忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

 土曜日の朝、普段通りの朝食の席。父と母と、そしてブルーと。休日だからゆったりと。
 父のマグカップは大きめのもので、母はソーサー無しのティーカップを深くしたようなタイプのカップ。ブルーは一度に沢山飲めないから小さなマグカップ。
 それぞれに決まったカップと、その日によって変わる飲み物とがあるのだけれど。紅茶だったりコーヒーだったり、ミルクだったり。
(そうだ、カップ…)
 何気なく見ていたブルーは、ふと思い出した。ハーレイの家で目にしたマグカップ。
 たった二回しか見ていないけれど、父のカップと同じくらいの大きめサイズのマグカップ。
 一度だけ遊びに出掛けた時にはティータイムと昼食の席で、メギドの悪夢を見て瞬間移動をして飛び込んでしまった時には朝食の席で。
 二回とも同じマグカップだったから、あれがハーレイのお気に入り。
 ハーレイのためのマグカップ。ハーレイの大きな褐色の手によく似合っていたマグカップ。



(…ハーレイの好きそうなカップは分かるんだけどな…)
 それにハーレイは週末の度に訪ねて来てくれるし、仕事の後に訪ねてくれる平日もある。夕食を一緒に食べることは珍しくもなく、ブルーが寝込んでしまった時には両親と食卓を囲んだり。
 家族の一員と言っていいほどのハーレイなのに、ブルーの家にはハーレイ専用のカップは無い。専用のカップは三人分だけで、両親の分とブルーの分。
(やっぱり家族じゃないからだよね?)
 どんなに親しく付き合っていても、ハーレイはブルーの家族ではない。家だってハーレイの家は何ブロックも離れた所に在るし、其処で一人で暮らしている。自分専用のカップと共に。
(…ハーレイのカップ…)
 今は家には無いハーレイのカップ。
 けれどブルーは思い出した。前にハーレイと約束をした。
 いつか結婚して二人で暮らす時が来たなら、お揃いのカップを家に置こうと。互いに相手が家に居なくても、「この家で一緒に暮らしています」と分かる目印になるように。
 家で留守番をしている間に、寂しさを覚えないように。
 二つ揃っているのが当たり前のカップ。文字通りのお揃いのデザインでなくても、二つで一対になるカップ。二人でお茶を飲んだりする時、一緒に出て来る二つのカップ。
 どんなカップがハーレイと二人で囲む食卓やお茶のテーブルに並ぶのだろう?



(もしかしたら、ぼくのカップが追加になるとか?)
 ハーレイの家で暮らすことになったら、元から家にあるハーレイのカップを買い直す必要はないかもしれない。愛用のカップはもうあるのだから、ブルーの分だけを買い足せばいい。
 それともハーレイがブルーの家で一緒に暮らして、ハーレイのために新しくカップを買うか。
(ぼくのカップをハーレイの家に持って行くっていうのもいいよね)
 今、使っている小さなマグカップ。
 それまでに割れて代替わりしてしまっていなければ、だけれど。
 ハーレイが愛用しているカップも、割れていなければ新しく買わなくていいかもしれない。
 どちらの家で暮らすにしたって、絶対に揃えたい二人分のカップ。二つで一対になるカップ。
 それなのに今は、それぞれの家に、それぞれのカップ。
 二つ並べて置きたいけれども、まだ別々に置いておくしかないカップ。
(…ぼくのカップも、ハーレイのカップも、ちゃんとあるのに…)
 そんなことをつらつらと考えながら朝食を食べる。
 今日はトースト、こんがりとキツネ色に焼けたパンにマーマレードをたっぷりと塗って。両親もお気に入りのマーマレードは少しビターで、夏ミカンの実から作られたもの。
 隣町にあるハーレイの実家の庭に大きな夏ミカンの木。その実からマーマレードが沢山出来る。大きな瓶が空になったらハーレイが新しい瓶を持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの味。
 将来、ハーレイが伴侶に迎えるブルーのために、とハーレイの両親が贈ってくれたのが最初。
 それ以来、朝の食卓の定番になって、ブルーのお気に入りの味。お日様の光を集めて閉じ込めたような金色を食べると、すくすくと背丈が伸びそうな気もした。
(早く大きくなれますように…)
 カップは結婚するまで並べられなくても、せめてキスくらいは出来る背丈になりますように、とブルーは祈る。前の自分と同じ背丈になったら、ハーレイとキスが出来るから。



 そうやってトーストを食べながら祈る間に、お揃いのカップのことはすっかり忘れてしまって。
 部屋を掃除してハーレイを待って、庭の生垣の向こうに見えたハーレイに窓から手を振る。母がハーレイを部屋まで案内して来たら、二人きりで過ごせる時間の始まり。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、様々なことを話して、笑って。
 今の生でのこと、前の生のこと。
 シャングリラの中だけが世界の全てだった頃には想像もつかなかった幸せな時間。
 どれだけ話をしても飽きない。他愛ないお喋りも、懐かしく思い出す昔語りも。
 ブルーの部屋で二人で昼食を食べて、食後のお茶に、午後のお茶。
 両親も一緒の夕食の後は、二階のブルーの部屋に戻って食後のお茶を。ハーレイが仕事の帰りに来てくれた時は食後のお茶は夕食と同じテーブルに出てくるけれども、翌日も休みの土曜の夜にはブルーの部屋で、ということも多い。
 向かい合わせでゆっくりと話して、ハーレイが帰る時間になったから。
 ブルーは一緒に階段を下りて、「またね」とハーレイを表まで出て見送った。本当はハーレイの姿が見えなくなるまで通りで手を振っていたいのだけれど、いつも「入れ」と言われてしまう。
 仕方なく門扉を閉めて入って、生垣越しに庭から手を振る。ハーレイの後ろ姿が見えている間は一所懸命、庭の端まで行って手を振る。
 ハーレイは何度も振り返ってくれて、手を振って。最後に大きく手を振って道の向こうへと姿を消した。足音ももう聞こえないけれど、ハーレイが車で来た日には持てない別れのひと時。寂しいけれども、何処か心が温かくなる見送りの時間。
 また次があると、また来てくれると手を振り続ける幸福な時間。
 明日があるかさえも定かでなかったシャングリラでは考えもしなかった幸せな時間。
 今日は土曜日だし、次は直ぐそこ。明日にはハーレイがまた来てくれる…。



 それから二階の部屋に戻って、お茶のカップを下げようとして。
 ブルーの手がトレイを持ったままで止まった。
(…ハーレイのカップ…)
 ほんの少しだけ、底に紅茶の跡が微かに残ったカップ。
 ハーレイの席に置かれたカップ。
 其処にハーレイはもういないけれど、いつもハーレイが座る側の椅子の直ぐ前、テーブルの上に残された紅茶のカップとソーサー。カップの横には砂糖を混ぜていたティースプーン。
 ブルーの席にあるものと形も模様も同じだけれども、ハーレイが使っていたカップ。
(今日はこれがハーレイのカップなんだ…)
 ハーレイ専用のカップではないが、ハーレイのために出されたカップ。つまりは今日のハーレイ専用、ハーレイが食後のお茶を飲むのに使ったカップ。
 ついさっきまでハーレイのものだったカップ。



(ハーレイのカップだったんだよね…)
 トレイを脇に置き、おずおずと右手を伸ばしてカップの取っ手に触れてみた。
 ハーレイの褐色の指が触れていた取っ手。大きな手の温もりを残しているような気がする。
(…そっか、右の手…)
 遠い昔にハーレイの温もりを失くした右の手。
 メギドで冷たく凍えてしまって、悲しくて泣きながら死んでいくしかなかった右の手。
 今でもハーレイがよく温めてくれる右手にほんのり、ハーレイの温もり。
 本当はあるわけが無いのだけれど。
 すっかり空になってしまった磁器のカップの取っ手が温かいわけがないのだけれど。
(…でも、温かい気がするんだよ…)
 そうっと右手で取っ手を摘んで持ち上げてみて、眺めてみて。
(…ハーレイ、これで飲んでたんだよね?)
 母のお気に入りのカップの一つ。
 模様や形が同じカップとお皿を何客か揃えたセットが幾つか、その中の一つ。どの時間にどれを使うかは厳密に決まっているわけではなく、このカップだって午前のお茶に出る時もあれば、今日みたいに一日の終わりに出ることもある。
 白地にグリーンの模様のカップ。
 ハーレイが紅茶を飲んでいたカップ。



(…………)
 あの温かいハーレイの唇が触れたのはこの辺りだろうか?
 今はまだ頬と額にしか貰えないキス。
 優しい唇が紅茶を飲むために触れていたカップ。
(……この辺りだよね、きっと……)
 右手で摘んだ取っ手の位置から、おおよその場所の見当がついた。
 唇で触れてみたかったけれど、そう考えただけで頬が熱くなる。
 ハーレイの唇。
 まだ触れられない、額と頬にしかキスしてくれない唇が触れたハーレイのカップ。
 見れば見るほど、触れたくてたまらなくなるのだけれど。
(…いきなり唇って恥ずかしいよね…)
 まるでハーレイにキスをするようで。
 自分からハーレイにキスをするようで、それはちょっぴり恥ずかしい。
 同じキスならハーレイから先にして欲しい。自分からキスをするなら、その後。
(うん、ハーレイからキスして欲しいよ)
 だったら、カップを間に挟んでのキスもハーレイが先。
 この辺りかな、とハーレイの唇が触れていそうな辺りを指で触って、その指を自分の唇に持っていこうとして。
(………)
 躊躇っていたら、階下から母に呼ばれた。「お片付けはまだ?」と。
「はーい、持ってく!」
 何をしていたかを見抜かれたようで、恥ずかしくて。
 大慌てで二人分のカップをトレイに乗せると急いで階段を下りていったから、指からハーレイの唇の名残りは消えてしまった。
 恐る恐る右手の指先で触れて、唇に持っていこうとしていた磁器のカップの縁の感触。



 母にトレイごとカップを渡して、お風呂に入ってパジャマに着替えて。
 部屋でベッドの縁に腰掛け、ブルーはしょんぼりと項垂れた。
(……失くしちゃったよ……)
 ハーレイの温もりじゃないけれど、とハーレイの唇の名残りを失くした右手を眺める。
 メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった時の悲しみとは比較にならないけれども、失ったことに変わりはない。ハーレイの唇が触れたカップの感触。
(あの時、ママに呼ばれなかったら唇まで持っていけたのに…)
 ハーレイの唇が触った名残りを指先で唇に運べたのに。
 こんな結末になるのだったら、指じゃなくて唇で触っておけばよかった。
(…恥ずかしいけど、でも、やっぱり…)
 ハーレイの唇が触れていたカップ。
 温かな唇が何度も触って、紅茶を飲んでいたティーカップ。
 唇の名残りが欲しかった。
 今はまだ唇には貰えないキス。その代わりに唇の名残りに触れればよかった。
 恥ずかしいなどと躊躇っていないで、唇でカップに触ればよかった…。



 触り損ねてしまったカップ。
 指ではなんとか触ったけれども、ハーレイの唇の名残りはすっかり失くしてしまった。
 自分の唇までそれを運ぶ前に、母に呼ばれて失くしてしまった。
 メギドで失くしたハーレイの温もりに比べれば些細なものでも、今のブルーには充分大きい。
 ハーレイから唇へのキスを貰いたいのに、いつ貰えるかもまるで見当がつかないのだから。
 それを思えば、あのカップ。
 取っ手と縁とに触れてみただけの、白地にグリーンの模様のカップ。
(…いいな、あのカップ…)
 ハーレイに何度もキスして貰えた幸せなカップ。
 まだ唇には触れて貰えない自分の目の前で、何度も何度もハーレイの唇が触れていたカップ。
 もちろんカップは紅茶を人の唇へと運ぶためのもので、カップはそのためにあるのだけれど…。
 頭では分かっているのだけれども、それでもカップが羨ましい。
 ハーレイのキスを貰って当然、唇で触れて貰って当然といった顔をしていたカップが。
(カップに表情も何もないんだけれど…)
 そうは思っても、すまし顔だったような気がするカップ。
 これが自分の役目とばかりに、ハーレイのキスを幾つも貰った白地にグリーンの模様のカップ。
 ブルーは唇へのキスを貰えないのに、ハーレイの唇に触れるのが仕事。
 カップに残った唇の名残りすら、ブルーは失くしてしまったのに。



(…ぼくには何にも残らなかったし、カップもママに洗われちゃった…)
 ハーレイの唇が何度も触れたカップは洗われてしまって多分、棚の中。
 白地にグリーンの模様のカップは何客もあるから、どれがそれだか分かりもしない。ハーレイが使ったカップがどれなのか、どれがブルーの分だったのかも。
(…そうなってくると…)
 ブルーは「ちょっと待って」と考えてみる。
 棚に幾つも母が並べているお気に入りのカップとお皿のセット。その時々の気分やお菓子の種類などから一種類を選んで、お茶の時間や食後のお茶にと登場させているわけだから…。
(ひょっとしたら、明日はぼくの所にハーレイのカップが回って来るとか?)
 白地にグリーンの模様の磁器のカップは、ハーレイがブルーの家で丸一日を過ごす時には大抵、一度は出て来るもの。出て来ない日もたまにあるけれど、母のかなりのお気に入り。
 多分、明日の日曜日も使われるだろう。
 手描きの模様はよくよく見れば微妙に異なる部分もあったが、それこそ比べて見詰めない限りは区別がつかない。今日ハーレイが使ったカップはどれだったのか、と訊かれても模様なんかは見ていなかったから本当にどれだか分からない。
 明日、母があのカップを出して来たなら、ハーレイが何度もキスをしていたカップが自分の所に来るかもしれない。今までにもそういう素敵なカップで紅茶を飲んでいたのかも…。



