シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
シャングリラを収めた写真集。ぼくのお小遣いでは買えなかったから、パパに強請った豪華版。同じものをハーレイが先に買っていて教えてくれた、お揃いで持っている写真集。
前は唯一のお揃いだったけど、今はハーレイと写した写真が勉強机に飾ってある。夏休み最後の日に二人並んで庭で写して、お揃いのフォトフレームに入れたもの。飴色をした木のフレームはハーレイが選んで買って来てくれて、それもお揃い。
ハーレイの左腕にギュッと抱き付いて幸せそうに笑っているぼく。ハーレイもとびきりの笑顔の写真。夏休みの記念写真ということになっているけど、本当は二人一緒の写真が欲しかったんだ。この写真を飾って以来、勉強机の値打ちがグンと上がった。
其処でシャングリラの写真集を眺める時間が好き。懐かしい船内も、優美な白い船体も。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
宇宙空間や人の住む惑星、明るい恒星なんかを背景に浮かぶシャングリラの写真が沢山。今まで何の気なしに見ていたけれども、今頃になって気が付いた。この本には青い地球が無い。
教科書には普通に載っている地球。青い海に覆われた水の星。歴史の教科書ならSD体制の頃の荒廃した地球の写真もあるけど、それはあくまで参考資料。
地球が青い星に蘇ってから長い長い時が流れているし、今では人が住んでいる地域も沢山ある。過去の過ちを繰り返さないよう、最先端の技術を生かして地球の環境を維持している。
そんな時代だから、何処でも当たり前に見かける青い地球の写真や映像。珍しいものでも何でもないから、幼い頃から馴染んでいた。地球は青くて、暗い宇宙にぽっかりと浮かぶ水の星。
シャングリラの写真集の中でも見かけたように思っていたのに…。
(…これ、地球じゃないよ…)
同じように海があるだけの別の惑星。テラフォーミングされて作り上げられた人工の海。
なんとなく地球のような気がしていたから、ページの下に小さく書かれた説明文は見なかった。
考えてみれば、シャングリラが宇宙を飛んでいた頃には青い地球なんて何処にも無かった。まだ再生の真っ最中で、地殻変動が激しくて宇宙船なんかは降りられなかった。
その地球の側を飛ぶ白いシャングリラも写真集には写っていたけど、他のページには青い地球があると思い込んでいた。
シャングリラは地球が蘇るよりもずっと昔に、時の流れに連れ去られたのに…。
(…青い地球かあ…)
地球に焦がれて、いつか行きたいと願い続けたソルジャー・ブルーだったぼく。
ぼくの命はナスカで尽きると悟った時にも、「地球を見たかった」と独り呟いたほどに。
肉眼で青い地球を見たくて、その青い地球に行きたくて…。きっといつかは、とフィシスが抱く地球を見ていた。寿命の残りが少なくなっても、それでも何処かで夢を見ていた。
結局、地球には行けないままで死んでしまった前のぼく。
もっとも、メギドで最期を迎えた時には地球なんて忘れていたけれど。最期まで持っていたいと願ったハーレイの温もりを失くした悲しみと、仲間たちへの思いしか残っていなかったけれど。
(ぼく、地球の上にいるんだけどな…)
あまりに悲しすぎた前の生の後、ぼくは蘇った青い地球の上に生まれて来た。すっかり馴染んだ地球という星。毎日のニュースも天気予報も、ぼくを取り巻く全てが青い地球のもの。
それなのに、ぼくはフィシスの映像で見ていたような青い地球を一度も肉眼で見たことがない。
宇宙船で何処へだって行ける時代だけれど、小さかったぼくは宇宙船で旅をするには弱すぎた。ほんの近くにある月や火星に出掛けたとしても、行き先で熱を出すのに決まっているから。
同じ地球の上で遠くに住んでいる親戚やお祖父ちゃん、お祖母ちゃんの家に行っても旅の疲れで寝込んでしまって、何処へも遊びに行けなかったくらいに弱かったから。
弱すぎたぼくは地球一周の遊覧飛行もしたことがない。ぼくは青い地球を見たことがない…。
今の学校に入学する前、パパに「丈夫になったら、夏休みに遊覧飛行に連れて行ってやろう」と言われて楽しみにしてた。
義務教育の最後の学校。丈夫になれるかどうかはともかく、連れて貰えそうだと考えた。初めて出掛ける宇宙船の発着場に、初めて見る宇宙。地球を一周してくるだけでも、ぼくにとっては一大イベント。一日も早く入学したくて、夏休みがとても待ち遠しくて…。
ところが、入学したぼくを待っていたのは右の目からの謎の出血。不安の中でもパパとママには隠さなくちゃ、と焦っている間にあっさりとバレて、次に起こったのが聖痕現象。前の生の最期に負った銃創からの大量出血。
それと同時にソルジャー・ブルーの記憶が戻って、ハーレイに会った。前の生でのぼくの恋人、キャプテン・ハーレイが生まれ変わって来たハーレイ。
そのハーレイに再会できた喜びと幸せとが大きすぎたから、旅行に出掛けることなんか忘れた。学校に行けば先生の顔のハーレイに会えて、家だと恋人の顔をしたハーレイに甘えて、抱き付く。
今の今まで思い出しもしなかったパパとの約束。地球一周の遊覧飛行。夏休みはとうに終わってしまって、ずっとハーレイと過ごしていた。会えない日だってあったけれども、大抵は一緒。
キスさえ許してくれない上に、自分の家にも来てはいけないと叱るハーレイ。
だけど膝の上には乗っけてくれるし、頬と額ならキスしてくれる。抱き締めたりもしてくれる。夜には帰ってしまうけれども、それでも一日、あるいは半日、ハーレイと一緒だった夏休み。
地球一周の遊覧飛行より、ハーレイがいい。ハーレイと過ごした夏休みの方がずっといい。
でも…。
そのハーレイは青い地球を見に行ったことがあるのかな?
キャプテン・ハーレイはぼくが死んだ後、シャングリラを地球まで運んで行ったのだけれど。
青くなかった地球の上に降りて、その地の底で死んだのだけれど。
今、住んでいる青い地球。この青い星を宇宙船から眺めたことがあるのかな…。
ぼくはハーレイから旅行の話を一度も聞いたことがない。海や山でのキャンプや合宿、そうした話題はたまに出るけれど、いわゆる旅の話は出ない。
つまりはハーレイも宇宙旅行なんて出掛けたことが無いんだろう、と考えながら、ぼくの部屋で二人で過ごす土曜日に尋ねてみた。二人と言っても、もちろんママがお茶やお菓子を届けに何度も出入りするけれど。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイは地球を見たことがある?」
テーブルを挟んで向かい合わせ。ハーレイは「地球?」と訊き返した。
「うん。宇宙から見た、青い地球だよ」
きっと「いや」と答えると思っていたのに、「ああ」と即答。
「もちろんあるぞ。…実にいいもんだな、青い地球は」
「えっ……」
ぼくは心底、落胆した顔をしたんだと思う。
一度も見たことがない青い地球。前の生から焦がれ続けた青い地球。
それをハーレイが一足お先に見ていただなんて。
…そりゃあ、ハーレイは前の死に絶えた地球だってちゃんと見ているんだけど、でも……。
ぼくの顔がよほど悲しそうに見えたんだろう。ハーレイは酷くうろたえた。
「お、おい、ブルー…。まさか、お前は見たことが無いのか?」
ハーレイが悪いわけじゃないのに、慌てふためいた上に困り顔。
死の星だった地球も、青い地球も肉眼で見たことがあるハーレイ。
青い地球を見たのがいつだったのかは分からないけれど、前の生の記憶を取り戻した時の感動はひとしおだったろうと思ってしまう。
分かっているけど、涙が溢れそうになる。ぼくが一度も見たことのない青い地球。
シュンと俯いて、滲みかけた涙をグイと拭って。小さい声でボソボソと言った。
「…今の学校に入って、丈夫になったら連れてってもらう約束だったんだよ…。夏休みに…」
「夏休み?」
「うん…。でも、ハーレイのことばかり考えてる内に、夏休みが終わってしまってた…」
「ははっ、そうか! そうだったのか」
ハーレイの大きな手が伸びて来て、ぼくの頭をクシャクシャと撫でた。
「じゃあ、連れてって貰えばいいじゃないか。冬休みにでも」
少しは丈夫になっただろうが、という指摘は嘘じゃない。今の学校でも欠席や早退が多いぼく。けれど、前の学校の頃に比べれば自分でもマシになったと思う。
もっとも、本当に丈夫になったかどうかは少し怪しい。学校に行けばハーレイが居るから、顔を見たくて登校している。休みたくないから体調管理に注意した結果、欠席も早退も減っただけ。
そんなぼくだから、冬休みの過ごし方は考えるまでもなく決まっていた。ハーレイに会える日は二人で過ごして、ぼくの部屋で話して、昼食や夕食を一緒に食べて。
その頃はすっかり寒くなっているから、庭で一番大きな木の下に据えた白いテーブルと椅子でのティータイムや食事は無理だろうけど、ぼくの部屋で二人で居られれば充分。
平日だってハーレイと過ごせる貴重な休みを、旅行で無駄に費やすなんて…!
だからハーレイに訊いてみた。答えは分かっているんだけれど。
「…旅行、ハーレイも一緒に来てくれる?」
「はあ? なんでそうなる。第一、お父さんとお母さんに何て言うんだ?」
予想通りの言葉だったから、驚かない。
「…だよね、やっぱり。それじゃ、行かない。行かなくていい」
冬休みもハーレイ、来てくれるよね? ぼくが家に居たら。
「それはそうだが…。もちろん来られる日には来るつもりだが、お前…」
いいのか、とハーレイの顔が曇った。
「お前、一度も地球を見たことが無いんだろう? あんなに見たかった地球じゃないのか、ずっと前から。…今のお前よりもずっと前から、地球を見たいと行ってたくせに…」
「いいんだよ」
平気、とぼくは微笑んだ。
「地球の上にいるから、いいんだよ。それで充分。此処は地球だもの」
前のぼくが焦がれ続けた青い地球。
その地球でぼくは暮らしている。青い姿は見られないけれど、間違いなく地球の上だから。
いつかこの目で見たかった地球。ソルジャー・ブルーだったぼくが肉眼で捉えたかった地球。
地球を見るどころか、その座標さえも掴めない内にメギドで死んでしまったぼく。
それなのに、ぼくは地球まで来た。
ソルジャー・ブルーが死んだ頃には死の星だった地球が青く蘇った、その地球の上に。
本当にそれだけで充分だったし、おまけに青い地球の上にはハーレイまで居る。
メギドで失くしてしまった温もり。
最後にハーレイの腕に触れた右手に残った温もり。それを失くしたのに、ハーレイに会えた。
「ハーレイ、ぼくはホントにこれでいいんだ。青い地球は見られなくていい。だって、地球よりもハーレイの方がいいんだもの。…ハーレイと一緒に居たいんだもの…」
冬休みもずっと家にいるよ、と本当の気持ちをぼくは伝えたのに、ハーレイは…。
「…それは光栄だが…。しかし……」
浮かない顔をしているハーレイ。
どうやらハーレイが青い地球をその目で見たのは一度だけではないらしい。遊覧飛行か、友達と月や火星に旅行でもしたか。はたまた、ぼくに手作りのマーマレードをくれたお母さんたちと家族旅行で宇宙に出掛けて行ったのか…。
そうしたことを考えていたら、「本当に綺麗なんだがなあ…」とハーレイはしみじみ呟いた。
「前の記憶を取り戻してからは、余計に綺麗だと思うようになった。あれから後には宇宙からまだ見てはいないが、いいもんだ。…まさかお前が見ていないとは…」
前のお前の夢だったのにな、青い地球は。
誰よりも地球に行きたがっていて、フィシスまで連れて来たのになあ…。
「そうだね。…君は最後まで誰にも言わずにおいてくれたね、フィシスのこと」
無から生まれた生命体だった、ミュウですら無かった地球を抱く女神。フィシスの出生の秘密はハーレイだけにしか明かさなかった。ハーレイは最後まで秘密を黙っておいてくれたから、今でも公になってはいない。
トォニィだけは気付いていたともハーレイの口から聞かされたけれど、トォニィもナスカの子にすら話さず、記録を残しもしなかった。
きっとハーレイの思いに気付いていたのだろう。ぼくが何故フィシスを連れて来たのか、大切に守ろうとしていたのかを。
(…ぼくとハーレイが恋人同士だったことはバレていないと思いたいけど…)
その辺りはちょっと分からない。あの幼さでキースの危険さを見抜いた子だから、もしかしたら気付いていたのかな?
