シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「あれっ?」
美味しそう、とブルーの視線はテーブルの上に置かれた缶に惹き付けられた。金色をした平たい円形の缶。蓋の部分に刷られた写真が目を惹いた。緑色の葉と、雪のように白い塊が幾つか。
「なんだかお砂糖の塊みたい…」
口に入れればフワリと溶けそうなコロンとした塊。真っ白な雪を思わせる塊の群れに添えられた緑の葉っぱが瑞々しい。白い雪は砂糖の塊に見えるけれども、何だろう?
「…甘いのかな?」
蓋を開けてみたらミントの爽やかな香りが立ち昇ったから、ミントキャンディーなのだと直ぐに分かった。硬いのか、それとも柔らかいのか。見た目では知れない砂糖の塊を思わせるそれ。
もっと甘い香りの食べ物を想像したから蓋を開けてみたが、何故かミントもいいなと思った。
清しい香りに誘われるままに一個つまんで口に入れると、ふわっと儚く溶けてしまって。
(…キャンディーじゃないの?)
さながらミントの味と香りを纏った砂糖の塊。淡雪みたいに舌の上でほどけた。
「お砂糖なのかな?」
紅茶にでも入れるものだろうか、と缶を眺める一方で。
(……なんだろう?)
妙に懐かしい感じがした。初めて味わった筈だというのに、心がほんのりと温かくなる。前にもこれを食べたのだろうか?
(小さい頃かな?)
とても素敵な思い出と結び付いていそうな優しい感覚。
けれど考えても思い出せないから、記憶の糸口を手繰り寄せようと、もう一つ口に入れてみる。ほろっと崩れる甘い塊とミントの香りに湧き上がってくる幸福感。
ミントの香りか、この甘さなのか。余韻だけを残して瞬く間に溶ける、舌触りなのか。この上もない幸せの記憶に繋がっているものはどれだろう?
それに幸せとは何だったろう?
(…分かんない…)
思い出そうと、もう一つ摘む。塊がホロリと形を失うその瞬間に幸せを確かに感じるけれども、掴もうとすると何処かへ消えて無くなってしまう。だから…。
幼い頃に読んだ、古い古い童話。目の前に浮かんだ幻を消すまいとして、沢山のマッチを次々と燃やした貧しい少女の物語。そのマッチ売りの少女よろしく、ブルーも幸せの記憶を追った。
金色の缶の蓋を開けたまま、白い塊を一つ、また一つ。それでも掴めない幸せの記憶。ミントの味と香りを纏った甘い塊がブルーの心に幸せだけを置いてゆく。
二つ、三つと舌の上に乗せ、気付けばずいぶん減ってしまった白い塊。金色の缶に一杯詰まっていた塊は今や三分の二くらいとなって、明らかに誰かが食べたと分かる減りっぷり。しかも家には母の他にはブルーしかおらず、父の帰宅はもう少し後。
(…ぼくって、こんなに食べちゃった…?)
口溶けの良い塊だったから、ついつい幾つも口に運んだ。記憶を追うのに夢中になった。しかし大量に食べた事実は缶の中身で一目瞭然。
(…晩御飯、入るといいんだけれど…)
それからママとパパにバレませんように。
祈るような気持ちで缶の蓋を閉め、抜き足、差し足。缶が置いてあったダイニングを抜け出し、二階の自室に急いで戻った。勉強机の前に座ると、頬杖をついて考える。
(…何だったんだろう、あの塊…)
幸せの記憶と結び付いている筈の、甘くてミントの香りがするもの。金色の缶も、美味しそうと眺めた蓋の写真も記憶には無い。それでも自分は知っている。何処かであれに出会っている。
(…誰かに貰って食べたのかな?)
一所懸命に記憶を探っていたら、母が「晩御飯よ」と呼びに来た。ダイニングに行けば、金色の缶。テーブルの端に置かれた、あの缶。それだけでは記憶を辿れないけれど、あれの中身が…。
「ブルー? さっきから少しも減っていないわよ」
母に注意され、慌ててポタージュスープを掬った。スープ皿の底が見えてくる頃には胃が早々と降参を叫ぶ。食が細いブルーの食事量に合わせて少なく盛られた白身魚の香草焼きも、パンすらも入りそうにない。
「…ブルー。そこのキャンディー、食べたでしょう?」
母がブルーを軽く睨んで、缶の中身の減り具合を父に報告したから言い訳不可能。夕食前に沢山食べるからだ、と二人がかりで叱られた。
「おやつの食べ過ぎと変わらないのよ、あんなに食べて」
「沢山食べるなら食事でないとな? おやつでは背が伸びないぞ」
「……ごめんなさい……」
シュンと項垂れ、両親に謝ったブルーだけれど。
(…ホントに覚えているんだけどなあ、あのキャンディー…)
うっかり沢山食べ過ぎたほどに幸せの欠片を運んで来てくれた、ミントのキャンディー。何処で食べたのか、誰に貰ったのか、どうにも気になってたまらない。
幸せの記憶に繋がっている味は、いったい何処にあったのだろう?
懐かしいと呼ぶには曖昧に過ぎる記憶だけれども、追い続けずにはいられない。両親に叱られたことなど些細なことで、どうしても知りたいキャンディーの記憶。
パジャマに着替えてベッドに入っても、ブルーは幸せの記憶を探す。明かりを消した部屋の暗い天井を見上げ、あのキャンディーの味と舌触りとを思い出してみる。
(ミントのキャンディー…)
口に入れたら砂糖の塊のようにフワッと溶けた。舌の上から消えてしまったキャンディーの味が口の中に広がり、ふんわりとミントの爽やかな香り。
幾つも幾つも口にしたキャンディーの名残りを求めて舌を少しだけ動かした時。
(あっ…!)
思い出した、とブルーは瞳を見開いた。
(……ハーレイのキスだ……)
今の生での記憶ではなく、ソルジャー・ブルーだった前世の記憶。ミントの香りを纏ったキス。
(…ぼくが酔っ払った次の日のキスだ…)
前の生のブルーは酒に弱くて、僅かな量でも二日酔いすることが多かった。それでもハーレイが酒を好むから、と飲みたくなって強請った挙句に二日酔い。頭痛もしたし、胸やけもした。そんな時にハーレイがしてくれたキス。
「ミントは胸やけに効くのですよ」と、口移しにミントの香りを貰った。ほんのりと甘く感じたミントはキャンディーだったのか、シロップなのか。すうっと身体に染み込んだ香り。
(そうだ、ハーレイのキスだったんだ…)
そう思うともう、たまらなくなって。
今はハーレイに禁じられているキスの味だと思い出してしまうと、それが欲しくなって。
こっそり起き出して、両親も寝静まった家の中を階下へと下り、常夜灯の明かりに浮かぶ金色の缶からもう一個だけ。口に入れると淡雪みたいに溶けて消えるから、そうっと手に持って部屋へと戻る。
ベッドにもぐって、叱られそうだけれど、歯磨きを済ませた口にミントのキャンディー。
ほろりと崩れる甘い塊が、思わず涙が零れそうなほどに幸せな記憶を運んで来た。
(…ハーレイのキスだ…)
ああ…。なんて幸せなんだろう。
ハーレイ、ぼくは思い出したよ、君がくれた優しいキスの味を……。
(ねえ、ハーレイ。ミントのキャンディーって、覚えてる? でなきゃ、シロップ…)
問い掛けたい気持ちをブルーはグッと我慢した。
せっかく思い出したハーレイの優しいキスの味。喋ったら幸せが減ってしまいそうだから、胸の奥に大切に仕舞い込む。
(…ハーレイ、絶対、何か言うんだ)
ブルーにキスを禁じたハーレイ。その味を思い出したと言おうものなら、勘違いだと否定されて終わるか、笑われるか。ブルーと一緒に懐かしい思い出に浸ってくれよう筈もない。
(でも、ハーレイのキスの味だしね?)
ミントの香りと、ふうわりと溶ける砂糖菓子が残してゆく甘さ。
あの組み合わせが思い出させた。ごくごく普通のミントキャンディーでは上手くいかない。舌の上で儚く消えるからこそ、ハーレイのキスだと気付くことが出来た。硬いキャンディーを口の中で転がしていても、ハーレイのキスには結び付かない。
(…あのキャンディーだから思い出せるんだよ、ハーレイのキス…)
口に入れてから溶けて無くなるまで、ほんの少しの魔法の時間。ハーレイがくれたミントの味のキスと、そのキスを貰った時の幸せが胸に蘇る時間。
それが欲しくて金色の缶を開け、大切に一つ、手の中に握って自分の部屋へ。
食べ過ぎてまた両親に叱られないよう、もっと欲しいけれど一つだけ。一つだけにしておこうと決めているのに、我慢できずに缶の蓋を開ける。
一日に二つくらい、きっと父には叱られない。三つでも母は叱らないと思う。きちんと食事さえ食べているなら四つでも叱られないと思うし、五つ食べても大丈夫…。
そんな調子で食べていっても、暫くの間は缶が空になる度に新しい缶が代わりに置かれていた。両親も気に入りの味なのだろう。だから安心して食べ続けていたブルーだけれど。
両親が食べる以上の量をブルーはせっせと食べていたらしく、キャンディーばかりを食べるのは身体に悪い、と母に言われて金色の缶は姿を消した。
(…ハーレイのキスのキャンディー、なくなっちゃった…!)
