シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(えーっと…?)
ピンクなの、とブルーが驚いて眺めた記事。学校から帰って、おやつの時間に広げた新聞。何か面白いニュースはないかと、ダイニングのテーブルで熱い紅茶を飲みながら。
其処に書かれていた、幸せの色。もちろん「幸せ」に色などはついていないのだけれど。
(一位はピンク…)
幸せをイメージする色の一位。幸せの色、と思い浮かべる色はピンクが一番多いという。男女を問わずにピンクが一位。そう書かれた記事。
(ピンク…)
女の子が好きな色だとばかり思っていたのに、幸せの色。男性の場合もピンクだなんて、と首を捻ってしまったけれど。
(でも、ピンク色…)
幸せというものを考えてみたら、ポンと頭に浮かんだマーク。ハッピーな印のハートの形。愛の印でもあるハートだけれども、幸せと言えばやっぱりハート。星や三角ではなくて。
幸せのハートマークに色を塗るなら、きっとピンクが相応しい。赤では愛になってしまうから。青や緑では、なんだか幸せらしくないから。
(…ぼくでもピンク…)
ホントにピンクになっちゃった、と目をパチクリとさせた幸せの色。思ってもみないピンク色。確かにピンクが一位なのだろう、自分の中でも。
(ちょっとビックリ…)
考えたこともなかったよ、と驚かされた幸せの色。幸せだったら、毎日幾つも降ってくるのに。まさかその色がピンクだなんて、と。
幸せの色の一位がピンクだったら、二番目の色は何色だろう。改めて記事を覗き込んでみたら、二位はオレンジ色だった。これも男女で同じ答えで、二番目はオレンジ。
(部屋の明かりの色なのかな…?)
ホッとする気分になれる色。夜に暖かく灯る明かりは、オレンジが断然、幸せに見える。素敵なことが始まりそうで。美味しい食事や、楽しいパーティー。
(蝋燭とか、暖炉もオレンジ色だよ)
家に暖炉は無いのだけれども、両親と出掛けたホテルなんかで見た暖炉。前に座ってパチパチと燃える炎を見ていた時には、幸せな気分になったもの。とても暖かくて、とても幸せ、と。
バースデーケーキに灯す蝋燭もオレンジ色の火、クリスマスに飾る蝋燭の火も。咄嗟にこれだけ浮かぶのだから、オレンジ色が二位なのも分かる。ピンク色の次に幸せな色。
三番目は…、と記事を読んだら、これまた男女が全く同じ。黄色だという幸せの色。
(お日様の色かな…?)
太陽そのものは金色だけれど、暖かな日だまりは黄色だと思う。柔らかく包み込む黄色。人間も草木も、動物たちも。お日様の色なら、暖炉や明かりの色より大切な色になるけれど…。
(当たり前すぎて、みんな慣れっこ…)
パチンとスイッチを入れなくても日だまりは出来るから。蝋燭や暖炉みたいに火を点けなくても空から降ってくる色だから。
同じ選ぶなら、ひと手間かかるオレンジ色の方が幸せの色になるだろう。当たり前にある太陽の光よりかは、人工の光。それを灯せば「幸せの色」が出来るのだから。
沈んだ気分になっていたって、暖炉の前の椅子に座ればきっと心が温まる。身体と一緒に、心もほぐれて。蝋燭だって、きっとそう。優しい光が心を温めてくれる筈。
(自分で作れる所が人気なんだよ、きっと)
それでオレンジ色の方が黄色よりも上、と納得した二位。三位が黄色になることも。
さて次は、と眺めた記事に添えてある表。この先は男女で幸せの色が変わってくるから、と。
(うーん…)
変わっちゃうのか、と不思議な気分。三番目までは同じだったのに、此処から先は違うという。それほどに偉大な色なのだろうか、ピンクとオレンジと黄色の三つ。特に一位のピンク色は。
(お日様の色でも、明かりの色でもないんだけどな…)
どうしてピンク、と思うけれども、自分もピンク色だったから。ピンク色をしたハートマークが浮かんだのだから、幸せはピンク色なのだろう。理由は謎でも、幸せのピンク。
(えっと、四番目は…)
ぼくは男の子だからこっち、とチェックした男性の幸せの色の四番目。今度は緑。
(緑色…)
草も木も緑色だよね、と溢れる自然の色を思った。太陽と水と土が育てる草木の緑。それに…。
(ハーレイのサイオンカラーも緑…!)
前の生から愛した恋人、ハーレイが纏うサイオンの色。滅多に目にすることはないけれど、淡い緑がハーレイを包む。前の生も今も、ハーレイはタイプ・グリーンだから。
おまけに車の色も緑で、前のハーレイのマントの緑。深い緑はハーレイのシンボル、今は愛車の色として。前のハーレイなら、キャプテンのマント。
ホントに緑は幸せの色だ、と嬉しくなった。自然の緑も大切だけれど、ハーレイと縁が深い色。サイオンに車に、キャプテンのマント。三つもハーレイと繋がるのだから、とても幸せ、と。
次が水色、その次は青。似たような色が二つも続いた。
水色も青も、蘇った地球が持っている色。今の自分は宇宙からは見ていないけれども、この星は青に彩られた星。七割を水が覆っているから、宇宙から見れば青い星。
海も空も青い星なのが地球で、空は明るさでその色を変える。抜けるような青から、水色まで。雲の具合や、光の具合で。
地球の色なら、幸せの色にもなるだろう。前の自分なら、一番に選んでいたかもしれない。
(ぼくのサイオンカラーも青で…)
ハーレイから見たら、幸せの理由が自分よりも一つ増えそうな青。「ブルーの色だ」と。残念なことに、今の自分はハーレイに見せてあげられないけれど。サイオンカラーを身に纏えるほどに、上手く扱えはしないサイオン。前と違って不器用すぎて。
(次は金色…)
多分、太陽の光の金色。燦然と輝く金色の光は、宝物の色も兼ねている。遠い昔から価値のある黄金、本物でなくても豊かな気分になれる色。どういうわけだか、感じる幸せ。
(本物の金は持ってないけど…)
今の自分も前の自分も、黄金などとは縁が無い。それでも幸せの色なのは分かる。自分と近しい金色の物は何があったか、と数えてみた。
真っ先に浮かんだ、前のハーレイの制服の肩章。威厳たっぷりのキャプテンの金色。あの制服にあしらわれた模様も金色だった。前の自分のソルジャーの上着、それとお揃いの意匠だった模様。
(ぼくのが銀色で、ハーレイは金色…)
そこまで考えた所で気付いた、ハーレイの髪。制服の模様と同じに金色。前のハーレイも、今のハーレイも金色の髪だった。見慣れすぎていて、今まで浮かんで来なかったけれど。
やっぱり金も幸せの色、と綻んだ顔。今のぼくにも、前のぼくにも幸せな色、と。
その次に挙がっていたのが白。何故、白なのかと思うよりも前に…。
(シャングリラの色…!)
遠く遥かな時の彼方で、ハーレイと暮らした真っ白な船。最初はともかく、改造した後には白く輝いていたシャングリラ。あの船でハーレイと恋をしていた。二人、幸せに暮らしていた。
船の中だけが全ての世界でも。…降りる地面が無かった船でも。
前の自分には、白は幸せの色だった。幸せな世界を乗せていた船、世界の全てだった船。それが纏った美しい白は、本当に好きな色だったから。あそこに幸せが詰まっている、と。
今の自分が生きる世界に、白いシャングリラはもう無いけれど。時の流れが連れ去っていって、何処を探しても無いのだけれど。
いつか着るだろう花嫁衣装は、シャングリラと同じ真っ白な色。ウェディングドレスか、白無垢なのか、今はまだ分からないけれど。どちらも白くて、頭にはベールか綿帽子。それも真っ白。
(白も幸せの色なんだよ…)
前のぼくにも、今のぼくにも、と心に幸せが満ちる。純白の花嫁衣装を纏う時には、もう最高に幸せだろう。前の生から恋人同士だった二人を、神様が結び合わせてくれる日。
その日が来るのが待ち遠しい。真っ白な衣装で、ハーレイと愛を誓い合う日が。
白も素敵、と結婚式を思い描いた後に書かれていた赤。幸せの色の九番目。
(ぼくの瞳の色…)
それしか思い付かないけれども、幸せな色ではあるらしい。こうして書かれているのだから。
(ハーレイが幸せになってくれるといいな…)
ぼくの瞳の色の赤で、と自分の瞳に感謝した。恋人に幸せを感じて貰える色で良かった、と。
幸せの色は十番目までで、最後の色は黄緑色。春の訪れを告げる芽吹きの緑。いい季節だな、と誰もが幸せになりそうな色で、選ばれる理由は充分だけれど。
(褐色は…?)
ハーレイの肌の色の褐色、それに瞳の色の鳶色。どちらも表に入っていない。もしかしたら、と女性の方の表を眺めても、書かれていない褐色と鳶色。
今の自分も、前の自分も、幸せになれる色なのに。褐色も鳶色も大好きなのに。
(どうして入っていないわけ?)
酷い、と記事を読み進めてみた。何処かに書かれていないかと。表には無くても、記事の方には詳しく色々載っているかも、と。十五番目とか、二十番目くらいまで、と。
けれど無かった、あの表の続き。代わりに解説がくっついていた。
(ほんの一例…)
幸せの色は、何処で統計を取るかで変わってくるらしい。同じ地球でも、同じ地域でも、人間は大勢いるのだから。全員に訊いたわけではないから、その時々で。
ただ、色々な人が調べたデータを比較してみると、順位はともかく、ピンクと暖色系の色が多い傾向があるという。幸せの色を尋ねたら。
男性も女性も選ぶらしいのが、ピンクと暖色系の色。幸せの色はこの色だ、と。
必ず一番と限ってはいない、幸せの色のピンク色。とはいえ選ばれることが多い色がピンクで、暖色系の色も選ばれやすい。男性であっても、女性であっても。
(ぼくの場合は…)
どうなんだろう、と考えながら帰った部屋。空になったお皿やカップをキッチンの母に返して、戻った二階の自分のお城。勉強机の前に座って、頬杖をついて考え事の続き。幸せの色は、と。
今の自分なら、褐色と鳶色。ハーレイと直ぐに結び付く色。
時の彼方の前の自分なら、シャングリラの白と地球の青。世界の全てを乗せていた船、恋をして幸せに暮らしていた船。シャングリラの白は幸せの色で、あの船で目指した地球の青もそう。
もちろんハーレイの色だって。褐色と鳶色も、前の自分の幸せの色。
どれもピンクとも暖色系とも違うけれども、幸せの色はこれだと言える。褐色と鳶色、白と青。欲を出すなら金と緑も。ハーレイの髪の色の金色、前のハーレイのマントの緑。
幸せの色の半分はハーレイ、半分以上とも言えそうな自分。幸せの色はハーレイの色。
(ハーレイだったら…?)
どうなるのだろうか、幸せの色は。ハーレイが「これだ」と考える色は。
(ぼくの色、ちゃんと入ってる…?)
瞳の赤とか、髪の銀色。ハーレイが思う幸せの色に、自分の色はあるのだろうか?
さっきの表だと赤が入っていたのだけれども、あくまで一例。統計によって変わってくる色。
(赤は暖色系だけど…)
選ばれやすい暖色系の赤。銀よりは望みがありそうだけれど、ハーレイにとっての幸せの色とは限らない。もっと他の色がいいかもしれない、それこそピンク色だとか。
(ぼくの色の中にピンクは無いよ…)
今の自分も、前の自分も、縁の無いピンク。唇の色が辛うじて桜色なだけ。ピンク色よりも薄い桜色、頬っぺたの色も似たようなもの。
(ぼくの色、無かったらどうしよう…)
ハーレイが幸せを感じる色たちの中に、自分の色が一つも無かったら。銀色も赤も、他の色も。
そういうことだって無いとは言えない、決めるのはハーレイなのだから。
かなり心配になってきた色。ハーレイにとっての幸せの色。
(どんな色なの…?)
その中にぼくの色はあるの、と悩んでいる内に聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、思い切って訊いてみることにした。それが一番早いから。
テーブルを挟んで向かいに座ったハーレイ、好きでたまらない鳶色の瞳。幸せの色を湛えた瞳を見詰めて、投げ掛けた問い。
「あのね、幸せの色ってなあに?」
幸せに色があるとしたなら、どういう色が幸せの色?
「ほほう…。珍しい質問だな。幸せの色か」
それならピンクだ、幸せの色はピンクだろうが。
「えっ、ピンク!?」
そんな、と悲鳴を上げそうになったハーレイの答え。自分には無いピンク色。
まさかハーレイもピンクだったなんて、と愕然とした幸せの色だけれども。
「違うのか? ピンクというのが多いと聞いたが」
統計を取ると必ずと言っていいくらいにだ、ピンクが入ると聞いたんだがな…?
「それは読んだよ、新聞で!」
ホッとした余りに、八つ当たりじみた口調になってしまった自分。これじゃ駄目だ、と分かっているから、慌てて直した子供っぽい態度。幸せの色について話したいのに、喧嘩になったら不本意だから。不幸せの色は欲しくないから。
こういう記事を読んだんだよ、と幸せの色の例を順番に挙げた。ピンクでオレンジ、と。十番目だった黄緑色まできちんと並べて、それから質問。ハーレイの幸せの色はなあに、と。
「ふうむ…。俺にとっての幸せの色か」
それならピンクというわけじゃないな、いや、ピンク色も入りはするんだが…。
一番に浮かぶのはピンクなんだが、俺が幸せになれる色ってことなら、お前の色だな。ピンク色より、そっちがいい。…お前が持ってる色の方が。
「ぼくの色って…。やっぱり赤色?」
新聞記事にも載ってた色だし、暖色だし…。ぼくの瞳の赤色がいい?
「赤もそうだが、銀色もそうだ。お前の髪の色の銀色」
前のお前も入れていいなら、紫も幸せの色なんだろうな。前のお前のマントの色だし。
「そうなの?」
赤で銀色で紫になるの、ハーレイの幸せの色っていうのは?
ピンク色が一番に浮かんで来たって、ぼくの色の赤とか銀色になるの…?
「当たり前だろうが、俺はお前が好きなんだから。恋人の色が俺の幸せの色だ」
そう言うお前はどうなってるんだ、幸せの色は何色なんだ?
「ハーレイの色だよ、決まってるでしょ」
だけど、新聞にあった幸せの色には入ってなくて…。ぼくの幸せの色の、ハーレイの色。
それで心配になっちゃったんだよ、ハーレイの幸せの色はどうだろう、って。
ハーレイの幸せの色の中には、ぼくの色は入っていないのかも、って…。
「なるほど、そう思ったから怒ってたんだな、俺がピンクと答えた時に」
俺の幸せの色はお前の色じゃないらしい、と早合点して。お前、ピンクじゃないからな。
心配は要らん、俺だってお前と全く同じなんだから。幸せの色はお前の色だし、ピンクはただのイメージってヤツだ。漠然と幸せの色を考えた時に浮かぶ色。お前は何色になるんだ、そこは?
「えーっと…。ぼくも最初はピンクだったよ、新聞を読んで考えた時…」
なんでピンクが一番なの、って驚いたけれど、ぼくの頭の中にもピンク。…ピンクのハート。
ごめんねハーレイ、それを忘れて怒っちゃって。
「ほらな、お前もピンクだろうが。…ありがちなんだな、幸せの色にピンクはな」
謝らなくてもかまわないんだぞ、俺の答えも悪かったんだし…。話をきちんと聞くべきだった。どういう意味の質問なのかを、考えて答えるべきだったんだ。
ん…?
待てよ、幸せの色でピンクってか…。問題は色で、其処へピンクで…。
そういう話をずっと昔にしたような…、と考え込んでいるハーレイ。腕組みをして。
「幸せの色はピンクなんだが、そいつはどうかという話で…」
変だな、幸せの色が何色だろうが、別にかまわないと思うんだが…。人によって違うのは普通のことだし、俺とお前でも違うんだしな?
俺はお前の色で幸せになれるし、お前は俺の色だと言うし…。世の中、そんなものなんだが。
「誰かピンクに文句を言ったの?」
そんなの、どうでもいいのにね。幸せの色は幸せの色だよ、それ、いつの話?
「お前と会ってからではないなあ、もっと昔の話の筈だ」
はてさて、あれは何処だったんだ…?
俺の友達に、そんなに心の狭いヤツらは一人もいそうにないんだが…。
そうなると今の俺じゃないのか、前の俺なのか…?
だが、前の俺でピンクって…。それに文句をつけるヤツらがいたって状況、有り得るのか?
シャングリラだと話題になりそうもないが…。幸せの色はともかく、ピンクを巡って頭を悩ますことなんかはな。あの船じゃ、たかが幸せの色くらいのことで…。
…いや、違う。それだ、シャングリラだ!
「シャングリラ?」
あの船で問題になりはしないでしょ、幸せの色がピンクだろうが、別の色だろうが。
似合っていない、って笑われる程度でおしまいになると思うんだけど…。前のハーレイに薔薇のジャムが似合わないって言われていたのと同じ。クスクス笑って、それでおしまい。
「そいつが誰かの幸せの色のイメージならな」
ゼルがピンクだと主張したとか、前の俺とか、それなら笑われて終わりだったろうが…。
そうじゃないんだ、ピンクは船の色だったんだ。
覚えていないか、シャングリラの色の候補ってヤツだ。前の俺たちの白い鯨の。
危うくピンクになりかけたんだぞ、お前、忘れているようだがな。
「…ううん、思い出した…」
最初から白い鯨じゃなかったっけね、そのイメージじゃなかったんだっけ…。
そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。シャングリラがまだ白い鯨ではなかった時代。
今のままでは駄目だと皆が考えた、船での生き方。人類から奪った物資に頼るようでは、未来は創り出せないから。自分たちの力で生きられなければ、一つの種族とは言えないから。
船の中だけで全てを賄い、自給自足の生活をする。それが理想で、そうしなければと。
そして決まった、シャングリラを丸ごと改造すること。今の船とは全く違ったミュウの箱舟に。形も、船の性能さえも。…元の船の使える部分は生かして、他の部分は一から作っていって。
それまでのゼルやヒルマンの研究成果を盛り込んだ船。すっかり生まれ変わる船。
完成すれば独特のカーブを描くであろう優美な船体、鯨を思わせる船の設計図が出来上がった。ミュウが持つサイオンを使ったシステム、シールドやステルス・デバイスとの兼ね合いで鯨。
最大限の効果を発揮するには、鯨に似た船体が最適だった。人類の船とは外見からして全く別の種類の船が。人類が見たなら、非効率だと思いそうな姿をしている船が。
設計図を前にして開かれた会議。こういう船に生まれ変わる、と説明したゼル。会議の席には、いつもの六人。ソルジャーだった前の自分と、キャプテンのハーレイ、長老のゼルたち。
「それで、船体の色なんじゃがな…」
ヒルマンとも何度も話し合ったんじゃが、暗めの色がいいじゃろう。
宇宙空間で目立たないような色にすべきじゃ、人類に発見されんようにな。
迷彩色にするという方法もあるし、どういう色にするべきか…。それを早めに決めておかんと。
これだけのデカイ船となったら、塗料も大量に要るんじゃから。
「今、ゼルが言った通りだよ。塗料の量も馬鹿にならない」
早い間に決めて準備を進めないと、とヒルマンも言った。資材の調達が必要だから。
「あんたらの言うことは分かるんだけどさ。でもねえ…。どうせ見えないじゃないか」
ステルス・デバイスを稼働させたら、船は見えなくなるんだろ?
見えてないのに、暗めの色だの迷彩色だの、そんなので塗る意味があるのかい?
何色にしてもいいじゃないか、と言い出したブラウ。
どんな色を塗ってもかまわないのだし、ハッピーなピンクでもいいくらいだ、と。
「ピンクじゃと!?」
何を言うんじゃ、この船をピンクに塗るんじゃと…?
ピンクというのはピンク色じゃな、とゼルの声が震えているのに、ブラウは涼しい顔だった。
「そうだよ、ピンクの水玉模様でもいいくらいだよ」
ピンクはハッピーな気分になるしね、水玉模様もハッピーでいい感じだよ。
見えやしないんだし、うんとハッピーなピンクにするのもいいと思うけどねえ…?
「…わしは、そんな船は御免じゃぞ」
ハーレイ、お前はどう思うんじゃ。キャプテンじゃろうが、ピンク色の船でも気にならんのか?
「私も勘弁して欲しいのだが…」
いくらなんでも、ピンクは酷い。…幸せなイメージの色かもしれんが、船にその色は…。
ピンク色をした船のキャプテンには、私もなりたくないのだが…!
