シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…)
何なんだろう、とブルーはテーブルに置かれたものをまじまじと眺めた。ブルーの部屋の窓際、ハーレイと向かい合わせで座る場所。
ハーレイが訪ねて来るとお茶とお菓子や、昼食などの器が鎮座するのが普通だけれど。
母が運んで来た緑茶。それにお煎餅が盛られた菓子鉢。
緑茶とお煎餅は特に不思議ではないが、どうしたわけだか、その他に空のお茶椀が二つ。一つはブルーが使っているもので、もう一つの茶碗は来客用。
お箸も二組、おまけに御杓文字。
(なんでお茶碗?)
お煎餅を食べるのに要りはしないし、お箸も同様。御杓文字だって。
何が起きたというのだろう、と見詰めていると、ハーレイが「これだ、これ」と提げて来ていた紙の袋を持ち上げてみせた。
「此処へ来る途中で買って来たんだ」
まあ食ってみろ、と出て来る包み。四角い箱だけれど、包装されていては中身が分からない。
箱の感じからしてお菓子だろうか、と考えていたら。
「…お赤飯?」
何かのお祝いだったっけ、とブルーは赤い瞳を見開いた。
遠い昔にハーレイと暮らしたシャングリラにお赤飯は無かったけれども、生まれ変わってからは馴染みのもの。ブルーとハーレイが住んでいる地域では、お祝い事の時に炊かれるお赤飯。
「祝いってわけじゃないんだが…」
通りかかったら、出来上がった所だったんだ。
此処のは栗がたっぷりでな。元から塩味がついているから、塩を振りかけなくてもいい。
その塩加減がまた絶妙なんだ。
「美味いんだぞ」と勧めるハーレイ。
祝い事でなくてもたまに食べたくなるのだと。
「でも、ぼく…。さっき、朝御飯…」
「食べたトコだってか?」
それくらい、俺にも分かっているさ。
昼飯用にと買って来たんだが、出来立てのヤツも味見してみろ。
まだ温かいから、とびきり美味い。温め直すより、断然、こっちが美味いんだ。
「…ふうん?」
それなら少し食べようかな、とブルーは思った。
ハーレイお気に入りの味というのも、是非味わってみたかったから。
「よし、それじゃ味見といこうじゃないか」
ハーレイが赤飯の包みを開けると、ありがちなパックなどとは違って薄い木で作られた箱が出て来た。いわゆる折箱。それだけでも店のこだわりが分かる。
折箱の蓋が取られると、ぎっしりと詰まった栗赤飯。南天の葉もきちんと添えてあった。
本物だぞ、というハーレイの言葉通りに、作り物ではない艶やかな本物の南天の葉。
「この辺りもおふくろのこだわりに似ていてな」
「え?」
「俺のおふくろだ。赤飯を炊いて折箱とかに詰める時には、南天の葉っぱを添えるんだ」
庭の南天の葉を採って来てな。
南天は難を転じると言うから縁起がいい。そしてお裾分けだと配るわけだな。
「へえ…!」
「祝い事でなくても作ってるなあ、好きなんだろうな?」
しかも炊くと言っても実際には蒸して作るんだ。こういった店と同じでな。
だから此処のは同じ味なんだ、おふくろが作る赤飯の味だ。
こういう味だ、とハーレイが杓文字で茶碗に入れてくれた栗赤飯をブルーは早速味わってみた。口に入れると、ほんのり塩味。
「美味しい…!」
「そうだろ、此処のは本物だからな」
赤飯を専門に扱う店は何処もそうだが、とハーレイも自分の分を頬張る。
他のお弁当などと一緒に店頭に並ぶものは些か違うものだと、色の付け方からして違うのだと。
「色の付け方? …お赤飯って赤い御飯でしょ?」
これも赤いよ、とブルーは指差したけれど。
「どうだかな? 如何にも赤って感じがしないか、くすんでいなくて」
「…そうかも…」
言われてみれば御飯粒の赤に透明感があるようにも見えた。透き通ってはいないが、艶々と光る御飯粒。普通はもう少し暗めの赤だったかな、という気がする。
「この赤色はどうやってつけるか知ってるか?」
「小豆の色でしょ?」
赤い豆だもの、あの色だよ。
お赤飯を炊いてる間に、小豆の色が移るんだよ。
「違うぞ、こいつはキビガラというヤツを使っているんだ」
「キビガラ?」
「キビっていう穀物の一種だな。そいつの実の殻を煮出すと赤い水が出来るから、その水に糯米を浸けておく。そうやって赤くするわけだ」
キビガラを使わないと本物の赤飯の色にはならん。着色料なんかは論外だな、うん。
もちろん、おふくろもキビガラ派だぞ。
ブルーはお赤飯をほんの少しと、栗を一個が限界だったけれど。
栗赤飯を持ち込んだハーレイの方は、軽くとはいえ茶碗に一杯を盛り付けていて。
「この赤飯に入ってる栗もだ、こうして鮮やかな黄色にするには秘訣があるんだ」
ちゃんと自然の素材だぞ。クチナシの花は知ってるだろう?
「クチナシ?」
強い香りがする白い花ならブルーも知っていた。
しかしクチナシは白い花だし、何処から黄色になるのだろう?
キビガラとやらのように煮るのだろうか、と尋ねてみたら。
「煮るっていうのは間違ってないが、花じゃない」
花が咲いた後に出来る実だ。
白い花からはまるで想像出来ないだろうが、あの花の実から綺麗な黄色が出て来る。
おふくろはサツマイモを煮る時なんかにも使うぞ、美味そうな黄色になるからな。
「…黄色って、サフランだけじゃないんだ…」
「おっ、サフランは知ってたか?」
「ママが使うもの、サフランライスとかパエリアだとか」
サフランの花の雌しべだよね、とブルーは母が常備している乾燥したものを思い浮かべた。
赤い糸のようにも見えるサフラン。
赤いのに黄色い色が出るのか、と幼い頃には不思議だった。
「サフランなあ…。昔はとてつもなく高かったそうだぞ、金よりもな」
「そうだったの?」
あんなものが、とブルーは驚いたのだが、「本当だとも」と答えが返る。
「同じ重さの金よりも高い時代があったという話だ」
SD体制よりもずっと昔だ、今はそこまで高くはないがな。
「そうなんだ…。キビガラだとか、クチナシだとか。いろんな自然の着色剤があるんだね」
「ああ。自然の色はいいぞ、自然と共に生きてるっていう感じがするからな」
中にはユニークなのもある。ツユクサなんかは面白いぞ。
「青いんでしょ?」
「ただ青いっていうだけじゃない。染物の下描きに使える優れものだ」
下絵を描いた後で布を蒸すとか、水に浸けるとか。
それで下描きが綺麗に消えちまうそうだ、ちゃんと青色で描いたのにな?
「消えちゃうんだ…」
凄い、とブルーは感心した。
SD体制よりもずっと昔の時代に、今、ブルーたちが住んでいる地域にあった小さな島国。その国で染物の下描きに使われたというツユクサの文化も今では復活しているらしい。
キビガラで染めるお赤飯が復活したのと同じで、日本らしさを楽しんでいる地域の文化…。
昔の人の知恵はなんと素晴らしいものだろうか、とブルーは呟く。
シャングリラにはそうした自然の着色剤は何も無かったと、全て合成のものだったと。
「そういう発想、前のぼくには全然無かったよ…」
「俺もだが…。シャングリラにも木とか草はあったし、前の俺たちが頑張っていれば草木染とかは出来たかもなあ…」
タマネギの皮でだって染物は出来る。
データベースで色々調べて工夫してれば、自然の染料が作れたかもな。
「それで制服なんかも作れたのかな?」
「出来たかもしれんが、お前のマントがとびきり高そうな感じだな」
「なんで?」
どうしてマント、とブルーが訊くと「紫だからさ」とハーレイは答えた。
「紫ってヤツはSD体制よりもずっと昔は高貴な人しか着られなかった。何故だか分かるか?」
染めるのが高くつくからだ。簡単に作れる色なら高くはならん。
日本じゃ草の根っこで染めたが、貝で染めてた地域もあったそうだ。
「貝!?」
ブルーはビックリ仰天した。
どうやって染めるのかは分からなかったが、シャングリラで貝は飼育していなかったから。
「…それ、シャングリラじゃ無理そうだね…」
「無理だな、マントを染めるためだけに貝を飼うなんぞはな」
草の根っこにしてもそうだぞ、野菜ってわけじゃないからな。
食えもしないのに育てられるか、シャングリラの中じゃ植える場所に限りがあるってもんだ。
それでも紫草……そういう名前の草だったんだが、そいつを育ててマントを染めたら。
ソルジャーだけが使える色だな、とびきり高貴な色だったってな。
「うーん…」
ブルーだけしか使えない紫。
前の自分はソルジャーだったけれど、その地位を示す色を特別に作らせるほど偉くはなかったとブルーは思う。他の仲間たちと同じでも一向に構わなかったし、それでいいとも思っていた。
けれども纏っていたソルジャーの衣装。前のハーレイのキャプテンの制服などと同じく、立場を表すための服装。区別が出来ればそれで充分、紫のマントにこだわらなくても…。
「ねえ、ハーレイ。自然の素材で服を染めてたら、地味だったかな?」
服の形でしか区別出来なかったかな、ぼくとか、前のハーレイとか。
マントを着けているのがぼくとか、その程度の違いしか無かったかな?
「いやいや、色なら沢山あったさ。昔の日本じゃ色の組み合わせの決まりもあった、と俺の授業で教えただろう?」
この話をした日は色付きの紙のセットが飛ぶように売れる、と言ってた昔の人のラブレターさ。
あれこれと紙の色を選んで、花を添えて出してた手紙だな。
「あったね、そういう手紙の話」
「思い出したか? あの時は手紙の話だけだが、服の色にも決まりがあったのさ」
この色とこの色を重ねて、こういう花を表します、とか。
同じ花でも咲き始めの頃と盛りの頃とで色を変えます、とか、こだわったわけだ。
「そこまでしてたの!?」
「他にも季節に合わせて色々とな。秋の紅葉とか、冬の氷とか」
もちろん自然素材の色だぞ、合成の染料なんかは無かった時代だ。
それだけバラエティー豊かに染めていたんだ、地味どころかうんと華やかだったさ。
遥かな昔には自然の染料だけで様々な色があったと言うから。
シャングリラの中でも同じことが出来たかもしれない、とブルーは考えた。
「そっか…。だったら、シャングリラでも沢山の色を作れていたかも…」
「努力してれば出来たかもなあ、前のお前の苦労が増えるが」
あの頃のシャングリラにあった植物だけでは全然足りなかっただろうしな。
「苗を調達しろってことだね、草とか、木とかの」
「そういうことだ。色を染める以外にも役に立つ植物と言ったら紅花とかか」
「紅花って油を採るんじゃないの?」
食用油として有名だったから、それしか知らなかったブルーだけれど。
「あれは本来、染料だ。紅花という名前があるくらいだから、赤色だな」
ジョミーのマントを染めるんだったら紅花になるか…。
もっとも染料は油と違って簡単には出来ん。
油は種を搾れば出来るが、染料の材料は花びらなんだ。
そいつを摘んで、うんと手間暇をかけて赤い染料が出来上がる。
サフランと同じで高価だったそうだ、沢山の花からほんのちょっぴりしか採れないからな。
「紅花から赤が採れるんだったら、お赤飯も出来る?」
ジョミーのマントみたいに鮮やかな赤だ、とハーレイに訊かされて、そう思ったのに。
「油はともかく、染料の方は食用じゃない」と笑われた。
食べても害は無いのだろうが、お赤飯を染めるには高価に過ぎると。復活してきた文化の一つで今も作られてはいるのだけれども、手間がかかる分、値段も張ると。
「紅花の赤で赤飯を染めたら高いだろうなあ、色は鮮やかかもしれんがな」
「キビガラだったらうんと安いの?」
「そりゃなあ、キビの実の殻だしな?」
本来は捨てるような部分だ、高くなるわけがないだろう。
「キビガラでも充分綺麗だしね」
それに美味しい。
キビガラの味かどうかは知らないけれども、美味しいお赤飯だったよ。
「おっ、そうか?」
お前、少ししか食わなかったから心配だったが…。
そうか、美味いか。
俺のおふくろもキビガラ派で、作り方はコレと同じだからな。
楽しみにしてろよ、いずれ食わせてやるからな。
きっと張り切って作るだろう、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
「うんと沢山作ると思うぞ、お前を連れて行ったらな」
親父と二人で糯米を蒸して、ドッサリだ。
栗の季節なら栗もたっぷり入れるだろうなあ、クチナシで染めて。
「…ぼく、そんなに沢山食べられないよ?」
お茶碗に一杯くらいだと思うよ、二杯は無理。
沢山作らなくてもいいって言っておいてよ、お母さんたちに。
「お前が食うかどうかはともかく、配って回らんといけないからなあ…」
「えっ?」
どうして配るの、と驚くブルーに、ハーレイがパチンと片目を瞑る。
「俺が未来の嫁さんを連れて行くんだぞ?」
目出度いじゃないか、親父とおふくろにしたら。
これを祝わずにどうするんだっていうことになるだろ、幸せな気分をお裾分けしなきゃな。
そりゃもう沢山の赤飯を作って、隣近所に配って回るだろうさ。
ちゃんと庭の南天の葉っぱも添えてな。
マーマレードを配っている範囲に配りに行くのは確実だな、うん。
「そうなるわけ!?」
ブルーの頬が真っ赤に染まった。
いつか隣町にあるハーレイの両親の家に出掛けて行ったら、作られるというお赤飯。
おめでたいからと隣近所に配られるらしい、南天の葉を添えたお赤飯…。
嬉しいけれども、恥ずかしい。
ハーレイのお嫁さんになれることはとても嬉しいのだけど、お赤飯を配られてしまうだなんて。
「…それじゃ、ハーレイが結婚すること、アッと言う間にご近所さんに…」
「広がるだろうなあ、お前が俺の家でのんびり赤飯を食ってる間に」
ついでにお前を見たいって人も多いと思うぞ。
俺がガキだった頃から馴染みのご近所さんたちだ。
どんな嫁さんを貰うことにしたのか、見ようと集まってくるかもな?