(…だけど、ぼくには分からないよね…。ハーレイが使ったカップがどれなのか…)
 残留思念を読み取る術は忘れてしまった。
 前の自分はそれを得意としていたけれども、今のブルーにその技は無い。
 それに綺麗に洗って片付けられたカップなどには残っていないものかもしれない。
 知りたくてたまらないのに、ブルーには見付けることが出来ないハーレイが使っていたカップ。そのカップが自分用として目の前に置かれたとしても、気付く術さえ無いカップ。
 そんなカップが幾つもある。
 母が来客用にと出して来るカップの種類と数だけ、ハーレイの唇が触れたかもしれないカップがブルーの家の中に存在している。いろんな模様や形のカップが、それぞれの場所に。
(ハーレイが来る度に、いろんなカップがキスして貰ってるんだよね…)
 まだハーレイのカップは無いから。
 この家にハーレイ専用のカップは置かれていないから…。
 それが出来るまで、ハーレイのキスを貰えるカップは色々。
 母の気分やお菓子の種類に合わせて棚から出されて、ハーレイの前に「どうぞ」と置かれる。
 ハーレイはコーヒーが好きだけれども、ブルーに合わせて紅茶が殆ど。
 だからティーカップはもれなくハーレイのキスを貰える可能性を秘めた幸運なカップ。
 コーヒーのカップだって、そう。
 たまにハーレイのためにと夕食の後で母が淹れるコーヒー。両親も一緒にコーヒーを飲むから、来客用のコーヒーカップ。父と母も普段使っているマグカップではなく、来客用のカップを使う。
 その時々で選ばれるコーヒーカップは違うし、コーヒーカップだって幸運なカップ。
 ハーレイの温かい唇で触れて貰える幸運なカップ…。



(……いいな……)
 ブルーは心底、家にあるカップたちが羨ましくなった。
 両親と自分が普段使いにしているマグカップ以外のカップたちは皆、ハーレイの唇に触れて貰う栄誉に浴する機会があるらしい。
 それがいつかは分からない上に、選ぶ母次第になるのだけれど。
 母に選ばれても、ハーレイの前に置いて貰えるか、ブルーの前に置かれるのかで明暗が分かれてしまうのだけれど、それでもチャンスは巡って来る。
 今日は駄目でも、また次の時に。次が駄目でも、そのまた次に…。
(…待っているだけで、ハーレイがキスしてくれるかもしれないんだよ…)
 小さすぎるからとキスさえして貰えない自分と違って、カップはハーレイに断られない。
 ハーレイの前に置かれさえすれば、温かな唇で触れて貰えてキスが貰える。
 今日が駄目でも、また次の時に。
 待っていればキスを貰えてしまう。ブルーと違って、待っているだけでハーレイのキスを貰えるカップ。「大きくなるまでキスは駄目だ」と言われないで済むカップたち。
(今日が駄目でも、待つだけなんだ…)
 待つという点ではブルーも同じだけれども、ブルーの場合は前の生と同じ背丈に育つまで。何年かかるか考えただけで悲しくなるのに、カップの場合は運の問題。
 母に選ばれて、ハーレイの前に置かれる時だけを待てばいい。
 よほど運の悪いカップでない限り、ブルーほどには待たされないで済むだろう。
 カップが何客セットなのかを考えてみても、運が最悪のカップであってもブルーが唇へのキスを貰うより先にハーレイのキスを貰うのだろうし…。



(…ぼくって、カップに負けちゃってるんだ…)
 運が最悪のカップにも負けるだなんて、と考えた所で思考が別の方へと向いた。
 キスして貰える幸せなカップは、ハーレイが来る度に次々に変わっているのだろうか?
 それとも何度も繰り返し使って貰った幸運なカップがあるのだろうか?
(…絶対に無いとは言い切れないよね?)
 そんなカップがあるのだったら、ちょっと唇で触れたい気もする。
 ハーレイが使った直後のカップは恥ずかしくてとても無理だけれども、綺麗に洗われて棚の中に並んだカップなら。
 その中にハーレイが何度も何度も使ったカップがあるなら、使ってみたい。
 おやつの時間に何気ない風で棚から出して、いつものマグカップの代わりに紅茶を注いで。
 きっとママだって何も言わない。たまには気分を変えたいんだろう、って思うだけ。
 ハーレイが何度も使ったカップに紅茶を注いで、それがぼくのカップ。
 そしてハーレイの唇が触れた辺りに、唇でそっと触れられたなら…。



 そういう夢を思い描いたけれども、肝心のことが分からない。
 ハーレイが何度も繰り返し使ったカップがあるのか、そうでないのかが分からない。
(…ぼくのサイオン、不器用だしね…)
 けれど未練はたっぷりとある。
 ハーレイにキスして貰える幸せなカップ。
 自分が貰えない唇へのキスを当たり前の顔をして貰える幸せなカップ。
(…明日はどのカップが幸せなカップになるんだろう?)
 今日と同じか、別のカップか。
 それともハーレイ専用とばかりに、何度も繰り返し使われている幸運すぎるカップなのか。
 一度でいいから、白地にグリーンの模様の磁器のカップを全部ズラリとテーブルに並べて紅茶を注いで飲んでみようか、とブルーは欲張って考えてみる。
 全部のカップで飲んでみたなら、どれかがきっと幸せなカップ。
 ハーレイの温かな唇が触れた、キスを貰った幸せなカップ。
 何度も繰り返しキスを貰ったカップがあるなら、そのカップから紅茶を飲んでみたいけれど。
 きっと、両親にうんと叱られるだろう。
 おやつの食べ過ぎならばともかく、紅茶の飲み過ぎとは何事なのか、と。
 それ以前に、そんなに沢山飲めない。
 幸せなカップには会いたいけれども、紅茶を山ほど飲むなんて無理。
 だけど会いたい、幸せなカップ。
 ハーレイ専用のカップがもしもあるなら、それで紅茶を飲んでみたいよ…。




        幸せなカップ・了

※ハーレイとの間接キスを狙っていたのに、躊躇っている内に逃したチャンス。
 カップの方がぼくより幸せ、と思うブルーも可愛いですよね、お子様ならでは。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






PR

※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv




シャングリラ号でゴールデンウィークの後半を過ごし、今日から再び授業スタート。連休で弛んだクラスメイトたちはグレイブ先生のお気に召さなくて、1年A組、朝のホームルームから叱られまくり。お蔭で放課後は全員で掃除をする羽目になり…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
遅かったね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。掃除の時間が長引いたために柔道部三人組も部活に行き損ね、私たちと一緒に来ています。
「やあ。たっぷり掃除をして来たようだね」
お疲れ様、と会長さんに労われ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大量の焼きそばを作ってくれて。
「みんな、お腹が空いたでしょ? 庭までお掃除してたもん」
「ああ、すまん。…流石の俺も今日は疲れた」
なんで業者さんの担当区域まで掃除になるんだ、とキース君までが疲れた顔。私たちは焼きそばで体力をチャージし、それから今日のおやつの蜂蜜シフォンをパクパクと。気力が戻って愚痴祭りも終わり、いつものお喋りが始まりましたが…。
「ウチって火渡り、しないんだよねえ?」
ジョミー君の唐突な台詞に全員が「は?」と。
「なんだよ、それ? ウチの学校にはそんなのねえぞ」
サム君が目を剥き、シロエ君が。
「そもそも火渡りって何なんです? もしかして火の上を歩くアレですか?」
「そう、それ、それ! 昨日パパがさ、テレビで見てて…。ジョミーはコレはやらないのか、って訊くんだよ! 璃慕恩院には無いよね、アレ?」
「無いねえ…」
「無いな」
会長さんとキース君が同時に答えて、会長さんがその先を。
「あれは山伏の修行の一つだし、山伏と関係の深い宗派のお寺でないと…。でも火渡りをやりたいんだったら紹介するよ? 精神修養をしたいと言うなら大歓迎さ」
「要らないし! あんなのまで絶対やりたくないから!」
無いんだったら安心だし、と言うジョミー君は未だにお坊さんの修行どころか、会長さんの家での朝のお勤めにも出ていません。精神修養に火渡りなんかをやりたがる筈ないですってば…。



ジョミー君の発言が引き金になって話題は一気に火渡りへ。私もテレビでしか知りませんけど、火の上を裸足で歩くだなんて、火傷したりはしないのでしょうか?
「しないよ、初心者でもきちんと歩けば」
小さな子供でも大丈夫、と会長さん。
「素人さんがやる時は山伏さんが一緒に歩いてくれる。注意を守れば安全だね。あれは焦って走ったりするとマズイんだよ、うん」
「かみお~ん♪ ぼくもやったことある!」
ブルーと一緒に歩いたもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意そう。そっか、会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」もバッチリ体験済みなんだぁ…。
「そりゃあ、修行の一環としてね。璃慕恩院ではやらないけれども、ぼくは恵須出井寺にも行ったから…。あっちの宗派じゃ火渡りもアリさ。よかったら君たちも体験してみる?」
今からだったら此処と此処と…、と場所を挙げ始める会長さんに、ジョミー君が。
「お断りだし! やりたくないって最初に言ったし!」
「そう? 他のみんなは?」
「「「……うーん……」」」
どうだろう、と目と目で見交わし、経験者の「そるじゃぁ・ぶるぅ」をチラチラと見つつ。
「……遠慮しときます」
お坊さんコースは結構です、とシロエ君が返し、サム君が。
「俺、まだ璃慕恩院の方でも一人前になっていねえし…。またの機会ってことにしとくぜ」
「…興味がゼロだとまでは言わんが、他の宗派の行事はマズイな」
もう少し修行を積んでからだ、とキース君も。キース君たちの宗派はお念仏が第一、他の宗派に心動かす事なかれ、という厳しい教えがあるのだそうで。
「勿論、他の宗派も尊重するが…。ブルー並みの境地ならともかく、俺のレベルでは他の教えに転びそうだと看做される。実際、転んだら大惨事だ」
まるで前例が無いわけではない、と語るキース君によると、お寺の息子さんが別の宗派のお坊さんになってしまうケースもあるそうです。それだけにウッカリ火渡りをしてハマるとマズイ、と思うらしくて。
「残念だが、今は遠慮しておく。だが、他のヤツがやるなら見学は行くぞ」
「いえ、ぼくも今回はパスしておきます」
みんなやらないようですし、とマツカ君が逃げ、スウェナちゃんと私も断りました。会長さんはガッカリしたようですけど、他を当たって下さいよ~!



「面白いんだけどねえ、火渡り…」
本当に誰もやらないのかい、と会長さんは未練たらたら。そんなに言うなら「そるじゃぁ・ぶるぅ」と行けばいいじゃないか、と思うのですけど、初心者にやらせてなんぼだそうで。
「あんなの出来るわけがない、と逃げ腰な人がおっかなびっくり足を踏み出すのが醍醐味なんだよ。君たちだったらピッタリなのに…」
「それじゃ教頭先生は?」
初心者だよね、とジョミー君。おおっ、自分が逃げるためなら教頭先生を売りますか! でも…教頭先生、初心者でしょうか?
「ハーレイかぁ…。確かに誘ったことは無いねえ…」
「じゃあ、教頭先生でいいじゃない! ぼくも応援に行くからさ」
教頭先生なら絵になると思う、とジョミー君が言い出し、私たちも賛成しました。火渡り自体は興味深いですし、教頭先生が参加なさるのだったら是非とも見学したいです。
「…ハーレイねえ…。悪くはないけど後がマズそう」
お寺に迷惑がかかりそうだ、と会長さん。えっ、なんで?」
「火傷だよ。…普通は絶対火傷しないけど、雑念だらけだと危険なわけ。そしてハーレイを連れてった場合、頭の中はもれなく妄想。男を上げてぼくのハートを射止めようとか、そういう系で」
「「「あー……」」」
それはありそう、と容易に想像がつきました。そんな理由で火傷されても責任はお寺に行くでしょう。次から火渡り禁止になったら謝って済む問題では無く。
「…だからハーレイには無理ってね。妄想まみれの男に修行は向かない。ぼくが主催の火渡りだったら、救護班設置で火渡り三昧させるんだけどさ…」
モノが宗教行事なだけに妄想男を担ぎ出すための開催はちょっと、と残念そうな会長さん。
「ぼくが銀青でさえなければねえ…。いわゆるヒラの坊主だったら娯楽のための火渡り大会もアリなんだけども」
運動会の感覚で…、と溜息をついた会長さんは諦め切れないみたいです。とはいえ、火渡りは宗教行事。ヒラのお坊さんならキース君ですが、他の宗派の行事には参加出来ないと言っている以上、主催どころじゃないですし…。
「うーん…。何か無いかな、妄想ハーレイを追い込む方法…」
火渡りでなくてもいいんだけれど、と腕組みをして考え込んでいる会長さんは既に思考がズレていました。教頭先生を苛め倒して遊びたい、という目的が見え見えです。これはロクでもないことになりそう、と戦々恐々として見守っていると。
「そうだ、アレ!」
アレが使える、と赤い瞳に悪戯っぽい煌めきが。何か閃いちゃいました…?



