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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(あっ、ハーレイ!)
 見付けた、と弾んだブルーの胸。お昼休みの学校の中庭。
 向こうから歩いて来るハーレイ。他の先生とはまるで違った立派な体格、一目で分かるその姿。同じようなスーツを着込んでいたって、「ハーレイだ!」と。
 ハーレイの手には沢山の荷物。大きく膨らんだ紙袋が幾つも、何処かへ運んでゆく途中。
(ぼく、予知能力があるのかも…!)
 そんな考えがポンと浮かんだ。
 どうしたわけだか、今日はランチの後に単独行動。ランチ仲間と食事をしたら、いつもは食堂でのんびり過ごして、皆と一緒に戻るのに…。「先に行くね」と出て来たのだった。一人きりで。
 何処かへ出掛ける用事も無いのに、食堂を後にして来た自分。単に教室へ戻るだけ。
 何故だかそういう気分だっただけで、教室でやりたいことだって無い。でも…。
 ハーレイに此処で会えたとなったら、予知かもしれない。「早く行かなきゃ」と出た食堂。
(ぼくのサイオン、不器用だけど…)
 予知なら、ちょっぴりフィシスみたい、とワクワクする間にグンと縮まったハーレイとの距離。ハーレイはとても大きな歩幅で、見る間に近付いて来るものだから。
「ハーレイ先生!」
 もういいよね、と呼び掛けた。手を振るわけにはいかないけれども、とびきりの笑顔。先生には挨拶もしなければ、と頭の方もピョコンと下げて。
「おう、一人か?」
 昼飯はもう食ったのか、とハーレイも笑顔を返してくれた。「元気そうだな」と。
「ハーレイ先生、荷物、手伝います!」
 何処まで運べばいいんですか、と横に並んで尋ねる間も急ぎ足。大股で歩くハーレイは止まってくれないから。前へ前へと、どんどん歩き続けるから。



 ハーレイの荷物運びを手伝いながら、色々と話がしたかった。学校では「ハーレイ先生」でも。敬語で話さなくてはいけない相手で、生徒らしい話題しか選べなくても。
 それでもハーレイと話せるものね、と懸命に急ぎ足なのに。ハーレイの隣を歩いているのに…。
「お前の気持ちは嬉しいんだが…。お前には、これは無理だってな」
 その気持ちだけ貰っておくさ、と荷物を寄越してくれないハーレイ。紙袋の中身がズシリと重い物にしたって、一つくらいなら持てそうなのに。
「でも…。紙袋、一つくらいなら…」
 ぼくにも持てます、と食い下がった。両手でしっかり握ればきっと、と。
「重さじゃないんだ、大して重くはないからな。…袋は見ての通りだが」
 見かけの割に中身は軽い。しかし、問題はお前の足だ。
「足?」
「お前、今の速さでも必死だろ?」
 俺の速さについてくるのは、とハーレイに言われてみればそう。今もせっせと急ぎ足だから…。
「は、はい…」
「なら無理だ。俺は端っこの校舎まで行って、あそこの最上階までだからな」
 今の速さを保ったままでだ、其処まで行こうとしてるわけだが…。
 ついて来られるのか、エレベーターは使わんぞ?
 俺の貴重な運動の機会を、あんなのに乗せて横から奪ってくれるなよ。
 階段を自分の足で上るのは、いい運動になるからな。平たい所を歩いて行くより、ずっと。
 だから歩いて上るんだ、とハーレイは今も大股で前へ。「お前、来るのか?」と。
 「エレベーター抜きでついて来られるなら、荷物くらいは持たせてやるが」と。



 荷物運びを手伝いたいのに、ハーレイがつけて来た条件。荷物は重くはないらしいけれど…。
(端っこの校舎…)
 其処まで行くなら、かなりの距離。急ぎ足のままだと息が切れそう。
 しかもハーレイが目指しているのは最上階。運動のためにとエレベーターは抜き、階段を上ってゆくしかない。この速さのままで、最上階まで。
(…ハーレイだったら、階段だって…)
 今の速度で楽々上って、もしかしたら一段飛ばしでヒョイヒョイ行くかもしれない。ハーレイの足なら充分出来るし、運動にだってなりそうだから。
(一段飛ばしをされちゃったら…)
 ますます速くなりそうな足。とても一緒に歩けはしないし、そうでなくても階段は無理。多分、途中でダウンする。自分のペースで歩いていいなら、なんとか辿り着けそうだけれど。
「どうなんだ、おい?」
 一緒に来るか、とハーレイが向けて来た視線。足は全く止めないままで。
「む、無理です…」
 ぼくは行けそうにありません、と掲げた白旗。いくらハーレイと歩きたくても、無理だから。
「だから言ったろ、無理だとな。…お前の気持ちは嬉しいんだが」
 人間、誰でも、向きや不向きがあるもんだ。お前には、これは向いてない。
 それじゃな、俺は急ぐから。
 こいつを向こうに届けたついでに、ちょいと話もしたいってわけで…。
 あっちは次は授業らしいし、急がないとな。
 昼休みが終わっちまうだろうが、と大股で歩き去ったハーレイ。紙袋を全く持たせてくれずに、手伝いの許可もくれないままで。
 アッと言う間に遠ざかる背中、速度は少しも落ちないから。
 荷物運びを手伝えない自分の足は止まって、中庭の端で見送ることしか出来ない。
 せっかくハーレイに会えたというのに、ポツンと置き去り。
 ハーレイと並んで歩けはしなくて、荷物運びも手伝えないのが自分だから。



 行ってしまった、沢山の荷物を持ったハーレイ。校舎の陰に入ってしまって、もう見えない。
(会えたのはラッキーだったけど…)
 嬉しくて心臓が跳ねたけれども、置いて行かれたことはどうだろう?
 ハーレイと一緒に歩く代わりに、こうして置き去り。「お前には無理だ」と断られて。手伝いをしたくて申し出たのに、あっさりと。
 一番端っこの校舎まで行って、最上階まで階段を上る。それがハーレイのやり方だから。身体の弱い自分はついて行けないから。
(エレベーター、使わせて貰っても…)
 きっとそれまでに息切れを起こす。端っこの校舎に着くよりも前に、ハーレイの速さに合わせて歩く間に。自分にとっては急ぎ足でも、ハーレイにとっては大した速さではない歩き方。
 普段よりは確かに速かったけれど、足の運びが少し大股だっただけ。
(…置き去りだなんて、酷いんだから…!)
 荷物を持つと言ったのに、と思うけれども、ハーレイにも、荷物の届け先にも都合。届けたら、少し話もしたいというのに、先方は昼休みが終わった途端に授業。
 そういうことなら、急いでいたのも仕方ない。届けるだけではないのだから。
(残念…)
 ハーレイと二人で歩きながら話せる、絶好のチャンスだったのに。
 向こうから来るハーレイの姿を見付けた時には、「ツイている」と胸を弾ませたのに。ある筈もない予知能力があるのかも、と。
「おーい、ブルー!」
 そんな所で何してんだよ、と声が聞こえて、現れたランチ仲間たち。「どうしたんだよ?」と。
「ううん、なんでもない」
 先に教室に行こうと思ってたんだけど…。
 ハーレイ先生が通り掛かったから、ちょっと話をしたりしていて…。
「…ハーレイ先生?」
 何処に、と訊かれて、「もう行っちゃった」と指差したハーレイが消えた方。ランチ仲間たちは行き先を聞くなり、「流石」と唸った。「エレベーターより階段かあ…」と。
 流石はハーレイ先生だよなと、「普段から鍛えているってことか」と。



 それからは皆でワイワイ喋って、賑やかに戻って行った教室。
 ハーレイに置き去りにされてしまったことも綺麗に忘れたけれども、放課後になって、帰ろうと中庭の所まで来たら思い出した。昼休みに起こった小さな事件。
(…此処で置き去り…)
 もう少し丈夫な身体だったら、ハーレイと一緒に行けたのに。
急ぎ足どころか、走ってだって。
 「エレベーターより階段かあ…」と唸ったランチ仲間たちでも、きっと出来る筈。
 実際、彼らは階段を走って上るから。「キツイよなあ…」と零しはしたって、最上階でも。
 彼らみたいに丈夫なら、と思ってはみても、学校の帰りもバスのお世話になるのが自分。元気な生徒は徒歩や自転車で通う距離なのに、自分はバス。
(これじゃ駄目だよ…)
 急ぐハーレイを追い掛けられるわけがないじゃない、と乗り込んだバスの中で溜息。
 バスがぐんぐん走ってくれて、着いた家から近いバス停。其処から家までの道もトボトボ、この距離でさえも…。
(全力疾走しようとしたら…)
 ほぼ間違いなく、倒れてしまうことだろう。カンカンと日が照り付けるような真夏でなくても、今のように穏やかな季節でも。運動するにはピッタリの陽気の時だって。
 クラリと眩暈を起こしてしまって、しゃがみ込むのだろう道の脇。
(そのまま、暫く動けなくって…)
 家に帰っても、玄関でパタリと伸びてしまうに違いない。制服のままで突っ伏して。靴も履いたままで、「もう動けない」と。
 そうやって玄関で伸びていたなら、「どうしたの?」と見に来るだろう母。「寝ていなさい」と額に冷たいおしぼり、落ち着いた後は…。
(…部屋で大人しくしていなさい、って…)
 きっと押し込まれるベッド。「大丈夫だよ」と言ったって。運が悪いと、そのまま病院。注射は嫌だと駄々をこねても、「駄目!」と母に叱り付けられて。
(病院の先生、注射を打つのが好きだから…)
 要らないと言っても、ブスリと打たれてしまいそう。「直ぐに元気になれるからね」と。



 そうなっちゃうに決まってる、と考えながら帰った家。母が焼いてくれたケーキは美味しかったけれど、食べ終えて二階の部屋に戻ったら悔しい気分。
 またまた思い出したから。昼休みにポツンと中庭に置き去りにされたこと。
(ハーレイに会えてツイていたのか、ツイてないのか分からないよ…!)
 こんな思いをするくらいならば、会わない方がマシだったろうか?
 ランチ仲間たちと一緒に食堂を出れば、ハーレイには会わなかった筈。とっくの昔に通り過ぎた後で、背中さえも見えはしなかったろう。「もっと早くに来ていれば」と思うことさえ。
 そっちの方が良かったかな、と一瞬、考えたのだけれども。
(でも、あれだって貴重なチャンス…)
 学校では「ハーレイ先生」だけれど、ハーレイには違いないのだから。
 敬語を使って話さなくては駄目な相手でも、やっぱりハーレイ。そのハーレイと話が出来たし、少しだけ一緒に歩けたのだし、会えないよりは会えた方がいい。
 残念なのは置き去りにされたこと。もっと丈夫な身体だったら、ハーレイについて行けたのに。
 前の自分とそっくり同じに、虚弱な身体。すぐに息切れ、階段を走って上るのも無理。
(…鍛えるなんて出来ないし…)
 次があっても置き去りだよね、と項垂れていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、テーブルを挟んで向かい合うなり、「すまん」と頭を下げられた。
「今日の昼間は悪かった。この通りだ」
「えっ…?」
 どうしたの、と驚いて見開いてしまった瞳。ハーレイは何を謝るのだろう?
「お前、手伝うって言ってくれてたのにな」
 断っちまってすまん。後からゆっくり考えてみたら、可哀相なことをしちまった、って…。
 急いでいたのも、階段を使って行こうというのも、俺の勝手な都合ってヤツで…。
 お前にしてみりゃ、エレベーター、使って欲しかったよな?
 もっとも、それで「来るか?」と俺が誘っても、お前、途中でダウンだったろうが…。
 エレベーターの所まで行けもしないで、すっかり息切れしちまって。



 それでも一緒に来たかっただろう、とハーレイは済まなそうな顔。
「お前、あそこに置いて行かれるより、途中まででも俺と歩きたかっただろう?」
 荷物を持たせてやれば良かった、お前が行ける所まで。
 ダウンしちまったら、それから「じゃあな」と俺が一人で行くべきだった。
 最初から断ったりはしないで、お前の気持ちを最優先で。
 俺の考えが足りなかった、とハーレイが詫びるものだから。
「ううん、ぼくの身体がもっと丈夫だったら…。そしたら一緒に行けたんだよ」
 駄目だったのは、ぼくのせいだから…。ハーレイは少しも悪くなんかないよ。
 確かにちょっぴり寂しかったけど、ぼくさえ丈夫に生まれていたなら、置き去りになんか…。
 されちゃうことは無かったしね、と微笑んでみせた。「ハーレイのせいじゃないんだから」と。
「こらこら、そこで鍛えようだなんて思うなよ?」
 もっと丈夫な身体になろう、と無茶なトレーニングをするのはいかん。
 昼間も言ったが、向き不向きってのがあるんだから。お前の身体は鍛えるようには出来てない。
 無茶な運動をしたら壊れちまうし、今のお前のままでいいんだ。
 弱い身体を壊さないよう、維持してゆくのも大事なことだ、と諭された。それも健康作りの内。今の健康を損ねないのも、とても大切なことなのだから、と。
「鍛えたいなんて、思ってないよ。…失敗しちゃったこともあるから」
 丈夫になろう、って体育の時間に頑張りすぎたの、一度じゃないから…。
 前はそんなの思ったことさえ無かったけれども、ハーレイに会ってから何回か…。
「よし。覚えてたんだな、無茶したことは」
 俺のスープのお世話になってしまったこと。…寝込んじまって、野菜スープのシャングリラ風。
 あれは良くない、無茶は無茶でしかないってな。自分の限界をきちんと掴んで貰わんと。
 まあ、俺が急いでいない時なら、またお前にも手伝わせてやるから。
 俺もお前と歩けるチャンスを、無駄にしたくはないんだし…。
 少しばかり荷物が重すぎたってだ、お前が手伝えそうな分だけ頼んでやらなくっちゃな。



 袋の中身を半分ほど移動させてでも…、とハーレイは手伝わせてくれるつもりらしいから。
「ホント?」
 ぼくでも持てる重さの袋に変えてくれるの、ハーレイの荷物…?
「当然だろうが、袋さえ頑丈に出来てりゃな」
 沢山詰めたら底が抜けちまうって時だと無理だが…。そうでないなら、そうしてやる。
 お前は手伝いがしたいわけだし、俺の方でも、お前と一緒に話しながら歩きたいんだから。
 …そういや、お前、昔からだな。うん、そうだった。
 今も昔も変わっちゃいない、というハーレイの言葉が分からない。昔からとは、何だろう?
「変わらないって…。何が?」
「俺が急いでても、追い掛けようとするってヤツだ」
 まるでヒヨコか何かみたいに、せっせと俺を追い掛けるんだな。ヒヨコ、そうだろ?
 アヒルなんかだと、親鳥の後ろをヨチヨチ歩いて、頑張ってついて行くんだから。
「ぼくがハーレイを追い掛けたわけ?」
 急いでいるのを追い掛けてたって、それ、いつの話?
 知らないよ、と傾げた首。急ぐハーレイを追い掛けたなんて、まるで記憶に無かったから。
「言っただろう? 昔からだと。…ずっと昔さ」
 昔と言ったら、シャングリラしか無いってな。白い鯨になる前からだ。
 前のお前がチビだった頃から頑張っていたぞ、俺が急いでいた時は。
 俺を追い掛けて急ぎ足どころか、負けない速さでちゃんとくっついて来るんだから。
「ハーレイに負けない速さって…。そんなの無理だよ、走れない筈だよ?」
 前のぼくも今のぼくと同じで、身体が弱かったんだから。
 身体を鍛えられるわけがなくって、走るのだってそんなに沢山は無理。…速く走るのも。
 絶対に無理、と返したけれども、「それがだ…」と可笑しそうなハーレイ。
「どう考えても無理なわけだが、前のお前には反則技があったんだ」
 前のお前は正真正銘、最強のタイプ・ブルーだったし、サイオンの扱いも上手かった。
 そいつを生かして、瞬間移動でせっせと距離を稼いだってな。
 俺との間が開いちまう前に…、と聞かされてハタと気が付いた。
「…瞬間移動…」
 やってたっけね、ハーレイが歩く速さについて行けない時は…。



 そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかったシャングリラ。
 最初の間は、ハーレイは備品倉庫の管理人だった。厨房の責任者と兼任で。
「思い出したよ、ハーレイが急いで歩いている時だっけ…」
 倉庫に何かを運ぶ時とか、倉庫から出して来た時だとか…。
 両手で荷物を山ほど抱えて、今日のハーレイみたいに大股…。「これは急ぎだ」って。
 冷凍になってた食材だとか、仕分けが終わって倉庫に入れる物資だとか。
「追い掛けて来ただろ、俺と歩きながら色々喋ろうとして」
 俺は仕事の真っ最中だし、喋るんだったら歩きながらしか無いモンだから…。
 仕事が終わって暇になるまで待っていないで、お前、追い掛けて来ちまったんだ。
 瞬間移動を繰り返しながら、俺に置き去りにされないように。
 ついでに荷物も、「ぼくも運ぶよ」と横から奪い取ったり、奪おうと手を出したりしてな。
 あれは本当に凄かった、とハーレイも半ば呆れ顔。「其処までして追い掛けて来るなんて」と。
「だって…。ハーレイと話したかったから…」
 仕事中だと、仕事しながらしか話せないでしょ?
 厨房で料理をしている時とか、倉庫で整理をしてる時なら、ハーレイ、動かないけれど…。
 何かを運んでいる時だって、急いでなければ一緒に歩いていけるんだけど…。
 急ぎの荷物を運んでる時は、ぼくの足だと追い付けないから…。
 どんなに頑張って歩いてみたって、ハーレイの方がずっと速くて、走っても無理。
 ぼくの足では追い付けないなら、瞬間移動がピッタリじゃない。
 宙を飛ぶより、歩いてる方がいいものね。…ハーレイと同じ通路を、ちゃんと。
「あれを歩いていると言うのか、確かに通路に足がついてはいたんだが…」
 歩いたわけでも走ったわけでもなかっただろうが、前のお前は。
 滑るような速さで追って来るんだ、歩いてるような顔をして。…しかし実際は歩いちゃいない。
「ああしないと置いて行かれるじゃない…!」
 ハーレイはぼくより歩幅が広くて、おまけに大股。
 それで急いで歩かれちゃったら、ぼくの足では無理なんだってば…!
 歩きながら話をしたい時には、ああやってハーレイを追い掛けていくしかなかったんだよ…!



