シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(お寿司でパーティー…)
ふうん、とブルーが眺めた広告の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
新聞ではなくて町の情報紙。其処に載っている和食のお店。美味しそうな料理の写真が沢山。
(家でパーティーするなら、お寿司…)
そういう謳い文句の広告。「パーティーにどうぞ」と盛り合わせたお寿司の大皿だとか、一人分ずつ盛り付けてある器とか。他にも和食のお弁当が色々。
(お弁当って言うより、ちゃんとしたお料理…)
そうとしか見えないものだって。お弁当用とは違った器に、綺麗に盛られた様々な料理。どれもそのまま届くという。家でするのは、お味噌汁などを温めることだけ。いわゆる仕出し。
お刺身も天麩羅も、全部セットで家に届くから、何も作らずにパーティー出来る。お寿司でも、本格的な和食が並ぶコースでも。
(いくらママでも、こんなに沢山…)
大勢の人に和食を作るのは無理。
家でこういうパーティーをするなら、仕出しを注文するのだろう。お寿司でなくても。きっと、気軽に頼めるのがお寿司。だから広告には「お寿司でパーティー」。
お寿司だったら、器は沢山要らないから。パーティー料理を並べる時も、片付ける時も、手間がそれほどかからないから。
(そんなパーティー、やってないけどね?)
小さかった頃には友達を呼んで、誕生日パーティーをしたけれど。
子供のパーティーに仕出しなんかは頼まないから、母が作った料理が並んだ。友達の家に行った時にも同じこと。子供が好きそうな料理ばかりで、お寿司を食べてはいないと思う。
(ぼくの年だと、誕生日パーティー、もうやらないし…)
縁が無さそうな、お寿司のパーティー。本格的な和食の料理を並べた方も。
こうして広告が載っているなら、やっている人も多そうなのに。その人たち向けの広告なのに。
パパたちもやっていないよね、と考える仕出しを取るパーティー。お客さんは大勢来ないから。たまに来るのは父の友人、母が充分料理を作れるだけの人数。母の友達が大勢来るなら…。
(食事じゃなくって、お茶会の方…)
その方がのんびり出来るから、と軽いランチとセットでお茶会。仕出し料理の出番は無い。
もしかしたら自分のせいかもしれない。幼い頃から身体が弱くて、熱を出したり、寝込んだり。大勢が集まるパーティーをするには、向いていそうにない家だから。
(みんなで集まっても、その家の子が寝込んでいたら…)
ワイワイ賑やかに話せはしないし、招かれた方も何かと心配。子供の様子を見てくるようにと、気を遣ったりもするだろう。「此処はいいですから、行ってあげて下さい」と。
母のお茶会程度だったら、「息子が熱を出したから」と断れそうでも、仕出し料理を取るようなものは難しそう。お店も料理を用意しているし、前の日から仕入れもするだろうから。
(ぼくのせいかもね…)
両親は何も言わないけれども、自然とそうなった可能性もある。母に訊いても、「違うわよ」と答えが返りそうだけれど。…本当は自分のせいだとしても。
理由はどうあれ、家では見たことがない和食のパーティー。お寿司も、仕出し料理の方も。
いつかする時が来るのだろうか、幼い頃よりは丈夫になったし、機会があれば。
(ハーレイのお父さんとお母さんも呼んだら…)
普段の食卓よりも増える人数。それにちょっとしたパーティー気分。
ハーレイと結婚したら、ハーレイの両親とも親戚になるし、この家に招くこともあるだろう。
自分はお嫁に行くのだけれども、たまには帰って来そうな家。
そうでなくても、父と母なら計画しそうな、ハーレイの両親も招いての食事。
(ぼくとハーレイも呼んで貰えて…)
楽しい食事になりそうだけれど、問題は母。
お菓子はもちろん、料理を作るのも得意なのだし、仕出し料理を取るよりは…。
(作っちゃいそう…)
たった六人分だもの、と眺め回したダイニングのテーブル。「全部並べても、このくらい」と。
六人分の料理くらいなら、お寿司だろうと和食だろうと、母なら作ってしまいそう、と。
ちょっと無理かも、と溜息をついて戻った二階の自分の部屋。
お寿司でパーティーに憧れたけれど、仕出し料理を頼むパーティーも素敵だけれど…。
(ママなら絶対、作っちゃう方…)
ハーレイの両親も来るとなったら、張り切って。仕出し料理を頼まなくても、ドッサリと。
「家でパーティーすることにしたわ」と通信を貰ってやって来たなら、どんな料理でも、きっと手作り。頼んでいそうにない仕出し。たった六人分だから。
(…ぼくとハーレイの家でやっても…)
料理は全部、ハーレイが作ってしまうのだろう。前のハーレイは厨房出身だったけれども、今のハーレイも料理が得意。プロ顔負けの腕前らしいし、六人分くらい、手際よく。
そしてハーレイの両親の家で、パーティーということになったなら…。
(お母さんが作るか、お父さんの得意な魚料理か…)
やっぱり無さそうな仕出しの出番。六人が集まるパーティーになっても、手作りの料理。魚まで釣って来るかもしれない、ハーレイの父は釣りの名人だから。「今の季節は、この魚」と。
(パーティーをするのが、ぼくだったら…)
自分で料理は出来そうにないし、仕出し料理を頼むことになると思うけれども。
広告を見ながら、どれにしようかと考えて注文出来そうだけれど…。
(そうなる前に、ハーレイが頑張るに決まっているじゃない…!)
パーティーしたいと言った途端に、「いいな」と頷いてくれて、料理の準備。何を食べたいのか訊かれるだろうし、「和食にしたい」と言ったなら…。
最初からハーレイの頭には無い、「仕出しを頼む」という選択肢。何を作ろうかと考えるだけ。
作る料理が決まってしまえば、パーティーの日の前の夜から仕込みを始めていそう。
当日の朝も、早起きをして買い出しに出掛けるかもしれない。市場が開いている日なら。
(ああいう市場は、朝が早いし…)
暗い内から開いているらしい、新鮮な食材が入って来る市場。
週末は休みかもしれないけれども、夏休みとかなら平日でも出来るのがパーティー。父の休みと合いさえしたなら、ゆっくりと。
平日だったら、市場はもちろん開いているから…。
お前は寝てろ、と一人で出掛けて行きそうなハーレイ。暗い間から車を出して、いそいそと。
市場に着いたら、食材選び。この料理にはこれ、と思う魚や、野菜やら。
明るくなってから、いつもの時間に目を覚ましたら…。
(もう、お料理の準備中…)
ハーレイはとっくに帰って来ていて、キッチンに立っているのだろう。朝御飯だって、きちんと作ってテーブルの上。「お前の朝飯、そこだからな」と。
せっかく市場に行ったのだから、と凝っていそうな朝御飯。なにしろ相手はハーレイだから。
なんだか凄い、と眺めていたら、「俺は料理しながら、もう食ったから」と笑ったりもして。
(うーん…)
きっとそうなる、と分かっているから、仕出し料理の出番は無さそう。集まる人数が六人では。もっと人数が増えてくれないと、仕出しは頼めそうもない。
ハーレイが「流石に無理だ」と思う人数、どのくらいいればいいのだろう。十人はいないと駄目なのだろうか、八人くらいでもハーレイは諦めてくれるだろうか…?
(だけど、招待するような人…)
いないもんね、と零れる溜息。両親と、ハーレイの両親と。それだけ呼ぶのが精一杯。六人しかいないパーティーだったら、料理はハーレイの手作りしか考えられないし…。
仕出しを取るのは難しそう、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつかパーティーするんなら…」
「パーティー?」
なんだそりゃ、と怪訝そうなハーレイ。「お前の誕生日パーティーとかか?」と。
「それもあるかもしれないけれど…。家でパーティーだよ」
今じゃなくって、もっと先のこと。
いつかハーレイと結婚した後、家でパーティーしようって時は…。
ぼくのパパとママも、ハーレイのお父さんとお母さんも呼んで、みんなでパーティー。
そういう時には、お料理、どうする?
パーティーするなら、お料理だって出さなくちゃ…。その時のお料理…。
どうするの、と首を傾げたら、「そりゃ作るさ」と思った通りの答え。
「張り切って美味いのを作らなくっちゃな、パーティーとなれば」
「…ハーレイが?」
念のために、と訊き返したけれど、「当然だろう?」と微笑むハーレイ。「俺の出番だ」と。
「他に誰がいるんだ、料理となったら俺だよな。今の俺だって、料理は得意だ」
お前は手伝わなくてもいいぞ。俺に任せておいてくれれば、最高の料理を作ってやるから。
「やっぱり…」
パーティー料理はそうなっちゃうよね、と頷いたものの、仕出し料理の出番は来ない。いつまで経っても来てはくれなくて、パーティーの時にはハーレイの料理。
「なんだ、残念そうな顔をして。…俺の料理じゃ駄目なのか?」
溜息が聞こえて来そうな顔だ、とハーレイも気付いたらしい落胆ぶり。それなら、いっそ話してみようか。仕出し料理を頼んでみたかったこと。
「えっと…。ハーレイの料理が駄目なんじゃなくて…」
美味しいだろうし、パパやママも喜んでくれそうだけど…。ぼくも美味しく食べるけど…。
それはいいんだけど、今日、広告を見たんだよ。新聞広告じゃなかったけれど。
お寿司でパーティーって書いてあってね、和食のお店の広告で…。
仕出し料理の写真も沢山、と広告のことを説明した。そういう仕出しを頼むパーティー、それが家には無いことも。…多分、自分が弱く生まれてしまったせいで。
「なるほどなあ…。それはあるかもしれないな」
お母さんたちは「違う」と答えてくれるんだろうが、その可能性は充分にある。
ただでも子供が小さい間は、大勢の人を招くというのは難しいからな。…料理は仕出しを頼むにしたって、家の片付けが大変だ。小さな子供はオモチャも絵本も、出したら出しっ放しだから。
「ハーレイだってそう思うんなら、ホントにぼくのせいだったかも…」
だけど今なら、小さい頃よりは身体も丈夫になったから…。ホントだよ?
しょっちゅう熱を出したりするけど、小さかった頃より減ったから…。
自分できちんと気を付けてるから、酷くなる前に治すしね。ちょっと休憩したりして。
だから仕出しを頼むパーティー、今のぼくなら出来そうだけど…。
肝心の仕出し料理の出番が無さそう、と項垂れた。
いつかハーレイと結婚したって、パーティーの時にはハーレイが料理を作るのだから。
「それでガッカリしちゃったんだよ、ハーレイの料理のせいじゃなくって…」
仕出し料理の出番は無いよね、って思っちゃったら、残念で…。
ちょっと頼んでみたかったのに…。お寿司でパーティーするのもいいけど、仕出し料理を。
「そういうことか…。出来上がった料理が届く所がいいんだな?」
テーブルに並べていくだけで済むし、買ってくるより遥かに本格的だから…。盛り付ける器も、料理が一番映えるのを選んで来るからな。
お前が頼んでみたいんだったら、注文すればいいんじゃないか?
俺は作るのをやめておくから、仕出し料理でパーティーだ。寿司も一緒に頼んでもいいな、俺が作るなら両方となると大変だが。
寿司が手抜きになりそうだ、とハーレイのお許しを貰ったけれども、引っ掛かった言葉。
「…それだと手抜きみたいじゃない。お寿司を一緒に頼んでなくても」
今、ハーレイが自分で言ったよ。お料理とお寿司と、両方だったら、お寿司が手抜き…。
それと同じで、パーティー、六人だけだから…。どう頑張っても、六人しか思い付かないし…。
六人分なら、ハーレイ、簡単に作れちゃうんでしょ?
なのに仕出しを頼んでるなんて、手抜きで注文したみたい。自分で作るのが面倒だから。
仕出しを頼むなら、もっと大勢呼ばなくちゃ駄目で、お料理が作れないほどの人数だとか…。
たった六人分で仕出しは駄目かも、と心配な気分。ハーレイは許してくれたけれども。
「手抜きって…。そうでもないんだぞ、仕出しってヤツは」
お客様にお出しするなら仕出しがいい、って人も少なくないからな。
家で料理を作るとなったら、お客様のお相手をしている時間が減るもんだから…。
次はこれだ、と温め直したりしてるだけでも、時間、かかってしまうだろ?
キッチンまで来て喋っているようなお客様なら、まるで問題無いんだが…。
それが出来ないお客様もあるから、そういう時には仕出しだってな。
もちろん出されたお客様の方も、手抜きだなんて思っちゃいない。仕出しは立派な文化だぞ。
宅配ピザとは違うってことだ、仕出し料理は。
値段もけっこう高いだろうが、と言われてみれば、そうだった。広告で見たのは、パーティーに相応しい値段。お寿司でパーティー、そう謳われても充分、納得出来そうな。
「パーティーだから、って思ってたけど…。お寿司、安くはなかったかも…」
お店で食べるような値段で、他のお料理だってそう。安いお料理、無かったかも…。
「ほらな。店の器を貸して貰って、料理も盛り付けて貰うんだから」
仕出しはきちんとした料理なんだ、お客様にお出ししても恥ずかしくない料理ってことで…。
柔道部のヤツらに御馳走するには、仕出しは上等すぎるってな。パーティー用の寿司も。
あの連中には、宅配ピザが丁度いいんだ、と教わったけれど。仕出し料理は立派な文化で、注文したっていいらしいけれど。
「そうなんだ…。でも、お客さん…」
誰かいないかな、パパやママの他にもいればいいのに…。家に呼べそうなお客さんたち。
仕出しを頼んでも良さそうな人で、うんと賑やかに。
「お前の友達なんかはどうだ? 今だと、ただのガキなわけだが…」
その内に立派な大人になるしな、人数もけっこういるだろうが。お前のランチ仲間とか。
ああいうのを呼んでやったらどうだ、とアイデアを出して貰ったけれども、どうだろう…?
ハーレイと二人で暮らしている家に、友達を呼んでみたいだろうか…?
(今はランチも楽しいけれど…。ハーレイと暮らしてる家に呼びたいかな…?)
ぼくたちには秘密も多いんだから、と記憶のことを考えた。ハーレイも自分も生まれ変わりで、前の生の記憶を持っている。両親の前なら当たり前のように話すけれども、友達となると…。
(…ぼくたちの正体、内緒のままだと、とても大変…)
何かのはずみに喋ってしまって、慌てて口を押さえるだとか。「冗談だよ」と誤魔化すとか。
ハーレイも自分も、前の自分たちにそっくりなのだし、冗談だと思って貰えそうでも…。
(やっぱり大変…)
いつものように話せないのでは、つまらない。
せっかく仕出しを頼んでパーティー、好きなように話題を選びたいのに。
ハーレイとも普段通りに話して、「前のぼくたちの頃には、仕出しなんかは無かったね」などと語り合ってもみたいのに。…あの時代に仕出し料理は無かったのだから。
そういう話も出来る人たち、両親以外で分かってくれるゲストがいれば…、と思っても、それは無理なこと。前の自分たちを知っている人、その人たちは遠く遥かな時の彼方にしかいない。
白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。彼らしか分かってくれはしないから…。
「仕出しを頼むお客様…。ゼルたちがいればいいのにね」
「ゼル?」
どうしてゼルの名前が出るんだ、とハーレイが目を丸くする。「今は仕出しの話だぞ?」と。
「前に言ったじゃない。同窓会が出来たらいいね、って」
無理なのは分かっているけれど…。夢だけれども、ゼルたちを呼んで地球で同窓会。
その同窓会を家でするんなら、仕出しも注文出来そうだよ?
人数は六人のままだけど…。ぼくの友達を呼んで来るより、ずっと少ない人数だけれど。
でも、同じ六人で仕出しだったら、パパやママより、ゼルたちの方が面白そうだと思わない?
ハーレイもお料理しなくていいもの、仕出しを頼んでおいたらね。
お料理を作りにキッチンに行かずに済みそうでしょ、と話した思い付き。けして叶いはしない夢でも、ハーレイと夢を見たいから。
「あいつらか…! そうか、ゼルたちと同窓会なあ…。俺たちの家で」
そりゃ賑やかになりそうだよな、とハーレイの顔も綻んだ。「六人でも充分、賑やかだぞ」と。
「ね、素敵でしょ?」
ゼルたちだったら、前のぼくたちの話をしたって大丈夫だし…。
ぼくの友達を家に呼んだら、そういう話は無理だけど…。喋っちゃったら大変だけど。
誤魔化すのがね、と肩を竦めたら、「ゼルたちの場合は、別の意味で大変そうだがな?」という意見。「前の俺たちの話はともかく」と。
「仕出し料理を頼むんだろう? もうそれだけで大変なことになっちまうぞ」
ひと騒動って感じだろうな、仕出しだけに。
「なんで?」
ハーレイ、仕出しは手抜きじゃないって言ってたよ…?
それとも手抜きだと言われてしまうの、ゼルもブラウも口がとっても悪いから…。
料理も作れなくなったのか、ってハーレイが苛められちゃうだとか…?
あの二人なら言いそうだ、と思った嫌味。前のハーレイの料理の腕前を知っているだけに…。
ブラウだったら「呆れたねえ…。今のあんたは料理も作れやしないなんてさ」といった具合で、ゼルの方なら「わしらを納得させる味が出せんのじゃ。腕が落ちたんじゃ!」となるだろうか。
ハーレイにすれば、不本意極まりない話。仕出し料理は立派な文化らしいのに。
「…ゼルたちだって分かってくれるよ、仕出しをきちんと説明すれば」
おんなじ料理はハーレイにだって作れるけれども、これはそういう文化だから、って。
それに仕出しを頼みたがったの、ハーレイじゃなくて、ぼくなんだしね。
ぼくが頑張って説明するよ、と言ったのだけれど、「そうじゃなくて…」と苦笑したハーレイ。
「お前の気持ちは嬉しいんだが、俺が言うのは其処じゃない」
あいつら、嫌味どころじゃないと思うぞ、仕出し料理をドンと出してやったら。
まるで知らない料理だろうが、あいつらが。…寿司にしたって、本格的な和食にしたって。
前の俺たちが生きてた頃には、和食は無かったんだから、とハーレイがトンと叩いたテーブル。
「仕出し料理も、もちろん無いが」と。
「そうだっけ…!」
ホントだ、ゼルもブラウもビックリだよね…。見たことのないお料理ばかり。
仕出しについてるお味噌汁だって、「何のスープだい?」ってキョトンとしてそう…。
「だから賑やかだと言ったんだ。…ついでに、大変そうだともな」
どれも食えるっていう所から教えてやらんと、きっと警戒されちまう。…美味いのにな?
あいつらに仕出しを取るんだったら、寿司は外せん。是非とも食って貰わないと。
「生の魚を食べるのか」と驚きそうだが、食えば喜ぶと思うぞ、きっと。
それに天麩羅も頼まないとな。ずっと昔はスシ、テンプラと言ったらしいから。
この辺りに日本があった時代は、他所の国から来た観光客たちに大人気のメニューだったんだ。寿司と天麩羅。
大昔から人気の料理なんだし、あいつらの口にも合うだろう。
「こいつは美味い」と褒められそうなのが、寿司と天麩羅ってトコだよな、うん。
寿司と天麩羅は頼まないと…、とハーレイが挙げるものだから。
「他には…?」
喜んで貰えそうなお料理もいいし、ビックリされそうなお料理だって。…何があるかな?
お刺身も生のお魚なんだし、お寿司と一緒で用心されてしまいそうだけど…。
「茶碗蒸しも要るだろ、前にお前がお母さんに作って貰っていたぞ」
今じゃ当たり前の料理なんだが、前の俺たちが見たらどう思うのか、って話でな。
「プリンだっけね、茶碗蒸し…」
前のぼくなら、プリンの仲間と間違えるんだよ。きっと甘いよ、って食べたら甘くないプリン。
それにプリンには入っていない中身が色々…。茶碗蒸しはお料理なんだから。
「甘くないだけで驚くだろうな、あいつらは」
妙なプリンだ、と食っていったら、中に海老だの百合根だの…。
海老は一目で分かるだろうが、百合根は謎の食べ物だしな?
俺たちは何度、毒味する羽目になるんだろうなあ、「これは立派な食い物だから」と。
「そうなっちゃうかも…」
きっと、ぼくよりハーレイだよ。毒味させられる係はね。…怪しい食べ物になればなるほど。
元は厨房にいたんだろう、って言われちゃって。
「目に見えるようだな、その光景…。お前が食え、とゼルにせっつかれるんだ」
でもって、毒味する時に、だ…。俺やお前が使っている箸、そいつも大いに問題だってな。
ゼルたちには箸は使えんだろうし、ナイフやフォークも用意しないと…。
変わった道具で食べていやがる、と珍獣扱いされちまうかもなあ…。
お前も俺も、とハーレイが軽く広げた両手。「どう見たって、ただの棒だから」と。
「食べにくい道具だろうけれど…。挑戦しそうだよ、ブラウとかが。これで食べる、って」
つまむ代わりに、グサリと刺しちゃいそうだけど…。フォークみたいに。
前にそういう話をしたこと、あったっけね。お箸なんかは知らなかったよ、って気が付いた時。
「あの時も俺が気付いたんだよな、料理をしてて。…箸って道具は優れものだと」
だが、箸がどんなに優秀でもだ、使いこなせないと二本の棒のままなんだから…。
ナイフとフォークを用意してなきゃ、ゼルとブラウは手づかみで食おうとするかもなあ…。
寿司なら手でもかまわないんだが、他の料理も遠慮しないで。
きっとガツガツ食っちまうぞ、とハーレイが挙げてゆく料理。手づかみで食べられそうなもの。
「天麩羅もいけるし、刺身もいける」と、「茶碗蒸しは、ちょっと無理そうだがな」と。
「茶碗蒸しだと、箸で崩して飲んじまうのかもしれないなあ…」
ちょっと濃いめのスープってトコで、具入りのスープも無いわけじゃないし…。
前の俺たちの時代でもな、と懐かしい料理の名前が挙がった。今もあるブイヤベースなどが。
「茶碗蒸し、スープにされちゃうんだ…。確かに崩せば飲めそうだけど」
楽しそうだよね、家で仕出しで同窓会をやるっていうのも。夢の同窓会だけど…。
本当にやるのは無理なんだけれど、同窓会なら、キースも呼んであげたいな…。
「またキースか!?」
お前、俺たちの家にもキースを呼ぼうというのか、あんな野郎を…?
あいつがお前に何をしたのか、お前、覚えている筈だがな…?
それなのに家に御招待か、とハーレイが見せた苦い顔。ハーレイはキースを嫌っているから。
「…駄目?」
呼んじゃ駄目なの、せっかくの同窓会なのに…。仕出しも頼んで、みんなで楽しめそうなのに。
キースは仲間外れになるの、と瞬かせた瞳。「ハーレイに嫌われてるから、駄目?」と。
「いや、いいが…。お前が呼びたいのなら、仕方がないが…」
仕出し料理で同窓会ってのは、お前が主催者なんだしな。好きなゲストを呼んでいいんだが…。
キースの野郎には、俺の特製料理を食わせてやりたい気もするな。
もちろん仕出し料理も出すがだ、俺が腕によりをかけて作った料理も。
「なに、それ?」
特製料理を御馳走するなら、キースを許してあげるわけ?
さっきは文句を言っていたけど、ちゃんと御馳走してあげるんだ…?
ちょっと意外、と驚いたけれど、ハーレイは「人の話は最後まで聞けよ?」とニヤリと笑った。
「俺の特製料理ってヤツは、前のお前の仕返しなんだ」
いくらお前が許していたって、俺はキースを許していない。…前のお前を撃ったこと。
メンバーズだったら、多分、何でも食えるだろうし…。
そういう訓練も受けた筈だし、好き嫌いの無い俺なりに知恵を絞ってだな…。
不味い料理を作ってやる、と恐ろしい話が飛び出した。
ゼルたちは美味しい仕出し料理を食べているのに、キースの分だけ、ハーレイ特製。メンバーズならば食べられるだろう、と出されるらしい不味すぎる料理。
「不味い料理って…。ハーレイ、何をする気なの?」
わざと焦がすとか、煮詰めすぎるとか、そういう失敗作のお料理…?
失敗したなら、不味い料理も作れそうだものね。お砂糖とお塩を間違えるだとか。
「その程度だったら、それほど不味くはならないだろうが。…まだ充分に食い物だからな」
常識ってヤツを捨ててかからないと、本当に不味い料理は作れん。直ぐには思い付かないが…。
なあに、闇鍋の要領でいけば何か作れるってな、不味すぎるヤツを。
「闇鍋…。前に聞いたよ、そういうお鍋…」
運動部の人たちがやってる遊びなんでしょ、ヘンテコなものを入れちゃうお鍋。
ハーレイに聞いた話だと、あれは色々な食べ物を入れるから酷い味付けになっちゃうわけで…。
一人用の闇鍋なんか無理だよ、元々の量が少ないんだから。
きっと食べられる味のお鍋、と指摘したけれど、ハーレイの方も譲らない。
「いや、出来る。俺がその気になりさえすれば」
一人用の鍋じゃ無理だと言うなら、デカイ鍋でグツグツ作ってもいいし…。全部食え、とな。
キースの野郎が腹一杯になっていようが、「俺の料理が食えんのか」と凄むまでだ。
その辺をちょいと走ってくればだ、腹が減るからまた食える。…不味くたってな。
なんたって、ヤツはメンバーズだぞ、とハーレイは闇鍋を食べさせるつもり。キースが来たら。
「…ハーレイ、そこまでキースが嫌い?」
運動させてまで、闇鍋を全部食べさせようって…。酷くない?
同窓会に来てくれたのに…。ゼルたちの分は、美味しいお料理ばかりなのに。
「俺に言わせりゃ、好きになれというお前の方が間違ってるぞ」
あいつが何をしでかしたのかを知っていればだ、誰だって嫌いになると思うが…?
「間違ってないよ…!」
キースに撃たれたのは前のぼくだし、ぼくはキースを嫌ってないから…。
もう一度会えたら、友達になれると思っているから…。ホントに間違っていないってば…!
間違ってるのはハーレイの方、と睨んだけれども、「どうだろうな?」と不敵に笑う恋人。
「お前の考えじゃ、キースは悪くはないらしいんだが…」
ゼルたちはどう言うんだろうなあ、俺の肩を持つか、お前の方か。
いったい、どっちにつくんだと思う、キースの野郎をどう扱うかって件に関しては…?
「ぼくに決まっているじゃない!」
ソルジャーはぼくだよ、ハーレイよりも上なんだから…!
ぼくが嫌っていないんだったら、ゼルたちだって、ぼくの意見を尊重しなくちゃ。ナスカのこととかで恨みがあっても、ソルジャーが言うなら従わないとね。
ぼくがキースを許してるんなら、許さなくちゃ、と自信たっぷりだったのに。
「ほほう…。今のお前もソルジャーなのか?」
でもって俺はキャプテンってことで、お前よりも立場が下になるのか…?
少なくとも今は俺は教師で、お前は生徒だと思ったが…。お前、俺より偉いってか…?
「…違うかも……」
前のぼくならソルジャーだけれど、今のぼくだと生徒だし…。ソルジャーじゃないし…。
これから先も、ソルジャーになれる予定も無いし、と口ごもるしかなくなった。ハーレイの方が正しいのだから、どうやら悪いらしい旗色。
「お前がソルジャーではないってことは、だ…。俺の方が上だと思うがな?」
特製料理を用意するのは俺だし、パーティー会場も俺の家だし…。
お前の立場は俺より弱くて、俺に勝てるとは思えんが…?
「その家なら、ぼくも住んでるよ!」
ハーレイと一緒に暮らしているから、その家でパーティーするんだし…。仕出し料理を頼むのもぼくで、パーティーしようって言ったのもぼく…。
「そうは言っても、元々は俺の家だしな?」
俺が一人で住んでいた家に、お前が嫁に来たわけで…。お前、居候のようなモンだろ?
キースの件では俺に分がある、ゼルたちもそう言ってくれそうだが…?
「えーっ!?」
お嫁さんだと居候なの、確かにそうかもしれないけれど…。
料理も出来ないお嫁さんだし、仕出し料理を頼まないとパーティーするのも無理なんだけど…!
居候のようなお嫁さん。将来は本当にそうなるわけだし、ハーレイに負けてしまいそう。
ゼルたちに意見を訊いてみたなら、ハーレイの方に票が入って。居候では勝てなくて。
(ぼく、負けちゃう…?)
負けてしまって、ハーレイはキースに酷い料理を出すのかも、と思ったけれど。そうなるのかと諦めかけたけれども、相手は夢の同窓会。キースまで呼べるほどだから…。
「ゼルたちの意見、ハーレイの読みとは違っているかもしれないよ?」
ぼくがハーレイよりも弱くなってる世界なんだし、ソルジャーもキャプテンも無いんだし…。
人類もミュウも無くなってるから、ゼルたち、案外、キースと気が合っちゃうかも…。
「なんだって?」
あいつらがキースの肩を持つのか、俺が文句を言っていたって…?
前のお前をメギドで撃った極悪人だ、と主張してみても、キースの野郎と気が合うってか?
ゼルたちが、とハーレイは愕然としているけれども、ただの人同士として出会ったのなら、争う必要は何処にもない。まして同窓会となったら、和やかに語り合いたいもの。
「ハーレイは今もキースを許してないけど、ぼくは生まれ変わって今のぼくだよ?」
いくらハーレイが「撃ったんだ」って頑張ってみても、今のぼくには弾の痕は無いし…。
聖痕が出ても、怪我なんか何処にもしていないしね?
それならキースを悪く言うだけ無駄じゃない。みんなで仲良く食事する方がよっぽどいいよ。
ブラウは「国家主席様だ」って、キースをオモチャにしちゃいそうだし、ゼルだって。
ヒルマンは色々と話が出来て喜んじゃうかも…。SD体制のシステムだとか、他にも沢山。
エラも話を聞きたがると思うよ、今ならキースがどうやって生まれて来たのか分かってるもの。
「水槽の中から外は見えましたか?」とか、熱心に質問しそうだってば。
「うーむ…」
そういうことも無いとは言えんか、特にヒルマンとエラが危ない。
人類側の指導者をやってた男だ、ユグドラシルの仕組みとかまで聞きたがるかもしれないな…。
キースしか知らないままの話も多い筈だし、今ならではのインタビューってか?
ゼルとブラウも興味津々で質問しそうで、あいつらの場合は茶化すんだな。面白がって。
そうなると、キースは格好の話し相手ってことで…。
俺の分が悪くなっちまう、と複雑な顔をしているハーレイ。「キースには手出し出来んぞ」と。
「…マズイな、話が盛り上がっているのに、俺だけキースを睨んでいても…」
場の雰囲気が台無しってヤツか、お前もキースの肩を持つんだし…。
仕返ししようと不味い料理を作って出しても、ゼルたちにまで文句を言われるってか…?
「言うと思うよ、「何をするんじゃ!」ってゼルが怒鳴りそう」
ハーレイの料理の腕が落ちた、って言われちゃうかもね、不味いんだから。
それが嫌なら、キースにも、ちゃんと普通のお料理。みんなと同じで、美味しい仕出し。
楽しくみんなで食べるのがいいでしょ、せっかく仕出しを取るんだから。
どれがいいかな、って考えて注文するんだものね、と鳶色の瞳の恋人を見詰めた。キース嫌いの恋人だけれど、「意地悪は駄目」と。
「…キースの野郎にも、美味いのを御馳走しろってか?」
とびきり美味い仕出し料理を食わせてやって、俺の特製料理は出番が無いままか…。
まあ、所詮はお前の夢の話だし、それでもいいがな。…キースに美味い仕出し料理でも。
茶碗蒸しだろうが、寿司だろうが…、とハーレイは渋々頷いてくれた。「仕方ないな」と。
「ありがとう! 夢の話でも、キースに御馳走してくれるんだね」
ハーレイが許してくれるんだったら、美味しいのを頼んであげたいな。キースたちのために。
でも、仕出し…。夢の同窓会をするなら、ちゃんと注文出来るけど…。
ぼくたちじゃ無理だね、ホントに人数が足りないから…。
パパやママたちを呼んで来たって、六人だけしかいないんだから…。
ちょっと残念、と肩を落としたら、「さっきも言ったろ?」と穏やかな笑み。
「お前の夢なら頼んでもいいと言ってやったぞ、仕出し料理」
俺と二人で頼んでもいいし、好きな時に注文するといい。…一緒に暮らすようになったら。
「二人って?」
「店の方で駄目だと言わなかったら、二人分でも頼んでいいんだ。仕出しってヤツは」
家で作るのとは器が違うし、作る時間も要らないし…。
わざわざ店まで出掛けなくても、ちょっとしたデート気分だが?
「それ、いいかも…!」
ハーレイと二人で仕出しなんだね、お料理、二人分、届くんだね…!
まるで思いもしなかったこと。二人分だけ注文する仕出し。
いつかハーレイと暮らし始めたら、たまには仕出しを頼んでみようか。
お客さんを大勢招かなくても、ハーレイと二人でゆっくりと。お寿司や、色々な仕出し料理を。
美味しそうな広告を見付けた時には、「これがいいな」と指差したりして。
デートに出掛けて、外で食事をする代わりに…。
(いつもの部屋で、お料理だけ…)
お店の味のを食べてみる。器も、普段とは違ったもので。…お店から届けて貰ったもので。
そういう食事も、きっと素敵に違いないから、いつかは仕出しを二人分だけ。
ハーレイと二人でのんびりと食べて、懐かしい思い出話もして。
家でゆっくりデートするなら、仕出し料理も悪くない。
いつものテーブルは変わらないけれど、お店の人を気にしなくてもいいのが仕出しの良さ。
食事の途中でキスしていたって、誰も困りはしないから。
食べ終えたら直ぐにベッドに行っても、叱る人は誰もいないのだから…。
頼みたい仕出し・了
※ブルーが頼みたくなった、仕出し料理。けれど取るのは難しいかも、と思えるのが将来。
夢のまま終わりそうでしたけど、二人分だけ、注文することも出来るのです。いつか二人で。
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ふうん、とブルーが眺めた広告の写真。学校から帰って、おやつの時間に。
新聞ではなくて町の情報紙。其処に載っている和食のお店。美味しそうな料理の写真が沢山。
(家でパーティーするなら、お寿司…)
そういう謳い文句の広告。「パーティーにどうぞ」と盛り合わせたお寿司の大皿だとか、一人分ずつ盛り付けてある器とか。他にも和食のお弁当が色々。
(お弁当って言うより、ちゃんとしたお料理…)
そうとしか見えないものだって。お弁当用とは違った器に、綺麗に盛られた様々な料理。どれもそのまま届くという。家でするのは、お味噌汁などを温めることだけ。いわゆる仕出し。
お刺身も天麩羅も、全部セットで家に届くから、何も作らずにパーティー出来る。お寿司でも、本格的な和食が並ぶコースでも。
(いくらママでも、こんなに沢山…)
大勢の人に和食を作るのは無理。
家でこういうパーティーをするなら、仕出しを注文するのだろう。お寿司でなくても。きっと、気軽に頼めるのがお寿司。だから広告には「お寿司でパーティー」。
お寿司だったら、器は沢山要らないから。パーティー料理を並べる時も、片付ける時も、手間がそれほどかからないから。
(そんなパーティー、やってないけどね?)
小さかった頃には友達を呼んで、誕生日パーティーをしたけれど。
子供のパーティーに仕出しなんかは頼まないから、母が作った料理が並んだ。友達の家に行った時にも同じこと。子供が好きそうな料理ばかりで、お寿司を食べてはいないと思う。
(ぼくの年だと、誕生日パーティー、もうやらないし…)
縁が無さそうな、お寿司のパーティー。本格的な和食の料理を並べた方も。
こうして広告が載っているなら、やっている人も多そうなのに。その人たち向けの広告なのに。
パパたちもやっていないよね、と考える仕出しを取るパーティー。お客さんは大勢来ないから。たまに来るのは父の友人、母が充分料理を作れるだけの人数。母の友達が大勢来るなら…。
(食事じゃなくって、お茶会の方…)
その方がのんびり出来るから、と軽いランチとセットでお茶会。仕出し料理の出番は無い。
もしかしたら自分のせいかもしれない。幼い頃から身体が弱くて、熱を出したり、寝込んだり。大勢が集まるパーティーをするには、向いていそうにない家だから。
(みんなで集まっても、その家の子が寝込んでいたら…)
ワイワイ賑やかに話せはしないし、招かれた方も何かと心配。子供の様子を見てくるようにと、気を遣ったりもするだろう。「此処はいいですから、行ってあげて下さい」と。
母のお茶会程度だったら、「息子が熱を出したから」と断れそうでも、仕出し料理を取るようなものは難しそう。お店も料理を用意しているし、前の日から仕入れもするだろうから。
(ぼくのせいかもね…)
両親は何も言わないけれども、自然とそうなった可能性もある。母に訊いても、「違うわよ」と答えが返りそうだけれど。…本当は自分のせいだとしても。
理由はどうあれ、家では見たことがない和食のパーティー。お寿司も、仕出し料理の方も。
いつかする時が来るのだろうか、幼い頃よりは丈夫になったし、機会があれば。
(ハーレイのお父さんとお母さんも呼んだら…)
普段の食卓よりも増える人数。それにちょっとしたパーティー気分。
ハーレイと結婚したら、ハーレイの両親とも親戚になるし、この家に招くこともあるだろう。
自分はお嫁に行くのだけれども、たまには帰って来そうな家。
そうでなくても、父と母なら計画しそうな、ハーレイの両親も招いての食事。
(ぼくとハーレイも呼んで貰えて…)
楽しい食事になりそうだけれど、問題は母。
お菓子はもちろん、料理を作るのも得意なのだし、仕出し料理を取るよりは…。
(作っちゃいそう…)
たった六人分だもの、と眺め回したダイニングのテーブル。「全部並べても、このくらい」と。
六人分の料理くらいなら、お寿司だろうと和食だろうと、母なら作ってしまいそう、と。
ちょっと無理かも、と溜息をついて戻った二階の自分の部屋。
お寿司でパーティーに憧れたけれど、仕出し料理を頼むパーティーも素敵だけれど…。
(ママなら絶対、作っちゃう方…)
ハーレイの両親も来るとなったら、張り切って。仕出し料理を頼まなくても、ドッサリと。
「家でパーティーすることにしたわ」と通信を貰ってやって来たなら、どんな料理でも、きっと手作り。頼んでいそうにない仕出し。たった六人分だから。
(…ぼくとハーレイの家でやっても…)
料理は全部、ハーレイが作ってしまうのだろう。前のハーレイは厨房出身だったけれども、今のハーレイも料理が得意。プロ顔負けの腕前らしいし、六人分くらい、手際よく。
そしてハーレイの両親の家で、パーティーということになったなら…。
(お母さんが作るか、お父さんの得意な魚料理か…)
やっぱり無さそうな仕出しの出番。六人が集まるパーティーになっても、手作りの料理。魚まで釣って来るかもしれない、ハーレイの父は釣りの名人だから。「今の季節は、この魚」と。
(パーティーをするのが、ぼくだったら…)
自分で料理は出来そうにないし、仕出し料理を頼むことになると思うけれども。
広告を見ながら、どれにしようかと考えて注文出来そうだけれど…。
(そうなる前に、ハーレイが頑張るに決まっているじゃない…!)
