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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

「ブルー? ママはお買い物に行って来るから」
 学校から帰って来て、制服から家で着る服に着替えて。階段を下りてダイニングに入ったら声を掛けられた。普段ならぼくが学校に行っている間に済ませる買い物。今日はお客さんが来ていて、行けなかったみたい。
「おやつは其処よ。飲み物は自分で好きなのを入れて」
 食べ過ぎちゃ駄目よ、と念を押してママは出掛けて行った。ダイニングで一人でおやつの時間。お客さんに出したケーキの残りなんだろう、マロンクリームたっぷりのモンブラン。
(えーっと…)
 モンブランはお腹が一杯になりやすいから、小さめに切ったらいいのかな?
 いつも食べるケーキがこのくらいだから、モンブランはそれより小さめ…、と切ってお皿の上に乗っけて。お湯を沸かして紅茶も淹れた。ミルク多めでお砂糖も多め。
(モンブランは甘いものね)
 甘いミルクティーは思ったとおりによく合った。美味しく食べて、ミルクティーも飲んで。
(…もうちょっとだけ食べようかな?)
 ほんの一センチか二センチくらい。それなら食べ過ぎにならないと思う。モンブランはとっても美味しかったし、もう少し…。
(ちょっとくらいなら平気だよね?)
 晩御飯さえきちんと食べれば大丈夫。よし、とナイフを取りに行こうとしたら。



(えっ?)
 ゴツン、と変な音がした。コツン、だったかもしれないけれど。
 ダイニングの窓の方から聞こえた。庭が見えるように、ぼくの背丈よりも大きなガラスを嵌めた掃き出し窓が並んでいる辺り。
(…ゴツン?)
 何の音だろう、と見に行って窓から覗いてビックリ。
 窓ガラスにぶつかってしまったらしくて、外のテラスに小鳥がコロンと転がっていた。仰向けに転がって動かない小鳥。白いお腹と小さな足はピクリともしない。
(死んじゃった?)
 ぼくが慌てて窓を開けたら、その音で気が付いたんだろう。小鳥はなんとか起き上がった。
 だけど、まん丸。
 身体中の羽根がプウッと膨れてしまって、ふくら雀みたいにまん丸な小鳥。
(…縮むのかな?)
 多分、驚いて羽根が逆立っているんだとは思うけれども。
 直ぐに縮むと思った小鳥の身体は縮まなくって、まん丸のままで突っ立っている。クルンとした目はちゃんと開いているけれど、動きもしないし、瞬きもしない。
(もしかして打ちどころが悪かったとか…?)
 お医者さんに連れて行くべきだろうか、と眺めていて不意に「あっ」と思った。
(青い鳥だよ)
 白いお腹をしていた鳥の他の部分は瑠璃色の羽根に覆われていた。
 艶々と輝く、目の覚めるような綺麗な青。空の青よりもっと深い青。
 前のぼくが憧れた地球よりもずっと、青い青い羽根を纏った本当に本物の青い鳥…。



 遠い遠い昔、前のぼくがシャングリラで暮らしていた頃。
 シャングリラの中だけがぼくたちの世界だった頃。
 なんとか余裕が出来てきたから、本とかを読める時間が取れるようになった。
 それまでは本を読むと言っても必要な知識を仕入れることが最優先で、娯楽としての読書の時間じゃなかった。それぞれが得意とする分野の本だけを懸命に読み込んだ時代。
 そういう時代がどうにか終わって、気の向くままに色々な本を読めるようになったから。ぼくは普通の本も読んだけど、童話なんかにも手を出した。成人検査とアルタミラでの過酷な人体実験で失くしてしまった昔の記憶が蘇るかも、という気がしたから。
 幼かったぼくが何を読んだのか、どんな本や絵本を好んでいたのか。小さな欠片でも思い出してみたくて、折に触れては絵本や童話を手に取っていた。
 そんな日々の中、出会ったSD体制が始まるよりも前に書かれた物語。小さな兄妹が夢の世界で幸福の象徴の青い鳥を探しに出掛ける話。
 前のぼくが幼い頃にそれを読んだのか、そうでないのかは分からなかったけれど。
 青い鳥に無性に心を惹かれた。
 幸せを運んで来てくれる青い鳥。青い地球の色を宿した鳥。



 シャングリラで青い鳥を飼いたくなった。
 青い地球まで行けるようにと、幸福を運んで来てくれるようにと。
 だけど…。
「そんなものは何の役にも立たんわ」
 まだ若かったゼルにバッサリと切って捨てられた。
「本当に幸福を運んで来るなら使えるだろうが、ただの青い鳥なんか厄介なだけだ」
 …ゼルが言う通り。
 青い鳥は何の役にも立たない。餌を食べるだけで世話が必要なだけ。
 それでも欲しくて、あれこれと調べてみたのだけれど。
(…卵が美味しいとか、そういう青い鳥がいれば良かったんだけどね?)
 役に立つ青い鳥は見付からなかった。
 青い色の鳥が沢山いることは分かったけれども、どれも生活に役立つものじゃなかった。小鳥を飼っても子供たちしか喜ばないだろうし、公園に放すわけにもいかない。
 前のぼくの憧れの青い鳥。幸せを運ぶ、地球と同じ色の羽根をした青い鳥。
 いくらソルジャーでも、我儘を言って青い鳥を飼うことは褒められたことじゃなかったから。
(…諦めるしかなかったんだよね、青い鳥…)
 その代わり、ナキネズミを開発した時に青い毛皮をしたのを選んだ。
 開発途中では白とか茶色の個体もいたんだけれども、毛皮の色で能力に差は生じないとの説明を聞いて青い毛皮の個体を推した。絶対に青がいいと思った。
 だって、幸せの青い鳥と同じ青だから。
 ミュウに幸福を運んで来てくれるようにと、願いをこめて青を選んだ。
 そういうわけで、ミュウが創り出した思念波を操る生き物、ナキネズミは青い毛皮を纏うことになった。幸せの青い鳥の代わりに…。



(前のぼくは青いナキネズミが精一杯だったんだけどね?)
 ぼくはテラスでまん丸になったままの青い小鳥を見詰めた。
 流石は地球だ。
 ぼくがおやつを食べてる所へ、青い鳥が降って来るなんて。
(ホントに本物の青い鳥だよ)
 お腹は白いけど、他は全身、見事な瑠璃色。染めたわけじゃなくて、自然の瑠璃色。
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 前のぼくの憧れだった幸せの青い鳥。
 ハーレイにも見せてあげたいな、と思うけれども…。
(…もし来てくれても、学校の帰りに寄ってくれる時間は夕方だしね…)
 そんな時間まで飛び立てなかったら小鳥はおしまいだと思う。
 暗い中では目が見えない鳥も多いって聞くし、ねぐらに帰れなくなるとか、迷うとか…。森には小鳥を餌にしているフクロウとかも棲んでいる。見付かってしまったらそれでおしまい。
(早く飛べるようになるといいんだけれど…)
 ぼくのサイオンがもっとマシなら「元気出してね」って言ってあげられるかもしれないのに。
 お医者さんに連れて行くべきかどうか、調べられるかもしれないのに。
 ママにもそういうサイオンは無い。それに、そのママは今、買い物で留守。
(……どうしよう……)
 青い小鳥は嬉しいけれども、死んでしまったらそれどころじゃない。
(家に鍵を掛けて、お医者さんまで連れて行く?)
 だけど、小鳥を診てくれるお医者さん。
 獣医さんに行けば診てくれるだろうけど、ぼくは獣医さんに行ったことがない。
(…人間の病院と同じかな? お願いします、って言えばいいのかな…)
 とにかく連れて行ってみようか、と入れ物を探すことにした。
 ペット専用のケージなんかは家に無いから、普通の箱でもいいんだろうか。
(えーっと、空き箱…)
 何処にあるかな、と立ち上がった途端にチャイムの音。
 お客さんだろうと思ったのに…。



「はーい!」
 返事したぼくは、お客さんが誰か分かって目を見開いた。
「えっ、ハーレイ!?」
 大慌てで玄関の扉を開けて飛び出し、門扉を開けに庭を走って行った。チラリと見たガレージにハーレイの車。生垣の向こう、門扉の脇でハーレイが軽く右手を上げている。
「すまんな、お前しかいなかったのか?」
「うん。ママは買い物」
 門扉を開けて、ハーレイが庭に入って来て。
 玄関まで二人並んで庭を歩きながら、ぼくはハーレイに尋ねてみた。
「なんで早いの? まだ夕方にもなっていないよ」
「今日は特別だ。柔道部がお疲れ休みというヤツなんだ」
 昨日は大会だったからな、と話すハーレイと一緒に玄関から入る。ハーレイは靴を脱いで上がる途中で、先に上がっていたぼくを見上げてニッと笑った。
「お前と一緒に帰って来てもいいくらいだったな、この時間だとな」
「そうだね、学校で待ってれば良かったのかも…」
 待っていればハーレイの車に乗せて貰って家まで帰って来られたかもしれない。
 それはちょっぴり残念だけれど、こんなに早い時間にハーレイが家に来てくれるなんて…。
(もしかして、これが青い鳥の幸せ?)
 ホントに幸せを運んで来たよ、と嬉しくなった。
 でも…。
 その青い鳥は、テラスでまん丸。
 動かないままで、ふくら雀みたいに膨れてまん丸。
 お医者さんに行こうとしてたんだっけ、と思い出した。
(ハーレイが来てくれたことは嬉しいけれども、命懸けで幸せを運ばなくてもいいんだよ…)
 それじゃ、ぼくと同じ。
 ミュウの未来を守るためにメギドを沈めて死んでしまった前のぼくと同じ。
 そこまで頑張らなくてもいい。
 いくら幸せの青い鳥でも、そこまで頑張ってくれなくていい……。



 きっとぼくは悲しそうな顔になったんだろう。ハーレイが「どうした?」と訊いて来た。
「どうしたんだ、ブルー? 急に元気が無くなったぞ?」
「……ぼくの青い鳥……」
「青い鳥?」
 ハーレイは怪訝そうな顔をして問い返したから、ぼくはハーレイの腕をグイと掴んだ。
「こっち! 大変なんだよ、ぼくの青い鳥…!」
 大きな身体をグイグイ引っ張って、ダイニングの窓際へ連れて行った。
 青い小鳥はやっぱり、まん丸。
 膨らんだままでテラスに突っ立っている。そう、魂が抜けてしまったみたいに。
「ハーレイ、これ…」
 指差すと、ハーレイは「オオルリか」と小鳥の名前を口にした。
「なるほど、ガラスにぶつかったのか…。映った景色を本物の景色と間違えたんだな」
「…オオルリって言う鳥なんだ?」
「ああ。綺麗な鳥だが、鳴き声の方も有名なんだぞ? ウグイスにも負けない綺麗な声だ」
 しかし、この状態では鳴くどころではなさそうだな…。
 どれ、とハーレイが窓際に屈み込んで大きな手を差し出しても、青い小鳥は動かない。膨らんだ身体も縮みはしないし、ハーレイの手が真上に来たって動かない。
「うーむ…」
「大丈夫そう?」
「さてな…。俺もこの手のサイオンってヤツは、だ…」
 あまり得意じゃないからな、と言いながらも褐色の手からふわりと淡い緑のサイオン。そうっと青い小鳥をサイオンで包むようにして、直接触らずに暫く探っていたけれど…。
「どうやら驚いているだけのようだ。人間で言えば腰が抜けたといった所か」
 深刻なダメージは受けていない、と聞かされて心の底からホッとした。
 命懸けで幸せを運んで貰ったとしたら、申し訳ないなんてものじゃないから。
 ぼくに幸せをくれたんだったら、青い鳥にも幸せになって欲しいから…。



 ほうっと息をついて膨らんだ小鳥を眺めていたら、ハーレイが訊いた。
「それにしても、お前…。この程度のことも出来なくなっちまったのか? こいつがどんな状態かくらい、前のお前なら一瞬で分かった筈なんだがな?」
「うん…」
 とことん不器用になってしまった、ぼくのサイオン。前のぼくと同じタイプ・ブルーのくせに、何ひとつ満足に出来やしないし、思念だって上手く紡げやしない。だから小鳥を見詰めて呟く。
「小鳥が大丈夫か調べるどころか、青い鳥が来ることも分からなかったよ」
「青い鳥って…。そりゃ青いだろう、オオルリだぞ?」
「そうじゃなくって、青い鳥だよ。幸せの青い鳥、覚えていない?」
「そっちの方の青い鳥か…」
 前のお前だな、とハーレイは懐かしそうな瞳になった。
「お前、飼いたがっていたっけなあ…。シャングリラで」
「うん。思い出したんだよ、この鳥を見たら。…青い鳥だ、って」
 前のぼくが欲しかった青い鳥。
 憧れの地球と同じ青い色をした、幸せを運ぶ青い鳥。
 でも、青い鳥は何の役にも立たなかったから、ナキネズミで我慢するしかなかった。
 青い毛皮のナキネズミを飼って、ミュウの幸せを祈ることしか出来なかった。
 欲しくて欲しくてたまらなかった青い鳥。
 その青い鳥が降って来た。
 今のぼくの前に空からコツンと、あるいはゴツンと、窓のガラスにぶつかって。



 オオルリという名前を持っているらしい青い鳥。
 ウグイスに負けない綺麗な声で鳴くとハーレイに聞いた青い鳥。
 腰を抜かしているだけだったら、お医者さんには連れて行かなくてもいい。それに…。
「ねえ、ハーレイ。この鳥、飼ってもかまわないかな?」
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 前のぼくが欲しくて欲しくてたまらなかった青い鳥。おまけに地球の青い鳥。
 飼っていたら幸せを沢山貰えそうだから、飼ってみようと思ったのに。
「そいつは駄目だぞ。自然の鳥は自然のままに…、だ」
 自然の中で生きるのが一番なんだ、とハーレイにピシャリと言われてしまった。
「お前だって籠に閉じ込められたら嫌だろう? 籠じゃなくってシャングリラでも……だ」
 シャングリラの中しか無かった時代より今の方がずっと幸せだろうが。
 違うのか、ブルー?
「…そうだけど…。でも、せっかく青い鳥が家まで来てくれたのに…」
「幸せの青い鳥だと言うなら、なおのこと自由にさせてやらんと駄目だと思うぞ」
 こいつは幸せを配達中の青い鳥なんだ。
 お前の所の用事が済んだら、次の幸せを配りに行くんだ。
「それなのに、お前、まだ幸せをくれって欲張るつもりか? 家に閉じ込めて」
「……そっか……」
 ハーレイの言葉で思い当たった。
 ママが買い物でいない間に、空から降って来た青い鳥。
 青い小鳥が降って来たから、いつもより早く来てくれたハーレイと一緒に幸せな時間。
 ハーレイと二人きりで過ごせる場所は家の中ではぼくの部屋だけで、ダイニングで二人きりでの時間が持てるだなんて一度も考えたことが無かった。一階のダイニングもリビングもパパとママも一緒の食事やお茶の時間に使う場所。ハーレイと二人きりで独占するなんて不可能な場所。
 そのダイニングでハーレイと二人、青い小鳥を見守っている。
(これ以上、欲張っていたら駄目だよね…)
 もっと幸せが欲しいだなんて願ったら神様に叱られそうだ。
 幸せなんて数えるほどしか持っていなかった前のぼくなら大丈夫だけど、今のぼくだと青い鳥を自分で飼いたいだなんて充分、欲張り。
 飛んで来てくれただけで幸せなんだし、空へ返してあげなくちゃ…。