ハーレイの丁寧な言葉遣いが崩れたくらいに、衝撃的だったピンク。前の自分の前では敬語で、けして崩しはしなかったのに。
よほどピンクが嫌だったのだろう。全体がピンクに塗られている船、それのキャプテンを務めることが。キャプテンは船の代表だから。持ち主ではなくても、責任者だから。
ハーレイを慌てさせたくらいに、とんでもなかったピンク色。いくらハッピーなピンク色でも、船の色としてはどうなのか。ピンク色をした巨大な鯨の宇宙船は。
けれど、ブラウの言う通り。船を何色に塗ったとしたって、見えないことは確かに事実。新しい船に搭載されるステルス・デバイス、それを使えば近付くまで発見出来ないのだから。
「…ピンクは嫌じゃが、何色でもいいというわけか…」
暗い色だの迷彩色だのと、隠す方へと考える必要は無いんじゃな。わしも失念しておった。
何色にしようが、確かに見えはしないんじゃった。よほど近付かない限りはのう…。
「そういうことなら、地球の青でもいいんだね」
ぼくはピンクよりも青がいいかな、と前の自分が考えた青。
物資を奪いに出掛けた時に、青い宇宙船にも出会っていたから、地球の色の青も素敵かも、と。
「そういうことだね、青もいいだろう。しかし…」
何色でもいいということになれば、皆の意見も訊いてみないと、とヒルマンが髭を引っ張った。
船の命運を左右しないのなら、こういう会議で決めなくても、と。
「私もそれに賛成ですわ。皆、この船で暮らすのですから」
自分が好きな色の船が一番でしょう、とエラも言ったから、取ることになったアンケート。船の仲間は誰でも一票、新しい船に相応しい色を。
どんな色でもかまわないから、と船の完成図を食堂に貼って、皆に配られた投票用紙。鯨の姿に似たシャングリラには、どういう色が似合うかと。これだと思う色を一つ、と。
食堂の壁に貼られた船の完成図は、様々な角度で描かれていた。見れば見るほど鯨の姿。本物の鯨は宇宙を泳げはしないのに。海が無ければ生きられないのに。
船の仲間たちは完成図を見ては、賑やかに話し合っていた。鯨らしい色にするより、洒落た色の船がいいだとか。宇宙で映える色がいいとか、それよりも地球の青だとか。
投票期間が終わった後に、いつもの会議で開けてみた箱。投票用紙を次々に開いて確認したら。
「なんだ、ピンクは無いのかい?」
一人もピンクと書いちゃいないよ、そりゃ、あたしだって書かなかったけどさ…。
ハーレイのあんな顔を見ちまった後じゃ、遠慮するのが筋ってもんだし。
でもさ、一人くらいはいたっていいと思うんだけどねえ、ハッピーなピンク。
あの色の何処がいけなんだい、とブラウは不満そうだったけれど。
「内装ならともかく、外側じゃぞ?」
センスの問題というヤツじゃろうが、皆、真剣に考えたんじゃ。ピンクはいかん、と。
しかし意外じゃな、白がトップになるとはのう…。
平凡なんじゃが、とゼルが首を捻った白という色。宇宙船にはありがちな色。
けれども、白は宇宙では映える。恒星の側を飛んでいたなら、白く輝く船になるから。
ステルス・デバイスを使っていたなら、その美しさは見えないけれど。宇宙の暗さに溶け込んだままで、何処からも見えはしないのだけれど。
圧倒的に多かった白という意見。そう書かれている投票用紙。
会議室のテーブルに並んだ白を推す紙を見ながら、「そういえば…」とエラが口を開いた。
「白い鯨の話がありましたね。とても大きな白い鯨の」
SD体制が始まるよりも、ずっと昔に書かれた小説。…人間が地球だけで暮らしていた頃に。
とても有名だったそうです、「白鯨」というタイトルで。
「ふうむ…。私も読んだよ、あの話なら」
もっとも、本当に白い鯨がいたかどうか…、とヒルマンも知っていた小説。遥かな昔に綴られたもの。白い鯨と戦い続ける船員たちの物語。その頃は捕鯨船で鯨を狩っていた時代だから。
ヒルマンが言うには、白い鯨は多分、創作。アルビノの鯨は長く生きられないだろうから。
けれど、小説の白い鯨は巨大な鯨で、人間よりも強かった鯨。戦いを挑んだ人間の船は、壊れて海に沈んでいった。助かった者はただ一人だけで、小説の語り手は生き残りの男。
「へえ…! 人間の船を沈めちまうのかい、白い鯨は…!」
あたしたちの船にピッタリじゃないか、この船で地球を目指すんだからさ。
いつかは戦う時も来るだろ、人類軍の船ってヤツと。そいつを沈めてやらなくっちゃ。
白い鯨みたいに強い船がいいね、とブラウは白へと意見を変えた。ピンクだと言い出して投票をさせた、張本人の宗旨替え。
鯨の形の宇宙船なら、白い色がいいと。強そうな白い鯨にしようと。
ブラウが意見を変えた後には、ゼルも続いた。同じ鯨なら、強い鯨の白が良さそうだと。白鯨の話を知っていたヒルマンとエラに異存があるわけがないし、前の自分もいいと思った。
白に投票した仲間たちは其処まで考えたわけではないだろうけれど、白がトップで、白くて強い鯨の話があるのなら、と。
ハーレイも反対しはしなかったし、ゼルなどはすっかり御機嫌で。
「白い鯨じゃな、うんと目立つ色もいいからのう。見えないとなれば、どんな色もアリじゃ」
誰も投票してはおらんが、金色に輝いていてもいいくらいじゃぞ。
ヒルマン、金色の鯨というのはおらんのか?
そいつが白より強いんじゃったら、金色も悪くはなさそうじゃがな。
「ちょいと、やりすぎだよ、金色ってのは。ピンクの方がまだマシってもんだ」
キンキラキンの船よりは、ハッピーなピンクだよ。あたしは断然、そっちを推すね。
でもピンクよりも白だけどね、と白がお気に入りになっていたブラウ。白鯨の白、と。
ブラウがピンクと言わなかったら、きっと無かっただろう投票。船の色はゼルとヒルマンの提案通りに、暗い色になっていただろう。そうでなければ迷彩色に。
宇宙で少しも目立たない色、まるで本物の鯨のように。ステルス・デバイスを稼働させなくても見えにくかったろうシャングリラ。
同じ形でも、違って見えたに違いない。前の自分たちが暮らした白い鯨とは。
そうして白にすると決まったシャングリラの色。仲間たちの投票で決めた通りに、白く塗られた新しい船。自給自足で生きてゆける船、ミュウの箱舟。
白い鯨はそうやって生まれたのだった、とハーレイのお蔭で思い出せた。
「シャングリラ…。ホントだ、ピンクになるトコだったんだっけね」
どうせ見えないから、ってブラウが…。
まさか本当にピンクに塗りはしなかっただろうけど、ブラウがピンクって言わなかったら、白い鯨になってはいないね。投票は無しで暗い色になったか、迷彩色で。
「そういうこった。白い鯨にはならなかったぞ、ゼルとヒルマンの意見が通って」
前の俺にしても、それが正しいと思っただろうし…。見付かったら駄目な船なんだから。
とはいえ、俺も忘れていたんだがなあ、白になる予定じゃなかったことを。あの船で長年暮らす間に、すっかり慣れてしまっていて。…シャングリラは白い船なんだ、とな。
だが、冷静に考えてみれば、あの色は目立ち過ぎなんだ。暗い宇宙じゃ白は目を引く。
ちゃんと分かってはいたんだが…。ナスカでも姿を消していたんだぞ、何も来なくても。
ステルス・デバイスのオーバーホールが必要になった時には焦ったもんだ。普段だったら、特に心配いらないんだが…。予備のシステムが使えるんだが、あの時は違った。デバイス・システムを完全に止めなきゃ出来んと言われて、生きた心地もしなかった。
止めちまったら、船は丸見えになるんだし…。万一ってこともあるんだからな。
それでも思いはしなかったんだよな、「なんだって白にしたんだ」とは。
人類軍の船の中には、暗い色のも迷彩色のもあったのになあ…。
シャングリラは白いものだと思い込んでいたんだな、とハーレイが浮かべた苦笑い。
他の色は思い浮かばなかったと、塗り替えようとも思わなかった、と。
「それだけ馴染んだ色だったんだな、あの船の白は」
ついでに気に入りの色だったわけだ、キャプテンとしても。…目立ち過ぎる白い鯨でもな。
「ハーレイ、あの船、人類軍は確か…」
白い鯨の名前で呼んでいたんだよね?
前のぼくは直接聞いてはいないけれども、エラが言ってた小説の鯨。
「そうさ、人類軍のヤツらが付けてた名前はモビー・ディックだ。白い鯨だ」
もっとも、そいつを傍受したって、俺は全く思い出しさえしなかったんだが…。
シャングリラが白い理由はそれだと、まさしくモビー・ディックだとはな。
…人類軍のヤツら、縁起でもない名前を付けていやがったんだな、モビー・ディックと戦ったら負ける筋書きなのに…。船は沈んで、一人だけしか生き残らないっていう結末なのに。
「勝てる自信があったんじゃないの? 小説のようにはならないぞ、って」
でも、シャングリラの色、白にしておいて良かったね。白い鯨だからモビー・ディック。
もしもピンクの鯨だったら、そういう名前になっていないよ。人類軍が呼ぶ時の名前。
「ピンクの鯨か…。そんな小説、多分、今でも無いんだろうな」
小さな子供向けの絵本だったら、ピンクの鯨もいそうだが…。きっと可愛い名前なんだぞ、白い鯨とは違ってな。
しかし、人類軍のヤツらが可愛い名前をつけてくれるとは思えんし…。
それよりも前に、悪趣味な船だと思われたかもなあ、巨大なピンクの鯨ではな。
キャプテンの俺でも恥ずかしくなるようなピンク色では、どんな名前でも文句は言えん。いくら幸せの色だと言っても、ピンクの鯨は俺は嫌だぞ。
ピンクにされなくて本当に良かった、とホッとしているらしいハーレイ。ピンク色にはならずに済んだシャングリラ。遠く遥かな時の彼方で、ブラウが「ハッピーな色」と言っていたピンク。
思いがけなく蘇った記憶、シャングリラの白と幸せのピンクが思わぬ所で繋がった。ハーレイと新聞記事のお蔭で、思い出せたシャングリラが白かった理由。
「ハーレイ、今でもピンクのシャングリラは嫌みたいだけど…」
幸せの色はピンクなんでしょ、シャングリラの白も幸せの色?
前のぼくの上着も白だったけれど、白もハーレイの幸せの色の仲間入り…?
「そうだな、シャングリラの白も、前のお前の上着の白もいいんだが…」
別の白もいいなと思い始めたな、幸せの色。
今の俺ならではの幸せの色で、もう最高に幸せな白。
「なあに?」
どんな白なの、今のハーレイが幸せになれる白い色って…?
「決まっているだろ、お前の花嫁衣装の色だ」
ウェディングドレスか、白無垢なのか、どちらを着るかは決まってないが…。
お前、真っ白なのを着るだろ、俺と結婚する日には。
「そっか、ウェディングドレスの白…!」
白無垢だって真っ白だものね、綿帽子もベールも白いよね。
記事を読んでた時に考えたくせに、忘れちゃってた。最高に幸せな日に着る色なのに…。
純白に輝く花嫁衣装。ウェディングドレスにベールを被るか、白無垢を着て綿帽子か。
晴れの日の白に身を包んだら、お嫁に行く。
遠い昔に前のハーレイと恋をしていた船の色を纏って、今のハーレイの所へと。
「お嫁さんの白…。白は今でも幸せの色だね」
シャングリラで幸せだった頃と同じで、今も幸せの色なんだね。
ピンクも幸せの色だけれども、白もとっても幸せな色。
「そうだな、前の俺たちの頃から変わらんなあ…」
前のお前の色、俺は紫だと言ってたが…。白もお前の色なんだよなあ、昔も今も。
お前の肌は真っ白なんだし、そいつを忘れちゃいかんな、うん。
でもっていつかは白い車にするんだっけな、とハーレイがパチンと瞑った片目。
今の俺の車の次のヤツは、と。
「うん、ぼくたちのシャングリラだよね!」
ハーレイが運転してくれる車で、二人だけで乗るシャングリラ。
今の車の色も好きだけど、買い換える時は白い車にしたいって言ってたものね、ハーレイ…!
本物のシャングリラは時の流れが連れ去ったけれど、今は残っていないけれども。
今度も白いシャングリラに乗ろう、白い鯨ではないシャングリラに。
前のハーレイのマントの色をしている車が、役目を終えて去ったなら。
買い換える時がやって来たなら、白い車に買い換えて。
ハーレイと二人、またシャングリラに乗ってゆく。
そういう名前の白い車に、二人きりでドライブに行ける車に。
幸せの色はピンクだけれども、白も最高に幸せな色。
白い花嫁衣装を纏った後には、いつか真っ白なシャングリラに乗って走ってゆけるのだから…。
幸せの色・了
※ブラウがピンクと言わなかったら、白いシャングリラは生まれていなかったのです。
暗い色になったか、迷彩色か。投票で白に決まったのですけど、今の生でも白は幸せの色。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(コーヒーフェアか…)
ハーレイが手に取り、眺めたチラシ。ブルーの家には寄り損なった日、夕食の後で。
夕刊に入った折り込み広告、百貨店での特別企画。あちこちの星から集めたコーヒー、もちろん地球産のコーヒーだって。
コーヒーの木の写真まで載せて、購買意欲をそそる仕掛けだけれど。明日から一週間の企画で、催事用のホールを丸ごと使うらしいのだけど。
(まるっきり縁が無いってな)
コーヒー党のくせに、と浮かべた苦笑い。コーヒーと紅茶、どちらが好きかと尋ねられたなら、迷わずコーヒーと答える自分。現に今だって、テーブルの上にコーヒーを満たしたマグカップ。
以前だったら、いそいそ出掛けて行っただろう。試飲が出来るコーナーもあるし、物珍しさで。他の星から来たコーヒーの味はどうかと、たまにはそういう豆もいいかと。
(地球のにしたって…)
普段はお目にかかれない物もあるだろう。それも豊富に。どれを買おうか迷うくらいに。
けれど、無くなってしまった御縁。高い豆でも相手はコーヒー、手が出ないほど小遣いに不自由してはいないのに、行っても仕方ないコーヒーフェア。
(あいつに出会ってしまったからなあ…)
前の生から愛した恋人、十四歳にしかならないブルー。小さなブルーはコーヒーが苦手で、前のブルーもそうだった。「何処が美味しいのか分からないよ」と嫌がるコーヒー。
時間がある日は、小さなブルーに会いに行くのが常だから。ブルーの家を訪ねてゆくから、街に出掛けてはいられない。百貨店に行くより、ブルーの家。
ブルーもコーヒー好きだと言うなら、土産に買う手もあるけれど。今日のように学校を出るのが遅れた日などに、街へと車を走らせて。
(だが、土産にもならないんだ…)
土産話にも出来やしない、とコクリと飲んだ熱いコーヒー。今の自分にはこれで充分だと、街に出掛けてまで珍しい豆は要らないと。
そうは思っても、コーヒー党には違いない。コーヒー豆より恋人の方を選ぶけれども、気になるコーヒーフェアの文字。小さなブルーに出会う前なら、きっと飛び付いただろうから。
(俺しか飲めんというのがなあ…)
前はともかく今度もなんだ、と零れる溜息。生まれ変わってもコーヒーが苦手な、愛おしい人。
この状況ではコーヒーフェアに出掛けて行っても仕方ない。無駄に時間を取られるだけ。いつかブルーと結婚したなら、「ちょっと付き合え」と引っ張って行ってもいいだろうけれど。
いくらブルーは飲めないと言っても、やめる気などは無いコーヒー。毎日必ず飲むだろうから、コーヒー豆だって買いにゆく。だから、たまにはコーヒーフェア。試飲出来ないブルーを連れて。
(嫌そうな顔はするんだろうが…)
興味津々でもあるだろうブルー。こんな飲み物の何処がいいのか、と他の客たちの観察もして。
そういう日まではお預けだな、とチラシをテーブルに置いたのだけれど。
(…待てよ?)
俺の事情は大きく変わったんだった、と再び手に取った百貨店のチラシ。今の自分は前に比べて中身がグンと増えている。キャプテン・ハーレイの記憶が戻って、加わったから。
(今の俺ならではの発見もあるか?)
同じコーヒーフェアのチラシでも、前の自分の記憶が戻った今ならば。
ただの嗜好品であるよりも前に、コーヒーの価値が全く違う。白いシャングリラではキャロブのコーヒー、本物ではなくて代用品。イナゴ豆で出来ていたコーヒー。
人類の船から物資を奪っていた時代ならば、本物のコーヒー豆だったけれど。
コーヒー自体が値打ち物だった、と前の自分になったつもりで眺めたチラシ。さっきより輝いて見える気がする、本物のコーヒーばかりのチラシ。
(コーヒー豆だというだけで値打ちが出るからなあ…)
何度懐かしく思っただろうか、あの船で。キャロブのコーヒーを口にしながら、本物のコーヒー豆があった時代を。カフェインを加えて作る代用品とは違った深みのある味を。
こだわりの豆など無かったけれども、本物を懐かしんでいた。また飲めたら、と。
あの頃の自分の目で見たチラシは、夢の世界を見ているよう。どれも本物ばかりのコーヒー。
(おまけに地球産と来たもんだ)
今でこそ見慣れた数々の銘柄、けれども前の自分は知らない。地球産を謳ったコーヒー豆など、前の自分が生きた頃には無かったから。
(てっきり、貴重品だとばかり…)
前のブルーが奪ったコーヒー豆の中には無かった地球産。希少な豆だから、手に入らないのだと信じていた。人類の聖地だった地球。其処で採れるだろうコーヒー豆は、普通の輸送船で運ぶには価値が高すぎるのだと。…地球産の作物ばかりを扱う輸送船、そういう船があるのだろうと。
まさか、その地球が無いとは夢にも思わなかった。
白いシャングリラで辿り着くまで、赤茶けた死の星を目にするまでは。
無くて当然だったんだ、と今だからこそ分かる地球産。蘇った青い地球で育ったコーヒー豆。
沢山あるな、と見ていった後は、他の星から来たコーヒーたち。多分、その星の自信作。
(アルテメシアにノアか…)
前の自分も飲んだ筈なのに、まるで覚えていない味。飲みたいと願った本物のコーヒーだったというのに、感動すらも覚えなかった。
ブルーを失くした後だったから。地球を目指しての旅の途中で、陥落させた幾つもの星。其処で出されたコーヒーの味は、もはやどうでも良かったから。
何を食べようが何を飲もうが、栄養補給をしていただけ。シャングリラを地球まで運ぶために。ブルーが遺した言葉を守って、ジョミーを支えてゆくために。
だから興味も無かったコーヒー、味も銘柄も知るわけがない、と思ったけれど。
(ん…?)
これは、と目を引いたノアのコーヒー。数量限定の特別輸入。
わざわざ枠で囲まれたそれは、キースが飲んでいたコーヒーだという。銘柄は「マツカ」。
(うーむ…)
そんなものが存在していたのか、と唸ってしまった、伝説の国家主席の御用達。キースが好んだ味のコーヒー、いつもマツカが淹れていたもの。
ノア産のコーヒー豆のブレンド、それが「マツカ」というコーヒー。もちろん後から付けられた名前、キースが国家主席だった頃には名前も無かったマツカのコーヒー。
(キース好みのコーヒーなあ…)
添えられている説明文。国家主席になるよりも前から、キースはこれを好んだらしい。マツカに命じて淹れさせていた味、他の者たちが淹れたコーヒーでは駄目だった、と。
キースもマツカもいなくなった後、マツカが遺した記録のお蔭で分かったブレンド。どんな豆をどうブレンドしたのか、豆の種類や割合などが。
マツカは細やかに気を配り続け、そのブレンドを完成させた。キースが「美味い」と思ったろう味、それをきちんと覚えていて。この豆の味が好きなようだと、この割合で混ぜてみようと。
キースは多分、言葉にもしていなかったろうに。「美味い」とも、それに「不味い」とも。
顔にも出してはいなかったろうに、マツカが作り上げたブレンド。キースのためにと、いつでも美味しいコーヒーを飲んで貰えるようにと。
(心も読まずに、よくやったもんだ)
あんな男の好みなんぞを掴むのは大変だっただろうに、と思い浮かべたマツカの顔。前の自分は会っていないけれど、今の自分は何度も写真を見ているから。
キースは今も嫌いだけれども、マツカのことは嫌っていない。トォニィが殺してしまった仲間。人類の世界で生きていたミュウ。
キースがSD体制に反旗を翻した理由の中には、マツカの存在もあっただろうから。記録は何も無いのだけれども、誰もがそうだと考えている。マツカの存在は大きかった、と。
コーヒー豆をブレンドしていたほどだし、マツカは本当にキースのために心を砕いたのだろう。見えない所まで心を配って、キースの世話をしていたのだろう…。
今の時代まで伝わるブレンド、「マツカ」と名付けられたノア産のコーヒー。キースが好んだ、マツカがブレンドしていたコーヒー。それを見付けたということは…。
(ブルーに教えてやれってことか?)
