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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

「ほほう…!」
 こいつは美味いな、と向かい側に座ったハーレイの顔が綻んだ。
「思いっ切り、季節外れなんだけどね?」
「いやいや、この時期、貴重だぞ?」
 専門の店ならともかく、家庭料理じゃ食えないんじゃないか?
「どうなんだろう?」
 ママの自慢の木の芽田楽。
 水切りしたお豆腐を焼いて串に刺して、木の芽味噌を上にたっぷりと塗って。
 木の芽が採れる山椒の木は庭の隅っこにあるんだけれど。
 ぼくの背丈よりも大きな木だから、パパとママとぼくでシーズン中に食べ切れるわけがなくて、もったいないからママが柔らかな木の芽を沢山摘んで冷凍にしておくんだけど。
 山椒の木は雌雄別株。雄花が咲く木は花を摘み取って花山椒。実が出来る方は実が熟す前の青い間に摘んで使ったり、熟した後の実の皮を乾燥させて細かく潰して山椒粉にしたり。
 小さい頃から馴染んでいたから、ぼくにとっては普通の光景。棘がある山椒の木の枝をわざわざ触りに行きはしないけど、ママに頼まれて木の芽を摘みに行くことならある。摘んだばかりの葉を両手でパンッ! と叩いて香りを出させて、煮物とかお吸い物とかに入れるんだ。
 何処の家でもやっていそうな気がしたんだけれど…。



「知らないのか?」
 山椒の木はけっこう難しいんだぞ、とハーレイが季節外れの木の芽味噌を指差す。
「庭さえあれば植えておけるってモンじゃないんだ、山椒はな」
「そうなの?」
 アゲハチョウが好きな山椒の木。来ると卵を産んでゆくから、幼虫やサナギが居たりする。まだ小さかった頃、サナギから蝶が出るのを見たくて通ったけれども、いつも出た後。翅を広げた蝶が枝に静かに止まってるだけで、出て来る所は見られなかった。
 山椒を植えてる家の子供は誰でも観察してるものだと思ってたけど、その山椒の木は庭があれば育つと信じてた。アゲハチョウを見たければ山椒を植えればいいんだ、と。
 だけどハーレイは「そいつは大きな勘違いだぞ」と窓から庭をチラリと眺めて。
「山椒の木は土が合わないと溶けちまうんだ」
「溶けるって…。なに、それ?」
「ん? 文字通り溶けるって意味じゃないがな、親父とおふくろはそう言うなあ…。いつの間にか消えてしまうんだ。ちゃんと手入れをしててもな」
 現に俺の家の庭では溶けちまうらしい。
 親父たちの家には山椒の木があるし、種から小さな木も生えるんだが…。
 そういう実生の木を貰って来て植えてみてもだ、元気がなくなって枯れちまう。何度挑戦しても同じで、仕方ないから、今じゃ鉢植えのままだ。親父の家で詰めて貰った土を入れてな。
「ハーレイの家にもあるんだね、山椒」
「鉢植えだがな。やっぱり春は美味い木の芽を食いたいじゃないか」
「そうだね、タケノコも木の芽和えにしたりするものね」
 タケノコの煮物にも木の芽を添えるし、春は木の芽が美味しいよね。
 花山椒をドッサリ入れてすき焼きもするよ、鶏のすき焼き。



 ハーレイと二人、木の芽を使った春の料理を幾つも挙げた。
 隣町にあるハーレイのお父さんとお母さんの家にも、大きな山椒の木があるんだって。木の芽を摘んで、花山椒も実山椒も。
 ハーレイもぼくと同じような料理を食べて育ったんだと思うと嬉しい。春は木の芽で、今の家の庭では山椒の木が溶けてしまうから、って鉢植えの山椒。
 一度だけ遊びに出掛けた時には鉢植えなんかは見ていなかった。ちょっぴり残念。気付いてたら多分、訊いたのに。「なんで山椒が鉢植えなの?」って。
 ぼくにとっては庭にあるのが当たり前の山椒。
 土が合わないと消えてしまうなんて、思いもしなかった山椒の木…。



 季節外れの木の芽田楽。
 ハーレイは「美味い」と笑顔で食べて、お皿に乗っかった木の芽味噌じゃない田楽も食べて。
「普通の田楽味噌も美味いな、俺はどっちも好きだな、うん」
 何処の豆腐だ? ってハーレイが訊くから。
 あそこ、ってママが買ってる店の名前を答えたら「なるほどな」と頷くハーレイ。
 ぼくたちが住んでいる町は水がいいらしくて、お豆腐を作ってるお店があちこちにある。ママが買う店も家から近くて、うんと近所に住んでいる人は入れ物を持って行けば入れて貰える。
 ハーレイがお豆腐を買いに行くお店も、同じサービスをしているらしい。専用の容器が要らない分だけ、お豆腐の値段が安くなる。もっとも、ハーレイは入れ物を持って出掛けるには少しばかり距離が遠すぎて、駄目なんだって。
「俺の足なら軽い距離だが、豆腐を入れた器を抱えて散歩はなあ…」
「すれ違う人が眺めてそうだね、器の中身」
「うむ。この俺が豆腐入りのボウルだのタッパーだのを抱えて歩いていたら、だ」
「凄く目立つね、似合わないものね」
 女の人とか、子供だったら誰も気にしてないだろうけど…。
 ハーレイの身体だと大きすぎだよ、お豆腐を持って散歩するには。



 お豆腐を自前の容器で持って帰ると、悪目立ちしそうなハーレイだけど。
 そのサービスが受けられないだけで、お豆腐を買いに行くこと自体は珍しくないんだって。
「美味い豆腐が近所で買えるのはいいことだぞ」
 豆腐は何かと役に立つしな。
 酒のつまみにも夏の冷奴は実に美味いし、冬だって昆布と一緒に温めて湯豆腐感覚で食える。
「ぼくもお酒はまだ飲めないけど、お豆腐、好きだよ」
 今日みたいな田楽でもいいし、冷奴も湯豆腐も美味しいよね。
 豆腐ステーキとか豆腐ハンバーグも好き。
 ママが色々作ってくれるよ。



「豆腐ステーキに豆腐ハンバーグと来たか…」
 あれも美味いな、とハーレイが田楽を頬張って。
「シャングリラにもあれば良かったなあ、豆腐。まだ肉が作れなかった頃のシャングリラにな」
「豆は貴重なタンパク源だったものね、あの頃には」
「実際、豆のことを貧乏人の肉って言ってた時代もあるらしいからな?」
 SD体制以前の地球だが、とハーレイはぼくに教えてくれた。
 誰もが肉を食べられるわけじゃなかった時代。人間が飢饉に怯えていた時代。
 肉は豊かな人たちが口にするもので、貧しい人たちは肉の代わりに豆だった、って。保存が利く豆を柔らかく煮たり、スープにしたり。
 そうやってタンパク質を摂っていたのに、食生活が豊かになったら豆はヘルシー食品になった。肉よりも健康的な食べ物。
 似たような話があったっけ、と思い出す。
 前のぼくたちがシャングリラで作った代用品のチョコレート。カカオの木は育てられないから、代わりに育てたキャロブの木。その実でチョコレートやコーヒーなんかを作っていたのに、今ではキャロブはヘルシー食品。健康志向の人たちに人気の代用品のチョコレート…。



 キャロブの木を植えるどころの話じゃなかった、ごくごく初期のシャングリラ。
 自給自足で頑張っていたけど、肉までは手が届かなかった。畑を作るのが精一杯で、家畜の餌は賄えなかった。
 貧乏とはちょっと違うけれども、肉が無かったシャングリラ。
 タンパク質を摂れるものと言ったら、豆の料理ばかり。
 あの頃にお豆腐があったなら…。
「もっと色々と食えたよな。お前が言った豆腐ステーキとか豆腐ハンバーグとかな」
「お豆腐、工夫して作ってみればよかったね…」
 ちょっと視点を変えれば色々食べられたのか、と思ったんだけど。
 肉が無い分、お豆腐でカバーしておけば良かった、と前のぼくの知識不足を嘆いたんだけど。
 ハーレイに「おい」と真顔で訊かれた。
「その豆腐だが、シャングリラに大豆はあったのか?」
「……大豆……」
 言われてみれば大豆は植えていなかった。
 豆は何種類も育てていたけど、シャングリラの畑に大豆は無かった。



「…大豆を植える所からかあ…」
 お豆腐を作るには大豆が必須。
 大豆が無かったシャングリラではお豆腐なんかは作れやしない。
「お豆腐、作れなかったんだ…」
「そのようだ。大豆は畑の肉って呼ばれてたほどの豆なんだがなあ…」
 これもSD体制よりもずっと昔の時代なんだが、とハーレイが残念そうに言うから。
「そうだったの?」
「そんな名前がついてた時代もあったんだ。普通の豆よりタンパク質が多めでな」
 貧乏人の肉どころじゃない、畑の肉だ、って話になった。
 凄い豆だと評判になって、あちこちで育てようとしていたようだぞ、その頃の大豆。
「大豆、そんなに凄かったんだ? なのに…」
 なんで無かったんだろう、前のぼくたちの時代。
 ぼくはシャングリラで育てる豆を人類の農場から盗み出したけど、大豆なんかは見なかったよ?
 作物の苗を扱う場所にも大豆は無かったと思うんだけど…。
「山椒と同じだ、土が合わなくて育たなかったんだろう」
 SD体制よりも前の地球でもそうだった。
 大豆を植えても育たない場所が沢山あったらしいぞ、きっとデリケートな豆なんだ。
 今だって俺たちの住んでいる地域が大豆には一番合うんだそうだぞ。
 一度滅びたり、地殻変動が起こったりして、すっかり変わった地球なのにな?



 もしもシャングリラに大豆があったら。
 お豆腐はきっと作れただろうし、他に大豆で出来るものと言えば…。
「ねえ、ハーレイ。シャングリラで大豆を育てていたなら、お醤油なんかも作れたかな?」
「麹菌を探して来なきゃならんが、作れんことはなかっただろう」
 そして大豆と麹があれば、だ。それと塩とで味噌も出来るな。
「そっか、お味噌も大豆だっけね」
 シャングリラの畑に大豆があっただけで、お豆腐だけじゃなくて、お醤油にお味噌。
 大豆って凄い、と改めて思う。
 それがシャングリラの畑に植わっていたなら…、と夢を見たくなる。
「前のぼくたちが大豆を育てて食べてたとしたら、凄くない?」
 お醤油にお味噌にお豆腐だよ?
 どれも人類の世界に無かったものだし、人類よりも豊かな食文化じゃない?
「いいな、グルメなシャングリラか」
 大豆を植えてりゃ、酒のつまみに枝豆だって食えるしな。あれは大豆の若い豆だからな。
「枝豆も大豆の内なんだ…。うんとグルメなシャングリラだね、ベジタリアンでも」
「うむ。精進料理の世界だな。追求してみる価値はあったかもな」
 肉を作れるようになっても、ベジタリアン向けとそうでないメニューを作ってみるとか。
 そういう発想は無かったなあ…。
「凄くゴージャスだよ、ベジタリアン向けのメニューまであれば」
「やりゃ良かったなあ…」
 大前提として大豆が要るが、だ。
 種になる豆は探せばあった筈だし、土だって改良出来たんだよなあ、俺たちミュウの得意技だ。
 長生きする分、時間はたっぷりあったんだからな。



「お味噌にお醤油だと、和風だけれど…。昆布の出汁はどうするの?」
 シャングリラで昆布は採れないよ、と言ってみたら。
「合成すれば何とかなったろ」
 それにアルテメシアに居た間だったら、天然ものの昆布が手に入ったかもしれないぞ。
 前の俺たちが海藻を食べる文化を知らなかっただけで、あそこの海にも色々と生えていた筈だ。
「うん。多分、昆布もワカメもあったんだろうね」
 前のぼくは海藻だな、と漠然と認識していただけだったけれど。
 大豆を栽培しているシャングリラだったら、きっとデータを調べたと思う。
 お醤油とお味噌を使う料理には昆布の出汁だと気付いたと思う。
 そしたら昆布とは何なのか調べて、基本は合成。余裕のある時はアルテメシアの海で本物を調達して来て、干して昆布を作るんだ。その昆布から天然ものの昆布出汁。
 昆布出汁が出来たら、お味噌汁とか色々作れた。
 前のぼくたちの時代には無かった、和食の文化を再現出来た…。



 豆だけだった時代に頑張ってみれば良かったかな、と思ったから。
 もっと豆を食べる文化を追求してれば、食料事情が変わってたかな、という気がしたから。
「前のぼく、もうちょっと豆を追求しておくべきだったかな?」
 タンパク源が豆しか無い、って考えるよりも、豆の良さを調べるべきだったかな?
 シャングリラで大豆を育てる方向に行くべきだったかもしれないね、ぼく。
 人類も育てていない大豆で頑張っておくべきだったのかも…。
「うむ。シャングリラに大豆は無かったんだが、豆との縁はしっかりあったな」
「えっ?」
「前のお前は眠っていたから知る筈もないが、ナスカでのことだ」
 あの星に最初に根付いた植物、豆だったんだぞ。
 桃色の花が咲く豆だった。
 トォニィの父親が育てていたなあ、ユウイって名前の若いミュウでな。
 生憎と事故で死んじまったが、トォニィはあの豆の花を「パパのお花」と呼んでたな…。
「そうなんだ…。トォニィのパパかあ…」
 前のぼくが知らない、トォニィの父親。
 最初の自然出産児だったトォニィと血が繋がった実の父親。
 その人がナスカで豆を育てていたなら、大豆も育てられただろうか。
 もしも大豆の種があったなら、ナスカでも大豆が育つようにと工夫をこらしてくれただろうか。大豆に合うよう土を探して、必要とあれば手を加えて。
 ナスカは大豆が育つ星になって、あの赤い星でもお味噌やお醤油を作れただろうか。
 お豆腐を作って、合成でも昆布の出汁を作って。
 独自の食文化を築き上げたミュウが、あの赤い星に居たのだろうか…。



