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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(ほほう…)
 美味そうだな、とハーレイの目を引き付けたスイートポテト。
 ブルーの家には寄れなかった金曜日の帰り道、寄った馴染みの食料品店。駐車場に車を停めて、店に入って直ぐのコーナー、日曜日までの特設売り場と書かれてあった。
 スイートポテトを専門に売る店、それが出店しているらしい。シナモンをまぶしてサツマイモのように仕上げ、切り口から黄色の中身を覗かせたものや、タルトに仕上げてあるものやら。
 もちろんごくごく普通のものまで、売り場に溢れた艶やかな黄色。金色と呼んでもおかしくない色、サツマイモの甘さを示すかのような蜜色、黄金色。
 サツマイモは元から甘いけれども、スイートポテトはもっと甘くて滑らかな味。それに舌触りもホクホクと甘い。小さなブルーも好きそうな味で、サツマイモは今がシーズンだから。



(土産に買って行ってやるのもいいな)
 明日は土曜日、ブルーの家に出掛けてゆく日。土産にするには丁度良さそうなスイートポテト。店は朝から開いているから、行く前に寄れば出来立ての味を届けてやれることだろう。どの品物も朝一番に店で作って、此処へと運んで来るのだろうから。
(どうせ買うなら、その日に作ったヤツがいいしな)
 スイートポテトは出来立てでなくても美味しいけれども、同じ買うのなら作り立てのものを。
 小さなブルーへの土産なのだし、その日に作ったものがいい。今日から買っておくよりも。
(…ということは…)
 明日に買うなら、試食代わりに買ってみるのもいいだろう。どんな味なのか、買って自分の舌で確かめ、自信を持ってブルーに勧める。「美味いんだぞ」と。



(試食だ、試食)
 そいつが一番、と並べられたスイートポテトを端から順に眺めていった。
 サツマイモを象ったものも面白いけれど、金色をした美味しそうな部分がシナモンの色に隠れてしまって見えにくいから、もっと金色が引き立つものを。
 四角い形に仕上げてあるもの、絞り出したもの、様々なものがあるけれど。
 凝ったものならタルトだろうか、タルト生地の上にスイートポテトがたっぷりと。飾りに絞った模様も綺麗で、さながら金色のクリームが盛られたタルトのようで。
(…こいつがいいかな)
 スイートポテトの金色が見えるし、なによりも手間がかかっている。これを作るにはタルト生地から必要になってくるのだから。スイートポテトを作るだけでは済まないのだから。
(よし、これだな)
 これに決めた、と下見しておいて、他の買い物をしに行った。特設売り場はレジが別物、そこで会計する決まり。箱も出店して来ている店のものに入れて貰える仕組み。
 肉や野菜や、必要なものを選んで買い物、それらを食料品店の袋に詰めて貰って、店を出る前にスイートポテトの売り場へと。
 甘い香りを漂わせている、金色をしたタルトを一つ。店のロゴ入りの小さな箱つきで。



 駐車場に停めていた愛車を運転して家に帰って、夕食の支度。
 慣れた手つきで煮物に焼き物、一人暮らしでも充実の食卓。食べ終えた後は後片付けを済ませ、愛用の大きなマグカップに熱いコーヒーを淹れて書斎へと。
 スイートポテトのタルトを載せた皿も運んで行った。ダイニングで食べてもいいのだけれども、今日は書斎の気分だから。
 お気に入りの椅子にゆったりと座り、コーヒーを一口、それからフォークでスイートポテトを。口に入れるのに丁度いいサイズに切り取って頬張り、舌先で軽く転がしてみて。
(うん、美味いな)
 スイートポテトが売りの店だけに、なんとも風味豊かな味わい。舌触りもいい。
 特設売り場に書かれていたとおり、採れたてのサツマイモで出来ているのだろう。それも甘さが抜群のものを、ふかすだけで食べても充分に甘いサツマイモを使ったスイートポテト。
 砂糖の甘さがくどくないから、きっとそういうスイートポテト。小細工が要らないサツマイモ。
(元のイモから違うんだな、これは)
 うんと甘いイモを使っているな、とスイートポテトの作り方を頭に思い浮かべた。
 サツマイモを加熱して柔らかくして、それを裏ごし。砂糖にバターに、生クリームに卵黄などを加えて練り上げたら好きな形に仕上げて、オーブンで焼いて出来上がりだけれど。
 味の決め手はイモだと思う。サツマイモの味で左右されると、いいイモを使わなくてはと。



(サツマイモってヤツは、土で美味さが決まるんだよな)
 栽培方法に詳しいわけではないけれど。父に教えて貰ったのだったか、サツマイモは砂地がいいらしい。普通の土より、断然、砂地。わざわざ海岸の砂を運んで来て混ぜる畑もあると聞く。
 このスイートポテトの元になったイモも、そういう畑で採れたのだろうか。太陽の光を反射する砂、それに育まれて極上の甘さを中にたっぷり溜め込んだろうか。
 けれども、そういう砂地でなくてもサツマイモは充分に甘くて美味しい。何処のものでも。
(ふかすだけでホクホクするんだ、これが)
 ほんの少しだけ塩をつけると引き立つ甘さ。砂糖が必要無い甘さ。
 石焼きイモならもっと甘いし、砂糖を加えたスイートポテトは名前の通りに甘いもの。口の中のタルトも甘いけれども、サツマイモの甘さを活かした甘さで。



(ジャガイモとはまた違うんだ)
 同じイモでも、ジャガイモの味とは全く違う。ジャガイモもふかして食べられるけれど、まるで違ったその味わい。あちらは菓子と言うより料理の味だ、と思ってしまう。
 裏ごししたならマッシュポテトで、それをタルトの生地に詰めたら菓子ではなくて料理になる。ハムや野菜でも混ぜてやったら、さながらキッシュといった所か。
(ジャガイモの菓子は少ないからなあ…)
 すぐに浮かぶのはポテトチップス、コーヒーには合うが、紅茶には似合いそうもない。あくまでスナック、来客に出せはしないもの。手土産にするのもどうかと思う。
 サツマイモの方ならスイートポテトは立派な菓子だし、和風にするならイモ羊羹。どちらも客に喜ばれそうで、土産に持って行くにもいい。



(サツマイモなあ…)
 ジャガイモとはかなり違うようだな、とスイートポテトを口へと運んだ。菓子にするのが似合うイモだと、甘いイモだけのことはあると。
 幼かった頃にはイモ掘りをしに出掛けたものだ。幼稚園の先生に引率されて。
 砂地ではなくて、隣町の普通の畑で育ったイモだったけれど。それでも掘り立てのサツマイモはとても甘かったと記憶している、農家の人がその場で焼いたりふかしたりしてくれたサツマイモ。
 掘る時からしてもうワクワクしていた、畑一杯に茂ったサツマイモの葉を前にして。
 何処を掘ってもかまわないから、と言われたけれども、土の中のイモはサイズが揃っていない。小さなイモから大きなイモまで、当たり外れの差が大きいから、大きいイモを掘り当てようと。
 幼稚園児ではまだ無い能力、土の中を透視する力。
 ゆえに本当に運で勝負で、誰もが懸命に掘っていた。大きなイモが出ますようにと、一番大きなサツマイモが自分に当たりますようにと。
(俺はけっこう運がいい方…)
 これだ、と選んで掘った蔓には大きめのイモがあったと思う。大喜びした記憶があるから。
 誰よりも大きなイモを掘り当てたか、そこは定かではないけれど。
(ガックリしたって覚えは無いしな、比べたらきっとデカイ方だぞ)
 こんなのだったし、と幼かった自分が誇らしげに抱えていたイモを手で作ってみた。今の自分の手なら片手で持てそうだけれど、幼稚園児の手だと両手サイズで。
 いい思い出だ、と顔が綻んだけれど。懐かしいサツマイモ畑だけれど。



(…ん?)
 思い出と言えば、自分には今の自分よりも前の記憶がある。
 白いシャングリラで生きた記憶が、キャプテン・ハーレイだった頃の記憶が。
 優に三百年以上もある、その記憶。今の自分よりも遥かに長い時間を生きたけれども、その生で食べたサツマイモ。それの思い出が浮かんで来ない。
(…何かありそうな筈なんだが…)
 今の自分だけでもイモ掘りの記憶に、家の庭の焚火で作った焼きイモ、他にも色々。冬になれば石焼きイモを売る車が通るし、母と一緒に呼び止めて買った記憶も鮮やかで。
 たった三十八年だけの人生、それでも沢山ある記憶。サツマイモの思い出、それが幾つも。
 ところが前の自分の思い出は蘇って来なくて、サツマイモはまるで出て来ない。
 前の自分はサツマイモを食べていたのだろうか、と不思議になるほど、どうにも引っ掛からない記憶。思い出が無いサツマイモ。



 そんな筈は…、と遠い記憶を手繰った。前の自分とサツマイモの。
 ジャガイモとはかなり違うと思ったけれども、サツマイモもイモの内だから。食べる物だから、まずは厨房、とキャプテンに就任するよりも前の古い記憶を探ってみた。
 アルタミラから脱出した後は厨房で料理をしていた自分。あれこれ試作もしていた自分。きっとサツマイモの記憶も其処に…、と考えたけれど。
(…料理していた覚えが無いぞ)
 あの独特な形のイモを手に取ったという覚えが無い。皮を剥いたという記憶も。
 ふかしてもいないし、焼いてもいない。包丁を入れた覚えすら無い。
(ジャガイモだったら嫌と言うほど…)
 前のブルーが奪った食材が偏ってしまったジャガイモ地獄。来る日も来る日もジャガイモ中心の料理ばかりで、皆が不満を漏らしていた。何とかしようとレシピを調べて料理し続けた、来る日も来る日もジャガイモを剥いて。
 そんな思い出がジャガイモ地獄で、キャベツ地獄などもあったけれども。
 サツマイモの方は地獄どころか、お目にかかった記憶が無い。料理しようと手にした記憶が。



(あいつが奪って来なかったのか…?)
 前のブルーの略奪品には無かったかもしれない、サツマイモは。
 輸送船から奪う物資は基本的には手当たり次第で、目標を定めて奪うことの方が稀だった。広い宇宙を飛んでゆく内に出会う輸送船、それの荷物を頂戴したから。載せているものを奪ったから。
(サツマイモを積んだ船と出会わなければ、サツマイモは奪って来られないよな…)
 そういうこともあるだろう、と考えたけれど。
 前の自分が厨房に立っていた頃は、サツマイモが無かったのだと一度は納得しかけたけども。



(待てよ…?)
 白い鯨になったシャングリラの広い農場。自給自足で生きてゆくために栽培していた作物たち。
 巨大な船の中、広大な畑があったけれども、サツマイモを見た覚えが無い。サツマイモの葉も、その下の地面で育ったイモも。
(視察に出掛けて、見落としたとしてもだ…)
 農場で何を栽培中なのか、何が収穫出来たのか。報告は全て上がって来た筈で、キャプテンにもデータが届いていた筈。豊作だったか不作だったか、その種のデータも目を通していた。
 それなのに記憶に無いサツマイモ。まるで全く覚えていなくて、思い出さえも無いサツマイモ。



(なんで無いんだ?)
 あんなに目立つイモなんだが、と独得の形と皮の色とを頼りに探っても、やはり無い記憶。
 忘れたにしても薄情すぎる、とサツマイモを使って出来る料理や菓子を端から挙げてみた。
(天麩羅も美味いし、煮物もいいし…。菓子にしたって、スイートポテトに…)
 イモ羊羹に大学イモに…、と思い付く限りのサツマイモのレシピを数えたけれど。サツマイモのカリントウなども挙げたけれども、ハタと気付いた。
(まさか…)
 自分には馴染みの菓子や料理は、どれも昔の東洋のもの。SD体制よりも前の時代は東洋の名で呼ばれた地域のものばかり。日本や中国、そういった国。
(スイートポテトは違うようにも思うんだが…)
 そんな気がするが、西洋で通用しそうなサツマイモの調理法はそれくらいなもの。
 もしかしたら、前の自分が生きた時代には無かったのだろうか、サツマイモは?
 人類を統治しやすいようにと統一されていた当時の文化。
 マザー・システムが築き上げた時代の食文化の中に、サツマイモは入っていなかったろうか?



(まるで覚えていないとなると…)
 その可能性もゼロではないな、と端末を起動し、データベースにアクセスしたら。
 サツマイモの歴史を呼び出してみたら、衝撃の事実が記されていた。
(やはり消されてしまっていたのか…!)
 SD体制の崩壊後に復活、と書かれた注釈。今では昔と全く変わらず広く栽培されている、と。
 ジャガイモと同じく、遥かな昔の南米生まれのサツマイモ。
 大航海時代に発見されて船でヨーロッパへと運ばれたけれど、涼しかった気候が合わなかった。ジャガイモの方は主食としていた地域があるほど、ヨーロッパの文化に根付いたのに。
 涼しい土地では育たないサツマイモは再び船に乗せられ、もっと暖かい植民地へ運ばれ、其処で栽培されたという。
 今、自分たちが住んでいる地域、遠い昔には日本だった国へも運ばれて来たと。やせた土地でも育つ植物だと重宝されたと、飢えた時には蔓までも食べたくらいなのだと。



 マザー・システムに消されていたというサツマイモ。それを食べていた文化ごと。
(そりゃあ…。俺の記憶に無いわけだよなあ…)
 前のブルーが奪って来ないのも当たり前のことで、無かったものは奪えない。
 食べる文化が無かったのだから、シャングリラの中でも栽培しようとするわけがない。
 サツマイモの記憶は無くて当然だった、と腑に落ちたけれど。
 同時に些かショックでもあった、今はこんなに馴染みの深いイモなのに、と。
 冬になったら住宅街を走ってゆく石焼きイモの車は季節を感じさせるものだし、幼かった自分が出掛けたイモ掘りは今も幼稚園児に人気の行事。あのイモ掘りだって…。
(ジャガイモの方だと今一つなんだ)
 そちらも幼稚園の頃に行ったけれども、イモの大きさが違うから。
 サツマイモのように桁外れな大物が出ては来ないから、その辺りからして違っていた。ふかしたジャガイモは美味しかったけれど、焼きジャガイモは無かったというのも大きな違い。
 サツマイモ掘りなら、ふかしたイモも焼いたイモも好みで選べたのに。焼きイモの方は、先生や農家の人と一緒に焚火に入れて、焼き上がるまで火の側で待つ楽しみもあったのに。



 ジャガイモをふかしても美味しいけれども、バターでも塩でもホクホク熱くて美味しいけれど。
 同じふかして食べるのだったら、サツマイモに塩をちょっぴりつけて。それが美味しい、そんな気がする。焼きイモにも出来るサツマイモの方が特別、掘り上げた後の楽しさが違うと。
 料理か菓子かと尋ねられたら、菓子の出番が多いように思えるサツマイモ。
 ジャガイモを潰せばマッシュポテトで、ポテトサラダにもなるけれど。
 料理が主な使い道な上に、菓子と言えばポテトチップスが浮かぶジャガイモよりもサツマイモ。
 甘いサツマイモを潰して裏ごし、生クリームなども加えればスイートポテトで、見た目に洒落た菓子も作れる。手土産に提げてゆけるような。
 ブルーへの土産に、と何の気なしに試食用に一つ買って来たスイートポテトのタルトだけども。
(こいつは…)
 買って帰った甲斐があったな、と嬉しくなった。
 前の自分たちが全く知らなかった味、栽培しようとも思わなかったサツマイモ。
 明日の話題はスイートポテトとサツマイモだと、これで決まりだと。



 次の日、良く晴れた空の下を歩いて出掛けて、昨日の食料品店に寄って。
 特設売り場を覗き込んだら、思った通りに朝一番で作られたスイートポテトたちの金色がズラリ並んでいたから、昨日買ったのと同じタルトを二つ。
 絞り出したスイートポテトが綺麗な模様を描いたタルトを箱に詰めて貰い、足取りも軽く歩いて行った。目指す生垣に囲まれた家に着き、門扉の脇の呼び鈴を鳴らせば二階の窓からブルーが手を振る。手を振り返して、出て来たブルーの母にタルトの箱を渡した。「買って来ました」と。
 ブルーの部屋に案内されたら、小さなブルーが目を輝かせて。
「ねえ、ハーレイ。お土産、なあに?」
 持って来たでしょ、何かの箱を。あの箱、ママに渡したんでしょ?
「見てたのか…」
 目ざといヤツだな、俺の荷物までチェックしやがって。
 まあ、土産には違いないしだ、何だったのかは見てのお楽しみだ。



 すぐに来るさ、と片目を瞑った。お母さんが持って来てくれる、と。
 やがてブルーの母が運んで来たスイートポテト。紅茶のカップやポットも揃って、お茶の時間の始まりだけれど。
「…ハーレイのお土産、スイートポテト?」
 買って来てくれたの、来る途中で?
「いつもの食料品店なんだが…。特設売り場だ、スイートポテトの専門店のだ」
 明日まで期間限定で来てる。昨日見付けて買ってみたんだが…。
 専門店だけあって美味いんだぞ。まあ、食ってみろ。
 うんと甘いぞ、と促してやれば、ブルーはフォークで切り取って口に入れてみて。
「ホントだ、甘いね!」
 それに美味しいよ、サツマイモの甘さが凄く自然で。
 お砂糖とかの甘さじゃなくって、サツマイモの甘さが勝ってる感じ。
 そういうサツマイモを使って作ってるんだろうね、スイートポテトの専門店なら。



 ホントに美味しい、とブルーが嬉しそうに食べているから。
 スイートポテトを頬張っているから、チャンス到来とばかりに質問をぶつけてやった。
「美味いスイートポテトなんだが…。前のお前も好きだったか、それ?」
「えっ?」
 このお店、そんなに前からあるってことはないよね、レシピの問題?
 前のぼくたちはお店に買いには行けないし…。シャングリラのレシピと似てる味なの?
「さてなあ…。要は前のお前がスイートポテトを好きだったかどうか、ってトコなんだが」
 好き嫌いが無かったってことは抜きにして、スイートポテト。
 よく食っていたか、あんまり馴染みが無いか、どっちだ?
「スイートポテト…?」
 前のぼく、何度も食べていたかな?
 それともあんまり食べてなかったか、どっちだったっけ…。



