シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(うーん…)
ぼくって運動不足なのかも、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
健康な身体を作るためには、まずは運動。軽く身体を動かすだとか、少し多めに歩くとか。同じ道を歩いてゆくにしたって、早足で行けば運動になる。急いだ分だけ、使うエネルギー。
とにかく日頃の運動が大切、それが体力づくりの秘訣。
(ぼくって、身体が弱いけど…)
生まれつきの体質なのだけれども、改善の余地はあるかもしれない。
直ぐに寝込んだり、風邪を引いたり、弱すぎる身体。前の自分とそっくり同じに。もしも丈夫な身体になれたら、学校を休まなくていい。「ハーレイに会えなかった」と思わなくて済む。
(学校、バスで行ってるし…)
体育の授業も見学が多いし、運動不足なのかもしれない。いわゆる運動は殆どやらずに過ごしているから。やりたくても出来ない身体だから。
(走ったら、直ぐに疲れちゃって…)
もう駄目だ、と手を挙げて見学するのが体育の授業。たまに頑張ったら、後で寝込んだり。
そうならないよう、運動は控えているのけれども、控えすぎて逆に弱いのだろうか。運動不足になってしまって、少しも丈夫になれないだとか。
(ありそうだよね…)
運動しようと自分で思ったことが無い。いつだって「無理」と考えるだけ。
これでは健康になれはしないし、自分は間違っていたかもしれない。体力づくりをしないから。運動不足な日々を重ねているだけだから。
日頃の運動が大切なのだ、と書いてある記事。スポーツや体操も記者のお勧めなのだけど。
(散歩しましょう、って…)
走ったり、体操したりといった運動が向かない人は。無理をしないで自分のペースで、のんびり出掛けてゆく散歩。それがピッタリだという話。
(最初は家の近くから始めて…)
少しずつ距離を伸ばしていったら、かなり運動になるらしい。散歩する距離も時間も伸びるし、その分、体力もついてゆく。始めた頃より、ぐんぐんと。
(五分歩くのと三十分だと、それだけで全然違うよね…)
難しい計算をしなくても分かる、散歩の理屈。確かに運動になるだろう。体力もついて、健康な身体が作れそう。バス通学をやめて、徒歩で通えるようになる日も来るかもしれない。
(でも、散歩…)
魅力的だけれど、帰って直ぐに散歩に出ないと、ハーレイが来てしまいそう。仕事帰りに寄ってくれる日は予告無しだし、「今日は大丈夫」と言い切れないから。
(おやつを食べて、ゆっくりしてたら…)
知らない間に経っている時間。それから歩いて出掛けて行ったら、帰る時間は当然、遅い。沢山歩けない間だったら、五分で戻って来られるけれど…。
(歩く時間と距離が伸びたら…)
五分の散歩が三十分になって、もっと増えたりするかもしれない。今日は沢山散歩したから、と胸を張って家まで帰って来たら、ハーレイの車が…。
(ガレージに停まっていそうだよ…)
それは困る、と思った散歩。体力づくりは大切だけれど、ハーレイと過ごす時間も大切。一分も無駄にしたくはないから、ハーレイを待たせてしまうだなんて、とんでもない。
おやつの後で散歩に行くのは駄目となったら、逆にするしかないだろう。
(先に散歩して、おやつは家に帰ってから…)
それなら無理なく散歩に行ける。ハーレイが訪ねて来るよりも前に。
けれど、散歩の後におやつを食べてしまったら、今度は胃袋の方が問題。美味しく食べて自分の部屋に戻った途端に、鳴りそうなチャイム。
(ハーレイが来たら、お茶とお菓子で…)
母が部屋まで運んでくれる。その時のお菓子が入りそうにない。おやつでお腹一杯だから。
(お茶も、殆ど飲めないかも…)
せっかくハーレイと二人きりなのに、食べられないお菓子。飲めないお茶。それは寂しいから、避けたいコース。特に、お菓子がハーレイの好物のパウンドケーキだった時には。
(逆にするのは駄目みたい…)
やっぱり、おやつの時間が先。おやつを食べてから出掛ける散歩。
のんびりゆっくり食べていないで、「御馳走様」と立ち上がって。「行って来ます」と颯爽と。
最初は家の近くから。無理をしないよう、少しずつ距離を伸ばして歩いて、体力づくり。
(だけど、おやつを食べたら直ぐに散歩に行くなんて…)
難しそうだよ、と零れる溜息。おやつの余韻を楽しみたいのに、そうする代わりに歩くなんて。紅茶の香りもケーキの匂いも、全部投げ捨てて行くなんて。
(…もっとゆっくりしたいのに…)
今みたいに、新聞なんかも読んで。母とお喋りしたりもして。
それをしないで出掛けたとしても、気分を上手く切り替えられても…。
(今度は、寄り道…)
散歩の途中で猫に会ったら、声を掛けて撫でて、遊んでいそう。時間が経つのを忘れたままで。綺麗な花が咲いていたって、同じようなことになるだろう。その家の人が庭にいたなら、ついつい話し込んでしまって。「何の花なの?」と訊いた後には、あれこれお喋り。
そういう散歩を楽しんだ後で家に帰ったら、ガレージに停まっていそうなハーレイの車。
(待たせちゃってて、ママがハーレイとお喋りしてて…)
きっとガッカリするのだろう。もっと急いで帰って来れば良かった、と。
(散歩、ホントに無理そうだよ…)
ハーレイを待たせてしまうことになるか、二人きりのお茶の時間を満喫出来ない羽目に陥るか。二つに一つで、どちらになっても悲しい結末。
(駄目だよね…)
それに、散歩にお勧めだと書かれている休日。好きな時間に出掛けられるから、平日は無理だという人も是非、と。
その休日はハーレイと二人で過ごしているから、散歩に出掛ける時間は無い。ハーレイを放って散歩だなんて、と考えたけれど。
(…ちょっと待ってよ…?)
使えるかも、と気付いた散歩。
運動不足だから、休日くらいは散歩したい、と言えばハーレイと二人で出掛けられるかも…!
いいアイデアだ、と頷いて帰った自分の部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返した後で。足取りも軽く階段を上って。
(ハーレイと散歩…)
素敵だよね、と座った勉強机の前。ハーレイと二人で散歩に行けたらいいな、と。
きっと、ちょっとしたデートの気分。手を繋いでは歩けなくても、二人並んで歩くだけでも。
(ご近所さんに、「恋人です」って紹介するのは無理だけど…)
尋ねられても、「ぼくの学校の先生です」としか言えないけれど。
それでも、ハーレイと散歩したなら、きっと楽しい。体力づくりに出掛ける散歩。
(一時間くらいは歩きましょう、って書いてあったし…)
休日に出掛ける散歩の目安は一時間。ただでも運動しない日なのだし、そのくらい、と。
一時間もあれば、色々な所へ歩いてゆける。少し離れた公園だとか、普段は行かない方だとか。
ハーレイが此処まで歩いて来る道を、逆に辿ってみることだって。
(三十分あったら、何処まで歩いて行けるかな?)
いつもハーレイが見ながら歩いて来る景色。それをどのくらい楽しめるだろう、三十分の間に。道は何通りもあるらしいから、見られる景色も選んだコースで変わる筈。
(喉が渇いたら、一休みだって…)
喫茶店には入れなくても、缶ジュースを買って飲むだけのことでも、立派にデート。二人一緒に散歩に出掛けて、あちこち歩いて、お喋りもして。
(これなら、ハーレイも断らないよね?)
体力づくりのための散歩で、健康な身体を作るための散歩。弱い身体も丈夫になりそう。
もしもハーレイが来てくれたならば、早速、提案してみよう。休日は二人で散歩に行こうと。
帰りに寄ってくれるといいんだけれど、と胸を高鳴らせていたら、聞こえたチャイム。
(やった…!)
チャンス到来、と顔を輝かせてハーレイを待った。母の案内で部屋に来るのを。お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね…。運動不足は良くないよね?」
今日の新聞にも書いてあったけど、運動不足は身体に良くないんでしょ?
「運動不足か…。あまり感心したことではないな、そいつはな」
身体ってヤツは、動かしてやらんと駄目になる。日頃から自分で気を付けないとな。
「やっぱり…。それじゃ、散歩に行ってくれない?」
お休みの日だったら、一時間くらいがお勧めだって。散歩する時間。
「俺なら、ジョギングしているが?」
わざわざ散歩に出掛けなくても、普段から。休みの日だって、走る時は走る。
早く目が覚めたらジョギングなんだし、そいつが無くても、此処まで歩いて来ているんだぞ?
散歩は必要無いってな。俺は運動不足じゃないし。
「ハーレイじゃなくて、ぼくだってば!」
運動不足みたいなんだよ、学校はバスで行ってるし…。体育は殆ど見学だから。
これじゃ丈夫になれやしないよ、ちっとも運動しないんだもの。
健康な身体を作るためには、運動するのが大切だって書いてあったよ、新聞に。
今のままだと、ぼくの身体は弱いまま。
だけどスポーツとかは無理だし、散歩が一番良さそうだから…。
お休みの日は二人で散歩しようよ、と切り出した。時間がたっぷりある休日。
「学校がある日は、散歩は難しそうだから…」
ぼくが散歩をしている間に、ハーレイが家に来ちゃうとか…。待たせちゃったら悪いでしょ?
だから、お休みの日に二人で散歩。それなら待たせる心配も無いし…。
「お前なあ…。散歩というのは口実だろうが」
体力づくりだの、健康な身体がどうのと言ったら、俺が賛成しそうだからな?
「そいつはいいな」とアッサリ信じて、もう今週の土曜日からでも二人で散歩に行きそうだ。
しかし、お前の狙いは違うという気がするが?
俺とのデートが目的だろうが、体力づくりにかこつけて。二人きりで外を歩こう、とな。
「なんで分かったの!?」
散歩しようって言っただけだよ、どうして其処まで分かっちゃったの?
ぼくの心が零れていたとか、顔にそう書いてあったとか…?
「大当たりってヤツか…。散歩だと誘って、本音はデート、と」
そんな所じゃないかと思って、カマをかけてみただけなんだが…。
お前が思い付きそうなことは、俺だって思い付くってな。心が零れていなくても。
「ハーレイ、酷い…!」
ぼくを騙して、本当のことを言わせるなんて…!
散歩に行きたいと思ってる理由、ちゃんと秘密にしてたのに…。
体力づくりのための散歩で、ハーレイだって運動不足は良くないって認めていたくせに…!
運動不足は駄目なんでしょ、と詰め寄ってみても、ハーレイは腕組みをしているだけ。
「それとこれとは話が別だ」と、眉間の皺まで少し深くして。
「俺とのデートが目的だったら、散歩に付き合う必要は無いな」
デートは断固、御免蒙る。傍目には散歩に見えたとしても。
「…ぼくが運動不足なのに?」
丈夫な身体を作りたくって、運動しようと思ってるのに…。運動不足じゃ駄目なのに。
「足りているだろうが、お前の運動」
休みの日に散歩しなくても。それも一時間も歩こうだなんて、やり過ぎってもんだ。
「足りていないよ、足りるわけがないよ!」
学校だって、歩いて通っていないんだし…。体育の授業も見学ばっかり…。
一時間くらいは歩かなくちゃ駄目だよ、運動不足なんだから…!
「お前が健康だったらな。…バス通学をしているくらいに弱いんだぞ、お前」
体育だってそうだ。丈夫な生徒がサボろうとしても、見学の許可は下りないぞ。お前が弱いのが分かっているから、授業の途中でも抜けられる。手を挙げるだけで。
それと同じで、運動の量にも個人差ってヤツがあるってな。
今のお前には、今の生活で丁度いいんだ。運動の量は充分、足りてる。
本当に運動不足だったら、それだけで病気になっちまったりするんだから。
それに運動の方も、やり過ぎると毒だ、と叱られた。お前は知らないだろうがな、と。
「運動部のヤツらにしたって、そうだ。お前の何倍も運動してるが…」
お前から見たら、健康そうに見えているんだろうが…。あれだって加減が必要なんだぞ?
やり過ぎちまうと身体を壊す。鍛えるつもりが逆になるんだ。
「…そうなの?」
毎日、沢山運動してたら、うんと丈夫になれそうだけど…。
柔道部の人だって、柔道の他に走り込みとかもしているし…。凄く丈夫に見えるのに…。
「其処が落とし穴になるわけだ。もっと頑張れば成果が出る、と思い込んじまって」
走り込みでも、誰でも同じようにはいかん。長い距離を走るのが得意なのもいれば、短い距離を凄い速さで走り抜くのが得意なヤツとか。マラソン選手と、短距離の違いは分かるだろ?
柔道部のヤツらも、マラソン向けのと、短距離向けのがいるってな。
そいつらに同じ指導は出来ん。根性でやれ、と怒鳴り付けても、いい結果なんか出ないんだ。
走り込みもそうだし、柔道の練習も体力に合わせてやらないと…。
いくら生徒が「まだ出来ます」と言っていたって、適当な所で休ませるとか、色々とな。
それだけ注意をしてやっていても、無理をする馬鹿もいるんだが…。
今日はここまで、と言っておいても、自主練習を勝手に始めちまって、やり過ぎる馬鹿が。
ん…?
待てよ、とハーレイが傾げた首。運動のし過ぎと、それから散歩、と。
「…運動をし過ぎる馬鹿は沢山…。それに散歩で…」
引っ掛かるな、と顎に手を当てるから。
「どうかしたの?」
誰か、そういう生徒がいたの?
運動だけじゃ足りないから、って散歩もしていて、やり過ぎちゃった…?
「いや、ちょっと…。俺の教え子に限っては…」
運動のし過ぎの方はともかく、散歩でトドメを刺すようなヤツはいないと思うんだが…。
誰かに聞いた話かもしれん、他のクラブの先生から。運動部は色々あるからな。
その辺の山とかを登るクラブの生徒だったら、自主練習で散歩してるってことも…。
違う、生徒の話じゃなかった。…前のお前だ。
「前のぼく…?」
ぼく、何かやった?
運動のやり過ぎなんかは、一度も無いと思うけど…。散歩でトドメを刺すことだって。
今のぼくと同じで弱かったんだし、どっちも絶対、やっていないよ。
「いいや、お前が忘れちまっているだけだ」
お前は俺の真似をしたんだ、挙句にやり過ぎちまったってな。お前には無理なことだったのに。
「ハーレイの真似って…。何の真似?」
料理じゃないよね、やり過ぎるんなら。…それに散歩もついて来るなら。
「さっきからの話そのままだ。運動ってヤツだ」
運動のし過ぎだ、俺の真似をして。前の俺も頑丈だったから。
「…やっていないと思うけど…。運動なんか…」
前のぼくだって、今と同じで運動不足。運動もしないし、散歩もしないよ。歩いていたのは視察くらいで、運動なんか…。それに散歩も、していないってば。
「やってただろうが、最初の頃に。…チビだった頃に」
ブラウたちと一緒に船の中の散歩。シャングリラという名前だけだった船の頃だな。
「ああ…!」
歩いてたっけね、ブラウたちと。今日はこっち、って連れて行かれて。
思い出した、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかった船で暮らし始めた頃の自分。
燃えるアルタミラから脱出した船で、ハーレイが作ってくれた友達。「俺の一番古い友達だ」と連れて回って、紹介して。子供の姿と強すぎるサイオン、孤立しても不思議ではなかったのに。
エラとブラウも、その中にいた。子供だった自分を心配してくれた二人。
(いつも、「散歩に行こう」って…)
船のあちこちを連れ回された、散歩の時間。運動不足は良くないから、と健康のために。子供のままで成長を止めた身体が、もう一度育ち始めるように。
「…前のぼく、散歩してたっけ…。ブラウたちと一緒に」
いろんなコースで歩いていたけど、メインの通路を必ず一度は通るんだよ。一番長いし、これが散歩のコースの基本、って。
「思い出したか? お前が散歩をしている時に、だ」
その横を走って通り過ぎて行くのが俺だった。色々な場所で。
「うん…。歩いていたら、ハーレイが走って来るんだよ」
後ろから来て追い越してったり、前の方から走って来たり。
ぼくたちはゆっくり歩いているのに、ハーレイはアッと言う間に通り過ぎちゃって…。
行っちゃった、って見送っていたら、また後ろから走って来るとか、走って戻って来るだとか。
体力づくりにと通路を走っていたハーレイ。「身体がなまっちまうしな?」と。
散歩している間にすれ違ったり、何度も追い越されたりするものだから。いつ出会っても、風のように走り去ってゆくから、ある日、ハーレイを捕まえて訊いた。
「ハーレイ、いつもどのくらい走っているの?」
ぼくたちの横を何度も通って行くけど、コースが短いわけじゃないよね?
走っているから、ぼくよりもずっと長い筈だよね。ハーレイがいつも走るコースは…?
「そうだな…。俺が走っている距離か…」
足の向くまま、気の向くままって感じだし…。これだけだ、と決めてるわけじゃないんだが…。
お前の散歩程度のコースだったら、三倍は軽く走っているな。
調子が良ければ、五倍って日もあるんだぞ。今日はいける、と思った時は。
「三倍も…?」
それに五倍も走る時があるの、歩くだけでも大変なのに…。そんなに長いコースだったら。
ぼく、そんなには走れないよ。散歩するだけで精一杯だよ。
「だろうな、お前は丈夫じゃないし…。それにチビだし」
無理をしない程度に、頑張って散歩するんだぞ。運動不足にならないように。
ちゃんと大きく育たないとな、しっかり身体を動かして。
長い間、あんな狭い檻で暮らしていた上、成長まで止めていたんだから。
「分かってるよ」
この船で子供はぼくだけなんだし、早く大きくならなくちゃ…。
ハーレイみたいに大きくなるのは無理だろうけど、ぼくだって育つ筈なんだもの。
アルタミラの檻で長く成長を止めていた分、早くみんなに追い付きたい。大人になりたい。
そう思ったから、伸ばそうとした散歩の距離。
成長するには運動なのだと分かっていたから、ハーレイに三倍と聞いた翌日、いきなりに。
「ブルー、散歩の時間は終わりだよ?」
まだ歩くのかい、此処で終わりにしておかないで?
あたしとエラは休憩だけどね、とブラウが訊くから、「ちょっとだけだよ」と笑顔で答えた。
「もう少し、一人で歩いてくる。早く大きくなりたいから」
ハーレイは、ぼくたちの三倍も走っているんだって。今日はまだ会っていないけど…。
そんなに走れるハーレイだから、きっとあんなに大きいんだよ。
だから、ぼくだって頑張らなくちゃ。走れない分、少しでも歩いた方がいいでしょ?
