オリーブの木を沢山植えていたんだっけ、農場に。油を採るならオリーブだ、って。
「うむ。お前が苗木を奪って来てな」
人類の施設からゴッソリ山ほど。船の中でも丈夫に育ってくれそうなのを。
「そう、頑丈そうな木を選んで来たよ」
シャングリラの中だと、気温くらいしか外と同じには出来ないから…。
雨も風も太陽の光も自然のようにはしてやれないから、丈夫そうな木を。背の高さよりも太さで選んで、葉っぱの艶だって良さそうなのを。
シャングリラの農場で豊かに枝を広げて育ったオリーブ。前のブルーが奪った苗木。
すくすくと育って多くの実をつけ、オリーブ油がたっぷり手に入った木。
「あのオリーブだが…。お前、覚えてるか?」
ヒルマンが言っていたことを。
オリーブの木はシャングリラに相応しい木だと何度も言ってたんだが、忘れちまったか?
「ううん、オリーブの木を思い出したら、そっちも一緒に思い出したよ」
箱舟の木でしょ、オリーブの木は。ノアの箱舟。
「そうだ、お前も思い出したか、箱舟の話」
まさに箱舟だったからなあ、シャングリラはな。
前の俺たちをアルタミラの地獄から救い出してくれて、生かしてくれて。
アルテメシアに辿り着いた後も、人類に追われた仲間を救い出しては乗せて行って…。
ブリッジも箱舟って呼んでいたっけな、公園の上に浮かんでいたから。
シャングリラの心臓部でもあった場所だし、誰が呼んだか、箱舟ってな。
ノアの箱舟。
遠い遠い遥かな昔に、人類が地球しか知らなかった頃に神が起こしたと伝わる洪水。地上は全て水に覆われ、ありとあらゆる生き物が滅び、人も滅んだ。
その大洪水から逃れた箱舟、神に選ばれたノアの家族と、地上の生き物の一つがいずつ。箱舟は彼らを乗せて浮かんだ、地上の全てを飲み込んでしまった水の上に。
四十日と四十夜の間、荒れ狂った水は大地を覆い尽くして、その後にようやく止んだ大雨。神の大雨。百五十日の間、箱舟は水の上を漂い続けて、アララト山の頂に止まったという。
ノアは船から鳩を放った、何処かに地面がありはしないかと。一面の水から顔を覗かせた土地が無いかと、一羽の鳩を。
けれども鳩は戻って来た。留まる地面が無かったから。次に放しても、鳩は戻った。
その次にノアが鳩を放すと、オリーブの葉を咥えて戻った鳩。何処かにオリーブの木がある証。それから更に七日の後に放ってみた鳩は、船に戻って来なかった。
こうして神の大洪水は終わり、箱舟から降りたノアと家族と動物たち。其処から再び人の歴史が始まり、地球が滅びた日をも乗り越え、宇宙に散った。SD体制を敷いて、あらゆる星に。
SD体制の時代は二度目の洪水だったのだろうか、神が人類を滅ぼすための。
それと知らずに生まれて来つつあった新しい種族、ミュウと人類とを入れ替えるための。
ミュウであった前のブルーたちですらも全く知らなかったけれど、歴史はミュウに味方した。
進化の必然だったミュウ。
誰もが気付いていなかっただけで。そうだと知らずに滅ぼそうと足掻いていただけで。
そんなミュウたちを乗せた箱舟、白い鯨だったシャングリラ。
いつかはノアの箱舟のように地上に降りようと、降りたいと皆が願っていた。
ノアが放った鳩が咥えて戻ったオリーブの葉。何処かに地面があると知らせた命の色の葉。
そういう風に地球へ行こうと願った、オリーブの木が茂る約束の地へ。
シャングリラが留まれる地球へ行こうと、いつかは鳩がオリーブの葉を咥えて戻るだろうと。
鳩を放そうにも、シャングリラに鳩はいなかったけれど。
それでもオリーブの木を植えて、見上げて願った。オリーブが茂る青い地球へ、と。
「そんな場所は何処にも無かったんだがな…」
前の俺たちが生きた時代に、青い地球なんぞは何処にも無かった。オリーブどころか、何の木も生えちゃいなかった。
…前の俺たちはそうとも知らずに、地球を目指していたんだが…。
箱舟に乗って地球へ行こうと、いつかは希望のオリーブの葉を鳩が咥えて戻るだろうと。
「そうだね…。ありもしない場所を目指していたね」
きっといつかは地球へ行けると、ミュウのぼくたちでも辿り着けると。
前のぼくもすっかり騙されていたよ、蘇った青い地球があるんだと。フィシスの記憶に刻まれた地球が幻だったなんて思いやしないよ…。
「俺だって頭から信じていたさ。前のお前が憧れてた地球、其処へ必ず行くんだとな」
お前を乗せて、あのシャングリラで。俺がシャングリラの舵を握って。
…それなのに、お前は死んでしまって…。
地球を見もしないで死んでしまって、そんなお前の命を犠牲に辿り着いた地球はあの有様で…。
お前になんと言ったらいいのか、俺の頭は真っ白だった。あれが地球か、と。
「…ぼくはね、地球に行けなかったことも悲しかったけれど…」
それは身体が弱り始めた時から、覚悟していたことだったから。もう行けないと諦めてたから。
地球なんかよりも、ハーレイと別れてしまうことの方が辛かったよ。
ハーレイよりも先に死んでしまって、約束通りに追い掛けて来ても貰えなくって。
…そうなることが分かっていたのに、行かなきゃいけなかったから。
前のぼくしか、シャングリラを守れはしなかったから…。
「…だろうな、前のお前はな…」
挙句の果てに、メギドで独りで逝っちまって…。
独りぼっちだと泣きながら死んで、俺は俺で抜け殻になっちまって。それでも地球へ、と必死に進んで、やっと着いたら荒れ果てた地球があっただなんてな…。
だが、俺たちは辿り着いたな、とハーレイが笑んだ。約束の地へ、と。
「青い地球の上に二人揃って生まれ変わって来たんだし…。それに、オリーブ油」
鳩は葉を咥えて戻らなかったが、そのオリーブの木の実から出来たオリーブ油だ。
そいつが食える地球に来たんだ、もう間違いなくオリーブが茂る約束の場所に着いたってな。
「…地球に来たってことは間違いないけど…」
オリーブ油でオリーブの葉とか木とかは強引じゃない?
オリーブ油は実から出来るものだよ、葉っぱがオリーブの実を育てるんだし、実の方がオマケ。木から採れた実と、それを育てる葉っぱとだったら、葉っぱの方がずっと大切だよ。
「そうは言うがな、オリーブは本来、油が大切だったんだぞ」
今みたいに便利な明かりなんかは無かった時代。
真っ暗な夜を明るくするには、灯を灯すしかないわけで…。最初は焚火で、次が灯明。こういう油を使って灯して、ランプの時代がやって来たのさ。
前の俺たちはオリーブ油を食っていただけだが…、と言われてみれば。
ハーレイが話した通りに遠い昔には油は灯明、生活の必需品だった。ごくごく初期なら素焼きの土器がランプだったし、ガラスのランプが出来た時代も明かりを灯すには油が必要。
オリーブ油もきっと初めの頃には、食べるよりも明かりが主だったろう。それが無ければ暗闇の中で震えているしかないのだから。
「ハーレイ、油は食べるよりも明かりの方だったって…。この辺りでも?」
この地域でもやっぱりそうなの、食べるよりも明かり?
「お前が言うのは日本のことか?」
あの島国ではどうだったのか、っていう意味で俺に訊いているのか?
「そう。日本でも明かりの方だったのかな?」
食べるんじゃなくて、一番に明かり。そういう油の使い方かな?
「まあな。日本でも油は欠かせなかったな、料理ではなくて明かりの方で」
もちろん、料理もするんだが…。他の国と同じで揚げたりなんかもしていたんだが…。
そういう具合に使ってはいても、油を買いに出掛けると言ったら明かりだな。
古典にも色々と出て来るだろうが、蝋燭じゃなくて行灯だとか。
その油だが…。
オリーブ油の国とは油が違うな、と教えられた。
遥かな昔の小さな島国、其処ではオリーブの油ではなくて菜種の油。菜種油だ、と。
「今と違って、オリーブを育てちゃいなかったんだ。その時代の日本の辺りでは」
気候が今一つ合わなかったか、まだ入って来ていなかった。代わりに菜種の油で明かりだ。油が採れるから菜種のことを油菜と呼んだりもしていたらしいな。
「ふうん…?」
行灯の絵は知ってるけれども、何の明かりかまでは考えていなかったよ。蝋燭が入っているって聞いても、そうなんだと信じてしまいそう。行灯、菜種の油なんだね。
「そういうことだ。蝋燭よりも便利だったのか、安かったのか…」
とにかく行灯の中身は油だったが、そいつを猫が舐めるんだぞ。
「え?」
「菜種じゃなくって、魚の油を使ってた所もあったんだ」
油さえあればいいわけなんだし、菜種だろうが、魚だろうが…。魚の油は鯨だがな。
日本で使われていた鯨の油。
それを使って行灯を灯すと、魚の匂いがするわけだから。油の味も鯨で魚風味だから、魚好きの猫が舐めるのだけれど。行灯の油を舐めるけれども…。
「化け猫になるの!?」
「らしいぞ、猫が行灯の油を舐めると」
尻尾が二つに裂けちまって…、と聞かされた怪談。年を取った猫がなるという妖怪、裂けた尾の猫又。それになる猫は油を舐めるという。行灯の油を。長い舌を伸ばしてペロペロと。
飼い主のお姫様を食い殺してしまって、お姫様に化けていた猫又などもいたというから。
「ハーレイ、猫又、怖すぎるよ…!」
行灯なんかを置いておくから、油を舐めて化けちゃうんだよ。行灯に油を入れるから…!
「そうなるなあ…。今の時代は行灯も無いし、猫又も生まれないわけで…」
俺のおふくろが飼ってたミーシャも、年寄りだったが猫又なんぞにはならなかったな。
尻尾は死ぬまで一本のままで、二つに裂けたりしなかった。
行灯の油を舐めるってことが大切な方法だったんだろうな、猫が猫又になるにはな。
だから行灯の無い他の地域に猫又は一匹もいなかったようだ、と説明されても、本当なのやら、嘘なのやら。とはいえ、日本にだけ居た猫の妖怪、猫又は油を舐めるもの。行灯の油を。
「猫又が舐めるっていう油…。鯨の油でないと駄目なの?」
他の油だったら猫又は出ないの、魚の匂いがしない油を入れておいたら。
「なるほど、化け猫防止ってか。菜種油なら、舐めなかったかもしれないなあ…」
オリーブ油でも魚の匂いはしないし、猫又になるのは無理だったかもしれん。
そうなってくると、猫又になるのに欠かせないものは行灯だけではないってことか。猫が喜んで舐める魚の油も必須だったんだな、鯨の油。
行灯と鯨の油が揃って初めて猫又が出来るというわけか、うん。
それは面白い新説だ、と腕組みをして頷くハーレイ。
鯨の油は有名なもので、遠い昔にはそのために鯨を獲ったという。捕鯨の主な目的の一つ。鯨の油は明かりの他にも機械油や石鹸の材料、様々にあった使い道。
「…鯨から油が採れるんだったら、シャングリラも?」
白い鯨だから、油が採れそうな感じだよ。宇宙を飛んでる大きな鯨。
「似てたのは形だけなんだが…。鯨というのは悪くはないぞ」
鯨は捨てる所が無いっていうほど、どこもかしこも人間の役に立ったんだそうだ。
そういう意味では、シャングリラは最高の鯨だったな。大いに俺たちの役に立ったし、おまけに箱舟だったんだからな。
いい鯨でも人類軍には獲らせてやらんが…、とハーレイは笑った。
シャングリラをモビー・ディックと名付けて、追い続けていた人類軍。
モビー・ディックは、SD体制が始まるよりも前の時代の小説に出て来る白鯨の名前。人類軍の通信を傍受し、それを知った時にはハーレイたちも酷く驚いたという。人類の目にも同じ白い鯨に見えるのかと。シャングリラは白い鯨なのかと。
「ヤツらは必死に追い掛けて来たが、そう簡単には捕まるものか」
油を採られちゃたまらんからなあ、あのシャングリラはヤツらの獲物じゃないんだからな?
俺たちの船だ、俺たちのための大事な鯨だ。
そいつを獲られてしまったんでは、ミュウの未来も無くなるからなあ…。
懸命に逃げて逃げ切ってやった、と胸を張るハーレイ。
キャプテンとして指揮し、あるいは自ら舵を握って、人類軍の追撃から。
前のブルーが長い眠りに就いていた間は逃げて逃げ続けて、その後の時代は逃げるだけの道から反撃へと。モビー・ディックの名前の通りに、人類軍と戦い続けたシャングリラ。
白い鯨はミュウたちの箱舟だったけれども、ハーレイの話を聞くと戦う鯨でもあったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラって、どっちだったんだろう?」
平和の箱舟か、捕鯨船と戦う鯨か、どっちが本当?
ハーレイはどっちだったんだと思う、あのシャングリラは…?