 前のハーレイも身体が大きかったし、頑丈でもあった。ミュウの中では珍しく丈夫。
 だから大股で歩き去ったし、何度も追い掛けたハーレイの背中。ハーレイが急いでいる時は。
 ポツンと置き去りにされてしまう前に、瞬間移動で前へ進んで追い付いて。
(あの方法だと、ちゃんと一緒に歩けたんだよ)
 歩くのとは全く違うけれども、感覚としては似たようなもの。急がなくちゃ、と追い掛けた。
 そうやって瞬間移動をしながら、時にはハーレイの荷物も持った。「手伝うよ」と。
 渡して貰った荷物を抱えて、やはり繰り返した瞬間移動。
 ハーレイに置いて行かれないよう、話しながら歩いてゆけるよう。歩くのとは違って瞬間移動をしたのだけれども、ハーレイの方は歩いていた。急ぐのだからと、かなりの速さで。
「お前の瞬間移動だが…。チビの間だけじゃなかったな」
 ソルジャーになった後にもやってたぞ、お前。…白い鯨が出来上がった後も。
 歩くどころか、俺が急ぎで全力疾走の時にも来たってな。
 走っていたって、あのやり方なら平気でついて来られるから。
「うん、ハーレイに取り残されそうな分だけ、瞬間移動して先回り…」
 何処へ行くんだい、って訊いていたでしょ、走ってた時は。
 ハーレイの心を読んだりするより、直接聞くのが一番だものね。
 ブリッジとかの様子を探っても分かるけれども、やっぱりハーレイと話したいじゃない。
 走ってる時は、「はい」とか「ええ」とか、そういう答えが多かったけど…。
 いくらハーレイが丈夫な身体を持っていたって、走りながら喋るのは大変だものね。
「そう言うお前は、凄い速さで俺と一緒に移動しながら、平気で喋り続けたわけだが…」
 お前の身体は走っちゃいないし、喋ると舌を噛んじまうことも無いからなあ…。
 喋れても別に不思議じゃないがだ、凄い速さで俺について来られた方。
 あれはどういう理屈になっていたんだ、瞬間移動で走るってヤツ。
 急ぎ足にくっついて来た時もそうだが、お前、地面に足だけはつけていたからな。
 そうやって器用に追い掛けて来たが、あれの仕組みはどうなっていた…?
 俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイにぶつけられた質問。急ぎ足を追った瞬間移動。
「えっと…?」
 とにかく瞬間移動なんだよ、ハーレイを追い掛けなくちゃ、って…。



 前の自分が考えたことは、たったそれだけ。「ハーレイと一緒に歩きたい」とだけ。
 走るハーレイを追っていた時も同じ。ハーレイと同じ速さで走って、ついでに話をしたかった。返って来る返事が「ええ」や「はい」でも、それがハーレイの精一杯でも。
(一緒に急いだら、ハーレイが仕事中でも話が出来るから…)
 そう思うだけで、息をするように操れたサイオン。今の不器用な自分と違って、いくらでも。
 ソルジャーの称号はダテではなくて、ただ一人きりのタイプ・ブルー。誰よりも強いサイオンを自在に使いこなして、シャングリラを守れたほどだから…。
 ハーレイの速度と歩幅に合わせて、前へ、前へと繰り返していた瞬間移動。速すぎてハーレイを抜いてしまわないよう、遅すぎて置き去りにされないように。
 それは覚えているのだけれども、今の自分はサイオンがまるで駄目だから…。
「仕組みは分かっているんだけど…。ぼくの頭では分かるんだけど…」
 上手く説明出来ないよ。速すぎないよう、遅すぎないよう、調整していたことくらいしか。
 前のぼくだと、「ハーレイと一緒に歩きたい」って思うだけで簡単に出来たんだけど…。
 ハーレイが走っていた時も同じで、「追い掛けなくちゃ」って。
 急いでいるハーレイと話をするには、あの方法しか無かったんだもの…。
「ふうむ…。前のお前には簡単だった、と」
 しかし今だと、仕組みが分かっていると言っても、上手く説明出来ないんだな。
 説明も上手く出来ないのならば、あれは真似られないってか?
 真似が出来たら、俺がどんなに急いでいたって、お前、追い掛けて来られるんだが…。
 今日みたいな時にも楽々とな、と言われても困る。
 今の時代はサイオンを使わないのが社会のマナーだけれども、そのサイオンが上手く操れない。前と同じにタイプ・ブルーでも、名前だけ。思念さえ上手く紡げないレベル、とことん不器用。
「…瞬間移動が出来ないことくらい、知っているでしょ?」
 一度だけハーレイの家まで飛んで行ったけど…。あれっきりだよ?
 飛ぼうとしたって飛べやしないし、前のぼくみたいに器用なことは出来ないってば…!
「だろうな、今のお前じゃなあ…」
 普通に瞬間移動をするのも無理だと、あんな凄すぎる芸当は夢のまた夢か…。
 歩きも走りもしちゃいないのに、俺の隣にピタリとついて、せっせと喋りまくるのは…。



 あの芸当が出来ないんだな、とハーレイはフウと溜息をついた。
「まさに芸当といった感じで、前の俺は感心していたわけなんだが…」
 よくも平気でついて来るなと、しかも全速力で走っていたって喋れるなんて、と思ったが…。
 それが駄目だということになると、お前、今度は俺に置き去りにされるしかないんだな。
 今日みたいに、「俺は急ぐから」と放って行かれちまって。
 ポツンと残されちまうわけだな、とハーレイが言うから、コクリと頷いた。
「そうだよ、ハーレイがゆっくり歩いてくれないと無理」
 でなきゃ一緒に連れてってくれるか、どっちかでないと…。
「はあ? ゆっくり歩けというのは分かるが…」
 一緒に連れて行くっていうのは、いったい何なんだ?
 お前でも歩けるような速さで歩いていくのと、一緒に行くのは同じだろうが。
 全く同じに聞こえるんだが…、とハーレイは怪訝そうだけれども、同じではない、その二つ。
「えっとね…。一緒に歩いていくのと、連れてってくれるのとは別なんだよ」
 一緒に歩いていく方だったら、ぼくは自分で歩くんだけど…。遅れないように頑張って。
 でもね、連れてって貰う方だと、歩かなくてもいいんだってば。
 ハーレイの背中におんぶで行くとか、抱っこして運んで貰うとか…。
 それならハーレイと同じ速さで行けるし、ぼくは少しも頑張らなくてもハーレイと一緒。
 お喋りだって出来そうだよね、と微笑んだ。「ハーレイが走っていないなら」と。
「俺がお前を運ぶだと?」
 その状態で急ぐだなんて、俺の用事はどうなるんだ?
 何処かへ急いでいるというのに、お前を背負うとか、抱いて運ぶとか…。
 俺の用事がサッパリだろうが、お前の面倒を見るのに時間を割かれちまって。
 荷物も満足に運べやしないぞ、俺が頑丈に出来ていたって。



 お前だけで身体が塞がっちまう、とハーレイは苦い顔をした。「それは出来ん」と。
 急ぐのは用があるからなのだし、今日と同じで用事の方を優先すべき。「すまん」と詫びたら、後は一人で急ぐだけだ、と。
「お前はチビだが、そのくらいのことは分かるだろう?」
 用を済ませるのが大切なことで、お前と一緒に行くかどうかは、考えちゃいられないってな。
 後できちんと謝りはするが、俺は一人で行かせて貰う、と言われたけれど。
「その用事…。ぼくを運ぶのが用事だったらいいじゃない」
 大急ぎでぼくを運ぶんだったら、ぼくと用事はセットだから。…切り離せないよ?
 今のぼくはハーレイが急ぐ時には置き去りなんだし、暇な時には、ぼくを運んでくれたって…。
 いいと思う、と駄々をこねてみた。「ぼくを急いで運んでよ」と。
「お前を急いで運ぶって…。どんな用事だ、怪我は困るぞ。病気だってな」
 怪我や急病なら、お前を抱えて全力疾走したっていいが…。頼まれなくてもするんだが…。
 そんなのは駄目だ、そんな物騒な用事はな。
 お断りだ、と睨まれた。「とんでもない用を作るんじゃない」と。
「駄目…?」
 ハーレイ、運んでくれないの…?
 ううん、運んでくれるだろうけど、そういう用事は駄目だって言うの…?
「当たり前だろうが、怪我に病気だぞ?」
 よく考えてものを言うんだな。お前が痛かったり、苦しかったりするんじゃ困る。
 怪我や病気は痛いし、苦しいわけなんだから…。
 それは駄目だな、いくらお前を運んでやれる用事でも。…お前の注文通りでも。
 もっと平和で、お前を急いで運ばなければならない理由というヤツをだな…。
 考えてから出直して来い、と叱られた。「怪我と病気は論外だ」と。
「でも、そんなのしか無いじゃない…!」
 ハーレイが急いで運んでくれそうなのは、怪我か病気で…。
「だから駄目だと言っている。運ばないとは言わないが…」
 歓迎出来る用じゃないしな、出来れば御免蒙りたい。
 お前の気持ちは分からないでもないんだが…。それとこれとは別だってな。



 物騒じゃない用事を思い付いてから言ってくれ、と注文をつけたハーレイだけれど。
 「お前を急いで運ぶ用事は、何処にも無いと思うがな?」と軽く両手を広げたけれど…。
「…待てよ、全く無いこともないか」
 急ぎでお前を運ぶって用事。…急がないと話にならないヤツが。
 俺だけ急いで出掛けて行っても、お前を置き去りにしてしまったら駄目だよなあ…。
 あれだと駄目だ、と顎に手をやるハーレイ。「時間との戦いなんだから」と。
「急ぐって…。急がないと駄目って、何かあるの?」
 ハーレイだけが急いで行っても、ぼくがいないと駄目な用事が…?
「先着何名様ってイベント、お前も聞いたことはあるだろ?」
 ああいうヤツなら、お前をヒョイと抱えて走っても大丈夫だな。一緒に着かんと駄目なんだし。
 俺だけ一人で行っちまっても、お前の恨みを買うだけだ。
 小さな子供を抱えて走ってる親も、珍しくなんかないからなあ…。
 親だけ着いても、子供の分が足りないだろう。だから抱えて走ってるってな。
「小さい子供向けのイベント…?」
 お菓子が貰えるとか、ゲームに参加できるとか…。あんなのに行くの、ハーレイと?
 ぼくを抱えて走ってくれるんなら、子供向けでもいいけれど…。
「子供向けじゃないのも色々あるぞ。気を付けて情報を集めていれば」
 そうだ、夏にアユを食わせるヤツがあったな。…アユの塩焼き。
「アユ…?」
 魚だよね、と思ったアユ。夏になったら川で釣っている人が大勢。
「郊外の方だが、知らないか?」
 たまに新聞にも載ってるぞ。その場で焼いて食わせてくれるイベントで…。
 この日にやります、って案内が出たり、焼いてる所や、美味そうに食ってるヤツらの写真とか。
「あるね、そういうのが…!」
 今年も見たっけ、沢山のアユを焼いてる写真。
 川のすぐ側で、焼けるのを待って、大人も子供も凄い行列…。



 そういえばあった、と思い出した夏の風物詩。
 郊外の川の中洲で開催される名物イベント、塩焼きのアユが食べられる。焼き立てのが。
 とても人気のイベントだけれど、整理券などは出されない。その日に其処に出掛けて行って…。
「走り込んだ順に並ぶ筈だぞ、あのイベントは」
 朝早くから並んだりするのは禁止で、この時間から、というのがあるんだ。
 其処から中洲に急ぐってわけで、先着順だぞ。アユがある間に中洲に着いたら食えるわけだな。
 数は沢山用意してるが、欲しい連中も多いから…。
 もう文字通りに急いで行くしかないってな、というのがハーレイの説明。塩焼きのアユを食べるためには、アユが無くなってしまわない内に中洲に向かって急ぐこと。
(橋は架かっているけれど…)
 スタート地点になる駅やバス停、其処からは少し離れた中洲。自分の足では、とても走れそうにない距離があることが分かるから…。
「あれに出掛けるの?」
 ぼくじゃ走れないよ、中洲までは。橋くらいは渡れそうだけど…。
「そうだろう? 悪くないと思うんだがな、あれ」
 お前の足だと間に合いやしないし、俺がお前を担いで走る。
 そうすりゃ間に合う筈だから…。俺もお前も、美味しいアユにありつけるんだ。
「ハーレイ、ぼくを担いじゃうわけ?」
 担ぐんだったら、背中じゃなくって肩の上だよね?
 なんだか荷物になったみたいだけど、ぼくを担いで走るって言うの…?
「そいつが一番走りやすいしな、担ぐのが」
 運動会だと、デカイ荷物を担いで走る競争なんかがあったりもする。米俵とかな。
 担いで走るのが早いからこそ、そういう競争になるわけで…。
 俺がお前を担いで走れば大いに目立つが、間に合うことは保証してやるぞ。
 なんたって俺の足だからなあ、お前を一人担いだくらいじゃ、簡単に抜かれやしないから。
 チビでなくても、前のお前と同じに育ったお前でもな。



 任せておけ、とハーレイが請け合ってくれたアユの塩焼きを食べるイベント。先着順で。
 自分の足では間に合わないから、ハーレイが担いで走ってくれる。
 前の自分がやっていたように、走るハーレイの速度に合わせて、瞬間移動は無理だけれども…。
「それ、行きたい…! アユの塩焼き!」
 美味しそうだし、それにハーレイと同じ速さで走れるし…。
 ぼくが走っているんじゃないけど、ハーレイに運んで貰うんだけど…。
 でも、ハーレイとおんなじ速さ、と担いで走って貰いたくなった。大勢の人に見られていても。
 他に担がれて走っているのは、小さな子供だけだとしても。
「だったら、お前と行くことにするかな」
 あれがある日は、朝から郊外まで行って。…スタートの時間になったら、お前を肩に担いで。
 親父がアユを提供してるし、わざわざ必死で走らなくても、裏方特権で食えるんだが…。
 前の日までに「二人行きます」と言っておいたら、ちゃんと残しておいてくれるが…。
 お前が、俺の急ぎ足を追い掛けるのが無理になっちまって、担いで走って欲しいと言うなら…。
 そっちの方を優先するが、と鳶色の瞳が瞬いた。「俺と一緒に走りたいか?」と。
「裏方特権っていうの、あるんだ…」
 ハーレイのお父さんだから出来るんだよね、釣り名人でアユも釣るから…。
 特権を使えば、走らなくてもアユは二人で食べられるんだ…。
「そういうことだな、どっちがいい?」
 俺に担がれて走るのがいいか、のんびり出掛けて食うのがいいか。
 アユの味は変わらないと思うんだが…。どっちのコースで食ったって。
 お前が満足する方でいいぞ、裏方特権を行使するのも、俺が担いで走るのもな。
 どっちがお前の好みなんだ、と訊かれたけれども、そう簡単には出せない答え。アユの塩焼きは聞いたばかりだし、まだハーレイとはデートにも出掛けられないのだから。
「…来年とかには、まだ行けないでしょ!」
 ぼくがデートに行けるようになるまで、アユを食べには行けないんだから…。
 それまでに悩むよ、どっちにするか。
 ハーレイに担いで貰って走るか、裏方特権で食べる方にするか。



 まだ何年も悩めそう、と零れた溜息。背丈は少しも伸びてくれなくて、前の自分には遠いから。
 前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスも出来ないから。
 デートだって無理、と悲しいけれども、学校だったら、二人で歩けるチャンスもたまに訪れる。今日は置き去りにされたけれども、そうでない時も、きっとある筈。
「…アユの塩焼きは、まだ無理だけど…。でも…」
 また学校で何か運ぶ時には、手伝っていい?
 ハーレイの荷物、ぼくでも持てる重さだったら…。行き先が遠くなかったら。
「もちろんだ。…俺が急がない時ならな」
 さっきも言ったが、荷物も軽めに作ってやる。お前、手伝いたいわけだしな?
 それと、いつかお前と二人きりでだ、学校以外の場所も歩けるようになったら…。
 お前と一緒に歩く時には、急がせたりはしないから。
 前の俺みたいに急ぎ足とか、全力疾走というのは無しだ。…ゆっくり歩こう。
 せっかくお前と歩くんだから、という申し出は嬉しいけれど。
「急がせてもいいよ?」
 ハーレイに急ぐ用事があるなら、ぼくも頑張って歩くけど…。少しくらいなら走れるし…。
「駄目だ、お前が倒れちまう」
 前と同じに弱いんだからな、お前の身体は。…それに反則技も出来ない。
 そんなお前に無理をさせたら、後悔するのは俺なんだ。なんで急がせちまったんだ、と。
 お前は良くても俺が嫌だし、お前に急ぎ足はさせない。走る方だって。
 ゆっくり歩け、とハーレイが強く念を押すから、今度は急ぎ足のハーレイは追えない。反則技が使えたとしても、きっとハーレイは急ぎ足も全力疾走もしない。
(…急ぐ時には、担いで走ってくれるだけだよね?)
 アユの塩焼きイベントにしても、他にも何か急ぐような用が出来たとしても。
 それなら、今度はハーレイと二人、のんびりと地球の上を歩いて行こう。
 急ぐ時には肩に担いで貰って、他の人たちをハーレイが軽々と追い越していって。
 ハーレイと同じ速さで走れる自分を、肩の上から楽しんだりして…。




             急ぐ時には・了


※前のブルーには出来た、急ぎ足のハーレイを追い掛けること。瞬間移動で距離を稼いで。
 今は出来なくなった芸当、ハーレイが急ぎ足でも追うのは無理。一緒に歩いてゆくのが一番。
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(何の音…?)
 学校からの帰りに、ブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中の、いつもの道。
 バスを降りてから少し歩いたら、聞こえて来た何かを壊すような音。石が幾つも崩れるような、ガラガラという音だって。
(こっちの方…)
 気になるからと道を外れて、音の方へと進んで行った。住宅街の中の道沿いに。生垣に囲まれた家の前を通って、角を曲がって、歩けば音が近付いて来る。ガシャンと何かが割れる音も。
 何事だろう、と訝しみながら角を曲がった途端に、目に飛び込んで来た信じられない光景。
(壊しちゃってる…!)
 通り道ではないのだけれども、自分の家から近い場所。御主人の顔もよく知っている家。
 芝生の向こうに建つ、お洒落なポーチが素敵な家が好きだった。物語に出て来る家みたいで。
 その大好きなポーチの辺りが、玄関や側の家の壁ごと壊されている真っ最中。ガラガラと機械に毟り取られて、窓のガラスも取り外されて。
(…嘘…)
 なんで、と何度も瞬きをした。夢なのかも、と思ったから。夢なら瞬きすれば覚める筈だから。
 けれども、覚めてくれない夢。自分が見ているものが現実。家は壊されてゆくところ。
 まだ住めそうな家なのに。屋根も外壁も、ガラスを失くした窓枠も。
 古くて駄目な家とは違って、充分に綺麗だった家。此処を通る時は、生垣越しにポーチを眺めて楽しんでいたものなのに。
 燦々と日が当たるポーチは、本当にお気に入りだった。絵に描いたような其処で、この家の猫がのんびり昼寝をしていたりして。
(あのポーチ…)
 なくなっちゃった、と壊されてゆくのを見ているしかない。大きな機械が毟ってゆくのを、壁や窓まで削り取られて消えてゆくのを。



 天気がいいのに、もうポーチにはいない猫。こんな場所には、他の猫だって来ないだろう。怖い音がするし、近付いたら怪我もしそうだから。瓦礫を踏んだり、ぶつかったりして。
(壊しちゃうなんて…)
 あんまりだよ、と思うけれども、きっと明日には家は丸ごと消えてしまっているのだろう。学校から帰って来るこの時間には、何も残っていはしない。
 ポーチも家も、全部壊されて、トラックに乗せて運び去られて。何もない地面が広がるだけ。
(そんな…)
 本当に好きな家だったのに。壊されるのなら、その前に見ておきたかったのに。
 ゆっくり眺めて、心の中で「さよなら」を言って、目に焼き付けておきたかった。幼い頃から、此処のポーチが好きだったから。通る度に見ていた家だったから。
 家は売られて、新しい人が別の家を建てて住むのだろうか。壊されてゆく家の代わりに。
 こういう家に住んでみたい、と自分の好みの新しい家。
(あのまま住んであげればいいのに…)
 そんなに古くない筈だよ、と子供の自分でも分かる。建て直さなければならないくらいに、古い家ではなかったこと。何十年だって住めそうなこと。
 けれど、目の前で崩れてゆく家。無くなってしまったポーチの天井。柱もじきに倒される。側の床をごっそり抉り取られて、立っていることが出来なくなって。
 全部消えちゃう、と呆然と其処に立ち尽くしていたら…。
「ブルー君?」
 後ろからの声で振り向いた。誰、と思ったら、この家の御主人。幼い頃から知っている人。
 慌ててピョコンと頭を下げて、「こんにちは」と挨拶したのだけれど。
(あれ…?)
 何故、御主人が此処にいるのだろう。家は壊されてゆく所なのに。御主人が住んでいた筈の家。
 今も大きな機械がせっせと、壁を、柱を毟っているのに。