 大豆を食文化の中心に据えて、ナスカでも大豆を栽培して。
 そんな風だったら面白かったかもね、とハーレイに言ったら「それ以上だ」と返事が返った。
「前の俺たちが人類とは違う食文化を築いていたなら、変わったかもなあ、色々とな」
「変わるって…。何が?」
 グルメなシャングリラのことだろうか、と思ったんだけど。
 ベジタリアン向けとそうでないメニューが出来ていたって意味なのかな、と思ったんだけれど。
 ハーレイがぼくに返した答えは、そんなレベルのものじゃなかった。
「分からんか? 捕虜にしたキースに豆腐田楽を食わせるとか、だ」
「ああ…!」
 それって、ミュウの文化を知ってもらうチャンス…。
 食べたことのない変な食事が出て来るんだものね、ビックリするよね?
 お味噌汁とかもちゃんとついてて、お醤油をかけた冷奴とかも。
 不味いんだったら「捕虜向けの餌か」と思うだろうけど、美味しいんだものね。
 ミュウを見る目が変わってたかもね……。



「そういうことだ」
 キースが同じように逃げたとしてもだ、その後が変わっていたかもしれん。
 報告を聞いたグランド・マザーがどう出て来たかは分からんが…。
 ミュウを徹底的に排除するよう出来ていただけに、殲滅しろとは言ったと思うが…。
 それを命じられたキースの判断がまるで違っていたかもしれんぞ。
 最終的にはグランド・マザーに逆らった男だ、ナスカの段階でサッサと見切りを付けてしまった可能性もゼロではないからな。
 なんたってミュウはただの異端分子というわけじゃなくて、独自の食文化を持った種族なんだ。そいつを星ごと滅ぼせだなんて、ちょっと判断に迷うと思わんか?
「…同じ攻撃しに来るにしても、メギドを持って来なかったとか?」
「でなきゃ最初から見逃すとかな」
 あの星には何もいませんでした、とグランド・マザーに言っても無駄だが、キースは頭の切れる男だった。
 俺たちに逃げろと警告してから攻撃してくりゃ被害は防げる。
 そのくらいのことは出来た男だ、メギドを持ち出せたヤツなんだからな。
 そうなれば俺たちはナスカから逃げて、キースの方でもグランド・マザーに逆らう道へと行っただろう。着実に出世して、昇進して。国家主席になった暁には、俺たちを地球へ呼んでたかもな。
 グランド・マザーを倒しに来ないかと、自由な世界を作らないかと。



 ぼくはポカンと口を開けてハーレイの話を聞いていた。
 確かにキースなら有り得た話。
 ぼくをメギドで撃ったキースはグランド・マザーに忠実な地球の男だったけれど、もしも根幹が揺らいでいたなら、どうだったか。
 何が真実かを自分の瞳で見極めるまでは、決して流されない男。キースはそういう人間だった。
 ミュウが自分たちとは違う種族だと、ただの異端ではないと気付けば命令違反もするだろう。
 本当に人類に仇なすものなのかどうか、確かめるまでは動かないだろう。
 其処まで行ったら、キースが辿るであろう道筋は国家主席となった後の彼の道筋と同じ。
 ミュウの存在を認め、グランド・マザーに逆らう方へと進んだ筈。
 彼なら若くても可能だった。
 ナスカに来た頃の若いキースでも、ミュウの、人類の未来を変えることが出来た…。



「そっか…。豆腐田楽が世界を救うんだ?」
 捕虜のキースに食べさせるだけで。
 「これは何だ?」と訊かれて答えるだけでいいんだ、「豆腐田楽です」って。
 お豆腐もお味噌も大豆で作って、こういう料理が出来るんです、って…。
「そうなるな」
 あいつがメギドを持って来なけりゃ、ナスカの悲劇は起こらない。
 前のお前も死なないわけだな、そもそもメギドが出て来ないんだからな?
「…凄すぎる豆腐田楽だけど?」
 前のぼくの代わりに豆腐田楽がメギドを止めるわけ?
 ぼくより凄いよ、止めるだけじゃなくて出て来ないようにしちゃうんだから。
「どうせなら冷奴に湯豆腐なんかも振る舞って、だ。豆腐尽くしのもてなしでどうだ?」
「やってみたかったね、捕虜のキースにお豆腐尽くし」
 熱々の豆腐田楽を出して、冷奴はうんと冷たくして。
 湯豆腐はもしも残っていたなら、本物の昆布でお出汁を取って。
「ああ、本当にやりたかったな。どんな風に歴史が変わっていたか、な」
 キースが豆腐田楽を美味いと思った瞬間から歴史が変わるんだ。
 実に愉快で爽快だったろうなあ、それで歴史が変わっていればな。



 シャングリラとナスカで大豆を育てて、お豆腐を作って、お味噌を作って。
 そのお豆腐とお味噌で作った豆腐田楽を捕虜にしたキースに出したら、歴史が変わる。
 キースが「美味しい」と思ってくれたら、メギドは出て来もしないで止まる。
 なんだか凄い。
 凄すぎるけれど、有り得たかもしれない一つの可能性。
 もしもシャングリラで大豆を育てていたなら、お豆腐とお味噌を作っていたなら。
 お醤油も作って、昆布の出汁を使う食文化を前のぼくたちが立派に築いていたなら…。
 シャングリラの畑にドカンと大豆。
 お豆腐とお味噌とお醤油を作るのに欠かせない大豆。
 本当にそれで歴史を変えていたなら、どうなっただろう?
「…その場合、ぼくたちは歴史に残ったのかな?」
「残ったんじゃないか? ミュウと人類との和解に至るって点では同じだ」
 ただし、お前は。
 メギドを止めた英雄じゃなくて、豆腐で世界を救ったソルジャーってことになるんだろうが。
「じゃあ、ハーレイは?」
「キャプテンだからなあ、大豆畑の最高責任者って所だろうさ」
 教科書に載せて貰える写真がキャプテンの制服じゃなかったかもしれん。
 大豆畑の責任者らしく、作業服を着て農作業中の写真だとかな。



 お豆腐で世界を救ったソルジャー・ブルーと、大豆畑の最高責任者のキャプテン・ハーレイ。
 ハーレイが言う通り、教科書に載せられるキャプテンの写真は作業服での写真かもしれない。
 前のぼくだって、ソルジャーの衣装を纏ってはいても背景が大豆畑とか。
 でなければ、写真の脇に別枠で豆腐田楽の写真がくっついてるとか。
 歴史を変えた豆腐田楽はきっと、伝説のレシピになっただろう。
 調理実習では必ず教わる定番の料理で、お豆腐屋さんは偉大な職業。
 もしかしたらシャングリラからの伝統を受け継ぐお豆腐屋さんがあったかもしれない。気が遠くなるほどの長い歴史を重ねた凄い老舗のお豆腐屋さん。
「…初代の店長がトォニィだったりするのかな? うんと老舗のお豆腐屋さん…」
「いやいや、そこはお前の名前だろ? 最初に豆腐を作ったんだし」
「そうなるわけ? 初代のソルジャーで初代店長なんだ?」
 歴史も変わるけど、ぼくとハーレイの扱いまで全く変わってしまいそうな世界。
 お互いイメージが全然違うね、と二人で笑い合ったけど。
 大豆畑で枝豆の束を抱えて立ってる、作業服のハーレイまで想像して笑い転げたけれど。
 そんな「もしも」を語れる世界に来られて良かった。
 ハーレイと二人で来られて良かった。
 季節外れの木の芽田楽が美味しい世界。
 お豆腐が美味しい、いい水が湧き出すぼくたちの町に。
 大豆を育てる光と水と土とが揃った、蘇った青いこの地球の上に…。




          豆腐の可能性・了

※もしもナスカで大豆を育てて、豆腐を作っていたならば…。それをキースが食べたなら。
 全ては夢のお話ですけど、きっと本当に歴史は変わっていたのでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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「トマトか…。お前に食わせてやりたかったな…」
 ハーレイが唐突に呟いた言葉に、ブルーは赤い瞳を丸くした。
「なんで? トマトだったら、今、食べてるよ?」
 ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合わせの昼食の時間。スープにサラダに、メイン料理のスタッフドトマト。
 くり抜いたトマトに米と挽肉、刻んだハーブを詰めてオーブンで焼き上げた、ブルーの母の得意料理の一つ。食の細いブルーには一個で、身体の大きいハーレイには三個。
 それを食べている最中なのに、どうしてトマトだなどと言い出すのか。
 怪訝そうな顔のブルーに、ハーレイは「すまん、言葉が足りなかったか」と苦笑した。
「お前はお前でも、前のお前だ。これを見たら思い出してしまってな…」
「前のぼく?」
「ああ。トマトだけじゃなくて、キュウリもナスも…。他にも沢山あったっけなあ…」
「前のぼくだって食べてたよ?」
 シャングリラで作っていたじゃない、とブルーは首を傾げたのだけれど。
「ナスカだ、ナスカ」
 食ってないだろ、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「あの星で採れた、いろんな野菜。お前、食わずに逝っちまったしな」
 お前が目覚めた時にはシャングリラ中がゴタゴタしていたからな…。
 野菜どころじゃなかったろ、お前?



 十五年もの長い歳月を眠り続けたソルジャー・ブルー。
 その目覚めは変動の予兆そのもので、ミュウに災いを齎す地球の男からシャングリラを、仲間を守るためのもので。
 ブルーに残された時間は少なく、その時間さえもが混乱の中で過ぎて行ったようなもの。僅かな時間しか無かったブルーと、多忙すぎたキャプテンのハーレイと。
 二人きりで会える時間は無かった。ろくに言葉も交わせなかった。
 それが悔しい、とハーレイは辛そうな顔をする。今でも悲しくて悔しいのだ、と。
「ナスカの野菜を味わうどころか、俺の野菜スープも飲まないままで逝っちまったな、とな…」
 俺の野菜スープも、きっと美味かっただろうと思うんだ。
 いつだったか、お前が地球の野菜スープが美味い、と言ったみたいに。
 レシピを変えてしまったのか、と訊いてたろ?
「そういえば…。美味しいんだよね、今のハーレイの野菜のスープ」
「地球の光と水と土とが育てた野菜だからな。同じ野菜でも美味くなるんだ、不思議なもんだ」
 だからナスカで採れた野菜も美味かった筈だと思わんか?
 前のお前に食わせたかった。
 こんなに美味い野菜が出来たと、野菜スープも美味いんだぞ、と…。



 だが、とハーレイの顔が苦しげに歪む。まるであの日に戻ったかのように。
「…俺はお前に野菜スープを作るどころか、一緒に眠ってさえやれなかった。…愛しているとさえ言えなかったな、せっかくお前が目覚めたというのに…」
「仕方がないよ」
 気にしないで、とブルーは微笑み、「ぼくなら平気」とハーブ風味の米をスプーンで掬った。
「ぼくはソルジャーだったんだから。そして君はシャングリラを預かるキャプテンだった」
 そんな時間は無くて当然、と米を頬張り、健気に振舞うブルーだったけれど。
 本当の所は辛くなかった筈がない。
 今もブルーは覚えている。
 ハーレイとの十五年ぶりの優しい時間すら持てず、いたずらに流れ去った遠い日のことを。
 赤い星に迫った災いの時をただ待つだけしかなかった日々を…。



 長老たちと一緒の公式な見舞い。
 それがハーレイが青の間を訪れた、ただ一度だけの時だった。
 キャプテンとしてブルーの身体を気遣い、ゼルたちと共に状況の報告や今後の方針などを伝えただけの短い訪問。私的な会話は一切無かった。ソルジャーとキャプテン、それぞれの立場での言葉のみを交わしてハーレイは青の間を辞し、自分の持ち場へと戻って行った。
 非常警戒態勢に入ったシャングリラでは、キャプテンは自室を離れられない。ブリッジに居ない時は自室で待機が鉄則だったし、そのように作られた部屋がキャプテンの私室。ブリッジと緊急の連絡が取れて、指示も下せる設備が整った部屋。
 ハーレイは其処から動くことが出来ず、自室に居なければ居場所はブリッジ。
 青の間で静養中のブルーの方でも、医療スタッフや医療機器に見守られていては動けはしない。許可を得られれば短時間の外出は可能だけれども、ハーレイの部屋には出掛けられない。
 今後のことで相談があるから、と嘘をついて訪ねることは出来ても、恋人同士の逢瀬を持ったら何かあった時に全てが知れる。
 長い年月、隠し続けてきたハーレイとの仲が、シャングリラ中に。
 そうなることが分かっていたから、ブルーは会いには行けなかった。ハーレイが来られないのも分かっていたから、流れ去る時をただ見ていただけ。
 残された時間が減ってゆくのを唇を噛んで見ていただけ。
 堪え切れずにフィシスの許を訪ねたけれども、辛さが増しただけだった。
 フィシスを抱き締め、慰めることは出来るのに。
 どうして自分を抱き締めてくれる逞しい腕は何処にも無くて、恋人の声さえ聞けないのかと。
 何故ハーレイとキスさえ交わせず、死に赴かねばならないのかと…。



