シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
- 2012.07.28 キャプテンのランタン
- 2012.07.28 巡り逢いの扉
- 2012.07.28 泡沫の約束
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
夜勤のクルー以外は寝静まったミュウたちの船、シャングリラの夜更け。ハーレイはフウと
溜息をついて額の汗を袖で拭った。
(…なんとか間に合いましたよ、ブルー…)
床の上に置かれているのは木目を基調とした船長室にはまるで似合わない大きなカボチャ。
怪物じみた目と不気味に裂けた口とが彫られ、中身を刳り抜かれたジャック・オー・ランタンと
呼ばれるものだ。
それはハロウィンの夜に明かりを灯すカボチャのランタン。木彫りを趣味とするハーレイ
だったが、これだけの大きさのカボチャをたった一人で彫り上げるのは大変だった。以前なら
ハロウィンが近付いてくれば手の空いたクルーが公園などに集まってお祭り騒ぎで作ったもの
なのに、今年はそういうわけにもいかない。
「ギリギリになってしまいましたが、今はこういう時ですから…。このカボチャだって手に
入れるのに散々苦労しましたよ」
分かるでしょう? と誰もいない部屋で一人呟き、ハーレイは用意してあった蝋燭にそっと火を
点すとランタンの中に差し入れた。部屋の明かりを消せば黒々と浮かび上がったカボチャの目と
口からオレンジ色の光が漏れて、文字通りお化けカボチャのようだ。
(見えますか、ブルー? 今夜は死者が帰る夜だと仰ったのはあなたですよ)
ミュウを導くソルジャーがブルーであった時代にシャングリラで始められたハロウィンの
催しは、昨年までは途切れることなく続いていた。ジャック・オー・ランタンや様々な仮装、
「トリック・オア・トリート?」と声を張り上げて艦内を回る子供たち。しかし、地球を目指す
戦いを繰り広げる今、そういう余裕は残されていない。
けれどハーレイはキャプテンの権限を密かに行使し、なんとかカボチャを入手した。ランタン
作りの助手の調達は不可能だったが、彫るのは自分の腕だけで…と決めていたからカボチャさえ
あれば充分だ。もっとも、これほど手強い相手とは予想だにしていなかったため、ハロウィン
当日の夜に至るまで彫り続ける羽目になったけれども。
(これが見えたら帰っておいでになるのでしょう? そうですね、ブルー?)
苦心して彫り上げたカボチャのランタンをベッドから良く見える場所に据えると、ハーレイは
布団に潜り込んだ。
ブルーがシャングリラからいなくなってから随分経つ。
想いを交わし、身体を重ねて長い年月を共に過ごした大切な恋人。
初めの内は思念体となった彼が戻って来るものと固く信じてひたすら帰りを待ち続けたのに、
ブルーは姿を現さなかった。いくら呼んでも応えすら無い。
(あなたの力でも死という壁は越えられなかったということでしょうか…。けれど今夜は戻れる
でしょう? そのためにこれを彫ったのですから)
あなただけのための道標ですよ…、と心の中でブルーに語り掛ける内にハーレイの瞼が重く
なる。キャプテンとしての激務と連日連夜のランタン作りで疲労が溜まっていたらしい。
(すみません、ブルー…。戻っておいでになったら私を起こして頂けますか? 明日も仕事が
忙しいので…)
徹夜するわけにはいかないのです、という思念を最後にハーレイは眠りに落ちていった。
ハロウィンの夜は深まり、此処が古の地球だったなら異界の者たちがそぞろ歩きを始める頃。
「…ハーレイ。これは嫌がらせかい?」
耳に届いた懐かしい声にハーレイは勢いよくベッドから跳ね起き、そこに忘れようの無い
姿を見付けた。
常夜灯とカボチャのランタンだけが灯った部屋でも仄かな光を纏ったブルー。
赤い瞳も銀色の髪も、あの日から全く変わってはいない。
「ブルー…! 戻ってらっしゃったのですね…!」
「嫌がらせかい、と訊いているんだけれど?」
感涙にむせぶハーレイに、しかしブルーは冷たかった。これが数ヶ月ぶりに会った想い人に
対する言葉だろうか、と不安が頭を擡げるほどに。
もしかしたらブルーは、あちらの世界で新たな恋をしたのだろうか?
手が届かなくなった恋人よりも、身近な誰かに目が向くことは多いと聞く。まさか、
ブルーも…?
戸惑うハーレイを見詰めるブルーが突然クスクスと笑い始めた。
「誰が恋人を作るんだって? ぼくは君だけで手一杯だよ」
「………?」
何を言われているのか分からず、ハーレイは怪訝な顔をする。
「まったく…。ずっと君の側にいたというのに、君は全く気が付いてないし! タイプ・
グリーンの力というのも考えものだね。一度シールドを張ったが最後、ぼくの思念も
受け付けやしない」
ブルーはベッドの端に腰を下ろすと、ハーレイの額に指先で触れた。その感触は分から
なかったが、穏やかな思念が伝わってくる。
「すぐに帰って来なかったのが悪かったのかな? だけど仕方が無かったんだよ。ナスカに
取り残された仲間たちを向こうへ送り届けるのもソルジャーの務めの内だろう? それに
ソルジャーというだけで頼られちゃうから忙しかったし」
あっちで色々と用事があって、とブルーが微笑む。
「みんなが落ち着いたのを見届けてから戻ってきたら、君はシールドの中だった。戦いの中で
撒き散らされる断末魔の悲鳴をシャットアウトするために張ったんだろうけど、ぼくの声まで
届かないとは思わなかったな」
「…で、では…」
ハーレイの声が掠れて震えた。
「私はあなたを無視したままでいたのでしょうか? 今日までずっと…?」
「そういうことだね。挙句の果てにランタンなんか彫っちゃって…。こんな嫌がらせを
されるんだったら、君が言うように新しい恋人でも探した方が良かったのかな?」
大袈裟に肩を竦めてみせるブルーに、ハーレイは慌てて懸命に詫びる。
「も、申し訳ありません! シールドはすぐに解きますから! それにランタンは嫌がらせ
などではないのです。あなたがシャングリラを見失っておられるのでは、と道標に…」
「…分かっているよ、ハーレイ」
君の側にいたんだから、とブルーは柔らかな笑みを浮かべた。
「でもね…。君は勘違いをしているようだ。ジャック・オー・ランタンはハロウィンの魔除け。
悪い霊が近寄らないよう、脅かすために置くものだけど?」
「…………」
それで嫌がらせかと訊かれたのか、とハーレイの背中を冷や汗が流れる。ブルーを延々と無視し
続けた上、とどめのように置いた悪霊除けのカボチャのランタン。別れ話を切り出されても
反論できない事態ではないか。
「…馬鹿だね、ハーレイ。ぼくが何処かへ行くとでも…?」
行きやしないよ、とブルーの重さも熱も無い腕がハーレイの首に回される。
「そうするんだったらとっくに行ってる。…君の所へ戻って来たのも、ずっと一人で君の側に
いたのも、ぼくがそうしたかったから。…君に取り憑いていると解釈するなら悪霊だとも
言えるかな?」
「いいえ…。いいえ、決して悪霊などでは…!」
ハーレイは抱き締められない思念体のブルーを胸に閉じ込めるようにして口付けた。唇は決して
触れ合うことなく、互いを求める熱い想いだけが混じり合い高まってゆくだけだけれども。
「ありがとう、ハーレイ。…あのランタンを作ってくれて」
長い口付けの後でブルーが床に置かれたランタンを見遣る。魔除けのカボチャに灯された蝋燭は
消えかかっていて、せわしない明滅を繰り返していた。
「君が道標にしてくれたから、君のシールドを突き抜けられた。戻って来いと願っただろう?