「…そうなっちゃうの?」
「生垣越しに中を覗いている人がいたらだ、庭に出て手を振ってやるといい」
とびきりの笑顔で手を振ればいいさ、向こうさんだって手を振ってくれる。
なんたって俺の未来の嫁さんだからな。
「手を振るだけでいいの? ご挨拶じゃなくて?」
「そこまで堅苦しいことは要らんさ、昔の地球じゃないんだからな」
俺が嫁さんを貰う、それだけのことだ。
挨拶はいずれ道とかで会った時でいいのさ、ペコリと頭を下げるだけでな。
ずっと昔は挨拶も大変だったらしいが、とハーレイはSD体制よりも遥かな昔の習慣をブルーに教えてくれた。
近所や親戚の家を回って結婚の報告をしていたものだと、菓子折りなども持って行ったのだと。
「何を持って行くかは、同じ日本でも場所によって違ったという話だが…」
その時の作法も色々なんだが、とにかく面倒なものだったんだ。
お前がそういう挨拶を是非やりたい、と言うんだったら調べてやらないこともない。
親父もおふくろも昔の習慣とかが好きだし、喜んで協力してくれるだろう。
お前、そういった挨拶をして回りたいか?
「それ、ハーレイも一緒に来てくれるの?」
「お前が行きたいんだったら止めはしないし、必要とあらば一緒に行くが?」
「えーっと…」
それって、ちょっぴり恥ずかしくない?
ぼくがハーレイのお嫁さんです、って顔を見せに出掛けて行くんでしょ?
お嫁さんだったら、ホントに本物の恋人同士…。
前の生ではハーレイと結ばれていたブルーだったけれど、今はキスすら出来ない仲。
晴れて本物の恋人同士となり、それを公表できる機会が結婚。
そういう仲になったんです、と隣近所に挨拶をしに行ける度胸はブルーには全く無かった。
ところが結婚相手となるハーレイの方は澄ましたもので。
「恥ずかしいだと? 俺はお前をあちこち自慢して回れるんだから、何ともないが?」
「平気なの!?」
どうしよう、とブルーは耳の先まで真っ赤になった。
挨拶は出掛けなくてもかまわないとして、ハーレイの母が作って配るというお赤飯。隣町にある家を訪ねたら、「ハーレイがお嫁さんを貰うから」と配られるらしいお赤飯。
お赤飯を貰った人たちはブルーがハーレイと何をするのか、当然、知っているわけで。
ハーレイがどういう相手とそれをするのか、ブルーの顔を見に来るわけで…。
(…ど、どうしよう…)
恥ずかしすぎる、と俯くブルーに、ハーレイがクックッと喉を鳴らして。
「その調子だと挨拶回りは無理だな、おふくろの赤飯に期待しておけ」
ご近所さんにドカンと配ってくれるさ、うちの息子が今度結婚するんです、とな。
キビガラで沢山の糯米を染めて、庭の南天の葉っぱを添えて。
「もしかして、初めて行ったらそれなの!?」
悲鳴にも似たブルーの声に、ハーレイはプッと吹き出した。
「まさか。最初は遊びに行けばいいのさ、普通にな」
そして親父と釣りに行くとか、キャンプ場に遊びに出掛けるとか。
「…良かったあ…」
ホントに良かった、とブルーは安堵したのだけれども。
「良かった、か…。いつまでそう言っているものやら…」
今年いっぱい持つかどうか、とハーレイが難しい顔をしてみせるものだから。
「なんで?」と首を傾げたブルーに、笑いを含んだ答えが返った。
「俺が思うに、じきに変わるぞ、お前の台詞」
早く赤飯、と俺にせっつくんだ。
親父とおふくろの家に早く連れて行けと、そして赤飯を配って貰うんだと。
お前の夢は結婚だろうが、その前に赤飯を配らないとな?
「そ、そっか…」
じゃあ、お赤飯! とブルーは叫んだ。
早くお赤飯を配って欲しいと、ハーレイの母にキビガラで染めるお赤飯を作って欲しいと。
専門の店と同じように蒸して作った、絶妙な塩加減のお赤飯。栗の季節ならばクチナシで染めた黄色い栗がたっぷりと入るお赤飯。
庭にある南天の葉っぱを添えて、折箱に詰めて配って欲しい。
今度ハーレイが結婚するのだと、おめでたいからお赤飯を沢山作ったのだ、と。
「ふむ…。この赤飯はまさしくおふくろの味なわけだが」
そして本格派の赤飯なんだが、とハーレイはテーブルに置かれた折箱を指差した。
「俺はとりあえず軽く一杯食ったが、お前は少ししか食ってないしな?」
お前のお母さんに昼もこれにします、と言っておいたから、昼飯には温め直してくれるだろう。「お赤飯にピッタリのおかずを作りますわね」とも言っていたなあ、お母さんは。
何を作ってくれるのか知らんが、一つそいつで前祝いといくか?
いずれお前が俺の家に来て、おふくろが赤飯を配りに行く日の前祝いだ。
「気が早すぎだよ!」
何年先の話になるわけ、とブルーは頬を膨らませたけれど。
いつかはハーレイの母がキビガラで染めた糯米を蒸して、お赤飯をドッサリ作ってくれる。
ハーレイがブルーを嫁に貰うのだと、お祝いなのだと隣近所に配ってくれる。
その日が来たなら、ハーレイとの結婚はもうすぐそこ。
今はまだチラリとも見えない何年も先の話だけれども、ハーレイと結婚して一緒に暮らせる。
百五十センチしかない自分の背が伸び、百七十センチになったなら。
ソルジャー・ブルーだった前の自分と同じ背丈になったなら…。
(それと、結婚出来る年だよ)
十四歳の小さな自分が十八歳の誕生日を迎えたら結婚出来る年。
背が伸びて、十八歳になったらハーレイと結婚することが出来る。
(…お赤飯、早く配って欲しいな…)
キビガラで染めたお赤飯。
ハーレイが買って来てくれたお赤飯と同じ味がする、南天の葉を添えたお赤飯。
(もうちょっとだけ食べてみようかな?)
ほんの少し、と杓文字で掬って、自分の茶碗に二口分ほど入れてみた。
箸で口へと運んでみれば、ほんのりと感じる優しい塩味。
本物はいつになるのか分からないけれど、これがハーレイの母の味かとブルーは思う。
早く配りたいような、恥ずかしいような、と頬をちょっぴり桜色に染めて……。
お赤飯・了
※いつかハーレイと結婚する時は、配られるらしいお赤飯。ハーレイの母が炊いたのが。
今は恥ずかしがるブルーですけど、その時が来たら、幸せ一杯の筈ですよね。
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「ハーレイっ…!」
嫌だ、と泣き叫ぶ自分の声で目が覚めた。
失くしてしまったハーレイの温もり。青い光の中、独りぼっちで死んでゆく自分。
遠い遠い昔、前の生での最期を迎えたメギドの悪夢。
「……ハーレイ……」
常夜灯だけが灯った部屋は暗くて、涙に濡れた声で呼んでも恋人の声は返ってこない。どんなに泣いても会えはしないし、声すら聞けない闇が降りる夜。小さなベッドに独りきりの真夜中。
ブルーは枕に顔を埋めて、右の手をキュッと握り締めた。
(…どうして…)
あの夢は見たくないというのに。
自分は青い地球に生まれ変わって、ハーレイと同じ町に居るというのに。
夢を見る度に怖くなる。今の自分は幻ではないかと、死んでしまったソルジャー・ブルーの魂が紡ぐ夢ではないかと。
(冷たいよ…)
右手が冷たい、と強く握り締めながら震えるけれども。
前の生の最期に失くしてしまったハーレイの温もりを取り戻そうとして握るのだけれど、恋人の温かな手は此処には無いから。
自分の小さな手しか無いから、懸命に恋人を思い浮かべる。
いつも温もりを移してくれる手。大きな手をした、優しい恋人。
自分と一緒に生まれ変わって来た、ずうっと年上の恋人を想って耐えるしかない。
今までに貰った温もりを心に思い描いて、手が温まるのを待つしかない…。
そうやってベッドで丸くなっていると、カーテンの向こう、暗い庭から聞こえて来た声。
人の声ではなく、獣でもなくて、夜のしじまを震わせる声。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
(…フクロウ…)
あの声のせいか、と思い当たった。
独特の低い声で鳴く鳥。
直ぐ近くから聞こえて来たから、庭の木のどれかに居るのだろう。
(…嫌だ…)
なんで、とブルーは上掛けを頭から被った。
早く何処かへ行って欲しいと、声の聞こえない場所へ行って鳴いて欲しいと。
(フクロウだなんて…)
初めて見た日は、ずっと幼い頃だった。
星を見ようと思ったのだろうか、夜の庭に出ていて出会ったフクロウ。
羽音も立てずに飛んで来た鳥の影を、ただ見上げていた。木の枝に止まった大きな鳥。丸い頭の大きな鳥だ、と真っ黒な影を見ていただけ。何かも知らずに見上げていただけ。
その後のことは覚えていない。飛び去るまで庭で眺めていたのか、自分が家に入ったのか。あの時の鳥がフクロウだったと気付いたのはずっと後のこと。何年か経った頃のこと。
けれど、幼かったブルーが目にしたフクロウ。
それは近所に住み着いたらしく、影を見てから間もない日の夜中に聞こえた気味の悪い声。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
子供の耳には恐ろしすぎた、暗い夜の部屋に響いてくる声。
泣きながら父と母とを起こした。庭の方から変な声がすると、あれはオバケに違いないと。
両親は「オバケ?」と直ぐに起きてくれたが、其処へあの声。
父は笑い出し、母も「あれはオバケじゃないのよ、ブルー」と頭を撫でてくれた。
「フクロウの声よ、庭に来たのね」と優しく涙を拭いてくれた母。
可愛くて縁起のいい鳥なのよ、と教えられたけれども、怖いものは怖い。オバケと同じ。両親は何故平気なのかと、庭で鳴く声に怯えて震えた。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
一度オバケの声だと思うと、もうそうとしか聞こえない。真っ暗な庭で鳴く、オバケの鳥。
(ホントのホントに怖かったんだよ…)
気味の悪い声で鳴く、恐ろしい鳥。
ずいぶん大きく育つ頃まで、あの鳴き声が怖かった。何度も両親を起こして泣いた。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
聞きたくないのに、また庭の方から響いてくる声。
フクロウは暫く来るのだろうか?
その度にメギドの悪夢を見るのだろうか、と怖くなる。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
お前は死んだと、メギドで死んでしまったのだ、と繰り返すかのようなフクロウの声。
もう死んだのだと、今のお前はただの夢だと、呪いをかけているような声。
幼い頃にオバケだと思っていたから、今もオバケの声に聞こえる。
フクロウなのだと分かっているのに、オバケの声だと思えてしまう。
(…やっぱり怖いよ…)
フクロウなんて、と幼かった頃の恐怖を思い出す。雷よりもずっと怖かった…。
そんな思いをした次の日、仕事帰りのハーレイが来て両親も一緒に夕食を食べた。食後のお茶を母がブルーの部屋に運んでくれたから、ハーレイと二人で窓際に座る。
テーブルを挟んで向かい合わせで、窓のカーテンはまだ開けたまま。昨夜フクロウが鳴いていた木は分からないけれど、黒々と木々の梢が見えていた。ブルーは微かに肩を震わせ、恋人に問う。
「ねえ、ハーレイ。…フクロウ、怖い?」
「はあ?」
ハーレイはポカンと口を開けたが、ブルーの説明と体験を聞くと腕組みをして頷いた。
「なるほどなあ…。子供には確かに怖いかもなあ、正体不明の声というのは」
ずっと昔は鵺という鳥が気味悪がられていたそうだしな。
「鵺?」
「頭がサルでタヌキの胴体、虎の手足に蛇の尻尾の化け物だ」
SD体制よりも遥かな昔に、そういう化け物が出たというんだが…。
そいつの声だと思われていたのが夜に鳴く鵺で、いわゆる不吉の象徴ってヤツだ。
声が聞こえたら凶事が起こると信じられていてな、鳴き声がする度に祈祷をしたそうだ。
正体はトラツグミっていう鳥だったんだが、昔の人にとっては怪鳥だった。
お前が言うオバケみたいなもんだな。
「…フクロウ、ぼくには鵺と同じくらいに怖かったんだよ」
鵺っていう鳥は初めて聞いたけれども、それとおんなじ。
オバケの声にしか聞こえなかったし、フクロウだなんて言われても…。
「だろうな。鵺を信じていた昔の人たちに「トラツグミです」と言っても無駄だろうしな」
怖いものは怖い、といった所か。
フクロウやトラツグミに限らず、夜に鳴く鳥はけっこう多い。
ホトトギスなんぞは風流だがなあ、ずっと昔の歌にも詠まれているくらいにな。
しかし…。
しかし、とハーレイは眉間に深い皺を寄せた。
「フクロウの声がメギドの悪夢を連れて来るなら、お前にとってはまさしく鵺か」
「うん…」
ホントに不吉の象徴なんだよ。
あんな夢、二度と見たくないのに。
それなのにフクロウのせいで見ちゃった、フクロウが庭で鳴いていたから…。
怖い、とブルーは訴える。
あの鳴き声が怖くてたまらないのだと、また聞こえたらどうしようかと。
恐ろしそうに庭の方をチラチラと眺めるブルーの姿に、ハーレイの心は痛んだけれども。小さな恋人がどんなに怖いと訴えようとも、夜通し傍には居られはしない。
どうしたものか、と思案しながら尋ねてみた。
「それで、お前はフクロウそのものも怖いのか?」
「…あの声だな、って思うと、ちょっぴり…」
だって、本当にオバケだと思っていたんだもの。
パパとママが「フクロウだから」って言ってくれても、ぼくにはオバケの声だったもの…。
「ふうむ…。いい思い出ってヤツが無いんだな、フクロウの」
「…うん……」
「俺の親父の家にはフクロウも居るがな」
「えっ?」
何故、と目を見開いたブルーに、ハーレイは「本物じゃないさ」と微笑んだ。
「お前のお母さんが言った、縁起のいいヤツだ」
フクロウは不苦労とも聞こえるからなあ、福の詰まった籠で福籠っていう音にもなる。
苦労しないとか、幸福が来るとか。
幸運のお守りってことで、親父とおふくろがフクロウの置物を飾っているんだ。
SD体制よりもずうっと昔の日本の文化の一つだな。
お前もそいつを買って貰っていたら、フクロウも怖くなかったかもなあ…。
「そっか、置物…」
売られているのを見たことがあるな、とブルーは思った。確か百貨店の文具売り場で見かけた、ペーパーウェイト。陶器のフクロウが並んでいたから、変な形だと眺めたものだ。自分にとってはオバケの鳥なのに、欲しがる人もいるものなのかと。
「ハーレイ、くれる? ぼくにフクロウ…」
ぼくが知ってるのはペーパーウェイトで大きかったけど、小さいのでいいから。
置物じゃなくても、何かフクロウ。
ハーレイがくれたら大事にするから、フクロウ、怖くなくなるかも…。
「フクロウか…。そうだな、買ってやってもいいが…。ん?」
待てよ、とハーレイは首を捻った。
フクロウでヒョイと引っ掛かって来た、遠い遠い記憶。
遥かな昔にブルーと暮らした、白い船での懐かしい記憶。
それをぶつけることにした。自分の向かいの椅子に座った、小さなブルーに。
「ブルー。…お前、ヒルマンの部屋にはよく行ってたか?」
シャングリラに居た頃の、前のお前だ。
俺の部屋にはよく来たもんだが、ヒルマンの部屋はどうだった?
