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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。


 今年もシャングリラにクリスマスの季節がやって来た。ブリッジが見える広い公園には、とても大きなクリスマスツリーが飾られていて、クリスマス気分を盛り上げている。
「今年も、じきにクリスマスだよね!」
 プレゼント、何を貰おうかな、と大きなツリーを見上げているのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」だ。それはとんでもない悪戯小僧で、船の仲間たちも年中、酷い目に遭っているのだけれど…。
「これからは、うんといい子でいないと、大変なことになっちゃうし…」
 悪戯、我慢シーズン開始! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は年に一度のビッグイベントに向けて、自分に誓いを立てていた。悪い子は、サンタクロースからプレゼントが届く代わりに、鞭を貰うのに決まっているから、それを避けたい「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、毎年、クリスマスの前だけは…。
「今年も、いい子になるんだも~ん!」
 頑張らなくちゃ! と気合を入れて、それから少し小さめのツリーに目を遣った。
 「お願いツリー」と呼ばれる、これもクリスマスの風物詩。クリスマスに欲しいプレゼントを、備え付けのカードに書いて吊るしておけば、サンタクロースが届けてくれる。大人の場合は恋人や、友達なんかがカードを見付けて、書かれたプレゼントを贈り合ったりするらしい。
「えーっと、ぼくが欲しいのは…。んーと…?」
 何だったっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は頭の中を探すけれども、素晴らしいものが出て来てくれない。「これだ!」と思うプレゼントが、まるで一つも浮かんで来なくて、困ってしまう。
「地球を下さい、って言っても無理だしね…」
 大好きなブルーが行きたがっている、青い星がとても欲しいとはいえ、サンタクロースは地球をくれはしないと分かっている。地球へ行くための方法だって、思い付いても、失敗ばかりだし…。
「頼んでみるだけ無駄ってヤツか、いい方法を思い付くかの、どっちかで…」
 だけど、なんにも思い付かなーい! と、すっかりお手上げ、気分転換に出掛けることにした。
 アルテメシアの街でグルメ三昧、食べまくる内に、アイデアだって浮かぶだろう。悪戯出来ない船にいるより、そっちの方が断然いいに決まっているから、ヒョイと船から出て行った。
 瞬間移動はお手の物だし、「何処がいいかな?」と、とりあえず、街へ。



「クリスマス前だし、何処も綺麗に飾ってるよね…」
 お店も、食事が出来る所も、と見回しながら街を歩く間に、新しい店が目についた。
「あれっ、こんなの、あったっけ?」
 レストランみたいに見えるけれど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が眺める先に、ちょっとお洒落な一軒の家が建っている。今どきの家とは違った作りで、昔の地球のヨーロッパなんかにありそうだ。
「だけど、看板…」
 建物に合っていないよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、玄関にあたる所の扉の上を、まじまじ見詰めて首を傾げる。そこには木で出来た看板が掲げられていて、そこまではいい。問題はセンスの方だった。
「なんだっけ、ジャポニズムだったっけ…?」
 分かんないけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭を悩ませるソレは、昔の日本の古民家に似合いそうな古びた木の看板で、キッチリ四角い形でさえない。自然のままといった形の板切れ、おまけに書かれた文字の方まで…。
「風の砦…?」
 下に読み方が書いてあるほど、しっかりガッツリ、「日本語」だった。どういうセンスの店主がいるのか、まるで全く謎だらけな店。かてて加えて扉の脇には「ジビエ料理の店」と、こちらの方は普通の文字の立て看板。
「ジビエって、確か、野生の動物のお肉のことで…」
 今の時代にあるわけないし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」だって知っている。SD体制が敷かれた理由は「地球を再生させるため」だし、地球以外の星もテラフォーミングされた星ばかり。野生動物なんかいるわけないから、「名前だけ」ジビエなのが今の時代というものだった。
 とはいえ、珍しい店ではある。グルメを自負する者が目にして、スルーするなど、有り得ない。
「よーし!」
 此処に決めたぁ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、早速、店に入って行った。妙なセンスの木の看板の下の、扉を開けて。



「いらっしゃいませー!」
 どうぞ、お好きな席へ、と笑顔で迎えた店主は、気の良さそうな「おじさん」だった。ついでに店も、外見通りに洒落た内装なのだけれども…。
「なに、これ…?」
 ジビエって、鳥のお肉だっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は店内の壁を眺め回した。店中の壁に飾られている写真は、何処から見たって「猛禽類」だ。ワシとかタカとか、そういった鳥が猛禽類。
 けれど、席について広げたメニューは、鹿やイノシシなんかばかりで、鳥のは無い。
 ますます謎だ、と首を捻りつつ、「本日のおすすめ」コースを選んで、ついでに店主に質問してみることにした。
「あのね…。鳥のお肉の料理は無いのに、なんでコレなの?」
 写真、と壁を指差してみたら、店主はたちまち嬉しそうな顔で、カウンターの向こう側で料理をしながら、あれこれ説明してくれた。
 木の看板の日本語からして、とても大事なポイントらしい。地球が立派に青かった頃の日本で、『風の砦』というタイトルの映画が撮られたという。
「野生のイヌワシを、一年かかって撮ったらしいんですけどね…。警戒心が強い鳥なので…」
 撮影に入る前の年から小屋を建てて、と店主が話してくれた中身は凄かった。小屋に出入りするスタッフの数も、きちんと「同じ数だけ」を交代させるなどして、「小屋には誰も残っていない」と見せかけて撮ったという。どれもこれも、鳥に人間の姿を「見られない」ための工夫。
「今と違って、便利な道具も無い時代の話ですからねえ…」
 でも、壮大なロマンですよ、と熱く語る店主が作る料理は絶品だった。イノシシや鹿や、どれも癖がある肉らしいのに、実に美味しく仕上がっている。煮込みも、パイ皮包みなども。
「すっごく美味しい! ホント、最高!」
「いやあ、この看板を出したくて、あちこちで腕を磨きましたからねえ…」
 お礼はイヌワシに言って下さい、と店主は壁を埋め尽くす写真を指してニコッと笑った。もしも『風の砦』に出会わなかったら、店を出す所までは行っていないから、と。



「凄いお店に行っちゃった…」
 でも、本当に美味しかったし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は船に帰って、自分の部屋で考える。あの店はグルメ三昧のリストに加えて、月に何度も行くべきだろう。
「お礼はイヌワシに言って下さい、って真面目に本気だったよね…」
 映画の話も凄かったもん、と思い出す内に、「あれ?」と頭に閃いた。
「ミュウなら、サイオンで姿を消せるし、その映画、楽に撮れるよね?」
 便利な道具は何も無くても、と考えたけれど、人類はサイオンなどは無いから、やっぱり今でも道具に頼って撮るより他に無いだろう。もっとも、野生のイヌワシがいれば、の話だけれど。
「でもって、人類の船は、姿なんかは消せないんだけど、シャングリラだと…」
 ステルスデバイスで「見えなくなる」んだよね、というのが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の「閃き」だった。サンタクロースに頼むのは、コレに限るだろう。
「ステルスデバイス、土鍋に搭載して貰ったら…」
 それに入って人類軍の船に密航、出来ちゃうよ、とワクワクしてくる。人類軍の船にコッソリ、乗り込んでいれば、幾つかの基地や星を経由して、きっと地球にも辿り着けるに違いない。
「この船だったら、地球に行きそう、っていうのを見付け出したら、一発で地球へ…」
 それで着いたら、地球の座標も分かるんだから、と自分のアイデアにウットリとした。密航中もサイオンで姿を消してさえいれば、食事も出来るし、快適に旅をしてゆける。
「これに決めたーっ!」
 ステルスデバイス搭載の土鍋、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は急いで「お願いツリー」の所に瞬間移動で、いそいそカードに書き込んだ。
 「ステルスデバイスを搭載した、土鍋を下さい」と。
 そしてツリーの枝に吊るして、大満足で部屋に帰ったけれど…。



 今年も、またまた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のカードは、キャプテン・ハーレイの頭を悩ませた。回収した係が届けに出掛けて、「こんなのです」と見せた途端に。
 ハーレイは青の間のブルーに相談に行く羽目になって、ブルーも「今年もかい?」と苦笑する。
「ステルスデバイス搭載の土鍋ねえ…」
「コストの方も半端ないですが、何をやらかす気なんだか…」
 ろくなことにならない気しかしません、と呻くハーレイは「悪戯」を想定しているのだけれど、ブルーは真意に気付いていたから、嬉しくはある。どうしてそれが欲しいのか、という気持ちの方。
「地球の座標を知るためらしいよ、人類軍の船に密航してね」
「そうなのですか!?」
「うん。そうは言っても、危険すぎるし、止めないと…」
 ぼくに任せておきたまえ、とブルーは、ハーレイを帰らせた後で、青の間の冬の名物、コタツに入ったままで「そるじゃぁ・ぶるぅ」を思念で呼んだ。「ちょっと、おいで」と。
「かみお~ん♪ おやつ、くれるの!?」
 なあに、と瞬間移動でヒョイと出て来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、ブルーは「あのね…」と、カードの話をし始めた。
「ステルスデバイスを載せた土鍋で、どうするんだい?」
「えっとね、人類軍の船にコッソリ入って、密航して、地球に行くんだよ!」
 そしたら地球の座標が分かるし、ブルーも地球に行けるよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意満面、胸を張って説明したのだけれども、ブルーは顔を曇らせた。
「いいアイデアだし、ぶるぅなら、出来るかもしれない。だけど、土鍋が問題で…」
「えっ?」
「ずっと土鍋に入ったまま、とはいかないだろう? ぶるぅが留守にしている間に、人類が…」
 土鍋を見付けたら大変なんだ、とブルーは真剣な表情になった。
 人類軍の船に土鍋など「あるわけがない」し、当然、不審物として調べることになる。そうして詳しく分析したなら、ステルスデバイス搭載がバレて、人類に…。
「ミュウの機密が知れるわけだよ、それこそ最高機密がね」
 ステルスデバイスの仕組みを人類に知られてしまえば、ミュウはおしまい、とブルーは超特大の溜息をついた。シャングリラは丸見えになってしまって、あっという間に沈められる、と。



「…いいアイデアだと思ったのにな…」
 だけど、ブルーの言う通りだし、と肩をすくめた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、今年もまたまた、お願いカードを書き換えるより他は無かった。
 どうしようもなく「普通」になってしまったけれども、「ステージ映えするマイクを下さい」と書いてツリーに吊るしたわけで…。
「来年も、ヤツの歌を死ぬほど聞かされる羽目になるわけですね、我々は…」
「ハーレイ。君もキャプテンなら、ステルスデバイスの仕組みが人類にバレるよりかは…」
「分かっております、行って参ります」
 これも私の役目ですので、とクリスマスイブの夜、ハーレイはサンタクロースの衣装を纏って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋へと出掛けて行った。肩に背負った袋の中身は、プレゼントだ。
 注文の品のマイクは、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が魂を撃ち抜かれて通い詰めている、例のジビエ料理の店『風の砦』に敬意を表して、ジャポニズム。漆や螺鈿で装飾された最高級品、そう簡単には手に入れられない品だけれども、ブルーのサイオンを舐めてはいけない。
「あのマイクなら、ぶるぅもきっと喜ぶよ」
 わざわざ特注したんだからね、とブルーはコタツでミカンを剥きながら笑みを浮かべる。いくらお安い御用とはいえ、注文のために「アルテメシアの街に降りた」のは、ブルー本人だった。プロの歌手が「お忍び」で来たかのような服を着込んで、サングラスもかけてみたりして。
 そんなブルーがミカンを美味しく食べている頃、ハーレイは真っ暗な「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋でプレゼントを幾つも袋から出しては、ベッドの側に並べていた。
「まったく、みんな、どうしてヤツには甘いんだ…」
 これがエラので、コレがブラウで…、と長老たちからの分はもちろん、機関部にブリッジ、厨房などなど、各セクションからもプレゼントの箱を預かっている。全員、もれなく酷い悪戯の被害者のくせに、「これを、ぶるぅに」と綺麗にラッピングして寄越すのだ。
「これだから、ヤツがつけあがって…」
 リサイタルを開きまくるんだぞ、とブツブツとぼやくハーレイだけれど、彼のプレゼントも袋の中に入っているから、人のことなど、言えた義理ではないだろう。



 こうしてイブの夜が過ぎて行って、クリスマスの朝がやって来た。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」はパチリと目を覚ますなり、プレゼントがあるかベッドの側を確かめ、大歓声で箱を開け始める。
「やったあ! 今年もいい子にしてて良かったよ!」
 凄いマイクに、こっちはお菓子で…、とリボンをほどきまくる間に、大好きなブルーから思念が届いた。
『ぶるぅ、お誕生日おめでとう! 公園にケーキの用意が出来てるよ!』
「あっ、そうだった!」
 お誕生日を忘れてたあ! と瞬間移動で、ブリッジが見える公園へと飛び込んでゆくと…。
「「「ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!!!」」」
 今年も、お誕生日おめでとう! と船の仲間たちが揃って拍手で、それは大きなケーキがドンと飾られている。全員で分けて食べていっても、まだまだ充分、余りそうなくらいの特大が。
「わぁーい、一杯、食べなくちゃ!」
 それに御馳走もあるんだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜びで跳ねているから、歌が飛び出すのも多分、時間の問題だけれど、なんと言っても、誕生日。
 特注品のマイクで歌って、踊って、リサイタルでも、みんな笑顔で許す筈。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年もお誕生日、おめでとう!



             見えない工夫・了


※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございます。
 管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、いなくなってから、もう6年になります。
 2007年の11月21日に初めて出会って、そこから始まった創作人生も16年目。
 良い子の「ぶるぅ」ばっかり書く日々ですけど、悪戯小僧の方の「ぶるぅ」も大好きです。
 お誕生日のクリスマスには必ず記念創作、今年もきちんと書きました。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、17歳のお誕生日、おめでとう!
 2007年のクリスマスに、満1歳を迎えましたから、16年目の今年は17歳です。
 アニテラの教育ステーションだと、来年は、いよいよ最上級生になれる年。
 卒業まで残り1年だなんて、メンバーズがもう目前ですねえ、「いい子」だったら…。

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)








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「こらあっ、そこ!」
 手を上げろ、と飛んだハーレイの声。古典の授業の真っ最中に。
 ハーレイの指が指した生徒は、ブルーの席から数列前にいる男子生徒で。
「そう、お前だ。そのまま両手を上げてろよ?」
 動くんじゃない、と睨むハーレイ。鋭い視線で、教室の前の教卓から。
(えっと…?)
 何事だろう、と窺った男子生徒の様子。居眠りなどしてはいなかった筈で、隣と喋ったわけでもない。それに授業中の私語を咎めるのならば、誰かが一緒に指されるだろう。「お前もだ」と。
 けれど何かが起こったからこそ、ハーレイが命じた「手を上げろ」。「動くな」とも。
 いったい何が原因なのかと、男子生徒の席を後ろから眺めていたら…。
(机の下…!)
 其処から出て来た一冊の本。膝の上に置いて読んでいたのか、教科書の陰にあったのか。後ろの方から見ているからこそ、それに気付いた。ふうわりと浮いて、彼の背後に回り込む本に。
 サイオンで浮かせているらしい本。今は運んでいる所。何処かに向けて。
(…何処に隠すの?)
 本の存在がバレないようにと、努力している男子生徒。後ろの生徒に頼む気だろうか、思念波でコッソリ連絡をして。「暫く、持っていてくれ」と。
 問題の彼は、今も手を上げたままだから。まるで動けはしないのだから。
(凄い…)
 本だけ逃がすつもりなんだ、と驚かされた証拠隠滅。いくらハーレイが発見したって、その本が何処にも無かったならば、「読んでいた」と叱ることは出来ない。「先生の見間違いです」と彼が主張したなら、そういうことになるだろう。本は見当たらないのだから。
(咄嗟にあんなの、思い付くなんて…)
 きっと昔から常習犯。下の学校に通う頃から、何度もやったに違いない。こういう時は、と頭に入っている手順。そうでなければ、直ぐには動けないだろうから。
(サイオンは心と繋がってるから…)
 パニックになれば、上手く操れなくなるもの。今のように叱られたりすれば。不意打ちされたらビックリするから、本を隠すなどまず不可能。「どうしよう?」と慌てる間に没収で。



 慣れてるんだ、と感心した男子生徒の行動。褒められたことではないのだけれども、間違いなく持っている度胸。「バレた時には隠せばいい」と、「後ろの生徒に頼もう」と。
 けれど、彼より上手だったのがハーレイの方。教卓を離れて歩き出しながら…。
「動くんじゃないと言ったがな? 手を上げたままで」
 大股で歩く机の間。男子生徒の席に向かって。
「動いてません!」
「なら、これは何だ?」
 捕まえたぞ、とハーレイの手が掴んだ本。後ろの生徒が机の下で受け取る前に。「没収だ」と。褐色の手は、証拠の本を捕まえた。それは見事に、逃げられない内に。
 その場でパラパラめくった後には、教卓に戻って「刑は重いぞ」という宣告も。教卓に置かれた問題の本。それの表紙をポンと叩いて。
「素直に没収されてりゃいいのに、隠そうとした所がなあ…。刑を重くもしたくなるだろ?」
 これは今日中には返してやらん。俺の授業が次にある日まで、預かっておく。いつだっけな?
 その日の授業が終わった後に、俺の所へ取りに来い。宿題と引き換えに渡してやるから。
 お前だけのために宿題プリントをサービスしよう、とニヤニヤ笑い。宿題が嫌なら、没収されたままでいろ、とも。
「そんな…!」
 困ります、と彼は叫んだけれども、ハーレイは涼しい顔で返した。「俺は少しも困らんぞ」と。
「お前の本が職員室の備品になろうが、知ったことではないからな。まだ本棚に空きはある」
 俺が貰って読むのもいいなあ、この本はまだ読んでないから。…子供向けだしな?
 たまには若いヤツらに人気の本を読むのもいいだろう。書斎でゆっくり、コーヒーも飲んで。
 恨むんだったら、自分の愚かさを恨むんだな、と男子生徒を見据える瞳。いつもの穏やかな光の代わりに、ちょっぴり怖い色を湛えて。
「せ、先生…」
 すみません、と男子生徒が頭を下げても、まるで聞く耳を持たないハーレイ。教卓に置いた本を眺めて、腕組みをして。
 悪いのは明らかに生徒だから。誰に訊いても彼が悪くて、ハーレイは悪くないのだから。



 次の授業まで没収だ、と繰り返してから、ハーレイがぐるりと見渡した教室。「注意しろよ」という風に。「お前たちだって、こうなるのかもしれないぞ?」と。
「俺は容赦はせんからな? 授業の時間に読んでいい本は教科書だけだ」
 それと参考書なら問題は無いが、無関係な本は許さんぞ。証拠隠滅を図るようなら尚更だ。
 もっとも、瞬間移動で飛ばされた時は、現場を押さえるのは難しいんだが…。いくら俺でも。
 やりやがったな、と気が付いたって、飛んでった先が掴めないんじゃな。しかしだ…。
 このクラスには…、と名簿をチェックしたハーレイ。「瞬間移動が出来る生徒はいないな」と。
(…タイプ・ブルーは、ぼく一人だけ…)
 前の自分が生きた頃より増えたとはいえ、珍しいのがタイプ・ブルー。いるとなったら、話題に上る。「ウチのクラスにいるらしい」と。
 だから誰もが知っていること。タイプ・ブルーの生徒がいるのも、それは誰かも。
 ところが、とびきり不器用な自分。タイプ・ブルーは名前ばかりで、瞬間移動で本の一冊さえも飛ばせはしない。クラスメイトも承知なのだし、弾けた笑い。「このクラスにはいないな」というハーレイの声で。本当は一人いるのだけれども、いないのと変わらないのだから。
(あーあ…)
 カッコ悪いよ、とガッカリな気分。下の学校の生徒だった頃から不器用なのだし、慣れっこにはなっているけれど…。
(今だと、遥かに情けないってば…)
 自分が誰かを思い出したから、情けない。前の自分はソルジャー・ブルー。使いこなせた強大なサイオン、今の時代も名前が残る大英雄。同じ魂を持っているのに、全く駄目、と。
 どうしてぼくは駄目なんだろう、と不器用すぎるサイオンのことを嘆いていたら…。
「おい、ブルー」
「え?」
 隣の席の男子生徒に呼び掛けられた。思念波ではなくて、ヒソヒソ声で。今度は何、と彼の方を見たら、彼は親切に教えてくれた。教室の前を指差しながら。
「当てられてるぞ、さっきから」
「ええっ!?」
 ちょっと待って、と見上げた先にハーレイの顔。さっきみたいに腕組みをして。