「両方だろ。箱舟でもあったし、鯨でもあった」
どちらの面も持っていたさ、とハーレイは言った。
前のブルーがソルジャーとして立っていた時代はミュウたちを乗せた平和の箱舟。戦いはせずに雲に隠れて、追われる仲間を救い続けた。
けれど、ジョミーを助け出すために浮上した後は、文字通り人類に追われる鯨。捕鯨船よろしく追ってくる人類軍の船から逃れ続けて、危うい場面も何度もあった。
それでも赤いナスカを見付けて入植したりと、箱舟としての機能もまだ充分に残していた。
ミュウという種族を乗せた箱舟、いざとなったら乗り込んで逃げてゆけるよう。
そしてナスカが滅んだ後には、戦う鯨。ミュウが滅びぬよう戦い続けて、幾つもの星を落としていった。最初にアルテメシアを手に入れ、地球の座標を見付けて進んで…。
「とうとう地球まで行ったってな」
捕鯨船には捕まらないまま、逆に何隻も沈め続けて、ヤツらが必死に守った地球まで。
…前のお前に頼まれた通り、ジョミーを支えて俺はシャングリラを運んで行ったぞ。ヒルマンが話した約束の場所へ、鳩がオリーブの葉を咥えて戻る地球まで。
「オリーブの木は無かったけどね…」
前のハーレイが着いた頃には死の星だったし、オリーブなんかは…。
ごめんね、そんな地球へ行かせて。ハーレイ、きっと、とってもガッカリしたんだろうに…。
「そりゃなあ…。ガッカリと言うより悔しかったな」
前のお前の夢だった地球がこの有様かと、こんなもののためにお前は死んじまったのか、と。
お前の魂に青い地球を見せてやれるどころか、見せたくもないような星しか無くて…。
しかしだ、今はあるだろ、本物の青い地球ってヤツが。
ちゃんとオリーブ油だって採れるような地球が。
お前が作った、と微笑まれた。
前のお前がミュウの未来と、この青い地球を、と。
「えっと…。前のぼく、そんなに偉くは…」
「ないって言うんだ、いつも、お前は」
この地球の上の誰に訊いても、何処の星に住んでるヤツに訊いても、同じ答えが返るだろうに。
前のお前は偉大だったと、ソルジャー・ブルーが今の世界を作ったんだと。
それなのに肝心のお前は違うと言ってばかりで、まるで自覚がゼロなんだよなあ…。
「ハーレイだって同じじゃない」
キャプテン・ハーレイは英雄なんだよ、シャングリラを地球まで運んだ英雄。
箱舟か鯨か分からないけれど、ハーレイでなければ運べなかった。いくらジョミーやトォニィがいても、シャングリラを丸ごと運んで行くにはキャプテン・ハーレイがいないと無理だよ。
ハーレイがいたから、乗っていたから、シャングリラは地球まで行けたんだよ。
「そう来たか…。俺は前のお前との約束を守っただけなんだがな」
ジョミーを頼む、と言われちまったらやるしかないさ。鯨だろうが箱舟だろうが、とにかく俺が運ぶしかない。何がなんでも地球に着くまで、約束の場所に辿り着くまでな。
「ほら、ハーレイだって英雄じゃないって言ってるし!」
ぼくのことばかりを言えやしないよ、偉くないって言いたがるのは。
「しかし実際、そうだったわけで…」
俺は偉いと思っていないし、がむしゃらに進んでいたってだけで…。
俺もお前も、思った以上に偉い人間にされちまったってトコか、死んでる間に。
「うん、多分…」
「仕方ないなあ、死んでる間に起こっちまったことは今更どうしようもないからな」
まあいいじゃないか、お互い、偉さの自覚が全く無いってことで。
そんな俺たちには、約束の場所がどうこう言うより、オリーブ油でパンが似合いだってな。
鳩が咥えて来るオリーブの葉より、オリーブ油なんだ。
「そうかもね」
大袈裟な約束の場所なんかよりも、小さな幸せ。地球のオリーブ油でぼくは充分幸せ。
死の星だった地球が青い水の星に戻ったからこそ、オリーブ油。
地球の大地で育ったオリーブが実をつけ、オリーブ油が搾られて瓶に詰められる。パンにつけて食べられるオリーブ油が。小さなブルーの幼い舌には、さほど美味しくない味だけれど。
「なあ、ブルー。今の地球だと、他にも油は山ほどあるぞ」
菜種の油はもちろんあるし、紅花に、胡麻に…。
ハーレイが幾つも挙げたけれども、今の時代は無いというのが鯨の油。遠い昔には油を採ろうと人間は鯨を追っていたのに、捕鯨船まであったのに。
今は鯨は姿を眺めて楽しむもの。ホエール・ウオッチングが高い人気を誇る生き物。
「いい時代だね。鯨にとっては」
人間が捕まえにやって来る代わりに、船でのんびり姿を眺めに来るなんて。
「うむ、追われる時代は終わったってな。鯨も白いシャングリラもな」
すっかり平和な時代ってヤツだ、ミュウも鯨も追われやしない。
地球だって昔の青い姿に戻って、俺たちの他にも大勢が暮らしているんだからな。
そうして地球にはオリーブの木。
遠い昔にシャングリラにもあった、約束の場所を夢見ていた木。鳩が葉を咥えて戻って来る木。
今の地球には、オリーブの木が一面に茂った海のような畑もあるというから。
「いつか見たいね、海みたいに一面のオリーブ畑」
「そうだな、二人で行ってみるかな」
オリーブの葉を鳩が咥えて戻った伝説の山っていうヤツに。
その山があったって場所も悪くはないだろ、地形はすっかり変わっちまったみたいだが…。
ノアの箱舟が辿り着いた山の跡だってことで、観光地になっているらしいしな。
一面のオリーブ畑も見られるそうだぞ、あの辺りはオリーブで有名なんだ。
「じゃあ、行こうよ!」
アララト山だよね、山じゃなくても行ってみたいよ。
鳩がオリーブの葉を咥えて来た場所、きっと素敵な場所だろうから。
ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球。
いつか行こうと二人で夢見て、叶わずに終わった青い星。
其処に二人で生まれたからには、箱舟の地へも旅してみよう。
ノアの箱舟に戻った鳩が咥えていたというオリーブの葉の緑、その葉が一面に茂った場所へ。
ハーレイと其処へ出掛ける頃には、ブルーも大きく育っているから。
オリーブ油で食べるパンが美味しいと思える、大人の舌になっているだろうから。
箱舟の伝説が残っている地で、オリーブ油をつけてパンを食べよう。
その辺りのものが一番美味しいと名高いらしいオリーブ油。
地球の太陽を浴びて育ったオリーブの実から採れた油を、ハーレイと二人で味わいながら…。
約束のオリーブ・了
※シャングリラでも育てられていた、オリーブの木。ノアの箱舟と、ミュウの箱舟とを繋げて。
その頃には無かった約束の地が、青い地球。生まれ変わって来られた今は、とても幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
春、真っ盛り。ソルジャーたちとのお花見も終わり、シャングリラ学園の年度始めの行事も一段落して今日は何もない土曜日です。北の方ならまだまだ桜もあるんでしょうけど、春休みからノンストップな勢いで遊んでましたし、たまには会長さんの家でゆっくりと。
「かみお~ん♪ 何も無くても賑やかに、だもん!」
お昼は豪華にちらし寿司だよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。海の幸たっぷりの海鮮ちらし寿司に大歓声で、早速ワイワイ食べてたのですが。
「あれっ、君たちは海鮮ちらし?」
「「「!!?」」」
誰だ、とキョロキョロ。海鮮ちらしに文句を言われる筋合いは無く…って、今日は来る予定じゃなかったのでは、と声の主を見付けて軽く衝撃。私服のソルジャーが立っています。
「君が食べる分は無いからね!」
会長さんが怒鳴って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ううん、嘘だよ、ちゃんとあるから! ゆっくりしてって!」
「そうしたいけど、これからお出掛け」
「「「は?」」」
お昼時に出て来て、お出掛けだとは…。それじゃ何しに、と思ったのですが。
「ちょっと自慢に寄っただけ! これからノルディとデートだから!」
「はいはい、分かった」
早く出掛けろ、と会長さんの手がヒラヒラと。
「遅刻はマナー違反だよ? さっさと行く!」
「もちろんさ。今日は鍋だって、楽しみだよね」
何だったかな、とソルジャーは首を傾げました。
「名前を思い出せないんだけど…。鶏の鍋で、美味しいらしいよ」
「トリの水炊きとか、そういうのだろ。ほら、行って、行って!」
「急かさなくても行くってば! じゃあね、ぼくの食事は豪華版!」
パッと姿が消えたソルジャー。海鮮ちらしはトリの水炊きに負けたのでしょうか?
「どうだかねえ…。所詮はトリだし」
鶏だから、と会長さん。モノによっては高いそうですが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の海鮮ちらし寿司の具もこだわりの素材を使っているので負けないだろうという仰せ。ソルジャーにケチをつけられましたけど、こっちはこっちで美味しいんですよ!
おかわりたっぷり、海鮮ちらし。食事の後はのんびりまったり、沢山食べただけに三時のおやつは時間通りに食べられず。けれども春らしい桜クリームなどを使ったミルフィーユは是非とも食べたいところ。四時でいいか、というコトになって。
「かみお~ん♪ そろそろおやつにする?」
四時だもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がいそいそと。お腹の方も頃合いに空いて、ちょうどおやつが欲しい頃。紅茶にコーヒーなども揃って、いざ、とフォークを入れようとしたら。
「間に合ったあー!」
ぼくにも、おやつ! と飛び込んで来た私服のソルジャー。また来たのか、と苦情を述べても聞くわけがないと分かってますから、誰も文句を言いませんでしたが。
「うん、君たちのおやつが遅くて良かったあ!」
ついついノルディと盛り上がっちゃって、とソルジャーは悪びれもせずに腰掛けて桜ミルフィーユを頬張りながら。
「ホントは鍋だけで解散の予定だったんだけど…。素敵な鍋だったから、後にお茶まで」
「それは良かったねえ…」
会長さんの言葉は明らかに社交辞令でした。ところがソルジャー、「うん」と嬉しそうに。
「まさかトリ鍋で、あんなに素晴らしい話を聞けるだなんてね! あ、トリ鍋はトリ鍋だけどさ、ちゃんと名前があるんだよ!」
「トリの水炊きだろ?」
「そうじゃなくって、鶏の方に!」
名前があるのだ、ということは…。ブランドもののトリ肉でしょうか、ナントカ地鶏とかそういった系の…?
「ううん、地鶏じゃないんだな、これが。鶏の品種の名前らしいよ」
「烏骨鶏?」
それともチャボかい、と会長さんが尋ねると。
「シャモって言ったよ、シャモ鍋を食べて来たんだよ!」
「「「あー…」」」
シャモね、と一応、納得です。シャモ鍋だったらトリ鍋の中でもちょっと別格。とはいえ、ソルジャーが素敵だと褒めてエロドクターと盛り上がる理由が分かりません。なんで…?
「シャモはね、特別らしいんだよ」
パワー溢れる鶏で、とソルジャーは語り始めました。
「闘鶏に使うとノルディが言っていたねえ、闘争心が強い鶏だってね?」
「そうらしいな」
シャモは軍鶏と書くくらいだからな、とキース君。
「愛好家の団体もあると聞いたが、あんた、闘鶏でも始めたいのか?」
「そうじゃないけど…。ちょっと欲しいという気がしてね」
強いシャモが、とソルジャーの台詞は意味不明。闘鶏をやりたいと言うんだったら強いシャモだって必要でしょうが、そうでないなら何のために?
「ズバリ、あやかりたいんだよ!」
シャモのパワーに、とソルジャーはグッと拳を握りました。
「今じゃやってないらしいけれどさ、昔は相撲の力士なんかがシャモを食べたとノルディがね…。闘争心とパワーを身につけようと、わざわざシャモの顎の骨とか頭だとかをバリバリと!」
「「「ええっ!?」」」
力士ともなれば流石に違う、とビックリ仰天。シャモの頭はもれなく頭骨が入っていますし、顎の骨だなんて話があるなら、頭も骨ごとバリバリでしょう。私たちが食べたら歯の方が砕け散りそうです。ビール瓶の栓を歯でポンと抜ける教頭先生なら平気かもですが…。
「そういう話を聞いて来たらさ、あやかりたいと思っちゃうだろ?」
「…それはソルジャーとしての話かい?」
パワーをつけて人類軍とのバトルなのかい、と会長さん。
「君の世界のハードさは理解しているし…。シャモのパワーも欲しいわけ?」
「ちょっと違うね、ぼくが欲しいのはシャモの闘争心の方!」
「まさか、シャモを食べて一気に地球まで攻めて行こうとか?」
「やらない、やらない」
そもそも地球の座標を知らない、とソルジャーは片手を振って否定しました。
「ノルディに教わって来たんだよ。シャモの闘争心の源!」
コレを聞いたらあやからねば、と頬を紅潮させてますけど、シャモと言ったら喧嘩をするトリ。ただの喧嘩好きの鶏なんじゃあ…?
「そうか、君たちでも知らないんだ?」
ノルディが博識で実に良かった、と笑顔のソルジャー。エロドクターがシャモに詳しいとは知りませんでした。闘鶏の愛好家な知り合いがいたのでしょうか?
「残念ながら、知り合いにはいないらしいんだ。いるんだったら強いシャモを譲って貰うことも出来ただろうけど…」
「食べられてしまうと知ってて譲るような愛好家はいないと思うんだけどね?」
会長さんの指摘に、ソルジャーは「うん」と。
「ノルディにもそう言われたよ。愛好家はシャモを大事にしてるし、食用には譲ってくれないだろう、とね」
戦わせるくせに愛情たっぷり、と聞かされた愛好家のシャモに対する愛とやら。体調管理もさることながら、バトルの後には傷薬などでしっかり手当てで、傷薬だって自家製ブレンド。秘伝の生薬を漬け込んだりして傷が癒えるよう細やかな世話を…。
「一度戦ったら二週間くらいは休養らしいよ、それくらい派手に戦うらしいけど…」
その闘争心が何処から来るかが大切なのだ、と話はついに核心へと。
「ズバリ、縄張り争いってヤツ!」
「それって普通じゃないですか?」
大抵の生き物はやらかしますよ、とシロエ君。
「アユの友釣りだって縄張り争いを利用して釣ると聞いてますしね」
「まあ、生き物のオスには基本だろうけど…。シャモの場合は命も懸ける勢いで! ついでに目指すはハーレムだから!」
「「「ハーレム!?」」」
「そう、ハーレム!」
シャモはハーレムのために戦うのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「元々、鶏はハーレムを作るものらしいんだよ。一羽の雄鶏が頂点に立ってメスを集めて、子孫を残す。その本能と闘争心とが強烈なのがシャモっていうわけ!」
鏡に映った自分の姿に喧嘩を売ろうという勢いだとか。闘鶏の訓練は鏡の自分への挑戦に始まり、闘争心を高めてバトルの場に登場するらしく。
「ハーレムと聞いたら、これにあやからない手は無いよね?」
どう思う? とソルジャーの赤い瞳がキラキラ。闘争心は闘争心でもハーレム作りの方にあやかりたいなら、この話、ヤバくないですか…?
ハーレムを目指して命懸けのバトルをするらしいシャモ。そのシャモ鍋をエロドクターに御馳走になったソルジャー、強いシャモが欲しい上にあやかりたいとか。もしや強いシャモを食べてパワーを身につける人って、ソルジャーじゃなくて…。
「ピンポーン♪」
大正解! とソルジャー、誰の心を読んだのやら。
「シャモを食べさせたいのは、ぼくのハーレイ! そして漲るパワーでガンガン!」
ハーレムを作る代わりにぼくに尽くして欲しいのだ、という主張に「やっぱり…」と心で嘆き節。つまりはシャモを精力剤としてゲットしたいというわけですね?
「そうなんだよ! 最強のシャモが欲しいんだけど!」
「…譲って貰えば?」
愛好家に、と会長さん。
「食べるんです、と正直に言っても場合によっては譲ってくれるよ」
「本当かい!?」
「ただし、ヨボヨボのシャモだろうけど」
引退してから長いシャモなら貰えることがあるかもしれない、という話。
「シャモが美味しいことは食べて来たなら分かるだろう? 愛好家と言っても色々いるしね、老いさらばえて死なせるくらいなら食べてしまえというタイプも皆無ではない」
「…でも、ヨボヨボのシャモしかくれないんだね?」
「当たり前だろう! 現役のシャモは絶対くれないし、引退したてでも無理だろうね」
手塩にかけて育てたシャモを誰が鍋に…、と正論が。ソルジャーの話では傷薬までも自作するという愛好家。それだけの愛情と手間を注いだシャモなら、後は鍋しか道が無さそうなほどに衰えない限り食用には譲らないでしょう。
「…というわけでね、最強のシャモは貰えないよ。元最強とか、そういうシャモで我慢しないと」
「ぼくが欲しいシャモは現役だってば!」
ヨボヨボのシャモではあやかるどころか萎れそうだ、と言われても…。
「現役ねえ…。いっそ自前で育ててみたら?」
「「「えっ?」」」
会長さんの台詞に、ソルジャーどころか私たちも首を捻る羽目に。現役のシャモで尚且つ最強、そんなの、自分で育てられますか…?
「まるで不可能ってわけではないよ」
やってやれないことはない、と会長さんは人差し指を立てました。
「君がシャモ鍋を食べたくらいだ、食用のシャモを育てている場所はあるってね。そういう所に頼みに行ったら気の強そうなのを買える筈だし」
「…それで?」
「何羽か纏めて譲って貰って、暫く飼ってみればいい。それからバトルで、勝ち残ったのが最強のシャモということになるね」
「なるほどねえ…」
確かにそうだ、とソルジャー、納得。
「いい案だけれど、愛情をこめた世話とやらは? ぼくはそういうのに向いてないけど」
「…向いてなさそうだね」
まるで駄目だ、と会長さんが返し、私たちも顔を見合わせて「うん、うん」と。青の間の片付けも出来ないソルジャーに生き物の世話が出来るとはとても思えません。普通に飼育も無理っぽいのに愛情をこめて飼うなんて…。
「ね、ぼくには無理だと思うだろ? 君が代わりに飼ってくれるとか?」
「なんでぼくが!」
「アイデアを出してくれたからには、飼い方のフォローもお願いしたいな」
「無茶を言わないでくれたまえ!」
誰があんな凶暴な鶏の世話を…、と会長さんは突っぱねたものの。
「…待てよ、凶暴な鶏の世話か…」
「誰かいるのかい?」
「迷惑をかけるなら断然こいつ、って人間ならいる」
会長さんの言葉にサーッと青ざめる私たち。そういう対象になりそうな人って、もしかしなくても一人だけしかいないのでは…。
「それで正解!」
この世にたった一人だけ! と会長さんは高らかに。
「ズバリ、ウィリアム・ハーレイってね! 惚れ込んでるぼくの頼みだったらシャモくらい!」
愛情こめて世話をするだろう、との恐ろしい読み。やっぱり教頭先生でしたか、ソルジャーが欲しい最強のシャモを育てるための飼育係は…。
「お、おい、あんた…」
本気なのか、とキース君が会長さんに。
「シャモは相当にキツイと聞くぞ? 愛好家でも生傷を覚悟らしいが…」
「そうだけど? 食用に飼ってるシャモは多少はマシだろうけど、養鶏場から出て来た後には闘争本能に点火するだろうね」
自由の身だから暴れまくり、と会長さんはニヤニヤと。
「一羽ずつ離して飼っておいても、自分が頂点に立つ日を夢見てバサバサ、ドカドカ。餌をやったら蹴られるだろうし、つついて捻って大暴れだね」
「「「うわー…」」」
それを教頭先生が…、と私たちは震え上がりましたが。
「ふうん…。そこまで凄いなら、ぼくにも一羽欲しいかなあ…」
「「「へ?」」」
ソルジャー、生き物は飼えないと言っていませんでしたか? だから教頭先生ですが?
「そうなんだけどさ、このファイトを見習え、とハーレイ用にね」
バサバサ、ドカドカでハーレムを目指す魂の方にもあやかりたい、と斜め上な発想。
「ハーレムを作ろうと暴れる鶏と日々戦ったら、ぼくのハーレイもきっと逞しく!」
「「「………」」」
本当にそういうものだろうか、と悩みはしたものの、誰も突っ込む勇気は無くて。
「うん、決めた! シールドさえすれば青の間の中でシャモを飼っても大丈夫!」
検疫とかの必要は無い、とソルジャーお得意の自分ルールが。
「でもって、こっちのハーレイにもシャモを飼って貰って…。その中で最強ってコトになったヤツとさ、ぼくのハーレイが飼ったシャモとで頂上決戦!」
そして勝った方のシャモを食べればハーレムなパワーを取り込める、とソルジャーは一気に燃え上がりました。
「ぼくのハーレイにも強いのを育てて欲しいしねえ…。まずは気の強いシャモのゲットからかな、纏めて何羽か!」
「それで行くなら、お試しで飼って…。キツそうなのを二羽だけ選んで、一羽ずつ育てる方が強いのを作りやすいと思うよ」
どうだろう? と会長さんが。えーっと、教頭先生とキャプテンが一羽ずつですか…?
