シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
学校からの帰り道、家の近所のバス停で降りて歩いてすぐの家。ブルーの目の前で庭に向かって飛び込んで行った一羽の小鳥。
(えーっと?)
見慣れた雀などとは違ったように見えたから。
何の鳥だろうと生垣越しに覗いてみれば、小さな庭池の畔で尻尾を上下させている鳥。長い尾が特徴のセキレイだった。魚を食べると聞いているから、それを目当てに下りたのだろう。
(魚、獲るかな?)
運が良ければその瞬間を見られるかも、と暫く見ていたけれども、魚は些か大きすぎたらしく。尻尾を上下させながら池の周りを一周した後、セキレイは空へと飛び去ってしまった。
いともあっさり、ためらいもせずに。
(残念…)
魚には少し可哀相だけれど、見てみたかった。セキレイが獲物を獲る所を。狙いを定めて目にも留まらぬ速さで嘴を突っ込み、ピチピチと跳ねる魚を咥えた所を。
(魚を獲る鳥、この辺りでは見かけないものね…)
有名な所ではカワセミだとかサギ。
その種の鳥には住宅街ではお目にかかれないし、せいぜいセキレイくらいだろう。そのセキレイだって水辺でないと魚は獲らない。庭に来たって、土の中の虫をつついて食べているだけ。
だから庭池めがけて下りたセキレイに期待したのに、獲物を獲らずに去ってしまったとは、運が無かったと言うべきか。
ブルーは一度も鳥が魚を捕まえる所を見たことが無い。映像ならば知っているけれど、肉眼では未だにただの一度も。
(…ハーレイのお父さんは色々と見ているんだろうけど…)
釣りが大好きで、川へ、海へと出掛けるというハーレイの父。
そうした場所なら魚を狙う鳥だって沢山いるに違いない。サギやカワセミ、それからカワウも。海ならカモメもきっと舞っている。
(…いいな…)
いつかは自分も見られるだろうか。
ハーレイと結婚したなら、釣り名人のハーレイの父も一緒に釣竿を持って海や川へと。釣り糸を垂れて獲物を狙えば、鳥たちも同じように魚を狙っているだろうか…。
見損ねてしまった、セキレイの狩り。
待っていたって舞い戻って来る筈も無いから、家に帰って、制服を脱いでおやつを食べて。
二階の部屋に戻ってから庭を見下ろしたら、其処に来ていた。尻尾の長いセキレイが。
(ぼくの家だと魚は無理だよ?)
生憎と庭に池は無かったし、セキレイの餌は土の中に住む虫くらい。それをせっせと探しているらしく、芝生をチョンチョンと跳ねてゆくセキレイ。長い尾羽を上下に振って。
(…疲れないのかな?)
あんなに尻尾を振りっ放しで、と思うけれども、セキレイにとっては日常のこと。バランスでも取るのか、それとも他に理由があるのか。
(じっとしていられない性分だとか?)
人間で言うなら貧乏ゆすり。まさかね、とクスクス笑っている間に、セキレイは羽を広げて飛び去った。また魚でも探しに行くのか、あるいは他の家の庭で虫を食べるのか。
(今日はセキレイと縁があるよね)
帰り道で見たのと同じ鳥かな、と頬が緩んだ。池の魚を狙っていたセキレイ。
あのセキレイが自分に会いに来てくれたのかも、と。
(…セキレイに知り合いはいないんだけどね?)
毎日見かける鳥ではないし、顔馴染みというわけではない。単なる通りすがりの鳥。
そう思ったけれど、もしかしたら、あれは。
(ブラウとかゼルとかだったりする?)
自分とハーレイのように生まれ変わって、青い地球の上を飛んでいるとか。人間ではなくて鳥の姿で、セキレイになって自由を満喫しているとか…。
(いくらなんでも、それは無いよね)
だって鳥だよ、とセキレイが飛んで行った方角の空を眺めた途端。
(…セキレイ?)
ブラウでもなく、ゼルでもなく。
もちろんヒルマンやエラでもなくて、そういう名前の少年がいた。まさにセキレイ。
遠い遥かな歴史の彼方に。流れ去って行った、時の彼方に。
(セキ・レイ・シロエ…)
あまりにも短かった生涯だけれど、彼の名前は今も歴史に刻まれている。ミュウの歴史を教える授業に彼の存在は欠かせない。
前の自分もその名前だけは聞いていた。
ただし、単なるミュウの子として。ミュウ因子を持った幼い少年。
アルテメシアを追われた混乱の中で、ジョミーが救い損ねてしまった子供の名前。あと少しだけ早く見付けていたなら、助け出せたかもしれない子供の名前。
発見が遅れて救えなかった子供は少なくないから、彼もその一人となる筈だったけれど。
救い出せなかったことを詫びるしかない不幸な子として、記憶されてゆく筈だったけれど…。
(キースと出会ったんだよ、シロエは…)
奇跡的に成人検査を通過し、エリートコースに入ったシロエ。
何事もなく歩み続けていたなら自らがミュウであることも知らず、気付くことなく、その生涯を平穏に終えていたかもしれない。
けれども世界はそれを許さず、シロエはシステムに馴染めなかった。ミュウであるがゆえに。
人類が歩むためのコースは彼には向かなかったのだろう。機械の思考を嫌うミュウには、人類が何の疑いも抱くことなく頼り、縋り付いている管理システムは受け入れ難いものだから。
(シロエには教育ステーションの生活は合わなかったんだ…)
大人社会への旅立ちの準備をする教育ステーション。シロエにとっては機械に管理された檻。
合うわけがなくて、システムに従って懐かしい記憶を捨てることなど出来るわけもなくて。
独り反抗して、逆らい続けて、自らの心に正直に生きて。
その果てに宇宙に散ってしまった。
自分が乗った船を撃墜したキースの心に棘を残して、彼の出生の秘密を暴いて。
(…だけど、キースに直ぐには伝わらなかったんだよ…)
シロエが命懸けで手にした、キースの生まれに纏わる秘密。
それは長いこと見付からなかった。知られないままで眠り続けて、役立たなかった。もっと早い時期にキースがそれを知っていたなら、様々なことが変わっていたかもしれないのに。
危うく無駄死にになってしまいかねなかった、シロエの最期。
彼が暴いたキースの秘密は、一冊の本に隠されていたと授業で習う。シロエの船が宇宙に散った後、残骸の中から偶然にも回収された一冊の本。
爆発に耐えて残ったピーターパンの本が無ければ、明かされなかったキースの秘密。
(…ほんの偶然…)
回収したのが軍の上層部であったなら。本は処分され、何も残らなかっただろう。
そうならずに残り、キースの手元に辿り着いたのは神の意志なのか、歴史の必然だったのか。
シロエはそれを望んだだろうが、可能性は限りなく低かった。
(ステーションに置いていたなら処分されたし、爆発で砕け散っても何も残らない…)
ほんの僅かな偶然に賭けて、シロエはピーターパンの本を手に宇宙へ飛んで行ったのだろうか。それとも過酷な検査の末に正気を失い、闇雲にステーションを脱出したのか。
(…どっちだったのか、誰にも分からないんだよ…)
キースからの通信にシロエの応答は無かったと言うから。
自らの意志で通信を切ってしまっていたのか、応答できない状態だったか、それすらも謎。何を思って死んでいったのか、今もって謎は解かれないままのシロエの最期。
確固たる意志と信念の下に死を選んだのか、ただ殺されただけだったのかも。
(どっちにしたって、本が残されたっていう偶然が無ければシロエは無駄死に…)
彼の人生は何だったのだろうか、と見下ろした窓の向こうの庭。
セキレイが跳ねて行った庭。
(まさか、さっきの…)
シロエじゃないよね、と苦笑した。ただのセキレイ、名前がシロエと重なるだけ。
彼が自分に会いに来るなど有り得ない、と。
けれど…。
(…シロエ…?)
前の自分はシロエの声を聞いていなかったろうか?
アルテメシアに居た頃のまだ幼かったシロエの声ではなくて、もっと後の声。
(地球へ行こう、って…)
そう呼び掛ける声を聞いた気がする。
アルテメシアを脱出した後、十五年もの長い年月を眠り続けた自分。
その眠りの中、少年の声で。
切ないほどの思いと憧れが託された声で、まるで自分の地球への思いと重なるかのように。
(みんなで行こう、地球へ、って…)
あの声の主は、思念の主はジョミーだとばかり思っていたけれど。
ジョミーが紡いだ思念なのだと信じ込んだまま、前の自分は深く眠っていたけれど。
(…あれはジョミーの声じゃなかった…?)
折に触れて感じ取っていたジョミーのそれにしては、切なすぎた思い。
あまりにも強すぎた、地球への思慕。
其処へ行こうと、地球へゆくのだと翼を広げて真っ直ぐに飛んでゆくかのように。
それに…。
(…ピーターパン…)
今の今まで忘れてしまって、記憶の海の深い水底に沈んだままで埋もれていた言葉。
ピーターパンと呼ぶ声が届いた。
そう呼び掛ける声を確かに聞いた。
「ぼくは此処だよ」と。
此処にいるよ、と地球に焦がれる夢の翼を託すかのように。
セキ・レイ・シロエ。
幼かった日に出会ったジョミーをピーターパンと呼んだ少年。
ネバーランドへ、夢の国へと連れて行ってくれると信じた少年。
救い損ねたままでエネルゲイアに、アルテメシアに残して前の自分たちは旅立ったけれど。
人類軍に追われて宇宙へと飛び去ったけれど、もしかして、あれは。
前の自分が眠りの底で聞いた、ピーターパンを呼んでいた声は…。
(…シロエ…)
目覚めることすらも叶わなかった眠りの中で聞いたのだろうか、シロエの声を。
その時、自分は捉えたのだろうか…?
人類の中に紛れてしまったミュウの少年が最期に遺した言葉を。
紡いだ思念を、前の自分はそれと知らずに拾ったろうか…?
シロエの声とは気付かないままで、ジョミーの声だと信じ切ったままで。
(…それを言いに来たの?)
帰り道で出会った、庭池の畔に下りたセキレイ。庭の芝生に来ていたセキレイ。
まさか、シロエではないだろうけれど。
あのセキレイは自分に、それを。
(…あれはシロエの声だったんだよ、って…)
どうか気付いてと、思い出してと姿を見せに来たのだろうか。
セキレイという名の少年がいたと、その声を聞いていなかったかと。
アルテメシアを後にした時にジョミーから聞いたきりの少年。
救えなかったと、自分には何も出来なかったと悔やみ続けていたジョミー。
前の自分はその少年の、シロエの辿った運命を知らないままに逝ったけれども。
恐らくはジョミーも最期まで知らなかっただろうけれど。
(…セキ・レイ・シロエ…)
歴史に名前を残した少年。
一瞬の内に燃え尽きてしまう流星にも似た、激しくも短い時を駆け抜けて散っていった少年。
彼が生きた生は、ミュウのものだったか、それとも人類としてのものだったのか。
人類の中に紛れてしまって、そのまま逝ってしまったシロエ。
彼の名前は今も歴史にあるのだけれども、その歴史を何と呼べばいいのだろう。
ミュウの歴史でもなく、人類の歴史でもなく、どちらの歴史と呼ぶべきか。
恐らくは、それはヒトの歴史。
ミュウと人類とが手を繋ぎ、共に歩み始める前の束の間に刻まれた一人の人間の歴史。
人類か、ミュウか。
シロエがどちらの生を生きたかったかは、誰にも分からないのだから。
(…もしもシロエの声を聞いたのならば…)
シロエの声を本当に捉えていたのだったら。
キースに教えてやりたかった。
シロエとキースとの関係を知っていたならば。シロエがどう生き、誰に命を絶たれたのかを。
あの一瞬にそこまでを捉えていたなら、キースに伝えていただろう。
自分はシロエの声を聞いたと、シロエの船を墜としたことを何も後悔していないのかと。
そうすれば変わっていたかもしれない。
色々なことが。
ミュウの未来や、赤い星、ナスカ。それにキースが歩んだ道も。
(何もかも手遅れなんだけどね…)
全ては遠い歴史の彼方で、前の自分も、キースもとうの昔に消えてしまった存在。
時を戻すことなど出来はしないし、問おうにもキースは何処にもいない。
会えた所で、それは今のキース。今の自分と全く同じで、記憶を継いでいるというだけ。
シロエのことを話したとしても昔語りにしかなりはしないし、何が変わるというわけでもない。
けれど気になる。
記憶の底から蘇って来た、あの声の主が心にかかる。
あれはシロエの思いだったろうか、と。
シロエの声か、そうではないのか。
分からないままに勉強机の前で考え込んでいたら、来客を知らせるチャイムの音。窓から見れば庭を隔てた門扉の向こうに手を振る長身の人影が在った。
ハーレイ。かつてはキャプテン・ハーレイだった恋人。
彼ならば知っているかもしれない。あの声の主が誰だったのかを。
自分の部屋でテーブルを挟んで向かい合いながら、ブルーはハーレイに尋ねてみた。
「ハーレイ、変なことを訊くけど…」
「どうした?」
不審そうに眉を寄せた恋人に、遠慮がちに問う。
「シロエの声…。聞いた?」
「…シロエ?」
「うん。…セキ・レイ・シロエ。…前のハーレイだった時に」
ぼくが眠っていた間のことだよ、キースがシロエの船を撃墜した時。
その頃にハーレイは聞いてないかな、シロエが遺した最期の思いが届かなかった?
「そう言えば、ジョミーがそんなことを…」
俺は直接、シロエの声を聞いてはいないが。
ジョミーも誰の声とも言わなかったが、「キャプテンの君には話しておく」と。
誰かの思いが突き抜けて行ったと、掴むことは出来なかったのだが、と…。
時期としてはシロエの船が墜とされた時と重なっていた。
ずいぶん後になってから、当時の航宙日誌を読み返していて気付いたんだがな。
シャングリラへの攻撃が激しくなったのはこのせいだったかと、良かれと思ってやった人類への思念波通信が彼らに悪影響を与えてしまったのか、と当時の日誌を読んでみた。
其処に書いてあったさ、ジョミーが感じた「誰かの思い」というヤツも。
「じゃあ、あれはやっぱりシロエの声だったんだ…」
地球への思い。みんなで行こう、って…。地球へ行こう、って。
「聞いたのか、お前?」
前のお前は聞いていたのか、シロエの声を?
「うん、夢の中で。…だからジョミーの声だったんだと思ってた…」
馬鹿だね、ぼくも。
シロエの名前は聞いていたのに、シロエがジョミーを何と呼んだかも知っていたのに。
小さかった頃のシロエはピーターパンと呼んでいたんだよ、ジョミーのことを。
あの声は確かにピーターパンと呼び掛けていたのに。
「ぼくは此処だよ」と呼んでいたのに。
もしも前のぼくが、シロエの声だと気付いていたなら…。
そうすれば掴めていたかもしれない、シロエがどういう状況だったか。
どんな思いで地球を目指したか、キースとの間に何があったか。
もしかしたら、キースの正体までも。シロエが命懸けで掴んだ、キースの秘密も。
前のぼくが全てを掴んでいたなら。
あの時、シロエの思いを逃すことなく捉えていたなら、何もかも変わっていたかもしれない…。
「そうかもな…。そうかもしれんな」
お前ならば、とハーレイは腕組みをして深く頷いた。
「ジョミーには無理でも、お前だったら可能だったか…」
あの頃のジョミーはまだ粗削りで、細かな心の襞まで捉える力が無かった。
だが、前のお前だったら、ほんの一瞬、通り過ぎただけの思念も掴むだけの力はあったっけな。
「…うん。たった一瞬でも捕まえてしまえば読めたから」
其処にこめられた思いの全てを読み取ることが可能だったから。
だから、しっかりとシロエを捕まえていれば…。通り過ぎた瞬間に捕まえていれば…。
でも、出来なかった。
そうしようとさえ思わなかったし、そうしなければとも思わなかった。
ジョミーだとばかり思い込んでいたから、通り過ぎるままにさせてしまった。
全部、手遅れ…。
何もかもがすっかり遅すぎたんだよ、今頃になって気付いても。
あれはシロエの思いだった、と今になって知っても、何にもならない…。
前のぼくは何一つ出来なかった。
十五年間もただ眠っていただけで、シロエの思いさえも捉えようともせずに。
何の役にも立たなかったよ、あれがシロエだと気付いていれば…。
気付きさえしたなら、同じキースを相手にするにも、より深く入り込めただろうに。
キースの心に揺さぶりをかけて、マザー・システムへの懐疑心を植え付けられただろうに。
ぼくがシロエからキースの生まれを、彼の正体を直接聞き出していたならば…。
そうして、シロエから得たメッセージとしてぶつけていれば。
ぼくの言葉ではなくて、シロエの言葉で正面からキースに叩き付けていれば…。
手遅れだった、とブルーは悔やむ。
シロエがその身に抱え込んで散った、地球への思い。
自分の思いに似ていたそれを掴めば良かったと、どうして捕まえなかったのだろう、と。
俯いてしまったブルーの頭に、ふわりと大きな手が置かれて。
「そんなものさ。…世の中っていうのは、そんなものだ」
後悔先に立たずと言うだろ、それに後悔どころか時効だ。
いつの話だと思っているんだ、前のお前がシロエの思いを感じ取った頃。
前のお前が生きてた頃だぞ、まだナスカでさえ影も形も無かった時代でうんと昔だ。
「でも…。あの時、ぼくが気付きさえすれば…」
気付いていたなら、深い眠りの底であっても。
シロエを捕まえて話を聞けたよ、シロエの思いを全て取り込むという形で。
何があったのか、何を見たのか。どうして死んでしまったのかも…。
キースがシロエを殺したことまで、前のぼくは知ることが出来たのに…。
「仕方ないだろう、前のお前は出来るだけのことをしたんだから」
シロエの思いを捕まえ損ねた件はともかく。
キースについては、やるだけのことはきちんとやったと思うがな?