 遥かな昔を思い出して俯くブルーに、ハーレイが「すまん」と謝った。
「前の俺の配慮ってヤツが足りなかったんだ。スープ作りなら堂々と青の間に行けただろ?」
 キャプテンとしてな。
 前のお前がダウンした時には俺の野菜スープしか飲めないってことは皆、知っていたし。
「そうだけど…。ぼくは普通に食事が出来たし、君にはそんな時間は無かった」
 ブリッジに居なければ、キャプテンの部屋か移動中か。
 そうだったでしょ?
 ぼくにはちゃんと分かっていたよ、とブルーはフォークでトマトをつつく。オーブンで加熱したトマトは皺が寄っていて、それでもトマトの形はそのまま。
 中身を殆ど掬って食べてからトマトを食べるのがブルーの好みで、底に残ったハーブ風味の米とトマトとを混ぜながら口へ。けれど、トマトの中にはまだたっぷりと具が入っている。
 ハーレイの方は一個目のトマトを食べ終え、二個目の蓋を外しながら。
「いや、通信手段さえ確保していれば行けたんだ。スープを作る間くらいは」
 スープを作りに行ってきます、と嘘をつく度胸さえ無かったキャプテンだ、俺は。
 お前が独りぼっちだってことは分かってたのにな…。
「ううん、仕事を大切にしただけ。キャプテンの役目を果たしただけだよ」
 ぼくが本当のソルジャーだったら、野菜スープを作る間に作戦会議ってこともあるけれど…。
 ソルジャーはとうにジョミーだったし、スープ作りの時間は無駄だよ。
 ぼくと会うだけの、ただの恋人同士の時間で何の役にも立ちはしないよ。
 ハーレイはそれに気付いていたから、来なかっただけ。
 青の間でスープを作る代わりに、キャプテンの仕事をしていただけ…。



「それはそうかもしれないが…」
 実際そうでもあったのだろうが、とハーレイはトマトに詰まった米を掬って。
「俺がスープを作りに行けていたなら…。そしたら、お前は美味いスープを飲めたんだ」
 こんな美味しいスープがあるのか、と言ってくれたかもしれないな。
 レシピをこっそり変えたんじゃないかと、今のお前と同じことをな…。
「そうだね。そう言ったかもしれないね…」
 それに、最後に食べる食事がハーレイのスープだったら良かった…。
 ハーレイが作ってくれたスープを美味しく飲んで、それから死ねたら幸せだったよ。
 …それでもやっぱり泣いただろうけど。
 ハーレイの温もりを失くしてしまって泣いただろうけど、スープの分だけ涙が減った。
 きっと、減ってた…。



 本当に減っていたのだろう、とブルーは遠く過ぎ去った日の悲しみを思う。
 もしもハーレイと、僅かであっても私的な会話を交わせていたなら。
 ハーレイが作った野菜スープを、「美味いと言ってくれただろう」と話すナスカの野菜で作ったスープを味わえていたなら、きっと心に温もりがあった。
 右の手が冷たく凍えようとも、思い出は心に残っていた。
 ハーレイの姿と声とは確かに記憶に残っていたのに、温もりを失くしてしまった自分。けれどもスープの美味しさを、ハーレイの優しさを心に刻んでいたなら、きっと心が温かかった。
 その温かさの分、涙は減った。
 独りぼっちなことに変わりはなくても、暖かな思い出に縋れたから。
 束の間、味わった幸せに縋れる分だけ、涙は幾粒か減っただろう。
 もうハーレイには会えないのだと泣きじゃくりながらも、最後に飲ませて貰ったスープの優しい味と温かさとに少しは救われていただろう。
 あれを飲めただけでも幸せだったと、幸せな思い出だけは持って逝けるのだと…。



「お前、本当は何を食ったんだ?」
 最後の食事、とハーレイに問われて、ブルーは「同じだよ?」と遠い記憶を手繰り寄せた。
「あの日のお昼御飯でしょ? ハーレイと同じ」
 いつも通りの時間に届いたし、特に何か言われた覚えも無いし…。
 だから、みんなと同じだよ。
 ハーレイが何処で食べたのかは知らないけれども、普通の食堂の御飯だったよ。
「そうか…。ナスカの野菜ですらなかったんだな、やっぱりな…」
「そうだったの?」
 何も考えていなかったから、とブルーは遠い遠い記憶を探ったけれど。
 迫り来る死に、ハーレイとの別れに囚われていた心は食事の味まで覚えてはいない。ハーレイが美味しかったと語ったナスカの野菜が使われていても、恐らく気付きはしなかったろう。
 けれどハーレイが悲しそうな顔をするから、もう一度重ねて訊いてみる。
「あの食事、シャングリラの野菜だったんだ?」
「…ああ。お前が何も訊かれなかったなら、間違いなくシャングリラの野菜だな」
 ナスカの野菜は好き嫌いが分かれた。
 俺は美味いと思ってたんだが、食いたくないヤツらも中にはいたんだ。
 ナスカなんぞで暮らしているより地球へ行こうと主張するヤツらは食わなかった。
 だから若い連中向けの料理には使っていた筈なんだが、古株向けはな…。
 同じメニューでも素材が違う、というヤツだ。
 お前は古株の中の古株なんだし、試食しますかと訊かれなかったならシャングリラの野菜だ。



 ブルーは驚いて目を見開いた。
 ナスカに居た頃、若い世代との対立があったとは今のハーレイから聞いていたけれど、食事用の野菜までが別にされるほどに激しいものとは思わなかった。
 どおりでナスカに残ろうとした者が多かった筈だ、と今になって気付く。明らかに危険が迫っているのに何故逃げないのかと不思議だったが、彼らにとってはナスカこそが居場所だったのだと。
「…野菜まで別にしてたんだったら、ナスカに残りたがるのも無理はないよね…」
「俺に言わせりゃ、馬鹿だがな。一旦逃げてだ、何事も無ければ戻るっていうのが普通だろ?」
 それが避難というヤツだ。
 安全を確認出来たら戻るって選択も可能ではある。
 いくらあの時点で「二度とナスカには戻らない」と言いはしてもだ、安全ならな。
「うん。安全だったら捨てる必要は無いものね、ナスカ…」
「せっかく開拓したんだしな? だが、若い連中には危機感ってヤツが欠けていたんだ」
 その結果として、あの惨事だ。
 自業自得なヤツらはともかく、俺たちはお前まで失くしちまった。
 もっとも俺たち古い世代も努力不足ではあったと思う。
 俺はともかく、頑固なヤツら。
 ナスカの野菜なんかが食えるものか、と言ってたヤツらの意識を変えておくべきだった。
 そうしたら同じナスカを離れるにしても、一時撤退って形を取れていたかもなあ…。



「ナスカの野菜、そこまで嫌われ者だったんだ?」
 ハーレイが食べたら美味しかったのに、食べようとしない人、多かったんだ?
「まあな。…ゼルが初めてナスカのトマトを食った時には、お前が居なかったくらいだからな」
「…ぼくが死んだ後?」
 ナスカが無くなった後のことか、とブルーは仰天したものの。
 どうしてゼルが食べようという気になったものか、ということの方が気にかかる。
 それを問えば、ハーレイは「怒るなよ?」と苦い笑みを浮かべた。
「お前のお蔭で逃げ延びた後、俺たちは天体の間に集まってジョミーの指示を待っていた。…俺は緊張の糸が切れたっていう感じでな…。お前の名前を呼びながら泣いていたんだが…」
 その時にゼルが食っていたんだ、「こんなに美味かったんじゃのう…。ハロルド」って、死んだ若いヤツの名を呟きながらな。
 俺は一瞬、激しい怒りを覚えたさ。どうしてお前の名を呼ばないのか、と。
 だがな、殴り飛ばしたくなった途端にゼルの心の奥底が見えた。だから殴らずに見守れたんだ。
「…何か理由があったんだね? ぼくの名前を呼ばなかった理由」
「そうだ。だから怒るなと先に言っておいた筈だぞ」
 ゼルはアルタミラで弟を亡くしている分、仲間を亡くした若いヤツらの気持ちも分かった。
 それでお前を呼べなかった。お前の名前は俺たちが呼ぶに決まっているからな。
 若いヤツらのためにナスカで死んだヤツの名前を呼んでだ、あえてお前を呼ばなかった。
 そして初めてのトマトも食うことにしたんだ、厨房から持ってこさせてな。
 死んだヤツらが育てたトマトだ、それを味わって食ってやるのが何よりの供養になるだろうが。



 ゼルの気持ちは分かったけれども、今度はトマトがブルーの心に引っ掛かった。
 母のスタッフドトマトは確かに美味しい。けれど野菜は他にも色々。生で食べるには適しているからゼルはトマトを持ってこさせたのか、それ以外の理由もあったりするのか。
 これは訊かねば、とハーレイの鳶色の瞳を見上げる。
「そこでトマトを選ぶんだ? トマトが一番自慢の味の野菜だったとか、そんな意味もある?」
「自慢の味と言うか、ナスカで最初に実った野菜と言うか…。最初に根付いたものは豆だが、豆はそのままじゃ食えんしな? 生で食える野菜としてはトマトが最初だ」
 それだけに熟練の味だったな、うん。
 ナスカに居た間に劇的に味が向上してたぞ、実に美味かった。
「ぼくもそのトマト、食べたかったよ。野菜が別だって知っていたなら、注文したかも…」
「ゼルとしては供えていたんだと思うぞ、お前にな」
 声に出していたのは若いヤツらの名前だったが、心の中ではちゃんとお前を呼んでいた。
 俺には分かった。ゼルがお前の名前を呼びながら号泣していたのがな。
 …で、食えたか?
 ゼルがお前に供えたナスカのトマト。
「さあ…? どうなんだろう、覚えてないや」
 でも、そのトマトって、生だよね?
「調理済みではなかったな」
「そっか…。じゃあ、味の違いが際立ったかな?」
 食べてみたかったな、ナスカのトマト。
 ちょっと生のトマトを食べたい気分がするけれど…。残念、今日のサラダはトマトじゃないね。
「おいおい、メインがコレだぞ?」
 サラダまでトマトだとやりすぎだ。
 一個しか食わないお前はともかく、俺はトマトが三個分だしな?



 ゼルが前の自分にナスカのトマトを供えてくれていた、とハーレイから聞かされたブルーは遠い記憶を探るけれども、生憎とメギドから後は分からなかった。記憶の糸はプツリと途切れて、今の生へと繋がっている。生まれ変わるまでの間に何処に居たのかも定かではなくて。
「…前のぼくって、食べられたのかな? ゼルのトマト…」
「食ってくれていたなら嬉しいが…」
 嬉しいんだが、とハーレイは複雑な表情になった。
「その一方で俺としては腹立たしくもあるな。俺のスープは飲んで貰えなかったのに、とな」
 お前にナスカの野菜のスープを作ってやりたかったのに。
 美味いのを飲ませてやりたかったのに…。
「だったら、ぼくは食べていないよ、きっと。…ゼルのトマトは」
 ハーレイの気持ち、伝わっていたと思うから。
 どんなにゼルに貰ったトマトが美味しそうでも、食べないよ。
 ハーレイがぼくに飲ませたかったスープを飲んでないのに、ゼルのトマトは食べられないよ。
「そうなのか?」
「うん。ハーレイが悲しがるようなことはしないよ、メギドだけで沢山」
 勝手に飛んでしまって悲しませたから、と口にする小さなブルーをハーレイが軽く睨み付けて。
「充分に悲しかったがな? そのメギドのせいで」
「だからそれ以上はやらないってば」
 ゼルのトマトだけを美味しく食べて、ハーレイを悲しい気持ちにはさせないよ。
 ハーレイのスープを飲んでいないのに、トマトなんかは食べないよ…。



 決して食べないし食べてはいない、とブルーは笑みを浮かべて言った。
 ナスカのトマトは気になるけれども、食べられるものなら食べたかったけれど、ハーレイが作るスープの方が良かったと。
 それを最後に飲みたかったし、それが無いならナスカのトマトも要らないのだと。
「…それにね、今は美味しい地球のトマトが食べられるから」
 ナスカのトマトにはこだわらないよ。
 絶対に地球のトマトの方が美味しいトマトに決まっているもの。
「違いないな」
 その点は両方を食べた俺が保証する、とハーレイが大きく頷いてみせる。
「やっぱり美味さが全然違うぞ、シャングリラのとナスカのトマトの違いよりデカイな」
「そこまで違うの?」
「ああ、違う」
 それだけ地球のトマトは美味い。
 うんと美味いし、いつか俺たちが結婚したら…。
 お前の野菜スープ専用の畑を作ろうか、って言ってただろう?
 その畑のメインはトマトにしとくか?
 ナスカで一番自慢の野菜で、ゼルがお前に供えたトマトだ。記念にどうだ?
「うーん…。記念はいいけど、そうなると野菜スープがトマト風味になってしまわない?」
 ぼくが一番好きな味とはちょっと違うかも。
 ハーレイ、レシピを変えちゃうつもり?
「確かになあ…。トマトベースだと別物だからなあ…」
 塩と野菜の旨味だけっていうのがお前好みの味だしな。
 トマトは入れてもほんのちょっぴり、他の野菜が多めだっけな?