「シャモは鏡の自分にも喧嘩を売ろうっていう鶏だ。徹底的に仕込むんだったら一対一!」
見込んだシャモに愛情を注いで、逞しく強く育ててなんぼ、と会長さん。
「こっちのハーレイが一人で飼うと言うなら、同じように世話して最後に勝ち抜き戦でいいと思うけど…。君のハーレイも飼うとなったら、これぞってヤツに一点集中!」
「いいかもねえ…。より逞しいシャモを作る、と」
「そういうこと! それでどうかな、君たちの世界でも飼うのならね」
「その話、乗った!」
是非やろう、とソルジャーはガップリ食い付きました。まずは気の強いシャモの調達からで。
「こっちのハーレイに飼って貰って、その中から特にキツイのを二羽選ぶんだね?」
「うん。ハーレイに殴る蹴るの暴行を浴びせまくったのを二羽ってことだね」
「だったら、六羽ほど譲って貰えばいいのかなあ?」
「それくらいがハーレイの限界だよ、きっと」
蹴られて噛まれて世話をするんだし、と会長さんは教頭先生の限界ギリギリの数のシャモを飼わせるつもり。勝手に決めていいんだろうか、と思っている間に、気付けば夕食時が近付いていて。
「ぶるぅ、夕食は鍋だった?」
「うんっ! 今日は寄せ鍋で締めはラーメン!」
「鍋はゆっくり食べたいし…。先にハーレイの方を片付けないとね」
シャモを育てて貰う件、と会長さんの視線がソルジャーに向いて、ソルジャーも「うん」と。
「今から行けばいいのかな?」
「そうだね、全員でお邪魔しようか、それから帰って鍋パーティーだよ」
行くよ、という声が終わらない内にパアアッと溢れた青いサイオン。ソルジャーのだか会長さんだか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」か知りませんけど、瞬間移動でお出掛けですか~!
毎度お馴染み、教頭先生宅のリビング直撃コース。教頭先生はソファで仰け反っておられましたが、取り落とした新聞を拾い上げながら。
「今日は何の用だ?」
「そう言って貰えると話が早いね、鶏を飼って欲しいんだけど」
「鶏?」
「うん、鶏。君の家の庭で六羽ほど」
どうかな? と会長さんはおねだり目線。
「庭で六羽か…。平飼いの卵でも欲しいのか?」
「ぼくじゃなくって、ブルーがね。鶏が一羽欲しいらしくて、ちょっとお願いに」
「なるほど、向こうの世界で飼うとなったら色々と大変だろうしな…」
検疫とかが、と直ぐに言葉が出て来る辺りはシャングリラ号のキャプテンならでは。ソルジャーが「ぼくのシャングリラでは一羽くらいしか…」と口を挟みました。
「君に纏めて飼って貰って、これはと思う一羽を選んで飼いたいな、とね」
「ああ、分かりました。私が庭で飼っている間に検疫などを…」
「それに近いかな、お願いできる?」
「私でお役に立てるのでしたら」
胸を叩いた教頭先生。会長さんと会長さんにそっくりのソルジャー、二人揃ってのお願いとなれば断る筈がありません。会長さんは「いいんだね?」と念を押してから。
「だったら、明日からお願いしたいな。鳥小屋はぼくが用意するから」
「いいのか、日曜大工で作れんこともないが」
「飼って貰うのに手間がかかるし、鳥小屋くらいは調達するよ」
だからよろしく、という会長さんに「任せておけ」と教頭先生の頼もしい返事。
「鶏を六羽、飼うだけだろう? お安い御用だ」
「悪いね、それじゃそういうことで。暫く庭がうるさくなるけど」
「ご近所からは文句は出ないぞ、この辺りはみんな寛容だ」
むしろ鶏の声で朝が来るのを喜ばれるくらいだ、と教頭先生は二つ返事で引き受けましたが。庭がうるさいって朝一番のコケコッコーじゃなくて、教頭先生に殴る蹴るの暴力をふるう時の凄い騒ぎのことなんじゃあ…?
飼育係の件は無事に解決、後は帰って鍋パーティー。締めのラーメンを入れる頃には、居座って食べていたソルジャーのためのシャモの調達先も決まりました。明日の朝から会長さんと一緒に出掛けて六羽貰ってくるそうです。強烈な性格と評判なのを。
「…教頭先生、血を見るんじゃあ…」
帰り道にジョミー君が呟き、サム君が。
「俺たちも見ることになるんだぜ、その血」
「そうでしたね…」
明日も集合かかってましたね、とシロエ君。
「会長の家に十時ですから、その足で教頭先生の家に行くんじゃないですか?」
「だろうな、鳥小屋へシャモを入れにな」
さぞかし恐ろしい眺めであろう、とキース君が手首の数珠レットを繰って南無阿弥陀仏のお念仏。
「シャモは本気で蹴ってくるしな、多分、流血の大惨事だ」
「…何処かで見たわけ?」
ジョミー君の問いに「檀家さんの家でな」という答え。
「月参りに行ったら、鳥小屋で格闘中だった。「ちょっと待ってて下さいねー!」と俺に叫んで、シャモとバトルだ。闘鶏用のシャモでなくても充分なほどのパワーがあった」
「…教頭先生、大丈夫でしょうか…」
マツカ君の声に、スウェナちゃんが。
「シールドでなんとか出来るでしょ? タイプ・グリーンよ、教頭先生」
「でもさあ…。普段、サイオン、忘れていない?」
ジョミー君の鋭い指摘。サイオンは公に出来ませんから、教頭先生はあちこちへ出向く職業柄もあって使用頻度が低い方。と、いうことは…。
「「「……大惨事……」」」
流血沙汰だ、と意見が一致。明日は朝からスプラッタかな?
翌日の十時、私たちが会長さんの家に出掛けてゆくと。
「かみお~ん♪ トリさん、来てるよ!」
みんな、とっても元気なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。後ろに続いてリビングに入れば、其処にシールドが張られていて。
「やあ、おはよう」
「見てよ、この元気一杯なシャモたちを!」
凄いだろう、とソルジャーが誇るだけあって、シールドも歪むかという勢いで繰り出される蹴りに、バサバサ羽ばたき。六羽のシャモは喧嘩できないようにシールドの中で区切られているという話ですけど、鏡の自分に喧嘩を売るという鶏ですから…。
「ぼくが思うに、こいつが一番キツイんじゃないかと」
ソルジャーが一羽を指差し、会長さんが。
「こっちもなかなかの面構えだよ? それに向こうのも」
「いずれ劣らぬ乱暴者です、と言っていたしね、飼っていた人」
選りすぐりの六羽を買ったわけだし、とソルジャー御自慢の凶暴なシャモが大暴れ中。そういえば最強の候補として残る二羽の他はどうなるんでしょう?
「ああ、それね。それなりに強いし、鍋にしようかと思ったんだけど、ブルーがね…」
「無益な殺生はやめておけ、って言ったんだよ。ぼくも一応、高僧だから」
「鍋にするなら一羽だけ、って言われちゃってさ。仕方ないから、四羽は寄付で」
「「「寄付?」」」
こんな凶暴な鶏を何処へ、と思ったのですが、行き先はマザー農場でした。他の鶏と交配するのに使えるらしくて、つまりは其処で…。
「うん、ハーレムを貰えるわけだよ」
シャモにとってはいい話だよね、とソルジャーが頷き、会長さんが。
「本来は食用のシャモだったしねえ、それを四羽も救ってあげれば残りを鍋にしてしまったって一応の徳は積めるだろう。それに残りの二羽も片方は鍋を免れるんだし」
「負けた方に用は無いからね? ハーレムで好きに暮らせばいいよ」
そして勝った方はハーレイの血肉となってハーレム! とソルジャーはブチ上げていますけれども、キャプテンのお相手はソルジャーだけ。一人だけしかいない場合でもハーレムと呼んでいいのかどうかが、正直、悩ましい所です…。
大暴れしている六羽のシャモ。会長さんたちと瞬間移動でお邪魔してみた教頭先生の家の庭には既に鳥小屋が出来ていました。会長さんが調達して来て据え付けたもので、六羽分のスペースが分けて取られた立派なもので。
「さて、ハーレイ。一羽ずつ入れてくれるかい?」
これを、と会長さんが示す先ではシールドに入った六羽がバタバタ、バサバサ。どう見ても普通の鶏ではなく、シャモであることが丸分かりで。
「…こ、これを私が入れるのか…?」
「決まってるだろ、今日から君が飼うんだからさ」
「よろしく頼むよ、ぼくの世界じゃ六羽はとても…」
会長さんの命令と、ソルジャーからのお願い攻撃。教頭先生は腹を括ってシールドに手を突っ込みましたが…。
「うわぁーっ!!!」
顔面に向かって炸裂した蹴り。教頭先生が狙いをつけた一羽はシールドが解かれ、自由の身となってしまったらしくて、蹴りに続いてクチバシでつつき、羽ではたいて殴る蹴るの世界。それでも出現しない教頭先生のサイオンシールド、たちまち流血の惨事ですけど。
「…な、なんとか入れたぞ…」
ゼイゼイと肩で息をしている教頭先生に次なる任務が。
「ご苦労様。残りは五羽だし、頑張ってよね」
「ぼくからもよろしくお願いするよ」
「わ、分かりました…」
頑張ります、と頭を下げる教頭先生は全く気付いていませんでした。会長さんとソルジャーの力ならば瞬間移動でシャモを鳥小屋に収納可能な事実に。ですから自分にシールドなんかは思い付きもせず、蹴られ、はたかれ、つつかれまくって…。
「…こ、これで全部を入れたのだが…」
どうすれば、と尋ねる姿はとうにズタボロ、生傷だらけ。会長さんは「ありがとう」と笑顔で返して、「これ」とシャモ用の飼料が詰まった袋を瞬間移動でドッカンと。
「今日から大事に世話をしてよね。一週間後に選別するから、それぞれ個性を見極めておいて」
「…個性?」
「強い個体を残したいんだってさ。上位の二羽から選ぶらしいよ」
凶暴な二羽を見付け出すことが君の仕事だ、と会長さん。身体を張れとか言ってますけど、ゴールは其処ではないんですけどね?
その日から教頭先生の孤独な戦いが始まりました。学校の授業なんかで出会う度に増えてゆく絆創膏。生徒というものは無責任ですから、凶暴な野良猫を飼っているとの噂も。それでもめげずに世話を続けて、一週間後の日曜日。私たちとソルジャーが瞬間移動でお邪魔すると。
「…ど、どうだろうか…」
これとこれだと思うのだが、と鳥小屋の扉に付けられた印。マジックでキュキュッと黒く塗ってあるだけで、印と言うより目印です。リボンでも結んだ方が分かりやすそうなのに…。
「リボンは酷い目に遭ったようだよ」
ぼくの世界から見てたんだよね、と話すソルジャー。
「鳥小屋に結ぼうと巻いた途端に、中からクチバシ! つつかれて指に穴ってね」
「え、ええ…。実にお恥ずかしい限りです…」
こんな具合で、と褐色の指に絆創膏。他にも沢山貼られていますが、それが最新。教頭先生は印をつけた二羽を指差し、どちらも特に凶暴であると保証しました。
「つつくのも蹴るのも激しいですね。他の四羽とはケタが違います」
「それじゃ、どっちがより凶暴かな?」
ソルジャーの問いに、「甲乙付け難いものがあります」という返事。
「もう少し飼えば分かるかもしれませんが、現時点ではどちらとも…」
「ありがとう。だったら気分で貰って行くから、君は残った方の世話をね」
「は?」
「そういえば説明しなかったかなあ? ぼくは最強のシャモが欲しくて、そのために一羽飼育する。君にも一羽飼って貰って、一週間後にバトルなんだよ」
闘鶏のルールは分からないから普通に喧嘩、とソルジャーはニコリ。
「君が飼ってる方が勝った場合は名誉なんだよ、最強の一羽!」
「で、では、私はこれから一週間もコイツを飼うのですか?」
「ぼくの世界では一羽が限界。…それは分かるね?」
「わ、分かりますが…」
分かるのですが、と肩を落としそうな教頭先生に向かって、会長さんが。
「ブルーのシャモに勝てるのを育ててみたくないかい? ぼくも応援しているからさ」
「お、お前が応援してくれるのか?」
「応援だけね」
何も手伝ってあげないけどね、と会長さんの笑みは冷たいものでしたけれど、応援の一言は効果絶大。教頭先生は凶暴な一羽の飼育を引き受け、生傷地獄の延長戦~。
ソルジャーの青の間と、教頭先生の家の鳥小屋と。各一羽ずつのシャモを残して、他の四羽は会長さんがマザー農場に移しました。ついでに鳥小屋の仕切りも外され、残った一羽は広い鳥小屋で暴れ放題、教頭先生を蹴り放題でつつき放題。
そんな一週間が過ぎて日曜日が来て、私たちは朝から会長さんのマンションへ。
「かみお~ん♪ 今日はリビングで闘鶏なんだよ!」
土俵もあるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「「「土俵?」」」
「大きい桶なの、中でトリさんが喧嘩するんだって!」
凄いんだよ、と飛び跳ねてゆく後ろに続いてリビングに入ると、直径二メートルはあろうかという桶というか巨大なタライと言うか。そして…。
「おはようございます」
本日はお世話になります、と私服のキャプテン。隣に私服のソルジャーが立っていて、二人の前には不敵な面構えのシャモが入ったシールド。
「見てよ、強さがググンとアップ! ハーレイが頑張って世話をしたんだ」
「実に凶暴な鶏ですねえ…。シールド無しでは近付けませんよ」
なるほど、キャプテンは教頭先生と違って無傷。教頭先生の方はあれからも生傷が絶えない毎日、きっと今日だって…。
「うん、ハーレイならボロボロだってね。それじゃ呼ぼうか」
準備は整っているようだから、と会長さんの青いサイオンが光ったかと思うと、教頭先生がパッと出現。シールド入りのシャモもくっついています。
「やあ、おはよう。今日も酷い目に遭ったようだねえ?」
「お、お前が応援すると言ってくれたから頑張れたのだが…」
果たしてこいつは勝てるのだろうか、と教頭先生の自信はイマイチ。けれど…。
「やっぱアレだよな、身体を張ってた方が攻撃力はあるよな」
サム君がシャモをチラリと眺めて、キース君も。
「暴力をふるいまくっていたヤツの方が多分ファイトがあるだろう。好き放題に暴れていたんだ、こっちに勝ち目があると思うが…」
「ぼくもそういう意見だけどね?」
結果はどうだろ、と会長さん。いよいよバトルの始まりです。無制限一時間一本勝負。闘鶏のルールは知りませんけど、勝ったらソルジャーに鍋にされちゃうわけですが…?