 ふくら雀みたいに膨らんでいた鳥は、少しずつ縮んで普通になって。
 ぼくとハーレイとが見ている間に羽を何回かパタパタさせてから飛び立っていった。テラスから真っ直ぐ青い空へと。瑠璃色の羽根より薄い色をした、まだ充分に明るい空へと…。
「良かったあ…。まだフクロウには見付からないよね」
「そうだな、もう一軒くらい幸せを配達しに行けるんじゃないか?」
 窓ガラスにぶつからなければな。
 お前みたいな欲張りに捕まっちまって、籠に入れられなければいいな。
「酷いよ、ぼくは入れなかったよ!」
「どうだかな? 俺が来なかったら入れたんじゃないか?」
「箱に入れて獣医さんに持ってくだけだよ、大丈夫か診て貰うだけだってば!」
 言い返したものの、もしもハーレイが来なかったなら。
 獣医さんに連れて行って、診察して貰って、飼い方を訊いて。
 もしも鳥籠を扱っていたならその場で籠に入れて貰って、餌も買って帰っていたかもしれない。獣医さんに鳥籠が無かったとしたら、帰り道でペットショップに寄って鳥籠と餌。
(…飼っちゃってたかもね…)
 だって、前のぼくが欲しかった青い鳥。
 ぼくだって見たら欲しくなったし、飼いたくなったことは間違いないから。
 そうして青い鳥を飼っていたなら、家に来たハーレイが鳥籠を見付けて訊いて来るんだ。「その青い鳥はどうしたんだ?」って。
(欲張りめが、って呆れられるね…)
 ぼくが大切に世話をしていても、ハーレイはきっと呆れた顔をしただろう。
 青い鳥が欲しかった前のぼくよりも幸せなくせに、まだ幸せが欲しいのかと。
 幸せを一人占めしようと思って青い鳥を捕まえて飼っているのか、と。
(…呆れられるより、逃がしてあげて多分正解だったんだよね?)
 ハーレイを早い時間に連れて来てくれた青い鳥。
 ハーレイと二人、ダイニングで過ごす幸せをくれた青い鳥…。



 青い鳥が飛んで行った後、ママが帰って来て、ハーレイが早く来ていることにビックリして。
「ブルー、ハーレイ先生にお茶とお菓子をお出しした?」
「えっ?」
 訊かれるまでもなく、テーブルを見れば一目瞭然。
 モンブランは置いてあるけれど、食べた後のお皿はぼくが使った分だけ。紅茶のカップもぼくの分だけで、ハーレイのお皿もカップも無い。
 ママは恐縮してバタバタとお茶の用意を始めて、ぼくとハーレイは二人で二階へ。ダイニングはママも居る普段の空間に戻ってしまった。
 解けてしまった、青い鳥が運んで来てくれた幸せの魔法。
(青い鳥も何処かへ飛んでったしね…)
 だけど、いつもと違う場所でハーレイと二人きりで色々と話せたから。
 青い鳥が欲しかった前のぼくの思い出話も出来ちゃったから。
(…やっぱり幸福の青い鳥だよ)
 間違いないよ、と確信した。
 ぼくの所へ飛び込んで来てくれた青い鳥。
 幸せを運んで来てくれそうだからと、前のぼくが欲しがった青い鳥…。



 窓の外の木の枝を覗いてみたけど、青い小鳥の姿は無かった。
 ぼくに幸せを配り終わって次の家へと飛んで行ったか、明日に備えて眠るために森に帰ったか。
(…もう一度ぼくに幸せってことはないよね、今日の間は…)
 明日はどうかな、と考えていたら、ハーレイに「こらっ」と軽く頭を小突かれた。
「お前、まだ青い鳥がいないか探しているな? 欲張りめが」
「分かっちゃった?」
「俺の方を見ないで庭ばかり見てれば馬鹿でも分かる」
 それで、青い鳥の方がいいのか?
 俺よりもそっちがいいと言うなら今日は早めに帰ることにするが。
「そ、それは無しだよ、せっかく早く来てくれたのに!」
「なら、欲張るな。今日は充分幸せだろうが、お前というヤツは本当に…」
 青い鳥を飼おうとするとか、また来ないかと探しているとか。
 何処まで欲が深いんだか、とハーレイは呆れているんだけれど…。
(えっと、オオルリだったっけ?)
 元気に森へ飛んで行ってね、ぼくの青い鳥。
 今度は窓にぶつかったりせずに、また幸せを運んで来てね。
(そして綺麗な鳴き声も聞けるといいんだけれど…。ハーレイが来てくれている時に)
 ハーレイに欲張るなって言われてるのに、また欲張りになっているぼく。
 自分でも酷いって思うけれども、青い鳥は前のぼくが欲しかった夢の鳥だから…。
(……欲しくなっても仕方ないよね?)
 幸せも、幸せを運んで来てくれる青い小鳥も。
 空から降って来た幸せの鳥。
 青い鳥、またぼくの家に飛んで来てくれるといいんだけれど…。
 ぼくの幸せの青い鳥。鳥籠には絶対閉じ込めないから、いつか鳴き声をぼくに聞かせて。
 ハーレイと二人で聞ける時間に、庭に来て綺麗な声を聞かせて。
 お願い、ぼくの幸せの小鳥。瑠璃色の羽根をした、まん丸だったオオルリ……。




          青い鳥・了

※ブルーに幸せを運んで来てくれた青い鳥。無事に飛んで帰れて良かったですよね。
 前のブルーが飼いたがっていた青い鳥が落ちてくるのも、地球ならではの幸せかも…。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv







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(わあ…!)
 通り雨が上がった後での下校時間。バス停で帰りのバスを待っている時に、見上げた方向の空に虹を見付けた。七色に輝く大きな虹。さっきの通り雨のせいだろう。もう青空が出ているから。
(綺麗な虹…)
 それに、と虹が架かった場所を眺めて嬉しくなる。ぼくの家とハーレイの家がある辺りの真上を虹のアーチが横切っていた。大きな虹だから何ブロックも離れていたって一跨ぎで、同じ虹の下。まるで神様がセットで架けてくれたみたいに。
(もっと小さな虹だったら…。ぼくの家とハーレイの家とが繋がったのかな?)
 そういう虹もきっと素敵だ。虹の橋を渡ってぼくの家からハーレイの家へ。ううん、二人同時に自分の家から虹の橋を渡って、真ん中で出会って抱き合ってキス。
(…今だと「キスは駄目だ」って、叱られそうだけどね?)
 ついでに虹の橋、渡れないってことは分かっているけど。あれは細かい細かい水の粒にお日様の光が反射して出来る自然の魔法で、渡れもしないし触れもしない。でも…。
(あれを渡ってハーレイの家まで行けたらいいのになあ…)
 渡りたいな、と虹の橋を見ていたらバスが来た。乗り込んで、ちょうど空いていたから虹の橋が見える方の窓際に座る。大きな虹はハーレイの家とぼくの家とを繋ぐ代わりにセットで上を跨いでいるわけだけれど、あの虹でぼくたちの家が繋がっていたら、と夢を思い描く。
(ハーレイの家には行っちゃいけないって言われてるけど、橋が架かったら話は別だよ)
 虹の橋を渡って来たら着いちゃったんだ、と庭とかに下りたらハーレイだってきっと断れない。お茶くらい飲ませてくれるだろう。
(橋が消える前に急いで帰れ、とは言いそうだけどね?)
 だけど、今、見えている大きな虹の橋。まだ消えそうになくて綺麗な七色。消えるまでに充分にお茶を飲めそうで、もしかしたらお菓子も食べられるかも…。



(…虹の橋、渡って行きたいなあ…。ぼくの家からハーレイの家まで)
 今のぼくは前のぼくみたいに空を飛ぶことが出来ないから。
 瞬間移動だって出来やしないし、一度だけメギドの夢を見た時にハーレイのベッドまで瞬間移動した事件はあったけれども、あれ以来、再現不可能なまま。またいつか行けると思っていたのに、ぼくは全然ハーレイの家まで飛んでいけない。
 ハーレイは「瞬間移動で俺の家まで飛んじまったし、もう大丈夫だと安心したんだろう」なんて笑って言ってる。ついでに「お前、美味しい思いをしたしな? 下心があると無意識の内は二度と飛べんな、残念ながら」と言われてしまってグウの音も出ない。
 だって、美味しい思いをしたことは本当だから。ハーレイのベッドの上で目が覚めて、朝御飯はハーレイの手作りで。それからハーレイの車で送ってもらって、ぼくの家まで夢のドライブ。
(…またやりたい、って思ってるからダメなんだろうな、瞬間移動…)
 ハーレイの家まで飛んでしまった時は、素敵な目標も夢も無かった。メギドで死んでしまう夢を見てしまって、今のぼくは幻なのかと思った。死んだソルジャー・ブルーの魂が地球へ行きたくて紡いでいる夢。その夢がぼくの居る世界なのかもしれない、と。
(ホントのホントに怖かったんだよ、何もかも消えてしまいそうで…)
 あれは夢だと言って欲しくて、ハーレイに会いたいと泣きながら眠った。気付いたらハーレイのベッドの上に居て、瞬間移動をしたのだと知った。
(あのくらい怖い思いをしないと飛べないんだろうな…)
 ハーレイの家まで飛びたいけれども、怖い思いはしたくない。メギドの悪夢は今だって見るし、夜中に泣きながら目を覚ますことも何度もあるから、これ以上は勘弁して欲しい。
(…虹の橋なら怖くないしね?)
 神様が気まぐれに架けてくれる橋。それがぼくの家とハーレイの家とを繋いでいたなら、渡って出掛けても叱られはしない。七色に輝く虹の橋を見て渡りたくならない方がおかしい。
(ハーレイの家まで虹の橋を渡って行ってみたいよ)
 水の粒と光で出来た虹の橋。歩いて渡るなんて無理だってことは分かっているけれど、それでも虹の橋を渡ってハーレイの家まで出掛けたかった。
(あんなに綺麗な橋なんだもの…)
 渡って行ければきっと幸せ、ハーレイの家に下りて行ければきっと幸せ。
 空に架かった大きな虹はバスが家の近くのバス停に着いても、まだ見事なアーチを描いていた。
(うん、お茶を飲む他にお菓子を食べる時間もありそうだよね?)
 虹を渡ってハーレイの家に出掛けて、お茶とお菓子と。それから虹の橋を渡って帰るんだ。
(…そういう虹があればいいのに…)
 渡りたいな、と家に帰ってからも何度か窓から虹を眺めた。消えるまでの間、何度も、何度も。



 シャングリラでは見られなかった虹。
 常に雲海に潜んでいたから、虹なんか見られるわけが無かった。
 ぼくたちが保護したミュウの子供たちは画用紙に虹の絵を描いていたけれど、それは子供たちがまだ地上に居た頃に目にした虹の絵。養父母と暮らした幸せな時代の暖かな記憶。
 アルタミラの研究所で成人検査よりも前の記憶を奪われてしまった前のぼくたちは、虹を見た記憶も持っていなければ、本物の虹も見られなかった。
 ソルジャーとして外の世界へ出ることのあったぼくは、アルテメシアの虹に出会ったこともあるけれど、ハーレイや長老たちはシャングリラの中で生きていたから見ていない。他のミュウたちも虹を見られる機会が無いから、「今日、虹を見たよ」とは告げられなかった。
 シャングリラの一角に設けられていた展望室。本当だったら外の景色が窓いっぱいに広がる筈の展望室の向こうは、いつだって、雲。昼の間は真っ白な雲、夜になったら闇を含んだ重たい灰色。
 展望室に太陽の光は射しはしないし、虹だって見えはしなかった…。
(ハーレイだって本物の虹は一度も見てない筈だよね…)
 おやつを食べた後、二階のぼくの部屋に戻って勉強机の前で考える。
 机に飾ったフォトフレームの中、ぼくの隣で笑顔のハーレイ。左腕に今のぼくが両腕でギュッと抱き付いた写真。この写真のハーレイは今日のぼくみたいに虹を何度も見てるだろうけど…。
(…前のハーレイは見ていないよね?)
 前のぼくが外で見て来た虹の記憶は前のハーレイに何度も見せた。ぼく一人だけの秘密のままで隠しておくより、二人で共有したかったから。
 ハーレイはぼくの恋人で、誰よりも大切だったから…。
 幸せな記憶を分かち合いたくて、虹を見た時の記憶をハーレイにだけは渡していた。二人きりの青の間で手を握り合って、あるいは額をくっつけ合って。
 その度に「綺麗ですね…」と呟いていたハーレイ。
 本物の虹は見られないまま、死の星だった地球の地の底で死んだハーレイ…。
(ハーレイも、ゼルも、ヒルマンも…。エラもブラウも本物の虹は知らないままだよ…)
 やっぱり、ぼくだけ「虹の橋を渡りたい」なんて夢を見てたら駄目なんだろうか?
 それとも生まれ変わったからには時効だろうか、などと考えていたらチャイムが鳴った。
(…お客さんかな?)
 窓の方へ行って見下ろしてみたら、門扉の前にスーツのハーレイ。ガレージを見るとハーレイの車が入ってる。
(来てくれたんだ…!)
 学校の帰りに寄ってくれたんだ、と胸が高鳴る。
 今日の夕食はハーレイと一緒。パパとママも一緒の夕食だけれど、ハーレイと一緒…。