 隣の生徒の声に気付くまで、知らなかった「当てられている」事実。もう本当に赤っ恥。
 ハーレイにも失笑されてしまった。「上の空とは、お前もなかなかいい度胸だな?」と、没収の刑を食らった生徒と並べられて。
(聞こえてなかった…)
 自分のサイオンのことに夢中で、授業が再開されたことにも気付かない始末。ハーレイが投げた質問が何かも分からないから、隣の生徒に訊くしかなかった。「何だったの?」と。
 やっとのことで、肩を落として答えた解答。蚊が鳴くような声で、俯いたままで。
 そんな具合で終わった授業。ショックが抜け切らない内に。大好きなハーレイの授業で大失敗をやったわけだし、放課後になっても悲しい気持ち。
(…今日は散々…)
 せっかくハーレイの授業だったのに、とションボリ帰って行った家。路線バスでも俯き加減で。バス停から家まで歩く道でも、足元ばかりを見てしまって。
 家に帰り着いて、おやつの間も思い出す授業中の光景。上の空で恥をかいてしまった原因の方が大いに問題。タイプ・ブルーに生まれたくせに、瞬間移動も出来ない自分。
 タイプ・ブルーなら、瞬間移動は簡単なのに。ハーレイの授業で叱られた男子、彼がサイオンで本を運ぼうとしていたみたいに、タイプ・ブルーなら出来る瞬間移動。あそこまで、と頭に描いた場所へ、一瞬で。手を触れもせずに、とんでもなく遠い所へだって。
 前の自分なら、たやすく出来た。息をするようにサイオンを操り、使いこなしていたのだから。瞬間移動で物を動かすことも出来たし、自分自身を飛ばすことだって。
(シャングリラの中でも、何処でも飛べたよ…)
 行こうと思えば、一瞬の内に船の外へも出てゆけた。ハッチの一つも開けはしないで、宇宙船の堅固な外壁を抜けて。間に挟まる幾つもの部屋、それらも通り抜けさえしないで。
(外へ出るんだ、って思ったら外…)
 ついでに船の外に出たって、同じように移動してゆけた。気が遠くなるほどの距離だって。
 宇宙船を使って飛んでゆくなら、かなり時間がかかる距離でも、ほんの一瞬。あそこまでだ、と狙いを定めて飛びさえしたら。
 空を飛ぶようにも飛べたけれども、瞬間移動ならもっと速くなる。ワープみたいに越える空間。ワープドライブは使いもしないで、サイオンの力だけを使って。



 意志の力で何処までも飛べたソルジャー・ブルー。前の自分なら、星と星との間でさえも、瞬間移動で飛べたほど。最後にメギドへ飛んだ時にも、瞬間移動で距離を稼いでいたのだから。
 もしも弱っていなかったならば、一瞬で飛んで行けたろう。赤いナスカから、忌まわしい兵器を陰に隠したジルベスター・エイトまでの距離。それこそメギドの制御室までも。
 けれども弱った身体では無理で、相当に無駄にした時間。メギドに着いて制御室まで歩く間も、それまでに飛んだ宇宙でも。…本当だったら、もっと簡単に飛び込めたのに。目的地へと。
 弱っていたって、あれだけの距離を瞬間移動で飛んでゆけたのがソルジャー・ブルー。その魂を持っているのが、今の自分の筈なのに…。
(今のぼくだと、赤ちゃん以下…)
 人間が全てミュウの今では、生まれた時から誰もが持っているサイオン。赤ん坊だって、漠然とした思念波くらいは紡げるもの。言葉にはなっていなくても。
(だけど、ぼくだと…)
 それさえも不器用だったと言うから、どうしようもない。子育てに苦労したらしい母。ミルクが欲しくて泣いているのか、眠いのかさえも分からなくて。
 赤ん坊にも敵わない自分。前の生の記憶が戻って来たって、サイオンの方は戻らなかった。今も自分の中で眠って、一向に目覚めてはくれない。タイプ・ブルーなら使える筈の力は。
 一度だけ出来た瞬間移動は、神様の奇跡だったのだろう。メギドの悪夢を見て怯えていたから、特別にたった一度だけ。「ハーレイに会わせてあげよう」と。
 目が覚めたら、ハーレイのベッドだったから。眠ったままでハーレイの家に飛んでいたから。
(あの時だけで、普段はなんにも出来ないし…)
 瞬間移動で飛べないどころか、おやつのケーキに添えて貰った紅茶。母が淹れてくれたカップの中身を見詰めてみたって、紅茶には小さな波さえ立たない。
 前の自分が持っていたサイオン、あれは水との相性が良かった筈なのに。ひっくり返って零れた水さえ、コップに戻せたほどだったのに。
(だから青の間に貯水槽…)
 サイオンを高めるためには水だ、と船の仲間たちに説いた長老たち。それにキャプテン。お蔭で巨大な貯水槽があった、前の自分が暮らしていた部屋。
 本当はこけおどしだけれど。ただの演出、あんな水など無くても力を使えたけれど。



 今の自分だと、瞬間移動は一度きり。おまけに自覚もまるで無いから、何の参考にもならない。もう一度やってみたくても。…ハーレイの家まで瞬間移動をしたくても。
(クローゼットに印を書いてた時も…)
 前の自分の背丈は此処、と床から測って鉛筆で微かに引いた線。其処まで大きくならない限り、ハーレイはキスをしてくれない。けれど、其処まで育ったら…。
(前のぼくだった頃と全く同じに、ハーレイと過ごせるんだから…)
 これが目標、と書き込んだ印。母に見付かって叱られないよう、ごくごく薄く。その線を引いた日、サイオンで浮いていた自分。「この高さだよ」と頭を其処に合わせるように。
 前の自分の視線の高さで、部屋のあちこちを見回してみた。「育った時にはこう見えるよ」と。床に下りてはまた浮き上がって、何度も確かめていた視点。前の自分の背丈の高さで。
 浮いたり下りたりしたのだけれども、あれだって前の自分の仕業。…今から思えば。
 新しい命と身体を貰って、きっとはしゃいでいたソルジャー・ブルー。前の自分が身体の中からヒョイと出て来て、サイオンを使ったのだろう。新しい身体の使い心地を確かめるように。
(今のぼくだけど、中身は前のぼくだから…)
 同じ魂が入っているから、そういうことも起こる筈。無意識の内に瞬間移動をやったみたいに、知らずに使っていたサイオン。あの時は少しも不思議に思いもしなかったから。
(もし気付いてたら、大事件…)
 サイオンが不器用な自分にとっては一大事件で、大感激だったことだろう。「ぼくも出来た」と大喜びで、クローゼットに書いた印の意味も忘れて…。
(ママを呼びに走って行っちゃいそう…)
 この高さまで浮けるんだから、と自慢したくて。浮いたり下りたり出来る自分を、母にも褒めて欲しくって。「ほらね」と何度もやって見せては、得意になって。
 けれど自分は気付かなかったし、母は今でも知らないまま。クローゼットの印はもちろん、印を書いた日に一人息子がサイオンを使いこなしたことも。…床から浮いて下りるだけでも。
(前のぼくでないと駄目なんだよね…)
 瞬間移動も、身体を床から浮かせることも、色々なサイオンの使い方。前の自分は鮮やかに使いこなしたけれども、自分は赤ちゃん以下だから。
 タイプ・ブルーに生まれて来たって、何一つ出来はしないのだから。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、零れる溜息。何もかもまるで駄目な自分。勉強机に頬杖をついて、振り返ってみる不器用さ。勉強はともかく、サイオンだったら赤ん坊以下。
(今のぼくだと、ソルジャーになんかなれないよ…)
 瞬間移動はとても無理だし、生身で宇宙に出られもしない。白いシャングリラを守るどころか、今の自分が暮らす部屋さえ、風からだって守れはしない。窓を開けている時に突風が来たら、もう一瞬でメチャクチャになる。軽い紙などが飛んでしまって、床の上などに散らばって。
(自分の部屋も守れないんじゃ、ソルジャーは無理…)
 絶対に無理、と考えていたら、ふと思ったこと。
 今の不器用な自分ほどではないにしたって、前の自分が普通のミュウに生まれていたら、どんな人生だっただろう、と。
 タイプ・ブルーではなくて、平凡なミュウ。ハーレイみたいなグリーンでもいいし、イエローやレッドでもかまわない。どれも突出してはいないし、攻撃力も持っていないから。
(えーっと…?)
 前の自分が普通のミュウなら、成人検査用の機械は壊れていないだろう。ハーレイたちは壊していないし、他のミュウも壊していない筈。…前の自分が知る限りは。
(記憶を消されるのが嫌で、叫んでたって…)
 機械が壊れないのだったら、何かエラーが出た程度。検査室とガラスで隔てられた部屋、其処に白衣の大人たちがいるのが見えたけれども…。
(見てたモニターの表示が変になるとか、そんな感じで…)
 成人検査は、きっと中止になったろう。正常に終わりはしなかったのだし、恐らくは保留。日を改めて実施するとか、そういうケースもあったのだから。
(…家には帰れないんだろうけど…)
 それだけのことで、ミュウだとバレない可能性もある。検査を受けたその場で、直ぐには。
(ぼくが初めてのミュウなんだから…)
 他に前例の無いケース。表示されたエラーが何故そうなったか、係の者にも分からないだろう。別の日にまた検査してみて、同じエラーで中止になったら、やっと変だと思い始める。
 それでもバレない自分の正体。人類ではなくてミュウだということ。
 彼らはミュウを知らないから。SD体制の時代に入った後には、ミュウは生まれなかったから。



 多分、謎だったろうエラーの理由。成人検査が上手くいかなくて、中止になってしまう原因。
 アルタミラにもあったのだろう、マザー・システムの端末に尋ねてみるまでは。成人検査が失敗ばかりの子供が一人、とエラーになってしまう理由を。
 其処で答えが出なかったならば、地球に据えられたグランド・マザーに問い合わせるとか。
(…そこまでされたら、バレちゃうよね…)
 どうしてエラーばかりになるのか、その原因が。
 SD体制に入る前の時代に、ミュウは生まれていたのだから。研究者たちは何度も検討した末、ミュウの因子を排除しないで残そうと決断したのだから。
 それを知るのがグランド・マザーで、当然、ミュウも知っている。成人検査を受けさせたなら、どんな結果になるのかも。
 だから係の者に伝える、「その子はミュウだ」という事実。人類とは違う種族で異分子、社会に出してはならないもの。何故なら世界は人類のもので、ミュウのものではないのだから。
 SD体制の時代だったら、抹殺すべき存在がミュウ。けれど、最初に発見されたミュウの自分が無害だったら、人類はどう扱ったのか。
(成人検査は、パスさせて貰えないけれど…)
 どうなったのだろう、その後の自分は。
 成人検査を何度も受ける間に、子供時代の記憶をすっかり失くしてしまっていそうな自分。前の自分がそうだったように、養父母の顔も忘れてしまって。
 けれど、それだけ。成人検査の機械も壊さず、大人しく検査を受け続けただけ。促されるままに何回も。記憶を消されるのがどんなに嫌でも、機械を壊せはしないのだから。
(逃げ出すことだって出来ないし…)
 仕方ないよね、と諦めて検査を受けさせられていたのだろう。「今度は何を忘れるだろう」と、失うことだけを恐れ続けて。色々なことを忘れさせられる、検査の度に悲しみながら。
 たったそれだけ、前の自分が普通のミュウに生まれていたら。
 前の自分のような危険は、まるで無さそうな大人しい子供。ミュウの子供だというだけで。
 それが発見第一号なら、人類はどう扱っただろう?
 前の自分は問答無用で撃たれたけれども、それは機械を壊したから。看護師が「殺さないで」と叫んだくらいに、危険すぎるサイオンを持っていたから。



 そういうミュウでなかったら。タイプ・ブルーではない普通のミュウなら、前の自分はどういう道を辿っただろう。…成人検査を通過し損ねた後は。
(あそこの施設で観察なのかな…?)
 研究所ではなく、成人検査のために出掛けた施設。成人検査をやり直すケースがあった以上は、その子供たちを待機させる部屋もあったろう。前の自分もミュウと断定される前なら、その部屋に留め置かれた筈。養父母の家には帰せないから。
(その部屋に入れて、様子を見るとか…?)
 特に危険が見られないなら、そういうことになるかもしれない。人類が初めて目にするミュウ。それはどういう生き物なのかと、社会には出さず、ただ観察をするだけで。
(ただの子供で、思念波だって…)
 相手が思念波を持たない人類ばかりだったら、わざわざ使いはしないだろう。成人検査を受ける前には、そんな力は持たない子供だったから。人類と同じに言葉で会話していたのだから。
(人体実験をする価値、無いよね…?)
 普通のミュウに生まれていたなら、どうなるのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、一気に引き戻された気分。大恥をかいた授業の時間に。
 だからハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、まずは授業の話。
「今日のハーレイ、凄かったね。手を上げろ、って」
 ビックリしたけど、流石ハーレイだと思ったよ。本を読んでた生徒に気が付いちゃうんだから。
 それにサイオンで隠そうとしたの、隠すよりも前に見破ったしね。
 本を没収しちゃったじゃない、と褒めたハーレイの勘の鋭さ。きっと武道で鍛えたお蔭で、身についたものだと思うから。…サイオンなどとは無関係に。
「そう言うお前は、大いに間抜けだったがな」
 俺の授業中に上の空とは恐れ入ったぞ。俺に見惚れていたなら許すが、違うようだし…。
 ボーッとしていて質問さえも聞いてないんじゃ、考え事っていう所だろ?
 いったい何をやっていたんだ、今日のおやつが気になってたのか、晩飯なのか?
 少なくとも俺のことではないだろうと踏んでいるんだがな…?



 俺が関係していたのならば、もっと真っ赤になる筈だ、というのがハーレイの指摘。同じように真っ赤になっていたって、教科書さえも取り落とすほどに慌てるだとか。
「どうなんだ、おい? 上の空だったお前の頭の中身は…?」
 お母さんが焼くケーキのことか、とハーレイはまるで気付いていない。前の自分と今の自分の、あまりにも違いすぎる能力の差に頭を悩ませていたのだとは。
「それなんだけど…。ママのケーキとか、晩御飯は関係ないんだってば」
 関係があるのはハーレイの授業で、授業って言うより「手を上げろ」の方…。
 ハーレイに本を没収された子、サイオンで本を隠そうとしていたけれど…。ぼくの席からだと、よく見えたんだよ。手を上げたままで、サイオンで本を運ぶのが。
 隠す前にハーレイにバレちゃってたけど、あれって絶対、常習犯だよね。パニックになったら、サイオンは上手く使えないから。…「バレちゃった」って慌てていたんじゃ、絶対に無理。
 それで、とっても感心してて…。今のぼくって、サイオンがうんと不器用だから。
 前のぼくとは違うよね、って考えてたんだよ、あれから後も。
 ハーレイが本を没収しちゃって、「瞬間移動なら現場を押さえにくい」って言った後もね。
 今のぼくだと、瞬間移動は無理だから…。タイプ・ブルーだから出来る筈なのに…。
 不器用すぎて出来ないもの、と項垂れた。それが自分の考え事で、上の空になっていたのだと。
「瞬間移動は無理だ、って…。お前、そんなの気にしてたのか?」
 そいつが今のお前ってヤツで、俺はすっかり慣れちまったが…。前のお前とは違うよな、と。
 不器用なお前も可愛いもんだし、悪くないと思っているんだが…?
 今度こそ守ってやれるからな、とハーレイは言ってくれるけれども、授業の時は違ったから。
「でも…。ハーレイも、クラスのみんなも笑うんだもの…」
 ぼくのクラスには瞬間移動が出来る生徒はいない、ってトコで。…名簿にはちゃんと書いてあるでしょ、クラスのみんなのサイオン・タイプ。…タイプ・ブルーのぼくがいることも。
 タイプ・ブルーなのにカッコ悪いよ、って思ってた間に当てられちゃった…。ハーレイに。
「おいおい、理由は分かったが…。それにしたって、授業中だぞ」
 考え事と余所見は良くないってな。いくらお前が優等生でも、授業は聞かなきゃ駄目だろうが。
「うん…。それは分かっているけれど…」
 だから真っ赤になっちゃったんだし、大恥だってかいたんだけど…。



 それでね、とハーレイにも話してみた。さっき自分が考えていた、別の話を。
 前の自分が普通のミュウに生まれていたなら、どうだったろう、と。
「…普通のミュウだと?」
 タイプ・ブルーじゃないって意味なのか、前のお前のサイオン・タイプが。…攻撃力が無い他のタイプで、俺みたいなグリーンとか、エラみたいなレッドとか、そういうことか…?
 まあ、イエローでも必死になれば凄いわけだが…、とハーレイが挙げるサイオンの力。ごくごく普通のミュウの場合も、追い詰められれば反撃する。でないと死んでしまうのだから。
 そうした時の力が強いのがイエロー、けれど普段は大人しい。自分から攻撃したりはしないし、あくまで反撃するというだけ。自分の方から仕掛けてゆくのは、タイプ・ブルーしかいなかった。
 前の自分は、不幸にもそれに生まれただけ。一番最初のミュウだったのに。
「…そうだよ、不器用なタイプ・ブルーっていうわけでもなくて、ホントに普通」
 そういうミュウなら、成人検査用の機械を壊していないだろうから…。
 記憶を消されそうになって叫んでも、攻撃力が無いんだものね。殺されそうなら反撃したって、そこまではされていないんだから…。泣き叫ぶくらいが関の山だし、思念波だけでしょ?
 そしたら出るのはエラーくらいで、機械は壊れはしなくって…。
 最初の間は成人検査のやり直しとかで、その内に、ぼくがミュウだってことが分かっても…。
 前のぼくの時みたいに撃ち殺そうとしたりはしないで、暫く観察になるのかな、って…。
 ミュウはどういう生き物なのか、部屋に閉じ込めて様子を見るとか。
 どう思う、と尋ねてみたら、ハーレイは「ふむ…」と顎に手を当ててみて。
「その可能性は大きいだろうな。殺さなきゃいけない理由が無いし…」
 前のお前の場合だったら、殺さなければ殺される、と考えて撃って来たんだろうが…。
 お前が何もしないとなったら、観察したくもなるだろう。初めて発見されたミュウだし。
 俺たちが成人検査を受けた施設に足止めじゃないか、外の世界には出せないからな。成人検査をパスした子供が行ける場所には送り出せない。…ミュウである以上。
 ならば、あそこの施設が一番妥当だろう。かなり大きな建物だったし、一度目の検査で不合格になった子供たちを待機させておく部屋だってあっただろうしな。
「やっぱり…?」
 いきなり檻に入れるんじゃなくて、普通の部屋が待っていたのかな…。普通のミュウなら。



 ハーレイもそう考えるのなら、有り得たかもしれない別の人生。前の自分がタイプ・ブルーではなくて、他のサイオン・タイプだったら。…攻撃力が無い普通のミュウなら。
「…部屋に閉じ込めて観察だけなら、もしかして、人体実験も無し?」
 ミュウだってことがバレてしまっても、何も出来ないミュウなんだから…。
 頭の中身を無理やり調べてみたって、考えてるのは御飯のこととか、そんなのばかり。役に立つことは何も入っていなくて、普通の人間と変わらなくって…。
 それに機械を壊すことさえ出来ないミュウだよ、人体実験をする価値なんて無さそうだけど…。
 下手にやったら死んじゃいそう、と前の自分を思い浮かべた。タイプ・ブルーだったからこそ、繰り返された過酷な実験。低温実験や高温実験、様々な薬物の投与なども。
 けれど、普通のミュウだったなら。…銃弾を受け止めることも出来ないようなミュウなら、酷い実験をすれば直ぐに死ぬ。虚弱に生まれついた身体は、頑丈に出来ていないのだから。
「実験か…。そいつも無かったかもしれん。…お前というミュウに害が無いなら」
 タイプ・ブルーじゃなかったんなら、人類の方も身の危険ってヤツを感じないからな。人類とは違う種族がこれか、と考えるだけで終わっただろう。まるで怖くはないんだから。
 前のお前がやったみたいに、成人検査の機械を壊してしまうとか…。銃弾を全部止めてしまって無傷だったとか、そんなのがあれば、ミュウを恐ろしいと思ったろうが…。
 そういったことがまるで無ければ、異分子が発生しただけのことだ。社会からは抹殺すべきものでも、社会に出さなきゃいいんだし…。
 どうやってミュウを退治すればいいか、それを慌てて考えなくてもいいからな。
 お前を閉じ込めておくだけで済むし、とハーレイの意見も似たようなもの。人体実験をする必要などは無くて、ミュウという生き物を観察するだけ。
「普通のミュウなら、そうなったかな…?」
 人体実験なんかはしないで、ぼくを閉じ込めておくってだけ。…出られないように。
「そうだったんじゃないか? なにしろ初めてのミュウだ」
 SD体制が始まる前にも実験室では生まれたと言うが、前の俺たちが生きた頃にはいなかった。
 そいつが目の前に現れたんなら、どんな生き物かを探ろうと考えはするんだろうが…。
 ミュウの特徴の思念波なんかも調べるだろうが、それも酷くはなかっただろう。
 実験というよりテストみたいなものかもしれんぞ、色々な質問をしてみたりしてな。



