忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 さて…、とハーレイが皆を見回した古典の授業。小さなブルーも座っている教室。
 昼間だが怖い話でもするか、と。
「今は怪談の季節だからな。シーズンにピッタリというヤツだ」
 職業柄、怖い話は山ほど知ってる。どんなのが聞きたい、怖くて眠れなくなるようなヤツか?
 シーズンだしなあ、とびきり怖いのを話してもいいぞ。
「間違ってると思いますが!」
 今が怪談の季節だなんて、と声を上げたクラスのムードメーカーの男子。怪談の季節はとっくに終わっているから、ハーレイ先生は間違えてます、と。
「間違えてるだと? それはお前だ、間違ってるのはお前の方だ」
 だが…。お前だけでもないんだろうなあ、間違えてるのは。
 よし、怪談の季節は夏だと思うヤツは手を挙げろ。俺が数えるから。
 夏なヤツは、と訊かれてサッと挙がった何人もの手。もちろんブルーも。
(…夏だもんね?)
 見回してみたら、全員の手が挙がっていたからホッとした。ぼくだけじゃない、と一安心。
 けれど、ハーレイの方は「ふうむ…」と腕組みをして。
「みんな揃って夏だと来たか。何処で訊いてもこうなるんだが…」
 間違ってるのは俺の方だと言い返されるのも、定番なんだが…。怪談は夏のものだとな。
 作られたイメージは今も健在ってことか、SD体制の時代は遠い昔のことなんだが。
「え?」
 クラス中がキョトンと見開いた瞳。SD体制の時代とは、いったいどういう意味だろう?
 遥かな昔に機械が統治していた世界。機械が作った偽の情報を誰もが信じた時代。当時は死の星だった地球が青いと思い込まされたり、血縁の無い親子関係が普通なのだと思っていたり。
 その時代はとうに過去のものになって、支配していたマザー・システムも壊された後。
 なのにどうして、作られたイメージが今も残っているのだろう?
 しかも怪談の世界なんかに、SD体制の名残などが。



 変だ、と誰もが首を傾げる中、ハーレイは「マザー・システムは無関係だぞ?」と前のボードをコンと叩いた。俺の話とSD体制は関係無い、と。
「似てるトコはだ、作られたイメージを信じ込んでる所だな。怪談は夏のものなんだ、と」
 だが、間違えて覚えてるのもいいことだ。
 SD体制が消しちまってた、日本の文化が復活している証拠だからな。怪談は夏だ、というのは日本の文化の一つだ。他の地域じゃ、特に夏とは言わないんだから。
 ついでに日本も、昔は夏とは決まってなかった。
 …百物語というのがあるだろ、集まって怖い話を披露するヤツ。百話目を語り終わった途端に、本物の化け物が登場すると言われているが…。
 百話だぞ、百話。それだけの怪談を繰り広げるなら、夜の時間が長くないとな?
 夏は日暮れが遅いものだし、夜明けも早い。そんな季節にやっているより、時間がたっぷりある季節の方が雰囲気が出る。だから、元々は春雨の夜や、秋の夜長が怪談の季節だったんだ。
 つまり今だな、秋は怪談のシーズンだった。ずっと昔の日本ではな。



 ところが、とハーレイがボードに書いた「歌舞伎」の文字。江戸時代に流行った歌舞伎のことは授業で教わる。後の時代まで愛された芝居。
「こいつが季節を変えちまったんだ、怪談の。…歌舞伎は年中、やってたわけだが…」
 夏になったら、芝居小屋の入りが悪くなる。今と違って冷房が無いから、人の集まる所なんかに行きたくないのが人情ってモンだ。
 どうせお客は来ないんだから、と人気役者も休みを取ってた。そうなると残るのは若手だろ?
 自分たちの人気では客を呼べんし、ただでも客が来ない季節だし…。
 なんとか人を呼べないものか、と目を付けたのが怪談だった。大掛かりな仕掛けや、本物の水。そういったものを派手に使って、怖い芝居をやったわけだな。
 そいつが人気を集めたもんで、夏に怪談をやることになった。客の方でも、夏は怪談を楽しみに出掛けてゆくって寸法だ。芝居小屋へと。
「へええ…。それで怪談は夏なんですか…」
 江戸時代に決まっちゃったんですか、と目をパチクリとさせているクラスメイトたち。
 まさか歌舞伎のせいだったとはと、それまでは春や秋だったのかと。
「そうなるな。夏になったら、怪談をやって客を集めるわけだから…」
 芝居の中身も、本来は冬の場面だったヤツを夏に置き換えて演じるとかな。
 季節感ってヤツも大切だろうが、芝居の世界に客を引き込むには。
「季節を変えるって…。そこまでやってたんですか!?」
「客を呼べないと話にならんし、サービス精神だったんだろうな」
 芝居を見ている客の方でも、「おや?」と思うヤツはいたんだろうが…。
 面白かったらそれで充分、と文句はつけなかっただろう。せっかくの芝居見物の席で、つまらん話はするもんじゃない。無粋な客だと思われちまうし、周りも楽しくないからな。



 そういうわけで…、と続いた話。
 江戸時代に出来てしまったイメージ、夏になったら怪談の季節。芝居小屋の目玉が怪談だけに、芝居小屋の外でも流行った怪談。怖い話は夏が似合う、と。
 お蔭で後の時代になっても、怪談と言えば夏のもの。客を怖がらせるお化け屋敷も、夏に幾つも作られたという。
「怖いと背筋が寒くなるしな、暑い夏にはピッタリだったというわけだ。涼しくなって」
 生憎、SD体制の時代には消されちまっていたが…。怪談は夏だというイメージは。
 それが立派に復活して来て、お前たちも夏だと思い込んでる。日本の文化が戻ったからだ。
 だが、秋だからと油断するなよ。年中、お化けは出るもんだ。
「出るんですか!?」
「夏は作られたイメージなんだ、と言った筈だぞ」
 お化けや幽霊にシーズンオフは無いんだからな、と結ばれたハーレイの今日の雑談。
 如何にも出そうな夜中なんかは気を付けるように、と。
(お化けにシーズンオフは無し…)
 ちょっぴり怖い、と震えたブルー。
 フクロウの声をお化けだと思って怯えた、幼かった頃。幸い、本物の幽霊やお化けに出くわしたことは無いのだけれど。
(一年中、出るってことだよね…?)
 夜に一人で歩くのはやめよう、と肝に命じた。
 元々、夜の散歩はしないけれども。庭がせいぜい、垣根の外へは行かないけれど。



 学校が終わって家に帰って、おやつを食べて。
 美味しかった、と部屋に戻ったら、ハーレイの雑談を思い出した。ずっと昔は、秋は怪談。夜の時間が長くなるから、百物語に丁度いい季節。気候も快適、寒くも暑くもない季節。
(本当は今が怪談の季節で、お化けとかにはシーズンオフが無いんだったら…)
 出るのだろうか、お化けや幽霊。
 夜にパチンと明かりを消したら、この部屋にだって。何処からかスウッと入り込んで。
 ああいったものに、壁などは意味が無いだろうから。屋根だって通り抜けるだろうから。
(今のぼくだと、大丈夫だけど…)
 お化けはともかく、幽霊の方は部屋に入って来ないだろう。恨まれるような人は誰もいないし、恐ろしい目にも遭ってはいないから。…幽霊のいそうな場所に行くとか。
(でも、前のぼく…)
 チビの自分はいいのだけれども、生まれ変わる前の自分の方。
 ソルジャー・ブルーだった頃の自分は、恨みを買ってはいないだろうか。普段はすっかり忘れてしまっているのだけれども、前の自分は人を殺した。ミュウの未来を守り抜くために。
 躊躇いもなくぶつけた強いサイオン。いったい何人殺しただろうか、あのメギドで。前の自分が倒して進んだ警備兵たち、彼らの数だけ命も思いもあったのに。
(恋人がいた人とか、家に家族がいた人だとか…)
 そんな兵士もいたかもしれない、あの中には。
 メギドへと飛ぶ前の自分を撃ち落とそうとして、同士討ちになってしまった人類の船。幾つもの船が宇宙に散ったし、彼らも恨んでいたかもしれない。前の自分に出会わなければ、と。



 恨まれてはいない、と言い切れないのが前の自分。人を殺して、人類軍の船に同士討ちをさせてしまった自分。もしも彼らが恨み続けて、幽霊になっていたのなら…。
(…もしかして、出る?)
 この部屋にだって、と見回したけれど、前の自分は彼らの幽霊に出会ってはいない。前の自分が見ていないものは出ない筈、と安堵しかけて気が付いた。
(ぼく、死んじゃったし…)
 それでは出会うわけがない。恨んで出たって相手も幽霊、まるで話にならない状況。幽霊同士で会った所で、怖がっては貰えないのだから。
(じゃあ、今のぼくに…)
 その分を返しに来るだろうか、と肩をブルッと震わせたけれど、今の自分はもう時効だろう。
 ソルジャー・ブルーにそっくりなチビでも、同じ魂でも、時間が経ちすぎているのだから。
 自分がこうして生まれ変わって来たのと同じで、彼らも何処かで新しい命を貰った筈。人類軍にいたことは忘れて、今の時代ならミュウとして。
 ひょっとしたら、何処かで会っているかもしれない。幼かった自分に、公園でお菓子をくれたりした人たち。その中に混じっていたかもしれない、温かな笑顔の人たちの中に。
 今は平和な時代だから。人殺しなどは起こらない時代、人を恨みもしないから。



 どうやら会わなくて済みそうな幽霊。前の自分が、誰かの恨みを買っていたとしても。
 心配なのはお化けくらいで、幽霊の方は大丈夫だよ、と思った所で気が付いた。
(シャングリラ…)
 前の自分が暮らした船。三百年以上もの時を過ごしたけれども、幽霊が出るとは聞かなかった。ただの一度も聞いてはいないし、幽霊はいないのかもしれない。
(怪談、沢山あるんだけれど…)
 今の時代も語られるけれど、シャングリラには無かった幽霊話。あれだけ大きな船になったら、一つくらいはありそうなのに。
(アルタミラで殺されてしまった仲間が、夜になったら歩き回るとか…)
 あるいは助けられずに殺されてしまったミュウの子供たち、彼らの声が聞こえるだとか。照明を落とした夜の通路で、はしゃぎ回る子供たちの声や足音。
 あってもおかしくない話。見た人がいたり、聞いた仲間が何人もいたり。
 けれど、一つも無かった怪談。幽霊の話は誰もしなくて、前の自分も聞いてはいない。そういう話があったのならば、確かめに行こうとする筈だから。
 アルタミラで死んでしまった仲間や、助け損ねた子供たち。
 彼らが船に乗っているなら、助けてやらねばならないから。…いつまでも船に乗っていないで、また幸せに生きられるように。
 どうしても船に残りたいなら、船の仲間たちを怖がらせないように注意もして。
 前の自分はソルジャーだったし、それも仕事の内だったろう。船に幽霊が出るというなら、皆が怯えてしまわないよう、手を打つことも。
 その必要は無かったけれど。
 シャングリラに幽霊は乗っていなくて、怪談も無かったのだから。
 でも…。



 ふと思い出した、幽霊のこと。前の自分が聞いていた言葉。
(誰か、幽霊って…)
 幽霊などはいなかった筈のシャングリラ。なのに幽霊を探していた誰か。
 誰だったのか思い出せないけれども、確かに誰かが探していた。出る筈もない幽霊を。あの船で誰も見なかったものを。
(誰…?)
 いったい誰が探していたのか、何故、幽霊を探すのか。怪談が好きで探すにしたって、そういう噂も無かった船では、探し回るだけ無駄だったろうに。
 探していた人も、理由も全く分からないや、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、幽霊なんだけど…」
 幽霊のことで、ハーレイに教えて欲しいんだけど。
「お前、幽霊、見たことあるのか?」
「ううん、一度も見たこと無いけど…」
 ぼくも、前のぼくも、幽霊には会っていないんだけど…。
「なら、怪談をしてくれってか? とびきりの怖い話ってヤツを」
 今日の授業では話さなかったが、今は怪談のシーズンだしな?
 どんなのがいいんだ、俺が帰ったらガタガタ震え出すほど怖い話か?
 この部屋で一人で眠れなくなって、お母さんたちの部屋に行くようなヤツ。…風呂もトイレも、とても一人じゃ入れません、って泣きながら付き添いを頼むくらいの。
「そうじゃなくって…!」
 本物の怖い話じゃなくって、幽霊の方。
 幽霊が出て来る話を聞かせて欲しいんじゃなくて、幽霊のことを訊きたいんだよ…!



 でも、その前に、と釘を刺すのも忘れなかった。「怖い話はしないでよ?」と。
 とびきり怖い怪談とやらを、聞かされたのではたまらないから。小さなチビの自分が聞いたら、きっと酷い目に遭うだろうから。
「ホントに怪談は要らないからね。…授業中に聞かされちゃったら諦めるけど、今は嫌だよ」
 それで、幽霊の話なんだけど…。
 今日のハーレイの話を聞いたら、色々と思い出しちゃって…。
 シャングリラには幽霊、出なかったでしょ?
 見たって話も聞かなかったし、出るって話も無かった筈。だけど、誰かが探してたんだよ。幽霊なんかは出ない筈の船で、幽霊探し。
「なんだって?」
 そんな酔狂なヤツがいたのか、シャングリラに…?
 怪談を楽しむ余裕があるなら結構なんだが、出て来ないものは探しても無駄だと思うがな?
「そう思うんだけど…。だけど、確かに幽霊を探していたんだってば」
 誰だったか思い出せないんだけど…。何故、幽霊を探してたのかも。
「それは、いつ頃のシャングリラだ?」
「えっ?」
「アルタミラから逃げ出した後か、白い鯨になった後かだ」
 時期によって探す幽霊が変わって来そうだからな。
 白い鯨なら、助け損ねた子供の幽霊。…アルタミラの方なら、船に乗れなかった仲間たちだ。
 逃げ出す前に死んじまった仲間は大勢いたから、幽霊になって乗っていたっておかしくないし。
「そうだね、時期は手掛かりになりそう…」
 誰だったのかも分からないけど、船の景色とかで思い出せるかな…?
 改造してすっかり変わっちゃったし、幽霊探しの場所くらいなら分かるかも…。



 えーっと、と遠い記憶を手繰る。幽霊を探して歩いていた誰か、その人が行った所は、と。
(誰だっけ…?)
 それに何処、とハーレイに貰ったヒントを頼りに探ってゆく。場所は何処なのか、いつの話か。おぼろげな記憶は頼りなさすぎて、何も掴めそうにないのだけれど。
(…乗降口…?)
 其処だ、と浮かんだ小さな手掛かり。いつも閉まっていた扉。
 白いシャングリラに乗降口と呼ばれるものなどは無くて、改造前の船にあったもの。宇宙空間に乗り降りをする場所は無いから、常に閉まっていたわけで…。
(ハンス…!)
 たった一度だけ、乗降口を使った時。アルタミラから脱出する時、皆が其処から乗り込んだ。
 もう生き残りは一人もいない、と確認した後もギリギリまで待って離陸した船。誰かいるなら、助けたいという一心で。誰もいないと分かってはいても。
 そうして地面を離れてゆく時、閉めるのを誰もが忘れた扉。ブリッジの者たちは全く気付かず、乗降口から外を見ていた前の自分たちも、閉めることに思い至らなかった。開けたままだと危険なことにも、離陸するなら閉めるものだという鉄則にも。
 其処から放り出されたハンス。ゼルの弟。
 ゼルはハンスの手を握り締めて、引き上げようと力を尽くしたけれど。その手は離れて、燃える地獄へ落ちて行ったハンス。「兄さん」という叫びを残して、ただ一人きりで。



 思い出した、と蘇った記憶。
 ゼルが弟を探していた。夜を迎えて明かりを落とした船の中で。暗くなった乗降口の辺りで。
 もしや姿が見えはしないかと、幽霊でもかまわないからと。乗っているのかと、ハンスの幽霊を探したゼル。いるのなら、きっとこの辺りだと。ハンスは此処しか知らないから、と。
「ゼルだった…!」
 幽霊、ゼルが探していたんだよ。ホントだよ、ずっと若かったゼルが。
「あいつがか?」
「うん…。ハンスの幽霊を探していたよ。乗降口の所に行って」
 夜になったら探してたんだよ、毎日かどうかは知らないけれど…。
 前のぼくが泣きそうな思念を拾った時には、いつだってゼル。…ハンスの幽霊を探してたゼル。
 知ってたの、前のぼくだけなのかな?
 そういう話は聞いていないし、前のハーレイも知らなかったのかな…?
「ゼルなあ…。待てよ、そういえば…」
 俺も会ったな、幽霊を探していたゼルに。
 夜に通路を歩いていた時、妙な方から来たもんだから…。そっちに用があったのか、と訊いたらハンスを探していたんだ。乗降口まで行った帰りだと答えたっけな。
 幽霊でもいいから会いたいんだが、と話していた。「今夜も会えなかったがな」と。
「ゼル…。ハンスの幽霊に会えたのかな?」
 会えたから、探さなくなったのかな?
 もう一度会えて、もしかしたら話も出来たとか…?
「会えていないと思うがな…?」
 ずいぶん後になってからでも、酔った時にたまに零してた。
 ハンスときたら、会いにも来ないと。幽霊になって来ればいいのに、一度も会いに来ないとな。



 だから会えてはいないんだろう、とハーレイはフウと溜息をついた。ゼルがいつまで幽霊探しをしたかはともかく、ハンスには会えなかったようだ、と。
「幽霊ってヤツは、この世に思いを残して死んだ人間の霊だという話だから…」
 そいつが本当の話だったら、ハンスの幽霊が出てもおかしくはないが…。
 ゼルと一緒にシャングリラにいたくて、乗っていたって少しも不思議じゃないんだが。
「幽霊、いないの?」
 ハンスの幽霊が出なかったんなら、幽霊は存在しないものなの…?
「そう思うのか?」
「だって、見たことがないよ、前のぼくは」
 三百年以上も生きていたって、ただの一度も。
 アルタミラだったら、幽霊、山ほどいそうなのに…。研究所の中、ミュウの幽霊だらけで。
 それにシャングリラだって、幽霊は沢山いそうな感じ。ハンスもそうだし、アルタミラで死んだ仲間たちが大勢、「乗せてってくれ」って乗っていそうだし…。
 アルテメシアで助け損ねた子供たちだって、乗せて欲しくて来そうだよ?
 だけど幽霊の話は一つも無くって、前のぼくも見てはいないんだから。
「前の俺も、其処は同じだが…」
 あの船で幽霊を見てはいないが、幽霊が存在するかどうかってことになったら…。
 今の時代もいるかはともかく、昔はいたんじゃないかと答える。魂は存在するんだから。
 お前も俺も生まれ変わりだ、魂があるって証拠だろうが。
 身体を持たずに此処にいるなら、俺たちは立派に幽霊なわけだ。
 つまり、幽霊は存在する。魂があるなら、幽霊だって存在しないわけがないからな。



 ただ、問題は出るかどうかで…、とハーレイの指がトンと叩いたテーブル。魂があっても、姿を見せに行かない限りは幽霊になれはしないから、と。
「お前も俺も、魂を持っているわけで…。こうして生まれ変わる前なら、幽霊になれた」
 思いを残して死んだ人間しか出ないにしたって、残した思いがあったなら…な。
 俺はお前を追い掛けることしか考えていなかったわけだから…。
 思い残すことは無かったわけだが、お前は違う。…地球を見たかった、という気持ちはどうだ?
 本当に微塵も思わなかったか、地球を見ないままで死ぬのは嫌だ、と。
「…ちょっぴりなら…」
 ほんの少しなら思っていたかも…。
 シャングリラが地球に行くんだったら、幽霊になって一緒に行きたかったかも…。
 それに船にはハーレイもいるし、幽霊になることが出来るなら。
「ほらな、お前は幽霊になれる資格があったんだ。…何処にも生まれていなかったんなら」
 死んだ途端に、何処かに生まれ変わっていたなら、幽霊になってる暇は無いんだが…。
 今頃になって俺と二人で地球にいるんだ、生まれ変わっていたとは思えん。お前も、俺もな。
 そして、お前が幽霊になって出てゆきたいなら、俺も一緒に行っただろう。
 アルテメシアでも、解体される前のシャングリラでも。
「…でも、前のぼくの幽霊、出ていないよね?」
 ハーレイと二人で出てはいないよね、出たなら記録がありそうだから。
「まったくだ。…ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの幽霊なんだぞ」
 怪談じゃなくて、神様が現れたみたいな扱いになっていそうじゃないか。
 此処に確かにいたんです、って像が出来たりして、観光名所になっちまってな。
「ホントだね…」
 恨んでます、っていう顔で出るんじゃないから、見た人、大喜びしそう…。
 凄い幽霊に出会ったんだ、って自慢して回っていそうだよ。
 もしもカメラを持っていたなら、ぼくたちの幽霊、写真に撮ろうと大慌てかも…。撮影するまで消えないで下さい、ってカメラを向けて、うんと沢山、写真を撮るかも…。
 幽霊の写真、撮れるとは限らないのにね…?



