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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 ハーレイが訪ねて来てくれる土曜日の朝。
 目覚めて直ぐに土曜日だと気付き、今日はハーレイと何を話そうかと考えを巡らせかけたブルーの耳が音を捉えた。激しくはないけれど、屋根を叩く水の雫の音。
「…雨だ…」
 先日までの天気予報では雨は降らないと言っていたのに、予報が変わって曇りになったのが昨日の朝のこと。土曜日は早朝から釣りに出掛けるのだと話していたクラスメイトの顔を思い出す。曇りならともかく、本降りの雨。彼は釣りに行くことが出来ただろうか?
(ぼくは何処にも出掛けないから関係ないけど…)
 きっと何人もの休日の予定が変更になるに違いない。外でやるスポーツやハイキング。車で出掛ける人にしたって、遠出をやめて近い所へ行くかもしれない。その点、ブルーは家でハーレイの来訪を待つだけなのだし、何も変わりはしないのだが…。
(ハーレイ、今日は車かな?)
 ブルーの家を訪ねて来る時、ハーレイが使う方法は三通り。路線バスと自分の車と、自分の足と。雨が降る日は大抵が車で、晴れか曇りなら路線バス。運動を兼ねて歩いて来る日は雨とは無縁の天気が良い日。
 そんなことをつらつらと考えながら着替えを済ませて両親と一緒に朝食を摂った。雨は一向に止もうとはせず、どうやら夜まで降り続くらしい。
(夜まで降るなら、釣りはやっぱり無理だったかな?)
 クラスメイトのガッカリした顔が目に浮かぶようだ。ブルーは生まれつき身体が弱かったから、雨で変更を強いられそうな予定とは殆ど縁が無い。屋外でスポーツなどはしないし、長距離を歩くハイキングだって学校の遠足くらいなもの。それすらも参加出来ずに家に居たことも度々で…。
(雨って、色々と大変だよね)
 いつものように部屋を掃除し、後はハーレイが来るのを待つだけ。自分用の椅子に座って窓から表の庭と通りを見下ろす。ハーレイは車か、はたまた傘を差しての到着か…。
「あっ!」
 やっぱり車、と見慣れたハーレイの愛車が来客用のスペースに入ってゆくのを眺めた。ハーレイの車を見るのは好きだ。今はまだ一緒に乗せては貰えないけれど、大きくなったら…。
(車で何処でも行けるんだよね)
 一日でも早く大きくなって、ハーレイが運転する横で助手席に座って、いろんな所へ。そうなる頃には雨に降られて気落ちすることもあるのだろうか?
(…えーっと…。雨が降ったら駄目な所って何があったかな?)
 屋根の無い公園、それから海辺。山も駄目かな、と指を折って順に数える途中で気が付いた。雨が降ったら台無しどころか、もっと大変なとある事実に。



 車をガレージに停めたハーレイが母の案内でブルーの部屋までやって来る。軽いノックの音に声を返すと扉が開いて、ハーレイが「おはよう」と穏やかな笑顔で現れた。ブルーの向かいの椅子に腰掛け、母がテーブルに紅茶と焼き菓子を置いて…。
「ごゆっくりどうぞ。何か御用がありましたら、ブルーに仰って下さいね」
「ありがとうございます。今日もお世話になります」
 ハーレイは丁重に礼を述べるが、本当の所、世話になっているのはブルーの方だ。ブルーが此処に居なかったならば、ハーレイには自分の時間を自由に使える休日が今日もあった筈。土曜日と日曜日が巡ってくる度、ブルーはハーレイを拘束している。雨降りよりも厄介な存在が自分。
「どうした、ブルー?」
 元気が無いな、とハーレイに顔を覗き込まれた。母はとっくに扉を閉めて出て行ったらしい。
「…うん……。…ううん」
 曖昧に答えたブルーに、ハーレイは「気になることがあるのなら言え」と促してくる。
「お前、どう見てもおかしいぞ。甘えもしないし、喋りもしない。……何があった?」
「……えっと……」
 どうしようかと言い淀んだものの、ブルーがハーレイの休日を殆ど一人で独占している今の状態は今後も続く。ハーレイがそれを選んだとはいえ、無期限でブルーの守り役として。
 前世では心も身体も結ばれた恋人同士で、今の生でもハーレイはブルーを恋人だと言う。ブルー自身も恋人だと思っているのだけれども、実際はキスすら交わしてはいない。そんなブルーに付き合い続けて休日の大半を潰してしまって、ハーレイはそれでいいのだろうか?
「ハーレイ…。一つ訊いてもいい?」
 ブルーは思い切ってハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「なんだ? 俺で分かることならいいんだが…」
「…ハーレイにしか答えられないことだよ。……ハーレイ、休みの日は前は何をしていたの?」
「休みって…。今日みたいな土曜とか日曜のことか?」
「うん。……ぼくの所へ来なくちゃいけなくなってしまう前は何をしていたのかな、って…」
 其処まで言うのが精一杯。ブルーは俯き、黙ってしまった。
 自分が知らないハーレイの休日。今よりも遙かに充実していて、色々な場所へ出掛けて行って…。
 ハーレイの答えを待つまでもなく分かっている。自分がハーレイを独占する前は何通りもの休日の過ごし方があって、ハーレイはそれらの日々を心から楽しんでいたに違いないと。
「……なるほどな……」
 ハーレイはクッと小さく喉の奥で笑い、ブルーの銀色の髪を右手でクシャクシャと撫でた。



「…お前の質問への答えだが」
 その言葉にブルーはピクリと肩を震わせた。それを見たハーレイがクックッと笑う。
「まずは、一つ目。…ブルー、お前は重大な勘違いってヤツをしているぞ。俺は強制されて此処へ来ているわけじゃない。建前上はそういうことになっているがな、お前まで勘違いを起こしてどうする。俺はお前に会いたいから此処に来るんだぞ」
「…でも……。ぼくは小さいから、ハーレイの恋人っていうのは名前だけだよ」
「名前だけでも充分なんだよ、俺にはな。…お前が昔の姿に育つ時まで何十年でも待てると何度も言っているだろう? 見張っていないと他の誰かに盗まれそうだ」
 お前はとてつもない美人に育つんだしな、とハーレイはパチンと片目を瞑る。
「自分の宝物の番をしたくないヤツは居ないと思うぞ、盗まれそうなモノとなったら尚更だ」
「…だけど……。ハーレイのための時間が全然無いよ」
「俺のためだろうが、今だってな。とびきりの美人に育つ予定のお前の姿を眺めて暮らす。しかも将来は俺のものになると言ってくれる可愛い恋人なんだぞ? こんな贅沢な時間は無いと思うが」
 おまけに美味い飯だの菓子だのも付く、とハーレイの指が焼き菓子の皿を指差した。
「この菓子もお前のお母さんの手作りだしな? その辺のヤツより美味い菓子が食えて、飯だって色々作って貰える。俺も料理は得意な方だが、作って貰った飯というのは格段に美味い」
「…それでもやっぱりハーレイが自由に使える時間は無いよ…」
「俺としては今現在も自由時間のつもりだが? 恋人と二人で過ごせる時間が自由時間でないヤツがいたら、是非ともお目にかかりたいな。そんな馬鹿野郎には恋など出来ん」
 そして、と褐色の手がブルーの髪を優しく梳いてゆく。
「お前の質問への二つ目の答え。…お前という宝物があるなんてことを知らなかった頃は、休みと言ったら運動だったな。柔道もいいし、水泳もいい。道場に行って指導もしてたし、一日中プールで泳ぎまくったり…。それはそれで楽しい休日だったが、宝物を見付けてしまうとなあ…」
 値打ちがググンと下がるもんだ、とハーレイはニッコリ笑ってみせた。
「俺だけの宝物を眺めて過ごせて、しかも飯付き。それに比べれば、自由を満喫していたつもりの昔の俺ってヤツは悲惨だ。ただの寂しい独身男さ、嫁も彼女も居ないんだからな」
「……本当に? ハーレイは本当に今みたいな休みでかまわないの?」
「当たり前だろうが、何度言えば分かる? 俺は自分の宝物の見張りに通っているんだ、盗られたり逃げられたりしないようにな」
 この宝物には綺麗な足が生えているから、とハーレイの足がテーブルの下のブルーの足に触れて、直ぐに離れた。
 それは本当に一瞬のこと。小さなブルーは知りもしないが、倍以上もの年を重ねたハーレイの方は立派な大人の男性。ほんの少し足が触れ合っただけでも身体の奥に熱がじわりと生じるのだから。



 宝物のブルーを他の誰かに盗られないよう、ブルーが逃げてしまわないよう、その側で見張る。
 それが自分の休日であって、最高に贅沢な過ごし方だとハーレイは言った。
「盗まれてから歯軋りしても遅いし、逃げられたとなると泣くしかない。そんな惨めな目には遭いたくないからな。…特にお前が逃げる方は、だ」
「…逃げたりしないよ、ぼくはハーレイしか好きにならない」
「……どうだかな?」
 分からないぞ、とハーレイが難しい顔をする。
「前のライバルはシャングリラのヤツらだけだった。しかし今度は違うからな…。地球だけでも凄い人数が居るし、宇宙には星が幾つも散らばってやがる。そしてお前は美人ときた。目をつけるヤツはきっと多いぞ、お前と釣り合う年のヤツらも掃いて捨てるほど居るんだからな」
 こんなに老けたオッサンよりも若いヤツの方がいいだろう? と訊かれたブルーは「ううん」と首を左右に振った。
「ハーレイだから大好きなんだよ、ハーレイが若く生まれていたなら若いハーレイでもいいんだけれど…。ハーレイ以外の恋人なんて欲しくもないし、そんなの要らない」
「もしも若いゼルが居たらどうする。…まだ出会っていないだけかもしれない」
「ゼルは最初からどうでもいいよ! シャングリラに居た頃から興味無しだよ!」
「そうか? …お前より年上のジョミーというのも可能性はゼロではないんだが」
 その辺からフラリと出てくるかもな、と言われたけれども、ジョミーだってブルーはどうでも良かった。シャングリラに居た頃、ハーレイとジョミーと、どちらがモテていたのかと問われれば恐らくはナスカでほんの数日だけ目にした青年の姿のジョミーだろうが…。
「ジョミーだって好きにならないし! ヒルマンも要らないしノルディも要らない!」
 ハーレイが更なる名前を持ち出す前に、とブルーは先手を打って叫んだ。
「まかり間違ってキースが来たって、ぼくは絶対断るから!」
「…ははっ、キースか! そう来たか!」
 アレな、とハーレイが眉間に寄せていた深めの皺が崩壊した。
「分かったよ、お前の本気の凄さは。…要するにお前は俺から逃げる気は無い、と」
「逃げたりしないし、盗まれもしない。キースが来たら断ってダッシュで逃げることにするし!」
 メギドでブルーを撃ち殺そうとした男、キース・アニアン。今でも時々夢に見るけれど、彼もまた何処かに居るのだろうか? 彼は最期にミュウの未来を拓いてくれたと学校で習う。今の生で彼と出会えたならば語り合いたいとは思うけれども、それと恋とは全く別で…。
「ホントのホントに逃げるんだから! でも、逃げ遅れて捕まってたら…」
 助けに来てくれる? と尋ねてみる。前の生でのハーレイだったら無理だった。しかし、今の生のハーレイは違う。今のハーレイなら、恐らくは、きっと…。