このコーヒーの存在を。ノア産のコーヒーのブレンドの一つ、マツカの名前を持ったコーヒー。遠く遥かな時の彼方で、キースに仕えた心優しいミュウの名前を。
キースを庇って命を落とした、人類の世界で生き続けたミュウ。キースの元から逃げ出さずに。その気になったら、逃げる機会はきっと何度もあっただろうに。
キースを選んで、ついて行こうと決めたのがマツカ。命ある限り。キースは人類だったのに。
マツカがキースを嫌わなかったように、ブルーもキースを嫌わないから。どちらかと言えば好きらしいから、コーヒーの「マツカ」を知ったら喜ぶことだろう。
「キースがいい人だったからだよ」と、「だからマツカも頑張ったんだよ」と。
教えてやったら、喜ぶに違いないブルー。キースが好んだコーヒーの「マツカ」。
(なんだって、俺が…)
キースは今でも嫌いなんだが、とチラシを睨み付けてみたって、気付いたものは仕方ない。このコーヒーを小さなブルーに教えてやるのが自分の役目。忌々しいけれど、買いに出掛けて。
(人気商品だろうしな…)
その上、数量限定となれば、勤務時間中に抜け出すしか道は無いだろう。週末ともなれば朝から人が並ぶだろうから、確実に手に入れたいなら平日がいい。
なんとか外へ出る用を作って、百貨店の開店時間に合わせて。明日から始まるフェアの期間に、マツカという名のコーヒーを買いに。
心でそういう段取りをつけて、次の日、出勤してみたら。丁度、街まで出られそうな者を探していたから、名乗り出た。午前中に担当の授業が無い上、車も持っているのだから。
「私が行きます」と引き受けた用事、ついでに休憩時間も貰えた。午前中はゆっくりしてくれていい、と。用件自体は、それほど時間がかからないのに。
願ってもない外出の機会。昨日の今日とは運がいい。出掛ける先も百貨店から近かった。
(先にこっちを済ませるべきだな)
コーヒーを買おう、と百貨店の駐車場に車を入れて、急いだ売り場。催事用のホールに行列中の客たち、並んだ後に二人が続いた所で「此処までです」と店員の声。
(凄い人気だな…)
のんびり来ていたら買えなかったぞ、と驚くほどの人気の「マツカ」。果たして人気はマツカの名なのか、それを好んだキースの方か。
(どっちなんだか悩むトコだが、知りたくもないな)
殆どの客がキースのファンなら、情けない気分になるだろうから。「俺もそういう扱いだな」と溜息が心に満ちるだろうから。
キースとマツカのファンが半々、マツカのファンが多めなのだ、と自分を慰める間に来た順番。
(これか…)
残り三個になっていた「マツカ」、同じ店が扱う他のコーヒーは山ほど並んでいるというのに。店員が「こちらですね」と示すパッケージに、刷られたマツカとキースの写真。
(こっちが非常に腹が立つんだが…!)
キースの写真は要らないんだが、と言いたい気持ちをグッと堪えて包んで貰った。買い物の後は学校の用事。そちらは並びもしないで済んだし、休憩はせずに戻った学校。コーヒーは車に残しておいた。持って入って何なのか知れたら、コーヒー党の同僚たちに…。
(味見させてくれ、と言われちまうんだ!)
それもキースの方のせいで、と断言できる。伝説の英雄が好んだコーヒー、その味を是非、と。マツカがキースのために作ったブレンド、それを飲みたいと。
誰がキースの宣伝をするか、と知らんぷりを決め込んだ「マツカ」のコーヒー。小さなブルーに話してやるなら、土曜日だろう。きっと飲みたがるに違いないから、ゆっくり出来る休日に。
土曜日までにブルーの家に寄った日が一度、黙っておいたコーヒーのこと。話したくなる気分を飲み込み、別の話をしておいて。
そして土曜日、コーヒーの「マツカ」が入った紙袋を提げて出掛けたブルーの家。二階の窓から見ていたブルーは、とうに紙袋に気付いていたから。
「ほら、土産だ。お前用ではないんだがな」
ブルーの部屋で向かい合わせに座って、テーブルに置いた紙袋。ブルーは「えっ?」と赤い瞳を丸くした。
「ぼくのじゃないって…。パパかママ用?」
それなら、ママに渡せば良かったのに…。暫く来ないよ、お茶もお菓子も持って来たもの。
晩御飯の時に渡したいとか、そういう物なら分かるけど…。お酒か何か?
「いや、酒じゃないが…。お前用にと買いはしたんだが…」
お前の好きな物じゃないのさ、土産に貰っても困りそうな物だ。
そんな代物を、お前用だと言うのもなあ…。
だが、開けてみろ。…お前への土産には違いないからな。
「ふうん…?」
なんだか変なの、貰っても困るお土産だなんて…。
ぼくの友達、旅行のお土産にヘンテコな物をくれたりすることがあるけど、そういうヤツ?
こんなのを貰っても使えないよ、って思うカップだとか、変な形のキーホルダーとか。
「あるなあ、そういう土産物ってのも」
俺も若い頃にはよく貰ったなあ、何処で着るんだって悩む模様のシャツとかを。
そこまで酷いのを買って来たってわけじゃないがだ、お前には迷惑な物だと思うぞ。
見れば分かる、と促してやって、ブルーが開けた紙袋。中から出て来た「マツカ」のコーヒー。一番最初に目に入るのは、パッケージの模様でもあるコーヒー豆の写真の方だから。
「なに、これ…?」
どうして、ぼくにコーヒーなわけ?
ホントに苦手なお土産だけど…。なんでコーヒー、ぼくにくれるの?
「よく見てみろ。キースとマツカの写真がついているんだ」
その下に説明が書いてあるだろうが。…そのコーヒーの名前もな。
「ホントだ、キース…。それに、マツカ…?」
キースの写真がくっついてるのに、コーヒーの名前、マツカなんだ…。キースじゃなくて。
「そうだ、そいつはマツカと言うんだ」
マツカって名前がついたコーヒー。…マツカが生きてた頃には無かった名前なんだが。
「うん…。そう書いてあるね、キースのために作ったブレンド…?」
キースが好きだったコーヒー豆のブレンド、それの再現…。だからマツカって言うんだね。
いつもマツカがブレンドしていて、キースのお気に入りだったから。
「そのようだ。…こんな所に名を残したんだな、マツカはな」
俺も全く知らなかったが、コーヒーフェアのチラシで見付けた。こういうのがある、と。
お前に教えてやりたかったし、土産に買って来たってわけだ。
キース好みのブレンドって所は腹が立つんだが、これを作ったのはマツカだからな。
…前の俺はマツカには会えずに終わっちまったが、仲間の一人には違いない。
それにだ、お前、マツカがキースに淹れてたコーヒー、あると知ったら見たいだろうが。
キースのためにと、ミュウだったマツカが工夫を凝らしたコーヒー豆が。
お前、キースをちっとも嫌っていないからな。あんな目に遭わされちまったのに…。
どういうわけだか嫌わないんだ、と顔を顰めたら、ブルーにも気持ちは伝わったようで。
「ハーレイ、キースは嫌いなのに…。今でも嫌いなままなのに…」
このコーヒーを買ってくれたの、ぼくが見たがるだろうと思って…?
「ああ、学校を抜け出してな。…一応、用事はあったんだが」
誰か街まで行けるヤツは、と探していたから、俺が出掛けた。この百貨店にも寄れるからな。
「学校のある日に抜け出したって…。そこまでしたの?」
ホントに用事があったにしたって、街までわざわざコーヒーを買いに…?
「こいつは限定品だったんだ。一日に売る数が決まっているから、帰りじゃ買えん」
しかし、お前が喜びそうだと思ったからなあ、このコーヒーは。
…俺の直ぐ後ろで、その日の分は売り切れだったが…。買えて良かったか、このコーヒー?
「うん、嬉しい。…こんなのがあるぞ、って教えてくれるだけでも充分、嬉しかったと思う」
ハーレイが行くまでに売り切れていても、ぼくはちっとも怒らなかったよ。
そのコーヒーの本物だなんて、買って貰えて、とっても嬉しい。…マツカのコーヒー。
だって、キースはマツカを大事にしていたんだな、って分かるもの。
キースに冷たくされていたなら、コーヒーまで作りはしないでしょ?
「コーヒーの味がすればいいんだ」って、適当に淹れていたと思うよ、その辺の豆で。
酷い時にはインスタントで済ませてたかもね、こうしてブレンドする代わりに。
「…やっぱりあいつの肩を持つのか…」
お前らしいとは思うんだが…。このコーヒーで嬉しくなるほど、キースを高く買ってる、と。
俺がキースにコーヒーを出すなら、インスタントどころか泥水を出したいほどなんだがな。
「いつも言ってるでしょ、ぼくはキースを嫌いじゃない、って」
出会った時代と立場が違えば、きっと友達になれた気がするよ。
ナスカでキースと会った時にも、もっと時間があったなら…。話が出来たら違ったかもね。
キースは結局、SD体制を壊す方へと行ったんだから。…考え方を変えたんだから。
考えるための時間さえあれば、ナスカでもキースは変わってた。そういう人間。
だからキースは嫌いじゃないよ。ホントは誰よりも人間らしくて、優しい人類だったんだもの。
ミュウだったマツカが、こんなコーヒーを作っていたのが証拠。キースのためにね。
ハーレイもこれを飲んでみたら、と小さなブルーに勧められた。例の「マツカ」のコーヒーを。
「きっとマツカの心が分かるよ」と、「美味しいコーヒーだと思う」と。
「おいおい…。俺にこいつを飲めってか?」
よりにもよってキース好みのコーヒーを俺に飲めと言うのか、コーヒーの名前はマツカだが…!
しかし、作ったのがマツカだっただけで、この味はキースが好きだった味で…!
なんだって俺がキースと同じコーヒーを飲む羽目になるんだ、俺はあいつが嫌いなんだが…!
お前が飲みたがるだろうとは思ったんだが、どうして俺が…!
「でも、このコーヒー、ハーレイのでしょ?」
ぼくにお土産って言っていたけど、ぼくはコーヒー、苦手なんだし…。
貰っても美味しく飲めるわけがないし、第一、買ったの、ハーレイなんだよ?
学校を抜け出して行列に並んで、手に入れた限定品なんでしょ?
前のハーレイの記憶を持っていなかったとしたら、凄く飲みたいコーヒーじゃないの?
ハーレイはコーヒーが大好きなんだし、行列が出来るほどの限定品なら飲みたくならない?
「それはそうだが…。そう思ったから、学校でも隠しておいたんだが…」
ウッカリ持って入って行ったら、「それは何です?」と訊かれちまって、味見されそうで…。
コーヒー党のヤツらは多いからなあ、開けて飲みたがるに決まってる。なんたってキース好みのコーヒーだからな、伝説の英雄で国家主席の。…どんな味だか知りたいヤツらが押し寄せるぞ。
そうならないよう、車に乗せておいたんだ。開けられちまったら、土産に出来んし。
「ほらね、キースの好きなコーヒーだから、と思わなかったら平気でしょ?」
ハーレイだって何も知らない時に誰かが買って来たなら、飲みたがる方。どんな味なのか。
きっと美味しいに決まってるんだよ、このコーヒー。…飲む人がキースでなくっても。
美味しくなければ、今まで残る筈がないもの。マツカが作った時のまんまで。
ぼくも付き合うから、飲んでみてよ。…ぼくにくれたんだし、決めるのはぼく。
ママに頼んで淹れて貰おうよ、マツカのコーヒー。ね、いいでしょ?
ちょっと待っててね、ママに頼んでくる!
ママー!
コーヒー豆が入った袋を手にして、部屋から駆け出して行ったブルー。階段を下りる軽い足音、母を呼ぶ声。
暫く経ったら、ブルーは息を弾ませて戻って来た。「コーヒー、ママに頼んで来たよ」と。
ブルーが母に「淹れて」と頼んだ「マツカ」のコーヒー。中身はブレンドされたコーヒー豆で、それを挽く所から始めるのだから、昼食の後に出て来るらしい。
コーヒーは苦手なブルー用にと、ミルクや砂糖もたっぷり添えて。甘いホイップクリームも。
「ハーレイ、コーヒー、楽しみだね」
ママが淹れるコーヒーの味は大好きなんでしょ、それに今日のは特別な豆。マツカのコーヒー。
行列が出来て、直ぐに売り切れになっちゃうほどだし、凄く美味しいコーヒーだと思う。ママもビックリしていたよ。「こんなコーヒー、あったのねえ…」って。
キースが好きだったコーヒーの味って、どんなのだろうね、楽しみだよね?
「楽しみって…。お前、コーヒーは苦手なくせに…」
そいつを楽しみにしているだなんて、お前は本当にキースが好きだな。
撃たれた挙句に、お前の右手は冷たく凍えてしまったのに…。今でも夢に見るほどなのに。
せいぜい興味を持つ程度だと思っていたのに、「楽しみ」と来たか。味見よりも上の扱いだな。
俺としては複雑な気分だが…。キースが好きなお前というのは。
「頑張ったんだよ、キースだってね」
人類として、出来る限りのことをしようとしただけ。…メギドを沈められないように。
もしもメギドを壊されちゃったら、ミュウを滅ぼせなくなるし…。それがキースの役目なのに。ミュウを滅ぼして、人類の未来を守ることが。
そうするのに、ぼくが邪魔だっただけ。…だから撃つしかなかっただけ。
ぼくを憎いと思っていたって、それはメギドを沈めに来たから。
ミュウを滅ぼそうと思っていたのも、そういう役目で来たからなんだよ。
前のぼくもキースも、自分の役目を果たそうとして頑張っただけ。違う立場で、仲間のために。
ミュウと人類、それぞれの生きる世界を守らなくちゃいけなかったから…。
残酷なことをしたキースだけれども、それは立場がそうさせただけ、と微笑んだブルー。
ナスカをメギドで滅ぼしたことも、前のブルーを撃ったことも。
「本当なんだよ、ハーレイだって分かる筈だよ。歴史の授業でも習うんだから」
キースはメギドを持ち出したけれど、あの時、マツカはとっくにいたよ?
それよりも前に、キースを助けに一人でナスカに来たんだから。…他の人類は来なかったのに。
マードック大佐も、マツカを一人で行かせたほどだし、キースを助ける気は無かったのに。
だけどマツカは、たった一人で…。もしかしたら、自分も助からないかもしれないのに。どんな敵がいるかも分からない所へ、命懸けでキースを助けに来ちゃった…。
あそこでキースを助けなかったら、マツカは元通り、コッソリ隠れて生きられたのにね。
「それもそうか…。マツカの正体はバレていなかったんだったっけな」
だからソレイドにいられたわけで、ミュウだと見抜いたキースが消えたら安全なわけか…。
なのに助けに出掛けたんだな、自分の正体を知ってたヤツを。放っておいたら、それまで通りに隠れて生きていけたのに…。
「でしょ? マツカは気付いていたんだよ。キースがどういう人間なのか」
自分の役目と関係無ければ、無駄に人殺しはしない人間。本当は優しい人間なんだ、って。
そのことにちゃんと気付いていたから、一人でナスカに来たんだよ。誰も行こうとしないから。
キースを助けて逃げた後だって、マツカはキースを守ってた。ホントに必死で。
前のぼくはメギドで会っているもの、キースを助けに来たマツカに。…マツカが来なかったら、キースは死んでしまっていたよ。前のぼくに道連れにされてしまって。
…ホントのホントに命懸けだよ、あんな所から脱出するのは。一人だけでも難しいのに、キースまで連れて。それでもマツカはキースを助けに飛び込んで来たよ、躊躇いもせずに。
どんな人間か分かってなければ、そうはしないと思わない…?
「…なるほどなあ…。ミュウを皆殺しにしようとしたヤツなんだし…」
血も涙も無い冷酷なヤツだと思っていたなら、助ける必要は無いってか。自分の勝手でメギドに出掛けて行ったわけだし、其処でキースが死んじまっても誰にも責任は無いってわけで…。
むしろ世の中のためかもしれんな、残党狩りの命令を無視したマードック大佐もいたんだから。
同じ軍人でも「やりすぎだろう」と思ったくらいのキースのやり口。そんな野郎は死んじまった方がいいんだろうに、マツカが助けたということは…。
お前が言うのが正しいんだろうな、それでも俺はキースを好きにはなれんがな…。
小さなブルーの意見を聞いても、憎い気持ちが消えないキース。前のブルーを撃ったから。
撃たれた痛みで、持っていた温もりを失くしたブルー。前の自分の左腕から、ブルーは温もりをそっと持って行った。何も言わずに、それだけを持って一人でメギドへ飛び去ったブルー。
温もりがあれば、一人ではないと。最後まで二人一緒なのだと。
(なのに、あいつは独りぼっちで…)
泣きじゃくりながら死んでしまったと、小さなブルーが話した最期。温もりを失くして、右手が冷たく凍えてしまって。前の自分との絆を失くして、独りぼっちになってしまって。
(いくらブルーが許していても、俺は…)
あいつを許す気にはなれない、と心の奥から消えない憎しみが凍った塊。許せないキース。
小さなブルーが何と言っても、それが正しいことであっても。
前のブルーを独りぼっちにさせてしまった男だから。死よりも恐ろしい孤独と絶望の中で、前のブルーは泣きながら死んでいったのだから。
けれど、ブルーには何度も重ねて「許せない」と言わない方がいい。ブルーを悲しませることになるから、「ぼくのせいだ」と。「ハーレイに辛い思いをさせてる」と。
だから飲み込んだ、キースへの怒り。自分一人で抱えておこうと、もう言うまいと。
それからは二人、和やかに話して、昼食の後に出て来た「マツカ」のコーヒー。普段はブルーの部屋では出ないコーヒー、それが二人分。
ブルーの母は、豆の袋も持って来た。「残りはお持ちになりますでしょ?」と。小さなブルーは苦手なコーヒー、猫に小判というものだから。宝の持ち腐れになってしまうから。
きっとブルーも、母にそう言っておいたのだろう。キース好みのコーヒー豆など、自分は少しも欲しくないのに。
そんなわけだから、キースとマツカの写真付きのパッケージまでがやって来た。中の豆ごと。
ブルー用にと、たっぷりのミルクや甘いホイップクリームも揃ったテーブル。
(うーむ…)
飲むしかないか、と腹を括ってコーヒーのカップを持ち上げた。自分が持ち込んだコーヒー豆。それに小さなブルーの望み。「飲んでみてよ」とブルーは言ったし、赤い瞳に期待の色。
コクリと一口、飲んだコーヒー。ふわりと漂う独特の香りは、今の地球産にはとても敵わない。
けれど、あの時代ならば、最高のコーヒーだったろう。味の方は悪くないのだから。
「ハーレイ、どう?」
マツカのコーヒー、ちゃんと美味しい?
「まあ…。美味いんだろうな、あの時代にこの味だったんだから」
キースめ、最高に美味いコーヒーを飲んでいやがったんだな、俺は代用品だったのに…。
本物のコーヒー豆なんぞ無くて、いつもキャロブのコーヒーだったろ、シャングリラはな。
「今の時代だと、どうなるの?」
あんまり美味しくないんだったら、きっと今まで残りはしないし…。美味しいんだよね?
「実に癪だが、美味いってことは間違いないな」
ただ、如何せん、香りがなあ…。物足りないって感じがするなあ、今の俺には。
他の星のコーヒーは大抵こんなもんだが、今は地球産のがある時代だしな?