 人類にとって脅威にならない普通のミュウなら、閉じ込めておくだけで観察対象だった可能性。前の自分がやられたように、殺されそうにはならないで。
 酷い実験もされることなく、「ミュウというのはこういうものか」と研究者たちが眺めるだけ。たまにテストをされる時でも、機械を使った拷問ではなくて、言葉を使った質問だとか。
「…そっちだったら、前のぼく、幸せだったかも…」
 大人の社会に出られないから、不幸には違いないけれど…。閉じ込められたままなんだけど。
 それに記憶も失くしてしまって、パパもママも思い出せなくて…。
 自分の家が何処にあったかも、思い出せなくなっちゃって…。
 それでも、前のぼくより幸せ。人体実験なんかは無くって、檻じゃなくて部屋で暮らせるなら。部屋の外には出られなくっても、ちゃんとベッドや椅子があるなら…。
 幸せでも、チビだろうけれど。大人になれなかったショックか、「人間じゃない」って言われたショックで、ビックリして年を止めちゃって。
 …大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…前のぼくほどじゃないけどね。
 心も身体も育つのをやめてしまいそう、と言ったらハーレイも頷いた。
「そうかもなあ…。いくら平和に暮らしていたって、お前、繊細そうだから」
 育っても何もいいことは無い、と気付いた途端に成長を止めてしまいそうではある。前のお前がそうだったように、チビのまんまで。…ミュウは誰でも、外見の年齢を止められるからな。
 そうやって成長を止めていたって、酷い目には遭わずに済んだだろう。…どういう仕組みで年を取らなくなっちまったかも、病院の検査の親戚くらいで終わっただろうな。
 定期的に血の検査をするとか…、というハーレイの読みは正しいと思う。思念波くらいしか力が無いなら、そのくらいしか調べる要素が無い。他の部分は人類と変わらないのだから。
「血液検査で済みそうだよね…。ぼくが育たなくなっちゃっても」
 後は食べ物を変えてみるとか、その程度。栄養がつくものを食べさせてみたら、育ち始めるかもしれないから。…栄養不足で育たないのか、って勘違いして。
「栄養不足か…。人類だったら思い付きそうなことではあるな」
 ミュウがすくすく育つためには、人類よりも沢山の飯が必要なんだ、という誤解。
 もっと沢山食べてみろ、と山のような量の飯をお前に食わせるだとか。量が沢山入らないなら、栄養価の高い食い物ばかりを与えるとかな。



 飯も美味くて好待遇か、とハーレイが笑う「もしも」の世界。前の自分がタイプ・ブルー以外のミュウに生まれていたなら、あったかもしれない別の人生。
 閉じ込められてチビのままでも、人体実験などは無い生活。研究者たちが観察するだけ、たまに検査をされるだけ。採血をしたり、思念波のテストをやってみたりと。
「お前がタイプ・ブルーでなければ、同じミュウでも、幸せに暮らせていたんだろうが…」
 前のお前の人生よりかは、遥かに恵まれていたんだろうが…。
 しかし、時間の問題だぞ。お前がのんびり暮らせる世界が終わっちまうのは。
 いつまでも平和に暮らせやしない、とハーレイが言うから驚いた。前の自分がチビのままでも、普通のミュウには違いない。人類にとって脅威になりはしないのだから。
「…どういうこと?」
 前のぼくは何もしたりしないよ、育たないだけで。…サイオンも強くなったりしないし、普通のミュウのままなんだから。…閉じ込めておけば充分なんだし、ぼくも文句は言わないし…。
 逃げ出そうともしない筈だよ、と首を傾げた。平和な日々が終わる理由が分からないから。
「簡単なことだ。…前のお前がタイプ・ブルーじゃなかったとしても…」
 前のお前みたいなミュウが、いずれ出てくる。危険なタイプ・ブルーのミュウが。
 そしたら、お前も檻に押し込まれて、平和な日々はおしまいだ。
 「ミュウは危険な生き物なんだ」と人類が思い知るからな。タイプ・ブルーが出てくれば。
 そうなればお前も同じミュウだし、のんびり飼ってはいられない。ミュウは纏めて檻の中でだ、チビのお前も檻に入れられちまうってな。
 無害なままで何年生きていようが、そいつは考慮されないぞ、と告げられた終わり。前の自分が普通のミュウでも、いつか終わりが来るのだと。
「そんな…! ぼくは、なんにもしていないのに…!」
 ずっと大人しく生きていたのに、それでも檻に入れられちゃうの…?
 危険なんか無いって分かってるくせに、ぼくまで檻に閉じ込められるの…?
「ミュウが進化の必然だったら、そうなるさ。…いつかはタイプ・ブルーが出てくる」
 そいつが来たなら、お前だけを特別扱いは出来ん。どんなに無害なミュウでもな。
 人類ってヤツは小さな子供も殺していたんだ、ミュウというだけで。
 そうなったのも、ミュウは危険だと分かったからだろ、アルタミラで滅ぼし損なっちまって。



 もっとも、檻に入れられたとしても、最初のミュウなら別扱いかもしれないが…、という話。
 他のミュウとは違う区画に入れておくとか、その程度の違いなのだけど。
 ただ、それまでは平和に暮らしたチビのミュウ。普通のミュウに過ぎない前の自分が、メギドの炎で燃えるアルタミラから無事に逃げられたかどうか…、とハーレイは首を捻っている。
 ミュウを殲滅しようとメギドが持ち出された時、何処のシェルターにいたかで分かれた運。命を拾った者たちもいれば、死んでしまった者たちも。
「お前が一番最初のミュウでも、きっと容赦はしなかったろうし…」
 今後の研究に役立てようと、連れて逃げたりもしなかっただろう。研究者どもは。
 そうなると、お前もシェルターに閉じ込められるわけだが…。そのシェルターの場所が問題だ。
 地震で壊れちまったヤツが幾つもあったろ、押し潰されたり、地割れに飲まれてしまったり。
 あんな具合に壊れたシェルターの中にいたなら、お前、自分を守れないぞ。
 タイプ・ブルーじゃないんだからな、と聞かされてゾクリと寒くなった背筋。のんびりと平和に暮らしたミュウなら、シールドも張れはしないだろう。張ってみたことも無いのだから。
 現にアルタミラで死んだ仲間は、皆、ミュウだったのに、自分を守れなかった。死が迫っても。
「本当だ…。ぼく、そんな場所だと死んじゃうよ…」
 シェルターごと潰されちゃった仲間みたいに、ぼくも死んじゃう。自分の身体を守る方法、何も分かっていないんだから…。
「俺と一緒のシェルターにいれば、俺が守ってやるんだが。…潰されないように」
 お前を見たならチビの子供だと思い込むから、俺の身体で庇ってやって。「こっちに来い」と。
 後は火事場の馬鹿力だよな。俺のサイオンが働いてくれれば、シールドも張ってやれるから。
 お前を守ってやらないと、という一念だけでシールドを張れれば、もう大丈夫だ。
 タイプ・グリーンの防御力ってヤツは、タイプ・ブルーに匹敵するしな、と話すハーレイなら、やり遂げてくれることだろう。地割れに飲まれてゆく中でも。上から押し潰されそうな中でも。
「きっとそうだよ、ハーレイと一緒」
 前のぼくが普通のミュウだったとしても、ちゃんとハーレイが助けてくれるよ。
 ぼくの力じゃ生きられなくても、ハーレイがいてくれるから…。
 同じシェルターの中にハーレイがいるよ、ぼくを助けてくれるためにね。



 きっとハーレイがいるんだから、と笑顔で見詰めた恋人の顔。前の生から愛し続けて、今もまた一緒に生きている人。…この地球の上で。
 そのハーレイなら、前の自分が普通のミュウでも、きっと助けてくれる筈だと思ったのに。
「どうだかなあ…。俺はお前を助けてやりたいんだが、俺の運命が許してくれるかどうか…」
 お前を助けてやることを、とハーレイが言うからキョトンと見開いた瞳。
「運命って?」
 ハーレイの運命が何だって言うの、ぼくを助けるのと、どう関係があるって言うの…?
「いや、俺は…。未来のソルジャーってヤツと一緒に、他の仲間を助けに行くのが俺だから…」
 前のお前とそれをやったろ、シェルターを端から開けて回って。
 だから、お前の他に未来のソルジャーがいるんだったら、俺はそっちに行くのかもな、と…。
 タイプ・ブルーのミュウが他にいるなら、そいつが未来のソルジャーだろうが。
「えーっ!?」
 そんなの嫌だよ、ハーレイが他の誰かと行ってしまうだなんて…。
 ぼくを助けてくれる代わりに、他の誰かと一緒に走って行くなんて…。
 そうなっちゃったら、アルタミラから脱出できても、ハーレイの側にはその人がいて…。
 ハーレイはその人を手伝うわけでしょ、ぼくの側にはいてくれないで…?
「俺だって嫌だ、そんな運命が待ってるのはな」
 お前と一緒に閉じ込められて、お前と一緒に逃げたいもんだ。…普通のミュウのお前でも。
 あの船じゃただのミュウの二人で、ソルジャーでもキャプテンでもなかったとしても。
 断然そっちの方がいい、とハーレイが口にした人生。二人揃って、ただのミュウ。
「ねえ、ハーレイ…。それって、とっても幸せじゃない?」
 ただのミュウ同士なら、恋人同士になっても平気。ずっと幸せに生きていけるよ、あの船で。
「まあな。幸せに生きてはゆけるんだろうが、その後のことが問題で…」
 平凡に生きて死んだだけだと、こうして生まれ変われるかどうか…。
 俺たちの絆はきちんとあっても、今の時代に、青い地球まで来られたかどうかが気になるな…。
「そっか…」
 二人一緒に天国に行って、それでおしまいかもしれないね。
 前のぼくが普通のミュウに生まれて、ハーレイもキャプテンにならなかったら…。



 やっぱりソルジャーでなくちゃ駄目かな、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前の自分は、その運命を生きるべきだったろうか、と。普通のミュウには生まれないで。
「…前のぼく、やっぱりタイプ・ブルーでなくちゃ駄目…?」
 とても酷い目に遭っちゃったけれど、あの人生でなくちゃ駄目かな…?
「多分な。こうして二人で、青い地球まで来るためには」
 前のお前が頑張ったお蔭で、今のサイオンが不器用なお前と、教師の俺が地球にいる、と。
 青く蘇った地球に二人で生まれて、一緒に生きてゆけるってわけだ。うんと平和に。
 いつかはお前と結婚できるし、いつまでも一緒なんだから。
 そうなるためにも、前の俺たちの人生はあれで良かったんだ、と言われたらそう思えるから。
 ハーレイと一緒に此処にいられる今がいいから、前の自分はあれでいい。
 ソルジャーとして生きた人生はとても辛かったけれど、ハーレイという人に会えたから。
 前のハーレイと恋をして生きて、今は二人で青い地球の上にいるのだから…。



            別の人生なら・了


※前の自分がタイプ・ブルーではなかったら、と考えたブルー。人体実験などは無いかも。
 人類が初めて目にしたミュウというだけ、観察対象で済んだ可能性。危険だと分かるまでは。
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←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(確かに花には違いないけど…)
 ちっとも綺麗な花じゃないよ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 一度は滅びて死の星だったのが、青く蘇った今の地球。遥かな昔にそうだったように。
 青い水の星が宇宙に戻って、「大抵の場所には花が咲きます」という記事だから飛び付いた。
 なんて幸せな時代なんだろう、と。
 平和になった今の時代は、花が何処にも無い時なんかは無い時代。地球はもちろん、他の星でもそうだろう。戦争などは何処にも無いから、武器の代わりに花がある時代。
(資源採掘用の基地でも、きっと誰かが育てているよ)
 緑の一つも無い所ではつまらないから、丈夫な植物。花が咲いたら楽しめるように。
 この地球のような惑星だったら、花屋さんの店先に溢れている花。家の庭で育てる花たちが眠る真冬にだって。
(地球の反対側は春だし、そっちから運んでくる花も沢山…)
 反対側まで出掛けなくても、赤道に近いほど暖かくなる。温暖な場所なら花が咲くから、其処で育った花たちも。それに温室で早めに咲かせて、店先に並ぶ花だって。
 とにかく花が絶えない世界。それだけでも素敵になったと前から思っていたけれど。前の自分が生きた時代より、ずっと豊かで幸せな時代だと思っていたけれど…。
(今の地球なら、南極でも花…)
 蘇った青い地球の上では、南極にも花が咲くという。文字通り地の果てになるのが南極、厳しい気候が支配する場所。死の星でなくても、植物たちが生きていくのは大変そうな場所なのに。
 けれど、其処にも咲くらしい花。今の時代は地球はすっかり青くて、緑を育てられるから。
(南極に花があるなんて…)
 いったいどんな花なのだろう、と心を躍らせたのに。雪と氷に覆われた大地、其処に咲くという強い花たちに夢を描いていたのに…。
 南極の花はたった二種類、それしか花をつけないという。他の植物には花が咲かない。
 「これが南極の花たちです」と添えられた写真、それを目にしたら零れた溜息。頭の中に描いた花とは、まるで違ったものだったから。
 ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ、南極に咲くのはその二種類だけ。おまけにとても地味な花。特にナンキョクコメススキの方は。



 しげしげと見詰めた二つの写真。南極の地面を彩る花たち。花と言われれば花だけれども…。
(こんなの、ススキじゃないんだから…)
 ススキはもっと綺麗だもんね、と思い浮かべたススキの穂。お月見の時に、ハーレイがススキを持って来てくれた。「今夜は中秋の名月だしな」と。
 煌々と輝く月を仰いで、庭でお月見。冴え冴えとした月にも見劣りしなかったススキ。もっともあれはススキの穂だから、花の時にはもう少し…。
(地味だろうけど、でもこれよりは…)
 ちゃんとススキに見える筈だよ、と眺めるナンキョクコメススキの花。何処となく稲に似ている花。けれど稲ほど立派ではなくて、まるで雑草。道端や庭の嫌われ者の。
 「また生えて来た」とヒョイと抜かれて、捨てられてしまう雑草の花。それの一つだと書かれていたって、きっと疑わないだろう。ナンキョクコメススキの花は。
 もう一つの花のナンキョクナデシコ、そちらもナデシコらしくない。ナデシコだったら、もっと花びらが目立つのに。花を見たなら「ナデシコだよね」と分かるくらいに。
 けれどナンキョクナデシコの花は、まるでナデシコに似ていない。その上、花もうんと小さい。これから咲くのかと思いそうなほど、控えめすぎる白い花。
(…ちょっとガッカリ…)
 せっかく花が咲くというのに、こんな花では見応えがない。咲いていたって、気付きもしないで通り過ぎそうなくらいに目立たない花。ススキも、それにナデシコだって。
(砂漠に出来る花園だったら、綺麗なのにね…)
 雨が降ったら生まれるという砂漠の花園。その花たちの写真もある。何も無い時の砂漠の写真も添えて、「花が咲いたらこう変わります」と。
 色鮮やかな砂漠の花たち、そちらは如何にも花らしい。見に行くツアーも人気だという。花園が生まれそうな季節に、砂漠がある地域に滞在する旅。雨が降ったら、砂漠に出発。
(砂漠の花園も、ヒマラヤに咲く青いケシの花も…)
 青い地球の上に生まれたからには、見てみたい気がするけれど。前の自分が焦がれ続けた、青いケシは是非、と思うけれども、南極の花は要らないかな、という気分。
 ハーレイといつか出掛けてゆくには、あまりにも地味な花だから。こんな所にも花があるよ、と眺める相手が雑草だなんて、旅に出掛ける甲斐が無いから。



 こんな花だとガッカリだしね、と新聞を閉じて戻った二階の部屋。勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。さっき見て来た花たちのことを。
 今の時代もある南極。前の自分たちが生きた時代と、大陸の形は違うけれども。それでも地球の南の果てには南極大陸、雪と氷に覆われた世界。
(もっと素敵な花が咲くなら…)
 ハーレイと行ってみたいのに。「凄いね」と南極に咲く花を眺める旅に。
 一度は滅びてしまった地球。それが蘇って南極にまで花が咲くなら、ハーレイと二人で出掛けてみたい。母なる地球は豊かな星だと、きっと実感できるから。
 たとえ寒くても、雪と氷に覆われていても、かまわない。其処で逞しく生きる花たち、その花を見に行けるのならば。…寒すぎて風邪を引いたって。後で寝込んでしまったって。
(雪のシーズンだと咲かないのかな?)
 どうなんだろう、と思った南極に咲く花たち。二種類だけの地味な花たちが咲く季節。
 記事の写真には無かった白い氷と雪。たまたま写っていなかっただけか、違う季節に写したか。南極にも短い夏があるから、その頃に咲く花だとしても…。
(やっぱり地味…)
 雑草にしか見えないススキと、ナデシコらしくないナデシコ。もしもこの辺りで咲いたなら…。
(家の庭ならママが抜いちゃって、道端だったら誰かが抜いて…)
 きっとゴミだ、と断言できる。誰も愛でたりしない花たち。「雑草が生えた」と抜くだけで。
 雑草だって、綺麗な花を咲かせる種類があるというのに。庭の芝生のクローバーだって、雑草の内には違いない。広がりすぎたら芝生が駄目になるから、と抜いたり刈ったりするのだから。
(クローバーの方が、ずっと綺麗な花だよ)
 南極に咲くというススキとナデシコ、あれよりはずっと。白いシャングリラの公園にもあった、花らしい花がクローバー。
 それに比べて地味すぎるのが、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ。
 地球に焦がれた前の自分も、あれには焦がれなかっただろう。青い地球まで辿り着いたら、見てみたかった色々な花。スズランやヒマラヤの青いケシには夢を抱いていたけれど…。
 あんな花ではとても駄目だ、と思う南極の地味な花たち。前の自分が知っていたって、見たいと望みはしなかったろう。「何かのついでに行くことがあれば」と思う程度で。



 きっとそうだよ、と考える、前の自分が地球に描いていた夢。青く輝く星を見るのが夢だった。青い水の星に持っていた夢は、どれも素敵なものばかり。
(もっと綺麗で夢がないとね?)
 前のぼくの憧れになるのなら、という気がするから、南極に咲く花たちは無理。前の自分の夢のリストに加えて貰えはしない。いくら健気に咲いていたって、地味すぎるから。
 ヒマラヤの青いケシの花なら、天上の青だと思ったけれど。人を寄せ付けない神々の峰に、凛と咲く青いケシの花。地球に着いたら見に行きたいと、ヒマラヤまで空を飛んでゆこうと。
 スズランの花も欲しかった。五月一日には恋人たちが贈り合うから、ハーレイに贈ろうと夢見た花。希少価値が高い森のスズラン、自生しているスズランの花を探して摘もうと。
 そんな具合に描いた夢。沢山の夢を持っていたけれど、南極の花は夢見なかった。花が咲くとは知らなかったし、知っていたとしても、見に行きたいとは…。
(思わないよね、あんな雑草みたいな花じゃ…)
 わざわざ出掛ける値打ちが無いよ、と思っていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、あの花を持ち出すことにした。ハーレイだって、夢が無いと思うだろうから。
「あのね、南極の花って知ってる?」
 南極に行ったら咲いている花。…地球の端っこみたいな所で。
「南極なあ…。咲くだろうなあ、花だって。…今の地球なら」
 前の俺が見たような地球だと、南極でなくても花なんか咲きやしないんだが…。あんな星では、花も緑も無かったんだが…。今なら花も咲くだろう。地球は立派に蘇ったから。
 南極で育つ植物に花が咲くんならな、と頬を緩めたハーレイ。「厳しい気候の場所だが」と。
「二種類だけ咲くって書いてあったよ、今日の新聞に」
「ほほう…。苔だけじゃないんだな。その様子だと」
 どんな花なんだ、俺は詳しくないからな。南極に出掛けたことも無いから。
 それに古典の舞台でもない、と言われた南極。古典と呼ばれる名作を書くには、確かに不向きな場所だったろう。人がのんびり暮らしてゆけるイメージはまるで無いのだから。
「それがね…。花なんだけれど、凄く地味なんだってば」
 ススキとナデシコらしいんだけど…。
 名前だけなら、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコって、立派な名前なんだけど…。



 南極って名前がついているだけ、と差し出した右手。「ぼくの心を読んでみて」と。
 サイオンが不器用な今の自分は、思念を上手く紡げないから。あの花たちの写真を直接、思念で送れはしないから。
「こんな花だよ、手を絡めたら見えるでしょ? …これだってば」
 夢が無いよね、と見せたイメージ。雑草みたいな二種類の花。ハーレイは暫くそれを見詰めて、手を離してから微笑んだ。それは穏やかに。
「確かに地味だな、ススキとナデシコとついてる割には」
 ススキはススキに見えやしないし、ナデシコだって同じ花とも思えないほど地味なんだが…。
 しかし夢なら詰まってそうだぞ、この花たちは。…お前は夢が無いと言ったが。
 この中に夢がたっぷりだ、とハーレイが言うから驚いた。前の自分の夢のリストに、入りそうもない花なのに。青いケシやら、森のスズランとは違うのに。
「…なんで? どう見ても雑草だよ?」
 前のぼくだって、憧れそうにないけれど…。南極の花だって聞かされたって、見に行きたいとも思わなくって。…綺麗な花じゃないんだから。
「そうだったかもしれないが…。その花が咲くのは南極だろう?」
「そうだよ、今の時代の地球の。南極大陸は今もあるしね、形は変わっちゃったけど…」
 地球の南極に行けばあるよ、と答えた花たちが咲いている場所。雪と氷が覆う大陸。
「其処だな、俺が言いたいのは。…夢が詰まっているというヤツ」
 青い地球が立派に蘇ったからこそ、その花たちも咲けるんだ。南極に行けば花が見られる。
 それも大切だが、南極って所はどういう場所だ?
 地味な花しか咲かない場所だ、というのは横へ置いてだな…。南極のことを考えてみろ。
 南極はどんな所なんだ、と尋ねられたから傾げた首。どの辺りが夢に繋がるのだろう、と。
「えーっと…?」
 何も無いよね、南極って…。うんと寒くて、雪と氷の世界だから。
 冬になったら真っ暗になって、太陽が出て来なくって…。逆に夏だと、昼間がうんと長くって。
 後はペンギンが住んでいるんだよね、皇帝ペンギンだったっけ?
 シロクマがいるのは南極じゃなくて、北極だったと思うから…。ペンギンくらい…?