「お前が盗まれてしまった時か?」
 取り返すために殴り込むさ、とハーレイは豪快に笑い飛ばした。
「盗んだ男をタコ殴りにして窓から捨てるくらいはするぞ? もちろん、死なない程度の高さの窓からだがな。…しかしだ、お前が逃げた時には俺は黙って見送ってやる」
 本当だぞ、とブルーの髪を大きな褐色の手がグシャグシャと撫でてかき回した。
「今のお前は逃げる気なんぞは本当に全く無いんだろうが、人生ってヤツは分からんものだ。俺が今頃になってやっとお前と出会えるくらいだ、お前の人生にも何が起こるか分からんさ。…そしてお前が他の誰かに惚れたと言うなら、俺はお前のために身を引く」
 ……俺にお前を縛る権利は無いからな。
 そう言いつつも、ハーレイは「だから」とブルーの頬を指先で軽くチョンとつついた。
「だから、お前に逃げられないように番をするのさ。そのために俺は此処に居る。その脹れっ面、「ぼくは絶対」と言いたいんだろ? だがな、人生には「絶対」は無い」
 現に俺だってお前に惚れた、とハーレイの鳶色の瞳が悪戯っぽい光を宿した。
「俺の家には子供部屋まであるんだぞ? なのに子供はどう間違えても無理そうだしな! お前が産んでくれるというなら話は別だが、お前、産めるか?」
「えっ…。そ、それはちょっと…」
 無理! とブルーは耳の先まで真っ赤になった。
 いつかはハーレイと本物の恋人同士になるのだと固く心に決めているけれど、そうなっても子供は作れない。どう頑張っても男同士では無理なことくらい、小さなブルーでも分かっている。
「ほら見ろ、俺の人生の設計図ってヤツがお前に出会って崩れたわけだ。子供部屋まで作っておいても子供は無しな人生なんだぞ、お前の人生もどうなるんだか…」
「ぼくはホントに逃げないってば! でも捕まって盗まれちゃったら…」
「取り返す!」
 お前に万一のコトが起きてしまう前に何処であっても殴り込む、と告げてハーレイは立ち上がり、ブルーの背後に回り込んだ。小さな身体を椅子ごと抱き締め、その耳元で熱く囁く。
「…いいな、俺の休日はお前のものだ。俺が自分でそう決めた。お前は心配しなくていい」
「うん…。ハーレイがそう言うのなら……。それでね…」
 ぼくのお休みの日はハーレイのものでいいんだよね、とハーレイの腕に甘える小さなブルーはまだまだ分かっていなかった。ウッカリ盗まれてしまおうものなら自分の身に何が起こるかを。
 それが起きる前に何処であろうとも殴り込む、と言うハーレイがどれほどにブルーを大切に想っているのかも理解し切れない十四歳の小さなブルー。
 そんなブルーのためだけにあるハーレイの休日は、ハーレイの身には少しだけ切なく甘かった…。




             雨の降る日に・了




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「ハーレイ先生。着任早々、厄介なことになられましたな」
 同僚の教師がハーレイに声をかけてきた。
「昨日、搬送された一年生の…。ブルー君でしたか、無期限で彼のお守りだそうで。色々と仕事もお忙しいのに」
「いえ、やり甲斐がありますよ。この顔が役に立つ日が来るとは夢にも思いませんでしたしね」
 自分の顔を指差すハーレイに、同僚が「それはまあ…」と曖昧に頷く。
「しかし本当に似ておられますなあ、ブルー君が反応するわけですよ」
「はははっ、私も驚きましたが、ブルー君はもっと驚いたのでしょう。なにしろキャプテン・ハーレイですから」
「いやいや、まったく。ブルー君もそっくりですからねえ…。ソルジャー・ブルーに」
 よくもまあ同じ学校に揃ったもんです、と同僚は初めて笑みを浮かべた。
「それで今日から早速ですか?」
「頼まれたからには急がなければと思うのですが…。まだ引き継ぎが終わりませんで」
「ああ、柔道部の顧問も引き受けられたとか…。いやはや、真面目でいらっしゃる。あまりご無理をなさらないように」
 お守りは適当になさった方が、と同僚はハーレイを気遣ってくれた。けれど…。
「そうそう出来ない経験ですしね、楽しみながらやるつもりです。気儘な一人暮らしですから、却ってこちらが助かりそうな気もしていまして」
「ははっ、そうかもしれませんな! 三食昼寝つきですか」
「運が良ければそうなりますよ、休日限定ですけどね」
 御心配無く、とハーレイは豪快に笑ってみせる。同僚もようやく安心したのか、一緒になって笑い始めた。独身男の休日にしては優雅な待遇かもしれない、と。



 青い地球に生まれ変わって再会を果たしたハーレイとブルー。
 二人は十四歳のブルーが通う学校の教師と生徒で、ハーレイは昨日着任したばかりだった。前の学校で急な欠員が出たため引き止められてしまい、新年度スタートに間に合わなかった古典の教師。前任者を引き継いで出掛けた教室で、それは起こった。
 以前から友人知人に指摘されていたハーレイの顔立ちと、その姿。
 遠い昔にミュウたちを乗せ、地球に辿り着いた白い鯨を思わせる船、シャングリラの船長であったキャプテン・ハーレイに生き写しだとよく言われる。自分でも似ていると思っていたし、名前まで同じハーレイなせいで「生まれ変わりか?」とも聞かれたものだ。
 しかしハーレイには前世の記憶など無く、ただの偶然だと思ってきた。それなのに…。
 授業のことだけを考えながら扉を開けたとある一年生の教室。其処にハーレイが入った途端に、一人の男子生徒がその瞳から血の色をした涙を流した。瞳の色の赤と相まって酷く驚いた次の瞬間、まだ幼さの残る生徒の瞳どころか両の肩から、その脇腹から大量の血が溢れ出して。
「どうしたんだ! おい、しっかりしろ!」
 そう叫ぶのが精一杯だった。慌てて駆け寄り、床に倒れた少年の身体を抱え起こしたハーレイの身体を電撃のように貫いた記憶。
(…ブルー?!)
(……ハーレイ?!)
 知っている。俺はこの姿を知っている。そしてブルーも、俺を知っている……。
 交差し、流れ込む夥しい記憶はハーレイの、腕の中のブルーの遙かに遠い前世での記憶。
 ブルーの身体を染めてゆく血が贄であったかのように、かつての自分が何者だったかをハーレイは悉く思い出した。
 気を失っている小さなブルーは、前世で愛したソルジャー・ブルー。
 だが、生まれ変わった彼に出会えたのだ、という感慨に浸る間もなくハーレイは保健委員の生徒に指示して救急車を呼びに行かせねばならず、ブルーの身体を抱き締めることすら叶わなかった。
 せめてもの救いは一部始終を見ていた者として救急車に同乗出来たこと。
 病院へと走る救急車の車内でハーレイはブルーの小さな手を握り、何度も何度も声をかけた。
 「大丈夫だからな」「すぐ病院に着くからな」と。
 そうやって到着した病院でブルーを診た医師が下した診断と、ブルーの両親が伏せておくと決めたブルーの前世。それらを擦り合わせ検討した結果、ハーレイに新しい役目が出来た。
 ブルーを無期限で見守ること。
 周りから見れば厄介としか思えないそれを、ハーレイは二つ返事で喜んで引き受けたのだった。



 ブルーの瞳から、その身体から流れ出した大量の鮮血。
 事故かとハーレイを焦らせたそれは、ブルーの身体に何の痕跡も残さなかった。搬送された病院で服を剥がされたブルーの肌には傷一つ無く、制服のシャツが血まみれになっていただけ。
 しかも瞳からの出血は既に前例があって、その時の検査も今回の大量出血の検査も結果は全て「異常なし」。
 ブルーを診た医師はブルーに前世の記憶が戻ったことと、ハーレイもまた同じであることを考えた末に一つの結論を導き出した。
 かつてソルジャー・ブルーであった十四歳のブルーと、キャプテン・ハーレイであったハーレイ。
 前世で数百年もの時を共に生きた二人には深い絆があり、今の生では他人とはいえ今後はそうもいかないだろう、と。
 かつての記憶を語り合うにしても、これからの生をどう生きるかを考えるにしても、二人には話し合うための時間が必要だ。しかも数百年分の記憶ともなれば、一日や二日で済むわけがない。
「如何でしょうか? ブルー君の今後のためにも、頻繁に会えるようになさっては?」
 医師がブルーの両親に告げた言葉は、既にハーレイの承諾を得ている。ハーレイと従兄弟同士の医師は、「俺はキャプテン・ハーレイだったよ」と告げたハーレイとはとうに相談済みだった。
「私の従兄弟……いわゆるキャプテン・ハーレイですが、彼も賛成してくれました。休日は出来る限りブルー君と会い、時間があれば平日も。…そうすれば積もる話も出来ますからね」
「…で、でも、先生……。ブルーだけを特別扱いとなれば、学校から何か言われませんか?」
 ブルーの父が心配そうに尋ねた。母も不安げな表情だったが、医師は「その点は問題ありません」と太鼓判を押した。
「以前、ブルー君の出血は聖痕現象の一種では、とお話しさせて頂きましたね。初めて目にした症例だけに、あれから色々と古い資料を調べてみました。そうして分かったことなのですが…」
 聖痕が身に現れた人々は繊細なタイプが多かったという。神の受難に思いを馳せるあまりに精神が肉体を凌駕してしまい、その結果として原因不明の出血が起こる。中には出血の量が多すぎ、寝たきりとなってしまった例も少なくはなく…。
「…そ、そんな…! それじゃブルーはどうなるんですか!」
 母の悲鳴に、医師は「前世の記憶が戻りましたし、もう出血は起きないだろうと思います」と答えた上で、こう言った。
「しかし、かつての聖痕者たちの症例が此処で役に立ちます。ブルー君の前世を伏せる以上は、出血はソルジャー・ブルーに関連している聖痕だということになります。頻繁に起こして寝たきりになったりしないためには、ソルジャー・ブルーの傷を思い出さないよう精神の安定が必要ですね」
 ソルジャー・ブルーの右腕であったと伝わるキャプテン・ハーレイをブルーの側に置くこと。それを私はお勧めします、と医師は微笑み、学校宛の手紙や診断書などを作成した。