だとしたら、かなり恥ずかしい。シャングリラ中の誰にもバレてはいなかったのに…。
遙か昔の、ぼくたちの秘めごと。
まだ地球なんて見えもしなかった頃から愛して、いつまでも共にと願ったハーレイ。
一度はぼくがその手を離したけれども、奇跡のように再会を果たして、今では青い地球の上。
もう充分に幸せだったし、青い地球なんか見られなくていいと思っていたのに。
「そうだ、お前が見ていない地球」
ハーレイがポンと手を打った。
「ブルー、俺たちの初めての旅行は青い地球を見に出掛けるか?」
「えっ?」
「いわゆる新婚旅行ってヤツだ。その頃にはお前も、もっと丈夫になるだろうしな」
身体が育てば少しくらいは丈夫になるさ、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「前のお前も弱くはあったが、今のお前よりは幾らかマシだった。…それにお前もチビの頃よりは丈夫になっているんだろう? 夏休みに旅行の計画があったんならな」
「うん、多分…。休んでばかりってわけじゃないしね」
「それなら旅行もきっと行けるさ。なあに、旅先で具合が悪くなったら面倒見てやる。キッチンを借りてスープを作ってもいいぞ、野菜スープのシャングリラ風だ」
「あははっ、なんだか変な野菜が入っていそう」
ぼくは思わず吹き出した。この地球でさえも、野菜の種類は沢山ある。好き嫌いが無いぼくでも美味しいのかどうか悩んでしまう野菜も珍しくない。宇宙規模なら何が出るやら…。
「こらっ、いくら俺でも病人相手に冒険はせんぞ。…しかしだ、うんとゴージャスに遠くの星まで旅に出るのも悪くはないな。俺の休みが取れるようなら」
いっそ三週間くらい出掛けてみるか、とハーレイは提案してくれたけど。
「ううん、ぼくは青い地球だけ見られればいいよ」
前の生から焦がれた地球。
見たくてたまらなかった地球。
記憶が戻った今だからこそ、思う存分、地球だけを見たい。
宇宙なら飽きるほどに見て来たから。今の生では見ていないけれど、前に沢山見ているから。
それにメギドへ飛んだ時にも、ぼくは宇宙をたった一人で駆けていたから…。
「ほほう…。地球を見るだけでいいのか、お前」
欲が無いな、と頭をクシャリと撫でられた。
「それじゃ一周遊覧飛行のゆったりとしたヤツに出掛けてゆくか。一周と言いつつ何周もするぞ、長いコースだと一週間ほどの滞在型だ」
一番眺めのいい部屋に乗ろう。
シャングリラの展望室みたいなのがついた部屋が評判の客船なんかもあるらしいからな。
「展望室? 貸し切りなの、それ?」
部屋だと聞いてビックリしたけど、ハーレイは「当然じゃないか」と笑っている。
「部屋についてる展望室だぞ、貸し切りに決まっているだろう」
「ぼく、それがいいな」
その部屋がいいな、と強請ってみた。料金は高いと思うけれども、遠い星へのゴージャスな旅に比べれば安いと思う。それに…。
「青い地球を見たら、きっとハーレイとキスがしたくなるから」
他に誰もいない展望室がくっついている部屋がいい。
ちょっぴり頬を赤らめながら、そう言ってみたら。
「よし、キスだな? そうなると是非とも、その部屋を予約しないとな。ところで、だ…」
その先はしなくてもかまわないのか?
鳶色の瞳がぼくの瞳を覗き込む。その奥に揺れる熱い焔がハーレイの想い。
ハーレイ曰く、心も身体も幼すぎるぼくの前では懸命に抑えているらしい想い。それでも時々、こんな風に垣間見えると心が躍るし、心臓もドキンと跳ね上がるけれど。
「…地球次第かな?」
その先はきっと地球次第だよ、とぼくは高鳴る胸の鼓動を懸命に鎮めながら返した。
「青い地球を見た時に、うんと幸せになりたくなったら、その先もお願い」
「なるほどな。…ベッドルームからも地球が見えるか、その辺も調べて部屋を取るとするか」
「うん、そうして。…約束だよ、いつか二人で地球一周の遊覧飛行」
ぼくとハーレイは指切りをして約束した。新婚旅行は地球一周の遊覧飛行。展望室が貸し切りの部屋に泊まって、青い地球を見ながらキスを交わして、それから、それから…。
(…うん、青い地球を初めて見るのがハーレイと二人だなんて最高だよね)
しかもハーレイとの新婚旅行。ベッドルームからも地球が見える部屋だと一層素敵だと思う。
でもきっと、ぼくはキスだけで満足してしまうんだろう。
前の生から焦がれ続けた青い地球を前にして、大好きなハーレイと抱き合ってキス。
それからハーレイと二人で地球を見るんだ。
前のぼくが行きたくて、とうとう辿り着けなかった地球。
其処へぼくたちは生まれ変わって、目の前に輝く青い星の上で生きているんだ…。
いつまでも、いつまでも、ハーレイに肩を抱いて貰って、飽きずに青い地球を眺める。
ぼくはやっと地球を見られた、って。
あの地球の上に、生まれたんだ……って。
そしてハーレイと暮らしてゆく。青い地球の上で、二人、いつまでも手を繋ぎ合って……。
見ていない地球・了
※青い地球の上に生まれ変わったのに、宇宙から見た地球を知らないブルー。
いつかハーレイと二人で見られる時には、感動で一杯なのでしょう。やっと見られた、と…。
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背が伸びるようにと祈りをこめて、毎日飲んでいるミルク。毎朝と、それに学校から帰った後のおやつの時間。おやつの時は紅茶の方が多いけれども、ミルクが合いそうだったらミルクにする。ホットでも冷たいミルクでもいい。
こんなに頑張って飲んでいるのに、一向に伸びてくれない背丈。
ぼくの身長はハーレイと再会した時の百五十センチから全く変わらない。一ミリだって伸びてはくれない。夏休みの間に伸びてくれるかと期待したけど、駄目だった。
部屋のクローゼットに鉛筆で微かにつけた床から百七十センチの高さの印。ソルジャー・ブルーだった頃の前のぼくの背丈。そこまで育たないと大好きなハーレイとキスさえ出来ない。
(…今度こそ伸びてくれますように…)
冬休みはまだずっと先だし、それまでには伸びると思いたい。百七十センチには届かなくても、望みが見えてくるだけでいい。一ミリすらも育たないよりは、一センチでも伸びる方がいい。
背を伸ばすためには、やっぱりミルク。それが一番効くみたいだから、今日も学校から戻るなり鞄を置いて、手を洗って。着替えを済ませて、ママにおやつは何か訊いてみた。
「ホットケーキよ。直ぐ焼けるから、メイプルシロップとバターを出してね」
「うんっ!」
ホットケーキならミルクにぴったり。ママに頼まれたバターとかを揃えるついでに、ぼく専用のマグカップも出した。朝は冷たいミルクを飲んだし、おやつはホットミルクがいい。ミルクパンに注げばママが温めてくれる。
冷蔵庫から出したミルクの大きな瓶からミルクパンに中身を注ごうとして、瓶に描かれた緑色のマークに気が付いた。メーカーのシンボルマークの四つ葉のマーク。幸せの四つ葉のクローバー。
(そういえば四つ葉だったっけ…)
見慣れていたから、今まで気に留めていなかったけれど。
「ブルー? どうかしたの?」
「ううん、四つ葉のクローバーだな、と思って見てた」
「そうだわねえ…。ママも子供の頃によく探したわよ、ブルーは探してなかったかしら?」
「うん…」
一度も探したことはない。
ママは「そういえば、男の子は探していなかったわね」と笑っていたけれど。
…ホントは探したことがあったんだ。今のぼくじゃなくて、前のぼくが。
ホットケーキを食べて、ホットミルクも飲んで。
二階の自分の部屋に帰った後、勉強机の前に座って頬杖をついた。机の上にはハーレイの写真。夏休みの最後の日にハーレイと並んで写した記念写真。飴色をした木のフォトフレームに収まったそれを眺めながら前の生に思いを馳せる。
(…クローバーかあ…)
白い花を幾つも咲かせるクローバー。
シャングリラのブリッジが見える公園は芝生の部分が多かったけれど、クローバーが生えている所もあった。花が咲いている時期が長いから、子供たちに人気だったクローバー。白い花を摘んで花束にしたり、花冠にしたり。
花壇の花は勝手に摘んだら叱られるけども、クローバーは沢山摘んでも叱られないから、遊びの時間の人気者。閉ざされた世界のシャングリラの中でも、野原に出掛けた気分になれる。
子供たちが遊んでいる時に公園へ行くと、よく花冠を被せてくれた。子供たちはソルジャー相手でも遠慮しないし、憧れのヒーローでもあったらしくて。
「私が先に作ったのよ!」
「ずるいや、ぼくも作ってたのに!」
誰が花冠をぼくに被せるかで、いつも始まる小さな争い。ぼくは笑ってしゃがみ込んだ。
「幾つあっても大歓迎だよ、花冠」
「ホント!?」
子供たちが被せてくれたクローバーの花冠。多い時には五つも六つも。それを被ってブリッジに寄ると、ハーレイたちが「大人気ですね」と笑うものだから、「お裾分けだよ」と被せてやった。
もちろんハーレイだけじゃなくって、ゼルの頭にも花冠。それは和やかな光景だったから、若いクルーも笑いはしないし、ゼルだって普段よりも柔らかな顔で照れていたっけ。
花冠をくれた子供たちから、四つ葉のクローバーを貰うこともあった。
「はい、ソルジャー! 幸せの四つ葉のクローバー!」
ヒルマン先生から習ったんだよ、と得意そうだった子供たち。一緒に探そうとよく誘われた。
「えっとね、この辺で見付けたの!」
「ぼくはこの前、ここだったよ」
先を争って四つ葉があった場所を教えてくれるのだけれど、一つも見付けられなかったぼく。
四つ葉のクローバーを「あった!」と高々と差し上げる手は、いつだって小さな子供の手。
「ソルジャー、こっち!」
「きっと、こっちにあると思うの!」
絶対あるから、と励まされて頑張っても見付ける前に子供たちがヒルマンに呼ばれてしまうか、ぼくがハーレイたちに呼ばれてしまうか。見付けられずに時間切れ。
ちょっぴり悔しくて、ハーレイが暇そうにしている時に「キャプテンは公園も把握すべきだ」と理由をつけては呼び出してきて何度も探した。子供たちがいない時間に、クローバーを真剣に探すソルジャーとキャプテンの図はブリッジから見たら間抜けな光景だったかもしれない。