だから波長が合ったんだよ。…でなければ君に声すら届かないまま、ぼくは哀れな浮遊霊だ」
「…もう無視しないでいられるのですか? 私にはシールドをコントロール出来ている自覚が
無いのですが…」
「大丈夫。現にこれだって夢じゃないしね。でも、死んでしまうとジョミーでさえも、ぼくの
姿が見えないらしい。…人目のある場所では話しかけたりしない方がいいよ」
気が狂ったかと思われるから、と綺麗な笑みを宿すブルーをハーレイがもう一度引き寄せた時に
蝋燭の焔が音も無く消えた。
常夜灯だけが灯された闇が薄明へと変わる刻限には、まだ遠い。
ハロウィンの夜が明けると万聖節。
死者たちの霊が戻ってくると伝わる夜に戻って来たのは、幽明を異にする恋人たちを結び
合わせる確かな絆。たとえその手は重ならなくとも、心は常に互いの側に…。
キャプテンのランタン・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
人の目に映る其処は機械やモニターが並ぶ無機質な印象の実験室。それ以上でも以下でもありは
しないが、足を踏み入れた者がミュウであったなら一秒たりとも自分の意思で留まることは出来
ないであろう。
壁に、床に、その天井に…余すところなく染み込み、塗り込められた怨嗟の思念。理不尽に握り
潰された命が残した断末魔の悲鳴…。
「今日はここまで…か」
白衣の男が顎で促し、部下の研究員が台の上に仰向けに固定されていた被験者のヘッドギアを
取る。
此処は惑星ガニメデの育英都市、アルタミラに設けられたサイオン研究所という名の実験施設。
サイオンを持つ新人種、ミュウの研究と分析と称して幾多の人体実験を重ねてきた場所。
「こいつは当分、使えないな」
ひくり、と喉を震わせただけの被験者を研究者は鼻で嘲笑った。
「檻を壊してくれたサイオン・バーストは凄まじかったが、お蔭で興味深いデータが取れた。
…だが、あの檻の修理と補強には時間がかかる。こいつのサイオンを封じ込めるにはそれ相応の
設備が無いと…。まあいい、適当に放り込んでおけ」
「それが…。今日、新たなミュウどもが到着しまして、檻は満杯になっております」
「ふむ。では、一匹連れて来て処分するか。…ん?」
研究者の視線が止まった先には時計があった。勤務時間を大幅に過ぎたことを示しているそれを
眺めた彼は忌々しげに舌打ちをして。
「貴重な時間をネズミ退治に費やすというのも腹が立つ。空きが無いなら詰めればよかろう。
適当にな」
後は任せた、と手を振って彼は出てゆき、残されたのは研究員たちと意識を失くした銀髪の
被験者。まだ手足を拘束された状態の被験者は、成人検査を終えて間もないと思われる年頃の
少年だった。
「適当に詰めろと言われてもなあ…。どうする?」
「その辺の檻に詰め込んだって、窮屈になるだけで死にやしないさ。ちゃんと換気はしてるんだ
からな。…そうだ、あいつの所はどうだ? あの体格だ、狭さで言ったら一番だぞ」
「なるほど…。どうせ退屈してるだろうしな」
相談を始めた研究員たちの顔に酷薄そうな笑みが浮かんだ。
研究所の厳重な管理区域に研究員たちが『檻』と呼ぶミュウの独房が並ぶ。
生を繋ぐのに必要な最低限の設備と広さしかない文字通りの檻。外に出られるのは人体実験を
される時だけという檻の一つに放り込まれて、もうどのくらい経ったのだろう?
成人検査に脱落してからの月日を数えることは止めて久しい。ただ、青年と呼ぶのが相応しく
なった自分の身体に、彼………ウィリアム・ハーレイは流れ去った時間の長さを思う。
ミュウは概して虚弱らしいが、ハーレイは聴力が少し弱いという点を除けば身体的な異常は
無かった。そのせいだろうか、最初の頃は頻繁にあった心理探査は殆ど無くなり、今では肉体に
負荷をかける実験に思い付いたように呼ばれる程度だ。
どうやら研究員たちはハーレイを「飼って」データを取ることだけに集中し始めているらしい。
今日も何事も起こらないまま一日が終わる、と毛布さえ無い床に転がった時、ガチャリと檻の
扉が開いた。
「おい、お仲間だぞ」
声と共に乱暴に放り込まれたのは幼さの残る銀髪の少年。
「この馬鹿が檻を壊したんだが、生憎と檻の空きが無い。毎日退屈してるんだろう? 面倒を
見てやるんだな」
「………?」
意図が掴めないハーレイに、研究員は苛立ったように声を荒げた。
「こいつの檻の修理が済むまで同居してろと言っているんだ! 痛めつけてやったから当分は
目を覚まさんだろうが、扱いはせいぜい丁重にな。…こう見えても年はお前より上だ。お前たちの
オリジンだと言えば分かるか?」
「…オリジン…?」
「一番最初に生まれたミュウだ。そしてサイオンは誰よりも強い。悪夢を見たショックで起こした
サイオン・バーストで頑丈な檻を壊した程にな。…何度も繰り返されてはたまらん。今は夢すら
見てないだろうよ」
自我が崩壊する寸前まで実験を続けてやったのだから、と研究員はせせら笑った。
「檻の修理が済んだら引き取りに来る。…言い忘れたが、名前はブルーだ」
一方的に告げられ、檻の扉が再び厳重に閉ざされた。
外の物音は檻の中まで届かない。研究員が立ち去ったのかどうかは分からなかったが、どうせ
檻は一日中、監視されている。それに面倒を見ろと言ったのは研究員だ。意識を失くした少年に
近付き、触れたところで咎められることは無いだろう。
ハーレイはブルーと呼ばれた少年の手首をそっと握った。
激しい人体実験を受けたというブルーは高い熱があり、苦しげに浅い呼吸をしている。細い手首
から伝わってくる脈も速くて、ハーレイの眉が顰められた。ブルーの腕に無数に残る注射の痕。
幼い少年に惨いことを…、と溜息をつくが、研究員の言葉が真実だとしたら…?
(本当に…この少年がオリジンなのか? 私よりも年上だと…?)
少年が目覚めたら言葉遣いに気を付けねば、とハーレイは思う。年長者は常に敬うべきだと彼に
教えたのは記憶も薄れた両親だったか、それとも教師だったのか…。
敬語など長らく使ってはいない。研究員に強制されて使ったことは幾度もあったが、自発的に
使うのは何年ぶりになるのだろうか。人間らしい生活の欠片を取り戻したような気分になった。
(子供相手に敬語で話す、か…。傍から見れば滑稽かもな)
忘れ果てていた笑みを唇に刻んで、ハーレイはブルーの身体を抱え上げた。
研究員が放り込んでいった場所よりも落ち着ける所を知っている。檻の奥に近い、自分の
寝場所。
照明がやや暗くなる其処をブルーに譲り、ハーレイは消えることの無い明かりに背中を向けると
入口付近に横になった。
彼らミュウには人権など無い。監視するのに不都合だからと夜になっても完全な闇は与えて
貰えず、檻の中は黄昏の一歩手前程度の明るさを保つ。心安らぐ闇が欲しいなら光源から遠ざかる
より他に無いのだ。
そんな生活にももう慣れた。だが、深い眠りが心身の回復を促すことを忘れてはいない。
ブルーの身体が少しでも早く癒えるようにと、ハーレイは祈るだけだった。
翌日…と言っても明確な時間の感覚は無いが、檻の扉が開いた音で目が覚める。すっかり
明るくなった照明の下でパック入りの食事が入口に置かれ、扉はすぐに閉じられた。
いつもより多いな、と感じてすぐに思い出したのは昨夜連れて来られた少年のこと。食事の量は
二人分だが、彼は食事を摂れるのだろうか…?