 ソルジャー・ブルーが受けた傷痕を体現してみせた聖痕者。
 そう診断を下されたブルーは、ソルジャー・ブルーの身に起こった悲劇に思いを馳せることがないよう、キャプテン・ハーレイに生き写しなハーレイの見守りを受けると決まった。
 遙かな昔にミュウたちを守り、惑星破壊兵器のメギドと共に宇宙に散ったソルジャー・ブルー。
 彼の最期は詳らかにはなっていないが、それは一人きりでメギドを破壊した彼を看取った者が誰も居なかった証拠。孤独であった彼の最期をブルーがその身に写すのであれば、キャプテン・ハーレイそっくりのハーレイが身近に居れば状況は変わる。
 キャプテン・ハーレイが側に居る以上、ソルジャー・ブルーはメギドには居ない。メギドに行きさえせずにいたなら、その身に傷を負いはしないし、その傷を写し出す聖痕者であるブルーの身体にも傷は現れないだろう。
 十四歳の小さなブルーが聖痕を再び起こさないよう、ハーレイは守り役に選ばれた。
 けれども、それはあくまで表向き。
 本当の理由は「青い地球の上に生まれ変わったソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイが平穏な日々を過ごせるように」という配慮であって、教師と生徒として巡り会った境遇に邪魔をされずに自由に行き来が出来るように、と事情を知る者たちが願った結果。
 こうして無期限でブルーの守り役となったハーレイだったが、彼の負担を心配してくれる者たちを他所に、ハーレイの心は明るく弾む。
 前世で愛したソルジャー・ブルーの生まれ変わりの小さなブルーを堂々と見守り、その傍らに居ることを許されたのだから。
 ブルーの両親には「ブルーをよろしくお願いします」と深く頭を下げられたけれど、礼を言いたいのはハーレイの方だ。
 誰憚ることなくブルーの家に自由に出入りし、ブルーの成長を見守ってゆける。今はまだ十四歳の少年に過ぎないブルーが前世のソルジャー・ブルーと同じ姿に育った時には、手を取り合って共に歩んでゆけるだろう。
 その日まで自分はブルーを守る、とハーレイは固く決意した。
 教師の仕事が多忙であろうと、休日は出来るだけブルーの側に。平日であっても時間が取れれば、仕事の後にブルーを訪ねてゆこう、と。



 こうしてハーレイが見守り役となってくれたブルーだったが、肝心のハーレイとは救急搬送された日の夜にほんの少し会えただけだった。翌日からのブルーは大量出血のせいで四日間もの様子見の欠席を余儀なくされて、ハーレイも引き継ぎなどで忙しかったために訪ねてはくれず…。
 ブルーがすっかりしょげてしまった週末の土曜日、ようやく来てくれたハーレイの姿。ブルーは大喜びでハーレイを迎え、その日も、あくる日曜日も懐かしい前世の恋人に甘えて過ごした。
 とはいえ、月曜日から登校予定の学校では「ハーレイ」と呼び捨てにするわけにはいかない。
 ハーレイにも、そして両親からも「ハーレイ先生と呼ぶように」と何度も言われたブルーは日曜日の夜、ハーレイが帰った後で「ハーレイ先生」と声に出してみた。
 なんだか少しくすぐったい。
 けれど先生と生徒であることは間違いないし、「ハーレイ」ではなくて「ハーレイ先生」。
(…大丈夫かな?)
 失敗しないでちゃんと呼べるかな、と幾度も練習を繰り返す内に別の心配事が湧き上がってくる。
 「ハーレイ先生」と呼ばなくてはならないハーレイが無期限でブルーの守り役。
 学校を休んだ四日間の間に先生たちが全校生徒に説明をしてくれたと聞いているけれど、おかしな目で見られたりしないだろうか?
 授業の最中に原因不明の大量出血、おまけにブルー自身も右目からの出血で病院に行くまで聞いたこともなかった聖痕者。大きな身体で教師なハーレイが守り役となったからには、苛められたりはしないだろう。しかし、仲の良かったクラスメイトなどとは疎遠になってしまうかもしれない。
(だって、いきなり血だもんね…。ぼくだって他の誰かがそうなっちゃったらビックリするし)
 ハーレイは「心配するな」と言ってくれたが、本当に大丈夫だろうか?
 倒れて欠席してしまう前と同じように接して貰えるだろうか、と不安を抱いてブルーはベッドにもぐり込む。もしもみんなに好奇の視線で見られたりしたら…。
(…嫌だよ、そんなの…)
 悲しすぎるよ、と呟いてから気が付いた。
 クラスメイトたちと疎遠になっても学校に行けばハーレイがいる。「ハーレイ先生」と呼ばなくてはいけない場所だけれども、いざとなったらハーレイの側で休み時間を過ごせばいい。ハーレイはブルーの守り役なのだし、他の教師も駄目だと言いはしないだろう。
(うん、そういうのもきっと悪くないよね)
 ハーレイと一緒にランチを食べて、お喋りをして。
 そんな風に過ごす休み時間も、先日までの休み時間と違って素敵なものに違いない。



 遠巻きに見られるか、気味悪がられるか。
 それを覚悟で月曜日の朝、俯き加減で自分の教室に入ったブルーは時ならぬ歓声に取り囲まれた。
「もう出て来てもいいのかよ?」
「怪我はしてないって聞いたけど、本当?」
 身動きが出来ないほどの勢いでクラスメイトたちが押し寄せて来る。
「え、えっと…。怪我はしていないし、血が出ただけで…」
 おずおずと答えたブルーにワッとクラス中の生徒たちが沸いた。
「すげえや、マジで聖痕ってか!」
「ソルジャー・ブルーと同じ傷だって聞いたわよ? もしかして生まれ変わりなの?」
「…そ、それは違うと思うけど……」
 少し心が痛んだけれども、ブルーは嘘を口にした。自分の前世がソルジャー・ブルーであった事実は当分の間は極秘扱い。両親もそう決めているのだし、こんな所で明かせはしない。
「えーーーっ?! でもよ、あの怪我、メギドのヤツだろ?」
「うんうん、撃たれたって話は俺も知ってる! …あんなに酷い怪我だったんだなあ…」
 ソルジャー・ブルーって凄かったんだな、と男子の一人が言った言葉を切っ掛けに。
「だよなあ、とっくに三百歳を超えてたんだろ? おまけに身体も弱っていてさ」
「その身体であれだけ撃たれてよ…。それでも守ってくれたんだよなあ、ミュウの船をよ」
「もしもソルジャー・ブルーがメギドを沈めてくれなかったら、私たち、此処に居ないのよね?」
「当たり前だろ、シャングリラごとミュウは滅びちまってそれっきりだよ」
 自分たちがこうして生きていられるのはソルジャー・ブルーのお蔭なのだ、と授業で何度も習っている。それだけにブルーの身体を染めていた血がソルジャー・ブルーが最期に負った傷と同じかもしれないと知らされたクラスメイトたちが受けた衝撃は大きくて。
「…あそこまでして俺たちのために未来を作ってくれたんだよなあ…。ソルジャー・ブルー」
「ブルー、お前さ…。すげえよ、ソルジャー・ブルーとシンクロ出来たってえのが」
「やっぱり顔が似ているせいかしら? 凄いわ、ソルジャー・ブルーと同じだなんてね」
 でも…、とブルーをひとしきり褒め称えた後でクラスメイトたちは付け加えた。
 ブルーはクラスの大切な一員なのだから、二度と倒れたりしないように、と。
「そのためにハーレイ先生が付くんだってな、倒れないように頑張れよ!」
「そうよ、心配したんだから!」
 聖痕とやらは凄いけれども一度見せて貰えば充分だから、と口々に言ってくれる皆の気遣いが嬉しかった。見世物扱いでも仕方がない、と思っていたのに、こんなにも誰もの心が優しい……。