でも、ぼくとハーレイが恋人同士だとは誰も気付いていなかったから、傍目には「負けず嫌いなソルジャーに駆り出されて公園で働くキャプテン」と映っていただろう。
そうやってハーレイと二人で懸命に探しても駄目だった。
四つ葉のクローバーは一本も姿を見せてくれなくて、かき分けても普通のクローバーばかり。
なのに、その同じ場所で子供たちはちゃんと見付けて来るんだ。ぼくとハーレイが見付からずに引き揚げた次の日なんかに「ソルジャー、あげる!」って。
それがあまりにも不思議だったけど、はしゃぎながら公園を走る子供たちを見ていたらストンと納得できた。
今は小さな子供たちだけれど、いずれは育って一人前の大人になる。アルタミラからの脱出組のぼくやハーレイより、ずっと先まで生きるであろう子供たち。あの子たちがミュウの未来を担う。
未来を担う子供たちだから、四つ葉のクローバーを見付けられるんだと思った。
これから花開く幸せな未来を、掴み切れないほどの幸運を示す四つ葉のクローバー。たっぷりと未来のある子供たちだから、幾つでも見付けられるのだと。
けれど…。
今から思うと、ぼくとハーレイだから四つ葉のクローバーは無かったのかもしれない。
愛し、愛されて、幸せに暮らす恋人同士だったのだけれど。ぼくたちはシャングリラでこの上もなく幸せに暮らしていたつもりだけど、最後の最後で悲しすぎる別れがやって来た。
結婚して祝福されるどころか、残酷な運命に引き裂かれてそれっきりだった。
独りぼっちでメギドで死んでいった、ぼく。
一人残されて悲しみと孤独に苛まれながら、死に絶えた地球まで行って生を終えたハーレイ。
ぼくたちには四つ葉のクローバーに相応しい幸せな未来が待ってはいなかった。
ハッピーエンドが無い二人だから、いくら探しても見付からなかったのかもしれない。
どんなに探しても、何度探しても、見付けられなかった四つ葉のクローバー。
幸運の印のあの四つ葉には、もしかしたら、幸せな結婚の意味もあったのだろうか。
ぼくとハーレイと、結婚して幸せなハッピーエンド。
それが無かったから、四つ葉のクローバーはついに見付からなかったのかも…。
今のぼくの家の庭にもクローバーが生えている。放っておくと増えすぎるから、とパパとママが広がらないように抜いたり刈り込んだりしているけれども、一人前の庭のアクセント。可愛い白い花を咲かせて、葉っぱも青々としているし…。
小さい頃から庭で遊んで、クローバーの花もよく摘んだ。ママが花冠を編んでくれたり、摘んだ花を束ねてコップに挿して、テーブルに飾ったりもした。
四つ葉のクローバーを見付けると幸せになれると幼稚園の時から知っていたけれど、そういえば探したことがない。自分の家の庭にクローバーがあって、花を摘んで遊んでいたというのに。
(…もしかすると…)
ぼくは憶えていたのかもしれない。
あの頃はぼくの前世なんて知らなかったし、ソルジャー・ブルーの記憶も無かったけれど。
それでも何処かで四つ葉のクローバーのことを憶えていたかもしれない。
自分には見付けられない、って。
(…今のぼくだと、どうなんだろう?)
窓の外はまだ充分に明るかったから、階段を降りて玄関から庭に出てみた。ママがキッチンで夕食の支度をしながら「あら、散歩?」って訊くから、「違うよ、庭」って返してドアを開けて。よく腰掛ける木の下の白い椅子には寄らずに、クローバーの花が咲いている場所に座り込んだ。
重なり合って生えている葉を端の方から手で分けてゆく。
(…あるかな?)
おやつの時に見た牛乳瓶のマークの四つ葉。ぼくが探している幸運の四つ葉。
普通の葉っぱは幾つもある。三枚セットのクローバーの葉っぱ。四つ葉だと思っても三枚の葉が二本絡み合っているだけだったり、見間違いだったりとシャングリラで何度も目にした光景。
(…やっぱりダメかなあ…)
でも、と考え直して辛抱強く探してみる。
今のぼくは幸せなんだから。前のぼくと違って、結婚して幸せになるんだから…。
ハッピーエンドになるんだから、とハーレイの顔を思い浮かべながら探った場所に。
「あった!」
一本の四つ葉のクローバー。それも大きな葉っぱの四つ葉。シャングリラでは見なかった立派な四つ葉のクローバー。
(うわあ…。こんな大きな四つ葉って、見たことないよ)
きっと幸せになれる、と思った。だって、大きな四つ葉のクローバー。幸せもきっと桁違い。
初めて見付けた四つ葉のクローバー。
採らずにそっと残しておいた。他の葉っぱに紛れ込ませて、何処に在ったか分からないように。
初めて見付けた、ぼくだけの幸せ。ぼくのための四つ葉のクローバー…。
ソルジャー・ブルーだったぼくが何度探しても、見付からなかった幸運の四つ葉のクローバー。
キャプテンだったハーレイを動員したって見付からなかった幸運の四つ葉。
それをようやく見付けられた。クローバーが沢山ある野原ではなくて、ぼくの家の庭で。
今度こそ幸せになれる気がした。
幸せになれるに決まっているけど、神様が証拠をくれたみたいで嬉しかった。
だから週末の土曜日、来てくれたハーレイに尋ねてみた。
「ねえ、ハーレイ。四つ葉のクローバー、覚えてる?」
「…四つ葉?」
「シャングリラの公園でよく探したよ。どうしても見付からなかったけれど」
「ああ、あれな…」
不思議だったな、とテーブルを挟んで向かいに座ったハーレイが紅茶のカップを傾ける。
「俺とお前でいくら探しても見付からないのに、同じ場所で見付かるんだよなあ…。何日も経った後ならともかく、次の日なんかにアッサリとな。…子供の方が注意力があったんだろうな」
「それなんだけど…。ぼくとハーレイだから駄目だったんじゃないのかな、って」
「なんだ、それは」
怪訝そうな顔をするハーレイに、ぼくは話した。
幸せな未来が約束されていなかったから、ぼくたちは四つ葉のクローバーに出会えずに終わってしまったんじゃないか、と。
いくら探しても見付からなかったのは、幸せになれない未来を暗示していたんじゃないか、と。
「おいおい、相手はクローバーだぞ? フィシスならともかく、クローバーが予言をするか?」
喋りもしないしサイオンも無いぞ、とハーレイは苦笑したのだけれど。
「でも、ハーレイ…。ぼくは四つ葉を見付けたんだよ」
とても大きな、立派な四つ葉。シャングリラじゃ見たこともなかった大きな四つ葉。
思い立って直ぐに探した、ぼくの家の庭で。
長い間探したように思っていたけど、ほんの十分ほどだったよ?
「ホントだよ。それまで一度も四つ葉なんて探したことが無かったけれど…」
もしかして憶えていたのかな、とシャングリラでの四つ葉探しの話を繰り返してみる。
どんなに探しても見付けられないと思っていたから、庭にクローバーが生えていたって四つ葉を探さなかったのかも、と。
「だけど、今度は見付かったんだ。…幸せになれる、って言われたみたいで嬉しかったよ」
だから採らずに残しておいた。
せっかくの幸せの四つ葉だもの。庭で元気に生えてて欲しいよ…。
「なるほどなあ…。前は駄目だったが、今度はこの家の庭で見付かったんだな?」
ふむ、とハーレイは腕組みをした。
「そんなに簡単に見付かったんなら、お前の言う通りかもしれないな。前の俺たちは幸せとは逆の方向へと行っちまったが、今度はそうなる筈がないしな…」
クローバーでも予言をするのか。
フィシスの予言と違って分かりにくいが、前の俺たちの未来を言い当てていたか…。
「もう少し分かり易ければなあ…。そうしたら不幸を避けられたかもしれないのにな」
残念だ、と呟いたハーレイが「そうだ」とポンと手を打った。
「クローバーなら、俺の家の庭にも生えてたな。何処かから種が飛んで来たらしい」
だが、俺だってお前と同じだ。四つ葉なんぞは一度も探したことがない。
俺は男だし、その手の趣味は無いんだとばかり思っていたが…。
きっと憶えていたんだろう。探しても見付けられない、と。見付かるわけがないと。
「よし、帰ったら探してみよう。今日はお前の家で晩飯だし、明日の朝、一番で探してみるさ」
「そうしてみてよ。今度はきっと見付かると思う」
ぼくは見付かると確信していた。
前の生では二人揃って見付けられなかった幸せの四つ葉。
だけど今度はハーレイだって見付けられるし、ハーレイの家の庭にも絶対、ある筈。
立派な四つ葉のクローバーが。
シャングリラでは見なかったような、大きな四つ葉のクローバーが。
「でも、ハーレイ…」
「ん? どうした、ブルー?」
「えっとね、もしも四つ葉が見付かっても…」
採らないでそうっとしておいてあげて。
それはハーレイの幸せだから。
ハーレイの幸せを見守ってくれる、幸せの四つ葉のクローバーだから…。
分かった、とハーレイはぼくに約束をして。
夕食まで一日一緒に過ごして、「また明日な」と手を振って家に帰って行った。そして次の日、ハーレイはとびっきりの笑顔で報告してくれたんだ。
ママがお茶とお菓子をテーブルに置いて行った後で、ぼくと向かい合わせに座って。
「あったぞ、ブルー。俺の家の庭にも、でっかい四つ葉のクローバーがな」
ほら、とハーレイの手が伸びて来て、ぼくの右手に重なった。伝わって来る庭のイメージ。緑の芝生の一角に生えたクローバーの中に、立派な四つ葉。まだ朝露を纏っている。ハーレイ、本当に朝一番に探してくれたんだ…。
「な? 大きな四つ葉だっただろう? お前が見付けたのも同じくらいか?」
「うん。ハーレイ、朝早くから探してくれたんだね」
「そりゃあ、お前との約束だしな? それにだ、クローバーの予言も気になるじゃないか」
今度は幸せになれるのかどうか、一刻も早く確かめたくなる。
「前は探すだけ無駄って感じがしたがなあ…。今度はお互い、庭にあるのか」
「そうみたい。だから幸せになれるよ、きっと」
「当たり前だろうが」
絶対、お前を幸せにしてやる。今よりももっと、ずっと幸せにしてみせるからな。
クローバーの予言はもう無いんだから、とハーレイの手がぼくの頭をクシャリと撫でた。
「前の俺たちには無理だったんだろうが、今度は幸せになれるんだ。まだ結婚もしていない内から四つ葉のクローバーがお互いの家にあるんだぞ? これで幸せになれなくてどうする」
「ふふっ、そうかもしれないね」
前のぼくたちは本物の恋人同士だったというのに、四つ葉のクローバーに出会えなかった。