「火の反対は水なんだよ、うん。でもって集中力が大切!」
人差し指を立てる会長さんに、キース君がすかさず突っ込みを。
「教頭先生は古式泳法の達人でいらっしゃるんだぞ? そう簡単にはいかんと思うが」
「…水泳ならね」
違うんだな、と会長さんはニヤニヤと。
「前にニュースで見たんだよ。外国のイベントで、プールの上に斜めになった柱が突き出してるわけ。その先っぽに旗がついてて、柱を駆け登って行ってそれを取ったら優勝ってヤツ」
「「「???」」」
簡単そうに聞こえますけど、傾斜が半端じゃないのでしょうか? それとも水面からの高さが凄くて、グレイブ先生みたいに高所恐怖症の人だと登るどころじゃなかったり…?
「傾斜の方は普通かな。高さの方は、まあ、そこそこ…。高飛び込みの台くらいだしね」
でも問題は其処じゃない、と会長さん。
「その棒、たっぷりと油が塗ってあるんだよ。歩いても滑る、走っても滑る。滑ったら最後プールにドボンで失格なオチ」
「あんた、教頭先生にやらせるつもりか!?」
もしかしなくても一人参加か、と噛み付くキース君に、会長さんは。
「ハーレイが一人じゃ可哀相なら、君もやる? 他にも参加希望者がいればハードルを低くしてもいい。…プールにカミツキガメを放すコースは諦めるさ」
「「「カミツキガメ?!」」」
「うん。ただドボンだけじゃ面白くないし、火傷の代わりにガブリガブリと…。ハーレイは防御に優れたタイプ・グリーンだ、カミツキガメでも怪我はしないよ」
外すのに苦労するだけで…、とクスクス笑う会長さん。
「顎の力が凄いらしいね、カミツキガメは。でもハーレイの馬鹿力なら剥がすのも案外、簡単かもだし…。どうかな、誰か参加する? それならカミツキガメはやめておくけど」
「…お、俺は謹んで遠慮させて貰う」
カミツキガメがいなくてもな、とキース君が逃げ、他の男の子たちも大却下。スウェナちゃんと私が参加する筈もなく、教頭先生の一人参加が決定で。
「いいねえ、計画どおりってね。一人参加だからドボンした時はやり直しのチャンスを認めよう。カミツキガメのプールから脱出するには蜘蛛の糸! ギャラリーな君たちの人数分を用意するけど、エロい考えを起こしたが最後、プツンと切れてドボンといくわけ」
いろんな意味で集中力が欠かせないよね、と会長さんの瞳が輝いています。これって火渡りよりも大変なんじゃないですか? 油を塗った棒とか、カミツキガメとか…。



ウキウキと火渡りならぬ水渡りもどきのプランを練っている会長さん。仲間が経営しているフィットネスクラブの飛び込み用のプールを貸し切り、柱をセットするつもりです。教頭先生を呼び出す方法もバッチリだそうで。
「頑張って旗をゲット出来たら、ぼくからキスのプレゼントってね。単なる祝福のキスってヤツでさ、頬っぺたにチュッとやるだけだけど…。ハーレイはそうは思わない。思いっ切りのディープキスを夢見て、釣られてノコノコ出て来るわけだよ」
そして滑ってプールに落ちたら蜘蛛の糸、とニヤニヤニヤ。
「エロいことを考えたら切れると分かっていてもね、御褒美がぼくのキスだろう? プツンと切れるのは間違いないさ。人数分の蜘蛛の糸を無駄にしちゃうか、心頭滅却して這い上がるか。火渡りよりも遙かにスリリングな精神修養の世界だってば」
火傷代わりのカミツキガメも控えているし、と会長さんは壁のカレンダーを眺め、吉日を選び出しました。フィットネスクラブに連絡をして臨時休業の約束を取り付け、決定した日は来週の土曜日。それまでに教頭先生を釣り上げ、柱なんかも用意して…。
「いいねえ、ぼくも見学していい?」
「「「!!?」」」
誰だ、とバッと振り返った先に会長さんのそっくりさんが。スタスタと部屋を横切り、ソファに腰掛けて蜂蜜シフォンを御注文。
「ハーレイが精神修養だって? 面白そうだし、見たいんだけど」
「…止めないけどさ…」
ハーレイの苦労は増えそうだねえ、と会長さん。
「君がハーレイにエールを送ると、蜘蛛の糸がプツプツ切れまくりそうで」
「その蜘蛛の糸! どんなシステムにするつもりなわけ?」
「タコ糸をサイオンで強化して柱から垂らしておこうかなぁ、と思ってる」
落っこちた場所にサイオンで結び付けて、という会長さんの答えに、ソルジャーは。
「それじゃイマイチ面白くないよ。蜘蛛の糸ってアレだろ、誰だったっけ…。偉い人が天国から垂らしてくれるんだろう?」
「お釈迦様だよ、それに天国じゃなくって極楽!」
間違えるな、と会長さんは苦い顔ですが、ソルジャーはまるで気にせずに。
「そうだっけ? 何でもいいけど、そのオシャカ様? それの係をぼくがやりたい!」
「「「は?」」」
お釈迦様の役を希望とは、これ如何に? ソルジャーは何をやりたいと?



降ってわいたソルジャーですけど、蜂蜜シフォンをフォークで切って頬張りながらニコニコと。
「エロい考えを起こしたら切れるって言っていたよね、蜘蛛の糸! 単に柱に結んであるんじゃエロい考えになりにくいから精神修養になってない。君そっくりのぼくが糸を握って垂らしていたとしたら、どうなると思う?」
「そ、それは……。結んだパターンよりも厳しいかと…」
「だろう? おまけに励ましの言葉も付ければバッチリだよね」
糸はプツンと切れまくり、と微笑むソルジャー。
「ぼくは基本的にはハーレイを応援してるんだけど…。君と結婚してくれたらなぁ、と思ってるけど、それには精神修養ってヤツも必要なのかもしれないしね。さっき話してた火渡りだっけ? それも出来ないような男に君が惚れるとは思えない」
「うん、有り得ない」
銀青としては認められない、とキッパリ言い切る会長さん。ソルジャーは深く頷いて。
「そうだろうねえ、だからハーレイには精神力をつけて欲しいんだ。ぼくが絡んでも見事に旗をゲット出来たら、少しは株が上がりそうだし」
「…まあ、少しはね…」
ほんの少しね、と嫌々といった感じの会長さんですが、ソルジャーの方は御機嫌で。
「やっぱり株が上がるんだ? それじゃ大いに励まさなくっちゃ! ぼくの蜘蛛の糸の誘惑に負けず、エロい考えを封じまくって立派にゴールインするんだよ、って!」
それでこそハーレイの男が上がる、とブチ上げたソルジャー、蜘蛛の糸なタコ糸を垂らす係を会長さんから任命されることに。
「…どんなエールを送るつもりか知らないけどねえ、ハーレイの苦難が増えるんだったら大歓迎! あ、ズルをしてハーレイを助けるパターンは無しだよ?」
「心配しなくても今回は無し! ハーレイの男を下げるだけだし」
頑張りまくって自力でクリア出来てこそ、とソルジャーは会長さんに約束しました。お助けアイテムな蜘蛛の糸はソルジャーのせいで切れ易くなってしまいそうですが、教頭先生、大丈夫かな…。
「さあねえ? ぼくは最初からハーレイで遊ぶつもりだったしね」
ブルーのお蔭で楽しさ倍増、と会長さんは教頭先生を呼び出すための手紙の文面を考えています。曰く、君の本気を見てみたいだとか、精神修養で男を上げた君にキスを贈ろうとか…。
「そこはさ、もう一歩突っ込んで! キスの先まで行きたい気持ちにさせてくれるのを期待していると書いとくべきだよ」
「その案、採用!」
乗った、と会長さんの唇に悪魔の笑みが。ソルジャーの参加でハードルは上がりまくりです。教頭先生、来週の土曜日は受難の日になるんじゃないですかねえ…。



火渡りに端を発した水渡りもどき。教頭先生は会長さんの手紙にアッサリと釣られ、次の週の土曜日、私たちが待ち受けるフィットネスクラブにやって来ました。
「来たね、ハーレイ。敵前逃亡しなかったんだ?」
まだ今からでも逃げられるけど、と笑みを浮かべる会長さんですが。
「いや、逃げるような真似はせん。要は精神修養だろう? 水渡りだったか…。初耳だが」
頑張るまでだ、と胸を叩いた教頭先生はイベントの内容を全く知らされていませんでした。手紙で指示されたとおり水着持参でいらしただけで、油を塗った柱のこともカミツキガメも、蜘蛛の糸も何も御存知無くて。
「いい覚悟だねえ…。それじゃ後悔しないようにね」
まずは水着に着替えて来て、と言われた教頭先生、更衣室へと向かわれました。颯爽と戻って来られた時にはキリリと赤い褌が。その姿にソルジャーが見惚れています。
「カッコイイねえ、赤褌! ぼくのハーレイだと締めても披露する場所が無くてさ」
「あ、ありがとうございます…。精神修養と聞いたからには、やはり褌だと思いまして」
締めると気持ちが引き締まるので、と教頭先生。そのやり取りを聞いていた会長さんがクスッと笑って。
「緊褌一番って所かい? それじゃルールを説明するから会場の方へ」
こっち、と先頭に立ってプールに向かう会長さん。フィットネスクラブは臨時休業の名目で本日貸し切り、すれ違う人は誰もいません。重いドアを開けて入ったプールには競泳用の大きなプールと、飛び込み用の深いプールが。
「ハーレイ、水渡りは向こうのプールになるんだ。あそこに柱が見えるだろう?」
上の方だよ、と会長さんが指差す先に、飛び込み台の代わりに取り付けられた平均台より少し太いくらいの四角い柱が。長さ六メートルくらいでしょうか、急な坂レベルの傾斜付き。
「あの柱をね、駆け登って先に付けてある白い旗を取ってくればいい」
「…それだけか?」
「そう、それだけ。ただし柱には油が塗ってあるから滑るよ? 滑ったらプールにドボンとね」
「なるほど…。それで水渡りなのか」
気を付けて行こう、と顔を引き締める教頭先生に、会長さんは。
「火渡りの方は知っているよね? 雑念があるとペースが乱れて火傷する。水渡りも同じさ、精神統一が出来ていないと滑りやすい。そして落ちたら噛み付かれるから」
「は?」
「カミツキガメだよ。タイプ・グリーンの力があるから怪我はしない筈!」
でも噛まれたら剥がれないんだよね、と会長さん。教頭先生、プールを覗いて真っ青ですよ…。



「…ブ、ブルー…。大きな亀がウジャウジャいるのだが…」
アレがそうか、と震える声の教頭先生の後ろからプールを覗き込んだ私たちも息を飲みました。甲羅の長さが五十センチはありそうな亀が無数に泳いでいます。全部カミツキガメですか?
「うん、あれがカミツキガメだけど? 攻撃されると噛むらしいんだよ」
君が落ちて来たら攻撃と見なして噛むだろうねえ、と可笑しそうに笑う会長さん。
「でもね、落ちたら終わりってコトじゃないんだな。此処で見ているギャラリーの人数分だけ蜘蛛の糸がある」
「蜘蛛の糸だと?」
「そのまんまの意味さ、キースたち七人グループに因んで七本の糸を用意した。お釈迦様の役目はブルーが引き受けてくれてるんでね、ブルーが垂らした糸を掴んでプールから柱まで攀じ登ればいい。…ただし!」
この先が肝心で…、と会長さんは指を一本立てました。
「昔話の蜘蛛の糸ってヤツは自分のことしか考えなかった罰でプツンと切れるよね? 君を助ける糸も同じさ。精神修養だってことを忘れてエロい考えを起こした途端にプッツンだ。ぼくとブルーが君の心を監視する。エロさを感じたら容赦なく切る!」
カミツキガメの上に落っこちてしまえ、と言われて顔面蒼白の教頭先生。
「…そ、そんな…。で、では、私は……」
「えっ、簡単なことだろう? 精神統一して駆け登って行けば旗を取るのは簡単だ。運悪く滑っても蜘蛛の糸がある。それも七本! これだけのフォローがあっても水渡りが成功しないようなら、最初から望みは無いんだよ。ぼくのキスなんて夢のまた夢」
今すぐ棄権も認めるけれど、と会長さんが最後のチャンスをチラつかせましたが。
「い、いや…! 私も男だ、此処まで来たのに逃げるわけには…。あの旗を取って水渡りを成功させるまでだ!」
拳を握り締める教頭先生。覚悟のほどは御立派ですけど、どうなったって知りませんよ? 会長さんもフンと鼻を鳴らして。
「そこまで言うなら頑張りたまえ。いいね、集中力が大切! 旗を取ることだけを考えるんだね、そうすれば自然と道は開ける。精神修養とはそういうものさ」
火渡りも水渡りも心頭滅却! と発破をかけられ、教頭先生は飛び込み台へと向かわれました。決意も固く登ってゆかれて、いざ、柱へと。平均台より少し太いだけの幅な上に油で滑りますから、気合を入れて一気に走って下さいね~!



何回か大きく深呼吸をして、ダッと駆け出した教頭先生。一歩目からツルッと滑りましたが、両手を広げてバタバタと必死にバランスを取って二歩、三歩。あらら、走れるものなんだ…。
「へえ…。なかなかやるねえ、こっちのハーレイ」
ぼくの出番は無かったりして、とソルジャーが感心した途端にツルリと踏み出した足が宙に浮き。
「「「あーーーっ!!!」」」
二メートルくらい駆け登っていた教頭先生、体勢を崩して真っ逆さまにプールへと。ドッパーン! と派手な水飛沫が上がり、続いてバシャバシャと激しい水音。
「た、助けてくれーっ!!」
亀が、亀が、と浮かび上がった水面で手を振り回している教頭先生。カミツキガメが丈夫な顎で身体のあちこちに噛み付いています。会長さんがプールサイドで声を張り上げて。
「亀のフォローはしてないんだよ! まず剥がしてから救助要請! そしたら蜘蛛の糸!」
「な、なんだって!?」
「タイプ・グリーンなんだし、平気だろ? とにかく剥がす!」
君の馬鹿力で、と会長さんが叫び、教頭先生は懸命に姿勢を保ちながらカミツキガメに立ち向かいました。指くらいなら噛み切る力があるそうですから口を開けさせるのも簡単ではなく…。おおっ、拳を振り上げていらっしゃいます、ここは一発、殴るんですね?
「バーカ」
会長さんが小馬鹿にした口調で言い放つなり、大声で。
「総員、退避ーーーっ!!!」
「「「えっ?」」」
事情を飲み込む前に張られたシールド。ソルジャーまでが会長さんのシールドに包まれ、目を白黒とさせています。
「なっ、何?! 何があったわけ?」
「最後っ屁!」
会長さんの言葉と指差す方向。プールの中では苦悶の表情の教頭先生がカミツキガメと戦っています。顔が思い切り歪んでますけど、最後っ屁って何のことですか?
「カミツキガメはね、危険を感じると足の付け根から悪臭を出す習性があるんだな。ハーレイがガツンと殴っただろう? あれで最後っ屁をかましたわけさ」
当分シールドを解きたくはない、と会長さんが言い終える前に再び最後っ屁が放たれた模様。群がる亀を引き剥がすまでにオナラを何発食らわされるのか、あまり数えたくなかったり…。



