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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「うーん…」
 休日の朝、目覚めたブルーは鏡に映った自分の姿に溜息をついた。
 ピョコンと跳ねてしまった頭の天辺、髪の一房。銀色の髪がピンと真上に立ち上がっている。
(間抜けだよ、これ…)
 好き勝手な方向に跳ねているようにも見えるブルーの髪だが、ちゃんと決まった方向があった。髪を切りに行けば理容師が丁寧に癖を見極めながらカットし、整えていた。
 前の生では名前など無かった髪型だけれど、今の時代は「ソルジャー・ブルー風」という立派な名前が付いてしまって、町を歩くと同じ髪型をたまに見かける。それだけに妙な風に跳ねると寝癖なのだと一目で分かるし、それが悩ましい点でもあって。
(…ジョミーだったら普通なんだけどなあ…)
 コレ、とブルーは跳ねた髪の毛を引っ張った。
 前の自分が見付けた後継者のジョミー・マーキス・シン。性格をそっくり表したような金の髪は明るく、光そのもの。ブルーよりも短かった彼の髪だが、何故か一房跳ねていたものだ。
(多分、寝癖じゃないんだよね?)
 ああいう髪の癖なんだよね、とブルーは思う。十五年もの長い眠りから覚めて出会った、青年の姿に育ったジョミー。その髪もやはり一房ピョコンと跳ね上がっていた。
 それがジョミーのお決まりの髪型だったから、今も何枚も残る写真はそういう髪。男性も女性も「ソルジャー・シン風」だの「ジョミー・マーキス・シン風」だのと真似たがる。
(アレだったら跳ねてても普通なのに…)
 この状態が普通なのに、と寝癖のついた髪を引っ張るブルーは知らない。ジョミーと同じ髪型の人たちが「ピョコンと一房」跳ねさせるために毎朝努力していることを。どの辺りを上手く真上に向かって跳ねさせようかと、鏡に向かっていることを…。



 ジョミーだったら「普通」だとブルーが信じる寝癖。跳ね上がってしまった自分の髪。
 それは「ソルジャー・ブルー風」の髪型では変にしか見えず、とにかく寝癖を直すしかない。
(うー…)
 前の自分の髪もよく跳ねていたが、前のブルーなら何でもなかった。サイオンで直せば良かっただけ。サイオンを宿らせた指で軽く撫でれば良かっただけ。
 しかし今では事情が違った。とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。寝癖を直せる技などは無くて、撫でたって何も起こらない。
(…全然ダメだよ…)
 こんな風に、と理想のスタイルを思い描きながら何度撫でても、髪はピョコンと跳ねたまま。
 ブラシを握って梳いてみても無駄、ブラシを濡らして梳いてみても駄目。
(直らないよ…)
 休日で時間はたっぷりあるから、と努力したものの成果はゼロで。
(…やっぱりママに頼まなくっちゃ…)
 登校する日についた寝癖は母が蒸しタオルを使って直してくれるから、そうして貰おうと階下に下りて行ったのに。



「あれっ、ママは?」
 焼き立てのトーストの匂いが漂うダイニングに母は見当たらなかった。父だけが新聞を手にしてテーブルに着いて、空いた方の手には齧りかけのトースト。
 父が食べている目玉焼きとソーセージが乗っかった皿も、ブルー用の小さなオムレツもきちんと用意されているし、サラダを盛り付けたボウルもあるのに。ハーレイに貰ったマーマレードの瓶も置かれているのに、母の分の皿は何処にも無い。
 代わりに自分で焼けとばかりに皿に載せられたスライスしたパン。厚みは明らかにブルー用。
 母は何処に、と見回すブルーに父が新聞から顔を上げて言った。
「ママなら朝市に出掛けて行ったぞ。朝刊にチラシが入っていたんだ」
 たまに来るだろ、郊外の農場の販売車。
 新鮮な野菜も果物もあるって書いてあったし、いそいそとな。
「そうなんだ…。いつ帰るかな?」
「さあな? 朝御飯は其処にあるだろう」
 オムレツは軽く温め直して、トーストは焦げ過ぎないように気を付けろよ。
 バターは其処で、ハーレイ先生のマーマレードも此処にあるから。



 父の言葉通り、オムレツを温め、トーストを焼いて。
 背が伸びるようにと毎朝飲んでいるミルクも冷蔵庫から出してカップに注いだ。食べている間に母が戻ってくるであろう、とトーストにマーマレードをたっぷりと塗って齧っているのに。
「…ママ、まだかなあ?」
 一向に帰って来ない母。壁の時計の針が進んでゆく。一時間もすれば多分、ハーレイが来る。
(こんな頭じゃ困るんだけど…)
 とても困る、と母の帰りを待ち侘びながら「まだかなあ?」と何度も繰り返して。
「もうすぐハーレイが来ちゃうよ、パパ」
「そりゃそうだろうさ。そのために朝市に行ったんだぞ、ママは」
 ハーレイ先生に美味しい食事をお出ししたい、ってな。
 おいでになる時間には間に合うように帰ってくると言っていたから心配しなくても大丈夫だぞ。
「えーっ!?」
 心配事は其処ではない、とブルーは悲鳴にも似た叫びを上げた。
 ハーレイに出すお茶は間に合うだろうが、間に合わないかもしれない自分の頭。
 しっかりと寝癖がついてしまった自分の頭…。



 一人息子の素っ頓狂な声に、父は新聞をバサリと閉じると向き直った。
「どうした、ブルー?」
「…ぼくの髪の毛…」
 この世の終わりのような顔で跳ねた毛先を指差すブルーだったが、父は事も無げに。
「寝癖か、自分で直せるだろう?」
「…パパ、直せないの、知ってるくせに…」
 恨めしそうに上目遣いで父を睨めば、「はははっ」と笑い声が返った。
「そのままでいいだろ、いらっしゃるのはハーレイ先生なんだから」
 校長先生とかじゃないしな?
 それにお前のために来て下さるんだ、何も問題ないだろう?
 たまにはありのままのお前の姿を見て貰え、と父は涼しい顔だけれども。
(ありのまま過ぎて笑われるんだよ!)
 ハーレイは前の自分の寝癖を知っている。
 ソルジャー・ブルーの髪が朝にはどうなっていたか、どんな具合に跳ねていたのか。
 それに寝癖をサイオンで簡単に直したことも。
(…ぼくが不器用なの、これ以上バラしたくないんだってば…)
 たかが髪の毛、たかが寝癖のほんの一房。
 けれどブルーにとっては大問題で、何としても寝癖を直したかった。
 ピョコンと跳ね上がった一房の髪を、ハーレイがやって来る前に。



 まだか、まだかと時計を見ながらオムレツを食べて、トーストも食べて。サラダもミルクも胃に収めたのに、母は戻って来なかった。
 朝市の場所は近所の公園。其処で出会ったご近所さんと話が弾んでいるのだろう。
(…ママ、ギリギリまで帰らないかも…)
 ハーレイが来る日だと知っているのだし、時計も持って出掛けた筈。何時に戻れば来客のための準備が出来るか、母は充分に分かっている。そして準備に必要な時間の中にはブルーの寝癖を直す時間は含まれていない。
(…ママが帰って来ても、直して貰う時間は無いかも…)
 どうやって直すんだったかな、とブルーは母の手順を頭の中で追ってみた。
(えーっと…)
 まずは必須の蒸しタオル。
 母は給湯器から出る一番熱い湯を使っていた。火傷しないよう気を付けて絞り、湯気が立つ間にブルーの頭に載せていた。
 そう、ピョコンと跳ねてしまった辺りに。
(うん、乗っければいいんだよね!)
 後は何度かタオルを外して跳ね具合をチェックしていたと思う。
 ちょうどいい具合に髪が収まるまで、寝癖がついた辺りをタオルの熱で温めながら。



(蒸しタオル…)
 ついでだから、と父と自分が使った食器の後片付けをして、テーブルを拭いた。それから仕事に取り掛かる。キッチンの蛇口から出る湯の温度の目盛りを最高まで上げて、タオルを濡らして。
「あつっ…!」
 手にシールドを張れないブルーには熱すぎる温度。絞るだけでも一苦労だった。
 ともあれ、蒸しタオルはこれで出来上がったから。
(…こんなものかな?)
 ホカホカと湯気を立てるタオルを頭に載せると、ダイニングへと戻って行った。
(少ししたら外して、ちょっと見てみて…)
 ダイニングの壁には小さな鏡が掛かっているから、それを覗けばいいだろう。待ち時間はどんなものだったろうか、と考えながら遊ばせた視線の先。
(あっ!)
 父が再び広げていた新聞に可愛らしい猫の写真を見付けた。読者投稿欄のペットの写真。



(ミーシャだ…!)
 カメラの方を向いてチョコンと座った真っ白な猫。ハーレイの母が飼っていたというミーシャにそっくりな白い猫の写真。
「パパ、ちょっと見せて!」
 父の肩越しに覗き込んでみると、写真の猫の名前も奇しくもミーシャ。
(猫のミーシャだ…)
 ハーレイの母が飼っていたミーシャはずうっと昔に死んでしまっていないけれども、ハーレイが色々と思い出話をしてくれる。
 甘えん坊な所がブルーに似ている、などと懐かしそうに目を細めて。
(本物じゃないけど、本物のミーシャ…)
 いいな、とブルーは夢中でミーシャの写真とセットの投稿を読んだ。まるでハーレイが過ごした子供時代を見ているよう。投稿者は子供ではなかったけれども、猫と飼い主との素敵な触れ合い。
(ホントにミーシャにそっくりだよ)
 家族全員で可愛がっているという甘えん坊のミーシャ。
 子供の頃のハーレイもきっと、こんな風にミーシャと過ごしたのだろう…。



 うっとりと想像の世界に浸っていたブルーは、父が呼ぶ声で我に返った。
「ブルー、蒸しタオル、載せすぎじゃないか?」
「えっ?」
 忘れ果てていた、頭の上に載せた蒸しタオル。熱すぎるほどだった熱はとっくに無い。
(大変…!)
 まさか、と覗き込んだダイニングの壁に掛かった鏡の中。
(……嘘……)
 呆然と赤い瞳を見開く。
 ピョコンと跳ねていた一房は無かったけれども、頭は見事にペシャンコだった。いつもふわりと広がっている筈の銀色の髪が頭の上だけペシャリと平らにへしゃげている。ソルジャー・ブルー風どころか、何が何だか分からない髪型。何処から見ても可笑しな髪型。
 ブルーは半ばパニックになって、慌てて父に助けを求めた。
「どうしよう、パパ…! これ、直せない?」
「うーん…。シャンプーしてブローしないと無理なんじゃないか、それは?」
 お前、タオルでしっかり蒸しちまったろう。
 そう簡単には直らないぞ、きっと。
「パパのサイオンとかは?」
「出来んこともないが、パパの髪の毛じゃないからなあ…」
 失敗したらどうするんだ。パパには加減が分からないからな。
「…そんな……」
 どうしたらいいの、と泣きそうになった所へ母が帰って来た音がしたから。
 ブルーは急いで玄関の方へと駆けて行った。



 買い込んだ荷物が多かったらしく、勝手口には回らないで玄関の扉から入って来た母。ブルーの住む地域は家の中では靴を履かないから、玄関の床は土足の場所より一段高くなっている。其処に敷かれた絨毯の上に、野菜や果物が詰まった袋。
 普段のブルーなら母を手伝って荷物を奥へと運ぶけれども、今はそれどころの話ではなかった。
「ママ!」
 見てよ、と袋を持とうともせずに自分の頭を指差した。母はまだ靴を脱いでいる最中なのに。
「ぼくの髪の毛、大変なことになっちゃった…!」
「あらあら、すっかりペッシャンコねえ…」
 何をしたの、と上がってブルーを見下ろす母。身長が未だに百五十センチしかないブルーよりも母の方が背が高いから、自然とそういう形になる。
「寝癖を直そうとして失敗しちゃった…」
 ママがなかなか帰って来ないから、蒸しタオル、自分で作ったんだよ。
 だけど頭に乗っける時間が長すぎちゃった…。
「そうだったの? でもねえ、ブルー」
 美味しそうな野菜と果物を沢山買ったわ、お昼も夜も御馳走よ。
 ハーレイ先生もいらっしゃるから、ママ、張り切ってお料理するわね。
「それより、ママ…!」
 ぼくの頭、と訴えた時にチャイムが鳴った。母が「あら?」と客人を映し出す画面を見て。
「いらっしゃったわ、ハーレイ先生」
 ブルー、荷物をキッチンに持って行っておいて。
 ママは門扉を開けに行くから。
「え? えええっ?」
 母は靴を履き直して出て行ってしまい、ブルーは一人残された。
(ハーレイ、来ちゃった…!)
 頭はペシャンコのままなのに。
 玄関には野菜と果物が詰まった袋が置かれて、それを運ばねばならないのに。
 髪を直して貰うどころか、母の手伝いをする間に時間切れだなんて…!