 どうだったろう、とブルーは暫く考え込んで。
 記憶の糸を手繰るかのように、スイートポテトを口に運んで舌で転がしたりもしてみた末に。
「…スイートポテト…。知らないかも…」
 前のぼくは食べた記憶が無いかも、忘れちゃったっていうわけじゃなくて。
 シャングリラで食べた覚えが無いかも、スイートポテトもサツマイモも…。
「な? お前も覚えていないだろ?」
 俺も全く記憶に無いんだ、スイートポテトもサツマイモもな。
 今の俺のサツマイモに関する思い出は山ほどあるがだ、前の俺のが一つも無い。
 そいつはあまりに変じゃないか、と気が付いて調べてみたんだが…。
 俺もお前も全く覚えてない筈だ。スイートポテトを食べるどころか、サツマイモってヤツが何処にも無かった。サツマイモを食べる文化が無くって、サツマイモは植物だったんだ。
 多分、植物園とかにあったんだろうな、サツマイモ。食うためじゃなくて、観賞用に。
 花が咲くこともあるって言うから、葉だか花だか、そういうのを見せる目的でな。



 俺も昨日まで知らなかった、と話してやった。
 白いシャングリラで生きていた頃にはサツマイモが存在しなかったのだ、と。
「まさか全く無かったとはなあ…。今じゃ馴染みのイモなんだが」
 スイートポテトを買った時にも、お前への土産にしようと思って試食用にと買ったくらいで…。
 こんなとてつもない土産話がくっつくだなんて、夢にも思っちゃいなかったさ。
 美味いヤツだろうと、専門店の味なんだぞ、と食わせるつもりだったんだがなあ…。
「ぼくだってビックリしちゃったよ。前のぼくは好きだったのか、って訊かれたって…」
 どうだったかな、って考えちゃったくらいに、スイートポテトは普通の食べ物。
 サツマイモだって秋から冬にはよく食べるものだし、珍しくもなんともないんだけれど…。
 そのサツマイモを前のぼくは全く知らなかっただなんて、なんだか不思議。
 ぼくがすっかり忘れただけだ、って聞かされた方が納得だよ。
「俺もそういう感じだなあ…」
 生まれ変わる時にサツマイモの記憶を落としちまって、まるで思い出せないだけだと言われたら素直に信じるだろう。
 どうにも思い出せやしないがサツマイモは確かにあった筈だ、という気がするんだ。
 しかし、本当に無かったらしい。
 データベースに嘘の情報があるわけがないし、俺はこの目で確認したしな、無かったんだと。



 白いシャングリラの時代には無かったサツマイモ。存在しなかったスイートポテト。
 ブルーがスイートポテトをフォークでチョンとつついて。
「もしも、前のぼくたちの時代にあったなら…」
 子供たちに人気だっただろうね、そう思わない?
「スイートポテトか?」
 甘いからなあ、好かれそうな味ではあるよな、うん。
「ううん、スイートポテトじゃなくって…。サツマイモの方」
 シャングリラの農場で育てていたなら、イモ掘りをして遊べたんだよ。
 ぼくは幼稚園からイモ掘りをしに出掛けたけれども、ハーレイはイモ掘り、行ってない?
「いや、行った。そいつも昨日に考えていたんだ、サツマイモが無かったと気が付く前に」
 同じイモ掘りだったらジャガイモよりもサツマイモだと、そっちの方が楽しかったと。
 大物のイモが入っているのはサツマイモだし、ふかすだけじゃなくて焼いてもくれたし…。
 お前が行ってたイモ掘りの方はどうだった?
「えっとね、ハーレイのと、多分、おんなじ…」
 ハーレイは隣町の幼稚園だから、行った先は別の所だろうけど…。
 ぼくが行った所もふかしてくれたり、焼いてくれたりしていたよ。掘り立てのを。
 ジャガイモ掘りにも行ったけれども、人気はやっぱりサツマイモの方。
 誰が一番大きなのを掘ったか、競争みたいになっていたよ。ぼくも頑張って掘っていたっけ…。
 何番目だったかは忘れたけれども、こんなに大きなヤツも掘ったよ。



 このくらい、とブルーが両手で示した大きさ。
 幼稚園の頃のブルーの手だから、その大きさではなかったろうけれど、そこそこ大きい。
 ハーレイの思い出の中の大きなイモにも負けていないほどのサツマイモ。
 今でさえ思い出せるほど記憶に刻まれた幼い頃のイモ掘り、もしもシャングリラで出来ていたとしたら、大人にも人気だったろう。
 サツマイモを収穫するとなったら、係ばかりに任せていないで、皆で競ってイモ掘りをして…。
「ゼルとかが凄く頑張りそうだね、イモ掘りがあったら」
 掘る方も頑張っていそうだけれども、掘り終わった後のサツマイモ。
 ふかすとか焚火で焼くだけじゃなくて、釜から作って石焼きイモでもやりそうだよ。
「あいつは如何にも好きそうだなあ…」
 ヒルマンに「調べて来い」とか言うんだ、同じサツマイモを焼くにしてもな。
 いろんな工夫を凝らしそうだぞ、資料さえあれば壺焼きイモでも。
「…壺焼きイモ?」
 なんなの、それって?
 そういうサツマイモの焼き方があるの、壺焼きイモって?
「名前の通りさ、釜の代わりに壺で焼くんだ」
 デカイ壺の中に炭を入れてな、その上にサツマイモを吊るして焼く。ホクホクなんだぞ、壺焼きイモは。石焼きイモとは違った美味さだ。
「そうなんだ…」
 ゼルだったら壺から作りそうだよ、壺が無ければ別の工夫をしちゃうかも…。
 「こいつで壺焼きイモと同じ仕組みになる筈なんじゃ」って、信じられないのを持ち出すとか。
 機関長だもの、何を持って来るか分からないよ。ギブリのパーツで作っちゃうとかね。
「やりかねないなあ、ゼルだけにな」
 ギブリどころか、ブリッジのヤツでも使えそうなら転用するぞ。
 「この椅子のパーツが実にいいんじゃ」と俺のシートから何か外して行くとかな。



 如何にもやらかしそうなゼル。焼きイモに凝っていそうなゼル。
 シャングリラにサツマイモがあったとしたなら、焼きイモだけでなくて…。
「スイートポテトも色々出来るぞ、形を工夫してやれば」
 こいつを売ってた店にもあったな、このタルトの他にもいろんな形が。
 形に凝るなら厨房のヤツらの出番だよなあ、スイートポテト。
「そうだね、それも美味しそう!」
 サツマイモが沢山収穫出来たら、スイートポテトも山ほど出来るね。
「うむ。スイートポテトとかの菓子も美味いが、サツマイモの天麩羅もなかなかいけるぞ」
「うん、天麩羅も美味しいよね!」
 お塩で食べても、天つゆで食べても。
 サツマイモの天麩羅も大好きだよ、ぼく。あんまり沢山は食べられないけど…。



 白いシャングリラがあった時代に、天麩羅は無かったのだけど。
 天麩羅を食べる文化も無かったのだけれど、サツマイモがあったらチップスくらいは…、と言い出したブルー。きっと誰かが作っただろう、と。
「薄くスライスして揚げるだけだし、サツマイモのチップス、きっとあったよ」
「そうだな、イモがあったら揚げてみるのは基本だからな」
 ジャガイモだったらフライドポテトにハッシュドポテトだ、サツマイモだって揚げるだろう。
 どう揚げるのが一番美味いか、あれこれと工夫するんだろうな。
 俺だったらサツマイモで何を作っていたやら…。揚げる他にも試すんだろうが…。
 待てよ、サツマイモがあるってことはだ、サツマイモ地獄もあったかもな。
 前のお前が奪った食材、殆どがサツマイモってヤツが。
「そうかもね…」
 やっちゃったかもね、サツマイモ地獄。あればっかりは選べなかったし…。
 ハーレイが早く帰って来いって心配するから、とにかく奪って帰っていたしね。



 白いシャングリラでジャガイモ地獄だった時には、フライドポテトが人気だったけれど。
 サツマイモ地獄があったとしたなら…。
「ハーレイ、人気はスイートポテトだったと思う?」
「そんなトコだろうな」
 フライドポテトが人気だった理由は、ガキの頃の思い出の味ってことになってたし…。
 サツマイモの場合はスイートポテトになるんだろうなあ、甘くて子供が好きそうな味だ。
 人気の味はきっとスイートポテトだ、お前が言ってる通りにな。
「スイートポテト…。ゼルたちにも食べさせてあげたいね」
 シャングリラには無かった味だったんなら、美味しいよ、って。
「ふうむ…。美味いぞ、と教えてやりたいなあ…」
 あいつらが何処かにいるんなら。
 俺たちみたいに生まれ変わって、サツマイモが食える場所で暮らしているならな。
 せっかく気付いた美味い味なんだ、あいつらにも是非、この美味さを知って欲しいよなあ…。



 今は当たり前になったスイートポテトにサツマイモ。
 前の自分たちが生きた頃には、何処にも無かったスイートポテト。
 何処かにいるのなら食ってみてくれ、と心でゼルたちに呼び掛けた。
 ブルーと二人で、スイートポテトを頬張りながら。
 白いシャングリラで共に暮らした仲間。懐かしい仲間。
 今も宇宙の何処かにいるなら、スイートポテトを。今ならではの味を試してくれ、と…。




          スイートポテト・了

※シャングリラには無かったスイートポテト。そもそもサツマイモそのものが無かった時代。
 今では美味しいスイートポテトに、他にも色々。シャングリラの仲間にも披露したい味。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








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(…ちょっと飛んでるみたいだよね)
 ほんの少し、とブルーはバスの窓から外を眺めた。
 学校からの帰り、乗ったいつもの路線バス。外がよく見えるお気に入りの席。大抵そこに座るのだけれど、普段は気にしていなかった。景色の方に夢中になって。
 普通の車よりも車高の高いバス、人も車も窓よりも下に見えるから。窓から覗いたブルーよりも下を通ってゆくから、飛んでいるようだと思ったバスからの眺め。そう見える視点。
 人の背丈よりもほんの少し上、そのくらいの高さを飛んでいる自分。バスの座席に軽く腰掛け、流れるように飛んでゆく自分。
 今の自分に空を飛ぶ力は無いのだけれども、バスに乗ったままで飛んでいた。地面よりも上を、人の頭よりも高い所を。
(ホントに空を飛んでるみたい…)
 気持ちいいな、と流れる景色を楽しんでいたら、ガクンと止まってしまったバス。何故、と前を見れば信号が赤。途切れてしまった空の旅。せっかく気持ち良く飛んでいたのに。



(信号だなんて…)
 そんなのに引っ掛かるなんて、と残念な気分で動かなくなった景色を見詰めた。前の自分ならば自由自在に飛べたのに、と。
 このバスで飛んだ気持ちになる高さよりも、もっと高い空を。本物の空を。
 雲よりも高い青い空の上を、信号に引っ掛かりもしないで。
 遮られることなく飛べた空の旅、何処へでも飛んで出掛けてゆけた。白いシャングリラから遠く離れて、思いのままに空を駆けることが出来た。
 そんなことは滅多にしなかったけれど。船の仲間たちが自由に出られはしない世界を一人きりで飛んで楽しむことなど、ソルジャーのすべきことではないから。
(でも、たまに…)
 ミュウの未来を考える内に、苦しくなってしまった時とか。
 そういった時には空へ飛び出した、自由に飛んでゆける世界へ。白いシャングリラが潜む雲海を抜けて、ただ遠くへと空を駆けていた。
 フィシスを見付けたのもそんな時だった、空を飛ぶだけでは後ろめたくて、せめて情報収集だけでも、と入り込んだ施設の奥深くで。
 地球を抱く少女を見付け出した後は、自分に何かと言い訳をしては空を飛んでいた。フィシスの許へと、地球を抱く少女に会いにゆこうと。



 前の自分が飛んでいた空、遮るものなど無かった空。
 バスは再び走り出したけれど、景色が流れ始めたけれど。
(車って、不便…)
 空を飛ぶよりずっと不便、とバスを止まらせた信号機に心で溜息をついた。せっかく飛んでいた旅を邪魔された、あの信号機に。飛んでいる気分に水を差された、赤信号に。
(本当に空を飛んでるんなら、信号なんか関係無いのに…)
 地面の上にはなんと無粋なものが聳えているのだろう。赤、青、黄色と色が揃った信号機。車の流れを止めてしまって、飛んでいる気分を台無しにする。色を赤へと変えるだけのことで。
(空には信号、無いんだけどな…)
 止まらなくてもいいんだけどな、と考えながらも空の旅。バスの窓がある高さの空を。
 今の時代は、市街地では空を飛べないけれど。
 信号機が無くても出てはいない許可、市街地の上を生身の身体で飛んでゆくこと。空を飛ぶなら指定された場所、其処でレジャーとして飛べるだけ。そういうルール。
 だから空を飛ぶ力がある人も、町の中ではこういう不自由をするのだけれど。移動する時は車やバスで、信号に引っ掛かるのだけれど。



 つらつらと考えながら飛んでゆく内に、近付いて来た家の近くのバス停。
 降りる合図のボタンを押して、バス停に停まったバスから地面にストンと降り立って。
(たったこれだけ…)
 ほんの少し、と見送った走り去るバスの床の高さ。バス停で降りただけの高さで空を旅していた気分。人の背丈よりも少しだけ上を、バスで上がった視点の分だけ。
 それでも満足だったけれども、前の自分ならもっと高く、と空を見上げた瞬間に。
 青く高く澄んだ空を仰いだ途端に、身体を貫いていった衝撃。



(逆…!)
 逆だったのだ、と初めて気付いた。
 自由なのは前の自分ではなくて、空を飛べない自分の方。バスの窓の高さで空を旅して、信号に旅の邪魔をされたと溜息を零した自分の方。
 前の自分は空を自在に飛べたけれども、本当の意味で自由に飛んではいなかった。空の上を高く駆けていたけれど、降りる地面を持たなかった。
 何処まで飛ぼうと、何処へゆこうと、戻る先は白いシャングリラ。雲海の中に浮かんでいた船。
 たとえ地面に降り立ったとしても、森の中で切り株に腰掛けていても、いつまでも留まることは出来ない。ミュウの居場所は地面には無くて、白いシャングリラの中だったから。
 地面から飛び立ち、其処へと戻ってゆくしか無かった。また空を駆けて、その空の上に浮かんだ船へと。雲海の中に潜む船へと。



 前の自分が飛んでいた空に、邪魔をする信号は無かったけれど。
 赤信号に行く手を阻まれることは無かったけれども、居場所の無かった地面の上にはその信号があったのだった。人類が暮らす町の中には、車が流れていた道路には。
(信号機のルールは今とおんなじ…)
 青なら進めて、赤ならば止まる。車も人もそれは共通。
 知識としては知っていたけれど。アタラクシアやエネルゲイアの上を飛ぶ時は、車も道路も見ていたけれど。
 従いたくても従えなかった信号機。ミュウのためには無かった信号、無かった地面。車も道路も人類のもので、走りたくても走れなかった地面。バスや車でも、自分の足でも。



(地面だって、うんと遠かったんだよ…)
 シャングリラから直接地面に降り立つことは不可能だった。高い高い空を飛んでいたから。
 さっき自分がバスからストンと降りたような具合で降りることは、けして。
 トンと降りるだけで地面に立てはしなくて、前の自分の力をもってしても出来なかったこと。
 遥かな下にある地面との距離は縮まらないから、物理的に無理なことだから。
 地面に着くまで空を飛んでゆくか、瞬間移動で一気に降りるか。前のブルーでさえ二つに一つ。
 ましてシャングリラの仲間たちには、タイプ・ブルーではなかった皆には…。
(絶対に無理…)
 降りたいと望んでも降りられなかった、地面などには。人類のものだった地面の上には。
 新しい仲間を救出するための潜入班にならない限りは、踏みしめることさえ出来なかった地面。赤信号に引っ掛かったと嘆きたくても夢のまた夢、信号機の立つ地面がミュウには無かった。
 潜入班なら信号も地面もあったけれども、交通ルールにも従ったけれど。
 監視システムに怪しまれぬよう、人類と同じに地上で暮らしもしていたけれど…。



(前のぼくの自由と同じで仮のものだよ…)
 空を駆けてシャングリラから地面に降りても、潜入班として降りたとしても。
 留まることは出来はしなくて、帰ってゆく先はシャングリラ。地面など無い空にある船。雲海の外には出られない船、降りる地面を持たなかった船。
 そういう時代に生きた自分と比べてみれば…。
(今はとっても…)
 幸せなんだ、と今頃になって気が付いた。
 赤信号に引っ掛かったと残念に思ったあの信号機も、それがある地面を路線バスに乗って走れることも。当たり前のようにある交通ルールも、それに従って走れることも。



 しみじみと幸せを噛み締めながら家に帰って、おやつを食べて。
 二階の自分の部屋に戻って、また考える。
 今はどれほど幸せなのかと、空を飛んでいた前の自分よりも、どれほど幸せなのだろうかと。
(ぼくは車に乗れないけれど…)
 運転免許を取れる年ではないけれど。
 ハーレイのように自分で車を運転出来たら、もっと幸せな気分だろうか。
 地面の上を走れる車。信号に従って走れる車。
 それも地球の上で、前の自分たちが焦がれ続けた青い地球の上で。



(きっと幸せ…)
 最高に幸せな気分だと思う、地球の地面の上を車で走れることは。
 前の自分たちとは縁が無かった交通ルールも、赤信号で動けなくなることも。
 そうなのだろうという気がするから、ハーレイに訊いてみたいと思った。この幸せにハーレイは気付いていたかと、車で走れることの幸せさに、と。
(…ハーレイ、今日は来てくれるかな…)
 仕事の帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と願っていたら聞こえたチャイム。窓から覗けば手を振るハーレイ、応えて大きく手を振り返した。
 訊いてみることにしよう、早速。ハーレイが部屋に来てくれたなら。



 やがて母の案内で現れたハーレイ。
 お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに座って、まずは帰りの路線バスで見た窓の景色から。飛んでいるようだと思ったあの風景から。
「あのね、今日ね…」
 バスに乗ってたら、飛んでいるような気分になったよ。バスの窓の高さで。
 そしたら、赤信号に引っ掛かっちゃって…。飛んでる気分が台無しになってしまったけれど…。前のぼくなら信号なんかは関係なくって、自由に飛べたと思ったんだけど…。
 でも、とバスから降りた後で気付いた話をした。
 前の自分が飛んだ空より、地面を走れる車の方が幸せだよ、と。
「…はあ?」
 空を飛ぶより車って…。そいつはなんだかおかしくないか?
 お前が引っ掛かったって言う赤信号。空に信号は無いんだからなあ、止まる必要も無いんだぞ?
 鳥だって空で止まっちゃいないし、前のお前だってそうだったろうが。