「行かないよ、なんで?」
怪訝そうなブルーに「一度もか?」と重ねて訊くと、「そうでもないけど…」と途惑う表情。
「用がある時には行っていたけど、ヒルマンの部屋がどうかしたの?」
「なら、奥の部屋までは入っていないんだな」
「寝室の方?」
行ってないよ、とブルーは答えた。
「手前の部屋から見てただけだよ。ベッドがあるな、ってチラッと見えたくらいで」
それがどうかしたの?
ヒルマンの部屋の写真もシャングリラの写真集にあるけど、寝室のは無いよ。
寝室に何かあったの、ハーレイ?
ねえ、と好奇心に駆られた様子のブルー。よし、とハーレイは心で頷きながら。
「実はな…。あの部屋にフクロウが居たんだ、うん」
「フクロウって…」
まさか、とブルーが赤い瞳を丸くする。
「シャングリラで鳥は飼えなかったよ、そういう鳥は」
だから諦めるしかなかったんだもの、青い鳥。
幸せの青い鳥が欲しかったのに…。
「もちろん本物のフクロウじゃない。置物さ」
「幸運のフクロウ?」
「いや、そいつはヒルマンが知ってたかどうか…」
もしかしたら知っていたかもしれんが、少なくとも俺は聞いてはいない。
そういう注文じゃなかったからな。
「注文?」
「ああ。フクロウを彫ってくれと言われた」
「ハーレイに!?」
ブルーの声が引っくり返った。
キャプテン・ハーレイの趣味は木彫りだったが、お世辞にも上手とは言えない腕前。スプーンやフォークといった実用品の類はともかく、写実的なものや芸術性を要するものは破壊的と言っても差し支えの無い酷い出来栄え。
証拠は今でも残っていた。宇宙遺産に指定されている、キャプテン・ハーレイが彫ったウサギのお守り。その正体がウサギではなく、ナキネズミだと聞かされたブルーの衝撃といったら…。
下手の横好きとしか言いようがなかった、キャプテン・ハーレイの木彫りの趣味。
ハーレイ自身も自覚がゼロというわけではないから、ブルーの素っ頓狂な声に苦笑いをする。
「おいおい、馬鹿にしてくれるなよ?」
下手な彫刻家には間違いないがな、キャプテンだからな?
キャプテン・ハーレイが彫るとなったら有難味だけはあったんだ。
現にナキネズミは立派な宇宙遺産になったぞ、俺が彫ったからこそ出世を遂げた。
それにだ、ヒルマンは俺の飲み友達だ。俺に注文して何が悪い?
「…そうだけど…。ハーレイに頼むなんて酔狂だね」
「だから馬鹿にするなと!」
キャプテン手ずから彫るんだぞ?
おまけに注文となれば特注品だし、値打ちもグンッと増すってもんだ。
「そういうことにしてもいいけど…」
いいんだけれど、とブルーは首を傾げた。
「それでヒルマン、なんでフクロウを注文したわけ?」
「ミネルヴァのフクロウだと言っていたな。知恵の神様のお使いなのだと」
お前もミネルヴァは知っているだろ、戦いの女神で知恵の女神だ。
俺にミネルヴァを彫るのは無理だからなあ、それでフクロウだったんだろうな。
「なんだ…。ヒルマンもちゃんと分かってるじゃない」
ハーレイの木彫りの腕の限界。
ミネルヴァを頼んでこない辺りが。
「こらっ!」
ハーレイの拳がブルーの頭に軽くコツンと落とされた。ブルーは「痛いよ!」と大袈裟に両手で頭を押さえて、さも痛かったと言わんばかりに撫でさすりながら。
「…それでフクロウ、彫ってあげたの?」
「もちろんだ」
威張るハーレイに「どんなの?」と問えば、暫しの沈黙。
「………」
「ねえ、どんなの?」
見せて、と伸ばされた小さな右手。思念で見せろという意味をこめた手。
ハーレイは渋々といった様子でその手に自分の手を絡めると。
「………。こういう形だ」
「えーっと…。何処がフクロウ?」
どの辺が、と首を傾げるブルーに、ハーレイが呻く。
「ヒルマンにも言われた、これはトトロだと」
「トトロ?」
「そういうのが居たんだ!」
SD体制よりもずっと昔の人気者だ、とハーレイは開き直って言い放った。
トトロは子供に人気の映画に出て来るオバケで、子供たちにとても愛されたのだと。
人間が自然と幸せに共存していた時代を見事に描いた映画なのだ、と。
「いい映画だったぞ、トトロの映画は」
「ハーレイ、観たんだ?」
ブルーの問いに、ハーレイは「いいや」と首を左右に振った。
「ヒルマンに頼んでデータを見せて貰った。観たわけじゃない」
トトロだと言われりゃ気になるじゃないか、トトロってヤツが。
知らないままより知りたいからなあ、俺が彫ったフクロウの何処がトトロなのかを。
「それ、どんな映画?」
「もう一度手を出してみろ。見せてやるから」
ハーレイが差し出した手を握ったブルーは思わず「わあ…!」と歓声を上げた。
大きな褐色の手から流れ込んで来る、鮮やかな世界。
地球が一度滅びるよりも前、遠い遠い昔の失われた地球。広がる田畑や、深い深い森。
断片しか残っていないトトロの映画。それを集めて読み物の形に起こしたもの。
子供たちが眺めて楽しめるように、絵を中心にして編まれたデータ。
森の奥に住む、オバケのトトロ。
フクロウに似ていないこともない姿の、大きなトトロ…。
心がじんわり温かくなるような、遠い昔に作られた映画。
ブルーはトトロの世界を満喫した後、手を離してからクスッと笑った。
「ホントにトトロだね、ハーレイのフクロウ」
バランスが変だよ、下の方が大きすぎるんだよ。
フクロウならコロンと丸くなくっちゃ、デフォルメするにしても。
「俺がフクロウだと言ったらフクロウなんだ!」
「うん、ナキネズミもそう言ってたね。宇宙遺産のウサギだけどね」
「ヒルマンも納得はしてくれたんだぞ、トトロではあるがフクロウだと」
ついでにちゃんと飾ってくれたし…。あの部屋の写真が残ってないのが残念だな。
「じゃあ、ハーレイの記憶でいいよ?」
それを見せて、と手を絡めたブルーに伝わって来たキャプテン・ハーレイの記憶。
ヒルマンの寝室の奥、置時計の隣に飾られたトトロ。ハーレイが彫ったフクロウのお守り。
「これはホントにお守りなんだね、宇宙遺産のウサギと違って」
「そうだな、お守りでもないのに勘違いっていうわけではないな」
お守りと言うか、神様と言うか…。あの時代には邪道なお守りだがな。
「今は?」
「ミネルヴァの信者は流石にいないが、別の意味ではお守りだろ?」
知恵の神様のお使いじゃなくって、幸運が来るフクロウだろうが。
俺の親父の家にだって居るし、お前のお母さんも縁起のいい鳥だと言ったんだろう?
フクロウはちゃんとお守りなんだ。
ヒルマンが彫ってくれと頼んだのもそうだし、今の時代のフクロウもそうだ。
シャングリラがあった頃から、それよりもずっと遠い昔からフクロウはお守りだったんだ…。
だから、とハーレイはブルーの頭をポンと叩いた。
「今日からフクロウは俺の彫ったヤツだと思っておけ」
見た目はトトロだが、ヒルマンも認めたフクロウで知恵のお守りだ。
そうして今は幸運のお守りだと俺が知っている以上、幸運のフクロウでもあるな。
こいつを心に仕舞っておくんだ、俺がフクロウの置物を買ってくるよりずっと役に立つ。
シャングリラと一緒に消えちまったが、キャプテン・ハーレイが彫ったフクロウだ。
注文で彫ったフクロウなんだぞ、有難味ってヤツもたっぷりだ。
「…駄目だったらフクロウ、買ってくれる?」
メギドの夢をまた見ちゃった時は、フクロウの置物、ぼくに買ってくれる?
フクロウが怖くなくなるように。
あの声がしても、怖い夢を見なくなるように…。
「それはかまわないが、嘘をついても直ぐバレるからな?」
本当は夢なんか見なかったくせに、見たと嘘を言ってフクロウをせしめようとするとかな。
お前ってヤツはやりかねないんだ、俺からのプレゼント欲しさにな。
いいか、良からぬ考えを持つんじゃないぞ?
前のお前のガードは堅くて破れなかったが、今のお前の心の中身は筒抜けだからな。
しっかりとブルーに釘を刺したハーレイは、「頑張れよ」と手を振って帰って行った。
フクロウが鳴いても怖がらなくていいと、あれは幸運のお守りの鳥なのだと。
(…フクロウ…)
今夜もフクロウは来るのだろうか、と怯えていたブルーだったけれども。
話は思わぬ方へと転がり、フクロウは前のハーレイが彫ったトトロもどきのお守りと重ねられる結果になってしまった。フクロウに見えない木彫りのフクロウ。ナキネズミが宇宙遺産のウサギになったのと同じで、トトロになった木彫りのフクロウ。
ヒルマンが知恵の神様のお使いだから、と注文して彫って貰ったフクロウが、今では下手くそな彫刻家曰く、幸運のお守りのフクロウということになるらしい。
(…効くのかな、アレ)
お守りが効いてメギドの悪夢を見なかったならば、作戦成功。
効かずに夢を見てしまった時は、ハーレイからフクロウの置物が貰える。
どちらに転んでも、ブルーには嬉しい話だったけれど。
(…どっちかと言えば、フクロウの置物が欲しいかな…)
メギドの悪夢は嫌だけれども、副産物としてハーレイからのプレゼントがつくなら一度くらいは我慢しよう、とブルーは思う。
ハーレイに買って貰ったフクロウの置物を飾ってみたいし、毎日眺めて触ってみたい。
きっとフクロウが大好きになるに違いない、とまだ見ぬ置物に思いを馳せる。
どんな置物が貰えるだろうかと、どんなフクロウがやって来るのかと。
フクロウの置物を貰えるか、メギドの悪夢が退散するか。
怖かった筈のフクロウが来る予定の庭を窓からドキドキ眺めて、ブルーはベッドに潜り込んだ。メギドの悪夢も今夜ばかりは待ち遠しいと、フクロウの置物を貰わなければ、と。
(…我慢したらフクロウの置物なんだよ)
ほんの四発ほど銃弾を食らって、右手が冷たいとちょっぴり泣いて。
泣きじゃくりながら目を覚ましたなら、凍えた右手をいつも温めてくれる恋人からの素敵な贈り物が貰える。幸運のお守りのフクロウの置物。飾って眺めて、撫でて触れる大事なフクロウ。
(フクロウ、絶対、貰わなくっちゃ…)
だから我慢、と自分自身に言い聞かせながら眠りに落ちたブルーだったけれど。
(…あれ?)
気が付くとブルーは夜の庭に出ていて、しとしとと雨が降っていた。
庭で一番大きな木の下、ハーレイと座るための白いテーブルと椅子がある辺り。けれども椅子もテーブルも無くて、何故か代わりにバス停があって。
(こんな所にバスは来たっけ?)
でも便利だな、と考える。わざわざバス停まで出掛けなくても、バスが家まで来るのだから。
(学校の行き帰りが楽になるよね)
今のように雨が降っていたって、それほど濡れずにバスに乗れるし…。
(傘を忘れて家を出たって、ママが庭まで迎えに来てくれるよ)
今はきちんと傘を差しているけれど、と頭上に広げた傘を見上げた時に。
(えっ?)
隣に傘を持たない相客。
木の下だからずぶ濡れにはならないだろうが、雨が降る夜に傘が無くては大変そうだ。ブルーの家は其処にあるのだし、自分の傘を貸そうと思った。バスが来るまでに家に走って別の傘を取ってくればいい。
そうしよう、と傘を渡すべく相客に声を掛けようとして。
(トトロ!?)