 夕食までは少し時間があるから、ママがハーレイをぼくの部屋まで案内して来た。いつも二人で向かい合わせで座るテーブル、其処に紅茶とクッキーが少し。夕食に差し支えない程度のおやつ。ハーレイと二人、紅茶を飲みながらクッキーを摘み、「あのね」とぼくは虹の話をした。
「とても綺麗な虹だったんだよ、それに大きかった」
「ほほう…。俺は二重の虹というヤツも見たことがあるが、お前はどうだ?」
「二重の虹!? ハーレイ、見たの?」
 写真でしか知らない二重の虹。ハーレイは何回か見ているらしい。
「ダテに年は食ってないからな? お前の二倍と十年分だ。お前もこれから見られるさ」
 運が良ければ、と付け加えられたけれども、いつか見られるといいな、と思う。ハーレイの隣で一緒に見上げられたらいいな、と夢が膨らんだ所で肝心のことを思い出したから。
「えっと…。今のハーレイは二重の虹も見てるけれども、前のハーレイ、知らないよね?」
「何をだ?」
「虹だよ、空に架かった本物の虹。…ハーレイもゼルたちも見ていないよね…」
 シャングリラは雲海の中だったから。虹なんか何処からも見られるチャンスが無かったから…。
「いや、本物の虹なら見たが? 俺も、もちろんゼルたちもだ」
「えっ!?」
 ぼくは驚いて目を見開いた。
 シャングリラから虹は見られなかった筈だというのに、ハーレイは虹を見たと言う。しかも他の長老のみんなも見ていただなんて、いったい何処で…?
 どう考えても分からないから、疑問をぶつけることにした。
「虹って…。何処で?」
「ナスカさ」
 お前の知らない赤い星だ、とハーレイの答えが直ぐに返って来た。
「前のお前は降りもしなかったし、第一、眠ったままだったしな? どんな星だったのかもろくに知らずに逝っちまったが、今のお前はそこそこのことは知ってるだろうが」
 あれこれ話してやったしな、という言葉どおりに思い出話は色々と聞いた。前のぼくが深く深く眠っている間にナスカで起こった様々なこと。
 若者たちと長老たちとの対立なんていう深刻な話から、他愛ない日々の出来事まで。
 そうか、ナスカなら虹も見られただろう。恵みの雨が降り注ぐから、とジョミーがナキネズミに「レイン」と名付けた、あの星ならば。



「…ハーレイ、ナスカで虹を見たんだ…。ゼルやヒルマンも」
「俺たちだけじゃないぞ? もれなく全員見てる筈だな。フィシスだって多分、見ただろう」
 最初の間はナスカへ降りなかったと聞いているフィシス。
 ジョミーが遠い昔に入植した人類が残した肖像画と墓碑とを見せてから後、降りるようになっていたらしい。肖像画と墓碑はハーレイも知っていて、何度か足を運んだそうだ。
 今のぼくより少し小さいか、同じくらいの年頃の子供と両親を描いた肖像画。遠い昔の展望台を思わせる廃墟と化した家の直ぐ前に、白いプラネット合金の墓碑。肖像画の子供のための墓碑。
 其処に刻まれた、風化して消えそうな文字に心を打たれたと聞いた。「誰が私に言えるだろう。私の命が何処まで届くかを」。ハーレイには前のぼくの思いそのままだと感じられた、その言葉。SD体制よりも遙かな昔の詩人、リルケによって書かれた詩の一節。
 ハーレイも案外ロマンチストだと思ったのだけれど、その墓碑があったナスカの虹。今の地球の虹とよく似ていたのか、あんまり似てはいなかったのか…。
「ハーレイ、ナスカの虹は地球のと似てた?」
「そりゃまあ、虹は七色だしな? しかしなあ…。如何せん、空の色がな」
 ラベンダー色だったというナスカの空。
 アルテメシアでも地球でも空は青いから、ぼくにはちょっと想像出来ない。ハーレイの前世での記憶を見せて貰ったことはあるけれど、なんだか不思議な色の空。
 あの空に虹が架かったとしたら、紫なんかは見えにくいのかな?
「いや、見えにくくはなかったな。ちゃんと七色の虹だった」
「何回か見たの?」
「ああ。雨上がりによく架かっていた」
 虹が目当てで雨の降りそうな日を狙って視察に降りたこともあった、とハーレイは笑う。
 そして散歩に出掛けたのだ、と。
「…散歩?」
 ぼくはキョトンと首を傾げた。
 虹はともかく、雨の降りそうな日に散歩だなんて…。普通は晴れた日じゃないんだろうか?



 散歩は天気のいい日が似合う。暑すぎも寒すぎもしない、穏やかに晴れた日。強い日射しに弱いぼくでも、散歩をするなら晴れた日が好き。ぼくくらいの年の男の子はあまり被らない、大きくてつばの広い帽子を被って家の近くを歩いてみるとか。
 今のハーレイだって、ぼくの家まで歩いて来る日は晴れた日が多い。晴れた日の散歩が好きだという証拠。それなのに、前のハーレイはナスカで雨の降りそうな日を狙っての散歩。虹が出たって地面は濡れるし、絶対に歩きにくいと思う。どうにも不思議でたまらない。
「ハーレイ、前は雨の日の散歩が好きだったの?」
「そういうわけではないんだが…。虹を見たいなら雨が降りそうな日が狙い目だしな」
 雨が上がって虹が架かったら出発だ、とハーレイは鳶色の瞳に懐かしそうな光を湛えて。
「空気が薄いからシールドを張って、それから虹を目指すんだ。…何度も何度も虹の橋のたもとを探しに行った」
「なんで?」
 虹の橋のたもとって、何だろう?
 七色に輝く虹の端っこ。それを探してどうするんだろう?
「ん? 虹の橋のたもとには宝物が埋まっているという話だからな?」
 ヒルマンがそう言ったんだ。ナスカで初めての虹が話題になった時に、皆に説明してくれた。
 だから宝物を探しに出掛けた。
 虹が架からないと行けないからなあ、雨の降りそうな日を選ばないとな?
 まさかキャプテンがナスカに常駐しているわけにもいかんだろう。シャングリラを放って下には居られん。あまり行けないナスカだからこそ、虹の架かりそうな日にしたかった。



 ハーレイが大真面目な顔で言うから、ぼくは宝物とやらが気になってきた。
 ヒルマンは「宝物が埋まっている」とSD体制よりも古い時代の伝説を披露しただけで、宝物が何を指すのかは特に話していなかったという。
 だけどハーレイは宝物を探しに何度も出掛けた。わざわざ虹が架かりそうな時を選んでナスカに降りてまで、虹の橋のたもとを探しに行った。
 ハーレイが探した宝物って何だろう?
 それに宝物を見付けることって、出来たんだろうか?
「ねえ、ハーレイ。その宝物って、何だったの? 人類の隠し財産か何か?」
 そういうものならハーレイが頑張って探していたのも分かる。
 ナスカに基地を築いたとはいえ、ミュウは追われる種族だったから、資材はいくらあっても充分ではない。宝物の中身が何であっても探し出すだけの価値はある。皆の命を預かるキャプテンともなれば、率先して探したかっただろう。そう思ったのに…。
「残念ながら、人類の隠し財産などという噂も資料も無かったな」
 それに、とハーレイの瞳が真っ直ぐにぼくを見詰めて。
「…俺の宝物と言ったら一つしかない。そして如何にも虹が似合いそうな…」
 お前だ、とハーレイは真剣な眼差しでぼくの瞳を覗き込んだ。
「今の俺にとっては宝物と言えばお前なんだが…。前の俺には前のお前だ」
「…前のぼく?」
 宝物と呼んで貰えたことは嬉しいけれども、どうしてぼくを探しに行くわけ?
 わざわざ虹が架かるのを待ってまで、虹の橋のたもとに探しに行くわけ?
 前のぼくはナスカじゃなくってシャングリラの中で眠っていたのに。
 宇宙に浮かんだシャングリラの青の間で眠っていたのに、ぼくを探してどうするわけ…?



 ナスカには居ないぼくを探しに、虹の橋のたもとを目指したハーレイ。
 どうしてだろう、と目を丸くしたままハーレイの顔を見ていたら。
「不思議でたまらない、って顔をしているな。そりゃそうだろうな、俺の勝手な思い込みだし」
「……思い込み?」
「虹はあんなに綺麗だろうが。そして虹の橋のたもとに宝物だぞ」
 お前の魂が埋まっていそうな気がしたんだ。
 見付けたらお前が目覚めるかと思って何度も探した。虹が架かる度に、何度も、何度も…。
 お蔭で沢山散歩が出来た、とハーレイは褐色の頬を緩めた。
 ナスカで生活していた者たちを除けば、自分が恐らく一番沢山の距離を歩いただろうと。
「虹が架かったら、とにかく探しに行かんとな? ジョミーみたいに飛んだりは出来んし、自分の足だけで虹を目指した。今度こそは、と虹の橋のたもとを探した」
 しかしだ、相手は水と光が空に描き出す幻の橋だ。
 俺がどんなに歩き続けても、橋のたもとには決して辿り着けなかったんだがな…。
「いつだって消えてしまうんだ。俺がたもとまで辿り着く前に」
「……ごめん……」
 ハーレイがどれだけの距離を歩いたのか、どれだけの悪路だったのか。
 それを話してはくれなかったけれど、道のりが楽でなかっただろうことは想像出来る。そうして歩いて歩き続けても、虹の橋のたもとには着けなくて。
 宝物が埋まった虹の橋のたもとには辿り着けなくて、ぼくの魂も見付からなかった。
 眠ったままのぼくは目覚めず、ハーレイを独りきりで孤独に放り出したまま眠り続けて、やっと意識が戻った時にはナスカの惨劇の直前で。恋人同士の時間なんかは持つことも出来ず、語らいの時すら持てないままで運命の時が来てしまった。
 ぼくはハーレイを残してメギドへと飛び、それっきり二度と戻らなかった…。



「……ごめん。…ごめん、ハーレイ…」
 ハーレイは懸命にぼくを探してくれたのに。
 眠り続けるぼくが目覚めないかと、宝物だというぼくの魂を探しに歩いてくれたのに。
 虹の橋のたもとを探し出すなんてこと、不可能に近いと分かっているのに、探し続けてナスカの大地を何処までも歩き回ってくれたのに…。
 ぼくはハーレイの想いに応えて目覚めるどころか、シャングリラに独り置き去りにした。
 メギドへ飛んだぼくも辛かったけれど、ハーレイの温もりを失くしてしまって独りぼっちで死ぬ羽目になったけれども、前のぼくの生は其処までで終わり。
 でも、ハーレイの生は終わりじゃなかった。
 ぼくがいなくなった後も独りきりで生きて、白いシャングリラを遠い地球まで運んで行った。
 ハーレイはどんなに辛かっただろう。どんなに悲しかっただろう…。
「…ごめん、ハーレイ…。宝物を探してくれていたのに…」
 それなのに宝物を見付けるどころか、失くしてしまった前のハーレイ。
 ぼくのせいで失くした前のハーレイ…。
「探さなくても良かったのに…。そんな宝物、探さなくても良かったのに…」
 ポロリと涙が零れて落ちた。
 虹の橋のたもとを探して沢山の距離を歩いたハーレイ。
 散歩だと言って出掛けるのだから、もちろんキャプテンの制服と靴で出掛けただろう。あの靴は雨上がりのぬかるみや、岩だらけだったと聞くナスカの大地を長時間歩ける仕様ではない。恐らくハーレイの足は痛んで、もしかしたらマメだって出来たかもしれない。
 それでもハーレイは虹の橋のたもとを探し続けることをやめなかった。
 探しても無駄だと分かっているのに。
 ぼくの魂は其処には埋まっていないし、虹の橋のたもとに辿り着くことなど不可能なのに…。



 ポロリと零れた、ぼくの涙。
 ハーレイの褐色の指が「泣くな」と、そうっと拭ってくれた。
「探したのは俺の思い込みだと言っただろう? それと我儘だな、宝物欲しさの」
「でも…。でも、ハーレイ…。探したって何処にも無いんだよ?」
 宝物も、虹の橋のたもとも。
 どちらもナスカ中を探しても無くて、ただハーレイの足が疲れて痛くなってしまっただけで…。
「いや、違うな。…俺は探しに行っておいて良かったと今では思う」
「どうして? 見付かるどころか逆だったのに…」
「…前の時はな」
 だが、今は違う。
 俺はお前をちゃんと見付けた。だからお前が今、目の前にいるんだろうが?
「あの時、頑張って探していたから。…神様がそれを見ていて下さったから、俺はお前にもう一度会うことが出来たんだろう。この地球の上で」
 青い地球の上でお前に会えた、とハーレイはぼくの大好きな笑顔を見せた。
 虹の橋のたもとも、宝物もちゃんと見付かったのだ、と。



 遠い遠い昔に、遠いナスカでハーレイが探しに行ってくれた虹。
 どうしても辿り着けなかったと話すハーレイが追い掛けた虹の橋のたもとに埋まっていたのは、ぼくの魂という名の宝物。
 前のハーレイは見付けられずに終わったけれども、今のハーレイはそれを見付けたと言う。
 だからハーレイとぼくは青い地球の上で再び出会えて、こうして向き合っていられるのだと。
(…ハーレイ、虹の橋のたもとに行けたんだ…)
 きっと今のハーレイが生まれて来る前、何処かで虹の橋のたもとを見付けた。
 虹の橋のたもとを頑張って掘って、埋まっていたぼくの魂を其処から掘り出してくれた。
(うん、きっとそうだよ、ハーレイが探しに来てくれたんだよ…)
 ナスカで虹の橋のたもとを探し歩いていたように。
 岩だらけのナスカの悪路を歩くには全く向かないキャプテンの靴で、足が痛むのもかまわないで歩き続けたように。雨上がりのぬかるみの中を「散歩」と称して出掛けたように。
 ハーレイならきっと、どんな所へでもぼくを探しに来てくれただろう。
 ぼくの魂が埋まっている虹の橋のたもとを探しに、何処へでも、どんな道であっても。
(…虹の橋のたもと、ハーレイは何処で見付けたのかな…?)
 今のぼくには分からないけれど、なんだか嬉しい。
 嬉しすぎてまたポロリと涙が転がり落ちた。
 辿り着くことなど不可能に近い、七色に輝く虹の橋のたもと。
 其処に埋まったぼくの魂を探し出すために、ハーレイがずうっと探し続けていてくれたことが。
 探して探して、辿り着いてくれたから、ぼくとハーレイとは地球の上に居る。
 何処だったんだろう、ハーレイが見付けた虹の橋のたもと。
 見付けて貰ったぼくの魂も、きっときっと、幸せだったと思う。
 覚えていないけど、幸せだったと思うから……ハーレイに「ありがとう」と御礼を言った。
 虹の橋のたもとを探しに行ってくれてありがとう。ぼくはとっても幸せだよ、って…。




