シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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温室だよね、とブルーが眺めた小さな建物。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
いつも見ている家だけれども、今日はたまたま目に付いた。庭の奥の方、ひっそりと建っているガラス張りの建物。物置ではなくて、きっと温室。
(何を育てているのかな?)
温室だったら、中身は植物。物置みたいに何かを仕舞っておくのではなくて。
この地域の気候が合わない植物、もっと暖かい地域で育つ植物を育てるために作る温室。高めの温度を保ってやって、寒い季節も凍えないように。
温室で育てる植物は色々、個人の家なら趣味で集めていそう。サボテンばかり並んでいるとか、華やかな花が咲くものだとか。
(…サボテンだって種類が一杯あるものね?)
綺麗な花が咲くサボテンもあるし、そういう温室かもしれない。サボテンだからトゲだらけ、と入ってみたら鮮やかな花たちに迎えられるとか。
(なんだろ、あそこに入っているの…)
気になるけれども、サイオンで覗くことは出来ない。自分のように不器用でなくても、覗いたり出来ない家の中。今の時代は誰もがミュウだし、そういう仕組みになっている筈。
(思念波を飛ばしても、弾かれちゃうって…)
プライバシーは大切だからと、個人の家を保護する仕掛け。透視されたりしないようにと。
温室だって家と同じで、道から覗けはしないだろう。どんなに中が気になったって。
(気が付いちゃうと、気になっちゃうよ…)
あそこに温室、と目に付けば。見慣れた家でも、温室の存在に気が付いたなら。
けれども、覗けない中身。ガラス張りの建物は外の光を弾くだけ。中には鉢が並んでいるのか、地面に直接、植えているのかも分からない。
(ひょっとしたら、熱帯睡蓮とかかも…)
池を作って、カラフルな花が咲く睡蓮。この地域に咲く睡蓮は白や淡いピンクの花だけれども、暑い熱帯に咲く睡蓮は違う。青や黄色や、鮮やかなピンク。植物園で見たことがある。
睡蓮の池があるのかもね、と興味は更に増すけれど。温室の中を覗きたいけれど…。
道からは何も見えない温室。建物を覆うガラスだけ。いくら御主人と顔馴染みでも、留守の間に勝手に入って行けはしないし…、と生垣の側に突っ立っていたら。
「ブルー君、今、帰りかい?」
何か気になるものがあるかな、と家の中から出て来た御主人。留守だったわけではないらしい。何処かの窓から見ていただろうか、自分が此処に立っているのを。
それなら話は早いから、と庭の奥の建物を指差した。気になってたまらない温室。
「あそこの建物…。ガラス張りだから、温室だよね?」
何を育てている温室なの、おじさんの趣味の植物なんだと思うけど…。サボテンとか?
それとも池で熱帯睡蓮を植えているとか…、と興味津々。答えはいったい何だろう、と。
「なるほど、中身が知りたいんだね? 変わった物は育てていないんだけどね…」
気になるんなら見て行くかい、と誘われたから頷いた。見せて貰えるならそれが一番、願ってもないことだから。温室の中に入れるなんて。
御主人の案内で庭を横切り、扉を開けて貰えた温室。側に立ったら、思ったよりも大きい建物。頭を低くしなくても扉をくぐってゆけるし、御主人の頭も天井には届かないのだから。
そうは言っても、植物園の温室ほどではないけれど。個人の家だし、趣味の温室。
中に入って見回してみたら、サボテンだらけではなかった中身。熱帯睡蓮の池も無かった。鉢に植わったランなどが主で、ちょっぴり花屋さんのよう。今が盛りの鉢もあるから。
「綺麗だね…。花が咲く鉢が一杯あるよ」
花屋さんに来たみたいな感じ。向こうの鉢のも、あと何日かしたら咲きそう。
全部おじさんの趣味の花でしょ、凄いね、プロの人みたい…。
こんなに沢山育ててるなんて、と瞳を輝かせたら、「ありがとう」と嬉しそうな御主人。
「褒めて貰えて光栄だよ。下手の横好きなんだけれどね」
花のプロなら、もっと上手に育てる筈だよ。同じように温室を持っていたって、腕が違うから。
プロにはとても敵わないけれど、素人ならではの楽しみもあってね。
この温室は、冬にはもっと面白くなるんだ。なにしろ、趣味の温室だから。
「え…?」
面白くなるって、冬になったら何が起こるの、この温室で…?
花が溢れるくらいに咲くとか、そういう意味なの…?
冬の寒さが苦手な花を育てるためにある温室。御主人が並べている鉢は様々、正体が分からない鉢も幾つも。それが一度に咲くのだろうか、と冬の温室の光景を想像したのだけれど。
「違うよ、それじゃ普通の温室と変わらないだろう?」
咲いて当然の花が咲くんじゃ、花屋さんのと同じだよ。趣味でやってる意味がない。
もっとも、花屋さんの方でも、似たようなことをやるんだけどね。…花を売るのが仕事だから。
正解は季節外れの花だよ、この暖かさを生かすんだ。早めに花を咲かせてやるのさ、温室用とは違う花たちを此処に入れてね。
この辺りにも、冬の間は咲かない花が色々あるだろう?
そういった花を温室に入れれば、外よりも早く花が咲く。桜だって咲くよ、鉢植えのがね。
今はまだ入れてないけれど、と御主人が手で示してくれた鉢の大きさ。「このくらいだよ」と。抱えて運んでくるそうだから、桜の木だってチビの自分の背丈の半分ほどもあるという。
「…桜、いっぱい花が咲きそう…。小さい木でも」
盆栽はよく分からないけど、小さくても花が沢山咲くように育てられるんでしょ?
その桜の木もおんなじだよね、ちょっぴりしか花をつけない木とは違って…?
ちゃんと桜に見える木なんでしょ、と確かめてみたら「その通りだよ」と笑顔の御主人。
「小さいけれども、立派な桜さ。花が咲いたら、今度は家に運んだりもするよ」
お客さんが来るなら、自慢しないと。…とっくに桜が咲いてますよ、と飾ってね。
桜の他にも、温室で育てて早めに咲かせるのが冬だ。花が少ない季節なんだし、一足お先に春の気分で。此処に入ればもう春なんだ、という感じかな。
せっかく温室を作ったからには楽しまないとね、あれこれ育てて遊んだりもして。
温室育ちの花だけじゃつまらないだろう、というのが御主人の意見。温室でしか育たないのが、此処よりも暖かい地域で生まれた花たち。温室からは出られないから、温室育ち。
温室育ちの花もいいんだけどね、と御主人は鉢の花たちを説明してくれた。
「このランは外では難しいかな」だとか、「こっちなら夏の間は外でも大丈夫」とか。
一年中、温室から出られない花もあるらしい。夏の盛りなら大丈夫そうでも、この地域の気候が合わないらしくて、弱る花。気温は同じでも、湿度が違えば条件が変わるものだから。
温室で育つ花は色々、其処でしか生きてゆけない花なら温室育ち。冬の間だけ中に入って、一足お先に花を咲かせる逞しい花も幾つもあるようだけれど。
温室を見せて貰った後には家に帰って、おやつの時間。制服を脱いで、ダイニングに行って。
ダイニングから庭が見えるけれども、この家の庭には温室は無い。簡易式の小さなものさえも。
(ぼくに手がかかりすぎたから…?)
それで温室は無いのだろうか、と眺める庭。母は庭仕事が好きで、花が沢山植えてある。花壇の他にも薔薇の木などが。花壇の花は季節に合わせて植え替えもするし、楽しんでいる庭仕事。
(花を飾るのも好きだしね…)
玄関先や客間や食卓、花を絶やさないようにしている母。庭で咲いた花たちも、もちろん飾る。花を沢山つけない時でも、一輪挿しに生けたりして。
そのくらい花と庭仕事が好きなら、温室も持っていそうなもの。テント風の簡易式とは違って、さっき入って見て来たようなガラス張りのを。
(熱帯睡蓮とか、サボテンじゃなくても…)
温室で育てたい花は幾つもあるだろう。花が大好きな母なら、きっと。
けれども、母の所に生まれて来たのは弱すぎた息子。温室育ちの花と同じで、身体が弱くて手がかかる子供。寒い季節はすぐ風邪を引くし、夏の暑さも身体に毒。少し疲れただけで出す熱。
そんな自分が生まれて来たから、温室の花まで手が回らなかったのかもしれない。父と結婚して此処に住む時は、温室を作る予定があったとしても。
(ごめんね、ママ…)
弱く生まれた自分のせいで、温室を作るのを諦めたなら。「とても無理だわ」と、温室で育てる花たちの苗を諦めたなら。
苗を買おうと店に行ったら、目に入るだろう温室の花。「如何ですか?」と苗を並べて、世話のし方もきちんと書いて。
もしかしたら今も、母は見ているかもしれない。「こういう花も育てたかったわ」と。苗の前に立って暫く眺めて、違う苗を買いにゆくのだろう。家に温室は無いのだから。
(今、温室を作っても…)
やっぱり何かと手がかかる息子。丈夫な子ならば今の時間はクラブ活動、まだまだ家には帰って来ない。母はのんびり庭仕事が出来て、温室の世話も出来た筈。
弱い息子がいなければ。…もっと丈夫に生まれていたなら、母は温室を持てただろう。この庭の何処かにガラス張りのを、色々な花を育てられるのを。
きっとあったよ、と思う温室。弱い息子が生まれなければ、母の好みの花が一杯。ガラス張りの小さな建物の中に、温室で育つ花たちが。
(…ママだって、温室、欲しかったよね…)
今だって欲しいかもしれない。「うちでは無理よね」と、色々な苗を見ては心で溜息をついて。
母は少しもそんなそぶりは見せないけれども、温室で花を育てることも好きそうだから。自分が丈夫な子供だったら、温室を持っていそうだから…。
(ぼくがお嫁に行った後には、温室の花を楽しんでね)
弱い息子を世話する代わりに、うんと素敵な花たちを。温室でしか育てられない花から、寒さを避けて冬は温室に入れる花まで、様々なのを。
温室の中でしか生きられない花たちの世話は難しそうでも、母ならばきっと大丈夫。温室育ちの花たちよりも厄介なものを、ちゃんと育てているのだから。
(ぼくって、人間だけれど、温室育ち…)
温室育ちって言うんだよね、と自覚はしている。弱い身体に生まれて来たから、両親に守られて育った自分。危ないものやら、危険な場所から遠ざけられて。
(公園に行っても、そっちは駄目よ、って…)
怪我をしそうな遊具の方へ行かないようにと、母がいつでも目を配っていた。ブランコだって、幼い頃には母に見守られて乗っていたほど。転げ落ちたら大変だから。
他所の子たちは好きに遊んで、大泣きしていた子もよく見掛けたのに。ブランコから落っこちて泣いた子供や、ジャングルジムから落っこちた子供。
(怪我をしちゃって、血が出てたって…)
「そんな怪我くらいで泣かないの」と叱られている子も多かった。また公園で遊びたいのなら、泣かずに我慢するように、と。
けれど、弱かった自分は別。転んだだけでも母は大慌てで、直ぐに出て来た絆創膏や傷薬。
学校に行く年になっても、体育の授業は見学ばかり。最初から見学する時もあれば、途中で手を挙げて見学に回る時だって。…それは今でも変わらない。
今でも手がかかる弱い子が自分、これからもきっと弱いまま。
温室育ちの弱い息子がお嫁に行ったら、母に楽しんで欲しい温室。庭の何処かにガラス張りのを作って、母の好みの花たちを植えた鉢を並べて。
ぼくがお嫁に行っちゃった後は、ママだって、と思う温室のこと。庭仕事も花も大好きな母が、自分の温室を持てますように、と。今は眺めているだけの苗を買って来て、育てられるように。
(今度はハーレイが大変だけどね…)
温室育ちのお嫁さんを貰うわけだし、手がかかるから。それまでは母が世話していたのを、世話する羽目になるのだから。
でもハーレイなら大丈夫、と帰った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
温室育ちの自分がお嫁に行っても、ハーレイには無い園芸の趣味。ハーレイの家にも庭も芝生もあるのだけれども、やっているのは芝生の刈り込みくらいだろう。それと水撒き。
花壇は作っていない筈だし、鉢植えの花たちも育てていない。だからハーレイが面倒を見るのは温室育ちのお嫁さんだけ。花たちに手はかからないから。
(芝生の刈り込みは毎日じゃないし、水撒きはすぐに出来ちゃうし…)
ハーレイの家の庭の手入れは簡単そう。母のようにせっせと世話をしなくても、きちんと綺麗に保てるだろう。たまに芝生を刈り込んでやって、水不足の時には水撒きすれば。
(ぼくが温室を作っちゃうとか…?)
ハーレイが仕事に行っている間は暇なのだから、ガラス張りの小さな温室を一つ。小さくても、ちゃんとハーレイも中に入れるくらいのを。
熱帯睡蓮を植えてみるとか、庭では無理な花たちを色々育てて楽しむ。苗を買って来て。
それも素敵だと思ったけれども、相手は温室の花たちだから…。
(ぼくが風邪とかで寝込んじゃったら、ハーレイが温室の花の世話まで…)
しなくてはいけないことになる。芝生の刈り込みや水撒きだったら、少しくらいは先延ばしでも何も問題ないのだけれども、温室は駄目。きちんと世話をしてやらないと。
寝込んでいる自分の世話に加えて、温室の世話では申し訳ない。ハーレイが作った温室とは違うわけだから。自分が「欲しい」と作って貰って、勝手に始めた趣味なのだから。
それの世話までするとなったら、ハーレイがあまりに気の毒すぎる。「俺はかまわないぞ?」と笑っていたって、手がかかるのは間違いないから。
そう考えたら、母が温室を作らなかったように、自分もやっぱり作らないのがいいのだろう。
ハーレイに迷惑をかけたくなければ、趣味のためだけの温室などは。
駄目だよね、と分かってはいても、魅力的なガラス張りの建物。植物を育てるための温室。
(家にあったら、素敵なんだけど…)
真冬でも温室の中に置いたら、春の花たちが咲いたりもする。今日、聞いて来た桜みたいに。
温度を高めに調節したなら、夏の花だって咲くだろう。雪の季節に太陽を思わせるヒマワリも。
(いいな…)
冬でも夏の花なんて。花屋さんに出掛けたわけでもないのに、自分の家の庭で見られるなんて。その上、外は冬だというのに、温室の中は汗ばむほどの夏の暑さに包まれて輝いているなんて。
本物の夏の暑さは苦手だけれども、温室だったら話は別。冬から夏へとヒョイと旅して、暑さに飽きたら戻って来られる。冬の世界へ。
(植物園の温室だったら、夏よりもずっと…)
暑く感じる場所だってある。この地域の夏より気温が高い、熱帯雨林を再現している温室なら。ああいう気分を家でも味わえそうなのに。庭に温室があったなら。
(雪の日に手入れをしに入っても…)
きっと汗だくになっちゃうよね、と夢を描くガラス張りの小さな建物。庭に作ってある温室。
入る時には上着も手袋も全部外さないと、本当に直ぐに汗だくだろう。夏真っ盛りの暑い気温を作り出すよう、設定してある温室ならば。
中の季節が外とは逆の真夏だったら、冬はガラスが白く曇っているかもしれない。外は寒くて、温度が遥かに低いのだから。
冬の季節に家の窓ガラスが曇ってしまって、指先で絵などを描けるみたいに。
(温室用なら、曇り止めのガラス…)
そういうガラスを使っている可能性もある。すっかり曇ってしまわないよう、寒い季節も外から中がよく見えるように。
家の窓ガラスも曇るのだから、もっと暖かい温室のガラスはきっと曇ってしまう筈。霧みたいに細かい水の雫がびっしり覆って、真っ白くなって。
それでは駄目だし、曇り止めのガラスで建てる温室。中がどんなに暖かくても、外が寒くても、ガラスは透き通っているように。…中に置かれた鉢や花たちを外から覗けるように。
今日、見学した温室だって、そんな仕掛けがあるかもしれない。雪がしんしん降っている日も、曇りはしないで透明なガラス。中の花たちが透けて見える温室。
きっとそうだよ、という気がしてきた。温室には詳しくないけれど。曇り止めのガラスで作ってあるのか、注文しないと曇り止めのガラスは嵌まらないのか。
けれど料金が少し高くても、大抵の人は曇り止めのガラスを選びそう。自分が温室を持つことになったら、もちろん曇らないガラス。一面の雪景色が広がる日でも。
(ガラスの向こうが見えないと、つまらないものね?)
別世界のような温室の中。雪が降る日に咲くヒマワリやら、南国の色鮮やかな花たち。外側から見れば夢のようだし、そういう仕掛けをしておきたい。
着ぶくれたままで中に入ったら汗だくになるし、そうしないと花が見えないよりは。花の世話をしに入る時以外でも、通りかかったら中を見られる方がいい。曇っていないガラス越しに。
やっぱり花が見えないと…、と思った所で掠めた記憶。遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。温室に少し似ていたもの。
(とても暑かったガラスケース…)
透き通っていたガラスの地獄に入れられたんだ、と蘇って来た前の自分の記憶。
あれはアルタミラで実験動物だった頃。今と同じにチビだったけれど、心も身体も成長を止めて過ごしていたから、本当の年は分からない。子供だったか、子供と呼べない年だったかは。
それでも心は子供だったし、身体も子供。
檻から引っ張り出される度に怯えて、実験室を見たら震え上がった。何が起こるのかと、どんな酷い目に遭わされるのかと。
研究者たちは容赦なく「入れ」と顎で命じたけれど。ガラスケースに押し込めたけれど。
(低温実験をされる時だと、ガラスに氷の花が咲くけど…)
中の温度が下がっていったら、咲き始めたのが氷の花。命を奪おうと咲いてゆく花。
それとは逆に高温の時は、ガラスケースは蒸気で曇った。研究者たちが見守るケースの外より、中が遥かに暑いから。冬に窓ガラスが曇るみたいに、内側の方から真っ白に。
どういう風に曇っていったか、中の自分は観察してなどいないけれども、見えなくなった外側にいた研究者たち。中の温度が上がり始めたら、酷い暑さに襲われたならば、見えない外。
研究者たちが曇り止めの装置を作動させるまで、いつも曇ったままだったガラス。
曇りが消えたら、彼らは外で観察していた。温室の中の花を眺めるみたいに、覗き込んで。中で苦しむ自分を見ながら、記録したり、何かを話していたり。
温室みたい、と今だから思う強化ガラスのケース。前の自分が苦しめられた高温実験。ガラスの外は少しも暑くないのに、内側は凄まじい暑さ。真夏どころではなかった温度。
(前のぼく、温室に入れられちゃってた…)
それも曇り止めのガラスの温室、外から中を覗けるものに。前の自分は花ではないのに、暑さに苦しむ人間なのに。…研究者たちの目から見たなら、単なる実験動物でも。
たとえ温室の花だとしたって、研究者たちは酷い扱いはしなかったろう。美しい花ならば愛でて楽しみ、適切な温度にしてやった筈。少しでも長くその美しさを保てるように。
けれど実験動物は違う。何処まで耐えることが出来るか、それを調べていたのだから。ケースの中で倒れて動かなくなるまで、温度を上げてゆくだけだから。
(見てたのだって、ぼくの変化を調べてただけ…)
どのくらいで肌が赤くなるのか、火ぶくれや火傷はいつ出来るのか。観察するには、白く曇ったガラスではまるで話にならない。向こう側が透けて見えないと。
だから使われた曇り止めの装置。ガラスケースが白く曇れば、スイッチを入れて。
いったい何度まで上がっただろうか、あの時のガラスケースの中は。温度計など内側にはついていなかったのだし、前の自分は何も知らない。どれほどの暑さに包まれたのか。
息も出来ないほどに暑くて、真っ赤になっていった肌。日焼けしたように。
其処を過ぎたら肌は火傷して、幾つも火ぶくれが出来たと思う。熱さと痛みで泣き叫んだのに、研究者たちは何もしなかった。淡々と記録し続けるだけで、けして下げてはくれなかった温度。
(床にバッタリ倒れちゃっても…)
焦げそうに熱い床に倒れ伏しても、まだ上がる温度。喉の奥まで焼け付くようで、息を吸ったら肺の奥まで入り込む熱。身体の中から焼き尽くすように。
それでも温度は上がり続けるから、「これで死ぬんだ」と薄れゆく意識の中で思った。焼かれて此処で死んでしまうと、きっと黒焦げになるのだと。
(死んじゃうんだ、って思ってたのに…)
気が付いたら、また檻の中にいた。自分の他には誰もいなくて、餌と水が突っ込まれる檻に。
身体のあちこちが酷く痛くて、呼吸をするのも辛いほど。治療が終わって檻に戻されても、まだ癒えたとは言えない身体。火傷の痕があったりもした。明らかにそうだと分かるものが。
死んではいなかったのだけど。命は潰えていなかったけれど、その手前までは行ったのだろう。
酷かったよね、と今でも身体が震える。一人きりのタイプ・ブルーでなければ、きっと殺されていたのだと思う。死の一歩手前で止めはしないで、どんどん温度を上げ続けて。
死体になっても、もう動かなくなった身体が真っ黒に焦げてしまうまで。炭化して崩れて、灰になってケースの中に舞うまで。
(今のぼくだと、温室育ちの子供なのに…)
弱い子供だから、過保護なくらいに守られて育って来たというのに、同じに弱かった前の自分は温室で酷い目に遭った。あれを温室と呼ぶのなら。曇り止めの装置が備えられていた、あれも温室だったなら。…アルタミラにあった、強化ガラスのケース。
あの中だって適温だったら、きっと暖かかったのだろうに。心地よい温度に保ち続けることも、使いようによっては出来た筈。研究者たちが、そうしてみようと考えたなら。
春の陽だまりみたいな温度。それを保った、温室のようなガラスのケース。そういうケースに、檻の空調が壊れて寒かった日に入れて貰えたなら、とても幸せだっただろうに。
同じケースでも全く違うと、床で丸くなってまどろみさえもしたのだろうに。
(ホントに上手くいかないよね…)
実験動物だったから仕方ないけど、と思い出しても悲しい気分。温室の中で育つ花なら、寒さで凍えて震えていたなら、暖かい場所へ移されたのに。「花が傷む」と大急ぎで。
とりあえず此処でいいだろうかと、少しでも暖かい部屋へ。花を飾るような場所ではなくても、鍋が置かれたキッチンでも。
(実験動物だっていうだけで、ガラスケースの気持ちいい温室も無し…)
適温だったケースなんかは知らないよ、と前の自分の不幸を嘆いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり問い掛けた。
「あのね、ぼくって温室育ちだよね?」
ぼくみたいなのを、そう言うんでしょ?
パパとママに守られてぬくぬく育って、うんと過保護に育って来たと思うから…。
ホントの温室では育ってないけど、温室育ち。外の厳しさを知らないから。
「温室育ちなあ…。間違いなくそうだと俺も思うが、どうかしたのか?」
今のお前は正真正銘、温室育ちのチビだよな。前のお前だった頃と違って。
幸せ一杯の温室の花だが、なんでいきなり温室なんだ…?
分からんぞ、と怪訝そうな顔をしているハーレイ。「何処から温室が出て来たんだか」と。
「お前の家には温室は無いだろ、俺の家にも無いんだが…。新聞にでも載ってたか?」
植物園か何かの記事が出てたか、温室の定番は植物園だし。
其処から温室育ちなのか、と尋ねられたから「ううん」と横に振った首。「帰りに見た」と。
「学校の帰りに歩いていたら、温室がある家に気が付いて…。見てたら中にどうぞ、って」
それで温室を見せて貰って、素敵だよね、って家に帰っても思ってて…。
真冬に桜を咲かせたりする、って聞いたから。ちょっといいでしょ、温室があったら雪の季節にヒマワリだって咲くものね。
だけど、うちには温室は無いし…。ぼくが弱すぎる子供だったから、ママは諦めちゃったかも。温室の世話までしていられない、って温室作り。
そんなこととか、いろんなことを考えていたら思い出しちゃった。…前のぼくのことを。
今のぼくは温室育ちだけれども、前のぼくは温室で酷い目に遭わされたんだっけ、って。
「はあ? 温室って…」
シャングリラにあった温室のことか、白い鯨には農作物用の温室もちゃんとあったしな。規模はそんなに大きくないから、嗜好品までは無理だったが…。コーヒー豆とかカカオ豆とかは。
お前、あそこで何かあったか、酷い目に遭ったなんて言うからには…?
そんな記憶は全く無いが、とハーレイが首を捻っているから、「もっと前だよ」と遮った。
「シャングリラだったらいいんだけれど…。閉じ込められても、すぐ出られるから」
瞬間移動で飛び出さなくても、「誰か助けて」って思念で呼んだら、開けに来るでしょ?
ソルジャーのぼくが覗いている間に、扉が勝手に閉まっちゃったとかいう事故ならね。
白い鯨なら、酷い目に遭う前に出られるけれども、アルタミラ…。実験動物だった頃だよ。
温室って言うには暑すぎたけれど、高温実験用のガラスケースのこと。…ガラス張りな所は温室そっくり、曇り止めまでついてたってば。中の様子が見えるようにね。
前のハーレイは入れられていないの、あの暑かったガラスケースには…?
地獄みたいに暑い温室、と尋ねてみたら、「あれなあ…」とハーレイが眉間に寄せた皺。
「温室って言うから何かと思えば、高温実験のガラスケースのことか…」
俺だって一応、経験はあるが、お前ほどではなかったな。
前のお前から聞いた話じゃ、死ぬかと思うほど酷い目に遭っていたそうだから…。
お前がそれなら、俺はせいぜいサウナ止まりってトコだったろうさ、という答え。サウナ程度のガラスケースしか知らないぞ、と。
「こりゃ死ぬな、と考えたことは無かったからな。…俺の場合はサウナだろう」
「…サウナ?」
なにそれ、前のハーレイが受けてた実験、そういうのなの…?
「ものの例えというヤツなんだが…。お前もサウナは知ってるだろう。言葉くらいは」
シャングリラにサウナの設備は無かったわけだが、今の時代はお馴染みのヤツだ。前の俺たちが生きてた頃にも、人類の世界にはあった筈だぞ。
ただしサウナも、お前には少し暑すぎるがな。…高温実験のケースほどじゃなくても。
今のお前ならゆだりそうだ、とハーレイが言うから頷いた。本当にその通りだから。
「うん、ちょっぴりなら入ってみたよ。小さかった頃に、パパと一緒に」
ホテルのサウナ、と話した幼い頃の体験。両親と出掛けた旅先のホテルで起こった出来事。父がサウナに行くと言うから、「ぼくも行きたい!」とくっついて行った。
どんな場所かも知らないくせに。「暑いんだぞ?」と父に脅かされても、「おっ、サウナか」と顔を輝かせた父を目にした後では効果など無い。「きっと素敵な場所なんだ」と考えるだけで。
それで強請って一緒に出掛けて、母が後ろからついて来た。「ブルーには無理よ」と。
サウナの前でも「本当に入りたいのか、ブルー?」と念を押されたのに、張り切って入ったのが幼かった自分。父と一緒に楽しもうと。
けれど二人で入ったサウナは、もう本当に暑かったから。とんでもなく暑い部屋だったから…。
(クラクラしちゃって、すぐにパパに抱えられて外に出て…)
まだ楽しみたい父から母に引き渡された。「やっぱりブルーには暑すぎたな」と。
父は一人でサウナに戻って、暑さにやられた幼い自分は暫くの間、母にもたれて廊下のソファでぐったりとしていたのだけれど。「目が回りそう」と、目をギュッと瞑っていたけれど…。
身体の熱さが引いていったら、アイスクリームを強請った記憶。「冷たいものが食べたい」と。
サウナはとても暑かったのだし、身体を冷やすのにアイスクリーム。
ホテルだからアイスクリームもあるよね、と母に強請って、アイスクリームどころかパフェ。
とても食べ切れないようなサイズの、大きなパフェを前にして御機嫌だった覚えがある。一人で全部食べていいんだと、「このパフェはぼくのものなんだから」と。
多分、食べ切れなかっただろうパフェ。どう考えても大人サイズで、今の自分でも食べ切れるかどうか怪しいから。
きっと「美味しそう!」とパクパクと食べて、早々に降参したのだろう。「もう入らない」と。残りは母が食べてくれたか、サウナから戻った父が笑って平らげたのか。
「なるほど、サウナで参っちまった後にはパフェを強請った、と…」
本当に今のお前らしいよな、我儘なのも。…サウナに行くと頑張る所も、その後のパフェも。
そういうお前も可愛らしいが、サウナ、けっこう暑かったろうが。お前が参っちまうくらいに。
今の俺はよくジムで入るんだが、前の俺がやられた高温実験だって恐らくサウナ程度だろう。
もっとも、実験の時に温度計なんぞは無かったから…。正確な所は分からないがな。
何度も実験を受ける間に、慣れてしまうってこともあるから。身体の方が。
しかしだ、俺の場合は耐久実験だったわけで、どれくらいの時間を耐えていられるかが、研究者どもの興味の的だった。飲み物も無しでサウナに入っていられる時間。
だから温度はそれほど高くはなかっただろう。…前のお前の場合は温度が高かったんだが。
気を失うまで上げたんだよな、とハーレイが顔を曇らせる。「チビの子供に酷いことを」と。
「そう…。もう死んじゃう、って思っていたよ。いつも、とっても暑かったから」
息も出来ないくらいに暑くて、肌が真っ赤になっちゃって…。
酷い時だと火傷もしてたし、火ぶくれだって幾つも出来ちゃった…。
ホントに酷いよ、いくら実験動物でも…。後で治療をするつもりでも、あんまりだよね。
前のぼく、見た目は子供だったし、中身も子供だったのに…。
ガラスケースの中で「熱い」って泣いていたのに、止めてくれさえしなかったよ。
今のぼくだと、同じぼくでも本物の温室育ちなのに…。
実験用のガラスケースじゃなくって、ガラス張りの温室の方なのに。ちゃんと身体にピッタリの温度で、世話だってきちんとして貰えて。
そういう温室、ちょっぴり憧れるんだけど…。
花を育てるための温室、素敵だよね、って思ったんだけど…。
いつかハーレイと暮らす家に温室が欲しいけれども、難しいよね、と溜息をついた。温室育ちの自分がそれを欲しがったなら、ハーレイの手間が増えそうだから。
具合が悪くて寝込んだ時には、温室の世話までハーレイがすることになるから。
「そうだな、お前の世話をするだけで手一杯かもしれないなあ…」
俺の仕事が多い時だと、そうなることもあるだろう。お前の世話しか出来ないような日。
そうなったら花が可哀想だしな、一日くらいは世話を休んでも大丈夫だとは思うんだが…。
何日か続けば、命が危うくなっちまう。温室育ちの花は弱くて、こまめな世話が必要だから。
お前の夢も分かるんだがなあ、前のお前が温室で酷い目に遭った分だけ、憧れるのも。
同じにガラスで出来たヤツでも、温室の方が遥かに素敵だからな。
家で温室は無理となったら、デートに行くしかないってことか…。植物園の温室まで。
あそこだったらデカイ温室があるぞ、とハーレイも思い付いた場所が植物園。やっぱり其処しか無さそうなのが、ガラスで出来た大きな温室。
「ハーレイも植物園だと思う?」
そんな楽しみ方しか出来そうにないね、ガラス張りの温室…。家じゃ無理なら。
「うむ。せっかくアルタミラの地獄とは違う時代に生まれて来たのになあ…」
本物のサウナを楽しめる時代で、俺はサウナをジムで満喫してるのに…。
今よりもずっとチビだったお前も、サウナに懲りてパフェを食ったりしたのにな…?
温室の方は植物園しか手が無いというのが、なんともはや…。
前のお前の辛い記憶が吹っ飛ぶくらいの素敵な何かが、何処かにあればいいんだが…。
温室と言ったら植物園しか無さそうだよなあ…。
なんたってモノが温室なんだし、植物を育ててやるための部屋で…。
いや、待てよ?