 そういう場所でしょ、と今の自分が知っている南極のことを話した。遠い昔も、あまり変わりはしなかったろう。地球が滅びに向かうよりも前の、元の南極大陸だって。
「それで合ってはいるんだが…。今の南極はそんな具合で、ずっと昔も同じだな」
 人間が地球しか知らなかった時代は、観測所くらいしか無かった所だ。…南極ってトコは。
 あちこちに国があったというのに、南極だけは何処の領土にもならなかった。色々な国が観測に出掛けて、基地を作っていたらしいがな。
 しかし、それだけで終わっちまった。南極にだけは国境線を引かなかったんだ。そうしよう、と全部の国の間で決まったから。「南極は何処の領土にもしない」と。
 そういう決まりを作ってみたって、誰も反対しなかった。戦争だらけの時代だったのにな?
 土地があるなら占領したいし、其処で採れる資源なんかも欲しい。そいつを巡って争いばかりの時代だったのに、南極だけは違ったわけだ。何処も奪いやしなかった。
 それほど自然が厳しかったということだな。是非うちの国の領土に欲しい、と思ってみたって、管理するのも大変だから。雪と氷に覆われてるんじゃ、住むだけでも苦労するだろうが。
 兵隊だって逃げ出しちまう、とハーレイが軽く広げた両手。「寒いんだぞ?」と。
「そうだよね…。人類なんだし、寒くてもシールド出来ないし…」
 防寒具だって、そんな頃だと今よりもずっと落ちるから…。前のぼくたちが生きた頃より、まだ前の時代の話なんだから…。
 凍えちゃうよね、住んでるだけで。…建物の暖房が壊れちゃったら、それでおしまい…。
 中で凍えて死んでしまうよ、と震わせた肩。前の自分がアルタミラでされた低温実験、その時の寒さと恐ろしさを思い出したから。…強化ガラスに幾つも咲いた氷の花を。
「そうなったろうな。暖房器具は壊れてなくても、エネルギーの方が切れちまったら」
 食料も燃料も、他所から運んで行ったんだから。悪天候で補給出来なきゃ終わりだ、暖房設備が止まっちまって。…ありったけの服を着込んでみたって、まず耐えられはしなかったろう。
 そんな場所でも花が咲くんだ、ずっと昔から。
 地球が滅びてしまう前には、さっきお前が見せてくれた花たちが咲いていたってな。
 今の地球では、昔の通りに植物を植えているわけだから…。
 南極に二種類の花があるなら、そいつは元からあったんだ。滅びてなくなっちまう前には。



 ススキに見えないススキもそうだし、ナデシコだって…、と説明されなくても分かる。遠い昔も南極に行けば、あの花たちがあっただろうと。
(だけど地味だし、南極なんかは寒いだけだし…)
 前のぼくは憧れたりはしないよ、と思う南極の地味な花たち。夢は詰まっていそうにない。どう考えてみても、過酷なだけの南極大陸。アルタミラの地獄を思い出したほどの寒さだから。
(夢なんか、何処にも無さそうだけど…)
 誰も欲しがらなかった場所だよ、と不思議でたまらない「夢」のこと。何故、ハーレイは南極の花に夢があるなどと言うのだろう、と。
「…ハーレイ、夢は何処にあるわけ?」
 南極にも花にも、夢は少しも無さそうだけど…、と尋ねてみたら。
「慌てるな。ちゃんと順番に話してやるから」
 南極って所がどういう場所かは分かっただろう。今も昔も雪と氷で、とても過酷な環境だと。
 其処で立派に花が育って咲いてるわけだが、アルテメシアはどうだった?
 前の俺たちがいたアルテメシア、と問い掛けられた。「雲海の星のアルテメシアだ」と。
「え? アルテメシアって…」
 あそこは人が暮らしてたじゃない、育英都市が二つもあって。…アタラクシアとエネルゲイア。
 南極なんかとは全然違うよ、誰も凍えたりしなかったしね。家の中に籠っていなくても。
 でなきゃ育英都市を作りはしないよ、と答えたけれど。あの星は恵まれた星だったけれど…。
「人類が暮らしていた場所だったら、お前が言ってる通りなんだが…。それ以外の場所だ」
 育英都市の外は荒地だったぞ、あそこに花はあったのか?
 俺たちの船が飛んでた雲海の下は、何処でも荒地だっただろうが。あの荒地にも花はあったか、それをお前に訊いている。お前、あそこで花なんか、見たか…?
 前のお前は見掛けたのか、という質問。アルテメシアの荒地に花はあったのか。
「どうだったんだろう…?」
 あんな所には降りてないから、知らないよ。前のぼくは上を飛んでいただけ。
 ミュウの子供を殺す人類、あそこまでは出て来なかったから…。潜む必要だって無かったもの。
 あそこに花が咲いていたって、前のぼくは気付きもしないってば。
 降りて眺めることが無いから、どんな花が咲いていたってね。



 綺麗な花は無かっただろうと思うけど…、と思い浮かべたアルテメシア。
 二つの育英都市の外には、荒涼とした荒地だけ。あそこに花があったとしたって、美しい花ではなかっただろう。それこそ南極の花たちのような地味な雑草、その程度で。
「ほらな、お前も知らないわけだ。ついでに花を目にしちゃいない、と」
 あの時代には、俺も調べちゃいないがな…。あそこに花が咲いてたかどうか、そんな細かいことまでは。…調べても意味が無いもんだから。何の役にも立ちやしないし。
 データを集めてさえもいないが、しかし、今なら俺にも分かる。
 多分、花など無かっただろう。荒地の何処を探してみたって、花なんてヤツは欠片さえもな。
 育英都市は二つもあったが、テラフォーミングをしてあった所は都市だけだ。人間が暮らす都市部分だけで、山だって放ってあったんだから。岩山のままで。
 山を越えるな、という規則を作ったせいだけじゃない。…きっと面倒だったんだ。どうせ誰一人行きやしないし、外に出るのは限られた人間だけだったから。
 そんな所まで整備しなくても誰も困らん、といった具合で放っておいたというわけだ。
 ただ、そうやって放っておかれたアルテメシアの荒地って所。
 お前が言ってた南極に比べりゃ、遥かにマシな環境だろうと思わんか…?
 寒くもないし…、と言われればそう。アルテメシアの雲海の下は、雪と氷の世界ではなかった。荒れ果てた大地が広がる世界で、人間が住んでいなかっただけ。
(ペンギンも住んでなかったけれどね…)
 南極だったらペンギンだよね、と思った生き物。その生き物の影も、アルテメシアでは目にしていない。二つの育英都市の外では。
 いくら降りてはいないと言っても、いたなら気付きそうなのに。植物は動きはしないけれども、動物は動くものだから。「何か動いた」と、何かのはずみに。
「…南極よりかはマシそうだよね…」
 アルテメシアの荒地の方が、よっぽどマシ。寒すぎもしないし、雪と氷の世界でもないし…。
 だけど本当に荒地だったよ、生き物だって見なかったから。
 南極だったらペンギンがいるけど、あそこでは何も見てないんだもの。動くものはね。
 うんと小さなネズミとかなら、見落としたって不思議じゃないけど、それでも群れなら気付くと思う。何かいるな、って気配くらいは分かりそうでしょ?



 何もいない荒地だったみたい、と前の自分が見ていた景色を思う。
 雲海の下を何処まで飛んでも、生き物の影は無かった星。人類が暮らす育英都市に着くまでは。あそこで目にした動くものと言えば、二つの育英都市の間を移動してゆく車両などだけ。
(あれは人類が乗ってたんだし…)
 荒地で生きる動物ではなくて、其処を通ってゆくだけのもの。それ以外に動くものなど無かった不毛の大地。今の地球にある南極よりも、遥かにマシな環境なのに。雪も氷も厳しい寒さも、あの荒れた土地を覆い尽くしてはいなかったのに。
「前のぼく、生き物は何も見ていないけど…。花だってそれと同じかな?」
 ハーレイが無かったって言ってるみたいに、あそこに花は無かったのかな…?
 前のぼくが見てないだけじゃなくって、降りてみたって何処にも無くて。テラフォーミングしていないんだったら、何も植わってないままで…。
「そうじゃないかと思うんだが…。整備しなけりゃ、何も育ちやしないから」
 テラフォーミングした惑星の場合は、そうなっちまう。元は何も無い場所なんだしな。
 アルテメシアがそういう星でなければ、事情は変わっていただろう。最初から植物が育つ環境、そいつを持った星だったなら。
 あの荒地だって、今の地球なら岩砂漠ってことになると思うぞ。岩だらけの砂漠、色々な地域にあるというのは知ってるだろう?
 岩砂漠でも生き物はいるし、植物だって育つんだ。アルテメシアが地球のような星なら、荒地に似合いの植物が。…雲海が影響しないんだったら、うんとデカくなるサボテンだって。
 雲海のせいで湿度が高くなるなら、昔の地球にあったギアナ高地に似ていたかもな。
 岩の具合が少し似てるか…、とハーレイが笑みを浮かべるけれど。
「ギアナ高地って…?」
 それって何なの、今はおんなじ名前の地域は無いの…?
 今もあるなら、ハーレイ、そっちを挙げそうだものね。「知ってるか?」って。
「冴えてるな、お前。…生憎と今は無いんだよなあ、ギアナ高地は」
 新しい陸地が生まれたからって、何もかもが前と同じようにはいかないらしい。流石の地球も。
 ギアナ高地を名乗りたくても、同じ地形と条件の場所が何処にも無かったモンだから…。



 その名の通りに消えちまった、とハーレイが教えてくれた本。ギアナ高地を描いたもの。
 「失われた世界」というタイトルのそれは、紀行文ではなくて、想像だけで記された本。ギアナ高地に近付くことは、当時は不可能だったから。
「失われた世界、と名付けるほどだし、大昔のままの世界だと思われていたんだな」
 テーブルみたいな高い台地が、幾つも聳えていたらしい。切り立った崖で、とても登れそうにはないヤツが。見上げるような岩の壁だな。
 その上に行けば、恐竜が今も生きているんだ、という話まであって、「失われた世界」の中身はソレだ。そういう世界を探検してゆく、冒険物語といった所か。
 読んだヤツらが納得しなけりゃ、物語としては失敗なんだし、当時は信じて貰えたわけだ。あの場所だったら、恐竜がいてもおかしくない、と。
 長い長い間、誰も近付けやしなかった。ギアナ高地の名前ばかりが有名になって。
 それでも雨が多かったせいで、植物がとても豊富に茂っていたそうだ。やっと人間が辿り着いてみたら、恐竜がいる世界の代わりに豊かな緑。
 今の時代も、同じ地形が出来ていたなら、きっと再現したんだろうが…。
 残念なことに、何処を探してもギアナ高地に出来そうな場所は無かったんだ。失われた世界は、名前の通りに二度と戻って来なかった。
 だがな…。そんな具合に人間が眺めに出掛ける前から、ギアナ高地はあったってわけで…。
 この意味が分かるか、と尋ねられた。「人間は誰も見に行かないんだが?」と。
「んーと…。今までの話と関係があるの?」
 その質問、とキョトンとしたら、「大いにな」と返った返事。
「誰も見に来ちゃくれなかったんだぞ、崖を登って行ける時代が来るまでは」
 どんなに綺麗な花が咲こうが、緑がドッサリ茂っていようが、感動してくれる人間は来ない。
 それでもせっせと花を咲かせて、種を落として、次の世代を育て続けていたわけだ。人間の目は気にもしないで、いるかどうかも考えないで。
 南極にしても、それと同じだ。
 ギアナ高地は、恐竜がいると思われたほどだから暖かいんだが…。人間にとっては過酷な場所に出来ていたから、南極とさほど変わりやしない。「誰も来ない」という意味ではな。



 南極の花も、ギアナ高地の花も、人間のために咲いてはいない、と言うハーレイ。今の時代は、ギアナ高地は無いけれど。其処を描いた本のタイトルのように、失われた世界なのだけど。
「人間様がいようが、いまいが、関係ないのが地球って星だ」
 地球を滅ぼしたのは人間だったが、そうなる前は地球が全てを育ててた。植物も動物も、地球が生み出しては育てて来たんだ。
 そんな星だから、花たちだって何処ででも咲いた。南極だろうが、ギアナ高地だろうが。
 今の花たちは蘇った地球に植え直したヤツだが、昔の地球では人間なんかがいなくても咲いて、誰も来なくても咲き続けたんだ。地味な花でも、鮮やかな花でも。
 だから南極で生きている花も、立派に咲く。お前に「地味だ」と言われちまっても。
 しかし、アルテメシアじゃ何も咲いてはいなかった。…育英都市から出てしまったら。あそこに植物は生えていなくて、花だって咲いちゃいなかったんだ。
 その必要は無かったんだから、と言われれば分かる。前の自分が生きた時代の話なのだし、地球さえも死の星だったほど。他の星にまで、余計な手間はかけられない。
「…テラフォーミングは必要な部分だけ、ってことだね…」
 星全体に手を加えられるほど、人間に余裕が無かったから…。アルテメシアを丸ごと全部、緑の星にしてはいられないから。…技術もコストも、かかりすぎて。
 だから荒地に植物なんかは無かったんだね、とアルテメシアの岩砂漠を思う。人類が手を入れていなかった場所に、花は咲かない。元から種など無かったのだし、芽吹くことなど無いのだから。
「あの時代だから、それで当然なんだがな…」
 首都惑星だったノアは、地球のようだと思ったくらいに青かった。人類が最初に入植した星で、長い年月をかけて整備をしていたから。…だが、それ以外の星は何処でも中途半端だ。
 俺たちがナスカに降りた時にも、自生している植物なんかは影も形も無かったな。
 人類が破棄して、撤収しちまった後は、手が行き届かなくなって絶滅だ。せっせと育てただろう作物も、庭に植えてた木や花だって。
 雑草でさえも消えてしまっていたなあ、「何も無い星だ」と誰もが思った。
 トォニィが生まれた時に降った雨、あれで花園が生まれるまでは。…人類が植えた植物は全部、滅びたんだと思われていた。それまでは何処にも、何も見当たらなかったんだから。



 そういう時代に生きていたのが前のお前や俺たちで…、とハーレイは語る。人間が暮らす場所でだけ植物が育った時代。何処の星でも、人間のためにあった植物。
 育英都市が二つもあったアルテメシアも、けして例外ではなかった時代。都市を出たなら、もう植物の影は無かった。人類はそれを育てようともしなかったから。…そんな場所では。
「ところが、今の時代はだな…。人間様が行かないような場所にも花なんだ」
 ギアナ高地は消えちまったが、南極は今もあるってな。相変わらず厳しい気候のままで。
 其処に咲いてる花なんだから、地味でも別にかまわんじゃないか。お前が「地味だ」とガッカリしようが、花たちはまるで気にしちゃいない。そういう姿の花なんだから。
 ナンキョクコメススキも、ナンキョクナデシコも、ずっと昔から同じ姿で咲き続けてる。
 地球が滅びちまった時には、保存用の施設に移住するしか無かったろうが…。今は元通りの所に戻れて、南極で咲いているってわけだ。
 いいか、よくよく考えてみろよ?
 花たちは何のために咲くんだ、どうして花を咲かせるんだ…?
 お前に見て貰うためなのか、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どう思うんだ?」と。
「…次の世代を育てるためだよ、花が咲かなきゃ種が出来ないし…」
 種以外で増える植物もあるけど、種で増えるのなら花が咲かなきゃ…。地味な花でも、ちゃんと咲かないと種が出来てはくれないから…。
 ぼくが見てるか見ていないかは関係ないよね、と落とした肩。どうやら自分は、南極に咲く花を誤解していたらしいから。過酷な場所でも咲いているだけで凄いのに。
「分かったか? 南極の花は、「見て下さい」と人間のために咲く花じゃないんだ」
 庭に植えて楽しむ薔薇なんかとは違う、本当の意味での花ってヤツだな。
 薔薇は人間が手を加えすぎて、自分の力じゃ子孫を増やせない品種も多いらしいから…。逞しく生きてゆくには不向きで、ひ弱になった花とも言える。
 本物の花は南極の花で、地味でも立派に咲いて子孫を増やすんだ。雪と氷の世界でも。
 まあ、ヒマラヤの青いケシだって、似たようなものではあるんだが…。
 今のお前が見に行きたくても、そう簡単には見られない。高い山でしか咲かないだけに、酸素も薄くて、登ってゆくのも息をするのも大変だしな。過酷な環境で咲くというのは似てるだろう。
 もっとも、あっちは、高い峠を越えてゆく人間は見ていたそうだから…。



 人間が行ける環境だったら、喜びそうな花が咲くのかもな、とハーレイは笑う。
 「神様も考えて下さっていたかもしれん」と。青い地球の上に花を作る時に、いつか見るだろう人間のことまで考えて。
「ヒマラヤの青いケシならそうだろ、高い峠を越えようとしたら咲いているんだから」
 よく頑張って此処まで来たな、と旅の疲れが癒えるように咲かせて下さった花。…果物みたいに食えはしないが、ホッと一息つけただろう。綺麗な花だ、と心が和んで。
 南極の花も、お前は地味だとガッカリしてるが、神様の御褒美かもしれん。
 地味な花でも、其処まで行こうって探検家たちには、喜ばれそうだと思わないか…?
 彼らは華やかな花には期待していなかったろう、と言われてみればそうかもしれない。雪と氷の大陸に行くなら、植物があるというだけでも奇跡。岩だらけの荒地ではなくて。
(…それに苔とか、そんなのじゃなくて…)
 曲がりなりにも花が咲くもの、雑草のような花だって。庭や道端に生えていたなら、雑草として引っこ抜かれそうな姿を持っているものだって。
「…そっか…。地球だからだよね、何処に行っても花があるのは」
 南極でも、今は無くなっちゃったギアナ高地っていう所でも。…人間は関係なかったから。
 神様が植物を作り出した時に、其処で育ってゆけるように、って色々なのを作ったんだから…。
 地味な花でも花は花だし、地球だから何処に行っても花…。
 テラフォーミングをしたわけじゃなくて、最初から植物が育っていける星だったから。
 それで人間が行ったことのない場所にも花があったんだよね、と遥かな昔に思いを馳せる。今はもう無いギアナ高地は、人間が其処に登る前から豊かな緑を育て続けた。…誰も来ないのに。
 雪と氷に覆われた世界、南極でも花が咲き続けた。南極を目指す探検家たちが、厚く凍った海を乗り越えて、大陸に足を踏み入れるまで。「花が咲いている」と驚く時がやって来るまで。
「分かったようだな、花があるってことの素晴らしさが」
 人間が手を加えなくても、何処にだって花があったのが地球だ。
 あんな崖はとても登れやしない、と見上げるだけだったギアナ高地でも、あまりの寒さに探検家さえも近付けなかった南極でも。
 そいつが昔のアルテメシアなら、育英都市から外に出た途端に、花なんか消えていたんだが…。
 雑草さえも生えはしなくて、荒れ果てた岩の砂漠が広がっているだけだったがな…。