ぼくだけ子供でチビなんだもの、とブラウたちと別れて歩き始めた。
今日のコース、と自分で選んで、張り切って。
ハーレイは三倍と言っていたのだし、自分も三倍、歩いてみようと。
それだけ歩けば、きっと体力づくりになる筈。もっと健康な身体になれるし、背も伸びる筈。
今の散歩を続けてゆくより、遥かに効果があるだろうから。
一人きりで歩き始めた通路。メインの通路を真っ直ぐ進んで、其処から次のフロアへと。
ブラウたちとの散歩と違って一人なのだし、少し大人に近付いた気分。面倒を見てくれる大人がついていなくても大丈夫、と。
一人で歩ける、と始めた散歩。いつもの距離よりもっと長くと、三倍歩いて行かなくちゃ、と。
(二回目までは…)
普段と変わりなく歩いてゆけた。疲れもしないで、足がだるいとも思わないで。
三回目は少し疲れたけれども、ゴールしたら急に出て来た欲。これで三倍、と思ったら。
(調子のいい日は、五倍って言ってた…)
いつも三倍の距離を走ってゆくハーレイ。誰よりも頑丈な身体のハーレイ。
そのハーレイをお手本にしたら、きっと今より丈夫になれる。背だって早く伸びるだろう。
(ぼくだって、五倍…)
歩けそうだよ、と眺めた通路。三倍の距離を歩いたのだし、五倍までは残り二回だから。
きっと調子がいい日なんだ、と歩きたくなった五倍の距離。
今日はハーレイと全く出会わないけれど、それだけ歩いていれば会えそうな気もしたから。
(ハーレイが走って来たら、自慢しなくちゃ…)
頑張って三倍歩いたんだよ、とチビの自分の成長ぶりを。こんなに沢山歩けるんだから、と。
(凄いな、って褒めてくれるよ、きっと…)
だから残りも頑張らなくちゃ、と四回目を歩いて、どうしようかと悩んだ五回目のコース。
身体が重くて足も疲れているのだけれども、これを歩けば五倍になる。いつもの五倍。
(…ハーレイは五倍も走るんだから…)
ぼくは歩いているだけだから、と自分自身を励ました。走るより歩く方が楽、と。
歩ける筈だ、と足を前へ進めて、あと少しだけ、あと少しだけ、と頑張って歩き続けたコース。やっとの思いで辿り着いたゴール。
其処から自分の部屋まで歩いて、すっかり疲れ果ててしまった身体。足は重くて鉛のよう。息も切れるし、身体はだるくて重たいし…。
(ハーレイ、一度も会えなかった…)
食事の時には一緒だったけれど、散歩していた最中に。散歩の時には、よく出会うのに。通路を走るハーレイに。自分の三倍や五倍のコースを、軽々と走ってゆくハーレイに。
(会いたかったな…)
せっかく今日は頑張ったのに。会ったら自慢したかったのに。
「今で三倍だよ」とか、「五倍なんだよ」とか。誇らしげに告げて、「凄いな」と褒めて貰えていたなら、きっと身体も軽かったのに。心がグンと元気になって、それと一緒に。
けれど、ハーレイには会えないまま。
頑張る自分を見て貰えないまま、ゴールした上に、今は自分の部屋。終わってしまった五倍もの散歩。足も身体も重いし、だるい。
疲れちゃった、と座ったベッド。
座ったら、横になりたくなった。ちょっと休めば、楽になりそうな身体。
ベッドなら足をしっかり支えてくれるし、身体ごと受け止めてくれるから。シーツの海に沈んでいたなら、息切れもきっと治るから。
少しだけベッドで休んでいよう、と靴を脱いで身体を投げ出した。ふんわり沈んだ、気持ちいい海。ひやりとしたシーツが肌に心地良くて、そのまま瞼を閉じてしまって…。
「おい、ブルー?」
不意に上から聞こえて来た声。
「…ハーレイ…?」
どうしたの、と瞼を開けたら、暗かった部屋。とうに夜だと分かる、常夜灯だけが灯った部屋。船の外は漆黒の宇宙だけれども、昼と夜で変わる中の明るさ。夜になったことを示す照明。
それでもハーレイの姿は見えたし、覗き込まれていることも分かった。
「灯りも点けずにどうしたんだ、お前」
倒れてるのかと思ったら…。ベッドで昼寝か、そのまま夜になっちまったんだな。
「疲れちゃって、寝てた…」
ちょっとだけのつもりだったのに…。もう夜なんだ?
「いったい何をやったんだか…。疲れただなんて」
飯の時間だぞ、来ないから呼びに来てやったんだ。ほら、起きろ。
「うん、行くよ」
ごめんね、ぐっすり眠っちゃってて…。
ほんのちょっぴりだけのつもりで、夜になったのも知らなかったよ。
起き上がってベッドから下りようとしたら、グラリと揺れて回った天井。身体が傾いで、アッと言う間に倒れ込んだベッド。手をつく暇さえも無いまま、ドサリと。
「どうした、ブルー!?」
よろけたのか、とハーレイが慌てて戻って来た。出ようとしていた扉の方から。
「なんだか変…」
身体に力が入らないみたい…。重くて、だるくて…。
起きられないよ、と言っている間に、額に当てられた大きな手。冷たい、と首を竦めたら…。
「熱があるじゃないか…!」
かなり高いぞ、待ってろよ、ブルー!?
直ぐにヒルマンを呼んで来るから、そのまま寝てろ!
起きるんじゃないぞ、と飛び出して行ったハーレイが連れて戻ったヒルマン。熱を測られ、何をしたのか質問された。風邪などとは違うようだから、と。
「…散歩しただけ…。ちょっと頑張って…」
いつものコースの五倍ほど…。今日は調子が良さそうだから、って…。
「それは散歩と言わないよ、ブルー。…無理のし過ぎだ」
身体が疲れすぎたんだ。急に体力を使いすぎたから、身体が驚いてしまって熱が出ている。
ハーレイのように頑丈だったらともかく、元々、身体が弱いわけだし…。
散歩は、ほどほどにしておかないとね。
運動のし過ぎは、逆に身体を壊してしまう。これに懲りたら、無理はしないことだ。
当分は部屋で寝ていなさい、と処方された薬と、ハーレイが運んで来てくれた夕食のトレイ。
ベッドの上に起こして貰って、嫌いな薬と、食べられそうもない夕食をぼんやり見ていたら…。
「すまん、俺のせいだな」
お前が薬を飲む羽目になっちまったのも、飯を食えそうにないのも、全部。
…本当にすまん。
俺のせいだ、とハーレイが何度も繰り返すから。
「なんでハーレイが謝るの?」
熱が出たのは、ぼくが無理して歩いたからだよ。ヒルマンもそう言っていたでしょ?
「その散歩…。俺の真似をして歩いていたんだろうが」
いつものコースの五倍と言ったろ、その話は昨日お前にしたばかりなんだ。
俺はどれだけ走っているのか、お前が訊いて来たもんだから…。
調子が良ければ五倍だと答えて、頑張って散歩するように言った。運動しろとな。
お前、そのせいで歩くつもりになったんだろうが。いきなり、いつものコースの五倍も。
「そうだけど…」
ハーレイの話で思い付いたけれど、やろうと決めたのはぼくなんだよ?
途中でやめずに、頑張って最後まで歩いてたのも。
「その時間に走りに行けば良かった。…今日に限って、俺は走らなかったんだ」
料理の試作に夢中になってて、たまにはいいかと…。走らない日もあるからな。
明日に纏めて走ればいい、と料理の方を続けちまった。
そいつも含めて俺のせいなんだ、お前が倒れてしまったのは。
歩いているお前を見付けたら、きっと止めていたんだ、とハーレイが強く噛んだ唇。
こうなったのは、走りに行かなかった俺の責任だ、と。
「…料理なんか放って走れば良かった。そうすりゃ、お前を止められたんだ」
五倍も歩いてしまうより前に。…三倍くらいは歩いちまった後だったかもしれないが。
「なんで分かるの、止めるだなんて」
ぼくがしてるの、ただの散歩かもしれないよ?
…ハーレイに会ったら自慢しなくちゃ、と思ってたけど、その前に分かるわけないじゃない。
いつもより沢山歩いているのか、いつもの散歩か。
「分かるさ、そのくらいは簡単にな」
お前、一人じゃ散歩しないだろ。いつだって、エラやブラウが一緒だ。
あいつらがいれば、普段通りだと分かる。いないんだったら、何かが変だ。
俺は止まって、お前の話を聞くべきだろうが。…歩いてるんだ、と自慢話をされるにしても。
「そっか…。そうだね、変だったかもね…」
ぼくが一人で散歩してたら、それだけで。
自慢しなくても、ハーレイに色々訊かれそう…。それに叱られてしまいそうだよ。
「叱りはしないが…。俺のせいで始めたことなんだから」
しかし、止めなきゃならないことは確かだな。お前の身体は弱いんだから。
ヒルマンもお前に話していたろう、無理のし過ぎは良くないと。
運動は身体にいいことなんだが、やり過ぎちまうと、逆に身体を壊すんだ。
お前には軽い散歩が似合いで、俺の真似はただの無茶でしかない。それをお前に伝え忘れた。
どれだけ走るの、と訊かれた時にだ、ちゃんと教えておけば良かった…。
本当に俺のせいなんだ、と悔やみながら看病してくれたハーレイ。喉を通りそうな食事を口まで運んでくれて、苦手だった薬も「嫌いでも飲めよ」と飲ませてくれて。
幸い、熱は翌日の朝には微熱に下がって、数日ですっかり治ったけれど…。
「前のお前もやらかしたってな、運動不足は良くないと言って」
俺に向かって言ってはいないが、勝手に自分で思い込んじまった結果がアレだ。
同じことを二回もやらなくていい。運動のし過ぎは身体に毒だ。
ただの散歩でも過ぎれば毒だし、わざわざ俺と散歩をしてまで無理をすることはないってな。
お前は運動不足じゃない。さっきも言った通りに足りてる、充分にな。
「でも、散歩…。ハーレイと一緒に歩きたいのに…!」
きっとデートの気分になれるよ、その辺を散歩するだけでも…!
ちょっと離れた公園までとか、一時間もあれば色々な所へ行けるんだから…!
「分かった、分かった。…俺と一緒に散歩なんだな」
いずれ、お前が無理をしないよう、様子を見ながら連れてってやる。
コースはもちろん、時間の配分なんかも考えてな。此処で休憩を五分だとか。
「ホント?」
連れてってくれるの、ぼくを散歩に?
色々とコースを考えてくれて、休憩時間も挟んでくれて…?
「本当だ。…ただし、お前と結婚したらな」
散歩でデートと洒落込もうじゃないか、お洒落なカフェに寄ったりもして。
今よりもずっと楽しい散歩が出来るってもんだ、手だって繋いで歩けるしな?
「ハーレイのケチ…!」
散歩、今でも行けるのに…!
ハーレイのことを「恋人です」って言えなくっても、この辺を歩きに行けるのに…!
喫茶店とかには入れなくても、ぼくは缶ジュースで充分なのに…!
それでいいから連れて行ってよ、と強請っても「駄目だ」の一点張り。
「運動のし過ぎは良くないからな」と、「前のお前も散歩で寝込んでしまったろうが」と。
どう頑張っても、許して貰えない散歩。
運動は充分に足りているから、弱い身体には無理をしないのが一番だから。
(…体力づくりも駄目なんて…)
これならいけると思ったのに、と悔しいけれども、いつかは連れて行って貰える散歩。
結婚したなら、もう「駄目だ」とは言われずに。
散歩がしたい気分になったら、ハーレイが色々と考えてくれて。
その時はハーレイと二人で歩こう、無理をしないよう決めて貰ったコースや時間で。
「今日は歩いてデートなんだね」と、カフェで休憩したりしながら。
歩く時には、二人、しっかり手を繋ぎ合って。
二人ならきっと、幸せに歩いてゆけるから。
普通の散歩の五倍の距離でも、きっと少しも疲れもしないで、幸せも元気も一杯だから…。
散歩と運動・了
※運動不足は良くないから、とハーレイと散歩に行こうとしたブルー。デートは無理でも、と。
断られた上に、前の生でやった無茶の話も出て来る始末。散歩は、育ってからのお楽しみ。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ふうん…?)
綺麗、とブルーが眺めた新聞の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
真っ白なロングドレスの女性と、黒の燕尾服の男性たち。女性はブーケを持っているから…。
(結婚式…?)
様々なデザインの純白のドレス。袖なしのドレスばかりだけれども、ウェディングドレスにしか見えないデザイン。肘まである白い手袋だって。
それに男性は燕尾服だし、結婚式だと思ったのに。ずいぶん大勢のカップルが揃ったものだと、目を丸くして記事を読み始めたのに…。
(オーパンバル…)
社交界デビューのためのイベントらしい。地球が滅びるよりも前の時代に、オーストリアという国があった辺りの地域。其処で二月のカーニバルの頃に開催される舞踏会。
今も、地球が滅びる前にも、オーストリアでは最大の行事だと書かれているけれど。
(SD体制の時代は、無かったんだ…)
消えてしまっていたオーパンバル。そもそも地球が無かったのだし、オーストリアだって宇宙の何処にも無かった時代。オーパンバルがあるわけがない。前の自分が生きた時代には。
(これも復活して来たヤツで…)
死の星だった地球が蘇った後、あちこちの地域で特色を出そうと復活させた色々なもの。これもその一つで、今は立派に地域に定着している行事。
二月になったら、オーパンバル。
純白のロングドレスを纏って、ブーケを手にした女性たち。頭にはお揃いの小さな冠。燕尾服の男性にリードされて。
広いホールに入場したら、始まるワルツ。それは軽やかにステップを踏んで。
オーストリアでは、とても人気のイベントらしい。
人間が地球しか知らなかった時代、「会議は踊る」と言われたウィーン会議が始まりだという。由緒ある行事、オーパンバル。
(一度、消えちゃっているんだけどね?)
いくら由緒があったとしたって、地球と一緒に。人間が地球を離れた時に。
ついでに社交界も今の時代は無い筈だけど、と記事を読み進めたら。王様も貴族もいない筈、と首を捻って読んでいったら…。
(とっくの昔に…)
無くなっていた社交界。地球が滅びる前の時代に。SD体制が始まるよりも、遥かな昔に。
オーパンバルは、イベントと化していたらしい。地球のあちこちから見物の人が訪れるような。
(特訓なわけ?)
舞踏会の最初に踊り始めるのが、燕尾服の男性と白いドレスの女性たち。
社交界があった頃には、社交界にデビューする女性たちが踊っていたのだけれど。その社交界が無くなった後は、これに出るためにダンスの特訓を積んだほど。
最大の行事のオーパンバルで、白いドレスで踊るには。
黒い燕尾服を着て、舞踏会の幕開けを飾るデビュタントの女性をリードするには。
(オーディションなんだ…)
今も昔も、オーディションで選ばれるデビュタントの女性と、お相手の男性。カップルでダンス教室に通って、せっせとダンスの腕を磨いて。
選りすぐりのカップルが踊るわけだから、綺麗に揃ったステップのダンス。
彼らの華やかなダンスが済んだら、他の客たちも踊り始める。見物していた場所を離れて、広いホールで。純粋にダンスを楽しむために。
オーパンバルに踊りにやって来る人は、いいけれど。デビュタントと呼ばれる白いドレスを着た女性たちと、お相手の男性たちのダンスを眺める人はいいのだけれど。
見物される男性と女性、オーディションで選ばれるカップルたち。ダンス教室で特訓を積んで、二人で何度も練習をして…。
(そっちは、とっても大変そう…)
踊りを楽しむどころではなくて、練習だから。それも特訓、ダンス教室に通ってまで。
けれど人気は高いという。オーパンバルは歴史が長くて、由緒もたっぷり。
その幕開けを飾ってみたい、と地球のあちこちからオーディションに挑むカップルが多数。地球だけではなくて他の星からも、受けに来る人がいるくらい。
よほどダンスが上手くなければ、きっと合格しないだろう。大勢の人が受けるのでは。
(ぼくには関係なさそうだけどね?)
お相手の男性はハーレイだけれど、前の生からのカップルだけれど。
白いドレスは結婚式の時に着るだけ、その一度だけ。それにダンスも踊らない。結婚式の時も、他の場所でも。ワルツなんかは、きっと一生。
踊りたいとも思わないから。オーパンバルを目指すつもりも無いのだから。
おやつを食べ終えて部屋に帰って、勉強机の前に座ったら、思い出したオーパンバルの記事。
あれからケーキを食べたりしている間に、すっかり忘れてしまっていたのに。
舞踏会の幕開けを飾るカップル、結婚式かと思ったくらいに綺麗な写真だったけれども…。
(カップルで頑張るわけだよね?)
オーディションで選ばれるのは、ダンスが上手なカップルだから。男性と女性を別々に選んで、組み合わせるわけではないのだから。
(あれに出たいと思ったら…)
恋人と一緒に踊りたいなら、カップルで頑張るしかないダンス。もっと上手くと、今よりもっと上手になろうと。誰にも負けない腕前になって、オーディションを突破しなければ、と。
他の星からも受けに来るカップルがあるというほどのオーディション。この地球の上の、色々な地域からだって。
特訓を積んだカップルばかりが挑むのだろうし、其処で選ばれるほどの腕前になれるレッスン。それを二人で乗り切ってゆくには、愛がなければ…。
(無理だよね?)
きっと物凄い猛特訓。ダンス教室の厳しい指導に、自主練習にとダンス漬けの日々。
楽しくデートに出掛ける代わりにダンス教室、来る日も来る日も二人でステップ。もっと上手に踊らなければと、もっと上手くと。
(喫茶店に行くのも、食事に行くのも…)
きっとダンスの練習のついで。お茶を飲んでから教室に行くとか、教室の帰りに食事するとか。メインはダンスで、お茶や食事の方がオマケになるデート。
二人一緒にオーパンバルで踊るなら。オーディションを突破したいのなら。
ハードなのだろう、ダンスの特訓。デートに行ってもダンスの話題で、きっと何処かで練習も。此処で少し、と二人で踊る。上手にステップを踏むために。
(こんなの嫌だ、と思っても…)
投げ出せはしないダンスの練習。相手は頑張りたいのだから。もっと練習したいのだから。
男性と女性、どちらが「嫌だ」と投げ出したって、喧嘩になってしまうだろう。下手をしたならカップル解消、「もっとダンスが上手な人を見付けたら?」と。
容易に想像出来る結末、片方がダンスを投げ出した時。ダンスの練習ばかりは嫌だと、猛特訓の日々はもう沢山だ、と。
けれど、喧嘩別れになってしまわないで、見事にデビューを果たすカップル。黒い燕尾服と白いドレスで、オーパンバルの幕開けを飾って。
(将来は絶対、結婚だよ…)
あの写真で見たカップルたちは、そういうカップルばかりだろう。二人一緒に越えたハードル、手を取り合って踊り続けて。ダンス教室でも、デートに出掛けた先でも、きっと。
頑張り続けて、オーディションを突破した仲のいい二人。
そんな二人が結婚しない筈がない。二人一緒に頑張った末に、晴れ舞台で踊ったのだから。
記事には書かれていなかったけれど、そうなのだろうと思うカップル。
オーパンバルで踊った後には、いつか二人で結婚式。女性は白いウェディングドレスを纏って、ブーケを持って。男性もお洒落な服を着込んで。
大勢の人たちと踊る代わりに、自分たちだけが主役になって。
きっとそうだ、と思い浮かべたハッピーエンド。あの写真で見たカップルの数だけ、待っているだろう結婚式。揃ってワルツを踊るのではなくて、思い思いの日に、それぞれの場所で。
高いハードルを越えた二人は、それだけの絆があるのだから。
ダンスの練習の日々が辛くても、どちらも投げ出さなかったのだから。
(うんと頑張って、ダンスの練習…)
才能のあるカップルばかりとは限らないのに。二人揃って最初からダンスが上手いのだったら、ダンス教室は要らないと思う。特訓しなくても踊れるのだから。
(どっちかが下手か、二人とも下手か…)
今のままではオーディションには受からない、と思うから通うダンス教室。もっと上手く、と。
そうやって教室に通っていたって、上達の速度は揃いはしない。片方の腕前がグンと伸びても、もう片方は上手くいかないだとか。
(それでも二人で頑張るんだよ…)
二人一緒にオーパンバルで踊りたいから。選ばれてステップを踏みたいから。
挫けそうになっても、負けないで。もっと上手にと、頑張ればきっと出来る筈だと。二人一緒に選ばれるためには、お互いが上手くならなければ、と。
(もっと上手な人と組んだら、選ばれそうだ、って思っても…)
そんな考えは捨てて頑張る。恋人のために、懸命に。自分のことだけを考えないで。
自分の方が上手だったら、相手も上手くなれるようにと積む練習。自分が下手なら、相手の足を引っ張らないよう、猛特訓。もっと上手くと、誰よりも上手く踊れるようにと。
頑張るのだろうカップルたち。オーパンバルで踊った後には、きっと結婚式になる。二人一緒に越えたハードル、しっかりと結ばれた絆。
愛が深いから頑張れたのか、頑張ったから愛が深まったのか。ダンスの練習ばかりの日々でも、ろくにデートも出来ないほどでも、頑張った二人。
(どっち…?)