地球で採れたコーヒー豆の香りにはとても及ばないな、とは言ったけれども。
優しい味に思えるコーヒー、苦味とは別に。
多分、マツカの心遣いが今でも生きているのだろう。懸命にブレンドしていたマツカの心が。
(深い味には違いないんだ、今でも充分、こいつのファンを集められるような…)
きっと「マツカ」の名前が無くても、キースにゆかりのコーヒーでなくても売れる味。ノア産の他のコーヒーよりも「美味しい」と選ばれそうな味。
それをマツカは作り上げた。遠く遥かな時の彼方で、キースのために。
ブルーは「ふうん?」と首を傾げて、自分のカップから飲み始めて。たちまち「苦い」と顰めた顔。なのにミルクを入れようとせずに、カップを口に運んでいるから。
「どうした?」
ミルクと砂糖をドッサリじゃないのか、それにホイップクリームも。…味見した後は。
「このまま飲むのがいいかと思って…。マツカの気持ちがこもっているもの」
それを台無しにしたら駄目だよ、せっかくマツカが心をこめてキースのために作ったのに。
「マツカなら許してくれると思うぞ、お前の飲み方」
台無しだなんて言いもしないで、自分で入れてくれそうじゃないか。ミルクも砂糖も。
「ホント?」
「マツカだからなあ、誰にでもきっと優しいだろう。嫌な顔一つしないだろうさ」
キースはどうだか知らないが…。「そいつの何処がコーヒーなんだ」と言うかもしれんが。
「うん。キースなら、きっと笑うんだよ」
今のぼくがやっても、前のぼくでも。…コーヒーの値打ちが分かっていない、って。
「これだから子供は話にならん」って笑われちゃうのが、今のぼく。
前のぼくだと、「ミュウの長は子供みたいな舌だ」って大笑いだよ、きっと。
そんな酷い舌の持ち主のくせに、なんでメギドを止められたんだ、って呆れられるんだよ。
だけど、苦手なものは仕方ないよね、コーヒー、ホントに苦いんだもの…。
マツカが許してくれるんならいいかな、とブルーがたっぷり注いだミルク。それに砂糖と、甘いホイップクリームも。いつもの飲み方を始めたブルー。「美味しくなった」と。
そんなブルーには猫に小判な「マツカ」のコーヒー。とはいえ、キース好みのコーヒーは欲しい気にならないから、残りの豆は置いて帰ろうと思っていたのに。
数量限定で売るほどの豆だし、ブルーの両親が美味しく飲んでくれればいい、と考えたのに。
「駄目だよ、これはハーレイが持って帰って」
ママも言ってたでしょ、ハーレイが持って帰らなきゃ。ぼくはコーヒー、苦手なんだし。
「それを言うなら、俺はキースが苦手だが?」
あいつが嫌いでたまらないのが俺なわけでだ、キース好みのコーヒーなんぞは嬉しくもないぞ。
だが、美味いのは美味いんだから…。お前のお父さんとお母さんに飲んで貰えばいいと思うが。
「ううん、ハーレイが飲むべきなんだよ」
このコーヒーが美味しいんだったら、余計にハーレイが飲まないと…。
キースに美味しいコーヒーを飲んで欲しくて、マツカが作ったんだから。いろんな豆を選んで、色々な割合で何度もブレンドしてみて。
そうやって頑張ったマツカの気持ち。…キースのために、って頑張ったマツカ。
ハーレイにもマツカの気持ちが分かれば、キース嫌いが少しはマシになりそうだから。
このコーヒーの美味しさが分かるんだったら、マツカの気持ちも分かるでしょ?
「そう来たか…」
しかしだ、コーヒーくらいで気が変わるほどに、俺は甘くはないんだが?
キースを許せる気にはならんと、さっきも話した筈なんだがな…?
そう簡単に変わるものか、と言いはしたけれど、小さなブルーの願いだから。そうして欲しいと赤い瞳が見詰めていたから、コーヒー豆の残りは家へと持って帰ることにした。
その夜、ブルーと別れた後に、自分の家で例の豆を挽いて、それでコーヒーを淹れてみて…。
(いつかキースを許せる日、か…)
傾けた愛用のマグカップ。香り高くはないのだけれども、優しい味の「マツカ」のコーヒー。
熱いコーヒーが喉を滑っていったら、「来るかもしれない」という気がした。
今は許せない、前のブルーを苦しめたキース。悲しすぎる死へとブルーを追いやったキース。
とても許せはしないけれども、憎くてたまらないけれど。
許せる時が来るかもしれない、ブルーと暮らし始めたならば。
小さなブルーが前とそっくり同じに育って、本当にブルーを取り戻したら。
そうすればきっと、憎しみも消えてゆくのだろう。キースの本質とやらも見えて来るのだろう。今の自分には見えない部分。分かってはいても理解したくない、キースの優しさや人間らしさ。
いつか憎しみが消えたなら。…胸の奥にある憎しみの塊が溶けて綺麗に無くなったなら。
(それまでは、マツカには悪いんだが…)
キース嫌いでいさせて貰う、と傾ける熱い「マツカ」のコーヒー。時の彼方でキースに仕えた、優しいミュウが作ったブレンド。
香りは地球産の物に及ばなくても、美味いコーヒーだと。
マツカの思いは時を越えたと、キースにそれだけの値打ちがあったかは俺は知らないが、と…。
マツカのコーヒー・了
※コーヒーに名前を残したマツカ。キースのためにブレンドしたものが、遥か後の時代まで。
地球産に香りは及ばなくても、味は最高だという「マツカ」。彼が遺した、優しさの証。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んー…)
大きすぎる目が問題なんだよ、とブルーが覗き込む鏡。自分の部屋の壁にある鏡。
子供っぽい顔の原因はコレ、と。学校から帰って、おやつの後で。
いつもハーレイに「チビ」と言われている自分。前の自分と同じ背丈に育ちたいのに、伸びてはくれない自分の背丈。ハーレイと再会した五月の三日から、ほんの一ミリも。
伸びない背丈も問題だけれど、顔立ちだって子供の顔。せめて顔だけでも少し大人っぽくなってくれたら、ハーレイの態度も変わるかもしれない。
(チビはチビでも、もうちょっと…)
子供扱いではなくて、恋人扱い。キスは許してくれなくても。「俺のブルーだ」と言ってくれる日が増えるだとか。
そうなってくれるといいんだけれど、と思い浮かべる理想の顔立ち。ソルジャー・ブルーだった頃の自分の顔。そっくりそのままの顔は無理でも、もう少し大人びた顔がいいのに、と。
鏡を覗けば、其処に映った子供の顔。丸みを帯びた輪郭も子供、柔らかそうな頬っぺたも。
何処もかしこも子供だけれども、一番の違いは目元だと思う。赤い瞳の色は同じでも、瞳と顔のバランスの違い。クルンと大きな子供らしい瞳、前の自分はこうではなかった。
アルタミラからの脱出直後は、こうだったけれど。今の自分と瓜二つだったけれど。
(育っていったら、こんなに大きな目じゃなかったし…)
それでも、細くも小さすぎもしなかった瞳。大人にしては大きな瞳だったと思う。船で暮らした他の仲間や、キースの瞳と比べてみれば。
(大人にも色々あるけれど…)
今の自分の顔にある目は、誰が見たって子供の目。大人びた目には見えない大きさ。
これが駄目だ、と零れた溜息。この目のせいで子供の顔、と。
なんとかしたい、子供っぽい目。やたらと目立つ大きな瞳。明らかに大きすぎるから…。
(もうちょっと…)
小さくなってくれないものか、と細めてみたら、なんだかキースみたいになった。白目の部分はキースよりかは少ないけれど。
細すぎたかな、と調整したって、前の自分の目にはならない。細めるだけでは駄目らしい。
(縦だけじゃなくて、横も一緒に小さくしないと…)
そうすればきっと、と目元に力を入れてみたのに、狭まってくれない左右の幅。前の自分の目になるどころか、眉間にピッと皺が出来るだけ。
(上手くいかない…)
小さくならない自分の瞳。キースみたいになってしまうか、眉間に皺か。魅力は増さずに、変な顔になる。子供っぽい方がマシなくらいに。
今度こそは、と細めながら幅を狭めようとしたら、さっきより深くなった皺。眉間にくっきりと皺が刻まれ、小さくはなってくれない目。
(これじゃハーレイ…)
眉間の皺は、今も昔もハーレイの顔にくっついている。笑っている時も、消えない皺。
だからハーレイの顔が浮かんだけれども、途端に蘇った遠い遠い記憶。前の自分と眉間の皺。
ソルジャー・ブルーの眉間には、皺は無かったけれど。…そんな写真も無いのだけれど。
でも皺だっけ、とクスッと笑った。あれは確かに眉間の皺。白いシャングリラにいた頃に。
「ちょいと、その顔は頂けないねえ…」
ハーレイみたいになっちまうよ、とライブラリーで声を掛けて来たブラウ。何の本を読んでいた時だったか、考え事をしていたら。
「ぼくの顔がどうかしたのかい?」
何か問題があるだろうか、と本から顔を上げたら、トンとブラウにつつかれた額。
「これだよ、これ」
此処に皺が、とブラウの指がつつくけれども、分からない意味。
「皺だって…? ぼくの額に?」
「出来ちまっていたよ、もう消えたけどさ」
でもね、さっきまでは皺だったんだよ。眉が寄ってて、眉間にくっきり。
ハーレイみたいな顔ならともかく、あんたの顔には皺は駄目だね。絵にならないから。
「…そうなのかい?」
「当たり前だよ、分からないなら自分で鏡を覗くんだね。皺を作って」
まるで似合っちゃいないどころか、酷いもんだよ。さっきも言ったよ、頂けないって。
そんなのが癖になってしまったら大変だからね、皺を寄せながら考え事をするのはやめときな。
みんなも幻滅しちまうから、と笑ってブラウは去って行った。
シャングリラの自慢のソルジャーの額は、滑らかなのが一番なのさ、と。
そういう事件があったんだっけ、と懐かしく思い出したこと。前の自分の眉間の皺。
「分からないなら鏡を見な」と言われたけれども、結局、鏡は見なかった。そんな必要は無いと思ったのか、それとも忘れてしまったのか。だから知らない、眉間に皺を作った前の自分の顔。
(前のハーレイ…)
ブラウが例に挙げたほどだったのだし、白いシャングリラで眉間の皺と言えばハーレイ。他にも何人かいただろうけれど、トレードマークのようだったキャプテン・ハーレイの眉間の皺。
あの皺も含めて、ハーレイの顔が好きだった自分。前のハーレイと恋をしていた自分。
(…前のぼくの顔だと、眉間の皺は駄目なんだけど…)
ハーレイだったら似合うんだよね、と鏡から離れて、座った勉強机の前。どう頑張っても、前の自分の顔は作れないらしいから。瞳は小さくならないから。
無駄な努力をしているよりかは、眉間の皺を考える方がよっぽど有意義。前のハーレイの顔には良く似合っていた、あの皺について。
(最初は皺なんか無かったっけ…)
アルタミラの地獄で出会った頃には、ハーレイの額に皺は無かった。前の自分の額のように。
まだ若かったからだろうか。皺が出来るような年ではなかった、青年時代のハーレイだから。
アルタミラの檻や実験室では、酷い目に遭わされていた筈だけれど、出来なかった皺。耐え難い苦痛を味わった時は、皺だって出来ていたろうに。眉間に寄せていたのだろうに。
出会った頃には無かった皺。前のハーレイのトレードマークの眉間の皺。
(いつ出来たの…?)
あの皺はいつからあるのだろうか、と遠い記憶を手繰ってみる。ハーレイが厨房にいた時代にも皺は無かった。滑らかだったハーレイの額。
前の自分がブラウに指摘された時のように、皺を寄せていることも無かった、と思ったけれど。厨房時代のハーレイはいつも、朗らかだったと記憶していたけれど。
(あったっけ…)
青年だったハーレイの額に見付けた皺。
アルタミラから脱出した船で、食料が尽きると前の自分に打ち明けた時に。船に最初からあった食料、それがもうすぐ尽きてしまうと。一ヶ月分ほどはあるのだけれども、それで全部だと。
せっかく生き延びて脱出したのに、飢え死にするしかない運命。食料が尽きても、補給する術が無いのだから。…何処に行っても、ミュウは追われるだけなのだから。
船の仲間にはまだ明かせない、と話していた時、今から思えば、寄せていた皺。滑らかな額に。
どうすることも出来ないけれども、これからどうしたらいいのかと。
ハーレイの頭を悩ませていた食料問題は、前の自分が解決した。自分でも驚いたほどの強い力を秘めたサイオン、それを使って人類の船から奪った食料。
慣れない間は奪った食料が偏ってしまって、ジャガイモだらけのジャガイモ地獄や、キャベツが溢れるキャベツ地獄もあったけれども、飢える心配は無くなった。
ハーレイは眉間に皺を作らず、せっせと料理を作っていた。ジャガイモ地獄に見舞われた時も、キャベツ地獄になっていた時も。
厨房時代は出来ていなかった、ハーレイの皺。けれども、それを目にした自分。食料が尽きると悩んでいた時、ハーレイの額には確かに皺があったから。
(考え事をする時の癖だったんだ…)
前の自分がブラウに額をつつかれた皺は、たまたま寄せただけだったけれど。普段は皺など全く作りはしなかったけれど、ハーレイは癖。
多分、難しいことを考える時の。手に負えないような難題だとか、全力で取り組む時だとか。
厨房だったら、そこまでの事態は起こらないけれど。ジャガイモ地獄もキャベツ地獄も、腕さえあれば乗り切れたけれど。
(ハーレイ、キャプテンになっちゃったから…)
きっと色々あったんだよね、とチビの自分でも想像がつく。前の自分も推したハーレイ。迷っていた所へ出掛けて行って。「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と。
フライパンも船も似たようなものだ、と話したことを覚えている。どちらも命を守るものだと。フライパンで出来る料理も、皆を乗せて宇宙を飛んでゆく船も。
キャプテンの任を受けたハーレイは、それを覚えていてよく言ったものだ。「フライパンも船も似たようなものさ」と、「どっちも焦がしちゃ駄目だからな」と。
けれども、フライパンと船の共通点はその部分だけ。他は全く似ていないもの。
ハーレイはきっと、沢山の苦労をしたのだろう。厨房時代とは違う仕事に就いたのだから。船を纏める役目のキャプテン。そういう者が必要だからと、適任だからと見込まれて。
「船は動かせなくてもいいから」とまで、ヒルマンたちが頼んでいた。操船は慣れた仲間たちがやるから、船を纏めてくれればいいと。
そうだった、と頭に浮かんだハーレイの皺。いつしか眉間に刻まれていたトレードマーク。前のハーレイの額に、またあの皺を見付けたのは…。
(航宙学…!)
亜空間理論や位相幾何学、他にも山ほどハーレイが机に積み上げた本。愛用していた木の机に。
シャングリラを自分で操るために、と専門外の本を読み始めてから、何度も眉間にあるのを見た皺。一度では理解出来ない箇所やら、幾つもの本を調べながら読まねばならない時やら。
そうやって操舵を覚えた後にも、船の中のことを真剣に考える度に出来ていた皺。眉間に何度も刻まれた皺。ブリッジや、ハーレイの部屋や、休憩室で。
腕組みをしたり、目を閉じていたり、ポーズは色々だったけれども、眉間の皺はいつでも同じ。眉を寄せて、深く考え込んで。
(前のぼくの代わりに考えてたんだ…)
ソルジャーだった前の自分は、物資を奪って来るのが仕事。船をシールドで丸ごと包んで守ったこともあったけれども、船の中までは守っていない。様々な設備も、仲間たちの暮らしも。
船を守るのはキャプテンの役目。船体そのものの維持管理から、船での暮らしを守ることまで。食料は充分足りているのか、他の物資は揃っているかと。
眉間に皺を寄せて考えることは、本当に沢山あったのだろう。メンテナンスの進め方やら、前の自分が奪った物資の管理まで。備品倉庫の管理人から報告を聞いて、配分などを決めてゆく仕事。
ハーレイはキャプテンとして船を守って、眉間に皺が出来てしまった。いつの間にやら。
難しい本を何冊も読んでいた頃には、常に刻まれてはいなかったけれど。シャングリラの操舵を引き継いだ時にも、まだ眉間には無かった皺。
けれど、外見の年齢を止めたハーレイの額にはもう、あの皺があった。くっきりと深く。
そうなるまでに、考え事を重ねたから。何度も何度も、眉間に皺を寄せていたから。
(…ハーレイ、考え込むことが多すぎたから…)
キャプテンになったハーレイの前には、難問が山積みだったのだろう。ジャガイモやキャベツが相手の仕事ではなかったから。船の仲間の命を預かっていたのだから。
フライパンなら、料理を作って生きる糧にすればいいのだけれど。船の方だと、そうではない。料理を作る材料を揃えて、料理人を乗せて、出来上がった料理を食べる仲間の安全を守る。
フライパンと船では重みが違う。本当の意味での重量が違うのと同じくらいに。
そんなシャングリラを守り続けて、考え続けて、ハーレイの額に刻まれた皺。眉間にくっきり。
前の自分もちゃんと気付いていたのだろうか?
ハーレイの眉間にいつもあった皺、あの皺が何故出来たのか。
(気付いてたよね…?)
皺が刻まれてしまうよりも前に、眉間を何度も指でつついた記憶があるから。ハーレイの部屋を訪ねた時やら、休憩室で出会った時に。
「考えすぎは良くないよ」と、「此処に皺が」と。
どういう時に出来る皺かを知っていたから、前の自分はそうしたのだろう。ハーレイの気持ちをほぐそうと。気分が変われば、いいアイデアが浮かぶことだって多いのだから。
(でも、普段でも皺が消えなくなるほど…)
ハーレイは船を守り続けた。考え続けたことの証が常に額に刻まれるまで。楽しい気分で笑っていたって、額から消えなかった皺。眠る時にも消えなかった皺。
前の自分がいなくなった後も。メギドへと飛んで、二度と戻らなかった後にも。
歴史の教科書には必ず載っている、偉大なキャプテン・ハーレイの写真。その写真が撮影された時には、前の自分はもういなかった。ミュウの勢力が広がり始めた時代に撮られた写真だから。
その写真でも眉間に刻まれた皺。前の自分の記憶にあるのと、少しも変わっていないけれども。
(前のぼくがいなくなったら…)
皺はきっと、深くなったろう。前のハーレイの孤独を宿して、前よりも深く。
誰も気付いていなかったとしても、写真では見分けられなくても。
前の自分を失くしてしまったハーレイの深い悲しみと孤独、それを何度も聞いているから。前の自分を追うことも出来ず、地球まで行くしかなかったハーレイ。
一人残されたことを思っては、眉間の皺を深くしたろう。どうして自分は生きているのか、と。
(ごめんね…)
独りぼっちにしちゃってごめんね、と前のハーレイに心で謝ってから、ふと覗き込んだ机の上のフォトフレーム。今のハーレイと一緒に写した記念写真。
夏休みの一番最後の日に。庭で一番大きな木の下、ハーレイの左腕にギュッと抱き付いて。その写真の中、とびきりの笑顔のハーレイだけれど。
(今のハーレイも…)
前と同じに、眉間に皺。写真でもそれと見て取れる皺がくっきりと。
今のハーレイも、考え事をし過ぎただろうか。前のハーレイがそうだったように。
けれども、今は平和な時代。前のハーレイが厨房にいた頃でさえも、あの皺は見ていないのに。食料が尽きると打ち明けられた時しか目にしていないのに。
シャングリラの厨房とは比較にならない、蘇った青い地球での暮らし。まるで天国。人間は全てミュウになった世界、争い事はけして起こりはしない。せいぜい、喧嘩。
そういう世界に生まれ変わったのに、何故、ハーレイの眉間には皺があるのだろう。皺が出来るほどの考え事など、今のハーレイには無さそうなのに。
厨房時代のハーレイでさえも癖になってはいなかった皺が、何故、今も…?
謎だ、と考え込んでしまった。今のハーレイの眉間にも皺がある理由。
(今のハーレイに深刻な考え事って、あるの?)
仕事のことは分からないけれど、教師の仕事がそういうものなら、眉間に皺がある教師が多いと思う。考え事をする時の癖が同じなら、ハーレイのようになるのだから。
(そんな先生、いないよね…?)
少なくとも自分は出会っていない。下の学校でも、今の学校でも。
(仕事のせいじゃないんだったら、柔道とか…?)
それなら、プロのスポーツ選手は眉間に皺があることだろう。柔道にしても水泳にしても、癖が同じなら出来る筈。
(…あんまり詳しくないけれど…)
ハーレイが得意なスポーツだから、と新聞記事になっていた時は選手の写真を覗き込んでいる。もしもハーレイがプロの選手になっていたら、と重ねながら。
(見たことないよね、皺がある人…)
まだ一回も見ていないよ、と振り返った記憶。眉間に皺がある選手がいたなら、ハーレイと同じ特徴だけに印象に残っているだろう。「おんなじ皺だ」と。
つまり、スポーツの方でもない。今のハーレイの眉間に皺が刻まれた原因は。
仕事でもないしスポーツでもない、と不思議でならない眉間の皺。どうして今もあるのだろう?