 花がある場所を考えてみれば、夢もロマンもたっぷりだろう、とハーレイに教えられたこと。
 地味だと思った南極の花も、夢がたっぷり詰まっている。あまりに地味な花だったせいで、夢が無い花だと決め付けたのに。…ハーレイにもそう話したのに。
「…南極の花、夢が一杯なんだね…」
 前のぼくが最後まで行きたかった地球、あの頃は青くなかったけれど…。死の星のままで、花は何処にも無かったんだけど…。
 滅びる前の青い地球だった頃は、人間なんか行かない場所でも、いろんな花が咲いてたんだね。
 それから滅びてしまったけれども、今はまた青い地球があるから…。
 ギアナ高地は消えちゃったけれど、南極には今も花が二種類。昔のまんまのススキとナデシコ、ちゃんと今でも咲いてるんだね…。
 ススキにもナデシコにも見えないけれど…、と苦笑した。夢が一杯詰まった花でも、地味な姿は変わらないから。ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコは、見た目は雑草なのだから。
「そいつが少々、残念な所なんだがなあ…。南極の花は」
 ヒマラヤの青いケシの方なら、誰が見たって綺麗なんだが…。今も人気の花なんだがな。
 南極の花は、とんと知らんと思ったら…。あんなに地味では仕方ない。
 わざわざ花を眺めに行こう、とツアーを組むには地味すぎる。青いケシとか、雨の後に生まれる砂漠の綺麗な花園だったら、見に行くツアーも多いんだが…。
 あれじゃ無理だ、とハーレイも認める南極に咲く花たちの姿の地味さ。旅に出掛けて、この目で見たい、と誰もが夢見る綺麗な花とは違うから。
「そうだよね…。夢は一杯なんだけど…」
 ツアーの話は、新聞にも載っていなかったよ。砂漠に生まれる花園だったら、ちゃんとツアーがあるって書かれていたけれど…。
 季節になったら出掛けて行って、雨が降るのをホテルで待つ、って。
 ヒマラヤの青いケシの花だって、見に行くツアーがあるんだよね…?
 前にハーレイが言ってたみたいに、ヤクの背中に乗っかったりして山を登って行くツアー。
 だけど、南極のは無いみたい…。花を見に行くツアーなんかは。
 きっと南極ツアーだったら、花を見るよりペンギンだよね…。



 そっちの方が人気がありそう、と思った南極に行くツアー。地味な花より、可愛いペンギン。
 南極に咲く花の価値には、大抵の人はきっと気付きはしないから。…青い地球に焦がれた記憶を持っている今の自分も、「夢が無い」と思ったほどだから。
「…ねえ、ハーレイ。今の地球だと、南極にも花が咲くけれど…。昔の地球と同じだけれど…」
 他の星だとどうなってるかな、今の時代は?
 やっぱりテラフォーミングされた場所しか植物は無くて、人間が住んでる場所だけなのかな…?
 花や緑がある所は…、と訊いてみた。学校の授業では教わらないから、まるで知らない。
「俺もそれほど詳しくはないが…。アルテメシアなら、ずいぶん変わっているようだぞ」
 雲海の星なのは同じなんだが、もう荒地ではないらしい。…昔みたいな岩砂漠が減って。
 アタラクシアとエネルゲイアの他にも町が出来てるそうだし、それを繋いでる道路も出来た。
 前の俺たちが生きてた頃には、アタラクシアとエネルゲイアを結ぶ道路も無かったのにな…?
 機械が決めた規則が消えたら、色々と変わるものらしい、と教えて貰った今の雲海の星。荒地に生まれた新しい町や、町と町とを結ぶ道路や。
「…じゃあ、植物も増えたかな?」
 町や道路が出来たんだったら、その分、緑も増やさないとね。…町には街路樹も公園も要るし、道路にだって街路樹がありそう。
 アルテメシアにピッタリの木が…、と思った街路樹。あの星の上にどんな道路が走って、どんな街路樹が植わったろうか、と。
「そりゃ、植物も増えただろう。お前の言うような木だって増えるし…」
 人間が自由に行き来するんだから、町から離れた道路沿いにだって住んでいる人がいそうだぞ。前の俺たちがナスカでやったみたいに、岩砂漠の荒地を開墾して。
 車で走れば、驚くくらいに広い農場があるかもな。トウモロコシとかをドッサリ植えて。
 見に行きたいか、今のアルテメシアを…?
 あそこにはシャングリラの森もあるしな、と出て来た名前。白いシャングリラを解体した時に、移された木たちが植えられた森。今はどの木も代替わりをして、子孫になっているけれど。
「んーと…」
 シャングリラの森は、見てみたい気もするけれど…。
 でも、前のぼくが知っていた木たちは、とうに寿命で、今は子孫の木になってるしね…。



 どうしようかな、と考えたけれど、アルテメシアに行くよりは地球の方がいい。
 同じように旅をするのなら。
 植物があるかどうかを見に出掛けるなら、南極とか、砂漠の花園だとか。…どの花たちも、人がいなくても咲いていたもの。遠い昔から、この地球の上で。
 一度は滅びてしまったけれども、また蘇った青い地球。ギアナ高地は無くなったけれど、南極は今もあるのだから。…ちゃんと二種類の花が咲く場所が。
「アルテメシアまで旅行するより、南極がいいな」
「南極だって?」
 お前、ペンギンが好きだったのか、とハーレイが目を丸くするから、首を横に振った。
「ペンギンにも会ってみたいけど…。それよりも花を見に行きたいな」
 雪と氷の世界の中で、頑張ってる花を見に行くんだよ。南極って名前がついているけど、地味なススキとナデシコを。
 どっちもうんと地味だけれども、とても頑張って南極で咲いているんだから…。
 花を見に行くツアーも無いのに、ちゃんと毎年咲くんだから。人間が見てくれなくっても。
 それに砂漠に出来る花園、それも見に行きたいんだけど…。
 ナスカに生まれた奇跡の花園、前のぼくは見ていないから…。それの代わりに、今の地球のを。
 砂漠の花園みたいだったんでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイの同じ瞳が花園を見た筈だから。…赤いナスカに生まれた奇跡の花園を。
「南極と砂漠の花園か…。俺たちの旅先、また増えるのか?」
 旅行の予定は色々とあるが、今度は南極と砂漠が追加されるってか…?
「…駄目…?」
「いや、いいが…。そいつがお前の夢だったらな」
 植物を見に行く旅もいいよな、前から約束してるのもあるし。
 ヒマラヤの青いケシを見るのと、森のスズランを探しに行くのと…。
 それから砂糖カエデの森だな、メープルシロップの材料になる樹液を集めるシーズンに。
 前のお前と約束していた旅も多いし、今のお前の夢が増えても俺は一向にかまわないから。



 南極と砂漠の花を見る旅も追加なんだな、とハーレイがウインクしてくれたから。
 「お前の夢を叶えてやるのが、俺の役目というヤツだ」と頼もしい言葉もくれたから…。
 いつかハーレイと結婚したなら、南極に咲くという地味な花たちを見に行こう。
 砂漠の花園も素敵だけれども、それにも心惹かれるけれど…。
(同じ花なら、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ…)
 南極の地味な花がいいよね、と膨らむ今の自分の夢。ハーレイの話を聞いたお蔭で。
 二種類の花は地味だけれども、遠い昔から、人が見なくても咲き続けて来た花だから。
 蘇った青い地球だからこそ、昔の通りに南極で花を咲かせるのだから…。



             南極の花・了


※地味なように見える、南極の花。確かに地味な花なのですけど、咲く環境が凄いのです。
 荒地どころか、酷寒の場所でも花が咲くのが地球という星。それを考えると、夢が一杯の花。
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(街路樹、色々…)
 一杯あるね、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 遥かな昔に日本と呼ばれる島国があった、この地域。陸地の形はすっかり変わったけれど、今も日本を名乗っている場所。遠い昔の日本の文化を復活させて。
 それほど広くはない地域だけれど、四季がある上、気候も様々。それに合わせて植える街路樹の種類も色々。南の方ならヤシの木だったり、寒い場所ならリンゴの木だって。
(歴史も、うんと長いんだ…)
 何の気なしに見ている街路樹。バスが通るような道路だったら、街路樹もあるものだから。
 当たり前のように思った街路樹、けれど歴史は長いという。人間が地球しか知らなかった頃に、街路樹はとうにあったから。
 世界で最初の街路樹だったら、紀元前十世紀に植えられたもの。当時のヒマラヤ辺りにあった、街道に沿ってズラリと街路樹。
 もっとも日本の街路樹の方は、もっと後のことになるけれど。千年どころか、ずっと後の時代。六世紀だとか、八世紀だとか。
 植えられた目的の方も色々、六世紀の街路樹は単なる目印。「此処は都の道ですよ」と。
 八世紀になると、同じ都でも桃と梨の木を植えることになった。どちらも美味しい実がなる木。貧しい人々が飢えないようにと、当時の皇后様が都に植えた。けれど、記録は残っていない。
 優しかった皇后様の伝説なのか、本当にあったことなのか。
 日本で一番最初の記録は、お坊さんの提案で決まった街路樹。きちんと法律まで作って。当時の有名な街道に沿って、果樹を育ててゆくようにと。それも一つではなかった街道、当時の人たちが旅をしていた範囲を殆どカバーするくらい。
 そのお坊さんは遣唐使になって、中国の都を見て来ていた。都に植えられた街路樹たちを。夏は涼しい木陰を作って、秋は美味しい果物が実る。木陰で休むことも出来るし、飢えや乾きも果物が解消してくれる。「一つ貰おう」と手を伸ばしたら。
 植えられた木は柿やタチバナや梨と言うけれど、定説は無い。記録に残らなかったから。
 けれどもお坊さんのアイデア、それよりも少し前の時代は都だけだった果樹の並木を、旅をする人たちのために広げた。その時代ならば、「日本中」と言ってもいいほどの場所に。



 なるほど、と読んだ街路樹の歴史。単に道路の彩りだけではなかったらしい。ずっと昔は。
 今のように車も無い時代だから、休める木陰は有難いもの。道沿いには店も無かっただろうし、ちょっと入って食事も出来はしないから。
 暑ければ木陰に入って休んで、お腹が空いたら木の実を貰う。梨でも桃でも、きっと美味しい。喉が渇いてしまった時にも、水場を探さなくてもいい。水気たっぷりの果物があれば。
(ちょっとシャングリラに似てるかも?)
 遠い昔にあった日本で、街路樹を植えていた目的。
 今はともかく、昔の時代。日本で最初の街路樹を植えようと決まった頃なら、何処か似ている。前の自分が暮らした船と。白い鯨に改造を終えて、自給自足で生きていた船と。
 木を植えるのなら憩いや食べ物、そういう基準で選んだのが白いシャングリラ。どういう木を何処に植えるのがいいか、皆であれこれ検討して。
(食事のための食べ物だったら、農場の方だったんだけど…)
 皆の胃袋を満たす食料、小麦も野菜も、果樹も育てていたけれど。
 船のあちこちに鏤められた公園にもあった、何本もの果樹。憩いの緑を作る木たちに混じって。
 サクランボなどがあった公園。
 同じような花を咲かせるのならば、実など出来ない桜よりかはサクランボだったシャングリラ。綺麗な花を愛でた後には、赤いサクランボが実るから。皆で美味しく食べられるから。
 公園は憩いの場でもあったし、果物が実る場所でもあった。遠い昔の街路樹に似ていた、植える木たちの選び方。「どうせだったら、実が食べられるものがいい」と。
(だけど、シャングリラには街路樹なんか…)
 まるで植えてはいなかった。
 巨大な白い鯨になったら、至る所に長い通路があったのに。船の中を結んでいた通路。道路とも呼べたかもしれない。幅はけっこう広かったのだし、車が走っていなかっただけ。
(運搬用のヤツが通るくらいで…)
 人間優先だったけれども、あれも一種の道路だろう。一車線しか無かったとしても。
 けれど街路樹は無かった通路。何処に行っても、一本も植わっていなかった。ブリッジが見える船で一番広い公園、あそこに繋がる通路でさえも。



 無かったっけ、と思う街路樹。遠い昔の日本の街路樹、それと似たような基準で木たちを植えていたのに。同じ公園に植えるのだったら、憩いの緑と美味しい果物、と皆で選んで。
 実のならない木も多かったけれど、人気を誇っていたのが果樹。サクランボだとか、色々と。
(通路、そんなに広くなくても…)
 天井が見上げるほどでなくても、街路樹は可能だっただろう。今の記事にも載っている。大きくならない街路樹たち。高く聳えはしない低木。
(こういう木だって、使われてるのに…)
 何車線もある道路の中央分離帯には、見通しのいい低木が人気。そうでない場所でも、小さめの街路樹を植えることだって。自慢の眺めを遮らないよう、あえて低めにしておく街路樹。
 低く切り揃えてしまうのではなくて、最初から背の低い木を選ぶ。見た目なんかも考慮して。
(シャングリラでも植えれば良かったかな?)
 通路は山ほどあったのだから、あそこに街路樹。通路の両脇だと狭くなるから、片方だけでも。あるいは通路の真ん中に植えて、中央分離帯みたいな感じで。
 そうしていたなら、憩いのスペースが船の中に増えていたかもしれない。わざわざ公園に出掛けなくても、通路に出たなら憩いの緑。ほんの小さな、背の低い木でも。
 船の中を移動してゆく時にも、歩く通路に緑の街路樹。通路の壁だの天井だのといった、単調な景色を眺める代わりに、通路を彩る街路樹たち。葉を茂らせて、季節になれば花だって。
(それが果物の木だったら…)
 きっと子供たちが喜んだ筈。公園の木でも、「実はまだかな?」と心待ちにしていた子供たち。花が咲いたら、次は実がなるものだから。サクランボなどの果樹ならば。
 チョコンと緑の小さな実がついたならば、「もうすぐかな?」と見上げて熟すのを待った。まだ青い実が大きく育って、色づいて食べられるようになる日を。
 もしも通路に果樹があったら、本当に大喜びだったろう。丈が低い木で、桃のような実は無理なサイズでも。ほんの小さな実がなるだけでも、その実が美味しかったなら。
 ワイワイと皆で通路を歩く途中で、「赤くなった」と毟ってつまみ食いしたり。
 収穫の日なんか待ちもしないで、熟したものから、片っ端に。
 街路樹ならばそれで良かった、農場の木とは違うのだから。勝手にもいで食べていたって、誰も咎めはしないのだから。



 ちょっといいかも、と思った街路樹のこと。白いシャングリラにあったなら、と。
 おやつの後で自分の部屋に帰って考えてみる。勉強机の前に座って、あのシャングリラに植えてやるなら、どんな街路樹が良かったろうか、と。
 広いシャングリラの中を結んでいた通路。コミューターという乗り物でも移動できたけれども、それは長い距離を動くためのもの。船の端から端までだとか。
 普段は通路を歩いていたのが仲間たち。時には急いで駆けて行ったり、のんびりだったり。
 そんな仲間たちのために植えるなら、街路樹にピッタリだったろう木は…。
(やっぱり果物?)
 遠い昔の街路樹みたいに、美味しい果物をつけてくれる木。飢えや乾きとは無縁の船でも、同じ木ならば食べられる実をつける木がいい。公園に植えていた木も、そうだったから。
 それに、あんまり大きくならない木。育ちすぎて通路を塞がないよう、通行を妨げないように。
(丈が低くて、食べられる実がなる木なら…)
 コケモモやベリーがいいのだろうか。ブルーベリーは大きく育ってしまうらしいし、そうでないベリー。ラズベリーとか、ブラックベリーといった木苺。
 コケモモは最初から丈が低いし、木苺だって低木の部類に入るだろう。枝が広がりすぎた時には剪定すれば、それで充分。
 ベリーやコケモモを植えておいたら、子供たちがつまむのに丁度いい。小さな子だって、背伸びしないで好きなだけ毟り取れるから。そんなに高くない木なら。
(子供たちだけじゃなくって、大人だって…)
 歩く途中でヒョイとつまんで口に入れたら、自然の中にいる気分。公園でなくても、壁や天井に囲まれている通路でも。
 まるで野原の小道よろしく、ベリーが実っているのだから。緑の葉っぱも茂らせて。
(ホントに植えれば良かったよ…)
 白いシャングリラの中の通路に、街路樹を。片側だけでも、中央分離帯みたいな具合にでも。
 失敗だよね、という気がする。前の自分の大失敗。…街路樹に気が付かなくて。
 アルテメシアに降りた時には、街路樹を目にしていたというのに。道路に沿って並ぶ木たちを。
 白い鯨でも、やろうと思えば出来たのに。
 街路樹を植えられるだけのスペースはあって、植えていたなら皆が喜んでくれた筈なのに。



 前の自分が生きた間に、思い付きさえしなかったこと。白いシャングリラに植える街路樹。
 長すぎるくらいの通路が幾つも、縦横に走っていたというのに。前の自分も視察などのために、其処を何度も歩いたのに。
(場所はあったのに、アイデア不足…)
 生かせなかった通路のスペース。あそこに街路樹を植えておいたら、素敵な船になったのに。
 前のぼくって駄目だよね、と頭をコツンと叩いていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、街路樹の話を持ち出した。前の自分の失敗談は、まだ話さないで。
「あのね、街路樹って素敵だよね。広い道路には、色々なのが植わっているでしょ?」
 学校へ行く時に乗るバスからも見えるよ、両側に幾つも植えてあるのが。
 道路だけより、街路樹があった方がいいよね、断然。
 見上げるみたいに大きな木でも、それほど大きくない木でも、と挙げた街路樹。ハーレイだって此処へ来るまでに、同じ道路を車で走った筈だから。
「街路樹か…。いいもんだよなあ、アレは。夏は緑で、秋は紅葉で」
 冬は葉っぱを落としちまうが、それでも味わいたっぷりだ。今は冬だ、と一目で分かって。
 春が近付いたら芽吹く前からほんのり緑で、「じきに春だな」と眺められるし…。
 ドライブしてても楽しいもんだ、と今のハーレイも街路樹がある生活が好きらしい。ドライブの時も、仕事に行こうと車を走らせる時も、きっと観察しているのだろう。運転しながら。
「やっぱり、ハーレイも素敵だと思う?」
 道があったら、街路樹が植わっているっていうのが。
 ぼくの家の前の道路みたいに狭い道だと、街路樹、植わってないけれど…。邪魔になるから。
「その代わり、家の木が沢山だろうが。生垣もあるし、庭木の方もドッサリだ」
 街路樹が無くても緑はたっぷり、植える必要も無いってこった。
 もっとも統一は取れてないがな、同じ木ばかりが並んでるわけじゃないんだし…。何処の家でも好きな木を植えて、お揃いにしてはいないから。
 だが、本物の街路樹の方も、それに負けてはいないってな。走っていく距離が長くなったら。
 それぞれの場所に似合いのを植えてて、何処でも同じってわけじゃなから…。
 親父の家に行く道にだって、色々なのが植わっているぞ。一種類だけじゃなくってな。



 同じ木ばかりあってもつまらん、とハーレイも知っている街路樹の種類が沢山なこと。遠い昔の日本の名前を名乗る地域は、どちらかと言えば緑が優先らしいけれども…。
「他の地域だと、果物の木も多いらしいぞ。四季はあっても、此処より温暖だったりすると」
 オレンジだとか、レモンだとか…。そりゃあ美味そうなのが道の両脇にズラリとな。
 この地域だと、オレンジやレモンは難しいんだが…。冬が寒すぎて、世話が大変だから。
 そうは言っても、北の方へ行けばリンゴだったり、まるで無いっていうわけじゃない。リンゴでなくても胡桃やトチノキ、その辺だったらお馴染みだから。
 けっこう多いのがトチノキだよな、と挙げられた名前。トチノキというのは何だろう?
「トチノキって…。胡桃は分かるけど、トチノキも食べられる実がなるの?」
 胡桃みたいな木なのかな、と思ったトチノキ。それとも柔らかな実なのだろうか?
「食える実には違いないんだが…。トチ餅の材料になるんだから」
 ただ、食うまでに大層な手間がかかるんだよなあ、トチの実は。もいで直ぐには食べられない。
 トチ餅にするにも、けっこう時間がかかっちまう、と教えて貰った。アク抜きしないと、渋くて食べられないという。そのアク抜きも、一度ではとても済まないのだとも。
「トチ餅、そういう木の実で出来てるお餅なんだ…」
 パパが何処かで貰って来たから、食べてみたことはあるけれど…。どんな木の実か、どうやってお餅を作っているのか、考えないほど小さかったから…。下の学校に行ってた頃で。
 トチノキは木の実で、果物と言っていいのかどうかが分かんないけど…。
 ずっと昔の日本だったら、街路樹は果物の木だったんだよね。桃とか梨とか、アク抜きしないで食べられるヤツ。それに柿とか。
 お腹が減ったら、採って食べても良かったんでしょ、と披露した知識。ほんの少し前に、新聞で仕入れたばかりだけれど。
「おっ、詳しいじゃないか。まだチビのくせに」
 そんなの歴史じゃ習わないだろ、大したもんだな。何かの本で読んだのか?
 ずっと昔の日本の歴史、とハーレイが感心してくれたから、ちょっぴり嬉しくて得意な気分。
「今日、新聞に載ってたから…。昔の日本の街路樹のお話」
 旅をする人が食べられるように、果物の木を植えていたんだ、って。いろんな所の街道沿いに。
 それでね…。



 ちょっとシャングリラに似ているでしょ、と話した昔の街路樹の意味。ただ木を植えるだけではなくて、その木が役に立つように。憩いの緑に、飢えや乾きが癒える果物。
 白いシャングリラの公園に植える木たちを、選んだ理由と似ているよ、と。
「果物の木ばかり、植えてたわけじゃないけれど…。そうじゃない木は、憩いの木だよ」
 背が高い木は下でのんびり寛げたんだし、背の低い木だって眺めて緑を楽しめるように。
 花を咲かせる木を植えるんなら、美味しい果物が実る木の方がいいに決まってる、って。だから桜は植えていなくて、サクランボ…。どっちも似たような花が咲くから。
 花だけで終わる桜よりかは、サクランボだった船だったよ。後でサクランボが実るんだもの。
 ちょっと街路樹みたいじゃない、と話してみたら、「そうだな」と頷いてくれたハーレイ。
「そういや、あの船はそうだった。実用的な植物優先、そんな船ではあったよな」
 憩いの場所に、食える実か…。確かにそいつは、昔の日本の街路樹ってヤツにそっくりだ。船の中では誰も暑さで困りやしないし、飢えるってことも無かったが…。
 アルタミラから逃げ出して直ぐの船の頃には飢えかけたがな、とハーレイが浮かべる苦笑い。
 元はコンスティテューション号だった船は、沢山の食料を積んでいたけれど、いつか尽きるのがその食料。前のハーレイは食料倉庫の中を調べて悩んでいた。「あと一ケ月で無くなる」と。
 食料が尽きれば、誰もが飢えて死ぬしかない。幸いなことに、前の自分が救ったけれど。人類の船から奪った物資で、皆の命を繋いだけれど。
 そういう暮らしが長く続いて、けれどそれでは見えない未来。ミュウという種族がこれから先も生きていくには、自分たちの手で全てを賄うべき。
 そして出来たのが白い鯨で、飢える心配など無かった船。何もかも船の中で作れて、果物だって栽培していたのだから。使えるスペースを最大限に生かして、公園にも果樹を植えたりして。
「ね、シャングリラはそうだったでしょ? だからね…」
 街路樹も植えたら良かったのかな、って思ったんだよ。植える理由はそっくりだから。
 昔の日本の街路樹だったら、シャングリラの頃と変わらないでしょ、植えた目的。
「街路樹だって?」
 あんなのを何処に植えるというんだ、シャングリラの中に道路なんかは無かったぞ?
 やたらとデカイ船ではあったが、船の中には車も無ければ、バスも走っていなかったしな…?