恐る恐る近付いてみるとブルーはぐっすり眠っていた。熱も下がっているようだ。栄養を摂る
べきだと判断したハーレイはブルーの身体を揺すってみる。
「…ブルー? ブルー?」
何度か呼べば銀色の長い睫毛が眠そうに上がり、現れた瞳は血の色を宿したように鮮やかな赤。
驚きに息を飲むハーレイに、ブルーもまた怪訝そうな表情をした。
「……誰?」
細められた瞳が何度か瞬き、それから大きく見開かれて。
「誰? 今度は何を実験する気? そんな格好をしてまで何を…!」
怯えるブルーはハーレイを研究員だと勘違いしてしまったらしい。実験が目的で自分と同じ
簡素な服を着、檻に入ってきたのだ、と。
「違う、私は研究員では…。研究員ではありませんよ」
敬語を使うと決めたのだった、と途中で気付いてハーレイは言葉遣いを改めた。狭い檻の中で
後ずさろうとするブルーの手を取り、もう片方の手で己の首に嵌まったリングを示す。
「私もあなたと同じミュウです。サイオンの制御リングがあるでしょう?」
「…これも実験? ぼくは…今までずっと一人だったのに…」
ブルーは他のミュウに出会ったことが一度も無かった。ハーレイは実験室で何度もミュウを
見かけていたし、他の檻にミュウが一人ずつ入れられている事実も早くから知っていたの
だが…。
なのにブルーは何も知らない。オリジンとして隔離されていたのか、それとも記憶を
失くしたか。ハーレイが語り掛けても返って来る言葉は外見どおりの幼いもので、年上とは
とても思えなかった。
「本当に…何も覚えていないのですか?」
「うん。成人検査を受けて、そのまま射殺されそうになって…。ミュウだとかオリジンだとか
呼ばれているのは知っているけど、ぼくが君より年上だなんて…。そんなの信じられないよ」
嘘だよね? と首を傾げたブルーが覚えていたのは自分の名前だけだった。
「成人検査を受ける前には、ぼくの瞳は青かったんだ。だからブルーと名付けたんだよ、って
誰かが言ってた…。あれは父さんだったのかな? それとも…。駄目だ、なんにも思い出せない。
どうして…」
両手で顔を覆ったブルーを、ハーレイは思わず抱き締めていた。
「大丈夫ですよ、私も似たようなものですから。父も母も顔を覚えていません。…それよりも
食事をしなくては。あなたは酷く痛めつけられていて、身体が弱っている筈です」
堰を切ったように泣きじゃくるブルーの背中を擦って宥め、落ち着いた頃合いを見計らって
味気ない食事の封を切る。それを差し出せば、ブルーがふわりと笑みを浮かべた。
「…ありがとう。此処に来てから誰かと一緒に食事をするのは初めてだよ」
いつもよりずっと美味しい気がする…、と喜びながら食事とも呼べない代物を食べ終えた後、
ブルーはハーレイに問い掛けた。
「そういえば君の名前を聞いてなかった。…なんて言うの?」
「ハーレイです。…ウィリアム・ハーレイ」
「…ウィリアム…ハーレイ? そうか、名前が二つもあるんだ」
ブルーには自分のファミリーネームの記憶が無かった。そしてウィリアムの名は呼びにく
かったらしく、ハーレイと呼びかけて子供のように甘えてくる。
「ハーレイは大きくて温かいね。ずっと一緒にいられたらいいね…」
それはハーレイにとっても心が温かくなる言葉だった。
自分を頼ってくれる者がいるのは何と嬉しいことだろう。起きている間は実験のことを
忘れさせてやろうと他愛も無い話を交わして、食事を摂って…夜は二人で寄り添って眠る。
けれど…。
「ブルー、お前の檻がやっと出来たぞ。さあ、出るんだ」
無情な研究員の一言で穏やかな日々は砂上の楼閣の如く崩れ去った。ブルーは全てを諦め切った
顔でハーレイを見詰め、逞しい褐色の手をキュッと握って。
「…さよなら、ハーレイ。ありがとう…。君といられて楽しかったよ」
忘れたくないよ、と一粒の涙だけを残して、ブルーは白衣の男たちに連れてゆかれた。その先に
待っているのは人を人とも思わぬ実験。記憶も何もかもを失うほどにブルーの心身を苛む絶え間
ない責め苦…。
二度と会うことは叶わないであろうブルーを思って、ハーレイは日夜、胸を痛めた。あんなにも
細い身体を、成長し切っていない心を、研究者たちはどうして罪の意識すらも抱かず切り刻む
ことが出来るのか…。
ハーレイの思いを他所にサイオン研究所での実験は続く。
相変わらずハーレイが引き出されるのは肉体への負荷の実験のみだが、同じ実験をブルーが
あの華奢な身体で受けているのかと考えただけで心臓が凍りそうだった。丈夫な自分でも場合に
よっては起き上がれない程に疲弊する。ならばブルーは? ブルーの身体は…?
研究員はブルーを強いサイオンを持つオリジンだと言った。しかし数日間だけ一緒に暮らした
ブルーは自分よりも幼く、ハーレイという縋れる相手を見付けたせいか、弱音を吐くことも
しばしばで…。
ブルーはあれからどうしただろう? 名前以外の全てを忘れてしまったろうか…?
どうしてもブルーのことを考えずにはいられない。実験に連れ出される時も、檻にいる時も。
その夜もハーレイは膝を抱えて蹲ったまま、銀色の髪と赤い瞳の少年を思い浮かべていた
のだが…。
「…!」
出し抜けに檻の扉が開いて何かがドサリと投げ込まれた。顔を上げたハーレイの目に映った
ものは片時も心を離れなかったブルーの姿。
「お前に仕事だ。こいつを使えるようにしろ」
白衣の研究員が冷ややかな声でハーレイに命じる。
「急ぎの実験が待っているのにダウンされてしまってな。いいか、明後日までに元に戻すんだ。
どうやらこいつは、お前と相性がいいらしい。…ミュウには相性というヤツがある。相性がいい
ヤツと一緒にすれば相乗効果でサイオンが強くなることは分かっていたが、回復まで早くなる
とはな」
この前の時は劇的だった、と研究員は愉快そうに笑ってみせた。
「当分は再起不能なレベルにまで痛めつけてやったというのに、明くる朝にはお目覚めだ。檻の
修理さえ間に合っていればすぐにでも引っ張り出せたほどにな。…今回も期待しているぞ」
実験は明後日の朝に開始する、と言い捨てて研究員は扉を閉めた。
ハーレイの身体が小刻みにガクガクと震え始める。
ブルーを実験動物としか見ていない研究員への怒りもあったが、それ以上に自分自身が憎い。
自分の存在はブルーに害を及ぼしてしまう。側にいるだけで回復を促し、実験室へと送り込む
手伝いをすることになってしまうのだから…。
(私はブルーに触れてはいけない。出来るだけ離れていなくては…)
檻の中では距離を取るのも難しかったが、ブルーには二度と触れまいと誓う。それだけでも
少しは違うだろう。
ブルーが実験に連れ出される日は少しでも先の方がいい。怒り狂った研究員に殴られようとも、
自分はブルーを守りたいのだ…。
ハーレイの悲壮な決意も空しく、翌日の朝にブルーは目覚めてしまった。宝石のような赤い
瞳がハーレイを映し、血色を取り戻した唇が無邪気に名を呼ぶ。
「…ハーレイ? ハーレイだよね?」
会いたかった、と胸に飛び込んで来たブルーをハーレイは強く抱き留めていた。触れては
ならないと昨夜決心したばかりだが、どうして突き放すことが出来よう?
ブルーが忘れているならともかく、今も自分を覚えているのに……縋り付き頬を摺り寄せて
くるのに、温もりを求めていると分かっている手をどうして振り払うことが出来よう…?