          虹の橋のたもと・了

※雨上がりのナスカでハーレイが探した宝物。虹の橋がかかったら、いそいそ出掛けて。
 ブルーの魂が埋まっているかも、と頑張ったハーレイ。ブルーは幸せ者ですよね。
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(…なんだか、だるい…)
 それに寒い、とブルーは震えながらベッドで目を覚ました。
 今は秋。今朝は早い冷え込みが来るというから、風邪を引かないよう昨夜は早めに休んだのに。
 だるくて、少し熱っぽい。喉にも違和感。
(…手遅れだった?)
 昨日、学校でクシャミが何回か立て続けに出た。虚弱体質のブルーにはありがちな風邪の前兆。ただし本物の風邪に至らない時だってある。気温が急に変わった時などに多いクシャミの連発。
 風邪を引いてはたまらないから、終礼が済んだら急いで帰ろうと思ったのだけれど。教室を出て校門へと向かう途中の廊下でハーレイとバッタリ出会ってしまった。
 大好きなハーレイに会えたからには会釈や挨拶だけで帰りたくない。「ハーレイ先生!」と声を掛けて暫く立ち話をした。人気の高いハーレイは他の生徒に捕まることだって珍しくない。今日は自分の番なのだ、とばかりに話し込んでいたら、ハーレイが「すまん」と遮った。
「今日はこれから柔道部でな。着替えて稽古に付き合わないと」
 ブルーの胸がドキンと高鳴った。
(これから行くんだ…!)
 朝にはよく見る柔道着のハーレイ。朝練を指導した帰りのハーレイに何度も出会った。けれど、帰る時には滅多に見かけない柔道着を纏ったハーレイの姿。
 部活をしていないブルーの下校時刻が早過ぎて、ハーレイが出掛ける時間と合わないのだ。



(そっか、これから柔道部なんだ…)
 これは貴重だ、と思ったブルーは思い切って頼み込んでみた。
「少し待ってていいですか? ハーレイ先生が着替えて出掛けるまで」
「なんだ、柔道部を見学したいのか?」
 ハーレイが目を丸くしつつも、見学だなんて言ってくれたから。
「えっ、見に行ってもいいんですか?」
「少しならな。…だが、動いていないと体育館は冷える。ちゃんと早めに帰るんだぞ?」
「はいっ!」
 朝のグラウンドでの走り込みしか見たことがない柔道部。もちろん柔道という武道があることは知っていたけれど、その程度。
 初めての世界を大好きなハーレイつきで見学出来ると聞いたブルーは狂喜した。更衣室まで行く道のりもハーレイと一緒。はしゃぎながら着いた更衣室の前の廊下でハーレイが着替えてくるのを待った。柔道着の上から締めた黒い帯。有段者の印なのだと教えて貰った。
「この上に赤帯もあるんだが…。俺の年ではまだ取れないな」
「そうなんですか?」
「赤帯は九段と十段なんだ。だが、八段が満四十二歳からってことになってるからなあ…」
 当分無理だ、と聞かされて指を折ってみる。ハーレイは今、満三十八歳。八月二十八日が誕生日だったから、四十二歳まで残り四年近く。
(あと四年かあ…)
 八段まででも四年もあるんだ、と驚いたけれど。
(そうだ、四年後って…!)
 四年経ったら、ブルーは十八歳になる。結婚が法律で認められた歳。
 十八歳になったらハーレイと結婚するのだ、と心の中ではとうに決めていた。つまりハーレイが赤帯の前段階の八段とやらを取れる歳になる時には、多分結婚出来ている筈。ということは…。
(ハーレイが赤帯を貰える時って、絶対、結婚出来てるよね?)
 柔道着の上から締められた黒帯。この黒帯が赤になる頃には、自分がハーレイの隣に居る。赤い帯に届く前の八段とやらも、結婚してから取って欲しいなと思う。
(だって、四年後だよ?)
 あと四年。十八歳まで、あと四年…。
 ハーレイの黒帯に胸をときめかせながら、ブルーは柔道部の練習場所へと連れて行って貰った。



 体育館の中の広い一室、其処が柔道部の練習場所。
 ハーレイがブルーと一緒に入った時には既に稽古が始まっていて、最上級の四年生が後輩たちの練習を指導していた。主将だという一番大柄な生徒がハーレイの姿を認めて皆に指示を飛ばす。
「ハーレイ先生がいらっしゃったぞ、全員、礼っ!」
 大勢の部員がザッと動いて、全員が正座をしての深い一礼。
(…うわあ……)
 凄い、とブルーは息を飲んだ。一糸乱れぬ動きも凄いが、彼らの礼はハーレイに対してのもの。ただ顧問というだけの教師だったら、ここまでの尊敬を集めることは出来ないだろう。柔道の道に秀でたハーレイだからこそ、練習場所に現れただけで皆が一斉に敬意を表する。
 そのハーレイはブルーの肩をポンと叩いて、柔道部員たちに呼び掛けた。
「今日はお客さんが来ているぞ。恥ずかしくないよう、気合を入れてやれよ!」
「はいっ!」
 稽古に戻る部員たち。ブルーは一番端に畳んで置かれたマットの上へと案内された。
「此処に座って見ているといい。このマットは今日は使わんからな」
「はい、ありがとうございます!」
 ペコリとお辞儀し、膝を抱えてマットに座った。厚みがあるから床からの冷えは伝わらない。
(…ふふっ)
 素敵な見学場所を貰ったブルーは、初めて目にする柔道部員の練習風景に夢中になった。指導に出掛けたハーレイが檄を飛ばす中、技を掛け合う部員たち。
 ハーレイがブルーの守り役なことは知られているから、皆、きびきびと頑張っている。見学中の来客に熱意溢れる姿を披露せねば、と懸命になっているのが分かる。
「こらあっ、そんな技で相手が倒せるか!」
 しっかりやれ、とハーレイが叫び、「かかってこい」と何人かの部員を名指しした。殆ど同時にハーレイに飛び掛かる部員たち。恐らくは柔道部の中でも指折りの腕を持つ彼ら。もちろん主将も入っている。それをハーレイは軽くあしらい、次々にマットの上へと投げた。
(ハーレイ、凄い…!)
 投げられた部員たちが起き上がって再びかかってゆく。ハーレイは軽々と投げたり倒したり。
(凄い、凄いよ…!)
 ほんの少しだけ見学するつもりで来たというのに、ハーレイの技の凄さに惹き付けられて。
 柔道の技など全く分からないなりに見惚れている内に、またしても…。



 クシャン!
 その音を立てたブルーは慌てて自分の口を塞いだが、ハーレイが気付かないわけがない。稽古をつけていた部員たちに「後は皆でやれ」と指示を下して、ブルーの方へと歩いて来た。
「こら! 此処は冷えるから早めに帰れと言っただろうが」
「…ハーレイ先生…」
 もう少しだけ見ていたいんです、とブルーは頭を下げたけれども。
「駄目だ。クシャミをしたのを聞いた以上は帰って貰う」
 風邪を引く前に家に帰れ、と腕を掴まれて立ち上がらされた。それだけではない。帰ったふりをして外からこっそり覗いていたのでは意味が無いから、とハーレイ自らブルーに付き添い、校門の外まで送り出された。後戻りをして来ないように、と校門の前で腕組みをしての仁王立ち。
「いいか、真っ直ぐ帰るんだぞ? 暫くは此処で見張ってるからな」
「…はい…。ありがとうございました、ハーレイ先生」
 未練たらたらで柔道着姿のハーレイにお辞儀し、しおしおと学校を後にした。
 それが昨日の夕方のこと。
 思った以上にひんやりとしていた外気に包まれながら家の方へ行くバスを待って乗り込み、帰り着くなり直ぐにウガイをして、熱いホットミルクを飲んだのに。
 冷えた身体が温まるようにとホットミルクにたっぷりの蜂蜜、シナモンだって入れたのに…。



(……風邪引いちゃった……)
 あっさりと風邪を引いてしまった弱すぎる身体。誤魔化そうにも喉の違和感と熱っぽさ。階下に下りたブルーの不調は両親に一目で見抜かれてしまい、その場で熱を測らされた。案の定、微熱があることを無情に告げる体温計。
「駄目でしょう、ブルー! 熱があるわよ」
「口を開けてみろ。…喉が赤いな、風邪を引いたな? 病院に連れて行って貰いなさい」
 病院が開く時間まで暖かくして寝ているように、と自分の部屋へと追い返される。少ししてから母がトーストとホットミルクの朝食を持って来たけれど、学校はもちろん休まされてしまった。
(今日はハーレイの授業がある日だったのに…)
 ブルーは泣きそうな気持ちだったが、どうにもならない。
 朝食を済ませたら暖かい服に着替えさせられ、病院に連れて行かれて、注射に薬。
 身体の弱いブルーにとってはどちらも慣れたものだけれども、早く効かないならどちらも嫌だ。注射も薬も、前の生で嫌というほど試された。アルタミラでの研究所時代の過酷な人体実験で。
 悲惨だった前世を思い出させる注射と薬。けれど学校へ早く行けるのならば、と我慢した。
 それなのに…。
 痛い注射も、その場で飲まされた苦い薬も我慢した上、家で飲む薬もドッサリあるのに。
 大事を取って明日も休めと言われてしまった。付き添って来た母は素直に頷いている。
(明日も休むの!?)
 酷い、とブルーは涙を浮かべた。注射が痛かったからではない。苦い薬のせいでもない。
 二日もハーレイに会えないなんて。
 二日間もハーレイに会えないだなんて…!



 結局、一日、ベッドの中。
 ハーレイの授業が行われた筈の学校には行けず、明日も登校禁止の刑。ハーレイの授業は明日は無いけれど、学校に行ければハーレイに会える。ハーレイに会える筈だったのに…。
(…明日もハーレイに会えないなんて…)
 大した風邪ではないと思う。喉が少し変だというだけ、微熱があるというだけの風邪。
 けれどブルーの身体は弱い。健康な子供だったら二日くらいで治りそうな軽い風邪をこじらせ、肺炎を起こしたことも何度もあった。あわや入院かという騒ぎ。
(…病院の先生が言ってることも分かるんだけど…)
 分かるのだけれど、それでも悔しい。この程度の風邪で二日も休まなくてはいけない身体。前の生と同じに弱く生まれた、直ぐに壊れる弱すぎる器。
(…耳だけはちゃんと聞こえるけれども、他はおんなじ…)
 もっと健康に生まれたかった。ハーレイと毎日会える身体に生まれたかった。
(…この身体でなくちゃ駄目だってことは分かってるけど…)
 弱いけれども、前の生とそっくり同じ姿に出来ている身体。
 ハーレイが「さよならも言えなかった」と悔やみ続けた前の自分と同じ姿に育つ筈の身体。
 文句を言ってはいけないのだと、この身体だから意味があるのだと分かってはいても涙が出る。風邪を引いたくらいで二日間もハーレイに会えない弱すぎる身体…。



 日が落ちても明かりを点ける気になれず、ベッドの中で涙ぐんでいたらチャイムが鳴った。
(…ハーレイ、もしかして来てくれた!?)
 もしかしたら、と心が躍った。
 しかし、待っていても階段を上がって来る足音はしなくて、どうやらただの来客だったらしい。
(……ハーレイだったら良かったのに…)
 あのチャイムがハーレイでなかったのなら、今日はもう駄目。学校帰りのハーレイが立ち寄れる時間を半時間以上も過ぎてしまった。こんな時間から来てはくれない。
(今日はお見舞い、来てくれないんだ…)
 とうとうハーレイに会えなかった。会えずに一日が終わってしまう。
 それに身体もだるくて重い、と寝返りを打って丸くなる。
 昨日は幸せだったのに。
 あんなに幸せだったのに…。



 ポロリと涙が零れた時。
 階段を上がって来る足音を聞いた。母とは違う重い足音。父とも違った、聞き慣れた足音。
(まさか……ハーレイ?)
 チャイムの音を聞いてはいない。
 なんで、とブルーが思う間も無く扉がノックされ、開けられた。暗かった部屋にパッと明かりが点いて。
「起きてるか? ブルー」
 間違えようもない恋人の声と、背が高く頑丈な大きい身体。ブルーはパチリと目を見開いた。
「ハーレイ!?」
「こらこら、起きるな。風邪だそうだな、早く帰れと言ったのに」
 俺のせいか、とハーレイが扉を締めた後、入口の側に立ったままで済まなそうに謝るから。
「…ううん、もっと前にクシャミ…」
 ぼくのせいだ、とブルーは素直に詫びた。
 風邪の兆候かもしれないと思っていたのに、直ぐに帰らずに学校に居た、と。
「ハーレイは悪くないんだよ…。悪いのは、ぼく」
「そうなのか? なら、いいが…」
 俺のせいかと心配したぞ、と表情を和らげてベッドに近付いて来るハーレイ。
(…あれ?)
 ハーレイが持っているトレイ。
 嗅覚は落ちている筈だけれども、懐かしい野菜スープの香り。
 懐かしいけれど、いつものと違う。
 何故、と訝るブルーに向かってハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「気付いたか? 野菜スープのシャングリラ風、名付けて風邪引きスペシャルだ」



 ほら、とブルーの目の前に差し出されたトレイ。
 少しとろみがつけられた野菜スープにふんわりと溶いてある卵。細い糸のように見えるくらいに溶きほぐされた卵と、細かく刻んで煮込んだ野菜と。
(……風邪引きスペシャル……)
 そんな名前は無かったけれども、遠い記憶に刻まれたスープ。
 シャングリラで卵が貴重品だった時代に、風邪を引いて寝込んでしまったことが何回かあった。その時にハーレイが作って食べさせてくれた、卵が入った野菜のスープ。
 喉を通りやすいようにとろみをつけて、貴重品の卵を落としたスープ。
(…ぼくに食べさせるんだから、って卵を貰って来たって言っていたっけ…)
 まだ鶏が数えるほどしかいなかった時代。卵は本当に貴重品だった。一人で一個を食べるなんて贅沢、誰も思いはしなかった。
 多分、ぼくだから貰えた卵。ぼく以外には戦える者が居なかったから一人で一個貰えた卵。
(でも、ハーレイが頼まなかったら貰えもしないし、食べられもしないね…)
 野菜スープのシャングリラ風は野菜だけしか入らないけれど、これは風邪引きスペシャル。
 栄養がつく卵が入ったスープ。それも贅沢に丸々一個。
(そういえば、この味も好きだったっけ…)
 一番素朴な基本の調味料だけで煮込んだ野菜のスープと、この卵入りと。
 この二つだけはどんな時でも喉を通った。
 弱り切った時も、風邪を引いた時も、ハーレイの野菜スープと卵入りの野菜スープがあった…。



 ブルーはゆっくりと身体を起こした。このスープなら食べられそうだ、という気がしたから。
 起き上がってベッドの端に腰掛けると、ハーレイが側に置いてあったカーディガンを肩に優しく着せかけてくれた。テーブルが寄せられ、スープを満たした皿とスプーンが置かれる。
「卵入りのスープ、思い出したか? しっかり食べろよ」
 もう一つ、取って来るから待っていろ。
 そう言ってハーレイは部屋を出てゆき、ブルーはキョトンと首を傾げる。
(…もう一つ?)
 何だろうか、と考えてみたが分からなかった。
 病気の時には野菜スープのシャングリラ風。でなければ、卵入りの野菜のスープ。
(…何なのかな?)
 記憶には残っていない食べ物。
 卵入りの野菜スープを飲んだら思い出せるか、とスプーンで掬って口に運んでも思い出せない。とろみのついた野菜スープは懐かしいけれど、他に何か食べた記憶は無い。
(…ぼく、忘れちゃった?)
 そんな筈はないんだけれど、と悩む内にハーレイがトレイを手にして戻って来て。
「ほら、それと粥だ」
 テーブルに載せられた器の中身は、とろとろに煮込んだ粥だった。米だけではなくて、ほぐした鶏のささみと細く刻んだ白ネギを加えて煮込まれた粥。味付けはチキンスープだという。それから隠し味に胡麻油を少し、刻み生姜とニンニクも少し。
「食欲は落ちてないそうだしな? こいつは俺のおふくろの風邪引きスペシャルなんだ。…ネギは風邪に効くと言うんだぞ」
 生姜とニンニクも効くらしいな、とハーレイはブルーに粥を勧めた。
 ブルーは知らない味だろうけれど、今の自分には馴染み深い味の粥なのだ、と。