 畑のメインをトマトにするのはやめておくか、とハーレイは三個目のスタッフドトマトを食べるべく蓋を開けにかかる。
 ブルーはと言えば、一個しか無かった自分のトマトの皮と残った米とを混ぜ合わせている最中。普段だったら食べ終えている頃だけれども、話に夢中で手が遅い。
 そんなブルーの手元を見ながら、ハーレイがしみじみと先刻の話題を繰り返した。
「…しかしだ、お前に飲ませたかったな、ナスカの野菜で作ったスープ…」
「ぼくも最後に飲みたかったよ、ハーレイのスープ」
 ハーレイが言うから飲みたくなった、とブルーはクスクスと小さく笑った。
「だけど、とっくに手遅れだもの。前のぼくは死んじゃって、今のぼくになっちゃったしね」
 ハーレイのスープ、今は地球の野菜のスープになったよ。
 ナスカの野菜のは飲み損ねたけど、地球の野菜のスープは一生、作ってくれるんだよね?
「そりゃあ、野菜畑まで作る予定だ、作ってやるが…」
 いくらでも作るが、他の料理にも開眼しろよ?
 最後の晩餐が野菜スープっていうのは悲しいぞ。
 前のお前の頃ならともかく、今じゃ料理も素材も食べ放題で選び放題だ。
 今度は野菜スープだなんて言わずに、もっとゴージャスなのを注文してくれ。



 そういう話題は王道だぞ、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
 最後の食事に何を食べたいか、何を食べるかと好物を挙げて楽しむのだと。
 学生時代はそうした話に興じたものだし、今でも同僚とああだこうだと笑い合うのだ、と。
「お前の年では、まだやらないか…。飯よりも菓子が挙がりそうだしな、ガキだしな?」
「ガキは酷いよ!」
 酷い、と抗議しつつも、ブルーは少し考えてみて。
「…ぼくはハーレイと一緒に食べられるんなら何でもいいよ、最後の晩餐」
「ほう、そうか? 何でもいいのか」
 じゃあ、ステーキだ。
 食べ応えのある美味いのを食おうじゃないか。
「いいよ? …ぼく、食べ切れないかもしれないけれど…」
「寿司かもしれんが?」
 ありったけのネタを端から注文して食っていくんだ、楽しいもんだぞ。
 美味い酒があればもっといいな。
 前のお前も今のお前も酒は駄目そうだが、最後の晩餐とくれば付き合え。
 酒は舐めるだけでもいいから、寿司ネタは端から端までな。
 なあに、少し齧って俺に寄越せば制覇出来るさ、お前のちっぽけな胃袋でもな。



 難しそうな注文ばかりが挙がるけれども、ブルーは「うん」と笑顔で応えた。
「お寿司でも寄せ鍋でも、何でもいいよ」
 ハーレイと一緒に食べられるんなら、ぼくには最高の御馳走だから。
 前のぼくは最後の食事を一緒に食べられなかったから……。
 それにスープだって飲めなかった。
 ハーレイが作る野菜のスープ。ナスカの野菜で作ったスープ…。
「ふむ…。俺の料理でも満足か、お前」
「そうだよ? 別にお店で食べなくっても、ハーレイの料理で充分なんだよ」
 だって、ハーレイが作ってくれるだけで美味しいに決まっているんだもの。
 ステーキもお寿司も、ハーレイが食べに行きたいんだったら付き合うけれども、ぼくが食べたい最後の晩餐はハーレイの料理。
 野菜スープでも何でもいいから、ハーレイの料理が食べたいな…。
「俺の料理か…。よし、思い切り腕を奮うか、何百年後になるかは知らないけどな」
 なんたって最後の晩餐だからな、俺たちが何年生きるかによるな。
 それまでに腕を磨いておこう。
 お前も食いたい料理を増やして、野菜スープだなんてケチな注文するんじゃないぞ?
「うん。それを食べたら…。最後の晩餐を一緒に食べたら、約束通り死ぬのも一緒だよ?」
 そしてまた何処かに一緒に生まれてこようね、思い出の味を食べられるようにね。
「ああ。いつまでも、何処までも一緒に行こうな、ブルー」
 今度こそ、何処までも一緒に行こう。
 次に二人で生まれ変わっても、その次も、そのまた次もな…。



 一緒に行こう、と微笑み交わして、約束をして。
 指切りをする二人の前に置かれた皿にはトマトのヘタだけが残っていた。
 ブルーの皿にはヘタが一個で、ハーレイの皿には三個分のヘタ。
 幸せな約束を見届けた四個のトマトは、地球の大地で育ったトマト。
 青く蘇った地球の光と水と土とで育ったトマト。
 ナスカのトマトよりも遥かに美味しいトマトを育てる母なる地球。
 その地球の上に生まれ変わって、恋人たちは幸せな時を生きてゆく。
 今度こそ二人離れることなく、何処までも二人、手をしっかりと繋ぎ合って……。




           赤い星のトマト・了

※ナスカのトマト。…個人的には非常に恨みがあった代物、アニテラ17話のせいで。
 「なんでハロルドだよ! ブルーの名前じゃないんだよ、ゼル!」と。
 ようやっと恨みを晴らせた作品、自分語りをしてしまうほどに。…トマトなんです。
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 山ブドウのジュース。赤ワインみたいに綺麗な色をしていて、ちょっぴり酸っぱい。
 パパが友達から旅行のお土産に貰って来たから、ハーレイにも。
「ほほう…! 山ブドウか、こいつは美味いな」
「でしょ? 美味しいよね、普通のブドウのジュースも美味しいけれど」
 ハーレイの笑顔までが「美味しいぞ」って言っているようで、とても嬉しい。ハーレイは何でも美味しそうに食べるんだけれど、やっぱり特別な顔があるから。ホントのホントにお気に入りって味に出会った時には、ちゃんとそういう顔になるから。
 たとえば、ぼくのママが焼くパウンドケーキ。ハーレイのお母さんが作るパウンドケーキの味にそっくりらしくて、大好物。パウンドケーキをおやつに出したら、ハーレイの表情はもう最高。
 山ブドウのジュースはパウンドケーキには敵わないけど、素敵な評価を得られたみたい。
(ふふっ)
 出してよかった、とジュースをストローで飲むハーレイを見ていたら。
「山ブドウなあ…。それも天然のか」
「うんっ! 畑のじゃないってパパが言ってた」
 お洒落なラベルなんかは貼ってなかった山ブドウのジュースが詰まった瓶。手作りだって感じが溢れる素朴なラベルに「山ぶどうジュース」の文字と、作った人の名前とかだけ。
 パパの友達は旅行先に親しい友達が住んでて、その人から貰って来たらしい。大きな食料品店に卸すだけの量は作れないから、地元でだけ売られているジュース。自然に生えている山ブドウの実だけで作った、混じりっ気なしの天然もの。
 パパとママとぼくで飲んでみて、美味しかったから。
 ハーレイにも出そうっていうことになった。自然の恵みの山ブドウのジュース。



「ふうむ…。ブドウが自然に育つとはなあ、流石は地球だな」
 感心しているハーレイの言葉で気が付いた。天然ものの山ブドウだから自然のブドウ。
「そういえば、そうだね。…なんだか凄いね」
 シャングリラでは農園で大切に栽培していたブドウ。
 楽園という名の白い鯨に広い畑はあったけれども、手をかけて世話をしてやらなければブドウは実りはしなかった。栗の木みたいに公園や居住区の庭に植えておくだけで沢山の実がなるわけではなかった。
 きちんとブドウ専用の区画を設けて、棚を作ったり枝を剪定してやったり。農園専属のクルーがせっせと世話をし、見事なブドウがたわわに実る。
 今の地球ではブドウ農園に出掛けてブドウ狩りなんかも出来るけれども、シャングリラの農園で実ったブドウは係のクルーが一房ずつ気を付けて収穫していた。子供たちはそれを見学するだけ。ブドウ狩りなんて夢のまた夢、「美味しそう…」って見ていただけ。
 そうやって採れたブドウはフルーツとして食卓に上った。
 房で出されるわけじゃなくって、一人ずつ、お皿に何粒か。それがシャングリラの精一杯。
 ソルジャーだったぼくは「冷やしておけば日持ちしますから」と一房貰ったりしたんだけれど、「少しでいいよ」と遠慮しておいた。ハーレイと二人で食べる分だけあれば良かった。
 だから自分で「このくらいかな」って思う辺りで房をハサミでパチンと切って。
 それを青の間にあるお皿に移して、残りのブドウは運んで来たクルーに「これで充分」と返しておいた。新鮮な間に子供たちにでも分けてあげて、と。
 一房食べるなんて贅沢すぎたシャングリラのブドウ。
 美味しかったけど、ハーレイと二人で食べるにしたって一房は贅沢すぎると思ってたブドウ。



 その貴重なブドウでレーズンとかも作ったけれども、子供たちのためにブドウのジュース。
 合成品じゃない果物のジュースは身体にいいから、ブドウを作っていた主な目的は果汁を絞ってジュースにするため。それと料理やお菓子に役立つレーズン。
 保存が利くジュースやレーズン作りが最優先だから、採れたての新鮮なブドウの実を沢山食べるわけにはいかない。ブドウが実った時にちょっぴり、僅かな量を食べるだけ。
 ブドウのジュースをメインに作る傍ら、大人たちのために、ほんの少しのワインを作った。
 お祝い事なんて無かったけれども、そういう時に飲むために。
 閉ざされた船の中だけの世界に住むぼくたちには誕生日のパーティーすらも無かった。
 ぼくも含めたアルタミラからの脱出組には、誕生日そのものが無かったから。成人検査で記憶を奪われた上に、繰り返された人体実験。過酷な日々を過ごす間に、誕生日なんて忘れてしまった。
 ソルジャーや長老たちに誕生日が無いから、後で加わった仲間たちは遠慮してしまって。
 ちゃんと誕生日を覚えていたって、親しい仲間と個人的に祝い合うだけで誕生日のパーティーは一切無かった。
 子供たちのために養育部門が催す誕生日パーティーはあったけれども、ワインは要らない。
 お酒を飲めない子供たちのパーティーにワインなんかは必要じゃない。
 お祝い事の無かったシャングリラ。
 たまにカップルが成立した時にも結婚披露のパーティーは無くて、内輪でお祝い。船を挙げてのお祝い事の席ではないから、ワインはやっぱり出なかった。



 お祝い事らしいイベントと言えば、クリスマス。
 人類はクリスマスを祝っていたけど、ぼくたちのシャングリラにもクリスマスはあった。一年に一度のクリスマス。成人検査よりも前の記憶が無くても、クリスマスのことは覚えてた。
 一緒に祝った養父母の顔もパーティーの御馳走も忘れたけれども、とても素敵な日だった、と。サンタクロースがやって来ることも、ちゃんと記憶に残っていた。
 だけど、シャングリラのクリスマスは子供たちのための楽しいイベント。
 夜になったらサンタクロースが来てくれる日で、パーティーの主役も子供たち。
 そう、サンタクロースもシャングリラに居た。正体は養育部門のクルーだったけど、あの独特の赤い服を着て、真っ白な髭もくっつけて。プレゼントが詰まった白い袋を担いで、夜更けの通路を歩いてゆくんだ。子供たちが眠る部屋を目指して。
 ずうっと昔は大人しかいなくて、人類から奪った物資でクリスマスを祝ったこともあったけど。
 奪った物資に紛れていた本物のお酒で乾杯して祝っていたんだけれど…。
 子供たちが主役になってから後は、クリスマスはお酒抜きでのパーティー。
 お祝い事には違いないけれど、ミュウの未来を担う子供たちにうんと楽しんで欲しかったから。
 大人たちはパーティーの席ではお酒を一切飲まずに、後で個人的に飲んでいた。
 個人的な酒宴には合成品のお酒で充分、貴重なワインは出さなくていい。
 シャングリラで採れたブドウのワインは、本当のお祝い事の時にしか出さなくていい…。



 クリスマスにも飲まずに取っておいた貴重なワイン。
 他にどんなお祝い事があると言うんだ、って誰もに笑われそうだけど。
 それは今だからそう言えることで、人間がみんなミュウになった平和な時代だからこそ。
 前のぼくたちにはクリスマスよりもずうっと大切なお祝い事の日があったんだ。
 楽園という名の白い鯨で暮らしたぼくたち。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 そのシャングリラで採れたブドウのワインは、年越しのイベントの時に使った。
 正確な時を刻み続けるブリッジの時計が示す銀河標準時間。二十四時間の一日と三百六十五日の一年が基本の地球の時間を元にした時間。それが一月一日の午前零時になるのをシャングリラ中の仲間たちが待った。それぞれの持ち場で、ブリッジが見える公園などで。
 カウントダウンを待つ間に配られるグラスに一人一杯のワイン。
 シャングリラのブドウの実から作った赤ワイン。
 グラスを手にして待ち受ける仲間たちに新年の到来を告げて、乾杯の音頭を取っていたのが前のぼく。ブリッジの中央に立って、赤ワインを満たしたグラスを高く掲げて。
「シャングリラのみんな、新年おめでとう。新しい年が良き年でありますように。乾杯!」
 乾杯! と唱和する声が返って、船のあちこちでグラスを傾けながら皆が喜び、祈る。
 新しい年を無事に迎えられたと、また一年間生き延びられたと。
 迎えたばかりの新しい年も、生きてゆくことが出来ますように、と。



 遠い昔にはワインは神様の血だと言われていたというから。
 SD体制が始まるよりも前の時代の暦の始まりの年に生まれた神様、クリスマスに地球の小さな馬小屋で生まれたと伝わる神様の血。
 前のぼくたちの時代にはクリスマスだけで、神様も居たというだけで。神様の身体だとされてた儀式用の小さなパンも無ければ、赤ワインを神様の血になぞらえるための儀式も無かった。
 だけど、前のぼくは赤ワインが神様の血だった時代が確かにあったと知っていたから。失くした記憶の代わりに詰め込んだ知識の一つとして知っていたから、年越しのイベントに赤ワイン。
 神様の血だという赤ワインを飲んで、新しい年の無事を願った。
 ぼくたちの船を、仲間たちを守って下さいと。
 一人でも多くのミュウを救い出すことが出来ますようにと、ミュウの未来が拓けますようにと。