「ハーレイのことは覚えていたんだ。忘れたくないって思ったからかな? また会えるなんて…。
しばらくは一緒にいられそうだね」
前の時みたいに、と嬉しそうに身体を預けてくるブルーに、しかしハーレイは言うしか
なかった。ブルーが此処に連れて来られた恐ろしい理由を。二人きりの世界が終わる時間を…。
「………。そうだったんだ……」
ブルーは俯いて唇を噛み締め、伏せた睫毛の端から涙が零れる。ハーレイはブルーが自分から
離れると思い、細い身体に回していた腕を外したのだが、ブルーは一層強く抱きついてきた。
「…ごめん、ハーレイ。…ハーレイは嫌かもしれないけれど……実験の手伝いなんて嫌だろう
けど、ぼくはハーレイの所に来たい。ぼくが実験でボロボロになったら、ハーレイが治して
くれるんだろう? だったら……もう実験は怖くないよ。実験のためにハーレイと引き離される
のは悲しいけれど…」
「…ブルー…?」
戸惑うハーレイの腕が躊躇いがちにブルーの背中に戻され、ブルーが安堵の息をつく。
「やっぱりハーレイは温かい…。また来るから。明日になって連れて行かれても、また来る
から…。だから待っててくれると嬉しい。…ハーレイには嫌な思いをさせるけど…」
「嫌だなどと…誰が言いました…?」
ハーレイはブルーの頬を濡らす涙を武骨な指先で拭ってやった。
「あなたのことをずっと心配していましたよ。…二度と会えないと思っていたのに、どうしても
忘れられなかった。私があなたと一緒にいれば研究者たちを喜ばせるだけだと知った時には
ショックでしたが、それでも…目覚めたあなたを目にしてしまうと、また会いたいと願って
しまう。あなたには酷なだけなのに…」
「実験なんて…大したことじゃないと思うよ、またハーレイに会えるのなら。明日の実験ですぐ
ボロボロになれればいいのに、そう簡単にはいかないだろうな…」
ぼくのサイオンは強いらしいから、とブルーは悲しげに微笑んだ。
「次に会えるのはいつなんだろう? ハーレイのことは忘れないから……忘れていてもきっと
思い出すから、待っていて。ぼくは必ず戻って来るから」
約束だよ、とブルーが指を絡めてくる。その仕草がたまらなく愛おしく思えて、ハーレイは
細く白い指に唇を落とした。
それは再会の約束の証。ブルーが無事に生き延びるように、と願いをこめた祈りの印…。
その翌日、ブルーはハーレイの檻から実験室へと連れて行かれてそのまま戻ってこなかった。
どんな実験が行われたのかは分からない。次にブルーが戻って来るのは心身の限界まで責め
苛まれてボロ布のようになった時だ。
それなのにハーレイはブルーに会いたいと願ってしまう。
自分の檻の中で休ませ、寄り添っていてやりたいと……疲れ果てたブルーの心を癒し、整った
顔立ちが花のように綻ぶ美しい笑みを見守りたいと。
(こんなことを願っていてはいけない。ブルーには会えない方がいいのだ。会えない間はブルーは
元気にしているのだから…)
そう思っても、心は常にブルーを追っている。檻の扉が開かれる度に銀色の髪を探してしまう。
研究者たちはハーレイの力を役立てるべく、幾度もブルーを檻の中に放り込みに来た。
再会する度にブルーは生気を取り戻してゆき、今はもう別れる時に「さようなら」と口に
することはない。「またね」と微笑み、研究員たちに背中を押されて名残惜しそうに去って
ゆくだけ…。
「明日になったら、またお別れだね」
もう何度目になるのだろう。消えない明かりから庇うように抱き込むハーレイの腕の中で
眠りにつく前、ブルーが寂しげな声音で呟くのは…。
やりきれない思いでハーレイは華奢な身体に回した腕に力を籠める。そうした所でブルーを
守れはしないのだったが、少しでも支えになれるのなら…、と。
「早くハーレイの所に来たいよ。なのに実験が終わらない…。ぼくの力がどんどん強くなって
いくから、新しい実験が増えるんだって。この実験が終わればハーレイの所で目が覚めるんだ、
と思っていても、気が付いたらまた実験室で…」
どうしてだろう、とブルーは顔を曇らせる。
「本当に強い力があるなら此処から出られそうなんだけど、出る方法が分からない。外へ
出られたらハーレイといつも一緒にいられるのに。離れなくても済むはずなのに…」
「サイオンのことは私にもよく分かりません。制御リングを嵌められているせいでしょうか?
自分がミュウだと何度言われても、以前と変わった所は何も…」
ハーレイの言葉にブルーは頷き、「ぼくも」と首のリングに触れた。
「成人検査で機械を壊したらしいんだけど、何をしたのか記憶に無いんだ。その後、銃を向け
られたのは覚えているけど……サイオンで弾を受け止めたなんてホントかな? こんな髪と
瞳になっちゃったから、何かあったのは確かだけれど…。ハーレイの所へ初めて来た時、檻を
壊したのが本当にぼくの力だったら…」
外へ出たいよ、と訴えるブルーをハーレイはただ抱き締めるだけ。
この檻から…サイオン研究所から脱出できたら、どんな世界が広がるのだろう?
ブルーも自分も人体実験から解放されて人間らしく暮らせるだろうか? それともやはり
化け物と呼ばれ、何処までも追撃されるのか…。
答えは全く分からなかった。けれど一つだけ確かなことは、研究所から解き放たれたらブルーと
離れずにいられること。研究員たちの都合で引き離されずに、いつも一緒にいられること…。
(…夢物語というヤツか…。どうせ死ぬまで出られはしない)
絶望感がブルーに伝わらないよう、ハーレイは努めて笑顔を作ると銀色の髪を優しく撫でた。
「もしも外の世界へ出られたら…いつまでも一緒に暮らせるのですよ。ですから希望を捨て
ないで。…いつか必ず、此処から出ると……それまで生きると誓って下さい」
「…そうだね…。実験で死んでしまったらハーレイに会うことも出来なくなるし…。外へ出られる
時が来るまで、ぼくは何度でも此処へ戻って来るよ。ハーレイが待っているのが分かっている
から、記憶も消えなくなったんだしね」
以前は過酷な実験の度に記憶を失くしたというブルーだったが、ハーレイと出会ってからの
記憶は鮮明だった。それもハーレイとの相性のせいか、と研究員たちは様々な検査を試み、
ブルーの負担は一層増える。
それでもブルーは耐え続けた。ハーレイが待つ檻の中で目覚め、共に過ごせる僅かな時間の
輝きだけに縋りながら…。
そんな日々がどのくらい続いたのか。
ある朝、ブルーが連れ去られた直後にハーレイも檻から引き出された。
こんなことは今までに一度も経験が無い。ブルーと同じ内容の実験を受けるのだろうか、と
考えながら長い通路を歩いて階段を下り、堅固な扉の前へと連れて行かれる。研究員が暗証番号を
打ち込みながら唇を歪めた。
「あの世への土産話に教えてやろう。お前たちミュウの命は今日で終わりだ」
「なんだと?」
信じ難い言葉にハーレイの瞳が見開かれる。
その前で扉のロックが外され、薄暗い空間に閉じ込められた大勢の人間が視界に飛び込んで
きた。一目でミュウだと分かる揃いの服の男女の群れ。押し寄せてくる悲鳴と怒号。
「このガニメデごと処分してしまえとグランド・マザーが仰った。惑星破壊兵器のメギドが既に
狙いを定めている。俺たちがこの星を脱出したら、お前たちは星ごと焼かれるんだ。お前の
大事なブルーもな。だが…」
ブルーの姿がありはしないかと目を凝らしていたハーレイの背に冷たい銃口が突き付けられた。
「二人一緒に死なせてやるほど酔狂ではないさ、我々は。…入れ!」
突き飛ばされるようにして潜った扉が背後で閉ざされ、それきり開くことは無かった。
部屋にいるのはサイオン制御リングを首に嵌められ、押し込められたミュウたちだけ。
泣き叫ぶ者や啜り泣く者、扉を叩いて喚く者…。
誰もが恐慌状態の中、ハーレイはブルーを探し求める。けれどブルーは見つからないまま、
遠くで爆発音が響いた。
爆発と何かが崩れ落ちる音が間断なく続き、凄まじい揺れが襲ってくる。研究員が言って
いたとおり、この惑星ごと滅ぼされるのだ。
(ブルー…!)