パーティーしたいと言った途端に、「いいな」と頷いてくれて、料理の準備。何を食べたいのか訊かれるだろうし、「和食にしたい」と言ったなら…。
最初からハーレイの頭には無い、「仕出しを頼む」という選択肢。何を作ろうかと考えるだけ。
作る料理が決まってしまえば、パーティーの日の前の夜から仕込みを始めていそう。
当日の朝も、早起きをして買い出しに出掛けるかもしれない。市場が開いている日なら。
(ああいう市場は、朝が早いし…)
暗い内から開いているらしい、新鮮な食材が入って来る市場。
週末は休みかもしれないけれども、夏休みとかなら平日でも出来るのがパーティー。父の休みと合いさえしたなら、ゆっくりと。
平日だったら、市場はもちろん開いているから…。
お前は寝てろ、と一人で出掛けて行きそうなハーレイ。暗い間から車を出して、いそいそと。
市場に着いたら、食材選び。この料理にはこれ、と思う魚や、野菜やら。
明るくなってから、いつもの時間に目を覚ましたら…。
(もう、お料理の準備中…)
ハーレイはとっくに帰って来ていて、キッチンに立っているのだろう。朝御飯だって、きちんと作ってテーブルの上。「お前の朝飯、そこだからな」と。
せっかく市場に行ったのだから、と凝っていそうな朝御飯。なにしろ相手はハーレイだから。
なんだか凄い、と眺めていたら、「俺は料理しながら、もう食ったから」と笑ったりもして。
(うーん…)
きっとそうなる、と分かっているから、仕出し料理の出番は無さそう。集まる人数が六人では。もっと人数が増えてくれないと、仕出しは頼めそうもない。
ハーレイが「流石に無理だ」と思う人数、どのくらいいればいいのだろう。十人はいないと駄目なのだろうか、八人くらいでもハーレイは諦めてくれるだろうか…?
(だけど、招待するような人…)
いないもんね、と零れる溜息。両親と、ハーレイの両親と。それだけ呼ぶのが精一杯。六人しかいないパーティーだったら、料理はハーレイの手作りしか考えられないし…。
仕出しを取るのは難しそう、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね、ハーレイ…。いつかパーティーするんなら…」
「パーティー?」
なんだそりゃ、と怪訝そうなハーレイ。「お前の誕生日パーティーとかか?」と。
「それもあるかもしれないけれど…。家でパーティーだよ」
今じゃなくって、もっと先のこと。
いつかハーレイと結婚した後、家でパーティーしようって時は…。
ぼくのパパとママも、ハーレイのお父さんとお母さんも呼んで、みんなでパーティー。
そういう時には、お料理、どうする?
パーティーするなら、お料理だって出さなくちゃ…。その時のお料理…。
どうするの、と首を傾げたら、「そりゃ作るさ」と思った通りの答え。
「張り切って美味いのを作らなくっちゃな、パーティーとなれば」
「…ハーレイが?」
念のために、と訊き返したけれど、「当然だろう?」と微笑むハーレイ。「俺の出番だ」と。
「他に誰がいるんだ、料理となったら俺だよな。今の俺だって、料理は得意だ」
お前は手伝わなくてもいいぞ。俺に任せておいてくれれば、最高の料理を作ってやるから。
「やっぱり…」
パーティー料理はそうなっちゃうよね、と頷いたものの、仕出し料理の出番は来ない。いつまで経っても来てはくれなくて、パーティーの時にはハーレイの料理。
「なんだ、残念そうな顔をして。…俺の料理じゃ駄目なのか?」
溜息が聞こえて来そうな顔だ、とハーレイも気付いたらしい落胆ぶり。それなら、いっそ話してみようか。仕出し料理を頼んでみたかったこと。
「えっと…。ハーレイの料理が駄目なんじゃなくて…」
美味しいだろうし、パパやママも喜んでくれそうだけど…。ぼくも美味しく食べるけど…。
それはいいんだけど、今日、広告を見たんだよ。新聞広告じゃなかったけれど。
お寿司でパーティーって書いてあってね、和食のお店の広告で…。
仕出し料理の写真も沢山、と広告のことを説明した。そういう仕出しを頼むパーティー、それが家には無いことも。…多分、自分が弱く生まれてしまったせいで。
「なるほどなあ…。それはあるかもしれないな」
お母さんたちは「違う」と答えてくれるんだろうが、その可能性は充分にある。
ただでも子供が小さい間は、大勢の人を招くというのは難しいからな。…料理は仕出しを頼むにしたって、家の片付けが大変だ。小さな子供はオモチャも絵本も、出したら出しっ放しだから。
「ハーレイだってそう思うんなら、ホントにぼくのせいだったかも…」
だけど今なら、小さい頃よりは身体も丈夫になったから…。ホントだよ?
しょっちゅう熱を出したりするけど、小さかった頃より減ったから…。
自分できちんと気を付けてるから、酷くなる前に治すしね。ちょっと休憩したりして。
だから仕出しを頼むパーティー、今のぼくなら出来そうだけど…。
肝心の仕出し料理の出番が無さそう、と項垂れた。
いつかハーレイと結婚したって、パーティーの時にはハーレイが料理を作るのだから。
「それでガッカリしちゃったんだよ、ハーレイの料理のせいじゃなくって…」
仕出し料理の出番は無いよね、って思っちゃったら、残念で…。
ちょっと頼んでみたかったのに…。お寿司でパーティーするのもいいけど、仕出し料理を。
「そういうことか…。出来上がった料理が届く所がいいんだな?」
テーブルに並べていくだけで済むし、買ってくるより遥かに本格的だから…。盛り付ける器も、料理が一番映えるのを選んで来るからな。
お前が頼んでみたいんだったら、注文すればいいんじゃないか?
俺は作るのをやめておくから、仕出し料理でパーティーだ。寿司も一緒に頼んでもいいな、俺が作るなら両方となると大変だが。
寿司が手抜きになりそうだ、とハーレイのお許しを貰ったけれども、引っ掛かった言葉。
「…それだと手抜きみたいじゃない。お寿司を一緒に頼んでなくても」
今、ハーレイが自分で言ったよ。お料理とお寿司と、両方だったら、お寿司が手抜き…。
それと同じで、パーティー、六人だけだから…。どう頑張っても、六人しか思い付かないし…。
六人分なら、ハーレイ、簡単に作れちゃうんでしょ?
なのに仕出しを頼んでるなんて、手抜きで注文したみたい。自分で作るのが面倒だから。
仕出しを頼むなら、もっと大勢呼ばなくちゃ駄目で、お料理が作れないほどの人数だとか…。
たった六人分で仕出しは駄目かも、と心配な気分。ハーレイは許してくれたけれども。
「手抜きって…。そうでもないんだぞ、仕出しってヤツは」
お客様にお出しするなら仕出しがいい、って人も少なくないからな。
家で料理を作るとなったら、お客様のお相手をしている時間が減るもんだから…。
次はこれだ、と温め直したりしてるだけでも、時間、かかってしまうだろ?
キッチンまで来て喋っているようなお客様なら、まるで問題無いんだが…。
それが出来ないお客様もあるから、そういう時には仕出しだってな。
もちろん出されたお客様の方も、手抜きだなんて思っちゃいない。仕出しは立派な文化だぞ。
宅配ピザとは違うってことだ、仕出し料理は。
値段もけっこう高いだろうが、と言われてみれば、そうだった。広告で見たのは、パーティーに相応しい値段。お寿司でパーティー、そう謳われても充分、納得出来そうな。
「パーティーだから、って思ってたけど…。お寿司、安くはなかったかも…」
お店で食べるような値段で、他のお料理だってそう。安いお料理、無かったかも…。
「ほらな。店の器を貸して貰って、料理も盛り付けて貰うんだから」
仕出しはきちんとした料理なんだ、お客様にお出ししても恥ずかしくない料理ってことで…。
柔道部のヤツらに御馳走するには、仕出しは上等すぎるってな。パーティー用の寿司も。
あの連中には、宅配ピザが丁度いいんだ、と教わったけれど。仕出し料理は立派な文化で、注文したっていいらしいけれど。
「そうなんだ…。でも、お客さん…」
誰かいないかな、パパやママの他にもいればいいのに…。家に呼べそうなお客さんたち。
仕出しを頼んでも良さそうな人で、うんと賑やかに。
「お前の友達なんかはどうだ? 今だと、ただのガキなわけだが…」
その内に立派な大人になるしな、人数もけっこういるだろうが。お前のランチ仲間とか。
ああいうのを呼んでやったらどうだ、とアイデアを出して貰ったけれども、どうだろう…?
ハーレイと二人で暮らしている家に、友達を呼んでみたいだろうか…?
(今はランチも楽しいけれど…。ハーレイと暮らしてる家に呼びたいかな…?)
ぼくたちには秘密も多いんだから、と記憶のことを考えた。ハーレイも自分も生まれ変わりで、前の生の記憶を持っている。両親の前なら当たり前のように話すけれども、友達となると…。
(…ぼくたちの正体、内緒のままだと、とても大変…)
何かのはずみに喋ってしまって、慌てて口を押さえるだとか。「冗談だよ」と誤魔化すとか。
ハーレイも自分も、前の自分たちにそっくりなのだし、冗談だと思って貰えそうでも…。
(やっぱり大変…)
いつものように話せないのでは、つまらない。
せっかく仕出しを頼んでパーティー、好きなように話題を選びたいのに。
ハーレイとも普段通りに話して、「前のぼくたちの頃には、仕出しなんかは無かったね」などと語り合ってもみたいのに。…あの時代に仕出し料理は無かったのだから。
そういう話も出来る人たち、両親以外で分かってくれるゲストがいれば…、と思っても、それは無理なこと。前の自分たちを知っている人、その人たちは遠く遥かな時の彼方にしかいない。
白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。彼らしか分かってくれはしないから…。
「仕出しを頼むお客様…。ゼルたちがいればいいのにね」
「ゼル?」
どうしてゼルの名前が出るんだ、とハーレイが目を丸くする。「今は仕出しの話だぞ?」と。
「前に言ったじゃない。同窓会が出来たらいいね、って」
無理なのは分かっているけれど…。夢だけれども、ゼルたちを呼んで地球で同窓会。
その同窓会を家でするんなら、仕出しも注文出来そうだよ?
人数は六人のままだけど…。ぼくの友達を呼んで来るより、ずっと少ない人数だけれど。
でも、同じ六人で仕出しだったら、パパやママより、ゼルたちの方が面白そうだと思わない?
ハーレイもお料理しなくていいもの、仕出しを頼んでおいたらね。
お料理を作りにキッチンに行かずに済みそうでしょ、と話した思い付き。けして叶いはしない夢でも、ハーレイと夢を見たいから。
「あいつらか…! そうか、ゼルたちと同窓会なあ…。俺たちの家で」
そりゃ賑やかになりそうだよな、とハーレイの顔も綻んだ。「六人でも充分、賑やかだぞ」と。
「ね、素敵でしょ?」
ゼルたちだったら、前のぼくたちの話をしたって大丈夫だし…。
ぼくの友達を家に呼んだら、そういう話は無理だけど…。喋っちゃったら大変だけど。
誤魔化すのがね、と肩を竦めたら、「ゼルたちの場合は、別の意味で大変そうだがな?」という意見。「前の俺たちの話はともかく」と。
「仕出し料理を頼むんだろう? もうそれだけで大変なことになっちまうぞ」
ひと騒動って感じだろうな、仕出しだけに。
「なんで?」
ハーレイ、仕出しは手抜きじゃないって言ってたよ…?
それとも手抜きだと言われてしまうの、ゼルもブラウも口がとっても悪いから…。
料理も作れなくなったのか、ってハーレイが苛められちゃうだとか…?
あの二人なら言いそうだ、と思った嫌味。前のハーレイの料理の腕前を知っているだけに…。
ブラウだったら「呆れたねえ…。今のあんたは料理も作れやしないなんてさ」といった具合で、ゼルの方なら「わしらを納得させる味が出せんのじゃ。腕が落ちたんじゃ!」となるだろうか。
ハーレイにすれば、不本意極まりない話。仕出し料理は立派な文化らしいのに。
「…ゼルたちだって分かってくれるよ、仕出しをきちんと説明すれば」
おんなじ料理はハーレイにだって作れるけれども、これはそういう文化だから、って。
それに仕出しを頼みたがったの、ハーレイじゃなくて、ぼくなんだしね。
ぼくが頑張って説明するよ、と言ったのだけれど、「そうじゃなくて…」と苦笑したハーレイ。
「お前の気持ちは嬉しいんだが、俺が言うのは其処じゃない」
あいつら、嫌味どころじゃないと思うぞ、仕出し料理をドンと出してやったら。
まるで知らない料理だろうが、あいつらが。…寿司にしたって、本格的な和食にしたって。
前の俺たちが生きてた頃には、和食は無かったんだから、とハーレイがトンと叩いたテーブル。
「仕出し料理も、もちろん無いが」と。
「そうだっけ…!」
ホントだ、ゼルもブラウもビックリだよね…。見たことのないお料理ばかり。
仕出しについてるお味噌汁だって、「何のスープだい?」ってキョトンとしてそう…。
「だから賑やかだと言ったんだ。…ついでに、大変そうだともな」
どれも食えるっていう所から教えてやらんと、きっと警戒されちまう。…美味いのにな?
あいつらに仕出しを取るんだったら、寿司は外せん。是非とも食って貰わないと。
「生の魚を食べるのか」と驚きそうだが、食えば喜ぶと思うぞ、きっと。
それに天麩羅も頼まないとな。ずっと昔はスシ、テンプラと言ったらしいから。
この辺りに日本があった時代は、他所の国から来た観光客たちに大人気のメニューだったんだ。寿司と天麩羅。
大昔から人気の料理なんだし、あいつらの口にも合うだろう。
「こいつは美味い」と褒められそうなのが、寿司と天麩羅ってトコだよな、うん。
寿司と天麩羅は頼まないと…、とハーレイが挙げるものだから。
「他には…?」
喜んで貰えそうなお料理もいいし、ビックリされそうなお料理だって。…何があるかな?
お刺身も生のお魚なんだし、お寿司と一緒で用心されてしまいそうだけど…。
「茶碗蒸しも要るだろ、前にお前がお母さんに作って貰っていたぞ」
今じゃ当たり前の料理なんだが、前の俺たちが見たらどう思うのか、って話でな。
「プリンだっけね、茶碗蒸し…」
前のぼくなら、プリンの仲間と間違えるんだよ。きっと甘いよ、って食べたら甘くないプリン。
それにプリンには入っていない中身が色々…。茶碗蒸しはお料理なんだから。
「甘くないだけで驚くだろうな、あいつらは」
妙なプリンだ、と食っていったら、中に海老だの百合根だの…。
海老は一目で分かるだろうが、百合根は謎の食べ物だしな?
俺たちは何度、毒味する羽目になるんだろうなあ、「これは立派な食い物だから」と。
「そうなっちゃうかも…」
きっと、ぼくよりハーレイだよ。毒味させられる係はね。…怪しい食べ物になればなるほど。
元は厨房にいたんだろう、って言われちゃって。
「目に見えるようだな、その光景…。お前が食え、とゼルにせっつかれるんだ」
でもって、毒味する時に、だ…。俺やお前が使っている箸、そいつも大いに問題だってな。
ゼルたちには箸は使えんだろうし、ナイフやフォークも用意しないと…。
変わった道具で食べていやがる、と珍獣扱いされちまうかもなあ…。
お前も俺も、とハーレイが軽く広げた両手。「どう見たって、ただの棒だから」と。
「食べにくい道具だろうけれど…。挑戦しそうだよ、ブラウとかが。これで食べる、って」
つまむ代わりに、グサリと刺しちゃいそうだけど…。フォークみたいに。
前にそういう話をしたこと、あったっけね。お箸なんかは知らなかったよ、って気が付いた時。
「あの時も俺が気付いたんだよな、料理をしてて。…箸って道具は優れものだと」
だが、箸がどんなに優秀でもだ、使いこなせないと二本の棒のままなんだから…。
ナイフとフォークを用意してなきゃ、ゼルとブラウは手づかみで食おうとするかもなあ…。
寿司なら手でもかまわないんだが、他の料理も遠慮しないで。
きっとガツガツ食っちまうぞ、とハーレイが挙げてゆく料理。手づかみで食べられそうなもの。
「天麩羅もいけるし、刺身もいける」と、「茶碗蒸しは、ちょっと無理そうだがな」と。
「茶碗蒸しだと、箸で崩して飲んじまうのかもしれないなあ…」
ちょっと濃いめのスープってトコで、具入りのスープも無いわけじゃないし…。
前の俺たちの時代でもな、と懐かしい料理の名前が挙がった。今もあるブイヤベースなどが。
「茶碗蒸し、スープにされちゃうんだ…。確かに崩せば飲めそうだけど」
楽しそうだよね、家で仕出しで同窓会をやるっていうのも。夢の同窓会だけど…。
本当にやるのは無理なんだけれど、同窓会なら、キースも呼んであげたいな…。
「またキースか!?」
お前、俺たちの家にもキースを呼ぼうというのか、あんな野郎を…?
あいつがお前に何をしたのか、お前、覚えている筈だがな…?
それなのに家に御招待か、とハーレイが見せた苦い顔。ハーレイはキースを嫌っているから。
「…駄目?」
呼んじゃ駄目なの、せっかくの同窓会なのに…。仕出しも頼んで、みんなで楽しめそうなのに。
キースは仲間外れになるの、と瞬かせた瞳。「ハーレイに嫌われてるから、駄目?」と。
「いや、いいが…。お前が呼びたいのなら、仕方がないが…」
仕出し料理で同窓会ってのは、お前が主催者なんだしな。好きなゲストを呼んでいいんだが…。
キースの野郎には、俺の特製料理を食わせてやりたい気もするな。
もちろん仕出し料理も出すがだ、俺が腕によりをかけて作った料理も。
「なに、それ?」
特製料理を御馳走するなら、キースを許してあげるわけ?
さっきは文句を言っていたけど、ちゃんと御馳走してあげるんだ…?
ちょっと意外、と驚いたけれど、ハーレイは「人の話は最後まで聞けよ?」とニヤリと笑った。
「俺の特製料理ってヤツは、前のお前の仕返しなんだ」
いくらお前が許していたって、俺はキースを許していない。…前のお前を撃ったこと。
メンバーズだったら、多分、何でも食えるだろうし…。
そういう訓練も受けた筈だし、好き嫌いの無い俺なりに知恵を絞ってだな…。
不味い料理を作ってやる、と恐ろしい話が飛び出した。
ゼルたちは美味しい仕出し料理を食べているのに、キースの分だけ、ハーレイ特製。メンバーズならば食べられるだろう、と出されるらしい不味すぎる料理。
「不味い料理って…。ハーレイ、何をする気なの?」
わざと焦がすとか、煮詰めすぎるとか、そういう失敗作のお料理…?
失敗したなら、不味い料理も作れそうだものね。お砂糖とお塩を間違えるだとか。
「その程度だったら、それほど不味くはならないだろうが。…まだ充分に食い物だからな」
常識ってヤツを捨ててかからないと、本当に不味い料理は作れん。直ぐには思い付かないが…。
なあに、闇鍋の要領でいけば何か作れるってな、不味すぎるヤツを。
「闇鍋…。前に聞いたよ、そういうお鍋…」
運動部の人たちがやってる遊びなんでしょ、ヘンテコなものを入れちゃうお鍋。
ハーレイに聞いた話だと、あれは色々な食べ物を入れるから酷い味付けになっちゃうわけで…。
一人用の闇鍋なんか無理だよ、元々の量が少ないんだから。
きっと食べられる味のお鍋、と指摘したけれど、ハーレイの方も譲らない。
「いや、出来る。俺がその気になりさえすれば」
一人用の鍋じゃ無理だと言うなら、デカイ鍋でグツグツ作ってもいいし…。全部食え、とな。
キースの野郎が腹一杯になっていようが、「俺の料理が食えんのか」と凄むまでだ。
その辺をちょいと走ってくればだ、腹が減るからまた食える。…不味くたってな。
なんたって、ヤツはメンバーズだぞ、とハーレイは闇鍋を食べさせるつもり。キースが来たら。
「…ハーレイ、そこまでキースが嫌い?」
運動させてまで、闇鍋を全部食べさせようって…。酷くない?
同窓会に来てくれたのに…。ゼルたちの分は、美味しいお料理ばかりなのに。
「俺に言わせりゃ、好きになれというお前の方が間違ってるぞ」
あいつが何をしでかしたのかを知っていればだ、誰だって嫌いになると思うが…?
「間違ってないよ…!」
キースに撃たれたのは前のぼくだし、ぼくはキースを嫌ってないから…。
もう一度会えたら、友達になれると思っているから…。ホントに間違っていないってば…!
間違ってるのはハーレイの方、と睨んだけれども、「どうだろうな?」と不敵に笑う恋人。
「お前の考えじゃ、キースは悪くはないらしいんだが…」
ゼルたちはどう言うんだろうなあ、俺の肩を持つか、お前の方か。
いったい、どっちにつくんだと思う、キースの野郎をどう扱うかって件に関しては…?
「ぼくに決まっているじゃない!」
ソルジャーはぼくだよ、ハーレイよりも上なんだから…!
ぼくが嫌っていないんだったら、ゼルたちだって、ぼくの意見を尊重しなくちゃ。ナスカのこととかで恨みがあっても、ソルジャーが言うなら従わないとね。
ぼくがキースを許してるんなら、許さなくちゃ、と自信たっぷりだったのに。
「ほほう…。今のお前もソルジャーなのか?」
でもって俺はキャプテンってことで、お前よりも立場が下になるのか…?
少なくとも今は俺は教師で、お前は生徒だと思ったが…。お前、俺より偉いってか…?
「…違うかも……」
前のぼくならソルジャーだけれど、今のぼくだと生徒だし…。ソルジャーじゃないし…。
これから先も、ソルジャーになれる予定も無いし、と口ごもるしかなくなった。ハーレイの方が正しいのだから、どうやら悪いらしい旗色。
「お前がソルジャーではないってことは、だ…。俺の方が上だと思うがな?」
特製料理を用意するのは俺だし、パーティー会場も俺の家だし…。
お前の立場は俺より弱くて、俺に勝てるとは思えんが…?
「その家なら、ぼくも住んでるよ!」
ハーレイと一緒に暮らしているから、その家でパーティーするんだし…。仕出し料理を頼むのもぼくで、パーティーしようって言ったのもぼく…。
「そうは言っても、元々は俺の家だしな?」
俺が一人で住んでいた家に、お前が嫁に来たわけで…。お前、居候のようなモンだろ?
キースの件では俺に分がある、ゼルたちもそう言ってくれそうだが…?
「えーっ!?」
お嫁さんだと居候なの、確かにそうかもしれないけれど…。
料理も出来ないお嫁さんだし、仕出し料理を頼まないとパーティーするのも無理なんだけど…!
居候のようなお嫁さん。将来は本当にそうなるわけだし、ハーレイに負けてしまいそう。
ゼルたちに意見を訊いてみたなら、ハーレイの方に票が入って。居候では勝てなくて。
(ぼく、負けちゃう…?)
負けてしまって、ハーレイはキースに酷い料理を出すのかも、と思ったけれど。そうなるのかと諦めかけたけれども、相手は夢の同窓会。キースまで呼べるほどだから…。
「ゼルたちの意見、ハーレイの読みとは違っているかもしれないよ?」
ぼくがハーレイよりも弱くなってる世界なんだし、ソルジャーもキャプテンも無いんだし…。
人類もミュウも無くなってるから、ゼルたち、案外、キースと気が合っちゃうかも…。
「なんだって?」
あいつらがキースの肩を持つのか、俺が文句を言っていたって…?
前のお前をメギドで撃った極悪人だ、と主張してみても、キースの野郎と気が合うってか?
ゼルたちが、とハーレイは愕然としているけれども、ただの人同士として出会ったのなら、争う必要は何処にもない。まして同窓会となったら、和やかに語り合いたいもの。
「ハーレイは今もキースを許してないけど、ぼくは生まれ変わって今のぼくだよ?」
いくらハーレイが「撃ったんだ」って頑張ってみても、今のぼくには弾の痕は無いし…。
聖痕が出ても、怪我なんか何処にもしていないしね?
それならキースを悪く言うだけ無駄じゃない。みんなで仲良く食事する方がよっぽどいいよ。
ブラウは「国家主席様だ」って、キースをオモチャにしちゃいそうだし、ゼルだって。
ヒルマンは色々と話が出来て喜んじゃうかも…。SD体制のシステムだとか、他にも沢山。
エラも話を聞きたがると思うよ、今ならキースがどうやって生まれて来たのか分かってるもの。
「水槽の中から外は見えましたか?」とか、熱心に質問しそうだってば。
「うーむ…」
そういうことも無いとは言えんか、特にヒルマンとエラが危ない。
人類側の指導者をやってた男だ、ユグドラシルの仕組みとかまで聞きたがるかもしれないな…。
キースしか知らないままの話も多い筈だし、今ならではのインタビューってか?
ゼルとブラウも興味津々で質問しそうで、あいつらの場合は茶化すんだな。面白がって。
そうなると、キースは格好の話し相手ってことで…。
俺の分が悪くなっちまう、と複雑な顔をしているハーレイ。「キースには手出し出来んぞ」と。
「…マズイな、話が盛り上がっているのに、俺だけキースを睨んでいても…」
場の雰囲気が台無しってヤツか、お前もキースの肩を持つんだし…。
仕返ししようと不味い料理を作って出しても、ゼルたちにまで文句を言われるってか…?
「言うと思うよ、「何をするんじゃ!」ってゼルが怒鳴りそう」
ハーレイの料理の腕が落ちた、って言われちゃうかもね、不味いんだから。
それが嫌なら、キースにも、ちゃんと普通のお料理。みんなと同じで、美味しい仕出し。
楽しくみんなで食べるのがいいでしょ、せっかく仕出しを取るんだから。
どれがいいかな、って考えて注文するんだものね、と鳶色の瞳の恋人を見詰めた。キース嫌いの恋人だけれど、「意地悪は駄目」と。
「…キースの野郎にも、美味いのを御馳走しろってか?」
とびきり美味い仕出し料理を食わせてやって、俺の特製料理は出番が無いままか…。
まあ、所詮はお前の夢の話だし、それでもいいがな。…キースに美味い仕出し料理でも。
茶碗蒸しだろうが、寿司だろうが…、とハーレイは渋々頷いてくれた。「仕方ないな」と。
「ありがとう! 夢の話でも、キースに御馳走してくれるんだね」
ハーレイが許してくれるんだったら、美味しいのを頼んであげたいな。キースたちのために。
でも、仕出し…。夢の同窓会をするなら、ちゃんと注文出来るけど…。
ぼくたちじゃ無理だね、ホントに人数が足りないから…。
パパやママたちを呼んで来たって、六人だけしかいないんだから…。
ちょっと残念、と肩を落としたら、「さっきも言ったろ?」と穏やかな笑み。
「お前の夢なら頼んでもいいと言ってやったぞ、仕出し料理」
俺と二人で頼んでもいいし、好きな時に注文するといい。…一緒に暮らすようになったら。
「二人って?」
「店の方で駄目だと言わなかったら、二人分でも頼んでいいんだ。仕出しってヤツは」
家で作るのとは器が違うし、作る時間も要らないし…。
わざわざ店まで出掛けなくても、ちょっとしたデート気分だが?
「それ、いいかも…!」
ハーレイと二人で仕出しなんだね、お料理、二人分、届くんだね…!
まるで思いもしなかったこと。二人分だけ注文する仕出し。
いつかハーレイと暮らし始めたら、たまには仕出しを頼んでみようか。
お客さんを大勢招かなくても、ハーレイと二人でゆっくりと。お寿司や、色々な仕出し料理を。
美味しそうな広告を見付けた時には、「これがいいな」と指差したりして。
デートに出掛けて、外で食事をする代わりに…。
(いつもの部屋で、お料理だけ…)
お店の味のを食べてみる。器も、普段とは違ったもので。…お店から届けて貰ったもので。
そういう食事も、きっと素敵に違いないから、いつかは仕出しを二人分だけ。
ハーレイと二人でのんびりと食べて、懐かしい思い出話もして。
家でゆっくりデートするなら、仕出し料理も悪くない。
いつものテーブルは変わらないけれど、お店の人を気にしなくてもいいのが仕出しの良さ。
食事の途中でキスしていたって、誰も困りはしないから。
食べ終えたら直ぐにベッドに行っても、叱る人は誰もいないのだから…。
頼みたい仕出し・了
※ブルーが頼みたくなった、仕出し料理。けれど取るのは難しいかも、と思えるのが将来。
夢のまま終わりそうでしたけど、二人分だけ、注文することも出来るのです。いつか二人で。
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(あ…!)
この草は駄目、とブルーが抜いた雑草。小さいのを一本。
学校から帰って、門扉を開けて入った庭。玄関までにちょっと寄り道、庭で一番大きな木の下。其処に据えてある、白いテーブルと椅子。
座るつもりは無かったけれども、寄りたい気分になったから。大好きな場所へ。
そしたら見付けた悪い草。いわゆる雑草、芝生の邪魔者。
(此処だと、ママも気が付かないよ)
白いテーブルと椅子を眺め回す内に、たまたま覗いたテーブルの下。悪い草が顔を出していた。まだ小さいから、もっと大きく育ってこないと目に付かない。
(でも、悪い草…)
育ち始めたら、アッと言う間に広がる。上へ伸びるならまだマシだけれど、横にも茎を伸ばしてゆく。伸びた茎から根を下ろしては、芝生みたいに次から次へと増える株。
そうなってから発見したって、取り除くのは難しい。土の下へと入り込んだ根が残っていたら、また新しい株が出来てくる。種が無くても根で増えるから厄介な草。
(育っちゃったら、芝生にハゲ…)
根こそぎ取るには、芝生ごと。其処の芝生は禿げてしまって、真っ黒な土が残るだけ。それでは困るし、小さな間に発見して退治するのが一番。今、やったように。
抜いた雑草を庭に捨てておいては駄目だから…。
(これで良し、っと…)
運んだ裏庭、抜いた雑草を置くための場所。もう一度根を下ろさないよう、土の代わりに大きな石。母が退治した雑草たちが干されていたから、その上に乗せた。
(ちゃんと抜いたよ、ぼくだって)
さっきの白いテーブルと椅子は、ハーレイと初めてのデートをした場所。最初の間はハーレイが持って来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルで。
今ではすっかりお気に入りだし、父が買ってくれたのが白いテーブルと椅子。
その大切な場所に生えた雑草、「手入れが出来た」と大満足。悪い雑草はもう抜いたから。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間に、眺めた庭。ガラス窓の向こう、さっきのテーブルと椅子だって見える。庭で一番大きな木の下、大好きな場所。
(テーブルも椅子も、ママ任せだけど…)
拭いてやったりもしないけれども、今日は自分で手入れが出来た。雑草が大きく育たない内に、芝生にハゲが出来てしまう前に。
(ぼくだって、ちゃんと出来るんだから…)
気が付いたならば、雑草を抜くことくらい。小さな間に見付けてしまえば、かからない手間。
テーブルと椅子も、置いてある場所が外でなければ、自分で手入れしていただろう。専用の布をギュッと絞って、せっせと磨いて、乾拭きだって。
(あのテーブルと椅子が来たのは、夏になる前で…)
初夏だったから、じきに夏。暑い日も増えて来ていた頃だし、父や母がやっていた手入れ。ただ拭くだけのことにしたって、身体の弱い一人息子に外での作業は酷だから、と。
(それに、夏休みはハーレイが来てて…)
柔道部などの用事が無い日は、午前中から訪ねて来てくれていた。そういう時には、外でお茶。朝の涼しさが残る時間を庭で過ごして、白いテーブルと椅子が大活躍。
暑くなって来たら家に入って、夜までハーレイと部屋でのんびり。その間に母が手入れしていたテーブルと椅子。日盛りを避けて、上手い具合に木陰が出来る頃合いに。
(ぼくがやってる時間は無くて…)
夕方までには済んでいた手入れ。夜の間に雨が降ったら、朝一番に父や母が綺麗に拭いたもの。
そんな具合で自分の出番は全く無いまま、過ぎてしまった夏休み。
(ハーレイが家に来ない日だったら、ぼくにも時間はあったけど…)
夏休みだけに、太陽が昇れば気温が上がる。朝食を食べている間にも。木陰でお茶なら、涼しく過ごせる時間にしたって、テーブルと椅子を拭くとなったら、やっぱり暑い。
それではとても無理だから、と母が手入れをし続けてくれて、今も手入れの係は母。
任せっ放しにしている以上は、たまには下の雑草くらい…。
(抜かなくっちゃね?)
気が付いた時は、今日みたいに。
母に手間をかけさせてしまわないよう、芝生にハゲが出来ないように。
頑張ったよね、と帰った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に渡して。
たった雑草一本だけれど、抜いてデートの場所を守った。自分の力で、きちんと退治。
(雑草、大きくなったら大変…)
どんな雑草でも、育ってしまうと抜くのも大変。手では抜けない雑草もある。根が深すぎたり、根の力がとても強すぎたりと。
そういう雑草を引っこ抜いても、土の中に根が残っていたら…。
(今日みたいな草だと、また生えて来るし…)
ウッカリ見落としたままになったら、種でも増えてしまう雑草。知らない間に咲かせている花、目立たないから分からない。種が膨らみ始めても。
気付いた頃には、種が飛び散ってしまった後。あちこちに飛んだら新しいのが生えて来るから、抜く手間も増える。種の数だけ増える雑草。それでは、とても厄介だから…。
(小さい間に…)
抜いてしまうのが一番なんだよ、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
(……小さい間……)
まさにそれだ、とドキリとした。あの時代のミュウという種族。
前の自分が生きた時代は、今とは全く違ったもの。機械が統治していた時代で、生きられたのは人類だけ。機械は人類しか認めなかったし、ミュウは異分子だったから。
(ミュウの因子を持っていた子は…)
大きくなれずに、子供の間に抹殺された。さっき退治した雑草のように、小さい間に。
白いシャングリラが救えなかった子たちは、全て。一人残らず、子供の間にミュウは根絶やし。
成人検査を受けるより前に、大抵の子は発見された。養父母や教師が「変だ」と気付いて、通報されて。そうはならずに育った子供も、成人検査は逃れられなくて…。
(バレてしまって、それでおしまい…)
救出するのが遅れた時には、殺されてしまった子供たち。
他の星でも、皆、殺された。ミュウに生まれたというだけで。ミュウ因子を持っていただけで。
成人検査をパスした子供はいなかった。機械は思念波でコンタクトするし、ミュウなら反応してしまうから。人類の子ならば無反応な箇所で現れるらしい、ミュウならではの答えや思考。
それでミュウだと発覚するから、逃れることは不可能だった。何処の星でも。
(シロエとマツカ…)
今も知られる二人だけしか、確認されたケースは無い。成人検査を無事に通過し、次の段階へと進めたミュウ。養父母と暮らした育英都市から、大人社会への入口になる教育ステーションへ。
(シロエの方は、計算ずくで…)
マザー・イライザが選んだ子供。機械が無から作ったキースを教育するため、ミュウのシロエを選び出した。キースと競わせ、反発させて、最後はキースに殺させるために。
シロエはそういう子供なのだし、マツカだけが偶然パスした子供。きっとマツカは、幸運な子供だったのだろう。引っ込み思案だったというから、ミュウならば見せる反応さえも…。
(見せなかったか、見せても機械が気付かない程度で…)
そのまま成人検査をパスした。「この子はミュウではないようだ」と判断されて。
けれど、シロエとマツカを除いた、あの時代のミュウの子供は全員…。
(殺されちゃった…)
小さい間に、雑草のように。宇宙にミュウが増えないようにと、子供の間に。
大きくなったら厄介だからと、発見されたら直ぐに殺された。さっき退治した雑草のようだったミュウの扱い。「小さい間に」と処分されたミュウ。「大きくなると厄介だ」と。
そうやって消されたミュウの子供たち。彼らが全員、小さい間に殺されたのは…。
(ぼくたちのせいなの…?)
もしかしたら、と恐ろしい符号に気が付いた。機械がミュウを子供の間に殺した理由。
前の自分たちは、アルタミラからの脱出組。人類が星ごと滅ぼした筈の、アルタミラのミュウの生き残りだった。メギドの炎に焼かれはしないで、船で脱出できたミュウ。
元は人類のものだった船で、宇宙を放浪していた間は、誰も気付かなかったけれども…。
(アルテメシアに着いた後には…)
白い鯨に改造した船、それで雲海に潜んだ星。人類が暮らす都市があるなら、きっと何かと便利だろうと。自給自足で全てを賄える船といえども、万一の時には人類の物資が役に立つから。
此処にしよう、と雲の海の中に隠れ住んだら、外から聞こえて来た悲鳴。
あの星にあった二つの育英都市でも、ミュウの子供を殺していたから。
(悲鳴、放っておけやしなくて…)
飛び出して行って、助けた子供。それが最初で、後には専門の救助班まで出来ていた。ミュウの子供を救い出すのを、仕事にしていた仲間たち。必要だったら、育英都市にも潜入して。
シャングリラの存在は知られていなかったけれど、上層部は知っていたソルジャー・ブルー。
それが誰なのか、何処から来たか。ミュウの長だと名乗っているのは、何者なのか。
(アルタミラで滅ぼし損なったから…)
厄介なものが現れた、と上層部の者たちは思った筈。彼らを統治していた機械も。
だから余計に、必死に殺していたのだろうか。ミュウの子たちを。
第二、第三のソルジャー・ブルーが出ないようにと。ミュウが纏まり、新たな組織を立ち上げて歯向かわないように。
(ぼくが名乗っていなかったら…)
あそこまで酷くはならなかったろうか、と思ってしまう。
小さい間に殺してしまえ、と機械が命じたミュウの子供たち。ミュウだと判断したら、その場で銃で撃ち殺していたのが常。周りに他の子供がいたなら、他の場所へと連れ出して。
大人を疑うことも知らない、幼い子まで殺された。よちよち歩きの幼児でさえも。
彼らが育つと厄介だから。大きくなったら、ソルジャー・ブルーのようになりかねないから。
前の自分が名乗らなかったら、子供たちは殺されなかったろうか。ソルジャー・ブルーと名乗る厄介なミュウが、アルテメシアの何処かに住み着かなかったら。
(ぼくのせいなの…?)