 神様は今じゃ沢山復活しちゃって、お守りなんかも色々あるけど、あの頃は一人。
 前のぼくが生きていた時代は神様はたった一人だけだった。
(…なんでだろう?)
 人間が住む惑星は沢山あったし、神様やお守りも何種類かあっても良かっただろうに。
 神様を一人に絞らなくても、もう少し多くても良かったように思うんだけど…。
 だって、データは残ってた。クリスマスが誕生日の神様の他にも居た何人もの神様たち。聖書の他にも色々な本とかが残っていたのに、それを根拠とする神様たちは居なかった。
(グランド・マザーが統治しやすいようにかな?)
 神様の種類が増えたら、神様を心の拠り所にする人間の種類もそれだけ増える。
 マザー・システムお得意の人間の心を分析したり、場合によっては記憶ごと書き換えて従わせる仕組みを楽に使いたければ、心の種類は少なめがいい。パターンは少ないほど便利。
 そのために神様は一人に絞っておいたのだろうか、と推測してみるけれども。
 一人だけに絞られてしまったとはいえ、神様という概念が無くならなかったことは凄いと思う。
 グランド・マザーにも、マザー・システムにも消し去ることが出来なかった神様。
 人間から神様を取り上げることは、あの非人間的なシステムをもってしても不可能だった。
 だから神様は居るんだと思う。
 クリスマスが誕生日の神様は絶対確実に居るし、復活してきた神様たちも、きっと。
 ぼくがハーレイに出会えるように、と聖痕をぼくにくれた神様。
 聖痕は本来、神様が身体に負った傷痕そっくりなもの。
 SD体制の時代にも生き残っていた、クリスマス生まれの神様が死ぬ時に負った傷痕。
 その神様の血だと言われた赤ワイン。
 赤ワインを飲んで神様にきちんと祈っていたから、神様はぼくに聖痕をくれたのかもね…。



 ハーレイにそんな話をしてみたら、「そうかもな」と頷いてくれて。
「あの頃のワインは貴重だったな、本物は一年に一度だけだしな? しかも一人に一杯だけだ」
「うん。今じゃワインも色々あるよね」
 ぼくは飲めないけど、本物のワイン。赤だけじゃなくて、白とかロゼとか…。
 シャングリラでは赤ワインだって普段は合成だったのに。
「うむ。酒好きの俺としては実に嬉しい」
 前の俺たちの頃も人類はあれこれとワインを楽しんでいたんだろうが…。
 前のお前が奪った物資にも白やらロゼやら紛れてたしな?
 しかしだ、今は地球のワインだ。地球で作られた美味いワインを飲み放題だ。



 いい時代だ、とハーレイは笑顔なんだけど。
 小さなぼくはワインを飲めはしないし、大きくなっても飲めるかどうか…。
「ぼく、地球のワインは楽しめないかもしれないんだけど…」
 前のぼくはお酒に弱かったもの。
 ぼくがお酒を飲める年になっても、ワインなんかは飲めないかも…。
「お前、乾杯で酔っ払えるソルジャーだったしな?」
 グラス一杯の赤ワインでも駄目で、ものの見事に酔っ払えたしな?
「そうだよ、そうなるってことが分かっていたから、いつも口だけつけてたよ」
 ほんの一口しか飲まなかったよ、一口どころか舐める程度で。
 せっかくのワインがもったいないから、残りはグラスごとハーレイに渡して。
「ああ。堂々とお前と間接キスってヤツが出来たんだよなあ、人前でな?」
「そうだったね。年に一度だけの「堂々と」だよね」
 間接キスでも、ハーレイとキス。
 ブリッジとか公園のみんなが見ている所でハーレイとキス…。
「裏事情は誰も知らなかったがな、間接キスをしているんです、という辺りはな」
「うん。キャプテンがソルジャーの飲み残しを飲みます、っていうだけでね」
 ハーレイ、お酒に強かったから。
 無駄にするより飲み残しでも飲むべきだよねえ、貴重な本物のワインだものね?
 飲み残しまで責任を持って飲まなきゃいけないキャプテンはうんと大変だけどね?



 いくらハーレイがお酒に強くて好きであっても、飲み残しを押し付けていたことは事実だから。
 ちょっぴり申し訳ない気分だったのが前のぼくなのに、ハーレイは笑ってこう言った。
「知ってたか? あの飲み残し、けっこう熱い目で見られていたぞ」
「なに、それ?」
 なんで熱い目?
 いったい誰が何の目的で、とぼくはビックリしたんだけれど。
「やはり気付いていなかったのか…。露骨に視線が行っていたがな?」
「そうだったの? ぼくは全然知らないけど、誰?」
 ワインを一口飲んだだけで身体が熱かった、前のぼく。
 みんなの前では酔っ払えないし、平気なふりをしてグラスをハーレイに渡すことだけで精一杯。周りを見ている余裕なんか無くて、威厳を保って立っていただけ。
 誰が飲み残しのワインなんかを見てたんだろう?
 それに熱い目って、どうして熱い目?
「お前に想いを寄せる女性陣ってヤツだ、惚れてるヤツらは多かったろうが」
 あの飲み残しが貰えたら…、って視線が集中していたぞ。
 貰えたらお前と間接キスだし、そりゃまあ、憧れもするだろうなあ。
 その飲み残しを飲んでいた俺は、彼女たちを敵に………まあ、回してはいないがな。
「薔薇のジャムが似合わないハーレイだしね?」
 キャプテン、お仕事ご苦労様です、としか思われてないよ。
 仕事で飲むよりこっちに下さい、くらいにしかね。
「まったくだ。俺が飲んでも絵にならないから助かったんだ」
 まさか本物のカップルで間接キスだとは誰一人として思わんさ。
 シャングリラ中の誰が眺めても、仕事でソルジャーの飲み残しを片付けるキャプテンだ。
 俺たちが恋人同士だったことは最後まで誰も知らないままで終わったしな。



「今もだけどね?」
 恋人同士だって誰も知らないよ、と、ぼくは微笑んだ。
「パパとママ、全然、気付いてないよ。ハーレイがぼくの恋人だってこと」
「…バレたら俺は叩き出されるか? 山ブドウのジュースでもてなされる代わりに」
「うん、多分…」
 ハーレイは叩き出されてしまうし、ぼくは部屋に閉じ込められちゃうよ。
 抜け出してハーレイに会いに行けないようにされてしまいそうだよ、バレちゃったら。
「今も秘密か…。あの頃から進歩してないわけだな、俺たちは」
「そうかも…」
 シャングリラに居た頃も、今も秘密の恋人同士。
 せっかく平和な地球に来たのに…、とガッカリしかけて、ふと思い出した。
 ちょっぴりだけど前より前進してる。
 まるで秘密ってわけじゃなかった、って気が付いたから。
「ううん、ハーレイ。ちょっとだけ前より進歩してるよ」
「どの辺がだ?」
「ハーレイのお父さんとお母さん! ぼくたちがいつか結婚するって知ってるじゃない!」
「なるほどな…」
 俺の親父とおふくろか。
 確かに楽しみに待ってはいるなあ、俺がお前を連れて来る日を。
「ね、そうでしょ? マーマレードだって無くなる前に貰っているもの、大きな瓶を」
「お前のお父さんとお母さんは全く知らないままなんだがな…」
「いつかビックリしちゃうんだろうね…」
 ぼくがハーレイと結婚するってことになったら。
 腰を抜かすかもしれないけれども、絶対、許して貰わなくっちゃね。
「そうだな、俺も土下座してでもお前を下さいと言わんとなあ…」
 でないと幸せになれんしな?
 今度こそ結婚式を挙げてだ、堂々と幸せになろうじゃないか。



 前のぼくとハーレイにとっては夢でしかなかった結婚式。
 今度はパパとママさえ許してくれれば結婚式を挙げて結婚出来る。
 ハーレイと結婚出来るんだけれど、結婚式っていうのは確か…。
「ねえ、ハーレイ。結婚式にはワインで乾杯するんだよね?」
「そこはシャンパンだな、シャングリラでは作っていなかったがな」
「シャンパンなんだ…。シャンパンは作ってなかったね…」
 白ワインもロゼも無かったシャングリラ。
 ブドウの皮と種とを除いて作るような手間のかかるワインは無理だった。本物のブドウで作ったワインは赤ワインだけで、白ワインとロゼはもちろん合成。シャンパンだって合成だった。
 でも合成ならあったんだよね、と思い出していたら。
「知ってるか? 遠い昔は本物のシャンパンは地球でしか作れなかったんだ」
 それも決まった地域でだけだぞ、SD体制よりも前の時代の話だがな。
「今は?」
「何処の星でも作れるんだが、地球の本物のシャンパンを名乗るヤツだってあるんだぞ」
 SD体制よりも前の時代の、フランスって国のシャンパーニュ地方。
 ずうっと昔は其処で作ったヤツだけが本物のシャンパンだった。
 地球が死の星になっちまった後はシャンパンどころじゃないからなあ…。そういった話も消えてしまったが、今は地球と一緒に文化の方だって復活してる。
 俺たちの住んでる地域が元は日本だったっていうのと同じで、フランスだってあるだろう?
 そのフランスのこの辺りです、っていう地域があるのさ、シャンパーニュがな。
 其処で作ったシャンパンが本物のシャンパンらしいぞ、昔ながらの。



 遥かな昔の製造法まで復活させてきてシャンパンを作っているらしい地域。
 本物の地球産の、本物のシャンパン。
「それって、高い?」
「まあな」
 本当に本物のシャンパンだぞ?
 その辺のワインのようにはいかんさ、前の俺たちの赤ワインには及ばないまでも貴重品だ。
「ハーレイは飲んだことがあるの?」
「友達の結婚式でならな」
「結婚式!」
 いいな、と思ったから口にしてみる。
「ぼくたちの結婚式でも出そうよ、本物のシャンパン! お祝い事だし、出してみたいよ」
「お前、乾杯で酔っ払うぞ?」
「ハーレイに回すよ、昔みたいに」
 今度こそ、うんと堂々と。
 だって、結婚したんだもの。堂々と間接キスでいいもの。
「そうだな、口移しで飲んだってかまわないくらいだしな?」
 お前が口に含んだ分まで引き取ってやろうか、酔っ払わないように?
 みんなが見ている前で堂々とキスだ、お前も酔っ払わなくても済むしな。
「ふふっ、いいかも…」
 飲み残しのグラスを渡して間接キスどころか、堂々とキス。
 ぼくが少しだけ口に含んだ乾杯用のシャンパンを飲み下さなくても、ハーレイが全部引き取って持ってってくれる。
 キスして口移しで、あるだけ全部。
 結婚式に来てくれた人たちが見ている前で堂々とキス。
 それがいいな、と思ってしまった。
 今のぼくがお酒に弱くなくても、全部持ってって欲しいよ、ハーレイ…。



 想像してみただけで幸せ一杯、結婚式が楽しみになった。
 シャングリラには無かった本物のシャンパンで乾杯をして、飲み残しは全部ハーレイに。
 ぼくの口の中に入った分まで、口移しでハーレイが貰ってくれる。
 なんて幸せなんだろう。
 どんなに幸せな結婚式になるんだろう…。
 考えただけでたまらないから、ついつい、ハーレイに強請ってしまった。
「ハーレイ…。せっかくだから久しぶりにキス…」
 いいでしょ、と向かい側に座ったハーレイの所へ行って膝の上に座ったのに。逞しい首に両腕を回しておねだりしたのに、「馬鹿っ!」と頭を小突かれた。
「久しぶりも何も、キスは駄目だと言ってるだろうが!」
「……キスな気分なのに……」
「百年早いっ!」
 さっさと下りろ、と膝から追っ払われてしまった。
 そしてハーレイは「お前にはキスもシャンパンも百年早すぎだ」なんて言っている。
 山ブドウのジュースが丁度いいのだと、赤ワインだって飲めやしないと。



(…どうせ子供で、赤ワインだって飲めないよ!)
 前のぼくがハーレイに飲み残しを渡した赤ワインですらも遠すぎる、ぼく。
 ハーレイとキスも間接キスも出来ないぼく。
(まさか百年は待たなくていいと思うんだけど…)
 思いたいけど、相変わらず全然、背が伸びない、ぼく。
 ハーレイと出会った春から変わらないまま、ぼくの背丈は百五十センチ。
 前のぼくの背丈と同じ百七十センチに育たない限り、ハーレイとキスは出来ない約束。
(神様の血の赤ワインだって飲めないんだけど…)
 赤ワインじゃなくって山ブドウのジュースくらいしか飲めないんだけど。
 山ブドウのジュースにも神様がいるなら、お願いしたいよ。
 ぼくの背が早く伸びますように…って。
 そして早くハーレイと結婚式を挙げて、堂々とキスが出来ますように……。




         ブドウとワイン・了

※シャングリラでは貴重品だった、本物のブドウで作ったワイン。出番は年に一度だけ。
 今は本物のワインが色々、結婚式には本物のシャンパンを使える時代です。
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 ぼくの部屋にある勉強机。宿題を終えて、一段落。
(んーと…)
 夕食までには時間があるから本でも読もうと思うけれども。
 何処で本を広げることにしようか、勉強机か、それとも窓際のテーブルか。どちらも木製。木の温もりが優しい、勉強机とテーブルと。
(えーっと…)
 いつもハーレイと向かい合って座る時のテーブル。大きさの割にどっしりと重い。
 テーブルも、セットになっている椅子も、ぼくの部屋には立派すぎると子供の頃には思ってた。だけど今ではあって良かったと思う、ハーレイと食事も出来るテーブル。
(あっちにしようかな?)
 テーブルもいいけど、ベッドに腰掛けて読むのもいい。コロンと転がって読むのも大好き。
 何処にしようかと考えながら、読みかけの本を手に取ってみたら。
(うーん…)
 なんだか、軽い。
 読んでいた時には丁度良かったけど、もっとずっしりした本が読みたい気分。
 何処で読むかは本次第だよね、と本棚をあちこち眺め回して。
「うん、これ!」
 これがいいや、とシャングリラの写真集を手に取った。
 ハーレイに教えて貰って、パパに強請った豪華版。ハーレイとお揃いの持ち物の一つ。
 こういう重たい本を読むなら、似合う場所は勉強机かテーブル。