ハーレイの脳裏をブルーの泣き顔が掠めていった。こんな時に側にいてやれない。きっと
何処かで泣いているだろうに、自分はブルーの所に行けない…。
(くそっ、どうしてこんな時に…!)
拳を壁に打ち付けた瞬間、ブルーの叫びが耳に届いた。
『開けろ、ぼくらが何をした! 何をしたって言うんだ!』
「ブルー?」
この部屋にブルーはいないのに…自分の聴力は弱い筈なのに、それは間違いなくブルーの声。
涙交じりに絶叫する声。
何処に…、と周囲を見渡したのと、ひときわ大きな爆発音が部屋を揺るがしたのとは同時
だった。
「……!」
凄まじい爆風と衝撃が突き抜け、首に嵌められていたサイオン制御リングが砕け散る。床に
伏せていた身体を起こすと、部屋は跡形も無くなっていた。
いや、研究所そのものが吹き飛んでしまったと言うべきか…。これもメギドのせいなの
だろうか? だが、ミュウたちは一人も傷ついておらず、その首からはサイオン制御リングが
消え失せている。
(さっきの声…。まさか、ブルーが? ブルーが全てを壊したのか?)
何が起こったのかも分からないまま、ハーレイは声が聞こえたと思った方へと駆け出して
いった。
炎の色に染まった空が頭上に広がり、廃墟と化した研究所からミュウたちが先を争って
逃げ出してゆく。他人を気遣う余裕などがあろう筈もなく、倒れた者は踏み付けられて置き去りに
されてゆくだけだ。
その人波に抗うように進み、ついには誰一人いなくなった廃墟の中を探し続けて…。
「ブルー!」
ハーレイの瞳が求める者の姿を捉えた。
自分の身体を両腕で抱き、蹲っている小さなブルー。青い光をその身に纏い、瓦礫の間に
埋もれるように。
急いで駆け寄り引きよせてみれば、血の気の失せた薄い唇から漏れる言葉は…。
「嫌だ、死にたくない。ハーレイのいない所で死にたくない…」
「ブルー、私は此処にいます!」
細すぎる肩を掴んで揺すると、ブルーは何度か瞬きをしてハーレイを赤い瞳に映した。
定まらなかった焦点が合い、青い光が見る間に薄れ、唇が微かに戦慄いて…。
「…ハーレイ…? ハーレイ…!」
しがみ付いてきたブルーを抱き上げ、ハーレイは炎を掻い潜って懸命に駆けた。
街を、全てを舐め尽くそうとする悪魔の舌が大気を焦がし、噴き上げる火の粉が行く手を
阻む。
アルタミラが燃える。この惑星ごと地獄の劫火に包まれてゆく…。
(死んでたまるか! ブルーだけでも……ブルーだけでも逃がさなければ…)
何処か安全な場所は無いかと必死に考えを巡らせていると、ブルーがハーレイの名を呼び、
炎の彼方を指差した。
「…多分、あっちに宇宙船が…。あそこまで行けば逃げられるかも…」
宇宙船の影が見えた気がする、とブルーはハーレイの顔を見上げた。
「ぼくは出たいと願ったんだ」
ハーレイの負担になるから、と自分の足で走り始めたブルーが息を切らしつつハーレイに
告げる。
「殺されるって分かった時に……ハーレイは別の所に連れて行かれたって分かった時に、
あそこから出たくて泣き叫んで…。気が付いたら全部無くなっていた」
部屋も研究所も首のリングも…、と。
自分のサイオンがそれらを引き起こした事実にブルーは恐れ戦き、その場から動けなく
なってしまった。
ハーレイの名をただ繰り返すだけで、自分の殻に閉じ籠もっていたブルーを見付け、
救い出したのは力強く太い褐色の腕。
「死にたくないよ。やっと自由になれたのに…」
ハーレイと外へ出られたのに、とブルーの声に涙が滲む。
「まだ終わりではありませんよ。宇宙船が見えたのでしょう? そこまで行って
みなければ…」
諦めるのは早すぎます、とハーレイはブルーの華奢な手を強く握った。
「私たちが閉じ込められた場所を粉々にしたと言いましたよね? その力で宇宙船の在り処も
分かったのでしょう。…とにかく今は逃げることです。宇宙船に乗れれば生き延びられます」
もしも脱出できたなら…、とハーレイはブルーの手を引いて走る。
「二度とあなたの手を離しません。あなたの側から離れはしないと約束します」
「そうだね。…二人で自由にならなくっちゃね…」
ハーレイと一緒なら何処へでも行ける、とブルーが涙に濡れたままの瞳で微笑み、ハーレイの
手を握り返した。
宇宙船はまだ見えてはこない。けれどブルーも、そしてハーレイも希望に向かって走り続ける。
滅びゆく星を後に振り捨て、二人で空へと飛び立つために。
共に生きたいと願う気持ちを何と呼ぶのか、二人とも未だ気付いてはいない。互いを求めて
やまない想いが身の内に満ち、密やかに溢れて実を結ぶのは遠い宇宙へ出てからのこと…。
巡り逢いの扉・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
『…ハーレイ』
入っても、いいかい…?
遠慮がちに問うてくる思念にハーレイは手を止め、穏やかな笑みを浮かべて振り返った。夜勤の
クルーに引き継ぎを済ませ、ブリッジから自室に戻って来たのは一時間ほど前のことだ。
扉を開く代わりにほんの僅かに空気を揺らし、部屋の中に人影が現れる。そんな風に彼の部屋を
訪れる者は一人しかいない。
「どうなさいました? ブルー」
ほぼ書き終えた航宙日誌を閉じて羽ペンを所定の位置に戻せば、来客は静かに部屋を横切り、
奥まったソファに腰を下ろした。
「…少し飲みたい気分なんだ。君さえ良ければ……だけど」
ああ、とハーレイは破顔して頷く。来客はソルジャーと呼ばれ、最強のサイオンをその身に
宿すが、華奢な身体は丈夫ではない。そのせいか酒にも強くはなくて、僅かな量で酔い、眠って
しまう。それでも彼はハーレイの部屋で共にグラスを傾けることが好きだった。
アルタミラからの命懸けの脱出を経て辿り着いた惑星、アルテメシア。その雲海に潜み、改造を
重ねた彼らミュウの船、シャングリラ。白く優美な船体に人類の目から逃れるためのステルス・
デバイスを備え、居住空間として安定するまで長く続いた緊張の日々。
人類との遭遇に誰もが怯えていた頃、酒に酔える余裕などあるわけもなく。戦闘能力を有する
唯一のミュウゆえに皆の長、ソルジャーとなったブルーに気を抜ける時間は一秒とて無く…。
そんな時代を経てきたからこそ、あまり飲めない身体であっても、ブルーは酒を酌み交わせる
ひと時が好きだ。
量を過ごせば正体を失くしてしまう甘美なそれを、望んだ時に口に出来る世界を彼らは確かに
手に入れた。宇宙船という、限られ、閉じた空間の中であっても。
二人分のグラスを棚から出してテーブルに並べ、黄金色のブランデーを注ぎ入れる。ブルーの
グラスには、ほんの少しだけ。自分のグラスには充分な量を。
それはいつの間にか決まった約束事で、ブルーのグラスには薄めるための水も欠かせない。
贅沢な時間を共有するための手順どおりに、ハーレイは水割りを作ろうとしたが。
「…今日はそのままで」
ブルーの声がそれを止めた。
「このままで? あなたには強すぎると思うのですが…。これは果実酒ではないのですよ?」
酒の種類にも疎いブルーの表情を窺いながら、ハーレイはボトルを揺すってみせた。果実酒
ならばブルーも普通に飲めるが、ブランデーは水で割らないと無理だ。
けれどブルーは頑なに「そのままがいい」と繰り返す。
「あなたがそこまで仰るのなら。…良くないことでもありましたか?」
酔い潰れたい気分なのかもしれない、と気遣いつつもグラスを差し出せば、否と答えが返って
来た。
「その逆…かな? いつ来ても此処は落ち着ける」
「気分が高ぶってらっしゃるのですか?」
「…そう…かもしれない」
ブルーは濃さを保ったブランデーのグラスを手に取り、目の高さまで掲げてみて。
「この部屋では色が鮮やかだ。これは何色と呼ぶんだろうね?」
「………。青の間の灯りはお嫌いですか?」
「そんなことはないよ。ぼくの瞳は光にあまり強くない。あのくらいの明るさにしておかないと
目に良くない、とドクターも言うし」
でも、と赤い瞳が照明を映して微かに揺れる。
「この部屋の灯りも好きなんだ。全てが自然な色をしている。此処で過ごせる時間も好きだよ」