温室ってヤツにこだわらなければ、似たようなヤツでアルタミラ風で…。うん、あれだ!
植物園よりも面白い施設があるんだった、とハーレイはポンと手を打った。
「温室じゃないが、地球のあちこちの気候を再現している所なんだ」
焼け付くような砂漠だったり、雪と氷の世界だったり。…そういう部屋が並んでる。
うんと暑い部屋から出て来た途端に、「次はこちら」と氷の世界に続く扉があったりしてな。
扉を開けて入らない限りは、空調の効いた普通の建物なんだが…、という説明。いながらにして地球のあらゆる気候を体験、それが売りの施設。
「砂漠とか、雪と氷とか…。面白いの?」
植物園とは違うみたいだし、木とかは植わってなさそうだけど…。凄く極端な温度なだけで。
「俺たちにとっては楽しい施設じゃないか?」
特にお前だ、高温実験も低温実験もされていたのが前のお前だろうが。…死にそうなほどの。
それが今だと、暑い部屋にも寒い部屋にも、遊びで入って行けるんだからな。
其処の施設に行きさえすれば。
服とかも貸して貰えるんだぞ、防寒用のを。サイオンでシールドしたりしないで、自分の身体で寒さを体験したいなら。…暑い方の部屋なら、暑気あたり防止用のグッズも借りられるから。
入っている時間も自分の好きに決めていいんだ、とハーレイが教えてくれたから。
「それ、行ってみたい…!」
植物園の温室とかより、ずっと幸せな気分になれそう。今は遊びで入れるよ、って。
ガラスケースじゃないけれど…。部屋の中に入って行くみたいだけど。
「なら、行くとするか。いつかお前と一緒にな」
俺の車でドライブがてら、デートに出掛けて行くとしようか。アルタミラの気分を味わいにな。
砂漠の暑さや氷の世界の寒さくらいじゃ、前のお前の体験にはとても及ばんが…。
「ううん、充分、素敵だってば。遊びで行けるアルタミラだね」
こんな実験をされていたよね、って暑い部屋とか寒い部屋に入って行くんでしょ?
「俺たちにとっては、そういう施設になっちまうなあ…。本当の所は体験用の施設なんだが」
地球には豊かな気候があります、と味わうための所なわけで…。
「どんな所でもいいじゃない。入るぼくたちが、実験動物じゃないのなら」
自分で決めて入って行くなら、ガラスケースでも今は温室なんだよ?
今のぼくにはガラスの温室、ちょっぴり憧れなんだから…。
いつか二人で遊びに行こうね、とハーレイと約束の指切りをした。大きくなった時の約束。
温室育ちの今の自分だけれども、今度は遊びで体験できる。
高温実験や低温実験用のガラスケースの代わりに、暑すぎる部屋も、寒すぎる部屋も。
家にガラス張りの温室を作って楽しむ代わりに、ハーレイと二人で遊びにゆく。地球のあらゆる場所の気候を体験できる施設まで。
「地球は素敵な星だけれども、地球の上にも暑すぎる所があるんだね」などと言いながら。
「寒すぎる場所はとても寒いね」と、着ぶくれて笑い合いながら。
今は平和な時代なのだし、そんな所に出掛けて行っても、怖いことなど何もない。
暑すぎる部屋で疲れた時には、大きなパフェを強請ってみよう。「暑かったよ」とハーレイに。
幼かった自分がサウナでクラクラした時みたいに、我儘に。
きっとハーレイは、気前よく許してくれるだろうから。
「食べ切れるのか?」と可笑しそうに笑って、とても大きなパフェを注文してくれるから…。
温室とガラス・了
※温室のガラスで、実験動物だった頃を思い出してしまったブルー。高温に晒される実験。
けれど今では、高温の世界を楽しめる施設があるのです。酷寒の世界も、今の地球ならでは。
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「あれっ、ハーレイ?」
どうしたの、と恋人に向かって尋ねたブルー。休日の午後に。
今日は土曜日、午前中からハーレイが家に来てくれた。お昼御飯もこの部屋で二人、ゆっくり。午後のお茶は庭か部屋かと迷って、部屋の方を選んだ。
庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。其処に行くのも素敵だけれど、庭だと気になる両親の視線。ダイニングからも庭は見えるし、リビングからも。一階の他の場所からも。
ハーレイと初めてデートした場所が、庭で一番大きな木の下。
特別な場所には違いなくても、両親の視線は避けられないから、やっぱり部屋の方がいい。そう思ったから、いい天気だけれど部屋でお茶。恋人同士で過ごすなら此処、と。
そのハーレイとお茶を飲んでいたら、起こった事件。褐色の肌の恋人の上に。
「いや、ちょっと…」
大したことはないんだがな、とハーレイは微笑んでいるけれど。
瞬きをしたら零れた涙。鳶色をした瞳の片方、其処から溢れて頬を伝って。つうっと、一粒。
「涙って…。もしかして、ゴミが入っちゃった?」
片方だけが涙だもんね、と問い掛ける間も、ハーレイはパチパチと瞬きしながら。
「そのようだ。…何処かに入っちまったんだな」
上手く流れりゃいいんだが…。俺の目玉がデカイ分だけ、入り込める場所も多いから。
お前の目玉に負けていないぞ、とハーレイが飛ばす愉快な冗談。「お前の目玉は大きいが」と。チビでも目玉はやたらデカイと、「俺の目玉と変わらんだろうが」と。
確かにそうかもしれないけれども、ハーレイの目玉に飛び込んだゴミ。宙に浮かんだ小さな埃。
「…ごめん、ぼくの掃除…」
朝にきちんと掃除したけど、埃、残っていたのかも…。
テーブルの下に落っこちてたとか、ぼくが見落としちゃっていたとか。
それがハーレイの目に飛び込んじゃった、と項垂れた。「ぼくのせいだよ」と謝って。
「お前のせいって…。そうでもないだろ、小さいのは何処にでも浮かんでるモンだ」
綺麗に掃除したての場所でも、運が悪けりゃ飛び込まれちまう。目に見えないから防げないし。
避けようがないなら、こうなるのは運の問題で…。
しかしだな…。
まだ取れないか、とハーレイが繰り返している瞬き。何処へ入ったのか分からない埃。
(涙、ポロポロ…)
洗面所に行った方がいいんじゃあ、と思うくらいに零れる涙。瞬きの度に目から溢れて。幾つも頬を伝ってゆくのに、埃は一向に流れてくれないらしいから…。
(洗った方が早いよね?)
小さな涙の粒に頼るより、蛇口からザアザア流れる水。それで洗えば、アッと言う間に何処かへ流れてゆくだろう。何処にあるのか謎の埃でも、目ごと洗ってやりさえすれば。
泣いているよりそっちがいいよ、と「洗面所に行く?」と提案しようとして。
(ハーレイの涙…)
まだ泣いてるよ、と眺めたらドキリと跳ねた心臓。「ゴミのせいだ」と思っていた時は、まるで気付いていなかったこと。…ハーレイの涙。
片方の目からしか零れていないし、原因は小さな埃だけれど。ハーレイは埃を洗い流すために、涙を使っているのだけれど。
(だけど、涙は涙だもんね…?)
泣いているのとは違っても。目玉の掃除に使うものでも、涙は涙。ハーレイの目から零れる涙。悲しい時には流れ出すもので、嬉しい時にも溢れたりする。頬を濡らして落ちる涙は。
(…ハーレイの涙、いつ見たんだっけ…?)
考えてみれば、前の自分だった頃に見たきりのような、ハーレイの涙。褐色の頬を伝う涙を見た覚えが無い。鳶色の瞳が潤むのも。…今の自分は。
(今のハーレイ、泣かないから…)
まるで記憶に無い、今のハーレイが泣く所。もしかしたら、涙が滲む瞳も。
きっとハーレイの涙を見てはいないと思う。笑顔はすっかりお馴染みだけれど、泣き顔の方。
この地球の上で、ハーレイと再会した時ですらも。
(…ハーレイ、泣いていなかった…)
そうだったよね、と手繰ってみる記憶。
教室で聖痕が現れた時は、仕方ないとも思うけれども、その後のこと。家まで訪ねて来てくれた時に、ハーレイは泣きはしなかった。
「ただいま」と恋人に呼び掛けたのに。「帰って来たよ」と、思いをこめて告げたのに…。
あの時もハーレイは泣かなかった、と今頃になって気が付いた。前の自分たちが別れた時から、長い長い時が経ったのに。…やっと再会出来た二人だったのに。
それでも泣かなかったのがハーレイなのだし、ちょっとしたことで泣くわけがない。ハーレイの涙は知らなくて当然、「見たことがない」と思って当然。
(ぼくは、しょっちゅう泣いているのに…)
泣かないなんて、なんだかズルイ、と見詰めてしまった恋人の顔。洗面所のことなど、すっかり忘れて。瞬きする度に零れる涙に目を奪われて。
そうする間に、止まった涙。ハーレイが手でゴシゴシと擦っている頬。ついでに目元も。
「よし、もういいぞ。厄介だったが、取れてくれたようだ」
こんなに時間がかかるんだったら、洗面所を借りれば良かったな。洗えば一発なんだから。
俺としたことがウッカリしていた、席を外したくなかったもんだから…。
せっかくお前と二人きりなのに、「ちょっと行ってくる」というのもなあ…?
しかし、話も途切れちまってたし、俺がいたって大して意味は無かった、と。…瞬きばかりで、ゴミを取るのに夢中になって、結局だんまりだったんだから。…ん?
なんだ、お前、変な顔をして…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どうかしたのか?」と。
「えっと…。ハーレイの涙を見てる間に、気が付いたんだけど…」
今のハーレイ、泣かないよね。
目にゴミが入った時の涙じゃなくって、ホントの涙。…今のハーレイ、泣かないでしょ?
「はあ? 泣かないって…」
俺のことなのか、とハーレイが指差す自分の顔。「今の俺か?」と確認するように。
「そうだよ、今のハーレイのこと。…ハーレイの涙、一度も見たことがないよ」
ぼくは何度も泣いちゃってるのに、ハーレイは泣いていないんだよ。
さっきはポロポロ泣いていたけど、あれはゴミのせいで、本当に泣いたわけじゃないもんね。
涙の中には入らないよ、と数えてやらない、さっき見た涙。数は沢山あったけれども。
「泣いていないって…。そうだったか?」
今の俺は一度も泣いていないか、お前の前では…?
「うん、知らない。ハーレイの涙は、さっきが初めて」
泣いてる内には入らないけど、あれだって涙。でも、本当の涙は一度も見ていないんだよ。
ゴミじゃなくって、心のせいで出てくる涙、と話した「本当の涙」の意味。悲しい時も、嬉しい時にも涙は零れてくるものだよね、と。
「そういう涙を、今のハーレイは流してないよ。ただの一度も」
ぼくに初めて会った時にも、ハーレイは泣かなかったじゃない、と指摘してやった。教室でも、この家を訪ねて来た時だって、と。
ようやく会えて、「ただいま、ハーレイ」と言ったのに。「帰って来たよ」と、愛おしい人に。
「そういや、そうか…」
泣いていないな、あの時の俺は。…教室の方は、驚いちまってそれどころではなかったが…。
最初は事故だと思ってたんだし、お前、教え子なんだしな?
教師の俺が先に立つぞ、とハーレイが持ち出した自分の立場。「教室では泣けん」と。
「それは分かるけど、ぼくの家に来た時は違うでしょ?」
記憶はすっかり戻ってるんだし、ぼくが誰かも分かってるから…。
他の先生には「生徒の様子を見に行ってくる」って言っていたって、ハーレイの中では生徒じゃないでしょ?
恋人に会いに出掛けるんだよ、ずっと昔に別れたきりの。…シャングリラで別れて、それっきり会えていなかった、ぼくに。
部屋に入ったら、そのぼくがちゃんといるんだから…。「ただいま」って挨拶したんだから…。
それでも少しも泣かないだなんて、ハーレイ、とっても酷いじゃない。
感動の再会だったのに涙も流さないなんて…、と恋人を責めた。目の中に入った小さなゴミで、今のハーレイは涙を流したから。…涙が溢れる瞳を持っているのだから。
「そうは言うがな、あの時のことをよく思い出してみろよ?」
泣かなかったのは俺だけじゃない。…お前だって泣いていなかったぞ。
メギドじゃ散々泣いたそうだが、あの時は涙の一粒も無しだ。…デカイ目は大きめだったがな。
いつもよりかは大きかった、とハーレイが言うのは当たっている。零れ落ちそうに見開いていた覚えがあるから。…泣くよりも前に。
二度と会えない筈のハーレイ、そのハーレイにまた会えたのだから。
「本当に本物のハーレイなんだ」と、現れた恋人を見詰めていたのが自分だから。
確かに泣いてはいなかったけれど。…自分の方も、涙を流して恋人を迎えはしなかったけれど。
とはいえ、あの時、泣かなかったことには理由がある。…泣けなかったと言うべきか。
「…ぼくだって泣きたかったよ、ホントは…。またハーレイに会えたんだもの」
教室の時には、聖痕の傷がとても痛くて、泣く前に気絶しちゃったけれど…。泣いていたって、きっと「痛いよ」っていう方の涙だったと思うけど…。
ハーレイが家に来てくれた時は、ママがいたから我慢しただけ。
あそこでウッカリ泣いてしまったら、涙、止まらなくなりそうだから…。ハーレイと恋人同士なことまで、ママに知られてしまいそうだから…。
恋人同士だってバレてしまったら大変だものね、と明かした理由。ハーレイは実は恋人なのだと母に知れたら、二人きりにはして貰えない。…せっかく再会出来たのに。少しでいいから、二人で一緒に過ごしたいのに。
「俺の方も同じ理由だが…?」
事情はお前と全く同じだ、泣くわけにはいかなかったこと。…俺の方がお前より大変だったぞ。
学校じゃ生徒が山ほどいたから、感動の再会どころじゃない。教師の俺を優先させないと。
お前の付き添いで乗った救急車の中でも、俺はあくまで教師だからな。
救急隊員が側にいるのに、涙なんか流していられるもんか。…いい年をした大人の俺が。
若い女の先生だったら、泣きながら生徒の手を握ってても、救急隊員も分かってくれそうだが。先生だってパニックなんだ、と。「大丈夫ですよ」と慰めてくれもするだろう。
しかし俺だと、「頼りない先生もいたもんだ」と、呆れられちまうのがオチなんじゃないか?
それじゃ困るし、俺は泣けずに付き添いだ。…「頑張れよ」とお前に声を掛けながら。
病院に着いて「大丈夫らしい」と分かった後には、学校に戻らなきゃいけなかったし…。
お前の守り役になることも含めて、色々な仕事を片付けてホッとしたものの…。
やっとお前の家に行ったら、お母さんがお前の部屋にいた。…お前と同じ理由で涙は駄目だ。
俺が涙を流しちまったら、お前も一緒に泣いちまう。それまでは我慢してたって。
マズイ、と涙を堪えたわけでだ、おあいこだな。
あの時の俺は、お前と同じ理由で泣けなかったんだから、というのがハーレイの言い分。
もしも涙を流したならば、目の前の恋人も、きっと泣き出すだろうと懸命に堪えていた涙。
お互い、涙を流していたなら、利かなくなるだろう心の歯止め。会いたかったと繰り返す内に、恋人同士なことだって知れる。…部屋に出入りする母の耳に入って、聞き咎められて。
泣かなかった理由は同じなのだ、と言われてみれば一理あるから、再会した時は仕方ない。涙のせいで母に恋が知れたら、ハーレイは出入りを禁じられるか、制限されるか。
(…ぼくはチビだし、恋をするには早すぎる年で…)
いつもハーレイに言われていること、それをそのまま両親が口にしていただろう。もっと大きく育ってから恋をするように、と。…「子供に恋はまだ早い」とも。
恋の相手は分かっているから、近付けないようにされるハーレイ。二人きりで会うなど、きっと厳禁。二人でお茶を飲むにしたって、「客間にしなさい」と厳命されて監視付きとか。
そうなっていたら、前の自分たちの恋の続きを楽しむどころか、まるで引き裂かれた恋人同士。どんなにハーレイのことが好きでも、甘えることさえ出来そうにない。
(…あの時、ハーレイが泣いちゃっていたら、そういうコース…)
辛い恋をする羽目になっていそうだし、涙を堪えたハーレイを評価せねばならない。自分たちの恋を守るためにと、ハーレイは泣かなかったのだから。
「…分かったよ。あの時にハーレイが泣かなかったのは、きっと正しいだろうけど…」
それで正解なんだろうけど、その後のことはどうなるの…?
前のぼくたちのことを、幾つも二人で思い出したよ。シャングリラで暮らしていた頃のことを。
だけど、ハーレイ、何を思い出しても、ちっとも泣いたりしないじゃない…!
泣き出すのはいつも、ぼくばかりだよ。…ハーレイは慰めてくれるけれども、泣かないよ。
今のハーレイ、ホントは心が冷たいんじゃないの、と意地悪い言葉をぶつけてみた。
「泣かないなんて冷たすぎるよ」と、「ぼくと二人きりの時でも、絶対、泣かないものね」と。
いくら記憶を探ってみたって、覚えが無いのがハーレイの涙。
前のハーレイなら泣いていたのに、前のハーレイが流した涙は、今も記憶にあるというのに。
まさか本当に冷たいわけでもないだろうに…、と見据えてやったら、ハーレイも心外そうな顔。
「おいおい、俺が冷たいってか…?」
前より冷たくなったと言うのか、泣くのはお前ばかりだから。…思い出話をした時だって。
そいつはお前の勘違いだな、今の俺だってちゃんと泣いてる。
悲しくなったら、涙は溢れてくるもんだ。…俺がどんなに堪えてみたって、さっきみたいに。
もっともゴミのせいではないがな、そういう時に出てくる涙は。
目にゴミなんかが入らなくても、泣く時は泣く、とハーレイが言うものだから。今のハーレイも泣くらしいから、「何処で?」と問いを投げ掛けてみた。
今の自分はハーレイの涙を見たことが無いし、涙の理由も分からないから。
「…ハーレイ、何処で泣いてるの?」
ぼくの前では泣いてないよね、いったい何処で泣いているわけ…?
「お前が知らない所でだ。…いつも一緒にいるわけじゃないしな、俺の家は違う場所だから」
俺が一人で家にいる時、とうしているのか、お前、全く知らないだろうが。
機嫌よく飯を食ってる時だってあるが、泣いちまう時もあるってことだ。…一人きりだと。
酒に逃げちまうほどに泣きたい気分の時もあるから、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。今の時代は平和な時代で、前の自分たちが生きた頃とは違うのに。
今のハーレイの毎日は充実していて、泣きたくなるような悲しみとは縁が無さそうなのに。
「一人きりだと泣いちゃうって…。なんで?」
ハーレイの家には、悲しいことなんて無さそうだけど…。今のハーレイの暮らしにも。
仕事とかで大変な時はあっても、そんなことくらいで泣きはしないでしょ?
お酒を飲みたくなってしまうくらいに悲しいだなんて、普通じゃないよ。…お酒、楽しく飲んでいるんじゃなかったの…?
地球の水で作ったお酒だもんね、と瞳を瞬かせた。前のハーレイも酒が好きだったけれど、今のハーレイも大好きな酒。…合成ではない本物の酒を、楽しんでいる筈だから。前のハーレイが見た死の星とは違う、青く蘇った地球の水。それで仕込んだ酒は格別だと聞いたから。
もっとも、酒の美味しさは分からないけれど。…子供になった今の自分はもちろん、前の自分も飲めなかった酒。何処が美味しいのかまるで分からず、悪酔いしていたソルジャー・ブルー。
それでもハーレイが酒を愛する気持ちは分かるし、同じ酒なら、断然、楽しく飲む方がいい。
悲しい酒を飲むよりも。…悲しみを酒で紛らわすよりも、楽しい酒の方が素敵だろうに。
それなのに何故、と不思議に思うこと。悲しい酒を飲むハーレイもそうだし、そうなる理由も。
「…俺が泣いちまうのは何故か、ってか…?」
確かに地球の酒は美味いし、俺にとっては最高の酒だ。…前の俺の記憶が戻ってからは。
地球の水で仕込んだ酒だと思えば、どの酒も美酒になるんだが…。もう格別の美味さなんだが。
そいつが悲しい酒になるのは、前のお前が原因だな。…前の俺が失くしちまったお前。
前のお前を思い出しちまった夜は駄目だ、と呟くハーレイ。「悲しい酒になっちまう」と。
「…酒に逃げたい気分になるんだ、前の俺じゃなくて今の俺がな」
俺はこうして平和な時代に生きてるわけだが、いなくなっちまったソルジャー・ブルー。
前のお前が、今も何処かで寂しがってるような気がしてな…。独りぼっちで、膝を抱えて。
そういう気持ちに捕まった夜は、俺だって泣きたい気持ちになる。前のお前に引き摺られて。
どうして止めなかったんだ、と最後に見た背中を思い出してな…。
泣き始めたらもう止まらない、と今のハーレイを悲しませるらしいソルジャー・ブルー。悲しい酒を呷らせるほどに、前の自分が今のハーレイを悲しみの淵の底に沈めるらしいから…。
「…ぼく、此処にいるよ?」
死んじゃったけれど、新しい命を貰って生きてるよ。生まれ変わって来て、前のぼくも一緒。
ぼくの中には、ちゃんと前のぼくも入っているから…。中身は同じなんだから。
寂しいだなんて思ってないよ、と前の自分の代わりに言った。ハーレイと会い損なった日には、少し寂しくなるけれど。同じ家で一緒に暮らせないことも、たまに寂しく思うけれども。
「それは分かっちゃいるんだが…。前のお前は、お前の中にいるってことはな」
俺だって充分、承知してるが、そのお前。…前のお前を魂の中に持っているお前も、前のお前に嫉妬して膨れているだろうが。「前のぼくなら、こんな風に扱わないくせに」と。
それと同じだ、俺にとっても前のお前はまだ特別だ。
今のお前がそっくり同じ姿になったら、前のお前もすっかり溶けてしまうんだろうが…。幸せに生きてる今のお前と重なっちまって、何処かに消えるんだろうがな。
だが今は無理だ、とハーレイの心を占めているらしいソルジャー・ブルー。一人きりの夜には、涙さえ流させるほどに。…地球の酒さえ、悲しい酒になるほどに。
「…前のぼく、今のぼくより特別?」
ハーレイの中では、特別だって言ったよね…?
ぼくが生きてハーレイの前にいたって、前のぼくの方が特別なの…?
前のぼくだって、ぼくなのに…、とチリッと胸が痛むけれども、これだって嫉妬。どうして前の自分の方が特別なのかと、ハーレイの心を惹き付けるのかと。
ハーレイの答えを知りたい気持ちと、聞きたくないと思う気持ちと。
二つに分かれて乱れる心も、前の自分に嫉妬しているせいなのだろう。前の自分も自分なのに。
今のハーレイが「特別だ」と言うソルジャー・ブルー。遠く遥かな時の彼方で生きていた自分。
ハーレイは何と答えるだろうか、自分の問いに。「今のぼくより特別なの?」という質問に。
どうなのだろう、とチリチリと痛む胸を抱えて待っている内に、ハーレイがフウと零した溜息。
「…お前には悪いが、特別だろうな。今の俺にとっても、前のお前は」
前のお前が、今のお前よりも可哀想だった分だけ、特別になる。
幸せに生きてた時間が少なかった分だけ。…前のお前はそうだったろうが、長く生きていても。
今のお前よりも遥かに長い時間を生きたが、幸せは少なかったんだ。…今のお前よりも。
それがソルジャー・ブルーだろうが、とハーレイの鳶色の瞳が翳る。時の彼方で失くした恋人、逝ってしまった恋人を想う悲しみで。
その恋人は、今の自分の中にいるのに。…ソルジャー・ブルーは、確かに自分だったのに。
チリリと痛む小さな胸。前の自分に対する嫉妬。「前のぼくだって、ぼくなのに」と。
どうして今のハーレイの心を縛るのだろうと、今もハーレイの特別のままでいるのだろうと。
「…ぼく、前のぼくに勝てないの…?」
今のハーレイの特別になれるの、前のぼくで今のぼくじゃないよね…?
ぼくは前のぼくに勝てないままなの、いつか大きくなるまでは…?
ハーレイが前のぼくの姿を、今のぼくに重ねられるようになる時までは…、と俯いた。その日が来るまで、今の自分は負けっ放しのようだから。前の自分に敵わないままで、ハーレイの涙も前の自分のもの。ハーレイは前の自分を想って泣いても、今の自分の前では泣いたりしないから。
「お前なあ…。俺はきちんと説明したぞ。前のお前は、どうして俺の特別なのか」
今のお前よりも可哀想だった分だけ特別なんだ、と話した筈だ。ついさっき、今のお前にな。
お前、可哀想さで勝ちたいと言うのか、前のお前に?
俺の特別になりたいのならば、そうする以外に方法は無いと思うがな…?
今よりもずっと可哀想なお前になりたいのか、と尋ねられた。ソルジャー・ブルーの人生よりも辛い人生、それをお前は生きたいのか、と。
「…前のぼくより可哀想って…。それは嫌だよ…!」
生きたくないよ、と悲鳴を上げた。前の自分はハーレイと恋をしていたけれども、それ以外では悲しい記憶が多かった生。アルタミラでの地獄はもちろん、白いシャングリラにも悲しい思い出。
最期を迎えたメギドともなれば尚更のことで、あんな人生は二度と御免だから。
今もハーレイの特別らしいソルジャー・ブルー。…今のハーレイが涙を流して想う人。
ハーレイの涙は見たいけれども、前の自分には敵わない。同じようにも生きられはしない。今の自分は平和な時代に生まれた子供で、甘えん坊のチビなのだから。
「…ハーレイの涙、前のぼくしか見られないんなら、見られなくても仕方ないかも…」
前のぼくより可哀想になれる生き方なんか、今のぼくには無理だもの。…弱虫だから。
だけど前のぼくは幸せだよね。今もハーレイに泣いて貰えるほど、ハーレイに覚えて貰ってて。
可哀想だった、って言って貰えて、今もハーレイの特別のままで…。
あれっ、でも…。前のハーレイの涙って…。
最後に見たのはアルテメシアだよ、ぼくがジョミーを追い掛けて行って、船に戻った後。
あの時、ハーレイ、泣いていたっけね、青の間に来て。
とっくに日付が変わってたけど…、と思い出した前のハーレイの涙。ジョミーの騒ぎが起こった時は夜で、前の自分が飛び出して行ったのも夜の闇の中。遥か上空で意識を失ったのも。
「そりゃまあ、なあ…?」
泣きもするだろうが、前のお前が船の仲間に、あんな思念を送るから…。
俺が勘違いしたのも無理はあるまい、あれが最期の言葉なんだと。お前の魂は逝ってしまって、船を離れてゆくんだとな。
あの時の言葉を思い出してみろ、と今のハーレイに睨まれた。「最初の所を、きちんとな」と。
「…ごめん…。前のぼくの言い方、悪かったよね…」
死んじゃうようにしか聞こえないよね、と蘇って来た前の自分の言葉。船の仲間に伝えた思念。
「長きにわたる友よ、家族よ。そして仲間たちよ」とシャングリラの仲間に語り掛けた。自分の力はもう尽きようとしている、と。人類との対話を望んでも時間が足りないようだ、とも。
あの言い方では、勘違いされても仕方なかったと思う。「遺言なのだ」と。
考えてみれば、あれから時が流れた後にも…。
(ホントに死んじゃう前にも、おんなじ…)
メギドへ飛ぶ時、同じように心で仲間たちに語り掛けていた。もうシャングリラは遠く離れて、思念さえ届かないと分かっていても。
「長きにわたる私の友よ。…そして、愛する者よ」と、何処か似ている言い回しで。
不思議なくらいに重なった言葉。前のハーレイは、むろん後のを知らないけれど。だから…。
自分でも遺言だったのだと思う、前のハーレイが勘違いした言葉。アルテメシアの遥か上空から落下した後、前の自分が抱いた気持ち。…今の今まで、すっかり忘れていたのだけれど。
「…ぼくの言い方、悪かったけど…。あの時は、死ぬかもって思ってたんだよ、ぼくだって」
勘違いしてたの、ハーレイだけじゃないってば。…前のぼくだって、同じだったよ。
死んじゃうんだと思ったんだから…、と告げたら、向けられた疑いの眼差し。「本当か?」と。
「嘘をついてはいないだろうな? 前の俺が勘違いして泣いたってことを言ったから」
今の俺もお前を睨んだしな、とハーレイが疑うのも分かる。けれども、これは本当のこと。
「嘘じゃないってば、本当に。…だってね、メギドに飛んだ時にも…」
おんなじ言葉を送ってたんだよ、シャングリラに。届かないのは分かっていたけど。
最初の所がそっくりだったよ、「長きにわたる私の友よ」って。…ジョミーの時と同じでしょ?
別の言葉に聞こえるの、と聞かせた前の自分の言葉。メギドに向かって飛んで行った時の。
「うーむ…。確かに同じに聞こえるな…。細かい所は少し違うが…」
お前、気に入っちまっていたのか、あの言い回しが。船の仲間たちを「友」と呼ぶのが。
昔からの仲間は友達みたいな船だったがな…、とハーレイが思い返す船。アルタミラからずっと一緒の仲間は、最初の頃には誰もが友達だったから。肩書も何も無かった頃は。
「どうだったのかな、分かんないけど…。気に入ってたのかな、前のぼく…」
でもね、前のハーレイを泣かせちゃった時には、死んじゃうかも、って思ってた…。
シャングリラには戻って来られたけれども、ぼくの命はおしまいかな、って…。
力は本当に残っていなくて、あの思念だけで精一杯…、と前の自分の心を思う。ジョミーに後を託さなければと、最後の力で紡いだ思念。でないと船は長を失い、ミュウの未来も潰えるから。
「そうは言うがな、あれを聞かされた俺の身にもなってくれ」
お前の所へ駆け付けようにも、俺はブリッジにいたわけで…。
持ち場を離れられる状態じゃなくて、なのにお前の遺言が聞こえて来るんだぞ…?
お前の顔も見られないままで…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「俺の辛さが分かるか?」と。
「ぼくだって悲しかったってば!」
ハーレイだけじゃないよ、ぼくだって悲しかったんだよ…!
これで死ぬんだ、って思っていたって、ハーレイは側にいなかったから…。
青の間に来て欲しくったって、そんなこと言えやしなかったから…!