目覚めて間もないフラフラの身体で先回りしたり、挙句の果てにメギドを沈めに飛んでったり。
それだけ頑張った前のお前を責めようってヤツは誰もいないさ、お前だって悔やむことはない。
シロエのことは残念だったが、眠っていたんじゃシロエだって許してくれるだろう。
「どうして気付いてくれなかった」と怒鳴り付けたりはしないと思うぞ。
「うん…」
シロエはずいぶん、気が強そうな感じだけれど。
八つ当たりだってしそうだけれども、流石に前のぼくに其処までは言わないだろうね…。
今のぼくなら負けちゃいそうな気もするけれど、と小さなブルーは首を竦めた。
シロエに怒鳴り付けられたらパニックになると、「ごめんなさい」と泣くしかないだろうと。
ハーレイは「ははっ、チビのお前ならそうかもな」と可笑しそうに笑いながら。
「それで、どうして急にシロエなんだ?」
お前、シロエと接点なんかは無いだろうが。前のお前が夢の中で聞いた声はともかく。
その声だってシロエかどうか、って俺に訊くのに、何処からシロエの話になるんだ?
今日は歴史の授業だったか、シロエの話が出て来る辺りの?
「そうじゃなくって…。鳥を見たんだよ」
学校の帰りと、ぼくの家の庭と。
おんなじ鳥か、別の鳥かは分からないけど、どっちもセキレイ…。
セキレイって言えば、思い出さない?
セキ・レイ・シロエ、って。
「ほほう…。そのセキレイがシロエだってか?」
セキレイになってお前の目の前に現れたってか、あのシロエが?
「多分、違うだろうけどね。最初はブラウかと思ったほどだし」
「さてなあ、そいつは分からないぞ?」
案外、本当にシロエかもしれん。
向こうがお前をソルジャー・ブルーだと知っているかはともかくとして、だ。
鳥のセキレイになっていないとは言い切れないなあ、こればっかりは神様次第だからな。
人間に生まれるか、鳥に生まれるか。
それとも地面に根を張る木々に生まれるか、全ては神様が決めることだとハーレイが言うから。
希望を聞いて貰えるかどうかも神様次第だ、と言われたから。
小さなブルーは首を傾げて訊いてみた。
「…それじゃ、もしかしたら。…ぼくたちも鳥になっていたかもしれなかった?」
「絶対に無いとは言えないな」
だが、鳥になるなら注文が一つ。これだけは聞いて貰わないとな。
「何?」
「お前と一緒に鳥になるなら、比翼の鳥でなければ嫌だ」
「なあに、それ?」
ヒヨクの鳥って何なの、ハーレイ?
「二羽の鳥がいつも一体になって飛ぶんだ、互いに翼を並べ合ってな」
いつも一緒だから、翼も目も。
片方ずつあれば充分ってことで、どちらも片方ずつしか無い。そして力を合わせて飛ぶ。
絶対に離れないように。
「…その鳥がいいな、ハーレイと一緒に鳥になるなら」
いつだって一緒に飛んで行くんだよ、何処へ行くのにも。
飛ぶ時も、下りる時も一緒で、食事をするのも寝るのも一緒。
「うむ。俺もそいつで頼みたいもんだな、お前と離れずにいられる鳥で」
だが、比翼の鳥ってヤツもいいが、だ。
同じ生きるなら人の身体の方がいいじゃないか、今みたいに。
「そうだよね、前のぼくたちとそっくり同じの身体がいいよね」
今のぼくはまだチビだけど…。
いつかは前と同じになるから、前のぼくとそっくり同じになるから。
だから待ってて、ぼくがきちんと大きくなるまで。ソルジャー・ブルーと同じになるまで…。
「もちろん待つさ」
何年でも、何十年でもな。
比翼の鳥よりは断然お前だ、前のお前と同じお前が一番だからな。
…もっとも、チビのお前も可愛いんだが。
いくら見てても飽きないぞ、うん。
鳥になるよりは、やっぱり今の人間の身体がいいとブルーは思うから。
比翼の鳥も素敵だけれども、やはり人間が一番いいと思うから。
「ねえ、ハーレイ。…もしもあの鳥、シロエだったら…」
あのセキレイがシロエだとしたら。
次は人がいいね、シロエそっくりの人に生まれて来られるといいね。
「さあな。…シロエはどっちが好きなんだかなあ…」
人の身体は二度と御免だ、と思っているかもしれないぞ。
鳥になって自由に飛んで行こうと、何処までも自由に飛び続けるんだ、と。
「そうかもね…。シロエ、そういうことも言っていたかも…」
遠い昔に眠りの中で聞いた声。突き抜けて行ったシロエの思い。
「ぼくは自由だ。自由なんだ。いつまでも、何処までも、この空を自由に飛び続けるんだ」。
それがシロエの最期の叫び。前の自分が捉えた叫び。
(…シロエは飛んで行けたんだろうか…)
地球へ行こう、と受け取った思い。空を飛び続けて、いつか地球へ、と。
シロエも地球まで来てくれていれば、とブルーは願う。
その姿が一羽の鳥であっても、自分たちのような人であっても。
彼が最期まで焦がれ続けた、青く輝く水の星の上に…。
セキレイ・了
※前のブルーが捉えていたらしい、シロエの思念。ジョミーにも掴めなかった最期の思い。
ブルーがシロエを捕まえていたら、全てが変わっていた可能性も…。歴史はそういうもの。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(秋の訪れ…?)
なんで、とブルーは新聞の記事を覗き込んだ。
学校から帰って、ダイニングのテーブルでおやつの時間。ついでに広げてみた新聞。秋の訪れと謳った記事には一枚の写真が添えられていた。
山並に囲まれた雲海の写真。何処か山間の盆地なのだろう、昇る朝日に真っ白に輝く一面の雲。文字通りの雲海、まさに雲の海。その真ん中の辺り、船が浮かぶように突き出た山の頂。
(ここだけ高くなっているんだ…)
盆地の中に聳える山。雲の海にぽっかり浮かんだ船。船の形はしていないけれど、その姿は船を思わせる。
(シャングリラみたい…)
雲海の星、アルテメシアに潜んでいた船。ミュウたちの楽園だった船。
白い鯨を思い出させる写真だけれども、問題は「秋の訪れ」と付けられた見出し。雲海を指しているようなのだけれど…。
(あれって、年中あるんじゃなかった…?)
アルテメシアを覆っていた雲海。一年中、消えることのなかった雲の海。
ミュウたちの安全な隠れ場所。巨大なシャングリラを人類の目から隠し通してくれた雲海。
シャングリラはいつも雲の中だった。
そう、いつだって。一年を通して、常に雲の中。
(雲が消えちゃったことなんて無いよ?)
隠れ住んでいた長い年月、一度も消えはしなかった雲の海。雲海に包まれていたシャングリラ。
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
雲海の中に隠れていたから、誰もが安心して暮らしていられた。人類に発見されたりしないと、この雲の海がある限りは、と。
(あれが消えちゃったら、大変なことになっちゃうんだけど…!)
シャングリラは隠れ蓑を失い、その船体を曝け出すことになっただろう。そうなれば、たちまち不審な船と認定されて、恐らくは何者かを問う通信。応答しなければ、即、攻撃される。
(そうなったら、もう逃げるしか…)
ステルス・デバイスだけで完全に姿を消すことも可能ではあったけれども、アルテメシアからは逃げるしかない。姿を消してまで其処に残れば危険の方が大きいから。
新しい仲間を救い出すことも大切だけれど、船に乗っている仲間たちの命が最優先。皆を危険に晒せはしないし、新しい仲間の救出は諦め、宇宙へと逃げてゆくしかない。
けれど、そんな目に遭いはしなかった。雲海は一度も消えたりはせずに、アルテメシアを、白いシャングリラを包み続けた。
雲海の星、アルテメシア。雲の海に覆われ続けた星。
(だからあの星を選んだのに…)
シャングリラを隠す場所として。
暗い宇宙を飛び続けていれば、居場所が欲しくなってくる。踏みしめる大地は手に入らずとも、せめて星の上を飛んでいたいと。
改造を済ませ、白い鯨となったシャングリラで居場所を求めて宇宙を旅した。広い宇宙の中にはきっと条件に適う星があるに違いないと、それを見付けようと。
そうして辿り着いたアルテメシアは、理想的な星で。
(人類が暮らす育英都市があって、いざとなったら簡単に物資の補給が出来て…)
おまけに、雲海。
データでは一年中、雲に覆われた星だというから、アルテメシアに隠れようと決めた。白い雲の海に船を隠せば、決して人類に見付かりはしない。
雲の中さえ飛んでいたなら、雲の海に潜って飛んでいたなら。
(アルテメシアの雲、秋のものなんかじゃなかったよ…?)
もしもそうなら、一年の内の四分の一しかアルテメシアには隠れていられなかっただろう。他の季節は宇宙を旅して、秋の間だけアルテメシアに滞在するという、それはさながら渡り鳥。
しかしシャングリラは渡り鳥にはならなかった。一年を通じてアルテメシアの雲海の中で、長い年月を其処で過ごした。
(だけど、秋って…)
何故、と雲海の写真を載せた新聞記事を読み進めてみれば、雲海はやはり秋のもの。
盆地を埋め尽くすほどの雲の海がこうして発生するには、それに適した気象条件があるという。
(んーと…)
最適な季節は春と秋。
どちらかと言えば秋の方が多く見られるらしくて、「秋の訪れ」と謳った記事になるらしい。
今年もこういう季節になったと、雲海が綺麗なシーズンが来た、と。
(アルテメシアが変だったわけ…?)
今の今まで、雲海は一年中あると思っていたけれど。
小さなブルーが暮らす地球では違うと言うから、秋のものだと新聞記事になるほどだから。
アルテメシアはきっと、変わり種の星。秋でなくとも、春でなくとも雲海が発生し続けた星。
恐らくはそれに適った気象条件が揃っていたのだろう。
この新聞の写真のように低い盆地を埋める雲ではなかったけれども、あれも雲海。
消えることのない雲の海なら、普通の雲ではないのだから。
普通の雲ならいつか消えてしまうし、それが消えずにある星だからとアルテメシアを選んで船を隠していたのだから…。
(でも、綺麗…)
雲海が出来る仕組みはともかく、秋の訪れを謳った写真。
こんな風にシャングリラが雲海にぽっかりと浮かんでいたなら。
雲の海から突き出して見える山の頂のように、雲の海に浮かんだ船を思わせる山のように。
朝日に照らされた山の頂。
この山が白い鯨であったなら…、と想像の翼を広げるけれど。
(…そんなシャングリラは見られなかったよ…)
朝日に輝く白い鯨は。
雲の海に浮かぶ、白い鯨は。
あの星ならば朝日でなくとも、シャングリラは雲海の上で光を受けて輝いたろうに。真昼の光も沈む夕日も、シャングリラを鮮やかに照らしたろうに。
けれど、そんな機会は一度も無かった。シャングリラは浮上しなかったから。
雲の海から出なかったから…。
(…最後だけだ)
アルテメシアを離れた時。
サイオン・トレーサーに追われて浮上した時、シャングリラは昼の光の下に出た。
それよりも前に、成層圏まで飛び出したジョミーを救い出すために雲海から姿を現しはしたが、あの時は夜。シャングリラを照らし出す太陽の光は何処にも無かった。
だから機会は一度だけ。
人類軍の猛攻を浴びてアルテメシアを捨てた、あの戦闘の最中だけ。
(…でも、あの時だって船全体は…)
多分、見えてはいなかったろう。白い鯨はその姿を隈なく見せてはいなかったろう。
ブルー自身は船の被害状況を探るのが精一杯で、どういう形で浮かんでいるのかを把握出来てはいなかったけれど。
アルテメシアを離れなければ、と決断を下しはしたけれど…。
(…シャングリラ、全体が見えてたのかな?)
雲の海の上に浮かんだろうか、と遠い記憶を手繰ってみても思い出せない。
仕方ないから新聞を閉じて、食べ終えたおやつの器を母に渡して、部屋に戻って。
(うーん…)
シャングリラの写真集を開いたけれども、ある筈も無かった。
ハーレイとお揃いで持っている写真集。懐かしい白い鯨の写真を収めた豪華版。
今日まで何度も開いたのだし、あったならば記憶に残っている筈。
(…やっぱり無いや…)
雲海に浮かんだシャングリラの写真。
さっきの新聞記事で見た写真みたいに、雲海に突き出していた山の頂のように、雲の上に浮かぶシャングリラ。朝日を受けて光り輝くシャングリラ。
真昼の光でも夕日でもいいのに、その写真が無い。ただの一枚も。
雲海に浮かぶシャングリラを捉えた写真は一枚も入っていない。
白い鯨は、あれほどに雲に馴染んでいたのに。
長い歳月を雲に守られ、雲海の中に浮かんでいたのに…。
(アルテメシアから逃げ出す時には、そんな姿も見えたのかな?)
雲海の上に浮かんだ白い鯨を自分たちは全く見ていないけれど、攻撃して来た人類軍。それから監視していたであろう、ユニバーサルの職員たち。
彼らは鯨を見ただろうか。雲海に浮かぶ白い鯨を、光を受けて白く輝くシャングリラを。
(…綺麗だとは思ってくれなかっただろうけど…)
それでも彼らは見たかもしれない。
前の自分でさえ、一度も見られずに終わった景色を。雲海に浮かぶシャングリラを。
(誰か見た人、いるのかな…?)
どうなのだろう、と考え込んでいると、来客を知らせるチャイムの音。窓辺に駆け寄ってみれば長身の人影。庭を隔てた門扉の向こうで、こちらを見上げて手を振るハーレイ。
これは訊かねば、とブルーは質問をしっかりと頭に叩き込んだ。
恋人が来てくれた喜びの前に、すっかり吹っ飛んでしまわないように。
ハーレイと二人、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせに腰掛けて。
ブルーは早速、自分の頭を悩ませていた疑問を恋人にぶつけてみた。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちがアルテメシアから逃げ出した時…」
「ん?」
「シャングリラ、雲海の上に浮かんだ?」
船全体が雲海の上に見えていたかな、お日様の下に。
「何の話だ?」
怪訝そうな顔をするハーレイに「今日の新聞だよ」と返した。
「雲海は秋のものなんだって。それでね、朝日に照らされた山の天辺が船みたいで…」
まるで浮かんでるように見えていたから、シャングリラはどうだったんだろう、って。
お日様の光で白く光っていたのかなあ、って…。
「ああ、そういう綺麗な景色のことか」
雲海の上に浮かんでいたかと、船全体が見えていたかって意味なんだな?
「うん。ぼくたちからは見えなかったけど、人類はそれを見られたのかな、って」
綺麗だっただろうと思うんだけど…。もしも人類が見ていたならば。
ミュウの船でも綺麗じゃないか、って思う人だって一人くらいはいたかもしれないと思わない?
「あの時は無理だな、船体を全部見せちまったら敵の思う壺だ」
それに、逃げると決めてワープの準備に入った時。
その時が一番外に出た部分が多かったんだが、残念ながら半分も見えちゃいないってな。
上げ舵で船首が真上に突き出しただけだ、お前の望むような景色じゃなかった。
「そっか…」
残念、とブルーは溜息をついたけれども、諦め切れない雲に浮かんだシャングリラ。
雲海の上で光り輝くシャングリラ。
だから恋人に重ねて尋ねることにした。ハーレイはそれを知っているかもしれないから。
「その後にも、無い?」
シャングリラと、雲海。それが綺麗に見えるような時。
「いつだ?」
「アルテメシアに戻った時とか…」
前のぼくが死んじゃった後に、アルテメシアに行ったでしょ?