 家は売られてしまったんじゃあ…、と御主人と家を見比べた。「変だよね?」と。
 御主人は普段と変わらない風で、引越したとは思えない。それでも家は壊されているし…。
「ブルー君、こんな所でどうしたんだい?」
 今は学校の帰りだろう、と御主人も不思議そうな顔。「此処は通っていかない筈だよ」と。
 制服と鞄で誰にでも分かる、学校から帰って来た生徒。確かに、通学路とは違う場所。御主人に質問されたからには、こちらも訊いていいだろう。
「えっと…。何か壊してる音がしたから、来てみたんだけど…。おじさんの家…」
 なんで壊すの、とぶつけた疑問。まだ住める家の筈だから。
「ああ、これかい…! 壊してるねえ、確かにね」
 悲しそうな顔をしているけれども、この家、好きな家だったのかい?
「うん、ポーチとか…。でも…」
 無くなっちゃった、と視線を向けた。機械が倒している柱。あの柱がとても好きだったのに。
 柱の側で猫が昼寝をしている姿は、まるで絵のようだったのに。
「ありがとう、家を気に入ってくれて。この家だって喜ぶよ」
 ポーチはそっくりのを作るからねえ、今のと変わらない材料で。
「え?」
 どういうこと、と丸くなった目。そっくり同じに作るのだったら、壊さなくても、と。
「改築って言葉を知ってるかい? 建て直すんじゃなくて、少し直すんだ」
 元の家は残して、家の中を作り替えるとか…。こんな具合に、ちょっと壊して作り直すとか。
 趣味のアトリエが欲しいんだけどね、あのままだと無理なものだから…。
 家をちょっぴり広げるんだよ、と教えて貰った。
 壊すのは家の一部だけ。御主人の趣味のアトリエを増やして、玄関の辺りの間取りも変えてやるために。壊さないと上手く繋がらないから、元からの家と。
 必要な部分を機械が壊した後には、大工さんたちがやって来る。新しい壁や床を作りに。
 新しいけれど、元からある家にしっくり合うよう、材料や色を合わせての工事。
 出来上がったら、前とそっくりなポーチも戻って来るらしい。
 今ある場所とは違うけれども、元通りに家の顔になるよう、玄関を作ってゆく場所に。



 御主人は説明してくれた後で、まだ壊している家の方に視線をやってから…。
「工事が済んだら、こんな感じの家になる予定さ」
「わあ…!」
 思念で送って貰ったイメージ。サイオンはとことん不器用だけれど、送って貰えば受け取れる。壊す前より、もっとお洒落になるらしい家。御主人の趣味のアトリエつきで。
(ポーチもホントに前のとおんなじ…)
 家を広げた分、誇らしげな感じがするポーチ。「前より立派になったでしょう?」と。
「素敵だね。今、壊してる家も好きだったけど…」
 今度の家もうんと素敵で、ポーチは今よりいい感じかも…。
 同じポーチなのに、なんだか不思議。…何処もデザイン変えてないのに…。
「そう言って貰えると嬉しいよ。それに、ブルー君のお気に入りの家だったなんてね」
 知っていたなら、変な心配をしなくて済むよう、お母さんにでも話しておいたのに…。
 よく会うからねえ、買い物に行った時だって。
 「玄関の辺りを少し直しますから」と工事の予定を知らせておいたら、ブルー君も安心して見ていられたのに…。ごめんよ、ちっとも気が付かなくて。
 でも、この通りに、もうすぐ生まれ変わるから。…壊しているのは今だけなんだ。
 ああいう機械も、明日の午前中には出番が終わって帰って行くかな。
 そっちが済んだら直ぐに工事に取り掛かるんだよ、新しく増やす部分の基礎を作って。
 出来上がったら、また見に来て欲しいね。
 壊す時と違って大きな音はしないだろうから、出来上がっても音では分からないけれど。
「見に来る…!」
 大工さんが家を作ってる音は、たまに聞こえると思うから…。
 学校の帰りに回り道するよ、どのくらい出来て来たのかな、って。
 前より素敵になるんだものね、と眺めた家。お気に入りだったポーチは戻って来る。
 まるで壊しているようだけれど、新しく生まれ変わる家。
 明日になったら壊す機械が運び出されて、代わりに大工さんたちが来て。



 良かったよね、とホッとして帰った自分の家。御主人に「さよなら」と挨拶をして。
 制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、あの家のことを思い出す。
(まだ住めるのに、壊しちゃうなんて…)
 可哀相、と早合点をしてしまったけれど。
 あの御主人たちは家を売ってしまって何処かに引越し、新しく来る人が家を壊して、自分たちの好きな新しい家を建てるのだと勘違いしていたのだけれど。
 そうではなかった、大好きな家。猫がのんびり昼寝をしていた、ポーチがとても似合う家。
(作り直すんなら、あの家だって喜ぶよ)
 生まれ変わって、もっと素敵になれるから。御主人の趣味のアトリエが増えて、前のとそっくり同じポーチも玄関に作り直されて。
(きっと、おじさんたちも、あのポーチが好き…)
 だから全く同じデザインにするのだろう。少しも変えずに、元あったものとそっくりに。
 あの家の猫も、きっと喜ぶ。昼寝する場所がまた出来るのだし、居心地もいい筈だから。
(みんなポーチが大好きだよね?)
 御主人たちも、猫も、壊されていたポーチが大好き。元の通りに作り直そうと思うくらいだし、いつも見ていた自分と同じに、あのポーチが好き。
(早くポーチが出来るといいよね)
 そしたらゆっくり見に行こう、と考えながらケーキを食べて、紅茶も飲んで。空になったお皿やカップを母に渡して、戻った二階の自分の部屋。
 窓の所に行って眺めた、あの家の方。他の家の屋根や庭木に隠れて見えないけれど…。
(あそこで生まれ変わるんだよ)
 壊す機械が運び出されたら、大工さんたちがやって来て。
 御主人が話してくれていたように、増やす部分の家を基礎から作っていって。
 ポーチの基礎も一緒に作ってゆくのだろう。前とそっくり同じになるよう、計算された設計図。それの通りに基礎を作って、柱を立てて、屋根などもつけて。
 そうやって立派に出来上がる家。ポーチが戻って、御主人の趣味のアトリエも増えて。



 出来上がったら見に行かなくちゃ、と思う家。大工さんが工事している音が聞こえたら、帰りに回り道もして。「どのくらい出来て来たのかな?」と。
 きっと通る度に、新しい顔が見えて来るのだろう。基礎が出来ていたり、柱が立ったり、屋根の梁が上に乗っていたりと。
(壊すんじゃなくて、ホントに良かった…)
 元の家を少し壊すにしたって、素敵に生まれ変われるのなら、と考えていたら掠めた記憶。
 遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。
(…シャングリラ…)
 あの船もあれと同じだった、と気が付いた。壊されるのだと勘違いをした、ポーチのある家と。
 元は人類のものだった船がシャングリラ。前の自分たちが暮らした船。
 メギドの炎で燃えるアルタミラから、あの船を使って逃げ出した。人類が捨てていった船だし、誰も乗ってはいなかったから。
 充分な食料を載せていた船は、前の自分たちを生かしてくれた。コンスティテューションという名前だった船。人類はそう呼んでいたらしい。
 船での暮らしに馴染んだ後に、シャングリラと名付けて長く宇宙を旅して回った。人類軍の船に出会わないよう、慎重に航路設定をして。
 そうして旅を続ける間に、培った技術や生まれたアイデア。それらを生かして、ミュウの箱舟を作ろうと決めた。自給自足で何処までも飛んでゆくことが出来る、白い鯨を思わせる船を。
(元の船を改造するのが決まって…)
 設計図が作られ、資材の調達なども順調。其処までは良かったし、白い鯨は立派に完成する筈。計画通りに進めさえすれば、船の中だけで全てを賄うことが可能な箱舟が。
 さて、と改造に取り掛かろうとしていた時に、前の自分が気付いたこと。ある夜に、ふと。
(壊さないと…)
 元からの船を壊さない限り、出来上がらないのが新しい船。白い鯨になるだろう船。
 ソルジャーの自分が暮らす部屋はもちろん、食堂もブリッジも、何もかもを。
 皆の憩いの場の休憩室も、それぞれが使っている部屋も。
 どれも壊してしまわないと駄目で、新しい船に残せはしない。船の心臓である機関部さえもが、まるで違うものになるのだから。今とは全く違うシステム、それを組み込んでゆくためには。



 無くなるのだ、と見回した自分の部屋。壁も天井も全部壊して、此処には何が出来るのだろう?
 食堂も通路もブリッジだって、欠片すらも残さず壊されてしまう。白い鯨にするために。
 新しく出来る白い鯨は、今の船にある部屋も設備も、必要としない船なのだから。
(ずっと、ぼくたちを守ってくれて…)
 一緒に旅をして来た船。元はコンスティテューション号だった船。
 白い鯨に改造した後も、船そのものは残るけれども、色々なものが無くなってしまう。邪魔だとばかりに壊されていって、別の何かが其処に生まれて。
 このまま使い続けるのならば、まだまだ宇宙を飛べるだろうに。きちんとメンテナンスを施してやれば、きっと数百年だって。
(それを壊してしまうだなんて…)
 自分たちの命を守ってくれた、頼もしい船。アルタミラからも脱出させてくれた船。
 まだ充分に寿命があるのに、その船を壊す自分たち。改造とはいえ、船に残るのは恐らく、固有周波数だけ。元はコンスティテューション号だった、と識別可能なものはそれだけ。
 今日まで守ってくれたのに。…この船で宇宙を旅して来たのに。
 改造しようとさえ思わなければ、元の姿を保ったままで飛び続けることが出来るのに。
(なんだか申し訳なくて…)
 いたたまれなくて、何度も部屋を眺め回した。「まだ使える」と。
 改造のために壊さなければ、何十年だって使えるだろう。壁や天井が汚れて来たなら、掃除してやればいいだけのこと。床を磨くように、汚れがすっかり落ちるまで。
 照明や空調などが故障したって、修理すればまた使ってゆける。必要だったら、交換用の部品を奪いに出掛ければいい。人類の輸送船を探して、「これとこれだ」と調達するだけ。
 今はそういう生活なのだし、それを続けるなら、船はこのまま。
 壊されはせずに、今の姿を保ってゆける。コンスティテューション号だった時の姿のままで。
 けれども、それではミュウの箱舟は作れない。
 自給自足で生きてゆける船を作りたいなら、壊すしかない今の船。
 まだ充分に飛べるのに。…数百年だって、このままで飛んでゆけるだろうに。



 新しい船を作るためとはいえ、今ある船を壊してしまう。自給自足の船にしよう、という考えを起こさなければ、この船は生きてゆけたのに。少しも形を変えることなく飛べたのに。
(なのに、壊してしまうんだから…)
 船に申し訳ないような気がして、どうしてもそれが拭えない。
 一度、気付いてしまったら。まだ使える船を端から壊して、白い鯨にしてしまうのだという罪の意識が生まれたら。
 生きるためには必要だけれど、罪は罪。船を壊してしまうこと。命の恩人だった船なのに。今日まで守って来てくれた船。…この船の寿命は、まだ充分にある筈なのに。
 何日もあれこれ考え続けて、ついに相談することにした。長老と呼ばれるヒルマンたち四人と、キャプテンを集めての会議。その席で「船が可哀相だ」と。
「そう思わないかい? この船は壊されてしまうんだよ」
 今のままでも、宇宙船としては優秀なのに。…ミュウの箱舟には向かないだけで。
 自給自足で生きていこうとか、ステルス・デバイスやサイオン・シールドを載せようだとか…。
 そんなことさえ言い出さなければ、この船でやってゆけるのに…。
 船は壊されたりしないのに、と出席した皆に訴えた。「まだ生きられる船なのに」と。
「なるほどね…。壊さなければ、改造出来はしないのだからね」
 生まれ変わって新しい船になりはするのだが…、とヒルマンが顎に手をやった。
 「今のままでも使える船を、壊すというのは確かではある」と。
「壊されちまう部屋ばかりだねえ、言われてみれば。…この部屋もさ」
 あたしたちがいる会議室だって残らないね、とブラウも頷いた。会議室もブリッジも、機関部も全て壊されちまう、と。今ある船を壊さなければ、新しい船は作れないから。
「そうだろう? 何一つとして残らないんだよ、今の船はね」
 姿もすっかり変わってしまって、まるで違う船になるのはいい。…そういう船が必要だから。
 ぼくにも、それは分かっている。改造するには、壊さなくてはならないことも。
 ただ…。



 要らないから、と壊すだけでは可哀相だ、と曇らせた顔。ずっと暮らして来た船なのだし、命を守ってくれた船。元が優れた船でなければ、今日まで飛んではいられない。
「違うかい? アルタミラから脱出して直ぐに故障していたら…」
 皆に充分な知識が無いまま、エンジントラブルを起こしていたなら、皆、死んでいる。
 エンジンが止まれば、空調も全部止まるから。…船の酸素が尽きてしまうから。
 そうならなかったのは船のお蔭で、ぼくたちを今日まで生かしてくれた。
 新しい船を作ることまで思い付くほどに、ぼくたちが知識や技術を身に付けるまで。
 その船をただ壊すなんてね…。もう用済みだと、まるでゴミでも捨てるみたいに…。
 ぼくには出来ない、と溜息をついた。「必要なことでも、やりたくはない」と。
「あたしも、そんな気がして来たよ」
 ブラウが言ったら、ゼルが「わしもじゃ」と声を上げた。
「長年、世話になった船じゃし、あちこち修理もしてやったんじゃ。一つしか無い船じゃから」
 なんとか出来ればいいんじゃが…。この申し訳ない気持ちをじゃな…。
 伝えてやれればいいんじゃが、と髭を引っ張ったゼル。「わしの気持ちを、この船にも」と。
「そういうことなら、感謝の言葉を贈るというのはどうでしょう?」
 壊す前に、とエラが提案した。
 元はコンスティテューション号だった船に、今日までの感謝の気持ちをこめて言葉を贈る。
 ソルジャーとキャプテン、それに長老たち。他にも主だった者たちを集めて。
 其処が食堂なら、厨房で働いて来た仲間たち。他の場所でも、其処に馴染みの者たちが集う。
 彼らと一緒に、「今日までありがとう」と、船に御礼を。壊す前には、そういう集い。
「感謝の言葉を贈る集まり…。それはいいかもしれないね」
 船も喜んでくれそうだ、と肩の荷が下りたような気がした。御礼を言うなら、この船も分かってくれるだろう。用済みだからと壊すわけではないことを。誰もが感謝していることを。
「ソルジャーが代表で御礼を言うのがいいと思うよ」
 皆を纏める長なのだから、とヒルマンが述べて、エラは「キャプテンもですよ」と付け加えた。
「いい船にする、と誓いを立てるべきでしょう。今のこの船に」
 きっといい船にしてみせるから、と安心させてやって下さい。今日まで守って来てくれた船を。
「良さそうじゃな」
 そうするべきじゃぞ、わしも大いに賛成じゃ。…船のヤツらも、誰も文句は言わんじゃろうて。



 こうして決まった、感謝の集い。元はコンスティテューション号だった船に御礼の言葉を。
 船全体を一度に壊すわけではないから、あちこちを順に回って行った。
 其処を壊すという予定が立ったら、食堂もブリッジも、休憩室も。皆が暮らしていた居住区も。
 ソルジャーだった前の自分が、「ありがとう」と船に贈った言葉。
 御礼を言いに出掛けた先で、きっと一番役立っただろう所に立って。食堂だったら、皆の食事を作った厨房。ブリッジだったら、船の進路を決め続けて来た舵の前。
 「ありがとう」と御礼を言った後には、前のハーレイが誓いを立てた。キャプテンとして、船に誓っていた。「今日までの働きに感謝している」と、「きっといい船にしてみせる」と。
(そうだったっけ…)
 至る所で、それまでの御礼を言って回ったシャングリラ。
 壊す予定が立った時には、ハーレイたちと出掛けて行って。その場所をよく使っていた者たちも寄って、皆で感謝の気持ちを捧げた。「今日までの日々をありがとう」と。
 新しくなった船で長く暮らして、すっかり忘れていたけれど。
 白いシャングリラに慣れてしまって、改造前の船との別れの儀式も、記憶の海に沈んだけれど。
(…ぼくとハーレイ…)
 二人で御礼を言ったんだっけ、と思い出していたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラを改造した時のことを覚えてる?」
 人類から奪った船だったのを、白い鯨に。
 あれですっかり変わってしまって、元の船とは違う船になってしまったけれど…。
 姿も、それに船の設備も。…誰が見たって、同じ船だとは分からないほどに。
「もちろんだ」
 俺が忘れるわけがなかろう、あの船のキャプテンだったんだぞ?
 改造前には何度も会議をしてたし、改造に取り掛かってからもキャプテンの俺が纏め役だ。
 現場はゼルが仕切っていたがな、それにヒルマン。あいつらの独壇場ってトコか。
 とはいえ、毎日報告は来るし、進捗状況も把握してなきゃいかん。
 誰かに質問された時にだ、答えられなきゃ話にもなりやしないんだから。



 忘れるものか、とハーレイは自信たっぷりだけれど、きっと忘れているだろう。元になった船を壊すのだから、と感謝の言葉を贈ったこと。…ハーレイも誓いを立てていたこと。
「覚えてるんなら、御礼のことも覚えてる?」
 とても大事なことだったけれど…。改造するなら、その前に御礼。
「御礼だって?」
 誰に御礼を言うというんだ、ゼルやヒルマンに礼を言うのか?
 あいつらが設計していた船だが、わざわざ礼まで言わなくても…。あいつらの役目なんだから。
 礼を言いに出掛けた覚えは無いぞ、と顔を顰めているハーレイ。やはり忘れているらしい。
「ゼルたちのことじゃないってば。…シャングリラだよ」
 前の船に御礼を言いに回ってたよ、ぼくとハーレイ。
 まだ使えるのに、壊して改造しちゃうから…。壊さないと改造出来ないから。
 次に壊すのは此処だから、って予定が立ったら出掛けていたよ。食堂にも、他の色々な場所も。
 ぼくが御礼で、ハーレイは誓い。「次の船もいい船にしてみせるから」って。
「あったっけな…!」
 そういや、御礼を言う集まりがあったんだ。…壊す部分と縁が深かった仲間も集めてな。
 まだ充分に役に立つのに、そいつを壊しちまうんだから…。
 申し訳ない、って詫びの気持ちも含めて、船に感謝をして回ってた。壊す前には、忘れずに。
 俺がお前にスケジュールを届けに行っていたのに、すっかり忘れちまってた。
 「次の集まりは此処になります」と、場所と集まる時間なんかのスケジュール。
 あの案内をしておかないと、ソルジャー不在になっちまうから…。他の仲間は集まっていても。
 もっとも、お前、俺が知らせるのを忘れていたって、ちゃんと現れただろうが…。
 皆の動きに敏感だったし、きちんとな。…でもって、後で俺に嫌味だ。「忘れただろう?」と。
 しかしだ、よく思い出したな、そんなこと。何か切っ掛け、あったのか…?
「今日の帰りに、改築している家を見たから…」
 ぼくが大好きなポーチのある家、壊してる所だったんだよ。
 壊しちゃうんだ、ってガッカリしてたら、その家のおじさんが来てくれて…。
 壊すんじゃないって教えてくれたよ、ちょっと壊して新しい部屋を増やすんだって。