鼻が曲がるほどに臭くて凄まじいらしいカミツキガメの最後っ屁。散々にやられた教頭先生はズタボロでしたが、お身体の方に怪我は無く。
「…か、亀はなんとか剥がしたぞ…!」
今の間に引き上げてくれ、と仰向けに浮いていらっしゃる教頭先生。攻撃されなければ噛まないというカミツキガメは周囲にウヨウヨいるのですけど…。
「えーっと、行ってもいいのかな? まだ臭そう?」
だったら一応シールドを、とソルジャーが尋ね、会長さんが。
「もう散ってると思うけど…。換気を強めにしておいたから」
「じゃあ、行ってくる。蜘蛛の糸、まずは一本目だね」
トン、とプールサイドを蹴って飛んだソルジャー、棒の上の宙にフワリと浮いて。
「ハーレイ、聞こえる? 今から糸を垂らすから! これに掴まって登ってきたまえ」
蜘蛛の糸だよ、とソルジャーの手から白いタコ糸が。ええ、文字通りのタコ糸です。スルスルと伸びて教頭先生の前まで降りて来たものの、教頭先生、心許ない表情で。
「…い、糸か…。これは本当に切れないのか?」
「疑ってると切れるかもねえ?」
君は信心が足りなさすぎだ、と会長さん。
「救いの糸だよ、信じて登る! そしたら足を滑らせた場所までちゃんと登っていけるから!」
「わ、分かった、登ればいいのだな?」
お前の言葉を信じよう、とタコ糸を掴んだ教頭先生の腕に筋肉がググッと盛り上がりました。ソルジャーが垂らす糸を頼りに腕を伸ばしてグンと攀じ登り、もう一方の腕を上へと。
「すげえや、糸でも登れるのかよ!」
揺れていねえぜ、とサム君が感心すれば、会長さんが。
「サイオンで強化してあるからねえ、糸でも強度はロープ以上さ。揺れの方はブルーが抑えてる。エロい妄想をしたならともかく、揺れてドボンじゃ気の毒だ…ってね」
「ほほう…。あいつらしいな」
惚れた相手には手加減するのか、というキース君の台詞に、会長さんの訂正が。
「惚れていないよ、ハーレイにはね。自分の伴侶と同じ顔には手加減する、の間違いだってば!」
「そうだった…。同じ顔だというだけだったな」
間違えた、とキース君が苦笑した所へソルジャーからの思念波が。
『ブルー、どうする? もう少しで君のキスをゲットだ、ってハーレイの心が零れてるけど』
「ぼくのキス!? その発想はエロいって!」
ぶった切れ、と会長さんが指示を飛ばして、蜘蛛の糸はそこでプッツンと。半分ほど登った教頭先生、カミツキガメが群れるプールへと落下してゆかれたのでした…。



せっかくの救いの糸をフイにしてしまわれた教頭先生。落ちたプールでカミツキガメに噛まれ、最後っ屁をかまされまくった末に二本目の糸をゲットし、今度は無事に棒の上まで。ソルジャーに励まされて「頑張ります!」と駆け出したものの…。
「また落ちたか…」
でも半分までは行ったのか、と会長さん。教頭先生はプールの中でカミツキガメに囲まれ、容赦なく最後っ屁を食らっています。とはいえ、既に半分まで走ったからには残り半分、行けないことはないのかも…。
「まあね。体力さえ持てば残り半分をクリアすることは出来るだろう。蜘蛛の糸も五本も残っているし…。ただね、ゴールに近づけば近づくほど、妄想も入りやすくなる」
その妄想を追い出せてこその水渡りだ、と会長さんは冷ややかな目で。
「どう思う、ブルー? ハーレイは最後まで行けそうかな?」
「うーん、どうだろ…。ぼくのハーレイと似てるんだったら、詰めは非常に甘そうだ。最後の最後でツルッと滑ってドボンと落ちてしまいそうだよ」
「やっぱりねえ…。まあ、仮に成功したとしてもさ、祝福のキスしか無いわけだけど」
そうとも知らずに頑張ってるねえ、とプールを眺める会長さん。
「その先のことを期待したくなるように努力しろ、と書いておいたから妄想だけは山ほどある筈! ゴールが近くなれば自然と気分がそっちの方に」
「だろうね。そして心が乱れて滑って落ちるか、蜘蛛の糸をプツンと切られるか。ぼくとしては妄想にしっかり蓋をしといてゴールインして欲しいけど…」
ちょっと無理かな、と首を振り振り、ソルジャーは亀を引き剥がした教頭先生のために蜘蛛の糸を垂らしに出掛けました。さっきみたいに登り切れるか、一度目のように切られるか。ハラハラしながら見守っていると、会長さんへのお伺いもなく糸がいきなりプッツンと…。
「うわぁーーーっ!!!」
野太い悲鳴と共に教頭先生はプールにドボン。カミツキガメは「落ちて来るものは敵」と学習したらしく、噛み付くと同時に最後っ屁までもお見舞いしている模様です。教頭先生、まさに踏んだり蹴ったりですけど、ソルジャーはどうして糸を切ったの?
「え、聞くまでもなかったからね」
スイッとプールサイドに下りて来たソルジャーが蜘蛛の糸を持っていた右手をヒラヒラと。
「せっせと無心で登る間に蜘蛛の糸の話を思い出したらしい。極楽から垂らされた糸だったな、と考える内に頭の中が理想の蓮に…ね」
「「「は?」」」
「アレだよ、ぼくの理想の蓮! キースにお願いしてあるヤツさ」
阿弥陀様から遠い場所に在ってハーレイの肌の色が映えるヤツ、と言われて浮かんだソルジャー夫妻の夢の極楽。来世はそういう蓮に生まれてヤリまくるのが夢でしたっけ…。



「…君の蓮の花を連想したのか…。それじゃ水渡りは絶望的かな?」
蜘蛛の糸はこの先プツンプツンと切れまくり、と会長さんが嘲笑い、ソルジャーが。
「そうなりそうだね、ぼくも手加減する気は無いし。…残り四本だったっけ? 無我の境地で登り切れるのが何本あるか…。そして最後に登り切った場所が旗の近くかどうかって所が運なのかな」
もしかしたら根性で腕を伸ばして旗を取るかも、と僅かな可能性に賭けるソルジャー。けれど蜘蛛の糸を垂らす係がソルジャーであり、そのソルジャーが理想の蓮を常に夢見ているとなっては…。
「絶望だよな?」
まず無理だよな、と油を塗った棒を見上げるサム君。
「あと半分も残ってるしよ…。糸の数だけでいけば無理とも言い切れねえけどよ」
「カミツキガメで消耗する分もあるしね…」
噛むし、おまけに最後っ屁だし、とジョミー君が肩を震わせています。
「ぼくだったらとっくにギブアップだってば、水渡りなんて…」
それくらいなら火渡りでいい、とお坊さん嫌いのジョミー君が言い出すくらいにカミツキガメは強烈でした。泳ぎも力も並みの人より優れている筈の教頭先生でさえ、脱出までにかなりの時間がかかるのです。おまけに臭いと来た日には…。
「まさに地獄というヤツか…。蜘蛛の糸は地獄に仏なんだが…」
それを活用出来るかどうかが勝負だな、とキース君が言い、マツカ君が。
「教頭先生ならこの逆境を乗り越えられると思いたいですけど…。どうでしょう…」
「賭けますか?」
ちょっと不謹慎ではありますけれど、というシロエ君の提案に賛同する人はいませんでした。教頭先生が旗をゲット出来る可能性は限りなくゼロに近そうです。そっちに賭けて当たった場合は大穴ですけど、負ける可能性の方が遙かに高いわけでして…。
「ブルー、君はハーレイに賭けてあげないのかい?」
男を上げて欲しいんだろう、と会長さんがソルジャーに水を向けましたが。
「嫌だよ、ぼくは確実に勝てる戦いしかしたくないんだ。負けるなんてこと、たとえ賭けでも縁起が悪い。それに不正は厳禁だよね?」
ハーレイのエロい妄想を見逃したりしちゃダメなんだろう、と尋ねられた会長さんがコックリと。
「当たり前! 君の役目は蜘蛛の糸を厳しく管理すること!」
いくらハーレイに肩入れしたって不正は厳禁、と会長さん。教頭先生をカミツキガメのプールから救える蜘蛛の糸を垂らすソルジャーの夢は理想の蓮。それに気付いた教頭先生、もう地獄へと真っ逆さまに落ちまくるしかないですってば…。



頑張るだけ無駄と思われた教頭先生だったのですけれど。大量のカミツキガメに噛まれまくって最後っ屁を山ほど浴びせられたことが結果的には良かったらしく。
「かみお~ん♪ 凄い、凄いよ、登ってるー!」
今までで一番速いよね、と感激している「そるじゃぁ・ぶるぅ」。最後に残った七本目の蜘蛛の糸を教頭先生はグイグイ攀じ登っていました。腕に加えて足の力もMAXです。赤褌だけを締めた身体に盛り上がる筋肉、そして無我の境地。
『…うーん、登ることしか考えてないや…』
頭の中は亀地獄からの脱出だけ、と蜘蛛の糸を垂らしているソルジャーの思念。頭の中から妄想の山を駆逐するほどにカミツキガメのプールは生き地獄だったみたいです。この糸を無事に登り切ったら旗までの距離は一メートル弱。滑ったとしても腕を伸ばせば届くかも…。
「おい、ひょっとしてひょっとするのか?」
シロエの賭けに乗るべきだったか、とキース君が呻き、ジョミー君も。
「うわぁ、賭ければ良かったよ~。いけるよ、絶対いけるって!」
「だよなあ、俺も賭けときゃ良かった…」
あと少しだぜ、と見上げるサム君。賭けを口にしていたシロエ君も残念そうで。
「…ぼく一人でも賭けるべきでしたね、大穴に…。ゴールで間違いなさそうです」
「うーん…。ぼくはハーレイに祝福のキスを贈るわけ?」
まあいいけどね、と会長さんがブツブツブツ。教頭先生はぐんぐん登って棒まで辿り着きました。ソルジャーがトンとプールサイドに飛び降りるのと、バランスを確かめていた教頭先生が旗を目指してダッシュしたのとは殆ど同時で。
「「「!!!」」」
ダダダッと勢いよく駆け登っていった教頭先生、気が焦ったのか腕を伸ばすのが速すぎた様子。右腕が旗を掠めて空を切り、左足がツルンと真上に滑って…。
「「「おぉぉっ!!!」」」
墜落する、と思った次の瞬間、教頭先生は二本の足でガシッと棒を捕えました。グググ…と身体を曲げ、上半身を起こして旗を取ろうと懸命です。
『く、くっそぉ…。諦めてたまるか、なんとしても私はブルーのキスをっ!!』
ギリギリと歯を食いしばる教頭先生の思念がビンビンと。そっか、蜘蛛の糸じゃなければ妄想が原動力になっていたって大丈夫というわけですか…!
「や、やばい…。やっぱりキスかな…」
会長さんの呟きにソルジャーが。
「諦めたまえ。立派に水渡りを成し遂げたんなら仕方ないだろ、キスくらい!」
減るモンじゃなし、と背中を叩かれた会長さんがガックリと肩を落とした時。



「ブルー、今いくぞーっ!!!」
上体をグイと曲げて旗を掴もうとした教頭先生の身体を支えていた足がツルリと油で滑りました。筋肉隆々、金色の脛毛に覆われた二本の足が空中で無様に開かれ、体勢を立て直す暇も無く…。
「ブルーーーっ!!!」
腹の底からの叫びを残して、教頭先生はその頭からプールに突っ込んでゆかれました。カミツキガメの甲羅に激突するゴツンという音が鈍く響くなり、一斉に放たれる最後っ屁。文字通りこれで最後です。蜘蛛の糸はもう無く、旗は空しくプールの上に翻り…。
「…派手にやったねえ……」
プール中の亀が最後っ屁なんじゃないのかい、とシールドを張りつつ、ソルジャーが。
「そうみたいだねえ…。キスせずに済んで良かったよ。ハーレイの精神修養はともかく、君に背中を押されるのだけは避けたいし!」
キスだけで済むとは思えないから、と苦笑いをする会長さん。
「ついでにデートとか余計なオマケがついて来そうだ、ハーレイが水渡りに成功してたら」
「あっ、分かった? 色々と考えていたんだけどねえ…」
「ぼくも色々考えていたよ。君の注文にどう切り返すか、ハーレイをどう封じるか…。でもねえ、ハーレイは当分、そういう妄想をする余裕は無いかと」
失敗のダメージは大きいんだよ、と会長さんが指摘するとおり、教頭先生はカミツキガメに噛み付かれたままプカプカと浮いておられました。唇が小さく動いてますけど、会長さんの名前を呼んでいるとか…?
「違うね、あれは「臭い」と言っているんだよ」
最後っ屁が、と会長さんが笑って答えて、ソルジャーも。
「うん、そうとしか聞こえない。頭の中まで「臭い」で一杯、救出するのは後でいいかな」
匂いがすっかり抜けてから…、と笑い合っている会長さんとソルジャーと。教頭先生の努力の甲斐無く、水渡りは成功しませんでした。せめて最後に呟いていたのが会長さんの名前だったら…。「臭い」なんていうモノじゃなかったら、少しは希望があったんですかねえ…?




        精神力で勝て・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 カミツキガメはね、噛むだけじゃなくて最後っ屁なんですよ、本当です。
 近所の池にもいるらしいですが、挑む勇気は無いですね…。
 今月は月2更新ですから、今回がオマケ更新です。
 次回は 「第3月曜」 12月21日の更新となります、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、12月は、迷惑な外来種というヤツの話題で始まり…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv





 ハーレイが訪ねて来てくれる週末。部屋の掃除を済ませて窓から見下ろしていたら、庭の生垣の向こうの通りを歩いて来るハーレイの姿が見えた。手を振ると大きく振り返してくれて。
(あれ?)
 なんだかとっても楽しそうな顔。それに小さな紙袋を一つ持っている。
(何の袋だろう?)
 見覚えのない紙袋。この辺りのお店の袋ではないし、それ以前に何の変哲もない白い紙袋。店のロゴさえ入っていないように見えるんだけど…。
(まさかね)
 きっと何処かに書いてあるんだ。でなければ同じ白い色で浮き出した文字が入っているとか。
 袋が気になって見ている間に、ママが門扉を開けに行って。ハーレイをぼくの部屋へと案内して来た。紙の袋をよく見たいけれど、ハーレイはいつもの椅子に座って、紙袋はその膝の上。
(…これじゃ全然、見えやしないよ…)
 向かい合わせで座ったぼくからはテーブルの陰になって全く見えない。だけどハーレイは普段と変わらず、穏やかな顔で座っているだけ。もちろん挨拶も、会話もちゃんとあるんだけれど。
 その内にママが紅茶とクッキーを運んで来てテーブルに置くと、「ごゆっくりどうぞ」と部屋を出て行った。
(えっ? …今日はクッキーだけなの?)
 午前中のお茶の時間は昼食に響かないよう、お菓子は控えめ。それでもケーキやパイがつくのが普通で、クッキーだけなんてことは無いんだけれど…。
 途惑っていたら、ハーレイがさっきの紙袋をテーブルの上に「ほら」と笑顔で置いた。
「今日はこいつがあるからな。クッキーだけにして貰ったのさ」
 お前、食べ過ぎると昼飯が入らなくなっちまうだろうが。
 そいつは非常に不本意な上に、健康的とも言えないからな。