愛の深さで頑張れたのか、頑張った結果が深い愛なのか。
どちらもありそう、という気がする。深い愛なら、より深く。付き合い始めたばかりの恋でも、二人で踊る間に、深く。この人とずっと一緒にいたい、と。
きっと両方あるんだよね、と考えた恋。踊る間に深くなった恋も、最初から深く愛していたから頑張れたという恋人たちも。
オーパンバルで踊るカップルの中には、きっと幾つもの恋模様。喧嘩になったカップルだって。もう嫌だ、と片方が練習を投げ出そうとして。それでも引き止められて踊って、深まった恋。
やっぱりこの人しかいない、と。
辛くても練習を続けてゆこうと、この人と踊りたいのだから、と。
色々だよね、と思う恋。カップルの数だけ、恋も色々。ハッピーエンドのカップルたちでも。
きっと結婚するのだろうと分かる、高いハードルを二人で越えたカップルでも。
(…前のぼくだと、どうだったのかな?)
ハーレイと二人で頑張ったから恋に落ちたか、恋していたから頑張れたのか。
今の平和な時代とは違う、前の自分たちが生きていた時代。ミュウだというだけで虐げられて、生きる権利さえも無かった時代。
そんな時代を二人で生きた。ソルジャーとキャプテン、そういう立場で。
船を、仲間を守るソルジャー、船の舵を握っていたキャプテン。
いつも二人で頑張り続けた。ミュウという種族が滅びないよう、船が沈んでしまわないよう。
そうして二人で頑張ったから、ハーレイと恋に落ちたのか。
それとも、ハーレイに恋していたから、前の自分は頑張れたのか。
(えーっと…?)
どうだったろう、と思うけれども、きっと最初から特別な二人。
ダンスは踊っていないのだけれど、ダンス教室に通って猛特訓もしていないけれども…。
(出会った時から、命懸けだよ…)
メギドの炎で燃えるアルタミラの地獄で出会った。同じシェルターに閉じ込められて。
前の自分が壊したシェルター、自分でも信じられない力で。
何が起こったのかも分からないまま、呆然としていた前の自分。ハーレイの声が聞こえるまで。「お前、凄いな」と声を掛けられるまで。
(ハーレイが、他にも仲間がいるって…)
同じようにシェルターに閉じ込められた仲間、それを助けに二人で走った。炎を、割れる地面を避けて。崩れ落ちて来る瓦礫を掻い潜って。
(自分が逃げるだけだったら…)
冒さなくても良かった危険。他の仲間を助けに行かずに、真っ直ぐに船へ向かっていたら。
なのに自分も前のハーレイも、二人とも逃げはしなかった。最後の一人を助け出すまで、他にはいないと確認するまで。
これで最後だ、と開けたシェルター。閉じ込められていた仲間を逃がして、それから二人で船に向かった。空まで赤く燃えていた地獄、深い亀裂が走る地面を懸命に駆けて。
一つ間違えたら、無かった命。炎の渦に巻き込まれても、裂けた地面に飲み込まれても。
(ダンスするより、凄く頑張ったんだけど…!)
それで恋してしまったろうか、と考えていたら聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、ハーレイ…。前のぼくたち、ダンスよりもうんと頑張ったよね?」
「はあ?」
何の話だ、と見開かれたハーレイの鳶色の瞳。鳩が豆鉄砲でも食らったように。
(いけない…!)
ハーレイに通じるわけがない。ずっと考え続けていたから、話を省略し過ぎていた。大失敗、とコツンと叩いた自分の額。「ぼくって馬鹿だ」と。きちんと説明しなければ。
「えっとね…。オーパンバルっていうのは知ってる?」
オーストリアのイベントらしいんだけど…。昔は社交界デビューの舞台だった、って…。
「前に何かで見掛けたな。若いカップルが踊るヤツだろ、一番最初に」
「そう、それ…! 今日の新聞に記事が載ってて、最初に踊るカップルの人たち…」
オーディションで選ばれるんだって。それもカップルで。
だから二人で合格するには、うんと練習しなくっちゃ…。ダンス教室に通って特訓。
地球だけじゃなくて、他の星からもオーディションを受けにやって来るから、とても大変。
デートの代わりに毎日ダンスで、デートに行ってもダンスだよ、きっと。
こんなの嫌だ、って投げ出しちゃったら大喧嘩になって、カップル解消になっちゃいそう…。
「如何にもありそうな話だな。どっちが嫌になっても駄目、と」
合格するぞ、と二人でダンスを頑張るわけか。そいつは仲良くなれそうだ、うん。
「でしょ? 元から仲が良かった人なら、もっと仲良くなるんだよ」
二人一緒に頑張るんだもの、どんどん絆が深くなりそう。…喧嘩別れをしなかったらね。
ダンスの練習を頑張り続けて、オーディションを突破したカップルたち。オーパンバルで踊った二人は、きっと結婚すると思う、とハーレイに話したら「そうだろうな」と返った言葉。
それだけの絆が出来るだろうと、二人で頑張ったんだから、と。
「二人で楽しく遊ぶ代わりに、来る日も来る日も練習だしな?」
もうやめた、と放り出したら、いくらでも遊びに行けるのに…。それをしないで練習なんだ。
戦友と言ってもいいくらいだよな、戦場じゃなくて舞踏会だが。
「ハーレイもそう思うんだ…。あれに出られたカップルは結婚するよね、きっと」
それでね、ダンスを頑張ったカップルだって結婚するんだから…。
前のぼくたちも、それと似たようなものだったかな、って考えちゃって…。
アルタミラで出会って、二人でシェルターを開けて回っていたじゃない。逃げ出さないで、他の仲間を助けようとして。火とか地震とか、とても危ない場所だったのに。
命懸けで二人で頑張ってたから、ハーレイに恋をしちゃったかな、って…。
ダンスの練習なんかよりもずっと、頑張ってたでしょ、ぼくとハーレイ。
「アルタミラか…。確かに二人で頑張っちゃいたが…」
俺はお前に一目惚れしたつもりなんだが?
二人一緒に頑張ったから、というヤツが無くても、お前に出会った瞬間に恋をしてたってな。
もっとも、恋だと気付くまでには、とんでもない時間がかかったわけだが。
「ぼくも…。ハーレイに会った時から、ずっと特別だと思ってたから…」
二人で一緒に頑張らなくても、ぼくたち、ちゃんと恋してた?
頑張ったのと恋は、何も関係無かったのかな…?
「いや、恋をしていたから頑張れたんだと俺は思うぞ」
あんな地獄でも、お前と一緒だったから、俺は頑張れた。もう逃げよう、と投げ出さないで。
時間が経てば経ってゆくほど、どんどん危険になっていくのに…。
そいつに気付いていた筈なのに、俺もお前も逃げ出さなかった。最後の仲間を助け出すまで。
お前とでなけりゃ、俺は逃げたかもしれないな。これ以上はもう危ないから、と。
助け出せなかった仲間がいたかもしれん、とハーレイに言われて気が付いた。前の自分も、同じだったかもしれないと。一緒にいたのがハーレイだったから、最後まで逃げなかったのかも、と。
「…前のぼくも、途中で逃げていたかも…。ハーレイと一緒じゃなかったら」
危ない所へ走って行かずに、途中の何処かで諦めて。…もう充分に頑張ったよね、って。
だったら、ダンスもそうなのかな?
オーパンバルに出ようと思って、ダンスの練習をしてるカップル。
恋しているから、練習、最後まで頑張れるのかな?
もうやめた、って投げ出したりせずに、オーディションを受ける日が来るまで、ずっと。
「多分な。オーディションの日も、朝から二人で練習じゃないか?」
最後の最後まで諦めちゃいかん、と早起きをして。二人一緒に何処かで踊って。
それだけ頑張ったカップルだったら、選ばれなくても、恋はそのまま続くんじゃないか?
「お前のせいで選ばれなかった」と喧嘩になりはしないと思うぞ、片方が失敗したとしたって。
ずっと二人で頑張ったんだし、俺なら「失敗のことは気にするな」と言ってやるだろう。
相手が「ごめん」と泣いていたとしても、「充分、頑張ったじゃないか」とな。
「前のぼくたちも、そうだったよね…」
ハーレイが操舵の練習をする時、酷い目に遭わせちゃったけど…。
一度も喧嘩にならなかったよね、ぼく、怒鳴られても仕方ないようなことをしてたのに…。
最悪なコースばかりを選んで、ハーレイを先導してたんだから。
「お前の気持ちは分かっていたしな」
俺のためを思ってやってるんだ、ということは。
怒るわけがないだろ、死ぬような思いをさせられたって。ゼルたちに苦情を言われてたって。
第一、お前に惚れていたんだ。喧嘩しようとも思わなかったな、あの時の俺は。
そう簡単に恋は壊れやしないさ、とハーレイが微笑む。本物の恋をしていたら、と。
「俺たちの場合は、恋だと気付いていなかったが…」
それでも壊れやしなかった。お前が俺をしごいた程度じゃ。
ダンスの練習を頑張っているカップルだって、本物の恋をしていればきっと大丈夫なんだ。
どんなに辛い練習の日々でも、二人ならな。
「そうだよね…。きっと頑張れるよね」
今は下手でも、上手くなろう、って。デートの代わりにダンス教室でも、毎日練習ばかりでも。
二人で練習出来るだけでも、幸せな気分になれるのかも…。踊る時は二人一緒だから。
だけど、オーパンバル…。前のぼくたちの時代には無かったんだって。
今はとっても有名だけれど、SD体制が始まる前にも、有名だったらしいんだけど…。
「そりゃ無いだろうな、あの頃は地球も死の星だったし」
オーストリアも何も無かった時代だ、オーパンバルがあったわけがない。
「ダンスの方は、あったのかな?」
オーパンバルはワルツで始まるんだって。選ばれたカップルが揃ってワルツ。
「ワルツにダンスか…。俺はシャングリラじゃ踊っていないぞ」
ダンスってヤツとは無縁だったな、今の俺ならガキだった頃に踊らされたが…。
体育の時間に少しやるしな、ワルツは習っちゃいないんだが。
「ぼくも、シャングリラでは踊っていないよ」
今のぼくなら、ちょっぴり習っているんだけれど…。下の学校の体育の授業で。
でも、シャングリラの頃には一度も…。
舞踏会用の部屋だって一つも無かったものね、シャングリラには。
「やろうと思えば、天体の間とかで出来ないこともなかったろうが…」
あそこだったら、公園よりかは舞踏会向きだ。広いし、床もしっかりしてたし。
だがなあ…。
生憎とそんな優雅なイベントは無い船だったな、と笑うハーレイ。
オーパンバルでワルツどころか、そもそもドレスも燕尾服も無かったんだから、と。
「結婚式を挙げるカップルだって制服だったぞ、ウェディングドレスが無かったからな」
舞踏会のために白いドレスを作るくらいなら、そっちを先に作らんと…。燕尾服だって。
「ホントだね…」
ぼくね、最初に写真を見た時、結婚式だと思ったんだよ。真っ白なドレスだったから。
ずいぶん沢山のカップルだよね、って記事を読んだらオーパンバル…。女の人はブーケも持っていたんだけれど…。
シャングリラには無かったっけね、ウェディングドレス。…みんな制服だったから。
あの時代は、きっとダンスも無いよね。誰も踊っていなかったもの。
「そういうわけでもなかったようだぞ」
シャングリラで踊っていたヤツがいたな、と知っているわけじゃないんだが…。
「えっ?」
それじゃ誰なの、誰がダンスを踊っていたの?
シャングリラで踊っていた人を知らないんなら、誰が踊るの…?
「あの船でないなら、人類だろうが」
人類の世界にはあったんだ。ダンスも、それに舞踏会も。…前の俺は知らなかったがな。
ヒルマンもエラも話しちゃいないし、あの二人も知らなかったんじゃないか?
前の俺たちとは縁の無い世界で、調べてみたって国家機密ということもあるし。
「国家機密って…。ダンスなのに?」
どうしてダンスが国家機密なの、暗号入りの踊りだったとか…?
舞踏会で踊るダンスの種類で、何かコッソリ伝えてたとか…。
ワルツの他にもダンスの種類は色々ある、と今の自分は知っているから。同じワルツでも、曲が幾つもあることも知っているものだから。
国家機密と聞いた途端に、頭に浮かんだものは暗号。ダンスの種類や、曲名で作れそうなもの。
「暗号だったの、前のぼくたちの頃のダンスは?」
この曲が流れたら、こういう意味、って。…このダンスだったら、こうだとか。
「お前、発想が豊かだな…。俺は思いもしなかったが」
あの時代にダンスがあったってことを思い出しても、そいつを知った時にもな。暗号だなんて。
ダンスと言ったら、ただ踊るだけだ。
パルテノンのお偉方とかが踊っていたんだ、前の俺たちが生きてた頃は。
ずっと前に読んだ本にあったぞ、読んだのは今の俺なんだがな。
パルテノンは最高機関だったし、内情は極秘扱いということもある。国家機密で。
どういう風に勤務してるか、元老たちの仕事は何だったのか。
あの連中は、パルテノン専用の食器で晩餐会を開いてたんだぞ。食器の話はしたろうが。
そんな世界があったわけだし、舞踏会の方もありそうな気がしてこないか?
「…あったのかもね…。舞踏会だって…」
って、本当に踊っていたの?
ハーレイ、本で読んだんだって言ったよね?
前のぼくたちが知らなかっただけで、人類の世界には舞踏会がちゃんとあったわけ…?
オーパンバルは無かった時代。それは新聞の記事で分かったけれども、舞踏会。
前の自分が生きた時代に、舞踏会があったとは初耳だった。
シャングリラにはダンスも無かったのに。…白いシャングリラでは、誰も踊らなかったのに。
「…舞踏会なんか、何処でやってたの…?」
それにダンスは何処で教えるの、ジョミーは習っていなかったよ?
前のぼく、ずっと見ていたけれども、学校でダンスの授業なんかは一度も無くて…。
もしかして、見落としちゃってたのかな?
「違うな、お前の記憶が正しい」
あの時代には、義務教育では教えちゃいない。今の俺が読んだ本にも、そう書いてあった。
ダンスをしたのは、偉い連中だけなんだ。
パルテノンに入れるようなエリートだけだな、いわゆる特権階級ってトコか。
出世して偉くなった時には、舞踏会に出席できるってな。
その時に備えて、ダンスを教える教育ステーションなんかもあったんじゃないか?
エリートの心得事なんだから、と仰々しく。
…そうだ、あいつなら踊れたかもな。
俺の嫌いなキース・アニアン、あの野郎なら。
国家主席にまでなったんだから、とハーレイが忌々しそうに顰める眉。
キースが国家主席に就任したのは、首都惑星ノアを捨ててからだけれど、その前に元老になっているから。
「元老と言ったらパルテノンだしな、もちろん舞踏会の世界だ」
あいつが行ってたステーションとは、まるっきり違う世界から来たヤツばかりだが…。
同じエリートでも種類が違って、軍人じゃなかったわけなんだが。
其処へ入れと言われた以上は、踊った可能性もある。…舞踏会に出席させられたらな。
「舞踏会って…。キースがダンス…?」
「招待されたら断れないぞ?」
いくら似合わないと思っていたって、上からの命令は絶対だ。出掛けて行くしか無いだろうが。
そして如何にもありそうな話だ。キースは嫌われていたらしいからな、パルテノンでは。
畑違いの軍人なんだし、生え抜きのヤツらには煙たいだけだ。
困らせてやろうと開きそうだぞ、舞踏会を。皆でワルツを踊ったりして。
「ワルツって…。そんなの踊れたわけ?」
マザー・イライザが教えていたってことはないよね、まだ水槽にいた頃に…?
教えておいても、練習しないと知識だけでは役に立ちそうもないし…。
「そういう教育はしなかったろうな、マザー・イライザは」
軍人にしようと育ててたんだし、E-1077も軍人向けだ。メンバーズにも二種類ってな。
キースみたいな軍人になるか、パルテノンに入って元老になるか、その二つだ。
だからキースは、ダンスなんかは習っちゃいない筈なんだが…。舞踏会向きじゃないんだが…。
必要となったら練習するだろ、軍人なんだし飲み込みは早い。
「えーっ!?」
それじゃホントに、キースはワルツを踊ってたわけ…?
舞踏会に出たかどうかはともかく、キースは負けず嫌いな人間だったし…。
パルテノン入りをしちゃったんなら、ワルツ、意地でも覚えていそう…。
招待されてから慌てるよりも、先に自分で覚えてそうだよ。
キースはそういう人間だった、と今の自分にも確信できること。必ず先手を打つ人間。置かれた立場の遥か先を読んで、必要な手を打っておこうとするタイプ。
ならば、ワルツも覚えただろう。パルテノンの元老たちが舞踏会を開く人種なら。いつか自分も招かれる可能性があるのなら。
(ワルツを踊るキースって…)
全く想像出来ないけれども、練習相手も想像出来ない。舞踏会なら、キースが踊る相手は女性。
けれど、キースが女性を相手に、ワルツの練習をするのかどうか。
「えっと…。キースがワルツを練習するなら、相手の人がいないと駄目だけど…」
誰と練習したのかな、キース…?
部下に女の人、一人だけ混じっていたらしいけど…。その人と練習してたと思う?
ひょっとしたら、マツカだったのかな?
部下だった人を連れて来るより、マツカの方が使いやすいから。
「その線は濃いな。俺もマツカだという気がするぞ」
顎で使っていたらしいからな、キースの好きに出来るってもんだ。
オーパンバルのための特訓じゃないが、空いた時間に「来い」と呼んではワルツの練習。
マツカがステップを踏み間違えたら、「馬鹿野郎!」と怒鳴り付けてな。
「…練習してるトコ、見てみたいかも…」
ちょっとでいいから、どんな感じか。キースがワルツを踊っているのを。
「俺もだ、キースは嫌いだがな」
嫌いだからこそ、笑いと話の種ってヤツだ。きっと最初は下手なんだから。
どんなに軍人としての腕が凄くても、それとワルツは別だしな?