 きっと撮っても写らないよね、とハーレイに言ったら、「そうでもないぞ?」と返った返事。
 遠い昔には、幽霊の写真が流行った時代があったのだという。人間が地球しか知らなかった頃、大流行した心霊写真。人間の目には何も見えなくても、カメラが捉えた幽霊の姿。
「本物かどうかは分からないがな、ずいぶん流行っていたそうだ」
 此処へ行ったら撮れるらしい、って場所に大勢、カメラを持って押し掛けるとか。
「そうなんだ…。じゃあ、撮れたのかもしれないね。前のぼくとハーレイの幽霊だって」
 だけど、幽霊が出たっていう記録も無いみたいだし…。ハーレイも知らないみたいだし。
 出ていないんだね、前のぼくたち。…幽霊になり損なっちゃった。
 ジョミーたちなら出ていたのかなあ、アルテラだとか。
「そっちも知らんな、もしも出たなら有名になってる筈だから…。出ていないんだろう」
 ジョミーはともかく、アルテラだったらトォニィのことが心残りで出そうだが…。
 出ても少しも不思議じゃないのに、出ていない。…ハンスと同じだ。
「ミュウは幽霊になれないのかな?」
 魂はあっても、幽霊になれる資格がありそうな人も、ミュウだと幽霊になれないだとか…?
 だからハンスもアルテラも駄目で、幽霊は出ないままだったのかな…?
「そうかもなあ…。ミュウは幽霊になれないのかもな」
 アルタミラにあった研究所とかなら、物凄い数の幽霊が出そうな気がするんだが…。
 あそこでさえも一つも見てはいないし、前のお前も知らないと言うし。
 第一、ミュウが幽霊になれるとしたなら、人体実験をやめちまったかもなあ、研究者どもは。
「夜になったら幽霊が出て来て、怖くて腰を抜かすから?」
「そういうことだ。…それに幽霊は昼でも出るぞ」
 本当に強い恨みがあったら、昼間でも遠慮はしないんだ。それが幽霊の怖いトコだな。
 しかし、アルタミラにミュウの幽霊は出なかった。
 シャングリラにも幽霊は出ないままでだ、アルテラの幽霊だって出てはいないんだよなあ…。



 実に不思議だ、と考え込んでいるハーレイ。今の今まで気付かなかったが、なんとも妙だと。
「アルタミラにしても、シャングリラにしても…。幽霊は出そうな感じなんだが」
 実験で殺されちまったヤツらや、シャングリラに乗れなかった子供の幽霊やらが。
 ところが、まるで出なかったもんで、そういうもんだと思ってた。
 キャプテンだった俺にしてみれば、有難いことではあったわけだが…。
 幽霊が出るって噂が立ったら、きちんと対処しなくちゃならん。怖がるヤツらも多いだろうし、夜勤をしないと言い出すヤツらも増えそうだ。それは大いに困るからなあ、キャプテンとしては。
「そっか、ハーレイの仕事になるんだ…。幽霊対策」
 前のぼくだと思っちゃってた、仲間たちの幽霊なんだから。ぼくが話を聞いてあげたり、いてもいい場所を教えてあげたり。
「いや、まあ…。俺の仕事だというだけのことで、俺には何も出来んしなあ…」
 昔話の坊さんみたいに、出なくなるような有難い話も聞かせてやれんし、前のお前に頼むことになっていただろう。あそこに出るから、なんとか出ないようにしてくれないか、と。
 幸い、何も出なかったが…。お蔭で俺は助かったんだが。
「ミュウの幽霊、なんでいないんだろ?」
 どうして一人も幽霊にならなくて、アルタミラにもシャングリラにも出なかったんだろ…?
「俺が思うに、思念体ってヤツのせいかもなあ…」
「思念体って…。どういうこと?」
 なんで幽霊にならなくなるわけ、思念体のせいで?
「俺は思念体になって抜け出すことは出来ないんだが…。昔も今も」
 しかし、前のお前やジョミーは抜け出せたろうが。身体からヒョイと、精神だけで。
 魂が自由に出入り出来るようなモンだろ、あれは?
 あそこまでの技は、生きてる間はサイオンが強いヤツにしか出来ない芸当なんだが…。
 ミュウは誰でも、死んじまったら思念体のようになるんだろう。ああ、これか、と気付くんだ。
 だから、魂が本当に身体を離れちまった時に抵抗が無いのかもしれん。
 死んじまった、とは思うんだろうが、「まあいいか」と、そのまま飛んでっちまう。この世への未練が少ないわけだな、しがみ付いてなくても次があるさ、と。



 幽霊になって恨みがましく残るよりかは、次の世界に行くんじゃないか、というハーレイの説。言われてみれば、そんな気がしないでもない。今の自分は思念体にはなれないけれど。
(ぼくのサイオン、不器用だから…)
 とても抜け出せない身体。けれども、前の自分は違った。思念体で身体を抜け出していた。
 精神だけがスルリと身体を離れて、様々な場所へ。…あまり遠くへは行けなかったけれど。
(身体に戻れなくなったら困るし…)
 このくらいかな、と考えていた限界。これより先へ行っては駄目だ、と。
 その限界が無くなったなら、と思ったことは何度もあった。いつか寿命が尽きた時には、身体を離れるだろう魂。その時が来たら、地球へまでも飛んで行けるだろうか、と。
 青い地球まで飛んで出掛けて、心ゆくまで眺めてみたいと。
(でも、ハーレイがいないんだよね…)
 死んでしまったら、ハーレイとの間に出来てしまう溝。死者と生者を隔てる壁。
 それが恐ろしくて、離れたくなくて、いつも途中で打ち消した思い。魂だけで地球に行くより、ハーレイの側がいいのだから、と。



 前の自分が考えていたことを思い出したら、腑に落ちた思念体のこと。
 アルタミラの研究所で殺されていった多くの仲間も、アルテメシアで救い損ねて死んだ子供も、幽霊になって残る代わりに未来へと飛んで行ったのだろう。希望の光が見える方へと。
「ハーレイの言う通りかも…」
 前のぼくもね、たまに思っていたんだよ。いつか死んだら、青い地球まで行けるかも、って。
 思念体だと遠い所へは行けないけれども、魂だけになったなら、って…。
「なるほどなあ…。前のお前は、そうやって飛んで行ったんだな」
 シャングリラで地球を目指して行くより、その方がずっと速いんだから。
 幽霊になって船をウロウロするより、断然、そっちだと思ったわけか。
「…どうだったのかは分からないけどね」
 ぼくは地球に行くより、ハーレイの側にいたかったから…。
 幽霊になってハーレイの側で暮らせるんなら、そっちを選んだだろうけど…。
 でも、前のぼくの幽霊、出ていないんだし、真っ直ぐに地球に行っちゃったかも…。
 だけど、青い地球は無くてガッカリしちゃって、その後は何処へ行ったのかな…?
「行くべき所ってトコじゃないのか?」
 俺の所へ戻って来るより、これだと思う道があったんだろう。先に死んだ仲間が行った道がな。
 思念体になれるミュウの場合は、前向きに未来を目指してゆこうとするのかもしれん。…幽霊になって過去にしがみ付くより、とにかく先へ進もう、ってな。
「そうかもね…」
 ハーレイの所へ戻らなかったの、そのせいかもね。
 幽霊になって戻って行くより、先に行って待っていよう、って。
 いつかハーレイが来てくれた時は、あちこち案内しなくっちゃ、って。
 何があるのか、どんな所か、うんと詳しく調べておいて。こっちだよ、って迎えに出掛けて。



 きっとそうだよ、と綻んだ顔。ハーレイが来るのを待っていようと、前の自分は考えたろう。
 幽霊になって、元の世界にしがみ付くよりも。…他の仲間たちも通ったろう道、その道を行った先の世界で、ハーレイが来るまで待つのがいいと。
「ふむ…。お前が言うなら、そうなんだろうな。ミュウの幽霊が出ない理由は」
 そういや、今の時代もだ…。幽霊が出たという話は全く聞かないし。
 いない幽霊が出るわけがないな、誰も幽霊にはならないんだから。
「んーと…。夏の怪談は?」
 怖い話はハーレイも沢山知ってるんでしょ、幽霊はやっぱりいるんじゃないの?
「それはそうだが…。具体的な情報ってヤツを、聞いたことがあるか?」
 あそこに出るのは誰の幽霊で、生きていた時の住所は此処で、といった具合に。
 漠然と白い影が出たとか、そういう話はアテにならんぞ。誰の幽霊か、知っているのか?
「ううん、知らない…」
 名前や住所は聞いたことがないよ、怖い話を聞かされたって。
 ずうっと昔の幽霊だったら、ぼくにも名前は分かるけど…。地球が滅びる前の人なら。
「ほらな、ミュウじゃない幽霊だろうが」
 でもって、そういう時代の幽霊は、だ…。
 きっと、とっくに生まれ変わって何処かで生きていると思うぞ。
 こんなに平和でいい時代なんだ、幽霊のままで踏ん張ってたって、損をしてると思わんか?
 美味いものも食えなきゃ、あちこち旅にも行けないってな。
 そんなつまらん幽霊なんかをやっているより、新しい命を貰うべきだろうが。
 幽霊なんぞはいないだろうな、今の世界は。とうの昔に生まれ変わって、全部絶滅しちまって。
 絶滅と言うかどうかは知らんが、多分、一人もいないだろうさ。



 今も残っている可能性があるのは、お化けの方だ、と笑ったハーレイ。
 幽霊は絶滅しただろうけれど、お化けだったら出るかもな、と。
「お化け…。ハーレイ、夏に探してたっけね」
 帰り道で会えるかもしれないな、って帰って行ったよ、楽しそうに。
 夏だけのものじゃなさそうだけど…。今日のハーレイの話を聞いたら。
「うーむ…。俺もすっかり毒されていたか、今の文化に」
 これは一本取られたな。夏にやってた、俺のお化け探し。
「秋もお化けのシーズンなんでしょ、本当は?」
 おまけにシーズンオフは無くって、一年中、いつでもお化けのシーズン。
 気を付けろよ、ってハーレイ、授業で言ったんだから。
「よし。…ここは前向きに受け止めるとするか、ミュウの幽霊が出ない理由を見習って」
 せっかく怪談のシーズンなんだし、失敗をバネにお化け探しだ。
 今もいるかどうか、頑張って探すことにするかな、次に歩いて帰る時から。
 今日は車で来ちまってるから、今度の土曜の帰り道からだ。
「お化け探し…。それ、見付けちゃったら怖くない?」
 凄く怖そうだよ、今の時代まで生き残ってるほどのお化けだなんて。
「何が出るかは知らないが、だ…。かかってくるなら、投げ飛ばす!」
 ダテに柔道はやっていないぞ、投げてしまえばこっちのもんだ。
 参りました、と降参するまで押さえ込んでギュウギュウ締め上げるってな。



 お化けなんぞはただの化け物、と言うハーレイなら、確かに投げ飛ばせそうだから。カッコ良く投げて、ギュウギュウ締め上げて、お化けを降参させそうだから。
「お化け、見付けたら教えてね」
 どんなのだったか、ぼくに詳しく説明してよ?
 怖くて寝られなくならない程度に、姿とか、お化けの声だとか。
「もちろんだ。俺の武勇伝つきで語ってやるさ」
 それにだ…。いいか、年中、お化けのシーズンなんだぞ?
 お前も一緒に探しに行こうな、いつかはな。結婚したなら夜のデートで、お化け探しだ。
 出るそうだという噂を聞いたら、俺と二人で出掛けて行って。
「えーっ!」
 待ってよ、なんで二人で行くの!?
 ハーレイが行けば充分じゃないの、お化けが出たらどうするの…!
 今のぼくはサイオンが上手く使えないから、見付かっちゃったらおしまいだってば…!
 お化けを投げ飛ばせるのはハーレイだけだし、ぼくは逃げるしかないんだから…!



 怖いじゃない、と叫んだけれども、楽しそうではある、お化け探し。
 今の時代は幽霊がいなくて、シャングリラの時代はお化けの方がいなかった。
 昔話に出て来る沢山のお化け、百鬼夜行の化け物だって。
 けれども、今は幽霊の代わりに、お化けの方がいそうだから。
 何処かの闇からヒョイと出て来て、人間をビックリさせそうだから。
 シャングリラの時代はいなかったお化け、それを二人で探してみようか。
 青い地球なら、何かいるかもしれないから。
 SD体制よりも古い時代に生まれたお化けに、バッタリ会えるかもしれないから。
 シーズンオフが無いらしいお化け。
 出会って怖い思いをしたって、きっとハーレイなら、カッコ良く投げてくれるだろうから…。




            怪談の季節・了


※ハンスの幽霊を探していたゼル。けれど出会えず、シャングリラには出なかった幽霊。
 何故かは全く謎ですけれど、今の時代にいそうなのは、お化け。いつか探すのも楽しそう。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










PR

「おーい、ブルー!」
(えっ?)
 いきなり呼ばれて、ギョッとしたブルー。大きな声で叫んで駆けて来る友達。グラウンドの側に立っていた時、意外な方から。周りに生徒は大勢いるのに、友達は真っ直ぐ走って来て。
「何してんだよ、こんな所で?」
 先に行くね、って言っていたから、教室の方か、図書室なんだと思ってたのにさ…。
 なんでグラウンドの方なんかに、と訊かれたけれど。
「えーっと…」
 どう答えようかと泳がせた視線、友達は直ぐに気付いたらしい。人が大勢いる理由にも。
「ああ、ハーレイ先生な!」
 カッコいいよなあ、ハーレイ先生。柔道と水泳だけじゃないんだよなあ、なんでも出来て。
 うっわー、今の見たかよ、ブルー!?
 あんなトコからロングパスだぜ、しかも囲まれていたのによ…!
 すげえ、と興奮している友達。もちろん周りの生徒たちだって、歓声を上げて大騒ぎ。昼休みにグラウンドでサッカーに興じているハーレイ。サッカー部の生徒に誘われてプレー中らしい。
 食堂でランチを食べていた時、聞こえて来たハーレイの名前とサッカーの話。もう始まるから、急いで見物に行かなくては、と。
 思わず耳を澄ませてしまったハーレイの名前。ウサギだったら、長い耳がピンと立っただろう。幸い、耳が立ちはしないから、ランチ仲間は気付かなかった。ハーレイの名にも、サッカー見物に行くと話した生徒の声にも。
 見たい、と思ったハーレイのサッカー。それも誰にも邪魔をされずに、ワクワク心を躍らせて。感想を話し合ったりしないで、ハーレイの姿だけを見詰めて。
 ランチ仲間が気付かなかったのは好都合だ、と考えた。彼らも話を聞いていたなら、見に行くに決まっているのだから。
 「お前も行くだろ?」と肩を叩かれて、みんな揃ってゾロゾロと移動。グラウンドに着いたら、たちまち始まる賑やかな会話、ハーレイだけを見てはいられない。視線は逸らさずに済んだって。グラウンドをじっと見ていられたって、生返事することは出来ないから。



 切れてしまうだろう集中力。友達の会話を聞き逃すまいと、生返事をしてしまわないよう、と。
 ハーレイの姿に夢中になれないサッカー見物。そうならないよう、ランチ仲間と別れて行こうと決めたグラウンド。一人の方がきっと素敵で、ハーレイのプレーに酔えるだろうから。
 そう思ったから、「先に行くね」と出て来た食堂。何気ないふりを装ってトレイを返して、まだ座っているランチ仲間に手を振って。行き先は教室でも図書室でもなくて、グラウンド。
 もう始まっていたサッカーの試合、山と溢れる見物人。噂を聞き付けて一人、また一人と増える観客、ハーレイの腕と人気が凄いという証拠。
 頬を紅潮させて見ていた試合。ハーレイが決める見事なシュートや、サッカー部の主将たちでも手も足も出ない巧みなドリブル。この腕だからこそ誘われたのだ、と誰が見ても分かる。
 本当に凄い、と見入っていた所で、「おーい、ブルー!」と呼ばれてしまった。別れて来た筈のランチ仲間たちに発見されて。
(バレちゃった…)
 サッカー見物に来ていたこと。たちまちランチ仲間に囲まれ、一緒に見るしかなくなった。先に心配していた通りに、自分に向かって掛けられる声。
 皆、ハーレイを褒め称えるから、それは嬉しいのだけれど。あれこれ感想を話しながらの見物も楽しいものだけれども、ほんのちょっぴり、残念な気分。「一人で見ていたかったのに」と。
 ハーレイはプレー中に気付いて、自分に向かって手を振ってくれた。余裕たっぷりのハーレイの姿に、またも上がった大きな歓声。ボールを追いつつ、観客の方へと手を振るのだから。
 そのハーレイは、友達の声で自分に気付いてくれたのだけれど。
 「おーい、ブルー!」と呼びながら駆けて来たランチ仲間がいなかったならば、きっと気付いてくれないままで終わっただろうと思うのだけれど…。
(手なんか、振ってくれなくていいから…)
 ゆっくり眺めていたかった。他の生徒の中に混じって、ハーレイだけを。友達との会話に時間を割かずに、集中力を持って行かれずに。
 ハーレイがボールを操る姿を、誰にも邪魔をされることなく。



 その内に鳴ってしまったチャイム。昼休みが終わる時間が近い、と知らせる予鈴。それを合図に終わってしまったサッカーの試合。ハーレイが「今日はここまで」とボールを手にして。
 試合を終えたハーレイはサッカー部の生徒たちのもので、彼らと一緒に去ってゆくから。やがて授業も始まるのだから、夢の時間はこれでおしまい。心が躍ったサッカー見物。
 校舎の方へと歩く途中も、ランチ仲間たちはハーレイのプレーに感動しきりで、興奮していて。
「お前、いいよな…。あんな中で手まで振って貰えて」
 あれって、お前に振ってたんだろ、名前は呼んでなかったけど。
 ドリブルしていた最中なんだぜ、余裕だよなあ…。俺がやったら、ボールは消えるぜ。
「うんうん、俺でも取られて終わりだ。とても目なんか離せやしない」
 ハーレイ先生、ちゃんと全部が見えてるんだよな、周りのヤツらがどう動くかも。
 カッコいいよな、サッカーでも相当いい線いってたんだろうな、柔道とかが好きだっただけで。
 本当にブルーが羨ましくなるなあ、あんなの見たら…。
 ハーレイ先生と友達みたいなものなんだし…。家にだって来て貰えるんだし。
 いいな、と羨ましがるランチ仲間たち。今日の昼休みのヒーローのハーレイ、皆が憧れる先生を独占できるなんて、と。
 誰もが称賛していたハーレイ。何度も上がっていた歓声。
 そんな試合の真っ最中に振って貰えた手は誇らしいけれど、やっぱり残念でたまらない。自分は注目を浴びなくていいから、一人でこっそり見たかった、と。
 他の生徒の群れに混じって、ただの観客の一人になって。ハーレイだけを目で追い続けて、弾む心で。サッカーもあんなに上手なんだと、あの凄い人がぼくの恋人、と。



 学校が終わって家に帰っても、まだ残念な気持ちが消えてくれない。ハーレイの雄姿をじっくり見ていたかったと、ランチ仲間が自分を見付けなかったなら、と。
 グラウンドに行くとは言わなかったのに。いつもの自分の行動からすれば、グラウンドよりかは図書室で調べ物なのに。そうでなければ、教室の方。何か用事を思い出して。
(なんでバレちゃったの…?)
 ぼくがあそこに混じっていたこと、と考えてみる。おやつをモグモグ頬張りながら。母が作った美味しいケーキを、フォークで口へと運んでは。
 サッカーを見ようと群がっていた大勢の生徒たち。あの中でどうしてバレたのだろう、と。
(前のぼくならバレるだろうけど…)
 白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。ブリッジが見える広い公園や天体の間などに、皆を集めて混じったとしても、直ぐにバレただろう自分の居場所。
 仰々しかったソルジャーの服で。紫のマントや、誰も着ていなかった白と銀との上着のせいで。他の仲間たちが着ていた制服、それとは全く違ったから。
 でも、今は普通の制服なのに。同じ学校に通う男子は全員同じで、色も形もそっくり同じ。髪の色にしても、銀色の生徒は何人もいる。赤い瞳は自分一人だけれども、あれだけの群れに混じってしまえば分からない。幾つもの顔が周りに一杯、それにグラウンドを見ていたのだし…。
(ぼくの目、見えなかったと思うんだけどな…)
 ランチ仲間たちが来た方からは。後ろか、せいぜい斜め後ろから自分の姿を見付けた筈。
 だから違う、と断言出来る赤い瞳という特徴。他には何があるだろう?
(チビだけど…)
 学校でもチビの部類に入るのだけれど、男子では一番のチビだけれども。似たような背丈のチビならいるし、と零れた溜息。
 自分一人が目立つほどチビではない筈なのに、見付かっちゃった、と。
 ハーレイのサッカーを一人でゆっくり見損ねちゃったと、どうして見付かったんだろう、と。



 おやつを食べ終わって部屋に戻って、本を読んでいたら聞こえたチャイム。昼休みにサッカーをしていたハーレイ、友達も羨む今日のヒーローがやって来た。仕事が早く終わったからな、と。
 母がお茶とお菓子を運んでくれたテーブル、それを挟んで向かい合わせに座ったら…。
「お前、見に来てくれたんだな。俺のサッカー」
 サッカー部のヤツらが宣伝していたわけでもないのに、あんなに大勢見に来るとはなあ…。
 まさか、お前まで来てくれるとは思わなかったぞ。何処で噂を聞き付けたんだか。
「食堂にいたら聞こえたんだよ、他の生徒が喋ってたのが」
 もう始まるから急がないと、って。ぼくは食べてる最中だったけれど。
 だから最初から見てはいないんだけど…。ぼくが見てたの、嬉しかった?
 わざわざ手まで振ってくれたし…。あれで余計に大騒ぎだったよ、見てた人たち。
「そりゃまあ、なあ? お前がいると分かれば張り合いが出るさ」
 いい所を見せたくなるってもんだろ、恋人が見に来ているんだから。
 学校じゃ恋人扱い出来んが、カッコいいサッカーを見せてやるのは当然だ、うん。
「でも…。ぼくはコッソリ見ようと思っていたのに…」
 他のみんなの中に混じって、ぼくがいるのが分からないように。手なんか振って貰うよりかは。
「どうしてコッソリ見たかったんだ?」
 堂々と見てればいいだろうが。悪いことをするわけじゃないんだから、コソコソせずに。
「だって、ハーレイ、楽しそうだったから…」
 サッカーに夢中のハーレイは凄く楽しそうだったし、カッコ良かったし…。
 そういうハーレイを見たかったんだよ、ぼく一人だけで。ドキドキしながら、一人でこっそり。
 誰にも邪魔をされない所で、ゆっくり見ていたかったのに…。
「おいおい、そいつは俺としては嬉しくないんだが?」
 せっかくお前が来てるというのに、知らずにサッカーしているだなんて。
「そうなの?」
「決まってるだろう…! さっきも言ったが、恋人の前だぞ」
 張り切っていこうって気になるじゃないか。生徒相手でも、昼休みのサッカー試合でも。
 ヘマをしないで、カッコ良く。ボールは絶対に取らせないぞ、と。