雑草のように抜かれたミュウたち。小さい間に命を断たれた、大勢のミュウの子供たち。
アルテメシアでも、他の星でも、ミュウを殺すなら子供の間に。
人類が、機械が其処まで徹底したのは、前の自分のせいだったろうか?
ミュウの子供を生かしておいたら、ソルジャー・ブルーが出来上がることを、彼らは身をもって学んだから。…アルタミラで殺し損ねたばかりに、アルテメシアに住み着かれたから。
(ソルジャー・ブルーって名乗る代わりに、他の名前を名乗るとか…)
でなければ、名前を口にしないとか。何処から来たのか、何者なのかが分からないように。
そうしていたら、と考えたけれど、きっと姿でバレただろう。
アルビノのミュウは、ただ一人だけ。タイプ・ブルーだったミュウも、前の自分だけ。
テラズ・ナンバー・ファイブがデータを照会したなら、答えは直ぐに弾き出される。アルタミラから逃れたミュウだと、それが育って戻って来たと。
(…物凄く厄介なミュウだよね、ぼく…?)
アルタミラでは、心も身体も成長を止めて、檻の中に蹲っていた子供だったのに。どんなに酷い実験をしても、逆らいさえもしなかったのに。
けれど、育ったらソルジャーになった。ミュウの子供を救うためなら、戦いも厭わない戦士。
まさかソルジャーに育つなどとは、誰も思っていなかったろう。実験をしていた研究者たちも、アルタミラごとミュウを滅ぼそうとしたグランド・マザーも。
(あそこにいた頃は、小さい雑草…)
その気になったら殺せた筈。いともたやすく、息の根を止めて。
過酷な人体実験の後に、治療しないで放っておいたら、間違いなく死んでいたのだから。
そうする代わりに生かしておいたら、アルタミラから逃げられた。逃げたばかりか、サイオンを自由自在に操るソルジャーになって戻って来た。
まるで逞しい雑草のように。抜かないままで放っておいたら、芝生にハゲが出来る雑草。とても厄介で困る存在、大きく育ってしまったら。
前の自分はそれだろうか、と恐ろしい考えに囚われる。人類が、機械が、ミュウの子供を小さい間に処分したのは、ソルジャー・ブルーの存在で懲りていたからか、と。
(前のぼくが出て行かなかったら…)
けして姿を現すことなく、雲の海の中に隠れていたら。正体を把握されなかったら…。
ミュウの子たちは生き延びたろうか、徹底的に殺されずに。ただ「怪しい」というだけならば、直ぐに処分しないで、暫く様子見。
(そういう風にしてくれていたら…)
マツカのように、成人検査をパスするケースも増えただろう。成人検査を受ける年まで、生きる子供が多ければ。小さい間に処分されずに、成人検査を受けられたなら。
けれども、そうはいかなかった世界。ミュウの子供は小さい間に消され続けて、その原因は前の自分にあるかもしれない。育ってしまうと厄介なことを、人類に知らせたのだから。
(ぼくが出たのは失敗だった…?)
ミュウが育つと何が起こるか、人類が知らないままだったなら。ソルジャー・ブルーがいるとは知らずに生きていたなら、ミュウの子たちは生き延びたろうか。マツカのように。
そうなったかも、と前の自分のやり方のことで悩んでいたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、出たら駄目だった…?」
「はあ? 出たら駄目って…。何処からだ?」
何の話だ、青の間のことか?
あそこから出ずに何をするんだ、と返った見当違いな答え。だから急いで言い直した。
「青の間じゃなくて、シャングリラだよ。飛び出して行ってた、ミュウの子供の救出…」
あれでバレたよ、前のぼくが生きていたことが。…アルタミラで死んでいなかったことが。
ミュウの子供たち、そのせいで余計に殺されちゃった?
前のぼくが死なずに生きていたのが、人類と機械にバレちゃったから…。
「おいおい、いきなり何の話だ?」
何処からそういう話になるんだ、前のお前が姿を見せたら、ミュウの子供が殺されるなんて。
「えっとね、雑草…」
庭とかに雑草が生えて来るでしょ、あれとおんなじ…。
今日、小さいのを抜いたんだよ、と説明した。庭のテーブルの下に生えた雑草のこと。
小さい間に抜くべき雑草。増えて厄介になる前に。大きく育って、抜いたら芝生にハゲが出来てしまう結果になる前に。
「ミュウもね、それとおんなじかな、って…」
子供の間に処分しておいたら、厄介なことにならないから。…どうせ雑草なんだから。
生やしておいても困るだけの草で、抜いたり刈ったりするのが雑草。
「そりゃまあ、なあ…? 今でこそミュウの時代だが…。人間はみんなミュウなんだが…」
SD体制の時代からすりゃ、雑草だろう。進化の必然だったことさえ、隠し続けてたんだしな。
存在自体が許せないなら、雑草と同じ扱いだよな、とハーレイも頷く雑草扱い。
「それじゃ、やっぱり前のぼくのせいで…」
小さい間に殺されちゃったんだ、ミュウの子供たち…。本物の雑草をそうするみたいに。
雑草は小さい間に抜かなきゃ、うんと面倒なことになるから。
「ミュウが雑草扱いだったことは、俺も納得出来るんだが…。そいつは理解出来るんだが…」
どうしてお前のせいになるんだ、雑草と同じ扱いなこと。
前のお前はミュウの子供を助けてただけで、他には何もしちゃいないがな…?
ジョミーを助けた時はともかく、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かやったか?」と。
「さっきも言ったよ、ぼくが出て行ったことが問題…」
アルタミラの檻で生きていた頃は、ぼくは何にもしていないから…。何をされても。
だけど、生き延びて大きくなったら、ソルジャー・ブルーになっちゃった。ミュウの子供たちを助けに出て来て、テラズ・ナンバー・ファイブを相手に戦ったりもするミュウに。
あれで人類とグランド・マザーに、大きくなると厄介なんだ、って知らせちゃった。
他にも仲間はいるんだろうし、増えると厄介になることもね。
そうなるんだ、って気が付いたから、ミュウの子供は小さい間に端から殺していたのかも…。
前のぼくみたいに、厄介なミュウが出て来ないように。
「ふむ…。確かにそうかもしれないが…」
お前の正体に気付いちまったら、雑草並みだとゾッとしたかもしれないが…。
そのことと、ミュウの子供を小さい間に殺したこととは、繋がっていないと思うがな…?
関係があるように思っちまうのは無理もないが…、とハーレイは肯定しなかった。雑草のような扱いだったことについては、直ぐに認めていたというのに。
「お前が言いたいことは分かるが、俺には違うように思える。…同じ時代を生きたんだがな」
前の俺たちが、アルテメシアに辿り着いた時のことを考えてみろ。
ミュウの子供たちは既に殺されていたぞ、ほんの小さな子供の頃に。
お前、悲鳴で船を飛び出して行ったんだから。…殺されそうな子供の思念を感じ取って。
「それでバレたんだよ、ぼくが生きていたことが」
アルタミラで星ごと滅ぼされずに、アルテメシアまでやって来たこと。逃げ延びたんだ、って。
雑草を退治し損ねたことが、人類と機械にバレちゃった…。厄介なミュウに育ったことも。
アルタミラの檻にいた頃は無害だったのに…、と顔を曇らせた。実際、無害だったから。
「それはそうだが、殺されかかった子供たちの方が先だろう?」
お前が来るなんて考えもせずに、「殺せ」と命令してたんだ。…違うのか?
俺たちがアルテメシアに着くよりも前から、もう殺してた。小さい間に。
お前の存在とはまるで関係なく、ミュウは雑草なんだから、とな。
元々、ヤツらは排除するつもりだったんだ。…ミュウという名の雑草を全部、宇宙から。
アルタミラでメギドを使ったみたいに、消せるものなら星ごと殲滅したかったろうな。
「そうなのかな…?」
前のぼくが姿を見せなくっても、人類はミュウを殺したのかな、小さい間に…?
大きくなったら厄介だとか、そういう根拠が何も無くても…?
「雑草なんだし、邪魔だと思えば小さい頃から邪魔だろう。育っても邪魔なだけなんだから」
どんなに立派に育ったとしても、庭や花壇のためにはならん。どう転んでも、雑草だしな。
前のお前が現れたせいで、酷くなったということはないさ。…ミュウは処分だという方針。
そいつを言うなら、前のお前というよりは…。ナスカから後の俺たちだな。
「え…?」
どういう意味、と目を瞬かせた。前の自分が生きていたことが知れたら、ミュウの処分に拍車がかかりそうだけれども、ハーレイたちなら、それほどの害は無かった筈。…船はともかく。
「ジョミーだ、あいつが問題だった」
それまで追われていただけのミュウが、アルテメシアを落としたモンだから…。
前のお前どころの騒ぎじゃなかった、ミュウがどれほど危険なのかを人類は思い知ったんだ。
燃えるナスカから、命からがら逃げ出したミュウ。大勢の仲間と、先の指導者を喪って。
彼らには船しか残っていないし、人類は高を括っていた。滅びるのは時間の問題だろうと、白い鯨を発見したなら沈めればいいと。
けれどシャングリラは、それから間もなく再び姿を現した。…人類に追われる種族ではなくて、侵略者を乗せた船として。人類が暮らす星への侵攻、ただそれだけを目的として。
ミュウに襲われたアルテメシアは、僅かな時間で陥落した。テラズ・ナンバー・ファイブだけは破壊を免れたものの、途絶えた通信。マザー・システムから切り離されて。
もはや人類には手も足も出せず、アルテメシアはミュウの手に落ちた。その直前まで、ミュウの子供を殺していたのに。ミュウは忌むべき雑草だったし、抜いて捨てれば良かったのに。
「…あれで慌てたのが人類だ。ミュウはとんでもない化け物だった、と」
それまでは口で「化け物」と呼んでいただけで、「気味が悪い」と嫌っていれば良かったが…。
もう、それだけでは済まなくなった。本物の化け物なんだから。
人類に牙を剥いたんだからな…、とハーレイは軽く両手を広げた。「化け物だろうが」と。
その化け物の力に驚き、大慌てでミュウの処分を始めたのが人類。
処分しないで生かしておいた実験体でも、片っ端から。
「…処分って…。どうせ殺すんだろうけど…」
実験体なら、役目が済んだら直ぐに殺すだろうけれど…。でも…。
そうする前に殺したわけ、と見開いた瞳。アルテメシアでのミュウの勢いに恐れをなして、と。
「人類から見りゃ、どれも化け物なんだから…。処分したくもなるだろう?」
必要な数だけを残して、他は殺しちまった。生かしておくとロクなことはない、と。
サイオンを無効化するための装置、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あれの開発にミュウは欠かせないから、幾らかは残しておいたようだが…。
開発していた場所はノアだし、その近辺にだけミュウを残せばいいわけだから…。
前の俺たちが落とした星で見付けた、ミュウの収容施設はだな…。
何処も空っぽか、僅かな人数が残っていただけ。星を落としたら、急いで救助に向かったのに。
生き残った者たちは運が良かったのだという。
処分命令を受けた人類、彼らが自分の命の方を優先して逃亡した結果。ミュウの処分をしているような暇があったら、他の星へ逃れた方がいいと。…少しでもノアに近い所へ、と。
「そうだったんだ…。コルディッツのことは知っていたけど…」
ジョミーのお父さんとお母さんが、子供と一緒に行ってしまった収容所。
あれも酷いと思ったけれども、人質だったら生かしておかなきゃいけないから…。
マシだったんだね、コルディッツは。…それまでにミュウを処分しちゃった施設よりかは。
「酷いもんだろ、人類ってヤツは」
ミュウは危険だと知った途端に、その始末だ。そうする前には、散々いたぶったくせに。
前の俺たちがいたのと変わらない檻で、餌と水だけを突っ込んで飼っていたのにな?
どうせ雑草で、人類よりも遥かに劣る生き物なんだ、と実験動物扱いで。
それをいきなり処分なんだぞ、危険だからと。
…誰も、何もしちゃいなかったのに。檻の中で飼われていただけなのに。
その引き金を引いちまったのが俺たちだ。…お前じゃない。
ミュウを端から殺しちまえ、と命令させる切っ掛けを作ったのはジョミーだったんだ。
前のお前は悪くないさ、と言われたけれども、ジョミーの方も悪くない。アルテメシアは最初に落とすべき星で、別の星を陥落させていたって、結果は同じだっただろうから。
「…酷い結果になっちゃったけれど、それは人類がしたことだから…」
ジョミーは何処も悪くなんかないよ、必要なことをやっただけ。…地球に行くために。
殺されちゃった仲間たちには悪いけれども、そうしないともっと殺されるから…。
いつまで経ってもミュウは殺されるだけで、生き残れる道が開けてくれないんだから…。
そうでしょ、ジョミーが戦う道を選ばなければ、ミュウは生きられなかったんだよ。
SD体制を倒さない限りはね…、とジョミーの澄んだ瞳を思った。
あの明るかった瞳の少年、地球を目指したジョミーの瞳は氷のように冷たかったという。優しい心を殺さなければ、戦うことは出来なかったから。
凍てた瞳をしていたジョミーも、心の底ではきっと悲しんでいたのだろう。自分が始めた戦いのせいで、処分されたミュウの仲間たち。罪も無いのに殺されていった、多くの仲間たちの死を。
ジョミーは悪くなんかなかった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。きっと仲間たちも分かってくれると、分かってくれたに違いないと。
「殺される時は、悔しくて悲しかっただろうけれど…。でも…」
ちゃんと分かってくれたと思うよ、みんなミュウだったんだから。…ミュウのためだ、って。
自分みたいなミュウが殺される世界を終わらせるには、それも必要だったんだ、って…。
「ジョミーが許して貰えるんなら、前のお前もだろ」
前のお前も、人類には脅威だったかもしれん。…ジョミーほどではなかったとしても。
ミュウは端から殺しちまえ、と思わせるのには充分だったかもしれないが…。
お前だって必要なことをしたんだ、ミュウの子供を沢山助けて。
ジョミーもお前が見付けたわけだろ、そして船まで連れて来させた。逃げられた後も、きちんと後を追い掛けて行って連れ戻したし…。命懸けでな。
そしてだ、お前やジョミーが頑張ったお蔭で、ミュウは立派に生き残った。
なにしろ雑草だったからなあ、前の俺たちは。
「雑草だから?」
ミュウが生き延びられた理由は、雑草だったからだって言うの?
ジョミーが頑張ってくれたことは分かるけれども、雑草っていうのは何なの、ハーレイ…?
「そのままの意味だな、雑草ってヤツは逞しいんだ」
お前、自分で言ったじゃないか。…俺が来た時に、雑草の話。
庭に生えてたのを退治したんだろ、小さい間に抜いておかないと、と。
残しちまうと厄介だしなあ、雑草は。
ほんの少しの根っこからでも、新しい株が出来たりするし…。
うっかり種でも出来ちまったら、とんでもない数の雑草が生えて来るんだから。
その厄介な雑草だったから、ミュウは生き延びられたんだ、と笑うハーレイ。
虚弱な種族のように見えても逞しかった、と。「潜在的には、きっと雑草並みだったよな」と。
「俺たちの代だと、頑丈なミュウは俺くらいしかいなかったが…」
ジョミーの代でも、ジョミーの他には健康なミュウはいなかったんだが…。
トォニィたちは健康だったし、あの辺りから変わり始めていたんだな。雑草並みの生命力に。
元から強い種族でなければ、そう簡単には変わらんぞ?
誰も気付いていなかっただけで、本来のミュウは、きっと頑丈だったんだろう。そうでなければ進化と呼べんし、弱い種族じゃ退化だろうが。…弱って消えたら話にならん。
今じゃ虚弱なミュウってイメージ、もう無いだろう?
かつての人類と何処も変わりはしないぞ、寿命が長くなったってだけで。
「うん…。ハーレイみたいに頑丈な人も多いよね」
プロのスポーツ選手じゃなくても、うんと丈夫な人が沢山…。ジョギングが趣味の人だとか。
前のぼくが生きてた時代だったら、ジョギングなんてハーレイかジョミーしか無理…。
他の仲間だと倒れちゃう、とシャングリラの顔ぶれを思い浮かべた。前のハーレイが後継者にと考えていた、シドでもジョギングは無理だったろう。体力はある方のミュウだったけれど。
「ほら見ろ、そいつがミュウが逞しく生き抜いた結果だ」
すっかり丈夫になってしまって、身体が弱い人間の方が珍しい。お前は今も弱いままだが…。
逞しいミュウは人類の代わりに広い宇宙を覆い尽くして、地球にもしっかり根付いてる。
前の俺たちが生きた頃には、死の星だった筈の青い地球にな。
これだけ宇宙にはびこってるなら、もう間違いなく雑草だ、とハーレイは可笑しそうだから。
「雑草なの、今のぼくたちも?」
前のぼくたちは嫌われる雑草だったけれども、今もやっぱり雑草のまま…?
「お前は綺麗な花を咲かせる筈なんだが…。前のお前とそっくり同じに、それは綺麗に」
しかし、そういう雑草だってあるからな。やたらと綺麗な花が咲くヤツ。
今も雑草ってことでいいと思うぞ、雑草はとても強いんだから。
ミュウという雑草が逞しく宇宙を征服したんだな、というのがハーレイの例え。
人類が嫌って、せっせと抜いては捨てた雑草、それが今では宇宙の主役になっちまった、と。
「きっと捨て方が悪かったんだな、今日のお前はきちんと捨てに出掛けたようだが…」
もう一度根っこを下ろさないよう、土なんかが無い捨て場所まで。
人類もそうして努力してれば、いくら雑草でも根絶やしに出来ていたかもしれないが…。
生憎と失敗しちまったってな、一番最初に捨てる所で。
アルタミラで星ごと焼いたつもりが、前のお前に逃げられちまった。…前の俺もだが。
あそこで捨て損なったばかりに、根っこが残って、其処からジョミーが出ちまったんだ。根から直接出たわけじゃないが、前のお前が残っていなけりゃ、ジョミーも殺されたんだしな?
それを考えると、捨て方ってヤツは大切だ。抜いた雑草の処分の仕方。
其処を間違えたら、こんな具合に、雑草に征服されちまう、とハーレイが指差す窓の外。
「もう人類は何処にもいないぞ」と、「地球も宇宙も、今や雑草だらけだから」と。
「雑草だらけって…。ミュウは宇宙を征服したわけ?」
人類とは和解した筈だけど…。トォニィの代に、ちゃんと文書も交わして。
征服したって感じはしないし、人類とミュウは自然に混じって、人類の方が消えたんだけど…。
ミュウは進化の必然だったから、人類もミュウに進化しちゃって。
「しかしだ、雑草という考え方でいったら、そうなるだろうが」
最初の間は抜かれてたミュウが、逞しく根を下ろしたわけで…。花壇の花の間にな。
でなきゃ芝生だ、そういう所に残った根っこが始まりだった。
気付けばすっかり雑草だらけで、元の花壇も芝生も残っちゃいないってな。もう雑草しか生えていなくて、雑草たちの天国だ。花壇も芝生も征服したんだ、雑草が。
「そうなのかも…」
雑草だらけの庭は困るけど、ハーレイの例えがピッタリかも…。
ミュウは雑草だったんだものね、小さい間に抜いて捨てられちゃってた雑草。
こんな草なんか邪魔だから、って引っこ抜かれて、生きる場所さえ貰えなくって…。
人類がせっせと捨てていたのに、ついに根絶出来なかった雑草、それがミュウ。
ひ弱な種族だったけれども、実は逞しかったから。進化の必然だった種族で、潜在的には雑草と同じくらいの生命力を秘めていたものだから…。
(雑草、宇宙にはびこっちゃって…)
今ではすっかりミュウの時代。何処を探しても、人類はもう見付からない。
そういう時代を迎えたのならば、その雑草が小さい間に人類が抜こうとしていたことも…。
(前のぼくのせいじゃないよね、きっと…?)
子供の間にミュウが殺されていったこと。
成人検査を迎える年まで、疑わしい例は生かしておいてくれたら、生存率が上がったろうに。
それをしないで、ミュウを端から殺した人類。機械が「殺せ」と命じるままに。
よちよち歩きの子供でさえも、彼らは容赦しなかった。ミュウの片鱗を見せたなら。
それは自分のせいだったのかも、と恐ろしい考えに囚われたけれど。
前の自分が生き延びたことが、引き金になったのかもしれない、と怖かったけれど…。
(雑草だったら、小さい間に抜いちゃわないと…)
後で大変なことになる。抜いたら芝生にハゲが出来るとか、種を飛ばされて雑草だらけとか。
ミュウはそういう種族なのだ、と機械には最初から分かっていた筈。
進化の必然だったことを隠して、せっせと殺していたのだから。ミュウ因子の排除は不可能だと承知していた上で。排除するためのプログラムは存在しなくて、それでも殲滅しようとした。
雑草だからと、逞しすぎる雑草は小さい間に抜いておかねばと。
大きくなったら厄介なのだし、子供の間に処分する。…それも出来るだけ小さい内に。
雑草を根絶しようとするなら、そうすることが鉄則だから。
(…前のぼくが逃げて生きていることを、知らなくっても…)
機械はミュウを殺しただろう。小さい間に、子供の内に。ミュウは雑草なのだから。
良かった、とホッとした心。前の自分が姿を現したせいで、殺されたわけではなかったミュウ。小さい間に処分したのは、その方法が正しかったから。雑草を退治するならば。
(ハーレイのお蔭…)
前のお前のせいじゃない、とハーレイは言ってくれたから。
慰めの言葉をかけるのではなくて、納得のゆく説明もして貰えたから…。
「ありがとう、ハーレイ。…ハーレイのお蔭」
もう怖くない、と御礼にピョコンと頭を下げたら、ハーレイは不思議そうな顔。
「ありがとうって…。俺が何かしたか?」
お前と話をしていただけでだ、礼を言われるようなことなんか、何もしていないがな…?
「雑草のこと…。ミュウの子供たちが、小さい間に殺されてしまっていたことだよ」
前のぼくのせいじゃなかったんなら、安心だから…。
ぼくの正体がバレちゃったせいで、小さい間に殺さなくちゃ、と決めたわけではなかったら…。
「そいつは俺が保証してやる、違うとな」
ジョミーと一緒に地球まで行った俺の言葉だ、信じておけ。…俺は最後まで見たんだから。
キースの野郎がスウェナに託したメッセージだって、前の俺は全部見てたってな。
だが、雑草か…。今も昔も、ミュウって種族は逞しく生きる雑草らしい。
前のお前は、とびきり綺麗な花を咲かせる雑草だったが…。
お前はチビだし、花はまだだな。
蕾もついちゃいないようだ、とハーレイが顔を覗き込むから。
「じきに花が咲くよ、前と同じに」
ハーレイだって早く見たいでしょ、蕾が出来て花が咲くのを…?
「駄目だな、お前はゆっくり咲くんだ。楽しみに待っていてやるから」
前のお前の分まで充分、子供時代を楽しむんだな。今のお前は幸せなんだし、のんびりと。
急いで花を咲かせなくてもいいんだから、とハーレイがパチンと瞑った片目。「急ぐなよ」と。
それがハーレイの注文なのだし、急がずにゆっくり育ってゆこう。
今の自分も前と同じに雑草だけれど、のんびりと。
前と違って、引っこ抜かれはしないから。
急いで育って広がらなくても、誰も抜きには来ないから。
今は地球まで、ミュウという名の雑草が生えて覆い尽くしている時代。
テーブルの陰に隠れてこっそり育たなくても、堂々と生えて育ってゆける。
前と同じにミュウのままでも。人間がみんなミュウになったら、雑草が主役なのだから…。
雑草のように・了
※SD体制の時代のミュウは雑草のよう、と思ったブルー。抜かれて処分されてゆくだけ。
けれど雑草だったからこそ逞しく生きて、今の時代があるのです。宇宙という庭に広がって。
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この草は駄目、とブルーが抜いた雑草。小さいのを一本。
学校から帰って、門扉を開けて入った庭。玄関までにちょっと寄り道、庭で一番大きな木の下。其処に据えてある、白いテーブルと椅子。
座るつもりは無かったけれども、寄りたい気分になったから。大好きな場所へ。
そしたら見付けた悪い草。いわゆる雑草、芝生の邪魔者。
(此処だと、ママも気が付かないよ)
白いテーブルと椅子を眺め回す内に、たまたま覗いたテーブルの下。悪い草が顔を出していた。まだ小さいから、もっと大きく育ってこないと目に付かない。
(でも、悪い草…)
育ち始めたら、アッと言う間に広がる。上へ伸びるならまだマシだけれど、横にも茎を伸ばしてゆく。伸びた茎から根を下ろしては、芝生みたいに次から次へと増える株。
そうなってから発見したって、取り除くのは難しい。土の下へと入り込んだ根が残っていたら、また新しい株が出来てくる。種が無くても根で増えるから厄介な草。
(育っちゃったら、芝生にハゲ…)
根こそぎ取るには、芝生ごと。其処の芝生は禿げてしまって、真っ黒な土が残るだけ。それでは困るし、小さな間に発見して退治するのが一番。今、やったように。
抜いた雑草を庭に捨てておいては駄目だから…。
(これで良し、っと…)
運んだ裏庭、抜いた雑草を置くための場所。もう一度根を下ろさないよう、土の代わりに大きな石。母が退治した雑草たちが干されていたから、その上に乗せた。
(ちゃんと抜いたよ、ぼくだって)
さっきの白いテーブルと椅子は、ハーレイと初めてのデートをした場所。最初の間はハーレイが持って来てくれた、キャンプ用の椅子とテーブルで。
今ではすっかりお気に入りだし、父が買ってくれたのが白いテーブルと椅子。
その大切な場所に生えた雑草、「手入れが出来た」と大満足。悪い雑草はもう抜いたから。
家に入って、制服を脱いで。ダイニングでおやつを食べる間に、眺めた庭。ガラス窓の向こう、さっきのテーブルと椅子だって見える。庭で一番大きな木の下、大好きな場所。
(テーブルも椅子も、ママ任せだけど…)
拭いてやったりもしないけれども、今日は自分で手入れが出来た。雑草が大きく育たない内に、芝生にハゲが出来てしまう前に。
(ぼくだって、ちゃんと出来るんだから…)
気が付いたならば、雑草を抜くことくらい。小さな間に見付けてしまえば、かからない手間。
テーブルと椅子も、置いてある場所が外でなければ、自分で手入れしていただろう。専用の布をギュッと絞って、せっせと磨いて、乾拭きだって。
(あのテーブルと椅子が来たのは、夏になる前で…)
初夏だったから、じきに夏。暑い日も増えて来ていた頃だし、父や母がやっていた手入れ。ただ拭くだけのことにしたって、身体の弱い一人息子に外での作業は酷だから、と。
(それに、夏休みはハーレイが来てて…)
柔道部などの用事が無い日は、午前中から訪ねて来てくれていた。そういう時には、外でお茶。朝の涼しさが残る時間を庭で過ごして、白いテーブルと椅子が大活躍。
暑くなって来たら家に入って、夜までハーレイと部屋でのんびり。その間に母が手入れしていたテーブルと椅子。日盛りを避けて、上手い具合に木陰が出来る頃合いに。
(ぼくがやってる時間は無くて…)
夕方までには済んでいた手入れ。夜の間に雨が降ったら、朝一番に父や母が綺麗に拭いたもの。
そんな具合で自分の出番は全く無いまま、過ぎてしまった夏休み。
(ハーレイが家に来ない日だったら、ぼくにも時間はあったけど…)
夏休みだけに、太陽が昇れば気温が上がる。朝食を食べている間にも。木陰でお茶なら、涼しく過ごせる時間にしたって、テーブルと椅子を拭くとなったら、やっぱり暑い。
それではとても無理だから、と母が手入れをし続けてくれて、今も手入れの係は母。
任せっ放しにしている以上は、たまには下の雑草くらい…。
(抜かなくっちゃね?)
気が付いた時は、今日みたいに。
母に手間をかけさせてしまわないよう、芝生にハゲが出来ないように。
頑張ったよね、と帰った二階の自分の部屋。空になったお皿やカップを母に渡して。
たった雑草一本だけれど、抜いてデートの場所を守った。自分の力で、きちんと退治。
(雑草、大きくなったら大変…)
どんな雑草でも、育ってしまうと抜くのも大変。手では抜けない雑草もある。根が深すぎたり、根の力がとても強すぎたりと。
そういう雑草を引っこ抜いても、土の中に根が残っていたら…。
(今日みたいな草だと、また生えて来るし…)
ウッカリ見落としたままになったら、種でも増えてしまう雑草。知らない間に咲かせている花、目立たないから分からない。種が膨らみ始めても。
気付いた頃には、種が飛び散ってしまった後。あちこちに飛んだら新しいのが生えて来るから、抜く手間も増える。種の数だけ増える雑草。それでは、とても厄介だから…。
(小さい間に…)
抜いてしまうのが一番なんだよ、と思ったはずみに掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたこと。ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃。
(……小さい間……)
まさにそれだ、とドキリとした。あの時代のミュウという種族。
前の自分が生きた時代は、今とは全く違ったもの。機械が統治していた時代で、生きられたのは人類だけ。機械は人類しか認めなかったし、ミュウは異分子だったから。
(ミュウの因子を持っていた子は…)
大きくなれずに、子供の間に抹殺された。さっき退治した雑草のように、小さい間に。
白いシャングリラが救えなかった子たちは、全て。一人残らず、子供の間にミュウは根絶やし。
成人検査を受けるより前に、大抵の子は発見された。養父母や教師が「変だ」と気付いて、通報されて。そうはならずに育った子供も、成人検査は逃れられなくて…。
(バレてしまって、それでおしまい…)
救出するのが遅れた時には、殺されてしまった子供たち。
他の星でも、皆、殺された。ミュウに生まれたというだけで。ミュウ因子を持っていただけで。
成人検査をパスした子供はいなかった。機械は思念波でコンタクトするし、ミュウなら反応してしまうから。人類の子ならば無反応な箇所で現れるらしい、ミュウならではの答えや思考。
それでミュウだと発覚するから、逃れることは不可能だった。何処の星でも。
(シロエとマツカ…)
今も知られる二人だけしか、確認されたケースは無い。成人検査を無事に通過し、次の段階へと進めたミュウ。養父母と暮らした育英都市から、大人社会への入口になる教育ステーションへ。
(シロエの方は、計算ずくで…)
マザー・イライザが選んだ子供。機械が無から作ったキースを教育するため、ミュウのシロエを選び出した。キースと競わせ、反発させて、最後はキースに殺させるために。
シロエはそういう子供なのだし、マツカだけが偶然パスした子供。きっとマツカは、幸運な子供だったのだろう。引っ込み思案だったというから、ミュウならば見せる反応さえも…。
(見せなかったか、見せても機械が気付かない程度で…)
そのまま成人検査をパスした。「この子はミュウではないようだ」と判断されて。
けれど、シロエとマツカを除いた、あの時代のミュウの子供は全員…。
(殺されちゃった…)
小さい間に、雑草のように。宇宙にミュウが増えないようにと、子供の間に。
大きくなったら厄介だからと、発見されたら直ぐに殺された。さっき退治した雑草のようだったミュウの扱い。「小さい間に」と処分されたミュウ。「大きくなると厄介だ」と。
そうやって消されたミュウの子供たち。彼らが全員、小さい間に殺されたのは…。
(ぼくたちのせいなの…?)
もしかしたら、と恐ろしい符号に気が付いた。機械がミュウを子供の間に殺した理由。
前の自分たちは、アルタミラからの脱出組。人類が星ごと滅ぼした筈の、アルタミラのミュウの生き残りだった。メギドの炎に焼かれはしないで、船で脱出できたミュウ。
元は人類のものだった船で、宇宙を放浪していた間は、誰も気付かなかったけれども…。
(アルテメシアに着いた後には…)
白い鯨に改造した船、それで雲海に潜んだ星。人類が暮らす都市があるなら、きっと何かと便利だろうと。自給自足で全てを賄える船といえども、万一の時には人類の物資が役に立つから。
此処にしよう、と雲の海の中に隠れ住んだら、外から聞こえて来た悲鳴。
あの星にあった二つの育英都市でも、ミュウの子供を殺していたから。
(悲鳴、放っておけやしなくて…)
飛び出して行って、助けた子供。それが最初で、後には専門の救助班まで出来ていた。ミュウの子供を救い出すのを、仕事にしていた仲間たち。必要だったら、育英都市にも潜入して。
シャングリラの存在は知られていなかったけれど、上層部は知っていたソルジャー・ブルー。
それが誰なのか、何処から来たか。ミュウの長だと名乗っているのは、何者なのか。
(アルタミラで滅ぼし損なったから…)
厄介なものが現れた、と上層部の者たちは思った筈。彼らを統治していた機械も。
だから余計に、必死に殺していたのだろうか。ミュウの子たちを。
第二、第三のソルジャー・ブルーが出ないようにと。ミュウが纏まり、新たな組織を立ち上げて歯向かわないように。
(ぼくが名乗っていなかったら…)
あそこまで酷くはならなかったろうか、と思ってしまう。
小さい間に殺してしまえ、と機械が命じたミュウの子供たち。ミュウだと判断したら、その場で銃で撃ち殺していたのが常。周りに他の子供がいたなら、他の場所へと連れ出して。
大人を疑うことも知らない、幼い子まで殺された。よちよち歩きの幼児でさえも。
彼らが育つと厄介だから。大きくなったら、ソルジャー・ブルーのようになりかねないから。
前の自分が名乗らなかったら、子供たちは殺されなかったろうか。ソルジャー・ブルーと名乗る厄介なミュウが、アルテメシアの何処かに住み着かなかったら。
(ぼくのせいなの…?)
雑草のように抜かれたミュウたち。小さい間に命を断たれた、大勢のミュウの子供たち。
アルテメシアでも、他の星でも、ミュウを殺すなら子供の間に。
人類が、機械が其処まで徹底したのは、前の自分のせいだったろうか?
ミュウの子供を生かしておいたら、ソルジャー・ブルーが出来上がることを、彼らは身をもって学んだから。…アルタミラで殺し損ねたばかりに、アルテメシアに住み着かれたから。
(ソルジャー・ブルーって名乗る代わりに、他の名前を名乗るとか…)
でなければ、名前を口にしないとか。何処から来たのか、何者なのかが分からないように。
そうしていたら、と考えたけれど、きっと姿でバレただろう。
アルビノのミュウは、ただ一人だけ。タイプ・ブルーだったミュウも、前の自分だけ。
テラズ・ナンバー・ファイブがデータを照会したなら、答えは直ぐに弾き出される。アルタミラから逃れたミュウだと、それが育って戻って来たと。
(…物凄く厄介なミュウだよね、ぼく…?)
アルタミラでは、心も身体も成長を止めて、檻の中に蹲っていた子供だったのに。どんなに酷い実験をしても、逆らいさえもしなかったのに。
けれど、育ったらソルジャーになった。ミュウの子供を救うためなら、戦いも厭わない戦士。
まさかソルジャーに育つなどとは、誰も思っていなかったろう。実験をしていた研究者たちも、アルタミラごとミュウを滅ぼそうとしたグランド・マザーも。
(あそこにいた頃は、小さい雑草…)
その気になったら殺せた筈。いともたやすく、息の根を止めて。
過酷な人体実験の後に、治療しないで放っておいたら、間違いなく死んでいたのだから。
そうする代わりに生かしておいたら、アルタミラから逃げられた。逃げたばかりか、サイオンを自由自在に操るソルジャーになって戻って来た。
まるで逞しい雑草のように。抜かないままで放っておいたら、芝生にハゲが出来る雑草。とても厄介で困る存在、大きく育ってしまったら。
前の自分はそれだろうか、と恐ろしい考えに囚われる。人類が、機械が、ミュウの子供を小さい間に処分したのは、ソルジャー・ブルーの存在で懲りていたからか、と。
(前のぼくが出て行かなかったら…)
けして姿を現すことなく、雲の海の中に隠れていたら。正体を把握されなかったら…。
ミュウの子たちは生き延びたろうか、徹底的に殺されずに。ただ「怪しい」というだけならば、直ぐに処分しないで、暫く様子見。
(そういう風にしてくれていたら…)
マツカのように、成人検査をパスするケースも増えただろう。成人検査を受ける年まで、生きる子供が多ければ。小さい間に処分されずに、成人検査を受けられたなら。
けれども、そうはいかなかった世界。ミュウの子供は小さい間に消され続けて、その原因は前の自分にあるかもしれない。育ってしまうと厄介なことを、人類に知らせたのだから。
(ぼくが出たのは失敗だった…?)
ミュウが育つと何が起こるか、人類が知らないままだったなら。ソルジャー・ブルーがいるとは知らずに生きていたなら、ミュウの子たちは生き延びたろうか。マツカのように。
そうなったかも、と前の自分のやり方のことで悩んでいたら、聞こえたチャイム。仕事の帰りにハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。前のぼく、出たら駄目だった…?」
「はあ? 出たら駄目って…。何処からだ?」
何の話だ、青の間のことか?
あそこから出ずに何をするんだ、と返った見当違いな答え。だから急いで言い直した。
「青の間じゃなくて、シャングリラだよ。飛び出して行ってた、ミュウの子供の救出…」
あれでバレたよ、前のぼくが生きていたことが。…アルタミラで死んでいなかったことが。
ミュウの子供たち、そのせいで余計に殺されちゃった?
前のぼくが死なずに生きていたのが、人類と機械にバレちゃったから…。
「おいおい、いきなり何の話だ?」
何処からそういう話になるんだ、前のお前が姿を見せたら、ミュウの子供が殺されるなんて。
「えっとね、雑草…」
庭とかに雑草が生えて来るでしょ、あれとおんなじ…。
今日、小さいのを抜いたんだよ、と説明した。庭のテーブルの下に生えた雑草のこと。
小さい間に抜くべき雑草。増えて厄介になる前に。大きく育って、抜いたら芝生にハゲが出来てしまう結果になる前に。
「ミュウもね、それとおんなじかな、って…」
子供の間に処分しておいたら、厄介なことにならないから。…どうせ雑草なんだから。
生やしておいても困るだけの草で、抜いたり刈ったりするのが雑草。
「そりゃまあ、なあ…? 今でこそミュウの時代だが…。人間はみんなミュウなんだが…」
SD体制の時代からすりゃ、雑草だろう。進化の必然だったことさえ、隠し続けてたんだしな。
存在自体が許せないなら、雑草と同じ扱いだよな、とハーレイも頷く雑草扱い。
「それじゃ、やっぱり前のぼくのせいで…」
小さい間に殺されちゃったんだ、ミュウの子供たち…。本物の雑草をそうするみたいに。
雑草は小さい間に抜かなきゃ、うんと面倒なことになるから。
「ミュウが雑草扱いだったことは、俺も納得出来るんだが…。そいつは理解出来るんだが…」
どうしてお前のせいになるんだ、雑草と同じ扱いなこと。
前のお前はミュウの子供を助けてただけで、他には何もしちゃいないがな…?