前の自分が懸命に思念を紡いでいた時、側にいたのは看護師たち。それからノルディ。
長老たちさえ一人も姿が無かったのだし、キャプテンを呼べるわけがない。いくらソルジャーの最期と言っても、シャングリラの方が大切だから。
人類軍の注意を逸らすために浮上し、猛攻を浴びたシャングリラ。あちこち大破し、怪我をした者も多かった。そんな状態では、キャプテンは持ち場を離れられない。一個人のためには。
ソルジャーといえども、シャングリラと秤にかけた時には、負ける存在。
それだけにハーレイを呼ぶことは出来ず、怯えていたのが前の自分。
「…ホントだよ? ハーレイが側に来てくれるまでに、死んでしまったらどうしよう、って…」
とても怖かったよ、もしもハーレイが間に合わなかったら、独りぼっちで死ぬんだから。
いくらノルディや看護師がいても、ハーレイがいないと独りぼっちで…。
本当に会いたい人に会えずに死んじゃう、と思い出しただけで震える身体。あの時のことを。
「そうだったのか…。しかし、お前は無事に生き延びたんだよな」
皆に遺言を伝えたくせにだ、死なずに持ち堪えてくれた。臥せったままにはなっちまったが。
「うん、自分でも死んじゃうと思っていたのにね…」
あの言葉をみんなに伝えた時には、おしまいなんだと思ってた。…もう死ぬんだ、って。
最後にハーレイに会いたいけれども、もう無理だよね、って思っていたよ、と話したら辛そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、ハーレイも勘違いをしたのだから。遺言なのだ、と。
「俺は寿命が縮むどころじゃなかったぞ。…お前の思念が終わった後は」
どう聞いたってあれは遺言なんだし、時間の問題だと思うじゃないか。お前の命が終わるのは。
ソルジャーはまだ御無事なのか、と誰かを捕まえて訊きたくてもだ…。
シャングリラが爆撃でボロボロなんだぞ、そっちのことを訊かなきゃならん。何処の区画が破壊されたか、無事な部分で代わりに使える場所はあるのか。
キャプテンの仕事は次から次へとやって来るから、どうにもならない状態だった。
お前の消息は聞こえて来なくて、誰も伝えに来てくれない。…口を開けば船のことだし、通信が来ても船の修理をしているヤツらのばかりで…。
それでも流石に、お前が死んだら、何処からか聞こえて来るだろう。
そういう知らせが来ない間は、無事だと思っておくしかない。…まだ生きている、と。
俺は確認さえ出来なかったんだぞ、と今のハーレイがぼやく前の自分の生死。意識はあるのか、瀕死なのかも分からないままで、務めに忙殺されたハーレイ。
ようやく青の間に行ける時間が取れた頃には、とうに日付が変わっていた。ノルディや看護師も引き揚げた後で、前の自分は青の間に一人。
「…青の間に走って行った時には、お前がちゃんと生きているってことは知ってたが…」
ノルディから「御無事だ」と知らされちゃいたが、顔を見るまで安心は出来ん。
生きていたって、どんな状態かは分からないからな。…昏睡状態ってこともあるんだから。
そしたら、お前が目を開けたから…。俺の名前を呼んでくれたから…。
あれで一気に緊張が解けて、お前の前で泣いてしまったんだ。お前が生きていてくれたから。
皆に遺言まで伝えてたくせに、お前はちゃんと生きていたから…、と語るハーレイが流した涙を覚えている。前のハーレイの涙だけれど。
「…ぼくも一緒に泣いちゃったけどね」
またハーレイに会えたのがとても嬉しくて…。独りぼっちで死なずに済んだんだ、って…。
本当に嬉しかったんだよ、と今でも忘れてはいない。ハーレイの涙も、前の自分の涙のことも。
生きて会えたことが嬉しかったから、二人、抱き合って泣き続けた。夜が更けた部屋で。
前のハーレイには、「無茶をなさらないで下さい」と叱られもした。生きて戻れたから良かったけれども、そうでなければ、船は大混乱なのだから、と。
ジョミーが船に戻ってくれても、前の自分が次のソルジャーに指名しなければ、問題児が増えるだけのこと。何一つ解決しないどころか、シャングリラの未来も見えはしない、と。
それがハーレイの涙を見た最後。
あれからも自分は生きていたのに、目にしたという覚えが無い。遠い記憶を手繰ってみたって、一つも無いハーレイの涙の記憶。
アルテメシアを後にしてからも、ハーレイとは何度も会っていたのに。
メギドに向かって飛んでゆくまで、何度となく会って、言葉を交わしていた筈なのに。
そう思ったから、今のハーレイに訊いてみた。前のハーレイの涙のことを。
「…前のぼく、あれから後には一度も、ハーレイの涙を見てないよ?」
アルテメシアで見たのが最後で、それきり見てないみたいだけれど…。忘れちゃったのかな?
あの時ほど派手には泣いていないから、ぼくが覚えていないだけかな…?
死にかけたわけじゃないものね、と首を傾げたら、「今と同じだ」と返った答え。
「今のお前は、俺の涙を知らないだろうが。…お前の前では泣かないから」
それと似たような状態だってな、前のお前は深い眠りに就いちまったから。…十五年もの。
俺はお前が知らない間に泣いてたってわけだ、お前は目覚めてくれなかったから。
青の間のお前の側でも泣いたし、俺の部屋でも泣いていたな、と今のハーレイは話してくれた。目覚めない前の自分を想って、ハーレイが何度も流した涙。前の自分が知らない間に。
「ナスカでぼくが起きた時にも、泣いていないの?」
ハーレイ、お見舞いに来てくれてたでしょ。あの時も泣いていなかったっけ…?
「よく思い出せよ、再会の場にはゼルたちも揃っていたんだが…?」
俺とお前の二人きりじゃなかった、お前は俺の恋人じゃなくてソルジャー・ブルーだったんだ。感動の再会が台無しってヤツだな、残念なことに。
あいつらがいたんじゃ泣けるもんか、とハーレイが苦い顔をする通り。泣いても許されるだろうけれども、恋人同士の涙の再会は無理。一番の友達同士なだけ。
「そっか…。ハーレイの部屋では泣かなかったの?」
ぼくの目が覚めたら嬉しいだろうし、こっそり一人で泣かなかった…?
「あの時は泣いていなかったな。これからはお前と一緒なんだ、と勘違いしたもんだから」
お前の寿命が残り少なくても、暫くは側にいられるだろうと…。前と同じに。
アルテメシアにいた頃みたいに…、とハーレイが言う勘違い。目覚めた意味を読み違えたこと。
「前のハーレイ、あの時も勘違いをしたの…?」
遺言なんだと思い込んでた時のも勘違いだけど、前のぼくが目覚めた時だって…?
「誰が気付くんだ、死ぬために目覚めて来たなんて」
そのためだけにお前が目を覚ますなんて、前の俺が気付くと思うのか?
フィシスでさえも気付いていなかったんだぞ、気付いていたなら俺に知らせていただろうから。
「ソルジャー・ブルーを止めて下さい」と、シャングリラのソーシャラーとして。
前のお前を失うわけにはいかないからな、と今のハーレイが言うのも分かる。フィシスが未来を読んでいたなら、前の自分は軟禁されていただろう。青の間から一歩も出られないように。
フィシスでさえも読めなかったなら、ハーレイにはとても無理なこと。前の自分が目覚めた真の理由に気付くなどは。
「…勘違いでなくても、思わないよね…」
目覚めたら直ぐに死んじゃうだなんて、そうするために起きただなんて…。
誰も気付いていなかったお蔭で、前のぼくの「ナスカに残った仲間の説得に行く」っていう嘘、バレずに出して貰えたんだもの。…シャングリラから。
「そういうことだな。前の俺が涙を流した時には、お前はいなくなっちまってた」
何もかも終わっちまった後まで、キャプテンの俺は泣けなかったんだ。…天体の間に移るまで。
前のお前には散々泣かされちまって、今も泣かされ続けてる。
ふとしたはずみに思い出しては、俺の家で独りぼっちでな。今のお前が知らない間に。
うんと悲しい酒なんだぞ、と今もハーレイが想い続けるソルジャー・ブルー。今でもハーレイは前の自分を忘れない。「可哀想だった」と、心の中の特別な場所を与え続けて。
「ホントにごめんね…。前のぼくのこと」
ハーレイを何度も泣かせてしまって、最後は独りぼっちにしちゃって。
でも、ハーレイの涙、懐かしかったよ。片目だけしか見られなかったの、惜しいから…。
泣いてみせてくれない、ほんのちょっぴり。…今度は両目で。
「なんだって?」
泣けって言うのか、今、此処でか?
それも両目で、わざと泣くのか、とハーレイが驚いた顔をするから、「お願い」と強請った。
「思い出したら泣けるんでしょ? 前のぼくのことを」
可哀想だった前のぼくを思い出して泣いてよ、少しでいいから。
メギドの時だと酷すぎるから、他の何かで。アルタミラでも何でもいいから。
「…思い出したくても、お前が目の前にいたんじゃ無理だ」
お前は元気に生きてるんだし、今も我儘一杯だからな。俺に涙を注文するほど。
「えーっ!?」
酷いよ、思い出せないだなんて…。ぼくがいたら、それだけで泣けないなんて…!
ケチ、と膨れても断られた。「俺の涙は見世物じゃない」と。
「見世物じゃないって…。そんなの酷い…」
だったら、いつか見せてくれるの、今のハーレイが泣く所を…?
両目にゴミとか、そんなのじゃなくて、ちゃんと前みたいに流してる涙…。
「頼まなくても、見られる筈だと思うがな?」
今のお前なら見られるだろう、とハーレイが言うから「いつ?」と訊いてみた。今は駄目らしいハーレイの涙、それを見られる日はいつなのか、と。
「見られる筈だって言ったでしょ? それって、いつなの?」
「さてなあ…?」
お前と結婚できた時には、確実だろうと思っているが。結婚式の日には見られるんじゃないか?
嬉し涙を流す俺の姿を、もうたっぷりと。
「…本当に?」
「ああ、人前では泣かんがな。…そうそう大盤振る舞いは出来ん」
一世一代の涙なんだから、と笑うハーレイだけれど、二人きりになれた途端に泣くだろう、との読みだから。嬉し涙を流してくれるらしいから…。
今のハーレイの涙は楽しみに取っておくことにしよう、今は無理やり見ようとせずに。
可哀想な前の自分に譲って、今の自分は見られないままで。
「見せて」とハーレイに強請らなくても、いつか幸せで流す涙を自分は見られる筈だから。
その時は自分も泣くだろうから、ハーレイと二人、幸せの涙を流して泣こう。
いつかハーレイと結婚したら。
可哀想な前の自分の姿が、今の自分と重なって溶けて、ハーレイの前から消える日が来たら…。
ハーレイの涙・了
※今のブルーは見たことが無い、今のハーレイの涙。ブルーの前では泣かないのです。
ハーレイが涙を流すのは、前のブルーを想う時だけ。いつかブルーが大きく育つ時までは…。
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どうしたの、と恋人に向かって尋ねたブルー。休日の午後に。
今日は土曜日、午前中からハーレイが家に来てくれた。お昼御飯もこの部屋で二人、ゆっくり。午後のお茶は庭か部屋かと迷って、部屋の方を選んだ。
庭で一番大きな木の下、据えてある白いテーブルと椅子。其処に行くのも素敵だけれど、庭だと気になる両親の視線。ダイニングからも庭は見えるし、リビングからも。一階の他の場所からも。
ハーレイと初めてデートした場所が、庭で一番大きな木の下。
特別な場所には違いなくても、両親の視線は避けられないから、やっぱり部屋の方がいい。そう思ったから、いい天気だけれど部屋でお茶。恋人同士で過ごすなら此処、と。
そのハーレイとお茶を飲んでいたら、起こった事件。褐色の肌の恋人の上に。
「いや、ちょっと…」
大したことはないんだがな、とハーレイは微笑んでいるけれど。
瞬きをしたら零れた涙。鳶色をした瞳の片方、其処から溢れて頬を伝って。つうっと、一粒。
「涙って…。もしかして、ゴミが入っちゃった?」
片方だけが涙だもんね、と問い掛ける間も、ハーレイはパチパチと瞬きしながら。
「そのようだ。…何処かに入っちまったんだな」
上手く流れりゃいいんだが…。俺の目玉がデカイ分だけ、入り込める場所も多いから。
お前の目玉に負けていないぞ、とハーレイが飛ばす愉快な冗談。「お前の目玉は大きいが」と。チビでも目玉はやたらデカイと、「俺の目玉と変わらんだろうが」と。
確かにそうかもしれないけれども、ハーレイの目玉に飛び込んだゴミ。宙に浮かんだ小さな埃。
「…ごめん、ぼくの掃除…」
朝にきちんと掃除したけど、埃、残っていたのかも…。
テーブルの下に落っこちてたとか、ぼくが見落としちゃっていたとか。
それがハーレイの目に飛び込んじゃった、と項垂れた。「ぼくのせいだよ」と謝って。
「お前のせいって…。そうでもないだろ、小さいのは何処にでも浮かんでるモンだ」
綺麗に掃除したての場所でも、運が悪けりゃ飛び込まれちまう。目に見えないから防げないし。
避けようがないなら、こうなるのは運の問題で…。
しかしだな…。
まだ取れないか、とハーレイが繰り返している瞬き。何処へ入ったのか分からない埃。
(涙、ポロポロ…)
洗面所に行った方がいいんじゃあ、と思うくらいに零れる涙。瞬きの度に目から溢れて。幾つも頬を伝ってゆくのに、埃は一向に流れてくれないらしいから…。
(洗った方が早いよね?)
小さな涙の粒に頼るより、蛇口からザアザア流れる水。それで洗えば、アッと言う間に何処かへ流れてゆくだろう。何処にあるのか謎の埃でも、目ごと洗ってやりさえすれば。
泣いているよりそっちがいいよ、と「洗面所に行く?」と提案しようとして。
(ハーレイの涙…)
まだ泣いてるよ、と眺めたらドキリと跳ねた心臓。「ゴミのせいだ」と思っていた時は、まるで気付いていなかったこと。…ハーレイの涙。
片方の目からしか零れていないし、原因は小さな埃だけれど。ハーレイは埃を洗い流すために、涙を使っているのだけれど。
(だけど、涙は涙だもんね…?)
泣いているのとは違っても。目玉の掃除に使うものでも、涙は涙。ハーレイの目から零れる涙。悲しい時には流れ出すもので、嬉しい時にも溢れたりする。頬を濡らして落ちる涙は。
(…ハーレイの涙、いつ見たんだっけ…?)
考えてみれば、前の自分だった頃に見たきりのような、ハーレイの涙。褐色の頬を伝う涙を見た覚えが無い。鳶色の瞳が潤むのも。…今の自分は。
(今のハーレイ、泣かないから…)
まるで記憶に無い、今のハーレイが泣く所。もしかしたら、涙が滲む瞳も。
きっとハーレイの涙を見てはいないと思う。笑顔はすっかりお馴染みだけれど、泣き顔の方。
この地球の上で、ハーレイと再会した時ですらも。
(…ハーレイ、泣いていなかった…)
そうだったよね、と手繰ってみる記憶。
教室で聖痕が現れた時は、仕方ないとも思うけれども、その後のこと。家まで訪ねて来てくれた時に、ハーレイは泣きはしなかった。
「ただいま」と恋人に呼び掛けたのに。「帰って来たよ」と、思いをこめて告げたのに…。
あの時もハーレイは泣かなかった、と今頃になって気が付いた。前の自分たちが別れた時から、長い長い時が経ったのに。…やっと再会出来た二人だったのに。
それでも泣かなかったのがハーレイなのだし、ちょっとしたことで泣くわけがない。ハーレイの涙は知らなくて当然、「見たことがない」と思って当然。
(ぼくは、しょっちゅう泣いているのに…)
泣かないなんて、なんだかズルイ、と見詰めてしまった恋人の顔。洗面所のことなど、すっかり忘れて。瞬きする度に零れる涙に目を奪われて。
そうする間に、止まった涙。ハーレイが手でゴシゴシと擦っている頬。ついでに目元も。
「よし、もういいぞ。厄介だったが、取れてくれたようだ」
こんなに時間がかかるんだったら、洗面所を借りれば良かったな。洗えば一発なんだから。
俺としたことがウッカリしていた、席を外したくなかったもんだから…。
せっかくお前と二人きりなのに、「ちょっと行ってくる」というのもなあ…?
しかし、話も途切れちまってたし、俺がいたって大して意味は無かった、と。…瞬きばかりで、ゴミを取るのに夢中になって、結局だんまりだったんだから。…ん?
なんだ、お前、変な顔をして…、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どうかしたのか?」と。
「えっと…。ハーレイの涙を見てる間に、気が付いたんだけど…」
今のハーレイ、泣かないよね。
目にゴミが入った時の涙じゃなくって、ホントの涙。…今のハーレイ、泣かないでしょ?
「はあ? 泣かないって…」
俺のことなのか、とハーレイが指差す自分の顔。「今の俺か?」と確認するように。
「そうだよ、今のハーレイのこと。…ハーレイの涙、一度も見たことがないよ」
ぼくは何度も泣いちゃってるのに、ハーレイは泣いていないんだよ。
さっきはポロポロ泣いていたけど、あれはゴミのせいで、本当に泣いたわけじゃないもんね。
涙の中には入らないよ、と数えてやらない、さっき見た涙。数は沢山あったけれども。
「泣いていないって…。そうだったか?」
今の俺は一度も泣いていないか、お前の前では…?
「うん、知らない。ハーレイの涙は、さっきが初めて」
泣いてる内には入らないけど、あれだって涙。でも、本当の涙は一度も見ていないんだよ。
ゴミじゃなくって、心のせいで出てくる涙、と話した「本当の涙」の意味。悲しい時も、嬉しい時にも涙は零れてくるものだよね、と。
「そういう涙を、今のハーレイは流してないよ。ただの一度も」
ぼくに初めて会った時にも、ハーレイは泣かなかったじゃない、と指摘してやった。教室でも、この家を訪ねて来た時だって、と。
ようやく会えて、「ただいま、ハーレイ」と言ったのに。「帰って来たよ」と、愛おしい人に。
「そういや、そうか…」
泣いていないな、あの時の俺は。…教室の方は、驚いちまってそれどころではなかったが…。
最初は事故だと思ってたんだし、お前、教え子なんだしな?
教師の俺が先に立つぞ、とハーレイが持ち出した自分の立場。「教室では泣けん」と。
「それは分かるけど、ぼくの家に来た時は違うでしょ?」
記憶はすっかり戻ってるんだし、ぼくが誰かも分かってるから…。
他の先生には「生徒の様子を見に行ってくる」って言っていたって、ハーレイの中では生徒じゃないでしょ?
恋人に会いに出掛けるんだよ、ずっと昔に別れたきりの。…シャングリラで別れて、それっきり会えていなかった、ぼくに。
部屋に入ったら、そのぼくがちゃんといるんだから…。「ただいま」って挨拶したんだから…。
それでも少しも泣かないだなんて、ハーレイ、とっても酷いじゃない。
感動の再会だったのに涙も流さないなんて…、と恋人を責めた。目の中に入った小さなゴミで、今のハーレイは涙を流したから。…涙が溢れる瞳を持っているのだから。
「そうは言うがな、あの時のことをよく思い出してみろよ?」
泣かなかったのは俺だけじゃない。…お前だって泣いていなかったぞ。
メギドじゃ散々泣いたそうだが、あの時は涙の一粒も無しだ。…デカイ目は大きめだったがな。
いつもよりかは大きかった、とハーレイが言うのは当たっている。零れ落ちそうに見開いていた覚えがあるから。…泣くよりも前に。
二度と会えない筈のハーレイ、そのハーレイにまた会えたのだから。
「本当に本物のハーレイなんだ」と、現れた恋人を見詰めていたのが自分だから。
確かに泣いてはいなかったけれど。…自分の方も、涙を流して恋人を迎えはしなかったけれど。
とはいえ、あの時、泣かなかったことには理由がある。…泣けなかったと言うべきか。
「…ぼくだって泣きたかったよ、ホントは…。またハーレイに会えたんだもの」
教室の時には、聖痕の傷がとても痛くて、泣く前に気絶しちゃったけれど…。泣いていたって、きっと「痛いよ」っていう方の涙だったと思うけど…。
ハーレイが家に来てくれた時は、ママがいたから我慢しただけ。
あそこでウッカリ泣いてしまったら、涙、止まらなくなりそうだから…。ハーレイと恋人同士なことまで、ママに知られてしまいそうだから…。
恋人同士だってバレてしまったら大変だものね、と明かした理由。ハーレイは実は恋人なのだと母に知れたら、二人きりにはして貰えない。…せっかく再会出来たのに。少しでいいから、二人で一緒に過ごしたいのに。
「俺の方も同じ理由だが…?」
事情はお前と全く同じだ、泣くわけにはいかなかったこと。…俺の方がお前より大変だったぞ。
学校じゃ生徒が山ほどいたから、感動の再会どころじゃない。教師の俺を優先させないと。
お前の付き添いで乗った救急車の中でも、俺はあくまで教師だからな。
救急隊員が側にいるのに、涙なんか流していられるもんか。…いい年をした大人の俺が。
若い女の先生だったら、泣きながら生徒の手を握ってても、救急隊員も分かってくれそうだが。先生だってパニックなんだ、と。「大丈夫ですよ」と慰めてくれもするだろう。
しかし俺だと、「頼りない先生もいたもんだ」と、呆れられちまうのがオチなんじゃないか?
それじゃ困るし、俺は泣けずに付き添いだ。…「頑張れよ」とお前に声を掛けながら。
病院に着いて「大丈夫らしい」と分かった後には、学校に戻らなきゃいけなかったし…。
お前の守り役になることも含めて、色々な仕事を片付けてホッとしたものの…。
やっとお前の家に行ったら、お母さんがお前の部屋にいた。…お前と同じ理由で涙は駄目だ。
俺が涙を流しちまったら、お前も一緒に泣いちまう。それまでは我慢してたって。
マズイ、と涙を堪えたわけでだ、おあいこだな。
あの時の俺は、お前と同じ理由で泣けなかったんだから、というのがハーレイの言い分。
もしも涙を流したならば、目の前の恋人も、きっと泣き出すだろうと懸命に堪えていた涙。
お互い、涙を流していたなら、利かなくなるだろう心の歯止め。会いたかったと繰り返す内に、恋人同士なことだって知れる。…部屋に出入りする母の耳に入って、聞き咎められて。
泣かなかった理由は同じなのだ、と言われてみれば一理あるから、再会した時は仕方ない。涙のせいで母に恋が知れたら、ハーレイは出入りを禁じられるか、制限されるか。
(…ぼくはチビだし、恋をするには早すぎる年で…)
いつもハーレイに言われていること、それをそのまま両親が口にしていただろう。もっと大きく育ってから恋をするように、と。…「子供に恋はまだ早い」とも。
恋の相手は分かっているから、近付けないようにされるハーレイ。二人きりで会うなど、きっと厳禁。二人でお茶を飲むにしたって、「客間にしなさい」と厳命されて監視付きとか。
そうなっていたら、前の自分たちの恋の続きを楽しむどころか、まるで引き裂かれた恋人同士。どんなにハーレイのことが好きでも、甘えることさえ出来そうにない。
(…あの時、ハーレイが泣いちゃっていたら、そういうコース…)
辛い恋をする羽目になっていそうだし、涙を堪えたハーレイを評価せねばならない。自分たちの恋を守るためにと、ハーレイは泣かなかったのだから。
「…分かったよ。あの時にハーレイが泣かなかったのは、きっと正しいだろうけど…」
それで正解なんだろうけど、その後のことはどうなるの…?
前のぼくたちのことを、幾つも二人で思い出したよ。シャングリラで暮らしていた頃のことを。
だけど、ハーレイ、何を思い出しても、ちっとも泣いたりしないじゃない…!
泣き出すのはいつも、ぼくばかりだよ。…ハーレイは慰めてくれるけれども、泣かないよ。
今のハーレイ、ホントは心が冷たいんじゃないの、と意地悪い言葉をぶつけてみた。
「泣かないなんて冷たすぎるよ」と、「ぼくと二人きりの時でも、絶対、泣かないものね」と。
いくら記憶を探ってみたって、覚えが無いのがハーレイの涙。
前のハーレイなら泣いていたのに、前のハーレイが流した涙は、今も記憶にあるというのに。
まさか本当に冷たいわけでもないだろうに…、と見据えてやったら、ハーレイも心外そうな顔。
「おいおい、俺が冷たいってか…?」
前より冷たくなったと言うのか、泣くのはお前ばかりだから。…思い出話をした時だって。
そいつはお前の勘違いだな、今の俺だってちゃんと泣いてる。
悲しくなったら、涙は溢れてくるもんだ。…俺がどんなに堪えてみたって、さっきみたいに。
もっともゴミのせいではないがな、そういう時に出てくる涙は。
目にゴミなんかが入らなくても、泣く時は泣く、とハーレイが言うものだから。今のハーレイも泣くらしいから、「何処で?」と問いを投げ掛けてみた。
今の自分はハーレイの涙を見たことが無いし、涙の理由も分からないから。
「…ハーレイ、何処で泣いてるの?」
ぼくの前では泣いてないよね、いったい何処で泣いているわけ…?
「お前が知らない所でだ。…いつも一緒にいるわけじゃないしな、俺の家は違う場所だから」
俺が一人で家にいる時、とうしているのか、お前、全く知らないだろうが。
機嫌よく飯を食ってる時だってあるが、泣いちまう時もあるってことだ。…一人きりだと。
酒に逃げちまうほどに泣きたい気分の時もあるから、と聞かされてキョトンと見開いた瞳。今の時代は平和な時代で、前の自分たちが生きた頃とは違うのに。
今のハーレイの毎日は充実していて、泣きたくなるような悲しみとは縁が無さそうなのに。
「一人きりだと泣いちゃうって…。なんで?」
ハーレイの家には、悲しいことなんて無さそうだけど…。今のハーレイの暮らしにも。
仕事とかで大変な時はあっても、そんなことくらいで泣きはしないでしょ?
お酒を飲みたくなってしまうくらいに悲しいだなんて、普通じゃないよ。…お酒、楽しく飲んでいるんじゃなかったの…?
地球の水で作ったお酒だもんね、と瞳を瞬かせた。前のハーレイも酒が好きだったけれど、今のハーレイも大好きな酒。…合成ではない本物の酒を、楽しんでいる筈だから。前のハーレイが見た死の星とは違う、青く蘇った地球の水。それで仕込んだ酒は格別だと聞いたから。
もっとも、酒の美味しさは分からないけれど。…子供になった今の自分はもちろん、前の自分も飲めなかった酒。何処が美味しいのかまるで分からず、悪酔いしていたソルジャー・ブルー。
それでもハーレイが酒を愛する気持ちは分かるし、同じ酒なら、断然、楽しく飲む方がいい。
悲しい酒を飲むよりも。…悲しみを酒で紛らわすよりも、楽しい酒の方が素敵だろうに。
それなのに何故、と不思議に思うこと。悲しい酒を飲むハーレイもそうだし、そうなる理由も。
「…俺が泣いちまうのは何故か、ってか…?」
確かに地球の酒は美味いし、俺にとっては最高の酒だ。…前の俺の記憶が戻ってからは。
地球の水で仕込んだ酒だと思えば、どの酒も美酒になるんだが…。もう格別の美味さなんだが。
そいつが悲しい酒になるのは、前のお前が原因だな。…前の俺が失くしちまったお前。
前のお前を思い出しちまった夜は駄目だ、と呟くハーレイ。「悲しい酒になっちまう」と。
「…酒に逃げたい気分になるんだ、前の俺じゃなくて今の俺がな」
俺はこうして平和な時代に生きてるわけだが、いなくなっちまったソルジャー・ブルー。
前のお前が、今も何処かで寂しがってるような気がしてな…。独りぼっちで、膝を抱えて。
そういう気持ちに捕まった夜は、俺だって泣きたい気持ちになる。前のお前に引き摺られて。
どうして止めなかったんだ、と最後に見た背中を思い出してな…。
泣き始めたらもう止まらない、と今のハーレイを悲しませるらしいソルジャー・ブルー。悲しい酒を呷らせるほどに、前の自分が今のハーレイを悲しみの淵の底に沈めるらしいから…。
「…ぼく、此処にいるよ?」
死んじゃったけれど、新しい命を貰って生きてるよ。生まれ変わって来て、前のぼくも一緒。
ぼくの中には、ちゃんと前のぼくも入っているから…。中身は同じなんだから。
寂しいだなんて思ってないよ、と前の自分の代わりに言った。ハーレイと会い損なった日には、少し寂しくなるけれど。同じ家で一緒に暮らせないことも、たまに寂しく思うけれども。
「それは分かっちゃいるんだが…。前のお前は、お前の中にいるってことはな」
俺だって充分、承知してるが、そのお前。…前のお前を魂の中に持っているお前も、前のお前に嫉妬して膨れているだろうが。「前のぼくなら、こんな風に扱わないくせに」と。
それと同じだ、俺にとっても前のお前はまだ特別だ。
今のお前がそっくり同じ姿になったら、前のお前もすっかり溶けてしまうんだろうが…。幸せに生きてる今のお前と重なっちまって、何処かに消えるんだろうがな。
だが今は無理だ、とハーレイの心を占めているらしいソルジャー・ブルー。一人きりの夜には、涙さえ流させるほどに。…地球の酒さえ、悲しい酒になるほどに。
「…前のぼく、今のぼくより特別?」
ハーレイの中では、特別だって言ったよね…?
ぼくが生きてハーレイの前にいたって、前のぼくの方が特別なの…?
前のぼくだって、ぼくなのに…、とチリッと胸が痛むけれども、これだって嫉妬。どうして前の自分の方が特別なのかと、ハーレイの心を惹き付けるのかと。
ハーレイの答えを知りたい気持ちと、聞きたくないと思う気持ちと。
二つに分かれて乱れる心も、前の自分に嫉妬しているせいなのだろう。前の自分も自分なのに。
今のハーレイが「特別だ」と言うソルジャー・ブルー。遠く遥かな時の彼方で生きていた自分。
ハーレイは何と答えるだろうか、自分の問いに。「今のぼくより特別なの?」という質問に。
どうなのだろう、とチリチリと痛む胸を抱えて待っている内に、ハーレイがフウと零した溜息。
「…お前には悪いが、特別だろうな。今の俺にとっても、前のお前は」
前のお前が、今のお前よりも可哀想だった分だけ、特別になる。
幸せに生きてた時間が少なかった分だけ。…前のお前はそうだったろうが、長く生きていても。
今のお前よりも遥かに長い時間を生きたが、幸せは少なかったんだ。…今のお前よりも。
それがソルジャー・ブルーだろうが、とハーレイの鳶色の瞳が翳る。時の彼方で失くした恋人、逝ってしまった恋人を想う悲しみで。
その恋人は、今の自分の中にいるのに。…ソルジャー・ブルーは、確かに自分だったのに。
チリリと痛む小さな胸。前の自分に対する嫉妬。「前のぼくだって、ぼくなのに」と。
どうして今のハーレイの心を縛るのだろうと、今もハーレイの特別のままでいるのだろうと。
「…ぼく、前のぼくに勝てないの…?」
今のハーレイの特別になれるの、前のぼくで今のぼくじゃないよね…?
ぼくは前のぼくに勝てないままなの、いつか大きくなるまでは…?
ハーレイが前のぼくの姿を、今のぼくに重ねられるようになる時までは…、と俯いた。その日が来るまで、今の自分は負けっ放しのようだから。前の自分に敵わないままで、ハーレイの涙も前の自分のもの。ハーレイは前の自分を想って泣いても、今の自分の前では泣いたりしないから。
「お前なあ…。俺はきちんと説明したぞ。前のお前は、どうして俺の特別なのか」
今のお前よりも可哀想だった分だけ特別なんだ、と話した筈だ。ついさっき、今のお前にな。
お前、可哀想さで勝ちたいと言うのか、前のお前に?
俺の特別になりたいのならば、そうする以外に方法は無いと思うがな…?