深刻な考え事をしなければならない場面は全く無さそうなのに。今は平和な時代なのに。
(…なんで?)
いったい何が原因だろう、と今度は自分が考え事。遠い昔にブラウに注意されてしまったから、自分の眉間に皺が出来ないよう、気を付けながら。
事の起こりは、自分の眉間の皺だったけれど。大きすぎる目を小さくしようと頑張っていたら、出来てしまった皺なのだけれど。
まさかハーレイがそんな理由で眉間に皺など、作りそうだとも思えない。目の大きさを保とうと努力をし続けた末に、くっきりと皺が刻まれたなんて、きっと無い。
(分かんない…)
あの皺の原因が分からないよ、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、本人に訊いてみることにした。眉間に皺があるハーレイに。
母がお茶とお菓子を置いて去って行った後、テーブルを挟んで向かい合わせで。
「あのね、ハーレイ。皺のことでちょっと訊きたいんだけど…」
「皺?」
なんの皺だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。だから「此処の」と、自分の額を指差した。
「ハーレイ、此処に皺があるでしょ?」
前のハーレイも同じだったよ、若かった頃は無かったけれど…。会った頃には無かったけれど。
だけど、外見の年を止めた時には、皺がくっきり出来ちゃってたでしょ?
今のハーレイにも皺があるよね、って気が付いたから…。前のハーレイとそっくり同じに。
だから訊きたい、と見詰めたハーレイの鳶色の瞳。眉間の皺の近くで穏やかな光を湛える瞳。
「前のハーレイに皺があったのは分かるけど…。考える時の癖だったから」
難しいことを考える時は、いつでも出来てしまっていたでしょ?
前のぼくが何度も注意してたよ、「考えすぎは良くないよ」って。そういう皺が出来るから。
でも、キャプテンの仕事はとても大変で…。考えることが多すぎたから、とうとう皺が消えないままになっちゃった。楽しい時でも皺が消えなくて、寝てる時だって。
…だから、前のハーレイなら分かるんだよ。額に皺が出来たままでも仕方ないって。
だけど、どうして今のハーレイにも同じ皺があるの?
前のハーレイみたいな苦労は絶対してない筈だよ、今はとっても平和な時代なんだから。
「ああ、これなあ…。俺の眉間の、この皺のことか」
出来ちまったのは、癖ってヤツだ。前と同じだ、前の俺の頃と変わっちゃいない。
大した悩みがあるわけじゃないが、考え込んだらやっちまうんだ。こう、眉を寄せて。
ほらな、とハーレイが眉を寄せたら、皺が少し深くなったから。
「…古典、難しい?」
授業で教えてくれる時には、分かりやすく話してくれるけど…。
ぼくたちみたいな子供に教えるためには、うんと勉強しなくちゃいけない?
前のハーレイが航宙学の本を沢山積み上げて読んでたみたいに、いろんな本を山ほど読んで。
「そうでもないが…。好きで教師をやってるんだしな」
学校では教えないような中身の本でも、読みたくなるのが今の俺だし…。難しくなるほど楽しいもんだぞ、意外な発見があったりしてな。
分かりやすく書かれた本だと、深くは読み込めないものなんだ。皮だけしか無い果物みたいで。
難解な本になればなるほど、書かれた時代の作者の世界に近付ける。その時代の空気や、景色や建物。着ていた服やら、食べた物やら…。
全部ひっくるめて分かって初めて、作者の気持ちが理解できるってトコだな、うん。
そんな具合だから、難しい本を読むのも俺は大好きなんだが…。
どういうわけだか、とハーレイは額をコツンと叩いてみせた。
楽しく本を読んでいたって、考え事を始めたら此処に皺が、と。
「この部分はどう読むべきなのか、と悩んだりすると出来ちまうんだ」
学生時代には出来なかったが、いったいいつからそうなったのか…。俺にも分からん。
家を出て、この町で暮らし始めてからの癖ってヤツだな、それまでは言われたことが無いから。
いつの間にやら、そういう癖が出来ちまってた。考え込むと皺を寄せちまう癖。
親父たちの家に帰った時にも、新聞とかを熱心に読んでいたら、つい、やっちまうから…。
おふくろと親父に、何度も注意されたんだがな。前のお前に言われたみたいに、皺が出来ると。
「消えなくなってからでは遅いぞ」と、睨まれたりもしたんだが…。
癖が直らない内に、すっかり皺が出来ちまってた。前の俺だった頃と全く同じに。
「…そんな所まで、前のハーレイの真似、しなくていいのに…」
あの頃みたいな苦労はしてないんだから。
生きていくだけでも大変だった頃とは違うし、大勢の仲間の心配だってしなくていいし。
「まあな。そいつは間違いないんだが…」
今じゃ天国みたいな日々だが、出来ちまったものは仕方ない。…癖なんだから。
ついでに、この皺が無いとお前も困ってしまうんじゃないか?
此処にくっきり、こういう皺が出来ていないとな。
これが無かったら俺らしくないぞ、とハーレイが伸ばしてみせた皺。二本の指でグイと広げて。
滑らかになったハーレイの額。指で押さえているだけなのに、確かにハーレイらしくない。あの皺が消えてしまっただけで。眉間の皺が無くなっただけで。
ホントに変だ、と目を丸くして眺めていたら、ハーレイは「変だったろう?」と元に戻して。
「俺の顔にはコレが無いとな。…自分で鏡を覗き込んでも、皺があるのが普通だし…」
記憶が戻った今じゃ、大切な皺なんだ。無いとキャプテン・ハーレイの顔にならないからな。
それにだ、この皺を褒めてくれた人だっている。俺の眉間に皺が出来たことを。
「褒めるって…。誰が?」
そんな皺を誰が褒めてくれるの、ハーレイのお父さんたちは皺は駄目だと言ってたんでしょ?
褒めてくれそうな人、誰もいないと思うんだけど…。
「それがいたんだ、何人もな。ますますキャプテン・ハーレイに似て来たじゃないか、と」
生まれ変わりじゃないのか、と俺に何度も訊いてたヤツら。そういう連中は褒めてくれたぞ。
学生時代からの友達はもちろん、教師になってから出来た友達もな。
後はアレだな、俺の行きつけの…。話してやったろ、この髪型を勧めてくれた人。
俺の恋人を、ソルジャー・ブルー風のカットにしたいと言ってる人だ。
覚えてるだろう、と訊かれて思い出した、ハーレイ御用達の理髪店の店主。
彼が一番喜んだ筈だ、という話。口に出してはいなかったけれど、心の中で喜んだろう、と。
「…ハーレイのファンだっていう人だよね?」
ぼくは一度も会ったことがないけど、凄く熱烈なファンなんでしょ?
「前の俺のな。…今の俺じゃないぞ」
あくまでキャプテン・ハーレイの方だ、今の俺はただの客なんだから。古典の教師で。
とはいえ、お前の髪までソルジャー・ブルー風にカットしたいと言い出す人だし…。
俺が行くと明らかに喜んでるなあ、まるで本物のキャプテン・ハーレイが来たみたいにな。
そういう人たちや、今のお前のためにも眉間の皺は必要なんだ、という主張。
この皺があってこそ、キャプテン・ハーレイそっくりの顔になるんだから、と。
「いいか、さっきもやって見せただろうが。皺が無かったらどんな風になるか」
前の俺みたいな顔にはならんぞ、瓜二つとはとても言えない顔だ。
似てはいたって、決め手に欠ける。これでいいんだ、俺の眉間には皺なんだ。
「そっか…。ハーレイらしく見える顔には必要なんだね」
とても難しいことを考えなくても、出来ちゃった皺。…考え事をする時の癖だったせいで。
「うむ。この皺は無いと駄目なんだ」
それに前の俺だった頃にしたって、知らない間に癖がついて皺になったんだし…。
作ろうと思って出来た皺じゃないし、出来て困っていたわけでもない。この皺が無ければもっと男前に見えただろうとか、考えたことは一度も無かったな。
前の俺はこの皺が嫌いじゃなかった。いつの間にか出来た、俺の相棒なんだから。
「…前のぼくの代わりに、色々考えてくれていたんだよね…。その相棒と」
ハーレイが考え事をしていた時には、いつだって皺があったんだから。…キャプテンの時は。
厨房で料理をしていた頃だと、その相棒はいなかったんだよ。難しい考え事が無いから。
キャプテンになった後にハーレイの顔に住み着いたんだよ、相棒の皺は。
前のぼくは物資を奪ってただけで、考え事はハーレイの仕事。だって、キャプテンなんだから。
「おいおい、俺はそれほど偉くはなかったぞ」
何か決める時は、前のお前も会議に参加してただろうが。ヒルマンもゼルも、ブラウもエラも。
前のお前や、あいつらも一緒に考えていたし、船のみんなで投票もしたし…。
「でも、ハーレイにしか出来ないことも沢山あったよ」
会議で決めても、最終的には現場の判断に任せる、ってヤツ。
そうなった時は、ハーレイが一人で考えていたよ。航路も、船のメンテナンスとかも。
「そのためのキャプテンなんだしなあ…」
他のヤツらに頼ってちゃいかん、それがキャプテンの仕事ってヤツだ。
万一の時には何もかも一人で決めていくんだぞ、普段から経験を積まないとな?
いざという時に困るだろうが、と今のハーレイが言う通り。シャングリラはそういう船だった。
虐げられたミュウの箱舟、何処からも補給の船などは来ない。遭難した時の救援だって。
白い鯨が出来上がった後も、降りられる地面は何処にも無かった。人類軍に見付かったならば、直ぐに攻撃されるだろう船。会議を開いている暇はなくて、直ちに打たねばならない対策。
前のハーレイはそれを一人でこなした。眉間に皺が刻まれるほどに考え続けた成果を生かして。船を動かすのも、戦闘のために必要な指示も。
(…全部、ハーレイに任せっきり…)
初めての本格的な戦闘、ジョミーがユニバーサルの建物を壊して成層圏へと飛び出した時。前の自分はジョミーを追い掛けて船を出たから、ハーレイが一人で執っていた指揮。
シャングリラの浮上を決めたのもハーレイ、その後の進路や戦法を決めていたのも。
揺れるシャングリラで指揮を執り続けて、額をぶつけて傷まで作って。
白いシャングリラを守り抜こうと、前の自分とジョミーを救いに戦わねばと。
それから後も、ハーレイは幾つもの危機を乗り越え、船を進めた。アルテメシアを逃れて宇宙へ旅立った時も、前の自分が深い眠りに就いていた時も。
赤いナスカが滅ぼされた時も、地球を目指しての長い旅路も。
そう考えていたら、思い出した。ハーレイの眉間の皺のこと。
前の自分がいなくなった後、皺は深まったに違いないと。誰も気付いていなかったとしても。
シャングリラに一人残されたハーレイの眉間に、深い皺があったに違いないと。
「ごめんね、ハーレイ…」
前のハーレイの皺、ぼくのせいで酷くなったよね…。前よりも深くなっちゃったよね。
「なんだ、どうした。前の俺の皺なら、気にしなくていいが」
知らない間に出来ていたんだと言っただろうが。
お前のせいだということはないな、俺にそういう癖があったというだけで。
「ううん、そうじゃなくて…。前のぼくがいなくなった後だよ」
前のぼく、ハーレイがどんな思いをするかは、全然、考えていなくって…。
ジョミーを支えてあげて、って頼んで行ってしまって、ハーレイを独りぼっちにして…。
ハーレイ、何度も言っていたでしょ、地球に着くまで辛かったって。あの船で一人だったって。
きっと皺だって深かったんだよ、辛いことしか無いんだから。…いつも悲しくて辛いんだから。
ごめんね、酷いことをしちゃって。
ハーレイの皺が深くなるような、とんでもない目に遭わせちゃって…。
「そういうことか…。安心しろ、俺に自覚は無かった」
辛いことばかりの毎日だったが、皺を寄せていたという自覚は無いな。
なにしろ魂は死んでいたんだ、皺のことなんか考えちゃいない。淡々と仕事をしていただけで。
「…そうなの?」
皺、深そうだと思ったんだけど…。前よりもずっと深かったよね、って。
「それまでと変わらなかったんじゃないか?」
俺に自覚は無かったんだし、指摘したヤツもいなかったしな。
本当に深くなっていたなら、ブラウ辺りが言う筈なんだ。やたらと目ざといヤツなんだから。
「その鬱陶しい皺、いい加減にしな」と、「勝ち戦の時は返上したらどうなんだい?」と。
不景気な顔をしてるんじゃないよ、と如何にも言いそうな感じだろうが。
それに…、とハーレイが浮かべた笑み。
もしかしたら、その時の分の皺が今の俺の顔にあるかもな、と。
「あの時に深くなる代わりにだ、今の俺の方に来ちまったとか…」
深くなろうにも、限界ってヤツがあるだろうしな、皺だけに。…顔の皮膚は厚くないんだから。
そこでだ、深さを溜め込んでおいて、今の俺の眉間にヒョイと引越しして来たとかな。
「皺の引越しって…。深くなる代わりに引越しだなんて…」
そんなことって、ホントにあるの?
引越しちゃったの、前のハーレイの皺が今のハーレイの顔の上に…?
「その方がお前、気が楽だろ?」
深くなってしまっていたんじゃないか、と気にしているより、引越しの方が。
今の俺の顔に引越しして来て、トレードマークになってる方が。
「うん…。引越しの方が、断然いいよ」
前のハーレイの皺が深くなるより、引越しして来た方が皺も幸せになるもんね。
ぼくは皺があるハーレイが好きだし、前のハーレイにそっくりなハーレイが好きな人もいるし。
キャプテン・ハーレイのファンだっていう理髪店のおじさん、皺のお蔭で大喜びだもの。
自分のお店にキャプテン・ハーレイのそっくりさんが来てくれる、って。
きっと皺だって、喜んでるよ。今のハーレイの顔に引越しして来て良かった、って。
本当に皺が引越すかどうかは分からないけれど、軽くなった気持ち。前のハーレイの眉間に一層深く刻まれる代わりに、今のハーレイの眉間に引越しして来たらしい皺。
ハーレイならではの優しい気遣い、前の自分も、今の自分も傷付けまいと。
こういった気配りなども含めて、皺は深まったのだろう。
前のハーレイも、今のハーレイも、色々なことを考えすぎて。考える度に皺を寄せていて。
そう思ったら、愛おしい皺。今もハーレイの眉間にある皺。
「ねえ、ハーレイ…。キスしてもいい?」
「駄目だと何度も言った筈だが?」
前のお前と同じ背丈に育つまでは駄目だと、お前、何回叱られたんだ?
「違うよ、唇じゃなくて、ハーレイの皺に」
引越しして来た皺にキスしたいよ、前のぼくのせいで深くなったんだから。
…深くなる代わりに、こっちに引越しして来たんだから。
「俺の皺にか…」
「そうだよ、皺がある場所も額だよね?」
額にキスをするのはいいでしょ、唇は駄目でも頬っぺたと額は。
「俺が言ったんだっけな、それも…」
断る理由は無いってことか…。皺にキスとは、なんとも不思議な感じだが…。
額ならともかく、皺にキスしたって話は俺も初耳だがなあ…。
そう言いつつも、ハーレイは「駄目だ」と叱りはしなかったから。
「ご苦労様」とハーレイの額にキスをした。眉間に刻まれている皺に。
「前のぼくのせいで、深くなっちゃったよね」と、「だから引越しして来たんだね」と。
それでも、この皺が好きだから。眉間に皺があるハーレイが大好きだから。
キスを落として微笑んだ後に、ハーレイからも額にキスを貰った。優しいキスを一つ
「お前は皺を作るなよ?」と。
皺が出来るような考え事などしなくてもいいと、俺が守ってやるんだから、と。
考え事も悩みも、今度も俺が引き受けるから、と。
「いいな、皺なんか作るなよ?」
お前には似合わないんだから。…俺と違って。
「らしいね、ブラウにもそう言われちゃった」
でも、ハーレイのお蔭で前のぼくには出来なかったし、今度もきっと出来ないんだよね?
「当たり前だろうが、お前の額は滑らかでないとな」
美人が台無しになっちまうぞ、と笑うハーレイの眉間に皺。笑っても、今も消えない皺。
前のハーレイの顔から引越しして来た皺は、やっぱりハーレイに良く似合う。
今度は深くさせてしまわないよう、ハーレイと一緒に歩いてゆこう。
いつまでも二人、手を離さずに。
青く蘇った水の星の上で、何処までも二人、幸せな道を…。
眉間の皺・了
※前のハーレイの眉間にあった皺。前のブルーがいなくなった後には、更に深くなった筈。
けれど深くはなっていなくて、皺は引っ越したらしいです。今の幸せな、ハーレイの眉間に。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(あちこち、赤い実…)
沢山あるよね、と小さなブルーが眺めた木の実。学校の帰り、バス停から家まで歩く途中で。
道の両側、赤い実をつけた木のある家が幾つも。庭だけではなくて、生垣にも。今は秋だから、木の実の季節。艶やかな赤やら、くすんだ赤。鮮やかな色も、濃い色合いも。
びっしりと赤い実が並ぶ生垣の木はピラカンサ。薔薇だって実をつけていたりする。わざとか、それとも花が咲いた後にウッカリ切り忘れたか。
(食べられる薔薇の実もあるんだよね?)
確かローズヒップ。母のお気に入りのハーブティー。綺麗な赤い色だけれども、ローズヒップも赤いけれども。…ハーブティーにした時の赤は、ハイビスカスの赤だと聞いた。薔薇の実だけでは美しい赤が出てくれないから、ブレンドしてあるハイビスカス。
(ローズヒップの薔薇、どれなのかな?)
一重咲きの薔薇だと母に教わったけれど、そういう薔薇を植えている家が近所にあるかは聞いていないから、分からない。一重咲きの薔薇を育てている家なら、道沿いに幾つかあるのだけれど。
(他に食べられる実…)
棗に、グミに…、と数えながら家へと歩いてゆく。赤い実が一杯の帰り道。
名前を知らない赤い実も沢山。小さなものから、目立つものまで。探し始めると幾つも赤い実。垣根に、庭に。石垣の裾に作ってある細長い花壇にも。
赤い実探しを楽しみながら家に帰ったら、テーブルの上にもあった赤い実の枝。制服を脱いで、おやつを食べに出掛けて行ったダイニング。母が生けたらしい、赤い実が幾つもついた枝。
グミの実に少し似ているけれども、違うと分かる真っ赤な木の実。艶のある赤。
「ママ、これ、何の実?」
「山茱萸よ」
「…サンシュユ?」
「春に黄色い花が咲く木よ、前に教えてあげたでしょう。…忘れちゃった?」
あそこの家よ、と母が口にした場所で思い出した。顔馴染みのご夫婦が住んでいる家。
「そっか、あったね、花火みたいな黄色い花が賑やかに咲く木…」
こんな実になるんだ、と見詰めた赤い実。食べられそうな感じだけれども、母の話では薬になる実。生ではなくて、種を抜いてから乾燥させて作る漢方薬。遠い昔の中国の薬。
(赤い実、一杯…)
秋だものね、と山茱萸の実をチョンとつついた。美味しそうなのに、生で食べても美味しくない実。漢方薬もきっと、苦いのだろう。母は「解熱剤になるのよ」と言っていたから。
(薬なんかより、甘くて美味しい実がいいものね?)
こういう赤い実の方が好き、とフォークに乗っけたケーキのベリー。赤く熟した甘酸っぱい実。秋が旬なのか、季節をずらして栽培したのか、そこまでは分からないけれど。
それでも、秋は赤い実が似合う。庭にも、テーブルの飾りに生けるにも、おやつのケーキの飾りなどにも。自然の恵みの塊だから。太陽が育てて、綺麗に赤く熟すのだから。
美味しかった、と食べ終えたケーキ。空になったお皿と紅茶のカップをキッチンの母に返して、二階の自分の部屋に帰って。
窓から覗いた家の庭にも、赤い実が見える。さっき帰って来た道とは別の方にも、赤い実のある家が幾つも。母が山茱萸の枝を貰って来た家も、その中の一つ。
(色々、赤い実…)
こうして窓から眺める辺りだけでも、赤い実をつけた木が何本も。きっと赤い実は、世界に沢山あるのだろう。この地域にだって、山のようにあるに違いない。
山茱萸の実が何か分からなかったように、名前を知らないものも、まだ見たことが無いものも。
なにしろ、世界は広いのだから。同じ地球でも、地域が変われば植物がまるで違うのだから。
地球の反対側の地域は、季節だって此処と逆様になる。秋ではなくて、春を迎えたばかりの所。そういう地域が秋になったら、赤い実の種類も此処とはきっと…。
(違うんだよね?)