ジョミーを助けた時はともかく、とハーレイは怪訝そうな顔。「何かやったか?」と。
「さっきも言ったよ、ぼくが出て行ったことが問題…」
アルタミラの檻で生きていた頃は、ぼくは何にもしていないから…。何をされても。
だけど、生き延びて大きくなったら、ソルジャー・ブルーになっちゃった。ミュウの子供たちを助けに出て来て、テラズ・ナンバー・ファイブを相手に戦ったりもするミュウに。
あれで人類とグランド・マザーに、大きくなると厄介なんだ、って知らせちゃった。
他にも仲間はいるんだろうし、増えると厄介になることもね。
そうなるんだ、って気が付いたから、ミュウの子供は小さい間に端から殺していたのかも…。
前のぼくみたいに、厄介なミュウが出て来ないように。
「ふむ…。確かにそうかもしれないが…」
お前の正体に気付いちまったら、雑草並みだとゾッとしたかもしれないが…。
そのことと、ミュウの子供を小さい間に殺したこととは、繋がっていないと思うがな…?
関係があるように思っちまうのは無理もないが…、とハーレイは肯定しなかった。雑草のような扱いだったことについては、直ぐに認めていたというのに。
「お前が言いたいことは分かるが、俺には違うように思える。…同じ時代を生きたんだがな」
前の俺たちが、アルテメシアに辿り着いた時のことを考えてみろ。
ミュウの子供たちは既に殺されていたぞ、ほんの小さな子供の頃に。
お前、悲鳴で船を飛び出して行ったんだから。…殺されそうな子供の思念を感じ取って。
「それでバレたんだよ、ぼくが生きていたことが」
アルタミラで星ごと滅ぼされずに、アルテメシアまでやって来たこと。逃げ延びたんだ、って。
雑草を退治し損ねたことが、人類と機械にバレちゃった…。厄介なミュウに育ったことも。
アルタミラの檻にいた頃は無害だったのに…、と顔を曇らせた。実際、無害だったから。
「それはそうだが、殺されかかった子供たちの方が先だろう?」
お前が来るなんて考えもせずに、「殺せ」と命令してたんだ。…違うのか?
俺たちがアルテメシアに着くよりも前から、もう殺してた。小さい間に。
お前の存在とはまるで関係なく、ミュウは雑草なんだから、とな。
元々、ヤツらは排除するつもりだったんだ。…ミュウという名の雑草を全部、宇宙から。
アルタミラでメギドを使ったみたいに、消せるものなら星ごと殲滅したかったろうな。
「そうなのかな…?」
前のぼくが姿を見せなくっても、人類はミュウを殺したのかな、小さい間に…?
大きくなったら厄介だとか、そういう根拠が何も無くても…?
「雑草なんだし、邪魔だと思えば小さい頃から邪魔だろう。育っても邪魔なだけなんだから」
どんなに立派に育ったとしても、庭や花壇のためにはならん。どう転んでも、雑草だしな。
前のお前が現れたせいで、酷くなったということはないさ。…ミュウは処分だという方針。
そいつを言うなら、前のお前というよりは…。ナスカから後の俺たちだな。
「え…?」
どういう意味、と目を瞬かせた。前の自分が生きていたことが知れたら、ミュウの処分に拍車がかかりそうだけれども、ハーレイたちなら、それほどの害は無かった筈。…船はともかく。
「ジョミーだ、あいつが問題だった」
それまで追われていただけのミュウが、アルテメシアを落としたモンだから…。
前のお前どころの騒ぎじゃなかった、ミュウがどれほど危険なのかを人類は思い知ったんだ。
燃えるナスカから、命からがら逃げ出したミュウ。大勢の仲間と、先の指導者を喪って。
彼らには船しか残っていないし、人類は高を括っていた。滅びるのは時間の問題だろうと、白い鯨を発見したなら沈めればいいと。
けれどシャングリラは、それから間もなく再び姿を現した。…人類に追われる種族ではなくて、侵略者を乗せた船として。人類が暮らす星への侵攻、ただそれだけを目的として。
ミュウに襲われたアルテメシアは、僅かな時間で陥落した。テラズ・ナンバー・ファイブだけは破壊を免れたものの、途絶えた通信。マザー・システムから切り離されて。
もはや人類には手も足も出せず、アルテメシアはミュウの手に落ちた。その直前まで、ミュウの子供を殺していたのに。ミュウは忌むべき雑草だったし、抜いて捨てれば良かったのに。
「…あれで慌てたのが人類だ。ミュウはとんでもない化け物だった、と」
それまでは口で「化け物」と呼んでいただけで、「気味が悪い」と嫌っていれば良かったが…。
もう、それだけでは済まなくなった。本物の化け物なんだから。
人類に牙を剥いたんだからな…、とハーレイは軽く両手を広げた。「化け物だろうが」と。
その化け物の力に驚き、大慌てでミュウの処分を始めたのが人類。
処分しないで生かしておいた実験体でも、片っ端から。
「…処分って…。どうせ殺すんだろうけど…」
実験体なら、役目が済んだら直ぐに殺すだろうけれど…。でも…。
そうする前に殺したわけ、と見開いた瞳。アルテメシアでのミュウの勢いに恐れをなして、と。
「人類から見りゃ、どれも化け物なんだから…。処分したくもなるだろう?」
必要な数だけを残して、他は殺しちまった。生かしておくとロクなことはない、と。
サイオンを無効化するための装置、アンチ・サイオン・デバイススーツ。あれの開発にミュウは欠かせないから、幾らかは残しておいたようだが…。
開発していた場所はノアだし、その近辺にだけミュウを残せばいいわけだから…。
前の俺たちが落とした星で見付けた、ミュウの収容施設はだな…。
何処も空っぽか、僅かな人数が残っていただけ。星を落としたら、急いで救助に向かったのに。
生き残った者たちは運が良かったのだという。
処分命令を受けた人類、彼らが自分の命の方を優先して逃亡した結果。ミュウの処分をしているような暇があったら、他の星へ逃れた方がいいと。…少しでもノアに近い所へ、と。
「そうだったんだ…。コルディッツのことは知っていたけど…」
ジョミーのお父さんとお母さんが、子供と一緒に行ってしまった収容所。
あれも酷いと思ったけれども、人質だったら生かしておかなきゃいけないから…。
マシだったんだね、コルディッツは。…それまでにミュウを処分しちゃった施設よりかは。
「酷いもんだろ、人類ってヤツは」
ミュウは危険だと知った途端に、その始末だ。そうする前には、散々いたぶったくせに。
前の俺たちがいたのと変わらない檻で、餌と水だけを突っ込んで飼っていたのにな?
どうせ雑草で、人類よりも遥かに劣る生き物なんだ、と実験動物扱いで。
それをいきなり処分なんだぞ、危険だからと。
…誰も、何もしちゃいなかったのに。檻の中で飼われていただけなのに。
その引き金を引いちまったのが俺たちだ。…お前じゃない。
ミュウを端から殺しちまえ、と命令させる切っ掛けを作ったのはジョミーだったんだ。
前のお前は悪くないさ、と言われたけれども、ジョミーの方も悪くない。アルテメシアは最初に落とすべき星で、別の星を陥落させていたって、結果は同じだっただろうから。
「…酷い結果になっちゃったけれど、それは人類がしたことだから…」
ジョミーは何処も悪くなんかないよ、必要なことをやっただけ。…地球に行くために。
殺されちゃった仲間たちには悪いけれども、そうしないともっと殺されるから…。
いつまで経ってもミュウは殺されるだけで、生き残れる道が開けてくれないんだから…。
そうでしょ、ジョミーが戦う道を選ばなければ、ミュウは生きられなかったんだよ。
SD体制を倒さない限りはね…、とジョミーの澄んだ瞳を思った。
あの明るかった瞳の少年、地球を目指したジョミーの瞳は氷のように冷たかったという。優しい心を殺さなければ、戦うことは出来なかったから。
凍てた瞳をしていたジョミーも、心の底ではきっと悲しんでいたのだろう。自分が始めた戦いのせいで、処分されたミュウの仲間たち。罪も無いのに殺されていった、多くの仲間たちの死を。
ジョミーは悪くなんかなかった、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。きっと仲間たちも分かってくれると、分かってくれたに違いないと。
「殺される時は、悔しくて悲しかっただろうけれど…。でも…」
ちゃんと分かってくれたと思うよ、みんなミュウだったんだから。…ミュウのためだ、って。
自分みたいなミュウが殺される世界を終わらせるには、それも必要だったんだ、って…。
「ジョミーが許して貰えるんなら、前のお前もだろ」
前のお前も、人類には脅威だったかもしれん。…ジョミーほどではなかったとしても。
ミュウは端から殺しちまえ、と思わせるのには充分だったかもしれないが…。
お前だって必要なことをしたんだ、ミュウの子供を沢山助けて。
ジョミーもお前が見付けたわけだろ、そして船まで連れて来させた。逃げられた後も、きちんと後を追い掛けて行って連れ戻したし…。命懸けでな。
そしてだ、お前やジョミーが頑張ったお蔭で、ミュウは立派に生き残った。
なにしろ雑草だったからなあ、前の俺たちは。
「雑草だから?」
ミュウが生き延びられた理由は、雑草だったからだって言うの?
ジョミーが頑張ってくれたことは分かるけれども、雑草っていうのは何なの、ハーレイ…?
「そのままの意味だな、雑草ってヤツは逞しいんだ」
お前、自分で言ったじゃないか。…俺が来た時に、雑草の話。
庭に生えてたのを退治したんだろ、小さい間に抜いておかないと、と。
残しちまうと厄介だしなあ、雑草は。
ほんの少しの根っこからでも、新しい株が出来たりするし…。
うっかり種でも出来ちまったら、とんでもない数の雑草が生えて来るんだから。
その厄介な雑草だったから、ミュウは生き延びられたんだ、と笑うハーレイ。
虚弱な種族のように見えても逞しかった、と。「潜在的には、きっと雑草並みだったよな」と。
「俺たちの代だと、頑丈なミュウは俺くらいしかいなかったが…」
ジョミーの代でも、ジョミーの他には健康なミュウはいなかったんだが…。
トォニィたちは健康だったし、あの辺りから変わり始めていたんだな。雑草並みの生命力に。
元から強い種族でなければ、そう簡単には変わらんぞ?
誰も気付いていなかっただけで、本来のミュウは、きっと頑丈だったんだろう。そうでなければ進化と呼べんし、弱い種族じゃ退化だろうが。…弱って消えたら話にならん。
今じゃ虚弱なミュウってイメージ、もう無いだろう?
かつての人類と何処も変わりはしないぞ、寿命が長くなったってだけで。
「うん…。ハーレイみたいに頑丈な人も多いよね」
プロのスポーツ選手じゃなくても、うんと丈夫な人が沢山…。ジョギングが趣味の人だとか。
前のぼくが生きてた時代だったら、ジョギングなんてハーレイかジョミーしか無理…。
他の仲間だと倒れちゃう、とシャングリラの顔ぶれを思い浮かべた。前のハーレイが後継者にと考えていた、シドでもジョギングは無理だったろう。体力はある方のミュウだったけれど。
「ほら見ろ、そいつがミュウが逞しく生き抜いた結果だ」
すっかり丈夫になってしまって、身体が弱い人間の方が珍しい。お前は今も弱いままだが…。
逞しいミュウは人類の代わりに広い宇宙を覆い尽くして、地球にもしっかり根付いてる。
前の俺たちが生きた頃には、死の星だった筈の青い地球にな。
これだけ宇宙にはびこってるなら、もう間違いなく雑草だ、とハーレイは可笑しそうだから。
「雑草なの、今のぼくたちも?」
前のぼくたちは嫌われる雑草だったけれども、今もやっぱり雑草のまま…?
「お前は綺麗な花を咲かせる筈なんだが…。前のお前とそっくり同じに、それは綺麗に」
しかし、そういう雑草だってあるからな。やたらと綺麗な花が咲くヤツ。
今も雑草ってことでいいと思うぞ、雑草はとても強いんだから。
ミュウという雑草が逞しく宇宙を征服したんだな、というのがハーレイの例え。
人類が嫌って、せっせと抜いては捨てた雑草、それが今では宇宙の主役になっちまった、と。
「きっと捨て方が悪かったんだな、今日のお前はきちんと捨てに出掛けたようだが…」
もう一度根っこを下ろさないよう、土なんかが無い捨て場所まで。
人類もそうして努力してれば、いくら雑草でも根絶やしに出来ていたかもしれないが…。
生憎と失敗しちまったってな、一番最初に捨てる所で。
アルタミラで星ごと焼いたつもりが、前のお前に逃げられちまった。…前の俺もだが。
あそこで捨て損なったばかりに、根っこが残って、其処からジョミーが出ちまったんだ。根から直接出たわけじゃないが、前のお前が残っていなけりゃ、ジョミーも殺されたんだしな?
それを考えると、捨て方ってヤツは大切だ。抜いた雑草の処分の仕方。
其処を間違えたら、こんな具合に、雑草に征服されちまう、とハーレイが指差す窓の外。
「もう人類は何処にもいないぞ」と、「地球も宇宙も、今や雑草だらけだから」と。
「雑草だらけって…。ミュウは宇宙を征服したわけ?」
人類とは和解した筈だけど…。トォニィの代に、ちゃんと文書も交わして。
征服したって感じはしないし、人類とミュウは自然に混じって、人類の方が消えたんだけど…。
ミュウは進化の必然だったから、人類もミュウに進化しちゃって。
「しかしだ、雑草という考え方でいったら、そうなるだろうが」
最初の間は抜かれてたミュウが、逞しく根を下ろしたわけで…。花壇の花の間にな。
でなきゃ芝生だ、そういう所に残った根っこが始まりだった。
気付けばすっかり雑草だらけで、元の花壇も芝生も残っちゃいないってな。もう雑草しか生えていなくて、雑草たちの天国だ。花壇も芝生も征服したんだ、雑草が。
「そうなのかも…」
雑草だらけの庭は困るけど、ハーレイの例えがピッタリかも…。
ミュウは雑草だったんだものね、小さい間に抜いて捨てられちゃってた雑草。
こんな草なんか邪魔だから、って引っこ抜かれて、生きる場所さえ貰えなくって…。
人類がせっせと捨てていたのに、ついに根絶出来なかった雑草、それがミュウ。
ひ弱な種族だったけれども、実は逞しかったから。進化の必然だった種族で、潜在的には雑草と同じくらいの生命力を秘めていたものだから…。
(雑草、宇宙にはびこっちゃって…)
今ではすっかりミュウの時代。何処を探しても、人類はもう見付からない。
そういう時代を迎えたのならば、その雑草が小さい間に人類が抜こうとしていたことも…。
(前のぼくのせいじゃないよね、きっと…?)
子供の間にミュウが殺されていったこと。
成人検査を迎える年まで、疑わしい例は生かしておいてくれたら、生存率が上がったろうに。
それをしないで、ミュウを端から殺した人類。機械が「殺せ」と命じるままに。
よちよち歩きの子供でさえも、彼らは容赦しなかった。ミュウの片鱗を見せたなら。
それは自分のせいだったのかも、と恐ろしい考えに囚われたけれど。
前の自分が生き延びたことが、引き金になったのかもしれない、と怖かったけれど…。
(雑草だったら、小さい間に抜いちゃわないと…)
後で大変なことになる。抜いたら芝生にハゲが出来るとか、種を飛ばされて雑草だらけとか。
ミュウはそういう種族なのだ、と機械には最初から分かっていた筈。
進化の必然だったことを隠して、せっせと殺していたのだから。ミュウ因子の排除は不可能だと承知していた上で。排除するためのプログラムは存在しなくて、それでも殲滅しようとした。
雑草だからと、逞しすぎる雑草は小さい間に抜いておかねばと。
大きくなったら厄介なのだし、子供の間に処分する。…それも出来るだけ小さい内に。
雑草を根絶しようとするなら、そうすることが鉄則だから。
(…前のぼくが逃げて生きていることを、知らなくっても…)
機械はミュウを殺しただろう。小さい間に、子供の内に。ミュウは雑草なのだから。
良かった、とホッとした心。前の自分が姿を現したせいで、殺されたわけではなかったミュウ。小さい間に処分したのは、その方法が正しかったから。雑草を退治するならば。
(ハーレイのお蔭…)
前のお前のせいじゃない、とハーレイは言ってくれたから。
慰めの言葉をかけるのではなくて、納得のゆく説明もして貰えたから…。
「ありがとう、ハーレイ。…ハーレイのお蔭」
もう怖くない、と御礼にピョコンと頭を下げたら、ハーレイは不思議そうな顔。
「ありがとうって…。俺が何かしたか?」
お前と話をしていただけでだ、礼を言われるようなことなんか、何もしていないがな…?
「雑草のこと…。ミュウの子供たちが、小さい間に殺されてしまっていたことだよ」
前のぼくのせいじゃなかったんなら、安心だから…。
ぼくの正体がバレちゃったせいで、小さい間に殺さなくちゃ、と決めたわけではなかったら…。
「そいつは俺が保証してやる、違うとな」
ジョミーと一緒に地球まで行った俺の言葉だ、信じておけ。…俺は最後まで見たんだから。
キースの野郎がスウェナに託したメッセージだって、前の俺は全部見てたってな。
だが、雑草か…。今も昔も、ミュウって種族は逞しく生きる雑草らしい。
前のお前は、とびきり綺麗な花を咲かせる雑草だったが…。
お前はチビだし、花はまだだな。
蕾もついちゃいないようだ、とハーレイが顔を覗き込むから。
「じきに花が咲くよ、前と同じに」
ハーレイだって早く見たいでしょ、蕾が出来て花が咲くのを…?
「駄目だな、お前はゆっくり咲くんだ。楽しみに待っていてやるから」
前のお前の分まで充分、子供時代を楽しむんだな。今のお前は幸せなんだし、のんびりと。
急いで花を咲かせなくてもいいんだから、とハーレイがパチンと瞑った片目。「急ぐなよ」と。
それがハーレイの注文なのだし、急がずにゆっくり育ってゆこう。
今の自分も前と同じに雑草だけれど、のんびりと。
前と違って、引っこ抜かれはしないから。
急いで育って広がらなくても、誰も抜きには来ないから。
今は地球まで、ミュウという名の雑草が生えて覆い尽くしている時代。
テーブルの陰に隠れてこっそり育たなくても、堂々と生えて育ってゆける。
前と同じにミュウのままでも。人間がみんなミュウになったら、雑草が主役なのだから…。
雑草のように・了
※SD体制の時代のミュウは雑草のよう、と思ったブルー。抜かれて処分されてゆくだけ。
けれど雑草だったからこそ逞しく生きて、今の時代があるのです。宇宙という庭に広がって。
(今は追い風…)
反対になったら向かい風、とブルーの頭に浮かんだこと。
学校の帰り、バス停から家まで歩く途中の道で。何のはずみか、頭にポンと。
吹きっ晒しの野原ではなくて、住宅街。だからそれほど強くないけれど、背中に風。後ろ側から吹いてくる。追い風だから、人間ではなくて船ならば…。
(速く進んでゆけるんだよね?)
帆に一杯の風をはらんで、大海原をゆく昔の帆船。風の力で海を旅していた時代。
今はエンジンのついた船だけれども、昔の文化も大好きなのが蘇った地球の住人たちだから…。
(観光用とかの帆船もあるし、風だけで走るヨットだって…)
青い海の上に浮かんでいるよ、と考えたらとても素敵な気分。
エンジンなどには頼らなくても、追い風で速く進める海。帆を張れば波の上を走れる。そういう船たちが海にいる地球に来ちゃったよ、と。
(前のぼくだと、帆船なんか…)
目にしたことすら一度も無かった。アルテメシアの海に帆船は無かったから。
雲海に覆われた星の上には、テラフォーミングされた人工の海。そんな所に帆船は無い。帆船があった時代でも無い。あの時代を治めた機械はあくまで効率優先、風で走るような船は要らない。
(…ヨットくらいなら…)
走っていたかもしれないけれども、生憎とまるで記憶に無い。
アルテメシアは育英都市だし、ヨットは無かったかもしれない。大人たちの殆どは養父母たち。自分の趣味より、子育ての方が優先された場所だから。
(ヨットに乗せて貰える子供と、そうでない子がいたら駄目だし…)
きっと公平に、何処の家にも無かったヨット。借りて乗ることも無かっただろう。まるで技術が無い大人だと、上手くヨットを操れない。養父母になるのに、操船技術は必須ではないし…。
(やっぱりヨットは無かったかもね…)
観光用の帆船さえも、あの時代には無かったから。
帆に風を受けて走る船など、アルテメシアの海には浮かんでいなかったから。
前の自分が生きた時代はそうだったけれど、今では青い海に帆船。それにヨットも。
おまけに此処は地球なんだから、と足取りも軽く歩いた道。追い風を受けて、気分は帆船。
(人間は風だけで走らないけど…)
普段よりも軽く感じる足。風が背中を押してくれる、と思ったら。帆船になった気分でいたら。
家に帰って制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も外を眺めて…。
(風が吹いてる…)
庭の木たちが教えてくれる。枝や葉が揺れて、風があることを。…花壇に咲いている花たちも。
何処からともなく吹いてくる風。大気が動くと、風が生まれてくるものだから。
シャングリラでは、風は人工の風だったのに。前の自分が生きていた船、ミュウの箱舟。なのに今では本物の風で、地球の大気が生み出した風。前の自分が夢に見た星に吹いている風。
それにクルクル変わる風向き、これも本物の風ならでは。
白いシャングリラで吹いていた風は、気まぐれに向きを変えたりはしない。気まぐれに見えても計算されていたプログラム。「向きをランダムに変えるように」と。
けれど、本物の風たちは違う。地球の大気の気分次第で、好きな方から吹いてくるもの。
(木の揺れ方で…)
どちらから来た風なのか分かる。南からか、それとも北なのか。
南風が主な季節にしたって、北風が吹かないわけではない。西風も、東風も吹く。ザアッと渦を巻く風だって。つむじ風とは違うけれども、ぐるりと回るように吹く風。
(吹き流しだとか、風見鶏があれば…)
もっとよく分かる風の方向。
吹き流しは風に合わせて揺れるし、風見鶏は向きを変えてゆく。名前の通りに風を見る鳥。
(生きた鶏じゃないけれど…)
くるり、くるりと方向を変えて、風が来る方を教えてくれる風見鶏。
そういうものが庭にあったら、目に見える風。
木の枝や葉でも分かるけれども、もっと正確に「こっちから吹いている風だ」と。
たまに目にする風見鶏。郊外の農場の屋根にもあったし、個人の家の屋根の上にも。
多分、暮らしている人の趣味。「風見鶏が似合う」と思った場所には、風が吹く方へと回る鶏。
(風見鶏…)
うちには無いよね、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
部屋の窓から眺めたけれども、吹き流しだって庭には無い。屋根の上にも風見鶏は無くて、風の向きを教えてくれそうなものは…。
(鯉のぼり…)
あれなら吹き流しもセット、と思い浮かべた空を泳ぐ鯉。大きな真鯉と、小さめの緋鯉。もっと小さな子供の鯉も一緒に、風をはらんで空高く泳ぐ鯉のぼりたち。一番上には吹き流し。
小さい頃にはあったのだけれど、大きくなったら姿を消した。下の学校の途中辺りで。
(男の子が生まれたら、鯉のぼりだよね?)
きっと自分が生まれて直ぐから、鯉のぼりは庭にあったのだろう。三月の末に生まれたのだし、充分に用意出来るから。
小さい間は、父が揚げていた鯉のぼり。夕方に母が下ろしていた。空模様が怪しい時だって。
けれど子供が大きくなったら、出番が無くなる鯉のぼり。家に帰る時間が遅くなるから、あまりゆっくり見ていられない。家で遊ばずに出掛けて行ったら、帰る頃には…。
(もう鯉のぼりは、下ろしちゃった後で…)
肝心の子供が見ないわけだし、何処の家でも揚げなくなる。「もう鯉のぼりは卒業だ」と。
幼かった自分のための鯉のぼりも、そうして引退していった。母のことだから、物置にきちんと片付けてあって、直ぐに出せるだろうけれど。庭に竿さえ立ててやったら、あの鯉たちは…。
(きっと、ちっとも皺なんか無くて…)
色も今でも鮮やかなままで、悠々と空を泳ぐのだろう。
そうは思っても、あの鯉たちは鯉のぼり。一年中、空を泳ぎはしない。
(…今の季節に探しても…)
何処の庭にも泳いではいない。季節外れも甚だしいから、竿さえも立っていない筈。
鯉のぼりは端午の節句のものだし、春に青空を泳ぐもの。男の子が生まれた家の庭やら、小さな男の子がいる家の庭で。
風見鶏も無ければ、吹き流しも無い自分の家。鯉のぼりだって、とうに卒業。あったことさえ、殆ど忘れていたくらい。真鯉も緋鯉も、子供の鯉も。
(風、見えないね…)
ぼくの家では、と残念な気持ち。風見鶏も無いし、吹き流しも庭に無いのだから。
木の葉や枝の揺れ方でしか、風の動きは分からない。どちらから吹いて来たのかも。葉を揺らす風が、南からの風か北風なのか、せわしなく向きを変えているかも。
せっかく地球の風があるのに、青い地球の上にいるというのに。前の自分が焦がれた星に。
海に行ったら、帆船だって走る星。帆に一杯の風をはらんで、青い海の上を何処までも。
きっと素敵な旅なのだろう、帆に受けた風で進む海。思い通りに進めなくても、それも楽しい。
追い風が吹かずに向かい風だとか、まるで無風で少しも走れはしないとか。
そんな旅でも、今の時代は誰もが喜ぶ。先を急ぐなら、帆船などには乗らないから。帆船で旅をしたい人なら、風を待つのも旅の楽しみの内だから。
(シャングリラだと…)
風待ちどころか、風向きだって少しも関係無かった船、と思ったけれど。
アルテメシアの雲海の中に長く潜んだ白い鯨は、帆船とは違うと考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
今のは間違い、とパチンと叩いた自分の頬っぺた。「忘れちゃってた」と、叱り付けて。
白いシャングリラと、外の風向き。アルテメシアに吹いていた風。
関係はちゃんとあったのだった。あの星の大気が生み出した風と、白い鯨の間には。
いくら消えない雲海とはいえ、万一ということもある。風に吹かれて雲が流れて、雲海の場所が変わること。そうでなければ雲が千切れて、雲海が消えてしまうとか。
白い鯨の隠れ場所だった、雲の海。其処から姿を見せてしまったら、人類に直ぐに発見される。レーダーに映りはしない船でも、目視されたらそれでおしまい。
(そうならないように、ちゃんと観測…)
常に調べていた外の風向き。風はどちらに吹いているのか、この先はどう吹きそうかと。
観測してデータを弾き出しては、より良い方へと取っていた進路。雲の海から出ないようにと。
前のハーレイが指揮を執ったり、自ら舵を握ったりもして。
キャプテンだった、前のハーレイ。白いシャングリラを纏める船長。
まるで帆船の船長みたいに、いつだって風を読んでいた。データを睨んで、風向きを。これから先の風の行方を。
(今のハーレイだと…)
もう風向きは気にしなくていい。船の舵など握っていないし、今ではただの古典の教師。向かい風だろうが、追い風だろうが、ただ風向きが変わるだけ。ハーレイの周りの大気の流れが。
船を守るという役目が無ければ、風を眺めるのも好きになっただろうか?
「いい風だよな」と風に吹かれて、その向きを追ってみたりもして。北風とか、南風だとか。
どうなのかな、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、風を見るのは好き?」
「はあ? 風って…」
何の風だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。「風と言っても色々あるが…」と。
「風は風だよ、風向きのこと。風見鶏とかで分かるでしょ?」
どういう風が吹いているのか、どっちから吹く風なのか。ちゃんと目で見て。
「なんだ、そういう風のことか。本物の風向きのことなんだな」
お前が言ってる風のこと。風見鶏とかで見えるんだったら、もう間違いなくそれだってな。
「え? 本物って…」
風を見るなら、本物の風しかなさそうだけど…。今のハーレイだと。
前のハーレイなら、シャングリラの中には人工の風があったけれどね。
あれの他にも風があるの、とキョトンと瞳を見開いた。施設によっては、人工の風が吹いていることもありそうだけれど。…植物園の温室とかなら、必要があれば。
「知らないか? よく「風向きを見る」って言うだろ、様子見すること」
みんなの意見がどっちに行くのか、自分はどちらにつくべきかと。あれも風だぞ。
そっちの方かと思っちまった。いきなり「風を見るのは好きか」と訊かれりゃ、そうなるよな?
「風向きを見るって…、それは好きなの?」
「場合によるな。どちらかと言えば、あまり見たくはない方だ」
自分の意見はきちんと話して、それが駄目なら諦める。様子見が楽しい時は別だが。
何を食べるかなどでワイワイガヤガヤ、そういう時なら面白いという。どちらについても、別に困りはしないから。様子見していたハーレイの参加で風が変わっても、それも話の種だから。
「お前が言いさえしなければ、と苦情が出るのも愉快なもんだ」
とんだ料理を食う羽目になった、と文句を言ってるヤツらの隣で、「これが美味い」と大喜びをしているヤツら。ああいうのを見ると、様子見をしてた甲斐があったと思っちまうわけで…。
もっと真面目な会議とかだと、様子見なんぞは御免だがな。自分の意見は話すべきだし…。
だが、本物の風は好きだぞ。風を見るのも。
見なくても指で分かるんだがな、というハーレイの言葉で驚いた。
「指?」
どうして風が指で分かるの、指に目なんかついていないよ?
見なくても分かるって言うんだったら、指に目玉は無くてもいいんだろうけれど…。
どうやるの、と瞬かせた瞳。風を見るには、目を使っても吹き流しとかが必要なのに。風見鶏や木の葉の動きを眺めて、ようやく風が見えてくるのに。
「俺は嘘なんかついちゃいないぞ、本当に指で分かるんだ」
ガキの頃に親父に教わったんだが…。指を使った風向きの見方。
指を濡らしてやればいいんだ、そうすりゃ指がひやっとする。風が吹いてくる方だけな。
微かな風でも感じ取れるし、真っ暗な中でも役に立つ。サイオン無しでも、どう進んだら出口があるのか分かるから。
たとえば、この部屋の中でも、だ…。そこの入口のドアをだな…。
こう、と椅子から立って行って、ドアを細めに開けたハーレイ。「これで良し」と。
それから笑顔で促された。「ちょっとやってみろ」と、「指を口に入れて濡らすんだ」と。
(ふうん…?)
少し行儀が悪いけれども、ハーレイが「やれ」と命じたのだから、いいだろう。
口に入れてみた右手の人差し指。温かい口の中で濡らして、そうっと指を引っ張り出したら…。
「あっ…!」
風だ、と声を上げていた。
ドアの方から冷たい風。頬にも微かに感じるけれど、濡れた指だとハッキリ分かった。ひやりと指を掠めた風。あちらからだ、とドアの側から吹いて来て。
風だったよね、と見詰めた指。食べていたケーキの甘い味がついていそうだから、と洗面所まで洗いに出掛けて、戻って来る時も指は風を感じた。わざと水気を拭わずにおいた人差し指が。
(ぼくが動くから、向かい風…)
歩く方から吹いて来るよ、と感心しながら戻った部屋。椅子に腰掛けて、ハーレイに言った。
「ドアは閉めたから、もう風なんか来ないけど…。凄いね、指で分かっちゃうんだ…」
ちょっと濡らしたら、どっちから風が吹いて来るのか、ホントに簡単に分かるみたい。
ハーレイのお父さん、いろんなことを知ってるね。釣りの時には役に立ちそう。
前のハーレイだと、風向きを見るのが仕事だけれど…。趣味じゃなくって。
「どっちの風向きを見るのもな」
船の中の様子も見なきゃならんし、本物の風も注意して見ておかないと…。
両方とも俺の仕事だったぞ、キャプテンの大切な役目ってヤツだ。
仲間たちの意見がどうなっているか、不平や不満が出ていないか。何か問題が起こりそうなら、どういった風に対処するのか、風向きをきちんと見なくちゃならん。俺が入るか、入らないか。
キャプテンが出て行った方がいい時もあれば、放っておくのが最善って時もあるからな。
本物の風だと、やっぱり俺の判断が決め手になっちまうから…。シャングリラの航路。
あっちでもミスは出来やしないな、一つ間違えたら雲海の外に出ちまうんだし。
実に大変な仕事だった、とハーレイが思い出すキャプテンの役目。風向きを見ること。
「じゃあ、仕事でなくなった今は幸せ?」
本物の風を見るのは好きって言っていたでしょ、風を見ている時は幸せ?
指を使って調べなくても、木の枝とかが揺れているだけでも…?
「そうだな、どういう風が来たって、庭の心配をする程度ってことになるんだし」
たまにあるだろ、風が強くなりそうです、っていう天気予報。
ああいう時には心配になるな、枝が折れなきゃいいんだが、と。
鉢植えだったら家の中に入れてやれるんだがなあ、庭の木だとそれは出来ないから。
「そうだよね…。ママも時々、心配してるよ。「大丈夫かしら?」って」
風が止んだら、急いで庭に出て行っちゃう。昼間だったら。
夜の間に吹いた時には、朝一番だよ。折れちゃった枝や花があったら、取って来なくちゃ。
放っておいたら萎れちゃうから、花瓶に生けて世話をしてるよ。折れた枝とかが元気な内に。
前のハーレイの仕事は風を見るのが大変だったけれど、今のハーレイは風を見るのも好き。
風が吹いても心配するのは庭くらいだ、と聞かされると尋ねてみたくなる。
「ねえ、ハーレイ…。今は風を見るのも大好きだったら、帆船の船長とかもやりたい?」
あれなら風を使って航海出来るし、地球の海だし、楽しそうだよ?
前とおんなじキャプテンだけれど、今の帆船ならシャングリラと違って観光用の船だもの。
風が吹かなくて遅れちゃっても、誰も文句は言わないし…。
ああいう船なら、舵だってきっと、シャングリラと同じで舵輪だものね。
ハーレイ、やってみたいんじゃない、と興味津々。古典の教師のハーレイだけれど、前の記憶が戻った今なら、帆船の船長になってみたいかも、と。
「いや、風を読むのを仕事にしたいって所までは…」
考えないなあ、風を見るのは好きだがな。こういう風が吹いて来たなら、天気が変わる、と風で天気の先を読むのも。…それも親父に仕込まれたんだが。
そういや、風か…。
風だったっけな、と僅かに翳った鳶色の瞳。楽しい話の筈なのに。
「どうかした?」
ハーレイ、なんだか悲しそうだよ。…風を見るのは好きなんでしょ?
だけど悲しい思い出でもあるの、風が吹いたら大事な何かが飛んじゃったとか…?
「そういうわけじゃないんだが…。今の俺じゃない、前の俺だな」
風向きってヤツを、シャングリラが堂々と気にするようになった頃には、お前がだ…。
「前のぼく…?」
「お前、何処にもいなかったんだ。…船の何処にも」
メギドに飛んで行ってしまって、それっきりだった。…二度と戻りやしなかった。
それこそ風に持って行かれてしまったみたいに、俺の前から消えちまったんだ。
風の匂いがしたお前はな。
もっとも俺には、風の匂いってヤツが何だか、まるで分かっちゃいなかったんだが…。
レインのヤツが何度も言うから、「そうか」と思っていただけで。
今のお前と話をするまで、雨上がりの風の匂いだったとは、考えさえもしなかったがなあ…。
あの匂いがした前のお前がいなかった、とハーレイがついた深い溜息。
白いシャングリラにいた、風の匂いがしたソルジャー。そのソルジャーがもういなかった、と。
「前のぼくって…。なんだか変だよ、その話」
シャングリラが風向きを気にしていたのは、いつもだよ?
雲海が動いちゃったら困るし、消えてしまったら大変だし…。雲の中が隠れ場所だったから。
いくらステルス・デバイスがあっても、目視されたらおしまいだものね。
人類に姿を見られないよう、風向きを見ては航路を決めて…。いつもそうしていたじゃない。
前のぼくがいなくなった後なら、もう隠れてはいなかったんだし…。
風向きなんかは関係無いでしょ、堂々とって、何のことなの?
人類と戦うと決めた船なら、風向きなんか見なくても…。
良かった筈だよ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返して来た。
「気にしてた場所は、宙港だ」
宙港ってヤツは今もあるだろ、今のお前は宇宙に出て行ったことは無いそうだが…。
それじゃ気付いていそうにないしな、前のお前に訊いてみるとするか。
お前、アルテメシアの宙港にも行っていただろう?
人類軍の動きを見るとか、色々な用で降りていた筈だ。身体ごとでも、思念体でも。
出掛けていたなら、知らないか?
あそこにあった風向計を。
「えーっと…?」
風向計って言ったら、風見鶏みたいなものだよね?
風見鶏よりも、ずっと正確なんだけど…。それに飾りでもないんだけれど。
そんなの見たかな、アルテメシアで…?
風向計だよね、と傾げた首。前の自分の遠い記憶を手繰ってみる。
アルテメシアにあった宙港、育英都市からは離れた所に。人類軍の船も使っていたから、子供が暮らす世界とは距離が取られていた。戦闘機などの物騒なものを、子供が見なくて済むように。
その宙港で見たものの中に、風向計の記憶は無い、と思ったけれど。
風向きを調べるための機械は、目にしていないと思うけれども。
(あったかな…?)
広い宙港の端っこの方に。旅客ターミナルからは離れた所に、風向計。
あったのかも、と記憶を探り当てたら、他にもあった。宙港のあちこち、宇宙船で旅をする人が立ち入らない場所。そういった所に風向計があって、風向きを観測していた筈。
「風向計…。確かにあったよ、忘れてたけど」
前のぼくとは、関係無かったものだから…。風向計には用が無いしね、見に行ったって。
あれがどうかしたの、前のぼくだった頃の記憶を引っ張り出させて、風向計って…?
古い記憶が何の役に立つの、と掴めないハーレイの質問の意図。どうして風向計なのか。
「分からないか? 俺が言うのは風向計だぞ」
いったい何に使うんだ、あれは?
何をするために風向計が置いてあるんだ、そこの所を考えてみろ。
風向計だ、と繰り返されても分からない。風見鶏よりも遥かに精度が高いもの、としか。
「んーと…?」
あれって風向きを調べるものでしょ、風見鶏とかとおんなじで。…もっと正確なんだけど…。
風見鶏だと、風向計みたいに沢山のデータを観測するのも無理だけど…。
「そいつが必要だったんだ。宙港という所には」
理屈は帆船とかと変わらん、風向きや風の強さなんかが分かっていないと駄目なんだ。
そういうデータは、宇宙船が宙港に降りる時には欠かせない。無論、離陸する時にもな。
ギブリみたいな小型艇だと、必要不可欠と言ってもいい。より安全に発着したいのならば。
シャングリラほどのデカブツになると、もはや関係無いんだが…。
デカすぎるから、風の影響を受けるも何も…、とハーレイは苦笑するけれど。
それでも管制官が指示したという。どのコースから降下するのか、何処へ降りるか。
「…シャングリラにも?」
ミュウの船だよ、なのに管制官から指示って…。管制官は人類だよね…?