もうあの味が無いだなんて、と泣きそうになる。テーブルの上から消えてしまった金色の缶。
でも両親から時折、ふんわり漂うミントの香り。
何処かに缶はある筈だけれど、ブルーのサイオンでは見付け出せない。買いに行こうにも売っている店が分からない。近所の食料品店には置いていなかった。町の大きな食料品店だろうと思ったけれども、どの店か見当もつかないし…。
ダイニングのテーブルから無くなってしまった、ハーレイのキスの味のキャンディー。
どうにも諦めることが出来ずに、ブルーはとうとう直訴した。もちろん両親を相手にではない。あのキスをくれた張本人のハーレイが家を訪ねて来た時、面と向かって切り出した。
「ハーレイ、キャンディーのお店、知ってる?」
「…キャンディー?」
ブルーの部屋でテーブルを挟んで向かい合ったハーレイが怪訝そうな顔をする。
「うん、キャンディー。知ってたら買って来て欲しいんだけど…」
「キャンディーくらい何処にでも売っているだろう?」
「ちょっと特別なキャンディーなんだよ、近くのお店には置いてないんだ」
「お母さんに頼めばいいだろうが」
ハーレイの台詞は正論だったから、ブルーは仕方なく白状した。身体に悪いと隠されてしまい、何処にあるのか分からないのだ、と。
「食べ過ぎて隠されてしまっただと? キャンディーをか?」
感心せんがな…、とハーレイの眉間に皺が寄る。腕組みまでして咎める顔つき。
「沢山食べて大きくなれとは確かに言った。しかしだ、菓子は食事じゃないぞ」
キャンディーの代わりに三食しっかり食べることだ。
そうすれば空腹感は消えるし、キャンディーの食べ過ぎなんていう不健康なこともしなくなる。
頑張って食べろ、とハーレイは厳しい顔をするのだけれど、ブルーの方も負けてはいない。
「でも、欲しいんだもの」
右手を伸ばしてハーレイの腕に触れ、「こんなのだよ」と直接イメージを送り込んだ。いつもはサイオンを使わないから、ハーレイも油断していたらしい。何の遮蔽もされることなく、ブルーが注ぎ込んだ金色の缶と中身のイメージ。ついでにしっかり、ミントの味のキスの記憶も。
「ちょ、お前…!」
ハーレイの顔色がみるみる変わって、赤く染まった頬の色。
してやったり、とブルーは得意げに微笑んだ。
「買って来てよ、これ。…そしたらキスは大きくなるまで我慢するから」
上手くいった、と本当に嬉しくてたまらない。前の生と違ってサイオンの扱いが不器用になってしまったブルー。優れた遮蔽能力を持つハーレイに勝てるかどうかが心配だったが、この様子なら大丈夫。
ハーレイはきっと、キャンディーを探しに出掛けてくれるだろう。
自らが禁じたキスの代わりに、自分のキスを思い出させるミントの味のキャンディーを…。
ブルーが見付けたミントのキャンディー。ハーレイのキスと同じ味がする宝物。
どうしても欲しくて仕方ないから、あのキスをくれたハーレイに頼むことにした。立派な大人で車にも乗れて、買い物にも出掛けてゆくハーレイ。料理も自分でしているのだから、食料品店にも詳しいだろう。幾つか回って探してくれれば何処かで扱っている筈だ。
「ね、ハーレイ? どんな缶か分かれば探せるでしょ?」
「…それはそうだが、どういうつもりだ」
渋面を作るハーレイに向かって「キスの味だよ」と笑顔で答える。
「ハーレイのキスと同じ味だって思い出したら、食べたくて我慢出来なくて…。幾つ食べてもまた欲しくなって、パパとママに隠されちゃったんだ。キスの代わりに買ってよ、これ」
「……お前が大きくなったらな」
前のお前と同じくらいに、というお決まりの文句。ブルーは驚き、「なんで!?」と叫んだ。
「なんで大きくならなきゃダメなの? キャンディーなのに! キスじゃないのに!」
「忘れたのか、お前? あれはどういうキスだったのか」
「えっ…?」
「前のお前が酔っ払った時しかしていない。…要するに酒を飲んだ時だな」
そして二日酔いになった時だ、とハーレイは大真面目な瞳で言った。
「今のお前に酒は飲めないし、飲ませられない。まだ飲める年じゃないからな。…未成年のお前は酔っ払うことも二日酔いになることもないし、こういうキスとは無関係だ」
つまりだ、ミントキャンディーの味がするキスは我慢以前の問題ってことだ。
今のお前には必要ない、と突き放されてしまったけれど。
「でも…! でも他に思い出せないんだってば、キスの味が…!」
ブルーは必死に食い下がった。あのキャンディーだけがハーレイのキスと結び付く味で、あれを食べれば幸せな気分になれるのだ、と。あれさえあればキスを我慢する日々であっても、なんとか乗り越えられそうなのだ、と。しかし…。
「…お前なあ…」
何歳なんだ、と例によってお決まりのハーレイの言葉。ブルーは「十四歳…」と小さく返す。
「ほら見ろ、たったの十四歳だ。その年でキスを我慢と言ったらキスが呆れる」
「だけど…!」
「前のお前は関係ない。キャンディーが欲しいのは今のお前で、十四歳のお前にそれは要らない」
キスもキャンディーもどちらも要らない、とハーレイはフフンと鼻で笑った。
「前のお前ならキスもミントも必要だったさ、酔っ払うしな? しかしお前はどっちも要らない。キャンディーは潔く諦めるんだな」
十四歳の小さなブルーが、たまたま見付けたキスの味。ハーレイのキスの味のキャンディー。
ところが肝心のハーレイ曰く、そのキスの味は小さなブルーには要らないもの。酒を飲むことが出来て二日酔いになる、大人のブルーにしか必要ないもの。
「酷いよ、ハーレイ!」
ブルーは抗議の声を上げたが、ハーレイが動じるわけもない。悠然と腕を組み、余裕たっぷり。
「俺は酷いとは思わんが? …そもそもお前が大きければだ、キャンディーなんぞに頼らなくても本物のキスが出来るんだしな? それも出来ない子供のくせにだ、キスの味など知ってどうする」
「本当に思い出したんだもの!」
「どうだかなあ…。挙句にキャンディーの食い過ぎで隠されてしまった辺りがなあ…」
立派に子供だ、とハーレイは組んだ腕をほどくと、右手の指先でブルーの額をピンと弾いた。
「いたっ!」
「そうさ、お前はこういう扱いをされる子供だ。もしもお前がきちんと育った大人だったら、額を弾く代わりにキスだな。…キスの味がするキャンディーなんぞを強請られたらな」
其処でキャンディーを買いに出掛ける馬鹿はいない、とハーレイが笑う。
キスの味がするキャンディーが欲しいと恋人が言うなら本物のキス。まずはキスから、それでもキャンディーが欲しいと言われて初めて買いに出掛けるものなのだ、と。
「その辺のことも分からないくせにキャンディーが欲しくて強請ったんだろうが、今のお前は? 要するにキスの味がするキャンディーとやらは、お前にはただのキャンディーなのさ」
「違うよ、あれはホントにハーレイのキスの味なんだってば!」
「…百歩譲ってそうだとしてもな、二日酔いの時のキスだろう? 酒も飲めないお子様のお前には早過ぎる味ということだ。そのキャンディーは諦めておけ」
でなければ普通のミントキャンディーにしろ。
それなら何処にでも売っているしな?
ブルーの訴えはハーレイに笑われておしまいだった。前にブルーが危惧したとおりに、共に昔を懐かしむどころか徹底してお子様扱いしてくれた末に普通のミントキャンディーだなんて…。
(…ハーレイのキスの味だったのに…)
子供扱いされても大好きでたまらないハーレイ。そのハーレイがくれたミントの味のキス。
(あのキャンディーの味が一番近いのに…)
帰宅するハーレイを見送った後、自室で脹れっ面になったブルーだったが、ふと思い出す。
ハーレイのキスで貰ったミントはキャンディーだったのか、シロップなのか。ミント風味の他のものなのか、それを訊くのを忘れていた。
(…忘れちゃってた…!)
もしかして、先にそっちを訊くべきだった?
それも訊かずにミントのキャンディーにこだわった辺りもいけなかったとか…?
(……昔の話をするんだったら、あれは何かって訊かなきゃ昔話にならないよね……)
どうやら自分は間違えたらしい。ハーレイが言うように立派なお子様、目先のことしか見えない子供。けれど今頃気付いても遅い。ハーレイはとっくの昔に家に帰ってしまったし…。
(…ど、どうしよう…。もう訊けないよね? 訊いても笑われるだけだよね…?)
ミントの味がしたハーレイのキス。どうしてミントの味がしたのか、今となっては謎のキス。
でも、ハーレイのキスの味が欲しい。金色の缶に入ったキャンディーが欲しい。
(…通信販売はあるんだろうけど、家に届くからママにバレるし…)
こっそり探して盗み食いしようにも、隠し場所が何処か分からない。
(いつかはママも隠してたこと、忘れちゃうかもしれないけれど…)
その日がやって来るのが早いか、ハーレイが本物のキスをくれるようになる日が早いのか。
いったいどちらが早いのだろう、と真剣に悩むブルーは正真正銘お子様だった。
どう考えても、金色の缶がブルーの前に再登場する方が早いだろう。
もっとも、それまでミントの味がしたハーレイのキスを覚えているかどうかが怪しい。
摘み食いをして、また最初から「なんで?」と幸せの記憶を追求しそうな小さなブルー。
そんなブルーが本物のキスを貰える日までは、まだまだ幸せな我慢が続きそうだった……。
ミントの記憶・了
※ハーレイのキスの味のキャンディー、と沢山食べ過ぎて、缶を隠されてしまったブルー。
可哀相ですけど、まだまだ子供な証拠です。本物のキスを貰うには早すぎですね。
ミントのキャンディーにはモデルがあります、シンプキンのアフターディナーミント。
オンラインで買える所も色々、食べてみたい方は是非どうぞv
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「ほら、ブルー。こんなのが出来ているらしいぞ?」
ハーレイが持って来た一枚の紙を覗き込んだブルーは仰天した。カラーでプリントされた紙には青い目玉が溢れている。小さなものから大きなものまで、丸いものやら雫形やら。
今日は休日、ハーレイと二人、ブルーの部屋で向かい合って座っているのだけれど。
「なに、これ?」
「メデューサの目さ。覚えていないか?」
「…メデューサの目?」
何処かで聞いた言葉のような、と改めて紙に刷られた沢山の目玉を眺めてみて。
「あっ…! もしかして、これってヒルマンが言ってた…」
「そうさ、前の俺たちの服の赤い石だ」
あの石の元だ、と微笑むハーレイがプリントアウトしてきた青い目玉は『地球の歩き方』という人気のデータベースから引っ張り出して来たものらしい。
地球の様々な地域へ気ままな旅をする人が情報を得たり、自分が得た知識を付け加えたりもするデータベース。ブルーも存在を知ってはいるが、十四歳の子供には少し敷居が高すぎた。旅の計画すらも立てられない上に、旅行の資金だって無い。
「ハーレイ、此処はよく見ているの?」
「ああ。前の記憶を取り戻す前から、気が向くままにな。適当にデータを引っ張り出すだけだが、これは違うぞ。ヒルマンの話を思い出したから調べてみたんだ」
確かこの辺りの話だったか、とアクセスしてみたら、こいつを見付けた。
地域の独自性にこだわる今の地球なら、きっと作っていると思った。
「こいつが昔のトルコの辺りで、こっちはギリシャだ。写真だけ抜き出して来たんだが…」
凄いだろ、とハーレイが指先でなぞる画像の青い目玉は魔除けのお守り。見た人を石に変えると伝わる遠い昔の神話に出て来る怪物、メデューサの目を象ったもの。
邪視と言ったか、悪意の籠もった呪いの視線を弾き返すための目玉のお守り。悪意のある視線を弾き返すには、相手を石にしてしまうほどのメデューサの目が相応しい。
「前の俺たちが生きた時代には無かったのにな? 人間ってヤツは逞しいよな、地球と一緒に文化まで復活させるなんてな」
「うん…。本当に凄いね、人は。あの頃、ぼくたちは人間扱いじゃなかったけれど」
「その俺たちが今じゃ立派な人間ってヤツだ。分からんもんだな」
ついでに二人で青い地球まで来ちまったな、とハーレイは感慨深そうに言った。あの頃の地球の姿を思うと今の青い地球はまさに奇跡だ、と。
「そんな地球にだ、今はメデューサの目まであるんだ。俺たちはヒルマンの話と古い資料だけしか知らなかったのに、ちゃんと本物が出来てるんだぞ」