その時に雲海の上に浮かんでいないの、シャングリラは?
「うーむ…」
ハーレイの眉間に皺が寄ったから、ブルーは「なあに?」と首を傾げた。
「どうしたの、ハーレイ? ぼく、変なことでも訊いちゃった?」
「お前、歴史をきちんと勉強してたか?」
「えっ?」
「居眠りしないで聞いていたか、ということだ。ついでにちゃんと覚えたのか、と」
馬鹿、と額を指先でピンと弾かれ、「いたっ!」と大袈裟に押さえてみせたブルーだけれど。
「何するの! 痛いよ、ハーレイ!」
「馬鹿で間抜けなお前が悪い。雲海とシャングリラっていう組み合わせで頭がパンクしてるな」
いいか、授業で教わる基礎の基礎だぞ、「忘れました」では済まないレベルだが?
よくよく歴史を思い出してみろ。
アルテメシア侵攻は夕方からだと習わなかったか、学校で?
「そういえば…」
宣戦布告は夕方だった、って習ったかも…。
陥落した時は夜だったかも…。
「ほら見ろ、馬鹿」
ハーレイにまたも「馬鹿」と言われて、ブルーは唇を尖らせたけども。そのハーレイは気にせず続きを口にした。
「アルテメシアには夜の間に降りちまったんだ、雲海も何も無いってな」
雲を突き抜けて降りた後には、アタラクシアの上空に停泊していたし…。
次の目標へとアルテメシアを出発した時も、のんびり雲の上にはいないさ。突き抜けただけだ、真っ直ぐ宇宙へ向かってな。
「じゃあ、シャングリラが雲海の上を飛んでいる景色って…」
「見たヤツは誰もいないんじゃないか?」
俺が思うに、誰一人として。
「えーっ!」
そんな、とブルーは叫んだけれども、ハーレイの手が伸びて来て。大きな手がブルーの頭を軽くポンと叩いて、クシャリと撫でて。
「これはキャプテンとしての俺の勘だが…」
あの船のキャプテンを誰よりも長くやっていた俺の勘なんだが。
シャングリラが雲海に浮かぶ所は、誰一人として見ちゃいない。そんな気がするな、それを見たヤツは誰もいないと。
雲海に浮かぶシャングリラ。
それを見た者は誰もいないとハーレイが言うから。キャプテンとしての勘だと言うから、小さなブルーは首を捻った。何故ハーレイはそう言えるのかと、誰もいないと言えるのかと。
「なんで? …どうして誰も見ていないって言えるの?」
「勘だと言ったろ、ヒントはお前も持っているんだ。その写真集さ」
あれだ、とハーレイが指差した先にシャングリラを収めた写真集。勉強机の上に置かれたままになっていたそれを示して、ハーレイは「あれに入っていないだろう?」と問い掛けた。
「何が?」
「お前の言ってる、雲海に浮かぶシャングリラの写真。あの中にそれは一枚も無い」
もしも誰かがそれを見たなら、きっと写真集に入っているだろう。
お前の想像どおりの景色を見たヤツがいたら、写真を撮らない筈がない。綺麗なんだからな。
写真はたちまち評判になるし、そいつを撮ろうと頑張るヤツだって出て来るさ。
そうして写真集を作ろうって時には絶対に入る。
宇宙空間もいいが、そいつを何枚も載せるよりかは、雲海に浮かぶ姿だろうが。
シャングリラと言ったらアルテメシアで、アルテメシアは今も昔も雲海の星で有名なんだぞ。
「そうかも…。ハーレイの言う通りかも…」
本当に誰も見なかったのかもしれないね。シャングリラが雲海に浮かんでる所。
絶対、似合う筈なのに…。とても綺麗だろうと思ったのに…。
「俺はシャングリラ全体を雲海の中で肉眼で見てはいないんだが…」
前のお前はサイオンの助けを借りて見ていた。アルテメシアで外へ出る度にな。
雲海とシャングリラを一番長く見ていたお前でも、今まで気付かなかった景色だ。雲海に浮かぶシャングリラってヤツは。
トォニィたちが思い付かなくても仕方ないだろ、シャングリラと雲海の組み合わせを。
乗ってるヤツらが気付いてないんだ、他のヤツらがそうそう気付くか?
よっぽどの偶然ってヤツが無ければ出会えない景色で、まず見られない。
そして見たヤツはきっと誰もいなくて、シャッターチャンスも無かったのさ。
誰一人として知らない景色だ、とハーレイは語る。
一面の雲の海に浮かぶシャングリラの姿は誰一人知らず、見もしないままで終わったのだと。
「写真集が出るほどの船なんだぞ? 其処に無いなら、そういう景色も無かったんだ」
雲海の上を飛んでいることはあったんだろうが、どう見えるかに気付かなかった。
だから無いんだな、その写真は。
「…だけど、写真もそうだけど…。せっかく雲海の星に居たのに…」
前のぼく、どうして気付かなかったんだろう?
シャングリラを雲の海に浮かべたら綺麗だってことに。きっと綺麗に違いない、って…。
「雲海に対する認識ってヤツの違いだな。前のお前と、今のお前と」
今のお前は日頃から普通に雲を見てるし、雲海の写真も「綺麗だ」と思って眺めているが、だ。
前のお前はそうじゃなかった。雲海はシャングリラを隠すためのもので、眺めるためのものじゃないんだ。其処にシャングリラを浮かべようだなんて、絶対に思い付く筈が無い。
あの時は浮かぶには危険すぎた。雲海の上に浮上したなら、ステルス・デバイスに何かあったら見付かって攻撃されるだけだ。シャングリラは雲の中に隠れているしかなかったわけさ。
そして平和な時代になったら、もう雲海は要らなかったんだ。何処にでも堂々と停泊出来るし、雲の海は必要無いってな。
「…もしかして、並び立たないの?」
シャングリラと雲海。
雲海に隠れるか、雲海なんて無い場所に堂々と出るか。シャングリラにはそれしか無かったの?
「そういうことだな。なまじ隠れ蓑にしていたっていうのが仇になった、と」
堂々と出られる時代になったら、誰も雲海を見向きもしなくなっちまった。
突き抜けて飛んでゆくことはあっても、上にのんびり浮かんでいようとは思わなかった。
だから誰一人、そいつを見てはいないんだ。どう見えるのかにも気付かないままで。
「シャングリラ…。雲海の上に浮かべてあげたかったな」
白く眩しく光って見えるように。綺麗な船だ、って分かるように。
朝日でも夕日でも、真昼のお日様でもいいから、一回くらいは雲海の上に…。
「それを言うなら月も良くないか?」
月の光だ、とハーレイが挙げる。満月の光も悪くはない、と。
「お月様?」
「雲海は此処じゃ秋のものだが、秋は月だって綺麗に見えるぞ。なんたって月見が二回もある」
秋だけで二回だ、芋名月と豆名月。芋名月が仲秋だな。豆名月は栗名月とも言うんだが…。
満月は年中あるというのに、月見と言ったら秋だけだろう?
しかも二回もだ、他の季節には一度も月見が無いのにな?
その満月の光でシャングリラを照らしたら映えると思うぞ、雲海の上で。
「お月様で光るシャングリラかあ…」
白って言うより銀色だね、きっと。
お月様がもう一個あるみたいだよね、銀色の鯨の形をしたのが。
「月の光っていうのもいいだろ、綺麗なシャングリラが見られそうだぞ」
雲海も月の光を映すからなあ、そりゃあ夢みたいな景色だろうさ。月とシャングリラ。
「見てみたかったな、お月様の下のシャングリラ…」
見たかったな、と呟いたブルーは「あれっ?」と声を上げた。
頭に浮かんだアルテメシア。さっきハーレイに「馬鹿」と呆れられた歴史の大切な一コマ。
「それなら、アルテメシア侵攻の時にも…。夜だったんだし、お月様なら…」
シャングリラ、雲海の上で綺麗に光っていたかも!
誰も見ていなかった、ってだけで。
「おいおい、アルテメシアに月があったと思うのか?」
「………。お月様、あそこには無かったね…」
無かったっけ、とブルーはガックリ肩を落とした。
月明かりを浴びたシャングリラが雲海の上に浮かぶ機会も無かったのか、と。
「…シャングリラ、雲海に浮かぶのは無理だったんだ…」
あんなに長い間、雲海の星に潜んでいたのに。
平和になってからも長い間、シャングリラは宇宙のあちこちへ旅をしたのに…。
ただの一度も雲海の上に浮かべなくって、写真も写して貰えなくって…。
きっと綺麗なのに、雲海の上に浮かんでいたなら。
お日様の光でも、お月様でも、とても綺麗なシャングリラが見られたと思うのに…。
「そういう写真は残ってないんだ、誰も見ちゃいないっていうのが本当だろうさ」
思い付かなかったトォニィのセンスの無さを恨んでおけ。
もっとも、あいつはアルテメシアとは縁が無いのも同然だからな、雲海も馴染みが無いってな。
「…うん、トォニィを恨んでおくしかないみたい…」
残念だけど、とブルーは時の流れが連れ去ってしまった白い鯨を思い浮かべた。
きっと雲海が似合っただろうシャングリラ。
一面の雲の海に浮かべば、朝日や月に照らされて浮かべば、どんなに美しかったことか。
雲の海を本物の海に見立てて、鯨が浮かんでいるかのように。
白い船体を朝日の赤や月の銀色に染めて輝いていれば、どんなにか…。
シャングリラはSD体制が崩壊した後も、長く宇宙に在ったのだから。
姿を留めていたのだから。
トォニィが雲海の美に気付きさえすれば、素晴らしい写真が残せただろうに…。
(…シャングリラ…)
雲海に浮かぶ、白い鯨を見たかった。
此処は雲海の星ではなくて地球だけれども、今日の新聞で見た写真のように。
山に囲まれた盆地を覆った白い雲の上に、白い鯨を浮かべたかった。
どうやら此処では秋のものらしい、白い雲海。その雲の海に浮かぶシャングリラを…、と未練を断ち難いブルーの頭に、ポンと浮かんで来たアイデア。
「そうだ、合成!」
シャングリラの写真は幾つもあるから、合成したら作れるかも…。
光の具合とか、上手く合いそうな写真を見付けて、雲海の写真と合成したら作れそうだよ。
雲の海の上に浮かぶ所を、白いシャングリラが浮かぶ写真を。
「お前、そこまでやりたいのか?」
合成してまでシャングリラを雲海に浮かべてみたいってか?
「駄目?」
うんと綺麗だと思うんだけど…。
シャングリラが雲海に浮かんでる写真、合成でも素敵だと思うんだけれど…。
作りたいな、とブルーの思いは彼方へと飛んだ。
遠い昔に暮らした船へと、白い鯨だったシャングリラへと。
あの鯨を雲の海に浮かべてやりたい。たとえ合成写真であっても、一面の白い雲海の上に。
朝日でも夕日でも、月の光の下であっても…、と夢を見ていたら。
「なら、いつかやるか?」
向かい側に座った恋人に声を掛けられた。
「いつかって?」
ハーレイ、合成してくれるの?
シャングリラの写真と、雲海の写真。
「俺だけじゃないさ、俺とお前の共同作業だ」
「共同作業?」
写真の合成って、そんなに大変?
二人がかりで作らなくっちゃいけないくらいに手間がかかるの…?
「うむ。とてつもなく手間と時間がかかるかもなあ…」
ただし、とハーレイは笑顔になった。
運が良ければ一回で済むと、一度出掛けてゆくだけで済むと。
「えーっと…?」
何処へ出掛けてゆくのだろう、と膨れ上がったブルーの疑問。
写真の合成は個人の家では出来ない作業で、専門のスペースや機械が要るのだろうか?
その場では出来を確認できなくて、何度も何度も足を運んでやっと完成に至るのだろうか…?
けれども写真は作りたいから、それでもいいと思っていたら。
「お前、勘違いをしているだろう? 行き先は山だな」
「山!?」
「そうさ。本物の雲海を見るなら山だ。山の上から見ないと撮れんぞ、雲海の写真は」
この辺りで見るなら何処になるかな、本物の雲海を何処かから見て。
そいつの写真を撮って、だな…。
データベースでそれにピッタリのシャングリラの写真を探せばいい。
そうすりゃお前の望み通りのシャングリラと雲海の写真が出来るぞ、地球の雲海でな。
「ホント!?」
シャングリラを地球の雲海に浮かべられるの、それが合成写真でも?
「お前がやりたいと言うのならな」
しかしだ、雲海ってヤツは天気と同じで気まぐれだ。
確実に撮れると思って行っても、一面の雲の海にはならなかったり、色々だな。
手間と時間がかかると言ったのはそれだ、運が良ければ最初の一度で撮れるんだがな。
「撮りに行きたい!」
何度空振りしても撮りに行きたい、とブルーが強請ると、ハーレイは「ふむ…」と小さな恋人の顔を見詰めて。
「今は駄目だぞ、ちゃんと結婚してからだ。でないと二人で出掛けられないしな」
そして、雲海を撮るなら早起きだ。
日の出よりも前から陣取ってないと綺麗な写真は撮れないらしいし、暗い内に家を出ないとな。
「うん、頑張る!」
寝坊してたら起こしてよ?
ハーレイ、早起き、得意なんだよね?
「お前なあ…。其処は自分で目覚ましを幾つもかけてみるとか…」
「ハーレイのケチ! 隣で寝てるのを起こすだけでしょ、揺すってくれればいいんだよ!」
「それで起きるか、お前、本当に?」
「起きるよ、雲海を撮りに行くんだろ、って言ってくれたら!」
いつか二人で撮りに行こうよ、とブルーは恋人と小指を絡めた。
「約束だよ」と。
シャングリラに似合う白い雲の海を探しに、それの写真を撮りに行こうと。
ハーレイと二人、早起きをして見付けた見事な雲海。
青い地球の上に現れた白い雲海。
其処にシャングリラが浮かぶ写真を作ってみようと、そうして部屋に飾るのだ、と…。
雲海の船・了
※ブルーが見たいと思った、雲海に浮かぶシャングリラ。けれど、その写真は無いのです。
いつか雲海の写真を撮って、合成してみたい白い船。きっと綺麗に映えるでしょうね。
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←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれっ、白い…)
珍しいな、とブルーは生垣越しに見えた庭の中を覗き込んだ。
学校からの帰り、バスを降りてから家まで歩く間に見付けた白い彼岸花。花壇に一杯。
(これって今頃の花だった…?)
彼岸花という名前なのだし、彼岸の頃の花ではなかろうか。確か春分と秋分の頃。彼岸花は秋の風物詩だから、多分、秋分の辺りに咲く筈。少々、遅すぎはしないだろうか。
(それに白いよ?)
彼岸花は赤いと記憶している。
緑が多いとはいえ、この辺りは住宅街だから。学校への道も田園地帯を通るわけではないから、彼岸花には出会えない。
けれども群生している写真を何度も見たし、幼い頃には実物も見た。父と母に連れられて歩いた郊外の道で、燃え上がるような赤い彼岸花の絨毯を。
(今頃の花で、おまけに白いの…?)