 テーブルに置かれた紙袋。やっぱり店名は入っていないし、ただ白いだけの紙袋。中身が何だかまるで見当がつかないけれども、ハーレイはぼくの大好きな笑顔で。
「覚えてるか、ブルー? 中身はこいつだ」
 紙袋を開けて手を突っ込んだハーレイ。出て来た手の上にコロンと栗の実が一個。
「途中の公園で焼き栗を売っていたからな。懐かしくなって、つい、買っちまった」
「わあ…!」
 ハーレイが持って来てくれた小さなお土産。「まだ温かいぞ」と渡された栗は本当に温かくて、袋に入っていた時には分からなかった香ばしく焼けた匂いがする。
「遠慮しないでどんどん食え。焼き栗ってヤツは熱い間が美味いんだ」
「うん、知ってる!」
 ぼくは少し焼け焦げた皮に入れてある切れ目を広げて焼き栗を剥いた。渋皮も一緒に剥がれて、美味しそうに焼けた黄色い栗の実が中から出て来る。口に入れたらホクホクで甘い。
「美味しい!」
「そいつは良かった。俺たちの思い出の味だったしなあ、焼き栗は」
「思い出したよ、ハーレイが買って来てくれたのを見たら」
 もう一個、と袋に手を伸ばしたぼくに「そら」とハーレイが栗を渡してくれた。そのハーレイも栗の皮を剥いて頬張っている。
 懐かしい味のする焼き栗。前のぼくとハーレイとの思い出の味。



 秋になったらシャングリラでもよく食べていた栗。公園と居住区の庭とに栗の木があった。
 シャングリラでは食料は自給自足だったから、食べられる実を結ぶ果樹は大切。普通の木だって多かったけれど、果樹も農場以外の所に何本も植えて育てていた。
 みんなが喜ぶ実をつける木たち。収穫の季節は仕事じゃないのに手伝う者たちも大勢いた。栗もそうした果樹の中の一つ。
 でも、シャングリラで栗の木を植えるまでには紆余曲折があったんだ。
 栗の実は栄養価が高いというから、候補に挙がった果樹の中では有望株。それに植えてから実を結ぶ大きさになるまでの成長も早い。ぼくもハーレイも栗を推したのに…。
「花が臭いと聞いたんじゃが」
 もう髪の毛が薄くなっていたゼルが文句をつけてきた。ヒルマンに確認してみたら、本当に花の匂いが独特らしい。しかも相当に強い香りで、綺麗な花でもないという。
「観賞用の花とは言えませんな」
 それがヒルマンの見解だったし、見せられたデータの栗の花は確かに綺麗じゃなかった。動物の尻尾みたいなブラシ状の花で、色だって地味な白っぽい黄緑。
「だが、栗は実を食べるために植えるのであって、観賞する必要は無いと思うが」
 ハーレイが真っ当な意見を述べた。
「花の匂いで苦情が出るなら、空調のレベルを調節するべきだろう。充分に換気をしておけば解決出来る問題ではないか?」
「ふむ…。確かに花よりも実が大切だな」
 それで良かろう、とヒルマンが同意し、エラとブラウも賛成した。
 ところが、ゼルだけは納得しなかったんだ。



「あの栗のイガはどうするんじゃ!」
 トゲだらけで危険だという主張。
 熟すとイガごと落ちて来るから、公園や庭には向かないと言う。うっかり頭上に落ちてきたならトゲで怪我をするし、落ちているイガを踏んでも危険。
「大人はいいんじゃ、大人はまだいい。しかし子供たちには危険すぎるわい!」
 うっかり躓いてイガの上に転んでしまったらどうするのだ、と指摘されたら反論出来ない。その危険性が全く無いとは誰も言えないし、もしもそういう事故が起きたら…。
「それじゃさ、トゲが無ければいいのかい?」
 ブラウの素っ頓狂としか思えない発言。栗のイガといえばトゲだらけのもので、トゲが無い栗の木があるなど聞いたこともない。
「そんな栗なんて知らないわ。本当にあるの?」
 エラが尋ねたら、ブラウは「さてねえ…」と無責任極まる答えを返した。
「だけど無いとは言い切れないだろ? それを探すのも仕事の内だよ、頑張りな」
 指名されたのはヒルマンだった。既に教授と呼ばれていたヒルマンは博識な上に調べ物も得意。トゲの無い栗なんて無いであろう、という皆の予想をいい意味で見事に裏切ってくれた。
 トゲの無い栗は存在したんだ。
 とても珍しい栗だったけれど、突然変異か何かで生まれたトゲ無しの栗。イガを覆う筈のトゲがうんと短くて、坊主頭に刈り込まれたように見える栗。そのトゲだって痛くはない。
 それを植えよう、ということになった。
 もっとも、普通の栗じゃないから、アルテメシアに在った人類の農場や園芸店に苗は無くって。
 ぼくが情報を操作して苗を取り寄せさせておいて、こっそり失敬させて貰った。



 そうしてトゲの無い栗の木をシャングリラで植えた。公園と居住区の庭に何本も。
 花の匂いは独特で強かったけれど、特に苦情は出なかった。そういうものだと皆が納得していたのだろう。人工的な悪臭ではなくて、あくまで自然の産物だから。
 栗は三年ほどで実をつけ、木だってどんどん大きくなった。栗の実を沢山食べることが出来た。お菓子を作ったり、料理するのに使ったり。
 シャングリラで育った子供たちには、栗と言えばそれ。
 刈り込まれたようなイガをしたトゲ無しの栗。
(うん、本当に栗とも思えない栗だったよね)
 それでかまわないと考えていたら、童話を教えるのに苦労するのだと保育部のクルーが嘆くのを聞いた。ソルジャーだったぼくの主な仕事は、実は子供たちの遊び相手をすることだったから。
 童話には悪者を懲らしめるために栗が登場するものだってある。栗のイガの痛さが話の肝。
 だけど、シャングリラの栗のイガにはトゲが無い。どうして栗のイガにやられた悪者たちが降参するのか、子供たちには理解出来ない環境。
(資料だけでは分からないものね…)
 ミュウの未来を担う子供たち。いつかは人類と手を取り合って欲しい子供たち。
 子供たちの世界を狭めることは好ましくない。ただでもシャングリラの中だけでしか暮らせない子たちだからこそ、本当のことを教えてやりたい。
 たかが栗のイガのことであっても、小さな真実を積み重ねたい…。
(安全だけを追求してたら、何ひとつ出来なくなっちゃうんだよ)
 そう思ったから、「あれは本物の栗じゃないから」と、一本だけ普通の栗の木を植えた。
 公園はゼルに「危険じゃ」と却下されてしまったから、居住区の庭に。



 それなのに本物の栗の実がなったら、誰が一番最初に大喜びで拾いに行ったと思う?
 危険だと主張していたゼルだったんだ。すっかり禿げてしまったゼル。
 長老の服の靴でトゲだらけのイガをグイと踏んづけて、嬉々として栗の実を出していたんだ。
 朝一番の視察に出掛けて発見した時の、ぼくとハーレイの顔といったら…。
「ゼル、それは何だ」
 ハーレイが苦い顔をしてゼルの足元を指差したんだけれど。
「何って、栗にしか見えんじゃろうが」
「危険だと主張していた筈だが?」
「じゃから、わしが処理してやっておる!」
 よりにもよって危険物処理。
 どう見てもそうは見えない光景。
 楽しんでやっているとしか思えないのに、ゼルは危険だと言い張った。
 栗の実はとても危険なのだと、素人には任せられないのだと。
 ぼくもハーレイもポカンとしたまま、落っこちたイガをせっせと踏んでいるゼルを見ていた。
 危険な栗のイガに立ち向かってゆく勇者のゼルを。



 こうしてゼルは本物の栗の木の担当になった。
 本物の栗だけはヒルマンじゃなくて、ゼルが担当することになった。
 担当と言っても世話係とは違って、説明係。子供たちに栗とは何かを教える係。
 秋が来る度にゼルは子供たちの前で得意満面、靴で栗のイガをこじ開けて実を出すんだ。
「いいか、これはな。実はソルジャーにも出来んのじゃ」
 そう言いながら熟して落ちたイガをグイと踏んづける。
「あのハーレイでも、この本物の栗には触ることが出来ん」
 ハーレイは防御力に優れたタイプ・グリーンの筆頭なのに、ゼルは自分の方が上みたいに。
「栗のトゲは実に危険じゃからのう、熟練の者しか扱えんのじゃぞ」
 なんて名調子で解説しながら栗のイガを開けて、子供たちの尊敬を集めていたんだよ。



 ゼルのお株を取っちゃ悪いから、そういうことにしておいた。
 だけどやっぱり、なんだか悔しい。
 ソルジャーのぼくも悔しいけれども、防御力ではぼくに匹敵するハーレイだって少し悔しい。
 だからハーレイと夜にコッソリ出掛けて行って、栗のイガを一個ずつ失敬するんだ。
 明日になったらゼルが拾う筈の、熟した栗の実が入ったイガを一個ずつ。
 ぼくもハーレイも本当は上手にイガをこじ開けて中の栗の実を出せるんだけど…。
 子供たちにはゼルしか出来ないってことにしておく。
 ソルジャーとキャプテンにだって出来ないことが一つくらいあってもいいだろう。
 相手は人類軍じゃなくって栗の実なんだし、ちょっぴり間抜けで愉快だから。
 そうしてゼルが寝ている間に、庭の隅っこでイガを内緒でこじ開ける。
 ハーレイが一つ、ぼくも一つ。
 ゼルが得意げにやってるみたいに靴で踏んづけて、艶々とした栗の実を中から取り出す。開けたイガは放っておいてもバレない。ゼルが「教材じゃ」と空になったイガを庭に残しているから。
 ハーレイと二人で一個ずつ、コッソリ開けちゃった栗のイガの中身。
 手のひらの間に大事に包んで、青の間に持って帰ってナイフで切れ目を入れて。奥のキッチンで皮ごとこんがりと焼いて、熱々を剥いて二人で食べた。
 それがぼくとハーレイとの内緒の焼き栗。
 コッソリの味は格別だった。
 栗が実る度にハーレイと二人、夜中に焼き栗を楽しんでいた。
 地球の海に居るというトゲだらけのウニも、こんな風にして食べるんだろうか、って話なんかを交わしながら。



 そういえば…、とハーレイのお土産の焼き栗を剥きながら思い出した。
 あの頃に話題にしていたウニ。今は二人とも地球に居るから、ウニだってちゃんと海にいる。
「ハーレイ、栗で思い出したけど、今はウニだって手に入るよね?」
 口にしてみたら、ハーレイも覚えていたらしくて。
「ウニか…。あの頃はウニの話もしてたが、流石にウニはなあ…」
 ウニはおやつじゃないからな。
 そりゃあ、ウニ風味のスナック菓子もあったりするがだ、お前が言うのは本物のウニだろ?
 土産だと言ってウニの寿司を提げて来るのも変だしな?
「確かに変だね…」
 ハーレイが言う通り、ぼくへのお土産にウニのお寿司は変だと思う。
 お寿司はおやつに出来はしないし、それをやるなら昼御飯用にお寿司の折詰。だけどウニだけで埋まった折詰なんて食べ切る前に飽きてしまいそう。焼き栗なら飽きはしないけれども…。
(ウニのお寿司かあ…)
 好き嫌いだけは全く無い、ぼく。
 沢山食べることは苦手なんだけど、前の生で食べ物に不自由していたせいなのかどうか、何故か好き嫌いというものが無い。
 そんなぼくだから、もちろんウニも食べられる。お寿司は好きだし、ウニのお寿司も。
(…お寿司も美味しいし、お刺身もいいよね)
 他にもウニの食べ方は色々。でも…。
(殻ごとのウニは食べたことがないや)
 トゲトゲの殻が半分くっついたウニなら、パパとママに連れてって貰ったレストランで食べた。殻が器の代わりになってて、中身は焼きウニ。
 殻ごとと言えば殻ごとだけれど、自分で剥いたわけじゃない。
 栗のイガは自分で開けられたけれど、栗よりもトゲが凄いウニ。ちょっと開けられそうにない。
(ケガしそうだよ…)
 其処まで考えて、気が付いた。
 ハーレイは海が大好きだっけ。海にはウニが住んでいるよね?



「ねえ、ハーレイ。もしかして、ウニをあんな風にして食べたこと、ある?」
「あんな風?」
「栗みたいに自分でパカッと開けて!」
 開ける道具は靴じゃないかもしれないけれど、と訊いたら「あるぞ」と即答だった。
「海には沢山いるからな。潜って獲ったら食べ放題だ」
 ウニを開けるには足じゃなくって手を使うんだぞ。
 こう、左手にウニを持って、だ。
 もちろん左手をシールドするのを忘れちゃいかんぞ、凄いトゲだからな。
「それからウニの口の部分をナイフで開ける。あいつらにはちゃんと口があるんだ。口を開けたら其処からナイフを突っ込んで…。栗のイガみたいな要領で剥いてもいいし、切ってもいいな」
「ずるい…。ハーレイ、経験済みなんだ…」
 ぼくは本物のウニの殻を開けてみたことが一度も無いのに。
 シャングリラではハーレイと一緒に本物の栗のイガを開けていたのに、地球の海で獲れるウニは出遅れた。ハーレイだけが先に開けてて、ぼくは一度も開けたことが無い。
「ハーレイ、ずるいよ! 一人で先に開けてたなんて!」
「おいおい、お前、ずるいも何も…。俺の方が何歳年上だと思っているんだ、お前」
 それにだ、お前はウニなんか自分で開けられんだろう?
 さっき開け方を話した筈だぞ、不器用なお前が左手をシールド出来るのか?
 シールドしないでウニを掴んだら大惨事だ。分厚い手袋をはめるって方法もあるが…。
「うー…」
 悔しいけれども、ハーレイの方が二十年以上も先に生まれていたのは本当。ぼくと再会する前にやってたことまで文句をつける権利は無いし、第一、その頃のハーレイはぼくを知らない。前世の記憶を持ってはいない。
 それに今のぼくがウニを開けられそうにないことも事実。前のぼくなら簡単にシールドを張れたけれども、サイオンがとことん不器用なぼくは左手にシールドなんか無理。
 分厚い手袋をはめれば出来ると言われたところで、それじゃちょっぴり情けない。
 ゼルの「実はソルジャーにも出来んのじゃ」という台詞そのもの、恥ずかしすぎる…。



