シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(街路樹、色々…)
一杯あるね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
遥かな昔に日本と呼ばれる島国があった、この地域。陸地の形はすっかり変わったけれど、今も日本を名乗っている場所。遠い昔の日本の文化を復活させて。
それほど広くはない地域だけれど、四季がある上、気候も様々。それに合わせて植える街路樹の種類も色々。南の方ならヤシの木だったり、寒い場所ならリンゴの木だって。
(歴史も、うんと長いんだ…)
何の気なしに見ている街路樹。バスが通るような道路だったら、街路樹もあるものだから。
当たり前のように思った街路樹、けれど歴史は長いという。人間が地球しか知らなかった頃に、街路樹はとうにあったから。
世界で最初の街路樹だったら、紀元前十世紀に植えられたもの。当時のヒマラヤ辺りにあった、街道に沿ってズラリと街路樹。
もっとも日本の街路樹の方は、もっと後のことになるけれど。千年どころか、ずっと後の時代。六世紀だとか、八世紀だとか。
植えられた目的の方も色々、六世紀の街路樹は単なる目印。「此処は都の道ですよ」と。
八世紀になると、同じ都でも桃と梨の木を植えることになった。どちらも美味しい実がなる木。貧しい人々が飢えないようにと、当時の皇后様が都に植えた。けれど、記録は残っていない。
優しかった皇后様の伝説なのか、本当にあったことなのか。
日本で一番最初の記録は、お坊さんの提案で決まった街路樹。きちんと法律まで作って。当時の有名な街道に沿って、果樹を育ててゆくようにと。それも一つではなかった街道、当時の人たちが旅をしていた範囲を殆どカバーするくらい。
そのお坊さんは遣唐使になって、中国の都を見て来ていた。都に植えられた街路樹たちを。夏は涼しい木陰を作って、秋は美味しい果物が実る。木陰で休むことも出来るし、飢えや乾きも果物が解消してくれる。「一つ貰おう」と手を伸ばしたら。
植えられた木は柿やタチバナや梨と言うけれど、定説は無い。記録に残らなかったから。
けれどもお坊さんのアイデア、それよりも少し前の時代は都だけだった果樹の並木を、旅をする人たちのために広げた。その時代ならば、「日本中」と言ってもいいほどの場所に。
なるほど、と読んだ街路樹の歴史。単に道路の彩りだけではなかったらしい。ずっと昔は。
今のように車も無い時代だから、休める木陰は有難いもの。道沿いには店も無かっただろうし、ちょっと入って食事も出来はしないから。
暑ければ木陰に入って休んで、お腹が空いたら木の実を貰う。梨でも桃でも、きっと美味しい。喉が渇いてしまった時にも、水場を探さなくてもいい。水気たっぷりの果物があれば。
(ちょっとシャングリラに似てるかも?)
遠い昔にあった日本で、街路樹を植えていた目的。
今はともかく、昔の時代。日本で最初の街路樹を植えようと決まった頃なら、何処か似ている。前の自分が暮らした船と。白い鯨に改造を終えて、自給自足で生きていた船と。
木を植えるのなら憩いや食べ物、そういう基準で選んだのが白いシャングリラ。どういう木を何処に植えるのがいいか、皆であれこれ検討して。
(食事のための食べ物だったら、農場の方だったんだけど…)
皆の胃袋を満たす食料、小麦も野菜も、果樹も育てていたけれど。
船のあちこちに鏤められた公園にもあった、何本もの果樹。憩いの緑を作る木たちに混じって。
サクランボなどがあった公園。
同じような花を咲かせるのならば、実など出来ない桜よりかはサクランボだったシャングリラ。綺麗な花を愛でた後には、赤いサクランボが実るから。皆で美味しく食べられるから。
公園は憩いの場でもあったし、果物が実る場所でもあった。遠い昔の街路樹に似ていた、植える木たちの選び方。「どうせだったら、実が食べられるものがいい」と。
(だけど、シャングリラには街路樹なんか…)
まるで植えてはいなかった。
巨大な白い鯨になったら、至る所に長い通路があったのに。船の中を結んでいた通路。道路とも呼べたかもしれない。幅はけっこう広かったのだし、車が走っていなかっただけ。
(運搬用のヤツが通るくらいで…)
人間優先だったけれども、あれも一種の道路だろう。一車線しか無かったとしても。
けれど街路樹は無かった通路。何処に行っても、一本も植わっていなかった。ブリッジが見える船で一番広い公園、あそこに繋がる通路でさえも。
無かったっけ、と思う街路樹。遠い昔の日本の街路樹、それと似たような基準で木たちを植えていたのに。同じ公園に植えるのだったら、憩いの緑と美味しい果物、と皆で選んで。
実のならない木も多かったけれど、人気を誇っていたのが果樹。サクランボだとか、色々と。
(通路、そんなに広くなくても…)
天井が見上げるほどでなくても、街路樹は可能だっただろう。今の記事にも載っている。大きくならない街路樹たち。高く聳えはしない低木。
(こういう木だって、使われてるのに…)
何車線もある道路の中央分離帯には、見通しのいい低木が人気。そうでない場所でも、小さめの街路樹を植えることだって。自慢の眺めを遮らないよう、あえて低めにしておく街路樹。
低く切り揃えてしまうのではなくて、最初から背の低い木を選ぶ。見た目なんかも考慮して。
(シャングリラでも植えれば良かったかな?)
通路は山ほどあったのだから、あそこに街路樹。通路の両脇だと狭くなるから、片方だけでも。あるいは通路の真ん中に植えて、中央分離帯みたいな感じで。
そうしていたなら、憩いのスペースが船の中に増えていたかもしれない。わざわざ公園に出掛けなくても、通路に出たなら憩いの緑。ほんの小さな、背の低い木でも。
船の中を移動してゆく時にも、歩く通路に緑の街路樹。通路の壁だの天井だのといった、単調な景色を眺める代わりに、通路を彩る街路樹たち。葉を茂らせて、季節になれば花だって。
(それが果物の木だったら…)
きっと子供たちが喜んだ筈。公園の木でも、「実はまだかな?」と心待ちにしていた子供たち。花が咲いたら、次は実がなるものだから。サクランボなどの果樹ならば。
チョコンと緑の小さな実がついたならば、「もうすぐかな?」と見上げて熟すのを待った。まだ青い実が大きく育って、色づいて食べられるようになる日を。
もしも通路に果樹があったら、本当に大喜びだったろう。丈が低い木で、桃のような実は無理なサイズでも。ほんの小さな実がなるだけでも、その実が美味しかったなら。
ワイワイと皆で通路を歩く途中で、「赤くなった」と毟ってつまみ食いしたり。
収穫の日なんか待ちもしないで、熟したものから、片っ端に。
街路樹ならばそれで良かった、農場の木とは違うのだから。勝手にもいで食べていたって、誰も咎めはしないのだから。
ちょっといいかも、と思った街路樹のこと。白いシャングリラにあったなら、と。
おやつの後で自分の部屋に帰って考えてみる。勉強机の前に座って、あのシャングリラに植えてやるなら、どんな街路樹が良かったろうか、と。
広いシャングリラの中を結んでいた通路。コミューターという乗り物でも移動できたけれども、それは長い距離を動くためのもの。船の端から端までだとか。
普段は通路を歩いていたのが仲間たち。時には急いで駆けて行ったり、のんびりだったり。
そんな仲間たちのために植えるなら、街路樹にピッタリだったろう木は…。
(やっぱり果物?)
遠い昔の街路樹みたいに、美味しい果物をつけてくれる木。飢えや乾きとは無縁の船でも、同じ木ならば食べられる実をつける木がいい。公園に植えていた木も、そうだったから。
それに、あんまり大きくならない木。育ちすぎて通路を塞がないよう、通行を妨げないように。
(丈が低くて、食べられる実がなる木なら…)
コケモモやベリーがいいのだろうか。ブルーベリーは大きく育ってしまうらしいし、そうでないベリー。ラズベリーとか、ブラックベリーといった木苺。
コケモモは最初から丈が低いし、木苺だって低木の部類に入るだろう。枝が広がりすぎた時には剪定すれば、それで充分。
ベリーやコケモモを植えておいたら、子供たちがつまむのに丁度いい。小さな子だって、背伸びしないで好きなだけ毟り取れるから。そんなに高くない木なら。
(子供たちだけじゃなくって、大人だって…)
歩く途中でヒョイとつまんで口に入れたら、自然の中にいる気分。公園でなくても、壁や天井に囲まれている通路でも。
まるで野原の小道よろしく、ベリーが実っているのだから。緑の葉っぱも茂らせて。
(ホントに植えれば良かったよ…)
白いシャングリラの中の通路に、街路樹を。片側だけでも、中央分離帯みたいな具合にでも。
失敗だよね、という気がする。前の自分の大失敗。…街路樹に気が付かなくて。
アルテメシアに降りた時には、街路樹を目にしていたというのに。道路に沿って並ぶ木たちを。
白い鯨でも、やろうと思えば出来たのに。
街路樹を植えられるだけのスペースはあって、植えていたなら皆が喜んでくれた筈なのに。
前の自分が生きた間に、思い付きさえしなかったこと。白いシャングリラに植える街路樹。
長すぎるくらいの通路が幾つも、縦横に走っていたというのに。前の自分も視察などのために、其処を何度も歩いたのに。
(場所はあったのに、アイデア不足…)
生かせなかった通路のスペース。あそこに街路樹を植えておいたら、素敵な船になったのに。
前のぼくって駄目だよね、と頭をコツンと叩いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、街路樹の話を持ち出した。前の自分の失敗談は、まだ話さないで。
「あのね、街路樹って素敵だよね。広い道路には、色々なのが植わっているでしょ?」
学校へ行く時に乗るバスからも見えるよ、両側に幾つも植えてあるのが。
道路だけより、街路樹があった方がいいよね、断然。
見上げるみたいに大きな木でも、それほど大きくない木でも、と挙げた街路樹。ハーレイだって此処へ来るまでに、同じ道路を車で走った筈だから。
「街路樹か…。いいもんだよなあ、アレは。夏は緑で、秋は紅葉で」
冬は葉っぱを落としちまうが、それでも味わいたっぷりだ。今は冬だ、と一目で分かって。
春が近付いたら芽吹く前からほんのり緑で、「じきに春だな」と眺められるし…。
ドライブしてても楽しいもんだ、と今のハーレイも街路樹がある生活が好きらしい。ドライブの時も、仕事に行こうと車を走らせる時も、きっと観察しているのだろう。運転しながら。
「やっぱり、ハーレイも素敵だと思う?」
道があったら、街路樹が植わっているっていうのが。
ぼくの家の前の道路みたいに狭い道だと、街路樹、植わってないけれど…。邪魔になるから。
「その代わり、家の木が沢山だろうが。生垣もあるし、庭木の方もドッサリだ」
街路樹が無くても緑はたっぷり、植える必要も無いってこった。
もっとも統一は取れてないがな、同じ木ばかりが並んでるわけじゃないんだし…。何処の家でも好きな木を植えて、お揃いにしてはいないから。
だが、本物の街路樹の方も、それに負けてはいないってな。走っていく距離が長くなったら。
それぞれの場所に似合いのを植えてて、何処でも同じってわけじゃなから…。
親父の家に行く道にだって、色々なのが植わっているぞ。一種類だけじゃなくってな。
同じ木ばかりあってもつまらん、とハーレイも知っている街路樹の種類が沢山なこと。遠い昔の日本の名前を名乗る地域は、どちらかと言えば緑が優先らしいけれども…。
「他の地域だと、果物の木も多いらしいぞ。四季はあっても、此処より温暖だったりすると」
オレンジだとか、レモンだとか…。そりゃあ美味そうなのが道の両脇にズラリとな。
この地域だと、オレンジやレモンは難しいんだが…。冬が寒すぎて、世話が大変だから。
そうは言っても、北の方へ行けばリンゴだったり、まるで無いっていうわけじゃない。リンゴでなくても胡桃やトチノキ、その辺だったらお馴染みだから。
けっこう多いのがトチノキだよな、と挙げられた名前。トチノキというのは何だろう?
「トチノキって…。胡桃は分かるけど、トチノキも食べられる実がなるの?」
胡桃みたいな木なのかな、と思ったトチノキ。それとも柔らかな実なのだろうか?
「食える実には違いないんだが…。トチ餅の材料になるんだから」
ただ、食うまでに大層な手間がかかるんだよなあ、トチの実は。もいで直ぐには食べられない。
トチ餅にするにも、けっこう時間がかかっちまう、と教えて貰った。アク抜きしないと、渋くて食べられないという。そのアク抜きも、一度ではとても済まないのだとも。
「トチ餅、そういう木の実で出来てるお餅なんだ…」
パパが何処かで貰って来たから、食べてみたことはあるけれど…。どんな木の実か、どうやってお餅を作っているのか、考えないほど小さかったから…。下の学校に行ってた頃で。
トチノキは木の実で、果物と言っていいのかどうかが分かんないけど…。
ずっと昔の日本だったら、街路樹は果物の木だったんだよね。桃とか梨とか、アク抜きしないで食べられるヤツ。それに柿とか。
お腹が減ったら、採って食べても良かったんでしょ、と披露した知識。ほんの少し前に、新聞で仕入れたばかりだけれど。
「おっ、詳しいじゃないか。まだチビのくせに」
そんなの歴史じゃ習わないだろ、大したもんだな。何かの本で読んだのか?
ずっと昔の日本の歴史、とハーレイが感心してくれたから、ちょっぴり嬉しくて得意な気分。
「今日、新聞に載ってたから…。昔の日本の街路樹のお話」
旅をする人が食べられるように、果物の木を植えていたんだ、って。いろんな所の街道沿いに。
それでね…。
ちょっとシャングリラに似ているでしょ、と話した昔の街路樹の意味。ただ木を植えるだけではなくて、その木が役に立つように。憩いの緑に、飢えや乾きが癒える果物。
白いシャングリラの公園に植える木たちを、選んだ理由と似ているよ、と。
「果物の木ばかり、植えてたわけじゃないけれど…。そうじゃない木は、憩いの木だよ」
背が高い木は下でのんびり寛げたんだし、背の低い木だって眺めて緑を楽しめるように。
花を咲かせる木を植えるんなら、美味しい果物が実る木の方がいいに決まってる、って。だから桜は植えていなくて、サクランボ…。どっちも似たような花が咲くから。
花だけで終わる桜よりかは、サクランボだった船だったよ。後でサクランボが実るんだもの。
ちょっと街路樹みたいじゃない、と話してみたら、「そうだな」と頷いてくれたハーレイ。
「そういや、あの船はそうだった。実用的な植物優先、そんな船ではあったよな」
憩いの場所に、食える実か…。確かにそいつは、昔の日本の街路樹ってヤツにそっくりだ。船の中では誰も暑さで困りやしないし、飢えるってことも無かったが…。
アルタミラから逃げ出して直ぐの船の頃には飢えかけたがな、とハーレイが浮かべる苦笑い。
元はコンスティテューション号だった船は、沢山の食料を積んでいたけれど、いつか尽きるのがその食料。前のハーレイは食料倉庫の中を調べて悩んでいた。「あと一ケ月で無くなる」と。
食料が尽きれば、誰もが飢えて死ぬしかない。幸いなことに、前の自分が救ったけれど。人類の船から奪った物資で、皆の命を繋いだけれど。
そういう暮らしが長く続いて、けれどそれでは見えない未来。ミュウという種族がこれから先も生きていくには、自分たちの手で全てを賄うべき。
そして出来たのが白い鯨で、飢える心配など無かった船。何もかも船の中で作れて、果物だって栽培していたのだから。使えるスペースを最大限に生かして、公園にも果樹を植えたりして。
「ね、シャングリラはそうだったでしょ? だからね…」
街路樹も植えたら良かったのかな、って思ったんだよ。植える理由はそっくりだから。
昔の日本の街路樹だったら、シャングリラの頃と変わらないでしょ、植えた目的。
「街路樹だって?」
あんなのを何処に植えるというんだ、シャングリラの中に道路なんかは無かったぞ?
やたらとデカイ船ではあったが、船の中には車も無ければ、バスも走っていなかったしな…?
街路樹を植える場所が無いぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。それはそうだろう、街路樹だったら道路の側にあるものだから。道路の両脇に植えるにしても、片方だけでも。中央分離帯にしたって道路の真ん中、道路無しでは有り得ないもの。…本当の意味での街路樹ならば。
けれど新聞の記事が切っ掛けで思い付いたのは、街路樹を植えられそうな場所。シャングリラの中でも植えることが出来て、皆が喜んでくれそうな所。
きっとハーレイも分かってくれるに違いないよ、と植えるべき場所を口にした。道路などは無い船の中でも、街路樹を植えておける場所。
「道路じゃなくって、通路だよ。…シャングリラの中には通路が一杯」
何処に行くにも通路だったでしょ、コミューターに乗って行くんじゃなければ。
前のぼくが視察に出掛ける時にも、いつも通路を歩いていたよ。あの通路なら、使えるってば。
だって街路樹なんだもの、と説明した今の自分のアイデア。白いシャングリラの通路を使って、育てる憩いの緑の街路樹。
大きくならない種類の木を使う街路樹だって存在するから、それに倣って背の低い街路樹。
皆の通行の邪魔にならないよう、片側だけとか、通路の真ん中にスペースを設けて植えるとか。
「シャングリラの通路に街路樹だってか?」
そりゃあ確かに、広い通路は山ほどあったが…。デカイ船だし、通路の幅も広かったんだが…。
だからと言って街路樹なのか、と驚いている今のハーレイ。「なんだ、そいつは?」と。
「ハーレイも、似てるって言っていたじゃない。…街路樹と、シャングリラに植えていた木と」
どっちもみんなの役に立つ木で、うんと喜んで貰える木。
公園だけじゃなくて、通路にも植えれば良かったんだよ。街路樹だったら、そんなものでしょ?
道路か通路かの違いくらいで、使い道の方は昔の日本の街路樹と同じ。…シャングリラならね。
植えるんだったら、実が食べられるベリーなんかが良さそうだよ。
あんまり大きくならないヤツなら、ブラックベリーとかラズベリーだとか…。そういう木苺。
コケモモだって美味しそうだし、ちょっと素敵だと思わない?
シャングリラの通路に植えてあったら、誰だって好きに食べられるんだよ。子供も、大人も。
自然の中の道を歩くみたいに、「熟してるな」と思った時にはヒョイとつまんで。
前のぼく、本物の街路樹があるの、アルテメシアで見てたのに…。外へ出る度に、何度もね。
街路樹のことは知っていたのに、船に植えようと思わなかったなんて、大失敗だよ…。
通路に植えれば良かったのにね、と零した溜息。「前のぼく、間抜けだったよ」と。
アルテメシアの街路樹は果樹とは違ったけれども、注目したなら、きっとヒントになったのに。
「ああいう風に木を植えるのか」と道路沿いの木に注意していれば、シャングリラにあった長い通路の活用法を思い付けたのに。
「ぼくって、ホントに馬鹿だよね…。せっかくのスペースを無駄にしちゃった」
シャングリラの仲間は緑が好きで、ブリッジの周りを公園にしてたほどなのに。本当だったら、あそこは公園なんかにしないで、空きスペースの筈だったのに…。
人類軍に攻撃されたら、ブリッジは狙われやすいんだから…。あんな所を公園にしたら、危険な場所になっちゃうのにね。避難用の場所に使うどころか、一番に逃げなきゃいけない公園。
それでも公園にするのがいい、って決めちゃったくらいの船なんだよ?
通路に街路樹を植えておいたら、みんな喜んでくれたのに…。
自分の部屋から通路に出たら街路樹が目に入るんだから、と前の自分の間抜けさに目を覆いたいけれど。前の自分の目は節穴かと、アルテメシアで見た街路樹たちのことを思うけれども…。
「おいおいおい…。アイデアとしては悪くないのが街路樹なんだが…」
スペースだって山ほどあったが、植えていなくて正解だったと思うがな?
コケモモにしてもベリーにしても…、とハーレイに否定されたアイデア。「悪くない」と評価をしてくれたくせに、何故そうなってしまうのだろう?
「…植えていなくて正解だって…。なんで?」
ぼくのアイデアは悪くないんでしょ、なのにどうして植えない方が良くなるわけ?
通路に街路樹はいい筈なんだよ、緑が増えるし、果物だって…。歩きながら見付けて、美味しい木の実をつまめるんだよ?
自分の部屋の前でだって、と疑問をぶつけた。いいことずくめのように思える街路樹の案。船のスペースを有効活用、その上、誰もが喜ぶだろうと思うから。
「お前の案は悪くない。しかし、そいつが実現してたら、とんでもないことになってたぞ」
公園だけでも係のヤツらは手一杯だったんだ、植物の世話で。水撒きは機械で出来てもな。
肥料をやったり、手入れをしたりと、忙しい日々を送ってたわけで…。公園の数が多いから。
なのに通路にまで植えちまってみろ、とてもじゃないが手が回らんぞ。
充分な世話が出来ないじゃないか、シャングリラ中の通路に街路樹が植わっていたら。
街路樹どもの世話に追われて疲労困憊、そういう仲間の憔悴し切った顔が見えるようだ、という指摘。公園だけでも大変だったのに、全部の通路の街路樹となったら追い付かない、と。
「毎日が戦場ってトコだったろうな、公園の係…。船中の通路を回るだけでも大変だ」
やっとこっちが片付いた、と思う間もなく次に移動で世話なんだぞ?
街路樹が枯れてしまうのが先か、係のヤツらが寝込むのが先か…。そうなるくらいに、ヤツらの仕事を増やしていたと思うんだがな?
お前が言ってる通路の街路樹、と言われてみればその通り。船の中の木が増えた分だけ、仕事が増えるのが公園の係。もしも街路樹を植えていたなら、休みさえろくに無さそうな彼ら。
「そうかもね…。街路樹、素敵なんだけど…」
係の仲間が倒れちゃったら、美味しい実がなるどころじゃないし…。無理だったかも…。
いいアイデアだと思ったのに、とガッカリしてしまった、街路樹を植えるという話。船の通路に植えておいたら、もっと緑が増えたのに。…通路でベリーやコケモモの実を摘めたのに。
でも、シャングリラでは無理だったよね、と思い知らされた厳しい現実。街路樹の世話までしていたならば、公園の係はきっと倒れてしまうから。
それじゃ無理だよ、と今の自分の考えの甘さを嘆いていたら…。
「待てよ、シャングリラのことはともかく…。街路樹ってヤツは本来、そういうモンか…」
お前は間違っちゃいないかもな、とハーレイが言うから、キョトンと見開いた瞳。いったい何が正しかったというのだろうか?
「間違ってないって…。何の話?」
ぼくのアイデアは使えないんでしょ、シャングリラでは。係のみんなが疲れてしまって、植えた木だって育たなくって。…途中で枯れたり、最初から根付かなかったりで…。
街路樹を植えてみても無駄になるだけなのに、と首を傾げた。何処も正しくなさそうだから。
そうしたら…。
「世話だ、世話。シャングリラに街路樹は無かったわけだし、そっちは話にならないが…」
植えるアイデアさえ出なかった船じゃ、どうすることも出来ないんだが…。
今の時代の街路樹ってヤツを考えてみろ。お前が乗ってるバスが通る道のヤツだとか。
他にも街路樹は山のようにあって、至る所で葉を茂らせているわけなんだが…。
その街路樹の世話をしているのは誰なんだ、とハーレイが唇に浮かべた笑み。大きな道路なら、何処にでもある色々な種類の街路樹たち。それを世話する係は誰だ、と。
「街路樹ってヤツは道沿いにズラリと植わっちゃいるが、世話をする人間が問題なんだ」
植えたり、枝を剪定するのは専門の業者が来るんだが…。
お前、バスに乗って走っている時、その連中をいつも目にするか?
いつも業者の車が停まっていたりするのか、街路樹の世話をしに来ていて…?
どうなんだ、と訊かれてみると、まるで覚えがない光景。茂りすぎた枝葉を剪定する時は、道に車があるけれど。…作業服を着た人が梯子を使って、木の上にいたりするけれど。
「えーっと…。そんなの滅多に見ないよ、係の人は。毎日なんかは、絶対、見ない…」
ぼくが通っている時間とズレているのかも、と返事をしたら笑われた。「間違ってるぞ」と。
「お前が出会っていないんじゃない。…業者なんかは来ていないんだ、毎日はな」
町中の街路樹の世話をしてたら、それこそシャングリラの街路樹の話と変わらんぞ。山のようにある木を端から回れば日が暮れちまう。仕事が終わる前に太陽が沈んじまうってな。
それじゃどうにもならないだろうが、本当の係が世話に来ることは滅多に無いんだ。
根元に草が生えちまった時も、秋に葉っぱが落ちる時にも、近所の人たちが世話をしてるんだ。誰に頼まれたわけでなくても、「せっかく植わっているんだから」と。
「…そうだったの?」
お仕事で世話をしてるんじゃなくて、近所の人がしてるんだ…。誰も頼んでいないのに。
「そういうことだな。こういう住宅街の中だと、街路樹が無いから分からんが…」
気が付かないでいるんだろうが、表通りに住んでりゃ分かる。…表通りに近い人でも。
それと同じで、もしもシャングリラの通路に街路樹を植えてたら…。
「植えてみたいが、係は其処まで手が回らない」と言いさえしたなら、誰もが世話を始めたな。自分の部屋の前にある木に、せっせと水をやるだとか。ついでに肥料なんかも入れて。
「…そうだったかもね…」
部屋に植木鉢を置いてた仲間もいたんだし…。そういう趣味が無い仲間にしたって、目に入った時は世話してくれそう。「水が足りないみたいだな」って水やりをしたり、肥料をあげたり。
放っておいたままで枯らしはしないよ、シャングリラの仲間たちだったら…。
どんなに忙しくしてる時でも、部屋に戻って水を汲んできてあげるくらいは出来そうだもの。
シャングリラでも可能だったのか、と気付いた街路樹たちの世話。通路に植わった木だけれど。
係たちの手が回らなくても、あの船にいた仲間たちなら、きっと世話してくれただろう。平和な今の時代と同じに、自分の身近にある街路樹を。
「…街路樹の世話って、いろんな人がしてたんだ…。係だけじゃなくて」
前のぼく、ホントに間抜けだったよ。街路樹のことに気付いていたなら、船に緑が増えたのに。
通路に植わっている木たちの世話、きっと誰でもしてくれたのに…。
「そうなったろうな、前のお前が街路樹を植えると言い出してたら」
ゼルあたりが「誰がそいつの世話をするんじゃ!」と怒鳴りそうだが、船の仲間が耳にしたなら実行されていただろう。あの船の通路に似合いの街路樹、ベリーやコケモモを植えて回って。
でもって、そいつが完成したなら、ゼルの姿も見られそうだぞ。ブリッジに行く前にジョウロを手にして、自分の部屋の近くの木たちに水やり中の。
「ふふっ、そうだね。…きっとゼルなら、そうなっちゃうね」
栗の木の世話をやっていたのがゼルだもの。「トゲがあるから危険なんじゃ」って、ゼルだけが上手に扱えるみたいな顔をして。
街路樹の世話も、毎日、せっせとしていそう。…墓碑公園のハンスの木みたいに可愛がって。
「うんと美味い実をつけるんじゃぞ」なんて、話しかけたりしているかもね。
「まったくだ。…ゼルなら、そんな所だろうな。頑固そうでも、根は優しかったヤツだから」
街路樹の世話もお手の物だぞ、あいつの部屋の前のが一番、美味そうな実をつけそうだ。
そういや、今の俺たちが知ってる街路樹。
色々な人が世話をしてるの、俺みたいにジョギングしてるだけでも分かるんだが…。
朝早くから走っていたなら、掃除をしている人にも出くわす。草むしりをしてる人だって。
出会った時には「ご苦労様です」と挨拶をして走って行くんだが…。
その街路樹に実がなる季節が、けっこう愉快なものなんだ。俺のコースだと、銀杏なんだが。
銀杏の実も美味いからなあ、そいつを拾いに来るヤツも多い。
しかも早起きして来るわけで、でないと先に拾われちまう。他のヤツらに。
「今日は見掛けない顔がいるな」と思った時には、銀杏が目当ての連中だな。
実を入れる袋を提げているから直ぐ分かる。掃除に使う箒の代わりに、銀杏を拾うための袋を。
朝一番のジョギング中にハーレイが出会う、銀杏を拾いに来る人たち。銀杏が実る街路樹の葉の掃除はしないで、お目当ては銀杏を拾うこと。
「あの連中は、もちろん普段に掃除なんかはしていない。見掛けない顔ばかりなんだから」
そろそろだな、と頃合いを見てやって来るんだ、銀杏だけを拾いにな。一緒に落ちてる葉っぱの方は、拾うどころか放りっ放しで。
しかし、そういう連中が来ても、誰も文句は言いやしないぞ。「どうぞ拾って行って下さい」とニコニコしながら掃除をしてる。いつも通りに箒を持って。
ついでに箒で掃除してると、銀杏も拾えちまうから…。
それを袋に集めて持ってて、俺がジョギングしている時にも、声を掛けたりしてくれるんだ。
「良かったら持って行きませんか」と愛想よく。
そういうわけで、貰っちまうってこともあるなあ、銀杏を。…木から落っこちたばかりのを。
ジョギング中の俺にくれるほどだし、銀杏を拾いに来る連中も歓迎なのさ、という話。せっせと世話をして来た街路樹、それがつけた実を惜しげもなく譲ってくれる人たち。
街路樹の世話は、誰に頼まれたわけでもないのに。仕事ではなくて、手間賃さえも出ないのに。
「銀杏、ハーレイにもくれるんだ…」
自分が世話した木なんだから、って一人占めにはしないんだね。みんな優しい人ばかり。
街路樹の世話を頑張ってるのも、きっと木たちのためなんだよね。
「うむ。暑い夏だと、水やりだってしているぞ。その水も家から運んで来て」
そうやって育てた銀杏の実を貰っちまうのは、悪いような気もするんだが…。向こうはちっとも気にしていないし、有難く貰って走って行くんだ。…少し臭いのが困りものだが。
とはいえ、後で食ったらこいつが格別に美味い。臭かったのが嘘のようにな。
「ハーレイらしいね、銀杏、ちゃんと食べるんだ。貰った時には臭くったって」
「当然だろうが、自分できちんと手間暇かけて食う銀杏は最高だってな」
臭い部分は綺麗に掃除で、匂いがすっかり消えちまうまで頑張って。
なのに、その最高の銀杏の実を、だ…。
「あれは臭いから」と、実をつけない木ばかり植えた時代もあったらしいぞ。
今の時代は、ごくごく普通に植えているがな。自然のままが一番なんだし、街路樹もそうだ。
イチョウを植えてやるんだったら、雄株も雌株も植えてこそ、ってな。
ハーレイが朝のジョギング中に出くわす、街路樹の世話をしている人たち。銀杏がドッサリ実るイチョウも、違う種類の街路樹なども。
何処でも誰かが世話をする。街路樹を植えたり剪定したりといった業者が来なくても。世話など頼まれていないというのに、「せっかく植わっているのだから」と。
「…俺が思うに、シャングリラでも同じだったろう。さっきも言った通りにな」
前のお前が「通路にも木を」と思い付いていたら、本当に通路に植えていたなら。
係じゃなくても誰かが世話して、きっと立派に育ったろうさ。どれも枯れたりしないでな。
ベリーやコケモモが実った時には、実だけちゃっかり貰っていくヤツらもいたりして。
「俺は仕事が忙しいんだ」と世話なんか一度もしていないくせに、「美味そうだな」とヒョイと毟っちまって。
それでも誰も怒ったりなんかしないんだ、とハーレイが言うから頷いた。白いシャングリラは、皆が優しい船だったから。今の平和な時代と同じに、誰もがミュウだったのだから。
「そういう船も素敵だね。みんなで通路の街路樹を世話して、世話していない人も実を貰って」
美味しそうだ、って毟って食べていたって、誰も文句を言わない船。
「世話をしていない人は食べちゃ駄目」なんて、ケチなことは誰も言わない船…。
「まさに楽園だっただろうなあ、公園があった以上にな」
船の通路に街路樹があって、みんなで世話をしていたら。…自分の部屋の前でなくても。
向こうの方も世話しておくか、と張り切るヤツらも現れたりして。
農場とはまるで縁が無いのに、やたらと世話が上手い仲間がいるだとか…、というのも有り得る話だと思う。意外な才能を発揮する人は、何処にでもいるものだから。
そう話しながら、ハーレイが「植えとけば良かったのか、街路樹を?」と言うものだから。
「…そんな気がするけどね、今のぼくだと」
街路樹としても役に立つんだし、仲間の間でもきっと人気の話題だよ。育ち具合とか、美味しい実がなる育て方とか。食堂とかでも、いつも賑やか。
「俺もそういう気がしてきたが…。街路樹、植えるべきだったのかもしれないが…」
もう手遅れってヤツなんだよなあ、今となっては。
「うん。シャングリラ、とっくに無いものね…」
通路に街路樹を植えてみたくても、白い鯨が無いんだもの。…何処を探しても。
残念だよね、とハーレイと二人で苦笑した。時の彼方に消えてしまったシャングリラ。
木を植えられるスペースが沢山あったというのに、活用し損ねたかもしれない、と。
「やっぱり駄目だな、本物の地面を知らない暮らしをしてたんじゃ…」
こういう場所にも植えられるぞ、とキャプテンの俺にも分からなかった。…なにしろ外の世界を知らんし、データだけでは実感ってヤツが伴わないから。
街路樹くらいは知ってたんだが、とハーレイがフウと零した溜息。データベースで見たし、本の中にも出て来るんだから、と。
「そうみたい…。前のぼくだって、少しも思い付かなかったんだから」
アルテメシアで街路樹を見ても、「人類の世界」だと思うだけ。ミュウの世界と重ならなくて、植えようとも思わないままで…。船の通路にベリーがあったら、本当に素敵だったのに。
だけど今だと、街路樹、色々あるんだね。新聞の記事にも種類が沢山あったよ。
「この町だけでも多いぞ、種類は。ジョギングしてても色々出会える」
他の町でも自慢の街路樹、色々と植えているらしいしな。其処の気候に合わせたヤツを。
そういう所で走ってみるのも楽しいだろう、と言うハーレイは走ったことも多分ある筈。柔道や水泳の試合で遠征、そういう時には他の町にも行ったのだから。
「…今のハーレイが走っていると、銀杏を貰えたりするんでしょ?」
「銀杏の実が落ちる季節に、其処を走って行ったらな」
朝一番でないと出遅れちまうが…、とハーレイは銀杏を巡る先陣争いを口にするけれど。掃除の人や、朝早くから拾いに来る人、その人たちに出会う時間でないと駄目だと言うけれど。
「ぼくも貰えるかな、一緒に行けば?」
ちょっぴり欲しいよ、その銀杏。ハーレイと一緒に出掛けて行って。
「俺と一緒にって…。お前、走れるのか?」
ジョギングなんだぞ、俺のペースで走ってくれんと、お前、置き去りになっちまうんだが…?
とても走れるとは思えないぞ、と尋ねられたから笑顔で答えた。「ううん」と首を横に振って。
「ぼくは散歩だよ、ぼくが一緒の時はハーレイも散歩」
二人で一緒に散歩に行こうよ、落っこちている銀杏の実を貰いに。
拾いに来るだけの人もいるなら、散歩に行っても、銀杏、分けて貰えそうだし…。
ジョギングでなくても良さそうだけど、と頼んでみた。「ぼくと散歩」と。
いつかハーレイと暮らし始めたら、銀杏を貰いに出掛けてみたい。白いシャングリラには銀杏も街路樹も無かったから。今の時代だから、街路樹に実った銀杏を貰えるわけだから。
「散歩に行くのはかまわんが…。朝が早いぞ?」
歩いて行くなら時間がかかるし、ジョギングよりかは早めに家を出ないとな。
「早めって…。それって、とっても?」
「そうなるな。銀杏の季節は、欲しいヤツらは朝がとびきり早いんだ」
掃除している人はともかく、俺みたいに走って行くだけのヤツに踏まれちまったら潰れるから。
それじゃ駄目だし、早く行こうと頑張って早起きしているからな。
暗い内に家を出るんじゃないか、とハーレイが言うから仰天した。いくらなんでも早すぎる。
「ぼく、そんな時間に起きられないかも…」
起こしてくれても、また寝ちゃいそう。もう少しだけ、って言って、そのまま…。
「お前はそういう感じだな。無理をしないで家で寝ていろ、俺が貰って来てやるから」
これが欲しかったんだろう、と袋に入れて貰った銀杏を。
ただし臭いが、と鼻をつまんでみせるハーレイ。「銀杏の匂いは、そりゃ凄いから」と。
「でも、ハーレイが食べられるようにしてくれるんでしょ?」
手間暇かけたらとても美味しくなるんだ、って…。それに臭いのも消えちゃうって。
「お前、食べるだけか?」
銀杏を貰いに散歩だなんて言ってたくせに、お前は食べるだけだってか…?