 同じ試合なら、観客の中に恋人がいる方がいいに決まっている、とハーレイは言うものだから。より素晴らしいプレーが出来る、と力説するから。
「じゃあ、バレちゃって良かったのかな…」
「バレた?」
 いるのが俺にバレたってことか、それなら俺には最高の瞬間だったわけだが…。
 お前が見に来てくれてるんだ、と嬉しくなるじゃないか。来ると思っちゃいなかったんだし。
「そうじゃなくって…。ハーレイにもいるのがバレちゃったけど…」
 ぼくの友達にバレちゃったんだよ、グラウンドで試合を見ていたことが…!
 一人で見よう、って別れて来たのに、いるのを見付けられちゃったんだよ…!
「なるほど…。それでお前の友達が叫んでいたのか、お前の名前を」
 誰か遅れて来たヤツなのかと思ってたんだが、違ったんだな。
 お前がいるのを発見したから、名前を呼びながら走って来たという所か。
「うん…。なんでバレたんだろ、ぼくだってことが」
 先に行くね、って食堂を出たから、普段だったら図書室か教室。グラウンドにはいない筈だよ。あんなに大勢集まっていたら、ぼくなんかには気が付かないと思うんだけど…。
「目立つからだろ、お前の姿」
 あそこにいるな、と直ぐに分かるさ。生徒が山ほど集まっていても。
「目立つって…。制服はみんな同じだよ? 学年とかで分かれていないし、それこそ山ほど…」
 銀色の髪の生徒も多いし、ぼくと変わらないくらいにチビの生徒も、ちゃんといるのに…!
「やれやれ…。お前、分かっていないんだな。目立つってことが」
 同じ制服で立っていたって、似たような背格好だって。何処か違うぞ、お前の場合は。
「何が違うの?」
 他のみんなと何処が違うの、目の色は確かに違うけど…。ぼくだけ赤い瞳だけれど。
「それとは違うな、雰囲気ってヤツだ」
 お前を取り巻く空気が違うと言うべきか…。とにかく、ハッと人目を引く。
 俺がお前に惚れているのとは別の話で、お前は視線を惹き付けるんだ。其処にいるだけで。



 遠目でも分かる、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。後姿でも充分に、と。
「俺でなくても分かる筈だぞ、お前なんだと。大勢の中に混じっててもな」
 人混みだろうが、みんな揃って体操服で群れていようが。あれじゃないか、と直ぐに目がいく。
「そういうものなの?」
 だからバレちゃったの、ぼくがサッカーを見に行ってたのが…?
 探すつもりで来たんじゃなくても、ぼくがいるのが分かっちゃった?
「多分な。それに友達なら、俺と同じで親しいわけだし…」
 普通以上に見付けやすいと思うぞ、特徴ってヤツを知っているから。まずは目がいく、そしたら誰かと考え始める。情報が多いほど答えが出るのが早いわけだな、お前なんだと。
 それが分かれば、後は名前を呼ぶだけだ。お前の友達がやってたように。
 ん…?
 待てよ、と首を捻ったハーレイ。前のお前もやらなかったか、と。
「やるって、何を?」
「コッソリってヤツだ、今日のお前が目指してたヤツ」
 俺のサッカー、コッソリ見ようとしたんだろうが。友達にも俺にも気付かれずに。
 お前は失敗しちまったんだが、前のお前もやっていたような…。そういうコッソリ。
「え…? 前のぼくって…」
 コッソリと何を見に行くっていうの、ハーレイの日誌は見てないよ?
 ホントに一度も読んじゃいないし、第一、他のみんなに混じって読みには行けないじゃない!
 大勢でハーレイの部屋まで押し掛けてみても、絶対、入れてくれないんだから。
 航宙日誌が目当てなんだ、って直ぐに見破られて、扉に鍵をかけられちゃって…!
「いや、そういうのじゃなくてだな…。コッソリ何かを見るんじゃなくて…」
 お前がコッソリ隠れるってヤツだ、今日のお前が隠れたつもりでいたように。周りに生徒が大勢いるから、すっかり溶け込んだ気になって。…お前、いるだけで目立つのに。
 前のお前も似たようなモンで、それがコッソリ…。そうだ、お忍びだったんだ…!
「お忍び?」
「そういう言葉があるんだが…。今の時代は、そうそう出番が無いからなあ…」
 身分を隠して出歩くことだな、お忍びってのは。偉い人だと分かっちまったら、普通の暮らしが出来ない人たちがやっていたんだ。特別扱いされない暮らしをしてみたくってな。



 今は存在しない貴族や王族、そんな人々。買い物に行こうが、旅に出ようが、何処でも特別扱いされる。気軽に買い食い出来はしなくて、一人で旅行も出来ない有様。
 そういう暮らしは面白くない、と考えた人は、身分を隠して出掛けて行った。普通の身分の人に混じって、同じような服を身に着けて。普通の身分に見えていたなら、自由に動き回れたから。
「色々な人がいたらしいなあ、貴族は入りもしないような酒場がお気に入りだとか」
 其処に入って飲むだけじゃなくて、楽器を奏でてチップを貰っていた人だとか。
 もちろん客の方では知らない、貴族だなんて思いもしない。チップをはずんで、一緒に飲んで。朝まで歌って踊り明かして、すっかり友達になっちまうんだ。「また来いよ」ってな。
 それと同じだな、前のお前も。王様や貴族ほどじゃなかったが、特別扱いを嫌がって…。
 他のみんなと同じにしたくて、せっせと努力をしてたんだ。コッソリ普通の暮らしをしようと。
「そういえば…!」
 やっていたっけ、みんなと違いすぎたから…。
 ソルジャーなのは仕方ないけど、こんなのは望んでいないから、って。
 やたらと目立つし、前よりもずっと偉そうな感じにされちゃって…。それが嫌だから、コッソリみんなと同じふり。これさえ無ければ普通だよね、って。
 確かにアレってお忍びだったよ、いつも失敗してたけど…。一度も成功しなかったけど…!



 時の彼方から戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーだった前の自分がやっていたこと。なんとか普通になろうとして。他の仲間たちと同じになりたくて。
 遠い昔に、前のハーレイと暮らしたシャングリラ。まだ白い鯨になる前の船で、制服が生まれて間もない頃に。
(あの服、目立ち過ぎたから…)
 ソルジャー用にと作られた制服は、思った以上に特別すぎた。誰も着てはいない白と銀の上着、大袈裟に過ぎる紫のマント。それを普段から着ろと言われても、迷惑なだけ。やたらと目立つし、他の仲間たちからも「特別な人」という目で見られてしまう。制服のせいで。
(あれを着せられる前は、もっと普通に色々話してくれたのに…)
 エラが「ソルジャーには敬語で話すように」と注意したって、聞かない者も多かった。リーダーだった頃と同じに、親しい口調で話してくれた仲間たち。立ち話だって普通に出来た。
 ところが、御大層な例の制服。あれを着た途端、明らかに変わった仲間たちの自分への接し方。何処から見たって、彼らとはまるで違うから。ソルジャーの上着も、紫のマントも。
(注意しなくちゃ、って顔に書いてあって…)
 誰もが敬語に切り替えてしまい、たまに普通に話してくれても、気付いた瞬間、謝罪の言葉。
 何処へ行っても、誰と話しても、それは変わりはしなかった。ソルジャーなのだ、と服が教える肩書き。近くに寄って向き合う前から、姿が見えたその時から。
 つまりは充分に準備できた時間、ソルジャー向けの敬語に切り替える時間。あの制服を見たら、心の中で。きちんと敬語で話さなければと、ソルジャーに失礼がないように、と。
(みんな、緊張しちゃってて…)
 今までとは違う付き合いになった仲間たち。自分は何も変わらないのに、開いてしまった皆との距離。これは困る、と前の自分は考えた。元の関係に戻すためには、どうすれば…、と。
 明らかに制服が悪いと分かる。それを着るまでは、こんな風ではなかったのだから。



 前と同じに仲間たちの中に溶け込みたいから、普通に話して欲しかったから。
(あの制服さえ無かったら、って…)
 脱いでしまえば、きっと緊張しないだろう仲間。ソルジャーなのだ、と身構えないで済むから、口調も元に戻る筈。敬語なんかは出て来なくなるに違いない。
 そう思ったから外したマント。何処から見たって偉そうなのだし、これが一番悪いのだ、と。
 マントを脱いだら、後はせいぜい上着だけ。皆は着ていない上着だけれども、マントとは性質が全く違う。単なる制服、そういうデザイン。威圧感などは与えない筈。
(それに、上着さえ着ていれば…)
 ちゃんと制服は着ているのだから、誰も文句はつけないだろう。マントを省略したというだけ。たまにはそういう着こなしだって、と心の中で作った言い訳。今日はマントを着けない日、と。
 これで仲間たちの口調も元の通り、と颯爽と出掛けて行ったのに。どうしたわけだか、たちまちバレた。「ソルジャー、今日はマントは無しですか?」などと掛けられた声。出会う仲間に。
 せっかくマントを外して来たのに、と途惑う間に、飛んで来たエラ。そのお姿では困ります、と着けるように言われた紫のマント。「直ぐにマントを着て下さい」と。
 そうなるからには、どうやら上着も問題らしい。自分一人しか着ていないのだし、白い上着では何かと目立つ。それさえ脱いだら皆と変わりはしない筈、と次は上着も脱ぐことにした。ブーツが少し気になるけれども、足元までは誰も見ないだろう、と。
 今度こそ、と皆と同じになったつもりで歩いた船の中。けれど、やっぱりバレてしまった自分の正体。敬語で会話をすべきソルジャー、出会う誰もがそう扱った。「上着は窮屈ですか?」とか。
(誰も普通に喋ってくれなくて…)
 エラにも苦情を言われる始末。「ご自分の立場がお分かりですか?」と。
 これでは何の意味も無い、とスゴスゴと戻った自分の部屋。上着まで脱いでも駄目なのだから。
(一度、しみついちゃったことって…)
 変わらないのだ、と前の自分が零した溜息。制服のせいで皆が敬語に切り替えること。
 そうすべきだと皆は思っているから、自分が姿を見せた途端に、口調がガラリと変わるらしい。あの制服を着ていなくても、自分の姿を見ただけで。…前はそうではなかったのに。



 その日、仕事を終えたハーレイが部屋を訪ねて来てくれたから。
 「入って」と勧めた、いつもハーレイが座る椅子。そして早速、今日の出来事を打ち明けて…。
「どうしてバレてしまうんだろう? ぼくだってことが」
 ぼくはぼくだけど、敬語で話さなければ駄目になっちゃった方の、制服のぼく。
 あの服のせいだ、って思ったから脱いで行ったんだけど…。あれさえ着てなきゃ、みんな普通に話してくれると思ったんだけど…。
 駄目だったんだよ、みんながぼくだと気付いちゃうから。近付くよりも前に。
 直ぐ側に行くまでにバレるってことは、服のせいだけじゃないってことで…。やっぱり髪かな?
 この色の髪は目立つ色だし、それのせいかな…?
「さあ…。ソルジャーの他にも、銀の髪の者はおりますが?」
 確かに目立つ色ではありますが、彼らをソルジャーと見間違える者がおりますでしょうか?
「うーん…。この髪、染めたらいいかな?」
 もっと目立たない、黒とか茶色に。そしたら誰も身構えないから、普通の言葉に戻りそうだよ。
 敬語で話す準備が出来ていない内に、目の前にぼくが来ちゃうんだから。
「髪を染めておいでになっても、直ぐにバレると思うのですが…?」
 どんなに目立たない色になさっても、ついでに制服も脱いでおられても。
 ソルジャーは独特の雰囲気を纏っておいでですから、直ぐ分かります。きっと、誰が見ても。
 ずっと前からそうでしたよ。…ご自分では全くお分かりになっておられないだけで。



 何処におられても、どんな格好でも分かりますね、とハーレイに断言されてしまった。髪の色を変えても、制服を脱いでも無駄だろうと。きっと誰もが敬語で話すに違いないと。
「そんなの、ぼくは困るんだけれど…。普通に話して欲しいんだけど…」
 バレない方法、何か無いかな?
 ぼくが纏っている雰囲気とやらを消せる方法。君なら何か思い付かないかな、いい方法を。
「そうですねえ…。これと言った方法は思い付かないのですが…」
 私と一緒にお歩きになるのは、控えられたらどうでしょう?
「どうしてだい?」
「私も目立ちますからね。この図体もそうですが…。キャプテンですから」
 皆とは制服も違っていますよ、あなたと同じで。
 悪目立ちする私と一緒にいらっしゃったら、あなたも余計に目立たれるわけで…。
 ソルジャーがキャプテンと一緒においでになった、と皆が緊張しますから。普段以上に。
 つまり、あなたが望んでおられる普通の会話が遠ざかります。お一人で歩いておられるよりも。
 ですから、制服を脱いだり、髪を染めたりと努力をなさるおつもりでしたら、お一人で。
 私が目印になってしまいますからね、ソルジャーが此処にいらっしゃる、と。
「それじゃ、君と一緒に歩こうとしたら…。バレるってことだね、どう努力しても?」
 頑張って方法を見付け出しても、独特の雰囲気を消せたとしても。
 他のみんなと変わらないように見える方法、なんとか手に入れられたとしても…。
 君と一緒に歩いているだけで、それの効き目は無くなってしまうわけなんだ?
「そうなるでしょうね、私がお側にいたのでは…」
 私の身体は小さく出来ませんから、どうしても目立ってしまいます。
 これからも努力をなさるのでしたら、何処へ行かれるにも、お一人でどうぞ。



 より目立たない道をお求めならば、とハーレイは提案してくれた。キャプテンとしての役目以外では、近付かないようにするから、と。目立ちたくない前の自分を、無駄に目立たせないように。
 「あなたのお気持ちは分かりますよ」と、穏やかに微笑んでいたハーレイ。
 特別扱いは嫌なものだし、元の通りに話して欲しいと願う気持ちも理解できると。
(いい方法が早く見付かるといいですね、って言ってくれたけれど…)
 それが見付かっても、ハーレイと一緒に歩いていたなら、効き目は全く無くなるらしい。自分は目立っていなかったとしても、ハーレイが皆の目を引き付けるから。
(キャプテンだ、って誰でも気付くし…)
 そうなれば、一緒にいる人間にも向くだろう視線。あれは誰か、と浴びる注目。正体を知ろうと思って見たなら、きっと分かってしまうだろう。目立たないけれどソルジャーだ、と。
 其処で正体がバレてしまえば、元の木阿弥。皆は敬語で話し始めて、いつもと何も変わらない。前と同じに話の輪の中に加わりたくても、開いてしまう距離。ソルジャーだから。
(…せっかくハーレイも一緒なのに…)
 仲間たちと楽しく話したいのに、ハーレイがいるとそれが出来ない。自分一人ならば上手くいく方法を見付け出せても、ハーレイが効き目をすっかり消してしまうから。
 それでは少しも楽しめない、と思った自分。一番の友達だったハーレイ、そのハーレイと一緒に仲間たちの間に溶け込むことが出来ないなんて、と。
 一番の友達と歩くことさえ出来ないのでは意味が無い、と諦めたお忍び。正体を知られないよう努力すること。制服を脱ぐのも、髪を染めようかと考えるのも。
(ハーレイと一緒に歩けないなんて…)
 つまらないから、と前の自分は結論付けた。
 まだハーレイと恋人同士ではなかったけれども、二人でいるのが好きだったから。二人で一緒に歩きたかったし、それをやめたくはなかったから。



 そう決めたのが前の自分で、目立たないよう努力するのを諦めたのに。髪を染めるのも、制服を脱ぐのもやめたというのに、今のハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てて。
「お前、あれっきり、やらなくなったが…」
 どうすればいいのか俺に相談してから後は、バッタリやらなくなっちまったが…。
 心境に変化があったのか?
 お前がマントを脱いでいたとか、挙句に上着も着なかっただとか、エラから報告は来てたんだ。俺も一応、キャプテンだしなあ、ソルジャーの情報も入ってくる、と。
 ところが、お前、二度とやらかさなかったんだ。せっかく相談に乗ってやったのに…。
 一緒に歩かないようにしよう、と提案してやったのに、きちんと制服を着込んじまって…。髪を染めると言っていたのも、一度も試さないままで。
 いったい何があったと言うんだ、俺に相談した後で?
「ハーレイに相談したからだってば!」
「はあ?」
 俺は真面目に答えたじゃないか、俺と一緒に歩かないのが一番だ、とな。
 目立たないようにしたいんだったら、悪目立ちする俺とは離れておくのがいい、と。
「それだよ、ハーレイと一緒にいられないんだよ!」
 ハーレイといるだけで、ぼくの正体もバレる、って言ったの、ハーレイじゃない!
 キャプテンなのと、身体のせいとで、ハーレイはとても目立つから…!
「その通りだが、どうしてお前が努力するのをやめるんだ?」
 お前はお前で頑張ってみればいいと思うのに、なんだって試しもしなかったんだか…。
 髪の毛を染めて制服を脱ぐとか、お前らしさを消す方法を。
「ハーレイが一緒にいると効かない方法なんて、探しても意味が無いんだよ!」
 上手に誤魔化せるようになったとしたって、ハーレイのいない時だけだなんて…。
 君と一緒に他の仲間と楽しめないなら、努力する意味が無いじゃない!
 ぼくの一番の友達はハーレイだったし、いつも一緒にいたかったんだよ、離れるんじゃなくて!



 恋だと気付いてはいなかったけれど、特別な存在だったハーレイ。前の自分の一番の友達。
 お忍びに未練はあったけれども、ハーレイと一緒にいる時は正体を隠せないらしい自分。一番の友達が側にいるだけで、誰なのかバレるらしいから。
 それでは駄目だ、と諦めた自分。誰よりも一緒にいたい人と離れなければいけないなんて、と。
「…そうだったのか…」
 お前が努力を投げ出した理由、俺だったんだな。…俺と一緒だとバレちまう、と。
 髪の毛を染めようかとまで言っていたのに、やけにアッサリ諦めたなと思っていたら…。
「うん。…だって、ハーレイと離れていないと効かないだなんて、そんな方法…」
 見付け出しても意味が無いでしょ、いくら普通に扱って貰える方法でも。
 みんなが普通に話してくれても、きっと楽しくないんだよ。…其処にハーレイがいなかったら。
 どうしてハーレイはいないんだろう、って考えてしまうに決まっているもの。
 …でも、今のぼくでも、ハーレイといたらバレちゃうね。
 目立たないように隠れようとしても、今日よりも、ずっと。周りが普通の生徒ばかりなら、まだマシだけど…。ハーレイと二人なら、アッと言う間に見付かっちゃうよ。あそこにいるな、って。
「お前、今度も隠れたいのか?」
「そんなことないけど…」
 ハーレイをコッソリ見られなかったのは残念だけれど、今は普通の生徒だもの。
 みんなが敬語で話しはしないし、正体がバレても、前みたいに困りはしないんだけど…。
「今のお前は普通の生徒で、将来も普通の嫁さんだろ?」
 男にしたって、嫁さんには違いないんだから。
 俺と一緒に暮らす嫁さんで、誰もお前を特別扱いして困らせることはない筈だぞ。
 俺の嫁さん、それで全部だ。今度のお前は。…俺と一緒に何処に行っても。



 だからバレてもかまわないよな、とハーレイの顔に浮かんだ笑み。
 俺と一緒にいるばっかりに、お前が此処にいるんだとバレてしまっても、と。
「いいよ、ハーレイと二人でいられるのなら。バレちゃっても」
 だけど、制服は学校の生徒の間だけしか着られないから…。
 制服を着なくなった後だと、今よりもうんと目立つかも、ぼく…。
「おいおい、其処は逆なんじゃないか?」
 制服の群れの中にいる方が目立つぞ、お前。…前のお前の制服みたいな感じでな。
 みんなの個性が減っている分、分かりやすくなっているんだな。あそこにお前、と。
 だからだ、普通の服になっちまったら、バレにくくなると思うんだが?
 色々な服の人がいるしな、実に賑やかに。
「前と同じだよ、ハーレイといたら目立つんだよ!」
 ぼくが制服を着ていなくても、同級生とかはハーレイのことを知っているもの!
 街とかでハーレイを見付けた途端に、隣のぼくまで見付けるんだよ!
 前のぼくがハーレイと一緒にいたなら、直ぐにソルジャーだとバレた頃みたいに!
「そういうことか…。あの頃と同じか」
 俺の隣にお前がいるな、とバレるわけだな、俺が発見されちまうから。
 そいつは確かにそうなんだろうな、教師ってヤツは教え子に直ぐに見付かっちまうし。



 歩いていようが、買い物に行こうが…、と苦笑するハーレイ。あいつらは目ざとい、と。
「前の学校で教えたヤツらも覚えているしな、俺のことを」
 思わん所で声を掛けられたりするもんだ。「ハーレイ先生!」と、いろんなヤツらに。すっかり大人になったヤツから、今の学校の連中までな。
 いつかはお前も巻き添えなわけか、そうやって俺が見付かった時は。
「そうなんだけど…。いいよ、バレちゃっても」
 だって、ハーレイはぼくのだから。
「おっ?」
 お前のと来たか、この俺が?
「そう! ぼくのハーレイだよ、って自慢するからバレても平気」
 バレたら、みんなに自慢するんだよ。いいでしょ、って。ハーレイはぼくのだからね、って。
「自慢って…。今日のコッソリと違っていないか?」
 友達にも内緒で、俺を見ようとしていたくせに。
 他の生徒の中に混じって、誰にも見付からないように。…バレちまってたが。
「今だからだよ、ハーレイと一緒にいられる時間が少ないからだよ!」
 だから誰にも邪魔をされずに、ゆっくり見ていたかっただけ!
 結婚したら、いつもハーレイと一緒だし…。隠れなくても、いろんなハーレイを見られるし…。
 だから、コッソリはやめて、バレた時には見せびらかすよ!
 ぼくの大好きなハーレイだもの。ぼくのハーレイなんだもの…!