教頭先生に暴行を加え続けて二週間のシャモと、この一週間はキャプテンに世話をされていたシャモと。桶に放された二羽の勝負は一時間も続きませんでした。殴る蹴るの大喧嘩が派手に繰り広げられて十五分くらい、キャプテンの方のシャモが桶の縁へと飛び上がろうとして。
「勝負あったあーっ!」
そこまで! と会長さんの声。闘鶏のルールでは土俵から逃げようとした方が負けで、これ以上バトルを続けさせると負けた方のシャモが殺されかねないという話。
「はい、君の方のシャモが勝ったってね。おめでとう」
「い、いや…。頑張って世話をした甲斐があって良かった」
この一羽が頂点に立ったわけだな、と教頭先生、感無量ですが。
「ありがとう。君のお蔭で最強のシャモが手に入ったよ」
ソルジャーが教頭先生に握手を求めて。
「ぼくのハーレイのシャモは駄目だね、マザー農場送りってね。そして君のシャモは…」
「あなたの世界で飼って頂けるわけなのですね、嬉しいです」
「えっ、飼わないけど?」
このまま店に連れて行くんだけど、とシャモをシールドで包むソルジャー。
「流石にこれでは持って行けないから、後でケージに入れるんだ。そして肉屋に」
「…肉屋?」
「そうだよ、絞めて貰ってシャモ鍋に!」
「シャモ鍋ですって!?」
そんな、と教頭先生は愕然とした表情に。
「さ、最強のシャモがどうしてシャモ鍋なのです、飼うと仰るなら分かりますが…!」
「あやかるためだよ、シャモの闘志はハーレム作りのためらしいしね」
ねえ? とソルジャーの視線がキャプテンに向けられ、キャプテンが。
「ブルーがこちらの世界で聞いて来たそうで…。シャモ鍋は私が食べるということになっております、これだけ強いシャモの肉でしたらパワーもあるかと」
「…シ、シャモ鍋……」
教頭先生はダッと駆け出し、ソルジャーのシールドに包まれてしまったシャモの前へと。
「き、聞いたか、お前!? シャモ鍋にされてしまうそうだぞ、お前はあんなに頑張ったのに!」
私と特訓を積んできたのに、と叫ぶ教頭先生、どうやら会長さんのために勝ちたくてシャモと戦っていたようです。その戦友が鍋と聞いたら、ショックを受けても無理ないかも…。
「うーん…。情が移ったというヤツかな?」
シャモを庇っている教頭先生を横目に、会長さんがノホホンと。
「蹴りの特訓だと缶の蓋を盾にして立ち向かったり、とにかくファイトだと真っ向勝負を挑んでみたりと自己流で励んでいたからねえ…。勝ったらシャモ鍋になるとも知らずに」
「そ、そこまでなさってらっしゃったのか!?」
どおりで生傷だらけの筈だ、とキース君。
「それだけの愛情を注いだシャモをだ、鍋となったら…」
「止めたいだろうね、全力で。だけど相手はブルーだからねえ…」
まず勝てないね、と会長さんは笑いましたが、教頭先生はガバッと土下座。
「このとおりです! 鍋にしないでやって下さい、あいつは本当に頑張ったんです!」
「…ぼくはそのファイトが欲しいわけでね、是非ハーレイに食べさせないと!」
だから、とソルジャーはキャプテンの背中をバンと叩くと。
「見たまえ、向こうは土下座で来たよ? あれに対抗してシャモをゲットだ!」
「私がですか!?」
「他に誰がいると?」
奪って来い! と押し出されたキャプテンは目を白黒とさせながら。
「…で、ですが、ブルー…。土下座よりも強力なお願いの方法はあるのですか?」
「知ってたらアドバイスしているよ!」
オリジナルで行け! と蹴り飛ばされたキャプテンですけど、オリジナル土下座などがあるわけもなくて。
「お願いします!」
こちらもガバッと教頭先生の前に土下座で、額を床に擦り付けました。
「最強のシャモでパワーをつけろとブルーに言われておりまして…。そのシャモを譲って頂けませんか、何もかもブルーのためなのです!」
「…し、しかし…」
いくらブルーのためでもシャモは…、と教頭先生。
「こいつはこっちのブルーのためにと頑張ったのです、それを鍋にはさせられません!」
「そこをなんとか、私のブルーのためにですね…!」
土下座対土下座、シャモ鍋がかかった一本勝負。教頭先生が勝つか、キャプテンが勝つか、と私たちは固唾を飲んで見守りましたが…。
「仕方ないねえ…」
最強のシャモのパワーは温存する方にしておこうかな、とソルジャーの声が。
「食べてしまったら一回こっきり、パワフルになっても一度きりってね。…それよりはパワーを小出しに細く長くのお付き合いかな」
「「「はあ?」」」
「そっちの負けたシャモと一緒にマザー農場! そしてハーレムで卵をせっせと産ませる!」
その卵を毎日貰いに来よう、という大きな譲歩が。
「ハーレムだったら卵は一日一個じゃないだろ、雌鶏の数だけあるんだろうし…。ぼくのハーレイに毎日一個ずつ失敬したって問題ないと思うけど?」
どう? と訊かれた会長さんは。
「まあ、そうかな…。一羽頼むよ、と言っておいた分が二羽になっても大したことは…」
「じゃあ、それで! ぼくのハーレイのぼくへの愛の深さは土下座合戦で分かったから!」
愛の深さが分かった以上は、次は実践! とグッと拳を。
「いいかい、ハーレイ? その愛でもって、毎日シャモの卵を食べる! そしてパワーを!」
「分かりました、ハーレムを作る勢いで毎晩、尽くしまくればいいのですね!」
「そう! 君が飼ってたシャモがヘタレなハーレイのシャモに負けた分を償って余りあるパワフルな時間を期待してるから!」
早速帰って一発やろう、とバカップルならではの熱いキス。次の瞬間、姿がパッと消えてしまって、届いた思念波。
『最強のシャモの卵、よろしくーっ!!』
「「「た、卵…」」」
シャモ鍋が卵に変わったのか、とホッと一息つきましたけれど、ソルジャー、なんて言いましたっけ? 毎日シャモの卵を失敬しに来るとかって…。
「あいつ、毎日来やがるのかよ!?」
「それくらいだったらシャモ鍋の方がマシでしたよ!」
毎日迷惑かけられますよ、というシロエ君の叫びに泣きの涙の私たち。けれども教頭先生はと言えば、ソルジャーのシールドが解けたシャモをガッシリ抱き締めていて。
「よ、良かったな、お前…! 鍋にならずに済んだぞ、お前…!」
マザー農場で強く生きろな、と呼び掛ける教頭先生でしたが。
「ケーーーッ!!!」
シャモの蹴りが一発、顎に炸裂。バサバサバサと羽をバタつかせ、教頭先生の頭を蹴って、つついて…。所詮は鶏、三歩も歩かず恩を忘れたみたいです。シャモでもコレだとソルジャーの方は…。明日から毎日シャモの卵を貰いにやって来るだなんて、誰か助けて下さいです~!
罪なシャモ鍋・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
ソルジャーのとんでもない提案のせいで、シャモを飼うことになった教頭先生。
情が移ってしまいましたが、闘鶏のルールは本物です。シャモは本来、闘鶏用です。
次回は 「第3月曜」 7月16日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月は、キース君を別の世界に追い払う企画が着々と…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
(ぼくみたい…)
昔のぼく、とブルーが眺めてしまった子供。幼稚園くらいの男の子。
学校が普段よりも早く終わった日の帰り道のこと、バス停から家まで歩く途中で出会った光景。
これから何処かへ出掛けようというのか、でなければ子供が勝手に外してしまったのか。小さな頭に見合った帽子を母親が被せてやっていた。つばが広い帽子を。
夏ほど日射しは強くないのに、男の子ならばスポーツ選手風の帽子の方が多いのに。
だから思った、幼かった頃の自分のようだと。あの頃の自分がそうだったから。
(あの頃のぼく…)
いつも被っていた帽子。母が頭に被せた帽子。
幼稚園へと出掛ける時には、制服に合わせた揃いの帽子だったけれども、普段は違った。両親と一緒に出掛ける時や、母と散歩に行ったりする時は別の帽子を被せられていた。
日射しがそれほど強くなくても、うららかに晴れた春の日などでも。
(あんまり好きじゃなかったけれど…)
幼稚園での帽子を除けば、被っている子はあまりいなかったから。
ファッションで帽子を被ろうという感覚が幼稚園児にあるわけがない。スポーツ選手風の帽子にしたって、ファッションではなくて憧れから。憧れの選手と同じ帽子だ、と被った子たち。
それ以外の子たちは帽子なんかは滅多に被っていなくて、親も被せてはいなかったろう。帽子を被らせて送り出しても、忘れてくるのがオチだから。公園か何処かで脱いでしまって、その辺りにポンと置いておいたら、それっきり。家に帰る時には持って帰らず、頭に帽子は被っていない。
(公園のベンチに置いていたって…)
其処から何処かへ移動したなら、帽子は置いてゆかれてしまう。子供には多い忘れ物。遊ぶ方が子供にとっては大切、遊び道具にもならない帽子は要らない存在。幼い子供には被せるだけ無駄、失くしてしまうか、忘れて帰るか。
(被ってない子が多かったんだけどな…)
それなのに自分は被せられていた、他の子供が滅多に被っていない帽子を。
おまけにスポーツ選手風ではなくて、つばの広い帽子。ぐるっとつばが取り巻く帽子。
ぼくは帽子は好きじゃなかった、と母親と手を繋いだ子供を見送った。あの男の子も被せられた帽子が嫌いだろうか、と考えながら。
家に着いても、頭に残っていた光景。帽子を被っていた子供。幼かった頃の自分のように。
帽子だっけ、と遠い子供時代を思い返した。ダイニングでおやつを食べながら。
遠い昔と言ってはみても、前の自分が生きた歳月の記憶を思えば、ほんの一瞬なのだけど。ついこの間の出来事に過ぎず、大して昔ではないのだけれど。
(ぼくは身体が弱かったから…)
強い日射しは良くないから、と父と母とが被らせた帽子。日射しが柔らかい春や秋でも。まるで太陽から隠すかのように、つばが大きく広がった帽子。
日射しが身体に悪いというのは、アルビノだったからではない。
SD体制があった時代までは、人間が全てミュウになるよりも前の時代は、アルビノに生まれてしまった人間は大変だったと聞いている。日射しを受ければ酷い日焼けで、瞳も光に弱かった。
ところが前の自分は違った、途中からアルビノに変化したのに。
あの忌まわしい成人検査を受ける前までは金髪に青い目、アルビノなどではなかったのに。
突然に起こった急激な変化、赤い瞳に銀色の髪。普通だったら、人体実験云々以前に困難に直面したことだろう。赤い瞳は光に弱くて、実験室の強い光で痛みを覚えていただろう。
けれども、そうはならずに済んだ。肌も瞳も、光に焼かれはしなかった。
サイオンが守ってくれていたから。無意識の内に身体をガードし、光の害を防いでいたから。
研究所で嵌められた首のサイオン制御リングも、その力だけは封じなかった。あまりにも自然に身体の中を巡るサイオン、それまでは封じられなかった。
アルビノゆえの欠点を補うための本能、ブルーの身体に備わった機能。呼吸などと同じで封じることなど出来はしないし、ブルー自身にも全く無かったサイオンを使っている自覚。
今の自分もそれと同じで、肌も瞳も太陽を避ける必要は無い。避けなくてもいい、陽の光を。
(その点だけはサイオンに感謝…)
とことん不器用なサイオンだけれど、身体だけはきちんと守ってくれた。
本来は光に弱い筈のアルビノ、太陽は大敵の筈なのだけども、それで不自由をしたことは無い。前の自分と全く同じに、強い光でも平気な瞳。酷い日焼けを起こさない肌。
(ちゃんと補ってくれているんだよね)
生まれた時から。産声を上げた瞬間から。
アルビノの子供は今は誰でもそのための能力を備えているから、母たちも心配していなかった。ブルーがこの世に生まれる前から、母のお腹にいた時から。
病院の検査でアルビノの子だと分かったけれども、両親は「男の子だから、ブルーという名前がいいだろう」と同じアルビノだった偉大なソルジャー・ブルーを連想しただけ、その程度のこと。
(それに、タイプ・ブルー…)
これも検査で分かっていた。ソルジャー・ブルーと同じなのだと、最強のサイオンを持っている子が生まれて来ると。名前の候補は「ブルー」しか無かった、その時点で既に。
偉大な英雄、ソルジャー・ブルー。
彼と同じにアルビノの子供、タイプ・ブルーの男の子。生まれたならば名前は「ブルー」。
両親がそう決めて待っていた子供、生まれる日を待ち侘びていた息子。
どんなに器用にサイオンを使いこなすだろうかと思ったらしいが、それは外れた。ものの見事に外れてしまって、親戚の誰もが笑ったくらいに不器用な子供が生まれて来た。
タイプ・ブルーの赤ん坊でなくても、少しくらいは思念波を使えるものなのに。泣き叫ぶ時には感情の欠片が零れて来るから、泣いている理由が漠然と分かるものなのに。
赤ん坊だったブルーときたら、泣き叫ぶばかりで、母はお手上げ。簡単な意思表示が出来る頃になるまで、とんちんかんなことをしていたらしい。
お腹が空いたと泣いているのに、オモチャを使ってあやすとか。眠くなってぐずっていることに気付かず、ミルクを与えて大泣きだとか。
それくらいに使えなかったサイオン、タイプ・ブルーに生まれたというだけ。
(アルビノをカバー出来ただけでも…)
マシだと思おう、それまで不器用だと目も当てられない。
カバー出来なければ、太陽の光を受ければ酷い日焼けで、瞳は光に弱いのだから。
(そんなのだったら、帽子無しだと出歩けないよ)
春や秋どころか、真冬でも、きっと。一番日射しの弱い冬でも。
曇りや雨の日ならばともかく、太陽が顔を出している日は頭に帽子。つばがぐるりと取り巻いた帽子。幅の広いつばが。
両親が一年中、被らせたろう帽子。幼いブルーには意味が分からず、嫌いだったろうに。それが身体を守るとも知らず、被っている子供が少ないからと被せられる度に嫌がったろうに。
(そうでなくても…)
嫌いだった帽子。日射しは身体に良くないから、と被せられるのが嫌だった帽子。
一年中被ったわけではないのに、冬は被らなくて済んだのに。
でも…。
(あれ?)
好きではなかった帽子の記憶。被せられるのが嫌だった帽子。
そんな帽子の思い出だけれど、遠い記憶の中に一つだけ。お気に入りの帽子が一つだけあった。自分から進んで被った帽子が、御機嫌で被っていた帽子が。
(なんで…?)
嫌いだった筈の帽子の中にお気に入り。好きだった帽子。
何処かが他のと違ったろうか?
その帽子だけは特別だったろうか、と考えたけれど、デザインが違った覚えは無い。つばの広い帽子で、素材もきっと似たようなもの。違う所があったとしたら…。
(リボンの色…?)
帽子にくるりと巻き付けてあった、飾りのリボン。鮮やかな水色のリボンの帽子。
それがついた帽子が大のお気に入り、小さくなって頭が入らなくなるまで被っていた。外に行く時は自分で被って、得意で頭の上に乗っけた。
好きだった帽子、いつでも被っていたかった帽子。嫌いだった筈の帽子なのに。
(でも、次のも…)
お気に入りの帽子が見付かったのなら、その次からは母は同じ帽子を買っただろう。デザインや素材がそっくりのものを、「これがブルーの好きな帽子」と。
けれども記憶に無い帽子。好きだった帽子はあの一つだけで、他の帽子の思い出は無い。喜んで被った帽子の記憶も、得意だったという記憶も。
お気に入りの帽子は本当に一つ、あの一つだけ。水色のリボンが鮮やかだった帽子。
(水色のリボン…)
はっきりと記憶に残っているのはリボンの色だけ、他はぼやけているけれど。
何故、気に入っていたのだろうか?
リボンの色が好みだったか、被り心地が良かったのか。
嫌いな筈の帽子たちの中の特別な一つ、それが特別になった理由がどうにも不思議で、探っても全く掴めないから。手掛かりさえも見付からないから、困っていた所へ通り掛かった母。
これはチャンスだと呼び止めて訊いた。「ぼくの帽子を覚えている?」と。
お気に入りだった、水色のリボンがくっついた帽子。自分から進んで被った帽子。
母は帽子を覚えていた。そういう帽子が確かにあった、と。
「ママ、その帽子…。ぼくがどうして好きだったのかも知っている?」
ぼくは全然覚えてないけど、ママは理由を知ってるの?
「ええ、もちろん。初めて被った日のせいなのよ」
「えっ?」
思いもよらない意外な答え。初めて帽子を被ったその日に、ブルーは機嫌が良かったらしい。
それ以来、帽子がお気に入りになって、外へ行く時には被りたがったと話す母。
「どうしてかしらね、あの日のブルーは本当に御機嫌だったのよ」
公園に出掛けただけなんだけれど…。
あの帽子を初めて被せてあげた日は、公園に寄ったのと病院だけよ。
初めて帽子を被った日。水色のリボンがついた帽子を初めて被せて貰った日。
ブルーが生まれた病院の近くの大きな公園、そこへ遊びに行ったという。母に連れられて病院へ出掛け、小児科の健診を受けた帰りに。一年ごとの健診だったらしいから。
「じゃあ、春なの?」
ぼくは三月生まれだし…。三月の末だし、その頃のこと?
「そうなるわねえ…。誕生日が過ぎてから行く決まりだから、四月だけれど」
四月の間に行けばいい健診、注射をされるわけではなかった。身長や体重を測ったりするだけの健診だけれど、ブルーは機嫌が悪くなるから。白衣の医者を見ただけで御機嫌斜めだから。
健診の帰りは公園に寄って、遊んで帰る。公園の鳩に餌をやったり、ブランコに乗ったり。
たったそれだけ、特別な何かがあったわけではないらしい。幼いブルーが大喜びしそうな遊具があるとか、公園ならではのお菓子を買って貰っただとか。
人気の遊具で遊ぶにはブルーは小さすぎたし、お菓子はとても食べ切れないから。
ただ公園へ行ったというだけ、鳩に餌をやって、ブランコに乗って…。
「それじゃ、帽子は…」
どうしてその日に被っていたの?
特別なお出掛けってわけじゃないのに、その日から初めて被ったなんて…。
「お誕生日を過ぎてすぐのことでしょ、使い初めに丁度いいじゃない」
帽子を被る季節が始まる頃だし、お誕生日を元気に迎えたからこそ健診に行けるわけでしょう?
新しいものをおろす時には、特別でなくても素敵な日。
ブルーにもママにも記念の日だから、新しい帽子を被せたのよ。健診の記念。
「…水色のリボンは?」
ぼくはそれしか覚えてないけど、水色、あれが初めてだった?
「違うわ、水色のリボンはいつもと同じよ」
ブルーの名前には青って意味もあるでしょう。それに男の子だものね。だからリボンは水色よ。最初の帽子からずっと水色、色の濃さもいつでも同じくらいで。
「それなら、ぼくが気に入ってた帽子…」
他の帽子と何も違いは無かったわけ?
デザインがいつもと違っていたとか、違う素材の帽子だったとか。
「それがねえ…。本当に特に何も無いのよ、これというのを思い付かないの」
あの日に初めて被せて行ったら、とても御機嫌が良かっただけで。それも公園に行った後。
だから公園でよっぽど嬉しいことがあったのよ、ブルーにとっては。
ママには全く分からないけれど、子供ってそういうものでしょう?
大人から見たらなんでもないこと、それが嬉しくてたまらないとか、楽しいだとか。
結局、母にも謎だった帽子。お気に入りの理由。
おやつの後で部屋に戻って考えたけれど、手掛かりは公園くらいなもので。
(鳩の餌やりとか、ブランコは定番…)
滑り台などもよく遊んでいた。楽しかったけれども、特別とまでは思えない。被っていた帽子がお気に入りになるほど、素晴らしい思い出をくれたとまでは。
(……公園……)
あそこの公園、と風景を思い浮かべていたら、頭を掠めていった考え。公園は人がいる場所で。
(まさか、ハーレイ?)