「当然だろうが。俺がキャプテンだった頃には、ミュウの管制官なんかはいない」
アルテメシアを落とした時には、半ば強引に降りたんだが…。とにかく降りろ、と。
しかし、それよりも後は、けっこう気にしていたもんだ。
同じ降りるなら、友好的に、と。
こういうコースで降下してくれ、と言って来たなら、出来るだけ聞いてやらんとな?
それが人類のやり方なんだし、宙港に降りるルールなんだから。
管制官たちの指示を受けてから、降下したというシャングリラ。…制圧した星の宙港に。
「ルール、きちんと守ってたんだ…」
人類が守るためのルールで、シャングリラみたいに大きな船だと無関係でも。
風の影響を受けたりしないで、どんな時でも降りられたのに…。
「ルールがあるなら、守るってことも必要だ。…それを守れる余裕がある時にはな」
もっとも、ジョミーは「余計なことだ」と顔を顰めていたんだが…。
「さっさと降りろ」と睨み付けられたこともあったが、船のキャプテンは俺なんだしな?
知ったことか、と笑うハーレイは、風待ちをしたこともあるという。
シャングリラには全く必要無いのに、降りようとしていた人類側の小型艇を優先してやって。
「そうなんだ…。その船、戦争をしてると知らずに来たんだね?」
でなきゃ、到着前に戦争が始まっちゃったか。…それで降りられずに何処かで退避。
「そんなトコだな。他所の星とか基地に行くには、燃料不足だったんだろう」
ただでも燃料が足りないだろうし、早く降ろしてやらないと…。条件が揃っているのなら。
管制官はシャングリラを優先しようとしたがだ、「先に降ろせ」と返信させた。
武装してない小型艇にまで、喧嘩を売らなくてもいいじゃないか。
気付いた以上は、先に降ろしてやるべきだ、とハーレイが言うものだから。
「…そういうの、評価されてたかな?」
人類はちゃんと分かってくれていたかな、ミュウが譲ってくれたこと。戦争してても、人類ってだけで、全員を敵だと思ってたわけじゃなかったこと…。
「評価して貰えたと思いたいがな、俺たちの気遣い。…待ってやった船と管制官には」
そういや、人類軍の方だと…。相当に無茶をしていたようだな、航路を占有しちまったりして。
「航路って…。占有されたら、どうなっちゃうの?」
「降りられないんだ、もちろん離陸も出来ないってな」
国家騎士団が使うから待て、と連絡される。…管制官から、全部の船舶に向けて。
「それじゃ、キースも?」
「当然のようにやってただろうな、偉くなってからは」
ナスカに来た頃のあいつだったら、無理だったろうが…。
あそこで特進しちまった後は、航路は占有するのが普通だっただろう。…何処へ行くにも。
ノアでもそうしていただろうな、と話すハーレイ。ノアは当時の首都惑星だし、沢山の船が発着した筈の場所。其処をキースが出入りする度、航路が占有されたなら…。
「うーん…。キースの船が来たっていうだけで、大勢の人が迷惑しそう…」
他の船の都合も考えないで、強引に発着するんだろうし…。飛べない船とか、降りられない船、山ほど出て来てしまいそう。…軍の船だと、予定なんか決めていないんだから。
人類軍がそうしていたなら、シャングリラが風待ちしてたのは…。
敵なのに行儀がいい船だよね、とハーレイに言った。「人類軍の方がずっと酷いよ」と。
「そうかもなあ…。降りるから他の船は全部引っ込めておけ、と言いはしなかったから…」
もちろん飛び立つ時にしたって、航路を占有しちゃいない。他の船だって離着陸してた。
あれは高評価だったのかもしれんな、前の俺はそこまで計算しちゃいなかったが…。
人として判断してたってだけで、人類軍のヤツらと比べちゃいなかったんだが…。
ミュウの船でも行儀がいい、と思っていたかもしれんな、管制官のヤツら。
同じ時に宙港を発着していた、他の宇宙船に乗ってた客やパイロットも。
「流石、ハーレイ!」
前のぼくは其処まで頼んでないのに、シャングリラにルールを守らせたんだね。
地球に着くまで、何処の宙港に行った時でも、管制官たちにミュウの船が嫌われないように…。
ありがとう、とピョコンと頭を下げた。前の自分がいなくなった後も、深い絶望と孤独の中でも頑張ってくれたキャプテンに。
「褒めて貰えて嬉しいが…。今のお前の言葉にしたって、もう充分に嬉しいんだが…」
お前だったら、どうしてた?
前のお前が生きていたなら、ソルジャー・ブルーがシャングリラで地球を目指していたら。
手に入れた星に降りる時にだ、シャングリラの他にも小型艇が降下を待ってたら…。
その小型艇を先に行かせて風待ちするか、ジョミーみたいに苦い顔をするか。
「あんな船など待っていないで、さっさと降りろ」と俺を叱って。
いったい、お前はどっちなんだ、と問い掛けられた。風待ちするのか、強引に行くか。
「…どうだろう…?」
前のぼくだよね、シャングリラをそのまま待機させるか、降ろすのか。
シャングリラよりもずっと小型で、風の影響を受けそうな船がいるのなら…。
どうするだろう、と考えたけれど、きっと待たせたような気がする。
前のハーレイに「待て」と指示して、小型艇が先に降りるまで。燃料に余裕が無いかもしれない小さな船なら、先に行かせてやりたいと思う。安全に降りられる条件が揃っている間に。
相手は人類の船だけれども、武装していない民間船なら敵ではない。
白いシャングリラの敵でさえもない小型艇。しかも乗員は一般人だし、シャングリラよりも先に降ろすべき。彼らが困らない内に。
(…だって、航路を占有されたら…)
その間に風向きが変わったりしたら、暫く降りられないかもしれない。…燃料がどんどん減ってゆくのに、足りなくなるかもしれないのに。戦場と知らずにやって来たなら、有り得ること。
燃料不足に陥ったならば、乗員の身にも危険が及ぶ。救助艇が飛び立ったとしても…。
(間に合うだろうけど、怖いよね…?)
救助されるのを待っている間も、そうなる前に燃料がぐんぐんと減っていた時も。
いくら人類でも、そんな目に遭わせたくはない。軍人でないなら、民間人が乗った船なら。
ジョミーと違って、アルタミラなどで苦労し続け、文字通り何度も死にかけた自分。
他の誰かに、同じ苦しみを味わわせたいとは思わない。…人類だとしても。
何の罪も無い人類たちを、踏み躙って前へ進めはしない。
シャングリラの降下を遅くするだけで、小型艇が無事に降りてゆけるなら、それでいい。
きっと宇宙から見送るのだろう。「無事に降りた」と、「先に降ろしてやって良かった」と。
それを見届けてから、シャングリラを降ろす。他にも似たような船がいないか、確かめてから。
前の自分ならそうするだろう、と出て来た答え。人類の船を先に行かせる。
「ぼくだと、風待ち…。ハーレイがやっていたのと同じ」
だけど、それだと地球に行くのは無理だと思う。
風待ちと同じで、人類に気を遣いすぎちゃって…。戦いを始めることも出来なくて。
ジョミーは風待ちをしないタイプで、だから地球まで行けたんだよ。
人類を何人犠牲にしたって、地球まで辿り着かなくちゃ、って。…降伏して来た船だって全部、沈めたのがジョミーだったんだもの。
ぼくだと駄目だよ、そこまで出来ない。どうしても甘くなってしまって。
そのせいで地球まで行けないまま。…ホントに行けなかったんだけど。
ジョミーよりもずっと長生きしていたのにね、と零した溜息。「ぼくには無理な道だった」と。
「性格の違いというヤツか…」
お前、風待ちしすぎたんだな、様子見するっていう方の風を。
風向きがミュウに味方するのを、じっと我慢して待ってる間に、寿命が尽きてしまった、と。
前のお前は慎重すぎて…、とハーレイが口にする通り。前の自分は待っていただけ。
「うん、性格の違いだと思う…」
強引に出ては行けなかったよ、前のぼくはね。…それが必要だと分かっていても。
やっぱりジョミーでなくちゃ駄目だね、地球に行くには。
ミュウに必要だったソルジャーはジョミーで、前のぼくだと時代の流れは変えられなくて…。
戦いも始められなかったくらいに、甘すぎるソルジャーだったから。
「どうなんだかなあ…」
そればっかりは謎だと思うぞ、ジョミーだけでもどうにもならん。
トォニィたちが揃っていたって、シャングリラが無いとまるで話にならないし…。
そのシャングリラを改造させたのは前のお前で、元になった船は何処から来たんだ?
前のお前が、アルタミラから俺たちを脱出させていなけりゃ、何も始まりはしなかった。
甘すぎるソルジャーだったとしてもだ、前のお前が全ての始まりなんだから。
今の平和な世界があるのは時代の流れで、結局は風が決めたんじゃないのか、と今のハーレイは言うけれど。「甘すぎるソルジャーでも良かったんだ」と慰めてくれるのだけれど…。
「それは今だから言えることでしょ、ジョミーが頑張ってくれたから…」
命懸けでSD体制を倒して、人類とミュウが一緒に暮らせる時代を作ってくれたから。
…ジョミーだけじゃなくて、キースもだけれど。
前のぼくは風待ちしていたけれども、風待ちっていうのは、し過ぎちゃっても駄目なんだよ。
ジョミーくらいで丁度良くって、ハーレイは、ぼくとジョミーの中間。
「なんだ、そりゃ?」
どうして俺の名前が出るんだ、とハーレイは不思議そうだけれども。
「本物の風待ち、してあげたんでしょ。…宙港でね」
ジョミーが「行け」って怒っていたって、シャングリラを宇宙で待機させて。
風待ちをしないと降りられない船が、安全に先に降りられるように。
そんなハーレイが船にいたから、人類はミュウを嫌わずに受け入れてくれたのかも…。
侵略者だけど、怖くはない、って。…ルールも守るし、人類軍より親切だ、ってね。
航路を占有したりはしないし、逆に譲ってくれるんだから。
「まあ、その辺は俺も注意を払ったからなあ…」
ジョミーが強引に行きたがる分、俺が重石にならないと、と。
俺で抑えが利いてる間は、ジョミーはもちろん、他のヤツらにも目を配らんとな?
トォニィたちが無茶をしようが、物騒な台詞を吐いていようが。
「ありがとう、ジョミーを支えてくれて」
前のぼくがいなくなった後まで、いろんな所に気を配って…。人類にまでね。
「お前、そいつを頼んだしな?」
ジョミーを支えてやってくれ、と言われたからには頑張るしかない。
前のお前を失くしちまって、抜け殻みたいになっていたって、俺はキャプテンなんだから。
お前の最後の頼みなんだし、何が何でも、叶えないとな…?
そのためだけに俺は生きていたんだ、とハーレイは強調するけれど。
ソルジャー・ブルーの最後の頼みを聞いただけだ、と今も繰り返し言うのだけれど。
「…頼まなくても、ハーレイならやってくれたでしょ?」
ジョミーのことだけ頼んでいたのに、風待ちまでしてたハーレイだから。
その方がきっといいだろうから、ってジョミーが「行け」って怒っていたって、放っておいて。
頼んだ以上のことをやってくれたよ、とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「だから、ハーレイなら、きっと」と。
ジョミーを支えてやってくれ、という言葉が無くても、色々なことをしてくれた筈、と。
「…俺の性格からして、そうなんだろうが…」
そうなったろうが、貧乏クジな気がするな。前のお前を失くしちまっても、頑張るだなんて。
「好きだよ、ハーレイのそういう所」
うんと優しいから、出来るんだよ。…前のハーレイも、今のハーレイも。
だけど、今は風待ち、しなくていいね。帆船の船長もやっていないし、風待ちは無し。
「いや、しているが?」
今も風待ちしているんだ、と返った答えに驚かされた。心当たりが何も無いから。
「待ってるって…。何の風待ち?」
「お前と結婚するってことだな、当分は此処で待機だってな」
ちっとも風が吹きやしない、とハーレイは今も風待ち中。結婚という名の風が吹くのを。
「待たなくっても、結婚出来るよ?」
ぼくは結婚、早くてもいいし、今すぐでもかまわないけれど…?
「お前、背丈も足りていないし、年もだろうが!」
前のお前と同じ背丈に育つまではだ、キスも駄目だし、デートも駄目だ。
それで結婚出来るのか?
ついでに、年も足りていないぞ。お前、十四歳だろう?
十八歳にならんと結婚出来んし、どう考えても俺は待機で、風待ちなんだ…!
結婚出来る日はまだまだ先だ、と今のハーレイも風が吹くのを待っているらしい。
今はまだ、見えもしない風。
いつになったら吹いて来るのか、何処から来るかも分からない風を。
その風がいつか、吹いて来たなら…。
(ハーレイと結婚式なんだよ…)
真っ白なドレスか、白無垢を纏って結婚式。
ハーレイと誓いのキスを交わして、左手の薬指に嵌める指輪を交換して。
嵌める指輪が、白いシャングリラの思い出だといい。
白い鯨だった金属から出来た、シャングリラ・リングを嵌められたらいい。
前の生では、風を気にしていたキャプテン。
アルテメシアの雲海の中でも、人類の宙港に降りる時にも。
前はキャプテン・ハーレイだった人と、いつか結婚して幸せに暮らす。
今も風待ちをしているという、前の生から愛し続けた愛おしい人と、青い地球の上で…。
風と風待ち・了
※宇宙船が宙港に降りる時には、風向きも重要。シャングリラほどの船だと不要ですけど。
それでも人類の船を先に降ろそう、と決断した前のハーレイ。ジョミーが不機嫌になっても。
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反対になったら向かい風、とブルーの頭に浮かんだこと。
学校の帰り、バス停から家まで歩く途中の道で。何のはずみか、頭にポンと。
吹きっ晒しの野原ではなくて、住宅街。だからそれほど強くないけれど、背中に風。後ろ側から吹いてくる。追い風だから、人間ではなくて船ならば…。
(速く進んでゆけるんだよね?)
帆に一杯の風をはらんで、大海原をゆく昔の帆船。風の力で海を旅していた時代。
今はエンジンのついた船だけれども、昔の文化も大好きなのが蘇った地球の住人たちだから…。
(観光用とかの帆船もあるし、風だけで走るヨットだって…)
青い海の上に浮かんでいるよ、と考えたらとても素敵な気分。
エンジンなどには頼らなくても、追い風で速く進める海。帆を張れば波の上を走れる。そういう船たちが海にいる地球に来ちゃったよ、と。
(前のぼくだと、帆船なんか…)
目にしたことすら一度も無かった。アルテメシアの海に帆船は無かったから。
雲海に覆われた星の上には、テラフォーミングされた人工の海。そんな所に帆船は無い。帆船があった時代でも無い。あの時代を治めた機械はあくまで効率優先、風で走るような船は要らない。
(…ヨットくらいなら…)
走っていたかもしれないけれども、生憎とまるで記憶に無い。
アルテメシアは育英都市だし、ヨットは無かったかもしれない。大人たちの殆どは養父母たち。自分の趣味より、子育ての方が優先された場所だから。
(ヨットに乗せて貰える子供と、そうでない子がいたら駄目だし…)
きっと公平に、何処の家にも無かったヨット。借りて乗ることも無かっただろう。まるで技術が無い大人だと、上手くヨットを操れない。養父母になるのに、操船技術は必須ではないし…。
(やっぱりヨットは無かったかもね…)
観光用の帆船さえも、あの時代には無かったから。
帆に風を受けて走る船など、アルテメシアの海には浮かんでいなかったから。
前の自分が生きた時代はそうだったけれど、今では青い海に帆船。それにヨットも。
おまけに此処は地球なんだから、と足取りも軽く歩いた道。追い風を受けて、気分は帆船。
(人間は風だけで走らないけど…)
普段よりも軽く感じる足。風が背中を押してくれる、と思ったら。帆船になった気分でいたら。
家に帰って制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も外を眺めて…。
(風が吹いてる…)
庭の木たちが教えてくれる。枝や葉が揺れて、風があることを。…花壇に咲いている花たちも。
何処からともなく吹いてくる風。大気が動くと、風が生まれてくるものだから。
シャングリラでは、風は人工の風だったのに。前の自分が生きていた船、ミュウの箱舟。なのに今では本物の風で、地球の大気が生み出した風。前の自分が夢に見た星に吹いている風。
それにクルクル変わる風向き、これも本物の風ならでは。
白いシャングリラで吹いていた風は、気まぐれに向きを変えたりはしない。気まぐれに見えても計算されていたプログラム。「向きをランダムに変えるように」と。
けれど、本物の風たちは違う。地球の大気の気分次第で、好きな方から吹いてくるもの。
(木の揺れ方で…)
どちらから来た風なのか分かる。南からか、それとも北なのか。
南風が主な季節にしたって、北風が吹かないわけではない。西風も、東風も吹く。ザアッと渦を巻く風だって。つむじ風とは違うけれども、ぐるりと回るように吹く風。
(吹き流しだとか、風見鶏があれば…)
もっとよく分かる風の方向。
吹き流しは風に合わせて揺れるし、風見鶏は向きを変えてゆく。名前の通りに風を見る鳥。
(生きた鶏じゃないけれど…)
くるり、くるりと方向を変えて、風が来る方を教えてくれる風見鶏。
そういうものが庭にあったら、目に見える風。
木の枝や葉でも分かるけれども、もっと正確に「こっちから吹いている風だ」と。
たまに目にする風見鶏。郊外の農場の屋根にもあったし、個人の家の屋根の上にも。
多分、暮らしている人の趣味。「風見鶏が似合う」と思った場所には、風が吹く方へと回る鶏。
(風見鶏…)
うちには無いよね、と戻った二階の自分の部屋。おやつを美味しく食べ終えた後で。
部屋の窓から眺めたけれども、吹き流しだって庭には無い。屋根の上にも風見鶏は無くて、風の向きを教えてくれそうなものは…。
(鯉のぼり…)
あれなら吹き流しもセット、と思い浮かべた空を泳ぐ鯉。大きな真鯉と、小さめの緋鯉。もっと小さな子供の鯉も一緒に、風をはらんで空高く泳ぐ鯉のぼりたち。一番上には吹き流し。
小さい頃にはあったのだけれど、大きくなったら姿を消した。下の学校の途中辺りで。
(男の子が生まれたら、鯉のぼりだよね?)
きっと自分が生まれて直ぐから、鯉のぼりは庭にあったのだろう。三月の末に生まれたのだし、充分に用意出来るから。
小さい間は、父が揚げていた鯉のぼり。夕方に母が下ろしていた。空模様が怪しい時だって。
けれど子供が大きくなったら、出番が無くなる鯉のぼり。家に帰る時間が遅くなるから、あまりゆっくり見ていられない。家で遊ばずに出掛けて行ったら、帰る頃には…。
(もう鯉のぼりは、下ろしちゃった後で…)
肝心の子供が見ないわけだし、何処の家でも揚げなくなる。「もう鯉のぼりは卒業だ」と。
幼かった自分のための鯉のぼりも、そうして引退していった。母のことだから、物置にきちんと片付けてあって、直ぐに出せるだろうけれど。庭に竿さえ立ててやったら、あの鯉たちは…。
(きっと、ちっとも皺なんか無くて…)
色も今でも鮮やかなままで、悠々と空を泳ぐのだろう。
そうは思っても、あの鯉たちは鯉のぼり。一年中、空を泳ぎはしない。
(…今の季節に探しても…)
何処の庭にも泳いではいない。季節外れも甚だしいから、竿さえも立っていない筈。
鯉のぼりは端午の節句のものだし、春に青空を泳ぐもの。男の子が生まれた家の庭やら、小さな男の子がいる家の庭で。
風見鶏も無ければ、吹き流しも無い自分の家。鯉のぼりだって、とうに卒業。あったことさえ、殆ど忘れていたくらい。真鯉も緋鯉も、子供の鯉も。
(風、見えないね…)
ぼくの家では、と残念な気持ち。風見鶏も無いし、吹き流しも庭に無いのだから。
木の葉や枝の揺れ方でしか、風の動きは分からない。どちらから吹いて来たのかも。葉を揺らす風が、南からの風か北風なのか、せわしなく向きを変えているかも。
せっかく地球の風があるのに、青い地球の上にいるというのに。前の自分が焦がれた星に。
海に行ったら、帆船だって走る星。帆に一杯の風をはらんで、青い海の上を何処までも。
きっと素敵な旅なのだろう、帆に受けた風で進む海。思い通りに進めなくても、それも楽しい。
追い風が吹かずに向かい風だとか、まるで無風で少しも走れはしないとか。
そんな旅でも、今の時代は誰もが喜ぶ。先を急ぐなら、帆船などには乗らないから。帆船で旅をしたい人なら、風を待つのも旅の楽しみの内だから。
(シャングリラだと…)
風待ちどころか、風向きだって少しも関係無かった船、と思ったけれど。
アルテメシアの雲海の中に長く潜んだ白い鯨は、帆船とは違うと考えたけれど…。
(ちょっと待って…!)
今のは間違い、とパチンと叩いた自分の頬っぺた。「忘れちゃってた」と、叱り付けて。
白いシャングリラと、外の風向き。アルテメシアに吹いていた風。
関係はちゃんとあったのだった。あの星の大気が生み出した風と、白い鯨の間には。
いくら消えない雲海とはいえ、万一ということもある。風に吹かれて雲が流れて、雲海の場所が変わること。そうでなければ雲が千切れて、雲海が消えてしまうとか。
白い鯨の隠れ場所だった、雲の海。其処から姿を見せてしまったら、人類に直ぐに発見される。レーダーに映りはしない船でも、目視されたらそれでおしまい。
(そうならないように、ちゃんと観測…)
常に調べていた外の風向き。風はどちらに吹いているのか、この先はどう吹きそうかと。
観測してデータを弾き出しては、より良い方へと取っていた進路。雲の海から出ないようにと。
前のハーレイが指揮を執ったり、自ら舵を握ったりもして。
キャプテンだった、前のハーレイ。白いシャングリラを纏める船長。
まるで帆船の船長みたいに、いつだって風を読んでいた。データを睨んで、風向きを。これから先の風の行方を。
(今のハーレイだと…)
もう風向きは気にしなくていい。船の舵など握っていないし、今ではただの古典の教師。向かい風だろうが、追い風だろうが、ただ風向きが変わるだけ。ハーレイの周りの大気の流れが。
船を守るという役目が無ければ、風を眺めるのも好きになっただろうか?
「いい風だよな」と風に吹かれて、その向きを追ってみたりもして。北風とか、南風だとか。
どうなのかな、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで訊いてみた。
「あのね…。ハーレイ、風を見るのは好き?」
「はあ? 風って…」
何の風だ、と怪訝そうな顔になったハーレイ。「風と言っても色々あるが…」と。
「風は風だよ、風向きのこと。風見鶏とかで分かるでしょ?」
どういう風が吹いているのか、どっちから吹く風なのか。ちゃんと目で見て。
「なんだ、そういう風のことか。本物の風向きのことなんだな」
お前が言ってる風のこと。風見鶏とかで見えるんだったら、もう間違いなくそれだってな。
「え? 本物って…」
風を見るなら、本物の風しかなさそうだけど…。今のハーレイだと。
前のハーレイなら、シャングリラの中には人工の風があったけれどね。
あれの他にも風があるの、とキョトンと瞳を見開いた。施設によっては、人工の風が吹いていることもありそうだけれど。…植物園の温室とかなら、必要があれば。
「知らないか? よく「風向きを見る」って言うだろ、様子見すること」
みんなの意見がどっちに行くのか、自分はどちらにつくべきかと。あれも風だぞ。
そっちの方かと思っちまった。いきなり「風を見るのは好きか」と訊かれりゃ、そうなるよな?
「風向きを見るって…、それは好きなの?」
「場合によるな。どちらかと言えば、あまり見たくはない方だ」
自分の意見はきちんと話して、それが駄目なら諦める。様子見が楽しい時は別だが。
何を食べるかなどでワイワイガヤガヤ、そういう時なら面白いという。どちらについても、別に困りはしないから。様子見していたハーレイの参加で風が変わっても、それも話の種だから。
「お前が言いさえしなければ、と苦情が出るのも愉快なもんだ」
とんだ料理を食う羽目になった、と文句を言ってるヤツらの隣で、「これが美味い」と大喜びをしているヤツら。ああいうのを見ると、様子見をしてた甲斐があったと思っちまうわけで…。
もっと真面目な会議とかだと、様子見なんぞは御免だがな。自分の意見は話すべきだし…。
だが、本物の風は好きだぞ。風を見るのも。
見なくても指で分かるんだがな、というハーレイの言葉で驚いた。
「指?」
どうして風が指で分かるの、指に目なんかついていないよ?
見なくても分かるって言うんだったら、指に目玉は無くてもいいんだろうけれど…。
どうやるの、と瞬かせた瞳。風を見るには、目を使っても吹き流しとかが必要なのに。風見鶏や木の葉の動きを眺めて、ようやく風が見えてくるのに。
「俺は嘘なんかついちゃいないぞ、本当に指で分かるんだ」
ガキの頃に親父に教わったんだが…。指を使った風向きの見方。
指を濡らしてやればいいんだ、そうすりゃ指がひやっとする。風が吹いてくる方だけな。
微かな風でも感じ取れるし、真っ暗な中でも役に立つ。サイオン無しでも、どう進んだら出口があるのか分かるから。
たとえば、この部屋の中でも、だ…。そこの入口のドアをだな…。
こう、と椅子から立って行って、ドアを細めに開けたハーレイ。「これで良し」と。
それから笑顔で促された。「ちょっとやってみろ」と、「指を口に入れて濡らすんだ」と。
(ふうん…?)
少し行儀が悪いけれども、ハーレイが「やれ」と命じたのだから、いいだろう。
口に入れてみた右手の人差し指。温かい口の中で濡らして、そうっと指を引っ張り出したら…。
「あっ…!」
風だ、と声を上げていた。
ドアの方から冷たい風。頬にも微かに感じるけれど、濡れた指だとハッキリ分かった。ひやりと指を掠めた風。あちらからだ、とドアの側から吹いて来て。
風だったよね、と見詰めた指。食べていたケーキの甘い味がついていそうだから、と洗面所まで洗いに出掛けて、戻って来る時も指は風を感じた。わざと水気を拭わずにおいた人差し指が。
(ぼくが動くから、向かい風…)
歩く方から吹いて来るよ、と感心しながら戻った部屋。椅子に腰掛けて、ハーレイに言った。
「ドアは閉めたから、もう風なんか来ないけど…。凄いね、指で分かっちゃうんだ…」
ちょっと濡らしたら、どっちから風が吹いて来るのか、ホントに簡単に分かるみたい。
ハーレイのお父さん、いろんなことを知ってるね。釣りの時には役に立ちそう。
前のハーレイだと、風向きを見るのが仕事だけれど…。趣味じゃなくって。
「どっちの風向きを見るのもな」
船の中の様子も見なきゃならんし、本物の風も注意して見ておかないと…。
両方とも俺の仕事だったぞ、キャプテンの大切な役目ってヤツだ。
仲間たちの意見がどうなっているか、不平や不満が出ていないか。何か問題が起こりそうなら、どういった風に対処するのか、風向きをきちんと見なくちゃならん。俺が入るか、入らないか。
キャプテンが出て行った方がいい時もあれば、放っておくのが最善って時もあるからな。
本物の風だと、やっぱり俺の判断が決め手になっちまうから…。シャングリラの航路。
あっちでもミスは出来やしないな、一つ間違えたら雲海の外に出ちまうんだし。
実に大変な仕事だった、とハーレイが思い出すキャプテンの役目。風向きを見ること。
「じゃあ、仕事でなくなった今は幸せ?」
本物の風を見るのは好きって言っていたでしょ、風を見ている時は幸せ?
指を使って調べなくても、木の枝とかが揺れているだけでも…?
「そうだな、どういう風が来たって、庭の心配をする程度ってことになるんだし」
たまにあるだろ、風が強くなりそうです、っていう天気予報。
ああいう時には心配になるな、枝が折れなきゃいいんだが、と。
鉢植えだったら家の中に入れてやれるんだがなあ、庭の木だとそれは出来ないから。
「そうだよね…。ママも時々、心配してるよ。「大丈夫かしら?」って」
風が止んだら、急いで庭に出て行っちゃう。昼間だったら。
夜の間に吹いた時には、朝一番だよ。折れちゃった枝や花があったら、取って来なくちゃ。
放っておいたら萎れちゃうから、花瓶に生けて世話をしてるよ。折れた枝とかが元気な内に。
前のハーレイの仕事は風を見るのが大変だったけれど、今のハーレイは風を見るのも好き。
風が吹いても心配するのは庭くらいだ、と聞かされると尋ねてみたくなる。
「ねえ、ハーレイ…。今は風を見るのも大好きだったら、帆船の船長とかもやりたい?」
あれなら風を使って航海出来るし、地球の海だし、楽しそうだよ?
前とおんなじキャプテンだけれど、今の帆船ならシャングリラと違って観光用の船だもの。
風が吹かなくて遅れちゃっても、誰も文句は言わないし…。
ああいう船なら、舵だってきっと、シャングリラと同じで舵輪だものね。
ハーレイ、やってみたいんじゃない、と興味津々。古典の教師のハーレイだけれど、前の記憶が戻った今なら、帆船の船長になってみたいかも、と。
「いや、風を読むのを仕事にしたいって所までは…」
考えないなあ、風を見るのは好きだがな。こういう風が吹いて来たなら、天気が変わる、と風で天気の先を読むのも。…それも親父に仕込まれたんだが。
そういや、風か…。
風だったっけな、と僅かに翳った鳶色の瞳。楽しい話の筈なのに。
「どうかした?」
ハーレイ、なんだか悲しそうだよ。…風を見るのは好きなんでしょ?
だけど悲しい思い出でもあるの、風が吹いたら大事な何かが飛んじゃったとか…?
「そういうわけじゃないんだが…。今の俺じゃない、前の俺だな」
風向きってヤツを、シャングリラが堂々と気にするようになった頃には、お前がだ…。
「前のぼく…?」
「お前、何処にもいなかったんだ。…船の何処にも」
メギドに飛んで行ってしまって、それっきりだった。…二度と戻りやしなかった。
それこそ風に持って行かれてしまったみたいに、俺の前から消えちまったんだ。
風の匂いがしたお前はな。
もっとも俺には、風の匂いってヤツが何だか、まるで分かっちゃいなかったんだが…。
レインのヤツが何度も言うから、「そうか」と思っていただけで。
今のお前と話をするまで、雨上がりの風の匂いだったとは、考えさえもしなかったがなあ…。
あの匂いがした前のお前がいなかった、とハーレイがついた深い溜息。
白いシャングリラにいた、風の匂いがしたソルジャー。そのソルジャーがもういなかった、と。
「前のぼくって…。なんだか変だよ、その話」
シャングリラが風向きを気にしていたのは、いつもだよ?
雲海が動いちゃったら困るし、消えてしまったら大変だし…。雲の中が隠れ場所だったから。
いくらステルス・デバイスがあっても、目視されたらおしまいだものね。
人類に姿を見られないよう、風向きを見ては航路を決めて…。いつもそうしていたじゃない。
前のぼくがいなくなった後なら、もう隠れてはいなかったんだし…。
風向きなんかは関係無いでしょ、堂々とって、何のことなの?
人類と戦うと決めた船なら、風向きなんか見なくても…。
良かった筈だよ、と指摘したのだけれども、ハーレイは「そうでもないぞ」と返して来た。
「気にしてた場所は、宙港だ」
宙港ってヤツは今もあるだろ、今のお前は宇宙に出て行ったことは無いそうだが…。
それじゃ気付いていそうにないしな、前のお前に訊いてみるとするか。
お前、アルテメシアの宙港にも行っていただろう?
人類軍の動きを見るとか、色々な用で降りていた筈だ。身体ごとでも、思念体でも。
出掛けていたなら、知らないか?
あそこにあった風向計を。
「えーっと…?」
風向計って言ったら、風見鶏みたいなものだよね?
風見鶏よりも、ずっと正確なんだけど…。それに飾りでもないんだけれど。
そんなの見たかな、アルテメシアで…?
風向計だよね、と傾げた首。前の自分の遠い記憶を手繰ってみる。
アルテメシアにあった宙港、育英都市からは離れた所に。人類軍の船も使っていたから、子供が暮らす世界とは距離が取られていた。戦闘機などの物騒なものを、子供が見なくて済むように。
その宙港で見たものの中に、風向計の記憶は無い、と思ったけれど。
風向きを調べるための機械は、目にしていないと思うけれども。
(あったかな…?)
広い宙港の端っこの方に。旅客ターミナルからは離れた所に、風向計。
あったのかも、と記憶を探り当てたら、他にもあった。宙港のあちこち、宇宙船で旅をする人が立ち入らない場所。そういった所に風向計があって、風向きを観測していた筈。
「風向計…。確かにあったよ、忘れてたけど」
前のぼくとは、関係無かったものだから…。風向計には用が無いしね、見に行ったって。
あれがどうかしたの、前のぼくだった頃の記憶を引っ張り出させて、風向計って…?
古い記憶が何の役に立つの、と掴めないハーレイの質問の意図。どうして風向計なのか。
「分からないか? 俺が言うのは風向計だぞ」
いったい何に使うんだ、あれは?
何をするために風向計が置いてあるんだ、そこの所を考えてみろ。
風向計だ、と繰り返されても分からない。風見鶏よりも遥かに精度が高いもの、としか。
「んーと…?」
あれって風向きを調べるものでしょ、風見鶏とかとおんなじで。…もっと正確なんだけど…。
風見鶏だと、風向計みたいに沢山のデータを観測するのも無理だけど…。
「そいつが必要だったんだ。宙港という所には」
理屈は帆船とかと変わらん、風向きや風の強さなんかが分かっていないと駄目なんだ。
そういうデータは、宇宙船が宙港に降りる時には欠かせない。無論、離陸する時にもな。
ギブリみたいな小型艇だと、必要不可欠と言ってもいい。より安全に発着したいのならば。
シャングリラほどのデカブツになると、もはや関係無いんだが…。
デカすぎるから、風の影響を受けるも何も…、とハーレイは苦笑するけれど。
それでも管制官が指示したという。どのコースから降下するのか、何処へ降りるか。
「…シャングリラにも?」
ミュウの船だよ、なのに管制官から指示って…。管制官は人類だよね…?
「当然だろうが。俺がキャプテンだった頃には、ミュウの管制官なんかはいない」
アルテメシアを落とした時には、半ば強引に降りたんだが…。とにかく降りろ、と。
しかし、それよりも後は、けっこう気にしていたもんだ。
同じ降りるなら、友好的に、と。
こういうコースで降下してくれ、と言って来たなら、出来るだけ聞いてやらんとな?
それが人類のやり方なんだし、宙港に降りるルールなんだから。
管制官たちの指示を受けてから、降下したというシャングリラ。…制圧した星の宙港に。
「ルール、きちんと守ってたんだ…」
人類が守るためのルールで、シャングリラみたいに大きな船だと無関係でも。
風の影響を受けたりしないで、どんな時でも降りられたのに…。
「ルールがあるなら、守るってことも必要だ。…それを守れる余裕がある時にはな」
もっとも、ジョミーは「余計なことだ」と顔を顰めていたんだが…。
「さっさと降りろ」と睨み付けられたこともあったが、船のキャプテンは俺なんだしな?
知ったことか、と笑うハーレイは、風待ちをしたこともあるという。
シャングリラには全く必要無いのに、降りようとしていた人類側の小型艇を優先してやって。
「そうなんだ…。その船、戦争をしてると知らずに来たんだね?」
でなきゃ、到着前に戦争が始まっちゃったか。…それで降りられずに何処かで退避。
「そんなトコだな。他所の星とか基地に行くには、燃料不足だったんだろう」
ただでも燃料が足りないだろうし、早く降ろしてやらないと…。条件が揃っているのなら。
管制官はシャングリラを優先しようとしたがだ、「先に降ろせ」と返信させた。
武装してない小型艇にまで、喧嘩を売らなくてもいいじゃないか。
気付いた以上は、先に降ろしてやるべきだ、とハーレイが言うものだから。
「…そういうの、評価されてたかな?」
人類はちゃんと分かってくれていたかな、ミュウが譲ってくれたこと。戦争してても、人類ってだけで、全員を敵だと思ってたわけじゃなかったこと…。
「評価して貰えたと思いたいがな、俺たちの気遣い。…待ってやった船と管制官には」
そういや、人類軍の方だと…。相当に無茶をしていたようだな、航路を占有しちまったりして。
「航路って…。占有されたら、どうなっちゃうの?」
「降りられないんだ、もちろん離陸も出来ないってな」
国家騎士団が使うから待て、と連絡される。…管制官から、全部の船舶に向けて。
「それじゃ、キースも?」
「当然のようにやってただろうな、偉くなってからは」
ナスカに来た頃のあいつだったら、無理だったろうが…。
あそこで特進しちまった後は、航路は占有するのが普通だっただろう。…何処へ行くにも。
ノアでもそうしていただろうな、と話すハーレイ。ノアは当時の首都惑星だし、沢山の船が発着した筈の場所。其処をキースが出入りする度、航路が占有されたなら…。
「うーん…。キースの船が来たっていうだけで、大勢の人が迷惑しそう…」
他の船の都合も考えないで、強引に発着するんだろうし…。飛べない船とか、降りられない船、山ほど出て来てしまいそう。…軍の船だと、予定なんか決めていないんだから。
人類軍がそうしていたなら、シャングリラが風待ちしてたのは…。
敵なのに行儀がいい船だよね、とハーレイに言った。「人類軍の方がずっと酷いよ」と。
「そうかもなあ…。降りるから他の船は全部引っ込めておけ、と言いはしなかったから…」
もちろん飛び立つ時にしたって、航路を占有しちゃいない。他の船だって離着陸してた。
あれは高評価だったのかもしれんな、前の俺はそこまで計算しちゃいなかったが…。
人として判断してたってだけで、人類軍のヤツらと比べちゃいなかったんだが…。
ミュウの船でも行儀がいい、と思っていたかもしれんな、管制官のヤツら。
同じ時に宙港を発着していた、他の宇宙船に乗ってた客やパイロットも。
「流石、ハーレイ!」
前のぼくは其処まで頼んでないのに、シャングリラにルールを守らせたんだね。
地球に着くまで、何処の宙港に行った時でも、管制官たちにミュウの船が嫌われないように…。
ありがとう、とピョコンと頭を下げた。前の自分がいなくなった後も、深い絶望と孤独の中でも頑張ってくれたキャプテンに。
「褒めて貰えて嬉しいが…。今のお前の言葉にしたって、もう充分に嬉しいんだが…」
お前だったら、どうしてた?