 それに、今の自分は、もうソルジャーとは違うから。
 正体がバレても、特別扱いされてしまいはしないから。仲間たちとの距離が開きもしないから。
 目立ってもいいし、注目されてもかまわない。
 どんなに目立ってしまったとしても、ただのブルーで、ハーレイのお嫁さんだから。
「そう思うでしょ? 前のぼくとは全然違うよ」
 見付かっちゃっても、ぼくは困りはしないんだよ。得意になれることはあっても。
 ぼくがハーレイのお嫁さん、って嬉しくなることは何度もあっても。
「ふむふむ、ただのブルーで嫁さんなんだな、今度のお前は」
 バレちまっても、周りのヤツらの態度が変わるってわけでもない、と。誰もが敬語になっちまうことも、特別扱いを始めることも。
「ホントにただのブルーだもの。…ただのハーレイのお嫁さんの」
 今度はハーレイの方が、ぼくより特別。みんなに人気のハーレイ先生。
 柔道と水泳の腕がプロの選手並みで、サッカーだって上手くって…。今日みたいに大勢の生徒が集まっちゃうしね、ハーレイがいるっていうだけで。
「まあなあ…。生徒に人気はあるな」
 ずっと前にいた学校のヤツらも、街で出会ったら声を掛けてくるし…。
 クラブで教えた生徒だったら、未だに憧れのヒーローみたいな扱いになるのも間違いない、と。
 俺は今度も目立つわけだな、キャプテンじゃなくなったんだがなあ…。



 お前を巻き添えにするのも同じか、とハーレイは苦笑いをしているけれど。
 そのハーレイと一緒にいたなら、今の自分も前と同じに目立ってしまうのだけれど。
(…ぼくは今度は平気だしね?)
 友達が敬語になってしまったり、距離が開いたりはしないから。本当にただのブルーだから。
 ハーレイのお嫁さんになるというだけで、他には何も変わらないから。
 正体がバレてしまった時には、今は大人気のハーレイの隣で、ハーレイは自分のものだと自慢をすることにしよう。「ぼくのハーレイなんだから」と。ハーレイの腕にギュッと抱き付いて。
 そう、今度はバレてしまってもいい。目立つ姿でもかまわない。
 自分が特別扱いされない世界で、幸せに生きてゆけるのが今の自分だから。
 ハーレイの方が目立つ世界で、大きな身体と一緒に歩いて。
 早く見付けて欲しいくらいに、きっと心が弾むのだろう。
 幸せを自慢したいから。「ぼくのハーレイだよ」と、幸せ一杯で誰もに自慢出来るのだから…。




           目立つのは嫌・了


※雰囲気だけで人目を惹いてしまうのがブルー。前の生でも、普通なふりをするだけ無駄。
 ハーレイと一緒だと、更に人目を惹くのですけど、ソルジャーではない今は、それも幸せ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(うーむ…)
 相変わらず高い、とハーレイが唸ってしまった広告。なんて値段だ、と。
 ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で開いた新聞。まだコーヒーは淹れていなくて、少し座って一休み。鍋や食器は綺麗に洗って片付けたから、一仕事終わった、といった感じで。
 帰宅して夕食を作る間に、新聞にも目を通したけれど。ザッと一通り見たというだけ、興味深い記事を中心に。その読み方だと、見落としてしまうものもある。授業で使う雑談ネタとか。
 だから、こうして改めて読む。何か無いかと、読むべきものは、と。
 そうやって読むと視点が変わって、見えなかったものが見えて来るから…。
(キャプテン・ハーレイの航宙日誌…)
 さっきは気付いていなかった。立派なカラーの広告なのに。
 キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴っていた文字をそっくりそのまま、再現してある復刻版。文字の滲みや掠れ具合まで、それは忠実に写し取ったもの。
 日誌を読み込む研究者向けで、装丁までが本物と同じ。表紙の色やデザインはもちろん、厚みもサイズも同じに出来ているという品。
(本物は簡単に読めないからなあ…)
 宇宙遺産になってしまって、収蔵庫に収められている航宙日誌。特別公開もされたりはしない。触れられるのは、ごくごく一部の研究者だけ。選ばれた一流の学者だけしか読めない日誌。
 けれど、研究には欠かせない日誌、学者たちは研究費用で買って揃える。自分の書庫に。
 本来はそういう本だけれども、学者でなくても欲しい人間はいるものだから。
(…俺が行ってる理髪店の店主も…)
 欲しいんだった、と苦笑い。キャプテン・ハーレイのファンだと語った店主。そうとは知らずに通っていたのに、最近になって聞かされた。
 航宙日誌も全巻揃えているそうだけれど、持っていないのが復刻版。いつかはそれも、と店主が口にしていた夢。「孫や曾孫が笑うけれども、欲しいんですよ」と。



 身近な所にもいる、復刻版の航宙日誌が欲しい一般人。意外にニーズがあるのだろうか、たまに目にする立派な広告。研究者ならば、広告が無くても買う筈なのに。それが必要なのだから。
 しかし、と眺めてみた広告。ズラリ並んだ、前の自分の日誌そっくりな復刻版たち。
(まったく、とんでもない値段だな…)
 これ一冊で普通の本が何冊買えることやら、と考えてしまう。航宙日誌の中身だけなら、手軽に買える文庫版まで揃っているのに、この値段。それだけの手間がかかっているとは承知だけれど。そうでなくても、研究者向けの専門書の類は高いのだけれど…。
(こいつの原価はどれだけなんだか…)
 原価と言ってもコレじゃなくて、とクックッと笑った前の自分の航宙日誌。シャングリラでは、こんなに高くはなかった、と。
 高いも何も、シャングリラには無かった通貨や店。ゆえに値段がつきはしないし、売る相手さえいなかった。高かろうとも、在庫一掃セールでも。



 売ろうにも売れなかったんだが、と考え始めた前の自分の日誌の原価。今の時代は復刻版でさえ目を剥くような値がついているけれど、元々の値段はどんなものかと。
 あれを書くのにかかった費用はどのくらいかと、それを勘定するならば…、と。
(俺が書く手間賃などは要らんし…)
 航宙日誌を書いておくことはキャプテンの仕事の内だけれども、半分は自分の趣味でもあった。今日はどういう日だったかと、日誌を書きながら思い返す時間が好きだったから。
 一日の出来事を思い出しては綴るのだから、その日を二回味わえる。過ぎた時間を自分の好みのペースに戻して、もう一度。
(どんな日だって、いいことの一つや二つはあるもんだしなあ…)
 目が回るような思いをしていた日でも、何処かにコロンと宝物のように素敵な時間。コーヒーを飲む暇さえ無かったんだ、と嘆きたい日でも、誰かに貰った一言が嬉しかったとか。
(…前のあいつを失くしちまうまでは、そういう日誌だったんだ…)
 ブルーを失くして、独りぼっちになるまでは。絶望と孤独に囚われるまでは。
 前のブルーが長い眠りに就いてしまって、目覚めなくても。青の間で眠り続けるブルーを見舞うことしか出来ない日々でも、素敵な時間はあったから。
 仲間たちと過ごす間もそうだし、青の間にブルーを見舞う時には、いつも幸せだったから。まだ生きていてくれるのだと。このまま深く眠っていたなら、ブルーは地球まで行けるのかも、と。
 日々の出来事から幸せを拾い上げては、噛み締めた時間。航宙日誌を書いていた時間。
 もっとも、見付けた幸せのことを日誌に記しはしなかったけれど。無駄なことだと全部省いて、淡々と書いておいたのだけれど。



 半分は趣味で書いていたなら、貰える筈もない手間賃。好きでやっていることなのだから。
 それにキャプテンには無かった給料。通貨が存在していない船に給料は無くて、働いてもそれを貰えはしない。残業代だって支払われはしない、ブリッジ勤務を終わらせた後に書いていたって。
 手間賃はタダな航宙日誌。色々な意味で、タダでしかない。それがタダだと、他の費用は…。
(紙と、表紙と、インクに羽根ペン…)
 いわゆる実費というヤツだ、と思い浮かべた、日誌を書くのに必要だったもの。日誌の本体と、文字を書くための文具。
 レトロな羽根ペンを愛用していたけれども、羽根ペンになる前は、普通のペン。何処にでもある普通のペンで綴っていたのが初期の頃の日誌。
(羽根ペンにしても…)
 今でこそ高い値段の文具で、小さなブルーが買い損なったくらいだけれど。今の自分の誕生日に贈ろうと買いに出掛けて、手も足も出なかったほどなのだけれど。
 前の自分が使っていたのは、買った羽根ペンなどではなかった。前のブルーが奪った物資の中にあった羽根ペン。大量に混ざっていたものだから、不自由しないで使い続けた。ブルーを失くしてしまった後にも、前の自分が命尽きるまで。
(奪ったヤツだし、タダみたいなもんだな)
 それを載せていた人類の船に、代金は払っていないから。ブルーが奪ってそれでおしまい。白い羽根ペンも、それに合わせたペン先も。
(インクは船で作って貰っていたが…)
 いくら丁寧に保管しておいても、羽根ペンと一緒に手に入れたインクは古くなったら使えない。物資を奪う時代が過ぎたら、専用に作って貰っていた。
 とはいえ、さほど高いものでもなかっただろう。他のペンにも使うインクを、自分専用のインク壺に入れて貰っていただけだから。「これに頼む」と、愛用の物を係に渡して。



 使っていた文具はそんな具合で、航宙日誌を綴っていた紙も、最初は平凡なノートだった。船に何冊もあったノートで、前のブルーが奪ったもの。
(纏まった量になって来た頃に…)
 何冊か纏めて綴じたのだった。ノートを挟めるファイルノートを倉庫で貰って、それに挟んで。
 背表紙にあった、タイトルを書いた紙片を入れられる部分。其処に「航宙日誌」の文字と、中のノートを綴った年号などを書き入れた。後になって分かりやすいようにと。
 それを本棚に突っ込んでみたら、グンと値打ちが増した気がした航宙日誌。ノートの形で並べておくより、断然、こっちの方がいい。一冊の本を書き上げたようで、ノートの時とは重みが違う。綴り続けた日々の価値まで、上がったように思えたから。
(もっと見栄えを良くしたくてだな…)
 ファイルノートでこれだけ値打ちが出るのだったら、本物の本の形にしたなら素晴らしくなるに違いない。本の中身の価値はともかく、見た目に栄える。こうして本棚に並べた時に。
 そう思ったから、製本しようと考えた。暇を見付けて、少しずつ。元のノートを分解してから、丁寧に糸で綴ってゆく。出来上がったら表紙をつけて…、と。
 作業自体は経験済みだし、時間をかければ充分に出来る。ノートを本に仕上げることも。
 早速、次の日から取り掛かったノートの製本だけれど。
(ブルーが手伝いに来やがって…)
 何処で嗅ぎ付けたか、たまたま部屋を訪ねて来た時、自分が作業中だったのか。本にするのだと知ったブルーは、いそいそと手伝いにやって来た。
 「料理のレシピを本にする時、ぼくも一緒にやったから」と助手に名乗りを上げたブルー。本にするなら手伝うからと、二人で作った方が早いと。



 有難そうに聞こえるブルーの申し出。二人でやれば確かに早いし、大いに助かるのだけれど。
 問題は本にしたい中身で、料理のレシピとは全く違う。日々の出来事を綴った日誌で、ブルーが興味津々のノート。いったい何を書いているのかと、隙を狙って盗み見ようとしている日誌。
 「手伝ってくれ」と言おうものなら、まさしくブルーの思う壺。手伝いと称して、堂々と読める航宙日誌。製本しながら、次から次へと。
 その手は食わない、と断ったけれど、諦めないのがブルーだから。
(追い払うのが大変だったんだ…!)
 さて、と作業に取り掛かったら、ヒョイと現れるものだから。「手伝おうか?」と。
 ブルーが顔を覗かせる度に、「いや、大丈夫だ」と身体で隠した航宙日誌。その度に作業は一時中断、まずはブルーを追い払うこと。好奇心の塊が部屋にいたのでは、決して続けられないから。
 初期の日誌は自分で製本、表紙も自分で作っていた。レシピ本の時の要領で。
 その内に本作りの好きな仲間が気付いて、「最初から本に書けばいい」と専用の物を作り上げてくれた。立派な本の形だけれども、何も書かれていない物を。しかも、こだわりの一冊を。
 何度もデザインを訊きに来てくれて、サイズも色々検討して。表紙の色を好みで選べて、入れる文字の色も書体も選べた専用の日誌。一冊使い終わる頃には、また新しい物を作ってくれた。
(あれが今でも残ってるヤツの原型なんだ…)
 前の自分の制服が出来た後、表紙の色を制服に合わせて渋い茶色に、と注文したら。
 本作りが好きな仲間たちは喜んで応じてくれた。その上、それまでの航宙日誌の方まで、それと揃いに出来るようにと新しい表紙を作ってくれた。
 「自分で作り直せるだろうし、揃いの表紙の方がいいから」と。
 仲間たちの好意で貰った表紙を付け替えていたら、やはり現れたブルー。「手伝おうか?」と。二人でやった方が早いと、料理のレシピの本作りは一緒にやったじゃないか、と。
 もちろん、お帰り願ったけれど。中身を読まれてはたまらないから。



 本物のキャプテン・ハーレイの航宙日誌は、そうやって出来た本だった。原価はせいぜい、紙と表紙とインク代。綴るのに使った糸や接着剤、それを入れても微々たるもの。
(タダとは言わんが、その辺の本より安いんじゃないか?)
 日記帳の値段くらいだろうな、と結論付けた。沢山書けて、本の形になっているような日記帳。今の自分も使っているから、少しも高くないことは分かる。ノートよりかは高いけれども、普通の本を買うよりは安い。同じような形の本を買ったら、作者などに支払う分が上乗せされるから。
(やっぱり、べらぼうに高いぞ、これは)
 原価を思えば、ぼったくりにしか見えない値段の復刻版。気軽に買えはしない本。
 けれど、そっくりには出来ている。前の自分の遠い記憶が「違う」と言いはしないから。本当にとてもよく出来ていると、こんな日誌が部屋にあった、と懐かしさが心に広がるから。
 遠く遥かな時の彼方で、せっせと書いていた日誌。ブルーが覗き込もうとする度、身体で隠して「俺の日記だ」と守り続けた航宙日誌。
(いつから書いていたんだっけな…?)
 ブルーを部屋から追い出す時には、「俺の日記だ」が決まり文句だった。常に敬語で話すようになっても、その時だけは。恋人同士になった後にも、一度も読ませはしなかった日誌。
 決まり文句になった言葉は、恐らくは最初からのもの。製本していた時からのものか、それとも日誌を書き始めて直ぐに使っていたか。
(あいつが黙っているわけがないし…)
 きっと一冊目のノートの頃から来ていただろう。いったい何を書いているのかと、覗き見たくて何度でも。その度に決まり文句を使って、ノートをパタリと閉じたろうけれど。
 その一冊目は、いつから書いていたのだろうか。前の自分の航宙日誌。



 はて…、と考え始めたこと。一番最初の日付はいつのものだったろうか、と。
 キャプテンだから、と書いていたのが航宙日誌。シャングリラでの日々の出来事、それを綴っていた日誌。初めの間は、倉庫で貰った平凡なノートに、普通のペンで。
(いきなり初日から書くか…?)
 キャプテンになったその日に書くだろうか、と浮かんだ疑問。それこそ「キャプテンに就任」と書いて終わりになりそうだから、書いていないと思うのだけれど。
 船のあちこちを把握してから、書き始めそうな気がするのだけれど。
 何故だか、「書いた」という記憶。自分はその日も日誌を書いたと、確かに書いていたのだと。
(だが、書くようなことがあるのか、初日に…?)
 キャプテンに就任、と書いたら終わりだろう初日。それを自分は書いたのだろうか、短い文を。右も左も分からないような新米キャプテンなのに、倉庫でノートを貰って来て。
(一人前に航宙日誌ってか…?)
 スタイルにこだわる方ではないが、と自分でも不思議に思える記憶。書くようなことも無かっただろうに、航宙日誌を書き始めた理由が分からない。
 データベースにアクセスしたなら、無料で見られる本物の航宙日誌の文字をそっくり写し取ったもの。それを読んだら、記憶の小箱を開けられるけれど。
 前の自分が綴った文字から、その時の思いを読み取れるけれど。
(こういうのはだな…)
 簡単に出来る種明かしよりも、手掛かりを一つ、二つと集めて思い出すのが楽しいから。日誌を書いていた時のように、過ぎた時間を追体験できるものだから。
(よし…!)
 考え事をするなら書斎なんだ、と移動を決めた。熱いコーヒーも淹れて行って、と。



 そうして移った、気に入りの書斎。いつもの椅子に腰を下ろして、コーヒーを一口。
 あの頃には本物のコーヒーを飲んでたっけな、と思い出が一つ蘇る。白いシャングリラになった後には、キャロブのコーヒーだったけれども。
 さてと、と手繰り始めた記憶。キャプテンになった初日のこと。
(羽根ペンはまだ無かった時代で、普通のペンで…)
 そのペンで何を書いたのだろうか、前の自分は?
 まだキャプテンの部屋も無かったし、元の部屋をそのまま使っていた。厨房時代の部屋で、机は愛用していた木製。白い鯨が出来た時にも、それを運んで行ったほど。木で出来た机は年月と共に味わいが増すし、磨いてやるのが好きだったから。
 机だけは立派にキャプテン・ハーレイ。初日から整っていたと言える舞台装置で、レトロだった趣味の品なのだけれど。
 他には特に無かった持ち物。キャプテンならばこれ、といったもの。制服も無くて、動きやすい服を着ていただけ。厨房時代と変わらないものを。
(キャプテンになったし、キャプテン・ハーレイではあったんだが…)
 就任式も特に無かった。今日からキャプテン、そういった感じ。
 ブリッジの仲間と挨拶を交わして、「よろしく」と握手した程度。船の仲間が揃いはしないし、乾杯だってしていない。キャプテンという職が出来ただけだし、祝い事とは違うから。
(厨房の方なら、引き継ぎを済ませたんだがなあ…)
 自分が抜けたら、色々と変わってくるだろう厨房。手作りのレシピ本を譲り渡して、愛用の鍋やフライパンなども「大事に使ってやってくれ」と仲間に譲った。「後は頼むぞ」と。



 けれど、ブリッジの方では違った。操船技術も持たないキャプテン、レーダーの見方も知らない有様。引き継ぎどころか、新入り同然。求心力だけを買われて就任したのだから。
 着任したって、ブリッジでは役に立たないキャプテン。それでもいいから、と請われたのだし、恥じることなど無かったけれど。
(いずれは操舵も覚えるから、と挨拶はしたが…)
 あの段階では基礎も分かっていなかったのだし、計器の一つも読み取れはしない。そんな自分がキャプテンになって、初日は何をしたのだろうか。
(ボーッと立ってもいられないしな…)
 座っていたってそれは同じで、いたずらに場所を塞ぐだけ。
(視察にでも出掛けて行ったのか?)
 それはブルーの役目の筈だが、と考えたけれど。視察の時にはブルーが先に立って、前の自分は後ろを歩いた。ソルジャーと並んで歩ける立場にいなかったから。キャプテンだから。
 けれど、自分がキャプテンになった頃のブルーは…。
(まだリーダーで…)
 ソルジャーという呼び名は無かった。あくまでリーダー、皆のために物資を奪うだけ。あの頃のブルーは視察をしてはいなかった。
 そうなってくると…。
(俺の役目だよな?)
 船内を視察して回るのは、と蘇った記憶。かなりの間は、前の自分がやっていた視察。
 ブルーがソルジャーになるまでは。…キャプテンを従えて堂々と歩き始めるまでは。



 ならば視察に出たのだろうか、とブリッジの景色や扉などを思い浮かべていたら。
(待てよ…?)
 外側からスイと開いた扉。其処から入って来たブルー。
 「行こう」と誘われたのだった。キャプテンなら船を知らなくては、と。ブリッジだけでは船の全ては分かりはしないし、ぼくと一緒に見て回ろう、と。
(思い出した…!)
 君は厨房一筋で来ていたからね、と船の中を連れ回してくれたのがブルー。次はこっち、と。
(俺だって充分、詳しかったが…)
 厨房が居場所だったとはいえ、備品倉庫の管理人をも兼ねていた。ブルーが奪った物資の分配も前の自分がしていたほど。倉庫に入れたり、必要な仲間に配ったり。
 「見当たらない物があるなら、ハーレイに訊け」とまで言われた自分。だからキャプテンに、と頼まれた。船の仲間を纏め上げるには適任だ、と。そういう人間が必要だから、と。
 厨房だけに籠っていたなら、そんな自分は出来上がらない。船のあちこちに出掛けていたから、詳しくなった船の中やら仲間の事情。
 けれど流石に、機関部などの奥となったら管轄外。部外者は邪魔になるだけだろう、と遠慮して入っていなかったから。
 そうした所へもブルーと二人で出掛けて行った。キャプテンなのだし、遠慮は要らない。確かに知っておくべき所。船の心臓なのが機関部。
 ゼルが出て来て、「こっちだ」と案内してくれた。「気を付けろよ」と注意しながら、立ち入り禁止の区画までをも。「キャプテンだったら見ておけよ」などと、分かりやすく説明してくれて。
(厨房にもブルーと行ったっけな…)
 其処は充分知っているから、と言っているのに、腕を引っ張られて入った厨房。
 昨日まで一緒に料理をしていた仲間たちが拍手で迎えてくれた。「おめでとう」と、凄い出世をしたものだ、と。
 祝って貰った、キャプテン就任。
 リーダーのブルーも一緒なのだし、と心尽くしの祝いの一皿。「食べて行ってくれ」と、笑顔で作ってくれた仲間たち。けして豪華ではなかったけれども、美味しかったと今でも思う。ブルーと二人で食べる分だけ、皿に盛られていた料理は。



 隈なく回った船の中。全部の通路を歩いたのでは、と思うくらいに。一回りしたな、と自分でも分かったものだから。
(帰ろうとしたら…)
 ブリッジに向かう通路の方へと足を向けたら、「まだ見ていない所があるよ」とブルーにクイと引かれた袖。「キャプテンなら船を見ておかなくちゃ」と。
「船って…。もう見たじゃないか」
 全部お前と回った筈だぞ、それこそ奥の奥までな。見落とした所は無いと思うが…。
「でも…。アルタミラでしか見ていないよね?」
 この船の全体像ってヤツは、と微笑んだブルー。だからハッキリ知らない筈、と。
 アルタミラでは駆け込んだだけの船だったのだし、きっと分かっていないと思う、と。
「いや、見たが…」
 これでもキャプテンになったわけで、だ…。
 難しいことは何も分からないが、どんな船かは知っておかんと…。
 ゼルたちもそういう考えだったし、ちゃんと見せては貰ったんだ。それこそ色々な角度から。
 絵を描けと言われても困っちまうが、船の姿なら把握してるぞ。こういう船だ、と。
「それって、全部データでしょ?」
 アルタミラでは肉眼だったけど、今は宇宙に出てるから…。
 船を外から見るのは無理だし、ハーレイが見たのは元からあったデータの筈だよ。
 船外活動、最低限しかしていないもの。船の姿を掴めるほどには、誰も離れていないんだよ。
 ぼくは何度も外に出たから、よく分かる。
 たったあれだけ離れたくらいじゃ、船は壁にしか見えないよね、って。



 本物の船を見せてあげる、とブルーは腕を引っ張った。「こっちに来て」と。
 まさか格納庫に行くつもりでは、と思う間に、連れて行かれた先にはハッチ。補修などで船外に出る時に使う、減圧室の先の小さなもの。宇宙服を着た人間が二人、辛うじて擦れ違えるくらいのサイズの円形の扉。
「ま、待て、出るのか!?」
 此処から外へ出ようと言うのか、この向こう側は宇宙なんだが…!
 こんな所から外へ出るのか、格納庫にある船を使うんじゃなくて…?
「大丈夫。ハーレイくらいは守れるからね」
 それに格納庫の船なんか…。誰も一度も使っていないし、それこそアテにならないよ。
 ぼくに任せておいてくれれば、ちゃんと案内してあげるから。
 この船が外からどう見えるのかも、ハーレイが見たいと思う角度も。
「なら、宇宙服を…!」
 ちょっと戻って探してくるから、待っていてくれ。減圧室には置いてないしな、宇宙服。
 俺が着られるデカいサイズのヤツ、直ぐ見付かるといいんだが…。
 とにかく急いで行ってくるから…!
「要らないってば、宇宙服なんか」
 ぼくは一度も着たことが無いよ、あんなのを着たら動きにくいと思うけど?
 視界だって狭くなってしまうと思うから…。そのまま出るのが一番なんだよ、船を見るなら。
 強化ガラスを通して見るより、肉眼の方がずっといいから…!
「ま、待ってくれ…!」
 お前はそれで大丈夫なのかもしれないが…!
 俺は宇宙に出たことは無くて、宇宙服だって、まだ一度もだな…!