「だって、お料理、ハーレイがしてくれるって…。ぼくがハーレイと結婚したら」
ハーレイの方がずっとお料理上手なんだし、銀杏の料理もきっと上手いと思うから…。
「まあ、いいがな。…確かに俺は、前の俺だった頃から料理ってヤツとは縁が深いし」
俺の嫁さんの頼みとあれば…、とハーレイが引き受けてくれた銀杏の料理。
今は街路樹が普通にあるから、銀杏だって貰える世界。季節になったら出掛けてゆけば。
シャングリラでは植え損ねた街路樹だけれど、いつかハーレイと結婚したら楽しもう。
デートで色々な木を眺めたり、ドライブで車の窓から見たり。
ジョギングの途中で貰ったという、銀杏の実が臭くて悲鳴を上げてみるのもいい。
街路樹は今は何処にでもあるし、シャングリラの通路に植えてみなくてもいいのだから…。
街路樹と船・了
※実が食べられる木を公園に植えていたシャングリラ。でも、街路樹はありませんでした。
植えておいたら、きっと喜ぶ人が多くて、世話をしたがる人もいた筈。あれば良かったかも。
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一杯あるね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
遥かな昔に日本と呼ばれる島国があった、この地域。陸地の形はすっかり変わったけれど、今も日本を名乗っている場所。遠い昔の日本の文化を復活させて。
それほど広くはない地域だけれど、四季がある上、気候も様々。それに合わせて植える街路樹の種類も色々。南の方ならヤシの木だったり、寒い場所ならリンゴの木だって。
(歴史も、うんと長いんだ…)
何の気なしに見ている街路樹。バスが通るような道路だったら、街路樹もあるものだから。
当たり前のように思った街路樹、けれど歴史は長いという。人間が地球しか知らなかった頃に、街路樹はとうにあったから。
世界で最初の街路樹だったら、紀元前十世紀に植えられたもの。当時のヒマラヤ辺りにあった、街道に沿ってズラリと街路樹。
もっとも日本の街路樹の方は、もっと後のことになるけれど。千年どころか、ずっと後の時代。六世紀だとか、八世紀だとか。
植えられた目的の方も色々、六世紀の街路樹は単なる目印。「此処は都の道ですよ」と。
八世紀になると、同じ都でも桃と梨の木を植えることになった。どちらも美味しい実がなる木。貧しい人々が飢えないようにと、当時の皇后様が都に植えた。けれど、記録は残っていない。
優しかった皇后様の伝説なのか、本当にあったことなのか。
日本で一番最初の記録は、お坊さんの提案で決まった街路樹。きちんと法律まで作って。当時の有名な街道に沿って、果樹を育ててゆくようにと。それも一つではなかった街道、当時の人たちが旅をしていた範囲を殆どカバーするくらい。
そのお坊さんは遣唐使になって、中国の都を見て来ていた。都に植えられた街路樹たちを。夏は涼しい木陰を作って、秋は美味しい果物が実る。木陰で休むことも出来るし、飢えや乾きも果物が解消してくれる。「一つ貰おう」と手を伸ばしたら。
植えられた木は柿やタチバナや梨と言うけれど、定説は無い。記録に残らなかったから。
けれどもお坊さんのアイデア、それよりも少し前の時代は都だけだった果樹の並木を、旅をする人たちのために広げた。その時代ならば、「日本中」と言ってもいいほどの場所に。
なるほど、と読んだ街路樹の歴史。単に道路の彩りだけではなかったらしい。ずっと昔は。
今のように車も無い時代だから、休める木陰は有難いもの。道沿いには店も無かっただろうし、ちょっと入って食事も出来はしないから。
暑ければ木陰に入って休んで、お腹が空いたら木の実を貰う。梨でも桃でも、きっと美味しい。喉が渇いてしまった時にも、水場を探さなくてもいい。水気たっぷりの果物があれば。
(ちょっとシャングリラに似てるかも?)
遠い昔にあった日本で、街路樹を植えていた目的。
今はともかく、昔の時代。日本で最初の街路樹を植えようと決まった頃なら、何処か似ている。前の自分が暮らした船と。白い鯨に改造を終えて、自給自足で生きていた船と。
木を植えるのなら憩いや食べ物、そういう基準で選んだのが白いシャングリラ。どういう木を何処に植えるのがいいか、皆であれこれ検討して。
(食事のための食べ物だったら、農場の方だったんだけど…)
皆の胃袋を満たす食料、小麦も野菜も、果樹も育てていたけれど。
船のあちこちに鏤められた公園にもあった、何本もの果樹。憩いの緑を作る木たちに混じって。
サクランボなどがあった公園。
同じような花を咲かせるのならば、実など出来ない桜よりかはサクランボだったシャングリラ。綺麗な花を愛でた後には、赤いサクランボが実るから。皆で美味しく食べられるから。
公園は憩いの場でもあったし、果物が実る場所でもあった。遠い昔の街路樹に似ていた、植える木たちの選び方。「どうせだったら、実が食べられるものがいい」と。
(だけど、シャングリラには街路樹なんか…)
まるで植えてはいなかった。
巨大な白い鯨になったら、至る所に長い通路があったのに。船の中を結んでいた通路。道路とも呼べたかもしれない。幅はけっこう広かったのだし、車が走っていなかっただけ。
(運搬用のヤツが通るくらいで…)
人間優先だったけれども、あれも一種の道路だろう。一車線しか無かったとしても。
けれど街路樹は無かった通路。何処に行っても、一本も植わっていなかった。ブリッジが見える船で一番広い公園、あそこに繋がる通路でさえも。
無かったっけ、と思う街路樹。遠い昔の日本の街路樹、それと似たような基準で木たちを植えていたのに。同じ公園に植えるのだったら、憩いの緑と美味しい果物、と皆で選んで。
実のならない木も多かったけれど、人気を誇っていたのが果樹。サクランボだとか、色々と。
(通路、そんなに広くなくても…)
天井が見上げるほどでなくても、街路樹は可能だっただろう。今の記事にも載っている。大きくならない街路樹たち。高く聳えはしない低木。
(こういう木だって、使われてるのに…)
何車線もある道路の中央分離帯には、見通しのいい低木が人気。そうでない場所でも、小さめの街路樹を植えることだって。自慢の眺めを遮らないよう、あえて低めにしておく街路樹。
低く切り揃えてしまうのではなくて、最初から背の低い木を選ぶ。見た目なんかも考慮して。
(シャングリラでも植えれば良かったかな?)
通路は山ほどあったのだから、あそこに街路樹。通路の両脇だと狭くなるから、片方だけでも。あるいは通路の真ん中に植えて、中央分離帯みたいな感じで。
そうしていたなら、憩いのスペースが船の中に増えていたかもしれない。わざわざ公園に出掛けなくても、通路に出たなら憩いの緑。ほんの小さな、背の低い木でも。
船の中を移動してゆく時にも、歩く通路に緑の街路樹。通路の壁だの天井だのといった、単調な景色を眺める代わりに、通路を彩る街路樹たち。葉を茂らせて、季節になれば花だって。
(それが果物の木だったら…)
きっと子供たちが喜んだ筈。公園の木でも、「実はまだかな?」と心待ちにしていた子供たち。花が咲いたら、次は実がなるものだから。サクランボなどの果樹ならば。
チョコンと緑の小さな実がついたならば、「もうすぐかな?」と見上げて熟すのを待った。まだ青い実が大きく育って、色づいて食べられるようになる日を。
もしも通路に果樹があったら、本当に大喜びだったろう。丈が低い木で、桃のような実は無理なサイズでも。ほんの小さな実がなるだけでも、その実が美味しかったなら。
ワイワイと皆で通路を歩く途中で、「赤くなった」と毟ってつまみ食いしたり。
収穫の日なんか待ちもしないで、熟したものから、片っ端に。
街路樹ならばそれで良かった、農場の木とは違うのだから。勝手にもいで食べていたって、誰も咎めはしないのだから。
ちょっといいかも、と思った街路樹のこと。白いシャングリラにあったなら、と。
おやつの後で自分の部屋に帰って考えてみる。勉強机の前に座って、あのシャングリラに植えてやるなら、どんな街路樹が良かったろうか、と。
広いシャングリラの中を結んでいた通路。コミューターという乗り物でも移動できたけれども、それは長い距離を動くためのもの。船の端から端までだとか。
普段は通路を歩いていたのが仲間たち。時には急いで駆けて行ったり、のんびりだったり。
そんな仲間たちのために植えるなら、街路樹にピッタリだったろう木は…。
(やっぱり果物?)
遠い昔の街路樹みたいに、美味しい果物をつけてくれる木。飢えや乾きとは無縁の船でも、同じ木ならば食べられる実をつける木がいい。公園に植えていた木も、そうだったから。
それに、あんまり大きくならない木。育ちすぎて通路を塞がないよう、通行を妨げないように。
(丈が低くて、食べられる実がなる木なら…)
コケモモやベリーがいいのだろうか。ブルーベリーは大きく育ってしまうらしいし、そうでないベリー。ラズベリーとか、ブラックベリーといった木苺。
コケモモは最初から丈が低いし、木苺だって低木の部類に入るだろう。枝が広がりすぎた時には剪定すれば、それで充分。
ベリーやコケモモを植えておいたら、子供たちがつまむのに丁度いい。小さな子だって、背伸びしないで好きなだけ毟り取れるから。そんなに高くない木なら。
(子供たちだけじゃなくって、大人だって…)
歩く途中でヒョイとつまんで口に入れたら、自然の中にいる気分。公園でなくても、壁や天井に囲まれている通路でも。
まるで野原の小道よろしく、ベリーが実っているのだから。緑の葉っぱも茂らせて。
(ホントに植えれば良かったよ…)
白いシャングリラの中の通路に、街路樹を。片側だけでも、中央分離帯みたいな具合にでも。
失敗だよね、という気がする。前の自分の大失敗。…街路樹に気が付かなくて。
アルテメシアに降りた時には、街路樹を目にしていたというのに。道路に沿って並ぶ木たちを。
白い鯨でも、やろうと思えば出来たのに。
街路樹を植えられるだけのスペースはあって、植えていたなら皆が喜んでくれた筈なのに。
前の自分が生きた間に、思い付きさえしなかったこと。白いシャングリラに植える街路樹。
長すぎるくらいの通路が幾つも、縦横に走っていたというのに。前の自分も視察などのために、其処を何度も歩いたのに。
(場所はあったのに、アイデア不足…)
生かせなかった通路のスペース。あそこに街路樹を植えておいたら、素敵な船になったのに。
前のぼくって駄目だよね、と頭をコツンと叩いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、街路樹の話を持ち出した。前の自分の失敗談は、まだ話さないで。
「あのね、街路樹って素敵だよね。広い道路には、色々なのが植わっているでしょ?」
学校へ行く時に乗るバスからも見えるよ、両側に幾つも植えてあるのが。
道路だけより、街路樹があった方がいいよね、断然。
見上げるみたいに大きな木でも、それほど大きくない木でも、と挙げた街路樹。ハーレイだって此処へ来るまでに、同じ道路を車で走った筈だから。
「街路樹か…。いいもんだよなあ、アレは。夏は緑で、秋は紅葉で」
冬は葉っぱを落としちまうが、それでも味わいたっぷりだ。今は冬だ、と一目で分かって。
春が近付いたら芽吹く前からほんのり緑で、「じきに春だな」と眺められるし…。
ドライブしてても楽しいもんだ、と今のハーレイも街路樹がある生活が好きらしい。ドライブの時も、仕事に行こうと車を走らせる時も、きっと観察しているのだろう。運転しながら。
「やっぱり、ハーレイも素敵だと思う?」
道があったら、街路樹が植わっているっていうのが。
ぼくの家の前の道路みたいに狭い道だと、街路樹、植わってないけれど…。邪魔になるから。
「その代わり、家の木が沢山だろうが。生垣もあるし、庭木の方もドッサリだ」
街路樹が無くても緑はたっぷり、植える必要も無いってこった。
もっとも統一は取れてないがな、同じ木ばかりが並んでるわけじゃないんだし…。何処の家でも好きな木を植えて、お揃いにしてはいないから。
だが、本物の街路樹の方も、それに負けてはいないってな。走っていく距離が長くなったら。
それぞれの場所に似合いのを植えてて、何処でも同じってわけじゃなから…。
親父の家に行く道にだって、色々なのが植わっているぞ。一種類だけじゃなくってな。
同じ木ばかりあってもつまらん、とハーレイも知っている街路樹の種類が沢山なこと。遠い昔の日本の名前を名乗る地域は、どちらかと言えば緑が優先らしいけれども…。
「他の地域だと、果物の木も多いらしいぞ。四季はあっても、此処より温暖だったりすると」
オレンジだとか、レモンだとか…。そりゃあ美味そうなのが道の両脇にズラリとな。
この地域だと、オレンジやレモンは難しいんだが…。冬が寒すぎて、世話が大変だから。
そうは言っても、北の方へ行けばリンゴだったり、まるで無いっていうわけじゃない。リンゴでなくても胡桃やトチノキ、その辺だったらお馴染みだから。
けっこう多いのがトチノキだよな、と挙げられた名前。トチノキというのは何だろう?
「トチノキって…。胡桃は分かるけど、トチノキも食べられる実がなるの?」
胡桃みたいな木なのかな、と思ったトチノキ。それとも柔らかな実なのだろうか?
「食える実には違いないんだが…。トチ餅の材料になるんだから」
ただ、食うまでに大層な手間がかかるんだよなあ、トチの実は。もいで直ぐには食べられない。
トチ餅にするにも、けっこう時間がかかっちまう、と教えて貰った。アク抜きしないと、渋くて食べられないという。そのアク抜きも、一度ではとても済まないのだとも。
「トチ餅、そういう木の実で出来てるお餅なんだ…」
パパが何処かで貰って来たから、食べてみたことはあるけれど…。どんな木の実か、どうやってお餅を作っているのか、考えないほど小さかったから…。下の学校に行ってた頃で。
トチノキは木の実で、果物と言っていいのかどうかが分かんないけど…。
ずっと昔の日本だったら、街路樹は果物の木だったんだよね。桃とか梨とか、アク抜きしないで食べられるヤツ。それに柿とか。
お腹が減ったら、採って食べても良かったんでしょ、と披露した知識。ほんの少し前に、新聞で仕入れたばかりだけれど。
「おっ、詳しいじゃないか。まだチビのくせに」
そんなの歴史じゃ習わないだろ、大したもんだな。何かの本で読んだのか?
ずっと昔の日本の歴史、とハーレイが感心してくれたから、ちょっぴり嬉しくて得意な気分。
「今日、新聞に載ってたから…。昔の日本の街路樹のお話」
旅をする人が食べられるように、果物の木を植えていたんだ、って。いろんな所の街道沿いに。
それでね…。
ちょっとシャングリラに似ているでしょ、と話した昔の街路樹の意味。ただ木を植えるだけではなくて、その木が役に立つように。憩いの緑に、飢えや乾きが癒える果物。
白いシャングリラの公園に植える木たちを、選んだ理由と似ているよ、と。
「果物の木ばかり、植えてたわけじゃないけれど…。そうじゃない木は、憩いの木だよ」
背が高い木は下でのんびり寛げたんだし、背の低い木だって眺めて緑を楽しめるように。
花を咲かせる木を植えるんなら、美味しい果物が実る木の方がいいに決まってる、って。だから桜は植えていなくて、サクランボ…。どっちも似たような花が咲くから。
花だけで終わる桜よりかは、サクランボだった船だったよ。後でサクランボが実るんだもの。
ちょっと街路樹みたいじゃない、と話してみたら、「そうだな」と頷いてくれたハーレイ。
「そういや、あの船はそうだった。実用的な植物優先、そんな船ではあったよな」
憩いの場所に、食える実か…。確かにそいつは、昔の日本の街路樹ってヤツにそっくりだ。船の中では誰も暑さで困りやしないし、飢えるってことも無かったが…。
アルタミラから逃げ出して直ぐの船の頃には飢えかけたがな、とハーレイが浮かべる苦笑い。
元はコンスティテューション号だった船は、沢山の食料を積んでいたけれど、いつか尽きるのがその食料。前のハーレイは食料倉庫の中を調べて悩んでいた。「あと一ケ月で無くなる」と。
食料が尽きれば、誰もが飢えて死ぬしかない。幸いなことに、前の自分が救ったけれど。人類の船から奪った物資で、皆の命を繋いだけれど。
そういう暮らしが長く続いて、けれどそれでは見えない未来。ミュウという種族がこれから先も生きていくには、自分たちの手で全てを賄うべき。
そして出来たのが白い鯨で、飢える心配など無かった船。何もかも船の中で作れて、果物だって栽培していたのだから。使えるスペースを最大限に生かして、公園にも果樹を植えたりして。
「ね、シャングリラはそうだったでしょ? だからね…」
街路樹も植えたら良かったのかな、って思ったんだよ。植える理由はそっくりだから。
昔の日本の街路樹だったら、シャングリラの頃と変わらないでしょ、植えた目的。
「街路樹だって?」
あんなのを何処に植えるというんだ、シャングリラの中に道路なんかは無かったぞ?
やたらとデカイ船ではあったが、船の中には車も無ければ、バスも走っていなかったしな…?
街路樹を植える場所が無いぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。それはそうだろう、街路樹だったら道路の側にあるものだから。道路の両脇に植えるにしても、片方だけでも。中央分離帯にしたって道路の真ん中、道路無しでは有り得ないもの。…本当の意味での街路樹ならば。
けれど新聞の記事が切っ掛けで思い付いたのは、街路樹を植えられそうな場所。シャングリラの中でも植えることが出来て、皆が喜んでくれそうな所。
きっとハーレイも分かってくれるに違いないよ、と植えるべき場所を口にした。道路などは無い船の中でも、街路樹を植えておける場所。
「道路じゃなくって、通路だよ。…シャングリラの中には通路が一杯」
何処に行くにも通路だったでしょ、コミューターに乗って行くんじゃなければ。
前のぼくが視察に出掛ける時にも、いつも通路を歩いていたよ。あの通路なら、使えるってば。
だって街路樹なんだもの、と説明した今の自分のアイデア。白いシャングリラの通路を使って、育てる憩いの緑の街路樹。
大きくならない種類の木を使う街路樹だって存在するから、それに倣って背の低い街路樹。
皆の通行の邪魔にならないよう、片側だけとか、通路の真ん中にスペースを設けて植えるとか。
「シャングリラの通路に街路樹だってか?」
そりゃあ確かに、広い通路は山ほどあったが…。デカイ船だし、通路の幅も広かったんだが…。
だからと言って街路樹なのか、と驚いている今のハーレイ。「なんだ、そいつは?」と。
「ハーレイも、似てるって言っていたじゃない。…街路樹と、シャングリラに植えていた木と」
どっちもみんなの役に立つ木で、うんと喜んで貰える木。
公園だけじゃなくて、通路にも植えれば良かったんだよ。街路樹だったら、そんなものでしょ?
道路か通路かの違いくらいで、使い道の方は昔の日本の街路樹と同じ。…シャングリラならね。
植えるんだったら、実が食べられるベリーなんかが良さそうだよ。
あんまり大きくならないヤツなら、ブラックベリーとかラズベリーだとか…。そういう木苺。
コケモモだって美味しそうだし、ちょっと素敵だと思わない?
シャングリラの通路に植えてあったら、誰だって好きに食べられるんだよ。子供も、大人も。
自然の中の道を歩くみたいに、「熟してるな」と思った時にはヒョイとつまんで。
前のぼく、本物の街路樹があるの、アルテメシアで見てたのに…。外へ出る度に、何度もね。
街路樹のことは知っていたのに、船に植えようと思わなかったなんて、大失敗だよ…。
通路に植えれば良かったのにね、と零した溜息。「前のぼく、間抜けだったよ」と。
アルテメシアの街路樹は果樹とは違ったけれども、注目したなら、きっとヒントになったのに。
「ああいう風に木を植えるのか」と道路沿いの木に注意していれば、シャングリラにあった長い通路の活用法を思い付けたのに。
「ぼくって、ホントに馬鹿だよね…。せっかくのスペースを無駄にしちゃった」
シャングリラの仲間は緑が好きで、ブリッジの周りを公園にしてたほどなのに。本当だったら、あそこは公園なんかにしないで、空きスペースの筈だったのに…。
人類軍に攻撃されたら、ブリッジは狙われやすいんだから…。あんな所を公園にしたら、危険な場所になっちゃうのにね。避難用の場所に使うどころか、一番に逃げなきゃいけない公園。
それでも公園にするのがいい、って決めちゃったくらいの船なんだよ?
通路に街路樹を植えておいたら、みんな喜んでくれたのに…。
自分の部屋から通路に出たら街路樹が目に入るんだから、と前の自分の間抜けさに目を覆いたいけれど。前の自分の目は節穴かと、アルテメシアで見た街路樹たちのことを思うけれども…。
「おいおいおい…。アイデアとしては悪くないのが街路樹なんだが…」
スペースだって山ほどあったが、植えていなくて正解だったと思うがな?
コケモモにしてもベリーにしても…、とハーレイに否定されたアイデア。「悪くない」と評価をしてくれたくせに、何故そうなってしまうのだろう?
「…植えていなくて正解だって…。なんで?」
ぼくのアイデアは悪くないんでしょ、なのにどうして植えない方が良くなるわけ?
通路に街路樹はいい筈なんだよ、緑が増えるし、果物だって…。歩きながら見付けて、美味しい木の実をつまめるんだよ?
自分の部屋の前でだって、と疑問をぶつけた。いいことずくめのように思える街路樹の案。船のスペースを有効活用、その上、誰もが喜ぶだろうと思うから。
「お前の案は悪くない。しかし、そいつが実現してたら、とんでもないことになってたぞ」
公園だけでも係のヤツらは手一杯だったんだ、植物の世話で。水撒きは機械で出来てもな。
肥料をやったり、手入れをしたりと、忙しい日々を送ってたわけで…。公園の数が多いから。
なのに通路にまで植えちまってみろ、とてもじゃないが手が回らんぞ。
充分な世話が出来ないじゃないか、シャングリラ中の通路に街路樹が植わっていたら。
街路樹どもの世話に追われて疲労困憊、そういう仲間の憔悴し切った顔が見えるようだ、という指摘。公園だけでも大変だったのに、全部の通路の街路樹となったら追い付かない、と。
「毎日が戦場ってトコだったろうな、公園の係…。船中の通路を回るだけでも大変だ」
やっとこっちが片付いた、と思う間もなく次に移動で世話なんだぞ?
街路樹が枯れてしまうのが先か、係のヤツらが寝込むのが先か…。そうなるくらいに、ヤツらの仕事を増やしていたと思うんだがな?
お前が言ってる通路の街路樹、と言われてみればその通り。船の中の木が増えた分だけ、仕事が増えるのが公園の係。もしも街路樹を植えていたなら、休みさえろくに無さそうな彼ら。
「そうかもね…。街路樹、素敵なんだけど…」
係の仲間が倒れちゃったら、美味しい実がなるどころじゃないし…。無理だったかも…。
いいアイデアだと思ったのに、とガッカリしてしまった、街路樹を植えるという話。船の通路に植えておいたら、もっと緑が増えたのに。…通路でベリーやコケモモの実を摘めたのに。
でも、シャングリラでは無理だったよね、と思い知らされた厳しい現実。街路樹の世話までしていたならば、公園の係はきっと倒れてしまうから。
それじゃ無理だよ、と今の自分の考えの甘さを嘆いていたら…。
「待てよ、シャングリラのことはともかく…。街路樹ってヤツは本来、そういうモンか…」
お前は間違っちゃいないかもな、とハーレイが言うから、キョトンと見開いた瞳。いったい何が正しかったというのだろうか?
「間違ってないって…。何の話?」
ぼくのアイデアは使えないんでしょ、シャングリラでは。係のみんなが疲れてしまって、植えた木だって育たなくって。…途中で枯れたり、最初から根付かなかったりで…。
街路樹を植えてみても無駄になるだけなのに、と首を傾げた。何処も正しくなさそうだから。
そうしたら…。
「世話だ、世話。シャングリラに街路樹は無かったわけだし、そっちは話にならないが…」
植えるアイデアさえ出なかった船じゃ、どうすることも出来ないんだが…。
今の時代の街路樹ってヤツを考えてみろ。お前が乗ってるバスが通る道のヤツだとか。
他にも街路樹は山のようにあって、至る所で葉を茂らせているわけなんだが…。
その街路樹の世話をしているのは誰なんだ、とハーレイが唇に浮かべた笑み。大きな道路なら、何処にでもある色々な種類の街路樹たち。それを世話する係は誰だ、と。
「街路樹ってヤツは道沿いにズラリと植わっちゃいるが、世話をする人間が問題なんだ」
植えたり、枝を剪定するのは専門の業者が来るんだが…。
お前、バスに乗って走っている時、その連中をいつも目にするか?
いつも業者の車が停まっていたりするのか、街路樹の世話をしに来ていて…?
どうなんだ、と訊かれてみると、まるで覚えがない光景。茂りすぎた枝葉を剪定する時は、道に車があるけれど。…作業服を着た人が梯子を使って、木の上にいたりするけれど。
「えーっと…。そんなの滅多に見ないよ、係の人は。毎日なんかは、絶対、見ない…」
ぼくが通っている時間とズレているのかも、と返事をしたら笑われた。「間違ってるぞ」と。
「お前が出会っていないんじゃない。…業者なんかは来ていないんだ、毎日はな」
町中の街路樹の世話をしてたら、それこそシャングリラの街路樹の話と変わらんぞ。山のようにある木を端から回れば日が暮れちまう。仕事が終わる前に太陽が沈んじまうってな。
それじゃどうにもならないだろうが、本当の係が世話に来ることは滅多に無いんだ。
根元に草が生えちまった時も、秋に葉っぱが落ちる時にも、近所の人たちが世話をしてるんだ。誰に頼まれたわけでなくても、「せっかく植わっているんだから」と。
「…そうだったの?」
お仕事で世話をしてるんじゃなくて、近所の人がしてるんだ…。誰も頼んでいないのに。
「そういうことだな。こういう住宅街の中だと、街路樹が無いから分からんが…」
気が付かないでいるんだろうが、表通りに住んでりゃ分かる。…表通りに近い人でも。
それと同じで、もしもシャングリラの通路に街路樹を植えてたら…。
「植えてみたいが、係は其処まで手が回らない」と言いさえしたなら、誰もが世話を始めたな。自分の部屋の前にある木に、せっせと水をやるだとか。ついでに肥料なんかも入れて。
「…そうだったかもね…」
部屋に植木鉢を置いてた仲間もいたんだし…。そういう趣味が無い仲間にしたって、目に入った時は世話してくれそう。「水が足りないみたいだな」って水やりをしたり、肥料をあげたり。
放っておいたままで枯らしはしないよ、シャングリラの仲間たちだったら…。
どんなに忙しくしてる時でも、部屋に戻って水を汲んできてあげるくらいは出来そうだもの。
シャングリラでも可能だったのか、と気付いた街路樹たちの世話。通路に植わった木だけれど。
係たちの手が回らなくても、あの船にいた仲間たちなら、きっと世話してくれただろう。平和な今の時代と同じに、自分の身近にある街路樹を。
「…街路樹の世話って、いろんな人がしてたんだ…。係だけじゃなくて」
前のぼく、ホントに間抜けだったよ。街路樹のことに気付いていたなら、船に緑が増えたのに。
通路に植わっている木たちの世話、きっと誰でもしてくれたのに…。
「そうなったろうな、前のお前が街路樹を植えると言い出してたら」
ゼルあたりが「誰がそいつの世話をするんじゃ!」と怒鳴りそうだが、船の仲間が耳にしたなら実行されていただろう。あの船の通路に似合いの街路樹、ベリーやコケモモを植えて回って。
でもって、そいつが完成したなら、ゼルの姿も見られそうだぞ。ブリッジに行く前にジョウロを手にして、自分の部屋の近くの木たちに水やり中の。
「ふふっ、そうだね。…きっとゼルなら、そうなっちゃうね」
栗の木の世話をやっていたのがゼルだもの。「トゲがあるから危険なんじゃ」って、ゼルだけが上手に扱えるみたいな顔をして。
街路樹の世話も、毎日、せっせとしていそう。…墓碑公園のハンスの木みたいに可愛がって。
「うんと美味い実をつけるんじゃぞ」なんて、話しかけたりしているかもね。
「まったくだ。…ゼルなら、そんな所だろうな。頑固そうでも、根は優しかったヤツだから」
街路樹の世話もお手の物だぞ、あいつの部屋の前のが一番、美味そうな実をつけそうだ。
そういや、今の俺たちが知ってる街路樹。
色々な人が世話をしてるの、俺みたいにジョギングしてるだけでも分かるんだが…。
朝早くから走っていたなら、掃除をしている人にも出くわす。草むしりをしてる人だって。
出会った時には「ご苦労様です」と挨拶をして走って行くんだが…。
その街路樹に実がなる季節が、けっこう愉快なものなんだ。俺のコースだと、銀杏なんだが。
銀杏の実も美味いからなあ、そいつを拾いに来るヤツも多い。
しかも早起きして来るわけで、でないと先に拾われちまう。他のヤツらに。
「今日は見掛けない顔がいるな」と思った時には、銀杏が目当ての連中だな。
実を入れる袋を提げているから直ぐ分かる。掃除に使う箒の代わりに、銀杏を拾うための袋を。
朝一番のジョギング中にハーレイが出会う、銀杏を拾いに来る人たち。銀杏が実る街路樹の葉の掃除はしないで、お目当ては銀杏を拾うこと。
「あの連中は、もちろん普段に掃除なんかはしていない。見掛けない顔ばかりなんだから」
そろそろだな、と頃合いを見てやって来るんだ、銀杏だけを拾いにな。一緒に落ちてる葉っぱの方は、拾うどころか放りっ放しで。
しかし、そういう連中が来ても、誰も文句は言いやしないぞ。「どうぞ拾って行って下さい」とニコニコしながら掃除をしてる。いつも通りに箒を持って。
ついでに箒で掃除してると、銀杏も拾えちまうから…。
それを袋に集めて持ってて、俺がジョギングしている時にも、声を掛けたりしてくれるんだ。
「良かったら持って行きませんか」と愛想よく。
そういうわけで、貰っちまうってこともあるなあ、銀杏を。…木から落っこちたばかりのを。
ジョギング中の俺にくれるほどだし、銀杏を拾いに来る連中も歓迎なのさ、という話。せっせと世話をして来た街路樹、それがつけた実を惜しげもなく譲ってくれる人たち。
街路樹の世話は、誰に頼まれたわけでもないのに。仕事ではなくて、手間賃さえも出ないのに。
「銀杏、ハーレイにもくれるんだ…」
自分が世話した木なんだから、って一人占めにはしないんだね。みんな優しい人ばかり。
街路樹の世話を頑張ってるのも、きっと木たちのためなんだよね。
「うむ。暑い夏だと、水やりだってしているぞ。その水も家から運んで来て」
そうやって育てた銀杏の実を貰っちまうのは、悪いような気もするんだが…。向こうはちっとも気にしていないし、有難く貰って走って行くんだ。…少し臭いのが困りものだが。
とはいえ、後で食ったらこいつが格別に美味い。臭かったのが嘘のようにな。
「ハーレイらしいね、銀杏、ちゃんと食べるんだ。貰った時には臭くったって」
「当然だろうが、自分できちんと手間暇かけて食う銀杏は最高だってな」
臭い部分は綺麗に掃除で、匂いがすっかり消えちまうまで頑張って。
なのに、その最高の銀杏の実を、だ…。
「あれは臭いから」と、実をつけない木ばかり植えた時代もあったらしいぞ。
今の時代は、ごくごく普通に植えているがな。自然のままが一番なんだし、街路樹もそうだ。
イチョウを植えてやるんだったら、雄株も雌株も植えてこそ、ってな。
ハーレイが朝のジョギング中に出くわす、街路樹の世話をしている人たち。銀杏がドッサリ実るイチョウも、違う種類の街路樹なども。
何処でも誰かが世話をする。街路樹を植えたり剪定したりといった業者が来なくても。世話など頼まれていないというのに、「せっかく植わっているのだから」と。
「…俺が思うに、シャングリラでも同じだったろう。さっきも言った通りにな」
前のお前が「通路にも木を」と思い付いていたら、本当に通路に植えていたなら。
係じゃなくても誰かが世話して、きっと立派に育ったろうさ。どれも枯れたりしないでな。
ベリーやコケモモが実った時には、実だけちゃっかり貰っていくヤツらもいたりして。
「俺は仕事が忙しいんだ」と世話なんか一度もしていないくせに、「美味そうだな」とヒョイと毟っちまって。
それでも誰も怒ったりなんかしないんだ、とハーレイが言うから頷いた。白いシャングリラは、皆が優しい船だったから。今の平和な時代と同じに、誰もがミュウだったのだから。
「そういう船も素敵だね。みんなで通路の街路樹を世話して、世話していない人も実を貰って」
美味しそうだ、って毟って食べていたって、誰も文句を言わない船。
「世話をしていない人は食べちゃ駄目」なんて、ケチなことは誰も言わない船…。
「まさに楽園だっただろうなあ、公園があった以上にな」
船の通路に街路樹があって、みんなで世話をしていたら。…自分の部屋の前でなくても。
向こうの方も世話しておくか、と張り切るヤツらも現れたりして。
農場とはまるで縁が無いのに、やたらと世話が上手い仲間がいるだとか…、というのも有り得る話だと思う。意外な才能を発揮する人は、何処にでもいるものだから。
そう話しながら、ハーレイが「植えとけば良かったのか、街路樹を?」と言うものだから。
「…そんな気がするけどね、今のぼくだと」
街路樹としても役に立つんだし、仲間の間でもきっと人気の話題だよ。育ち具合とか、美味しい実がなる育て方とか。食堂とかでも、いつも賑やか。
「俺もそういう気がしてきたが…。街路樹、植えるべきだったのかもしれないが…」
もう手遅れってヤツなんだよなあ、今となっては。
「うん。シャングリラ、とっくに無いものね…」
通路に街路樹を植えてみたくても、白い鯨が無いんだもの。…何処を探しても。
残念だよね、とハーレイと二人で苦笑した。時の彼方に消えてしまったシャングリラ。
木を植えられるスペースが沢山あったというのに、活用し損ねたかもしれない、と。
「やっぱり駄目だな、本物の地面を知らない暮らしをしてたんじゃ…」
こういう場所にも植えられるぞ、とキャプテンの俺にも分からなかった。…なにしろ外の世界を知らんし、データだけでは実感ってヤツが伴わないから。
街路樹くらいは知ってたんだが、とハーレイがフウと零した溜息。データベースで見たし、本の中にも出て来るんだから、と。
「そうみたい…。前のぼくだって、少しも思い付かなかったんだから」
アルテメシアで街路樹を見ても、「人類の世界」だと思うだけ。ミュウの世界と重ならなくて、植えようとも思わないままで…。船の通路にベリーがあったら、本当に素敵だったのに。
だけど今だと、街路樹、色々あるんだね。新聞の記事にも種類が沢山あったよ。
「この町だけでも多いぞ、種類は。ジョギングしてても色々出会える」
他の町でも自慢の街路樹、色々と植えているらしいしな。其処の気候に合わせたヤツを。
そういう所で走ってみるのも楽しいだろう、と言うハーレイは走ったことも多分ある筈。柔道や水泳の試合で遠征、そういう時には他の町にも行ったのだから。
「…今のハーレイが走っていると、銀杏を貰えたりするんでしょ?」
「銀杏の実が落ちる季節に、其処を走って行ったらな」
朝一番でないと出遅れちまうが…、とハーレイは銀杏を巡る先陣争いを口にするけれど。掃除の人や、朝早くから拾いに来る人、その人たちに出会う時間でないと駄目だと言うけれど。
「ぼくも貰えるかな、一緒に行けば?」
ちょっぴり欲しいよ、その銀杏。ハーレイと一緒に出掛けて行って。
「俺と一緒にって…。お前、走れるのか?」
ジョギングなんだぞ、俺のペースで走ってくれんと、お前、置き去りになっちまうんだが…?
とても走れるとは思えないぞ、と尋ねられたから笑顔で答えた。「ううん」と首を横に振って。
「ぼくは散歩だよ、ぼくが一緒の時はハーレイも散歩」
二人で一緒に散歩に行こうよ、落っこちている銀杏の実を貰いに。
拾いに来るだけの人もいるなら、散歩に行っても、銀杏、分けて貰えそうだし…。
ジョギングでなくても良さそうだけど、と頼んでみた。「ぼくと散歩」と。
いつかハーレイと暮らし始めたら、銀杏を貰いに出掛けてみたい。白いシャングリラには銀杏も街路樹も無かったから。今の時代だから、街路樹に実った銀杏を貰えるわけだから。
「散歩に行くのはかまわんが…。朝が早いぞ?」
歩いて行くなら時間がかかるし、ジョギングよりかは早めに家を出ないとな。
「早めって…。それって、とっても?」
「そうなるな。銀杏の季節は、欲しいヤツらは朝がとびきり早いんだ」
掃除している人はともかく、俺みたいに走って行くだけのヤツに踏まれちまったら潰れるから。
それじゃ駄目だし、早く行こうと頑張って早起きしているからな。
暗い内に家を出るんじゃないか、とハーレイが言うから仰天した。いくらなんでも早すぎる。
「ぼく、そんな時間に起きられないかも…」
起こしてくれても、また寝ちゃいそう。もう少しだけ、って言って、そのまま…。
「お前はそういう感じだな。無理をしないで家で寝ていろ、俺が貰って来てやるから」
これが欲しかったんだろう、と袋に入れて貰った銀杏を。
ただし臭いが、と鼻をつまんでみせるハーレイ。「銀杏の匂いは、そりゃ凄いから」と。
「でも、ハーレイが食べられるようにしてくれるんでしょ?」
手間暇かけたらとても美味しくなるんだ、って…。それに臭いのも消えちゃうって。
「お前、食べるだけか?」
銀杏を貰いに散歩だなんて言ってたくせに、お前は食べるだけだってか…?