それなのに、キスさえ出来ない今のぼくたちの家の庭に立派な四つ葉のクローバー。二人一緒に暮らすどころか別々の家に住んでいるのに、ちゃんと四つ葉のクローバー…。
「ねえ、ハーレイ。…離れ離れで暮らしているのに、家に四つ葉があるんでしょ? いつか一緒に住むようになったら庭にドッサリ四つ葉なのかな?」
「…ドッサリか? そいつは有難味が無いような気もするが…」
それもいいかもな、とハーレイは「うん」と頷いた。
「よし。前の俺たちが見付けられなかった分の四つ葉を二人で探すか」
探すまでもなくドッサリなんだが、とハーレイの顔にぼくの大好きな笑み。
「一つ見付けたら、幸せが一つだ。二つなら二つ、三つなら三つ」
「幸せの四つ葉がドッサリだよ?」
「分かっているさ。お前をドッサリ幸せにしてやればいいんだろう?」
もちろん俺も幸せになれる、とハーレイはぼくの右手をキュッと握ってくれた。
メギドで冷たく凍えた右の手。
最期まで持っていたかったハーレイの温もりを失くしてしまって、冷たく凍えたぼくの右の手。
「お前がこの手が冷たかったことを二度と思い出せないくらいに温めてやるさ、俺の身体で」
「えっ…?」
「お前の念願の本物の恋人同士だ。冷たいどころか熱いだろうな、うん」
「ちょ、ちょっと…!」
ぼくは真っ赤になったけれども、二人一緒に暮らすってことは本当に本物の恋人同士。
その頃には幸せが前の生では想像すらも出来なかったほどに沢山、沢山、降って来るんだ…。
「ブルー、分かるか? 俺はな、お前が幸せだったら幸せなのさ」
前の俺もそうだし、今の俺もそうだ、とハーレイの鳶色の瞳がぼくの瞳を覗き込む。
「庭にドッサリの四つ葉のクローバーの分、うんと幸せにならんとな? お前も、俺も」
「うん。…うん、ハーレイ…」
「結婚したら庭で二人で四つ葉のクローバーを探してみよう。きっと沢山見付かるぞ」
「ドッサリ山ほど、きっと数え切れないくらいだね…」
前のぼくたちがいくら探しても、見付からなかった幸せの四つ葉のクローバー。
今度は幾つでも、いつでも見付けられるだろう。
見付かった数だけ、見付かる数だけ、ぼくたちはいくらでも幸せになれる。
だって、ハーレイと二人一緒だから。
手を繋いで何処までも歩いて行くんだ、四つ葉のクローバーがドッサリ生えている道を…。
幸せのクローバー・了
※ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイには、見付けられなかった四つ葉のクローバー。
なんとも不思議な話ですけど、今度の二人は見付けました。きっと幸せになれますよね。
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生徒の心を掴む喋り方と、絶妙な話の進め方。ハーレイの古典の授業は人気だけれども、今日の教室はちょっと違った。理由は簡単、入ってきて直ぐのハーレイの言葉だ。
「この間、出した宿題のプリントを返す。なかなかに酷い出来だったな。夏休みの暑さで脳味噌をよく煮出せたか? まるで中身が残っていないと言わんばかりだったぞ」
特に酷かった者は次の授業で再提出だ、という宣告に教室中に悲鳴が渦巻く。けれどハーレイは容赦しないで順に名前を呼び、宿題のプリントを返していった。項垂れるクラスメイトが多くて、ぼくも緊張してしまったけど。
(…良かったあ…)
プリントの右上に「大変よくできました」と桜の花の中に書かれた赤いスタンプ。SD体制よりずっと昔に、ぼくたちが住んでいる地域にあった小さな島国、日本の古い文化の一つ。ハーレイのお気に入りのスタンプ。他にも「よくできました」とか「がんばりましょう」とかがある。
ぼくはいつだってパーフェクトの印の「大変よくできました」のスタンプ。押して貰えて御機嫌だったけれど、授業が終わって休み時間が始まった途端。
「おーい、ブルー! お前、宿題、完璧だろ?」
「写させてくれよ、やり直すよりも絶対、早いし!」
「ランチの後でいいからさ!」
友達が一斉に駆け寄って来て、そういう約束になってしまった。昼休みに揃って食堂に行って、ランチを食べたら教室に戻って宿題プリントを書き写す集まり。言い出した友達の他にも何人もが来て、熱心にぼくの答えを写している。暇だから皆のプリントを眺めていて…。
(…あれっ?)
みんなのプリントにハーレイの文字。間違えた箇所に色々と書き込んであるのが分かった。
(注意書きなんだ…)
ぼくのプリントには書いて貰ったことが無い。間違えないから「大変よく出来ました」と右上に桜のスタンプが一つ、それと幾つもの丸印だけ。
(…いいな…)
羨ましいな、と注意書きが書かれた友達のプリントを見て回った。「がんばりましょう」の赤いスタンプはともかく、注意書きの中身は様々だ。間違えた内容が違うのだから、それは当然。
(ホントにいいな…)
注意とはいえ、一人一人に宛てたメッセージ。ハーレイが書いたメッセージ…。
家に帰って勉強机の前に座っても、ぼくは忘れていなかった。ハーレイの文字が沢山書かれた、「がんばりましょう」のスタンプつきの宿題プリント。羨ましくてたまらない。
(…ぼくは一度も貰ってないのに…)
注意書きなんか一度も書いて貰っていない。ぼくは授業中に教室の前のボードに書かれる文字の他にはハーレイの字を見られない。
それだけじゃなくて、普段のハーレイ。ぼくと恋人同士だと言ってくれるけれども、ハーレイは手紙をくれたことがない。ぼく宛てのメッセージなんか、ホントに一度も見ていない。
(…ぼくもハーレイが書いてくれた字が欲しいのに…)
ハーレイはぼくの字を宿題でたっぷり見ているというのに、ぼくはハーレイの字を見られない。恋人なのに字を見られなくて、メッセージも貰えない悲惨なぼく。「がんばりましょう」と書いたスタンプを押されてしまった友達は沢山の注意書きを貰っているのに。
(……がんばりましょう、と押されるくらいに間違えたら書いて貰えるのかな?)
間違えた箇所に、注意書き。ぼくに宛ててのハーレイからのメッセージ。
(色々と書いてくれそうだよね?)
欲しくなったら、もう止まらなくて。ハーレイが書いたメッセージが欲しくて、機会を待った。
例の宿題の再提出の日に、「脳味噌がちゃんと戻って来たかの確認だ」と配られた新しい宿題のプリント。大切に家に持って帰って、チャンス到来とばかりに素っ頓狂な答えを書いた。提出した後はワクワクしながら返って来るのを待っていたのに。
(…えっ?)
待望の「がんばりましょう」が押されたプリントは山ほどのバツ印と「?」マークで埋まって、ハーレイが書いたものはたったそれだけ。注意書きなんて何処にも無かった。
(……そんなあ……)
欲しいと思ったハーレイの字とぼくに宛ててのメッセージ。だけど「がんばりましょう」の赤いスタンプを貰っただけ。酷すぎる評価がついただけ。
おまけに、その日にハーレイが来て。
平日に来てくれることも多いのだけれど、パパやママも一緒の夕食の後に、二階のぼくの部屋で怖い顔をして睨まれた。
「なんで俺が怖い顔をしてるか分かっているな?」
テーブルを挟んで向かい合わせ。いつもだったら恋人同士で過ごす甘い時間が、今日はどうやら先生と生徒。ハーレイは苦い顔つきで言った。
「今日の授業で返した宿題。…お前、トップから転落したいのか?」
全部バツ印はお前だけだ、と褐色の指がテーブルをコツコツと叩く。
「なんでああいう真似をした? 分からないから「?」マークを書いておいたが」
「…だって…。ハーレイの字が欲しかったんだもの…」
シュンと俯いて、ぼくは答えた。
「いつも丸印とスタンプだけだし、注意書きを書いて欲しくって…。ぼく宛の、何か…」
ぼくに宛ててのメッセージ。それが欲しかった、と白状したのに、ハーレイの顔は厳しくて。
「実に不純な動機だな。…言っておくが、繰り返しやっても無駄だぞ。理由を聞いた以上は絶対に書かん。本当にミスをやらかした時は書くかもしれんが」
ついでにお前の御両親にも不真面目だと報告させて貰おう。
そう脅かすから、ぼくは唇を尖らせた。
「酷いよ! ハーレイ、手紙だって一度もくれてないのに!」
「いつか書いてやるさ。お前が欲しそうなラブレターとか…。気長に待ってろ、人生、長いぞ」
「今、欲しいんだよ! ハーレイの字が!」
ぼく宛のメッセージも欲しいけれども、字だって欲しい。だからハーレイに言い返した。
「ハーレイはぼくの字、いつも沢山見てるのに! 宿題で!」
「…不公平だってか?」
「そうだよ!」
ぼくばかり書いて、書いて貰えなくて。「よく出来ました」のスタンプだけ。悔しすぎるから、せっせと文句を言い続けた。そうしたら…。
「なるほどな。…じゃあ、俺に宿題を出してみろ。それなら俺の字が見られるだろうが」
「そっか、宿題!」
ハーレイの提案に飛び付いた、ぼく。
なんて素晴らしいアイデアだろう。ぼくがハーレイに宿題を出せば、答えを書いて貰えるという仕組み。ハーレイの字が沢山見られて、宿題の答えでも全部、ぼく宛て。
「分かった、宿題、作ってみる!」
「まあ、頑張れ。うんと楽しみに待っててやるさ」
いつでもドカンと出してみろ、とハーレイは軽く手を振って帰って行った。あの大きな手が書く沢山の文字。それを見たければ、ハーレイに宿題を出さないと…。
ハーレイの字が早く見たいから、ぼくは宿題作りを頑張ることにした。土曜日に渡せば日曜日に提出してくれるだろう。日曜日が駄目でも、その週の内にきっと貰える。
(んーと…。どんなのにしようかな?)
古典の先生のハーレイに古典の宿題。先生に出すなら、教科書からだと簡単すぎだ。
だけど、ぼくはハーレイに教わる立場で。クラスどころか学年トップの成績だけれど、そんなに古典に詳しくはない。ソルジャー・ブルーだった頃の記憶を遡っても、古典の世界は範疇外。
(…そんなの、シャングリラを守るのには必要無かったもんね…)
SD体制よりも古い昔の物語を読むのが好きだったソルジャー・ブルー。でも、読むだけで勉強なんかはしていない。あくまで自己流、文法なんかは感覚だけで流していた。
(どうしよう…)
データベースにある試験問題を丸写しというのも考えたけれど、それじゃズルすぎ。自分の頭で考えなくちゃ、と精一杯に背伸びをして。
(…うん、このくらいだったら大丈夫!)