彼岸花ではないのだろうか、と眺めていたら、顔見知りのご主人が庭に出て来た。挨拶すると、「おかえり」と笑顔で返してくれて。
「この花、持って帰るかい?」
ちょうど綺麗に咲いているから、と件の花を示された。
「貰ってもいいの?」
「もちろんさ。喜んでくれる人に見て貰えたら花も喜ぶしね。何本欲しい?」
「一本貰えたら充分だけど…。他にも欲しい人、いると思うから」
「欲が無いねえ。…はい、どうぞ」
ハサミでチョキンと切って、一本。白い花を生垣越しに貰った。
せっかくだから、と疑問をぶつけてみることにする。
「えーっと…。これって、彼岸花なの?」
花の時期が遅すぎるようだけれど、と尋ねてみれば「園芸種だからね」と答えが返った。花壇で育てて愛でるための品種で、野生のものより咲く時期が少し遅いのだと。
「じゃあ、花の色は? 彼岸花は赤いと思うんだけど…」
「野生のは赤いね。でも、こうして庭に植える彼岸花なら赤いのも白も黄色もあるよ」
赤い花だと野生のものと同じになるから、早い時期に咲いて終わってしまうという。しかし白や黄色の彼岸花なら、今の季節が見頃らしくて。
「ウチじゃ育てたことがないけど、紫っていうのもあるんだよ」
「紫色?」
「鮮やかな紫ってわけじゃなくって、少しだけれどね」
彼岸花の色に青は無いから、と教えて貰った。紫の彼岸花は白がほんのり紫を帯びたような花。いつか植えようと思っているから、楽しみに待っていてくれると嬉しいね、とも。
(やっぱり彼岸花だったんだ…)
白い花だけど、と貰って帰った彼岸花。母に見せると、母も咲いていた花壇を見ていたらしく。
「あら、頂いたの?」
満開になっていたでしょう、と訊かれて「うん」と笑顔で答えた。
「彼岸花とは違うのかな、って覗き込んでたら、好きなだけどうぞ、って」
でも、ぼくは一本貰えたら充分だから…。他にも欲しい人、きっといるしね。
彼岸花の話も教えて貰ったよ、これは花壇に植える花だから色も咲く時期も違うんだ、って。
「お話が聞けて良かったわね。確かに彼岸花が咲く時期にしては遅いわよねえ…」
気付かなかったわ、とカレンダーに目をやる母。もう秋分は過ぎてしまったし、彼岸花の季節も終わってしまった筈だった、と。
「そうでしょ? それに白いし、気になったんだよ」
「見ていたお蔭で貰えたわけね。ブルーの部屋に飾るんでしょう?」
「うんっ!」
「それじゃ、器を取って来ないと…」
母は背の高いガラスの一輪挿しを選んで生けてくれた。スラリと細い一輪挿し。
「葉っぱが無いのが少し寂しいわね…。でも、これはこういう花だから」
言われてみれば、花壇の花に葉っぱは無かった。ただの一枚も、緑色の葉の欠片さえも。庭から何か取って来て添えれば彩りになりそうだったが、それは彼岸花本来の姿ではないらしいし…。
(葉っぱ無しでもかまわないよね?)
花だけでもとっても綺麗だもの、とブルーは一輪挿しを部屋へと運んで行った。
勉強机の上に彼岸花を飾り、制服を脱いで。
それから一階のダイニングに下りて、おやつを食べてから部屋に戻って来たけれども。
(匂いは無いんだ…)
彼岸花の香りはしなかった。持って帰る途中もしなかったけれど、こうして閉め切られた部屋の中なら少しくらいは、と思ったのに。
小さな百合の花を幾つも束ねて作られたような彼岸花。それに相応しく、百合に似た香り。気品溢れる香りがほのかに漂うのでは、と考えたのに…。
(うーん…)
もしかしたら、と鼻を近づけてみても全く感じ取れない香り。姿だけらしい彼岸花。
(綺麗な花なのに、もったいないよね…)
これで素敵な匂いがあれば、と眺めながら宿題を済ませて、読書。白い彼岸花を飾った机で本を読んでいると、来客を知らせるチャイムが鳴って。
(ハーレイかな?)
椅子から立って、駆け寄った窓から見下ろしてみれば、長身の影が手を振っていた。庭を隔てた向こうに立って、門扉のすぐ脇で上を見上げて。
母に案内されてブルーの部屋に来たハーレイは、いつもの椅子に腰を下ろすなり、勉強机の上に飾られた花の存在に気付いたらしい。紅茶とお菓子がテーブルに置かれて母が立ち去ると、視線を机の方へと向けた。
「ほう、白い彼岸花か。珍しいな」
「綺麗でしょ?」
貰ったんだよ、学校の帰りに。覗き込んでたら、好きなだけどうぞ、って。
でも…。欲張ったら駄目だし、一本だけ。ぼくの机にはこれで充分。
「お前らしいな、一本ってトコが。しかし、白い花か…。まさに曼珠沙華といった風情だな」
「なに、それ?」
「彼岸花の別名さ、曼珠沙華は。本来は天上に咲く花を指す言葉なんだがな、曼珠沙華」
だがなあ、曼珠沙華は白い花だと言うからなあ…。
「白い花だよ?」
「そいつが白いと言うだけだろうが。彼岸花は元々、赤い花だぞ」
「やっぱり、普通は赤だよね?」
だから不思議に思ったんだよ、これは白いな、って。おまけに彼岸花の季節とズレてるし…。
「おっ、ちゃんと覚えているんだな。彼岸っていう時期がいつなのかを」
偉いぞ、とハーレイに褒められた。
SD体制の時代よりも遥かな昔に、この地域に在った小さな島国。日本と呼ばれた国での季節の行事や暦などは古典の授業の範囲だから。ハーレイは古典の教師だから。
嬉しくなったブルーは白い彼岸花に感謝した。
見付けて良かったと、分けて貰えて運が良かったと。
珍しい白い彼岸花。季節外れの彼岸花。
園芸品種だからそうなるらしい、と仕入れたての知識をハーレイに披露してみたら。
「ふむ…。今のこの地域じゃ、すっかり園芸植物だしなあ…」
彼岸花って言えば赤だった時代とまるで違って、花を愛でればいいってことか。必要も無いし。
「必要って?」
何かに使うの、彼岸花の花。それは赤い花でなくっちゃいけないの?
「花じゃなくって、根っこだな。彼岸花は救荒植物なんだ。ずうっと昔は、飢饉が起こって食べるものが無くなってしまったら。彼岸花の球根を掘り起こして食った」
何処にあるのか分かりやすいように、田んぼや畑の側に植えたわけだな。其処を掘ったら球根があると、そいつを食ったら生き延びられると。
「あれって、そういう植物だったの!?」
「いざという時に食えるっていうのと、もう一つ。畑の作物を守るためだ」
彼岸花を側に植えておいたら、モグラや野ネズミ除けになる。昔の人の知恵ってヤツさ。
「ふうん…。役に立つ植物なんだね」
「今ではどっちも必要無いがな。飢饉に備えて備蓄があるし、モグラや野ネズミの害にしたって、そいつのせいで人間様が飢えちまうって時代じゃないだろうが」
だから田んぼや畑の側には彼岸花っていう約束事だって無くなったのさ。
田園地帯に彼岸花が沢山咲くというのは人間が作り出した風景だしなあ、地球の自然を元通りに戻してゆくにしたって、何処までやるかだ。
何が何でも田んぼや畑に彼岸花、と頑張らなくても問題は無い。
そういったわけで、今じゃ田んぼや畑をやってる人たちにお任せしようってことになっている。彼岸花を沢山植えるのも良し、植えなくても良し、だ。
それでも植えてある所が多い、と聞かされてブルーは納得した。幼かった頃に見た赤い彼岸花は郊外の田園地帯のものだし、彼岸花のある風景写真も田んぼや畑のものばかりだから。
「そっか…。それで野生の彼岸花は田んぼとかの側にあるんだね」
野生って言うけど、人間が其処に植えておいた花。役に立つ花だ、って植えたんだね。
「ああ。…だがな、彼岸花は諸刃の剣だ」
「どういう意味?」
「モグラや野ネズミ除けだと言っただろう?」
どうしてヤツらを防げるのか、ってことだ。彼岸花には毒があるんだ。
「ええっ!?」
触っちゃったよ、とブルーは慌てたけれども。
大切に持って帰った上に、飾ってしまったと慌てたけれども、ハーレイは可笑しそうに笑って。
「花や茎には大した毒は入っちゃいないさ、首飾りを作る遊びがあるくらいだしな」
茎をポキポキと折って、皮だけで繋がるようにして。
そうやって花の部分を飾りにするんだ、それを首から下げて遊ぶ、と。
猛毒があったらそうはいかんぞ、たちまちかぶれて大変なことになっちまう。だから花と茎なら大丈夫なんだが、根が危ない。
「根?」
「球根だな。彼岸花の根っこは球根だと言ったろ」
「でも、食べるって…。飢饉の時には球根を掘り起こして食べるんじゃないの?」
「食う前にきちんと毒抜きするんだ」
でないと、死ぬぞ。猛毒だからな、彼岸花の根は。
掘り起こした球根をそのまま食べると死んでしまうから。
すり潰して、更に何度も何度も水に晒して毒を抜いてから、やっと食用に出来るという。それは大変な手間がかかると、口に入れられるまでが大変なのだと。
小さなブルーには信じられない話。毒を抜かねば食べられないのに、食べるという球根。
「…そこまでするの? 毒があるのに食べるの、球根?」
「そうだ。飢え死にしないためにはな」
何もしないで飢え死にするより、食えるものなら毒でも食う。そうやって人は生き延びたんだ。
「飢え死にしないようにって、毒…。でも……」
信じられないって思ったけれども、毒でも食べられるものがあるだけマシだね。
毒さえ抜いたら、それは普通に食べられるんでしょ?
「そうだが、あるだけマシって…」
何のことか、とハーレイは首を捻ったけれども、引っ掛かった記憶。遠い遥かな昔の記憶。前の自分を思い出したから、訊いてみた。
「前の俺たちか? 毒の食べ物でも、っていうのは?」
「そう。…ハーレイが食料の残りが一ヶ月分しか無い、って言った時」
あの時、船には毒の食べ物さえ無かったよ?
毒を抜いたら食べられるんじゃあ、っていう可能性のある食べ物さえも。
倉庫の食料が無くなっちゃったらそれで終わりで、何処にも食べ物は無かったんだよ…。
彼岸花さえ無かったシャングリラ。
前のブルーが物資を奪いに出掛けるより前、飢え死にの危機に瀕した時もそうだが、それよりも後も食料といえば安全な食べ物ばかりだった。
つまりは食料が尽きたら終わり。これを食べれば生き延びられる、という物は存在しなかった。有毒の彼岸花でさえ食料になるのに、そうした手段は何も無かった。
ブルーに指摘され、かつてキャプテンであったハーレイは呻く。
「…シャングリラにはこの手の植物は無かったからなあ、普通に食えるものばかりで…」
「いざという時には非常食だしね」
毒を抜かなくても、パッケージを開けて食べるだけ。そういうのを備蓄していただけでしょ?
最後の手段っていうのが無いんだ、彼岸花の球根みたいなもの。
「うむ。非常食を食い尽くしたなら、終わりだったな」
幸い、そんな事態には一度も陥らなかったが…。
前のお前が初めて食料を奪いに飛び出して行った時でさえ、俺たちは飢えていなかったし。
食料の残りが少ないってだけで、食える物はまだ充分にあったからな。
「…前のぼくたち、生き延びるために必死だったけど…。まだまだ甘かったな、って思うよ」
彼岸花の話を聞いちゃったら。毒の球根でも、いざとなったら食べるって話を聞いちゃったら。
毒を食べてでも生き延びるんだ、って発想はまるで無かったよ、前のぼく。
食料を確保することは考えてたけど、それは安全な食べ物ばかりで。毒を食べられるようにするなんてことは、一度も考えもしなかった。
前のぼくたちよりも遥かな昔に生きていた人たちは、そうしていたのに。彼岸花の球根を食べて生き延びてたのに、そこまでして生きようってことを考え付きさえしなかったよ…。
新しい種族だったくせに、生き延びる力でSD体制よりも昔の人たちに劣るだなんて。
やっぱり地面の上で生きていないと駄目なんだろうか、人間って。
シャングリラの中の世界が全てで、地面を踏まずに生きていたから弱かったのかな…。
「まあ、人間ってヤツは、基本、そうだろ」
地面の上で生きていたいと願うもんだ。だから地球へと戻ろうとした。
一度は滅びちまった星でも、人類が其処で生まれた星だ。最初に地面を踏んだ場所だな。
「前のぼくたち、変だったのかな…。地面が無い分、弱かったかな…」
だから毒の球根を食べてでも、っていう強さが生まれて来なかったのかな…?
「降ろしてくれる地面が無いんだ、仕方がないさ」
ミュウが降りられる星は無かったし、種族としては弱くなっても船の中だけで生きるしかない。そうだろ、他に選択肢が無かったんだから。
「それじゃ、ナスカは…。ジョミーがナスカに皆を降ろしたのは…」
「人としての生き方を、強さを求めるのならば正しい。…しかし解決策にはならん」
シャングリラの仲間だけが全てじゃないんだ、ミュウは人類の中から生まれていたんだから。
俺たちだけがナスカで強く生きても、ミュウという種族を救えはしない。
「そうだね、ナスカに住んでいるだけじゃ、新しい仲間を助け出せないものね…」
「その辺りもあって、ゼルたちが反対していたわけだな」
ナスカよりも先に地球に行かねば、と。
一人でも多くのミュウを救うためには、こんな所でのんびり暮らしてはいられない、とな。
赤い星、ナスカ。
ブルーはその星を見ただけで終わってしまったけれども、ミュウたちが踏みしめていた大地。
手放したくないと執着しすぎて、多くの仲間を喪ってしまった赤い星。
あの星に自分が降りていたなら…、とブルーは思いを巡らせる。赤い大地を踏んでいたならば、ミュウの未来も変わったろうか、と。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくはナスカに降りなかったけれど…」
降りていたなら、また考えが違っていたかな?
何が何でもこの星を守る、とキースをさっさと殺してしまって、ナスカを守り切れていたとか。
地面に降りたら、前のぼくにも強さだとか、逞しさだとか。
しぶとく生き延びるための知恵や本能、そういったものが備わってたかな…?
「どうだかなあ…」
前のお前が生き延びる道を選んでくれてりゃ、俺としては嬉しかっただろうが。
メギドへ飛ばずに残ってくれたら、最高に嬉しかったんだろうが…。
「そういう道だって、もしかしたら。前のぼくが地面に降りてさえいれば、あったのかも…」
だって、地面の上で生きてるからこそ、いざとなったら彼岸花でも食べられるんだよ。
毒を食べてでも生き延びる道を地面が教えてくれるんだよ。
ナスカの地面も、前のぼくに「生き延びろ」って、他の道を教えてくれたかも…。
同じメギドを止めるにしたって、しぶとく生き残る方法とか知恵を。
「そうかもしれんな…」
何としてでも生きて帰れと、死ぬんじゃないと言ってたかもな。
そうなっていたら、本当に全てが変わっていたんだろうが…。
ただ、今の地球。
俺たちが住んでる、この青い地球が在るかどうかは分からないがな。
「…そっか…」
それじゃ駄目だね、と小さなブルーは頭を振った。
未来を変えても何にもならないと、地球が死の星のままでは意味が無いと。
「ぼくがしぶとく生き延びちゃったら、青い地球は戻って来ないんだ…。それは困るよ」
前のぼく、今は英雄扱いだけど。
逆に嫌われちゃっていたかも、しぶとく生き延びた方法によっては。有り得ない、って。
「そんなことにはならんと思うが…。お前、ソルジャーだったんだからな」
凄いと思われることはあっても、嫌われたりは…。
そういや、嫌われると言えば、この彼岸花。こいつは昔は嫌われ者の花だったんだぞ。
「毒があるからでしょ?」
「危険だと教えなきゃいけないからなあ、彼岸花を家に持ち込んだら火事になるって話とかな」
「火事!?」
「赤い花だし、火事を連想したんじゃないか?」
とにかく家には持って入るなと言われていたんだ。今だと信じられないだろう?
「この彼岸花、庭の花壇に植えてたよ? うんと沢山」
ぼくにもくれたし、火事になるだなんて言ってはいなかったよ。
「平和な時代だということさ。彼岸花の毒なんかは知らなくっても生きて行ける、と」
もっとも、そいつはSD体制に入るよりもずうっと前から、既にそうだったようだがな。
「火事の花ではなかったの?」
「恐ろしい花だと嫌う世代が減って行ったら、そうなるだろうが」
毒抜きをしてまで食ってた時代の記憶が薄れりゃ、ただの花だ。
このとおり綺麗な花だからなあ、園芸品種も作られていって、花壇の花へと変身したんだ。
「彼岸花…。葉っぱがあったら、もっと綺麗なのに」
どうして花しか咲いてないんだろ、葉っぱは無くって花だけだったよ?