今よりもずっと可哀想なお前になりたいのか、と尋ねられた。ソルジャー・ブルーの人生よりも辛い人生、それをお前は生きたいのか、と。
「…前のぼくより可哀想って…。それは嫌だよ…!」
生きたくないよ、と悲鳴を上げた。前の自分はハーレイと恋をしていたけれども、それ以外では悲しい記憶が多かった生。アルタミラでの地獄はもちろん、白いシャングリラにも悲しい思い出。
最期を迎えたメギドともなれば尚更のことで、あんな人生は二度と御免だから。
今もハーレイの特別らしいソルジャー・ブルー。…今のハーレイが涙を流して想う人。
ハーレイの涙は見たいけれども、前の自分には敵わない。同じようにも生きられはしない。今の自分は平和な時代に生まれた子供で、甘えん坊のチビなのだから。
「…ハーレイの涙、前のぼくしか見られないんなら、見られなくても仕方ないかも…」
前のぼくより可哀想になれる生き方なんか、今のぼくには無理だもの。…弱虫だから。
だけど前のぼくは幸せだよね。今もハーレイに泣いて貰えるほど、ハーレイに覚えて貰ってて。
可哀想だった、って言って貰えて、今もハーレイの特別のままで…。
あれっ、でも…。前のハーレイの涙って…。
最後に見たのはアルテメシアだよ、ぼくがジョミーを追い掛けて行って、船に戻った後。
あの時、ハーレイ、泣いていたっけね、青の間に来て。
とっくに日付が変わってたけど…、と思い出した前のハーレイの涙。ジョミーの騒ぎが起こった時は夜で、前の自分が飛び出して行ったのも夜の闇の中。遥か上空で意識を失ったのも。
「そりゃまあ、なあ…?」
泣きもするだろうが、前のお前が船の仲間に、あんな思念を送るから…。
俺が勘違いしたのも無理はあるまい、あれが最期の言葉なんだと。お前の魂は逝ってしまって、船を離れてゆくんだとな。
あの時の言葉を思い出してみろ、と今のハーレイに睨まれた。「最初の所を、きちんとな」と。
「…ごめん…。前のぼくの言い方、悪かったよね…」
死んじゃうようにしか聞こえないよね、と蘇って来た前の自分の言葉。船の仲間に伝えた思念。
「長きにわたる友よ、家族よ。そして仲間たちよ」とシャングリラの仲間に語り掛けた。自分の力はもう尽きようとしている、と。人類との対話を望んでも時間が足りないようだ、とも。
あの言い方では、勘違いされても仕方なかったと思う。「遺言なのだ」と。
考えてみれば、あれから時が流れた後にも…。
(ホントに死んじゃう前にも、おんなじ…)
メギドへ飛ぶ時、同じように心で仲間たちに語り掛けていた。もうシャングリラは遠く離れて、思念さえ届かないと分かっていても。
「長きにわたる私の友よ。…そして、愛する者よ」と、何処か似ている言い回しで。
不思議なくらいに重なった言葉。前のハーレイは、むろん後のを知らないけれど。だから…。
自分でも遺言だったのだと思う、前のハーレイが勘違いした言葉。アルテメシアの遥か上空から落下した後、前の自分が抱いた気持ち。…今の今まで、すっかり忘れていたのだけれど。
「…ぼくの言い方、悪かったけど…。あの時は、死ぬかもって思ってたんだよ、ぼくだって」
勘違いしてたの、ハーレイだけじゃないってば。…前のぼくだって、同じだったよ。
死んじゃうんだと思ったんだから…、と告げたら、向けられた疑いの眼差し。「本当か?」と。
「嘘をついてはいないだろうな? 前の俺が勘違いして泣いたってことを言ったから」
今の俺もお前を睨んだしな、とハーレイが疑うのも分かる。けれども、これは本当のこと。
「嘘じゃないってば、本当に。…だってね、メギドに飛んだ時にも…」
おんなじ言葉を送ってたんだよ、シャングリラに。届かないのは分かっていたけど。
最初の所がそっくりだったよ、「長きにわたる私の友よ」って。…ジョミーの時と同じでしょ?
別の言葉に聞こえるの、と聞かせた前の自分の言葉。メギドに向かって飛んで行った時の。
「うーむ…。確かに同じに聞こえるな…。細かい所は少し違うが…」
お前、気に入っちまっていたのか、あの言い回しが。船の仲間たちを「友」と呼ぶのが。
昔からの仲間は友達みたいな船だったがな…、とハーレイが思い返す船。アルタミラからずっと一緒の仲間は、最初の頃には誰もが友達だったから。肩書も何も無かった頃は。
「どうだったのかな、分かんないけど…。気に入ってたのかな、前のぼく…」
でもね、前のハーレイを泣かせちゃった時には、死んじゃうかも、って思ってた…。
シャングリラには戻って来られたけれども、ぼくの命はおしまいかな、って…。
力は本当に残っていなくて、あの思念だけで精一杯…、と前の自分の心を思う。ジョミーに後を託さなければと、最後の力で紡いだ思念。でないと船は長を失い、ミュウの未来も潰えるから。
「そうは言うがな、あれを聞かされた俺の身にもなってくれ」
お前の所へ駆け付けようにも、俺はブリッジにいたわけで…。
持ち場を離れられる状態じゃなくて、なのにお前の遺言が聞こえて来るんだぞ…?
お前の顔も見られないままで…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「俺の辛さが分かるか?」と。
「ぼくだって悲しかったってば!」
ハーレイだけじゃないよ、ぼくだって悲しかったんだよ…!
これで死ぬんだ、って思っていたって、ハーレイは側にいなかったから…。
青の間に来て欲しくったって、そんなこと言えやしなかったから…!
前の自分が懸命に思念を紡いでいた時、側にいたのは看護師たち。それからノルディ。
長老たちさえ一人も姿が無かったのだし、キャプテンを呼べるわけがない。いくらソルジャーの最期と言っても、シャングリラの方が大切だから。
人類軍の注意を逸らすために浮上し、猛攻を浴びたシャングリラ。あちこち大破し、怪我をした者も多かった。そんな状態では、キャプテンは持ち場を離れられない。一個人のためには。
ソルジャーといえども、シャングリラと秤にかけた時には、負ける存在。
それだけにハーレイを呼ぶことは出来ず、怯えていたのが前の自分。
「…ホントだよ? ハーレイが側に来てくれるまでに、死んでしまったらどうしよう、って…」
とても怖かったよ、もしもハーレイが間に合わなかったら、独りぼっちで死ぬんだから。
いくらノルディや看護師がいても、ハーレイがいないと独りぼっちで…。
本当に会いたい人に会えずに死んじゃう、と思い出しただけで震える身体。あの時のことを。
「そうだったのか…。しかし、お前は無事に生き延びたんだよな」
皆に遺言を伝えたくせにだ、死なずに持ち堪えてくれた。臥せったままにはなっちまったが。
「うん、自分でも死んじゃうと思っていたのにね…」
あの言葉をみんなに伝えた時には、おしまいなんだと思ってた。…もう死ぬんだ、って。
最後にハーレイに会いたいけれども、もう無理だよね、って思っていたよ、と話したら辛そうな顔のハーレイ。それはそうだろう、ハーレイも勘違いをしたのだから。遺言なのだ、と。
「俺は寿命が縮むどころじゃなかったぞ。…お前の思念が終わった後は」
どう聞いたってあれは遺言なんだし、時間の問題だと思うじゃないか。お前の命が終わるのは。
ソルジャーはまだ御無事なのか、と誰かを捕まえて訊きたくてもだ…。
シャングリラが爆撃でボロボロなんだぞ、そっちのことを訊かなきゃならん。何処の区画が破壊されたか、無事な部分で代わりに使える場所はあるのか。
キャプテンの仕事は次から次へとやって来るから、どうにもならない状態だった。
お前の消息は聞こえて来なくて、誰も伝えに来てくれない。…口を開けば船のことだし、通信が来ても船の修理をしているヤツらのばかりで…。
それでも流石に、お前が死んだら、何処からか聞こえて来るだろう。
そういう知らせが来ない間は、無事だと思っておくしかない。…まだ生きている、と。
俺は確認さえ出来なかったんだぞ、と今のハーレイがぼやく前の自分の生死。意識はあるのか、瀕死なのかも分からないままで、務めに忙殺されたハーレイ。
ようやく青の間に行ける時間が取れた頃には、とうに日付が変わっていた。ノルディや看護師も引き揚げた後で、前の自分は青の間に一人。
「…青の間に走って行った時には、お前がちゃんと生きているってことは知ってたが…」
ノルディから「御無事だ」と知らされちゃいたが、顔を見るまで安心は出来ん。
生きていたって、どんな状態かは分からないからな。…昏睡状態ってこともあるんだから。
そしたら、お前が目を開けたから…。俺の名前を呼んでくれたから…。
あれで一気に緊張が解けて、お前の前で泣いてしまったんだ。お前が生きていてくれたから。
皆に遺言まで伝えてたくせに、お前はちゃんと生きていたから…、と語るハーレイが流した涙を覚えている。前のハーレイの涙だけれど。
「…ぼくも一緒に泣いちゃったけどね」
またハーレイに会えたのがとても嬉しくて…。独りぼっちで死なずに済んだんだ、って…。
本当に嬉しかったんだよ、と今でも忘れてはいない。ハーレイの涙も、前の自分の涙のことも。
生きて会えたことが嬉しかったから、二人、抱き合って泣き続けた。夜が更けた部屋で。
前のハーレイには、「無茶をなさらないで下さい」と叱られもした。生きて戻れたから良かったけれども、そうでなければ、船は大混乱なのだから、と。
ジョミーが船に戻ってくれても、前の自分が次のソルジャーに指名しなければ、問題児が増えるだけのこと。何一つ解決しないどころか、シャングリラの未来も見えはしない、と。
それがハーレイの涙を見た最後。
あれからも自分は生きていたのに、目にしたという覚えが無い。遠い記憶を手繰ってみたって、一つも無いハーレイの涙の記憶。
アルテメシアを後にしてからも、ハーレイとは何度も会っていたのに。
メギドに向かって飛んでゆくまで、何度となく会って、言葉を交わしていた筈なのに。
そう思ったから、今のハーレイに訊いてみた。前のハーレイの涙のことを。
「…前のぼく、あれから後には一度も、ハーレイの涙を見てないよ?」
アルテメシアで見たのが最後で、それきり見てないみたいだけれど…。忘れちゃったのかな?
あの時ほど派手には泣いていないから、ぼくが覚えていないだけかな…?
死にかけたわけじゃないものね、と首を傾げたら、「今と同じだ」と返った答え。
「今のお前は、俺の涙を知らないだろうが。…お前の前では泣かないから」
それと似たような状態だってな、前のお前は深い眠りに就いちまったから。…十五年もの。
俺はお前が知らない間に泣いてたってわけだ、お前は目覚めてくれなかったから。
青の間のお前の側でも泣いたし、俺の部屋でも泣いていたな、と今のハーレイは話してくれた。目覚めない前の自分を想って、ハーレイが何度も流した涙。前の自分が知らない間に。
「ナスカでぼくが起きた時にも、泣いていないの?」
ハーレイ、お見舞いに来てくれてたでしょ。あの時も泣いていなかったっけ…?
「よく思い出せよ、再会の場にはゼルたちも揃っていたんだが…?」
俺とお前の二人きりじゃなかった、お前は俺の恋人じゃなくてソルジャー・ブルーだったんだ。感動の再会が台無しってヤツだな、残念なことに。
あいつらがいたんじゃ泣けるもんか、とハーレイが苦い顔をする通り。泣いても許されるだろうけれども、恋人同士の涙の再会は無理。一番の友達同士なだけ。
「そっか…。ハーレイの部屋では泣かなかったの?」
ぼくの目が覚めたら嬉しいだろうし、こっそり一人で泣かなかった…?
「あの時は泣いていなかったな。これからはお前と一緒なんだ、と勘違いしたもんだから」
お前の寿命が残り少なくても、暫くは側にいられるだろうと…。前と同じに。
アルテメシアにいた頃みたいに…、とハーレイが言う勘違い。目覚めた意味を読み違えたこと。
「前のハーレイ、あの時も勘違いをしたの…?」
遺言なんだと思い込んでた時のも勘違いだけど、前のぼくが目覚めた時だって…?
「誰が気付くんだ、死ぬために目覚めて来たなんて」
そのためだけにお前が目を覚ますなんて、前の俺が気付くと思うのか?
フィシスでさえも気付いていなかったんだぞ、気付いていたなら俺に知らせていただろうから。
「ソルジャー・ブルーを止めて下さい」と、シャングリラのソーシャラーとして。
前のお前を失うわけにはいかないからな、と今のハーレイが言うのも分かる。フィシスが未来を読んでいたなら、前の自分は軟禁されていただろう。青の間から一歩も出られないように。
フィシスでさえも読めなかったなら、ハーレイにはとても無理なこと。前の自分が目覚めた真の理由に気付くなどは。
「…勘違いでなくても、思わないよね…」
目覚めたら直ぐに死んじゃうだなんて、そうするために起きただなんて…。
誰も気付いていなかったお蔭で、前のぼくの「ナスカに残った仲間の説得に行く」っていう嘘、バレずに出して貰えたんだもの。…シャングリラから。
「そういうことだな。前の俺が涙を流した時には、お前はいなくなっちまってた」
何もかも終わっちまった後まで、キャプテンの俺は泣けなかったんだ。…天体の間に移るまで。
前のお前には散々泣かされちまって、今も泣かされ続けてる。
ふとしたはずみに思い出しては、俺の家で独りぼっちでな。今のお前が知らない間に。
うんと悲しい酒なんだぞ、と今もハーレイが想い続けるソルジャー・ブルー。今でもハーレイは前の自分を忘れない。「可哀想だった」と、心の中の特別な場所を与え続けて。
「ホントにごめんね…。前のぼくのこと」
ハーレイを何度も泣かせてしまって、最後は独りぼっちにしちゃって。
でも、ハーレイの涙、懐かしかったよ。片目だけしか見られなかったの、惜しいから…。
泣いてみせてくれない、ほんのちょっぴり。…今度は両目で。
「なんだって?」
泣けって言うのか、今、此処でか?
それも両目で、わざと泣くのか、とハーレイが驚いた顔をするから、「お願い」と強請った。
「思い出したら泣けるんでしょ? 前のぼくのことを」
可哀想だった前のぼくを思い出して泣いてよ、少しでいいから。
メギドの時だと酷すぎるから、他の何かで。アルタミラでも何でもいいから。
「…思い出したくても、お前が目の前にいたんじゃ無理だ」
お前は元気に生きてるんだし、今も我儘一杯だからな。俺に涙を注文するほど。
「えーっ!?」
酷いよ、思い出せないだなんて…。ぼくがいたら、それだけで泣けないなんて…!
ケチ、と膨れても断られた。「俺の涙は見世物じゃない」と。
「見世物じゃないって…。そんなの酷い…」
だったら、いつか見せてくれるの、今のハーレイが泣く所を…?
両目にゴミとか、そんなのじゃなくて、ちゃんと前みたいに流してる涙…。
「頼まなくても、見られる筈だと思うがな?」
今のお前なら見られるだろう、とハーレイが言うから「いつ?」と訊いてみた。今は駄目らしいハーレイの涙、それを見られる日はいつなのか、と。
「見られる筈だって言ったでしょ? それって、いつなの?」
「さてなあ…?」
お前と結婚できた時には、確実だろうと思っているが。結婚式の日には見られるんじゃないか?
嬉し涙を流す俺の姿を、もうたっぷりと。
「…本当に?」
「ああ、人前では泣かんがな。…そうそう大盤振る舞いは出来ん」
一世一代の涙なんだから、と笑うハーレイだけれど、二人きりになれた途端に泣くだろう、との読みだから。嬉し涙を流してくれるらしいから…。
今のハーレイの涙は楽しみに取っておくことにしよう、今は無理やり見ようとせずに。
可哀想な前の自分に譲って、今の自分は見られないままで。
「見せて」とハーレイに強請らなくても、いつか幸せで流す涙を自分は見られる筈だから。
その時は自分も泣くだろうから、ハーレイと二人、幸せの涙を流して泣こう。
いつかハーレイと結婚したら。
可哀想な前の自分の姿が、今の自分と重なって溶けて、ハーレイの前から消える日が来たら…。
ハーレイの涙・了
※今のブルーは見たことが無い、今のハーレイの涙。ブルーの前では泣かないのです。
ハーレイが涙を流すのは、前のブルーを想う時だけ。いつかブルーが大きく育つ時までは…。
(あれ?)
降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。
雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。
ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。
父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。
傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。
お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。
傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。
真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。
それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
それに比べて、今の自分はどうだろう?
シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。
茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。
今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?
糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。
糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。
いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?
糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。
「どうしよう…?」
糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。
ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
青く蘇った、この地球の上で。
今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。
小糠雨・了
※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
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降ってるの、とブルーが見上げた空。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中に。
空は確かに曇り空。バスを降りた時には気付かなかったけれど、頬に微かに感じた水滴。
(小糠雨…)
まるで見えないような雨粒、それが漂い、落ちてくる空。鞄に入れている折り畳み傘を、広げるほどではないけれど。この程度ならば、家に帰るまで大丈夫。本当に霧のようだから。
小糠雨というのは霧雨のことだと、ハーレイの授業で教わった。いつだったかは忘れたけれど。
(授業じゃなくて、雑談だっけ?)
ハーレイの授業で人気の雑談、そっちの中身の方かもしれない。あるいは授業か、記憶は定かでないのだけれども、小糠雨を習ったのは本当。
これがそうか、と思った雨。濡れないくらいに細かい雨粒。
生憎と自分は糠の方を殆ど知らないけれど。精米した時に出来る粉だ、という程度の知識。
(糠を使って、お漬物…)
今はお漬物もある時代。遠い昔の日本の文化を復活させている地域なのだし、色々なのが。糠を使って漬けるお漬物もあるのだけれども、母はキッチンで漬けてはいない。糠漬けなんかは。
つまり家では出番が無い糠、自分とは馴染みが薄すぎる。家で精米する人もいるらしいけれど、それとも縁の無い家だから。
料理上手の母だとはいえ、其処まではしない。精米機を買って、自分の好みで精米なんて。
(ハーレイもそう言っていたかな?)
小糠雨について説明する時、「家に糠のあるヤツ、少ないだろうな」と。
この地域の主食は米だけれども、普通は店で買ってくるだけ。精米されて袋に入っているのを、必要な分だけ買って来て炊く。家族が多いとか、食べ盛りの子供がいるなら配達を頼んだりして。
(お米、とっても重たいもんね…)
小さな袋でもズシリとするから、大きな袋は買い物のついでに持って帰るのは無理だろう。今の自分には馴染み深い米、けれどそこまで。精米までは家ではしなくて、見かけない糠。
ならば、やっぱり雑談だったろうか、ハーレイの授業の小糠雨。授業で話題にしたのだったら、本物の糠を持って来そうなのがハーレイだから。「これが糠だ」と。
雑談かもね、と思う小糠雨。たまたま授業中に降っていたとか、雨が降りそうな空だったとか。大粒ではなくて、こういう雨が。傘が無くても、少しの距離なら濡れずに歩いてゆける雨。
(…雨の名前…)
小糠雨の他にも、今は色々。霧雨はもちろん、村雨だとか時雨だとか。同じ雨でも春なら春雨、秋なら秋雨、そんな具合に。
挙げていったら幾つでもある雨たちの名前。季節の雨やら、雨の降り方を表す言葉。沢山の名は日本ならではだと、こちらは古典の授業で聞いた。遠い昔の日本人たちが名付けた雨。
他の国だと、大抵はただの雨なのに。雨は「雨」とだけで、細かく分かれてはいないのに。
(何処の国でも、いろんな降り方…)
しそうだけどね、と考えながら帰った家。熱帯だったら、叩き付けるように降り出すスコール。渇いた砂漠をしっとりと潤す雨だってきっと、あるのだろうに。
(昔の日本の人たちが繊細だったのかな…?)
移り変わる季節を歌に詠んでいた日本人。花たちも木々も、その上に降って来る雨も。
自然を細かく観察したなら、色々な名前も生まれるだろうか。この雨はこう呼ぶのがいい、と。一人がそれを思い付いたら、歌を通して伝わるだろう。様々な人が見て、それを口にして。
(そういうトコから出来た名前かな…?)
幾つもの雨の名前たち。ダイニングでおやつを食べる間も、小糠雨は降っていたものだから…。
二階の自分の部屋に戻って窓から見たら、しっとりとしている庭の木々の枝。それに葉っぱも。いくら細かい霧のような雨でも、これだけ長く降り続いたら、そこそこの量になってくる。
(今はこうだけど、本降りになったら…)
もしもハーレイが来てくれたならば傘だよね、と思う「本降り」。
仕事の帰りに寄ってくれたら、車を降りるなりハーレイは傘を広げるだろう。傘を差さないと、濡れてしまうから。門扉の所でチャイムを鳴らして待っている間に、ずぶ濡れだから。
その「本降り」も遠い昔の日本で生まれた言葉。本格的に降る雨のこと。
細かい霧雨、小糠雨を降らせる時間はおしまい、と音を立てて空から落ちてくる。もっと激しい雨になったら、土砂降りと呼ばれる時だって。
傘では防ぎ切れない雨が土砂降り、地面で跳ね返って靴などを濡らしたりもする酷い雨。
ハーレイが来た時に土砂降りだったら大変だよね、と思うけれども、様々な雨の名前たち。空の上から落ちてくる雨、それに名前が幾つもある。
(なんだか素敵…)
雨の名前が多いのは日本の文化だけれども、それだけ色々な降り方をするのが地球の雨。空から地上に降り注ぐ時に、小糠雨やら、土砂降りやら。
(前のぼくが暮らしたシャングリラだと…)
雨さえも降りはしなかった。船での暮らしに雨は不要で、それを真似た散水システムも無し。
前の自分が提案してみても、「非効率的だ」と反対された。白いシャングリラの公園に水を撒くシステムは今のが一番だから、と。
長老たちと協議した末、決まったのがランダムな時間に散水すること。それまでは夜間に撒いていたのを、「何日の何時」とも決めないで。
いきなり公園に降り注ぐ水は人気を集めたけれども、あくまで雨の紛い物。本物ではないから、小糠雨が降りはしなかった。土砂降りの雨も。
人工の雨でさえなかったものね、と考えていたら聞こえたチャイム。この時間なら、ハーレイが来たのに決まっている、と駆け寄った窓。
(ハーレイ、傘かな?)
小糠雨でも、雨は雨。きっと傘だ、と庭を隔てた門扉の向こうを見下ろしたのに。
こちらに手を振るハーレイは傘を持ってはいなくて、母が出てゆくのが見えた。門扉を開けに。その母の手に、男物の傘。父が持っている傘の中の一つ。
(パパの傘…)
此処まで声は聞こえないけれど、「どうぞ」と渡しているのだろう。受け取ったハーレイが頭を下げて、その傘をポンと広げたから。母の傘より大きな傘を。
(…ぼく、一階にいれば良かった…)
ダイニングでもリビングでも。キッチンでもいいから、とにかく一階。
其処にいたなら、今のチャイムで出てゆけたから。母の代わりに「ぼくが行くよ」と。
そうしていたら、きっとハーレイと相合傘。母はハーレイの分の傘を手にして行ったけれども、傘を一つだけ持って出掛けて。二人で入れる傘を一本だけ差して。
土砂降りではなくて小糠雨だし、傘は無くてもかまわない程度の霧雨だから。
父が差している傘は大きくて、小糠雨なら二人で一本でも充分。ハーレイを迎えに門扉の所まで出て行ったならば、「濡れるから入って」と言えばいい。濡れないくらいの小糠雨でも。
ハーレイと二人で傘を一本、門扉から玄関までの庭を歩くだけの距離でも相合傘。
チビの自分が傘を持っていたって、ハーレイの背には届かない。傘をハーレイの手に「はい」と渡して、自分は隣に入って歩く。ハーレイと二人、仲良く並んで。
(相合傘、前に一回だけ…)
折り畳みの傘を忘れて登校した時、ハーレイに傘を借りに出掛けた。サイオンが不器用すぎて、シールドではとても防げない雨。学校で借りられる傘も一本も残っていなくて、困り果てて。
「傘を貸して下さい」と職員室へ頼みに行ったら、「ほら」とハーレイが貸してくれた傘。その上、バス停まで送ってくれた。ハーレイが差す傘に入れて貰って、相合傘で。
(貸してくれた傘、バスに乗るまで使わなくって…)
家から近いバス停で降りて、初めて差した。ハーレイの肩は濡れていたのに、気にも留めないでバス停まで送ってくれた。バスに乗る時も傘を差し掛けてくれて。
それが一度きりの相合傘。あれっきり二度と出来ていないから、今日のチャンスを逃したことが残念な気分。「一階にいれば良かったよ」と。
そう思うから、ハーレイが部屋に来てくれてテーブルを挟んで向かい合うなり、口にした。
「ぼくが迎えに行きたかったな…。ママの代わりに」
チャイムが鳴ったら、門扉のトコまで。…一階にいたら行けたのに…。
「はあ?」
なんでお前が迎えに出るんだ、いつだって部屋で待っているだろ。窓から俺に手を振るだけで。
いったいどういう風の吹き回しだ、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かあるのか?」と。
「相合傘だよ、ぼくが行ったら出来たでしょ?」
ママが傘を持って迎えに行くのが見えたから…。パパの傘を。
ちょっぴりだけど、雨が降っているもの。
小糠雨でも雨は雨だよ、ハーレイを迎えに出て行くんなら傘を持たなくちゃ。
でもね、ぼくはママとは違うから…。持って行く傘は一本だけ。
二人で差してくればいいでしょ、相合傘で玄関まで。
傘はハーレイが持ってくれればいいものね、と話した相合傘のこと。母の代わりに自分が迎えに行っていたなら、きっと出来た筈の相合傘。門扉の所から玄関まで。
けれど、ハーレイは「無理だと思うが」と外にチラリと目をやった。窓の向こうに。
「まだ降っちゃいるが、こんな雨だと…。お前と相合傘はしないな」
お前が傘を差していたって、俺は並んで歩くだけだ。お前の傘には入らないで。
「入らないって…。なんで?」
雨だよ、ママだってパパの傘を渡しに行ったじゃない…!
ハーレイが傘を持ってないから、濡れないようにパパの大きな傘…。
だから、ぼくでも同じでしょ、と首を傾げた。傘を借りるか、相合傘かの違いだけだよ、と。
「そいつはお前の考え方で、俺にとってはそうじゃないってな」
確かに雨は降ってたんだが、この雨だったら傘は要らないと思ったから持っていなかった。
車には積んでおいたんだがなあ、あの程度なら降ろすまでもない。小糠雨だから。
ついでに、俺が此処から帰る頃には、すっかり止んでいるだろうしな。
酷くなりそうなら傘を持って降りたが、というのがハーレイの返事。傘が要らない小糠雨。
「傘は要らないって…。ハーレイの予報?」
この雨は夜までに止んじゃうから、って傘を車に置いて来たわけ?
「そんなトコだな。天気予報でも、雨だとは言っていなかったから」
今朝見た予報も雨じゃなかったし、車の中で聞いたのもそうだ。…明日の予報も雨じゃない。
こういう雨なら、単なる空の気まぐれだな。ちょっと降らすか、といった具合で。
それで車に傘を置いて来たんだが、お母さんがわざわざ傘を届けに来てくれたから…。
「要りません」なんて言えやしないだろ、お母さんの好意が台無しだ。
有難く借りて差してこそだな、せっかく「どうぞ」と俺に渡してくれたんだから。
お母さんだったから、俺は傘を借りたが…。
もしもお前が一人で迎えに出て来ていたなら、お前の傘は借りないな。
「パパの傘だけど」と別のを渡された時は、「すまんな」と広げて差すんだろうが…。
お前が「入って」と一本きりの傘を差し出したら、俺は決して受け取らないぞ。
「濡れちまうから、お前が一人で差しておけ」って、断るだけで。
お前は傘を差して、俺は隣で傘無しで玄関まで行くってだけだな、というのがハーレイの意見。小糠雨なら傘には入ってくれないらしい。ハーレイ用にと別の傘があれば、差してくれても。
「それ、つまらないよ! なんで入ってくれないわけ?」
どうして相合傘は駄目なの、前に一度だけやったじゃない!
ぼくが折り畳みの傘を忘れて困っていた時に、ハーレイ、バス停まで送ってくれたよ?
あの時は学校の帰りだったのに、と食い下がらずにはいられない。学校だったら出来た相合傘。先生と生徒でも出来たというのに、家だとそれが出来ないなんて、と。
「相合傘なあ…。確かに一度送ってやったが、あれを狙っているのか、お前?」
俺と相合傘がしたくて、今日も迎えに出たかった、と。…一階にいて、俺に気付いたら。
傘を持ってはいないと分かれば、お前の分の傘を一本だけ差して。
俺用の傘は持たないで…、とハーレイが確認するものだから、「うん」と素直に頷いた。
「そうだけど…。駄目?」
今日みたいな雨だと断られちゃうなら、もっと降ってる日じゃないと無理…?
でも、本降りの雨の日だったら、ハーレイ、傘を持ってるよね…。車に置いて来たりしないで。
「当然だろうが、でないと濡れてしまうからな。…ジョギング中なら気にしないんだが」
学校の帰りだと、スーツが駄目になっちまう。シールドするのも、この年だとなあ…。
お前くらいのガキならともかく、大人ってヤツはシールドだけで雨の中を歩きはしないから。
つまり、お前の家では無理だな、俺と相合傘をするのは。
だからと言って、わざと傘を忘れて学校に来るのは許さんぞ。不幸な忘れ物なら許すが。
わざと忘れたなら、傘だけ持たせて放り出すからな、と睨むハーレイ。「送ってやらん」と。
「そんなこと、絶対やらないってば。わざと忘れて行くなんて」
だけど、ぼくだって人間だから…。忘れる時には忘れちゃうんだってば、気を付けていても。
本当だよ、と言ったけれども、「どうなんだか…」とハーレイは疑いの眼差し。
「今日の出来事が切っ掛けになって、やるかもしれんって気がするんだが?」
午後から雨が降りそうです、と予報を聞いて、鞄から傘を出しちまうこと。チャンス到来、と。
もっとも、お前の企みは顔に出るからな…。でなきゃ心の中身がすっかり零れちまうか。
俺には全てお見通しだぞ、と鳶色の瞳で見据えられた。「悪だくみをしても無駄だからな」と。
傘を忘れて学校に行っても、わざとだったら断られるらしい相合傘。ハーレイは傘を「ほら」と渡して、それっきり。相合傘でバス停までは送ってくれない。「わざとだろう?」と睨まれて。
(…嘘をついてもバレちゃうもんね…)
相合傘は無理なんだ、と残念でガックリ落とした肩。家では無理だし、学校でも無理。ウッカリ傘を忘れない限り、二人で入ってゆけない傘。一本の傘で相合傘で歩くこと。
こんな雨でも駄目なんだよね、と眺めた窓の向こうの庭。まだ降っている小糠雨。
「ハーレイ、この雨、小糠雨だよね?」
相合傘とは関係ないけど、前にハーレイが教えてくれたよ。学校で、古典の授業の時に。
細かくて糠みたいに見える雨だから小糠雨…、と指差したガラスの向こう側。霧のような雨。
「おっ、覚えてたか? 小糠雨のこと」
雑談で話しただけだったんだが、よく覚えてたな。授業とは関係無かったのに。
ただの糠の話だったのにな、とハーレイは嬉しそうな顔。「ちゃんと聞いててくれたか」と。
「雑談だって、ハーレイの話ならきちんと聞くよ。他の生徒も雑談の時間は大好きだよ?」
授業の時には居眠ってる子も、雑談の時には起きるんだから。
でもアレ、授業じゃなかったんだ…。小糠雨、授業だったかも、って思ってて…。
ちょっぴり自信が無かったんだよ、と白状したら、「そうだろうな」と返った笑み。
「まるで関係無くはなかった。あの時の授業には雨も出て来ていたから」
授業のついでに脱線しておくことにしたんだ、糠ってヤツを教えてやろうと。
お前たちには馴染みが薄いモンだろ、小糠雨はともかく、糠の方は。
米の飯を食ってりゃ、その前に糠がある筈なんだが、と教室で聞いた話の繰り返し。精米したら出来るのが糠で、白い御飯を食べようとしたら糠は必ず出来るもの。…目にしないだけで。
「授業でもそう言ってたけれど…。糠って何かの役に立つの?」
美味しいお米を食べるためには、くっついていない方がいいから取り除いて糠になるんでしょ?
お米の邪魔者みたいなもので、お店でお米を買って来る時は、もうくっついていないもの。
わざと残したお米もあるけど、普通はくっついていないんだよね…?