「だって、お料理、ハーレイがしてくれるって…。ぼくがハーレイと結婚したら」
ハーレイの方がずっとお料理上手なんだし、銀杏の料理もきっと上手いと思うから…。
「まあ、いいがな。…確かに俺は、前の俺だった頃から料理ってヤツとは縁が深いし」
俺の嫁さんの頼みとあれば…、とハーレイが引き受けてくれた銀杏の料理。
今は街路樹が普通にあるから、銀杏だって貰える世界。季節になったら出掛けてゆけば。
シャングリラでは植え損ねた街路樹だけれど、いつかハーレイと結婚したら楽しもう。
デートで色々な木を眺めたり、ドライブで車の窓から見たり。
ジョギングの途中で貰ったという、銀杏の実が臭くて悲鳴を上げてみるのもいい。
街路樹は今は何処にでもあるし、シャングリラの通路に植えてみなくてもいいのだから…。
街路樹と船・了
※実が食べられる木を公園に植えていたシャングリラ。でも、街路樹はありませんでした。
植えておいたら、きっと喜ぶ人が多くて、世話をしたがる人もいた筈。あれば良かったかも。
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(秘密の暗号…?)
なあに、とブルーが興味を引かれた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
投稿した読者に取材のコーナー、記者が「これは素敵だ」と思った人に。写っているのは男性の写真。若くはなくて、父よりもずっと年上な感じ。とても優しい笑顔だけれど。
(おじいちゃんと、お孫さん…)
新聞に写真が載ってはいない、お孫さん。そのお孫さんと、暗号の手紙を交換しているという。お互い、全部暗号で書いて。宛先と差出人の名前と住所だけは普通に。
でないと配達して貰えないから。郵便屋さんは暗号なんかは読めないから。
(そうなっちゃうよね、住所も名前も暗号だったら…)
暗号の解読は郵便屋さんの仕事ではないし、きっと放っておかれる手紙。何処に届けていいのか分からず、送り返す先も謎なのだから。
(お孫さんが作った暗号なんだ…)
お祖父さんが住んでいる町から離れた所で、下の学校に通う男の子。その子が考え出した暗号、それが手紙に使われる。お祖父さんにだけ、仕組みを教えて。
「暗号ですから、誰にも教えられませんよ」と笑っている、お祖父さんの写真。けれど記者には見せてくれたらしい、お孫さんから届いた手紙。「こんな風に暗号なんですよ」と。
ごくごく単純だという暗号、記者の人にも分かった内容。手紙に何が書かれているか。
でも秘密だから、読者には秘密。手紙の中身も、暗号のヒントの欠片も全部。
(なんだか素敵…)
暗号で書いた秘密の手紙をやり取り、郵便屋さんが運んでくれる。宛先などは普通だから。中の手紙が暗号だなんて、思いもせずに。
(おじいちゃんも、お孫さんも、手紙をポストに入れるだけ…)
集配用のポストに、コトンと。秘密の手紙を書き上げたら。
住んでいる所が離れていたって、同じ地域の中でのこと。どちらも日本と名乗っている場所。
お蔭で手紙を投函したなら、次の日には届く秘密の手紙。郵便配達のバイクが走って出掛ける、手紙の宛先になっている家。「この家だな」と確かめた後は、家のポストへ。
他の色々な手紙と一緒に、暗号の手紙。お祖父さんとお孫さんだけの間の秘密。
(暗号で手紙を書いて貰って、暗号で返事…)
手紙を送り合う二人だけしか読めない手紙。お祖父さんとお孫さんだけの暗号、仕組みは秘密。
本当の所は、お祖母さんにも読めるのだけれど。記者だって読めたくらいだから。
男の子のパパも、もちろんママも、お祖父さんからの手紙が読めるけれども、男の子には内緒。せっかく秘密のやり取りなのだし、読めないふり。周りの誰もが。
家族たちに温かく見守られて続く、幸せな文通。微笑ましい秘密。簡単なのに、秘密の暗号。
とっても素敵、と思った所で閃いた。「暗号だよ」と。
(ハーレイとだって…)
暗号だったら、文通できるに違いない。この記事のような「誰にでも分かる」暗号ではなくて、正真正銘、暗号の手紙。誰にも読めはしないもの。
(ハーレイから届いて、ぼくが机に置いておいても…)
そのまま学校に出掛けてしまって、母が部屋の中に入ったとしても、暗号だったら大丈夫。机の上に手紙を見付けて、「そういえば昨日、届いてたわね」と開いてみても。
なんと言っても暗号なのだし、中身が分かるわけがない。穴が開くほど見詰めてみても。
(ハーレイもぼくも、前の自分がいるんだから…)
その時代のことを書くには暗号なのだ、と言えば納得するだろう母。「あら、秘密なのね」と。
辛く悲しい記憶も山ほど持っていたのが、シャングリラで生きた前の自分たち。両親たちに披露するには、悲しすぎるものも沢山ある。そういうことを書いた手紙は暗号、と説明すればいい。
(ママもパパも、きっと分かってくれるよ)
暗号でやり取りする理由。「自分たちには話せないほど、辛い出来事だったのだろう」と。
一度そうして話してしまえば、二度と訊かれることも無い。「手紙の中身は何だった?」とは。過去の悲しい話を聞くより、幸せな今を生きている話を両親も聞きたいだろうから。
(暗号だったら、ホントに安全…)
嘘の理由を説明したなら、もっと安全で安心な筈。毎日のようにやり取りしたって、両親は気にしないから。「会って話すには、辛すぎることもあるだろう」と思ってくれるから。
面と向かって話していたなら、ハーレイも自分も、涙が止まらなくなるだとか。二人揃って泣き続けたまま、会話にさえもならないだとか。
これは使える、と思った暗号。新聞の記事から貰ったアイデア。何食わぬ顔で閉じた新聞、母に返しに出掛けた空のカップやケーキのお皿。「御馳走様」と。
胸を弾ませて上がった階段、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座っても、心はワクワク。
あの記事にあった子供みたいに、バレる暗号文でなければ、ラブレターだって交換出来る。誰も中身を読めないのだから、堂々と。ハーレイと幸せな手紙のやり取り。
どうして今まで思い付きさえしなかったろう…?
暗号化された手紙だったら、何を書いても大丈夫なのに。どんな手紙が届いても。
(ハーレイに頼めばいいんだよね!)
たったそれだけで、直ぐにも始められる暗号の手紙の交換。「ぼくと暗号で文通して」と。そう書いた暗号文の手紙を、ポストにコトンと入れるだけでいい。ハーレイの家の住所を書いて。
手紙が届けば、きっと返事が貰える筈。同じ暗号で綴られた、ハーレイの文字が並んだ手紙が。
(ハーレイだったら、ぼくの暗号…)
簡単に読めることだろう。両親には、まるで読めなくても。書いている途中で母が入って来て、「あら、手紙?」と覗き込んでも、謎の文章にしか見えなくても。
そう、ハーレイなら大丈夫。前の自分たちが使った暗号、それなら必ず通じるから。あれだ、と見るなりピンと来て。「前の俺たちの暗号だよな」と、スラスラ読めるだろう手紙。
(暗号の手紙、素敵だよね?)
一番最初は、「文通してよ」とお願いだけ。もちろん全部、暗号で書いて。
返事が来たなら、今度は少し長めの手紙。「今日はね…」などと、当たり障りのない話題。やり取りが続いて定着したら、ラブレターを書いて出せばいい。「ハーレイが好き」と。
(もうその頃なら、ハーレイも慣れてしまっているから…)
暗号だったら大丈夫だな、と「愛している」と返事が来そう。運が良ければ、とても熱烈な恋の想いを綴ったものも。
(今のハーレイ、古典の先生なんだから…)
暗号で書いても、名文が届くかもしれない。読んだら涙が零れるくらいに感動的なラブレター。手紙そのものはそれほどでなくても、引用された本の一節が心にジンと響くとか。
(ずっと昔の恋の歌とか、そういうのだって…)
暗号に混ぜてくるかもしれない。とても素敵な恋歌だって、上手に暗号文にして。
きっとハーレイなら書ける筈だよ、と思う熱烈なラブレター。その気になってくれさえすれば。
そういう手紙を貰うためには、まずは手紙の交換から。誰にも読めない暗号で書いて。
明日にでも早速出してみよう、と意気込んだけれど。書こうと勇み立ったのだけれど。
(あれ…?)
どう書くのだろう、暗号の手紙。「ぼくと暗号で文通してよ」と綴る方法。ハーレイと自分しか読めない暗号、それで手紙を書きたいのに…。
(えーっと…?)
まるで分からない、その暗号の綴り方。「ぼくと暗号で文通してよ」は、どう書くのかが。
前の自分たちが使った暗号、それは確かにある筈なのに。人類に傍受されないようにと交わした通信、あれは暗号だったのに。…ミュウにしか理解出来ない暗号。
それで書いたら簡単だよ、と思っていたのに、その暗号が全くの謎。今の小さな自分には。
書き方を忘れてしまったのかな、と下書き用の紙を用意した。いきなり書くのは無理みたい、と便箋ではなくて罫線が引いてあるだけの紙を。
(ぼくと暗号で…)
文通してよ、と綴ってやろうと、ペンも握ってみたのだけれども思い出せない。いったい暗号でどう書いたならば、そういう文になるのかが。
(…ぼくと暗号…)
最初の「ぼく」を、どう書いたならば、暗号の「ぼく」が出来るのだろう?
それに肝心要の「暗号」、それは暗号でどう綴ったらいいのだろう。「ぼく」と「暗号」、その段階でもう躓いた。まだ書き始めもしない内から。
(ぼくっていうのも、暗号の方も…)
基本の中の基本の筈。「ぼく」は「私」の意味にもなるし、ハーレイが書くなら「俺」になる。自分を指している言葉だから。それを抜きでは、きっと作れはしない文章。
(主語と述語の、主語が抜けちゃってる文章…)
誰が何をするか、文章に無くてはならない主語。「誰が」の部分。「ぼく」の書き方を知らないままでは、暗号文など綴れない。ついでに暗号文を書くなら、「暗号」だって知らないと。
「ぼくと暗号で文通してよ」と書きたかったら、必要なもの。「ぼく」と「暗号」、その両方を示す暗号が無くては無理。どう考えても、普通の言葉に置き換えてみても。
いきなりぶち当たった壁。いいアイデアだとワクワクしたのに、暗号が出て来ないから。いくら記憶を探ってみたって、「ぼく」も「暗号」も、それを表す欠片も浮かびはしないから。
(うーん…)
暗号が分からないなんて、と抱えてしまった小さな頭。「忘れちゃったの?」と。
青い地球の上に生まれ変わる時に、何処かに落として来たろうか。今の時代は、もう出番などは無い暗号。人類に傍受されないようにと、ミュウの間だけで使ったものは。
(今だと、おじいちゃんとお孫さんの間で暗号…)
おまけに新聞記者が取材に出掛けて、微笑ましい記事が出来るほど。「暗号ですから」と読者に秘密にしておいたって、記者だって読んで来た暗号。内緒で手紙を見せて貰って。
そんな時代に生まれた自分は、暗号を忘れたかもしれない。母のお腹にいる内に。温かな場所で眠る間に、「もう要らないよ」と、夢見心地で手放して。
そうなのかも、と思うくらいに本当に書けない暗号文。「ぼく」も「暗号」も、手紙に書きたい「ぼくと暗号で文通してよ」という、ほんの短い言葉でさえも。
これは困った、と机の前でウンウン唸っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、暗号を訊くことにした。まずは手紙を書いてくれるか、其処からだよね、と。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがハーレイに手紙を出したら、返事をくれる?」
ちゃんと郵便で送ってくれる、と投げた質問。郵便屋さんが家に届けてくれる手紙、と。
「返事って…。お前と文通しろと言うのか、ラブレターには早すぎるがな?」
お前の年ではまだ早すぎだ、とハーレイは案の定、苦い顔。「もっと育ってからにしろ」とも。
やっぱりね、と思った通りの答えだったから、重ねて訊いた。
「そうだろうけど…。暗号の手紙だったらどう?」
普通の手紙なら、パパやママに読まれちゃったら大変だから、ラブレターは無理。
ハーレイはぼくの恋人なんだ、って分かっちゃったら、こんな風に会えなくなっちゃうし…。
でも暗号なら大丈夫だから、暗号の手紙。…暗号で書いた手紙をくれない?
「暗号だって?」
「そう、暗号」
知られたくない中身だったら、暗号で書けばいいんだよ。手紙だってね。
それなら何が書いてあっても安心なんだし、ハーレイの家に暗号の手紙を出そうかな、って…。
今日の新聞にこんな話が載っていたよ、と披露した。お祖父さんとお孫さんの間の文通、暗号を使った秘密の手紙。下の学校の子供が作った暗号だから、新聞記者でも読めるけれども。
「それを真似して、ハーレイに書こうと思ったんだよ。暗号の手紙」
ぼくが暗号で手紙を書いたら、ハーレイも暗号で返事をくれればいいじゃない。秘密の手紙。
パパやママが開けて読んでみたって、暗号文なら平気だよ。本当に暗号だったらね。
新聞に載ってた子供みたいな暗号は使えないけれど、と付け加えるのも忘れない。誰でも読める暗号文など、全く役に立たないから。…ハーレイと文通するのなら。
「なるほどなあ…。お祖父さんと暗号で文通だなんて、実に微笑ましい話だな」
取材に出掛けて行ったのも分かる気がするぞ。真似をしてみたい人も大勢いそうだから。
お前もその中の一人なわけだが…。どんな暗号を考えたんだ?
そう簡単には解読出来ない暗号だとは恐れ入った、とハーレイが知りたがる暗号。「俺は手紙を貰うわけだし、暗号、教えてくれるんだろう?」と興味津々な表情で。
けれど、そうではない暗号。何も考案してはいないし、その上、すっかり忘れた始末。使おうと思って張り切ったのに、前の自分たちが何度も使った暗号を。
だから素直に白状した。「ぼくは暗号、考えてなんかいないんだよ」と。
「わざわざ頑張って考えなくても、前のぼくたちのを使えばいいと思ったから…」
人類に傍受されない暗号、通信に使っていたじゃない。シャングリラで暮らしていた頃に。
あれを使おうと思ったんだけど、ちっとも思い出せなくて…。
下書き用の紙を出しても、ペンを持っても、欠片も出て来てくれないから…。もうお手上げ。
ハーレイだったら覚えてるでしょ、シャングリラのキャプテンだったんだもの。
どう書けばいいの、と尋ねた暗号。本当は自分で書いてポストに入れたかった文章。
「ぼくと暗号で文通してよ」は、暗号で書いたらどうなるの、と。
主語の「ぼく」さえ出て来ないけれど、「ぼく」は暗号だと何になるの、と問い掛けた。まるで覚えていないのだから仕方ない。
(…ハーレイに訊いて書くなんて…)
情けないけれど、「聞くは一時の恥」という言葉もある。「聞かぬは一生の恥」になるのだし、此処で頭を下げておいたら、掴める手掛かり。遠い昔に馴染んだ筈の暗号文。
少しだけでも耳にしたなら、思い出せるかもしれないから。暗号の仕組みを、丸ごと全部。
大恥だけれど此処は我慢、と訊いたのに。忘れてしまった暗号のことを、シャングリラを纏めていたキャプテンに質問したのに、ハーレイは事もなげに答えた。「なんだ、そんなことか」と。
「前の俺たちの暗号なあ…。簡単なもんだ、頭なんかは使わなくても、そのままだから」
悩む必要は何処にも無いぞ、というのが返事。シャングリラで使った暗号文。
「そのままって…?」
何をそのまま使うって言うの、ぼくはホントに何も覚えていないから…。暗号は、何も。
そのままだなんて言われても困るよ、その「そのまま」のことを説明してよ…!
忘れちゃったぼくにも分かるように、と組み立て直した質問の中身。今、ハーレイから教わったことは、少しも理解出来ないから。いくら頭を使ってみたって、暗号は謎のままだから。
「そのままだと言っているだろう。…もう本当にそのままなんだ」
ぼくと文通して、と書けばいいだけのことなんだが…。お前が書きたい、暗号の手紙。
そっくりそのまま書くだけだ、とハーレイが言うから驚いた。それは暗号とは言わないから。
「ちょっと待ってよ、暗号になっていないじゃない!」
ぼくがすっかり忘れちゃったと思って、冗談を言ってからかってるの?
酷いよ、馬鹿にするなんて…!
あんまりだよ、と上げた抗議の声。「文通する気が無いにしたって、酷すぎない?」と。
「馬鹿にしてなんかいないがな、俺は。…至極真面目に、お前の質問に答えただけだが」
きちんとキャプテン・ハーレイとしての、記憶と知識を使ってな。今の俺の冗談とは違う。
いいか、そいつを文字で書くから、そのままの形になっちまうんだ。…暗号じゃなくて。まるで暗号化されていなくて、誰でも読めてしまう文章。それじゃ暗号とは呼べないが…。
ところが、同じ言葉を通信用の回線に乗せれば、きちんと立派な暗号になる。つまりは通信用の回線、それを通すしかないってこった。…暗号文にしたければな。
「えっと…。それって、どういうこと?」
自分で暗号にするんじゃなくって、機械の力を借りていたわけ、シャングリラでは…?
「おいおい、其処まで忘れちまったのか、ソルジャーのくせに」
いや、これはソルジャーの管轄の話じゃなかったな。忘れちまうのも無理ないか…。
キャプテンには必須の知識だったが、ソルジャーは知らなくてもいいってトコだな、暗号は。
もちろん知ってはいた筈なんだが、生まれ変わった後まで律儀に、覚えてなくてもいいわけだ。
通信システムの仕組みまでは…、とハーレイが始めた話。前の自分たちが暮らしていた船、白いシャングリラと、改造前だった船のこと。
「前の俺たちだが、人類の通信は傍受していただろう。人類軍のも、民間船のも」
鉢合わせしたら大変だからな、コンスティテューション号だった頃から誰かがチェックしていた筈だ。あの時代の俺は厨房にいたから、詳しいことまでは知らないが。
まだシャングリラじゃなかった頃から、きちんと通信とその内容とを調べてたもんだ。
前のお前が物資を奪いに出掛ける時にも、それを参考にしていたろうが、という指摘。どういう物資を積み込んだ船が何処を通るか、人類の船の通信を元に、航路を割り出していたのだから。
「そうだったけど…。それと暗号、関係があるの?」
人類が暗号を使っていたって、それは人類の暗号だよ。…ミュウのじゃなくて。
前のぼくたちの役には立たない暗号だけど、と首を傾げた。人類も使う暗号などでは、ミュウの船では安心して使うことは出来ない。既に知られた暗号文など、暗号の意味を成さないから。
「人類が使っていた暗号ってヤツは、この話とは無関係だな。何の参考にもしなかったから」
シャングリラって名前をつけた後にも、前の俺たちには他に船なんかは無かったわけで…。
船の格納庫にシャトルはあっても、それの出番は来やしない。飛び出して行く用が無いから。
外に出るのは前のお前だけで、お前とは思念波で連絡が取れた。そんな頃なら、通信回線を使う必要は無かったんだが…。通信する相手が無いわけなんだし。
しかし、白い鯨に改造したなら、事情はガラリと変わっちまうぞ。デカい格納庫まで持っていた船だ、その格納庫は空っぽじゃない。…前の船でも、小型艇くらいはあったがな。
白い鯨はどうだったんだ、と問われた格納庫の中のこと。何基もあった、ギブリなどの船。
「シャトル、あったね…。白い鯨が出来て直ぐから」
ギブリも、他の形の船も。アルテメシアに着くまで、出番は無かったけれど。
載っていたっけ、と今でも思い出せる船。何隻もあった小型艇。前の自分が欲しいと願った、救命艇の姿が無かっただけで。
「あっただろうが、シャングリラの外に出て行ける船が幾つもな」
それをシャングリラの外に出すなら、通信システムをどうするのかが問題だ。
せっかくコッソリ隠れているのに、人類に全部、傍受されていたんじゃたまらんからな。
俺たちが人類のを傍受していたみたいに、こっちの通信も筒抜けだなんて。
そいつは大いに困るだろうが、と言われなくても分かること。シャングリラと小型艇とが交わす通信、それは秘密でなくてはならない。人類に通信を捉えられても、内容が掴めないように。
白いシャングリラへの改造を前に、ゼルたちが中心になった研究。
サイオンを活用したステルス・デバイスやシールドの他に、通信の暗号化というものも。人類に居場所を知られないよう、用心せねばならないから。
けれど、それらの蓋を開けてみたら、通信の暗号化が一番簡単だった。意外なことに。
思念波を補助的に使う通信システム。それが発信する通信自体を、コンスティテューション号という名前だった船のシステムでは全く拾えない。雑音としてさえ捉えられない。
受信自体が不可能なのだ、と開発を始めて直ぐに分かった。思念波が介在しているだけで、もう人類の通信とは全く違う。同じように通信を飛ばしてみたって、人類はそれを拾えない。
「つまりだな…。暗号化する必要さえも無かったんだ」
どうせ人類には捕捉されないし、傍受も出来ん。どんなに盛んに通信してても、届かないんだ。人類が乗ってる船の中にも、もちろん基地や惑星の上の都市にもな。
ミュウの船同士で通信するなら、もうそれだけで暗号だった。いや、それ以上と言うべきか…。
暗号だったら傍受も出来るが、通信していることさえ分からないんだから。
あのシステムさえ持っていたらだ、暗号の出番は何処にも無い。捉えられない通信なんだぞ?
人類に向かって送りたいなら、暗号化なんぞは不要だしな?
ジョミーがやってた思念波通信、あれも暗号なんかじゃなかった。人類に向けて、思念波を直接送っただけだ。文字通り、そのままの思いってヤツを。…あの時のジョミーの。
通信システムさえ使っていないぞ、思念波を送ってやったんだから。大々的にな。
結果は裏目に出ちまったんだが、とハーレイがついた深い溜息。ジョミーが送った強い思念は、人類の世界に悪影響しか及ぼさなかった。そんな意図など、誰も持ってはいなかったのに。
お蔭で人類はそれまで以上に、執拗にミュウを追うことになる。宇宙を彷徨う白い鯨を。
「そうだったっけね…。前のぼくたちが使った通信、人類には掴めなかったんだっけ…」
仕組みが違いすぎていたから、どう頑張っても拾うのは無理。…ミュウ同士で交わす通信は。
シャングリラから外の小型艇に向けて飛ばしていたって、その逆だって。
ミュウが交信していることさえ、人類は知らずに暮らしてたっけ…。
アルテメシアに辿り着く前も、あそこの雲海に長いこと潜んで飛んでた間も。
人類には傍受されない通信システム、それを開発したゼルたち。暗号などは一切使わずに。
どう試みても読めない暗号、そうとも呼べた通信内容。まるで拾えない通信なのだし、読み解くことは不可能だから。マザー・システムを構成していた、コンピューターを総動員しても。
「…シャングリラに暗号、無かったんだ…」
あったつもりでいたんだけれど、暗号は何処にも無かったんだね。通信システムを使っただけ。
言葉をそのまま送るだけで良くて、人類には通信していることさえ分からないんだから。
暗号よりも凄いけれども、暗号は無し…。暗号、使いたかったのに…。
前のぼくたちが使った暗号、とガックリと落としてしまった肩。ハーレイに送りたいと思った、暗号の手紙は書けないらしい。暗号は無かったのだから。
「お前にとっては残念なことに、そうらしいな。シャングリラは暗号など無かった船だ」
暗号なんぞを作らなくても、通信自体を丸ごと隠しておけたんだから。人類の目からも、機械の監視網からだって。
お前が忘れてしまったわけじゃないんだ、暗号化する方法を。…最初から無かったんだから。
俺に訊いてた「ぼく」って言葉も、「暗号」の方も、暗号に出来やしないってな。
文字の形にしたいのなら…、と慰められた。「残念だったな」と、半ば笑いながら。
「そうみたい…。ハーレイと文通、暗号だったら出来るよね、って思ってたのに…」
パパにもママにも読めやしないし、何を書いても大丈夫だから。ハーレイがどんな手紙を書いてくれても、机の上に堂々と置いておけるから…。「ハーレイに貰った手紙だよ」って。
中身のことを質問されたら、「前のぼくたちの悲しい話」って言っておこうと思ってたのに…。
手紙なら色々書けるけれども、二人で会ってる時に話したら、涙が止まらなくなるような。
「おい、とんでもない悪ガキだな?」
悪知恵ってヤツを働かせやがって、俺にいったい何を書かせるつもりで暗号の手紙だったんだ?
その調子だと、ラブレターを狙っていそうだが…。
「…書いて貰えると思っていたもの、文通がすっかり普通になったら」
暗号の手紙をやり取りしてたら、ハーレイだって慣れてくるでしょ?
ぼくがラブレターを送った時には、ちゃんと返事が来そうだよね、って…。
ハーレイだってラブレターを書いてくれそうだよ、って思ったから書きたかったのに…。
夢がすっかり壊れちゃった、と残念でたまらない暗号のこと。前の自分たちが使った暗号。
忘れたのかと思ったけれども、暗号は存在しなかった。それは必要無かったから。通信の内容を隠さなくても、人類はミュウの通信自体を、把握する術を持たなかったから。
人類に傍受されないからこそ、アルテメシアの育英都市に潜入班の者たちを送り込めた。地上に降りて動く彼らと、いつでも自由に通信出来た。思念波が届かない場所にいたって。
きっとナスカでも、あのシステムが活用されていたのだろう、と考えていたら…。
「前の俺たちの暗号か…。そんなものは無かったわけなんだが…」
人類には捕まえられない通信システム、それで充分だったんだが…。だがなあ…。
あのシステムをだ、もう少しばかり研究しとけば良かったな。今頃になって言い出してみても、遅すぎるんだが…。
俺はとっくにキャプテンじゃないし、シャングリラだってもう無いんだから。
だが…、とハーレイが腕組みをして考え込むから、キョトンと見開いてしまった瞳。とうの昔に完成していた通信システム、それをどうしたかったのか、と。
「えっと…。研究するって、あれ以上、何を?」
通信システムは完成品でしょ、シャトルとか潜入班の仲間と、ちゃんと通信出来たんだから。
人類には一度も見付からないまま、地球まで辿り着けた筈だよ。
ナスカが人類に知られちゃったのは、通信のせいじゃないんだもの。あそこに近付く人類の船を追い払いすぎて、「なんだか変だ」って思われたのが原因で…。
通信は関係無かったでしょ、と瞳を瞬かせた。「あのシステムは完璧だったよ?」と。
「其処なんだ。完璧に出来てはいたんだが…。そうなった理由と言うべきか…」
人類が捕捉出来なかった理由は、思念波が絡んでいたからだ。サイオンを使った装置だから。
俺が言うのは其処の部分だ、研究しておけば良かった所。
せっかく思念波を使っていたんだ、あのシステムにも増幅装置を組み込むべきだった。他のには使っていたのにな…。ステルス・デバイスにも、サイオン・シールドにも。
「増幅装置って…。なんで?」
そんなの、必要無かったじゃない。暗号なんかは要らなかったのと同じで、意味なんか無いよ。
何処にでも通信は届いてたんだし、増幅装置を入れなくっても…。
通信障害が起きるんだったら、それも必要だろうけど…。
一度も起こっていなかったじゃない、と前の自分の遠い記憶を探ってみる。通信システムは常に正常だった筈。障害などは起きもしないで。
ジョミーがアルテメシアの遥か上空まで駆け上がった時も、システムはきちんと作動していた。人類軍の猛攻を浴びる中でも、シャングリラはリオを救いに出掛けた小型艇を把握し続けたから。
とても小さな船が何処まで飛んで行ったか、リオを救出できたのか。
無事に救って逃げ出した後は、何処でシャングリラと合流すべきか、全てにおいて頼った装置。小型艇の方でも、それを送り出したシャングリラでも。
だからこそ「無かった」と言える障害。ただの一度も通信障害は起こらなかった、と。
「…そうなるだろうな、前のお前が知ってる限りじゃ一度も無かった」
お前が深い眠りに就いちまった後も、一度も困りはしなかったから。何処を飛んでいても。
だがな…。あのシステムでも、電磁波障害の中では通信出来なかったんだ。
元が思念波を使ったヤツだったんだし、増幅装置さえ組み込んでおけば、解消出来た筈なのに。もっと応援を増やして来い、と言いさえすれば、いくらでも強く出来るんだから。
増幅装置さえ入っていればな…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「だが、無かった」と。
「ハーレイ、何か覚えがあるんだね…?」
前のぼくがいなくなった後だろうけど、電磁波障害で通信が途絶えちゃったこと。
人類軍との戦いの時なの、ジュピターの上空で戦った頃は船も増えてたらしいから…。ブラウやゼルが指揮してた船と、艦隊を組んでいたんだものね?
他の船と連絡が出来なかったの、と思い浮かべた歴史の授業で習うこと。人類軍との最大規模の戦闘があったジュピター上空、あそこだったら電磁波障害が起こったかも、と。
けれどハーレイは「違う」と答えた。それは辛そうな顔をして。
「…ジュピターじゃないんだ、ナスカでのことだ」
シェルターとの通信が途絶えちまった、メギドのせいで。…あれがナスカを襲ったせいで。
前のお前たちが防いでくれても、攻撃は地上に届いたからな。電磁波障害だって引き起こす。
惑星崩壊を誘発するほどの破壊力だし、シェルターなんかはどうしようもない。一時的な避難のために作られた施設だ、通信設備に力を入れちゃいなかった。最初からな。
シャトルとは連絡が取れていたのに、シェルターだけは繋がらなかった。どう頑張っても。
お前が命を懸けてくれたのに、シェルターの中の状態が掴めなかったから…。
間に合わなかった、シェルターに残ったキムやハロルドたちの救出。
通信障害が起こったせいで、皆は事態を甘く見すぎた。「連絡が取れないだけなのだ」と。中の仲間はまだ無事だろうと、差し迫った危険は無い筈だと。
なにしろ場所がシェルターなのだし、外よりは遥かに安全な筈。其処に入っていない仲間を先に宇宙へ逃がすべき。ありったけのシャトルを総動員して。
「…俺たちは読み誤ったんだ。誰が危険に晒されているか、其処の所を勘違いした」
とにかく外にいるヤツから、と指図してシャトルに乗せていた。シェルターの方は、まだ充分に持ち堪えると踏んでいたからな。…通信が繋がらないだけで。
しかし本当は、もうそれどころの騒ぎじゃなかった。シェルターは崖の下にあったし、幾つもの岩が落ちて来たんじゃ、埋まってしまう。あの時点で既に、中はどうなっていたんだか…。
非常灯さえ消えていたかもしれんな、俺たちが楽観視していた間に。
まだ大丈夫だ、と他のシャトルの回収を急いでいた内に。
ナスカにはジョミーが降りてたんだが、まるで連絡がつかなかったし…。だから余計に、通信が繋がらない程度だと思ったのかもしれん。
「ジョミーにも…?」
連絡がつかないままでいたわけ、シャングリラは…?
ジョミーだったら、通信システムなんかに頼らなくても、思念波で連絡出来るのに…。
「ああ。だが、忙しくしていたんだろうな、エラの思念も届きやしなかった」
そちらはどうです、と何度呼び掛けても返事は返って来なかったんだ。ジョミーからも、船には一度も呼び掛けて来なかったから…。
勘違いしても仕方ないだろ、「連絡がつかないだけなんだ」と。シェルターに残った連中とも。
電磁波障害が起こっているなら、そういうこともあるからな。
中のヤツらはきっと無事だ、と思い込んだから、撤退命令を出しただけで満足しちまった。打つべき手は全て打ったから、と。
もしも通信が繋がっていたら、シェルターのヤツらを助け出すのが最優先だと気付いたのに…。
あいつらだって、自分の命の危機には中で気付いていた筈だからな。
其処へ救助がやって来たなら、あいつらも逃げていたんだろう。いくら頑固に頑張っていても、死ぬか生きるかなら、人間ってヤツは、生きられる道を選びたくなるモンだから…。
救出の順番を読み誤った、とハーレイが悔やむ電磁波障害。途絶えたシェルターとの通信。
シェルターの状況は分からないままで、多くの命を失う結果になってしまった。外にいた者は、残らず救い出せたのに。メギドの第一波で倒れた者たちを除いて、全て。
「…前の俺にとって、痛恨のミスというヤツだな。あそこで読み間違えたこと」
もっとも、俺だけじゃないんだが…。エラもブラウも、ゼルも同じに間違えたんだが…。
シェルターの中は外より安全だろう、と外のヤツらの救出を優先しちまったこと。
だがな…。そうなった原因の、通信システムに起こった障害。
前の俺は一度も、「改善しろ」と命令しちゃいない。シェルターで起こった事故の教訓、それを生かしはしなかった。もっと強固な通信システムを作れと言ってはいないってな。
今の今まで、思い付きさえしなかったんだ。増幅装置を組み込むことを。
シェルターの件で懲りていたなら、他の通信システムも全て改善すべきなのにな、とハーレイは悔しそうだけれども、そう思うのは今のハーレイ。前のハーレイではなくて。
今の時代も英雄と呼ばれるキャプテン・ハーレイ、彼ならば思い付きそうなのに。今のハーレイでも気付くことなら、「増幅装置を組み込め」と命じそうなのに…。
「…どうして?」
前のハーレイ、どうして考え付かなかったの?
全く気付かないままだったなんて、前のハーレイらしくないけど…。今のハーレイでも、すぐに思い付くことなんだよ?
ぼくとちょっぴり話してただけで、「増幅装置があれば良かった」って。
ホントにハーレイらしくないよ、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。前のハーレイの同じ瞳が、読みを誤るとは思えないから。…シェルターとの通信が途絶えた時の判断の件はともかくとして。
「それがだな…。本当に俺がやっちまったんだから、もうどうしようもないってな」
前のお前を失くしちまった時のことだぞ、ナスカで起こった悲劇と言えば。
きっと触れたくもなかったんだろう、あそこで救い損ねた仲間たちの身に起こったことは。
電磁波障害が起こらなかったら、あいつらを無事に助け出せたということも。
…俺はキャプテン失格だな。私情が邪魔をしていたようじゃ。
前のお前を失くしたショックで、すっかり封印しちまったらしい。ナスカの教訓を生かそうとはせずに、忘れる方へと持って行ってな。
情けないキャプテンもあったもんだ、とハーレイが零した大きな溜息。シェルターの件で懲りていたなら、通信システムの改善をさせておくべきなのに、と。
「俺としたことが…。私情は交えていないつもりで生きてたんだが、違ったようだ」
前のお前を失くした後では、すっかり鈍っていたらしい。俺に自覚が無かっただけで。
もう本当に、どうしようもないキャプテンだよな、とハーレイは自分を責めるのだけれど。赤いナスカで失くした仲間たちの死を、少しも役に立てられなかった、と悔やむのだけれど。
「でも、ハーレイ…。ハーレイはそう言うけれど…」
それまではあのシステムで良かったんだし、ナスカから後も、困ったことは無かったんでしょ?
同じように困ったことがあったなら、ハーレイだって気が付くもの。改善しなきゃ、って。
「…俺が生きてた間はな。幸いなことに、二度と無かった」
しかしだ、地球が燃え上がっちまった時にはどうだったんだか…。俺はとっくに船にいないし、多分、死んじまっていたんだろうが…。
「地球が燃えちゃった時のことって…。シャトルとは、ちゃんと通信出来てたんじゃないの?」
シドがシャトルを降ろしたんでしょ、人類たちを助けるために。
全部回収して、それからシャングリラは地球を離れて行ったんだから…。通信システムに障害は出ていなかったんだよ。まさか通信出来もしないのに、シャトルを降ろしはしないでしょ?
いくらシドでも、そんな無茶は…、とチビの自分でも分かること。それは有り得ない、と。
「そういや、そうか…。あの程度ならば、大丈夫だったというわけか…」
大規模な地殻変動だったが、電磁波障害を引き起こすまではいかなかった、と言うんだな?
「少しは起こっただろうけど…。通信障害が起きるほどではなかったんだよ」
メギドの時が酷すぎただけ。誰もあんなの考えないもの、星ごと滅ぼす兵器なんかは。
「だが、実際に起きたことだし、対策を立てておくのがだな…」
キャプテンの務めなんだと思うが、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ハーレイはそう言うけれど…。キャプテンだから、って完璧でなくてもいいと思うよ」
キャプテンだけれど、前のハーレイだって、人間だもの。
おまけに、前のぼくを失くしてしまって、独りぼっちで残されちゃって…。
それでも頑張ってくれたんだものね、シャングリラを地球まで運ぶために。
とても悲しくて辛かったくせに、みんなにはそれを見せもしないで…。
だから自分を責めたりしないでいいと思う、と微笑んだ。「前のハーレイは頑張ったもの」と。
「ホントだよ? ぼくはそう思うよ、とても立派なキャプテンだった、って」
「そう言われると、ホッとするがな…。ありがとう、ブルー」
お前、慰めてくれるんだな、とハーレイに笑みが戻ったから。もう苦しくはないようだから…。
「じゃあ、御礼、くれる?」
ぼくに御礼、と頼んでみた。ここぞとばかりに、さっきの話を思い出して。
「御礼だって?」
「うん。暗号でなくてもかまわないから、手紙、ちょうだい」
中身はホントになんでもいいから、一回だけ。…郵便屋さんが届けてくれる手紙を。
お願い、とペコリと頭も下げた。本当に手紙が欲しいのだから。けれど…。
「そいつは駄目だな、ラブレターになっちまうから。俺がお前に書くとなったら」
しかも御礼の手紙となったら、それっぽいヤツになっちまう。前のお前のことも書くから。
お前、そういう魂胆だろうが、違うのか…?
「酷い! ぼくは其処まで考えてないよ!」
普通の手紙が欲しかったんだよ、本当だってば。どんな手紙でもいいんだから…!