会ったのだろうか、今よりもずっと若い姿のハーレイに。
幼い自分が健診の帰りに母と寄った日に、あの公園で。
前にハーレイから聞いていた。ジョギングコースの一つなのだと、公園を走ってゆくのだと。
もしかしたらハーレイと出会っただろうか、あの帽子の日に、それと知らずに。
手を振って貰った思い出の帽子だったろうか、お気に入りだったあの帽子は…?
(そうだったの…?)
ゼロとは思えない可能性。
あの病院から退院した日も、春の雪の中、生まれて初めて外に出た日も、ハーレイと病院の前で出会っていたかもしれないと聞いた。それらしき子供をジョギングの途中に見たというハーレイ。母親の腕の中、ストールに包まれた赤ん坊を。
(…公園でだって、会っていたかも…)
確かめてみたい、と思い始めた所で聞こえたチャイム。来客を知らせるチャイムの音。鳴らした人は、と窓から見下ろせば、手を振るハーレイ。
応えて大きく手を振り返しながら、訊こうと思った。帽子を被った自分に会ったか。
部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合わせ。お茶とお菓子もそこそこにして、自分の向かいのハーレイに訊いた。
「ハーレイ、水色のリボンの帽子を覚えてる?」
「はあ?」
俺はリボンがついた帽子を持っちゃいないが…。お前か、夏に被ってたっけか?
俺の前では被っちゃいないが、帽子があるのは確かに見たな。あれのことなのか、その帽子?
「…ううん、今の帽子のことじゃなくって…」
小さい頃だよ、今よりもうんと小さくてチビだった頃。
ぼくは帽子が嫌いだったけど、お気に入りの帽子が一つだけ…。それのリボンが水色なんだ。
幼稚園の頃に、ママに連れられて生まれた病院へ健診に行って…。
帰りに公園で遊んだんだよ、ママが連れてってくれたから。新しい帽子を初めて被って。
その時に公園でいいことがあって、帽子がお気に入りになっちゃったみたい。
だけどママには心当たりが何も無くって、ぼくにも無くて…。
考えている内に思い出したんだ、あの公園はハーレイのジョギングコースの一つだってこと。
ハーレイ、ぼくを見かけなかった?
四月なんだよ、水色のリボンがついた帽子を被った小さな子供に出会わなかった…?
「ふうむ…。あの公園で四月頃か…」
ついでに水色のリボンの帽子のチビか、と腕組みをして考え込んだハーレイ。
四月頃なら桜もあるとか、花壇の花は何があるかと挙げてゆくから。
「…思い出した?」
花のついでに、ぼくの帽子のこと。水色のリボンがくっついた帽子。
えっとね、今のと同じでつばの広い帽子だったんだけど…。ぐるっとつばが取り巻いた帽子。
「…いや…。生憎と帽子は覚えていないな…」
ファッションチェックをしながら走っているわけじゃないし、出会った人間も数えてないし。
俺の目の前ですっ転んだとか、そういうのがあれば覚えもするが…。
公園を走っていてチビが目に付く時ってヤツはだ、噴水に入って水遊びだとか、そういうのだ。でなきゃ木登り、とにかく元気のいいヤツらだな。
チビのくせして頑張ってるな、と思えば自然と目も行くもんだが…。
お前、どっちもやってないだろ、噴水に入るのも、木に登るのも。
帽子を被って大人しくしているような子供は目に付きにくい、と言ったハーレイだけれど。
水色のリボンの帽子も覚えていないと言われたけれども、「しかし…」と口にした言葉。自分が走っていた可能性はあると、それも比較的高いのだ、と。
「その時期だったら、けっこう走っていたからな」
なにしろさっきも挙げた通りに公園に花が溢れる季節だ。見物がてら走って行くのに丁度いい。
おふくろは花が好きだからなあ、俺もそこそこ分かるんだ。
知らない花でも札を見ればいいし、春になったと実感出来るし…。春はやっぱり公園だな。他のコースを走りに行っても、方向を変えて寄ってみたりな。
「学校の仕事は?」
健診があった日、平日なんだと思うけど…。
春休みの間なら会えるだろうけど、その他の日だと駄目だよね?
「そうと決まったわけでもないぞ。休みの日だってあるもんだ」
年度初めでも、特に忙しいって仕事が無ければ休みは取れる。もちろん他の時期でもな。お前のクラスの担任の先生、休んでいないか?
その気になったら週に一回、休みを取れるって決まりなんだが。
「そういえば…。研究日です、って聞いているけど、あれがお休み?」
先生は研究をしてるんじゃなくて、ホントのホントにお休みだったの?
それでお土産が貰えたりするの、クラスのみんなにお菓子だとか。
「…お前、研究だと信じていたのか…」
先生が勉強に出掛ける方なら研修だ。研究日ってヤツは自分の自由に使える日。研究好きなら、本気で研究するんだろうが…。大抵はただの休暇だな。日帰り旅行に出掛けてみたり。
俺だって休もうと思えば休める、週に一回。
お前に出会ってからは一度も休んでないがな、お前に会える可能性を捨てたくないからな。
研究日で休んでお前の家に行くっていうのはあんまりだしなあ、だから休んでいないだけだ。
どうやら週に一回くらいは取れるらしい休み。
ハーレイはそれを使って走っていたという。年度初めの平日でも。幼かったブルーがあの帽子を被って公園にいた日も、ジョギングしていた可能性があると。
「じゃあ、あの日のぼくはハーレイに…」
走って来たハーレイに公園で会ったの、ぼくは覚えてないけれど。
ハーレイも見覚えは無いって言うけど、会ってないとも言えないんだね?
「うむ。可能性がゼロってわけではないしな、会ったかもしれん」
花壇の側だか、鳩が沢山いる辺りだか。それともブランコか滑り台か…。
花の季節なら公園の中を隈なく走ったりもするし、お前が何処に居たって出会える。ブランコに乗ってるチビがいるなと、鳩に餌をやってるチビもいるなと、ただ走ってゆくだけだがな。
「ぼく、ハーレイに手を振ったかな?」
走って来る人がいるって分かったら、ブランコから降りて手を振ったかなあ?
鳩の餌やりの途中でも。鳩がビックリして飛び立っちゃっても、頑張って走っている人は凄いと思って眺めるだろうし、手を振るのかな?
何処まで行くのか分からないけど、頑張って元気に走って行ってね、って。
「チビのお前か…。手を振って貰ったのなら、振り返したな」
俺は応援には応える主義だ。どんなチビでも、礼儀正しく応えないとな?
振って貰った手に振り返せないような、余裕の無い走り方はせん。応援されたら笑顔を返すし、もちろんきちんと手を振って行くさ。
少し遠くから振られてもな、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。
自分に応援の声が届けば、手を振る姿を目にしたならば、必ず応えて手を振ってゆくと。どんな小さな子供であろうが、無視して走って行きはしないと。
(あ…!)
それを聞いて蘇って来た記憶。幼かった頃の自分の記憶。
出会った場所は多分、公園。帽子の自分に手を振りながら颯爽と走って行った人。リズミカルに地面を踏みしめながら、タッタッとペースを乱しもせずに。
(だけど、笑顔で手を振ってくれたんだよ)
手を振った自分に笑顔で応えてくれた人。眩しかった笑顔と、振って貰った手と。
生憎と顔は思い出せなくて、肌の色さえ覚えていなくて。
あの帽子を初めて被った日なのか、別の日だったか、それすらも定かではないけれど…。
「ぼく、走ってた人に手を振ったよ」
あそこの公園だったんじゃないかな、なんだかそういう気がするから。
笑顔で手を振り返してくれた人だったんだよ、そして元気に走って行ったよ。
「ほほう…。そいつは俺だったか?」
チビのお前に手を振って行ったの、俺みたいな肌の人間だったか?
「分からない…。全然、覚えていないんだけど…」
男の人だったことと、笑顔と、手を振り返して貰ったことしか。
それだって今まで忘れてたほどで、ハーレイだったのか、別の人なのか、分からないよ。
とても残念、ハーレイだったら良かったのにね…。
もしもあの時の出会いがハーレイならば、と惜しくてたまらない気持ち。
肌の色も顔立ちも、体格さえも覚えていない自分がもどかしい。
けれども、幸せだった思い出。幼かった胸が弾んだ思い出。
自分の姿を見て貰えたと、一人前に扱って貰えたのだと。
幼くてチビで、幼稚園に通う自分だけれども、ちゃんと手を振って貰えたと。まるで大人と同じ扱い、一人前に見て貰えたと。
(それで帽子…!)
手を振った後で、振り返して貰って、走ってゆくその人の後姿を見送った後で。
頭の帽子を持ち上げて被り直したのだった、この帽子で気付いて貰えたのだ、と。他の子供とは少し違った帽子で、被っている子が少ない帽子。水色のリボンもよく目立つから。
(帽子のお蔭なんだ、って…)
いつもは嫌々被る帽子を自分で被った、被り直した。一人前の扱いをして貰えた帽子。頼もしい帽子。この帽子は特別な帽子なんだ、と得意になって。
その日から帽子はお気に入り。何処に行くにも喜んで被った、被って出掛けた。
手を振ってくれた人にまた会えるかも、と。
また会えたら元気一杯に大きく手を振らなくてはと、あの人に手を振るんだから、と。
(あの帽子なんだ…!)
幼かった自分のお気に入りの帽子。水色のリボンがついていた帽子。
似たような帽子はその前も、後にも被ったけれども、どの帽子も好きにはなれなくて。どんなに形が似通っていても、どれも嫌いな帽子ばかりで。
たった一つだけ好きだった帽子は、公園でいいことが起こった帽子。初めて被って健診のために出掛けた帰りに、病院の近くの公園で出会った素敵な出来事。
母は覚えていなかったけれど、自分も忘れていたけれど。
公園で走っていた人に向かって手を振った。その人が笑顔で振ってくれた手、子供扱いしないで振ってくれた手。
それが嬉しくて、帽子のお蔭だと頭から信じて、お気に入りになったあの帽子。
また会いたいから、手を振りたいから、お気に入りの帽子を被っていた。
この特別な帽子を被れば一人前だと、あの人の目には一人前に映るのだから、と。
「ハーレイ、思い出したよ、ぼくの帽子のこと…!」
水色のリボンがくっついた帽子。
あの帽子を初めて被って公園に行ったら、走って来た人に会ったんだ。ぼくは手を振って、その人も笑顔で手を振ってくれて…。
間違いなくあの日のことだったんだよ、初めて帽子を被った日。
帽子のお蔭で一人前に扱って貰えたんだ、って嬉しくて…。それで帽子がお気に入りになって。
またあの人に会えるかも、って自分で帽子を被っていたよ。帽子は嫌いだったのに…。
あの帽子だけがホントに特別、またあの人に会いたいよ、って被って待っていたんだ、ぼくは。
わざわざ待ってたくらいなんだもの、あれはハーレイだったんだよ。
ぼくは覚えていないけれども、肌の色も顔も覚えてないけど、あれはハーレイ。
きっとハーレイだったと思うな、嫌いだった帽子がお気に入りになるくらいなんだから。
「なるほどなあ…。チビのお前が俺にまた会おうと待っててくれた、と」
そいつは実に光栄だな。出会った時の帽子までが気に入りになっちまうほど、チビのお前が感激した出会いだったんならな。
「やっぱりハーレイに会ったんだと思う?」
顔も肌の色も思い出せなくても、あの日に会ったのはハーレイだった?
チビだったぼくに手を振ってくれて、笑顔で走って行っちゃった人。
「お前がもう一度会いたいと思ってたんなら、俺なんじゃないか?」
走りながら手を振るヤツは多いが、お前がそこまで感動しちまったんならなあ…。
帽子のお蔭だと思い込んじまって、その帽子をせっせと被り続けて。
また会いたいと思っていてくれたんなら、俺だったんだと考えるのが自然だろう。
いくらチビでも、赤の他人をそこまで頑張って追い掛けはせんさ。
お前も俺も記憶が無くても、前の記憶が無い状態でも、そいつがいわゆる運命ってヤツだ。
俺とお前は一瞬とはいえ、運命の出会いをしたんだな。お互い、気付いていなくってもな…。
「あの帽子を被って待っていたぼく…」
また会いたいな、って待っていたぼく、ちゃんとハーレイに会えたのかなあ?
何処かの街角とか、あの公園とかを走るハーレイ、ぼくはもう一度会えたのかな?
「どうだかなあ…?」
そいつは俺にもサッパリ分からん。
そもそも、お前の気に入りの帽子。それの記憶が無いからなあ…。
お前と運命の出会いを果たしたつもりではいるが、俺の方には何の記憶も残っちゃいない。
四月の公園、走った回数は数え切れないくらいだし…。日記にもコースは全く書いていないし、お前が健診に出掛けた日付が分かった所で、何の証拠も見付からないぞ。
休みを取って走っていたなら、なおのこと書いちゃいないんだ。俺の日記は覚え書きだしな。
「そっか…。もう一度会えたかも分からない上に、あれがハーレイだっていう証拠だって…」
出て来ないんだね、探してみても。
ぼくが健診に行ったっていう日、ママに訊いたら分かるだろうけど…。
ハーレイの方に記録が無いんじゃ、休みと綺麗に重なっていても、公園に行ったかどうかが全く謎ってわけだね。何処かを走っていたかも、ってだけで。
見付かりそうにない証拠。あの日、ハーレイに出会ったのだと確認することは出来ないけれど。
証拠は何処にも無いのだけれども、お気に入りの帽子だったから。
あの日、初めて被った帽子は忘れられない思い出の帽子、それを被って待っていたから。
被っていればまた出会えると、手を振ってくれたあの人に会おうと待っていたから。
(きっとハーレイ…)
顔も、肌の色さえも覚えていないけれど、あの時に会ったと思いたい。
笑顔で手を振って走ってゆく人に、前の生から恋した人に。
(うん、ハーレイに会ったんだよ…)
ハーレイが言うように運命の出会い、一瞬だけ交差して、手を振って別れた。
互いに気付いていなかったけれど、それでもきっと出会っていた。
お気に入りになった帽子を初めて被った、あの春の日に。
ハーレイが公園を走っていた日に、広い公園の中の何処かできっと…。
好きだった帽子・了
※被せられる帽子が好きではなかった、幼かった頃のブルー。被らなくてはいけなくても。
けれど、一つだけあったお気に入りの帽子。きっとハーレイに出会えたのです、被った日に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(先っぽがお辞儀しているんだよ)
うん、とブルーが眺めた糸杉。学校からの帰り、バス停から家まで歩く道の途中。
道沿いに並ぶ家の一軒、其処の庭にすっくと聳える糸杉。いつも目にする木なのだけれど。毎日前を通るけれども、ふと目に付いた木の天辺。
糸杉らしくヒョロリと伸びた天辺、それが少しだけ曲がっていた。まるでお辞儀をしているかのように。天辺もそうだし、注意して見れば他にも先だけ曲がった枝が何本か。
曲がると言ってもほんの少しだけ、注意しないと分からない程度。ごくごく控えめなお辞儀。
それでも糸杉はお辞儀する木で、この木だって、ちゃんと。
(うん、いつもお辞儀をしている木…)
面白いよね、と足を止めて糸杉を観察している内に。お辞儀した枝を探す間に、浮かんだ疑問。
(…誰に教わったんだっけ?)
糸杉のお辞儀。木の天辺が曲がっていること。
いつの間にやら知っていた知識、糸杉を見たらぽっかりと浮かび上がった知識。なんとも思わず木の天辺を眺めたけれども、お辞儀を確認したけれど。
前には全く知らなかった気がする、糸杉のお辞儀。そう思って見上げたことが無い。
(パパとかママに教わったんなら…)
きっと何度もお辞儀を見た筈、幼い頃なら自分もペコリとお辞儀を返したことだろう。なにしろ幼い子供なのだし、相手が木だってお辞儀する。お辞儀していると教えられたなら。
(うん、きっと…)
気付けば、自分も「こんにちは」と。礼儀正しく、ピョコンと、ペコリと。
ところがそういう覚えなどは無くて、糸杉はただの糸杉だった。そういう名前で呼ばれる庭木。天辺なんかは気にしていなくて、お辞儀に気付く筈も無い。
そうなってくると…。
(前のぼく?)
自分の記憶ではなかったのだろうか、糸杉のお辞儀。天辺が曲がっているということ。
前の自分の記憶だったら頷けるけれど、今日まで全く気付かないのも納得だけれど。
(でも、糸杉…)
美味しい実をつける果樹とは違うし、糸杉はただの庭木に過ぎない。この家のように高く聳える木に仕立てるか、もっと低めに刈り込んで並べて生垣にするか、そういった庭木。
シャングリラでは役に立ちそうもなくて、綺麗な花だって咲きはしないし…。
(…公園向けってわけじゃないよね)
どう考えても、白い鯨には似合わない。使えそうにない糸杉の木。
それとも自分が覚えていないだけで、糸杉は木材向けだったろうか。固くて丈夫で何かと便利な木だからと植えられていたか、成長が早くて使いやすかったか。
(…どうだったかなあ?)
シャングリラで木材にするための木を切る時はお祭り騒ぎで、自分も手伝っていたけれど。変な方へ倒れて怪我人が出てはいけないから、と万一に備えて見ていたけれど。
糸杉を切った記憶は無かった、ただの一度も。切られていたのは、もっと他の木。
(なんで糸杉?)