「…ふうむ。それでペシャンコになっちまった、と」
 ハーレイは二階の自室に逃げ帰っていたブルーを見るなり吹き出したけれど、声を上げて笑いはしなかった。流石は大人と言うべきだろうか、「すまん」と謝り、いつも通りに挨拶もしてくれたけれども。
 ブルーの母がお茶とお菓子を置いて去るなり、ハーレイの顔から教師の威厳は吹き飛んだ。目の前のブルーのペシャンコになった頭をしげしげと眺め、クックッと懸命に笑いを堪える。
 大きな身体を二つに曲げんばかりにして肩を震わせるハーレイの姿にブルーは唇を尖らせ、今に至るまでの事情を説明したというのに止まらない笑い。
 だから頬っぺたをプウッと膨らませ、悲劇の原因を改めて口にした。
「本当にミーシャだったんだよ! ちゃんと真っ白の!」
 それに本物のミーシャみたいに甘えん坊で。
 お魚だって生は嫌いで、焼いてくれってトコまでそっくり…。
「おいおい、ミーシャのせいにしないでくれ。それはお前の不注意ってヤツだ」
 蒸しタオルを載せてる間くらいは時間に注意していろ。
 よそ見をするからそんなことになる。
 実に間抜けとしか言いようがないぞ、お前の髪型。



 とんだソルジャー・ブルーもあったもんだ、とハーレイが笑い続けるから。
 笑われてもペシャンコになった頭はどうにも元に戻せないから、ブルーは仏頂面で尋ねる。
「…ハーレイ、ぼくのこと笑ってるけど、ハーレイは寝癖つかないの?」
「お前、その辺はよくよく知ってる筈だよな?」
 前と同じだ、何も変わらん。
 キャプテン・ハーレイも俺も寝癖は同じだ。
「逆立つんだっけ?」
 確かツンツン立っていたな、とブルーは遠い記憶の底を探った。
 青の間のベッドで眠っていた時も、ハーレイの部屋に泊まった時にも、寝癖がついたら逆立っていたと記憶している。短い髪を両手でかき混ぜ、指で上へと伸ばしたように。
「その通りだが、俺の場合はブラシで何回か梳けば直るぞ」
 髪質の違いというヤツだな。
 それにブラシで直せなければ、スタイリング剤を使うって手もあるし。
「ずるい!」
 なんでハーレイはブラシだけで直せてしまうわけ?
 おまけに直す薬っていうの?
 そんなのまでちゃんとあるなんて、ずるい!



 不公平だ、とブルーは頬を膨らませた。
 自分は寝癖も直せなくなってしまったというのに、何故ハーレイは前と同じで直せるのかと。
 二人で地球に生まれて来たのに、どうして違いが出て来るのかと。
 ハーレイは「お前なあ…」と呆れ顔でブルーの苦情を聞いていたけれど、ふと思い付いたように褐色の大きな手を伸ばして。
「じゃあ、こんな髪の方がいいのか、お前」
 ブルーの銀色の髪に指を差し入れ、前髪を額の上へと梳きながら。
「今の髪型よりコレにしとくか? どうなんだ、ブルー?」
 こんな感じで、と何度か撫でられたブルーの髪はオールバックになっていた。
 何か変だ、と気付いたブルーが鏡を覗けば、其処にはペシャンコよりも酷い頭の自分が居て。
「ハーレイ、これ…!」
「ん? 俺の髪型と同じヤツだが、文句があるのか?」
 お前の大好きなお揃いってヤツだ。
 キャプテン・ハーレイ風と呼ぶには少し長いが、悪くないだろう?



「……こんなお揃い……」
 酷い、とブルーは鏡の向こうの別人のような自分を見詰めた。
 好き勝手な方へ跳ねているようでも、ソルジャー・ブルー風の髪型はそうではないのに。たった一房の髪が真上に跳ねただけでも変になるのに、オールバック。
 いくら大好きなハーレイとお揃いであっても、これだけは御免蒙りたかった。この髪型を作った理容師の方をクルリと振り向き、「直してよ!」と突っかかってゆく。
「直してよったら、嫌だよ、こんなの!」
 ねえ、とハーレイが腰掛ける椅子の脇に膝を付き、広い胸を、逞しい腕や足をポカポカと叩いて頼んでいるのに、悠然としている酷い理容師。「知らんな」と素知らぬ顔の理容師。
「ママに見られたら笑われるよ…!」
「お前、そのママにいつも頼んでるんだろ、寝癖直しを?」
 ハーレイ先生にやられたと言っとけ。
 生憎と俺にも直せんからなあ、お前の寝癖は。
 お母さんに頼んで直して貰うのがいいと思うぞ、蒸しタオルで。
 それが一番確実なのさ、とハーレイはブルーの悲惨な頭を笑いながら眺めているものだから。
「ホントは上手に直せるくせに!」
 大嘘つき、とブルーは自分の髪型を変えてしまった理容師の腕を、胸を叩いた。
「コレが出来たんだから、絶対、直せる!」
 直せないだなんて、嘘なんだから!
 嘘に決まっているんだから…!



 お茶もお菓子もそっちのけにして、ポカポカ叩いて、叩き続けて。
 ようやっとハーレイが「仕方ないな」とブルーの髪に手を伸ばすまではかなりかかった。褐色の指がそうっとそうっと髪を解きほぐし、ゆっくりと梳いて。
「…どうだ、こんなもんか?」
 鏡を見て来い。
 ついでにペシャンコも直しておいたぞ、ソルジャー・ブルー風になったと思うがな?
「えーっと…」
 立ち上がって鏡を覗きに行ったブルーは驚いた。オールバックの髪の自分は何処にも居なくて、代わりに普段とまるで同じ姿。ペシャンコになった髪はもとより、ピョコンと跳ねていた寝癖まで綺麗に直っている。
「…凄い……」
 ホントに凄い、と感嘆するブルー。
「今度のハーレイ、器用なんだ…」
「違うぞ、前の俺だった頃から出来たぞ?」
 変わっていないと言っただろうが。
 寝癖も髪質も、寝癖直しの腕前も前の俺のままだ。
「嘘!」
 そんな話は聞いていない、とブルーは反論したのだけれど。
 前の自分の、ソルジャー・ブルーの記憶の中にはハーレイのそんな技などは無い、と。
 けれどハーレイはいとも簡単にサラリと答えた。
「出番が無かったというだけだ」
 前のお前には必要無かった技だろうが。
 お前、自分で直してたしなあ、寝癖くらいは一瞬でな。



 出番が無ければ使う機会も無いものなのだ、とハーレイは笑う。
 この技は前から持っていたのだと、今でもスタイリング剤を切らした時には使っていると。
「俺は基本的にサイオンは使わないことにしているからな」
 サイオンよりかはスタイリング剤が好みだな。
 まずはブラシで、そいつが駄目ならスタイリング剤だ。
 しかしだ、俺が使っているヤツはお前の髪には合わないだろうし、髪型もまるで違うしな?
 将来、お前に「ずるい」と言われても貸しようがないな、スタイリング剤。
「えっと…。将来って?」
 そう尋ねてから、ブルーはハタと気が付いた。
 ハーレイ愛用のスタイリング剤を「貸してくれ」とゴネられそうな場面は一つしか無い。それはハーレイと共に暮らす家で、其処の洗面所の鏡の前あたりで口にする台詞。
 自分の髪は寝癖で跳ねたままなのに、寝癖をサッサと直してしまったハーレイはずるいと、秘密兵器のスタイリング剤を貸してくれてもいいのにと。
「そっか…。借りられないんだ、今のハーレイが使ってる、えーっと…」
「スタイリング剤だ。お前みたいな子供が使うのは早すぎだな」
 だから蒸しタオルになるんだろう。
 将来的にも蒸しタオルかもなあ、お前の髪質と髪型に合うヤツが無ければな。



「ずっと蒸しタオルかもしれないの?」
 ぼくがやると失敗してしまうのに、とブルーは嘆いた。
 母が居なかったから髪がペシャンコになったと、一生これが続くのかと。
「こらこら、勝手に悲観するな」
 お前、一人で暮らす予定は無いんだろ?
 俺の嫁さんになると決めてるんだろ、違うのか?
「でも、蒸しタオル…。ママがいないと失敗しちゃう…」
「だからだ、お前のママの代わりに直してやる羽目になるんだろうなあ、この俺が」
 朝っぱらから蒸しタオルを作って、お前の頭に乗っけるんだ。
 うっかりペシャンコにしちまわないよう、チェックするのも忘れずにな。
「ハーレイが直してくれるんだ…」
 ママの代わりに、とブルーの頬が幸せで緩む。膨れてばかりだった頬が幸せで桜色になる。その嬉しさのままに「ふふっ、幸せ」と微笑んだけれど。
 頼もしい寝癖直し係はニヤリと笑ってこう言った。
「場合によってはオールバックに仕上げるからな?」
 俺とお揃いだ、いいだろう?
 さっきお試しでやってみたよな、ああいう感じだ。
「酷い!」
 寝癖を直してくれるんじゃないの、と食って掛かったブルーに、ハーレイは片目を軽く瞑った。
「冗談だ。さっきはともかく、冗談以外でやらかすわけがないだろう」
 やらんさ、お前には今の髪型が一番似合うんだからな。
 ソルジャー・ブルー風が似合う俺のブルーだ。
 ブルーには、コレだ…。
 …そうだろう、ブルー?
 前のお前からずっとコレだし、寝癖くらい俺がいくらでも直してやる。
 お前の姿を側で見ていられるなら、毎朝だって直してやる。
 だから安心して俺の所に来てくれ。いつかお前が、ちゃんと大きく育ったならな……。




       寝癖の直し方・了

※今は寝癖を自分で直せないブルー。将来も自分で直すのは難しそうです、前と違って。
 ハーレイに頼めばきちんと直して貰えそうですけど、たまにはオールバックかも?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




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 庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子とのセット。ブルーのお気に入りの場所なのだけれど、今日は少しばかり事情が違った。
 ハーレイと午後のお茶にしようと、母に頼んでティーセットとお菓子を運んで貰ったのに。
 いつも通りに向かい合わせで、ハーレイもブルーも今や指定席となってしまった互いの椅子へと腰掛けたのに。
 のんびりとお茶を飲みながら他愛ないお喋りを始めて間もなく、ブルーの足元に忍び寄る気配。ズボンの裾から覗いた足首あたりに、何かが触れようとしている気配。
 あれっ、とブルーが思った時にはチクリと微かな痛みがあって。
(刺されちゃった…!)
 蚊だな、と直ぐに気付いたけれども、ハーレイがブルーの大好きな笑顔で自分の子供の頃の話をしてくれていた最中だったから。屈み込んで蚊を追い払うだとか、叩くだとかで話の腰を折りたくなかった。此処は我慢だ、とテーブルの下で足首を軽く擦り合わせた。
 それで刺した蚊が逃げてくれるか、あるいは上手く潰せるか。そのどちらかを願っていたのに、ブルーの目論見は見事に外れた。
 逃げてゆく羽音は聞かなかったけれど、満足するまで血を吸った挙句に、蚊は悠然と飛び去って行って。ブルーの足首には蚊の置き土産の痒みだけがしっかり残ってしまった。
 ハーレイは身振り手振りも交えて楽しい話をしてくれている。お行儀悪く身体を屈めたりしたくなかったけれども、刺された場所が痒くて我慢の限界。
 どうにも我慢がし切れなくなって、ブルーは「ごめん」とテーブルの下を覗き込んだ。



 直ぐに痒み止めの薬を塗らなかったから、ぷっくりと赤く腫れ上がってしまった刺された箇所。長い靴下を履いておけば良かった、と思うけれども既に手遅れ。ズボンの裾と短い靴下との間から覗いた僅かな隙間を小さな吸血鬼に思う存分吸われてしまった。
 屈んだままで手を其処に伸ばして、爪の先でポリポリと引っ掻いて。
「…痒い……」
 思わず唇から漏れた泣き言で、ハーレイは何が起きたか悟った。
「刺されたのか?」
 向かい側からテーブルの下を覗いて、ブルーが掻いている足首を見る。それから「掻くなよ」とブルーを止めると、椅子から立って庭の隅へと歩いて行った。
「…ハーレイ?」
「ちょっと待ってろ、確かこの辺りに…。うん、あった、あった」
 しゃがんで、何かの濃い色の葉をプツリと一枚、毟り取ってテーブルに戻ってくる。ハート形をした小さな草の葉。
「なに、それ?」
「ドクダミだ、匂いで分からんか?」
「ああ…!」
 ハーレイは独特の匂いを漂わせているドクダミの葉を太い指先で揉んで潰すと、ブルーの椅子の脇に屈んで「足、見せてみろ」と刺された方の足を出すように言った。
「足?」
「痒み止めの薬を塗るのもいいんだが、こいつも効くんだ」
「ドクダミが?」
「そうさ、痒み止めなんかを持ってない時には一番なんだぞ、覚えておけ」
 蜂やアブにも効くんだからな、と潰したドクダミの汁を赤く腫れ上がった箇所に擦り込む。この雑草は何処にでもあるから、覚えておくと便利なのだと。



 ブルーの家では雑草扱いされているドクダミ。それでも白い花は涼しげだから、とブルーの母は根絶しないで庭の隅っこに残していた。
 まさか薬になるなんて、と驚くブルーに「ドクダミは立派な薬草だぞ?」とハーレイが元の椅子へと座りながら笑う。
「まあ、知らなくても無理はないがな…。ドクダミにはジュウヤクって名前もあるんだ、十の薬という意味だ。生の葉は化膿や切り傷にも効くし、乾かしたヤツは神経痛とかに効くんだぞ」
「ホント?」
「本当だとも。SD体制よりもずっと昔の人間たちの知恵ってヤツだな」
 誰もが薬を買えた時代じゃないからな?
 薬は今よりうんと高くて、普通の人には手が出なかった。だから色々と知恵を絞って、こういう薬を見付けてきたのさ、自然の中で。
 一度は地球と一緒に滅びちまったが、今じゃこうして誰でも使える。
 どうだ、痒みはマシになったか?
「うん。…ハーレイ、ドクダミも古典の授業の範囲内なの?」
「授業で教える範囲の内には入らんなあ…。それに俺のは親父に教えて貰ったヤツだ」
 釣りが趣味だと言っただろ?
 虫の多い場所で釣ることも多いし、虫除けも痒み止めも必須ではあるが、だ。
 忘れて出掛ける時もあるしな、こういった知識も必要になる。
 釣り仲間の間じゃ常識らしいぞ、虫に刺されたらドクダミだ、ってな。