なのに駄目だなんて、ハーレイのケチ、と怒ったけれども、貰えない手紙。ハーレイは書いてはくれないから。「ラブレターを書くのはお断りだ」と、切り捨てられてしまったから。
それに暗号の手紙を綴って、文通を始めることも出来ない。
暗号の手紙は素敵だけれども、ミュウに暗号は無かったから。そうだったと気付かされたから。
(なんだか残念…)
もう本当に残念だけれど、きっといつかは貰えるだろうラブレター。家のポストに配達されて。
今のハーレイから、熱い思いが綴られている本物を。郵便屋さんのバイクが運んで来て。
ちょっぴり悔しい気はするけれども、今は本物が届く日を楽しみに待つことにしよう。
暗号で秘密の手紙を書く気は、ハーレイにはまるで無いのだから。御礼のラブレターだって。
白いシャングリラに暗号は無くて、自分からも書いて送れはしない暗号の手紙。
それが書けたら素敵だろうに、暗号で綴った秘密の手紙は、自分には書けはしないのだから…。
ミュウと暗号・了
※ハーレイと暗号で文通しよう、と思い付いたブルー。前の生で使った暗号なら大丈夫。
ところが暗号は無かったのです。ミュウが開発した通信システム、それ自体が傍受は不可能。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
なあに、とブルーが興味を引かれた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
投稿した読者に取材のコーナー、記者が「これは素敵だ」と思った人に。写っているのは男性の写真。若くはなくて、父よりもずっと年上な感じ。とても優しい笑顔だけれど。
(おじいちゃんと、お孫さん…)
新聞に写真が載ってはいない、お孫さん。そのお孫さんと、暗号の手紙を交換しているという。お互い、全部暗号で書いて。宛先と差出人の名前と住所だけは普通に。
でないと配達して貰えないから。郵便屋さんは暗号なんかは読めないから。
(そうなっちゃうよね、住所も名前も暗号だったら…)
暗号の解読は郵便屋さんの仕事ではないし、きっと放っておかれる手紙。何処に届けていいのか分からず、送り返す先も謎なのだから。
(お孫さんが作った暗号なんだ…)
お祖父さんが住んでいる町から離れた所で、下の学校に通う男の子。その子が考え出した暗号、それが手紙に使われる。お祖父さんにだけ、仕組みを教えて。
「暗号ですから、誰にも教えられませんよ」と笑っている、お祖父さんの写真。けれど記者には見せてくれたらしい、お孫さんから届いた手紙。「こんな風に暗号なんですよ」と。
ごくごく単純だという暗号、記者の人にも分かった内容。手紙に何が書かれているか。
でも秘密だから、読者には秘密。手紙の中身も、暗号のヒントの欠片も全部。
(なんだか素敵…)
暗号で書いた秘密の手紙をやり取り、郵便屋さんが運んでくれる。宛先などは普通だから。中の手紙が暗号だなんて、思いもせずに。
(おじいちゃんも、お孫さんも、手紙をポストに入れるだけ…)
集配用のポストに、コトンと。秘密の手紙を書き上げたら。
住んでいる所が離れていたって、同じ地域の中でのこと。どちらも日本と名乗っている場所。
お蔭で手紙を投函したなら、次の日には届く秘密の手紙。郵便配達のバイクが走って出掛ける、手紙の宛先になっている家。「この家だな」と確かめた後は、家のポストへ。
他の色々な手紙と一緒に、暗号の手紙。お祖父さんとお孫さんだけの間の秘密。
(暗号で手紙を書いて貰って、暗号で返事…)
手紙を送り合う二人だけしか読めない手紙。お祖父さんとお孫さんだけの暗号、仕組みは秘密。
本当の所は、お祖母さんにも読めるのだけれど。記者だって読めたくらいだから。
男の子のパパも、もちろんママも、お祖父さんからの手紙が読めるけれども、男の子には内緒。せっかく秘密のやり取りなのだし、読めないふり。周りの誰もが。
家族たちに温かく見守られて続く、幸せな文通。微笑ましい秘密。簡単なのに、秘密の暗号。
とっても素敵、と思った所で閃いた。「暗号だよ」と。
(ハーレイとだって…)
暗号だったら、文通できるに違いない。この記事のような「誰にでも分かる」暗号ではなくて、正真正銘、暗号の手紙。誰にも読めはしないもの。
(ハーレイから届いて、ぼくが机に置いておいても…)
そのまま学校に出掛けてしまって、母が部屋の中に入ったとしても、暗号だったら大丈夫。机の上に手紙を見付けて、「そういえば昨日、届いてたわね」と開いてみても。
なんと言っても暗号なのだし、中身が分かるわけがない。穴が開くほど見詰めてみても。
(ハーレイもぼくも、前の自分がいるんだから…)
その時代のことを書くには暗号なのだ、と言えば納得するだろう母。「あら、秘密なのね」と。
辛く悲しい記憶も山ほど持っていたのが、シャングリラで生きた前の自分たち。両親たちに披露するには、悲しすぎるものも沢山ある。そういうことを書いた手紙は暗号、と説明すればいい。
(ママもパパも、きっと分かってくれるよ)
暗号でやり取りする理由。「自分たちには話せないほど、辛い出来事だったのだろう」と。
一度そうして話してしまえば、二度と訊かれることも無い。「手紙の中身は何だった?」とは。過去の悲しい話を聞くより、幸せな今を生きている話を両親も聞きたいだろうから。
(暗号だったら、ホントに安全…)
嘘の理由を説明したなら、もっと安全で安心な筈。毎日のようにやり取りしたって、両親は気にしないから。「会って話すには、辛すぎることもあるだろう」と思ってくれるから。
面と向かって話していたなら、ハーレイも自分も、涙が止まらなくなるだとか。二人揃って泣き続けたまま、会話にさえもならないだとか。
これは使える、と思った暗号。新聞の記事から貰ったアイデア。何食わぬ顔で閉じた新聞、母に返しに出掛けた空のカップやケーキのお皿。「御馳走様」と。
胸を弾ませて上がった階段、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座っても、心はワクワク。
あの記事にあった子供みたいに、バレる暗号文でなければ、ラブレターだって交換出来る。誰も中身を読めないのだから、堂々と。ハーレイと幸せな手紙のやり取り。
どうして今まで思い付きさえしなかったろう…?
暗号化された手紙だったら、何を書いても大丈夫なのに。どんな手紙が届いても。
(ハーレイに頼めばいいんだよね!)
たったそれだけで、直ぐにも始められる暗号の手紙の交換。「ぼくと暗号で文通して」と。そう書いた暗号文の手紙を、ポストにコトンと入れるだけでいい。ハーレイの家の住所を書いて。
手紙が届けば、きっと返事が貰える筈。同じ暗号で綴られた、ハーレイの文字が並んだ手紙が。
(ハーレイだったら、ぼくの暗号…)
簡単に読めることだろう。両親には、まるで読めなくても。書いている途中で母が入って来て、「あら、手紙?」と覗き込んでも、謎の文章にしか見えなくても。
そう、ハーレイなら大丈夫。前の自分たちが使った暗号、それなら必ず通じるから。あれだ、と見るなりピンと来て。「前の俺たちの暗号だよな」と、スラスラ読めるだろう手紙。
(暗号の手紙、素敵だよね?)
一番最初は、「文通してよ」とお願いだけ。もちろん全部、暗号で書いて。
返事が来たなら、今度は少し長めの手紙。「今日はね…」などと、当たり障りのない話題。やり取りが続いて定着したら、ラブレターを書いて出せばいい。「ハーレイが好き」と。
(もうその頃なら、ハーレイも慣れてしまっているから…)
暗号だったら大丈夫だな、と「愛している」と返事が来そう。運が良ければ、とても熱烈な恋の想いを綴ったものも。
(今のハーレイ、古典の先生なんだから…)
暗号で書いても、名文が届くかもしれない。読んだら涙が零れるくらいに感動的なラブレター。手紙そのものはそれほどでなくても、引用された本の一節が心にジンと響くとか。
(ずっと昔の恋の歌とか、そういうのだって…)
暗号に混ぜてくるかもしれない。とても素敵な恋歌だって、上手に暗号文にして。
きっとハーレイなら書ける筈だよ、と思う熱烈なラブレター。その気になってくれさえすれば。
そういう手紙を貰うためには、まずは手紙の交換から。誰にも読めない暗号で書いて。
明日にでも早速出してみよう、と意気込んだけれど。書こうと勇み立ったのだけれど。
(あれ…?)
どう書くのだろう、暗号の手紙。「ぼくと暗号で文通してよ」と綴る方法。ハーレイと自分しか読めない暗号、それで手紙を書きたいのに…。
(えーっと…?)
まるで分からない、その暗号の綴り方。「ぼくと暗号で文通してよ」は、どう書くのかが。
前の自分たちが使った暗号、それは確かにある筈なのに。人類に傍受されないようにと交わした通信、あれは暗号だったのに。…ミュウにしか理解出来ない暗号。
それで書いたら簡単だよ、と思っていたのに、その暗号が全くの謎。今の小さな自分には。
書き方を忘れてしまったのかな、と下書き用の紙を用意した。いきなり書くのは無理みたい、と便箋ではなくて罫線が引いてあるだけの紙を。
(ぼくと暗号で…)
文通してよ、と綴ってやろうと、ペンも握ってみたのだけれども思い出せない。いったい暗号でどう書いたならば、そういう文になるのかが。
(…ぼくと暗号…)
最初の「ぼく」を、どう書いたならば、暗号の「ぼく」が出来るのだろう?
それに肝心要の「暗号」、それは暗号でどう綴ったらいいのだろう。「ぼく」と「暗号」、その段階でもう躓いた。まだ書き始めもしない内から。
(ぼくっていうのも、暗号の方も…)
基本の中の基本の筈。「ぼく」は「私」の意味にもなるし、ハーレイが書くなら「俺」になる。自分を指している言葉だから。それを抜きでは、きっと作れはしない文章。
(主語と述語の、主語が抜けちゃってる文章…)
誰が何をするか、文章に無くてはならない主語。「誰が」の部分。「ぼく」の書き方を知らないままでは、暗号文など綴れない。ついでに暗号文を書くなら、「暗号」だって知らないと。
「ぼくと暗号で文通してよ」と書きたかったら、必要なもの。「ぼく」と「暗号」、その両方を示す暗号が無くては無理。どう考えても、普通の言葉に置き換えてみても。
いきなりぶち当たった壁。いいアイデアだとワクワクしたのに、暗号が出て来ないから。いくら記憶を探ってみたって、「ぼく」も「暗号」も、それを表す欠片も浮かびはしないから。
(うーん…)
暗号が分からないなんて、と抱えてしまった小さな頭。「忘れちゃったの?」と。
青い地球の上に生まれ変わる時に、何処かに落として来たろうか。今の時代は、もう出番などは無い暗号。人類に傍受されないようにと、ミュウの間だけで使ったものは。
(今だと、おじいちゃんとお孫さんの間で暗号…)
おまけに新聞記者が取材に出掛けて、微笑ましい記事が出来るほど。「暗号ですから」と読者に秘密にしておいたって、記者だって読んで来た暗号。内緒で手紙を見せて貰って。
そんな時代に生まれた自分は、暗号を忘れたかもしれない。母のお腹にいる内に。温かな場所で眠る間に、「もう要らないよ」と、夢見心地で手放して。
そうなのかも、と思うくらいに本当に書けない暗号文。「ぼく」も「暗号」も、手紙に書きたい「ぼくと暗号で文通してよ」という、ほんの短い言葉でさえも。
これは困った、と机の前でウンウン唸っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、暗号を訊くことにした。まずは手紙を書いてくれるか、其処からだよね、と。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがハーレイに手紙を出したら、返事をくれる?」
ちゃんと郵便で送ってくれる、と投げた質問。郵便屋さんが家に届けてくれる手紙、と。
「返事って…。お前と文通しろと言うのか、ラブレターには早すぎるがな?」
お前の年ではまだ早すぎだ、とハーレイは案の定、苦い顔。「もっと育ってからにしろ」とも。
やっぱりね、と思った通りの答えだったから、重ねて訊いた。
「そうだろうけど…。暗号の手紙だったらどう?」
普通の手紙なら、パパやママに読まれちゃったら大変だから、ラブレターは無理。
ハーレイはぼくの恋人なんだ、って分かっちゃったら、こんな風に会えなくなっちゃうし…。
でも暗号なら大丈夫だから、暗号の手紙。…暗号で書いた手紙をくれない?
「暗号だって?」
「そう、暗号」
知られたくない中身だったら、暗号で書けばいいんだよ。手紙だってね。
それなら何が書いてあっても安心なんだし、ハーレイの家に暗号の手紙を出そうかな、って…。
今日の新聞にこんな話が載っていたよ、と披露した。お祖父さんとお孫さんの間の文通、暗号を使った秘密の手紙。下の学校の子供が作った暗号だから、新聞記者でも読めるけれども。
「それを真似して、ハーレイに書こうと思ったんだよ。暗号の手紙」
ぼくが暗号で手紙を書いたら、ハーレイも暗号で返事をくれればいいじゃない。秘密の手紙。
パパやママが開けて読んでみたって、暗号文なら平気だよ。本当に暗号だったらね。
新聞に載ってた子供みたいな暗号は使えないけれど、と付け加えるのも忘れない。誰でも読める暗号文など、全く役に立たないから。…ハーレイと文通するのなら。
「なるほどなあ…。お祖父さんと暗号で文通だなんて、実に微笑ましい話だな」
取材に出掛けて行ったのも分かる気がするぞ。真似をしてみたい人も大勢いそうだから。
お前もその中の一人なわけだが…。どんな暗号を考えたんだ?
そう簡単には解読出来ない暗号だとは恐れ入った、とハーレイが知りたがる暗号。「俺は手紙を貰うわけだし、暗号、教えてくれるんだろう?」と興味津々な表情で。
けれど、そうではない暗号。何も考案してはいないし、その上、すっかり忘れた始末。使おうと思って張り切ったのに、前の自分たちが何度も使った暗号を。
だから素直に白状した。「ぼくは暗号、考えてなんかいないんだよ」と。
「わざわざ頑張って考えなくても、前のぼくたちのを使えばいいと思ったから…」
人類に傍受されない暗号、通信に使っていたじゃない。シャングリラで暮らしていた頃に。
あれを使おうと思ったんだけど、ちっとも思い出せなくて…。
下書き用の紙を出しても、ペンを持っても、欠片も出て来てくれないから…。もうお手上げ。
ハーレイだったら覚えてるでしょ、シャングリラのキャプテンだったんだもの。
どう書けばいいの、と尋ねた暗号。本当は自分で書いてポストに入れたかった文章。
「ぼくと暗号で文通してよ」は、暗号で書いたらどうなるの、と。
主語の「ぼく」さえ出て来ないけれど、「ぼく」は暗号だと何になるの、と問い掛けた。まるで覚えていないのだから仕方ない。
(…ハーレイに訊いて書くなんて…)
情けないけれど、「聞くは一時の恥」という言葉もある。「聞かぬは一生の恥」になるのだし、此処で頭を下げておいたら、掴める手掛かり。遠い昔に馴染んだ筈の暗号文。
少しだけでも耳にしたなら、思い出せるかもしれないから。暗号の仕組みを、丸ごと全部。
大恥だけれど此処は我慢、と訊いたのに。忘れてしまった暗号のことを、シャングリラを纏めていたキャプテンに質問したのに、ハーレイは事もなげに答えた。「なんだ、そんなことか」と。
「前の俺たちの暗号なあ…。簡単なもんだ、頭なんかは使わなくても、そのままだから」
悩む必要は何処にも無いぞ、というのが返事。シャングリラで使った暗号文。
「そのままって…?」
何をそのまま使うって言うの、ぼくはホントに何も覚えていないから…。暗号は、何も。
そのままだなんて言われても困るよ、その「そのまま」のことを説明してよ…!
忘れちゃったぼくにも分かるように、と組み立て直した質問の中身。今、ハーレイから教わったことは、少しも理解出来ないから。いくら頭を使ってみたって、暗号は謎のままだから。
「そのままだと言っているだろう。…もう本当にそのままなんだ」
ぼくと文通して、と書けばいいだけのことなんだが…。お前が書きたい、暗号の手紙。
そっくりそのまま書くだけだ、とハーレイが言うから驚いた。それは暗号とは言わないから。
「ちょっと待ってよ、暗号になっていないじゃない!」
ぼくがすっかり忘れちゃったと思って、冗談を言ってからかってるの?
酷いよ、馬鹿にするなんて…!
あんまりだよ、と上げた抗議の声。「文通する気が無いにしたって、酷すぎない?」と。
「馬鹿にしてなんかいないがな、俺は。…至極真面目に、お前の質問に答えただけだが」
きちんとキャプテン・ハーレイとしての、記憶と知識を使ってな。今の俺の冗談とは違う。
いいか、そいつを文字で書くから、そのままの形になっちまうんだ。…暗号じゃなくて。まるで暗号化されていなくて、誰でも読めてしまう文章。それじゃ暗号とは呼べないが…。
ところが、同じ言葉を通信用の回線に乗せれば、きちんと立派な暗号になる。つまりは通信用の回線、それを通すしかないってこった。…暗号文にしたければな。
「えっと…。それって、どういうこと?」
自分で暗号にするんじゃなくって、機械の力を借りていたわけ、シャングリラでは…?
「おいおい、其処まで忘れちまったのか、ソルジャーのくせに」
いや、これはソルジャーの管轄の話じゃなかったな。忘れちまうのも無理ないか…。
キャプテンには必須の知識だったが、ソルジャーは知らなくてもいいってトコだな、暗号は。
もちろん知ってはいた筈なんだが、生まれ変わった後まで律儀に、覚えてなくてもいいわけだ。
通信システムの仕組みまでは…、とハーレイが始めた話。前の自分たちが暮らしていた船、白いシャングリラと、改造前だった船のこと。
「前の俺たちだが、人類の通信は傍受していただろう。人類軍のも、民間船のも」
鉢合わせしたら大変だからな、コンスティテューション号だった頃から誰かがチェックしていた筈だ。あの時代の俺は厨房にいたから、詳しいことまでは知らないが。
まだシャングリラじゃなかった頃から、きちんと通信とその内容とを調べてたもんだ。
前のお前が物資を奪いに出掛ける時にも、それを参考にしていたろうが、という指摘。どういう物資を積み込んだ船が何処を通るか、人類の船の通信を元に、航路を割り出していたのだから。
「そうだったけど…。それと暗号、関係があるの?」
人類が暗号を使っていたって、それは人類の暗号だよ。…ミュウのじゃなくて。
前のぼくたちの役には立たない暗号だけど、と首を傾げた。人類も使う暗号などでは、ミュウの船では安心して使うことは出来ない。既に知られた暗号文など、暗号の意味を成さないから。
「人類が使っていた暗号ってヤツは、この話とは無関係だな。何の参考にもしなかったから」
シャングリラって名前をつけた後にも、前の俺たちには他に船なんかは無かったわけで…。
船の格納庫にシャトルはあっても、それの出番は来やしない。飛び出して行く用が無いから。
外に出るのは前のお前だけで、お前とは思念波で連絡が取れた。そんな頃なら、通信回線を使う必要は無かったんだが…。通信する相手が無いわけなんだし。
しかし、白い鯨に改造したなら、事情はガラリと変わっちまうぞ。デカい格納庫まで持っていた船だ、その格納庫は空っぽじゃない。…前の船でも、小型艇くらいはあったがな。
白い鯨はどうだったんだ、と問われた格納庫の中のこと。何基もあった、ギブリなどの船。
「シャトル、あったね…。白い鯨が出来て直ぐから」
ギブリも、他の形の船も。アルテメシアに着くまで、出番は無かったけれど。
載っていたっけ、と今でも思い出せる船。何隻もあった小型艇。前の自分が欲しいと願った、救命艇の姿が無かっただけで。
「あっただろうが、シャングリラの外に出て行ける船が幾つもな」
それをシャングリラの外に出すなら、通信システムをどうするのかが問題だ。
せっかくコッソリ隠れているのに、人類に全部、傍受されていたんじゃたまらんからな。
俺たちが人類のを傍受していたみたいに、こっちの通信も筒抜けだなんて。
そいつは大いに困るだろうが、と言われなくても分かること。シャングリラと小型艇とが交わす通信、それは秘密でなくてはならない。人類に通信を捉えられても、内容が掴めないように。
白いシャングリラへの改造を前に、ゼルたちが中心になった研究。
サイオンを活用したステルス・デバイスやシールドの他に、通信の暗号化というものも。人類に居場所を知られないよう、用心せねばならないから。
けれど、それらの蓋を開けてみたら、通信の暗号化が一番簡単だった。意外なことに。
思念波を補助的に使う通信システム。それが発信する通信自体を、コンスティテューション号という名前だった船のシステムでは全く拾えない。雑音としてさえ捉えられない。
受信自体が不可能なのだ、と開発を始めて直ぐに分かった。思念波が介在しているだけで、もう人類の通信とは全く違う。同じように通信を飛ばしてみたって、人類はそれを拾えない。
「つまりだな…。暗号化する必要さえも無かったんだ」
どうせ人類には捕捉されないし、傍受も出来ん。どんなに盛んに通信してても、届かないんだ。人類が乗ってる船の中にも、もちろん基地や惑星の上の都市にもな。
ミュウの船同士で通信するなら、もうそれだけで暗号だった。いや、それ以上と言うべきか…。
暗号だったら傍受も出来るが、通信していることさえ分からないんだから。
あのシステムさえ持っていたらだ、暗号の出番は何処にも無い。捉えられない通信なんだぞ?
人類に向かって送りたいなら、暗号化なんぞは不要だしな?
ジョミーがやってた思念波通信、あれも暗号なんかじゃなかった。人類に向けて、思念波を直接送っただけだ。文字通り、そのままの思いってヤツを。…あの時のジョミーの。
通信システムさえ使っていないぞ、思念波を送ってやったんだから。大々的にな。
結果は裏目に出ちまったんだが、とハーレイがついた深い溜息。ジョミーが送った強い思念は、人類の世界に悪影響しか及ぼさなかった。そんな意図など、誰も持ってはいなかったのに。
お蔭で人類はそれまで以上に、執拗にミュウを追うことになる。宇宙を彷徨う白い鯨を。
「そうだったっけね…。前のぼくたちが使った通信、人類には掴めなかったんだっけ…」
仕組みが違いすぎていたから、どう頑張っても拾うのは無理。…ミュウ同士で交わす通信は。
シャングリラから外の小型艇に向けて飛ばしていたって、その逆だって。
ミュウが交信していることさえ、人類は知らずに暮らしてたっけ…。
アルテメシアに辿り着く前も、あそこの雲海に長いこと潜んで飛んでた間も。
人類には傍受されない通信システム、それを開発したゼルたち。暗号などは一切使わずに。
どう試みても読めない暗号、そうとも呼べた通信内容。まるで拾えない通信なのだし、読み解くことは不可能だから。マザー・システムを構成していた、コンピューターを総動員しても。
「…シャングリラに暗号、無かったんだ…」
あったつもりでいたんだけれど、暗号は何処にも無かったんだね。通信システムを使っただけ。
言葉をそのまま送るだけで良くて、人類には通信していることさえ分からないんだから。
暗号よりも凄いけれども、暗号は無し…。暗号、使いたかったのに…。
前のぼくたちが使った暗号、とガックリと落としてしまった肩。ハーレイに送りたいと思った、暗号の手紙は書けないらしい。暗号は無かったのだから。
「お前にとっては残念なことに、そうらしいな。シャングリラは暗号など無かった船だ」
暗号なんぞを作らなくても、通信自体を丸ごと隠しておけたんだから。人類の目からも、機械の監視網からだって。
お前が忘れてしまったわけじゃないんだ、暗号化する方法を。…最初から無かったんだから。
俺に訊いてた「ぼく」って言葉も、「暗号」の方も、暗号に出来やしないってな。
文字の形にしたいのなら…、と慰められた。「残念だったな」と、半ば笑いながら。
「そうみたい…。ハーレイと文通、暗号だったら出来るよね、って思ってたのに…」
パパにもママにも読めやしないし、何を書いても大丈夫だから。ハーレイがどんな手紙を書いてくれても、机の上に堂々と置いておけるから…。「ハーレイに貰った手紙だよ」って。
中身のことを質問されたら、「前のぼくたちの悲しい話」って言っておこうと思ってたのに…。
手紙なら色々書けるけれども、二人で会ってる時に話したら、涙が止まらなくなるような。
「おい、とんでもない悪ガキだな?」
悪知恵ってヤツを働かせやがって、俺にいったい何を書かせるつもりで暗号の手紙だったんだ?
その調子だと、ラブレターを狙っていそうだが…。
「…書いて貰えると思っていたもの、文通がすっかり普通になったら」
暗号の手紙をやり取りしてたら、ハーレイだって慣れてくるでしょ?
ぼくがラブレターを送った時には、ちゃんと返事が来そうだよね、って…。
ハーレイだってラブレターを書いてくれそうだよ、って思ったから書きたかったのに…。
夢がすっかり壊れちゃった、と残念でたまらない暗号のこと。前の自分たちが使った暗号。
忘れたのかと思ったけれども、暗号は存在しなかった。それは必要無かったから。通信の内容を隠さなくても、人類はミュウの通信自体を、把握する術を持たなかったから。
人類に傍受されないからこそ、アルテメシアの育英都市に潜入班の者たちを送り込めた。地上に降りて動く彼らと、いつでも自由に通信出来た。思念波が届かない場所にいたって。
きっとナスカでも、あのシステムが活用されていたのだろう、と考えていたら…。
「前の俺たちの暗号か…。そんなものは無かったわけなんだが…」
人類には捕まえられない通信システム、それで充分だったんだが…。だがなあ…。
あのシステムをだ、もう少しばかり研究しとけば良かったな。今頃になって言い出してみても、遅すぎるんだが…。
俺はとっくにキャプテンじゃないし、シャングリラだってもう無いんだから。
だが…、とハーレイが腕組みをして考え込むから、キョトンと見開いてしまった瞳。とうの昔に完成していた通信システム、それをどうしたかったのか、と。
「えっと…。研究するって、あれ以上、何を?」
通信システムは完成品でしょ、シャトルとか潜入班の仲間と、ちゃんと通信出来たんだから。
人類には一度も見付からないまま、地球まで辿り着けた筈だよ。
ナスカが人類に知られちゃったのは、通信のせいじゃないんだもの。あそこに近付く人類の船を追い払いすぎて、「なんだか変だ」って思われたのが原因で…。
通信は関係無かったでしょ、と瞳を瞬かせた。「あのシステムは完璧だったよ?」と。
「其処なんだ。完璧に出来てはいたんだが…。そうなった理由と言うべきか…」
人類が捕捉出来なかった理由は、思念波が絡んでいたからだ。サイオンを使った装置だから。
俺が言うのは其処の部分だ、研究しておけば良かった所。
せっかく思念波を使っていたんだ、あのシステムにも増幅装置を組み込むべきだった。他のには使っていたのにな…。ステルス・デバイスにも、サイオン・シールドにも。
「増幅装置って…。なんで?」
そんなの、必要無かったじゃない。暗号なんかは要らなかったのと同じで、意味なんか無いよ。
何処にでも通信は届いてたんだし、増幅装置を入れなくっても…。
通信障害が起きるんだったら、それも必要だろうけど…。
一度も起こっていなかったじゃない、と前の自分の遠い記憶を探ってみる。通信システムは常に正常だった筈。障害などは起きもしないで。
ジョミーがアルテメシアの遥か上空まで駆け上がった時も、システムはきちんと作動していた。人類軍の猛攻を浴びる中でも、シャングリラはリオを救いに出掛けた小型艇を把握し続けたから。
とても小さな船が何処まで飛んで行ったか、リオを救出できたのか。
無事に救って逃げ出した後は、何処でシャングリラと合流すべきか、全てにおいて頼った装置。小型艇の方でも、それを送り出したシャングリラでも。
だからこそ「無かった」と言える障害。ただの一度も通信障害は起こらなかった、と。
「…そうなるだろうな、前のお前が知ってる限りじゃ一度も無かった」
お前が深い眠りに就いちまった後も、一度も困りはしなかったから。何処を飛んでいても。
だがな…。あのシステムでも、電磁波障害の中では通信出来なかったんだ。
元が思念波を使ったヤツだったんだし、増幅装置さえ組み込んでおけば、解消出来た筈なのに。もっと応援を増やして来い、と言いさえすれば、いくらでも強く出来るんだから。
増幅装置さえ入っていればな…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「だが、無かった」と。
「ハーレイ、何か覚えがあるんだね…?」
前のぼくがいなくなった後だろうけど、電磁波障害で通信が途絶えちゃったこと。
人類軍との戦いの時なの、ジュピターの上空で戦った頃は船も増えてたらしいから…。ブラウやゼルが指揮してた船と、艦隊を組んでいたんだものね?
他の船と連絡が出来なかったの、と思い浮かべた歴史の授業で習うこと。人類軍との最大規模の戦闘があったジュピター上空、あそこだったら電磁波障害が起こったかも、と。
けれどハーレイは「違う」と答えた。それは辛そうな顔をして。
「…ジュピターじゃないんだ、ナスカでのことだ」
シェルターとの通信が途絶えちまった、メギドのせいで。…あれがナスカを襲ったせいで。
前のお前たちが防いでくれても、攻撃は地上に届いたからな。電磁波障害だって引き起こす。
惑星崩壊を誘発するほどの破壊力だし、シェルターなんかはどうしようもない。一時的な避難のために作られた施設だ、通信設備に力を入れちゃいなかった。最初からな。
シャトルとは連絡が取れていたのに、シェルターだけは繋がらなかった。どう頑張っても。
お前が命を懸けてくれたのに、シェルターの中の状態が掴めなかったから…。
間に合わなかった、シェルターに残ったキムやハロルドたちの救出。
通信障害が起こったせいで、皆は事態を甘く見すぎた。「連絡が取れないだけなのだ」と。中の仲間はまだ無事だろうと、差し迫った危険は無い筈だと。
なにしろ場所がシェルターなのだし、外よりは遥かに安全な筈。其処に入っていない仲間を先に宇宙へ逃がすべき。ありったけのシャトルを総動員して。
「…俺たちは読み誤ったんだ。誰が危険に晒されているか、其処の所を勘違いした」
とにかく外にいるヤツから、と指図してシャトルに乗せていた。シェルターの方は、まだ充分に持ち堪えると踏んでいたからな。…通信が繋がらないだけで。
しかし本当は、もうそれどころの騒ぎじゃなかった。シェルターは崖の下にあったし、幾つもの岩が落ちて来たんじゃ、埋まってしまう。あの時点で既に、中はどうなっていたんだか…。
非常灯さえ消えていたかもしれんな、俺たちが楽観視していた間に。
まだ大丈夫だ、と他のシャトルの回収を急いでいた内に。
ナスカにはジョミーが降りてたんだが、まるで連絡がつかなかったし…。だから余計に、通信が繋がらない程度だと思ったのかもしれん。
「ジョミーにも…?」
連絡がつかないままでいたわけ、シャングリラは…?
ジョミーだったら、通信システムなんかに頼らなくても、思念波で連絡出来るのに…。
「ああ。だが、忙しくしていたんだろうな、エラの思念も届きやしなかった」
そちらはどうです、と何度呼び掛けても返事は返って来なかったんだ。ジョミーからも、船には一度も呼び掛けて来なかったから…。
勘違いしても仕方ないだろ、「連絡がつかないだけなんだ」と。シェルターに残った連中とも。
電磁波障害が起こっているなら、そういうこともあるからな。
中のヤツらはきっと無事だ、と思い込んだから、撤退命令を出しただけで満足しちまった。打つべき手は全て打ったから、と。
もしも通信が繋がっていたら、シェルターのヤツらを助け出すのが最優先だと気付いたのに…。
あいつらだって、自分の命の危機には中で気付いていた筈だからな。
其処へ救助がやって来たなら、あいつらも逃げていたんだろう。いくら頑固に頑張っていても、死ぬか生きるかなら、人間ってヤツは、生きられる道を選びたくなるモンだから…。
救出の順番を読み誤った、とハーレイが悔やむ電磁波障害。途絶えたシェルターとの通信。
シェルターの状況は分からないままで、多くの命を失う結果になってしまった。外にいた者は、残らず救い出せたのに。メギドの第一波で倒れた者たちを除いて、全て。
「…前の俺にとって、痛恨のミスというヤツだな。あそこで読み間違えたこと」
もっとも、俺だけじゃないんだが…。エラもブラウも、ゼルも同じに間違えたんだが…。
シェルターの中は外より安全だろう、と外のヤツらの救出を優先しちまったこと。
だがな…。そうなった原因の、通信システムに起こった障害。
前の俺は一度も、「改善しろ」と命令しちゃいない。シェルターで起こった事故の教訓、それを生かしはしなかった。もっと強固な通信システムを作れと言ってはいないってな。
今の今まで、思い付きさえしなかったんだ。増幅装置を組み込むことを。
シェルターの件で懲りていたなら、他の通信システムも全て改善すべきなのにな、とハーレイは悔しそうだけれども、そう思うのは今のハーレイ。前のハーレイではなくて。
今の時代も英雄と呼ばれるキャプテン・ハーレイ、彼ならば思い付きそうなのに。今のハーレイでも気付くことなら、「増幅装置を組み込め」と命じそうなのに…。
「…どうして?」
前のハーレイ、どうして考え付かなかったの?
全く気付かないままだったなんて、前のハーレイらしくないけど…。今のハーレイでも、すぐに思い付くことなんだよ?
ぼくとちょっぴり話してただけで、「増幅装置があれば良かった」って。
ホントにハーレイらしくないよ、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。前のハーレイの同じ瞳が、読みを誤るとは思えないから。…シェルターとの通信が途絶えた時の判断の件はともかくとして。
「それがだな…。本当に俺がやっちまったんだから、もうどうしようもないってな」
前のお前を失くしちまった時のことだぞ、ナスカで起こった悲劇と言えば。
きっと触れたくもなかったんだろう、あそこで救い損ねた仲間たちの身に起こったことは。
電磁波障害が起こらなかったら、あいつらを無事に助け出せたということも。
…俺はキャプテン失格だな。私情が邪魔をしていたようじゃ。
前のお前を失くしたショックで、すっかり封印しちまったらしい。ナスカの教訓を生かそうとはせずに、忘れる方へと持って行ってな。
情けないキャプテンもあったもんだ、とハーレイが零した大きな溜息。シェルターの件で懲りていたなら、通信システムの改善をさせておくべきなのに、と。
「俺としたことが…。私情は交えていないつもりで生きてたんだが、違ったようだ」
前のお前を失くした後では、すっかり鈍っていたらしい。俺に自覚が無かっただけで。
もう本当に、どうしようもないキャプテンだよな、とハーレイは自分を責めるのだけれど。赤いナスカで失くした仲間たちの死を、少しも役に立てられなかった、と悔やむのだけれど。
「でも、ハーレイ…。ハーレイはそう言うけれど…」
それまではあのシステムで良かったんだし、ナスカから後も、困ったことは無かったんでしょ?
同じように困ったことがあったなら、ハーレイだって気が付くもの。改善しなきゃ、って。
「…俺が生きてた間はな。幸いなことに、二度と無かった」
しかしだ、地球が燃え上がっちまった時にはどうだったんだか…。俺はとっくに船にいないし、多分、死んじまっていたんだろうが…。
「地球が燃えちゃった時のことって…。シャトルとは、ちゃんと通信出来てたんじゃないの?」
シドがシャトルを降ろしたんでしょ、人類たちを助けるために。
全部回収して、それからシャングリラは地球を離れて行ったんだから…。通信システムに障害は出ていなかったんだよ。まさか通信出来もしないのに、シャトルを降ろしはしないでしょ?
いくらシドでも、そんな無茶は…、とチビの自分でも分かること。それは有り得ない、と。
「そういや、そうか…。あの程度ならば、大丈夫だったというわけか…」
大規模な地殻変動だったが、電磁波障害を引き起こすまではいかなかった、と言うんだな?
「少しは起こっただろうけど…。通信障害が起きるほどではなかったんだよ」
メギドの時が酷すぎただけ。誰もあんなの考えないもの、星ごと滅ぼす兵器なんかは。
「だが、実際に起きたことだし、対策を立てておくのがだな…」
キャプテンの務めなんだと思うが、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ハーレイはそう言うけれど…。キャプテンだから、って完璧でなくてもいいと思うよ」
キャプテンだけれど、前のハーレイだって、人間だもの。
おまけに、前のぼくを失くしてしまって、独りぼっちで残されちゃって…。
それでも頑張ってくれたんだものね、シャングリラを地球まで運ぶために。
とても悲しくて辛かったくせに、みんなにはそれを見せもしないで…。
だから自分を責めたりしないでいいと思う、と微笑んだ。「前のハーレイは頑張ったもの」と。
「ホントだよ? ぼくはそう思うよ、とても立派なキャプテンだった、って」
「そう言われると、ホッとするがな…。ありがとう、ブルー」
お前、慰めてくれるんだな、とハーレイに笑みが戻ったから。もう苦しくはないようだから…。
「じゃあ、御礼、くれる?」
ぼくに御礼、と頼んでみた。ここぞとばかりに、さっきの話を思い出して。
「御礼だって?」
「うん。暗号でなくてもかまわないから、手紙、ちょうだい」
中身はホントになんでもいいから、一回だけ。…郵便屋さんが届けてくれる手紙を。
お願い、とペコリと頭も下げた。本当に手紙が欲しいのだから。けれど…。
「そいつは駄目だな、ラブレターになっちまうから。俺がお前に書くとなったら」
しかも御礼の手紙となったら、それっぽいヤツになっちまう。前のお前のことも書くから。
お前、そういう魂胆だろうが、違うのか…?
「酷い! ぼくは其処まで考えてないよ!」
普通の手紙が欲しかったんだよ、本当だってば。どんな手紙でもいいんだから…!