「葉知らず、花知らず、って言うんだ、そいつは」
花が終わったら、葉っぱが出て来る。葉っぱが消えたら、花が出て来る。両方が揃うってことは無いんだ、花と葉っぱは両立出来ない仕組みらしいぞ。
「それで葉っぱが無かったんだ…」
ママも「これはこういう花だから」って言っていたけど、葉っぱが無いなんて不思議な花だね。
だけど、こんなに綺麗な花が咲くのに、球根に毒があるなんて…。嘘みたいだ。
「おいおい、毒があります、って顔をしている物の方が世の中、少ないぞ?」
如何にも毒だ、って見かけの動物や植物もあるが、大抵は隠し持ってるもんだ。
「そうかもね…」
彼岸花だって毒を隠してるものね、花じゃなくって球根の中に。
球根だけ見たら毒かどうかも分からないんだろうね、「毒です」と書いてはいないだろうし…。
だから「持って帰ったら火事になる」なんて脅したんだね、昔の人は。
綺麗だから、って下手に近付いたら死んでしまうぞ、って。毒なんだから、って。
でも…、とブルーは勉強机の上の白い彼岸花に目を遣った。
「同じ昔の人でも、前のぼくたち。地面が無かったから弱かったかもしれない、前のぼくたち」
毒の球根を食べてでも生き延びてやるって根性があれば。
彼岸花の球根だって食べてしまえって根性があれば、もっと早く地球に着けていたかな?
ジョミーの代まで待たなくっても、前のぼくがソルジャーだった間に。
「根性もいいが、君子危うきに近寄らず、と言うぞ」
食う必要が無かった彼岸花まで食うことはないさ。
前の俺たちには安全な食い物だけのシャングリラが似合いで、無理に背伸びをしなくってもな。好き好んで毒まで食わなくっても、人類からの逃げ隠れだけで充分だ。
「…危険はほどほどでいいってこと?」
「危険なんぞは無いに越したことは無いんだが、だ。無くせないなら、ほどほどに、だな」
それにだ、人類から特に隠れる必要が無かった頃にも、食い物は安全だったんだが?
前の俺が厨房に立ってた時から、毒のある食い物なんかは無かったってな。
「生のパイナップルは?」
痺れるから毒だって大騒ぎになったよ、パイナップル。ハーレイが料理をしていた頃に。
「あれは一種の事故だろうが!」
「無知と言うか…ね」
完熟してない生のパイナップルを食べ過ぎちゃったら、痺れるだなんて知らなかったし。
子供の頃には食べたんだろうに、そういう記憶も消えちゃってたしね…。
「生のパイナップルの件はともかく。ちゃんと調べて料理していたんだ、俺だって」
どうすれば美味いか、どう組み合わせれば喜ばれるかと、それに栄養バランスもな。
食料の管理は万全だったぞ、ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も乗り切ったろうが。
「いざとなったら彼岸花の球根でも料理してくれた?」
「飢え死にしないためならな。船にそういうのがあったなら、やるさ」
もちろん皆には毒だなんて言わずに、一人でコッソリ毒抜きをして。
本当に食えるか試食してから、何食わぬ顔でドンと出すんだ、皿に盛ってな。今日はコレだと、美味い筈だと。彼岸花の球根を料理したとは絶対に言わん。
「それ、キャプテンになった後でも?」
もしも彼岸花の球根を食べなきゃ生きていけない事態になったら。
ハーレイ、こっそり厨房に立った?
キャプテンの仕事じゃないんですが、って厨房のクルーが止めに入っても、追い出してコッソリ毒抜きをしてた…?
「当然だ。そういう時こそ、俺がやらんといかんだろうが」
厨房のヤツらに任せたんでは腰が引けるし、パニックになったら秘密だって漏れる。たとえ俺が厨房出身でなかったとしても、彼岸花の球根の料理は俺の仕事だ。
シャングリラのヤツらを生き延びさせるためには手段は選ばん。毒の料理でもな。
「ふふっ。…やっぱりハーレイを選んで良かった」
キャプテンになって、って頼んで良かった…。
「何が言いたい?」
「毒の球根をコッソリ料理してでも、みんなを生き延びさせなくちゃ、って意地と根性」
だからシャングリラを運べたんだよ、遠い地球まで。
踏みしめる地面が無い状態でも、彼岸花の球根だって料理するって言い切るハーレイだから。
「その、地球への道。…前のお前が俺に押し付けたんだがな?」
ジョミーを頼む、と言いやがって。一人でメギドへ飛んでっちまって。
「…そうだけど…」
それは悪いと思っているけど、ハーレイだったから頼めたんだよ。
あそこでぼくを止めはしないと分かってたから、ハーレイの強さが分かっていたから…。
「お蔭で俺は生き地獄だったが? 前のお前を失くしちまって、それでも地球まで行けってな」
「ごめん…。ハーレイがどんなに辛い思いをするかは、全く考えていなかったかも…」
自分のことだけで精一杯で。ミュウの未来を守ることだけで頭が一杯で。
ぼくってホントに自分勝手で、うんと我儘だったかも…。
「まあ、いいさ。今日の所は曼珠沙華に免じて許してやる」
「えっ?」
「曼珠沙華だ、あそこの白い彼岸花だ」
彼岸花の別名は曼珠沙華だと言っただろうが。
だが、その名前で呼ばれてた頃は、彼岸花は赤い花だった。突然変異で白い花が咲くってことはあったかもしれんが、基本は赤だ。白い花だという本物の曼珠沙華とは似ても似つかん。
しかし、お前が貰って来た彼岸花は白いしな?
白い曼珠沙華なら正真正銘、天上に咲く花の曼珠沙華だ。
天上の花が咲いているほどに素晴らしい地球に二人で来られました、ってことで許してやるさ。
「…ホント?」
でも、地球に来る前に
一度、死んだんだけどね?
それでハーレイに文句を言われちゃったんだけれど…。ついさっきまで。
「ああ、死んじまったさ、お互いにな」
お前はメギドで、俺は彼岸花さえ生えていない地球で。
これ以上はもう死ねません、ってほどに死んだが、どういうわけだか、地球に居るようだな。
「うん。ぼくもハーレイも、二人とも死んだ筈なのにね…」
けれど青い地球の上に生まれて来られた、と白い彼岸花を二人で眺める。
天上の花だと言われる曼珠沙華。本来は赤い花の色が白く変わった、天上の花の彼岸花を。
小さなブルーが分けて貰った彼岸花。
今は花壇の植物になったそれが咲き誇る、平和な時代の青い地球の上で…。
彼岸花・了
※毒抜きをすれば食べられるという彼岸花。前のハーレイなら、そうやって皆を救った筈。
今は白い彼岸花を眺めて語らえる時代。まさに天上の花で「曼殊沙華」という所ですよね。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
もうすぐ衣替えという九月の末のとある日の朝。いつものように登校した私たちはキース君の姿を見るなり目を剥きました。怪我をしたのか、はたまた火傷か。どちらにしても朝も早くから元老寺の本堂の中は大惨事だったに違いありません。
「き、キース…。どうしたの、それ」
ジョミー君がキース君の腕を指差し、サム君も。
「どうしたんだよ、蝋燭の火が袖に燃え移ったとか?」
「「「うわー…」」」
危なすぎだ、と誰もが絶句。お坊さんの衣は化学繊維じゃないでしょうから、この程度で済んでいるものの…。私たちの普段着だったら火だるまになって大火傷とかもありそうです。まあ、まだ半袖な残暑の時期だけに、袖に火が点きはしませんけども。
「坊主ってリスク高かったんだな、俺もいずれは気を付けねえと」
サム君が怖そうに言えば、シロエ君が。
「そうですよねえ…。ぼくたちだったら今の季節は半袖ですから直接肌に火傷くらいで」
「それも相当痛そうだけどな」
「誰が火傷だと言ってる、誰が!!」
これは違う、と怒鳴るキース君の右手は手のひらから袖に隠れる肩まで白い包帯がグルグル巻き。だから火傷だと思ったのですが、火傷でないなら怪我しかなくて。
「…御本尊様の下敷きかよ?」
サム君の問いに、キース君は憤然と。
「倒れて来たなら身を張って守るのが坊主の使命だが、これは違う!」
「じゃあ、何だよ?」
「事故だ!」
「「「事故?!」」」
自転車登校の生徒だったら転んで怪我はよくあること。でもキース君はバス登校です。まさか山門の石段を上から下まで転げ落ちたとか、そういう系?
「石段から落ちたわけでもないっ!」
勝手に決めるな、とキース君は肩で息をしながら。
「これはだな! 名誉の負傷というヤツで!」
「「「はあ?」」」
「俺は命を守ったんだ!!!」」」
え、誰の? 事故で名誉の負傷だなんて、飛び出した子供でも庇いましたか?
朝っぱらから名誉の負傷、それも事故とは驚きです。よくぞ無事で、と心の底から思いました。正義感の強いキース君ならでは、ひょっとして表彰状を貰ったり新聞に載ったりするのでしょうか? だったら一種の有名人だ、とワクワク期待したのですけど。
「…生憎と新聞も表彰もないな」
「誰も見ていなかったとか?」
それは寂しい、とジョミー君は残念そうで、マツカ君は。
「でも助けた相手がいるわけでしょう? その人から御礼の言葉はあったんですよね?」
「いや、それも無いな」
「小さい子供なら泣いてるだけかもしれないわねえ…」
スウェナちゃんの言葉にシロエ君が余計なひと言を。
「泣くだけだったらまだいいですよ、「おじちゃん、ありがとう」とか言われそうです」
「「「おじちゃん…」」」
そこは「お兄ちゃん」ではなかろうか、と思いたいものの、幼稚園に入るか入らないかの年の子から見ればキース君でも「おじちゃん」呼ばわりは有り得る話。してみれば此処に居る全員が「おじちゃん」もしくは「おばちゃん」の危機で。
「……嬉しくねえ……」
サム君が我が身に置き換えて呻き、他のみんなも。命懸けで助けて「おじちゃん」「おばちゃん」。報われないにもほどがあり過ぎ、と盛り下がっていたら。
「おじちゃんも何も、ギャーと言われてバリバリバリだ!」
「「「は?」」」
どんな子供だ、と全員、目が点。ギャーは泣き声で納得ですけど、バリバリバリって?
「引っかかれたんだ、思いっ切り!」
「助けたのに?」
なんと理不尽な話でしょうか。知らない人と話してはダメ、と躾けられる子が多いとはいえ、身体を張って庇ってくれたキース君を思い切り引っ掻くだなんて酷すぎで…。
「助けられた自覚があるかどうかだ、それすら無いかもしれないな」
「…お前、不幸過ぎ…」
強く生きろな、とサム君がキース君の肩をポンと叩いて、それ以上は気の毒で事情を聞けないままに朝の予鈴がキンコーン♪ と。間もなく本鈴、グレイブ先生の御登場。グレイブ先生もキース君の腕の包帯に目を留めましたが、私たちは。
「先生、訊かないであげて下さい」
「名誉の負傷で事故らしいんです、なのに報われなかったとかで」
口々に言えば、グレイブ先生も「うむ」と眼鏡を押し上げて。
「子供を庇って怪我をしたとは勇気があるが…。自分の命も忘れないよう気を付けたまえ」
かくしてキース君は一躍クラスの英雄に。右腕の包帯は勇者の勲章、素晴らしいです、キース君!
勇者キースの名誉の負傷は噂となって校内を駆け巡り、終礼の時間を迎える頃には知らない人などありませんでした。表彰どころか新聞記事にもならないとあって美談の凄さはググンとアップ。多くの生徒の尊敬の視線を浴びるキース君はまた私たちの誇りでもあったのですけど。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと、ソファに座った会長さんが。
「やあ。今日はキースは災難だったねえ…」
まあ座りたまえ、とソファを勧めて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がいそいそとチョコミントのシフォンケーキを運んで来ました。クールな緑で見た目も涼しげ、香りもとても爽やかです。
「はい、どうぞ! …それで猫ちゃん、どうなっちゃったの?」
「「「猫?」」」
なんだそれは、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の台詞にビックリ。何処から猫が湧いて出るのかサッパリ謎なんですけれど…。
「お洗濯されちゃった猫ちゃんだよう! ねえねえ、キース、猫ちゃんは?」
「……おふくろが乾かした筈だがな……」
「「「へ?」」」
猫が洗濯でイライザさんが乾かすって…。なに? みんなで顔を見合わせていたら、会長さんがプッと吹き出して。
「キースの腕だよ、腕の包帯!」
「「「え?」」」
「すっかり美談になったようだけど、包帯の下は猫の爪跡が満載なわけ」
「「「えーーーっ!!?」」」
助けた命は子供じゃなくって猫でしたか! それならギャーでバリバリバリでも当然とはいえ、何故に洗濯で命の危機に? お風呂嫌いの猫は標準的ですけども…。
「それがお風呂じゃないんだな。そうだよね、キース?」
会長さんの問いに、キース君は仏頂面で。
「ああ。朝っぱらからウロついた挙句に洗濯機の中に落ちたんだ。おふくろが蓋を開けていたらしい、入れ忘れたタオルを取りに行ってて」
イライザさんがタオルを持って戻る途中にギャーと激しい悲鳴が聞こえて、同じ悲鳴が食事をしていたキース君とアドス和尚の耳にも。アドス和尚に「お前、見て来い」と言われたキース君は裏口に走り、キャーキャーと騒ぐイライザさんとグルングルンと回っている猫を見たわけで。
「…後から思えば洗濯機を止めれば良かったんだ。しかしだ、頭だけを出して回転中の猫を見てしまったら冷静さなぞは吹っ飛ぶからな」
猫が溺れる、と即断即決。腕を突っ込んで掴み出したキース君の救助に対する猫の恩返しが、爪を立ててのバリバリバリな腕登りとなってしまったのでした…。
てっきり幼児を助けたものと思っていれば、どっこい、猫で。しかも元老寺の宿坊で出る残飯を貰って生活している猫の中の一匹らしいです。
「日頃から可愛げのないヤツなんだ、これが。白猫のくせに薄汚れててな、いつも灰色で目つきも悪い。あんなヤツを助けてコレかと思うと…」
包帯の上から腕を擦っているキース君。元老寺で番を張っているという猫の爪は鋭く、手の甲から肩まで駆け登られた後はスプラッタ。野良猫だけに雑菌が怖い、とアドス和尚に浴びせられた焼酎と消毒薬も激しくしみて痛かったとかで。
「俺を散々引っ掻いた後は、魂が抜けていたようだがな…。グッタリしたのを「乾かさなくちゃ」とおふくろが風呂場に持って行ったが、無事であることを祈るのみだ」
「「「………」」」
キース君が言う無事が猫ではなくてイライザさんを指すことは明明白白。ドライヤーの温風を浴びている内に突如復活、バリバリバリは如何にもありそう。
「…お母さん、無事だといいですね…」
シロエ君が心配そうに言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「ぼく、猫ちゃんも心配だよう…。ねえねえ、ブルー、猫ちゃんは?」
「さあねえ、ぼくはキースの心を読み取っただけで猫まではねえ…」
ノータッチなんだ、と会長さん。どうやらキース君の包帯騒ぎで野次馬根性、このお部屋からコッソリとキース君の心を覗いて真相を知ったみたいです。
「ぶるぅが猫を心配するから、一応、元老寺の方もチェックしたけど」
「おふくろは元気にしていたか?」
「其処はバッチリ、心配無用さ。イライザさんなら怪我一つ無いよ、安心したまえ。でもねえ…」
「何かあるのか?」
顔色を変えたキース君に、会長さんは「ううん」と返して。
「問題の猫が見当たらないんだ、灰色だよね?」
「ああ。いつも汚れて灰色で…って、いや、待てよ…。洗濯機の中は泡まみれだったし、アイツも思い切り泡だらけだった。汚れが落ちて白いかもしれん」
「その線はぼくも考えた。それで白い猫は見付かったんだけど、君の言うのと別物でさ」
「別物?」
どういう意味だ、とキース君。
「子猫だったとか、そういう意味か?」
「そうじゃなくって、目つきとかかな。とても可愛い白い猫なら裏口にいたよ」
「……そいつは違うな……」
新顔だな、とキース君は断言しました。洗濯された猫はボス猫、可愛いどころか真逆だそうです。またも一匹猫が増えたなら、洗濯は気を付けなきゃですねえ…。
勘違いから人命救助の英雄になってしまったキース君。実は猫だと言える筈もなく、引っ掻き傷が綺麗に治るまで包帯は巻きっ放しでした。途中で衣替えになりましたからキッチリ長袖を着てましたけども、手の甲の包帯は見えていたわけで…。
「あー、やっと包帯、取れたんだ?」
良かったねえ、とジョミー君が言うまでに十日くらいはかかったでしょうか。ボス猫の爪跡恐るべし、とその日の放課後の話題になっていたのですけど。
「えとえと、それで猫ちゃんは?」
おかわりのケーキを切り分けながらも「そるじゃぁ・ぶるぅ」は心配そうで。
「ねえねえ、キース、やっぱりあのまま?」
「…あのままだな…」
「マジかよ、そんなの有り得るのかよ?」
サム君が尋ね、シロエ君が。
「キース先輩を引っ掻いた時までは正気だったんですよね、ボス猫」
「どうだかな…。既に別物だったかもしれん。パニック状態で異常行動を取るのはよくある話だ」
「それじゃ、その段階でもうおかしかった、と」
「そうかもしれんし、グッタリした時に切り替わったのかもしれん。とにかく、おふくろがドライヤーで乾かした時には別物だったという話だ」
乾かす間も喉をゴロゴロ、乾かし終えたらスリスリスリだ、とキース君。例のボス猫は会長さんが元老寺を覗き見して見付けた「とても可愛い白い猫」だったのです。帰宅したキース君ですら新顔だと思った人懐っこい白い猫。それがかつての目つきの悪い灰色ボス猫だっただなんて…。
「いったい何があったんでしょうねえ、ボス猫の中で」
「俺にも分からん。しかしだ、ヤツは生まれ変わったように生きてやがるぞ、今朝だって俺の足にすり寄って喉を鳴らしていたからな」
「「「…うーん…」」」
ボス猫転じて人懐っこい猫。いつも薄汚れて灰色だったらしい毛皮も毎日ツヤツヤ、まるで洗ったばかりのように白くフワフワしているそうで。
「……洗濯がよっぽど効いたんだろうねえ、すっかり別物の猫になるほど」
ショック療法と言うんだろうか、と会長さん。
「最悪の性格が洗って綺麗に直るんだったら、洗いたい気持ちにならないかい?」
「「「え?」」」
「分からないかな、性格最悪」
ぼくはアレを是非洗ってみたい、と会長さんは紅茶のカップを傾けました。えーっと、会長さんが洗いたいモノって何ですかねえ?