遙かに過ぎ去った遠い昔の日本にあった物語。「祇園精舎の鐘の声」で始まる部分を前のぼくが何度も読んでいた。「盛者必衰の理を表す」だの「驕れる人も久しからず」だのと綴られる文が、「人類だけが栄える世界が永遠に続くわけではない」という意味に読めるから、好きだった。
諸行無常がどうとか、こうとか。祇園精舎も沙羅双樹の花も今のぼくにはピンと来ないけれど、文章の意味は大体分かる。
(これに籠められた作者の心情を答えなさい、と…)
他にも文法とかを幾つか。
出来上がった宿題をきちんと活字でプリントに仕上げて、ぼくは土曜日が来るのを待った。
ほんの数日でも首を長くして待った土曜日が来て。
頑張って作った宿題プリントをハーレイに渡すと「ほう…。平家物語とは頑張ったな」と褒めてくれたから嬉しくなった。丸写しした試験問題だと、この感覚は得られない。
土曜日はハーレイと一緒に過ごして、宿題プリントは「また明日な」と微笑むハーレイの家へと連れ帰られた。
(明日はハーレイの字を貰えるよ)
ハーレイは今日の内に宿題をするとぼくに約束して帰ったし、難しい問題も出してはいない。
欲しくてたまらないハーレイの書いた字が、明日、ぼくの家にやって来る。
ぼく宛のメッセージとは違うけれども、ハーレイが書いた字。大好きなハーレイの手がせっせと書いた沢山の文字…。
目覚ましが鳴る前にワクワクして目覚めた日曜日。
ぼくの部屋に来てくれたハーレイは、ママがお茶とお菓子をテーブルに置いて出てゆくと直ぐに宿題を提出してくれた。ぼくが作った宿題プリントにハーレイが書いた答えがびっしり。
「ほら、ブルー。お前が採点してくれるんだろ?」
「うんっ!」
お茶のカップやお菓子のお皿を端の方に寄せて、ハーレイの宿題のチェックを始めた。
(…凄いや…)
流石、ハーレイ。
ぼくが考えた答えよりもずっと難しいことが書いてある。言葉の選び方だって、ぼくより大人。ぼくだとこんな風には書けない。もちろん答えは全部正解、完全無欠の凄い解答。
それが全部ハーレイの字でしっかり書かれて、もうそれだけで胸が高鳴る。
(ハーレイの字だ…。こんなに沢山)
笑みが零れそうになるのを抑えて、先生になった気分で採点。「大変よくできました」の文字の桜のスタンプは無いから、赤いペンで大きな丸印をつけた。丸の周りにもクルクルと幾つもの丸を書いて、花丸。
桜の花の形の「大変よくできました」シリーズのスタンプがお気に入りのハーレイは、こういう花丸が好きそうだから。花丸も日本という島国の文化だったと前の学校で聞いていたから。
「はい、ハーレイ! 大変よくできました、ってスタンプの代わりに花丸だからね!」
「ほほう、奮発してくれたんだな」
ハーレイはぼくの大好きな笑顔で、花丸がついたプリントを手に持って眺めた後で。
「よし、この宿題プリントはお前にやろう。宿題は俺が持って帰るのが本当だがな」
「ホント!?」
ぼくは歓声を上げていた。
ハーレイが言うまで忘れていたけど、宿題プリントは宿題を出された人のもの。提出するけど、返ってくるもの。ぼくの勉強机の引き出しには「大変よくできました」のスタンプが押された宿題プリントが何枚も入っている。
そういう仕組みをウッカリ忘れてしまっていたのに、ハーレイの字がびっしり並んだプリントを貰えることになって。
大喜びでハーレイがくれた宿題の文字を眺めていたら…。
「どうだ、ブルー。お望みの俺の文字とやらを貰って満足したか?」
ハーレイが鳶色の瞳で覗き込んで訊くから、「うん」と素直に頷いた。
「こんなに沢山、ハーレイの字だよ? 嬉しくならないわけがないよ」
「そうか、そいつは良かったな。お前が考えた宿題なんだし、俺も全力で解かせて貰った」
お前には少し難しすぎたかもな、と言われて「ちょっとだけね」と背伸びしてみる。ハーレイの答えは今のぼくには難解な言葉もあったのだけれど、前のぼくには分かるから。
「難しかったけど、ちゃんと分かるよ。ぼくはぼくだけど、前のぼくも、ぼく」
「…お前ならではの反則技だな」
ハーレイがクックッと肩を小さく揺すった。
「しかしだ、まさか本物の宿題が来るとは思わなかったぞ」
「え?」
宿題は宿題だと思うんだけど。
だから頑張ってSD体制よりも古い時代の物語を使ったんだけど…。
キョトンとするぼくの目の前で、ハーレイは可笑しそうに笑い続けながら。
「宿題を出せとは言ったがな…。うんうん、まだまだ子供だな」
そう言われても分からない。「どういう意味?」と、ぼくは尋ねた。
「ぼく、宿題を間違えた? 本物の宿題じゃダメだったの?」
「いや、ダメだとは言わないが…。如何にもお前らしいんだがな」
しかしだ。俺は古典の宿題を出せとは言わなかったぞ?
宿題としか言っていないんだ。どんな宿題を俺に出すかは自由に選べた筈なんだがな?
「で、でも…。ハーレイ、古典の先生なんだし、数学とかだと困らない?」
「義務教育のお前に出せる範囲だろう? そうそう困りはせんと思うが、そうじゃなくてだ」
いいか、とハーレイは人差し指を立ててみせた。
「宿題は勉強ばかりとは限らんぞ? お前だって色々とやっただろうが、工作だとか料理だとか」
「…やったけど…」
今の学校ではやってないけど、前の学校の夏休みの宿題で工作もしたし、料理もやった。料理と言ってもママと一緒にお菓子作りとか、簡単な炒め物だとか。工作はキットを使ったオルゴールや小物入れの類で、どの宿題も文字は少ししか書いてはいない。
「工作も料理も、作った感想くらいしか書かなかったよ? そんな宿題、ハーレイに出しても…」
肝心の字が貰えないよ、と訴えた。ぼくが欲しいのは沢山の文字で、それが貰える宿題でないと出す意味が全く無くなるのだ、と。
ハーレイの字が欲しくて宿題を出した。宿題を出したら答えを書くとハーレイが約束したから、字を貰うために宿題プリントを作った。うんと頑張って作った、ぼくの宿題。
それなのに、何処がいけないんだろう?
ハーレイの瞳は笑っている。悪戯っぽい光を湛えて笑っている。
まだまだ子供だなんて言っていたけど、それと宿題は何か関係あるのかな…?
もう本当に分からないから、ぼくは降参することにした。
「ハーレイ、どんな宿題なの? ぼくはどういう宿題を出せば良かったの?」
「ん? …いいかどうかはともかくとしてだ、勉強でも料理でも工作でもなくて…」
ぼくの何処が好き? とか、プロポーズするなら何処がいい? とか。
そんな宿題でも良かったんだぞ。
ハーレイがパチンと片目を瞑って、ぼくは「あっ…!」と叫んで口を開けただけ。
続く言葉は出て来なくって、水から揚がった魚みたいに口をパクパク開けたり閉めたり。
思い付きさえしなかったけれど、ハーレイが言うのも確かに宿題。ぼくが問題を出して、答えはハーレイが考えて書く。それだって立派な宿題になる。
どうして気付かなかったんだろう。ハーレイの気持ちを訊けば良かった。宿題を出して、ぼくが欲しかったハーレイの字で気持ちを綴って貰えば良かった。
(…ぼくにキスしたくなるのはどんな時か、とか…)
バカバカ、どうしようもない大バカのぼく。
頭をポカポカ叩きたい気分になっているのに、ハーレイは余裕しゃくしゃくで。
「その手の宿題が来るかと心配していたんだが、普通で良かった。宿題は今後も大歓迎だぞ」
大いに古典の勉強をしろ、と古典の先生の顔をする恋人。褐色の腕をゆったりと組む。
「いいか。宿題を出すなら、古典か他の教科にしておけ。いつでも喜んで答えてやろう」
ただし、勉強以外の宿題を出しても、それを宿題とは認めてやらん。
そいつはお前のオリジナルじゃなくて、俺がヒントを出しちまったしな?
データベースから試験問題を引っ張り出して来て「自分で作りました」と言うのと変わらん。
そういう宿題を寄越して来たって、俺は答えてやらないからな。
「…………」
悔しいけれど、反論出来ない。
ハーレイが言ったような素敵な宿題、ぼくは考え付かなかったし、とっくに手遅れ。ハーレイに貰ったヒントを使って作り上げても、オリジナルじゃないから却下なんだ…。
どうやら失敗したらしい、ぼく。
ハーレイは可笑しそうに笑っているけど、脹れっ面になるしかなかった。
(…ラブレターみたいな答えが貰える最高のチャンスだったのに…!)
ぼくときたら、真面目に本物の宿題を作ってしまって、ハーレイに出来栄えを褒められただけ。
それじゃ古典の課外授業と変わりはしないし、胸がときめくような答えも貰えはしない。
(…でも、ハーレイの字は貰えたものね?)
ぼくが花丸を書いたプリントに、びっしり書かれたハーレイの文字。
当分はプリントを見る度に頬っぺたをプウッと膨らませながら、それでも嬉しくなるんだろう。
だって、大好きなハーレイが書いてくれた字が沢山、沢山、あるんだから。
教室の前のボードに書かれているのを見ていただけのハーレイの文字。
それがプリントに沢山並んで、ぼくだけの大切な宝物。
(……だけど……)
どうせなら、羽根ペンで書いて、って言えば良かった。
ハーレイの誕生日に贈った白い羽根ペン。ぼくのお小遣いで買うには高すぎたから、ハーレイと二人で買った羽根ペン。前の生のハーレイが愛用していて、ハーレイも欲しいと思った羽根ペン。
(…あの羽根ペンで書いたハーレイの字が見たかったな…)
それも失敗しちゃったよ。
ハーレイが言う通り、子供のぼく。まだまだ考えが足りなさすぎる。
(こんな調子じゃ、ラブレターなんて、いつ貰えるの?)
人生、長いぞ、とハーレイは簡単に言ってくれたから。
ハーレイの書いた字は貰えたけれども、今のぼくはラブレターを貰えそうもない。
だけど、いつかは貰ってやる。
まだ笑っているハーレイからきっと、ぼくへの想いを熱く綴った長いラブレターを貰うんだ。
その時はきっと、白い羽根ペンで書いた文字。
きっと羽根ペンで書いてくれるよ、ぼくの大好きなハーレイだもの…。
宿題・了
※ハーレイが書いた字が欲しい、と努力したブルーですけれど…。頑張り方を間違えた模様。
やっぱり大人には敵わないオチ、子供ならではの可愛い失敗かも…?