分からないや、と糸杉のお辞儀を見上げて首を捻って、それから家へと帰って行った。
自分の家まで辿り着いても、思い出せない糸杉の記憶。糸杉のお辞儀。
着替えを済ませて、ダイニングでおやつを食べる間も糸杉が頭から離れない。
(先っぽがお辞儀…)
何のためだったろうか、糸杉のお辞儀。
道ゆく人に挨拶するのか、仲間同士で挨拶するのか。さっき見た木は庭に一本きりの糸杉、他に仲間はいなかったけれど、何処かの仲間に「こんにちは」と頭を下げているとか…?
(天辺がほんの少しだけ…)
知らなかったら気付かないままでいそうなお辞儀。ほんの僅かだけ曲がった天辺。
(なんだか猫の尻尾みたいだ…)
猫が真っ直ぐ立てた尻尾の先っぽが曲がっていることがある。猫の気分で、ほんのちょっぴり。猫の尻尾は自由に曲がるし、気取って先だけ曲げていることも。
糸杉のお辞儀は猫の尻尾を連想するけれど、尻尾と違ってその日の気分で曲がりはしない。木に神経は通っていないし、曲げるための骨組みも入っていない。
それでもお辞儀している木。糸杉はお辞儀をしているもの。いつも、いつでも、どんな時でも。
何のために…、と考え込みながら紅茶のカップを傾けた途端、ハッと気付いた。
シャングリラだ、と。
あの白い船にも糸杉があったと、いつもお辞儀をしていたのだと。
おやつを食べ終えて、自分の部屋に戻って取り出したシャングリラの写真集。
ハーレイとお揃い、父に強請って買って貰った豪華版。それのページを順にめくっていって。
(あった…!)
開いたページに墓碑公園。白いシャングリラの居住区の中、鏤められた幾つもの公園の一つ。
亡くなった仲間の名前を刻んだ真っ白な墓碑があった公園、其処に糸杉が写っていた。今日まで何度も眺めていたのに、素通りしていた糸杉の木。
あまりにも自然に溶け込んでいたし、墓碑とセットだと思っていたから。糸杉と真っ白な墓碑がセットで、二つで一つと言っていいほどに馴染んだ光景だったから。
糸杉の他にも公園に相応しい木が植えられていたし、草花だって。
そうした全てをひっくるめた形で墓碑公園だと見ていただけで、糸杉の木には気付かなかった。
とても大切な木だったのに。墓碑と糸杉とが、墓碑公園の主役だったのに。
どうして自分は忘れていたのか、一本だけあった糸杉の木を。お辞儀する木を…。
(ハンスの木…)
最初はそういう名前の木だった。墓碑公園に植えられた一本だけの糸杉。
ハンスではなくて、「ハンスの木」。そう呼ばれていた、白いシャングリラの仲間たちに。白い鯨が出来上がる前から船で一緒だった、アルタミラからの脱出組に。
船にハンスはいなかったけれど。名前の持ち主はアルタミラを離陸した時に船から投げ出されてしまって、燃え盛る地獄へ真っ直ぐに落ちて行ったのだけれど。
宇宙船の操船などは誰もが初めての経験、閉め忘れてしまった乗降口。
ハンスは其処から落ちてしまった、船の外へと。ゼルが懸命に掴んでいた手も離れてしまった。
救い出せずに喪ったハンス、ゼルの弟。
せっかく船まで走って来たのに、ゼルと一緒に乗り込んだのに。
その事故から長い歳月が流れて、船の改造が決まった時。白い鯨を造る時。
様々な設備や施設の案が出される中、いつかは必要になるであろうと言われた墓碑。亡くなった仲間を悼む施設もいずれは要ると、いつか作らねばならないと。
まだまだ先の話だけれども、そういうスペースを設けておこう、と議題が出された時。
「いつかじゃと?」
今要るんじゃ、と声を荒げたゼル。ヒルマンやブラウ、後に長老と呼ばれる者たちが集った席。どういった案を採用するか、と検討していた会議の席で、ゼルがテーブルを拳で叩いた。
いつかどころか、とうに一人死んでしまったと。
弟だったと、この船に乗れずに燃える地獄に落ちて行ったと。
「ああ…。そうだったっけね、ハンスがいたんだ」
ごめんよ、ゼル。あんたの弟だったんだっけね…。
忘れていたわけじゃないんだけどね、とブラウが詫びて、ブルーも含めて皆が謝った。
いつかではなくて、今すぐに作ってもかまわないくらいの墓碑なるもの。ハンスのために。遠い昔に亡くしたハンスを悼む施設が必要だった。
この船に乗っていないばかりに、その影が薄れがちだったハンス。墓碑と言われても浮かばないほどに、ピンと来る者がゼルの他にはいなかったほどに。
あれほどに悲しく、痛ましい最期だったのに。
自由に向かって飛び立つ船から、他の仲間たちを乗せた船から、独りきりで落ちて行ったのに。
そんなわけで決まった墓碑公園。
亡くなった者たちが寂しくないよう、居住区の中の公園の一つを使おうと決めた。気が向いたらフラリと立ち寄れるように、憩いの場としても使えるように。
作るとなったら墓碑ももちろん必要だけれど、それを据えただけでは片手落ち。墓碑に手向ける花がいつでも咲いているよう、様々な季節の花を沢山植えておかねば。
けれども、花なら他の公園にも咲くのだから。
もっと特別な何かが欲しい。墓碑のある公園に相応しい何か。
とはいえ、公園らしい雰囲気も壊したくないし、出来れば樹木の類で何か、と。
墓碑公園に合いそうな木は…、とヒルマンとエラがデータベースを調べに出掛けて。
見付けて来た木が糸杉だった。その木がピッタリに違いないと。
「…糸杉だって?」
何故、とブルーが尋ねてみれば、「そうです」とエラが示した写真。空に向かって伸びた糸杉。
「この写真の此処をご覧下さい。木の天辺が少し曲がっておりますでしょう?」
糸杉はお辞儀するのだそうです、こういった風に木の天辺が。
常に頭を垂れるそうです、と言ったエラの言葉をヒルマンが引き継いで話し始めた。
「糸杉は哀悼の木なのだよ」
死者を悼んで永遠に頭を下げ続けるそうだ、ギリシャ神話から来た話だがね。
キュパリッソスという名の少年がいてね、その少年は鹿と友達だった。ところがある時、誤ってその鹿を槍で殺してしまったのだよ。
少年は酷く嘆き悲しんで、「永遠に悲しみ続けることをお許し下さい」と神に願った。
そうして少年は糸杉に姿を変えて貰って、今も頭を垂れ続けている。…そんな話があるそうだ。
だから、糸杉はサイプリスとも言うね。ギリシャ語でキパリス、キュパリッソスの意味だ。
永遠に頭を下げ続ける木。死者を悼んで頭を垂れる木。
SD体制が始まるよりも昔、人間が地球しか知らなかった時代の墓地には多かったらしい糸杉。哀悼の糸杉に囲まれた島を描いた名画もあったという。「死の島」という名の。ヒルマンとエラはその絵のデータも持って来ていた、ベックリンなる画家が描いた絵。
それだけのデータが揃ったからには、反対する理由は何処にも無くて。
「じゃあ、それにしよう」
糸杉を植えることにしよう、とブルーが同意し、ゼルもブラウもハーレイも賛成。
墓碑公園には糸杉を一本、亡くなった仲間を永遠に悼み続けてくれる木を。
ただ、シャングリラは船だから。白い大きな鯨に改造をしても、宇宙船には違いないから。
「地面に植えた糸杉のように、伸ばし放題というわけにはいかないがね」とヒルマンが言った。白い鯨で一番大きな公園になる場所なら可能だけれども、居住区では、と。
それでも糸杉は上手い具合に、手入れさえすれば樹高を低く保てる木。生垣に出来るくらいだと言うから、居住区の中の墓碑公園でも充分育ててゆくことが出来る。
天辺を常にお辞儀させたいなら、そのように刈り込んでやりさえすれば。
こうして決まった墓碑公園の木。哀悼の意を表す糸杉。永遠にお辞儀をし続ける糸杉。
白い鯨が完成した後、ブルーが人類の施設から苗木を奪って植えた。
墓碑公園に据えられた白い墓碑の側に。
人類も来ないような星から採掘して来た本物の大理石の墓碑。真っ白な墓碑の、その隣に。
苗木とはいえ、ハーレイの背よりも少し高いくらいの木だったから。その天辺は少し曲がって、さながらお辞儀をしているようで。
「本当にお辞儀するんだねえ…」
一人前に、とブラウが感心したら。
「ハンスのためにお辞儀してくれているんじゃ」
ハンスの木じゃ、と言ったゼル。今の所は、と。
白い墓碑にはハンスの名前しか無かったから。刻まれた名前はハンスのものだけ。
後は銘文、アルタミラで亡くなった名前も分からないミュウたちを悼み、捧げる文章。
アルタミラではミュウは一人ずつ檻に入れられ、互いに会うことも無かったから。実験のために引き出される時ですら、決して顔を合わせぬようにと別の通路を歩まされたから。
何人のミュウがアルタミラで死んだか、彼らの名はなんと言ったのか。分からないから、名前を呼べるのはハンスだけ。顔を見知った者がいたのもハンスだけ。
ゆえに糸杉はゼルが言うままにハンスの木。その名でいいと、誰も反対しなかった。
それから平穏な時が流れて、ハンスの木は大きく育っていった。日毎に伸びて丈を伸ばした。
すくすくと伸びるハンスの木。ゼルが手入れをしてやっていた。
公園などの木々の管理は管轄外なのに、係の者たちが手入れする時には手伝って。枝の剪定や、年に何度かの肥料を与える作業など。暇でさえあれば、ゼルは出掛けて行った。
「此処にハンスが乗っておるような気がしてのう…」
世話をせずにはいられんのじゃ、と照れたような笑いを浮かべたゼル。
ただの木だとは思えないのだと、弟の名前がついた木ならば兄が面倒を見てやらねば、と。
白い鯨が出来上がってから歳月が経って、墓碑の名前は幾つか増えた。
寿命の長いミュウだけれども、全体的に虚弱な種族。病には勝てず、神の許へと旅立って行った仲間たち。彼らの名前が新たに刻まれ、ハンスだけではなくなってしまった墓碑の持ち主。
ハンスの木は他の仲間のためのものにもなったのだけれど、ゼルは手入れを欠かさなかった。
糸杉に名前を付けた頃のままに、「元はハンスの木だから」と。
「この木はのう…。わしの弟の代わりなんじゃ」
ハンスを船に乗せてはやれなかったが、ハンスは今でも此処におるんじゃ。この木になって。
きっとこの船に乗っておるわい、わしが生きておる間はのう…。
なあ、と糸杉の幹を叩いていたゼル。まるでハンスが糸杉に変身したかのように。
皆を見守るのがハンスの役目じゃ、とも言っていた。
アルタミラから飛び立った後の船の仲間を、皆を天から見守っていると。
自分の代わりに長生きしてくれと、いつかはきっと青い地球まで行ってくれと。
(ハンスの木…)
シャングリラの写真集に収められた墓碑。糸杉の木と白い墓碑がある墓碑公園。
前の自分の、ソルジャー・ブルーの名前も其処にあるのだろう。ジョミーたちの名も。
白いシャングリラはトォニィの代に継がれたのだし、きっと墓碑には前の自分やハーレイたちの名前も刻まれた筈。
この写真集では分からないけれど。
プライベートな空間以外は拡大して見ることが出来る仕様の本だけれども、墓碑公園は対象外。個人の名前が刻まれたからか、あるいは死者への敬意なのか。ルーペで拡大出来はしなくて、何も読み取ることは出来ない。真っ白な墓碑があるというだけ。
(前のぼくの名前…)
どんな風に刻んであるのだろう?
御大層な墓碑が立つ記念墓地とは違うような気がする、ひっそりと刻まれているのでは、と。
他の仲間たちの名前と何ら変わらず、文字の大きさもまるで同じで。
データベースで調べてみたなら、きっと答えはあるだろうけれど。
求める写真がある筈だけれど、同じ確認するならば…。
(ハーレイに訊きたい…)
前の自分の名が刻まれた墓碑を、ハーレイは見ている筈だから。見なかったとは思えないから。
そう思っていたら、チャイムが鳴った。窓に駆け寄り、見下ろしてみれば手を振るハーレイ。
丁度いい所へ来てくれた、と早速訊いてみることにした。母がお茶とお菓子を置いて行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。…ハンスの木のこと、覚えてる?」
墓碑公園にあった糸杉、ゼルがせっせと世話をしていたハンスの木だよ。
「ああ、あれな。もちろん俺も覚えているが…」
どうかしたのか、ハンスの木が?
「えっとね…。ハンスの木を思い出したんだけど…。糸杉を見たら思い出したんだけれど…」
ハンスの木じゃなくて、あれとセットの墓碑の方。
あの墓碑に前のぼくの名前も刻んであったと思うんだけど…。どんな風かな、と思っちゃって。
ソルジャーらしく立派だったか、他の仲間と全く同じに刻んであったか。
ぼくはみんなと同じ扱いだった方が嬉しいけれども、本当の所はどうなのかなあ、って。
ハーレイは見たでしょ、前のぼくの名前が刻んであるのを。
どう刻んだの、と尋ねたら。
立派だったか控えめだったか、どちらなのかと尋ねてみたら。
「…それがな…」
答える代わりに口ごもったハーレイ。言いにくいことでもあるかのように。
「どうしたの?」
前のぼくの名前、立派すぎたの?
みんなと同じ方が良かった、って言ったけれども、立派でもいいよ?
ハーレイたちがそう決めたんなら、ちゃんと気持ちがこもっているもの。それで充分。
「いや、それが…」
皆と同じになってしまった、とハーレイの顔が悲しそうに歪んだ。
文字の大きさが皆と同じなのは仕方ないとして、俺が刻んでやれなかった、と。
「え?」
ぼくの名前が特別扱いじゃなかったことは分かったけれど…。
刻んでやれなかったっていうのは、なあに?
どういう意味なの、と問い掛けてみれば。
何のことかと確認してみれば、文字通りに名前を刻むという意味。
前のブルーが長い眠りに就いていた間に辿り着いたナスカ。
其処で生まれた初めての自然出産児、トォニィの父はユウイと言った。若い世代のミュウだったけれど、事故で命を落としたユウイ。格納庫での誘導中に、ギブリの暴走に巻き込まれて。
そのユウイの名を墓碑に刻んだのが、妻のカリナとユウイの友人たちだった。それ以来、墓碑の名前は親しかった者が刻むことになっていたらしい。
亡くなった者への思いをこめて、その魂が安らかであるようにと。
「…ぼくが眠っちゃう前には、そんな決まりは…」
聞いたことが無いよ、ただの一度も。墓碑公園の責任者が刻んでいただけで…。
「無かったさ、お前の言う通り」
ユウイの時からだと言っただろうが。カリナが刻みたいと言ったんだ。ユウイの名前を。
そのユウイはナスカに墓が作られたんだが、墓碑にも刻むと説明をしたら、自分がやると…。
どうしても、と頼み込まれちゃ断れないしな?
大理石を彫るには専門の道具も必要になるが、と言っても聞きやしなかった。無理そうだったら少しだけでも、ほんの少しでも彫りたいんだ、と。
実際の所、カリナだけでは彫れなくってな、ユウイの友達だった男たちの出番になったんだが。
ナスカで生まれた新しい習慣。
墓碑公園に死者の名前を刻む時には、親しかった者たちが彫るというもの。
赤いナスカがメギドの炎で滅ぼされた後、ナスカで亡くなった多くの仲間たちの名も、ゆかりの者たちがそれぞれ刻んだ。友人や、仕事仲間などが思いをこめて。
けれどもブルーの名前だけは…。
ナスカで亡くなった者たちの名前の一番最初に刻まれたブルーの名だけは違った。以前の通りに墓碑公園の責任者が刻み、縁ある者たちは墓碑に触れさえしなかった。
「…みんな忙しすぎたんだ。俺も、ジョミーも、ゼルたちもな」
とにかく合同で葬儀はしたがだ、それさえも俺たちは仕事の合間に駆け付けたって具合でな…。
墓碑にまで頭が回らなくって、任せると言ったか言わなかったかさえも覚えていない。
一段落して、そうだった、と墓碑公園まで出掛けて行って…。
刻まれたお前の名前を見付けて、やっと気付いたという有様だ。大切な仕事を忘れていた、と。
ハーレイが墓碑を前にした時には、とうに刻まれていたという名前。ブルーの名前。
文字の大きさこそ他の仲間たちと同じだったけれど、ソルジャーだからと、最優先で。
亡くなった順番からすれば最後であろうに、ナスカで亡くなった誰よりも先に。
「…すまん。俺がウッカリしていたばかりに…」
苦しそうに顔を歪めるハーレイ。「すまん」と、本当にすまないと。
「なんで?」
どうしてハーレイが謝るわけ?