「そうだね。あの頃の地球には絶対に無いね」
地球は死に絶えた星であったし、其処に文化など残ってはいない。長い長い時を経て蘇った星に遠い昔のお守りだったメデューサの目が復活していた。それを思うと嬉しくなる。前の生の自分は辿り着けずに終わったけれども、メギドを沈めておいたからこそ青い地球まで来られたのだと。
「メデューサの目かあ…。凄いね、SD体制よりもずっと古いのに、伝わったんだ…」
「きちんとデータが残っていたのが大きいだろうな。…メデューサの目は復活したのに、俺たちの赤い石の理由は伝わらずに終わってしまったな…」
歴史の彼方に消えてしまった、シャングリラに居たミュウの制服の赤い石。誰の服にも何処かに必ず赤い色の石があしらわれていた。大部分のミュウとソルジャーの衣装は襟元に。キャプテンの服はマントの飾りに。長老たちの服でもマントの飾りで、フィシスは首飾りに赤い石。
赤い石が選ばれた理由は確かにあったのだけれど。
「だって、伝わらないと思うよ。…ぼくはジョミーにも話してないもの」
「そうだったのか!?」
ハーレイが驚いた顔をするから「うん」と頷く。
「訊かれなかったから、話さなかった。…恥ずかしいしね」
それに理由を説明したなら、ジョミーがソルジャーになった時点で石の色を緑に変えなくちゃ。
そんな面倒なことはしなくていい。それに…。
「ぼくに縛られる必要は無いんだよ。ただの赤い石でかまわないじゃない」
「…お前は最初からそう言っていたな。ヒルマンが赤を推した時から」
「青でも、緑でも、別にいいもの」
制服の色に似合っていればいい。
ブルーは心からそう思っていたし、そもそもは制服を作ろうという話だった筈。
それが何処かで変わってしまった。変わった理由がメデューサの目玉。
ハーレイが持って来てくれた紙に刷られた、沢山の青い目玉のお守り。遠い昔の地球のお守り。
あの時には多分、実物は博物館くらいにしか無かっただろうと思うけれども…。
シャングリラでの生活が軌道に乗って、制服を作る案が出た。全員一致で作ることが決まると、次はデザインの選定で。
男女で制服のデザインが変わってくるし、ソルジャーとキャプテン、長老も変わる。そこで皆の服に共通な何かが欲しいという話が出て、採用されたものが同じ色の石。ミュウのシンボル。
黒がベースの服が多いから、赤か、青か、緑がいいであろうと服飾部門の者たちが挙げた。
赤と青と緑。その中から一つを選んで使う。
アンケートで決めようかと考えていたら、長老たちを集めた会議でヒルマンが赤を推してきた。根拠になったのが、あのお守り。魔除けのメデューサの瞳のお守り。
青いメデューサの瞳の代わりに、ソルジャーであるブルーの瞳の赤。人類側の攻撃を全て退け、ミュウとシャングリラを守り続けるブルーの瞳。
その赤がいい、と唱えたヒルマンに長老たちが次々と賛同した。同じシンボルなら、意味のある色を使いたい。自分たちにとっての魔除けの色なら赤であろう、と。
「…ぼくはメデューサの青い目でいいと思ったのに…」
小さなブルーは不満そうに唇を尖らせた。
「でなきゃ緑でも良かったじゃない、服の色に似合えば良かったんだし」
「そう言うな。…俺たちは縋りたかったんだ。ヒルマンが言ったメデューサの目に。魔除けの力を持っていそうな、お前の赤い瞳の色に」
「ぼくの目にそんな力なんか無いよ。そう言ったのに…」
それにその話は皆にしないで、と口止めしたのに、みんなで喋ってくれちゃって…。そのせいで赤になっちゃったんだよね、ぼくたちの石。
「賛成しない方がどうかしていると思うがな?」
シャングリラ中のミュウたちの賛成を得て、制服にあしらう石は赤と決まった。そうして制服が作られて配られ、新しく船に来たミュウたちも制服と共に赤い石を貰った。しかし…。
「お前が恥ずかしがって「新しく来た者たちには絶対に言うな」と緘口令を敷いてしまったから、伝わらずに消えてしまったじゃないか。…どうして赤い石だったのかが」
まさかジョミーにも言わなかったとは、とハーレイが指で額を押さえる。
「せっかくの由来を次のソルジャーにも伝えなかったとは思わなかったぞ」
「いいんだよ。ただの赤い石、それだけでいい」
意味なんか何処にも無くていいんだ、とブルーはクスッと笑ったのだけれど。
「…ぼくの目かあ…」
ふと思い出した。いつもいつも、心を掠める前の生の記憶は右の手ばかり。
その手で最後にハーレイに触れた温もりを失くして、メギドで冷たく凍えた右の手。凍えた手が冷たいと泣きながら前の自分は死んでいったけれども、何故、ハーレイの温もりを失くしたのか。
キースに撃たれた傷の痛みが酷くて温もりが薄れ、右の瞳への銃撃が完全に奪い去っていった。最期まで抱いていたいと願った温もりを右手から奪い、消してしまった。
そう、右の瞳。
失くしたものはハーレイの温もりだけれど、ブルーは自分の右目も失くした。
「…ぼくの右目…」
「ん?」
ハーレイはもちろん右目のことを知っているから、心配そうな顔になる。
右の瞳がどうかしたのかと、問うような目を向けて来るから、ブルーは「平気」と微笑んだ。
「…キースに撃たれた、ぼくの右の目。…ぼくの目が本当に魔除けだったら、あの右目がお守りになってくれたかな…。みんなが地球まで行けるように…」
遙かな昔にヒルマンが話したメデューサの目を象った魔除けのお守り。
ガラスで作られていたという青いお守りは、災いから人を守って割れると聞いた。もしも自分の目がミュウたちの魔除けのお守りだったなら、砕かれた右の瞳は皆を守って割れたのだろうか。
「…メデューサの目は人を守ったら割れるんだよ。ぼくの右目もそうだったのかな…」
…それなら、いい。
撃たれた痛みで君の温もりを失くしたけれども、みんなのお守りになったのならば。
「…ブルー…」
ハーレイの手がそっと伸ばされ、ブルーの右の頬に触れ、瞳も包んだ。
「きっとお守りにして下さったさ、神様は……な。だから俺たちは地球まで行けた」
この瞳だ、と閉じた瞼の上から温かい指で優しく撫でられる。
此処に在ったソルジャー・ブルーの赤い瞳がミュウを、シャングリラを守ったのだ、と。
「…お前の瞳。前のお前の赤い瞳は、間違いなくミュウのお守りだったさ」
…もっとも、俺はそんな悲しいお守りを貰うよりかは、お前を連れて行きたかったがな…。
地球へ。
苦渋に満ちたハーレイの顔。
今もなお遠い昔に失くしてしまったソルジャー・ブルーを忘れられないハーレイの苦痛。それを知るから、ブルーは「ぼくは居るよ」とハーレイを見詰める。
ぼくは此処に居るよ、生きているよ、と。
「ねえ、ハーレイ。…ちゃんと着いたよ、青い地球へ。ぼくは地球まで来られたんだよ」
まだ小さいから、君が失くした時の姿じゃないけれど。
もう何年かしたら育つよ、ソルジャー・ブルーとそっくり同じに。
…だから待ってて。ぼくが大きくなるのを待ってて、前とおんなじ姿になるまで…。
ね? と首を傾げれば、「そうだな」と鳶色の瞳が和らいだ。
「…そうだな、お前は帰って来たな…。ついでに地球まで来たんだったな」
「うん。ハーレイと一緒に地球まで来たよ」
青い地球だよ、とブルーは窓の向こうの空に目をやり、それからメデューサの目が沢山刷られた紙を指先でチョンとつついた。
「本物の地球だから、本物のお守りがあるんだよ。メデューサの目の」
ぼくたちの赤い石みたいな、こじつけじゃなくて。
本当に本物の魔除けの目玉で、赤じゃなくて青い目玉のお守り。
「そうでしょ、ハーレイ? 本物の魔除けの目玉は青いんだものね」
「…それは違うな。お前の瞳も、俺たちにとっては本物だったさ」
これと何ひとつ変わりやしない、とハーレイは青いメデューサの目とブルーの赤い瞳とを何度も見比べてから。
「いや、これよりも強かった。本当に守ってくれたんだからな、俺たちを」
メギドだけじゃなくて、それまでの日々も。
お前の赤いその瞳こそが、俺たちの魔除けのお守りだった。
そんな理由を知らないヤツらが殆どを占める時代になっても、本物で最強だったんだろう。
俺たちを地球まで連れて行ったジョミーも、この目が見付けて来たんだからな。
…違うか、ブルー?
お前の赤い瞳が無ければ、どうにもこうにもならなかったさ…。
「…そうかなあ…?」
ブルーにはあまり自信が無かった。
メギドで失った右の瞳は効果があったかもしれないけれども、それは命と引き換えだったから。
普段、自分の顔に在っただけの瞳に魔除けの力など無さそうなのに…。
「お前が信じないと言うならそれでもいいがな、少なくとも俺にはそうだと思えた。…俺の服には二つあったが、お前がメギドに行っちまった後で何度眺めたか分からない」
こいつがただのお守りではなくて、此処にお前が居るのなら。
居るのならば俺たちを守ってくれ、と何度祈ったか分からない…。
もっとも、うっかり祈る度に謝る日々だったがな。
「なんで謝るの?」
「これ以上、まだお前に頼って縋るつもりか、と情けないじゃないか。…お前はおれたちを守って死んじまったのに、そんなお前に死んでなお重荷を背負わせるのか、と…」
そんなことは出来ん。…断じて出来ん。
たとえお前が許したとしても、俺自身が許せなかったんだ。
お前を守ると誓っていたくせに、守るどころか守られちまった。
そうしてお前は死んじまった…。
「お守りだったら当然だよ? 人を守ったら代わりに割れるとヒルマンは言ったよ」
「割れてしまったお守りに向かってまだ頑張れと言うようなもんだぞ、死んだお前に守ってくれと祈るのは。…何度となくやっちまったがな…」
すまん、とハーレイが謝るから。
多分、ぼくの瞳の色の石には少しくらい効き目があったんだろう。
お守りとしての効果はともかく、気休めとでも言うのかな…。
祈れば救われるような気持ちになるから、ハーレイは祈っていたんだと思う。
ぼくが死んだ後、あの石の意味を知っていたのは長老たちと、ごくごく僅かな年配者だけ。
彼らの支えになっていたなら、それで良かったと思っておこう。
ぼくの瞳の色に合わせて赤かった石。
メデューサの目のお守りを気取るだなんて恥ずかしいけれど、効いていたならそれでいい。
ほんの僅かな人だけのための魔除けの石でも、彼らの救いになっていたなら…。
でも…。
ぼくの瞳の色のお守りはシャングリラに居たミュウを守っただけ。
役目を終えたら時の彼方に消えたというのに、メデューサの目は残った末に復活を遂げた。
本当に本物のお守りだったから、青い目玉は地球の上に戻って来たんだと思う。
青い地球の上に青い目玉の魔除けのお守り。
ぼくの瞳よりずっと効きそうで、きっと本物の魔除けのお守り。
どのくらい効くのか、ちょっと試してみたい気もする。
「ねえ、ハーレイ。…このお守りって、よく効くのかな?」
青い目玉の写真を指差したら、「どうだかな?」と答えが返った。
「なにしろ魔除けのお守りだしな? 除けるものが無ければガラス玉だぞ、青いだけの」
「…んーと…。そういえば今って平和だったね、前のぼくたちの頃と違って」
「そうだろう? 特に出番を思い付かんが、欲しいのか?」
いつか買うか、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「前のお前は自分の瞳を魔除けにされちまってたし、今度はこいつに守ってもらうか? 現地じゃ人気の土産物らしいぞ」
「えっ、そうなの?」
「だから沢山あるんだろうが。…結婚したら此処へ行ってだ、似合いそうなヤツを探すとしよう」
家を丸ごと守るタイプの玄関用の大きな目玉から、手首につけるブレスレットまで。青い目玉のお守りはバラエティー豊かに揃うのだそうで、なんだか嬉しくなってきた。
シャングリラでは由来を思い出す度に恥ずかしくなった赤い石。あの頃の恥ずかしさを帳消しに出来るほど、青い目玉のお守りを沢山買い込んでドッサリ飾るのもいいかもしれない。
「おいおい、家じゅう目玉だらけか?」
「ぼくは時々、そういう気分になってたんだけど? シャングリラで!」
あっちにもこっちにも赤い石。
誰の服を見ても赤い瞳の色のお守り。
それに気付いた時のいたたまれないような気持ちに比べれば、青い目玉のお守りくらい…!