洗濯されたら生まれ変わってしまったボス猫。そんな風になるよう会長さんも性格最悪の何かを洗ってみたいらしくって。もしや教頭先生だろうか、とも思いましたが、会長さんに惚れているだけで性格最悪と言うのかどうか…。
「あんた、いったい何を洗濯したいんだ?」
キース君がズバリ切り込んでみれば。
「ブルーだよ、ブルー!」
返った答えは誰もがストンと腑に落ちるモノ。ブルーと言えばいわゆるソルジャー、別の世界から押し掛けて来る会長さんのそっくりさんです。
「ボス猫が可愛くて人懐っこい猫になるんだ、おまけに毛皮の手入れもバッチリ! ブルーがそんな風になったら色々とメリット大きいよねえ?」
「確かにな…」
キース君が深く頷きました。
「あのトラブルメーカーが大人しくなったら、俺たちの日々も劇的に平和なものになるだろう。…もっとも可愛くなったアイツは俺には想像もつかんがな」
「ぼくにも無理だよ。でもさ、真逆に変わってしまった例もあるんだし、ついつい夢を見てしまうよねえ…。純粋無垢になってくれたらどんなに素敵か」
「素晴らしすぎだ」
キース君は即答、私たちも揃って「うん、うん」と。会長さんは更に続けて。
「ぼくたちだって平和になるしさ、あっちの世界もうんと平和になるよ? それに毛皮の手入れもバッチリな前例からして、片付けも好きになるかもね」
「「「おおっ!!」」」
思わず叫んでしまいました。ソルジャーの掃除嫌いは有名な話で、あちらの世界の青の間は常に足の踏み場も無いと聞きます。正確に言えば通り道だけが確保してあって他はメチャクチャ、お掃除部隊が突入するまで片付かないと噂の部屋で。
「綺麗好きですか…」
それはとっても素敵ですね? とシロエ君が指を一本立てて、サム君も。
「だよなあ、凄く喜ばれると思うぜ」
「そうだろう? あっちのハーレイも感動モノだよ、部屋は綺麗でブルーは純粋無垢なんだから」
確か初々しいのが好み、と口にしてから「失言だった」と会長さん。
「とにかく色々メリット有り過ぎ、ぼくは洗ってみたいんだけどな…」
「俺も賛成だが、普通に洗っても無駄だと思うぞ?」
洗濯機だったからこそ猫は変わった、とキース君。確かに普通に洗ってやっても生まれ変わりはしなかったかも…。
ボス猫が可愛い猫になるほどのスペシャルな洗い方は洗濯機。首だけを出してグルングルンと回転させられた洗濯機こそがショック療法の決め手みたいです。そうなるとソルジャーを洗って別物にするとなったら、そこはやっぱり洗濯機…?
「うーん…。その程度でスペシャルと言えるのかどうか…」
相手はブルーだ、と会長さんがブツブツと。
「ぼくも詳しくは聞いてないけど、アルタミラとやらの実験施設で相当酷い目に遭ってるしね? たかが洗濯機に落ちたくらいで生まれ変わりそうな感じはあまり…」
「じゃあ、どうやって洗うんです?」
洗濯板でも使うんですか、とシロエ君。
「使いようによっては拷問器具にもなりそうですしね、人体実験を体験済みでもいけるかもです」
「洗濯の方法は色々あるしな、棒で叩くとか」
キース君が例を挙げれば、マツカ君も。
「足踏み洗濯もありますよ? ただ、そういった方法が効くのかどうか…」
「所詮は夢だと分かっちゃいるけど、洗いたいねえ…」
そして劇的に性格をチェンジ! と会長さんがブチ上げた時。
「…いいねえ、洗ってくれるんだって?」
「「「!!?」」」
背後で聞こえた噂の張本人の声。揃ってバッと振り返った先にフワリと紫のマントが翻り、ソルジャーがスタスタと歩いて来るではありませんか。
「ぶるぅ、ぼくにもケーキと紅茶!」
「かみお~ん♪ ちょっと待っててねー!」
すぐ用意するね、とキッチンに駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんが洗いたいと言ったソルジャーが湧いて出るとは、ツイているのかいないのか…。
今日のケーキは甘柿とほうじ茶のロールケーキ。ほうじ茶のスポンジと柿クリームが美味しいそれを頬張りながら、ソルジャーは至極ご機嫌で。
「ぼくを洗ってくれようだなんて、もう嬉しくて嬉しくて…。凄くスペシャルなんだろう?」
楽しみだよね、と紅茶もゴクリ。
「おまけに生まれ変わったようになるって凄すぎだってば、前から体験したかったんだよ」
「「「は?」」」
洗濯機で洗われてみたかったんでしょうか、ソルジャーは? それとも洗濯板で洗うとか、棒で叩くとか、足で踏まれるとか…。
「ノルディに聞いてはいたんだよねえ、そういうサービスがあるって話は」
「「「…サービス?」」」
エロドクターと聞いて嫌な予感がヒシヒシと。何かといえばエロドクターとランチやディナーに繰り出しているのがソルジャーです。美味しい物を御馳走になってお小遣いまでたっぷり貰えるエロドクターとのデート、話題は大抵ロクなものではないわけで…。
「んーと、ブルーとキースは知ってるかもね?」
「何をさ?」
「どうして其処で俺の名が出る?」
「一応、大学に行っていたから」
たしなみだってね? と微笑むソルジャー。
「万年十八歳未満お断りだし、キースは行ってはいないだろうけど周りの人が」
「何処へ行くんだ?」
「ソープランド!」
ソルジャーの答えは斜め上といえば斜め上であり、直球といえば直球でした。
「「「………」」」
アルテメシアの花街、パルテノンの裏手の路地裏に多数存在すると噂の大人のための店、ソープランド。ソープと呼ぶだけに石鹸がセットで、恐らく洗う場所なのでしょう。何をどう洗うのかも私たちには謎な世界のソープランドにソルジャーは行ってみたいんですか?
「…普通のソープじゃダメなんだよね」
ソルジャーの言葉に私たちは首を傾げました。普通の石鹸ではダメって意味?
「あ、ごめん、ごめん! ソープっていうのはソープランドを指してるんだよ、ノルディなんかはソープと呼んでいるしね」
でもって普通のソープランドでは意味が無いんだ、と言うソルジャー。
「そういう店では女性が接客するからねえ…。ぼくが出掛けても楽しくはないし、行くならマニア向けの店でないとさ。……ノルディが言うにはあるらしいんだよ、ゲイ向けのソープ」
「「「!!!」」」
話が明後日の方向へ向かいつつあることを悟りましたが、時すでに遅し。ソルジャーはそれは嬉しそうにニコニコと。
「なんかね、店に入れば個室の中にお風呂があってさ、そこで身体を洗って貰うのがソープの真髄らしいんだけど…。普通は女性がやるサービスを男がするんだってさ、ゲイ向けのソープ」
「……行きたいわけ?」
間違ってると思うんだけど、と会長さん。
「ソープは受け身のように見えてね、実態はお客がヤる方だから! 君が行っても無駄だから!」
「ヤリたいだなんて言っていないよ、ぼくは洗われたい方で!」
「だから洗う方がいわゆる受けなんだってば、あの手の店は!」
ギャーギャーと言い争いを始めた会長さんとソルジャーの会話はとっくの昔に異次元でした。意味がサッパリ分からない上、たまに分かる単語があったと思っても前後が繋がらない有様。
「絶対一度はやってみたいよ、泡踊り!」
「だからそれはお客がやるモノじゃなくて!」
「分かってるけど洗われたいって思うじゃないか!」
阿波踊りがどうの、ローションがどうのと叫び立てられても何が何だか意味不明。どうするべきか、と悩みましたが、普段だったらレッドカードを突き付ける筈の会長さんまでがレッドカードな発言中だという事実。
「……出しますか、コレ?」
シロエ君が恐る恐る鞄の中から引っ張り出したものはレッドカードならぬ暗記に使う赤い板。特別生な私たちには無用の道具ではありますけれども、高校生気分を演出するために持っていたものと思われます。
「…いつものヤツは何処にあるのか分からんからな…」
それでいいか、とキース君が決断を下し、私たちはシロエ君が会長さんとソルジャーの間に赤い板をスッと出すのに合わせて声を揃えて叫びました。
「「「退場!!!」」」
効くか効かぬか、暗記に使う赤い板。祈るような気持ちで叫んだ言葉に反応したのは会長さんで。
「…退場だってさ、サッサと帰れば?」
「なんで退場ってコトになるわけ、ぼくを洗うって話じゃないか!」
美味しい話の途中で誰が帰るか、とソルジャーはソファにドッカリと。
「ぼくは洗って欲しいんだってば、いわゆる泡踊りのローションサービス!」
「君は食べるの専門だろう!」
「だから自分が食べる方だろ、泡踊りは!」
洗って貰っていい気持ちになって美味しく食べる、とソルジャーは言い放ちました。
「でもって、誰が洗ってくれるわけ? ぼくが美味しく食べるためにはハーレイじゃないと困るんだけど…。百歩譲ってノルディもいいかも…」
ウットリ気分らしいソルジャー。どうやら阿波踊りというのは私たちが考えている阿波踊りではないようです。何だろう、と顔を見合わせつつ深い溜息。レッドカードは効かないどころか逆にソルジャーに居座られただけで…。やっぱり暗記用の板じゃダメだったのかな?
「あ、泡踊りは知らないかな?」
ここで解説! とソルジャーの赤い瞳が煌めき、会長さんが。
「やめたまえ!」
「えっ、別に問題は特に無いだろ、解説だけだし! 泡踊りっていうのは洗うことでさ」
「「「???」」」
「スポンジの代わりに身体を使って洗うわけ! だからローション!」
えーっと…。身体はスポンジで洗うものですが、代わりに身体を使って洗う? それって手に石鹸とかボディーソープを乗っけて、ですか? でも…。
「身体と言ったら身体なんだよ、もう全身で! そして石鹸だと頑張りすぎたら肌とかが傷むし、ローションで代用するわけで」
「「「………」」」
ますますもって謎な展開。肌が傷むまで洗わなくてもいいと思いますし、ローションなんかで洗っても身体を洗う意味が無いような…。
「分かってないねえ、身体を使って洗う相手も身体なんだよ」
「それは普通だろう!」
身体以外の何を洗うか、とキース君が叫べば、ソルジャーがニヤリ。
「相手と言ったよ、ちゃんと相手がいるんだよ! ぼくが受けたいサービスはねえ、ハーレイとかノルディの身体を使って洗って貰うサービスだってば!」
これぞソープの真骨頂! と言われましても。…身体を使って洗うんですって?
身体を使って身体を洗う。それはどういうサービスなのだ、と頭上に飛び交う『?』マーク。しかしソルジャーは得々としてその説明を始めました。
「洗うからには、もちろん裸が大前提! そして自分の身体をスポンジ代わりに擦り付けてせっせと洗うわけだよ、これでいい気分にならなきゃ嘘だね」
もう最高に素晴らしい、と実に楽しげに語るソルジャー。
「ぼくも裸で、ハーレイも裸。あ、ノルディでもいいんだけどさ。…そして相手の身体と肌とを全身で感じながらの洗われる時間! もうその後は食べるしかないよ、洗ってくれた相手をさ!」
一度は受けたい夢のサービス、とソルジャーの瞳がキラキラと。
「それで、ぼくを洗いたいと言ってくれるからには君が洗ってくれるのかな? ぼくは君でも気にしないどころか、大いに歓迎なんだけどねえ?」
そう言ったソルジャーの視線の先には言い出しっぺの会長さん。ソルジャーはパチンと片目を瞑ると、会長さんに投げキッス。
「同じ身体とヤるというのも興味があるしね、君が洗ってくれるんだったら喜んでお世話になるんだけれど…。今からどう?」
君の家で、という誘い文句が何を指すのか、私たちにも辛うじて理解出来ました。会長さんの家のお風呂で会長さんがソルジャーを泡踊りとかいうサービスで洗い、その後は大人の時間はどうか、という意味です。そんな誘いに会長さんが乗るわけがなくて。
「なんでぼくが!」
「洗いたいって言ってたくせに!」
「そういうコトを言い出さないようにキッチリ洗いたかったんだってば!」
純粋無垢に生まれ変われ、と会長さんの怒りの叫びが。
「洗濯されたボス猫みたいに別物になってしまえと言いたいわけで!」
「……ぼくが純粋無垢だって?」
「そうだよ、猫は洗われて真逆になっちゃったからね!」
猫を見習って別物になれ、と怒鳴り付けられてしまったソルジャー、言い返すかと思えばさに非ず。何を思ったのか腕組みをして「うーん…」と真剣に考え中で。
「…もしもし?」
会長さんが声を掛けると「シッ!」と制止され、更なる熟考。もしや別物に生まれ変わる決意をするのだろうか、という気がしないでもありません。でもでも、相手はソルジャーですし…。
「純粋無垢ねえ…」
ちょっといいかも、とソルジャーが腕組みを解きました。
「よし、それでいこう! そっちの線で洗って貰う!」
「「「えぇっ!?」」」
本気で洗濯を御希望だとは、これ如何に。しかも純粋無垢に生まれ変われる方向で…?