白い御飯に糠の部分は無いんでしょ、と忘れてはいない糠のこと。御飯粒が光る御飯の時だと、糠の元になる部分は取り除かれた後だから。
糠の元を纏ったままだと玄米、好き嫌いが分かれてしまう米だとハーレイの授業で聞いたから。
真っ白な御飯にならないらしい米が玄米、お店に並んでいるお米は綺麗に精米したものが殆ど。健康志向で玄米を食べる人はいたって、それ以外で糠が役立つかどうか。
普通はお目にかからないし…、と思った糠。多分、家にも無いだろうから。
そうしたら…。
「授業でも言ったぞ、漬物に使うと。…糠漬けだな」
糠漬けは糠が無いと作れん、他の物じゃ駄目だ。糠で漬けるからこそ、糠漬けなんだし。
そいつを馬鹿にしちゃいけないぞ、とハーレイが言うから驚いた。糠漬けは漬物の一種なのに。
「…糠漬け、そんなに大事なの?」
馬鹿にしちゃ駄目だ、って言うくらいに大切なお漬物なの、糠漬けは…?
お漬物の中の一つじゃないの、と不思議でたまらない糠漬け。お漬物は和風の料理に欠かせないけれど、糠漬けでなくても良さそうな感じ。お漬物なら何でもいいんじゃないの、と思うから。
「今はそうでもないんだが…。漬物ってヤツも色々あるから、好みで選べばいいんだが…」
うんと昔は、漬物とくれば糠漬けだった。そして大切だったんだ。
糠味噌女房って言葉があったくらいに、糠漬けは毎日の生活に欠かせない漬物だったらしいぞ。
「…なにそれ?」
糠漬けはなんとなく分かったけれども、糠味噌女房って何のことなの…?
分かんないよ、とキョトンと見開いた瞳。「女房」なのだし、糠味噌女房は奥さんだろうか?
まるで初耳な言葉だけれど。…糠味噌と言われてもピンと来ないけれども。
「知らんだろうなあ、糠味噌女房は。…古典の授業じゃ、そうそう出番が無いから」
しかし昔の日本って国では、馴染みの言葉だったんだ。糠漬けと同じくらいにな。
糠漬けを作るには、糠床っていうヤツが要る。それに使うのが糠味噌だ。糠に塩と水を加えて、混ぜ合わせて発酵させるんだが…。
ずっと昔は、何処の家にも糠床があった。今みたいに沢山の料理が無いから、おかずは糠漬け。それしか無いって家も珍しくなかったほどだ。おかずは糠漬けだけだ、ってな。
その糠漬けを作る糠味噌、そいつの匂いがしみつくくらいに、長い年月、一緒に暮らす奥さん。
糠味噌女房はそういう女性を指す言葉なんだ、長年連れ添った大事な女性だとな。
ところが、途中で勘違いをして、けなす言葉だと間違えたヤツらも多かった。所帯じみた女性を指しているのが、糠味噌女房なんだとな。
それは間違いだったんだが…、とハーレイが浮かべた苦笑い。「本当は褒め言葉なんだぞ」と。
「匂いがしみつくって辺りで誤解が生まれたんだろうな、所帯じみてると」
だが、実際の所は違う。糠味噌の匂いがしみついたのは何故なのか、という理由が大切なんだ。
糠味噌は毎日世話をしないと、腐って駄目になっちまう。腐ったら糠漬けはもう作れない。
そうならないよう、糠味噌の世話を決して忘れないからこそ、匂いが身体にしみつくわけで…。
手抜きをしない気の利いた女性という意味なんだな、糠味噌女房の本当の意味は。
そんなわけだから、もしも前のお前が、俺の嫁さんだったなら…。
まさに糠味噌女房ってトコだな、長い長い間、ずっと一緒にいたんだから。
糠味噌の世話はしていなかったが、シャングリラを守っていた自慢の嫁さんだ。糠味噌よりも、ずっと大事な俺たちのミュウの箱舟を。
本当に気の利いた嫁さんだった、とハーレイは懐かしそうな顔。前の自分たちが恋をしたことは誰にも話せなかったし、最後まで秘密だったのだけれど。…結婚式も挙げていないのだけれど。
それでも「気の利いた嫁さんだった」と言って貰えるのがソルジャー・ブルー。
今のハーレイが思い出しても、「糠味噌女房だった」という褒め言葉が直ぐに出てくる人。
それに比べて、今の自分はどうだろう?
シャングリラを守って生きるどころか、本物の糠味噌さえも知らない有様。糠味噌を守ることも出来ない、情けない「お嫁さん」になりそうな自分。
「…今のぼくだと、どうなっちゃうの?」
前のぼくは糠味噌女房になれるけれども、今のぼくだと無理みたい…。
シャングリラを守る代わりに糠味噌の方を守ってろ、って言われても…。ぼくは糠味噌、触ったこともないよ。糠だってよく分かってないから、糠味噌、作るのも無理そうだけど…。
お塩と水は分かるんだけど、と項垂れた。肝心の糠の知識が無いから。
「ふうむ…。今度は本物の糠味噌女房になるのも難しそうだ、というわけか」
糠ってヤツは、なかなかの優れものなんだがなあ…。米にとっては邪魔者だが。
真っ白な飯を炊きたかったら、糠の部分は取っちまわないと駄目なんだが…。
そうやって出来た糠の方はだ、漬物を作る他にも使えるんだぞ。
料理をするなら、タケノコのアク抜きに大活躍だ。タケノコを茹でる時に糠を入れるんだな。
糠を入れずにタケノコを茹でても、美味いタケノコにはなってくれんし。
茹でるなら糠を入れてやらんと、とハーレイが教えてくれたタケノコの茹で方。茹でるのに糠が要るのだったら。この家にも糠があるかもしれない。タケノコが出回るシーズンならば。
「そっか、タケノコにも糠なんだ…。ハーレイ、糠に詳しいんだね」
雑談の種にしただけじゃなくて、本物の糠にも詳しそう。…タケノコ、糠で茹でたりするの?
一人暮らしでも茹でているの、と尋ねたら。
「それは流石にやらないなあ…。けっこう手間がかかるもんだし、俺は貰って来る方だ」
おふくろが好きでな、春になったら茹でるから…。そいつの瓶詰を分けて貰って使ってる。
親父が釣りのついでに沢山採って来たのを、茹でては端から保存用の瓶に詰めるんだ。
そのおふくろは、実は糠漬けも得意でな。色々なものを漬け込んでいるぞ、旬の野菜を中心に。
俺にも届けてくれるんだ、とハーレイ自慢の「おふくろの味」。隣町の家で、毎日世話をされているのが糠味噌。美味しい糠漬けが食べられるように。
きちんと世話をしてやらないと、糠味噌は腐ってしまうから。腐ったら糠漬けが作れないから。
ということは、糠漬けが得意なハーレイの母は…。
「ちょっと待ってよ、ハーレイのお母さんが糠漬けが得意だってことは…」
ハーレイのお母さんは糠味噌女房になるの、そういうことなの?
本物の糠味噌女房だよね、と確認したら、「そうなるな」という返事が返って来た
「俺の嫁さんじゃなくて、親父の嫁さんではあるが…。立派に糠味噌女房だろう」
糠味噌を腐らせたこともないしな、俺の記憶にある限り。…糠床はいつも働いてるから。
親父たちの家で活躍中だ、と聞かされた糠床。…美味しい糠漬けが生まれる糠味噌。壺に入っているらしいそれは、ハーレイが幼かった頃から隣町の家にあるそうだから…。
「…ハーレイのお母さんが糠味噌女房だったら、ぼく、どうなるの…?」
ぼくが糠味噌、使えなかったらどうなっちゃうの…?
ハーレイのお嫁さんになっても、糠漬けが作れないままだったら…?
今のままだとそうなっちゃうよ、と心配でたまらない未来のこと。糠さえも縁が無い自分。
糠味噌女房になれやしない、と不安な気持ちがこみ上げてくる。
前の自分は糠味噌女房だったのに。…糠味噌ではなくてシャングリラだけれど、立派に守って、世話を欠かさなかったのに。
今度の自分は駄目かもしれない、と気掛かりな糠味噌女房のこと。今のハーレイに褒めて貰える糠味噌女房、それにはなれないかもしれない、と。
けれどハーレイは気付いていないらしくて、「何の話だ?」と逆に問い返して来た。
「お前がいったいどうなると言うんだ、何の話をしてるんだ、お前…?」
俺にはサッパリ分からないんだが、と思い当たる節が無いらしい。ソルジャー・ブルーを糠味噌女房だったと褒めて、ハーレイの母も糠味噌女房だと語っていたというのに。
それを言う前には、糠味噌女房は褒め言葉だと説明してくれたのに。…理由もきちんと。
だからおずおずと問い掛けた。糠味噌女房になれそうもない今の自分のことを。
「…あのね、今のぼく…。駄目なお嫁さんだ、っていうことになってしまわない…?」
糠漬けなんかは作れそうになくて、シャングリラだって守ってなくて…。
前のぼくなら糠味噌女房になれたけれども、今のぼくだとホントに駄目そう…。
糠漬けが作れないようなお嫁さんだったら、と俯き加減。本当にそうなってしまいそうだから。
「おいおい、糠漬けって…。お前、最初から料理はしないだろうが」
何度もそういう話になったぞ、お前は何もしなくていいと。料理も掃除も、何一つとして。
お前が嫁さんになってくれるだけで俺は幸せだし、お前は何もしなくていいんだ。
前のお前は頑張りすぎたし、今度はのんびりすればいい。家のことなんか、何もしないで。
それに料理は、俺の方が上手なんだから。…前の俺だった時からな。
なんたって厨房出身だぞ、とハーレイが威張るキャプテン・ハーレイ時代。シャングリラの舵を握る前にはフライパンを握っていたわけなのだし、料理は昔から得意だと。前のハーレイが料理をしていた時代も、「お前は見ていただけだろうが」と。
「そうだけど…。前のぼくも料理はしていないけど…」
今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないから、いいお嫁さんになれるんだったら、頑張らないと駄目なのかな、って…。
糠味噌女房になるためだったら、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。
ちっとも自信が無いけれど、と今も分からない糠漬けのこと。糠味噌の作り方だって。
「お前が糠味噌女房なあ…」
その心意気は大したもんだが、お前、本気なのか?
なにしろ相手は糠味噌なわけで、糠床の世話が日課になるわけなんだが…?
糠味噌の匂いがしみつくのが糠味噌女房だぞ、と鳶色の瞳に覗き込まれた。「本気か?」と。
「お前が糠床の世話をするのか、どうにも似合っていないんだが…」
なんたってアレは臭いからなあ、とハーレイが言うから目を丸くした。糠味噌の匂いとだけしか聞いていないけれども、臭いのだろうか、糠味噌は…?
「えっと…。糠味噌、臭いの?」
ホントに臭いの、何かの例えで臭いって言ってるわけじゃなくって…?
ただの匂いじゃないと言うの、と重ねて訊いたら、「こんな匂いだが?」とハーレイが思念波で送って来たイメージ。プンと鼻をついた独特の匂い。…確かに臭い。
「いいか、こいつを毎日、手で掻き回すのが糠床の世話ってヤツだぞ。…出来るのか?」
蓋を開けては中を掻き回して、いい具合に漬かったヤツを取り出す、と。
糠漬けになった野菜ももちろん臭いからなあ、匂わないよう、糠味噌をきちんと落とすんだ。
そういう作業を毎日やってりゃ、糠味噌臭くもなるだろうが。
糠味噌女房はそういうモンだが、お前、そいつになりたいのか、と尋ねられた。こういう匂いを嗅いだ後でも、まだ頑張って目指すのか、と。
「…ぼく、無理かも…。毎日世話するくらいだったら、って思っていたけど…」
臭いだなんて思わないから、糠漬けも作れた方がいいかな、って…。糠味噌女房、今のぼくでもなれるなら、って…。前のぼくみたいなのは絶対、無理なんだけど…。
この糠味噌も無理みたい、と音を上げざるを得ない糠味噌の匂い。いい香りとは呼べないから。
「ほら見ろ、無理はしなくていい。この俺だって漬けていないぞ、糠漬けは」
臭いからっていうのはともかく、一人分だと面倒だしな。…漬かりすぎちまって。
お前と結婚した後も、おふくろのを貰えばいいだろう。今まで通りに、「分けてくれ」とな。
糠漬け、お前も食べるんだったら、お前の分も。
おふくろは喜んで分けてくれるさ、とハーレイは保証してくれたけれど。ハーレイの母ならば、きっとそうだろうけれど、その糠漬け。
「でも…。糠漬けが上手に作れたら…」
糠床の世話がきちんと出来てて、美味しい糠漬けを漬けられたら褒めて貰えるんでしょ?
ちゃんと糠味噌女房なんだし、ハーレイだって自慢出来るだろうから…。
糠味噌女房のお嫁さん…、と思ったけれど。ハーレイの自慢のお嫁さんになれると、そのために努力するべきだろうと考えたけれど…。
「そりゃまあ…。褒めて貰えるだろうな、おふくろにな」
「え?」
なんでハーレイのお母さんなの、褒めてくれる人…?
ハーレイのお嫁さんのぼくを褒めるの、どうしてハーレイのお母さんになるの…?
もっと他にも大勢いるでしょ、と思い浮かべたハーレイの友人や知人たち。家に来た人に御馳走したなら、本当に立派な糠味噌女房になれそうなのに…。
「他のヤツらがどう褒めるんだ? 俺の友達は滅多に家に来ないぞ」
普段から出入りするのは親父とおふくろ、もちろん親父も褒めるだろう。「いい嫁さんだ」と。
だがな、他に何度もやって来るのは、俺の教え子たちだから…。
お前、糠漬けを御馳走するのか、柔道部員や水泳部員といった連中に…?
あいつらは確かに食べ盛りだが、と挙げられたハーレイの教え子たち。運動部員で、スポーツに励む男の子たち。
(えーっと…?)
どうだろう、と考えてみなくても分かる。今の自分も、あまり馴染みのない糠漬け。他にも色々あるお漬物も、子供の口に合いはしないだろう。好き嫌いが無い自分はともかく、あれこれ好物を選んで食べたがる子供たちには。
「…ハーレイのクラブの生徒だと…。糠漬け、喜ばれそうな感じじゃないね…」
遠慮なくどうぞ、って沢山出しても、殆ど残ってしまうのかも…。
「当たり前だろうが。バーベキューだの、宅配ピザだのでワイワイやるのが定番なんだぞ?」
そんなメニューに糠漬けが合うのか、同じキュウリならピクルスだろうと思うがな?
糠漬けで出して貰うよりは…、とハーレイが苦笑している通り。きっと運動部員たちが大喜びでつまむ漬物はピクルスの方。同じキュウリでも、糠漬けよりは。
「…ぼくもピクルスだと思う…」
糠漬けを美味しく食べて貰うのは無理そうだよ。
バーベキューとかピザが台無し、ぼくが糠漬けを山ほど運んで行ったらね。
いくらハーレイも自慢の糠漬けでも…、とションボリせざるを得ない糠漬けの末路。臭い糠床でせっせと漬けても、ハーレイの教え子たちには喜ばれない。同じキュウリなら断然、ピクルス。
「そう思うんなら、糠漬けはやめておくんだな」
お前がドッサリ漬けてみたって、来る日も来る日も糠漬けだらけになるだけなんだし…。
毎日続くと飽きるだろうが。少しずつなら、ちょいと楽しみってことにもなるが。
食べたい時にサッと出て来てこそだ、とハーレイが言うから、それも糠味噌女房の条件だろう。長年一緒に暮らしているから、何も言われなくても、好みの物を「これだ」と出せること。
「ハーレイのお母さんはどうやってるの?」
沢山漬けすぎたりはしないんでしょ。普段はお父さんと二人で暮らしているんだから。
「おふくろか? そこは長年やってる達人だから、加減が上手い」
漬かりすぎない内に出しておくのも、次のを漬けるタイミングもな。
だが、お前が同じことをやり始めても、そういうコツを掴むまでには、色々失敗もありそうだ。
もっとも、おふくろに教わって糠漬けを始めると言うんなら…。
何度も失敗したとしたって、上手く漬かれば、おふくろの味になるんだがな。
俺のおふくろの味の糠漬けに…、とハーレイは自信たっぷりだから。
「それ、簡単なの?」
糠漬け、難しそうなのに…。そんなのでハーレイのお母さんの味、ぼくでも出せるの…?
「うむ。下手な料理より簡単だろうな、糠漬けだったら」
糠床は家によって違うし、出来る糠漬けもその家の味になるらしい。
塩と水を混ぜて発酵させると言っただろ?
それぞれの家の菌があるんだ、糠床を発酵させてるヤツが。…それぞれの場所で。
糠床は腐らせなければ子々孫々まで受け継げるという話だからなあ、おふくろの糠床もそうだ。
親父と結婚しようって時に、家から持って来たんだから。
おふくろの家にあった糠床を少し分けて貰って、同じ菌で発酵するようにとな。
「ええっ!?」
だったら、ハーレイのお母さんに糠漬けを習えば、同じ糠床を分けて貰えるわけで…。
ぼくがきちんと世話をしてたら、ハーレイのお母さんとおんなじ糠漬けが作れるんだよね…?
糠床を分けて貰いさえすれば、隣町に住むハーレイの母のと同じ味になるという糠漬け。世話を忘れさえしなければ。きちんと毎日、掻き混ぜたなら。
そうと聞いたら、それを受け継ぐのが「おふくろの味」の早道だろうか。同じ味になる糠床さえあれば、後は世話だけなのだから。漬けるタイミングをしっかり覚えて。
「ぼく、やってみたい!」
ハーレイのお母さんの糠床を分けて貰えば、ぼくの糠漬け、おふくろの味になるんでしょ?
それなら作るよ、ハーレイのために。…頑張って糠味噌女房になるよ。
今度のぼくも、と意気込んだ。白いシャングリラを守る代わりに糠床だよ、と。
「いいのか、おふくろの味と言っても、糠漬け限定になっちまうんだが…?」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキだけでいいんだがなあ、俺の場合は。…おふくろの味。
あれと同じ味のをお前が焼いてくれたら、もう最高だと思うわけだが…。
糠床の管理は大変なんだぞ、毎日、掻き混ぜないといけないから。でないと腐っちまうしな。
「ハーレイのお母さん、旅行の時にはどうしているの?」
旅行にも持って行って混ぜるの、まさか其処までしていないよね…?
留守の間は誰かに預けてるとか…、と投げ掛けた問い。でないと駄目になる糠床。なのに…。
「それはだな…。預かった方も大変だろうが」
同じ糠漬け仲間がいるならいいがだ、いない人だっているんだろうし…。
今の時代は秘密兵器があるんだ、糠床を管理してくれる機械。
ダテにSD体制の時代を経ちゃいないようだ、と笑うハーレイ。留守の間は機械の出番だ、と。
「糠床専門の機械だなんて…。それがあるなら簡単じゃない!」
ぼくでも出来るよ、機械が番をしてくれるんなら。…忘れていたって、代わりに管理。
「それは駄目だな、普段から機械に手伝わせるだなんて。そんな糠床は俺は認めん」
毎日自分で掻き混ぜるのが、糠漬け作りの基本なんだ。糠床をしっかり管理すること。
臭くても、手にも身体にも糠味噌の匂いがしみついてもな。
どうするんだ、糠味噌女房、目指すか?
今度こそ本物になると言うなら、おふくろには俺から頼んでやるが…?
いつかお前と結婚した時は、糠床を分けて貰うこと、とハーレイは請け合ってくれたけれども。
「どうしよう…?」
糠床、分けて貰ったんなら、途中で投げ出しちゃ駄目だよね…?
臭いから嫌だって言っても駄目だし、毎日混ぜるのが面倒になってしまっても駄目…。
どうしようかな、と思う糠漬け作り。ハーレイの母に糠床を分けて貰って頑張ること。
難しそうな気もするけれども、せっかくだから挑んでみようか。
白いシャングリラを守り続けた前の自分には、けして出来ないことだったから。糠床などは無い時代だったし、糠味噌女房になりたくてもハーレイと結婚出来なかったから。
「…考えておくよ、糠漬け作り…」
ハーレイと結婚する頃までには、作るかどうかを決めておくから、作るんだったら頼んでね。
お母さんが自分の家から持って来た糠床、ぼくにも分けて貰えるように。
「もちろんだ。…それに、おふくろの糠漬けを食ってから決めてもいいと思うぞ」
俺のおふくろの味を食ってみてから、お前も欲しいと思ったら。…あの味をな。
おっ、小糠雨、止んでしまってるじゃないか。糠味噌の話をしている間に。
木の葉が乾き始めているぞ、とハーレイが指差す窓の外。細かい雨はもう止んだ後。
「ホントだ。ハーレイ、傘を持って来なくて正解だったね」
車に乗せたままで来たこと。…帰りも傘なら、送って行こうと思ってたのに…。相合傘で。
ちょっと残念、と思ったけれども、仕方ない。小糠雨は止んでしまったから。
「当たるだろうが、俺の天気予報」
今日は相合傘は無しだが、いつかはお前と相合傘だな。…小糠雨でも。
「糠味噌女房になっちゃっていても?」
せっせと糠床の世話をしているお嫁さん。…なるかどうかは分かんないけど。
糠床は難しそうだから、と舌を出したら、「まあな」と笑うハーレイ。「無理かもな」とも。
「しかしだ、本当に糠味噌を掻き混ぜているかどうかは、ともかくとして…」
今度こそなってくれてこそだろ、糠味噌女房。…前のお前は、俺の嫁さんになれなかったから。
お前とはいつまでも一緒なんだし、正真正銘、俺の糠味噌女房だってな。
ちゃんと嫁さんになってくれよ、と言うハーレイと指切りしたから、いつまでも一緒。
青く蘇った、この地球の上で。
今度はいつまでも二人一緒に暮らして、糠味噌女房になれたら素敵だと思う。
同じハーレイのお嫁さんになるなら、糠味噌の匂いがしみつくくらいの糠味噌女房。
出来れば本物の糠床を世話して、おふくろの味のパウンドケーキも焼いて。
今のハーレイが喜ぶ「おふくろの味」を、ちゃんと作れる糠味噌女房になれたら、きっと幸せ。
ハーレイとしっかり手を繋ぎ合って、いつまでも何処までも、青い地球の上で二人一緒で…。
小糠雨・了
※前のハーレイの糠味噌女房だった、ソルジャー・ブルー。糠漬けは作っていなくても。
本物の糠味噌女房になりたいブルーですけど、どうなるのでしょう。糠床の世話は大変かも。
(絵本、色々…)
いろんな絵本があるんだね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供のための絵本特集、広告記事とは違ったもの。様々な絵本を紹介する記事。
(赤ちゃん用から揃っているよ)
文字も読めない赤ちゃん用から、自分で読める子供のための絵本まで。赤ちゃん用だと、紙ではなくて布で出来ている本だって。ページをめくって遊べる絵本。布のオモチャが詰まった中身。
(ぼくも持ってたよね?)
こういう絵本。布だから分厚くなっていた絵本、ページにくっついた小さなオモチャ。剥がして遊んだ布の動物、別の所にくっつけたりして。布のニンジンやリンゴもあったと思う。
文字が入った絵本の方だと、懐かしいものも、知らないものも。
(絵本、卒業しちゃったけれど…)
今の年では読まないけれども、母がきちんと仕舞っている筈。大切なものを入れておく箱に。
誰かにあげていないなら。知り合いに譲っていないのなら。
(あげちゃった本も…)
何冊かあるのかもしれない。小さすぎて覚えていないだけで。
(赤ちゃん用の絵本だったら…)
幼稚園の頃に「この本、あげていいかしら?」と訊かれて、「うん」と。何処かの家に生まれた赤ちゃん、その子に譲ってあげようと。
一人前のお兄ちゃん気取りで、「あげていいよ」と笑顔になって。
(得意な顔して言ってそう…)
赤ちゃん絵本は卒業だから、と大人になったような気分。卒業という言葉は、幼稚園児ではまだ知らないけれど。耳にしたって、意味が分からないほどだけれども。
それでも赤ちゃん絵本は卒業、絵本は他所の家に行く。他の赤ちゃんが読むために。
文字の入った絵本の方も、学校に入る年になったら誰かに譲ったかもしれない。繰り返し読んだ本は手放さなくても、お気に入りは残しておいたとしても。
もう読まないよね、と思った本なら、これから絵本を読むだろう年の子供がいる家に。
ぼくは卒業したんだから、と持っていた絵本を誰かにあげたら、貰った方でも…。
(きっと、大切に何度も読んで…)
その子が絵本を卒業する時、まだ綺麗なら、次の誰かにプレゼント。絵本を読む年の子供がいる家、自分よりも小さな子供の家に。
自分だってまだ小さいくせに、うんと大きなお兄ちゃんや、お姉ちゃんになったような気分で、「あげていいよ」と。読みたい子供に譲ってあげる、と。
(それって、幸せなリレー…)
家から家へと旅をする絵本。欲しがりそうな子供がいる家へ。
赤ちゃん用の絵本だったら、何軒もの家を旅していそう。赤ちゃん絵本は卒業するのも早いし、次の赤ちゃんがいる家へ。お気に入りの絵本が他に出来たら、次の赤ちゃんにプレゼント。
(赤ちゃんだったら、わざわざ「あげていい?」って訊かなくっても…)
様子を見ながら「もう読まないわね」と、譲ることだってあるだろう。絵本で遊ばなくなったら卒業、持ち主だった赤ちゃんの方も、絵本のことは思い出しさえしないまま。
文字が入った絵本になったら、お気に入りは手放さないけれど。
両親だってちゃんと分かっているから、「あげてもいい?」とは訊かないだろうけど。
(ぼくのだよ、って怒るに決まっているもんね?)
大切な本を手放すなんて、とんでもないから。他の誰かにプレゼントなんて出来ないから。
(何処かに隠してしまいそうだよ、幼稚園に行ってる間に消えないように…)
幼稚園児でも、ちゃんと頑張って隠すんだから、と思いながら戻った二階の部屋。ケーキなどのお皿を母に返して、階段をトントン上っていって。
(お気に入りの絵本を誰かにあげられそうになったら、隠してたよね?)
もうこの部屋はあったんだから、と勉強机の前に座って考える。旅をしてゆく絵本のこと。
この家から旅に出た絵本があるなら、赤ちゃん用の絵本か、あげてもいい本。部屋に隠して守る代わりに、「あげてもいいよ」と頷いた本。一人前のお兄ちゃんになった気分で。
(絵本だって、きっと幸せだよね?)
そうやって旅に出る方が。この家で仕舞い込まれているより、他の家へと。
旅をする間に、「あげてもいい本」から「お気に入りの本」になって、見付かる棲み家。絵本の旅は其処でおしまい、読まなくなった後も大切に何処かに仕舞われたりして。
本の好みは人によって色々、同じ絵本でも分かれる反応。
(表紙を見ただけで気に入っちゃうとか、「好きじゃないよ」って思うとか…)
子供の数だけあるだろう個性、どんな絵本でも「気に入ってくれる人」が何処かにいる筈。広い世界の何処かに、きっと。
子供の間は、お気に入りはうんと大切なのだし、隠してでも守り抜きたいほど。幼稚園児の頭で思い付くような隠し場所なら、大人はお見通しだろうけれど。「やっぱり此処ね」と探し当てて、笑って、元通りにしておきそうだけれど。「隠すくらいに大切なんだわ」と。
お気に入りの絵本は、子供にとっては宝物。誰にも譲ってあげない絵本。
(そういう宝物になってるといいな…)
この家から何処かへ旅に出た絵本があるのなら。幼かった自分が読んだ絵本が旅に出たなら。
文字が入った絵本はもちろん、赤ちゃん用の絵本にしたって、あちこち旅をして回って…。
(宝物にはなれないままで、くたびれちゃっても、幸せだよね?)
一番最後に辿り着いた家で、もうこれ以上の旅は無理だ、と卒業の後で捨てられたって、御礼の言葉を貰えるだろう。「うちの子供と遊んでくれて、ありがとう」と。
赤ちゃんや子供は知らん顔でも、その家の大人たちから、きっと。「お疲れ様」と労われて。
(絵本だから、幸せな旅が出来るんだよね?)
家から家へと旅を続けて、何人もの子供たちと出会って、読まれて。
お気に入りの絵本になれたら旅は終わりで、その家の子供と一緒に暮らす。とても幸せに。
けれども、それは絵本だから。
同じ本でも、自分くらいの年に育ってしまっていたなら、お気に入りの一冊があったって…。
(ぼくの本だよ、って抱き締めたりはしないし…)
留守の間に消えないようにと、隠すことだってしないだろう。両親が勝手に誰かに譲ってしまうことなど無いのだから。「あの子にあげよう」と棚から出して。
お気に入りの数も増えてしまって、本棚一杯に詰まった本。
此処から見ても、背表紙だけで本の中身が思い出せるほど。「あの本は…」と、直ぐに。
わざわざ広げて眺めなくても、どの本もお気に入りばかりだから。
これからも何冊も増えてゆくのだろう、お気に入りの本。増えすぎて本棚に入らなくなっても、旅に出たりはしないと思う。どの本も大切なのだから。
(本棚が増えるだけだよね?)
増えた本を入れるための本棚。そしていつかは、父やハーレイのように書斎が出来たりも。本を読むために作ってある部屋、本が暮らしてゆくための部屋。
旅に出掛ける本があるなら、「面白そうだ」と買ってみたのに、つまらなかった本くらい。誰か欲しがる人がいないか、友達に声を掛けたりして。「良かったら、読む?」と。
幼い頃に「欲しい人があるから、あげてもいい?」と訊かれる絵本とは違った旅。「いいよ」と一人前になったつもりで、旅に出すのが絵本だけれど…。
(今の年だと、本も自分で選ぶから…)
買ったけれども失敗だった、と思った本を旅に出すだけ。誰か気に入る人がいれば、と。
絵本を読んでいた頃だったら、新しい絵本を買って貰えるまで、つまらない本でも読んだのに。今ほど沢山の本は無いから、お気に入りばかり読んでいたって飽きるから。
(絵本の方が、普通の本より幸せかも…)
家から家へと旅も出来るし、子供の宝物にもなれる。「ぼくの本だよ」と隠すくらいの。
この年になれば、其処までの本には、そう簡単には出会えない。宝物と呼べるほどの一冊。今のぼくだと大切な本は…、と視線がゆくのが白いシャングリラの写真集。
ハーレイに「いい本があるぞ」と教えて貰って、父に強請った豪華版。お小遣いで買うには高い本だし、「パパ、お願い」と。
あの写真集は、ハーレイとお揃い。ハーレイの家にも同じ写真集があるから、ちゃんとお揃い。
(あれは絶対、誰にもあげたりしないんだから…)
いつかハーレイと結婚する時も、あの写真集を持って行く。ハーレイの家へ運ぶ荷物に、大切に詰めて。運ぶ間に傷まないよう、柔らかい紙か布かでくるんでやって。
ハーレイの書斎に二冊並べて置くことになっても、どちらも宝物の本。ハーレイの分も、自分と一緒に引っ越した本も。
とても大事な宝物だし、「二冊あるから」と誰かに譲りはしない。
高い値段の豪華版だけに、欲しがる人が多くても。「二冊あるなら一冊欲しい」と頼まれても。
もう絶対に、旅には出さない宝物。いつまでも二冊並べておく本。
(欲張りだけど、宝物だしね?)
子供の頃の絵本じゃなくて写真集だけど、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。あの頃の本はどうだったろう、と。
(絵本、あったっけ…?)
前の自分が暮らしていた船、シャングリラに。あの船に絵本はあったろうか、と。
白い鯨には、もちろんあった。子供たちも乗っていた船なのだし、何冊も揃っていた絵本。養育部門に出掛けて行ったら、本棚に沢山並べてあった。広げて読んでいた子供たちも。
けれど、それより前の時代。白い鯨に改造する前。
(あの頃だったら…)
本は自分たちの手で製本するか、奪った物資に紛れていたのを手に入れて読むか。その二つしか方法は無くて、製本するなら希望者の多い本から順に。「これが欲しい」と声が上がったら、係がせっせと作っていた。データベースにある本の中身を印刷して。
船にいたのは大人ばかりで、チビだったのは前の自分だけ。年だけは誰よりも上だったけれど、心も身体も長く成長を止めていたから。
チビとは言っても、今の自分と変わらなかった姿。絵本を欲しがる子供ではない。
(絵本が読みたい人なんか…)
きっと一人もいなかったろう。「次は絵本を作って欲しい」と係に注文する者などは。
人類の船から奪った物資に絵本が紛れていたとしたって、読もうと思う者は無い。他の本なら、残しておいたら読み手が現れるだろうけれど…。
(絵本、あっても…)
読む人は誰もいないわけだし、物資に紛れて船に来た絵本は処分だったろうか?