 空を飛ぶ方が遥かに自由そうだが、とハーレイは不思議そうだから。
 市街地の上は飛行禁止な今と違って、前のブルーの頃ならば自由に飛べたと言うから。
「それなんだけど…。同じように空を飛んでいたのがシャングリラでしょ?」
 シャングリラに信号、あったと思う?
 ハーレイはシャングリラを動かしてたけど、赤信号で止まったりすることはあった?
「無かったな。前のお前や鳥と同じで、空に信号機は無いからな」
 一度も止まったことなんか無いな、アルテメシアの空を飛んでた間はな。
 ナスカじゃ上空に停まっていたがだ、あれも赤信号で止まったわけではないからなあ…。
「交通ルールは?」
 横断歩道の手前の方で止まりましょうとか、そういうルールはシャングリラにあった?
「全く無いな」
 航宙学ってヤツで言えばだ、飛ぶためのルールは存在したが…。
 離着陸の時はライトの点滅をどうするかだとか、その手のヤツはあったんだが…。
 使わなくてはいけなくなったのは、アルテメシアを落としてからだ。人類用だった宙港に降りるためには必要だしなあ、他の船とぶつからないために。
 もっとも、落とした星への離着陸以外はルールは殆ど守ってないな。人類軍との戦いの真っ最中だと、ルールも何もあったもんじゃない。守ったら負けだ、がむしゃらに進むのみってな。



「…ほらね、シャングリラにも信号なんかは無かったでしょ?」
 そういうのが無いと自由みたいに思うけど…。自由なんだと思っちゃうけど、それは間違い。
 本当だったら人類の船と全く同じに、ちゃんとルールを守って着陸とかが出来たんだよ。人類がミュウの存在を許してくれていたなら、シャングリラの着陸を許してくれたなら。
 でも、そういうのは出来なくて…。
 前のぼくだってシャングリラと同じ。自由に空を飛んでいたって、地面が無かった。地面の上に降りてみたって、帰って行く先は空に浮かんだシャングリラで…。
 赤信号で止まりたくっても、交通ルールを守りたくても、させては貰えなかったんだよ。地面は人類が持っているもので、ミュウのものではなかったから。
 だけど、今はね…。



 それを守って走れるんだよ、と説明した。
 前の自分たちが行きたいと願った青い地球の上で、と。
「そうでしょ、ハーレイ? ぼくは路線バスとかパパの車に乗せて貰って走るんだけど…」
 赤信号でちゃんと止まるよ、止まらなくっちゃいけない決まり。考えてみたら、とっても幸せ。
 ハーレイはもっと幸せだと思うな、自分で運転してるんだもの。
 地面を走るための決まりを守って、自分の車で地球の上を走っていけるんだもの。
「なるほどなあ…!」
 そいつは全く気付いてなかった、今日までのお前と同じにな。急いでいる時に赤信号になったら舌打ちしたりもするんだが…。そうか、赤信号で止まれるってことは幸せなんだな。
 今の俺の車はシャングリラよりも幸せってことか、赤信号で止まれる分だけ。
「うん。地面の上を走っているから、赤信号があるんだよ」
 おまけに地球の地面なんだよ、地球の上を走っている道路。そこについてる信号機の赤。
 シャングリラだと道路を走りたくっても、いろんな意味で無理があるよね。宇宙船だったし。
「俺の車がシャングリラよりも幸せだったとは気付かなかったな…」
 同じように俺が動かしていても、大きな違いがあったってことか。
 幸せな車、シャングリラに比べりゃずっと小さくて、ブリッジに置いてもまるでオモチャだ。
 そんなに小さな車のくせして、シャングリラよりも遥かに幸せだったってか…。



 信じられない気持ちだが…、とハーレイは車を思い浮かべているようで。
 ちっぽけだとか、シャングリラの通路を走れそうだとか、その小ささを挙げていたけれど。
「そういや、車は外が見えるな」
「えっ?」
 外って、窓の外のこと? そうなの、ハーレイ?
「うむ、外だ。そこがシャングリラと車の大きな違いだ」
 車だとガラスの向こうに外が見えるだろ、路線バスでも普通の車でも。
 シャングリラにも窓は一応あったが、運転するためにある窓じゃなかった。前の俺がブリッジで見ていた景色はスクリーン越しで、それを頼りに舵を切ってた。後はデータに頼ってな。
 ところが車はそうじゃない。俺の目で窓の向こうを見ながら運転するんだ、車ってヤツは。
 赤信号かどうかを見るのもそうだが、この目で見ないとハンドルも切れやしないってな。
「ホントだね…」
 シャングリラと車じゃ全然違うね、運転してるって実感があるのは車だよね。
 スクリーン越しに外を見るんじゃなくって、運転席のすぐ前に外の景色があるんだものね。
「お前、そこには気付かなかったか…」
 自分で運転してないからなあ、無理もないかもしれないが。
 車の免許を取れる年じゃないし、シャングリラだって前のお前は動かしてないし…。
「それもあるけど、前のぼくは自分で飛んでいたんだもの」
 窓なんか無いよ、飛んで行く時に。ぼくの身体だけで飛び出すんだから。
「そうか、視界は遮られないというわけか」
 外の様子はどうなってるか、と調べなくても、情報は全て直接入って来ていたんだな。
 前のお前の目に映ったもの、それを目指して飛んで行くとか、避けるとか…。
 そういう意味では前のお前はシャングリラよりも自由だった、と。
 俺の車に近かったわけだ、前のお前が飛んで行く時に体感していた景色ってヤツは。



 シャングリラに比べて今の車は…、と続けるハーレイ。
「外を見られるっていうのもそうだが、俺の車だというのも嬉しい点だよなあ…」
 仲間の命を預かっているというわけじゃないし、行き先だって俺の自由に選べるからな。地球へ行かねば、と頑張らなくてもいい時代だし…。何より地球に来ちまってるし。
 その地球の上を好きに走って、道路さえあれば何処へだって行けると来たもんだ。
 あれは俺だけのシャングリラってヤツで、進路も運転も俺次第ってな。
「そうだっけね。ハーレイ、前にも言ってたね」
 ハーレイの車、今度はぼくとハーレイだけのためのシャングリラになる予定なんだ、って。
 当分は今の車だけれども、買い替える時にはシャングリラと同じ白もいいな、って。
「そうさ、俺たちのためだけにあるシャングリラだ、あれは」
 俺の隣にお前を乗せなきゃ、完璧じゃないって勘定だがな。
 二人揃って乗って初めて、本当に本物の俺たちだけのシャングリラになってくれるんだ。
 それまでは俺が一人で乗るしかないわけなんだし、少し寂しいシャングリラだが…。
 前の俺がお前を失くした後と違って、お前はこれから乗り込む予定の車なんだしな?
 いつかお前を乗せる時まで、大切に乗っておかんとなあ…。



 綺麗に洗って手入れもして…、とハーレイは嬉しそうだから。
 前の自分のマントの色をした今の愛車を、ブルーが乗るまできちんと維持しておくと言うから。
「ねえ、ハーレイ。ぼくもハーレイの車、運転出来る?」
 乗せて貰えるようになったら、あの車を。前のハーレイのマントの色をした車。
「お前がか?」
 あれをお前が運転するのか、俺の代わりに運転席に乗り込んでか…?
 運転免許を取るって言うのか、と真顔で訊かれた。
 そんなつもりは無かったんだが、と。
 ブルーが乗るならあくまで助手席、運転席には自分が座るつもりだったが、と。
「…そうだったの?」
 ぼくはあの車を運転しないで乗ってるだけなの、長いドライブに出掛ける時でも?
 遠い所に車で行くなら、交代しながら運転していく人も多い、って聞いているけれど…。
「おいおい、俺の体力を甘く見るんじゃないぞ?」
 長距離だって充分に一人で走らせることが出来るんだがな?
 若い頃からドライブしてるし、何より車はシャングリラと違って休憩する場所が沢山あるんだ。適当な場所を見付けて停まって、飯を食ったり一休みしたり。リフレッシュしたらまた走る、と。
 シャングリラじゃそうはいかなかったぞ、何時間でも舵を握りっ放しで立っていたとかな。
 そういう時代を経験したんだ、長距離ドライブなんぞは遊びだ。
 俺は一生、俺が運転手のつもりでいたんだが…。お前と二人で乗って行く予定のシャングリラ。
 しかし、お前が運転免許を取りたいと言うなら話は別で…。
 あれを運転したいと言うなら、運転席にも座ってくれればいいんだがな。



 運転免許を取りたいのか、と訊かれたから。
 俺と交代でドライブするのが好みなのか、と尋ねられたから。
「…どうだろう…」
 どうなんだろう、と考え込んでしまったブルー。
 運転免許があれば車を動かせるけれど、青い地球の上を車で走って行けるけれども。
 シャングリラがミュウの箱舟だった前の生でも、シャングリラを動かしてはいなかった自分。
 白い鯨をただ守るだけで、舵を握ったことは無かった。
 操舵の練習用のシミュレーターなら扱えたのだし、その気になったら操船も出来ただろうに。
 アルテメシアに落ち着く前なら、遊び半分に動かしてみても文句は出なかっただろうに。
 どういうわけだか、ただの一度もシャングリラを動かさずに終わった自分。乗っていただけで、守っていたというだけのことで。
 そうして今では、車は乗せて貰うものだと思っている自分。
 年齢のせいもあるだろうけれど、父の車もハーレイの車も乗せて貰って当然のもの。ハンドルを握る自分の姿は想像も出来ず、握りたいという気も起こらないから。



「…多分、取らない…」
 運転免許を取りたいな、っていう気持ちはしないし、車を運転したくもないし…。
 今の所は運転免許を取ろうって予定は無いんだけれど…。
「なら、取るな」
 取らなくていいぞ、お前が取りたいと思っているんじゃないならな。
 俺の仕事が無くなっちまうし、運転免許は無い方がいい。
 俺はお前専属のキャプテンってヤツでいたいんだ。俺たちのためだけのシャングリラのな。
 でもって、お前を隣に乗っけて、交通ルールに従ってだな…。
「地球の地面を走るんだね?」
 赤信号ならきちんと止まって、青信号になるまで待って。
「そうなるな。その赤信号とかで止まるヤツだが…」
 そいつが自由の証明なんだ、ってことに気付いたと言うんだったら、文句を言うなよ?
 俺と一緒にドライブしていて、自由の証明に出くわしても。
「自由の証明って…。何に?」
 赤信号なら今日も気付いたし、ぼくは文句は言わないよ。交通ルールがあるのが地面で、そこを走れるなら幸せだもの。
 それとも他にもまだ何かあるの、車が止まるためのルールが?
「ルールと言っていいのかどうか…。そこの所は微妙なんだが…」
 赤信号やら、いろんな交通ルールやら。
 ついでに走っている他の車の状況、そんなので起きる渋滞だな。



 たまに起こるという渋滞。
 ズラリと連なった車の行列、それが殆ど進まなくなる。動かなくなる。待てど暮らせど動かない車、少しずつしか進めない車。
 一度渋滞に入ってしまえば、なかなか抜け出せないらしい。上手い具合に別の道へと出られればいいが、それが出来なければ渋滞が消えるまで待っているだけ、待ち続けるだけ。車の中で。
「昔ほどではないらしいがな…。渋滞ってヤツも」
 ずうっと昔、前の俺たちが生きた頃よりも遥かに昔。
 この辺りが日本って国だった頃は、そりゃあ凄いのがあったらしいぞ、車の渋滞。
「凄いって…。どんなものなの?」
 ぼくは渋滞には出会ったことがないけれど…。昔の渋滞は有名だったの?
「らしいな、ニュースになったというくらいだしな。年に二回ほどあったようだが…」
 生まれ故郷だとか、親が暮らしている家だとか。そこへ行こうって車が大渋滞を起こすんだ。
 そうなると見越して早めに出発した車だって、運が悪けりゃ捕まったらしい。
 懐かしい所へ帰ろうって車が引き起こすからな、帰省ラッシュと呼ばれたそうだ。その車たちが行きと帰りとにズラリ行列、そうなるシーズンが年に二回さ。



 SD体制があった頃よりも遥かな昔、この辺りが日本という小さな島国だった頃。
 お正月とお盆に起こっていたらしい酷い渋滞、その名も帰省ラッシュなるもの。
 捕まったら最後、何時間も車の中に缶詰、降りることも出来なかったと言うのだけれど。一休み出来る場所さえ無かったとハーレイに聞かされたのだけれども。
「…その帰省ラッシュ。それに巻き込まれても幸せだよ、きっと」
 まるでちっとも動かなくても、ぼくは幸せ。怒ったりはしないよ、文句も言わない。
「それもやっぱり地球だからか?」
 地球の地面の上を走って、帰省ラッシュに捕まるからか?
 シャングリラだと絶対に捕まりっこない、地面の上のルールに巻き込まれた結果だからか…?
「うん。帰省ラッシュがあるだけ幸せ」
 ちゃんと地面を走れるからこそ、渋滞なんかがあるんだよ。他の車も走ってるんだよ。
 前のぼくたちみたいに降りる地面が無かったら。…降りられる場所が何処にも無ければ、渋滞に遭うことは無いんだから。
 どんなに酷くて長い渋滞でも、地面の上を走れる幸せと隣り合わせのものなんだよ。
「ふうむ…。お前の言葉は正しいんだが、実に正しい意見なんだが…」
 当時のヤツらには分からんだろうな、ひたすら文句を言ってただろうさ。まだ続くのかと、まだ渋滞は終わらないのかと。
 青い地球の上で暮らして、地面を走って。それが当たり前の時代だったし、きっと分からん。
 自分たちがどれほど幸せだったか、どれほど恵まれていたのかさえもな。



 その時代を生きたヤツらには…、とハーレイが腕組みして頷くから。
 ブルー自身も、今日まで全く気付いていなかった地面を走れる幸せだから。
「ねえ、ハーレイ。…他にもきっと色々あるんだろうね」
 地面の上を走れる他にも、赤信号で止まれる他にも。
「何がだ?」
 交通ルールの幸せってヤツか、地球の地面の上ならではの?
「…交通ルールもそうだけど…。当たり前すぎて気付かない幸せ」
 今のぼくたちには当たり前のことで、でも、前のぼくたちには無かったもので。
 気が付いたらビックリしちゃう幸せ、きっと他にも沢山あるよね。
「ああ、多分な」
 お前が気付くか、俺が気付くか。それとも二人で同時に見付けてアッと驚くか…。
 そういうのが山ほどあるんだろうなあ、まだまだ気付いていないだけでな。



 これから二人で幾つも見付けていこうじゃないか、と微笑まれた。
 人生はうんと長いのだからと、いずれは二人で一緒に暮らしてゆくのだからと。
「はてさて、何処で見付かるやらなあ、そういう幸せ」
 お前とドライブしてる最中にヒョッコリ出会ったりしてな。
 車の窓から見えた景色でハッと気付くとか、休憩しようと降りてみた場所で見付けるだとか。
「そうだね、ドライブしてる時にも何か見付かるかもしれないね」
 前のぼくたちには無かった幸せ、赤信号で止まれる幸せみたいに。
 ぼく、ハーレイと一緒だったら、渋滞しちゃった車の中でも…。
 幸せだよ、と笑顔で言った。
 どんな時でもハーレイと二人、一緒だから。
 二人揃って巻き込まれるなら、遠い昔にあったと言われる凄まじい帰省ラッシュでも。
 何時間も車ごと捕まったままで出られなくても、それでもきっと幸せだよ、と。



「帰省ラッシュって…。いいのか、お前」
 あれは本当に桁外れだったらしいんだが…。もうそれだけで消耗しそうな大渋滞で、到着したらバタリと倒れて寝ちまう人もいたらしいんだが…?
「大変そうなのは分かるけど…。ぼくだと身体が丈夫じゃないから、もっと大変だろうけど…」
 それでも、帰省ラッシュって。
 自分のお父さんたちが住んでる家に出掛けるか、結婚相手のお父さんたちの家に出掛けるか。
 とにかく大切な人たちが暮らしてる家へ、会いに出掛ける時に巻き込まれるものなんでしょ?
 それと、そこからの帰り道。自分が結婚相手と暮らしてる家に帰る時。
 そういう時に出会うものなら、うんと幸せなものじゃない。
 青い地球の上にある大切な家と家との間を移動出来るんだよ、ちゃんと本物の家族の家。
 それだけで充分、幸せじゃない。
 ぼくが帰省ラッシュに巻き込まれるなら、ハーレイの家からぼくの家まで帰る途中か、それとも隣町のハーレイのお父さんたちの家へ行く途中なのか…。
 どっちに向かっているにしたって、きっと幸せ。大切な人に会いに行けるし、大渋滞でもきっと幸せ。着いた途端に倒れちゃっても、ぼくは絶対、幸せだよ。



「お前らしいな、倒れちまっても幸せだという辺りがな」
 そうなったとしたら、俺は行き先に着いた途端にスープ作りだ、野菜スープのシャングリラ風。そいつをお前にせっせと食わせて、帰り道の体力を養ってやらんといかんわけだが…。
 それでもお互い幸せだろうな、帰省ラッシュは今は無いがな。
「うん、分かってる」
 今はちょっぴり渋滞するだけ、それも滅多に無いんでしょ?
 だけど赤信号で止まれる幸せに気が付いたんだし、渋滞だってきっと幸せ。
 ハーレイが運転してくれる隣で、ぼくは幸せ気分なんだよ。
「よしきた、それなら二人であちこちドライブだな」
 俺たちのためのシャングリラで。俺がお前の専属の運転手になって。
「そこはキャプテンでしょ、シャングリラだもの」
 ハーレイしか運転出来ない車を運転するなら、キャプテン。車でもキャプテン・ハーレイだよ。
 ぼくとハーレイしか乗ってなくても、シャングリラでキャプテン・ハーレイなんだよ。
「分かった、俺がキャプテンなんだな」
 しかしだ、お前はソルジャーじゃないぞ?
 今度は俺の嫁さんってだけで、隣にチョコンと乗っかってるだけでいいんだからな。



 何もしなくていいんだからな、とハーレイが笑みを浮かべているから。
 俺のシャングリラで走って行こう、と言ってくれるから。
 いつかハーレイと結婚したなら、二人でドライブに出掛けよう。
 赤信号でも渋滞でもいい、ハーレイの車で味わってみよう、地球の地面の上を走れる幸せを。
 きっと免許は取らないだろうから、ハーレイはいつまでもキャプテン・ハーレイ。
 ブルーだけを乗せて走るシャングリラの頼もしいキャプテン、キャプテン・ハーレイ。
 二人きりのドライブで地球を走って、交通ルールを満喫しよう。
 シャングリラには無かった赤信号だの、出会わなかった小さな渋滞だのを…。