 街路樹を植える場所が無いぞ、とハーレイは怪訝そうな顔。それはそうだろう、街路樹だったら道路の側にあるものだから。道路の両脇に植えるにしても、片方だけでも。中央分離帯にしたって道路の真ん中、道路無しでは有り得ないもの。…本当の意味での街路樹ならば。
 けれど新聞の記事が切っ掛けで思い付いたのは、街路樹を植えられそうな場所。シャングリラの中でも植えることが出来て、皆が喜んでくれそうな所。
 きっとハーレイも分かってくれるに違いないよ、と植えるべき場所を口にした。道路などは無い船の中でも、街路樹を植えておける場所。
「道路じゃなくって、通路だよ。…シャングリラの中には通路が一杯」
 何処に行くにも通路だったでしょ、コミューターに乗って行くんじゃなければ。
 前のぼくが視察に出掛ける時にも、いつも通路を歩いていたよ。あの通路なら、使えるってば。
 だって街路樹なんだもの、と説明した今の自分のアイデア。白いシャングリラの通路を使って、育てる憩いの緑の街路樹。
 大きくならない種類の木を使う街路樹だって存在するから、それに倣って背の低い街路樹。
 皆の通行の邪魔にならないよう、片側だけとか、通路の真ん中にスペースを設けて植えるとか。
「シャングリラの通路に街路樹だってか?」
 そりゃあ確かに、広い通路は山ほどあったが…。デカイ船だし、通路の幅も広かったんだが…。
 だからと言って街路樹なのか、と驚いている今のハーレイ。「なんだ、そいつは?」と。
「ハーレイも、似てるって言っていたじゃない。…街路樹と、シャングリラに植えていた木と」
 どっちもみんなの役に立つ木で、うんと喜んで貰える木。
 公園だけじゃなくて、通路にも植えれば良かったんだよ。街路樹だったら、そんなものでしょ?
 道路か通路かの違いくらいで、使い道の方は昔の日本の街路樹と同じ。…シャングリラならね。
 植えるんだったら、実が食べられるベリーなんかが良さそうだよ。
 あんまり大きくならないヤツなら、ブラックベリーとかラズベリーだとか…。そういう木苺。
 コケモモだって美味しそうだし、ちょっと素敵だと思わない?
 シャングリラの通路に植えてあったら、誰だって好きに食べられるんだよ。子供も、大人も。
 自然の中の道を歩くみたいに、「熟してるな」と思った時にはヒョイとつまんで。
 前のぼく、本物の街路樹があるの、アルテメシアで見てたのに…。外へ出る度に、何度もね。
 街路樹のことは知っていたのに、船に植えようと思わなかったなんて、大失敗だよ…。



 通路に植えれば良かったのにね、と零した溜息。「前のぼく、間抜けだったよ」と。
 アルテメシアの街路樹は果樹とは違ったけれども、注目したなら、きっとヒントになったのに。
 「ああいう風に木を植えるのか」と道路沿いの木に注意していれば、シャングリラにあった長い通路の活用法を思い付けたのに。
「ぼくって、ホントに馬鹿だよね…。せっかくのスペースを無駄にしちゃった」
 シャングリラの仲間は緑が好きで、ブリッジの周りを公園にしてたほどなのに。本当だったら、あそこは公園なんかにしないで、空きスペースの筈だったのに…。
 人類軍に攻撃されたら、ブリッジは狙われやすいんだから…。あんな所を公園にしたら、危険な場所になっちゃうのにね。避難用の場所に使うどころか、一番に逃げなきゃいけない公園。
 それでも公園にするのがいい、って決めちゃったくらいの船なんだよ?
 通路に街路樹を植えておいたら、みんな喜んでくれたのに…。
 自分の部屋から通路に出たら街路樹が目に入るんだから、と前の自分の間抜けさに目を覆いたいけれど。前の自分の目は節穴かと、アルテメシアで見た街路樹たちのことを思うけれども…。
「おいおいおい…。アイデアとしては悪くないのが街路樹なんだが…」
 スペースだって山ほどあったが、植えていなくて正解だったと思うがな?
 コケモモにしてもベリーにしても…、とハーレイに否定されたアイデア。「悪くない」と評価をしてくれたくせに、何故そうなってしまうのだろう?
「…植えていなくて正解だって…。なんで?」
 ぼくのアイデアは悪くないんでしょ、なのにどうして植えない方が良くなるわけ?
 通路に街路樹はいい筈なんだよ、緑が増えるし、果物だって…。歩きながら見付けて、美味しい木の実をつまめるんだよ?
 自分の部屋の前でだって、と疑問をぶつけた。いいことずくめのように思える街路樹の案。船のスペースを有効活用、その上、誰もが喜ぶだろうと思うから。
「お前の案は悪くない。しかし、そいつが実現してたら、とんでもないことになってたぞ」
 公園だけでも係のヤツらは手一杯だったんだ、植物の世話で。水撒きは機械で出来てもな。
 肥料をやったり、手入れをしたりと、忙しい日々を送ってたわけで…。公園の数が多いから。
 なのに通路にまで植えちまってみろ、とてもじゃないが手が回らんぞ。
 充分な世話が出来ないじゃないか、シャングリラ中の通路に街路樹が植わっていたら。



 街路樹どもの世話に追われて疲労困憊、そういう仲間の憔悴し切った顔が見えるようだ、という指摘。公園だけでも大変だったのに、全部の通路の街路樹となったら追い付かない、と。
「毎日が戦場ってトコだったろうな、公園の係…。船中の通路を回るだけでも大変だ」
 やっとこっちが片付いた、と思う間もなく次に移動で世話なんだぞ?
 街路樹が枯れてしまうのが先か、係のヤツらが寝込むのが先か…。そうなるくらいに、ヤツらの仕事を増やしていたと思うんだがな?
 お前が言ってる通路の街路樹、と言われてみればその通り。船の中の木が増えた分だけ、仕事が増えるのが公園の係。もしも街路樹を植えていたなら、休みさえろくに無さそうな彼ら。
「そうかもね…。街路樹、素敵なんだけど…」
 係の仲間が倒れちゃったら、美味しい実がなるどころじゃないし…。無理だったかも…。
 いいアイデアだと思ったのに、とガッカリしてしまった、街路樹を植えるという話。船の通路に植えておいたら、もっと緑が増えたのに。…通路でベリーやコケモモの実を摘めたのに。
 でも、シャングリラでは無理だったよね、と思い知らされた厳しい現実。街路樹の世話までしていたならば、公園の係はきっと倒れてしまうから。
 それじゃ無理だよ、と今の自分の考えの甘さを嘆いていたら…。
「待てよ、シャングリラのことはともかく…。街路樹ってヤツは本来、そういうモンか…」
 お前は間違っちゃいないかもな、とハーレイが言うから、キョトンと見開いた瞳。いったい何が正しかったというのだろうか?
「間違ってないって…。何の話?」
 ぼくのアイデアは使えないんでしょ、シャングリラでは。係のみんなが疲れてしまって、植えた木だって育たなくって。…途中で枯れたり、最初から根付かなかったりで…。
 街路樹を植えてみても無駄になるだけなのに、と首を傾げた。何処も正しくなさそうだから。
 そうしたら…。
「世話だ、世話。シャングリラに街路樹は無かったわけだし、そっちは話にならないが…」
 植えるアイデアさえ出なかった船じゃ、どうすることも出来ないんだが…。
 今の時代の街路樹ってヤツを考えてみろ。お前が乗ってるバスが通る道のヤツだとか。
 他にも街路樹は山のようにあって、至る所で葉を茂らせているわけなんだが…。



 その街路樹の世話をしているのは誰なんだ、とハーレイが唇に浮かべた笑み。大きな道路なら、何処にでもある色々な種類の街路樹たち。それを世話する係は誰だ、と。
「街路樹ってヤツは道沿いにズラリと植わっちゃいるが、世話をする人間が問題なんだ」
 植えたり、枝を剪定するのは専門の業者が来るんだが…。
 お前、バスに乗って走っている時、その連中をいつも目にするか?
 いつも業者の車が停まっていたりするのか、街路樹の世話をしに来ていて…?
 どうなんだ、と訊かれてみると、まるで覚えがない光景。茂りすぎた枝葉を剪定する時は、道に車があるけれど。…作業服を着た人が梯子を使って、木の上にいたりするけれど。
「えーっと…。そんなの滅多に見ないよ、係の人は。毎日なんかは、絶対、見ない…」
 ぼくが通っている時間とズレているのかも、と返事をしたら笑われた。「間違ってるぞ」と。
「お前が出会っていないんじゃない。…業者なんかは来ていないんだ、毎日はな」
 町中の街路樹の世話をしてたら、それこそシャングリラの街路樹の話と変わらんぞ。山のようにある木を端から回れば日が暮れちまう。仕事が終わる前に太陽が沈んじまうってな。
 それじゃどうにもならないだろうが、本当の係が世話に来ることは滅多に無いんだ。
 根元に草が生えちまった時も、秋に葉っぱが落ちる時にも、近所の人たちが世話をしてるんだ。誰に頼まれたわけでなくても、「せっかく植わっているんだから」と。
「…そうだったの?」
 お仕事で世話をしてるんじゃなくて、近所の人がしてるんだ…。誰も頼んでいないのに。
「そういうことだな。こういう住宅街の中だと、街路樹が無いから分からんが…」
 気が付かないでいるんだろうが、表通りに住んでりゃ分かる。…表通りに近い人でも。
 それと同じで、もしもシャングリラの通路に街路樹を植えてたら…。
 「植えてみたいが、係は其処まで手が回らない」と言いさえしたなら、誰もが世話を始めたな。自分の部屋の前にある木に、せっせと水をやるだとか。ついでに肥料なんかも入れて。
「…そうだったかもね…」
 部屋に植木鉢を置いてた仲間もいたんだし…。そういう趣味が無い仲間にしたって、目に入った時は世話してくれそう。「水が足りないみたいだな」って水やりをしたり、肥料をあげたり。
 放っておいたままで枯らしはしないよ、シャングリラの仲間たちだったら…。
 どんなに忙しくしてる時でも、部屋に戻って水を汲んできてあげるくらいは出来そうだもの。



 シャングリラでも可能だったのか、と気付いた街路樹たちの世話。通路に植わった木だけれど。
 係たちの手が回らなくても、あの船にいた仲間たちなら、きっと世話してくれただろう。平和な今の時代と同じに、自分の身近にある街路樹を。
「…街路樹の世話って、いろんな人がしてたんだ…。係だけじゃなくて」
 前のぼく、ホントに間抜けだったよ。街路樹のことに気付いていたなら、船に緑が増えたのに。
 通路に植わっている木たちの世話、きっと誰でもしてくれたのに…。
「そうなったろうな、前のお前が街路樹を植えると言い出してたら」
 ゼルあたりが「誰がそいつの世話をするんじゃ!」と怒鳴りそうだが、船の仲間が耳にしたなら実行されていただろう。あの船の通路に似合いの街路樹、ベリーやコケモモを植えて回って。
 でもって、そいつが完成したなら、ゼルの姿も見られそうだぞ。ブリッジに行く前にジョウロを手にして、自分の部屋の近くの木たちに水やり中の。
「ふふっ、そうだね。…きっとゼルなら、そうなっちゃうね」
 栗の木の世話をやっていたのがゼルだもの。「トゲがあるから危険なんじゃ」って、ゼルだけが上手に扱えるみたいな顔をして。
 街路樹の世話も、毎日、せっせとしていそう。…墓碑公園のハンスの木みたいに可愛がって。
 「うんと美味い実をつけるんじゃぞ」なんて、話しかけたりしているかもね。
「まったくだ。…ゼルなら、そんな所だろうな。頑固そうでも、根は優しかったヤツだから」
 街路樹の世話もお手の物だぞ、あいつの部屋の前のが一番、美味そうな実をつけそうだ。
 そういや、今の俺たちが知ってる街路樹。
 色々な人が世話をしてるの、俺みたいにジョギングしてるだけでも分かるんだが…。
 朝早くから走っていたなら、掃除をしている人にも出くわす。草むしりをしてる人だって。
 出会った時には「ご苦労様です」と挨拶をして走って行くんだが…。
 その街路樹に実がなる季節が、けっこう愉快なものなんだ。俺のコースだと、銀杏なんだが。
 銀杏の実も美味いからなあ、そいつを拾いに来るヤツも多い。
 しかも早起きして来るわけで、でないと先に拾われちまう。他のヤツらに。
 「今日は見掛けない顔がいるな」と思った時には、銀杏が目当ての連中だな。
 実を入れる袋を提げているから直ぐ分かる。掃除に使う箒の代わりに、銀杏を拾うための袋を。



 朝一番のジョギング中にハーレイが出会う、銀杏を拾いに来る人たち。銀杏が実る街路樹の葉の掃除はしないで、お目当ては銀杏を拾うこと。
「あの連中は、もちろん普段に掃除なんかはしていない。見掛けない顔ばかりなんだから」
 そろそろだな、と頃合いを見てやって来るんだ、銀杏だけを拾いにな。一緒に落ちてる葉っぱの方は、拾うどころか放りっ放しで。
 しかし、そういう連中が来ても、誰も文句は言いやしないぞ。「どうぞ拾って行って下さい」とニコニコしながら掃除をしてる。いつも通りに箒を持って。
 ついでに箒で掃除してると、銀杏も拾えちまうから…。
 それを袋に集めて持ってて、俺がジョギングしている時にも、声を掛けたりしてくれるんだ。
 「良かったら持って行きませんか」と愛想よく。
 そういうわけで、貰っちまうってこともあるなあ、銀杏を。…木から落っこちたばかりのを。
 ジョギング中の俺にくれるほどだし、銀杏を拾いに来る連中も歓迎なのさ、という話。せっせと世話をして来た街路樹、それがつけた実を惜しげもなく譲ってくれる人たち。
 街路樹の世話は、誰に頼まれたわけでもないのに。仕事ではなくて、手間賃さえも出ないのに。
「銀杏、ハーレイにもくれるんだ…」
 自分が世話した木なんだから、って一人占めにはしないんだね。みんな優しい人ばかり。
 街路樹の世話を頑張ってるのも、きっと木たちのためなんだよね。
「うむ。暑い夏だと、水やりだってしているぞ。その水も家から運んで来て」
 そうやって育てた銀杏の実を貰っちまうのは、悪いような気もするんだが…。向こうはちっとも気にしていないし、有難く貰って走って行くんだ。…少し臭いのが困りものだが。
 とはいえ、後で食ったらこいつが格別に美味い。臭かったのが嘘のようにな。
「ハーレイらしいね、銀杏、ちゃんと食べるんだ。貰った時には臭くったって」
「当然だろうが、自分できちんと手間暇かけて食う銀杏は最高だってな」
 臭い部分は綺麗に掃除で、匂いがすっかり消えちまうまで頑張って。
 なのに、その最高の銀杏の実を、だ…。
 「あれは臭いから」と、実をつけない木ばかり植えた時代もあったらしいぞ。
 今の時代は、ごくごく普通に植えているがな。自然のままが一番なんだし、街路樹もそうだ。
 イチョウを植えてやるんだったら、雄株も雌株も植えてこそ、ってな。



 ハーレイが朝のジョギング中に出くわす、街路樹の世話をしている人たち。銀杏がドッサリ実るイチョウも、違う種類の街路樹なども。
 何処でも誰かが世話をする。街路樹を植えたり剪定したりといった業者が来なくても。世話など頼まれていないというのに、「せっかく植わっているのだから」と。
「…俺が思うに、シャングリラでも同じだったろう。さっきも言った通りにな」
 前のお前が「通路にも木を」と思い付いていたら、本当に通路に植えていたなら。
 係じゃなくても誰かが世話して、きっと立派に育ったろうさ。どれも枯れたりしないでな。
 ベリーやコケモモが実った時には、実だけちゃっかり貰っていくヤツらもいたりして。
 「俺は仕事が忙しいんだ」と世話なんか一度もしていないくせに、「美味そうだな」とヒョイと毟っちまって。
 それでも誰も怒ったりなんかしないんだ、とハーレイが言うから頷いた。白いシャングリラは、皆が優しい船だったから。今の平和な時代と同じに、誰もがミュウだったのだから。
「そういう船も素敵だね。みんなで通路の街路樹を世話して、世話していない人も実を貰って」
 美味しそうだ、って毟って食べていたって、誰も文句を言わない船。
 「世話をしていない人は食べちゃ駄目」なんて、ケチなことは誰も言わない船…。
「まさに楽園だっただろうなあ、公園があった以上にな」
 船の通路に街路樹があって、みんなで世話をしていたら。…自分の部屋の前でなくても。
 向こうの方も世話しておくか、と張り切るヤツらも現れたりして。
 農場とはまるで縁が無いのに、やたらと世話が上手い仲間がいるだとか…、というのも有り得る話だと思う。意外な才能を発揮する人は、何処にでもいるものだから。
 そう話しながら、ハーレイが「植えとけば良かったのか、街路樹を?」と言うものだから。
「…そんな気がするけどね、今のぼくだと」
 街路樹としても役に立つんだし、仲間の間でもきっと人気の話題だよ。育ち具合とか、美味しい実がなる育て方とか。食堂とかでも、いつも賑やか。
「俺もそういう気がしてきたが…。街路樹、植えるべきだったのかもしれないが…」
 もう手遅れってヤツなんだよなあ、今となっては。
「うん。シャングリラ、とっくに無いものね…」
 通路に街路樹を植えてみたくても、白い鯨が無いんだもの。…何処を探しても。



 残念だよね、とハーレイと二人で苦笑した。時の彼方に消えてしまったシャングリラ。
 木を植えられるスペースが沢山あったというのに、活用し損ねたかもしれない、と。
「やっぱり駄目だな、本物の地面を知らない暮らしをしてたんじゃ…」
 こういう場所にも植えられるぞ、とキャプテンの俺にも分からなかった。…なにしろ外の世界を知らんし、データだけでは実感ってヤツが伴わないから。
 街路樹くらいは知ってたんだが、とハーレイがフウと零した溜息。データベースで見たし、本の中にも出て来るんだから、と。
「そうみたい…。前のぼくだって、少しも思い付かなかったんだから」
 アルテメシアで街路樹を見ても、「人類の世界」だと思うだけ。ミュウの世界と重ならなくて、植えようとも思わないままで…。船の通路にベリーがあったら、本当に素敵だったのに。
 だけど今だと、街路樹、色々あるんだね。新聞の記事にも種類が沢山あったよ。
「この町だけでも多いぞ、種類は。ジョギングしてても色々出会える」
 他の町でも自慢の街路樹、色々と植えているらしいしな。其処の気候に合わせたヤツを。
 そういう所で走ってみるのも楽しいだろう、と言うハーレイは走ったことも多分ある筈。柔道や水泳の試合で遠征、そういう時には他の町にも行ったのだから。
「…今のハーレイが走っていると、銀杏を貰えたりするんでしょ?」
「銀杏の実が落ちる季節に、其処を走って行ったらな」
 朝一番でないと出遅れちまうが…、とハーレイは銀杏を巡る先陣争いを口にするけれど。掃除の人や、朝早くから拾いに来る人、その人たちに出会う時間でないと駄目だと言うけれど。
「ぼくも貰えるかな、一緒に行けば?」
 ちょっぴり欲しいよ、その銀杏。ハーレイと一緒に出掛けて行って。
「俺と一緒にって…。お前、走れるのか?」
 ジョギングなんだぞ、俺のペースで走ってくれんと、お前、置き去りになっちまうんだが…?
 とても走れるとは思えないぞ、と尋ねられたから笑顔で答えた。「ううん」と首を横に振って。
「ぼくは散歩だよ、ぼくが一緒の時はハーレイも散歩」
 二人で一緒に散歩に行こうよ、落っこちている銀杏の実を貰いに。
 拾いに来るだけの人もいるなら、散歩に行っても、銀杏、分けて貰えそうだし…。