「そうなんだ…」
 ブルーは感心して聞いていたけれど。
 痒みも引いてきたのだけれども、さっきの蚊。ハーレイの思わぬ薀蓄が聞けて、ドクダミの葉で薬まで作って貰ったとはいえ、刺されたことには腹が立つから。
「ハーレイ、何処も刺されていないの?」
「俺の方には来なかったな」
 お前の方が美味そうなんだな、柔らかいしな?
 それに俺よりずっと若いし、蚊も刺す相手を選ぶんだろうさ。
「夏の間は一度も刺されなかったのに!」
 何度も此処に座っていたのに、と膨れっ面になったブルーに、ハーレイは「ふうむ…」と視線を巡らせると。
「其処のゼラニウム、刈ったからじゃないか?」
 テーブルから近い庭の一角を指差した。
 この間まで其処にゼラニウムが茂っていた筈だ、と。ゼラニウムには虫除けの効果が高い種類もあるから、植わっていたのはそれなのだろう、と。
「ママは何にも言ってなかったよ、趣味で植えてたヤツだと思うよ?」
「そうだろうなあ、刈っちまったんだし…。親父の家では虫除けに植えているんだが」
 庭にもあるんだが、鉢植えのもな。
 蚊が多い季節は玄関先とかに置いておくんだ、人が出入りする時に虫が一緒に入らないように。
 其処に植わっていたヤツと似てるし、あれも虫除けになってたんだろうな。
「…虫除けの草が無くなったんなら、ぼく、これからも刺されちゃうの?」
「そうかもなあ…。よし、明日は虫除けを持って来てやろう」
 お前、明日も此処でお茶を飲もうと思っているだろ?
 顔に出てるぞ、此処に来たいが蚊は嫌だとな。
 秋の蚊ってヤツはキツイからなあ、俺の虫除けに期待していろ。



(ハーレイが持って来てくれる虫除けかあ…)
 虫除けスプレーみたいなものかな、とハーレイが帰った後でブルーは想像してみた。それとも、蚊が嫌がるという匂いを仕込んだブレスレットみたいなものだとか。
 どれも虫除けとしてはポピュラーなもので、小さな頃には両親と一緒に郊外の山に出掛ける時に使っていた。そういう類の、きっとハーレイ御用達の品。
(どんなのだろう?)
 ハーレイの大きな身体にはブレスレット型は無理かもしれない。きっとスプレーか、薬の匂いが染み込んだシール。服などに貼っておく虫除けのシール。
 期待していろ、と言われたからにはお勧めの品に違いない、と翌日を楽しみにしていたのに。



「…なんなの、それ…」
 午後のお茶の支度が出来た、と母に呼ばれて返事をした後。
 ハーレイが提げて来ていた袋の中から出て来た物体に、ブルーの瞳は真ん丸になった。
 しかしハーレイの方は平然として。
「蚊取り線香、知らないのか?」
「…知ってるけど…」
 蚊取り線香は知っているけど、と言っている間に、蚊取り線香もちゃんと出て来た。渦巻き型の深い緑色。ハーレイは煙草を吸わないけれども、ライターも。
 手際よく蚊取り線香の端を炙って火を点け、煙が上がるのを確認してからハーレイは「よし」と頷いた。
「行こうか、ブルー。これで虫除けになる筈だぞ、うん」
 親父の気に入りのメーカーのでな。
 除虫菊とか、天然の原料だけで出来ているんだ、混ぜ物は無しだ。
 蚊取り線香はこうでなくちゃな、前の俺たちの時代には無かったけどな。



 ハーレイは蚊取り線香のある今の文化を褒めちぎりながら階段を下りて、庭のテーブルと椅子へ向かったけれど。遠い昔の人間たちの知恵が詰まった虫除けなのだ、と語るけれども。
 ブルーにも蚊取り線香の良さは分かるし、地球の自然にも優しそうだと思うのだけれど…。
(うーん…)
 どうにもこうにも、理解不可能な謎の物体。
 ハーレイが「此処でいいな」とテーブルの真下に据え付けた、生まれて初めて見る物体。それはコロンと丸い形で、蚊取り線香が入っていた。開いた穴から立ち昇る煙。
 どう見ても蚊取り線香を入れる道具だけれども、あまりにも変なものだったから。
「…その入れ物、なに?」
 テーブルの下を覗き込みながら、そう訊かずにはいられなかった。
 これもハーレイの趣味なのだろうか?



 しげしげと蚊取り線香の入れ物を眺めるブルーに、ハーレイはいとも簡単に。
「蚊遣り豚だ」
「…えっと…?」
「聞こえなかったか? 蚊遣り豚と言う名前だ、これは」
 蚊遣りは蚊を追い払うって意味の言葉だってことは分かるだろう?
 中に蚊取り線香を入れるための豚だから、蚊遣り豚だな。
 SD体制よりも前の時代の定番だったらしいぞ、蚊遣り豚は。
 この辺りにあった日本って国では、夏の夕涼みの絵なんかにも描かれていたくらいにな。
「そんなに古いの?」
「蚊取り線香を入れるならコレだ、ってくらいの伝統はあったみたいだぞ」
「この豚が…?」
 ブルーは丸っこい豚をポカンと見詰めた。
 白い陶器で出来ている豚。お尻の部分と鼻の部分とに穴が開いていて、ハーレイはお尻の方の穴から蚊取り線香を入れていた。
 その蚊取り線香から出て来る煙が豚の鼻から立ち昇っている。
 鼻から煙を漂わせる豚。ユーモラスな形の丸っこい豚…。



「意味があるの、これ?」
 豚の形に、とブルーは尋ねた。
 遠い昔の定番だったなら豚でなければいけないものかと、蚊取り線香には豚なのかと。
「さてなあ…。養豚場で生まれたって説もあるようだがな」
 土管の中に蚊取り線香を置いて、蚊を追い払っていたらしい。
 その土管から出る煙の加減を工夫する内に豚の形が出来上がった、っていう話があるのさ。
 徳利の底を抜いて蚊取り線香を入れていたのが豚の形に似ていたから、というのが一番の有力説らしいし、俺もそうかと思いはするが…。
 昔の蚊取り線香は今ほど安全じゃなくて火事の原因になりやすかったし、火伏せの神様。火事を防いでくださる神様のお使いのイノシシに似た豚にしたとか、豚は水の神様のお使いだとか…。
 そういった昔の信仰と結び付いた説も、古典の教師としては魅力的だな。
「それじゃ、これだって決め手は無いんだ?」
「どうやら昔から謎だったらしい。そんな具合で諸説あるが、だ」
 豚という動物は世界的に縁起が良かったらしいぞ。
 幸運を運んで来ると言われたり、お金が貯まると言われたりしてな。
 豚の形をした貯金箱が多かった地域もあるんだ、もちろんSD体制よりも昔の地球だ。
 そんな幸運のアイテムと聞けば、蚊遣り豚への愛着も深まると思わんか?
 親父もおふくろも昔からこいつを使っているしな。



 ハーレイは豚が幸運のシンボルとされた理由を幾つか挙げた。
 沢山の子供を産むからだとか、肉になる豚は大きな財産であって、お金持ちの象徴だったとか。幸運が舞い込んだ時の慣用句が「豚を手に入れた」だった地域もあったくらいなのだ、と。
「というわけで、豚は幸運を運んで来るそうだからな。俺もこいつを愛用している」
 俺の家でのバーベキューには定番の豚だ。
 お前は今日まで出会えなかったが、柔道部のヤツらは夏休みに対面していたぞ。
 柔道部のヤツらもお前と同じで、「何ですか、これ?」と訊いていたがな。
「そっか…。ハーレイの大事な幸運の豚の入れ物なんだ?」
 よろしくね、とブルーは蚊遣り豚にペコリと頭を下げた。
「ぼくが刺されないよう、今日はよろしく」
 挨拶が遅くなっちゃったけれど、これからもきっと何度も会うから。
 いつかはハーレイの家で会えるようになるから、ぼくのことをちゃんと覚えておいてね。
 忘れないでね、きっとハーレイの家まで会いに行くから…。



 丸っこい蚊遣り豚に挨拶を終えて、ブルーは椅子に座り直した。
 テーブルを挟んだ向かい側にはハーレイが座り、テーブルの下には蚊遣り豚。頼もしい虫除けの煙の匂いがするから、今日は刺されたりしないだろう。
 けれども、自分が刺された昨日。テーブルの下にはハーレイの足もあったというのに、どうして自分だけが刺されたのか、と不公平な気分になったから。
「ねえ、ハーレイ。昨日の蚊、なんでハーレイは刺されなかったの?」
 ぼくだけ、たっぷり血を吸われたよ。
 ハーレイの足だって刺してもいいのに、なんでぼくだけ…?
「タイプ・グリーンを馬鹿にするなよ?」
 気配がしたからシールドを張った。
 蚊に刺されそうな気がしたテーブルの下だけ、俺のガードはバッチリだったさ。
「そういう使い方、出来るんだ!」
 サイオン・シールドで虫除けなんて、とブルーはビックリ仰天した。
 今の自分は満足にシールドも張れないけれども、前の自分は巧みに張れた。しかし、シールドはあくまで攻撃や危険から身を守るために展開するもの。
(…蚊みたいに小さな虫を相手に張るなんて思いもしなかったよ…)
 爆発の恐れがある場所で張るとか、それこそメギドの火を防ぐとか。
 前の自分が最後に張ったシールドで防ごうとしたものは、キースが撃って来た銃弾で…。



 かつての自分のシールドに比べると平和に過ぎる蚊よけのシールド。
 本当に思い付かなかった、と蚊遣り豚の持ち主を尊敬の眼差しで見上げていると。
「前のお前はどうしていたんだ? そういう虫除け」
 ハーレイに訊かれ、「やってなかったよ」とブルーは答えた。
「アルテメシアに蚊はいなかったし、山に降りても要らなかったよ」
「なるほどなあ…」
 必要が無かったからシールドなんかは張らなかった、と。
 アルテメシアは上手くテラフォーミングされた星だったが、やはり人工の星だったってことか。
 蚊は害虫って話もあったし、SD体制よりも前の地球では病気を媒介したとも言うし…。
 そんな虫まで放さなくてもいいと判断したんだろうなあ、マザー・システムは。
 しかし今ではこの地球の上で、害虫の蚊までしっかり生きてる。
 野菜を食べる青虫もいるし、その青虫が綺麗な蝶になってヒラヒラ飛んでるんだしな。
 自然は実に偉大なもんだと思わんか?
 たとえお前が蚊に刺されても、だ。



 虫除けのシールドを展開できるか出来ないかも大きな違いだが、とハーレイは笑う。
「昨日も言ったが、お前の方が俺より美味いんだろう」
 子供だから肌も柔らかいしな、肉だってずっと柔らかい。
 蚊だって美味い方を選ぶさ、同じ刺すなら美味そうな方にしたいだろうが。
「…ぼく、シールドは下手なんだけど…。大きくなったら刺されなくなる?」
 ハーレイと二人でいたって刺されなくなる?
 ぼくがハーレイよりも美味しそうに見えなくなったなら。
「おいおい、俺と同じくらいに年を取るつもりか?」
 前のお前と同じ姿で成長を止めるつもりだったら、せいぜい十八歳ってトコだぞ。
 十八歳じゃあ酒も飲めないし、立派に子供の部類だと思うが?
 結婚出来る年ではあっても、蚊の目から見たら美味い子供だと思うがなあ…?
「………」
 あんまりだ、とブルーは唇を尖らせた。
「ぼくって一生、蚊に刺されるわけ?」
「嫌ならサイオンを鍛えることだな、虫除けのシールドを張れるようにな」
 でなきゃ蚊遣り豚のお世話になっとけ。
 さっき挨拶していただろうが、「よろしく」ってな。



「…そうだけど…」
 そうなんだけど、とブルーは顔を曇らせた。
 昨日、ハーレイが蚊に刺された足を手当てしてくれたドクダミの葉を潰したもの。
 ハーレイが父から教わったという天然の薬は良く効いた。夜には腫れも赤みも無くなり、まるで薬局で売っている虫刺されのよう。
 そうした知識をハーレイの父は豊富に持っているのだろう。釣りが趣味だと聞くハーレイの父。ブルーを釣りに連れて行ってやりたいと言ってくれたとも聞いていた。釣りにキャンプに川遊び。ブルーのためにと提案してくれたハーレイの父。
 その人と一緒に出掛けてみたい。大きくなったら出掛けたいのに、釣りやキャンプにはもれなく蚊までがついてきそうで。
「ぼく、ハーレイのお父さんと釣りに行きたいのに…」
 それにキャンプも、川遊びも。
 蚊遣り豚、そんな所には持って行けないよ。
 持って行けても、あちこち連れては歩けないよ…。



 刺されちゃうよ、とブルーは嘆いた。蚊遣り豚を持っていない自分は蚊の餌食だと。
 ブルーの悩みを聞いたハーレイが喉の奥でクックッと笑い出す。
「安心しろ、腰から下げるタイプの蚊取り線香入れもある」
 蚊遣り豚の形はしていないんだが、向きが変わっても火は消えないという優れものだぞ。
 それにだ、虫除けの道具も色々あるだろ、それこそ虫除けスプレーだとか。
「でも、ハーレイのお父さんたち、蚊取り線香派だよね?」
「それと虫除けのゼラニウムだな。お前の家にもこの前まであったし、お前はゼラニウムとかでもいいんじゃないか?」
 天然素材を目指すんだったら、ゼラニウムを編んで腕とかに巻くって手もあるが。
 別にそいつでかまわないじゃないか、蚊取り線香にこだわらなくても。
「ハーレイとお揃いがいいんだよ!」
 蚊取り線香にこだわりたいよ、とブルーは叫んだ。
 釣りに行くなら、ハーレイお勧めの腰から下げるタイプの蚊取り線香。
 普段もゼラニウムよりも蚊取り線香の方がいいのだと、幸運の豚の入れ物がいいと。
「なら、お母さんに頼んで蚊遣り豚を買って貰うのか?」
 子供が持つには渋い趣味だが、欲しいんだったら売っている店を教えてやるぞ。
「…どうしよう……」
「笑われるだろうなあ、お前が蚊遣り豚を連れて家の中をウロウロしてたらな」
 お前の家では蚊取り線香も見かけないしな、最新式の虫除けを使っているんだろう。
 そんなお父さんとお母さんが居る家で、子供のお前が蚊遣り豚なあ…。
 憧れのハーレイ先生とお揃いの蚊遣り豚なんです、で通すのも俺は止めないが。