「分かった、分かった。…その頃までお前が根に持っていたら、目玉だらけでも我慢してやる」
赤い石になった責任の一部は俺にもあるし、とハーレイは白旗を高く掲げた。
キャプテンだった上に長老でもあったハーレイの責任は、赤い石に関してはけっこう重い。
そこら中に目玉が溢れ返った気分というのを、ちょっぴり味わって欲しいかも…。
もっともハーレイに本当の意味で思い知らせるには、青い目玉じゃ駄目なんだけれど。
ハーレイの瞳と同じ色をした、鳶色にしないと駄目なんだけれど…。
青いガラスの目玉のお守り、メデューサの目。
魔除けの目玉をいつかハーレイと一緒に買いに行きたい。家じゅうに飾ってハーレイを苛めるかどうかはともかく、ぼく専用に一つは欲しい。
ソルジャー・ブルーの赤い瞳はお守りにされて、ぼくに目玉のお守りは無かった。自分が自分のお守りだなんて何かが違うし、今度の生ではメデューサの目玉のお守りが欲しい。
魔除けなんか要らない平和な世界で、ぼくの手首に青い綺麗な魔除けの目玉。首から下げられるペンダントでもいいし、とにかく自分の瞳とは違う本物の魔除け。
買いに行く時の参考にしようと、ハーレイが刷って来た沢山の青い目玉の写真を眺めていたら。
「こいつが復活するんだったら、俺たちの赤い石の由来も伝わっていて欲しかったが…」
ハーレイが名残惜しげにボソリと呟く。
「嫌だよ、そんな恥ずかしいこと!」
絶対に嫌だ、と文句を言った。
あの石はぼくの瞳の色で、赤い瞳はぼく一人だけ。
自分の瞳の色をしたお守りに囲まれて暮らす恥ずかしさと、いたたまれなさは誰も知らない。
ぼく一人だけしか持たなかった瞳の色だし、誰も分かってくれはしないし、分からない。
「忘れられてて良かったんだよ、あの石の色は!」
そう、今だって忘れられるなら忘れたい。
青い目玉のお守りを買いに行きたい気持ちごと忘れてしまってもかまわない。
「ハーレイに言われるまで忘れてたくらいに、忘れたいと思っていたんだからね…!」
叫んでやっても、ハーレイはまだボソボソと赤い瞳の色のお守りにこだわっている。
やっぱり青い目玉のお守りを山ほど買って飾ってやろうか、家じゅうが目玉だらけになるほど。
そしたら少しはぼくの気分が分かると思うよ、残念どころじゃないってことが。
忘れてしまいたい、赤い石の由来。
神様、青い目玉も忘れてしまってかまわないから、綺麗に忘れられますように…。
メデューサの目・了
※ミュウの制服の赤い石。実はお守りだったのです。前のブルーの瞳の色をした魔除け。
前のブルーには意味が無かったお守りですけど、今度は本物の魔除けの目玉が手に入りそう。
青い目玉のお守りはナザールボンジュウ。検索すると色々見付かりますv
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(…まさかね…)
ブルーはキッチンの棚に重ねて置かれた幾つものザルを見上げていた。母が水切りなどに使っているザル。頭に被れそうな大きなものから、グレープフルーツを一個入れれば溢れてしまいそうな小さなものまで。色も素材も様々なそれが、今のブルーの心配の種。
(…被らないとは思うんだけど…)
今日の二時間目、大好きなハーレイの古典の授業。皆が退屈してくる授業時間の半ば頃、絶妙のタイミングでハーレイが持ち出してくる蘊蓄たっぷりの楽しい雑談。遠い昔の伝説だったり、今は失われた習慣だったりと、生徒の心をガッチリと掴み、自分の話に引き戻す。
ブルーも大好きな時間だったが、まさか怖い話になるなんて。
(…あんなの、ただの言い伝えだよね?)
迷信なのだと信じたい。本当だったら恐ろしすぎるし、仮に本当でも自分とは全く関係が無いと思いたい。それほどに怖くて恐ろしい話。あまりに怖くて、こうして見ずにはいられない。
(…ザルを被ると背が伸びない、って…)
ハーレイが話した、SD体制が始まるよりも遙か昔の言い伝え。皆は笑って聞いていたけれど、ブルーには笑いごとではなかった。
学年で一番小さいブルー。三月の一番末が誕生日だから、年も学年で一番幼い。小さくて当然と考えていた日が懐かしい。
(…背が伸びないと困るんだけど…!)
ホントのホントに困るんだけど、と心配の種のザルを見上げる。
ブルーの身長は百五十センチ。前世での恋人、ハーレイと出会って記憶が蘇り、前の生の自分と同じ背丈の百七十センチが目標になった。そこまで伸びないとハーレイはキスも許してくれない。
それなのに全く伸びてくれない背丈。たとえ言い伝えでもザルの話は恐ろしすぎる。
自分は被っていない筈だと思うけれども、背が伸びないだなんて、やっぱり怖い。
(…だけど、子供じゃ届かないしね?)
記憶にある限り、ザルの置き場所は幼い頃から変わってはいない。キッチンの棚の一番上。今のブルーでも手を伸ばさないと取れない場所だし、子供の手は絶対に届かない筈。
(椅子に上っても無理だよね、うん)
第一、幼いブルーは棚の所まで椅子を運べなかっただろう。だから絶対に大丈夫。
背が伸びなくなるという恐ろしいザルを自分は決して被ってはいない、と頷いてキッチンの中を見回し、再びザルを見上げてみる。あそこがザルの定位置なのだから、大丈夫…。
ホッと息をつき、二階の自分の部屋に戻った。暫くして母に「おやつよ」と呼ばれ、読んでいた本に栞を挟んで階下へと下りる。ダイニングのテーブルにシフォンケーキ。キッチンのオーブンに入っていたものはこれだったのか、と納得しながら自分の椅子に座った。
母と二人でのティータイム。今日の出来事などを母に報告していたら。
「ブルー、キッチンで何を見てたの?」
唐突に母が尋ねてきた。ザルに気を取られて気付かなかったが、どうやら見られていたらしい。恥ずかしいから誤魔化そうかとも思ったけれども、考えようによってはチャンスだ。幼かった頃の自分がザルを被っていなかったことを、母なら証言してくれるだろう。
「えっと…。ママ、ぼくが小さかった頃なんだけど…」
ぼくの背、キッチンの棚まで届かなかったよね?
サイオンで浮かんだりもしていないよね、と思い切って切り出してみた。
「なあに? キッチンの棚がどうかしたの?」
「…ザル…。あそこにあるザル、オモチャにしたりはしてないよね、ぼく?」
「ザル?」
ブルーは母が即座に否定するだろうと期待した。なのに…。
「あらっ、もしかして忘れちゃったの?」
幼稚園に持って行ったじゃないの、と思わぬ答えが返って来た。
「ザルにいっぱいボールを貰って帰って来たでしょ、スーパーボール」
「…スーパーボール…」
記憶の彼方から蘇って来る遠い日の思い出。
ソルジャー・ブルーだった頃よりは遙かに近しい記憶だけれども、幼かった幼稚園児のブルー。制服を着て帽子を被って、小さな鞄を肩から掛けて、幼稚園のバスに乗っていた。
幼稚園で人気があったオモチャがスーパーボール。よく弾むゴムで出来たボールで、競い合って投げたり弾いたりした。家にも沢山あればいいのに、と思っていたことを覚えている。夢が叶って山ほど貰って、大喜びで帰りのバスに乗った日のことも。
宝物だった沢山の小さなスーパーボール。きらきら光って、いろんな色で。
そうだ、幼稚園の遊びで貰った。水に浮かべたスーパーボールを掬う遊びにザルを使った。前の日に先生が「素早く沢山掬えない子は、大きいザルを持って来てね」と説明してくれたから、他の子に取られてしまわないよう、大きなザルが要ると思った。
母に頼んで用意して貰った幼稚園の帽子よりも大きなザル。一度に沢山のボールが掬えるザル。これで素早い子にも負けはしない、と喜んだ。
(そのザルを持って行って…。どうしたっけ?)
誰にも負けない秘密兵器の大きなザル。帽子よりも大きいザルが嬉しくて、幼稚園の鞄と並べて眺めた。あれで沢山ボールを掬って貰って帰ろうとワクワクしていた。
何度もザルを手に取ってみて、幼稚園の帽子のサイズと比べて大満足で、うんと得意になって。帽子よりも大きいんだ、と嬉しくなった末に部屋の鏡を覗き込みながら…。
(…被っちゃった…!)
鏡に映った得意そうな顔の幼い自分。帽子よろしく大きな黄色いザルを被って、満面の笑顔。
(…ど、どうしよう…。被っちゃったんだ…!)
思い出してしまった最悪な記憶。顔から血の気が引きそうになる。被ったら背が伸びなくなると教わったザル。それを被った幼い自分。取り返しのつかない過去の過ち。
ブルーの異変に気付いたのだろう、母が紅茶のポットを手にして尋ねてきた。
「どうしたの、ブルー?」
「……ザル……。ぼく、被っちゃった…」
「ああ、そうねえ!」
とっても可愛かったわよ、と母はブルーのカップに紅茶のおかわりを注ぐ。
「幼稚園から帰って来るなり被ってたわねえ、ぼくのが一番大きかったよ、って」
「…か、被ってたの?」
「あらっ、ゲームをした日の話じゃないの? 他の日にもザルを被ってたの?」
「う、うん…。前の日の晩に……」
大きなザルが嬉しかったから、と白状しながらもブルーの気分はドン底だった。ザルは一度しか被っていないと思っていたのに、帰ってからも被ったという自分。この調子では幼稚園でもきっと被っていただろう。誰よりも大きなザルが自慢で、幼稚園の帽子よりも大きいのだ、と。
可笑しそうに笑う母にはザルの言い伝えを話せなかった。母は言い伝えを聞いたことがないのに違いない。知っていたならブルーを止めてくれた筈。「ザルを被ると背が伸びないわよ」と。
(……被っちゃったなんて……)
被ってしまうと背が伸びなくなる呪いのアイテム。遠い昔の言い伝えのザル。
幼稚園の先生たちもザルの言い伝えを聞いたことがなかったのだろう。被ってはいけないと注意されたら覚えている筈。家に帰ってもう一度被るわけがない。
スーパーボールを山ほど貰って御機嫌で家に帰ったけれども、大きなザルで得はしなかった。
一度に沢山掬えるザルで挑むか、普通のザルで素早く何度も掬ってゆくか。結局の所、ボールを幾つ掬えるかは個人の力量であって、遊びが終わると持っているボールの数はまちまち。
ブルーは山のように掬って満足だったが、まるで掬えなかった子も少なくはなくて、そんな子は追加のボールを貰った。先生が公平に数を数えて、足りない子には幾つも追加があった。
(…おんなじだけ貰ったんだっけ…)
自分で掬った分、好みの色のボールが多いという利点はあったのだけれど、貰ったボールの数はみんなと同じ。欲張って大きなザルを持って行っても、遊びで有利だっただけ。
(…被った分だけ、損をしちゃった?)
欲張った者が酷い目に遭う昔話を思い出す。ハーレイお得意の雑談の中でも大きなつづらの話を聞いた。つづらは遠い昔の時代の蓋つきの籠。身体に見合った小さなつづらを選ぶと宝物入りで、欲張って大きなつづらを選べば中身は怪物という話。
(…ホントに怪物だったんだけど…)
大きなザルには「頭に被ると背が伸びない」という恐ろしいオバケがくっついて来た。怖すぎる怪物を追い払いたければ、どうすればいいというのだろう?
相手はSD体制の時代よりもまだ前の古い言い伝え。それだけ古ければ力の方も凄そうだ。
(…確か、言霊だったっけ…?)
ハーレイの雑談で聞いたと思う。言葉には霊的な力が宿るという話。長い年月を生き続けて来たザルの言い伝えがどれだけの力を秘めているのか、考えるだに恐ろしい。
(…言い伝えを消すなら、言い伝えかな…?)
そうでなければ、おまじない。
背が伸びる言い伝えかおまじないを探して実行すれば、とブルーは考えた。幼い自分が知らずに被ったザルの呪いを無効にするには、逆のことをするしかないのだろう、と。
身長を伸ばす効果を持つ言い伝えか、もしくはおまじない。
背が伸びなくなるザルの呪いを自分にかけてしまったらしいブルーは必死になって探し回った。図書館に置いてある本はもちろん、データベースも端から調べた。
それなのに何も見つからない。背が伸びなくなるザルの言い伝えは何処にでもあるのに、伸ばす方は諸説入り乱れて決定打が無い。そもそも言い伝えに入っていないのだ。
(…迷信って呼べるレベルですらないよ…)
背が伸びるおまじないは幾つもあったが、統一性を欠いていた。
目標の身長を紙に書いて枕の下に入れて眠るだとか、「背が伸びますように」と唱えてミルクを飲むだとか。ザルの呪いに比べるとまるで説得力が無い。
(これが一番、それっぽいけど…)
目を付けたおまじないは「ひまわりの種を黄色い布に包んで靴に入れる」という簡単なもの。
身長を書いた紙やミルクよりは幾分、マシに思えた。ひまわりは背丈の高い花だし、黄色い布も色をわざわざ指定してある所が頼もしい。
(…でも、言い伝えの中には入ってないよ…)
何処を探しても言い伝えの中にはハーレイから聞いたザルの話だけ。ひまわりの種は含まれてはおらず、効果のほどは根拠が無かった。
(どうしよう…。ぼくのザルって、無効に出来るの?)