 着てみたことが無いんだが、と言い終わらない内に、ブルーが開けてしまったハッチ。
 円形に開いた穴の向こうは真空なのだし、吸い出されると思ったけれど。
「大丈夫だと言ったよね?」
 ハーレイ、ちゃんと息が出来てる筈だよ、外にも放り出されてないし…。
 この減圧室、少しも減圧しなかったのにね?
「そのようだ…。これもお前の力なのか?」
 生きた心地もしなかったんだが、何も起こらん。お前、ハッチを開けちまったのに。
「ぼくはいつでも、ハッチも開けずに飛び出してるよ?」
 瞬間移動で出て行くんだから、壁なんか無いのと変わらないしね。
 だけど、今日はハーレイがビックリしないようにと、此処に来たんだ。
 いきなり宇宙に飛び出して行けば、ホントに驚くだろうから…。ハッチを通って外に行くなら、他のみんなと全く同じ。
 宇宙服があるか無いかの違いだけだよ、船外活動の時は、みんな此処から出るんだから。
 ほら、其処が宇宙。ハッチの向こう。
 あの真っ暗な所はすっかり宇宙なんだよ、船の外壁を通り抜けたら。



 行こう、とブルーに手を引かれた。いつの間にか消えていた重力。二人揃って床を離れて、壁に開いた丸い穴へと。元は閉まっていたハッチ。其処を通って、船の外へと。
 息は少しも苦しくはなくて、周りの温度も変わらないまま。まるで見えないカプセルに入って、宇宙に浮いているかのように。
 ブリッジでも見ていた瞬かない星、それが幾つか散らばる空間。星と船とを除いた所は真っ暗な闇で、遥か彼方に恒星が一つ。
 その星の光で浮かび上がったシャングリラ。元はコンスティテューションだった船。
 ブルーは何もしていないように見えるけれども、船との距離が離れてゆく。最初は聳え立つ壁に見えたのが、壁の周りに少しずつ宇宙が見え始めて。
「こんな船なのか…」
 外から見たなら、こういう風に見えるのか…。見せて貰ったデータのままだが、やっぱり違う。
 俺がこの目で見ているせいか、本物なんだって感じがするな。
 この船の中にみんなが乗ってて、俺たちが生きてる世界がそっくり乗っかってるんだ、と。
「ね、見に出て来て良かっただろう?」
 ハーレイはこの船のキャプテンなんだよ、これからハーレイが守っていく船。
 ぼくも守るけど、船のみんなの暮らしを守っていくのはハーレイ。ぼくは物資を奪うだけだし、それを上手に使っていくのはキャプテンの仕事。食べるのも、船を修理するのも。
「そうなるんだな…」
 みんなの命を守るんだよなあ、この船を焦がさないように。
 昨日までならフライパンだったが、今日からは船を焦がさないのが俺の仕事だ。
 こうして見るとデカイ船だな、フライパンとは比較にならん。…焦がさないのは大変そうだが、焦がしちまったらエライことになるし…。
 頑張らないとな、船のみんなを守れるように。この船もきちんと守ってな…。



 これがシャングリラという船なのか、とブルーのお蔭で実感出来た。船の中だけを歩いたのでは掴めなかっただろう感覚。この船が全てなのだ、と分かった。自分たちの世界を乗せている船。
「ハーレイ、船を何処から見たい?」
 一周してはみたけれど…。此処からだとかなり遠いしね。
 もっと近くで見てみたい所、あるんだったら近付いてみるよ?
 船全体は見えなくなるけど、しっかり見たいと思う部分があるのなら…。
「ブリッジの方が気になるな…」
 俺の居場所になる所だしな、見られるものなら見ておきたいと思うんだ。
 このくらいの距離のままでいいから、ブリッジが見える方へと回ってくれないか?
「了解。…それじゃ、近付いてみるね」
 ブリッジを外から覗けるトコまで。みんなの顔が見えるくらいに。
「待て、近付くって…! そんな所まで接近したら…」
 ブリッジのヤツらが慌てるだろうが、俺たちが外に出ているだなんて知らないんだから…!
 操船ミスをしたらどうする、とんでもない方向へ舵を切るとか…!
「平気だってば、見えないようにしておくから」
 ぼくたちが外を飛んでいることが、分からなければいいんだしね。
 宇宙だけしか見えなかったら、いつもと同じなんだから。



 任せておいて、と笑みを浮かべたブルー。姿を消すのは簡単だから、と。
 人類の輸送船に近付く時には、よく使う手だとブルーは言った。サイオンで乱反射させる情報、姿が見えなくなるのだという。其処にいるのに、いないかのように。宇宙の闇に溶けてしまって。
 今から思えば、後に生まれたステルス・デバイスの原点だろう。
 そして真空の宇宙空間で生きていられたのは、ブルーが張っていたシールドのお蔭。あの時点で使いこなせる仲間は、ブルーの他にはいなかったけれど。
 ブルーは前の自分を連れて宇宙を移動し、ブリッジの方へと近付いて行った。強化ガラスの直ぐ側まで。中にいる者たちが見える所まで。
「あそこがハーレイの席だったんだよ、空いてるだろう?」
 誰も座っていない、あの席。これからハーレイが座る場所はあそこ。
 キャプテンの席がきちんと決まるか、決まらないかは分からないけど…。
 あそこだと思っておけばいいかな、今日はあそこに座っていたしね。
「そうか、あそこか…」
 あそこに座って指揮を執るのか、これから先は。
 このシャングリラが焦げちまわないように、みんなが安心して暮らせるように。
「うん。…ハーレイがキャプテンになってくれて良かった」
 本当にハーレイで良かったと思う、この船のキャプテン。
 ぼくの命を預けられるよ、君にならね。
 そう思ったから、「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と言ったけど…。
 改めて思うよ、こうして君と二人でいると。
 ハーレイがキャプテンで良かったな、って…。君と二人なら大丈夫だ、って。



 本当だよ、と柔らかく笑ったブルーと一緒に、船をもう一度一周して。さっきのハッチから中に戻って、ブルーが閉ざした宇宙への扉。宇宙は壁の向こうになった。重力も床に戻って来た。
「はい、おしまい。…これで視察は済んだよ、全部」
 ハーレイ、キャプテンの仕事、頑張って。
 ぼくと二人で焦がさないように守って行こうね、シャングリラを。
「ああ、分かってる。お前の期待を裏切らないようにしないとな」
 焦げたじゃないか、と睨まれないよう、精進するさ。…なったばかりの新米だがな。
 努力しよう、とブルーと別れて戻ったブリッジ。自分のための席に座って、眺めた強化ガラスの向こう。漆黒の闇が広がる宇宙を、ブルーと二人で飛んだのだった、と。
 誰も気付いてはいなかったけれど、ブリッジの外を、確かに二人で。船を眺めに。真空の宇宙を移動しながら、あらゆる角度で見て来た船。自分たちの生きる世界を乗せている船。
(この船を守る…)
 シャングリラという名の、仲間たちと一緒に生きてゆく船を。世界の全てに等しい船を。
 それを預かるキャプテンとして。文字通り、船の長として。
 今はまだ右も左も分からないけれど、計器もレーダーも読めないけれど。
 こうしてキャプテンになったからには、操舵を覚えて、船を自在に動かしてゆこう。
 宇宙まで視察に連れて行ってくれた、まだ少年の姿のブルー。
 「ハーレイがキャプテンになって良かった」と、ブルーは言ってくれたから。その信頼と期待を裏切らないよう、しっかりと立ってゆかなければ。
 ブルーと二人で、この船を守る。今日から、自分はキャプテンだから。
 フライパンから舵に持ち替えて、船を操ることを覚えて。



 決意を新たにしたブリッジ。漆黒の宇宙を飛んでゆく船で、いつかは自分がこれを動かそうと。
 ブルーが望む通りの場所へと、自分で船の舵を握って。
(頑張らないと、と思ったんだ…)
 着実に前へ進んでゆこうと、一日たりとも無駄にすまいと。一足ずつ前へ歩み続けて、一日でも早く船を操れるキャプテンに、と。この決意こそが最初の一歩、と。
(何をしたわけでもなかったんだが…)
 決意してみても、意味が読み取れない計器。どう使うのかも分からないレーダー。もちろん舵を握れはしないし、「触らせてくれ」とも言えずに終わった初日。キャプテンになった最初の日。
 けれど、此処から進んでゆかねばならない自分。真のキャプテンへの道を。
 だから書こうと思ったのだった、自分の歩みを綴る日誌を。
 ブリッジの皆が共有している記録とは別に、個人的なものを。日々の出来事を書き留めようと。
 そう考えたから、勤務時間が終わった後に出掛けた倉庫。ノートを一冊貰って帰った。いつもと変わらない部屋へ。昨日までいた厨房時代と、何も変わっていない部屋へと。
 机に向かって広げたノート。それにレシピを記す代わりに、記した自分の一日の記録。今日から船のキャプテンになった、と書き始めたのだったか、一行目は。
 船をあちこち視察したことや、機関部の奥に初めて入ったことなどは確かに書いたけれども。
(ブルーと宇宙を飛んでいたことは…)
 微塵も書きはしなかった。ブリッジの仲間は知らないのだから、伏せておこうと。宇宙服を着て出たならともかく、ブルーの力で生身で出掛けていたのだから、と。
(あれが前の俺の、隠し事の始まり…)
 全てを書いたわけではなかった航宙日誌。「俺の日記だ」とブルーにも見せなかったけれども、個人的な思いを記してはいない。ブルーとの恋も、二人で過ごした時間のことも。
(そうか、初日からブルーとのことを隠していたか…)
 こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。恋をしていたわけでもないのに、伏せてしまったブルーとの思い出。二人で宇宙から眺めていた船、宇宙服も無しで。
 明日は小さな今のブルーに話してやろう。「初日から嘘を書いていたぞ」と。
 土曜日だから、ブルーの家を訪ねてゆく日だから。



 そして次の日、小さなブルーと向かい合わせで座った部屋。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで切り出した。
「俺の日誌のこと、覚えているか?」
 前の俺のだ、キャプテン・ハーレイの航宙日誌。…あれにそっくりの復刻版が出てるだろ?
「買う決心がついたの、ハーレイ?」
 やっと買うの、とブルーが瞳を煌めかせるから。
「いや、高いなと広告を見てて…。べらぼうな値段の本だろうが」
 元の日誌はタダのようなモンだったのに、と考えていたら、あれこれと思い出してだな…。
 それでだ、俺のキャプテン初日の日誌なんだが…。
「日誌、初日から書いてたの?」
 真面目だったんだね、ちゃんと初日も書いたんだ…。もっと後からかと思っていたのに。
「まあな。それも真っ赤な嘘というヤツを」
「え? 嘘って…」
 ありもしないことを書いておいたとか、凄くカッコ良く脚色したとか…?
「その逆だ。お前が連れて行ってくれた視察を伏せた」
 実に劇的な出来事だったが、前の俺は書かなかったんだ。お前と一緒に視察したことを。
「視察って…。あちこち案内してあげたのに?」
「そいつは書いてあるんだが…。締め括りのヤツだ、宇宙からの視察」
 お前、連れて行ってくれただろうが。船を見るなら外からでないと、と。宇宙服も無しで。
「…あれ、書いてないの?」
「うむ。どうせ仲間は誰一人として気付いちゃいないし、その方がいいかと…」
 宇宙服も着ないで外に出るなど、キャプテンがすべきことでもないしな。
「酷い…!」
 ハーレイに船を見せてあげなくちゃ、と思ったから連れて行ったのに…!
 二人きりで船の外に出たのに、何も書かずに済ませたなんて…!



 酷い、とブルーは膨れたけれど。暫くは膨れっ面だったけれど、初日から書かれずに伏せられてしまった、キャプテン・ハーレイが経験したこと。宇宙からシャングリラを眺めた事実。
 それを書かずに済ませたほどだし、一事が万事だと悟ったようで…。
「…だったら、前のぼくとのことは…」
 宇宙からの視察も書いてないんじゃ、恋人同士になってからのことも…。
「何も書くわけがないってな」
 あの視察以上にマズイだろうが、後になって誰かが読んだ時に。…お前とのことを書いたなら。
「今度の日記も同じなんだね。今のハーレイが書いてる日記」
 日誌じゃなくって日記だけれども、ぼくのこと、書いていないんでしょ?
「今のトコはな。どうせ元から覚え書きだし」
 航宙日誌とはまるで違うぞ、本当に日記なんだから。後進のために書いてもいないし。
「いいけどね…。ぼくのこと、生徒としか書いていなくても」
 他の生徒と区別がつかない書き方でも仕方ないけれど…。
 今はいいけど、今度は結婚するんだから。ずっとそれだと、ぼく、怒るからね?
 それと、前のハーレイの航宙日誌…。



 いつかは買って欲しいんだけど、と強請られた。例の高価な復刻版。
 今のブルーは、それの秘密を知っているから。書かれたままの文字を見たなら、蘇ってくる遠い日々の思い出。其処に書かれた文字以上のことを、今の自分は読み取れるから。
(きっと買わされちまうんだろうなあ…)
 結婚して二人で暮らし始めたら、あの高い本を丸ごと全部。前の自分が綴り続けた長い日誌を、最初の巻から終わりの巻まで。
(おまけに、その日は何があったか、解説も無理やり…)
 させられることになりそうだけれど、きっと幸せだろうから。
 ブルーと二人で開く日誌は、前の自分が手に入れられなかった幸せの中で読むのだから。
 「知らんな」とケチなことは言わずに、ブルーに説明してやろう。
 「この日はだな…」と、隠し事はぜずに、正直に。前の自分の想いもこめて。
 きっとブルーには、最初から恋をしていたから。
 アルタミラで初めて出会った時から、きっと惹かれていた筈だから…。




            航宙日誌の始まり・了

※前のハーレイが書いていた航宙日誌。ブルーとのことは、初日から書かなかったのです。
 けれど、復刻盤を見たなら、全てを思い出せる筈。いつか買って、ブルーに解説することに。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv









(ふうん…?)
 綺麗、と小さなブルーが眺めたガラスの靴。学校から帰っておやつの時間に広げた新聞、其処に載っていた美しい靴。
 幼い頃に読んだお伽話から抜け出したように、澄んだ輝き。イメージそのまま、キラキラと光る透明な靴。クッションの上に置かれて、お姫様が履くのを待っているよう。
 なんて素敵な靴なんだろう、と添えられた記事を読んでみたら。
(大切な人へのプレゼントにどうぞ、って…)
 本当に本物のガラスの靴。履いて歩くのは難しいけれど、履いても割れはしない靴。小さなヒビさえ出来はしなくて、足にピッタリ合うらしい。ガラスだから歩けないだけで。硬いガラスは足の動きに添って柔らかく曲がらないから、靴擦れなどが出来てしまって。
 足のサイズにピッタリ合わせて、大切な人へのプレゼント。そうするためのガラスの靴。
(大切な人だから…)
 もしも自分が贈るのだったら、ハーレイということになるけれど。
(違うよね、多分…)
 ガラスの靴を履くには大きすぎる足。サイズは特注になってしまいそう。ガラスの靴はピッタリ合うのが売りらしいけれど、基本のサイズはあるだろうから。
(微調整して作るんだよね?)
 きっとその方が効率的。一から作ってゆくよりも。
(ハーレイのサイズで作って下さい、って頼んだら、待ち時間、うんと長いかも…)
 それでも出来るとは思うけれども、貰うのなら自分の方だろう。ガラスの靴はお姫様の靴だし、写真の靴も女性向け。すらりとして華奢で、踵が高くて。



 何処から見ても、男性用ではないデザイン。お伽話の世界の靴。
 自分も男には違いないけれど、貰うなら多分、自分の方。いつかハーレイのお嫁さんになるし、花嫁衣装も着るのだから。
(だけど、貰っても…)
 似合いそうにないガラスの靴。チビの自分が履いてみたって、学校でやる劇の登場人物のよう。懸命に役を演じているだけ、大人の役でも子供は子供。お姫様でも、王子様でも。
(もっと大きくならないと…)
 ガラスの靴は似合わないだろう。サイズがピッタリ合っていたって、劇の衣装にしかならない。金色の紙で出来た冠などと同じで、子供に似合いの舞台用の小物。少しも値打ちが無さそうな靴。いくら綺麗に光っていたって、履いているのは子供だから。
(ぼくが履いても似合うようになるのは…)
 前の自分と同じに育って、結婚出来るくらいの年頃。花嫁衣装が着られる頃。
 だから、この靴もプロポーズ用の靴なのだろう。お伽話に憧れる女の子にプレゼントするより、プロポーズ。大切に想う恋人に渡して、履いて貰って。
(指輪よりかは…)
 こっちの方が好みかも、と考えた。
 プロポーズには指輪がつきものだけれど、指輪は結婚指輪で充分。婚約指輪なんかは要らない。貰ったところで嵌めることもないし、つけてゆく場所も無いのだから。
 それよりはガラスの靴がいい。指輪と違って飾っておけるし、いつも眺めて幸せな気分。見れば浮かぶだろうプロポーズの言葉、貰った時の気持ちなんかも。貰った場所も。
 そう思ったら…。
(ガラスの靴…)
 この靴が欲しくなって来た。煌めくお伽話の靴。本当に履けるガラスの靴を、ハーレイから。
 「お前の足に合う筈なんだが」と。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、忘れられないガラスの靴。透き通ったガラスで出来た靴。足にピッタリのガラスの靴は…。
(シンデレラだよね)
 ガラスの靴を履いたお姫様。憧れの王子様とダンスを踊って、幸せ一杯のハッピーエンド。
 今の自分もハーレイとハッピーエンドを迎えるのだから、ガラスの靴が似合うと思う。使わない婚約指輪などより、ガラスの靴でプロポーズ。
 それがいいな、と夢を膨らませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、ワクワクしながら切り出した。テーブルを挟んで、向かい合わせで。
「あのね、靴をプレゼントしてくれる?」
 今じゃなくって、ぼくが大きくなってから。…靴のプレゼント。
「はあ?」
 靴ってなんだ、俺と一緒にジョギングするのか、そのための靴か?
「違うよ、ガラスの靴だってば!」
 シンデレラが履いてたガラスの靴だよ、今日の新聞に載ってたんだよ!
 とっても綺麗なガラスの靴。足にピッタリに作って貰えて、本当に履ける靴だって。硬いから、歩くのには向いてないらしいけど…。
 「大切な人へのプレゼントにどうぞ」って書いてあったから、きっと恋人用だと思う。ガラスの靴でハッピーエンドになるお話でしょ、シンデレラは?
 だからね…。



