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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「ハレブル」の記事一覧

 土曜日の夜。ハーレイが帰って行った後、ブルーの部屋で夕食後のお茶に使われたティーカップなどの片付けをして、テーブルを拭いて。溜息をつきながらハーレイの椅子を元の位置に戻すと、ブルーはベッドに腰掛けた。
(…帰っちゃった…)
 何ブロックも離れた家へと帰って行ってしまったハーレイ。「またな」と軽く手を振って。
 明日になったら来てくれるけれど、今夜はもう顔を見られない。明日までの間、暫しのお別れ。前の生であれば、これからが二人の時間なのに。恋人同士で過ごすための時間だったのに…。
(…朝までハーレイと一緒だったのに…)
 同じベッドで眠っていたのに、と嘆いたところでどうにもならない。
 今のブルーは十四歳の子供でしかなく、ハーレイはキスすら許してくれない日々なのだから。
 ブルーを独りで此処に残して、「またな」と帰ってしまったハーレイ。
 残念でたまらないけれど、どうしようもない。ブルーは本当に独りではないし、両親と暮らしているのだから。ハーレイがブルーを置いて帰るのが当たり前な状況なのだから。
 どんなに一緒に帰りたくても、ブルーの家は今いる場所。
 何ブロックも離れたハーレイが一人で住んでいる家は、ブルーとは何の関係も無い。ハーレイと一緒に暮らせる日々が訪れるまでは、連れて帰って貰えそうもない。



(あーあ…)
 ハーレイと一緒に、あの家に帰りたかったのに。
 遊びにも行けないハーレイの家。たった一度しか呼んで貰えず、たった一度だけ瞬間移動をして飛び込んでしまったハーレイの家。二回だけしか入ったことがないハーレイの家…。
(…ハーレイと一緒に帰りたかったよ…)
 叶うわけもない、自分の願い。我儘に過ぎないブルーの願い。
 願っても無駄だと分かっているから、ベッドにコロンと横倒しに倒れて、部屋の床をぼんやりと眺めていたら。
(…あれ?)
 ハーレイと二人、向かい合わせで過ごしたテーブルの下に何かあるのを見付けた。細長い棒状をしたものが床の上に落ちて転がっている。
(…???)
 何だろう、とブルーは瞬きをした。ハーレイが来る前に掃除をした時、床だってきちんと掃除を済ませた。落ちている物があったとしたなら、その時に気付く筈なのだけれど。
(…ぼく、見落としてた?)
 それとも掃除を済ませた後で落としたのか。
 とにかく拾って片付けなければ、とベッドから起き上がり、テーブルの下を覗き込んで。
「あっ…!」
 思わず声を上げてしまった。
 床の上に転がった棒状のもの。瑠璃色をしたそれはハーレイの愛用品だった。



 テーブルの陰になって黒っぽくも見える、瑠璃色のペン。ハーレイがいつも持ち歩いている筈の万年筆がテーブルの下に転がっている。
 昼間に「予定を思い出した」と手帳に何か書き込んでいたから、その後で落としたのだろう。
(…落っこちたの、気付かなかったんだ…)
 落ちた時の音にも、落としたことにも気付かなかったに違いない。恐らくはブルーがハーレイの向かいに座っていたから。二人で過ごす時間に心地よく酔って、そちらに夢中になっていたから。
 そう考えると、なんだか嬉しい。
(きっとペンより、ぼくだったんだよね)
 ブルーは唇に笑みを浮かべると、手を伸ばしてペンを拾い上げた。思ったよりもズシリと重たい感触。ブルーが使っているペンよりもずっと重さがあるペン。
(…ハーレイのペンだ…)
 あの褐色の大きな手ならば、このくらいの重さがよく馴染みそうだ。最近ではブルーが誕生日にプレゼント出来た羽根ペンも使っているらしいけれど、学校や家の外で過ごす時間はこの万年筆がハーレイのペン。教師を始めた頃から使っていると聞く万年筆。



 ブルーはペンを手にしてベッドに腰掛け、ドキドキしながら眺めてみた。
 瑠璃色の地にポツリポツリと星のように散らばる金色の粒。不規則に鏤められた星。
 ペンの表を覆う瑠璃色は合成のラピスラズリという石なのだとハーレイに聞いた。
 宇宙を思わせるそれが気に入って、ずいぶん昔に買ったものだと。
(やっぱりハーレイはキャプテン・ハーレイなんだよ)
 前世の記憶が無かった頃でも宇宙に惹かれていたハーレイ。
 本物の宇宙は瑠璃色ではなくて漆黒だけれど、散らばる星は確かに宇宙に似ている。
 でなければ、夜空。
 幾つもの星が煌めく夜空も、このペンの見た目によく似ているから。
(星座は無いかな?)
 見慣れた星の配置とそっくりな金色が隠れているかも、とブルーは調べてみることにした。何か隠れているかもしれない。今の季節の空の星座とか、過ぎてしまった夏の星とか。
(……うーん……)
 ためつすがめつ探してみたけれど、それらしき金色は見当たらなかった。
 地球の星座も、遠い遠い昔にアルテメシアで見ていた星も。
 そう、アルテメシアにも星座はあった。雲海の中だけを進むシャングリラからは見ることさえも叶わなかったが、ブルーは何度も目にしていた。
 シャングリラで暮らすミュウたちもまた、どんな星座が空にあるかを知っていた。展望室の外は一面の雲海だったけれども、その代わりに投影されていた星。展望室ではなくて天体の間で、子供たちのためのプラネタリウムで、あるいは居住区の休憩室で。
 まだ見ぬ遠い地球の星座も、アルテメシアの空に輝く星座も、誰もが見上げて憧れていた。
 いつの日か肉眼で星を見ようと、地に足を付けて夜空を仰いでみようと。



(…どっちの星座も隠れてないんだ…)
 ブルーはペンを翳してみる。もしも星座が隠れていたなら、とても素敵なペンだったのに、と。
 もっとも、これが星座を隠していたならハーレイが話してくれただろう。
 宇宙を思わせるペンだから気に入って買った、とブルーに教えてくれた時に。
(だけど何処かにあるのかもね?)
 地球の星座もアルテメシアの星座も隠れていないけれども、他の星たち。
 キャプテンだった頃のハーレイが何処かの宇宙で見た星の配置。
 それを見ていたハーレイ自身も気付いてすらいない、何処かの宇宙。
(…補給のために寄った星とか、地球を探していた頃とか…)
 ブルーが知らない、十五年間もの長い眠りに居た間の旅。
 あるいはブルーが死んでしまった後、地球に辿り着くまでの長い長い旅路。
 そうした旅の途中の何処かで、ハーレイは星を見たかもしれない。
 このペンに散らばる金色の粒が描き出す星を、広い宇宙の中の何処かで。



 ハーレイも知らない星が隠れた瑠璃色のペン。
 そんなペンもいいな、と考えながら蓋を開けてみれば、しっとりと金色に輝くペン先。
 万年筆には縁が無いけれど、ちょっと使ってみたくなる。
(…ちょっとくらいなら借りてもいいよね?)
 ほんの少しだけ、本当にちょっと書いてみるだけ。
 ブルーは勉強机の前に移動し、引き出しから真っ白な紙を一枚出した。
(…ちょっとだけだよ)
 自分のペンよりも重たい瑠璃色のペン。ハーレイ愛用の万年筆。
 それを握って、白い紙にペン先を走らせてみた。スラスラと書ける気がしていたのに、意外にも紙に引っ掛かる。いつものペンのようにはいかない。
(…力の加減が分からないよ、これ)
 案外、使いにくいものだと思う。初めて使った万年筆。
 このペンですらこういう使い心地だから、前のハーレイが愛用していた羽根ペンとなればもっと扱いづらいだろう。今のハーレイが羽根ペンの購入を躊躇っていたのもよく分かる。



(…ホントのホントに書きにくいよ、これ…)
 でも、と試し書きをしながら考えてみた。使い勝手の問題ではなくて、別のこと。
 このペンは自分の、ブルーの名前を綴ったことがあるのだろうか。
 ハーレイ自身の名前は数え切れないほど書いているだろうが、ブルーの名前は?
(…書いてくれたことがあるのかな?)
 少なくとも、このペンで書かれたであろう教師としての文字の中には一度も無かった。テストや宿題に書き込まれる文字は大抵、赤色。それ専用の別のペンの字。
 そういった赤い文字とは別に、評価をつける時があるのだけれど。その文字はこのペンで書いているのだと思うけれども、単なる評価。ブルーの名を記す必要など無い。
(…一回も書いていなかったりして…)
 教師専用の記録などには、あるいは書いたかもしれないけれど。
 その手の記録用のものであったなら、わざわざハーレイが綴らなくとも、ブルーも含めた全ての生徒の名前が最初から書かれていそうだ。温かみのある手書きではなく、機械が打ち出した揃った文字で。同じ文字ならピタリと同じに綴られてしまう機械の文字で。
(きっとそうだよ、先生用のは)
 ハーレイは生徒としてのブルーの名前なんかは書いていないに違いない。
 そうなると書いて貰えそうな機会はググンと激減、皆無ではないかという気がする。
(…日記だって、覚え書き程度だって言ってたもんね…)
 ブルーと再会した日のことさえ、ハーレイは「生徒の付き添いで病院に行った」と書いただけ。それを聞かされて「酷い!」と叫んでしまったくらいに、ハーレイの日記は覚え書き程度。
(…ぼくの家に来た日も特に書かないって言ってたし…)
 一度も書いて貰ってないかな、と溜息をつくブルーは知らない。
 ハーレイが羽根ペンを手に入れたその日に、白い羽根ペンを誕生日プレゼントにブルーの手から受け取ったその日に、ブルーの名前を幾つも幾つも書いていたことを。
 戯れに試し書きをするよりもいい、とブルーの名前を何度も綴り続けたことを。



(一度くらい書いてて欲しいんだけどな…)
 それに、とブルーは考える。
 自分のサイオンがもっとマシであれば、読み取れたであろう万年筆が宿した記憶。
 瑠璃色のペンにハーレイが残した残留思念。
 このペンとどんな風に日々を過ごしているのか、家で、学校で、出掛けた先で。
 ハーレイのお供で移動してゆく万年筆。ハーレイの側で過ごしているペン。
(凄く残念…)
 前の自分が手に取ったならば、それは素晴らしい記憶媒体。
 細長い瑠璃色の、ペンの形をした記憶媒体。
 それを手にして集中するだけで、ハーレイの色々な思いを読み取れた筈。
(…本当はやっちゃ駄目なんだけどね?)
 そうしたサイオンの使い方はルール違反で、落とし物の持ち主を探す時くらいしか許されない。
 前の生で暮らしたシャングリラでも誰もがそれを自制していて、ブルー自身もそうだった。
 違ったのは子供くらいなもの。
 無邪気な子供たちは遠慮なく読み取り、大人たちの失敗談を眺めて笑っていたりした。
(今のぼくなら子供なんだけどな…)
 あの時代には十四歳は成人検査の歳だったけれど、今の世界なら十四歳でも立派な子供。
 ちょっとくらいのルール違反は叱られる程度で済む子供。
(…でも、出来ないよ…)
 とことん不器用になってしまったブルーのサイオン。
 瑠璃色をしたペンを相手に頑張ってみても何も見えない。
 ハーレイの思いの欠片さえ捉えることが出来ない。
 素晴らしい記憶媒体が手の中にあるというのに、何ひとつとして読み取れなかった。



 どうにも不器用な自分のサイオン。
 ブルーは残念でたまらなかったが、瑠璃色のペンからハーレイの記憶を引き出して楽しむことは諦めざるを得なかった。
 ハーレイの日常を垣間見る絶好のチャンスを手にしていながら、手も足も出ない。
(…だけど、せっかくの落とし物だしね?)
 貴重なチャンスを活用するべく、ブルーはペンを握り直した。
 蓋を外して、金色のペン先をまじまじと見て。
 それから試し書きをしていた白い紙の上に自分の名前を書いてみた。
 ハーレイ愛用の瑠璃色のペンで、ブルーには少し扱いづらい万年筆の先でしっかりと。
(これがぼくの名前。…覚えておいてよ?)
 忘れないでね、とペンに向かって呼び掛ける。
 ぼくの名前を忘れないで、と。



 そうして、せっかくのハーレイの愛用品だから。
 握って一緒に眠ってみようかと思ったけれども、うっかり壊したら大変だからと枕の下に入れて眠った。
 枕の下にそうっと忍ばせ、ハーレイの夢が見られますように…、と。
 それなのにブルーは夢も見ないで眠ってしまって、気付けば朝で。
 心の底からガッカリしながら枕の下に入れておいたペンを取り出して、勉強机の上のペン立てに自分のペンや鉛筆と一緒に仕舞った。
(…ちょっとの間だけ、一緒なんだよ)
 ぼくのペンと一緒、とブルーは微笑む。
 ほんの少しの間だけれども、ハーレイ愛用のペンと一緒に並んだ自分のペンや鉛筆たち。
 けれど、いつかはそれがごく当たり前の日常になる。
 ハーレイと一緒に暮らすようになったら、ペンだってきっと一緒に置ける…。