(…蚊遣り豚…)
 ハーレイがコロンと丸い豚を持って帰っていった後で、ブルーは悩んだのだけど。
 蚊取り線香にこだわりたいのだ、と両親に強請って買って貰おうかと思ったのだけれど。
 ブルーが庭で蚊に刺されたことを知った母は後日、しっかりとゼラニウムを植え直したから。
 苗を売っている店で虫除け効果の特に高いものを選んで買ったと言っていたから。
(…おまけに大きな株なんだよ、あれ…)
 母が刈り取ってしまったゼラニウムは一年草だったらしいが、今度の株は多年草。直ぐに効果を発揮するものを、と立派な株を買われてしまった。前に植わっていたものに負けない大きさ。
 それほどの大きさで虫除け効果も高いとくれば、庭の椅子でも二度と刺されはしないだろう。
 二度目が無ければ蚊取り線香を買う必要は無くて、蚊遣り豚は頼めそうにない。



(…欲しいんだけどなあ、蚊遣り豚…)
 夏のバーベキューでは大活躍だという蚊遣り豚。
 ハーレイの家に居る気分になれるんだけどな、とブルーは悩む。
 それにハーレイとお揃いの持ち物が一つ増えるし、あの豚が欲しい。
 コロンと丸くて、鼻から煙を出していた豚。
 火を点けた蚊取り線香をハーレイがお尻から入れて、庭まで連れて行っていた豚。
(ホントのホントに欲しいんだけどな…)
 両親には笑われるかもしれないけれども、愛嬌たっぷりの蚊遣り豚。
 幸運を運ぶ豚の形の蚊遣り豚。
 ハーレイとお揃いで一つ欲しいと、インテリアに買って貰おうかな、と…。




          蚊遣り豚・了

※ハーレイ愛用の虫よけグッズは蚊遣り豚。レトロな趣味は今も健在らしいですね。
 蚊遣り豚に惚れ込んだブルーですけど、インテリアに買うのはどうなんでしょうか…。
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 デザートに生のパイナップル。
 美味しかったから、食べ過ぎちゃって。舌がちょっぴりヒリヒリとする。生のパイナップルだとそうなるんだってこと、忘れてた。
(うーん、失敗…)
 お風呂に入って歯磨きも済ませたら、すっかりマシになったから。きっと明日の夜も食べ過ぎてヒリヒリするんだろうな、とベッドに転がって考えていて。
(パイナップル…)
 そういう事件があったっけ、と思い出した。
 遠い遠い昔、ぼくがまだ前のぼくだった頃に。
 白い鯨は出来ていなくて、アルタミラを脱出して間もなかった頃に…。



 名前だけがシャングリラだった、元は人類のものだった船。
 自給自足で生きるどころか、食料も物資も人類側から奪っていた。足りなくなったら前のぼくが奪いに出掛けてゆく。食料なんかは行き当たりばったり、とにかくコンテナごと全部。
 計画性も何も無いから、食材が偏ることは珍しくなくて、キャベツばかりとかジャガイモだらけとか。その度にハーレイが奮闘していた。皆を飽きさせないよう、調理方法を懸命に調べて。
 そんな中、大量に奪ってしまったパイナップル。缶詰じゃなくて生のパイナップル。
 パイナップルは記憶に残っていたから、皆、大喜びで食べたんだけれど。
「おい、舌がヒリヒリしていないか?」
「もしかして毒が入っていたの?」
 食堂に広がってゆく不安。毒物だったら…、と恐ろしくなった。みんなパイナップルを口にしていたし、前のぼくだって舌がヒリヒリしていた。
 人類がパイナップルに仕込んだ毒物。ぼくたちの命は此処で終わるんだろうか?
(でも…)
 パイナップルを積んでいた船は、ごくごく普通の輸送船だった。ぼくたちが奪うことを見越して毒を仕込むなんて有り得ない。たまたま近くを通りかかっただけの船なのだから。
 毒ではなくて何かある筈、と船のデータベースを調べてみて。
 生のパイナップルを食べ過ぎると舌がヒリヒリするのだと知った。



「なんだ、正真正銘の生のパイナップルって証明か!」
「もっと食おうぜ、美味いんだから」
 分かってしまうと誰も怖がらず、ヒリヒリしたってパイナップルは人気。
 もっとも、少し経ってしまうと飽きてきちゃって、またハーレイが苦労することになっちゃったけれど。パイナップルを使った料理は何か無いかと、格闘する羽目になったんだけれど…。
「お前ら、たまには生も食べろよ!」
「そりゃ食べるけどよ…。他の食い方も頼むぜ、ハーレイ」
 パイナップルを入れた炒め物やら、煮物やら。他の食材と照らし合わせながら頑張っていた前のハーレイ。料理が得意というんじゃなくって、食材の管理や使い方が実に上手かった。
(もちろん料理も上手だったけどね)
 不味い料理を大量に作ってしまわないよう、いつもきちんと試食をしていた。上手く出来たら、手の空いた者を動員しながら完成品の料理をドッサリ作る。それがぼくたちの食卓に上る。
「へえ…。パイナップルで料理も色々出来るもんだな」
「生のも食えと言ってるだろうが!」
 今日のノルマだ、とカットしただけの生のパイナップルの山。完熟してくると舌がヒリヒリすることはなくなったけれど、そうなるとヒリヒリが懐かしい。
 養父母の家で食べていただろう、生のパイナップル。パパやママに「ヒリヒリするよ」と言っていたのだろうか、と思うけれども思い出せない。
 そんなささやかな記憶さえも失くしてしまったほどに、アルタミラでの日々は過酷だった。



 直接記憶を奪い去ってゆく人体実験も惨かったけれど、与えられる餌と、それから孤独。
 調理すらされていない食べ物。栄養分だけ摂れればいいとばかりに檻に突っ込まれる固形物や、水。水は必要に応じてだろうか、添加されるもので色や味わいが異なったけれど、ただそれだけ。美味しくするための加工ではなくて、薬などを入れて溶かしただけ。
 これは餌だと、人間扱いされていないのだと誰にだって分かる。
 アルタミラを脱出した直後に食べた非常食でさえ、「食べ物なのだ」と思えたくらいに。
 密閉されたパッケージを破れば温まる仕様の非常食。
 それだけで「料理なのだ」と思った。研究所では温かいものなど一度も食べたことが無かった。
 非常食用のパンだって同じ。
 焼き立てに比べれば落ちたのだろうけど、パッケージを破るとパンがふんわりと膨らんだ。餌の中にこんなふっくらとしたパンなど無かった。シリアルにも劣る餌ばかりだった。
 それに一緒に食べられる仲間。「美味い!」と顔を綻ばせている仲間たち。
 誰かと食事を共にすることなど、誰だって忘れ果ててしまっていたから。
 皆でワイワイと食べられるだけで、非常食だって美味しかった。
 食べ物の味を語り合える仲間が側にいるなんて、なんて素敵なことなのだろうか…。



 研究所で閉じ込められていた檻は個室と言えば聞こえはいいけど、ただの独房。最低限の設備が設けられただけの、ベッドさえも置かれていない独房。
 それに音やサイオンも封じ込められ、上下左右に檻があるのに何の物音も聞こえてはこない。
 実験のために檻から出されて、また入れられて。その時に隣の檻に居る者を目にはしたけれど、次に見た時には顔が違った。死んでしまったのだ、と直ぐに分かった。
 ミュウは増えれば相乗効果でサイオンの力が増すと分かっていたから、研究者たちは決して接触させなかった。
 檻から出されて実験室に行くまでの間は、サイオン制御のリングを首に嵌められるけども。そのリングを首に嵌めてあっても、本当にただの一度でさえも。
 実験室に連れてゆかれる時にも通路を分けられ、出会わないよう管理されていた。
 ぼくに分かったのは強い残留思念だけ。実験室で死んでいった仲間の苦悶の声だけ。
 それから檻に出入りする時に僅かに感じる、垣間見える隣の住人の姿。
 他には何一つ分からなかった。
 研究所の中に何人のミュウが居るというのか、それさえも知りようが無かったぼく。
 脱出なんかは考えなかった。
 一人で逃げてもどうしようもないし、逃げ方だって分からなかった。
 逃げ出して何処へ行けばいいのかすらも…。



 ぼくたちがアルタミラの惨劇と呼んだ、アルタミラが星ごと砕かれた日。
 人類が忌まわしいメギドを使ってミュウを殲滅しようとした日。
 あの運命の日に、ぼくは初めて生きている仲間たちに出会ったんだ。
 逃げ出すことが出来ないように、と厳重にロックされたシェルターの一つ。元々は人の命を守るためのシェルターを、研究者たちは虐殺用の檻に転用した。
 メギドの破壊力の前にはシェルターなど役に立ちはしないし、ミュウを確実に閉じ込めておいて星ごと滅ぼしてしまうことが出来る。個別の檻だと惑星崩壊前の地震で壊れてしまって扉が開き、逃亡される恐れがあると考えた彼らはシェルターを使うことにした。
 何も知らずに檻から引っ張り出されたぼくに、研究者は笑ってそう告げて。
 「お前たちの研究は全て終わった」と引き摺るように連れてゆかれて、シェルターの中へと放り込まれた。グランド・マザーの命令なのだと、もう生かしておく意味は無いと。
 引き摺られてゆく途中、「ミュウは全て殺す」と残酷な宣言を聞かされた時、仲間たちが生きていると分かった。
 此処から逃げねば、と初めて思った。
 でも、どうやって…?



 ぼくが放り込まれたシェルターは直ぐに扉が閉ざされ、何重にもロックしてから研究者は其処を立ち去った。丸い窓の向こうは見えるけれども、閉じた扉は開かない。
 振り返れば何人もの仲間たちが居て、誰の顔にも絶望があった。
 彼らを見た時、ぼくが何とかするしかないのだと考えた理由。
 長い年月を孤独に過ごしていたのに、「救わなければ」という使命感が湧き上がってきた理由。
 それは多分、「タイプ・ブルー・オリジン」と呼ばれ続けた名前のお蔭。
 ぼくの本当の名前もブルーだったけれど、神の悪戯か、タイプ・ブルー・オリジン。
 研究者たちが繰り返す名前のお蔭で、最強のミュウだと頭に叩き込まれていた。
 ぼくが最強なら、皆を救うことは恐らくぼくにしか出来ない役目。
 だから闇雲に窓を叩いて、叫んで。
 ヒビすら入らない窓を拳で何度も叩く間に、首のリングが無いことに気付いた。檻から出された時に嵌められた記憶はあるのだけれども、閉じ込める時に外したのだろうか?
 そういえばリングは貴重なのだと研究者が前に言っていた。希少な金属で出来ているから、お前たちには勿体ないと。無駄に高価な飾りなのだと嘲笑っていた。
 彼らは用済みになったリングを回収して逃げて行ったのだろう。
 星ごと砕いてしまうには高価すぎるリングを回収した後、悠々と脱出したのだろう…。



 リングが無いなら、サイオンを使うことが出来るかもしれない。
 檻の中や実験室にはサイオンが使えないよう仕掛けが施されていたのだけれども、此処は普通のシェルターだから。本来は人類が避難するための設備なのだから…。
(此処なら使えるかもしれない)
 超高温や真空などのガラスケースに放り込まれた時、無意識に使っていたサイオン。自分の身を守るためだけにしか使った経験がなくて、それも無意識。
 自分の意志で発動させたことは一度も無いし、どう使うのかが分からない。
 でもシェルターを壊したい。壊さなければ、皆が死んでしまう。
 使い方すらも分からないまま、夢中でぶつけた感情の爆発にも似た何か。ぼく自身ですら思わず目を瞑ったほどの閃光と衝撃とが空間を揺るがし、シェルターの扉は吹っ飛んでいた。
 なんとか壊すことが出来たシェルター。
 逃げ出してゆく仲間たちの背中を見ながら、魂が抜けたように座り込んでいたら。
「お前、凄いな」
 小さいのに、と助け起こしてくれたのがハーレイだった。
 たまたま同じシェルターに押し込まれていた、ハーレイの顔。窓の向こうしか見ていなかったと思う前のぼくだけれども、その顔立ちには確かに見覚えがあって。
 助けられて良かった、と安堵の息をついた。シェルターはすっかり空だったけれど、此処に居た仲間は逃がせたのだと、最後の一人が彼なのだと。