(…どっち?)
 ハーレイと二人で使うテーブルか、ハーレイとぼくとの記念写真が入ったフォトフレームのある勉強机か。ハーレイとお揃いのフォトフレームの中、笑顔のハーレイを見るのも大好き。
 だけどハーレイのために在るような椅子とセットのテーブルも捨て難い。ハーレイが座っている方の椅子は、ぼくが座る方よりも座面が少しへこんでる。ハーレイの体重と、何度も膝に乗ってたぼくの体重とでちょっぴりへこんでしまった椅子。
 その椅子を前にして座る時間も好きだから。
(やっぱりハーレイの椅子がある方…)
 テーブルかな、と本棚の前からチラリと視線を投げた所で。
(…あれ?)
 そういえば、前のハーレイの机。
 キャプテン・ハーレイの部屋に置かれていた大きな机。
 テーブルに行って、ぼくの椅子の方に腰掛けて。それから写真集を広げて確認した。
(…木だったよね?)
 うん、と写真集の中のキャプテンの机をまじまじと見た。
 白い羽根ペンが小さく写った、前のハーレイが使っていた机。
 トォニィが手を触れないで大切に残しておいてくれたから、こうして写真を見ることが出来る。シャングリラは無くなってしまったけれども、今でも懐かしく見ることが出来る…。



 前のぼくとハーレイが暮らしたシャングリラ。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 楽園という名の白い鯨の中、キャプテンの部屋に置かれていた本物の木で出来たレトロな机。
 羽根ペンと同じでレトロなアイテム。
 木の机なんかは古めかしい家具で、もっと便利で使いやすい机が色々とあった。持ち運びが楽で傷がつきにくい丈夫なものとか、劣化の心配が要らないものとか。
 シャングリラが名前だけの楽園だった頃、ぼくが人類側からドカンと奪った物資に混じっていた家具の一つだった机。レトロな木製。
 そういった家具とかは皆の希望で分け合っていたけど、木の机は誰も欲しがらなかった。だって木で出来ているんだから。
 今どき珍しいレトロな素材。磨いたり拭いたり、ずいぶんと手間がかかりそう。
 希望者が無いなら倉庫に入れるか、邪魔な物資を増やさないよう処分せねばと思っていたら。
「要らないなら俺が貰っていいか?」
 まだ若かったハーレイが控えめに名乗りを上げた。物資を分け合う時には見ているだけのことが多いハーレイ。一つしか無い品物を欲しいと挙手したことなんか無いし、沢山あっても一番最後。他に誰も希望者は居そうにない、って時しか欲しいと言わないハーレイ。
 そんなハーレイが欲しいと申し出た、一つしか無い木の机。
 どうぞ、と誰一人反対しなかった。
 元々、誰も欲しがってないし、反対する理由なんか無い。
 ハーレイは大喜びで机を貰って、ゼルやヒルマンに手伝って貰って運んで行った。



 名前だけの楽園だった頃でも、ちゃんと個室はあったから。
 輸送船だった船に居住用のスペースは少なかったけれど、あちこち区切って個室を設けて、皆が自分だけの部屋を持っていた。個人で自由に使えるスペース。
 アルタミラの研究所で押し込められていた檻に比べれば天国のような、宮殿みたいな自分だけの部屋。たとえ充分な設備が無くとも、リラックスして過ごせる個人のお城。
 木の机はハーレイが使っていた部屋に運ばれて行って、壁際に据えられて存在感を放っていた。あの頃は内装に手を加えるどころの話ではなくて、壁や床の素材と木とはミスマッチ。
 それでもハーレイは大満足で、暇な時には机をせっせと磨いていた。木製品を手入れするための道具は無いから、古い布でキュッキュッと拭くだけだけれど、それは楽しそうに、嬉しそうに。
 みんなは「変な趣味だ」と思って見ていた。
 ただでも手間がかかりそうな机を手に入れた上に、暇を見付けては手入れだなんて。
 変わった趣味だと皆が言う中、ぼくは変だと思う代わりにハーレイらしいと思ってた。
 誰も欲しがらなかった机を引き取って、大切に手入れしているハーレイ。
 広い心と優しさとを示しているような気がして、素敵だと思った。
 何にでも価値を見出せる人は、心が温かい人だから…。



 殺風景な個室の中。キュッキュッと机を磨くハーレイ。
「磨けば磨くほどに味が出るんだ、この机は」
「そういうものなの?」
 ぼくたちが普通の言葉を交わしていた頃、机の手入れをするハーレイを見ながら話をしていた。まだ背が低くて、今と変わらないほどに小さかったぼく。
 ハーレイの部屋の壁にもたれて、あるいはチョコンと椅子に座って眺めていた。ハーレイは机の上や横の面を大きな手で撫でては、ニコリと笑って。
「なんたって木で出来ているからなあ…。船の中では貴重だぞ、これは」
 船の中でこんな大きな木は育たない、と言われてみればその通りだけれど。
 ぼくにそういう発想は全く無かったから。
「それで貰ったの? 貴重品だから?」
「いや、好きなだけだ」
 なんでだろうな。
 こういうホッとするものが好きだな、味わいがあって。
 成人検査よりも前の記憶は失くしちまったが、ガキの頃から好きだったのかもな。
 でなきゃ、俺を育てた養父母だろう。
 木で出来た古めかしい家具がある家で育ったかもしれんな、すっかり忘れてしまったんだが…。



 机をせっせと磨いていたようなハーレイだから、羽根ペンが来た時も喜んで貰って行った。前のぼくが奪った物資に箱ごとドカンと大量に紛れていた羽根ペン。
 まだシャングリラは自給自足の時代ではなくて、船体の改造の目途すらも立っていなかった時期だったけれど、ハーレイの立場はとうにキャプテン。シャングリラの舵を握るキャプテン。
 ぼくがハーレイの部屋を覗きに行ったら、羽根ペンで日誌を書くのだと言った。
「日誌?」
「キャプテン・ハーレイの航宙日誌だ、俺の日記だ」
 だから秘密の文書なのだ、と日誌を読ませてくれなかったハーレイ。
 まだまだ普通の言葉も交えて二人で話が出来た頃。
 ハーレイがぼくに敬語を使わず、普通に話してくれていた頃。
 もっとも、ハーレイの部屋とぼくの部屋以外では、敬語になり始めていたんだけれど。
 ぼくに「ソルジャー」の肩書きはついていなかったけれど、立場はリーダー。
 物資を奪えるぼくが居なければ生きてゆけないし、万一の時にも戦えやしない。
 リーダーに普通の話し言葉は失礼だから、と誰が言い出したんだろう。気付けばハーレイの言葉さえもが、皆の前では敬語へと変わり始めていた。



 白い鯨が出来上がった頃には、ぼくはソルジャー。
 ハーレイもカッチリと制服を纏ったキャプテンになってしまって、ぼくへの言葉は敬語だけしか出てこない有様だったけれども。
 それでも、ぼくはハーレイが好きで。
 船のみんなに公平に接し、気を配るハーレイがとても大好きで、部屋を訪ねては話していた。
 今から思えば、とっくに恋をしてたんだろう。
 ハーレイの側に居たいと思って、足を運んでいたんだろう。
 あの木の机がしっくりと馴染む内装になったキャプテンの部屋に。
 其処でもハーレイは木の机をキュッキュッと磨いていて。
「また磨いているのかい?」
 昔みたいなボロ布じゃなくて、専用の布で磨くハーレイに声を掛けると、大好きな笑顔。
「この部屋ですしね、磨くだけの甲斐がありますよ」
 内装に良く似合うんです。
 この机も今にもっと重みが出ますよ、何十年かすれば。
「年数を経た机かい? そういう見た目はサイオンで加工してあげられるんだけどね?」
 前のぼくには可能なことで、ごくごく簡単だったから。
 やってあげようと提案したのに、断られた。
「それでは値打ちが無いんです。時間の経過も味わいの内です」
 ゆっくりゆっくり、時間をかけて机を育ててやるんですよ。
 本物の木を苗から育てるみたいに、この机も育ててやりたいんですよ…。



 キャプテン・ハーレイこだわりの木で出来た机。
 前のぼくたちの楽園だったシャングリラの中で、一番の貴重品だったかもしれない机。
 あんな大きな机が作れるような木は、船では育てられなかったから。
(うーん…)
 実はソルジャーよりも貴重な机を使っていたらしい前のハーレイ。
 前のぼくが青の間で使っていた机は、木じゃなくてベッドの枠とかの素材と同じ。
 傷つきにくくて変形もしない素材だけれども、船の中でいくらでも作り出せたもの。ベッドの枠から机や椅子まで、好きな形に仕上げて便利に使えた素材。
 希少価値で言えば木の机の方が断然上で、比較にならないくらいに貴重。
(…キャプテンも偉いけど、ソルジャーの方がずっと偉いのにね?)
 キャプテンでさえ敬語で話さなければならないソルジャー。そのソルジャーも使っていなかった貴重品の机をキャプテンが私物にしていたというのが面白すぎる。
 それは間違っているのではないか、と指摘した仲間はいなかった。
 誰も気付いていなかったのだろう、木の机はとても貴重なのだということに。
 新しい仲間は合成の木だと思っていたかもしれないし…。



(今で言ったら、どんな机だろ?)
 有り得ないほど高価な机。それも木で出来た高価な机。
(…紫檀とか?)
 それとも、黒檀?
 ぼくは木の種類には詳しくないけど、高価な木だったら多分、その辺。
 他にもあるかもしれないけれども、うんと重たくて硬い木だと思う。おまけに地球産の木材で。
(思い切り値段が高そうだよね…)
 最高級の木材は、やっぱり地球産。
 どの木も元々は地球から生まれた植物なのだし、地球で育ったものが一番だって言われてる。
 ぼくたちは地球で暮らしているから輸送費はかかってこないけれども、高い木は高い。早く育つ木から出来た木材は地球産でも高くはないんだけれど…。
(だけど貴重品の机なんだし、材料もうんと貴重でないとね?)
 きっとハーレイのお給料では買えないんじゃないかな、そういう机。
 ハーレイの書斎にも寝室にも机があるのを見たけれど…。
 どっちの机も木だったけれども、あれって貴重な机だろうか?



 どうなんだろう、と写真集を見ながら考えていたら、仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれて。
 パパとママも一緒の夕食の後で、ぼくの部屋で食後のお茶を飲みながら訊いてみた。
「ねえ、ハーレイ。今の机って、うんと高いの?」
「……机?」
「ハーレイの家にある机! …書斎のとか、寝室のとか、高い机なの?」
 勢い込んで尋ねてみたけど、ハーレイは変な顔をして。
「なんでそういう質問になる?」
「前のハーレイのが貴重品だから!」
 シャングリラで一番貴重な机だったよ、ハーレイの机。
 だって船では作れない机だよ、うんと大きな木が無いと作れないんだよ?
 あれと同じくらいに高い机を使っているの、って訊いてるんだよ!
「…あれに匹敵する机だと?」
 ハーレイがポカンと口を開けるから、「うんっ!」とぼくは頷いた。
「あれに負けないくらいの貴重品なの、ハーレイの机?」
「お前なあ…。伝説の宇宙船、シャングリラで一番高級だったかもしれない机と比べてくれるな」
 そんな高いのが買えるか、馬鹿。
 俺の給料では逆立ちしたって買えん机だ、とんでもなさすぎる。
 いいか、伝説の高級品で貴重な机なんだぞ、一介の教師じゃ手も足も出んさ。
「そっか…。前みたいに何処かから奪って来られないしね、そういう机」
「今のお前じゃサイオンで机を奪うどころか…って、犯罪だぞ、それは」
 お前の年なら捕まりはせんが、凄いお説教を食らうだろうな。
 ついでにお前が奪った机をプレゼントされた俺も、派手に大目玉を食らうんだろうな?



 今のハーレイの机は貴重品ではないらしい。
 おまけに前のと同じくらいに貴重な机も買えないらしい。あんなに大切に磨いていたのに…。
「ハーレイ、今度は凄い机は諦めるんだ? …貴重品の机」
「お前が言わなきゃ忘れていたんだ、前の机が貴重品でも当時の俺にはただの木の机だ」
 それに高価な木材も使っちゃいなかっただろう。
 調べたわけではないから断言出来んが、木の机としては平凡な部類だったと思うがな?
「そうだけど…。でも、貴重品の机…」
 凄い机、と諦め切れないのはハーレイじゃなくて、ぼくの方かも。
 ハーレイは「おいおい」と、おどけた表情になって。
「羽根ペンみたいに「持ってほしい」とか言い出すなよ? そんなのを買ったら破産だ、破産」
「……やっぱり?」
「お前の小遣いを全部使って援助して貰っても、机の端っこくらいだな」
 いや、端っこすら買えないかもな。
 木くず程度が限界かもな?