 出来上がったら、ぼくの好きなポーチも戻って来るよ、と説明をした。壊していたのと、何処も変わらないデザインのポーチ。それが新しく出来るのだ、と。
「ホントだよ。おじさんにイメージを見せて貰ったから」
 前よりも素敵な家になりそう、ポーチもグンと立派に見えて。…同じポーチが出来るのに。
 デザインも材料も前と同じので、何処も変えたりしないのにね。
「なるほどなあ…。家の前だけ改築するってことか」
 新しい部屋が増えたりするから、その分、立派に見えるんだろう。お前が好きなポーチ。
 シャングリラの時とはかなり違うな、前の建物のままで残る部分が殆どだから。
 お洒落に生まれ変わる家か、とハーレイも笑顔なのだけど。「それは素敵だ」と頷くけれども、ふと浮かんだのがシャングリラ。白い鯨に改造した船。
(…シャングリラ…)
 せっかく立派な白い鯨に生まれ変わったのに、トォニィの代で役目を終えた。
 最後のソルジャーだったトォニィ、彼が決断したシャングリラを引退させること。平和になった宇宙のあちこちを旅して回った、白い鯨は消えてしまった。
 アルテメシアとノアと、二つの母港を持っていた船。
 どちらの星でも歓迎されたし、シャングリラを係留したかったろうに。引退したなら、もう旅に出ることは無い船を。ミュウの歴史を築いた箱舟、宇宙で一番愛された船を。
 けれど、トォニィはそうしなかった。
 宇宙の旅から退いた船を、母港に繋ぎはしなかった。係留しておけば、見学者がひっきりなしに訪れ、写真を撮って行っただろうに。とても人気の観光資源になっただろうに。
 そうなる代わりに、解体されたシャングリラ。…トォニィがそれを決めたから。
 白い鯨は、もっと宇宙を飛べただろうに。
 コンスティテューション号が建造された年代は確かに古かったけれど、白いシャングリラは固有周波数くらいしか引き継がなかった。新造船と呼んでも良かったくらいの新しい船。
 だから、まだまだ飛べた筈。きちんと手入れをしてやったならば、数百年でも。
 トォニィの命が尽きた後にも、係留されたまま、きっと残った。
 充分に飛べる船だったのだし、見学用なら、もっと寿命は延びただろう。過酷な環境とも言える宇宙空間を飛ばずにいたなら、船は傷みはしないのだから。



 もっと生きられたシャングリラ。何百年でも、アルテメシアかノアの宙港で。
 なのに解体されてしまって、何も残りはしなかった。改造ではなくて、解体だから。新しい船に生まれ変わりはしなくて、宇宙から消えてしまったから。
「ハーレイ、シャングリラ、可哀相…」
 壊されちゃった、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「消えちゃったよ」と。
「なんだって?」
 シャングリラだったら、立派に生まれ変わっただろうが。白い鯨に。
 元の船の姿は消えちまったが…。端から壊しちまったからなあ、でないと改造出来ないから。
「生まれ変わったシャングリラだよ。…ぼくが言ってるのは、白い鯨の方」
 トォニィが引退させてしまって、解体を決めてしまったから…。
 解体なんだよ、それって壊すのと同じことでしょ?
 シャングリラ、まだ生きられたのに…。何百年でも、きっと宇宙を飛べたのに。
「そういや、そうか…」
 消えちまったんだなあ、白い鯨は。
 前の俺はとっくに死んじまっていたし、データくらいしか知らないが…。その後のことは。
 引退したことも、解体のことも、今の俺が知っているだけだから。
「トォニィ、もっとシャングリラを生かしてあげれば良かったのに…」
 今も人気の宇宙船だよ、白い鯨は。…見学用に残しておいても、大人気だったと思うけど…。
 アルテメシアかノアに降ろして、宇宙の旅からは引退させて。
「そいつは無理というもんだろう。ミュウの箱舟はもう要らなかった」
 人類とミュウが和解したなら、箱舟に乗っていなくてもいい。何処ででも生きてゆけるんだ。
 新しい時代に過去を引き摺ることはあるまい、とトォニィは決断したんだな。
 あのデカイ船は、維持するだけでも大変だっただろうから。
 ミュウの世界を丸ごと乗せてた時代だったら、隅々まで目も行き届いていたし、人手ってヤツも充分すぎるくらいにあったんだがな。
「でも…。シャングリラ、いなくなっちゃった…」
 ぼくたちを守ってくれていたのに、何処にもいなくなっちゃったんだよ…。



 壊されちゃった、と零れた涙。白い鯨は、もっと生きられた筈だから。
 あの白い船をもっと飛ばせてあげたかったと、宇宙の旅から退いた後も、母港でのんびり余生を過ごして欲しかったと。
「だってそうでしょ、まだ生きられる船だったもの」
 白い鯨はとても頑丈に出来ていたから、何百年だって飛んでいられたよ。
 飛ぶのをやめたら、もう傷んだりはしないから…。それこそ千年以上だって…。
 きっと宇宙に残っていたよ、と溢れた涙を指で拭った。泣いてもシャングリラは戻らないから、恋人を困らせるだけだから。
「…泣くんじゃない。シャングリラは解体されたわけだが、そいつは考え方の違いで…」
 平和な時代を立派に築いたトォニィだって、ちゃんと色々考えただろう。
 白い鯨をどうすればいいか、もちろん、そのまま残しておくってことも含めて。
 だがな、たとえ千年持ち堪えたって、シャングリラは宇宙船なんだ。星とは寿命が全く違う。
 いつか間違いなく寿命を迎えるもんだから…。それを防げやしないから…。
 きっとトォニィは見届けようと思ったんだろうな、白い鯨を最後まで。
 自分が充分に元気な間に、あの船を送り出してやろうと。…自由に飛んでゆける世界へ。
 それに、シャングリラは消えちゃいないぞ。お前、勘違いをしているようだが。
「え…?」
 勘違いって…。間違えてないよ、改築していたポーチの家なら間違えたけど…。
 壊してるんだと思ったけれども、シャングリラはホントにもう無いんだから。解体されて。
「其処だ、其処。…トォニィはきちんと考えていた」
 船の形をしたままだったら、今の時代まで残すことはとても無理だったろうが、今も生きてる。
 シャングリラは今も生きているんだ、この宇宙で。
「生きてるって…。何処に…?」
「シャングリラ・リング、忘れちまったか?」
 あれはシャングリラそのものなんだぞ、白い鯨の船体の一部なんだから。
「そうだっけ…!」
 シャングリラ・リングがあったんだっけね、結婚指輪になってしまったシャングリラ…。



 そうだったよね、と眺めた左手の薬指。其処に嵌めたいシャングリラ・リング。
 白いシャングリラの船体の一部、今も残されている金属の塊。それを使って、一年に一度、結婚指輪が作られる。決められた数だけ、対の指輪が。
 結婚を決めたカップルだったら、誰でも申し込んでいい。抽選のチャンスは一度きりだけれど、当たればシャングリラ・リングが届く。白い鯨が姿を変えた、イニシャルなどが入った指輪が。
「トォニィ、今まで残してくれたんだ…。シャングリラを」
 船のままだったら、とうに駄目になって、もう見ることも出来ないけれど…。
 写真集の中に姿が残ってるだけで、本物は宇宙の何処を探しても、見付けられない筈だけど…。
 指輪になって今でも生きてるんだね、と思いを馳せたシャングリラ・リング。
 トォニィが解体を決めたからこそ、シャングリラ・リングは今も作られ続けている。白い鯨から結婚指輪に生まれ変わったシャングリラが。
「そうさ、俺たちも運が良ければ出会える。抽選で当たってくれればな」
 シャングリラ・リングに会うことが出来たら、礼を言うことも出来るんだぞ。
 ずいぶん時間が経っちまったが、前の俺たちを助けてくれていた、あの白い船にな。
「あちこちに連れて行けるんだっけね、シャングリラを」
 旅行にも、食事にも、ぼくたちと一緒に。指に嵌めていたら、何処へだって。
 良かった、シャングリラも新しく生まれ変われたんだ…。船の頃よりも、ずっと素敵な形で。
「うむ。それにだ、其処まで考えたトォニィだから…」
 シャングリラを解体する時には、きっと花だの酒だの、山ほど贈ってやったんだろう。
 感謝の気持ちをたっぷりとこめて、「ありがとう」とな。
 トォニィは最後に酒を注いでやったそうだから。引退してゆくシャングリラにな。
「前のぼくたちがやったみたいに?」
 壊す前の船に、感謝の言葉を贈って回ったみたいに。…あの船の中を、端から全部。
「言葉だけじゃなくて、間違いなく酒や花だったろうな、トォニィだから」
 花も酒も手に入れられた時代だ、もう惜しみなく贈ってやったと思うぞ。シャングリラ中に。
「きっとそうだね、そして今でもシャングリラは生きているんだね…」
 トォニィのお蔭で生まれ変わって、広い宇宙の色々な所に出掛けて行って、うんと幸せに…。



 宇宙のあちこち、結婚指輪に姿を変えて旅を続けているシャングリラ。
 懐かしい、白いシャングリラ。
 今の時代まで、遥かな時を越えて来た白い鯨に、もう一度会って御礼を言いたい。
 左手の薬指に嵌まる形で来てくれたならば、感謝の言葉と、御礼も沢山。
(御礼、一杯する予定だけど…)
 ハーレイと二人で、山のような御礼。御馳走も旅行も、白いシャングリラにドッサリと。
 いつも左手の薬指に嵌めて、何処に行く時もシャングリラを連れて出掛けて。
(…御礼を言うには、シャングリラにちゃんと会わないと…)
 シャングリラは今も宇宙にいるから、指輪サイズの白いシャングリラに出会いたい。
 トォニィが残してくれたお蔭で、今も生きている白い鯨に。
 「前のぼくたちを守ってくれてありがとう」と御礼を言うために。
 「ぼくは幸せだよ」と、「ハーレイと幸せに生きているよ」と、きちんと報告するために。
 あの船が守ってくれていた恋、それが今度は実るから。青い地球にも来られたから。
 いつかハーレイと二人で暮らす時には、白いシャングリラも一緒がいい。
 シャングリラは今も生きているから。
 新しい姿に生まれ変わって、左手の薬指に嵌めることが出来るのが今のシャングリラだから…。




             生き続ける船・了


※元の船を壊さないと、改造は無理だったシャングリラ。御礼の言葉を贈った改造前の船。
 そうして出来た白い箱舟が解体された後も、船は生き続けているのです。指輪の形になって。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
 バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。




シャングリラ学園、今日も平和に事も無し。…そんな感じの毎日ですけど、季節は秋です。学園祭の話題で華やぐ校内、1年A組はグレイブ先生の意向でお堅いクラス展示なオチでも。私たち七人グループは毎度お馴染み別行動で…。
「かみお~ん♪ 授業、お疲れ様ーっ!」
今日のおやつは洋梨のキャラメルムースなの! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が迎えてくれる放課後の溜まり場。ソファに腰掛け、飲み物の注文なんかも取られて、ムースケーキを食べ始めたら。
「…コレをどう思う?」
会長さんがテーブルにコトリと置いた物。それは…。
「ちょ、本物!?」
ジョミー君が叫んで、キース君が。
「何処のヤクザから拝借したんだ、こんな物を!」
「か、会長だったらヤクザもお友達かもしれませんけど、流石にこれは…!」
銃刀法違反で捕まりますよ、とシロエ君も大慌て。
「早く返して来て下さい! お友達に!」
「…借りたってわけじゃないんだけどね?」
「それなら余計にヤバイだろうが!」
何処で買った、とキース君がテーブルをダンッ! と。
「今どき、レトロなタイプではあるが…。ヤクザ向けではないかもしれんが…!」
「まあねえ、ヤクザはオートマだよね?」
あっちの方が何かとお手軽、と会長さんが手に取った物。それは拳銃、いわゆるピストル。でも、オートマって何のことかな?
「あっ、知らないかな? これはリボルバーで、此処が弾倉。回転式になってるんだよ。オートマはオートマチックの略でさ、弾倉が入れ替え式なわけ」
握りの部分の内側が弾倉、という説明。西部劇とかでお馴染みなのがリボルバーの方で、ヤクザの皆さんは「弾倉さえ入れ替えれば楽々連射」なオートマチックらしいです。
それについては分かりましたけど、拳銃はどれでもマズイですよ!



この国で拳銃を堂々と持てる法律は無かったように思います。一般人は。なのに拳銃、「どう思う?」も何も無いもんだ、と私たちは大騒ぎになったんですけど。
「ふふ、引っ掛かった。…これは一応、偽物なんだよ」
とても良く出来たモデルガン、と会長さんが銃口を天井に向けて引き金を。パアン! と音はしましたけれども、あれっ、クラッカー…?
「そうだよ、ちょっとカスタマイズを…。普通の弾よりこっちの方が面白いから」
「あんたな…。それならそうだと先に言え!」
キース君が噛み付くと、会長さんは涼しい顔で。
「種明かしは後って、相場が決まっているけれど? 本物そっくりに見えるだろう?」
重さの方も本物と同じ、と会長さんがキース君に渡し、そこから順に回って来た拳銃。けっこう重さがありますです。材料を工夫してあるそうで…。
「リアリティーを追求してみたんだよ。殺傷力は無いけどね」
クラッカーな弾がパアン! と出るだけ、と会長さん。
「これをさ、学園祭で使ってみようと思ってさ…。作ってみたってことなんだけど」
「「「作った!?」」」
会長さんがモデルガンをですか?
「か、会長…。こんなの作れたんですか!?」
シロエ君が口をパクパクさせてます。シロエ君の趣味は機械いじりですし、シロエ君が作ったと言うんだったら分かるんですけど…。
「ぼくが作っちゃいけないかい? 人間、芸域は広い方がね」
何かとお得、と拳銃を手にした会長さん。
「学園祭の売り物に付加価値をつけるのもいいんじゃないかと…」
「「「付加価値?」」」
「サイオニック・ドリームのスペシャルの方だよ、お値段高めの」
あれの売り方にひと工夫、という話。学園祭での私たちの売り物はサイオニック・ドリームを使ったバーチャル・トリップ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーと銘打って販売、ドリンクなどを飲んでいる間に旅が出来るという仕様。
スペシャルを買えば、よりリアリティー溢れるトリップですけど、どう付加価値を…?



学園祭の出し物、サイオニック・ドリーム喫茶な『ぶるぅの空飛ぶ絨毯』。毎年、商売繁盛です。スペシャルはお値段高めになるのに、絶大な人気。
けれど、バーチャル・トリップと拳銃、どの辺で結び付くんでしょう?
「おい、今年のスペシャルは西部劇か?」
ガンマン限定の旅になるのか、とキース君。
「それでは女子を逃すと思うが…。男子には売れるかもしれないが」
「西部劇じゃないよ? ラインナップは今年も豊富!」
でもね、と会長さんが例の拳銃をいじりながら。
「普通にお金を出して買うより、そこに博打な要素をね…。運が悪いと買えないという!」
「「「は?」」」
「ロシアン・ルーレットって聞いたことないかな、こんなヤツで」
まずは弾倉から弾を抜いて…、とクラッカー弾を取り出してゆく会長さん。一個、二個…、とテーブルに置いて、それから弾倉を指差して。
「ほら、一発だけ残っているだろう? 此処に」
でもって、コレを…、と弾倉を元に戻してからジャジャッと何度か回転させて…。
「さっきの弾が何処に行ったか、これで全く分からないってね」
サイオンで透視しない限りは…、と言い終えると「はい」と拳銃をキース君に。
「一番、どう? 頭に向けてパアンと一発!」
「や、やっぱりソレか! ロシアン・ルーレットと言っていたのは!」
「そうだけど? どうせ当たってもクラッカーだよ、勇気を出して運試し!」
引き金をどうぞ、という台詞。ロシアン・ルーレットって、もしかしなくても…。
「うん、当たっちゃったら死ぬってヤツだよ、元々は」
だけどクラッカーの弾だから、と押し付けられた運試し。リアリティー溢れる拳銃なだけに、キース君の顔色は良くありませんが…。
「くそっ、当たっても所詮はクラッカーだ! 南無阿弥陀仏…」
どうか御加護を、と左手首の数珠レットを繰って、頭にピタリと当てた銃口。引き金を引いたらカチッという音、当たらなかったみたいですねえ…?



ホッと息をついたキース君の次はジョミー君でした。やっぱりハズレで、次がサム君。音はカチッと鳴っただけ。マツカ君も同じで、スウェナちゃんも、それに私も。次は…。
「ま、待って下さい! ぼく、確実に当たるんじゃあ…!?」
誰も当たっていないんですから、とシロエ君。
「そうだと思うぜ? でもよ、シロエの番なんだからよ」
ちゃんとやれよ、とサム君がギロリ。
「他の誰かに当たるだろう、って最後まで名乗らなかったくせによ」
「ぼ、ぼくは確率の問題ってヤツを計算していた内にですね…!」
「どんどん確率が上がり始めて最後になったというだけだろうが!」
いい加減にしろよ、とキース君が凄みました。
「スウェナたちだってやったんだ! 次は貴様だ!」
「…は、はい…」
死んで来ます、とシロエ君が頭に向けた銃口。引き金を引くとパアン! という音、シロエ君はクラッカーの色とりどりのテープや紙片まみれに。
「…やっぱ、最後は当たるのかよ…」
例外はねえのな、とサム君が頷き、会長さんが。
「そりゃまあ、そういう仕様だからね? …七発入りなら最後は当たるよ」
学園祭では六発入りの標準タイプ、と言ってますけど、標準タイプって…?
「リボルバーは基本が六発なわけ。これは君たち用にカスタマイズで、実は八発」
「「「八発!?」」」
「そう! …シロエの運の悪さも大概だよねえ、運が良ければ当たらなかったのに」
「「「うーん…」」」
弾倉に何発入るかまでは、誰も確認していませんでした。そっか、八発入りだったんだ?
「そういうことだね。シロエもカチッて音で済んでた可能性もある」
でも、学園祭だと誰かが確実に当たる、と会長さん。
「スペシャルな夢を買いたい人は、まずはロシアン・ルーレット! 買わない人もね!」
一つのテーブルに今年は六人、と会長さんの思い付き。テーブルに着いたら六人でロシアン・ルーレット開始、弾に当たればスペシャルな夢は買えない仕組み。
「他の買わない人の権利は、決して譲って貰えないんだよ!」
また並び直して下さいという方向で…、との案らしいです。それは確かに博打ですねえ?



面白いじゃないか、と誰もが思ったロシアン・ルーレットな販売方法。高い夢を買うぞ、と勇んでテーブルに着いたとしたって、弾に当たれば買えません。残念な目に遭う人を見たなら、買うつもりが無かった他の人たちが…。
「買う可能性が高くなりますね!」
自分は運がいいわけですから、と弾に当たったシロエ君。
「運が良かった、とハイテンションになっていたなら、財布の紐も緩みますよ!」
「ぼくの狙いは其処だってね! ついでに、当たった人も必死で並び直すし!」
いつもの年なら一度で満足の所を二回来るから、と会長さんの悪辣な読み。
「商売繁盛間違い無しだよ、この方法は!」
「ええ、やりましょう!」
ぼくも拳銃を作りたいです、とシロエ君が手を上げました。会長さんは「頼もしいねえ…」と大喜びで、早速、瞬間移動でモデルガンのキットの箱を何箱も。
「それじゃ頼むよ、テーブルの数がこれだけだから…。予備も含めて、全部でこれだけ」
改造方法はこっちの紙に書いてあるから、と明らかに押し付けモードですけど。
「分かりました! えーっと、グリップがこうで、重しを入れて、と…」
コーティングがこうで…、とシロエ君が読み込んでいる会長さんの改造方法。
「大丈夫です、今週中には完成しますよ」
「本当かい? それじゃ、クラッカー弾も頼めるかな?」
クラッカーの装填がちょっと面倒なものだから…、と会長さんがまたも押し付け、シロエ君は。
「任せて下さい! 細かい作業は得意ですから!」
やり甲斐があります、と快諾しているクラッカー弾作り。
「…あいつ、上手いこと使われてねえか?」
サム君がヒソヒソと声をひそめて、ジョミー君が。
「ほら、さっき弾に当たっちゃったし…。ナチュラルハイじゃないの?」
「その可能性は大いにあるな。だが、やりたいなら任せておこう」
俺たちがババを引くわけじゃなし、とキース君。うん、シロエ君が喜んでやるんだったら、何も言うことはないですよね…!