 プロポーズしてくれる時はそれがいいな、と注文した。足にピッタリのガラスの靴。婚約指輪を貰うよりもガラスの靴がいい、と。
「そうなのか? 婚約指輪よりもガラスの靴なあ…」
 まあ、お前、確かに指輪は嵌めそうにないが…。プレゼントしても。
「シャングリラ・リングは欲しいし、嵌めるよ! シャングリラから作る指輪だもの!」
 それに結婚指輪はちゃんと嵌めるよ、シャングリラ・リングじゃなくっても!
 抽選に外れて普通の指輪になってしまっても、ハーレイとお揃いの指輪なんだから!
 前のぼくたちは嵌められなかった、結婚してる印なんだから…!
「そいつは俺も何度も聞かされてるが…。それ以外の指輪はあまり興味が無いんだろ?」
 婚約指輪は贈るつもりだが、お前、仕舞っておくだろうしな。…つける代わりに。
「うん、そんな指輪は嵌めないよ。大切にするけど、宝石の指輪は、ぼくはあんまり…」
 つけて行くような場所も無いしね、高い指輪を買って貰っても。
 ハーレイと結婚出来れば充分、婚約指輪も要らないくらい。結婚指輪だけで。
 でも…。
 プロポーズにガラスの靴もいいな、と思うから…。ハッピーエンドのお姫様の靴。
 婚約指輪を貰うよりかは、断然、そっち。うんと幸せな気分になれそう。
「…男物の靴は無いと思うぞ?」
 なにしろガラスの靴なんだしなあ、普通、男には贈らんだろうし…。
「それでもいいから! 新聞に載っていたガラスの靴も、女の人の靴だったから!」
 ホントにシンデレラが履きそうな靴で、踵も高くて…。あの靴が欲しいよ、シンデレラの靴。
 夢みたいに綺麗なガラスの靴が。
「なるほど…。要はハッピーエンドなんだな、お前の夢は?」
 宝石のついた指輪を貰うより、ハッピーエンドのガラスの靴。
「そう!」
 幸せになれそうな気分がするでしょ、ガラスの靴を貰ったら。
 プロポーズされて指輪を嵌めてみるより、足にピッタリのガラスの靴を履く方が。



 絶対、幸せになれそうだから、と強請った靴のプレゼント。気が早すぎる話だけれど。まだまだ結婚出来はしなくて、プロポーズの日も来ないのだけれど。そうしたら…。
「そうだな、今は時間切れにもならないしな」
 ガラスの靴もいいかもしれんな、あれの魔法は時間が来たら解けちまうんだから。
「え…?」
 時間切れってなあに、それに今って…?
 ハーレイ、魔法を見たことがあるの、時間切れになっちゃうシンデレラの靴を…?
「シンデレラに会ったことは無いがだ、似たような人なら知っていた」
 前のお前だ。時間が来たら魔法が解けて、ソルジャーに戻っちまうんだ。
 俺だけの大切なお姫様なのに、魔法の時間が終わっちまったら…。
「あ…!」
 そうかも、前のぼくならシンデレラかも…。舞踏会には行かなかったけど。
 ハーレイとダンスもしていないけれど、恋人でいられた時間は確かに魔法だったかも…。
 みんなに内緒で、知られるわけにはいかなくて…。
 恋人同士でいられる時間が終わっちゃったら、前のぼく、ソルジャーに戻っておしまい…。



 シンデレラは夜にお城の舞踏会へと出掛けるけれども、前の自分も夜の間だけのお姫様。昼間は白いシャングリラを守るソルジャー、夜になったらハーレイの恋人のお姫様。
 ダンスの代わりに抱き締めて貰って、キスを交わして、二人きりの甘い時間が始まる。ガラスの靴を履いて踊る代わりに、ソルジャーの靴を脱いでしまって。
 靴だけでなくて、マントも上着も何もかも脱いで。ハーレイと抱き合って愛を交わして、二人で寄り添い合って眠って。恋人同士の夜を過ごして、朝になったら…。
「お前、靴を履いて行っちまった」
 シンデレラは靴を落としてゆくのに、お前は履いて行っちまうんだ。
 元のソルジャーに戻ってしまって、お姫様のお前は消えちまう。俺の前からいなくなるんだ…。
「それを言うなら、ハーレイもじゃない…!」
 お姫様じゃなくて王子様だけど、靴を履いたら元のキャプテン。
 前のぼくの恋人は消えてしまったよ、キャプテンの靴を履いちゃったら。
「まあな。…お互い様ってトコか」
 お前はソルジャーで、俺はキャプテン。恋人同士の顔は誰にも見せられなかった。
 夜の間だけしか、魔法はかからなかったんだ。前の俺たちが恋人でいられる魔法はな…。



 昼間も恋はしていたけれども、皆の前ではキスは出来ない。抱き合うことも、手を繋ぐことも。
 前の自分も前のハーレイも、お互い、夜だけの恋人同士。
 魔法の時間が終わった後には、靴を落としてさえ行けなかった二人。シンデレラが片方落とした靴は、ハッピーエンドに繋がったのに。シンデレラの足にピタリと合って。
「前のぼくたち、靴も落とせなかったよね…」
 魔法の時間が終わっちゃったら靴を履くんだし、両方履くしかなかったから。右も左も。
 制服を着たら、靴も履かなきゃ…。
「靴を片方だけっていうのは有り得なかったからなあ、俺たちの場合」
 キャプテンにしてもソルジャーにしても、だらしないってことになっちまう。
 靴を片方しか履いてないんじゃ、寝ぼけてるとしか見えないからな。両方きちんと履かないと。
「そうでしょ? ぼくがやっても、ハーレイがやっても、エラに叱られてしまいそう」
 片方の靴はどうしたのです、って怖い顔をして睨まれて。急いで履いて来て下さい、って。
 でもね…。前のぼくたち、靴を落としては行けなかったけど、その必要は無かったと思わない?
 片方の靴を持って探しに出掛けなくても、誰だか分かっていたんだから。…自分の恋人。
 前のぼくもハーレイも、ちゃんと恋人、分かっていたでしょ?
 何処にいる人で、どんな人なのか。顔も名前も、何もかも全部。
「違いないな…!」
 靴を落としちゃ行けなかったが、最初から落とす必要も無い、と。
 俺はお前を間違えやしないし、お前だって俺を間違えやしない。靴を頼りに探さなくても、船の中で会えば分かるってもんだ。
 他のヤツらが周りにいたから、出会ってもキスは出来なかったし、プロポーズも出来なかったというだけのことで…。前の俺たちには、片方だけの靴は要らなかった、と。
 持ち主は誰か、お互いに知っていたんだからな。



 それに、とハーレイが浮かべた笑み。「靴が頼りでも苦労しないぞ」と。
「俺はともかく、お前の場合は靴を見ただけで誰か分かったからな」
 あの靴の持ち主が分からないヤツは、シャングリラには一人もいなかったろうさ。
 あれを履ける足の持ち主を探さなくても、同じデザインの靴は他に一つも無かったんだから。
「ぼくだけだったしね、あんな靴…」
 他には誰も履いてなかったよ、あんなに目立つブーツなんかは…!
「そういうこった。俺の靴なら他に幾つも…って、サイズで分かるか」
 同じデザインの靴が山ほどあっても、俺の靴のサイズは特大っていうヤツだしなあ…。
「当たり前だよ、長老の靴は全部おんなじだったけど!」
 キャプテンの靴と長老の靴は、同じデザインになってたものね。男性用でも、女性用でも。
 それに、仲間の靴だって。…男性用のはハーレイたちのと良く似ていたよ。パッと見ただけじゃ分からないほど、見掛けはそっくり。
 でも、前のぼくだって、サイズで誰だか直ぐに分かったよ。靴の持ち主。
 ハーレイが靴を片方落として行ったら、「この大きさなら、ハーレイだな」って。
「そうなんだよなあ…。俺の足だけが無駄にデカかったんだ」
 ミュウは大抵、虚弱に出来ていたもんだから…。アルテメシアで新しい仲間が増えていっても、前の俺みたいにデカい身体の持ち主は一人もいなかったっけな。
 あの図体に見合った靴を履いてたのは俺しかないし、他のヤツらには大きすぎる靴で…。落ちていたなら、俺の靴だと分からないヤツは誰もいないか。
 お前の場合はつまらないんだな、恋人探し。
 俺が片方落として行っても、誰の靴か直ぐに分かるんだから。
「ハーレイもでしょ!」
 先にハーレイが言い出したんだよ、ぼくの靴は見ただけで分かるって!
 ピッタリの足の持ち主は誰なのか探さなくても、同じデザインの靴は無いんだから、って!



 前の自分も前のハーレイも、探す必要が無かった靴の持ち主。片方落としていった恋人。
 誰に見せてもデザインかサイズで分かってしまうし、自分たちだって同じこと。
 つまらないような気もするのだけれども、逆に考えれば探さなくても出会える恋。片方だけでも靴があったら、それだけで。誰の靴かと、一目見ただけで。
(お互い、探さなくても済むんだっていう方が凄いよね…?)
 シンデレラの王子は国中を探させるのだから。片方だけのガラスの靴を家臣に持たせて、それがピッタリの人は誰かと。誰とダンスを踊ったのかと、自分が恋をした人は、と。
 そうしなくても、恋の相手が直ぐに分かったのが前の自分たち。考えようによっては、お伽話の恋人たちよりずっと上。探す必要も無いのだから。靴が片方ありさえすれば。
(シンデレラよりも凄いよ、これって…)
 本当に運命の恋人同士、と前の生へと思いを馳せていたら、ハーレイに声を掛けられた。
「そういえば…。お前、羨ましがっていたっけな?」
 俺に何度も言っていたもんだ、そんなのがいいな、と。
「羨ましいって…。何が?」
 何が羨ましかったの、前のぼくは?
「前の俺の靴だ。さっきから話題になっている靴」
 キャプテンだった俺が履いてた靴だな、ゼルやヒルマンのと全く同じでサイズ違いの。
 シャングリラで一番デカいサイズで、他のヤツが履いたら脱げそうなヤツ。
「靴って…。なんで?」
 どうしてハーレイの靴が羨ましいわけ、あの靴、船に溢れていたよ?
 ゼルやブラウのは全く同じで、男性用の靴も見た目は殆どおんなじで…。
 ハーレイの靴って言わなくっても、シャングリラの中には山ほどあったと思うんだけど…!
 ゼルの靴でもヒルマンの靴でも、どれでも羨ましそうなんだけど…!



 まるで記憶に無い話。平凡だったキャプテンの靴。長老たちは揃いのデザインだったし、男性の制服に合わせた靴も似たようなもの。並んで立ったらそっくり同じに見えたくらいに。
 あんな靴の何処が良かったのだろう?
 シャングリラでは本当にありふれた靴で、珍しくもなんともなかった靴。通路に片方落っこちていても、誰の靴か分からないほどに。ハーレイの特大の靴でなければ。
 どう考えても平凡な靴で、前の自分が目を留めそうにもないのだけれど。
(羨ましいって言ってたんだし、何かいいトコ、あったんだよね…?)
 きっとその筈、あの靴ならではの魅力が何処かに。
 履き心地だろうか、と思ったけれども、ソルジャーの靴の履き心地が悪いわけがない。比べれば遥かに上だった筈で、足にピッタリだった筈。それこそシンデレラの靴のように。
(履いてることを忘れるくらいの靴だったよ…?)
 大袈裟なブーツだったけれども、軽やかで、重みを感じさせなくて。
 それでいて防御力はとても高かった。衝撃などから守ってくれた頼もしい靴。いつも着けていた手袋と同じ。身体に負担をかけない素材で、それは丁寧に作られていた靴。
 起きている間は、何処へ行くにもあの靴を履いていたのだから。船の中でも、船の外でも。
 常に足を包み続ける靴だし、不快感を与えないように。締め付け過ぎたり、緩すぎたりでは話になりはしない靴。身体の一部であるかのように、馴染んでいないといけない靴。
 ソルジャーのための靴だったのだし、シャングリラの中では最高の履き心地の靴だった筈。他の仲間とは足のサイズが変わってくるから、誰が履いても最高の靴とは言えないけれど。
 ハーレイだったら足が入らないし、他の仲間でも靴擦れが出来たかもしれない。
 とはいえ、前の自分にとっては、シンデレラの靴のようだった靴。前の自分のためだけの靴。
 そういう靴を履いていたのに、どうしてハーレイの靴が羨ましかったのだろう?
 いくらでも船にありそうな靴が。落っこちていても、持ち主が全く分からないような靴が。
 …サイズの問題を抜きにさえすれば。ハーレイの靴なら、サイズで一目瞭然だから。



 分からないや、と首を傾げて考え込んでいたら、「忘れちまったか?」と可笑しそうな声。
 あんなに羨ましがっていたのに、と。
「前のお前は、あの靴が羨ましかったんだ。船に溢れていた靴がな」
 何処から見たって平凡な靴で、ありふれたデザインだったんだが…。おまけに地味だし。
 しかしだ、お前、前の俺が朝にアレを履く時、よく言ってたぞ。
 俺の足元を覗き込んでは靴を眺めて、指差したりして。
 ハーレイの靴は普通でいいね、と。ぼくのと違って、みんな履いてる靴だから、とな。
「ああ…!」
 そうだったっけ、普通なのが羨ましかったんだ…!
 ハーレイの靴はみんなと同じで、ゼルもヒルマンもブラウも履いてて…。他の仲間もよく似てる靴で、おんなじ靴が船に一杯。誰の靴だか分からないくらい。
 でも、ぼくの靴はシャングリラで一人だけしか履いてなくって、誰も同じじゃなかったから…。少しも普通じゃなかったから…!
 思い出した、と手を打った。
 前の自分が履いていたのは、よく目立つブーツ。上着に合わせたデザインのもので、白くて縁に銀の装飾。しなやかな素材で出来ていたけれど、邪魔なものではなかったけれど。
(靴じゃなくって、ブーツなんだよ…)
 ブーツも靴の一種だとはいえ、ハーレイたちの靴とは違う。あちらはごくごく普通のデザイン、ズボンの裾から覗くもの。制服が主役で靴は脇役、大して人目を引いたりはしない。
 ブーツの方だと、ズボンの裾はブーツの中に入るのに。ブーツも立派に制服の一部、履いていることを前提にして服もデザインされていたのに。
 男性用に作られた制服の靴も、ハーレイたちの靴と殆ど同じ。誰も履いてはいなかったブーツ。靴はズボンの裾から覗いて、脇役でしかないものだった。
 前の自分の靴だったブーツは、目立つブーツは、どちらかと言えば…。
(女性用の制服の靴とおんなじ…)
 あっちはブーツ、と零れた溜息。遠く遥かな時の彼方で、前の自分がそうだったように。
 其処を何度も見詰め直しては、「女性用かも…」と溜息を漏らしていたように。



 蘇って来た前の自分の記憶。男性は履いていなかったブーツ。自分の他には、ただの一人も。
 男性用のブーツと言えば、修理などの時の作業用。人前に出る時は履き替えるもので、ブーツで船内を歩いていたりはしなかった。よほど急いでいる時以外は。
 けれど、女性はいつでもブーツ。制服がそういうデザインだったし、子供の頃から。小さい間は短いブーツで、大きくなったら長い丈になっていたブーツ。
「ハーレイ、前のぼくが履いてた靴だけど…」
 ぼく一人しか履いていなかったことも普通じゃないけど、ブーツだったことも普通じゃないよ。
 あの船でブーツを履いていた人、男の人には誰もいなくて…。
 作業服とかを入れなかったら、ブーツは女性用の靴。女の人の制服の靴がブーツだったよ。
「思い出したか、そこが問題だったんだよなあ…」
 お前、何度も文句を言うんだ、「この靴は女性用だと思うんだけど」と、俺だけに。
 服飾部門のヤツらに文句を言えはしないし、会議にかけて変えるわけにもいかないし…。
 もっと早くに気付いていたなら、デザインの段階で変えられたろうが…。後の時代でも、素材が完成するまでだったら、多分、変更出来たんだろうが。
 …お前、気付くのが遅すぎたんだな、男でブーツはお前だけだということに。
 前の俺だって、お前が文句を言うまで全く気付かなかったし、無理もないとは思うんだが。
「うん…。ぼくもホントにウッカリしてたよ」
 ハーレイたちの靴とは違う、ってトコばかり見てて、船全体が見えていなくって…。
 前のハーレイと恋人同士になった後だよ、女の人の制服だったらブーツなんだ、ってことに気が付いたのは。…それまではちっとも知らなかったよ、ホントだよ。
 きっと、カップルを見ていることが増えたからだね、あそこにも恋人同士の二人がいる、って。
 ぼくがハーレイと恋人同士だって宣言出来たら、あんな風に一緒にいられるのに、って…。
 だから女の人の方を見ながら、ぼくの姿を重ねてた。ハーレイと二人で歩きたくって。
 そうやって何度も眺めていたから、ブーツにも気が付いちゃった。男の人はハーレイと同じ靴を履いてて、女の人の靴はブーツだよね、って。
 …おまけにデザイン、そっくりなんだよ。前のぼくのブーツと女の人のと、殆ど同じで…。
 だってそうでしょ、どっちも似たような形なんだよ、並べてみたら。



 色は全く違うんだけど、と今も鮮やかに思い出すことが出来る、女性たちが履いていたブーツ。制服のスカートと同じ色のブーツで、縁の飾りが金色だった。
 どういうわけだか、ソルジャーだった前の自分のブーツと瓜二つのように思えたそれ。そういうデザイン、縁飾りが少し控えめなだけ。女性用の方が。
 ハーレイはもちろん、服飾部門の者たちも含めて誰も気付いていなかったけれど、一度気付くとそう見えた。ソルジャーのブーツは女性用だと、それとそっくり同じ形で、男性用の靴とは少しも似ていないと。
 たった一人だけ、ブーツを履いた男性だった前の自分には。女性と同じブーツの前の自分には。
「酷いと思うよ、あのデザイン。…なんで女の人用なわけ?」
 ハーレイと恋人同士になった後に出来たブーツだったら、嬉しいけれど…。ぼく一人だけが違う靴でも、女の人用と同じブーツでも。
 偶然なんだ、って分かっていたって、ハーレイの恋人用のデザインみたいな気分だから。
 二人で一緒に歩く時には、こっそりハーレイの恋人気分。…並んで歩けなくったって。
 だけど、そうじゃなかったんだもの…。ブーツの方が先にあったんだもの。
「お前、ブーツについては文句ばっかりだったな」
 同じ制服でも、上着の模様は「お揃いだね」と大喜びをしていたくせに。
 俺と恋人同士になった後で気付いて、「ハーレイのと同じ」と何度も触っていたくせに…。前の俺の上着についていた模様、お前の上着と揃いになっていたからな。
 ブーツも前向きに考えればいいと思うんだがなあ、俺の恋人になっていたんだから。女性用のがピッタリじゃないか、俺とこっそりカップル気分で。
 なのに、それを言ったらお前は怒り出すんだ、「ブーツは別だ」と。このブーツだけは、とても許す気分になれないと。
「決まってるじゃない、上着の模様と靴のデザインとは違うんだよ?」
 上着だったら、ソルジャーとキャプテンがお揃いでも変じゃないんだよ。恋人同士でなかったとしても、シャングリラを纏める二人だから。
 でも、ソルジャーのブーツと女性用のブーツ、同じデザインにしておく意味があるわけ?
 いざという時には戦いに出るのがソルジャーなんだよ、船を守って戦う役目。
 ソルジャーはそういう仕事だけれども、女の人たちは全く違うよ?
 戦いになんか参加しないし、ブリッジにいてもレーダーだとか分析担当…。
 ソルジャーとは立場が違いすぎるし、同じデザインの靴にする意味が全く無いんだけれど…!



 どう考えても納得出来ない、と未だに腹が立つブーツ。女性用と同じだったデザイン。
 前のハーレイと恋人同士になっていたって、複雑な気持ちは拭えなかった。女性みたいだ、と。
 しかも最初から、そういうデザイン。他の男性は普通の靴だったのに。
「おいおい…。俺と恋人同士にならなきゃ、お前、気付かなかったんだろうが」
 そんなに文句を言ってやるなよ、誰も悪気は無かったんだ。あのデザインにしようと考え付いたヤツも、それでいいと決めた前の俺たちも。
 ただなあ…。ちょいと気になる点はあるなあ、今になってみたら。
「今って…。ハーレイ、何かを思い出したの?」
 誰かがブーツの話をしてるの、聞いたとか?
 前のぼくが眠ってしまった後とか、いなくなってしまった後とかに…?
「いや、そうじゃないが…。お前でも分かることだな、うん」
 ジョミーのブーツだ、お前のとそっくり同じじゃなかった。上着のデザインが違ったように。
 そいつに合わせて変えてあったんだと思いたいんだが、もしかしたらだ…。
「…デザインした人、前のぼくのブーツに気付いてたわけ?」
 あの通りにしたら女性用と同じデザインになる、って気が付いてたから変えちゃった?
 ぼくだけだったら、誰も気付きはしないけど…。
 ジョミーも同じブーツを履いたら、気付かれるかもしれないものね?
 履いてる人が一人増えたら、その分、目に付きやすくなるから。ブーツの男の人が二人、って。
 でなきゃ、ジョミーが気付くだとか。…「このブーツ、女の人のと同じだけど?」って。
「今となっては謎なんだがなあ、可能性ってヤツはゼロではないな」
 お前の制服をデザインしたヤツ、職業柄、いつも仲間たちの服を見ていただろうし…。
 それこそ、お前と同じくらいに後になってから、ミスに気付いたかもしれん。やっちまったと。
 しかし、自分から「変更します」と言えば墓穴だ。理由を訊かれて、怒鳴り付けられて。
 …それはマズイ、と自分一人の腹に収めてたら、ジョミーが来たってこともある。
 服のデザインを任せられたから、ブーツのデザイン、直したかもなあ、バレないように。
 ソルジャーの制服はブーツなんだと、女性用のブーツとは全く違う、と。
「…それ、酷くない?」
 怒っていいかな、ぼくのはやっぱり女の人の靴だったんだ、って…!
 ジョミーのブーツは男性用だけど、ぼくのはホントに女性用のブーツだった、って…!