(…ハーレイのお母さんのお粥なんだ…)
 しみじみと粥の入った器を見詰めて、ふと気が付いたからハーレイに問う。
「これ、シャングリラには無かったよ? ぼくのママには何て言ったの、嘘ついて来たの?」
 ハーレイが野菜スープのシャングリラ風を作る時にはブルーの家のキッチンを借りる。この粥もキッチンで作ったのだろう。
 ブルーが他の客人かと思ったチャイムが実はハーレイで、スープと粥とを作っていたなら計算は合う。ブルーの両親は野菜スープのシャングリラ風を何度も目にしているから、卵入りがあっても多分、驚きはしない。
 けれども、粥は前例が無い。「こういう粥も作っていました」と言えば納得するだろうけれど、この粥はハーレイの母が作る粥。シャングリラで作っていたと申告すれば真っ赤な嘘だが、これは大嘘の産物だろうか…?
(嘘でも、ぼくは嬉しいけどね?)
 ハーレイの母の味が食べられることは、とても嬉しい。ただ、ハーレイが嘘をついて来たなら、後で両親にバレないように口裏を合わせておかなければ…。
 そう考えたブルーだったけれど、ハーレイは「俺は嘘なんかつかなかったぞ」と片目をパチンと瞑ってみせた。
「いつもは野菜スープのシャングリラ風ばかりだからな。お前のお母さんは俺の料理の腕を疑っていそうで、そいつはどうにも癪じゃないか。たまには真っ当な料理もしておきたい」
 俺のおふくろの直伝です、と言って作って来た。
 まあ、この程度では簡単すぎてだ、誤解を解くには至らん訳だが…。
 しかし少しくらいは評価が上がったと思いたい。あくまで俺の願望だがな。



 そう話しながら、ハーレイは粥の器をブルーが食べかけていたスープの器の直ぐ側に寄せた。
「食ってみるか? 俺のおふくろの風邪引きスペシャル」
「うん…」
 スープ用とは別に添えられたスプーンで一匙掬って、口にしてみて。
 病人食のお粥とは思えない、滋味深い味わいに驚いた。
「美味しい…!」
 ホントに美味しい、とブルーは温かい粥を掬って口へと運ぶ。細かくほぐされた鶏のささみと、柔らかくクタクタに溶けた白ネギ。チキンスープを含んだとろとろの米に、ほのかに香る胡麻油。ニンニクと生姜のせいなのだろうか、病人食と言うより、お粥と名の付く料理のようだ。
「ハーレイ、風邪を引いた時にはこれだったんだ?」
「俺は食欲不振になるような繊細なタチじゃなかったからな。とにかくしっかりと飯を食ってだ、栄養をつけてサッサと治した。お前も見習え」
 しっかり食べろ、と促しながらハーレイが尋ねる。
「スープはどうだ? 野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル」
「美味しいよ。ハーレイのスープもとっても美味しい」
 お粥も、野菜スープのシャングリラ風も、どちらの風邪引きスペシャルもいい。
 とても美味しい、とブルーはスプーンで口に運んだ。風邪のせいで違和感がある筈の喉を傷めず通過してゆく卵の入った野菜スープと、ハーレイの母の味だという粥と。
「そうか、美味いか。じゃあ、早く治せ」
 風邪引きスペシャル、せっかく作ってやったんだしな。
 ハーレイは微笑んでくれるけれども、ブルーは明日も登校禁止を言い渡された身だったから。
「うん…。でも、ぼく、明日も…」
 明日も行けない、と涙ぐむブルーの銀色の頭をハーレイの大きな手がポンポンと叩いた。
「分かった、分かった。…明日も作りに寄ってやるから、明後日は元気に登校しろよ?」
「うんっ!」
 約束だよ、とブルーが右手の小指を差し出し、ハーレイが「ああ」と褐色の小指を絡めた。
「風邪引きスペシャル、スープと粥とのダブルだな? まあ、任せておけ」
「他には? ハーレイ、他には風邪引きスペシャル、無いの?」
「その元気だったら大丈夫だな。今回は二つもあれば充分、元気になれるさ」
 欲張りめが、とコツンと額を軽く小突かれ、ブルーは「ふふっ」と首を竦める。
 こういう風邪なら悪くない。また軽いのを引いてみようか、ハーレイの料理が食べられるなら。
 他にも何かあるかもしれない、ハーレイの美味しい風邪引きスペシャル……。




         風邪を引いたら・了

※ハーレイ先生の風邪引きスペシャル、スープもお粥も美味しそうですよね。
 こんなオマケがついてくるなら、ブルーが軽い風邪を引きたくなるのも無理ないかも?
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「…遅くなってしまって悪かったな、ブルー…」
 寂しかったか、とハーレイは呟く。
 窓から海が見える研修先の宿で鞄から取り出した日記と一冊の写真集。窓の向こうの海はとうに暗くて、沖に漁火が瞬いていた。
 海水浴の季節はもう過去のもので、海に入るには寒すぎる秋。夜更けともなれば吹く風も冷たいことだろう。そう思いながら机の上に日記を置く。それの隣に写真集を、そっと。
 青い地球を背景にしたソルジャー・ブルーの写真が表紙に刷られた『追憶』という名の写真集。世間に一番広く知られた、正面を向いたソルジャー・ブルー。強い意志を秘めた瞳の底に微かに揺らめく憂いと悲しみ。
 キャプテン・ハーレイであった頃のハーレイがブルーを失くした後に懸命に探し、ついに見出すことが叶わなかったブルーの表情。皆の前では見せることが無かったブルーの真の姿を、悲しみと憂いとを捉えた一枚の写真。恐らくは残された映像の中の、ほんの一瞬。
 前世の記憶を取り戻す前は「ソルジャー・ブルーといえば、この写真」としか思わなかった。
 しかし今では「これこそがブルーだ」という気がする。
 前の生で愛したソルジャー・ブルー。美しく気高く、その身をも捨てて皆を守ったミュウの長。
 全身全霊で愛した恋人。
 何処までも共に、と誓っていながら守ってやれずに失くした恋人…。



 その恋人の悲しすぎる最期を収めた最終章を持つ『追憶』の名の写真集。
 シャングリラの写真集を探しに行った書店で偶然、見付けた。その場では最後のページまで開く勇気はとても無かった。買って帰って書斎で開いて、前の生の記憶に取り込まれて泣いた。
 ブルーの最期を直接写してはいないけれども、人類軍が記録していた映像から起こした何枚もの写真。青いサイオンの尾を長く曳いて暗い宇宙を駆けるブルーの最後の飛翔。メギドの厚い装甲を破り、中へと消えた後はブルーの姿は見えない。
 一番最後に、爆発するメギドの青い閃光。ブルーの身体をこの世から消してしまった青い閃光。その瞬間までブルーが生きていたのか、それとも既に息絶えてしまっていたものか。ハーレイには今も分からない。
 けれども胸を締め付けられる。この時、ブルーを失くしたのだ、と。
 あまりにも辛い写真を収めた写真集だから、滅多にページを繰ることはない。それでもブルーの悲しみを思うと、「ハーレイの温もりを失くした」と泣きじゃくりながら死んだと話した小さなブルーの言葉を思うと、この写真集を忘れることなど出来る筈もなくて。
 まして何処かに押し込めてしまうなど出来るわけもなくて、日記と一緒に引き出しに仕舞った。
 一日に一度は開ける書斎の机の引き出し。
 其処へ仕舞って、自分の日記を上掛けのように被せてやった。
 悲しみと憂いを秘めた瞳のソルジャー・ブルーを守るかのように、日記を被せた。
 今度こそは自分が守ってやるから、と。



 一泊二日での研修に向けての荷造りの時に、引き出しから日記を取り出した。覚え書きのような日記はこれまでも何処へ行くにも持って出ていたし、旅先でも必ず書いていたから。
 荷物に入れようとした日記の下から姿を現した写真集。『追憶』という名の写真集。
 表紙のソルジャー・ブルーの瞳がとても切なく、寂しげに見えて。
 記憶にある声で呼ばれた気がした。
 ハーレイ、ぼくを独りにしないで、と。
 ソルジャー・ブルーだった頃のブルーが幾度となく口にしていた言葉。
 青の間で独りになるのは嫌だと、側に居て欲しいと願った言葉。
 本当にそれを思っただろう運命の時、メギドへ飛ぶ時は欠片すらも言いはしなかったくせに。
(……ブルー……)
 表紙の写真に、切ない瞳に縋り付かれた。
 そうでなくても、やがて寒さの冬へと向かう人恋しい季節。
 たった一晩だけだとはいえ、引き出しの中にブルーを残して出掛けられないと心が叫んだ。
 上掛け代わりの日記を剥がして置いて出ることなど出来なかった。
「…ブルー、お前も一緒に来るか?」
 そうかまってはやれないんだが、と言い訳しながら写真集を旅の荷物に仕舞った。
 表紙のブルーが傷まないよう、そうっと日記を被せてやって。



 研修旅行に来た宿の机、其処に置かれたソルジャー・ブルーが表紙になった写真集。
(…ブルーの写真は置いて来たのにな)
 この時間にはもう眠っただろう、小さなブルーを思い浮かべる。
 生まれ変わって再び出会ったブルーはソルジャー・ブルーではなく、十四歳の幼い少年だった。ただひたすらにハーレイを慕い、側に居たいと願ってくれる小さな恋人。
 蘇った青い地球の上に二人で生まれて、同じ学校の教師と生徒としてまた巡り会った。あまりにブルーが幼すぎるから、キスさえ交わせはしないのだけれど。それでもブルーは確かに恋人。
 普通ならば研修に持って来るなら、小さなブルーの写真だろう。
 しかし小さなブルーが写った写真は一つだけしか持ってはいない。夏休みの最後の日にブルーの家の庭で写した、二人一緒の記念写真。ハーレイの左腕に小さなブルーが抱き付いた写真。
 最高の記念写真だけれども、あの写真はブルーと揃いのフォトフレームにしか入れてはいない。
 飴色をした木製のフォトフレーム。
 ハーレイが写真を入れたフォトフレームはブルーの家に、ブルーが写真を入れた方はハーレイの家に、交換し合ってそれぞれ納まっていた。ブルーとの写真はその一枚だけ。
 あの写真のデータはカメラの中にあるし、何枚もシャッターを切ったからそのデータもある。
 けれどプリントアウトしたのは自分の分とブルーの分との、一枚ずつだけ。
 データも他の媒体に移してはおらず、フォトフレーム以外の何処にも写真は存在しない。
 他人に見られて困るような写真を撮ったわけではなかったけれども、ブルーと恋人同士なのだと意識しているからこそ入れられない。入れてはいけないし、持ってもいけない。
 だから小さなブルーの写真は研修には連れて来ていない。
 小さなブルーはハーレイの家に残されたフォトフレームの中、ハーレイの左腕に抱き付いた姿で笑っている。それは嬉しそうに、幸せそうに…。



 この研修は二日間とも平日だから、小さなブルーはさほど寂しくないだろう。
 幸い、ブルーのクラスで授業をする日と重なる日程にもならなかった。学校に自分の姿が無いというだけの二日間だし、仕事の後でブルーの家を訪ねられない平日が続くのもよくあること。
(……しかし……)
 『追憶』の名を持つ写真集。
 その表紙から自分を見詰めるブルーを家に置いては来られなかった。
 強い意志を見せる赤い瞳の底、悲しみと憂いを秘めたブルーを独りきりにはさせられなかった。
 メギドで逝ってしまったブルー。
 最後まで覚えていたいと願ったという、ハーレイの腕に触れたブルーの右手に残った温もり。
 銃で撃たれた痛みの酷さのあまりに、その温もりをブルーは失くした。ハーレイの温もりだけを抱いていたいと、それさえあれば一人ではないとブルーは思っていたというのに。
 最期まで持っていたいと願った温もりを失くし、独りきりになってしまったブルー。
 独りぼっちになってしまったと泣きながら死んでいったブルーはきっと、この『追憶』の表紙のブルーとそっくり同じ瞳をしていた。
 強い意志を宿した瞳の奥深く揺れる悲しみ。
 癒えることの無かったこの悲しみが強く出た瞳をしていただろう、と考えただけで胸が塞がる。
(……ブルー……)
 ハーレイは痛む自分の胸を押さえた。
 実際はブルーの右の瞳は失われていたと知っているけれど、その姿はどうしても思い描けない。
 ハーレイの胸の中、独りぼっちで泣きじゃくるブルーは右の瞳を失ってはいない。
 両の瞳から涙を流して、「温もりを失くした」と独りで泣いている。
 ハーレイがそれを思い出した時は、いつも、いつも、いつも…。
 そうして独り泣きじゃくるブルーを、どうして家に独りぼっちで置いて来られよう?
 写真集の表紙といえども、其処にブルーは居るのだから。



(…本物のブルーは家でぐっすり寝てるんだがな…)
 写真集の表紙を飾るどころか、すっかり小さくなってしまった幼い恋人。
 アルタミラで出会った頃そのままの十四歳の姿で帰って来てくれた小さな恋人。
 本当はブルーは写真集の表紙などには居なくて、地球の上で生きているのだけれど。ハーレイが暮らしている町と同じ町に住んで、毎日のように学校で、ブルーの家で会っているのだけれど。
 それなのに『追憶』の表紙のブルーに囚われる。
 悲しげな瞳のソルジャー・ブルーがブルーだと錯覚してしまう。
 小さなブルーがちゃんと居るのに、生まれ変わった本物のブルーが居るというのに。
(…今のあいつには家も暖かいベッドもあるし、優しい両親だっているんだし…な)
 けれど、『追憶』の表紙に刷られたブルーには自分しかいない。
 真っ暗な宇宙に散ってしまった孤独な魂に寄り添ってやれる者は自分しかいない。
 あの日にメギドについて行けなかった分、こうして連れ歩いてやるしかない。
 悲しい瞳をしたブルーには帰る家もなく、シャングリラにも帰れなかったのだから。瞳に宿した悲しみの色を消してやるには、側に居てやるしかないのだから…。
(あいつがそっくり同じ姿に育つまでは……な)
 こうして連れ歩くことになるのだろう。
 此処にブルーの魂は無いと分かってはいても、今日のように連れて歩くのだろう。
 十四歳の小さなブルーがこの姿と同じ姿になるまで、重ねることはけして出来ないのだろう…。