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ぱらり。
シャングリラの写真集のページをめくる。前はハーレイとのたった一つのお揃いだった写真集。ハーレイが見付けて先に買って来て、教えてくれた。
ぼくのお小遣いでは買えない値段の豪華版。パパに強請って買って貰った。シャングリラの姿も懐かしかったけれど、ハーレイと同じ写真集を持っていることが嬉しかった。
お揃いの持ち物は夏休みの一番最後の日に増えて、机の上にフォトフレーム。飴色をした木製のそれに入った、ぼくとハーレイとの記念写真。眺めるだけで幸せになれるハーレイの笑顔と、隣で嬉しそうに笑っているぼく。ハーレイの左腕にギュッと両腕で抱き付いたぼく。
写真の中のハーレイに見守られながら勉強をしたり、本を読んだり。なんて幸せなんだろうかと胸が温かくなる時間。その机でシャングリラの写真集の世界に入り込んでゆく。
白い大きな鯨のようだったシャングリラ。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
楽園の名をつけたその船は役目を終えて時の彼方に消えたけれども、今でも一番有名な宇宙船。こうして写真集が売られているほど、人気の高いシャングリラ。
地球が燃えてトォニィがソルジャーを引き継いだ時には、人類とミュウは歩み寄り始めていた。十年と経たずに完全な共存状態になって、ミュウの母船は要らなくなった。トォニィも船を降り、シャングリラは見学用に公開されたり、時には記念飛行をしたり。
その頃に撮られた写真を編んで作られた写真集。宇宙空間を飛ぶシャングリラや、人の住む星を背景に浮かぶシャングリラも何枚も収まっている。
最後のソルジャーとなったトォニィは地球で命尽きたジョミーたちの思い出を大切に守り、皆の生きた証をそのままに残しておいてくれた。手を触れないで、皆が離れたその時のままで。
だから此処には青の間も、キャプテンの部屋も、ぼくが見ていた頃と全く変わらず写っている。ハーレイの机に置かれた白い羽根ペンも、棚に並んだ航宙日誌も。
懐かしい部屋を順に巡って、それから公園の奥に見えるブリッジ。展望室も天体の間も、ぼくが暮らしていた頃のまま。
何もかもが時を止めたかのように写真集の中に在るのだけれど、ぼくが居た頃と決定的に異なるものが一つだけ。写真集には写ってはおらず、説明すらも無いのだけれど…。
写真集に載っているシャングリラの広い格納庫。一機のギブリに焦点を当てて撮ってあるから、他のシャトルや小型船の姿は分からない。シルエットか、もしくはフレームの外か。
船体の改造を終える前から広かったシャングリラの格納庫。改造する時には「もっと大きく」と注文をつけた。皆は其処に人類側から奪った機体がズラリと並ぶと思ったようだ。戦闘機を揃えて万一の時に備えるのだ、と。
既にソルジャーだった、ぼく。唯一の戦力だったぼくの指示だから、広い格納庫が完成した。
シャングリラの前身だった船に在ったシャトルを数機備えただけの、ガランとした広い格納庫。
ぼくは其処に一つの夢を託した。
皆が期待した戦闘機などではなくて、ミュウの命を守ってゆくために必要な船。
いつの日か、此処に救命艇を置く。シャングリラに居るミュウたち全員を乗せても充分な数の。
そう言ったら、案の定、厳しい意見が幾つも出て来た。直ぐに怒り出すゼルはもちろん、大勢の他のミュウたちからも。「そんな余裕が何処にあるか」だの「誰が助けてくれるんだ」だのと。
救命艇を建造できる技術はあっても資材など無いし、たとえ作れても救助は来ない。救難信号を発信したって、仲間の船は何処からも来ない。人類側に発見されて捕まるのが目に見えている。
皆の主張は正しかったから、これはあくまで夢だと言った。
今は救命艇を作れはしないし、作っても救助に来る船は無い。ミュウを乗せた船はシャングリラだけで、それを失った時は終わりの時。
でも、いつか。
ミュウを乗せた船が宇宙を行き交い、救難信号を出せば救助される時代が来るだろう。そういう時代が必ず来る。ミュウの船でも救命艇を積んであるのが当たり前の時代がやって来る。
シャングリラみたいに大きな船なら、救命艇は沢山要る。それを積み込む時に備えて、格納庫は広く作っておこう、と。後で広げるのは難しいから、今から広くしておくのだと。
改造前の船の救命艇は作り替えられてシャトルになった。そうせざるを得ない時代だった。
必要のない救命艇より、使える船がある方がいい。
資材が手に入るようになっても、シャトルやミュウの救出に使う小型船を建造するのが最優先。格納庫に船は増えていったけれど、ぼくが夢見た救命艇は誰も作りはしなかった。
それでもいつか、と夢を見ながら長い眠りに就き、目覚めた時にはナスカに居た。十五年ぶりに見た格納庫。ミュウに仇なす地球の男を其処で倒すべく、先回りをして辿り着いた。
ギブリの車輪に背中を預けて座って待つ間に、ぼくは周りを見回した。広い格納庫を作り上げた時代の何倍もに増えた幾つもの機体。それでも救命艇は無かった。
ナスカに基地を作ったとはいえ、ミュウの居場所はナスカの他には無かったから。この宇宙にはシャングリラの他にミュウの船は無く、救命艇で脱出したって助けてくれる仲間の船など何処にも存在しなかったから…。
そう、あの時には救命艇は載っていなかった。けれど、前のぼくが死んでから後に夢は叶って、地球に辿り着いた頃には救命艇が在ったという。当時の資料で確かに見付けた。
ただ、救命艇がいつ出来たのかが分からない。資料を見付けたデータベースに建造した日などは記されておらず、シャングリラに居たミュウ全員が乗れるだけの数が在ったことしか分からない。
ハーレイの航宙日誌を扱うデータベースも見てみたけれども、中身が多すぎてお手上げだった。この辺りかと見当をつけて探してみても、どうにもならない。
いつの間にか備え付けられていた救命艇。
ソルジャー・ブルーだった前の生のぼくが最後まで欲しかった救命艇。
キースとの戦いを控えた時でさえ、格納庫の中を見ていたほどに。
ぼくの夢だった救命艇。いつ出来たのかを知りたくなったら止まらない。
ハーレイに訊いてみようと思った。覚えていない筈が無いから。
きっとハーレイが指揮して作らせた船。何故ならハーレイはキャプテンだから。シャングリラに居るミュウたちの命を預かる立場のキャプテンだから…。
週末の土曜日、訪ねて来てくれたハーレイに尋ねてみた。ぼくの部屋で向かい合わせに座って、二人でお茶を飲んでいる時に。
「ねえ、ハーレイ。…シャングリラに在った救命艇って、いつ作ったの?」
「知っていたのか? 作ったことを」
ハーレイが目を丸くするから、「うん」と頷く。
「気になったから調べてみたんだ。…地球に行った後には出来ただろうと思ったんだけど、もっと前に出来ていたんだね」
「ああ。アルテメシアを落として直ぐに作ったな」
「そんなに早く?」
予想外の答えに驚いた。そこまで早いとは思わなかったし、ハーレイの航宙日誌もアルテメシア陥落の辺りは調べていない。ハーレイは「早いだろう?」と笑みを浮かべた。
「救命艇はお前の夢だったからな。…ジョミーに言ったさ、そのとおりに。アルテメシアを味方に付けたからには、其処から救助船が来る。それに備えて作るべきだ、と」
「…それで?」
「その場で作ると言ってくれたぞ。思い付かなかった、と苦笑いしながら指図してたな。行動力は充分なソルジャーだったが、勢いで進むだけではなあ…」
生き残る手段も講じてこそだ、とハーレイが笑う。
「俺たちを助けに来てくれる船が出来たからには、そいつが来るまで生きていないとな? お前が救命艇をいつか作ると言わなかったら、俺もそこまで気が回ったかは自信が無いが」
「ハーレイならきっと思い付いたよ、キャプテンだもの」
いつだって船の仲間の安全を考えていたキャプテン・ハーレイだもの…。
「お前に言われると嬉しくなるな。俺たちが作った救命艇だが、地球でも役立った筈なんだ。近い星に降りて救助を待てる仕様に作っておいたし、短距離なら自力で航行可能だからな」
「そっか…。良かった。役に立ったなら、作っておいてホントに良かった」
…ぼくが作ったわけじゃないけど。
ハーレイが言って、ジョミーが作らせた船なんだけど…。
「いや、お前だ」
救命艇を作らせたのはお前の言葉だ、とハーレイの鳶色の瞳がぼくを真っ直ぐに見た。
「お前が何度も言っていたからこそ、後回しにせずに取り掛かれた。…あのタイミングだったから作れたんだ。本格的な戦闘に入ってからだと、まず無理だったな」
人類軍との戦いは熾烈を極めた、とハーレイは語る。ぼくも前世の記憶を取り戻してから自分で調べて知っていた。あの強かったナスカの子でさえ失ったほどの激しい戦い。人類軍の全てを敵に回しての戦いの火蓋が切って落とされた後は、救命艇どころじゃなかっただろう。
「…そうだね、作ってる暇は無かっただろうね」
「いつ攻撃が来るか分からないしな? しかしだ、お前の言葉のお蔭で俺たちは救命艇ってヤツを持っていたんだ。それがどれだけ心強かったか、お前なら直ぐに分かるだろう?」
戦闘の真っ最中には救命艇は意味が無いかもしれない。
しかし、戦いに勝っても船体に傷を負い、船内に留まれなくなる可能性もある。そうなった時に助けに来てくれる船があっても、救命艇が無ければ全員が逃げることは出来ない。
「まずは全員が無事に脱出出来んとな? それが出来るのが有難かったさ、救命艇に乗れれば皆が安全に生き延びられるんだ」
もしも無かったら、一部の者しか助からない。せっかく助けが来るというのに。
「シャングリラが沈んだとしても、生き残っていれば新しい船で地球を目指せる。だがな、船ごと沈んじまったらミュウの歴史も其処で終わりだ。救命艇は必要だったんだ」
幸い、出番は無かったが…、と過ぎ去った時を振り返るハーレイに向かって呟いてみた。
「……タイタニック…」
「ああ。お前が何度も口にしていた。遠い昔の地球の船だな」
「…うん。人数分の救命ボートを積んでいなかった豪華客船。氷山と衝突して、大勢が死んだ」
SD体制が始まるよりも前、映画や物語にもなっていた実話。今のぼくも本で読んだけれども、ソルジャー・ブルーだったぼくも知っていた。アルタミラから脱出した後、救命艇の建造を考えた時点で出会った情報。
シャングリラを決してタイタニックにしてはならない、と救命艇が一層欲しくなった。それでも夢は夢に過ぎなくて、前のぼくが生きていた間に救命艇は作られなかった。
でも…。
「救命艇が出来て良かった。シャングリラは事故に遭わずに引退出来たみたいだけれど」
ぼくがいなくなった後でも出来て良かった、と思ったから。そう言ったら、ハーレイは「充分に役に立ったさ、あれは」と微笑んでくれた。
「ちゃんとした記録は残ってないがな、俺もジョミーも死んでしまった後で地球に残った者たちを助けるために降ろしたシャトル。…それを調べたら、シャトルの数が俺の記憶より多かった」
「えっ?」
「俺の記憶よりも多いシャトルが降りていたんだ、燃える地球にな。数え直す前に俺は気付いた。降りたのはシャトルだけじゃない。救命艇も使ったんだ、と」
お前が見付けたタイタニックの話が燃え上がる地球から人を助けた。
タイタニックにならないように、と積み込ませていた救命艇が燃える地球で役に立ったんだ。
何の記録も残っていないが、俺はそうだと確信している。
「お前が作らせた救命艇だ。…あれに乗った人はお前に助けられたわけだな、燃える地球から」
「…ぼくじゃない」
ぼくじゃないよ、と今の生でも前の生でも出会った船に思いを馳せた。