           赤信号の幸せ・了

※赤信号に引っ掛かったら、残念な気持ちになるのが今のブルーですけれど。
 前の生では、赤信号には引っ掛かりようが無かったのです。交通ルールを守れるのは幸せ。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv








(綺麗…)
 緑色だ、とブルーはテーブルに置かれた瓶を見詰めた。
 学校から帰って、ダイニングでおやつの時間の真っ最中。そのテーブルに置かれていた瓶。
 それほど大きな瓶ではない。すらりと細くてジュースの瓶かと思うほど。でなければシロップ、中身を水やソーダで割って飲むもの、そういう液体に似合いの瓶。
 けれど瓶には無いラベル。なんのラベルも貼られていなくて、剥がした跡さえ見付からなくて。
(綺麗な緑色だけど…)
 濃い緑ではなく、黄緑色といった所か。芽吹いたばかりの若葉の緑をした澄んだ液体、トロリとしているようにも見える。恐らく飲み物なのだろうけれど。
(なあに?)
 こんな飲み物は見たことがない。これを薄めたジュースも知らない。学校に行っている間に母が作って詰めたのだろうか、この瓶に?
 このまま飲むのか、それとも薄めて飲むものなのか。



(どっち…?)
 正体不明、と眺めていたら。どんな味かと想像していたら、母が来たから。
「ママ、これなあに?」
 何の瓶なの、と指差した。緑色の液体が詰まった瓶を。そうしたら…。
「オリーブ油よ。オリーブは知っているでしょう?」
 あの実から採れるの、色々な種類があるんだけれど…。
 これはお友達に頂いたの、と母が手に取り、瓶を少しだけ傾けた。液体は確かに油のようで。
 出来たばかりのオリーブ油。搾ったばかりの新鮮なものを貰ったという。



「これからがオリーブ油のシーズンらしいわよ」
 今年一番に出来たオリーブ油がこれで、オリーブだけしか使っていないの。だから上等。
 お料理に使うオリーブ油と違って、このまま食べられるオリーブ油なのよ。
「ふうん…?」
 オリーブ油を食べるって…。どうするの、ドレッシングとか…?
「違うわ、それも美味しいんだけど…。ホントにこのまま食べるのがいいの」
 パンにつけると美味しいのよ。トーストじゃなくて、バゲットとかにね。
「…パンにつけるの?」
 バターみたいに、と不思議に思ったブルーだけれど。パンに塗るならジャムやバターで、油など思いもしなかったけれど。
 母の話では普通だという。オリーブ油で食べるのが似合いのパンにはオリーブ油だと。
 今まではブルーに合わせてバターやジャムにしていたけれども、食べていた頃もあったのだと。ブルーが小さくてミルクや離乳食しか食べていなかった頃までは。
「パパと二人でよく食べてたのよ、オリーブ油で」
 でも、ブルーみたいな子供の舌にはどうかしら…。好き嫌いとは別の話で、大人の舌とは味覚が違ってくるでしょう?
 食べても美味しくないかもしれないわ、オリーブ油のパン。
 だけどブルーには、今はハーレイ先生が下さるマーマレードがあるしね。お気に入りでしょう、あの夏ミカンのマーマレード。
 ブルーはあっちにしておきなさいな、その方がきっとブルー向けよ。



 ママたちは明日は久しぶりにオリーブ油にしてみるわ、と言われた翌朝、ハーレイがやって来る土曜日の朝。目覚めたブルーがダイニングに行くと、母が焼いたバゲット、それにオリーブ油。
(んーと…)
 ブルーには母がトーストを焼いてくれたけれど、マーマレードを塗ったけれども。
 同じテーブルにいる父と母とは、小さな器にあの緑色のオリーブ油を入れているから。千切ったバゲットにオリーブ油をつけて、それだけで口に運んでいるから。
(ジャムもバターも、なんにも無し…)
 本当にあのオリーブ油だけ。塩も胡椒も振っていないし、ドレッシングですらない油。味付けをしたなら分かるけれども、油だけでパン。まるで想像がつかないから。
「ママ、オリーブ油で食べるバゲットって…。美味しいの?」
 ぼくの舌には合わないかも、って言っていたけど、それ、ママたちには、とっても美味しい?
「もちろんよ。そうでなければ食べていないわ、オリーブ油でね」
 バターやジャムに変えちゃってるわよ、とっくの昔に。どっちも家にあるんですもの。
 気になるのなら試してみる?
 どんな味なのか、食べてみるといいわ。味見だけでも。



 はい、と母が自分のバゲットを一口サイズに千切ってくれた。渡されたそれに母の器のオリーブ油をつけて、頬張ってみたブルーだけれど。
(えーっと…?)
 期待した味とは違った風味。澄んだ緑の味はしなくて、バターとも全く違った味で。
「どう、美味しい?」
 ブルーの舌にはどうかしら。ママとパパには、とても美味しい味なんだけれど…。
「うーん…。ちょっぴり美味しい…のかな?」
 嫌いじゃないけど、想像してたのと違う味。もっと濃い味がするかと思った、油だから。
「おいおい、油の味だと美味くないだろうが、せっかくのパンが」
 油臭いバゲットはパパは勘弁願いたいな。このサラリとした味がいいんだ、オリーブ油は。
 ブルーの年だと、まだ分からないかもしれないがな。
 もう少し大人にならないと…、と父がバゲットにオリーブ油をつけて、母もそうしながら。
「このオリーブ油…。ハーレイ先生にもお出ししましょうか」
 今日のお昼に。バゲットを添えられるメニューにして。
「そうだな、美味いオリーブ油だしな」
 本当に本物の搾り立てだし、きっと喜んで下さるだろう。ブルーの分はバターにして。
「ぼくもオリーブ油でいいよ!」
 オリーブ油で食べるよ、バターじゃなくて。ハーレイと同じのを食べたいよ…!
「あらあら…。ブルーは本当にハーレイ先生が大好きなのねえ…」
 子供らしくバターにしてもいいのに、背伸びするのね。分かったわ、ブルーもオリーブ油ね。



 朝食が済んだら、部屋の掃除で。首を長くして待つ内に訪れたハーレイ。
 ブルーの部屋でお茶とお菓子を楽しみながら過ごした午前中の時間、オリーブ油のことは頭からすっかり消えてしまった。忘れてしまった、ものの見事に。
 母が昼食を運んで来るまで、思い出しもしなかったオリーブ油だけれど。昼食のパスタと一緒にサラダの器とバゲットが二切れ載せられたお皿、それとオリーブ油の小皿。
 白い小皿に緑色をしたオリーブ油。母が「ごゆっくりどうぞ」と去ってゆくと。
「ほほう…。こいつは美味そうだな」
 小皿のオリーブ油に鳶色の目を細めるハーレイ。美味しそうだと緩んだ頬。
「…美味しそう?」
 ハーレイにはそんな風に見えるの、このオリーブ油が?
 ママのお友達がくれたんだけど…。ぼくも今朝、少し食べてみたけど、普通だよ?
 好きでも嫌いでもないって感じで、美味しそうとまでは思わないけれど…。
「そりゃあ、お前はチビだしな?」
 子供の舌には少し早いな、オリーブ油の美味さというヤツは。
 搾り立てだろ、このオリーブ油。見れば分かるさ、新鮮なオリーブ油だってことが。
 早速試してみるとするかな、搾り立ての味。



 褐色の指がバゲットを千切って、小皿のオリーブ油の緑に浸して。
 うん、いける、と頬張るハーレイ。流石は地球だと、搾り立ての地球のオリーブ油だと。
「実に美味いな、シャングリラのよりも断然美味い」
 比べようって方が間違っているが、それでもやっぱり比べちまうな。あの船の味と。
「…シャングリラ?」
 オリーブ油なんかあったっけ?
 それでパンなんか食べていたっけ、シャングリラで…?
「忘れちまったか?」
 オリーブ油で食ってたヤツだっていたぞ、搾り立ての油が出来る頃には。
 こいつでパンを食うのが美味い、とヒルマンが調べて来たんだったか…。オリーブの木を植えたからには有効活用、あれこれ調べた中の一つでパンを食うのにオリーブ油だ。



 オリーブの木は沢山あったろ、と言われてようやく思い出した。
 食用にするための油を採ろうと、農場で何本も育てていた木。一年中、緑の葉をしたオリーブ。秋になったら実る実を採って、それを搾って油を作った。白いシャングリラのオリーブ油。
 合成の油よりも本物を、と作っていたのがオリーブ油だった。
「そうだったっけ…」
 オリーブの木を沢山植えていたんだっけ、農場に。油を採るならオリーブだ、って。
「うむ。お前が苗木を奪って来てな」
 人類の施設からゴッソリ山ほど。船の中でも丈夫に育ってくれそうなのを。
「そう、頑丈そうな木を選んで来たよ」
 シャングリラの中だと、気温くらいしか外と同じには出来ないから…。
 雨も風も太陽の光も自然のようにはしてやれないから、丈夫そうな木を。背の高さよりも太さで選んで、葉っぱの艶だって良さそうなのを。



 シャングリラの農場で豊かに枝を広げて育ったオリーブ。前のブルーが奪った苗木。
 すくすくと育って多くの実をつけ、オリーブ油がたっぷり手に入った木。
「あのオリーブだが…。お前、覚えてるか?」
 ヒルマンが言っていたことを。
 オリーブの木はシャングリラに相応しい木だと何度も言ってたんだが、忘れちまったか?
「ううん、オリーブの木を思い出したら、そっちも一緒に思い出したよ」
 箱舟の木でしょ、オリーブの木は。ノアの箱舟。
「そうだ、お前も思い出したか、箱舟の話」
 まさに箱舟だったからなあ、シャングリラはな。
 前の俺たちをアルタミラの地獄から救い出してくれて、生かしてくれて。
 アルテメシアに辿り着いた後も、人類に追われた仲間を救い出しては乗せて行って…。
 ブリッジも箱舟って呼んでいたっけな、公園の上に浮かんでいたから。
 シャングリラの心臓部でもあった場所だし、誰が呼んだか、箱舟ってな。



 ノアの箱舟。
 遠い遠い遥かな昔に、人類が地球しか知らなかった頃に神が起こしたと伝わる洪水。地上は全て水に覆われ、ありとあらゆる生き物が滅び、人も滅んだ。
 その大洪水から逃れた箱舟、神に選ばれたノアの家族と、地上の生き物の一つがいずつ。箱舟は彼らを乗せて浮かんだ、地上の全てを飲み込んでしまった水の上に。
 四十日と四十夜の間、荒れ狂った水は大地を覆い尽くして、その後にようやく止んだ大雨。神の大雨。百五十日の間、箱舟は水の上を漂い続けて、アララト山の頂に止まったという。
 ノアは船から鳩を放った、何処かに地面がありはしないかと。一面の水から顔を覗かせた土地が無いかと、一羽の鳩を。
 けれども鳩は戻って来た。留まる地面が無かったから。次に放しても、鳩は戻った。
 その次にノアが鳩を放すと、オリーブの葉を咥えて戻った鳩。何処かにオリーブの木がある証。それから更に七日の後に放ってみた鳩は、船に戻って来なかった。



 こうして神の大洪水は終わり、箱舟から降りたノアと家族と動物たち。其処から再び人の歴史が始まり、地球が滅びた日をも乗り越え、宇宙に散った。SD体制を敷いて、あらゆる星に。
 SD体制の時代は二度目の洪水だったのだろうか、神が人類を滅ぼすための。
 それと知らずに生まれて来つつあった新しい種族、ミュウと人類とを入れ替えるための。
 ミュウであった前のブルーたちですらも全く知らなかったけれど、歴史はミュウに味方した。
 進化の必然だったミュウ。
 誰もが気付いていなかっただけで。そうだと知らずに滅ぼそうと足掻いていただけで。
 そんなミュウたちを乗せた箱舟、白い鯨だったシャングリラ。
 いつかはノアの箱舟のように地上に降りようと、降りたいと皆が願っていた。
 ノアが放った鳩が咥えて戻ったオリーブの葉。何処かに地面があると知らせた命の色の葉。
 そういう風に地球へ行こうと願った、オリーブの木が茂る約束の地へ。
 シャングリラが留まれる地球へ行こうと、いつかは鳩がオリーブの葉を咥えて戻るだろうと。
 鳩を放そうにも、シャングリラに鳩はいなかったけれど。
 それでもオリーブの木を植えて、見上げて願った。オリーブが茂る青い地球へ、と。



「そんな場所は何処にも無かったんだがな…」
 前の俺たちが生きた時代に、青い地球なんぞは何処にも無かった。オリーブどころか、何の木も生えちゃいなかった。
 …前の俺たちはそうとも知らずに、地球を目指していたんだが…。
 箱舟に乗って地球へ行こうと、いつかは希望のオリーブの葉を鳩が咥えて戻るだろうと。
「そうだね…。ありもしない場所を目指していたね」
 きっといつかは地球へ行けると、ミュウのぼくたちでも辿り着けると。
 前のぼくもすっかり騙されていたよ、蘇った青い地球があるんだと。フィシスの記憶に刻まれた地球が幻だったなんて思いやしないよ…。
「俺だって頭から信じていたさ。前のお前が憧れてた地球、其処へ必ず行くんだとな」
 お前を乗せて、あのシャングリラで。俺がシャングリラの舵を握って。
 …それなのに、お前は死んでしまって…。
 地球を見もしないで死んでしまって、そんなお前の命を犠牲に辿り着いた地球はあの有様で…。
 お前になんと言ったらいいのか、俺の頭は真っ白だった。あれが地球か、と。
「…ぼくはね、地球に行けなかったことも悲しかったけれど…」
 それは身体が弱り始めた時から、覚悟していたことだったから。もう行けないと諦めてたから。
 地球なんかよりも、ハーレイと別れてしまうことの方が辛かったよ。
 ハーレイよりも先に死んでしまって、約束通りに追い掛けて来ても貰えなくって。
 …そうなることが分かっていたのに、行かなきゃいけなかったから。
 前のぼくしか、シャングリラを守れはしなかったから…。
「…だろうな、前のお前はな…」
 挙句の果てに、メギドで独りで逝っちまって…。
 独りぼっちだと泣きながら死んで、俺は俺で抜け殻になっちまって。それでも地球へ、と必死に進んで、やっと着いたら荒れ果てた地球があっただなんてな…。



 だが、俺たちは辿り着いたな、とハーレイが笑んだ。約束の地へ、と。
「青い地球の上に二人揃って生まれ変わって来たんだし…。それに、オリーブ油」
 鳩は葉を咥えて戻らなかったが、そのオリーブの木の実から出来たオリーブ油だ。
 そいつが食える地球に来たんだ、もう間違いなくオリーブが茂る約束の場所に着いたってな。
「…地球に来たってことは間違いないけど…」
 オリーブ油でオリーブの葉とか木とかは強引じゃない?
 オリーブ油は実から出来るものだよ、葉っぱがオリーブの実を育てるんだし、実の方がオマケ。木から採れた実と、それを育てる葉っぱとだったら、葉っぱの方がずっと大切だよ。
「そうは言うがな、オリーブは本来、油が大切だったんだぞ」
 今みたいに便利な明かりなんかは無かった時代。
 真っ暗な夜を明るくするには、灯を灯すしかないわけで…。最初は焚火で、次が灯明。こういう油を使って灯して、ランプの時代がやって来たのさ。



 前の俺たちはオリーブ油を食っていただけだが…、と言われてみれば。
 ハーレイが話した通りに遠い昔には油は灯明、生活の必需品だった。ごくごく初期なら素焼きの土器がランプだったし、ガラスのランプが出来た時代も明かりを灯すには油が必要。
 オリーブ油もきっと初めの頃には、食べるよりも明かりが主だったろう。それが無ければ暗闇の中で震えているしかないのだから。
「ハーレイ、油は食べるよりも明かりの方だったって…。この辺りでも?」
 この地域でもやっぱりそうなの、食べるよりも明かり?
「お前が言うのは日本のことか?」
 あの島国ではどうだったのか、っていう意味で俺に訊いているのか?
「そう。日本でも明かりの方だったのかな?」
 食べるんじゃなくて、一番に明かり。そういう油の使い方かな?
「まあな。日本でも油は欠かせなかったな、料理ではなくて明かりの方で」
 もちろん、料理もするんだが…。他の国と同じで揚げたりなんかもしていたんだが…。
 そういう具合に使ってはいても、油を買いに出掛けると言ったら明かりだな。
 古典にも色々と出て来るだろうが、蝋燭じゃなくて行灯だとか。
 その油だが…。



 オリーブ油の国とは油が違うな、と教えられた。
 遥かな昔の小さな島国、其処ではオリーブの油ではなくて菜種の油。菜種油だ、と。
「今と違って、オリーブを育てちゃいなかったんだ。その時代の日本の辺りでは」
 気候が今一つ合わなかったか、まだ入って来ていなかった。代わりに菜種の油で明かりだ。油が採れるから菜種のことを油菜と呼んだりもしていたらしいな。
「ふうん…?」
 行灯の絵は知ってるけれども、何の明かりかまでは考えていなかったよ。蝋燭が入っているって聞いても、そうなんだと信じてしまいそう。行灯、菜種の油なんだね。
「そういうことだ。蝋燭よりも便利だったのか、安かったのか…」
 とにかく行灯の中身は油だったが、そいつを猫が舐めるんだぞ。
「え?」
「菜種じゃなくって、魚の油を使ってた所もあったんだ」
 油さえあればいいわけなんだし、菜種だろうが、魚だろうが…。魚の油は鯨だがな。



 日本で使われていた鯨の油。
 それを使って行灯を灯すと、魚の匂いがするわけだから。油の味も鯨で魚風味だから、魚好きの猫が舐めるのだけれど。行灯の油を舐めるけれども…。
「化け猫になるの!?」
「らしいぞ、猫が行灯の油を舐めると」
 尻尾が二つに裂けちまって…、と聞かされた怪談。年を取った猫がなるという妖怪、裂けた尾の猫又。それになる猫は油を舐めるという。行灯の油を。長い舌を伸ばしてペロペロと。
 飼い主のお姫様を食い殺してしまって、お姫様に化けていた猫又などもいたというから。
「ハーレイ、猫又、怖すぎるよ…!」
 行灯なんかを置いておくから、油を舐めて化けちゃうんだよ。行灯に油を入れるから…!
「そうなるなあ…。今の時代は行灯も無いし、猫又も生まれないわけで…」
 俺のおふくろが飼ってたミーシャも、年寄りだったが猫又なんぞにはならなかったな。
 尻尾は死ぬまで一本のままで、二つに裂けたりしなかった。
 行灯の油を舐めるってことが大切な方法だったんだろうな、猫が猫又になるにはな。