役に立たないガラクタと一緒に廃棄処分で、宇宙に捨てる。「これは要らない」と。
(余計な荷物は船に積んではおけないよね…?)
ゴミと同じで邪魔になるだけ、早々に処分されたと思う。誰も読まない絵本なんかを残しておくわけが無いんだから、と分かっているのに、何故だか読んでいたような記憶。
前の自分が、白い鯨になる前の船で。
あった筈もない絵本を広げて、ページをめくっていたような…。
ぱらり、とページを繰っていた記憶。絵本ならではの独特のページ。子供向けだから、ページの数は多くない本。何度かめくれば、じきに最後まで読める本。
それを読んだ、という気がする。白い鯨になる前の船で、子供は一人もいなかった船で。
(なんで…?)
絵本は廃棄処分にしてたんじゃないの、と不思議でたまらない記憶。無かった筈の絵本を読めはしないし、ページをめくれるわけがない。絵本は船に無いのだから。
それなのに絵本を読んでいた自分。白い鯨の時代の記憶と混ざっているとも思えない。白い鯨で読んでいたなら、青の間にいる筈だから。…絵本の記憶はそうではないから。
(青の間が出来てから、そういう夢でも見たのかな…?)
改造前の船にいる夢を、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、丁度いい、とぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね…。絵本は、あっても処分だよね?」
処分するでしょ、誰も絵本を読む人なんかはいないんだもの。
「はあ? 絵本って…」
お前の学校の図書室のことか、何処かから本の寄贈があったら、確かに振り分けするんだが…。家のを丸ごと貰ったりしたら、絵本も混ざっていたりするしな。
しかし処分ということはないぞ、せっかくの好意なんだから。何処に置くのが一番なのか、皆で決めるのが振り分けだ。上の学校に送るのがいいか、下の学校に届けに行くか。
絵本だったら、幼稚園という所だな。…処分したりはしない筈だが、と今のハーレイならではの答え。学校の教師をしているのだから、当然だけれど。
「違うよ、ぼくの学校じゃなくてシャングリラだよ。白い鯨になる前のね」
本は色々揃っていたけど、図書室もちゃんとあったけど…。
置いてあった本は、読む人がいる本ばかりでしょ?
物資に紛れていた本もそうだし、シャングリラで作った本だって。…読みたい人がいる本だけ。
絵本なんかは無かった筈だよ、物資の中に混じっていたって、きっと処分で。
船に置いても、絵本は邪魔になるだけだから、と説明したらハーレイも頷いた。
「だろうな、誰も読みやしないし」
余計な荷物はゴミと同じだ、絵本は処分だったと思うぞ。…白い鯨じゃない頃ならな。
お前の考えで合っている筈だ、と言うハーレイは備品倉庫の管理人を兼ねた時代もあった。まだ厨房にいた頃だったら、キャプテンではなくて備品倉庫の管理人。
倉庫の管理をしていたのだから、其処に入れる物資のことにも詳しい。そのハーレイが「ゴミと同じだ」と断言するなら、絵本はゴミで廃棄処分になるのだけれど…。
「…えっとね…。絵本の扱い、ぼくもそうだと思うんだけど…」
物資の中に紛れていたなら、捨てていた筈なのが絵本なんだけど…。でもね、絵本を読んでいたような気がするんだよ。前のぼくが、改造前の船でね。
そういう記憶があるんだけれど、と話してみたら、「勘違いじゃないのか?」という返事。
「お前が絵本を読んでいたなら、白い鯨の方だろう。子供たちとも、よく遊んでたし…」
養育部門で借りて帰って、青の間で読んでいたんじゃないか?
読みながらウトウト眠っちまって、昔の船にいた頃の夢を見ていただとか…。
ありそうだぞ、とハーレイの読みも似たようなもの。白い鯨で見た夢だろう、と。
「やっぱりそうかな…? 絵本、あるわけないものね…」
だけど、夢にしてはハッキリしてるし、とても不思議で…。ページをめくっていた時の感じが、指先に残っていそうなほどだから。
それでも、あれって夢なのかな…。前のぼくが見ていた夢だったのかな…?
どう思う、と重ねて尋ねた。絵本の記憶は夢だろうか、と。
「うーむ…。やたらとリアルな夢ってヤツは、誰にでも覚えがあるもんだが…」
夢の中でも痛かったとか、食っていた飯が美味かったとか。…その手の夢は確かにある。
しかしだ、今のお前の場合は、生まれ変わって来ているわけで…。夢のことまで覚えているかというのが大いに問題だよなあ、ただの夢まで記憶に残っているかってトコが。
要は絵本で、お前が絵本を読んでいた、と…。白い鯨じゃなかった時代のシャングリラで。
備品倉庫の元管理人だった俺としてはだ…、とハーレイが追っている記憶。
人類の船から奪った物資は直ぐに仕分けを始めるものだし、余計なものは船に積まないが、と。
「そうだよね。無駄な物資のためにスペースを割くわけがないし…」
いつか役立ちそうなものなら、残しておこうって仕舞っておくこともあるだろうけど…。
絵本はそういうものじゃないしね、役立つことも出番も無いから。
本ならともかく絵本なんだし、絵本は子供がいないとね…。
あの船に子供はいなかったから…、と何の気なしに言ったのだけれど。「やっぱり夢かな?」と話を終わらせようとしたのだけれども、「子供だと…?」と腕組みしたハーレイ。
「…子供は確かにいなかったよなあ、前のお前はチビだったんだが…」
それでも成人検査の後だし、あの時代なら子供とは言わん。…俺の目にはチビの子供だったが。
しかし、絵本を欲しがるような年の子供じゃないし…。
子供ってヤツはいなかったんだ、とハーレイが何度も「子供」と繰り返すから。
「ハーレイ、子供がどうかしたの?」
何か気になることでもあるわけ、あの船に子供がいなかったことで…?
「いや、子供って言葉が引っ掛かって…。絵本は子供がいないと駄目なんだ、って所がだな…」
それだ、子供だ!
あの船にも絵本を置いていたんだ、子供用に絵本を残していたぞ。
お前の記憶は合っているんだ、前のお前が読んでいたのは本物の絵本だったんだ。勘違いでも、夢で見たわけでもなくて…、とハーレイが探り当てたらしい記憶。前のハーレイだった時代の。
白い鯨ではなかった船に、絵本が乗っていたという。あの船に子供はいなかったのに。
「…絵本を残しておいたって…。子供用だ、って言ったよね?」
もしかして、前のぼくがチビの子供だったから?
成人検査は受けていたけど、それきり育たないままのチビ。心も身体もチビだったから…。
ハーレイたちが育ててくれたみたいなものだし、絵本もそのためのものだったの…?
ぼくの心の栄養にするのに絵本だったの、と訊いてみた。ハーレイたちは、あれこれ気配りしてくれたから。前の自分を育ててやろうと、食事にも、かける言葉などにも。
絵本もその中の一つかと思った。長い年月を檻で独りぼっちで過ごす間に、心も身体も傷ついた子供。過酷な人体実験の末に、笑うことさえ忘れてしまった前の自分。
そんな自分の心をゆっくり育ててゆくには、絵本が適していたのだろうか、と。
けれど…。
「違う、そうじゃない。…前のお前も関係してはいたんだがな」
船に絵本が乗っていたことと、前のお前は無関係ではないんだが…。
お前のための絵本じゃなかった、そんな時代はとうの昔に終わっていたな。
前のお前は絵本なんかを使わなくても、きちんと育ってくれたから…。ちゃんと大人に。
最初の間は捨てていたんだ、とハーレイが教えてくれた絵本。奪った物資に紛れていたもの。
ハーレイが備品倉庫の管理人だった頃には、「これは要らない」と不用品として廃棄処分。誰も欲しいと言わなかったし、読みたがる者もいなかったから。
けれども、時が流れた船。
ハーレイが船のキャプテンになって、前の自分はソルジャーに。身体も育って、大人になった。痩せっぽちのチビの子供は卒業、誰が見たって立派な大人。華奢で細くはあったのだけれど。
育った後にも、ソルジャーの役目は変わらない。船を守ることと、人類の船から皆が生きるのに必要な物資を奪うこと。
「覚えていないか、お前が奪った物資の中に絵本のセットが混じってたのを」
どういう理由で紛れてたのかは分からない。…育英都市に送る荷物だったのかもしれないな。
子供の成長を追ってゆくように、赤ん坊のための絵本から揃っていたんだが…。
絵だけの本から、少しだけ字が入っている本。…次は短い物語、といった風にな。
珍しいから、と係が俺に報告して来て、お前やヒルマンたちと一緒に見に行ったんだが…。
視察気分で絵本の検分、と聞かされたら蘇って来た記憶。ハーレイたちと見に出掛けた絵本。
物資の仕分けをするための部屋に、備えられていたテーブルの上。絵本のセットは其処に並べて置かれていた。赤ん坊用の本から順に。
「おやまあ…。絵本と言っても、こういうセットもあるんだねえ…」
続き物ではないみたいだけどね、と好奇心一杯で手に取ったのがブラウ。「面白そうだ」と。
「わしらも読んでいたんじゃろうなあ、何も覚えておらんのじゃが…」
これと同じのを読んだかもしれんな、とゼルも開いてみた絵本。「生憎と思い出せんわ」とも。
「仕方ないだろう、我々はすっかり忘れてしまったからね」
成人検査とアルタミラの檻にいた時代にね、とヒルマンにも無かった絵本の記憶。エラも、前の自分も、ハーレイもピンと来なかった。絵本のセットを前にしたって、手に取ったって。
(それでも、きっと、こういう絵本で育ったんだ、って…)
同じ絵本を見たかもしれない、子供時代の自分が養父母に買って貰って。赤ん坊用のも、文字が入っている絵本も。
きっと誰もが似たような気持ちだったろう。何も覚えていないけれども、自分もこういう絵本を読んで育ったのだ、と。
皆でページを繰った本。赤ん坊用から揃った絵本のセット。感慨深く読んだ後には、この船には不要な本だから、と処分用の箱に入れたのだけれど…。
(…ぼくが読んでた絵本を箱に入れようとして…)
先に誰かが放り込んでいた絵本、その上に重ねて置こうとした時。ふと考えた、前の自分。
これは未来を築く本だ、と。捨てては駄目だと、慌てて箱から取り出した絵本。先に入っていた絵本も全部。「この本たちを捨てては駄目だ」と、順に並べたテーブルの上。
「まるで要らない本のようだけれど、ぼくは捨てるのには反対だ」
分からないかい、この本たちは未来を築く本なんだよ。こうしてセットで揃ったお蔭で、これが持っている意味に気付いた。…未来を作るための本だと。
だから捨てずに取っておこう、と提案したらブラウに問われた。「未来ってなんだい?」と。
「なんのことだかサッパリだよ。絵本の何処が未来なんだい、とうに過去じゃないか」
あたしたちは大人なんだからね、というブラウの言葉は間違いではない。絵本を読んでいた子供時代は終わって、二度と戻って来はしないから。その記憶ごと。
けれども、子供たちにとっては「これから」のこと。生まれて育つ子供たちには。
「…今は全く、未来なんかは見えないけれど…。でも、いつか…」
いつかはこういう絵本を読む子が現れるかもしれないよ。人類ではなくて、ミュウの子供が。
この船に絵本を読むような子が来て、この本を読んで育つんだよ。
それが未来で、そのための本。…捨てずに残しておきたいじゃないか、未来のために。
ミュウの子供を育てるためにね、と皆に話した未来のこと。絵本のセットが築くだろう未来。
「夢物語じゃ! 何が未来じゃ!」
何処から子供が来ると言うんじゃ、この船に!
わしらが隠れて生きてゆくだけで精一杯じゃ、とゼルは噛み付いたし、ヒルマンたちもいい顔をしなかったけれど。「現実味が無い」と皆が唱えたけれど。
「それは分かっているけれど…。これも一つの可能性だよ、未来のね」
絵本を捨てずに残しておいたら、いつか絵本が必要な子供が来てくれるかも…。
この本が子供を連れて来るとは言わないけれども、可能性は残しておかなければ。
捨ててしまったら、未来も可能性も捨てることになる。…この船に未来は要らない、とね。
子供を育てる未来が無いなら、この船はいつか終わるんだから。
最後の一人の寿命が尽きたら終わりじゃないか、と厳しい現実を皆に突き付けた。今の船なら、その日は必ずやって来るから。…新しい仲間が、子供たちが船にやって来ないと駄目だから。
未来への夢が一つくらいあってもいいだろう、と渋るゼルたちを説き伏せ、絵本のセットを備品倉庫に置かせた。場所はそれほど取らないから。
今のシャングリラに子供が来る予定は無いけれど。子供を船に迎えるどころか、未来も見えない船なのだけれど。
(でも、いつか、って…)
いつか絵本を読むような子供が来てくれたら…、と倉庫に出掛けて読んでいた絵本。赤ん坊用の絵だけの絵本も、文字が入っている絵本も。
時には部屋にも持って帰って、絵本のページを繰っていた。前の自分の絵本の記憶は、その時のもの。白い鯨ではなかった頃の船で、何度も読んでいた絵本。
「あの本、どうなっちゃったんだろう?」
絵本のセット、倉庫とか部屋で読んでいたけど…。あの本、何処へ行っちゃったかな…?
その後が思い出せないんだけど…、と今のハーレイに訊いたら、直ぐに答えが返って来た。
「それはまあ…。絵本だって、いつかは駄目になるから…」
いくら人類の船から奪った本でも、寿命ってヤツはあるもんだ。頑丈に出来ちゃいないから。
そいつに気付いて、お前、注文をつけただろうが。
今ある絵本がくたびれて来たから、新しい絵本を見付けた時には残しておけ、と。
備品倉庫の管理係に命令していた筈だぞ、とキャプテンの記憶は流石に正確。船の全てを纏めていたのが、キャプテン・ハーレイなのだから。
「そうだっけ…!」
絵本、残しておくように、って仕分けする係に言ったんだっけ…。
セットになってる絵本じゃなくても、端から捨ててしまわずに。処分する前に、必ず報告。
ぼくが自分でチェックするから、絵本は勝手に捨てないこと、って…。
前のぼくが命令したんだっけ、と思い出した「その後」の絵本の扱い方。最初に残させた絵本のセットが、年数を経て古びて見え始めた頃。
赤ちゃん用から少し大きな子供向けまで、いい本があれば残しておいた。自分で中身をチェックした後、倉庫に入れて。そして何度も読んだのだった、白い鯨ではなかった船で。
まだ名前だけがシャングリラだった、改造前の船で読んだ絵本。この本を読むような子供たちを船に迎えられたら、と。…船の未来を築けたらいい、と。
何度ページをめくっただろうか、来るかどうかも分からない未来を思い描きながら。絵本たちの出番がやって来る日を、ページを繰る子供が来てくれる日を。
(絵本、大切に残しておいて…)
くたびれて駄目になった絵本のデータも、製本担当の係に頼んで取っておかせた。もちろん一番最初に船に残した、赤ちゃん用から揃っていたセットのデータだって。
いつか絵本の出番が来たなら、それらのデータが必要だから。
船のデータベースにも絵本はあったけれども、実物となれば重みが違う。データではなくて手に取れるもの。この手でページをめくれるもの。
(ページの重さも、紙の感じも、全部、本物…)
絵本はこういうものなのだ、と形になっているのが絵本。人類の船から奪ったものだし、何処の星でも同じ絵本が印刷されているのだろう。育英都市で育つ子供たちのために、何冊も。
赤ちゃんの数だけ作られていそうな、赤ちゃん用に出来ている絵本。
文字が読めるくらいの子供になったら、養父母たちが選んでやるのだろうか。何種類もの絵本の中から、育てている子の好みに合いそうなものを。
(女の子だったら、こんなのだとか…)
男の子だけれど繊細な子だから、こういう絵本が良さそうだ、とか。
もう少し子供が大きくなったら、本屋に連れてゆくかもしれない。「どの本が欲しい?」と。
幾つも並んだ絵本の中から、好きな絵本を選べるように。あれこれ比べて、お気に入りの一冊を自分で探し出せるようにと。
(絵本なんだし、絵も大事だから…)
好みに合わない絵柄だったら、ガッカリするだろう子供。「もっと違う絵の方がいい」と。
そうならないよう、自分で好きに選ばせて貰う幸せな子供。養父母の手をしっかり握り締めて。
「これがいいよ」と選び出したり、決められないで迷っていたり。
いつまでも選べずに二冊も三冊も比べていたなら、「仕方ないわね」と欲しい本を全部、買って貰える幸運な子もいるのだろう。大喜びして、歓声を上げて。
いつかは別れる養父母だけれど、そんなことさえ知らない幼い子供だから。
買って貰った絵本の包みを、大切に抱えていそうな子供。養父母と家に帰るまで。
もっと幼い子供や赤ん坊なら、「はい」とプレゼントされる絵本。どんなに胸が弾むだろうか、初めてページをめくる時には。
何回も読んでお気に入りの絵本が出来た時には、きっと飽きずに読むのだろう。これが一番、と他の絵本には見向きもしないで、何回も。…一日の内に、何度も繰り返し。
(きっとそうだよ、って思ってた…)
子供時代の記憶は残っていなかったけれど、絵本を何度も見ていれば分かる。育英都市がどんな場所かを、データベースで調べれば分かる。
(成人検査の日が来るまでは…)
子供たちは幸せに育ってゆくもの。養父母の愛情を一杯に受けて。
機械が勝手に決めた家族でも、其処に溢れる愛は本物。養父母たちは子供に愛を注ぐようにと、教育を受けて来ているから。子供を幸せに育ててゆくのが仕事だから。
(…ミュウの子供かもしれない、って思った時には通報すること、って…)
そういう決まりが出来ていたけれど、絵本を準備していた頃の自分はまだ知らなかった。
燃えるアルタミラから脱出した時、グランド・マザーはミュウを滅ぼしたつもりだったから。
元はコンスティテューション号だった船のデータベースに、それから後も生まれ続けるミュウの子供がどう扱われたかのデータは無かったから。
(アルテメシアに着いて、雲海の中でミュウの子供の悲鳴を聞くまで…)
何も知らずに過ごした自分。
何処の星でも、子供たちは幸せに育っているのだと頭から思い込んで。
成人検査を受ける日までは、養父母たちの愛に包まれて育つと信じて、絵本のページをめくっていた。どの子も絵本を買って貰えると、このくらいの年ならこの絵本、と夢を描きながら。
(そうやって幸せに育っているなら、絵本を読むようなミュウの子供は…)
船に来る筈も無いというのに、気付かなかった前の自分。
どうやってミュウの子供を船に迎えるつもりだったのか、今、考えると可笑しいけれど。
自分に都合のいい夢を見ていたらしいけれども、絵本は大切に残しておいたのが前の自分。
これは未来を築く本だと、ミュウの子供を迎えた時には役に立つから、と。
そんな調子で絵本に夢を抱いていたのがソルジャー・ブルー。何処か間抜けな前の自分。絵本のページを何度も繰っては、ミュウの未来を夢見ていた。
絵本を読む子が来てくれる日を、シャングリラに未来が生まれる時を。
(白い鯨を作る時にも…)
自給自足の船が出来たら、もう奪いには行かない物資。…本物の絵本は手に入らなくなる。船にある絵本とデータが全てになってしまって。
(新しい絵本は、もう無理になるけど…)
ちゃんとした絵本を船で作ってゆけるようにと、係の者たちにも本物の絵本に触れておくよう、指示しておいた。「今ある絵本を覚えて欲しい」と、「本物の絵本を忘れないように」と。
その時点で船にあった絵本は、白い鯨にも引き継がれた。いつか子供が来る時のために。
白い鯨は宇宙を旅して、やがてやって来た本物の子供。ミュウの未来を築いてゆく子。
アルテメシアに着いたから。育英都市がある雲海の星に、隠れ住もうと決めたから。
「ぼくが残してた絵本、役に立ったんだっけ…」
ミュウの子供が、本当に船に来ちゃったから。…前のぼくが助けに飛び出して行って。
「助けて!」って悲鳴が聞こえて来たから、瞬間移動で飛び出して…。
何が起こったのか分からなかったけど、助け出すのは間に合ったんだよ。
まさか小さな子供の間に、ミュウを見付けて殺す時代になってたなんてね…。
前のぼくは夢にも思わなかったよ、と溜息をついたら、「俺も同じだ」と零したハーレイ。
「成人検査を受けて初めて、ミュウになるんだと思っていたしな…」
データ不足というヤツだ。アルタミラから後はせっせと逃げていたから、知らないままで。
それでも、お前が助けて来た子は、お前が夢見たミュウの子だったな。絵本を読む子。
まだ小さくて、絵本くらいしか読めない子供だったんだが…。
前のお前が絵本をきちんと残させてたから、そいつの出番がやって来たという所だな。
子供用の本なんか、他には無かったんだから。
大急ぎで「作れ」と係に言ったが、一瞬で出来やしないから…。
役に立つ日が来たんだよなあ、前のお前のコレクション。
お前が自分で選び出しては、何度も読んでた古い絵本が日の目を見る日が来たってトコか。
本当に古くなっちまってたが…、とハーレイも覚えている絵本。白い鯨にあった絵本は、新しいとは言えないもの。前の自分が何度も読んだし、本を作る係も読んでいたから。
けれど、船にはそれしか無かった子供用の本。小さな子供が読める絵本。
「あの子に絵本を渡したんだっけね、前のぼくが」
此処には古い絵本しか無いけど、読んでみるかい、って…。
欲しいんだったら、他にも色々あるからね、って喜びそうな絵本を一冊…。
あれは動物の絵本だったよ、と今でも思い出せる本。小さな子供にプレゼントした絵本。
「喜んで読んでくれたよなあ…。ありがとう、って本を抱き締めて」
それまで泣きそうな顔をしてたのに、絵本で笑顔が戻って来たのが凄かった。
船に来た時は泣きっ放しで、泣き止んだ後も、隅っこの方で塞ぎ込んでたというのにな。
「うん…。絵本、本当に嬉しかったんだね。シャングリラにも絵本があったから」
ぼくの家にも絵本が沢山あったんだよ、って言ってたもの。
パパとママに色々買って貰って、うんと沢山持っていたよ、って…。
あの子をユニバーサルに通報したのは、その養父母かもしれないけれど…。でも…。
そんなことは知らない方がいいよね、幸せに育ってゆくためには。
「違いないよな、物騒なことは知らずにいるのが一番だ」
あの子は絵本で笑顔になったし、それでいいじゃないか。
恐ろしい目に遭ったわけだが、また絵本が読める場所に来られたんだから。
もう誰も銃を向けたりしない場所にな…、とハーレイが言う白いシャングリラ。ミュウの箱舟。
それでも、絵本が無かったとしたら、あの子は笑顔になっただろうか。あんなに早く、ミュウの船に馴染んでくれたのだろうか、大人しかいない箱舟に…?
きっと無理だ、と今の自分でも思うこと。絵本が船にあったからこそ、此処も安心していられる場所だ、と子供なりに理解したろうから。
「古くなってた絵本だったけど、残しておいて良かったね、あれ」
直ぐに渡してあげられたのは、あれを残してあったから…。古くなっても、本物だから。
「まったくだ。本は直ぐには作れないしな」
料理のようにはいかんからなあ、フライパンでサッと作れやしない。
ちょっと待ってろ、と話してる間には出来上がらないのが絵本だってな。
前のお前は、いいものを取っておいたよな、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
ミュウの未来を築いてゆくことは出来たんだ、と。
古びた絵本を貰った子供が最初に来た子で、それからは次々に来たミュウの子供たち。
シャングリラは未来を担う子たちを手に入れたから。…絵本を読んで育つ子たちを。
(前のぼく、予知能力は無かったけれど…)
未来も見えない船で絵本を残させたのなら、少しくらいはあっただろうか。
それとも青い地球に抱いた夢と同じで…。
(前のぼくの夢ってことなのかな…?)
あれが予知なのか、夢を描いただけだったのかは、今となっては分からないけれど。
誰に訊いても分からないけれど、あの絵本のことを思い出させてくれたハーレイと地球にやって来た。青く蘇った水の星の上に。
絵本が旅をしてゆく時代に、平和な地球に。
家から家へと絵本が旅をしてゆけるのも、本物の家族が戻って来たから。
SD体制の時代だったら、本は旅などしないから。子供のいる家を旅してゆかないから。
(今のぼくが持ってた絵本だって…)
旅に出た絵本があるのだったら、幸せになってくれている筈。
何処かで誰かに気に入られて。何人もの赤ちゃんたちに読まれて、旅を続けて。
今はそういう時代だから。絵本は幸せに旅してゆけるし、本物の家族がいる時代だから…。
旅をする絵本・了
※今の時代は、家から家へと絵本が旅をしてゆく時代。本物の家族がいる時代だからこそ。
そうではなかった遠い昔に、シャングリラにも絵本があったのです。子供を待っている本が。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
いろんな絵本があるんだね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
子供のための絵本特集、広告記事とは違ったもの。様々な絵本を紹介する記事。
(赤ちゃん用から揃っているよ)
文字も読めない赤ちゃん用から、自分で読める子供のための絵本まで。赤ちゃん用だと、紙ではなくて布で出来ている本だって。ページをめくって遊べる絵本。布のオモチャが詰まった中身。
(ぼくも持ってたよね?)
こういう絵本。布だから分厚くなっていた絵本、ページにくっついた小さなオモチャ。剥がして遊んだ布の動物、別の所にくっつけたりして。布のニンジンやリンゴもあったと思う。
文字が入った絵本の方だと、懐かしいものも、知らないものも。
(絵本、卒業しちゃったけれど…)
今の年では読まないけれども、母がきちんと仕舞っている筈。大切なものを入れておく箱に。
誰かにあげていないなら。知り合いに譲っていないのなら。
(あげちゃった本も…)
何冊かあるのかもしれない。小さすぎて覚えていないだけで。
(赤ちゃん用の絵本だったら…)
幼稚園の頃に「この本、あげていいかしら?」と訊かれて、「うん」と。何処かの家に生まれた赤ちゃん、その子に譲ってあげようと。
一人前のお兄ちゃん気取りで、「あげていいよ」と笑顔になって。
(得意な顔して言ってそう…)
赤ちゃん絵本は卒業だから、と大人になったような気分。卒業という言葉は、幼稚園児ではまだ知らないけれど。耳にしたって、意味が分からないほどだけれども。
それでも赤ちゃん絵本は卒業、絵本は他所の家に行く。他の赤ちゃんが読むために。
文字の入った絵本の方も、学校に入る年になったら誰かに譲ったかもしれない。繰り返し読んだ本は手放さなくても、お気に入りは残しておいたとしても。
もう読まないよね、と思った本なら、これから絵本を読むだろう年の子供がいる家に。
ぼくは卒業したんだから、と持っていた絵本を誰かにあげたら、貰った方でも…。
(きっと、大切に何度も読んで…)
その子が絵本を卒業する時、まだ綺麗なら、次の誰かにプレゼント。絵本を読む年の子供がいる家、自分よりも小さな子供の家に。
自分だってまだ小さいくせに、うんと大きなお兄ちゃんや、お姉ちゃんになったような気分で、「あげていいよ」と。読みたい子供に譲ってあげる、と。
(それって、幸せなリレー…)
家から家へと旅をする絵本。欲しがりそうな子供がいる家へ。
赤ちゃん用の絵本だったら、何軒もの家を旅していそう。赤ちゃん絵本は卒業するのも早いし、次の赤ちゃんがいる家へ。お気に入りの絵本が他に出来たら、次の赤ちゃんにプレゼント。
(赤ちゃんだったら、わざわざ「あげていい?」って訊かなくっても…)
様子を見ながら「もう読まないわね」と、譲ることだってあるだろう。絵本で遊ばなくなったら卒業、持ち主だった赤ちゃんの方も、絵本のことは思い出しさえしないまま。
文字が入った絵本になったら、お気に入りは手放さないけれど。
両親だってちゃんと分かっているから、「あげてもいい?」とは訊かないだろうけど。
(ぼくのだよ、って怒るに決まっているもんね?)
大切な本を手放すなんて、とんでもないから。他の誰かにプレゼントなんて出来ないから。
(何処かに隠してしまいそうだよ、幼稚園に行ってる間に消えないように…)
幼稚園児でも、ちゃんと頑張って隠すんだから、と思いながら戻った二階の部屋。ケーキなどのお皿を母に返して、階段をトントン上っていって。
(お気に入りの絵本を誰かにあげられそうになったら、隠してたよね?)
もうこの部屋はあったんだから、と勉強机の前に座って考える。旅をしてゆく絵本のこと。
この家から旅に出た絵本があるなら、赤ちゃん用の絵本か、あげてもいい本。部屋に隠して守る代わりに、「あげてもいいよ」と頷いた本。一人前のお兄ちゃんになった気分で。
(絵本だって、きっと幸せだよね?)
そうやって旅に出る方が。この家で仕舞い込まれているより、他の家へと。
旅をする間に、「あげてもいい本」から「お気に入りの本」になって、見付かる棲み家。絵本の旅は其処でおしまい、読まなくなった後も大切に何処かに仕舞われたりして。
本の好みは人によって色々、同じ絵本でも分かれる反応。
(表紙を見ただけで気に入っちゃうとか、「好きじゃないよ」って思うとか…)
子供の数だけあるだろう個性、どんな絵本でも「気に入ってくれる人」が何処かにいる筈。広い世界の何処かに、きっと。
子供の間は、お気に入りはうんと大切なのだし、隠してでも守り抜きたいほど。幼稚園児の頭で思い付くような隠し場所なら、大人はお見通しだろうけれど。「やっぱり此処ね」と探し当てて、笑って、元通りにしておきそうだけれど。「隠すくらいに大切なんだわ」と。
お気に入りの絵本は、子供にとっては宝物。誰にも譲ってあげない絵本。
(そういう宝物になってるといいな…)
この家から何処かへ旅に出た絵本があるのなら。幼かった自分が読んだ絵本が旅に出たなら。
文字が入った絵本はもちろん、赤ちゃん用の絵本にしたって、あちこち旅をして回って…。
(宝物にはなれないままで、くたびれちゃっても、幸せだよね?)
一番最後に辿り着いた家で、もうこれ以上の旅は無理だ、と卒業の後で捨てられたって、御礼の言葉を貰えるだろう。「うちの子供と遊んでくれて、ありがとう」と。
赤ちゃんや子供は知らん顔でも、その家の大人たちから、きっと。「お疲れ様」と労われて。
(絵本だから、幸せな旅が出来るんだよね?)
家から家へと旅を続けて、何人もの子供たちと出会って、読まれて。
お気に入りの絵本になれたら旅は終わりで、その家の子供と一緒に暮らす。とても幸せに。
けれども、それは絵本だから。
同じ本でも、自分くらいの年に育ってしまっていたなら、お気に入りの一冊があったって…。
(ぼくの本だよ、って抱き締めたりはしないし…)
留守の間に消えないようにと、隠すことだってしないだろう。両親が勝手に誰かに譲ってしまうことなど無いのだから。「あの子にあげよう」と棚から出して。
お気に入りの数も増えてしまって、本棚一杯に詰まった本。
此処から見ても、背表紙だけで本の中身が思い出せるほど。「あの本は…」と、直ぐに。
わざわざ広げて眺めなくても、どの本もお気に入りばかりだから。
これからも何冊も増えてゆくのだろう、お気に入りの本。増えすぎて本棚に入らなくなっても、旅に出たりはしないと思う。どの本も大切なのだから。
(本棚が増えるだけだよね?)