 ぼくのお小遣いでは木くずしか買えない貴重品の机。
 紫檀か黒檀か他の木なのかは分からないけれど、地球産の高価な木材の机。
 ハーレイが買ったら破産だと言うから、きっと一生、お目にかかれそうもないけれど…。
「そういう机を使ってる人、いるんだよね?」
「偉い人は使っているんだろうなあ、俺の知り合いには居ないがな」
「…前のハーレイ、偉かったしね?」
 それで机も貴重品なんだね、今のハーレイなら破産するほどの。
「前のお前も偉かったろうが」
「だけど、前のぼくの机は普通だったよ?」
 シャングリラで一番普通の素材。
 ベッドもテーブルも椅子も作れて、色も形も自由に仕上げられるヤツ。
 ハーレイの机はどんなに頑張ってもシャングリラの中では作れなかったよ、大きな木だもの。
「キャプテンの方がソルジャーよりも貴重品の机を持っていたのか…」
 お前、取り上げるべきだったんじゃないか?
 船ではやっぱり秩序ってヤツが大切だしなあ、ソルジャーよりもキャプテンの方が貴重な物品を持ってるっていうのはマズイだろうが。
「気付いてなかったからいいんじゃない?」
 誰も気付いていなかった上に、ぼくも気付いてなかったよ。ハーレイもでしょ?
 それに木の机、ぼくは欲しいと思わなかったし…。
 ハーレイはとても大事にしてたし、正しい持ち主が持ってたんだよ、あの机。



「ふむ……」
 なるほどな、とハーレイは腕組みをして頷き、微笑んだ。
「大事にするっていう意味では、だ。今の机も気に入ってるぞ?」
 なんてことはない普通のヤツだが、書斎の机も寝室の机も俺は好きだな。
「それじゃ、今でも磨いてるの?」
「前の俺ほどじゃないが、やっぱり磨くな」
 気分転換に磨いていると落ち着くもんだ。
 親父とおふくろが道具の手入れが大好きだからな、その血筋だと思っていたが…。親父は釣竿の手入れが好きだし、おふくろだと昔ながらの砥石ってヤツで包丁を研いでみるとかな。
 血なんだとばかり思い込んでいたが、前の俺の趣味まで入ってたのか…。
「ふふっ、ハーレイはハーレイだもの」
 それで机を磨いた感じは?
 前みたいに味わい、出てきてる?
「そうだな…。家と一緒に買ったヤツだし、かれこれ十五年ほどか。いい感じだが…」
 もっと時代がつかんとな?
 前の俺が使ってた机にはまだまだ届かん、あっちは百年、二百年だぞ。
 うんと頑張って磨かんことには、あの味わいは出ないだろうなあ…。



 あれは実にいい机だった、とハーレイが懐かしそうな瞳をするから。
 今のハーレイが使っている机が同じ味わいを出すようになるには百年、二百年だというから。
「じゃあ、ぼくと結婚した後も磨くんだね?」
「そりゃまあ…。なあ?」
 磨いてやらんと可哀想だろうが、せっかく俺の所に来てくれたのに。
 嫁さんにかまけて放りっぱなしじゃ机が泣くぞ。
「そうかもね…」
「まあ、一番はお前なんだがな。机はあくまで家具に過ぎんし…」
 そうだ、とハーレイはポンと手を打って。
「今度はお前も木で出来た机を使ってるんだし、嫁に来る時に持って来ないか?」
「机って…」
 ぼくはキョトンと目を丸くした。
「勉強机? 勉強机を持ってお嫁に行くの?」
「そっちでもいいが、このテーブル。こいつは俺たちの家に置きたいと思わんか?」
 これだ、とハーレイの褐色の指がテーブルをトントンと軽く叩いた。
「いつもお前と使ってるだろう? こんな風に二人で向かい合ってな」
 俺たちの思い出が山ほど詰まるぞ、結婚出来るまでに。
 今日の机の話も含めて、どのくらいの話をするんだろうなあ、このテーブルで。
 そういうのが全部詰まったテーブル、家にあったら幸せだろうが?



「そっか…」
 ぼくとハーレイが使っているテーブル。
 ハーレイが言うとおり、沢山の思い出が詰まったテーブル。
 今でも沢山詰まってるんだし、もっともっと思い出は増えるだろうから、持って行きたい。
 それと…。
「テーブルを持って行くなら、ハーレイの椅子も持って行く?」
「俺の椅子?」
 怪訝そうな顔のハーレイに「それだよ」と指差してみせた。
「今、ハーレイが座っている椅子。ぼくとハーレイの体重の分かな、こっちの椅子よりもちょっとへこんでるんだよ、ちょっぴりだけど」
 結婚する頃にはもっとへこんでいるかも…。
 だけどハーレイとぼくが何度も一緒に座った椅子だよ、テーブルと一緒に持って行きたいな。
「へこんだ椅子か…。今よりももっとへこみそうな椅子か」
 そいつの座面は張り替えた方がいいんだろうが、だ。
 このテーブルとセットの椅子だし、置いておくとするか。
 俺の分の椅子だけじゃなくて、お前の分もな。
 そうして二人で座ろうじゃないか、今みたいに向かい合わせでな。



 ハーレイがパチンと片目を瞑ってくれたから、ぼくは「うんっ!」と元気に返事した。
 いつかハーレイと結婚する時は、このテーブルと椅子を持って行くんだ。
 ぼくたちの思い出がぎっしり詰まったテーブルと椅子で、ハーレイと二人で向かい合わせで…。
 其処まで考えて気が付いた、ぼく。
 このテーブルと椅子を持って行くなら…。
「ハーレイ。…テーブルと椅子を「持って来ないか」って、ぼくがハーレイの家に行くわけ?」
「ああ。…お前が嫌でないならな」
 俺の家には子供部屋まであるんだぞ?
 いつか嫁さんと暮らせるように、って親父が買ってくれた家なんだ。
 お前が嫁に来てくれるんなら、親父も喜ぶ。
 このテーブルと椅子を持って嫁に来るといい、嫁入り道具はそれだけあれば充分だ。
 でもって二人で磨こうじゃないか、テーブルと机。
「…ぼくの嫁入り道具って、たったそれだけ?」
「なんだ、勉強机も一緒に持って来たいのか? あれも磨くか、俺と一緒に?」
 お前が持って来たいと言うなら何でも持って来てくれていいがな。
 俺も色々と買いたいからな?
 貴重品の机を買えはしないが、俺たちにぴったりのいろんな家具を、だ。
 うんと幸せな家具を揃えよう、お前と二人で。
 前の俺たちが持てなかった分まで、二人分の家具を。
「うん。それもやっぱり全部磨くの?」
「どうだかなあ? …嫁さんを放って家具磨きはなあ…」
 今度は適当でいいんだ、うん。
 こだわりの家具より、うんと美人の嫁さんがいい。
「…ハーレイ、ぼくまで磨かないでよ?」
「いや、磨く!」



 嫌と言うほど磨いてやる、って言われちゃったけれど。
 どうやってぼくを磨くんだろう?
 ハーレイに訊いたら「子供のお前には早すぎるさ」っていう謎の返事が返って来た。
 うんと美人になる方法があるらしいんだけど、何だろう?
 肌が艶々になって、うんと美人に。
(…お風呂でゴシゴシ擦られるのかな?)
 磨くんだからお風呂だよね、と思うけれども、ハーレイは笑って答えない。
 机みたいにキュッキュッと磨かれるのかな、ゴシゴシじゃなくて?
 でもきっと、大切に磨いてくれるだろうから。
 机みたいに大事に磨いてくれるだろうから、任せておこう。
 ハーレイがぼくを磨くんだったら、大丈夫。
 きっと大切に磨いてくれるよ、前のハーレイが大事にしていた机みたいに……。




         木で出来た机・了

※キャプテン・ハーレイが愛用していた木の机。歴史はかなり古かったようです。
 羽根ペンといい、木の机といい、つくづくレトロな趣味ですよね。
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「んーと…」
 ブルーはキッチンの戸棚を覗き込んだ。
 学校から帰って制服を脱いで、おやつのケーキとそれに合う紅茶。母は庭でお隣の奥さんと立ち話中だったから、紅茶くらいは自分で淹れねば。
 何処に行ったかな、と棚のあちこちに目をやって。
「あった…!」
 紅茶の抽出時間を計るための小さな砂時計。母が使っている、お気に入りの品。
 棚から取り出してダイニングへ。それからお湯を沸かして、紅茶の葉を入れたポットに注いで。砂時計をセットし、紅茶が出来上がるのを待っている間、サラサラと落ちる砂を眺める。
 ガラスの容器の中を流れる、粒も見えないほどの細かな砂。
 外に出したなら、風が吹いただけで跡形もなく消えてしまいそうな細かい砂…。



(砂漠の砂って、こんなのかな?)
 細かい砂はとても細かいと聞いているから、どんな風かと思いを馳せた。
 肉眼では一度も見たことの無い砂漠。今の自分も、前の自分も砂漠に立ったことは無かった。
 もっとも、今、住んでいるこの青い地球。
 気候によっては砂漠が広がる地域もあったが、遠い昔にはもっと広範囲だった砂漠。
 前のハーレイが地球に辿り着いた頃には、陸は殆ど砂漠化していたと知っているけれど…。
(その頃の砂漠は、こんな綺麗な砂じゃなかったんだよ、きっと)
 汚染されて死に絶えた地球の砂漠と、蘇った地球の砂漠は全く違うだろう。
 同じ砂でも有害物質を含んで汚れ切った砂粒だったのだろうし、美しく見えるわけもない。
 砂時計に詰めて眺めたいような砂粒であったわけがない。
 サラサラ、サラサラ…。
 音もなく落ちてゆく砂時計の砂。
 木の枠が付いた砂時計。母の好みで砂の色は白。
 砂時計用に着色された砂の色は赤に青にと色々あるけれど、今の青い地球の砂漠なら…。
(いろんな色の砂があるんだよね?)
 赤い砂やら、黄土色やら。黒っぽい砂や茶色の砂だってあるだろう。
 遥かな昔に失われた星、ナスカの砂は赤かったろうか…。



「あ…!」
 つい、うっかり。
 砂漠と砂とを考えていた内に、見とれてしまった砂時計。
 すっかり落ちてしまった砂が流れる様をもう一度見たくて、引っくり返して流れ落ちてゆく砂を眺めてしまった。最後の粒が下に落ちるまで見詰めていたから、二倍もの時間。
 慌ててポットの蓋を開けて覗けば、濃く見える紅茶。
 用意してあったカップに注いでみると、やっぱり濃すぎた。
(失敗だよ…)
 ハーレイに出す紅茶ではなくて良かったと思う。
 母はおかわりをポットで持ってくるけれど、濃くならないよう、茶葉は頃合いを見て引き上げてから運んで来る。薄めるための差し湯の器を置くと、テーブルの上が狭くなるから。
(やっちゃった…)
 濃くなりすぎた紅茶に熱い湯を足して薄めながら、ブルーはしょんぼりと項垂れた。
 まだまだ自分はハーレイのために紅茶を淹れられそうにない。
 抽出時間を教えてくれる砂時計があってさえ失敗してしまう自分。
 ついつい砂時計を眺めてしまっていた自分…。



(でも、ハーレイだって好きそうだよね?)
 砂時計、と気を取り直してケーキを食べながら考える。
 レトロな時計が好きだった前のハーレイ。
 部屋に置いていたアナログの時計。秒針つきの、カチコチと静かに時を刻んだ置時計。
 ゆったりと時間が流れてゆく気がして、ブルーもアナログの時計が好きになった。一分かかって文字盤を一周してゆく秒針。青の間にも置時計を置いて、飽きずに見ていた。
 同じ一分を刻むにしてもこうも違うかと、デジタルの時計よりも味わいがあると。
 ハーレイの方が先に持っていたアナログの時計。
 キャプテンの仕事の反動からか、元々レトロなものが好きだったのか。
 羽根ペンを使っていたくらいだから、ただの趣味だったのかもしれないけれど。シャングリラのキャプテンとしてブリッジで見ていた時計は秒よりも細かい単位の時計。
 目まぐるしく変わってゆく表示に目を凝らし、指示を下すのがキャプテンの仕事。そんな毎日を送っていたなら、のんびりと時を刻む時計を手元に置きたくもなるだろう。
 流石に砂時計は持っていなかったけれど。
 シャングリラに砂時計というものは無かったけれど…。



(砂時計…。作ってみれば良かったかな?)
 抽出時間にこだわりたいほど質の良い紅茶は出来なかったし、時間を計るだけなら専用の道具は色々とあった。タイマーつきの小さなデジタル時計や、厨房で使っていたキッチンタイマーや。
 正確無比な機能を備えたタイマーがあれば、砂時計などは全く不要。
 そんな必要すら感じなかったし、作ろうとさえ思いはしなかったけれど。
 もしも砂時計を作っていたとしたら、きっと子供たちに喜ばれた。
 落ちてゆく砂で時間を計るのは楽しいものだし、流れる砂を見るのも楽しい。
(うん、絶対に喜ばれたよ)
 子供たちにとっては格好のオモチャ。
 砂が完全に落ちてしまえば引っくり返して、また落ちてしまえば引っくり返して…。
 さっき自分がやっていたように、子供たちも砂時計と戯れていたに違いない。
(見せたかったな、小さな子たちに)
 瞳を輝かせて見入る姿が目に浮かぶようだ。
 サラサラと落ちる砂を何度も何度も繰り返し、繰り返し。
(…それとも…)
 もしかしたら、サイオンで砂の流れを止めてしまう子が出て来ただろうか?
 あるいは砂を下から上へと逆流させる子供とか…。



(んーと…)
 自分も逆流させられないかな、とケーキを食べ終えたブルーは挑んでみた。
 吹けば飛ぶように軽い砂粒。
 それを上へと流すくらい、と簡単なように考えたけれども甘かった。力加減が掴めない。上へと上手に流すどころか、容器の中で舞うだけの砂。
 不器用すぎるブルーのサイオンで出来ることといったら、落ちてくる砂を止めるくらいで。
 どんなに頑張って上へ流そうと試みてみても、砂は逆流してくれなかった。
 やるだけ無駄。挑むだけ無駄。
(いいんだよ。時間は逆には流れないんだし!)
 負け惜しみのように考える。下から上へは流れてくれない砂時計。
 けれどハーレイの好きそうな時計。
 今のハーレイの腕時計だってアナログなのだし、砂時計も如何にも好きそうだった。
 もしかして持っているのだろうか?
 秒針つきの時計なんかより、もっとレトロな見た目と機能の砂時計…。



 そんなことをブルーが考えていた日。
 仕事が早く終わったからと、夕食前にハーレイがやって来た。ブルーの両親も一緒の夕食の後、食後のお茶はブルーの部屋で。
 母が運んで来たお茶が紅茶だったから、昼間に眺めた砂時計のことを思い出す。
 これは訊かねば、とブルーはティーカップを傾けているハーレイを見詰めて切り出した。
「ねえ、ハーレイ。砂時計って、持っている?」
「なんだ、いきなり」
 何処から砂時計の話になるのだ、と問い返されて。
「好きそうだな、って思ったから」
 どう? と尋ねるまでもなく。
「おっ、分かるか?」
 あれに限る、とハーレイが笑みを浮かべるから、「ハーレイも?」と驚くブルー。
 この言い方だと、ハーレイも砂時計で時間を計るのだろう。
 コーヒーが好きだと思っていたのに、意外にも紅茶。
 茶葉を計ってポットに入れて、熱いお湯を注いだら砂時計の出番。
 ハーレイが紅茶を楽しんでいたとは知らなかった、とブルーの目は丸くなったのに。