 だから行灯の無い他の地域に猫又は一匹もいなかったようだ、と説明されても、本当なのやら、嘘なのやら。とはいえ、日本にだけ居た猫の妖怪、猫又は油を舐めるもの。行灯の油を。
「猫又が舐めるっていう油…。鯨の油でないと駄目なの?」
 他の油だったら猫又は出ないの、魚の匂いがしない油を入れておいたら。
「なるほど、化け猫防止ってか。菜種油なら、舐めなかったかもしれないなあ…」
 オリーブ油でも魚の匂いはしないし、猫又になるのは無理だったかもしれん。
 そうなってくると、猫又になるのに欠かせないものは行灯だけではないってことか。猫が喜んで舐める魚の油も必須だったんだな、鯨の油。
 行灯と鯨の油が揃って初めて猫又が出来るというわけか、うん。



 それは面白い新説だ、と腕組みをして頷くハーレイ。
 鯨の油は有名なもので、遠い昔にはそのために鯨を獲ったという。捕鯨の主な目的の一つ。鯨の油は明かりの他にも機械油や石鹸の材料、様々にあった使い道。
「…鯨から油が採れるんだったら、シャングリラも?」
 白い鯨だから、油が採れそうな感じだよ。宇宙を飛んでる大きな鯨。
「似てたのは形だけなんだが…。鯨というのは悪くはないぞ」
 鯨は捨てる所が無いっていうほど、どこもかしこも人間の役に立ったんだそうだ。
 そういう意味では、シャングリラは最高の鯨だったな。大いに俺たちの役に立ったし、おまけに箱舟だったんだからな。



 いい鯨でも人類軍には獲らせてやらんが…、とハーレイは笑った。
 シャングリラをモビー・ディックと名付けて、追い続けていた人類軍。
 モビー・ディックは、SD体制が始まるよりも前の時代の小説に出て来る白鯨の名前。人類軍の通信を傍受し、それを知った時にはハーレイたちも酷く驚いたという。人類の目にも同じ白い鯨に見えるのかと。シャングリラは白い鯨なのかと。
「ヤツらは必死に追い掛けて来たが、そう簡単には捕まるものか」
 油を採られちゃたまらんからなあ、あのシャングリラはヤツらの獲物じゃないんだからな?
 俺たちの船だ、俺たちのための大事な鯨だ。
 そいつを獲られてしまったんでは、ミュウの未来も無くなるからなあ…。



 懸命に逃げて逃げ切ってやった、と胸を張るハーレイ。
 キャプテンとして指揮し、あるいは自ら舵を握って、人類軍の追撃から。
 前のブルーが長い眠りに就いていた間は逃げて逃げ続けて、その後の時代は逃げるだけの道から反撃へと。モビー・ディックの名前の通りに、人類軍と戦い続けたシャングリラ。
 白い鯨はミュウたちの箱舟だったけれども、ハーレイの話を聞くと戦う鯨でもあったから。
「ねえ、ハーレイ…。シャングリラって、どっちだったんだろう?」
 平和の箱舟か、捕鯨船と戦う鯨か、どっちが本当?
 ハーレイはどっちだったんだと思う、あのシャングリラは…?
「両方だろ。箱舟でもあったし、鯨でもあった」
 どちらの面も持っていたさ、とハーレイは言った。
 前のブルーがソルジャーとして立っていた時代はミュウたちを乗せた平和の箱舟。戦いはせずに雲に隠れて、追われる仲間を救い続けた。
 けれど、ジョミーを助け出すために浮上した後は、文字通り人類に追われる鯨。捕鯨船よろしく追ってくる人類軍の船から逃れ続けて、危うい場面も何度もあった。
 それでも赤いナスカを見付けて入植したりと、箱舟としての機能もまだ充分に残していた。
 ミュウという種族を乗せた箱舟、いざとなったら乗り込んで逃げてゆけるよう。
 そしてナスカが滅んだ後には、戦う鯨。ミュウが滅びぬよう戦い続けて、幾つもの星を落としていった。最初にアルテメシアを手に入れ、地球の座標を見付けて進んで…。



「とうとう地球まで行ったってな」
 捕鯨船には捕まらないまま、逆に何隻も沈め続けて、ヤツらが必死に守った地球まで。
 …前のお前に頼まれた通り、ジョミーを支えて俺はシャングリラを運んで行ったぞ。ヒルマンが話した約束の場所へ、鳩がオリーブの葉を咥えて戻る地球まで。
「オリーブの木は無かったけどね…」
 前のハーレイが着いた頃には死の星だったし、オリーブなんかは…。
 ごめんね、そんな地球へ行かせて。ハーレイ、きっと、とってもガッカリしたんだろうに…。
「そりゃなあ…。ガッカリと言うより悔しかったな」
 前のお前の夢だった地球がこの有様かと、こんなもののためにお前は死んじまったのか、と。
 お前の魂に青い地球を見せてやれるどころか、見せたくもないような星しか無くて…。
 しかしだ、今はあるだろ、本物の青い地球ってヤツが。
 ちゃんとオリーブ油だって採れるような地球が。



 お前が作った、と微笑まれた。
 前のお前がミュウの未来と、この青い地球を、と。
「えっと…。前のぼく、そんなに偉くは…」
「ないって言うんだ、いつも、お前は」
 この地球の上の誰に訊いても、何処の星に住んでるヤツに訊いても、同じ答えが返るだろうに。
 前のお前は偉大だったと、ソルジャー・ブルーが今の世界を作ったんだと。
 それなのに肝心のお前は違うと言ってばかりで、まるで自覚がゼロなんだよなあ…。
「ハーレイだって同じじゃない」
 キャプテン・ハーレイは英雄なんだよ、シャングリラを地球まで運んだ英雄。
 箱舟か鯨か分からないけれど、ハーレイでなければ運べなかった。いくらジョミーやトォニィがいても、シャングリラを丸ごと運んで行くにはキャプテン・ハーレイがいないと無理だよ。
 ハーレイがいたから、乗っていたから、シャングリラは地球まで行けたんだよ。
「そう来たか…。俺は前のお前との約束を守っただけなんだがな」
 ジョミーを頼む、と言われちまったらやるしかないさ。鯨だろうが箱舟だろうが、とにかく俺が運ぶしかない。何がなんでも地球に着くまで、約束の場所に辿り着くまでな。
「ほら、ハーレイだって英雄じゃないって言ってるし!」
 ぼくのことばかりを言えやしないよ、偉くないって言いたがるのは。
「しかし実際、そうだったわけで…」
 俺は偉いと思っていないし、がむしゃらに進んでいたってだけで…。
 俺もお前も、思った以上に偉い人間にされちまったってトコか、死んでる間に。
「うん、多分…」
「仕方ないなあ、死んでる間に起こっちまったことは今更どうしようもないからな」
 まあいいじゃないか、お互い、偉さの自覚が全く無いってことで。
 そんな俺たちには、約束の場所がどうこう言うより、オリーブ油でパンが似合いだってな。
 鳩が咥えて来るオリーブの葉より、オリーブ油なんだ。
「そうかもね」
 大袈裟な約束の場所なんかよりも、小さな幸せ。地球のオリーブ油でぼくは充分幸せ。



 死の星だった地球が青い水の星に戻ったからこそ、オリーブ油。
 地球の大地で育ったオリーブが実をつけ、オリーブ油が搾られて瓶に詰められる。パンにつけて食べられるオリーブ油が。小さなブルーの幼い舌には、さほど美味しくない味だけれど。
「なあ、ブルー。今の地球だと、他にも油は山ほどあるぞ」
 菜種の油はもちろんあるし、紅花に、胡麻に…。
 ハーレイが幾つも挙げたけれども、今の時代は無いというのが鯨の油。遠い昔には油を採ろうと人間は鯨を追っていたのに、捕鯨船まであったのに。
 今は鯨は姿を眺めて楽しむもの。ホエール・ウオッチングが高い人気を誇る生き物。
「いい時代だね。鯨にとっては」
 人間が捕まえにやって来る代わりに、船でのんびり姿を眺めに来るなんて。
「うむ、追われる時代は終わったってな。鯨も白いシャングリラもな」
 すっかり平和な時代ってヤツだ、ミュウも鯨も追われやしない。
 地球だって昔の青い姿に戻って、俺たちの他にも大勢が暮らしているんだからな。



 そうして地球にはオリーブの木。
 遠い昔にシャングリラにもあった、約束の場所を夢見ていた木。鳩が葉を咥えて戻って来る木。
 今の地球には、オリーブの木が一面に茂った海のような畑もあるというから。
「いつか見たいね、海みたいに一面のオリーブ畑」
「そうだな、二人で行ってみるかな」
 オリーブの葉を鳩が咥えて戻った伝説の山っていうヤツに。
 その山があったって場所も悪くはないだろ、地形はすっかり変わっちまったみたいだが…。
 ノアの箱舟が辿り着いた山の跡だってことで、観光地になっているらしいしな。
 一面のオリーブ畑も見られるそうだぞ、あの辺りはオリーブで有名なんだ。
「じゃあ、行こうよ!」
 アララト山だよね、山じゃなくても行ってみたいよ。
 鳩がオリーブの葉を咥えて来た場所、きっと素敵な場所だろうから。



 ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球。
 いつか行こうと二人で夢見て、叶わずに終わった青い星。
 其処に二人で生まれたからには、箱舟の地へも旅してみよう。
 ノアの箱舟に戻った鳩が咥えていたというオリーブの葉の緑、その葉が一面に茂った場所へ。
 ハーレイと其処へ出掛ける頃には、ブルーも大きく育っているから。
 オリーブ油で食べるパンが美味しいと思える、大人の舌になっているだろうから。
 箱舟の伝説が残っている地で、オリーブ油をつけてパンを食べよう。
 その辺りのものが一番美味しいと名高いらしいオリーブ油。
 地球の太陽を浴びて育ったオリーブの実から採れた油を、ハーレイと二人で味わいながら…。




            約束のオリーブ・了

※シャングリラでも育てられていた、オリーブの木。ノアの箱舟と、ミュウの箱舟とを繋げて。
 その頃には無かった約束の地が、青い地球。生まれ変わって来られた今は、とても幸せ。
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 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv











※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




春、真っ盛り。ソルジャーたちとのお花見も終わり、シャングリラ学園の年度始めの行事も一段落して今日は何もない土曜日です。北の方ならまだまだ桜もあるんでしょうけど、春休みからノンストップな勢いで遊んでましたし、たまには会長さんの家でゆっくりと。
「かみお~ん♪ 何も無くても賑やかに、だもん!」
お昼は豪華にちらし寿司だよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。海の幸たっぷりの海鮮ちらし寿司に大歓声で、早速ワイワイ食べてたのですが。
「あれっ、君たちは海鮮ちらし?」
「「「!!?」」」
誰だ、とキョロキョロ。海鮮ちらしに文句を言われる筋合いは無く…って、今日は来る予定じゃなかったのでは、と声の主を見付けて軽く衝撃。私服のソルジャーが立っています。
「君が食べる分は無いからね!」
会長さんが怒鳴って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ううん、嘘だよ、ちゃんとあるから! ゆっくりしてって!」
「そうしたいけど、これからお出掛け」
「「「は?」」」
お昼時に出て来て、お出掛けだとは…。それじゃ何しに、と思ったのですが。
「ちょっと自慢に寄っただけ! これからノルディとデートだから!」
「はいはい、分かった」
早く出掛けろ、と会長さんの手がヒラヒラと。
「遅刻はマナー違反だよ? さっさと行く!」
「もちろんさ。今日は鍋だって、楽しみだよね」
何だったかな、とソルジャーは首を傾げました。
「名前を思い出せないんだけど…。鶏の鍋で、美味しいらしいよ」
「トリの水炊きとか、そういうのだろ。ほら、行って、行って!」
「急かさなくても行くってば! じゃあね、ぼくの食事は豪華版!」
パッと姿が消えたソルジャー。海鮮ちらしはトリの水炊きに負けたのでしょうか?
「どうだかねえ…。所詮はトリだし」
鶏だから、と会長さん。モノによっては高いそうですが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の海鮮ちらし寿司の具もこだわりの素材を使っているので負けないだろうという仰せ。ソルジャーにケチをつけられましたけど、こっちはこっちで美味しいんですよ!



おかわりたっぷり、海鮮ちらし。食事の後はのんびりまったり、沢山食べただけに三時のおやつは時間通りに食べられず。けれども春らしい桜クリームなどを使ったミルフィーユは是非とも食べたいところ。四時でいいか、というコトになって。
「かみお~ん♪ そろそろおやつにする?」
四時だもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がいそいそと。お腹の方も頃合いに空いて、ちょうどおやつが欲しい頃。紅茶にコーヒーなども揃って、いざ、とフォークを入れようとしたら。
「間に合ったあー!」
ぼくにも、おやつ! と飛び込んで来た私服のソルジャー。また来たのか、と苦情を述べても聞くわけがないと分かってますから、誰も文句を言いませんでしたが。
「うん、君たちのおやつが遅くて良かったあ!」
ついついノルディと盛り上がっちゃって、とソルジャーは悪びれもせずに腰掛けて桜ミルフィーユを頬張りながら。
「ホントは鍋だけで解散の予定だったんだけど…。素敵な鍋だったから、後にお茶まで」
「それは良かったねえ…」
会長さんの言葉は明らかに社交辞令でした。ところがソルジャー、「うん」と嬉しそうに。
「まさかトリ鍋で、あんなに素晴らしい話を聞けるだなんてね! あ、トリ鍋はトリ鍋だけどさ、ちゃんと名前があるんだよ!」
「トリの水炊きだろ?」
「そうじゃなくって、鶏の方に!」
名前があるのだ、ということは…。ブランドもののトリ肉でしょうか、ナントカ地鶏とかそういった系の…?
「ううん、地鶏じゃないんだな、これが。鶏の品種の名前らしいよ」
「烏骨鶏?」
それともチャボかい、と会長さんが尋ねると。
「シャモって言ったよ、シャモ鍋を食べて来たんだよ!」
「「「あー…」」」
シャモね、と一応、納得です。シャモ鍋だったらトリ鍋の中でもちょっと別格。とはいえ、ソルジャーが素敵だと褒めてエロドクターと盛り上がる理由が分かりません。なんで…?



「シャモはね、特別らしいんだよ」
パワー溢れる鶏で、とソルジャーは語り始めました。
「闘鶏に使うとノルディが言っていたねえ、闘争心が強い鶏だってね?」
「そうらしいな」
シャモは軍鶏と書くくらいだからな、とキース君。
「愛好家の団体もあると聞いたが、あんた、闘鶏でも始めたいのか?」
「そうじゃないけど…。ちょっと欲しいという気がしてね」
強いシャモが、とソルジャーの台詞は意味不明。闘鶏をやりたいと言うんだったら強いシャモだって必要でしょうが、そうでないなら何のために?
「ズバリ、あやかりたいんだよ!」
シャモのパワーに、とソルジャーはグッと拳を握りました。
「今じゃやってないらしいけれどさ、昔は相撲の力士なんかがシャモを食べたとノルディがね…。闘争心とパワーを身につけようと、わざわざシャモの顎の骨とか頭だとかをバリバリと!」
「「「ええっ!?」」」
力士ともなれば流石に違う、とビックリ仰天。シャモの頭はもれなく頭骨が入っていますし、顎の骨だなんて話があるなら、頭も骨ごとバリバリでしょう。私たちが食べたら歯の方が砕け散りそうです。ビール瓶の栓を歯でポンと抜ける教頭先生なら平気かもですが…。
「そういう話を聞いて来たらさ、あやかりたいと思っちゃうだろ?」
「…それはソルジャーとしての話かい?」
パワーをつけて人類軍とのバトルなのかい、と会長さん。
「君の世界のハードさは理解しているし…。シャモのパワーも欲しいわけ?」
「ちょっと違うね、ぼくが欲しいのはシャモの闘争心の方!」
「まさか、シャモを食べて一気に地球まで攻めて行こうとか?」
「やらない、やらない」
そもそも地球の座標を知らない、とソルジャーは片手を振って否定しました。
「ノルディに教わって来たんだよ。シャモの闘争心の源!」
コレを聞いたらあやからねば、と頬を紅潮させてますけど、シャモと言ったら喧嘩をするトリ。ただの喧嘩好きの鶏なんじゃあ…?



「そうか、君たちでも知らないんだ?」
ノルディが博識で実に良かった、と笑顔のソルジャー。エロドクターがシャモに詳しいとは知りませんでした。闘鶏の愛好家な知り合いがいたのでしょうか?
「残念ながら、知り合いにはいないらしいんだ。いるんだったら強いシャモを譲って貰うことも出来ただろうけど…」
「食べられてしまうと知ってて譲るような愛好家はいないと思うんだけどね?」
会長さんの指摘に、ソルジャーは「うん」と。
「ノルディにもそう言われたよ。愛好家はシャモを大事にしてるし、食用には譲ってくれないだろう、とね」
戦わせるくせに愛情たっぷり、と聞かされた愛好家のシャモに対する愛とやら。体調管理もさることながら、バトルの後には傷薬などでしっかり手当てで、傷薬だって自家製ブレンド。秘伝の生薬を漬け込んだりして傷が癒えるよう細やかな世話を…。
「一度戦ったら二週間くらいは休養らしいよ、それくらい派手に戦うらしいけど…」
その闘争心が何処から来るかが大切なのだ、と話はついに核心へと。
「ズバリ、縄張り争いってヤツ!」
「それって普通じゃないですか?」
大抵の生き物はやらかしますよ、とシロエ君。
「アユの友釣りだって縄張り争いを利用して釣ると聞いてますしね」
「まあ、生き物のオスには基本だろうけど…。シャモの場合は命も懸ける勢いで! ついでに目指すはハーレムだから!」
「「「ハーレム!?」」」
「そう、ハーレム!」
シャモはハーレムのために戦うのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「元々、鶏はハーレムを作るものらしいんだよ。一羽の雄鶏が頂点に立ってメスを集めて、子孫を残す。その本能と闘争心とが強烈なのがシャモっていうわけ!」
鏡に映った自分の姿に喧嘩を売ろうという勢いだとか。闘鶏の訓練は鏡の自分への挑戦に始まり、闘争心を高めてバトルの場に登場するらしく。
「ハーレムと聞いたら、これにあやからない手は無いよね?」
どう思う? とソルジャーの赤い瞳がキラキラ。闘争心は闘争心でもハーレム作りの方にあやかりたいなら、この話、ヤバくないですか…?