シロエ君が作った拳銃とクラッカー弾は、学園祭で大好評でした。今年のテーブルは一つに六人、席に着いたら始まるロシアン・ルーレット。最初に誰が引き金を引くかはジャンケンで。
順に回して、弾に当たればスペシャルな夢は買えません。クラッカーまみれになるだけに嘘は絶対つけない仕様で、並び直すしか無かったオチ。
「会長の計算、当たりましたねえ…!」
例年以上に大入り満員になりましたよ、とシロエ君がベタ褒めの打ち上げパーティー。私たちは会長さんの家に来ていて、お好み焼きパーティーの真っ最中です。
「ぼくが思った以上に売れたね、スペシャルな夢も。…運がいいと思うと買うんだねえ…」
去年より高めの値段にしたのに、と会長さんが言う通り。ぼったくり価格がついていたのに、飛ぶように売れたスペシャルな夢。
ロシアン・ルーレットのせいで買い損なった人も並び直してまた来てましたし、商売繁盛だったんです。中にはとびきり運の悪い人も…。
「最悪だったヤツ、三度目の正直って引いた時にも当たってたよなあ…」
それも一発目で、とサム君が。
「うんうん、ジャンケンには勝っていたのにね…」
そのジャンケンで運が尽きちゃったよね、とジョミー君。気の毒すぎる男子生徒がそれでした。今度こそは、と勇んで引いた引き金でパアン! と。
「…四度目でようやくゲットだからな…」
普通は「四」は避けるものだが、とキース君が合掌を。
「死に通じると嫌われる数字で、しかも四人目…。あれで当たらなかったのは強運と言える」
「そうね、四回目の四人目なら、四が二つで死に番だわねえ…」
人の運というのも分からないわ、とスウェナちゃん。でもでも、学園祭は大賑わいでボロ儲けでしたし、ロシアン・ルーレットの効果は絶大だったと言えますよね…!



評判だったロシアン・ルーレット。せっかくだから、と私たちも再チャレンジをすることに。午後のおやつのアップルパイで、当たってしまえばおかわりは無しという約束。
「えーっと、面子が九人だから…」
八発用のだと足りないか、と会長さんが奥の部屋へと。
「「「……???」」」
まさか九人用も作ったんでしょうか、会長さんならやりかねませんが…。待っている所へ、部屋の空気がフワリと揺れて。
「こんにちはーっ!!」
楽しそうなことをやっているよね、と翻った紫のマント。別の世界から来たソルジャーです。
「あんた、何しに現れたんだ!」
キース君が叫ぶと、ソルジャーは。
「そりゃあ、もちろん…。ぼくもロシアン・ルーレットを!」
運の強さには自信があって、と威張るソルジャー。
「ダテにSD体制の世界で生きていないよ、だからやりたい!」
「…弾数に無理がありそうですけど?」
シロエ君が突っ込むと、ソルジャーは会長さんが消えた方を眺めて。
「その点は心配要らないってね! ブルーが十発入りのを持ってくるから!」
「「「十発!?」」」
「ぼくが来るかも、って計算していたみたいだよ? それにさ、数の関係で…」
奇数よりかは偶数の方がいいらしい、と言われた装弾出来る弾数。それじゃ、ホントに十発入りの登場ですかね…?
「はい、お待たせ…って、やっぱり来たんだ?」
拳銃を持って戻った会長さんが呆れ、ソルジャーが。
「ぼくが来ない筈がないだろう! 学園祭の間は遠慮したけど!」
今日は混ぜてよ、と拳銃を見詰めて、「十発だよね?」と。
「ちゃんと十発入るだろ、それ? ぼくの分まで!」
「…入るけど…。ぼくの分って、当たりたいわけ?」
「ううん、全然!」
当たったらアップルパイのおかわりが無いし、と食い意地が張っているソルジャー。運には自信があるそうですから、おかわりゲットのつもりですね?



ソルジャーも混ざることになったロシアン・ルーレット。会長さん自慢の十発入りの拳銃が登場、弾倉には十発入っていたようです。クラッカー弾が。
「空の所に一個入れるより、抜いていく方がスリルがねえ…」
学園祭では時間の関係で出来なかったけど、と弾を抜いてゆく会長さん。
「これも一種の演出ってヤツだよ。…よし、これで残りは一発だけ、と」
ジャジャッと回転させた弾倉、会長さんはソルジャーをジロリと睨んで。
「あのね…。これはサイオン禁止だから! 今、透視したよ!」
「ご、ごめん、つい…!」
「ぼくは君より経験値が低いわけだけど…。その程度のことは分かるから! サイオン禁止!」
改めて…、と回転させられた弾倉。そして順番決めのジャンケン、念押しに弾倉をもう一度回転、一番手のシロエ君が銃口を頭に向けて引き金を。…カチッ、と音がしただけで…。
「良かったあ…。今日は当たりませんでした!」
「おめでとう、シロエ。次はサムだね」
順番にどうぞ、と会長さん。サム君も外れ、キース君も、マツカ君も。
「ふうん…? それでぼくまで回って来た、と…」
ソルジャーがマツカ君の次で、拳銃の銃口を頭にピタリ。
「ちょっとドキドキするものだね。…オモチャなんだとは分かっていてもさ」
ぼくは本物を突き付けられたこともあるものだから…、とハイなソルジャー。初めてサイオンが目覚めた時には、問答無用で撃たれまくったらしいです。子供だったのに。
「全部サイオンで受け止めたからさ、死ななかったけど…。今日はどうかな?」
「運には自信があるんだろ?」
会長さんが「どうぞ」と促し、ソルジャーは引き金を引いたんですけど…。
「「「うわー…」」」
パアン! という音で派手に弾けたクラッカー弾。…まさかのソルジャーに当たりです。クラッカー弾の中身にまみれたソルジャーは…。
「当たっちゃったよ…。ぼくのアップルパイのおかわりは…?」
「無いねえ、そういう約束だからね!」
弾は出たから、今回、此処まで! と会長さんが仕切って、おやつの時間に。「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製アップルパイのおかわり、ソルジャーの分だけが今日は無しです。悪いですけど、そういうルール。私たちで美味しく頂きますね~!



残念無念な結果に終わった、ソルジャーの初のロシアン・ルーレット。本当にサイオンを使っていなかったんだ、という点だけは評価出来たので、特別に、とアップルパイのおかわりが少し。他のみんなより小さいですけど。
「うーん…。あそこで当たらなかったら、もっと大きなアップルパイが…」
運には自信があったのに、と私たちのお皿を見ているソルジャー。
「だけど、スリルはあったかな。…パアンと当たった瞬間にね!」
ソルジャー、「死んだ」と思ったそうです。日頃、修羅場を渡り歩いているだけに。
「…人類軍が相手だったら、死ぬってわけにはいかないし…。オモチャだからこそ!」
ドキドキ感を味わえた、と楽しそうな所が凄すぎるかも。
「こっちの世界には、素敵な遊びがあるものだねえ…。気に入ったよ!」
絶賛するソルジャーに、会長さんが。
「あのねえ…。ぼくが遊びに変えたってだけで、元は命が懸かってるんだよ?」
「本当かい!?」
「今でもやる人がいるかどうかはともかくとして…。出来た当時は度胸試しで命懸け!」
本物の弾だし、当たれば終わり、という会長さんの解説。ソルジャーは「へえ…」と。
「ますますいいねえ、真剣勝負! これって癖になりそうだよ!」
「…毎回、これで遊びたいと?」
「機会があればね!」
サイオン抜きでロシアン・ルーレット。当たれば終わりというスリルの世界は、ソルジャーを魅了したようです。寄せ鍋だった夕食の席までに、何度もロシアン・ルーレット。誰かがクラッカー弾を食らう度にパアン! という音が。
夕食の後も、好みの飲み物を出して貰えるかどうかでロシアン・ルーレットを。キース君が弾に当たってしまって、コーヒーは貰えず、水をチビチビ。
「…くっそお…。ツイていないな」
コーヒーが飲みたい、というキース君のぼやき、ソルジャーは拳銃を振り回して遊びながら。
「そうだ、これって他にもあるんだよね? シロエが沢山作っていたから」
「あるけど? だけど、あれは六発入りだよ。…この人数では使えないよ」
会長さんの指摘に、ソルジャーが。
「ううん、六発あれば充分! ぼくの世界でも遊んでみたくて…」
一つ頂戴、とソルジャーは六発入りを貰ってウキウキ帰って行きました。クラッカー弾も箱一杯に貰っていたんですけど、どう遊ぶんだか…。



ロシアン・ルーレットにハマッたソルジャーが拳銃を貰って帰って、一週間。私たちも放課後に何度か遊んでいました。十発入りとか、八発入りで。
今日は土曜日、会長さんのマンションにお邪魔してるんですけど…。
「こんにちはーっ! 遊びに来たよーっ!!」
この間はどうも、と降って湧いたソルジャー。おやつの栗のタルトを頬張り、ニコニコと。
「いいねえ、ロシアン・ルーレット! あれで毎日、楽しんでるよ!」
「…君のシャングリラを巻き込んだのかい?」
その辺の面子を何人か、と会長さん。
「六発だしねえ…。ぼくの読みだと、君のハーレイの他に長老の四人?」
ゼルにヒルマン、エラとブラウ、と会長さんが挙げた名前に、ソルジャーは「ううん」と。
「最初はそれも考えないではなかったんだけど…。六発だからね」
丁度六人になるものだから…、と指を折るソルジャー。
「会議って言ったら、その六人だし…。其処で遊ぼうと思ったんだけどさ。でも…」
実際に弾を入れている内に気が変わったのだ、という話。
「こう、弾倉に一発ずつ入れていくだろう? クラッカー弾を」
「まあね、演出の内だしね? 装弾したのを抜いていくのは」
会長さんの相槌に、ソルジャーは「うん」と頷いて。
「そう思ったから、弾を入れてて…。六発だな、と」
「六発だねえ?」
「その六発で何か閃かないかい? もしも弾倉から抜かなかったら?」
「「「…へ???」」」
全部が当たりでロシアン・ルーレットどころじゃないですよ、その拳銃?
「ロシアン・ルーレットとしては駄目なんだけど…。六発というトコが大切なわけで!」
しかも抜かない! とソルジャーは強調しています。
「抜かないんだよ、六発の弾を! これが本当の抜かず六発!」
「やめたまえ!!!」
会長さんが怒鳴り、ソルジャーが。
「抜かず六発と言えばヌカロク、もうそのための拳銃だよ、あれは!」
「「「…はあ???」」」
ヌカロクって何か謎なんですけど、確か大人の時間の言葉。そういう拳銃なんですか、あれ?



シロエ君が学園祭用にと作った拳銃。標準タイプだという六発装弾出来るタイプで、たったそれだけ、クラッカー弾が六発入るだけ。どう転がったら大人の時間に…、と首を捻りましたが。
「分からないかな、弾を抜かないなら抜かず六発! とにかく素敵な拳銃で!」
これは有難く使わないと、とソルジャーは思ったらしいです。
「そんなわけだから、ゼルだのヒルマンだのと遊んでいるより、ハーレイと!」
「「「…二人?」」」
それは面子が足りなさすぎです。六人揃ってこそのロシアン・ルーレットでは…?
「細かいことはいいんだよ! 交互にやればいいんだから!」
ぼくとハーレイとで三回ずつ! と言うソルジャー。三かける二だと、六ですけど…。
「ほらね、ちゃんと合わせて六回! ハーレイとやろう、って思ったわけで!」
そして毎晩遊んでいるのだ、とソルジャーは胸を張りました。
「もちろんサイオンは抜きで引き金! ぼくも、ハーレイも!」
弾は一発を残して抜いて…、とロシアン・ルーレットの基本は変わらない模様。
「ぼくの番でパアン! と鳴ったら、御奉仕なんだよ!」
「「「御奉仕?」」」
「もう、ハーレイの望み通りに! しゃぶるのも、口で受け止めるのも!」
「退場!!!」
会長さんがレッドカードを叩き付けても、ソルジャーは帰りませんでした。
「ハーレイの番でパアン! と鳴ったら、そこはヌカロク! 抜かず六発!」
ガンガンとヤッてヤリまくるのみ! とヌカロクの登場、やっぱり意味が分かりません。御奉仕の方も謎ですけれど。
「そんな調子で、毎晩、ロシアン・ルーレット! 大人の時間を素敵に演出!」
最高の夜が続いているよ、とソルジャーは実に嬉しそうです。
「あの拳銃に感謝だね! ぼくのハーレイも喜んでるし!」
ただの御奉仕よりも嬉しいらしい、と感極まっているソルジャー。
「なにしろ、六発もあるものだから…。どっちに当たるか、それも謎だから!」
キャプテンが三発ともを無事にクリア出来たら、ソルジャーの御奉仕とやらが出てくるロシアン・ルーレット。そこまで長く待たされなくても、ソルジャーが一発目でパアン! と当たることだってあって、スリルが凄いらしいのです。役に立ってるなら、まあいいかな…。



どういう風に使われているのか、イマイチ謎が残る拳銃。けれどソルジャー夫妻にとっては、大人の時間を楽しめるアイテムに化けたらしくって。
「もう毎日が最高だからさ、この幸せをお裾分けしてあげたいと思ってね!」
「要らないから!」
会長さんが即答したのに、ソルジャーは。
「誰が君にお裾分けをするって言った? 可哀相なこっちのハーレイ向けだよ!」
ただし、ロシアン・ルーレットで、とソルジャーはニヤリ。
「…あのクラッカー弾ってヤツだけど…。中身、ハズレにも出来るよね?」
「「「ハズレ?」」」
ハズレも何も、クラッカー弾がパアン! と鳴ること自体がハズレの証拠ですけれど?
「それはそうだと思うけど…。これもやっぱり演出ってヤツで」
音だけ鳴って空クジというヤツ、とソルジャーも知っていた空クジなるもの。
「それを一発装弾したなら、余計に面白くなるのかな、とね!」
一人ロシアン・ルーレットだから、と言うソルジャー。
「「「…一人?」」」
「そう! 一人ロシアン・ルーレット! 引き金を引けるのは一日一回だけ!」
六発入りでもたったの一回、とソルジャーは指を一本立てました。
「弾倉に弾を一発残して、それからハズレの弾を追加で…。合計二発!」
それをこっちのハーレイが自分の頭に向けて引き金を引く、という説明。
「ロシアン・ルーレットはパアン! と鳴ったらハズレなんだけど、そこを逆にして!」
「…弾に当たれば当たりなのか?」
キース君の問いに、ソルジャーは「うん」と。
「だからハズレの弾を一発! ぬか喜び用に!」
「なるほどな…。しかし、当たったらどうなるんだ?」
「当たりかい? 幸せのお裾分けだしねえ…!」
ぼくからの御奉仕をサービスだよ、とソルジャーは笑顔で、会長さんが。
「それも要らないから!!」
「何を言うかな、選ぶのはこっちのハーレイだから!」
君の出番は全く無い! とキッパリと。…御奉仕って大人の時間ですよね、ロクでもない方へと話が向かっていませんか…?



キャプテンとロシアン・ルーレットで大人の時間を楽しむソルジャー、教頭先生にもお裾分けをと計画を。会長さんが「帰れ」と怒っているのに、シロエ君に。
「クラッカー弾、君が量産してたよね? ハズレ弾だって作れるのかい?」
「えーっと…。音だけっていうのは出来ますけれど…」
要は中身を入れないだけですから、とシロエ君。
「ぼくがわざわざ作らなくても、クラッカー弾の中身を抜けば完成する筈ですよ?」
サイオンで抜けるんじゃないですか、とシロエ君は真面目に答えたのに。
「縁起でもないよ、抜けるだなんて! 抜かず六発、抜くなんて駄目だね!」
作って欲しい、とソルジャーはズイと詰め寄りました。
「必要だったら、手間賃だって払うから! 希望の額を!」
「…そうですか…。それじゃ、一発分で、こんな所で」
これだけ下さい、とシロエ君が出した数字は暴利でした。けれどソルジャーは瞬間移動か、空間移動で財布を取り出し、気前良く「はい」と。
「とりあえず、百発分ほどね!」
「「「百発!?」」」
「こっちのハーレイ、運の悪さはピカイチじゃないか。だから百発!」
多めに仕入れておいて丁度いいくらい、とソルジャーはハズレ弾を発注しました。
「で、いつまでに作れるんだい?」
「材料さえあれば、今から作って…。そうですね、今日の夕方までに充分」
「素晴らしいよ! それじゃ、よろしく!」
ぼくと一緒に材料の仕入れに…、とソルジャーはシロエ君の首根っこを捕まえ、瞬間移動で消え失せました。間もなく帰って来たシロエ君はゲストルームにこもってハズレ弾作り、夕方には百発が完成したようで。
「出来たよ、ハズレ弾! 後はクラッカー弾と拳銃よろしく!」
貸して、と会長さんに強請るソルジャー。
「貸してくれないなら、サイオンで強引に貰って行くけど? 君の家から!」
「わ、分かったよ…!」
どうぞ、と会長さんが持って来た拳銃と、クラッカー弾が詰まった箱。ソルジャーはハズレ弾を詰めた箱を持っていますし、どうやら準備は完了ですね…?



ソルジャーがハマッたロシアン・ルーレット。教頭先生にも幸せをお裾分けとやらで、会長さんがギャーギャー怒っているのに、馬耳東風。
豪華ちゃんこ鍋だった夕食が済むと、私たちまで強引に連れて教頭先生の家へ瞬間移動。青いサイオンがパアアッと溢れて、フワリと身体が浮き上がって…。
「な、なんだ!?」
仰天しておられる教頭先生、食後のコーヒーをリビングで飲んでらっしゃった所。ソルジャーは愛想のいい笑みを浮かべると。
「こんばんは。…最近、ぼくはとても幸せなものだから…。君にも少しお裾分けをね」
「お裾分け…ですか?」
「そうだよ、御奉仕! 悪くないだろうと思うんだけどね?」
ぼくが御奉仕するだけだから、と一歩前へと。
「舐めて、しゃぶって、素敵に御奉仕! 本当は一発やらせてあげてもいいんだけれど…」
初めての相手はブルーと決めているそうだしね、と残念そうに。
「でも、御奉仕なら問題は無いし…。どうかな、御奉仕?」
「是非!!」
即答してから、教頭先生はアッと慌てて口を押さえて。
「す、すまん…! ブルー、い、今のはだな…!」
「君の本音だろう? …スケベ」
好きにすれば、と会長さんは冷たい瞳。
「それにね、君の運の問題でもあるようだから…。どうなるんだか、御奉仕の方」
「…運?」
はて、と怪訝そうな教頭先生に向かって、ソルジャーが。
「御奉仕の前に、まずはロシアン・ルーレット! そういう決まりなんだな、これが!」
「…ロシアン・ルーレット?」
「知らないかなあ? こういう遊びで…」
これが必須、とソルジャーは拳銃を取り出しました。
「これを頭に向けて引き金を…ね」
「はあ…。では、あなたの番の時に弾が飛び出したら、して頂けると…?」
教頭先生、頬が赤いです。…ロシアン・ルーレット、やっぱり御存知なんですね?