「…お好きなのは灯りと部屋だけ…ですか?」
「まさか」
笑みを湛えたブルーの目尻がほんのりと赤い。まだグラスには唇も付けていないのに。
今夜の酒は強すぎるから、ブルーはすぐに酔うだろう。酔いが回ると眠ってしまうブルー。
眠りの淵に沈んだ彼に己のベッドを貸す前に…、とハーレイの中で頭を擡げるものがある。
この部屋をブルーが訪れる時は、それもまたお決まりの約束事で。まだ一口も飲んでいない
から、と拒まれることもないだろう…とハーレイは笑みを深くする。
「…ブルー…」
細い肩に腕を回そうとした時、不意に問われた。
「私有財産について、どう思う?」
あまりにも雰囲気にそぐわぬ言葉に、ハーレイは暫し固まった。
「…ごめん」
クスクスと悪戯っ子のような笑いを漏らして、ブルーがハーレイの額に触れる。
「皺。…普段よりも少し、深くなってる。ぼくのせいかな?」
「何の前触れもなく面妖な事を仰るから…。一体何をお考えです? この船の中で手に入る物は
限られますが、そんな世界でも……皆が個人的な物を持っているのは御存知でしょうに」
「とてもささやかな物だけどね。…一般のミュウだとブランデーでも合成品だ」
「………それは…」
苦いものを飲み込んだような気持ちになった。
自分とブルーの前にあるのはシャングリラで合成したものではなく、醸造と蒸留とを経て熟成
されたブランデー。物資調達のために人類社会に潜入した部隊が奪取してきた戦利品だ。
高級な品、珍しい品が手に入った時はソルジャー、長老、各セクションの責任者たち…といった
順序で分配される。それがシャングリラでの秩序で、決まりごとだった。
船長のハーレイに本物のブランデーが届けられるのは自然なことだが、他の仲間が合成品を
飲んでいるのに自分だけが…。果たしてそれで良いのだろうか?
「いいんだよ、それで」
ハーレイの感情が零れていたのか、ブルーが柔らかなテノールで言った。
「キャプテンの責任はとても重いし、他のミュウでは務まらない。危険手当だとでも思えばいい」
「危険手当…ですか? ならば、あなたの分はどうなります?」
仲間の危機に飛び出してゆくのはブルーだったが、物資の優先配分量が特に多いということは
無い。それを口にすると、ブルーは少し困ったように。
「ぼくには青の間で充分だよ。…たった一人の人が住むのに、あの部屋は大きすぎないかい?」
「あれはあなたのサイオンなどを考慮して作られた特別な部屋で…! 必要な広さと言うの
です!」
「…そうなのかな? だったら、ぼくが…」
特別な何かを個人的に所有したいと言ったら、それは欲張りだと思うかい?
そう尋ねられて否とは言える筈もない。
ブルーはこの船とミュウたちをたった一人で守り戦い、導いてゆく孤高のソルジャー。他の者
とは比較にならない重責を担う彼なのだから、普通のミュウたちには望めない何かを独占したとて
許されるだろう。
それともブルーが私的に所有したい物とは、船長の意向を確かめなくてはならない程に危険な
物質なのだろうか? そのような物を欲しがるブルーとはとても思えないのだが、何か理由が
あるのかもしれない…。
無意識に眉間に皺を寄せていたらしく、ブルーが「皺!」と指でなぞった。
「心配しなくても、そんな危ない物じゃない。ぼくの我儘のためにシャングリラや皆を危険に晒す
ような真似はしないよ。でもね…」
個人が所有できるようなレベルの物じゃないかも。
そう呟いたブルーの掌の上に何処からかフッと現れたものがテーブルにコロンと転がり落ちる。
ブランデーの色を湛えた透明で温かそうな塊。掌にすっぽりと収まるほどの、卵を思わせる
滑らかな形。
「どうしても我慢できなくってね…」
持って来ちゃった、とブルーはそれを愛おしそうに撫でた。
ブランデーが固まって出来上がったような不思議な物体。まろやかで飴玉と見紛うほどだが、
しかし手に取ると驚くほどに軽い。石の一種かと思った自分はどうやら間違っていたようだ。
「この色だよ、ハーレイ」
白い手が伸びてグラスを塊の隣に並べた。透き通ったガラスの器の中でブランデーが微かに
波立つ。液体と、つややかな塊と。どちらもが部屋の自然な灯りを映して、柔らかな色合いを
その中に宿す。
「もしかして……これは」
琥珀ですか…?
ハーレイの問いにブルーはコクリと頷いた。
「ぼくも本物を手に取ったのは初めてだ。アタラクシアの博物館に巡回展が来ていてね…。古代の
地球ってテーマの、よくあるアレさ。思念体で覗きに行ったら化石が沢山並んでいたよ。何億年も
昔の植物、魚類、それに恐竜。…その中にこれも並んでいたんだ」
ほら此処に、とブルーは琥珀の一点を示す。
「虫の姿が見えるだろう? 三千万年以上も前の昆虫らしい。まだ人類も現れていない、ずっと
昔の…太古の地球をその翅で自由に飛んでいた虫だ」
「琥珀の中に虫…ですか? そんな化石もあるのですか?」
遙か古代に絶滅した植物の樹脂が琥珀だと聞いた。幹から滴り、長い年月をかけて化石となった
……その昔、遠い地球だけで採れた飴色の宝玉。
人類が地球しか知らなかった頃に愛でられ、宝石と呼ばれた鉱物たちは他の惑星からも産出
される。その価値は地球産か否かで天と地ほどにも異なっていたが、それでも同じ鉱物はある。
けれど琥珀は地球にしか無かった。青い水の星で育まれた太古の森しか、それを産み出せ
なかったから。人類は第二の地球をついに見いだせなかったから。
ゆえに琥珀は遠い昔の動植物の化石たち同様、稀少で、貴重。
育英惑星では子供たちに地球への憧れを抱かせるために化石の展示が行われるが、その思い出で
しか琥珀を知らない人間もまた多かった。
辺境の惑星や軍事基地にでも配属されれば、地球に生きたものたちが姿を変えた石に二度と再会
することもなく、地球に降りる機会すらも与えられずにその生涯を遠く離れた宇宙で終える…。
「見ているだけで済ませるつもりだったんだけどね…」
ブルーは琥珀を指先でつついた。コロコロと軽やかに転がる琥珀に、封じられた虫も一緒に
転がる。
「琥珀が樹脂の化石だというのは知ってるだろう? それが固まるまでの間に虫がくっついて
しまうんだってさ。…そして一緒に化石になる。虫の代わりに木の葉や水滴を中に閉じ込めた
琥珀もあって……。此処を見て」
時を止めた虫の周りに光の泡が散らばっていた。模様なのかと思っていたが、この泡は…。
「地球の空気。地球の水滴。…その両方が入っているんだ、この琥珀には」
だからどうしても触れたかった、とブルーは琥珀を掌に乗せた。
…だって。
この琥珀は地球の空気と水とをその身に抱いているのだから。
思念体で抜け出して見つけた虫入りの琥珀を手に取りたいと願ったブルー。その思いは遙か
空間を隔てたアタラクシアの博物館から無意識の内にそれを拾い上げ、シャングリラへと運んで
しまったらしい。
青の間に居たブルーの手の中に現れた琥珀は、己が宿した地球の欠片を封じ込めた泡に青い
仄かな光を受け止め、弾き、部屋の主を虜にした。地球を覆う大気と水との確かな証がその内に
ある……と。
「この部屋で見ると琥珀色だね、本当に。…青の間の灯りだと違うんだ。やっぱり琥珀はこの
色が似合う」
うっとりと琥珀を眺めるブルーはブランデーのことなど忘れてしまったようだった。
「それを確かめに私の部屋へ? 飲みたい気分とは口実でしたか?」
「いや。ブランデーが本当に琥珀の色をしているのかも気になった。だから水で割らずにその
ままで…、と言っただろう?」
そういえば…、とハーレイはブルーのグラスに目を移す。中身は少しも減ってはいない。
ブランデーの色を琥珀色だと何気なく何度も口にしてきたが、遠い記憶の中の琥珀とブランデー
とを比べたことは無かった気がする。今夜のブルーは好奇心を満たすためだけに来たのだろうか、
と苦笑した時。
「…私有財産についてどう思う、って訊いたよね。ぼくが琥珀をこのまま仕舞い込んで
しまったら…? 二度と人類の手には返さず、シャングリラの皆で共有するというわけでも
なくて……一人占めにしてしまったら…?」
君はぼくを強欲なのだと軽蔑するかな…?