ハーレムを目指して命懸けのバトルをするらしいシャモ。そのシャモ鍋をエロドクターに御馳走になったソルジャー、強いシャモが欲しい上にあやかりたいとか。もしや強いシャモを食べてパワーを身につける人って、ソルジャーじゃなくて…。
「ピンポーン♪」
大正解! とソルジャー、誰の心を読んだのやら。
「シャモを食べさせたいのは、ぼくのハーレイ! そして漲るパワーでガンガン!」
ハーレムを作る代わりにぼくに尽くして欲しいのだ、という主張に「やっぱり…」と心で嘆き節。つまりはシャモを精力剤としてゲットしたいというわけですね?
「そうなんだよ! 最強のシャモが欲しいんだけど!」
「…譲って貰えば?」
愛好家に、と会長さん。
「食べるんです、と正直に言っても場合によっては譲ってくれるよ」
「本当かい!?」
「ただし、ヨボヨボのシャモだろうけど」
引退してから長いシャモなら貰えることがあるかもしれない、という話。
「シャモが美味しいことは食べて来たなら分かるだろう? 愛好家と言っても色々いるしね、老いさらばえて死なせるくらいなら食べてしまえというタイプも皆無ではない」
「…でも、ヨボヨボのシャモしかくれないんだね?」
「当たり前だろう! 現役のシャモは絶対くれないし、引退したてでも無理だろうね」
手塩にかけて育てたシャモを誰が鍋に…、と正論が。ソルジャーの話では傷薬までも自作するという愛好家。それだけの愛情と手間を注いだシャモなら、後は鍋しか道が無さそうなほどに衰えない限り食用には譲らないでしょう。
「…というわけでね、最強のシャモは貰えないよ。元最強とか、そういうシャモで我慢しないと」
「ぼくが欲しいシャモは現役だってば!」
ヨボヨボのシャモではあやかるどころか萎れそうだ、と言われても…。
「現役ねえ…。いっそ自前で育ててみたら?」
「「「えっ?」」」
会長さんの台詞に、ソルジャーどころか私たちも首を捻る羽目に。現役のシャモで尚且つ最強、そんなの、自分で育てられますか…?



「まるで不可能ってわけではないよ」
やってやれないことはない、と会長さんは人差し指を立てました。
「君がシャモ鍋を食べたくらいだ、食用のシャモを育てている場所はあるってね。そういう所に頼みに行ったら気の強そうなのを買える筈だし」
「…それで?」
「何羽か纏めて譲って貰って、暫く飼ってみればいい。それからバトルで、勝ち残ったのが最強のシャモということになるね」
「なるほどねえ…」
確かにそうだ、とソルジャー、納得。
「いい案だけれど、愛情をこめた世話とやらは? ぼくはそういうのに向いてないけど」
「…向いてなさそうだね」
まるで駄目だ、と会長さんが返し、私たちも顔を見合わせて「うん、うん」と。青の間の片付けも出来ないソルジャーに生き物の世話が出来るとはとても思えません。普通に飼育も無理っぽいのに愛情をこめて飼うなんて…。
「ね、ぼくには無理だと思うだろ? 君が代わりに飼ってくれるとか?」
「なんでぼくが!」
「アイデアを出してくれたからには、飼い方のフォローもお願いしたいな」
「無茶を言わないでくれたまえ!」
誰があんな凶暴な鶏の世話を…、と会長さんは突っぱねたものの。
「…待てよ、凶暴な鶏の世話か…」
「誰かいるのかい?」
「迷惑をかけるなら断然こいつ、って人間ならいる」
会長さんの言葉にサーッと青ざめる私たち。そういう対象になりそうな人って、もしかしなくても一人だけしかいないのでは…。
「それで正解!」
この世にたった一人だけ! と会長さんは高らかに。
「ズバリ、ウィリアム・ハーレイってね! 惚れ込んでるぼくの頼みだったらシャモくらい!」
愛情こめて世話をするだろう、との恐ろしい読み。やっぱり教頭先生でしたか、ソルジャーが欲しい最強のシャモを育てるための飼育係は…。



「お、おい、あんた…」
本気なのか、とキース君が会長さんに。
「シャモは相当にキツイと聞くぞ? 愛好家でも生傷を覚悟らしいが…」
「そうだけど? 食用に飼ってるシャモは多少はマシだろうけど、養鶏場から出て来た後には闘争本能に点火するだろうね」
自由の身だから暴れまくり、と会長さんはニヤニヤと。
「一羽ずつ離して飼っておいても、自分が頂点に立つ日を夢見てバサバサ、ドカドカ。餌をやったら蹴られるだろうし、つついて捻って大暴れだね」
「「「うわー…」」」
それを教頭先生が…、と私たちは震え上がりましたが。
「ふうん…。そこまで凄いなら、ぼくにも一羽欲しいかなあ…」
「「「へ?」」」
ソルジャー、生き物は飼えないと言っていませんでしたか? だから教頭先生ですが?
「そうなんだけどさ、このファイトを見習え、とハーレイ用にね」
バサバサ、ドカドカでハーレムを目指す魂の方にもあやかりたい、と斜め上な発想。
「ハーレムを作ろうと暴れる鶏と日々戦ったら、ぼくのハーレイもきっと逞しく!」
「「「………」」」
本当にそういうものだろうか、と悩みはしたものの、誰も突っ込む勇気は無くて。
「うん、決めた! シールドさえすれば青の間の中でシャモを飼っても大丈夫!」
検疫とかの必要は無い、とソルジャーお得意の自分ルールが。
「でもって、こっちのハーレイにもシャモを飼って貰って…。その中で最強ってコトになったヤツとさ、ぼくのハーレイが飼ったシャモとで頂上決戦!」
そして勝った方のシャモを食べればハーレムなパワーを取り込める、とソルジャーは一気に燃え上がりました。
「ぼくのハーレイにも強いのを育てて欲しいしねえ…。まずは気の強いシャモのゲットからかな、纏めて何羽か!」
「それで行くなら、お試しで飼って…。キツそうなのを二羽だけ選んで、一羽ずつ育てる方が強いのを作りやすいと思うよ」
どうだろう? と会長さんが。えーっと、教頭先生とキャプテンが一羽ずつですか…?



「シャモは鏡の自分にも喧嘩を売ろうっていう鶏だ。徹底的に仕込むんだったら一対一!」
見込んだシャモに愛情を注いで、逞しく強く育ててなんぼ、と会長さん。
「こっちのハーレイが一人で飼うと言うなら、同じように世話して最後に勝ち抜き戦でいいと思うけど…。君のハーレイも飼うとなったら、これぞってヤツに一点集中!」
「いいかもねえ…。より逞しいシャモを作る、と」
「そういうこと! それでどうかな、君たちの世界でも飼うのならね」
「その話、乗った!」
是非やろう、とソルジャーはガップリ食い付きました。まずは気の強いシャモの調達からで。
「こっちのハーレイに飼って貰って、その中から特にキツイのを二羽選ぶんだね?」
「うん。ハーレイに殴る蹴るの暴行を浴びせまくったのを二羽ってことだね」
「だったら、六羽ほど譲って貰えばいいのかなあ?」
「それくらいがハーレイの限界だよ、きっと」
蹴られて噛まれて世話をするんだし、と会長さんは教頭先生の限界ギリギリの数のシャモを飼わせるつもり。勝手に決めていいんだろうか、と思っている間に、気付けば夕食時が近付いていて。
「ぶるぅ、夕食は鍋だった?」
「うんっ! 今日は寄せ鍋で締めはラーメン!」
「鍋はゆっくり食べたいし…。先にハーレイの方を片付けないとね」
シャモを育てて貰う件、と会長さんの視線がソルジャーに向いて、ソルジャーも「うん」と。
「今から行けばいいのかな?」
「そうだね、全員でお邪魔しようか、それから帰って鍋パーティーだよ」
行くよ、という声が終わらない内にパアアッと溢れた青いサイオン。ソルジャーのだか会長さんだか、「そるじゃぁ・ぶるぅ」か知りませんけど、瞬間移動でお出掛けですか~!



毎度お馴染み、教頭先生宅のリビング直撃コース。教頭先生はソファで仰け反っておられましたが、取り落とした新聞を拾い上げながら。
「今日は何の用だ?」
「そう言って貰えると話が早いね、鶏を飼って欲しいんだけど」
「鶏?」
「うん、鶏。君の家の庭で六羽ほど」
どうかな? と会長さんはおねだり目線。
「庭で六羽か…。平飼いの卵でも欲しいのか?」
「ぼくじゃなくって、ブルーがね。鶏が一羽欲しいらしくて、ちょっとお願いに」
「なるほど、向こうの世界で飼うとなったら色々と大変だろうしな…」
検疫とかが、と直ぐに言葉が出て来る辺りはシャングリラ号のキャプテンならでは。ソルジャーが「ぼくのシャングリラでは一羽くらいしか…」と口を挟みました。
「君に纏めて飼って貰って、これはと思う一羽を選んで飼いたいな、とね」
「ああ、分かりました。私が庭で飼っている間に検疫などを…」
「それに近いかな、お願いできる?」
「私でお役に立てるのでしたら」
胸を叩いた教頭先生。会長さんと会長さんにそっくりのソルジャー、二人揃ってのお願いとなれば断る筈がありません。会長さんは「いいんだね?」と念を押してから。
「だったら、明日からお願いしたいな。鳥小屋はぼくが用意するから」
「いいのか、日曜大工で作れんこともないが」
「飼って貰うのに手間がかかるし、鳥小屋くらいは調達するよ」
だからよろしく、という会長さんに「任せておけ」と教頭先生の頼もしい返事。
「鶏を六羽、飼うだけだろう? お安い御用だ」
「悪いね、それじゃそういうことで。暫く庭がうるさくなるけど」
「ご近所からは文句は出ないぞ、この辺りはみんな寛容だ」
むしろ鶏の声で朝が来るのを喜ばれるくらいだ、と教頭先生は二つ返事で引き受けましたが。庭がうるさいって朝一番のコケコッコーじゃなくて、教頭先生に殴る蹴るの暴力をふるう時の凄い騒ぎのことなんじゃあ…?



飼育係の件は無事に解決、後は帰って鍋パーティー。締めのラーメンを入れる頃には、居座って食べていたソルジャーのためのシャモの調達先も決まりました。明日の朝から会長さんと一緒に出掛けて六羽貰ってくるそうです。強烈な性格と評判なのを。
「…教頭先生、血を見るんじゃあ…」
帰り道にジョミー君が呟き、サム君が。
「俺たちも見ることになるんだぜ、その血」
「そうでしたね…」
明日も集合かかってましたね、とシロエ君。
「会長の家に十時ですから、その足で教頭先生の家に行くんじゃないですか?」
「だろうな、鳥小屋へシャモを入れにな」
さぞかし恐ろしい眺めであろう、とキース君が手首の数珠レットを繰って南無阿弥陀仏のお念仏。
「シャモは本気で蹴ってくるしな、多分、流血の大惨事だ」
「…何処かで見たわけ?」
ジョミー君の問いに「檀家さんの家でな」という答え。
「月参りに行ったら、鳥小屋で格闘中だった。「ちょっと待ってて下さいねー!」と俺に叫んで、シャモとバトルだ。闘鶏用のシャモでなくても充分なほどのパワーがあった」
「…教頭先生、大丈夫でしょうか…」
マツカ君の声に、スウェナちゃんが。
「シールドでなんとか出来るでしょ? タイプ・グリーンよ、教頭先生」
「でもさあ…。普段、サイオン、忘れていない?」
ジョミー君の鋭い指摘。サイオンは公に出来ませんから、教頭先生はあちこちへ出向く職業柄もあって使用頻度が低い方。と、いうことは…。
「「「……大惨事……」」」
流血沙汰だ、と意見が一致。明日は朝からスプラッタかな?



翌日の十時、私たちが会長さんの家に出掛けてゆくと。
「かみお~ん♪ トリさん、来てるよ!」
みんな、とっても元気なの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお出迎え。後ろに続いてリビングに入れば、其処にシールドが張られていて。
「やあ、おはよう」
「見てよ、この元気一杯なシャモたちを!」
凄いだろう、とソルジャーが誇るだけあって、シールドも歪むかという勢いで繰り出される蹴りに、バサバサ羽ばたき。六羽のシャモは喧嘩できないようにシールドの中で区切られているという話ですけど、鏡の自分に喧嘩を売るという鶏ですから…。
「ぼくが思うに、こいつが一番キツイんじゃないかと」
ソルジャーが一羽を指差し、会長さんが。
「こっちもなかなかの面構えだよ? それに向こうのも」
「いずれ劣らぬ乱暴者です、と言っていたしね、飼っていた人」
選りすぐりの六羽を買ったわけだし、とソルジャー御自慢の凶暴なシャモが大暴れ中。そういえば最強の候補として残る二羽の他はどうなるんでしょう?
「ああ、それね。それなりに強いし、鍋にしようかと思ったんだけど、ブルーがね…」
「無益な殺生はやめておけ、って言ったんだよ。ぼくも一応、高僧だから」
「鍋にするなら一羽だけ、って言われちゃってさ。仕方ないから、四羽は寄付で」
「「「寄付?」」」
こんな凶暴な鶏を何処へ、と思ったのですが、行き先はマザー農場でした。他の鶏と交配するのに使えるらしくて、つまりは其処で…。
「うん、ハーレムを貰えるわけだよ」
シャモにとってはいい話だよね、とソルジャーが頷き、会長さんが。
「本来は食用のシャモだったしねえ、それを四羽も救ってあげれば残りを鍋にしてしまったって一応の徳は積めるだろう。それに残りの二羽も片方は鍋を免れるんだし」
「負けた方に用は無いからね? ハーレムで好きに暮らせばいいよ」
そして勝った方はハーレイの血肉となってハーレム! とソルジャーはブチ上げていますけれども、キャプテンのお相手はソルジャーだけ。一人だけしかいない場合でもハーレムと呼んでいいのかどうかが、正直、悩ましい所です…。



大暴れしている六羽のシャモ。会長さんたちと瞬間移動でお邪魔してみた教頭先生の家の庭には既に鳥小屋が出来ていました。会長さんが調達して来て据え付けたもので、六羽分のスペースが分けて取られた立派なもので。
「さて、ハーレイ。一羽ずつ入れてくれるかい?」
これを、と会長さんが示す先ではシールドに入った六羽がバタバタ、バサバサ。どう見ても普通の鶏ではなく、シャモであることが丸分かりで。
「…こ、これを私が入れるのか…?」
「決まってるだろ、今日から君が飼うんだからさ」
「よろしく頼むよ、ぼくの世界じゃ六羽はとても…」
会長さんの命令と、ソルジャーからのお願い攻撃。教頭先生は腹を括ってシールドに手を突っ込みましたが…。
「うわぁーっ!!!」
顔面に向かって炸裂した蹴り。教頭先生が狙いをつけた一羽はシールドが解かれ、自由の身となってしまったらしくて、蹴りに続いてクチバシでつつき、羽ではたいて殴る蹴るの世界。それでも出現しない教頭先生のサイオンシールド、たちまち流血の惨事ですけど。
「…な、なんとか入れたぞ…」
ゼイゼイと肩で息をしている教頭先生に次なる任務が。
「ご苦労様。残りは五羽だし、頑張ってよね」
「ぼくからもよろしくお願いするよ」
「わ、分かりました…」
頑張ります、と頭を下げる教頭先生は全く気付いていませんでした。会長さんとソルジャーの力ならば瞬間移動でシャモを鳥小屋に収納可能な事実に。ですから自分にシールドなんかは思い付きもせず、蹴られ、はたかれ、つつかれまくって…。
「…こ、これで全部を入れたのだが…」
どうすれば、と尋ねる姿はとうにズタボロ、生傷だらけ。会長さんは「ありがとう」と笑顔で返して、「これ」とシャモ用の飼料が詰まった袋を瞬間移動でドッカンと。
「今日から大事に世話をしてよね。一週間後に選別するから、それぞれ個性を見極めておいて」
「…個性?」
「強い個体を残したいんだってさ。上位の二羽から選ぶらしいよ」
凶暴な二羽を見付け出すことが君の仕事だ、と会長さん。身体を張れとか言ってますけど、ゴールは其処ではないんですけどね?



その日から教頭先生の孤独な戦いが始まりました。学校の授業なんかで出会う度に増えてゆく絆創膏。生徒というものは無責任ですから、凶暴な野良猫を飼っているとの噂も。それでもめげずに世話を続けて、一週間後の日曜日。私たちとソルジャーが瞬間移動でお邪魔すると。
「…ど、どうだろうか…」
これとこれだと思うのだが、と鳥小屋の扉に付けられた印。マジックでキュキュッと黒く塗ってあるだけで、印と言うより目印です。リボンでも結んだ方が分かりやすそうなのに…。
「リボンは酷い目に遭ったようだよ」
ぼくの世界から見てたんだよね、と話すソルジャー。
「鳥小屋に結ぼうと巻いた途端に、中からクチバシ! つつかれて指に穴ってね」
「え、ええ…。実にお恥ずかしい限りです…」
こんな具合で、と褐色の指に絆創膏。他にも沢山貼られていますが、それが最新。教頭先生は印をつけた二羽を指差し、どちらも特に凶暴であると保証しました。
「つつくのも蹴るのも激しいですね。他の四羽とはケタが違います」
「それじゃ、どっちがより凶暴かな?」
ソルジャーの問いに、「甲乙付け難いものがあります」という返事。
「もう少し飼えば分かるかもしれませんが、現時点ではどちらとも…」
「ありがとう。だったら気分で貰って行くから、君は残った方の世話をね」
「は?」
「そういえば説明しなかったかなあ? ぼくは最強のシャモが欲しくて、そのために一羽飼育する。君にも一羽飼って貰って、一週間後にバトルなんだよ」
闘鶏のルールは分からないから普通に喧嘩、とソルジャーはニコリ。
「君が飼ってる方が勝った場合は名誉なんだよ、最強の一羽!」
「で、では、私はこれから一週間もコイツを飼うのですか?」
「ぼくの世界では一羽が限界。…それは分かるね?」
「わ、分かりますが…」
分かるのですが、と肩を落としそうな教頭先生に向かって、会長さんが。
「ブルーのシャモに勝てるのを育ててみたくないかい? ぼくも応援しているからさ」
「お、お前が応援してくれるのか?」
「応援だけね」
何も手伝ってあげないけどね、と会長さんの笑みは冷たいものでしたけれど、応援の一言は効果絶大。教頭先生は凶暴な一羽の飼育を引き受け、生傷地獄の延長戦~。



ソルジャーの青の間と、教頭先生の家の鳥小屋と。各一羽ずつのシャモを残して、他の四羽は会長さんがマザー農場に移しました。ついでに鳥小屋の仕切りも外され、残った一羽は広い鳥小屋で暴れ放題、教頭先生を蹴り放題でつつき放題。
そんな一週間が過ぎて日曜日が来て、私たちは朝から会長さんのマンションへ。
「かみお~ん♪ 今日はリビングで闘鶏なんだよ!」
土俵もあるの、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「「「土俵?」」」
「大きい桶なの、中でトリさんが喧嘩するんだって!」
凄いんだよ、と飛び跳ねてゆく後ろに続いてリビングに入ると、直径二メートルはあろうかという桶というか巨大なタライと言うか。そして…。
「おはようございます」
本日はお世話になります、と私服のキャプテン。隣に私服のソルジャーが立っていて、二人の前には不敵な面構えのシャモが入ったシールド。
「見てよ、強さがググンとアップ! ハーレイが頑張って世話をしたんだ」
「実に凶暴な鶏ですねえ…。シールド無しでは近付けませんよ」
なるほど、キャプテンは教頭先生と違って無傷。教頭先生の方はあれからも生傷が絶えない毎日、きっと今日だって…。
「うん、ハーレイならボロボロだってね。それじゃ呼ぼうか」
準備は整っているようだから、と会長さんの青いサイオンが光ったかと思うと、教頭先生がパッと出現。シールド入りのシャモもくっついています。
「やあ、おはよう。今日も酷い目に遭ったようだねえ?」
「お、お前が応援すると言ってくれたから頑張れたのだが…」
果たしてこいつは勝てるのだろうか、と教頭先生の自信はイマイチ。けれど…。
「やっぱアレだよな、身体を張ってた方が攻撃力はあるよな」
サム君がシャモをチラリと眺めて、キース君も。
「暴力をふるいまくっていたヤツの方が多分ファイトがあるだろう。好き放題に暴れていたんだ、こっちに勝ち目があると思うが…」
「ぼくもそういう意見だけどね?」
結果はどうだろ、と会長さん。いよいよバトルの始まりです。無制限一時間一本勝負。闘鶏のルールは知りませんけど、勝ったらソルジャーに鍋にされちゃうわけですが…?