柔道と水泳が全く別なのと同じ理屈で、いきなりワルツを踊れと言われても身体が動かん。
思うようにステップが踏めない間に、是非とも見せて貰いたいもんだ。
あの野郎が「くそっ!」と舌打ちするのを、「上手くいかん」と仏頂面になる所をな。
最初から上手く踊るのは無理だ、というハーレイの意見は正しいと思う。銃を撃つのとは、使う筋肉がまるで違うだろうから。色々な格闘技にしても。
(キースがワルツを覚えるんなら、猛特訓…)
新聞で読んだ、オーパンバルを目指すカップルのように。もっと上手くと、練習を積んで。
女性の部下を使うよりかは、マツカを相手に練習をしていそうだけれど…。
「キースのワルツ…。マツカと一緒に練習したって、きっと恋にはならないよね?」
どんなに二人で頑張ってみても、上手く踊れるようになっても。
「当然だろうが、あいつはそういうヤツじゃないしな」
前のお前を撃つようなヤツだ、ミュウだったマツカの扱いだって酷かったろう。
練習の時に失敗したなら、自分のミスでもマツカのせいだな。マツカがミスをしちまった時は、怒鳴るだけでは済まんぞ、きっと。殴るとか、平手打ちだとか…。
そんなやり方で練習していて、どうやれば恋になるって言うんだ。有り得んな。
その上、あいつは軍人としても一流なんだぞ、鍛えた身体はダテじゃない。
運動神経も凄いわけだし、サッサと覚えちまうから…。
努力するも何も、ほんの少しだけ無駄に時間を使わされた、と考えて終わりなんじゃないか?
「…そうなんだろうね…」
完璧なメンバーズ・エリートだから…。きっと覚えるのも早いよね、ワルツ。
でも、キース、本当にワルツを踊ったのかな?
「さてなあ…?」
記録を調べりゃ、残っているかもしれないな。…あいつのパルテノン時代。
誰かが舞踏会に招待したとか、確かに出席していただとか。
だが…。
俺は調べてやらないぞ、とハーレイは今も、キース嫌いが治らないけれど。
調べてくれる気も無さそうだけれど、いつか結婚した後に思い出したら、調べてみようか。遠い昔に、キースがワルツを踊っていたか。舞踏会に招待されたのか。
「ねえ、ハーレイ。…もしもキースが、ワルツを踊っていたんなら…」
ぼくもワルツを踊ってみたいよ、ハーレイと。
オーパンバルに出たいとは思わないけど、前のぼくたちが生きた時代にもワルツなんだし…。
前のぼくたちが知らなかっただけで、踊っていた人がいたんだから。
「俺とワルツを踊りたいってか?」
背丈が違い過ぎるぞ、おい。
新聞で写真を見たんだろうが。身長の差がデカすぎるカップル、写っていたか?
「うーん…。そう言えば、そんなカップル、いなかったかも…」
前のぼくとハーレイみたいに、うんと背が違うカップルは。
あれは揃えたわけじゃなくって、踊りにくいから、そういうカップルがいなかっただけ…?
「そういうことだが?」
上手く踊れやしないからなあ、オーディションを突破するのは無理だ。
当然、俺とお前がワルツを踊ろうとしても、お前が俺の足を踏むどころじゃなくて…。
派手に転ぶか、俺にぶつかるか…、とハーレイが浮かべる苦笑い。
「華麗なステップは踏めそうにないな」と。
チビの自分が育ったとしても、身長の差は今の半分ほどにしか縮まない。前の自分と同じ背丈に育っても。
身長の差が大きすぎるから、難しいかもしれない、ハーレイとワルツを踊ること。
けれど、転びながらでも踊れるのなら、少し踊ってみたい気がする。
ハーレイとなら、きっと息が合う筈だから。
前の生からの恋の続きを、二人で生きてゆくのだから。
どんなに沢山練習を積んだオーパンバルのカップルよりも、しっかりと結ばれている絆。
息はピッタリ合うだろうから、いつか二人で踊ってみたい。
前の自分たちは知らなかったワルツを、青い地球の上で。
転びながらでも、きっと素敵な時間。
ハーレイのリードでくるりと回って、転びそうでも、下手くそでも…。
恋人のワルツ・了
※復活している昔のイベント、オーパンバル。其処で踊るために特訓する間に、強くなる絆。
ブルーとハーレイも頑張れそうなワルツですけど、時の彼方で、キースも踊っていたのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…?)
席は幾つも空いているのに、と眺めたブルー。なんだか変、と。
学校の帰りに乗り込んだ路線バス。学校の側のバス停から。いつものバスで、混み合う時間とは違うのに。今日も座れる、と開いた扉から乗ったというのに、中で立っている若いカップル。
立っている乗客はその二人だけ。吊り革を握って、バスの真ん中辺り。
(…ぼく、座ってもいいんだよね?)
他にも席は空いているのだし、元気そうな若いカップルだから。
松葉杖を支えにしている人とか、赤ちゃんを抱いた母親などではないのだから。
大丈夫だよね、と空いた席の一つにストンと座った。お気に入りの一人掛けの席。通学鞄を膝に乗っけて、抱え直す間も気になること。
どうして二人は席に座ろうとしないのだろう?
座る場所なら幾つもあるよ、と車内をキョロキョロ見回したけれど…。
(そっか…!)
バスが走り出したら気が付いた。ほんの少し、車体が揺れたはずみに。
吊り革を握ったカップルも揺れて、仲良く笑い合っている。「驚いた」とでもいった具合に。
肩を並べて乗っている二人、お互いの顔は直ぐ隣同士にあるけれど。
(…空いている席…)
幾つもあるのに、二人掛けのシートが塞がっていた。友達同士らしい人やら、親子連れなどで。端から埋まって、余っていない。二人掛けのシートに限っては。
自分が座ったような一人用なら、あちこちに空いているけれど。
何人もが横に並んで座れる後部座席も、両端は空席なのだけれども…。
後ろから前まで順に数えても、二人掛けの空席は一つも無かった。一人用の座席か、一番後ろのシートの両端に一人分ずつか。
(席はあるけど、二人並んで座れないんだ…)
二人用の席が空いていないから。後部座席の二人分の空席、それも並んではいないから。
そういうことなら、二人が立っているのも分かる。席が幾つも空いていたって。
せっかく二人でバスに乗ったのに、離れ離れは悲しいから。一人用の座席が前後に並んだ場所もあるけれど、それは並んで乗るのとは違う。前後に分かれてしまうだけ。
(一人は後ろを向いて喋らなきゃ…)
きっと、それだと落ち着かない。二人一緒の気分になれない。顔だけこちらを向いていたって、身体も足も反対向け。首から下は、すっかり全部。
そんな風に分かれて座るよりかは、並んで立った方がいい。二人一緒に。
(一番後ろの席の両端が空いている分も…)
端っこ同士に腰を下ろしたら、話すことさえ出来ない有様。先に座っている人たちが気付いて、詰めてくれればいいけれど…。
(詰めて下さい、って頼めないよね?)
他にも席はあるのだから。前後に分かれて座れる場所なら、ちゃんと空席があるのだから。
その状態で「詰めて下さい」だと、ただの我儘。
二人並んで座りたいから、その席を空けてくれませんか、と言いに行くようなものだから。
これは駄目だ、と気付いた、立っている理由。吊り革を持って並んだカップル。
(ぼくだって…)
ハーレイと二人で乗っていたなら、そうするだろう。座席が幾つも空いたバスでも、立っている人が他に一人もいなくても。
乗った途端に、ハーレイに「お前、座れ」と、空いた座席を指差されたって。丁度いいだろ、と一つ選んで促されたって。
(ハーレイ、ぼくだけ座らせるんだよ…)
並んで座れる席が無いなら、座らせてくれて、ハーレイは側に立つのだろう。前や後ろが空いていたって、座らずに。ハーレイの身体が反対側を向いてしまわないように。
ハーレイの方が立っていたなら、ちゃんと向き合って話せるから。背の高いハーレイは、身体を屈めて。自分はハーレイの顔を見上げて。
(でも、そんな風に座るより…)
一人だけで席に腰掛けるよりは、吊り革を握って二人で立つ。隣同士で、仲良く並んで。
そっちの方が幸せだから。顔も身体も、離れてしまいはしないから。
(疲れていたら、座っちゃうかもしれないけれど…)
弱い身体が邪魔をしたなら、諦めて座るしかないけれど。それが正しいやり方だけれど。
今、カップルで乗っている二人。
女性はとっても元気そうだから、立っていたくもなるだろう。「座るといいよ」と男性が空いた席を指しても、「平気」と笑顔で断って。
下手に離れてしまうよりも、二人。横を向いたら、顔が見える場所で。
それで二人は立っているんだ、と分かったら羨ましくなった。仲の良さそうなカップルが。
席は幾つも空いているのに、座ろうとしない恋人たちが。
(いいな…)
何処かへ出掛けた帰りなのだろう、男性と女性。けして大声ではないのだけれども、耳に届いてくる会話。「楽しかったね」とか、「また行こう」だとか。
チビの自分には、まだまだ出来ないハーレイとのデート。二人一緒にバスにも乗れない。
いつか大きくなるまでは。前の自分と同じに育って、キスを許して貰えるまでは。
(ホントにいいな…)
あんな風にハーレイとデートしたいな、と膨らむ夢。それに憧れ。
早く大きくなりたいんだけど、とカップルの二人を見詰めていたら…。
(あっ…!)
女性が片手で、嬉しそうに持ち上げた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
とても小さな袋だけれど。重さも殆ど無さそうだけれど。
(プレゼントなんだ…)
中身はきっと、男性からの。今日、贈られたプレゼント。
「ありがとう」という声が聞こえるから。
女性はとても幸せそうだし、男性の方も素敵な笑顔を向けているから。
贈り物だ、とチビの自分でも、ピンと来た小さな紙袋。今日のデートの途中の何処かで、女性が貰ったプレゼント。
(二人で見付けて買ったとか…?)
デートの目的は二人で買い物、其処で出会ったお店の商品。ショーケースの向こうに、たまたま何か。女性が惹かれて、「あれ、素敵ね」と覗き込んだら、男性が「欲しい?」とプレゼント。
それとも男性がデートの前に用意していて、食事の時に渡したとか。
誕生日のプレゼントや、記念日だとか。その可能性も充分にある、とても小さな紙袋。
(どっちなのかな?)
カップルはデートの先達なのだし、興味津々、耳を傾けてみたけれど。
どんなデートをして来たのかが、とても気になる所だけれど。
(喜んでることしか…)
二人の会話からは分からない。はしゃぐ女性の輝く表情、プレゼントはまるで宝物。
それと、早く紙袋を開けてみたくてたまらないこと。
家に帰ったら、二人一緒にゆっくり中身を眺めるらしい。幸せな気分に包まれて。
コーヒーを淹れて、テーブルで。二人きりの家は、何処よりも落ち着く場所だから。
(中身、何だか分からないけど…)
きっと素敵なものなのだろう。家に帰るのが楽しみなもので、二人でゆっくり眺めたいもの。
今日のデートの記念品。バスで座席に座れなくても、幸せなデートを締め括る何か。
(うんと幸せそうだよね…)
二人とも、と見ている間に、降りるバス停に着いたから。
まだ立っている二人を見詰めて、振り返りながら降りたほど。
いいなと、あんなデートがしたい、と。ハーレイと二人であんな風に、と。
家に帰って、ダイニングでおやつを食べる間も、思い出すのはバスで見たカップル。
二人一緒に立っていた姿が羨ましかったし、プレゼントも気になって仕方ない。嬉しそうだった女性の顔。「ありがとう」と持ち上げて見せていた紙袋。吊り革を握っていない方の手で。
(アクセサリーかな?)
女性が持っていたバッグよりも小さな紙袋。それに見合ったサイズの中身。
頭に浮かぶものと言ったら、アクセサリーくらい。お菓子の箱なら、もっと大きいだろうから。
女性が一目惚れしたペンダントだとか、「どれがいい?」と二人で相談して決めたとか。
あるいは男性のセンスで選んだアクセサリー。今日のデートに行く前に買って、食事の時とかにプレゼント。「誕生日だよね」だとか、他にも記念日。
(そういうのもいいよね…)
二人で買うのも楽しそうだけれど、サプライズで貰うプレゼント。「似合いそうだ」と見付けて来てくれた何か。
素敵だよね、と思ったけれど…。
(ぼくがつけるの?)
デートに出掛けて、ハーレイに貰ったペンダントを。ブレスレットとか、そういうものでも。
二人一緒に選ぶにしても、ハーレイが買って来て「ほら」と贈ってくれるにしても…。
さっきの女性が持っていたような紙袋。それに収まりそうなサイズのアクセサリー。
(うーん…)
アクセサリーをつける趣味は無かった。
チビの自分はつけはしないし、前の自分もつけてはいない。ペンダントも、他の色々な物も。
前の自分はただの一度もつけなかったし、今の自分もつけてみたいとは思わない。
(ペンダントとか、ブレスレットとか…)
身を飾る物は何も要らない。
欲しいアクセサリーは一つだけ。アクセサリーと呼ぶよりは、むしろ…。
あれは印、と思う物。いつか左手の薬指に嵌める結婚指輪。
ハーレイとお揃いのデザインの指輪、結婚式の日に互いの指に嵌めるもの。ずっと二人、と。
(シャングリラ・リング…)
それだけだよね、と考えながら帰った二階の自分の部屋。
欲しいアクセサリーがあるとしたなら、結婚指輪で、シャングリラ・リング。
でも…。
(シャングリラ・リングは…)
何処かの店へ買いに出掛けるのとは違うらしいから、ああいう風には貰えない。バスで見掛けたカップルのように、デートの時に二人で買ったり、贈られたりは無理。
シャングリラ・リングは結婚するカップルがたった一度だけ、申し込めるという結婚指輪。遠い昔に解体された、白いシャングリラから生まれる指輪。
白い鯨があった記念に、保存されている船体の一部の金属。それがシャングリラ・リングを作る材料、毎年、決まった数の分だけ指輪が出来る。
応募者多数だったら抽選、当たれば費用は加工賃だけ。
結婚指輪を嵌めるのならば、断然、シャングリラ・リングがいい。白いシャングリラの思い出の指輪、それをハーレイと二人で嵌めたい。
けれど人気のシャングリラ・リング、まずは抽選に当たらなければ。
当たった時には、きっと送られて来るのだろう。結婚式に間に合うように。結婚式が抽選よりも先に済んでいたなら、ハーレイと二人で暮らす家へと。
(デートの時には貰えないよね…)
それに二人で買う物ではないし、ハーレイがくれる物でもない。
シャングリラ・リングが入った小さな袋を、デートの帰りに提げられはしない。
プレゼントされる物ではないから。…普通の結婚指輪にしたって、きっと事情は同じこと。
残念、と零れてしまった溜息。勉強机に頬杖をついて。
(プレゼント、持ってみたいのに…)
ハーレイと二人、楽しく出掛けたデートの帰り。街で食事や、買い物をして。
車に乗って出掛けてゆかずに、行きも帰りも路線バス。プレゼントを持つなら、バスがいい。
今日の帰りに見掛けたカップル、あの二人のようにバスに乗る。他にも乗客がいるバスに。
二人並んで座れる座席が無かったとしても、気にしない。二人で立てば済むことだから。
吊り革を握って立つにしたって、空いた席に二人で座るにしたって、きっと見て貰える紙袋。
小さな袋を提げて乗ったら、「プレゼントなんだ」と。
他の人たちも乗っているバスで、プレゼントの入った袋を提げて幸せ自慢。「貰ったんだよ」と声にしなくても、あの女性のように「ありがとう」と少し持ち上げてみせて。
(ハーレイの車でドライブするのも素敵だけれど…)
路線バスに乗って幸せ自慢もしてみたい。
買って貰ったプレゼントを提げて、デートの帰りに。席が無くても、立ちっ放しでも。
ドキドキと胸が高鳴っていたら、足も疲れはしないだろう。
早く帰ってプレゼントを二人で開けようと。袋から出して、包みを解いて、眺める中身。
とても素敵だと、今日のデートの記念にピッタリ、と。
(でも、アクセサリーは…)
二人で選んでも、困るだろうか。ハーレイが買ってくれたとしても。
欲しいアクセサリーは、シャングリラ・リングだけなのだから。前の自分も、今の自分も、身を飾りたいとは思わないから。
(…だけど、デートの帰りに持つなら…)
プレゼントの袋を提げてみたいなら、きっとアクセサリーが一番。重たくはなくて、片方の手で提げられるから。吊り革を握っていない方の手で、ヒョイと持ち上げられるから。
(誰も気付いてくれなかったら…)
今日の女性がやっていたように、「ありがとう」と持ち上げてみせる紙袋。
あんな風に提げて幸せ自慢をしてみたいのに、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、ぼくって、ペンダント、似合う?」
似合いそうかな、ペンダント…。アクセサリーの。
「はあ? ペンダントって…」
なんだそりゃ、と丸くなっている鳶色の瞳。「アクセサリーのペンダントだと?」と。
「そう。…ブレスレットとかでもいいけれど…」
ぼくに似合うかな、ブレスレットとか、ペンダントとか。
「お前、そういうのが欲しいのか?」
「ちょっとだけ…」
似合わないなら、諦めるけど…。ぼくには似合いそうにない…?
今のぼくじゃなくて、育ったぼく、と付け加えた。チビの自分には似合わないのだし、デートの時に買って欲しいものがアクセサリーだから。
大切なことを言い忘れていたと、其処が肝心だったっけ、と。
案の定、ハーレイは「なんだ、育ったお前のことか」と納得した風で。
「アクセサリーなあ…。まあ、男性用のもあるけどな」
お前がどういうのを想像したかは知らんが、女性用のとそっくりのもあるし、違うのもあるな。
デザインはそれこそ色々だ。同じ男性用と言っても。
「ホント!?」
男の人用のアクセサリーって、ちゃんとあるんだ…。女の人用のを買わなくっても。
「お前の年だと縁が無いしな、知らないのも無理はないだろう」
嘘は言わんが、なんだって急にアクセサリーの話になるんだ?
前のお前は、アクセサリーなんかつけてなかったが…。つけたいって話も聞いちゃいないが…。
まるで初耳だが、今のお前はアクセサリーが好きなのか?
いつかつけたいと思っているとか、お母さんがつけているのを見て欲しくなったとか…。
それとも新聞で何か読んだか?
ラッキーアイテムってヤツもあるらしいしな、幸運のシンボルをあしらったのとか。
「そうじゃなくって…」
欲しいよね、って思っただけだよ、アクセサリーじゃなくって、袋!
アクセサリー入りの袋が欲しいと思ったんだよ、買ったら入れてくれる袋が…!
今日の帰りのバスで見掛けた、と話したカップルとプレゼント入りの小さな袋のこと。
席に座らずに立っていた二人、空いた席には隣同士で座れないから。吊り革を握って立ちっ放しでも、幸せそうだった若いカップル。女性の手には、とても小さな紙袋。
あれがやりたい、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。
買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、デートの帰りに二人一緒に路線バス、と。
「あの袋、絶対、アクセサリーだと思うんだよ。うんと小さい袋だったから」
このくらいだったよ、きっと中身はアクセサリーだよ。
ぼくも、ああいう紙袋を持って乗りたいよ、バスに。幸せ自慢をしてみたいもの。周りの人に。
「なんだ、そういうことだったのか」
アクセサリーは似合うかだなんて、いきなり言い出すもんだから…。
てっきりお前はアクセサリーが好きなのかと、とクックッと笑っているハーレイ。
今のお前は、つけてみたいのかと思ったぞ、と。
「笑わないでよ、ぼくは真剣なんだから!」
きっと幸せに決まってるんだよ、ああいうのって。
ホントのホントに幸せそうなカップルだったし、立ちっ放しでも幸せ一杯のまま。
だから羨ましくなっちゃって…。ぼくもやりたくなってしまって…。
ぼく、ペンダントが似合いそう?