ロシアン・ルーレットが何かは御存知らしい教頭先生。ソルジャーは「うーん…」と拳銃を眺め、「それをやってるのは、ぼくのハーレイ!」と。
「ぼくのハーレイとは、そういう決まりでやってるけれど…。お裾分けだから…」
引き金を引くのは君だけだねえ、と教頭先生に銃口を。
「それも一日に一回限り! 弾に当たれば、ぼくが御奉仕!」
「…私が当たる方ですか!?」
「当たりクジとも言うからね! 当たるとクラッカーが飛び散る仕掛けで…」
そういうクラッカー弾が中に六発、と弾倉を示すソルジャー。
「この六発をさ、一発を残して抜いちゃうんだけど…。六発と言えば!」
「ヌカロクですか!」
「流石に君は分かっているねえ! うん、それでこそ!」
じゃあ、抜きまーす! とソルジャーは弾を抜き始めました。一個、二個と。五個抜き取ると、教頭先生に。
「はい、これで残りは一発だけど…。此処でハズレを仕込みます、ってね」
これは音だけのハズレ弾! と込められたシロエ君が作ったハズレ弾。
「音は鳴っても、クラッカーじゃないから…。ぬか喜びって弾なんだけどね」
「ええ、ぬかですね! ヌカロクを連想してしまいますね…」
教頭先生は舞い上がっておられ、ソルジャーは弾倉をジャジャッと回転させてから。
「はい、どうぞ。今日の一発、運試しに!」
「ええ!!」
教頭先生は自分の頭に銃口を向けて、何のためらいもなく引き金を。…本物の銃だったらどうしようとか、そういう考えさえも無いようです。引き金を引いた結果の方は…。
「残念でしたー! ハズレ弾さえ出ませんでした、ってね!」
カチッと音がしただけだよね、とソルジャーが拳銃を取り上げ、自分の頭に向けて引き金。今度もカチッと音がしただけ、「はい」と渡されたキース君がやってもカチッと。
「残り三発…。ハズレと当たりと、カチッていうのと…」
ソルジャーが言うなり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ ぼくもーっ!」
パアン! と飛び散ったクラッカー。教頭先生は「やはり当たりはあったのか…」と唖然呆然。なるほど、当たりの存在を知らせるパフォーマンスでしたか、今のヤツ…。



ソルジャー提供のロシアン・ルーレット、当たりが入っていることは確実。教頭先生はクラッカーまみれの「そるじゃぁ・ぶるぅ」をまじまじと見て…。
「…外れましたか、残念です…。私には運が無かったようです」
「そうみたいだねえ…。でもさ、君にも救いはあるよ」
これだけ出してくれれば、一日に一回チャンスをあげる、とソルジャーが示した暴利な金額。豪華ホテルのディナーコースが余裕で食べられて、おつりが来そうな数字ですけど…。
「分かりました! では、もう一回…!」
財布を出そうとする教頭先生に、ソルジャーは「駄目」と。
「一日一回! ロシアン・ルーレットの値打ちが下がるよ、何回もやれば!」
「そ、そうですね…。では、明日ですか?」
「そうなるねえ…」
今日は此処まで、とソルジャーが宣言、教頭先生は泣く泣く「では、お茶でも…」と私たちにも買い置きのクッキーを御馳走して下さいました。なかなか美味しいクッキーでしたし…。
「かみお~ん♪ クッキー、美味しかったね!」
瞬間移動で会長さんの家に帰ると、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がピョンピョンと。
「明日の夜にもお出掛けなんでしょ、ハズレだったらケーキだよね!」
「用意するって言ってたからねえ…。ハーレイとしては、是非とも当てたいトコだろうけど…」
運が悪い自覚はあるらしい、とソルジャー、腕組み。
「みんなも食べたいお菓子があったら、明日からリクエストしておくといいよ」
「おい、明日からって!?」
あんた、いつまで通うつもりだ、と訊いたキース君に、ソルジャーは。
「それはもう! ハーレイが諦めるか、見事に当たりを引き当てるまで!」
毎晩、ロシアン・ルーレット! って、平日もですか?
「平日もだけど? そうだ、御飯を御馳走になって、それからロシアン・ルーレットもいいね」
そっちのパターンも考えよう! と、ソルジャーは暴利ばかりか食事も貪るつもりです。私たちもお供させられてしまうようですし…。
「キース先輩、何かリクエストしたい料理はありますか?」
ぼくは豪華ならラーメンでもいいんですけれど、とシロエ君。キース君は…。
「そうだな、俺は何を食うかな…」
ジョミー君たちも相談をし始めてますし、教頭先生、もう完全にカモですねえ…。



翌日から、教頭先生はロシアン・ルーレットに挑み続ける日々になりました。私たちも付き添いという名目で、ハゲタカのように教頭先生の家で食べ放題。夕食を御馳走になった後には…。
「御馳走様でしたーっ! はい、今日も始めようか」
当たるといいねえ…、とソルジャーが弾を抜いてゆく拳銃の弾倉。一発残して抜いた後には、ハズレ弾の方も一発装弾。弾倉をジャジャッと回してから「どうぞ」と。
「当たりますように…。どうかな?」
「頑張ります!」
ロシアン・ルーレットで頑張るも何も無いのですけど、教頭先生、そう仰るのがお約束。頭に銃口を当てて引き金、今夜もカチッと空しい音が。
「駄目だったねえ…。今日は誰がやる?」
「あっ、ぼく、三発目を希望です!」
シロエ君が手を上げ、キース君が「俺は最初で」と。ジョミー君は四発目を予約、二発目はスウェナちゃんが名乗って…。
「うん、今日はシロエが大当たりってね!」
おめでとう! とソルジャーが渡す金一封。いつの間にやら、そういうルールが出来ました。教頭先生がお支払いになる、ロシアン・ルーレットへの挑戦代。そこから少々、ソルジャーが分ける金一封。クラッカー弾が当たった人が貰える仕組み。
「いいよな、シロエ…。お前、めちゃめちゃツイてるじゃねえかよ」
金一封、これで何度目だよ? とサム君が言う通り、バカヅキなのがシロエ君。本人によると、ただの勘なのだそうで。
「…一番最初に当たってしまったからでしょうか? なんだか相性、いいみたいです」
「らしいよねえ…。シロエ、羨ましすぎ…」
また当たるなんて、とジョミー君も指をくわえて見ています。でもでも、きっと教頭先生の方が遥かに羨ましいと思っておいででしょう。来る日も来る日もハズレですから。
「…私は、ハズレ弾さえ当たったことがないのだが…」
なんとか加減をして貰えないだろうか、と教頭先生が取り出した財布。
「…倍ほどお支払いさせて頂きますから、一日にせめて二回ほど…」
「駄目だね、これはそういうルールだからね!」
ソルジャーが断り、賄賂も通じず。…こんな調子で、どうなるんだか…。



街にジングルベルが流れ始めるクリスマス・シーズン、それでも当たらないのが教頭先生のロシアン・ルーレット。私たちは年を越すかどうかの賭けまで始めましたが…。
「あくまでぼくの勘ですよ? …此処ですね」
この日に賭けます、とバカヅキと噂のシロエ君が印を書いたクリスマス・イブの二日前。
「強気だねえ…。みんな年越しコースなのに…」
会長さんが呆れてますけど、シロエ君曰く、その日付を見たら嫌な予感がするのだそうで。
「…ぼくにとっての嫌な日ってヤツは、金一封を貰えない日ですから…」
きっと、この日を境に貰えなくなるって意味ですよ、と自信たっぷり。教頭先生がその日に当たりを引いてしまって、ロシアン・ルーレットも終了なのだと。
そして運命のシロエ君が賭けた日がやって来て…。
「さて、ハーレイ。今日は当たるとシロエが予言をしてたわけでね」
あのバカヅキのシロエなんだよ、とソルジャーが拳銃を教頭先生に手渡しました。夕食の後で。
「シロエの予言は当たるのかどうか、楽しみだねえ…」
「そうですか、シロエが…。では!」
教頭先生が拳銃を頭に当てて、引き金を引いて…。
「「「うわぁ!!!」」」
当たった! と誰もがビックリ、パアン! と弾けたクラッカー弾。色とりどりの紙テープが舞い、小さな紙片もヒラヒラと…。
「おめでとう! それじゃ早速、御奉仕を…!」
長かったねえ、とソルジャーが教頭先生の前に跪き、ズボンのベルトに手をかけた途端…。
「あれっ、ハーレイ?」
「…………」
教頭先生は仰向けに倒れてゆかれました。鼻血を噴いて、バッタリと。今日まで妄想逞しくなさったツケが回って来たのでしょうか?
「…それっぽいねえ…。うーん、この調子だと、頭がショートで寝込みクリスマスかも…」
ロシアン・ルーレットは怖かったんだねえ、とソルジャーが拳銃を見詰めています。当たったら死んだみたいだけれど、と。
「シロエの勘は当たったんだけど、これではねえ…」
まあ、存分に儲けたから、とロシアン・ルーレットは今日で終わりになるらしいです。ということは、私たちは賭けに負け、シロエ君が最後まで一人勝ち。これって拳銃との相性なんですか、私、山ほど賭けたんです。他のみんなも泣いてますです、あんまりです~!




            運の良し悪し・了


※長らくシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございました。
 生徒会長が自作した、ロシアン・ルーレット専用の拳銃。学園祭でも、その後も大活躍。
 弾に当たりたい教頭先生、クリスマス前まで頑張り続けて、やっと当たりが出たんですが…。
 結果は最後まで「お約束通り」、シャングリラ学園番外編は、こういうお話ですからね。
 さて、シャングリラ学園番外編は、今月限りで連載終了。14周年を迎えた後のお別れです。
 とはいえ、実は完結している、このシリーズ。誰も覚えていないでしょうけど(笑)
 そして場外編、シャングリラ学園生徒会室の方は、今後も毎日更新です。
 番外編も、気が向いた時に、何か書くかもしれません。
 皆様、これからも、シャングリラ学園生徒会室とハレブル、よろしくです~!

※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
 こちらでの場外編、12月は恒例のクリスマス。今年はサンタが大活躍…?
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv











今年もシャングリラにクリスマス・シーズンがやって来た。ブリッジを仰ぐ船で一番広い公園、其処には大きなツリーが飾られ、名物の「お願いツリー」も登場している。
(クリスマスに欲しいプレゼントを書いて、お願いツリーに吊るしておくと…)
 サンタさんが届けてくれるんだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さいツリーを眺めている。大人の場合、欲しいプレゼントを贈ってくれるのは、恋人だったり、プレゼント担当の係だったり。断然、子供の方がお得で、もう願い事を書いて吊るした子供もいるけれど…。
(ぼくは、もうちょっと、考えようっと!)
 考え事をするには、エネルギーだ、と早速、出掛けることにした。行先はもちろん、行きつけの店というヤツだ。このシャングリラに店は無いから、つまりは、船の外だったりする。
「行ってきまぁ~す!」
 誰が聞いているわけでもないのに、大きな声で宣言すると、瞬間移動でパッとアタラクシアへ。シャングリラが潜む雲海の星はアルテメシアで、育英都市が二つある。アタラクシアは、その一つ。
(さーて、と…)
 今日は、どの店に入ろうかな、と少し悩んで、最近ブームの激辛料理の店にした。全宇宙的に、只今、激辛料理が流行中。子供を育てるための育英惑星だって、例外ではない。
(育英都市にも、大人は沢山いるもんね!)
 大人の方が多いくらい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は空いている席を見付けて座って、ぐるりと店内を見回した。今の時間は、子供は学校に行っているから、店の中には大人たちと…。
(学校も幼稚園も、まだ早いんです、って子供ばっかり…)
 でもでも、ぼくは平気だもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は胸を張る。なんと言っても、最強のタイプ・ブルーの子供。情報操作はお手のものだから、店員たちも見た目なんかは気にしない。
「いらっしゃいませ! ご注文は、何になさいますか?」
 おしぼりと水を持って来た店員の前でメニューを広げ、「これ!」と「本日のおすすめ」を指で示した。写真を見る限り、あまり辛そうな感じはしない。だから余計に、気になるわけだ。
「レンコンと骨付き肉の汁物ですね? そちら、辛さが選べるのですが…」
 激辛ですか、と店員に訊かれて、「おすすめで!」と即答した。長年、食べ歩きをやって来たから、経験で覚えたことがある。こういう時には自分の好みにするより、おすすめを選ぶのがベスト。
「おすすめですと、さほど辛くはないですが…。よろしいですか?」
「うんっ、おすすめの味が本物だもんね!」
 もちろんソレで、と食通らしく答えて、注文の品が来るのを待つ。どんなのかな、と。



(激辛のお店で、辛さ控えめなんてあるんだ…?)
 メニューに何か書いてないかな、と見直してみたら、各種料理の紹介の所に「全ての料理が辛いわけではありません」と記されていた。この店は、昔、地球で一番辛いと言われた種類の中華料理、それを売りにしているのだけれど…。
(全部が全部、激辛だった、ってわけじゃなくって…)
 辛さ控えめで素材を活かす、といった料理も多かったらしい。さっき頼んだ「レンコンと骨付き肉の汁物」も、その中の一つ。
(やっぱり辛さ、控えて良かったあ!)
 激辛にしてたら味が台無し、と自画自賛する内に、熱々の汁物が運ばれて来た。レンゲで掬って口に入れると、レンコンは味が染みてホクホク、骨付き肉は骨が勝手に外れてゆくほどの柔らかさ。
(わぁーい、とっても美味しいよ、コレ!)
 よく煮えてるし、と御機嫌で食べて、「もう一杯!」と、おかわりをした。激辛料理を追加するより、これを追加して食べまくってこそ、真の食通というものだろう。
(おすすめなんだし、今日は一番、力が入っている筈だも~ん!)
 お鍋を空っぽにしちゃうもんね、と頼みまくっても、よほど力を入れていたのか、「完売です」とは言われなかった。むしろ「そるじゃぁ・ぶるぅ」の胃袋の方が…。
(……もう入らない……)
 お腹一杯、と退散する羽目になったけれども、レジの横にあるテイクアウト用の肉まん、それを頼むのも忘れない。シャングリラに帰って今夜のおやつ、と「肉まん、10個ね!」と元気良く。
 肉まんを箱に詰めて貰って、クリスマス前の街を散歩してから、瞬間移動で船に戻って…。



(まだまだ、お腹、一杯だから…)
 悪戯のアイデアでも考えようかな、と自分の部屋で、床にコロンと転がった。寝床の土鍋もいいのだけれども、それだと眠ってしまいそうだし、考え事には向いていない、と。
(えーっと、悪戯…。だけど、さっきの、とっても美味しかったよね!)
 激辛料理のお店で辛さ控えめのが美味しいなんて、と思い出しただけで唾が出て来そう。料理の世界は奥が深い、と感心せずにはいられない。「今日のおすすめ」になっていなかったなら、きっと一生、頼まなかったような気がする。「激辛の店だし、辛くなくっちゃ!」と頭から思い込んで。
(おすすめの料理、あちこちで選んで来たけれど…)
 こんなサプライズは初めてだよね、と新鮮な驚きと感動がある。世の中にはいろんな「一番」があって、「激辛料理の店だから、激辛が一番美味しい」とは限らないらしい。
(ホントに不思議なお話だよね…)
 すると一番美味しい料理って、どんなのだろう、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は首を傾げた。この広い宇宙に、料理は文字通り「星の数ほど」存在する。まだ食べたことのない未知の料理も、色々とあるに違いない。それらも含めて、「一番美味しい」料理を食べたいと思ったら…。
(……地球で一番美味しいお店の、おすすめ料理ってことになるわけ?)
 地球は人類の聖地で、最高の星らしいもんね、と顎に手を当てる。首都惑星のノアも、なかなか栄えているそうだけれど、聖地には敵わないだろう。人類のお偉方が、最高の料理を食べに出掛けてゆくとなったら、当然、地球にある店で…。
(地球にも、お店は幾つもあって、その中で一番美味しいお店が最高で…)
 其処で出される料理の中でも、最高の品が「宇宙で一番、美味しい料理」との評判を取っているのだと思う。「こちらが当店おすすめの料理になります」と、店員が運んで来るヤツが。
(…食べてみたいかも…!)
 それに…、と頭に閃いたこと。「地球で一番、美味しい料理」を食べるためには、その店がある地球に出掛けて行くしかない。
(お取り寄せだと、一番美味しい状態で届くわけじゃないから…)
 地球の店に入って食べるのが一番、その店に「食べに行く」ことは、つまり…。
(食事しに、地球に行くってことだよ!)
 行かないと食べられないんだから、とナイスなアイデアが浮かんで来た。今年のクリスマスは、これをお願いすればいい。そうすれば地球に行くことになって、地球の座標が分かって…。
(ブルーと一緒に、地球に行けるよ!)
 シャングリラでね、と飛び跳ねる。「今年のお願い、これに決めたあ!」と。



 クリスマスに欲しいものが決まったからには、有言実行。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はウキウキと「お願いツリー」の所に出掛けて、願い事を書いた札を吊るして大満足。悪戯のアイデアを練るのはすっかり忘れて、肉まんを食べて土鍋に入って、ぐっすり眠ってしまったけれど…。
「ソルジャー、ぶるぅが、こんなものを…」
 欲しいと言って寄越しました、とキャプテン・ハーレイが青の間に行くことになった。ツリーに吊るされたプレゼントを用意する係の者が、「キャプテン、これは…」と言って来たせいで。
「クリスマスに欲しいプレゼントかな?」
 何か問題でもあるのかい、とソルジャー・ブルーが炬燵の中から尋ねる。この時期、青の間には炬燵が出て来て、上にはミカンが盛られた器や、緑茶を淹れるための道具が並ぶのが常。
「はい、ソルジャー。…ご覧下さい」
 この通りです、とハーレイが差し出した紙には、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の字で、こう書かれていた。「地球で一番美味しいお店で、おすすめ料理が食べられるチケット、下さい」。
 ソルジャー・ブルーは赤い瞳を真ん丸にして、その願い事を何度も読み返して…。
「うーん…。どう考えても無理だね、これは」
「そうなのです。ぶるぅには、コレを諦めて貰うしか…」
「無いんだけどねえ…。今はぐっすり眠っているし、夜も遅いし…」
 明日、よく言い聞かせて変更させるよ、とソルジャー・ブルーは苦笑する。
「きっとぶるぅは、一石二鳥だと思っているんだろう。美味しく食べて、地球の座標も…」
「分かるでしょうねえ、地球の店で食べるんですからねえ…」
 上手く断って下さいよ、とハーレイは眉間の皺を指先で揉んだ。
「もちろんだよ。でないと、ぶるぅが機嫌を損ねて大変なことになるんだろう?」
「ええ、大暴れで悪戯大盤振る舞いに違いありません!」
 クリスマス前は、悪戯を我慢しているだけに…、とハーレイも充分、承知している。悪い子には欲しいプレゼントが届かないから、今の時期の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大人しいのだ、と。
 そんなハーレイにミカンを持たせて送り出した後、ソルジャー・ブルーは「さて…」と赤い瞳を瞬かせる。「ぶるぅに上手く諦めさせるためには、どう言おうかな…?」と。