遙かな昔に地球の海に沈んだ豪華客船。大勢の人を乗せたまま、深い水底に消えた悲劇の船。
「救命艇を作らなくちゃ、と何度もぼくに思わせたのはタイタニック。…救命艇に乗り込んだ人を助け出したのはタイタニックなんだよ、ぼくじゃなくって」
この地球の何処かに今も眠っているだろう船。
地形も何もかも変わってしまって、沈んだ場所すら無くなったけれど、きっと何処かに…。
「タイタニックか…」
この地球の何処かに今もあるのか、とハーレイは少し考え込んで。
「地球と言えば、前の俺の身体も何処かにあるんだな。…タイタニックが今もあるなら」
「ジョミーたちもね」
ぼくはハーレイの言葉に懐かしい名前を付け加えた。地球の地の底で死んでいったと知った仲間たち。ゼルにヒルマン、エラ、それにブラウ。ジョミーを助けに降りて戻らなかったリオ。ぼくを撃ったキースも、人類とミュウの和解を促して命尽きたと聞く。
「…みんな、何処かに身体があるんだよ。でも、ハーレイかあ…。なんだか不思議」
ハーレイはぼくの目の前にいるのに、前の身体も何処かにある。形なんか残っていないだろうと思うけれども、この地球の何処かに前のハーレイが埋まっている。
それなのにちゃんとハーレイはいるから、ぼくは不思議でたまらない。
「…俺もだ。改めて言われると実際、不思議な感じだな。…何処に眠っているんだろうなあ、俺の身体は」
今のは此処にあるんだがな、とハーレイが自分の腕をしげしげと見詰めるものだから。
「ぼくの身体はどうなったのかも分からないけど、ハーレイはちゃんと地球になれたね」
前のハーレイの身体を地の底深くへ飲み込んだ地球。その地球が青く蘇った今、ハーレイの前の身体は何処かで地球の一部になったんだろう。
青い海の中か、緑の大地か。それとも青空にぽっかりと浮かぶ白い雲なのか…。
「前の俺は地球になったってか?」
「うん。…そして今のぼくを乗っけてくれているんだよ、この地球の上に」
まるで救命艇みたいに、とハーレイの大きな身体に抱き付く。ハーレイの膝の上に乗っかって、温かな胸に頬を擦り寄せながら。
前のぼくの夢だった救命艇。
ハーレイが覚えていてくれて、ジョミーが作らせて、燃える地球の上で役に立った。
その地球の地の底に消えたハーレイの前の身体は地球になった。ぼくが生まれ変わって来た青い地球になって、ぼくを上に乗せてくれている。
前の身体が何処に行ったのかも分からない、ぼく。気付けば青い地球という名前の救命艇の上に乗っかっていた。その青い地球の一部は前のハーレイの身体で出来ていて…。
「ぼくは地球になったハーレイに拾われたのかな? この救命艇に乗って行けって」
「…それならいいな。前の俺の身体がお前を乗せる船になったのなら…な」
地球で死んだ甲斐があるってもんだ、とハーレイがぼくを抱き締めて笑う。
あの時はお前の所へ行けるとしか思わなかったが、まさかお前を拾えるとは…、と。
「きっとそうだよ、ぼくは何処かで漂ってた」
身体だって何処にあるのか分かりはしないし、魂だって…。
「ハーレイがぼくを拾ってくれて、ちゃんと連れて来てくれたんだよ。きっと……地球まで」
「おいおい、俺がお前を地球まで、ってか?」
俺は地球になったんじゃなかったのか、とハーレイは慌てているけれど。
地球になった前のハーレイと、今のハーレイと、どちらもハーレイ。
ぼくの大好きな、ぼくが愛したハーレイの中身は、地球になった部分とは、きっと、別。
ハーレイの中身を構成している心とか魂だとか呼ばれるもの。
その魂がぼくを探して、拾って、地球まで運んでくれた気がする。
だって、前のぼくは地球から遠く離れた所で、独りきりで死んでしまったから。
それなのにハーレイと地球の上に居るし、その青い地球の一部は前のハーレイだったもの。
きっと、きっと……ハーレイがぼくの救命艇。
青い地球になったハーレイも、地球まで連れて来てくれたハーレイの魂も、救命艇。
ハーレイがぼくを乗せてくれたから、ぼくは地球の上で幸せなんだと思う。
どうしてなんだか分からないけれど、そう思うんだ。
前のぼくの夢を忘れずにいてくれて、救命艇を作るようにジョミーに言ったハーレイ。
青い地球の一部になったハーレイ。
ハーレイならきっと、ぼくに「乗れ」と言ってくれるんだ。
青い地球という名前の救命艇と、ハーレイの魂で出来た救命艇と。
俺と一緒に地球へ行こうと、地球になった俺の上で幸せに生きろと………きっと……。
夢だった救命艇・了
※ソルジャー・ブルーが生きた時代は、シャングリラに無かった救命艇。
いつかはと望んでいたブルー。叶ったことは嬉しいですよね、命尽きた後でも…。
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「んー…」
ブルーの意識を揺さぶる目覚ましの音。学校のある日は必ず目覚ましをセットしていたが、今は休日も目覚ましをかけることが多い。休日は大好きなハーレイが訪ねて来る日。寝過ごして掃除をし損なったら大変だから、きちんと早起きしなければ。
「うー…」
ハーレイの夢を見ていたというのに、心地よい眠りを破られた。無粋な目覚ましに手を伸ばし、アラームを止めようとしたのだけれど。上手く止められず、仕方なく時計を引っ掴んだ。憎らしいアラームをエイッと止めて、アナログの文字盤を睨み付ける。
(…もうちょっとでキスが出来たのに…!)
青の間でハーレイと甘い時間を過ごす夢。抱き締められてキスを交わして…、という直前で夢は砕け散り、キスさえ許してくれないハーレイが居る現実の世界へと戻ってしまった。
(目覚ましなんか大嫌いだよ!)
もう何度目になるのだろうか。いい所で邪魔をしてくれる時計。いつも、いつも、いつも…!
こんな時計、と叩きのめしたい気分で睨むブルーだったが。
「あ…!」
そういえば、この意のままにならない目覚まし時計。アラームの音を何種類かのメロディに変更出来る仕様の時計で、それだけではなく音声データが入れられる仕掛け。
買って貰った時、父に「お前は大丈夫だとは思うが、目覚ましの音で起きてこない日が続いたら音を替えるからな」と脅されたものだ。「フライパンを叩く音が鳴るようにしてやるぞ」と。
フライパンを叩く音はともかく、音声データ。一度も入れていないけれども…。
(ハーレイの声で起きてみたいよ)
いいな、とブルーは考えた。アラームの代わりにハーレイの声。大好きでたまらないハーレイの声で起こされるのなら、素敵な夢を破られたって腹が立ったりしないだろう。
(朝ですよ、とか…。起きて下さい、とか…)
前の生で何度もハーレイに優しく揺り起こされた。そうっと肩を揺さぶられながら、温かな声が降って来た。録音された声でもいいから、ああいう声に起こされたなら…。
(…幸せだよね?)
うっとりと夢の世界に足を突っ込んでいると、部屋の扉が叩かれた。
「ブルー!? 起きて来ないと遅刻するわよ!」
朝御飯はとっくに出来ているのよ、と母が呼ぶ声。いけない、今日は学校だった!
大慌てでベッドを飛び出し、顔を洗って着替えを済ませて。朝食を食べて、背が高くなるように祈りをこめてミルクも飲んだ。いつものバスにも遅れずに乗り、学校へ。
慌ただしかった朝だったけれど、三時間目の古典の授業でハーレイの声をたっぷり聞けて、姿も存分に堪能出来た。大満足な学校の日。
(これでハーレイが家に来てくれたら最高だけど…)
平日でも仕事が早く終わるとハーレイが訪ねて来てくれる。そういう日には両親も一緒に夕食を食べて、ブルーの部屋で少し話も出来る。
(今日はどうかな?)
宿題と予習をする間にも窓から下を何度も見下ろし、見慣れた車が来ないかと待った。前の生のハーレイのマントと同じ色の車。それが来たなら素敵な時間の始まりなのだが…。
(うーん…。この時間だともう、無理っぽいよね…)
待っている間に、すっかり夕暮れ。時計の針もハーレイが来そうな時間を過ぎている。
(ちょっと残念…)
無情な時間を示す時計を見ていて思い出した。朝、バタバタと部屋から駆け出した理由。
(そうだ、目覚まし時計のデータ!)
どうやって入れるのだっただろうか。説明書なんて失くしてしまって、とっくに無い。それでも見れば分かるであろう、と目覚まし時計を手に取った。
(…えーっと…。多分、この辺がマイク…)
機械には疎くて弱いのだけれど、素晴らしい使い方を見付けたからには方法を理解しなくては。あれか、これかと弄っている内に目的のボタンらしきものに辿り着いた。
(これかな?)
カチリと押し込めば、微かな作動音。試しに「朝ですよ」とハーレイの声を真似てみる。前世で幾度も聞いていた声。優しく起こしてくれた声。
(…どうだろう?)
慣れない手つきで更に操作し、アラームを一分後にセットしてみたら。
「朝ですよ」
(やった…!)
ハーレイの声とは似ても似つかない自分の声。けれど夢のアラームへの記念すべき偉大な一歩を刻んだことには間違いない。次にハーレイが訪ねて来たなら、この手順。大好きなハーレイの声で目を覚ますために、あの穏やかな声を吹き込んで貰わなければ。
ハーレイが家に来てくれた時は、とにかく目覚ましに音声データ。忘れないように心にメモして待つこと二日、土曜日の朝にハーレイが門扉の脇のチャイムを鳴らした。朝と言っても早過ぎない時間。ブルーの家の朝食が済んで、母が後片付けを終える頃合い。
「ブルー、おはよう」
母の案内で二階に上がって来たハーレイを、ブルーは大喜びで部屋に迎え入れた。首を長くして待ったハーレイの来訪。母がお茶とお菓子をテーブルに置いて去ってゆくなり、嬉々として頼む。
「ねえ、ハーレイ。音声、入れてよ」
「音声?」
「この時計、アラームの音を替えられるんだよ。ハーレイの声で起きたいな、って思うんだけど」
目覚まし時計を持って来てテーブルに置くと、ハーレイは「ふむ…」と腕組みをした。
「なるほどな。「起床!」でいいのか?」
「えーっ!? そんなんじゃなくて…」
「じゃあ、どんなのだ」
「…朝ですよ、とか…。起きて下さい、だとか…。前みたいなヤツ」
前とはソルジャー・ブルーだった頃。しかしハーレイは快諾するどころか「はあ?」と呆れ顔になってしまって。
「前ならともかく、なんで今のお前に向かって敬語で起こさにゃならんのだ」
子供相手には「起床」で充分、というのがハーレイの言い分。
「実際にお前を起こすにしたって、起床と叫ぶか、布団を引っぺがすくらいのことだな」
「そうなるわけ?」
「当たり前だろうが、優しく揺り起こす義務などは無い。言っておくがな、俺は教師なんだぞ」
生徒を相手に指示を飛ばす立場にいる自分だから、ブルー相手でも容赦はしない。そう言われて悔しくなってきたから、ブルーは負けずに言い返す。
「だったら、恋人の立場で入れてよ! 前のとおりじゃなくていいから!」
「起きろ」でもいいし、「朝だぞ」でもいい。優しく恋人を起こして欲しい。
強請るブルーに、ハーレイが「お前なあ…」と小さな溜息をついた。
「起床と叫ぶ声ならともかく、恋人に言うような声って、お前…。お母さんに聞かれたらどうするつもりだ、俺たちの仲を勘ぐられるかもしれないぞ?」
「…そっか……」
それは考えていなかった。確かに父や母が聞いたら変だと思われてしまうかもしれない。
でも…。
諦め切れないハーレイの声で喋る目覚まし。「起床!」と叫ぶ教師ではなく、恋人の声で優しく起こしてくれる目覚まし。
暫し考えた末に、名案がポンと頭に浮かんだ。
「だったら、夜中に鳴らすから! そしてアラームと切り替えるんだよ、朝用のを」
この方法なら大丈夫。ハーレイの声に起こして貰って、翌朝に備えて目覚ましをセット。
素晴らしいアイデアだという気がしたのに、ハーレイは「駄目だな」と即座に却下してくれた。