なのに駄目だなんて、ハーレイのケチ、と怒ったけれども、貰えない手紙。ハーレイは書いてはくれないから。「ラブレターを書くのはお断りだ」と、切り捨てられてしまったから。
それに暗号の手紙を綴って、文通を始めることも出来ない。
暗号の手紙は素敵だけれども、ミュウに暗号は無かったから。そうだったと気付かされたから。
(なんだか残念…)
もう本当に残念だけれど、きっといつかは貰えるだろうラブレター。家のポストに配達されて。
今のハーレイから、熱い思いが綴られている本物を。郵便屋さんのバイクが運んで来て。
ちょっぴり悔しい気はするけれども、今は本物が届く日を楽しみに待つことにしよう。
暗号で秘密の手紙を書く気は、ハーレイにはまるで無いのだから。御礼のラブレターだって。
白いシャングリラに暗号は無くて、自分からも書いて送れはしない暗号の手紙。
それが書けたら素敵だろうに、暗号で綴った秘密の手紙は、自分には書けはしないのだから…。
ミュウと暗号・了
※ハーレイと暗号で文通しよう、と思い付いたブルー。前の生で使った暗号なら大丈夫。
ところが暗号は無かったのです。ミュウが開発した通信システム、それ自体が傍受は不可能。
(レインちゃん…)
あのレインだよ、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
遠く遥かな時の彼方で、ジョミーがペットにしていたレイン。青い毛皮のナキネズミ。レインが新聞にいるのだけれども、同じ名前だというだけのこと。あのレインと。
新聞でお馴染み、自慢のペットの紹介コーナー。其処に掲載されているレイン。でも…。
(似てるの、青い所だけ…)
其処だけだよね、と見詰めたペット。セキセイインコのレインちゃん。水色の羽根は、レインにそっくり。毛皮か羽根かというだけの違い、ただし姿はまるで別物。セキセイインコは鳥だから。
飼い主の指に止まった写真。つぶらな瞳のレインちゃん。
添えられた文に「恵みの雨のレインです」と書いてあるから、間違いなくレイン。ナキネズミのレインも、名前の由来はそうだった。
(セキセイインコなら、肩に乗ったりするもんね?)
きちんと手乗りに育ててやったら、ナキネズミのレインがそうだったように。いつもジョミーの肩に乗っていたレイン、今の時代も写真が幾つも残っている。
セキセイインコのレインはといえば、手乗りでお喋りもするらしい。本物のレインも話すことが出来た。思念波を使って、人間と。
(お喋りさせたくて、レインって名前にしたのかな?)
そうかもしれない、と飼い主の気持ちを想像してみる。「青いからレインじゃないかもね」と。
セキセイインコは色々なのだ、と鳥に詳しい友達に聞いた。下の学校に通っていた頃に。
喋る種類の鳥は多いけれど、セキセイインコは「喋るのもいる」という程度。教えさえすれば、喋るわけではないらしい。どんなに頑張って教えても。
(ちっとも言葉を覚えないのも、手乗りになってくれないのも…)
珍しくないのがセキセイインコ。手乗りにしようと育ててみたって、途中で失敗するだとか。
それで「レイン」と名付けただろうか、「あの有名なレインみたいに仲良くしたい」と。
(レインちゃんは上手くいってるよね?)
ちゃんと手乗りで、飼い主の指と一緒に写っているのがその証拠。お喋りもすると書かれている記事、新聞の中から声は聞こえて来なくても。レインちゃんの声はしなくても。
飼い主の人が願った通りに、ナキネズミのように育った青いセキセイインコ。名前はレイン。
(ナキネズミはもう、いないけど…)
本物のナキネズミは時の流れに消えてしまって、何処にもいない。前の自分たちが作った動物、それがナキネズミだったから。…自然に生まれた動物とは違うものだったから。
(繁殖力が衰えていって、消えちゃった…)
絶滅の危機に瀕していた時、人間は理由に気が付いていた。どうすれば絶滅を防げるかにも。
けれど滅びを止めるためには、遺伝子レベルでの操作が必要。元気な個体を交配したって、もう戻らない繁殖力。ただ衰えてゆくだけで。
それを無理やり元に戻すのは不自然だ、と判断したのがナキネズミを調べた研究者たち。人間が生命に手を加えることは許されない、と。
(ナキネズミはもう、必要の無い時代だったから…)
このまま見守るだけにしよう、と獣医も飼育係も思った。最後の一匹が消えて行っても、彼らが幸せならいいと。ナキネズミの役目はもう終わったから、と。
(最後のナキネズミも、きっと幸せ…)
人間と一緒に仲良く暮らして、思念波を使ってお喋りをして。我儘も言って。
もしかしたら最後にいたナキネズミは、自分を「人だ」と思い込んで生きていたかもしれない。他に仲間を知らないのならば、「ちょっと姿が違う人間」といった具合で。
そういう動物は多いらしいから。犬でも猫でも、鳥なんかでも。
(人が育てたら、自分も人だと思っちゃうんだよ)
鏡を覗いて自分の姿が映っていたって、「誰なの?」という顔をするペット。同じ種類の仲間に会っても、知らんぷり。なにしろ自分は「人間」なのだし、「こんな仲間は知らないよ」と。
(レインちゃんだって、そうかもね?)
生まれた時から人間と一緒で、手乗りだから。お喋りもするセキセイインコだから。
今の時代は幸せなレインたちがいる。ジョミーのペットだったレインよりも、ずっと。
青い地球の上で暮らすレインや、他の星で暮らしているレインやら。
新聞で出会ったセキセイインコのレインの他にも、きっと沢山。
犬やら猫やら、いろんな動物、色々な姿のレインが生きているのだろう。広い宇宙に何匹も。
なんと言っても、「レイン」は人気の名前だから。
人間の子供の名前はともかく、ペットの方では大人気。ジョミーと暮らしたレインのお蔭で。
この町だけでも何匹も暮らしていそうなレイン。ナキネズミのレインと同じ名前のペットたち。種類も様々だろうけれども、犬や猫よりセキセイインコがレインっぽいかな、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
勉強机の前に座って、さっきの写真を思い浮かべる。青いセキセイインコのレイン。他の色々な動物よりも、ナキネズミに一番近そうな感じ。見た目だったら、リスの方が近いのだけれど。
(思念波じゃないけど、セキセイインコは喋るから…)
それに青くて、手乗りだから肩にも乗っかってくれる。本物のナキネズミがしていたように。
あの飼い主は上手に名前をつけたよね、と感心しきり。レインのように育てたかったか、羽根の色でレインに決めたのか。どちらにしたって、今では立派に「レインみたいなペット」。
同じ名前はペットの名前で人気だけれども、本物のレインを思わせるものは、そうそういないと思うから。喋って、肩にも乗っかってくれて、青い色を纏っているレイン。
セキセイインコのレインは上出来、と思ったけれど。とてもお似合いだと思うけれども。
(…インコじゃなくって、本物のレイン…)
本家本元のレインの方は、気の毒なことに名前を持っていなかった。青い毛皮のナキネズミは。
ずっとジョミーと暮らしていたのに、レインは名前を貰わないまま。
赤いナスカで、トォニィが生まれたその日まで。自分の名前を「お前」だと皆に名乗るまで。
(お前からトォニィにおめでとう、って…)
そう言ったのがナキネズミ。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィに。「おめでとう」と。
誰もがトォニィを、母のカリナを祝福するから、ナキネズミだってお祝いしたい。生まれて来た子に、父のユウイが「トォニィ」と名付けたばかりの子供にあげたい「おめでとう」の言葉。
だからナキネズミが紡いだ思念。「赤ちゃんトォニィ、おめでとう」と。
尻尾を振って、トォニィを祝福したナキネズミ。「お前からトォニィにおめでとう、言う」と、何処かおかしな言い回しで。
「お前とは誰のことだろう?」と誰もが思うし、トォニィの母のカリナも思った。
それでカリナが尋ねた名前。「あなた、名前、無いの?」と。まさか、とそれは不思議そうに。
そしたら答えが、「ぼく、名前、お前」。自分の名前は「お前」だと信じていたナキネズミ。
カリナが「それは名前じゃないわ」と言うまで。ジョミーに名前を確認するまで。
誰もが呆れた、名前が無かったナキネズミ。「そりゃ酷いな」と皆が失笑したという。ジョミーときたら、「名前…。つけていなかったっけ」と言ったものだから。
最初から名前が無かったのなら、「お前」にだってなるだろう。ナキネズミの名前。ジョミーも含めて皆が呼ぶのだし、「ぼくの名前は、「お前」なんだ」と。
(名前が無くって、「お前」だなんて…)
あんまりだよね、と可哀想すぎて溜息が出そう。自分の名前を「お前」だと思っていたレイン。十三年もジョミーの側にいたのに、名無しのままで暮らしたなんて。
(今日のペットのコーナーだって…)
セキセイインコのレインの他にも、色々な名前のペットたち。可愛い名前や、かっこいい名前。今のハーレイの母が飼っていた真っ白な猫にも、「ミーシャ」という名前があったのに。
ペットを飼うなら、名前は基本。一番最初に名付けるもの。
(誰かに貰って来たペットでも…)
子猫や子犬を貰って来たって、誰だって名前を付けたがる。「この子の名前は…」と飼っていた家での名前を聞いても、「こっちがいい」と新しい名前を付けるとか。
(イメージじゃないのって、あるもんね?)
こうです、と教えて貰っても。血統書には別の名前があっても、ピンと来ないなら新しい名前。これがいい、と思った名前をつけてやったら、ペットの方でも覚えるから。
(レインの時だって、そうだったのに…)
名前が無かったナキネズミ。それは考えがあったから。…前の自分に。
とうに見付けていたジョミー。青の間から思念で探る間に、「この子だ」と思った後継者。前の自分の命が尽きたら、代わりにミュウを導く子供。白いシャングリラに迎え入れて。
(…ジョミーほど強い子供なら…)
そう簡単にユニバーサルには発見されない。深層心理検査をしようが、ミュウとはバレない。
ただ、その分だけ、厄介なことも生まれるもの。
強すぎるジョミーは、まるで自覚が無いだろうから。「自分は変だ」と気付きもしないで、成人検査に臨む筈。其処で自分が妨害したって、やはり同じに気が付かないまま。異分子なことに。
ミュウの母船に迎え入れても、きっと「異分子」なのだろう。自分がミュウだと悟らないなら、白いシャングリラは箱舟どころか、ジョミーにとっては冷たい牢獄。
そうなるだろう、と前の自分は読んでいた。ジョミーをシャングリラに連れて来たって、きっと馴染みはしないだろうと。あまりにも「人類」に近すぎる子供なのだから。
(そうならないように、ナキネズミ…)
思念波を上手く操れない子供のためにと、白いシャングリラで作り出したのがナキネズミ。側にいるだけで思念を中継してくれるのだし、コミュニケーションの役に立つ、と。
それをジョミーに与えておいたら、その内に分かってくれる筈。シャングリラで暮らすミュウの思考も、ジョミー自身も「思念波を持ったミュウ」の一人であることも。
(ナキネズミを一匹、ジョミーのペットにしなくっちゃ、って…)
船に来たジョミーが孤立しないよう、最初からナキネズミを側に。自然な形で出会った後には、一緒に船に来るように。
そう計算して、地上に降ろしたナキネズミ。名前はあえてつけないままで。
ジョミーのペットになるのだから、と最初から名前は与えなかった。シャングリラで生まれて、すくすく育つ間にも。「この子には名前をつけないように」と、飼育係たちにも命じて。
(きっとジョミーが、素敵な名前をつけるだろうし…)
好みの名前もあるだろうから、名前をつけずにおいたのに。
最初から持っている名前があったら、ジョミーの方でも遠慮するだろうと考えた上で、名無しのままにしておいたのに。
(ジョミー、名前をつけるどころか…)
なんという名前か、尋ねることさえしなかった。
ドリームワールドにあった小さな檻から、自分が逃がしたナキネズミに。自分と一緒に小型艇に乗って、シャングリラまで来たナキネズミに。
ジョミーのことを恋しがるから、とリオが渡して、文字通り「ペット」になった後にも、一度も訊いたりしなかったジョミー。「お前、名前は?」と。後に「お前」になったレインに。
たった一言、質問したなら、「名前?」と首を傾げたろうに。まだ幼かったナキネズミは。
(ナキネズミ、けっこう長生きだから…)
身体は育って一人前でも、ジョミーのペットになった頃には中身は子供。
きっとその頃に尋ねられても、「ぼく、お前」と答えただろう。人類の世界でも、ナキネズミに名前は無かったから。誰も名付けはしなかったから。
ジョミーが「名前は?」と訊きさえしたなら、名前を貰えたナキネズミ。「ぼく、お前」という答えを聞いたら、ジョミーも笑っただろうから。「それは名前じゃないと思うよ」と。
ナキネズミの名前を尋ねなくても、「これでいいかな?」と名前の候補。ジョミーがつけたいと思う名前が、ナキネズミにも喜んで貰えるかどうか。
そんな具合に、名付けただろうと思っていた。ペットになったナキネズミに。
きっとシャングリラに来てから直ぐに。「家に帰せ」と直訴した挙句、船を出てゆくより前に。
(前のぼくでも、其処までは気が付かないよ…)
ジョミーには気を配っていたのだけれども、側に置かせた、あのナキネズミの名前にまでは。
成人検査を妨害した疲れで、殆ど眠っていたのだから。青の間のベッドに横たわって。
(…ジョミーが船から出て行った後は…)
生きて戻れはしないだろう、と覚悟して後を追い掛けた自分。アルテメシアの遥か上空まで。
ジョミーのお蔭で船に戻れても、それからはずっと臥せっていた。あの状態では、ナキネズミの名前のことまではとても…、と考えたけれど。
其処まで気を配る余裕など無いし、余力だって無いと思ったけれど。
(ジョミーが連れて来てたっけ…)
前の自分が暮らした青の間。ベッドから起き上がれないほどに弱っていた頃も、ジョミーが顔を出した時にはナキネズミが一緒。大抵の時は、肩に乗っかって。
そう、何回も連れて来ていた「お前」。レインではなかった、名前を持たないナキネズミ。
(いつも、「お前」って呼んでいたから…)
まるで不思議に思わなかった。名前があっても「お前」と呼ぶのは、誰にでもあることだから。
ペットでなくても、人間だって。
シャングリラで長く共に暮らした仲間たちだって、親しい仲なら「お前」と呼んでいたりする。友達の名前を口にするより、先に出てくるのが「お前」。「お前、食事は?」といった具合に。
前の自分も、仲間たちを「お前」と呼ぶことは無かったのだけど…。
(牛とかだったら、「お前」だもんね?)
元気かい、と声を掛けていたもの。白いシャングリラにいた動物たちに。もちろんナキネズミにだって。「お前の御主人は、今は何処だい?」と訊いたりもして。
前の自分でさえ、何処かでナキネズミにバッタリ会ったら、「お前」と呼ぶのが当たり前。船の子供たちの側にいるものも、農場でのんびりしているものも。
それでも彼らに名前はあったし、ジョミーが「お前」と呼んでいたって、それが名前だと気付くわけがない。未だに名前を貰っていなくて、自分の名前は「お前」だと思っていたなんて。
でも…。
(ぼくはちょっぴり…)
ほんの僅かしかジョミーと一緒に過ごしはしないで、深い眠りに就いてしまった。自分自身でも気付かないまま、何の前触れも無く。
アルテメシアを命からがら脱出してから、どのくらいで眠ってしまったろうか。あの状態では、ナキネズミの名前どころではない。周りの様子は何も分かっていなかったから。
(…前のハーレイが歌っていたのも、ただ聞いていたっていうだけで…)
歌声の主さえ知らずにいたのが「ゆりかごの歌」。トォニィのための、赤いナスカの子守歌。
今のハーレイがよく話題にする、三連恒星からの脱出劇さえ前の自分は全く知らない。人類軍の船に追われて、重力の干渉点から亜空間ジャンプで逃れたという、シャングリラの危機。
危うく宇宙の藻屑だった、と聞かされたって、「あの時かな?」と思いさえしない。深い眠りの底にいたから、船の揺れにも気付かないまま。
それほどの眠りの中にいたなら、もうナキネズミの姿は見えない。名前があろうと、名前無しで放っておいたジョミーが、赤いナスカで皆に笑われていようとも。
けれど、自分ではなくてハーレイならば。…キャプテン・ハーレイだったなら。
(ずっとジョミーを見てた筈だよ?)
前の自分が深く眠ってしまった後にも、キャプテンとして。
船を纏めるキャプテン・ハーレイ、前の自分が恋をした相手。誰よりも信頼していたハーレイ。恋は抜きでも、右腕として。
だからソルジャー候補になったジョミーを、何度もハーレイに会わせていた。いつかジョミーがソルジャーになれば、頼りになるのはキャプテンだから、と。
それにハーレイなら、ゼルのように頭から怒鳴りはしない。エラやヒルマンなら顔を顰めても、ハーレイは眉を寄せる程度で抑える。ブラウみたいに、歯に衣を着せない物言いもしない。
キャプテンは常に、冷静でないといけないから。船の仲間たちに信頼されてこそだから。
穏やかだったキャプテン・ハーレイ。長老たちほど厳しくはないし、感情的なことも言わない。其処まで見据えて、ジョミーに話した。「何かあったら、ハーレイに相談するといい」と。
前の自分が深い眠りに就いた後にも、ジョミーが相談していたハーレイ。人類に向けての思念波通信を思い立った時も、ジョミーはハーレイの所に出掛けた。何処よりも先に。
そう、ハーレイが唯一のジョミーの相談相手。…未来を占うフィシス以外では。
(フィシスもウッカリ者だけど…)
天体の間にもレインを連れて行っていたよね、と思うから。フィシスの前でも、ジョミーは肩に乗っけたナキネズミを「お前」と呼んだのだろうから。…名前ではなくて、「お前」とだけ。
フィシスも気付かないなんて、と溜息が零れてしまうけれども、ハーレイはもっとウッカリ者。何度となくジョミーの相談に乗って、ナキネズミにも出会っていた筈。
なのに名無しだと気付きもしないで、「お前」のままにしておいたなんて。白いシャングリラを纏め上げていたキャプテンのくせに、まるで知らずにいたなんて。
その内にこれでハーレイを苛めてやろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ、レインの名前を知っている?」
「はあ? レインって…?」
どうかしたか、とハーレイは怪訝そうな顔。「ジョミーのペットのナキネズミだろう?」とも。
「そのレインだけど…。今はペットに人気でしょ。レインって名前をつけるのが」
今日はセキセイインコだったよ、新聞のペットの紹介コーナー。
青いヤツでね、おまけに手乗りで喋るんだって。…思念波ってわけじゃないけどね。
「ほほう…。上手いこと名付けたもんだな、似てるじゃないか。ナキネズミに」
あれも手乗りのようなモンだし、青くて喋る動物だから。鳥とは全く違うんだがな。
そういや、前のお前が青い毛皮のを選んだんだ、と懐かしそうな瞳のハーレイ。幸せの青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミだった、と。
「そうだよ、青い鳥を飼うのは無理だったから…。何の役にも立たないから、って」
だから青いのを選んだんだけど…。ナキネズミの血統を決める時にね。
それは抜きでも、セキセイインコのレイン、とってもいい感じでしょ?
犬とか猫をレインにするより、ずっと本物みたいだから。肩に乗っけて、お喋りが出来て。
ホントの会話は無理だけどね、とクスクス笑った。セキセイインコは覚えた言葉しか喋らない。それに言葉も理解しないし、ナキネズミのように意思の疎通は出来ないから。
「だけど、雰囲気はレインにピッタリ。青いセキセイインコだもの」
それでね、今はレインっていうのはペットに人気の名前だけれど…。
名前の由来に「恵みの雨の」ってくっついていたら、もう間違いなくナキネズミだけど…。
セキセイインコもそのレインだったけど、本物のレインは名無しだよね?
ずっと「お前」だと思ってたんでしょ、自分の名前。…トォニィが生まれて来るまでは。
とても有名な話だよね、と今のハーレイの顔を見詰めた。ナキネズミのレインが名前を持たずに過ごした話は、今の時代も広く知られているから。「レイン」の名前とセットになって。
「その通りだが…。ジョミーも間抜けなモンだよな」
十三年も一緒にいたのに、名前をつけずにいたなんて。…普通は名前をつけるモンだろ?
こいつの名前は何だっけか、と一度も思わなかったというのが凄すぎるぞ。大物だな。
あれくらいでなきゃ、地球まで行けるソルジャーは無理かもしれないが…、とハーレイの考えが他所に向くから、「ジョミーだけじゃないよ」と引き戻した。元の話に。
「ジョミーだけなら、大物なのかもしれないけれど…。間抜けだったの、ハーレイもだよ」
何度も相談に乗っていたでしょ、ジョミーのね。思念波通信の時もそうだし、他にも色々。
ジョミーがハーレイの所に来たなら、レインも一緒にいた筈だけど?
そしたら気付くと思うんだけど…。「もしかしたら、名前が無いんじゃないか?」って。
「…ジョミーのお供か…。くっついていたな、確かにな」
ブリッジに顔を出さなくなった頃にも、俺の部屋には来たりしていた。…たまにだがな。
いつもレインを連れて来ていたが、「お前」と呼んでいたもんだから…。
全く変だと思わなかったな、「お前は其処で待っていろ」といった具合で、自然だったから。
誰だって「お前」と呼んだりするだろ、親しい友達だったりしたら。
前の俺だって、お前がソルジャーになる前は「お前」だったからな、と言われれば、そう。
ソルジャーの肩書きがついた途端に、「あなた」に変わったのだった。ソルジャーと話す時には敬語で、とエラが徹底させたから。
キャプテンは船の仲間の模範になるべき立場なのだし、ハーレイは綺麗に変えてしまった。常に敬語で話さなくては、と「お前」を封印してしまって。
そうだったっけ、と懐かしく思い出したこと。「前のぼくも「お前」だったんだよ」と。自分の名前だとは思っていなかったけれど、あの呼び方が好きだった。「あなた」よりも、ずっと。
(だけど、元には戻せなくって…)
恋人同士になった後にも、「お前」は戻って来なかった。ハーレイはいつも敬語で話し続けて、「お前」ではなくて「あなた」のまま。…今は「お前」と呼んでくれるけれど。
そういう優しい「お前」があるから、ハーレイも気付かなかったのだろう。ナキネズミが名前を持っていなくて、「お前」とだけ呼ばれていたことに。
そうは言っても、無かった名前。前のハーレイが呼ぼうとしても、名前は無かったのだから…。
「ハーレイ、レインだけに会ったことはないの?」
ジョミーと一緒じゃないレイン。…そういうレインには会っていないの、一回も…?
「いや、何回も会ってるが?」
レインだって、いつもジョミーと一緒じゃなかったからな。離れていることもよくあった。
ずっと後にはそれが災いして、トォニィたちに捕まったりもしていたが…。尻尾を掴んで逆さに吊られて、オモチャ代わりにされたりな。
そうなるまでにも、よく一匹で歩いていたぞ。シャングリラの中を、好き勝手に。
視察中の俺と何度も出くわしたな、とハーレイが言うから、訊いてみた。
「その時、なんて呼んでいたわけ?」
無視して通るわけがないでしょ、ジョミーのペットなんだから。…なんて呼んだの?
「呼ぶと言うより、声を掛けるといったトコだな。「お前、一人か?」とか、そんな調子で」
一匹で歩いているわけなんだし、ジョミーの方は何処へ行ったかと思うじゃないか。
ジョミーの様子を尋ねがてらという感じだな、と返った答え。ナキネズミだけに出会った時の、前のハーレイの呼び掛け方。
「…ハーレイも「お前」だったんだね?」
前のぼくがソルジャーになる前は、ぼくのことも「お前」だったから…。それとおんなじ。
ナキネズミに会っても「お前」だったら、ジョミーと少しも変わらないよね…。
「そのようだ。…俺も一役買っちまってたか」
あいつが自分を「お前」だと思い込むまでに。…俺だって名前を呼んでないしな。
ジョミーが「レイン」と名付けた後には、そっちで呼ぶこともあったんだが…。
俺も犯人の一人だったか、とハーレイが苦笑する「お前」。ナキネズミが名前だと思ったもの。皆が「お前」と呼び掛けるから、それが自分の名前なのだと。
「…フィシスはどうかな、「お前」じゃないよね?」
ハーレイが「お前」って呼んでいたのは分かるけれども、フィシスはどうだろ…?
お前って呼ぶかな、いくら相手がナキネズミでも…?
どうだったかな、と遠い記憶を手繰ってみる。幼かったフィシスを農場などに連れて行った時、なんと呼び掛けていただろう。其処にいた牛や鶏たちに…?
「フィシスだったら、「あなた」だろうな」
ナキネズミに敬語は使わなくても、その部分は俺と同じだろうさ。「お前」なんていう呼び方はせずに、丁寧に「あなた」と呼んだと思うぞ。
俺は現場を見てはいないが、目に見えるような光景じゃないか。そう思わんか…?
フィシスなんだぞ、と言われたら納得出来た。幼かったフィシスも、牛や鶏たちを「あなた」と呼んでいたから。見えない瞳で覗き込んでは、「あなた、牛さんね?」と身体を撫でたりして。
「そうだね、フィシスは「あなた」だね…。牛たちをそう呼んでたよ。小さかった頃に」
大きくなっても同じだろうし、ナキネズミにも、きっと「あなた」だよね。
それで余計に、名前が「お前」になっちゃった…?
ハーレイやジョミーに呼ばれる時には「お前」だけれども、フィシスは「あなた」なんだから。
「あなた」は「お前」と全然違うし、そっちは自分の名前じゃないよ、って…。
余計に間違えちゃったのかな、とナキネズミの気持ちを考えてみる。「お前」と呼ぶ人が何人もいる中、「あなた」と呼ぶ人もいるのだったら、「お前」が名前だと思うだろうか、と。
「そいつは大いに有り得るなあ…。名前じゃないのに、そうだと思い込んじまうこと」
船のヤツらが呼び掛ける時は、誰もが「お前」か「あなた」だろうし…。
それに「お前」の方が遥かに多かっただろう。「あなた」と呼んでた人間よりも。
男だったら、前のお前も含めて、みんな「お前」と呼んだだろうしな?
「あなた」なんぞは、女性陣しか使いそうにない呼び名なんだが…。生憎と、その女性がだ…。
ブラウなんかを想像してみろ、あいつが「あなた」と呼ぶと思うか、ナキネズミを?
「…ブラウも、絶対、「お前」だよね…」
お前って呼ぶよ、見掛けた時は。でなきゃ「あんた」で、「あなた」じゃないよね…。
白いシャングリラの仲間たち。彼らがナキネズミをなんと呼んだのか、考えるほどに「お前」が名前でも、おかしくないから酷すぎる。一番酷いのは、名付けなかったジョミーだけれど。
「…ナキネズミの名前、「お前」なんだって間違えていても、仕方ないけど…」
それで少しもおかしくないけど、ジョミー、ホントに酷いよね。名前をつけなかっただなんて。
あんまりだってば、十三年も「お前」で放っておくなんて…。名前を訊いてあげもしないで。
それにレインってつけた名前も、よく考えてつけたんだったらいいけれど…。
思い付きでしょ、レインっていうの。たまたま雨が降っていたから、恵みの雨のレイン、って。
「そうなるんだが…。その場で慌てて考えたんだが、その雨、馬鹿にしたモンでもないぞ」
まさに恵みの雨だったんだ。ナキネズミに名前をつけた時には、まだ降り始めたばかりでな…。
それから後に、ゼルとエラが目撃しちまった。一瞬の内に現れた花園というヤツを。
あのナスカでだ、とハーレイが語った花園。
雨が降る中、シャングリラに戻ろうとシャトルに向かったゼルとエラ。途中で止まって、ゼルは降る雨を体験してみた。シールドを解いて。
そして滑って転んだ話は聞いている。服は泥だらけになったけれども、楽しそうだったとエラが話していたと。エラも一緒にシールドを解いて、雨の中に立ってみたのだとも。
そうする内に上がった雨。二人は其処で花園を見た。何も生えてはいなかった場所に、幾つもの芽が顔を出すのを。見る間に育って、鮮やかな緑の花園が出来上がるのを。
「花園…。雨が止んだら、そんなのが…?」
凄い速さで育ったっていうの、何も無かった場所の土から…?
「ああ。俺も後で見て驚いたが…。いつの間にこんな緑が、と」
砂漠に現れる花園と同じ仕組みだな。雨で芽吹いた種たちだ。
いつか降る雨をじっと待ち続けて、降った途端に一気に芽吹く。砂漠の花園、そうだろうが。
「地球の砂漠はそうらしいけど…。ナスカにもそういう仕掛けがあったの?」
「仕掛けなんかは無いと思うぞ、少なくともミュウの仕業じゃない。誰も植えてはいないから」
あそこは人類が放棄した植民惑星だ。人類が植えて、そのまま撤退したのが芽吹いたんだろう。
もう緑なんか育ちやしない、と捨てて行った星の土からな。
何十年ぶりだか、もっとなんだか…。あの花たちが芽を出せるだけの纏まった雨が降ったんだ。
それで花園が出来たわけだな、みるみる内に。
そりゃあ立派な花園だった、と今のハーレイも覚えている花園。赤いナスカの土から芽吹いた、雨を待ち続けていた古い種たち。人類が其処を離れた時から、見る者は誰も無かった花園。
「そっか…。それじゃホントに恵みの雨だね」
ジョミーが苦し紛れに言ったとしたって、ちゃんと花園が出来ちゃった…。恵みの雨で。
「うむ。ソルジャーの伝説がまた増える、とエラも言っていたから、そうなんだろうな」
トォニィが生まれた途端に雨で、花園が出来たわけだから。…伝説にもなるさ、ソルジャーの。
しかしゼルには辛かったらしい。ジョミーの伝説が増えてゆくほど、地球が遠のいちまうから。
皆がナスカにしがみついて…、とハーレイは溜息をつくけれど。
「ううん、雨って凄いと思うよ。それに恵みの雨が降ってくるナスカもね」
前のぼくは思いもしなかったもの…。ミュウのために星を手に入れるなんて。
雨が降る地面は欲しかったけれど、ミュウだけのための星があったら出来たことだよ。その星に降りて暮らし始めたら、いくらでも雨は降るんだから。
どうして思い付かなかったんだろう、と頭を振った。ジョミーは思い付いたのに、と。
「それはお前がミュウの未来にこだわったからだ。…シャングリラの仲間だけじゃなくてな」
アルテメシアを離れちまったら、もうミュウの子供は救出できない。
そうでなくても、前のお前は気にしてた。他の星にもミュウの子供がいるだろうに、と。
人類のいない星に行くなど、ミュウの未来を見捨てて行くのと同じだろうが。
シャングリラの仲間たちは良くても、それから後に生まれて来るミュウの子供たち。誰も助けてくれはしなくて、死んじまうしかないんだから。
「…そのせいなのかな、一度も思い付かなかったの…」
地球に行くことしか考えてなくて、雨を見るなら地球で見るんだ、と思ってたのも。
前のぼくは地球の雨を見たかったよ、青い空から降ってくるのを。
みんなにも見せてあげたかったけれど、ジョミーがみんなに見せちゃったね。赤いナスカで。
それも奇跡の花園付きで…、と思い浮かべたナスカの花園。どんなに鮮やかだったろう、と。
どれほど皆が惹かれただろうと、本当に恵みの雨だったのだ、と。レインの名前の由来の雨は。
「まあな…。ジョミーは恵みの雨を見せたな、船の中しか知らなかったヤツらに」
それで余計に、ナスカを離れたがらない連中が増えてしまったが…。
撤退命令に従わなかった連中のせいで、前のお前まで失くしてしまうことになったんだがな…。
メギドの攻撃を食らった後まで残りやがって…、とハーレイが眉間に寄せた皺。恵みの雨が降る星に必死にしがみついた挙句に、幾つ命を無駄にしたんだ、と。
地獄の劫火を受けた後には、星は滅びるしかないというのに。その現実さえ見えないくらいに、あの雨は皆を惹き付けたのか…、と。
「恵みの雨も善し悪しだ。いい方に転べば花園が出来るが、裏目に出たなら滅びるってな」
そういや、メギド…。あれは徹底的に破壊兵器だな、間違いなく。…恵みの雨どころか。
焼いて滅ぼすだけの兵器だ、と急に話を変えたハーレイ。雨から地獄の劫火の方へ。
「ハーレイ、いきなりどうしたの?」
恵みの雨が降っちゃったせいで、ナスカを離れない仲間がいたのは分かるけど…。メギドが惑星破壊兵器なのは、誰が見たって間違いないよ。わざわざ今頃、言わなくたって。
「そうでもないぞ。…お前、アルタミラで雨を見てたか?」
炎の地獄の中にいた時だ、俺と一緒に走っていた時。お前、雨粒を目にしてたのか…?
「雨って…。そんなの見てないよ?」
稲光は見たのを思い出したけど、雨なんて…。降っていたっけ?
覚えてないよ、とキョトンとした。燃えるアルタミラに、空から雨は降っただろうか…?
「いいや、一粒も降ってはいない。ナスカでも雨は降ってないんだ、稲光だけで」
其処がメギドの破壊兵器たる所以だな。あれだけ燃えても、雨は一粒も無しってトコが。
「…どういうこと?」
燃えるのと雨が関係あるわけ、燃えたら雨が降ってくるわけ…?
雨なんか降って来ないでしょ、と傾げた首。炎の地獄と恵みの雨は、正反対のものなのだから。
「それがそうでもないってな。…山火事の時には雨が降るんだ、昔からよく知られてた」
山火事の激しい炎と煙で、雲が出来ると言われてる。モクモクと空に湧き上がってな。
火山が爆発した時にだって、雲が出来たりするんだが…。
そういう雲を火災積雲、雷がゴロゴロ鳴り出す雲なら、火災積乱雲と呼ぶ。
デカイ雲だから、そいつが出来たら雨が降り出すことがあって、だ…。
火が消えちまうこともあるんだ、なんたって凄い雨が降るから。
もう文字通りに叩き付けるような激しい雨だし、どんな火だって水には勝てやしないだろうが。
人間が地球しか知らなかった頃から、火災積雲は知られていたという。雷を伴う火災積乱雲も。
けれど星を滅ぼすメギドの炎は、大規模な火災積乱雲を生み出しただけ。
空を覆った炎の色の雲は、ただ雷鳴を轟かせるだけで、雨を降らせはしなかった。たった一粒の雨粒さえも、地上に落としはしなかった雲。あれだけの雲が湧いていたのに、降らなかった雨。
「多分、其処まで計算済みの兵器だったんだ。…メギドってヤツは」
絶対に雨を降らせないよう、計算ずくで星を焼くんだな。雨が降ったら火が消えるから。
元は惑星改造用のシステムだったのを、国家騎士団が破壊兵器に転用したって話だが…。
どうやら本当らしいな、うん。あれだけ燃やして雷が鳴っても、雨は無しなら。
普通だったら雨になるから、とハーレイが言うメギドの炎が生み出した雲。空を切り裂く稲光は確かに見たのだけれども、雨は降ってはいなかった。アルタミラの炎の地獄では。
「…アルタミラで雨…。もしも降っていたら、恵みの雨に見えたかな?」
花園なんかは出来なくっても、空から雨が降って来てたら。
「そりゃそうだろう。降れば少しでも火が消えるからな、地面の熱もマシになるんだし…」
星の滅びは止められなくても、救われた気分にはなっただろうさ。少しだけでも。
しかし、恵みの雨は無かった。メギドってヤツが、そういう風に出来ていたせいで。
「メギド…。あんなの、なんで作ったんだろうね?」
惑星改造用だったんなら、テラフォーミングの道具だろうに…。星を滅ぼしてどうするの?
何の役にも立たないじゃない、と零れた溜息。砕けた星は、元には戻せないのだから。
「さあな? いったい、何だったんだか…」
今となっては謎だらけだが、あんなものは二度と作られやしない。作るヤツらもいないから。
「要らないよね、今の時代には。…メギドなんかは」
ナキネズミだって、いないくらいの時代だもの。
本物のナキネズミは何処を探しても、もう一匹もいないんだもの…。
「不自然なものは必要ない、っていうのが今の時代だからな」
ナキネズミがどんなに可愛らしくても、ペットとしては優れものでも、もう作らない。
それと同じで自然に手だって加えやしないし、メギドも作られないわけだ。
ナキネズミとメギドじゃ違いすぎるし、ナキネズミのレインは恵みの雨って名前でだ…。
メギドの炎が作った雲だと、恵みの雨さえ降らないんだがな。
今の時代はセキセイインコのレインくらいで丁度いいんだ、とハーレイが微笑む。
同じレインという名前でも、自然に生まれて来た生き物。青い羽根を持った。
思念波でお喋りは出来ないレインで、肩に乗って好きに喋るだけ。自分が覚えた言葉だけを。
そういうレインがお似合いの今。青い毛皮を持ったナキネズミは、もう生まれなくて。
今は平和で、青い地球まで宇宙に戻った時代だから。
誰もが自然を愛しているから、不自然に手は加えないから。
メギドが生み出す火災積雲、そんなものは無くて自然の積雲。ムクムクと空に湧き上がる雲。
それが生まれて雨が降るのが、今の地球。宇宙に散らばる他の星でも。
恵みの雨が何処の星にも降り注ぐのが、平和になった今の宇宙。
レインの名前と同じ雨たちが、奇跡の花園を乾いた砂漠に生み出したりもする恵みの雨が…。
恵みの雨・了
※ジョミーが名前を付けないままで、十三年も放っていたナキネズミ。恵みの雨のレイン。
けれど名前が無かった理由は、今から思えば、そう不自然でもないのです。呼ぶ機会がゼロ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
あのレインだよ、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
遠く遥かな時の彼方で、ジョミーがペットにしていたレイン。青い毛皮のナキネズミ。レインが新聞にいるのだけれども、同じ名前だというだけのこと。あのレインと。
新聞でお馴染み、自慢のペットの紹介コーナー。其処に掲載されているレイン。でも…。
(似てるの、青い所だけ…)
其処だけだよね、と見詰めたペット。セキセイインコのレインちゃん。水色の羽根は、レインにそっくり。毛皮か羽根かというだけの違い、ただし姿はまるで別物。セキセイインコは鳥だから。
飼い主の指に止まった写真。つぶらな瞳のレインちゃん。
添えられた文に「恵みの雨のレインです」と書いてあるから、間違いなくレイン。ナキネズミのレインも、名前の由来はそうだった。
(セキセイインコなら、肩に乗ったりするもんね?)