 翌日、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、またも出掛けて食べまくった後、船に戻って、自分の部屋で「地球で一番美味しい料理」に思いを馳せていた。「どんな料理で、どんなお店?」と、想像逞しく夢の翼を大きく広げて、ヨダレが垂れそうな顔をして。其処へ…。
『ぶるぅ、青の間まで来てくれるかな?』
 大好きなブルーの思念が飛んで来たものだから、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は急いで飛んだ。
「かみお~ん♪ 何かくれるの?」
 瞬間移動で青の間に入って、いそいそと炬燵のブルーの向かいに座る。ブルーは炬燵の上にあるミカンを一個、「はい」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に渡すと、「あのね…」と口を開いた。
「ぶるぅ、サンタさんに食事のチケットを頼んだそうだね?」
「そう! 地球で一番、美味しいお店に行きたいの!」
 でもって、其処のおすすめ料理を食べるんだよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意満面、名案を披露し始める。宇宙で一番美味しい料理を食べることが出来て、地球にも行ける、と。
「えっとね、お店のお料理、一番美味しく食べるためには、お店に行くのが一番だから…」
 チケットを貰えば、地球にあるお店の場所も分かるよ、と大好きなブルーに説明した。でないと店には行けないのだから、地球の座標も分かる筈だ、と。
「なるほどね…。それは間違いないだろうけど、その前に…」
 地球に行ける人は、どういう人かな、とブルーは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に尋ねた。人類ならば誰でも行ける資格があるのか、それともそうではないのか、と。
「んーと…。んーとね、きっと、うんと偉い人たちだけじゃないかな?」
 メンバーズ・エリートだったっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は考え込む。他にはどういう偉い肩書があっただろうか、と乏しい知識を総動員して。ノアにいるのは、メンバーズの他に…、と。
「ほらね、人類の中でも、地球に行ける人は少ないんだよ?」
 サンタクロースは行けそうだけど…、とブルーは困った表情になった。「でもね」と、「サンタさんはチケットを手に入れられても、其処には、きっと…」とブルーの顔が曇ってゆく。「恐らく、サンタさんの名前が書かれているだろうね」と。
「サンタさんの名前って?」
 なあに、と怪訝そうな「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、ブルーは答えた。
「そのチケットを、使っていい人の名前だよ。サンタクロース様、と書いてあるチケットは…」
「もしかして、それ、サンタさんしか使えないの?」
「そうなるね。だから、ぶるぅが貰っても、使えないんだし…」
 願い事は他のものにしなさい、とブルーは諭した。「サンタさんだって、困るだろう?」と。



(そっかぁ…。サンタさんがチケット、手に入れて、ぼくにくれたって…)
 使えないんじゃ仕方ないね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はチケットを諦め、お願いツリーに別の願い事を書き込んだ紙が吊るされた。「ステージ映えするカラオケマイクを下さい」と。
 ソルジャー・ブルーも、ハーレイも、プレゼントを用意する係もホッと一息、そしてクリスマスイブがやって来て…。
「では、ソルジャー。今年も行って参ります」
 サンタクロースの衣装を纏ったハーレイが、大きな白い袋を手にして「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋に向かった。何度か此処で懲りているので、罠があるかどうかもチェックしてから…。
(よしよし、今年もよく寝ているな。寝ていれば、普通に可愛いんだが…)
 悪戯小僧め、とハーレイは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の枕元にプレゼントを並べてゆく。ブルーや長老たちからのプレゼントに、ご注文の品のカラオケマイクに…、と順番に。
(これで良し、っと…。無事に済んだな、今年の私のお役目は)
 いい年だった、と新年も来ていないというのに、ハーレイの中では一区切り。青の間でブルーに報告をして、キャプテンの部屋に戻って眠って、シャングリラの子供たちも夢の中。
 次の日の朝、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が目を覚ますと…。
「わあ、プレゼントが今年も一杯! んとんと、うわあ、ピカピカのカラオケマイク!」
 これならステージで映えるよね、と歓声を上げた所へ、大好きなブルーの思念が届いた。
『ハッピーバースデー、ぶるぅ! みんなが公園で待ってるよ? それに大きなケーキもね』
「あっ、忘れてたあ! お誕生日もあったんだあ!」
 今、行くねーっ! と叫んで瞬間移動で、ブリッジの見える公園へ飛んで行くと…。
「「「ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!!!」」」
 おめでとう! とシャングリラの仲間たちが笑顔で迎えて、バースデーケーキが担がれて来た。それは大きな、みんなで食べても充分、たっぷり余ってしまいそうな豪華な超特大のが。
 船の誰もが手を焼く悪戯小僧だけれども、今日は主役で、クリスマスパーティーも賑やかに。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年もお誕生日、おめでとう!




              美味しい注文・了

※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございます。
 管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、いなくなってから、もう5年になります。
 2007年の11月末に出会って、其処からせっせと続けた創作、なんと今年で15年目。
 シャングリラ学園番外編の方は、今年で連載終了ですけど、場外編は続いてゆきます。
 つまり良い子の「ぶるぅ」は現役、けれど悪戯小僧な「ぶるぅ」も大好きな管理人。
 お誕生日のクリスマスには記念創作、すっかり暮れの風物詩。今年もきちんと書きました。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、16歳のお誕生日、おめでとう!
 2007年のクリスマスに、満1歳を迎えましたから、15年目の今年は16歳です。
 アニテラだと、ステーション生活は4年ですけど、原作だと2年間な件。
 16歳になった今年は卒業ですねえ、メンバーズになれる年齢です。ちょっとビックリ。

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)












「すみません。此処へ行くバスはどれですか?」
 そう尋ねられて、その人の顔を見上げたブルー。学校の側のバス停で。
 今日の授業はもう終わったから、帰りのバスを待っていた所。地図を持っている若い男性、その地図を指差すのだけれど…。
(えーっと…)
 男性の指が示している場所、其処へ真っ直ぐに行くバスは無い。このバス停に来るバスの中には一本も。乗り換えないと行けないらしい目的地。
(其処のバス停も分かってないよね、きっと…?)
 地図を眺めても、バス停の名前はまるで書かれていないから。此処も含めて。
 こういう時にはこれが一番、とバス停にある路線地図を指して説明した。目的の場所に一番近いバス停は此処で、其処に行くなら乗り換えは此処、と。
「乗り換える場所まで行くバスは…。このバスです」
 じきに来ますよ、と時刻表も見て確かめてから微笑んだ。遅れていないなら、もうすぐ来る筈。
「ありがとう。君のお蔭で助かったよ。…運転手さんに訊こうと思ってたんだ」
 地球は初めてだから、よく分からなくってね。バスの乗り方は分かるんだけど…。
 バス停なんかサッパリ駄目だ、と男性が軽く手を広げるから。
「え…?」
 初めてって…。他所の星から来たんですか…?
 嘘、と見詰めた男性の顔。遠い所から来たとしたって、他の地域だと思ったのに。
「そうだよ、地球はホントに初めてで…。有名な星だけど、来たことが無くて」
 宇宙遺産のウサギを見ようと思って、此処まで来たんだ。
 あれがあるのは、此処の博物館だしね、という男性の言葉に驚いた。
(宇宙遺産のウサギって…。ハーレイのアレ…!)
 前のハーレイが、トォニィの誕生祝いに作った木彫りのナキネズミ。皆がウサギと勘違いして、宇宙遺産になってしまった。ミュウの子供が沢山生まれますように、というお守りなのだ、と。
 それを見に来たのもビックリだけれど、今の展示はレプリカの方。本物は百年に一度だけの特別公開、次に見られるのは五十年ほど先になる。
 知らないのかな、と丸くなった目。木彫りのウサギがレプリカなこと、と。



 わざわざ他の星から来たのに、レプリカだったらガッカリだろう。しかも本当はウサギではないナキネズミ。
(…いいのかな、これで…)
 どうしよう、と言葉を失くしたけれども、男性は気付かなかったらしくて。
「もう見て来たんだよ、木彫りのウサギ。今日の午前中に」
 レプリカでも見ておきたいからね。…本物の公開を待っていたんじゃ駄目だから。
 やっぱり側できちんと見ないと、いろんな方向からじっくりと。…芸術家としては。
「芸術家?」
「そう。彫刻家の卵といったトコかな、専門は木彫り」
 他の素材も彫るんだけれどね、木彫りが一番好きなんだ。木には命があるだろう?
 石とかには無い温もりがあるよ、木で出来ている作品には。宇宙遺産のウサギもそうさ。
 あんな風に後世に残る作品を作りたいんだよ、と話す男性。
 宇宙遺産とまではいかなくても、大勢の人を惹き付ける何か。そういう作品を作れたら、と。
(なんだか申し訳ないんだけど…!)
 あれはウサギじゃないんだから、と穴があったら入りたい気分。彫った犯人を知っている上に、その犯人が自分の恋人。生まれ変わったキャプテン・ハーレイ。
 下手くそな木彫りのナキネズミを見に、他の星から来る人がいるとは夢にも思っていなかった。特別公開の時ならともかく、今はレプリカの展示なのに。
(…ごめんなさい…。あれって、芸術なんかじゃなくて…)
 勝手に勘違いされちゃっただけ、と心の中で慌てる間に見えて来たバス。男性が乗っていくべき路線だと分かるバスだから…。
「あ、あのバスです!」
 助かった、と遠くに見えるバスを教えた。路線地図も示して、「此処で乗り換え」と。
 あのバスに乗って走るだけでは、辿り着けない目的地。乗り換え場所に着いたら、この路線のに乗り換えて、此処、と。男性が降りるべきバス停の名前。



 男性は路線地図やバス停を確認してから、それは素敵な笑顔になった。
「此処で乗り換え、降りるのが此処、と…。ありがとう、小さなソルジャー・ブルー君」
 宇宙遺産のウサギを見た日に君に会えて良かった、と差し出された手。握手のために。
 小さなソルジャー・ブルーにも会えたし、とても縁起のいい日だった、と。
「え、えっと…。ぼくは案内しただけで…」
 そんなに役に立っていません、と恐縮するばかり。握手している間にも。
 男性の方は大喜びでも、自分は知っている宇宙遺産のウサギの正体。本物を彫った犯人だって。
「とんでもない! 今日は最高の日だよ、ウサギを見られただけでもラッキーだったのに」
 道案内をしてくれたのが小さなソルジャー・ブルーだなんてね、ぼくはツイてる。
 いつかぼくの名前が売れた時には、会いに来てよね。小さなソルジャー・ブルー君。
 芸術家としての名前は、まだ無いんだけど…。卵だから。
 ぼくの名前はヘンリーだよ、と手を振ってバスに乗って行った男性。「ありがとう」と。
 走り去るバスが見えなくなるまで、ずっと手を振っていてくれたけれど…。
(普通すぎる名前…)
 特に珍しくもない名前がヘンリー。ごくごく普通で、学校のクラスの生徒にもいる。学校全体で数えたならば、ヘンリーは何人いるだろう?
(…芸術家になっても、分からないかも…)
 ヘンリーという名前では。
 芸術家としての名前は別につくのだけれども、本名を明かす人だって多い。きっとヘンリーも、そのつもり。だから教えてくれたのが名前。「ヘンリーだよ」と。
 けれど、多いだろうヘンリー。…そういう名前の、木彫りを作る彫刻家。
(顔で分かればいいんだけどね?)
 その顔だって、ヘアスタイルだけで変わっちゃうし、と思う間に自分が乗るバスもやって来た。いつもお世話になっているバス。
 それに乗り込んで走り始めたら、じきに着くのが家の近くにあるバス停。ヘンリーが乗り換えるバス停と違って、本当に近い場所だから。身体が丈夫な子供だったら、バス通学はしない距離。
 ヘンリーを乗せたバスは先に走って行ったけれども、乗り換え地点はずっと先。間に幾つも入るバス停、まだ暫くは着かないだろう。



 バス停から家まで歩いて帰って、制服を脱いでおやつの時間。ダイニングで。母が焼いてくれたケーキを頬張りながら、帰り道での出会いを思う。
(さっきのバスは…)
 ヘンリーに「あれです」と教えたバスは、何処まで走って行ったろう。乗り換え地点まで行っただろうか、教えたバス停に着いただろうか。
 バスの中でも案内はあるし、ヘンリーは間違えずに降りられる筈。「次です」という車内案内、それを聞いて降車ボタンを押して。
(降りたら、バス停で時刻表を見て…)
 次に乗るバスが来るのを待つ。多分、本数は少なくないから、そう待たなくても乗れるだろう。目的地まで運んで行ってくれるバスに。
(それに乗り換えて、あそこで降りて…)
 ヘンリーが目指す場所から近いバス停。降りたら何を見に行くのだろう、芸術家の卵だと話したヘンリーは?
(あそこにあるのは…)
 確か小さな美術館。其処に行くのか、その近くで宿を取ったのか。あるいは食べたい料理の店。自分はまるで知らないけれども、美味しいと評判の店があるとか。
(そういうのかもね?)
 地球は初めてだと言っていたから、考えられる可能性は幾つも。
 この辺りに住む人だったならば、同じように道を訊いたとしたって、友達の家に行くだとか…。
(でなきゃ、美術館か、食事に行くか…)
 そのくらいのことで、宿は要らない。ヘンリーだったら、宿というのも有り得るのに。何処かに泊まって続ける旅。地球にヘンリーの家は無いから、何処へ行くにも。
(親戚の家も無さそうだもんね?)
 地球に初めてやって来たなら、きっと親戚も地球にはいない。誰かいるなら、ヘンリーくらいの年になるまでに一度は来ると思うから。
 青い水の星は、今の時代も宇宙の人々の憧れの場所。親戚が住んでいるとなったら、訪問がてらやって来るもの。小さな子供に地球を見せるために、「これが地球だよ」と見せてやるために。



 だから親戚はいない筈、とヘンリーのことを考える。親戚が地球に住んでいないのなら、泊まる場所は宿を探すしかない。何処に行っても、必要な宿。
(泊まる場所、色々あるけれど…)
 立派なホテルも、個人が営む小さな宿も。ヘンリーが目指すバス停の辺りには、大きなホテルは無いけれど…。
(小さいホテルはあった筈だし、もっと小さな所とか…)
 夫婦でやっているような宿。そういう宿もけっこう人気が高い。まるで親戚の家にいるようで、居心地がいいらしいから。
(他の地域から来た人とかにも…)
 人気なのだと聞いているから、ヘンリーも泊まるのかもしれない。あのバス停から近い宿とか、またバスに乗って移動した先で予約を取ってあるだとか。
(あそこが終点じゃないってことも、ありそうだよね…)
 ヘンリーの今日の旅の中では。
 終点なのかもしれないけれども、まだ続くということだって。美術館を見るとか、食事だとか。それが済んだら、あのバス停からまたバスに乗る。今日の宿がある所まで。
(ホントに可能性が一杯…)
 あのバス停で降りた後のヘンリー。何をするのか、何処へ行くのか。今日の移動はあのバス停が終点なのか、もっと先まで移動するのか。
(それに、地球から帰る時には…)
 何処から帰ってゆくのだろうか、ヘンリーが暮らしている星に。芸術家になろうと決心した星、宇宙の何処かにある故郷に。
(ヘンリー、地球は初めてなんだし…)
 此処の他にもあちこち回って、他の地域の宙港から宇宙船に乗るかもしれない。それとも、他の地域は回って来た後で、此処の地域から出港するか。
 故郷の星へと飛んでゆく船で、チビの自分は乗ったことがない宇宙船で。



 最後は宇宙船だよね、と其処だけは分かるヘンリーの旅。さっき見送ったバスでの旅は、何処が終点なのか謎だけれども。今日の間の移動だけでも、まるで分からない旅の終点。
(バスの次は何に乗るのかな…?)
 それだって謎、と思うヘンリーが旅に使う乗り物。バスの種類も色々あるから、この地域の中はバスだけを使っても旅してゆける。遠い所まで走ってゆくバスは何種類も。
(海がある場所まで走って行って…)
 港に着いたらバスごと船へ。直ぐに渡れる所だったら、バスに乗ったままで渡れる海。何時間かかかる海の旅なら、バスから降りて甲板や船室で過ごすと聞いた。
 そんな風にバスごと船に乗ってゆくか、バスはおしまいで船にするのか。
(船でしか行けない場所だって…)
 幾つもあるから、バスの次は船になるかもしれない。そうやって旅を続けてゆくのか、地球での目的は果たしたから、と宙港行きのバスに乗り込んで、次に乗るのは宇宙船なのか。
 ヘンリーの故郷の星へ飛んでゆく宇宙船。チケットを買って、バスから宇宙船に乗り換え。
(その気になったら…)
 いろんな所へ行けるんだ、と気付いた乗り物。乗り換えて、乗り継いで何処までも行ける。
 今日の帰りに使ったバス停、あそこから宇宙へ行くことだって。宙港の方へ行くバスのバス停、其処までバスに乗って行ったら。宙港行きのバスに乗り込んだなら。
(バスに乗っかっているだけで…)
 連れて行って貰える、宇宙船が発着する宙港。其処で降りたら、チケットを買う。行きたい星に運んでくれる船のチケットを。それを買ったら、宇宙船に乗って宇宙への旅。
(なんだか凄い…)
 最初はバスに乗ったのに。家から近いバス停で乗って、乗り換えたら着いてしまう宙港。バスで出掛けたのに、いつの間にやら宇宙船。窓の向こうは漆黒の宇宙。
 そういう旅が出来るらしくて、ヘンリーはその逆で地球にやって来た。宇宙船に乗って、地球の宙港に着いて、其処から多分、乗っただろうバス。何処の地域へ降りたにしても。
 その後も色々な乗り物に乗って、さっき出会ったバス停まで。
 「此処へ行くバスはどれですか?」と、尋ねられた学校の側のバス停。何処かの星から宇宙船で来て、立っていたのがあのバス停。この町の住人とまるで変わらない格好で。



 凄すぎるよね、と感心しながら戻った二階の自分の部屋。空になったお皿などを母に返して。
 今の時代は、バス停から宇宙に旅立てるらしい。その逆で地球に来たヘンリーに会って、バスを教えたから気が付いた。「乗り換えは此処で、降りるのは此処」と。
 ヘンリーはバスに乗り込んで行って、地球での旅が終わった後には、また宇宙船。宙港で故郷の星に行くチケットを買って、瞬かない星が散らばる宇宙に飛び立つ。青い地球から。
 ヘンリーがいたのはバス停なのに。…宇宙船なんか、何処にも見えはしなかったのに。
(前のぼくたちだと…)
 乗せても貰えなかったバス。人類ではなくて、ミュウだったから。
 今の時代とは違った時代。宇宙は人類だけの世界で、ミュウは追われて殺されるだけ。ミュウに生まれたというだけのことで、人類に端から殺されていった。けして存在を認められはせずに。
 ミュウが生きられた場所はシャングリラだけ。箱舟だった白い船だけ。
 あの船の中が世界の全てで、バスに乗るなど夢物語。もちろん乗り換えだって出来ない。バスを乗り継いで何処かへ行くことも、他の乗り物に乗り換えることも。
 人類のものだったバスはもちろん、白いシャングリラから何かに乗り換えるのも…。
(無理だったよね…)
 シャトルでもあったギブリに乗っても、またシャングリラに戻るだけ。飛び立った場所へ戻って来るだけ、他の所へ旅立てはしない。
(ナスカがあっても…)
 赤いナスカを手に入れた後も、シャングリラから飛んだギブリは、ナスカに降りていっただけ。乗り換えてナスカに行くのではなくて、シャングリラとナスカを結んでいただけ。
 つまり、そういう路線バス。白いシャングリラから赤いナスカへの定期便。一本きりだった路線バス。乗り換えるバスが無かったミュウたち。…ギブリはバスではないけれど。
(世界が狭いよ…)
 バスが一本きりなんて、と勉強机の前に座って考える。乗り換えも無理な世界だなんて、と。
 それに比べて今の時代は、宇宙はなんと広いのだろう。なんて自由な時代だろう。
 乗り換えさえすれば、何処へでも行ける。出発点が家の近所のバス停でも。いつも学校へ向かうバス停、あそこからバスに乗り込んでも。