本を調べても駄目、データベースを探しても駄目。
ついに手詰まりとなったブルーが縋れる手段は、もはやハーレイだけだった。ザルの言い伝えを雑談レベルで持ち出してこられるハーレイならば、対抗手段を知っている可能性がある。なにしろ古典の教師なのだし、古い言い伝えにも詳しいだろう。
出来ればハーレイには話したくなかった過去の過ち。素敵な自分だけを見て欲しいのだけれど、そんなことは言っていられない。ザルの呪いで背が伸びなければ、ハーレイとキスを交わすことも出来ずに小さいままで過ごさなくてはならないのだし…。
ブルーは訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合わせに座って覚悟を決めた。
「…ハーレイ…。こないだの授業で言ってたザル…」
「ざる?」
何のことだ、と問うハーレイに「言い伝え…」と口ごもりながら。
「ザルを被ると背が伸びなくなる、って言ったでしょ? あれの反対のおまじない、教えて」
「…はあ?」
ポカンと口を開けたハーレイだったが、少しして意味が飲み込めたようで。
「ああ、ザルな。…ザルは頭に被るものじゃない、っていう意味の戒めだったらしいぞ、あれは。食べ物を入れる器を粗末にするな、という意味もあるし、不衛生だという意味でもある」
「…それで?」
「だからだ、ザルを被ると背が伸びないぞ、と怖がらせないと子供ってヤツは悪戯するしな?」
脅すだけだ、とハーレイは笑った。本当に背が伸びなくなるという根拠は何処にも無い、と。
「で、お前も悪戯したクチなのか? あれの反対を知りたいってことは?」
「悪戯じゃないよ!」
ブルーはムキになって反論した。
「幼稚園の時だし、被ってもママは怒らなかったし!」
「なるほど、お母さんも知らなかった…、と。可愛いだろうな、幼稚園時代のお前の頭にザルか」
幼稚園の帽子に負けないくらいに似合いそうだ、とハーレイが目を細めるから。
「笑いごとじゃないよ!」
真剣になって怒りをぶつける。
ザルの言い伝えに根拠が無くても、現に自分の背は伸びない、と。
ブルーにとっては人生が懸かった背丈の問題。前世と同じ百七十センチまで伸びなかった時は、大好きなハーレイと結婚どころかキスも出来ずに終わるしかない。
今の身長は百五十センチ、まだ二十センチも伸ばさなくてはいけないわけで、ザルの呪いなどに捕まったのでは堪らない。事実無根の言い伝えだろうが、言霊なるものも馬鹿には出来ない。現にサイオンなどは霊的と言えば霊的なのだし…。
懸命に言い募るブルーの姿に、ハーレイがフウと溜息をついた。
「分かった、分かった。…それで、お前、ザルを被っちまった頃にはどのくらいのチビだ?」
「んーと…。多分、このくらい……かな?」
幼稚園時代のブルーは眠る時は両親のベッドに行っていたけれど、自分の部屋は今と同じ部屋。当時の視点の高さからしてこのくらい、という高さを右手で示す。
「ふうむ…。安心しろ、確実に背は伸びている」
大丈夫だ、とハーレイは穏やかに微笑んでくれたが、ブルーの心配は其処ではない。
「でも、今、全然伸びないんだけど…! 一ミリも!」
「確かにな…。ザルの呪いが今頃だってか? さて、SD体制の時代よりも古い言い伝えだけに、どうしたもんかな…」
「…もしかしてハーレイも知らないわけ? ザルの反対…」
「残念ながら、俺もそいつは全く知らん」
ハーレイの答えに、ブルーは絶望的な気持ちになった。幼い自分が被ってしまった呪いのザル。それが今まさに祟っているかもしれないというのに、対抗手段が皆無だなんて…。
「じゃ、じゃあ、ひまわりの種は?」
「ひまわりの種?」
「ひまわりの種を黄色い布で包んで靴に入れると背が伸びるって…!」
縋るような思いで口にしてみたが。
「ほほう…。そいつは初耳だな。入れてみたらどうだ?」
「…ハーレイが知らないんだったら全然ダメだよ…」
ザルのパワーの方が強いよ、とブルーはガックリと項垂れる。
呪われてしまった自分の背丈。もしもこのまま、百五十センチで止まってしまったら…。
「こらこら、しょげるな」
ハーレイの大きな手が伸びて来て、ポンポンと頭を叩かれた。
「お前も俺も、前とそっくりの姿になるよう生まれ変わって来たんだろ? 呪われたにしてもだ、ちゃんと百七十センチまでいけるさ。…前世のお前を信じておけ」
ソルジャー・ブルーとそっくりになるなら百七十センチは要るんだからな。
その背に届くまでにどのくらいかかるかは、ザルを被ってしまった分だけ時間が加算されるかもしれないが。
「…ぼく、本当に百七十センチになれる…?」
まだ心配そうな顔のブルーに、ハーレイは「なれるさ」と笑顔を返した。
「いつかはきっと、前のお前とそっくりになれる。…しかしだ、俺は小さなお前も好きだし、今の姿を長く見られるならザルに感謝をしないとな」
「ええっ?」
「何度も言っているだろう? 焦らず、ゆっくり大きくなれと。…お前が焦ってもザルがそいつを止めてくれるのなら俺は嬉しい」
ついでに言えば、とハーレイの鳶色の瞳がブルーを見詰める。
「ザルを頭に被ったという幼稚園時代のお前に会いたかったな。とても可愛い子供だったろうに、俺は会えずに来ちまった。せっかく同じ町に居たのに、残念なことをしたもんだ」
「ぼくも若いハーレイに会ってみたかったよ。公園で会って肩車とか…」
もしもその頃に会えていたなら、とブルーも思う。
言い伝えを知っていたハーレイがいればザルを被りはしなかったろうし、背丈が伸びない呪いの影に怯えなくても済んだだろう。それに何より…。
(…もっと長い時間をハーレイと一緒に過ごせたよ…)
小さな自分を抱き上げて貰って、今よりもずっと小さいのだから、きっと家にも遊びに行けて。文字通り家族ぐるみの付き合いになって、旅行にも一緒に行けたかもしれない。
けれども、それは叶わなかった。
十四年間も同じ町に住んでいたのに、ハーレイとは出会えないままだった。だから…。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくたち、きっと何処かで会っていたよね、知らなかっただけで」
ブルーの言葉にハーレイが頷く。
「そうだな、同じ町で暮らしていたんだしな? すれ違ったりはしてるだろうな」
俺たちだからな、と鳶色の瞳が片方、パチンと閉じて開いた。
「まるで会っていないってことだけは無いさ。前から数えりゃ何年越しの付き合いなんだか」
「うん。…会える時が来ていなかっただけ。きっとそうだよ」
「うんうん、今よりも小さなお前にあの傷痕は背負えんさ」
あれが無ければ記憶は戻らない仕掛けになっていたのだろう、とハーレイの手がブルーの両肩に触れて離れた。聖痕現象と診断されたブルーの傷痕。前世の最期にメギドで撃たれた時の傷痕。
「今のお前でも痛かっただろうに…。小さかったらショック死しかねん」
「…だろうね。だけど、あの傷のお蔭でハーレイに会えた。だから、いいんだ」
とても痛かったけれどかまわないんだ、とブルーは微笑む。
実際、傷痕が現れた時には痛みのあまりに気を失ってしまったけれども、ハーレイに再び会えた喜びもまた大きかった。もう一度会えたと、ハーレイの腕の中に帰って来られた、と…。
「そうか、痛くてもかまわないってか。…よし、その意気でザルの呪いも吹っ飛ばしておけ」
あの傷に比べりゃザルの呪いくらいは大したこともないだろう、と言われればそういう気もしてくる。ザルは幼い自分でも被ってしまえたけれども、あの傷の痛みは耐えられはしない。
「…今のぼくならザルの呪いにでも勝てる?」
「勝てるさ、前のお前が負った傷の痛みも乗り越えたしな。前のお前にきっと追い付ける」
呪いのザルにこう言っておけ。負けやしないと、いつか百七十センチになるんだ、とな。
「うんっ!」
どんな言い伝えよりも、おまじないよりも、ハーレイの言葉が嬉しかった。
死の星だった地球が蘇るほどの長い長い時を越えて、生まれ変わって来たハーレイ。
その言葉にはきっと、力がある。
ザルの言い伝えにも負けない言霊。古い言い伝えよりも強い言霊。
誰よりも好きで、誰よりも頼れるハーレイの言葉。
だからブルーはザルの呪いをもう恐れない。
知らずに被ってしまったけれども、大好きなハーレイが「大丈夫だ」と言ってくれたから…。
呪われた背丈・了
※ザルを被ったら背が伸びないと聞いてしまって、震え上がったブルーです。
背が伸びるおまじないより心強いのがハーレイの言葉。「大丈夫だ」という一言だけで…。
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夏休みに入って間もない、暑い日の午後。柔道部の指導を終えたハーレイは、昼食後にプールで軽く泳いでからブルーの家へと向かっていた。身体の弱いブルーはバス通学だが、普通の生徒なら徒歩で充分通える距離。ハーレイも急ぎでない時は歩いて出掛けることにしている。
(今日も暑いな)
眩しい日射しに目を細めつつも、ハーレイは暑さなど物ともしない。濡れたまま撫でつけた髪が直ぐ乾くのも夏ならではだ。
夏は水の季節。水泳が好きなハーレイにとっては最高の季節。ブルーと出会っていなかったなら海へ出掛けていただろう。去年までは頻繁に車で海まで走っていた。
(…今年はあんまり行けそうもないが…)
この夏休みはブルーとの逢瀬が最優先。それでも柔道部の生徒を海へ連れてゆくし、海の側での研修もあった。二回くらいは海で泳げそうだから、贅沢を言えば罰が当たる。
(ブルーも海も両方ってわけにはいかんしなあ…)
焦らずとも、いずれ両立出来る日が来ることは分かっていた。ブルーと暮らせるようになったら二人で出掛けてゆけばいい。その時まで海は暫しお預け、プールで満足しておかなければ。
そんなことを考えながらの道すがら。
アイスクリームの看板を見付けた。普段は見かけない看板があって、子供たちや大人が何人も。誰もがアイスクリームのカップやソフトクリームを手にしている。移動販売車が来ているのだ。
(ほほう…)
見れば、看板と車に自然の中での放牧で知られた農場の名前。産地直送のアイスクリーム。その農場はミルクで名高く、入荷すれば即、売り切れると聞く。
(…ミルクだったら良かったんだがな)
身長を伸ばそうと懸命にミルクを飲んでいるブルー。成果は一向に現れないまま、今もブルーは再会した時と変わらない百五十センチの背丈を保っていた。小さなブルーは可愛らしいが、本人は不満でたまらない所がまた可愛い。少しでも早く大きくなりたい、と頑張るブルー。
此処でミルクを売っていたなら、買うのだが。
からかい半分に「土産だ」と提げて行ったらどんな顔をするのだろうか、と眺めていて。
(…ん?)
ミルクではなく、アイスクリームが頭の隅っこに引っ掛かった。
何故だ、と記憶を探ってみても定かではなくて。
(アイスクリームを買う予定だったか?)
嫌いではないし、夏にはよく買う。しかも先日買ったばかりで、冷凍庫に入れてある筈だ。何か特別なアイスクリームでも買いに行こうとしていただろうか、と考えてみても分からない。
(…買って食ったら思い出せるか?)