教頭先生に暴行を加え続けて二週間のシャモと、この一週間はキャプテンに世話をされていたシャモと。桶に放された二羽の勝負は一時間も続きませんでした。殴る蹴るの大喧嘩が派手に繰り広げられて十五分くらい、キャプテンの方のシャモが桶の縁へと飛び上がろうとして。
「勝負あったあーっ!」
そこまで! と会長さんの声。闘鶏のルールでは土俵から逃げようとした方が負けで、これ以上バトルを続けさせると負けた方のシャモが殺されかねないという話。
「はい、君の方のシャモが勝ったってね。おめでとう」
「い、いや…。頑張って世話をした甲斐があって良かった」
この一羽が頂点に立ったわけだな、と教頭先生、感無量ですが。
「ありがとう。君のお蔭で最強のシャモが手に入ったよ」
ソルジャーが教頭先生に握手を求めて。
「ぼくのハーレイのシャモは駄目だね、マザー農場送りってね。そして君のシャモは…」
「あなたの世界で飼って頂けるわけなのですね、嬉しいです」
「えっ、飼わないけど?」
このまま店に連れて行くんだけど、とシャモをシールドで包むソルジャー。
「流石にこれでは持って行けないから、後でケージに入れるんだ。そして肉屋に」
「…肉屋?」
「そうだよ、絞めて貰ってシャモ鍋に!」
「シャモ鍋ですって!?」
そんな、と教頭先生は愕然とした表情に。
「さ、最強のシャモがどうしてシャモ鍋なのです、飼うと仰るなら分かりますが…!」
「あやかるためだよ、シャモの闘志はハーレム作りのためらしいしね」
ねえ? とソルジャーの視線がキャプテンに向けられ、キャプテンが。
「ブルーがこちらの世界で聞いて来たそうで…。シャモ鍋は私が食べるということになっております、これだけ強いシャモの肉でしたらパワーもあるかと」
「…シ、シャモ鍋……」
教頭先生はダッと駆け出し、ソルジャーのシールドに包まれてしまったシャモの前へと。
「き、聞いたか、お前!? シャモ鍋にされてしまうそうだぞ、お前はあんなに頑張ったのに!」
私と特訓を積んできたのに、と叫ぶ教頭先生、どうやら会長さんのために勝ちたくてシャモと戦っていたようです。その戦友が鍋と聞いたら、ショックを受けても無理ないかも…。



「うーん…。情が移ったというヤツかな?」
シャモを庇っている教頭先生を横目に、会長さんがノホホンと。
「蹴りの特訓だと缶の蓋を盾にして立ち向かったり、とにかくファイトだと真っ向勝負を挑んでみたりと自己流で励んでいたからねえ…。勝ったらシャモ鍋になるとも知らずに」
「そ、そこまでなさってらっしゃったのか!?」
どおりで生傷だらけの筈だ、とキース君。
「それだけの愛情を注いだシャモをだ、鍋となったら…」
「止めたいだろうね、全力で。だけど相手はブルーだからねえ…」
まず勝てないね、と会長さんは笑いましたが、教頭先生はガバッと土下座。
「このとおりです! 鍋にしないでやって下さい、あいつは本当に頑張ったんです!」
「…ぼくはそのファイトが欲しいわけでね、是非ハーレイに食べさせないと!」
だから、とソルジャーはキャプテンの背中をバンと叩くと。
「見たまえ、向こうは土下座で来たよ? あれに対抗してシャモをゲットだ!」
「私がですか!?」
「他に誰がいると?」
奪って来い! と押し出されたキャプテンは目を白黒とさせながら。
「…で、ですが、ブルー…。土下座よりも強力なお願いの方法はあるのですか?」
「知ってたらアドバイスしているよ!」
オリジナルで行け! と蹴り飛ばされたキャプテンですけど、オリジナル土下座などがあるわけもなくて。
「お願いします!」
こちらもガバッと教頭先生の前に土下座で、額を床に擦り付けました。
「最強のシャモでパワーをつけろとブルーに言われておりまして…。そのシャモを譲って頂けませんか、何もかもブルーのためなのです!」
「…し、しかし…」
いくらブルーのためでもシャモは…、と教頭先生。
「こいつはこっちのブルーのためにと頑張ったのです、それを鍋にはさせられません!」
「そこをなんとか、私のブルーのためにですね…!」
土下座対土下座、シャモ鍋がかかった一本勝負。教頭先生が勝つか、キャプテンが勝つか、と私たちは固唾を飲んで見守りましたが…。



「仕方ないねえ…」
最強のシャモのパワーは温存する方にしておこうかな、とソルジャーの声が。
「食べてしまったら一回こっきり、パワフルになっても一度きりってね。…それよりはパワーを小出しに細く長くのお付き合いかな」
「「「はあ?」」」
「そっちの負けたシャモと一緒にマザー農場! そしてハーレムで卵をせっせと産ませる!」
その卵を毎日貰いに来よう、という大きな譲歩が。
「ハーレムだったら卵は一日一個じゃないだろ、雌鶏の数だけあるんだろうし…。ぼくのハーレイに毎日一個ずつ失敬したって問題ないと思うけど?」
どう? と訊かれた会長さんは。
「まあ、そうかな…。一羽頼むよ、と言っておいた分が二羽になっても大したことは…」
「じゃあ、それで! ぼくのハーレイのぼくへの愛の深さは土下座合戦で分かったから!」
愛の深さが分かった以上は、次は実践! とグッと拳を。
「いいかい、ハーレイ? その愛でもって、毎日シャモの卵を食べる! そしてパワーを!」
「分かりました、ハーレムを作る勢いで毎晩、尽くしまくればいいのですね!」
「そう! 君が飼ってたシャモがヘタレなハーレイのシャモに負けた分を償って余りあるパワフルな時間を期待してるから!」
早速帰って一発やろう、とバカップルならではの熱いキス。次の瞬間、姿がパッと消えてしまって、届いた思念波。
『最強のシャモの卵、よろしくーっ!!』
「「「た、卵…」」」
シャモ鍋が卵に変わったのか、とホッと一息つきましたけれど、ソルジャー、なんて言いましたっけ? 毎日シャモの卵を失敬しに来るとかって…。
「あいつ、毎日来やがるのかよ!?」
「それくらいだったらシャモ鍋の方がマシでしたよ!」
毎日迷惑かけられますよ、というシロエ君の叫びに泣きの涙の私たち。けれども教頭先生はと言えば、ソルジャーのシールドが解けたシャモをガッシリ抱き締めていて。
「よ、良かったな、お前…! 鍋にならずに済んだぞ、お前…!」
マザー農場で強く生きろな、と呼び掛ける教頭先生でしたが。
「ケーーーッ!!!」
シャモの蹴りが一発、顎に炸裂。バサバサバサと羽をバタつかせ、教頭先生の頭を蹴って、つついて…。所詮は鶏、三歩も歩かず恩を忘れたみたいです。シャモでもコレだとソルジャーの方は…。明日から毎日シャモの卵を貰いにやって来るだなんて、誰か助けて下さいです~!




          罪なシャモ鍋・了

※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
 ソルジャーのとんでもない提案のせいで、シャモを飼うことになった教頭先生。
 情が移ってしまいましたが、闘鶏のルールは本物です。シャモは本来、闘鶏用です。
 次回は 「第3月曜」 7月16日の更新となります、よろしくです~! 

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、6月は、キース君を別の世界に追い払う企画が着々と…。
 ←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











(ぼくみたい…)
 昔のぼく、とブルーが眺めてしまった子供。幼稚園くらいの男の子。
 学校が普段よりも早く終わった日の帰り道のこと、バス停から家まで歩く途中で出会った光景。
 これから何処かへ出掛けようというのか、でなければ子供が勝手に外してしまったのか。小さな頭に見合った帽子を母親が被せてやっていた。つばが広い帽子を。
 夏ほど日射しは強くないのに、男の子ならばスポーツ選手風の帽子の方が多いのに。
 だから思った、幼かった頃の自分のようだと。あの頃の自分がそうだったから。



(あの頃のぼく…)
 いつも被っていた帽子。母が頭に被せた帽子。
 幼稚園へと出掛ける時には、制服に合わせた揃いの帽子だったけれども、普段は違った。両親と一緒に出掛ける時や、母と散歩に行ったりする時は別の帽子を被せられていた。
 日射しがそれほど強くなくても、うららかに晴れた春の日などでも。
(あんまり好きじゃなかったけれど…)
 幼稚園での帽子を除けば、被っている子はあまりいなかったから。
 ファッションで帽子を被ろうという感覚が幼稚園児にあるわけがない。スポーツ選手風の帽子にしたって、ファッションではなくて憧れから。憧れの選手と同じ帽子だ、と被った子たち。
 それ以外の子たちは帽子なんかは滅多に被っていなくて、親も被せてはいなかったろう。帽子を被らせて送り出しても、忘れてくるのがオチだから。公園か何処かで脱いでしまって、その辺りにポンと置いておいたら、それっきり。家に帰る時には持って帰らず、頭に帽子は被っていない。
(公園のベンチに置いていたって…)
 其処から何処かへ移動したなら、帽子は置いてゆかれてしまう。子供には多い忘れ物。遊ぶ方が子供にとっては大切、遊び道具にもならない帽子は要らない存在。幼い子供には被せるだけ無駄、失くしてしまうか、忘れて帰るか。
(被ってない子が多かったんだけどな…)
 それなのに自分は被せられていた、他の子供が滅多に被っていない帽子を。
 おまけにスポーツ選手風ではなくて、つばの広い帽子。ぐるっとつばが取り巻く帽子。
 ぼくは帽子は好きじゃなかった、と母親と手を繋いだ子供を見送った。あの男の子も被せられた帽子が嫌いだろうか、と考えながら。



 家に着いても、頭に残っていた光景。帽子を被っていた子供。幼かった頃の自分のように。
 帽子だっけ、と遠い子供時代を思い返した。ダイニングでおやつを食べながら。
 遠い昔と言ってはみても、前の自分が生きた歳月の記憶を思えば、ほんの一瞬なのだけど。ついこの間の出来事に過ぎず、大して昔ではないのだけれど。
(ぼくは身体が弱かったから…)
 強い日射しは良くないから、と父と母とが被らせた帽子。日射しが柔らかい春や秋でも。まるで太陽から隠すかのように、つばが大きく広がった帽子。



 日射しが身体に悪いというのは、アルビノだったからではない。
 SD体制があった時代までは、人間が全てミュウになるよりも前の時代は、アルビノに生まれてしまった人間は大変だったと聞いている。日射しを受ければ酷い日焼けで、瞳も光に弱かった。
 ところが前の自分は違った、途中からアルビノに変化したのに。
 あの忌まわしい成人検査を受ける前までは金髪に青い目、アルビノなどではなかったのに。
 突然に起こった急激な変化、赤い瞳に銀色の髪。普通だったら、人体実験云々以前に困難に直面したことだろう。赤い瞳は光に弱くて、実験室の強い光で痛みを覚えていただろう。
 けれども、そうはならずに済んだ。肌も瞳も、光に焼かれはしなかった。
 サイオンが守ってくれていたから。無意識の内に身体をガードし、光の害を防いでいたから。
 研究所で嵌められた首のサイオン制御リングも、その力だけは封じなかった。あまりにも自然に身体の中を巡るサイオン、それまでは封じられなかった。
 アルビノゆえの欠点を補うための本能、ブルーの身体に備わった機能。呼吸などと同じで封じることなど出来はしないし、ブルー自身にも全く無かったサイオンを使っている自覚。
 今の自分もそれと同じで、肌も瞳も太陽を避ける必要は無い。避けなくてもいい、陽の光を。



(その点だけはサイオンに感謝…)
 とことん不器用なサイオンだけれど、身体だけはきちんと守ってくれた。
 本来は光に弱い筈のアルビノ、太陽は大敵の筈なのだけども、それで不自由をしたことは無い。前の自分と全く同じに、強い光でも平気な瞳。酷い日焼けを起こさない肌。
(ちゃんと補ってくれているんだよね)
 生まれた時から。産声を上げた瞬間から。
 アルビノの子供は今は誰でもそのための能力を備えているから、母たちも心配していなかった。ブルーがこの世に生まれる前から、母のお腹にいた時から。
 病院の検査でアルビノの子だと分かったけれども、両親は「男の子だから、ブルーという名前がいいだろう」と同じアルビノだった偉大なソルジャー・ブルーを連想しただけ、その程度のこと。
(それに、タイプ・ブルー…)
 これも検査で分かっていた。ソルジャー・ブルーと同じなのだと、最強のサイオンを持っている子が生まれて来ると。名前の候補は「ブルー」しか無かった、その時点で既に。



 偉大な英雄、ソルジャー・ブルー。
 彼と同じにアルビノの子供、タイプ・ブルーの男の子。生まれたならば名前は「ブルー」。
 両親がそう決めて待っていた子供、生まれる日を待ち侘びていた息子。
 どんなに器用にサイオンを使いこなすだろうかと思ったらしいが、それは外れた。ものの見事に外れてしまって、親戚の誰もが笑ったくらいに不器用な子供が生まれて来た。
 タイプ・ブルーの赤ん坊でなくても、少しくらいは思念波を使えるものなのに。泣き叫ぶ時には感情の欠片が零れて来るから、泣いている理由が漠然と分かるものなのに。
 赤ん坊だったブルーときたら、泣き叫ぶばかりで、母はお手上げ。簡単な意思表示が出来る頃になるまで、とんちんかんなことをしていたらしい。
 お腹が空いたと泣いているのに、オモチャを使ってあやすとか。眠くなってぐずっていることに気付かず、ミルクを与えて大泣きだとか。
 それくらいに使えなかったサイオン、タイプ・ブルーに生まれたというだけ。
(アルビノをカバー出来ただけでも…)
 マシだと思おう、それまで不器用だと目も当てられない。
 カバー出来なければ、太陽の光を受ければ酷い日焼けで、瞳は光に弱いのだから。



(そんなのだったら、帽子無しだと出歩けないよ)
 春や秋どころか、真冬でも、きっと。一番日射しの弱い冬でも。
 曇りや雨の日ならばともかく、太陽が顔を出している日は頭に帽子。つばがぐるりと取り巻いた帽子。幅の広いつばが。
 両親が一年中、被らせたろう帽子。幼いブルーには意味が分からず、嫌いだったろうに。それが身体を守るとも知らず、被っている子供が少ないからと被せられる度に嫌がったろうに。
(そうでなくても…)
 嫌いだった帽子。日射しは身体に良くないから、と被せられるのが嫌だった帽子。
 一年中被ったわけではないのに、冬は被らなくて済んだのに。
 でも…。



(あれ?)
 好きではなかった帽子の記憶。被せられるのが嫌だった帽子。
 そんな帽子の思い出だけれど、遠い記憶の中に一つだけ。お気に入りの帽子が一つだけあった。自分から進んで被った帽子が、御機嫌で被っていた帽子が。
(なんで…?)
 嫌いだった筈の帽子の中にお気に入り。好きだった帽子。
 何処かが他のと違ったろうか?
 その帽子だけは特別だったろうか、と考えたけれど、デザインが違った覚えは無い。つばの広い帽子で、素材もきっと似たようなもの。違う所があったとしたら…。
(リボンの色…?)
 帽子にくるりと巻き付けてあった、飾りのリボン。鮮やかな水色のリボンの帽子。
 それがついた帽子が大のお気に入り、小さくなって頭が入らなくなるまで被っていた。外に行く時は自分で被って、得意で頭の上に乗っけた。
 好きだった帽子、いつでも被っていたかった帽子。嫌いだった筈の帽子なのに。



(でも、次のも…)
 お気に入りの帽子が見付かったのなら、その次からは母は同じ帽子を買っただろう。デザインや素材がそっくりのものを、「これがブルーの好きな帽子」と。
 けれども記憶に無い帽子。好きだった帽子はあの一つだけで、他の帽子の思い出は無い。喜んで被った帽子の記憶も、得意だったという記憶も。
 お気に入りの帽子は本当に一つ、あの一つだけ。水色のリボンが鮮やかだった帽子。
(水色のリボン…)
 はっきりと記憶に残っているのはリボンの色だけ、他はぼやけているけれど。
 何故、気に入っていたのだろうか?
 リボンの色が好みだったか、被り心地が良かったのか。
 嫌いな筈の帽子たちの中の特別な一つ、それが特別になった理由がどうにも不思議で、探っても全く掴めないから。手掛かりさえも見付からないから、困っていた所へ通り掛かった母。
 これはチャンスだと呼び止めて訊いた。「ぼくの帽子を覚えている?」と。