出て来ただけで洗濯さえも猥談に変えてしまったソルジャー。そのソルジャーを元老寺のボス猫よろしくお洗濯して、純粋無垢な性格になるよう洗い上げるなんて至難の業っぽいですが…。
「…た、確かに君を洗ってそうなればいいとは思ったよ?」
でもね、と焦る会長さん。
「それはあくまで夢の話で、本当にそれが可能かどうか…。おまけにぼくが君を洗っても、そうなる保証は何処にも無いから! 遠慮するから!」
そりゃそうだろう、と私たちだって思いました。あのソルジャーが「純粋無垢に生まれ変わりたいから洗って欲しい」と会長さんに頼むにしたって、洗い方はどうせ泡踊り。その泡踊りをしたいがための口実と取るのが普通です。なのに…。
「君に洗えとは言っていないよ」
ソルジャーはサラリと答えて、涼しい顔で。
「純粋無垢なぼくが好みの人間がこの世に約一名! いや、別の世界だし「この世」というのは違うかな? ぼくのハーレイの好みだってば、純粋無垢なぼくってヤツがね」
初々しさと恥じらい属性とがハーレイの永遠の憧れなのだ、と話すソルジャー。
「ぼくを洗えばそうなるかも、ってコトになったら頑張ると思う。しかもスペシャルな洗い方でないとダメなんだ、って説明すれば絶対、頑張って洗うって!」
「「「………」」」
よりにもよってキャプテンを指名、それもスペシャルな洗い方。どう考えても泡踊りの他には有り得ないわけで、ソルジャー憧れのソープランドだかソープなわけで。
「…というわけでね、バスルームを貸して欲しいんだけど」
「「「は?」」」
「バスルームだってば、ブルーの家の! こういうのには非日常ってヤツが大切だから!」
いつもの青の間では気分が出ない、と言うソルジャー。
「ノルディも言ったよ、ソープならではの特別な椅子とかマットとか…。そういうヤツが揃ってるのが雰囲気があっていいんだってねえ、グッズはぼくが揃えるからさ」
ノルディに頼めば揃えてくれる、とソルジャーはやる気満々でした。
「君の家のバスルームは最初だけ貸してくれればいいんだよ。要はハーレイを上手く騙して泡踊りの良さに目覚めて貰えばいいわけで…。次からはちゃんと青の間でやるから」
グッズも全部回収するから、と強請られましても、そんなアヤシイ目的のために会長さんが自分の家のバスルームなどをソルジャーに貸し出す筈も無く…。
「却下!!」
ソープごっこは他所でやれ、とブチ切れました、会長さん。そりゃそうですって、当然です…。
「ドケチ!!」
ぼくの憧れのソープなのに、と譲らないのもまたソルジャー。貸すのが嫌なら洗ってくれとか言い出したから大変です。会長さんにはソルジャー相手に泡踊りという趣味などは無くて、さりとてソルジャーとキャプテンのためにバスルームをソープランド用に貸す気も無くて。
「どっちも嫌だと言ってるだろう!」
「ぼくはSD体制で苦労してるのに、それを労う気も無いと!?」
出ました、SD体制攻撃。ソルジャーの最終兵器と呼ばれるSD体制を口実にしたゴリ押しの技。これを出されたら断ることは出来ず、会長さんは万事休すで。
「ぼくを洗うか、バスルームを貸すか。…どっちも嫌とは言わせないからね」
「…う、うう……」
会長さんの額に浮かぶ脂汗。これはバスルームを貸す方だな、と誰もが思って、会長さんの弟分で同居人である「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「かみお~ん♪ ウチのバスルームを貸すんだね! えとえと、ゲストルームのもあるし、ブルーとぼくとが使ってるのもあるんだけれど…。どっちもちょっと…」
「何か問題があるのかい?」
散らかっていても無問題! と言うソルジャーに「そるじゃぁ・ぶるぅ」は。
「ううん、お掃除はきちんとしてあるよ? でも、ハーレイのにはちょっと負けるかなあ、って」
「「「は?」」」
ソルジャーばかりか私たちまで聞き返す羽目に。教頭先生がどうかしましたか?
「んとんと、バスルームの凄さはハーレイの家に負けてるの…。ぼくたちの家だとあそこまで色々揃っていないの、ボディーソープの種類とか…」
石鹸がとても大事なんでしょ? とソルジャーに尋ねる「そるじゃぁ・ぶるぅ」は泡踊りはおろかソープの意味すら全く分かっていませんでした。ソープすなわち本物の石鹸。会長さんがいつ訪ねて来てもいいように、とアメニティグッズを揃えまくりの教頭先生を連想するのも当然で…。
「それでね、石鹸が大事だったらハーレイのお家がいいと思うよ?」
「ぶるぅ、それだ!」
よく言った、と会長さんが銀色の小さな頭をクシャリと撫でて。
「うん、ハーレイの家が断然オススメ! あそこのバスルームもなかなかだよ、うん」
「…それは確かにそうなんだけど…。ぼくも入ったことはあるしね」
でもぼくたちに貸してくれるかなあ? と悩むソルジャーに、会長さんは。
「平気だってば、ハーレイだったら絶対に貸す! ぼくも一緒に頼んであげるよ」
「本当かい? それはとっても心強いかも!」
要はソープごっこが出来ればいいし、とソルジャー、ニッコリ。教頭先生の家のバスルームを借りてソープごっこって、この先、いったいどうなるのでしょう…?
その夜、会長さんの家で賑やかにお好み焼きパーティーを繰り広げた後で、私たちとソルジャーは瞬間移動で教頭先生の家にお邪魔しました。毎度のリビング直撃コースで、教頭先生はまたも仰け反っておられましたが…。
「…なるほど、キースの家でそんな事件が…。それであなたも生まれ変わりたい、と」
「うん。そういう口実でぼくのハーレイを誘い出すから、バスルームを貸して欲しいんだよね」
「は?」
怪訝そうな教頭先生に向かって、ソルジャーは。
「ソープごっこをしたいわけ! ぼくのハーレイに洗って貰って泡踊りとかで!」
「…あ、泡踊り……?」
「知らないかなあ? ゲイの人向けの店もありますよ、ってノルディが言っていたんだけれど」
ちなみにこんなの、とソルジャーは教頭先生の右手をグイと掴んで思念で伝達した模様。教頭先生、ウッと呻いて鼻血決壊、慌ててティッシュを詰めておられるのに。
「それでね、他にも専用の椅子とかが色々あるって話だからさ…。それをノルディに揃えて貰って持ち込みたいんだ、かまわないかな?」
「…せ、専用の椅子…?」
「なんだったかなあ、身体ごと乗れる人型の椅子と、それから座って洗って貰う椅子と…。そうそう、座る方は確かスケベ椅子! 種類も幾つかあるらしくって」
こんな感じ、と手を握られた教頭先生は詰めたティッシュも役立ちそうにない鼻血状態、けれどソルジャーは気にも留めずに。
「ぼくはソープごっこを楽しみたいし、ぼくのハーレイも燃えてくれるといいんだけれど…。良かったら君も混ざってみる? ソープじゃ二人がかりのコースもあるらしくってさ、確か二輪車だったかな?」
気が向けば是非、と誘われた教頭先生、「いえ、私は…」と答えたものの。
「えっ、そう? ブルーひと筋って言いたい気持ちは分かるけれどさ、洗うくらいはいいんじゃないかな?」
エステとあんまり変わらないよ、とソルジャーに上手く丸め込まれて「そうですね…」と。
「あ、洗うだけなら……かまわない……でしょうか?」
「それはもう! 是非とも体験しておくべき!」
「…で、では…。それではよろしくお願いします」
御来訪をお待ちしております、と深々と頭を下げる教頭先生は会長さんの氷の視線と「スケベ」という蔑みの声にまるで気付いていませんでした。こうして決まったソープごっこは…。
「あれって結局、どうなったわけ?」
ジョミー君が怖々といった風情で問い掛けてくる日曜日の朝。私たちは昨日から会長さんの家に来ていました。昨夜はソルジャーとキャプテンも交えての焼肉パーティーで、その後、ソルジャー夫妻は教頭先生の家へとお出掛けで。
「…どうだかな…。あいつが純粋無垢に洗い上がらなかったことだけは絶対間違いないと思うが」
キース君が朝食のオムレツを頬張り、サム君も。
「お前んちのボス猫みたいなわけにはいかねえよなあ…」
「むしろ拍車がかかった方だと思うよ、荒みっぷりに」
どうせそうだ、と会長さん。
「ぼくも一応、気にはなったし、朝一番でサイオンで気配だけを探ったんだけど…」
「ど、どうだったの?」
ジョミー君の声が震えて、私たちも聞きたいような聞きたくないような。会長さんはフウと溜息をついて。
「…結論から言えば、あのバカップルは居なかった。盛り上がった末に続きは馴染んだいつもの部屋で、ってトコじゃないかな、グッズも放置で」
「「「…グッズ?」」」
「ご、ごめん、今のは失言だから! 忘れといてよ!」
ぼくもこの目で見たわけじゃない、と騒ぎながらも会長さんは慌てたらしくて失言の嵐。その失言を分かる範囲で皆で考え合わせた結果、教頭先生の家のバスルームにはマットや椅子などの何に使うのか謎なグッズが置きっ放しになっているらしく。
「…ついでにシャワーも出っぱなしなんだよね?」
「らしいな、今月のガス代と水道代とが気になる所だ…」
いつから出しっ放しなんだか、とキース君が唸るシャワーの脇には教頭先生が一糸纏わず倒れているとか、いないとか。会長さんがソルジャーを洗ってみたいと思ったばかりにこの始末。ソープに化けるとはビックリ仰天、ソープごっこは当分、ソルジャーのお気に入りかな…?
綺麗に洗って・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
猫を救って怪我をしたキース君はともかく、性格が変わったボス猫が問題だったお話。
あのソルジャーを洗ってみたって、劇的な効果が得られるどころか、どうにもこうにも…。
シャングリラ学園番外編、去る11月8日に連載開始から8周年を迎えました。
9年目に入ってしまいましたよ、何処まで続けるつもりなんだか。
今月は8周年記念の御挨拶を兼ねての月2更新でしたが、来月は普通に月イチです。
次回は 「第3月曜」 12月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、11月は、スッポンタケに混入していた虫を巡って問題が…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
母に「晩御飯よ」と呼ばれて、階段を下りて入ったダイニング。両親と一緒の夕食の席。
温かな会話と笑いが途切れない中、ブルーの視線を引き付けたもの。
(んーと…)
蓋を取ったばかりの茶碗蒸し。食べようとスプーンを手にした所で気が付いた。
滑らかな表面には三つ葉が乗っているけれど。それはさながら…。
(…前のぼくだと、絶対プリンだと思うよね?)
器から抜かずに出されたプリン。甘くて柔らかな卵のお菓子。
プリンに三つ葉は乗っていないが、前の自分がこれを見たならハーブの一種だと思うだろう。
(お菓子にハーブって、よく使うものね)
シャングリラにもハーブは沢山あった。流石に三つ葉は無かったけれども。
その頃の自分が茶碗蒸しを見たら、プリンだとしか思うまい。甘いお菓子だと、卵の菓子だと。茶碗蒸しもプリンも卵なのだし、笑えはしない勘違い。
(そして、食べたらビックリなんだよ)
味も違えば、中身だって違う。プリンには決して入ってはいない、海老や銀杏、百合根など。
あの時代には無かった料理。思い付きさえしなかった料理。今のブルーは好物だけれど。
(ハーレイも同じこと、考えたかな?)
スプーンで掬った茶碗蒸しを頬張りながら、恋人の顔を思い浮かべる。
自分で料理をするハーレイは、茶碗蒸しとプリンが似ていることに気付いただろうか。それとも未だに気付くことなく、作ったり食べたりしているのだろうか?
(茶碗蒸しかあ…)
ハーレイは、たまに土産をくれるから。
「これは前の俺たちの頃には無かっただろう?」だとか、「懐かしいだろう」だとか言っては、ちょっとした食べ物やお菓子を土産に持って来るから。
自分もそうした新鮮な驚きを贈りたくなった。
茶碗蒸しとプリン。前の自分たちの頃には無かった茶碗蒸しの味を、ハーレイに。
だから…。
「ママ。今度の土曜日、お昼御飯は茶碗蒸しにしてくれる?」
お願い、と母に頼み込む。ハーレイと二人で食べてみたいと、自分の部屋で食べるのだと。
「茶碗蒸しを?」
怪訝そうな母には理由を説明せねばなるまい。同じく不思議そうにしている父にも。
「前のぼくとハーレイは知らないんだよ、これ」
ぼくも今日まで忘れてたけど、茶碗蒸しなんか知らなかったよ。
「そうなの?」
「もしも出されたら、絶対、プリンだと思って食べた!」
自分もハーレイもそうしたであろう、と力説する。
茶碗蒸しなるものをまるで知らなかった、ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイ。彼らにそれを出してみたなら、菓子だと思うに違いないと。浮かべられた三つ葉はハーブなのだと。
「だからね、スプーンで掬って食べたら甘くなくってビックリだと思う…」
それに色々、入っているし。お菓子じゃないことは分かるだろうけど、驚きっ放し。
美味しいけれども変な食べ物だと、これもプリンの一種なのかと思うんだよ。
「あらまあ…」
言われてみれば、と母は父と顔を見合わせ、笑った。
ソルジャー・ブルーが生きた時代に、茶碗蒸しは存在しなかったろうと。
卵を溶いて、出汁と合わせて作る食べ物。昆布やカツオの出汁が無かった頃には無理だと、この手の料理を作れはしないと。
「ね、そうでしょ? だから土曜日は茶碗蒸し!」
お昼に作って、と母に強請った。
自分では作れない茶碗蒸し。調理実習で習っていないし、一度も作ったことが無い。
ついでに、忘れてしまいそうだから。
茶碗蒸しをプリンだと思って眺めていそうな前の自分を、すっかり忘れてしまいそうだから…。
案の定、ブルーは綺麗に忘れた。
茶碗蒸しをプリンだと思い込みそうな前の自分が居たということも、その茶碗蒸しをハーレイのために作って欲しいと母に頼んでいたことも。
土曜日の朝、今日はハーレイが来てくれるのだと上機嫌で朝食を食べに行ってみれば。
母が焼き立てのトーストを載せたお皿を差し出しながら、笑顔で尋ねた。
「今日のお昼は茶碗蒸しで良かったのよね?」
「えっ?」
何故そう訊かれたのか分からないから、ブルーは目を丸くしたのだけれど。母はハーレイの母が作った夏ミカンのマーマレードが入った大きな瓶をブルーの方へと寄せてくれて。
「茶碗蒸しって言っていたでしょ、ソルジャー・ブルーは知らないから、って」
プリンだと思うに違いない、って言っていたわよ、ソルジャー・ブルーが茶碗蒸しを見たら。
キャプテン・ハーレイもそうなるんだから、今度の土曜日は茶碗蒸しにして、って。
「忘れてた!」
頼んだことも、茶碗蒸しでプリンを連想したことも忘れちゃってた、と白状すると。
「あらあら…」
母は可笑しそうにクスクスと笑い、父も「子供の特権だな」と笑みを浮かべた。
毎日が充実しているからこそ忘れるのだと、一晩眠れば忘れてしまうのは心が健康な証拠だと。
「本当に大事なことを除けば、だ。忘れてしまって新しいことを詰め込まないとな」
「そうよ、子供はそれでいいのよ」
どんどん忘れてしまっていいのだ、と両親はブルーに教えてくれた。
大人になったら、そういうわけにはいかないけれど。子供の間は忘れていいのだと、そうやって空になった部分に新しい体験を次々に詰めてゆくのだと。
ただし、大切な事柄は別。約束だとか、学校の宿題だとか。それに習った授業の中身も。
そう教えられて、朝食を食べて。
部屋に戻って掃除を始めた時点ではまだ覚えていた。今日の昼食は茶碗蒸しだと、前の自分ならプリンだと思う茶碗蒸しを作って貰うのだ、と。
やがてチャイムが鳴り、ハーレイが訪ねて来てくれた後は、吹き飛んでしまった茶碗蒸し。どの時点で頭から消え去ったのかすらも分からないほどに見事に忘れた。
ハーレイと二人、部屋のテーブルで向かい合ってお茶とお菓子で午前中を過ごし、迎えた昼時。
階段を上がって来る足音の後で、扉がノックされ、カチャリと開いた。大きなトレイを手にした母が入って来て、にこやかに。
「お待たせしました。ソルジャー・ブルー御注文の茶碗蒸しをお持ちしましたわ」
「ママ…!」
いきなりソルジャー・ブルーと呼ばれて、ブルーは真っ赤になったけれども。
母は空になったカップやお皿やポットを手際よく、トレイに載せて来た昼食と入れ替えながら。
「どうせ、また忘れていたんでしょ?」
茶碗蒸しを頼んでいたってこと。忘れてました、って顔に書いてあるわよ。
「うん…」
「いいのよ、朝にも言ったとおりよ。楽しかったから忘れちゃうのよ、茶碗蒸しのこと」
ハーレイ先生とお話していて忘れたんでしょ、と蒸し立ての茶碗蒸しの器が置かれた。それからスプーンと、他の料理を食べるためのお箸。
澄まし汁に御飯、野菜の煮物と白身魚の塩焼きと。茶碗蒸しが引き立つ、シンプルな料理。
「ごゆっくりどうぞ」と扉を閉めて、母は階下へと戻って行ったが…。
「何なんだ、お母さんが言ってた茶碗蒸しってのは」
ハーレイがまじまじと茶碗蒸しが入った器を見詰める。
蓋がぴったり閉まった器。熱でテーブルを傷めないよう、下に敷かれた茶托にも似た木製の受け皿。茶碗蒸し以外の何物でもないが、シチュエーションが理解し難い。
だから恋人に尋ねてみたのに、ブルーの答えは説明になっていなかった。
「茶碗蒸し…」
それくらいは見れば分かるから。茶碗蒸しだとは直ぐに分かるから、ハーレイは的外れな言葉を返したブルーに対する質問を変えた。
「茶碗蒸しの方はともかくとして。…どうして其処でソルジャー・ブルーの名前が出るんだ」
お母さんは御注文の品だと言ったぞ、お前じゃなくって前のお前が注文したのか?