きちんと手乗りに育ててやったら、ナキネズミのレインがそうだったように。いつもジョミーの肩に乗っていたレイン、今の時代も写真が幾つも残っている。
セキセイインコのレインはといえば、手乗りでお喋りもするらしい。本物のレインも話すことが出来た。思念波を使って、人間と。
(お喋りさせたくて、レインって名前にしたのかな?)
そうかもしれない、と飼い主の気持ちを想像してみる。「青いからレインじゃないかもね」と。
セキセイインコは色々なのだ、と鳥に詳しい友達に聞いた。下の学校に通っていた頃に。
喋る種類の鳥は多いけれど、セキセイインコは「喋るのもいる」という程度。教えさえすれば、喋るわけではないらしい。どんなに頑張って教えても。
(ちっとも言葉を覚えないのも、手乗りになってくれないのも…)
珍しくないのがセキセイインコ。手乗りにしようと育ててみたって、途中で失敗するだとか。
それで「レイン」と名付けただろうか、「あの有名なレインみたいに仲良くしたい」と。
(レインちゃんは上手くいってるよね?)
ちゃんと手乗りで、飼い主の指と一緒に写っているのがその証拠。お喋りもすると書かれている記事、新聞の中から声は聞こえて来なくても。レインちゃんの声はしなくても。
飼い主の人が願った通りに、ナキネズミのように育った青いセキセイインコ。名前はレイン。
(ナキネズミはもう、いないけど…)
本物のナキネズミは時の流れに消えてしまって、何処にもいない。前の自分たちが作った動物、それがナキネズミだったから。…自然に生まれた動物とは違うものだったから。
(繁殖力が衰えていって、消えちゃった…)
絶滅の危機に瀕していた時、人間は理由に気が付いていた。どうすれば絶滅を防げるかにも。
けれど滅びを止めるためには、遺伝子レベルでの操作が必要。元気な個体を交配したって、もう戻らない繁殖力。ただ衰えてゆくだけで。
それを無理やり元に戻すのは不自然だ、と判断したのがナキネズミを調べた研究者たち。人間が生命に手を加えることは許されない、と。
(ナキネズミはもう、必要の無い時代だったから…)
このまま見守るだけにしよう、と獣医も飼育係も思った。最後の一匹が消えて行っても、彼らが幸せならいいと。ナキネズミの役目はもう終わったから、と。
(最後のナキネズミも、きっと幸せ…)
人間と一緒に仲良く暮らして、思念波を使ってお喋りをして。我儘も言って。
もしかしたら最後にいたナキネズミは、自分を「人だ」と思い込んで生きていたかもしれない。他に仲間を知らないのならば、「ちょっと姿が違う人間」といった具合で。
そういう動物は多いらしいから。犬でも猫でも、鳥なんかでも。
(人が育てたら、自分も人だと思っちゃうんだよ)
鏡を覗いて自分の姿が映っていたって、「誰なの?」という顔をするペット。同じ種類の仲間に会っても、知らんぷり。なにしろ自分は「人間」なのだし、「こんな仲間は知らないよ」と。
(レインちゃんだって、そうかもね?)
生まれた時から人間と一緒で、手乗りだから。お喋りもするセキセイインコだから。
今の時代は幸せなレインたちがいる。ジョミーのペットだったレインよりも、ずっと。
青い地球の上で暮らすレインや、他の星で暮らしているレインやら。
新聞で出会ったセキセイインコのレインの他にも、きっと沢山。
犬やら猫やら、いろんな動物、色々な姿のレインが生きているのだろう。広い宇宙に何匹も。
なんと言っても、「レイン」は人気の名前だから。
人間の子供の名前はともかく、ペットの方では大人気。ジョミーと暮らしたレインのお蔭で。
この町だけでも何匹も暮らしていそうなレイン。ナキネズミのレインと同じ名前のペットたち。種類も様々だろうけれども、犬や猫よりセキセイインコがレインっぽいかな、と考えながら戻った二階の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
勉強机の前に座って、さっきの写真を思い浮かべる。青いセキセイインコのレイン。他の色々な動物よりも、ナキネズミに一番近そうな感じ。見た目だったら、リスの方が近いのだけれど。
(思念波じゃないけど、セキセイインコは喋るから…)
それに青くて、手乗りだから肩にも乗っかってくれる。本物のナキネズミがしていたように。
あの飼い主は上手に名前をつけたよね、と感心しきり。レインのように育てたかったか、羽根の色でレインに決めたのか。どちらにしたって、今では立派に「レインみたいなペット」。
同じ名前はペットの名前で人気だけれども、本物のレインを思わせるものは、そうそういないと思うから。喋って、肩にも乗っかってくれて、青い色を纏っているレイン。
セキセイインコのレインは上出来、と思ったけれど。とてもお似合いだと思うけれども。
(…インコじゃなくって、本物のレイン…)
本家本元のレインの方は、気の毒なことに名前を持っていなかった。青い毛皮のナキネズミは。
ずっとジョミーと暮らしていたのに、レインは名前を貰わないまま。
赤いナスカで、トォニィが生まれたその日まで。自分の名前を「お前」だと皆に名乗るまで。
(お前からトォニィにおめでとう、って…)
そう言ったのがナキネズミ。
SD体制が始まって以来、初めての自然出産で生まれたトォニィに。「おめでとう」と。
誰もがトォニィを、母のカリナを祝福するから、ナキネズミだってお祝いしたい。生まれて来た子に、父のユウイが「トォニィ」と名付けたばかりの子供にあげたい「おめでとう」の言葉。
だからナキネズミが紡いだ思念。「赤ちゃんトォニィ、おめでとう」と。
尻尾を振って、トォニィを祝福したナキネズミ。「お前からトォニィにおめでとう、言う」と、何処かおかしな言い回しで。
「お前とは誰のことだろう?」と誰もが思うし、トォニィの母のカリナも思った。
それでカリナが尋ねた名前。「あなた、名前、無いの?」と。まさか、とそれは不思議そうに。
そしたら答えが、「ぼく、名前、お前」。自分の名前は「お前」だと信じていたナキネズミ。
カリナが「それは名前じゃないわ」と言うまで。ジョミーに名前を確認するまで。
誰もが呆れた、名前が無かったナキネズミ。「そりゃ酷いな」と皆が失笑したという。ジョミーときたら、「名前…。つけていなかったっけ」と言ったものだから。
最初から名前が無かったのなら、「お前」にだってなるだろう。ナキネズミの名前。ジョミーも含めて皆が呼ぶのだし、「ぼくの名前は、「お前」なんだ」と。
(名前が無くって、「お前」だなんて…)
あんまりだよね、と可哀想すぎて溜息が出そう。自分の名前を「お前」だと思っていたレイン。十三年もジョミーの側にいたのに、名無しのままで暮らしたなんて。
(今日のペットのコーナーだって…)
セキセイインコのレインの他にも、色々な名前のペットたち。可愛い名前や、かっこいい名前。今のハーレイの母が飼っていた真っ白な猫にも、「ミーシャ」という名前があったのに。
ペットを飼うなら、名前は基本。一番最初に名付けるもの。
(誰かに貰って来たペットでも…)
子猫や子犬を貰って来たって、誰だって名前を付けたがる。「この子の名前は…」と飼っていた家での名前を聞いても、「こっちがいい」と新しい名前を付けるとか。
(イメージじゃないのって、あるもんね?)
こうです、と教えて貰っても。血統書には別の名前があっても、ピンと来ないなら新しい名前。これがいい、と思った名前をつけてやったら、ペットの方でも覚えるから。
(レインの時だって、そうだったのに…)
名前が無かったナキネズミ。それは考えがあったから。…前の自分に。
とうに見付けていたジョミー。青の間から思念で探る間に、「この子だ」と思った後継者。前の自分の命が尽きたら、代わりにミュウを導く子供。白いシャングリラに迎え入れて。
(…ジョミーほど強い子供なら…)
そう簡単にユニバーサルには発見されない。深層心理検査をしようが、ミュウとはバレない。
ただ、その分だけ、厄介なことも生まれるもの。
強すぎるジョミーは、まるで自覚が無いだろうから。「自分は変だ」と気付きもしないで、成人検査に臨む筈。其処で自分が妨害したって、やはり同じに気が付かないまま。異分子なことに。
ミュウの母船に迎え入れても、きっと「異分子」なのだろう。自分がミュウだと悟らないなら、白いシャングリラは箱舟どころか、ジョミーにとっては冷たい牢獄。
そうなるだろう、と前の自分は読んでいた。ジョミーをシャングリラに連れて来たって、きっと馴染みはしないだろうと。あまりにも「人類」に近すぎる子供なのだから。
(そうならないように、ナキネズミ…)
思念波を上手く操れない子供のためにと、白いシャングリラで作り出したのがナキネズミ。側にいるだけで思念を中継してくれるのだし、コミュニケーションの役に立つ、と。
それをジョミーに与えておいたら、その内に分かってくれる筈。シャングリラで暮らすミュウの思考も、ジョミー自身も「思念波を持ったミュウ」の一人であることも。
(ナキネズミを一匹、ジョミーのペットにしなくっちゃ、って…)
船に来たジョミーが孤立しないよう、最初からナキネズミを側に。自然な形で出会った後には、一緒に船に来るように。
そう計算して、地上に降ろしたナキネズミ。名前はあえてつけないままで。
ジョミーのペットになるのだから、と最初から名前は与えなかった。シャングリラで生まれて、すくすく育つ間にも。「この子には名前をつけないように」と、飼育係たちにも命じて。
(きっとジョミーが、素敵な名前をつけるだろうし…)
好みの名前もあるだろうから、名前をつけずにおいたのに。
最初から持っている名前があったら、ジョミーの方でも遠慮するだろうと考えた上で、名無しのままにしておいたのに。
(ジョミー、名前をつけるどころか…)
なんという名前か、尋ねることさえしなかった。
ドリームワールドにあった小さな檻から、自分が逃がしたナキネズミに。自分と一緒に小型艇に乗って、シャングリラまで来たナキネズミに。
ジョミーのことを恋しがるから、とリオが渡して、文字通り「ペット」になった後にも、一度も訊いたりしなかったジョミー。「お前、名前は?」と。後に「お前」になったレインに。
たった一言、質問したなら、「名前?」と首を傾げたろうに。まだ幼かったナキネズミは。
(ナキネズミ、けっこう長生きだから…)
身体は育って一人前でも、ジョミーのペットになった頃には中身は子供。
きっとその頃に尋ねられても、「ぼく、お前」と答えただろう。人類の世界でも、ナキネズミに名前は無かったから。誰も名付けはしなかったから。
ジョミーが「名前は?」と訊きさえしたなら、名前を貰えたナキネズミ。「ぼく、お前」という答えを聞いたら、ジョミーも笑っただろうから。「それは名前じゃないと思うよ」と。
ナキネズミの名前を尋ねなくても、「これでいいかな?」と名前の候補。ジョミーがつけたいと思う名前が、ナキネズミにも喜んで貰えるかどうか。
そんな具合に、名付けただろうと思っていた。ペットになったナキネズミに。
きっとシャングリラに来てから直ぐに。「家に帰せ」と直訴した挙句、船を出てゆくより前に。
(前のぼくでも、其処までは気が付かないよ…)
ジョミーには気を配っていたのだけれども、側に置かせた、あのナキネズミの名前にまでは。
成人検査を妨害した疲れで、殆ど眠っていたのだから。青の間のベッドに横たわって。
(…ジョミーが船から出て行った後は…)
生きて戻れはしないだろう、と覚悟して後を追い掛けた自分。アルテメシアの遥か上空まで。
ジョミーのお蔭で船に戻れても、それからはずっと臥せっていた。あの状態では、ナキネズミの名前のことまではとても…、と考えたけれど。
其処まで気を配る余裕など無いし、余力だって無いと思ったけれど。
(ジョミーが連れて来てたっけ…)
前の自分が暮らした青の間。ベッドから起き上がれないほどに弱っていた頃も、ジョミーが顔を出した時にはナキネズミが一緒。大抵の時は、肩に乗っかって。
そう、何回も連れて来ていた「お前」。レインではなかった、名前を持たないナキネズミ。
(いつも、「お前」って呼んでいたから…)
まるで不思議に思わなかった。名前があっても「お前」と呼ぶのは、誰にでもあることだから。
ペットでなくても、人間だって。
シャングリラで長く共に暮らした仲間たちだって、親しい仲なら「お前」と呼んでいたりする。友達の名前を口にするより、先に出てくるのが「お前」。「お前、食事は?」といった具合に。
前の自分も、仲間たちを「お前」と呼ぶことは無かったのだけど…。
(牛とかだったら、「お前」だもんね?)
元気かい、と声を掛けていたもの。白いシャングリラにいた動物たちに。もちろんナキネズミにだって。「お前の御主人は、今は何処だい?」と訊いたりもして。
前の自分でさえ、何処かでナキネズミにバッタリ会ったら、「お前」と呼ぶのが当たり前。船の子供たちの側にいるものも、農場でのんびりしているものも。
それでも彼らに名前はあったし、ジョミーが「お前」と呼んでいたって、それが名前だと気付くわけがない。未だに名前を貰っていなくて、自分の名前は「お前」だと思っていたなんて。
でも…。
(ぼくはちょっぴり…)
ほんの僅かしかジョミーと一緒に過ごしはしないで、深い眠りに就いてしまった。自分自身でも気付かないまま、何の前触れも無く。
アルテメシアを命からがら脱出してから、どのくらいで眠ってしまったろうか。あの状態では、ナキネズミの名前どころではない。周りの様子は何も分かっていなかったから。
(…前のハーレイが歌っていたのも、ただ聞いていたっていうだけで…)
歌声の主さえ知らずにいたのが「ゆりかごの歌」。トォニィのための、赤いナスカの子守歌。
今のハーレイがよく話題にする、三連恒星からの脱出劇さえ前の自分は全く知らない。人類軍の船に追われて、重力の干渉点から亜空間ジャンプで逃れたという、シャングリラの危機。
危うく宇宙の藻屑だった、と聞かされたって、「あの時かな?」と思いさえしない。深い眠りの底にいたから、船の揺れにも気付かないまま。
それほどの眠りの中にいたなら、もうナキネズミの姿は見えない。名前があろうと、名前無しで放っておいたジョミーが、赤いナスカで皆に笑われていようとも。
けれど、自分ではなくてハーレイならば。…キャプテン・ハーレイだったなら。
(ずっとジョミーを見てた筈だよ?)
前の自分が深く眠ってしまった後にも、キャプテンとして。
船を纏めるキャプテン・ハーレイ、前の自分が恋をした相手。誰よりも信頼していたハーレイ。恋は抜きでも、右腕として。
だからソルジャー候補になったジョミーを、何度もハーレイに会わせていた。いつかジョミーがソルジャーになれば、頼りになるのはキャプテンだから、と。
それにハーレイなら、ゼルのように頭から怒鳴りはしない。エラやヒルマンなら顔を顰めても、ハーレイは眉を寄せる程度で抑える。ブラウみたいに、歯に衣を着せない物言いもしない。
キャプテンは常に、冷静でないといけないから。船の仲間たちに信頼されてこそだから。
穏やかだったキャプテン・ハーレイ。長老たちほど厳しくはないし、感情的なことも言わない。其処まで見据えて、ジョミーに話した。「何かあったら、ハーレイに相談するといい」と。
前の自分が深い眠りに就いた後にも、ジョミーが相談していたハーレイ。人類に向けての思念波通信を思い立った時も、ジョミーはハーレイの所に出掛けた。何処よりも先に。
そう、ハーレイが唯一のジョミーの相談相手。…未来を占うフィシス以外では。
(フィシスもウッカリ者だけど…)
天体の間にもレインを連れて行っていたよね、と思うから。フィシスの前でも、ジョミーは肩に乗っけたナキネズミを「お前」と呼んだのだろうから。…名前ではなくて、「お前」とだけ。
フィシスも気付かないなんて、と溜息が零れてしまうけれども、ハーレイはもっとウッカリ者。何度となくジョミーの相談に乗って、ナキネズミにも出会っていた筈。
なのに名無しだと気付きもしないで、「お前」のままにしておいたなんて。白いシャングリラを纏め上げていたキャプテンのくせに、まるで知らずにいたなんて。
その内にこれでハーレイを苛めてやろう、と考えていたら、聞こえたチャイム。そのハーレイが仕事帰りに来てくれたから、もう早速に切り出した。テーブルを挟んで向かい合うなり。
「あのね、ハーレイ、レインの名前を知っている?」
「はあ? レインって…?」
どうかしたか、とハーレイは怪訝そうな顔。「ジョミーのペットのナキネズミだろう?」とも。
「そのレインだけど…。今はペットに人気でしょ。レインって名前をつけるのが」
今日はセキセイインコだったよ、新聞のペットの紹介コーナー。
青いヤツでね、おまけに手乗りで喋るんだって。…思念波ってわけじゃないけどね。
「ほほう…。上手いこと名付けたもんだな、似てるじゃないか。ナキネズミに」
あれも手乗りのようなモンだし、青くて喋る動物だから。鳥とは全く違うんだがな。
そういや、前のお前が青い毛皮のを選んだんだ、と懐かしそうな瞳のハーレイ。幸せの青い鳥の代わりに、青い毛皮のナキネズミだった、と。
「そうだよ、青い鳥を飼うのは無理だったから…。何の役にも立たないから、って」
だから青いのを選んだんだけど…。ナキネズミの血統を決める時にね。
それは抜きでも、セキセイインコのレイン、とってもいい感じでしょ?
犬とか猫をレインにするより、ずっと本物みたいだから。肩に乗っけて、お喋りが出来て。
ホントの会話は無理だけどね、とクスクス笑った。セキセイインコは覚えた言葉しか喋らない。それに言葉も理解しないし、ナキネズミのように意思の疎通は出来ないから。
「だけど、雰囲気はレインにピッタリ。青いセキセイインコだもの」
それでね、今はレインっていうのはペットに人気の名前だけれど…。
名前の由来に「恵みの雨の」ってくっついていたら、もう間違いなくナキネズミだけど…。
セキセイインコもそのレインだったけど、本物のレインは名無しだよね?
ずっと「お前」だと思ってたんでしょ、自分の名前。…トォニィが生まれて来るまでは。
とても有名な話だよね、と今のハーレイの顔を見詰めた。ナキネズミのレインが名前を持たずに過ごした話は、今の時代も広く知られているから。「レイン」の名前とセットになって。
「その通りだが…。ジョミーも間抜けなモンだよな」
十三年も一緒にいたのに、名前をつけずにいたなんて。…普通は名前をつけるモンだろ?
こいつの名前は何だっけか、と一度も思わなかったというのが凄すぎるぞ。大物だな。
あれくらいでなきゃ、地球まで行けるソルジャーは無理かもしれないが…、とハーレイの考えが他所に向くから、「ジョミーだけじゃないよ」と引き戻した。元の話に。
「ジョミーだけなら、大物なのかもしれないけれど…。間抜けだったの、ハーレイもだよ」
何度も相談に乗っていたでしょ、ジョミーのね。思念波通信の時もそうだし、他にも色々。
ジョミーがハーレイの所に来たなら、レインも一緒にいた筈だけど?
そしたら気付くと思うんだけど…。「もしかしたら、名前が無いんじゃないか?」って。
「…ジョミーのお供か…。くっついていたな、確かにな」
ブリッジに顔を出さなくなった頃にも、俺の部屋には来たりしていた。…たまにだがな。
いつもレインを連れて来ていたが、「お前」と呼んでいたもんだから…。
全く変だと思わなかったな、「お前は其処で待っていろ」といった具合で、自然だったから。
誰だって「お前」と呼んだりするだろ、親しい友達だったりしたら。
前の俺だって、お前がソルジャーになる前は「お前」だったからな、と言われれば、そう。
ソルジャーの肩書きがついた途端に、「あなた」に変わったのだった。ソルジャーと話す時には敬語で、とエラが徹底させたから。
キャプテンは船の仲間の模範になるべき立場なのだし、ハーレイは綺麗に変えてしまった。常に敬語で話さなくては、と「お前」を封印してしまって。
そうだったっけ、と懐かしく思い出したこと。「前のぼくも「お前」だったんだよ」と。自分の名前だとは思っていなかったけれど、あの呼び方が好きだった。「あなた」よりも、ずっと。
(だけど、元には戻せなくって…)
恋人同士になった後にも、「お前」は戻って来なかった。ハーレイはいつも敬語で話し続けて、「お前」ではなくて「あなた」のまま。…今は「お前」と呼んでくれるけれど。
そういう優しい「お前」があるから、ハーレイも気付かなかったのだろう。ナキネズミが名前を持っていなくて、「お前」とだけ呼ばれていたことに。
そうは言っても、無かった名前。前のハーレイが呼ぼうとしても、名前は無かったのだから…。
「ハーレイ、レインだけに会ったことはないの?」
ジョミーと一緒じゃないレイン。…そういうレインには会っていないの、一回も…?
「いや、何回も会ってるが?」
レインだって、いつもジョミーと一緒じゃなかったからな。離れていることもよくあった。
ずっと後にはそれが災いして、トォニィたちに捕まったりもしていたが…。尻尾を掴んで逆さに吊られて、オモチャ代わりにされたりな。
そうなるまでにも、よく一匹で歩いていたぞ。シャングリラの中を、好き勝手に。
視察中の俺と何度も出くわしたな、とハーレイが言うから、訊いてみた。
「その時、なんて呼んでいたわけ?」
無視して通るわけがないでしょ、ジョミーのペットなんだから。…なんて呼んだの?
「呼ぶと言うより、声を掛けるといったトコだな。「お前、一人か?」とか、そんな調子で」
一匹で歩いているわけなんだし、ジョミーの方は何処へ行ったかと思うじゃないか。
ジョミーの様子を尋ねがてらという感じだな、と返った答え。ナキネズミだけに出会った時の、前のハーレイの呼び掛け方。
「…ハーレイも「お前」だったんだね?」
前のぼくがソルジャーになる前は、ぼくのことも「お前」だったから…。それとおんなじ。
ナキネズミに会っても「お前」だったら、ジョミーと少しも変わらないよね…。
「そのようだ。…俺も一役買っちまってたか」
あいつが自分を「お前」だと思い込むまでに。…俺だって名前を呼んでないしな。
ジョミーが「レイン」と名付けた後には、そっちで呼ぶこともあったんだが…。
俺も犯人の一人だったか、とハーレイが苦笑する「お前」。ナキネズミが名前だと思ったもの。皆が「お前」と呼び掛けるから、それが自分の名前なのだと。
「…フィシスはどうかな、「お前」じゃないよね?」
ハーレイが「お前」って呼んでいたのは分かるけれども、フィシスはどうだろ…?
お前って呼ぶかな、いくら相手がナキネズミでも…?
どうだったかな、と遠い記憶を手繰ってみる。幼かったフィシスを農場などに連れて行った時、なんと呼び掛けていただろう。其処にいた牛や鶏たちに…?
「フィシスだったら、「あなた」だろうな」
ナキネズミに敬語は使わなくても、その部分は俺と同じだろうさ。「お前」なんていう呼び方はせずに、丁寧に「あなた」と呼んだと思うぞ。
俺は現場を見てはいないが、目に見えるような光景じゃないか。そう思わんか…?
フィシスなんだぞ、と言われたら納得出来た。幼かったフィシスも、牛や鶏たちを「あなた」と呼んでいたから。見えない瞳で覗き込んでは、「あなた、牛さんね?」と身体を撫でたりして。
「そうだね、フィシスは「あなた」だね…。牛たちをそう呼んでたよ。小さかった頃に」
大きくなっても同じだろうし、ナキネズミにも、きっと「あなた」だよね。
それで余計に、名前が「お前」になっちゃった…?
ハーレイやジョミーに呼ばれる時には「お前」だけれども、フィシスは「あなた」なんだから。
「あなた」は「お前」と全然違うし、そっちは自分の名前じゃないよ、って…。
余計に間違えちゃったのかな、とナキネズミの気持ちを考えてみる。「お前」と呼ぶ人が何人もいる中、「あなた」と呼ぶ人もいるのだったら、「お前」が名前だと思うだろうか、と。
「そいつは大いに有り得るなあ…。名前じゃないのに、そうだと思い込んじまうこと」
船のヤツらが呼び掛ける時は、誰もが「お前」か「あなた」だろうし…。
それに「お前」の方が遥かに多かっただろう。「あなた」と呼んでた人間よりも。
男だったら、前のお前も含めて、みんな「お前」と呼んだだろうしな?
「あなた」なんぞは、女性陣しか使いそうにない呼び名なんだが…。生憎と、その女性がだ…。
ブラウなんかを想像してみろ、あいつが「あなた」と呼ぶと思うか、ナキネズミを?
「…ブラウも、絶対、「お前」だよね…」
お前って呼ぶよ、見掛けた時は。でなきゃ「あんた」で、「あなた」じゃないよね…。
白いシャングリラの仲間たち。彼らがナキネズミをなんと呼んだのか、考えるほどに「お前」が名前でも、おかしくないから酷すぎる。一番酷いのは、名付けなかったジョミーだけれど。
「…ナキネズミの名前、「お前」なんだって間違えていても、仕方ないけど…」
それで少しもおかしくないけど、ジョミー、ホントに酷いよね。名前をつけなかっただなんて。
あんまりだってば、十三年も「お前」で放っておくなんて…。名前を訊いてあげもしないで。
それにレインってつけた名前も、よく考えてつけたんだったらいいけれど…。
思い付きでしょ、レインっていうの。たまたま雨が降っていたから、恵みの雨のレイン、って。
「そうなるんだが…。その場で慌てて考えたんだが、その雨、馬鹿にしたモンでもないぞ」
まさに恵みの雨だったんだ。ナキネズミに名前をつけた時には、まだ降り始めたばかりでな…。
それから後に、ゼルとエラが目撃しちまった。一瞬の内に現れた花園というヤツを。
あのナスカでだ、とハーレイが語った花園。
雨が降る中、シャングリラに戻ろうとシャトルに向かったゼルとエラ。途中で止まって、ゼルは降る雨を体験してみた。シールドを解いて。
そして滑って転んだ話は聞いている。服は泥だらけになったけれども、楽しそうだったとエラが話していたと。エラも一緒にシールドを解いて、雨の中に立ってみたのだとも。
そうする内に上がった雨。二人は其処で花園を見た。何も生えてはいなかった場所に、幾つもの芽が顔を出すのを。見る間に育って、鮮やかな緑の花園が出来上がるのを。
「花園…。雨が止んだら、そんなのが…?」
凄い速さで育ったっていうの、何も無かった場所の土から…?
「ああ。俺も後で見て驚いたが…。いつの間にこんな緑が、と」
砂漠に現れる花園と同じ仕組みだな。雨で芽吹いた種たちだ。
いつか降る雨をじっと待ち続けて、降った途端に一気に芽吹く。砂漠の花園、そうだろうが。
「地球の砂漠はそうらしいけど…。ナスカにもそういう仕掛けがあったの?」
「仕掛けなんかは無いと思うぞ、少なくともミュウの仕業じゃない。誰も植えてはいないから」
あそこは人類が放棄した植民惑星だ。人類が植えて、そのまま撤退したのが芽吹いたんだろう。
もう緑なんか育ちやしない、と捨てて行った星の土からな。
何十年ぶりだか、もっとなんだか…。あの花たちが芽を出せるだけの纏まった雨が降ったんだ。
それで花園が出来たわけだな、みるみる内に。
そりゃあ立派な花園だった、と今のハーレイも覚えている花園。赤いナスカの土から芽吹いた、雨を待ち続けていた古い種たち。人類が其処を離れた時から、見る者は誰も無かった花園。
「そっか…。それじゃホントに恵みの雨だね」
ジョミーが苦し紛れに言ったとしたって、ちゃんと花園が出来ちゃった…。恵みの雨で。
「うむ。ソルジャーの伝説がまた増える、とエラも言っていたから、そうなんだろうな」
トォニィが生まれた途端に雨で、花園が出来たわけだから。…伝説にもなるさ、ソルジャーの。
しかしゼルには辛かったらしい。ジョミーの伝説が増えてゆくほど、地球が遠のいちまうから。
皆がナスカにしがみついて…、とハーレイは溜息をつくけれど。
「ううん、雨って凄いと思うよ。それに恵みの雨が降ってくるナスカもね」
前のぼくは思いもしなかったもの…。ミュウのために星を手に入れるなんて。
雨が降る地面は欲しかったけれど、ミュウだけのための星があったら出来たことだよ。その星に降りて暮らし始めたら、いくらでも雨は降るんだから。
どうして思い付かなかったんだろう、と頭を振った。ジョミーは思い付いたのに、と。
「それはお前がミュウの未来にこだわったからだ。…シャングリラの仲間だけじゃなくてな」
アルテメシアを離れちまったら、もうミュウの子供は救出できない。
そうでなくても、前のお前は気にしてた。他の星にもミュウの子供がいるだろうに、と。
人類のいない星に行くなど、ミュウの未来を見捨てて行くのと同じだろうが。
シャングリラの仲間たちは良くても、それから後に生まれて来るミュウの子供たち。誰も助けてくれはしなくて、死んじまうしかないんだから。
「…そのせいなのかな、一度も思い付かなかったの…」
地球に行くことしか考えてなくて、雨を見るなら地球で見るんだ、と思ってたのも。
前のぼくは地球の雨を見たかったよ、青い空から降ってくるのを。
みんなにも見せてあげたかったけれど、ジョミーがみんなに見せちゃったね。赤いナスカで。
それも奇跡の花園付きで…、と思い浮かべたナスカの花園。どんなに鮮やかだったろう、と。
どれほど皆が惹かれただろうと、本当に恵みの雨だったのだ、と。レインの名前の由来の雨は。
「まあな…。ジョミーは恵みの雨を見せたな、船の中しか知らなかったヤツらに」
それで余計に、ナスカを離れたがらない連中が増えてしまったが…。
撤退命令に従わなかった連中のせいで、前のお前まで失くしてしまうことになったんだがな…。
メギドの攻撃を食らった後まで残りやがって…、とハーレイが眉間に寄せた皺。恵みの雨が降る星に必死にしがみついた挙句に、幾つ命を無駄にしたんだ、と。
地獄の劫火を受けた後には、星は滅びるしかないというのに。その現実さえ見えないくらいに、あの雨は皆を惹き付けたのか…、と。
「恵みの雨も善し悪しだ。いい方に転べば花園が出来るが、裏目に出たなら滅びるってな」
そういや、メギド…。あれは徹底的に破壊兵器だな、間違いなく。…恵みの雨どころか。
焼いて滅ぼすだけの兵器だ、と急に話を変えたハーレイ。雨から地獄の劫火の方へ。
「ハーレイ、いきなりどうしたの?」
恵みの雨が降っちゃったせいで、ナスカを離れない仲間がいたのは分かるけど…。メギドが惑星破壊兵器なのは、誰が見たって間違いないよ。わざわざ今頃、言わなくたって。
「そうでもないぞ。…お前、アルタミラで雨を見てたか?」
炎の地獄の中にいた時だ、俺と一緒に走っていた時。お前、雨粒を目にしてたのか…?
「雨って…。そんなの見てないよ?」
稲光は見たのを思い出したけど、雨なんて…。降っていたっけ?
覚えてないよ、とキョトンとした。燃えるアルタミラに、空から雨は降っただろうか…?
「いいや、一粒も降ってはいない。ナスカでも雨は降ってないんだ、稲光だけで」
其処がメギドの破壊兵器たる所以だな。あれだけ燃えても、雨は一粒も無しってトコが。
「…どういうこと?」
燃えるのと雨が関係あるわけ、燃えたら雨が降ってくるわけ…?
雨なんか降って来ないでしょ、と傾げた首。炎の地獄と恵みの雨は、正反対のものなのだから。
「それがそうでもないってな。…山火事の時には雨が降るんだ、昔からよく知られてた」
山火事の激しい炎と煙で、雲が出来ると言われてる。モクモクと空に湧き上がってな。
火山が爆発した時にだって、雲が出来たりするんだが…。
そういう雲を火災積雲、雷がゴロゴロ鳴り出す雲なら、火災積乱雲と呼ぶ。
デカイ雲だから、そいつが出来たら雨が降り出すことがあって、だ…。
火が消えちまうこともあるんだ、なんたって凄い雨が降るから。
もう文字通りに叩き付けるような激しい雨だし、どんな火だって水には勝てやしないだろうが。
人間が地球しか知らなかった頃から、火災積雲は知られていたという。雷を伴う火災積乱雲も。
けれど星を滅ぼすメギドの炎は、大規模な火災積乱雲を生み出しただけ。
空を覆った炎の色の雲は、ただ雷鳴を轟かせるだけで、雨を降らせはしなかった。たった一粒の雨粒さえも、地上に落としはしなかった雲。あれだけの雲が湧いていたのに、降らなかった雨。
「多分、其処まで計算済みの兵器だったんだ。…メギドってヤツは」
絶対に雨を降らせないよう、計算ずくで星を焼くんだな。雨が降ったら火が消えるから。
元は惑星改造用のシステムだったのを、国家騎士団が破壊兵器に転用したって話だが…。
どうやら本当らしいな、うん。あれだけ燃やして雷が鳴っても、雨は無しなら。
普通だったら雨になるから、とハーレイが言うメギドの炎が生み出した雲。空を切り裂く稲光は確かに見たのだけれども、雨は降ってはいなかった。アルタミラの炎の地獄では。
「…アルタミラで雨…。もしも降っていたら、恵みの雨に見えたかな?」
花園なんかは出来なくっても、空から雨が降って来てたら。
「そりゃそうだろう。降れば少しでも火が消えるからな、地面の熱もマシになるんだし…」
星の滅びは止められなくても、救われた気分にはなっただろうさ。少しだけでも。
しかし、恵みの雨は無かった。メギドってヤツが、そういう風に出来ていたせいで。
「メギド…。あんなの、なんで作ったんだろうね?」
惑星改造用だったんなら、テラフォーミングの道具だろうに…。星を滅ぼしてどうするの?
何の役にも立たないじゃない、と零れた溜息。砕けた星は、元には戻せないのだから。
「さあな? いったい、何だったんだか…」
今となっては謎だらけだが、あんなものは二度と作られやしない。作るヤツらもいないから。
「要らないよね、今の時代には。…メギドなんかは」
ナキネズミだって、いないくらいの時代だもの。
本物のナキネズミは何処を探しても、もう一匹もいないんだもの…。
「不自然なものは必要ない、っていうのが今の時代だからな」
ナキネズミがどんなに可愛らしくても、ペットとしては優れものでも、もう作らない。
それと同じで自然に手だって加えやしないし、メギドも作られないわけだ。
ナキネズミとメギドじゃ違いすぎるし、ナキネズミのレインは恵みの雨って名前でだ…。
メギドの炎が作った雲だと、恵みの雨さえ降らないんだがな。
今の時代はセキセイインコのレインくらいで丁度いいんだ、とハーレイが微笑む。
同じレインという名前でも、自然に生まれて来た生き物。青い羽根を持った。
思念波でお喋りは出来ないレインで、肩に乗って好きに喋るだけ。自分が覚えた言葉だけを。
そういうレインがお似合いの今。青い毛皮を持ったナキネズミは、もう生まれなくて。
今は平和で、青い地球まで宇宙に戻った時代だから。
誰もが自然を愛しているから、不自然に手は加えないから。
メギドが生み出す火災積雲、そんなものは無くて自然の積雲。ムクムクと空に湧き上がる雲。
それが生まれて雨が降るのが、今の地球。宇宙に散らばる他の星でも。
恵みの雨が何処の星にも降り注ぐのが、平和になった今の宇宙。
レインの名前と同じ雨たちが、奇跡の花園を乾いた砂漠に生み出したりもする恵みの雨が…。
恵みの雨・了
※ジョミーが名前を付けないままで、十三年も放っていたナキネズミ。恵みの雨のレイン。
けれど名前が無かった理由は、今から思えば、そう不自然でもないのです。呼ぶ機会がゼロ。
(昔の地球…)
ふうん、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
子供向けに書かれた本の広告、「昔の地球」というタイトルの本。小さかった頃に自分も読んでいた本で、中身のことを覚えている。流石に今は部屋の本棚には無いけれど。子供向けだから。
ずっと昔の地球の様子が描かれた本。一度滅びてしまう前の。
(生き物は何もいなかった地球に、植物が生まれて、恐竜とかの時代が来て…)
彼らの時代が終わった後には人間の時代。サルから進化した人間。
二足歩行をするようになって、進化を遂げたら人間になって、文化を築いてゆくけれど。地球のあちこち、様々な文明が生まれて栄えていったのだけれど。
(やり過ぎちゃって…)
滅びてしまった、青い地球。昔の人間たちが気付いた時には、やり直すにはもう遅すぎた。
人間は地球を離れるしかなくて、SD体制の時代に入る。完全な管理出産の時代、子供も機械が人工子宮で育てる時代に。
それでも元に戻らなかった地球。人間そのものを機械に委ねて、コントロールしようと頑張ってみても。人間の欲望を抑え込んでも。
遠い昔の反省をこめて、今は色々な制限がある。自然に手を加える時は。
地球だけではなくて、何処の星でも。テラフォーミングして作った自然を壊さないように。
(…滅びちゃった地球は、壊れないと蘇らなかったほどだから…)
厳しい制限付きになるのも当然だろう。人間が好き勝手をしないようにと。
SD体制が崩壊した後、ミュウと人類とで決めた規則がその始まり。いつか蘇るだろう、母なる地球にも当てはめるために。
予兆は見えていたらしいから。…激しい地殻変動が収まった後には、きっと、と。
当時の学者たちが思った通りに、青い地球は宇宙に帰って来た。気が遠くなるほどの長い歳月をかけて、あらゆる毒素を洗い流して。
海も大陸もすっかり違う形に変わったけれども、青い水の星に戻った地球。植物の時代や恐竜の時代は全部飛ばして、最先端のテラフォーミングの技術を生かして。
最初から人間が住める星として、ただし多くの制限付きで整備されたのが今の地球。
SD体制に入る前の時代の人間たちは、「この方法で地球は蘇るだろう」と考えたけれど。青い地球が戻ってくるのだと信じていたから、全てを機械に委ねたけれど。
地球を離れて広い宇宙に散った彼らが思った以上に、困難だった地球の再生。
(グランド・マザーが六百年かけても…)
少しも進まなかったらしい、死に絶えた地球を元の姿に戻すこと。
白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星のままだった。汚染された海と、砂漠化した大地。その上、朽ち果てたままで打ち捨てられた高層建築の群れ。
(ユグドラシルのこと、ゼルが毒キノコって…)
揶揄したくらいに、何処も癒えてはいなかった地球。緑の欠片も見当たらなくて。
それを思えば、SD体制の終わりと同時に燃え上がった後は早かった。みるみる形を変えてゆく陸地、蒸発して雨に姿を変えては降り注ぐ海にあった水。
落ち着くまでには長い長い時が流れたとはいえ、グランド・マザーに任せておくよりは…。
(ずっと早くて、自然だったよね?)