食べながら歩いて行くのもいいかもしれない。ブルーの家までは大通りではなく、移動販売車が来られるような道を選んでの散歩道。ソフトクリーム片手に歩くのもいいだろう。
しかし、相手は有名な農場の移動販売車。あの農場は通信販売はやっていないと聞いている。
こだわりの放牧、そして品質。大量生産は不可能だから、決まったルートへの出荷と移動販売車での販売のみ。今日はたまたま出会ったけれども、次の機会は無いかもしれない。
自分一人で買って食べるより、ブルーにも買っていくべきだろうか?
(…待てよ。ブルーにも…?)
クイと記憶に引っ掛かる感触。
ブルーにも。…ブルーにも……。アイスクリーム…。
(そうか!)
そうだったのか、とハーレイは移動販売車に近付いて行った。並んでいる子供の肩越しに車内を覗き込み、どれにしようかと思案する内にハーレイの番。
「二つ下さい」
カップに入ったアイスクリームを二個買った。イチゴやラムレーズンなども並んでいたけれど、定番のバニラ。同じ買うなら素材の良さが一番際立つものがいい。保冷バッグがついてくるから、ブルーの家まで充分に持つ。
ハーレイでさえ忘れてしまっていた記憶の彼方のアイスクリーム。
小さなブルーはきっと覚えていないだろう。
生垣に囲まれたブルーの家に着いて、門扉の脇のチャイムを鳴らして。開けに出て来たブルーの母に「アイスを買って来ましたから」と保冷バッグを持ち上げて見せれば、「それなら最初はお茶だけですわね」と微笑みながら二階へ案内してくれた。
ブルーの部屋に入る時には保冷バッグを背後に隠す。ブルーの母がアイスティーを置いて階下に去っていった後、ハーレイはテーブルを挟んで向かい側に座ったブルーに声をかけた。
「おい、ブルー。今日は付き合って貰うからな」
「えっ?」
怪訝そうな顔をするから、隠してあった保冷バッグを取り出す。
「ほら、土産だ」
「わあっ! 何処で売ってたの?」
保冷バッグに印刷された農場の名前。顔を輝かせて手を伸ばして来るブルーに「待て」と一言。
「歩いてくる途中で移動販売車に会ったんだ。だから土産にと買って来たんだが…。その前にだ、これは俺との約束だからな。…お前、忘れているんだろうがな」
「何を?」
案の定、ブルーはキョトンとしている。ハーレイは保冷バッグをテーブルに置くと、鳶色の瞳でブルーを見詰めた。
「やっぱり忘れちまっていたか…。俺と一緒にアイスクリームを食う約束だ」
「アイスクリーム…? そんなの、あった?」
ハーレイと一緒にアイスクリームを食べる約束。全く思い出せないらしいブルーに「あった」と自信たっぷりに告げた。
「あったとも。前のお前が逝っちまってから生まれ変わってくるまでの間はカウントしないとしておいても、だ。…お前が俺に約束してから十五年は経つ」
十五年だ、と繰り返すとブルーは「…何、それ…」と目を丸くしたのだけれど。
ハーレイには確かに覚えがあった。
今の小さなブルーではなく、前の生でのソルジャー・ブルー。
気高く美しかったブルーと交わした、アイスクリームを一緒に食べるという約束。
赤い瞳をパチクリとさせて、ブルーの視線はアイスクリームの保冷バッグとハーレイとを忙しく何度も往復したのだが…。
「…ホントに思い出せないんだけど…。ホントのホントに、アイスクリーム?」
「アイスクリームだ。間違いない」
ハーレイはどっしりと椅子に腰掛け、「よく聞けよ?」と昔語りを始めた。
遠い遠い昔、シャングリラがまだアルテメシアの雲海に隠れていた頃。自らの寿命が残り少ないことを悟ったブルーは後継者としてジョミーを選んだ。
けれどジョミーはブルーを拒絶して家に戻った挙句に捕まり、辛くも成層圏まで逃げのびた彼を救い出すためにブルーが出てゆき、シャングリラも囮となるべく人類の前に姿を晒した。
シャングリラの存在を知った人類はミュウを駆逐しようと動き始める。数年後、ついに発見され猛攻を浴びたシャングリラ。致命的な傷を負い、宇宙に出られなくなる前に、とブルーが決断し、重力圏内でのワープという荒技を使ってアルテメシアから脱出したものの。
「宇宙へ出てから暫くの間、あちこちに影響が出ていただろうが。畜産部門も安定しなくて牛乳の量が酷く減ったぞ、動物は環境の変化に敏感だからな」
「…そういえば…」
ブルーもそれは記憶していた。殆どベッドを離れられない日々だったけれど、船内の様子は常に把握し、必要とあらば指示を下した。
食料の確保を最優先に、とハーレイに伝えたことを覚えている。アルテメシアを離れたからには人類側から奪えはしないし、一刻も早く生産体制を元の水準まで戻すように、と。
「確か、ミルクが精一杯だったっけ? 最初の間は」
「ああ。皆が飲む分が採れただけでも幸いだった。バターの備蓄が底を尽く前に、なんとか作れるようになったから良かったが…」
不味い飯は士気が下がるからな、とハーレイは当時を思い返して苦笑した。
アルタミラの地獄を知っている者は何も文句を言わなかったが、それよりも後に来た若いミュウたちは初めて味わう食糧難の時代。食料は充分に足りていたのに口に合わないとの苦情が相次ぎ、厨房担当のクルーたちは頭を悩ませたものだ。
毎日の調理にバターは欠かせず、切りつめて使えば「不味い」と言われる。もしも完全に消えていたなら、どんな騒ぎになっただろうか…。
「ようやっと安定したから、嗜好品も作れるようになってだな、アイスクリームの第一号が」
「うん、それで?」
そういった物も作っていたな、とブルーは懐かしく思い出す。アルタミラから脱出した直後には食料さえも自給出来なかった自分たち。それが文字通り楽園という名のシャングリラを手にして、牛乳どころかアイスクリームまで作って食べられる環境になった。
もっとも、そんな中でもブルーの一番の好物はハーレイの野菜スープだったのだけれど。基本の調味料だけでコトコト煮込んだ、素朴すぎるスープだったのだけれど…。
今の生でもブルーが寝込むとハーレイが作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」。
懐かしいスープの調理人が「いいか、アイスだ」とブルーの瞳を覗き込む。
「せっかく出来たアイスクリームだ。…お前にも食べさせてやろうと思って二人分貰って、勤務の後で持って行ったら、お前は俺に言ったんだ」
「なんて?」
「昼間にジョミーと食べてしまったから、一日に二つというのはちょっと…、と」
「あっ…!」
ブルーの頭に蘇る記憶。青の間でジョミーが持って来てくれたアイスクリームを二人で食べた。やっとアイスが作れたんだよ、と誇らしげだった次の時代を担う金色の髪のソルジャーと。
「思い出したか? お前、明日一緒に食べようと俺に約束しただろう? 明日はジョミーが持って来たって断るから、と」
「…うん…」
「それで、お前はその約束をどうしたんだっけな?」
「……どうしたんだろう?」
其処から先の記憶が無かった。ハーレイと確かに約束をしたが、アイスクリームを一緒に食べた記憶が無い。「明日食べるから、残しておいてよ」と奥のキッチンに仕舞って貰った。キッチンへ向かうハーレイの背中は覚えているのに、アイスクリームはどうなったろう…?
「やっぱり綺麗に忘れちまったか…」
十五年だしな、とハーレイが苦い笑みを浮かべた。
「アイスクリームを片付けた後で、お前は俺と一緒に眠った。…もちろんお前は弱っていたから、ただ腕に抱いて眠っただけだ。次の日の朝、お前は「また夜に」と俺を送り出してくれた」
「……まさか……」
あの頃のブルーのお決まりの言葉。ブリッジに行くハーレイを見送る時には「また夜に」。また夜に会おう、という意味でもあり、「また夜に来て」という意味でもあった。
それをハーレイに言った自分は、もしかして…。
「…そのまさかさ。お前は俺がいない間に眠ってしまって、ノルディに呼ばれて駆け付けた時にはもう思念すらも届かなかった。…お前は目覚めなかったんだ」
アイスクリームを食べる約束もそれっきりになっちまった、と深い溜息をつくハーレイ。
「今日は起きるか、明日は起きるかと…。アイスクリームがすっかりガチガチに凍っちまっても、お前はとうとう目覚めなかった。そして十五年が経って、お前がやっと目覚めた時には…」
アイスクリームどころじゃなかった。もっとも、俺も覚えてはいなかったがな。
だから、とハーレイはアイスクリームの入った保冷バッグを指差す。
「思い出した以上は、俺と一緒に食って貰うぞ。アイスクリームは別物になっちまったが」
「…それでアイスクリームを買って来たの?」
「そういうことだ。お前、普段から右手が凍えただの、冷たかっただのと言ってはいるが、だ。…アイスクリームは別物だろうが?」
再会してから今日までの逢瀬でブルーの好みは把握していた。好き嫌いは無いけれど、食の細いブルー。それでもお菓子は大好物で、暑くなってからはアイスクリームも喜んで食べる。
ブルーはハーレイの予想どおりにコクリと愛らしく頷いた。
「うん、アイスクリームは大好きだよ」
「だったら、付き合え。…十五年越しの約束だからな」
「それと今日までの分なんだね」
凄い約束、とブルーが笑う。
死の星だった地球が青い水の星として蘇るほどの長い歳月、踏み倒されたままで過ぎた約束。
気が遠くなるような年月を越えてきた末に果たされる約束の中身がアイスクリーム。
アイスクリームを一緒に食べよう、という約束が長い長い時を越えるなんて、と。
長すぎる時を越えて果たすにしては馬鹿馬鹿しすぎる小さな約束。
アイスクリームを二人で一緒に食べるだけのこと。
それでも思い出したことが嬉しく、それを果たせることが嬉しく、奇跡のようで。
ハーレイが「ほら」と保冷バッグから取り出したアイスクリームのカップをブルーは笑顔で受け取った。
シャングリラで食べずに終わったアイスクリームとは違う容器に入ったアイスクリーム。いつか行きたいと願い続けた地球に在る牧場で作られているアイスクリーム。
「おっ、ちゃんとスプーンも入ってるんだな」
これで食べるか? と牧場のロゴが刻まれたスプーンが出て来る。地球で育った木から作られた使い捨ての軽いスプーンだけれども、産地直送のアイスクリームにはよく似合う。
「うん、これがいいよ」
小さなスプーンでバニラアイスを掬って、口へ。冷たくて甘い、極上の味。
「美味しい!」
ホントに美味しい、と味わうブルーと向かい合ってハーレイもアイスクリームを食べる。
移動販売車に出会わなかったら、今も忘れていたであろう約束。ブルーと交わした小さな約束。
それが叶ったことが嬉しい。長い時の果てに、こんなにも幸せな光景の中で。
「ねえ、ハーレイ」
ブルーが御機嫌でアイスクリームを口にしながら、右手に持ったスプーンを示した。
「スプーンが右手だから冷たくないよ、ぼくの右の手」
メギドで冷たく凍えてしまったブルーの右の手。最後にハーレイに触れた右手に残った温もりをキースに撃たれた痛みで失くして、右手が冷たいと泣きながら死んだ前の生のブルー。
その右の手が冷たくない、と微笑むブルーがハーレイはたまらなく愛おしい。
「そりゃ良かったな。…踏み倒してくれた約束も思い出せたしな?」
「うんっ! それに美味しいアイスもついたよ」
「ああ、本当に美味いアイスだ。人気が高いのも当然だな」
移動販売車が運んで来たアイスクリームは、遠い約束のアイスクリームとは比べようもなく美味だった。限られたスペースしか無かったシャングリラに居た牛とは違って、地球の広い牧場の青い草の上をのんびりと歩いて育った牛たち。最高の環境で生まれたミルクのアイスクリーム。