 あんまりだよ、とプンスカ怒ろうとしたら、「推測だぞ?」と宥められた。偶然だということもあるから、怒ってやるなと。それに本当だったとしたって、とっくに時効なのだから、と。
「お前の靴に話を戻そう。ブーツのデザインの方じゃなくてな」
 女性用に見えたって件はともかく、お前はブーツで、前の俺は船に溢れていた靴。
 そいつが羨ましかったんだろうが、前の俺の靴。…ブーツじゃなくて普通だったから。
 誰でも履いてて、目を引くこともないからな。前のお前の靴と違って。
「うん…。ハーレイの靴、ホントに普通の靴だったもの…」
 前のぼくは目立ち過ぎるブーツで、ぼくしか履いていなかったんだよ。ホントにぼくだけ。
 それに、ソルジャーの役目をやってる限りは脱げないし…。あの靴もソルジャーの制服だから。
 ぼくもおんなじ靴にしたい、って注文したって、絶対に無理。服に合わないから。
 ソルジャーはソルジャーの服しか着ていられないし、靴だって同じ。
 みんなと同じ制服なんかは着られないでしょ、そんな我儘、言えないものね…。
 ぼくもああいう靴がいいとか、あの靴がいいから普通の制服を着てみたいとかは。



 前の自分が羨ましがったハーレイの靴。他の仲間たちと同じような靴。片方だけ通路に転がっていても、誰の靴だか分からないほどに。サイズを調べない限り。
(ハーレイの靴なら、見たら誰でも分かるけど…)
 前の自分が落とした靴なら、きっと分からなかっただろう。同じサイズの靴を履いている仲間が多くて、その中の誰の靴なのか。それこそ船中、持ち主を探して回らない限り。
 けれども、前の自分の靴は違った。一人だけブーツで、目立つデザイン。片方だけでも、直ぐに持ち主が分かってしまう。この靴だったらソルジャーだ、と。
 たった一人だけ、違ったデザイン。他の仲間は履いていない靴。
 そういう靴を履いているのだ、と自覚させられたら、羨ましく感じたのだった。他の仲間たちと似たデザインの靴のハーレイが。長老たちとはそっくり同じで、男性用の制服の靴ともそっくり。見た目だけなら区別がつきはしなかった。長老用の靴と男性用の靴は。
(みんな、ああいう普通の靴…)
 女性はともかく、男性ならば。ブーツではなくて、ズボンの裾から覗く靴。
 ずっと昔は自分もそういう靴だったのに、と何度もハーレイの靴を見ていた。制服が出来る前の時代は、普通の靴を履いていたから。
(ブーツなんかは…)
 多分、履いてはいなかっただろう。物資に混ざっていたとしたって、好んで選びはしなかった。ブーツが好きで履いていたなら、記憶に残っているだろうから。
(歩きにくいし…)
 ソルジャーのブーツならばともかく、ファッションとして選ぶブーツの方は。
 人類軍の制服のブーツは別だけれども、普通に売られていただろう物は。今の自分も、ブーツを履きはしないから。短いブーツも、長いブーツも。



 普通の靴が一番いい、と羨ましかった前のハーレイの靴。ああいう靴を履けたなら、と。
 ソルジャーの制服を着ている限りは、けして履くことは出来ない靴。
「お前、何度も普通の靴を履きたがって…」
 履いてみたい、と俺に言うんだ、そんなこと出来やしないのにな。
 いいな、と眺めて、羨ましがって、時々、夜に…。
「ハーレイの靴を借りてみたっけね、ぼくにも履かせて、って」
 ちょっと脱いで貸して、って借りてたんだよ、ハーレイが椅子に座っている時に。
 青の間でしかやってないけど、借りて履いてみて、「似合うかい?」って。
 ブカブカの靴で、ぼくに似合うわけないのにね…。大きすぎて直ぐに脱げちゃってたし。
 でも、憧れの靴だったから、と時の彼方から戻って来た記憶。
 いつか平和を手に入れたならば、ソルジャーが要らなくなったなら。
 普通の靴をまた履いてみたいと願った自分。ハーレイが履いているような靴を。ブーツではない普通の靴を。
 その日を夢に見ていたのだった、前の自分は。ハーレイの靴を眺めて、借りて履いてみては。
「そういや、俺が選んでやるって言ったんだっけな」
 お前が靴の話をした時。…ソルジャーの制服が要らなくなったら、普通の靴を履きたい、と。
 その時にお前が履くための靴は、俺がピッタリのを選んでやるから、って…。
「そうだっけね…。ハーレイ、最初の靴を履いた時にも、ぼくに付き合ってくれたしね…」
 まだシャングリラじゃなかった船で、サイズが無くって探していた靴。
 ハーレイの足は大きすぎたし、ぼくはチビで足が小さかったし…。
 足に合う靴が見付からなくって、ハーレイは靴に切れ目を入れてて、ぼくは詰め物。前のぼくの足にピッタリの靴が見付かるまでは待っててやる、ってハーレイ、約束してくれたものね。



 まだシャングリラの名前が無かった船。最初から船に積まれていた靴も、前の自分が奪う物資に紛れていた靴も、ありふれたサイズの靴ばかり。特大のと子供用のは混じっていなかった。
 皆が自分に合う靴を選んで履いていた中、一番最後まで足にピッタリの靴が無かった二人。前のハーレイと、前の自分と。
 ハーレイは「俺の靴が先に見付かっても、履かずに待つ」と言ってくれたし、前の自分も思いは同じ。ハーレイの靴が見付かるまでは、と。
 そんな日々の果てに思い切って奪った、靴ばかりが詰まっていたコンテナ。大きな茶色の革靴はハーレイの足に丁度良かったし、小さな白い革靴は自分の足に似合いのサイズ。誂えたように。
 二人揃って手に入れられた、履くことが出来たピッタリの靴。
 あの頃からの運命だろう、と前のハーレイは微笑んだのだった。
 「普通の靴を履かれる時には、あなたの靴は私が選んで差し上げますよ」と。
 恋人として、心をこめて。
 足に合ったサイズと、似合いのデザイン。そういう靴を探して差し上げますから、と。



 遠く遥かな時の彼方で、前のハーレイが言ってくれたこと。靴を選んでくれる約束。前の自分にピッタリの靴を、ソルジャーのブーツとは違う普通の靴を。
「…ぼくの靴、選んで貰い損なっちゃった…」
 死んじゃったから仕方ないけど、普通の靴を選んで貰える時代にもなっていなかったけど…。
「ふうむ…。だったら、今度は選んでやろうか?」
 お前はソルジャーとは違うわけだし、どんな靴を履くのも自由だしな。
 …って、お前、ガラスの靴が欲しいんだったか。歩けるようには出来ていないらしいが…。
「ガラスの靴…。靴の話を思い出したら、余計、欲しいかも…」
 ハーレイが選んでくれる約束、ぼくはすっかり忘れてたけど…。
 もしも選んでくれるんだったら、ガラスの靴がいいな。本当に履けるガラスの靴。
 歩くのはちょっと無理みたいだから、デートには履いて行けないけれど…。飾るだけだけど。
「よし、プロポーズの頃に俺が覚えていたらな」
 そいつをお前にプレゼントしよう、足にピッタリのを注文して。
 「俺と結婚してくれるんなら、この靴を履いて欲しいんだが」と。
「ホント?」
 買ってくれるの、ガラスの靴を?
 プロポーズの時はそれを履けばいいの、「うん」って返事して、足にピッタリの靴…?
「指輪よりもロマンチックだろうが。…お前、宝石の指輪に興味は無いんだからな」
 だったら、ガラスの靴の方がいいだろ、お前の足にしか合わない靴。
 お前に靴を選んでやるのは、前の俺の約束だったんだから。
 それに、お前も欲しいらしいしな、本当に履けるガラスの靴が。
「うん…!」
 あの靴が欲しいよ、ハーレイから。
 きっと最高に幸せな気分になれるよ、ぼくの足にピッタリのガラスの靴を履けるなら…!



 いつかハーレイと結婚する時、宝石のついた婚約指輪は要らないけれど。
 高い指輪なんかは要らないけれども、ガラスの靴は強請ってみようか。
 本当に履けるガラスの靴。
 前の自分は、ハーレイに靴を選んで貰い損なったから。普通の靴を選んで貰う前に、ハーレイと別れてしまったから。泣きじゃくりながら、独りぼっちで死んでしまって。
 けれど今度は青い地球の上、ハッピーエンドのガラスの靴。
 片方だけの靴ではなくて、ハーレイに両方、買って貰って。右足の靴も、左足の靴も。
 「履いてくれるか?」と差し出されるだろう、キラキラと煌めくガラスの靴。
 ハーレイからのプロポーズの言葉、それに応えて綺麗なガラスの靴を履く。
 「ありがとう」と、「君が選んでくれたんだよね」と。
 ガラスの靴では歩けないけれど、伸び上がって甘いキスを交わそう。
 プロポーズの返事はしたのだから。ハーレイと二人、幸せに生きてゆけるのだから…。




              ガラスの靴・了


※シャングリラでは、ブーツを履いていた男性はソルジャーだけ。前のブルーが憧れた靴。
 いつかハーレイに選んで貰う筈だったのが、普通の靴。今度は選んで貰えるのです。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













「クシャン!」
 風邪かな、と小さなブルーが竦めた首。学校から家に帰った途端に出たクシャミ。自分の部屋で制服を脱いで着替えていたら、いきなりクシャンと。
(風邪、引いちゃった…?)
 帰り道に少し冷たかった風。バス停から家まで歩く途中で。ほんの僅かな時間だけれども、肌に冷たく感じた風で身体を冷やしてしまったろうか?
(出てたのは顔と手だけでも…)
 身体も冷えたのかもしれない。冷たいな、と感じた空気が肌を伝って、服の下まで。
 きちんとウガイも済ませたとはいえ、心配な風邪。生まれつき弱いブルーの身体は、油断したら風邪を引くのだから。
(明日は土曜日なのに…)
 ハーレイと一緒に過ごせる日。風邪を引いたらそれが台無し、お茶も食事も楽しめない。楽しい休日が駄目になったら大変だから、と着替えを済ませたら一直線にキッチンへ。おやつにするならダイニングだけれど、とにかくキッチン。其処の食料品の棚。
(ハーレイの金柑…)
 これだ、と手に取ったガラス瓶。中に詰まった金柑の甘煮、隣町に住むハーレイの母がコトコト煮込んで作ったもの。「風邪の予防にいいんだぞ」とハーレイがくれた頼もしい金柑。
(三個ほど…)
 食べておかなくちゃ、と小さな器に取り出した。風邪を引きそうな時はこれが一番、と。
 その様子を母が見ていたお蔭で、シロエ風のホットミルクも貰えた。「今日はこれでしょ?」とケーキと一緒に出て来たミルク。
(風邪に効くんだよね?)
 これもハーレイに教えて貰った、セキ・レイ・シロエの好物だったという飲み物。歴史に名前を残した少年、シロエが注文していたミルク。マヌカの蜂蜜とシナモンが入ったホットミルク。



 金柑の甘煮を三個と、シロエ風のホットミルク。おやつのケーキも美味しかったから、温まった身体。けれど二階の部屋に戻ったら、窓の向こうで風の音。きっとさっきより冷えるだろう風。
(あんまり寒くならないといいな…)
 夜中に冷えると、メギドの悪夢を見てしまうから。そうならないよう、ハーレイに貰った右手を包むサポーターをはめて眠るのだけれど、忘れてしまうこともある。今は幸せな毎日だから。
(ウッカリ忘れてしまうんだよね…)
 今の自分の小さな右手。それが今より大きかった頃に、どんな思いをしたのかを。時の彼方で、ハーレイの温もりを失くした自分。右手が凍えてとても冷たいと、泣きながら死んだ前の自分。
 悲しい記憶を秘めた右の手、普段は忘れているけれど。メギドのことも、右手が凍えたことも。
(ハーレイが来てくれると温かいのに…)
 心も身体も温かくなる。声を聞いただけで心が弾むし、温かく幸せにほどける心。大きな身体に抱き付いたならば、優しく温かいハーレイの温もり。
 ハーレイの膝の上に座って甘えて、あれこれ話をしたいのに。心も身体も温めたいのに。
(来なかった…)
 今日は仕事で遅いみたい、と零れた溜息。ハーレイが来てくれる時間は過ぎてしまったから。



 寂しい気持ちで本を読んでいたら、夕食前にまたクシャミが出た。もう少ししたら母が呼ぶ声が聞こえるだろう頃合いで。クシャンと、一つ。
(ホントに風邪かも…)
 部屋は暖かくしてあるのだから、冷えたせいではなさそうなクシャミ。俄かに覚えた心細さ。
 今のクシャミが本当に風邪で、明日の土曜日が駄目になったらどうしよう、と。
(ハーレイは来てくれるだろうけど…)
 お見舞いに来てくれるだろうとは思うけれども、たったそれだけ。風邪でベッドの住人だったら楽しさ半減、全滅と言ってもいいかもしれない。二人でお茶を飲めはしないし、食事も出来ない。ハーレイは「寝てろ」と言うに決まっているから、向かい合わせで座れはしない。
 同じ風邪でも平日だったら、事情はまるで違うのに。大抵はハーレイが仕事帰りに来てくれる。前の自分が大好きだった、素朴な野菜スープを作りに。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけで煮込んだスープ。前の自分の病人食。同じスープを作って貰って、食べる間に昔語りを聞かせて貰ったり。
 平日に風邪で寝込んだのなら、幸せな時間を味わうことが出来るけれども、休日の風邪は素敵な時間を減らすだけ。ベッドから起きることも出来ずに、一日が終わってしまうのだから。
 せっかくハーレイが来てくれるのに。午前中から訪ねて来てくれて、夕食の後のお茶まで一緒。それが吹き飛ぶ風邪は嫌だ、と頭を振った。
(金柑も食べたし、シロエ風のミルクも…)
 だから大丈夫、と思いたいのに、さっき出たクシャミ。二度目だなんて、と怖くなるクシャミ。



 気のせいだよね、と不安を打ち消しながら食べた夕食。ハーレイの席が空いたテーブル。両親と囲んだ夕食だけれど、食べ終えた後に出たクシャミ。それも立て続けに三回も。
「あらあら…。やっぱり風邪なんじゃないの?」
 今日はお風呂は入らない方が、と母の心配そうな顔。「その方がいいわ」と。
「やだ!」
 お風呂は入る、と主張した。物心ついた頃から、こういう時でも入るのがお風呂。熱があっても入りたいほど、お風呂に入るのが大好きだから。
 ソルジャー・ブルーだった頃から、そう。無理をしてでも入っていた。暖かなバスタブのお湯に浸かるのが好きで、幸せな時間だったから。
 今の自分が幼い頃からお風呂好きなのも、そのせいだろう。文字通り寝込んでしまわない限り、お風呂は入ると決めている自分。母は「本当にお風呂好きだわねえ…」と溜息をついて。
「じゃあ、入ってもいいけれど…。温まったら、直ぐに寝るのよ」
 それから、早めに入ること。食べて直ぐだと消化に悪いし、もう少ししたら。
「はーい!」
 一時間ほどしたら入るよ、それでいいでしょ?
 お風呂が済んだら本も読まないで、ちゃんとベッドに入るから!



 約束を守って入ったお風呂。パジャマを着て部屋に戻った後には、急いでベッドに潜り込んだ。風邪を引いてはたまらないから、暖かい間に寝るのが一番、と。
 なのに、夜中にぽっかり覚めた目。見上げた暗い部屋の天井。
 サポーターをつけるのを忘れた割には、メギドの悪夢は見ていない。他の怖い夢も。けれども、目覚めてしまった自分。どうしてだろう、と考えてみたら。
(喉がちょっぴり…)
 痒いような、くすぐったいような感じ。放っておいたら痛みへと変わる、風邪の前兆。
(ハーレイのお母さんの、金柑の甘煮…)
 あれを食べなきゃ、と思っているのに、今度は睡魔。金柑を食べに行かせるものか、と包み込む眠気。それに捕まったら駄目なのに。風邪の悪魔の思う壺なのに。
(…金柑…)
 起きて金柑、と考える自分と、「寝ていればいい」と誘う声と。どちらがいいのか、迷っている間に捕まった睡魔。ウトウトと目を瞑ってしまって、そのまま落ちた眠りの淵。
 眠りは心地良かったけれども、暖かくて幸せだったけれども…。



 次に目覚めたら朝になっていて、起きるなり「クシャン!」と出て来たクシャミ。風邪の悪魔に捕まった。クシャミが何度も出て来る上に、少し熱い身体。喉にも痛み。
 このくらい、と起き上がろうとしていた所へ、運悪く通り掛かった母に聞かれたクシャミ。扉を開けて入って来た母は、見るなり「風邪ね」と見破った。
「今日は起きないで寝ていなさい」
 今なら熱も高くないから、大人しく寝てれば治る筈よ。朝御飯は持って来てあげるから。
 薬も飲むのよ、嫌がらないで。
「でも、ママ…! 今日はハーレイが…!」
 来てくれるんだよ、土曜日だから。
 このくらいの風邪なら大丈夫だから、ハーレイには風邪って言わないで…!
 来てくれなかったら大変だもの、どうせぼくは風邪で寝てるんだから、って…!
「心配しなくても、来て下さるわよ」
 普通の日でも、風邪を引いたら来て下さるでしょ、お仕事が忙しくない時は。大丈夫よ。
 一応、連絡はしておくけれど、と出て行った母。
 ハーレイ先生にも都合があるだろうから、風邪を引いたことは伝えなければ、と。



 母が連絡をしようと思う気持ちは、よく分かる。たまにハーレイがくれるお土産、お菓子などの食べ物ばかりだけれど。…買って来ようと思っているなら、今日だと無駄になるだろうから。
 風邪で寝込んだ病人には向かない食べ物やお菓子、それを買ったら大変だから。
 けれど、ハーレイには風邪を引いたと伝わるわけで、寝ていることも知られてしまう。いつもの調子で訪ねて来たって、自分はベッドの住人なのだと。
(ぼくが寝ているから、来ないなんてこと、きっとないよね…?)
 ジムや道場に出掛けてしまって、午後からしか来てくれないだとか。それが心配。ハーレイにも行きたい場所はあるだろうし、やりたいことも多い筈だから。
(…ひょっとして、夜に来てくれるだけ…?)
 平日のように、野菜スープを作るためだけに。他の時間はハーレイ自身のために使って。
 そうなってしまったらどうしよう、と気掛かりな所へ母が届けてくれた朝食。トレイに乗せて。小さめのホットケーキが一枚、それにシロエ風のホットミルク。
 栄養をつけないと治らないから、と頑張って食べて、嫌いな薬も飲んだ。「起きちゃ駄目よ」と母に念を押されて、大人しく横になったけれども。
(…ハーレイ、ちゃんと来てくれる…?)
 もう少ししたら、休日にハーレイが来る時間。今日はどうだか分からないけれど。車で何処かに出掛けてしまって、夜まで来ないかもしれないけれど…。



 時計を見たら悲しくなるから、壁の時計に背を向けた。枕元の目覚まし時計は見えはしないし、これで時間は分からない。ハーレイが来てくれる筈の時間がとっくに過ぎてしまっていても。
(…来てくれないなら、時計なんかは見えなくていいよ…)
 それに身体が熱っぽい、と瞳を閉じてウトウトし始めて。…どのくらい眠っていたのだろうか、不意に温かな声が聞こえた。
「おい、大丈夫か?」
 寝ちまってるのか、それならそれでかまわないんだがな。
「…ハーレイ…?」
 聞きたくてたまらなかった声。目を開けてみたら、ベッドの側に座っていたハーレイ。いつもの指定席の椅子を運んで来て、すぐ側に。
「すまんな、起こしちまったか?」
 寝てたのにな、とハーレイが申し訳なさそうな顔をするから、「ううん」と返した。
「ちょっとウトウトしていただけ…。ハーレイ、来てくれないかと思って」
 もし来なかったら、とても寂しいから…。時計を見たくなくて、目を瞑ってた…。
「ふうむ…。俺が来たのに気付かなかったし、寝てたんだろうが…。起こしちまったな」
 でもまあ、今は大丈夫か。
 風邪を引いても、薬も病院も、何でもあるし。…ちょっとばかり目を覚ましちまっても。
「え…?」
 どういう意味なの、何でもあるって…?
 もしかして前のぼくのことなの、ハーレイ、何か思い出したの…?
「まあな。…お前、しょっちゅう風邪を引くのに、なんだって今まで忘れてたんだか…」
 ついでに、思い出す切っ掛けっていうのも要らないらしいな、場合によっては。
 風邪だと聞いたら思い出すなら、とうの昔に思い出してた筈だからなあ…。



 お前はちゃんと寝ていろよ、と額に当てられた大きな手。普段は温かいと思う手なのに、今日はひんやり心地良い。きっと熱があるせいだろう。
 ハーレイは指で前髪を優しく梳いてくれてから、そっと手を離して。
「覚えてるか? お前の初めての風邪」
「風邪…?」
「昔話さ、シャングリラのな」
 いや、そんな名前さえ無かった頃か…。あれはコンスティテューションだっけな、人類がつけた名前ってヤツは。
 そいつで暮らしていた頃の話だ、まだ暮らしとも言えなかったか…。ゴチャゴチャしてて。
 いいか、眠くなったら眠っちまえよ、頑張って起きていないでな。
 寝るのも風邪の薬の内だ、とハーレイが言うから、素直にコクリと頷いたけれど。
「…眠くなったら寝るから、聞かせて。ハーレイの話」
 前のぼくの初めての風邪の話って、どんなのだったの…?
 やっぱり熱を出しちゃったのかな、喉が痛くてクシャミもしてた?
 教えて、どんな風だったのか…。
「どんな風も何も、風邪だったが? 今みたいにな」
 流行っていたってわけでもないのに、前のお前が引いちまったんだ。
 きっと気が緩んじまったせいってヤツだな、そういう時には風邪に罹りやすくなるもんだ。
 アルタミラから無事に脱出して、船のみんながホッとしていた頃だしな。



 まだ船の中は綺麗に片付いてはいなかったが、という言葉を聞いたら思い出した。脱出してから間もない船で、前の自分が引いてしまった風邪のことを。
 人類がアルタミラの宙港に捨てて行った船。物資を沢山積んでいた船は、急な脱出には不向きと判断されたのだろう。乗員は他の船に乗り換えて逃げて、置き去りにされた宇宙船。
 コンスティテューション号はそういう船で、ミュウにとっては命を救ってくれた船。これからは此処で生きてゆこうと、希望を与えてくれた船。どうやら追手も来ないようだから。
 今と同じに綺麗好きだった前の自分は、通路などに雑然と置かれた荷物を片付けようと考えた。移動しやすい船になるだろうし、広いスペースも取れるようになる。きっと快適な船になるから、とにかく整理整頓を、と。
 やり始めたらハーレイが手伝ってくれて、次第に他の仲間たちも加わっていった。そんな日々の中、クシャン、と一つ出たクシャミが切っ掛け。風邪の兆候。
 前の自分は全く気付かず、その日も片付けを続けたけれど。荷物を倉庫に運び込んだり、空いた所を掃除したりと。