増えた本を入れるための本棚。そしていつかは、父やハーレイのように書斎が出来たりも。本を読むために作ってある部屋、本が暮らしてゆくための部屋。
旅に出掛ける本があるなら、「面白そうだ」と買ってみたのに、つまらなかった本くらい。誰か欲しがる人がいないか、友達に声を掛けたりして。「良かったら、読む?」と。
幼い頃に「欲しい人があるから、あげてもいい?」と訊かれる絵本とは違った旅。「いいよ」と一人前になったつもりで、旅に出すのが絵本だけれど…。
(今の年だと、本も自分で選ぶから…)
買ったけれども失敗だった、と思った本を旅に出すだけ。誰か気に入る人がいれば、と。
絵本を読んでいた頃だったら、新しい絵本を買って貰えるまで、つまらない本でも読んだのに。今ほど沢山の本は無いから、お気に入りばかり読んでいたって飽きるから。
(絵本の方が、普通の本より幸せかも…)
家から家へと旅も出来るし、子供の宝物にもなれる。「ぼくの本だよ」と隠すくらいの。
この年になれば、其処までの本には、そう簡単には出会えない。宝物と呼べるほどの一冊。今のぼくだと大切な本は…、と視線がゆくのが白いシャングリラの写真集。
ハーレイに「いい本があるぞ」と教えて貰って、父に強請った豪華版。お小遣いで買うには高い本だし、「パパ、お願い」と。
あの写真集は、ハーレイとお揃い。ハーレイの家にも同じ写真集があるから、ちゃんとお揃い。
(あれは絶対、誰にもあげたりしないんだから…)
いつかハーレイと結婚する時も、あの写真集を持って行く。ハーレイの家へ運ぶ荷物に、大切に詰めて。運ぶ間に傷まないよう、柔らかい紙か布かでくるんでやって。
ハーレイの書斎に二冊並べて置くことになっても、どちらも宝物の本。ハーレイの分も、自分と一緒に引っ越した本も。
とても大事な宝物だし、「二冊あるから」と誰かに譲りはしない。
高い値段の豪華版だけに、欲しがる人が多くても。「二冊あるなら一冊欲しい」と頼まれても。
もう絶対に、旅には出さない宝物。いつまでも二冊並べておく本。
(欲張りだけど、宝物だしね?)
子供の頃の絵本じゃなくて写真集だけど、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が生きていた頃。あの頃の本はどうだったろう、と。
(絵本、あったっけ…?)
前の自分が暮らしていた船、シャングリラに。あの船に絵本はあったろうか、と。
白い鯨には、もちろんあった。子供たちも乗っていた船なのだし、何冊も揃っていた絵本。養育部門に出掛けて行ったら、本棚に沢山並べてあった。広げて読んでいた子供たちも。
けれど、それより前の時代。白い鯨に改造する前。
(あの頃だったら…)
本は自分たちの手で製本するか、奪った物資に紛れていたのを手に入れて読むか。その二つしか方法は無くて、製本するなら希望者の多い本から順に。「これが欲しい」と声が上がったら、係がせっせと作っていた。データベースにある本の中身を印刷して。
船にいたのは大人ばかりで、チビだったのは前の自分だけ。年だけは誰よりも上だったけれど、心も身体も長く成長を止めていたから。
チビとは言っても、今の自分と変わらなかった姿。絵本を欲しがる子供ではない。
(絵本が読みたい人なんか…)
きっと一人もいなかったろう。「次は絵本を作って欲しい」と係に注文する者などは。
人類の船から奪った物資に絵本が紛れていたとしたって、読もうと思う者は無い。他の本なら、残しておいたら読み手が現れるだろうけれど…。
(絵本、あっても…)
読む人は誰もいないわけだし、物資に紛れて船に来た絵本は処分だったろうか?
役に立たないガラクタと一緒に廃棄処分で、宇宙に捨てる。「これは要らない」と。
(余計な荷物は船に積んではおけないよね…?)
ゴミと同じで邪魔になるだけ、早々に処分されたと思う。誰も読まない絵本なんかを残しておくわけが無いんだから、と分かっているのに、何故だか読んでいたような記憶。
前の自分が、白い鯨になる前の船で。
あった筈もない絵本を広げて、ページをめくっていたような…。
ぱらり、とページを繰っていた記憶。絵本ならではの独特のページ。子供向けだから、ページの数は多くない本。何度かめくれば、じきに最後まで読める本。
それを読んだ、という気がする。白い鯨になる前の船で、子供は一人もいなかった船で。
(なんで…?)
絵本は廃棄処分にしてたんじゃないの、と不思議でたまらない記憶。無かった筈の絵本を読めはしないし、ページをめくれるわけがない。絵本は船に無いのだから。
それなのに絵本を読んでいた自分。白い鯨の時代の記憶と混ざっているとも思えない。白い鯨で読んでいたなら、青の間にいる筈だから。…絵本の記憶はそうではないから。
(青の間が出来てから、そういう夢でも見たのかな…?)
改造前の船にいる夢を、と考え込んでいたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、丁度いい、とぶつけてみた質問。テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね…。絵本は、あっても処分だよね?」
処分するでしょ、誰も絵本を読む人なんかはいないんだもの。
「はあ? 絵本って…」
お前の学校の図書室のことか、何処かから本の寄贈があったら、確かに振り分けするんだが…。家のを丸ごと貰ったりしたら、絵本も混ざっていたりするしな。
しかし処分ということはないぞ、せっかくの好意なんだから。何処に置くのが一番なのか、皆で決めるのが振り分けだ。上の学校に送るのがいいか、下の学校に届けに行くか。
絵本だったら、幼稚園という所だな。…処分したりはしない筈だが、と今のハーレイならではの答え。学校の教師をしているのだから、当然だけれど。
「違うよ、ぼくの学校じゃなくてシャングリラだよ。白い鯨になる前のね」
本は色々揃っていたけど、図書室もちゃんとあったけど…。
置いてあった本は、読む人がいる本ばかりでしょ?
物資に紛れていた本もそうだし、シャングリラで作った本だって。…読みたい人がいる本だけ。
絵本なんかは無かった筈だよ、物資の中に混じっていたって、きっと処分で。
船に置いても、絵本は邪魔になるだけだから、と説明したらハーレイも頷いた。
「だろうな、誰も読みやしないし」
余計な荷物はゴミと同じだ、絵本は処分だったと思うぞ。…白い鯨じゃない頃ならな。
お前の考えで合っている筈だ、と言うハーレイは備品倉庫の管理人を兼ねた時代もあった。まだ厨房にいた頃だったら、キャプテンではなくて備品倉庫の管理人。
倉庫の管理をしていたのだから、其処に入れる物資のことにも詳しい。そのハーレイが「ゴミと同じだ」と断言するなら、絵本はゴミで廃棄処分になるのだけれど…。
「…えっとね…。絵本の扱い、ぼくもそうだと思うんだけど…」
物資の中に紛れていたなら、捨てていた筈なのが絵本なんだけど…。でもね、絵本を読んでいたような気がするんだよ。前のぼくが、改造前の船でね。
そういう記憶があるんだけれど、と話してみたら、「勘違いじゃないのか?」という返事。
「お前が絵本を読んでいたなら、白い鯨の方だろう。子供たちとも、よく遊んでたし…」
養育部門で借りて帰って、青の間で読んでいたんじゃないか?
読みながらウトウト眠っちまって、昔の船にいた頃の夢を見ていただとか…。
ありそうだぞ、とハーレイの読みも似たようなもの。白い鯨で見た夢だろう、と。
「やっぱりそうかな…? 絵本、あるわけないものね…」
だけど、夢にしてはハッキリしてるし、とても不思議で…。ページをめくっていた時の感じが、指先に残っていそうなほどだから。
それでも、あれって夢なのかな…。前のぼくが見ていた夢だったのかな…?
どう思う、と重ねて尋ねた。絵本の記憶は夢だろうか、と。
「うーむ…。やたらとリアルな夢ってヤツは、誰にでも覚えがあるもんだが…」
夢の中でも痛かったとか、食っていた飯が美味かったとか。…その手の夢は確かにある。
しかしだ、今のお前の場合は、生まれ変わって来ているわけで…。夢のことまで覚えているかというのが大いに問題だよなあ、ただの夢まで記憶に残っているかってトコが。
要は絵本で、お前が絵本を読んでいた、と…。白い鯨じゃなかった時代のシャングリラで。
備品倉庫の元管理人だった俺としてはだ…、とハーレイが追っている記憶。
人類の船から奪った物資は直ぐに仕分けを始めるものだし、余計なものは船に積まないが、と。
「そうだよね。無駄な物資のためにスペースを割くわけがないし…」
いつか役立ちそうなものなら、残しておこうって仕舞っておくこともあるだろうけど…。
絵本はそういうものじゃないしね、役立つことも出番も無いから。
本ならともかく絵本なんだし、絵本は子供がいないとね…。
あの船に子供はいなかったから…、と何の気なしに言ったのだけれど。「やっぱり夢かな?」と話を終わらせようとしたのだけれども、「子供だと…?」と腕組みしたハーレイ。
「…子供は確かにいなかったよなあ、前のお前はチビだったんだが…」
それでも成人検査の後だし、あの時代なら子供とは言わん。…俺の目にはチビの子供だったが。
しかし、絵本を欲しがるような年の子供じゃないし…。
子供ってヤツはいなかったんだ、とハーレイが何度も「子供」と繰り返すから。
「ハーレイ、子供がどうかしたの?」
何か気になることでもあるわけ、あの船に子供がいなかったことで…?
「いや、子供って言葉が引っ掛かって…。絵本は子供がいないと駄目なんだ、って所がだな…」
それだ、子供だ!
あの船にも絵本を置いていたんだ、子供用に絵本を残していたぞ。
お前の記憶は合っているんだ、前のお前が読んでいたのは本物の絵本だったんだ。勘違いでも、夢で見たわけでもなくて…、とハーレイが探り当てたらしい記憶。前のハーレイだった時代の。
白い鯨ではなかった船に、絵本が乗っていたという。あの船に子供はいなかったのに。
「…絵本を残しておいたって…。子供用だ、って言ったよね?」
もしかして、前のぼくがチビの子供だったから?
成人検査は受けていたけど、それきり育たないままのチビ。心も身体もチビだったから…。
ハーレイたちが育ててくれたみたいなものだし、絵本もそのためのものだったの…?
ぼくの心の栄養にするのに絵本だったの、と訊いてみた。ハーレイたちは、あれこれ気配りしてくれたから。前の自分を育ててやろうと、食事にも、かける言葉などにも。
絵本もその中の一つかと思った。長い年月を檻で独りぼっちで過ごす間に、心も身体も傷ついた子供。過酷な人体実験の末に、笑うことさえ忘れてしまった前の自分。
そんな自分の心をゆっくり育ててゆくには、絵本が適していたのだろうか、と。
けれど…。
「違う、そうじゃない。…前のお前も関係してはいたんだがな」
船に絵本が乗っていたことと、前のお前は無関係ではないんだが…。
お前のための絵本じゃなかった、そんな時代はとうの昔に終わっていたな。
前のお前は絵本なんかを使わなくても、きちんと育ってくれたから…。ちゃんと大人に。
最初の間は捨てていたんだ、とハーレイが教えてくれた絵本。奪った物資に紛れていたもの。
ハーレイが備品倉庫の管理人だった頃には、「これは要らない」と不用品として廃棄処分。誰も欲しいと言わなかったし、読みたがる者もいなかったから。
けれども、時が流れた船。
ハーレイが船のキャプテンになって、前の自分はソルジャーに。身体も育って、大人になった。痩せっぽちのチビの子供は卒業、誰が見たって立派な大人。華奢で細くはあったのだけれど。
育った後にも、ソルジャーの役目は変わらない。船を守ることと、人類の船から皆が生きるのに必要な物資を奪うこと。
「覚えていないか、お前が奪った物資の中に絵本のセットが混じってたのを」
どういう理由で紛れてたのかは分からない。…育英都市に送る荷物だったのかもしれないな。
子供の成長を追ってゆくように、赤ん坊のための絵本から揃っていたんだが…。
絵だけの本から、少しだけ字が入っている本。…次は短い物語、といった風にな。
珍しいから、と係が俺に報告して来て、お前やヒルマンたちと一緒に見に行ったんだが…。
視察気分で絵本の検分、と聞かされたら蘇って来た記憶。ハーレイたちと見に出掛けた絵本。
物資の仕分けをするための部屋に、備えられていたテーブルの上。絵本のセットは其処に並べて置かれていた。赤ん坊用の本から順に。
「おやまあ…。絵本と言っても、こういうセットもあるんだねえ…」
続き物ではないみたいだけどね、と好奇心一杯で手に取ったのがブラウ。「面白そうだ」と。
「わしらも読んでいたんじゃろうなあ、何も覚えておらんのじゃが…」
これと同じのを読んだかもしれんな、とゼルも開いてみた絵本。「生憎と思い出せんわ」とも。
「仕方ないだろう、我々はすっかり忘れてしまったからね」
成人検査とアルタミラの檻にいた時代にね、とヒルマンにも無かった絵本の記憶。エラも、前の自分も、ハーレイもピンと来なかった。絵本のセットを前にしたって、手に取ったって。
(それでも、きっと、こういう絵本で育ったんだ、って…)
同じ絵本を見たかもしれない、子供時代の自分が養父母に買って貰って。赤ん坊用のも、文字が入っている絵本も。
きっと誰もが似たような気持ちだったろう。何も覚えていないけれども、自分もこういう絵本を読んで育ったのだ、と。
皆でページを繰った本。赤ん坊用から揃った絵本のセット。感慨深く読んだ後には、この船には不要な本だから、と処分用の箱に入れたのだけれど…。
(…ぼくが読んでた絵本を箱に入れようとして…)
先に誰かが放り込んでいた絵本、その上に重ねて置こうとした時。ふと考えた、前の自分。
これは未来を築く本だ、と。捨てては駄目だと、慌てて箱から取り出した絵本。先に入っていた絵本も全部。「この本たちを捨てては駄目だ」と、順に並べたテーブルの上。
「まるで要らない本のようだけれど、ぼくは捨てるのには反対だ」
分からないかい、この本たちは未来を築く本なんだよ。こうしてセットで揃ったお蔭で、これが持っている意味に気付いた。…未来を作るための本だと。
だから捨てずに取っておこう、と提案したらブラウに問われた。「未来ってなんだい?」と。
「なんのことだかサッパリだよ。絵本の何処が未来なんだい、とうに過去じゃないか」
あたしたちは大人なんだからね、というブラウの言葉は間違いではない。絵本を読んでいた子供時代は終わって、二度と戻って来はしないから。その記憶ごと。
けれども、子供たちにとっては「これから」のこと。生まれて育つ子供たちには。
「…今は全く、未来なんかは見えないけれど…。でも、いつか…」
いつかはこういう絵本を読む子が現れるかもしれないよ。人類ではなくて、ミュウの子供が。
この船に絵本を読むような子が来て、この本を読んで育つんだよ。
それが未来で、そのための本。…捨てずに残しておきたいじゃないか、未来のために。
ミュウの子供を育てるためにね、と皆に話した未来のこと。絵本のセットが築くだろう未来。
「夢物語じゃ! 何が未来じゃ!」
何処から子供が来ると言うんじゃ、この船に!
わしらが隠れて生きてゆくだけで精一杯じゃ、とゼルは噛み付いたし、ヒルマンたちもいい顔をしなかったけれど。「現実味が無い」と皆が唱えたけれど。
「それは分かっているけれど…。これも一つの可能性だよ、未来のね」
絵本を捨てずに残しておいたら、いつか絵本が必要な子供が来てくれるかも…。
この本が子供を連れて来るとは言わないけれども、可能性は残しておかなければ。
捨ててしまったら、未来も可能性も捨てることになる。…この船に未来は要らない、とね。
子供を育てる未来が無いなら、この船はいつか終わるんだから。
最後の一人の寿命が尽きたら終わりじゃないか、と厳しい現実を皆に突き付けた。今の船なら、その日は必ずやって来るから。…新しい仲間が、子供たちが船にやって来ないと駄目だから。
未来への夢が一つくらいあってもいいだろう、と渋るゼルたちを説き伏せ、絵本のセットを備品倉庫に置かせた。場所はそれほど取らないから。
今のシャングリラに子供が来る予定は無いけれど。子供を船に迎えるどころか、未来も見えない船なのだけれど。
(でも、いつか、って…)
いつか絵本を読むような子供が来てくれたら…、と倉庫に出掛けて読んでいた絵本。赤ん坊用の絵だけの絵本も、文字が入っている絵本も。
時には部屋にも持って帰って、絵本のページを繰っていた。前の自分の絵本の記憶は、その時のもの。白い鯨ではなかった頃の船で、何度も読んでいた絵本。
「あの本、どうなっちゃったんだろう?」
絵本のセット、倉庫とか部屋で読んでいたけど…。あの本、何処へ行っちゃったかな…?
その後が思い出せないんだけど…、と今のハーレイに訊いたら、直ぐに答えが返って来た。
「それはまあ…。絵本だって、いつかは駄目になるから…」
いくら人類の船から奪った本でも、寿命ってヤツはあるもんだ。頑丈に出来ちゃいないから。
そいつに気付いて、お前、注文をつけただろうが。
今ある絵本がくたびれて来たから、新しい絵本を見付けた時には残しておけ、と。
備品倉庫の管理係に命令していた筈だぞ、とキャプテンの記憶は流石に正確。船の全てを纏めていたのが、キャプテン・ハーレイなのだから。
「そうだっけ…!」
絵本、残しておくように、って仕分けする係に言ったんだっけ…。
セットになってる絵本じゃなくても、端から捨ててしまわずに。処分する前に、必ず報告。
ぼくが自分でチェックするから、絵本は勝手に捨てないこと、って…。
前のぼくが命令したんだっけ、と思い出した「その後」の絵本の扱い方。最初に残させた絵本のセットが、年数を経て古びて見え始めた頃。
赤ちゃん用から少し大きな子供向けまで、いい本があれば残しておいた。自分で中身をチェックした後、倉庫に入れて。そして何度も読んだのだった、白い鯨ではなかった船で。
まだ名前だけがシャングリラだった、改造前の船で読んだ絵本。この本を読むような子供たちを船に迎えられたら、と。…船の未来を築けたらいい、と。
何度ページをめくっただろうか、来るかどうかも分からない未来を思い描きながら。絵本たちの出番がやって来る日を、ページを繰る子供が来てくれる日を。
(絵本、大切に残しておいて…)
くたびれて駄目になった絵本のデータも、製本担当の係に頼んで取っておかせた。もちろん一番最初に船に残した、赤ちゃん用から揃っていたセットのデータだって。
いつか絵本の出番が来たなら、それらのデータが必要だから。
船のデータベースにも絵本はあったけれども、実物となれば重みが違う。データではなくて手に取れるもの。この手でページをめくれるもの。
(ページの重さも、紙の感じも、全部、本物…)
絵本はこういうものなのだ、と形になっているのが絵本。人類の船から奪ったものだし、何処の星でも同じ絵本が印刷されているのだろう。育英都市で育つ子供たちのために、何冊も。
赤ちゃんの数だけ作られていそうな、赤ちゃん用に出来ている絵本。
文字が読めるくらいの子供になったら、養父母たちが選んでやるのだろうか。何種類もの絵本の中から、育てている子の好みに合いそうなものを。
(女の子だったら、こんなのだとか…)
男の子だけれど繊細な子だから、こういう絵本が良さそうだ、とか。
もう少し子供が大きくなったら、本屋に連れてゆくかもしれない。「どの本が欲しい?」と。
幾つも並んだ絵本の中から、好きな絵本を選べるように。あれこれ比べて、お気に入りの一冊を自分で探し出せるようにと。
(絵本なんだし、絵も大事だから…)
好みに合わない絵柄だったら、ガッカリするだろう子供。「もっと違う絵の方がいい」と。
そうならないよう、自分で好きに選ばせて貰う幸せな子供。養父母の手をしっかり握り締めて。
「これがいいよ」と選び出したり、決められないで迷っていたり。
いつまでも選べずに二冊も三冊も比べていたなら、「仕方ないわね」と欲しい本を全部、買って貰える幸運な子もいるのだろう。大喜びして、歓声を上げて。
いつかは別れる養父母だけれど、そんなことさえ知らない幼い子供だから。
買って貰った絵本の包みを、大切に抱えていそうな子供。養父母と家に帰るまで。
もっと幼い子供や赤ん坊なら、「はい」とプレゼントされる絵本。どんなに胸が弾むだろうか、初めてページをめくる時には。
何回も読んでお気に入りの絵本が出来た時には、きっと飽きずに読むのだろう。これが一番、と他の絵本には見向きもしないで、何回も。…一日の内に、何度も繰り返し。
(きっとそうだよ、って思ってた…)
子供時代の記憶は残っていなかったけれど、絵本を何度も見ていれば分かる。育英都市がどんな場所かを、データベースで調べれば分かる。
(成人検査の日が来るまでは…)
子供たちは幸せに育ってゆくもの。養父母の愛情を一杯に受けて。
機械が勝手に決めた家族でも、其処に溢れる愛は本物。養父母たちは子供に愛を注ぐようにと、教育を受けて来ているから。子供を幸せに育ててゆくのが仕事だから。
(…ミュウの子供かもしれない、って思った時には通報すること、って…)
そういう決まりが出来ていたけれど、絵本を準備していた頃の自分はまだ知らなかった。
燃えるアルタミラから脱出した時、グランド・マザーはミュウを滅ぼしたつもりだったから。
元はコンスティテューション号だった船のデータベースに、それから後も生まれ続けるミュウの子供がどう扱われたかのデータは無かったから。
(アルテメシアに着いて、雲海の中でミュウの子供の悲鳴を聞くまで…)
何も知らずに過ごした自分。
何処の星でも、子供たちは幸せに育っているのだと頭から思い込んで。
成人検査を受ける日までは、養父母たちの愛に包まれて育つと信じて、絵本のページをめくっていた。どの子も絵本を買って貰えると、このくらいの年ならこの絵本、と夢を描きながら。
(そうやって幸せに育っているなら、絵本を読むようなミュウの子供は…)
船に来る筈も無いというのに、気付かなかった前の自分。
どうやってミュウの子供を船に迎えるつもりだったのか、今、考えると可笑しいけれど。
自分に都合のいい夢を見ていたらしいけれども、絵本は大切に残しておいたのが前の自分。
これは未来を築く本だと、ミュウの子供を迎えた時には役に立つから、と。
そんな調子で絵本に夢を抱いていたのがソルジャー・ブルー。何処か間抜けな前の自分。絵本のページを何度も繰っては、ミュウの未来を夢見ていた。
絵本を読む子が来てくれる日を、シャングリラに未来が生まれる時を。
(白い鯨を作る時にも…)
自給自足の船が出来たら、もう奪いには行かない物資。…本物の絵本は手に入らなくなる。船にある絵本とデータが全てになってしまって。
(新しい絵本は、もう無理になるけど…)
ちゃんとした絵本を船で作ってゆけるようにと、係の者たちにも本物の絵本に触れておくよう、指示しておいた。「今ある絵本を覚えて欲しい」と、「本物の絵本を忘れないように」と。
その時点で船にあった絵本は、白い鯨にも引き継がれた。いつか子供が来る時のために。
白い鯨は宇宙を旅して、やがてやって来た本物の子供。ミュウの未来を築いてゆく子。
アルテメシアに着いたから。育英都市がある雲海の星に、隠れ住もうと決めたから。
「ぼくが残してた絵本、役に立ったんだっけ…」
ミュウの子供が、本当に船に来ちゃったから。…前のぼくが助けに飛び出して行って。
「助けて!」って悲鳴が聞こえて来たから、瞬間移動で飛び出して…。
何が起こったのか分からなかったけど、助け出すのは間に合ったんだよ。
まさか小さな子供の間に、ミュウを見付けて殺す時代になってたなんてね…。
前のぼくは夢にも思わなかったよ、と溜息をついたら、「俺も同じだ」と零したハーレイ。
「成人検査を受けて初めて、ミュウになるんだと思っていたしな…」
データ不足というヤツだ。アルタミラから後はせっせと逃げていたから、知らないままで。
それでも、お前が助けて来た子は、お前が夢見たミュウの子だったな。絵本を読む子。
まだ小さくて、絵本くらいしか読めない子供だったんだが…。
前のお前が絵本をきちんと残させてたから、そいつの出番がやって来たという所だな。
子供用の本なんか、他には無かったんだから。
大急ぎで「作れ」と係に言ったが、一瞬で出来やしないから…。
役に立つ日が来たんだよなあ、前のお前のコレクション。
お前が自分で選び出しては、何度も読んでた古い絵本が日の目を見る日が来たってトコか。
本当に古くなっちまってたが…、とハーレイも覚えている絵本。白い鯨にあった絵本は、新しいとは言えないもの。前の自分が何度も読んだし、本を作る係も読んでいたから。
けれど、船にはそれしか無かった子供用の本。小さな子供が読める絵本。
「あの子に絵本を渡したんだっけね、前のぼくが」
此処には古い絵本しか無いけど、読んでみるかい、って…。
欲しいんだったら、他にも色々あるからね、って喜びそうな絵本を一冊…。
あれは動物の絵本だったよ、と今でも思い出せる本。小さな子供にプレゼントした絵本。
「喜んで読んでくれたよなあ…。ありがとう、って本を抱き締めて」
それまで泣きそうな顔をしてたのに、絵本で笑顔が戻って来たのが凄かった。
船に来た時は泣きっ放しで、泣き止んだ後も、隅っこの方で塞ぎ込んでたというのにな。
「うん…。絵本、本当に嬉しかったんだね。シャングリラにも絵本があったから」
ぼくの家にも絵本が沢山あったんだよ、って言ってたもの。
パパとママに色々買って貰って、うんと沢山持っていたよ、って…。
あの子をユニバーサルに通報したのは、その養父母かもしれないけれど…。でも…。
そんなことは知らない方がいいよね、幸せに育ってゆくためには。
「違いないよな、物騒なことは知らずにいるのが一番だ」
あの子は絵本で笑顔になったし、それでいいじゃないか。
恐ろしい目に遭ったわけだが、また絵本が読める場所に来られたんだから。
もう誰も銃を向けたりしない場所にな…、とハーレイが言う白いシャングリラ。ミュウの箱舟。
それでも、絵本が無かったとしたら、あの子は笑顔になっただろうか。あんなに早く、ミュウの船に馴染んでくれたのだろうか、大人しかいない箱舟に…?
きっと無理だ、と今の自分でも思うこと。絵本が船にあったからこそ、此処も安心していられる場所だ、と子供なりに理解したろうから。
「古くなってた絵本だったけど、残しておいて良かったね、あれ」
直ぐに渡してあげられたのは、あれを残してあったから…。古くなっても、本物だから。
「まったくだ。本は直ぐには作れないしな」
料理のようにはいかんからなあ、フライパンでサッと作れやしない。
ちょっと待ってろ、と話してる間には出来上がらないのが絵本だってな。
前のお前は、いいものを取っておいたよな、と穏やかな笑みを浮かべるハーレイ。
ミュウの未来を築いてゆくことは出来たんだ、と。
古びた絵本を貰った子供が最初に来た子で、それからは次々に来たミュウの子供たち。
シャングリラは未来を担う子たちを手に入れたから。…絵本を読んで育つ子たちを。
(前のぼく、予知能力は無かったけれど…)
未来も見えない船で絵本を残させたのなら、少しくらいはあっただろうか。
それとも青い地球に抱いた夢と同じで…。
(前のぼくの夢ってことなのかな…?)
あれが予知なのか、夢を描いただけだったのかは、今となっては分からないけれど。
誰に訊いても分からないけれど、あの絵本のことを思い出させてくれたハーレイと地球にやって来た。青く蘇った水の星の上に。
絵本が旅をしてゆく時代に、平和な地球に。
家から家へと絵本が旅をしてゆけるのも、本物の家族が戻って来たから。
SD体制の時代だったら、本は旅などしないから。子供のいる家を旅してゆかないから。
(今のぼくが持ってた絵本だって…)
旅に出た絵本があるのだったら、幸せになってくれている筈。
何処かで誰かに気に入られて。何人もの赤ちゃんたちに読まれて、旅を続けて。
今はそういう時代だから。絵本は幸せに旅してゆけるし、本物の家族がいる時代だから…。
旅をする絵本・了
※今の時代は、家から家へと絵本が旅をしてゆく時代。本物の家族がいる時代だからこそ。
そうではなかった遠い昔に、シャングリラにも絵本があったのです。子供を待っている本が。
「今日は面白いものを教えてやろう」
こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。
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こいつだ、とハーレイが教室の前のボードに書いた文字。「水琴窟」と。
(水の琴…?)
何だろう、と首を傾げたブルー。それに「窟」の字、洞窟の中で奏でるための琴なのだろうか?
洞窟だったら、いい音が響きそうではある。水の琴がいったいどんな琴かは、まるで分からないままだけれども。
古典の授業でお馴染みの雑談、生徒たちの集中力を取り戻すために出される話題。楽しい話や、ためになる話。ハーレイの気分で中身は色々。
前のボードに書かれた三文字、「すいきんくつ」と書き添えられた振り仮名。
「水琴窟は昔の日本の文化だ。江戸時代に出来たと伝わってるな」
こういう仕組みになってるんだ、とハーレイが描いてゆく図解。
土の中に逆さに埋められた甕。底に穴を開けて。甕は空っぽ、水が溜まるように工夫をしてから埋めてゆく。周りに石を詰めていって。
遠い昔の庭の装飾、手水鉢の側にも作られたりした。手水鉢には水が要るから、其処から溢れた水を使って鳴らす音。甕の中に溜まった水と合わせて。
「こうやって甕を埋めておくとだ、甕の中に水が溜まるから…」
其処へ上から水が落ちると、その雫で音がするんだな。甕の中で木霊するように。
その音がとても綺麗だからと、「水琴窟」と呼ぶわけだ。
特別に音も聞かせてやろう、とハーレイが取り出した専用の機械。それが動いたら…。
ピチョーン、と教室に響いた音。澄み切った水の雫の音。
「本物の水琴窟の場合は、こんな大きな音には聞こえないんだが…」
その周りでだけ聞こえればいい、というのが水琴窟なんだ。
小さなものだと、音も小さくなるもんだから…。
音を聴くための竹筒を立てて、その側で耳を澄ませるってこともあったらしいぞ。
この教室の真ん中に水琴窟があったら、端のヤツらには聞こえないかもな。
いい音が鳴っているわけなんだが、途中ですっかり消えてしまって。
昔の日本の文化はそうだろ、華やかなものより控えめな方が人気だったから。
わびさびの世界というヤツで…、と紹介された水琴窟。遠い昔の日本の人たちが好んだ音。
お前たちもそれを暫く楽しんでみろ、と黙ったハーレイ。「一分間ほど静かに聴くように」と。
教室に流れる水琴窟の音。機械が流している音だけれど、水の雫が鳴らす音には違いない。
ピチョーン、コローン、と様々に響く水たちの音色。
(綺麗な音…)
溜まった水に落ちる水滴、それが奏でる澄んだ音。まさに水の琴。
水琴窟とは、本当によくも名付けたもの。それに仕掛けを思い付いたのも凄いと思う。
(日本って凄い…)
遠い昔の小さな島国、独自の文化を誇った国。他の国の人たちが魅せられたほどに。
こんな仕掛けも作ってたんだ、と驚かされた水琴窟。ほんの限られた所までしか届かないのに、その音を愛した日本人。竹筒を通して聴いたくらいに。
いい音だよね、と水琴窟が奏でる音色に聴き入っていたら…。
(え…?)
急に「悲しい」と思った自分。胸の奥から湧き上がって来た深い悲しみ。
とても綺麗な音だというのに、悲しい音のように聞こえる水琴窟。今もいい音がしているのに。
(なんで…?)