謝ることなんか何も無いでしょ、ハーレイが指図して立派すぎるのを彫らせたんならともかく。
そういうのはぼくの好みじゃないから、謝ってくれてもいいんだけれど…。
「…俺が刻んでやれなかったからだ、お前の名前を」
お前の恋人だったのに…。誰よりも親しい仲だったのに。カリナがユウイの名を刻んだのと全く同じに恋人同士で、俺が刻むのが正しいやり方だったのに…。
もちろん、恋人だったからとは言えん。しかし、お前の友人としてなら刻むことが出来た。他の誰よりも親しかったと、一番古い友達なんだと。
そう言いさえすれば、俺が刻めたんだ。仕事の合間に刻みに行っては、心でお前と話しながら。
それなのに俺は、考え付きさえしなかった。俺がお前にしてやれる最後のことだったのに…。
「…ほんのちょっぴり残念だけど…」
ハーレイに名前を刻んで貰えるチャンスは逃したけれども、ぼくはちっとも気にしないよ。
そういう決まりが出来ていたことも知らないし…。
ハーレイがとっても忙しかっただろうってことも、ぼくにはちゃんと分かっているから。
それにハンスの木があるしね、と微笑んだ。
墓碑の側にはハンスの木があって常にお辞儀をしていたのだから、ハンスが一緒、と。
「そうなのか…?」
お前、ハンスと一緒にいたのか、死んじまった後は?
「分からない…」
一緒にいたのか、いなかったのか。死んだ後の記憶は何も無いしね、分からないよ。
メギドでハーレイの温もりを失くして、泣きじゃくりながら死んだけど…。それっきりだけど。
まるでなんにも覚えてないけど、生まれ変わる前はハーレイと一緒だったに決まっているよ。
ハーレイが死ぬ前は、もしかしたらハンスと一緒だったかもしれないね。
でも、そんなことはもう、どうでもいいんだ。ハーレイと地球に来られたから、いい。
「…そうか?」
本当にそれだけでいいのか、俺はお前の名前を刻み損なっちまったのに…。
恋人だったくせに、言い訳の一つも思い付くどころか、刻むことさえ忘れてたのに。
「いいんだよ。だって、ぼくは今、幸せだから」
もしもハーレイがぼくの名前を刻んでくれても、こうして会えなかったなら。
そんな墓碑には何の意味も無いよ、ただの記念碑みたいなもので。
そうは言ったけれど、少しだけ気になる白い墓碑。白い鯨の墓碑公園。
シャングリラはトォニィが解体を決めて、宇宙から消えてしまったから。遥かに遠い時の彼方に去ってしまったから、墓碑公園は、墓碑は、どうなったろう?
「ねえ、ハーレイ…。あの墓碑、今も何処かにあるの?」
それとも、消えて無くなっちゃった?
歴史資料で何処かにあるのか、残ってないのか、ハーレイ、知ってる?
「あれなあ…。ずいぶん前に調べたんだが、今でも残っているそうだぞ」
俺やジョミーの名前まで増えて、アルテメシアの記念館にな。
ミュウの歴史の始まりの星だっていう位置付けだしなあ、アルテメシアは。シャングリラの森もあると言ったろ、シャングリラにあった木を沢山移植した森が。木は代替わりしちまったが…。
そういう星だし、あの墓碑もアルテメシアにあるんだ。見に行きたいか?
いつかお前と結婚したなら、懐かしの星まで旅をしてみるか…?
「ううん、アルテメシアには行かなくていいよ」
他にも用事があるなら行くけど、あの墓碑とかを見るだけだったら。
そんな所までわざわざ出掛けて行く価値が無いよ、ぼくの名前があるってだけでしょ?
ハーレイが刻んでくれた名前だったら見たいけれど、とクスッと笑った。
どんな風になったか眺めてみたいし、刻んだ時の裏話なども聞けそうだから、と。
けれども、そうではなかった墓碑。ハーレイどころかゼルたちすらも刻んではおらず、ゆかりの者は誰も関わってはいなかった名前。
それではただの墓碑というだけ、見に出掛けても感慨も何も無さそうだ、と。
「アルテメシアとかノアにある記念墓地と同じでどうでもいいよ」
ぼくのお墓だけど、ぼくのだっていう感じがしないし…。
いつかホントについでがあったら、あれに名前が刻んである仲間たちに挨拶しに行く程度かな。
「俺もだな」
お前以上に遠慮したいな、お前の名前を刻めなかったっていう罪悪感が押し寄せてくるからな。
ハンスや早くに逝っちまった仲間に挨拶出来たら充分だ。
ただし、そのためだけに、はるばるアルテメシアまで旅をしようとも思わないがな。
ハンスたちには心で挨拶すればいいんだ、思い出した時に心をこめて。
その方がヤツらもきっと喜ぶ、青い地球からメッセージが届くって勘定だからな。
「それはそうかも…。出掛けて行くより、地球からだね」
ハンスだってきっと、地球へ行きたいと思った時代があったんだろうし…。
成人検査で記憶が消えても、地球への憧れは消えないんだし。
青い地球までちゃんと来たよ、ってお祈りするのが一番だよね。
「うむ。産地直送の土産を貰った気分なんじゃないのか、地球からの祈り」
本当に本物の地球だからなあ、昔のまんまに青い水の星に戻った地球。
「…今度のぼくたち、地球にお墓が出来るんだね」
それにハーレイと一緒のお墓。ぼくはハーレイのお嫁さんだし、そうなるんでしょ?
「間違いなくな」
お前が嫌だと言い出さない限りは、俺とお前で二人で一つ。
そういう墓に入るってことになるんだろうなあ、まだ用意してはいないがな。
「用意してたらビックリだよ…!」
今からそんなの用意している人なんか無いよ、平均寿命まで三百年以上もあるんだよ?
何が何でも此処がいいんだ、って決めてる場所があって、予約する人はあるかもだけど…。
それでも多分、予約止まりで、お墓までは用意してないよ…!
青い地球の上、今度はハーレイと二人で一つのお墓に入る。
ハンスの木は植わっていないけれども、今度は離れずにハーレイと一緒。二人で一つ。
もしかしたら、糸杉を側に植えるかもしれないけれど。白い大理石の墓碑を作って、前と同じに演出するかもしれないけれど…。
「だけどぼくたち、其処にはいないね」
お墓があっても中身はきっと空っぽなんだよ、ハーレイと二人で行ってしまって。
天国か何処か知らないけれども、ハーレイと二人、手を繋いで。
「だろうな、また何処かへ行ってしまうんだろうなあ、お前と二人で」
この地球に来る前に二人で居た場所、其処へ還って行くんだろう。俺にも記憶が全く無いが…。
其処での暮らしに飽きちまったら、また二人して地球に来るとするか。
「うんっ!」
ハーレイと二人で地球に来ようよ、やっぱり地球が一番だもの。
ぼくたちがいつか還って行く場所、とても素敵かもしれないけれど…。
だけど、飽きたら、二人で地球。この次も地球に生まれるんだよ。
青い地球に二人で帰って来よう、と約束してから。
指切りしてから、ブルーはプッと小さく吹き出した。
「もう次の約束をしてるだなんて…。気が早すぎ…!」
これから三百年以上もあるのに、今からそんな先のことまで約束しちゃってどうするんだろ?
「まったくだ」
お互い、気が早いにもほどがあるってな。
俺たちの時間はまだまだこれから、結婚してさえいないってのに…。
そういや、例のハンスの木。…面白いことを思い出したぞ。
「なに?」
ハンスの木のことなの、それとも糸杉?
「糸杉の方だ。あれの小さいのはクリスマスツリーにもなるんだよな」
本物のクリスマスツリーはモミの木なんだが、糸杉もそれっぽい形だろうが。
クリスマス前には飾り付けてだ、花屋なんかに並んでいるぞ。ミニサイズの糸杉。
「そうなの? じゃあ、お墓に糸杉を植えて貰うよりも前にそっちだね!」
クリスマスツリーの糸杉もいいね、小さかったらテーブルとかにも飾れるし…。
結婚したなら、それも欲しいな。
大きなクリスマスツリーはもちろんだけれど、ちょっと飾っておけるミニサイズのも。
ハーレイと二人でクリスマス、と小さな糸杉のクリスマスツリーを思い浮かべる。
小さくても天辺は少し曲がっているのだろうか?
クリスマスツリーの天辺には星を取り付けるのだし、曲がっていても分からないだろう。
だからこそ糸杉でもクリスマスツリーで、哀悼の木ではなくて飾りが沢山。
(…ふふっ、ハーレイと二人でクリスマス…)
二人きりの家で迎えるクリスマスはどんなに素敵だろうか、と頬が緩んだ。
天辺が曲がっている糸杉。お辞儀していたハンスの木。
お辞儀する木はまだ要らない。
青い地球の上、幸せを沢山積み重ねながら、ハーレイと生きてゆくのだから…。
ハンスの木・了
※ブルーが思い出した、「ハンスの木」。それにシャングリラの墓碑公園のこと。
前のブルーが眠っていた間に、生まれた習慣。辛い思いをしたハーレイですけど、今は幸せ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(本当に年下になっちまったな…)
正真正銘チビで年下、とハーレイはブルーの写真を眺めた。
今日はブルーの家には寄れなかったけれど、学校で見かけて挨拶された。「ハーレイ先生!」と声を掛けて来て、ペコリとお辞儀をしたブルー。小さなブルー。
書斎の机の上に飾ったフォトフレームの中、自分とブルーが写った写真。自分の左腕にブルーが両腕でギュッと抱き付いて、笑顔。それは嬉しそうに、弾けるように。
(チビなんだよなあ…)
こうして見ると本当に小さい、背丈も低いし身体も細い。まだまだ子供といった感じで。
(…でもって、年下と来たもんだ…)
教師と教え子、もうそれだけで充分な年の差、ブルーの方がずっと年下。
それが不思議で、けれども嬉しい。今度は自分が守る立場だと実感出来る年の差だから。二人で何処へ出掛けて行っても、自分の方が保護者だろうから。
小さなブルーが前と同じに育ったとしても、やはり自分の方が年上。変わらず年上。
(二人一緒に飯を食っても、俺が支払うのが自然だしな?)
そう考えるだけで顔が綻ぶ。自分がブルーの保護者になれると、守ってやれると。
(今も守り役ではあるんだが…)
既にそういう立場だよな、とコーヒーのカップを傾けた。愛用の大きなマグカップ。淹れ立ての熱いコーヒー片手に、書斎で寛ぐ食後のひと時。
ブルーの写真を前にしながら、小さなブルーを想いながら。
前の生でもブルーは自分より若い姿で、出会った時からそうだった。アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた日に閉じ込められていたシェルターの中で、前のブルーと初めて出会った。
出られはしないと思ったシェルター、それをサイオンで破壊したブルー。
凄い子供だと驚嘆しつつも、座り込んでいたブルーに声を掛けたのが全ての始まり。崩れてゆく地面を二人で走って、幾つものシェルターを開けて仲間を逃がした。
てっきり子供だと思っていたから、懸命に庇って走り続けて。アルタミラから辛くも逃げ出した船の中でも、年上らしくブルーの世話をしてやった。こんなに小さいのだからと。
ところが、落ち着いた頃に知ったブルーの年。ブルーが覚えていた、生まれた年。研究者たちが実験の度に口にするから、ブルーも記憶していたらしい。
それを聞いたら仰天した。年下の小さな子供どころか、とんでもない年上だったブルー。外見は幼い少年そのもの、心も身体も成長を止めたままでいたから気付かなかった。
(何処から見たって、チビで年下…)
年上なのだと分かった後にも、そういう風には扱えなくて。
いつでもブルーを子供扱い、もっと大きく育ててやろうと頑張っていた。アルタミラの檻の中でブルーが失くした未来への希望、それがある世界へ来たのだから。自由を手に入れたのだから。
(あいつがソルジャーになっちまった後も…)
キャプテンとして敬語で話さねばならない立場になった後でも、まるで無かったブルーが年上という感覚。自分よりも年が遥かに上だという感覚。
単にブルーが偉くなったから、ソルジャーと呼ばれるようになったから、使った敬語。年長者に対するものではなかった、ただの一度も。キャプテンとしての立場ゆえに敬語で話し続けた。
(…俺の他に敬語に切り替えたヤツは、エラくらいだしな?)
礼儀作法にうるさかったエラ。仲間たちにも「ソルジャーには敬語で」と徹底させた。
けれども、後に長老と呼ばれるようになったブラウとゼルとヒルマンと。脱出直後からブルーと親しくしていた彼らは、敬語を忘れがちだった。使わなかったと言ってもいいくらいに。
(しかしなあ…。俺はキャプテンだったからなあ…)
シャングリラの仲間を纏める存在、皆の手本にならねばならない。ソルジャーのブルーに自分が気安く口を利いていたら、それでいいのだと思う仲間も出て来るから。
それはマズイ、と敬語を使い続けた、どんな時でも。ウッカリ崩れてしまわないよう、ブルーと恋仲になった後にも。
(あいつがソルジャーだったから、敬語…)
年長者を敬う敬語ではなくて、ソルジャーに対する礼儀だった敬語。年上だとは思わなかった。頭でそうだと理解していても、心の中では常に年下。守るべき存在、幼かったブルー。
ソルジャーになっても、すっかり大きく育った後にも、出会った時の印象そのまま。
とはいえ、ブルーは年上だった。その事実だけは変えられなかった。
自分よりも先に生まれていた分、早く迎えてしまった寿命。外見の年齢が如何に若くても、命の灯火はまた別物で。
死んでしまう、と泣きじゃくったブルー。もうすぐハーレイと離れてしまう、と。
結局、ブルーは寿命ではなくて、メギドで死んでしまったけれど。
共に逝くと何度も誓った自分を独り残して、「ジョミーを頼む」と白いシャングリラで生きろと縛って、一人きりで逝ってしまったけれど…。
(今度は俺が先に逝くんだ)
順番からすれば、そういうこと。
前と違って、今度は自分が年上だから。外見通りに立派に年上、先に寿命を迎える筈。
小さなブルーは、共に逝くと言っているけれど。
二人同時でなければ嫌だと、残されて一人で生きるのは嫌だと。
だから心を結んでおこう、と何度も何度も頼まれている。結婚したなら、心の一部をサイオンで結んでおいて欲しいと。そうすればきっと、鼓動が同時に止まるからと。
サイオンの扱いが不器用なブルーに出来はしないし、それをするのは自分の役目。
(そのつもりではあるんだが…)
願いを聞いてやろうと思うし、自分もブルーと共に逝けるのなら幸せだけれど。
ブルーの寿命が縮んじまうな、と心がツキンと痛んでしまう。いくらブルーの望みであっても、まだ生きられる筈のブルーの命を奪うのだから。
二十四歳も年下のブルー、二十年以上も生きてゆける筈のブルーの命を。
(二十四歳か…)
それだけ大きく開いた年の差、今のブルーは遥かに年下。
小さなブルーが自分の誕生日を迎えてくれれば、二十三歳の差になるけれど。
この地球の上で出会った時と同じ、二十三歳の差に戻るけれども。
(…俺の誕生日が来ちまったからな…)
夏休みもあと三日で終わる、という日に迎えた誕生日。ブルーに羽根ペンを貰った日。あの日に年の差が広がった。それまでの差より一年余分に、一年多めに。
今の自分は三十八歳、十四歳のブルーの年の倍よりもまだ多い年。プラス十歳という勘定。
ブルーの年を二倍してみても二十八歳、三十八歳には十歳も足りない。
(大した差だ…)
とんだ年の差だ、と苦笑が漏れた。
今度の自分はブルーよりも上で、二十四年も年上で。二十四年ということは…。
(二ダースだな)
年はダースで数えないけれど、二十四年の差ならば二ダース。
十二年が二回、二ダース分もの大きな違いで、ブルーはそれだけ小さくて…。
(…ん?)
待てよ、と指を折ってみた。二十四年の違いで、十二年が二回。二ダースの年の差。
何度か数えて数え直して、それから「うーむ…」と低く唸った。
(俺としたことが…)
間抜けだった、と自分の頭に拳をゴツンと一発。
今日まで気付いていなかった。
この偶然に、いや、運命といった所だろうか。
古典の教師をしているからには、もっと早くにピンと来ていても良さそうなのに。馴染んだ古い書物の中には、何度も出て来るものなのに。
十二年が二回、年の差が二ダース。
遠い昔にこの地域にあった小さな島国、日本の古典を読むのだったら欠かせない知識、十二年がセットになっているもの。
(同じ干支だ…)
小さなブルーと、自分の干支。
生まれ年を示す十二の動物、十二年で一回りしてくる干支。年の差が二ダースあるというなら、自分とブルーの干支は同じで。
今は使われない古い暦だと、自分とブルーは同じ動物、お揃いの干支。
自分が卯年で、ウサギなのだということは…。
(あいつ、本物のウサギだったか…)
ウサギになりたかった小さなブルー。幼い頃にはウサギになろうと夢見たブルー。
白い毛皮に赤い瞳のウサギになりたかったのだ、と聞かされた時には可笑しかったけれど。子供らしい夢だと思ったけれども、ブルーはウサギ年だった。
もしもブルーがウサギの姿になっていたなら、人間をやめてウサギになると言った自分も。
(わざわざウサギにならなくっても、元からウサギだったんだ…)
ブルーも自分も二人揃って、生まれながらのウサギ年。本物のウサギ。
そういう姿はしていないけれど、二人とも同じウサギ年。
(白いウサギと茶色いウサギか…)
ウサギの姿になったとしたなら、前にブルーと話した通りに白いウサギと茶色いウサギ。一つの巣穴で一緒に暮らして、ウサギのカップル。
お揃いの好きなブルーが知ったら、どれほど喜ぶことだろう。生まれた時からお揃いなのだと、同じ干支だと聞かされたなら。
(明日は土曜日だし…)
丁度いいな、と紙を取り出して書き付けた。
十二の干支を表す漢字を。今は使われていない暦の、十二の動物を指し示す文字を。
明くる日は爽やかに晴れた土曜で、歩いてブルーの家に出掛けて。
二階の部屋でテーブルを挟んで向かい合って座ると、ブルーに質問を投げ掛けた。
「お前、自分の生まれた年を知ってるか?」
何年生まれですか、って訊かれた時に答えるヤツだが。
「うん、知ってるよ」
もちろんだよ、と返った答え。小さなブルーの生まれ年。
「俺が生まれた年も知っているよな?」
「当たり前だよ、忘れるわけがないじゃない」
ハーレイが生まれた年なんだもの、と誕生日付きで返って来た。三十八年前に生まれた年が。
得意げな顔をしているブルーに、「その二つ…」と切り出してみる。
「実は二つとも同じなんだが…」
お前が生まれた年と、俺が生まれた年。まるで同じだ、俺も昨日まで気付かなかったが。
「同じって…。何処が?」
何が同じなの、何かの記念の年だった?