 今の世界では人間は一人残らずミュウ。
 シールドはごくごく普通の能力、大抵の人は出来て当然。前の生と同じタイプ・ブルーのぼくは最強のサイオン能力を持っている筈で、シールド出来ない方がおかしい。だけど出来ない。
 不器用すぎるぼくが分厚い手袋をはめてウニを開けていたら、タイプ・ブルーだとは誰も信じてくれないだろう。ウニを開ける所は見たいけれども、自分で開けるのは諦めた方が良さそうだ。
(ハーレイに開けて貰おうかな…)
 まだまだ当分、一緒に海には行けないんだけど、いつか行ったら。
 いつか二人で海に行ったら、ハーレイにウニを開けて貰って…。
(……海?)
 夏休みの間にハーレイは海に行っていた。柔道部の生徒を連れて、日帰りで海。ひょっとしたら海で食べたんだろうか?
 ぼくの憧れの殻つきのウニを、柔道部員たちと開けて食べたんだろうか…?
「ハーレイ、今年の夏も、もしかして食べた? 柔道部の子たちと一緒にウニ…」
「いや。ウニは開けるのに手間がかかるし、柔道部のヤツらに食わせておくにはサザエの壺焼きで充分ってな」
 ハーレイはパチンと片目を瞑ったけれども、ぼくの心はウニならぬサザエに捕まった。
「サザエの壺焼き!?」
「そうだが? その辺で獲って、蓋を開けてな。ちょっと醤油を垂らしてやって火で炙るんだ」
「…壺焼き……」
 柔道部員が羨ましい。
 ぼくは獲れたてのウニも食べたことがないのに、ハーレイと一緒にサザエの壺焼き。ハーレイが獲ったサザエの壺焼き…。



「…ぼく、壺焼きも食べてみたいよ…。ハーレイが獲ったサザエの壺焼き…」
 ウニも食べたい、と強請らずにはとてもいられない。
 前の生では二人一緒にコッソリと栗のイガを開けていたのに、今はハーレイがフライング。先に一人で地球の海のウニをこじ開けて食べていた上に、サザエの壺焼きを柔道部員に大盤振る舞い。ぼくに食べさせてくれたんだったら分かるけれども、柔道部員…。
 恋人のぼくを放って柔道部員に御馳走するなんて、あんまりすぎる。
 ウニだって一足お先にトゲトゲの殻を開けてしまって、美味しく食べていたなんて…。
 今のぼくにはウニの殻なんか開けられないって分かっているけど、フライングだなんて…。
(ずるいし、それにあんまりだってば!)
 ぼくの頬っぺたは、ちょっぴり膨れていたかもしれない。ハーレイが「分かった、分かった」と苦笑しながら、焼き栗の皮がついていないことを確認した右手でぼくの髪を撫でる。
「ウニにサザエだな、分かったから。お前がちゃんと大きくなったら、海に連れて行って食わせてやるから。…もちろん俺が獲って、食べ放題でな」
「約束だよ? 殻つきのウニと、サザエの壺焼き」
「アワビも一緒に食わせてやるさ。あれも焼いたら美味いんだぞ」
 な? とハーレイはぼくに微笑みかけてから。
「…まったく、とんだ藪蛇だったな。焼き栗の土産」
「そう? ぼくはとっても嬉しいけどね。シャングリラのことも思い出せたし」
 それに、いつかはハーレイと海。
 ぼくの背丈が大きくなったら、ハーレイと一緒に海へ行くんだ。
 殻つきのウニとサザエの壺焼きを食べさせて貰えるんだよ、ハーレイが獲った美味しいのを。
 前のぼくたちの焼き栗みたいにコッソリじゃなくて、天気のいい海辺で堂々と二人。
 何を食べてるかも、恋人同士なことも隠さなくて良くて、青く澄んだ地球の海辺で二人。
 前のぼくが焦がれた青い地球の海を二人で見ながら、地球の海の幸を沢山、沢山……。




         栗の思い出・了

※シャングリラで食べた栗の思い出。今度はウニも食べられるのです、ハーレイと二人で。
 そしてトゲの無い栗は実在してます、ちゃんと園芸品種です。シャングリラ御用達?
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






 秋の日の午後、庭のテーブルで向かい合って座るハーレイとブルー。
 庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子で過ごす時間は、暑い間は午前中が定番だったけれども、いつしか午後のお茶の時間へと移っていって。
 夏の盛りには考えられなかった、外での午後のティータイム。涼しい風が吹き抜けていた日も、夏場は早めの昼食くらいまでしか庭にはとても居られなかった。
 それが今では午後にお茶の時間。僅かに色づき始めた木を仰ぎながらの穏やかなひと時。
 紅葉の季節にはまだ早いけれど、ハーレイが紅茶のカップをコトリと置いて。
「このテーブルもそろそろ店じまいかもな」
「えっ?」
 どうして、とブルーは首を傾げた。いきなり「店じまい」だなどと言われても…。
 言葉の意味が飲み込めない様子のブルーに、ハーレイが「うん?」と優しい笑みを浮かべる。
「今年は終わり、という意味だ。じきに冷え込む季節になるしな、次の週末はどうなるか…」
 この季節の気候は気まぐれなもの。暖かい日が続くと思っていても、急な寒波が来る年もある。一週間後の気温がどうなっているか、正確な予想は難しいから。
「今のところは来週もまだ暖かそうだが、直前で変わることもあるだろう? 寒くなったらお前が風邪を引いてしまうし、外はちょっとな」
 来年の春が来るまでお預けになってしまうかもしれん、と聞かされてブルーは溜息をついた。
「そっか…。今日でおしまいなのかな、ハーレイとデート…」
「ははっ、覚えていたのか、デートの話。此処でお前と初デートだったな」
 ハーレイが「うんうん」と遠くなった初夏の日を懐かしく思い返して微笑む。「普段と違う所で食事をしたい」と強請ったブルーへのハーレイの答えが庭のテーブルと椅子でのティータイム。
「そうだよ、シャングリラの形の木漏れ日を見たよ」
「あったな、まるで誂えたように」
 テーブルの上で揺れていた木漏れ日が描くレース模様の中に、シャングリラがあった。
 遙か上空から見下ろしたシャングリラそっくりの、光と木の葉が作り出した形。二人で飽きずに眺めていた。日が射して来る方向が変わり、光のシャングリラが消えてしまうまで…。



「ハーレイが持って来てくれたんだよね、あの時に座った椅子とテーブル」
 ブルーは今でも鮮やかに思い出すことが出来る。ハーレイの車のトランクの中から魔法のように引っ張り出されて、庭に据えられたテーブルと椅子。「木の下にお前の椅子が出来たぞ」と笑顔で其処へと誘ってくれたハーレイの声まで覚えている。
「あれからも何度も持って来てくれたよ」
「お前、気に入っていたからなあ…。お前が喜んでくれるんなら、と俺もせっせと持って来ていたわけだが、お前のお父さんに感謝しとけよ」
「パパ?」
「俺が持って来るパターンのままで定着してたら、夏休みの終わりと同時に営業終了になっていただろうしな」
 この椅子とテーブルはお父さんが買ってくれたんだろうが、とハーレイの指がテーブルをトンと叩いた。ブルーの父が「いつも持って来て頂くのは申し訳ないから」と夏休みに入ってから買って据え付けたテーブルと椅子。
 屋外用のテーブルと椅子だったから、雨風で傷むことはない。ブルーにとっては「庭にあるのが当たり前」のもので、いつでも使えると思っていた。営業終了という言葉がピンと来なくて。
「なんで夏休みが終わっちゃったら、おしまいになるの? 夏休み、とっくに終わったよ?」
「まあな。しかしだ、俺の中では、あのテーブルと椅子は夏休みまでのものだったんだ」
 キャンプ用のテーブルと椅子だと言っただろう。夏の間に俺の家で来客用に使うヤツなんだ。
 来客と言っても教え子ばかりでガサツな運動部員どもだから、バーベキューだな。外でワイワイ賑やかに食って騒いで、親睦を深めるためのテーブルと椅子だ。
 そういったシーズンの終わりが夏休みの終わりで、其処で営業終了になる。秋の午後に使うって発想は俺には全く無かった。あいつらと優雅にティータイムなんぞは有り得ないしな?
「良かったあ…。パパが買ってくれてて。…ママの趣味で白いのになっちゃったけどね」
「白もいいじゃないか。前も言ったが、シャングリラの色だ。俺たちにピッタリの色だと思うぞ」
「そうだっけね。シャングリラは真っ白な船だったものね」
 ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 どちらが欠けても、無事にジョミーに引き継ぐことは出来なかっただろう。
 そうしてシャングリラは地球まで運ばれ、新しい世代のミュウたちを乗せて旅立って行った。
 前のハーレイの生が終わった地球を離れて、遠く遙かな新天地へと…。



 今は写真だけしか残されていないシャングリラ。
 ハーレイとブルーがお揃いで持っている写真集には白いシャングリラが在るが、その船体は時の流れが連れ去ってしまった。ブルーの青の間もハーレイの部屋も、時の彼方に消えてしまった。
 それなのに二人は生まれ変わって、青い地球の上で再び出会った。
 同じ町に住み、同じ学校の教師と生徒。週末が来る度、ハーレイがブルーの家を訪ねて、二人で過ごしているのだけれど。
 前の生で恋人同士だったことをブルーの両親は知りはしないし、今でも秘密。
 ハーレイにキスさえ禁じられてしまったブルーは、この庭でしか大好きなハーレイとのデートが出来ない。夏休みの終わりと同時にデートも終わりとならなかったことは幸運だったが、どうやら寒さの訪れと共にデートは終わりになってしまうらしく。
「…寒くなったらやっぱり無理かな、ハーレイとデート…」
 寂しげに呟くと、ハーレイが頭上の枝を見上げた。
「この木の葉もいずれ、すっかり色が変わって散っちまうしな? …散ってる最中に此処に座ってティータイムだと、葉っぱがどんどん落ちて来るぞ」
 カップの上とか、ケーキの上にな。いくら秋でもケーキの紅葉添えはな…。
「そういうのもいいと思うんだけど…」
 お洒落だと思う、とブルーは食い下がった。
「ケーキに紅葉は添えてないけど、料理だったら添えたりするよ?」
「それはそうだが…。わざわざ秋らしく色が変わった柿の葉で包んだ押し寿司なんかもあったりはするが、しかしだな…」
 ハーレイの眉間の皺が深くなる。
「お前、寒くなったら風邪を引くだろうが。シールドも張れないレベルのくせに」
 紅葉の季節は風がけっこう冷たいぞ?
 いくらお洒落でも、風邪を引いたら話にならん。



 そう諭されても、ブルーはどうにも諦め切れない。ハーレイと初めてデートした場所が来年の春までお預けだなんて、まるで考えてもいなかった。だから俯き加減でポツリと零す。
「でも…。ハーレイとのデートが春まで出来なくなっちゃうなんて…」
 まだまだ秋は長いし冬もあるのに、と上目遣いに見上げられたハーレイは仰天した。
「冬って…。お前、雪の中でも此処でデートをするつもりか?」
「雪も綺麗だと思うんだけど…。秋も冬もきっと素敵だよ。葉っぱが散るのも、雪が舞うのも」
 どう見ても本気としか取れないブルーの眼差しに、「うーむ…」と腕組みをするハーレイ。
「落ち葉はともかく、雪の中だと? シールドを張れないお前がか?」
「…だって、ハーレイとデートがしたいよ。ちょっとくらい風邪を引いてもいいから」
「馬鹿!」
 一喝すればブルーは首を竦めたけれども、それでも縋るように揺れる赤く澄んだ瞳。
 こういう瞳で見詰められると、ハーレイは弱い。
 どんな我儘でも聞き入れたくなる。ブルーの望みを叶えたくなる。
 前の生から愛し続けて、一度は失くしてしまった恋人。奇跡のように戻って来てくれたブルーのためなら、全力を尽くしてやりたいと思う。
 まだまだ幼い小さな恋人。十四歳にしかならないブルー。
「お前なあ…。ちょっとの風邪でも命取りだと分かってるだろう、弱いんだから」
「早めに寝てればちゃんと治るよ、それとハーレイの野菜スープがあれば」
「お前は平気なのかもしれんが、俺の心臓が持たないんだ」
 俺がお前の側についていながら、風邪を引かせるなんて真似はしたくない。
 お前の分までシールドを張れればいいんだが…。
 生憎と俺はタイプ・グリーンで、前のお前みたいに広い範囲をシールド出来るわけじゃない。



「お前の分までシールドを張るとなったら、くっつかんと無理だ」
 それでブルーが諦めてくれれば、と思う一方で微かに期待もしていた。ハーレイが心の奥の奥で願った答えを読んだかのように、ブルーの顔がパッと輝く。
「じゃあ、くっつく!」
「こら、お前! 本気で俺にくっつく気なのか?」
「うんっ!」
 ブルーは嬉しそうにニッコリ笑った。
「それなら堂々とくっついてられるよ、ハーレイに! ぼくはシールドなんか張れないってこと、パパもママもちゃんと知ってるもの!」
 シールドに入れて貰っているなら、くっついていても変だと思われないよ。
 くっつきやすいようにハーレイの膝に乗っかっていても、パパもママも何も言わないよ。きっと「先生にあまり迷惑をかけちゃ駄目だぞ」って言われるだけだよ、だからお願い。
「ねえ、ハーレイ。秋の終わりも冬になってもデートしようよ、くっついて此処で」
「お茶が冷めるのはどうするんだ?」
 俺は其処まで面倒見きれん。そうそう器用じゃないからな。
「ポットだったら保温用のがあるじゃない。それにポットに帽子みたいに被せるカバーもあるよ」
 ティーコジーって言ったかな?
 シャングリラでは使っていなかったけれど、ママは寒い季節になったら使うよ。綿とか断熱材が入ったカバーで、ポットにすっぽり被せておいたらお茶が冷めにくくなるんだから。
「ママはポットの大きさに合わせてカバーを幾つか持ってるよ。あれ、使おうよ」
 保温ポットより断然いいよ、と主張するブルー。
 SD体制の時代よりも遙かに古い昔の道具で、寒い季節のお茶の時間にピッタリなのだ、と。