前のお前が生きていたなら、ソルジャー・ブルーがシャングリラで地球を目指していたら。
手に入れた星に降りる時にだ、シャングリラの他にも小型艇が降下を待ってたら…。
その小型艇を先に行かせて風待ちするか、ジョミーみたいに苦い顔をするか。
「あんな船など待っていないで、さっさと降りろ」と俺を叱って。
いったい、お前はどっちなんだ、と問い掛けられた。風待ちするのか、強引に行くか。
「…どうだろう…?」
前のぼくだよね、シャングリラをそのまま待機させるか、降ろすのか。
シャングリラよりもずっと小型で、風の影響を受けそうな船がいるのなら…。
どうするだろう、と考えたけれど、きっと待たせたような気がする。
前のハーレイに「待て」と指示して、小型艇が先に降りるまで。燃料に余裕が無いかもしれない小さな船なら、先に行かせてやりたいと思う。安全に降りられる条件が揃っている間に。
相手は人類の船だけれども、武装していない民間船なら敵ではない。
白いシャングリラの敵でさえもない小型艇。しかも乗員は一般人だし、シャングリラよりも先に降ろすべき。彼らが困らない内に。
(…だって、航路を占有されたら…)
その間に風向きが変わったりしたら、暫く降りられないかもしれない。…燃料がどんどん減ってゆくのに、足りなくなるかもしれないのに。戦場と知らずにやって来たなら、有り得ること。
燃料不足に陥ったならば、乗員の身にも危険が及ぶ。救助艇が飛び立ったとしても…。
(間に合うだろうけど、怖いよね…?)
救助されるのを待っている間も、そうなる前に燃料がぐんぐんと減っていた時も。
いくら人類でも、そんな目に遭わせたくはない。軍人でないなら、民間人が乗った船なら。
ジョミーと違って、アルタミラなどで苦労し続け、文字通り何度も死にかけた自分。
他の誰かに、同じ苦しみを味わわせたいとは思わない。…人類だとしても。
何の罪も無い人類たちを、踏み躙って前へ進めはしない。
シャングリラの降下を遅くするだけで、小型艇が無事に降りてゆけるなら、それでいい。
きっと宇宙から見送るのだろう。「無事に降りた」と、「先に降ろしてやって良かった」と。
それを見届けてから、シャングリラを降ろす。他にも似たような船がいないか、確かめてから。
前の自分ならそうするだろう、と出て来た答え。人類の船を先に行かせる。
「ぼくだと、風待ち…。ハーレイがやっていたのと同じ」
だけど、それだと地球に行くのは無理だと思う。
風待ちと同じで、人類に気を遣いすぎちゃって…。戦いを始めることも出来なくて。
ジョミーは風待ちをしないタイプで、だから地球まで行けたんだよ。
人類を何人犠牲にしたって、地球まで辿り着かなくちゃ、って。…降伏して来た船だって全部、沈めたのがジョミーだったんだもの。
ぼくだと駄目だよ、そこまで出来ない。どうしても甘くなってしまって。
そのせいで地球まで行けないまま。…ホントに行けなかったんだけど。
ジョミーよりもずっと長生きしていたのにね、と零した溜息。「ぼくには無理な道だった」と。
「性格の違いというヤツか…」
お前、風待ちしすぎたんだな、様子見するっていう方の風を。
風向きがミュウに味方するのを、じっと我慢して待ってる間に、寿命が尽きてしまった、と。
前のお前は慎重すぎて…、とハーレイが口にする通り。前の自分は待っていただけ。
「うん、性格の違いだと思う…」
強引に出ては行けなかったよ、前のぼくはね。…それが必要だと分かっていても。
やっぱりジョミーでなくちゃ駄目だね、地球に行くには。
ミュウに必要だったソルジャーはジョミーで、前のぼくだと時代の流れは変えられなくて…。
戦いも始められなかったくらいに、甘すぎるソルジャーだったから。
「どうなんだかなあ…」
そればっかりは謎だと思うぞ、ジョミーだけでもどうにもならん。
トォニィたちが揃っていたって、シャングリラが無いとまるで話にならないし…。
そのシャングリラを改造させたのは前のお前で、元になった船は何処から来たんだ?
前のお前が、アルタミラから俺たちを脱出させていなけりゃ、何も始まりはしなかった。
甘すぎるソルジャーだったとしてもだ、前のお前が全ての始まりなんだから。
今の平和な世界があるのは時代の流れで、結局は風が決めたんじゃないのか、と今のハーレイは言うけれど。「甘すぎるソルジャーでも良かったんだ」と慰めてくれるのだけれど…。
「それは今だから言えることでしょ、ジョミーが頑張ってくれたから…」
命懸けでSD体制を倒して、人類とミュウが一緒に暮らせる時代を作ってくれたから。
…ジョミーだけじゃなくて、キースもだけれど。
前のぼくは風待ちしていたけれども、風待ちっていうのは、し過ぎちゃっても駄目なんだよ。
ジョミーくらいで丁度良くって、ハーレイは、ぼくとジョミーの中間。
「なんだ、そりゃ?」
どうして俺の名前が出るんだ、とハーレイは不思議そうだけれども。
「本物の風待ち、してあげたんでしょ。…宙港でね」
ジョミーが「行け」って怒っていたって、シャングリラを宇宙で待機させて。
風待ちをしないと降りられない船が、安全に先に降りられるように。
そんなハーレイが船にいたから、人類はミュウを嫌わずに受け入れてくれたのかも…。
侵略者だけど、怖くはない、って。…ルールも守るし、人類軍より親切だ、ってね。
航路を占有したりはしないし、逆に譲ってくれるんだから。
「まあ、その辺は俺も注意を払ったからなあ…」
ジョミーが強引に行きたがる分、俺が重石にならないと、と。
俺で抑えが利いてる間は、ジョミーはもちろん、他のヤツらにも目を配らんとな?
トォニィたちが無茶をしようが、物騒な台詞を吐いていようが。
「ありがとう、ジョミーを支えてくれて」
前のぼくがいなくなった後まで、いろんな所に気を配って…。人類にまでね。
「お前、そいつを頼んだしな?」
ジョミーを支えてやってくれ、と言われたからには頑張るしかない。
前のお前を失くしちまって、抜け殻みたいになっていたって、俺はキャプテンなんだから。
お前の最後の頼みなんだし、何が何でも、叶えないとな…?
そのためだけに俺は生きていたんだ、とハーレイは強調するけれど。
ソルジャー・ブルーの最後の頼みを聞いただけだ、と今も繰り返し言うのだけれど。
「…頼まなくても、ハーレイならやってくれたでしょ?」
ジョミーのことだけ頼んでいたのに、風待ちまでしてたハーレイだから。
その方がきっといいだろうから、ってジョミーが「行け」って怒っていたって、放っておいて。
頼んだ以上のことをやってくれたよ、とハーレイの瞳を覗き込んだ。
「だから、ハーレイなら、きっと」と。
ジョミーを支えてやってくれ、という言葉が無くても、色々なことをしてくれた筈、と。
「…俺の性格からして、そうなんだろうが…」
そうなったろうが、貧乏クジな気がするな。前のお前を失くしちまっても、頑張るだなんて。
「好きだよ、ハーレイのそういう所」
うんと優しいから、出来るんだよ。…前のハーレイも、今のハーレイも。
だけど、今は風待ち、しなくていいね。帆船の船長もやっていないし、風待ちは無し。
「いや、しているが?」
今も風待ちしているんだ、と返った答えに驚かされた。心当たりが何も無いから。
「待ってるって…。何の風待ち?」
「お前と結婚するってことだな、当分は此処で待機だってな」
ちっとも風が吹きやしない、とハーレイは今も風待ち中。結婚という名の風が吹くのを。
「待たなくっても、結婚出来るよ?」
ぼくは結婚、早くてもいいし、今すぐでもかまわないけれど…?
「お前、背丈も足りていないし、年もだろうが!」
前のお前と同じ背丈に育つまではだ、キスも駄目だし、デートも駄目だ。
それで結婚出来るのか?
ついでに、年も足りていないぞ。お前、十四歳だろう?
十八歳にならんと結婚出来んし、どう考えても俺は待機で、風待ちなんだ…!
結婚出来る日はまだまだ先だ、と今のハーレイも風が吹くのを待っているらしい。
今はまだ、見えもしない風。
いつになったら吹いて来るのか、何処から来るかも分からない風を。
その風がいつか、吹いて来たなら…。
(ハーレイと結婚式なんだよ…)
真っ白なドレスか、白無垢を纏って結婚式。
ハーレイと誓いのキスを交わして、左手の薬指に嵌める指輪を交換して。
嵌める指輪が、白いシャングリラの思い出だといい。
白い鯨だった金属から出来た、シャングリラ・リングを嵌められたらいい。
前の生では、風を気にしていたキャプテン。
アルテメシアの雲海の中でも、人類の宙港に降りる時にも。
前はキャプテン・ハーレイだった人と、いつか結婚して幸せに暮らす。
今も風待ちをしているという、前の生から愛し続けた愛おしい人と、青い地球の上で…。
風と風待ち・了
※宇宙船が宙港に降りる時には、風向きも重要。シャングリラほどの船だと不要ですけど。
それでも人類の船を先に降ろそう、と決断した前のハーレイ。ジョミーが不機嫌になっても。
(あっ、ハーレイ!)
見付けた、と弾んだブルーの胸。お昼休みの学校の中庭。
向こうから歩いて来るハーレイ。他の先生とはまるで違った立派な体格、一目で分かるその姿。同じようなスーツを着込んでいたって、「ハーレイだ!」と。
ハーレイの手には沢山の荷物。大きく膨らんだ紙袋が幾つも、何処かへ運んでゆく途中。
(ぼく、予知能力があるのかも…!)
そんな考えがポンと浮かんだ。
どうしたわけだか、今日はランチの後に単独行動。ランチ仲間と食事をしたら、いつもは食堂でのんびり過ごして、皆と一緒に戻るのに…。「先に行くね」と出て来たのだった。一人きりで。
何処かへ出掛ける用事も無いのに、食堂を後にして来た自分。単に教室へ戻るだけ。
何故だかそういう気分だっただけで、教室でやりたいことだって無い。でも…。
ハーレイに此処で会えたとなったら、予知かもしれない。「早く行かなきゃ」と出た食堂。
(ぼくのサイオン、不器用だけど…)
予知なら、ちょっぴりフィシスみたい、とワクワクする間にグンと縮まったハーレイとの距離。ハーレイはとても大きな歩幅で、見る間に近付いて来るものだから。
「ハーレイ先生!」
もういいよね、と呼び掛けた。手を振るわけにはいかないけれども、とびきりの笑顔。先生には挨拶もしなければ、と頭の方もピョコンと下げて。
「おう、一人か?」
昼飯はもう食ったのか、とハーレイも笑顔を返してくれた。「元気そうだな」と。
「ハーレイ先生、荷物、手伝います!」
何処まで運べばいいんですか、と横に並んで尋ねる間も急ぎ足。大股で歩くハーレイは止まってくれないから。前へ前へと、どんどん歩き続けるから。
ハーレイの荷物運びを手伝いながら、色々と話がしたかった。学校では「ハーレイ先生」でも。敬語で話さなくてはいけない相手で、生徒らしい話題しか選べなくても。
それでもハーレイと話せるものね、と懸命に急ぎ足なのに。ハーレイの隣を歩いているのに…。
「お前の気持ちは嬉しいんだが…。お前には、これは無理だってな」
その気持ちだけ貰っておくさ、と荷物を寄越してくれないハーレイ。紙袋の中身がズシリと重い物にしたって、一つくらいなら持てそうなのに。
「でも…。紙袋、一つくらいなら…」
ぼくにも持てます、と食い下がった。両手でしっかり握ればきっと、と。
「重さじゃないんだ、大して重くはないからな。…袋は見ての通りだが」
見かけの割に中身は軽い。しかし、問題はお前の足だ。
「足?」
「お前、今の速さでも必死だろ?」
俺の速さについてくるのは、とハーレイに言われてみればそう。今もせっせと急ぎ足だから…。
「は、はい…」
「なら無理だ。俺は端っこの校舎まで行って、あそこの最上階までだからな」
今の速さを保ったままでだ、其処まで行こうとしてるわけだが…。
ついて来られるのか、エレベーターは使わんぞ?
俺の貴重な運動の機会を、あんなのに乗せて横から奪ってくれるなよ。
階段を自分の足で上るのは、いい運動になるからな。平たい所を歩いて行くより、ずっと。
だから歩いて上るんだ、とハーレイは今も大股で前へ。「お前、来るのか?」と。
「エレベーター抜きでついて来られるなら、荷物くらいは持たせてやるが」と。
荷物運びを手伝いたいのに、ハーレイがつけて来た条件。荷物は重くはないらしいけれど…。
(端っこの校舎…)
其処まで行くなら、かなりの距離。急ぎ足のままだと息が切れそう。
しかもハーレイが目指しているのは最上階。運動のためにとエレベーターは抜き、階段を上ってゆくしかない。この速さのままで、最上階まで。
(…ハーレイだったら、階段だって…)
今の速度で楽々上って、もしかしたら一段飛ばしでヒョイヒョイ行くかもしれない。ハーレイの足なら充分出来るし、運動にだってなりそうだから。
(一段飛ばしをされちゃったら…)
ますます速くなりそうな足。とても一緒に歩けはしないし、そうでなくても階段は無理。多分、途中でダウンする。自分のペースで歩いていいなら、なんとか辿り着けそうだけれど。
「どうなんだ、おい?」
一緒に来るか、とハーレイが向けて来た視線。足は全く止めないままで。
「む、無理です…」
ぼくは行けそうにありません、と掲げた白旗。いくらハーレイと歩きたくても、無理だから。
「だから言ったろ、無理だとな。…お前の気持ちは嬉しいんだが」
人間、誰でも、向きや不向きがあるもんだ。お前には、これは向いてない。
それじゃな、俺は急ぐから。
こいつを向こうに届けたついでに、ちょいと話もしたいってわけで…。
あっちは次は授業らしいし、急がないとな。
昼休みが終わっちまうだろうが、と大股で歩き去ったハーレイ。紙袋を全く持たせてくれずに、手伝いの許可もくれないままで。
アッと言う間に遠ざかる背中、速度は少しも落ちないから。
荷物運びを手伝えない自分の足は止まって、中庭の端で見送ることしか出来ない。
せっかくハーレイに会えたというのに、ポツンと置き去り。
ハーレイと並んで歩けはしなくて、荷物運びも手伝えないのが自分だから。
行ってしまった、沢山の荷物を持ったハーレイ。校舎の陰に入ってしまって、もう見えない。
(会えたのはラッキーだったけど…)
嬉しくて心臓が跳ねたけれども、置いて行かれたことはどうだろう?
ハーレイと一緒に歩く代わりに、こうして置き去り。「お前には無理だ」と断られて。手伝いをしたくて申し出たのに、あっさりと。
一番端っこの校舎まで行って、最上階まで階段を上る。それがハーレイのやり方だから。身体の弱い自分はついて行けないから。
(エレベーター、使わせて貰っても…)
きっとそれまでに息切れを起こす。端っこの校舎に着くよりも前に、ハーレイの速さに合わせて歩く間に。自分にとっては急ぎ足でも、ハーレイにとっては大した速さではない歩き方。
普段よりは確かに速かったけれど、足の運びが少し大股だっただけ。
(…置き去りだなんて、酷いんだから…!)
荷物を持つと言ったのに、と思うけれども、ハーレイにも、荷物の届け先にも都合。届けたら、少し話もしたいというのに、先方は昼休みが終わった途端に授業。
そういうことなら、急いでいたのも仕方ない。届けるだけではないのだから。
(残念…)
ハーレイと二人で歩きながら話せる、絶好のチャンスだったのに。
向こうから来るハーレイの姿を見付けた時には、「ツイている」と胸を弾ませたのに。ある筈もない予知能力があるのかも、と。
「おーい、ブルー!」
そんな所で何してんだよ、と声が聞こえて、現れたランチ仲間たち。「どうしたんだよ?」と。
「ううん、なんでもない」
先に教室に行こうと思ってたんだけど…。
ハーレイ先生が通り掛かったから、ちょっと話をしたりしていて…。
「…ハーレイ先生?」
何処に、と訊かれて、「もう行っちゃった」と指差したハーレイが消えた方。ランチ仲間たちは行き先を聞くなり、「流石」と唸った。「エレベーターより階段かあ…」と。
流石はハーレイ先生だよなと、「普段から鍛えているってことか」と。
それからは皆でワイワイ喋って、賑やかに戻って行った教室。
ハーレイに置き去りにされてしまったことも綺麗に忘れたけれども、放課後になって、帰ろうと中庭の所まで来たら思い出した。昼休みに起こった小さな事件。
(…此処で置き去り…)
もう少し丈夫な身体だったら、ハーレイと一緒に行けたのに。
急ぎ足どころか、走ってだって。
「エレベーターより階段かあ…」と唸ったランチ仲間たちでも、きっと出来る筈。
実際、彼らは階段を走って上るから。「キツイよなあ…」と零しはしたって、最上階でも。
彼らみたいに丈夫なら、と思ってはみても、学校の帰りもバスのお世話になるのが自分。元気な生徒は徒歩や自転車で通う距離なのに、自分はバス。
(これじゃ駄目だよ…)
急ぐハーレイを追い掛けられるわけがないじゃない、と乗り込んだバスの中で溜息。
バスがぐんぐん走ってくれて、着いた家から近いバス停。其処から家までの道もトボトボ、この距離でさえも…。
(全力疾走しようとしたら…)
ほぼ間違いなく、倒れてしまうことだろう。カンカンと日が照り付けるような真夏でなくても、今のように穏やかな季節でも。運動するにはピッタリの陽気の時だって。
クラリと眩暈を起こしてしまって、しゃがみ込むのだろう道の脇。
(そのまま、暫く動けなくって…)
家に帰っても、玄関でパタリと伸びてしまうに違いない。制服のままで突っ伏して。靴も履いたままで、「もう動けない」と。
そうやって玄関で伸びていたなら、「どうしたの?」と見に来るだろう母。「寝ていなさい」と額に冷たいおしぼり、落ち着いた後は…。
(…部屋で大人しくしていなさい、って…)
きっと押し込まれるベッド。「大丈夫だよ」と言ったって。運が悪いと、そのまま病院。注射は嫌だと駄々をこねても、「駄目!」と母に叱り付けられて。
(病院の先生、注射を打つのが好きだから…)
要らないと言っても、ブスリと打たれてしまいそう。「直ぐに元気になれるからね」と。
そうなっちゃうに決まってる、と考えながら帰った家。母が焼いてくれたケーキは美味しかったけれど、食べ終えて二階の部屋に戻ったら悔しい気分。
またまた思い出したから。昼休みにポツンと中庭に置き去りにされたこと。
(ハーレイに会えてツイていたのか、ツイてないのか分からないよ…!)
こんな思いをするくらいならば、会わない方がマシだったろうか?
ランチ仲間たちと一緒に食堂を出れば、ハーレイには会わなかった筈。とっくの昔に通り過ぎた後で、背中さえも見えはしなかったろう。「もっと早くに来ていれば」と思うことさえ。
そっちの方が良かったかな、と一瞬、考えたのだけれども。
(でも、あれだって貴重なチャンス…)
学校では「ハーレイ先生」だけれど、ハーレイには違いないのだから。
敬語を使って話さなくては駄目な相手でも、やっぱりハーレイ。そのハーレイと話が出来たし、少しだけ一緒に歩けたのだし、会えないよりは会えた方がいい。
残念なのは置き去りにされたこと。もっと丈夫な身体だったら、ハーレイについて行けたのに。
前の自分とそっくり同じに、虚弱な身体。すぐに息切れ、階段を走って上るのも無理。
(…鍛えるなんて出来ないし…)
次があっても置き去りだよね、と項垂れていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、テーブルを挟んで向かい合うなり、「すまん」と頭を下げられた。
「今日の昼間は悪かった。この通りだ」
「えっ…?」
どうしたの、と驚いて見開いてしまった瞳。ハーレイは何を謝るのだろう?
「お前、手伝うって言ってくれてたのにな」
断っちまってすまん。後からゆっくり考えてみたら、可哀相なことをしちまった、って…。
急いでいたのも、階段を使って行こうというのも、俺の勝手な都合ってヤツで…。
お前にしてみりゃ、エレベーター、使って欲しかったよな?
もっとも、それで「来るか?」と俺が誘っても、お前、途中でダウンだったろうが…。
エレベーターの所まで行けもしないで、すっかり息切れしちまって。
それでも一緒に来たかっただろう、とハーレイは済まなそうな顔。
「お前、あそこに置いて行かれるより、途中まででも俺と歩きたかっただろう?」
荷物を持たせてやれば良かった、お前が行ける所まで。
ダウンしちまったら、それから「じゃあな」と俺が一人で行くべきだった。
最初から断ったりはしないで、お前の気持ちを最優先で。
俺の考えが足りなかった、とハーレイが詫びるものだから。
「ううん、ぼくの身体がもっと丈夫だったら…。そしたら一緒に行けたんだよ」
駄目だったのは、ぼくのせいだから…。ハーレイは少しも悪くなんかないよ。
確かにちょっぴり寂しかったけど、ぼくさえ丈夫に生まれていたなら、置き去りになんか…。
されちゃうことは無かったしね、と微笑んでみせた。「ハーレイのせいじゃないんだから」と。
「こらこら、そこで鍛えようだなんて思うなよ?」
もっと丈夫な身体になろう、と無茶なトレーニングをするのはいかん。
昼間も言ったが、向き不向きってのがあるんだから。お前の身体は鍛えるようには出来てない。
無茶な運動をしたら壊れちまうし、今のお前のままでいいんだ。
弱い身体を壊さないよう、維持してゆくのも大事なことだ、と諭された。それも健康作りの内。今の健康を損ねないのも、とても大切なことなのだから、と。
「鍛えたいなんて、思ってないよ。…失敗しちゃったこともあるから」
丈夫になろう、って体育の時間に頑張りすぎたの、一度じゃないから…。
前はそんなの思ったことさえ無かったけれども、ハーレイに会ってから何回か…。
「よし。覚えてたんだな、無茶したことは」
俺のスープのお世話になってしまったこと。…寝込んじまって、野菜スープのシャングリラ風。
あれは良くない、無茶は無茶でしかないってな。自分の限界をきちんと掴んで貰わんと。
まあ、俺が急いでいない時なら、またお前にも手伝わせてやるから。
俺もお前と歩けるチャンスを、無駄にしたくはないんだし…。
少しばかり荷物が重すぎたってだ、お前が手伝えそうな分だけ頼んでやらなくっちゃな。
袋の中身を半分ほど移動させてでも…、とハーレイは手伝わせてくれるつもりらしいから。
「ホント?」
ぼくでも持てる重さの袋に変えてくれるの、ハーレイの荷物…?
「当然だろうが、袋さえ頑丈に出来てりゃな」
沢山詰めたら底が抜けちまうって時だと無理だが…。そうでないなら、そうしてやる。
お前は手伝いがしたいわけだし、俺の方でも、お前と一緒に話しながら歩きたいんだから。
…そういや、お前、昔からだな。うん、そうだった。
今も昔も変わっちゃいない、というハーレイの言葉が分からない。昔からとは、何だろう?
「変わらないって…。何が?」
「俺が急いでても、追い掛けようとするってヤツだ」
まるでヒヨコか何かみたいに、せっせと俺を追い掛けるんだな。ヒヨコ、そうだろ?
アヒルなんかだと、親鳥の後ろをヨチヨチ歩いて、頑張ってついて行くんだから。
「ぼくがハーレイを追い掛けたわけ?」
急いでいるのを追い掛けてたって、それ、いつの話?
知らないよ、と傾げた首。急ぐハーレイを追い掛けたなんて、まるで記憶に無かったから。
「言っただろう? 昔からだと。…ずっと昔さ」
昔と言ったら、シャングリラしか無いってな。白い鯨になる前からだ。
前のお前がチビだった頃から頑張っていたぞ、俺が急いでいた時は。
俺を追い掛けて急ぎ足どころか、負けない速さでちゃんとくっついて来るんだから。
「ハーレイに負けない速さって…。そんなの無理だよ、走れない筈だよ?」
前のぼくも今のぼくと同じで、身体が弱かったんだから。
身体を鍛えられるわけがなくって、走るのだってそんなに沢山は無理。…速く走るのも。
絶対に無理、と返したけれども、「それがだ…」と可笑しそうなハーレイ。
「どう考えても無理なわけだが、前のお前には反則技があったんだ」
前のお前は正真正銘、最強のタイプ・ブルーだったし、サイオンの扱いも上手かった。
そいつを生かして、瞬間移動でせっせと距離を稼いだってな。
俺との間が開いちまう前に…、と聞かされてハタと気が付いた。
「…瞬間移動…」
やってたっけね、ハーレイが歩く速さについて行けない時は…。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかったシャングリラ。
最初の間は、ハーレイは備品倉庫の管理人だった。厨房の責任者と兼任で。
「思い出したよ、ハーレイが急いで歩いている時だっけ…」
倉庫に何かを運ぶ時とか、倉庫から出して来た時だとか…。
両手で荷物を山ほど抱えて、今日のハーレイみたいに大股…。「これは急ぎだ」って。
冷凍になってた食材だとか、仕分けが終わって倉庫に入れる物資だとか。
「追い掛けて来ただろ、俺と歩きながら色々喋ろうとして」
俺は仕事の真っ最中だし、喋るんだったら歩きながらしか無いモンだから…。
仕事が終わって暇になるまで待っていないで、お前、追い掛けて来ちまったんだ。
瞬間移動を繰り返しながら、俺に置き去りにされないように。
ついでに荷物も、「ぼくも運ぶよ」と横から奪い取ったり、奪おうと手を出したりしてな。
あれは本当に凄かった、とハーレイも半ば呆れ顔。「其処までして追い掛けて来るなんて」と。
「だって…。ハーレイと話したかったから…」
仕事中だと、仕事しながらしか話せないでしょ?
厨房で料理をしている時とか、倉庫で整理をしてる時なら、ハーレイ、動かないけれど…。
何かを運んでいる時だって、急いでなければ一緒に歩いていけるんだけど…。
急ぎの荷物を運んでる時は、ぼくの足だと追い付けないから…。
どんなに頑張って歩いてみたって、ハーレイの方がずっと速くて、走っても無理。
ぼくの足では追い付けないなら、瞬間移動がピッタリじゃない。
宙を飛ぶより、歩いてる方がいいものね。…ハーレイと同じ通路を、ちゃんと。
「あれを歩いていると言うのか、確かに通路に足がついてはいたんだが…」
歩いたわけでも走ったわけでもなかっただろうが、前のお前は。
滑るような速さで追って来るんだ、歩いてるような顔をして。…しかし実際は歩いちゃいない。
「ああしないと置いて行かれるじゃない…!」
ハーレイはぼくより歩幅が広くて、おまけに大股。
それで急いで歩かれちゃったら、ぼくの足では無理なんだってば…!
歩きながら話をしたい時には、ああやってハーレイを追い掛けていくしかなかったんだよ…!
前のハーレイも身体が大きかったし、頑丈でもあった。ミュウの中では珍しく丈夫。
だから大股で歩き去ったし、何度も追い掛けたハーレイの背中。ハーレイが急いでいる時は。
ポツンと置き去りにされてしまう前に、瞬間移動で前へ進んで追い付いて。
(あの方法だと、ちゃんと一緒に歩けたんだよ)
歩くのとは全く違うけれども、感覚としては似たようなもの。急がなくちゃ、と追い掛けた。
そうやって瞬間移動をしながら、時にはハーレイの荷物も持った。「手伝うよ」と。
渡して貰った荷物を抱えて、やはり繰り返した瞬間移動。
ハーレイに置いて行かれないよう、話しながら歩いてゆけるよう。歩くのとは違って瞬間移動をしたのだけれども、ハーレイの方は歩いていた。急ぐのだからと、かなりの速さで。
「お前の瞬間移動だが…。チビの間だけじゃなかったな」
ソルジャーになった後にもやってたぞ、お前。…白い鯨が出来上がった後も。
歩くどころか、俺が急ぎで全力疾走の時にも来たってな。
走っていたって、あのやり方なら平気でついて来られるから。
「うん、ハーレイに取り残されそうな分だけ、瞬間移動して先回り…」
何処へ行くんだい、って訊いていたでしょ、走ってた時は。
ハーレイの心を読んだりするより、直接聞くのが一番だものね。
ブリッジとかの様子を探っても分かるけれども、やっぱりハーレイと話したいじゃない。
走ってる時は、「はい」とか「ええ」とか、そういう答えが多かったけど…。
いくらハーレイが丈夫な身体を持っていたって、走りながら喋るのは大変だものね。
「そう言うお前は、凄い速さで俺と一緒に移動しながら、平気で喋り続けたわけだが…」
お前の身体は走っちゃいないし、喋ると舌を噛んじまうことも無いからなあ…。
喋れても別に不思議じゃないがだ、凄い速さで俺について来られた方。
あれはどういう理屈になっていたんだ、瞬間移動で走るってヤツ。
急ぎ足にくっついて来た時もそうだが、お前、地面に足だけはつけていたからな。
そうやって器用に追い掛けて来たが、あれの仕組みはどうなっていた…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイにぶつけられた質問。急ぎ足を追った瞬間移動。
「えっと…?」
とにかく瞬間移動なんだよ、ハーレイを追い掛けなくちゃ、って…。
前の自分が考えたことは、たったそれだけ。「ハーレイと一緒に歩きたい」とだけ。
走るハーレイを追っていた時も同じ。ハーレイと同じ速さで走って、ついでに話をしたかった。返って来る返事が「ええ」や「はい」でも、それがハーレイの精一杯でも。
(一緒に急いだら、ハーレイが仕事中でも話が出来るから…)
そう思うだけで、息をするように操れたサイオン。今の不器用な自分と違って、いくらでも。
ソルジャーの称号はダテではなくて、ただ一人きりのタイプ・ブルー。誰よりも強いサイオンを自在に使いこなして、シャングリラを守れたほどだから…。
ハーレイの速度と歩幅に合わせて、前へ、前へと繰り返していた瞬間移動。速すぎてハーレイを抜いてしまわないよう、遅すぎて置き去りにされないように。
それは覚えているのだけれども、今の自分はサイオンがまるで駄目だから…。
「仕組みは分かっているんだけど…。ぼくの頭では分かるんだけど…」
上手く説明出来ないよ。速すぎないよう、遅すぎないよう、調整していたことくらいしか。
前のぼくだと、「ハーレイと一緒に歩きたい」って思うだけで簡単に出来たんだけど…。
ハーレイが走っていた時も同じで、「追い掛けなくちゃ」って。
急いでいるハーレイと話をするには、あの方法しか無かったんだもの…。
「ふうむ…。前のお前には簡単だった、と」
しかし今だと、仕組みが分かっていると言っても、上手く説明出来ないんだな。
説明も上手く出来ないのならば、あれは真似られないってか?
真似が出来たら、俺がどんなに急いでいたって、お前、追い掛けて来られるんだが…。
今日みたいな時にも楽々とな、と言われても困る。
今の時代はサイオンを使わないのが社会のマナーだけれども、そのサイオンが上手く操れない。前と同じにタイプ・ブルーでも、名前だけ。思念さえ上手く紡げないレベル、とことん不器用。
「…瞬間移動が出来ないことくらい、知っているでしょ?」
一度だけハーレイの家まで飛んで行ったけど…。あれっきりだよ?
飛ぼうとしたって飛べやしないし、前のぼくみたいに器用なことは出来ないってば…!
「だろうな、今のお前じゃなあ…」
普通に瞬間移動をするのも無理だと、あんな凄すぎる芸当は夢のまた夢か…。
歩きも走りもしちゃいないのに、俺の隣にピタリとついて、せっせと喋りまくるのは…。
あの芸当が出来ないんだな、とハーレイはフウと溜息をついた。
「まさに芸当といった感じで、前の俺は感心していたわけなんだが…」
よくも平気でついて来るなと、しかも全速力で走っていたって喋れるなんて、と思ったが…。
それが駄目だということになると、お前、今度は俺に置き去りにされるしかないんだな。
今日みたいに、「俺は急ぐから」と放って行かれちまって。
ポツンと残されちまうわけだな、とハーレイが言うから、コクリと頷いた。
「そうだよ、ハーレイがゆっくり歩いてくれないと無理」
でなきゃ一緒に連れてってくれるか、どっちかでないと…。
「はあ? ゆっくり歩けというのは分かるが…」
一緒に連れて行くっていうのは、いったい何なんだ?
お前でも歩けるような速さで歩いていくのと、一緒に行くのは同じだろうが。
全く同じに聞こえるんだが…、とハーレイは怪訝そうだけれども、同じではない、その二つ。
「えっとね…。一緒に歩いていくのと、連れてってくれるのとは別なんだよ」
一緒に歩いていく方だったら、ぼくは自分で歩くんだけど…。遅れないように頑張って。
でもね、連れてって貰う方だと、歩かなくてもいいんだってば。
ハーレイの背中におんぶで行くとか、抱っこして運んで貰うとか…。
それならハーレイと同じ速さで行けるし、ぼくは少しも頑張らなくてもハーレイと一緒。
お喋りだって出来そうだよね、と微笑んだ。「ハーレイが走っていないなら」と。
「俺がお前を運ぶだと?」
その状態で急ぐだなんて、俺の用事はどうなるんだ?
何処かへ急いでいるというのに、お前を背負うとか、抱いて運ぶとか…。
俺の用事がサッパリだろうが、お前の面倒を見るのに時間を割かれちまって。
荷物も満足に運べやしないぞ、俺が頑丈に出来ていたって。
お前だけで身体が塞がっちまう、とハーレイは苦い顔をした。「それは出来ん」と。
急ぐのは用があるからなのだし、今日と同じで用事の方を優先すべき。「すまん」と詫びたら、後は一人で急ぐだけだ、と。
「お前はチビだが、そのくらいのことは分かるだろう?」
用を済ませるのが大切なことで、お前と一緒に行くかどうかは、考えちゃいられないってな。
後できちんと謝りはするが、俺は一人で行かせて貰う、と言われたけれど。
「その用事…。ぼくを運ぶのが用事だったらいいじゃない」
大急ぎでぼくを運ぶんだったら、ぼくと用事はセットだから。…切り離せないよ?
今のぼくはハーレイが急ぐ時には置き去りなんだし、暇な時には、ぼくを運んでくれたって…。
いいと思う、と駄々をこねてみた。「ぼくを急いで運んでよ」と。
「お前を急いで運ぶって…。どんな用事だ、怪我は困るぞ。病気だってな」
怪我や急病なら、お前を抱えて全力疾走したっていいが…。頼まれなくてもするんだが…。
そんなのは駄目だ、そんな物騒な用事はな。
お断りだ、と睨まれた。「とんでもない用を作るんじゃない」と。
「駄目…?」
ハーレイ、運んでくれないの…?
ううん、運んでくれるだろうけど、そういう用事は駄目だって言うの…?
「当たり前だろうが、怪我に病気だぞ?」
よく考えてものを言うんだな。お前が痛かったり、苦しかったりするんじゃ困る。
怪我や病気は痛いし、苦しいわけなんだから…。
それは駄目だな、いくらお前を運んでやれる用事でも。…お前の注文通りでも。
もっと平和で、お前を急いで運ばなければならない理由というヤツをだな…。
考えてから出直して来い、と叱られた。「怪我と病気は論外だ」と。
「でも、そんなのしか無いじゃない…!」
ハーレイが急いで運んでくれそうなのは、怪我か病気で…。
「だから駄目だと言っている。運ばないとは言わないが…」
歓迎出来る用じゃないしな、出来れば御免蒙りたい。
お前の気持ちは分からないでもないんだが…。それとこれとは別だってな。
物騒じゃない用事を思い付いてから言ってくれ、と注文をつけたハーレイだけれど。
「お前を急いで運ぶ用事は、何処にも無いと思うがな?」と軽く両手を広げたけれど…。
「…待てよ、全く無いこともないか」
急ぎでお前を運ぶって用事。…急がないと話にならないヤツが。
俺だけ急いで出掛けて行っても、お前を置き去りにしてしまったら駄目だよなあ…。
あれだと駄目だ、と顎に手をやるハーレイ。「時間との戦いなんだから」と。
「急ぐって…。急がないと駄目って、何かあるの?」
ハーレイだけが急いで行っても、ぼくがいないと駄目な用事が…?
「先着何名様ってイベント、お前も聞いたことはあるだろ?」
ああいうヤツなら、お前をヒョイと抱えて走っても大丈夫だな。一緒に着かんと駄目なんだし。
俺だけ一人で行っちまっても、お前の恨みを買うだけだ。
小さな子供を抱えて走ってる親も、珍しくなんかないからなあ…。
親だけ着いても、子供の分が足りないだろう。だから抱えて走ってるってな。
「小さい子供向けのイベント…?」
お菓子が貰えるとか、ゲームに参加できるとか…。あんなのに行くの、ハーレイと?
ぼくを抱えて走ってくれるんなら、子供向けでもいいけれど…。
「子供向けじゃないのも色々あるぞ。気を付けて情報を集めていれば」
そうだ、夏にアユを食わせるヤツがあったな。…アユの塩焼き。
「アユ…?」
魚だよね、と思ったアユ。夏になったら川で釣っている人が大勢。
「郊外の方だが、知らないか?」
たまに新聞にも載ってるぞ。その場で焼いて食わせてくれるイベントで…。
この日にやります、って案内が出たり、焼いてる所や、美味そうに食ってるヤツらの写真とか。
「あるね、そういうのが…!」
今年も見たっけ、沢山のアユを焼いてる写真。
川のすぐ側で、焼けるのを待って、大人も子供も凄い行列…。
そういえばあった、と思い出した夏の風物詩。
郊外の川の中洲で開催される名物イベント、塩焼きのアユが食べられる。焼き立てのが。
とても人気のイベントだけれど、整理券などは出されない。その日に其処に出掛けて行って…。
「走り込んだ順に並ぶ筈だぞ、あのイベントは」
朝早くから並んだりするのは禁止で、この時間から、というのがあるんだ。
其処から中洲に急ぐってわけで、先着順だぞ。アユがある間に中洲に着いたら食えるわけだな。
数は沢山用意してるが、欲しい連中も多いから…。
もう文字通りに急いで行くしかないってな、というのがハーレイの説明。塩焼きのアユを食べるためには、アユが無くなってしまわない内に中洲に向かって急ぐこと。
(橋は架かっているけれど…)
スタート地点になる駅やバス停、其処からは少し離れた中洲。自分の足では、とても走れそうにない距離があることが分かるから…。
「あれに出掛けるの?」
ぼくじゃ走れないよ、中洲までは。橋くらいは渡れそうだけど…。
「そうだろう? 悪くないと思うんだがな、あれ」
お前の足だと間に合いやしないし、俺がお前を担いで走る。
そうすりゃ間に合う筈だから…。俺もお前も、美味しいアユにありつけるんだ。
「ハーレイ、ぼくを担いじゃうわけ?」
担ぐんだったら、背中じゃなくって肩の上だよね?