「…それでね、ハーレイ」
 その日の夜。
 事件の後での初の登校はどうだったか、と様子を聞きに訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合いながら、ブルーは嬉しそうに微笑んでみせた。
「誰も気味悪がらなかったよ、それにとっても嬉しかった。…ぼくを心配してくれたことも嬉しかったけど、一番はソルジャー・ブルーだった頃の話かな。メギドを沈めておいて良かった、と心の底から思ったよ。あの時、メギドを沈めなかったら今の友達は誰も存在しないんだ」
「…それはそうだが……」
 そうなんだが、とハーレイが顔を曇らせる。
「お前は本当にそれで後悔しなかったのか? 誰もお前の側に居ない場所で、たった一人で戦って……あれだけの傷を負った挙句に一人きりで……」
 ギュッと拳を握ったハーレイにブルーは「そうだね」と小さく頷く。
「…後悔なら………したよ」
「お前…!」
 ハーレイが息を飲むのを見詰めて自分の右の手を差し出す。
「ブリッジで最後に君に触れた手。この手に残った君の温もりを最期まで覚えていようと思っていたのに…。それなのに薄れていくんだよ。…キースが撃った弾が食い込む度に、痛みのせいで消えていくんだ…」
 それだけがとても悲しかった、とブルーは寂しげに呟いた。
「最後の最期まで君を覚えていたかったのに…。君の温もりは消えてしまって、独りぼっちで死ぬしかなかった。顔も姿も覚えていたのに、ぼくの手は冷たくなってしまったんだよ…」
「ブルー…!」
 ハーレイの褐色の手がブルーの右手を包み込んだ。その温もりを移すかのように、両手で覆って。
「馬鹿だ、お前は…! どうしてあの時、一人で行った!」
「…他には誰もいなかったから…。ぼくしかメギドを止められなかった」
 でも、とブルーはハーレイの手に柔らかな頬を擦り寄せる。
「ぼくは帰って来られたんだよ、君と一緒に居られる世界に。だから後悔しなくていい」
 今は充分幸せだから、と笑みを湛えるブルーに、ハーレイが立ち上がって細い身体を後ろから椅子ごと抱き締めた。



「…お前の傷なら癒してやる。俺の温もりが消えたと言うなら、温めてやるさ」
 小さなブルーの身体を血に染めた遠い日に受けた銃弾の痕。
 ハーレイの左腕がブルーを強く抱き締め、右の手のひらが両方の肩に、そして脇腹へと優しく順番に当てられてゆく。その手からじんわりと伝わってくるハーレイの温もり。遠い昔にメギドで失くした温もりと共に、ブルーが受けた傷を癒すかのように。
「……ハーレイ……」
 温かい、とブルーは懐かしい温もりに酔う。
 遠い記憶がもっと、もっとと求めるままにハーレイの腕に自分の腕を絡み付かせてキスを強請ろうとしたのだけれど。
「こら!」
 それは駄目だ、とハーレイがパッと身体を離した。
「お前、まだまだ子供だろうが! お前にキスは早いんだ!」
 そんな真似をするなら二度と傷の手当てはしてやらないぞ、と怖い顔をして叱られる。
「いいな、俺はお前を守ると決めた。だからお前をきちんと守る責任がある」
 キスが駄目なのもその一環だ、と言われてしまって不満げに唇を尖らせたけれど、ハーレイの態度は変わらなかった。
 十四歳の小さなブルーと、その倍以上の年を重ねたハーレイと。
 二人が共に歩んでゆける日が訪れるまでは、教師と生徒。
 ブルーを守ると決めたハーレイと小さなブルーにとっては、キスさえもまだ遠いものだった…。



             聖痕を抱く者・了





 青い地球に生まれ変わってハーレイと再会を果たしたブルー。
 ハーレイはブルーが通う学校の教師で、ブルーは十四歳にしかならない生徒。
 前世そのままに恋人同士とはとてもいかなくて、ハーレイが休日にブルーの家を訪ねて来ては食事をしたり、お茶を飲んだり。しかも夕食はブルーの両親も一緒だったし、ブルーの部屋で二人で過ごす間にも母が出入りしてあれこれとハーレイに気配りをする。
 ハーレイの前世がキャプテン・ハーレイであった事実は両親も知っているのだけれども、今の生はやはり大切だ。教師であるハーレイが来るとなったら、失礼のないようにしなければ。
 両親が言いたいことは分かるし、それが本当なのだと思う。しかしブルーの不満は募る。たまには誰にも遠慮しないでハーレイと二人で過ごしてみたい。
(でも…。パパもママも居ないってことは無いしね…)
 ブルーの虚弱体質のせいで、両親が揃って家を空けることは一度も無かった。まして来客があるとなったら放って出掛ける筈もなく…。
(…パパもママも抜きって、無理だよね…)
 ハーレイと二人きりで過ごしたいのに、ブルーの家では絶対に無理。何か方法は無いのだろうか、と頭を悩ませていたブルーは耳寄りな情報を聞き付けた。ハーレイが顧問を務める柔道部の生徒がハーレイの家へ遊びに出掛けたらしい。
(そうだ、ハーレイの家へ行けばいいんだ!)
 其処ならハーレイと二人きり。ブルーは早速ハーレイに頼んで、その約束を取り付けた。住所は前から知っていたけれど、ブルーの家からのバスの路線を教えて貰って、次の休日はハーレイの家。早く週末が訪れないかと指折り数えて待ち続けて…。



(えーっと…。次の角を曲がって…)
 待ちに待った土曜日、ブルーは母が焼いてくれたパウンドケーキを手土産に持ってハーレイの家へと向かった。降りたバス停から少し歩いた住宅街。ハーレイが住む家はブルーの家とさほど変わらない大きさがあり、ちゃんと庭までついている。
 ドキドキしながら門扉の横のチャイムを鳴らして、出て来たハーレイに「大きな家だね」と感想を伝えると、ハーレイは「まあな」と苦笑した。
「親父が買ってくれたんだ。俺が教師になると言ったら「生徒が遊びに来られるように」と勝手に決め付けちまってな…。運動部の顧問をするんだったら大勢来るぞ、とか何とか言って」
 そしてそのとおりになっちまった、と玄関のドアを開けながらハーレイが笑う。
「何処の学校でも柔道か水泳、どっちかが俺に回って来るんだ。親父が言ってた嫁と子供は未だに居ないが、うるさいガキどもは大勢来るな」
 さあ入れ、と招き入れられ、広いリビングに通されてからブルーは提げていた紙袋を思い出した。
「いけない、渡すの忘れてた! これ、ママが…。ハーレイの好きなパウンドケーキ」
「おっ、すまん! お母さんに気を遣わせてしまったなあ…。手土産は要らんと言うのを忘れた。いつものヤツらは持ってくるどころか奪う一方の連中だしな」
 もうアイツらの食欲ときたら、とハーレイは自分が指導してきた運動部員たちの話を始めた。話に入る前にブルーの母のパウンドケーキを切って出すのも忘れない。ブルーのためには紅茶を淹れてくれ、ハーレイは大きなマグカップにコーヒーを。
(そういえばハーレイ、コーヒーも大好きだったよね。…でも、いつも…)
 ぼくに付き合って紅茶ばっかり飲んでいたよね、とブルーは前の生でのハーレイを思い浮かべた。今の生でもブルーの家では紅茶ばかりで、コーヒーは夕食の後にたまに飲むだけ。自分に合わせてくれていたのか、とハーレイの心遣いに胸がほんのりと暖かくなる。
 それに、ブルーの部屋で過ごす時には他の生徒たちの話題は滅多に出ない。そういう話になるよりも前にブルーがハーレイの大きな身体に抱き付いてしまって、甘えている間に時が経つ。そんな時間も好きだったけれど、今の生での出来事を話すハーレイも生き生きしていて好きだ。
「凄いね、ハーレイ。…ホントに運動、大好きなんだね」
「ああ。思い切り汗を流すと気分がいいぞ。柔道も水泳も俺は好きだな、シャングリラではどっちもやらなかったが」
 今は運動抜きの人生など考えられん、という言葉どおりに、リビングの棚にはハーレイが学生時代に勝ち取ってきたトロフィーなどが飾られている。その一つ一つにドラマがあって、思い出が沢山詰まっていて…。ブルーはハーレイが生きて来た今の生の話を飽きることなく聞き続けた。



 ブルーは紅茶の、ハーレイはコーヒーのおかわりをしての語らいの後は、昼食までの間に家の中をくまなくグルッと一周。ダイニングにキッチン、書斎や寝室。子供部屋になる予定だったという部屋なども全部見せて貰って、恋人だけの特権なのだとブルーは嬉しかったのだけれど。
「えっ…?」
 ハーレイの思わぬ言葉に、ブルーはシチューを掬ったスプーンを持ったままで目を丸くした。
「いや、こんなに大人しい客は初めてだと言っただけだが? 一周ツアーが必要とはな」
「…家の中を見せて貰うの、ぼくだけじゃないの?」
「見せて貰うだなんて上品なことを言ってくれた客もお前だけだよ。俺の普段の客どもときたら、止めるだけ無駄なヤツばかりでな。あっちもこっちも好き放題にドタンバタンと」
 家捜しかという勢いなのだ、とハーレイは運動部員たちの遠慮の無さを嘆いてみせた。
「学校では厳しく指導する分、俺の家では羽目を外してかまわないと言った途端にソレだ。流石にクローゼットだの引き出しだのを開けたりはせんが、部屋は端から覗いて行くな」
「それじゃ、さっき色々見せてくれたのって…」
「お前だけが知らんというのも寂しいだろうが? お前は俺の恋人なんだろ」
「……そうだけど……」
 自分だけではなかったのか、とブルーは心底ガッカリした。
 前の生でのハーレイの部屋を彷彿とさせる書斎を見た時はドキドキしたし、落ち着いた雰囲気の寝室も如何にも前世のハーレイが好みそうな部屋だと思って眺めた。この家を買って貰って住み始めたハーレイに前世の記憶は無かった筈なのに、それでも何処か似るものなのか、と。
「どうした、ブルー? 何をションボリしてるんだ?」
「…ぼくだけなんだと思ってたのに…」
「何がだ?」
 怪訝そうなハーレイに、ブルーは少し俯き加減で視線だけを上げる。
「……ぼくだけに見せてくれたと思ってたのに…。ハーレイの家」
 ぼくはハーレイの恋人なのに、と寂しそうに呟くブルーの瞳。
 その悲しげな眼差しと表情は子供のそれとは違っていた。
(ブルー…!)
 ハーレイの心臓がドキリと脈打つ。
 前の生で何度も目にしたブルーの表情。ハーレイの前でだけ見せる「独りは寂しい」と訴える瞳に応えて幾度抱き締めたことだろう。もちろん抱き締めるだけでは終わらず、華奢な身体を…。
「…ハーレイ?」
 どうかした? と尋ねるブルーの声でハーレイはハッと我に返った。
 スプーンを握って首を傾げる小さなブルー。その顔は十四歳のブルーで、前世でハーレイに縋ったブルーは何処を探しても居なかった。