 片付けや掃除は埃が舞うから、埃のせいだと思ったクシャミ。他の仲間も、ブワッと埃が舞った時などに何度もクシャミをしていたから。
 けれど、その日の夜になったら、だるかった身体。何故だか手足が重く感じた。片付けが済んで夕食の時間を迎えた頃には。
(椅子に座ってても、だるかったんだよ…)
 普段だったら、座った時には一休み。ホッとする筈の椅子だというのに、座っているのに必要な力。身体がふらつかないように。ウッカリ滑り落ちないように。
 なんとか食べ終えて自分の部屋に帰ろうと歩き出したら、ハーレイに声を掛けられた。食堂から通路に出て直ぐの場所で。
「おい、どうした?」
 食事、嫌いなメニューだったか?
 ちゃんと食べてはいたようだが…。ああいう味のは好きじゃなかったとか。
「違うよ、今日のも美味しかったよ」
 なんでもないよ、食べ終わるまでに少し時間がかかっただけで。
「…なんでもないって…。そういう風には見えないぞ、お前」
 元気が無い、と覗き込まれた瞳。今と同じに穏やかな光を湛えた鳶色の瞳で。
 何かあったかと、いつもと様子が違うんだが、と。
「なんだかだるい…。それだけだよ」
 ちょっと身体がだるくって…。椅子に座っていたら、落っこちそうな感じになっちゃって…。
「働きすぎか?」
 お前、小さいのに、頑張って荷物を運ぶから…。疲れてしまっているんじゃないのか、あちこち掃除もして回るしな?
「そんなことはないと思うけど…」
 ちゃんと休憩だってしてるし、働きすぎにはならないよ。でも、重い荷物を持ちすぎたかな?
 サイオン無しでも持てるかも、って試していた分、疲れたかもね。



 一晩寝たら治っちゃうよ、とハーレイと別れて戻った部屋。暫くベッドに転がっていたら、手も足も軽くなったから。「今の間に」とシャワーを浴びに出掛けて行った。埃を落として、すっきりした気分で寝たかったから。
(うん、平気…)
 熱いシャワーで温まったら、だるかったことなど嘘のよう。やっぱり疲れただけだったんだ、と眠る時に着る服に着替えて、ベッドに入った。ぐっすり眠れば、きっと明日には元通りだから。
 もう大丈夫、と眠りに落ちて、どのくらい経った頃だったろうか。
(暑い…?)
 じっとりと汗ばんだ肌で目が覚めた。空調が誤作動したのだろうか、室温が高くなるように。
(ぼくじゃ、修理は出来ないし…)
 下手に止めたら、宇宙船の部屋は寒くなることを知っている。それを利用した倉庫があるから。暑くなる壊れ方をしていたとしても、スイッチを切れば冷蔵庫のようになるだろう部屋。
(明日になったら、ゼルに頼んで…)
 誤作動にせよ、壊れたにせよ、自分ではどうにも出来ない空調。ゼルは機械に強いそうだから、直ぐに直してくれるだろう。それまでの我慢。
(シールドを張るほどじゃないよね、こんなの)
 アルタミラで何度もやられた人体実験。鉄さえ溶けそうな高温だとか、何もかも凍りそうな低温だとか。それは酷い目に遭っていたから、汗ばむ程度の暑さでサイオンは使いたくない。
(こんなのを被っていなければ…)
 暑くないよ、と上掛けを剥いだら、一瞬、ひんやりしたのだけれど。気持ち良かったのは僅かな時間で、今度は寒くなってきた。歯がガチガチと鳴り出すほどに。
 慌てて上掛けを被り直したら、やっぱり暑いような気がする。身体が熱の塊になったみたいに。
(暑いんだよね?)
 これが邪魔、と剥がした上掛け。空調もおかしいようだけれども。
 上掛けを剥がすのを待っていたように、いきなり寒くなったから。適温だった時間は少しだけ。



(この部屋、暑いの? それとも寒いの…?)
 何度も上掛けを被っては剥いで、剥いでは被って。暑さと寒さに襲われ続けて、すっかり疲れてしまった身体。なんとも酷い空調だけれど、朝まで我慢するしかない。
 あまりに疲れてしまっていたから、もうシールドも考え付きはしなくて。
(暑い方だと汗をかくから…)
 きっと寒い方がまだマシだよね、と上掛け無しで寝ることにした。身体を丸く縮めていたなら、暖かくなるような気もするから。凍死するほどの寒さなどではないのだから。
 そうして眠って、ふと気が付いたら、動かすことさえ辛かった身体。鉛のように重たい手足。
 何かが変だ、と思うより前に酷い寒気が襲って来た。外からではなくて、身体の中から。空調が壊れていたのではなくて、寒さの元は自分の身体だと今頃になって気付いた始末。
(どうしよう…)
 多分、身体の具合が悪い。頭も重いように思うし、恐らく病気なのだろう。人体実験で酷い目に遭わされた後には、よくあったこと。身体が重くて動かないのも、ガタガタ震え出すことも。
 けれども、自分で治したことなどは無い。ただの一度も。
 そういう時には、アルタミラでは人類が治療していたから。次の実験をするために。
 たった一人しかいないタイプ・ブルーは、死なせたらもう実験出来ない。新しいデータを二度と取れない、タイプ・ブルーに関しては。
 だから研究者たちは治療をさせた。死んでしまわないよう、適切な処置を。医学を修めた白衣の者たち、彼らが専用の部屋に運び込んでは、何度も何度も治療し続けた。
(だけど、治し方…)
 ぼくは知らない、と嘆くしかない。自分の身体の面倒でさえも、見られなかったのが檻だから。あの檻の中で、ただ生かされていただけだから。
 治療される時は専用の部屋で、白衣の者たちがしていた処置。それが終われば檻に戻され、餌と水とで飼われていた。必要に応じて水に薬が入れられたけれど、自分にとってはあくまで飲み水。薬の味がしていただけで、どう効いたのかもよく分からない。
 まるで知らない、自分の身体の治し方。こういう時にはどうすればいいのか、手掛かりさえも。



 何をすればいいのか、どうすべきなのか。本当に何も思い付かないから、どうしようもなくて。朝になったらしいことは分かっても、起きられないままでベッドの上。
 なんとか手繰り寄せた上掛けを頭から被って、ブルブル震えているしかなかった。寒さは少しも減らないけれど。上掛けを強く巻き付けていても、凍えてしまいそうだけど。
 そうやって一人震え続けて、ベッドの上で丸まっていたら…。
「ブルー?」
 どうしたんだ、とハーレイの声が降って来た。部屋まで見に来てくれたハーレイ。朝食を食べに来なかったから、と心配して。
「…ハーレイ…?」
 上掛けから顔を覗かせてみたら、見慣れた大きな身体があった。屈み込むように。
 そう、今のハーレイがベッドの側にいるように。あの時は、椅子は無かったけれど。ハーレイは遠い日を今も忘れていなくて。
「驚いたんだぞ。お前の部屋を覗きに行ったら、ベッドでブルブル震えていて」
 ちゃんと上掛けは被ってるんだし、部屋だって暖かかったのにな。
「だって、寒かった…」
 冷凍庫に入ったみたいだったよ、寒くて凍えてしまいそうで。手も足も、とても冷たくて…。
「そう言うから、俺が触ってみたら熱いんだ」
 冷たいどころか火傷しそうに。…そこまで熱くはなかったんだろうが、そう思えたな。
 お前が冷たいと言ったもんだから、俺もそのつもりで触ってみたし。



 前のハーレイの手が触った額。寒さが和らいだ気がした手。暖かくなった、とホッとしたのに、聞こえた声は逆だった。「冷たい」ではなくて、「熱いじゃないか」。
 何故、と思わず見開いた瞳。今もこんなに寒いのに、と震えながらハーレイを見上げたら…。
「こりゃ、風邪だな。熱があるから寒いんだ」
 身体はうんと熱いんだがなあ、自分じゃ分からないんだな。だから寒くて震えてしまう。
「風邪…?」
 なんなの、ぼくはどうなっちゃったの…?
「風邪は風邪だな、そういう病気だ。お前、クシャミもしてるだろうが」
 喉だってきっと痛い筈だぞ、どうなんだ?
「うん、少し…。それに身体が重くて起きられないよ」
「だろうな、これだけ熱があればな。誰だってそうなっちまう」
 昨日の夜から、お前、だるいと言ってたし…。あの時からもう風邪だったんだ。
 しかし、どうすりゃいいんだか…。俺も風邪としか分からないしな。
 治し方は全く知らないんだ、と済まなそうな顔をしたハーレイ。俺じゃ駄目だ、と。
 今から思えば不思議な話。今のハーレイならばともかく、前のハーレイが風邪と見破ったこと。
「…ハーレイ、よく風邪なんか知ってたね」
 あの頃はまだ、みんな記憶が曖昧で…。知らないことも沢山あって、そっちが普通だったのに。
 前のぼくだって、身体の具合が悪いことしか自分じゃ分からなかったのに…。
「お前の他にも友達、いたしな」
 一番古い友達は前のお前だったが、他にも大勢いたろうが。
 お前と違ってチビじゃなかったから、友達を作りやすかったんだ。向こうも話しやすいしな。
 前のお前も馴染みのヤツなら、ヒルマンだとか。



 そのヒルマンを呼びに走ってくれたハーレイ。「ちょっと待ってろ」と。
 ヒルマンは調べ物が得意な男で、思わぬ怪我や病気の時には頼りになった。船に最初からあった薬や包帯、そういったものを調べ尽くしていたから。
 まだ来ていなかったノルディの時代。応急手当も、その後の治療もヒルマンがやっていた時代。
 ハーレイが連れて来たヒルマンは、熱を測ったり、口を開けさせて覗き込んだりして。
「風邪だね、これは。治すためには栄養と、薬と…。後は睡眠だよ」
 食べられそうなものをしっかりと食べて、よく眠るように、と言われたのに。
 薬も幾つか処方して貰って、我慢してきちんと飲み込んだのに…。
「思い出したよ、ぼく、アルタミラの夢が怖くって…」
 薬を飲んだら思い出すんだよ、アルタミラで飲まされていた薬のことを。
 毒は飲まされていなかったけれど、薬の味は実験のことを思い出すから…。治療される時に薬を飲んだし、薬入りの水も飲まされたから。
「ああ、あの頃のお前はな」
 今のお前がメギドの悪夢を見るのと同じで、アルタミラの夢を見ちまっていた。
 具合が悪くなった時には、身体が思い出すんだろう。酷い実験で苦しかったと、今と似たような目に遭わされたと。
 そこへ薬を飲んでたわけだし、余計に思い出しちまうよなあ…。アルタミラで飲まされてた時はどうだったのかを、お前の意識がある時にも。



 眠らなければと思っていたのに、熱にうかされると襲ってくる悪夢。研究者たちが来て、入れと命じる強化ガラスのケース。高温の蒸気が噴き出して来たり、液体窒素が注ぎ込まれたり。
 身体が熱いと高温実験の夢で、寒気がする時は低温実験。他の実験の夢も幾つも繋がって来た。頭の中を掻き乱される心理探査や、身体に負荷をかける実験。
 その度に悲鳴を上げて目が覚め、少しも眠った気分がしない。眠れば地獄に連れ戻されるから。ヒルマンは「眠るように」と言ったのに。そうしないと多分、治らないのに。
 それでも眠るのは怖い、と震えていた所へ、ハーレイが様子を見に来てくれた。「昼飯だぞ」と消化の良さそうなスープの器をトレイに乗せて。
 「食べられそうか?」と訊かれたスープは飲めたけれども、問題は薬。飲み込んだら、舌と口に一気に蘇ってくる忌まわしい記憶。アルタミラの地獄で飲んだ味だ、と。
 この味がまた悪夢を連れて来るだろうから、ハーレイに向かって「眠れないよ」と訴えた。夢を見るから怖くて無理だ、と。眠っても直ぐに目覚めてしまうと、自分の悲鳴で目が覚めると。
「お前、眠れないと言うもんだから…」
 俺が仕事を抜けて来たんだ、食事のトレイを返しに行ってな。仕事と言っても、片付けて掃除をするだけだったが。…あの頃はまだ、厨房の係じゃなかったし。
「そうだね、ぼくと一緒に片付けてただけ…」
 だからハーレイが抜けても平気。誰も困りはしなかったものね、代わりの人はいるんだから。
「頼むと言うだけで良かったからなあ、料理の途中やキャプテンってわけじゃないからな」
 直ぐに抜けられたさ、お前の看病をすると言ったら。お前、あの船じゃチビだったしな。



 「来てやったぞ」と部屋に戻って来てくれたハーレイ。椅子をベッドの側に運んで来て、座って大きな手を差し出した。「ほら」と、「手を出せ」と。
 上掛けの下から手を出してみたら、その手をそっと包み込んだ手。「俺がいるから」と。
「こうして握っていてやるから。…これなら夢も見ないだろ?」
 此処はアルタミラの檻じゃないんだ、お前は独りぼっちじゃない。酷い実験なんかも無い。
 怖い夢なんか見なくていいんだ、安心して眠っていればいい。俺がお前の側にいるから。
 大丈夫だぞ、と握ってくれた、温かくて大きなハーレイの手。
 ふわりと心が軽くなったようで、瞼を閉じても感じた思念。寄り添ってくれるハーレイの心。
 それきり悪夢は襲って来なくて、やっと眠れた。夢も見ないで、ぐっすりと深く。
 目覚めたら、もう夕食の時間。誰かが届けに来てくれたのだろう、二人分の食事が机にあった。普通の食事がハーレイ用で、もう一つのトレイに病人用のスープ。
 ハーレイは自分の食事を後回しにして、スプーンでスープを食べさせてくれた。「お前、身体が弱っているしな」と、「夢のせいで酷く消耗しちまってるし」と。
 嫌いな薬も、ハーレイが口に入れてくれたら嫌な味が少し和らいだ。これは病気が治る薬、と。
 ハーレイが食事を食べ終える頃には、船の中は夜へと移る頃合い。通路などの明かりが暗くなる時間、夜間に仕事をする者以外は部屋に戻ってベッドで眠る。
「さてと…。そろそろトレイを返しに行かんと」
 厨房の明かりが消えちまうしなあ、朝食の準備をした後は。
 もう帰ろうか、ってトコで仕事を増やしちゃ申し訳ない。俺だって寝なきゃならないし。
「…ハーレイ、帰るの?」
「当たり前だろ、此処は俺の部屋じゃないからな」
 お前の部屋だし、俺のベッドも何も無い。それじゃどうにもならんだろうが。



 人間、夜はきちんと眠らないとな、とハーレイはトレイを手にして出て行った。昼間よりも暗い通路へと。厨房にトレイを返しに出掛けて、それから部屋に戻るのだろう。ハーレイの部屋に。
 ポツンと一人、残された部屋。ハーレイが消し忘れて行ったらしい照明。
(夜は消さなきゃ…)
 個人の部屋の明かりを何時に消すかは、住人の自由。自動で消えたりしない照明。エネルギーを無駄に使わないよう、消さなければと思うけれども。
(…身体、重たい…)
 独りぼっちになったせいなのか、心細くて力が入らない身体。さっき薬を飲んだ筈なのに、また熱が上がるのかもしれない。手足が冷えて来たようだから。
(治ってないんだ…)
 熱が出たら襲ってくる悪夢。昨夜は夢は見なかったけれど、今夜はどうなってしまうのか。熱と寒気に苛まれたなら、明日の朝には今朝よりも酷い状態になっているかもしれない。
(…ぼく、どうなるの…?)
 怖い、と身体を震わせていたら、開いた扉。其処から入って来たハーレイ。
「待たせたな」
「え?」
 ハーレイ、帰ったんじゃなかったの?
 此処はハーレイの部屋じゃない、って言っていたでしょ、どうしたの…?
「シャワーを浴びに行って来たのさ、服も着替えてあるだろうが」
 さっきの服とは違う筈だぞ、覚えてないかもしれないがな。お前、病気でボーッとしてるし。



 今夜は此処でついててやる、とハーレイは手を握ってくれた。ベッドの側の椅子に腰掛けて。
「俺がいるから安心して眠れ。お前、一人じゃ怖いんだろうが」
 一晩中、ろくに眠れなかったら、治るどころじゃないからな。ちゃんと眠って治さないと。
「それじゃハーレイ、眠れないよ」
 椅子に座って寝るなんて…。座ったままなんて、無理だってば。
「俺は頑丈だから、何処でも眠れる」
 アルタミラの檻を考えてみろ。あれに比べりゃ、椅子は充分、立派な寝床だ。
「でも…。椅子とベッドは全然違うよ」
「いいんだ、お前のベッドはお前専用だ。お前には大きいベッドだろうが…」
 二人も寝られる大きさじゃないぞ、どう見たってな。
 それよりは床の方がいい。椅子も悪くないが、床に座って寝る手もある。お前の手を離さないで眠るためには、そっちの方がいいかもな。
 お前のベッドの端っこを借りて、俺の身体を少し乗っけて。
 とにかく、お前は眠ることだ。俺が朝までついててやるから。
 俺が椅子で寝るか、床で寝るかは、俺がゆっくり考えるさ。お前が眠っちまってからな。



 心配しないでぐっすり眠れ、と握ってくれた大きな手。温かくてがっしりしていた手。
(ホントに椅子とか床で寝る気なの…?)
 まさか、と思ったハーレイの言葉。きっと自分が深く眠ったら、部屋に帰ってゆくのだろうと。朝まで覚めないだろう眠りに入ったと見たら、手を離して。
(…それでもいいよ…)
 今だけでも眠れたら充分だから、と目を閉じて、いつの間にか眠ってしまって。
 ふと目覚めたら部屋は暗くて、独りなのだと思ったけれど。
(ハーレイ…)
 直ぐ目の前にあったハーレイの寝顔。眠る前に聞いた言葉通りに、ハーレイは床に座って眠っていた。胸の辺りまでをベッドに乗せて、握っている手は離さないままで。
(…ホントに寝てる…?)
 ハーレイの手を握り返してみたら、キュッと力が返ったけれど。握り返してくれたのだけれど、ハーレイは夢の中らしい。微かに笑みを浮かべただけで、何の言葉も返らないから。
(朝まで一緒にいてくれるんだ…)
 一人じゃないよ、と安心し切って落ちていった眠り。恐ろしい夢は見なかった。
 朝になったら、「起きたのか?」とハーレイの優しい笑顔。「昨日よりずっと顔色がいい」と。
 ハーレイは朝食を取りに行ってくれて、今度は自分で食べられた。嫌いな薬も我慢して飲んだ。その日もハーレイはついていてくれて、眠る時には握ってくれた手。
 次の日には熱が出ることはなくて、そうやって最初の風邪は治った。ハーレイがしっかり握ってくれた手、その手に悪夢を防いで貰って。



「…思い出したよ、前のぼくの風邪…」
 ハーレイに手を握って貰ってたんだよ、一晩中、側にいてくれて…。床で眠って。
「お前のベッドじゃ眠れなかったしな、狭かったし」
 それに、心配だったんだ。…あの時、お前が引いちまった風邪。
 医者はいないし、薬だって船にある分だけで…。無いものは手に入れようがない。医者も薬も。
 こじらせちまったら、どうしようかと…。風邪で死ぬこともあるんだから。
「そうだったの?」
 ハーレイ、あの時、もう知ってたの?
 風邪をこじらせたら、死んじゃうこともあるんだってこと。
「…ヒルマンから話は聞いていたんだ。お前には言わなかったがな」
 熱が上がってゆくようだったら、気を付けないといけないと。衰弱が酷くなったらマズイと。
 しかしだ、病気ってヤツは不安になったら治らないもんだ。治ると信じていないとな。
 だから黙ってついていたんだ、お前が弱らないように。
 「大丈夫だから」と言ってやるのが一番の薬で、お前も安心するだろう?
 俺の心配は知られちゃ駄目だ、と思ってはいても心配だった。お前の熱が下がるまではな。
 俺がお前にしてやれることは、手を握ることしか無かったんだから。
 あれ以上の薬は手に入らないし、医者もいなかったんだから…。
「ごめんね、心配かけちゃって…」
 だけど、今のはただの風邪だよ。薬だってあるし、お医者さんもいるし…。
「まあな。だが、早いトコ治したいだろ?」
 早く治せば、明日の午後には俺と二人でお茶が飲めるかもしれんしな?
 こんなベッドの所じゃなくって、いつもの椅子とテーブルに行って。そのためにも、だ…。



 今日は無理やり起きようとせずに、話を聞きながら寝てることだな、と言われたから。
「ぼくの手、ちゃんと握ってくれる?」
 あの時みたいに、と差し出した手を「もちろんだ」と握ってくれた手。
「こうしてしっかり握っててやるが、スープはどうする?」
 俺がお前の手を握ってたら、野菜スープが作れないんだが…。俺の手、塞がってるからな。
「スープよりもハーレイの手の方がいいから、食事はママに任せるよ」
 朝はママが作った食事を食べたし、お昼も作ってくれると思う。ハーレイの分も。
 今日の風邪、食欲は落ちてないから、ママの食事で大丈夫。
 だからハーレイは手を握っててよ、この手もちゃんと効くんだから。
 前のぼくの風邪、この手に治して貰ったんだから…。
 握っていてね、と強請った手。風邪を治せるハーレイの優しい大きな手。
 たまにはこういう風邪の治療もいいだろう。
 思い出したから、初めての風邪を。前の自分が罹った風邪を。
 まだ野菜スープも無かったけれども、ハーレイが治してくれた風邪。
 あの時のように、ハーレイの手で風邪を治して貰うのも。
 しっかりと手を握って貰って、ウトウトしながら心と身体を休められる幸せなひと時も…。




            初めての風邪・了


※アルタミラから脱出して間もない頃に、前のブルーが罹った風邪。しかも悪夢まで。
 そんなブルーが弱らないよう、側にいたのがハーレイなのです。眠っている間も手を握って。
  ←拍手して下さる方は、こちらからv
   ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]