園芸用に植えられた木や、栽培されている果樹の赤い実は同じでも。そっくり同じ赤い実の木もあるだろうけれど、知らない木の実も沢山ある筈。その地域では普通の、ありふれたものでも。
世界は本当に広いから。青く蘇った地球の上には、途方もない数の植物が生えているのだから。
前の自分が生きたシャングリラとは、全く違った豊かな植生。本物の地球と箱舟との差。
(シャングリラだと…)
あった木の実は全部分かるよ、と自信を持って言い切れる。
白い鯨に改造した時、導入された植物たち。何を植えるかは、何度も会議を重ねて決めた。船の中だけで全てを賄い、生きてゆくのに必要なもの。
食べられる実も、観賞用の木がつける実にしても、前の自分は把握していた。会議を経ずには、栽培許可は出なかったから。苗の調達も、前の自分がやっていたから。
白いシャングリラは閉じた世界で、知らない場所など一つも無かった。植物が育つ公園や農場、そういったものが何処にあるかも。
もちろん木の実は分かって当然、名前も形も全部分かっていたんだから、と思ったけれど。
(あれ…?)
不意に頭に浮かんだもの。プカルの実と呼んでいた木の実。シャングリラでは広く知られていた実で、ナキネズミの大好物だった。
前の自分たちが作った生き物、ナキネズミ。思念波を上手く扱えない子供をサポートするよう、人間と思念波で話せるようにと。思念波を中継することも。
そのナキネズミが好んだ木の実が、プカルの実。役に立ってくれたら、皆が御褒美に与えた実。頭を撫でて、「ほら」とプカルの実を一つ。
(プカルって、何の実だったっけ…?)
勉強机に頬杖をついて、思い出そうとしたプカルの実。どんなのだっけ、と。
途端にポンと出て来た木の実はサクランボ。真っ赤に熟した美味しそうな実は、シャングリラで実っていたけれど。前の自分も食べたのだけれど。
(…プカルじゃないよ?)
サクランボは、あくまでサクランボ。桜によく似た花を咲かせたサクランボの木。プカルという名で呼ばれはしないし、そんな渾名もあるわけがない。
サクランボは、サクランボなのだから。…プカルの木ではないのだから。
(プカルの実…?)
あれはどういう木の実だっけ、と遠い記憶を探るけれども、バラバラに浮かぶ赤い色の実。
最初がサクランボだったせいなのか、イチゴやリンゴや、様々なベリー。大きさも形も揃ってはいない。共通点は「赤い」というだけ。それから、どれも食べられる実。
たったそれだけ、出て来てくれないプカルの実。リンゴのように木に実ったのか、イチゴと同じ一年限りのものだったのか。あるいは木とも草とも呼べそうなベリー、そういったものか。
(…ぼく、忘れちゃった?)
プカルの木を。でなければ草を、ベリーのような茂みを作る植物を。
白いシャングリラに、プカルは確かにあったのに。…ナキネズミの好物だった実をつけたのに。
(でも…)
忘れるよりも前に、自分はプカルの木を知らない。木なのか草なのか、それさえも。どんな形の実をつけていたか、全く覚えていないのが自分。サクランボが浮かんだほどなのだから。
(…家の近くには生えてなくても…)
他の地域で育つ植物だったとしたって、前の自分の知識がある筈。今の自分が今日の帰り道で、色々な赤い実を見ていたように。この実の名前は…、と考えながら歩いたように。
前の自分もシャングリラのあちこちを視察したのだから、プカルもきっと見ていた筈。公園か、農場か、何処かできっと。
ナキネズミの好物の実が熟していれば、「これがプカル」と。花の季節にも、プカルの花を。
白いシャングリラで目にした筈のプカルの実。その実をつける木だか、草だか。そこから一つ、毟ってナキネズミに与えていたかもしれないのに。「よくやったね」と、御褒美に一つ。
子供たちと遊ぶのを仕事にしていた前の自分なら、そういう機会もあっただろうに。子供たちのサポートをするナキネズミを、何度も労ってやっただろうに。
どうしたわけだか、思い出せないプカルの実。それを実らせていた植物ごと。
木なのか、それとも草だったのか。プカルの実の形はどうだったのか。
(どうしよう…)
ぼく、本当に忘れちゃってる、と愕然とさせられたプカルの実。すっかり消えてしまった記憶。プカルの実という言葉は覚えているのに、実物の方を忘れてしまった。植物の姿も、実の形も。
(機械に消されたわけじゃないのに…)
前の自分は成人検査で記憶を消されて、繰り返された人体実験で何もかも全て忘れてしまった。育ててくれた養父母の顔も、育った家も、誕生日さえも。
けれども、今の自分は違う。前の自分の記憶を丸ごと引き継いだ筈で、切っ掛けさえあれば遠い記憶が蘇るもの。
そうだとばかり思っていたのに、ぽっかりと抜けたプカルの記憶。空白になっているプカル。
もしかしたら他にも、抜け落ちた記憶があるかもしれない。引き継がれずに失くした記憶。
プカルどころか、もっと様々な記憶を幾つも、自分は何処かに落としただろうか?
地球に生まれてくる時に。…今の自分に生まれ変わる時に。
プカルくらいならまだいいけれど、と思い浮かべた恋人の顔。前の生から愛したハーレイ。
二人で地球に生まれたけれども、プカルを忘れてしまっているのが自分だから。
(ハーレイのこと、忘れていたら嫌だな…)
それも、とっても大切なことを。
ナキネズミの好物だったプカルみたいに、前のハーレイの大好物とかを。
(好き嫌いは無い筈だけど…)
今の自分と全く同じで、好き嫌いが無いという今のハーレイ。前の生で酷い目に遭った食べ物、餌と水しか与えられなかったアルタミラの檻で生きていた頃。脱出した後も、ジャガイモ地獄だのキャベツ地獄だのと苦労した時代があったから。贅沢なことは言えなかったから、そのせいで。
前の自分たちの記憶が何処かに残っていたのか、今の生でも無い好き嫌い。ハーレイだって。
そうは言っても、前のハーレイにもあった嗜好品。今も好物のコーヒーや酒。
今の自分はそのくらいしか覚えていないけれども、抜け落ちた記憶があるのなら。プカルの実が思い出せないほどなら、前のハーレイにも何か好物があったかもしれない。
ナキネズミが好きだった、プカルのように。
今の自分が忘れているだけで、前のハーレイが好んだ何か。
それを忘れてしまったかも、と考えたら心配になって来た。心当たりはまるで無いのに、記憶に無いというだけの何か。前のハーレイが好きだった何か…。
恋人の好物を忘れていたらどうしよう、と思わず抱えてしまった頭。プカルの記憶が無い頭。
抱えた所で、何も浮かびはしないけれども。前のハーレイが好きだったものは、欠片さえも姿を見せてはくれないけれど。
(忘れちゃったの、それともハーレイの好物は無いの…?)
どっちなのだろう、と悩んでいた所へ聞こえたチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合うなり、打ち明けた。
「あのね、ぼく…。ハーレイの好物、忘れてるかも…」
忘れちゃったかもしれないんだよ。ハーレイは何が好きだったのか。
「はあ? 忘れたって…」
なんの話だ、俺の好物を忘れたっていうのは、どういう意味だ?
「大好物だよ、ハーレイが好きな食べ物だよ!」
それを覚えていないかも…。すっかり忘れちゃってるかも…。
「俺の大好物ってか? それを言うなら…」
お前のお母さんが焼くパウンドケーキってトコだな、直ぐに浮かぶのは。
美味いからなあ、おふくろのパウンドケーキとそっくりな味っていうのがいいんだ。
「今じゃなくって、前のハーレイだよ!」
前のハーレイの大好物って、なんだったの?
「なんだ、そっちか。前の俺なら、酒とコーヒーだな」
シャングリラを改造してから後は、酒は合成になっちまったし、コーヒーは代用品のキャロブのヤツになっちまったが…。それでも、好物に変わりはないってな。
ついでに、どっちも前のお前が苦手だった分、余計に美味い気がしたなあ…。
俺にはこいつの味が分かると、満足な気分に浸れたからな。優越感ってヤツかもしれん。
いや、禁断の味と言うべきか…。前のお前が苦手だったせいで、飽きるほど飲めなかったしな。
酒とコーヒー、これに限る、とハーレイは自信たっぷりだった。あれは美味かった、と。
その二つならば、今の自分の記憶にあるのと変わらない。忘れてはいないし、記憶は確か。
けれどプカルのことがあるから、まだ安心とは言い切れなくて…。
「お酒とコーヒー…。ホントにそれだけ?」
他にも何かあったんじゃないの、前のハーレイが好きだったもの。大好物の何か。
「お前なあ…。何を必死になっているんだ、酒とコーヒーだと言っただろうが」
それしか咄嗟に思い付かんぞ、前の俺だと言われても。…俺の好物、お前も知ってる筈だがな?
「でも…。ぼく、本当に忘れていそう…」
お酒とコーヒーは覚えているけど、本当に他には何も無かった?
前のハーレイが大好きな食べ物、お酒とコーヒーの他には何も無かったの…?
「無かったが…。今の俺と同じで、好き嫌いってヤツが無かったからな」
なんでも食えたし、なんでも美味い。そう思っていたのが前の俺だが…。
どうしたんだ、何かあったのか?
前の俺の好物を知りたいだなんて、今更、訊くまでも無さそうなんだが…?
「そうなんだけど…。本当だったら、訊かなくってもいいんだけれど…」
忘れてる例を思い出したんだよ、ハーレイのことじゃないけれど…!
大好物だった物が思い出せなくて、とっても困っていたんだよ…!
だから、ハーレイのことも忘れてしまっているのかも、って…。
前のハーレイが大好きだった食べ物のことも、ぼくは忘れていそうなんだよ…!
プカルの実が何か分からない、と目の前の恋人に白状した。遠い昔に、白いシャングリラで共に暮らしたハーレイに。
「…ナキネズミが好きだったプカルの実だよ」
あれが少しも思い出せなくて、どんな実なのか分からなくって…。
プカルそのものも覚えていないよ、木だったのか、草か、そんな基本のことだって…。
いくら考えても分からないから、前のハーレイの好物だって、忘れていたっておかしくないよ。
「なるほど、プカルか…」
プカルと言ったらプカルじゃないか。簡単なことだ、ナキネズミどもの好物だよな。
「ハーレイ、プカルを覚えているの?」
どんな実だったか、ちゃんと忘れずに覚えているわけ…?
「当たり前だ。…もっとも、お前がプカルと言うまで忘れていたが」
俺も一応、キャプテンだしな?
船のことなら、しっかり把握しておかないとな。ナキネズミも船に乗ってたんだし。
「じゃあ、ぼくにも分かるように教えて」
プカルはどういうものだったのか。…どんな実が出来て、どんな植物だったのか。
「だからプカルだ」
さっきも言ったろ、プカルはプカルだ。ナキネズミが好きなヤツなんだ。
「それじゃ、ちっとも分からないよ!」
もっと詳しく、きちんと説明してくれないと…。ぼくは言葉しか知らないんだから!
忘れているぼくが思い出せるように、プカルのことを説明してよ。
今だと何処に生えているのか、植物園に行ったら見られるのかとか、そういったことを…!
どういう実をつける植物がプカルだったのか。自分は覚えていないけれども、ハーレイは覚えているらしいから。この際、教えて貰わなければ、と意気込んだ。
記憶から抜けてしまったプカルを思い出せたら、他にも何か出て来るかも、と。忘れてしまった様々なことが。小さなことでも、つまらないような出来事でも。
「ふうむ…。プカルは何かと訊かれたら…」
コレだな、とハーレイが指差したケーキ。母の手作りのミルフィーユ。果物といえば、スライスしたイチゴが挟まっているけれど。ホイップクリームの中から覗いて、上にも飾ってあるけれど。
「…イチゴ?」
ハーレイ、これがプカルだって言うの?
「そうだが?」
他に果物は入ってないだろ、そいつがプカルの実なんだが?
「でも…。これ、どう見てもイチゴだよ?」
ママが作る所は見てなかったけど、普通のイチゴ。…変わったイチゴじゃないと思うけど…。
「だが、プカルだ。…お前の知りたいプカルの実だ」
どれがプカルかと訊かれりゃ、これだ。間違いなくこいつはプカルなんだ。
「嘘つき!」
ハーレイの嘘つき、ぼくが覚えていないと思って!
酷いよ、そんな大嘘をついて…!
「誰が嘘をつくか。…俺は真面目に答えてるんだぞ、あのシャングリラのキャプテンとして」
話しているのは今の俺だが、プカルが何かを答えているのは、キャプテンだった前の俺なんだ。
イチゴは本当にプカルだったし、そうだな、今だとプカルってヤツは…。
うん、この季節なら柿もプカルに入るかもなあ、渋柿は駄目だが、富有柿とか。
「柿!?」
渋柿は駄目で、富有柿って…。柿がプカルに入るって、なに…?
今でこそ馴染みの柿だけれども、柿はシャングリラに無かった植物。前の自分が生きた時代に、柿を食べる習慣は無かったから。
SD体制が崩壊した後、蘇った多様な食文化。青い水の星に戻った地球では、遠い昔の国などの特色を取り入れている。この地域だと日本風だから、柿の木を植えて、その実を食べる。
生で食べたり、干し柿にしたり、食べ方は色々。庭で育てる人も少なくない。
とはいえ、本当に今の時代ならではの果物が柿で、シャングリラの時代にある筈がない。なのに柿の実がプカルだなんて、ハーレイは何を言っているのだろう?
「…ハーレイ、ぼくをからかっていない?」
さっきはイチゴで、今度は柿って…。ぼくを騙して面白いわけ?
「騙すって…。お前、ホントにプカルを忘れちまっているのか…」
綺麗サッパリ忘れたんだな、まるで覚えていないんだな?
「だから、そう言ってるじゃない!」
何がプカルか、ぼくに教えて欲しいって…!
植物園にあるんだったら、見に行ったっていいくらいだよ。本物のプカルが見られるんなら…!
「その話も本気だったのか…。植物園って言っていたのも」
見事に忘れちまったか、プカル。…いや、お前が忘れたのはプカルじゃないな。プカルの実だ。
イチゴも柿もプカルだと言っても、お前、嘘だと怒るんだから。
「当たり前だよ、意味がちっとも分からないよ!」
イチゴと柿だと、何処も少しも似ていないじゃない…!
それに、シャングリラに柿の木は無かったんだから!
今の時代の果物なんだし、柿がプカルになるわけがないよ、ハーレイの馬鹿!
嘘をついた上に騙すなんて、とプンスカ怒って膨れたけれど。仏頂面になったけれども、何故か笑っているハーレイ。それは可笑しそうに、クックッと。
「…まあ、普通に考えればそうなるだろうな、柿もプカルだと言われちゃなあ…」
お前が怒るのも無理は無いんだが、本当のことだから仕方ない。俺は嘘なんかついていないし、騙して遊んでいるわけでもない。
いいか、よくよく考えてみろよ?
イチゴは赤くて、柿だって熟せば赤くなる。…それくらいのことは分かるだろ?
大切なのは其処だ、赤けりゃ何でもプカルなんだ。イチゴだろうが、柿だろうが。
「えっ?」
赤いとプカルって…。イチゴも柿もプカルだって言うの、赤い実だから…?
「うむ。そもそもプカルは、人間の言葉じゃなかったからな」
いくら調べても出ては来ないぞ、前の俺たちの時代のデータベースを隅から隅まで探しても。
シャングリラのなら、入っていたかもしれないが。…誰かが後から付け加えてな。
「なに、それ…」
人間の言葉じゃないなんて。…データベースにも入っていないって、プカルって…なに?
暗号だったってことはないよね、赤い実はプカルと置き換えるだとか。
「おい、暗号って…。そりゃまあ、暗号も必要だった時代だが…」
なんだってナキネズミの好物を暗号で呼ぶんだ、シャングリラ中の人間が。
お前、本当に忘れたんだな、プカルのことをすっかり全部。
プカルは赤い実の暗号ではない、とハーレイはイチゴをフォークでつついた。これもプカルで、柿の実もプカル、と。
「…プカルってヤツは、ナキネズミの言葉だったんだ」
人間の言葉じゃないというのは、文字通りの意味というわけだな。…動物の言葉なんだから。
「ナキネズミ…?」
いつも普通に話をしてたよ、ナキネズミは。そうでなきゃ、みんな困るじゃない…!
思念波を上手く扱えない子供に渡してたんだよ、ナキネズミ語じゃどうにもならないよ…!
「その通りだが…。最初から人間の言葉を話してたわけじゃないだろうが」
元はネズミとリスだったんだぞ、ネズミやリスが人間の言葉を喋るのか?
そういうヤツらを色々弄って、出来上がったのがナキネズミだ。…思念波で会話が出来る動物。
開発初期のナキネズミの時代だ、赤い実がプカルだったのは。
ハーレイが言うには、ナキネズミという生き物がようやく姿を現した頃。まだ毛皮の色も様々なもので、青い毛皮を持った血統を育ててゆこうと決まった頃。
ナキネズミたちは、船で自由に生きていた。研究室から解き放たれて、白いシャングリラの中を走り回って。
青い毛皮を持ったナキネズミは子供たちのサポートに向けて、教育を受けていたけれど。毛皮の色が違うナキネズミは、欲しがった仲間のペットになった。思念波で話が出来るのだから。
そういう時代に、ナキネズミ同士が出会ったら交わしていた会話。青い毛皮でも、他の色でも、同じナキネズミ同士で色々。
彼らの言葉と、人間の言葉が混ざったものを。思念波だったり、鳴き声だったり。
「その内にだな…。プカルちょうだい、と厨房に出たんだ」
「プカル…?」
「ああ。チビのナキネズミが一匹な」
青い毛皮のチビではあったが、まだ教育は受けていなかった。ほんの子供じゃ、早すぎるしな。
ナキネズミの社会しか知らなかったチビだ、そいつが厨房に迷い込んだんだ。
美味い匂いがしてたんだろうな、飯を作っている場所だけにな。
チョロッと入って来たもんだから、「何か食べるか」と厨房のヤツらが訊いたんだが…。
そしたら返事がプカルだったわけだ、「プカルちょうだい」と。
「そっか…! いたね、そういうナキネズミが…!」
思い出したよ、プカルが欲しいと言ったんだっけ…。
笑い話になったんだっけね、あの時のプカルも、プカルの実も…!
そうだったっけ、とポンと打った手。チビのナキネズミが欲しがったプカル。
けれど、厨房にプカルは無かった。そういう名前の食べ物は、何も。欲しがられても、プカルが何か分からなかった厨房にいた仲間たち。
優しかった彼らは、ナキネズミの注文を無視する代わりに、ヒルマンとゼルを呼ぶことにした。何がプカルか分からないから、ナキネズミを開発した責任者の二人を。
ナキネズミだけに通じる特別な言葉でもあるのか、と。研究室で使った専門用語だとか。
そういう用事で呼ばれたと聞いて、面白そうだと、ブラウとエラも厨房に出掛けた。前の自分とハーレイも。
丁度、暇な時間だったから。夕食の後の。厨房の者たちは、翌日の仕込みをしていた時間帯。
其処へ行ったものの、ヒルマンとゼルは首を捻った。心当たりが無かったプカル。そんな言葉は教えていないが、と。
謎が解けないまま、チビのナキネズミに尋ねたヒルマン。
「いったい、どれがプカルなんだね?」
プカルちょうだい、と頼むからには、何処かにプカルがあるんだろう?