 それが前のハーレイと、ぼくとの出会い。
 ハーレイはぼくの身体を支えて立ち上がらせて、それから大きな身体を屈めて。
「お前のお蔭で助かった。…だが、他にもこれと同じようなヤツがあると思うぞ」
「うん。助けて、って声が聞こえる」
 崩れ始めたアルタミラの大気に仲間の悲鳴が混じっていた。助けを求める仲間たちの思念。
 研究所の建物はとうに崩れて、空も地面も赤々と燃え上がっていたのだけれど。
 ぼくとハーレイは思念を頼りに、幾つものシェルターを開けて回った。ロックを解除し、重たい扉を二人がかりでこじ開けて。
 歪んでしまって開かないシェルターがあれば、ぼくがサイオンをぶつけて壊した。必死に走って駆け付けたけれど、間に合わなかったシェルターもあった。
 星が壊れるほどの衝撃は想定されていないシェルター。引き裂かれた大地に飲まれたものやら、押し潰されてしまったものやら。
 けれど死んだ仲間たちを悼む時間も惜しんで、ぼくたちは走った。
 助けなければ、他の仲間たちをシェルターから脱出させなければ、と。



 アルタミラから脱出する手段は先に逃がした仲間たちが既に確保していた。
 こっちだ、と呼び掛ける複数の思念波。
 飛べる宇宙船を一つ見付けたと、なんとか離陸出来そうだと。
 赤く染まった空の下でハーレイがボソリと呟く。
「もう誰も居ないか…」
「うん、感じない」
 助けを求める思念は無かった。
 ぼくはサイオンを使い果たしてしまっていたけど、思念波を拾うことは出来たから。燃え上がる世界に目を凝らしたけれど、仲間の気配は感じなかった。
「なら、行くか。でないと俺たちも死んじまうぞ」
「……うん」
 ハーレイに半ば抱えられるようにして走って、歩いて。
 やっとの思いで船に乗り込んで、それからも声で、思念で仲間たちを呼んだ。
 間違った方向に逃げた仲間が何人か居たから、こっちなのだ、と。
 船があるからこっちに来るんだ、と。



 乗降口でそうやって呼び掛ける間に離陸の準備が整った船。
 操縦室の仲間が「もう誰もいないか」と思念で訊いてくるから、「いない」と答えて、それでも乗降口の扉は開けたままで。
 そのまま離陸すると危険だとは誰も気付かなかった。逃げ遅れた仲間がまだ居るかもしれないと燃え盛る世界を見詰めるばかりで、扉を閉めようとは思わなかった。
 操縦室に居た仲間の方でも、宇宙船の操縦などは初めてだから。
 船のコンピューターが示す手順どおりに実行しただけで、扉にまで気が回らなかった。そうして悲劇は起こってしまった。開いたままの乗降口から放り出されたゼルの弟。
 ゼルが掴んだ弟の手。「死にたくない」と、「兄さん」と叫んでいたハンス。
 ハーレイたちがゼルの身体を押さえて落下を止めたけれども、ハンスの身体を引き上げるだけの力は無かった。ぼくのサイオンも既に残っていなかった。
 ぼくたちはただ見ていただけ。
 ゼルの、ハンスの手から力が失われていって、離れてゆくのを見ていただけ。
 ハンスの身体は燃える地獄へと落ち、吸い込まれていった。「兄さん」という声を最後に。
 弟の名を叫んで伸ばされたゼルの手が、呼び声が空しく届かないままに…。



 乗降口は誰かが手動で閉ざした。それから間もなく船は大気圏から離脱したと思う。
 気付けば、外は真っ暗な宇宙。
 ぼくたちが居た乗降口の辺りはオレンジ色の照明が灯っていたけど、その暖かさも、逃げ出せた喜びも感じるだけの余裕は無かった。
 弟の名を繰り返しながら泣き崩れるゼル。
 助けられなかったと、自分の力が足りなかったと泣き続けるゼル。
 声を上げて泣くゼルのすぐ横で、ぼくも膝を抱えて顔を埋めて、深い自己嫌悪に陥っていた。
 あと少しだけのサイオンがあれば。
 ほんの少しだけ、皆がゼルに力を貸して引き上げられる所までハンスの身体を運べていたら…。
 どうしてぼくは肝心の時にサイオンを使えなかったんだろう。
 使い果たしたつもりでいたけど、もしかしたら。
 膝を抱えて蹲っているぼく。ちゃんと意識を保っているぼく。
 意識を失くしてしまうほどのレベルまでサイオンを発揮していたならば。
 ハンスを助けられていたかもしれない。
 引き上げた後にぼくが倒れてしまっていたって、それで死ぬわけではないのだろうし…。



 どうしてサイオンを使わなかったのか。限界まで使おうとしなかったのか、と自分を責めた。
 シェルターを幾つも壊せたサイオン。
 ハンスの身体を引き上げるくらい、きっと何でもなかった筈で…。
(…ぼくのせいだ)
 ぼくが頑張らなかったから。
 精一杯の力を使わずにいたから、ゼルは弟を喪った。ハンスは地獄に飲まれてしまった。
 ぼくのせいだ、と丸くなっていたら、ぼくの肩にポンと大きな手が置かれた。
「お前のせいじゃないさ」
(…えっ?)
 ぼくの心を読んだかのような声が聞こえて顔を上げたら、ハーレイが覗き込んでいて。
「事故はお前のせいじゃない。それに、お前…」
 何人、助けた?
 俺も含めて、何人助けた?
 なあ、とハーレイは隣に屈んで語り掛けて来た。
「お前が落ち込むことはないだろ、この船のヤツらはみんなお前が助けたんだからな」
 これから先も俺たちは多分、お前の世話になるだろう。
 そうなっちまう、という気がする。
 先なんか見えやしないんだがな。
 …予知する力は無いんだけれどな、そうなるだろうと思うんだ…。



 ハーレイの言葉をぼくは目を丸くして聞いていた。
 ぼくがみんなの世話をするだなんて、本当だろうか?
 ハンスを助けることさえ出来なかったぼくに、みんなの世話など出来るのだろうか。
 けれどハーレイは心からそう思っていたのか、あるいはぼくを元気づけるためだったのか。
 蹲ったままのぼくの腕を取り、「だが」と、その手に力をこめた。
「お前の世話になる前に、礼ってヤツの先払いだ」
 グイと起こされ、立ち上がらされて。
 此処に居るな、と誰も居ない部屋へと引っ張って行かれて、好きなだけ泣いていいと言われた。見ている者は誰もいないから、好きなだけ泣けと。
 辛いなら辛いだけ、悲しいのなら悲しい分だけ、好きなだけ泣いていいのだと。
「此処には俺とお前しかいない。お前が泣いていたって誰も気付かない」
 この先、お前は皆の前では、多分、泣けなくなるだろう。
 その分まで今、泣いておけ。
 俺がこうして抱いててやるから、泣きたいだけ泣いておくんだ、ブルー。



「…ハーレイ…」
 シェルターを壊して回った間に、名前を教え合ってはいたけれど。互いに呼び合って仲間たちを助けて回ったけれども、初めて「ブルー」と呼ばれた気がした。「ハーレイ」と呼ぶのも、これが最初だという気がした。
 本当はアルタミラで互いに何度も呼んでいたのに、初めてだと感じたその不思議さ。
 ハーレイの思いの、その優しさと暖かさ。
 逞しい腕がぼくを広い胸へと抱き込んでくれて、大きな手が背中を擦ってくれた。
 好きなだけ泣けと、自分しか見てはいないのだから、と。
「…うん…。うん、ハーレイ…」
 じわりと涙が滲んで、溢れて。堰を切ったら、もう止まらなくて。
 ぼくは初めて泣いた気がする。成人検査で振り落とされて、あの檻の中に閉じ込められてからは何度も泣いていたというのに、初めて零れた温かな涙。嬉しくて流した初めての涙。
 辛く悲しかった日々を洗い流すかのように、そうやって泣いて、泣き続けて。
 どのくらいそうしていたんだろう…。



「おい、飯らしいぞ」
 声と共に扉がノックされた時には、ぼくの涙はもう尽きていた。まだハーレイの広い胸に縋ったままだったけれど、すっかり気持ちが落ち着いていた、ぼく。
 行こう、とハーレイがぼくの手を引いて、皆の気配がしている方へと連れて行ってくれた。船の真ん中あたりだっただろうか、元からの食堂と思しき場所。
 研究所から逃げ延びた仲間たちが顔を揃えている中、ゼルの顔も見えた。ぼくはハンスのことを思い出して入口で立ち竦んだけれど、ゼルは泣いてはいなかった。
 代わりにペコリと下げられた頭。他のみんなも、一斉に頭を下げたから。
 ぼくは慌てて「いいよ」と叫んだ。
 たまたま力を持っていたから、自分の役目を果たしただけ。
 お礼だったらハーレイに言ってと、ハーレイが手伝ってくれたから大勢助けられた、と。
 でも、ハーレイは「こいつが頑張ってくれたんだ。小さいのにな」と譲らないから、結局、笑い合って終わりになった。
 あの地獄から逃げられて良かったと、無事に脱出できて良かったと。



 それから皆で食べた食事の温かさを、ぼくは今でも忘れない。
 ハーレイの隣に座って食べた。
 人間らしい初めての食事をハーレイの隣で一緒に食べた。
 パッケージを開けるだけで温まる仕様になった非常食と、パッケージを開ければ膨らむパンと。
 温かい食事と、柔らかなパン。
 どちらも美味しくて、ハーレイと何度も頷き合った。
 「美味しいね」と、「うん、美味いな」と。
 食事はこんなに美味しいものかと、皆と一緒に食べられるだけで更に何倍も美味しくなると…。



 あれからずうっと時が流れて、ぼくは生まれ変わってしまったけれど。
 前のぼくはメギドで死んでしまって、今のぼくが青い地球の上に生まれて来たけど…。
 ハーレイと一緒の町に生まれて再会出来たんだけれど、そのハーレイにいつ恋をしたのか、今も明確に答えられない。これだ、という決め手が見付からない。
 でも、多分。
 アルタミラでのあの瞬間も、大切な一つだったのだろう。
 「お前、凄いな」と助け起こしてくれた大きな手。
 二人で開けて回ったシェルター。
 それから、「礼の先払いだ」と、ぼくを泣かせてくれたハーレイ。
 広い胸に抱き締めて、ぼくの涙が出なくなっても背中を、頭を撫でてくれたハーレイ。
 そんなハーレイの隣で食べた、初めての食事は美味しかった。
 非常食でも、まるで御馳走みたいに美味しかった…。



(うん、本当に美味しかったんだよ)
 パッケージを開けるだけで温まっていた非常食。ふんわり膨らんでくれたパン。
 前のぼくたちがシャングリラの名前さえついていなかった船で、初めて食べた記念すべき食事。
 それから頑張って生きてゆく中、非常食から料理の日々へと。
 奪って来た食材の偏りのせいでジャガイモだらけとか、キャベツだらけとか…。
(…舌がヒリヒリする生のパイナップルもね)
 あの日のハーレイの予言通りに、ぼくは皆を世話する立場になったんだけれど。
 それが出来たのはハーレイのお蔭。
 「礼の先払いだ」と泣かせてくれた、優しくて温かいハーレイのお蔭。
 「生も食べろよ!」と山ほどのパイナップルと格闘していたハーレイのお蔭…。
 そのハーレイと一緒に生まれ変わって、ぼくたちは青い地球の上。
 今度こそ、うんと幸せになる。
 ちゃんと結婚して、ハーレイといつも二人で美味しい食事を食べて。
 何処までも、何処までも二人で歩いて行くんだ、手をしっかりと繋ぎ合わせて……。




         アルタミラの記憶・了

※前のハーレイとブルーの出会い。アルタミラが滅ぼされた日に初めて出会った二人です。
 やっと此処まで来ました、二人の過去の物語。回想形式、書くには便利ですけどね。
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(ふうむ…)
 そろそろか、とハーレイは鏡の向こうの自分を眺めた。
 風呂から上がってパジャマ姿での歯磨き中。傍目には分かりにくいが、髪の切り時。
(…確か、この前に行ったのが…)
 時期的にもそういう頃合いだな、と自分の目には「伸びた」と映る髪を鏡でチェックする。更に歯磨きを終えた後、両手の指を突っ込んでみて切り時であると確信した。多少伸びても問題の無い髪型だったが、ハーレイ自身が落ち着かない。
(…こいつは俺の性分ってヤツか)
 シャングリラに居た頃からそうだったな、と苦笑した。
 外見の年齢を止めていても髪は伸びてゆくから、いつも散髪を得意とするクルーに頼んだ。仲間たちの数が多かっただけに、散髪係と呼んでも支障は無かったと思う。ソルジャー・ブルーの髪もキャプテンだったハーレイの髪もカットしていた男性クルー。
(最後まで世話になったっけなあ…)
 外見は若いミュウだったけれど、礼儀正しくて好感が持てた。
 人類側との会談のために地球に降りる前にもカットして貰って、サッパリした気分で出発したと今でも鮮やかに思い出せる。ブルーが逝ってしまった後は機械的に通っていただけの場所へ、あの日だけは昂揚したとでも言おうか、自分の意志で向かった記憶。
 この会談で全てが終わると、ブルーに託された自分の役目は地球で終わると確信していた。役目さえ終えれば自由になれる。キャプテンの任を辞し、ブルーの許へと行くことが出来る。
 人生の大きな節目だから、と髪を整えて会談に臨むことにした。キャプテンを辞すまでにはまだ何回か髪を切らねばならないだろうが、此処でも切っておくべきだ、と。