「ペンダントか…。育ったお前なら美人なんだし、似合うだろうとは思うんだが…」
お前、そういうのは好きだったか?
さっきも訊いたが、つけてなかっただけで、前のお前はアクセサリーが欲しかったのか?
でなきゃ、お前の好みだとか。今のお前は興味があるとか…。
「欲しいと思ったことはないけど…」
シャングリラ・リングだけでいいんだけれど。…当たらなかったら、普通の結婚指輪で。
でも、ハーレイとデートするんなら…。
プレゼントが入った袋を提げて幸せ自慢、と訴えた。幸せ自慢をしてみたいよ、と。
ハーレイの車で出掛けるドライブも素敵なのだけれども、たまには二人で路線バスに乗って。
二人並んで座れる座席が無かった時には、二人で吊り革を握って立って。
「バスに乗ってる人たちにだって、見て欲しいもの…。幸せそうなカップルだよね、って」
あの紙袋にはプレゼントが入っているんだな、って見て貰えるのがいいんだよ。
ぼくも帰りのバスで見てたし、うんと幸せそうだったから…。
いつか大きくなった時には、ああいうデート。…帰りのバスではプレゼント入りの袋を提げて。
それにはアクセサリーでしょ?
吊り革を握っていない方の手で、「これ」って持ち上げられそうなのは。小さくて軽くて。
「ふうむ…。お前が見掛けたカップルの場合は、そうなんだろうが…」
俺もアクセサリーだろうと思うが、お前、勘違いをしてないか?
色々とあるぞ、プレゼントには。
アクセサリーだと決めてかからなくても、他にも色々あるもんだ。
「そうなの? だけど、紙袋…」
こんなのだったし、アクセサリーしか入らないんじゃないの?
もっと大きな袋でなくっちゃ、違うプレゼントは無理なんじゃない…?
「其処が勘違いというヤツだ。アクセサリーだと思ったばかりに、頭が固くなってるってな」
小さな袋で贈れる物も、世の中、色々あるわけで…。
チビのお前でも分かりやすい物なら、文房具の類が一番だろうな。
たとえば、ペン。
お前が俺の誕生日にくれた羽根ペンの箱はデカかったわけだが、あれが特別すぎるんだ。
普通のペンなら、もっと小さい。ペンだけ入ればいいんだから。
現に、俺が使っているペンが入っていた箱、あれよりもずっと小さいヤツだったしな。
こいつだ、とハーレイがポケットから取り出した、瑠璃色のペン。
人工のラピスラズリだと聞いた、金色の粒が幾つも不規則に散っているそれ。宇宙のようだ、と一目惚れして、ハーレイが買った。教師になって直ぐに、記憶が戻るよりもずっと昔に。
なのに、ペンにはナスカの星座が隠れていた。鏤められた金色の粒の中の七つが描き出す星座。赤いナスカで種まきの季節に昇ったという、七つの星たち。
ハーレイはペンをチョンとつついて、「このくらいだっけな」と手で形を作った。
「箱に仕舞おうってことはないから、箱の方が仕舞いっ放しなんだが…」
これが入ってた箱は、こんなモンだぞ。
箱がこうだから、入れてくれた袋も小さかった。そっちのサイズは忘れちまったが…。
「ペンダントの箱くらいだね…」
ママの部屋に行ったら、たまに見掛けるペンダントの箱。
小さい箱に入っている物、アクセサリーだけじゃないんだね…。
「そうだろ? ペンなら、この程度ってな」
羽根ペンの箱が例外なんだ。羽根ペン自体がデカイもんだし、インク壺とかもつくからな。
だから、小さなプレゼントの箱が欲しいと言うなら、ペンはけっこうお勧めだ。
お前にも似合いのペンが見付かるかもしれないぞ。俺と一緒に文房具の店に出掛けたら。
ペンというのもいいよな、うん。
それに腕時計が入ってる箱も、小さい箱だと思わないか?
小さい箱入りのプレゼントってヤツは、探せばいくらでも見付かるわけだ。
探そうというつもりがなくても、偶然、バッタリ出会っちまうこともあるだろう。
それこそデートの醍醐味だってな、お前と二人で見付けて、選んで、俺がその場でプレゼント。
包んで貰って、袋つきだ。お前の憧れになっているらしい、幸せ自慢が出来る紙袋。
大きな袋でもかまわないなら、服だって、とハーレイが挙げるプレゼント。
贈れる物なら幾らでもあるぞと、デートに出掛けて買ってやれる物、と。
「店は山ほどあるからなあ…。売られている物も山ほどだろうが」
小さな袋に入る物から、デカイ袋が出て来る物まで。
プレゼントする物に合わせて袋のサイズも変わるってわけだ、大きかったり、小さかったり。
「そうなるね…。だったら、ぼくがデートで貰ったプレゼント…」
大きい袋を提げてバスに乗ったら、もっと幸せ自慢が出来るかな…。
こんなに大きなプレゼントの袋を貰ったよ、って。
「それはかまわないが、欲張りすぎると、お前、自分で持てないぞ?」
重たすぎるとか、袋がやたらデカすぎるとか…。提げるには邪魔になっちまって。
お前が貰ったプレゼントなのに、お前の代わりに俺が持つことになるとかな。
それじゃ幸せ自慢が出来んぞ、見ている人には持ち主が誰か謎なんだから。俺が持ってちゃ。
舌切り雀の話があるだろ、大きい葛籠と小さな葛籠。
デカけりゃいいってモンでもないから、その辺の所は気を付けてくれよ?
「プレゼント…。買ってはくれるの?」
いつかハーレイとデートに行ったら、大きい物でも、小さい物でも。
アクセサリーじゃなくっても。…ペンとか服とか、腕時計でも。
「もちろんだ。お前が欲しい物があるなら、俺の予算の範囲内でな」
べらぼうに高いのは買ってやれんが、お前、そういう高いのを欲しがるタイプじゃないし…。
きっと大丈夫だろうと思うぞ、俺の財布の方だったら。
何かあるのか、欲しい物が?
今から目星を付けたいくらいに、これだと思うプレゼントが。
「どうだろう…?」
デートに行ったら、買って欲しいと思ったけれど…。
買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ自慢がしたかったけど…。
欲しい物はあるか、と改めてハーレイに尋ねられたら、出て来ない答え。「これが欲しい」と。
アクセサリーは欲しくない。シャングリラ・リングか、結婚指輪があれば充分。
(ホントに思い込んじゃってたから…)
デートに出掛けたらプレゼントはこれ、と思い込んだから、アクセサリーだと考えただけ。
ペンダントは自分に似合うだろうかと、ブレスレットでもいいんだけれど、と。
男性用のアクセサリーがあると聞いても、少しも弾まない心。欲しいだなんて思わない。
(…どんなのがあるの、って思いもしないし…)
きっと店にも行かないだろう。ハーレイとデートに出掛けたとしても、男性用のアクセサリーを扱う店なんかには。
(前を通って、ハーレイが「前にお前に話したヤツだぞ」って言ったって…)
入ってみるか、と訊かれたとしても、「ううん」と首を横に振りそう。
話の種にと入ってみたって、買わずに出て来ることだろう。欲しいと思っていないのだから。
(ペンも、腕時計も…)
チビの自分には、今、持っている物が似合いの品。大きくなったら欲しいと思う物が無い。
服だって、まるで思い付かない。自分で買いには出掛けないから。
(欲しい物、なんにも出て来ないよ…)
考えてみても、何一つとして。
あんなに「いいな」と憧れたのに、思い付かない袋の中身。
ハーレイと二人でデートに出掛けて、帰りに提げる紙袋。プレゼント入りの袋の中に、いったい何を入れたいのかが。
欲しい物はきっと、プレゼント入りの袋だけ。貰ったんだ、と幸せが心に満ちて来る袋。
それを見て欲しいと、路線バスに乗りたくなる袋。
ハーレイと並んで座れる座席が、一つも空いていなくても。二人で立ちっ放しになっても。
欲しい物なんか何も無い。ただ幸せなデートがしたい。
ハーレイに買って貰ったプレゼントが入った袋を提げて、幸せ一杯の帰り道。路線バスに二人で乗り込んで。並んで座れる席が無ければ、吊り革を握って、二人で立って。
「…欲しい物、今は無いみたい…」
アクセサリーは要らないし…。腕時計もペンも、服とかだって…。
袋が欲しいだけだったみたい、帰りのバスで幸せ自慢が出来るから。貰ったんだよ、って。
「そう来たか…。要はプレゼントが入った袋が欲しい、と」
俺に貰ったプレゼントの袋。小さい袋でも、大きいのでも。
それなら、中身のプレゼントだが…。
選ぶ所から俺と二人でやるのか、俺が一人で決めてプレゼントか、どっちがいい?
店に入って、お前が迷って、俺が「これなんかどうだ?」と言ったりして決めるプレゼント。
そういうのも出来るし、俺が勝手に「これがいいな」と買って来ちまうことだって出来る。
そっちだったら、お前はデートの時に受け取るだけだ。
とっくに結婚していたとしても、隠し方は幾つもあるってわけで…。デートの途中で、いきなり袋が出て来るわけだな、俺が持ってた荷物の中から。「プレゼントだ」と。
そのやり方だと、小さな袋になっちまうがなあ、隠せるサイズの。
お前、どっちが欲しいんだ?
俺と二人で選ぶプレゼントか、俺が決めちまったプレゼントか。
「…どっちだろう…?」
ハーレイと二人でお店で選ぶか、ハーレイが選んだのを貰うかだよね?
選びに行くなら、何を貰えるかは分かるけど…。ハーレイが選んで来るんだったら、貰った袋の中身が何かは、開けてみるまで謎なんだよね…?
どっちがいいんだ、と尋ねられても、それだって悩む。
プレゼントは何かとドキドキしながら開けるのもいいし、二人で選ぶのも楽しそうだから。袋の中身が決まっているのも、自分で決めるのも素敵だから。
「…それも、とっても悩むんだけど…」
ハーレイが選んでくれたのもいいし、二人で選ぶのもいいし…。
欲しい物が何か決まってないから、ぼくの好みが無いんだもの。これがいいな、って思う物が。
「要は決まっていないんだな?」
アクセサリーだなんて言い出したくせに、本当に欲しいプレゼントは。
自分で選ぶか、俺に任せるかも、それさえ選べやしない状態、と。
お前が欲しいプレゼントってヤツは、今の時点じゃ、プレゼント入りの袋だけらしいな。
さっきお前が言ってた通りに、デートの帰りに提げて歩ける袋さえあれば大満足、と。
「そうみたい…」
もちろん中身は入っていないと困るけど…。空っぽの袋じゃ駄目なんだけど。
何を袋に入れたいんだ、って訊かれても思い付かないよ。
多分、ホントに何でも良くって、提げて帰れたらそれで幸せ。
ハーレイと二人でバスに乗れたら、バスに乗ってる人たちに袋を見て貰えたら…。
中身さえあれば、プレゼントは何でもいいんだけれど、と困り顔をするしか無いけれど。
欲しいプレゼントも、自分で選ぶかどうかも決められないのだけれど。
ハーレイは「欲の無いヤツだな」と微笑んだ。「しかし、如何にもお前らしい」と。
「前のお前もそうだったが…。欲が無いんだ、お前はな」
だったら、俺からのプレゼントは、だ…。お楽しみに取っておくといい。
お前が何か思い付くまで。これが欲しい、と言える時まで。
「え…?」
取っておくって、どういうことなの?
ぼくはプレゼントを決められなくって、中身がちゃんと入っているなら、袋だけでいいのに…。
「それじゃ、お前もつまらんだろうが。俺だって張り合いが全く無いぞ」
何でもいいから袋に入ったプレゼントをくれ、と言われても…。
どうせ、俺とデートが出来るようになるまで、そういうプレゼントは贈れないからな。
食ったら消えて無くなる菓子とか、そんな物しか渡してやれないんだし…。
その分、きちんと取っておくんだ、俺への貸しで。
そうしておいたら、初めてのデートの時かどうかはともかく、欲しい物が出来たら買ってやる。
二人で選ぶか、俺が勝手に選んで買うかも、お前の自由で。
お前の好きにするといい。
「こんなのが欲しい」と強請るのもいいし、俺を連れて店に行くのもいいし。
「…いいの?」
ぼく、欲張りで、うんと我儘かもしれないよ…?
今は何にも決まってないけど、欲しい物が出来たらうるさいかも…。
ハーレイに選んで貰うどころか、お店を幾つも端から回って、決めるまでに時間がかかるかも。
もう一軒、ってあちこち引っ張り回して、最後の最後に、最初のお店がいいって言うとか…。
欲張りで我儘で、自分勝手な買い物かも、と心配になった未来の自分。
前の自分には出来なかったことが多すぎたから、その分、今度は我儘かも、と。
ミュウの未来は背負っていないし、ソルジャーでもない幸せ一杯の普通の子供。それが育てば、前の自分とは比較にならない、我儘な自分が出来上がるかも、と。
「…我儘な買い物でもいいの、ハーレイ?」
ぼくの気に入る物が見付かるまで、無駄にあちこち歩き回っても…?
それで勝手にくたびれちゃって、休憩しよう、って騒いでばかりのデートでも…?
「当然だろうが、デートってヤツはそういうもんだ」
我儘な恋人に振り回されて、荷物を持てとか、疲れただとか。
それに付き合えるのも楽しみの内だ、お前と二人で思う存分、デートなんだから。
プレゼントを決めるのに散々迷って、決まったら、そいつを俺に買わせて…。
ついでに帰りはバスに乗るんだな、そのプレゼントが入った袋を見せびらかすために?
「そう! デートの帰りは幸せ自慢!」
デートで買って貰ったんだよ、ってバスの中で自慢しなくっちゃ。
大きな袋でも、小さな袋でも、ぼくが自分で提げるから。
ぼくが持たなきゃ、幸せ自慢にならないもの。ぼくの袋だ、って気付いて貰えないから。
「よしよし、あちこち歩き回って買い物なんだな」
お前がバスで帰れるだけの元気、残しておかんといけないし…。
疲れすぎないように見張るのも俺の役目だな。歩きすぎだぞ、と注意をして。
お前が「疲れちゃった」と言い出す前に、その辺の喫茶店とかに入って休ませる、と。
そっちの方も任せておけ、とハーレイはパチンと片目を瞑ってくれたから。
帰りに乗るバスは、二人並んで座れる座席が空いているといいな、と言ってくれるから…。
「んーと…。ぼくは、立っている方が幸せかな?」
空いている席があるより、そっちの方。ハーレイと二人で立って乗る方。
「何故だ? 座れる方が幸せだろうが」
お前、歩き回って疲れてるんだし、空いている席がある方が…。
俺と二人で座れる方が断然いいだろ、楽なんだから。
「足は楽かもしれないけれど…。立つ方がいいよ、吊り革を持って」
だって、その方が、プレゼントの袋を持っているのが目立つから…。
座っている人にも、立ってる人にも、提げてる袋を見て貰えるでしょ?
沢山の人に幸せ自慢が出来るよ、立っている方が。
その方が絶対、ぼくは幸せ。
「おいおい、無理はするなよ、お前」
散々歩き回って疲れてるのに、帰りのバスでも立ちたいだなんて…。
我儘ってヤツにも程があるだろ、俺はお前と並べなくても、お前を絶対、座らせるからな…!
混んでいたって、誰かに頼んで空けて貰って座らせる、とハーレイは苦い顔だけど。
それが無理なら、バスは諦めてタクシーだ、と眉間に皺まで寄せているけれど。
足がすっかり疲れていたって、プレゼント入りの袋を提げて、ハーレイと二人で立っていたい。
デートの帰りに、「ぼくのだよ」と見せて、幸せ自慢をしたいから。
座ってしまって膝の上の袋が見えにくくなるより、大勢の人に見せて自慢をしたいから。
ハーレイと二人、デートに出掛けて、買って貰ったプレゼント。
それが入った袋さえあれば、きっと幸せ一杯だから…。
提げたい袋・了
※ブルーがバスで見かけたカップル。女性が幸せそうに持っていたのは、小さな紙袋。
そういう袋を、いつか提げられる日が来るのです。ハーレイから貰ったプレゼント入りの…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あれ…?)
学校の帰り、ブルーが見付けた女の子。家から近いバス停で降りて、住宅街を歩いていた時。
下の学校の子で、まだ小さい子。一枚の紙を手にして、それを見詰めては周りをキョロキョロ。少し進んでは、止まったりして。
(道、分からなくなっちゃったんだ…)
地図を見ながら来ているのだし、迷子という歳でもなさそうだけれど。どうにもならないらしい行き先、きっと目的地の欠片も見えていないから…。
「どうしたの?」
何処へ行くの、と声を掛けたら、紙から顔を上げた女の子。ホッとした色を浮かべた瞳。
「友達の家、分からないの…」
遊びに来てね、って地図をくれたんだけど…。遊ぶ約束、したんだけれど…。
「えっと…。その地図、見せてくれるかな?」
ぼくも見ないと分からないしね。行き先が何処か、どう行けばいいか。
「うんっ! はい、これ」
分かるかしら、と差し出された紙。子供らしいタッチで描かれた地図。道らしき線や、大まかな目印、けれど木の絵を描かれても困る。木は何処にでもあるんだから、と見ていたら。
「あのね…」と女の子が指差した木の絵。「この木、公園なんだって」と。
「ふうん…?」
公園といえば…、と心当たりの場所が幾つか。広い公園もあるし、小さいのも。地図に描かれた道の具合や、木の絵のマークと頭の中で順に重ねていって…。
あれだ、と思い浮かんだ公園。下の学校の頃に、友達と何度も遊びに出掛けた。それほど広くはないのだけれども、子供の目には立派な公園。大きな木だって確かにあった。目立つ所に。
解けた、と思った地図の謎。けれど、口では説明出来ない。こんな小さな子供では。大ざっぱな地図しか無いのでは。
「分かったよ。君の友達の家は、こっちの方」
おいで、と笑顔で屈み込んだ。「ぼくと行こう」と。
「連れてってくれるの?」
お兄ちゃん、学校の帰りなのに…。お友達と遊びに行かなくていいの?