ブルーはビックリ仰天した。
傘を持っていない相客は、トトロ。見上げるように大きなトトロ…。
「トトロ!?」
なんで家の庭にトトロが、と驚いた途端にパチリと覚めた目。
(……夢……?)
ハーレイが変な話を聞かせるからだ、と瞬きした時、カーテンを閉めた窓の向こうから。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
低い声で鳴く、フクロウのオバケ。昨夜と同じに鳴いているフクロウ。
(…夢だけど、メギドの夢じゃなかった…)
トトロだった、とブルーはガックリした。
フクロウが鳴いてもメギドの悪夢を見ずに済んだら、フクロウの置物は貰えない。子供の頃から怖かったオバケは鳴いているけれど、メギドの悪夢は来なかった。
代わりに見てしまったトトロの夢。
フクロウはオバケではなくなってしまい、前のハーレイが彫ったトトロに化けた。雨が降る夜の庭のバス停で傘を貸さねば、と思ったトトロに。
ゴッホウ、ゴロッケ、ゴゥホウ。
庭でオバケは鳴いているけれど、オバケはオバケでもオバケのトトロ。
メギドの悪夢を運んで来ていた、鵺のようなフクロウはいなくなってしまった。
(…フクロウの置物…)
ブルーは残念でたまらなかったが、貰えなくなってしまったフクロウの置物。
自分がどういう夢を見たのか、ハーレイにはバレるに決まっているから、もう貰えない。
飾って眺めて可愛がりたかった、フクロウの置物のプレゼントは来ない。
けれど、フクロウは怖くなくなった。
遠い昔にハーレイが彫った、トトロみたいなフクロウのお蔭で…。
フクロウ・了
※ブルーが嫌いなフクロウの鳴き声。まるでオバケの声のようだから、と。
けれどトトロに化けたフクロウ、置物は貰い損ねたとはいえ、きっと幸せになれる筈。
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秋の日の午後。庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子で、ブルーはハーレイと二人きりの時間を過ごしていた。
自分の部屋に居る時のようにハーレイの膝に座ったり、抱き付いたりは出来ないけれども、この場所はブルーの大のお気に入り。初めて「ハーレイとデートをした場所」だったから。
べったりとくっついて甘えられなくても、話すことなら沢山あった。前の生のこと、今の生での色々なこと。家であったことも、学校で起こった様々なことも。
今日のブルーも上機嫌だったのだけれど、ふと思い出した週の半ばに見舞われた不幸。以前なら大したことではなかった、珍しくもなかった学校に行けなかった二日間。
生まれつき身体の弱いブルーは小さな頃から幼稚園も学校も休みがちな子供で、入院するほどの大病はしない代わりに頻繁に欠席を余儀なくされた。そういうものだ、と大人しく休んでいたのが今では違う。学校に行けないことは、ハーレイに会えないことを意味していたから。
(休んじゃったら会えないんだもの…)
ハーレイはブルーが通う学校の教師。登校すれば大抵は何処かで顔を見られる。ハーレイが受け持つ古典の授業が無い日であっても、廊下で、校庭で、中庭などで。
だから学校を休まなくて済むよう、ブルーは懸命に努力していた。体調管理にも気を配ったし、少し眩暈がした程度ならば無理をしてでも登校するとか。
それなのに先日、休んでしまった二日間。熱が出てしまっては誤魔化しも出来ず、かかりつけの病院に連れてゆかれて、そのまま欠席。
あまつさえ、ブルーが休むと「大丈夫か?」と見舞いに来ては野菜スープを作ってくれる優しいハーレイも来てくれなかった。忙しいのだと分かってはいても、寂しくてたまらなかった二日間。
(それに…)
そういう時に限って酷い目に遭うんだ、と病院での出来事を思い返した。幼い頃から顔馴染みの医師が、「早く治すにはこれが一番」とブスリと打ってくれた注射を。
ブルーは注射が大嫌いだった。
幼稚園の頃には泣き叫んで抵抗したほどの注射嫌いで、今でも変わらず注射は嫌い。昔のように泣き喚いたりはしないけれども、注射針の痛さも、注射器を見るのも出来れば御免蒙りたい。
幼かった頃に初めて打たれた注射が余程痛かったか、痛みというものに弱いのか。
注射嫌いの子供は珍しくないし、その部類だと思い込んでいた。両親も、ブルー本人でさえも。それがどうやら違ったらしい、と気が付いたのは前の生の記憶が戻った後。
先日と同じように熱を出してしまって学校を休み、母と近所の病院に行った。いつもの主治医が「打っておきましょう」と取り出した注射器を見た瞬間に覚えた恐怖。今までの「嫌い」どころの騒ぎではない、明確な「嫌だ」と拒絶する心。
それが何なのかを思い出す前に、ブルーの注射嫌いを知っている医師と母は手際よく作業をしてくれた。母がブルーの服の袖を捲って「我慢しなさい」と諭す間に、医師が慣れた手つきで消毒を済ませ、注射針が腕にグサリと刺さる。
(嫌だ…!)
注射は嫌だ、と叫ぼうとしたが、「はい、おしまい」という医師の声。薬剤はとっくにブルーの身体の中で、大嫌いな時間は終わっていた。
なのに収まらなかった恐怖。医師が笑顔で「じきに熱が下がりますよ」と告げるのを聞くまで、震え出しそうだったほどの激しい恐怖。
その原因が何だったのかを遠い記憶として手繰り寄せ、納得した時はとうに家へと帰っていた。母が「大人しくして寝ていなさい」と上掛けを掛けてくれ、部屋を出て行った後で気付いた。
どうして注射があれほど怖いか、幼い頃から嫌いだったのか。
(…全部アルタミラのせいなんだよ)
タイプ・ブルー・オリジンと呼ばれ、人体実験を繰り返された前の生で居た研究所。
薬剤に対する抵抗力を調べるためだとか、行われる実験の目的に合わせた薬物を注入するために打たれる注射。打たれて直ぐに苦痛が襲うこともあれば、実験開始と共に生き地獄のような苦悶に見舞われたり。
もちろんブルーを死なせないため、治療用の注射も実験の後で幾度となく打たれていたけれど。身体が楽になる注射もあった筈だけれど、ブルー自身に記憶は無い。
注射は苦痛を齎すもの。直ちに苦痛に見舞われなくとも、確実に苦痛が襲ってくるもの。実験が始まるまでの間が待ち時間であったり、遅効性の薬物の時であったり。
どう転んでも逃れられない激しい苦痛。それを運んでくる注射。
嫌いにならないわけがなかった。注射器を見ただけで震え上がるのも、打たれた痛みで泣くのも当然。自分の身に何が起ころうとしているのか、嫌というほど体験して来たのだから。
(今の注射は大丈夫だって分かっているんだけどな…)
記憶が戻ってから初めて打たれた注射は医師が効能を告げてくれるまで怖かったけれど、今では其処まで怖くはない。治すための注射だと自覚しているし、現に打った方が治りが早い。
分かってはいても、未だに消えてくれない恐怖。前の生で心に刻まれた恐怖。
(…ノルディは知っててくれていたしね?)
白いシャングリラで暮らしていた頃も、注射は苦手だったから。
戦闘に赴くソルジャーが注射如きを恐れていては、と耐えていたけれど、顔には出るから。
それが何ゆえかを知っていたノルディは、あれこれと心を配って注射を極力打たない方向で治療してくれたが、今の生でのブルーの主治医はお構いなし。
体調を崩して病院に行けば、問答無用で注射一発。
どんなに嫌いでたまらなくても、自分の前世を言えはしないし…。
酷い目に遭った、と打たれた注射を思い返して、ブルーはハーレイに泣き言を言った。大嫌いな注射を打たれたのだと、今でも注射が嫌いなのだと。
「…熱が下がるって分かっていたって嫌なんだよ、注射…」
「お前、アルタミラで沢山打たれたらしいしなあ…」
可哀相に、とハーレイが顔を曇らせる。
生まれ変わっても注射嫌いになるほど打たれたのかと、それほどに苦しかったのかと。
「ハーレイは注射は少なめだったんだよね?」
「俺は耐久実験の方が多かったからな」
ミュウには珍しく頑丈に出来ていたからだろうな、ひたすら耐えてりゃ良かっただけだ。
タイプ・グリーンは幾らでもいるし、薬物実験はそっちでやりゃいい。
お前みたいに一人しかいないタイプ・ブルーだと、被験体も一人きりだからなあ…。
色々と集中しちまったんだな、実験の方も。
「…うん、多分…。お蔭で死なずに済んだけれども」
他にもタイプ・ブルーが大勢いたなら、殺されていたかもしれなかった。
どうすれば死ぬのか、どんな風にして死んでゆくのか、それを調べる実験も存在していたから。
その果てに殺された仲間たちの残留思念を幾度も拾った。
彼らのようにならずに済んだ理由は唯一のタイプ・ブルーだったから。
ブルーが死んだらタイプ・ブルーのデータが取れない。実験しようにも被験体がいない。
だから苦しめ、痛めつけても治療をされた。次の実験に役立てるために。
そうして何本も打たれ続けた注射。
実験薬に、実験の準備にと打たれた注射。苦痛しか齎さなかった注射…。
「…ホントに嫌な思い出なんだよ、あの注射」
今になっても引き摺るくらい、と嘆いてブルーは立ち上がった。
こんなに平和な地球に来たのに、ハーレイと二人でのんびりとお茶を楽しめる世界に生まれたというのに、どうして注射を恐れなくてはならないのか。
父と母が居る暖かな家があるのに、午後の柔らかな光が降り注ぐ庭もあるのに。
「なんで今でも注射器を見ただけでダメなんだろう…」
あの針が嫌だ、と銀色に光る忌まわしい凶器を頭の隅へと追いやりながら、自分の目を現実へと向かわせる。
庭で一番大きな木。幼い頃から見上げていた木。太く頼もしい幹と、四方に広げた枝葉と。この木の下にハーレイと二人で座る場所が在って、母がお茶やお菓子を届けてくれる。これが現実。
そう、アルタミラはもう遠い遠い昔。
其処に居た自分は遥かな昔に死んでしまって、今は地球に住んでいる子供の身体。まだ十四歳にしかならない小さな身体で、ソルジャー・ブルーだった頃とは違う。
(手だって、小さくなっちゃったんだよ)
そのせいでハーレイとの恋に支障があるのだけれども、「前の自分とは全く違う」ことを教えてくれる姿ではある。
小さな手と、庭にどっしりと根を張った木と。
二つを重ね合わせれば「今」が見えて来るよ、とブルーは木の幹を撫で擦った。ざらざらとした感触が「木は此処に在る」と教えてくれる。ブルーの手が其処に触れていることも。
(…ぼくは此処に居るんだ…)
ちゃんと青い地球の上に生きているんだ、と何度も何度も木の幹を撫でる間に。
「いたっ…!」
チクリと指先に走った痛み。注射のそれとは違うけれども、不愉快な痛み。
「どうした?」
椅子から腰を浮かせるハーレイに、白い指先に視線を落としながら「棘…」と短く答えた。棘のある種類の木ではなかったし、今までに刺さったこともない。
けれども運が悪かったのか、撫で擦る内に木の皮が浮いてしまったのか。右手の人差し指の先に刺さった小さな棘。左手で抜こうとしても抜けない。
(刺さっちゃった…)
抜こうと左手で引っ張るブルーに、ハーレイが「見せてみろ」と声を掛け、招き寄せて。
自分が腰掛ける椅子の側に立たせて、小さな手を掴んで白い指先を検分しながら。
「すっかり入り込んじまったか…」
刺抜きじゃ無理だな、こいつは針だな。
「針!?」
父に何度か針で抜かれたことがある棘。それと同じだと気付いたブルーは悲鳴を上げた。
「やだ…!」
「しかし、こいつは抜けないぞ?」
「でも、針は嫌だ。注射みたいで怖いんだよ…!」
絶対に嫌だ、と慌てて右手を引っ込めようとしたが、ハーレイの力は緩まなかった。
捕まったままでブルーは「嫌だ」と首を左右に振る。針は嫌だと、注射みたいな針は嫌だと。
涙まで滲ませて訴えてみても、一向に緩まないハーレイの力。棘が刺さった指先の不快な痛みは嫌だったけれど、針の方がもっと嫌だから。
針で棘を抜かれることだけは避けたかったから、「サイオンは?」と泣きそうな声で尋ねる。
「ハーレイ、サイオンで抜けないの、これ?」
「…瞬間移動が出来るヤツにしか無理だろう。病院に行けば出来る医者だっているが…」
この程度の棘、そんな先生の出番を待つ前に針だと思うぞ。
普通なら病院に行かずに家で抜こうってレベルの棘だし、病院でも同じ程度の扱いだな。
「…そんな……。そうだ、テープは?」
テープで抜けると友人が言っていたのを思い出して訊いてみたけれど、ハーレイはフウと溜息をついて答えた。
「刺さって直ぐなら抜けたかもしれんが…」
今じゃ無理だな、もぐっちまっているからなあ…。
テープで抜くには棘の端っこが見えていないと駄目なんだ。
こうなっちまうと針で引っ張り出すしかない。この際、針を克服しておけ。
「えっ?」
「注射は無理でも針くらいはな」
俺がやるのでも針だけは嫌か?
病院に行ってお医者さんに針で抜いて貰うか、その方がいいか?