地球を再生させること。
機械は介在していなかったし、何もかも地球が持っていた力。火山の噴火も地殻変動も、何度も降り注いだ雨も。
そうやって青さを取り戻した地球に、今の自分は生まれて来られた。
前の自分が焦がれ続けて、ついに見られずに終わった地球。最後まで見たいと願った星。宇宙の何処かにあると信じた青い地球。死の星だとは夢にも思わないままで。
(だけど、本物の青い地球だよ)
まだ宇宙からは見ていないけれども、正真正銘、本物の地球。今の自分は地球生まれの子。
この星の上で、ハーレイと一緒に暮らしてゆける。今は別々の家だけれども、いつか結婚したら同じ家で暮らす。前の自分たちが何度も夢見た、「青い地球の上にある家」で。
しかも地球生まれの今の自分には…。
(ちゃんと本物のパパとママ…)
血の繋がった両親がいて、トォニィと同じ自然出産児。今は当たり前のことだけれども、誰もがそういう子供だけれど。…人工子宮も管理出産も、とうの昔に無くなったから。
本物の家族しかいない時代で、子供は誰でも母親から生まれて来るものだから。
そういったことを考えてゆけば、生まれ変わって来た今の自分は…。
(前のぼくより、うんと幸せ…)
なんて幸せなんだろう、と戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、母に「御馳走様」と返して。
勉強机の前に座って、さっきの続きを考えてみる。今の地球や昔の地球のこと。
(前のぼくだって、青い地球のことを夢見てたけど…)
シャングリラで様々な本を読んでは憧れたけれど、前の自分が夢見たよりも、遥かに素晴らしい地球に来られた。生まれ変わって、時を飛び越えて。
今では人間は誰もがミュウだし、平和で穏やかになった宇宙。戦争も武器も何処にも無い。SD体制の影も形も無い世界。マザー・システムも、グランド・マザーも、何一つとして。
何もかもが遠い昔の通りで、まるで大昔の地球のよう。便利になってはいるけれど。人間は広い宇宙に散らばり、宇宙船も飛んでいるのだけれど。
(前のぼくの夢だと…)
いくら青い地球の夢を描いても、SD体制の時代の影を引き摺っていた。どうしても消すことが出来なかったもの。
そういう時代に生まれたせいで。…自分の生まれがそうだったせいで。
本物の両親などはいないし、養父母に育てられただけ。人工子宮から生まれた子供は、そうして育つものだから。おまけに失くした、幸せな子供時代の記憶。成人検査と、その後に繰り返された過酷な人体実験のせいで。
それが寂しくて、たまに思った。こんな時代でなかったら、と。
(ずっと昔の、大昔の地球に生まれていたら、って…)
夢を見たのが前の自分。白いシャングリラでソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。
SD体制の時代ではなくて、もっと前の時代に生まれたかった。人間が地球で生きた時代に。
たとえ火を絶やせない洞窟で暮らして、狩りをしながら生きる世界でも。木の実を集めて食べる時代で、飢えや寒さと背中合わせでも。
家などは無い時代でもいい、洞窟が家の時代でいい。本物の家族の中に生まれて、地球の自然に囲まれて暮らしてゆけたなら、と。
前の自分が描いた夢。大昔の地球で生きること。洞窟暮らしの日々でいいから。
(あの話、前のハーレイにする度に…)
いつも可笑しそうに笑われていた。「ご自分で狩りをなさるのですか?」と。サイオンも無しでそれは無理だと。
洞窟で暮らして狩りをした時代は、武器と言ってもせいぜい石器。それを頼りに、様々な動物を追い掛けて狩る。時には獰猛な動物と戦う時だって。
サイオンも持たない「ただの人間」なら、細っこくて華奢な身体しか持たないのが自分。いくら頑張っても狩りなどは無理で、襲い掛かってくる動物から走って逃げるのも無理。
(それに、生きられないでしょう、って…)
前のハーレイはそう言った。洞窟で暮らす一家の中に、前の自分が生まれたら。
生まれた時から弱すぎる子供、それに恐らくはアルビノの子供。前の自分は成人検査が引き金になってアルビノに変化したのだけれども、前のハーレイが知るのはその姿だけ。
「本当のぼくは、こうだったよ」と金髪と水色の瞳の姿の記憶を見せても、「そうでしたね」と笑ったハーレイ。「けれども、仮の姿でしょう?」と。
前のハーレイと出会った時には、とうにアルビノだったから。アルビノとして生きた歳月の方が遥かに長くて、自分でもそのつもりだったから。
「今の姿が本物のあなたの姿ですよ」というのが前のハーレイの持論。ミュウになったら色素が抜けたし、それが本当の姿だろうと。それまでの姿は仮の姿で。
(最初からアルビノの子供だったら…)
普通の子供よりも遥かに弱いし、幼い間に死んでしまって、育つのは無理だと何度も言われた。
「ずっと昔に生まれたかったよ」と口にする度に、「狩りは出来ないでしょう?」という言葉と併せて。「とても無理です」と、「あなたは生きてゆけませんよ」と。
それでもいいから、と言い募ったのが前の自分。
短い寿命で終わったとしても、幼い間に死んでしまってもかまわない。運よく育っても、狩りが出来ずに肩身が狭くてもいいから、と。「狩りが無理なら、木の実を集めて頑張るから」と。
どんなに苦労をしてもいいから、地球に生まれてみたかった、とハーレイに夢を語っていた。
ずっと昔の地球に生まれて、家などは無しで洞窟でも。狩りをしないと飢える暮らしで、地球の気まぐれな天候のせいで、寒さに震える厳しい冬があったとしても。
そういう夢を見てたんだっけ、と思い出した。白いシャングリラで前の自分が。
遠い昔の地球でいいから、其処に生まれて生きること。洞窟で暮らす時代でいいから。
(…ホントに地球に生まれちゃったよ…)
前のぼくの夢が叶っちゃった、と見回した部屋。洞窟ではなくて、今の自分のためにある部屋。夢に見たより、ずっと素敵な世界に来ていた。本物の家族がいる地球に。
弱く生まれたアルビノの子供でもちゃんと育って、ハーレイまでがついて来た。前の自分が恋をした人。いつまでも共に、と誓い合った人。
(前のぼくの夢、そんなのまで叶っちゃったんだ…)
地球に生まれたかった夢とは別に、「ハーレイと行きたかった」地球。白いシャングリラで辿り着いたら、あれをしようと、これもしようと幾つもの夢を描いた星。
そのハーレイと二人で地球に生まれて、とても幸せに生きている今。
洞窟に住んで狩りをする時代じゃないけどね、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、大発見を話すことにした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの夢、叶っていたよ」
叶うわけがないと思っていたけど、とっくに叶っていたみたい。ぼくは気付いてなかったけど。
本当に凄い夢なんだよ、と頬を紅潮させたら、「今度は何だ?」と尋ねたハーレイ。
「お前の夢は幾つも叶っているわけなんだが、いったい何が叶っていたんだ?」
「前のハーレイに笑われてたヤツ…。それは無理です、って」
いつ話しても言われちゃったんだよ、前のぼくの夢。…昔の地球に生まれたかったよ、って。
洞窟で暮らす時代でいいから、地球に生まれたかったんだけど…。
大昔だったら人間は地球に生まれるものだし、家族だって本当に本物の家族。成人検査で別れてしまう家族じゃなくって、お父さんもお母さんも本物で…。
そういう時代に生まれたかった、って話をしてたの、覚えてる?
家なんかは無くて洞窟暮らしで、狩りをして獲物を捕まえる時代でかまわないから、って。
「あれか…。あったっけな、前のお前の夢」
サイオンも無しじゃ獲物はとても捕まえられんぞ、と思ったもんだ。お前、身体が弱いから。
おまけにアルビノに生まれて来たんじゃ、育つだけでも難しそうだし…。
いったい何を言い出すんだか、と前の俺は呆れてたんだがなあ…。
聞かされる度に無理だと笑っていたんだが…、とハーレイは少し困り顔。「俺の負けだ」と。
「前のお前の夢、叶っちまったな。お前は地球に生まれちまった」
昔じゃなくて未来の地球だが、本物の家族も揃っていると来たもんだ。前のお前の夢を聞く度、無茶なことを言うと思ってたのに…。
とびきりの夢が叶ったんだな、とハーレイも思い出してくれた夢。白いシャングリラで、何度も語って聞かせていた夢。「ぼくの夢だよ」と。
「ね、凄いでしょ? 前のぼくの夢、本当に叶っていたんだよ」
洞窟で暮らす世界じゃなくって、普通の家に住んでるけど…。ぼくの部屋までくっついてる家。
狩りをしなくても暮らせる時代で、木の実を集めて蓄えなくてもいいけれど…。
お蔭で、ちゃんと育ったよ。生まれた時からアルビノのぼくでも。
前のハーレイが言ってた通りに、本当のぼくは最初からアルビノみたいだけれど…。
身体は弱いままだけれども、今だから育って来られたよ、と自慢した自分の細っこい手足。前と同じに弱い身体でも、今の時代だから此処まで大きくなれたんだよ、と。
「そのようだな。しょっちゅう寝込むようなチビでも、元気ではある」
大きな病気はしてないそうだし、注射嫌いでも今の時代なら安心だ。怖い伝染病も無いしな。
前のお前の夢が叶って良かったじゃないか、と微笑むハーレイの言葉で、ふと思ったこと。前の自分の夢は未来で叶ったけれども、過去の方ならどうだったろう、と。
「えっとね…。ぼくたち、未来に来ちゃったけれど…」
前のぼくの夢は、こんな未来で叶ったけれども、過去の方だったら、ハーレイ、どうする?
夢が叶うの、未来の代わりに過去だったなら…、と問い掛けた。
「過去だって?」
なんだそれは、とハーレイが怪訝そうな顔をするから、「過去だってば」と繰り返した。
「過去は過去だよ、前のぼくの夢が叶う場所だよ」
前のぼくの夢はこれなんだから、って神様が昔の地球に連れて行ってくれてたら…。
夢が叶う場所が此処じゃなくって、ずっと昔の地球の方なら、色々と変わって来ちゃうでしょ?
そしたらハーレイはどうするの、と鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
夢が叶って二人一緒に地球の上でも、大昔の地球の上だったなら…、と。
どうなると思う、とハーレイにぶつけてみた質問。二人で生まれ変わって来たのが、今とは違う遠い昔の地球だったなら、と。
「おいおいおい…。二人揃って大昔の地球って…。前のお前が言ってた夢か?」
洞窟で暮らして狩りをする時代に生まれていたら、ということなのか?
俺もお前も、そういう時代にいるってことか、とハーレイは驚いているけれど。あまりに時代が違いすぎるから、ピンと来ていないようだけれども…。
「そうだよ、うんと昔だってば。人間が洞窟に住んでいたような」
大昔の地球でも、神様が連れて行ってくれるんなら、ぼくも育つと思うんだけど…。
アルビノの子供に生まれていたって、神様が守ってくれそうだから…。
だってハーレイと二人だしね、と瞳を輝かせた。ハーレイに会うには、今と同じ姿に育たないと駄目だと思うから。…洞窟生まれの弱いアルビノの子でも。
「うーむ…。お前はきちんと育ってゆくかもしれないが…」
どうなんだかなあ、と腕組みしたハーレイ。「それでもお前と出会えるんだろうか」と。大昔の地球に生まれ変わっても、今のように巡り会えるだろうか、と。
「会えると思うよ、ぼくには聖痕があるんだから」
神様がくれた聖痕があるから、大丈夫。…今と同じで思い出せるよ、ハーレイもぼくも。
前のぼくたちはホントは誰だったのか、誰のことが好きで、どう生きたのか。
アッと言う間に思い出せるし、きっと会えるよ。ぼくに聖痕が現れたら。
もしかしたら、最初から同じ洞窟に住んでいるのかも…。あの時代は人間が少ないものね。
何も知らずに焚火を囲んで、話しているかもしれないよ。ぼくに聖痕が出るまでは。
聖痕が出たら、お互いのことを思い出すんだよ、と夢見心地で言ったのだけれど。大昔の地球で出会っていたなら、きっとそうだと考えたけれど…。
「洞窟で暮らして、動物の毛皮を着ているような時代に聖痕なあ…」
お前の身体中から血が噴き出すわけだな、いきなり何の前触れもなく…?
本当に怪我したわけじゃないから、大昔でも死んじまうことはないんだろうが…。
病院に運んで手当てしなくても、お前の意識が戻りさえすれば、もう心配は要らんだろうが…。
その聖痕が問題だよなあ、洞窟暮らしの時代なら。
聖痕なんて言葉も無ければ、聖痕の元になった傷を負った神様も生まれていないわけで…。
こいつは色々と難しいぞ、とハーレイが眉間に寄せた皺。「今のようにはいかないだろう」と。
「お前の聖痕で出会えたとしても、其処から後の俺たちが大いに問題だ」
周りの連中から孤立しちまうだろうな、あらゆる意味で。…それまでは普通に暮らしていても。
俺もお前も、前の俺たちの記憶が戻った途端に、中身は未来の人間だから。
考え方からして、他の連中とは違ったものになるんだろう。記憶が戻ってしまったら。
元のようにはいかないぞ、とハーレイが指摘する仲間たちとの関係。家族はともかく、同じ洞窟暮らしの仲間とは距離が出来るかもしれないな、と。
「それって、大変…?」
ぼくもハーレイも周りに溶け込めなくって、困るって言うの?
頑張ってみんなに合わせてみたって、中身が違ってしまっているから…。一緒に何かをしようとしたって、前のようにはいかないだとか…?
前のぼくの記憶が、それまでのぼくを変えちゃって…、と曇らせた顔。今の自分はストンと今の器に落ち着いたけれど、それは未来の世界だから。ソルジャー・ブルーを知らない人など、一人もいない今の世界。前の自分が生きた時代の遥か未来でも、続きは続き。同じ世界の。
けれど、大昔の地球だと違う。前の自分とは何も繋がらない、遥かな昔で目覚めるだけ。此処は何処かと見回してみても、ハーレイだけしか前と同じものは見付からないのだから。
(ちょっぴり困っちゃうかもね…)
いくら前のぼくの夢が叶う世界でも、大昔の地球だとビックリするかも、と瞬かせた瞳。恋人の他には何一つとして、馴染みのものなど無いとなったら。
それでも頑張ればなんとかなるよ、と前向きに考えようとしていたのに…。
「お前、生贄にされかねないぞ。聖痕が出たら」
とんでもない言葉をハーレイが言うから、「えーっ!?」と喉から飛び出した悲鳴。
せっかく神様がくれた聖痕、それのお蔭でハーレイとまた巡り会えたのに、生贄だなんて。
今の自分たちのような日々を送る代わりに、生贄にされてしまうだなんて。
「なんで生贄なの、どうしてぼくが殺されなくっちゃいけないの…?」
聖痕は神様がくれたものだし、それが出ないとハーレイに会えない筈なのに…。
ハーレイに会えたと思った途端に、ぼくは生贄にされてしまうわけ?
そんなの酷いよ、殺されちゃったら、ハーレイに出会えた意味が無くなってしまうじゃない…!
生贄だなんて、と抗議したけれど、自分でも薄々分かってはいる。生贄にされてしまう理由。
今の自分が得た知識ではなくて、ソルジャー・ブルーだった頃の知識のお蔭で。
人間が地球しか知らなかった時代は、遠い昔ならそういう世界。神や自然の怒りを恐れて、人が捧げていた生贄。大抵は動物なのだけれども、特別な場合は生きた人間。
(…特別な生贄は、神様にうんと喜ばれるから…)
綺麗な子供を選び出しては、生贄に捧げた国があったと伝わるほど。贅沢三昧で育てた後には、祭壇の上で殺してしまって。
記録が残る時代でもそういう具合だったし、それよりも古い時代となったら、なおのこと。
傷も無いのに、いきなり大量の血を身体から流した変わった子供は、生贄にされても仕方ない。神の怒りに触れた不吉な子供と判断されるか、神が生贄に欲しがっていると思われるか。
(凄い血だから、どう考えても生贄にピッタリ…)
不吉な方でも、特別な子供を捧げる方でも。
アルビノに生まれただけのことなら、生贄の道は免れたとしても、聖痕では無理。洞窟の仲間は生贄にしようとするのだろう。今のハーレイが言った通りに。
「…どうしよう、ハーレイ…。ぼく、殺されちゃう…」
ハーレイが言ったみたいに生贄にされちゃう、聖痕のせいで。…生贄にするのにピッタリの子供なんだから。変な子だったら殺さなくちゃ駄目だし、特別な子供の方でもおんなじ…。
ミュウじゃないのに、サイオンなんか持ってないのに…。
サイオンが無いから逃げられもしないよ、みんなが殺しにやって来たって。
せっかくハーレイに会えたのに…、と泣きそうな気持ち。本当にそうなったわけではなくても、想像の中だけの世界でも。
大昔の地球で暮らすのは自分の夢だったから。…前の自分の夢の世界に生まれられても、自分は殺されるらしいから。今の平和な時代と違って、洞窟で暮らす時代なら。
「安心しろ、俺がついてるだろうが」
お前に聖痕が現れたのなら、間違いなく俺が一緒にいる。前の俺の記憶を取り戻してな。
着ている服は動物の毛皮にしたって、中身は今の俺と同じだ。何処も全く変わりやしない。
お前を抱えて逃げ出してやるさ、生贄にしようと皆が捕まえにかかったら。
生贄にするんだと騒ぎ始めたら、迷わずお前を抱え込んで。
俺がお前を助けてやる、とハーレイは請け合ってくれたけれども、生贄の子供を助けたら。皆が生贄に選んだ子供を助けて逃げたら、危うくなるのがハーレイの立場。
同じ洞窟の仲間だったら、もう洞窟には戻れない。生贄を逃がすのは、掟に背くことだから。
他の洞窟から来ていたにしても、その洞窟にも「そちらの仲間が生贄を逃がした」と使いが走ることだろう。「戻って来たなら、生贄と一緒に引き渡せ」と。
大昔の地球では、生贄はとても大切なもの。捧げ損ねたら神の怒りを買うことになるし、生贄に決まった人間を逃がすなど許されない。逃がした者を捕まえて一緒に生贄にしても、神が許すとは限らないから。…もっと多くの生贄を捧げ、詫びねばならないかもしれないから。
その筈だった、と覚えているから、心配になるのがハーレイのこと。想像の世界の話でも。
「…いいの? ぼくを助けて逃げてしまったら、大変なことになっちゃうよ…?」
ハーレイも洞窟にいられなくなるよ。同じ洞窟の仲間にしたって、他所の洞窟から来てたって。
生贄を逃がしたら、そうなっちゃうでしょ。神様の怒りを買うんだから。
「一緒に捕まえて生贄にしろ」って、洞窟のみんなが大騒ぎだよ。別の洞窟に住んでいたって、そっちにも知らせが行くもんね…。「生贄と生贄泥棒を渡せ」って。
事情が分かれば、誰も助けてくれないよ。ハーレイ、生贄泥棒なんだから。
ぼくと一緒に生贄にしようと追い掛けられるよ、と震わせた肩。「大昔の地球は怖い所だ」と。聖痕がハーレイに会わせてくれても、生贄にされてしまうだなんて。
「そりゃまあ、ただでは済まんだろうが…。俺の方もな」
お前と同じ洞窟の住人だったら、二度と戻れやしないだろう。別の洞窟に住んでいたって、俺を待ってるのは仲間に追われる人生だろうな。
しかし、そいつはお前も同じだ。生贄の子供が逃げ出したんなら、追われるんだから。
そうなった時は、俺もお前も、居場所が無くなっちまうということで…。
住む場所が無くなっちまったんなら、新しい場所を探せばいいだろ。
なあに、頑張って探し回れば見付かるさ。あの時代は人間の数が少ないから、きっと何処かに。
二人で一緒に逃げている内に、丁度いい洞窟が見付かるんじゃないか?
神様が下さった聖痕があるなら、洞窟だってあるだろう。
大勢の仲間と暮らしてゆくには狭すぎるヤツで、追手にも見付からないようなヤツ。
お前と二人で、其処で暮らしていける筈だと思うんだがな…?
神様が過去に連れてったんなら、そういう用意もありそうだぞ、というのがハーレイの読み。
「大昔の地球に生まれたかった」という夢を叶えるなら、二人で暮らしてゆける小さな洞窟も。
新しい住まいが見付かったならば、洞窟の中に焚火を一つ。獣が襲って来ないようにと、焚火で肉も焼けるようにと。
「まずは焚火だ、そいつが無いと安心出来ないからな」
お前が留守番するにしたって、焚火無しでは不用心だから…。薪もドッサリ集めて来ないと。
焚火さえあれば、獣は中に入って来ないし、俺は狩りをしに行くとするかな。俺一人でも、何か獲物は獲れるだろう。大勢で狩るようなヤツは無理でも。
お前は火の番をしていればいいが、退屈になったら木の実でも集めて来るといい。あまり遠くへ行ったりしないで、洞窟の側で。
狩りの獲物と木の実で充分やっていけるさ、とハーレイが語る洞窟生活。二人きりでも、仲間は誰もいなくても。…二人分なら、食料も多くは要らないから。
「そういうのも、いいかも…」
ハーレイと二人分の食事だけなら、きっとなんとかなるものね。大勢だったら、狩りをするには便利だけれど、獲物も沢山必要だから…。みんなの家族が飢えないように。
二人分なら、量はそんなに要らないよ。ぼくは少ししか食べないだろうし、木の実だけでもお腹一杯になりそうだから。
獲物が少なくなる冬だって、ハーレイなら上手くやれるでしょ?
大昔の人たちには思い付かない、罠だって作れそうだから。…中身が前のハーレイなら。
今のハーレイと違って、自然の知識は少なそうだけど、と肩を竦めてみせた。青い地球で育ったハーレイだったら、川での釣りはお手の物だし、罠の知識もありそうだから。
「確かになあ…。前の俺だと、今の俺がやるようなわけにはいかんな」
今の俺なら、狩りをする前に罠を考え出しそうなんだが…。獣たちの通り道を見付けて。
魚だって釣りを始めるだろうな、闇雲に川に入る代わりに。…網だって工夫するかもしれん。
しかしだ、前の俺の方だと、自然の中での経験が何も無いんだから…。
キャプテンの知識で何処までやれるか、ちょいと心配ではあるな。
とはいえ、罠なら本とかで知っていたわけなんだし、「やってみるか」と作るだろうさ。
木彫りに使うナイフは無くても、石で木を削って檻を作ってやるとかな。
キャプテン・ハーレイだった俺の知識でも、洞窟生活の時代には無い筈の罠くらいは…、と今のハーレイが笑う。「なんとかなるさ」と、「今の俺ほど器用じゃなくてもな」と。
「お前を食べさせていくためだったら、頑張らないと。まだまだチビの子供なんだし」
前の俺たちがやったみたいに、お前をきちんと育てないとな。飢えないように食わせてやって。
俺が一人で育てるわけだが、料理の知識はあるんだから…。
前の俺の記憶が戻ったんなら、美味い物を作ってやれるかもしれん。焚火生活でも、工夫すりゃ料理も出来るだろうから。
大昔の地球で、お前と二人で駆け落ちか…。生贄にされる所を助けて逃げて。
お前と一緒に生きていけるんなら、俺はそれでもかまわないがな。…大昔の地球で洞窟でも。
快適な家も車も何も無くても…、とハーレイは頷いてくれたから。今の平和な地球でなくても、仲間から追われてしまったとしても、一緒に暮らしてくれるらしいから…。
「ぼくもかまわないよ。とても大変な暮らしになっても、ハーレイと二人なら平気」
二人で暮らせる洞窟があったら、それで充分。…お腹が減らないだけの食事と。
食事が足りなくなってしまったら、ハーレイ、ぼくに譲ろうとするでしょ?
それは嫌だから、食事は無いと困るけど…。他は大変でも平気。大勢だったら暖かい筈の冬に、二人しかいない洞窟だって。
ハーレイとピッタリくっついていたら、きっと暖かいと思うから。…焚火もあるから。
うんと幸せに生きていけると思うけど…。ハーレイがいればいいんだけれど…。
でも、ぼくたちがミュウじゃないなら、その内に年を取っちゃうのかな?
サイオンで止められないものね…、と気掛かりになった身体のこと。前の自分は若い姿のままで外見の年を止めていたけれど、今の自分もそのくらいのことは出来る筈。サイオンは不器用でも、無意識の内に使っている分があるのだから。アルビノでも光に弱くないのは、そのお蔭。
けれど、サイオンがまるで無ければ、年を重ねてゆくのだろうか。洞窟でハーレイと暮らす間に年老いていって、想像も出来ない姿になってしまうとか。
「いや、神様が大昔に連れて行って下さったんなら、年は取ったりしないだろう」
前のお前と同じくらいで止まっちまって、若いままだと思うがな。…俺も恐らくこの姿だ。
そいつを思うと、逃げ出して正解かもしれん。「あいつらは全く年を取らない」と周りの仲間の噂になったら、やっぱり生贄コースだからな。
聖痕を上手く乗り切ったとしても、老けないことで生贄か…、とハーレイはお手上げのポーズ。
「どうやら俺たちには、そのコースしか無いらしい」と。大昔の地球に生まれ変わっていたら、何処かで来るのが生贄の危機。結局二人で逃げるしかなくて、洞窟で二人きりの日々。
それも悪くはないんだけどね、と考えていたら、ハーレイがこう口にした。
「俺もお前も老けないとしても、寿命の方は短いのかもしれんがな」
神様も寿命までは面倒を見て下さらないんだろうし…。生まれた時代に相応しく生きろ、と他の人間と同じくらいになるかもしれん。前の俺たちや、今の時代みたいに長寿じゃなくて。
ミュウなら三百年は軽いもんだが…、と言われた人間の寿命。今の時代はもう何処にもいない、人類と呼ばれた種族の寿命は、百年にも満たなかった筈。SD体制の時代でさえも。
大昔の人間が進化したのが人類なのだし、洞窟生活だった頃の人間の寿命も短かっただろう。
「…その時代だと、何年くらい?」
何年くらい生きていられたわけなの、洞窟で暮らして狩りをしていた人間たちは…?
長生き出来たらどのくらい、と長めの寿命を訊いてみた。平均寿命は短いだろうし、子供の間に死んでしまうケースも多かった筈だから。「長生きする人はどのくらいなの?」と。
「俺も詳しくはないんだが…。四十年も無いかもなあ…」
日本の国の江戸時代でさえ、平均寿命が四十年だと言われてる。洞窟の時代じゃないのにな。
もっと昔なら、どんどん短くなるわけで…。たまに長生きの人がいたって、百には届かん。
確かな記録が残る時代でそれなんだから、洞窟の時代じゃ四十年も生きたら長生きじゃないか?
孫だっていた年だろう、と聞かされたから仰天した。四十歳でも長寿だなんて、と。
「たったそれだけ!?」
長生き出来ても四十年なの、洞窟で生きてた時代って…。そのくらいの寿命しか貰えないわけ、年は取らないままにしたって…?
「仕方ないだろう、大昔の地球は厳しいんだ。自然ってヤツも、人間が生きる環境も」
アルビノのお前は育つことさえ出来ないだろう、と前の俺だって何度も言っただろうが。
前のお前が「大昔の地球に生まれたかった」と言い出す度に、それは無茶だと。
どうする、洞窟で長生き出来ても、四十年ってトコなんだが…。
お前がきちんと育った後には、寿命の残りは二十年ほどしか無いんだが…。
前のお前と同じに育つの、十八歳くらいになるんだろうしな。どう頑張っても。
四十年しか生きられなくてもかまわないのか、と問い掛けられた。大昔の地球に生まれ変わっていたなら、寿命は少ないかもしれない。ほんの四十年でおしまい。
けれど、忘れてはならないこと。四十年しか寿命が無くても、洞窟で暮らす自分の側には…。
「四十年でもいいよ、ハーレイと一緒なんだから」
短い間しか生きられなくても、ハーレイが一緒にいるんだもの。生贄コースから助けてくれて。
それに本物の地球の上だし、ぼくは幸せ。洞窟で暮らして、うんと短い寿命でも。
どっちかを好きに選べるんなら、今の地球の方がいいけどね。
今だって地球はちゃんと青いし、本物のパパとママがいてくれるんだから、と今の自分の幸せを思う。前の自分は過去の地球に幸せを探していたのだけれども、未来に幸せがあったから。
「俺もだ、断然、今の地球だな。お前とたっぷり生きられるのが最高じゃないか」
前と同じにミュウなお蔭で、寿命は山ほどあるってな。お互い、まだまだヒヨコってトコだ。
それに駆け落ちもしなくていいのが有難い。
お前に聖痕が現れたって、みんな心配しただけだ。大昔の地球なら、お前は生贄にされてるぞ。俺が抱えて逃げない限りは、下手すりゃその日に命が無い。…あの時代はそんな時代だから。
物騒な時代に生まれて来なくて良かったな、とハーレイは言ってくれるのだけれど。
「そうかもだけど…。生贄にされてしまいそうだけど…」
ほんのちょっぴり大昔の地球に行けるんだったら、洞窟で暮らしてみたいかな…。
ハーレイと二人で逃げ出した後に、二人きりで暮らす小さな洞窟。
「何故だ?」
逃げ出すってことは生贄の危機で、お前は懲りていそうなんだが…。地球は怖い、と。
俺と一緒なら幸せだと言っても、今よりもずっと大変な暮らしが待ってるんだぞ、その時代は。
なのにどうして洞窟なんだ、とハーレイが訊くから笑顔で答えた。
「ハーレイ、かっこよさそうだから」
一人で狩りに出掛けるんでしょ、ぼくと二人で食べる獲物を捕まえるために。
「こんなに獲れたぞ」って担いで帰って来そうだし…。何が獲れるか分からないけど、ハーレイなら沢山捕まえられそう。獲った獲物の皮を剥いだり、お肉にしたり…。
きっと、とってもかっこいいんだよ、学校で先生をしているよりも。
凄くかっこいいに決まっているから、そういうハーレイ、見てみたいよね…。
ちょっぴり行ってみたいんだよ、と前の自分の夢と重ねる。大昔の地球にハーレイと生まれて、二人きりで暮らしてゆける洞窟。ハーレイが狩りをして、自分は焚火の番をして。
「お前がそういう夢を見るのは勝手だが…。好きにしていればいいんだが…」
俺は四十年しか生きられない世界は御免蒙る、お前と一緒にのんびり長生きしたいんだから。
たったの四十年で終わってたまるか、今、気付いたが、俺は二年しか生きられないぞ。
お前と出会って逃げた後には、二年しか残っていないんだが…。
俺の寿命は、とハーレイが苦い顔をするから、首を傾げた。どうして二年になるのだろう?
「なんで?」
ぼくとハーレイが出会った後には、たったの二年って…。それは何処から出て来たの?
「俺の年をよく考えてみろ。今で三十八歳なんだ」
四十年しか生きられないなら、残りは二年しか無いわけで…。
お前が前のお前と同じ姿に育つ頃には、寿命を迎えていそうなんだが…。十四歳のお前は、二年経っても十六歳にしかならないからな。
其処でお前とお別れらしい、とハーレイが告げた寿命の残り。四十年なら、そういう計算。
「それ、困るよ…!」
たったの二年でハーレイがいなくなっちゃうだなんて、あんまりだってば…!
辛すぎるってば、二年しか一緒にいられないなんて…!
そんなの辛いよ、と泣き出しそうになった、ハーレイと別れてしまうこと。離れ離れどころか、寿命でお別れするなんて。ハーレイの命が尽きるだなんて。
狩りに出掛けるハーレイがどんなにかっこよくても、それでは辛い。たったの二年で、何もかも終わってしまうだなんて。独りぼっちで残されるなんて。
前の自分が憧れていた、大昔の地球での洞窟生活。あの頃から前のハーレイに笑われたけれど、実現したなら厳しすぎる世界。…大昔の地球は。
弱く生まれたアルビノの自分が生き延びられても、聖痕が現れたら生贄にされる。不吉な子だと恐れられるか、特別な子だからと神に捧げられるか、どちらかで。
ハーレイに助けて貰って逃げても、二人で暮らせる場所を見付けても、たったの二年で終わりが来る。長生き出来ても四十年なら、ハーレイが寿命を迎えてしまって。
大昔の地球で生きてみたいと、前の自分は夢見たのに。洞窟生活でいいと思っていたのに。
あれは間違いだっただろうか、と今だから思う前の自分の夢。前のハーレイに「無理ですよ」と何度も言われ続けた、大昔の地球で生きてゆくこと。
「…前のぼくの夢、やっぱり間違っていたのかな…?」
洞窟で生きてゆくっていうのは、とっても大変そうだから…。ハーレイと二人で洞窟で暮らしていけても、じきに終わりが来そうだから…。ハーレイの寿命が短すぎて…。
四十年しか無いんだったら、ホントに直ぐにお別れだもんね、と悲しい気分。本当にそうなったわけでもないのに、胸がツキンと痛くなって。
「間違っていたんだろうと思うぞ。前のお前が言ってた時から、俺は笑っていたろうが」
サイオンも無しで狩りをする気か、と無茶だと指摘してたんだがな?
それにアルビノだと育つだけでも大変だから、と身体のことも。
お前が夢見た地球での暮らしは、未来の地球で丁度いいんだ。地球で暮らすのも、本物の家族の中に生まれて来るというのも。
あの頃の俺たちには想像もつかない世界だったが、今がその未来になってるわけで…。
神様はきちんと考えた上で、行き先を決めて下さったってな。お前が生まれ変われる場所を。
大昔じゃ駄目だと、未来の地球に…、と話すハーレイがきっと正しい。
神様は前の自分が夢見た世界を、今の自分にくれたから。地球での暮らしと本物の家族、自分は両方手に入れたから。大昔ではなくて、ずっと未来で。
「そうみたい…。洞窟の夢は諦めるよ」
狩りをするハーレイは見てみたいけれど、たった二年でお別れだなんて、辛すぎるから…。
「是非、そうしてくれ。次の人生が洞窟になったら、たまらんからな」
これがお前の夢なんだろう、と神様が願いを叶えて下さったりしたら困るだろうが。
「ホントだ、大変すぎるよね…。そうなっちゃったら」
ハーレイもぼくも、とっても大変。
駆け落ちはちょっぴりしてみたいけれど、神様が間違えてしまったら大昔だから…。
次に生まれたのが洞窟だったら、悲しいことになっちゃうから…。
前のぼくの夢は、もう見ないことにしておくよ、と今のハーレイに誓いを立てた。
大昔の地球での洞窟生活を「無茶です」と止めたのが、前のハーレイ。
サイオンも無しで狩りは無理だと、アルビノの子供が育つのも難しいからと。
今のハーレイから聞かされたことは、生贄にされるとか、たったの二年でハーレイの寿命が来てお別れだとか、前とは違った色々な話。大昔の地球の暮らしはこう、と。
夢と現実は違うらしい、と今度の生でも気付かされたから、大昔の地球の洞窟生活は諦めよう。
前の自分が夢に見たより、ずっと素敵な未来の地球に来たのだから。
本物の家族と一緒に暮らして、いつかハーレイとも結婚して家族になれるのだから…。
憧れた大昔・了
※前のブルーが憧れていた、大昔の地球で暮らすこと。本物の地球の上で、本物の家族と。
それは無理だ、と前のハーレイも、今のハーレイも厳しい現実を指摘。大昔よりは今の地球。
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ふうん、とブルーが眺めた新聞広告。学校から帰って、おやつの時間に。
子供向けに書かれた本の広告、「昔の地球」というタイトルの本。小さかった頃に自分も読んでいた本で、中身のことを覚えている。流石に今は部屋の本棚には無いけれど。子供向けだから。
ずっと昔の地球の様子が描かれた本。一度滅びてしまう前の。
(生き物は何もいなかった地球に、植物が生まれて、恐竜とかの時代が来て…)
彼らの時代が終わった後には人間の時代。サルから進化した人間。
二足歩行をするようになって、進化を遂げたら人間になって、文化を築いてゆくけれど。地球のあちこち、様々な文明が生まれて栄えていったのだけれど。
(やり過ぎちゃって…)
滅びてしまった、青い地球。昔の人間たちが気付いた時には、やり直すにはもう遅すぎた。
人間は地球を離れるしかなくて、SD体制の時代に入る。完全な管理出産の時代、子供も機械が人工子宮で育てる時代に。
それでも元に戻らなかった地球。人間そのものを機械に委ねて、コントロールしようと頑張ってみても。人間の欲望を抑え込んでも。
遠い昔の反省をこめて、今は色々な制限がある。自然に手を加える時は。
地球だけではなくて、何処の星でも。テラフォーミングして作った自然を壊さないように。
(…滅びちゃった地球は、壊れないと蘇らなかったほどだから…)
厳しい制限付きになるのも当然だろう。人間が好き勝手をしないようにと。
SD体制が崩壊した後、ミュウと人類とで決めた規則がその始まり。いつか蘇るだろう、母なる地球にも当てはめるために。
予兆は見えていたらしいから。…激しい地殻変動が収まった後には、きっと、と。
当時の学者たちが思った通りに、青い地球は宇宙に帰って来た。気が遠くなるほどの長い歳月をかけて、あらゆる毒素を洗い流して。
海も大陸もすっかり違う形に変わったけれども、青い水の星に戻った地球。植物の時代や恐竜の時代は全部飛ばして、最先端のテラフォーミングの技術を生かして。
最初から人間が住める星として、ただし多くの制限付きで整備されたのが今の地球。
SD体制に入る前の時代の人間たちは、「この方法で地球は蘇るだろう」と考えたけれど。青い地球が戻ってくるのだと信じていたから、全てを機械に委ねたけれど。
地球を離れて広い宇宙に散った彼らが思った以上に、困難だった地球の再生。
(グランド・マザーが六百年かけても…)
少しも進まなかったらしい、死に絶えた地球を元の姿に戻すこと。
白いシャングリラが辿り着いた地球は、赤茶けた死の星のままだった。汚染された海と、砂漠化した大地。その上、朽ち果てたままで打ち捨てられた高層建築の群れ。
(ユグドラシルのこと、ゼルが毒キノコって…)
揶揄したくらいに、何処も癒えてはいなかった地球。緑の欠片も見当たらなくて。
それを思えば、SD体制の終わりと同時に燃え上がった後は早かった。みるみる形を変えてゆく陸地、蒸発して雨に姿を変えては降り注ぐ海にあった水。
落ち着くまでには長い長い時が流れたとはいえ、グランド・マザーに任せておくよりは…。
(ずっと早くて、自然だったよね?)