 ティーコジーはハーレイも知っていた。ハーレイの母はそういった昔の道具が大好きで、ティーコジーも愛用していたから。
 保温ポットなど無かった時代の素朴な道具。SD体制よりも古い時代の先人の知恵。
 それはともかく、保温用の道具が要るような季節になっても庭でのデートとお茶の時間を諦める気配も無さそうなブルー。
 ティーコジーだなどと言い出した以上、少なくとも晩秋は店じまいとはいかなくなるだろう。
 冬になってもブルーを膝の上に乗せて、庭でのお茶が続いてゆくかもしれないが…。
 まずは、とハーレイは我儘な恋人に釘を刺す。
「とりあえず、お前が風邪を引かずに無事なことが第一条件だな」
 これだけは譲れん、と厳めしい表情で言い渡しておいて。
「その上で焼き芋から始めてみるか」
「焼き芋?」
 ブルーはキョトンと赤い瞳を丸くした。
「石焼き芋を買ってくれるの? 寒くなったら、そこの道を車が通って行くけど…」
 SD体制の時代には無かった石焼き芋の移動販売車。
 遙かな昔にこの地域の辺りに在った小さな島国、日本の古い文化の一つ。笛の音にも似た独特の音を響かせ、石焼き芋を焼く釜を載せた車が寒い季節に住宅街を巡ってゆく。
 ブルーはそれだと思ったらしいが、ハーレイが考えたものは違った。
「やったことないのか、落ち葉で焼き芋。美味いんだぞ」
「…落ち葉?」
 怪訝そうな顔の小さな恋人は知らないらしい。
 生まれつき身体が弱いのだから、落ち葉で焚き火をするような季節は家に閉じこもって過ごして来たかもしれない。ハーレイにとっては子供時代のお楽しみだった焼き芋すらも知らないままで。



(参ったな…)
 本当にやる羽目になるかもしれんな、と思ったけれども、ブルーを楽しませてやりたいから。
 前の生では叶わなかった分まで幸せにしたいと思っているから。
 ハーレイはブルーに教えてやる。庭に落ちた木の葉を集めて焚き火をして芋を焼くのだ、と。
「ホント!? 本当にそれでちゃんと焼けるの?」
「上手く焼くには、ちょっとしたコツが必要だがな。だが、これが実に美味い」
 俺は焼くのが上手くてな。ホクホクの焼き芋が出来上がるんだぞ。
 もっとも、その前に、お前のお父さんとお母さんに訊かんと駄目だがな。
 庭で焚き火をしていいですか、と。
「やりたい! 焚き火で焼き芋、やってみたいよ」
 パパとママに頼んで許して貰うよ、とブルーの赤い瞳が煌めく。
 一人息子の願い事とあらば、ブルーの両親は快諾するだろう。
「ふむ…。許可が出たなら、焼き方のコツを伝授してやろう。だが、もう少し先の話だ。木の葉が色づいて散らんことには芋は焼けない」
 庭中に散った落ち葉を集めて、枯れ枝なんかもあるといい。
 お前と二人でこの庭をせっせと掃除するかな、焚き火と焼き芋作りのためにな。
「うんっ! じゃあ、それまではデート続行だね?」
 ねえ、とブルーは弾けるような笑顔になった。
「まだまだ終わりにしたくないんだ、ハーレイとデート」
 焚き火が出来る季節になるまで、此処でデートでいいんだよね?
 落ちて来る紅葉がケーキのお皿に乗っかる頃になっても、デートしていていいんだよね?
 ぼくが風邪さえ引かなかったら。
 学校で引くのは仕方ないけど、庭に居る時に風邪を引かなかったら…。




 ちゃんと暖かい服を着るから、とブルーは強請る。
 両親が心配しないように服も下着もしっかり着込んで
落ち葉の季節に備えるから、と。
「だって、ハーレイ。…学校の体育の授業は普通に外だよ?」
「お前、見学専門じゃないのか、そういう季節は」
「…ふふっ、見学と言うより体育館専門」
 だけど、とブルーは付け加える。
 身体が弱くて寒い季節は体育館でしか授業に参加出来ないけれども、今よりもっと小さい頃には雪だるまくらいは作っていた、と。雪合戦に参加するのは無理だったけれど、ほんの少しだけなら雪遊びだってしていたのだ、と。
「だからね、雪の季節も大好きだよ? 雪が降るのを見るのも、雪景色も好き」
 それに地球だ、とブルーは微笑む。
 前の自分が憧れた地球で迎える初めての冬で、初めての地球の雪景色なのだ、と。
「お前、そいつを俺と一緒に眺めるつもりか? この庭の椅子で」
「そうだけど? ハーレイと一緒に地球の上に生まれて来たんだもの。一緒に見なくちゃ」
「つまりは雪の季節になっても、此処でのデートを終わりにする気は無いんだな? …俺と一緒に雪景色だなんて言うってことは、だ」
「そうだよ、何回くらい雪が積もるかな? 春になるまでに」
 雪の中なら、ハーレイのシールドつきだよね?
 いくら厚着をして出て来たって、庭はやっぱり寒すぎるもの。
 ハーレイにくっついてシールドで包んで貰うのがいい。パパもママも絶対、気にしないから。
 ぼくがハーレイに迷惑をかけることしか心配しないし、堂々とくっついていられるから…。



 ブルーが頬を紅潮させて、寒い季節の庭でのデートを夢見るから。
 それは駄目だと突っぱねられなくて、ハーレイは「ふむ…」と暫く考え込んで。
「仕方ない、覚悟はしておこう」
 お前をくっつけてシールドで包んで、雪の最中に庭でデートという覚悟をな。
 お茶が冷めないようにティーコジーを出して来ると言うなら、あれだな、俺も工夫をするか。
 いっそ火鉢でも持ってくるかな、きちんと本物の炭を入れてだ。
 そうなると古典の世界になっちまうがな…。
 知ってるか?
 うんと昔の枕草子だ、「火など急ぎおこして炭もて渡るも、いとつきづきし」だ。
「火鉢! あれに出て来る炭櫃と火桶?」
「ああ。炭櫃は角火鉢で四角い火鉢だ。火桶は円形の火鉢だな」
 俺の実家に置いてある火鉢は円形のだから火桶ってトコか。親父の趣味でな、炭だってあるぞ。
 炭火を熾すための火熾し器まで揃えているんだ、柄杓みたいな形のヤツだ。
「そんなのもあるの? それも見てみたい!」
 持って来てよ、とブルーは自分の家には無い火鉢だの火熾し器だのに夢中になった。
 古典の授業でしか知らない道具がハーレイの実家にあるという。
 ブルーをハーレイの未来の伴侶として認めてくれている、ハーレイの両親が住んでいる家。庭に夏ミカンの大きな木がある隣町の家。
 その家の火鉢を一度借りてみたい。雪の舞う日に庭でのデートに使ってみたい…。



「おいおい、本気で火鉢なのか? 俺は火鉢で餅を焼くしかないような気がして来たぞ」
 半ば嘆きにも似たハーレイの言葉に、ブルーは素早く反応した。
「火鉢でお餅? 美味しく焼けるの?」
「ん? そりゃまあ、なあ…。火鉢で焼いた餅は美味いぞ、たまに焦げるが」
「焚き火の焼き芋と同じでコツが要る?」
「そうだな、火力が均等ってわけではないからな」
 間違えるなよ?
 芋は焚き火に埋めて焼くが、だ。餅は炭だの灰だのには埋めないからな。
 炭の上に網を乗っけて焼くんだ、でないと灰だらけになって食えなくなるぞ。
「ハーレイ、上手い?」
「当然だろうが。俺の実家じゃ餅は火鉢で焼くのが一番ってことになってたからな」
「それじゃ、お願い。冬になったら、火鉢で、お餅!」
 ぼくのお願い、とペコリと頭を下げられてしまい、こうなるとハーレイは断れない。
 我儘が過ぎる願い事だろうが、ブルーの頼みにはとことん弱い。
 無理ではないかと思いながらも「分かった、分かった」と微笑みながら頷くことになる。
「ただしだ、お前が風邪を引いてないのが大前提だぞ」
 其処をお前が間違えなければ、焚き火で焼き芋だろうが、火鉢で餅を焼く方だろうが、此処でのデートは通年営業にしといてやるさ。
 いいか、絶対に風邪を引かないことだぞ?
 風邪っぴきでダウンしちまったお前は、どう転んだって外には出られないしな。
「うん、頑張る!」
 だから約束、とブルーはハーレイの小指に自分の小指を絡み付かせた。
「約束だよ、焚き火で焼き芋をするのと、火鉢でお餅!」
 どっちも楽しみにしているから。
 ハーレイのシールドの中でくっついて此処で雪を見るのも、とっても楽しみにしているから…。



 そろそろ店じまいかとハーレイが口にした筈の、木の下の白いテーブルと椅子。
 店じまいどころか通年営業になってしまいそうな気配で、ハーレイは苦い笑みを浮かべる。
「やれやれ…。とんだ物を持って来ちまったんだな、俺というヤツは」
 庭に置くテーブルと椅子ってヤツはだ、本来は夏の間に使う物で、だ…。
「とんでもなくないよ、デートの場所だよ?」
 そしてこれからの季節が本番、とブルーは幸せそうに微笑んでみせた。
「ハーレイとくっついて座れるだなんて、寒い季節の方がいいよね。…ぼくのサイオン、不器用で良かった! ハーレイのシールドに入れて貰えるなんて最高だもの」
「だからだな、それはお前に風邪を引かせないための苦肉の策でだ、このテーブルと椅子は本来」
「店じまいは無し!」
 夏よりも冬、とブルーは言い張っているのだけれど。
 早々に風邪を引いてしまったなら、庭で一番高い木の下の白いテーブルと椅子とは出番を失い、来年の春まで何処かに仕舞われてしまうだろう。
(…多分、そのコースで間違いないさ)
 ハーレイはそう思うけれども、もしもブルーが望むのならば。
 風邪を引かずに頑張ったならば、焚き火も火鉢も夢を叶えてやらねばなるまい。
 前の生から愛し続けて、再び巡り会うことが出来た恋人。
 今度こそ幸せにしてやりたいと願ってやまない愛しいブルー。
 愛おしいブルーが望むことなら、どんな我儘でも叶えたいから……。




        店じまいの季節・了

※ハーレイとの初めてのデートの場所を、冬も維持しておきたいブルー。雪の季節も。
 火鉢でお餅も楽しそうです。ブルーの我儘、ハーレイはなんでも聞くのでしょうね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






 週末の休日は、仕事が無ければブルーの家へ。それがハーレイの今の習慣。
 今日もそういう土曜日なのだが、普段よりも一時間ほど早い時間に目が覚めた。
(…寝なおすという程でもないしな…)
 規則正しい生活を心がけているから、疲れは一晩眠れば取れる。もう充分に起きていい時間。
(ひとつ起き出してゆっくりするか)
 コーヒーを淹れて早めの朝食を摂るのもいいだろう。よし、とハーレイは起き上がった。



 いつものように歯磨きをして、顔を洗って。
 髭を剃ろうとしていた所で脳裏を過った懐かしい記憶。鏡に映った自分の顔を覗き込む。
(…こうして見ると本当にあの頃と変わらん顔だな)
 遠い遠い昔に、青の間で今と同じことをしていた。
 一緒に眠って目覚めたばかりのブルーをベッドに残して、青の間の奥のバスルームで。
 青の間はブルーの部屋だったから、ブルーは急いで起きなくてもいい。しかしハーレイは本来は其処に居る筈のない者で、キャプテンの部屋で寝起きしていると皆が信じて疑わない者。朝一番に青の間を訪れ、ソルジャーと朝食を共にしながら報告をするのがハーレイの役目。
 そう思わせておかねばならない。ブルーとの仲を明かせはしない。
 だからハーレイはブルーと「おはよう」のキスを交わした後、急いで身支度を整えていた。
(あの頃と違うのは場所だけか…)
 それにブルーも家に居ないな、と考えながら視線を落としてみれば。
(置いてある物も違うようだな)
 洗面台に揃った様々な物。青の間のバスルームにあった物と同じ物もあれば違う物もあった。



 青の間のバスルームで慣れ親しんで見ていたもの。
 ハーレイにしか用の無い髭剃り用の剃刀。ブルーの頬は滑らかなままで、柔らかな産毛だけしか無かった。髭剃り用の剃刀などはブルーにはまるで要らないもの。
 それから二人分の歯ブラシ。ハーレイの分と、ブルーの分と。
 ブルーは使わない筈の髭剃り用の剃刀、それに一本余計な歯ブラシ。そういったものが置かれていることに、誰一人として気付かなかった。
 ハーレイが朝、青の間からブリッジに行くための身支度に使っていたもの。それらの存在すらも知られず、朝の報告に来るハーレイが実は泊まっていたということも誰も知らないままだった。
(ブルーは実に器用に隠していたからな)
 物理的に隠していたわけではなく、視覚のマジック。「此処の掃除くらい自分でするよ」と部屋付きの係に言って自分で洗面台を整え、ついでにサイオンで仕掛けをしていた。
 其処に「在る」ものが見えないように。
 髭剃り用の剃刀と余分な歯ブラシ、恋人の存在を示すそれらを知られないように。



 キャプテンだった頃のハーレイの部屋にはブルーの歯ブラシが置かれていた。
 洗面台に置かれた二人分の歯ブラシ。
 そちらも誰一人気付かなかった。ブルーがサイオンで細工をしたから。
 二人分の歯ブラシの隣に、ブルーには用が無かった剃刀。髭剃り用のハーレイの剃刀。
 誰も気付きはしなかった。
 青の間で眠っている筈のブルーがハーレイの部屋に泊まりに行っていたことを。
 朝早くに目覚めるハーレイに起こされたブルーは、シャワーを浴びた後、瞬間移動で青の間へと帰って行ったから。
 身支度を整え、何食わぬ顔でハーレイの来訪を待って、朝食を共にしていたから。
(本当に誰も気付かなかったな)
 青の間と、ハーレイが使っていたキャプテンの部屋と。
 どちらの部屋の洗面台にも歯ブラシが二本あったというのに、皆、一本だと信じていた。
 青の間に在った髭剃り用の剃刀は存在すらも知られないままで、ブルーが長い長い眠りに就いてしまった後、ハーレイが秘かに持ち帰った。使う機会を失くしてしまった歯ブラシと共に。
 自分の部屋に置かれていたブルーの歯ブラシの方は、長い間、そのままにしていたけれど。
 歳月と共に古びてゆくのが不吉に思えて、思い切って捨てた。
 少しずつ朽ちてゆく歯ブラシと同じように、ブルーの身体も目覚めることなく朽ちてゆきそうな不吉な予感に囚われたから。
 恐ろしい予感が当たらないよう、不安の影を拭い去ろうと歯ブラシは捨てることにした。
 ブルーが目覚めたら、新しいものを置けばいい。古びたものより新品がいい、と言い訳をして。