ハーレイとブルーが交わした約束は思いがけない形で果たされ、青い地球までがついてきた。
あの日、アイスクリームが再び作れるようになった時には地球など見えもしなかったのに。
何処にあるのか、その座標さえも掴めていなかった星だったのに…。
向かい合わせで二人、アイスクリームを食べながら今の幸せに酔う。
悲しすぎた前の生での別れを越えて、青い地球の上で再び出会うことが出来た。
果たせずに終わった小さすぎる約束をこんなにも素敵な形で果たせて、思い出すことが出来て。
なんて幸せなのだろうか、とブルーはアイスクリームをそっと掬って、口の中で溶かした。
「ねえ、ハーレイ。…こんな風に忘れちゃってる約束って他にもあるのかな?」
「あるかもな」
思い出したら果たして貰うぞ、とハーレイが笑う。
どんなつまらない約束だろうと、思い出したからには果たして貰う、と。
「時効って、無いの?」
「無いな。少なくとも俺は認めてはやらん」
そう言いつつも、ハーレイは「ただし」と付け加えた。
「ただし、幸せな記憶に限り…、だ。前の俺たちだと悲しい約束もしていそうだしな?」
「…そうかも…。ぼくが倒れてても叩き起こせとか、色々あったね」
「そうだろう? その手のヤツは全部時効だ、悲しいことは忘れりゃいいんだ」
約束に限らず忘れてしまえ、とブルーに向かって微笑みかける。
「お前の右手はいつになったら時効だろうなあ、早く忘れて欲しいんだがな…。覚えていても辛いだけの記憶だ」
「そうでもないよ、今は」
大丈夫、とブルーは笑みを返した。
「だって、温めてくれる手が側にあるもの。幸せだよ、ぼくは」
こんな風にアイスクリームを思い出してくれるハーレイとずっと一緒だもの。
ぼくはアイスクリームの約束なんて忘れていたのに。
思い出してちゃんと買って来てくれたハーレイがいるから、幸せだよ…。
アイスクリームはバニラ風味なのに、それは幸せの味がした。
また食べたいと、もっと食べたいと思うくらいに甘くて優しい味わいだった。
すっかり綺麗に食べ終えた後で、ブルーは牧場のロゴが入ったスプーンを名残惜しげにペロリと舐めて。
「ふふっ、美味しかった! …また会えるかな、移動販売車」
「どうだかな? この夏はもう無理じゃないかな、明日はまた別の町だろう」
「そっか…。ちょっと残念」
美味しかったのに、とブルーがカップと保冷バッグを眺めているから。
「なら、いつか二人で牧場に行くか? 作りたてならもっと美味いぞ、こういうものはな」
「ホント!?」
ブルーの赤い瞳が煌めいた。
「じゃあ、約束! 時効は無しで!」
「お前が忘れていなかったらな」
結婚するまでちゃんと覚えていろよ、とハーレイはパチンと片目を瞑った。
「俺たちが二人で出掛けられるようになるのは、結婚してからのことだしな?」
「うん! 今度は絶対に忘れないから!」
「十五年後でもか?」
「それよりも前に結婚してるよ!」
だから行こう、とブルーは強請る。
二人一緒に、ハーレイがハンドルを握る車で、アイスクリームを食べに出掛けてゆこうと。
他の幸せな約束も思い出してくれたら必ずきちんと果たすから、と。
きっとまだまだ沢山ある。
前の生で約束を交わしていながら、忘れてしまった小さなこと。
長い時を越えた今なら、前よりも遙かに幸せな形で約束を果たして幸せになれる。
そう、ハーレイが買って来てくれた、今日のアイスクリームみたいに…。きっと……。
アイスクリーム・了
※前のブルーが眠ってしまう前にハーレイと交わした、小さな約束。また明日に、と。
けれど果たされなかった約束。二人で食べたアイスクリームは、きっと幸せの味。
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「あっ…!」
ブルーは小さな悲鳴を上げた。自分の部屋でハーレイと向かい合わせに座ってのティータイム。ハーレイが好きなパウンドケーキを母に強請って焼いて貰ったから、幸せ一杯で過ごしていた。
何でも美味しそうに食べるハーレイだけれど、中でもパウンドケーキは特別。ブルーの母が焼くパウンドケーキはハーレイの母の味と同じなのだそうだ。
「おふくろが焼いてコッソリ持って来たのかと思ったぞ」と前に言っていたくらい、ハーレイの母の味にそっくりらしい。そう聞いたから何度も母に頼んでいたし、今日も頼んだ。それを食べるハーレイを見ているだけで幸せになれる。もう幸せでたまらなくなる。
なんて美味しそうに食べるんだろうと、この味がハーレイの母の味なのかと考えながらの幸せな時間。幸せの味を噛み締めながらパウンドケーキをフォークで口に運んでいたら。
ふとしたはずみに手が滑ったのか、ケーキの欠片を床に落とした。ほんの小さな欠片だけれど、ハーレイの大好きなパウンドケーキ。落とすだなんて、とショックで残念。
(やっちゃった…)
拾い上げて口に入れようかとも思ったのだが、向かいにハーレイが座っている。いくら好物でも床に落ちたものを拾って食べれば「行儀が悪い」と思われそうだ。
(…掃除してあるから綺麗なんだけどな…)
しかし綺麗な床であっても、落とした食べ物を拾って食べればマナー違反。何処かの店でそれをしたなら呆れられるし、とても褒められたものではない。家族と一緒の食卓でしか許されはしない「拾って食べる」という行為。
ハーレイはブルーの前の生からの恋人なのだし、たとえブルーが拾って食べても叱ったりせずに笑ってくれるとは思う。「落としちまったな」と笑うだけなのだろうが、子供らしいと微笑ましく見守る目になっていそうで、それは悲しい。
子供扱いは嫌だったから、床に落ちた欠片は諦めた。一人前の大人ならば床から拾って食べたりしないし、此処は行儀よく振舞わなければ。
「…落っことしちゃった…」
失敗、と椅子から離れて掃除用のシートを取って来た。小さなロールになったシートの表側には細かい埃を貼り付かせるための仕掛けがしてあり、ケーキの欠片をそれにくっつけてからシートを破って屑籠に捨てれば掃除完了。
でも、ゴミにするには惜しいサイズのケーキの欠片。小さな欠片は仕方ないけれど、一番大きな大元の欠片は掃除用シートにくっつけるよりは…。
ブルーは欠片を指で摘むと、窓を開けて二階から庭へと放り投げた。
「はい、お裾分け!」
「お裾分け?」
なんだそれは、とハーレイが訊くから、「お裾分けだよ」と笑顔で答える。
「ハーレイの好きなパウンドケーキ、捨てたりしたらもったいないでしょ? 庭に出しておいたら誰か食べるよ、蟻とか、もしかしたら小鳥とかが」
「なるほどな…。確かにそいつは有意義かもな。食べ物を大切にするのはいいことだ」
遠い昔にシャングリラで食料の確保に苦労した記憶を持つハーレイは窓越しに下の庭を眺めた。
「蟻でも鳥でも、分けて貰ったら喜ぶだろう。美味いケーキだしな」
「でしょ? だけど、こっちはお裾分けは無理…。小さすぎだよ」
残った欠片をシートにくっつけ、零れていないか確認してからシートを千切って屑籠へ。欠片がついた側を中にして包むように丸めて捨てれば密閉状態、虫などは来ない。
「はい、おしまい。…ごめん、話の途中だったのに」
掃除用シートを元の場所に片付けて自分の椅子に戻ると、ハーレイが感心したように。
「慣れたもんだな、お前くらいの年頃の子なら放っておく方が多いと思うが」
「…らしいね、ハーレイも自分で掃除はしなかった?」
「掃除どころじゃなかったからなあ…。柔道と水泳に明け暮れてたから、そういうのはおふくろに任せっ放しの子供だったさ」
「あははっ、理由があるだけマシだよ」
絶対にマシ、とブルーはコロコロと笑う。ブルーの友達は自分で掃除をしない子ばかり。掃除をしろと叱られたってしないで放っておいた挙句に、大切なものをゴミと一緒に捨てられたりする。しかも子供時代のハーレイのように忙しかったわけではなくて、ただ面倒でやらないだけ。
「ぼくの友達、家でゴロゴロしてる日だって掃除はしないよ」
「お前の年ならそっちが普通だ。お前が綺麗好きなんだ」
分かる気はするが、とハーレイの鳶色の瞳が細められた。
「前のお前もそうだっただろ?」
ブルーの前世はソルジャー・ブルー。ミュウの初代の長だった。
アルタミラを脱出した直後は船の中も雑然としていて、ブルーもソルジャーの地位にはいなくて仲間たちの一員というだけのこと。その頃のブルーは自分に割り当てられた部屋を綺麗に掃除し、通路なども率先して片付けていった。
今のブルーと変わらない小さな身体だったブルーが頑張って掃除や片付けをしているのだから、と他の者たちも精神状態が安定した者から順に手伝いをするようになって、船内は予想以上に早く快適な居住環境となった。
そんなブルーだったから、ソルジャーとして青の間に住まうようになっても私的な部分の掃除は自分でしようとした。ベッドの周りや、奥にある小さなキッチンの掃除。部屋付きの掃除係が来てみれば既に掃除が終わった後ということも少なくなかった。
「お前、本当に綺麗好きだったしな。クルーの仕事を奪ってどうする」
「だけど自分の部屋だよ、ハーレイ? 出来ることは自分でしたかったもの」
「それはそうなんだが…」
そうなんだが、とハーレイの声が僅かな翳りを帯びて。
「…綺麗好きなのはいいことなんだが…。お前の言い分もよく分かるんだが、ただ、な……。そのせいで俺は悲しい思いをしたんだ」
「えっ、なんで?」
ブルーは心底、驚いた。前の自分が綺麗好きだったことで、何故ハーレイが悲しむのだろう?
青の間が常に散らかっていたならクルーの仕事が無駄に増えるし、キャプテンの所に苦情が届くこともあり得る。けれど実際は逆だったのだから、何も問題は無さそうなのに…。
遠い記憶を探ってみても答えらしきものは見付からない。いくら考えても分からない。仕方なく尋ねてみることにした。ハーレイに訊くのが一番早い。
「…なんでハーレイが悲しくなるの?」
首を傾げて問い掛けたブルーに、ハーレイは「お前のせいではないんだがな…」と呟いてから。
「お前が逝っちまった後のことさ。…メギドに向かって飛んだお前は二度と帰って来なかった」
「…うん…。そうだけど、それが…?」
悲しかった前世でのハーレイとの別れ。思い出しただけで涙が零れそうになるし、右の手が凍えそうになる。ハーレイの温もりを失くしてしまって、メギドで冷たく凍えた右の手。
その手をキュッと握ろうとしたら、ハーレイの手が伸びて来た。大きな褐色の手がブルーの手を包み、「ほら」と温もりを移してくれる。
両方の手でブルーの右手を包み込みながら、ハーレイは彼方に過ぎ去った時を語った。
「…お前が守ってくれたお蔭で、シャングリラはナスカから逃げることが出来た。だが、ナスカで死んじまった仲間たちもいたし、お前までいなくなっちまった」
シャングリラの中には悲しみと混乱とが渦を巻いていて、それが落ち着くまでハーレイの仕事は多忙を極めた。ジョミーがアルテメシアへの進攻を宣言したため、それに伴う会議や航路の設定もあって、ハーレイは自分のために時間を割けなかった。
「…ようやっとゴタゴタが片付いた後で青の間に行ったら、何があったかお前に分かるか?」
「……ぼくって、何か置いてったっけ?」
そんな記憶はブルーには無い。迫り来る災いから皆を守るため、これが最後だと長い年月を共にした部屋を見回して心で別れを告げた。ハーレイと眠った大きなベッドが何よりも別れ難かった。もう一度だけ其処に腰掛けたい、と願う自分を叱咤し、それきり二度と振り返らなかった。
もしかしたら何か落として行ったのだろうか?
振り向くことをしなかったから、落し物に気付かなかったのだろうか?