(…ハーレイにやって貰うか、お医者さんか…)
どちらも針しか無いのだったら、考えるまでもないことだから。
恋人に抜いて貰う方がマシに決まっているから、ブルーは「ハーレイでいいよ」と呟いた。
針は見たくもないのだけれども、ハーレイが抜いてくれるのならば、と。
「よし。…うん、泣き喚くだけのガキじゃないってことだな」
偉いぞ、とハーレイの手がブルーの頭をポンと叩いて。
「此処じゃ抜けんな、お前の部屋でやるか。…柚子の木があると良かったんだが…」
「柚子の木?」
庭に柚子の木は無かったから。どういう意味か、とブルーはキョロキョロと庭を見回す。
「それ、何にするの?」
「針の代わりだ」
ハーレイに言われても、まだピンと来ない。
「針?」
「柚子の木の棘さ。針みたいにデカイ棘があるんだ、柚子の木にはな」
俺の家では棘が刺さった時の定番だったぞ、柚子の木の棘。
ガキの頃には親父が抜いてくれていたもんだ。
柚子は殺菌作用があるんだ、実だけじゃなくって木の皮とかにも。
もちろん棘だって、青いヤツなら消毒済みっていうわけさ。
生えてから何年も経っちまった棘だとそうはいかんが、生えてから間もない青い棘だな。
そうした棘を使って抜くのだ、とブルーの気を逸らしながら、ハーレイは家の方へと戻った。
玄関を入り、リビングに居たブルーの母に声を掛ける。
「すみません、ブルー君が指に棘を刺してしまいまして…。薬箱と針をお借り出来ますか?」
「針ですか?」
「ええ。これから部屋で抜きますので」
ハーレイが言うなり、ブルーの母は「それは…」と言葉を濁してから。
「ブルー。ハーレイ先生が抜いて下さるのなら、ちゃんとお礼を言わなきゃ駄目よ?」
泣くんじゃないのよ、大きいんだから。
十四歳になったんでしょうが。
「…うん、ママ……」
シュンと項垂れるブルーの姿に、ハーレイは今日までにこの家で起こったであろう騒動が容易に想像出来た。注射も針も嫌いなブルーが泣き叫んだか、はたまた涙を零したか。たかが棘抜きとは思えないほどの騒ぎだったに違いない。
(…よっぽど針が苦手で嫌いなんだろうが…)
ブルーの両親は今も理由を知らないのだろうな、とハーレイは思う。
小さなブルーは泣き虫だけれど、前世を思わせる気丈な部分も存在していた。両親を心配させることが明らかなアルタミラでの悲惨な過去など、きっと話しはしないだろう。
注射嫌いで針も嫌いな弱虫のレッテルを貼られたままでも、その方がいいと思うのだろう。
そんな健気な小さなブルーに、針くらいは克服させてやりたい。
注射は無理でも、針を使った刺抜きくらいは…。
ブルーの母が用意してくれた、刺抜き用の道具と薬箱。ハーレイはそれを手にして、先に立って階段を上って行った。普段だったらブルーがパタパタと先に駆け上る階段を。
「こら。ぐずぐずしてても棘は抜けんぞ」
早く来い、とブルーを急かして、すっかり馴染みの部屋に入るとテーブルの上に薬箱を置いた。いつも自分が座る側の椅子に腰掛け、借りて来た針とライターを持つと立ち竦むブルー。
部屋の入口で止まったブルーの顔には「嫌だ」と書いてあったけれど、ハーレイはやめるつもりなど無い。ライターを点け、針の先を炙りながら「来い」と命じる。
「ほら、消毒が済んだぞ、ブルー。針を克服するんだろうが」
いつまでも弱虫でいいのか、お前。
俺は一向に構わないんだが、棘が刺さる度に泣くのはお前なんだぞ、ブルー?
「……痛くない?」
怖々といった様子で前に立ったブルーに「そりゃ痛いさ」とハーレイは返した。
「針なんだからな、少しは痛い。気を付けはするが、全く痛くないとは言わん」
だが、我慢しろ。こいつは治療で、アルタミラとは違うんだ。
俺を信じて右手を出せ。
…よし、それでいいから動かすなよ、指。
怖いからって逃げたりしたらだ、針がグサリと刺さっちまうからな。
ハーレイはブルーの右手をしっかりと掴むと、棘が刺さった人差し指の先を針で慎重にそうっと探った。此処だ、と見定めた場所に針を入れれば、ブルーの手がビクリと強張って。
「いたっ…!」
「こら、逃げるな!」
直ぐだ、と刺さっていた棘を針で取り除いた。自分に刺さった棘も、教え子の棘も何度も抜いた経験があるから、手際よく抜ける。ほんの一瞬とまでは言わないけれども、僅かな時間。
「ほら、取れたぞ。…痛かったか?」
「…ちょっとだけ…」
チクッとした、と訴えるブルーの指先に化膿止めの薬を付けてやる。刺抜き用の針はライターで消毒してあったけれど、刺さっていた棘はそうではないから。小さな棘でも侮れないから、後から膿んだりしないようにと。
「これで終わりだ。…ちゃんと見てたか、さっきの針を」
「…ハーレイの手を見てた……」
針は殆ど見ていなかった、とブルーは俯いたけれど。
「少しでも見たなら、それでいいさ」
針だけだったら普段も見るしな、家庭科の授業でも使うだろう。
そういう針は平気だろ、お前?
自分の身体に刺さってくる針が嫌なんだろう?
…だがな、身体に刺さる針もこうして役に立つんだ、注射も同じだ。
痛い分だけ、ちゃんと良くなる。
それをきちんと覚えておけ。そうすりゃ怖くはなくなってくるさ。
棘抜きと手当てを終えたハーレイが薬箱などを返しに行くと、ブルーの母が心配そうな顔をしていたから。
ハーレイは「ブルー君は我慢強かったですよ」と伝えることを忘れなかった。棘を抜くのに針を刺しても泣かなかったし、痛いと叫びもしなかったと。
ホッとしたらしいブルーの母は「ありがとうございました」と深く頭を下げ、それから間もなく二階へお茶とお菓子を持って来てくれた。庭で使っていたものとは別のティーセット。
「ブルー、ハーレイ先生にちゃんとお礼を言った?」
「うんっ!」
笑顔で答えたブルーは「ぼく、泣かなかったよ」と自慢したけれど、母は「当たり前でしょ」と苦笑して部屋から出て行った。ブルーが前の生で受けた仕打ちを知らないのだから仕方ない。
母の足音が階段を下りてゆくのを聞きながら「我慢したのに…」と残念そうに呟くブルー。
注射が嫌いで、針も嫌いな小さなブルー。
ハーレイは「仕方ないだろ、お母さんにとってはお前はただの弱虫なんだし」と言いつつ、手を伸ばしてブルーの頭を撫でてやった。
「お前がきちんと我慢したのは俺が見てたさ、それでいいだろ?」
前のお前が惨い目に遭ったことも、俺は知ってる。
だから針が怖くてたまらない理由も知っているがな、人生、うんと長いしな?
克服しといて損は無いんだ、針も、それから注射もな。
出来れば克服して欲しいんだが…。
しかし、とハーレイは片目を瞑って微笑んだ。
「どうしても無理なら、結婚した後は俺が病院についてって医者に注文してやるさ」
こいつは注射が嫌いなんですと、注射は抜きでお願いします、と。
「ホント!?」
嬉しい、と喜んだブルーだったが、それに対するハーレイの言葉は。
「もっとも、俺が行ってる近所の医者もだ、問答無用で打つ方なんだが」
「嘘…!」
「残念ながら、本当なんだ」
俺がそういう好みだからなあ、とにかく早めに治したい、ってな。
滅多に病院の世話にはならんが、たまに行くなら早く治せる医者がいい。
のんびり優しく治療してくれる病院よりもだ、注射一本、その日限りの御縁がいいな。
「…そういうお医者さんなんだ…?」
「俺の行きつけと言うか、かかりつけと言うか…。馴染みの医者はそういうタイプだ」
ブスリと注射で、後は飲み薬を三日分ほどと言った所か。
それでピタリと治っちまうなあ、名医と評判の先生なんだぞ?
だが、待合室で女性と子供は見かけないから、優しい医者ではないってコトか。
お前、どうする?
俺は優しいと評判の先生の病院は生憎と全く知らないんだが…。
(…ハーレイの行ってる病院の先生も注射だなんて…)
しかも問答無用だなんて、とブルーは頭を抱えたくなった。
どうやらハーレイと結婚した後も、注射からは逃れられないらしい。
注射の無い病院は無いのだろうか、と悩むブルーだけれども、注射が一番早いのだから。
早く確実に治したいなら注射なのだと分かっているから、問答無用の方針も分かる。
そうした病院で注射をされずに済ませるためには、ハーレイの「お願い」に期待するのみ。
こいつは注射が駄目なんですと言ってくれるよう、なんとか打たない方で済むよう。
(…でも…)
針を克服するんだな、と指に刺さった棘を抜いてくれたハーレイが持つ針は怖くなかった。
大きな手が器用に棘を抜く間、自分の指に刺された針をチラリと見られた。
父が同じことをしてくれた時には泣き喚いた針。
大して痛くはなかったというのに、大声で泣いてしまった針。
(…ハーレイの手と一緒だったら怖くなかったよ、針が刺さっても)
たった一度で克服出来たとは思わないけれど。
もしかしたら針が身体に刺さることに対する恐怖も、いつかは本当に消えるかもしれない。
注射も平気になるかもしれない。
そうなるといいな、とブルーは思う。
アルタミラの注射の記憶を忘れて、幸せに生きていけたらいいと…。
大嫌いな注射・了
※幼かった頃から注射嫌いのブルー。多分、アルタミラ時代の記憶のせいで。
今もやっぱり苦手ですけど、怖くなかったハーレイが持つ針。いつかは注射嫌いも克服?
そして、今日、3月31日は、聖痕シリーズのブルーの誕生日。
ブルー君、お誕生日おめでとう!
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来客を知らせるチャイムの音。この時間だと…、と部屋の窓から庭の向こうの門扉を見下ろす。生垣を隔てた表の通りに見慣れた人影。
(やっぱり…!)
ママが夕食の支度を始める時間帯。ママの友達が来るには遅いし、パパの友達は平日には滅多に訪ねて来ない。今頃の時間に来るお客さんといえば、ご近所さんか、そうでなければ…。
(ふふっ)
ぼくは急いで部屋を飛び出し、階段を駆け下りて玄関へ走った。着くのと同時に外側から開いた玄関の扉。ママが「どうぞ」と中へ促すお客さん。
「ハーレイ…!」
「おう。今日の放課後以来だな」
元気にしてたか? と挨拶しながら大きな身体が入ってくる。学校を出る前、廊下ですれ違って挨拶を交わした「ハーレイ先生」。ぼくの家だと、ただの「ハーレイ」。
ハーレイはママに「すみません、こんな時間から」って、お決まりの挨拶をしているけれども、ママはちっとも気にしていない。ハーレイはとっくに家族みたいなものだから。
「こちらこそ、ブルーがお世話になります。どうぞごゆっくり」
直ぐにお茶をお持ちしますから、とママが言い終えるのを待って、ぼくも「来てよ!」と階段の方へと駆け出した。走らなくてもいいんだけれども、いつもパタパタ走ってしまう。階段の途中で後ろを振り向いて、歩いてくるハーレイに「早く!」と叫んで。
もちろんハーレイは走ってくれない。他所の家で走るだなんて、大人はしない。
分かってるけど、走ってしまう小さなぼく。前のぼくなら走りはしないと思うけど…。
(でも、走りたくなっちゃうものは仕方ないよね)
部屋の扉を開けて入って、テーブルと椅子を目でチェックした。窓際に置いてある、ハーレイと二人で腰掛けるための指定席。今日みたいに急に来ることも多いから、毎日掃除は欠かさない。
(よし!)
ちゃんと出来てる、と満足した所でハーレイがようやく到着した。
テーブルに向かい合わせで座って、ママがお茶とお菓子を運んで来るのを待って。
それが届いたら夕食に呼ばれるまでの間は二人きりの時間。ママは決して部屋には来ない。前はそうだと気付いていなくてドキドキしたけど、パターンが分かったら寛ぎの時間。
(うん、今日もハーレイとゆっくり出来るよ)
ママの足音が階段を下りて消えていく。二人きりの時間の始まりだよ、とハーレイを見たら。
(あ…!)
学校帰りにぼくの家に寄った時、ハーレイが一番最初にしていること。
正確に言うなら、挨拶とかを終えて落ち着いた後で、必ずすることって言うのかな?
スーツの上着はママが預かって掛けておくから、上着を脱ぐのは家に入ったら直ぐにすること。スーツじゃない先生も多いけれども、ハーレイはスーツ。パパと同じで大人の制服。
その制服の上着も脱ぐけど、なによりネクタイ。
ママの足音が消えて行ったら、ハーレイの褐色の手が自分の襟元に行く。
キッチリと結んであったネクタイを緩めて、ホッと寛いだ表情を見せるハーレイ。
学校では決して見られない顔。
(…ママが出て行くまで緩めないよね…)
それでもパパやママが「どうぞお楽に」って言うよりも前に緩めるようになっただけマシ。誰も何にも言わなくっても、ネクタイを緩めてくれるハーレイ。
ぼくの家に通うようになってから暫くの間、ハーレイはネクタイを緩めなかった。パパとママが「楽になさって下さい」と声を掛けるまで、きちんと結んだままだった。
休日に訪ねて来てくれた時はネクタイなんかはしてなかったから、学校帰りの時だけれども。
そのネクタイを今では勝手に緩めてくれるのが嬉しい。
ぼくの家を出る前には元通りに締めて、上着も着て帰ってゆくけれど。それが大人の制服だって分かっているから、ネクタイを緩めて制服にサヨナラしてくれると思うととても嬉しい。
ぼくの家では制服を着なくていいんだと、楽にしていいんだと思ってくれているんだから…。
その、ネクタイ。
緩める姿はすっかり見慣れたけれども、ぼくはネクタイをしたことがない。ぼくの学校の制服にネクタイは無いし、小さな頃に改まった場所へ着て行った子供スーツは蝶ネクタイ。それも子供が自分で簡単に出来るようにとボタンでパチンと留めていただけ。
(んーと…)
ハーレイがネクタイを緩める時の表情からして、あれって首筋がきついんだろうか?