 ジョギングでなくても良さそうだけど、と頼んでみた。「ぼくと散歩」と。
 いつかハーレイと暮らし始めたら、銀杏を貰いに出掛けてみたい。白いシャングリラには銀杏も街路樹も無かったから。今の時代だから、街路樹に実った銀杏を貰えるわけだから。
「散歩に行くのはかまわんが…。朝が早いぞ?」
 歩いて行くなら時間がかかるし、ジョギングよりかは早めに家を出ないとな。
「早めって…。それって、とっても?」
「そうなるな。銀杏の季節は、欲しいヤツらは朝がとびきり早いんだ」
 掃除している人はともかく、俺みたいに走って行くだけのヤツに踏まれちまったら潰れるから。
 それじゃ駄目だし、早く行こうと頑張って早起きしているからな。
 暗い内に家を出るんじゃないか、とハーレイが言うから仰天した。いくらなんでも早すぎる。
「ぼく、そんな時間に起きられないかも…」
 起こしてくれても、また寝ちゃいそう。もう少しだけ、って言って、そのまま…。
「お前はそういう感じだな。無理をしないで家で寝ていろ、俺が貰って来てやるから」
 これが欲しかったんだろう、と袋に入れて貰った銀杏を。
 ただし臭いが、と鼻をつまんでみせるハーレイ。「銀杏の匂いは、そりゃ凄いから」と。
「でも、ハーレイが食べられるようにしてくれるんでしょ?」
 手間暇かけたらとても美味しくなるんだ、って…。それに臭いのも消えちゃうって。
「お前、食べるだけか?」
 銀杏を貰いに散歩だなんて言ってたくせに、お前は食べるだけだってか…?
「だって、お料理、ハーレイがしてくれるって…。ぼくがハーレイと結婚したら」
 ハーレイの方がずっとお料理上手なんだし、銀杏の料理もきっと上手いと思うから…。
「まあ、いいがな。…確かに俺は、前の俺だった頃から料理ってヤツとは縁が深いし」
 俺の嫁さんの頼みとあれば…、とハーレイが引き受けてくれた銀杏の料理。
 今は街路樹が普通にあるから、銀杏だって貰える世界。季節になったら出掛けてゆけば。
 シャングリラでは植え損ねた街路樹だけれど、いつかハーレイと結婚したら楽しもう。
 デートで色々な木を眺めたり、ドライブで車の窓から見たり。
 ジョギングの途中で貰ったという、銀杏の実が臭くて悲鳴を上げてみるのもいい。
 街路樹は今は何処にでもあるし、シャングリラの通路に植えてみなくてもいいのだから…。



             街路樹と船・了


※実が食べられる木を公園に植えていたシャングリラ。でも、街路樹はありませんでした。
 植えておいたら、きっと喜ぶ人が多くて、世話をしたがる人もいた筈。あれば良かったかも。
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(秘密の暗号…?)
 なあに、とブルーが興味を引かれた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 投稿した読者に取材のコーナー、記者が「これは素敵だ」と思った人に。写っているのは男性の写真。若くはなくて、父よりもずっと年上な感じ。とても優しい笑顔だけれど。
(おじいちゃんと、お孫さん…)
 新聞に写真が載ってはいない、お孫さん。そのお孫さんと、暗号の手紙を交換しているという。お互い、全部暗号で書いて。宛先と差出人の名前と住所だけは普通に。
 でないと配達して貰えないから。郵便屋さんは暗号なんかは読めないから。
(そうなっちゃうよね、住所も名前も暗号だったら…)
 暗号の解読は郵便屋さんの仕事ではないし、きっと放っておかれる手紙。何処に届けていいのか分からず、送り返す先も謎なのだから。
(お孫さんが作った暗号なんだ…)
 お祖父さんが住んでいる町から離れた所で、下の学校に通う男の子。その子が考え出した暗号、それが手紙に使われる。お祖父さんにだけ、仕組みを教えて。
 「暗号ですから、誰にも教えられませんよ」と笑っている、お祖父さんの写真。けれど記者には見せてくれたらしい、お孫さんから届いた手紙。「こんな風に暗号なんですよ」と。
 ごくごく単純だという暗号、記者の人にも分かった内容。手紙に何が書かれているか。
 でも秘密だから、読者には秘密。手紙の中身も、暗号のヒントの欠片も全部。
(なんだか素敵…)
 暗号で書いた秘密の手紙をやり取り、郵便屋さんが運んでくれる。宛先などは普通だから。中の手紙が暗号だなんて、思いもせずに。
(おじいちゃんも、お孫さんも、手紙をポストに入れるだけ…)
 集配用のポストに、コトンと。秘密の手紙を書き上げたら。
 住んでいる所が離れていたって、同じ地域の中でのこと。どちらも日本と名乗っている場所。
 お蔭で手紙を投函したなら、次の日には届く秘密の手紙。郵便配達のバイクが走って出掛ける、手紙の宛先になっている家。「この家だな」と確かめた後は、家のポストへ。
 他の色々な手紙と一緒に、暗号の手紙。お祖父さんとお孫さんだけの間の秘密。



(暗号で手紙を書いて貰って、暗号で返事…)
 手紙を送り合う二人だけしか読めない手紙。お祖父さんとお孫さんだけの暗号、仕組みは秘密。
 本当の所は、お祖母さんにも読めるのだけれど。記者だって読めたくらいだから。
 男の子のパパも、もちろんママも、お祖父さんからの手紙が読めるけれども、男の子には内緒。せっかく秘密のやり取りなのだし、読めないふり。周りの誰もが。
 家族たちに温かく見守られて続く、幸せな文通。微笑ましい秘密。簡単なのに、秘密の暗号。
 とっても素敵、と思った所で閃いた。「暗号だよ」と。
(ハーレイとだって…)
 暗号だったら、文通できるに違いない。この記事のような「誰にでも分かる」暗号ではなくて、正真正銘、暗号の手紙。誰にも読めはしないもの。
(ハーレイから届いて、ぼくが机に置いておいても…)
 そのまま学校に出掛けてしまって、母が部屋の中に入ったとしても、暗号だったら大丈夫。机の上に手紙を見付けて、「そういえば昨日、届いてたわね」と開いてみても。
 なんと言っても暗号なのだし、中身が分かるわけがない。穴が開くほど見詰めてみても。
(ハーレイもぼくも、前の自分がいるんだから…)
 その時代のことを書くには暗号なのだ、と言えば納得するだろう母。「あら、秘密なのね」と。
 辛く悲しい記憶も山ほど持っていたのが、シャングリラで生きた前の自分たち。両親たちに披露するには、悲しすぎるものも沢山ある。そういうことを書いた手紙は暗号、と説明すればいい。
(ママもパパも、きっと分かってくれるよ)
 暗号でやり取りする理由。「自分たちには話せないほど、辛い出来事だったのだろう」と。
 一度そうして話してしまえば、二度と訊かれることも無い。「手紙の中身は何だった?」とは。過去の悲しい話を聞くより、幸せな今を生きている話を両親も聞きたいだろうから。
(暗号だったら、ホントに安全…)
 嘘の理由を説明したなら、もっと安全で安心な筈。毎日のようにやり取りしたって、両親は気にしないから。「会って話すには、辛すぎることもあるだろう」と思ってくれるから。
 面と向かって話していたなら、ハーレイも自分も、涙が止まらなくなるだとか。二人揃って泣き続けたまま、会話にさえもならないだとか。



 これは使える、と思った暗号。新聞の記事から貰ったアイデア。何食わぬ顔で閉じた新聞、母に返しに出掛けた空のカップやケーキのお皿。「御馳走様」と。
 胸を弾ませて上がった階段、戻った二階の自分の部屋。勉強机の前に座っても、心はワクワク。
 あの記事にあった子供みたいに、バレる暗号文でなければ、ラブレターだって交換出来る。誰も中身を読めないのだから、堂々と。ハーレイと幸せな手紙のやり取り。
 どうして今まで思い付きさえしなかったろう…?
 暗号化された手紙だったら、何を書いても大丈夫なのに。どんな手紙が届いても。
(ハーレイに頼めばいいんだよね!)
 たったそれだけで、直ぐにも始められる暗号の手紙の交換。「ぼくと暗号で文通して」と。そう書いた暗号文の手紙を、ポストにコトンと入れるだけでいい。ハーレイの家の住所を書いて。
 手紙が届けば、きっと返事が貰える筈。同じ暗号で綴られた、ハーレイの文字が並んだ手紙が。
(ハーレイだったら、ぼくの暗号…)
 簡単に読めることだろう。両親には、まるで読めなくても。書いている途中で母が入って来て、「あら、手紙?」と覗き込んでも、謎の文章にしか見えなくても。
 そう、ハーレイなら大丈夫。前の自分たちが使った暗号、それなら必ず通じるから。あれだ、と見るなりピンと来て。「前の俺たちの暗号だよな」と、スラスラ読めるだろう手紙。
(暗号の手紙、素敵だよね?)
 一番最初は、「文通してよ」とお願いだけ。もちろん全部、暗号で書いて。
 返事が来たなら、今度は少し長めの手紙。「今日はね…」などと、当たり障りのない話題。やり取りが続いて定着したら、ラブレターを書いて出せばいい。「ハーレイが好き」と。
(もうその頃なら、ハーレイも慣れてしまっているから…)
 暗号だったら大丈夫だな、と「愛している」と返事が来そう。運が良ければ、とても熱烈な恋の想いを綴ったものも。
(今のハーレイ、古典の先生なんだから…)
 暗号で書いても、名文が届くかもしれない。読んだら涙が零れるくらいに感動的なラブレター。手紙そのものはそれほどでなくても、引用された本の一節が心にジンと響くとか。
(ずっと昔の恋の歌とか、そういうのだって…)
 暗号に混ぜてくるかもしれない。とても素敵な恋歌だって、上手に暗号文にして。



 きっとハーレイなら書ける筈だよ、と思う熱烈なラブレター。その気になってくれさえすれば。
 そういう手紙を貰うためには、まずは手紙の交換から。誰にも読めない暗号で書いて。
 明日にでも早速出してみよう、と意気込んだけれど。書こうと勇み立ったのだけれど。
(あれ…?)
 どう書くのだろう、暗号の手紙。「ぼくと暗号で文通してよ」と綴る方法。ハーレイと自分しか読めない暗号、それで手紙を書きたいのに…。
(えーっと…?)
 まるで分からない、その暗号の綴り方。「ぼくと暗号で文通してよ」は、どう書くのかが。
 前の自分たちが使った暗号、それは確かにある筈なのに。人類に傍受されないようにと交わした通信、あれは暗号だったのに。…ミュウにしか理解出来ない暗号。
 それで書いたら簡単だよ、と思っていたのに、その暗号が全くの謎。今の小さな自分には。
 書き方を忘れてしまったのかな、と下書き用の紙を用意した。いきなり書くのは無理みたい、と便箋ではなくて罫線が引いてあるだけの紙を。
(ぼくと暗号で…)
 文通してよ、と綴ってやろうと、ペンも握ってみたのだけれども思い出せない。いったい暗号でどう書いたならば、そういう文になるのかが。
(…ぼくと暗号…)
 最初の「ぼく」を、どう書いたならば、暗号の「ぼく」が出来るのだろう?
 それに肝心要の「暗号」、それは暗号でどう綴ったらいいのだろう。「ぼく」と「暗号」、その段階でもう躓いた。まだ書き始めもしない内から。
(ぼくっていうのも、暗号の方も…)
 基本の中の基本の筈。「ぼく」は「私」の意味にもなるし、ハーレイが書くなら「俺」になる。自分を指している言葉だから。それを抜きでは、きっと作れはしない文章。
(主語と述語の、主語が抜けちゃってる文章…)
 誰が何をするか、文章に無くてはならない主語。「誰が」の部分。「ぼく」の書き方を知らないままでは、暗号文など綴れない。ついでに暗号文を書くなら、「暗号」だって知らないと。
 「ぼくと暗号で文通してよ」と書きたかったら、必要なもの。「ぼく」と「暗号」、その両方を示す暗号が無くては無理。どう考えても、普通の言葉に置き換えてみても。



 いきなりぶち当たった壁。いいアイデアだとワクワクしたのに、暗号が出て来ないから。いくら記憶を探ってみたって、「ぼく」も「暗号」も、それを表す欠片も浮かびはしないから。
(うーん…)
 暗号が分からないなんて、と抱えてしまった小さな頭。「忘れちゃったの?」と。
 青い地球の上に生まれ変わる時に、何処かに落として来たろうか。今の時代は、もう出番などは無い暗号。人類に傍受されないようにと、ミュウの間だけで使ったものは。
(今だと、おじいちゃんとお孫さんの間で暗号…)
 おまけに新聞記者が取材に出掛けて、微笑ましい記事が出来るほど。「暗号ですから」と読者に秘密にしておいたって、記者だって読んで来た暗号。内緒で手紙を見せて貰って。
 そんな時代に生まれた自分は、暗号を忘れたかもしれない。母のお腹にいる内に。温かな場所で眠る間に、「もう要らないよ」と、夢見心地で手放して。
 そうなのかも、と思うくらいに本当に書けない暗号文。「ぼく」も「暗号」も、手紙に書きたい「ぼくと暗号で文通してよ」という、ほんの短い言葉でさえも。
 これは困った、と机の前でウンウン唸っていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、暗号を訊くことにした。まずは手紙を書いてくれるか、其処からだよね、と。
「あのね、ハーレイ…。ぼくがハーレイに手紙を出したら、返事をくれる?」
 ちゃんと郵便で送ってくれる、と投げた質問。郵便屋さんが家に届けてくれる手紙、と。
「返事って…。お前と文通しろと言うのか、ラブレターには早すぎるがな?」
 お前の年ではまだ早すぎだ、とハーレイは案の定、苦い顔。「もっと育ってからにしろ」とも。
 やっぱりね、と思った通りの答えだったから、重ねて訊いた。
「そうだろうけど…。暗号の手紙だったらどう?」
 普通の手紙なら、パパやママに読まれちゃったら大変だから、ラブレターは無理。
 ハーレイはぼくの恋人なんだ、って分かっちゃったら、こんな風に会えなくなっちゃうし…。
 でも暗号なら大丈夫だから、暗号の手紙。…暗号で書いた手紙をくれない?
「暗号だって?」
「そう、暗号」
 知られたくない中身だったら、暗号で書けばいいんだよ。手紙だってね。
 それなら何が書いてあっても安心なんだし、ハーレイの家に暗号の手紙を出そうかな、って…。



 今日の新聞にこんな話が載っていたよ、と披露した。お祖父さんとお孫さんの間の文通、暗号を使った秘密の手紙。下の学校の子供が作った暗号だから、新聞記者でも読めるけれども。
「それを真似して、ハーレイに書こうと思ったんだよ。暗号の手紙」
 ぼくが暗号で手紙を書いたら、ハーレイも暗号で返事をくれればいいじゃない。秘密の手紙。
 パパやママが開けて読んでみたって、暗号文なら平気だよ。本当に暗号だったらね。
 新聞に載ってた子供みたいな暗号は使えないけれど、と付け加えるのも忘れない。誰でも読める暗号文など、全く役に立たないから。…ハーレイと文通するのなら。
「なるほどなあ…。お祖父さんと暗号で文通だなんて、実に微笑ましい話だな」
 取材に出掛けて行ったのも分かる気がするぞ。真似をしてみたい人も大勢いそうだから。
 お前もその中の一人なわけだが…。どんな暗号を考えたんだ?
 そう簡単には解読出来ない暗号だとは恐れ入った、とハーレイが知りたがる暗号。「俺は手紙を貰うわけだし、暗号、教えてくれるんだろう?」と興味津々な表情で。
 けれど、そうではない暗号。何も考案してはいないし、その上、すっかり忘れた始末。使おうと思って張り切ったのに、前の自分たちが何度も使った暗号を。
 だから素直に白状した。「ぼくは暗号、考えてなんかいないんだよ」と。
「わざわざ頑張って考えなくても、前のぼくたちのを使えばいいと思ったから…」
 人類に傍受されない暗号、通信に使っていたじゃない。シャングリラで暮らしていた頃に。
 あれを使おうと思ったんだけど、ちっとも思い出せなくて…。
 下書き用の紙を出しても、ペンを持っても、欠片も出て来てくれないから…。もうお手上げ。
 ハーレイだったら覚えてるでしょ、シャングリラのキャプテンだったんだもの。
 どう書けばいいの、と尋ねた暗号。本当は自分で書いてポストに入れたかった文章。
 「ぼくと暗号で文通してよ」は、暗号で書いたらどうなるの、と。
 主語の「ぼく」さえ出て来ないけれど、「ぼく」は暗号だと何になるの、と問い掛けた。まるで覚えていないのだから仕方ない。
(…ハーレイに訊いて書くなんて…)
 情けないけれど、「聞くは一時の恥」という言葉もある。「聞かぬは一生の恥」になるのだし、此処で頭を下げておいたら、掴める手掛かり。遠い昔に馴染んだ筈の暗号文。
 少しだけでも耳にしたなら、思い出せるかもしれないから。暗号の仕組みを、丸ごと全部。



 大恥だけれど此処は我慢、と訊いたのに。忘れてしまった暗号のことを、シャングリラを纏めていたキャプテンに質問したのに、ハーレイは事もなげに答えた。「なんだ、そんなことか」と。
「前の俺たちの暗号なあ…。簡単なもんだ、頭なんかは使わなくても、そのままだから」
 悩む必要は何処にも無いぞ、というのが返事。シャングリラで使った暗号文。
「そのままって…?」
 何をそのまま使うって言うの、ぼくはホントに何も覚えていないから…。暗号は、何も。
 そのままだなんて言われても困るよ、その「そのまま」のことを説明してよ…!
 忘れちゃったぼくにも分かるように、と組み立て直した質問の中身。今、ハーレイから教わったことは、少しも理解出来ないから。いくら頭を使ってみたって、暗号は謎のままだから。
「そのままだと言っているだろう。…もう本当にそのままなんだ」
 ぼくと文通して、と書けばいいだけのことなんだが…。お前が書きたい、暗号の手紙。
 そっくりそのまま書くだけだ、とハーレイが言うから驚いた。それは暗号とは言わないから。
「ちょっと待ってよ、暗号になっていないじゃない!」
 ぼくがすっかり忘れちゃったと思って、冗談を言ってからかってるの?
 酷いよ、馬鹿にするなんて…!
 あんまりだよ、と上げた抗議の声。「文通する気が無いにしたって、酷すぎない?」と。
「馬鹿にしてなんかいないがな、俺は。…至極真面目に、お前の質問に答えただけだが」
 きちんとキャプテン・ハーレイとしての、記憶と知識を使ってな。今の俺の冗談とは違う。
 いいか、そいつを文字で書くから、そのままの形になっちまうんだ。…暗号じゃなくて。まるで暗号化されていなくて、誰でも読めてしまう文章。それじゃ暗号とは呼べないが…。
 ところが、同じ言葉を通信用の回線に乗せれば、きちんと立派な暗号になる。つまりは通信用の回線、それを通すしかないってこった。…暗号文にしたければな。
「えっと…。それって、どういうこと?」
 自分で暗号にするんじゃなくって、機械の力を借りていたわけ、シャングリラでは…?
「おいおい、其処まで忘れちまったのか、ソルジャーのくせに」
 いや、これはソルジャーの管轄の話じゃなかったな。忘れちまうのも無理ないか…。
 キャプテンには必須の知識だったが、ソルジャーは知らなくてもいいってトコだな、暗号は。
 もちろん知ってはいた筈なんだが、生まれ変わった後まで律儀に、覚えてなくてもいいわけだ。