好きに取っていいよ、私たちにはプカルが何か分からないからね。
どれでもお取り、とヒルマンが促し、ゼルも「そうじゃな」と頷いた。分からないなら、選んで貰えばいいのだから。
もし食べさせてはいけないものなら、「駄目だ」と取り上げればいいだけのこと。ナキネズミにとっては毒になるものや、消化の悪い食べ物だったら。
チビのナキネズミは厨房の中をキョロキョロと見回し、「これ!」と真っ赤なイチゴを抱えた。小さな二本の前足で。
『これ、プカル。…みんな、プカル、言ってる』
プカルはこれ、と届いた思念波。「食べてもいい?」と。
「なんだ、イチゴのことだったのかい…!」
あたしたちには分からない筈だよ、イチゴはイチゴだと思ってたしねえ…。
それがあんたのプカルなのかい、いいよ、お食べ。
ブラウが許してやったものだから、チビのナキネズミはイチゴにガブリと齧り付いた。欲しいと強請ったプカルの実に。
ヒルマンとゼルが呼び出されたプカルは、真っ赤なイチゴ。きっとナキネズミは、何か勘違いをしたのだろう。イチゴという言葉を覚える代わりに、間違えてプカル。
「みんな言ってる」とチビのナキネズミは言ったけれども、「みんな」とはチビのナキネズミ。子供のナキネズミばかりの集団の中で、イチゴをプカルと呼んでいるのに違いない。人間だって、幼い子供は独特な言葉を使うのだから。それと同じで、イチゴがプカル。
変な言葉があるものだ、と皆で笑って散会になった。「一つ賢くなった」と笑い合って終わり。
ところが、暫く経った頃。長老たちが集まった席で、ヒルマンが話題にしたプカル。
「この前のプカルなんだがね…。実は、厨房から昨日、連絡が来てね」
またナキネズミが来たらしいんだが…。リンゴをプカルと言ったそうだよ、これが欲しいと。
もちろんナキネズミはリンゴを食べるし、そのまま与えたらしいんだがね。
…しかし、プカルだ。この間はイチゴがプカルだったのに、今度はリンゴがプカルなんだよ。
「何かおかしくないかい、それ?」
ちょいと変だよ、イチゴとリンゴじゃ味も見た目も別物じゃないか。
あたしだったら間違えないけどね。記憶をすっかり失くしていたって、別の果物は別だろう?
違う名前で呼ぶけれどね、とブラウが不思議がる通り。
イチゴとリンゴは似ても似つかないし、同じプカルでは有り得ない。チビのナキネズミの語彙が足りないか、それとも言い間違えたのか。あるいは、プカルと言ったら貰えるだろうと、リンゴもプカルと呼んだのか。
厨房で初めて貰った食べ物がイチゴだったから。その時に「プカルちょうだい」と頼んだから。厨房で果物を貰う時には、どれも「プカル」と呼ぶのが一番なのだと考えたとか…。
謎が生まれたら、その謎を解いてみたくなるもの。今日は時間もあることだし、と問題のチビのナキネズミを連れて来させた。ナキネズミ担当の飼育係に連絡を取って。
厨房ではなくて会議室だから、ヒルマンが実物の代わりに見せた映像。ナキネズミが好む色々な果物、それを端から映していって。「どれがプカルか、教えて欲しいね」と。
そうしたら…。
『これ、プカル!』
サクランボを見るなり、思念波で叫んだナキネズミ。サクランボの季節ではなかったけれども、ナキネズミの子供時代は長いものだから、食べた経験はちゃんとある。サクランボもプカル。
そうなるのか、と次々に変えていった映像、赤い実が映ると「プカル!」という思念。赤い実はどれもプカルだった。イチゴもリンゴも、サクランボも。赤いベリーも、残らずプカル。
「そうかい、そういうオチだったのかい…」
赤けりゃ全部プカルなんだね、どんな果物も。参ったねえ…。
こりゃ、この子だけの問題じゃないよ、と天井を仰いで困り顔だったブラウ。他のナキネズミも赤い実は全部プカルなんだろう、と。
「ナキネズミ語じゃな、わしらの言葉とはまた違うんじゃ」
仕方ないのう、こいつらにも言葉はあるんじゃし…。ナキネズミ同士で話す間に、言葉が出来ていたんじゃな。…赤い実はプカル、といった具合に。
過渡期なんじゃし、こういうことも起こり得るじゃろ、とゼルが引っ張っていた自慢の髭。今は人間と話す時間よりも、ナキネズミ同士の会話が多い状態だから仕方がない、と。
「人間との接触が増えれば、変わるだろうね」
我々の言葉の方が身近になるから、プカルもイチゴやリンゴに変わっていくだろう。
そうでなければ、子供たちとのコミュニケーションにも困るだろうからね。
今の間だけの現象だよ、とヒルマンもゼルと同意見だった。ナキネズミ語は消えて、人間と同じ言葉が自然に残ってゆく筈だと。
ナキネズミ語だった、プカルの実。赤い実はどれでも、イチゴもリンゴもプカルの実。
その内に直ってゆくだろうから、と無理に直さないで放っておいたら、プカルの方が定着した。人間にとっても覚えやすかったプカル。ナキネズミの言葉で赤い実はプカル、と。
覚えてしまえば、ナキネズミと話していて「プカル、食べるか?」とやってしまいがち。大人も子供も、イチゴやリンゴを手にして「プカル」と言ってしまうもの。
言葉が拙い幼子相手に、そうするように。わざと幼い言葉遣いで話し掛けるように。
そうやって皆が赤い実を「プカル」と呼んでみせたものだから、ナキネズミの言葉が直るわけがない。気付けば赤い実は、全部プカルになっていた。
人間の方がナキネズミに合わせて、プカルはプカル。白いシャングリラに特有の言葉。
「そうだったっけ…。プカル、ナキネズミの言葉だったんだっけ…」
前のぼくもウッカリ言っちゃったんだよ、青の間にヒョコッと出て来た時に。
「プカル、食べるかい?」って、テーブルにあった赤い果物を指差して。
あれじゃ絶対、直らないよね…。みんながプカルって言うんだから。
「そういうこった。…だから柿でもプカルなんだ」
赤く熟せばプカルになるんだ、富有柿とかは。…渋柿だって、いずれはプカルだ。普通の柿より時間はかかるが、あれも熟せば甘いんだから。
「うん、知ってる。実がトロトロになった頃には、甘いんだよね」
パパとママに聞いたよ、干し柿にしなくても食べられる、って。スプーンで掬って。
でも、ナキネズミは、もういないけどね?
人間が手を加えすぎた生き物だから、って弄らないでおいたら、繁殖力が落ちてしまって…。
そのまま絶滅してしまって。
「いいんだ、それで。…生き物は自然に任せておくのが一番いい」
だが、あいつらが今もいたなら、柿は立派にプカルなんだぞ。渋柿は赤くなったというだけじゃ食えんし、プカルと呼びにくい代物だがな。
お前はプカルを忘れてはいたが、言葉だけだ、とハーレイは説明してくれた。プカルそのものは忘れていないと、イチゴもリンゴも、サクランボも覚えているだろうが、と。
「ナキネズミが果物を食っていたことを覚えていれば充分だな、うん」
プカルの実は赤い実のことなんだから。…綺麗に忘れてしまっていたがな、本当に。
「良かった、ナキネズミの好物を忘れていたんじゃなくて…」
どれがプカルか分からなかっただけで、赤い果物は全部プカルなんだし、ホッとしたよ。
覚えていたなら大丈夫だよね、ハーレイの好物もきっと忘れていないと思う。
前のハーレイが好きだった食べ物、ナキネズミ語で呼びはしないもの。
「いや、忘れてるな、今のお前は」
酒とコーヒーだと言っていたよな、なら、間違いなく忘れている。
ナキネズミ語で呼んでたわけじゃないんだが、お前の口から出て来ないからな。
「忘れてるって…。何を?」
ハーレイの好物を忘れているって、どんな食べ物?
「俺の一番の好物ってヤツは、お前だろうが。赤い実も二つくっついているな、目の所に」
美味かったんだ、前のお前はな。…本当に何よりも美味かった。
そいつを忘れて酒とコーヒーだと言ってる辺りが、チビならではだ。
前のお前なら、それは上手に俺を誘ったものなんだがなあ、食って欲しいと。
チビのお前はまだ食えないが、と悪戯っぽい笑みを浮かべたハーレイ。
頬が真っ赤に染まったけれども、一番の好物だと言って貰えたのが嬉しいから。
酒やコーヒーより、ハーレイが好きな食べ物が前の自分だったというのだから。
(…顔の赤い実って、ぼくの目だよね…?)
前の自分とそっくり同じに育った時には、またハーレイに食べて貰おう。
チビの間は無理だけれども、いつか大きく育ったら。
赤い実が二つ、と言われた赤い瞳ごと。
顔についている、ハーレイが好きな赤い実のプカルも、育った身体も、丸ごと全部。
赤い瞳もプカルだから。赤い実は全部、プカルだから。
そして幸せな時を過ごそう、ハーレイと二人。
甘い時間を熱く溶け合って、何度も何度も、甘くて優しいキスを交わして…。
プカルの実・了
※ナキネズミの好物だった、プカルの実。どういう実なのか思い出せずに、焦ったブルー。
けれど「プカル」は、ナキネズミたちの言葉だったのです。赤い実だったら、何でもプカル。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「ずっと昔の、この地域では、だ…」
香りが重要だった話は前にもしたな、とハーレイが語る古典の授業。遠い昔の日本の話。
SD体制が崩壊した後、燃え上がった地球。それまでの地形はすっかり変わって、大陸の形まで変わったけれど。
今、ブルーたちが暮らす辺りは、かつて日本と呼ばれた小さな島国があった辺りの地域。古典の授業では日本の古典について習うし、香りの話は確かに聞いた。手紙や着物に焚きしめた香り。
また面倒な勉強か、と退屈しているクラスメイトたち。欠伸をしている生徒だって。
けれども、ハーレイが教室の前のボードに書き付けた文字。
「色よりも香こそあはれと思ほゆれ 誰(た)が袖ふれし宿の梅ぞも」。
ついでに「古今和歌集 よみ人知らず」とも。
えっ、と動いた教室の空気。今日の授業は和歌とは関係無かったから。
「…授業の続きだと思っていたな? お前たち」
そろそろ眠いと顔に書いてあるぞ、と笑ったハーレイ。こういう時には息抜きだよな、と。
ハーレイ得意の雑談の時間、今日は古典にも関係があるというのだろうか。なにしろボードには和歌が書かれたし、香りの話も出ていたから。
どういう話をするのだろう、とブルーもキョトンと眺めている中、ハーレイが始めた歌の解説。前のボードに書いてある和歌。
「この歌はだな…。梅は姿よりも香りの方が愛おしく思える、と詠んでいるわけで…」
いったい、この庭の梅は、誰の袖が触れたせいで、こんなに香しいのか、という歌なんだ。
授業でやったろ、衣服に香を焚きしめていた時代だった、と。そのための道具もあったしな。
季節の香りや、流行りの香りを踏まえた上でだ、自分だけの香りを作っていた。作り方や材料に工夫を凝らして、自分らしく。それがだな…。
貴族だけのものではなくなっていった、と広がってゆく話。古典の授業の範囲を離れて。
衣服に香を焚きしめた時代は、特権階級しか持てなかった香。あまりにも高価な物だったから。
けれど、時代は変わってゆく。貴族でなくても、香というものに出会える時代へ。
室町時代には、香を衣服に焚きしめる代わりに、持ち歩く者が増えてゆく。其処で、ハーレイが書いた古今和歌集の歌が浴びた脚光。
この歌を元に名付けた「誰が袖」という匂い袋が流行ったから。香を詰めた袋。
片方の袖にだけ入れることは縁起が良くない、と思われた時代に出来た「誰が袖」。二つを長い紐の両端につけて、首から下げて。着物の中を通すようにして、両方の袂に入れて使った。
それが最先端のお洒落で、歩けば「誰が袖」の香りも一緒についてくる。
古今和歌集の歌そのままに、いい香りがした着物の袖。
それが後の時代の匂い袋の始まり。一個だけでも気にしなくなって、片方の袂や胸元に。
最初は貴族だけが楽しんだ香は、庶民の文化に溶け込んだ。持ち歩いたり、着物と一緒に箪笥に入れて、そっと香りを移したり。
「他の地域だと、サシェってヤツだな」
ハーブや香料を入れておくんだ、匂い袋を作るみたいに。服に香りを移すんだが…。
縫い付けて使うこともあったと言うから、誰が袖とあまり変わらんな。そっちの方も。
…でもって、匂い袋もサシェもだ、自分の匂いを印象付けるのが目的ってトコか。
この歌のように、「誰の袖だろう」と思って貰えたら最高なわけだ。素敵な人に違いない、と。
香りの効果は、昔の話だけではないぞ。今の時代も立派に生きてる。
「これが私の香りなんです」と印象付ければ、相手の中で存在感が増すんだな。
そこでだ、恋人に会う時は、いつも同じ香水をつけて行くとか、使い方は色々あるわけで…。
お前たちにはまだまだ早いが、覚えておいて損はない。…香りってヤツは大切だとな。
「誰が袖」だけでも覚えておけ、と終わった雑談。
匂い袋なら今も買えるし、と。
(…匂い袋…)
小さな巾着のような、布製の袋。ふうわりといい香りが漂う袋。
母が持っているから、見たことはある。わざわざ買いに出掛けなくても。
サシェだって、母がクローゼットに入れていた。「いい匂いがするのよ」と、端っこの方に。
だから、「ふうん…」と思っただけ。今日の雑談は匂い袋とサシェの話、と。
特に何とも思わないまま、ハーレイの授業は終わったけれど。
家に帰って、おやつの時間に母に会ったら、思い出した。ケーキと紅茶を運んで来てくれた母。その瞬間に、「匂い袋だっけ」と。
母の服から、何かの香りがしたというわけではないけれど。香水もつけていないけれども。
匂い袋もサシェも、母の持ち物だからだろう。そういえば、と頭に浮かんだハーレイの雑談。
(恋人に会う時は、同じ香水…)
ハーレイはそう話していたから、「ちょっといいかも」と考えた。自分を印象付けられる香り。雑談では「お前たちにはまだまだ早い」と言われたけれども、チビでもちゃんと恋人はいる。前の生から愛し続けた、ハーレイという恋人が。
だから、「ハーレイに会うなら匂い袋」と。…香水はとても子供向けとは思えないから。
「ママ、匂い袋、ある?」
多分ある筈、と母に尋ねた。あったら持って来て欲しい、と。
「あるけれど…。どうしたの?」
匂い袋なんか、何に使うの?
学校に持って行きたい…ってことは無いわよね?
「んーと…」
持って行きたいわけじゃないけど、学校は関係無いこともなくて…。
「ふふっ、ママにも分かったわ。…ハーレイ先生ね?」
授業で出たのね、匂い袋のお話が。あれも昔の日本のものだし、古典にも出て来そうだものね。
はいどうぞ、と部屋から持って来てくれた母。
絹なのだろうか、淡い色の小さな布袋の香りは優しいけれども、子供の自分にはどうだろう?
香水が似合わないのと同じで、あまり似合わないような気がする。落ち着いた、大人びた香り。これを自分が漂わせていたら、無理をして背伸びしているような…。
(…ぼくには、ちょっと合わないみたい…)
母の持ち物だからだろうか。…匂い袋を扱う店に行ったら、他の香りもあるのだろうか?
「ママ、匂い袋…。子供向けっていうのはないの?」
この匂いは、なんだか大人っぽいから…。もっと小さな子供向けのは?
「そうねえ…。匂い袋は、どれも似たような感じだから…」
子供も好きそうな匂いになるのは、サシェの方かしらね。あれも中身によるけれど…。
これなら少し香りが柔らかいわ、と母が部屋まで取りに出掛けてくれたサシェ。小さな布の袋を手のひらに乗せて貰ったら、ふわりと漂うラベンダーの香り。
(…匂い袋よりはマシだけど…)
ラベンダーもやっぱり、チビの自分には似合わない。ハーレイと会う時につけていたって、失笑されるだけだろう。「お前、俺の話を真に受けたのか?」と、「子供にはまだ早すぎだ」と。
これは駄目だ、と諦めるしかない、匂い袋とラベンダーのサシェ。きっとハーレイは笑うだけ。どちらの香りを纏っていても。
だから…。
「ありがとう、ママ。…これ、返すね」
「…あら、もういいの?」
ブルーの部屋に持って行ってもいいのよ、欲しいんだったら。
「ううん、どんな匂いか分かったから」
ちょっぴり知りたかっただけ。…子供にも似合う匂いなのかな、って。
だけど、思っていたより大人の匂い。サシェだって、ぼくよりも大きな人向けだよね。
匂い袋とサシェの実物を見せてくれた母に御礼を言って、部屋に帰って。
勉強机の前に座って頬杖をついた。ちょっと残念、と。…匂い袋もサシェも、家にあったのに。わざわざ買いに出掛けなくても、母が「はい」と出して来てくれたのに。
(…ぼくには似合わない匂い…)
子供向けじゃない、と零れた溜息。チビの自分は、ハーレイに香りで印象付けられないらしい。匂い袋やサシェを使って、いつでも同じ香りを纏って。
せっかく素敵な恋の裏技を聞いたというのに、子供だからまだ使えない自分。匂い袋は無理で、サシェだって駄目。どちらも役に立ってはくれない。
もっと大きくならないと…、とクローゼットに視線を投げた。前の自分の背丈の高さに、鉛筆で微かに引いた線。此処からはまるで分からないけれど、そこまで育たないと香りは無理、と。
ソルジャー・ブルーと同じ姿になったら、きっと香りも似合うだろう。前の自分はサシェも匂い袋も使っていなかったけれど、大人の姿ではあったのだから。
(…似合う匂いも、絶対、あるよね?)
大きくなったら考えなくちゃ、とハーレイの雑談を思い返した。恋人に会う時は同じ香水、と。
前の生から恋人同士の二人なのだし、要らないような気もするけれど。
香りで印象付けるまでもなく、ハーレイは迷わず自分を選んでくれそうだけれど。
「俺のブルーだ」と、今でさえ言ってくれるのだから。…キスを許してくれないだけで。
とっくの昔に恋人同士で、今度は結婚する二人。
匂い袋やサシェの香りを纏わなくても、ハーレイはプロポーズをしてくれそうだけれど…。
(それじゃ、ハーレイは?)
チビの自分とは違って、大人のハーレイ。そのハーレイには、何か香りがあっただろうか。
雑談には出て来なかったけれど、遥かな昔に貴族たちが焚きしめていた香り。男性も自分で香を作ったりしていたほどだし、今の時代も男性用の香水が幾つも売られている筈。
女性だけのものではないのが香りで、男性だって香りで自分を印象付けるもの。今も昔も。
チビの自分は香りがサッパリ似合わないけれど、立派な大人のハーレイなら使いこなせる筈で。
あんな雑談をするくらいだから、ハーレイの香りもありそうで…。
(コーヒーに、お酒…)
直ぐに浮かんで来る、ハーレイが好きな飲み物の匂い。食べ物よりは特徴があるし、ハーレイの側にあっても少しも可笑しくない匂い。コーヒーに、お酒。
それから…、と考えてみるのだけれど。
自分が知っているハーレイの匂いというものは…。
(ハーレイでしかないんだよ…)
お酒でもコーヒーでもなくて、と鼻腔をふわりと掠めた匂い。ハーレイは来ていないけれども、鼻が覚えている匂い。ハーレイの身体はこういう匂い、と。
甘えて胸にくっついていたら、よく分かる。とても心地良くて、心がほどけてゆく匂い。
優しくて、それに温かくて。…幸せな気持ちが、胸一杯に溢れて来て。
(前のハーレイも、おんなじ匂い…)
キャプテン・ハーレイだった頃のハーレイからも、同じ匂いがしたのだろう。
今のハーレイとは全く違ったキャプテンの制服を着ていたけれども、きっと、そう。
くっついた時に、「違う」と思ったことが無いから。
いつでも前と全く同じに、吸い込みたくなる匂いだから。…ハーレイが好き、と。
そう、「好き」という気持ちが溢れる匂い。幸せになれるハーレイの匂い。
前の自分も好きだった。逞しくて広い胸に抱かれて、ハーレイの匂いに包まれるのが。…まるで温かな毛布さながら、くるまっているのが大好きだった。前のハーレイが纏う匂いに。
今もハーレイは同じ匂いがするから、今の自分も幸せに酔える匂いだから。
(あの匂い…)
持ち歩けたらいいのに、袋に詰めて。大好きな匂いを詰め込んで。
雑談で知った「誰が袖」のように。匂い袋や、サシェみたいに。…ハーレイの匂いを詰め込んだ袋。小さいけれども、ハーレイの匂いがする袋。
持って歩けたなら、きっと幸せ。時々、そっと取り出してみては、胸一杯に香りを吸い込んで。
(それだと、ぼくがハーレイになっちゃう?)
自分らしい香りを纏う代わりに、ハーレイと同じ匂いだから。ハーレイの匂いを纏うのだから。香りで印象付けられはしないし、恋人と同じ香りをさせても、意味は全く無さそうだけれど…。
でも、ハーレイの匂いが詰まった袋があったなら。
小さなそれを、持ち歩けたら。
(いつも幸せ…)
ハーレイが側にいない時でも、二人一緒にいるようで。広い胸に甘えているようで。
あの匂いがふわりと漂うだけで。…鼻腔を掠めてゆくだけで。
(ベッドに持って入ったら…)
枕の上に乗せておいたら、ハーレイが隣にいてくれるような気分になれるに違いない。直ぐ側に温かなハーレイの匂い。…前の自分も好きだった匂い。
独りぼっちで眠るベッドでも、きっと幸せなのだろう。ハーレイの匂いがありさえすれば。
母が見せてくれた小さな匂い袋や、サシェに詰まった恋人の匂い。
それがあれば、と膨らむ思い。ハーレイの匂いがする袋、と。
恋人の香りが漂う匂い袋。ハーレイの匂いが詰まった袋。中から幸せな、大好きな匂い。
(欲しいな…)
そういう匂い袋を一つ。ハーレイの匂いを纏った袋。
どうすれば、それを作れるだろう?