パパは毎朝、ダイニングの壁に掛かった小さな鏡の前でキュッと締め直して出掛けるけれども、首筋がギュウギュウ締まるんだろうか?
ぼくには分からない、大人の制服。前のぼくだってネクタイは締めたことがない。どんな感じか訊いてみよう、とハーレイに尋ねることにした。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ネクタイって、やっぱり首がきついの?」
緩めてるよね、ぼくの家に来たら。学校ではきちんと結んでいるけど…。
「まあな。首が締まるっていうほどじゃないが、緩めると楽なものではあるな」
「キャプテンの制服とネクタイだったら、どっちがきつい?」
どっちだろう、と訊いてみた。
前のハーレイが着ていたキャプテンの制服。仕事で機関部の奥までチェックに入るとか、特別な事情がある時は制服の代わりに繋ぎの作業服なんかを着ていたけれども、普段は制服。背中に深い緑色のマントがついた制服。
前のぼくの上着よりも重たい上着に、マントつき。しかも襟元までカッチリしていた。前のぼくみたいに戦闘に出てゆくわけじゃないから、活動的なデザインには出来ていなかった。
生地だって重いし、伸縮性だって前のぼくの上着とかには敵わない。
ネクタイと制服、どっちがハーレイにとってはきつかったかな、と好奇心。
「さてなあ…。どっちも慣れだしな?」
俺にとっては大差ないな、とハーレイらしい答えが返って来た。
「毎日着てれば慣れて来るものさ。キャプテンの服もネクタイもスーツも、要は慣れだな」
ただ、キャプテンの制服はネクタイみたいに人前で緩められはしなかったしな?
お前だって覚えてるだろう、あのデザイン。
首がきついな、と緩めてみろ。だらしないどころの見た目じゃないぞ。
前のお前の前でくらいしか緩められなかったなあ、ついでに上着も脱げなかったな。
「……上着……」
どういう時にハーレイが上着を脱いでいたのか、一瞬で思い出したから。
前のぼくとキスして、それから上着を脱いでいたのを思い出してしまって、真っ赤になったぼくだけれども。
ハーレイは「また余計なことを考えてるな?」って、ぼくの額を指で弾いた。
「お前がそういう良からぬ発想にならない分だけ、ネクタイの方がマシらしいな」
俺にとってきついかどうかはともかく、緩める度に赤くなられちゃ落ち着かん。
スーツの上着も、お前の目の前で脱いでいたってお前の顔は赤くならないからな。
ネクタイの方が断然マシだ、と結論付けてしまったハーレイ。
ぼくはプウッと膨れたけれども、お構いなしで澄ました顔。ネクタイの話を続けてくれる。
「キャプテンの制服は変えようが無かったが、ネクタイは色々と変えられるしな」
その日の気分で色も模様も選べるって辺りが優れものだ。
締めて行く場所に合わせてこの色で、って約束事はあるが、それ以外は自由というのがいい。
自分だけのための決まり事なんかも作れるからな。
節目の時にはこれを締めようとか、部活の大会の付き添いの時は勝利を祈ってコレだとかな。
「そういう約束、作ってるんだ…」
「気付かなかったろ? 俺だけの決まりだ、傍目にはまず分からんな」
いつかはお前も覚えるだろうが…。
俺に「あのネクタイは何処だった?」と訊かれる立場になったならな。
「えっ?」
「俺の嫁さんになるんだろ? その後のことさ」
俺が出勤して行く時にはネクタイを締めるし、それをお前が渡してくれる日もあるだろう。
そうして何度も渡したり探したりしている内にだ、俺の決まりも覚えてしまうさ。
俺がこうだと教えなくても、その日にピッタリのネクタイを渡してくれたりな。
まだまだ先の話なんだが、俺としてはその日が待ち遠しいな。
「えーっと…」
ネクタイの決まりを覚えられるほど、ぼくに余裕はあるんだろうか?
ハーレイと一緒に暮らせるだけで幸せ一杯、そんなトコまで気が付かないっていう気もする。
(…お嫁さんがそれじゃいけないのかな?)
ダメなのかな、って思うけれども、覚えられない可能性が高い。だけど楽しみにしているらしいハーレイ。これは話題を変えなくちゃマズイ。
(ネクタイの話で、だけど模様とかとは違う話で…)
何か無いかな、と懸命に考えて思い付いた。それをそのままぶつけてみる。
「ハーレイ、ぼくの家ではネクタイを緩めてるけど、帰る時には締めて帰るね」
なんでそのまま帰らないの?
締め直さないと上着が着られないってことはないよね、上着を着てなかった季節も締めてた。
どうしてわざわざ締めて帰るの?
「そりゃまあ…。お前のお父さんとお母さんに挨拶しなくちゃいけなしな?」
「締めていないと駄目なものなの、挨拶の時は?」
そういえばハーレイは、ママがお茶とお菓子を出し終わるまでは決して緩めたりしない。あれも挨拶が終わるまで待っているんだろうか?
ネクタイってそんなに面倒なのか、と思うけれども。
「駄目と言うより、だらしないってことになるからなあ…」
本来、きちんと締めているためのものだしな?
お前のお父さんだってそうだろ、会社に行くのに緩めていたりはしないだろう?
「それはそうだけど…。学校の先生たちは色々だよ?」
緩めてる先生も何人もいるし、ネクタイをしていない先生もいるよ。
「その点は俺のこだわりだな。教師はネクタイって決まりなんかは無いからな」
言わば今の俺の仕事用の制服って所か、ネクタイとスーツ。
ネクタイを締めると「これから仕事だ」って気が引き締まるような感じがするな。
気持ちの切り替えに丁度いいんだ、ネクタイってヤツは。
こんなに小さな布の紐だけで制服気分とは大したもんだ、とハーレイは笑う。
ネクタイに比べればキャプテンの制服は大層だったと、スーツと比べても立派すぎたと。
「あれを着てた頃にはそういうモンだと思っていたがな、今になるとなあ…」
よくも毎日着ていたもんだ。律儀にマントまでくっつけてな。
「肩章までついていたもんね」
「まったく、誰の趣味だったんだか…」
其処まで凝らなくてもいいだろう、と溜息をついてるハーレイだけれど。
「でも、似合ってたよ? キャプテンらしくてカッコ良かったよ、あの肩章」
「前のお前でも肩章なんかは無かったのに…」
「その分、マントが長かったよ。大袈裟なんだよ、あのマント」
防御力がどうとかって言ってたけれども、あんなの無くても平気だったのに。
シールドがあればマントなんかは出番無しだし、役に立ったの、一回だけだよ。
メギドで背中から撃たれた時には防弾チョッキ代わりになったけれども…。
よく考えたら上着だって同じ仕様だったし、やっぱり要らなかったよ、マントは。
「お前、嫌がってたもんなあ…。あのマント」
「ソルジャーの上着はともかく、マントはね…。そんなに偉くはないんだもの」
大して偉くはないよ、ソルジャー。たまたま力があったってだけで。
「そいつは俺だって同じことだな」
キャプテンに担ぎ上げられちまったが、元々は調理担当なんだぞ?
それ専門ってわけじゃなかったが、食材管理の責任者のつもりだったんだがなあ…。
何処で間違えちまったんだか、気付けばキャプテンになっちまってたさ。
挙句の果てにマントまでついた制服を着せられちまってな。
「そっか…。今度はネクタイで済んで良かったね」
それとスーツと。
ネクタイもスーツも、キャプテンの服と違って目立たないものね。
「そうだな、おまけにただの教師だ。キャプテンなんかと違って気楽だ」
お前も普通の制服だしなあ、ソルジャーの服と違ってな。
「うん。友達もみんな一緒の服だよ」
ぼくだけ特別って服じゃないから、制服は全然気にならないよ。
家に帰ったら脱ぎたくなるけど、きついからってわけではないし…。
多分、生徒のぼくと普通のぼくとを切り替えてるんだ、ネクタイと一緒。
ハーレイがネクタイで気分を切り替えるみたいに、ぼくは制服で気分の切り替え。
制服だったら学校の生徒で、普通の服だとパパとママの子供。
そしてハーレイの恋人なんだよ、普通の服の時は。
きっとそうだよ、と口にしてから、ふと浮かんで来た将来のこと。
今は学校の生徒だけれども、いつまでも生徒で子供じゃない。いくらぼくの背が百五十センチのままだったとしても、いつかは伸びる。前のぼくと変わらない背丈に伸びる。
そうなったら、ぼくはどうなるんだろう?
学校の制服を着ている代わりに、ネクタイを締めることになるんだろうか?
「ハーレイ…。ぼくもいつかはネクタイなのかな?」
ネクタイって、きつい?
緩めたくなるほどきついものなの、ネクタイって?
「ふむ…。俺ので良ければ締めてみるか?」
お前の今のシャツならネクタイが出来んこともない。
「いいの?」
「百聞は一見に如かずだからなあ、体験するのが一番ってことだ」
チビのお前には少しデカイが、締め方なんぞは同じだからな。
感じは分かるさ、ネクタイを締めたらどんな気分か。
ハーレイは自分の首からネクタイを外して、ぼくの首に「ほら」と掛けてくれた。
思いがけない、ハーレイのネクタイ。今の今まで、ハーレイの首にあったネクタイ。
胸がドキドキするのを隠して、ネクタイの端を掴んでみたけど。
「えーっと…」
締め方がまるで分からなかった。こんな風かな、と紐みたいに結ぼうとしたら。
「違う、違う。ネクタイってヤツはそうじゃなくって…」
こうだ、こう。
そう言いながらハーレイの手がぼくの後ろから伸びて来た。ぼくの肩越しに褐色の手が手際よくネクタイを結んでゆく。
(…ネクタイって、なんだか難しそう…)
ただ結んであるだけじゃないのか、と複雑に重なってゆくネクタイを見てた。折って、重ねて、回して、通して。ハーレイやパパの襟元で見慣れた独特の結び目が出来上がってゆく。
「これで大体、出来上がりだな」
ハーレイに結んで貰ったネクタイ。嬉しくて、ちょっぴりくすぐったい。
(…ハーレイのネクタイ…)
貸して貰って、結んで貰った。幸せだな、って頬を緩ませていたら、「そら」とネクタイの端を握らせてくる手。
「此処をキュッと引っ張れば、きちんと締まるってわけだ」
「こう?」
ハーレイの大きな手と一緒にキュッと引っ張ったけれど。
ぼくの首筋もキュッと締まった。やっぱりきつい。ボタンで留めてた蝶ネクタイとは全然違う。
「きついよ、これ…」
「そうか? 緩めるとこんな感じになるんだ」
太い指がネクタイの結び目を緩めて、一気に楽になった首筋。
「わあ…!」
ハーレイがネクタイを緩める気持ちがよく分かった。
こんなに首筋が軽くなるなら、断然、緩めの方がいい。緩めてもかまわない場面だったら、絶対緩める方がいい。首筋がキュッと締まってるより、楽な感じがする方がいい…。
子供にはちょっと早すぎだな、ってハーレイはネクタイをサッサと外してしまったけれど。
自分の首へと結び直して、キュッと締めてから直ぐに緩めているんだけれど。
(…ハーレイがネクタイを緩めるのって…)
楽だからってだけじゃないんだろうな、と考えた。
キャプテンの制服と大差は無いな、って言ってたネクタイ。今のハーレイのための制服。
そのネクタイを緩める時には、きっと責任が緩むんだ。
キャプテンの服を着ていない時がそうだったように、背負っている重さが緩むんだ…。
(前のハーレイはキャプテンだったけど、今は先生…)
重さは全然違うけれども、仕事に対する責任は同じ。
自分がやってる仕事に対して、責任があるって点では同じ。
ぼくもいつかはネクタイを締めて、責任ってヤツを背負うんだろうか?
前のぼくほどではないにしたって、何かの責任。
今度はうんと軽いだろうとは思うけれども、やっぱり背負わなくてはならない。
そう考えたらとても不安で、凄く心配になってきた。
ソルジャーのそれよりは軽かったとしても、その責任をぼくは背負えるだろうか。
潰されずに背負っていけるんだろうか…。
(今のぼく、ペシャンと潰れちゃうかも…)
ぼくは前ほど強くない、って分かってる。
不器用すぎるサイオンもそうだけど、心の強さが前のぼくとは比較にならない。一人きりで死が待つメギドへと飛べた、前のぼくほど強くはない。
それなのに背負わなくてはいけない責任。背負えなかったら潰れてしまう。背負える程度のものならいいけど、どんな責任を背負うことになるのか分かりもしないし、見えもしないし…。
背負えるのかな、と俯いていたら、ハーレイが「どうした?」って訊いてくるから。
心配なんだ、って返事をした。
今度のぼくはどんな責任を背負うんだろう、って。
ネクタイを締めて、スーツを着て。
どんな責任を背負って歩くんだろうと、背負い切れなったらどうしようか、と。
「背負わなくていいさ」
「えっ?」
ハーレイがまるで挨拶みたいに簡単に投げて寄越した言葉。ぼくの重たすぎる疑問に答えるには軽い、あまりに軽すぎる言葉なんだけれど。
でも、そう言ってのけたハーレイの鳶色の瞳は優しくて深くて、真剣なもの。
冗談なんかを口にするには相応しくない瞳の色。
「お前は何も背負わなくていいさ」
ハーレイはもう一度、念を押すように言って笑顔になった。
「責任なんかは背負わなくっていいんだ、今度のお前は」
もしもお前が仕事をしたいと思うんだったら、俺は止めない。
どんな仕事でも、やりたいことなら好きなだけやって責任も背負え。
…だがな、やりたいことが無いなら俺の嫁さんだけをやってりゃいい。
俺と暮らして俺を見送って、ただ出迎えてくれればいい。お前の責任はそれだけだ。
「…でも…」
それって、ちょっとあんまり過ぎない?