探るような目をして見上げるブルーに、ハーレイの胸が詰まる。
誰よりも地球に焦がれて止まないブルー。あの青い星へ辿り着くために、アルタミラからの長い
年月をソルジャーとして、たった一人で戦い続けてきたブルー。
その彼が手にした琥珀の中に地球の空気と水滴がある。それを人類に返すべきだとは思わない。
ミュウは人類から激しい迫害を受けて久しく、いくらブルーが共存の道を求めるからと言っても、
琥珀くらいは貰ってしまって良いだろう。それが人類の至宝だとしても。
けれど、シャングリラのミュウたちは? 幼い頃に救い出されたミュウは化石を目にしたことが
無い。かつてそれを見たミュウたちにしても、シャングリラの中で地球の記憶を秘めた琥珀に
出会えるとなれば喜ぶ筈だ。ヒルマンに渡せばライブラリーに専用の展示ケースが出来上がり
そうで…。
琥珀にはそれほどの重みがあった。
しかし展示ケースに収めてしまえば、今のように気安くは触れられない。いくらブルーが
ソルジャーであっても………いや、ソルジャーだからこそブルーは琥珀を手にはするまい。
ブルーはこの船のミュウたち全てと同じ立場でありたいと望む。皆が気軽に触れられないなら、
自分も決して手を触れはしない…。
船の隅々まで慈しみの思念を広げ、安らげる場を守りながらも、ブルーはソルジャーとしての
務め以外で特別な扱いを受けることを嫌う。この船に暮らす皆も自分も、等しく一人のミュウ
なのだから…と。
それゆえに琥珀をシャングリラの皆で共有するなら、ブルーは二度と触れないだろう。その
内側に包み込まれた地球の欠片に、どれほど焦がれていたとしても…。
「…私は何も見ませんでした」
ハーレイは琥珀から目を逸らした。
「ですから、それはあなたのものです。個人の私有財産について、キャプテンに処分権限は
ありません。そのまま青の間にお持ち下さい」
「…いいのかい?」
途方もない金額を出しても買えない人類の至宝なんだけど…?
そう念を押すブルーに答えた。
あなたが持つのが相応しいのだと思います。
いつか地球へと辿り着くために。
地球の記憶が刻まれた琥珀は、あなたの希望になるでしょうから…。
飲みたい気分だと言って来た時、ブルーの神経は本当に高ぶっていたのだろう。琥珀を手に
入れたのは恐らく今日。自分一人の身には過ぎた宝を、どうするべきかと考えた末にハーレイの
部屋を訪れた。
もしかすると密かに隠し持つことが出来るかもしれないと、微かな期待を胸に抱いて。
叶うとは思っていなかったろうが、ブルーの地球への想いを知るハーレイには取り上げること
などとても出来ない。独占欲とはおよそ無縁のブルーが、あの琥珀に強く魅せられている。普段は
何を手にしたとしても、皆で分けようと言い出すブルーが。
それほどにブルーを惹き付けたものを、どうして奪うことが出来よう? 第一、ブルーの強い
サイオンが無ければ、琥珀は今もアタラクシアの博物館の展示ケースに陳列されていたわけで…。
つらつらと思いを巡らせていたハーレイの補聴器が音を拾った。
「………レイ、…ハーレイ?」
「ブルー? お帰りになったのでは…?」
青の間に戻った筈のブルーが知らぬ間にハーレイの隣に腰掛けている。先刻、琥珀を大切そうに
両手で包んで、空間の狭間に姿を消したと思ったのだが。
「どうして? 飲みたい気分だと言っただろう? まだ一滴も飲んでいないのに」
「ですが、先ほど…」
「ああ。何処に置こうかと迷ったんだよ。手許にあると嬉しいけれど、青の間ではせっかくの色が
暗く沈んでしまう。…やっぱり自然な光がいい」
テーブルにコトリと琥珀が置かれた。ブランデー色の軽い塊が光を映してコロコロと揺れる。
「これを預かって欲しいんだ。此処なら隠し場所も沢山あるだろう? なにより琥珀の色が
映えるし、君と一緒に飲みたい時にもすぐ手に取って眺められる」
「では……琥珀を肴に飲みますか?」
一人で飲みかけていたブランデーのグラスをブルーのグラスの隣に戻すと、琥珀の持ち主は
「その前に」と琥珀に右手の指先で触れた。
「ブルー…?」
細くしなやかな指が青い焔にも似たサイオンを纏い、ブルーの他には誰も持たない神秘の青が
琥珀の表面を大気圏のように淡く包み込む。それは琥珀の上に暫し留まり、やがてフワリと
其処から離れてハーレイのグラスへ流れ込んだ。
青い光がブランデーに溶け、ゆっくりと底に沈んで琥珀の色へと変わってゆく…。
「…上手くいったようだよ、ハーレイ」
「えっ?」
ほら、とブルーが指差した。
「ブランデーの中を覗いてごらん。…地球の空気が見えるだろう?」
グラスの底に一ミリにも満たない気泡があった。それは見る間に更に細かい粒に分かれて
ブランデーの中を漂い始める。
ゆらゆらと揺れながら昇っていったそれらが消え失せた時、沢山の泡たちが歌う地球の讃歌が
耳に届いた…ような気がした。
琥珀と共に化石になった気泡の中身をブランデーの中に溶かしたのだ、とブルーはハーレイの
グラスを示して微笑んでみせた。
脆い琥珀を損ねることなく、それが真珠を包む母貝の如くに身の内側に抱いた空気をサイオンで
外の世界へと移す。ハーレイには思いもつかなかった技だが、ブルーには造作もないことだった。
そしてある程度の力を持ったミュウなら、誰でも出来るに違いない。生憎、ハーレイは
サイオンを物の移動に用いることは不得手なミュウであったけれども。
「だから一人占めにしたかったんだよ」
誰もが中身を欲しがったなら、すぐに琥珀は空っぽになってしまうだろう? とブルーは呟く。
そうしたら地球の欠片が無くなってしまう。触れるどころか、眺めることさえ出来なくなる。
いつまでも傍に在ってほしいのに……と。
「ぼくは、この中の地球を失くしたくない。でも、触れたいとも思うんだ」
地球を覆っていた太古の大気のほんの小さな粒の一つに。そこから生まれた水の雫に…。
「この次は水滴を抜いてみようか? 地球の水を溶かしたブランデーなんて、きっと最高の贅沢
だよね。地球で暮らせるエリートだけしか地球の水の味は知らないだろうし」
「そうですね。…まさかミュウがその水を手にしているとは、人類も思わないでしょう」
少し愉快な気分になった。ブルーが持ってきてしまった小さな琥珀。掌にすっぽり隠れるほどで
しかないのに、それはどれほど大きな夢の翼を自分たちの背に広げてくれることか…。
「内緒だよ、ハーレイ」
ブルーが声を潜めて囁く。