「平気だよ。今日は約束、していないから。それに…」
また迷っちゃうよ、この地図だと。描き直すよりも、案内した方が早いから。
ぼくと行こう、と歩き始めた。微笑ましい地図に目を落としながら。
(…これじゃ、絶対、迷うんだから…)
公園までの道もそうだし、その先の道も大いに問題。住宅街の中にありがちな行き止まりの道、それまで自由に通り抜けられるように描いてあるから。
(子供だったら、通れちゃうこと、あるもんね…)
顔馴染みのご近所さんの家なら、庭の端などを遠慮なく。生垣と生垣の間の狭い溝でも、子供の目には道に映るから。
こうなるだろうな、と自分の経験からも分かる、子供らしいミス。
自分が地図を描いて渡すなら、頭の中では道になる場所。逆に自分が貰った時には、どうしても見付けられない道。知らない場所では、家は巨大な壁だから。間に溝が挟まっていても。
小さかった頃を思い出しながら、お喋りしながら歩いて行った。女の子が通う下の学校は、前に自分がいた学校。春に卒業するまでは。
先生のことや、学校の花壇や、幾つでもある共通の話題。相手が小さな女の子でも。
二人で地図を頼りに歩いて、例の公園の側も通って…。
「はい、ここ」
この家なんだと思うけど…。公園が此処で、道がこうだから。
「ホントだ、お兄ちゃん、ありがとう!」
此処、と女の子の顔が輝いた。表のポストに書いてある名前、それが友達のものらしい。地図を渡して招待した子の。
女の子が横のチャイムを押したら、中から出て来た同い年だろう女の子。「いらっしゃい!」と庭を駆けて来るから、「良かったね」と微笑み掛けて手を振った。
「じゃあね、楽しく遊んでね」
「お兄ちゃんも気を付けて帰ってね!」
地図はいいの、と訊いてくれるから、「大丈夫だよ」と頷いた。この辺りでもよく遊んだから、地図が無くても家に帰れる。
女の子たちに何度も手を振りながら角を曲がって、目指した公園。さっきの地図では一本の木になっていたんだっけ、と。
(木だけだったら、どの公園にもあるものね…)
あの女の子が別の公園を見付けていたなら、もっと困ったことだろう。公園はあるのに、繋がる道が違うから。地図に描かれた通りの道は、其処から続いていないから。
(ぼくでも悩んじゃったもの…)
地図を貰っても帰れないよね、と公園の側を通って、家の方へ続く道に入った。此処からだと、家はこっちの方、と。近道するならこの先を…、と考えながら。
家に帰るのは少しだけ遅くなったけれども、してあげられた道案内。友達の家に行く女の子。
今頃はきっと、仲良く遊んでいるだろう。おやつを食べているかもしれない。自分が母の焼いたケーキを、口に運んでいるように。
(良かったよね…)
ぼくが上手い具合に通り掛かって、と嬉しくなった。女の子の役に立てたから。
(あのくらいの年の子供って…)
大人には声を掛けにくいもの。どんなに道に迷っていたって、生垣の向こうの大人には。
自分が顔を知らない人には、自分からは声を掛けられない。忙しそうだ、と遠慮してしまって。趣味の庭仕事と、仕事の区別もつかないで。
あの時間だと、散歩している大人の数は少なめ。もしも自分と出会わなかったら…。
(今も何処かで迷ってたかも…)
目的地を見付けられないで。「公園はあるけど、地図にある道が何処にも無い」とか、「途中で道が消えちゃった」だとか。
そうならなくてホントに良かった、と食べ終えたおやつ。
あの子たちもケーキを食べたかな、などと考えながら。クッキーとかホットケーキとか、と。
二階の自分の部屋に戻って、窓から眺めた公園の方。女の子を案内して行った家も、目印だった公園の木も、此処からはまるで見えないけれど。
(何をして遊んでいるのかな?)
仲良しの二人の女の子。道に迷った子も、帰り道はもう迷わないだろう。大人がきちんと地図を描いてくれたら、自分で歩いて帰ってゆける。行き止まりの道や、謎の公園は消え失せるから。
それに、あの家の人が送って行くかもしれないし…。
遅くなったから、と車を出して。二人がたっぷり遊んだ後で。
(チビのぼくでも、役に立てたよ)
相手は小さな子供だけれども、充分に役に立てたと思う。
謎解きみたいな地図を読み解いて、目的地まで案内したのだから。こっちだよ、と一緒に歩いて案内。自分の家とは違う方まで。
大人の人が相手だったら、遥かに分かりやすいだろう地図。見せて貰って道が分かれば、指差すだけでも大丈夫なのに。
地図を示して「今は此処です」と教えた後には、「この先を右に曲がるんです」とか。
けれど、さっきの女の子。
謎の地図を頼りに歩いている子は、そうはいかない。案内しないと迷うだけだし、通り掛かって本当に良かった。チビの自分でも。
十四歳にしかならないチビでも、自分だってまだ子供でも。
そういったことを考えていたら、チャイムの音。ハーレイが仕事帰りに訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで紅茶のカップを傾けながら、帰り道の話。
「ねえ、子供って面白いね」
ぼくも子供だけど、もっと小さい下の学校の子供。
「はあ?」
面白いって、何かあったのか?
何が、と鳶色の瞳が瞬く。「下の学校、寄って来たのか?」と。
「違うよ、女の子に会っただけ。…バス停から家まで歩く途中で」
道案内をしていたんだよ。友達の家に遊びに行こうとしていた子の。
「ほう…?」
そいつが面白かったのか?
道案内の途中で聞いた話だとか、その子が何かやらかしたとか。
「ううん、面白かったのは地図。友達に描いて貰った地図をね、見ながら歩いてたんだけど…」
子供が描いた地図だったから、ぼくが見たって、まるで謎々。
行き止まりの道が通り抜けられるように描いてあるとか、公園に木が一本だけとか。
もっと育った子供だったら、ああいう地図は描かないよね、って…。
とっても頭を使っちゃったよ、道案内を始める前に。この地図はどう読むんだろう、って。
「なるほどなあ…。謎解きまでして、道案内か」
お前らしいな。うん、前のお前もそうだった。道案内、得意だったしな。
「え…?」
道案内って…。ぼくが?
前のぼく、道案内なんか…。そんなの、別に得意なんかじゃ…。
なんで、と捻ってしまった首。ハーレイは何を言い出すのだろう、と。
前の自分は道案内などしていない。案内する人もいなかった。
いくらシャングリラが巨大な船でも、ソルジャーだった自分は誰も案内しない。シャングリラの中で誰かを案内するなら、それはキャプテンだったハーレイの役目。
もっとも、ハーレイ自身が出てゆくことは少なかったけれど。適任の者に「頼む」と出す指示、それに応じて係が動いた。
船に迎え入れられた子供たちなら、ヒルマンや養育部門の者たち。新しい部署に配属されてゆく者だったら、其処に詳しい仲間たちなど。
案内係は揃っていたから、前の自分はハーレイを従えて歩いていただけ。
(ソルジャーに道を訊こうって人も…)
いるわけがなかったシャングリラ。迷うような子供は一人で歩いていなかったのだし、大人なら迷うことがない。迷いそうな場所なら、まず間違いなく案内係が一緒だから。
(慣れてない人が機関部とかに迷い込んだら大変だしね?)
それに迷っても思念波があった。今の時代は使わないのがマナーだけれども、前の自分が生きた時代は使うのが普通。船の中で迷ってしまったのなら、「何処だろう?」と飛ばせば良かった。
そういう思念が飛んで来たなら、近くの仲間が拾ってくれる。もちろん道も教えてくれる。
思念波という便利な手段を持っていたから、迷っている最中に前の自分が通り掛かっても…。
(訊かないよね?)
雲の上の人にも等しいソルジャー。
エラたちがそう教えていたから、道を訊くなど、とんでもないこと。まして道案内など、頼みはしない。ソルジャーに案内させたりはしない。
(アルタミラを脱出してから、直ぐの頃でも…)
誰にも道は訊かれていない。チビだった上に、ハーレイの後ろをついて歩いたり、ブラウたちと散歩に出掛けていたのが自分だから。
道を尋ねたい仲間がいたなら、ハーレイたちに訊いただろう。チビの子供に尋ねなくても、側に大人がいたのだから。
どう考えても、していそうにない道案内。得意どころか、ただの一度もしていないと思う。
だから、ハーレイにぶつけた疑問。
「前のぼく、道案内は一度もしてないよ?」
忘れたわけでもないと思うけど…。一度もやったことなんか無いと思うんだけど。
道案内をしたことが無いのに、得意だったって、変じゃない?
ハーレイ、誰かと間違えていないの、道案内が得意だった誰かと混ざっちゃったとか。
「お前なあ…。俺がお前を誰かとごっちゃにすると思うのか、よく考えろよ?」
恋人同士じゃなかった頃から、俺の大切な友達だ。一番古くて、大事な友達。
他の誰かと混ざりはしないし、間違えることもないってな。俺の特別だったんだから。
「だけど、道案内…。そんなの一度も…」
「俺の先導、していただろうが」
キャプテンになって直ぐに始めた、操舵の練習。
シミュレーターでの訓練が済んだら、お前が案内してくれたんだ。何処を飛ぶかを。
俺はお前を追えば良かった、シャングリラで。舵を握って、とにかく前へと。
「あれは道案内とは言わないと思う…」
変な所ばかりを選んでたんだし、道に迷わせてるみたいなものだよ。
ちゃんと真っ直ぐな道があるのに、其処から外れて回り道だとか、行き止まりの道に入るとか。
だってそうでしょ、シャングリラは酷く揺れてしまって、ゼルたちが「死ぬかと思った」なんて言ってたほどだもの。
道案内なら、ぼくは真っ直ぐ飛ばなくちゃ。「こっちだよ」って、迷わないように。
船が揺れない道を探して、そっちへ飛んで行かないとね。
前の自分がハーレイを案内して行った先。シャングリラを飛んで行かせた航路。
小惑星が無数に散らばる場所やら、重力場が歪んでいた空間やら。熟練の者でも飛びにくい所、そういう場所で操船させた。船が壊れてしまわないよう、シールドで包んで守っておいて。
「…ハーレイが練習しやすいように、って選んでた進路だったけど…」
船のみんなには酷い迷惑で、ハーレイにだって迷惑だったと思う…。
ちょっとやりすぎてしまったくらいに、スパルタ教育だったもの。
少しずつハードルを上げるんじゃなくて、いきなり高いハードルを飛ばせていたんだから。
「そうか? 充分に役立つ道案内だったと思うがな?」
ゼルやブラウの心臓までは面倒見切れんが…。あいつらにとっては、最悪だっただろうが…。
しかしだ、俺にとっては違った。最高の道案内というヤツだ。
お蔭で俺は操舵を覚えて、あのシャングリラを動かせるようになったんだから。誰よりも上手く操れるように、どんな航路でも飛んでゆけるように。
白い鯨になった後にも、いろんな所を飛んで行けたさ。あの時のお前のお蔭でな。
何度もお前に話してやったろ、三連恒星の重力の干渉点からワープしたヤツ。
あんな判断が出来た理由も、今から思えば、お前のスパルタ教育の成果だろう。どんな時でも、冷静にやれば道は見えると、お前が教えてくれたんだからな。
とんでもない所ばかりを飛ばせて、「こう飛べ」と。俺が新米だった時から。
それにだ…。
お前が皆を導いてたろ、と鳶色の瞳で見詰められた。船だけではなくて仲間たちを、と。
「どう進むべきか、前のお前が導いてたんだ。あの船に乗ってた仲間たちをな」
自給自足の船になった後も、その前も。…お前がソルジャーになってからは、ずっと。
「それは違うよ、ソルジャーは確かにぼくだったけど…」
ぼくの名前で出した通達も多かったけれど、一人で決めてなんかはいないよ。大切なことは。
アルテメシアから逃げる時には、ぼくが一人で決めたけれども…。非常事態だから、話は別。
普段は何でも会議だったよ、ヒルマンたちを集めて決めていたでしょ?
「その結果を皆が認めてくれたのは何故だ?」
「えーっと…?」
何故って訊かれても、どういう意味なの?
ソルジャーの名前で出した通達は、従うのが船のルールだったよ。会議で決まったことだもの。
「其処だ、そいつが重要なんだ」
会議で決めて、それを信じて貰えた理由。誰も文句を言ったりしないで、船のルールだから、と従ってくれた理由だな。
不平や不満が出なかった理由は、お前だろうが。…お前がソルジャーだったからこそだ。
「前のぼくは何も…」
してはいないよ、演説とかも。こう決めたから、っていうのもエラたちが伝えていたし…。
船のことなら、前のハーレイがキャプテンとして発表していたんだし。
「それはそうだが、皆が見ていたものはお前だ」
いざとなったら、お前がいる。桁外れに強大なサイオンを持ったソルジャーが。
どんな目に遭おうが、お前が何とかしてくれる、と皆は信じていたわけだ。
物資や食料を奪って来たのは前のお前だし、それを頼りに生きてた頃からソルジャーなんだ。
お前がいれば何とかなる、と皆が思ったから、ルールも守ってくれたんだな。
そうじゃないのか、白い鯨になるよりも前から、お前は船も、仲間たちも案内してたんだ。
こっちへ行こうと、次はこっちだ、と。
雲海の星、アルテメシアに辿り着くよりも前のこと。漆黒の宇宙を旅していた頃。
青い地球は憧れだったけれども、地球の座標は掴めなかった。目標とする座標も何も無かった。
ミュウを受け入れてくれる星は無いから、何処へも行けない。降りられはしない。
その日任せの宇宙の旅。
障害物などを避けて飛ぶだけ、そういう航路。
けれど、必要な物資や食料の補給。それが無ければ生きてゆけない。
前の自分は、一人で皆を生かし続けた。食料も物資も、他の者には奪えないから。武装した船は持っていなくて、誰も出掛けてゆけなかったから。
「いいか、シャングリラの改造だって…。お前が決めたも同然なんだぞ」
改造しようという話ならあった。アイデアだけなら、誰にでも出せた。理想だってな。
しかし、そいつを実行に移すとなったら別だ。理想だけではどうにもならん。
お前がいなけりゃ、誰も決心出来ていないぞ。
改造中の船をどうするんだ、っていう大問題があったんだから。
修理しながら飛ぶのと違って、まるで無防備になっちまう。…改造する場所によってはな。
「そうだっけね…」
メイン・エンジンを止めてしまったら、船を急には動かせないし…。
ワープドライブの改造中なら、人類軍がやって来たって、ワープするのは無理なんだから…。
船の改造には伴う危険。もしも人類に見付かったならば、全てが終わってしまいかねない。船を動かして逃げる手段が、使えない段階だったなら。
そうは思っても、人類から奪った船のままでは限界があった。元は輸送船だった船だけに、武装してはいない。そのための設備も搭載出来ない。
サイオンの力で船を守るためのシールドやステルス・デバイス、それも現状では搭載不可能。
武装し、シールドとステルス・デバイスを備えられたら、戦える船が手に入るのに。
逃げることしか出来ない船から、一歩前進出来るのに。
船の改造が上手くいったら、自給自足も可能になる。人類の船から奪わなくても、食料も物資も賄える船。そういう船が出来上がったら、何処へでも旅を続けてゆける。
輸送船など飛んでいそうにない、どんな辺境星域へも。
地球を探しての流離いの旅も、この船一つで出掛けてゆける。補給の心配が要らないのだから。
欲しい船なら、もう見えていた。造れることも分かっていた。
そのために改造している間に、船が発見されなかったら。人類の目から逃れられたら。
けれど、何処にでも出没するのが人類の船。輸送船だったり、客船だったり、軍の船だったり。
いきなりワープアウトサインが確認されることも多くて、予見は出来ない。
ワープ自体は充分な距離を保ってするものだから、今までは逃げれば見付からなかった。人類の船のレーダーに映ったとしても、ほんの一瞬。
艦種を識別されるよりも前に離脱したなら、「何かの船」で済むことだから。同じ人類の船だと思って、わざわざ追っては来なかったから。
その手が全く使えないのが改造中。船を何処へも動かせない時。
あれは何か、と人類が確認にやって来たなら、正体を知られてしまうだろう。アルタミラと共に消えた筈の船、コンスティテューションだと特定されてしまったら。
それを動かし、飛び立った者がいるとしたなら、ミュウの他には無いのだから。
直ちに呼ばれるだろう援軍、あるいは人類軍の艦隊。
たった一隻でも、ミュウの船には違いないから。
マザー・システムが存在を知ったら、今度こそ消しにかかるだろうから。
(…人類軍に見付かったって…)
改造後の船なら戦える。一大艦隊を前にしたって、ワープする時間を稼ぐ程度には。
だから誰もが欲しかった船。造りたいと夢を描いていた船。
人類の船に発見されずに、無事に改造出来るなら。そうすることが可能だったら。
それが必要だと考える時期が、来ていた船がシャングリラ。同じシャングリラでも違う船。
白い鯨になるだろう船、ミュウの箱舟とも呼べる船。その船が要ると、造らなければと。
(前のぼくにも分かってたから…)
船はぼくが守る、と仲間たちの前で宣言した。改造するなら、守り抜こうと。
決して人類には見付からないよう、全力を尽くして隠し、守るからと。
発見されない保証があるなら、誰も反対したりはしない。誰もが欲しい船なのだから。夢の船が本当に手に入るのなら、危険が伴わないのなら。
そして取り掛かった船の改造。誰にも反対されることなく。
元の船からは想像もつかない巨大な船が完成するまで、前の自分は一人きりで船を守り続けた。
人類の船が近付いた時は、シールドを張って船を隠して。
惑星上での改造中とか、自力で航行不可能な時。そういう時には、たった一人で。
船を完全に隠してしまえるステルス・デバイス、それは船体が完成するまで搭載出来ない。船を守るための役には立たない。
だから、白いシャングリラが出来上がるまでは、本当に一人で守った船。
誰の助けも借りることなく、借りたくても誰の助けも無いまま。
タイプ・ブルーは一人だけしかいなかったから。他の者では、手伝うことさえ出来ないから。
全部お前の力だった、とハーレイの鳶色の瞳の色が深くなる。「お前が皆を導いたんだ」と。
「お前がいなけりゃ、白い鯨は出来てない。…どんなに皆が欲しがってもな」
安全に改造出来る方法が無けりゃ、誰も賛成しやしない。命の方が大切だからな、夢の船より。
お前が守ると言ってくれたから、皆、安心して取り掛かれた。
同じ造るならこういう船だ、とアイデアだって山ほど出せたんだ。こうしたい、とな。
白い鯨はそうして出来たが、あの船でなけりゃ、アルテメシアにも行けていないぞ。
つまり、ジョミーも見付けられないということだ。…あの星で助けたミュウの子供たちも。
「そうだね…」
若い世代が育ちはしないし、ジョミーも見付けられないし…。
前のぼくたちの代で旅は終わりで、そのまま宇宙に消えていたかも…。
「そうだろうが。前のお前の寿命が尽きたら、俺たちの旅も其処で終わりだ」
もう食料を奪えはしないし、飢えて死ぬしかないってな。
アルタミラからの脱出直後にそうなりかけたが、前のお前が助けてくれた。
しかし、お前がいなくなったら、もう食料は何処からも来ない。みんな揃って飢え死にだ。
自給自足の船でもないから、そうなるより他に道は無い。
何もかもが全て終わっていたんだ、あの船が無けりゃ。…アルテメシアに行ける白い鯨が。
ハーレイの言葉が示す通りに、元の船ではアルテメシアに潜むことさえ出来なかった。
輸送船だった船は、大気圏内を長く航行するには不向き。行きたいと夢見た地球であっても。
改造案には、その点も漏らさず盛り込まれた。大気圏内を飛べる船にしようと。
けれども、いくら案があっても、本当に改造を始めるためには、船の安全の確保が必要。人類に発見されてしまえば、其処でおしまいなのだから。
「全部お前が決めていたんだ、結局はな」
船の改造の時にしたって、お前が守ると宣言したから、やろうと決まった。
お前があれを言わなかったら、誰も改造しちゃいない。元の船のままだ、最後までな。
これじゃ駄目だと分かっていたって、いつか全てが終わっちまうんだと気付いてたって。
「そうなるの…?」
ぼくが決めたってことになってしまうの、シャングリラを改造するってこと。
改造する間は守るから、って言っただけなのに…。改造しようとは言ってないのに。
みんなが会議で決めたことだよ、船を改造することは。
「会議でも何でも、お前が何も言い出さなくてもだ」
決めて導いていたんだ、お前が。
自分じゃ気付いていなかったとしても、俺たちも、俺たちが乗っていた船も。
お前だったから出来た道案内だ、と言われたけれど。「道案内、得意だっただろ?」とも言って貰ったけれども、前の自分は辿り着いていない。皆で目指そうとしていた地球には。
アルテメシアの雲海に隠れて、其処から追われて飛び立っただけ。地球の座標も掴めないまま。
だから…。
「途中までなら、案内したかもしれないけれど…」
だけど、地球には行けなかったよ?