(…最後の散髪になるかもしれん、と覚悟だけはしていたんだが…)
 本当に最後になっちまったな、と遠く過ぎ去った日を思い返した。
 人類側がメギドを持ち出して来た時には死を覚悟したが、何基ものメギドは発射直前に停止し、無事に地球へと降りることが出来た。
 荒廃した死の星だったけれども、地球は地球。
 其処での会談に漕ぎ付けたからには、生きてシャングリラに戻れる可能性も半分はあるだろうと思っていたのに、待っていたものは予想だにしなかった最期。
 覚悟していた暗殺ではなく、グランド・マザーの崩壊に巻き込まれての地の底での死。
 それでも、崩れ落ちて来る天井の下で「これで行ける」と心が解き放たれるような気がした。
 メギドで逝ってしまったブルーの所へ旅立てるのだと、この身体はもう要らないのだと。
(…散髪しといて良かったな、とまでは流石に考えなかったがなあ…)
 そこまでの心の余裕は無かった。
 だが結果的に、カットしたばかりのスッキリした髪でブルーの許へと行くことになった。
(あいつは気付いてくれたんだろうか、俺の髪に)
 「凄いね、髪まで切ってきたんだ」と前の俺に言ってくれたんだかなあ…。
 それとも死んじまった後には髪型ってヤツは整ってるのが普通で、俺が散髪に行ったかどうかは全く関係無かっただろうか?
 俺もブルーも死んだ後の記憶が全く無いから、こいつは確認出来ないなあ…。



 つらつらと考え事をしていたハーレイだったが、今の自分の髪が伸びたことは事実。出来るだけ早く切りに行かねば、と頭の中で段取りを付けた。
 行くなら、ブルーの家に寄るのに支障が出ないよう、仕事が遅くなりそうな日に。
 仕事帰りに寄れば夕食を用意してくれるブルーの母。彼女が夕食の支度をするのに充分な時間がある日しかブルーの家には寄らない。
 ブルーの家に行くには些か遅い日であっても、行きつけの理髪店は夜までやっているから、仕事帰りでもフラリと行ける。
 特に予約の要る店ではなく、待たされることも滅多に無いし…。
(よし、明日あたり、帰りに寄るとするか)
 明日は放課後に会議があるから、長引けばブルーの家には行けない。会議が終わった時間次第で決めることにしよう、と頭の中のメモに書き込んだ。



 翌日の会議は予定の時間を少しだけオーバーしての閉会。ブルーの家に寄れないこともなかったけれども、此処は散髪を優先すべきだ、とハーレイは決めた。
 車を運転しての帰り道、家の近くで別の角を曲がって、いつもの店の隣の小さな駐車場へ。車を降りて向かった理髪店は若人向けのお洒落な構えではなくて、落ち着いた雰囲気を醸し出す店。
 柔らかな照明と、木材を多用した内装と。
 理髪店だから店内は明るくはあるが、シャングリラに在ったキャプテンの部屋に似ているのだと記憶が戻った後で気付いた。この町に家を買って貰って移り住んだ時からの行きつけの店。
(前世の記憶ってヤツは、戻る前から影響するのかもしれないなあ…)
 店の佇まいに惹かれて入ったのが最初。それ以来、この店一本槍。
 店主が初老の紳士であることも気に入っていた。理髪店や美容院は見た目が若い者が多い職業。それが好まれる世界だったが、ハーレイは年配の店主が好みだ。
 ハーレイも、ハーレイの両親も、ごく最近まで外見の年齢を止めてはいなかった。ブルーと再会したことを切っ掛けに止めたけれども、そうでなければ更に年齢を重ねるつもりでいた。
 そんなハーレイだから、初老の店主が一目で気に入ったのだけれど。店主の姿は初めてこの店に入った時から変わっていない。実際の年齢は百をとっくに超えているそうで…。



「いらっしゃいませ!」
 自動ではない、重い木製の扉を開けて入ると店主の笑顔。先客は誰も居なかった。
 愛想よく椅子に案内してくれた店主は、背後に立って鏡に映るハーレイに呼び掛ける。
「いつもの通りですか?」
「ええ、いつも通りでお願いします」
「かしこまりました」
 サッとカット用の理髪マントをハーレイの肩に掛けて広げて、髪の伸び具合を調べながら。
「この髪型も長いですねえ…」
 何年くらいになりますかねえ?
 ああ、今日のカットは一センチといった所でしょうかね、少し伸びたという感じですね。
「ずっとこの髪型でお願いしたいと思うのですが…」
「少し前から仰ってますね、恋人でもお出来になったんで?」
「は?」
 思いもよらない問いに、ハーレイは途惑ったのだけれども。
「分かりますとも、もう年齢を止めていらっしゃる。それで髪型も同じとくれば…」
 髪に櫛を入れ、ハサミを取り出す店主に、鏡を見ながら尋ねてみた。
「…分かりますか? この外見では数年くらいは誰も気付かないと思ったんですが…」
「この年ですしね、分かりますよ」
 それと職業柄でしょうか、と店主は答えた。
 客の外見には敏感なのだと、でなければ一人前とは言えないと。
 同じ客でも体重の増減で変わったりするし、それに合わせて仕上げてこその理容師なのだと。



 ハーレイが年齢を止めていることを見破った店主は、恋人が出来たことまでお見通しで。
 敵わないな、と苦笑いするハーレイの髪を手際よく切りながら問い掛けてくる。
「その方もお好きなんですか? この髪型が?」
「ええ、まあ…」
 髪型を変えたら小さなブルーは怒るだろうな、とハーレイは愛らしい恋人を思い浮かべた。
 ブルーにとってはハーレイの髪型は今ので当然、他のなど考えもしないだろう。
 前の生からこれであったし、再会した時もこの髪だったし…。
「キャプテン・ハーレイ風ですねえ」
 タイミングよく言われた言葉にドキリとしたが、元は店主が勧めた髪型だったと思い出す。
 青年という形容詞が似合わなくなって来た頃に「如何ですか?」と訊かれたのだった。
「そうです、キャプテン・ハーレイ風です。どうやら気に入って貰えたようで」
「それは良かった。お勧めした甲斐がありましたよ」
 お客様がこれでモテなかったら責任を感じてしまいますしね。
 きっとお似合いになりますよ、とお勧めしたのは私ですからねえ…。



 店主はハサミを使いながら実に嬉しそうに。
「で、可愛らしい方ですか?」
「え、ええ…」
 可愛らしいことだけは間違いないな、とハーレイは心の中でも頷いた。
 ブルーは整った顔立ちではあるが、美人と呼ぶにはまだ幼い。「可愛らしい」が相応しい。
「まだお若いとか?」
「はい」
 若いどころの騒ぎではない、十四歳にしかならない恋人。
 結婚出来る年齢である十八歳にさえ届いてはいない、小さなブルー。
「では、ご結婚はまだ…」
「かなり先のことになりそうです」
「そうでしょうねえ、お若い方なら色々とやりたいこともおありでしょうし」
 まだまだ遊びたいお年頃でしょうねえ、と店主の目が幼子を見守るかのように細められる。
(そうじゃないんだが…)
 ブルーにはやりたいことなど何も無いんだが、と思いつつも相槌を打っておいた。
 まさか十四歳の子供が結婚を夢見て待ち焦がれているとは、誰一人として思うまい。
 おまけに女性ではなくて少年。
 きっと予想も付かないだろう、と考えたのに。



「出来ればその方の髪も切ってみたいですねえ…」
「は?」
 予想だにしない台詞を聞かされ、ハーレイは口をポカンと開けた。
(な、なんで男だとバレたんだ?)
 思念は漏らしていないと思う。
 ガードの堅さは前の生から自信があったし、防御に優れたタイプ・グリーンでもある。前世ではハーレイの心を読める者と言ったらブルーだけしか居なかったのだが…。
(まさかタイプ・ブルーだったのか!?)
 それで色々と見抜かれたのか、と鏡の中の店主をまじまじと見れば、背後から笑いを含んだ声が聞こえた。
「ご存じなかったんですか? うちには女性もいらっしゃいますよ」
 常連さんも何人かおいでなんですが、お会いになられたことは……無かったですかねえ?
「あ、ああ…。一度も無いですね」
 恐らく時間帯が違うのだろう。女性客を見かけたことは無かった。冷静に考えてみれば、美容院よりも理髪店を好む女性は少なくないと聞くし、この店ならば好まれそうだ。
(なんだ、そういうオチだったのか…)
 恋人が男だとバレたわけでも何でもなかった。
 けれどブルーを自慢してみたい気持ちが湧き上がってくる。
 今は幼いが、いつか美しく気高く育つであろう、前の生からの大切な恋人。
 店主の人柄は分かっているから、男性の恋人を連れて来たとしても歓迎されるに違いないし…。



 暫し思いを巡らせてから、「そうですね…」と口にした。
「嫌がらないようでしたら、連れて来てみます。何年も先のことになりますが…」
「ええ、是非。…ショートカットがお好きな方だといいんですがね」
「はあ?」
 どうしてショートカットだなどと言うのか。
 幸か不幸か、小さなブルーの髪は短く、今後も伸ばさないだろうとは思う。ロングヘアになったブルーなど想像も出来はしないし、前のブルーも出会った時から最後まで同じ髪型で…。
 しかし何故、と鏡の店主を覗き込んでいると。
「いえ、ソルジャー・ブルー風の髪型ですと、二人お並びになればお似合いかな、と」
 とんでもない台詞が店主の口から飛び出した。
 よりにもよってハーレイの恋人をソルジャー・ブルー風の髪型にしてみたいらしい店主。並べば似合うと言われても…。
(な、なんでバレたんだ、俺たちの仲が!)
 前の生での仲はひた隠しに隠して、隠し続けた。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが恋仲だったことは誰も知らない。今に至るまでもバレてはいないし、そういった噂すらも無い。
 酷く驚いたハーレイだけれど、よく考えてみれば店主が知っている筈が無かった。
(…単に並べてみたいだけだな)
 そうに違いない、と納得する。
 前の生での自分たちが並んだ写真は多く残るし、ハーレイはキャプテン・ハーレイに瓜二つ。
 キャプテン・ハーレイ風の髪型を勧めた店主ならではの発想だろう、と結論付けて。



「はあ…。キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーが並ぶ……のですか?」
 それは私が尻に敷かれそうな…。
 ソルジャー・ブルーはキャプテン・ハーレイよりも立場がずっと上なんですから。
「…そうですかねえ?」
 私はそうは思いませんが、と店主は鏡の向こうで首を傾げた。
「深い信頼関係が築かれた、いい二人のように見えますがねえ…」
 互いが互いを立てているような。
 どちらが欠けても絵にならないような、そんな感じがするんですがねえ…。
「そうですか?」
 ハーレイが訊くと「そうですとも」と自信に満ちた答えが返った。
「実は私、密かにファンでしてね」
「ど、どちらの?」
 思わず声が裏返りそうになったハーレイに、店主は鏡の中で片目を瞑ってみせた。
「もちろん、キャプテン・ハーレイですよ」
 航宙日誌も全巻、揃えています。
 いつかは研究者向けの、文字をそのまま再現したのも揃えたいと思っているんですよ。
 ファンなら欲しいじゃないですか。
 キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴ったという筆跡そのままの航宙日誌。



(し、知らなかった…)
 今の今まで知らなかった、とハーレイは店主の知られざる趣味に愕然としたが、店主はそれとは気付かないのか、はたまた趣味を披露する好機と捉えたか。
 ハーレイの髪にハサミを入れつつ、店主は心浮き立つ様子で。
「いやもう、うちの店に初めていらっしゃった時には嬉しかったですねえ…」
 若き日のキャプテン・ハーレイですよ。
 そのまんまの姿形で扉を開けて入ってらっしゃったんですし、あれには本当に驚きましたね。
「…で、では、この髪型を勧めて下さったのは…」
「半分ほどは私の趣味ですね。ああ、もちろんお似合いでらっしゃいますよ?」
 店主の言葉に、ハーレイの記憶が蘇ってくる。
(…そういえば他の髪型も幾つか提案されたな、どれになさいますか、と)
 あれは店主のプロ魂とファン魂との産物だったか、と脳裏に蘇る幾つかの髪型。今の髪型と全く違う印象のものも勧められはした。勧められたが、気が乗らなかった。これだと思った髪型が今の髪型。
 これしかない、と強く感じた理由は今にして思えば前世の記憶ゆえだろう。自分でも気付きさえしない心の奥底に前の生の自分が居たのだろう…。
 不思議なものだ、と鏡の向こうの自分を見詰めるハーレイに店主がにこやかに語る。
「この髪型を選んで頂けて嬉しかったんですよ。しかも今後もこれだと仰る」
「ええ、まあ…。そうなりますね」
「おまけに、この髪型で未来の結婚相手まで見付けて下さったと聞けばもう…」
 理容師冥利に尽きますよ。
 お客様に似合う髪型を仕上げられてこその理容師ですしね。



「で、お相手の方は銀髪でらっしゃいますか?」
「え、ええ…」
 銀髪どころか赤い瞳までセットなんだが、とハーレイは小さなブルーを思い浮かべつつ頷いた。もちろん赤い瞳のことは話さなかったが、店主は銀髪だけで充分に感激したようで。
「それは是非! ソルジャー・ブルー風にカットしてみたいですねえ…」
「お、お任せします…」
 既にソルジャー・ブルーな髪型なんだが、と口にする代わりにグッと飲み込めば。
「ショートカットの方なんですか?」
「そうですね、少し長めのショートカットといった感じでしょうか」
「なら、お似合いになりますよ」
 お任せ下さい、と店主は太鼓判を押した。
「どんなお顔立ちでも似合うように仕上げてみせますよ」
 誰が見てもソルジャー・ブルーだと気付く髪型で、恋人さんのお顔立ちに合わせて。
 素敵ですよ、お二人でお並びになったら。
「……妙なカップルになりませんかね?」
「大丈夫ですよ、町を歩けば誰もが思わず振り返りますよ」
「それはいわゆる仮装では…」
 衣装まで真似ていないだけで、とハーレイが呟くと、「まさか」と店主は微笑んだ。
「お似合いのお二人で、それは素晴らしいカップルだろうと思いますねえ!」
 ああ、もちろん。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイがけしからぬ仲だったとは言いませんがね。
 ですが、絵になる二人なんですよ。
 少なくとも私にはそう見えますねえ、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。