なんだか荷物になったみたいだけど、ぼくを担いで走るって言うの…?
「そいつが一番走りやすいしな、担ぐのが」
運動会だと、デカイ荷物を担いで走る競争なんかがあったりもする。米俵とかな。
担いで走るのが早いからこそ、そういう競争になるわけで…。
俺がお前を担いで走れば大いに目立つが、間に合うことは保証してやるぞ。
なんたって俺の足だからなあ、お前を一人担いだくらいじゃ、簡単に抜かれやしないから。
チビでなくても、前のお前と同じに育ったお前でもな。
任せておけ、とハーレイが請け合ってくれたアユの塩焼きを食べるイベント。先着順で。
自分の足では間に合わないから、ハーレイが担いで走ってくれる。
前の自分がやっていたように、走るハーレイの速度に合わせて、瞬間移動は無理だけれども…。
「それ、行きたい…! アユの塩焼き!」
美味しそうだし、それにハーレイと同じ速さで走れるし…。
ぼくが走っているんじゃないけど、ハーレイに運んで貰うんだけど…。
でも、ハーレイとおんなじ速さ、と担いで走って貰いたくなった。大勢の人に見られていても。
他に担がれて走っているのは、小さな子供だけだとしても。
「だったら、お前と行くことにするかな」
あれがある日は、朝から郊外まで行って。…スタートの時間になったら、お前を肩に担いで。
親父がアユを提供してるし、わざわざ必死で走らなくても、裏方特権で食えるんだが…。
前の日までに「二人行きます」と言っておいたら、ちゃんと残しておいてくれるが…。
お前が、俺の急ぎ足を追い掛けるのが無理になっちまって、担いで走って欲しいと言うなら…。
そっちの方を優先するが、と鳶色の瞳が瞬いた。「俺と一緒に走りたいか?」と。
「裏方特権っていうの、あるんだ…」
ハーレイのお父さんだから出来るんだよね、釣り名人でアユも釣るから…。
特権を使えば、走らなくてもアユは二人で食べられるんだ…。
「そういうことだな、どっちがいい?」
俺に担がれて走るのがいいか、のんびり出掛けて食うのがいいか。
アユの味は変わらないと思うんだが…。どっちのコースで食ったって。
お前が満足する方でいいぞ、裏方特権を行使するのも、俺が担いで走るのもな。
どっちがお前の好みなんだ、と訊かれたけれども、そう簡単には出せない答え。アユの塩焼きは聞いたばかりだし、まだハーレイとはデートにも出掛けられないのだから。
「…来年とかには、まだ行けないでしょ!」
ぼくがデートに行けるようになるまで、アユを食べには行けないんだから…。
それまでに悩むよ、どっちにするか。
ハーレイに担いで貰って走るか、裏方特権で食べる方にするか。
まだ何年も悩めそう、と零れた溜息。背丈は少しも伸びてくれなくて、前の自分には遠いから。
前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスも出来ないから。
デートだって無理、と悲しいけれども、学校だったら、二人で歩けるチャンスもたまに訪れる。今日は置き去りにされたけれども、そうでない時も、きっとある筈。
「…アユの塩焼きは、まだ無理だけど…。でも…」
また学校で何か運ぶ時には、手伝っていい?
ハーレイの荷物、ぼくでも持てる重さだったら…。行き先が遠くなかったら。
「もちろんだ。…俺が急がない時ならな」
さっきも言ったが、荷物も軽めに作ってやる。お前、手伝いたいわけだしな?
それと、いつかお前と二人きりでだ、学校以外の場所も歩けるようになったら…。
お前と一緒に歩く時には、急がせたりはしないから。
前の俺みたいに急ぎ足とか、全力疾走というのは無しだ。…ゆっくり歩こう。
せっかくお前と歩くんだから、という申し出は嬉しいけれど。
「急がせてもいいよ?」
ハーレイに急ぐ用事があるなら、ぼくも頑張って歩くけど…。少しくらいなら走れるし…。
「駄目だ、お前が倒れちまう」
前と同じに弱いんだからな、お前の身体は。…それに反則技も出来ない。
そんなお前に無理をさせたら、後悔するのは俺なんだ。なんで急がせちまったんだ、と。
お前は良くても俺が嫌だし、お前に急ぎ足はさせない。走る方だって。
ゆっくり歩け、とハーレイが強く念を押すから、今度は急ぎ足のハーレイは追えない。反則技が使えたとしても、きっとハーレイは急ぎ足も全力疾走もしない。
(…急ぐ時には、担いで走ってくれるだけだよね?)
アユの塩焼きイベントにしても、他にも何か急ぐような用が出来たとしても。
それなら、今度はハーレイと二人、のんびりと地球の上を歩いて行こう。
急ぐ時には肩に担いで貰って、他の人たちをハーレイが軽々と追い越していって。
ハーレイと同じ速さで走れる自分を、肩の上から楽しんだりして…。
急ぐ時には・了
※前のブルーには出来た、急ぎ足のハーレイを追い掛けること。瞬間移動で距離を稼いで。
今は出来なくなった芸当、ハーレイが急ぎ足でも追うのは無理。一緒に歩いてゆくのが一番。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
見付けた、と弾んだブルーの胸。お昼休みの学校の中庭。
向こうから歩いて来るハーレイ。他の先生とはまるで違った立派な体格、一目で分かるその姿。同じようなスーツを着込んでいたって、「ハーレイだ!」と。
ハーレイの手には沢山の荷物。大きく膨らんだ紙袋が幾つも、何処かへ運んでゆく途中。
(ぼく、予知能力があるのかも…!)
そんな考えがポンと浮かんだ。
どうしたわけだか、今日はランチの後に単独行動。ランチ仲間と食事をしたら、いつもは食堂でのんびり過ごして、皆と一緒に戻るのに…。「先に行くね」と出て来たのだった。一人きりで。
何処かへ出掛ける用事も無いのに、食堂を後にして来た自分。単に教室へ戻るだけ。
何故だかそういう気分だっただけで、教室でやりたいことだって無い。でも…。
ハーレイに此処で会えたとなったら、予知かもしれない。「早く行かなきゃ」と出た食堂。
(ぼくのサイオン、不器用だけど…)
予知なら、ちょっぴりフィシスみたい、とワクワクする間にグンと縮まったハーレイとの距離。ハーレイはとても大きな歩幅で、見る間に近付いて来るものだから。
「ハーレイ先生!」
もういいよね、と呼び掛けた。手を振るわけにはいかないけれども、とびきりの笑顔。先生には挨拶もしなければ、と頭の方もピョコンと下げて。
「おう、一人か?」
昼飯はもう食ったのか、とハーレイも笑顔を返してくれた。「元気そうだな」と。
「ハーレイ先生、荷物、手伝います!」
何処まで運べばいいんですか、と横に並んで尋ねる間も急ぎ足。大股で歩くハーレイは止まってくれないから。前へ前へと、どんどん歩き続けるから。
ハーレイの荷物運びを手伝いながら、色々と話がしたかった。学校では「ハーレイ先生」でも。敬語で話さなくてはいけない相手で、生徒らしい話題しか選べなくても。
それでもハーレイと話せるものね、と懸命に急ぎ足なのに。ハーレイの隣を歩いているのに…。
「お前の気持ちは嬉しいんだが…。お前には、これは無理だってな」
その気持ちだけ貰っておくさ、と荷物を寄越してくれないハーレイ。紙袋の中身がズシリと重い物にしたって、一つくらいなら持てそうなのに。
「でも…。紙袋、一つくらいなら…」
ぼくにも持てます、と食い下がった。両手でしっかり握ればきっと、と。
「重さじゃないんだ、大して重くはないからな。…袋は見ての通りだが」
見かけの割に中身は軽い。しかし、問題はお前の足だ。
「足?」
「お前、今の速さでも必死だろ?」
俺の速さについてくるのは、とハーレイに言われてみればそう。今もせっせと急ぎ足だから…。
「は、はい…」
「なら無理だ。俺は端っこの校舎まで行って、あそこの最上階までだからな」
今の速さを保ったままでだ、其処まで行こうとしてるわけだが…。
ついて来られるのか、エレベーターは使わんぞ?
俺の貴重な運動の機会を、あんなのに乗せて横から奪ってくれるなよ。
階段を自分の足で上るのは、いい運動になるからな。平たい所を歩いて行くより、ずっと。
だから歩いて上るんだ、とハーレイは今も大股で前へ。「お前、来るのか?」と。
「エレベーター抜きでついて来られるなら、荷物くらいは持たせてやるが」と。
荷物運びを手伝いたいのに、ハーレイがつけて来た条件。荷物は重くはないらしいけれど…。
(端っこの校舎…)
其処まで行くなら、かなりの距離。急ぎ足のままだと息が切れそう。
しかもハーレイが目指しているのは最上階。運動のためにとエレベーターは抜き、階段を上ってゆくしかない。この速さのままで、最上階まで。
(…ハーレイだったら、階段だって…)
今の速度で楽々上って、もしかしたら一段飛ばしでヒョイヒョイ行くかもしれない。ハーレイの足なら充分出来るし、運動にだってなりそうだから。
(一段飛ばしをされちゃったら…)
ますます速くなりそうな足。とても一緒に歩けはしないし、そうでなくても階段は無理。多分、途中でダウンする。自分のペースで歩いていいなら、なんとか辿り着けそうだけれど。
「どうなんだ、おい?」
一緒に来るか、とハーレイが向けて来た視線。足は全く止めないままで。
「む、無理です…」
ぼくは行けそうにありません、と掲げた白旗。いくらハーレイと歩きたくても、無理だから。
「だから言ったろ、無理だとな。…お前の気持ちは嬉しいんだが」
人間、誰でも、向きや不向きがあるもんだ。お前には、これは向いてない。
それじゃな、俺は急ぐから。
こいつを向こうに届けたついでに、ちょいと話もしたいってわけで…。
あっちは次は授業らしいし、急がないとな。
昼休みが終わっちまうだろうが、と大股で歩き去ったハーレイ。紙袋を全く持たせてくれずに、手伝いの許可もくれないままで。
アッと言う間に遠ざかる背中、速度は少しも落ちないから。
荷物運びを手伝えない自分の足は止まって、中庭の端で見送ることしか出来ない。
せっかくハーレイに会えたというのに、ポツンと置き去り。
ハーレイと並んで歩けはしなくて、荷物運びも手伝えないのが自分だから。
行ってしまった、沢山の荷物を持ったハーレイ。校舎の陰に入ってしまって、もう見えない。
(会えたのはラッキーだったけど…)
嬉しくて心臓が跳ねたけれども、置いて行かれたことはどうだろう?
ハーレイと一緒に歩く代わりに、こうして置き去り。「お前には無理だ」と断られて。手伝いをしたくて申し出たのに、あっさりと。
一番端っこの校舎まで行って、最上階まで階段を上る。それがハーレイのやり方だから。身体の弱い自分はついて行けないから。
(エレベーター、使わせて貰っても…)
きっとそれまでに息切れを起こす。端っこの校舎に着くよりも前に、ハーレイの速さに合わせて歩く間に。自分にとっては急ぎ足でも、ハーレイにとっては大した速さではない歩き方。
普段よりは確かに速かったけれど、足の運びが少し大股だっただけ。
(…置き去りだなんて、酷いんだから…!)
荷物を持つと言ったのに、と思うけれども、ハーレイにも、荷物の届け先にも都合。届けたら、少し話もしたいというのに、先方は昼休みが終わった途端に授業。
そういうことなら、急いでいたのも仕方ない。届けるだけではないのだから。
(残念…)
ハーレイと二人で歩きながら話せる、絶好のチャンスだったのに。
向こうから来るハーレイの姿を見付けた時には、「ツイている」と胸を弾ませたのに。ある筈もない予知能力があるのかも、と。
「おーい、ブルー!」
そんな所で何してんだよ、と声が聞こえて、現れたランチ仲間たち。「どうしたんだよ?」と。
「ううん、なんでもない」
先に教室に行こうと思ってたんだけど…。
ハーレイ先生が通り掛かったから、ちょっと話をしたりしていて…。
「…ハーレイ先生?」
何処に、と訊かれて、「もう行っちゃった」と指差したハーレイが消えた方。ランチ仲間たちは行き先を聞くなり、「流石」と唸った。「エレベーターより階段かあ…」と。
流石はハーレイ先生だよなと、「普段から鍛えているってことか」と。
それからは皆でワイワイ喋って、賑やかに戻って行った教室。
ハーレイに置き去りにされてしまったことも綺麗に忘れたけれども、放課後になって、帰ろうと中庭の所まで来たら思い出した。昼休みに起こった小さな事件。
(…此処で置き去り…)
もう少し丈夫な身体だったら、ハーレイと一緒に行けたのに。
急ぎ足どころか、走ってだって。
「エレベーターより階段かあ…」と唸ったランチ仲間たちでも、きっと出来る筈。
実際、彼らは階段を走って上るから。「キツイよなあ…」と零しはしたって、最上階でも。
彼らみたいに丈夫なら、と思ってはみても、学校の帰りもバスのお世話になるのが自分。元気な生徒は徒歩や自転車で通う距離なのに、自分はバス。
(これじゃ駄目だよ…)
急ぐハーレイを追い掛けられるわけがないじゃない、と乗り込んだバスの中で溜息。
バスがぐんぐん走ってくれて、着いた家から近いバス停。其処から家までの道もトボトボ、この距離でさえも…。
(全力疾走しようとしたら…)
ほぼ間違いなく、倒れてしまうことだろう。カンカンと日が照り付けるような真夏でなくても、今のように穏やかな季節でも。運動するにはピッタリの陽気の時だって。
クラリと眩暈を起こしてしまって、しゃがみ込むのだろう道の脇。
(そのまま、暫く動けなくって…)
家に帰っても、玄関でパタリと伸びてしまうに違いない。制服のままで突っ伏して。靴も履いたままで、「もう動けない」と。
そうやって玄関で伸びていたなら、「どうしたの?」と見に来るだろう母。「寝ていなさい」と額に冷たいおしぼり、落ち着いた後は…。
(…部屋で大人しくしていなさい、って…)
きっと押し込まれるベッド。「大丈夫だよ」と言ったって。運が悪いと、そのまま病院。注射は嫌だと駄々をこねても、「駄目!」と母に叱り付けられて。
(病院の先生、注射を打つのが好きだから…)
要らないと言っても、ブスリと打たれてしまいそう。「直ぐに元気になれるからね」と。
そうなっちゃうに決まってる、と考えながら帰った家。母が焼いてくれたケーキは美味しかったけれど、食べ終えて二階の部屋に戻ったら悔しい気分。
またまた思い出したから。昼休みにポツンと中庭に置き去りにされたこと。
(ハーレイに会えてツイていたのか、ツイてないのか分からないよ…!)
こんな思いをするくらいならば、会わない方がマシだったろうか?
ランチ仲間たちと一緒に食堂を出れば、ハーレイには会わなかった筈。とっくの昔に通り過ぎた後で、背中さえも見えはしなかったろう。「もっと早くに来ていれば」と思うことさえ。
そっちの方が良かったかな、と一瞬、考えたのだけれども。
(でも、あれだって貴重なチャンス…)
学校では「ハーレイ先生」だけれど、ハーレイには違いないのだから。
敬語を使って話さなくては駄目な相手でも、やっぱりハーレイ。そのハーレイと話が出来たし、少しだけ一緒に歩けたのだし、会えないよりは会えた方がいい。
残念なのは置き去りにされたこと。もっと丈夫な身体だったら、ハーレイについて行けたのに。
前の自分とそっくり同じに、虚弱な身体。すぐに息切れ、階段を走って上るのも無理。
(…鍛えるなんて出来ないし…)
次があっても置き去りだよね、と項垂れていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたけれど、テーブルを挟んで向かい合うなり、「すまん」と頭を下げられた。
「今日の昼間は悪かった。この通りだ」
「えっ…?」
どうしたの、と驚いて見開いてしまった瞳。ハーレイは何を謝るのだろう?
「お前、手伝うって言ってくれてたのにな」
断っちまってすまん。後からゆっくり考えてみたら、可哀相なことをしちまった、って…。
急いでいたのも、階段を使って行こうというのも、俺の勝手な都合ってヤツで…。
お前にしてみりゃ、エレベーター、使って欲しかったよな?
もっとも、それで「来るか?」と俺が誘っても、お前、途中でダウンだったろうが…。
エレベーターの所まで行けもしないで、すっかり息切れしちまって。
それでも一緒に来たかっただろう、とハーレイは済まなそうな顔。
「お前、あそこに置いて行かれるより、途中まででも俺と歩きたかっただろう?」
荷物を持たせてやれば良かった、お前が行ける所まで。
ダウンしちまったら、それから「じゃあな」と俺が一人で行くべきだった。
最初から断ったりはしないで、お前の気持ちを最優先で。
俺の考えが足りなかった、とハーレイが詫びるものだから。
「ううん、ぼくの身体がもっと丈夫だったら…。そしたら一緒に行けたんだよ」
駄目だったのは、ぼくのせいだから…。ハーレイは少しも悪くなんかないよ。
確かにちょっぴり寂しかったけど、ぼくさえ丈夫に生まれていたなら、置き去りになんか…。
されちゃうことは無かったしね、と微笑んでみせた。「ハーレイのせいじゃないんだから」と。
「こらこら、そこで鍛えようだなんて思うなよ?」
もっと丈夫な身体になろう、と無茶なトレーニングをするのはいかん。
昼間も言ったが、向き不向きってのがあるんだから。お前の身体は鍛えるようには出来てない。
無茶な運動をしたら壊れちまうし、今のお前のままでいいんだ。
弱い身体を壊さないよう、維持してゆくのも大事なことだ、と諭された。それも健康作りの内。今の健康を損ねないのも、とても大切なことなのだから、と。
「鍛えたいなんて、思ってないよ。…失敗しちゃったこともあるから」
丈夫になろう、って体育の時間に頑張りすぎたの、一度じゃないから…。
前はそんなの思ったことさえ無かったけれども、ハーレイに会ってから何回か…。
「よし。覚えてたんだな、無茶したことは」
俺のスープのお世話になってしまったこと。…寝込んじまって、野菜スープのシャングリラ風。
あれは良くない、無茶は無茶でしかないってな。自分の限界をきちんと掴んで貰わんと。
まあ、俺が急いでいない時なら、またお前にも手伝わせてやるから。
俺もお前と歩けるチャンスを、無駄にしたくはないんだし…。
少しばかり荷物が重すぎたってだ、お前が手伝えそうな分だけ頼んでやらなくっちゃな。
袋の中身を半分ほど移動させてでも…、とハーレイは手伝わせてくれるつもりらしいから。
「ホント?」
ぼくでも持てる重さの袋に変えてくれるの、ハーレイの荷物…?
「当然だろうが、袋さえ頑丈に出来てりゃな」
沢山詰めたら底が抜けちまうって時だと無理だが…。そうでないなら、そうしてやる。
お前は手伝いがしたいわけだし、俺の方でも、お前と一緒に話しながら歩きたいんだから。
…そういや、お前、昔からだな。うん、そうだった。
今も昔も変わっちゃいない、というハーレイの言葉が分からない。昔からとは、何だろう?
「変わらないって…。何が?」
「俺が急いでても、追い掛けようとするってヤツだ」
まるでヒヨコか何かみたいに、せっせと俺を追い掛けるんだな。ヒヨコ、そうだろ?
アヒルなんかだと、親鳥の後ろをヨチヨチ歩いて、頑張ってついて行くんだから。
「ぼくがハーレイを追い掛けたわけ?」
急いでいるのを追い掛けてたって、それ、いつの話?
知らないよ、と傾げた首。急ぐハーレイを追い掛けたなんて、まるで記憶に無かったから。
「言っただろう? 昔からだと。…ずっと昔さ」
昔と言ったら、シャングリラしか無いってな。白い鯨になる前からだ。
前のお前がチビだった頃から頑張っていたぞ、俺が急いでいた時は。
俺を追い掛けて急ぎ足どころか、負けない速さでちゃんとくっついて来るんだから。
「ハーレイに負けない速さって…。そんなの無理だよ、走れない筈だよ?」
前のぼくも今のぼくと同じで、身体が弱かったんだから。
身体を鍛えられるわけがなくって、走るのだってそんなに沢山は無理。…速く走るのも。
絶対に無理、と返したけれども、「それがだ…」と可笑しそうなハーレイ。
「どう考えても無理なわけだが、前のお前には反則技があったんだ」
前のお前は正真正銘、最強のタイプ・ブルーだったし、サイオンの扱いも上手かった。
そいつを生かして、瞬間移動でせっせと距離を稼いだってな。
俺との間が開いちまう前に…、と聞かされてハタと気が付いた。
「…瞬間移動…」
やってたっけね、ハーレイが歩く速さについて行けない時は…。
そうだったっけ、と蘇って来た遠い遠い記憶。白い鯨ではなかったシャングリラ。
最初の間は、ハーレイは備品倉庫の管理人だった。厨房の責任者と兼任で。
「思い出したよ、ハーレイが急いで歩いている時だっけ…」
倉庫に何かを運ぶ時とか、倉庫から出して来た時だとか…。
両手で荷物を山ほど抱えて、今日のハーレイみたいに大股…。「これは急ぎだ」って。
冷凍になってた食材だとか、仕分けが終わって倉庫に入れる物資だとか。
「追い掛けて来ただろ、俺と歩きながら色々喋ろうとして」
俺は仕事の真っ最中だし、喋るんだったら歩きながらしか無いモンだから…。
仕事が終わって暇になるまで待っていないで、お前、追い掛けて来ちまったんだ。
瞬間移動を繰り返しながら、俺に置き去りにされないように。
ついでに荷物も、「ぼくも運ぶよ」と横から奪い取ったり、奪おうと手を出したりしてな。
あれは本当に凄かった、とハーレイも半ば呆れ顔。「其処までして追い掛けて来るなんて」と。
「だって…。ハーレイと話したかったから…」
仕事中だと、仕事しながらしか話せないでしょ?
厨房で料理をしている時とか、倉庫で整理をしてる時なら、ハーレイ、動かないけれど…。
何かを運んでいる時だって、急いでなければ一緒に歩いていけるんだけど…。
急ぎの荷物を運んでる時は、ぼくの足だと追い付けないから…。
どんなに頑張って歩いてみたって、ハーレイの方がずっと速くて、走っても無理。
ぼくの足では追い付けないなら、瞬間移動がピッタリじゃない。
宙を飛ぶより、歩いてる方がいいものね。…ハーレイと同じ通路を、ちゃんと。
「あれを歩いていると言うのか、確かに通路に足がついてはいたんだが…」
歩いたわけでも走ったわけでもなかっただろうが、前のお前は。
滑るような速さで追って来るんだ、歩いてるような顔をして。…しかし実際は歩いちゃいない。
「ああしないと置いて行かれるじゃない…!」
ハーレイはぼくより歩幅が広くて、おまけに大股。
それで急いで歩かれちゃったら、ぼくの足では無理なんだってば…!
歩きながら話をしたい時には、ああやってハーレイを追い掛けていくしかなかったんだよ…!
前のハーレイも身体が大きかったし、頑丈でもあった。ミュウの中では珍しく丈夫。
だから大股で歩き去ったし、何度も追い掛けたハーレイの背中。ハーレイが急いでいる時は。
ポツンと置き去りにされてしまう前に、瞬間移動で前へ進んで追い付いて。
(あの方法だと、ちゃんと一緒に歩けたんだよ)
歩くのとは全く違うけれども、感覚としては似たようなもの。急がなくちゃ、と追い掛けた。
そうやって瞬間移動をしながら、時にはハーレイの荷物も持った。「手伝うよ」と。
渡して貰った荷物を抱えて、やはり繰り返した瞬間移動。
ハーレイに置いて行かれないよう、話しながら歩いてゆけるよう。歩くのとは違って瞬間移動をしたのだけれども、ハーレイの方は歩いていた。急ぐのだからと、かなりの速さで。
「お前の瞬間移動だが…。チビの間だけじゃなかったな」
ソルジャーになった後にもやってたぞ、お前。…白い鯨が出来上がった後も。
歩くどころか、俺が急ぎで全力疾走の時にも来たってな。
走っていたって、あのやり方なら平気でついて来られるから。
「うん、ハーレイに取り残されそうな分だけ、瞬間移動して先回り…」
何処へ行くんだい、って訊いていたでしょ、走ってた時は。
ハーレイの心を読んだりするより、直接聞くのが一番だものね。
ブリッジとかの様子を探っても分かるけれども、やっぱりハーレイと話したいじゃない。
走ってる時は、「はい」とか「ええ」とか、そういう答えが多かったけど…。
いくらハーレイが丈夫な身体を持っていたって、走りながら喋るのは大変だものね。
「そう言うお前は、凄い速さで俺と一緒に移動しながら、平気で喋り続けたわけだが…」
お前の身体は走っちゃいないし、喋ると舌を噛んじまうことも無いからなあ…。
喋れても別に不思議じゃないがだ、凄い速さで俺について来られた方。
あれはどういう理屈になっていたんだ、瞬間移動で走るってヤツ。
急ぎ足にくっついて来た時もそうだが、お前、地面に足だけはつけていたからな。
そうやって器用に追い掛けて来たが、あれの仕組みはどうなっていた…?
俺にはサッパリ分からんのだが、とハーレイにぶつけられた質問。急ぎ足を追った瞬間移動。
「えっと…?」
とにかく瞬間移動なんだよ、ハーレイを追い掛けなくちゃ、って…。
前の自分が考えたことは、たったそれだけ。「ハーレイと一緒に歩きたい」とだけ。
走るハーレイを追っていた時も同じ。ハーレイと同じ速さで走って、ついでに話をしたかった。返って来る返事が「ええ」や「はい」でも、それがハーレイの精一杯でも。
(一緒に急いだら、ハーレイが仕事中でも話が出来るから…)
そう思うだけで、息をするように操れたサイオン。今の不器用な自分と違って、いくらでも。
ソルジャーの称号はダテではなくて、ただ一人きりのタイプ・ブルー。誰よりも強いサイオンを自在に使いこなして、シャングリラを守れたほどだから…。
ハーレイの速度と歩幅に合わせて、前へ、前へと繰り返していた瞬間移動。速すぎてハーレイを抜いてしまわないよう、遅すぎて置き去りにされないように。
それは覚えているのだけれども、今の自分はサイオンがまるで駄目だから…。
「仕組みは分かっているんだけど…。ぼくの頭では分かるんだけど…」
上手く説明出来ないよ。速すぎないよう、遅すぎないよう、調整していたことくらいしか。
前のぼくだと、「ハーレイと一緒に歩きたい」って思うだけで簡単に出来たんだけど…。
ハーレイが走っていた時も同じで、「追い掛けなくちゃ」って。
急いでいるハーレイと話をするには、あの方法しか無かったんだもの…。
「ふうむ…。前のお前には簡単だった、と」
しかし今だと、仕組みが分かっていると言っても、上手く説明出来ないんだな。
説明も上手く出来ないのならば、あれは真似られないってか?
真似が出来たら、俺がどんなに急いでいたって、お前、追い掛けて来られるんだが…。
今日みたいな時にも楽々とな、と言われても困る。
今の時代はサイオンを使わないのが社会のマナーだけれども、そのサイオンが上手く操れない。前と同じにタイプ・ブルーでも、名前だけ。思念さえ上手く紡げないレベル、とことん不器用。
「…瞬間移動が出来ないことくらい、知っているでしょ?」
一度だけハーレイの家まで飛んで行ったけど…。あれっきりだよ?
飛ぼうとしたって飛べやしないし、前のぼくみたいに器用なことは出来ないってば…!
「だろうな、今のお前じゃなあ…」
普通に瞬間移動をするのも無理だと、あんな凄すぎる芸当は夢のまた夢か…。
歩きも走りもしちゃいないのに、俺の隣にピタリとついて、せっせと喋りまくるのは…。
あの芸当が出来ないんだな、とハーレイはフウと溜息をついた。
「まさに芸当といった感じで、前の俺は感心していたわけなんだが…」
よくも平気でついて来るなと、しかも全速力で走っていたって喋れるなんて、と思ったが…。
それが駄目だということになると、お前、今度は俺に置き去りにされるしかないんだな。
今日みたいに、「俺は急ぐから」と放って行かれちまって。
ポツンと残されちまうわけだな、とハーレイが言うから、コクリと頷いた。
「そうだよ、ハーレイがゆっくり歩いてくれないと無理」
でなきゃ一緒に連れてってくれるか、どっちかでないと…。
「はあ? ゆっくり歩けというのは分かるが…」
一緒に連れて行くっていうのは、いったい何なんだ?
お前でも歩けるような速さで歩いていくのと、一緒に行くのは同じだろうが。
全く同じに聞こえるんだが…、とハーレイは怪訝そうだけれども、同じではない、その二つ。
「えっとね…。一緒に歩いていくのと、連れてってくれるのとは別なんだよ」
一緒に歩いていく方だったら、ぼくは自分で歩くんだけど…。遅れないように頑張って。
でもね、連れてって貰う方だと、歩かなくてもいいんだってば。
ハーレイの背中におんぶで行くとか、抱っこして運んで貰うとか…。
それならハーレイと同じ速さで行けるし、ぼくは少しも頑張らなくてもハーレイと一緒。
お喋りだって出来そうだよね、と微笑んだ。「ハーレイが走っていないなら」と。
「俺がお前を運ぶだと?」
その状態で急ぐだなんて、俺の用事はどうなるんだ?
何処かへ急いでいるというのに、お前を背負うとか、抱いて運ぶとか…。
俺の用事がサッパリだろうが、お前の面倒を見るのに時間を割かれちまって。
荷物も満足に運べやしないぞ、俺が頑丈に出来ていたって。
お前だけで身体が塞がっちまう、とハーレイは苦い顔をした。「それは出来ん」と。
急ぐのは用があるからなのだし、今日と同じで用事の方を優先すべき。「すまん」と詫びたら、後は一人で急ぐだけだ、と。
「お前はチビだが、そのくらいのことは分かるだろう?」
用を済ませるのが大切なことで、お前と一緒に行くかどうかは、考えちゃいられないってな。
後できちんと謝りはするが、俺は一人で行かせて貰う、と言われたけれど。
「その用事…。ぼくを運ぶのが用事だったらいいじゃない」
大急ぎでぼくを運ぶんだったら、ぼくと用事はセットだから。…切り離せないよ?
今のぼくはハーレイが急ぐ時には置き去りなんだし、暇な時には、ぼくを運んでくれたって…。
いいと思う、と駄々をこねてみた。「ぼくを急いで運んでよ」と。
「お前を急いで運ぶって…。どんな用事だ、怪我は困るぞ。病気だってな」
怪我や急病なら、お前を抱えて全力疾走したっていいが…。頼まれなくてもするんだが…。
そんなのは駄目だ、そんな物騒な用事はな。
お断りだ、と睨まれた。「とんでもない用を作るんじゃない」と。
「駄目…?」
ハーレイ、運んでくれないの…?
ううん、運んでくれるだろうけど、そういう用事は駄目だって言うの…?
「当たり前だろうが、怪我に病気だぞ?」
よく考えてものを言うんだな。お前が痛かったり、苦しかったりするんじゃ困る。
怪我や病気は痛いし、苦しいわけなんだから…。
それは駄目だな、いくらお前を運んでやれる用事でも。…お前の注文通りでも。
もっと平和で、お前を急いで運ばなければならない理由というヤツをだな…。
考えてから出直して来い、と叱られた。「怪我と病気は論外だ」と。
「でも、そんなのしか無いじゃない…!」
ハーレイが急いで運んでくれそうなのは、怪我か病気で…。
「だから駄目だと言っている。運ばないとは言わないが…」
歓迎出来る用じゃないしな、出来れば御免蒙りたい。
お前の気持ちは分からないでもないんだが…。それとこれとは別だってな。
物騒じゃない用事を思い付いてから言ってくれ、と注文をつけたハーレイだけれど。
「お前を急いで運ぶ用事は、何処にも無いと思うがな?」と軽く両手を広げたけれど…。
「…待てよ、全く無いこともないか」
急ぎでお前を運ぶって用事。…急がないと話にならないヤツが。
俺だけ急いで出掛けて行っても、お前を置き去りにしてしまったら駄目だよなあ…。
あれだと駄目だ、と顎に手をやるハーレイ。「時間との戦いなんだから」と。
「急ぐって…。急がないと駄目って、何かあるの?」
ハーレイだけが急いで行っても、ぼくがいないと駄目な用事が…?
「先着何名様ってイベント、お前も聞いたことはあるだろ?」
ああいうヤツなら、お前をヒョイと抱えて走っても大丈夫だな。一緒に着かんと駄目なんだし。
俺だけ一人で行っちまっても、お前の恨みを買うだけだ。
小さな子供を抱えて走ってる親も、珍しくなんかないからなあ…。
親だけ着いても、子供の分が足りないだろう。だから抱えて走ってるってな。
「小さい子供向けのイベント…?」
お菓子が貰えるとか、ゲームに参加できるとか…。あんなのに行くの、ハーレイと?
ぼくを抱えて走ってくれるんなら、子供向けでもいいけれど…。
「子供向けじゃないのも色々あるぞ。気を付けて情報を集めていれば」
そうだ、夏にアユを食わせるヤツがあったな。…アユの塩焼き。
「アユ…?」
魚だよね、と思ったアユ。夏になったら川で釣っている人が大勢。
「郊外の方だが、知らないか?」
たまに新聞にも載ってるぞ。その場で焼いて食わせてくれるイベントで…。
この日にやります、って案内が出たり、焼いてる所や、美味そうに食ってるヤツらの写真とか。
「あるね、そういうのが…!」
今年も見たっけ、沢山のアユを焼いてる写真。
川のすぐ側で、焼けるのを待って、大人も子供も凄い行列…。
そういえばあった、と思い出した夏の風物詩。
郊外の川の中洲で開催される名物イベント、塩焼きのアユが食べられる。焼き立てのが。
とても人気のイベントだけれど、整理券などは出されない。その日に其処に出掛けて行って…。
「走り込んだ順に並ぶ筈だぞ、あのイベントは」
朝早くから並んだりするのは禁止で、この時間から、というのがあるんだ。
其処から中洲に急ぐってわけで、先着順だぞ。アユがある間に中洲に着いたら食えるわけだな。
数は沢山用意してるが、欲しい連中も多いから…。
もう文字通りに急いで行くしかないってな、というのがハーレイの説明。塩焼きのアユを食べるためには、アユが無くなってしまわない内に中洲に向かって急ぐこと。
(橋は架かっているけれど…)
スタート地点になる駅やバス停、其処からは少し離れた中洲。自分の足では、とても走れそうにない距離があることが分かるから…。
「あれに出掛けるの?」
ぼくじゃ走れないよ、中洲までは。橋くらいは渡れそうだけど…。
「そうだろう? 悪くないと思うんだがな、あれ」
お前の足だと間に合いやしないし、俺がお前を担いで走る。
そうすりゃ間に合う筈だから…。俺もお前も、美味しいアユにありつけるんだ。
「ハーレイ、ぼくを担いじゃうわけ?」
担ぐんだったら、背中じゃなくって肩の上だよね?
なんだか荷物になったみたいだけど、ぼくを担いで走るって言うの…?
「そいつが一番走りやすいしな、担ぐのが」
運動会だと、デカイ荷物を担いで走る競争なんかがあったりもする。米俵とかな。
担いで走るのが早いからこそ、そういう競争になるわけで…。
俺がお前を担いで走れば大いに目立つが、間に合うことは保証してやるぞ。
なんたって俺の足だからなあ、お前を一人担いだくらいじゃ、簡単に抜かれやしないから。
チビでなくても、前のお前と同じに育ったお前でもな。
任せておけ、とハーレイが請け合ってくれたアユの塩焼きを食べるイベント。先着順で。
自分の足では間に合わないから、ハーレイが担いで走ってくれる。
前の自分がやっていたように、走るハーレイの速度に合わせて、瞬間移動は無理だけれども…。
「それ、行きたい…! アユの塩焼き!」
美味しそうだし、それにハーレイと同じ速さで走れるし…。
ぼくが走っているんじゃないけど、ハーレイに運んで貰うんだけど…。
でも、ハーレイとおんなじ速さ、と担いで走って貰いたくなった。大勢の人に見られていても。
他に担がれて走っているのは、小さな子供だけだとしても。
「だったら、お前と行くことにするかな」
あれがある日は、朝から郊外まで行って。…スタートの時間になったら、お前を肩に担いで。
親父がアユを提供してるし、わざわざ必死で走らなくても、裏方特権で食えるんだが…。
前の日までに「二人行きます」と言っておいたら、ちゃんと残しておいてくれるが…。
お前が、俺の急ぎ足を追い掛けるのが無理になっちまって、担いで走って欲しいと言うなら…。
そっちの方を優先するが、と鳶色の瞳が瞬いた。「俺と一緒に走りたいか?」と。
「裏方特権っていうの、あるんだ…」
ハーレイのお父さんだから出来るんだよね、釣り名人でアユも釣るから…。
特権を使えば、走らなくてもアユは二人で食べられるんだ…。
「そういうことだな、どっちがいい?」
俺に担がれて走るのがいいか、のんびり出掛けて食うのがいいか。
アユの味は変わらないと思うんだが…。どっちのコースで食ったって。
お前が満足する方でいいぞ、裏方特権を行使するのも、俺が担いで走るのもな。
どっちがお前の好みなんだ、と訊かれたけれども、そう簡単には出せない答え。アユの塩焼きは聞いたばかりだし、まだハーレイとはデートにも出掛けられないのだから。
「…来年とかには、まだ行けないでしょ!」
ぼくがデートに行けるようになるまで、アユを食べには行けないんだから…。
それまでに悩むよ、どっちにするか。
ハーレイに担いで貰って走るか、裏方特権で食べる方にするか。
まだ何年も悩めそう、と零れた溜息。背丈は少しも伸びてくれなくて、前の自分には遠いから。
前の自分と同じ背丈にならない限りは、ハーレイとキスも出来ないから。
デートだって無理、と悲しいけれども、学校だったら、二人で歩けるチャンスもたまに訪れる。今日は置き去りにされたけれども、そうでない時も、きっとある筈。
「…アユの塩焼きは、まだ無理だけど…。でも…」
また学校で何か運ぶ時には、手伝っていい?