 未来の自分たちを思い描いて、それから部屋の掃除を済ませて。
 ブルーが窓から見下ろしていれば、現れた待ち人。母が開けた門扉をくぐって来たハーレイは、「俺は落とし物をしていなかったか?」とブルーの部屋を訪れた。
 途中の道に落としていないか、探しながら歩いて来たと言う。
 直ぐに渡そうかとも思ったけれども、ハーレイの大切な落とし物。母がお茶の支度を整えて出て行った後にしようと考え、テーブルにお茶やお菓子が揃って母の足音が階下に消えてから、ペンを取って来て差し出した。
「ハーレイ、これ…」
「ああ、すまん。お前が拾ってくれていたのか。…ん?」
 向かい側の椅子に座ったブルーをハーレイの鳶色の瞳が見詰める。
 瑠璃色のペンを手にしたハーレイ。
 見詰められたブルーに、思い当たる節は山ほどあった。
 ペンを飽きずにじっと眺めていたとか、試し書きをしたとか、残留思念を読もうとしたとか。
 自分の名前も覚えてくれるようにと書いて呼び掛けて頼んでいたし…。
(…そ、それより、一緒に寝たってば…!)
 握ってではなく、枕の下に入れて、だけれど。
 それでもハーレイ愛用のペンなのだから、と特別な気持ちで一緒に眠った。
 ハーレイの夢が見られるようにと胸を高鳴らせ、今夜はハーレイと一緒なのだ、と。



 あまりにも恥ずかしすぎる昨夜の出来事。
 どれをハーレイに指摘されても、きっと耳まで真っ赤に染まるに違いない。
(…ど、ど、どうしよう…!)
 言われる前に話題を逸らさなければ。
 不自然になってしまわないよう、この場に相応しい別の話題で、でもペンのことで。
(…ペンの話で、でも別のことで…)
 何か無いか、とブルーは懸命に頭を回転させる。ペンに纏わる話題で、何か…。
(…そうだ!)
 あれだ、と思い付いて慌てて口にした。
「ハーレイ、そのペン…。ホントに星空みたいだけれども、星座は一つも無いんだね」
「なんだ、探したのか?」
「うん」
 これで自分の残留思念は誤魔化せるだろう、とブルーは思う。
 もっともハーレイはブルーの気配を感じただけで、それ以上は読んでいないのだけれど。
 それはルールに反することだし、ブルーは子供でも恋人だから。
 大切な自分の恋人なのだから、読んだりはしない。
 自分のペンをとても大切に扱っていたらしいブルーの気持ちは、もう充分に伝わったから。



 そうとも知らずにブルーは星座の話を続けた。
 瑠璃色のペンの夜空に散らばる金色の粒の話を、星座のように見える金色たちの話を。
「ねえ、ハーレイ。…そのペンに地球やアルテメシアの星座は一つも無いけど、他の星はあるかもしれないね」
「…他?」
 何だそれは、と問うハーレイに、「他の星だよ」とペンを指差す。
「ハーレイが旅をしていた宇宙で見た星。…ぼくが眠っていた間もそうだし、ぼくがいなくなった後の旅でも」
「ふむ…」
 どうだろうな、とペンを眺めていたハーレイだったが。
「おっ…!」
 此処を見てみろ、とブルーにペンの表面を指先でつついてみせた。
 瑠璃色の地にポツリポツリと散った金色。それが七つほど不規則に並び、星座のように見えないこともない。大きめの金色と小さな金色、散らばった七つの金色の粒。
 ブルーにはそれが何かは分からなかったのだけれど、ハーレイの目が懐かしそうに細められた。
 遠い昔へと記憶を遡ってゆく鳶色の瞳。
「ナスカでこいつを見ていたな。…いつの星だったか…」
 いつだったか、と七つの金色の粒の記憶をハーレイは追って。
「そうだ、種まきをする季節の星だ」
 春の頃だ、と歴史の彼方に消えた悲劇の赤い星を語る。
「種まきの頃のナスカの星だ。…特に名前も付けてなかったが、こいつが昇って来る頃がナスカの春だったんだ」



 ナスカの星だ、とハーレイの褐色の指が示した金色の粒にブルーは見入った。
 自分の知らないナスカの星。降りることすら無いままに消えた、メギドに砕かれた赤い星。
 その星の春に昇った星座がハーレイのペンにあるという。
「これがナスカの星なんだ…。じゃあ、この万年筆、ハーレイの所に来たかったのかもね?」
 ブルーは本当にそう思ったから。
 瑠璃色のペンがハーレイの所に来たがったような気がしたから、そう尋ねてみたら。
「そうかもしれん。このペンは合成のラピスラズリだが、合成でも模様は全部違うからな」
 俺を選んで来たかもしれんな。いや、選んだのは俺の方か…。
「ハーレイがこれを選んだの?」
「ああ。同じ買うなら選びたいじゃないか、自分の手に合うペンってヤツをな」
 売り場で何本も出して貰って、その中から選んだ一本なのだとハーレイは言った。
 試し書きをしたり、握ってみたり。
 どれも同じに見えるペンだし、実際、模様の部分を除けば違いは無い筈なのだけれど。
 それでも何処かが違うものだと、自分の手に一番馴染む一本を選んで買った、と。



 ハーレイの話を聞きながら、ブルーはしみじみと瑠璃色のペンを見詰めた。
 褐色の手に見合った重さの瑠璃色のペン。
 前の生での白い羽根ペンも似合っていたけれど、この瑠璃色のペンもハーレイに似合う。
 それに…。
(やっぱりハーレイはキャプテン・ハーレイなんだよ)
 何処かで前の生と繋がっている、とブルーは思わずにいられない。
 手に馴染むからと選んだ一本のペンに、ナスカの星座があっただなんて。
 前の生の記憶を取り戻す前に買ったペンなのに、ちゃんとナスカの星座を選んでいたなんて…。
 そんなハーレイの大きな手の中に、ナスカの星座。
 瑠璃色のペンに鏤められたナスカの星座…。
「ハーレイ。本物のナスカの星座って、どんなのだったの?」
 ブルーの問いに、ハーレイは「ほら」と右手を伸ばした。
「手を握ってみろ。見せてやるから、俺の記憶を」
「うんっ!」
 褐色の手と、ブルーの白い手が絡められた。
 遠い遠い遙かな昔に、シャングリラでブルーがしていたように。
 そうやってフィシスと手を絡め合って、青く美しい地球を見ていたように…。



「見えるか、ブルー?」
「…うん。うん、ハーレイ…」
 握り合った手からブルーの心に伝わって来る、ハーレイが前の生で仰いだ夜空。
 種まきをする春の季節に、ナスカの夜空に昇ったという七つの星たち。
 それは確かに星座と呼ぶのに相応しかった。無数の星たちの中で目立って輝く七つの星たち。
 ブルーが知らないままで終わったナスカの夜空。
 仰ぐことさえないままに逝った、ソルジャー・ブルーが守りたかった赤い星の夜空。
(…ハーレイはこれを見てたんだ…)
 ナスカは失われてしまったけれども、ハーレイは地球に生まれ変わった。
 前の生の記憶をちゃんと抱いて、青い水の星の上にブルーと二人で生まれて来た。
 そのハーレイが愛用している万年筆にナスカの星座。
 種まきの頃のナスカの星座がハーレイの万年筆に在る。
 偶然と呼ぶにはあまりに不思議な瑠璃色のペンの金色の粒…。



(…きっと偶然なんかじゃないよ)
 ハーレイはペンを選んだんだよ、とブルーは手を絡め合ったままでナスカの夜空を仰いだ。
 前の自分が見られずに終わった星を見せてくれる恋人の手をキュッと握って。
(この星がハーレイのペンにあるのは偶然じゃなくて、運命なんだよ)
 自分がハーレイともう一度出会えたように。
 地球の上で再び巡り会えたように。
 そうしてナスカの空を見ている。失われた筈のナスカの夜空をハーレイと二人で見上げている。
(なんて幸せなんだろう…)
 青い地球に来られて、ハーレイに会えて。
 そのハーレイの瑠璃色のペンには、ナスカの春の夜空に昇っていた星座の煌めきがあって…。
 きっと、もっと沢山の不思議な偶然と運命の糸が繋がっている。
 幾つも幾つも、何百本もの糸があるのだとブルーは思う。
 前の生と今の生とを繋いでくれて、幸せな気持ちを運んで来てくれる魔法の糸が…。




         落とし物の星座・了

※ハーレイの愛用のペンに隠れていた、ナスカの星座。記憶を見せて貰ったブルー。
 不思議な偶然は、きっと幾つもあるのでしょう。このペンの中の星座の他にも、山ほど。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
 ←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv





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 晩秋のとある日曜日のこと。ブルーは昨日と同じように部屋を掃除してハーレイを迎え、二人で向かい合わせに座ったのだけれど。この次の週末もこんな土曜日と日曜日とがやって来るのだ、と頭から信じていたのだけれど…。
「すまん、次の土曜日は夕方まで来られそうにない」
「えっ?」
 ハーレイの思わぬ言葉に、ブルーは飲みかけていた紅茶のカップを手にしたままで固まった。
「夕食には間に合うように来るがな、それまでは駄目だ」
「……なんで?」
 夕食を一緒に食べるだけなんて。それでは平日の仕事帰りに訪ねて来てくれる時と変わらない。土曜日と日曜日は一日中、一緒に過ごすのが基本なのに。
 もっとも、ハーレイにも事情は色々とある。夕食だけどころか、顔も見られない土曜日や日曜もある。ブルーにもそれはちゃんと分かっているのだけれど。
 分かってはいても、せっかくの土曜日が台無しと聞けば理由を問わずにはいられない。どうしてハーレイは来られないのか、どんな用事が出来たのか、と。
 落胆しているブルーの様子に、ハーレイは「すまん」と繰り返した。
「もっと早くに話しておけば良かったなあ…。しかしな、天気次第のことだったしな」
 次の土曜日が雨なら中止になってしまう行事なのだ、とハーレイは言った。
 しかし週間予報も発表されたし、次の土曜日は天気が崩れたとしても、せいぜい曇り。雨だけは無さそうだと踏んでいるから、このタイミングでの話になった、と。
「柔道部の登山マラソンの日でな。朝一番から走り始めるから、遅くとも昼過ぎには終わる予定になってるんだが…」
「お昼過ぎに終わるのに、夕方まで来てくれないの?」
「おいおい、ちゃんと最後まで聞け。一番遅いヤツらが戻って来るのが昼過ぎくらいで、そこから昼飯になるからな。作って食わせて片付けをしてだ、解散してからだとどうなると思う?」
「……そっか……」
 そういうことか、とブルーは納得せざるを得なかった。
 昼食の用意に後片付け。それは時間もかかるであろうし、夕方でも仕方ないだろう…。



 ハーレイが夕方まで来てくれないらしい、次の土曜日。
 柔道部の登山マラソンがある日。登山マラソンと聞いてもブルーは全くピンと来ないが、昼食の方が気になった。
 柔道部をはじめ、運動部に属する生徒たちは食堂で食べるランチも常に大盛り。一度だけ大盛りランチを注文してみて、食べ切れなかったことがある。たまたま食堂に現れたハーレイが代わりに食べてくれなかったなら、ランチを無駄にしていただろう。
 ブルーにとっては信じ難い量のランチを平らげる柔道部員たち。普段の食事量も多い彼らが登山マラソンとやらをした後で食べる昼食となれば、どんな量になるのか想像出来ない。それを作るとハーレイは言ったが、いったい何を作るというのか。
「ハーレイ。…お昼御飯って、何を作るの?」
「飯か? そっちは大釜でドカンと炊いてだ、後は豚汁だな」
「豚汁?」
 ブルーは思わず目を見開いた。豚汁といえば汁物だけれど、御飯と豚汁で足りるのだろうか?
「どうした、豚汁、知ってるだろう? あれを大鍋で作るだけだが」
「…それだけで足りるの? 御飯と豚汁…」
「決まってるだろう! 美味い豚汁だと飯も進むし、下手な弁当よりよっぽどいいぞ」
 俺が学生だった頃にも、よく豚汁を食ってたな。
 運動の後の豚汁ってヤツはいいもんだ。出来たての味は最高なんだぞ。



 懐かしそうな顔で語るハーレイ。豚汁に纏わる思い出も沢山あるのだろう。
 そうなれば今度は豚汁が気になる。柔道部員たちに振舞われるという作りたての豚汁。
「豚汁って、ハーレイが作るんだよね?」
「ああ。俺と柔道部のOBたちだ。登山マラソンは毎年恒例だからな、手伝いに来てくれる」
 だが、仕切るのは当然、俺だ。
 柔道部の顧問だというのもあるが、俺の豚汁は昔から評判が良くってな。
 みんな頑張って走るんだ。美味いのを食わせてやりたいじゃないか。
「…いいな…」
 ブルーはハーレイが作る豚汁を食べてみたくなった。駄目で元々、と尋ねてみる。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくも見に行ったら食べられる?」
「こらこら、勘違いをするんじゃないぞ。豚汁を食えるのは参加者のみだ。お前、ヤツらと一緒に登山マラソンなんかは出来んだろうが」
 何処の山だと思っているんだ、と挙げられた山は町の郊外に聳える高峰。千メートルには僅かに及ばないものの、ハイキング感覚で気軽に登れる高さではない。
「あの山だったの!?」
 あれを走って登るの、とブルーは仰天したのだけれども、柔道部員たちにとっては恒例の行事。速い者なら二時間とかからずに山頂までを軽々と往復してくるという。
「昼過ぎまで帰って来ないヤツでもバテてはいないな、俺の経験からしてな」
「経験って…」
「他所の学校でもやってるってことさ、運動部ではな」
 今までにハーレイが顧問をしてきた、あちこちの学校の柔道部や水泳部。登山マラソンは何処の学校でもあったという。標高千メートル近い山を走って登って下りてくるなど、ブルーにはまるで未知の世界で、もちろん出来るわけもない。



 しょんぼりと肩を落とすブルーの姿に、ハーレイが「まあ、お前には絶対無理だな」と笑う。
「お前、ただでも弱いしな? 登山口から少し走ったら倒れるだろうな」
 そうなっちまったら担架の出番だ。
 本来は足を挫いたりした怪我人用だが、OBどもに担がれて下りて、三日間ほど欠席か?
「うー…」
 どうにも反論出来ないブルー。
 ハーレイが言ったとおりの結末を迎えそうなことは分かっていたから。
 悔しげな瞳で鳶色の瞳を見上げたブルーに、別の選択肢が示される。
「豚汁を食えるのは参加者のみだが、作り手は参加者に含まれる。手伝ってくれたOBたちの分も作って昼飯にするわけだ。お前も手伝いに来るんだったら食わせてやれるぞ」
 ただし、朝一番に柔道部員たちが走り出すのを見送る所から参加しないとな?
 OBたちも早起きをして来て万一に備えて待機するんだ、ちゃんと最初から居ないと駄目だ。
「それって何時に集合なの?」
「登山口の広場に朝の七時だが?」
「…七時…!」
 登山開始は八時らしいが、OBたちへの挨拶やウォーミングアップなどがあるから、余裕を見て一時間前に集合だという。
(…七時だなんて、絶対、無理だよ…)
 ブルーは早起きは苦手ではないが、朝の七時から屋外で過ごした後での豚汁作りは考えただけでバテそうだった。座る場所くらいはあったとしても、何時間外に居ればいいのか。
(…マラソンも手伝いも、どっちも無理だよ…)
 自分には無理だ、と諦めざるを得なかった。
 しかしウッカリ聞いてしまったばかりに、ハーレイの豚汁が気になってたまらない。
 評判がいいのだとハーレイが語った自慢の豚汁。
 いつも作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」とは違って、豚汁。
 シャングリラに居た頃は無かった豚汁。
 豚汁は母も作ってくれるのだけれど、評判も何も、ブルーは母の豚汁と学校の給食や食堂で出る豚汁しか食べたことがない。
 わざわざ外食するようなメニューではないし、ハーレイが「美味いんだぞ」と言った豚汁の味がどれほどのものか、想像することも出来なくて…。



 登山マラソンに参加する柔道部員たちが食べる豚汁。
 手伝いに出掛けるOBたちも味わえるという、ハーレイ御自慢の豚汁の味。
 食べてみたくて、味わいたくて。
 一度は「無理だ」と諦めたくせに、ハーレイと二人で昼食を食べたら、また思い出して食べたくなってしまった。母が作ってくれた昼食に味噌汁はついていなかったのに。
 スープとパスタの昼食だったのに、食後の紅茶が置かれたテーブルを前にしてブルーは呟く。
「……豚汁……」
 未練たっぷりに桜色の唇から零れた言葉に、ハーレイが呆れたように目を丸くした。
「豚汁って…。まだ諦めていないのか、お前」
「……やっぱり、手伝う…」
 朝一番から行って手伝う、とブルーは頑張る決意をしたのだけれど。
「手伝う? 俺としては別にかまわんが…」
 お前、本当に分かっているのか?
 手伝いが増えるのは有難いんだが、お前が手伝うのは俺じゃなくて「ハーレイ先生」だ。
 頑張って起きて「ハーレイ先生」と豚汁を作るのか、お前?
「…そうだったっけ…」
 ブルーはガックリと項垂れた。
 柔道部の登山マラソンなのだから、ハーレイは当然、顧問の教師。其処へ同じ学校の生徒が出てゆくのならば、礼儀正しく「ハーレイ先生」と呼ばねばならない。今のように甘えることは厳禁、言葉も敬語にせねばならない。
 それは嫌だ、と思うけれども。
 ハーレイ先生の手伝いはしたくないのだけれども、食べたい豚汁。
 大好きなハーレイの御自慢の味の、美味しい豚汁…。



 どうにも諦め切れない豚汁。
 ハーレイが作る豚汁を食べてみたくて、ブルーは強請ってみることにした。ハーレイ先生ならば手も足も出ないが、ハーレイなら別。恋人としてのハーレイだったら我儘も聞いてくれるだろう。
 そう思ったから、「お願い」とおねだりをする。
「ねえ、ハーレイ。豚汁、ぼくの家で作ってよ。野菜スープのシャングリラ風みたいに」
 きっと作って貰えるだろう、と考えたのに、ハーレイの返事は素っ気なかった。
「駄目だ、そんなのでは美味いのが出来ん」
「えっ、なんで?」
「大量に作るからこそ美味いんだ。俺の秘伝もだからこそ生きる」
 お前のお父さんたちの分まで作るとしてもだ、四人分にしかならないんだぞ。
 美味いのを作るならデカイ鍋でだ、十人分ほどは作らんとな?
「…十人分も?」
「それがギリギリの分量ってトコだ。しかも普通の十人分じゃない」
 おかわりの分も含まれるのだ、とハーレイはブルーに説明した。
 一人がお椀に一杯だけしか食べないのならば、十人分だと言っている量は十二人分を軽く超えるだろう、と。
「つまりだ、お前のお望みの豚汁を作っちまったら、単純に計算したって一人に三杯。それだけの豚汁を食わねばならない。…お前、三杯も食えるのか?」
「そんなに沢山、食べられないよ!」
「ほら見ろ。…第一、お前、お母さんに何と言って俺に豚汁を作らせる気だ?」
 シャングリラで食べていた懐かしの味の豚汁、と嘘をつく気か?
 それとも俺の作る豚汁が食べたいんだ、と白状するか?
 俺はどっちでも気にはしないが、キッチンを借りるまでのお前の苦労も気にしないからな。
「……そっか……」
 この方法も無理があったか、とブルーは俯く。
 母が納得してくれるだけの説得力のある言い訳を思い付く自信が全く無かった。
 シャングリラで食べた味だと大嘘をつくことはしたくなかったし、ハーレイが作る豚汁を食べてみたいと言うことも出来ない。食べたいと言えば「登山マラソンの手伝いに行けばいいでしょ」と返されるのがオチで、そうなったが最後、「ハーレイ先生」のお手伝いで…。
(…食べたいのに……)
 けれど食べられそうにない豚汁。
 ハーレイが作る、秘伝とやらが生きた豚汁…。



 食べたくても手も足も出ない豚汁。
 次の土曜日、ハーレイが夕方まで来てくれない日の昼過ぎに柔道部員たちが味わう豚汁。
 一度でいいから食べてみたいと、夢に見そうなほどに食べたいハーレイ御自慢の味の豚汁…。
 食べられないと分かっているから、余計に食べたい。
 ポロリと唇から本音が零れる。
「…ハーレイが作る豚汁、食べたいのに…」
 食べたいのに、と零したブルーに、意外な答えが返って来た。
「なら、四年待て」
「四年?」
 ハーレイの言葉の意味が掴めず、ブルーはキョトンとしたのだけれど。
 当のハーレイは余裕たっぷり、笑みまで浮かべて「四年だ」ともう一度繰り返した。
「分からんか? 四年経ったら、お前は幾つだ?」
「…いくつ?」
「何歳なんだ、と訊いているんだ」
「えーっと…」
 十八歳、と答えようとしたブルーだったが、其処でハッタと気が付いた。
 四年経てば十八歳になる。それは結婚が許される歳。
 ブルーがそれを望みさえすれば、ハーレイと結婚することが出来る歳。
(…まさか…)
 まさか、と息を飲んだブルーに向かって、ハーレイがパチンと片目を瞑った。
「やっと分かったか?」
 お前が無事に俺と結婚、もしくは婚約出来たら、豚汁を食える所に連れてってやる。
 俺の嫁さん、もしくは未来の嫁さんです、って堂々とな。



「ホント!?」
 ブルーは思わず叫んでいた。
 考えもしなかった豚汁への道。
 「ハーレイ先生のお手伝い」ならぬ「ハーレイのお嫁さん」。
 そんなことってあるのだろうか。夢ではないか、と頬を抓りたくなるのに、ハーレイは笑顔。
「本当だとも。俺の友達にも紹介してやろう」
 あいつら、ビックリするだろうなあ。
 とびっきりの美人に育ったお前を、「俺の嫁さんだ」って連れて行ったらな。
「…ハーレイの友達も柔道部の登山マラソンに来るの?」
 OBの中にハーレイの友人がいるのだろうか、とブルーは世間の狭さを思ったのだけれど。
「いや、別口のイベントだ」
 登山マラソンとは全く別だ、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「あんな早朝から出掛ける行事はお前には向かん。俺の嫁さんを連れて行くなら、嫁さんの身体も考えないとな」
 だから俺が行ってた上の学校でやってるOB会だ。
 其処の柔道部に稽古をつけたり、見学したりする会がある。
 その時に豚汁を作って御馳走するんだ、現役のヤツらに「頑張れよ」って、な。



 OB会なら早朝から出掛けなくてもかまわないから、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
 現役の柔道部員たちの練習場所に顔を出してから、炊事出来る場所で豚汁作り。
 豚汁を作るのに間に合う時間に行けさえすれば問題は無くて、早起きもしなくてかまわないと。
「その代わり、お前も手伝えよ? 嫁さんだしな?」
「うんっ!」
 ブルーは張り切って頷いたのだが、ハーレイが「待てよ」と顎に手をやる。
「…いや、手伝いはしなくていいか…。嫁さんを大事にしています、と飾っておいて自慢するのもいいな。お前には手伝って貰わずにな」
 なんたって、男の世界だしな?
 むさ苦しい男どもが溢れる豚汁作りだ、嫁さんに手伝いなんかをさせちゃいかんな。
 ハーレイが真顔で言うから、ブルーは「でも…」と首を傾げた。
「ぼく、男だよ?」
「男でも俺の嫁さんだろうが」
 違うのか? と訊かれて、自信が無くなってしまったから。
 自分でも常々「ハーレイのお嫁さん」になるのだと思っているから、ブルーの頬が赤くなる。
「…それはそうかも…」
 お嫁さんかも、と頬を染めたままハーレイを見詰めた。
「手伝えても、手伝えなくても、どっちでもいいよ」
 ぼくがどうすればいいのか、ハーレイが決めてよ。
 ハーレイが決めてくれたことなら何だっていいし、何だって聞くよ。
 だって、ハーレイと結婚するんだもの。
 ハーレイのものになるんだもの…。



「男でもいいし、男だけどお嫁さんでもいいよ」
 どっちでもいいよ、とブルーは嬉しそうに微笑んでみせた。
「ハーレイが紹介してくれるんだったら、どっちでもいい。男でもいいし、お嫁さんでも」
「そうか、嫁さんでかまわないんだな?」
 じゃあ嫁さんだ、とハーレイが腕組みをして大きく頷く。
「俺はうんと美人の嫁さんを貰うつもりでいるしな、お前は俺の嫁さんなんだ」
「分かった。ぼくはハーレイのお嫁さんだね」
「ああ。俺の自慢の嫁さんってことだ」
 やはり手伝いはさせられないな。
 むくつけき男どもに混じって豚汁なんかは作らせられん。
 見学用の椅子に座らせとくのがきっと一番だな、あの美人が俺の嫁さんです、とな。



 ハーレイが通っていた上の学校の柔道部のOB会に連れて行ってやる、という約束を取り付けたブルーは、もう御機嫌で。
 OB会は毎年あるものなのか、とか、どの時期にあるのか、とかを散々質問した末に。
「早く四年後にならないかな?」
 ハーレイのお嫁さんだと紹介して貰うんだから、と指を一本、二本と数えて四本折ってゆく。
 四本折ったらまた手を開いて、一本、二本。
 はしゃぐブルーは可愛いけれども、何か勘違いをしていそうだから。
 ハーレイは「おい」とブルーに注意した。
「俺の嫁さんはいいとしてだ。…豚汁はどうした、それが食いたいんじゃなかったのか?」
 お前、豚汁を食いにOB会に行くんだろうが?
 俺の自慢の、秘伝の美味い豚汁を食いに。
「そうだよ? 豚汁を食べに行くんだよ。それとハーレイのお嫁さん!」
 両方だよ、とブルーは胸を張ったけれども、
実の所は豚汁よりも「ハーレイの
お嫁さん」。
 ハーレイのお嫁さんとして出て行けるイベント、OB会。
 それがブルーの今の一番のお楽しみだった。
 ハーレイの学生時代の友人たちが大勢集まる席で、「俺の嫁さんだ」と言って貰える日。
 本当に「ハーレイのお嫁さん」になれたのだ、と心の底から実感出来そうな席。
 其処でハーレイと一緒に豚汁を食べる。
 ハーレイが作った秘伝の味の、御自慢の豚汁を二人仲良く、「ハーレイのお嫁さん」として。



(…ふふっ、豚汁…)
 どんな味かな、とブルーは楽しみでたまらない。
 あと四年。
 四年経ったら、ハーレイと結婚出来る歳。
 その年に開かれるハーレイの柔道部のOB会には自分も一緒に出席出来る。
 もう結婚式を挙げていたなら、「ハーレイのお嫁さん」として。
 結婚がまだで婚約だけなら、「ハーレイの未来のお嫁さん」。
 「未来の」という言葉がついていたとしても、ついていなくても「お嫁さん」には違いない。
 そう、大好きなハーレイのお嫁さん。
 今はまだ四年も先の未来でしかなくて、ブルーの背丈も百五十センチのままだけれども。
 ハーレイと出会った春の頃から一ミリも伸びていないのだけれど、四年経ったら「お嫁さん」。
 誰に会ってもハーレイが紹介してくれる。
 「俺の嫁さん」だと、出会う人たちにブルーを紹介してくれる。
 そしてハーレイの「お嫁さん」だからOB会にも一緒に行けるし、豚汁だって食べられる。
(…ぼく、お手伝いさせて貰えるのかな?)
 ハーレイはどっちに決めるのだろう、とブルーは四年後の自分の姿を考えた。
 豚汁作りを手伝っているか、飾り物よろしく見学なのか。
 どちらであっても、それがハーレイの決めたことならかまわない。
 自分はハーレイの「お嫁さん」なのだし、ハーレイのものになるのだから。



(…早くハーレイと食べてみたいな、秘伝の豚汁…)
 あと四年だよ、と夢見るブルーの中では、豚汁はもはや「ただの豚汁」ではなくなっていた。
 それを食べられる時には「ハーレイのお嫁さん」になっているという素敵な豚汁。
 ハーレイの隣で「ハーレイのお嫁さん」として食べる豚汁。
 どんなに美味しい豚汁だろう、とまだ見ぬ豚汁を思い描いて、食べる自分を想像して。
 もうそれだけで幸せな気持ちが溢れ出して来る、ハーレイ御自慢の美味しい豚汁。
(…ホントに早く食べてみたいよ、ハーレイが作った美味しい豚汁…)
 ハーレイと一緒に食べに行くんだ、と四年後に思いを馳せるブルーは、もう柔道部員たちの登山マラソンなど羨ましいとは思わなかった。
 早起きまでしてそんな所へ出掛けなくても、もっと素晴らしい未来が待っているから。
 大好きなハーレイの「お嫁さん」として食べられる豚汁が待っているから。
(うん、登山マラソンなんかはどうでもいいよ)
 あと四年だけ待てばいい。
 そうすれば「ハーレイのお嫁さん」。
 ハーレイと二人で、二人一緒に豚汁を食べる。
 秘伝の味の御自慢の豚汁を、ハーレイの「お嫁さん」として…。




        食べたい豚汁・了

※ハーレイ先生の自慢の豚汁、それが食べたいと思ったブルーですけれど…。
 いつかハーレイと結婚したら、食べられるらしい夢の豚汁。お嫁さんになって、幸せ一杯。
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 ある日、ぼくの家を訪ねて来たハーレイは、ママがお茶とお菓子をテーブルに置いて部屋を出てゆくなり、持っていた紙袋をテーブルの空いたスペースに乗っけた。ぼくも知っている食料品店の紙袋。地球の他の地域からの輸入品を色々と扱ってる店。
 ハーレイは紙袋を開けて手を突っ込むと、「ほら」と幾つかの小さな包みをテーブルに置いた。
「ブルー。こんなのを店で見付けたぞ」
「なに、これ?」
 お菓子っぽく見える色と形の包装だけど…。首を傾げると、褐色の指が包みを一つ指差して。
「チョコレートバーだが、よく見てみろ。見た目じゃなくって、パッケージの方だ」
「……代用品?」
 表側に商品名と並んで「チョコレートの代用品!」という文字が躍っている。代用品だと銘打つからには合成だろうか、と裏を返して驚いた。成分表の他に大きく「キャロブ」の文字。
 なんて懐かしい名前だろう。何年ぶりに見る名前なんだろう…。
「驚いたか? ちゃんと地球にもあったぞ、キャロブ」
「ビックリした…。チョコレートは地球で手に入るのに…」
 青く蘇った今の地球では、チョコレートの原料になるカカオも栽培されていた。ぼくたちの住む地域はカカオ栽培に向いた気候じゃないから、カカオの木は植物園にしか無いんだけれど。それと実験農場くらい。
 とはいえ、カカオはごく当たり前に手に入るもので、代用品を作る必要は無い。
 キャロブなんかが地球に在るなんて、ううん、在っても不思議じゃないんだけれども、代用品にする必要なんかは全く何処にも無さそうなのに…。



 ココアにコーヒー、チョコレート。
 遠い遠い昔に、ぼくとハーレイが暮らしていた船で口にしていた嗜好品。
 シャングリラで飲んだり、食べたりしていたココアやコーヒー、チョコレートなど。
 ハーレイが大好きだったお酒なんかは合成品だったシャングリラ。本物のお酒は仕込めなかったシャングリラ。限られた食料しか生産出来なかったし、お酒どころじゃなかったから。
 そんなシャングリラのチョコレートだとか、ココアだとか。
 誰が聞いても「合成品だ」と思うだろう。でも、合成品ではなかったんだ。
 最初の間は、もちろん合成品のチョコレートやココアだったんだけど。



 アルタミラを脱出して間もない頃にはそれで充分、特に不自由はしなかった。
 合成品でもチョコレートはちゃんと甘かったのだし、コーヒーだって独特の苦み。たまに味わうココアも心がホッとする優しさだったし、どれも誰もが楽しみにしていた嗜好品。
 シャングリラの中だけが世界の全てだった、ぼくたちのささやかな幸せの味。
 最初の間は合成品のチョコレートなどで全然問題無かったのに。
 誰からも文句は出て来なかったのに、時が流れてシャングリラの人口が増えて来た頃。
 「身体に悪い」とゼルが言い出した。
 大人はともかく、保護して育てるようになっていた子供たち。
 その子たちには合成品をあまり食べさせたくない、と。
 ゼルはああ見えて子供好きだった。
 アルタミラで弟を亡くしてしまったからかもしれない。
 脱出するために船に乗り込み、飛び立った直後に見舞われた悲劇的な事故。
 まだ開いていた乗降口から、ゼルの弟だったハンスの身体は燃え盛る地上へと落下していった。ゼルが必死に差し伸べた手は弟の手を二度と掴むことが出来ず、ぼくにも救えはしなかった。
 少しでも多くの仲間を助け出そうと直前まで奔走していたぼくには、力が残っていなかった。
 落ちてゆくハンスを船に戻すだけのサイオンが残っていなかった…。
 ぼくは今でも覚えている。「兄さん!」と叫んだハンスの声と、血の滲むようなゼルの叫びと。
 ゼルは生涯、弟を忘れはしなかった。



 弟思いだったゼル。
 アルタミラの悲劇は遠く過ぎ去り、長老と呼ばれるようになったゼルはすっかり禿げ頭。
 頑固で怖そうに見えるゼルなんだけれど、公園を歩けば子供たちが一斉に駆け寄って行く。
 子供たちのお目当ては、ポケットの中身。
 ゼルは「ポケットの中にはビスケットが一つ…」なんていうSD体制よりもずっと昔の古い歌を子供たちと一緒に歌いながらポケットをポンと叩いてお菓子を出すんだ。
 ビスケットだとか、キャンディーだとか。歌詞のお菓子はポケットの中身に応じて変わる。
 どれも食堂で当たり前に作られているものばかりで、子供たちのおやつにも出るんだけれど。
 魔法のポケットから次々に増えて出て来るお菓子は特別らしい。
 ゼルはごくごく短い距離なら、お菓子程度の小さなものなら瞬間移動をさせることが出来た。
 魔法の種はマントの陰に隠したお菓子の袋。其処からポケットにポンと移して増やすんだ。
 それでも瞬間移動なんか出来ない子供たちにとっては魔法のポケット。
 いつだって人気者だったゼル。



 そんなゼルだから、子供たちの身体を心配するのは良く分かる。ゼルが言い出したから分かったけれども、子供たちを教育しているヒルマンも気にしていたらしい。
 子供たちが好む嗜好品が合成品なのは如何なものかと、出来れば自然の食品がいいと。
 だけどチョコレートの元になるカカオを栽培することは難しそうだ。サクランボとか栗は普通に気温などを調整しておけば育つけれども、カカオは違う。蒸し暑い気候が適した植物。
 必需品の野菜なら温室栽培もやっていたものの、嗜好品に過ぎないカカオはどうか。そのための温室を設置してまで育てるとなれば、反対する者も多いだろう。
 とはいえ、ミュウの未来を担うことになる子供たちには自然の産物を食べさせたい。
 なんとか方法は無いのだろうか、とヒルマンに一任することにした。
 カカオが無理なら他の植物でもかまわない。チョコレートを作れるものは無いか、と。
 教授と称され、博識なヒルマンはあれこれと頑張って調べてくれて…。



「ソルジャー、やっと見付かりましたよ」
 青の間にヒルマンが訪ねて来た。柔和な笑顔で、とびきりの情報を携えて。
 何処かに無いかと探し求めていた、カカオ以外のチョコレートを作れる植物の名前。
「キャロブというのを御存知でしょうか?」
「…いや」
 聞いたこともないキャロブなるもの。
「では、イナゴ豆は?」
「そっちもぼくは知らないよ」
 イナゴなら知っているけれど。
 遠い遠い昔に地球で農作物を根こそぎ食い荒らしてしまって飢饉を起こしていた害虫。聖書にも色々と書かれていたよね、世界の終わりが来る黙示録にも。
「その通りですが、そのイナゴとは無関係でして…」
 名前はイナゴに由来するのかも知れませんが、とヒルマンは困り顔をしつつも笑った。
 流石にソルジャーは色々な本を読んでいらっしゃると、聖書もお読みになったのですか、と。



 昆虫のイナゴとは無関係らしいイナゴ豆。
 どんな植物かと先を促したら、また質問が降って来た。
「カラットという単位は御存知ですか?」
「なんだい、それは?」
 宝石の重さの単位だなどと説明されても、とんと縁の無いカラットという単位。
 ぼくたちの世界に宝石は要らない。
 贅沢に着飾ることも無ければ、煌びやかな宝石を見せびらかすような場所も無い。人類の世界に住んでいたならそういったこともあるのだろうけど、ミュウの世界には不要のもの。
 宝石なんかは必要も無いし、誰も持っていないシャングリラ。
 白いシャングリラには赤い石だけが、誰もが身につける赤い石だけがあればいい。
 その赤い石が出来た由来は、ちょっと考えたくないんだけれど。
 SD体制よりも遙かな昔の地球の一部の地域に在った魔除けのお守り、メデューサの目。
 青い目玉を象ったというそれの代わりに、ぼくの赤い瞳。
 ミュウたちを守るお守りに相応しいから、と選ばれてしまった赤い石。ぼくの瞳の色の石。
 それだけがぼくたちの大切な石で、宝石なんかは何処にも無い。
 だからカラットなんかは知らない。



 ヒルマンが調べた情報によると、カラットという単位の起源はイナゴ豆の実だった。イナゴ豆の種子の大きさや重さがほぼ均一だから、重量を量るのに丁度良かったらしいという。
「それでカラットがどうしたんだい?」
「イナゴ豆です。キャロブですから、キャラットですよ。キャラット、すなわちカラットです」
 カラットの由来になったキャロブの実ですよ。
 その実がチョコレートの代用品になるんです。それにコーヒーとココアも出来ます。
「そして、ソルジャー。キャロブは特に環境を調整しなくとも栽培出来そうな植物です」
「素晴らしいじゃないか!」
 実に素敵だ、と思わず叫んでしまったけれど。
 イナゴ豆なんていう名前からして、それは畑に植えるんだろうか?
 ぼくの経験からすると、豆の類は手間暇がかかる。蔓を絡ませたり、支えをしたり。そういった手間を嗜好品のためにかけるのはどうか、と考えた。
 ところが、キャロブは木なのだという。それも高さが十メートルにもなったりする木。
 木ならば剪定するだけで済むし、毎年種を撒かなくても収穫することが出来る。
 手間要らずな上に、チョコレートどころかコーヒーとココアまで作れるキャロブ。
 ぼくは早速、アルテメシアの農業関係の情報を操作し、何本もの苗を手に入れて来た。
 シャングリラに植えたキャロブの木。農場にも、大きく育つというから公園にも。



 キャロブの木はやがて育って実をつけ、その実は本当に豆だった。沢山の豆のさやがドッサリと枝に出来たけれども、熟すまでには一年ほどかかる。
 でも、そんなことは些細なこと。ほんの一年、熟すのを待てばいいだけのこと。
 キャロブの種子はゆっくりと熟し、ついに収穫の時が来た。緑から黒い色に変わった豆のさや。それを採って、さやの中身の種を取り出して、乾燥させて。
 煎って粉末にすればキャロブパウダー。この粉末を原料にしてチョコレートやココアが出来る。
 見事に実ったキャロブの実。
 チョコレートもココアも、コーヒーまでもが合成品ではなくなった。
 代用品でも、まるで本物のチョコレートやココアのようだと評判のキャロブ。なにより合成品と違って農場や公園のキャロブの木から採れた食べ物。
 自然な味わいが美味しかったし、嬉しかった。
 ゼルのポケットからはチョコレート菓子も出るようになった。
 公園で子供たちと歌を歌いながら、楽しげにポケットを叩きながら。
 「ポケットの中にはチョコレートが一つ、ポケットを叩くとチョコレートは二つ」と。
 叩いてみる度、チョコレートは増える。
 ゼルを取り囲む子供たち全員に行き渡る分だけ、幾つも、幾つもチョコレートは増える…。



 今の今まで思い出しもしなかった、シャングリラのチョコレートの代用品。
 コーヒーもココアも同じものから代用品を作り出していた、手間要らずだったキャロブの木。
 ぼくはチョコレートとココアがお気に入りだったけど、ハーレイはコーヒーも好きだった。合成だった頃よりもいいと、風味豊かだと喜んでいた。
 ぼくには苦すぎて好きではなかったコーヒーという名の嗜好品。
 どうしても飲みたくなった時にはいつもミルクとホイップクリームたっぷり、砂糖もたっぷり。うっかり夜に飲んでしまって眠れなくなったことも何度もあって…。
 けれどハーレイが好きな飲み物だからと、挑戦していた。連戦連敗だったけれども。
 今では遠くて懐かしい日々となってしまった、苦労も多かったシャングリラでの日々。代用品のキャロブさえもが愛おしくなるほど、ぼくとハーレイは遠くへ来た。
 あの頃は死に絶えた星だったらしい地球が蘇り、その地球の上に二人で生まれて来た。
 まさかキャロブから出来た代用品のチョコレートバーを、懐かしく思う日が来るなんて…。
「ねえ、ハーレイ。なんでキャロブなんかのお菓子があるわけ?」
 本物のチョコレートがちゃんとあるのに。
 どうしてキャロブでわざわざ作って、代用品だなんて書いてあるわけ?
 ぼくは不思議でたまらなかった。本物のチョコレートで作った方が良さそうなのに…。
 そう尋ねたら、意外な答えが返って来た。
「そのキャロブが、だ。今やヘルシー食品らしいぞ」
「ヘルシー食品!?」
「ああ。俺もこの前、店で見かけて、不思議に思って調べてみたんだ」
 今の地球でキャロブなんぞを使う理由が無いからな?
 なのにどうやら代用品にするだけの価値がありそうな謳い文句だし…。
 そしたらヘルシー食品と来た。
 売れ筋の商品になってるらしいぞ、キャロブで作ったチョコレート菓子は。



 ぼくは目を丸くしてハーレイの解説を聞いていた。
 チョコレートよりも栄養価が高くて、カロリー低めのヘルシー食品。
 健康志向の人たちの間で人気の、キャロブを使ったチョコレート菓子。
 キャロブはカフェインを含まないから、ぼくたちはキャロブから作ったコーヒーにカフェインを加えていたというのに、そのカフェインが含まれない点もキャロブが好まれる所以だという。
「…なんだかビックリなんだけど…。代用品の方が人気だなんて」
「俺も驚いたんだがな…。前の俺たちは本物のチョコレートとかに憧れていたのにな?」
 実に変われば変わるもんだな、とハーレイは頭を振っている。
 本物のチョコレートを作り出せなかった、前のぼくたち。
 カカオを栽培するだけの余裕が無いからと、代用品のキャロブを植えたぼくたち。
 あれから長い長い時が流れたけれども、まさかキャロブが人気商品になっちゃったなんて。
 代用品です、って偉そうな顔をして、青い地球の食料品店の棚に並んでいるなんて…。
 人生、本当に分からない。
 ぼくもハーレイも、今が二度目の人生だけれど。
 こんな形でキャロブと再会を果たすことになるとは夢にも思っていなかった。
 前のぼくが知ったら、きっと仰天するだろう。
 あんなに色々と考えた末に作り出した代用品のキャロブが、青い地球の上で人気だなんて。



 ハーレイが買って来てくれたチョコレートバー。
 本物のチョコレートの代わりにキャロブを使ったチョコレートバー。
 パッケージに「チョコレートの代用品!」の文字が得意げに躍ったチョコレートバーを、二人で一個ずつ開けて齧ってみた。
 オレンジとかマカダミアナッツ入りとかもあったんだけれど、ごく普通のを一本ずつ。
(どんな味かな?)
 いつも食べてるチョコレートの味と違うかな、と頬張ったのに味はチョコレートと変わらない。食感も口の中で溶けた感じもチョコレートそのもの、何処が違うのか分からない。
(…あれれ?)
 チョコレートだよ、と首を捻りながら齧っていたら、ハーレイが自分のを指差して。
「おい、ブルー。お前、違いが分かるか、こいつの」
「ううん、全然」
 ぼくにはチョコレートにしか思えないけど。
 ハーレイはどう?
「俺にも分からん。普通のでこれなら、ナッツ入りとかだともう絶対に分からんな」
「ナッツなんかが入ってなくても分からないってば!」
 味の違いを見付けてみせる、と頑張ってみてもチョコレートの味。
 いつも食べてるチョコレートの味。
 本物のカカオ豆から作ったチョコレートと全く同じ味…。



 シャングリラで作っていた合成品のチョコレートと、キャロブで作ったチョコレートとの違いは食べたら直ぐに分かったのに。
 ゼルが「子供たちに合成品は食べさせたくない」と言い出したことは正しかった、と納得出来る味の違いがあったのに。
 合成品は何処か人工的な味。薬品の味がしていたわけではなくても、キャロブのチョコレートと食べ比べてみたら全く違った。キャロブのチョコレートを食べてしまったら、合成品なんか二度と食べたいとは思わなかった。
 それほどにキャロブのチョコレートが美味しかったから。
 代用品でこんなに美味しいのならば、本物のチョコレートはどれほど美味しいだろうと夢見た。
 アルタミラからの脱出直後は人類から食料を奪っていたから、本物のチョコレートを食べられる機会もあったけれども、そうした時代は過ぎてしまって自給自足のシャングリラ。
 遙か昔に栄養源として食べていた本物のチョコレートを思い出しては、もう一度食べてみたいと思った。キャロブのチョコレートよりも美味しい本物。カカオ豆で出来たチョコレートを。
 そういった夢を描いていたのに、なんという夢の結末だろう。
 ハーレイと二人、味覚を研ぎ澄ませて注意深く味わいながら食べ終えたのに。
 キャロブで出来たチョコレートバーと、本物のチョコレートの味の違いは分からなかった。
 味も食感も口どけさえも、キャロブのチョコレートバーはチョコレートとまるで変わらない。
 美味しいだろうと夢に見ていたカカオ豆のチョコレートと変わりはしない。
(…もしかして、これも地球のせいかな?)
 ぼくが寝込んでしまった時にハーレイが作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」。
 何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んで作ったスープ。
 その味が前の生で食べた時よりも、ぐんと美味しくなっていたから。
 ハーレイがレシピを変えたのだろうか、と尋ねてみたら「違う」と言われた。
 美味しく感じるのは地球で育った野菜のせいだと、地球の光と土と水との恵みなのだと。
 キャロブのチョコレートバーの味が本物のチョコレートと変わらないのも、やっぱり地球のせいなのだろうか…?



 そうかもしれない、という気がしたから、ハーレイにそれを言ってみた。
「地球で育つと何でも美味しくなるのかな? キャロブがチョコレートそっくりになるくらいに」
「そうかもなあ…。シャングリラのキャロブなら、本物との違いが出ていたかもな」
 地球の食べ物は実に美味い、とハーレイは嬉しそうに笑った。
「野菜も美味いし、肉だって美味い。前の俺たちが食ってたものとは、同じものでも別物だ」
「うん。シャングリラで食べてたものと比べたら、地球の食べ物は何でも美味しすぎだね」
 そもそも水の味からしたって違う。
 シャングリラの中だけで循環させては濾過して使った水と違って、いくらでも地球から湧き出す地下水。それに空から降り注ぐ雨。
 青く澄み切った水の星から生まれて来る水は、何もしなくてもそれだけで甘い。
(…本当に甘いわけじゃないけど…。お砂糖の味はしないんだけれど、やっぱり甘いよ)
 シャングリラで飲んでいた水とは違う。
 ソルジャーだったぼくの枕元には、特に念入りに仕上げた水を満たした水差しがいつも在ったのだけれど。喉を潤す度に心が満たされたものだけれども、地球の水には敵わなかった。



 だけど懐かしいシャングリラ。
 地球のように何もかもが美味しいという世界でなくても、ぼくたちの楽園だった船。
 ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
 そのシャングリラで食べていたのと同じ味がするキャロブのチョコレートバーだ、と遠い日々に思いを馳せたかったのだけれど。
 ハーレイと昔を懐かしみたかったのだけれど…。
 何でも美味しくしてしまう地球の魔法のせいなのかどうか、ただの美味しいチョコレートバー。
 代用品どころかチョコレートそのもの、違いさえ見付けられないキャロブ。
 地球という星はやっぱり凄い。
 代用品だった筈のキャロブも美味しく変えてしまうだなんて…。
(…ホントに凄い星だよね、地球は)
 前のぼくが焦がれた青い地球。
 ハーレイたちが辿り着いた時には死に絶えた星だったのに、蘇った地球。
 その地球にハーレイと来られて良かった。
 ハーレイと一緒に青い地球の上に生まれて来られてホントに良かった。
(…ハーレイ、ちゃんとキャロブも覚えていてくれたしね?)
 キャロブのチョコレートバーを買って来てくれたハーレイと一緒だから、ぼくは幸せ。
 本物のチョコレートとの違いはどうか、と食べ比べてくれるハーレイと二人で居るから幸せ。
 前のぼくまで覚えててくれる、ハーレイと二人いつまでも一緒だから…。




          チョコレート・了

※シャングリラでは代用品だった、キャロブで出来たチョコレート。合成品よりは、と。
 それが今ではヘルシー食品、本当に幸せな時代に生まれた二人です。
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「あっ…!」
「おっ、降って来たな」
 真上の空は真っ青に晴れているのに、突然の雨。大粒じゃなくて、霧みたいな小雨。
 庭で一番大きな木の下のテーブルと椅子に居たから、色づき始めた葉っぱが傘になって濡れないだろうとは思ったけれども、本降りになったら大変だから。
 遠くの空には少し雲もあるから、慌ててトレイを取りに走って、お茶のセットとケーキが載ったお皿を乗っけて、ハーレイと二人でぼくの部屋へと避難した。



 ティーカップとポットとケーキのお皿を部屋のテーブルに並べ終わって、トレイをキッチンまで返しに行って。
 それからハーレイと向かい合わせで座って、窓の向こうの不思議な雨を二人で見ていた。太陽が射して、家の上の空は青いのに。雲はずうっと遠くの方に浮かんでいるっていうだけなのに。
 時々、パラッと音のする小雨。霧みたいな小雨。天気雨だな、と思っていたら。
「ふうむ、狐の嫁入りか…」
 ハーレイが妙な言葉を口にした。
「キツネ?」
 何のことだろう、とハーレイの顔をまじまじと眺めた。ぼくが初めて聞く言葉。
「知らないのか? まあ、授業で教える範囲じゃないしな」
 こんな風に晴れているのに降る雨のことだ、とハーレイは青空から降る雨を指差した。
「昔の人は狐の嫁入りと呼んでいたらしい。俺も趣味で知っているという程度の話だ、うん」
「キツネって、動物の狐のこと?」
 ぼくは顔が長くて尻尾の大きい犬みたいな動物を思い浮かべた。
 動物園でしか見たことがない狐だけれども、キツネ色っていう言葉もあるから馴染みはあった。その狐かな、と思ったぼくにハーレイは「ああ」と笑顔を返した。
「そういう狐だ。今じゃ山とかにも住んでいるしな、動物園の中だけじゃなくて」
「なんで狐の嫁入りなの?」
 狐が何かは分かったけれど、嫁入りの意味が分からない。嫁入りって、お嫁に行くことだよね?
 どうして狐がお嫁に行ったら天気雨が降って来るんだろう?



 キョトンとするぼくに、ハーレイは「ずっと昔の言い伝えさ」と教えてくれた。
 SD体制が始まるよりも前の遠い遠い昔。
 地球が今みたいに青くて綺麗な星だった頃で、宇宙船なんかも無かった時代。
「そんな頃には気象衛星なんかも無いしな? もちろん科学も発達していなかったし、こんな風に晴れているのに雨が降るなんて、何故なのか分からなかったんだろう」
 今だと仕組みも分かっているんだが…。
 雨を降らせる雲が雨粒を落とした後で消えてしまうか、でなきゃ雨粒が遠くの雲から風に乗って飛ばされて来るかだな。
 この雨はあっちの雲からだろうな、と遠くの雲に目をやるハーレイ。
「そういう仕組みが分からないから、狐の嫁入りと呼んだんだ。ずっと昔にこの地域に住んでいた人たちは、狐には不思議な力があると信じていた。神様の御使いだとも思っていたそうだ」
 不思議な力がある動物の嫁入りだしな?
 普通じゃないことが起きても不思議じゃないよな、晴れているのに雨が降るとか。
「ふうん…」
 昔の人って想像力が豊かだったんだな、と感心した。
 不便なことも多かっただろうけど、本当の意味で地球と一緒に生きていた時代。
 文明が進み過ぎて地球を壊してしまった愚かな人たちより、賢かっただろう昔の人たち…。



 人が自然と一緒に暮らしていた時代に思いを馳せていたら、ハーレイが窓を軽く叩いて。
「こういった天気雨の他にも狐の嫁入りがあるんだぞ?」
「他にもあるの? それって、どんなの?」
 興味津々で尋ねてみたら。
「狐火ってヤツさ」
「キツネビ?」
 ぼくはその言葉も初耳だった。どんなものかも想像出来ない。
「狐の火と書いて狐火だ。火は燃やす火だ」
「…火なの?」
 ますますもって分からない。狐と火とが繋がらない。
 首を捻るぼくに、ハーレイは狐火とは何なのか、丁寧に説明してくれた。
 真っ暗な夜に、山や野原なんかに灯る火。灯りなんかは無い筈の場所に幾つも灯る火。
 火を灯す人間が居るわけないのに、沢山の火が行列みたいに闇の中を動いてゆくという。
「ずうっと昔は嫁入りは夜のものだったんだ。お前も提灯は知っているだろう? あれを灯して、花婿の家まで行列を組んで行くわけだ」
 それが人間の花嫁の行列。
 同じように狐が灯す狐火が行列するのが狐の嫁入り。尻尾の先に火を灯すのだとか、狐も提灯を持つのだとか。言い伝えは色々とあるらしいけれど、とにかく謎の灯りが狐火。
 狐の嫁入りという言葉だけを聞けば、ロマンティックな感じがするけど…。



「…なんだか怖いよ、そっちの嫁入り…」
 誰も居ないのに真っ暗な夜に火が灯るなんて、気味が悪くて怖すぎる。おまけに行列。何処かでウッカリ出会ったりしたらどうしよう、と背筋が冷たくなってしまった。
 動物園の狐は怖くないけど、狐の嫁入りはどうだろう?
 尻尾の火にしたって、提灯にしたって、出会った人間は無事に帰って来られるだろうか?
「おいおい、今の話が怖いってか?」
 ハーレイは呆れ顔をした。
「お前、元はソルジャー・ブルーだろうが。狐火なんかが怖くてどうする」
「前のぼくなら逃げられるけれど、ぼくは逃げられないんだよ!」
 シールドで隠れることも出来ない、と訴えたら「まあなあ…」とハーレイの頬が緩んだ。
「お前、サイオンはとことん不器用だしな。前と違って何も出来んし、仕方がないか…」
 いっそ狐に化かされてみるか、と笑われた。
 それも初めて知ったけれども、遠い昔には狐は悪戯をしたらしい。
 お金だと思って受け取ったものが葉っぱだったり、御馳走を貰って食べたら泥団子だったり。
 葉っぱや泥団子はまだマシだけれど、狐のお風呂だけは嫌だと思った。
 昔の人たちが肥料にしていた、なんと人間の排泄物。それを田畑の隅に作った肥溜めという名の大きな器に入れていたらしい。その肥溜めが狐のお風呂。
 立派なお屋敷で「お風呂にどうぞ」と勧められて入って、いい湯加減だと喜んで。気が付いたら肥溜めに浸かっていたというから恐ろしい。
 ぼくはお風呂が大好きだけれど、狐のお風呂だけは絶対に嫌だ。



 狐火どころか、葉っぱのお金に肥溜めのお風呂。
 とんでもない悪戯もあったものだ、と狐が持つという不思議な力を考えていて。
「ハーレイ…。狐って、サイオン、あったんだ?」
「サイオン?」
「うん。…サイオンがあったら狐火も出来るし、人間も化かせると思わない?」
 狐火はサイオンで灯す明かりで、化かす方はサイオニック・ドリームなんだよ。
 今のぼくはどっちも出来ないけれども、前のぼくなら簡単だったよ?
「ふうむ…。そいつは全く考えた事も無かったな」
 だがサイオンなら謎が解けるな、とハーレイは「うーむ…」と唸ってから。
「だとすると、だ。…前の俺たちは頑張ってナキネズミを作り出したが、そんな苦労をしなくても狐を使えば良かったのかもな」
「大きすぎだよ! 狐だと肩に乗せられないよ!」
 ナキネズミは自分の肩に乗せたり、上着の胸元に入れたりして側に置いておくもの。
 思念波の中継をさせるために身近に置く生き物だし、狐じゃサイズが大きすぎ。飼い犬みたいにリードをつけて連れ歩くなんて、ちょっと目的から外れてしまう。
 そんなサイズじゃ、ジョミーにだって簡単に渡せはしなかっただろう。アタラクシアの遊園地の檻からは出すことが出来たとしても、シャングリラまで連れて来られたかどうか…。
 ナキネズミの代わりにするには大きすぎる狐。でも、サイオンはあるかもしれないから。
「大きすぎるのは困るけれども、前のぼくたちが狐の昔話を色々と知っていたなら、もっと簡単にナキネズミを作れていたかもね?」
「まったくだ。…もっとも、狐にサイオンがあったら、の話だがな」
 生憎と話し掛けられたことはないな、とハーレイが笑う。ぼくにもそういう経験は無い。
 動物園の狐には何度も会っているけど、キツネ色をした普通の生き物。
 ホントにサイオンを持っているなら、とっくに話題になっているよね…?



 天気雨はいつの間にかすっかり止んでいた。雨の落ちて来ない青空が広がっている。けれど庭に戻るには、またティーセットやお皿を運ばなくてはならないから。ケーキも食べてしまったから、そのままぼくの部屋のテーブルで過ごすことになった。
 天気雨を降らせていたらしい雲が消えてしまった空を眺めて、ハーレイに訊く。
「雨は止んだけど…。さっき狐がお嫁に行ったの?」
「昔の伝説を信じるのならな」
 嫁入り先に着いたんだろうさ。でなきゃ俺たちの町の上を通り過ぎて行ったか、どっちかだ。
「…いいな、狐は…」
 羨ましいな、と空を見上げていると、ハーレイが「どうした?」と首を傾げた。
「狐はサイオンが使えそうだからか? 今のお前よりも遙かに器用そうだしな」
「そうじゃなくって…。お嫁に行けるからいいな、って言った」
 ぼくはお嫁に行けないのに、と呟いてみたら。
「お前、まだ結婚も出来ない年じゃないか。十八歳にならんと無理だろうが」
「だけど狐が羨ましいよ…」
 ホントにいいな、と嫁入り行列が通って行ったらしい青い空を見る。
「それに嫁入りなら、ぼくにブーケをくれればいいのに」
 狐の花嫁のブーケでもいいから欲しかった。
 花嫁が投げたブーケを貰えば、次の花嫁になれると言うから。
 少しでも早く、ハーレイと結婚したいから…。
 そう思ったから、ブーケが欲しいと言ったのに。



「狐の嫁入りにブーケだと?」
 それは違うぞ、とハーレイに間違いを指摘されてしまった。ハーレイは古典の教師だから。
 趣味で知ってる話だとはいえ、誤った考え方は正さずにはいられないらしい。
 狐の花嫁の衣装は白無垢とやらで、ブーケなんかは持たないって。
 せっかく狐の嫁入りに遭遇したのに、ぼくは狐の花嫁の幸せにあやかることが出来ないらしい。
「そっか、ブーケは持ってないんだ、狐の花嫁…」
 とても残念だったけど。
 空からブーケが降って来なかったのも残念だけど…。
 だけど、と少し考えてみた。
 ハーレイとぼくの結婚式。いつか必ず挙げる日が来る結婚式。
 ぼくは真っ白なウェディングドレスを着るんだとばかり思っていた。どんなデザインにするかは決めていないけど、純白のドレスとベールと、花嫁のブーケ。
 そういう姿を思い浮かべていたんだけれども、白無垢っていうのもいいかもしれない。
 だって、ハーレイは紋付と袴も似合いそうだから。
 スーツと普段着の他には柔道着のハーレイしか見たことがないけど、きっと似合うと思うから。



 白無垢のぼくと、紋付に袴のハーレイと。
 そんな結婚式もいいな、と嬉しくなって提案してみた。
 ドレスは女の人しか着ない服だから、ちょっぴり悩んでいたんだけれど。
 白無垢だったら着物なんだし、ドレスみたいに女性限定っていうものでもないし…。
 とても素敵な思い付きだと喜び勇んで言ってみたのに、こんな返事が返って来た。
「俺は一向にかまわんぞ。…ただしだ、それだとお前の夢の一部が叶わないんだが?」
「えっ?」
 夢の一部って何だろう?
 叶わないと聞いて不安になったぼくに、ハーレイはニヤリと笑って言った。
「お前、お姫様抱っこが憧れだろうが? 白無垢の花嫁を抱いて家には入らんぞ」
「そうだったの!?」
「うんと昔からそういう決まりだ。白無垢の花嫁は自分で歩いて入るんだ」
「……そうなんだ……」
 それはとっても困ってしまう。
 パパとママとの結婚写真のお姫様抱っこに憧れてるのに…。
 ぼくがタキシードだと結婚記念のあの写真がサマにならないと分かっているから、ウェディングドレスを着ようと決心してたのに…。
 白無垢にするなら女の人限定の服を着なくて済んで、お姫様抱っこで記念写真。
 そう思ったのに、白無垢にしたらお姫様抱っこは付かないだなんて…。



 壁にぶつかってしまった、ぼく。
 女の人限定のウェディングドレスでお姫様抱っこか、お姫様抱っこは付いてこないけれど、女の人限定じゃない着物の白無垢にしておくか。
 いったいどっちがいいんだろう、と頭を悩ませていたら、ハーレイが声を掛けて来た。
「お姫様抱っこの記念写真が要らないんだったら白無垢もいいと思うがな? 記念写真にそんなにこだわらなくても、お姫様抱っこは後でいくらでもしてやれるからな」
 お望みとあらば毎晩でもだ、とウインクされる。
 そういえば前の生では何度もベッドに運んで貰った。強い腕で抱き上げて運んで貰った。
(そっか、写真が無いっていうだけなんだ…)
 お姫様抱っこは何回、ううん、何百回だってして貰える。
 でも結婚式は一度きりだし、おまけに記念写真だって残る。
(…記念写真でウェディングドレスかあ…)
 女の人限定のドレスで写真に写ったぼく。悪くはないけど、ぼくも一応、男だし…。



「うーん…」
 白無垢の方にしておこうかな、とハーレイに尋ねてみることにした。
「それなら少なくとも女装なんです、って感じはしないよね? ハーレイと同じで着物なんだし」
 紋付と袴でも着物は着物。
 だから白無垢、と言ったんだけれど。
「…お前なあ…」
 ハーレイがフウと大きな溜息をついて。
「白無垢は立派な女装なんだぞ、あれは花嫁しか着ない」
「ええっ!?」
「しかしお前には似合うかもなあ、白無垢で綿帽子なんかを被ってな」
 そうしないか? と訊き返された。
 ウェディングドレスよりもいいかもしれん、と真顔で言われた。そう言うハーレイだって紋付と袴がとっても似合いそうだから。
「いいかもね。ハーレイもきっと、紋付、似合うよ」
「おっ、そうか? そう思うか?」
 白無垢と紋付袴もいいな、とハーレイがぼくの大好きな笑顔になった。
 そういう衣装で結婚する人は珍しいけども、古典の教師としては憧れるのだ、と。



 ウェディングドレスにしようか、白無垢にしようか、結婚式の衣装の選択肢が増えた。
 これってちょっぴり前進したって言えるかな?
(ぼくの背は伸びてないんだけどね…)
 未だに百五十センチから一ミリも伸びてくれない背丈。
 ハーレイと出会った五月の頃から少しも伸びてくれない背丈。
 部屋にあるクローゼットに付けた前のぼくの背丈を示す印はまだまだ遠くて、結婚式なんて夢のまた夢、いつになるかも分からない状況なんだけど…。
 それでも少しだけ前に進んだ。
 ウェディングドレスか、白無垢にするか、悩める分だけ前に進んだ。
 ぼくが着るものも気になるけれども、ハーレイの衣装だってとても気になる。
 タキシードのハーレイはきっと、キャプテンだったハーレイみたいにかっこいい姿に違いない。
 紋付袴だと、キャプテンよりも貫録たっぷりになりそうだ。
 どちらのハーレイも捨て難いから、ハーレイが着る衣装の分まで併せて悩むことになる。
 ウェディングドレスを着ることにするか、白無垢を着て式を挙げるか。
 どっちでも女装になってしまうんなら、ホントのホントに決め難いんだよ…。



 狐の花嫁はぼくにブーケを投げてくれる代わりに蘊蓄をくれた。
 ハーレイに教えて貰った狐の嫁入り。
 天気雨の嫁入りと、狐火を幾つも連ねる嫁入り。
 狐が人を化かす話も初めて聞いたし、不思議な力を持つという言い伝えだって知らなかった。
 SD体制が敷かれるよりもずっと昔の、人が自然の中で暮らしていた時代の狐の伝説。素敵だと思う話もあったし、背筋が寒くなる話もあった。狐火の方の嫁入り行列は出会いたくない。
 それから狐のお風呂も嫌だ。
 ハーレイは「安心しろ。今の時代の田畑に肥溜めは無いぞ」なんて言うけど、嫌なものは嫌。
 サイオンがとことん不器用なぼくは、騙されてしまいそうだから。
 気が付いたら狐のお風呂に入ってました、なんていう情けないことにはなりたくないから…。



 狐の花嫁の嫁入り行列に出会ったお蔭で、少し知識が増えたぼく。
 古典の授業で習う範囲ではないらしいけれど、こういう蘊蓄は嫌いじゃない。遙かな昔の地球で生きていた人たちの話は、前のぼくが焦がれた母なる地球から人への恵みそのものだから。
 青い水の星が在ったからこそ、自然の中でしか生まれない話が幾つも伝わったのだから…。
 狐の花嫁がくれた蘊蓄。
 それともう一つ、白無垢っていう考えてもみなかった結婚式の衣装の選択肢。
(……白無垢かあ……)
 真っ白な絹の着物に、ハーレイのお勧めの綿帽子。
 ウェディングドレスだとデザインだけでも山のようにあって選ぶのが大変だけれど、白無垢だとデザインは悩まなくていい。ハーレイは「その分、別の所で悩むらしいぞ?」なんて言うけれど、どうせ真っ白。色の違いとか刺繍の柄とか、裏地の色とか、悩まなくてもいいんじゃないかな。
 悩むんだったら、其処はハーレイに任せておこう。
 模様の意味とかも詳しそうだし、ハーレイがうんと悩めばいい。
 ぼくはハーレイが選んでくれるだけで幸せ、それを着てハーレイと結婚出来ることが幸せ。
 ウェディングドレスなら、ぼくも見た目で選んだり出来るし、二人で選びたいけれど。
 白無垢にするならハーレイに任せて、選んで貰ったのを着るだけでいいよ…。



 そう思ったから、「選んでくれる?」って訊いてみたら。
「任せろ、先達もちゃんと居るしな」という思いもよらないハーレイの返事。
 先達って誰のことだろう?
 まさかさっきの狐じゃないよね、と尋ねて爆笑されてしまった。
(……だって、狐かと思うじゃない!)
 話の流れからして狐だと思っても仕方ないよ、と主張したけど、ハーレイは笑い続けてた。
 ぼくが狐だと勘違いをした先達はハーレイのお母さんだった。
 ハーレイのお父さんとお母さんは紋付袴と白無垢で結婚式を挙げたんだって。
 隣町の庭に大きな夏ミカンの木がある家に住んでいる、ハーレイのお父さんとお母さん。
 いつかハーレイのお嫁さんになるぼくのために、と手作りのマーマレードをくれた人たち。
 そんな優しい人たちが先達だったら、白無垢もいいかな、と思ってしまう。
 でも…。



(…お姫様抱っこも捨て難いんだよね…)
 ぼくのパパとママの結婚写真は、ウェディングドレスのママをパパが両腕で抱っこした写真。
 他にも何枚か飾ってあるけど、お姫様抱っこの写真がぼくの憧れ。
 だからウェディングドレスを着ようと思った。女装でもいいから着ようと思った。
 ハーレイにお姫様抱っこをして貰って素敵な写真を撮ろうと、それを飾っておくんだと。
(…でも白無垢だと、ハーレイが紋付袴になるしね?)
 柔道着のハーレイは貫録があるから、紋付袴だともっと素敵に違いない。
 それに古典の教師としては、白無垢に綿帽子のぼくとの結婚式が憧れらしいし…。
(ぼくの憧れがお姫様抱っこで、ハーレイの憧れの白無垢だとお姫様抱っこは付かなくて…)
 ハーレイの憧れを優先すべきか、ぼくの憧れを貫くべきか。
 それに衣装も全く違う。
 ウェディングドレスとタキシードにするか、白無垢と紋付袴にするか。
 決め難いなんてレベルじゃなくって全く別物、衣装ごとコロッと別物だなんて…。



 狐の花嫁が着ていた白無垢か、狐の嫁入りに出会う前から考えていたウェディングドレスか。
 どっちにしようか、どれを着ようか、ぼくとハーレイとの結婚式。
(…んーと、えーっと…)
 ハーレイはニヤニヤ笑っているけど、直ぐに答えは出やしない。
 笑って見ているハーレイにだって、これだと決めてる答えなんかはまだ無いと思う。
(だって、キスさえまだなんだよ?)
 百五十センチから少しも伸びないぼくの背丈がちゃんと伸びるまで、先はまだまだ長そうで…。
(…悩む時間だけは山ほどありそうで困るんだよね…)
 結婚式に何を着るかというだけじゃなくて、きっとこれからも沢山悩む。
 パパとママとに「結婚したい」っていつ言うのかとか、婚約と結婚をいつにするかとか。
 婚約したってきっと悩むよ、どんな結婚式にするかを。
 何処で式を挙げて、新婚旅行に何処へ行くかも、きっとハーレイと二人で悩む。
(だけど、全部が幸せなんだよ)
 どんなに沢山悩んだとしても、悩むことが出来るのが幸せの証拠。
 前のぼくには出来やしなかった結婚式。
 結婚したいと夢見ることさえ叶わなかった前のぼくたち。
 今度はハーレイと幸せになれるよ、青い地球の上で結婚式を挙げて。
 狐の花嫁のブーケは貰えなかったけれども、今度こそ幸せになれるんだから……。




          天気雨・了

※狐の花嫁のブーケが欲しかったブルーですけど、貰ったものは薀蓄でした。
 ウェディングドレスか、白無垢にするか。幸せな悩みが増えたみたいですね、花嫁衣装。
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「…ハーレイっ…!」
 自分の泣き声で目を覚ました。
 常夜灯しか灯っていない真夜中の自室。涙に滲んだ瞳に映った夜更けの部屋が心細い。
(……まただ……)
 ブルーは右手をキュッと握った。
 ここ数日、毎晩メギドの悪夢を見る。前の生での、ソルジャー・ブルーだった頃の自分の最期をそっくりそのまま再現する夢。
 忌まわしい青い光が溢れる場所で何発もの弾を撃ち込まれ、夢だというのに激しい痛みを堪える間に大切なものを失くしてしまう。右手に残ったハーレイの温もり。最後にハーレイの腕に触れた右の手に持っていた筈の、最期まで持っていたいと願った恋人の温もりを失くしてしまう。
 その温もりさえあれば一人ではないと、一人きりで死んでゆくのではないと思っていたのに。
 一人ではないと思っていたのに、ブルーは独りぼっちになる。
 ハーレイの温もりを失くして凍えた右の手。冷たくなってしまった右の手。
 もうハーレイと一緒ではなくて、ただ一人きりで、独りぼっちで死んでゆくだけ。その悲しさに泣きじゃくりながら、独りぼっちになってしまったと泣きじゃくりながら…。



(また…)
 あの夢はもう見たくないのに。
 たまに見はしても、ここまで立て続けに見てしまうことはもう長いこと無かったのに。
(…これのせいだ)
 上掛けから出てしまっていたらしい右の手が冷たい。昨夜も、その前の夜もそうだった。夜中に急に冷えるのだろうか、冷たくなってしまった右手がメギドの悪夢を運んで来る。同じように手が冷たかった時の記憶がブルーの夢に忍び込んでくる。
「冷たいよ、ハーレイ…」
 手が冷たいよ、と涙交じりに呟いてみても、温めてくれる手は何処にも無かった。
 青い地球の上にハーレイと二人で生まれ変わって、再び巡り会うことが出来たけれども。右手が冷たいと訴える度にハーレイは大きくて温かな手で包んでくれるし、訴えなくともキュッと握ってくれたりするのに、その温かい手が此処には無い。
 今、温めて欲しいのに。
 メギドの悪夢で目覚めてしまった心細い闇の中だからこそ、ハーレイに温めて欲しいのに。
「…会いたいよ、ハーレイ…。独りぼっちになっちゃったよ、ぼく…」
 そう、本当に独りぼっち。
 家には両親も居るのだけれども、二人とも別の部屋のベッドで眠りの中。幼い子供ならベッドにもぐり込んでも可笑しくはないが、ブルーの年では「怖い夢を見たから」ともぐり込めない。前の生での恐怖を訴えたならば、両親は受け止めてくれそうだけれど…。
(…だけど心配させたくないよ…)
 そう思うから独りぼっちで耐えるしかない。辛くても堪えて眠るしかない。
(ハーレイなら分かってくれるのに…)
 けれどハーレイは此処には居ない。
 こんな夜中にハーレイは家に来てはくれない。
 せめてハーレイと話したくても、そのための思念を紡げはしない。連絡を取るには専用の機器が必要。
 遠い遠い昔、SD体制が始まるよりも前の時代には、確か携帯端末と言ったか、いつでも自由に話をしたり出来る道具があったらしいが、その類の機器は今は無い。利便性と引き換えに失う物が多すぎたとかで、時の彼方に消えてしまった。
 それを作らない理由は分かる。作るべきではないことも分かる。
 分かっているのに、考えずにはいられない。それがあったなら、今、眠っている筈のハーレイを起こして夜明けまででも話せるのに、と。



 二度と見たくないメギドの夢。
 ハーレイの温もりを失くして独りぼっちで死んでゆく夢。
 その夢が毎夜襲って来るのに、ハーレイは家に来てくれなかった。学校の仕事で遅くなるのか、平日の夜に訪ねてくれる日が一度も無かった。たった五日間の平日だけれど、ブルーには長い。
 五日間もメギドの夢を見続け、夜毎目覚めたブルーにはあまりにも悲しくて長すぎた。
 悲しくて、寂しくて、夜が来る度に独りきりで泣いたブルーには長すぎた五日間だったから。
 やっとハーレイが来てくれた週末、抱き付いて、膝に座って甘えた。会えなかった五日間の分を取り戻すかのように、その間の悲しみと寂しさを癒すかのように。
 初めの間は気付かなかったハーレイだったが、昼食の後も食後のお茶のカップを放って膝の上に乗って来たブルーにギュッと抱き付かれて「おかしい」と思う。
「どうした? 今日は甘えん坊だな」
 問われたブルーはハーレイの服をキュッと握って。
「…右手…」
「右手?」
 その言葉だけでハーレイには何が起こっているのか分かった。
 ブルーが前の生の最期に失くしたという右の手に残ったハーレイの温もり。右の手が冷たいと、凍えてしまって冷たいのだと訴える時のブルーは悲しみと寂しさの只中に居る。
 前の生での悲しすぎた最期の記憶に囚われてしまい、不安の中で揺らいでいる。
 ハーレイは自分の胸にぴったりと身体を寄せているブルーの小さな背中を優しく撫でた。
「…右の手か…。お前、長いこと、落ち着いてたのに。…何かあったのか?」
 学校で嫌なことでもあったか、と訊かれてブルーは「ううん」と首を微かに振った。
「そうじゃない。そうじゃなくって…」
 ハーレイに言おうか、どうしようか。
 言ってもどうにもなりはしないし、黙っていようかとも考えたけれど。
 それでは却って心配させることになるかもしれない。
(…ただの夢なんだよ…)
 たかが夢。
 夢だけれども、ブルーにとっては恐ろしすぎるメギドの悪夢…。



 打ち明けるか否か、ずいぶん迷った。
 ブルーをメギドに行かせたことをハーレイは今も後悔している。
 そのメギドの悪夢が自分を苛むのだ、と話したならばハーレイもきっと苦しむだろう。けれど、理由を明かさなければハーレイは悩む。何がブルーを苦しめるのかと、心を痛めるに違いない。
 どうするべきかと考えた末に、ブルーはポツリと口にした。
「…ぼくの寝相が悪いだけだよ…」
「寝相?」
 怪訝そうな顔のハーレイの胸に頬を擦り寄せ、右の手でキュッと縋り付く。
「…寝てる間に右手が出ちゃうと夢を見るんだ…。ぼくの右手が冷たくなる夢」
「メギドか…。もしかして毎晩なのか?」
「うん。…今週に入ってから、ずっと毎日」
 打ち明けたら堰が切れたかのように涙が一粒零れて、ポロポロと続いて転がり落ちた。頬を伝う涙が止まらない。ハーレイの服が濡れてしまうと分かってはいても、止められない。
「怖いよ、ハーレイ…。怖くてたまらないんだよ…」
「泣くな、ブルー。泣くんじゃない」
 俺は此処に居る。
 お前は独りぼっちじゃないんだ。俺と一緒に地球に来たんだろう?
 俺と幸せになるんだろうが?
 何度も繰り返し耳元で言われて、背中を、頭を大きな手で撫でられて、涙が伝う度に褐色の指で頬を拭われて…。
 ようやっとブルーの涙は止まって、ハーレイの胸に身体を預けた。
 ハーレイが其処に確かに居ると心に刻むかのように、赤い瞳で鳶色の瞳を見上げながら。



「落ち着いたか? ブルー」
 大丈夫だからな、とハーレイはブルーの小さな身体に腕を回して抱き締める。
「俺は此処に居るし、お前だってちゃんと生きているんだ。メギドはもう遠い昔のことだ」
「…うん…」
 うん、と頷くブルーの怯えはそれでもハーレイに伝わって来た。
 またあの夢を見るのではないかと、そして怖くて悲しくて泣く夜が襲って来るのではないかと。なんとか救ってやりたいけれども、夢まではどうしようもない。ただ…。
 ブルーが悪夢を見続けるようになった原因。それが何かは見当が付くから。
「この所、夜中に急に冷えたりするからな…」
 手袋をはめて寝てみたらどうだ?
 そうすれば上掛けの外に出ちまっても冷たくなったりしないだろう。
「試してみる価値はあると思うぞ、何もしないよりは解決策を考えないとな?」
「…そっか、手袋…」
 気が付かなかった、とブルーは笑みを浮かべた。
 右手が冷えるせいで悪夢を見るなら、冷やさなければ見ずに済む。
「凄いね、ハーレイ。そんな方法、ぼくだと思い付かないよ」
 打ち明けて良かった、と喜んだブルーだったけれど。
 ハーレイが教えてくれた手袋は効果を発揮してくれず、悪夢は再び襲って来た。どうやら夜中に暑く感じてしまうらしくて、泣きながら目覚めれば手袋を外してしまっている。
 メギドの悪夢は夜毎に訪れ、自分の泣き声で目が覚める日々。
 学校帰りに来てくれたハーレイにブルーは抱き付いて甘え、離れようとはしなかった。
 夕食前にブルーの部屋で過ごす時間は、母は決して部屋に来ないから。
 ハーレイは「そうか、手袋でも防げんか…」とブルーの右手を温めながら辛そうに溜息をつく。
 気温が落ち着いてきたら治るのだろうが、それまでの間をどうしたものか、と。
 まだ暫くは落ち着きそうもないし、神経が参ってしまわねばいいが…、と。



 その週末の土曜日も、ブルーは母がテーブルに紅茶とお菓子を置いて出てゆくなり、ハーレイの膝の上に座って甘え始めた。心臓の辺りに頬を寄せれば確かな鼓動が伝わって来る。何にも増して生の証を感じられる音。規則正しく脈打つ心臓の音にブルーが耳を傾けていれば。
「お前にこうしてくっつかれるのも悪い気分ではないんだが…」
 ハーレイの手がブルーの銀色の頭をクシャリと撫でた。
「どうにもお前が可哀相でな」
 ほら、とハーレイのもう片方の手が小さな紙の袋を差し出す。
「なに?」
 キョトンとするブルーに、「開けてみろ」とハーレイが微笑んだ。
「医療用のサポーターっていうヤツだ」
「…サポーター?」
 首を傾げつつブルーが開けた袋の中から指無し手袋に似たものが出て来た。包帯のように白くて薄い生地で出来たサポーター。それをハーレイが指差しながら。
「こいつは手の指を自由に動かせる。そのくせに、手のひらをしっかりガードしてくれるんだぞ。お前の右手にはめてみろ」
「右手?」
 ブルーは言われるままにそれを右手にはめてみた。
(あっ…)
 薄い生地なのに、手のひらをギュッと握られているような感じがする。
 それに暖かい。
 この感覚を知っている、とブルーは思った。懐かしくて恋しくて、温かくて優しい。
「どうだ? 手袋よりはマシそうか?」
 ハーレイの手がサポーターをはめたブルーの右手をそっと包んだ。
「俺がお前の手を握る時くらいの力加減で作って貰った。そういう注文も出来るんでな」
「…そうなんだ…。ハーレイの手に似てると思ったけど、おんなじなんだ?」
「ああ。寝る時にはめてみるといい。これでお前が眠れるといいな」
 医療用だから、手袋と違って通気性とかもいいからな。
 寝ている間に暑くて外しはしないだろう。
「うん。…うん……」
 ブルーはサポーターを何度もはめたり外したりして確かめた。外している間にハーレイが握ってくれる手の感覚と変わらないことを、全く同じ力加減であることを…。



 ハーレイと二人で土曜日を過ごして、夕食はブルーの両親も一緒に食卓を囲んだ。食後のお茶をブルーの部屋で飲んだ後、ハーレイは「また明日な」と軽く手を振って帰って行って。
 ハーレイの手を思わせるサポーターを貰ったブルーは、眠る前にそれを右の手にはめた。
(…ふふっ)
 其処にハーレイの姿は無いのだけれども、あの大きな手に右の手を握られている感覚。
 右手が冷たいと訴えた時に握ってくれる手と同じ感覚。
(…ハーレイの手だ…)
 見た目にはただのサポーターだけれど、ハーレイの手が握る力を再現したもの。
 ハーレイがブルーのためにと注文してくれたサポーター。
 これがあれば夢を見ない気がする。
 メギドの悪夢を見ずに眠れるような気がする…。
(…そうだといいな)
 見ないといいな、とブルーはベッドに入って部屋の明かりを消してみた。
 常夜灯だけが灯った部屋。
 昨日までは怖く感じた夜の暗さが、今夜はそれほど気にならない。
(ハーレイの手があるからだよ、きっと)
 右手をキュッと握ってくれているサポーター。
 此処には居ないハーレイの代わりに、ブルーの右手を握ってくれるサポーター。
 ハーレイが注文して作ってくれた。
 ブルーのためにと、側に居られない自分の代わりにブルーの右の手を握るようにと、ハーレイが持って来てくれた。
 心がじんわりと暖かくなる。幸せで涙が出そうになる。
 きっと今夜は大丈夫。
 今夜こそ、きっとメギドの悪夢を見なくなる…。



 いつの間にか眠ってしまったブルーだったけれど、気付けばやはりメギドに居た。
 夢の中のブルーは夢だと認識していないから、悲劇はまたしても繰り返す。
 容赦なく撃たれ、痛みのせいで右手から消えてゆくハーレイの温もり。
(嫌だ、ハーレイっ…!)
 失くしたくない、とブルーは心の中で叫んでいるのに、シールドで弾を防いでいるのに。
「これで終わりだ!」
 キースの勝ち誇った声と同時に発射された弾がシールドを貫き、右の瞳に走った激痛。真っ赤に塗り潰された視界と激しい喪失感。
 それが何処から来るものなのかを考えている余裕は無かった。
 止めなければ。何としてもメギドを止めなければ…!
 サイオンを自ら暴走させてバースト状態に持って行った後は、死を待つだけ。
 地球の男は逃がしてしまったけれども、メギドは遠からず崩壊する。
(ジョミー…! みんなを頼む)
 これでいい。自分の役目は終わったのだ、と安堵した途端に思い出した。
 ハーレイの温もりを失くしてしまった。
 右の手に確かに持っていた筈の、失くしたくないと叫んでいた筈のハーレイの温もり。
(…あの時に失くした…)
 視界が真っ赤に塗り潰された時に感じた喪失感。あの時に温もりを失くしてしまった…。
「…ハーレイっ…!」
 嫌だ、とブルーは叫んだ。
「嫌だ、ハーレイ…! ハーレイっ…!」
 独りぼっちで逝きたくない。こんな所で独りぼっちで死んでしまうなんて…!
「ハーレイっ…!」
 もう会えない。二度と会えない。
 あの温もりさえ失くさなかったら、ハーレイと一緒だったのに。
 一緒に死ぬというわけではなくても、何処までも一緒に居られたのに…。



「…ハーレイっ…!」
 無駄だと分かっていても泣き叫ぶことは止められなくて。
 もう終わりだと、これで全てが終わりなのだと泣きじゃくるブルーの右手を誰かが強く握った。
(えっ…?)
 此処には自分しか居ない筈なのに、と右側を見れば。
「ハーレイ…?」
 忘れようもない褐色の肌の恋人。
 居る筈がないハーレイが微笑みながらブルーの右手を握っていた。
 ブルー、と名前を呼ばれた気がした。
「ハーレイっ…!」
 どうして此処へ、と問う前にハーレイの姿は消えてしまったけれども、右の手に残された確かな温もり。失くしてしまった筈の温もり。
(…ハーレイが届けに来てくれたんだ…)
 どうやってシャングリラから来られたのかは分からないけれど、ハーレイは此処に来てくれた。
 思念体でも、幻であってもかまわない。
 ハーレイが此処まで温もりを届けに来てくれた、それだけが分かっていればいい…。
(…温かい…)
 こんなにも温かかったのか、と遠くシャングリラに居る恋人を想う。
 あの手はこんなにも温かかったかと、こんなにも優しく強かったのか…、と。
(…ハーレイ…。ぼくは一人じゃないよ)
 君が来てくれたから一人じゃないよ、とブルーの瞳から涙が零れた。
 悲しみが流す涙ではなくて、幸せから溢れ出す涙。
 独りぼっちで死ななくてもいい。
 ハーレイが来てくれたから、もう一人ではない。
(…ありがとう、ハーレイ…。これでもう独りぼっちじゃないよ)
 いつまでも、何処までも一緒だから。
 君がくれたこの温もりを抱いて、ぼくは幸せに眠れるから。
 ありがとう、ハーレイ。
 君といつまでも一緒だから…。



(ハーレイ…?)
 右の手に戻って来た温もりを大切に抱いて、いつ眠ったのか。
 目覚めれば、自分の部屋に居た。青の間ではなくて、地球の上に在る十四歳の自分の部屋。
(…ハーレイ…?)
 悪夢だったけれど、泣きながら目覚めずに済んだ夢。
 ハーレイの温もりが戻って来た夢。
 何故、と夢の中で温もりが戻った右手をそうっと持ち上げてみて。
(……サポーター……)
 暗くてよくは見えないけれども、その手にはめられた白くて薄い生地のサポーター。
 ハーレイがくれた、ハーレイが手を握ってくれる力を再現したというサポーター。
(…これが届けに来てくれたんだ…)
 ハーレイを連れて来てくれたんだ、とブルーはサポーターをはめた右手に頬ずりをした。
 失くした筈の温もりを届けにメギドまで来てくれたハーレイ。
 そのハーレイを連れて来てくれたサポーター。
 あれは夢でも幻でもなく、本当に本物のハーレイだった。
 ハーレイの想いを、ハーレイの気持ちを届けるために形を取って現れたハーレイの心。
 それを運ぶ役目を託されたものが、このサポーター。
 ブルーのためにとハーレイが注文して作ってくれたサポーター…。
(…これのお蔭でハーレイに会えたよ、メギドの夢で)
 ハーレイは温もりを置いて行っただけで消えてしまったけれども、泣かずに済んだ。
 優しくて温かい温もりが戻って来たから、泣かないで済んだ。
(幸せだったから泣いちゃった分は、泣いた内には入らないよね?)
 悲しみではなく、幸せで瞳から零れた涙。
 ハーレイの温もりを抱いて、幸せなままで永遠の眠りに就く夢。
 そんな夢は今までに一度も見たことが無い。
 メギドの悪夢が幸せの中で終わったことなど、ただの一度も無かったのに…。
(これのお蔭だよ)
 ハーレイが来たよ、とブルーはベッドの中で微笑む。
 サポーターをはめた右手を何度も撫でながら、柔らかな頬を擦り寄せながら…。



 そうして知らぬ間に眠ってしまって、目を覚ましたら朝だった。
 ハーレイが訪ねて来てくれる日曜日の朝。
 ブルーの右手を朝までしっかり守っていてくれたサポーターをくれた、ハーレイが来る日。
 苛まれ続けた悪夢が途切れたお蔭だろうか、朝からとても気分が良くて。
 ブルーは張り切って部屋を掃除し、ハーレイが訪ねて来るのを待った。今か今かと部屋の窓から庭の生垣の向こうに見える通りを見下ろし、見付けた影に大きく手を振る。
 もうサポーターは外したけれども、夢の中でハーレイが握ってくれた右手を。
 やがて母に案内されたハーレイがブルーの部屋を訪れ、お茶とお菓子が載ったテーブルを挟んで二人で向かい合いながら、ブルーは笑顔で報告した。
「ハーレイ、サポーター、ありがとう! ぼくの夢の中にハーレイが来たよ」
「メギドの夢にか?」
「うんっ!」
 嬉しそうに答えるブルーに、ハーレイが「そうか」と頷いて尋ねる。
「…それで、俺はお前を救えたのか? お前をメギドから助けられたか?」
「ううん、そこまでは無理だったけど…。でも嬉しかった」
 ハーレイの温もりが戻って来たよ。
 ぼくが失くしたのを、ハーレイがちゃんと届けに来てくれたよ。
 だから、独りぼっちで死ななくて済んだ。
 ハーレイがくれた温もりをちゃんと抱き締めて、幸せなままで眠ったんだよ…。



「そうか…。あれを渡した甲斐があったな、お前の心だけでも救えたんなら」
 本当は身体ごと助けたかったが、と話すハーレイに、ブルーは「ううん」と首を横に振る。
「あれで充分、幸せだったよ。ハーレイと一緒なんだ、って嬉しかったよ」
 ハーレイがサポーターをくれたからだよ、と褐色の手をキュッと握った。
 この手と同じように出来たサポーターだから夢の中まで温もりを届けてくれたのだ、と。
「だから幸せ。ハーレイの温もりがあったら、ぼくは幸せ」
「そうなのか? だが、俺はお前を助けてやりたいんだ。…現実では何も出来なかった分、せめて夢の中でくらいはメギドからお前を助け出したい」
 いつか必ず助けてやるさ、とハーレイの手がブルーの手を強く握り返した。
「あのサポーターでお前の心を救えたんなら、いつかはきっと身体ごと助けられるさ」
「…どうやって?」
「ん? 実に単純で簡単なことだ。今はまだ使えない方法だがな」
 俺の手の偽物でそれだけの効果があったんだ。本物の手だと、どうなると思う?
「ゆっくりでいいから、大きくなれ。前のお前と変わらない姿になるんだ、ブルー」
 そうしたら、お前と一緒に眠れる。
 同じベッドで眠ることが出来る。
 そうなったなら。
 一緒に眠るようになったら、俺がお前の手を握ってやるから。
 俺は必ずお前を助ける。
 決してメギドで死なせやしないさ、夢の中でも守ってやるから。
 だから大きくなれ、ブルー。
 俺がお前を夢の中でも守れるように。ゆっくりと幸せに、前の分まで幸せに育て。
 いいな、幸せにゆっくりと…、だぞ?
 なあ、ブルー……。




       温かい右手・了

※メギドの悪夢に来てくれたハーレイ。そして届けてくれた温もり。
 きっといつかは、夢の中で守って貰える日が来るのでしょう。二人で暮らし始めたら…。
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