「この部屋に琥珀が隠されてるのは、ぼくと君だけしか知らない秘密。ぼくが琥珀を盗み出した
ことも」
「いいんですか、そんなに私を信用しても…? 私がこっそり中身を抜くかもしれないのですが」
そんなことをする気は微塵も無いが、つい、からかってみたくなる。…これも琥珀のせいかも
しれない。見ているだけで人を心地よく酔わせる、ブランデーの色に染まった宝玉。
「君には微細なコントロールは無理だろう? 琥珀を壊してしまうのがオチだ」
クスクスクス…と花が綻ぶような笑みをブルーが浮かべる。
「………。私は防御専門ですから」
ハーレイのサイオン・タイプはグリーン。碧色のそれはブルーをも凌ぐ堅固な防御能力を持つ。
「頼もしいね」
知らず苦い顔になっていたハーレイにブルーはそう言い、そのサイオンを愛おしむように語り
掛けた。
コントロールだけが能ではない。守り抜く力も大切なのだ、と…。
「君は番人に打ってつけだ。ぼくの琥珀は君に預ける。何処よりも安全な場所だと思わない
かい?」
そしてね…。
此処ならば……君の側ならば、ぼくは安心出来るから…。
ブルーは地球の空気を溶かし込んだハーレイのグラスにそっと手を添え、香りを吸った。
「これからは何かの記念日ごとに泡の中身を一つだけ抜いて、ブランデーに溶かして飲んで
みよう。今日、溶かしたのは地球の空気。…このブランデーの味はどんなだと思う?」
ぼくにも地球の空気を分けて、と少しだけブランデーが注がれていた自分のグラスを差し出す
ブルー。
ハーレイのグラスから足された酒が元からの分と混じり合うのを待ち侘びたように、ほんの
僅かを口に含んで、時間をかけて味わって……白い喉がコクリと飲み下す。
「…地球の空気の味…なのかな? 少しではよく分からない」
「これだけ全部を飲み干してみても分からないかと思うのですが…」
ハーレイは自分のグラスを掲げる。酒に強い彼のグラスに満たされていたブランデーの量は
多くて、ブルーのグラスに注ぎ分けた今もまだたっぷりと残っていた。
地球の空気を含んだ泡は琥珀色のそれに紛れて、何処に溶けたかも定かではない。
「でも、君の分とぼくの分とを混ぜ合わせれば、泡一つ分は確かにある。全部飲み干せば二人で
泡一つ分を味わったことになるんだけれど…?」
「計算上ではそうなりますね」
「じゃあ、飲んで。…そうすれば君の身体に地球の空気を取り込めるだろう? ついでにこれも」
やっぱり少し強すぎる、とブルーは自分のグラスに残った酒をハーレイの前に押しやった。
「…君が飲んで、その後で……ぼくが一口だけ飲み込んだ分と合わせてみよう。…地球の空気が
どんな味なのか、二人でなら分かるかもしれないから」
どうやって? とは聞くまでもなかった。
ブルーが飲み下した地球の空気と、自分の中にブランデーごと取り込んだものと。
混ぜ合わせる方法は考えるまでもなく、答えは二人の身の内にある。
息を、想いを混ぜ合わせれば……互いを求め合う想いを交わせば、全ては共有できるのだから。
「…ねえ、ハーレイ…」
飲み込んだ地球の空気の欠片を心ゆくまで分かち合った後、ブルーが耳元で囁いた。
甘い余韻に蕩けた声が夢見るように言の葉を紡ぐ。
「記念日ごとに一つずつ。…一つずつ、泡の中身を抜いて…それを二人で味わって。いつか
地球まで辿り着いたら、琥珀を地球の海に還そう。琥珀は海から打ち上げられる宝石だった
そうだから」
「樹脂なのに…ですか?」
ハーレイは太古の地球に息づいていた原始の森を思い浮かべる。其処に水辺はあったの
だろうか…?
「陸からも採れたらしいけれどね。でも、還すなら海がいい。…その頃、泡の中身は何個くらい
残っているんだろう? 百個以上はありそうだけど、記念日は一年に一日くらいに留めておく
のがいいのかな…」
地球への道は遠そうだし…、とブルーは暫し考え込んでから桜色の唇に笑みを湛えた。
「一年に一度だけなら、君の誕生日を記念日にしておきたいな。…ぼくは誕生日を覚えて
ないから」
それに、とブルーの赤い瞳が過ぎ去った日々を懐かしむように細められる。
「ぼくが初めてこの部屋に来たのも、君の誕生日の夜だった。…それまでも何度も来ていた
けれど、泊まりに来たのはあの日が最初で、二人で此処で乾杯して…」
「あの夜のことは忘れるわけもございません。ですが、私があなたを青の間にお訪ねしたのは
別の日でした。あの日の方が……あなたと初めて想いを交わしたあの夜の方が、私たちの
記念日にするのに相応しいのでは…?」
その夜のことをハーレイは今も鮮やかに覚えている。目を閉じずとも、胸の内から溢れ出る
ように湧き上がってくる愛しさと……熱と。
それはブルーも同じだったが、あの夜を共に過ごしたがゆえに、記念日として選びたい日は
譲れなかった。
愛を交わせるのは、想い合う相手があればこそ。
地獄と呼ばれたアルタミラでの奇跡にも似た出会いの時から、ブルーが想うのはただ一人
だけ。共に生きたいと……離れたくないと、その思いだけで未来を拓き、ミュウたちを導いて
此処まで来た…。
「君が生まれた日が大切なんだよ。…君がいたから、生きる望みを持つことが出来た。
アルタミラから今までの長い長い時も、君が一緒にいてくれたから迷わずに前へ進めたんだ。
…だから……」
君の誕生日が、全ての始まり。
君が生まれて来なかったなら、ぼくは今、此処に存在していない…。
ブルーはハーレイの唇を自らの細い指先でなぞり、熱い吐息をそれに重ねた。
ハーレイ。
君が支えていてくれるから、ソルジャーとして立っていられる。
君が抱き締めていてくれるから、ぼくは希望を失くさずにいられる。
行こう、地球へ。
君と二人で、この船を連れて。
地球に着いたら………互いの役目から解き放たれたら、その時は…
二人きりで地球の海辺を歩こう。
他に誰一人いない波打ち際で、琥珀を地球の海に還そう。
その後は、君が行きたいと望む所へ…ぼくを連れて行ってくれるかい…?
ブルー…。
あなたが焦がれる遙かな地球まで、命を懸けて共に行きます。
その日まで、あなたの夢も想いも全て抱き締め、私が守り抜きましょう。
いつか、必ず。
地球の海に二人で琥珀を還す時まで…。
そうしたら、あなたは私一人だけのブルーになってくれますか…?
ハーレイの机の引き出しの奥に仕舞い込まれた虫入りの琥珀。
それを二人で幾度も取り出して眺め、年に一度だけ共に地球を味わう。
地球はまだ遠い。
けれど…。きっと、いつか二人で………。
泡沫の約束・了