(…そのままになってしまったな…)
 ブルーは再び目覚めたけれども、二人分の歯ブラシを並べる前にメギドへ飛んでしまったから。それきり二度と戻っては来ずに、宇宙に散ってしまったから…。
 青の間の歯ブラシもハーレイの部屋の歯ブラシも二本には増えず、一本のまま。青の間にあった分はブルー亡き後、一本きりのままで何処かへ消えた。誰かが処分したのだろう。
 青の間からブルーが生きていた頃の名残りがすっかり消えて無くなったあの日、どれほどの涙を流したことか。枠だけになってしまったベッドや、何もかも無くなったバスルームや…。
 ベッドは「これでは寂しい」という声が出たから寝具が元通りに戻されたけれど、バスルームにタオルや歯ブラシなどは戻らなかった。
 ブルーがいなくなってしまった青の間。其処を訪れ、独りきりで何度も何度も泣いた。
 たまに、先客がベッドの上で丸くなって眠っていて。
 そういう時には先客を起こして思い出話をしていたものだ。青い毛皮のナキネズミのレイン。
 レインは自分の毛皮が青い理由を知らなかったけども、それもブルーの思い出だから。
 幸福を運ぶ青い鳥を飼いたいと願ったブルーが、思いを託した色だったから…。



 つらつらと考えごとをしていた間も、ハーレイの手は休みなく動いていたから髭剃りが終わる。もう一度ザッと顔を洗って、タオルで拭いて。
(…今も一本きりのままだな…)
 歯ブラシを眺めて心の中で呟いた。
 ハーレイの家に二人分の歯ブラシは無くて、ブルーの家にもありはしない。ブルーの家には家族全員分の三本の歯ブラシがあるのだろうが、その中にハーレイの分は無い。
(二本置きたくても、置く理由ってヤツが無いからなあ…)
 今のハーレイは気儘な一人暮らしなのだし、歯ブラシが二本でも誰に見付かることもない。前の生のようにブルーのサイオンで隠さずとも並べて置いておけるのだが…。
(ついでに今のブルーは器用に隠すなんて真似は出来んしな?)
 とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。ハーレイの方がよほどマシと言える。
(そういう所も可愛いんだが…)
 ブルーがサイオンの力を伸ばさなくても生きていける世界。
 平和な地球の上に二人生まれて、巡り会えたまでは良かったのだが…。
(歯ブラシを二本並べて置ける境遇じゃないからな、俺たちは)
 そもそも、どちらも相手の所へ泊まりに行けない。前の生でのようにはいかない。
 それ以前にキスさえも交わしていない間柄。
 ブルーは小さく、まだまだ幼く、背丈も百五十センチしか無い。



(…夢のまた夢か…)
 ハーレイの家に二人分の歯ブラシを置くとしたなら、それはブルーを迎えてから。
 共に生きる伴侶としてブルーを迎えて、この家で二人一緒に暮らせるようになってからだ。
(それまではブルーを呼びたくてもなあ…)
 ブルーには「前の背丈と同じくらいに育つまでは駄目だ」とキスを禁じておいたのだけれど。
 その背丈までブルーが育ったとしても、厄介なことになりそうだった。
(あいつの家じゃ、俺は思い切り信用されちまっているからな…)
 ブルーはともかく、その両親。
 自分たちの前世が誰であったかを知る両親だが、恋人同士だったことは知らない。ゆえに息子を大切に扱ってくれる優しい教師としてハーレイを歓待してくれる。
 彼らの信頼を得てしまった今、結婚もせずにブルーとベッドを共には出来ない。いくらブルーが大きくなっても、そのために泊まりには来させられない。
(…ただの教え子なら良かったんだが…)
 教師としてはどうかと思うが、ただの教え子なら泊めても問題無いだろう。ブルーも自分も男性なのだし、恋人同士の時を持つために泊めたとは誰も思うまい。
(しかし、頼れるハーレイ先生となれば話は別だぞ)
 ハーレイがブルーを自分の家に招かない理由を、ブルーの両親は「自分たちの目が届き易い所でブルーと共に過ごすため」のハーレイの心配りだと勘違いしている。
 一度だけブルーが遊びに行った日は一人息子の我儘をハーレイが聞き届けただけで、一度限りの例外なのだ、と。
 そんな状態だから、ブルーを泊まりに来させて自分のベッドに連れてゆくなど、とんでもない。ブルーは念願叶って大満足だろうが、あまりにも後ろめたすぎる。



(…本当に信頼されちまったしなあ…)
 ハーレイを「頼れる教師」と信じて疑いもしないブルーの両親。
 学校のある平日、帰りにいきなり訪ねて行っても「来て下さってありがとうございます」と礼を言われて、家族の食卓にハーレイの席を設けてくれる。
 ブルーが寝込んでしまって見舞いに寄る時も、ブルーのための野菜スープを作る間に食べられるようにサンドイッチが用意されたり、見舞いの後で両親と三人で食卓を囲むことになったり。
 もはや家族の一員と言っても過言ではない、今の状態。
 ただしブルーの伴侶としての家族ではなく、年の離れた従兄か、叔父か。ブルーの父とはたまに一緒に酒を飲むから、従兄よりかは叔父かもしれない。
(…どう考えても家族扱いだぞ? でなきゃ古くからの馴染みの御近所さんだ)
 これではブルーが大きくなってもキスすら出来ないのではないか、と思う。
 前の背丈と同じになるまでは駄目だとブルーに告げた時には、その時が来たなら直ぐにでも、と考えていたし、そのつもりだった。
 けれど今では時間の経過と共に状況も変わり、ハーレイは家族の一員扱い。ブルーの両親が一人息子を安心し切って預けてくれる「ハーレイ先生」。
 その両親の信頼を陰で裏切り、ブルーとキスを交わすことは非常に良心が痛むし、気が咎める。きっと、途轍もなく申し訳ない気持ちになるだろう。
(あいつは間違いなく大感激に違いないんだが…。俺も感激するんだろうが…)
 その前後に激しい葛藤がありそうな気がして、それは嬉しいことではない。
 前の生から愛し続けて、奇跡のように再び巡り会えたブルー。
 愛してやまないブルーと交わす初めてのキスを、後ろ暗いものにしたくはない。
 だから、と最近、思うようになった。
 ブルーの両親の許しを得てから婚約に漕ぎ付け、其処で初めてキスなのでは、と。
 キスを交わせても婚前交渉などは夢のまた夢、結婚するまで自重せねばならないような…。



(…それ以前に、何と言ってブルーを貰ったもんかな)
 まずは婚約、それから結婚。
 そういった手順を踏まねばブルーを伴侶に迎えられない。堂々と手に入れることが出来ない。
(そこまでの道のりが大変なんだ…)
 世間的には「守り役をしている間に情が移った」で済むのだろうが、自分とブルーの前世が誰であったかを知るブルーの両親の場合はどうなるだろうか。
 ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。
 前世での仲は隠し通したし、だからこそ歯ブラシが二本あったことは秘密。青の間にハーレイの髭剃り用の剃刀があったことも秘密。
 前の自分は航宙日誌にも書かなかったから、長い時が流れた今の世の中でも誰も知らない。実は二人が恋人同士で、互いの部屋に泊まり合う仲であった事実を。
 ゆえにブルーの両親だって知りはしないし、お蔭でブルーの部屋で二人きりで過ごせる。もしも両親が知っていたなら、二人きりで過ごすどころか家に招いて貰えるかどうか…。
(ブルーが十八歳になっていたなら、家に入れてもくれるんだろうが…)
 そうでなければ邪険に追い払われそうだ。
 可愛い一人息子に手を出されてはたまらないから、門前払い。でなければ文字通り監視付き。
 小さなブルーが泣いて怒っても、二人きりの時間は持てないだろう。
(うーむ…)
 キスさえ交わしていない仲でも、恋人同士の会話なら出来る。それさえ叶わない事態だったら、互いにとても耐えられはしない。何処かでこっそり逢い引きするとか…。
(そっちの方がよっぽどマズイんだが…)
 SD体制よりも遙か昔のシェイクスピアの戯曲ではないが、ロミオよろしくブルーの部屋の窓を目指して忍び込むしかないかもしれない。バルコニーならぬ窓越しの語らいで済めばいいものの、うっかり部屋へと入ってしまって一線を越えてしまったら…。
(…絶対に無いと言い切る自信が全く無いな)
 ゆっくりと二人きりの時間を過ごしていられるからこそ、自制心も充分に働いてくれる。しかし限られた時間しか無く、それも隠れての逢瀬となったら歯止めが利かない可能性が高い。
(……当分、隠しておくしかないぞ)
 ブルーが結婚出来る年齢、十八歳を迎えるまでは前世での仲を隠し通すしかないだろう。迂闊に話して引き裂かれたが最後、自分もそうだが、ブルーもどう出るか分からない。
 祝福されて共に歩みたかったら、今は黙っていることだ。



(…しかしだ、ブルーが無事に十八歳になったとして…)
 ついでに前世と同じ姿に育ったとして、と考えた所で次の難関へとぶつかった。
 ブルーを伴侶に迎えたいから、とブルーの両親に申し出る時、何と話せばいいのだろうか。
 前世からの恋人同士であることは是非とも伝えたいのだが、それを明かしたなら…。
(実は前世から恋人同士で付き合ってました、と言ったらマズイぞ)
 自分たちの可愛い一人息子をとっくに押し倒して深い関係になっていたのか、と誤解されそうな上に、キスさえ交わしてはいないと言っても恐らく信じて貰えまい。
 それまでの信頼が深かった分、裏切られた衝撃と落胆は大きいだろうし、ハーレイへの評価だけならともかく、ブルーの評価も地に落ちそうだ。親に隠れてコソコソと何をしていたのか、と。
(黙っていたとしてもマズイ方へ転がっちまうかもなあ…)
 前世での仲を伏せた場合は、いつからブルーに惹かれていたのかということになる。ハーレイの想いをブルーが受け入れ、結婚に同意したのはいつなのか、とか。
(…やっぱりとっくにキスしていたとか、それ以上だとかを疑われるな…)
 そうならないよう、二人きりで過ごす時間を放棄しようか?
 ブルーの部屋で過ごす時には扉を開けておくことにするとか、ブルーの部屋ではなく両親も居る階下で過ごすことにするとか…。
(今からそうしておけば俺の潔白は証明できるが…)
 そうなると恋人同士の会話が出来ない。自分は将来のためだと思えば我慢も出来るが、ブルーの方はそうはいかない。今でさえキスを強請ってくるのに、恋人同士の会話すらも禁じられたなら。
(…それこそロミオとジュリエットだぞ)
 小さなブルーならきっと言い出す。
 両親が眠っている夜の間に窓越しでいいから話したいとか、会いたいだとか。
 そうした逢瀬を重ねていたなら、さっき恐れたとおりの展開。
 互いの想いが募った挙句に一線を越えて、ブルーの両親に顔向け出来ない深い仲になってしまうだろう。それこそブルーの両親が知らない間に、よりにもよってブルーの部屋で。
 最悪だとしか言いようが無いが、そういう事態も充分あり得る。
 自分の潔白を証明するつもりで取った行動が却って仇となり、潔白どころか逆の結果に…。



 ブルーとはいずれ結婚したいし、結婚しようと決意している。
 前世で叶わなかった分までブルーを幸せにしてやりたかったし、そのためにも正式に伴侶として自分の側に置きたい。
 自分の両親にはとうに話して、二人とも快諾してくれた。
 だが、肝心のブルーの両親。どう持ち掛けても、自分への信頼が揺らぎそうだという現実。
 それでもブルーの両親に申し込まねば、ブルーを手に入れることは出来ない。
 自分との結婚を夢見るブルーを幸せにしてやることが出来ない。
(…どうしたもんだか…)
 自分一人の評価だったら、どうなろうともかまわない。
 長の年月騙していたのかと罵倒されようが詰られようが、自分一人なら濡れ衣も着るし、泥でも被る。けれどブルーはどうなるのだろう?
 両親に可愛がられて育ったブルーが自分のせいで親不孝者になってしまったら…。
 ブルーはキスさえ我慢したのに、とんでもない濡れ衣を着せられたなら。
 いいや、濡れ衣だったらまだしも、それが濡れ衣で無かったならば。両親に内緒で自分とキスを交わし、ベッドも共にしていたならば…。良心の呵責にブルーの心は耐えられるだろうか?
 今度こそ幸せにすると誓ったブルーに悲しい思いをさせたくはない。
 自分との結婚は幸せだけを運んで来るものであって欲しいのに…。



 考えるほどに、難関だとしか言いようがないブルーとの婚約、そして結婚。
 ブルーの両親を失望させずに話を運ぶ方法が全く見付からない。
(…どう転んでも俺の評価はボロボロ、ブルーまで巻き込んじまうんだが…)
 困ったものだ、と鏡の中の自分を眺めて、大きな溜息を吐き出して。
 だが待てよ、とハーレイはキャプテン・ハーレイそのままの自分の姿に思う。
 十四歳の小さなブルーが結婚出来る年になるまでには丸々三年以上もある。
 三年もあれば、その間に妙案が浮かぶかもしれない。
 そうに違いない、と自分自身を慰める。
(…なんとかなるさ)
 なんとかなる、と一本しか無い歯ブラシを見詰め、おもむろに髪を撫で付け始める。
(…いかんな、せっかく早起きしたのにな?)
 一時間も早く起きたというのに、気付けば普段と変わらない時間。ブルーの家を訪ねるためには急いで支度をしなければ。
(うんうん、あいつが待っているしな)
 二階の窓から手を振ってくれる小さなブルー。
 キスさえ我慢し、ひたすらに自分を慕ってくれる十四歳の小さなブルー。
 ブルーを傷付けず、ブルーの両親を決して裏切らず、必ずブルーを手に入れてみせる。
 何処かにきっと、いい案がある。



(…頑張って名案を見付け出すさ。そして結婚を申し込む、と)
 まずはブルーに、それからブルーの両親に。
 どんなに高いハードルを越える羽目になろうとも、いつかはそれも笑い話だ。
 そして歯ブラシは二本になる。
 今はまだ一本しか無い歯ブラシと並んで、もう一本。
 かつてのような秘密の二本の歯ブラシではなく、其処にあるのが正しい歯ブラシ。
 ブルーを伴侶に迎えた時には、歯ブラシは二本要るのだから…。




         二本の歯ブラシ・了

※ブルーを伴侶に迎えるまでのハードルが高そうだ、と悩むハーレイですけれど。
 運命の二人ですから、きっと大丈夫。早く二本の歯ブラシを並べられるといいですよね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]