無責任にも程があるって気がするんだけど…。
「馬鹿」
それでいいんだ、と頭をポンと叩かれた。
「前のお前は普通の人の何人分を働いたんだ? 今度はゆっくり休んでおけ」
今度のお前は休むのが仕事だ、どうしても仕事をしたいのならな。責任も休むことだけだ。その程度だったら背負えるだろうが、寝転がっていたって背負えるからな。
「だけど、ハーレイは今度も仕事をしているのに…」
キャプテンの制服は着ていないけれど、ネクタイを締めて先生だよ?
ハーレイはちゃんと仕事をしてるし、責任だって前と同じで背負っているのに。
「俺はいいのさ、好きな仕事に好きな部活の顧問だからな」
それで給料を貰えているんだ、キャプテンよりも充実してるぞ。
キャプテンは責任ばかり重くて無給だったぞ、前のお前も給料無しだが…。
そいつを思えば今の仕事は俺にとっては遊びと変わらん。
「本当に?」
「ああ。趣味が仕事になったようなもんだ」
古典の教師が俺の趣味と見事に重なってるのは、普段から見てりゃ分かるだろ?
柔道部の顧問も趣味の世界だし、他の学校でやってた水泳部の顧問だって同じだ。
今の俺には楽しい仕事で、責任も大したことじゃないのさ。
生徒を預かる立場ではあるが、何処からも攻撃は来ないしな?
シャングリラのキャプテンをやってた頃には、俺がミスをしたら船中の仲間の命が無かった。
前のお前が眠ってた間も、どれだけ危ない橋を渡ったか…。
三連恒星の重力干渉点からワープするなんて荒技までやっていたんだぞ?
太陽に投身自殺する気かとゼルに怒鳴られたりしたっけなあ……。
そして…、とハーレイはぼくの大好きな笑顔で笑いかけてくれた。
「お前が嫁に来てくれるんなら、嫁さんのために頑張れる、ってな」
お前のお父さんだってそうだろうが。
お母さんとお前のためにって仕事に出掛けているんだろう?
嫌そうに見えるか、お父さんの背中。
それと同じだ、大事な人が居てくれるだけで責任もグンと軽くなるのさ、身体の底から力が湧き上がってくるからな。
前のお前もそうじゃなかったか?
シャングリラの仲間を守るためなら、力が湧いて来なかったか?
そのせいでメギドまで行っちまったわけだな、あんなに弱ってフラフラだったくせにな。
「…そうだったかも…」
確かにハーレイの言う通りかも、と納得していたら。
「そうだろう? だから今度のお前はネクタイなんかは締めなくていい」
お前が締めたいと思わないならな、と大きな手で頭を撫でられた。
「お前は今度は責任なんかは背負わなくていい」
その分まで俺が背負ってやる。
お前ごと全部背負ってやるから、お前は俺の隣に居るだけでいい。
今度こそ俺が背負いたいんだ、前のお前を背負い切れなかった分までな…。
約束だぞ、と優しく笑ってくれたハーレイ。
ぼくごと背負うと、ぼくの責任まで全部自分が背負いたいのだと。
ネクタイは締めなくてもいいらしい、ぼく。
男としてはどうなんだろう、と思ったけれども、どうせハーレイのお嫁さん。
ハーレイが背負ってくれると言うんだったら、背負って貰って生きるのもいい。
やりたい何かが出てこない限り。
ネクタイを締めて、責任を背負って、やりたい何かが出てこない限り。
それに、今のぼくがやりたいものはお嫁さんだけ。
ハーレイのお嫁さんだけなんだから…。
ネクタイ・了
※ハーレイにネクタイを締めて貰ったブルー。けれど、育った後にも要らないネクタイ。
今度は責任を背負わなくてもいいのです。ハーレイの側にいれば、それで充分。
次回更新日の3月31日は、ブルー君のお誕生日です!
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ハーレイと二人、ぼくの部屋でのお昼御飯に天麩羅いろいろ。
ぼくとハーレイが再会してから、どのくらい経った頃だったろうか。休日にハーレイが家に来てくれて、パパとママも一緒の夕食の席。テーブルに揚げ立ての天麩羅があった。ハーレイがそれを見て言ったんだ。「シャングリラに天麩羅は無かったですね」と。
ぼくたちが生まれ変わって来た青い地球の上。
SD体制の頃には無かった様々な文化が復活していて、ぼくたちの住んでいる地域だと日本風。ずっと昔にこの地域に在った小さな島国、日本の文化を楽しみながら暮らしている。
天麩羅は日本にあった料理で、SD体制前の地球では有名だったらしいんだけど。人気も高くて日本以外の場所でも食べられたほどで、お寿司と併せて「スシ、テンプラ」って言われたくらいに代表的な料理だったらしいんだけれど…。
マザー・システムが支配する世界に地域色なんかは要らなかった。独自の文化も要らなかった。
そういったものは個性を作り出す。画一化された社会に個性は要らない。支配する側には個性は邪魔なものでしかない。誰もが判で押したように同じ思考を持つ方が便利。
ついでに特定の地域への愛着も必要なかった。地球への思慕さえあれば良かった。
その上、地球は滅びたままだったから。マザー・システムは「地球は元通りに復活している」と嘘をついていたから、地球の特定の地域を愛する人間が出てくると都合が悪い。そんな場所は全く存在しないのだから。
そうした理由で抹殺された地域の文化。人間は地球だけを慕えばいい。青い水の星だけを慕えばいい。その星にかつて何が在ったか、それはデータの形で残して夢だけ見させておけばいい。遠い昔はこうであったと、今の地球ではそうではないと。
広い宇宙に散らばった星を統治し、支配するためには画一的な文化がいい。統一された食生活や文化、前のぼくたちが「地球と同じだ」と信じて疑わなかった文化。
それを作り出すために幾つもの文化が、地域性が消され、誰も変だとは思わなかった。
マザー・システムから弾き出された、居場所の無かった前のぼくたちでさえも。
前のぼくとハーレイが暮らしたシャングリラ。白い鯨の形の楽園。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
船のデータベースから様々な情報を引き出していたし、SD体制よりも前の時代の本を読んだり歌を歌ったり、色々なことをしていたのに。
自給自足の生活のために食材も料理も調べていたのに、マザー・システムが作り上げた食文化の枠から外へは出られなかった。そんな発想は全く無かった。
多分、成人検査とその後の人体実験で奪われてしまった記憶よりも奥、無意識よりもずっと深い場所に刷り込まれてしまっていたんだろう。統一された文化に疑問を持たないように。他にも何かあるかもしれない、と決して考えないように。
それを考えると、ナスカで自然出産に挑んだジョミーは凄いと思う。機械が植え付けた意識へのコントロールを振り切り、誰も持たなかった異質な発想を勝ち取ったのだから。
(…ひょっとしたら、成人検査の途中で逃げ出せたからなのかな?)
前のぼくと違って、記憶を消されていなかったジョミー。その分、心が柔軟に出来ていたのかもしれない。前のぼくよりも自由な心を、縛られない心を持っていたかもしれない。
(だったら、やっぱりジョミーを選んで正解だったよ)
前のぼくより、断然、ジョミーの方が前向き。機械の支配を跳ね返せる分、ぼくよりも強い。
(…ジョミーだったら、お寿司と天麩羅にも挑めそうだよ)
そっちの方向へ行かなかっただけで、と可笑しくなった。
ジョミーが地球を目指すことに全力を傾けていなかったならば、有り得たかもしれない食文化の改革。自然出産の方が偉大だけれども、食文化だって大切だもの。
「どうした、ブルー?」
何を笑ってる、と向かいに座ったハーレイが不思議そうな顔をするから。
「天麩羅だな、って思ってた。…ハーレイが前に言ったから、ママ、天麩羅に凝ってるなって」
「そういや、今日のもこだわりだなあ…」
たかが俺たちの昼飯なんだが、とテーブルの上を眺めるハーレイ。
シャングリラに天麩羅は無かったという話を耳にして以来、ママは天麩羅の時は工夫を凝らす。ちょっと変わった食材を揚げたり、衣に抹茶を混ぜて緑色の天麩羅を作ってみたり。
今日は材料に凝っていると言うより、食べ方の方。天つゆじゃなくてお塩で食べる天麩羅。そのためのお塩を入れた小さな器がテーブルの上に整列していた。
普通のお塩だけじゃなくって、藻塩に岩塩。それから山椒粉や抹茶や七味唐辛子、柚子の皮の粉とかを混ぜたお塩の器。どれを付けて食べるかは、ぼくたちの自由。
「ママのこだわり、今日はお塩だね」
色々あるよ、と海老の天麩羅に抹茶のお塩を付けていたら。
「塩も色々だが、大元の塩がなあ…。実にバラエティー豊かだよなあ、シャングリラの頃には塩は一種類しか無かったのにな?」
もっとも抹茶も山椒粉も無かったんだが、とハーレイも天麩羅に七味入りのお塩を付けている。
「シャングリラは岩塩だったものね…」
前のぼくが食料を奪いに出ていた頃には、岩塩じゃないお塩もあったんだけれど。
自給自足の生活を始めるにあたって、岩塩が採れる星を探して採って、大量に船に積み込んだ。当分は塩に困らないよう、うんと沢山積み込んでおいた。
船の中での循環システムが上手くいったから、前のぼくが長い眠りに入ってしまう前にも岩塩は充分に残っていたんだけれど。ハーレイの話し方だと、最後まで岩塩だったみたいだから。
「前のぼくたちが採った岩塩、地球に着くまで残ってたとか?」
「うむ。アルテメシアを落としてから後なら、海の塩も補給出来たんだろうが…」
生憎と、キャプテンの俺にその発想が無かったからな。
前のお前が逝っちまった後は、ただ淡々と仕事をしていただけだしな?
アルテメシアでもノアでも、他の星でも海を見たのに、海の塩は考えなかったなあ…。
「そっか…」
前のぼくが死んでしまったせいで最後まで岩塩だったのか、と思ったけれど。
海で採れるお塩を味わい損ねた仲間たちには申し訳ないし、キャプテンだったハーレイの心から余裕を奪ってしまったことも申し訳ないと思ったんだけど…。
でも、お塩。
後生大事に岩塩を抱えていたシャングリラだけど、アルテメシアには海があったから。
「…アルテメシアの海のお塩も作りたかったな、やれば良かった」
きっと美味しいお塩が出来た、と言ったら「馬鹿」と返された。
「どれほどの海水が要るんだ、そいつから塩を作るのに」
「やっぱりダメ?」
「塩が全く無いなら別だが、岩塩が山ほどあったんだ。作る必要は無いだろう」
海水から塩を作り出すには思い切り手間がかかるんだ。
岩塩みたいに掘り出して終わりってわけじゃない。
海水を煮詰めて塩の結晶を作り出さんと、使える塩にはなってくれない。
やってみたいっていう軽い気持ちで挑むと絶対、後悔するぞ。
手間も時間もうんとかかるし、岩塩の方が遥かに楽だ。
岩塩は掘ってくれば直ぐに使える、とハーレイが言うとおり、手間要らずだった岩塩の塊。
不純物の混じったものがあっても、取り除く作業は簡単なもの。
それに比べると海のお塩は無駄が多すぎて無理があったか、と思っていたら。
「もっとも、わざわざ海水から塩を作って遊ぼう、って暇人も昔は居たらしいがな?」
「えっ?」
誰のことだろう、と首を捻ると、「SD体制よりもずっと昔さ」と答えが返った。
「百人一首に歌があるだろ、知らないか?」
来ぬ人を松帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ、とな。
この歌を詠んだ人が塩作りの遊びをやってたかどうかは分からないが…。
そういう時代は遠い海から海水を運ばせて、自分の家の庭で塩を作って遊んでいたんだ。
塩釜っていう塩作り専用の釜まで庭に作らせてな。
「…そこまでやるの?」
「ああ。そいつは貴族の優雅な趣味だが、シャングリラでそういう塩は作れん」
「やれば出来たんじゃあ…」
「手間がかかると言ってるだろうが、効率ってヤツが悪すぎだ」
それともお前が趣味でやるのか、ずっと昔の貴族みたいに?
前のお前は確かに基本は暇だったけどな。
ソルジャーとしての役目がある時以外は、暇にしていた前の生のぼく。
キャプテンだったハーレイは常に仕事があったけれども、ぼくはのんびりしていたから。
皆の命を預かるという点ではハーレイと全く同じだった割に、仕事の無い日が多かった。仕事が無いからと保育部に出掛けて、子供たちと遊んでいたほどに。保育部のクルーの手伝いだか、補助だか。それを日常にしていたくらいに…。
そんなぼくだったから、暇はたっぷり。海水からお塩を作る遊びにかかる時間には困らない。
「えーっと…。青の間で塩釜?」
「燃料によっては煙が出るが…。換気設備は完璧だったし、出来んことはない」
大量の海水も前のお前なら軽いもんだろうが、いくらでも調達出来たよな?
「うん。どうせだったら、青の間の水。あれを全部、海水にしておいて毎日、塩釜」
きっと沢山のお塩が作れたよ。
ぼくが暇な時に作る分だけで、月に一回くらいは海のお塩で料理が出来たかも…。
青の間の水って、海水に変えてもシャングリラに影響は出なかったよね?
「うーむ…」
ハーレイは腕組みをして、少し考え込んで。
「青の間の水はあの中だけで循環してたし、海水に変えても影響は無いが…」
海水にすることに意味があるのか、前のお前が塩釜で塩を作る以外に?
「真水でも海水でも、どっちでも良かったんだと思うんだけど…」
青の間の水、非常用の貯水槽でも何でもないよ?
ぼくのサイオンが水と相性が良さそうだから、って水だらけの部屋になっただけだよ。
それに半分以上は見た目重視の部屋だよね、あそこ。
海水に変えて塩釜をやっても、問題なかったと思わない?