ぼくは全く心当たりが無いんだけれども、ハーレイ、何に気が付いたの?
キョトンとしている小さなブルー。
赤い瞳をパチクリとさせて、思い当たる何かを懸命に探しているようだけれど。そうそう気付く筈もないから、種明かしをしてやることにした。
「お前、干支というのを知ってるか?」
古典の授業でたまに出るだろ、ナントカの年、といった具合に。
「少しだけ…」
確か動物の名前なんだよね、虎とか龍とか。
「そう、それだ。…その干支、全部で幾つあった?」
「んーと…?」
羊でしょ、犬っていうのもあったし…。猫は入っていなかったかな?
どうなんだろう、と数え始めたブルー。どうやら覚えていそうもない。全部の干支も、一回りで十二年になるということも。
「猫は干支には入っちゃいないな。いいか、全部で十二だ、十二」
ほら、と昨夜に書いておいた紙をテーブルに置いた。
これが干支だと、これだけある、と。
「干支ってヤツはな、毎年、順番に変わって行くんだ」
今じゃカレンダーにも載っていないが、俺は職業柄、調べてみたりもしているからなあ…。
今年はこいつだ、こいつの年だ。
「…なんて読むの、これ?」
ブルーの疑問はもっともなもの。とても動物とは思えない文字、習っていなければ読めない上に意味も掴めないことだろう。
「巳だな、巳と読む。蛇の意味だ」
「ふうん…?」
他のも動物に見えない字ばかり並んでいるけど…。干支の話がどうかしたの?
「大いに関係があるんだがなあ、お前と俺とが同じってヤツに」
まだ分からないか、とクッと笑った。
干支は全部で十二あるんだが、お前と俺との年の差は幾つだ、と。
「二十四歳でしょ、ハーレイが三十八歳だから」
ぼくの誕生日が来たら二十三歳違いになるけれど…。あっ!?
ぼくとハーレイ、もしかしたら干支っていうのが同じ?
「そうさ、お前と俺とは同じだ」
生まれた年の干支が全く同じなわけだな、二十四歳違いだからな。
この年だ、と卯の字を指差した。
卯と書いてウサギ、俺もお前もウサギ年だ、と。
「…ぼくもハーレイもウサギ年なの?」
ウサギの年に生まれたってことになるわけ、二人とも?
「うむ。二十四年違いで生まれて来たってことはだ、干支も同じだ」
十二年ごとに同じのが回って来るんだからなあ、同じ干支でなきゃおかしいだろうが。
「ホントに同じ?」
ホントのホントにハーレイとぼくと、同じウサギの年に生まれたの?
「ああ、お揃いというわけだ」
お前もウサギで、俺もウサギだ。二人揃ってウサギなんだな、お揃いでウサギ。
お前、お揃い、大好きだろうが。凄いお揃いだったってことだ、干支がお揃いなんだからな。
同級生って言うならともかく、そうでもないのに干支はなかなか揃わんぞ?
普通は十二歳も年が違えば、話題からして合わなくなったりしちまうからなあ…。
そこを同じと来たもんだ。しかも二十四歳も違うと言うのに。
厳密に言うと全く同じではないんだがな、と補足してやった。
十二の干支を書き付けた紙に、十干十二支、と愛用のペンで十と十二を書き足して。
「なに、これ?」
干支に数字が入っちゃったけど、こうすると何か意味が変わるの?
「変わると言うより、より詳しくと言った所か。暦を表すのは十二の動物だけじゃないんだ」
こいつは十干、その名の通りに十個ある。五行と言ってな、世界を構成する五つの要素が火とか水とか。それぞれに二つ、兄と弟、それで十干。
その十干と干支を組み合わせて毎年の暦が変わって行くのさ、火の年の兄と巳の年だとか。
もっとも、火とか水とかをそのまま文字に書くわけじゃないが…。
干支の巳だとか卯とかと同じで、火の兄だったら丙って具合に読みにくい字を当てるんだがな。
十干十二支は六十年かけて一回りだ、とブルーに教えた。
六十年かけてやっと一巡、そこで初めて十干と干支の組み合わせが再び重なるのだ、と。
「だからだ、お前と俺とは同じウサギでも微妙に変わってくるってことだ」
この十干ってヤツが違うわけだな、お前と俺じゃ。
「それって、意味があったりするの?」
そこが違うと何か違うの、同じウサギの年生まれでも?
「性格とかに影響するんだ、と遠い昔には言ってたらしいが…」
例えば、午年。同じ馬でも、丙午の女性は気が強すぎて、嫁に貰うには向かないだとかな。
だが今は…。そんな話は誰もしないな、そもそも干支なんぞは誰も気にしていないし。
SD体制が始まるよりも前の時代に廃れちまって、機械が計算しているだけだ。SD体制が崩壊した後、文化を復活させるついでに干支も遡って計算し直しはしたが…。
俺みたいに興味のあるヤツだけしかデータベースを見てはいないな、今年が何年なのか、とな。
銀河標準時間はあっても、それぞれの星で一年の長さも変わるわけだし…。
地球で生まれれば干支の通りに暦が回るが、そうでなければ実感ゼロな代物だろうが。
銀河標準時間の通りに暮らしている星、地球の他には無いんだからな。
「そっか…。じゃあ、地球生まれのぼくたちだと…」
意味があるのかな、その十干とかいうものも?
「いや、無いだろ。あるんだったらSD体制が始まる頃までそういう暦が続いていたさ」
だがなあ…。干支の方には意味があるかもな、俺たちの場合はウサギ年だが。
お前、ウサギになりたかったんだろう、と言ってやったら。
「そうだけど…。そのせいかな?」
ウサギ年だったから憧れたのかな、ぼくもウサギになりたいな、って。
「違うと思うぞ。同じウサギ年に生まれた俺はだ、そうは思わなかったんだからな」
一度も思ったことは無いなあ、ウサギになってみたいとは。あるいは忘れただけかもしれんが。
しかしだ、俺も確かにウサギだ。
お前と同じでウサギなんだ、と自分の顔を指差した。
自分が茶色の毛皮のウサギで、ブルーが白い毛皮のウサギ。同じウサギ年で茶色のウサギと白いウサギのカップルになるぞと、ウサギ同士で丁度いいじゃないか、と。
「ハーレイと同じウサギ同士でカップル…」
茶色のウサギと白いウサギなの、ぼくとハーレイ?
「そうさ、いいとは思わないか?」
干支がお揃いだからこそ出来ることだぞ、ズレていたら妙なことになる。同じウサギ同士で揃う代わりにウサギと蛇とか、ウサギと羊のカップルだとか。
それだと絵にもなりはしないし、誰もカップルだとは思ってくれん。俺もお前もウサギ年だから茶色いウサギと白いウサギで揃うんだ。うんと似合いのカップルだぞ。
「…前のぼくたちは?」
前もウサギのカップルなのかな、それとも羊や馬だったのかな?
「計算してみたい気持ちは分かるが、生憎と前の俺たちは…」
年の差が十二の倍数じゃないぞ、同じ干支ではなかったわけだな。俺かお前か、どっちかが今と全く同じにウサギだった可能性もゼロではないが…。
「そうだったっけね、干支は同じじゃなかったんだね…」
ぼくかハーレイ、どっちかがウサギだったとしても…。
ウサギとはまるで似合わない動物とカップルになって、見た目にとんでもなかったかもね。
前のぼくたちの干支は計算しても意味が無いね、と頷くブルー。
ハーレイとお揃いの干支でないなら、同じ動物同士のカップルになってくれないのなら、と。
「…今のぼくたち、お揃いでウサギ年だけど…。おんなじ干支に生まれたけれど…」
これって、やっぱり神様が合わせてくれたのかなあ?
お揃いの干支になれるように、って二十四歳違いで生まれるようにしてくれたのかな?
「どうだかなあ…」
そいつは俺にもサッパリ分からん。神様かもしれんし、違うかもしれん。
お前に聖痕を下さった神様が生まれた国には、干支なんていうものは無かったからなあ…。
とはいえ、その神様はSD体制があった頃にも消えずに残った神様だったし…。
前の俺たちが生きてた時代の唯一の神様だったわけだし、干支も御存知なのかもしれん。今度の俺たちを送り出す時に、きちんと合わせて下さったかもな。
あるいは全くの偶然ってヤツで、神様も今頃「そうだったのか」と驚いて暦を見ておられるか。
そればっかりはどうにも分からないなあ、神様に訊いてみないとな。
ブルーには謎だと言ったけれども、青い地球の上で再び出会えたブルー。
二人揃って生まれ変わって、こうして出会えた小さなブルー。
自分は年を取るのを止めたけれども、今の姿はキャプテン・ハーレイだった頃の自分と瓜二つ。この外見でブルーと巡り会えた。早すぎることも、遅すぎることもない年で。
ブルーはこれから前と同じに育ってゆく。恐らくは四年ほどかけて。
それを思えば、ブルーも四年ほど早く生まれていてもいいのに。
前とそっくり同じ姿に育っていたなら、すぐに結婚出来たのだろうに。
そうはならずに、二十四歳違いで生まれて来たブルー。小さな姿で出会ったブルー。
この年の差で、同じ干支。同じウサギの年に生まれた、ブルーも自分も。
そうなったことは運命だろうと思えてしまう。
前の生からの運命で絆、今度は干支まで同じなのだと。
遥かな昔に廃れたとはいえ、干支は干支。自分たちが生まれて来た地域に遠い昔にあった島国、日本で使われていた暦。それで言うなら同じウサギで、まるで同じに生まれたからと。
そういったことに思いを巡らせていたら、ブルーが「ねえ」と呼び掛けて来た。
「前のぼくたちの時も、お揃いの干支に生まれていたなら良かったのにね…」
そしたら結婚出来てなくても、カップル。心の中ではカップルだったよ、ウサギとかで。
ハーレイもぼくもウサギなんだ、って思えて幸せだっただろうにね…。
「おいおい、さっきも話してやったが…」
あの時代に干支の概念は無いぞ、マザー・システムが消してしまってな。
データベースの古い本には載っていただろうが、誰も気にしちゃいなかった。ヒルマンもエラも調べちゃいないぞ、前の俺たちが生きていた時代の干支を。
調べ物好きのヤツらが一度も調べていないってことは、調べようという気にならない時代。
そんな時代に生きたってことだ、前のお前も俺も、みんなも。
計算出来るだけの機械はあったし、その気になったら新年の度に今は何年かが分かったろうに。
新年を迎えるイベントの時に、ヒルマンやエラが「今年はウサギ年です」と宣言するとかな。
しかし、そいつは無かったんだし…。
前のお前と俺の干支もだ、分からないままで良かったのさ。どうせ同じじゃなかっただろうが。
今だからこそ干支なんだ、と微笑んでやれば。
「うん、今だから…。それに地球の上に生まれたからだね」
干支の暦が使える地球。…干支が載ってるカレンダーは見たことないけれど…。
だけど計算してるって言うし、ぼくもハーレイもウサギ年だし…。
あっ、そうだ!
「どうしたんだ?」
干支のカレンダーが見たいと言うなら、データベースの調べ方を教えてやってもいいが…。
まずはお前が干支を覚えんとな、十二の干支をスラスラと順に言える程度に。
「そうじゃなくって、今が巳年で蛇なんでしょ?」
ぼくたちが結婚する年の干支って、どの動物になるんだろう?
ウサギ年のぼくたちに似合う干支かな、それとも似合っていないのかなあ…?
どうなるだろう、とブルーが訊くから。
結婚の予定も立てていないのに、気になってたまらないようだから。
「そうだな、お前がしょっちゅう言ってる通りに、十八歳で結婚するのなら…」
四年後ってことだろ、今から順に数えて行くと、だ。
今が巳年で、来年が午年。次が未で、その次が申で…。うん、酉年だな。
これだ、と紙をトンと叩いた。「酉」と書いた文字を。
「鳥…。それって、鶏?」
鶏のことなの、酉っていうのは。干支の酉なら、普通の鳥じゃなくて。
「そうだが…。酉年と言ったら鶏なんだが…」
音だけ聞いたら、空を飛んでる鳥と全く変わらんなあ…。
そっちの鳥なら、前の俺たち。…色々と御縁があったんだっけな、シャングリラでな。
ついでに鶏、シャングリラで飼ってた大切な動物だったっけか…。卵を幾つも産んでくれたし、肉にもなったし、実に頼もしい存在だったな、鶏ってヤツは。
そうしてみるとだ、シャングリラと酉年、やたらと縁が深そうだよなあ…。
白いシャングリラにあしらわれていた、自由の翼。
ミュウを表す文字と一緒に描かれた翼は鳥の翼で、自由の象徴でもあった。広い空を何処までも飛んでゆける鳥、その鳥の翼のように自由に、と。
ミュウのシンボルマークでもあったフェニックスの羽根にしても、そう。フェニックスの羽根は今一つハッキリしない、と鳳凰の尾羽根になったけれども。孔雀の羽根を真似たけれども。
シャングリラの甲板に描かれていた鳥、あれもフェニックスのつもりではあった。あの絵の元になった絵はハチドリだけれど、普通の絵ではなかったから。誰が描いたのかも謎のままに消えた、SD体制に入るよりも前に消えてしまったナスカの地上絵、それのハチドリ。
そう、シャングリラは白い鯨だったけども、あちこちに鳥の姿があった。空を自由に飛んでゆく鳥、その鳥のように地球へ行こうと、青い地球まで飛んでゆこうと。
「うーむ、シャングリラは鳥の絵が溢れた船だったっけな…」
こう、考えてみればみるほど、やたらと鳥だ。シンボルマークも、船に描かれた絵も。
普段は意識していなかったし、鳥だとも思っていなかったんだが…。
そのシャングリラの世話になってた、俺とお前が結婚しそうな時期に酉年が回って来るとは…。
これも運命かもしれないな。俺たちの干支が同じウサギになったのと同じで、運命の干支。
「それじゃ、酉年に結婚出来る?」
酉年が運命の干支なんだったら、その酉年に。
ぼくが十八歳になる年の干支が酉になるっていうんでしょ?
結婚出来そうな感じの干支だよ、ううん、その年に結婚しなさい、って神様が選んでくれそうな感じ。ハーレイとぼくが結婚するなら酉年ですよ、って。
ぼくは何度も言っているじゃない、十八歳になったら結婚したい、って。
きっと最初から決まってるんだよ、ぼくがハーレイとおんなじウサギ年に生まれて来た時から。
「そうだな、結婚出来るといいな」
俺もお前と早く結婚したいとは思っているんだが…。
お前、未だにチビだからなあ、チビのお前を嫁さんに貰うというのもなあ…。
いくら神様が酉年ですよ、と仰ったってだ、お前の背丈がチビのままでは難しいってな。
運命の酉年に結婚したいと言うんだったら、お前もきちんと努力しろ。
しっかりと食って、前のお前と同じ姿になるように育つ。それが一番大事なことだ。
頑張って背を伸ばしておけよ、と小さなブルーに言い聞かせたけれど。
ブルーも真剣な顔で「うん」と頷いているのだけれども、今から四年後。今はまだ十四歳にしかならないブルーが結婚出来る十八歳を迎える年が、酉年なのだと言うのなら。
シャングリラと、前の自分たちが暮らした白い船との縁が深い年に当たるのならば。
(今と変わらないチビでも結婚してやるか…)
そうしようかと思わないでもない。
万一、ブルーが育たなくても、ブルーの両親が結婚を許してくれたなら。
小さなブルーを自分と結婚させてもかまわない、と言ってくれるならば、結婚しようか。
酉年はどうやら運命の干支だと思えて来たから、白いシャングリラを思わせる年に。
シャングリラのあちこちに鏤められていた、鳥との縁が深そうな年に。
(よし、四年後だな)
そのつもりで準備しておこう、と心のメモに書き付けた。
小さなブルーには言わないけれども、自分の中では四年後と決める。
四年後の酉年、シャングリラと縁の深い年。
その年にブルーと結婚しようと、ウサギのカップルになることにしよう、と。
今度は二人、まるで同じの干支だから。
運命のように同じウサギ年で、お揃いの干支に生まれて来たから。
きっと結婚する時も、干支。
今は使われない干支の御縁で、シャングリラを思わせる酉年にブルーと結婚式を…。
お揃いの干支・了
※今のブルーとハーレイの年の差は、二十四歳。同じ干支になる勘定です。
そして二人ともウサギ年。ウサギのカップルになるらしいです、白いウサギと茶色のウサギ。
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