前のぼくは道案内を途中で放り出しちゃって、最後まで出来ていないから…。
道案内をしたとは言えないよ。「この先は他の人に訊いてね」って、道端に置き去りにするのと同じ。今日の女の子を公園の側に一人で置いてくるとか、そんな感じで。
「それは違うぞ。お前は道案内を投げ出しちゃいない」
地球に行けたジョミーは誰が見付けた?
誰が船まで連れて来たんだ、お前の跡を継いだソルジャー・シンを?
お前だ、とハーレイの瞳が真っ直ぐ向けられる。
いつもお前が導いていた、と。
きっと地球まで、と。
「でも、前のぼくは…」
本当に途中で死んじゃったんだよ、地球なんか見えもしない間に。
地球を見たかった、って思ったくらいに、地球が夢の星でしかなかった頃に。
「死んじまっても、それでもだ」
メギドを沈めて守っただろうが、俺たちを。お前はシャングリラを最後まで守ってくれたんだ。
お前が守ってくれなかったら、あそこで旅は終わっていた。飢え死にじゃなくて、メギドの炎に焼かれちまって。
それに、お前が地球を目指していたから、ジョミーも地球に向かったってな。地球に行かないとミュウの未来は開けやしない、と気付いたからだ。
お前は道案内を放り出したんじゃない。道案内の途中で歩けなくなって、目的地までの行き方を説明しただけだ。この先の道をこう行って、とな。
そうやって教えて貰った道。そいつをジョミーが歩いて行った。俺たちを連れて。
時には悩んで、「どうだったっけ?」と思い出しながら、自分の頭で右か左かと考えながら。
お前が教えた道順がちゃんと合っていたから、俺たちは地球に着けたんだ。
今の時代も言うだろうが。
学校の入学式の時には、「ソルジャー・ブルーに感謝しましょう」と。
学校に通って勉強出来るのも、青い地球があるのも、前のお前のお蔭だとな。
「あれ、褒めすぎだと思うんだけど…」
今の学校でも聞いたけれども、記憶が戻る前だったから…。
ぼく、前のぼくに感謝しちゃった。「ありがとう」って。
だけど今だと、顔が真っ赤になっちゃいそうだよ。褒めすぎなんだもの、恥ずかしくって…。
「俺は正しいと思うがな…?」
褒めすぎてなんかいないと思うぞ、お前は立派に道案内をしたんだから。
俺はお前の側で見たんだ、道案内が得意なソルジャー・ブルーが、どう生きたかを。
もっとも、今じゃ本当の意味での道案内が精一杯のチビなんだが、と微笑むハーレイ。
道に迷った女の子を目的地まで、ちゃんと送り届けたというのがお前らしい、と。
「謎解きみたいな地図だったんだろ?」
その子が持ってた、肝心の地図。どの公園かも分からないくらいの、とんでもないヤツ。
「そうだけど…。誰でも出来るよ、道案内くらい」
この辺りに住んでる人だったら。ぼくでなくても、他の人でも。
「まあな。俺でもその地図、読んでやるんだろうが…」
眺めても意味が分からなかったら、誰か捕まえて訊くんだが…。通り掛かった人とかを。
それで駄目なら、近くの家だな。チャイムを鳴らして、出て来た人に訊くってな。こういう道を知りませんかと、多分、近所の筈なんですが、と。
そうすりゃ分かるし、俺だってその子を連れて行ってやることは出来るんだが…。
やっぱりお前らしいと思うぞ、道案内をしたというのは。
前のお前は、途方もなく長い地球までの道を、最後まで案内したんだからな。
「そうなのかな…?」
ぼくには少しも自信が無いけど、本当にちゃんと案内出来た…?
途中で分からなくなってしまって、「誰かに訊いてね」って逃げ出さなかった…?
「逃げちゃいないさ、お前はな」
さっきも言ったろ、ちゃんとジョミーに教えたと。地球までの道と、行き方をな。
前のお前は頑張ったんだが…。
誰にも真似なんか出来ないような、それは凄くて立派な道案内をしたんだが…。
今のお前の道案内は、迷った女の子を送り届ける程度でいいな、とハーレイが瞑った片目。
お前らしいが、その程度でいい、と。
「今度は俺が案内するから、お前は家の近所にしておけ」
この家から歩いて行ける程度の、道案内だけでいいってな。
「道案内って…。ハーレイが?」
いったい誰を案内するの、ぼくの代わりに?
ぼくは思念波、ちっとも上手に紡げないんだし…。ハーレイを呼ぶの、無理なんだけど…。
代わりに案内してあげて、って呼ぼうとしたって出来ないんだけど…。
「俺が案内するヤツか? わざわざ俺を呼ばなくてもいいぞ」
最初からお前の隣にいるから、呼ばなくてもちゃんと聞こえてる。
ついでに俺が案内するのは、お前だ、お前。
ドライブでも、旅でも、お前の側には俺がいるだろうが。…いつでもな。
行き先が分からなくなってしまったら、俺に任せてくれればいい。
俺が案内してやるから。いざとなったら誰かに訊くとか、方法は色々あるんだから。
お前は俺に尋ねればいい、と優しい言葉を貰ったから。道案内をして貰えるから。
前の自分が頑張ったらしい道案内は、今度はハーレイに任せておこう。
何処へ行く時も、初めての場所を歩く時にも。
「それじゃ、お願い。…ハーレイに全部、任せちゃうから」
此処に行きたいけど、どうしよう、って。…どうやって行けばいいんだろう、って。
「それでいいんだ、俺は責任重大だがな」
「二人一緒に迷わないように?」
おんなじ所をグルグルするとか、違う方向に行っちゃうだとか。
「そういうこった。しかし、俺だって元はキャプテンだしな?」
進路を読むってヤツは得意だ、と頼もしいハーレイ。多分、キャプテンだったからではなくて、今のハーレイも得意なのだろう。記憶が戻る前から、きっと。地図を片手に歩くことが。
だから大きくなった時には、ハーレイに任せて、歩いたり、旅やドライブをしよう。
道案内はして貰えるから。
もしも迷っても、ハーレイが訊いて、正しい道を見付けてくれるから。
二人一緒に、見付けた道を進んでゆこう。初めての場所へ、知らない道を。
「こっちだよね」と微笑み交わして、歩く時には手をしっかりと握り合って…。
道案内・了
※小さな子供の道案内をしたブルー。前のブルーは、もっと凄い道案内をしていたのです。
ミュウたちを地球まで送り届けるために、案内した道。ソルジャー・シンにも道を教えて…。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(ハーレイの椅子…)
ふと、ブルーの目に留まった窓際の椅子。学校から帰って、おやつを食べて戻った部屋で。
テーブルとセットで置かれた二脚の片方、二脚とも同じデザインのもの。どっしりと重い、木で出来た椅子。背もたれの部分は籐で編まれて、それを木枠が取り巻いている。
座面は淡い苔の緑色、前のハーレイのマントの色を薄めたような優しい緑。ハーレイに似合うと思うけれども、「ハーレイの椅子」は、そういう意味ではなくて…。
(たまにはいいよね?)
こっち、と座ってみたハーレイの椅子。いつもハーレイが腰掛ける側。二つの片方、ハーレイが座るための椅子だから「ハーレイの椅子」。「ハーレイの席」ともいうべき場所。
其処に座ってキョロキョロ部屋を眺め回して、それから向かいの自分の椅子へ。テーブルの横を回り込んで。チョコンと座ってみた感じでは…。
(どっちも、おんなじ…)
見えるものはともかく、椅子の座り心地。ハーレイの椅子は、ほんの少しだけ、座面がへこんでいるのだけれど。
(ハーレイは重いし、ぼくが膝の上に乗ったりもするし…)
そのせいでクッションの厚みが変わった。自分が座っている椅子に比べて、本当に少し。座ったくらいでは分からない程度、見比べて気付くか、気付かないか。
僅かな違いしか無い椅子なのに、ハーレイの椅子の方が胸が高鳴る。腰掛けた時に。
(もう一度…)
ちょっとだけだよ、とハーレイの椅子に戻って座ってみて。
それから自分の椅子に戻って、また「ちょっとだけ」とハーレイの椅子へ。満足するまで交互に座って、嬉しくなった。「どっちもぼくの椅子だもの」と。
ハーレイの椅子も自分の持ち物、この部屋にある椅子だから。ハーレイの椅子と呼んでいても。
二脚の椅子は、両親が買ってくれたもの。テーブルとセットで、来客用にと。
買って貰った時は立派過ぎると思ったけれども、今では自分にピッタリのもの。来てくれる人が出来たから。前の生から愛した恋人、ハーレイが座るのに丁度いいから。
テーブルも椅子も、大人のハーレイには良く似合う。チビの自分には立派過ぎても。
(いつかは持って行くんだから…)
ハーレイの椅子を、ハーレイの家へ。
結婚して二人で暮らす時が来たら、この椅子たちも連れてゆく。いつも二人で座った椅子。間に挟んだテーブルもつけて、沢山の幸せな思い出ごと。
(ハーレイの家でも、ちゃんと二人で座るんだよ)
何処に置くかは分からないけれど、きっとハーレイが素敵な場所を見付けてくれる。椅子たちも居心地が良さそうな場所を。「此処がいいぞ」と運んでくれて。
(引越し屋さんにトラックで運んで貰っても…)
この辺に、と頼んで椅子とテーブルを置いて貰っても、「こっちの方が…」と楽々と持ち上げ、運んでしまいそうなハーレイ。「俺は此処だと思うがな?」と、テーブルも椅子も。
(ハーレイの家は、ハーレイが一番分かってるものね?)
椅子もテーブルも、着いたその日にまた引越しだよ、と可笑しくなる。そうでなければ、何日か経ってから突然に。
「この場所も悪くないんだが…」とハーレイが椅子を抱え上げて。「此処なんかどうだ?」と、別の場所へと運んで行って。「お前も此処に座ってみろ」と、「こっちの方が良くないか?」と。
きっとそうなることだろう。テーブルも椅子も、似合いの場所を決めて貰って。
その光景が目に浮かぶようだから、ふふっ、と笑って立ち上がった。椅子たちの未来。
(ハーレイの椅子も、ぼくの椅子も、一緒にお引越し…)
最初はハーレイの家に引越して、次はハーレイの家の中で。部屋から部屋へと引越しして。早く見てみたい椅子たちの引越し、まずは梱包されるのだろう。この家から運び出すために。
(まだまだ先の話だけど…)
結婚出来る年でもないし、と勉強机の前に座った。ストンと、其処に置かれた椅子に。
勉強や読書に使っている椅子、その椅子から窓辺の椅子を眺めて…。
(ぼくの椅子が三つ…)
全部で三つ、と数えて幸せな気分。三つの椅子のどれにも思い出、幸せな日々も詰まった椅子。
それにベッドにも座っていいから、この部屋には…。
(椅子が四つも…)
あるんだものね、と弾む胸。ただ椅子があるというだけなのに、もう嬉しくてたまらない。
一つ、二つと椅子を数えて、「やっぱりベッドは椅子じゃないかな」と思ってみたり。
どうなのかな、とベッドに座りに出掛けて、「違うかな?」とポンと叩いて…。
(椅子とベッドは見た目が違うし…)
椅子は全部で三つだよね、と戻った勉強机の前。元通りに椅子に座った途端に…。
(あれ…?)
不意に掠めた、ドキドキしながら椅子に座っていた記憶。これはぼくの椅子、と胸を弾ませて。
遠い遠い記憶で、おぼろげなもの。自分は椅子に座っているだけ。
(前のぼく…?)
あれは青の間での出来事だろうか、立派な椅子を貰ったから。やたらと広くて大きすぎた部屋、青の間に釣り合う椅子やテーブル。
でも…。
(ぼくの心、もっとドキドキしてた…)
そういう記憶。今と同じに子供の心で、腰掛けて「ぼくの椅子だよ」と。
(なんで…?)
どうしてドキドキしていたのだろう。子供の心だった頃なら、特に立派でもなかった椅子。船に元からあった椅子だし、平凡なもの。
誰の部屋にもあったような椅子が部屋に二つだけ、最初は一つ。部屋に備え付けの椅子は一脚、それをそのまま使っていた。椅子は椅子だし、座れればいいから。
(後で、もう一個貰って来て…)
二つになった部屋の椅子。
ハーレイが来た時に座れるように、と貰った二つ目。それを貰うまでは、ハーレイと二人で話す時には、ベッドを椅子の代わりにしていた。一人しか椅子に座れないのでは落ち着かないから。
一人は椅子で、一人はベッドを椅子代わりに。
ベッドの方に座っていたのは、自分だったり、ハーレイだったり。
二人並んで、ソファのように使っていたこともあった。ベッドに背もたれは無いのだけれど。
そんな具合だから…。
(二つ目の椅子が嬉しかった…?)
ドキドキしたのは、そのせいだろうか。今の自分と同じくらいに、心も身体もチビだった頃。
やっとお客様用の椅子が出来たから。
椅子の代わりにベッドを使わなくても、ハーレイと二人で座れるから。ちゃんとした椅子に。
そうなのかな、と考えたけれど。きっとそうだと思ったけれど。
(ぼくの分…?)
さっきよりもハッキリしてきた記憶。「自分用の椅子だ」と弾んだ心。自分用ならば、一つ目の椅子。最初から部屋に置かれていた椅子だから…。
(何か特別…?)
平凡な椅子で、自分で選んだわけでもないのに。部屋にあったものを使っただけなのに。
わざわざ誰かが運んでくれた椅子だったならば、少しは事情も変わるけれども。
(ただの椅子だよ…?)
これとあんまり変わらないかも、と今の自分の椅子を眺める。勉強机で使うための椅子を。
座り心地は悪くないけれど、シンプルな椅子。窓辺の来客用とは違って、立派ではない。
(あっちみたいな椅子だったんなら、分かるけど…)
普通の椅子で何故、あんなに心が弾んでいたのだろう?
自分用だと御機嫌で腰掛けていたのだろうか、本当にただの椅子だったのに。
(椅子なんて…)
何処にでもあるし、珍しくもない家具なんだけど、と思った所で気が付いた。椅子は違う、と。
そうじゃなかったと、椅子は特別だったんだ、と。
(…アルタミラ…)
前の自分が長い年月、閉じ込められていた研究所。心も身体も成長を止めて。
あそこでは檻で暮らしたけれども、檻には無かった椅子などの家具。
檻だけがあった、狭くて何も無い檻が。自分用の物があったと言うなら、ただ、檻だけ。
椅子も机も無かった場所。床に転がるしかなかった檻。ベッドさえも持っていなかったから。
アルタミラがメギドの炎に滅ぼされた時、
皆で乗り込んだ宇宙船。生き残るために、燃え上がる星を後にした。壊れ、砕けてゆく星を。
命からがら脱出して、直ぐに貰った部屋。一人用の個室。
空き部屋は船に幾つも備わっていたから、その日の内に。「此処を使え」と。
後にシャングリラと名付けた船は、元々は輸送船だった船。あれで脱出した仲間たちは多くて、本当は足りていなかった個室。人数分の部屋は無かった。
けれど、アルタミラの檻で味わった恐怖に加えて、脱出の時の地獄のような光景。空までが炎で赤く染まって、大地はひび割れ、燃えて崩れていったから…。
とても一人ではいられない、と個室を嫌った者が殆ど。区切りさえ無い部屋で皆で雑魚寝でも、その方が心が落ち着くと。毛布などがあれば充分だから、と。
特に希望を出さなかった者だけが個室になった。前の自分がそうだったように。
(部屋の割り振り…)
誰がしたのかは覚えていない。多分、関心も無かったのだろう。
何も注文をつけなかったから、ハーレイの部屋とは隣同士にならなかった。二人部屋もあったと思うけれども、同じ部屋にも入らなかった。前の自分も、ハーレイも個室。
部屋同士の距離は近かったけれど。別のフロアに分かれることも無かったけれど。
(じゃあね、って…)
脱出した日に、皆で食べた非常食ばかりを集めた食事。それでもパンはふわりと膨らみ、温かい料理も食べられた。アルタミラでは餌と水しか無かったのに。
その食事の後、ハーレイと別れて入った部屋。「此処だ」と教えて貰った個室。足を踏み入れ、ベッドがある、と嬉しくなった。眠るためだけに使う家具。
そのくらいの記憶は残っていたから、「もう床じゃない」と喜んだ。夜はベッドで眠れる生活、それを手に入れられたのだと。
サイオンを使いすぎて疲れ果てていたから、シャワーを浴びて戻った後には倒れ込んだベッド。もう恐ろしい日々は終わりで、ゆっくり眠っていいのだから。
疲れた身体に引き摺られるように、沈んでいった眠りの淵。夢も見ないでぐっすり眠って、目を覚ましたら…。
(檻じゃなくって、ぼくのための部屋で…)
自分だけの部屋が周りにあった。檻よりもずっと広い部屋。ベッドの他に椅子も見付けた。一つだったけれど、自分用の椅子。好きに座ってかまわないもの。
(椅子まであるんだ…!)
ベッドだけじゃなくて、と嬉しくて早速、座ってみた。檻には置かれていなかった椅子に。
弾んだ心は、その時の記憶。「ぼくの椅子だ」と、胸をドキドキさせて。
(本当に、ただの椅子だったのに…)
椅子があることが夢のように思えて、座ったり立ったり、椅子無しで床に座ってみたり。椅子のある生活を楽しみたくて。椅子はこんなに素敵なのだと、一人ではしゃいで。
「朝飯だぞ」とハーレイが呼びに来てくれるまで。「今、行くよ」と返事して立ち上がるまで。
それほどに胸が高鳴った椅子。自分のものだ、と喜んだ家具。
(ベッドは寝転ぶ場所だけど…)
のんびり転がってゴロゴロ出来るし、眠る時には心地良い家具。ベッドが自分にくれる安らぎ、それも大好きだったのだけれど、椅子は特別。もっと人間らしい家具。
椅子は座れる場所だったから。座るためだけの家具だったから。
眠るだけなら、ベッドが無くてもなんとかなった。檻の中でも、床で眠れた。柔らかなマットや枕が無いだけ、固い床しか無いというだけ。
檻でも充分、眠れたけれども、座ることは出来はしなかった。椅子というものに。
座るための場所は、床があるだけ。床にペタリと腰を下ろして座る以外に無かった方法。
(椅子みたいなのは…)
実験でならば座らされたけれど、椅子ではなくて実験器具。
突き飛ばされるようにして腰掛けたら直ぐに、手足を拘束されていた。椅子のようなものに。
そうして始まる人体実験、拷問でしかなかったもの。
(あんなの、椅子って言わないよ…)
苦痛を運んでくるだけのもので、苦しかっただけの椅子に似たもの。
本物の椅子は檻には無かったのだし、座れる場所は固い床だけだった。どれくらいの歳月を檻で過ごして、床に座っていたのだろう?