 ハーレイが愛したソルジャー・ブルー。
 目の前に居る小さなブルーがその生まれ変わりだと分かってはいるが、やはり前世とは姿が違う。
 銀色の髪も印象的な赤い瞳も、顔立ちさえも前世そのままではあったけれども、ブルーが体現している姿はハーレイと結ばれる前のもの。華奢を通り越して幼く、か弱い。
 だからこそブルーが何度強請ってもキスすらせずに過ごして来たのに、さっきの表情は何だろう。
 「独りは寂しい」、「ハーレイが欲しい」。
 そう口にした前世のブルーとそっくり同じな、あの悲しげなブルーの顔。
 もう一度見たら抱き締めてしまう、とハーレイはブルーに気付かれぬようにテーブルの下で拳を強く握った。抱き締めてしまったら、もう止まらない。ブルーが泣こうが抵抗しようが、その幼くて細い肢体を手に入れずにはいられない。
(…駄目だ。それだけは絶対に駄目だ!)
 それでブルーに嫌われるとは思わない。最初は途惑い、泣き叫ぶかもしれないけれども、ブルーは必ずハーレイの行為を受け入れる。前世の記憶を持っているだけに、身体が出来上がっていない今でもブルーはハーレイに応えるだろう。
 けれど、そうしたらブルーはどうなる?
 この幼さで結ばれることを知ってしまったなら、ブルーの人生の歯車は狂う。
 身体も心もこれから育ってゆくというのに、前の生での恋の記憶と感情に飲まれ、今の新しい生を歩むどころか前の生を忠実になぞって生きて…。
(…俺は自由に生きて来たのに、ブルーにそれはさせられない…!)
 ハーレイ自身はこの年になるまで前世のことは何も知らずに生きて来た。好きな柔道と水泳に打ち込み、大勢の友人や仲間に恵まれ、慕ってくれる教え子も数多くいる。ブルーと巡り会った今もそれは変わらず、毎日が充実しているのだが…。
 ハーレイを愛し、恋人だと繰り返すブルーの人生はこれからだった。
 いつかは共に歩んでゆこうと思うけれども、ブルーを前世に縛り付けることは許されない。たとえブルーにはハーレイしか見えていないのだとしても、その周囲には年相応の友人たちが居て…。
(ブルー、お前は俺の隣に居るにはまだ早過ぎる)
 もっと人生を楽しんでこい、と言ってもブルーは聞かないだろう。
 ならばブルーを捕まえてしまわないよう、自分が距離を置くしかない。恋人として大切に扱い、愛しみたいとは思うけれども、その身体だけは決して手に入れてしまわないように。



 ハーレイの秘かな決心も知らず、昼食を終えた小さなブルーは御機嫌だった。
 家の中を全て知っているのが自分だけではなかったことではシュンとしたけれど、その分を取り戻そうとするかのようにハーレイに甘え、もっと、もっと、と話をせがむ。
 此処には居ないハーレイの家族や、ハーレイの母が可愛がっていた猫のこと。
 学生時代の先輩や友人、彼らと共にやらかした数々の失敗談やら武勇伝という名の悪事やら。
 どれもこれもアルタミラの研究所とシャングリラしか知らなかった前の生では想像もつかなかった話ばかりで、ブルーは懸命に耳を傾けた。
 時に「いいなあ…」と相槌を打ち、「それホント?」と小首を傾げてみたりして。
 そうした合間に、時折、フッと前世のブルーが顔を出す。
 その身を呈してシャングリラを守り、戦い続けたソルジャー・ブルーが今のハーレイの生の自由を羨み、その場に自分が居なかったことを「寂しい」と訴え、縋って来る。
 十四歳の小さなブルーは心の底から「いいな」と思っているのだろうし、「ぼくも見たかった」と話す言葉に嘘は全く無いのだけれども、ブルーの後ろにソルジャー・ブルーが佇んでいる。
 自分も其処に居たかった。ハーレイと共に生きたかった、と。
 その度に小さなブルーの幼い顔立ちにソルジャー・ブルーの悲しげな貌が混ざり込む。
 「独りは寂しい」「ぼくを独りにしないでくれ」と。
 ハーレイに縋る、その表情。
 抱き締めて独りにしないでくれ、と揺れる瞳に、寂しげな眼差しに捕まってしまいそうになる。
 しかしハーレイが己を叱咤する前に、固く拳を握り締める前にソルジャー・ブルーは居なくなる。
 そして小さなブルーが無邪気に「それで?」と微笑み、話の続きを聞きたいとせがむだけなのだ。



 パウンドケーキを提げたブルーが訪ねて来てから、ハーレイが買っておいたケーキとクッキーを食べ終えるまでの六時間と少しの二人っきりで過ごした時間。
 ハーレイがブルーの家を訪ねる時には朝一番から夕食までということもあったし、六時間は決して長くはない。けれど、その長いとは言えない時間の間にハーレイは思い知らされた。
 ブルーと二人きりになってはいけない。
 ハーレイの心に歯止めをかけられる誰かが居ないと何をしでかすか分からない、と。
 そんな事態に陥ろうとは思わなかったからブルーの申し出を気軽に受け入れ、クラブの教え子でも呼ぶようなつもりで「家に遊びに来い」と応えた。
 なのにチャイムを鳴らして現れたブルーは十四歳の幼い顔立ちをまるで裏切る表情をする。かつて愛したソルジャー・ブルーそのままの貌をしてみせる。
 これではハーレイの理性が持たない。
 今日はなんとか耐え抜いたものの、何度も訪ねて来られたりしたら理性の箍は確実に緩む。緩んだ箍は軽く弾け飛び、自分はブルーを有無を言わさず組み敷いて手に入れてしまうだろう。
 それだけは決してしてはいけない。ブルーは幼く、その人生はこれから花開くものなのだから。



 テーブルの上の菓子がなくなり、紅茶のおかわりも出て来なくなった日暮れ前。
 そろそろ帰る時間なのだ、と気付いたブルーは「今日はありがとう!」とハーレイに礼を言い、期待に胸を膨らませながら返事が返ってくるのを待った。
 今日は土曜日、ハーレイは明日も予定は入っていない。ブルーの家で会う約束をしているけれど、もしかしたら明日もハーレイの家に来てもいいと言ってくれるかも…。「手土産は要らない」と言われた上に、ブルーはクラブの教え子たちより行儀がいいとの話だったし…。
 しかし。
「ブルー。…やはり次からは私が行こう」
 ハーレイの言葉は思いもよらないものだった。
「…お前と二人きりになってしまうと抑えが利かなくなりそうだ。お前に自覚は無いかもしれんが、お前、昔とそっくりな顔をしていたぞ。…そんな表情、お前にはまだ早いんだ」
「…えっ……」
 どうして? とブルーは驚いた。
 昔とそっくりな顔をしていたなどと言われても覚えが無い。昔と言えばソルジャー・ブルーのことなのだろうが、そんな顔をいつ、どうやって…? 意識して表情を作ったわけでは…。
 事情がサッパリ分からないだけに、ブルーはキョトンとするしかなかった。
「自覚が無いなら、尚更だな。…お前の中身は昔と変わっていないんだろうが、お前は心も身体も子供だ。…俺はお前を大事にしたいし、それが分かるなら来るんじゃない」
 いいな、とハーレイが念を押す。
「でも…。今日はとっても楽しかったし、まだ聞いてない話も沢山あるし…」
 遊びに来たい、と強請ったブルーは「駄目だ」とハーレイに突き放された。
「話なら明日も出来るだろう? お前の家で話してやるさ。…どの話がいい、おふくろの猫か? そうだ、写真を探しておこう。確かアルバムにある筈なんだ。見付かったら明日、見せてやろう。可愛いかったんだぞ!」
 少しお前に似ていたかもな、とハーレイの大きな手がブルーの頭をクシャクシャと撫でる。
「甘えん坊な所がそっくりだ。…いいか、お前は子供なんだよ、猫に似ているくらいにな」
 だから俺の家には、もう来るな。
 そう告げられたブルーはとても悲しく、縋るような目でハーレイを見る。その瞳こそがソルジャー・ブルーの赤い瞳で、「寂しい」と訴える彼が自分の後ろに佇んでいることにブルーは気付きもしなかった。



 こうして十四歳の小さなブルーのハーレイの家への訪問は終わり、バス停まで一緒に歩いて送って貰ってバスに乗る。手を振るハーレイに手を振り返して、その姿が遠く見えなくなった後、ブルーは滲みかけた涙を指先で拭った。
 ハーレイの家には行けなくなってしまったけれども、二度と会えないわけではない。一晩眠って明日になったらハーレイが家に来てくれるのだし、ほんの少しのお別れなだけで…。
(…でも、ハーレイ…。どうして遊びに行ってはいけないの?)
 ハーレイの家で過ごした時間が楽しかっただけに、次が無いのは辛すぎる。
 自分は何をしたのだろう? ソルジャー・ブルーの表情だなんて、どの表情が…?
(ハーレイ、全然分からないよ…。自覚が無いなら余計にダメって、どんな顔のこと?)
 その顔が分かる頃になったら、またハーレイの家に行けるだろうか。
 けれど、それはきっと自分がソルジャー・ブルーと同じくらいに大きく育った頃なのだろうし…。
(……何年先だか分からないよ……)
 そう考えただけで、また泣きそうになってくる。
 ポロポロと涙が零れそうだけれど、メギドで死んだソルジャー・ブルーはハーレイの許へ二度と帰れなかった。それを思えば、ブルーには明日も明後日も、もっと先の未来だってある。
(…我慢しなくちゃ…。ぼくはソルジャー・ブルーよりもずっと幸せなんだし)
 明日もハーレイに会えるんだから、とブルーは俯いていた顔を前へと向けた。
 その顔をハーレイが見ていたならば、息を飲んだに違いない。
 遠い昔にミュウたちを守り、行く手を指し示したソルジャー・ブルー。
 我慢しようと決心をした小さなブルーの後ろに立つのは、凛々しく気高いソルジャーだった。