 ハーレイの髪のカットを終えた店主は丁寧にオールバックに整え、理髪マントを外して衣類用のブラシで肩や背中を払ってくれた。
「如何でしょう、いつもの通りですが」
「ありがとうございます、サッパリしました」
「いえ、こちらこそ。ついつい趣味の話などしてしまいまして…」
 キャプテン・ハーレイの話になると止まりませんでね、と店主は笑った。
 妻にも子供にも呆れられるのだと、孫や曾孫も呆れていると。
 そんな店主に支払いを済ませ、扉を開けると「今日はこれで閉店だから」と駐車場まで見送りに来てくれた。運転席に乗り込み、窓ガラスを開けたハーレイに店主が呼び掛ける。
「ありがとうございました、またいらして下さい!」
 いつかは恋人さんも一緒に!
「ええ、何年後かに!」
 きっと連れて来ます、とハーレイは窓から手を振り、愛車を発進させた。
 キャプテン・ハーレイのマントの色と同じ色の車。
 この色も店主は好きだろうな、と車を走らせるハーレイを、店主は車が角を曲がって消えるまで表に立って見送っていた。



(…あの店主、何処まで気付いているんだ?)
 家に着いたハーレイは車をガレージに入れて玄関に回り、扉を開けた。
 今はまだ一人暮らしの家。夜になれば門灯などが自動で灯るが、待っていてくれる人は無い。
 いつかブルーと結婚したなら、ブルーが迎えてくれるのだけれど。
 そのブルーは実はソルジャー・ブルーの生まれ変わりで、前の自分はキャプテン・ハーレイ。
 前の生では秘密の恋人同士で、今度は堂々と結婚しようと互いに決めている。
 そう、前世では秘密の恋人同士だった。
 誰一人として知りはしないし、今も噂すら無いと言うのに、さっき理髪店の店主に二人が並ぶと絵になると言われた。
 だからキャプテン・ハーレイの髪型の自分の隣にソルジャー・ブルーを並べたいと。
(…前の俺たちの仲は、学者でさえ気付いていない筈だが…)
 誰も知らない筈なんだが、と書斎に入って机の上のフォトフレームを手に取った。
 飴色の木製のフォトフレーム。夏休み最後の日にブルーと写した記念写真が其処に在る。
 ハーレイの左腕に小さなブルーが両腕でギュッと抱き付いて、笑顔。
 嬉しくてたまらないという笑顔…。



(なあ、ブルー。…前の俺たちはこんな写真さえ一枚も撮れなかったが…)
 恋人同士だって分かる写真も、寄り添った写真も撮れないままで終わっちまったが…。
 だが、ブルー。
 気付いてくれている人がいるようだぞ?
 俺たちの仲にまで気付いてはいないが、絆には気付いてくれている人が。
(ブルー、気が付いたのは誰だと思う?)
 俺が行ってる理髪店の店主さ、ビックリだろう?
 いつかお前が大きくなったら、あの店にお前を連れて行こう。
 お前の今の行きつけの店と同じくらいに見事に仕上げてくれるさ、ソルジャー・ブルーを。
 結婚した後に遠くの店まで行かなくてもいいしな、あそこにしよう。
 散歩がてら歩いて行ける距離だし、二人で手を繋いで出掛けるのもいいと思わんか?



 キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーは恋人同士。
 前の生では隠し続けたけれども、今度は堂々と結婚する。ハーレイはブルーを伴侶に迎える。
 結婚した自分たちが何度も店に出入りしていたなら、店主は自分たちがどんな表情で互いの顔を見るのか、どう見交わすのかもすっかり覚えることだろう。
 そして気付く日が来るかもしれない。
 前の自分たちが共に写った写真に、同じ表情を、同じ瞳を見付け出す日が来るかもしれない。
 悟られないよう、幾重にも隠した恋人同士の顔なのだけれど。
(…あの店主なら本当に気付くかもなあ…)
 それもいいさ、とハーレイは笑みを浮かべた。
 学者たちでさえも見抜けない秘密を理髪店の店主が知っているというのも悪くない。
 店主は論文を発表する代わりに「自分だけの宝物だ」と大切に隠しておくだろう。
 あの店主ならばそうするだろう、と確信に近い思いがあった。
 まるで推理小説の世界のようだ、と可笑しくなる。
 真相は学者ならぬ理髪店の店主のもの。
 ずうっとあの店でブルーと一緒に世話になろう、と…。




         行きつけの理髪店・了

※今のハーレイの散髪事情。行きつけの店に、キャプテン・ハーレイの熱いファンが…。
 いつか店主は気付くでしょうか、本当のことに。気付いてもきっと、喋りませんね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






 母がおやつに切り分けてくれたバウムクーヘン。流石に母の手作りではなくて、店で買って来たものだけれども、直火焼きと手焼きで評判の品。
 機械ではなく、人間の手で一層ずつ種をかけては焼いてゆく「手がけ」。バウムクーヘンを特徴づける年輪模様は不揃いになるが、その分、余計に本物の切り株らしくなる。自然の中で育つ木は気象条件によって年ごとの年輪の幅が異なるから、不揃いなもの。
(ふふっ、ホントに切り株みたい)
 似ているよね、とブルーは思う。
 美味しいバウムクーヘンだから、少しお行儀が悪いけれども一層ずつフォークで外して食べる。厚さの異なる年輪を一年分ずつ剥がしては口へ。
(…シャングリラには切り株、無かったよね…)
 そこそこ大きな木が伐採された後に残る切り株。人間と自然の協力技で出来る素敵な椅子。
 ソルジャーとしてアルテメシアに何度も降りていた頃、たまに切り株に腰掛けていた。ミュウと判断されそうな子供を救出するタイミングを待つ間などに。
 シャングリラの外に出られるブルーだったから持てた、自然の中で過ごせる時間。人類の社会に潜入していた仲間たちには山の中まで出掛ける余裕は無かっただろう。
 切り株の椅子は気に入っていた。其処に在ったろう木を思い浮かべながら座っていた。
 伐採された木の種類や、在る場所で座り心地が変わる椅子。
 木から生まれる切り株の椅子は、シャングリラの中には無かったのだけれど。



(…でも、期間限定なら在ったんだよね)
 一日どころか、数時間も経たずに消えてしまった切り株の椅子。
 子供たちが腰掛けたり、飛び乗ったり出来た時間はほんの少しだけ。
 シャングリラの中にも木材用の木は存在していた。無かったものは切り株だけ。
 貴重な木は余さず利用されたし、また次の木を植えねばならない。伐採したら切り株もその日の内に掘り起こして、使えそうな部分は取り除かれた。
 切り株が在った場所には土が加えられ、新しい木が植えられた。
 伐採した木は様々な用途に使われた上に、残った部分も引っ張りだこで。
(ハーレイも貰っていたものね)
 あんな端っこを何にするのか、とブルーは不思議に思ったのだが、木で出来た机を愛用していたハーレイならではのユニークな趣味。
 たった一本のナイフで木の塊をせっせと削って、最初に出来たのはスプーンだったか。其処からスタートした木彫り。自分の部屋でも、ブリッジで暇な時にも彫っていた。
 色々な作品があったけれども、独創性だの芸術性だのはハーレイとは縁が無かったらしい。誰が見ても「いいね」と褒められそうなものはスプーンやフォークなどの実用品だけ。
(…ハーレイが彫刻を目指した時って、いつも下手くそだったんだよね)
 その下手くその最たるものが今も宇宙に残ってたっけ、とブルーはプッと吹き出した。
 宇宙遺産になってしまった、キャプテン・ハーレイの木彫りのウサギ。
 「ミュウの子供が沢山生まれますように」との願いがこもったお守りなのだ、と世界中の人間が信じているウサギ。地球で一番大きな博物館の収蔵庫にある木彫りのウサギ。
 実はウサギではなくてナキネズミだとハーレイから聞かされたブルーは驚いたけれど、ウサギは今もウサギのまま。訂正されずにウサギのまま…。



 あれこれと懐かしく思い出していたら、仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。
 夕食の後で、ブルーは自分の部屋のテーブルで向かい合わせでお茶を飲みながら訊いてみる。
「ハーレイ、シャングリラの木って覚えてる?」
「どの木だ?」
「材木にしていた木のことだよ。成長の早いの、植えていたでしょ?」
「ああ、あれな…」
 切る時はお祭り騒ぎだったな、係のクルーに見学の子供に、野次馬までな。
 滅多にない一種の娯楽みたいなものだったしな…。
 ハーレイが懐かしそうに語る通りに、木の伐採は大掛かりなイベントめいたものだった。
 担当のクルーが伐採用の道具を持ち出し、その頭にはヘルメット。危険防止に被るヘルメットはシールドでの代用は不可とされていたし、彼らの姿を目にしただけで皆がどよめく。
「ぼくならサイオンで簡単に切れたし、怪我の心配だって無かったのにね?」
「ヒルマンたちの提案だったろうが、こういった作業は人間らしく、と」
 何もかもをサイオンに頼っていたのでは退化する、というのがヒルマンや長老たちの見解。
 ゆえに伐採にサイオンは一切使わず、落下物から頭部を守るのもシールドならぬヘルメット。
 それだけでも一見の価値があったから、手の空いた者たちが詰め掛けていた。
「ハーレイは現場で指揮だったよね」
「直接の指揮はしていないがな。キャプテンとして監督していただけだ」
 なにしろ一大イベントだからな、とハーレイは笑う。
 船内の多くの者が集まる以上は、無事に終わるまで見届けなくてはならないと。



 見学に訪れた子供たちから、お祭り感覚の野次馬までが集った木の伐採。
 係のクルーも熟練というわけではないから、万一に備えてブルーも側で待機していた。けれども事故は一度も無かったと記憶している。
 何処から切ろうか、どう倒そうかと担当者たちが練り上げたプランに狂いは無かった。
 最初は枝を落とす所から。
 葉をつけたままの枝がドサリと落ちると、歓声を上げて駆け寄ろうとする子供たち。普段は手の届かない高さにある枝が地面に落ちて来たのだし、我先に触ろうとするのだけれど。枝はまだまだ落ちて来るから、安全な所へ移動させるまで子供たちは手を触れられない。
 係が運んで、木が倒れてこない所に積んでゆく枝。
 使えそうな太い枝とは別に積まれた細い枝たちは、子供たちが引っ張って走ったりした。それに細い枝でリースなどの細工物を作りたい女性。「貰っていっていいですか?」と尋ねてから適当なサイズの枝を選んで運んでゆく。
 クライマックスが木を切り倒す時で、誰もが息を詰めて作業を見守っていた。バリバリと大きな音を立てて木が倒れれば大歓声で、係のクルーへの賞賛の声が幾つも飛んだ。
 切り倒された木は手際よくその場で切り揃えられて、切り株も僅かな時間だけ皆の椅子や遊具になった後で掘り起こされた。
 ほんの少しの間だけしかシャングリラには無かった切り株の椅子。
 それが在った場所には新しく土が入れられ、若々しい苗木が代わりに植わった。



「あの木材って、どうしてたっけ?」
 使うまでの間、とブルーが問えば、ハーレイが「倉庫行きだ」と答えを返した。
「生木のままでは使えないしな、狂いが出ないように乾燥だったろ」
 俺の木彫りに使う木も一緒に入れといたもんだ。
 しっかり乾かして使わないとだ、せっかくの作品がひび割れるからな。
「スプーンとかはともかく、他のは割れても良かったんじゃない?」
「いや、駄目だ。それにきちんと仕上げたお蔭で宇宙遺産も残ったんだぞ」
「…ナキネズミね…」
 ウサギだと思い込んでる人たちが可哀相、とブルーは大袈裟な溜息をつく。
 百年に一度の一般公開の時には長い行列が出来て、遠くの星からも見物の人が来るのに、と。
「それに関しては俺に責任は全く無いぞ」
 前にも言ったが、見る目が無いから間違えるんだ。
 作った俺があれはナキネズミだと言っているんだ、ウサギに見えると思うヤツが悪い。
「ぼくにもウサギに見えるんだけど…」
 ずっとウサギだと信じていたよ。
 ハーレイに聞かなきゃ、今でもウサギだと思ってた筈だよ…。



 とんでもない出世を遂げてしまったナキネズミの木彫り。
 そうした用途に使われなかった残りの部分はどうなったっけ、とブルーは首を傾げたけれど。
「忘れちまったか? 引き取り手の無い分を使って燻製を作っていただろうが」
「ああ…!」
 言われてみれば、と蘇ってくるブルーの記憶。
 合成の木を燃やしても燻製を作るための香りのいい煙は出なかった。公園などの木を剪定しても十分な量の木材は得られず、木の伐採が燻製作りの唯一の機会。
 木を切ると決まれば、それに合わせて鶏などの肉が揃った。船の中でも空調は完璧に出来ていたから、大量の煙が欠かせない燻製を作っても全く支障は出なかった。
「美味かったんだよなあ、あの燻製が」
 ハムとかも美味かったが、スモークチーズもいい出来だった。
 滅多に食えない分、余計に美味いと思えたなあ…。
「お酒のつまみにピッタリだって言ってたものね?」
 ぼくには少し癖があったよ、嫌いってわけじゃなかったけれど。
 ハーレイみたいに出来るのを楽しみに待てるレベルには届かなかったっけ…。
 だから直ぐには思い出せなかったのかもね、燻製作り。
 あれも作ろう、これも作ろうって食材を揃えている仲間が沢山いたのにね…。