椅子を持たずに生きていたろう、あの狭苦しい檻の中で。
やっと貰えた自分用の椅子。好きな時に座れる、人間らしい暮らしをさせてくれる家具。
それが自分のものになった、と前の自分は大はしゃぎだった。「ぼくの椅子だ」と。
何度も座ったり、立ったりした椅子。初めて貰った自分用の椅子。
ベッドよりもずっと素敵に思えて、座ったままウトウトしていたくらい。此処でも眠れる、と。
(その内に慣れて、忘れちゃったけど…)
当たり前のものになってしまったけれども、一番好きだった家具かもしれない。シャングリラと名付ける前の船では。実験動物ではなくて、人間として暮らし始めた頃は。
そういったことを考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。いつもの椅子に腰を下ろした恋人に。
「あのね、椅子のこと覚えてる?」
「はあ?」
椅子って…。どの椅子だ、前に持って来てやったアレか、キャンプ用の椅子か?
テーブルとセットで何度か持って来てたが、今は白いのになっちまったしな、庭の椅子は。
「それじゃなくって、最初の椅子だよ」
前のぼくたちの、一番最初の。…ハーレイも持っていたじゃない。
「なんだ、そりゃ?」
最初の椅子って、キャプテンの席のことなのか?
「もっと前だよ、アルタミラから逃げ出して直ぐ…。貰った個室に椅子があったよ」
あの椅子だってば、最初の椅子。アルタミラの檻には無かったでしょ?
椅子なんか入れて貰ってないから、座れる場所は床だけで…。
「そういや、そうだな…」
ベッドも無かったし、家具なんてヤツは一つも無かった。…あの檻にはな。
人間扱いしちゃいない、っていう研究者どもの態度が表れてたなあ、そういうトコにも。
家具無しだなんて動物並みだ、とハーレイが顰めてみせる顔。あの檻は酷いモンだった、と。
「無事に逃げ出せたお蔭で、家具のある生活に戻れたってな」
人間らしくベッドで眠って、枕も毛布も…。檻だった頃とは大違いだ。
「でしょ? それでね、ぼくはとっても嬉しかったよ、あの椅子が」
ぼくの椅子なんだ、ってドキドキしてた。何度も立ったり座ったりしたよ、初めての椅子。
「椅子って…。そんなにか?」
お前、それほど椅子があるのが嬉しかったのか…。あんな平凡な椅子ってヤツが。
「うん。ハーレイは?」
ぼくね、あそこの椅子に座ったはずみに思い出しちゃって…。椅子を貰った時のことを。
ハーレイも嬉しかった筈だよ、個室だったから椅子もついていたでしょ?
「ついてたが…。俺の場合は、どちらかと言えばベッドの有難さで…」
椅子もあるな、と思いはしたが…。ベッドの方が素敵に見えたな。寝る場所が出来た、と。
「そうだったの?」
椅子よりもベッドが気に入ってたんだ、前のハーレイ…。
みんな同じだと思ったのに…。椅子があるなんて、とても人間らしいのに…。
「ベッドも充分、人間らしいぞ。床で寝なくていいんだから」
今夜からベッドで眠れるんだ、と思ったらワクワクしたもんだ。もう王様の気分だってな。城は無くても、贅沢なベッドを手に入れた、と。
ベッドの方がいいと思うか、椅子の方がいいと感じるか…。
俺とお前の考え方の違いではなくて、檻にいた年数の違いなのかもしれないな。
お前、とんでもなく長く檻にいたから。…俺とは比較にならんくらいに。
ずっと檻の中で暮らす間に、忘れちまっていたんだろう、と言われた椅子。
座るための椅子の存在を。座る時には椅子を使うと、床に直接座るのではないということを。
「忘れちまっていたんだったら、椅子ってことにもなるだろうなあ…」
人間扱いされているんだ、と感じる家具。…昔は椅子に座ってたことを、椅子を見るまで綺麗に忘れていたんなら。椅子が記憶から消えていたなら。
そりゃあ大切に思うんだろうな、文化的な暮らしが出来るんだから。人間らしく椅子に座って。
「…ハーレイは椅子を覚えてた?」
椅子を使って座っていたこと、ハーレイはちゃんと覚えていたの…?
「多分な。ベッドの方を嬉しく思う程度には」
椅子はオマケだ、ベッドつきの部屋とセットで来たオマケ。あれば便利で、それだけのことだ。
座るだけなら、ベッドで充分、間に合うんだし…。無くても別に困らないしな?
「そうなんだ…。ハーレイがそうなら、他のみんなも椅子よりもベッド…」
ゼルもヒルマンも、ブラウもエラも。あの船の仲間は、きっと全員、ベッドだよね…。
椅子かベッドか、どっちが素敵な家具だったのかを尋ねたら。
…椅子って言う人、いそうにないよね。床で寝るより、ベッドの方がいいもんね…。
「お前、つくづく酷い目に遭ったな」
椅子まで忘れてしまうくらいに、ずっと檻の中か…。
そりゃあ成長も止まっちまうな、心も身体も。育っても何もいいことは無いし、檻の中だし…。
可哀相にな、ベッドよりも椅子だと思ったなんて。
俺たちに椅子を寄越さなかった、研究者どもが悪いんだが…。床だけあれば充分だろう、と。
動物には家具を与えなくても、餌と水だけでいいと思っていやがったんだ。あの連中は。
囚人にだって椅子はあるもんだが…、とハーレイがついた大きな溜息。
今の時代は囚人はもういないけれども、人間が地球だけで暮らしていた頃。囚人の扱いは相当に酷く、扉もすっかり塗り込めることがあったほど。食事を差し入れる窓だけを開けて。
「そういう所に放り込まれて、死ぬまで外には出られなかった囚人もいたんだが…」
椅子くらいは持っていたそうだ。寝るためのベッドと、座るための椅子と。
よほどの酷い牢獄でなけりゃ、囚人にも椅子はあったってな。死刑が決まっている囚人でも。
前の俺たちは囚人以下だ。…人間扱いされちゃいないし、実験動物そのものだな。
いや、待てよ…。椅子が無いのが普通だっていう国もあったか、昔だったら。
「えっ?」
椅子が無いのが普通だなんて…。何処の国なの、うんと貧しい国だったとか…?
「貧しいから椅子が買えないんじゃない。要らないから持っていなかった」
古典の世界だ、昔の日本。俺が授業で教えているだろ、貴族がのんびり平和に暮らしてた時代。平安時代だ、あの時代に椅子はあったのか?
「えーっと…。引き摺りそうな着物のお姫様とかがいた時代だよね?」
あの時代に椅子って…。無かった…かな?
椅子に座ったお姫様の絵は、そういえば一度も見たこと無いかも…。
「まるで無かったってこともないんだがな」
立派な椅子は作られていたが、普段の暮らしに使うんじゃなくて儀式用だな、あの頃の椅子。
一番偉い帝だけが座って、他の人間は使わなかった。椅子があっても無いのと同じだ。
誰も使いやしないんだから。…椅子という物を知っていたって、全く活用しないんじゃな。
帝しか座らなかった椅子。子供が帝だった時には、椅子に上るための専用の踏み台が使われた。それだけでも分かる、儀式用の椅子だということ。普段の暮らしに使う椅子なら、子供用の椅子を作ったろうから。踏み台を作って据える代わりに。
「そっか…。椅子はあっても、使わないんだね」
椅子があったら座りやすいと思うけど…。床に座るより椅子だと思うよ、長い時間なら。
前のぼくでも、椅子で感激してたのに…。椅子があるのに使わないなんて、なんだか不思議。
平安時代の日本人なら、あの檻でも平気だったのかな?
ベッドも無かった文化なんだし、椅子も無いなら、あの檻の中でも大丈夫かも…。
「狭すぎるとは思うんだが…。平安時代の貴族の家はデカくて、仕切りが殆ど無かったからな」
しかし、檻には空調もあったし、考えようによっては天国かもな。
実験と餌ってヤツさえなければ、あれでも立派な家かもしれん。
殺風景でも、うんと狭くても、凍えはせんしな?
貴族はともかく、あの時代の貧しい人間からすれば、きっと本当に天国だぞ。
「檻なんだけどね…。実験動物用の」
「その実験と不味い餌さえ無ければ、だ…。貴族でも入りたがるかもしれんな」
空調システムが故障しなけりゃ、温度はいつでも適温だ。暑すぎもしないし、寒すぎもしない。
寝苦しい夜や寒すぎる日には、「入れて欲しい」と言い出すヤツが多そうだ。
多少狭くても、住めば都と言うんだから。
「うーん…」
空調とかが無かった時代なんだし、それだけでも羨ましがられそう…。
ベッドや椅子はついてないけど、元から使っていなかったんなら、平気かな…。
前のぼくたちは、椅子とベッドの暮らしに慣れていたから、あの檻、相性が悪かっただけで。
人体実験も不味い餌もなくて、其処で暮らすというだけならば。檻でも良かったかもしれない。狭い檻には、ベッドも椅子も無くて床だけでも。
けれども、誰とも会えなかった檻。言わば独房、話し相手もいなかったから…。
「ねえ、ハーレイ。前のぼくたちが入れられてた檻…」
もしも自由に出歩けていたら、他の檻の仲間と話が出来たら…。
ベッドも椅子も無いような檻でも、気分、少しは違っていたかな…?
出歩いた後は檻に入って、大人しくしてなきゃいけなくても。…自由時間が少しあったら。
「多分、違っていたろうな」
人体実験と餌の毎日でも、ホッと一息つける時間があったなら…。仲間同士で愚痴を零せたら。
しかし、人類はそいつを認めはしないな、なにしろ相手はミュウなんだ。
ミュウ同士だと、相乗効果でサイオンが強くなるわけだが…。それが無くてもヤツらは許さん。
一人一人は弱いミュウでも、何人か寄れば、考えを纏め始めるからな。
檻にポツンと一人でいたんじゃ、思い付かないようなアイデアってヤツも湧いて来る。ついでに勇気百倍ってトコだな、仲間がいれば。
反乱なんかも考えついたりするだろう。一人じゃ無理でも、何人かいれば、と。
そうならないよう、一人ずつ閉じ込めてあったんだ。誰とも接触出来ないように。
「…その効果、ホントにあったよね…」
顔見知りの仲間は誰もいないし、話したことさえ一度も無かったわけだから…。
前のぼくたち、メギドで星ごと滅ぼしてやるって言われても…。
シェルターに纏めて入れられちゃっても、出るための方法、相談しようともしなかったし…。
「何も出来なかったろ、死んじまうんだと分かっていても」
お前がシェルターをブチ壊すまでは、みんな諦めちまってた。…前の俺もな。
あそこでお前が膝を抱えて諦めていたら、何もかも終わりだったんだ。
額を集めて話し合えるような関係を俺たちが築いていたなら、また違ったかもしれないが…。
あれだけの仲間が力を合わせてぶつけていたなら、シェルターを壊せたかもしれないんだがな。
「そうかもね…」
みんなが必死に頑張っていたら、壊せたかも…。此処だ、って一ヶ所に力を集中させたら。
きっと出来たのだと思う。前の自分が壊したシェルター、それを内側から壊すくらいは。全員が力を合わせていたなら、扉くらいは吹き飛んだ筈。
けれど、幾つもあったシェルター。大勢の仲間が閉じ込められていたのだけれども、自分たちの力で脱出した者はいなかった。前の自分とハーレイが行くまで、皆、シェルターに入っていた。
駆け付けた時には、壊れてしまっていたシェルターも幾つもあった。
入れられた者たちが脱出を試みたならば、そうなる前に逃げ出せたろうに。シェルターごと命を失くす代わりに、外へ出ることは出来ただろうに。
(…みんな、知り合いじゃなかったから…)
纏め上げようという者もいないし、纏まろうとも考えない。自分の隣や前や後ろにいる者たち。それが誰かも分からないのだし、あの状況では自己紹介など始めないから。
(知らない人だ、っていうだけで…)
人間は声を掛けにくいもの。まるで知らない人間には。
前の自分たちを一人ずつ檻に閉じ込めた人類、彼らのやり方は正しかったと言えるだろう。
星ごと滅ぼされそうになっても、団結を知らなかったミュウたち。
そうなることを知っていたから、人類はミュウをシェルターに閉じ込め、自分たちは宇宙へ逃げ出して行った。あの種族はもう滅びるだけだと、計算ずくで。
首のサイオン制御リングも、そう読んだ上で外して行った。それが無くなっても、ミュウたちは何も出来ないから。一人ずつ自分の殻に籠って、震えることしか出来ないから。
希少な金属を使用していた、サイオンを制御するリング。
ミュウたちと一緒に焼き滅ぼすには惜しいものだから、人類はそれを回収した。きっと何処かで売り飛ばしたろう、凄い値をつけて。皆で山分けしたのだろう。
ミュウは滅びたに決まっているから、もう要らないと。売ってしまってかまわないと。
彼らの計算が正しかったから、救えなかった仲間たちがいた。シェルターの扉を壊すサイオン、それを纏めることが出来ずに。
前の自分とハーレイが懸命に駆け付けた時には、シェルターごと瓦礫や地割れに飲まれて。
もしも交流があったとしたなら、もっと早かっただろう行動。何をすべきか、皆で考えて。
前の自分が一人でシェルターを壊さなくても、皆の力で扉を壊して、外へ逃れて。
「…人類の計算、合っていたけど…。誰も逃げようとしなかったから…」
逃げるつもりで頑張っていたら、シェルターごと潰されたりはしないで、生き残れたのに…。
ぼくとハーレイが間に合わなくても、ちゃんと逃げられた筈なのに…。
どのシェルターでも、みんな、閉じ込められていただけ。ぼくたちが扉を開けに行くまで。
そういう仲間しかいなかった割に、あそこからの脱出、上手くいったね。
船はこっちだ、って見付けて離陸の準備をしてたり、逃げて来る仲間を誘導したり。
「一人残らずミュウだったからだ」
シェルターから出られりゃ、余裕も出て来る。出られたんだから、逃げてやろうと。
生きようって気力が湧いて来たなら、サイオンも自然と使えるってな。元々持ってる力だけに。
思念波を飛ばせば、自己紹介なんかは一瞬で済む。
一人が気付けば後は早いぞ、こうやって知り合いを増やせばいいと。みんな仲間だと。
俺とお前がシェルターを開けようと走ってる内に、逃げたヤツらは信頼関係を築いてたってな。
誰が誰かもちゃんと分かるし、得意分野も当然、分かる。
船を見付けて準備したヤツらは、そういうのが得意だったんだ。動かしたこともないような船を前にしたって、なんとかしようと思える連中。
もっとも、基本の知識が無いから、手順通りに実行するしかなかったが…。
そのせいで乗降口を閉めずに離陸しちまって、ハンスの事故が起こってしまったんだがな…。
だが、俺たちはアルタミラから脱出できたんだ、というハーレイの言葉に間違いはない。互いに思念波を遣り取りしての交流、それを始めたら早かった。理解し合うことが。
船で宇宙へ逃げ出してからも、役に立ったのが思念波の存在。
「ぼくたちの部屋割、あの日の内に出来ちゃったのも…」
誰がどういう人間なのか、船のみんながきちんと分かっていたからだものね。
個室を貰っても平気なタイプか、毛布や枕をかき集めて来て何人もで固まっている方が好きか。
「うむ。実に便利な能力だったな、ああいう時にも」
人類ばかりの船だったならば、そうそう上手くはいかないぞ。あれだけの人数なんだから。
全員が納得出来る部屋割、人類には多分、無理だったろう。その日の間に決めちまうなんて。
ミュウだったからこそ、直ぐに決まって、椅子もベッドも貰えたわけだな。
個室でもいい、と思ったヤツらは、もれなくベッドと椅子つきの部屋で。
「…あの時の部屋割…。ハーレイの隣にすれば良かった…」
決めてしまう前に頼んでいたなら、隣同士だったと思うんだけど…。
ぼくたちの部屋は同じフロアだったし、ぼくの隣の仲間とハーレイの部屋を取り替えていても、何も問題はなかったのに。
ハーレイはまだキャプテンとかじゃないんだもの。きっと通った筈なんだよ。…注文すれば。
「俺も、どうして言わなかったんだか…」
チビのお前は言いに行くのに、勇気が必要だったかもしれないが…。
俺にしてみりゃ、部屋割を決めてたヤツらも同じ年頃の仲間なんだし、割り込むくらいは簡単なことで…。横から「ちょっといいか?」と言えば良かったんだよな、俺の部屋割。
お前の隣の部屋にしてくれと、友達だからと、一言、頼んでおいたらなあ…。
失敗だった、とハーレイも自分も思うけれども、隣同士ではなかった部屋。貰った個室。椅子とベッドが備え付けられた部屋は、多分、ほど良い距離だったのだろう。
ハーレイと二人、お互いの部屋に招いて、招かれて過ごしていた。お互い、二つ目の椅子も用意して、来客に備えて。
前の自分が好きだった椅子。人間らしいと思った家具。…すっかり忘れていたけれど。
そして今では、自分のための小さなお城に椅子が三つもあるものだから…。
「えっとね…。前のぼく、部屋に置く椅子を増やしてたけど…」
ハーレイが座る椅子が欲しいな、って二つ目の椅子を貰いに行ったんだけれど…。
今のハーレイの家にも、椅子を増やしてもいい?
前にも頼んでいるけれど…。椅子を二つほど。
「椅子を二つか…。この椅子だろ?」
俺とお前が座っている椅子、こいつを持ってくるんだな?
お前が俺の嫁さんになる時は、この椅子も一緒にやって来る、と。
「そう!」
ハーレイの家に引越すんだよ、椅子と、それからテーブルも。
これにピッタリの場所を見付けて、ハーレイの家でも二人で座っていたいから…。
そっちの椅子がハーレイの椅子で、こっちがぼくの。
ハーレイの家に引越した後も、いい場所があったら、ハーレイ、運んでくれるよね?
引越し屋さんに置いて貰った場所より、素敵な場所が見付かったら。
「もちろんだ。…季節に合わせて引越しもいいぞ」
眺めのいい部屋とか、落ち着く部屋とか。
何処にだって俺が運んでやるさ。前のお前と椅子の話を聞いちまったら、尚更だってな。
任せておけ、とハーレイは約束してくれたから、この椅子たちはいつか引越しをする。
ハーレイと二人で暮らす家まで、大切に梱包して貰って。他の色々な荷物と一緒に。
この椅子たちをハーレイの家に増やして、置いて。
そしてハーレイの家にある椅子にもストンと座ろう、幸せな気分で。
これも今日からぼくの椅子だよ、と。
ぼくをよろしくと、これから一緒に暮らすんだから、と椅子にも挨拶をして。
ハーレイの家にある椅子の全部に、自分を紹介して貰おう。
「俺の嫁さんだ」と、「よろしくな」と。
それが済んだらハーレイと二人、どの椅子に座って話そうか。
手を繋ぎ合って歩く幸せな未来、これから歩いてゆく道にあるだろう夢を。
何をしようか、何処へ行こうかと、二人、いつまでも、尽きることのない幸せな夢を…。
座れる椅子・了
※今のブルーが持っている椅子たち。けれど、前のブルーが檻にいた時には、無かった椅子。
ベッドよりも椅子を嬉しいと思ったくらいに、過酷だった日々。今では座れる椅子が幾つも。
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