           初めての訪問・了





 今日は土曜日、ハーレイが訪ねて来てくれる日。
 元々ブルーは綺麗好きだし、体調が悪い時を除けば部屋の掃除は自分でする。ましてハーレイが来る休日ともなれば普段以上に丁寧に。
 きちんと掃除し、机の上の教科書なども綺麗に揃えて本棚の本も並べ直した。散らかることなど一度も無かった部屋なのだけれど、やっぱり少し緊張するのは前世の記憶のせいかもしれない。
(…青の間よりも綺麗にするなんて無理だしね…)
 ミュウの長として長い時間を過ごした青の間。あの頃は私物も少なかったし、何より部屋の広さが違う。天蓋つきのベッドが置かれていたスペースだけでも今の部屋より遙かに広い。
(第一、ベッドが大きかったし!)
 この部屋に置いたらどうなるかな、と想像してみて「うーん…」と呟く。
「どう考えても入らないよね、今のベッドが置いてある場所…」
 壁際に据えてあるブルーのベッド。子供用ではなかったけれども、いわゆるシングルサイズのそれは前世のベッドと比べてみれば貧相と言うか、小さいと言うか。それの代わりに前世のベッドを持って来たって床のスペースが足りなさすぎる。
(…あのベッドが大きすぎたんだよ、うん)
 ぼくの部屋にはこれで充分! と納得して自分だけの小さな城を見回した。
 青の間よりもずっと狭い部屋でも、此処には前世で手に入らなかった自由と幸せが溢れている。半ば公のスペースであった青の間とは違う、ブルーのお城。ミュウの未来だのシャングリラの進路だのと心を悩ませる種が持ち込まれることは決して無くて、優しい両親に守られて…。
(それにハーレイも来てくれるしね)
 なんて幸せなんだろう、とコロンとベッドの上に転がる。
 小さなベッドでもブルーの身体には充分広いし、今より育って大きくなっても取り替え不要。子供用ベッドから買い替える時にそういうサイズのものを父と母とが選んでくれた。だからブルーの周りは広々、寝ていて落ちたこともない。
(あんな大きなベッドでなくても、ぼくにはこれで充分なのにね…)
 シャングリラに居た仲間たちはソルジャーであったブルーを神のように崇め、部屋もそのように設えた。それゆえにベッドも立派すぎるサイズで、天蓋つきで…。
(ホント、これだけあったら足りるんだけどな)
 コロンと身体を横にしてみて、其処に足りないものに気付いた。
 ハーレイがいない。青の間のベッドで目覚めた時には、大抵、隣にハーレイが居て……。



(…ど、どうしよう…。これじゃ全然足りないよ!)
 今の今まで充分なのだと思い込んでいたベッドのサイズ。
 ブルーが寝るにはピッタリどころかまだまだ余っているのだけれども、ハーレイが隣で寝るとなったら話はまるで別だった。
 ずば抜けて身体の大きいハーレイ。前の生でもそうであったし、今の生でも変わらない。そのハーレイとベッドを共にするには、広さがあまりにも足りなさすぎる。
 そういう時間を持てるようになるのは何年先だか分からなかったが、その日はいつか必ず来る。
(……ぼくのベッドじゃ無理ってことは……)
 ハーレイと本物の恋人同士として結ばれる場所は、ブルーの部屋ではないらしい。
 それならば何処になるのだろう?
(…んーと……)
 一度だけ遊びに出掛けたハーレイの家。ハーレイの寝室は少し覗いただけだったけれど、大きなハーレイが寝るだけあってベッドはかなりの大きさがあった。
(……もしかして、あそこになるのかな?)
 考えると胸がドキドキしてくる。
 ハーレイには「大きくなるまで家には来るな」と厳しく言われてしまっているし、次の機会はいつになるかも分からない。
 でも、もしかしたら。
 次にハーレイの家に招かれた時は、二人並んで横になっても余裕がありそうだった大きなベッドで結ばれることになるのだろうか?
 前の生での「初めて」の時は青の間だったが、今度の生ではハーレイの家で…?
(…それしか考えられないよね?)
 ぼくのベッドはちょっと狭すぎ、とブルーの頬が赤くなる。
 自分が大きく育たない限り恋人同士の関係は無理、と分かっていたから考えないようにしていたけれども、少し未来が見えた気がした。
 いつかハーレイの家に招かれたならば、その時が今の生での「初めて」なのだ。



 「初めて」とやらに思いを馳せても胸の鼓動が高鳴るだけで、十四歳のブルーの身体は何の変化も来たさない。ベッドでハーレイと何をするのかは前世の記憶で理解していたし、とても気持ちが良かったことさえも覚えているのに、ブルーは何もしようとしない。
 これがハーレイの言う「きちんと育った」身体だったら、未来の自分を思い描くだけでは満足しないし、出来る筈もない。小さなブルーには想像もつかない何かをしようとする筈なのだが、その行為すらも知らない辺りがブルーの幼さの証明だった。
 其処に気付きもしないブルーは子供ゆえの純真無垢さでもって「初めて」の日を夢見て微笑む。
 ハーレイの家でキスを交わして、それから二人でベッドへ行って…。
 服はハーレイが脱がせてくれるのだろうか?
 なんだか子供みたいだけれども、自分で脱ぐのは前の生でのハーレイは好きではなかったし…。
(…今のハーレイだって、多分、好きじゃないよね)
 それに自分で脱ぐというのも「初めて」らしくない気がする。
 やはりハーレイに任せておいて、その先のこともハーレイ次第。
 すっかり脱いだら、もう一度キス? それともハーレイにキスして貰う? 唇ではない他の場所。思い切り強くキスして貰って、幾つも、幾つも…。
 最初のキスは多分、首筋。そこから胸の方へと移って、それから、それから……。
 懸命に今の自分と前世での愛の営みとを重ね合わせるブルーだったが、いくら記憶が豊富であっても想いは熱を伴わない。その致命的なズレに気付かないまま、ただウットリとブルーは夢見る。
 好きだよ、ハーレイ。
 一日でも早く君と結ばれて、本物の恋人になりたいよ…。



 身体に変化を来たさないせいで、夢見心地だったブルーの意識は本物の夢に捕まった。
 初めの間は前世でのハーレイとの甘い時間の夢であったが、やがて幼く年相応の健全な眠りにすり替わる。ただぐっすりと夢も見ないでベッドの上で眠り続けて…。
「おい、ブルー」
 いつまで寝てる、というハーレイの声で目が覚めた。
「えっ、ハーレイ? …いつ来たの?」
 寝ぼけ眼で目をゴシゴシと擦るブルーにハーレイが「少し前だ」と苦笑する。
「お母さんが呆れていたぞ。掃除し過ぎて疲れたのか?」
 お前そんなに散らかしたのか、と部屋を見回すハーレイに「違うよ!」と抗議の声を上げてベッドから下りたが、テーブルには母が用意していった紅茶と焼き菓子。つまりは母が来ていたことも、ハーレイが訪ねて来たことも知らず、ベッドで気持ち良く寝ていたわけで…。
(あれ?)
 ベッドという単語が引っ掛かった。
 眠ってしまう前に何か考え事をしていたような…。
 確か、掃除を済ませた後にベッドにコロンと転がって……。
(……あっ!)
 そうだ、と脳裏に蘇って来た甘く幸せな考え事。
 いつかはハーレイの家に出掛けて、寝室にあった大きなベッドで…。



「ねえ、ハーレイ」
 ブルーは思い付いたままに考えを素直に口にしようと、笑みを浮かべてハーレイを呼んだ。
「なんだ?」
「…えっとね、ぼくのベッドはハーレイには小さすぎるよね?」
 さっきまでブルーが寝ていたベッド。それに目をやり、ハーレイが頷く。
「そうだな、俺には小さすぎるな」
「でしょ? それでね、考えたんだけど……。ハーレイの家に行くしかないな、って」
「何の話だ?」
 怪訝そうな顔をしつつも、ハーレイは「お前を俺の家には呼ばんぞ」と重ねて念を押して来た。
「お前が今みたいに小さい間は呼ばないと言ってあるだろう? 何の用事があるのか知らんが、俺の家に来ても入れてはやらん」
「そうじゃなくって…。ぼくが大きくなった時だよ、ソルジャー・ブルーと同じくらいに」
 それでね、とブルーは頬を紅潮させた。
「ぼくのベッドは小さすぎるし、ハーレイの家のベッドしか無いと思うんだ。…ハーレイと本物の恋人同士になれる場所って」
「ちょ、お前…!」
 ハーレイの顔が真っ赤になって、いつも落ち着いて余裕たっぷりの表情が狼狽のそれへと変わる。
「い、いきなり何を言い出すんだ! ほ、ほ…」
「本物の恋人同士だってば、それにはベッドが要るんでしょ?」
 そうだよね? と無邪気に微笑むブルーの顔つきは得意げなもので、色香も艶も微塵も無い。天使の微笑みと言うべきだろうか、無垢そのものなブルーの笑顔がハーレイに平常心を取り戻させた。とんでもないことを話してはいるが、ブルーには何も分かっていない、と。
「…なるほどな…。それで俺の家か」
「うんっ! 今度ハーレイの家に行った時にはそうなるんだよね、本当に本物の恋人同士に」
 頑張って早く大きくなるから、と嬉しそうなブルーに、ハーレイは「いや」と重々しく返して腕組みをする。
「…そいつはまだまだ先のことだな、それに物事には順番がある。俺はお前を下心込みで家に呼ぼうとは思っていないし、ベッドの出番はもう少し先だ」
「…下心? それって、何?」
 キョトンとするブルーの丸くなった瞳に、ハーレイは「ほらな」と頬を緩めた。
「お前、分かっていないだろう? 下心が何かも分からん子供にベッドの話は早すぎだ」
 つまらないことを考える前に沢山食べて大きくなれ、とブルーの皿にハーレイの分の焼き菓子までが乗せられる。こうなれば完全にハーレイのペース。ブルーは大人しく焼き菓子を頬張り、不穏極まりないベッドの話題はそれっきり封じられたのだった。