「……カップ麺?」
 なにそれ、とブルーは赤い瞳を更に大きく見開いた。
 けれどハーレイは「カップ麺と言ったらカップ麺しか無いだろうが」とニッコリと笑う。
「お湯を注いで三分間ってのが王道だな。四分とかのヤツもあるがな」
「…それを砂時計で計っているわけ?」
「ああ、なかなかにいいもんだぞ。タイマーとかでは気分が出ない」
 砂が落ちていく間を待つのがいいんだ。
 まだまだだな、とか、もう半分は過ぎたよな、とかな。
 カップ麺が完成に至るまでの時間をじっくり待つには砂時計がいい。
「えーっと…」
 紅茶じゃなくて? とブルーは首を傾げた。
「ハーレイは其処でカップ麺なの、砂時計で?」
「何を計ろうが俺の自由だと思うがな?」
 それに美味いぞ、カップ麺も。
 三分間待って、蓋を開けたら出来上がりってな。



 ハーレイが砂時計で計る時間は紅茶の葉が開く時間ではなくて、カップ麺。
 お湯を注げば出来上がってくる、インスタントの麺だという。
 予想外の答えに目を白黒とさせるブルーに、ハーレイは「どうした?」と微笑みかけた。
「カップ麺、そんなに驚いたのか?」
 あれでなかなか美味いじゃないか。
 たまに食いたくならないか? 軽く、夜食に。
「ぼくは夜食は食べないよ!」
 食べられないよ、とブルーは叫んだ。
 ただでも食が細いのだから、夕食の後に夜食なんかは入らない。
 食後に出てくるお茶はともかく、デザートにケーキでもあるというなら食事の前に予告が必要。でないと食事だけでお腹が一杯になって、デザートが入る余地は無い。
 そんなブルーだから、食べ盛りの友人たちは夜食を食べたりしているけれども経験は皆無。
 食べたいと思ったことすら無いのに、カップ麺を「軽く」夜食にだなんて…。
 そうでなくてもカップ麺など、殆ど食べたことがない。
 嫌いとか不味いだとかいうわけではなく、食べたら最後、普通の食事が食べられないのだ。
 カップ麺といえども麺類なだけに、胃袋にずっしり存在感。食の細いブルーには充分すぎる量。ゆえにカップ麺を食べた経験は数えるほどで、是非食べたいとも思わないのだが…。



「いかんな、立派な食文化なんだぞ」
 ハーレイが腕組みをして難しい顔をするから、ブルーは「えっ?」と訊き返した。
「食文化って…。カップ麺が?」
「ああ。ずうっと昔の、SD体制よりも前の地球でな、この地域が発祥の地なんだ、うん」
 前の俺たちの時代には姿を消していたんだが…。
 出来た頃にはインスタント食品の王者だったんだぞ、カップ麺は。
 湯を注ぐだけでラーメンも出来るし、うどんも出来る。
 非常食としても役立ったそうだぞ、湯さえ沸かせば何処でも食えるし、保存も利くし…。
「…それでハーレイ、カップ麺なんだ? 食文化だから」
「そういうことだ。古典の教師としては押さえたいじゃないか、カップ麺」
 今じゃインスタント食品も色々あるが、だ。
 自分で料理をしないで何か食うならカップ麺だな、レトロな気分に浸れるのがいい。



 うんとクラシックなカップ麺が特に好みだ、とハーレイは言った。
 今風の味付けのカップ麺も買いはするけれど、初期の味わいを再現したものが好きなのだと。
「複雑な味よりシンプルなヤツだな、昔ながらって感じがいいんだ」
 そいつに熱い湯を注ぎ入れてだ、砂時計を置いて三分間待つ。
 実に贅沢な待ち時間だな。
「カップ麺、そんなに贅沢な味なの?」
「待ち時間を砂時計で計るのが、だ」
 さっき言ったろ、出来る過程を砂が示しているようだ、と。
 まだまだ待て、もうちょっと待て、って砂の量が示してくれるんだ。
 あのゆったりとした時間がいい。



 砂時計の砂が計る時間は普通の時計よりもいい、とハーレイは目を細めた。
「前の俺にも欲しかったな、と思うようになってきた今じゃ尚更だ」
「やっぱり欲しい? 前のハーレイも?」
「そりゃなあ…。あの良さを知ってしまうとな?」
 アルテメシアじゃ作れなかったが、ナスカに居た頃なら作れただろうな。
 あそこには細かい砂で覆われた場所もあったしな…。
「赤い砂で作った砂時計?」
 綺麗だね、と瞳を煌めかせたブルーだったけれど。
 ハーレイは「いや」と首を左右に振った。
「砂時計にぴったりの砂はあったが…。ナスカじゃ作りはしなかったろうな」
「なんで?」
 どうして、とブルーには分からない。
「砂時計、欲しいのに、なんで?」
 せっかく丁度いい砂があるのに。
 ナスカの砂で作ればいいのに、どうして「作らない」なんて言うの、ハーレイ?
 あの頃のハーレイは砂時計を欲しいと思っていなかったから要らないだろうけど…。
 今、してるのは「砂時計が欲しい」ハーレイの話だよ?
 欲しいならナスカで作ればいいのに…。



 ブルーには本当に分からなかった。
 砂時計を作るのに適した砂があるというのに、何故ハーレイは作らないのか。
 赤い星、ナスカの砂で作った砂時計。
 如何にもハーレイが好みそうだし、カップ麺はともかく、何かの時間を計ればいいのに。例えばブリッジに行く前のひと時、砂が落ちるのを眺めながらの休憩だとか。
 そう思ったから、ブルーが重ねて尋ねると「だからこそだ」と答えが返った。
「その砂時計を何回分か、と思うじゃないか。…だから作れん」
「何回分って…。何が?」
「お前の時間だ。…前のお前に残された時間だ」
 もし、砂時計を作っていたら。
 引っくり返す度に俺は考えただろう、何回これを引っくり返すことが出来るのか、と。
 お前はいつまで居てくれるのか…、と。
 眠っちまったままで目覚めなくても、居てくれさえすればそれで良かった。
 お前がいつかは居なくなるなんて、それまでの時間を砂時計を引っくり返して計るだなんて…。
 俺には出来ん。
 永遠に引っくり返し続けることが出来るんだったら、砂時計を作る価値はあったんだがな。
 何回そいつを引っくり返しても、お前の命が続くんならな…。



 砂時計で前のブルーの残された時間を計りたくなかった、とハーレイが辛そうな顔をするから。
 ブルーは「そう?」と小首を傾げた。
「砂時計、使い方次第だと思うんだけどな…」
 引っくり返して、時間を計って。
 何回目かで前のぼくの目が覚めるっていう考え方はしないの、ハーレイ?
 寝てるぼくの目が覚めるまでの時間を計るんだったら、少しは価値がありそうだよ?
「お前な…。そうやってお前が目覚めたとして、いつまで俺の側に居るんだ?」
 眠り続けるしかないほどに弱ったお前が目覚めても、其処から時間が減っていくんだ。
 お前が逝っちまうまでのカウントダウンってヤツが始まるだけだろ、違うのか?
「…そっか……」
 ぼくの残り時間は少なかったものね。
 本当だったらアルテメシアで死んでいたっておかしくないほど弱ってたものね。
 ナスカまで生きて辿り着けたのが不思議なくらいに…。



「やっと分かったか」
 だから砂時計なんかは欲しくなかったし、作れない。
 前の俺が「ナスカの砂でなら作れるな」と思ったとしても、作ってはいない。
 お前に残された時間を俺に突き付けるような、そんな砂時計を作りたくはない…。
 幸い、前の俺に砂時計を作ろうという発想だけは無かったんだが。
 無かった分、そいつで時を計ることもしなくて済んだが、結果は同じだ。
 前のお前に残された時間は少なかった上に、目覚めた後の時間はもっと少なかった。
 ろくに話をする間も無かった。
 お前が目覚めて、本当だったら話したいことが山ほどあったというのにな?
 十五年間も眠ったお前が目覚めてからの時間はほんの少しだった。
 少ししかお前の時間は無かった。



 ……そうしてお前は逝っちまった。
 俺が考えもしなかった形で逝っちまったんだ、たった一人で。
 いつ死んだのかも分からないままで、死んだ時間すらも分からないままで…。
「……ごめん……」
 ごめん、と詫びることしか小さなブルーには出来なかった。
 全ては終わってしまったこと。
 遠い遠い昔に終わってしまって、取り返しようもない悲しすぎる過去。
 ハーレイは独りぼっちで取り残されたし、ブルーは独りぼっちで死んだ。最期まで大切に持っていたいと願ったハーレイの温もりを失くし、右手が冷たいと泣きながら死んだ。
 帰りたくても帰れない過去。
 取り戻そうにも戻せない時間。
 砂時計の砂が下から上へは流れないように、過ぎ去った過去に戻れはしない。
 悲しませてしまったハーレイの心を、深く傷ついた心を癒せはしない…。



 ブルーに出来ることは詫びることだけ。「ごめん」と繰り返し詫びることだけ。
 項垂れるブルーの銀色の頭をハーレイの大きな手がポンと叩いた。
「いいさ、お前は此処に居るしな。…お前、戻って来てくれたしな」
 前のお前よりずっと小さいが、お前は戻って来てくれた。
 俺の側に居て「はい」と砂時計を渡してはくれんが、砂が落ちるのを俺の隣で一緒に見ていてはくれんが、お前が居る。
 小さなお前でも、俺と一緒には暮らせんお前でも、ちゃんとお前は此処に居るんだ。
 それを思うと、俺はいい時代に砂時計ってヤツに出会えたわけだな、そう思わないか?
 お前に残された時間を計る代わりに、お前が来るまでの時間を計れる。
 あと何回か引っくり返せば、お前が側に来るわけだしな?
 俺の嫁さんになって側に来るしな。



 だから気にするな、とハーレイは優しい笑みを浮かべた。
 今の自分は幸せな残り時間を計るための砂時計を持っているから、それでいいのだと。
 ブルーと一緒に暮らせる日を迎えるまでに砂時計を何回引っくり返すか、それを楽しみに待てばいいのだと。
「ふむ…。砂時計を何回引っくり返すかってことになったら、食いたくなってきたな」
 今夜はカップ麺を食ってみるかな、久しぶりに。
「ハーレイ、ホントに夜食に食べるんだ?」
 ブルーは思わず目を見開いた。
 さっき両親も一緒に食べた夕食は御馳走ではなくて家庭料理だったけれど、その量はたっぷりとあった筈。身体の大きいハーレイと、ハーレイに負けない長身の父はおかわりもしていた。それを食べた後にカップ麺を夜食にするなんて…。
「悪いか? お前の家の食事が足りなかったわけじゃないんだが、別腹だな」
 夜食は別だ、とハーレイが笑う。
「いずれ、お前も俺に付き合え。ミニサイズのカップ麺しか無理だろうがな」
「ええっ?」
 ぼくも? とブルーは自分を指差したけれど、ハーレイは「うむ」と大きく頷く。
「俺と結婚して一緒に住むなら、夜食も一緒だ」
 お前、青の間に居た頃に俺に出前をさせてただろうが。
 サンドイッチだのフルーツだのと…。あれも一種の夜食だぞ。
「そうかもしれないけど…。カップ麺、食べ切れなかったら、残り、食べてくれる?」
「うーむ…。伸びて冷めちまったカップ麺ってヤツはイマイチなんだが…」
 よし、好き嫌いが無いのが俺の売りだし、食ってやる。
 それに、お前と一緒の食卓だったらきっと美味いさ、伸びていてもな。



 任せておけ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
 帰りにカップ麺を買いに何処かの店に寄ると言うから、ブルーは興味津々で訊いてみた。
「ハーレイ、夜食ってよく食べるの? カップ麺の他にも?」
「まあな。その辺にある材料で適当に作ることが多いが、今日はカップ麺だ」
 砂時計を見たい気分になっちまったからな、幸せな時間を計りにな。
 あと何回ほど引っくり返せばお前が俺の側に来るのか、是非一回は計らんとな?
 一回計れば、一回分、減る。
 お前が来るまでに引っくり返さんといかん回数が一回減るんだ、素晴らしいじゃないか。
「そうかもね…」
 ぼくも砂時計の砂が落ちるのを見たいな、ハーレイと一緒に。
 カップ麺が出来るまでの三分間だよね、その砂時計。
「いつか付き合え、カップ麺ごと。結婚したらな」
 なんたって此処の地域の伝統ある文化だ、二人でカップ麺を食おうじゃないか。
 俺の好みは昔ながらのカップ麺だが、お前は最先端でもいいぞ。
 ああいったヤツは次々に新作が出るからな?
「ぼくもハーレイのお勧めのでいいよ」
「そうなのか?」
「うん。好き嫌いは無いし、どうせだったら思い出の味にしたいもの」
 人気が無かったら消えちゃいそうな新作よりも定番がいいな。
 何十年経っても同じ味のがある方がいいよ。
「ははは、カップ麺で夜食の記念日なんだな? そういうことだな、何年経っても」
「うん。うん、ハーレイ…。何年経っても、二人で夜食を食べるんだよ」
 カップ麺が出来るまでの三分間を計れる砂時計を見ながら、ハーレイと一緒。
 砂時計の砂が落ちてしまっても、ずうっと一緒。
 青い地球の上で二人、いつまでも一緒。
 砂時計を何度も引っくり返して、いつまでも、何処までもハーレイと一緒……。




        砂時計・了

※前のハーレイが好きそうなのに、持っていなかった砂時計。今ではカップ麺用です。
 幸せな時間を計るためなら、砂時計はとても素敵なもの。落ちてゆく砂も。
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