「ブルー。…遅くなったが、飯にするか?」
 ハーレイは『追憶』の表紙のブルーに呼び掛けた。
「俺は研修で食って来たんだが、お前も腹が減っただろう。この辺りはこれが美味いんだぞ」
 俺はこの町には詳しくてな、と愛しい前世の恋人に鳶色の瞳を細めてみせた。
 学生時代から何度も通った海沿いの町。
 ハーレイの生まれ育った町や住んでいる町からは少し遠いが、日帰り出来ないこともない距離。
 夏ともなれば海へ泳ぎに来た。
 学生時代は仲間と遊びに、教師になってからも何度も。もちろん今の両親とも海水浴が目当てで訪れた。泊まったことも二度や三度ではない。
 ハーレイの気に入りの海がある町。遠浅の海岸も、潜って楽しめる岩場も在った。
「ほら、ブルー。これがカニ飯というヤツだ。シャングリラには無かっただろう?」
 この町の名物弁当の一つのカニ飯。
 悲しい瞳のブルーを一緒に連れて来ようと思った時から、これを買おうと決めていた。
 カニ飯は酢でしめられたものが多いのだけれど、この町のものはカニ味噌なども炊き込んである味わい深い炊き込み御飯仕立てが売りだ。カニの身も上にたっぷりと乗せられている。容器のまま温めると炊きたての風味に近くなるから、包装紙だけを剥がして軽く温めた。
 蓋を取れば温かな湯気が立ち昇る。
 小さなブルーはカニを何度も食べているだろうが、前のブルーは知らないままで逝ってしまった海の幸。地球の海で採れたカニの匂いがふわりと部屋に漂った。
「ブルー、お前が行きたがっていた地球のカニだぞ」
 このくらいだったら俺も夜食に食えるしな。



 机に向かって弁当を広げ、食べながら『追憶』の表紙を飾るブルーと語り合う。
 印刷に過ぎないブルーは喋りはしないけれども、それでも応える声が返ってくる気がした。
「ほら、見えるか? あれが地球の海だ。夜だからかなり暗いがな…」
 指差してやれば、ブルーも一緒に夜の海を眺めているような気分になった。
 ブルーが焦がれた青い地球の海。
 前の自分が辿り着いた時には何処にも無かった、生命を育む海に覆われた母なる地球。
 其処へ自分は還って来た。そうしてブルーと海を見ている。
 地球に生まれて来た小さなブルーと一緒にではなく、辿り着けなかった方のブルーと。
「…沖の明かりか? あれは星じゃない、漁火だ。漁船の灯だな。ああやって魚を集めるんだ」
 この季節だと何だろうなあ、夏だとイカ釣り船なんだが…。
 すまん、俺は夏しか詳しくないんでな。そういう漁も出来る時代になったんだ。このカニもだ。
「ん? カニは今の季節はまだ獲れん。もう少し先だ、冬になったらカニを獲るんだ」
 だから名物がカニ飯でな、とブルーに説明してやった。
 悲しげな瞳が少し穏やかになったように思える。それは錯覚に過ぎないけれども、ハーレイにはブルーの孤独が和らいだ証なのだと感じられた。
 ブルーを家に置いて来なくて良かった。
 引き出しの中に置いて来ないで、連れて来てやって本当に良かった…。



 窓の向こう、夜の海の彼方に浮かぶ漁火。その上に広がる夜空には、幾つもの星。
 キャプテン・ハーレイだった頃に着いた地球では、赤く濁った月くらいしか見えなかった。夜の空を彩る筈の星座は汚染された大気に阻まれて見えず、季節の星すら分からなかった。
 それが今では、時期さえ良ければ天の川も見える。澄んだ大気が戻って来た地球。水の星として蘇った地球…。
 ブルーが地球を目指したからこそ、今の地球が在るとハーレイは思う。
 前のブルーが、『追憶』の表紙の悲しい瞳をしているブルーが命を懸けてミュウを守ったから。
「いい星だろう、お前が行きたかった地球。…お前がミュウも、地球も守った」
 なのにお前は地球まで行けもしなかった。
 赤いナスカさえろくに見もせずに、降り立ちもせずに逝っちまった。
 お前がメギドを沈めたからこそ、青い地球が此処に在るっていうのに…。
 誰よりも地球に行きたかったお前が地球を見ないで、俺たちだけが地球を見ているなんてな…。
「酷いもんだな、お前は来られなかったのにな?」
 だから食べろよ、とハーレイは名物のカニ飯を頬張る。
「俺の奢りだ。カニ飯くらいは好きなだけ食え、ついでに海もしっかり見とけよ」
 なあ、とブルーに語り掛ければ、「うん」と返事が聞こえた気がした。
 それはかつてのソルジャー・ブルーの声にも、今の小さなブルーの声にも思える声で。
「…分かっているさ、お前も俺と一緒に地球まで辿り着いたんだっていうことはな」
 分かっているさ、と瞼に浮かんだ小さなブルーに、『追憶』の表紙に頷き返す。
「しかし、俺は未だにお前を忘れられないんだ」
 ソルジャー・ブルーだった時代のお前を。
 地球へ行きたいと願い続けて、辿り着けなかった前のお前を。
 お前の瞳から最後まで消えることが無かった、深い悲しみと孤独の色を……。



 小さなブルーは自分のベッドで眠っている筈の時間だけれど。
 ハーレイは前のブルーの姿が刷られた『追憶』の名を持つ写真集の表紙と一緒に夜の海を見る。暗い海に揺れる漁火の群れと、夜空に鏤められた秋の星座と。
 名物のカニ飯をブルーと食べて、「美味いだろう?」と問い掛けてやって。
「なあ、ブルー。次の研修も泊まりだったら一緒に行こうな」
 連れてってやろう、と微笑みかける。
 遠い昔に宇宙の彼方で、メギドで逝ってしまったブルーに。
 そのブルーは生まれ変わって地球の上に生きているのだけれども、今はまだ二人が重ならない。十四歳の小さなブルーは今のブルーで、『追憶』の表紙のブルーはソルジャー・ブルー。
 全く同じ二人の筈で、同じ魂だと分かっているのに、どうしても二人を重ねられない。
 小さなブルーを前にしていてさえ、その後ろに前のブルーの姿が見えてしまう時があるほどに。
 いつかは寸分違わず重なり、一人のブルーになるだろうけれど。
 今はまだ二人、ブルーが二人。悲しい瞳で見詰めるブルーが、自分しか側に寄り添ってやれないブルーが『追憶』の表紙に独りきりで居る。
 いつもは机の引き出しの中で静かに眠っているブルー。ハーレイの日記を上掛け代わりに着て、守られて眠っているブルー。
 このブルーを家に独り置いては来られない。それに…。
「俺も一人より二人がいい。あいつは俺と一緒に旅をするには小さすぎるしな?」
 恋人なのだと主張している小さなブルー。
 ハーレイも小さなブルーを恋人だと思っているのだけれども、旅に連れては来られない。研修のための旅であっても、世間に認められた伴侶だったなら「研修に支障を来さない範囲で」自費での同行が認められるし、空いた時間に観光をしてもいいというのに。
 残念なことに小さなブルーは文字通り小さすぎだった。伴侶になるには年齢も不足。
 どうやら当分、ハーレイの研修の旅に同行するのは『追憶』の表紙の悲しげなブルー。いつかは小さなブルーが育って重なり、代わりについて来るようになるのだろうけれど…。



「ブルー、当分、よろしく頼むぞ」
 明日は焼きカニ飯を買って帰るか、とハーレイは旅の相棒のブルーに笑顔を向けた。
「カニの足を殻ごと炙ってあるんだ。…殻つきは食うのが少し面倒なんだが、それを充分に補える美味さだ、俺が保証する」
 買って帰って二人で食おうな。小さなお前には内緒だぞ?
 あいつ、一人前に嫉妬するしな、相手がお前だと余計にな。だから内緒だ。
 …そうか、お前を連れて旅に出たのも内緒にせんとな。あいつにバレたら大惨事だしな?
 喋るんじゃないぞ、と『追憶』の表紙に片目を瞑る。
「あいつが育って、お前そっくりになった時には、あいつの中に入って一緒に来い」
 ずっと一緒だ、とハーレイは『追憶』の表紙に刷られたブルーを指先で撫でた。
「俺はお前を忘れはしない。この瞳のお前を忘れはしない」
 お前自身が全てを忘れられる時が来るまで。
 生まれ変わったお前の右手が、あいつの右手が二度と凍えなくなる日まで…。
 その日が来るまで、俺はお前を決して忘れてしまいはしない。
 お前自身が望む時まで前のお前の悲しい瞳を忘れはしないし、いつだってお前の側に居てやる。
 今日みたいに二人で旅もしような、地球の美味い物を色々食わせてやるから。
「でないとお前が寂しいだろう? そんな悲しい目をしたままじゃあな…」
 ……ブルー。
 いつまでも、何処までもお前を連れてってやるさ。
 お前が望む間は………ずっと。



             研修の夜・了

※小さなブルーには内緒で、前のブルーと研修の旅に出たハーレイ。写真集を持って。
 今でも忘れられない、大切な人。小さなブルーが気付いたら、嫉妬は確実ですね。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv






※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。

 シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
 第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
 お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv





澄み切った青空が広がる行楽の秋、食欲の秋。シャングリラ学園ではマザー農場での収穫祭で食欲を満たし、その後は学園祭へと一気に突っ走るのが恒例です。二学期の開始と共に学園祭の準備にかかる有志も多いですけど、私たちは至ってのんびりと。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
今日も授業お疲れ様、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれて、栗の渋皮煮のパイが切り分けられました。コーヒーや紅茶も好みで選んで、いつものティータイムの始まりです。やがて部活を終えた柔道部三人組も加わり、お腹をすかせたキース君たちには焼きそばが。
「あっ、ぼくも! ぼくも焼きそば!」
ジョミー君が手を挙げ、サム君も。スウェナちゃんと私も「少しだけ」と頼み、結局、全員が「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製焼きそばに舌鼓。この焼きそばは学園祭の柔道部の屋台でも出され、今や名物になりつつあります。秘伝の味の指導係はキース君たちで。
「今年もその内に焼きそば指導か…」
秋だしな、とキース君がボソリと呟けば、シロエ君が。
「…去年のレシピ、覚えてるわけないですよねえ…。なにしろソースの配合が…」
「門外不出の秘伝ですしね、口伝になっていますから…」
みんな絶対忘れてますよ、とマツカ君。
「ぼくも記憶が怪しいです。ベースが市販のお好み焼きソースで…」
「そこに中濃ソースとオイスターソースと…」
醤油もですね、とシロエ君が記憶を確認中。記憶力抜群のキース君も確認作業に加わり、三人揃って焼きそば作りの手順まで語り合っていますけど…。
「うん、芸術の秋だよね」
まるで繋がらない台詞を会長さんが突然口にし、全員がポカーン。
「「「……芸術?」」」
秘伝の焼きそばは芸術でしょうか? そりゃあ、料理も場合によっては芸術の域で、プロ顔負けの「そるじゃぁ・ぶるぅ」の腕前は充分に芸術かもしれません。でも……焼きそばはちょっと違う気が…。
「あ、違う、違う、焼きそばの話じゃなくて!」
考え事をしていたものだから、と会長さんは慌てて右手を左右に振りました。
「ちょっとね、この間から色々と…。お抱え絵師って知ってるかな?」
「「「お抱え絵師?」」」
確かに絵師なら芸術でしょう。焼きそばとは別の次元ですけど、お抱え絵師って何のお話?



会長さんが言いたいことはサッパリ分かりませんでした。唐突にお抱え絵師なんて口にされても意味不明です。そもそも、お抱え絵師というのが耳慣れない言葉なんですが…。
「うーん、キースなら知らないかな? お抱え絵師だよ、言葉そのまま」
「アレか、昔の権力者とか金持ちとかが自分好みの絵を描かせていた絵描きのことか?」
「そう、それ、それ!」
屏風絵だとか襖絵だとか、と会長さん。
「いわゆるパトロンってヤツだよね。生活費も全部面倒見るから、心のままに描いてくれ…って太っ腹な人たちのお蔭で凄い芸術家たちが生まれたわけ。それを再現しようって企画が」
「「「は?」」」
「ぼくもこの間、璃慕恩院の老師に聞くまで知らなかったよ。アルテメシアの座禅の宗派のお寺の一つがそういう企画をやっていたらしい。名付けて現代のお抱え絵師プロジェクト!」
これが凄くて、と会長さんは膝を乗り出して。
「絵師は公募で選んだんだけど、その絵師さんを何年もお寺に住み込ませてさ…。座禅やお寺の掃除なんかの修行もセットで体験して貰いつつ、襖絵を何十枚も描かせていたんだ。ついに完成したってことでお披露目があって、老師も招待されたらしいよ」
「ほう…。そんなのがあったのか…」
俺も初耳だ、とキース君。
「なかなかに凄い企画だな。今どき住み込みで絵を描こうという芸術家の方も少なそうだが」
「そうなんだよねえ…。しかもプロジェクトのコンセプトがさ、絵師の育成っていうのが凄すぎ。名前のある人を連れて来るんじゃなくって、無名に限るという条件で公募」
「「「無名?」」」
それじゃいい絵にならないのでは、と誰もが思いましたが、違うのだそうで。
「無名だからこそ、新しい境地に挑戦できる。お寺の生活を身体に刻んで、そこの空気に相応しい絵を次々と…ね。出来上がった襖絵は素晴らしかった、と老師も手放しで褒めてたよ」
そういうのって素敵だよね、と会長さんの瞳がキラリ。
「…それを聞いてから考えてたわけ、ちょうど芸術の秋だしね。ぼくもお抱え絵師をゲットして襖絵を描いて貰おうかな…って」
「寺を持つ気か?」
キース君がすかさず突っ込みを入れると、会長さんは「ううん」と否定。
「そんな面倒なことはしないよ、住職稼業は大変だしさ。ぼくの家にも襖はあるし、あれを素敵に描き変えようかと」
ちょっといいだろ、と言われましても。今の襖絵、それなりにお高いヤツなのでは…?