(バスに乗ったら、後は宙港まで行ける乗り換え方と、宇宙船のチケットと…)
 それだけで行ける、バス停から宇宙へ飛び出す旅。乗り換えるバスを間違えないよう、ちゃんと調べて乗ったなら。途中で迷ってしまった時には、ヘンリーみたいに誰かに訊いて。
(誰でも教えてくれるだろうし…)
 チビの自分でも着ける宙港。チケットを買えば、直ぐに宇宙へ飛び出せる。ヘンリーのように、他の星から青い地球にも来られたりする。住んでいる家から宙港に行けば。
(ヘンリーだって、最初はバス…)
 宙港行きのバスに乗って旅を始めたのだろう。バスに乗ったら、青い地球まで来られる時代。
 ホントに凄い、と感動していたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今の時代って、とても凄いね」
「何がだ?」
 いったい何が凄いんだ、とハーレイの疑問はもっともなもの。「凄い」だけでは伝わらない。
「凄いんだってば、バスで宇宙に行けるんだよ」
 バスで行けちゃう、と大発見を披露したのに、ハーレイは「はあ?」と目を見開いた。
「おいおい、お前、寝ぼけてないか?」
 俺が来るまで昼寝してたのか、バスは宇宙を飛んだりしないぞ。…バスなんだから。
 それっぽい名前の宇宙船が無いとは言わんが、バスとは似ても似つかないしな?
「ごめん…。ぼくの言い方、ちょっぴり極端すぎたかも…」
 バスからどんどん乗り換えていけば、宇宙に行ける、って意味なんだけど。
 いつもぼくが乗るバス停があるでしょ、あそこからでも行けるんだよ。宙港に行けるバスが出ている、バス停までバスに乗って行けばね。…直通のは無いから、乗り換えて。
 其処まで行ったら、宙港行きのバスが来るから、それに乗ったら宙港に着くよ。
 宙港に着いたら、後はチケット…。
 行きたい星までのチケットを買って、宇宙船に乗れば宇宙だってば。
 出港時間になったら宇宙に飛び出せるんだよ、家を出た時はバスだったのに。いつも使っているバス停から乗って、バスの座席に座ってたのに…。



 バス停から宇宙へ行けちゃうんだよ、と乗り換えのことを説明した。最初に乗るのは路線バス。普通のバスと全く変わらないのに、乗り換えてゆけば宇宙にも行ける。宙港に行けば。
「ちゃんと宇宙に行けてしまうんだよ、最初に乗ったのは普通のバスでも」
 決まった路線を走っているバス、そういうのに乗って走り出しても。
 これって凄いよ、前のぼくたちだと、乗り換えなんて無理だったでしょ?
 ミュウはバスには乗れないし…。シャングリラは最初から宇宙船だったし、乗り換えたって行き先が何処にも無いんだから。
 ギブリに乗っても、またシャングリラに戻って来るだけ。…ナスカがあっても同じことだよ。
 ナスカに行くか、シャングリラに帰るか、それだけしかコースが無かったから。
 乗り換えなんかは出来ないんだよ、と前の自分たちが生きた時代を話した。路線バスは無理で、シャングリラからも乗り換えて何処にも行けはしない、と。
「確かになあ…。今の時代だと、バスに乗ったら宇宙に飛び出せちまうのか…」
 バスが宇宙を飛ぶわけじゃないが、宙港までバスに乗って行ったら。
 お前、凄い所に気が付いたな。宇宙船に乗ったことは無いと言ってたが…。
 宇宙から見た地球も知らないくせに凄いじゃないか、とハーレイが手放しで褒めてくれたから、得意になって種明かしをした。
「帰りに道を訊かれたからね」
 学校の側のバス停にいたら、宇宙から旅をして来た人に。
 バスで行きたい場所があるのに、どのバスに乗ったらいいのか分からなかったらしくって…。
 「此処に行くバスはどれですか?」って訊かれたんだよ。
 でもね、その場所に真っ直ぐに行くバスは一つも無かったから…。
 此処で乗り換えて、此処で降りてね、って教えてあげたら、「ありがとう」って。
 他の星から来た人だなんて、聞くまでちっとも分からなかったよ。
 その人のことを考えていたら、バスで宇宙に行けることにも気が付いちゃった。だって、帰りは宇宙船に乗って行くんだもの。何処かの宙港までバスで行ってね。
 …そうだ、ヘンリー!



 どうしてヘンリーが地球に来たのか、理由の一つを思い出した。宇宙遺産のウサギのレプリカ、それを見て来たと聞いたのだから…。
(宇宙遺産のウサギの正体…)
 本当は前のハーレイが彫ったナキネズミなのに、と申し訳ない気持ち。ヘンリーを騙した犯人が目の前に座っているから、これは咎めねばならないだろう。
「ハーレイ、ヘンリーに謝ってよね」
 全部ハーレイのせいなんだから、と恋人の顔を睨み付けた。
「ヘンリーだって? 誰なんだ、それは?」
 お前のクラスのヘンリーのことか、それとも別のクラスのヤツか?
 どのヘンリーだ、とハーレイも首を傾げるくらいに多い名前がヘンリー。平凡すぎる名前。
「バス停でぼくに行き方を尋ねた人だよ、地球に来たのは初めてだって」
 芸術家の卵で、木彫りが好きな彫刻家。木には命があるからね、って言ってたけれど…。
 ヘンリーは、ハーレイのウサギを見に来たんだよ。宇宙遺産のウサギをね。
 もう見て来たって話をしてたよ、今日の午前中に行ったって。…博物館まで、ウサギを見に。
「ほほう…。そいつは素晴らしいな」
 俺の作品を見に来てくれたか、俺と言っても前の俺だが…。
 芸術家の卵が、俺の木彫りを眺めるために他の星から旅をして来たとは光栄だ。
 いい話だ、と悦に入っているのがハーレイ。あれはウサギではなくてナキネズミなのに。
「分かってる? ヘンリーが見たいと思っていたのはウサギだよ?」
 宇宙遺産のウサギなんだよ、それって間違ってるじゃない!
 前のハーレイが作った木彫りは、ウサギじゃなくってナキネズミでしょ!
「それはそうだが…。しかし、お前が出会ったヘンリーはだな…」
 俺が作った木彫りを見に来てくれたんだろうが。正体が何であろうとな。
 特別公開の時ならともかく、今の展示はレプリカなのに…。
 よく出来ちゃいるが、本物じゃない。それでも来てくれた所がなあ…。
 芸術家の卵ともなれば、やっぱり一味違うってことか。レプリカでもいいから、本物ってヤツに触れてみたかったんだな。あれは地球にしか無いもんだから。



 ミュージアムショップのレプリカだって、あそこでしか買えん、とハーレイの顔は誇らしげ。
 「他の星では買えないんだぞ」と、「あの博物館のオリジナルだ」と。
「…ヘンリーも買って帰ったかもなあ、あれのレプリカ」
 値段自体は高くはないしな、博物館の土産物だから。他の星では買えないってだけで。
 土産物としてもかさばらないし、とハーレイが自慢するウサギ。その正体はナキネズミ。
「分かってるんなら、謝ってよ! ヘンリーに!」
 ヘンリー、ホントに騙されちゃっていたんだから…。あのナキネズミはウサギなんだ、って。
 それに、あんな風に後世に残る作品を作りたい、って言っていたんだから!
 みんながウサギと間違えたせいで、今も残っているだけなのに…、と責めたけれども。
「俺の芸術が素晴らしい証拠だ、そのヘンリーは見る目があるな」
 あれの素晴らしさと価値を分かってくれたというのは、芸術を見る目があるってことだろう?
「無いってば! …ううん、芸術を見る目はあるんだろうけど…」
 ハーレイのウサギを見る時はきっと、曇ってしまっているんだよ。宇宙遺産のウサギです、って御大層な説明がついているから、そのせいで。
「どうなんだか…。俺の作品を見る目もあると思うがな?」
 わざわざ地球まで見に来る辺りが根性があるし、数ある芸術品の中から俺のをだな…。
 選んでくれたのがヘンリーなわけで、もう間違いなく俺の芸術を理解してると思うんだが。
 でなきゃ選ばん、とハーレイは全く譲らないから、チクリと嫌味を言うことにした。
「ハーレイのウサギだけじゃなくって、他にも色々見たいんじゃないの?」
 他の地域にも彫刻はあるし、この地域にも幾つもあるよ。宇宙遺産のも、そうでないのも。
 ハーレイのは一番有名だから、とにかく見ようって思っただけ。
 いろんな方向からじっくり見なきゃ、って言っていたけど、それは観賞の基本でしょ?
 どういう風に彫ってあるのか、写真だけでは分かんないから…。
 あれっ、でも…。



 なんだか変だ、と引っ掛かったこと。ハーレイを苛めている真っ最中に。
 ヘンリーが別れ際に差し出して来た手。バスに乗り込む前に握手して、ヘンリーは…。
「…ヘンリー、ぼくと出会えて縁起がいい、って…」
 そう言ったんだよ、別れる時に。握手して、とても嬉しそうに。
「なんだ、そりゃ?」
 お前と会ったら、どの辺が縁起がいいって言うんだ?
 縁起物っていう顔じゃないだろ、お前の顔は。…縁起物にも色々あるがな、ユニークなのが。
 フクロウもそうだし、無事カエルもだ、とハーレイが挙げる縁起物。「似てるのか?」と。
「…似てるらしいよ、カエルとかじゃなくて、ソルジャー・ブルー…」
 小さなソルジャー・ブルー君、って言ってたんだよ、ヘンリーは。
 宇宙遺産のウサギを見た日に、ぼくに会えて、とても縁起がいい、って…。
「ふうむ…。小さなソルジャー・ブルーに会えたら縁起がいいんだな?」
 それならやっぱり、尊敬しているのは俺なんだろう。前の俺の木彫りの腕前だ。
 キャプテン・ハーレイとソルジャー・ブルーは、今の時代はセットみたいなモンだから…。
 俺のナキネズミを拝んだ後にだ、ソルジャー・ブルーにそっくりなチビと出会えたら、そりゃあ嬉しくもなるだろう。
 なんて幸先がいいんだろうと、芸術家としての前途だってきっとツイている、とな。
「そう思うんなら、謝ってよ! ヘンリーに!」
 ホントはウサギじゃないんです、って、ハーレイ、きちんと謝って!
 ハーレイのことを尊敬しちゃっているんだったら、ますます大変なんだから!
 わざわざ地球まで来ちゃったんだよ、とヘンリーが気の毒でたまらない。前のハーレイが彫ったウサギを見たくて旅して来たのに、ウサギは間違いなのだから。正体はただのナキネズミで。
「俺にどうやって謝れと言うんだ、もういないだろ」
 ヘンリーはバスに乗ってったんだし、とっくに移動しちまった。此処にいるなら謝りもするが、いないんではなあ…?
「そうだけど…。ヘンリー、行っちゃったけど…」
 何処に泊まるのか、そんなのも聞いていないんだけど…。



 どうやって謝ればいいと言うんだ、と言われてみれば、名前だけしか知らないヘンリー。
 平凡すぎる名前はともかく、何処の星から来たのかさえも聞いてはいない。いつか芸術家として現れた時は、名前も変わっているだろう。本名が分かっていたとしたって、ヘンリーだけに…。
(…木彫りの彫刻家で、ヘンリーって人…)
 何人いてもおかしくないから、もうヘンリーに賭けるしかない。芸術家にはプロフィールが必ずつくものなのだし、其処にきちんと書いてくれることを。
「じゃあ、いつかハーレイを尊敬している彫刻家がデビューした時は、謝って!」
 芸術家が持ってる名前とは別に本名も分かって、それがヘンリー。
 本名がヘンリーで、キャプテン・ハーレイをとても尊敬しています、っていう彫刻家!
 そういう人が現れちゃったら、間違いなく今日のヘンリーだから!
 ちゃんと会いに行って謝ってよね、と注文をつけた。その方法ならば、お詫び出来そうだから。
「謝るのは別にいいんだが…。行きたくないとは言わないが…」
 俺が謝っても意味なんかないぞ、ただの古典の教師だから。
 いったい何を謝ってるんだ、と不思議そうな顔をされるのがオチだ。
 そうだな、せいぜい、こんな所か…。
 「古典の資料で解釈するなら、そうなりますか?」と訊かれるんだな、ウサギの正体。
 キャプテン・ハーレイの航宙日誌に、何か暗号があるだとか。ナキネズミだ、と読み取れる妙な暗号もどき。古典の教師の俺が思い付いた、実に斬新な新説ってヤツで。
 そう読めるんだ、と主張しながら、「ウサギじゃないです」と謝りに来た奇特な男、と。
 何も言わずに黙っていたなら、謝らなくてもいいのになあ…。自分勝手な新説だから。
 ヘンリーにしてみりゃ、熱烈なファンならではのお詫びってトコか。ヘンリーが大切に思ってるウサギ、そいつにヘンテコな説を唱えてすみません、とな。
 俺が正体を明かしているなら、話は別になるんだが…。そうでなければ、意味が無いだろ。
「そっか…」
 ハーレイが誰か分かっていないと、そういうことになっちゃうね…。
 いくらキャプテン・ハーレイと同じ顔でも、似ているだけで別人だから…。



 どうやらハーレイが謝りに行っても無駄らしい。宇宙遺産のウサギのこと。
 ヘンリーにとってはウサギはウサギで、彫刻家を志した切っ掛けの一つ。今のハーレイが謝ってみても、「ナキネズミですか?」と首を傾げるだけ。ハーレイが自分の正体を伏せたままならば。
(…今の所は、前のぼくたちのことは、黙ったままでいようって…)
 そう思っているのが自分たち。二人きりで静かに生きてゆけたら、それでいい。
「…だったら、心で謝ってよね。ヘンリーに通じないんなら」
 ヘンリーが立派な芸術家になったら、心の中で「ごめんなさい」って。
 だって、騙したのは本当だものね、宇宙遺産のウサギの正体、ナキネズミだから。
「うーむ…。俺はどう転がっても悪者なのか…」
 芸術家の卵を騙しちまった悪党なんだな、宇宙遺産にされてしまったナキネズミで。
 あれも芸術だと思うんだがなあ、他の星から見に来るヤツがいるんなら。
 …それで、そのヘンリーからバスで宇宙に行ける話か?
「うん。ヘンリーが次は何に乗るのか考えていたら、そうなっちゃった」
 ぼくが使っているバス停からでも、宇宙に出発できるよね、って。
 旅行用の荷物を持ってバスに乗ったら、乗り換えて宙港に行けるんだから。
「バスで宇宙なあ…」
 お前がいきなり言い出した時は、寝ぼけたのかと思ったが…。バスは宇宙を飛べんしな?
 とはいえ、お前の考え方。
 バスで宇宙っていう言葉自体も、あながち、間違ってはいないのかもな。
 言葉の意味をきちんと確認しなくても…、とハーレイが笑みを浮かべるから。
「えっ…?」
 バスで宇宙に行くのは無理だよ、ハーレイ、今も言ったじゃない。バスは宇宙船とは違うよ?
 乗り換えたら宇宙に行けるけれども、バスで行けるのは宙港までで…。
「その宙港から先の話だ、チケットを買う宇宙船だな」
 チケットさえ買えば誰でも乗れるし、何処の星へも行けるんだが…。
 そいつは今の時代だからだぞ、前の俺たちが生きた時代とは違うってな。
 今の旅には、制限ってヤツが全く無いから。



 SD体制の頃とはかなり違うぞ、とハーレイが教えてくれたこと。
 今は宙港でチケットを買えば何処へでも行けるし、どんな旅でも自由に出来る。
「そのヘンリーが格安で旅をしてるんだったら、宇宙船でもバス並みかもな」
 直行便で飛ぶとチケットは高いが、あちこちの星に停まるヤツだと安くなるから。
 日数はかなりかかっちまうが、その分、値段が安いんだ。同じ距離を飛ぶ宇宙船でも。
「ふうん…?」
 速く飛べない分、割引みたいになるんだね。急ぐ人だと、そういう船には乗れないけれど。
「そうなるな。だから、時間に余裕のあるヤツらが乗るわけだ」
 格安で旅をするんだからなあ、学生なんかの御用達だ。時間はたっぷり、しかし小遣いはあまり持ってはいないから。
 たとえば、だ…。
 地球からアルテメシア行きの船があるだろ、直行便で。
 あれに乗る代わりに、色々な星に寄って行く船に乗ったら、費用はだな…。
 こんなモンらしい、と告げられた金額はピンと来なかったけれど、同じ金額のチケットで飛べる距離を聞いたら仰天した。
「変わらないわけ、ソル太陽系の中を飛んで行くのと?」
 一番速い便でソル太陽系の中を飛ぶのと、アルテメシアまで飛ぶのと値段がおんなじ…?
 アルテメシアまで飛んで行く便は、一番遅いヤツって言われても…。
「そうなるらしいぞ、面白いよな」
 バスもそうだろ、遠い所まで走るバスだと料金は高い。短い時間になればなるほど。
 同じバスでも、路線バスだと少しも高くないんだが…。乗り継いで行っても、それほどはな。
 宇宙船でも同じってことだ、今の時代はバス並みだ。
 前の俺たちが生きてた頃には、その手の便を作ろうとしても制限がありすぎて無理だったが。
「制限って…?」
「軍事拠点や教育ステーション、育英都市には立ち寄り制限があっただろうが」
「そういえば…!」
 軍事機密とか、子供たちの成長の邪魔になるとか、色々と…。
 どんな船でも入っていいです、っていう場所はあんまり無かったかもね…。



 そういう時代だったっけ、と零れた溜息。なんとも不自由な時代だった、と。
「ミュウでなくても、乗り換えは自由じゃなかったんだね…」
 バスには乗れても、其処から飛び出せる宇宙に制限。…人類はバスに乗れたのに。
 宇宙船のチケットも買えたけれども、乗り換えて自由に旅をするのは無理だったんだね。
「そうだったようだ、バス並みの感覚で乗れる宇宙船だって無かったからな」
 あの頃に比べりゃ、今は本当にいい時代だ。誰だって好きに旅行が出来て。
 バス停から宇宙に飛び出せるなんて、もう最高の時代だってな。
 そうなったからこそ、俺の芸術も他所の星からわざわざ見に来て貰える、と。
 お前はヘンリーに会ったわけだが、他にも大勢いるかもしれんな。芸術家の卵で、俺を尊敬しているヤツら。…宇宙遺産のウサギを是非とも見なくては、と地球に来るヤツ。
「ハーレイのせいだよ、謝ってよ!」
 他の人たちは分かんないけど、ぼくはヘンリーに会ったんだから!
 あんな下手くそな木彫りなんかに騙されちゃってる、未来の立派な彫刻家に…!
「俺は知らんぞ、ヘンリーに会ってもいないしな」
 それにだ、いい彫刻家になれば何も問題無いだろうが。そのヘンリーが腕を磨きさえすれば。
 誰が心の師匠だろうが、結果が全てなんだから、とハーレイは本当に涼しい顔。
 「俺は知らん」と、「ヘンリーの腕さえ良けりゃいいだろ」と。
(…ハーレイ、無責任で酷いんだから…!)
 謝る方法が無いと思って知らんぷり、と酷い腕前だった前のハーレイを責めてみたって、まるで効果は無さそうな感じ。ヘンリーに謝る方法は無いし、住所も聞かなかったから。
 けれど、ヘンリーの旅が格安で、バス並みの旅をしているのなら…。
(他にも色々、芸術作品…)
 たっぷりとある時間を使って、あちこち眺める旅を続けてゆくだろうから。この地球だけでも、山のような数の芸術品がある筈だから…。
 あのヘンリーには、いつか素晴らしい彫刻家になって欲しいと思う。
 宇宙遺産のウサギを勘違いしたままでも、心の師匠が前のハーレイでも。
 自由に旅が出来る世界で、沢山の芸術作品に触れて、勉強して。
 いい作品を幾つも彫って、「命があるよ」と話していた木に、新しい命を吹き込んでやって…。




               バスと旅人・了


※ブルーが出会った、前のハーレイを尊敬している芸術家の卵。地球までやって来た旅人。
 今の時代はバスに乗ったら、宇宙への旅行が始まるのです。宙港へ行って、宇宙船に乗って。
←拍手して下さる方は、こちらからv
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