「夜中に起きるなど論外だ。睡眠不足になってしまうぞ、子供はしっかり寝ないとな」
「…ダメなの?」
ハーレイの声で起きてみたいのに。揺さぶる腕はついていなくても、あの声だけで嬉しいのに。何かいい方法は無いのだろうか、と更に考えを巡らせてみて。
「それじゃ、いい夢が見られそうな声を吹き込んでよ。ゆっくり眠れとか、おやすみだとか」
そういう声なら夢は途切れはしないだろう。朝までぐっすり眠れる上に、きっとハーレイが出る夢もつく。それがいいな、と思ったけれども…。
「お前、目覚ましは何に使うか知ってるか? そんなのでどうやって起きる気だ」
馬鹿か、と遠慮のない言葉を浴びせられた。ハーレイの鳶色の瞳が笑っている。
「…うー…。起きる気はあるけど…。あるんだけれど…!」
けれどハーレイの意見は正しい。いい夢を見られる音声が流れる目覚ましでは目を覚ませない。起きるためには相応しい音やメッセージが欠かせないわけで…。
「ねえ、ハーレイ。二段構えの目覚ましっていうのは無いのかな…」
「ん? 最初の音で起きなかったら次の音、ってタイプのヤツか? あるにはあるが…」
ハーレイはブルーの目覚まし時計を手に取り、あちこち触って調べてみて。
「この時計にはそういう機能は無いようだな。もう一つあったら出来るだろうが」
「もう一つ?」
「時計を二つセットするのさ、先に鳴る分と二度目の分だな」
「ぼく、買う!」
二つ目の目覚まし時計を買うよ、とブルーは張り切って宣言した。でなければ二段構えになった目覚まし時計。一つ目の時計はハーレイの声で囁いてくれて、二つ目の時計のアラームで起きる。いい夢が見られるハーレイの声を眠っている間に聞くための仕掛け。
これで完璧、と得意満面のブルーだったが、ハーレイはクッと喉を鳴らした。
「おいおい、お母さんに何と言い訳するんだ? 目覚ましが二つに増えた理由を」
十四歳の小さなブルーは寝起きがいい。体調が悪い時を除けば、目覚ましの音で起きないことは皆無と言っても良いほどだったし、目覚まし時計は一つで足りる。
自分のベッドで眠るようになり、自分で起きろと言われた時に父が買ってくれた目覚まし時計。それを今日まで使って来ていて、増やさねばならない理由など無い。もしも二つ目の時計を買って来たなら、母は不思議に思いそうだけれど。
「部屋の掃除はぼくだから!」
掃除をするのは自分なのだし、気付かれることはないだろう。
そう思ったのに、ハーレイは「さてな?」と揶揄うような視線を向けて来る。
「お母さんは絶対に部屋に来ないのか?」
「来ないよ!」
ブルーは自信を持って答えた。この部屋はブルーの小さなお城。幼かった頃はともかくとして、今は自分で掃除をするから完全に独立した空間。母は掃除しに入って来ないし、学校へ行っている間にコッソリ覗きに来たりもしない。小さなブルーは優等生で、隠し事などしないのだから。
「ほほう…。そのお母さんなら、さっきお茶を持って部屋に来ていたようだが?」
「…そ、それは…」
否定出来ないその事実。ハーレイが畳み掛けて来る。
「ついでに、お前が寝込んでいる時。お母さんが世話をしに出入りするんじゃなかったか?」
「……そうだけど……」
さっき「絶対」と言い切った手前、ブルーはどんどん俯くしかない。ブルーのお城は実際の所は出入り自由で、母ばかりか父も入って来る。体調を崩して寝込んだ時には両親が交代で様子を見に来てくれるし、食事の世話もしてくれる。
ベッドの脇に椅子を持って来て心配そうに座る両親。そんな二人が増えた目覚ましに気付かないとは思えない。気付けば当然、何故増えたのかと訊かれてしまう。
(…ハーレイの声を入れて貰ったなんて言えないよ…)
それも起きるための音声ではなく、安眠用。両親が知ったら不審がられる。どうしてハーレイの声で眠りたいのか、理由をきっと追及される。
(……恋人だなんて、絶対、言えない……)
言ってしまったら、知られたら、終わり。ハーレイと部屋で二人きりの時間は二度と過ごせず、下手をすれば自由に会えなくなる。会えたとしても監視付き。父か母かの目が光っていて、会話の中身も全て聞かれてしまうだろう。
(…それは困るよ…)
目覚まし時計を二つ持つのは無理だった。大好きなハーレイの声で眠りたかったのに…。
どうやら夢は叶いそうにない、ハーレイの声を眠りの中で耳にすること。
叶わないなら、せめて本来の目覚まし時計の使い方。ハーレイの声で目覚めてみたい。父や母が聞いても安全なもので、なおかつ幸せな朝を迎えられるようなメッセージ。
「ハーレイ、目覚ましなら入れてくれるんだよね?」
「恋人用でなくていいならな」
恋人用のはお断りだぞ、とハーレイが怖い顔をする。
「さっきも説明したと思うが、お前のお父さんとお母さんに聞かれたら大変だからな」
「…分かってる…。でも、目覚まし用って、「起床」だけなの? ホントにそれだけ?」
もう少し何か欲しかった。「朝ですよ」ほどでなくても、「朝だぞ」でいい。恋人らしい甘さは無くていいから、穏やかに起こしてくれればいい。しかしハーレイが返した言葉は。
「起床と言ったら、それだけだが。…グラウンド五周とか、つけてやろうか?」
俺の学生時代の基本だ、とハーレイは右手の親指を立てた。
「柔道にしても水泳にしても、よく合宿があったしな? そういう時には朝は「起床!」だ。凄い大声で叩き起こされて、着替えたら直ぐに走るんだぞ。懐かしの朝というヤツだ」
それで良ければ入れてやる。どうだ?
寄越せ、と時計に褐色の手が伸ばされたけれど、ブルーは「やだ」と背後に隠した。
「じゃあ、目覚ましには使わないから、何か甘い台詞。コッソリ聞くんだ」
アラーム代わりに使わなければ、両親は決して気付かない。ハーレイの声が聞きたくなった時、目覚まし時計に録音されたメッセージを聞く。そうしておこう、と譲歩したのに。
「まだ言ってるのか。起床以外は絶対に入れん」
入れてやらん、とハーレイの態度は冷たかった。こうなったら梃子でも動かないのがハーレイであって、キャプテンだった頃からそうだ。
(…ケチなんだから…!)
両親にバレそうな使い方はブルーだって怖いからしたくない。だからハーレイの声を目覚ましに入れて一人で聞くだけ、ささやかな秘密の宝物。ハーレイの声で囁く時計。
(…ハーレイが吹き込んでくれないんだったら、録音してやる!)
この部屋で何度となく恋人同士の会話をして来た。キスは駄目だと叱られるけれど、ハーレイの甘い言葉だけなら何度も聞いた。
(俺のブルーとか、俺の小さなブルーとか…)
そんな言葉を拾えればいい。最初に押すのはこのボタン。それでマイクのスイッチが入る。
ブルーは背後に隠した目覚まし時計を手探りでコソコソ操作した。ハーレイは気付いていないと思う。言いたいことだけ言ってくれた後は、のんびり紅茶を飲んでいるのだし…。
「ねえ、ハーレイ?」
此処からは恋人同士の時間。
甘える口調で呼び掛けながら、マイクのスイッチをオンにした。さあ、ハーレイはどんな言葉を自分に向けてくれるだろう?
ドキドキと跳ねる心臓は期待に高鳴り、耳もウサギならピンと立たんばかり。補聴器の要らないブルーの耳に、スウッとハーレイが息を吸い込む音が聞こえて。
「起床ーっ! グラウンド、駆け足、五周!」
「ええっ!?」
あまりのことに、ブルーはマイクをオフにするのを忘れた。「ええっ!?」と叫んだ自分の声も録音されたに違いない。慌てふためいてスイッチを切り、目覚まし時計を机に乗せる。
「…なんでバレたの?」
「バレないとでも思っていたのか、子供のくせに」
ハーレイの大きな手が目覚ましを掴み、無情な音声が再生された。「起床!」とブルーの悲鳴のセットもの。ガックリと項垂れるブルーの姿に、ハーレイが「やれやれ」と頬を緩める。
「何をしようと考えてるのか、すっかり顔に出ていたぞ。…そういう間抜けな所もアレだが、もうちょっと器用に出来んのか。手でコソコソとやってりゃ分かる」
サイオンはどうした、と言われたけれども、今のブルーはサイオンを上手く操れない。マイクのスイッチを入れるどころか、自分の背後がどうなっているかも分からない。それでは時計を弄れはしないし、だからこそ手を使い、見抜かれたわけで…。
「……ぼくが不器用なの、知ってるくせに……」
恨みがましく呟いてみたら、ハーレイは「まあな」と笑みを浮かべた。
「その不器用さも俺は意外に好きなんだがな? 前のお前みたいにならなくていいさ、不器用だと安心してられる。…一人でメギドへ飛んで行ったり出来ないからな」
「……もうやらないよ」
約束するよ、とブルーはハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「ハーレイを置いて行ったりしないよ、それは本当。…それは約束するけれど……」
こっそり録音はしたかった。大好きでたまらないハーレイの声。
バレてしまって台無しになった分の代わりに、今度はもっと上手に録りたい。
どんな言葉でもかまわないから、優しくて幸せになれる声…。
「…そうか、俺を置いては行かないんだな」
いいことだ、とハーレイが満足そうに微笑む。
「前の俺を置いて一人で逝っちまった分はキッチリ反省してるってわけだ」
「…うん。ハーレイのことは大好きだから、もうやらない」
「よし。なら、御褒美をやらんとな。目覚ましを貸せ、一つ入れておいてやる」
「ホント!?」
ブルーは顔を輝かせた。御褒美に入れて貰える声なら、きっと素敵なメッセージだろう。
聞くだけで心が温かくなるような、ハーレイからの御褒美の言葉。甘くて優しい幸せな言葉。
「どんなの? 何を入れてくれるの?」
「慌てるな。思い切り元気になれるヤツだぞ、これで爽やかに目を覚ましてくれ」
「え?」
待って、と言う前にハーレイの手がマイクをオンにした。肺いっぱいに空気を吸い込んで…。
「起床ーーーっ!!!」
ビリビリと窓のガラスが震えそうな声。
カチンとボタンを押し込んでマイクをオフにし、「どうだ?」と得意げに笑うハーレイ。
泣きそうな顔で「酷いよ!」と抗議するのが精一杯だった小さなブルー。ハーレイは「子供にはこれが一番なのさ」と取り合ってくれず、暫く後にお茶のおかわりを持って来た母の言葉が更なる一撃をブルーに与えた。
「あらっ、目覚まし…。ハーレイ先生のさっきの声って、それだったのね?」
明日から元気に起きられそうね、と母がブルーの肩に手を置く。
「ハーレイ先生に起こして貰えば身体も丈夫になるわよ、きっと」
「私もそういう気がしましてね…。全力で叫ばせて頂きました」
グラウンド五周も付けましょうか、と母と笑い合っているハーレイ。母は「入れて貰えば?」とグラウンド五周なる台詞の追加を推す有様だし、目覚まし時計は悲惨なことになりそうだった。
(…なんでこういうことになるわけ?)
ハーレイの甘い声で目覚めたいと思っただけなのに。
優しく起こして欲しかったのに、これではまるで運動部員。
(…朝ですよ、とか…。起きて下さいとか、そういう台詞が欲しかったのに…!)
脹れっ面をしようにも、目の前に母。ハーレイを睨むことすら出来ないブルーは気付かない。
恋人の甘い言葉で目を覚ますには、今の自分は幼すぎるということに。
いつか本物のハーレイの声に起こして貰える時が来るまで、気付きそうもない小さなブルー。
そんなブルーが「起床!」の声を目覚ましに使って起きる日もまた、来そうになかった…。
目覚まし時計・了
※ハーレイの声で優しく起こされたいブルーですけど…。そう簡単にはいかないようです。
入れて貰った「起床ーっ!」の音声、使う日なんか来るんでしょうか…?
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