マンションの最上階にある会長さんの家はフロアの全部を占めています。広いリビングやダイニング、ゲストルームも幾つもある中、和室も一つ。特別生になった最初の年の夏、埋蔵金探しで掘り当てて来た黄金の阿弥陀様のお厨子が置かれた立派な部屋で。
「おい。…あそこの襖絵、璃慕恩院の老師様の客間と同じ人の絵じゃなかったか?」
確かその筈、とキース君が指摘しましたが、会長さんはニッコリと。
「そうなんだけどね…。長年同じ絵を眺めてるとさ、飽きもくるっていうもので」
「あの手のヤツは年月を経て更に値打ちが出るものだろうが! 取り替えてどうする!」
今のままで行け、というキース君の意見はもっともでした。花鳥風月が描かれた襖絵は部屋の雰囲気に馴染んだもの。和室の廊下に面した側に小さな物置と板を張った廊下があって、そこと和室を隔てる境が襖です。今の襖絵、とてもいい絵だと思うんですけど…。
「うーん…。ぼくも嫌いじゃないんだけどねえ、模様替えもたまには悪くないかと」
今の襖を捨てるわけじゃなし、と会長さん。
「今のもきちんと取っておいてね、気分で入れ替えっていうのはどうかな?」
「…そう来たか…。で、お抱え絵師だとか言い出すからには住み込みで襖絵を描かせるのか?」
「もちろんさ。公募しなくても喜んで描きそうな人物がいるし」
「「「へ?」」」
誰が襖絵を描くんでしょう? まさか私たちの内の誰かが? あっ、ひょっとして…。
「もしかして、サム?」
ジョミー君がサム君を指差しました。
「え、俺かよ?」
なんで、とキョトンとしているサム君ですけど、有望株には違いありません。
「サムってブルーの弟子だよね? 朝のお勤めにも通ってるんだし、きっとそうだよ」
「それを言うなら、お前もブルーの弟子じゃねえかよ」
お勤めには一度も来ねえけどな、とサム君が返し、シロエ君が。
「喜んで描きそうっていう辺りからして、サム先輩じゃないですか? 会長とは公認カップルですしね、住み込みとなれば嬉しいでしょう?」
「そ、そりゃそうだけど…。でもよ、俺って絵心もねえし」
「落ち着け、サム。公募した方は無名というのが条件だ」
だからお前で決まりだろう、とキース君も読んだのですが。
「…残念でした。サムもいいけど、もっと相応しい人物が一人!」
それを使わずして何とする、と人差し指を立てる会長さん。サム君じゃないならいったい誰が…?



会長さんがお抱え絵師に使いたい人に心当たりが無い私たち。サム君よりも適役となると、私たち七人グループの内の誰かでは無いような…。
「まさかキースってことはないよね?」
真面目に仕事はしそうだけどさ、とジョミー君が言えば、当のキース君が。
「馬鹿を言え! 俺は副住職の仕事があるんだ、住み込みなんぞやってられるか!」
「でも、先輩の御両親は喜んで送り出しそうですよ?」
銀青様の家に住み込みですし、とシロエ君。
「おまけに襖絵を描くとなったら名誉な話じゃないですか? お寺の世界は分かりませんけど」
「あー、それはあるよな、キースって線も」
坊主としては凄い名誉、とサム君が。
「ブルーのために何か仕事をするとなったら、副住職なんか目じゃねえぜ。行って来いって言われるんでねえの、それこそ壮行会付きで」
「………。あの親父ならやりかねんな…」
俺なのか、と困惑顔のキース君。
「ブルーだと思うと迷惑千万だが、銀青様のお宅の襖絵となれば話は別だ。…しかしだ、俺だと手本通りのつまらん絵にしかならんと思うが」
なにしろ寺の人間だから、とキース君は悩んでいます。
「あちこちで襖絵を拝みすぎた。…斬新な発想というヤツは俺には無いぞ」
「うん、それはぼくにも分かってる」
だから君には頼まないさ、と会長さんがバッサリと。
「斬新な発想が無いのもアレだけど、銀青の名前に釣られて来られちゃ抹香臭い絵しか出来ない。お抱え絵師である以上、パトロンへの敬意は必要だけどね…。絶対服従でもダメなんだな」
自分の意見をガンとして曲げない姿勢も必要、と会長さん。
「パトロンと大喧嘩をやらかしてでも自分の描きたい絵を描いてこそ、後世に残る名作が出来る。キースはぼくと普段から喧嘩するけど、襖絵を描くとなったら無意識の内に絶対服従」
「…否定は出来ん。銀青様の家を飾る絵となれば誠心誠意尽くすしかない」
襖絵に関して喧嘩は出来ん、と項垂れるキース君は階級制度が厳しく敷かれたお坊さんの世界の住人です。会長さんが望む斬新な絵とやら、間違っても描ける筈も無く。
「…じゃあ、誰なんだよ? 俺もキースも失格ならよ」
「ジョミーかしら?」
「ぼくが喜ぶわけないし!」
ぼくだけは無い、とジョミー君。はてさて誰が適役なのやら、全然分かりませんってば…。



やはり私たち七人グループの中には、お抱え絵師が務まる人は居なさそう。それとも会長さんの視点からすれば大穴の誰かが含まれてるとか? お前だ、お前だ、と押し付け合いが始まりつつある中、会長さんがスッと右手を上げて。
「はい、そこまで! …君たち全員、間違ってるし!」
あ、やっぱり? じゃあ誰が、と顔を見合わせた私たちですが。
「分からないかな、ぼくのためなら喜んで絵を描く人物だよ? そして住み込みも大歓迎! そんな人間、一人しかいないと思うんだけどねえ?」
「「「……???」」」
「ハーレイだってば、シャングリラ学園教頭、ウィリアム・ハーレイ!」
「「「教頭先生!!?」」」
あまりにもブッ飛びすぎた答えに全員の声が引っくり返り、キース君が口をパクパクと。
「…お、おい、正気か? あんた、本気で教頭先生を…?」
「そうだけど? 楽しいじゃないか、どんな絵を描いてくれるのか」
ぼくのための絵をうんと自由な発想で! と会長さんはパチンとウインク。
「お抱え絵師として住み込んで貰って、芸術の秋に相応しく…ね。もちろん朝夕のお勤めはして貰うけれども、後は自由にのびのびと! とはいえ、ぼくもパトロンだ。気に食わない絵を描いた時には描き直させるし、そこをハーレイがどう論破するかも面白い」
この秋は芸術に浸って過ごそう、とやる気満々の会長さん。
「ハーレイは嫌とは言わないだろうし、お抱え絵師を持つというのも素敵だろ? ハーレイの家に一人で行くのは禁止だけれど、ぼくの家にハーレイを泊まらせる方は禁止じゃないしさ」
パーティーとかでも泊めているしね、と言われてみればその通り。でも…。
「ヤバくねえのかよ、教頭先生、何か勘違いしそうだぜ?」
サム君が声を上げ、シロエ君も。
「そうですよ。一緒に住むのはマズそうですけど…」
「問題ない、ない! お抱え絵師はお抱え絵師だよ、あくまでパトロンに養われるだけの立場に過ぎないし! ハーレイの夢とは真逆の方向」
あっちはぼくを養ってなんぼ、と会長さんは立て板に水。
「ぼくとぶるぅを贅沢三昧で暮らさせるのと、ぼくとぶるぅに養われるのとじゃ月とスッポン、似ても似つかない日々ってね。その中でハーレイをいびり倒すのもまた良きかな! いい襖絵を描いてくれたら苛めないけどさ」
そこは期待を裏切らない筈、と微笑む会長さんが期待するのが苛めの日々か良い襖絵かは誰も怖くて訊けませんでした。明日は土曜日、会長さんの家で教頭先生を面接するそうです。お抱え絵師を選ぶためとか言ってますけど、どう考えても出来レースですよ…。



次の日、私たちは朝から会長さんの家にお邪魔しました。朝食は食べて行ったのですけど、ふわふわの厚焼きホットケーキを御馳走して貰って大満足。その内に玄関のチャイムが鳴って、教頭先生の御到着です。面接会場はリビングで…。
「やあ、ハーレイ。よく来てくれたね」
コーヒーでも飲みながら話をしよう、と会長さん。テーブルを挟んで会長さんと教頭先生が向き合い、私たちの席はその周り。絨毯が敷かれた床に飲み物を持って散らばり、固唾を飲んで見守る中で会長さんが早速口火を。
「話があって、としか言わなかったけど、芸術についてどう思う?」
「…芸術? 芸術の秋の、あの芸術か?」
「うん。君とは縁が無さそうだけどね」
遠慮のない言葉に、教頭先生は頭を掻いて。
「…ああ、まあ……恥ずかしながら…。その方面はサッパリだ」
「いいね、そのフレッシュさが気に入った。実はフレッシュな人材を探していてさ…。お抱え絵師にならないかい? ぼくの」
「お抱え絵師?」
「そう。ぼくの家に住み込んで襖絵を描いて欲しいんだ。君の心の赴くままに、ぼくの家に相応しい襖絵を…ね」
どんな絵を描くのも君の自由、と会長さんは極上の笑み。
「お抱え絵師な以上、ぼくがパトロン。ぼくのためだけに襖絵を描いてくれるなら、即、採用! 今日からぼくの家で暮らして、朝夕のお勤めをして貰う。条件としてはそれだけかな。ぼくの家での暮らしを通して、それに相応しい襖絵を是非。…嫌なら他を当たってみるけど」
「…そ、その条件は嬉しいのだが…。私には絵心というヤツが…」
とんと無くて、と答えながらも教頭先生が惹かれていることは一目瞭然。すかさず会長さんが畳みかけるように。
「絵心が無い点、大いに結構! フレッシュな人材と言っただろ? 君だってクレヨンや水彩で絵を描いたことはある筈だ。画材は何でもいいんだよ。退色しそうなヤツを使って描いた時にはサイオンでコーティングしておくからさ」
「そうなのか? ならば私でも務まるかもしれんが、そのぅ……どういった絵を…」
「君に任せる。やってくれるなら和室の方に案内しよう」
どうするんだい? と問い掛けられた教頭先生、考えもせずに即答でした。
「やろう! お前が任せてくれるというなら、住み込みで描く!」
「それはどうも。…じゃあ、ついて来て」
和室はこっち、と会長さんが立ち上がり、教頭先生がその後に。会長さんの計画通りにお抱え絵師が誕生ですけど、どんな襖絵が出来るのやら…。



お抱え絵師に決まった教頭先生、一旦帰宅して着替えなどを大きなボストンバッグに詰め込んで戻って来ました。ゲストルームの一つが教頭先生の寝室になり、もう一つがアトリエになるようです。家具を撤去して広くなった部屋は襖絵を描くのにピッタリで。
「発想を練る場所は特に決めない。リビングでもダイニングでも自由にどうぞ」
頑張っていい絵を描いてよね、と会長さんは壮行会と称して鍋パーティーの夕食を。私たちもお相伴して寄せ鍋を始めようか、という所へ。
「…こんばんは。凄い計画が始まるってねえ?」
前祝いに、と声がして空間が揺れ、会長さんのそっくりさんが。紫のマントの正装ではなく私服姿で、なんと樽酒を抱えています。
「お祝いに買って来たんだよ。ノルディに貰ったお小遣いが沢山あるからね」
「何しに来たわけ?」
呼んだ覚えは無いんだけれど、と会長さんが睨みましたが、ソルジャーはまるで気にせずに。
「壮行会だろ、お祝いを持参した以上は混ざっていいよね? 君もハーレイもいけるクチだし」
まずは鏡割り、と樽酒を包んだ縄をサイオンでパチン! と切ったソルジャー。菰を外して竹の箍を緩め、蓋の栓を抜いて…と下準備をしてから「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「確か木槌はあったよね? ドカンとやろうよ」
「かみお~ん♪ 鏡割りだね!」
お祝いだぁ~! と飛び跳ねていった「そるじゃぁ・ぶるぅ」は木槌を三本抱えて戻ると。
「はい、ハーレイ! それとブルーとブルーだね!」
どうぞ、と手渡された木槌を教頭先生とソルジャーが握り、会長さんも仕方なく。
「…まあいいや。来ちゃったものはどうしようもないし…」
「その意気、その意気! ハーレイの栄えある前途を祝して!」
ソルジャーの音頭で教頭先生が木槌を振り下ろし、会長さんとソルジャーも。パァーン! と景気のいい音がして樽酒の蓋が割れ、それからは寄せ鍋を囲んで大宴会で。
「こっちのハーレイも出世したよね、ブルーのお抱え絵師だって?」
まあ一杯、とソルジャーが枡酒を注ぎ、教頭先生、グイッと一気に。
「ありがとうございます。私も正直、夢を見ている気分でして…」
「そりゃそうだろうね、お抱えだもんね。ちゃんとペースは守って飲んでよ、最初の夜から失敗したんじゃ話にならない」
勃たなくなったら大変だ、とソルジャーが注意し、教頭先生が。
「分かっております。足腰が立たなくなるまで飲んでしまっては、明日の朝にも差支えますし」
「そうそう、朝が肝心だよ、うん」
大いに飲もう、と枡酒を注いでいるソルジャー。教頭先生、飲みすぎないようにして下さいよ~!



ソルジャーが持ち込んだ樽酒で盛り上がっている飲める面々。「そるじゃぁ・ぶるぅ」もチビチビ舐めつつ寄せ鍋の世話をしています。私たち七人グループは飲めませんから、ひたすら鍋をつついていたわけですが。
「いいかい、ハーレイ? 初めてで緊張するだろうけど、がっつかないように!」
あくまでブルーが最優先、と枡酒をグイと呷るソルジャー。
「なんたってブルーも初めてなんだし、そこの気遣いをきちんとしなくちゃ」
「もちろんです。芸術の方はサッパリですが、任されたからにはやり遂げます」
「芸術は二の次でいいんじゃないかな」
夜のお勤めが大切だろう、とソルジャーが返せば、教頭先生も頷いて。
「そうですね。…一にお勤め、二にお勤め。朝夕のお勤めは欠かすべからず、とブルーにも言われましたし、頑張るのみです」
「うんうん、実に素晴らしいよ。夜はともかく朝もっていうのが最高だよね」
明日の朝もガンガン攻めて行け、とソルジャーは教頭先生の背中をバンッ! と。
「とりあえず明日は日曜だ。ブルーの身体を気遣いながら、やれるとこまでヤッてみようか」
「は、はいっ! 気合を入れて早起きします!」
そして一緒にお勤めを…、と教頭先生、枡酒をグイグイ。ソルジャーも手酌で飲んでいますが、同じく枡酒を楽しんでいた会長さんの手がピタリと止まって。
「…ブルー? ちょっと訊きたいんだけど」
「ん? なんだい?」
大人の時間ならドンとお任せ、と片目を瞑るソルジャー。…えっと、大人の時間って? そんな話が出てましたっけ? 案の定、会長さんがドンッ! と拳を机に叩き付けて。
「そんな話じゃないってば! 君は何処からそういう方に!」
「何処からって……。最初からだけど? ハーレイが君のお抱え絵師になるんだろう?」
でもって朝と夜とにお勤め、とソルジャーは枡酒を注ぎつつ。
「考えたよねえ、まずは婚前交渉からかぁ…。毎日、夜と朝とにやってりゃ腕も上がるし、君の好みに躾も出来る。襖絵は二の次、まずは大人の時間が一番!」
そのためにも今夜の成功を祈る、と枡酒をグイッ。
「あんまり飲むと勃たなくなるって話もあるから、君もハーレイもほどほどにね? あ、ぼくは飲んでも大丈夫なクチ! で、訊きたいっていうのは初心者向けの体位とか?」
それならハーレイと一緒に聞くべし、とソルジャーはとびっきりの笑みを浮かべましたが。
「勘違いにも程があるーっ!!!」
この色ボケの大馬鹿野郎、と会長さんの怒り炸裂、樽酒の樽がサイオンを食らって粉々に…。三人がかりでどれだけ飲んだのか知りませんけど、あまり零れませんでしたねえ?