 こうして十四歳のブルーは「初めて」の場所への夢など綺麗に忘れてしまったわけだが、そうはいかないのがハーレイの方。
 ブルーの倍以上もの年を重ねた立派な大人で、かつ健康な男性ともなれば身体にも色々と事情があるというものだ。ブルーのように前世の記憶を重ねて夢見て幸せ一杯、心地よく眠れることなど絶対にあろう筈がなく。
「……弱ったな……」
 なんだって俺の家だったんだ、とハーレイは深い溜息をつく。
 小さなブルーが「本物の恋人同士になれる場所」として名指しよろしく挙げてきた場所が、よりにもよってハーレイのベッド。
 まさかブルーと生まれ変わった恋人同士で出会うなどとは思ってはおらず、自分の体格に見合うベッドをと余裕たっぷりのものを買ったつもりが今や寂しい独り寝の床で。
(…この間までは気に入りのベッドだったんだがなあ…)
 今は広さが恨めしい、と前の生ならば隣に居た筈の華奢な身体を思い出す。
 十四歳のブルーと再会してから、何回、夢に見ただろう。
 前世で愛したソルジャー・ブルー。
 すらりと細くてしなやかな肢体の、それは美しいミュウたちの長。彼の滑らかな肌と淫らにくねる身体を夢の中で何度抱き締め、組み敷いたことか。
 目を覚ます度に今のブルーの幼さを思い、ブルーを欲して猛る身体を懸命に鎮める日々なのに…。
「…俺のベッドを指名しなくてもいいだろう? これからの日々が辛すぎるんだが…」
 しかしブルーは忘れているな、と小さな恋人の可愛らしさとその無邪気さとを思い描いた。あんな話題を振っておきながら、ハーレイがブルーの家を辞去する時には「また来てね!」と大きく手を振っていたし、恥じらいの色も無かったし…。
(…まだ子供だから本当に仕方ないんだが…。俺は何年、生き地獄を彷徨う羽目になるんだか)
 頼むから二度とベッドの話はしてくれるなよ、と居もしないブルーに切々と願う。
 あの話だけは二度と御免だ。
 安眠の場を奪うのだけはやめてくれ、と思いながらも身体の熱は鎮まらなくて……。



 俺の気に入りのベッドを奪わないでくれ、と願う一方で前世のブルーを思い浮かべては良からぬ行為に耽っていたことが神の怒りに触れたのか。
 ブルーの「初めて」発言からさほど日を置かずして、ハーレイは夜の夜中に急襲された。
 何かが自分のベッドに居る。
 寝ぼけた頭で子供の頃に母が飼っていた猫かと思った生き物は、深く眠ったままのブルーで。
(…ど、どうしてブルーが此処に居るんだ!?)
 ブルーの心から溢れ出す思念がハーレイに教える。メギドでの出来事がとても怖い、と。ハーレイに側に居て欲しい、と…。
(……こう来たか……!)
 別口で俺のベッドに来たか、と恐慌状態に陥りつつもハーレイは自分と戦った。
 懐にスルリともぐり込んで来たブルーをオカズにしてしまわぬよう、間違っても手を出さぬよう。
 そして翌朝、目覚めたブルーは案の定、先日の発言を全く覚えておらず…。
(…二度目、三度目は確実にあるな…)
 ハーレイが徹夜明けの疲れを隠して作った朝食にブルーが「美味しい!」と舌鼓を打つ。
「ねえ、ハーレイ。…怖い夢を見たら、また来ていいよね?」
「もちろんだ。お前は独りじゃないんだからな」
 いつでも来い、と大人の余裕を見せてやりつつ、ハーレイは心の奥底で溜息を幾つもついていた。
 ブルーはすっかり忘れているらしいハーレイのベッド。
 其処で前世そのままに育ったブルーを組み敷けるのはいつのことだろう?
 こうなった以上、ブルーの「初めて」は其処で貰おう、とハーレイは秘かに決意する。
 そんなハーレイの心も知らずに、小さなブルーはハーレイの家での朝食を喜び、楽しんでいた。
 「来てはいけない」と厳命されていたハーレイの家。
 思いがけずも飛んで来られて、おまけに美味しい朝食付き。
(…こんな朝御飯が食べられるなんて…。幸せだよ、ハーレイ、ホントに幸せ!)
 それに美味しい、と幸せに酔う小さなブルー。
 ハーレイとブルーが本当の意味でベッドを共にする日は、まだまだ先になりそうだった……。




              小さなベッド・了





 その朝ベッドで目覚めたブルーは、なんとなく身体が重かった。病の兆候というわけではなかったけれども、前世と同じで虚弱体質なブルーにとっては体調不良の前兆である。
(…えっと……)
 額に手を当ててみたが、熱くはなかった。念のためにと体温計で測ってみても熱はない。
(…昨日の体育、無理し過ぎたかな?)
 クラスメイトたちにとっては大したことはない普通の授業。グラウンドを軽く何周か走って、それからサッカー。
 以前のブルーならグラウンドを走る時には周回遅れは当たり前。サッカーだって疲れてくれば挙手して日陰で休んだものだが、最近は少し事情が違う。
 年度初めに少し遅れて赴任してきた古典の教師、ハーレイに出会って全ては変わった。
 彼に会うまで思い出しもしなかったブルーの前世。其処でブルーはミュウの長であり、ハーレイはミュウたちの船を指揮するキャプテン。
 そればかりではなく、ブルーとハーレイは身体も心も固く結ばれた恋人同士で、生まれ変わって出会った瞬間、互いの記憶が蘇ると共に前世での想いも蘇り……。



 しかし晴れて恋人同士となってハッピーエンドとはいかなかったのが今の生。
 ブルーはハーレイの教え子な上に、十四歳になったばかりの少年だった。ハーレイはキスすら許してはくれず、学校に行けば教師と生徒。休日の度に逢瀬を重ねてはいても、それもブルーの家でのみ。ハーレイが一人で暮らす家にはブルーは招いて貰えなかった。
 一度だけ招かれたことはあるのだが、その時のブルーの表情とやらが年相応では無かったとかで、それ以降は呼んで貰えない。なのにハーレイが顧問を務めるクラブの生徒たちは自由に遊びに行けるのだ。羨ましくてたまらないのだけれども、クラブはよりにもよって柔道部で。
(走り込みとかもしているもんね…。ぼくも人並みに運動出来たら、入部くらいは出来るかな?)
 柔道は無理でも下っ端の部員くらいならば、と思い詰めたブルーは体育を頑張ってみようとした。普段だったら息が切れ始めた時点で歩く所を無理をして走り、サッカーも。
 ボールを追うのが精一杯のくせに、一人前にプレーするべく駆け回った結果が今朝のこれだ。



(…どうしよう……)
 今は大丈夫でも、登校してから気分が悪くなるかもしれない。早退は学校というものに行き始めて以来、数え切れないほど経験がある。もちろん欠席することだって。
 この春から通い始めた学校でも何度か休んでいたし、早退もした。ハーレイと出会って記憶が蘇った時の救急搬送と様子見の欠席を除外しても、だ。
(休んだ方がいいのかな?)
 今日の授業は…、と考え始めてハッと気付いた。二時間目に古典の授業がある。それは平日にハーレイの姿を眺めていられる幸せな時間。「先生」としか呼べないけれども、当てて貰えればドキドキするし、前に出て黒板に書くことになれば手の届く距離にハーレイが居る。それに…。
(質問をしたら、名前を呼んで貰えるしね。呼び捨てじゃなくて「ブルー君」だけど)
 貴重な時間を身体が少し重い程度で見逃す手はないというものだろう。
 ハーレイの顔と姿を見られて、声もついてくる捨て難い授業。想像しただけで鼓動が早くなるのが分かるし、身体の具合が悪いことなんて前の生では何度もあった。文字通り命の灯が消えそうな時であってもシャングリラから飛び立ってジョミーを追い掛け、メギドで最期を迎えた時も…。
「うん、このくらいは大丈夫!」
 ブルーは「えいっ!」と掛け声をかけて起き上がった。
 戦いに出掛けるわけではないし、行き先は通い慣れたいつもの学校。ベッドから下りる時に足元が少しふらついたものの、制服を着たらシャキッとしたし…。
 朝食を食べて、背が早く伸びるようにと祈りをこめてミルクも飲んで、「行ってきまーす!」と母に手を振って家を出た。二時間目の授業ではハーレイに会える。それを心待ちにしつつ、「学校へ行く途中で会えたらいいな」などと心を躍らせながら。



 しかしブルーの朝の予感は当たってしまった。
 一時間目の終わり近くから酷い眠気に捕まってしまい、気を緩めると生欠伸が出る。身体が弱っている時によくあることで、放っておけば倒れて寝込む羽目になるという自覚はあるのだけれど。
(……あとちょっと……)
 せめてハーレイの授業を終えてから、と欲を出したのがまずかった。体調不良のサインとも言える欠伸を噛み殺し、二時間目の授業開始のベルと共に現れたハーレイの指示で教科書を開き。
「では、次の箇所を。…音読したい者は手を挙げなさい」
 ハーレイの声が耳に心地よく響き、ブルーは言葉の意味を考えもせずに手を挙げた。ハーレイが口にする言葉は何でも嬉しい。決まり文句の「沢山食べろ」でも、キスは駄目だと叱られる時も。
 ゆえに朦朧としていたブルーは「手を挙げなさい」という部分だけを聞いて手を挙げてしまい、間の悪いことに他に挙手した生徒はおらず。
「よし。ブルー君、其処を音読して」
「はい!」
 ハーレイに何か頼まれたのだ、と立ち上がろうとしたブルーの視界がスウッと暗くなり、足元の床がグルンと回って…。
「どうした、ブルー!」
 駆け寄って来るハーレイの声さえも遠い。床に倒れた自分を抱え起こすハーレイに「…大丈夫」と弱々しい返事を返すのが精一杯で、気付けば保健係のクラスメイトに付き添われて保健室に居た。
 やっぱり無理をするんじゃなかった、と後悔しても既に手遅れ。
 もうすぐ報せを受けた母が迎えに駆け付けて来るし、ハーレイも酷く驚いた上に迷惑を被ったことだろう。中断させてしまった授業。せめて数分でありますように、とブルーは涙を滲ませた。