 お気に入りだった、水色のリボンがくっついた帽子。自分から進んで被った帽子。
 母は帽子を覚えていた。そういう帽子が確かにあった、と。
「ママ、その帽子…。ぼくがどうして好きだったのかも知っている?」
 ぼくは全然覚えてないけど、ママは理由を知ってるの?
「ええ、もちろん。初めて被った日のせいなのよ」
「えっ?」
 思いもよらない意外な答え。初めて帽子を被ったその日に、ブルーは機嫌が良かったらしい。
 それ以来、帽子がお気に入りになって、外へ行く時には被りたがったと話す母。
「どうしてかしらね、あの日のブルーは本当に御機嫌だったのよ」
 公園に出掛けただけなんだけれど…。
 あの帽子を初めて被せてあげた日は、公園に寄ったのと病院だけよ。



 初めて帽子を被った日。水色のリボンがついた帽子を初めて被せて貰った日。
 ブルーが生まれた病院の近くの大きな公園、そこへ遊びに行ったという。母に連れられて病院へ出掛け、小児科の健診を受けた帰りに。一年ごとの健診だったらしいから。
「じゃあ、春なの?」
 ぼくは三月生まれだし…。三月の末だし、その頃のこと?
「そうなるわねえ…。誕生日が過ぎてから行く決まりだから、四月だけれど」
 四月の間に行けばいい健診、注射をされるわけではなかった。身長や体重を測ったりするだけの健診だけれど、ブルーは機嫌が悪くなるから。白衣の医者を見ただけで御機嫌斜めだから。
 健診の帰りは公園に寄って、遊んで帰る。公園の鳩に餌をやったり、ブランコに乗ったり。
 たったそれだけ、特別な何かがあったわけではないらしい。幼いブルーが大喜びしそうな遊具があるとか、公園ならではのお菓子を買って貰っただとか。
 人気の遊具で遊ぶにはブルーは小さすぎたし、お菓子はとても食べ切れないから。
 ただ公園へ行ったというだけ、鳩に餌をやって、ブランコに乗って…。



「それじゃ、帽子は…」
 どうしてその日に被っていたの?
 特別なお出掛けってわけじゃないのに、その日から初めて被ったなんて…。
「お誕生日を過ぎてすぐのことでしょ、使い初めに丁度いいじゃない」
 帽子を被る季節が始まる頃だし、お誕生日を元気に迎えたからこそ健診に行けるわけでしょう?
 新しいものをおろす時には、特別でなくても素敵な日。
 ブルーにもママにも記念の日だから、新しい帽子を被せたのよ。健診の記念。
「…水色のリボンは?」
 ぼくはそれしか覚えてないけど、水色、あれが初めてだった?
「違うわ、水色のリボンはいつもと同じよ」
 ブルーの名前には青って意味もあるでしょう。それに男の子だものね。だからリボンは水色よ。最初の帽子からずっと水色、色の濃さもいつでも同じくらいで。
「それなら、ぼくが気に入ってた帽子…」
 他の帽子と何も違いは無かったわけ?
 デザインがいつもと違っていたとか、違う素材の帽子だったとか。
「それがねえ…。本当に特に何も無いのよ、これというのを思い付かないの」
 あの日に初めて被せて行ったら、とても御機嫌が良かっただけで。それも公園に行った後。
 だから公園でよっぽど嬉しいことがあったのよ、ブルーにとっては。
 ママには全く分からないけれど、子供ってそういうものでしょう?
 大人から見たらなんでもないこと、それが嬉しくてたまらないとか、楽しいだとか。



 結局、母にも謎だった帽子。お気に入りの理由。
 おやつの後で部屋に戻って考えたけれど、手掛かりは公園くらいなもので。
(鳩の餌やりとか、ブランコは定番…)
 滑り台などもよく遊んでいた。楽しかったけれども、特別とまでは思えない。被っていた帽子がお気に入りになるほど、素晴らしい思い出をくれたとまでは。
(……公園……)
 あそこの公園、と風景を思い浮かべていたら、頭を掠めていった考え。公園は人がいる場所で。
(まさか、ハーレイ?)
 会ったのだろうか、今よりもずっと若い姿のハーレイに。
 幼い自分が健診の帰りに母と寄った日に、あの公園で。
 前にハーレイから聞いていた。ジョギングコースの一つなのだと、公園を走ってゆくのだと。
 もしかしたらハーレイと出会っただろうか、あの帽子の日に、それと知らずに。
 手を振って貰った思い出の帽子だったろうか、お気に入りだったあの帽子は…?



(そうだったの…?)
 ゼロとは思えない可能性。
 あの病院から退院した日も、春の雪の中、生まれて初めて外に出た日も、ハーレイと病院の前で出会っていたかもしれないと聞いた。それらしき子供をジョギングの途中に見たというハーレイ。母親の腕の中、ストールに包まれた赤ん坊を。
(…公園でだって、会っていたかも…)
 確かめてみたい、と思い始めた所で聞こえたチャイム。来客を知らせるチャイムの音。鳴らした人は、と窓から見下ろせば、手を振るハーレイ。
 応えて大きく手を振り返しながら、訊こうと思った。帽子を被った自分に会ったか。



 部屋に来たハーレイとテーブルを挟んで向かい合わせ。お茶とお菓子もそこそこにして、自分の向かいのハーレイに訊いた。
「ハーレイ、水色のリボンの帽子を覚えてる?」
「はあ?」
 俺はリボンがついた帽子を持っちゃいないが…。お前か、夏に被ってたっけか?
 俺の前では被っちゃいないが、帽子があるのは確かに見たな。あれのことなのか、その帽子?
「…ううん、今の帽子のことじゃなくって…」
 小さい頃だよ、今よりもうんと小さくてチビだった頃。
 ぼくは帽子が嫌いだったけど、お気に入りの帽子が一つだけ…。それのリボンが水色なんだ。
 幼稚園の頃に、ママに連れられて生まれた病院へ健診に行って…。
 帰りに公園で遊んだんだよ、ママが連れてってくれたから。新しい帽子を初めて被って。
 その時に公園でいいことがあって、帽子がお気に入りになっちゃったみたい。
 だけどママには心当たりが何も無くって、ぼくにも無くて…。
 考えている内に思い出したんだ、あの公園はハーレイのジョギングコースの一つだってこと。
 ハーレイ、ぼくを見かけなかった?
 四月なんだよ、水色のリボンがついた帽子を被った小さな子供に出会わなかった…?



「ふうむ…。あの公園で四月頃か…」
 ついでに水色のリボンの帽子のチビか、と腕組みをして考え込んだハーレイ。
 四月頃なら桜もあるとか、花壇の花は何があるかと挙げてゆくから。
「…思い出した?」
 花のついでに、ぼくの帽子のこと。水色のリボンがくっついた帽子。
 えっとね、今のと同じでつばの広い帽子だったんだけど…。ぐるっとつばが取り巻いた帽子。
「…いや…。生憎と帽子は覚えていないな…」
 ファッションチェックをしながら走っているわけじゃないし、出会った人間も数えてないし。
 俺の目の前ですっ転んだとか、そういうのがあれば覚えもするが…。
 公園を走っていてチビが目に付く時ってヤツはだ、噴水に入って水遊びだとか、そういうのだ。でなきゃ木登り、とにかく元気のいいヤツらだな。
 チビのくせして頑張ってるな、と思えば自然と目も行くもんだが…。
 お前、どっちもやってないだろ、噴水に入るのも、木に登るのも。



 帽子を被って大人しくしているような子供は目に付きにくい、と言ったハーレイだけれど。
 水色のリボンの帽子も覚えていないと言われたけれども、「しかし…」と口にした言葉。自分が走っていた可能性はあると、それも比較的高いのだ、と。
「その時期だったら、けっこう走っていたからな」
 なにしろさっきも挙げた通りに公園に花が溢れる季節だ。見物がてら走って行くのに丁度いい。
 おふくろは花が好きだからなあ、俺もそこそこ分かるんだ。
 知らない花でも札を見ればいいし、春になったと実感出来るし…。春はやっぱり公園だな。他のコースを走りに行っても、方向を変えて寄ってみたりな。
「学校の仕事は?」
 健診があった日、平日なんだと思うけど…。
 春休みの間なら会えるだろうけど、その他の日だと駄目だよね?
「そうと決まったわけでもないぞ。休みの日だってあるもんだ」
 年度初めでも、特に忙しいって仕事が無ければ休みは取れる。もちろん他の時期でもな。お前のクラスの担任の先生、休んでいないか?
 その気になったら週に一回、休みを取れるって決まりなんだが。
「そういえば…。研究日です、って聞いているけど、あれがお休み?」
 先生は研究をしてるんじゃなくて、ホントのホントにお休みだったの?
 それでお土産が貰えたりするの、クラスのみんなにお菓子だとか。
「…お前、研究だと信じていたのか…」
 先生が勉強に出掛ける方なら研修だ。研究日ってヤツは自分の自由に使える日。研究好きなら、本気で研究するんだろうが…。大抵はただの休暇だな。日帰り旅行に出掛けてみたり。
 俺だって休もうと思えば休める、週に一回。
 お前に出会ってからは一度も休んでないがな、お前に会える可能性を捨てたくないからな。
 研究日で休んでお前の家に行くっていうのはあんまりだしなあ、だから休んでいないだけだ。



 どうやら週に一回くらいは取れるらしい休み。
 ハーレイはそれを使って走っていたという。年度初めの平日でも。幼かったブルーがあの帽子を被って公園にいた日も、ジョギングしていた可能性があると。
「じゃあ、あの日のぼくはハーレイに…」
 走って来たハーレイに公園で会ったの、ぼくは覚えてないけれど。
 ハーレイも見覚えは無いって言うけど、会ってないとも言えないんだね?
「うむ。可能性がゼロってわけではないしな、会ったかもしれん」
 花壇の側だか、鳩が沢山いる辺りだか。それともブランコか滑り台か…。
 花の季節なら公園の中を隈なく走ったりもするし、お前が何処に居たって出会える。ブランコに乗ってるチビがいるなと、鳩に餌をやってるチビもいるなと、ただ走ってゆくだけだがな。
「ぼく、ハーレイに手を振ったかな?」
 走って来る人がいるって分かったら、ブランコから降りて手を振ったかなあ?
 鳩の餌やりの途中でも。鳩がビックリして飛び立っちゃっても、頑張って走っている人は凄いと思って眺めるだろうし、手を振るのかな?
 何処まで行くのか分からないけど、頑張って元気に走って行ってね、って。
「チビのお前か…。手を振って貰ったのなら、振り返したな」
 俺は応援には応える主義だ。どんなチビでも、礼儀正しく応えないとな?
 振って貰った手に振り返せないような、余裕の無い走り方はせん。応援されたら笑顔を返すし、もちろんきちんと手を振って行くさ。



 少し遠くから振られてもな、と穏やかな笑みを浮かべたハーレイ。
 自分に応援の声が届けば、手を振る姿を目にしたならば、必ず応えて手を振ってゆくと。どんな小さな子供であろうが、無視して走って行きはしないと。
(あ…!)
 それを聞いて蘇って来た記憶。幼かった頃の自分の記憶。
 出会った場所は多分、公園。帽子の自分に手を振りながら颯爽と走って行った人。リズミカルに地面を踏みしめながら、タッタッとペースを乱しもせずに。
(だけど、笑顔で手を振ってくれたんだよ)
 手を振った自分に笑顔で応えてくれた人。眩しかった笑顔と、振って貰った手と。
 生憎と顔は思い出せなくて、肌の色さえ覚えていなくて。
 あの帽子を初めて被った日なのか、別の日だったか、それすらも定かではないけれど…。
「ぼく、走ってた人に手を振ったよ」
 あそこの公園だったんじゃないかな、なんだかそういう気がするから。
 笑顔で手を振り返してくれた人だったんだよ、そして元気に走って行ったよ。
「ほほう…。そいつは俺だったか?」
 チビのお前に手を振って行ったの、俺みたいな肌の人間だったか?
「分からない…。全然、覚えていないんだけど…」
 男の人だったことと、笑顔と、手を振り返して貰ったことしか。
 それだって今まで忘れてたほどで、ハーレイだったのか、別の人なのか、分からないよ。
 とても残念、ハーレイだったら良かったのにね…。



 もしもあの時の出会いがハーレイならば、と惜しくてたまらない気持ち。
 肌の色も顔立ちも、体格さえも覚えていない自分がもどかしい。
 けれども、幸せだった思い出。幼かった胸が弾んだ思い出。
 自分の姿を見て貰えたと、一人前に扱って貰えたのだと。
 幼くてチビで、幼稚園に通う自分だけれども、ちゃんと手を振って貰えたと。まるで大人と同じ扱い、一人前に見て貰えたと。
(それで帽子…!)
 手を振った後で、振り返して貰って、走ってゆくその人の後姿を見送った後で。
 頭の帽子を持ち上げて被り直したのだった、この帽子で気付いて貰えたのだ、と。他の子供とは少し違った帽子で、被っている子が少ない帽子。水色のリボンもよく目立つから。
(帽子のお蔭なんだ、って…)
 いつもは嫌々被る帽子を自分で被った、被り直した。一人前の扱いをして貰えた帽子。頼もしい帽子。この帽子は特別な帽子なんだ、と得意になって。
 その日から帽子はお気に入り。何処に行くにも喜んで被った、被って出掛けた。
 手を振ってくれた人にまた会えるかも、と。
 また会えたら元気一杯に大きく手を振らなくてはと、あの人に手を振るんだから、と。



(あの帽子なんだ…!)
 幼かった自分のお気に入りの帽子。水色のリボンがついていた帽子。
 似たような帽子はその前も、後にも被ったけれども、どの帽子も好きにはなれなくて。どんなに形が似通っていても、どれも嫌いな帽子ばかりで。
 たった一つだけ好きだった帽子は、公園でいいことが起こった帽子。初めて被って健診のために出掛けた帰りに、病院の近くの公園で出会った素敵な出来事。
 母は覚えていなかったけれど、自分も忘れていたけれど。
 公園で走っていた人に向かって手を振った。その人が笑顔で振ってくれた手、子供扱いしないで振ってくれた手。
 それが嬉しくて、帽子のお蔭だと頭から信じて、お気に入りになったあの帽子。
 また会いたいから、手を振りたいから、お気に入りの帽子を被っていた。
 この特別な帽子を被れば一人前だと、あの人の目には一人前に映るのだから、と。



「ハーレイ、思い出したよ、ぼくの帽子のこと…!」
 水色のリボンがくっついた帽子。
 あの帽子を初めて被って公園に行ったら、走って来た人に会ったんだ。ぼくは手を振って、その人も笑顔で手を振ってくれて…。
 間違いなくあの日のことだったんだよ、初めて帽子を被った日。
 帽子のお蔭で一人前に扱って貰えたんだ、って嬉しくて…。それで帽子がお気に入りになって。
 またあの人に会えるかも、って自分で帽子を被っていたよ。帽子は嫌いだったのに…。
 あの帽子だけがホントに特別、またあの人に会いたいよ、って被って待っていたんだ、ぼくは。
 わざわざ待ってたくらいなんだもの、あれはハーレイだったんだよ。
 ぼくは覚えていないけれども、肌の色も顔も覚えてないけど、あれはハーレイ。
 きっとハーレイだったと思うな、嫌いだった帽子がお気に入りになるくらいなんだから。



「なるほどなあ…。チビのお前が俺にまた会おうと待っててくれた、と」
 そいつは実に光栄だな。出会った時の帽子までが気に入りになっちまうほど、チビのお前が感激した出会いだったんならな。
「やっぱりハーレイに会ったんだと思う?」
 顔も肌の色も思い出せなくても、あの日に会ったのはハーレイだった?
 チビだったぼくに手を振ってくれて、笑顔で走って行っちゃった人。
「お前がもう一度会いたいと思ってたんなら、俺なんじゃないか?」
 走りながら手を振るヤツは多いが、お前がそこまで感動しちまったんならなあ…。
 帽子のお蔭だと思い込んじまって、その帽子をせっせと被り続けて。
 また会いたいと思っていてくれたんなら、俺だったんだと考えるのが自然だろう。
 いくらチビでも、赤の他人をそこまで頑張って追い掛けはせんさ。
 お前も俺も記憶が無くても、前の記憶が無い状態でも、そいつがいわゆる運命ってヤツだ。
 俺とお前は一瞬とはいえ、運命の出会いをしたんだな。お互い、気付いていなくってもな…。



「あの帽子を被って待っていたぼく…」
 また会いたいな、って待っていたぼく、ちゃんとハーレイに会えたのかなあ?
 何処かの街角とか、あの公園とかを走るハーレイ、ぼくはもう一度会えたのかな?
「どうだかなあ…?」
 そいつは俺にもサッパリ分からん。
 そもそも、お前の気に入りの帽子。それの記憶が無いからなあ…。
 お前と運命の出会いを果たしたつもりではいるが、俺の方には何の記憶も残っちゃいない。
 四月の公園、走った回数は数え切れないくらいだし…。日記にもコースは全く書いていないし、お前が健診に出掛けた日付が分かった所で、何の証拠も見付からないぞ。
 休みを取って走っていたなら、なおのこと書いちゃいないんだ。俺の日記は覚え書きだしな。
「そっか…。もう一度会えたかも分からない上に、あれがハーレイだっていう証拠だって…」
 出て来ないんだね、探してみても。
 ぼくが健診に行ったっていう日、ママに訊いたら分かるだろうけど…。
 ハーレイの方に記録が無いんじゃ、休みと綺麗に重なっていても、公園に行ったかどうかが全く謎ってわけだね。何処かを走っていたかも、ってだけで。



 見付かりそうにない証拠。あの日、ハーレイに出会ったのだと確認することは出来ないけれど。
 証拠は何処にも無いのだけれども、お気に入りの帽子だったから。
 あの日、初めて被った帽子は忘れられない思い出の帽子、それを被って待っていたから。
 被っていればまた出会えると、手を振ってくれたあの人に会おうと待っていたから。
(きっとハーレイ…)
 顔も、肌の色さえも覚えていないけれど、あの時に会ったと思いたい。
 笑顔で手を振って走ってゆく人に、前の生から恋した人に。
(うん、ハーレイに会ったんだよ…)
 ハーレイが言うように運命の出会い、一瞬だけ交差して、手を振って別れた。
 互いに気付いていなかったけれど、それでもきっと出会っていた。
 お気に入りになった帽子を初めて被った、あの春の日に。
 ハーレイが公園を走っていた日に、広い公園の中の何処かできっと…。




           好きだった帽子・了

※被せられる帽子が好きではなかった、幼かった頃のブルー。被らなくてはいけなくても。
 けれど、一つだけあったお気に入りの帽子。きっとハーレイに出会えたのです、被った日に。
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