床と絨毯に飛び散ったお酒を「そるじゃぁ・ぶるぅ」が拭き掃除する中、会長さんとソルジャーはギャーギャーと喧嘩をしていました。ソルジャー曰く、教頭先生の主な仕事は夜と朝との大人の時間。お勤めイコール大人の時間らしいです。
「だってアレだろ、君がハーレイを雇って面倒みるんだろ? それでお勤めが必須となったら、ソレしか思い付かないし!」
「なんでそっちの方に行くかな、お勤めと言ったらお勤めだってば!」
朝と夜とに読経三昧、と会長さんが叫べばソルジャーも負けじと声を張り上げて。
「だから度胸だろ、度胸は必須! でないと勃つものも勃たないし!」
「その必要は無いんだってば!」
ハーレイは絵だけを描けばいいのだ、と会長さんが喚き、ソルジャーが。
「じゃあ、フレッシュって言っていたのは何なのさ! 童貞って意味じゃないのかい?」
「誰もそういう話はしてないっ!」
よくも不愉快な勘違いを、と怒り狂っている会長さん。その一方で教頭先生は難しい顔で腕組み中。
「…ふむ……。フレッシュな感性を活かさねばならないのだったな…」
それにお勤め、と考え込んでいる教頭先生。
「やはり寺という要素をまるでゼロには出来ないか…。実に難しい注文だ…」
えーっと…。ソルジャーが勘違いしまくって大人の時間を語った事実と、会長さんと盛大に喧嘩中なことは教頭先生の耳に入っていないのでしょうか? ちゃんとお勤めとお寺が結び付いているようですし…。
「もしもし、ハーレイ?」
ちゃんと聞いてた? とソルジャーが教頭先生の肩を揺すると、ガッシリした体躯がビシッと背筋を伸ばした上で。
「もちろんです! 飲みすぎ禁止で朝が肝心、今夜の心構えもです!」
「…なんだ、こっちは分かってるんだ? いいかい、ブルーの扱い方はね…」
初心者向きならこんな感じで…、と囁きかけたソルジャーの背後で会長さんが仁王立ち。鏡割りに使った木槌を両手で振り上げ、鬼の形相。
「その先、禁止!」
「ちょ、ちょっと…! まだハーレイに何も伝えてないし!」
ちょっと待った、というソルジャーの制止を無視して会長さんは思い切り木槌を振り下ろし…。
「退場!!!」
木槌が床をドッカンと叩き、ソルジャーの姿はありませんでした。空間を超えて文字通り高飛びしたようです。散々に場を引っ掻き回しておいてトンズラですか、そうですか…。



「…なんだったんですか、アレ…」
ソルジャーが消えた辺りを見詰めてシロエ君が呆然と。
「さあな…。俺も積極的に知りたくはないが」
それくらいなら忘れてやる、とウーロン茶を呷るキース君。
「勘違い野郎が出て来たというだけで充分だろう。…とにかく襖絵には関係が無い」
「だよね。やたらお勤めにだけ、こだわっていたみたいだし?」
そんなにお経が好きだったかな、とジョミー君が首を捻れば、サム君が。
「お念仏も嫌いだったと思ったけどなぁ…。あれで意外と異文化に理解があったりしてな」
ソルジャーってヤツをやってんだから、と言われて納得。何処かズレていた気もしましたけど、ソルジャーが教頭先生に朝夕のお勤めについて説いていたことは紛うことなき真実です。大切だとも言ってましたし、教頭先生もここは努力で会長さんとお勤めをして下さらないと…。
「まあね…」
そうなんだけどね、と会長さんが疲れた口調で。
「ハーレイ。…若干一名、変なのが湧いたようだけど…。君の仕事は分かっているよね?」
「当然だ。そのためのお抱え絵師だろう?」
襖絵のことなら任せておけ、と教頭先生は分厚い胸を叩きました。
「樽酒が出たのには仰天したが、酒に飲まれるなど言語道断。今夜の夜のお勤めとやらを疎かにするつもりなどないし、明日の朝もきちんと起床する。…朝のお勤めは何時からだ?」
「…なるほど、至って正気である、と」
安心した、と微笑む会長さん。
「朝のお勤めはサムが来る日は六時からだよ。日曜は基本、サボリだけども…。お抱え絵師には修行も大切、起きられそうなら四時に起床で準備からかな」
詳しい手順はぶるぅに聞いて、との言葉を受けて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えっと、えっとね…。朝一番にお水を汲んで、阿弥陀様の前にお供えして…。あ、その前にお掃除も! お厨子とかをキチンと拭くとこからだよ」
それからお香で部屋を清めて、お花も活けて…、と次から次へと飛びまくる指示を教頭先生は頭の中に懸命にメモしてらっしゃる様子。お酒は飲んでも飲まれないと仰るだけのことはあります。
「…よし、分かった。では、明日の朝は四時に起床で頑張ってみよう。夜のお勤めの方は…」
どうなるのだ、と訊かれた会長さんが和室の方を指し示して。
「やる気になったなら始めようか。…鍋パーティーはこれでお開き! 今夜は解散」
希望者は瞬間移動で家まで送るよ、との好意に甘えて私たちは送って貰うことに。会長さんと教頭先生はそれが済んだ後で身体を清めて、阿弥陀様の前で読経だそうですよ~!



こうしてスタートを切った教頭先生、朝夕のお勤めをこなしつつ襖絵の構想を一週間ほど練っておられて、次の日曜日から製作開始。私たちが土曜日に遊びに行って尋ねたところ、素晴らしいアイデアが浮かんだとかで…。
「朝のお勤めと食事が済んだらアトリエに籠もって描いてるようだよ」
どんな絵かなぁ、と会長さんは好奇心に瞳を輝かせながら、家を訪れた私たちに。
「せっかくだから、覗き見はしないと決めたんだ。ぼくも、ぶるぅも」
「かみお~ん♪ 仕上がった時の、何だったっけ…カンドーだっけ?」
「そうそう、感動が薄れるからね。ハーレイもその方がいいだろう」
制作過程で何かと文句をつけられるよりは自由自在に筆を揮って、と会長さん。
「出来上がったヤツが気に入らなければ描き直し! 同じ描き直しなら下絵とか一枚だけの段階でやらせるよりもさ、仕上がったヤツがパアになる方がダメージが思い切り大きいしねえ?」
製作期間も延びてしまって修行の日々が…、と可笑しそうに笑う会長さんは朝夕のお勤めで教頭先生をいびり倒しているようです。サム君の証言によると指導の厳しさは修行体験ツアーの比ではなく、キース君がたまにジョミー君にやるシゴキに匹敵するレベル。
「え、シゴキ? それくらいやらなきゃ意味が無いだろ、お抱え絵師だよ?」
創作の方を自由にさせる分、締めるべき所はキッチリ締める、と会長さんは鬼の笑み。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も補佐役として教頭先生の立ち居振る舞いをチェックしているそうで。
「えっとね、畳の縁は踏んだらダメでしょ? それと歩幅も大事なの!」
「基礎の基礎だよね、修行のね」
それも出来ないような絵師にはロクな襖絵は描けやしない、と会長さん。そうやってシゴキまくられた教頭先生、本日は創作に没頭中。お昼御飯も食べにおいでにならなかったため、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が食べやすいお弁当を作ってお届けに…。
「どうだった、ぶるぅ? 描いていたかい、ハーレイは?」
会長さんの問いに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はコックリと。
「うんっ! なんかブルーが来ていたけれど…」
「「「は?」」」
ブルーって? もしかして、こないだの樽酒騒動の…?
「ハーレイとお話していたよ? 後でこっちに来るんじゃないかなぁ」
きっと見学希望だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言っていた通り、それから間もなく私服のソルジャーが私たちの集うリビングに来たのですけど。



「えっ、資料?」
何の、と首を傾げる会長さんに、ソルジャーが。
「襖絵のだよ。…ネタに詰まって苦しんでたから、こないだ資料を提供したんだ」
「君がかい? 資料だったら、ぼくかぶるぅに言えばいいのに…」
その辺については文句は言わない、と会長さんが返せば、ソルジャーは。
「…言いにくいんだろ、シャイだしさ。お抱え絵師っていう立場だけで緊張しているみたいだよ」
毎日のお勤めが大変らしいね、と教頭先生に同情しきりで。
「もう少し、こう…。優しく扱ってあげればいいのに。ハーレイ、お勤め初心者だろう?」
「君が余計なことを言わなきゃマシだったかもね、お勤めの時間」
樽酒持参で勘違いして思いっ切り、と会長さんは吐き捨てるように。
「あれで徹底的にいびると誓ったんだよ、自分の心に! その代わり創作はのびのびと! 緩める所は緩めてあるんだ、文句を言われる筋合いは無い」
「なるほどねえ…。それじゃ気の毒な絵師を慰める役目は引き受けておくよ、資料提供とかも含めてさ」
「鼻血が出ない程度で頼むよ、襖絵がパアになっちゃうからね」
ハーレイの仕事を邪魔するな、と会長さんが釘を刺し、ソルジャーが。
「分かってるってば、一から描き直しになるんだろう? 心配しなくてもモデルはしないし、そうでなくてもぼくのハーレイも忙しいから手伝いに来てはあげられないよ」
「君のハーレイ? …確かに同じハーレイだけどさ、きっと感性が違うと思う。それに襖絵の絵師は今回は一人! 絵師が集団で請け負うケースもあるけど、ぼくはハーレイに頼んだんだからね」
姿形がそっくり同じでも絵師が二人じゃ話が違う、と会長さんはキャプテンの協力を即座に却下。そりゃそうでしょう、キャプテンの方はお抱え絵師って括りを外れてしまいますし…。
「ぼくが芸術の秋に求めるのはお抱え絵師! 君のハーレイもウチに住み込んでいるならともかく、他の世界からフラッと来るんじゃ意味が無い。アルバイトの絵師は要らないんだよ、無料で来るならボランティアかもだけど」
どちらにしてもお呼びじゃない、と大却下ですが、ソルジャーは特に言い返しもせずに。
「了解。それじゃハーレイのアトリエに寄ってから帰ろうかな。こないだ渡した資料の件で、まだ煮詰まってたみたいだしね」
下絵はかなり進んでいたけど、と語るソルジャーに襖絵の出来を質問する人はいませんでした。お抱え絵師のフレッシュなセンスを評価するのがこのプロジェクト。まるっと描き直しになったとしても、完成品を拝んでなんぼの企画ですってば…。



製作開始から一ヶ月。会長さんの厳しいシゴキに耐え、忙しい学校行事に追い回されつつ、黙々と筆を揮い続けた教頭先生の襖絵がついに完成の日を迎えました。お披露目の土曜日、私たちが会長さんの家に出掛けると先にソルジャーがちゃっかり来ていて。
「こんにちは。…ハーレイの襖絵、披露に一役買うことになってね」
ね、ブルー? と訊かれた会長さんが苦笑い。
「…しょっちゅう様子を見に来ていたし、ハーレイも頼りにしていたみたいで…。それにブルーのサイオンがあれば完成品を襖っぽく見せられるんだ。和室にズラッと立てて並べて」
そうでなければ床に並べて眺めることに…、と会長さん。
「ぼくのサイオンでも同じことは出来る。でもね、そのためには現物を見なきゃならないし…。一旦床で眺めるよりかは最初から襖仕立てだよ、うん」
「というわけで、ぼくの出番さ。ハーレイは和室に控えているし、襖絵は綺麗に並べておいた。みんな揃って見てあげてよね」
ハーレイの渾身の力作を! と先に立って歩いていくソルジャー。私たちも会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の後ろに続いて、教頭先生と襖絵が待つ和室に入って行ったのですけど。
「な、な、な………」
会長さんが目を白黒とさせ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の目はまん丸。私たちは…。
「…これってパクリって言わないわけ?」
何処かで見た、とジョミー君がしげしげと見入り、キース君が。
「…まんまではないが、パクリだな。これを知らないヤツはモグリだ」
「鳥獣戯画って言うんですよね、確かお寺の所有物で…」
シロエ君の台詞に、教頭先生が自信たっぷりに。
「うむ。せっかくだから寺の要素を取り入れてみた。そしてブルーへの想いをぶつけて四十八手に挑んだのだが、どうだろう? 資料はブルーが貸してくれてな、動物のチョイスも手伝ってくれた」
「「「…四十八手?」」」
なんのこっちゃ、と襖絵の中で相撲を取っている兎や猿やカエルの数を数えてみれば確かに四十八組あります。相撲の決まり手も実に様々、もつれまくって絡む様子は斬新で…。
「……ハーレイ……。なんでこういう展開なわけ?」
会長さんの地を這うような声が響いて、教頭先生が不思議そうに。
「お前、壮行会の時に言わなかったか? こういう時間が肝心だとか」
「それを言ったのはブルーだってば、ぼくじゃなくって!」
よくもエロい絵を阿弥陀様の前に並べ立ててくれたな、と会長さんは怒り心頭。この絵って何処かエロいんですか? 鳥獣戯画のパクリだとしか思えませんけど…。
「君たちもそう思うだろ? それにエロと芸術は紙一重だとか言うんだってね、こっちの世界じゃあ? ハーレイの渾身の作の襖絵、もう最高だと思うんだけど…」
これぞ芸術の真骨頂! とブチ上げるソルジャーと、樽酒で酔って情報が混乱したのか自信溢れる教頭先生の最強タッグ。会長さんにはお気の毒ですが、何処がエロいのか分からない以上、これは芸術だと思います。お抱え絵師さん作の鳥獣戯画で新しい襖絵、如何ですかぁ~?




           お抱えの絵師・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 教頭先生が描いた襖絵、とんでもないモノになったようです。おまけにパクリ。
 ちなみに「お抱え絵師プロジェクト」は実在しました、座禅の宗派な某寺ですけど。

 そしてシャングリラ学園番外編は、11月8日で連載開始から7周年になりますです。
 7周年記念の御挨拶を兼ねまして、今月は月に2回の更新です。
 次回は 「第3月曜」 11月16日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、11月は、先日の巨大スッポンタケの末路が問題なようで…。
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