 通信システムの仕組みまでは…、とハーレイが始めた話。前の自分たちが暮らしていた船、白いシャングリラと、改造前だった船のこと。
「前の俺たちだが、人類の通信は傍受していただろう。人類軍のも、民間船のも」
 鉢合わせしたら大変だからな、コンスティテューション号だった頃から誰かがチェックしていた筈だ。あの時代の俺は厨房にいたから、詳しいことまでは知らないが。
 まだシャングリラじゃなかった頃から、きちんと通信とその内容とを調べてたもんだ。
 前のお前が物資を奪いに出掛ける時にも、それを参考にしていたろうが、という指摘。どういう物資を積み込んだ船が何処を通るか、人類の船の通信を元に、航路を割り出していたのだから。
「そうだったけど…。それと暗号、関係があるの?」
 人類が暗号を使っていたって、それは人類の暗号だよ。…ミュウのじゃなくて。
 前のぼくたちの役には立たない暗号だけど、と首を傾げた。人類も使う暗号などでは、ミュウの船では安心して使うことは出来ない。既に知られた暗号文など、暗号の意味を成さないから。
「人類が使っていた暗号ってヤツは、この話とは無関係だな。何の参考にもしなかったから」
 シャングリラって名前をつけた後にも、前の俺たちには他に船なんかは無かったわけで…。
 船の格納庫にシャトルはあっても、それの出番は来やしない。飛び出して行く用が無いから。
 外に出るのは前のお前だけで、お前とは思念波で連絡が取れた。そんな頃なら、通信回線を使う必要は無かったんだが…。通信する相手が無いわけなんだし。
 しかし、白い鯨に改造したなら、事情はガラリと変わっちまうぞ。デカい格納庫まで持っていた船だ、その格納庫は空っぽじゃない。…前の船でも、小型艇くらいはあったがな。
 白い鯨はどうだったんだ、と問われた格納庫の中のこと。何基もあった、ギブリなどの船。
「シャトル、あったね…。白い鯨が出来て直ぐから」
 ギブリも、他の形の船も。アルテメシアに着くまで、出番は無かったけれど。
 載っていたっけ、と今でも思い出せる船。何隻もあった小型艇。前の自分が欲しいと願った、救命艇の姿が無かっただけで。
「あっただろうが、シャングリラの外に出て行ける船が幾つもな」
 それをシャングリラの外に出すなら、通信システムをどうするのかが問題だ。
 せっかくコッソリ隠れているのに、人類に全部、傍受されていたんじゃたまらんからな。
 俺たちが人類のを傍受していたみたいに、こっちの通信も筒抜けだなんて。



 そいつは大いに困るだろうが、と言われなくても分かること。シャングリラと小型艇とが交わす通信、それは秘密でなくてはならない。人類に通信を捉えられても、内容が掴めないように。
 白いシャングリラへの改造を前に、ゼルたちが中心になった研究。
 サイオンを活用したステルス・デバイスやシールドの他に、通信の暗号化というものも。人類に居場所を知られないよう、用心せねばならないから。
 けれど、それらの蓋を開けてみたら、通信の暗号化が一番簡単だった。意外なことに。
 思念波を補助的に使う通信システム。それが発信する通信自体を、コンスティテューション号という名前だった船のシステムでは全く拾えない。雑音としてさえ捉えられない。
 受信自体が不可能なのだ、と開発を始めて直ぐに分かった。思念波が介在しているだけで、もう人類の通信とは全く違う。同じように通信を飛ばしてみたって、人類はそれを拾えない。
「つまりだな…。暗号化する必要さえも無かったんだ」
 どうせ人類には捕捉されないし、傍受も出来ん。どんなに盛んに通信してても、届かないんだ。人類が乗ってる船の中にも、もちろん基地や惑星の上の都市にもな。
 ミュウの船同士で通信するなら、もうそれだけで暗号だった。いや、それ以上と言うべきか…。
 暗号だったら傍受も出来るが、通信していることさえ分からないんだから。
 あのシステムさえ持っていたらだ、暗号の出番は何処にも無い。捉えられない通信なんだぞ?
 人類に向かって送りたいなら、暗号化なんぞは不要だしな?
 ジョミーがやってた思念波通信、あれも暗号なんかじゃなかった。人類に向けて、思念波を直接送っただけだ。文字通り、そのままの思いってヤツを。…あの時のジョミーの。
 通信システムさえ使っていないぞ、思念波を送ってやったんだから。大々的にな。
 結果は裏目に出ちまったんだが、とハーレイがついた深い溜息。ジョミーが送った強い思念は、人類の世界に悪影響しか及ぼさなかった。そんな意図など、誰も持ってはいなかったのに。
 お蔭で人類はそれまで以上に、執拗にミュウを追うことになる。宇宙を彷徨う白い鯨を。
「そうだったっけね…。前のぼくたちが使った通信、人類には掴めなかったんだっけ…」
 仕組みが違いすぎていたから、どう頑張っても拾うのは無理。…ミュウ同士で交わす通信は。
 シャングリラから外の小型艇に向けて飛ばしていたって、その逆だって。
 ミュウが交信していることさえ、人類は知らずに暮らしてたっけ…。
 アルテメシアに辿り着く前も、あそこの雲海に長いこと潜んで飛んでた間も。



 人類には傍受されない通信システム、それを開発したゼルたち。暗号などは一切使わずに。
 どう試みても読めない暗号、そうとも呼べた通信内容。まるで拾えない通信なのだし、読み解くことは不可能だから。マザー・システムを構成していた、コンピューターを総動員しても。
「…シャングリラに暗号、無かったんだ…」
 あったつもりでいたんだけれど、暗号は何処にも無かったんだね。通信システムを使っただけ。
 言葉をそのまま送るだけで良くて、人類には通信していることさえ分からないんだから。
 暗号よりも凄いけれども、暗号は無し…。暗号、使いたかったのに…。
 前のぼくたちが使った暗号、とガックリと落としてしまった肩。ハーレイに送りたいと思った、暗号の手紙は書けないらしい。暗号は無かったのだから。
「お前にとっては残念なことに、そうらしいな。シャングリラは暗号など無かった船だ」
 暗号なんぞを作らなくても、通信自体を丸ごと隠しておけたんだから。人類の目からも、機械の監視網からだって。
 お前が忘れてしまったわけじゃないんだ、暗号化する方法を。…最初から無かったんだから。
 俺に訊いてた「ぼく」って言葉も、「暗号」の方も、暗号に出来やしないってな。
 文字の形にしたいのなら…、と慰められた。「残念だったな」と、半ば笑いながら。
「そうみたい…。ハーレイと文通、暗号だったら出来るよね、って思ってたのに…」
 パパにもママにも読めやしないし、何を書いても大丈夫だから。ハーレイがどんな手紙を書いてくれても、机の上に堂々と置いておけるから…。「ハーレイに貰った手紙だよ」って。
 中身のことを質問されたら、「前のぼくたちの悲しい話」って言っておこうと思ってたのに…。
 手紙なら色々書けるけれども、二人で会ってる時に話したら、涙が止まらなくなるような。
「おい、とんでもない悪ガキだな?」
 悪知恵ってヤツを働かせやがって、俺にいったい何を書かせるつもりで暗号の手紙だったんだ?
 その調子だと、ラブレターを狙っていそうだが…。
「…書いて貰えると思っていたもの、文通がすっかり普通になったら」
 暗号の手紙をやり取りしてたら、ハーレイだって慣れてくるでしょ?
 ぼくがラブレターを送った時には、ちゃんと返事が来そうだよね、って…。
 ハーレイだってラブレターを書いてくれそうだよ、って思ったから書きたかったのに…。




 夢がすっかり壊れちゃった、と残念でたまらない暗号のこと。前の自分たちが使った暗号。
 忘れたのかと思ったけれども、暗号は存在しなかった。それは必要無かったから。通信の内容を隠さなくても、人類はミュウの通信自体を、把握する術を持たなかったから。
 人類に傍受されないからこそ、アルテメシアの育英都市に潜入班の者たちを送り込めた。地上に降りて動く彼らと、いつでも自由に通信出来た。思念波が届かない場所にいたって。
 きっとナスカでも、あのシステムが活用されていたのだろう、と考えていたら…。
「前の俺たちの暗号か…。そんなものは無かったわけなんだが…」
 人類には捕まえられない通信システム、それで充分だったんだが…。だがなあ…。
 あのシステムをだ、もう少しばかり研究しとけば良かったな。今頃になって言い出してみても、遅すぎるんだが…。
 俺はとっくにキャプテンじゃないし、シャングリラだってもう無いんだから。
 だが…、とハーレイが腕組みをして考え込むから、キョトンと見開いてしまった瞳。とうの昔に完成していた通信システム、それをどうしたかったのか、と。
「えっと…。研究するって、あれ以上、何を?」
 通信システムは完成品でしょ、シャトルとか潜入班の仲間と、ちゃんと通信出来たんだから。
 人類には一度も見付からないまま、地球まで辿り着けた筈だよ。
 ナスカが人類に知られちゃったのは、通信のせいじゃないんだもの。あそこに近付く人類の船を追い払いすぎて、「なんだか変だ」って思われたのが原因で…。
 通信は関係無かったでしょ、と瞳を瞬かせた。「あのシステムは完璧だったよ?」と。
「其処なんだ。完璧に出来てはいたんだが…。そうなった理由と言うべきか…」
 人類が捕捉出来なかった理由は、思念波が絡んでいたからだ。サイオンを使った装置だから。
 俺が言うのは其処の部分だ、研究しておけば良かった所。
 せっかく思念波を使っていたんだ、あのシステムにも増幅装置を組み込むべきだった。他のには使っていたのにな…。ステルス・デバイスにも、サイオン・シールドにも。
「増幅装置って…。なんで?」
 そんなの、必要無かったじゃない。暗号なんかは要らなかったのと同じで、意味なんか無いよ。
 何処にでも通信は届いてたんだし、増幅装置を入れなくっても…。
 通信障害が起きるんだったら、それも必要だろうけど…。



 一度も起こっていなかったじゃない、と前の自分の遠い記憶を探ってみる。通信システムは常に正常だった筈。障害などは起きもしないで。
 ジョミーがアルテメシアの遥か上空まで駆け上がった時も、システムはきちんと作動していた。人類軍の猛攻を浴びる中でも、シャングリラはリオを救いに出掛けた小型艇を把握し続けたから。
 とても小さな船が何処まで飛んで行ったか、リオを救出できたのか。
 無事に救って逃げ出した後は、何処でシャングリラと合流すべきか、全てにおいて頼った装置。小型艇の方でも、それを送り出したシャングリラでも。
 だからこそ「無かった」と言える障害。ただの一度も通信障害は起こらなかった、と。
「…そうなるだろうな、前のお前が知ってる限りじゃ一度も無かった」
 お前が深い眠りに就いちまった後も、一度も困りはしなかったから。何処を飛んでいても。
 だがな…。あのシステムでも、電磁波障害の中では通信出来なかったんだ。
 元が思念波を使ったヤツだったんだし、増幅装置さえ組み込んでおけば、解消出来た筈なのに。もっと応援を増やして来い、と言いさえすれば、いくらでも強く出来るんだから。
 増幅装置さえ入っていればな…、とハーレイが眉間に寄せた皺。「だが、無かった」と。
「ハーレイ、何か覚えがあるんだね…?」
 前のぼくがいなくなった後だろうけど、電磁波障害で通信が途絶えちゃったこと。
 人類軍との戦いの時なの、ジュピターの上空で戦った頃は船も増えてたらしいから…。ブラウやゼルが指揮してた船と、艦隊を組んでいたんだものね?
 他の船と連絡が出来なかったの、と思い浮かべた歴史の授業で習うこと。人類軍との最大規模の戦闘があったジュピター上空、あそこだったら電磁波障害が起こったかも、と。
 けれどハーレイは「違う」と答えた。それは辛そうな顔をして。
「…ジュピターじゃないんだ、ナスカでのことだ」
 シェルターとの通信が途絶えちまった、メギドのせいで。…あれがナスカを襲ったせいで。
 前のお前たちが防いでくれても、攻撃は地上に届いたからな。電磁波障害だって引き起こす。
 惑星崩壊を誘発するほどの破壊力だし、シェルターなんかはどうしようもない。一時的な避難のために作られた施設だ、通信設備に力を入れちゃいなかった。最初からな。
 シャトルとは連絡が取れていたのに、シェルターだけは繋がらなかった。どう頑張っても。
 お前が命を懸けてくれたのに、シェルターの中の状態が掴めなかったから…。



 間に合わなかった、シェルターに残ったキムやハロルドたちの救出。
 通信障害が起こったせいで、皆は事態を甘く見すぎた。「連絡が取れないだけなのだ」と。中の仲間はまだ無事だろうと、差し迫った危険は無い筈だと。
 なにしろ場所がシェルターなのだし、外よりは遥かに安全な筈。其処に入っていない仲間を先に宇宙へ逃がすべき。ありったけのシャトルを総動員して。
「…俺たちは読み誤ったんだ。誰が危険に晒されているか、其処の所を勘違いした」
 とにかく外にいるヤツから、と指図してシャトルに乗せていた。シェルターの方は、まだ充分に持ち堪えると踏んでいたからな。…通信が繋がらないだけで。
 しかし本当は、もうそれどころの騒ぎじゃなかった。シェルターは崖の下にあったし、幾つもの岩が落ちて来たんじゃ、埋まってしまう。あの時点で既に、中はどうなっていたんだか…。
 非常灯さえ消えていたかもしれんな、俺たちが楽観視していた間に。
 まだ大丈夫だ、と他のシャトルの回収を急いでいた内に。
 ナスカにはジョミーが降りてたんだが、まるで連絡がつかなかったし…。だから余計に、通信が繋がらない程度だと思ったのかもしれん。
「ジョミーにも…?」
 連絡がつかないままでいたわけ、シャングリラは…?
 ジョミーだったら、通信システムなんかに頼らなくても、思念波で連絡出来るのに…。
「ああ。だが、忙しくしていたんだろうな、エラの思念も届きやしなかった」
 そちらはどうです、と何度呼び掛けても返事は返って来なかったんだ。ジョミーからも、船には一度も呼び掛けて来なかったから…。
 勘違いしても仕方ないだろ、「連絡がつかないだけなんだ」と。シェルターに残った連中とも。
 電磁波障害が起こっているなら、そういうこともあるからな。
 中のヤツらはきっと無事だ、と思い込んだから、撤退命令を出しただけで満足しちまった。打つべき手は全て打ったから、と。
 もしも通信が繋がっていたら、シェルターのヤツらを助け出すのが最優先だと気付いたのに…。
 あいつらだって、自分の命の危機には中で気付いていた筈だからな。
 其処へ救助がやって来たなら、あいつらも逃げていたんだろう。いくら頑固に頑張っていても、死ぬか生きるかなら、人間ってヤツは、生きられる道を選びたくなるモンだから…。



 救出の順番を読み誤った、とハーレイが悔やむ電磁波障害。途絶えたシェルターとの通信。
 シェルターの状況は分からないままで、多くの命を失う結果になってしまった。外にいた者は、残らず救い出せたのに。メギドの第一波で倒れた者たちを除いて、全て。
「…前の俺にとって、痛恨のミスというヤツだな。あそこで読み間違えたこと」
 もっとも、俺だけじゃないんだが…。エラもブラウも、ゼルも同じに間違えたんだが…。
 シェルターの中は外より安全だろう、と外のヤツらの救出を優先しちまったこと。
 だがな…。そうなった原因の、通信システムに起こった障害。
 前の俺は一度も、「改善しろ」と命令しちゃいない。シェルターで起こった事故の教訓、それを生かしはしなかった。もっと強固な通信システムを作れと言ってはいないってな。
 今の今まで、思い付きさえしなかったんだ。増幅装置を組み込むことを。
 シェルターの件で懲りていたなら、他の通信システムも全て改善すべきなのにな、とハーレイは悔しそうだけれども、そう思うのは今のハーレイ。前のハーレイではなくて。
 今の時代も英雄と呼ばれるキャプテン・ハーレイ、彼ならば思い付きそうなのに。今のハーレイでも気付くことなら、「増幅装置を組み込め」と命じそうなのに…。
「…どうして?」
 前のハーレイ、どうして考え付かなかったの?
 全く気付かないままだったなんて、前のハーレイらしくないけど…。今のハーレイでも、すぐに思い付くことなんだよ?
 ぼくとちょっぴり話してただけで、「増幅装置があれば良かった」って。
 ホントにハーレイらしくないよ、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。前のハーレイの同じ瞳が、読みを誤るとは思えないから。…シェルターとの通信が途絶えた時の判断の件はともかくとして。
「それがだな…。本当に俺がやっちまったんだから、もうどうしようもないってな」
 前のお前を失くしちまった時のことだぞ、ナスカで起こった悲劇と言えば。
 きっと触れたくもなかったんだろう、あそこで救い損ねた仲間たちの身に起こったことは。
 電磁波障害が起こらなかったら、あいつらを無事に助け出せたということも。
 …俺はキャプテン失格だな。私情が邪魔をしていたようじゃ。
 前のお前を失くしたショックで、すっかり封印しちまったらしい。ナスカの教訓を生かそうとはせずに、忘れる方へと持って行ってな。



 情けないキャプテンもあったもんだ、とハーレイが零した大きな溜息。シェルターの件で懲りていたなら、通信システムの改善をさせておくべきなのに、と。
「俺としたことが…。私情は交えていないつもりで生きてたんだが、違ったようだ」
 前のお前を失くした後では、すっかり鈍っていたらしい。俺に自覚が無かっただけで。
 もう本当に、どうしようもないキャプテンだよな、とハーレイは自分を責めるのだけれど。赤いナスカで失くした仲間たちの死を、少しも役に立てられなかった、と悔やむのだけれど。
「でも、ハーレイ…。ハーレイはそう言うけれど…」
 それまではあのシステムで良かったんだし、ナスカから後も、困ったことは無かったんでしょ?
 同じように困ったことがあったなら、ハーレイだって気が付くもの。改善しなきゃ、って。
「…俺が生きてた間はな。幸いなことに、二度と無かった」
 しかしだ、地球が燃え上がっちまった時にはどうだったんだか…。俺はとっくに船にいないし、多分、死んじまっていたんだろうが…。
「地球が燃えちゃった時のことって…。シャトルとは、ちゃんと通信出来てたんじゃないの?」
 シドがシャトルを降ろしたんでしょ、人類たちを助けるために。
 全部回収して、それからシャングリラは地球を離れて行ったんだから…。通信システムに障害は出ていなかったんだよ。まさか通信出来もしないのに、シャトルを降ろしはしないでしょ?
 いくらシドでも、そんな無茶は…、とチビの自分でも分かること。それは有り得ない、と。
「そういや、そうか…。あの程度ならば、大丈夫だったというわけか…」
 大規模な地殻変動だったが、電磁波障害を引き起こすまではいかなかった、と言うんだな?
「少しは起こっただろうけど…。通信障害が起きるほどではなかったんだよ」
 メギドの時が酷すぎただけ。誰もあんなの考えないもの、星ごと滅ぼす兵器なんかは。
「だが、実際に起きたことだし、対策を立てておくのがだな…」
 キャプテンの務めなんだと思うが、とハーレイが言うから、首を横に振った。
「ハーレイはそう言うけれど…。キャプテンだから、って完璧でなくてもいいと思うよ」
 キャプテンだけれど、前のハーレイだって、人間だもの。
 おまけに、前のぼくを失くしてしまって、独りぼっちで残されちゃって…。
 それでも頑張ってくれたんだものね、シャングリラを地球まで運ぶために。
 とても悲しくて辛かったくせに、みんなにはそれを見せもしないで…。



 だから自分を責めたりしないでいいと思う、と微笑んだ。「前のハーレイは頑張ったもの」と。
「ホントだよ? ぼくはそう思うよ、とても立派なキャプテンだった、って」
「そう言われると、ホッとするがな…。ありがとう、ブルー」
 お前、慰めてくれるんだな、とハーレイに笑みが戻ったから。もう苦しくはないようだから…。
「じゃあ、御礼、くれる?」
 ぼくに御礼、と頼んでみた。ここぞとばかりに、さっきの話を思い出して。
「御礼だって?」
「うん。暗号でなくてもかまわないから、手紙、ちょうだい」
 中身はホントになんでもいいから、一回だけ。…郵便屋さんが届けてくれる手紙を。
 お願い、とペコリと頭も下げた。本当に手紙が欲しいのだから。けれど…。
「そいつは駄目だな、ラブレターになっちまうから。俺がお前に書くとなったら」
 しかも御礼の手紙となったら、それっぽいヤツになっちまう。前のお前のことも書くから。
 お前、そういう魂胆だろうが、違うのか…?
「酷い! ぼくは其処まで考えてないよ!」
 普通の手紙が欲しかったんだよ、本当だってば。どんな手紙でもいいんだから…!
 なのに駄目だなんて、ハーレイのケチ、と怒ったけれども、貰えない手紙。ハーレイは書いてはくれないから。「ラブレターを書くのはお断りだ」と、切り捨てられてしまったから。
 それに暗号の手紙を綴って、文通を始めることも出来ない。
 暗号の手紙は素敵だけれども、ミュウに暗号は無かったから。そうだったと気付かされたから。
(なんだか残念…)
 もう本当に残念だけれど、きっといつかは貰えるだろうラブレター。家のポストに配達されて。
 今のハーレイから、熱い思いが綴られている本物を。郵便屋さんのバイクが運んで来て。
 ちょっぴり悔しい気はするけれども、今は本物が届く日を楽しみに待つことにしよう。
 暗号で秘密の手紙を書く気は、ハーレイにはまるで無いのだから。御礼のラブレターだって。
 白いシャングリラに暗号は無くて、自分からも書いて送れはしない暗号の手紙。
 それが書けたら素敵だろうに、暗号で綴った秘密の手紙は、自分には書けはしないのだから…。



            ミュウと暗号・了


※ハーレイと暗号で文通しよう、と思い付いたブルー。前の生で使った暗号なら大丈夫。
 ところが暗号は無かったのです。ミュウが開発した通信システム、それ自体が傍受は不可能。
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