本物の匂い袋やサシェだと、中身は香料やハーブだけれど。ハーレイの匂いを作るなら…。
(香水って言ってた…)
自分を印象付けたいのならば、恋人に会う時は同じ香水をつけてゆくのが効果的。
ハーレイは確かにそう言ったけれど、香水を使っているのだろうか。何か好みの香水があって、それを使っているというなら、ハーレイの匂いの袋は作れる。
その香水を買えばいいのだから。ハーレイが使う香水の匂いが、ハーレイの匂いなのだから。
香水の名前を教えて貰って、小さな袋につけるだけ。中の綿とか、袋そのものにつけるとか。
(駄目で元々…)
どんな香水か訊いてみたい、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、香水、使ってる?」
使っているなら、それの名前、教えて欲しいんだけど…。
「はあ?」
香水ってなんだ、それに名前って…。いったい、何の話なんだ?
「ほら、ハーレイの匂い、あるでしょ?」
ハーレイがいつも、させている匂い。それのことだよ、こうすれば分かるよ。
椅子から立って、ハーレイの方へと回り込んで。
大きな身体にギュッと抱き付いて、胸一杯に匂いを吸い込んでみて。…この匂いだ、と身体中の細胞が喜んでいるから、幸せな気持ちが満ちてくるから。
「ハーレイの匂い…」
今もしてるよ、これが欲しいよ。…ぼく、この匂いが欲しくって…。
だから香水、と名残惜しい気持ちで離れて、元の椅子へと腰を下ろした。香水、教えて、と。
「香水って…。なんでそういう話になるんだ」
俺の匂いというのは理解出来たが、其処でどうして香水なんだ?
「今日のハーレイの授業だってば。…誰が袖の話、していたでしょ?」
二つくっついた匂い袋で、名前の元はこの歌なんだぞ、って。
それから、自分を印象付けたいんだったら、恋人に会う時は同じ香水をつけることだ、って。
…家に帰って、ママに頼んで、匂い袋とサシェとを出して貰ったけれど…。
どっちも子供向けの匂いはしなくて、もっと大人の人に似合いそう。…大人っぽい匂い。
それでね、ぼくは匂い袋とかを持っても似合わないみたい、って思ってる内に…。
欲しくなったんだよ、ハーレイの匂いがする袋。…小さいけれども、ハーレイの匂い。
それがあったら、いつでもハーレイの匂いと一緒。ハーレイと一緒の気分になれそうでしょ?
だって、ハーレイの匂いなんだから。
…ぼくの匂いがハーレイの匂いになっちゃうけれども、そういう匂い袋が欲しいよ。
作りたいから、ハーレイの香水の名前を教えて、と繰り返した。買いに行くから、と。
「もし高くっても、お小遣いを貯めて買わなくちゃ。…ハーレイの香水と同じ香水」
ハーレイの匂いは、前のハーレイも今のハーレイも同じだもの。
うんと幸せになれる匂いで、大好きな匂い。…だからハーレイの香水、教えて。
何処で売ってるのかも教えてくれたら、もう最高に嬉しいんだけど…。
なんていう名前なの、ハーレイが使っている香水は…?
「…なるほどな…。それで香水だと言い出したのか」
教えてやりたいのは山々なんだが、俺からもお前に一つ訊きたい。
…前の俺は香水、使っていたか?
キャプテン・ハーレイが香水をつける所を、前のお前は見ていたのか…?
「えーっと…?」
前のハーレイの香水だよね?
つけている所、見ていたのかな…。思い出したら、香水の名前も分かるのかな?
シャングリラでも香水、作っていたものね。…フィシスのために花の香りのとかを。
フィシスのは天然素材だったけど、合成の香水もあった筈だし…。
合成だったら、人類の世界にあった香水と同じ名前をつけてたのかな?
…前のぼくたちの頃の香水の名前、今も使われているのかな…。
とても人気の定番だったら、そういうことも充分ありそうなんだけど…。
ハーレイからのヒントだろうか、と心が弾んだ香水の話。キャプテン・ハーレイが使った香水。
それの名前を思い出せたら、ハーレイが答えを言うよりも前に、手に入りそうな香水の名前。
(…なんていう香水だったっけ…?)
全然覚えていないんだけど、と思いながらも手繰った記憶。前の自分が持っていた記憶。
キャプテン・ハーレイ愛用の香水だったら、青の間にも置いていただろう。シャワーの後には、シュッと一吹きしただろうから。…そうでなければ、指先でそっとつけるとか。
(どんな形の瓶だっけ…?)
大きさはどれくらいだっただろうか、と懸命に記憶を遡ったけれど。まるで記憶に無い香水瓶。バスルームには置いていなかったし、他の場所にも無かったと思う。
(何処に置いてたの…?)
前のハーレイの動きを辿れば分かるのかも、と二人で過ごした夜の光景を思い浮かべてみた。
ブリッジでの勤務を終えた後に青の間に来ていたハーレイ。逞しい胸に抱き締められた途端に、ハーレイの匂いに包まれた。…幸せが満ちる、あの匂いに。
そのままベッドに行く時もあれば、ハーレイがシャワーを浴びに行くことも。
熱くて甘い時を過ごして、ハーレイの腕の中で眠ったけれど…。
(…シャワーを浴びに行ってた時でも、ハーレイの匂い…)
そうだった、と蘇って来た遠い遠い記憶。朝まで自分を広い胸に閉じ込めていたハーレイ。
ハーレイの匂いに包まれて幸せに眠ったけれども、シャワーを浴びた後でベッドに来た時は…。
消えてしまっていた匂い。ボディーソープやらお湯の匂いで、すっかり洗い流されて。
あの匂いがする香水をつけてはいなかった。…シャワーを済ませて来たハーレイは。
けれども、いつの間にか、ハーレイが纏っていた匂い。
香水をつけにベッドを出てはいないのに、前の自分を朝まで優しく包み込んだ匂い。
あれは何処から来ていたのだろう、ハーレイは香水をつけに行ってはいなかったのに…?
どう考えても、ハーレイが香水をつけに出掛ける暇は無かった筈。ベッドから出ないのだから、香水は何処からも出て来そうにない。…ベッドの側に置いていたならともかく、それ以外では。
(だけど、香水の瓶は無かったよ…?)
ベッド周りの棚などは部屋付きの係の目に触れるから、置いてはおけなかったと思う。それでも置いていたのだったら、前の自分が目に付かないようシールドを施していただろう。
そうなってくると、ハーレイの匂いだと思っていたのは香水ではなくて、ハーレイそのもの。
(…ハーレイが持ってる匂いなんだ…)
シャワーを浴びて匂いが消えても、朝には纏っていたのだから。まだ服も着ていなかったのに。
あれはハーレイの身体の匂い、と気付いた途端に赤らんだ頬。逞しい身体を思い出して。チビの自分はキスさえ許して貰えないけれど、前の自分はあの身体と…。
恥ずかしくなって俯きながら、それでも目だけはハーレイの方へ。
「…香水、つけていなかった…」
前のハーレイは香水をつけていないよ、ぼくは一度も見ていないもの。
…だけど、いつでもハーレイの匂い。ちゃんとハーレイの匂いがしてたよ。
「そうだろうが。…今の俺も前と同じだが?」
香水なんぞはつけていないし、買ってもいないな。…俺の趣味ではないからな。
でもって、お前のその顔つきからして…。
分かったらしいな、あれは香水の匂いじゃないと。俺の身体の匂いだった、ということがな。
ハーレイの口から聞かされた正解。やはり香水ではなかった匂い。ハーレイの身体が持つ匂い。それが欲しいと思うけれども、香水ではないと言うのなら…。
「じゃあ、ハーレイの匂い、どうすればいいの?」
あの匂いを作るには、どうしたらいいの?
…ハーレイの匂いが欲しいのに…。匂い袋に入れておきたいのに。
「そうだな…。俺の匂いの作り方か…」
まずは、朝起きたら、軽く体操するかジョギング。その日の気分次第ってトコだ。庭の手入れも悪くないなあ、草を毟ったり、芝生を刈ったり。
それから朝飯、分厚いトーストを二枚は欲しい。田舎パンでも、そのくらいの量で。
パンにはおふくろのマーマレードと、美味いバターと。そいつを塗ってる日が多めだな。
卵料理も忘れちゃいかんぞ、オムレツもいいし、スクランブルエッグも、ベーコンエッグも…。固ゆで卵や半熟もいいな、ポーチドエッグもいいもんだ。
ソーセージも焼いて、卵料理と一緒に食うのが好きだな、うん。…新鮮な野菜のサラダとかも。
飲み物はコーヒー、野菜ジュースや牛乳もいい。こいつも、その日の気分で決める。
…朝飯はだいたい決まってるんだが、昼飯と晩飯は色々だなあ…。必ずコレだ、というのは特に無いから、そっちは何でもいいだろう。しっかり食えれば。
後は晩飯の後にコーヒーを一杯、酒も適度に。ウイスキーでもブランデーでも、日本酒でも。
…そんなモンだな、俺の生活。
俺の身体はそういう毎日が作っているから、これを参考にするといい。
前の俺とはまるで違うが、同じ匂いがするというなら、今ので問題無いだろう。
これで出来る、と言われたけれど。…ハーレイの匂いの作り方だと言われたけれど。
ハーレイの匂いは卵料理の匂いではないし、トーストや田舎パンとも違う。焼いたソーセージの匂いもしないし、コーヒーや酒の匂いだって。
全部混ぜたら出来るのだろうか、そういったものを。それとも、何か秘訣があるのか。
作る方法が分からないから、首を傾げて尋ねてみた。
「…どうやって作るの、今、聞いたヤツで?」
どうすればハーレイの匂いが出来るの、トーストとかを全部混ぜるの?
「お前なあ…。それだと、とんでもない匂いになると思わないか?」
コーヒーにブランデーなら、いい匂いにもなるってもんだが…。他はどうだか…。ソーセージを焼く時にブランデーを加えてやったら、ちょいと美味いかもしれないが。
しかし、コーヒーを入れて焼いたら、美味いソーセージにはならないぞ。卵料理にもコーヒーは合わん、混ぜちまったら。別々に食ってこそだってな。味も、匂いも。
つまりだ、俺が言ったヤツを美味しく食うのが俺の匂いの作り方だが…。食べる前の軽い運動も含めて、俺の匂いになるんだろうが…。
お前が全部、その通りに真似をしてみたとしても…。お前の匂いにしかならないだろうな。
俺の匂いが出来る代わりに、お前らしい匂い。…お前は、お前なんだから。全く別の人間で。
「ハーレイの匂い…。作れないの?」
ぼくが頑張っても、ぼくの匂いになっちゃうの?
朝に体操して、ハーレイとおんなじ朝御飯をママに作って貰って食べても…?
「当たり前だろうが、誰だって違うものなんだから」
身体の匂いは人それぞれだし、俺とお前じゃ体格からして違うんだしな?
同じ匂いになるわけないだろ、よっぽど匂いのキツイ料理を揃って食べでもしない限りは。
ハーブ料理だの、ガーリックだの…、とハーレイが挙げた匂いの強い料理。けれども、そうした料理を二人で食べても、同じ匂いはほんの少しの間だけだ、と。
食べ物の匂いは抜けてしまって、元の匂いに戻るから。ハーレイはハーレイの、自分は自分の。
どうやらハーレイの匂いは作れないらしい。…ハーレイにしか。
「…ハーレイの匂い、欲しいのに…」
匂い袋に入れておきたいのに、作れないなんて…。ハーレイの匂い、大好きなのに。
前のぼくだった頃から、ずっと好きな匂い。いつでも側にあればいいのに…
「お前にはまだ早いだろうが。…授業の時にも言った筈だが?」
恋人に会う時は同じ香水をつけるといい、という話。…それと同じだ、俺の匂いもまだ早い。
いずれ嫌というほど嗅ぐことになるさ、俺と一緒に暮らし始めたら。
俺の匂いを作らなくても、お前にも匂いが移るくらいに。…一晩中、側にいるんだから。
「そうかもね…。前のぼく、ハーレイの匂いに包まれて眠っていたし…」
いつもハーレイの匂いがしてたよ、幸せな匂い。…だから大好きな匂いなんだよ。
でも…。匂いが移るって言うんだったら…。
もしかしたら、前のぼく、ハーレイの匂いがしていたのかな?
一晩中、ハーレイと一緒だったし、朝になったらハーレイの匂い…?
「多分な。…シャワーを浴びていなければな」
食事係が変な顔をしたかもしれんな、ソルジャーからキャプテンの匂いがすると。
…朝飯を作りにやって来た時に。
「えっ…!」
前のぼくから、ハーレイの匂いって…。夜の間に匂いが移って、そのままになって…?
朝にシャワーを浴びてなかったら、ハーレイの匂いがしていたの、ぼく…?
まさか、と驚いてしまったけれど。ハーレイの匂いが移ったとしても、一時的なものだと思っていたけれど。
(いつも、朝にはシャワーを浴びていたけど…)
病気で寝込んでしまった時には浴びなかったシャワー。そんな元気は無かったから。
そういう時にも、ハーレイは一晩中、側で眠ってくれていた。前の自分を胸に抱き締めて。夜に具合が悪くなったら、看病だって。
ハーレイの匂いに包まれて眠って、次の日の朝はシャワーを浴びないまま。食事係が朝の食事を作りに来た時も、ベッドに入ったままだったから…。
「ハーレイ…。前のぼく、具合が悪かった時は、朝にシャワーを浴びなかったけど…」
あの時のぼくは、ハーレイの匂いがしていたのかな…?
寝てる間に移ってしまったハーレイの匂い、ぼくの身体に残ってたかな…?
「どうだかなあ…?」
残っていたとしても俺には分からん、自分と同じ匂いなんだから。
…嗅いで確かめたりもしないし、どうだったんだか…。
俺の匂いをさせていたのか、お前の匂いの方だったのか。
考えたことすら無かったからなあ、お前に俺の匂いが移ってしまうということをな。
まるで気にしていなかったから、とハーレイはフウと溜息をついた。
もしも匂いが移ったとしたら、誰か気付いていたかもな、と。
「だ、誰が…?」
誰が匂いに気付いたっていうの、やっぱり食事係とか…?
ハーレイが最初に思い付いたの、食事係のことだったもんね…?
「いやまあ、あれは単なる思い付きで…。朝一番にやって来るのは食事の係だったしな」
食事係は食事を作るのが仕事なんだし、そっちに集中していたんだから大丈夫だろう。…周りの匂いに気を取られていたら、美味い料理は作れないしな。
第一、青の間のキッチンでやっていたのは最後の仕上げだ。トーストを焼いたり、卵料理を注文通りに作ったり、と。最高に美味い匂いが漂うトコだぞ、お前の匂いにまでは頭が回らんだろう。
そうでなくても、人間の鼻では分からないだろうと思うんだが…。
お前に移った俺の匂いを嗅ぎ分けられるほど、鋭い嗅覚は持っていないと思うわけだが…。
これが動物だと、いい鼻を持っているのがいるからな。…ナキネズミだとか。
「ナキネズミ…。そう言えば、たまに遊びに来てたね」
子供たちのサポートをしていない、暇なナキネズミが。朝からヒョイと顔を覗かせて。
…可愛らしいから、「おいで」って遊んでやっていたけど…。寝込んだ時でも、ベッドに入れてやったりしていたけれど。
気付かれてたかな、ハーレイの匂い…。
ナキネズミ、誰かに喋ったのかな、「ソルジャーからキャプテンの匂いがしたよ」って。
「さてなあ…?」
他の人間がいる所までは、喋りに行きはしないんじゃないか…?
食事係は相手にしてはくれんし、他の仲間も朝は忙しくしているヤツらが殆どだからな。
子供たちは時間があっただろうが、ナキネズミを見たら触りに行くから、自慢の毛皮がすっかりクシャクシャにされちまう。…朝っぱらからオモチャになりたい気分じゃないだろうさ。
だから行かんな、あいつらは。…不思議な匂いだと思ったとしても。
せいぜいナキネズミ同士の話程度だろう、と笑うハーレイ。
ねぐらにしていた農場に帰って、「今日はキャプテンの匂いだった」と。
「…バレちゃってたかな、ぼくとハーレイが恋人同士なんだってこと…」
ぼくからハーレイの匂いがするのは、そのせいなんだって気付かれてたかな?
ナキネズミ、ベッドにも入ってたんだし、ハーレイの匂いがするものね…?
ぼくだけじゃなくて、枕もシーツもハーレイの匂い…。
「それはないだろ」
人間だったらピンとくるヤツもいたかもしれんが、ナキネズミだぞ?
鼻がいいから匂いが分かるというだけのことで、其処から推理を始めはしないさ。
動物だしな、とハーレイは即座に否定したのだけれど。
…ナキネズミは思念波の扱いが下手な子供たちのパートナーとして作った動物。ネズミとリスを組み合わせながら、あちこち弄って、思念波が使える生き物を誕生させた。
子供たちと自由に会話出来るように、思念波の中継も手伝えるように。
そういう風に作った生き物、ナキネズミは自分で考えもする。…他の動物たちに比べて、人間に近い考え方を。…人間だったらどうするだろう、と拙いながらも推し量ることも。
人間に近い思考回路を持った動物がナキネズミならば、ただの動物とは違うのだから…。
もしかしたら…、とハーレイと顔を見合わせた。
全部のナキネズミが気付いたことは無かったとしても、一匹くらいはいたかもしれない、と。
勘の鋭いナキネズミ。…ソルジャーからキャプテンの匂いがしている理由を見抜いた一匹。
「…いたんじゃないかな、一匹くらいは…?」
そういえば、ぼくをじいっと見ていたナキネズミがいたよ。…時々、首を傾げながら。
ベッドにもぐってはゴソゴソ出て来て、ぼくの顔を見て何度も匂いを嗅いでた。
…なんていう名前の子だったのかは忘れたけれど…。ハーレイの方も見てたよ、あの子は。
ひょっとしたら、気付いていたのかも…。ぼくに「恋人?」って訊かなかっただけで。
「うーむ…。そいつは怪しい感じだな…。俺の方まで見ていたとなると」
でもまあ、他にはバレてないしな?
多分、俺やお前の心が読み取れなくて、確信が持てなかったんだろう。…恋人同士だと。
もしもしっかり見抜いていたなら、ナキネズミの間で噂になって…。其処から子供たちの耳にも入っていたかもしれん。「内緒だよ?」とナキネズミどもが耳打ちしてな。
そうなっていたら、子供の「内緒」はアテにならんし、シャングリラ中にバレたってか。
…ナキネズミが一匹、お前の匂いに気付いたばかりに、俺たちのことが。
「危なかったね、そんなの思いもしなかったよ…」
ぼくからハーレイの匂いがするとか、ナキネズミがそれに気が付くだとか。
「まったくだ。…とんだ所に危険が潜んでいたってな」
とはいえ、俺たちの仲はバレなかったし、もう心配は要らないわけだ。
今度は結婚するんだからなあ、匂いは心配しなくてもいい。
俺と一緒に暮らす以上は、お前から俺の匂いがしてても、不思議でも何でもないんだから。
たっぷりとお前に移してやろう、とウインクされたハーレイの匂い。
今は作れはしないけれども、匂い袋に入れておくことは出来ないけれど。
(…ハーレイの匂いで、大好きな匂い…)
いつか好きなだけ嗅げる日が来る、温かな胸に抱き締められて。
眠る時はもちろん、ソファで一緒に座る時にも。…床に座っている時でも。
結婚して二人で暮らす時には、幸せたっぷりの中で包まれる匂い。
それを想うと、胸がじんわり温かくなる。
きっといつかは、大好きな匂いを自分にも移して貰えるから。
ナキネズミが首を傾げた匂いを身体に纏って、ハーレイと二人、幸せな朝を迎えられるから…。
匂い袋と恋人・了
※ブルーが欲しくなったハーレイの匂い。前のハーレイも、同じ匂いがしたのですけど…。
前のブルーに移ったハーレイの匂いに気付いたらしい、ナキネズミ。危ない所だったのかも。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv