シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
朝御飯のテーブルに目玉焼き。
でなければオムレツとかスクランブルエッグ。
朝食には欠かせない卵。ぼくはトーストやホットケーキだけでお腹いっぱいになってしまって、食べ切れない時もあるけれど…。パパに「食べてよ」ってお皿ごと渡すことも多いんだけれど。
それでも朝御飯の席の卵料理は当たり前のように毎朝あるもので、無い時の方が珍しい。
好き嫌いが全く無いぼくだから、お腹が一杯にならない限りは目玉焼きも半熟玉子も、もちろん他の卵料理も出されたものは綺麗に食べる。
ハーレイと再会してからは、前よりも頑張って食べるようになった。だって卵は栄養たっぷり。早く大きくなれますように、と背丈を伸ばすためのミルクと同じで祈りをこめて食べてるのに…。
(…全然、大きくなれないんだよね)
一向に伸びる気配も見せない、百五十センチのままのぼくの身長。
ハーレイと会った春とおんなじ、一ミリさえも伸びてはいない。とっくに秋になってるのに…。
草木がすくすくと育つ若葉の季節も、太陽の光が溢れてた夏も、ぼくの背丈には関係無かった。これから冬へと向かってゆくのに、ぼくの背丈はどうなるんだろう?
ただでも冬場はあまり背丈が伸びないと聞くし、ぼくの経験上も、そう。よく伸びる季節は春と夏。劇的に伸びた経験は無いけど、その時期が一番伸びる時期。
(……もう駄目かも……)
今年は伸びてくれないのかも、と悲しくなるけど、諦めない。
背が伸びないとハーレイとキスも出来ないから。
前のぼくと同じ背丈の百七十センチにならない限りは、ハーレイとキスが出来ないから…。
一所懸命に努力してるのに、食べた効果が背丈に反映されない小さなぼく。
学校から帰って、クローゼットに付けた印を見上げて溜息をついた。床から百七十センチの所に鉛筆で微かに引いた線。前の生でのぼくの背丈を示す線。
ドキドキしながら線を引いた頃は、そこまでの距離は日が経つにつれて短くなってゆくものだと信じていた。毎日は無理でも毎月ごとに少しずつ差が縮まるんだと思っていた。
(…まさか一ミリも伸びないだなんて…)
どうしてこうなっちゃったんだろう。
頑張って食べて、ミルクも飲んで、神様にお祈りもしてるのに。
早く大きくなれますように、ってお祈りするのを忘れた日なんか一度も無いのに伸びない背丈。
(…ハーレイは今のぼくも好きだって言ってくれるけど…)
大好きなハーレイは、小さなぼくが「可愛い」とお気に入りだけど。
「急がないでゆっくり大きくなれよ」とも言ってくれるけど、ハーレイにはきっと分からない。ぼくがどんなに悲しんでいるか、背が伸びないことが悲しくてたまらないのか分からない。
ハーレイはとっくに立派な大人で、いつだって余裕たっぷりだから。
大きな身体に見合った心はとても広くて、ぼくがどんなに八つ当たりしても「うんうん、お前の気持ちは分かった」って苦笑しながら受け止めてくれる。
大人で心も広いハーレイ。ぼくと違って、余裕がいっぱい。
ぼくの背丈が伸びないくらいはハーレイにとっては些細なことで、いつも言ってる「俺は何十年だって待てるさ」っていうのも多分、本当。ぼくの背が伸びてキスが出来るようになって、本物の恋人同士になれる時まで何十年だってハーレイは待てる。
でも、ぼくの方はそうはいかない。
ハーレイと違って大人の余裕も広い心も、小さなぼくは持っていないから。
(…持ってるつもりでいたんだけどな…)
前のぼくの三百年以上もの記憶があるから、大人なんだと何度も思った。ハーレイにだってそう主張した。だけど流石に何ヵ月も経てば自分でも分かる。ぼくはやっぱり子供なんだと。
(早く大きくなりたいのに…)
背丈も、子供になってしまったらしい心も。
そのためには食べて背丈を伸ばすしかなくて、近道なんかはありそうにない。毎日のミルクと、食事をしっかり。それしか無いって分かってるけど…。
悩んでいたって仕方ないから、宿題を済ませて気晴らしに本を読むことにした。その内に薄暗くなってきて、じきに真っ暗。パパが仕事から帰って来る夜。ガレージにパパの車が入って、ママが呼ぶ声が聞こえて来た。「ブルー、御飯よ!」って。
階段を下りてダイニングに行ったら、夕食は卵を沢山使った具だくさんのオムレツがメイン。
ママがお皿に取り分けてくれた分を全部食べようと頑張ったけれど、ジャガイモやソーセージがいっぱい入ったオムレツはとても食べ切れなくて。
「なんだ、ブルー。また残すのか?」
パパに訊かれたから「うん…」と答えたら、「寄越せ」と自分のお皿に移し替えるパパ。ぼくが残したオムレツをペロリと平らげて、ママにおかわりまで頼んでる。凄い、と感心するしかない。パパの背がハーレイとあまり変わらないのも当然だよね、と思ってしまう。
ぼくもパパみたいに食べることが出来たら、背だってきっと伸びるのに…。
羨ましそうに眺めるぼくに、パパは「お前はもっと食べないとな」とウインクした。
「でないと大きくなれない上に、料理だってもったいないぞ。パパが食べるから残りはしないが、そうでなければ食べ残しはゴミになるだろう?」
「…うん……」
パパのお決まりの台詞だけれども、何かが心に引っ掛かった。
心の何処かに、クイッと何かが。
(…何だったのかな?)
引っ掛かったものは何だったろう、と食事の後で部屋に帰って考えていて。
(あっ…!)
パパが言ってた「もったいない」だと気が付いた。
今日の夕食の具だくさんのオムレツ。ぼくが残してしまった卵を沢山使ったオムレツ。なんとも思っていなかった上に、卵は朝御飯のテーブルの定番だから特に気にしていなかったけれど。
(シャングリラでは卵が貴重品だった時代があったんだっけ…)
パパの「もったいない」という言葉と、具だくさんのオムレツが運んで来た記憶。
遠い遠い昔に、ぼくが暮らしていたシャングリラ。
ぼくが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
虐げられていたミュウたちを乗せた、あの頃のぼくの世界の全て…。
この間、風邪を引いてしまったぼくにハーレイが野菜スープを作ってくれた。
いつもの「野菜スープのシャングリラ風」は何種類もの野菜を細かく刻んで基本の調味料だけでコトコト煮込んだスープだけれども、それにとろみをつけて卵を落とした特別なスープ。
ハーレイ曰く、野菜スープのシャングリラ風の風邪引きスペシャル。
とろみのあるスープに細い糸みたいな溶き卵。
卵が贅沢に丸々一個。
今のぼくたちにとっては卵はごくごく普通の食材、贅沢なんかじゃないんだけれど。
ぼくたちがシャングリラで暮らしていた頃、ハーレイが初めて卵入りのスープを作った時代には卵は貴重な食材だった。
そう、卵の入った野菜スープはぼくだけのための特別なメニュー。
ソルジャーだったから貰えた卵。
ただ一人きりの戦えるミュウだったから貰えた卵。
貴重品の卵を野菜スープに丸々一個…。
前のぼくが卵入りの野菜スープをハーレイに初めて作って貰った頃。
シャングリラでは栄養価の高い卵は貴重品で大切、一人で一個なんかは食べられなかった。目玉焼きでもオムレツでも一人分に卵が半個あったら上等な方。
身体の大きいハーレイなんかは卵一個の半分なんかじゃ全然足りなかっただろう。他にも食べるものはあったから、お腹が空くわけじゃないんだけれど…。
卵が一人に一個の半分。
地獄としか呼べないアルタミラの研究所に居た時ですら、餌の卵は一人に一個あったのに。
そのアルタミラを脱出した直後は卵があった。脱出に使ったシャングリラの前身だった船の中に保存食の卵が積み込まれていた。
いわゆる卵って言うんじゃなくって、フリーズドライ?
とにかく保存食用の乾燥卵で、殻なんか無くて。お湯で戻して料理をしていた。それなりに卵の味がしたから、そこそこ使える食品だった。
だけど保存食の卵を使い切った後は、卵は一気に貴重品になった。
鶏さえいれば卵はいくらでも産み落とされるから、何処の惑星でも簡単に自給自足が出来るし、新鮮な卵が手に入る。他の惑星から輸入しなくても済む、食料品の中の優等生。
そんな卵を大量に乗せた輸送船なんかが宇宙を飛んでいるわけがない。
ぼくがせっせと奪い取っていた食料の中に卵を積み込んだコンテナや箱などは無くて、保存食の卵も保管場所が違うから滅多に奪って来られない。
まさか卵が食べられなくなるなんて、誰も思っていなかった。
アルタミラの研究所に居た時代でさえ、餌に卵があったのだから。
食べたくても食べられない卵。貴重品になってしまった卵。
そんな中、ぼくが食料を奪いに出た時、どういうわけだか大量の卵を手に入れたことがあって。
誰もが大喜びで卵を食べた。保存用の卵は作れなかったから、せっせと食べた。
もう食べ飽きたと笑い合いつつ、それでも卵料理のバリエーションがいくらでもあった。食料の在庫を管理していたハーレイがメニューの選定を頑張り、厨房にだって立っていた。
だけど卵はいつか無くなる。
奪って来たって、じきに無くなる。
どうしても卵が欲しいなら…。栄養価が高くて調理法も多い卵を手に入れたいなら、鶏を育てて産ませるしかない。
けれど、鶏をどうやって育てればいいのか。
鶏を飼うためのスペースが要るし、餌だって要る。環境も整えてやらないと…。
出来はしないと皆が思った。卵なんかは無理だと思った。
でも、問題は鶏だけじゃなかった。
食料も物資も今は人類から奪っているけど、それが出来るのはぼく一人だけ。奪いに行くための船だって無い。
シャングリラと名付けた船の格納庫には救命艇とシャトルだけしか無かった。武装している船が無ければ、奪った後に逃げることさえ出来ない。
つまりは、ぼくが倒れてしまえば食料も物資も補給不可能。
そういう面でも非常に弱いし、人類から奪った物でしか生きられないなら、そんな種族に未来は無い。シャングリラなんていう御大層な名前の船に住んでいたって、名前だけ。正真正銘の楽園に住みたかったら、シャングリラを本物の楽園に造り替えてゆくしかない。
奪う生活から、自給自足の生活へ。
人類が持っている物資に頼らず、ぼくたちだけの力で生きてゆける世界を創り出すこと。それが出来て初めてミュウは一つの種族になれる。
ただの理想だ、と言う者は一人もいなかった。
きっと誰もが心の底ではとうに分かっていたのだろう。自分たちの足で立たねばならぬと、今のままでは駄目なのだと。
そうして正式にキャプテンが選ばれ、ぼくはソルジャーと呼ばれる立場になった。
ハーレイの指揮の下、衣食住の全てを自分たちで賄える船を目指して改造が始まる。住む場所は元からの船室があったけれども、それも将来、人数が増えることを見越して改装を。
服も一から作り出せるように、設備などを整えてゆかねばならない。
そして何よりも肝心の食料。スペースの限られた船内に農場を設け、まずは簡単に栽培が出来て収穫量の多い野菜を植えた。上手くいったら別の野菜を、それが採れたらまた別のものを。
野菜の収穫のサイクルが出来て、シャングリラの中だけでパンが焼けるようになった頃。
船の改造もずいぶん進んで、皆に余裕が出来てきた。
自分たち以外の生き物が船に乗っていたって、気に障らないだけの心の余裕が出来た。そういう余裕が無い環境では船で家畜はとても飼えない。
そろそろ良かろう、とハーレイやゼルたちと話し合いをして、ぼくは鶏を奪いに出掛けた。鶏を飼っていそうな大型の船を探して、つがいで五組。全部で十羽。
ようやっと手に入れた十羽の鶏。つがいが五組。
卵を産んだ時には食べたかったけれど、みんながグッと我慢した。
鶏を育てて増やさないことには、卵は無くなってしまうから。雛を育てないといけないから。
卵が孵って雛が育って、一人前のシャングリラ生まれの鶏のつがいが何組も出来た。
近親交配にならないように気を付けて、頑張って世話をして。
シャングリラで育った鶏たちが卵を産むようになった。ついに食べてもいい卵が出来た。
それでも次の世代を育てなくては、と全部を食べたりはしなかった。
一週間に一個くらいなら、二個くらいなら…、と少しずつ増えていった食べるための卵。
皆で分けたら一人に一個は行き渡らなくて、二人で目玉焼きが一つだったり、オムレツが二人で一個だったり。
そんな貴重な卵の中からハーレイが一個貰って来てくれた。
寝込んでしまったぼくに飲ませる野菜スープに入れるためにと、丸々一個。
二人で一個の卵だった時代に、贅沢に丸々一個の卵…。
(…あのスープ、とっても美味しかったっけ…)
野菜を煮込んだだけの素朴なスープも好きだったけれど、とろみをつけて溶き卵を入れてあったスープも大好きだった。とても力がつきそうな気がした。
今では「風邪引きスペシャル」という名前になってしまった卵入りのスープ。
ハーレイが作ってくれる「野菜スープのシャングリラ風」よりも豪華な卵入りのスープ。
あの頃にはとても贅沢だった、卵を丸ごと一個も入れて作った野菜のスープ…。
(…そういえば…)
ぼくのためにと貴重品の卵を一個貰ってくれたハーレイ。
そのハーレイはいつ、一個の卵を食べたんだろう?
シャングリラ産の卵をハーレイが一人で丸ごと一個、口にしたのはいつなんだろう…?
(…いつだったのかな?)
ぼくの記憶には全く無い。
ハーレイは身体が大きいんだから、早い時期だとは思うけれども…。
初めの間は贅沢品だったシャングリラ産の鶏の卵。
ぼくが丸ごと一個を野菜スープに入れて貰っていた頃、他のみんなは二人で一個。もっと少ない日もあったろう。
シャングリラ産の鶏の卵を一番最初に丸ごと一個食べられた幸運な人間は、前のぼく。
そのぼくに卵を貰ってくれたハーレイは、いつ一個の卵を食べられたのかが気になったから。
次にハーレイが来てくれた時に訊こうと思ってメモを貼っておいた。
ハーレイとお茶を飲むテーブルの上にペタリと「卵」と書いたメモ用紙。
卵の文字は卵型の枠線でぐるっと囲んだ。
こうしておけば忘れないだろうし、ハーレイだって気付くだろうし…。
メモを貼った次の日、仕事帰りのハーレイが車で訪ねて来てくれた。夕食が出来るまでの時間をぼくの部屋で過ごすから、ママが部屋まで案内して来て、テーブルにお茶を置こうとして。
「あらっ、卵? なあに、このメモ」
「うん、ハーレイに訊こうと思って。シャングリラに居た頃の卵の話」
「ああ、シャングリラね」
きっと楽しいお話なのね、とママは紅茶とクッキーを置くと「ごゆっくりどうぞ」とハーレイに軽く頭を下げて出て行った。
ママもパパも、ぼくたちの前の生の話に基本的には立ち入らない。ぼくやハーレイが夕食の席で話す時には興味津々で聞いているけれど、それ以外の時は自分たちから話題にはしない。
ぼくとハーレイへの気遣いなんだと思うけれども、ちょっぴり申し訳ない気分。
だって、ママたちがキャプテン・ハーレイだと信じているハーレイは、本当はキャプテンである前にぼくの恋人。ソルジャー・ブルーだった頃のぼくの恋人。
おまけに今も恋人同士で、本物の恋人同士じゃないだけ。キスさえ出来ない関係なだけ。
ごめんね、ママ。
ぼく、ママとパパに内緒で恋人と会っているんだよ。
卵の話も、ハーレイがぼくの恋人でなかったなら、メモを貼るほどの話じゃないかも…。
ぼくの頭は卵からズレた方向へ行ってたみたいで、ハーレイに「おい」と声を掛けられた。
「なんだ、このメモは? 卵って、なんだ」
「えーっと…」
咄嗟に考えが纏まらなくって、「んーと、えーっと…」と繰り返してから、やっとのことで。
「ハーレイ、シャングリラで育った鶏の卵、初めて一個食べたのはいつ?」
「卵?」
「うん、卵。ぼくのスープに入れるために一個貰って来てくれたよね?」
あの頃は、一人一個は食べられない時代だったから…。
ぼくのために一個貰って来てくれたハーレイが丸ごと一個を食べられたのはいつなのかな、って思ったから…。
「俺か? 俺は最後に決まってるだろう」
「最後?」
それって、どういう意味だろう?
キョトンとするぼくに、ハーレイは「最後と言ったら最後だろうが」と返して来た。
「卵の数が少しずつ増えて、みんなが一個ずつ食べられる時代が来てからだ。全員が一個ずつ卵を貰ったのを確認してから、俺の分を貰いに行ったんだ」
だから最後だ、とハーレイが微笑む。
俺が一番最後なんだ、と。
思いもよらなかったハーレイの答え。
一番身体が大きかったハーレイはもっと早くに貰ったものだと思っていた。
どうしてそういうことになったのか、本当に分からなかったから。
「なんで? …なんでハーレイが一番最後?」
尋ねたぼくに、鳶色の瞳が片方パチンと閉じられて。
「キャプテンだったからさ」
そうでなければ食えたんだろうが…。
この身体だから、うんと早めに食えたんだろうと思うがな。
現にみんなも食えと何度も言ってくれたが、キャプテンだしな?
「キャプテンってヤツは船のみんなが快適に過ごせるようにと気を配るもんだ。そのキャプテンが先に食ったら駄目だろう?」
最後の最後でいいんだ、俺は。
みんなに卵が行き渡ったのを見届けて初めて、食える立場がキャプテンなんだ。
「そうだったんだ…」
ぼくの知らなかったハーレイの世界。
キャプテンとして色々と気を配っていたことは知っているけれど、卵までとは思わなかった。
メモを貼っておいて良かったと思う。卵の話を訊いて良かったと思う。
責任感の強いハーレイ。
前のぼくが好きだったキャプテン・ハーレイ。
最後まで卵を食べずにいたほど、シャングリラのみんなを大切に考えていたハーレイ…。
シャングリラ産の鶏の卵。
贅沢品だった頃の卵を最初に一人で一個食べられたのが前のぼく。ハーレイが最後まで食べずに我慢していたってことは…。
「ねえ、ハーレイ。それじゃ卵を一個丸ごと食べたの、ぼくが最初でハーレイが最後?」
「そうなるな」
「…ふふっ、シャングリラの卵事情の最初と最後はぼくたちなんだね」
ぼくはなんだか嬉しくなった。
ハーレイの責任感の強さを物語るエピソードを聞けたことも嬉しいけれども、卵が一人一個ずつ行き渡るまでの時間の最初と最後がぼくとハーレイ。最初がぼくで、最後がハーレイ。
本当に嬉しくてたまらない。そんな所でもハーレイとぼくがしっかり繋がっていたことが。
だからハーレイに訊いてみる。一番最後まで待って一個の卵を口にしたと語ったハーレイに。
「ハーレイ、今も卵は好き?」
「好きだな、前に一番最後まで食えなかったせいではないと思うが…」
卵料理は実に美味い、とハーレイが穏やかに微笑むから。
「今は山ほど食べられるね、卵」
「そうだな、好きな数だけ食い放題だな、それも地球で育った鶏の卵だ」
うんと美味い卵を食いに行こうか、と鳶色の瞳が煌めいた。
「いつか二人で、俺の車で」
「ホント!?」
「ああ。平飼いの鶏の卵が美味い農場があってな、オムレツやケーキが食べられるんだぞ」
「行きたい!」
連れて行って、と頼んだら「よし」と褐色の小指が伸びて来た。
「大きくなったら連れてってやろう。しっかり食べて大きくなれよ」
「うんっ!」
約束だよ、と小指を絡めたぼくに、ハーレイは友達と出掛けたという農場の話をしてくれた。
なだらかな丘で沢山の鶏を放し飼い。鶏たちは好きに歩いて餌をついばんで、黄身がこんもりと盛り上がった卵を産むという。地球の太陽を浴びて育った鶏の卵。
(…きっとシャングリラの卵の何百倍も何千倍も美味しいんだよ)
それをハーレイと一緒に、ハーレイの車で食べに行く。
シャングリラ産の鶏の卵を丸ごと一個食べるのを一番最後まで我慢していたハーレイと。
そのハーレイが好きなだけ卵料理を食べる姿を見ていたら、きっと幸せな気持ちになれる。
ぼくたちは二人で地球に来たんだと、美味しい卵を幾つ食べてもいいのだと…。
(…だけど、ぼく…。オムレツとかケーキとか、そんなに沢山食べられるかな?)
ちょっぴり心配になったけれども、ハーレイがいるから大丈夫。
食べ切れなかった分はきっとハーレイが綺麗に平らげてくれるから。
うん、食べたいメニューは全部注文したっていいよね?
ねえ、ハーレイ…?
贅沢だった卵・了
※シャングリラでは贅沢品だった時期があった卵。鶏がいないと卵は難しかったのです。
こういう前世の記憶のお蔭で、地球の卵も美味しく食べられるんですね。うんと贅沢に。
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暑いという言葉をすっかり聞かなくなった秋。残暑も終わって爽やかな秋晴れの土曜日のこと。ブルーは朝から部屋の掃除を済ませてハーレイが来るのを待っていた。
天気のいい日はハーレイは徒歩。まだか、まだかと二階の窓から見下ろしていた生垣の向こうの通りに颯爽と歩くハーレイの姿。大きく手を振れば、窓を見上げて振り返してくれる。
(…ふふっ)
今日もいい日になりそうだ、と母が門扉を開けに出掛けてハーレイを部屋まで案内してくるのを待った。庭のテーブルでお茶もいいけれど、今の季節は午後でも充分、外でお茶に出来る。だから午前中は自分の部屋でいい。ハーレイと向かい合わせで座って、ゆっくりと。
母がハーレイを連れて来てくれて、テーブルの上にお茶とお菓子と。部屋の扉が外からパタンと閉められ、母の足音が階段を下りて消えたら二人きりの時間。軽い足音がトントンと階段を下りてゆく間、聞き耳を立てるのがブルーの習慣。
ハーレイと微笑み交わしながら耳を澄ます時も、赤い瞳は恋人をじっと見詰めている。前の生で運命に引き裂かれてしまった記憶があるから、どんな時でもハーレイの姿を見ていたい。
もっとも、何度もこうして会っている内に、余裕も出来てはきたのだけれど。ハーレイが居ても窓の外の何かに気を取られたり、目の前のお菓子に夢中になったりもするのだけれど。
それでも二人きりの時間の始まりは見詰めることから。
今日のハーレイはどんな風だろうか、と表情を眺めたり、服装を見たり。其処でブルーはハタと気付いた。
(あっ……)
ハーレイが着ているラフなシャツの袖。
窓から手を振っていた時は全く意識していなかった。学校では普通に見かける格好だから。
夏休みが終わって学校が再開された時から、ハーレイは長袖のワイシャツだった。半袖の教師も少なくないのに、長袖を着て、ボタンも襟元まできちんと留めて。
思えば夏休みに入るまでの暑い間もハーレイのワイシャツは長袖だったし、ボタンも全部留めていた。ブルーの家を訪れる時には半袖のシャツを着ていたのだから、学校で着る長袖はハーレイの流儀。教師たるもの、服装も隙の無いように。恐らく、そういう考えなのだろう。
前の生でもキャプテンの制服を常にカッチリと着込んでいた。長老たちだけの寛いだ席では他の者たちがマントを外すこともよくあったけれど、ハーレイは上着を脱がなかった。その頃の記憶が意識の底に在るのだろうか、とブルーに思わせた夏の間のハーレイの長袖。
そのワイシャツではないが、長袖のシャツがハーレイの腕を覆っていた。半袖のシャツから外に出ていた褐色の腕が、逞しい腕が見えなくなってしまった…。
夏休みの間中、半袖姿を見慣れていたハーレイ。
それが学校が始まった途端、学校では夏休み前と同じ長袖のワイシャツになってしまったから。「暑くないの?」と尋ねてみたら「柔道着に半袖なんかは無いぞ」と涼しげな答えが返った。
それでもブルーの家を訪ねて来る時は半袖だったから、やはり暑いものは暑いのだろう。そんな暑さでも学校では長袖で通すハーレイを「ハーレイらしい」と思ったものだ。
キャプテンだった頃と変わっていないと、前のハーレイと同じハーレイなのだ、と。
そのハーレイがついにプライベートでも長袖になってしまった事実。
ブルー自身はとうに長袖になっていたけれど、ハーレイの腕が全く見えないことは悲しい。
すっかり見慣れた、筋肉を纏ったガッシリした腕。細っこいブルーの腕とはまるで太さが異なる腕。ハーレイの動きに合わせて筋が動いて、時には筋肉が盛り上がっていた。
夏休みの最後の日に二人で写した記念写真。
庭で一番大きな木の下で、ハーレイの腕に両腕でギュッと抱き付いて撮った。
あの時の感触をブルーは今でも忘れられない。
逞しかったハーレイの腕。弾力があるのに、同時に硬くて頼もしさを感じた強い腕。
写真は大切に机の上に飾ってあったし、写真のハーレイは変わらず半袖。
なのに目の前のハーレイは違う。あの腕は長袖に隠れてしまって、手しか見えない…。
母の足音が聞こえなくなった後も、ブルーはハーレイの腕に見入ったまま。
言葉の一つも口にしないから、ハーレイが不審そうに「どうした?」と訊いた。その声で現実に引き戻されたブルーは、ハーレイの腕を見ながらポツリと呟く。
「…ハーレイの袖…」
「ん?」
一瞬、意味を掴みかねたハーレイだったが、直ぐに「ああ」と思い当たって。
「長袖のことか。…流石にこういう季節になったら半袖はな」
ジョギングにでも行くならともかく、とハーレイはブルーに言ったのだけれど。
ブルーは「うん」と頷く代わりに、違う言葉を紡ぎ出した。
「……腕が見えない」
「そりゃ見えんだろう、長袖だぞ?」
「なんだか寂しい!」
そう叫ぶなり、ブルーが立ち上がる。テーブルの横をぐるりと回って移動し、ハーレイの椅子の所まで行くと、恋人の膝の上に座って腕を掴んだ。
まずは右腕。両手でしっかり捕まえておいて、袖をグイグイとまくってゆく。
「お、おい…」
何をするんだ、と慌てるハーレイを無視してグイグイまくって、肘の辺りまでまくり上げると、次は左の腕を捕えた。そちらの袖も肘までまくって、「よし!」と満足そうな笑顔をみせる。
「この部屋の中は暖かいから、これでいいよ」
こうしていてよ、とブルーは自分がまくり上げた袖から覗いた腕をポンと叩いた。
(ハーレイの腕が戻って来たよ)
半袖と違って肘から先しか見えないけれども、ハーレイの腕。
褐色の肌の下にしっかり筋肉をつけた、鍛え上げられたハーレイの腕。
それを再び見られることをブルーは喜び、大満足で自分の椅子へと戻った。しかし…。
「お前なあ…」
変わるもんだな、とハーレイに感慨深げに言われてキョトンとする。
「何が?」
「お前だ、お前」
ハーレイはブルーと視線を合わせた。鳶色の瞳の奥に宿った悪戯っぽく輝く光。宿した煌めきを隠そうともせずに、笑みまで浮かべてブルーに問う。
「俺が初めて半袖のシャツで此処に来た時、お前は俺に何て言ったんだ?」
「えっ?」
ブルーは答えを返せなかった。質問の意味は理解できるが、何の記憶も残ってはいない。初めてハーレイが半袖で来た日がいつだったのかも覚えていないし、何があったのかも分からない。
(…えーっと…。夏休みよりも前だったのは確かだけれど…)
其処から先が思い出せない。その日に何があったのだろう、と懸命に記憶を遡ってみても欠片も出て来ず、「うーん…」と顎に手を当てる小さなブルー。
本当に覚えていないらしいブルーの姿に、ハーレイはクックッと喉を鳴らして。
「忘れちまったか? 「デリカシーに欠けているってば!」と叫んだぞ、お前」
「あっ…!」
その言葉を耳にして鮮やかに蘇る記憶。
(そ、そうだったっけ…!)
前の生では愛し合う時しか見ることが無かったハーレイの腕。褐色の皮膚に覆われた逞しい腕。それを惜しげもなく晒すハーレイの半袖姿に頬が熱くなり、なのに全く気付きもしないで両の手で頬に触れて来た恋人に文句を言わずにはいられなくなって…。
(…八つ当たりしちゃったんだよ、ハーレイに…!)
ブルーは耳まで真っ赤になった。
あの日、確かにハーレイに向かって言い放ったのだ。
さっきハーレイが言ったとおりに、「デリカシーに欠けているってば!」と。
恥ずかしさのあまり俯くしかないブルーを前にして、ハーレイは余裕の腕組みをした。
「思い出したか? …俺に言わせれば、お前の方がよほどデリカシーに欠けているがな? よくも俺の服を脱がせやがって」
コレだコレ、とハーレイが袖をまくられた両方の腕を腕組みをしたまま軽く叩いてみせるから。ブルーは真っ赤に染まった顔で、消え入りそうな声で言い返した。
「……脱がせてないよ……」
ハーレイの服を脱がせた覚えなど無い。
腕が見たくて両方の袖をまくり上げただけで、断じて服を脱がせてはいない。
言いがかりだ、と抗議したいけれども、まだ恥ずかしくて滑らかに喋れそうもない。
もの言いたげにモゴモゴと唇だけを動かすブルーを、ハーレイが楽しそうに観察しながら。
「ふうむ、脱がせてないってか? まあ、脱がせ方としては間違ってるな。こんなやり方では全く脱がせられない」
俺の脱がせ方、覚えているだろ?
袖はまくり上げるんじゃなくて肩から抜くんだ。
前のお前の服の場合は、まずファスナーを下げてだな…。
「…あ、あれは…!」
もちろんブルーも覚えていた。
白地に銀の模様があったソルジャーの上着も、黒いアンダーも褐色の手がファスナーを下げて、それから胸と肩とを露わにされて…。
(ダメダメダメ~~~っ!)
考えただけで恥ずかしすぎる。
自分はハーレイのシャツの袖をまくり上げただけで、脱がそうなどとは考えていない。
それなのに服の脱がせ方など、わざわざ話してくれなくたって…!
茹でダコのようになってしまったブルー。
元の顔色に戻るまでにはかなりかかって、その間中、ハーレイはずっと笑っていたのだけれど。
ようやくブルーが落ち着いた頃に、「なあ、ブルー」と優しく微笑みかけた。
「デリカシーに欠けることではあるが、だ。…だが、俺としては嬉しくもある」
この袖まくり、と肘まで見える左腕を同じ状態の右腕の指先でトントンと叩き。
「お前が俺の腕に馴染んでくれていたことと、見えなくて寂しいと思ってくれたことと…な」
光栄だな、と笑顔のハーレイ。
そこまでこの腕を気に入ってくれてとても嬉しいと、鍛え上げておいた甲斐があったと。
「しかしだ。今日みたいな普段着の時ならかまわないんだが、学校帰りにワイシャツで来た日には絶対にやってくれるなよ?」
皺になったら厄介なんだ。
ワイシャツは俺の仕事着だからな。
「…ハーレイ、自分でプレスしてるの?」
ブルーは驚いて目を丸くした。
今の時代はワイシャツのプレスは全自動。ブルーの父でもそうなのだけれど、専用のハンガーに掛けてセットしておけば襟まで綺麗に仕上がる。洗うのだって機械任せで、よほどこだわりのある人くらいしか自分でプレスしたりはしない。専門のクリーニング店だってあるし…。
ハーレイはこだわるタイプだったのか、とシャツをまじまじと見詰めていれば。
「いや、俺は放り込むだけなんだが…。後は機械の仕事なんだが、俺はきちんとしたい口でな」
皺だらけのままで突っ込みたくない。
目についた皺は出来るだけ伸ばして、それから入れたいタイプなんだ。
「ハーレイ、それって…。キャプテンだった頃と同じだね」
「そうだな、全く変わっていないな。…言われてみれば」
専用の係がちゃんといたのに、キャプテンの制服を自分でプレスしようとしていたハーレイ。
何度も泊まりに行っていたから、ブルーも鮮明に覚えている。
(やっぱりハーレイはハーレイなんだ…)
そういうことなら、ワイシャツの袖をグイグイまくって皺だらけにしてはいけないだろう。
普段着だったらかまわないとは言われたけれども、それは自分の我儘だから。
ハーレイが長袖を着る季節になったからには、また慣れるしか…。
褐色の逞しいハーレイの腕。
肘から先だけしか見えていなくても、充分に強そうなハーレイの腕。
それを見られるのは今日でおしまいなのか、とブルーは名残惜しげに眺めながら。
「…そっか…。ハーレイの腕と暫くお別れなんだ……」
「俺は腕まくりでも気にはしないが、半袖の服が見たけりゃ来年の夏まで待ってることだな」
「夏…!?」
ついこの間、終わったばかりの夏という季節。
次に半袖の夏が巡ってくるまで、いったい何ヵ月あるというのか。
愕然としたブルーは「長すぎるよ、それ…!」と嘆きの声を上げたが、ハーレイの方は。
「長いって…。今日のシャツはまだ薄い方だが、今にもっと生地が分厚くなるぞ。…それに上から服だって着る。そうなったら袖はそう簡単にはまくれないな」
袖をまくっても上着の袖が被さってくるとか、そういう季節がやって来るさ。
秋の次には冬が来るだろうが。
「そうだよね…。その内に、キャプテンの制服を着てた頃みたいになっちゃうんだね…」
ブルーは残念でたまらなかった。
恋人同士として愛し合う夜にしかハーレイの腕を見られなかった頃。
半袖の服を着たハーレイは何処にも居なくて、キャプテンの制服ばかりだった頃。
けれど、その頃でも夜になったら見ることが出来た。
自分を抱き締めてくれる逞しい腕を、褐色の肌に覆われた筋肉が盛り上がるハーレイの腕を…。
(……来年まで見られないなんて……)
あの腕を来年まで見られないなんて、と肘から先だけを無理やり袖から引っ張り出してしまった褐色の腕をブルーは見詰める。
もう袖をグイグイとまくることはすまい、と決心したけれど、やっぱり寂しい。
今日で見納めになるのかと思うと、本当に寂しくてたまらなくなる。
(…ハーレイの腕…)
もっと見ていたい。
もっともっと触れて、もっと触って、腕の硬さを確かめてみたい。
前の生では毎晩のように触れて眺めて、抱き締めて貰った腕だから。
いつだって自分の直ぐ側にあって、それがどんなに力強いかを身体中が知っていた腕だから…。
その腕がもう見られなくなる。
来年の夏まで、また半袖の季節が来るまで見られなくなる…。
しょんぼりと項垂れるブルーの頭を、ハーレイの手が伸びて来てクシャクシャと撫でた。
「おいおい、そんなに名残りを惜しまなくても、あと数年の辛抱だろうが」
結婚したら見放題だぞ、俺の腕くらい。
半袖の季節を待たなくっても、年がら年中、見放題だろうが。
前と違って夜に限ったことでもないしな、俺たちの仲を隠さなくてもいいからな?
家に鍵さえかけておけばだ、真昼間だって見ていいんだぞ?
「…真昼間…?」
ハーレイの言葉をオウム返しに訊き返してから、ブルーの顔はまたしても真っ赤に染まった。
昼日中からハーレイと二人、恋人同士で愛し合う時間を持つなんて…!
前の生では全く考えられなかったことだけれども、確かに今なら不可能ではない。
それは恥ずかしくもあり、また嬉しくもあったのだけれど、それはそれ。
今よりもずっと未来の話で、今のブルーには夢物語。
ハーレイとキスさえ交わすことが出来ない、背丈が百五十センチしかないブルーにとっては夢のまた夢。
だからブルーは悲しくなる。
ハーレイの腕との別れを思って、寂しくて悲しくてたまらなくなる…。
「どうした、ブルー? 俺と結婚するんだろうが? でもって腕も見放題だぞ」
な? とハーレイが頭を撫でてくれるから。
寂しい気持ちを訴えたくて、ブルーは赤い瞳を揺らして見上げる。
「…そうだけど…。そうなんだけど……」
だけど、それまでは待つしかないもの。
次の半袖の季節が来るまで、ハーレイの腕は見られないもの…。
「うん? そりゃまあ、そういうことにはなるんだが…。結婚するまではそうなんだが…」
だが、とハーレイは片目をパチンと瞑ってみせた。
「そうしょげるな。来年の夏くらい、直ぐにやって来るさ」
うんと幸せに暮らしていればな、アッと言う間に日が経つもんだ。
楽しい時間は直ぐに過ぎると言うだろう?
それと同じだ、じきに来年の夏になる。
お前、充分に幸せだろうが。前のお前の時と違って、幸せ一杯の毎日だろうが?
違うのか、ブルー…?
ハーレイに穏やかに諭されたけれど、ブルーにはピンと来なかった。
毎日が幸せで溢れた今。
前の生とはまるで違って、幸せだけで出来ているような暖かく、そしてまろやかな時間。
それはブルーをふうわりと包み、ゆっくりとゆったりと流れてゆく。
今日の続きにはまた明日があって、明日が来ることが当たり前の平和な世界。
シャングリラの中だけが世界の全てだった頃と違って、明日が来ないことを恐れることなど全く必要ない世界。
そんな世界に生まれて来たから、充分すぎるほどに豊かな時間はとても長くて、果ての見えない大河のよう。二十四時間の一日でさえも、前の生での一ヶ月とも一年だとも感じるくらいに。
三百年以上もの長い時を生きた前の自分が刻んだ時より、十四歳の自分の方が長く生きたと思うくらいに…。
だからブルーは首を傾げる。
「そうなのかな? ぼくにはうんと長かったけど…」
ハーレイに会ってから今日までの長さ。
うんと幸せだったけれども、全然、短くないんだけれど…。
幸せすぎると時間って長く感じるものだよ。
前のぼくが生きてた間の幸せな時間を全部合わせても、ハーレイと会ってからの分の半分くらいしか無かったような気がするよ…。
「ふうむ…。幸せすぎると時間が長いか」
ハーレイは「うむ」と頷くと、ブルーの大好きな笑顔になった。
「なら、幸せをうんと楽しんでおけ。毎日が長いのはいいことだ、うん」
前のお前の分まで楽しめ。
三百年以上も生きたお前が幸せだった分の倍以上をもう味わったのなら、何十倍も何百倍も。
そうやって幸せに生きていたなら、人生、うんと値打ちが出るしな。
だから幸せな時間を楽しんで生きろ。
「俺の腕なんかにこだわらずに……な」
そう囁かれて、ブルーは即座に「やだ!」と叫んだ。
「ハーレイの腕だって幸せの内だよ、見られたのも幸せの内なんだってば!」
大好きな腕だもの、こだわりたいよ。
好きなだけ見られた今日までの時間も幸せだったし、来年の半袖も楽しみなんだよ!
絶対こだわる、とブルーが小さな拳を握ると、ハーレイが「うーむ…」と難しい顔で。
「お前、とことん変わったなあ…。確かに言われた筈なんだが?」
デリカシーに欠けている、と、お前の声で。
夏の初めの話だったと記憶しているが、記憶違いか?
「その話は無し! もう時効!」
時効なんだから、とブルーは懸命に主張する。長い時間が流れ去ったから、もう時効だと。
「お前にとっては長かったのかもしれないが…。生憎と年寄りは時間が経つのが早くてな」
二十四歳も年上の俺にとっては一瞬だったし、時効どころか昨日ぐらいの感覚だな。
「酷い!」
ハーレイ、酷い、とブルーは声を張り上げたけれど、時効は成立しなかった。
十四歳の小さなブルーの倍以上もの年を重ねた恋人は可笑しそうに笑い続けるだけ。
デリカシーに欠けると怒っていたブルーも変わったものだと、人間、変われば変わるものだと。
「うー…」
膨れっ面になってしまったブルー。
それでもハーレイの逞しい腕を、ブルーがまくり上げた袖から覗いた褐色の腕を見ないで過ごすことは出来ない。今日で見納め、来年の夏まで見られない腕。
(…ハーレイ、意地悪なんだから…!)
まだ笑っている恋人を睨むと、「おっ、もうおしまいにしていいのか?」と折角まくっておいた袖を元に戻そうとするふりをするから、そうそう睨むわけにもいかない。
睨みたいけれど、睨めない。
それに笑われても、時効ではないと笑いの種にされても、褐色の肌をしたハーレイが好きだ。
ハーレイも、ハーレイの褐色の腕も、何もかもが好きでたまらない。
だから笑われても、苛められても、ハーレイをじっと見ていたい。
今日で見納めになる逞しい腕はもちろん、笑い続ける意地悪な恋人のハーレイの顔も。
そしてまた、ハーレイに笑われる。
デリカシーに欠けると叫んだブルーも、本当に変われば変わるものだと……。
秋に着る物・了
※ハーレイの服の袖をせっせとまくったブルー。腕が見たくて頑張る所が可愛いですよね。
なのにハーレイには笑われる所が可哀相と言うか…。いじらしいと思うんですけれど。
「デリカシーに欠ける」と叫ぶお話は、第26弾の『夏に着る物』です。
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土曜日の朝、普段通りの朝食の席。父と母と、そしてブルーと。休日だからゆったりと。
父のマグカップは大きめのもので、母はソーサー無しのティーカップを深くしたようなタイプのカップ。ブルーは一度に沢山飲めないから小さなマグカップ。
それぞれに決まったカップと、その日によって変わる飲み物とがあるのだけれど。紅茶だったりコーヒーだったり、ミルクだったり。
(そうだ、カップ…)
何気なく見ていたブルーは、ふと思い出した。ハーレイの家で目にしたマグカップ。
たった二回しか見ていないけれど、父のカップと同じくらいの大きめサイズのマグカップ。
一度だけ遊びに出掛けた時にはティータイムと昼食の席で、メギドの悪夢を見て瞬間移動をして飛び込んでしまった時には朝食の席で。
二回とも同じマグカップだったから、あれがハーレイのお気に入り。
ハーレイのためのマグカップ。ハーレイの大きな褐色の手によく似合っていたマグカップ。
(…ハーレイの好きそうなカップは分かるんだけどな…)
それにハーレイは週末の度に訪ねて来てくれるし、仕事の後に訪ねてくれる平日もある。夕食を一緒に食べることは珍しくもなく、ブルーが寝込んでしまった時には両親と食卓を囲んだり。
家族の一員と言っていいほどのハーレイなのに、ブルーの家にはハーレイ専用のカップは無い。専用のカップは三人分だけで、両親の分とブルーの分。
(やっぱり家族じゃないからだよね?)
どんなに親しく付き合っていても、ハーレイはブルーの家族ではない。家だってハーレイの家は何ブロックも離れた所に在るし、其処で一人で暮らしている。自分専用のカップと共に。
(…ハーレイのカップ…)
今は家には無いハーレイのカップ。
けれどブルーは思い出した。前にハーレイと約束をした。
いつか結婚して二人で暮らす時が来たなら、お揃いのカップを家に置こうと。互いに相手が家に居なくても、「この家で一緒に暮らしています」と分かる目印になるように。
家で留守番をしている間に、寂しさを覚えないように。
二つ揃っているのが当たり前のカップ。文字通りのお揃いのデザインでなくても、二つで一対になるカップ。二人でお茶を飲んだりする時、一緒に出て来る二つのカップ。
どんなカップがハーレイと二人で囲む食卓やお茶のテーブルに並ぶのだろう?
(もしかしたら、ぼくのカップが追加になるとか?)
ハーレイの家で暮らすことになったら、元から家にあるハーレイのカップを買い直す必要はないかもしれない。愛用のカップはもうあるのだから、ブルーの分だけを買い足せばいい。
それともハーレイがブルーの家で一緒に暮らして、ハーレイのために新しくカップを買うか。
(ぼくのカップをハーレイの家に持って行くっていうのもいいよね)
今、使っている小さなマグカップ。
それまでに割れて代替わりしてしまっていなければ、だけれど。
ハーレイが愛用しているカップも、割れていなければ新しく買わなくていいかもしれない。
どちらの家で暮らすにしたって、絶対に揃えたい二人分のカップ。二つで一対になるカップ。
それなのに今は、それぞれの家に、それぞれのカップ。
二つ並べて置きたいけれども、まだ別々に置いておくしかないカップ。
(…ぼくのカップも、ハーレイのカップも、ちゃんとあるのに…)
そんなことをつらつらと考えながら朝食を食べる。
今日はトースト、こんがりとキツネ色に焼けたパンにマーマレードをたっぷりと塗って。両親もお気に入りのマーマレードは少しビターで、夏ミカンの実から作られたもの。
隣町にあるハーレイの実家の庭に大きな夏ミカンの木。その実からマーマレードが沢山出来る。大きな瓶が空になったらハーレイが新しい瓶を持って来てくれる、ハーレイの母の手作りの味。
将来、ハーレイが伴侶に迎えるブルーのために、とハーレイの両親が贈ってくれたのが最初。
それ以来、朝の食卓の定番になって、ブルーのお気に入りの味。お日様の光を集めて閉じ込めたような金色を食べると、すくすくと背丈が伸びそうな気もした。
(早く大きくなれますように…)
カップは結婚するまで並べられなくても、せめてキスくらいは出来る背丈になりますように、とブルーは祈る。前の自分と同じ背丈になったら、ハーレイとキスが出来るから。
そうやってトーストを食べながら祈る間に、お揃いのカップのことはすっかり忘れてしまって。
部屋を掃除してハーレイを待って、庭の生垣の向こうに見えたハーレイに窓から手を振る。母がハーレイを部屋まで案内して来たら、二人きりで過ごせる時間の始まり。
お茶とお菓子が置かれたテーブルを挟んで向かい合わせで、様々なことを話して、笑って。
今の生でのこと、前の生のこと。
シャングリラの中だけが世界の全てだった頃には想像もつかなかった幸せな時間。
どれだけ話をしても飽きない。他愛ないお喋りも、懐かしく思い出す昔語りも。
ブルーの部屋で二人で昼食を食べて、食後のお茶に、午後のお茶。
両親も一緒の夕食の後は、二階のブルーの部屋に戻って食後のお茶を。ハーレイが仕事の帰りに来てくれた時は食後のお茶は夕食と同じテーブルに出てくるけれども、翌日も休みの土曜の夜にはブルーの部屋で、ということも多い。
向かい合わせでゆっくりと話して、ハーレイが帰る時間になったから。
ブルーは一緒に階段を下りて、「またね」とハーレイを表まで出て見送った。本当はハーレイの姿が見えなくなるまで通りで手を振っていたいのだけれど、いつも「入れ」と言われてしまう。
仕方なく門扉を閉めて入って、生垣越しに庭から手を振る。ハーレイの後ろ姿が見えている間は一所懸命、庭の端まで行って手を振る。
ハーレイは何度も振り返ってくれて、手を振って。最後に大きく手を振って道の向こうへと姿を消した。足音ももう聞こえないけれど、ハーレイが車で来た日には持てない別れのひと時。寂しいけれども、何処か心が温かくなる見送りの時間。
また次があると、また来てくれると手を振り続ける幸福な時間。
明日があるかさえも定かでなかったシャングリラでは考えもしなかった幸せな時間。
今日は土曜日だし、次は直ぐそこ。明日にはハーレイがまた来てくれる…。
それから二階の部屋に戻って、お茶のカップを下げようとして。
ブルーの手がトレイを持ったままで止まった。
(…ハーレイのカップ…)
ほんの少しだけ、底に紅茶の跡が微かに残ったカップ。
ハーレイの席に置かれたカップ。
其処にハーレイはもういないけれど、いつもハーレイが座る側の椅子の直ぐ前、テーブルの上に残された紅茶のカップとソーサー。カップの横には砂糖を混ぜていたティースプーン。
ブルーの席にあるものと形も模様も同じだけれども、ハーレイが使っていたカップ。
(今日はこれがハーレイのカップなんだ…)
ハーレイ専用のカップではないが、ハーレイのために出されたカップ。つまりは今日のハーレイ専用、ハーレイが食後のお茶を飲むのに使ったカップ。
ついさっきまでハーレイのものだったカップ。
(ハーレイのカップだったんだよね…)
トレイを脇に置き、おずおずと右手を伸ばしてカップの取っ手に触れてみた。
ハーレイの褐色の指が触れていた取っ手。大きな手の温もりを残しているような気がする。
(…そっか、右の手…)
遠い昔にハーレイの温もりを失くした右の手。
メギドで冷たく凍えてしまって、悲しくて泣きながら死んでいくしかなかった右の手。
今でもハーレイがよく温めてくれる右手にほんのり、ハーレイの温もり。
本当はあるわけが無いのだけれど。
すっかり空になってしまった磁器のカップの取っ手が温かいわけがないのだけれど。
(…でも、温かい気がするんだよ…)
そうっと右手で取っ手を摘んで持ち上げてみて、眺めてみて。
(…ハーレイ、これで飲んでたんだよね?)
母のお気に入りのカップの一つ。
模様や形が同じカップとお皿を何客か揃えたセットが幾つか、その中の一つ。どの時間にどれを使うかは厳密に決まっているわけではなく、このカップだって午前のお茶に出る時もあれば、今日みたいに一日の終わりに出ることもある。
白地にグリーンの模様のカップ。
ハーレイが紅茶を飲んでいたカップ。
(…………)
あの温かいハーレイの唇が触れたのはこの辺りだろうか?
今はまだ頬と額にしか貰えないキス。
優しい唇が紅茶を飲むために触れていたカップ。
(……この辺りだよね、きっと……)
右手で摘んだ取っ手の位置から、おおよその場所の見当がついた。
唇で触れてみたかったけれど、そう考えただけで頬が熱くなる。
ハーレイの唇。
まだ触れられない、額と頬にしかキスしてくれない唇が触れたハーレイのカップ。
見れば見るほど、触れたくてたまらなくなるのだけれど。
(…いきなり唇って恥ずかしいよね…)
まるでハーレイにキスをするようで。
自分からハーレイにキスをするようで、それはちょっぴり恥ずかしい。
同じキスならハーレイから先にして欲しい。自分からキスをするなら、その後。
(うん、ハーレイからキスして欲しいよ)
だったら、カップを間に挟んでのキスもハーレイが先。
この辺りかな、とハーレイの唇が触れていそうな辺りを指で触って、その指を自分の唇に持っていこうとして。
(………)
躊躇っていたら、階下から母に呼ばれた。「お片付けはまだ?」と。
「はーい、持ってく!」
何をしていたかを見抜かれたようで、恥ずかしくて。
大慌てで二人分のカップをトレイに乗せると急いで階段を下りていったから、指からハーレイの唇の名残りは消えてしまった。
恐る恐る右手の指先で触れて、唇に持っていこうとしていた磁器のカップの縁の感触。
母にトレイごとカップを渡して、お風呂に入ってパジャマに着替えて。
部屋でベッドの縁に腰掛け、ブルーはしょんぼりと項垂れた。
(……失くしちゃったよ……)
ハーレイの温もりじゃないけれど、とハーレイの唇の名残りを失くした右手を眺める。
メギドでハーレイの温もりを失くしてしまった時の悲しみとは比較にならないけれども、失ったことに変わりはない。ハーレイの唇が触れたカップの感触。
(あの時、ママに呼ばれなかったら唇まで持っていけたのに…)
ハーレイの唇が触った名残りを指先で唇に運べたのに。
こんな結末になるのだったら、指じゃなくて唇で触っておけばよかった。
(…恥ずかしいけど、でも、やっぱり…)
ハーレイの唇が触れていたカップ。
温かな唇が何度も触って、紅茶を飲んでいたティーカップ。
唇の名残りが欲しかった。
今はまだ唇には貰えないキス。その代わりに唇の名残りに触れればよかった。
恥ずかしいなどと躊躇っていないで、唇でカップに触ればよかった…。
触り損ねてしまったカップ。
指ではなんとか触ったけれども、ハーレイの唇の名残りはすっかり失くしてしまった。
自分の唇までそれを運ぶ前に、母に呼ばれて失くしてしまった。
メギドで失くしたハーレイの温もりに比べれば些細なものでも、今のブルーには充分大きい。
ハーレイから唇へのキスを貰いたいのに、いつ貰えるかもまるで見当がつかないのだから。
それを思えば、あのカップ。
取っ手と縁とに触れてみただけの、白地にグリーンの模様のカップ。
(…いいな、あのカップ…)
ハーレイに何度もキスして貰えた幸せなカップ。
まだ唇には触れて貰えない自分の目の前で、何度も何度もハーレイの唇が触れていたカップ。
もちろんカップは紅茶を人の唇へと運ぶためのもので、カップはそのためにあるのだけれど…。
頭では分かっているのだけれども、それでもカップが羨ましい。
ハーレイのキスを貰って当然、唇で触れて貰って当然といった顔をしていたカップが。
(カップに表情も何もないんだけれど…)
そうは思っても、すまし顔だったような気がするカップ。
これが自分の役目とばかりに、ハーレイのキスを幾つも貰った白地にグリーンの模様のカップ。
ブルーは唇へのキスを貰えないのに、ハーレイの唇に触れるのが仕事。
カップに残った唇の名残りすら、ブルーは失くしてしまったのに。
(…ぼくには何にも残らなかったし、カップもママに洗われちゃった…)
ハーレイの唇が何度も触れたカップは洗われてしまって多分、棚の中。
白地にグリーンの模様のカップは何客もあるから、どれがそれだか分かりもしない。ハーレイが使ったカップがどれなのか、どれがブルーの分だったのかも。
(…そうなってくると…)
ブルーは「ちょっと待って」と考えてみる。
棚に幾つも母が並べているお気に入りのカップとお皿のセット。その時々の気分やお菓子の種類などから一種類を選んで、お茶の時間や食後のお茶にと登場させているわけだから…。
(ひょっとしたら、明日はぼくの所にハーレイのカップが回って来るとか?)
白地にグリーンの模様の磁器のカップは、ハーレイがブルーの家で丸一日を過ごす時には大抵、一度は出て来るもの。出て来ない日もたまにあるけれど、母のかなりのお気に入り。
多分、明日の日曜日も使われるだろう。
手描きの模様はよくよく見れば微妙に異なる部分もあったが、それこそ比べて見詰めない限りは区別がつかない。今日ハーレイが使ったカップはどれだったのか、と訊かれても模様なんかは見ていなかったから本当にどれだか分からない。
明日、母があのカップを出して来たなら、ハーレイが何度もキスをしていたカップが自分の所に来るかもしれない。今までにもそういう素敵なカップで紅茶を飲んでいたのかも…。
(…だけど、ぼくには分からないよね…。ハーレイが使ったカップがどれなのか…)
残留思念を読み取る術は忘れてしまった。
前の自分はそれを得意としていたけれども、今のブルーにその技は無い。
それに綺麗に洗って片付けられたカップなどには残っていないものかもしれない。
知りたくてたまらないのに、ブルーには見付けることが出来ないハーレイが使っていたカップ。そのカップが自分用として目の前に置かれたとしても、気付く術さえ無いカップ。
そんなカップが幾つもある。
母が来客用にと出して来るカップの種類と数だけ、ハーレイの唇が触れたかもしれないカップがブルーの家の中に存在している。いろんな模様や形のカップが、それぞれの場所に。
(ハーレイが来る度に、いろんなカップがキスして貰ってるんだよね…)
まだハーレイのカップは無いから。
この家にハーレイ専用のカップは置かれていないから…。
それが出来るまで、ハーレイのキスを貰えるカップは色々。
母の気分やお菓子の種類に合わせて棚から出されて、ハーレイの前に「どうぞ」と置かれる。
ハーレイはコーヒーが好きだけれども、ブルーに合わせて紅茶が殆ど。
だからティーカップはもれなくハーレイのキスを貰える可能性を秘めた幸運なカップ。
コーヒーのカップだって、そう。
たまにハーレイのためにと夕食の後で母が淹れるコーヒー。両親も一緒にコーヒーを飲むから、来客用のコーヒーカップ。父と母も普段使っているマグカップではなく、来客用のカップを使う。
その時々で選ばれるコーヒーカップは違うし、コーヒーカップだって幸運なカップ。
ハーレイの温かい唇で触れて貰える幸運なカップ…。
(……いいな……)
ブルーは心底、家にあるカップたちが羨ましくなった。
両親と自分が普段使いにしているマグカップ以外のカップたちは皆、ハーレイの唇に触れて貰う栄誉に浴する機会があるらしい。
それがいつかは分からない上に、選ぶ母次第になるのだけれど。
母に選ばれても、ハーレイの前に置いて貰えるか、ブルーの前に置かれるのかで明暗が分かれてしまうのだけれど、それでもチャンスは巡って来る。
今日は駄目でも、また次の時に。次が駄目でも、そのまた次に…。
(…待っているだけで、ハーレイがキスしてくれるかもしれないんだよ…)
小さすぎるからとキスさえして貰えない自分と違って、カップはハーレイに断られない。
ハーレイの前に置かれさえすれば、温かな唇で触れて貰えてキスが貰える。
今日が駄目でも、また次の時に。
待っていればキスを貰えてしまう。ブルーと違って、待っているだけでハーレイのキスを貰えるカップ。「大きくなるまでキスは駄目だ」と言われないで済むカップたち。
(今日が駄目でも、待つだけなんだ…)
待つという点ではブルーも同じだけれども、ブルーの場合は前の生と同じ背丈に育つまで。何年かかるか考えただけで悲しくなるのに、カップの場合は運の問題。
母に選ばれて、ハーレイの前に置かれる時だけを待てばいい。
よほど運の悪いカップでない限り、ブルーほどには待たされないで済むだろう。
カップが何客セットなのかを考えてみても、運が最悪のカップであってもブルーが唇へのキスを貰うより先にハーレイのキスを貰うのだろうし…。
(…ぼくって、カップに負けちゃってるんだ…)
運が最悪のカップにも負けるだなんて、と考えた所で思考が別の方へと向いた。
キスして貰える幸せなカップは、ハーレイが来る度に次々に変わっているのだろうか?
それとも何度も繰り返し使って貰った幸運なカップがあるのだろうか?
(…絶対に無いとは言い切れないよね?)
そんなカップがあるのだったら、ちょっと唇で触れたい気もする。
ハーレイが使った直後のカップは恥ずかしくてとても無理だけれども、綺麗に洗われて棚の中に並んだカップなら。
その中にハーレイが何度も何度も使ったカップがあるなら、使ってみたい。
おやつの時間に何気ない風で棚から出して、いつものマグカップの代わりに紅茶を注いで。
きっとママだって何も言わない。たまには気分を変えたいんだろう、って思うだけ。
ハーレイが何度も使ったカップに紅茶を注いで、それがぼくのカップ。
そしてハーレイの唇が触れた辺りに、唇でそっと触れられたなら…。
そういう夢を思い描いたけれども、肝心のことが分からない。
ハーレイが何度も繰り返し使ったカップがあるのか、そうでないのかが分からない。
(…ぼくのサイオン、不器用だしね…)
けれど未練はたっぷりとある。
ハーレイにキスして貰える幸せなカップ。
自分が貰えない唇へのキスを当たり前の顔をして貰える幸せなカップ。
(…明日はどのカップが幸せなカップになるんだろう?)
今日と同じか、別のカップか。
それともハーレイ専用とばかりに、何度も繰り返し使われている幸運すぎるカップなのか。
一度でいいから、白地にグリーンの模様の磁器のカップを全部ズラリとテーブルに並べて紅茶を注いで飲んでみようか、とブルーは欲張って考えてみる。
全部のカップで飲んでみたなら、どれかがきっと幸せなカップ。
ハーレイの温かな唇が触れた、キスを貰った幸せなカップ。
何度も繰り返しキスを貰ったカップがあるなら、そのカップから紅茶を飲んでみたいけれど。
きっと、両親にうんと叱られるだろう。
おやつの食べ過ぎならばともかく、紅茶の飲み過ぎとは何事なのか、と。
それ以前に、そんなに沢山飲めない。
幸せなカップには会いたいけれども、紅茶を山ほど飲むなんて無理。
だけど会いたい、幸せなカップ。
ハーレイ専用のカップがもしもあるなら、それで紅茶を飲んでみたいよ…。
幸せなカップ・了
※ハーレイとの間接キスを狙っていたのに、躊躇っている内に逃したチャンス。
カップの方がぼくより幸せ、と思うブルーも可愛いですよね、お子様ならでは。
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ハーレイが訪ねて来てくれる週末。部屋の掃除を済ませて窓から見下ろしていたら、庭の生垣の向こうの通りを歩いて来るハーレイの姿が見えた。手を振ると大きく振り返してくれて。
(あれ?)
なんだかとっても楽しそうな顔。それに小さな紙袋を一つ持っている。
(何の袋だろう?)
見覚えのない紙袋。この辺りのお店の袋ではないし、それ以前に何の変哲もない白い紙袋。店のロゴさえ入っていないように見えるんだけど…。
(まさかね)
きっと何処かに書いてあるんだ。でなければ同じ白い色で浮き出した文字が入っているとか。
袋が気になって見ている間に、ママが門扉を開けに行って。ハーレイをぼくの部屋へと案内して来た。紙の袋をよく見たいけれど、ハーレイはいつもの椅子に座って、紙袋はその膝の上。
(…これじゃ全然、見えやしないよ…)
向かい合わせで座ったぼくからはテーブルの陰になって全く見えない。だけどハーレイは普段と変わらず、穏やかな顔で座っているだけ。もちろん挨拶も、会話もちゃんとあるんだけれど。
その内にママが紅茶とクッキーを運んで来てテーブルに置くと、「ごゆっくりどうぞ」と部屋を出て行った。
(えっ? …今日はクッキーだけなの?)
午前中のお茶の時間は昼食に響かないよう、お菓子は控えめ。それでもケーキやパイがつくのが普通で、クッキーだけなんてことは無いんだけれど…。
途惑っていたら、ハーレイがさっきの紙袋をテーブルの上に「ほら」と笑顔で置いた。
「今日はこいつがあるからな。クッキーだけにして貰ったのさ」
お前、食べ過ぎると昼飯が入らなくなっちまうだろうが。
そいつは非常に不本意な上に、健康的とも言えないからな。
テーブルに置かれた紙袋。やっぱり店名は入っていないし、ただ白いだけの紙袋。中身が何だかまるで見当がつかないけれども、ハーレイはぼくの大好きな笑顔で。
「覚えてるか、ブルー? 中身はこいつだ」
紙袋を開けて手を突っ込んだハーレイ。出て来た手の上にコロンと栗の実が一個。
「途中の公園で焼き栗を売っていたからな。懐かしくなって、つい、買っちまった」
「わあ…!」
ハーレイが持って来てくれた小さなお土産。「まだ温かいぞ」と渡された栗は本当に温かくて、袋に入っていた時には分からなかった香ばしく焼けた匂いがする。
「遠慮しないでどんどん食え。焼き栗ってヤツは熱い間が美味いんだ」
「うん、知ってる!」
ぼくは少し焼け焦げた皮に入れてある切れ目を広げて焼き栗を剥いた。渋皮も一緒に剥がれて、美味しそうに焼けた黄色い栗の実が中から出て来る。口に入れたらホクホクで甘い。
「美味しい!」
「そいつは良かった。俺たちの思い出の味だったしなあ、焼き栗は」
「思い出したよ、ハーレイが買って来てくれたのを見たら」
もう一個、と袋に手を伸ばしたぼくに「そら」とハーレイが栗を渡してくれた。そのハーレイも栗の皮を剥いて頬張っている。
懐かしい味のする焼き栗。前のぼくとハーレイとの思い出の味。
秋になったらシャングリラでもよく食べていた栗。公園と居住区の庭とに栗の木があった。
シャングリラでは食料は自給自足だったから、食べられる実を結ぶ果樹は大切。普通の木だって多かったけれど、果樹も農場以外の所に何本も植えて育てていた。
みんなが喜ぶ実をつける木たち。収穫の季節は仕事じゃないのに手伝う者たちも大勢いた。栗もそうした果樹の中の一つ。
でも、シャングリラで栗の木を植えるまでには紆余曲折があったんだ。
栗の実は栄養価が高いというから、候補に挙がった果樹の中では有望株。それに植えてから実を結ぶ大きさになるまでの成長も早い。ぼくもハーレイも栗を推したのに…。
「花が臭いと聞いたんじゃが」
もう髪の毛が薄くなっていたゼルが文句をつけてきた。ヒルマンに確認してみたら、本当に花の匂いが独特らしい。しかも相当に強い香りで、綺麗な花でもないという。
「観賞用の花とは言えませんな」
それがヒルマンの見解だったし、見せられたデータの栗の花は確かに綺麗じゃなかった。動物の尻尾みたいなブラシ状の花で、色だって地味な白っぽい黄緑。
「だが、栗は実を食べるために植えるのであって、観賞する必要は無いと思うが」
ハーレイが真っ当な意見を述べた。
「花の匂いで苦情が出るなら、空調のレベルを調節するべきだろう。充分に換気をしておけば解決出来る問題ではないか?」
「ふむ…。確かに花よりも実が大切だな」
それで良かろう、とヒルマンが同意し、エラとブラウも賛成した。
ところが、ゼルだけは納得しなかったんだ。
「あの栗のイガはどうするんじゃ!」
トゲだらけで危険だという主張。
熟すとイガごと落ちて来るから、公園や庭には向かないと言う。うっかり頭上に落ちてきたならトゲで怪我をするし、落ちているイガを踏んでも危険。
「大人はいいんじゃ、大人はまだいい。しかし子供たちには危険すぎるわい!」
うっかり躓いてイガの上に転んでしまったらどうするのだ、と指摘されたら反論出来ない。その危険性が全く無いとは誰も言えないし、もしもそういう事故が起きたら…。
「それじゃさ、トゲが無ければいいのかい?」
ブラウの素っ頓狂としか思えない発言。栗のイガといえばトゲだらけのもので、トゲが無い栗の木があるなど聞いたこともない。
「そんな栗なんて知らないわ。本当にあるの?」
エラが尋ねたら、ブラウは「さてねえ…」と無責任極まる答えを返した。
「だけど無いとは言い切れないだろ? それを探すのも仕事の内だよ、頑張りな」
指名されたのはヒルマンだった。既に教授と呼ばれていたヒルマンは博識な上に調べ物も得意。トゲの無い栗なんて無いであろう、という皆の予想をいい意味で見事に裏切ってくれた。
トゲの無い栗は存在したんだ。
とても珍しい栗だったけれど、突然変異か何かで生まれたトゲ無しの栗。イガを覆う筈のトゲがうんと短くて、坊主頭に刈り込まれたように見える栗。そのトゲだって痛くはない。
それを植えよう、ということになった。
もっとも、普通の栗じゃないから、アルテメシアに在った人類の農場や園芸店に苗は無くって。
ぼくが情報を操作して苗を取り寄せさせておいて、こっそり失敬させて貰った。
そうしてトゲの無い栗の木をシャングリラで植えた。公園と居住区の庭に何本も。
花の匂いは独特で強かったけれど、特に苦情は出なかった。そういうものだと皆が納得していたのだろう。人工的な悪臭ではなくて、あくまで自然の産物だから。
栗は三年ほどで実をつけ、木だってどんどん大きくなった。栗の実を沢山食べることが出来た。お菓子を作ったり、料理するのに使ったり。
シャングリラで育った子供たちには、栗と言えばそれ。
刈り込まれたようなイガをしたトゲ無しの栗。
(うん、本当に栗とも思えない栗だったよね)
それでかまわないと考えていたら、童話を教えるのに苦労するのだと保育部のクルーが嘆くのを聞いた。ソルジャーだったぼくの主な仕事は、実は子供たちの遊び相手をすることだったから。
童話には悪者を懲らしめるために栗が登場するものだってある。栗のイガの痛さが話の肝。
だけど、シャングリラの栗のイガにはトゲが無い。どうして栗のイガにやられた悪者たちが降参するのか、子供たちには理解出来ない環境。
(資料だけでは分からないものね…)
ミュウの未来を担う子供たち。いつかは人類と手を取り合って欲しい子供たち。
子供たちの世界を狭めることは好ましくない。ただでもシャングリラの中だけでしか暮らせない子たちだからこそ、本当のことを教えてやりたい。
たかが栗のイガのことであっても、小さな真実を積み重ねたい…。
(安全だけを追求してたら、何ひとつ出来なくなっちゃうんだよ)
そう思ったから、「あれは本物の栗じゃないから」と、一本だけ普通の栗の木を植えた。
公園はゼルに「危険じゃ」と却下されてしまったから、居住区の庭に。
それなのに本物の栗の実がなったら、誰が一番最初に大喜びで拾いに行ったと思う?
危険だと主張していたゼルだったんだ。すっかり禿げてしまったゼル。
長老の服の靴でトゲだらけのイガをグイと踏んづけて、嬉々として栗の実を出していたんだ。
朝一番の視察に出掛けて発見した時の、ぼくとハーレイの顔といったら…。
「ゼル、それは何だ」
ハーレイが苦い顔をしてゼルの足元を指差したんだけれど。
「何って、栗にしか見えんじゃろうが」
「危険だと主張していた筈だが?」
「じゃから、わしが処理してやっておる!」
よりにもよって危険物処理。
どう見てもそうは見えない光景。
楽しんでやっているとしか思えないのに、ゼルは危険だと言い張った。
栗の実はとても危険なのだと、素人には任せられないのだと。
ぼくもハーレイもポカンとしたまま、落っこちたイガをせっせと踏んでいるゼルを見ていた。
危険な栗のイガに立ち向かってゆく勇者のゼルを。
こうしてゼルは本物の栗の木の担当になった。
本物の栗だけはヒルマンじゃなくて、ゼルが担当することになった。
担当と言っても世話係とは違って、説明係。子供たちに栗とは何かを教える係。
秋が来る度にゼルは子供たちの前で得意満面、靴で栗のイガをこじ開けて実を出すんだ。
「いいか、これはな。実はソルジャーにも出来んのじゃ」
そう言いながら熟して落ちたイガをグイと踏んづける。
「あのハーレイでも、この本物の栗には触ることが出来ん」
ハーレイは防御力に優れたタイプ・グリーンの筆頭なのに、ゼルは自分の方が上みたいに。
「栗のトゲは実に危険じゃからのう、熟練の者しか扱えんのじゃぞ」
なんて名調子で解説しながら栗のイガを開けて、子供たちの尊敬を集めていたんだよ。
ゼルのお株を取っちゃ悪いから、そういうことにしておいた。
だけどやっぱり、なんだか悔しい。
ソルジャーのぼくも悔しいけれども、防御力ではぼくに匹敵するハーレイだって少し悔しい。
だからハーレイと夜にコッソリ出掛けて行って、栗のイガを一個ずつ失敬するんだ。
明日になったらゼルが拾う筈の、熟した栗の実が入ったイガを一個ずつ。
ぼくもハーレイも本当は上手にイガをこじ開けて中の栗の実を出せるんだけど…。
子供たちにはゼルしか出来ないってことにしておく。
ソルジャーとキャプテンにだって出来ないことが一つくらいあってもいいだろう。
相手は人類軍じゃなくって栗の実なんだし、ちょっぴり間抜けで愉快だから。
そうしてゼルが寝ている間に、庭の隅っこでイガを内緒でこじ開ける。
ハーレイが一つ、ぼくも一つ。
ゼルが得意げにやってるみたいに靴で踏んづけて、艶々とした栗の実を中から取り出す。開けたイガは放っておいてもバレない。ゼルが「教材じゃ」と空になったイガを庭に残しているから。
ハーレイと二人で一個ずつ、コッソリ開けちゃった栗のイガの中身。
手のひらの間に大事に包んで、青の間に持って帰ってナイフで切れ目を入れて。奥のキッチンで皮ごとこんがりと焼いて、熱々を剥いて二人で食べた。
それがぼくとハーレイとの内緒の焼き栗。
コッソリの味は格別だった。
栗が実る度にハーレイと二人、夜中に焼き栗を楽しんでいた。
地球の海に居るというトゲだらけのウニも、こんな風にして食べるんだろうか、って話なんかを交わしながら。
そういえば…、とハーレイのお土産の焼き栗を剥きながら思い出した。
あの頃に話題にしていたウニ。今は二人とも地球に居るから、ウニだってちゃんと海にいる。
「ハーレイ、栗で思い出したけど、今はウニだって手に入るよね?」
口にしてみたら、ハーレイも覚えていたらしくて。
「ウニか…。あの頃はウニの話もしてたが、流石にウニはなあ…」
ウニはおやつじゃないからな。
そりゃあ、ウニ風味のスナック菓子もあったりするがだ、お前が言うのは本物のウニだろ?
土産だと言ってウニの寿司を提げて来るのも変だしな?
「確かに変だね…」
ハーレイが言う通り、ぼくへのお土産にウニのお寿司は変だと思う。
お寿司はおやつに出来はしないし、それをやるなら昼御飯用にお寿司の折詰。だけどウニだけで埋まった折詰なんて食べ切る前に飽きてしまいそう。焼き栗なら飽きはしないけれども…。
(ウニのお寿司かあ…)
好き嫌いだけは全く無い、ぼく。
沢山食べることは苦手なんだけど、前の生で食べ物に不自由していたせいなのかどうか、何故か好き嫌いというものが無い。
そんなぼくだから、もちろんウニも食べられる。お寿司は好きだし、ウニのお寿司も。
(…お寿司も美味しいし、お刺身もいいよね)
他にもウニの食べ方は色々。でも…。
(殻ごとのウニは食べたことがないや)
トゲトゲの殻が半分くっついたウニなら、パパとママに連れてって貰ったレストランで食べた。殻が器の代わりになってて、中身は焼きウニ。
殻ごとと言えば殻ごとだけれど、自分で剥いたわけじゃない。
栗のイガは自分で開けられたけれど、栗よりもトゲが凄いウニ。ちょっと開けられそうにない。
(ケガしそうだよ…)
其処まで考えて、気が付いた。
ハーレイは海が大好きだっけ。海にはウニが住んでいるよね?
「ねえ、ハーレイ。もしかして、ウニをあんな風にして食べたこと、ある?」
「あんな風?」
「栗みたいに自分でパカッと開けて!」
開ける道具は靴じゃないかもしれないけれど、と訊いたら「あるぞ」と即答だった。
「海には沢山いるからな。潜って獲ったら食べ放題だ」
ウニを開けるには足じゃなくって手を使うんだぞ。
こう、左手にウニを持って、だ。
もちろん左手をシールドするのを忘れちゃいかんぞ、凄いトゲだからな。
「それからウニの口の部分をナイフで開ける。あいつらにはちゃんと口があるんだ。口を開けたら其処からナイフを突っ込んで…。栗のイガみたいな要領で剥いてもいいし、切ってもいいな」
「ずるい…。ハーレイ、経験済みなんだ…」
ぼくは本物のウニの殻を開けてみたことが一度も無いのに。
シャングリラではハーレイと一緒に本物の栗のイガを開けていたのに、地球の海で獲れるウニは出遅れた。ハーレイだけが先に開けてて、ぼくは一度も開けたことが無い。
「ハーレイ、ずるいよ! 一人で先に開けてたなんて!」
「おいおい、お前、ずるいも何も…。俺の方が何歳年上だと思っているんだ、お前」
それにだ、お前はウニなんか自分で開けられんだろう?
さっき開け方を話した筈だぞ、不器用なお前が左手をシールド出来るのか?
シールドしないでウニを掴んだら大惨事だ。分厚い手袋をはめるって方法もあるが…。
「うー…」
悔しいけれども、ハーレイの方が二十年以上も先に生まれていたのは本当。ぼくと再会する前にやってたことまで文句をつける権利は無いし、第一、その頃のハーレイはぼくを知らない。前世の記憶を持ってはいない。
それに今のぼくがウニを開けられそうにないことも事実。前のぼくなら簡単にシールドを張れたけれども、サイオンがとことん不器用なぼくは左手にシールドなんか無理。
分厚い手袋をはめれば出来ると言われたところで、それじゃちょっぴり情けない。
ゼルの「実はソルジャーにも出来んのじゃ」という台詞そのもの、恥ずかしすぎる…。
今の世界では人間は一人残らずミュウ。
シールドはごくごく普通の能力、大抵の人は出来て当然。前の生と同じタイプ・ブルーのぼくは最強のサイオン能力を持っている筈で、シールド出来ない方がおかしい。だけど出来ない。
不器用すぎるぼくが分厚い手袋をはめてウニを開けていたら、タイプ・ブルーだとは誰も信じてくれないだろう。ウニを開ける所は見たいけれども、自分で開けるのは諦めた方が良さそうだ。
(ハーレイに開けて貰おうかな…)
まだまだ当分、一緒に海には行けないんだけど、いつか行ったら。
いつか二人で海に行ったら、ハーレイにウニを開けて貰って…。
(……海?)
夏休みの間にハーレイは海に行っていた。柔道部の生徒を連れて、日帰りで海。ひょっとしたら海で食べたんだろうか?
ぼくの憧れの殻つきのウニを、柔道部員たちと開けて食べたんだろうか…?
「ハーレイ、今年の夏も、もしかして食べた? 柔道部の子たちと一緒にウニ…」
「いや。ウニは開けるのに手間がかかるし、柔道部のヤツらに食わせておくにはサザエの壺焼きで充分ってな」
ハーレイはパチンと片目を瞑ったけれども、ぼくの心はウニならぬサザエに捕まった。
「サザエの壺焼き!?」
「そうだが? その辺で獲って、蓋を開けてな。ちょっと醤油を垂らしてやって火で炙るんだ」
「…壺焼き……」
柔道部員が羨ましい。
ぼくは獲れたてのウニも食べたことがないのに、ハーレイと一緒にサザエの壺焼き。ハーレイが獲ったサザエの壺焼き…。
「…ぼく、壺焼きも食べてみたいよ…。ハーレイが獲ったサザエの壺焼き…」
ウニも食べたい、と強請らずにはとてもいられない。
前の生では二人一緒にコッソリと栗のイガを開けていたのに、今はハーレイがフライング。先に一人で地球の海のウニをこじ開けて食べていた上に、サザエの壺焼きを柔道部員に大盤振る舞い。ぼくに食べさせてくれたんだったら分かるけれども、柔道部員…。
恋人のぼくを放って柔道部員に御馳走するなんて、あんまりすぎる。
ウニだって一足お先にトゲトゲの殻を開けてしまって、美味しく食べていたなんて…。
今のぼくにはウニの殻なんか開けられないって分かっているけど、フライングだなんて…。
(ずるいし、それにあんまりだってば!)
ぼくの頬っぺたは、ちょっぴり膨れていたかもしれない。ハーレイが「分かった、分かった」と苦笑しながら、焼き栗の皮がついていないことを確認した右手でぼくの髪を撫でる。
「ウニにサザエだな、分かったから。お前がちゃんと大きくなったら、海に連れて行って食わせてやるから。…もちろん俺が獲って、食べ放題でな」
「約束だよ? 殻つきのウニと、サザエの壺焼き」
「アワビも一緒に食わせてやるさ。あれも焼いたら美味いんだぞ」
な? とハーレイはぼくに微笑みかけてから。
「…まったく、とんだ藪蛇だったな。焼き栗の土産」
「そう? ぼくはとっても嬉しいけどね。シャングリラのことも思い出せたし」
それに、いつかはハーレイと海。
ぼくの背丈が大きくなったら、ハーレイと一緒に海へ行くんだ。
殻つきのウニとサザエの壺焼きを食べさせて貰えるんだよ、ハーレイが獲った美味しいのを。
前のぼくたちの焼き栗みたいにコッソリじゃなくて、天気のいい海辺で堂々と二人。
何を食べてるかも、恋人同士なことも隠さなくて良くて、青く澄んだ地球の海辺で二人。
前のぼくが焦がれた青い地球の海を二人で見ながら、地球の海の幸を沢山、沢山……。
栗の思い出・了
※シャングリラで食べた栗の思い出。今度はウニも食べられるのです、ハーレイと二人で。
そしてトゲの無い栗は実在してます、ちゃんと園芸品種です。シャングリラ御用達?
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秋の日の午後、庭のテーブルで向かい合って座るハーレイとブルー。
庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子で過ごす時間は、暑い間は午前中が定番だったけれども、いつしか午後のお茶の時間へと移っていって。
夏の盛りには考えられなかった、外での午後のティータイム。涼しい風が吹き抜けていた日も、夏場は早めの昼食くらいまでしか庭にはとても居られなかった。
それが今では午後にお茶の時間。僅かに色づき始めた木を仰ぎながらの穏やかなひと時。
紅葉の季節にはまだ早いけれど、ハーレイが紅茶のカップをコトリと置いて。
「このテーブルもそろそろ店じまいかもな」
「えっ?」
どうして、とブルーは首を傾げた。いきなり「店じまい」だなどと言われても…。
言葉の意味が飲み込めない様子のブルーに、ハーレイが「うん?」と優しい笑みを浮かべる。
「今年は終わり、という意味だ。じきに冷え込む季節になるしな、次の週末はどうなるか…」
この季節の気候は気まぐれなもの。暖かい日が続くと思っていても、急な寒波が来る年もある。一週間後の気温がどうなっているか、正確な予想は難しいから。
「今のところは来週もまだ暖かそうだが、直前で変わることもあるだろう? 寒くなったらお前が風邪を引いてしまうし、外はちょっとな」
来年の春が来るまでお預けになってしまうかもしれん、と聞かされてブルーは溜息をついた。
「そっか…。今日でおしまいなのかな、ハーレイとデート…」
「ははっ、覚えていたのか、デートの話。此処でお前と初デートだったな」
ハーレイが「うんうん」と遠くなった初夏の日を懐かしく思い返して微笑む。「普段と違う所で食事をしたい」と強請ったブルーへのハーレイの答えが庭のテーブルと椅子でのティータイム。
「そうだよ、シャングリラの形の木漏れ日を見たよ」
「あったな、まるで誂えたように」
テーブルの上で揺れていた木漏れ日が描くレース模様の中に、シャングリラがあった。
遙か上空から見下ろしたシャングリラそっくりの、光と木の葉が作り出した形。二人で飽きずに眺めていた。日が射して来る方向が変わり、光のシャングリラが消えてしまうまで…。
「ハーレイが持って来てくれたんだよね、あの時に座った椅子とテーブル」
ブルーは今でも鮮やかに思い出すことが出来る。ハーレイの車のトランクの中から魔法のように引っ張り出されて、庭に据えられたテーブルと椅子。「木の下にお前の椅子が出来たぞ」と笑顔で其処へと誘ってくれたハーレイの声まで覚えている。
「あれからも何度も持って来てくれたよ」
「お前、気に入っていたからなあ…。お前が喜んでくれるんなら、と俺もせっせと持って来ていたわけだが、お前のお父さんに感謝しとけよ」
「パパ?」
「俺が持って来るパターンのままで定着してたら、夏休みの終わりと同時に営業終了になっていただろうしな」
この椅子とテーブルはお父さんが買ってくれたんだろうが、とハーレイの指がテーブルをトンと叩いた。ブルーの父が「いつも持って来て頂くのは申し訳ないから」と夏休みに入ってから買って据え付けたテーブルと椅子。
屋外用のテーブルと椅子だったから、雨風で傷むことはない。ブルーにとっては「庭にあるのが当たり前」のもので、いつでも使えると思っていた。営業終了という言葉がピンと来なくて。
「なんで夏休みが終わっちゃったら、おしまいになるの? 夏休み、とっくに終わったよ?」
「まあな。しかしだ、俺の中では、あのテーブルと椅子は夏休みまでのものだったんだ」
キャンプ用のテーブルと椅子だと言っただろう。夏の間に俺の家で来客用に使うヤツなんだ。
来客と言っても教え子ばかりでガサツな運動部員どもだから、バーベキューだな。外でワイワイ賑やかに食って騒いで、親睦を深めるためのテーブルと椅子だ。
そういったシーズンの終わりが夏休みの終わりで、其処で営業終了になる。秋の午後に使うって発想は俺には全く無かった。あいつらと優雅にティータイムなんぞは有り得ないしな?
「良かったあ…。パパが買ってくれてて。…ママの趣味で白いのになっちゃったけどね」
「白もいいじゃないか。前も言ったが、シャングリラの色だ。俺たちにピッタリの色だと思うぞ」
「そうだっけね。シャングリラは真っ白な船だったものね」
ブルーが守った白い船。ハーレイが舵を握っていた船。
どちらが欠けても、無事にジョミーに引き継ぐことは出来なかっただろう。
そうしてシャングリラは地球まで運ばれ、新しい世代のミュウたちを乗せて旅立って行った。
前のハーレイの生が終わった地球を離れて、遠く遙かな新天地へと…。
今は写真だけしか残されていないシャングリラ。
ハーレイとブルーがお揃いで持っている写真集には白いシャングリラが在るが、その船体は時の流れが連れ去ってしまった。ブルーの青の間もハーレイの部屋も、時の彼方に消えてしまった。
それなのに二人は生まれ変わって、青い地球の上で再び出会った。
同じ町に住み、同じ学校の教師と生徒。週末が来る度、ハーレイがブルーの家を訪ねて、二人で過ごしているのだけれど。
前の生で恋人同士だったことをブルーの両親は知りはしないし、今でも秘密。
ハーレイにキスさえ禁じられてしまったブルーは、この庭でしか大好きなハーレイとのデートが出来ない。夏休みの終わりと同時にデートも終わりとならなかったことは幸運だったが、どうやら寒さの訪れと共にデートは終わりになってしまうらしく。
「…寒くなったらやっぱり無理かな、ハーレイとデート…」
寂しげに呟くと、ハーレイが頭上の枝を見上げた。
「この木の葉もいずれ、すっかり色が変わって散っちまうしな? …散ってる最中に此処に座ってティータイムだと、葉っぱがどんどん落ちて来るぞ」
カップの上とか、ケーキの上にな。いくら秋でもケーキの紅葉添えはな…。
「そういうのもいいと思うんだけど…」
お洒落だと思う、とブルーは食い下がった。
「ケーキに紅葉は添えてないけど、料理だったら添えたりするよ?」
「それはそうだが…。わざわざ秋らしく色が変わった柿の葉で包んだ押し寿司なんかもあったりはするが、しかしだな…」
ハーレイの眉間の皺が深くなる。
「お前、寒くなったら風邪を引くだろうが。シールドも張れないレベルのくせに」
紅葉の季節は風がけっこう冷たいぞ?
いくらお洒落でも、風邪を引いたら話にならん。
そう諭されても、ブルーはどうにも諦め切れない。ハーレイと初めてデートした場所が来年の春までお預けだなんて、まるで考えてもいなかった。だから俯き加減でポツリと零す。
「でも…。ハーレイとのデートが春まで出来なくなっちゃうなんて…」
まだまだ秋は長いし冬もあるのに、と上目遣いに見上げられたハーレイは仰天した。
「冬って…。お前、雪の中でも此処でデートをするつもりか?」
「雪も綺麗だと思うんだけど…。秋も冬もきっと素敵だよ。葉っぱが散るのも、雪が舞うのも」
どう見ても本気としか取れないブルーの眼差しに、「うーむ…」と腕組みをするハーレイ。
「落ち葉はともかく、雪の中だと? シールドを張れないお前がか?」
「…だって、ハーレイとデートがしたいよ。ちょっとくらい風邪を引いてもいいから」
「馬鹿!」
一喝すればブルーは首を竦めたけれども、それでも縋るように揺れる赤く澄んだ瞳。
こういう瞳で見詰められると、ハーレイは弱い。
どんな我儘でも聞き入れたくなる。ブルーの望みを叶えたくなる。
前の生から愛し続けて、一度は失くしてしまった恋人。奇跡のように戻って来てくれたブルーのためなら、全力を尽くしてやりたいと思う。
まだまだ幼い小さな恋人。十四歳にしかならないブルー。
「お前なあ…。ちょっとの風邪でも命取りだと分かってるだろう、弱いんだから」
「早めに寝てればちゃんと治るよ、それとハーレイの野菜スープがあれば」
「お前は平気なのかもしれんが、俺の心臓が持たないんだ」
俺がお前の側についていながら、風邪を引かせるなんて真似はしたくない。
お前の分までシールドを張れればいいんだが…。
生憎と俺はタイプ・グリーンで、前のお前みたいに広い範囲をシールド出来るわけじゃない。
「お前の分までシールドを張るとなったら、くっつかんと無理だ」
それでブルーが諦めてくれれば、と思う一方で微かに期待もしていた。ハーレイが心の奥の奥で願った答えを読んだかのように、ブルーの顔がパッと輝く。
「じゃあ、くっつく!」
「こら、お前! 本気で俺にくっつく気なのか?」
「うんっ!」
ブルーは嬉しそうにニッコリ笑った。
「それなら堂々とくっついてられるよ、ハーレイに! ぼくはシールドなんか張れないってこと、パパもママもちゃんと知ってるもの!」
シールドに入れて貰っているなら、くっついていても変だと思われないよ。
くっつきやすいようにハーレイの膝に乗っかっていても、パパもママも何も言わないよ。きっと「先生にあまり迷惑をかけちゃ駄目だぞ」って言われるだけだよ、だからお願い。
「ねえ、ハーレイ。秋の終わりも冬になってもデートしようよ、くっついて此処で」
「お茶が冷めるのはどうするんだ?」
俺は其処まで面倒見きれん。そうそう器用じゃないからな。
「ポットだったら保温用のがあるじゃない。それにポットに帽子みたいに被せるカバーもあるよ」
ティーコジーって言ったかな?
シャングリラでは使っていなかったけれど、ママは寒い季節になったら使うよ。綿とか断熱材が入ったカバーで、ポットにすっぽり被せておいたらお茶が冷めにくくなるんだから。
「ママはポットの大きさに合わせてカバーを幾つか持ってるよ。あれ、使おうよ」
保温ポットより断然いいよ、と主張するブルー。
SD体制の時代よりも遙かに古い昔の道具で、寒い季節のお茶の時間にピッタリなのだ、と。
ティーコジーはハーレイも知っていた。ハーレイの母はそういった昔の道具が大好きで、ティーコジーも愛用していたから。
保温ポットなど無かった時代の素朴な道具。SD体制よりも古い時代の先人の知恵。
それはともかく、保温用の道具が要るような季節になっても庭でのデートとお茶の時間を諦める気配も無さそうなブルー。
ティーコジーだなどと言い出した以上、少なくとも晩秋は店じまいとはいかなくなるだろう。
冬になってもブルーを膝の上に乗せて、庭でのお茶が続いてゆくかもしれないが…。
まずは、とハーレイは我儘な恋人に釘を刺す。
「とりあえず、お前が風邪を引かずに無事なことが第一条件だな」
これだけは譲れん、と厳めしい表情で言い渡しておいて。
「その上で焼き芋から始めてみるか」
「焼き芋?」
ブルーはキョトンと赤い瞳を丸くした。
「石焼き芋を買ってくれるの? 寒くなったら、そこの道を車が通って行くけど…」
SD体制の時代には無かった石焼き芋の移動販売車。
遙かな昔にこの地域の辺りに在った小さな島国、日本の古い文化の一つ。笛の音にも似た独特の音を響かせ、石焼き芋を焼く釜を載せた車が寒い季節に住宅街を巡ってゆく。
ブルーはそれだと思ったらしいが、ハーレイが考えたものは違った。
「やったことないのか、落ち葉で焼き芋。美味いんだぞ」
「…落ち葉?」
怪訝そうな顔の小さな恋人は知らないらしい。
生まれつき身体が弱いのだから、落ち葉で焚き火をするような季節は家に閉じこもって過ごして来たかもしれない。ハーレイにとっては子供時代のお楽しみだった焼き芋すらも知らないままで。
(参ったな…)
本当にやる羽目になるかもしれんな、と思ったけれども、ブルーを楽しませてやりたいから。
前の生では叶わなかった分まで幸せにしたいと思っているから。
ハーレイはブルーに教えてやる。庭に落ちた木の葉を集めて焚き火をして芋を焼くのだ、と。
「ホント!? 本当にそれでちゃんと焼けるの?」
「上手く焼くには、ちょっとしたコツが必要だがな。だが、これが実に美味い」
俺は焼くのが上手くてな。ホクホクの焼き芋が出来上がるんだぞ。
もっとも、その前に、お前のお父さんとお母さんに訊かんと駄目だがな。
庭で焚き火をしていいですか、と。
「やりたい! 焚き火で焼き芋、やってみたいよ」
パパとママに頼んで許して貰うよ、とブルーの赤い瞳が煌めく。
一人息子の願い事とあらば、ブルーの両親は快諾するだろう。
「ふむ…。許可が出たなら、焼き方のコツを伝授してやろう。だが、もう少し先の話だ。木の葉が色づいて散らんことには芋は焼けない」
庭中に散った落ち葉を集めて、枯れ枝なんかもあるといい。
お前と二人でこの庭をせっせと掃除するかな、焚き火と焼き芋作りのためにな。
「うんっ! じゃあ、それまではデート続行だね?」
ねえ、とブルーは弾けるような笑顔になった。
「まだまだ終わりにしたくないんだ、ハーレイとデート」
焚き火が出来る季節になるまで、此処でデートでいいんだよね?
落ちて来る紅葉がケーキのお皿に乗っかる頃になっても、デートしていていいんだよね?
ぼくが風邪さえ引かなかったら。
学校で引くのは仕方ないけど、庭に居る時に風邪を引かなかったら…。
ちゃんと暖かい服を着るから、とブルーは強請る。
両親が心配しないように服も下着もしっかり着込んで
落ち葉の季節に備えるから、と。
「だって、ハーレイ。…学校の体育の授業は普通に外だよ?」
「お前、見学専門じゃないのか、そういう季節は」
「…ふふっ、見学と言うより体育館専門」
だけど、とブルーは付け加える。
身体が弱くて寒い季節は体育館でしか授業に参加出来ないけれども、今よりもっと小さい頃には雪だるまくらいは作っていた、と。雪合戦に参加するのは無理だったけれど、ほんの少しだけなら雪遊びだってしていたのだ、と。
「だからね、雪の季節も大好きだよ? 雪が降るのを見るのも、雪景色も好き」
それに地球だ、とブルーは微笑む。
前の自分が憧れた地球で迎える初めての冬で、初めての地球の雪景色なのだ、と。
「お前、そいつを俺と一緒に眺めるつもりか? この庭の椅子で」
「そうだけど? ハーレイと一緒に地球の上に生まれて来たんだもの。一緒に見なくちゃ」
「つまりは雪の季節になっても、此処でのデートを終わりにする気は無いんだな? …俺と一緒に雪景色だなんて言うってことは、だ」
「そうだよ、何回くらい雪が積もるかな? 春になるまでに」
雪の中なら、ハーレイのシールドつきだよね?
いくら厚着をして出て来たって、庭はやっぱり寒すぎるもの。
ハーレイにくっついてシールドで包んで貰うのがいい。パパもママも絶対、気にしないから。
ぼくがハーレイに迷惑をかけることしか心配しないし、堂々とくっついていられるから…。
ブルーが頬を紅潮させて、寒い季節の庭でのデートを夢見るから。
それは駄目だと突っぱねられなくて、ハーレイは「ふむ…」と暫く考え込んで。
「仕方ない、覚悟はしておこう」
お前をくっつけてシールドで包んで、雪の最中に庭でデートという覚悟をな。
お茶が冷めないようにティーコジーを出して来ると言うなら、あれだな、俺も工夫をするか。
いっそ火鉢でも持ってくるかな、きちんと本物の炭を入れてだ。
そうなると古典の世界になっちまうがな…。
知ってるか?
うんと昔の枕草子だ、「火など急ぎおこして炭もて渡るも、いとつきづきし」だ。
「火鉢! あれに出て来る炭櫃と火桶?」
「ああ。炭櫃は角火鉢で四角い火鉢だ。火桶は円形の火鉢だな」
俺の実家に置いてある火鉢は円形のだから火桶ってトコか。親父の趣味でな、炭だってあるぞ。
炭火を熾すための火熾し器まで揃えているんだ、柄杓みたいな形のヤツだ。
「そんなのもあるの? それも見てみたい!」
持って来てよ、とブルーは自分の家には無い火鉢だの火熾し器だのに夢中になった。
古典の授業でしか知らない道具がハーレイの実家にあるという。
ブルーをハーレイの未来の伴侶として認めてくれている、ハーレイの両親が住んでいる家。庭に夏ミカンの大きな木がある隣町の家。
その家の火鉢を一度借りてみたい。雪の舞う日に庭でのデートに使ってみたい…。
「おいおい、本気で火鉢なのか? 俺は火鉢で餅を焼くしかないような気がして来たぞ」
半ば嘆きにも似たハーレイの言葉に、ブルーは素早く反応した。
「火鉢でお餅? 美味しく焼けるの?」
「ん? そりゃまあ、なあ…。火鉢で焼いた餅は美味いぞ、たまに焦げるが」
「焚き火の焼き芋と同じでコツが要る?」
「そうだな、火力が均等ってわけではないからな」
間違えるなよ?
芋は焚き火に埋めて焼くが、だ。餅は炭だの灰だのには埋めないからな。
炭の上に網を乗っけて焼くんだ、でないと灰だらけになって食えなくなるぞ。
「ハーレイ、上手い?」
「当然だろうが。俺の実家じゃ餅は火鉢で焼くのが一番ってことになってたからな」
「それじゃ、お願い。冬になったら、火鉢で、お餅!」
ぼくのお願い、とペコリと頭を下げられてしまい、こうなるとハーレイは断れない。
我儘が過ぎる願い事だろうが、ブルーの頼みにはとことん弱い。
無理ではないかと思いながらも「分かった、分かった」と微笑みながら頷くことになる。
「ただしだ、お前が風邪を引いてないのが大前提だぞ」
其処をお前が間違えなければ、焚き火で焼き芋だろうが、火鉢で餅を焼く方だろうが、此処でのデートは通年営業にしといてやるさ。
いいか、絶対に風邪を引かないことだぞ?
風邪っぴきでダウンしちまったお前は、どう転んだって外には出られないしな。
「うん、頑張る!」
だから約束、とブルーはハーレイの小指に自分の小指を絡み付かせた。
「約束だよ、焚き火で焼き芋をするのと、火鉢でお餅!」
どっちも楽しみにしているから。
ハーレイのシールドの中でくっついて此処で雪を見るのも、とっても楽しみにしているから…。
そろそろ店じまいかとハーレイが口にした筈の、木の下の白いテーブルと椅子。
店じまいどころか通年営業になってしまいそうな気配で、ハーレイは苦い笑みを浮かべる。
「やれやれ…。とんだ物を持って来ちまったんだな、俺というヤツは」
庭に置くテーブルと椅子ってヤツはだ、本来は夏の間に使う物で、だ…。
「とんでもなくないよ、デートの場所だよ?」
そしてこれからの季節が本番、とブルーは幸せそうに微笑んでみせた。
「ハーレイとくっついて座れるだなんて、寒い季節の方がいいよね。…ぼくのサイオン、不器用で良かった! ハーレイのシールドに入れて貰えるなんて最高だもの」
「だからだな、それはお前に風邪を引かせないための苦肉の策でだ、このテーブルと椅子は本来」
「店じまいは無し!」
夏よりも冬、とブルーは言い張っているのだけれど。
早々に風邪を引いてしまったなら、庭で一番高い木の下の白いテーブルと椅子とは出番を失い、来年の春まで何処かに仕舞われてしまうだろう。
(…多分、そのコースで間違いないさ)
ハーレイはそう思うけれども、もしもブルーが望むのならば。
風邪を引かずに頑張ったならば、焚き火も火鉢も夢を叶えてやらねばなるまい。
前の生から愛し続けて、再び巡り会うことが出来た恋人。
今度こそ幸せにしてやりたいと願ってやまない愛しいブルー。
愛おしいブルーが望むことなら、どんな我儘でも叶えたいから……。
店じまいの季節・了
※ハーレイとの初めてのデートの場所を、冬も維持しておきたいブルー。雪の季節も。
火鉢でお餅も楽しそうです。ブルーの我儘、ハーレイはなんでも聞くのでしょうね。
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