「使い道としては無問題だろうが、海水って所が問題だな」
「腐食とか? そういうコーティングは完璧だったんじゃないの、シャングリラは」
宇宙には腐食性のガスとかもあるから、対策には念を入れていた筈。
ぼくのベッドの枠とかだって、耐久性に優れた素材。
青の間の水が海水に入れ替わってしまっても大丈夫だと思ったんだけど。
「潮風だ、潮風」
お前のベッドのリネン類まで潮臭くなるぞ、と真顔で言われた。
真水だったから何の匂いもしなかっただけで、海水だとそうはいかないと。
青の間が潮臭くなってしまう、と指摘された海水。
だけど塩水。しょっぱいだけの水で、真水と変わらないんじゃないかと思う。
今、天麩羅に付けてるお塩も、抹茶とか七味唐辛子が混ざってなければ匂いは無いと思うから。
「海水ってそんなに匂いがしたっけ?」
ただの塩水だよ、と言ったんだけど。
「潮臭いだろうが。ただの塩水とは違うんだぞ」
岩塩を真水に溶かすのとは全く違うんだ。
アルテメシアの海の水を持って来ようというなら、そういうことだ。
「…そういえば潮の匂いがしてたよ、海の側だと」
「忘れてたのか、お前? 潮の匂いを」
海水浴に行ったら嫌というほど潮風の匂いがするだろうが。
塩の他にも色々なものが入っているから、ああいう匂いがするんだな。
「…ぼくは海水浴はあんまり…」
「チビの頃に行ってただけだったか?」
「うん。…ぼく、長い間は入っていられないしね、海もプールも」
だから殆ど忘れちゃってた、潮風の匂い。
青の間が潮臭くなってしまったらちょっと困るかな、ぼくはいいけどゼルとかが。
会議とかで来る度に「変な匂いだ」って言い出しそう。潮風の匂い、みんな記憶に無いものね。
「それを言うなら前の俺だって同じだな」
何の匂いですか、と質問しそうだ。
今の俺だと海も潮風も馴染みの深いものだが、前の俺は全く知らないんだしな。
変な匂いだと言われてしまうらしい、潮風の匂い。
潮風だけでその有様だと、前のぼくが塩釜をやっていたなら変な趣味だと思われるだろう。
岩塩は充分足りているのに、青の間を変な匂いで満たして、時間をかけて塩まで作って。
美味しいお塩が出来ていたなら理解も得られそうだけど…。海水から出来たお塩は味が違うと、青の間は変な匂いがするけど、美味しいお塩が出来る場所だと。
「…前のぼくが青の間で塩釜をやったら、美味しいお塩が出来てたと思う?」
「出来たんじゃないか? …ちゃんと作れば」
美味い塩が売りの場所もあるしな、今の時代は。
この藻塩とかもそうだぞ、きちんと海水を汲み上げて作っているからな。
藻塩ってヤツはだ、ただ海水っていうんじゃなくって海藻も使う。
潮風の匂いの原因の一つだ、海藻はな。
海に生えている海藻が波に乗って、空気に触れて。その海藻から漂う匂いも潮風の匂い。海藻の他にも小さな小さなプランクトンとか、色々なものが混ざって混じって、潮風になる。お塩を水に溶かしたものとは全く違った匂いになる。
ハーレイが言うには、藻塩を作るのに使う海藻はホンダワラ。昔の貴族が遊びでやってた塩釜に使っていたかどうかはともかく、今は塩釜にはホンダワラらしい。
海水を煮詰めてお塩を作るための大きな釜。その上にホンダワラをたっぷりと乗っけて、上から海水を注いで、かけて。その過程で美味しい藻塩のための成分が出来るらしいんだけど…。
塩釜は其処から先が大変。
釜一杯の海水を何時間もかけてゆっくり煮詰めて、それから冷ます。釜ごと水に浸けるのも風を送って冷やすのも駄目で、自然に冷めてゆくのを待つ。
そうしたら釜の中に勝手に出来てくるという、大きなサイズの塩の結晶。角砂糖よりもずうっと大きな、三センチくらいもあるような結晶。
その結晶でもいいんだけれども、美味しい藻塩を作りたかったら、結晶が出来た後の上澄み。
それを掬って釜で煮詰めて、やっと藻塩の出来上がり。丸一日はかかるという藻塩。
手間は沢山かかりそうだけど、面白いな、と聞き入っていたら。
「おい。…前のお前は海水から塩を作り損ねたが、塩釜、やるか?」
やってみたいか、とハーレイに訊かれた。
「塩釜って…。何処で?」
ぼくの家の庭でやるんだろうか、と目を丸くしたら。
「いつか俺と一緒に海で、だ」
「海!?」
ハーレイと一緒に海で塩釜。凄く素敵だと思ったけれども、海と言ったら海水浴の季節。
「…楽しそうだけど、夏は暑そうだよ?」
ぼく、暑い季節は苦手なんだよ。暑いのがダメなの、知ってるくせに…。
「もちろん承知だ。だから暑くない季節でないといかんな、春とか秋とか」
塩釜をやるのにピッタリのシーズンに出掛けないとな?
それから美味い魚も釣らないと。
海辺で塩でバーベキューだ。
せっかく藻塩を作るからには、海の見える場所で味見しないとな?
「わあっ…!」
なんて素敵なアイデアだろう。
藻塩を作るってだけじゃなくって、バーベキュー。
塩釜で作ったお塩を使って、ハーレイが釣った美味しい魚でバーベキュー…。
お塩だけを使ったバーベキューでも美味しそう、と思った所で気が付いた。
バーベキューで焼くもの、魚の他にも海の中には棲んでいる筈。水泳が得意なハーレイが潜って獲れそうな貝とか、ウニだとか…。
これは絶対に焼いて食べなくちゃ、と強請ることにした。
「ハーレイ、バーベキューには魚だけなの? 潜って獲って来てくれないの?」
サザエとかアワビ。
ウニだっているし、焼いてお塩を振っただけでも美味しそうだよ。
「おいおい、潜るって…。夏じゃなくって、塩釜が出来る季節にか?」
「シールドを張ったら寒くないと思うよ?」
「そう来たか…」
まあ、サーファーなんかは年中いるしな、海に入っても変な顔は誰もしないと思うが…。
それにだ、俺は寒中水泳だってやっていたから、短時間ならシールドは要らん。
お前が獲って欲しいと言うなら、アワビもサザエも獲って来てやるぞ。
そういや、お前、ウニは憧れだったんだよな?
前のお前は栗のイガを見ては、ウニが食いたいって言ってたもんなあ…。
よし、とハーレイはバーベキューにするウニとかも獲ると約束してくれて。
「そうだ、俺の親父も一緒に出掛けるか?」
釣り名人だから色々と釣ってくれるぞ、お前の師匠にもなってくれるさ。
お前のためにと新しい釣竿も買って来そうだ、仕掛けもあれこれ作ってな。
「えーっと…」
ハーレイのお父さんと釣りをするのは楽しそうだけれど。
新品の釣竿でハーレイも一緒に、ハーレイのお父さんと並んで釣るのも良さそうだけど…。
わざわざ海まで出掛けてゆくのに、大問題が一つ。
「ハーレイのお父さんと一緒じゃ、ハーレイと二人でくっついてられない…」
「宿の部屋は別にしてやるさ。塩釜をやるには泊まりがけでないとな」
丸一日はかかると言ったろ、釣りをしながら塩釜の番だ。
煮詰めたのを冷ます間はともかく、煮詰める間は誰かが釜についていないと。
そうなると適任は俺のおふくろだ、俺たちが釣りに出掛ける間も見ていてくれるぞ。
親父とおふくろを連れて行ったら実に便利だと思わんか?
それにだ、お前、いつまで俺にくっつくつもりだ。
「一生だよ!」
決まってるよ、と答えたぼく。
どんなにハーレイと一緒に居たって、くっついてたって、飽きることなんて有り得ない。
満足だってきっとしないし、いつまでだって、一生だって…。
でも…、と、ぼくは考えた。
いつまでもくっついていたいと思うハーレイだけれど、ハーレイのお父さんは釣り名人。釣りが大好きで、小さなぼくを釣りに連れて行きたいと言ってくれた人。
優しい、ハーレイのお父さん。隣町の庭に夏ミカンの大きな木がある家に住んでいるお父さん。そのお父さんも一緒に釣りに行くのもいいかもしれない。ハーレイの子供時代の話なんかも色々と聞けそうな気がしてきたから。
「んーと…。ハーレイのお父さんとも行きたいかな、釣り」
「おっ、そうか? 親父は楽しみにしているからなあ、お前を釣りに連れて行くのを」
いつか絶対に連れて行くぞ、と今から計画を練っているんだ。
まずは川で釣って、慣れたら海にも行こうとな。
それにキャンプ場だって諦めていないぞ、何処がいいかと思案中だし…。
俺たちが塩釜をやると言ったら勇んで来そうだ、そういうのは親父もおふくろも好きだ。
賑やかに家族旅行といこうじゃないか。
「家族旅行かあ…」
それならぼくのパパとママも、と言ってしまってから「うーん…」と唸った。
「ハーレイのお父さんとお母さんに、ぼくのパパとママと…。人数、多すぎ!」
ホントにハーレイとくっつけないよ。
そんなに大勢で一緒に行ったら、くっついてる暇が全然ないよ…。
「お前なあ…。本当にいつまで俺にくっつきたいと…」
「一生だってば!」
さっきも言ったけど、一生、くっつく。
一生、ハーレイにくっついていたいよ、前のぼくがくっつき損ねた分まで…。
だから、とぼくはハーレイに言った。
「パパやママが見てても平気でキスが出来るようになったら、みんなで塩釜」
気にせずにくっついていられるくらいに平気になったら、みんなで家族旅行に行こうよ。
それまではハーレイと二人がいい。
ちょっと面倒でも、ハーレイと二人で塩釜で藻塩を作るんだよ。
「俺を独占したいってか?」
欲張りめが、と軽く睨まれたけれど、怒ってないってちゃんと分かるから。
「だって、ハーレイはぼくのハーレイだよ?」
そして、ぼくはハーレイのものなんだよ。
だからずうっと二人がいいんだってば、基本は二人。
「ふむ…。お前も俺のものだと言うなら、それでもいいか…」
俺もお前を存分に独占したいしな?
早くお前を連れて来い、と何度も言ってる親父とおふくろに取られんようにな。
「ね、ハーレイだってそう思うでしょ?」
でもね…。
ぼくはパパとママに取られっぱなしなんだよ、ハーレイを。
晩御飯の度に取られちゃうんだ、パパとママに取られてしまうんだよ…。
「仕方ないだろ、俺は「ハーレイ先生」なんだ」
お母さんたちに悪気は全然無いんだ、俺がお前の相手で疲れただろうと気遣ってくれてる。
晩飯の間くらいは大人と喋りたいだろう、と俺と話をしてくれるんだ。
いくらお前が元はソルジャー・ブルーだと言っても、今は立派な子供だからな。
「…そうなんだけど…」
それは分かっているんだけれど、とぼくは大きな溜息をついた。
ハーレイのためにと天麩羅を揚げてくれたママ。何種類ものお塩を用意してくれたママ。パパも優しいし、文句なんか言ったら罰が当たるというものだけど。
「でも…。早くハーレイを独占したいよ、ハーレイの時間をぼくが独占」
「俺もなんだが…。道は長いぞ?」
まだまだ我慢の日々が続くぞ、と脅されたから。
「十八歳になったら結婚出来るよ、それまでの我慢」
「その前にだ。お前と結婚出来るよう、お前のお父さんたちに申し込まんといかんのだが…」
お許しを貰えるのはいつになるやら…。
いきなり「出て行け」とか「帰れ」と放り出されるかもなあ、お前の家から。
「ハーレイがうんと頑張ってよ。そういうのは大人の役目だと思うよ」
ぼくは子供だから、待ってるだけ。許して貰えるまで待ってるだけ…。
「こらっ! お前も結婚出来る年なんだろうが、俺と一緒に努力をしろ!」
「お酒が飲めない子供だよ、まだ。二十歳までお酒は飲めないよ」
だから大人はハーレイだけだよ、ハーレイがうんと頑張らなくちゃ。
「………。都合のいい時だけ子供なのか、お前」
なんてヤツだ、とハーレイは両手を広げてお手上げのポーズを取ったけれども。
そうやって呆れ顔をしてくれたくせに、目だけは優しく笑っていて。
「まあいいが……な」
子供なんだな、と唇にも浮かんだ小さな微笑み。
それが綻んで笑顔になった。ぼくの大好きな笑顔のハーレイ。
笑顔で天麩羅をお箸で摘んで、器の藻塩をチョイチョイと付けて。
「藻塩、二人で作りに行こうな、結婚したら」
まずは二人で藻塩作りで、いずれは家族旅行で賑やかに塩釜やるんだな?
「うんっ!」
二人きりで塩釜をする時も、魚を釣ってバーベキューだよ?
ぼくは塩釜の番をしてるから、ハーレイが釣って、貝とウニも獲ってね。
うんと美味しい藻塩が出来たら、魚とかに振って食べようね?
「…お前は塩釜の番をするだけか? ずいぶんと人使いの荒いヤツだな」
「えっ? ハーレイも塩釜の番をするでしょ、交代で?」
「俺をそこまでこき使う気か…!」
塩釜なんか教えるんじゃなかった、とハーレイは大袈裟に天井を仰いでいるけれど。
本当はとても嬉しいんだってこと、顔を見てれば簡単に分かる。
いつかはハーレイと二人で塩釜。
パパやママが一緒でも平気になったら、ハーレイにくっついて家族旅行で、みんなで塩釜。
そんな日が早く来るといい。
海辺でのんびり塩釜をやって、美味しい藻塩を作れる日が……。
塩と塩釜・了
※シャングリラでは岩塩だった塩。海水から採れる塩は使っていなかったらしいです。
青の間で塩釜も凄いですけど、今の時代なら、のんびりゆっくり塩釜で遊べそうですね。
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