どうして悲しい音になるの、と思う間に、ハーレイが「ここまで」と止めた音。消えてしまった悲しい音。水琴窟の音色はもう聞こえない。
「もっとゆっくり聞きたいヤツは、本物を聞きに行くんだな」
この近くで水琴窟があるのは此処と此処だ、と挙げられた場所。水琴窟があるらしい庭園。昔の日本の文化の通りに作られた庭。
(…知らないよね?)
どちらにも自分は行ってはいない。行った記憶がまるで無いから。
それとも、覚えていないくらいに幼い頃に出掛けて…。
(遊ぼうとしてて、何か落っことしたとか?)
大事なおやつを水琴窟の側の地面に落とすとか。キャンディーとか、ソフトクリームとか。
地面に落として、食べられなくなってしまったのなら…。
悲しい音になりもするよね、と思った水琴窟の音。
大切なおやつが駄目になったのに、響き続ける水の音。おやつを落っことす前に自分が流した、水の雫を受け止めて。ピチョーン、コローン、と澄み切った音で。
(それって、とっても悲しいよね…?)
どんなにいい音がしていても。澄んだ水の琴が鳴り続けても。
水琴窟を鳴らそうとしたら、おやつを落としたのだから。小さな柄杓で水を掬って流した時に、落っことしてしまった大事なおやつ。…もう食べられない、駄目になったおやつ。
(ぼくのおやつは駄目になったのに、水琴窟は鳴っているんだから…)
きっとそれだ、と考えた音。「悲しい音だ」と思った理由。
まるで覚えていないけれども、小さかった頃に何かあったんだ、と。…水琴窟の側で。
そう納得して、戻った授業。ハーレイも「続きをやるぞ」とボードの文字を消したから。
授業の続きが始まったらもう、忘れてしまった水琴窟。悲しい音に聞こえたことも。
けれど、学校が終わって帰った家。
ダイニングでおやつを食べていた時に、思い出した水琴窟のこと。悲しい音に聞こえた水音。
(やっぱり、原因、おやつだよね…?)
小さな子供が悲しくなるなら、そのくらいしか思い付かない。水琴窟の側には水があるけれど、大切なオモチャを其処に落としはしないだろう。
(パパかママが預かってくれそうだから…)
オモチャだったら、落とさないように。幼い自分も素直に「お願い」と渡していそう。水の中に落ちたら、濡れてしまうということくらいは分かるから。
(でも、おやつだと…)
大丈夫、と言い張りそうなのが幼い子供。「落っことすわよ?」と言われても。
ソフトクリームを預けようとはまず思わないし、「預けたりしたら、食べられちゃう」と思っていそう。相手は優しい両親でも。
まして頬張っていたキャンディーだったら、預けようさえない代物。
(棒つきだったら、預けることも出来るけど…)
口に含んだキャンディーは無理。それを落としてしまっただろうか、水琴窟の側の地面に。水を流そうと屈んだはずみに、うっかり、ポトンと。
どう考えても、原因はおやつだろうから。きっとそうだという気がするから、通りかかった母を呼び止めて尋ねてみた。
「ママ、水琴窟っていうのを知ってる?」
地面の中に甕が埋まっていて、上から水を流したら音がするんだよ。中で響いて。
この辺りだと、此処と此処にあるって聞いたんだけど…、と伝えた場所。日本式だという庭園。
「知っているわよ、パパと行ったわ」
いい音がするのよ、水琴窟は。遠くまでは響かないけれど、とてもいい音。
「…ぼくは?」
ぼくもママたちと一緒に行ったの、と勢い込んで訊いたのに…。
「ブルーは生まれていなかったわねえ…」
あの頃だとママのお腹の中にも、いなかったんじゃないかしら?
パパとは結婚していたけれど、ブルーはまだだと思うわよ、というのが母の返事だから。
「本当に…?」
ぼくは生まれていなかったなんて、絶対に無いと思うんだけど…。
パパやママたちと行った筈なんだよ、水琴窟のある庭に。
だってね…、と母に話した、古典の時間に起こったこと。悲しい音のように聞こえた水琴窟。
原因は落としたおやつなんだと思う、と説明も。オモチャは預けるだろうから、と。
「あら、そうだった?」
ブルーも連れて行ったのかしらね、ママは覚えていないけど…。
小さな子供を連れて行っても、喜びそうな場所じゃないんだけれど…。あそこの庭は見るだけの場所で、遊べる道具が何も無いから。公園だったら色々あっても、お庭では…。
だから行ってはいないと思うわ、「つまらないよ」って言いそうだもの。
パパの友達を案内するとか、そういうので出掛けたにしても…。
ブルーが其処で泣き出したんなら、きっと忘れはしないわよ。「そうだったわ」って、聞いたら思い出す筈よ。
おやつを落として大変だったとか、泣き止むまでにとても時間がかかったとかね。
ママが忘れるわけがないわ、と母が言うのも一理ある。普段は忘れていたとしたって、水琴窟の側で泣いた筈だと聞かされたら思い出すだろう。
(…ぼく、行ってないの…?)
それじゃ何処で、と考え込んでいたら、「前のブルーの方じゃないの?」と母に問われた。
「ブルーはママのブルーだけれども、その前はソルジャー・ブルーでしょう?」
きっとソルジャー・ブルーだった頃に聞いたのよ。水琴窟の音を、何処かで。
ソルジャー・ブルーなら悲しい思い出も多そうだから、というのが母の推理だけれど。
「…水琴窟って、日本の文化だよ?」
前のぼくが生きてたような時代に、日本の文化は無い筈だから…。機械が消しちゃっていた世界だったから…。
水琴窟なんか、あるわけがないよ。何処を探しても。
「そういえばそうね…。日本の文化は、SD体制の時代には消されていた筈ね…」
でも、似たような音があったんじゃないの?
水琴窟にそっくりな音がするものだとか、水琴窟そのものがあっただとか…。
シャングリラにはユニークな人たちが多かったんでしょ、と微笑んだ母。
「ママは直接会っていないけれど、ブルーから色々聞いているわ」と。その中の誰かが水琴窟を作っていたかもしれないわよね、と。
「…シャングリラに水琴窟があったっていうの?」
それなら、悲しい音に聞こえちゃうこともあったかも…。
普段は「素敵な音だ」と思っていたって、悲しい気分で聞いていた日もありそうだから。
凄いね、ママ。…ママの推理は当たっていそう。水琴窟とか、そっくりな音がする何か…。
「どういたしまして。参考になったなら良かったわ」
後は頑張って思い出してね、シャングリラにあった水琴窟の音。
だけど、ママには話してくれなくてもかまわないわよ。…悲しい思い出みたいだから。
思い出したら、きっとブルーは悲しくなるもの。
おやつを落としたどころじゃないわよ、ソルジャー・ブルーの方ならね。
もしも悲しくなってしまったら、おやつでも食べに来なさいな。
特別に何か食べさせてあげるわ、晩御飯が入らなくならない程度に。…少しだけね。
いつまでも一人でしょげていちゃ駄目よ、と母に念を押されて戻った二階の自分の部屋。悲しい音を思い出したら、元気が出るように貰えるおやつ。…本当に元気が無くなったなら。
これで悲しい音も安心、と勉強机の前に座った。「音の正体を追い掛けよう」と。
水琴窟そのものか、水琴窟にそっくりな音がする何か。…シャングリラにあったらしいもの。
(ヒルマンかな…?)
そういう仕掛けを作ったとしたら、可能性が高いのがヒルマン。それに仕掛けがあった船なら、間違いなく白いシャングリラ。改造を終えて白い鯨になった船。
(水琴窟…)
今日のハーレイの雑談で教わった、綺麗な音がする仕組み。底に穴を開けた甕を地面に埋めて、中に溜まった水の上に落ちる雫の音を響かせる。
仕組みそのものは単純なのだし、日本風の甕が無くても壺で代用出来るだろう。水琴窟に使える壺が無ければ、白い鯨で作れた筈。「こういう壺を一つ」と専門の係に注文すれば。
ヒルマンならば好きそうなものが水琴窟。遠い昔の資料を見付けて、作ってみようと考えたって不思議ではない。思い付くだけなら、エラだって。
(…エラだと、自分で穴を掘ったりしないだろうから…)
きっとヒルマンに話を持ち掛け、船の仲間の力を借りる。「こういう仕掛けを作りたい」と。
船の仲間たちも、ああいう綺麗な音がするなら、大喜びで協力するだろう。穴を掘るのも、壺を埋めるのも、水を引いてくる作業なども。
(作るんだったら、公園だよね…?)
公園には木を植えていたのだし、充分な深さに敷かれていた土。大きな壺でも埋められる。水も当然、供給されるし、其処から引いてくればいいだけ。
小川が流れる公園だったら、その直ぐ側に作っておいたら水を引く手間が省けたろう。
(だけど、悲しい音…)
公園だったら、楽しい音になりそうなもの。悲しい音になるよりは。
気分が沈んでいた時だって、公園に行けば元気な子供たちがいた。はしゃぎ回る子供たちの中に混ぜて貰って、遊ぶ間に癒えていた心。
水琴窟の音が悲しく聞こえていたって、じきに素敵な楽しい音色に変わっただろう。子供たちと一緒に水を掬って、雫の音を聞いていたなら。水の琴で遊んでいたのなら。
好奇心の塊のような子供たち。水琴窟が公園にあれば、きっと鳴らして遊ぶ筈。水を掬う順番で喧嘩になったり、それは賑やかに騒ぎながら。
(…水琴窟の音、聞こえなくなってしまいそうだよ…)
大きな音はしないとハーレイの授業で聞いたし、子供たちの声にかき消されて。水の雫が奏でる音より、子供たちがはしゃぐ声の方がずっと大きくて…、と思った所で気が付いた。
その子供たちの音だったんだ、と。水琴窟の音が悲しい音になるのは、子供たちの記憶に繋がる音だったから。…とても悲しくて、寂しく響いた水の雫の音だったから…。
(ぼくたちが助けた子供だけしか…)
シャングリラには来られなかった。白い箱舟には乗り込めなかった。
養父母たちに通報されたりした子供たち。「この子は変だ」と、ユニバーサルに。直ちに始まるミュウかどうかを調べる調査。場合によっては、その場で処分された子供も。
前の自分も、救助班の者たちも頑張ったけれど、助け損ねた子も多かった。悲鳴が届いた時には手遅れ、それがその子の最期の思念。「助けて」だとか、「パパ、ママ!」だとか。
(他のみんなには聞こえなくても、前のぼくには…)
子供たちの最期の声が聞こえた。銃口を向けられ、助けを求めた子供たち。自分を通報したのが養父母たちとも知らずに、「パパ、ママ!」と。泣き叫ぶように、「助けて」と。
それきり消えてしまった思念。…その子の命は潰えたから。
飛び出して行っても、もう亡骸しか残ってはいない幼い子供。シャングリラに乗れずに終わってしまった、無垢な魂。もしも自分が気付いていたなら、救い出すことが出来ただろうに。
(…青の間から思念で探っていても…)
見付け出せないミュウの子は多い。
サイオンが強い子供だったら「あの子はミュウだ」と分かるけれども、サイオンが弱い子供だと無理。シャングリラから探るだけでは、気配も感じないのだから。
(外に出た時に気を付けてたって…)
やはり見落とす子供たち。
微弱なサイオンを持つだけだったら、それを掴むのは難しい。育英都市に送り込んでいた潜入班でも、強い子供しか見付けられない。どんなに注意して気を配っていても。
救い出せずに、思念だけが胸を貫いていった子供たち。白いシャングリラに乗れなかった子。
そういう子たちを亡くした夜に、あの水音を聞いたのだった。水琴窟の音色に似た音を。
青の間にあった貯水槽。深い海の底を思わせるような部屋に満々と湛えられた水。悲しい気分になった時には、その貯水槽に続く階段を下りていた。部屋の奥から。
普段は係の者くらいしか下りない階段。それを下りていって、一番下の段に座って…。
(水を掬って…)
階段に腰掛けて、手に掬った水。貯水槽から。
水面に屈み込むのではなくて、サイオンを使って、両手に一杯。
サイオンで両手に満たした後には、その力を解いてしまうのが常。サイオンを使わずに手の中に留めようとしたって、水は溜まっていてはくれない。どんなに隙間なく指を重ねても、手のひらを強くくっつけ合っても。
どう頑張っても、手の中から滴り落ちてゆく水。指の隙間から、くっつけ合った手の間から。
滲み出しては水滴になって、貯水槽へと零れ落ちる水。救い損ねたミュウの子供の命のように。
両手一杯に水を満たしても、其処から水は漏れてゆく。一滴、また一滴と雫になって。
滴り落ちては水面に当たって、青の間の闇に澄んだ水音を響かせて。
(…ミュウの子供を、上手く救出できたって…)
首尾よく救って白いシャングリラに連れて来たって、その子供は運が良かっただけ。
間に合わずに救えなかった子供の方が多くて、この水のように滴り落ちる。シャングリラという名の箱舟に乗れずに、小さな命が消えてしまって。
(アルテメシアでさえ、そうなんだから…)
白いシャングリラが雲海に潜む、幸運な星がアルテメシア。ミュウの箱舟が浮かんでいる星。
其処にある二つの育英都市。アタラクシアとエネルゲイアに運んで来られたミュウの子供なら、助かる術もあるけれど。…白いシャングリラに救われるチャンスを持っているけれど。
(どの子供が何処に運ばれるかは…)
機械の判断次第なのだし、ミュウの子供が皆、アルテメシアに来るわけがない。何処の星でも、育英都市があるのならミュウの子供がいる筈。ミュウの箱舟は其処に無いのに、誰も救いに来てはくれないのに。…処分される時の最期の思念も、此処に届きはしないのに。
今日、殺されてしまった子供。助け出すことが出来ないままで。最期の思念だけを残して。
けれど、その子は「助かるチャンス」を持ってはいた。雲海の中にミュウの箱舟が潜む星だし、運が良ければ助かった子供。白いシャングリラに来られた子供。
それが出来ずに死んだ子供は可哀想だけれど、他の星でもミュウの子供は殺されている。助かるチャンスさえ貰えないままで、ミュウの箱舟が無い星で。
(他の星にも、ミュウの子供が此処と同じようにいるのなら…)
自分が、白いシャングリラが救える子供はほんの一部で、この手に一杯に満たした水のように、両手に一杯分のミュウの子供がいるというなら…。
(救い損ねて、落ちてった命…)
手のひらから滴り落ちる水。サイオンでそれを防がないなら、何処からか漏れて滲み出して。
青の間の闇に木霊する水滴の音。子供の命が落ちて行ったように、最期の思念が届いたように。
自分は悲鳴を聞いたけれども、最期の思念が自分の所に届いた子供は、ごく僅かだけ。
落ちて行った水の雫の分だけ、水面を震わせた音の分だけ。
アルテメシアで殺された子しか、シャングリラに思念は届かないから。彼らの悲鳴が胸を貫きはしないから。
(本当は、もっと沢山の命…)
それが喪われているのだろう。宇宙は広くて、育英都市も多いのだから。
いったい幾つ拾い損ねたことだろう。零れ落ちようとするミュウの子供の命を、銃を向けられ、泣き叫ぶ子供たちの命を。「助けて」と、「パパ、ママ!」と泣いた子たちの命を。
それらを拾い損ねた自分は、これからも拾い損ねるのだろう。ミュウの箱舟は此処に在るだけ、他の星の子を救う術など無いのだから。
(…助けられない命、一杯…)
そう思ったら、落ちてゆく水の音が悲しい。滴る音が、零れる雫が、救い出せずに消えていった子供の命のようで。「此処にいるよ」と、「此処にいたよ」と訴えるようで。
(…助けてあげられなくて、ごめんね…)
本当にごめん、と心で詫び続けながら、掬った水が全部落ちるまで、滴る音を聞いていた。
出来るだけ手から零さないよう、指を、手のひらを強く合わせて。
それでも零れてゆく水の音を、澄んだ水音を、まるで水琴窟の音を聞くかのように。
思い出した、と分かった音の正体。水琴窟に似ていた音。前の自分が聞いていた音。
(悲しい音だと思うわけだよ…)
あの音と同じだったなら、と胸の奥から湧き上がる悲しみ。「救えなかった」と。
ソルジャー・ブルーが、白いシャングリラが、救い損ねた大勢のミュウの子供たち。彼らの命が消えてゆく音、それが滴り落ちる水音。
前の自分の両手の中から、青の間の貯水槽へと落ちて響かせていた水の音。澄んだ水音は悲しい音で、確かに水琴窟に似ていた。…音の響きだけは美しかったから。
(忘れてたのに…)
青い地球の上に生まれ変わって、新しい命と身体を貰って、すっかり忘れ去っていたこと。前の自分が救えなかった沢山の命。深い悲しみの中で何度となく聞いた、滴り落ちる水の音のこと。
(…今頃になって思い出すなんて…)
ハーレイのせいだ、と噛んだ唇。母から「悲しくなったら、おやつをあげるわ」と優しい言葉を貰ったけれども、救い損ねた子供たちは、おやつも貰えなかった。
(おやつどころか、大好きなママに通報されちゃった子も…)
ホントに大勢いた筈だもの、と分かっているから、おやつを貰える気分ではない。幸せに生きる今の自分が、おやつを貰いに行くなんて…。
(あの子供たちに悪いんだから…)
申し訳なくて、とても出来ない。「ママ、おやつ!」と駆けてゆくなんて。悲しい気分になってしまったから、おやつが欲しいと頼むだなんて。
(今のぼくのママは、本物のママで…)
産んで育ててくれた母。前の自分が生きた時代の「ママ」より遥かに素晴らしい「ママ」。
そういう母を持っているのに、それで満足しないだなんて。「おやつをちょうだい」と強請りに行くなんて、ただの子どもの我儘でしかない。
悲しい気分になっていたって、殺されるわけではないのだから。…誰も殺しに来はしないから。
(そんな我儘、言えないよ…)
ママにおねだりなんて出来ない、とギュッと握る手。前の生の終わりに凍えた右の手。
こうして生きていられるだけでも幸運だから、と。
あの子供たちよりずっと幸せで、とても優しい「本物のママ」もいるんだから、と。
我慢しなくちゃ、と思うけれども、消えてくれない悲しい気持ち。水琴窟の音で蘇った記憶。
ハーレイがあれを聞かせるからだ、と八つ当たりしたい気分の所へ聞こえたチャイム。水琴窟の話を持ち出したハーレイが訪ねて来たものだから、向かい合うなりぶつけてやった。
仕事帰りの恋人に。テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイに。
「ハーレイ、今日の水琴窟の音…」
「いい音だったろ?」
音のいいのを選んだんだぞ、と返った笑顔。こちらが文句を言う前に。本物はもっと素敵な音がするから、とハーレイは勘違いをしているらしい。「水琴窟に興味を持って貰えたようだ」と。
「いい音だなんて…。あんなの、ちっとも素敵じゃないから!」
本物なんか、どうでもいいよ。ぼくは聞きたいとも思わないもの…!
水琴窟なんか大嫌いだ、とハーレイにぶつけた自分の気持ち。あれは悲しい音なのだから。
「なんだ、どうした?」
いきなり何を怒っているんだ、あの音、嫌いだったのか?
オバケでも出そうな音に聞こえたか、洞窟の中だと似たような音もするもんだから…。
気味が悪いと思ったのか、とハーレイはまるで分っていない。今の自分ではないというのに。
「オバケじゃないよ、ぼくには悲しい音だったんだよ!」
最初は綺麗だと思っていたけど、急に悲しくなっちゃって…。
そしたら思い出しちゃったんだよ、水琴窟の音は、ぼくには悲しい音なんだ、って…!
「おいおい、何があったんだ?」
水琴窟に悲しい思い出だなんて、お前、いったい何をしたんだ?
キャンディーでも落としちまったのか、とハーレイが連想したことも今の自分と同じ。水琴窟で遊ぼうとして、何かを落とした子供時代。もちろん、今の自分の思い出のこと。
落っことしたものはキャンディーなのか、とハーレイは気の毒そうな顔。「そりゃ悪かった」と謝ってくれて、「お前、本物、知ってたのか」とも。
小さかった頃に遊びに出掛けて、とても悲しい目に遭ったんだな、と。
今のハーレイの勘違い。自分も似たようなことをしたから、仕方ないとは思うけれども、とても収まらない苛立ち。ハーレイのせいで悲しい思い出が蘇ったことは確かだから。
「悪かった」と謝られたって、謝る相手が違うから。
水琴窟の音が悲しいのは、自分ではなくてソルジャー・ブルーの記憶のせい。ハーレイが誰かに謝るとしたら、前の自分の方なのだから。
「ぼくは知らないってば、本物の水琴窟なんか…!」
水琴窟って言葉も知らなかったし、音を聞いたのも今日が初めて。
あの音が悲しいのは前のぼくだよ、前のぼくの記憶が「悲しい音だ」と思わせるんだよ…!
「…前のお前だと?」
ヒルマン、あんなのを作っていたか?
思い付くだけなら、エラってこともありそうだが…。シャングリラにあったか、水琴窟…?
キャプテンの俺は覚えていないが、と勘違いを続けているハーレイ。「何処の公園だ?」などと訊くから、本当に許せない気分。悲しい音をぼくに聞かせたくせに、と。
「公園じゃなくて…!」
青の間にあった貯水槽だよ、前のぼく、あそこで聞いてたんだよ…!
覚えているでしょ、前のぼくが貯水槽の側まで下りていたのは、どういう気分の時だったか。
部屋の奥にあった点検用の階段だけど、と付け加えた。「一番下に座ってた時」と。
「貯水槽に下りる階段か…。あったな、奥に」
悲しい時にはよく下りていたな、前のお前は。…姿が見えないと思ったら、あそこに座っていたもんだ。階段の一番下の所に。
俺も何度も一緒に座っていたっけな。お前の気分が落ち着くまで。…階段を上がって、上に戻る気になってくれるまで。
あそこで水音、聞いていたのか?
悲しい気分の時に聞いたら、悲しい音にもなっちまうよなあ…。普段は普通の音に聞こえても。
おまけにあそこは、音ってヤツがよく響くしな、とハーレイは自然に落ちる水滴の音だと思っているようだから。実際、たまに水音は響いていたものだから…。
何処かからポタリと滴り落ちて。水琴窟が鳴らす水音のように、澄んだ音色で。
その水音とは違うのに。…自然に滴る音だったならば、悲しい音にはならないのに…。
そうは思っても、前のハーレイも知らなかったこと。あそこで両手一杯の水を掬っていた時は、いつでも一人だったから。…ハーレイは隣にいなかったから。
八つ当たりしても仕方ない、と今のハーレイに語ることにした。悲しい音の正体を。
「…普通に落ちてた水じゃないんだよ、前のぼくがわざと鳴らしてた」
両手に一杯の水を掬って、その水が全部落ちていくまで…。指の間から落ちて無くなるまで。
頑張って零さないようにしてても、いつかは全部、落ちてしまうから。
何処かから少しずつ零れてしまって…、と明かした水音。悲しく響いていた水が滴る音。
「なんだって?」
前のお前が鳴らしてた、って…。手のひらの水が無くなるまでか?
ずいぶん時間がかかりそうだが、そうすることに意味があったのか…?
なんでまた…、と怪訝そうな顔のハーレイ。「わざと悲しい水音を立てていたなんて」と。
「いつもやってたわけじゃなくって、ミュウの子供を救い損なった時…」
救出するのが間に合わなくて、前のぼくにだけ最期の思念が届いた時とか。
そういう時にね、両手に一杯の水を掬ってみるんだよ。…あそこの階段の下に座って。
宇宙に生まれるミュウの子供は、きっとこのくらいいる筈だ、って…。
アルテメシアの他にも育英都市はあるから、其処でも育っていた筈だもの。ミュウの子供が。
その子供たちは助かるチャンスも持っていなくて、ぼくが救えるのはほんの一部だけ。
アルテメシアで見付かったミュウの子供だけでしょ、それも救助が間に合わないと無理。
両手に一杯の水の分だけミュウの子供が生まれていたって、全部は助けられないんだよ。ぼくの手から落ちて零れていくのが殆どだから…。
手のひらから水の雫が落ちていったら、子供の命が消えてくみたいで…。
最期の思念が届くみたいに、水の音が響いてくるんだよ。…水琴窟の音みたいにね。
綺麗だけれど、悲しい音、と零した溜息。「だから悲しい音なんだよ」と。
「うーむ…。前のお前がそういうことをなあ…」
そいつは俺も知らなかったぞ、出くわしたことが無かったから。
お前が手のひらに水を掬って落としているのを、俺は一度も見なかったから。
そうか、悲しい音だったのか…。水琴窟の音、前のお前にとっては。
綺麗な音だと思ったんだが、お前には悲しい音だったんだな…。
すまん、と謝ってくれたハーレイ。「気付かなかった俺が悪かった」と。
いい音だからと教室の生徒に聴かせていたのに、悲しい思いをさせちまったか、と。
「前のお前の悲しい記憶を呼び起こすとは思わなかったんだ。…全く知らなかったから」
水琴窟は日本の文化で、前の俺たちが生きた時代には無かったからな。
お前も喜んでくれるだろうと思っていたのに、逆になっちまうなんて、俺が迂闊だった。
どうすりゃいいかな、お詫びってヤツ。
悲しい思いをさせたらしいし、お前に謝りたいんだが…。
「お詫びだったら、今、聞いたよ?」
ぼくも八つ当たりしちゃっていたから、もう充分。ハーレイは悪くないんだもの。…前のぼくが一人でやってたことまで、ハーレイ、分かるわけないもんね…。
だからいいよ、と自分の方でも謝った。「八つ当たりしちゃって、ごめんね」と。
「いや…。お前の気持ちも分からんではない。前のお前のことなら分かっているからな」
どれほど辛い思いをしてたか、今の俺にも分かるんだ。水音がどんなに悲しく聞こえたのかも。
なのに、そいつと同じ音をだ、いい音のつもりで聴かせたからなあ…。
その埋め合わせに、何かお詫びをしてやりたいと思うわけだが…。
何かあったらいいんだがな、とハーレイが顎に手を当てるから、ここぞとばかりに強請ることにした。母におやつを強請りに行くのは気が引けたけれど、ハーレイならばいいだろう、と。
前の自分もハーレイと恋人同士だったから。…ハーレイには甘えていたのだから。
「じゃあ、お詫びに本物の水琴窟に連れて行ってよ」
ハーレイ、授業で言っていたでしょ、「本物の音を聞きに行くなら此処だ」って場所を二つ。
片方でいいから、ぼくを連れてって欲しいんだけど…。先生と生徒でかまわないから、水琴窟の勉強をしに。
本物の水琴窟の音を聞いたら、きっと悲しくなくなるから。今はいい音があるんだね、って。
庭で素敵な音がするよ、って嬉しくなると思うから…。
「そいつが一番の早道なんだろうとは思うが、先生と生徒と言ってもなあ…」
クラスの全員を連れて行くなら問題は無いが、お前と俺の二人きりだろう?
それじゃデートになっちまうから、連れては行けん。…お前とデートはまだ出来ないから。
本物の水琴窟は駄目だし…、とハーレイは暫く考え込んで、「そうだ」と何かを思い付いた顔。いいアイデアでもあるのだろうか、と鳶色の瞳を見詰めたら…。
「なあ、ブルー。…俺の歌で我慢してくれないか?」
「歌?」
キョトンと見開いてしまった瞳。お詫びはともかく、どうして歌になるのだろう?
「水琴窟は水が奏でる音だからなあ、名前の通りに水の琴だし」
音楽みたいだと思ったわけだな、昔の日本人たちは。それで名前が水琴窟だ。
俺は琴なんか弾けやしないし、代わりに何か聴かせてやろう。…俺の下手くそな歌で良ければ。
何か聴きたい歌はあるか、という申し出。ハーレイが歌ってくれるらしい。水琴窟が鳴らす音の代わりに、大好きでたまらない声で。
(ハーレイが歌ってくれるんだったら、スカボローフェアがいいのかな…?)
前の自分たちの思い出の恋歌、スカボローフェア。
縫い目も針跡も無い亜麻のシャツを作った、ソルジャー・ブルー。そういうシャツを作ることが出来たら、本物の恋人だと歌う恋歌だから。…前の自分もハーレイの歌を聴いたから。
(…前のハーレイ、あのシャツを大事に持っててくれて…)
前の自分がいなくなった後も、ずっと大切にしていてくれた。何度もそっと撫で続けて。
スカボローフェアは懐かしい恋歌、それを聞きたい気もするけれども、「ゆりかごの歌」も素敵だろうか。眠り続ける前の自分に、ハーレイが歌ってくれた子守歌。赤いナスカで。
初めての自然出産児だったトォニィのために、探し出された古い歌。前の自分は眠りの中でも、ハーレイの歌を聴いていた。今の自分も「ゆりかごの歌」が一番好きな歌だったほどに。
(前のぼくのママの歌かと思っていたら、ハーレイが歌っていたんだっけ…)
そう聞かされた日に、ハーレイが庭で歌ってくれた。恥ずかしそうに「ゆりかごの歌」を。庭で一番大きな木の下、白いテーブルと椅子の所で。
(頼むんだったら、ゆりかごの歌かな…)
前の自分の悲しい思い出、水琴窟が奏でる音に似ていた音は、救えなかった子供たちの命を思う音だったから。
大勢のミュウの子供たち。おやつも強請れず、養父母たちに通報されたことも知らずに、彼らを呼びながら死んでいった子たち。「助けて」と、「パパ、ママ!」と最期の思念で。
あの子供たちのことを思い出したのだから、聴くのなら子守歌がいい。「ゆりかごの歌」なら、子供たちも喜びそうだから。…きっと喜んでくれるから。
それをリクエストして歌って貰って、ハーレイの歌声に聴き入った後で…。
「ありがとう、ハーレイ。…素敵な歌を歌ってくれて」
ゆりかごの歌は、今は人気の子守歌だけど…。あの子供たちも、地球に着けたかな?
前のぼくたちが助けられなかった、大勢のミュウの子供たち。…殺されちゃった子供たちも。
青い地球まで来られたかな、と尋ねてみたら。
「きっと着いたさ、俺たちよりもずっと先にな」
前と同じに育つ身体だとか、そんな贅沢は言わないだろうし…。うんと早くに。
本物のお母さんに産んで貰って、ゆりかごの歌を聴いて育って、水琴窟だって覗き込んで。
この地域に生まれた子供だったら、水琴窟にも行ったんじゃないか?
おやつを落っことして泣いたりしてな、とハーレイは笑う。「小さな子供にはありがちだ」と。
「水琴窟…。そうだといいな、小さな子供の遊び場じゃないらしいけど…」
ママが「お庭を見に行くだけで、遊び道具は何も無いわよ?」って言ってたけれど…。
水琴窟に行った子供もいるかな、日本に生まれて来た子だったら…?
「間違いなく行ったと思うがな?」
前のお前が聞いてたんだろ、水琴窟に似た音を。…子供たちのことを考えながら。
神様はちゃんと、前のお前の祈りを聞いてて下さった筈だと思うから…。日本に生まれた子供はもれなく水琴窟だな、「いい音がする」と水を掬って鳴らして遊んで。
お前もいつか本物の水琴窟に連れてってやる、とハーレイは約束してくれたから。
前の自分と同じ背丈に育った時には、水琴窟のある庭までデートに出掛けてゆこう。
ハーレイと二人で水琴窟の音を聴きに行ってみよう、今は悲しくない音を。
ミュウの子供たちはもう死なないから、水の音は悲しく響かないから。今は平和な世界だから。
(水琴窟…)
悲しい音だと思ったけれども、今のハーレイと一緒に音を聴けたらいい。
今は幸せな音がするねと、うんと素敵な水の音が、と。
前の自分の悲しい音が、幸せな音に変わればいい。今の時代だから聴ける、素敵な音に。
水の雫たちが奏で続ける、澄んだ響きの琴の音色に…。
悲しい音・了
※ハーレイが古典の授業で流した水琴窟の音。けれどブルーは、悲しい音だと感じたのです。
それはソルジャー・ブルーの記憶。救い損ねたミュウの子供たちを思いながら聞いた水の音。