地球を再生させること。
機械は介在していなかったし、何もかも地球が持っていた力。火山の噴火も地殻変動も、何度も降り注いだ雨も。
そうやって青さを取り戻した地球に、今の自分は生まれて来られた。
前の自分が焦がれ続けて、ついに見られずに終わった地球。最後まで見たいと願った星。宇宙の何処かにあると信じた青い地球。死の星だとは夢にも思わないままで。
(だけど、本物の青い地球だよ)
まだ宇宙からは見ていないけれども、正真正銘、本物の地球。今の自分は地球生まれの子。
この星の上で、ハーレイと一緒に暮らしてゆける。今は別々の家だけれども、いつか結婚したら同じ家で暮らす。前の自分たちが何度も夢見た、「青い地球の上にある家」で。
しかも地球生まれの今の自分には…。
(ちゃんと本物のパパとママ…)
血の繋がった両親がいて、トォニィと同じ自然出産児。今は当たり前のことだけれども、誰もがそういう子供だけれど。…人工子宮も管理出産も、とうの昔に無くなったから。
本物の家族しかいない時代で、子供は誰でも母親から生まれて来るものだから。
そういったことを考えてゆけば、生まれ変わって来た今の自分は…。
(前のぼくより、うんと幸せ…)
なんて幸せなんだろう、と戻った二階の自分の部屋。空になったカップやケーキのお皿を、母に「御馳走様」と返して。
勉強机の前に座って、さっきの続きを考えてみる。今の地球や昔の地球のこと。
(前のぼくだって、青い地球のことを夢見てたけど…)
シャングリラで様々な本を読んでは憧れたけれど、前の自分が夢見たよりも、遥かに素晴らしい地球に来られた。生まれ変わって、時を飛び越えて。
今では人間は誰もがミュウだし、平和で穏やかになった宇宙。戦争も武器も何処にも無い。SD体制の影も形も無い世界。マザー・システムも、グランド・マザーも、何一つとして。
何もかもが遠い昔の通りで、まるで大昔の地球のよう。便利になってはいるけれど。人間は広い宇宙に散らばり、宇宙船も飛んでいるのだけれど。
(前のぼくの夢だと…)
いくら青い地球の夢を描いても、SD体制の時代の影を引き摺っていた。どうしても消すことが出来なかったもの。
そういう時代に生まれたせいで。…自分の生まれがそうだったせいで。
本物の両親などはいないし、養父母に育てられただけ。人工子宮から生まれた子供は、そうして育つものだから。おまけに失くした、幸せな子供時代の記憶。成人検査と、その後に繰り返された過酷な人体実験のせいで。
それが寂しくて、たまに思った。こんな時代でなかったら、と。
(ずっと昔の、大昔の地球に生まれていたら、って…)
夢を見たのが前の自分。白いシャングリラでソルジャー・ブルーと呼ばれた自分。
SD体制の時代ではなくて、もっと前の時代に生まれたかった。人間が地球で生きた時代に。
たとえ火を絶やせない洞窟で暮らして、狩りをしながら生きる世界でも。木の実を集めて食べる時代で、飢えや寒さと背中合わせでも。
家などは無い時代でもいい、洞窟が家の時代でいい。本物の家族の中に生まれて、地球の自然に囲まれて暮らしてゆけたなら、と。
前の自分が描いた夢。大昔の地球で生きること。洞窟暮らしの日々でいいから。
(あの話、前のハーレイにする度に…)
いつも可笑しそうに笑われていた。「ご自分で狩りをなさるのですか?」と。サイオンも無しでそれは無理だと。
洞窟で暮らして狩りをした時代は、武器と言ってもせいぜい石器。それを頼りに、様々な動物を追い掛けて狩る。時には獰猛な動物と戦う時だって。
サイオンも持たない「ただの人間」なら、細っこくて華奢な身体しか持たないのが自分。いくら頑張っても狩りなどは無理で、襲い掛かってくる動物から走って逃げるのも無理。
(それに、生きられないでしょう、って…)
前のハーレイはそう言った。洞窟で暮らす一家の中に、前の自分が生まれたら。
生まれた時から弱すぎる子供、それに恐らくはアルビノの子供。前の自分は成人検査が引き金になってアルビノに変化したのだけれども、前のハーレイが知るのはその姿だけ。
「本当のぼくは、こうだったよ」と金髪と水色の瞳の姿の記憶を見せても、「そうでしたね」と笑ったハーレイ。「けれども、仮の姿でしょう?」と。
前のハーレイと出会った時には、とうにアルビノだったから。アルビノとして生きた歳月の方が遥かに長くて、自分でもそのつもりだったから。
「今の姿が本物のあなたの姿ですよ」というのが前のハーレイの持論。ミュウになったら色素が抜けたし、それが本当の姿だろうと。それまでの姿は仮の姿で。
(最初からアルビノの子供だったら…)
普通の子供よりも遥かに弱いし、幼い間に死んでしまって、育つのは無理だと何度も言われた。
「ずっと昔に生まれたかったよ」と口にする度に、「狩りは出来ないでしょう?」という言葉と併せて。「とても無理です」と、「あなたは生きてゆけませんよ」と。
それでもいいから、と言い募ったのが前の自分。
短い寿命で終わったとしても、幼い間に死んでしまってもかまわない。運よく育っても、狩りが出来ずに肩身が狭くてもいいから、と。「狩りが無理なら、木の実を集めて頑張るから」と。
どんなに苦労をしてもいいから、地球に生まれてみたかった、とハーレイに夢を語っていた。
ずっと昔の地球に生まれて、家などは無しで洞窟でも。狩りをしないと飢える暮らしで、地球の気まぐれな天候のせいで、寒さに震える厳しい冬があったとしても。
そういう夢を見てたんだっけ、と思い出した。白いシャングリラで前の自分が。
遠い昔の地球でいいから、其処に生まれて生きること。洞窟で暮らす時代でいいから。
(…ホントに地球に生まれちゃったよ…)
前のぼくの夢が叶っちゃった、と見回した部屋。洞窟ではなくて、今の自分のためにある部屋。夢に見たより、ずっと素敵な世界に来ていた。本物の家族がいる地球に。
弱く生まれたアルビノの子供でもちゃんと育って、ハーレイまでがついて来た。前の自分が恋をした人。いつまでも共に、と誓い合った人。
(前のぼくの夢、そんなのまで叶っちゃったんだ…)
地球に生まれたかった夢とは別に、「ハーレイと行きたかった」地球。白いシャングリラで辿り着いたら、あれをしようと、これもしようと幾つもの夢を描いた星。
そのハーレイと二人で地球に生まれて、とても幸せに生きている今。
洞窟に住んで狩りをする時代じゃないけどね、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、大発見を話すことにした。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくの夢、叶っていたよ」
叶うわけがないと思っていたけど、とっくに叶っていたみたい。ぼくは気付いてなかったけど。
本当に凄い夢なんだよ、と頬を紅潮させたら、「今度は何だ?」と尋ねたハーレイ。
「お前の夢は幾つも叶っているわけなんだが、いったい何が叶っていたんだ?」
「前のハーレイに笑われてたヤツ…。それは無理です、って」
いつ話しても言われちゃったんだよ、前のぼくの夢。…昔の地球に生まれたかったよ、って。
洞窟で暮らす時代でいいから、地球に生まれたかったんだけど…。
大昔だったら人間は地球に生まれるものだし、家族だって本当に本物の家族。成人検査で別れてしまう家族じゃなくって、お父さんもお母さんも本物で…。
そういう時代に生まれたかった、って話をしてたの、覚えてる?
家なんかは無くて洞窟暮らしで、狩りをして獲物を捕まえる時代でかまわないから、って。
「あれか…。あったっけな、前のお前の夢」
サイオンも無しじゃ獲物はとても捕まえられんぞ、と思ったもんだ。お前、身体が弱いから。
おまけにアルビノに生まれて来たんじゃ、育つだけでも難しそうだし…。
いったい何を言い出すんだか、と前の俺は呆れてたんだがなあ…。
聞かされる度に無理だと笑っていたんだが…、とハーレイは少し困り顔。「俺の負けだ」と。
「前のお前の夢、叶っちまったな。お前は地球に生まれちまった」
昔じゃなくて未来の地球だが、本物の家族も揃っていると来たもんだ。前のお前の夢を聞く度、無茶なことを言うと思ってたのに…。
とびきりの夢が叶ったんだな、とハーレイも思い出してくれた夢。白いシャングリラで、何度も語って聞かせていた夢。「ぼくの夢だよ」と。
「ね、凄いでしょ? 前のぼくの夢、本当に叶っていたんだよ」
洞窟で暮らす世界じゃなくって、普通の家に住んでるけど…。ぼくの部屋までくっついてる家。
狩りをしなくても暮らせる時代で、木の実を集めて蓄えなくてもいいけれど…。
お蔭で、ちゃんと育ったよ。生まれた時からアルビノのぼくでも。
前のハーレイが言ってた通りに、本当のぼくは最初からアルビノみたいだけれど…。
身体は弱いままだけれども、今だから育って来られたよ、と自慢した自分の細っこい手足。前と同じに弱い身体でも、今の時代だから此処まで大きくなれたんだよ、と。
「そのようだな。しょっちゅう寝込むようなチビでも、元気ではある」
大きな病気はしてないそうだし、注射嫌いでも今の時代なら安心だ。怖い伝染病も無いしな。
前のお前の夢が叶って良かったじゃないか、と微笑むハーレイの言葉で、ふと思ったこと。前の自分の夢は未来で叶ったけれども、過去の方ならどうだったろう、と。
「えっとね…。ぼくたち、未来に来ちゃったけれど…」
前のぼくの夢は、こんな未来で叶ったけれども、過去の方だったら、ハーレイ、どうする?
夢が叶うの、未来の代わりに過去だったなら…、と問い掛けた。
「過去だって?」
なんだそれは、とハーレイが怪訝そうな顔をするから、「過去だってば」と繰り返した。
「過去は過去だよ、前のぼくの夢が叶う場所だよ」
前のぼくの夢はこれなんだから、って神様が昔の地球に連れて行ってくれてたら…。
夢が叶う場所が此処じゃなくって、ずっと昔の地球の方なら、色々と変わって来ちゃうでしょ?
そしたらハーレイはどうするの、と鳶色の瞳を見詰めて訊いた。
夢が叶って二人一緒に地球の上でも、大昔の地球の上だったなら…、と。
どうなると思う、とハーレイにぶつけてみた質問。二人で生まれ変わって来たのが、今とは違う遠い昔の地球だったなら、と。
「おいおいおい…。二人揃って大昔の地球って…。前のお前が言ってた夢か?」
洞窟で暮らして狩りをする時代に生まれていたら、ということなのか?
俺もお前も、そういう時代にいるってことか、とハーレイは驚いているけれど。あまりに時代が違いすぎるから、ピンと来ていないようだけれども…。
「そうだよ、うんと昔だってば。人間が洞窟に住んでいたような」
大昔の地球でも、神様が連れて行ってくれるんなら、ぼくも育つと思うんだけど…。
アルビノの子供に生まれていたって、神様が守ってくれそうだから…。
だってハーレイと二人だしね、と瞳を輝かせた。ハーレイに会うには、今と同じ姿に育たないと駄目だと思うから。…洞窟生まれの弱いアルビノの子でも。
「うーむ…。お前はきちんと育ってゆくかもしれないが…」
どうなんだかなあ、と腕組みしたハーレイ。「それでもお前と出会えるんだろうか」と。大昔の地球に生まれ変わっても、今のように巡り会えるだろうか、と。
「会えると思うよ、ぼくには聖痕があるんだから」
神様がくれた聖痕があるから、大丈夫。…今と同じで思い出せるよ、ハーレイもぼくも。
前のぼくたちはホントは誰だったのか、誰のことが好きで、どう生きたのか。
アッと言う間に思い出せるし、きっと会えるよ。ぼくに聖痕が現れたら。
もしかしたら、最初から同じ洞窟に住んでいるのかも…。あの時代は人間が少ないものね。
何も知らずに焚火を囲んで、話しているかもしれないよ。ぼくに聖痕が出るまでは。
聖痕が出たら、お互いのことを思い出すんだよ、と夢見心地で言ったのだけれど。大昔の地球で出会っていたなら、きっとそうだと考えたけれど…。
「洞窟で暮らして、動物の毛皮を着ているような時代に聖痕なあ…」
お前の身体中から血が噴き出すわけだな、いきなり何の前触れもなく…?
本当に怪我したわけじゃないから、大昔でも死んじまうことはないんだろうが…。
病院に運んで手当てしなくても、お前の意識が戻りさえすれば、もう心配は要らんだろうが…。
その聖痕が問題だよなあ、洞窟暮らしの時代なら。
聖痕なんて言葉も無ければ、聖痕の元になった傷を負った神様も生まれていないわけで…。
こいつは色々と難しいぞ、とハーレイが眉間に寄せた皺。「今のようにはいかないだろう」と。
「お前の聖痕で出会えたとしても、其処から後の俺たちが大いに問題だ」
周りの連中から孤立しちまうだろうな、あらゆる意味で。…それまでは普通に暮らしていても。
俺もお前も、前の俺たちの記憶が戻った途端に、中身は未来の人間だから。
考え方からして、他の連中とは違ったものになるんだろう。記憶が戻ってしまったら。
元のようにはいかないぞ、とハーレイが指摘する仲間たちとの関係。家族はともかく、同じ洞窟暮らしの仲間とは距離が出来るかもしれないな、と。
「それって、大変…?」
ぼくもハーレイも周りに溶け込めなくって、困るって言うの?
頑張ってみんなに合わせてみたって、中身が違ってしまっているから…。一緒に何かをしようとしたって、前のようにはいかないだとか…?
前のぼくの記憶が、それまでのぼくを変えちゃって…、と曇らせた顔。今の自分はストンと今の器に落ち着いたけれど、それは未来の世界だから。ソルジャー・ブルーを知らない人など、一人もいない今の世界。前の自分が生きた時代の遥か未来でも、続きは続き。同じ世界の。
けれど、大昔の地球だと違う。前の自分とは何も繋がらない、遥かな昔で目覚めるだけ。此処は何処かと見回してみても、ハーレイだけしか前と同じものは見付からないのだから。
(ちょっぴり困っちゃうかもね…)
いくら前のぼくの夢が叶う世界でも、大昔の地球だとビックリするかも、と瞬かせた瞳。恋人の他には何一つとして、馴染みのものなど無いとなったら。
それでも頑張ればなんとかなるよ、と前向きに考えようとしていたのに…。
「お前、生贄にされかねないぞ。聖痕が出たら」
とんでもない言葉をハーレイが言うから、「えーっ!?」と喉から飛び出した悲鳴。
せっかく神様がくれた聖痕、それのお蔭でハーレイとまた巡り会えたのに、生贄だなんて。
今の自分たちのような日々を送る代わりに、生贄にされてしまうだなんて。
「なんで生贄なの、どうしてぼくが殺されなくっちゃいけないの…?」
聖痕は神様がくれたものだし、それが出ないとハーレイに会えない筈なのに…。
ハーレイに会えたと思った途端に、ぼくは生贄にされてしまうわけ?
そんなの酷いよ、殺されちゃったら、ハーレイに出会えた意味が無くなってしまうじゃない…!
生贄だなんて、と抗議したけれど、自分でも薄々分かってはいる。生贄にされてしまう理由。
今の自分が得た知識ではなくて、ソルジャー・ブルーだった頃の知識のお蔭で。
人間が地球しか知らなかった時代は、遠い昔ならそういう世界。神や自然の怒りを恐れて、人が捧げていた生贄。大抵は動物なのだけれども、特別な場合は生きた人間。
(…特別な生贄は、神様にうんと喜ばれるから…)
綺麗な子供を選び出しては、生贄に捧げた国があったと伝わるほど。贅沢三昧で育てた後には、祭壇の上で殺してしまって。
記録が残る時代でもそういう具合だったし、それよりも古い時代となったら、なおのこと。
傷も無いのに、いきなり大量の血を身体から流した変わった子供は、生贄にされても仕方ない。神の怒りに触れた不吉な子供と判断されるか、神が生贄に欲しがっていると思われるか。
(凄い血だから、どう考えても生贄にピッタリ…)
不吉な方でも、特別な子供を捧げる方でも。
アルビノに生まれただけのことなら、生贄の道は免れたとしても、聖痕では無理。洞窟の仲間は生贄にしようとするのだろう。今のハーレイが言った通りに。
「…どうしよう、ハーレイ…。ぼく、殺されちゃう…」
ハーレイが言ったみたいに生贄にされちゃう、聖痕のせいで。…生贄にするのにピッタリの子供なんだから。変な子だったら殺さなくちゃ駄目だし、特別な子供の方でもおんなじ…。
ミュウじゃないのに、サイオンなんか持ってないのに…。
サイオンが無いから逃げられもしないよ、みんなが殺しにやって来たって。
せっかくハーレイに会えたのに…、と泣きそうな気持ち。本当にそうなったわけではなくても、想像の中だけの世界でも。
大昔の地球で暮らすのは自分の夢だったから。…前の自分の夢の世界に生まれられても、自分は殺されるらしいから。今の平和な時代と違って、洞窟で暮らす時代なら。
「安心しろ、俺がついてるだろうが」
お前に聖痕が現れたのなら、間違いなく俺が一緒にいる。前の俺の記憶を取り戻してな。
着ている服は動物の毛皮にしたって、中身は今の俺と同じだ。何処も全く変わりやしない。
お前を抱えて逃げ出してやるさ、生贄にしようと皆が捕まえにかかったら。
生贄にするんだと騒ぎ始めたら、迷わずお前を抱え込んで。
俺がお前を助けてやる、とハーレイは請け合ってくれたけれども、生贄の子供を助けたら。皆が生贄に選んだ子供を助けて逃げたら、危うくなるのがハーレイの立場。
同じ洞窟の仲間だったら、もう洞窟には戻れない。生贄を逃がすのは、掟に背くことだから。
他の洞窟から来ていたにしても、その洞窟にも「そちらの仲間が生贄を逃がした」と使いが走ることだろう。「戻って来たなら、生贄と一緒に引き渡せ」と。
大昔の地球では、生贄はとても大切なもの。捧げ損ねたら神の怒りを買うことになるし、生贄に決まった人間を逃がすなど許されない。逃がした者を捕まえて一緒に生贄にしても、神が許すとは限らないから。…もっと多くの生贄を捧げ、詫びねばならないかもしれないから。
その筈だった、と覚えているから、心配になるのがハーレイのこと。想像の世界の話でも。
「…いいの? ぼくを助けて逃げてしまったら、大変なことになっちゃうよ…?」
ハーレイも洞窟にいられなくなるよ。同じ洞窟の仲間にしたって、他所の洞窟から来てたって。
生贄を逃がしたら、そうなっちゃうでしょ。神様の怒りを買うんだから。
「一緒に捕まえて生贄にしろ」って、洞窟のみんなが大騒ぎだよ。別の洞窟に住んでいたって、そっちにも知らせが行くもんね…。「生贄と生贄泥棒を渡せ」って。
事情が分かれば、誰も助けてくれないよ。ハーレイ、生贄泥棒なんだから。
ぼくと一緒に生贄にしようと追い掛けられるよ、と震わせた肩。「大昔の地球は怖い所だ」と。聖痕がハーレイに会わせてくれても、生贄にされてしまうだなんて。
「そりゃまあ、ただでは済まんだろうが…。俺の方もな」
お前と同じ洞窟の住人だったら、二度と戻れやしないだろう。別の洞窟に住んでいたって、俺を待ってるのは仲間に追われる人生だろうな。
しかし、そいつはお前も同じだ。生贄の子供が逃げ出したんなら、追われるんだから。
そうなった時は、俺もお前も、居場所が無くなっちまうということで…。
住む場所が無くなっちまったんなら、新しい場所を探せばいいだろ。
なあに、頑張って探し回れば見付かるさ。あの時代は人間の数が少ないから、きっと何処かに。
二人で一緒に逃げている内に、丁度いい洞窟が見付かるんじゃないか?
神様が下さった聖痕があるなら、洞窟だってあるだろう。
大勢の仲間と暮らしてゆくには狭すぎるヤツで、追手にも見付からないようなヤツ。
お前と二人で、其処で暮らしていける筈だと思うんだがな…?
神様が過去に連れてったんなら、そういう用意もありそうだぞ、というのがハーレイの読み。
「大昔の地球に生まれたかった」という夢を叶えるなら、二人で暮らしてゆける小さな洞窟も。
新しい住まいが見付かったならば、洞窟の中に焚火を一つ。獣が襲って来ないようにと、焚火で肉も焼けるようにと。
「まずは焚火だ、そいつが無いと安心出来ないからな」
お前が留守番するにしたって、焚火無しでは不用心だから…。薪もドッサリ集めて来ないと。
焚火さえあれば、獣は中に入って来ないし、俺は狩りをしに行くとするかな。俺一人でも、何か獲物は獲れるだろう。大勢で狩るようなヤツは無理でも。
お前は火の番をしていればいいが、退屈になったら木の実でも集めて来るといい。あまり遠くへ行ったりしないで、洞窟の側で。
狩りの獲物と木の実で充分やっていけるさ、とハーレイが語る洞窟生活。二人きりでも、仲間は誰もいなくても。…二人分なら、食料も多くは要らないから。
「そういうのも、いいかも…」
ハーレイと二人分の食事だけなら、きっとなんとかなるものね。大勢だったら、狩りをするには便利だけれど、獲物も沢山必要だから…。みんなの家族が飢えないように。
二人分なら、量はそんなに要らないよ。ぼくは少ししか食べないだろうし、木の実だけでもお腹一杯になりそうだから。
獲物が少なくなる冬だって、ハーレイなら上手くやれるでしょ?
大昔の人たちには思い付かない、罠だって作れそうだから。…中身が前のハーレイなら。
今のハーレイと違って、自然の知識は少なそうだけど、と肩を竦めてみせた。青い地球で育ったハーレイだったら、川での釣りはお手の物だし、罠の知識もありそうだから。
「確かになあ…。前の俺だと、今の俺がやるようなわけにはいかんな」
今の俺なら、狩りをする前に罠を考え出しそうなんだが…。獣たちの通り道を見付けて。
魚だって釣りを始めるだろうな、闇雲に川に入る代わりに。…網だって工夫するかもしれん。
しかしだ、前の俺の方だと、自然の中での経験が何も無いんだから…。
キャプテンの知識で何処までやれるか、ちょいと心配ではあるな。
とはいえ、罠なら本とかで知っていたわけなんだし、「やってみるか」と作るだろうさ。
木彫りに使うナイフは無くても、石で木を削って檻を作ってやるとかな。
キャプテン・ハーレイだった俺の知識でも、洞窟生活の時代には無い筈の罠くらいは…、と今のハーレイが笑う。「なんとかなるさ」と、「今の俺ほど器用じゃなくてもな」と。
「お前を食べさせていくためだったら、頑張らないと。まだまだチビの子供なんだし」
前の俺たちがやったみたいに、お前をきちんと育てないとな。飢えないように食わせてやって。
俺が一人で育てるわけだが、料理の知識はあるんだから…。
前の俺の記憶が戻ったんなら、美味い物を作ってやれるかもしれん。焚火生活でも、工夫すりゃ料理も出来るだろうから。
大昔の地球で、お前と二人で駆け落ちか…。生贄にされる所を助けて逃げて。
お前と一緒に生きていけるんなら、俺はそれでもかまわないがな。…大昔の地球で洞窟でも。
快適な家も車も何も無くても…、とハーレイは頷いてくれたから。今の平和な地球でなくても、仲間から追われてしまったとしても、一緒に暮らしてくれるらしいから…。
「ぼくもかまわないよ。とても大変な暮らしになっても、ハーレイと二人なら平気」
二人で暮らせる洞窟があったら、それで充分。…お腹が減らないだけの食事と。
食事が足りなくなってしまったら、ハーレイ、ぼくに譲ろうとするでしょ?
それは嫌だから、食事は無いと困るけど…。他は大変でも平気。大勢だったら暖かい筈の冬に、二人しかいない洞窟だって。
ハーレイとピッタリくっついていたら、きっと暖かいと思うから。…焚火もあるから。
うんと幸せに生きていけると思うけど…。ハーレイがいればいいんだけれど…。
でも、ぼくたちがミュウじゃないなら、その内に年を取っちゃうのかな?
サイオンで止められないものね…、と気掛かりになった身体のこと。前の自分は若い姿のままで外見の年を止めていたけれど、今の自分もそのくらいのことは出来る筈。サイオンは不器用でも、無意識の内に使っている分があるのだから。アルビノでも光に弱くないのは、そのお蔭。
けれど、サイオンがまるで無ければ、年を重ねてゆくのだろうか。洞窟でハーレイと暮らす間に年老いていって、想像も出来ない姿になってしまうとか。
「いや、神様が大昔に連れて行って下さったんなら、年は取ったりしないだろう」
前のお前と同じくらいで止まっちまって、若いままだと思うがな。…俺も恐らくこの姿だ。
そいつを思うと、逃げ出して正解かもしれん。「あいつらは全く年を取らない」と周りの仲間の噂になったら、やっぱり生贄コースだからな。
聖痕を上手く乗り切ったとしても、老けないことで生贄か…、とハーレイはお手上げのポーズ。
「どうやら俺たちには、そのコースしか無いらしい」と。大昔の地球に生まれ変わっていたら、何処かで来るのが生贄の危機。結局二人で逃げるしかなくて、洞窟で二人きりの日々。
それも悪くはないんだけどね、と考えていたら、ハーレイがこう口にした。
「俺もお前も老けないとしても、寿命の方は短いのかもしれんがな」
神様も寿命までは面倒を見て下さらないんだろうし…。生まれた時代に相応しく生きろ、と他の人間と同じくらいになるかもしれん。前の俺たちや、今の時代みたいに長寿じゃなくて。
ミュウなら三百年は軽いもんだが…、と言われた人間の寿命。今の時代はもう何処にもいない、人類と呼ばれた種族の寿命は、百年にも満たなかった筈。SD体制の時代でさえも。
大昔の人間が進化したのが人類なのだし、洞窟生活だった頃の人間の寿命も短かっただろう。
「…その時代だと、何年くらい?」
何年くらい生きていられたわけなの、洞窟で暮らして狩りをしていた人間たちは…?
長生き出来たらどのくらい、と長めの寿命を訊いてみた。平均寿命は短いだろうし、子供の間に死んでしまうケースも多かった筈だから。「長生きする人はどのくらいなの?」と。
「俺も詳しくはないんだが…。四十年も無いかもなあ…」
日本の国の江戸時代でさえ、平均寿命が四十年だと言われてる。洞窟の時代じゃないのにな。
もっと昔なら、どんどん短くなるわけで…。たまに長生きの人がいたって、百には届かん。
確かな記録が残る時代でそれなんだから、洞窟の時代じゃ四十年も生きたら長生きじゃないか?
孫だっていた年だろう、と聞かされたから仰天した。四十歳でも長寿だなんて、と。
「たったそれだけ!?」
長生き出来ても四十年なの、洞窟で生きてた時代って…。そのくらいの寿命しか貰えないわけ、年は取らないままにしたって…?
「仕方ないだろう、大昔の地球は厳しいんだ。自然ってヤツも、人間が生きる環境も」
アルビノのお前は育つことさえ出来ないだろう、と前の俺だって何度も言っただろうが。
前のお前が「大昔の地球に生まれたかった」と言い出す度に、それは無茶だと。
どうする、洞窟で長生き出来ても、四十年ってトコなんだが…。
お前がきちんと育った後には、寿命の残りは二十年ほどしか無いんだが…。
前のお前と同じに育つの、十八歳くらいになるんだろうしな。どう頑張っても。
四十年しか生きられなくてもかまわないのか、と問い掛けられた。大昔の地球に生まれ変わっていたなら、寿命は少ないかもしれない。ほんの四十年でおしまい。
けれど、忘れてはならないこと。四十年しか寿命が無くても、洞窟で暮らす自分の側には…。
「四十年でもいいよ、ハーレイと一緒なんだから」
短い間しか生きられなくても、ハーレイが一緒にいるんだもの。生贄コースから助けてくれて。
それに本物の地球の上だし、ぼくは幸せ。洞窟で暮らして、うんと短い寿命でも。
どっちかを好きに選べるんなら、今の地球の方がいいけどね。
今だって地球はちゃんと青いし、本物のパパとママがいてくれるんだから、と今の自分の幸せを思う。前の自分は過去の地球に幸せを探していたのだけれども、未来に幸せがあったから。
「俺もだ、断然、今の地球だな。お前とたっぷり生きられるのが最高じゃないか」
前と同じにミュウなお蔭で、寿命は山ほどあるってな。お互い、まだまだヒヨコってトコだ。
それに駆け落ちもしなくていいのが有難い。
お前に聖痕が現れたって、みんな心配しただけだ。大昔の地球なら、お前は生贄にされてるぞ。俺が抱えて逃げない限りは、下手すりゃその日に命が無い。…あの時代はそんな時代だから。
物騒な時代に生まれて来なくて良かったな、とハーレイは言ってくれるのだけれど。
「そうかもだけど…。生贄にされてしまいそうだけど…」
ほんのちょっぴり大昔の地球に行けるんだったら、洞窟で暮らしてみたいかな…。
ハーレイと二人で逃げ出した後に、二人きりで暮らす小さな洞窟。
「何故だ?」
逃げ出すってことは生贄の危機で、お前は懲りていそうなんだが…。地球は怖い、と。
俺と一緒なら幸せだと言っても、今よりもずっと大変な暮らしが待ってるんだぞ、その時代は。
なのにどうして洞窟なんだ、とハーレイが訊くから笑顔で答えた。
「ハーレイ、かっこよさそうだから」
一人で狩りに出掛けるんでしょ、ぼくと二人で食べる獲物を捕まえるために。
「こんなに獲れたぞ」って担いで帰って来そうだし…。何が獲れるか分からないけど、ハーレイなら沢山捕まえられそう。獲った獲物の皮を剥いだり、お肉にしたり…。
きっと、とってもかっこいいんだよ、学校で先生をしているよりも。
凄くかっこいいに決まっているから、そういうハーレイ、見てみたいよね…。
ちょっぴり行ってみたいんだよ、と前の自分の夢と重ねる。大昔の地球にハーレイと生まれて、二人きりで暮らしてゆける洞窟。ハーレイが狩りをして、自分は焚火の番をして。
「お前がそういう夢を見るのは勝手だが…。好きにしていればいいんだが…」
俺は四十年しか生きられない世界は御免蒙る、お前と一緒にのんびり長生きしたいんだから。
たったの四十年で終わってたまるか、今、気付いたが、俺は二年しか生きられないぞ。
お前と出会って逃げた後には、二年しか残っていないんだが…。
俺の寿命は、とハーレイが苦い顔をするから、首を傾げた。どうして二年になるのだろう?
「なんで?」
ぼくとハーレイが出会った後には、たったの二年って…。それは何処から出て来たの?
「俺の年をよく考えてみろ。今で三十八歳なんだ」
四十年しか生きられないなら、残りは二年しか無いわけで…。
お前が前のお前と同じ姿に育つ頃には、寿命を迎えていそうなんだが…。十四歳のお前は、二年経っても十六歳にしかならないからな。
其処でお前とお別れらしい、とハーレイが告げた寿命の残り。四十年なら、そういう計算。
「それ、困るよ…!」
たったの二年でハーレイがいなくなっちゃうだなんて、あんまりだってば…!
辛すぎるってば、二年しか一緒にいられないなんて…!
そんなの辛いよ、と泣き出しそうになった、ハーレイと別れてしまうこと。離れ離れどころか、寿命でお別れするなんて。ハーレイの命が尽きるだなんて。
狩りに出掛けるハーレイがどんなにかっこよくても、それでは辛い。たったの二年で、何もかも終わってしまうだなんて。独りぼっちで残されるなんて。
前の自分が憧れていた、大昔の地球での洞窟生活。あの頃から前のハーレイに笑われたけれど、実現したなら厳しすぎる世界。…大昔の地球は。
弱く生まれたアルビノの自分が生き延びられても、聖痕が現れたら生贄にされる。不吉な子だと恐れられるか、特別な子だからと神に捧げられるか、どちらかで。
ハーレイに助けて貰って逃げても、二人で暮らせる場所を見付けても、たったの二年で終わりが来る。長生き出来ても四十年なら、ハーレイが寿命を迎えてしまって。
大昔の地球で生きてみたいと、前の自分は夢見たのに。洞窟生活でいいと思っていたのに。
あれは間違いだっただろうか、と今だから思う前の自分の夢。前のハーレイに「無理ですよ」と何度も言われ続けた、大昔の地球で生きてゆくこと。
「…前のぼくの夢、やっぱり間違っていたのかな…?」
洞窟で生きてゆくっていうのは、とっても大変そうだから…。ハーレイと二人で洞窟で暮らしていけても、じきに終わりが来そうだから…。ハーレイの寿命が短すぎて…。
四十年しか無いんだったら、ホントに直ぐにお別れだもんね、と悲しい気分。本当にそうなったわけでもないのに、胸がツキンと痛くなって。
「間違っていたんだろうと思うぞ。前のお前が言ってた時から、俺は笑っていたろうが」
サイオンも無しで狩りをする気か、と無茶だと指摘してたんだがな?
それにアルビノだと育つだけでも大変だから、と身体のことも。
お前が夢見た地球での暮らしは、未来の地球で丁度いいんだ。地球で暮らすのも、本物の家族の中に生まれて来るというのも。
あの頃の俺たちには想像もつかない世界だったが、今がその未来になってるわけで…。
神様はきちんと考えた上で、行き先を決めて下さったってな。お前が生まれ変われる場所を。
大昔じゃ駄目だと、未来の地球に…、と話すハーレイがきっと正しい。
神様は前の自分が夢見た世界を、今の自分にくれたから。地球での暮らしと本物の家族、自分は両方手に入れたから。大昔ではなくて、ずっと未来で。
「そうみたい…。洞窟の夢は諦めるよ」
狩りをするハーレイは見てみたいけれど、たった二年でお別れだなんて、辛すぎるから…。
「是非、そうしてくれ。次の人生が洞窟になったら、たまらんからな」
これがお前の夢なんだろう、と神様が願いを叶えて下さったりしたら困るだろうが。
「ホントだ、大変すぎるよね…。そうなっちゃったら」
ハーレイもぼくも、とっても大変。
駆け落ちはちょっぴりしてみたいけれど、神様が間違えてしまったら大昔だから…。
次に生まれたのが洞窟だったら、悲しいことになっちゃうから…。
前のぼくの夢は、もう見ないことにしておくよ、と今のハーレイに誓いを立てた。
大昔の地球での洞窟生活を「無茶です」と止めたのが、前のハーレイ。
サイオンも無しで狩りは無理だと、アルビノの子供が育つのも難しいからと。
今のハーレイから聞かされたことは、生贄にされるとか、たったの二年でハーレイの寿命が来てお別れだとか、前とは違った色々な話。大昔の地球の暮らしはこう、と。
夢と現実は違うらしい、と今度の生でも気付かされたから、大昔の地球の洞窟生活は諦めよう。
前の自分が夢に見たより、ずっと素敵な未来の地球に来たのだから。
本物の家族と一緒に暮らして、いつかハーレイとも結婚して家族になれるのだから…。
憧れた大昔・了
※前のブルーが憧れていた、大昔の地球で暮らすこと。本物の地球の上で、本物の家族と。
それは無理だ、と前のハーレイも、今のハーレイも厳しい現実を指摘。大昔よりは今の地球。
(んーと…)
温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。