「そういえば…」
 木の伐採や燻製作りの記憶を辿っていたブルーは、ふと気になった。
 切り株の無かったシャングリラだけれど、木だけはあちこちに植わっていた。木材にするための木ばかりではなく、果樹や憩いの場を作る木など。
 ブリッジが見える公園はもとより、居住区にも庭が鏤めてあった。
 あの木たちはどうなってしまったのだろう?
「ハーレイ、シャングリラにあった木たちって、どうなったんだろ?」
 写真集で見たら、ぼくが知ってた頃よりも大きく育った木もあったけど…。
 あったんだけれど、シャングリラと一緒に無くなっちゃった?
 消えちゃったの、と顔を曇らせたブルーだけれど。
「安心しろ。あの木たちなら、宇宙に散ったぞ」
「散ったって…。やっぱり消えた!?」
 悲鳴のような声を上げたブルーに、ハーレイは「おい、落ち着け」と苦笑した。
「俺の言い方が悪かったか…。散ったと言っても、散り方が全く違うんだ」
 文字通り、散っていったのさ。
 シャングリラという船があった記念に貰われて行ったんだ。
 人間が住んでいる、あちこちの星に。
「…そうだったの?」
 知らなかった、とブルーは赤い瞳を丸くした。
 今の今まで考えもしなかった、シャングリラにあった沢山の木たち。
 それらが宇宙のあちこちに散って行ったとは、なんと壮大な話だろうか…。



 ハーレイは写真集を眺めている内に、木たちのその後が気にかかり始めて調べたのだという。
 青の間が跡形も無くなったように、公園の木などもシャングリラと共に消えたのか、と。
 けれど木たちは失われてなどいなかった。
 大切に移植され、あちこちの星に根付いて育っていった。
「シャングリラの解体が決まった頃には、まだ地球が蘇っていなかったからな…」
 地球が今みたいな状態だったら、恐らく地球に植えたんだろうが。
 それが出来ないから、他の星になった。
 引き取りたいって星は沢山あったらしいぞ、抽選になったくらいにな。
 でかい木はアルテメシアの記念公園に移して、シャングリラの森ってのを作ったそうだが…。
「シャングリラの森?」
「記念公園の写真くらいは見たことあるだろ? あそこの、こんもり茂った森さ」
 森は今でも残ってるんだが、すっかり年数が経っちまったからなあ…。
 木だって何代も代替わりをして、もう何代目の木になるんだか。
 だが、シャングリラにあった木の子孫には違いない。
 それと同じで他の木も移植されていったのさ、いろんな星に。
 有名なトコだと、前の俺たちの時代の首都星だったノアとかな。



「良かったあ…」
 消えたわけではなかったのか、とブルーは安堵の吐息をついた。
 青の間は命を持ったものではないから、シャングリラごと消えてもかまわないけれど。木たちは命を持っていたから、生き残っていて欲しかった。
 その木たちが宇宙のあちこちに移され、生き延びたという。
 アルテメシアの記念公園には今も、シャングリラの森があるという…。
「ねえ、ハーレイ。地球には無いの? シャングリラの森」
 今もアルテメシアにシャングリラの森があるんだったら、地球にあっても良さそうなのに。
 代替わりした木でも子孫なんだし、記念に何処かに作ればいいのに…。
 それとも何処かにあったりする?
「作ろうかって話もあったようだが、ジョミーたちの墓が地球に無いのと同じだ」
 すっかり地形が変わっちまった新しい地球には要らないだろう、と作られていない。
 シャングリラの森も、記念公園もな。
「そっか…。ちょっと残念…」
 あるんだったら見たかったな、とブルーは呟く。
 シャングリラの木たちの子孫が枝葉を広げる立派な森を。
 写真でしか知らないアルテメシアの記念公園のように、こんもりと茂った緑たちを。
 けれど地球にはシャングリラの森は無いらしい。
 新しく蘇った青い地球には、遥かな昔の英雄たちの墓碑が無いのと同じで…。



 地球の上には無い、ジョミーたちの墓碑。
 彼らが命を落とした場所には設けられていない、英雄の墓碑。
「…ジョミーたちのお墓があるのって、ノアだったよね?」
 他の場所にもあるみたいだけど。
 アルテメシアにも有名なのがあるみたいだけど…。
「記念公園のヤツのことだな、あそこよりもノアの方が先だそうだぞ」
 SD体制時代の首都星だしなあ、交通網が一番整っていた。
 みんなが墓参りに行きやすい場所だってことでノアに白羽の矢が立ったんだ。
 墓参りをしたいってヤツが多かったらしい、ミュウだけじゃなくて人類の方もな。
 なにしろジョミーとキースの墓が並んでいるんだ、どっちかに花を供えたいよなあ…。
 もっとも、蓋を開けてみたら、墓参りのヤツらは両方に花を置いてたらしいが。
 人類がジョミーに、ミュウがキースに。
 花輪とか、花束とか、そりゃあドッサリと積まれたようだぞ。
 その辺もあって、あちこちに墓が出来たんだろうな。
 わざわざ遠くまで出掛けなくても、英雄に花を供えられるように。
 どうせジョミーたちが死んだ地球には墓が無いんだ、何処に作ってもかまわんだろう?
 その頃の地球は地殻変動の真っ最中で、墓なんか作りようがないんだからな。



「…それで幾つもあるんだ、お墓…」
 ブルーはポカンと口を開けた。
 ジョミーたちの墓碑が複数あることは知っていたけれど、ゆかりの地にあるのだと信じていた。
 まさか墓参に行きやすいように作られていたとは、と驚くばかり。
 それほどの人気を誇ったジョミーたちなのに、最期の地である地球には墓碑が無いという事実が潔い。シャングリラの森も記念公園も無くて、青い地球だけがあるなんて…。
 もしも自分がジョミーやキースの立場だったら、地球に墓は要らないと言うだろうけれど。
 蘇った地球は新しい地球で、古い時代の自分たちの墓など必要無いと言うだろうけれど。
 ジョミーたちの意見を訊きもしないで、作らない決断を下した人たち。
 その人たちには、ジョミーたちの思いが正しく理解出来ていたのだろう。
 どんな思いで地球まで行ったか、どんな思いでグランド・マザーに逆らったのかが。
 そう、新しい時代を築けるのならば、その礎になれればいい。
 礎に墓碑など要りはしないし、新しい時代があればいい。
 ブルー自身もそうだった。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーも、そうだった。
 自分の命は消えるけれども、ミュウの未来は続いてゆく。
 そのためであれば、命は要らない。
 新しい世代が生きてゆけるなら、それだけでいい…。
(ちょっぴり後悔しちゃったことは仕方ないんだよ)
 ハーレイの温もりを失くしてしまって泣いたけれども、泣きながら死んでしまったけれど。
 前の自分だってヒトなのだから、とブルーは思う。
 人間なのだから、後悔もする。けして完璧などではない、と。



「ジョミーたちのお墓、沢山あっても地球には無いっていうのがいいね」
 とってもジョミーたちらしい。
 調べればきっと、何処にお墓を建てればいいかは分かるだろうにね…。
「まあな。ユグドラシルがあった辺りに作れば間違いないしな」
 だが、ジョミーたちはそれを望んじゃいないさ。
 お前が言う通りにジョミーたちらしいさ、蘇った地球に墓なんか要らない、ってな。
 マードック大佐とパイパー少尉の二人だけだろ、この地球の上に墓があるのは。
 二人が乗った船が体当たりしたメギドが残っていたんじゃ無理もないよな、そのメギドも遥かな昔に撤去されちまったらしいけどな。
 風化が進んで危険になったから解体されたって話だったか…。
 今は墓だけが森の中にひっそり残っているそうだ。
 とはいえ、マードック大佐もパイパー少尉も、あちこちに墓参用の墓碑があるがな。
 あの二人の墓は人気なんだぞ、カップルに。
 結婚式の後でわざわざ花輪を供えに行くカップルも多いと聞いてるんだが、お前、どうする?
「…地球のは森の中なんでしょ?」
「ああ。ついでに、俺たちの住んでる場所からは思い切り遠いな」
 結婚式の後にちょっと、という距離じゃないな。
 行くだけで一泊必要になるが、行きたいと言うなら連れてってやるぞ。
「えーっと…。地球でもカップルに人気の場所なの、そのお墓」
「いや? 結婚式の後に寄るには向いてないしな」
 森の中を一時間ほど歩いて行かないと着かないらしいし、ウェディングドレスで森は歩けん。
 あやかりたいカップルは森の入口で花を供えて記念写真だが、多分、地元のヤツらじゃないか?
「それなら別に行かなくていいよ」
 あやからなくても、ちゃんとハーレイと一緒に地球に生まれて来られたし…。
 それにマードック大佐もパイパー少尉も、ぼくたちが行ったらビックリだろうし。
「違いない」
 想像もしなかったカップルが来た、と腰を抜かすかもしれないぞ。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが結婚の報告に来るんだからな。



 メギドから地球を守った英雄、マードック大佐と、メギドに体当たりした彼の船から退艦せずに運命を共にしたパイパー少尉。
 彼らの墓は結婚式を挙げたカップルに人気だというが、ブルーは遠慮しておくことにした。
 伝説にも等しい英雄の二人に腰を抜かして欲しくはないし、そこまでして彼らにあやからずとも前の生からの恋人が今も側に居てくれるのだから。
「…ハーレイもノアにお墓があるんだよね?」
 アルテメシアの記念公園とかにもあるけど、ノアのが一番最初だよね?
「お前の墓だってノアだろうが」
 ついでに宇宙のあちこちにあるな、俺よりも数は多い筈だぞ。
 ジョミーとキースと、前のお前と。
 他のヤツらの墓は無くてもこの三つだけは、って場所も沢山あるしな。
「ぼくのお墓は名前だけだよ、ノアのだって中は空っぽだもの」
 前のぼくの身体、何処に行ったのかも分からないんだし…。
「おいおい、俺だって同じことだぞ」
 あそこに前の俺の身体は無いからな。
 地球の何処かに埋まっちまって、今では地球の一部だからな。



「ぼくのお墓…。ハーレイのと並んではいないんだよね…」
 ブルーは写真で見たノアの墓地を思い浮かべて肩を落とした。
 アルテメシアの記念公園と同じくらいに美しく整備された記念墓地。其処に前の自分やジョミーたちの墓碑が立つのだけれども、ブルーの墓碑は一番奥。その手前にジョミーとキースが並ぶ。
 全ての始まりとされるソルジャー・ブルーの墓碑と肩を並べられる墓碑は一つも無かった。一番奥に設けられた墓碑に供えられる花は多いけれども、ブルーが欲しいものは花ではなかった。
「仕方ないだろう、お前は別格だしな」
「立派なお墓で一人きりより、みんなと一緒が良かったよ…」
 ジョミーも、それにキースも一緒でいい。
 なんでぼくだけ一人なのかな、ジョミーはキースと並んでいるのに…。
「みんなでいいのか? 本当に?」
「…ホントはハーレイと一緒が良かった…」
 ハーレイのと並べて欲しかったよ。
 ぼくのお墓とハーレイのお墓、並べて作って欲しかったよ。
 マードック大佐とパイパー少尉みたいに恋人同士のお墓にして下さい、っていうのは無理でも、二つ並べてくれたらいいのに…。
「…無茶な注文だが、気持ちは分かる」
 俺もお前と並んだ墓が良かったな。
 死んだ後まで離れ離れだ、こいつは辛い。
 生きてる間に俺たちの仲を秘密にしたんだ、仕方ないんだが…。
 並べてくれって方が無茶だが、並べたかったな。俺とお前の墓くらいはな……。



「んーと…」
 ブルーの脳裏に浮かんだ、ノアやアルテメシアの自分の墓碑。
 ハーレイの墓碑とは引き離されて立つ、独りぼっちのソルジャー・ブルーのための墓碑。
「ぼくはソルジャー・ブルーなんです、って正体を明かせばハーレイのと並べて貰えるかな?」
 前から恋人同士なんです、今度は結婚するんです、って。
「お前、そこまでの度胸があるか?」
 えらいことになるぞ、とハーレイが眉間に深い皺を寄せる。
 取材が押し寄せて揉みくちゃにされる上、ただのブルーではいられなくなると。
 誰もがブルーとソルジャー・ブルーを重ねるだろうし、色々と期待もされそうだと。
「…やっぱりそう?」
 それに歴史も変わりそうだしね、ソルジャー・ブルーに恋人がいたら。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイは実は恋人同士でした、って大事件だよね…。



 フウ、と大きな溜息をつくと、ブルーは「放っておくよ」と微笑んだ。
「前のぼくのお墓は今のままでいいよ、ハーレイと離れ離れでも」
 今度のお墓がハーレイのと並べて作って貰えるんなら、それでいい。
 ちゃんと結婚した恋人同士のお墓になるなら、それだけでいいよ。
「………。気の早いヤツだな、まだ結婚もしない内から墓なのか、おい」
 呆れ顔のハーレイに「うん」と答えて、ブルーの笑みが深くなる。
「今度はお墓に行くまで一緒、っていう意味だよ」
 ずうっとハーレイと一緒なんだよ、今度は一緒。
 離れずにずうっと、ハーレイと一緒。
 ノアのお墓なんかはどうでもいいんだ、あそこにぼくは居ないんだから。
 ぼくはハーレイと一緒に地球に来たもの、と幸せそうに微笑むブルー。
 ハーレイは「そうだな」とブルーの手を取り、キュッと握って笑みを返した。
「今度は何処までも一緒だったな、まずは結婚しなくちゃならんが」
 何処までも一緒に行こうな、ブルー。
 誰が見ても恋人同士だと分かる墓を作って貰えるように。
 その墓が出来た後も、死んじまった後も、今度こそ俺はお前と一緒だ。
 だからお前も勝手に行くなよ?
 前みたいに俺を置いて行くなよ、なあ、ブルー……。




         シャングリラの森・了

※シャングリラにあった木たちを移植したシャングリラの森。そして記念墓地。
 アニテラの最終回に出て来た風化したメギド、あれの跡地が今はカップルの聖地です。
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