 母と一緒にタクシーで帰り、それからは自室のベッドの上。
 かかりつけの医師は「疲れすぎですから、三日間ほど安静に」と残酷な診断をしてくれた。
 たったの三日間、でも三日間。その間にハーレイの古典の授業がもう一度ある。それに何より、三日の間はキッチリ平日。
 ハーレイが平日にブルーの家を訪ねて来ることなど滅多に無いし、来てくれたとしても滞在時間は僅かだけ。ましてブルーが欠席となれば、来てくれる可能性はゼロかもしれない。
(…ぼくのバカ…)
 最初から休んでおけば良かった、とブルーは悔し涙に暮れた。
 ハーレイに迷惑と余計な心配をかけてしまった上、明日から三日間は学校で姿さえ見られない。
 もしも欠席していたならば、どうしているかと家へ見舞いに来てくれたかも…。なのにブルーが学校で倒れた理由は単なる疲労で、医師の診断書も行っている筈だ。
(…疲れすぎだなんて、誰も心配してくれないよ…。寝ているだけで治るんだもの)
 いっそ風邪とか、腹痛だとか。
 発熱も痛いのも嫌だったけれど、そっちの方がまだマシだった。少なくとも心配して貰えるし、ハーレイだって学校の帰りに見舞いに寄ってくれたかもしれない。
(……ぼくってバカだ……)
 身体を鍛えてハーレイに会える機会を増やすどころか、逆効果。柔道部に入って堂々とハーレイの家に出入りする夢は空しく潰えて、三日間もベッドの住人だなんて……。



 ともすれば溢れ出しそうになる、弱い身体への恨み言。
 けれど、この身体こそがブルーの唯一の財産だった。
 前世でのように人類軍の攻撃からシャングリラごとハーレイを守れるわけでなく、ハーレイがキャプテンとして預かる船の行く手を指し示す「導くもの」たるソルジャーでもなく。
 今のブルーは両親に守られ、育まれているだけの十四歳の子供。
 そんなブルーが自分を大切に想ってくれるハーレイに対して返せるものは、前世とそっくり同じに生まれた顔形とその姿だけ。前の生でハーレイが愛した姿を、些か幼すぎるとはいえ、彼の瞳に映せることだけが「ハーレイにしてあげられること」。
 だから、この身体を恨んではいけない。
 弱く生まれてしまったけれども、前世のような補聴器も要らず、死の影が差すこともない。
 これ以上を望んではいけないのだと、頭では分かっているのだけれど…。
(…でも……。ハーレイに会えるチャンスまで逃がしちゃうなんて、酷すぎるよ…)
 神様はなんて残酷なんだろう、と瞳からポロリと涙が零れる。
 元はといえばブルー自身が無理をしたのがいけないのだが、それでも八つ当たりじみた感情を抱く辺りが十四歳の子供たる所以。
 かつてのソルジャー・ブルーであったら、全てを己の胸に収めて、ただ涙だけを零したろうに。



 三日間もハーレイに会えない悲しみに打ちひしがれるブルーは、陽が落ちて部屋が暗くなっても明かりも点けずにベッドにもぐったままだった。
 母が夕食を届けに来てくれたけれど、「食べたくない」と小さな声で答える。
「ブルー、少しは食べないと…。お昼も食べなかったでしょう?」
「…ホントに食べたくないんだもの」
 ブルーの言葉に嘘は無かった。具合が悪くて食べられないという状態ではないが、気が乗らない。こんな時には無理に食べても消化が悪く、後で気分が悪くなる。そうなることが分かっていたから「食べたくない」と言ったのだけれど。
「…あら? お客様かしら?」
 門扉の横のチャイムが鳴らされ、母が階下に下りてゆく。急いでいたのか食事を乗せたトレイも持って行ってしまったし、これ幸いとブルーがベッドにもぐり込んでから暫く経って…。



「ブルー?」
 低い声と共に扉が軽く叩かれた。
 父とは違う男性の声。それはブルーが聞きたくて堪らなかったハーレイの声そのもので。
「…ブルー、起きているか? 入るぞ」
 カチャリと扉が外側から開いて、大きな人影が入って来た。勝手知ったる部屋とばかりに明かりを点けたハーレイが穏やかに微笑んでいる。その手には、さっき母が持っていたトレイがあって…。
「ブルー、食事だ。…お母さんから聞いたぞ、食べたがらない、とな」
「……だって……」
 上掛けの下から顔だけ覗かせたブルーの鼻腔を柔らかで優しい香りが擽る。
 この匂い。
 母が持って来た食事とは違う、懐かしくて心がじんわりする匂い…。
「どうだ、これでも食べたくないか?」
 ほら、とベッドサイドのテーブルに置かれたスープ皿の中身を眺めて、不思議だった気持ちが確信に変わった。
 何種類もの野菜を細かく刻んで煮込んだスープ。
 遠い昔にシャングリラで共に暮らしていた頃、ブルーが体調を崩した時にハーレイが何度も作ってくれた。大きくて武骨な手をしているのに、驚くほど器用に野菜を刻んで、コトコト煮込んで…。
 青の間の小さなキッチンでそれを作っていたハーレイの姿が目に浮かぶようだ。
「…ハーレイ、これ…。ひょっとして、家で作って持って来てくれた?」
「いや、お母さんに頼んでキッチンを借りた。見舞いに寄ったら、お前が食べないと言うんでな。…これなら喉を通るだろう? 野菜スープのシャングリラ風だ」
 大して美味くはないんだがな、とハーレイが笑う。
「あの頃は何かと物資が不足していたし…。お前のお母さんが作るスープに慣れたお前には不味いかもしれん。だが、お前が馴染んでいた味だ。…食べてくれると嬉しいんだが」
 俺も作るのは久しぶりだ、とハーレイはにこやかな笑みを浮かべた。
「…お前にしか作ってやらなかったし、お前がいなくなった後は二度と作りはすまいと思った。…そして本当に作らなかったな、シャングリラに怪我人が溢れていてもだ」
 お前専用のスープなんだ、と差し出されたスプーン。ハーレイが掬ってくれたスープをブルーは素直に口に運んだ。
(……ハーレイのスープだ……)
 あの時のスープだ、と幾つもの思い出が蘇る。基本の調味料しか使われていない、素朴なスープ。けれど、その味はブルーが今まで口にしてきた何よりも優しく、心安らぐものだった。



 ハーレイが「ほら」と掬って口に入れてくれる懐かしい味。
 いつもだったら子供扱いだと抗議したかもしれないけれども、逆らう気持ちは起こらなかった。
 一匙掬って、もう一匙。
 「もう少しだけ、頑張って食べろ」と促される内に、気付けばスープ皿はすっかり空で。
「ほら見ろ、ちゃんと食えたじゃないか」
 頑張ったな、と大きな手で頭をクシャクシャと撫でられ、ブルーは擽ったそうに首を竦めた。
「だって、ハーレイが食べろって…。でなきゃ大きくなれないぞ、って」
「その通りだろうが? 一日食わなきゃ、その分、成長が遅れるんだぞ。お前、いつも大きくなりたいと言ってるじゃないか」
「…うん…。でも……」
 ハーレイはそれでかまわないの? とブルーは俯く。
「ぼくは小さいし、今日みたいに直ぐに倒れるし…。ハーレイ、お見舞いに来てくれた上にスープまで作ってくれたけど…。ぼくはハーレイに何もしてあげられないし、クラブにだって…」
「クラブ?」
「うん。…ハーレイが顧問の柔道部。あれに入れたらハーレイの家にも遊びに行けるし、もっと一緒に居られるのに…って…」
 本当はぼくが一緒に居たいだけなんだけど、と呟いたブルーに、ハーレイは「そうだったのか」と鳶色の瞳を見開いた。
「…お前が倒れて、疲れすぎだと学校に連絡が来た。昨日の体育の授業で相当に無理をしていたようだ、と担当の先生に聞かされてな…。どうしてそんなことをしたのかと思ったら…」
「…ごめんなさい。鍛えたら身体が丈夫になって、クラブに入れると思ったから…」
 シュンと項垂れるブルーの頭をハーレイの手がポンポンと軽く、宥めるように優しく叩いた。
「無茶するな。お前はお前で、小さくて華奢な所がいいんだ」
 柔道部なんかに入って鍛えたらムキムキだぞ、とハーレイが笑う。
「そんなお前は嬉しくないな。…俺は昔のお前が好きだ。ああいう姿に育つお前が好きなんだよ。だから小さいままでいい。細っこいままのお前でいいんだ」
「小さいままなのは嫌だってば!」
 急いで早く大きくなる! と叫ぶブルーに「なら、食べろ」とお決まりの文句が返ってきた。
 疲れすぎて自宅静養になった三日の間、毎日ハーレイが家に来て夕食を共にし、しっかり食べるようにブルーを監視するという。それならば。



「…ハーレイ、あのスープ、また作ってよ」
「あれか? …お前のお母さんがやたらと心配していたんだが…。これを入れたら、とか、こういう味付けもありますよ、とな」
 俺の料理の腕を疑われていそうなんだが、と苦笑いするハーレイにブルーは「作って」と強請る。
「大きくなれって言うんだったら作ってよ。あれが付いてたら、何でも食べるよ」
「でっかいステーキ肉でもか?」
「…そ、それは……」
 無理! とブルーは悲鳴を上げた。
 けれど明日からは三日間ほど、懐かしいスープを食べられる。
 食材が豊富で平和な今の地球では「そんな味付けで大丈夫なのか」と母が心配してしまうほどに単純すぎる野菜のスープ。
 それでもブルーには遠い昔から馴染んだ味で、ハーレイはブルーだけにしか作らないと言う。
 そんなスープを食べられるなんて、恋人だけの特権でなくて何だろう?
 たまには倒れてみるのもいいな、とブルーはハーレイの大きな身体に両腕でギュッと抱き付いた。
 ねえ、ハーレイ。弱い身体は厄介だけれど、ぼくはこのままでいいんだね?
 君がこのままでいいと言うなら、もう我儘は言わないよ。
 無理はしないし、柔道部だって諦める。
 だから、いつまでも側に居て。
 いつか本物の恋人同士になれる時まで、君を待たせてしまうけど…。
 その日までに何度、君が作ってくれるあの懐かしい野菜スープを飲むんだろう?
 早く大きくなりたいよ。ねえ、ハーレイ……?




                  懐かしい味・了





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