(…でも……)
落とすような物を持ってはいなかった。ソルジャーの衣装を纏ってしまえば、戦いに赴くために必要なものは何も無い。それを纏ってベッドを離れた自分に落とすような物は何ひとつ無い。
「…何も無かったと思うんだけど…」
考え込むブルーに、ハーレイは「そうさ」と答えを返した。
「青の間に行っても何も無かった。…綺麗に何も無かったんだ」
ハーレイの顔が苦しげに歪む。まるであの日に、あの場所に引き戻されたかのように。
「…俺はお前に会いたかった。お前がいないと分かってはいても、もう一度会いたかったんだ」
青の間に行けば会えると思った、とハーレイは小さなブルーの手を握り締めた。
「お前が確かに其処に居たんだ、という名残りでいいから会いたかった。お前が腰掛けたベッドの皺でも、出掛ける前に飲んで行った水のグラスでもな」
「…うん……」
何とハーレイを慰めたらいいのか、ブルーには見当もつかなくて。ただ頷いて、ハーレイの手をキュッと握り返すことしか出来なかった。
飛び去ってしまった前の自分を探し求めて青の間に行ったというハーレイ。
ハーレイは其処でブルーの欠片に出会えただろうか?
「…俺はお前に会いに出掛けたのに、綺麗さっぱり何も無かった」
無かったんだ、とハーレイは辛そうに頭を振った。
「…まさかああなるとは思っていなかったんだな、部屋付きのヤツも。…お前はかなり無理をしていたし、帰って来たら直ぐに寝られるように、と気遣って整えたんだろう」
ハーレイが足を踏み入れた部屋に、ブルーの痕跡は何も無かった。
大きなベッドはベッドメイクがすっかり済まされていて、ブルーが眠った跡すら無かった。皺の一つさえ残ってはおらず、枕カバーもシーツも何もかも、洗い立てのものと交換されていた。
枕元に置かれた水差しの水も新しいものと取り替えられて、被せられたグラスも綺麗に洗われてしまった後で。ブルーが最後に水を飲んだのか、飲まなかったのかすらも分からなかった。
「お前は片付いた部屋が好きだったからな…。お前が部屋を出て行って直ぐに、係のヤツが掃除をしたんだろう。…そのせいで何も残らなかった」
お前の髪の一筋さえも、俺には残らなかったんだ…。
項垂れるハーレイはそれを探しに行ったのだろう。ブルーが確かに生きていた証。
ベッドの上に一本くらいは落ちていそうなブルーの髪。銀色のそれを持っていたくて、青の間へ探しに出掛けて行った。それなのに…。
「……ごめん」
ごめん、とブルーは唇を噛んだ。
今と同じで綺麗好きだった前の生の自分、ソルジャー・ブルー。弱り切った身体で戦いの場へと向かった部屋の主が戻ったら心地よく眠れるようにと、部屋付きのクルーが掃除をした。ベッドを整え、水差しの水も新しいものを満たして、グラスを洗った。
もしもブルーが大雑把な性格であったなら。…整い過ぎた部屋は落ち着かないタイプで、部屋の掃除は一日に一度、眠る前のベッドメイクだけで充分な人間であったなら…。
戻ったブルーがリラックスして過ごせるようにと、部屋はそのままだっただろう。眠りの続きに入りやすいよう、ベッドはブルーが眠った痕跡を留め、水差しの水も減ったまま。
そうしておいて、戻ったブルーに尋ねただろう。今から部屋を整えますか、と。
けれどブルーは綺麗好きだったし、整った部屋を好んでいたから、何ひとつ残りはしなかった。ベッドは綺麗にされてしまって、ブルーが気付かずに残したであろう銀色の髪も無くなった。
ハーレイはそれが欲しかったのに。
生きていた間に髪の毛など渡しはしなかったから、青の間に知らず落としていった銀の髪だけがブルーの形見になったのだろうに…。
「…ごめん、ハーレイ…。ぼくのせいだ…」
ぼくが掃除が好きだったから、とブルーは謝る。
まさかそういうことになるとは夢にも思っていなかったから、整った部屋が好きだった。綺麗に掃除をすることが好きで、青の間でさえも自分で出来る部分は掃除してしまう習慣で…。
そのせいでハーレイの手にはブルーの形見が残らなかった。
ブルーがメギドへ飛び立った後に、青の間は掃除されてしまったから。落ちていたであろう髪も掃除されて何処かへ行ってしまって、ハーレイの手には入らなかった…。
「ごめん、ハーレイ…。本当に、ごめん……」
戻ろうにも戻れない、遠すぎる過去。あの日に戻ることが出来るというなら、青の間を出る時、部屋付きの者に「掃除はいいよ」と告げてゆきたい。「直ぐに戻るから、このままがいい」と。
それでも掃除されてしまうのかもしれないけれど、ハーレイのために残しておきたい。
自分が其処に生きた証を、ついさっきまで此処に居たのだとハーレイに教える様々なものを。
どうして気付かなかったのだろう。
ハーレイが自分を求めて来るであろうことに、どうして思い至らなかったのだろう…。
悔やんでも悔やみ切れない、前の生の自分が仕出かしたこと。
今更どうにもならないのだけれど、ブルーはハーレイに「ごめん」と謝る。他には何も出来ないから。謝るより他に何も出来ないから…。
「いや、俺も悪い」
泣くな、と言われて褐色の指がブルーの目元を優しく拭った。知らない間に泣いていたらしい。ハーレイはブルーの涙を拭うと、また右の手を握ってくれた。
「…俺も悪いんだから、もう泣くな。…お前が俺に残した言葉を聞いた後に、直ぐに青の間の係に「部屋をそのままに」と言えば良かった。そうすれば掃除はされなかったんだ」
キャプテンの命令なのだから、とハーレイもまた遠い日の自分の愚かさを悔やむ。
ブルーが二度と戻らないことに気付いていながら、出すべき指示を出さなかったと。
「あの時はそんな発想すらも無かった。お前はメギドへ飛んでっちまうし、ナスカに残った連中は回収し切れていないし、シャングリラの中も大混乱で…。俺の能力の限界をとうに超えてたな」
よくもキャプテンが務まったものだ、とハーレイの瞳に穏やかな色が戻って来た。
「お前のことは頭にあっても、青の間まで頭が回らなかった。すっかり掃除されちまった青の間が誰のせいかと尋ねられたら、俺にも責任の一部はあるんだ。…九割はお前のせいだがな」
綺麗好きめが、とブルーの額が褐色の指にピンと弾かれる。
「割合はともかく、共同責任らしい俺に言わせれば、だ。…俺もお前も自分のことだけで精一杯になっちまったような非常事態の真っ最中にだ、青の間を綺麗にしたヤツの方が余程凄いさ」
自分の責任をキッチリ果たしていたんだからな、とハーレイが笑い、ブルーも笑った。
ソルジャーもキャプテンも自分の責任を果たせたか否か自信が無いのに、青の間付きのクルーは普段と全く変わらず、自分の任務を全うしたと。
シャングリラがどうなるかも分からない中で、きちんと仕事をやり遂げたのだ…、と。
「…よく考えてみたらホントに凄いね、ぼくなら放って逃げていたかも…」
部屋の掃除くらい、とブルーはつくづく感心した。ソルジャーだった自分はともかく、ミュウは大抵、気が弱い。弱すぎて前面に出られない者が部屋係を務めることも多くて、青の間といえども例外ではない。
そういう気弱な部屋係があのナスカでの混乱の最中に仕事をしていた。安全な場所に閉じこもる代わりに青の間を掃除し、ブルーが帰って来る時に備えた。逃げ出したい気持ちを抑えてベッドを整え、水差しの水まできちんと替えて。
「誰だったのかな、あの日の係…」
「さあな? 俺は掃除をされたショックで調べるどころじゃなかったからなあ…」
誰だろうか、と思い当たる顔と名前を二人で挙げてみて、その中の誰であっても凄すぎるという結論に達した。まさに「火事場の馬鹿力」だと。
「…ぼくがメギドを沈めたくらいの勢いだよ、掃除」
「そうだな、そういう感じだな。…メギドと掃除じゃ月とスッポンどころじゃないがな」
そこまで死力を尽くした掃除を恨んでは悪い、と二人揃って笑い合う。
悪いのは自分たち二人であって、部屋係に罪などありはしない、と。
ブルーの綺麗好きが災いしたらしい、ブルー亡き後の青の間の事件。
今でこそ笑っていられるけれども、ハーレイにしてみれば前世での辛く悲しい記憶の一つ。
ブルーを喪い、その形見すらも手に入れられなかった苦しみの記憶。
だからハーレイはブルーに言う。
「おい、ブルー。…綺麗好きもいいが、今度は適当にしといてくれよ?」
「適当?」
「そうだ。ほどほどにしておいてくれ、という意味だ」
お前の気配が綺麗さっぱり無いのは困る、と注文をつければ、ブルーが小さく首を傾げる。
「…たとえば?」
「俺たちが一緒に暮らせるようになったら、ベッドメイクは二人でするとか。食器も二人で一緒に洗うとか、後片付けや掃除はとにかく二人だ」
お前が二人でやりたくないなら俺がやるさ、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「…お前の欠片が見当たらない生活は二度としたくはないんだ、俺は」
片付けは一緒に、少しでも欠片が残るように。綺麗に片付いていても、何処かに欠片。
「えーっと…」
ブルーは少し考えてから、「そうだ!」と顔を輝かせた。
「じゃあ、カップ! ぼくのカップを置いておけば? それがあったらぼくが居るんだよ」
「お前のカップか…。いいな、だったらセットで買うか?」
俺のカップと、お前のカップと。模様が違うカップでもいいし、サイズが違うカップでもいい。
洗う時はいつも二つ一緒で、出すのも一緒だ。
どうだ? と問われて、ブルーは笑顔で頷いた。
「うん。ぼくもハーレイのとセットのカップがいいよ。ハーレイが留守で片方だけを使う時でも、もう片方がちゃんと何処かに置いてあるカップ」
「そして使わなかった俺のカップまで洗うつもりか、綺麗好きのお前としては?」
「出して並べてたらちゃんと洗うよ、ハーレイの分のカップだもの」
ふふっ、とブルーは微笑んだけれど。
ハーレイが使ったカップを洗わずに置いておくのもいいな、と思った。
いつか一緒に暮らすようになって、ハーレイが仕事に出掛けた後に残されたハーレイのカップ。
カップの底に残ったコーヒーや紅茶の跡を眺めて、それを飲んでいたハーレイを想う。
(うん、いいかも…)
胸がじんわりと温かくなる。
綺麗好きの自分がカップを洗わずに置いておくなんて、なんだかとても不思議だけれど。
不思議だけれども、ハーレイが飲んでいた跡が残ったカップだと思うと愛おしい。
(…唇で触ってみたくなるかも…)
どんな飲み心地のカップなのかと、確かめたくなって唇で触れるかもしれない。
きっと唇が温かくなる。ハーレイの温もりが唇に触れる。
(そっか、ハーレイが言ってた欠片って、こういうのなんだ…)
其処に居なくても、欠片がハーレイを連れて来てくれる。
ハーレイはブルーの欠片が欲しいし、ブルーもハーレイの欠片があったら幸せになれる。
お互いがちゃんと生きていてさえ、欠片が欲しいと思ってしまう。
(…ハーレイが仕事に行ってる間だけでも、欠片があったら嬉しいんだから…)
…ごめんね、ぼくの青の間のこと……。
掃除されてしまって、ぼくの欠片が一つも残っていなかった部屋。
(ごめんね、ハーレイ…)
だけど今度は、ぼくは何処にも行かないから。
ずっとハーレイと一緒に居るから、出掛ける時にはハーレイの欠片を置いて行ってよ。
ぼくが寂しくならないように、ハーレイの温もりが分かる欠片を……。
無くなった欠片・了
※前と同じに綺麗好きなブルーですけど、綺麗好きだったせいで形見が無かった前のブルー。
今度はハーレイに悲しい思いをさせることなく、二人で幸せになれますように…。
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