この茶碗蒸しを作ってくれと。
「そうじゃなくって…。前のぼくだと注文のしようがないんだよ」
「はあ?」
「茶碗蒸し。前のぼくには絶対、注文出来っこないんだ」
だって、知らない食べ物だもの。前のぼくは茶碗蒸しなんか見たこともないし、一度も食べてはいないんだけど…。
前のハーレイは茶碗蒸しって食べ物、知ってたわけ?
食べたことがなくても、どんな食べ物かデータベースで見てたとか…。厨房に居た頃はレシピを色々調べていたから、その時に茶碗蒸しも見た?
知っていたか、と問われてみれば、ハーレイの記憶にそれは無かった。
今のハーレイではなくて、キャプテン・ハーレイ。その頃の記憶に茶碗蒸しは影も形も無くて。
「そういえば…。知らんか、前の俺の時には」
データすらもお目にかかっちゃいないな、見た覚えが無い。
今じゃすっかり馴染みの料理で、美味そうな具が揃った時には作るんだがなあ…。
「やっぱり? ぼくもこの間、驚いたんだよ。ママの茶碗蒸しを食べようとしてて…」
スプーンを持ったら気が付いたんだ。これはプリンじゃないんだよね、って。
「なるほど、プリンか。…うん、前の俺たちがこいつを見たならプリンだな」
間違いない、とハーレイが蓋を取り、ブルーも自分の茶碗蒸しから蓋を外して。
「何処から見たってプリンでしょ? 三つ葉だってハーブと間違えるんだよ」
「そいつは間違いってわけでもないぞ。三つ葉も一種のハーブだと言える」
ハーブティーには向いちゃいないが、この地域で採れるハーブだな。
独特の香りってヤツがするだろ、神経を鎮めてくれるんだ。気持ちが落ち着くハーブなのさ。
「そうだったの?」
「うむ。食欲増進と消化にも効く。だが、プリンの甘さには合わないなあ…」
「でしょ? だからね、前のぼくが茶碗蒸しを食べたら、三つ葉の味にビックリして。…その後でもっとビックリするんだ、このプリンは全然甘くない、って」
「別物だからな、同じ卵の料理でもな。…第一、こいつは菓子ではないし」
しかし美味い、とスプーンで掬って頬張るハーレイ。
前の自分たちは知らなかった味だが、今では大好物なのだと。作って食べたくなる味だと。
ハーレイが美味しそうに食べているから、ブルーも嬉しくてたまらなくなる。
母が作った、優しい味の茶碗蒸し。
前の自分ならプリンと間違えて驚いただろう、茶碗蒸し…。
海老はともかく、銀杏に百合根。それから三つ葉。
溶いた卵と合わせてある出汁も、前の自分たちが生きた時代には食材として存在しなかった。
イチョウの木の実が食べられることなど知らなかったし、百合の根っこも。三つ葉に至っては、そういう植物が在ること自体を知らずに生きて終わってしまった。
食べられなかった茶碗蒸し。知りもしないで終わった食べ物。それをハーレイと二人、こうして食べられる幸せにブルーが頬を緩ませていたら。
「茶碗蒸しか…。前の俺には作れんな」
無理だな、とハーレイが呟いたから。
キャプテンになる前は厨房で料理をしていたハーレイが残念そうに言うから。
「当たり前でしょ? 無かった料理は作れないよ」
前のぼくもハーレイも知らなかったんだよ、茶碗蒸しなんか。材料だって無いし。
「いや、その辺の事情もあるがだ、卵がな…」
肝心の卵が充分に手に入らなかった。覚えていないか、俺が厨房に立っていた頃。
「そっか、卵…。保存食用の乾燥卵はあったけれども、普通の卵…」
いつも殆ど無かったっけね、輸送船には滅多に積まれていなかったから。
何処の星でも鶏さえ飼えば手に入るんだし、わざわざ輸送する必要が無かったんだっけ…。
「うむ。殻に入った卵は常に不足しがちな世界だったな、卵地獄を除けばな」
前のお前が奪った物資が偏った時の。これでもか、ってくらいに卵が溢れてた時の。
あれを除けば、普通の卵はたまにしか船に無かったからなあ…。
全員に卵がメインの料理を出せるほどには量が無かった。茶碗蒸しを作るには卵不足だってな。
「そうだっけね…。殻に入った普通の卵は、あの頃、貴重だったんだっけ…」
鶏を飼って、卵を産ませて。
いつでも食べられるようになった頃には、ハーレイ、とっくにキャプテンだったね。
茶碗蒸しを作りに厨房へ、ってわけにはいかない、シャングリラの最高責任者。
みんなの分の茶碗蒸しなんかを作ろうとしてたら、たちまち係が飛んで来るよね、それは自分の仕事ですから、って。
前のハーレイが料理をしていた頃には、卵不足で作れなかったという茶碗蒸し。
たとえレシピを知っていたとしても、その材料があったとしても。
充分な量の卵がシャングリラで供給され始めた時は、ハーレイはキャプテンだったから。厨房に立とうとすれば担当のクルーが慌てそうな立場になっていたから、茶碗蒸しは無理。
しかし…、とハーレイはブルーを見詰めて苦笑する。
「俺がキャプテンではなかったとしても、茶碗蒸しは作れやしなかったんだがな」
レシピも無ければ材料も無いと来たもんだ。茶碗蒸しそのものが無かった時代じゃ仕方ない。
卵が沢山あったとしたって、俺に作れたのは、せいぜいプリンだ。
茶碗蒸しじゃなくてプリンの方だな。
「ハーレイのプリン…。食べたことないよ?」
前のぼく、一回も食べていないよ、ハーレイのプリン。卵地獄もあったのに。
「卵地獄じゃ、砂糖が足りなかったんだ。俺が厨房に立ってた頃には菓子の類は作っていない」
あれだけの数の卵があったら、プリンもケーキも作り放題って光景だったが、砂糖がな…。
料理するために必要なだけの砂糖を取ったら、菓子の分は残らなかったんだ。
もっとも、一人分くらいなら作れそうだな、とプリンのレシピを見てはいたんだが…。
作ってやったら喜ぶだろうな、とチビだったお前を思い浮かべてはいたんだが…。
「どうして作ってくれなかったの?」
他の人にバレたら大変だから?
ぼくにだけコッソリ食べさせていた、ってバレてしまったら叱られるから?
「まさか。バレるようなヘマはやらかさないが、だ」
甘やかしたらいかんだろうが。いくらチビでも。
「そういう発想?」
「クセになっても困るしな? また作って、と強請りに来るとか」
「ハーレイのケチ!」
チビだったんだよ、作ってくれても良かったのに。
いつもチビだって言ってたんだし、ちゃんとチビらしく子供扱いでも良かったのに…!
酷い、と膨れっ面になったブルーに、「残念だったな」とハーレイが片目を瞑ってみせた。
「前のお前がただのチビではなかったなら。…俺はプリンを作ったんだがな」
「えっ?」
それって、ソルジャーだったら、ってこと?
卵地獄の時にソルジャーだったら、ハーレイのプリンを食べられたの?
「馬鹿。ソルジャーの特権で食べてどうする、そんなの美味くはないだろうが」
他のみんなが食べられないものを一人だけ食べて嬉しいか、お前?
ソルジャーなんていう称号のお蔭で、自分一人だけで特別なものを。
「…嬉しくないけど…。ハーレイに「作れ」って命令する気にもならないけれど…」
「そうだろう? だからソルジャーって意味じゃないんだ、俺が言うのは」
前のお前がただのチビではなかった時。
そいつは、お前が俺の一番古い友達じゃなくて、俺の恋人だった時さ。
でなければ、俺がお前に惚れてて、恋人になってくれたらいいなと夢を見ていたか。
「えーっと…。恋人だったら作ってくれるっていうのは分かるけど…」
恋人じゃなくて、ハーレイの片想いだった時でも作ってくれたの?
ハーレイがコッソリ作ったプリンを食べられたの?
「当然だ。惚れた相手は餌で釣る。基本の中の基本だろう?」
普通は女性が使う手だがな。
惚れた男にあれこれ作って、まずは胃袋から攻めて行け、ってな。
餌で釣るのだ、とハーレイが惚れた相手の捕まえ方を口にするから。
胃袋を掴んだら次は心だ、と言っているから、ブルーは胸を高鳴らせて尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。…卵地獄だった頃、ハーレイがぼくを好きだったなら…」
プリン、作れた?
お砂糖の量が少ない頃でも、ぼくにプリンを作ってくれた…?
「そりゃもう、頑張って作ったろうなあ。試作品だ、とコソコソとな」
試作品だったら俺しか試食をしなくて普通だ、絶対にバレん。
甘い匂いさえさせていなけりゃバレやしないし、細心の注意を払ってプリン作りだ。会心の作のプリンが出来たら、お前の部屋へと直行だな。是非、食ってくれと。
「…ハーレイのプリン、食べ損なった…」
試作中のでも食べたかったのに。完成品でなくても、ハーレイのプリンが欲しかったのに…。
「仕方ないだろうが、物事には順番っていうものがある」
惚れてもいないのに作ると思うか、チビのためにとプリンをコッソリ。
ただのチビでは食わせても意味が無いってな。
「うー…」
チビだ、チビだと連呼された上、食べられなかったハーレイのプリン。
前のハーレイがブルーのためにと、コッソリ作ったかもしれないプリン。
食べ損ねたことが悔しくてたまらない、ブルーだけれど。
呻くしかなかったブルーだけれども、ふと考えた。今のハーレイはどうなのだろう?
茶碗蒸しも作るというハーレイ。
料理上手な今のハーレイは、プリンも作ったりするのだろうか…?
これは訊かねば、と気分を切り替え、ブルーは目の前の恋人を見詰めた。
母の茶碗蒸しを美味しく食べ終え、他の器に盛られた料理も空にしつつあるハーレイを。
赤い瞳を期待に煌めかせ、息を吸い込んで気分を落ち着かせて。
「じゃあ、今は?」
今のハーレイ、プリン、作れる?
作ったりするの、と問い掛けてみれば、ハーレイが「まあな」と返したから。
「ハーレイ、プリンも作るんだ?」
「うむ。これでもけっこう得意なんだぞ、俺のおふくろの直伝なんだ」
一度に沢山作れるからなあ、柔道部だとか水泳部だとか。
俺が指導するクラブのガキどもが家に来た時に御馳走するんだ、気が向いたらな。
「えーっ!」
いいな、とブルーは思わず叫んでしまったけれど。
自分は遊びに行くことが出来ないハーレイの家に行けて、プリンまで御馳走になれる生徒たちが羨ましいと心底、思ったのだけれど。
其処で閃いた打開策。ハーレイのプリンを食べる方法。
これはいける、と自分で自分を褒め称えたくなる名案が天から降って来た。
ハーレイが家でプリンを作っているなら、これを逃す手は無いだろう。ハーレイの母の直伝だというプリンを是非とも食べなければ、とブルーはアイデアを実行に移すことにした。
なんとしてでも、ハーレイのプリン。
今のハーレイが作るプリンを、と。
「ハーレイ、お願い! ぼくにもプリン!」
作って、と頭をガバッと下げた。
チビはチビなりに、子供らしくおねだり攻撃に限る。うんと素直に、精一杯に。
「プリンって…。お前、俺の家には来られないだろうが」
違うのか? と鳶色の瞳が咎めるような光を帯びた。
小さなブルーはハーレイの家に行くことを許されておらず、行ったとしても入れて貰えない。
前の生と同じ背丈になるまで、ソルジャー・ブルーと同じ背丈になるまで。
それまではキスが駄目なのと同じで、ハーレイの家にも来てはならないと諭されていた。なのに来る気かと、約束を忘れてしまったのかと、鳶色の瞳が睨んでいるから。
それは駄目だと睨み付けるから、ブルーは負けじとキッと顔を上げた。此処からが勝負。
「行けないから、ハーレイが持ってくるんだよ!」
プリンを作って、ぼくの家まで。
来ちゃ駄目だって言うんだったら、ハーレイのプリンを持って来てよ!
一個でいいから、と食い下がるけれど、ハーレイは「駄目だな」と素っ気なくて。
「俺の手料理を持ってくるのは駄目だと言ったろ、お母さんの手前」
そんなことをしたら恐縮される、と何度も言ったと思うがな?
たった一個のプリンであっても、俺が作ったということになれば申し訳なく思われちまう。
俺が全く気にしてなくても、お母さんの方はそうはいかない。
次は御礼にうんと沢山御馳走を、ということになるか、俺に土産が用意されるか。
どちらかになるのは見えているんだ、俺がタダ飯を食ってるだけでも「いつもブルーがお世話になります」って御礼ばかり言われているんだからな。
絶対に駄目だ、とハーレイはブルーに釘を刺した。
たかが一個のプリンといえども、ハーレイが作って持って来たなら手料理と変わらないのだと。
ブルーの母を恐縮させるし、気を遣わせてしまうのだと。
「分かるな、お前はチビだけれども馬鹿じゃないしな?」
お母さんを困らせたくはないだろう?
それに俺もだ、お前のお母さんに迷惑をかけるのは御免だからな。
諦めろ、と頭をクシャリと撫でられたけれど、ブルーのアイデアはまだ終わってはいなかった。ハーレイがこう言ってくることも予想の範疇、まだまだ敗北したわけではない。
勝負はこれから、得意げな笑みを湛えて褐色の肌の恋人を見上げた。
「だからプリンがいいんだよ」
プリンだったら、そういったことも大丈夫。これはプリンだから出来ることだよ。
「…どういう意味だ?」
不審そうな恋人に、ブルーは一気に勝負をかけた。素晴らしい閃きを披露するべく。
「お店のプリン。器に入ったのを売っているでしょ、壊れないように」
家に帰るまで壊れないように、何処でも器に入っているよ。
お店のマークが入ったのもあるし、シンプルなのとか、可愛いのだとか…。
そういうプリンを何処かで買ってよ、そしてハーレイが食べるんだよ。中身を食べたら、それを使ってハーレイのプリンを作ればいいでしょ?
お店の器で、おんなじプリン。
買って来た時の箱に入れたら、ママにも絶対、分かりっこないよ。
そうやってハーレイのプリンを作って、「買って来ました」って持って来たなら大丈夫。
今日のお土産はプリンなんです、って。
バレはしない、とブルーは料理上手の恋人に強請った。
お菓子の専門店で売られているプリン。それを買って中身を入れ替えてくれと、ハーレイ自慢のプリンを作って店の器に入れて来てくれと。
「そうだ、明日ならホントのホントに安全だよ?」
今日の茶碗蒸し、前のぼくたちにはプリンに見える、って話をしてたってママも知ってるし…。
それにちなんでプリンを買って来たんですが、って言ったら、ママだって不思議がらないよ。
ハーレイ、今日はプリンを作ってみない?
ぼくの家から帰る途中に、何処かのお店でプリンを買って。
「おい…! 俺に店で普通に売ってるプリンの偽物ってヤツを作れってか?」
しかも器を手に入れるために、店でプリンを買うのか、俺が?
「駄目…?」
いいアイデアだと思うんだけど…。明日のお土産なら、もう完璧だと思うんだけど…。
「なんで其処までしなくちゃならん」
たかがプリンだ、どうしてプリンで俺が偽物作りまで…!
「だって、ハーレイのプリン…」
食べたいんだもの、今のハーレイが作っているなら。クラブの子たちに御馳走するなら…。
「お前なあ…。悪知恵を巡らす暇があったら、少しくらいは背を伸ばすんだな」
そうやって背丈を伸ばしていって、だ。堂々と食えるようになるまで待て。
俺の家のチャイムを鳴らして、入って。
プリンどころか飯も食って行ける背丈になるまで、俺のプリンは我慢しておけ。
「ハーレイのドケチ!」
お店でちょっとプリンを買うだけだよ。中身を入れ替えるだけなんだよ!
そうしたら、ぼくも食べられるのに…。
ハーレイのプリン、ぼくの家でも食べられるのに…!
酷い、とブルーは叫んだけれど。
まだ当分は食べられないらしい、ハーレイが作る自慢のプリン。
そういう食べ物が存在するのだと知らされた切っ掛けは茶碗蒸し。
前の自分とハーレイが知らないままで終わった茶碗蒸し。
それを話の種にしようと母に強請ったのは自分だから。
茶碗蒸しをハーレイに出してしまって、プリンの話を持ち出したのも自分だから。
これを藪蛇と言うのだろうか、とブルーはガックリと項垂れる。
ハーレイが目の前で語り続ける、自慢のプリンの味の秘訣と評判の良さを聞かされながら…。
茶碗蒸し・了
※前のブルーたちが知らなかった料理が茶碗蒸し。プリンだと思うことでしょう。
そして今のブルーが欲しくなってしまった、ハーレイのプリン。食べられる日は遠そうです。
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