ハーレイの荷物、ぼくでも持てる重さだったら…。行き先が遠くなかったら。
「もちろんだ。…俺が急がない時ならな」
さっきも言ったが、荷物も軽めに作ってやる。お前、手伝いたいわけだしな?
それと、いつかお前と二人きりでだ、学校以外の場所も歩けるようになったら…。
お前と一緒に歩く時には、急がせたりはしないから。
前の俺みたいに急ぎ足とか、全力疾走というのは無しだ。…ゆっくり歩こう。
せっかくお前と歩くんだから、という申し出は嬉しいけれど。
「急がせてもいいよ?」
ハーレイに急ぐ用事があるなら、ぼくも頑張って歩くけど…。少しくらいなら走れるし…。
「駄目だ、お前が倒れちまう」
前と同じに弱いんだからな、お前の身体は。…それに反則技も出来ない。
そんなお前に無理をさせたら、後悔するのは俺なんだ。なんで急がせちまったんだ、と。
お前は良くても俺が嫌だし、お前に急ぎ足はさせない。走る方だって。
ゆっくり歩け、とハーレイが強く念を押すから、今度は急ぎ足のハーレイは追えない。反則技が使えたとしても、きっとハーレイは急ぎ足も全力疾走もしない。
(…急ぐ時には、担いで走ってくれるだけだよね?)
アユの塩焼きイベントにしても、他にも何か急ぐような用が出来たとしても。
それなら、今度はハーレイと二人、のんびりと地球の上を歩いて行こう。
急ぐ時には肩に担いで貰って、他の人たちをハーレイが軽々と追い越していって。
ハーレイと同じ速さで走れる自分を、肩の上から楽しんだりして…。
急ぐ時には・了
※前のブルーには出来た、急ぎ足のハーレイを追い掛けること。瞬間移動で距離を稼いで。
今は出来なくなった芸当、ハーレイが急ぎ足でも追うのは無理。一緒に歩いてゆくのが一番。
(何の音…?)
学校からの帰りに、ブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中の、いつもの道。
バスを降りてから少し歩いたら、聞こえて来た何かを壊すような音。石が幾つも崩れるような、ガラガラという音だって。
(こっちの方…)
気になるからと道を外れて、音の方へと進んで行った。住宅街の中の道沿いに。生垣に囲まれた家の前を通って、角を曲がって、歩けば音が近付いて来る。ガシャンと何かが割れる音も。
何事だろう、と訝しみながら角を曲がった途端に、目に飛び込んで来た信じられない光景。
(壊しちゃってる…!)
通り道ではないのだけれども、自分の家から近い場所。御主人の顔もよく知っている家。
芝生の向こうに建つ、お洒落なポーチが素敵な家が好きだった。物語に出て来る家みたいで。
その大好きなポーチの辺りが、玄関や側の家の壁ごと壊されている真っ最中。ガラガラと機械に毟り取られて、窓のガラスも取り外されて。
(…嘘…)
なんで、と何度も瞬きをした。夢なのかも、と思ったから。夢なら瞬きすれば覚める筈だから。
けれども、覚めてくれない夢。自分が見ているものが現実。家は壊されてゆくところ。
まだ住めそうな家なのに。屋根も外壁も、ガラスを失くした窓枠も。
古くて駄目な家とは違って、充分に綺麗だった家。此処を通る時は、生垣越しにポーチを眺めて楽しんでいたものなのに。
燦々と日が当たるポーチは、本当にお気に入りだった。絵に描いたような其処で、この家の猫がのんびり昼寝をしていたりして。
(あのポーチ…)
なくなっちゃった、と壊されてゆくのを見ているしかない。大きな機械が毟ってゆくのを、壁や窓まで削り取られて消えてゆくのを。
天気がいいのに、もうポーチにはいない猫。こんな場所には、他の猫だって来ないだろう。怖い音がするし、近付いたら怪我もしそうだから。瓦礫を踏んだり、ぶつかったりして。
(壊しちゃうなんて…)
あんまりだよ、と思うけれども、きっと明日には家は丸ごと消えてしまっているのだろう。学校から帰って来るこの時間には、何も残っていはしない。
ポーチも家も、全部壊されて、トラックに乗せて運び去られて。何もない地面が広がるだけ。
(そんな…)
本当に好きな家だったのに。壊されるのなら、その前に見ておきたかったのに。
ゆっくり眺めて、心の中で「さよなら」を言って、目に焼き付けておきたかった。幼い頃から、此処のポーチが好きだったから。通る度に見ていた家だったから。
家は売られて、新しい人が別の家を建てて住むのだろうか。壊されてゆく家の代わりに。
こういう家に住んでみたい、と自分の好みの新しい家。
(あのまま住んであげればいいのに…)
そんなに古くない筈だよ、と子供の自分でも分かる。建て直さなければならないくらいに、古い家ではなかったこと。何十年だって住めそうなこと。
けれど、目の前で崩れてゆく家。無くなってしまったポーチの天井。柱もじきに倒される。側の床をごっそり抉り取られて、立っていることが出来なくなって。
全部消えちゃう、と呆然と其処に立ち尽くしていたら…。
「ブルー君?」
後ろからの声で振り向いた。誰、と思ったら、この家の御主人。幼い頃から知っている人。
慌ててピョコンと頭を下げて、「こんにちは」と挨拶したのだけれど。
(あれ…?)
何故、御主人が此処にいるのだろう。家は壊されてゆく所なのに。御主人が住んでいた筈の家。
今も大きな機械がせっせと、壁を、柱を毟っているのに。
家は売られてしまったんじゃあ…、と御主人と家を見比べた。「変だよね?」と。
御主人は普段と変わらない風で、引越したとは思えない。それでも家は壊されているし…。
「ブルー君、こんな所でどうしたんだい?」
今は学校の帰りだろう、と御主人も不思議そうな顔。「此処は通っていかない筈だよ」と。
制服と鞄で誰にでも分かる、学校から帰って来た生徒。確かに、通学路とは違う場所。御主人に質問されたからには、こちらも訊いていいだろう。
「えっと…。何か壊してる音がしたから、来てみたんだけど…。おじさんの家…」
なんで壊すの、とぶつけた疑問。まだ住める家の筈だから。
「ああ、これかい…! 壊してるねえ、確かにね」
悲しそうな顔をしているけれども、この家、好きな家だったのかい?
「うん、ポーチとか…。でも…」
無くなっちゃった、と視線を向けた。機械が倒している柱。あの柱がとても好きだったのに。
柱の側で猫が昼寝をしている姿は、まるで絵のようだったのに。
「ありがとう、家を気に入ってくれて。この家だって喜ぶよ」
ポーチはそっくりのを作るからねえ、今のと変わらない材料で。
「え?」
どういうこと、と丸くなった目。そっくり同じに作るのだったら、壊さなくても、と。
「改築って言葉を知ってるかい? 建て直すんじゃなくて、少し直すんだ」
元の家は残して、家の中を作り替えるとか…。こんな具合に、ちょっと壊して作り直すとか。
趣味のアトリエが欲しいんだけどね、あのままだと無理なものだから…。
家をちょっぴり広げるんだよ、と教えて貰った。
壊すのは家の一部だけ。御主人の趣味のアトリエを増やして、玄関の辺りの間取りも変えてやるために。壊さないと上手く繋がらないから、元からの家と。
必要な部分を機械が壊した後には、大工さんたちがやって来る。新しい壁や床を作りに。
新しいけれど、元からある家にしっくり合うよう、材料や色を合わせての工事。
出来上がったら、前とそっくりなポーチも戻って来るらしい。
今ある場所とは違うけれども、元通りに家の顔になるよう、玄関を作ってゆく場所に。
御主人は説明してくれた後で、まだ壊している家の方に視線をやってから…。
「工事が済んだら、こんな感じの家になる予定さ」
「わあ…!」
思念で送って貰ったイメージ。サイオンはとことん不器用だけれど、送って貰えば受け取れる。壊す前より、もっとお洒落になるらしい家。御主人の趣味のアトリエつきで。
(ポーチもホントに前のとおんなじ…)
家を広げた分、誇らしげな感じがするポーチ。「前より立派になったでしょう?」と。
「素敵だね。今、壊してる家も好きだったけど…」
今度の家もうんと素敵で、ポーチは今よりいい感じかも…。
同じポーチなのに、なんだか不思議。…何処もデザイン変えてないのに…。
「そう言って貰えると嬉しいよ。それに、ブルー君のお気に入りの家だったなんてね」
知っていたなら、変な心配をしなくて済むよう、お母さんにでも話しておいたのに…。
よく会うからねえ、買い物に行った時だって。
「玄関の辺りを少し直しますから」と工事の予定を知らせておいたら、ブルー君も安心して見ていられたのに…。ごめんよ、ちっとも気が付かなくて。
でも、この通りに、もうすぐ生まれ変わるから。…壊しているのは今だけなんだ。
ああいう機械も、明日の午前中には出番が終わって帰って行くかな。
そっちが済んだら直ぐに工事に取り掛かるんだよ、新しく増やす部分の基礎を作って。
出来上がったら、また見に来て欲しいね。
壊す時と違って大きな音はしないだろうから、出来上がっても音では分からないけれど。
「見に来る…!」
大工さんが家を作ってる音は、たまに聞こえると思うから…。
学校の帰りに回り道するよ、どのくらい出来て来たのかな、って。
前より素敵になるんだものね、と眺めた家。お気に入りだったポーチは戻って来る。
まるで壊しているようだけれど、新しく生まれ変わる家。
明日になったら壊す機械が運び出されて、代わりに大工さんたちが来て。
良かったよね、とホッとして帰った自分の家。御主人に「さよなら」と挨拶をして。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、あの家のことを思い出す。
(まだ住めるのに、壊しちゃうなんて…)
可哀相、と早合点をしてしまったけれど。
あの御主人たちは家を売ってしまって何処かに引越し、新しく来る人が家を壊して、自分たちの好きな新しい家を建てるのだと勘違いしていたのだけれど。
そうではなかった、大好きな家。猫がのんびり昼寝をしていた、ポーチがとても似合う家。
(作り直すんなら、あの家だって喜ぶよ)
生まれ変わって、もっと素敵になれるから。御主人の趣味のアトリエが増えて、前のとそっくり同じポーチも玄関に作り直されて。
(きっと、おじさんたちも、あのポーチが好き…)
だから全く同じデザインにするのだろう。少しも変えずに、元あったものとそっくりに。
あの家の猫も、きっと喜ぶ。昼寝する場所がまた出来るのだし、居心地もいい筈だから。
(みんなポーチが大好きだよね?)
御主人たちも、猫も、壊されていたポーチが大好き。元の通りに作り直そうと思うくらいだし、いつも見ていた自分と同じに、あのポーチが好き。
(早くポーチが出来るといいよね)
そしたらゆっくり見に行こう、と考えながらケーキを食べて、紅茶も飲んで。空になったお皿やカップを母に渡して、戻った二階の自分の部屋。
窓の所に行って眺めた、あの家の方。他の家の屋根や庭木に隠れて見えないけれど…。
(あそこで生まれ変わるんだよ)
壊す機械が運び出されたら、大工さんたちがやって来て。
御主人が話してくれていたように、増やす部分の家を基礎から作っていって。
ポーチの基礎も一緒に作ってゆくのだろう。前とそっくり同じになるよう、計算された設計図。それの通りに基礎を作って、柱を立てて、屋根などもつけて。
そうやって立派に出来上がる家。ポーチが戻って、御主人の趣味のアトリエも増えて。
出来上がったら見に行かなくちゃ、と思う家。大工さんが工事している音が聞こえたら、帰りに回り道もして。「どのくらい出来て来たのかな?」と。
きっと通る度に、新しい顔が見えて来るのだろう。基礎が出来ていたり、柱が立ったり、屋根の梁が上に乗っていたりと。
(壊すんじゃなくて、ホントに良かった…)
元の家を少し壊すにしたって、素敵に生まれ変われるのなら、と考えていたら掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。
(…シャングリラ…)
あの船もあれと同じだった、と気が付いた。壊されるのだと勘違いをした、ポーチのある家と。
元は人類のものだった船がシャングリラ。前の自分たちが暮らした船。
メギドの炎で燃えるアルタミラから、あの船を使って逃げ出した。人類が捨てていった船だし、誰も乗ってはいなかったから。
充分な食料を載せていた船は、前の自分たちを生かしてくれた。コンスティテューションという名前だった船。人類はそう呼んでいたらしい。
船での暮らしに馴染んだ後に、シャングリラと名付けて長く宇宙を旅して回った。人類軍の船に出会わないよう、慎重に航路設定をして。
そうして旅を続ける間に、培った技術や生まれたアイデア。それらを生かして、ミュウの箱舟を作ろうと決めた。自給自足で何処までも飛んでゆくことが出来る、白い鯨を思わせる船を。
(元の船を改造するのが決まって…)
設計図が作られ、資材の調達なども順調。其処までは良かったし、白い鯨は立派に完成する筈。計画通りに進めさえすれば、船の中だけで全てを賄うことが可能な箱舟が。
さて、と改造に取り掛かろうとしていた時に、前の自分が気付いたこと。ある夜に、ふと。
(壊さないと…)
元からの船を壊さない限り、出来上がらないのが新しい船。白い鯨になるだろう船。
ソルジャーの自分が暮らす部屋はもちろん、食堂もブリッジも、何もかもを。
皆の憩いの場の休憩室も、それぞれが使っている部屋も。
どれも壊してしまわないと駄目で、新しい船に残せはしない。船の心臓である機関部さえもが、まるで違うものになるのだから。今とは全く違うシステム、それを組み込んでゆくためには。
無くなるのだ、と見回した自分の部屋。壁も天井も全部壊して、此処には何が出来るのだろう?
食堂も通路もブリッジだって、欠片すらも残さず壊されてしまう。白い鯨にするために。
新しく出来る白い鯨は、今の船にある部屋も設備も、必要としない船なのだから。
(ずっと、ぼくたちを守ってくれて…)
一緒に旅をして来た船。元はコンスティテューション号だった船。
白い鯨に改造した後も、船そのものは残るけれども、色々なものが無くなってしまう。邪魔だとばかりに壊されていって、別の何かが其処に生まれて。
このまま使い続けるのならば、まだまだ宇宙を飛べるだろうに。きちんとメンテナンスを施してやれば、きっと数百年だって。
(それを壊してしまうだなんて…)
自分たちの命を守ってくれた、頼もしい船。アルタミラからも脱出させてくれた船。
まだ充分に寿命があるのに、その船を壊す自分たち。改造とはいえ、船に残るのは恐らく、固有周波数だけ。元はコンスティテューション号だった、と識別可能なものはそれだけ。
今日まで守ってくれたのに。…この船で宇宙を旅して来たのに。
改造しようとさえ思わなければ、元の姿を保ったままで飛び続けることが出来るのに。
(なんだか申し訳なくて…)
いたたまれなくて、何度も部屋を眺め回した。「まだ使える」と。
改造のために壊さなければ、何十年だって使えるだろう。壁や天井が汚れて来たなら、掃除してやればいいだけのこと。床を磨くように、汚れがすっかり落ちるまで。
照明や空調などが故障したって、修理すればまた使ってゆける。必要だったら、交換用の部品を奪いに出掛ければいい。人類の輸送船を探して、「これとこれだ」と調達するだけ。
今はそういう生活なのだし、それを続けるなら、船はこのまま。
壊されはせずに、今の姿を保ってゆける。コンスティテューション号だった時の姿のままで。
けれども、それではミュウの箱舟は作れない。
自給自足で生きてゆける船を作りたいなら、壊すしかない今の船。
まだ充分に飛べるのに。…数百年だって、このままで飛んでゆけるだろうに。
新しい船を作るためとはいえ、今ある船を壊してしまう。自給自足の船にしよう、という考えを起こさなければ、この船は生きてゆけたのに。少しも形を変えることなく飛べたのに。
(なのに、壊してしまうんだから…)
船に申し訳ないような気がして、どうしてもそれが拭えない。
一度、気付いてしまったら。まだ使える船を端から壊して、白い鯨にしてしまうのだという罪の意識が生まれたら。
生きるためには必要だけれど、罪は罪。船を壊してしまうこと。命の恩人だった船なのに。今日まで守って来てくれた船。…この船の寿命は、まだ充分にある筈なのに。
何日もあれこれ考え続けて、ついに相談することにした。長老と呼ばれるヒルマンたち四人と、キャプテンを集めての会議。その席で「船が可哀相だ」と。
「そう思わないかい? この船は壊されてしまうんだよ」
今のままでも、宇宙船としては優秀なのに。…ミュウの箱舟には向かないだけで。
自給自足で生きていこうとか、ステルス・デバイスやサイオン・シールドを載せようだとか…。
そんなことさえ言い出さなければ、この船でやってゆけるのに…。
船は壊されたりしないのに、と出席した皆に訴えた。「まだ生きられる船なのに」と。
「なるほどね…。壊さなければ、改造出来はしないのだからね」
生まれ変わって新しい船になりはするのだが…、とヒルマンが顎に手をやった。
「今のままでも使える船を、壊すというのは確かではある」と。
「壊されちまう部屋ばかりだねえ、言われてみれば。…この部屋もさ」
あたしたちがいる会議室だって残らないね、とブラウも頷いた。会議室もブリッジも、機関部も全て壊されちまう、と。今ある船を壊さなければ、新しい船は作れないから。
「そうだろう? 何一つとして残らないんだよ、今の船はね」
姿もすっかり変わってしまって、まるで違う船になるのはいい。…そういう船が必要だから。
ぼくにも、それは分かっている。改造するには、壊さなくてはならないことも。
ただ…。
要らないから、と壊すだけでは可哀相だ、と曇らせた顔。ずっと暮らして来た船なのだし、命を守ってくれた船。元が優れた船でなければ、今日まで飛んではいられない。
「違うかい? アルタミラから脱出して直ぐに故障していたら…」
皆に充分な知識が無いまま、エンジントラブルを起こしていたなら、皆、死んでいる。
エンジンが止まれば、空調も全部止まるから。…船の酸素が尽きてしまうから。
そうならなかったのは船のお蔭で、ぼくたちを今日まで生かしてくれた。
新しい船を作ることまで思い付くほどに、ぼくたちが知識や技術を身に付けるまで。
その船をただ壊すなんてね…。もう用済みだと、まるでゴミでも捨てるみたいに…。
ぼくには出来ない、と溜息をついた。「必要なことでも、やりたくはない」と。
「あたしも、そんな気がして来たよ」
ブラウが言ったら、ゼルが「わしもじゃ」と声を上げた。
「長年、世話になった船じゃし、あちこち修理もしてやったんじゃ。一つしか無い船じゃから」
なんとか出来ればいいんじゃが…。この申し訳ない気持ちをじゃな…。
伝えてやれればいいんじゃが、と髭を引っ張ったゼル。「わしの気持ちを、この船にも」と。
「そういうことなら、感謝の言葉を贈るというのはどうでしょう?」
壊す前に、とエラが提案した。
元はコンスティテューション号だった船に、今日までの感謝の気持ちをこめて言葉を贈る。
ソルジャーとキャプテン、それに長老たち。他にも主だった者たちを集めて。
其処が食堂なら、厨房で働いて来た仲間たち。他の場所でも、其処に馴染みの者たちが集う。
彼らと一緒に、「今日までありがとう」と、船に御礼を。壊す前には、そういう集い。
「感謝の言葉を贈る集まり…。それはいいかもしれないね」
船も喜んでくれそうだ、と肩の荷が下りたような気がした。御礼を言うなら、この船も分かってくれるだろう。用済みだからと壊すわけではないことを。誰もが感謝していることを。
「ソルジャーが代表で御礼を言うのがいいと思うよ」
皆を纏める長なのだから、とヒルマンが述べて、エラは「キャプテンもですよ」と付け加えた。
「いい船にする、と誓いを立てるべきでしょう。今のこの船に」
きっといい船にしてみせるから、と安心させてやって下さい。今日まで守って来てくれた船を。
「良さそうじゃな」
そうするべきじゃぞ、わしも大いに賛成じゃ。…船のヤツらも、誰も文句は言わんじゃろうて。
こうして決まった、感謝の集い。元はコンスティテューション号だった船に御礼の言葉を。
船全体を一度に壊すわけではないから、あちこちを順に回って行った。
其処を壊すという予定が立ったら、食堂もブリッジも、休憩室も。皆が暮らしていた居住区も。
ソルジャーだった前の自分が、「ありがとう」と船に贈った言葉。
御礼を言いに出掛けた先で、きっと一番役立っただろう所に立って。食堂だったら、皆の食事を作った厨房。ブリッジだったら、船の進路を決め続けて来た舵の前。
「ありがとう」と御礼を言った後には、前のハーレイが誓いを立てた。キャプテンとして、船に誓っていた。「今日までの働きに感謝している」と、「きっといい船にしてみせる」と。
(そうだったっけ…)
至る所で、それまでの御礼を言って回ったシャングリラ。
壊す予定が立った時には、ハーレイたちと出掛けて行って。その場所をよく使っていた者たちも寄って、皆で感謝の気持ちを捧げた。「今日までの日々をありがとう」と。
新しくなった船で長く暮らして、すっかり忘れていたけれど。
白いシャングリラに慣れてしまって、改造前の船との別れの儀式も、記憶の海に沈んだけれど。
(…ぼくとハーレイ…)
二人で御礼を言ったんだっけ、と思い出していたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラを改造した時のことを覚えてる?」
人類から奪った船だったのを、白い鯨に。
あれですっかり変わってしまって、元の船とは違う船になってしまったけれど…。
姿も、それに船の設備も。…誰が見たって、同じ船だとは分からないほどに。
「もちろんだ」
俺が忘れるわけがなかろう、あの船のキャプテンだったんだぞ?
改造前には何度も会議をしてたし、改造に取り掛かってからもキャプテンの俺が纏め役だ。
現場はゼルが仕切っていたがな、それにヒルマン。あいつらの独壇場ってトコか。
とはいえ、毎日報告は来るし、進捗状況も把握してなきゃいかん。
誰かに質問された時にだ、答えられなきゃ話にもなりやしないんだから。
忘れるものか、とハーレイは自信たっぷりだけれど、きっと忘れているだろう。元になった船を壊すのだから、と感謝の言葉を贈ったこと。…ハーレイも誓いを立てていたこと。
「覚えてるんなら、御礼のことも覚えてる?」
とても大事なことだったけれど…。改造するなら、その前に御礼。
「御礼だって?」
誰に御礼を言うというんだ、ゼルやヒルマンに礼を言うのか?
あいつらが設計していた船だが、わざわざ礼まで言わなくても…。あいつらの役目なんだから。
礼を言いに出掛けた覚えは無いぞ、と顔を顰めているハーレイ。やはり忘れているらしい。
「ゼルたちのことじゃないってば。…シャングリラだよ」
前の船に御礼を言いに回ってたよ、ぼくとハーレイ。
まだ使えるのに、壊して改造しちゃうから…。壊さないと改造出来ないから。
次に壊すのは此処だから、って予定が立ったら出掛けていたよ。食堂にも、他の色々な場所も。
ぼくが御礼で、ハーレイは誓い。「次の船もいい船にしてみせるから」って。
「あったっけな…!」
そういや、御礼を言う集まりがあったんだ。…壊す部分と縁が深かった仲間も集めてな。
まだ充分に役に立つのに、そいつを壊しちまうんだから…。
申し訳ない、って詫びの気持ちも含めて、船に感謝をして回ってた。壊す前には、忘れずに。
俺がお前にスケジュールを届けに行っていたのに、すっかり忘れちまってた。
「次の集まりは此処になります」と、場所と集まる時間なんかのスケジュール。
あの案内をしておかないと、ソルジャー不在になっちまうから…。他の仲間は集まっていても。
もっとも、お前、俺が知らせるのを忘れていたって、ちゃんと現れただろうが…。
皆の動きに敏感だったし、きちんとな。…でもって、後で俺に嫌味だ。「忘れただろう?」と。
しかしだ、よく思い出したな、そんなこと。何か切っ掛け、あったのか…?
「今日の帰りに、改築している家を見たから…」
ぼくが大好きなポーチのある家、壊してる所だったんだよ。
壊しちゃうんだ、ってガッカリしてたら、その家のおじさんが来てくれて…。
壊すんじゃないって教えてくれたよ、ちょっと壊して新しい部屋を増やすんだって。
出来上がったら、ぼくの好きなポーチも戻って来るよ、と説明をした。壊していたのと、何処も変わらないデザインのポーチ。それが新しく出来るのだ、と。
「ホントだよ。おじさんにイメージを見せて貰ったから」
前よりも素敵な家になりそう、ポーチもグンと立派に見えて。…同じポーチが出来るのに。
デザインも材料も前と同じので、何処も変えたりしないのにね。
「なるほどなあ…。家の前だけ改築するってことか」
新しい部屋が増えたりするから、その分、立派に見えるんだろう。お前が好きなポーチ。
シャングリラの時とはかなり違うな、前の建物のままで残る部分が殆どだから。
お洒落に生まれ変わる家か、とハーレイも笑顔なのだけど。「それは素敵だ」と頷くけれども、ふと浮かんだのがシャングリラ。白い鯨に改造した船。
(…シャングリラ…)
せっかく立派な白い鯨に生まれ変わったのに、トォニィの代で役目を終えた。
最後のソルジャーだったトォニィ、彼が決断したシャングリラを引退させること。平和になった宇宙のあちこちを旅して回った、白い鯨は消えてしまった。
アルテメシアとノアと、二つの母港を持っていた船。
どちらの星でも歓迎されたし、シャングリラを係留したかったろうに。引退したなら、もう旅に出ることは無い船を。ミュウの歴史を築いた箱舟、宇宙で一番愛された船を。
けれど、トォニィはそうしなかった。
宇宙の旅から退いた船を、母港に繋ぎはしなかった。係留しておけば、見学者がひっきりなしに訪れ、写真を撮って行っただろうに。とても人気の観光資源になっただろうに。
そうなる代わりに、解体されたシャングリラ。…トォニィがそれを決めたから。
白い鯨は、もっと宇宙を飛べただろうに。
コンスティテューション号が建造された年代は確かに古かったけれど、白いシャングリラは固有周波数くらいしか引き継がなかった。新造船と呼んでも良かったくらいの新しい船。
だから、まだまだ飛べた筈。きちんと手入れをしてやったならば、数百年でも。
トォニィの命が尽きた後にも、係留されたまま、きっと残った。
充分に飛べる船だったのだし、見学用なら、もっと寿命は延びただろう。過酷な環境とも言える宇宙空間を飛ばずにいたなら、船は傷みはしないのだから。
もっと生きられたシャングリラ。何百年でも、アルテメシアかノアの宙港で。
なのに解体されてしまって、何も残りはしなかった。改造ではなくて、解体だから。新しい船に生まれ変わりはしなくて、宇宙から消えてしまったから。
「ハーレイ、シャングリラ、可哀相…」
壊されちゃった、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「消えちゃったよ」と。
「なんだって?」
シャングリラだったら、立派に生まれ変わっただろうが。白い鯨に。
元の船の姿は消えちまったが…。端から壊しちまったからなあ、でないと改造出来ないから。
「生まれ変わったシャングリラだよ。…ぼくが言ってるのは、白い鯨の方」
トォニィが引退させてしまって、解体を決めてしまったから…。
解体なんだよ、それって壊すのと同じことでしょ?
シャングリラ、まだ生きられたのに…。何百年でも、きっと宇宙を飛べたのに。
「そういや、そうか…」
消えちまったんだなあ、白い鯨は。
前の俺はとっくに死んじまっていたし、データくらいしか知らないが…。その後のことは。
引退したことも、解体のことも、今の俺が知っているだけだから。
「トォニィ、もっとシャングリラを生かしてあげれば良かったのに…」
今も人気の宇宙船だよ、白い鯨は。…見学用に残しておいても、大人気だったと思うけど…。
アルテメシアかノアに降ろして、宇宙の旅からは引退させて。
「そいつは無理というもんだろう。ミュウの箱舟はもう要らなかった」
人類とミュウが和解したなら、箱舟に乗っていなくてもいい。何処ででも生きてゆけるんだ。
新しい時代に過去を引き摺ることはあるまい、とトォニィは決断したんだな。
あのデカイ船は、維持するだけでも大変だっただろうから。
ミュウの世界を丸ごと乗せてた時代だったら、隅々まで目も行き届いていたし、人手ってヤツも充分すぎるくらいにあったんだがな。
「でも…。シャングリラ、いなくなっちゃった…」
ぼくたちを守ってくれていたのに、何処にもいなくなっちゃったんだよ…。
壊されちゃった、と零れた涙。白い鯨は、もっと生きられた筈だから。
あの白い船をもっと飛ばせてあげたかったと、宇宙の旅から退いた後も、母港でのんびり余生を過ごして欲しかったと。
「だってそうでしょ、まだ生きられる船だったもの」
白い鯨はとても頑丈に出来ていたから、何百年だって飛んでいられたよ。
飛ぶのをやめたら、もう傷んだりはしないから…。それこそ千年以上だって…。
きっと宇宙に残っていたよ、と溢れた涙を指で拭った。泣いてもシャングリラは戻らないから、恋人を困らせるだけだから。
「…泣くんじゃない。シャングリラは解体されたわけだが、そいつは考え方の違いで…」
平和な時代を立派に築いたトォニィだって、ちゃんと色々考えただろう。
白い鯨をどうすればいいか、もちろん、そのまま残しておくってことも含めて。
だがな、たとえ千年持ち堪えたって、シャングリラは宇宙船なんだ。星とは寿命が全く違う。
いつか間違いなく寿命を迎えるもんだから…。それを防げやしないから…。
きっとトォニィは見届けようと思ったんだろうな、白い鯨を最後まで。
自分が充分に元気な間に、あの船を送り出してやろうと。…自由に飛んでゆける世界へ。
それに、シャングリラは消えちゃいないぞ。お前、勘違いをしているようだが。
「え…?」
勘違いって…。間違えてないよ、改築していたポーチの家なら間違えたけど…。
壊してるんだと思ったけれども、シャングリラはホントにもう無いんだから。解体されて。
「其処だ、其処。…トォニィはきちんと考えていた」
船の形をしたままだったら、今の時代まで残すことはとても無理だったろうが、今も生きてる。
シャングリラは今も生きているんだ、この宇宙で。
「生きてるって…。何処に…?」
「シャングリラ・リング、忘れちまったか?」
あれはシャングリラそのものなんだぞ、白い鯨の船体の一部なんだから。
「そうだっけ…!」
シャングリラ・リングがあったんだっけね、結婚指輪になってしまったシャングリラ…。
そうだったよね、と眺めた左手の薬指。其処に嵌めたいシャングリラ・リング。
白いシャングリラの船体の一部、今も残されている金属の塊。それを使って、一年に一度、結婚指輪が作られる。決められた数だけ、対の指輪が。
結婚を決めたカップルだったら、誰でも申し込んでいい。抽選のチャンスは一度きりだけれど、当たればシャングリラ・リングが届く。白い鯨が姿を変えた、イニシャルなどが入った指輪が。
「トォニィ、今まで残してくれたんだ…。シャングリラを」
船のままだったら、とうに駄目になって、もう見ることも出来ないけれど…。
写真集の中に姿が残ってるだけで、本物は宇宙の何処を探しても、見付けられない筈だけど…。
指輪になって今でも生きてるんだね、と思いを馳せたシャングリラ・リング。
トォニィが解体を決めたからこそ、シャングリラ・リングは今も作られ続けている。白い鯨から結婚指輪に生まれ変わったシャングリラが。
「そうさ、俺たちも運が良ければ出会える。抽選で当たってくれればな」
シャングリラ・リングに会うことが出来たら、礼を言うことも出来るんだぞ。
ずいぶん時間が経っちまったが、前の俺たちを助けてくれていた、あの白い船にな。
「あちこちに連れて行けるんだっけね、シャングリラを」
旅行にも、食事にも、ぼくたちと一緒に。指に嵌めていたら、何処へだって。
良かった、シャングリラも新しく生まれ変われたんだ…。船の頃よりも、ずっと素敵な形で。
「うむ。それにだ、其処まで考えたトォニィだから…」
シャングリラを解体する時には、きっと花だの酒だの、山ほど贈ってやったんだろう。
感謝の気持ちをたっぷりとこめて、「ありがとう」とな。
トォニィは最後に酒を注いでやったそうだから。引退してゆくシャングリラにな。
「前のぼくたちがやったみたいに?」
壊す前の船に、感謝の言葉を贈って回ったみたいに。…あの船の中を、端から全部。
「言葉だけじゃなくて、間違いなく酒や花だったろうな、トォニィだから」
花も酒も手に入れられた時代だ、もう惜しみなく贈ってやったと思うぞ。シャングリラ中に。
「きっとそうだね、そして今でもシャングリラは生きているんだね…」
トォニィのお蔭で生まれ変わって、広い宇宙の色々な所に出掛けて行って、うんと幸せに…。
宇宙のあちこち、結婚指輪に姿を変えて旅を続けているシャングリラ。
懐かしい、白いシャングリラ。
今の時代まで、遥かな時を越えて来た白い鯨に、もう一度会って御礼を言いたい。
左手の薬指に嵌まる形で来てくれたならば、感謝の言葉と、御礼も沢山。
(御礼、一杯する予定だけど…)
ハーレイと二人で、山のような御礼。御馳走も旅行も、白いシャングリラにドッサリと。
いつも左手の薬指に嵌めて、何処に行く時もシャングリラを連れて出掛けて。
(…御礼を言うには、シャングリラにちゃんと会わないと…)
シャングリラは今も宇宙にいるから、指輪サイズの白いシャングリラに出会いたい。
トォニィが残してくれたお蔭で、今も生きている白い鯨に。
「前のぼくたちを守ってくれてありがとう」と御礼を言うために。
「ぼくは幸せだよ」と、「ハーレイと幸せに生きているよ」と、きちんと報告するために。
あの船が守ってくれていた恋、それが今度は実るから。青い地球にも来られたから。
いつかハーレイと二人で暮らす時には、白いシャングリラも一緒がいい。
シャングリラは今も生きているから。
新しい姿に生まれ変わって、左手の薬指に嵌めることが出来るのが今のシャングリラだから…。
生き続ける船・了
※元の船を壊さないと、改造は無理だったシャングリラ。御礼の言葉を贈った改造前の船。
そうして出来た白い箱舟が解体された後も、船は生き続けているのです。指輪の形になって。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
学校からの帰りに、ブルーの耳に届いた音。バス停から家まで歩く途中の、いつもの道。
バスを降りてから少し歩いたら、聞こえて来た何かを壊すような音。石が幾つも崩れるような、ガラガラという音だって。
(こっちの方…)
気になるからと道を外れて、音の方へと進んで行った。住宅街の中の道沿いに。生垣に囲まれた家の前を通って、角を曲がって、歩けば音が近付いて来る。ガシャンと何かが割れる音も。
何事だろう、と訝しみながら角を曲がった途端に、目に飛び込んで来た信じられない光景。
(壊しちゃってる…!)
通り道ではないのだけれども、自分の家から近い場所。御主人の顔もよく知っている家。
芝生の向こうに建つ、お洒落なポーチが素敵な家が好きだった。物語に出て来る家みたいで。
その大好きなポーチの辺りが、玄関や側の家の壁ごと壊されている真っ最中。ガラガラと機械に毟り取られて、窓のガラスも取り外されて。
(…嘘…)
なんで、と何度も瞬きをした。夢なのかも、と思ったから。夢なら瞬きすれば覚める筈だから。
けれども、覚めてくれない夢。自分が見ているものが現実。家は壊されてゆくところ。
まだ住めそうな家なのに。屋根も外壁も、ガラスを失くした窓枠も。
古くて駄目な家とは違って、充分に綺麗だった家。此処を通る時は、生垣越しにポーチを眺めて楽しんでいたものなのに。
燦々と日が当たるポーチは、本当にお気に入りだった。絵に描いたような其処で、この家の猫がのんびり昼寝をしていたりして。
(あのポーチ…)
なくなっちゃった、と壊されてゆくのを見ているしかない。大きな機械が毟ってゆくのを、壁や窓まで削り取られて消えてゆくのを。
天気がいいのに、もうポーチにはいない猫。こんな場所には、他の猫だって来ないだろう。怖い音がするし、近付いたら怪我もしそうだから。瓦礫を踏んだり、ぶつかったりして。
(壊しちゃうなんて…)
あんまりだよ、と思うけれども、きっと明日には家は丸ごと消えてしまっているのだろう。学校から帰って来るこの時間には、何も残っていはしない。
ポーチも家も、全部壊されて、トラックに乗せて運び去られて。何もない地面が広がるだけ。
(そんな…)
本当に好きな家だったのに。壊されるのなら、その前に見ておきたかったのに。
ゆっくり眺めて、心の中で「さよなら」を言って、目に焼き付けておきたかった。幼い頃から、此処のポーチが好きだったから。通る度に見ていた家だったから。
家は売られて、新しい人が別の家を建てて住むのだろうか。壊されてゆく家の代わりに。
こういう家に住んでみたい、と自分の好みの新しい家。
(あのまま住んであげればいいのに…)
そんなに古くない筈だよ、と子供の自分でも分かる。建て直さなければならないくらいに、古い家ではなかったこと。何十年だって住めそうなこと。
けれど、目の前で崩れてゆく家。無くなってしまったポーチの天井。柱もじきに倒される。側の床をごっそり抉り取られて、立っていることが出来なくなって。
全部消えちゃう、と呆然と其処に立ち尽くしていたら…。
「ブルー君?」
後ろからの声で振り向いた。誰、と思ったら、この家の御主人。幼い頃から知っている人。
慌ててピョコンと頭を下げて、「こんにちは」と挨拶したのだけれど。
(あれ…?)
何故、御主人が此処にいるのだろう。家は壊されてゆく所なのに。御主人が住んでいた筈の家。
今も大きな機械がせっせと、壁を、柱を毟っているのに。
家は売られてしまったんじゃあ…、と御主人と家を見比べた。「変だよね?」と。
御主人は普段と変わらない風で、引越したとは思えない。それでも家は壊されているし…。
「ブルー君、こんな所でどうしたんだい?」
今は学校の帰りだろう、と御主人も不思議そうな顔。「此処は通っていかない筈だよ」と。
制服と鞄で誰にでも分かる、学校から帰って来た生徒。確かに、通学路とは違う場所。御主人に質問されたからには、こちらも訊いていいだろう。
「えっと…。何か壊してる音がしたから、来てみたんだけど…。おじさんの家…」
なんで壊すの、とぶつけた疑問。まだ住める家の筈だから。
「ああ、これかい…! 壊してるねえ、確かにね」
悲しそうな顔をしているけれども、この家、好きな家だったのかい?
「うん、ポーチとか…。でも…」
無くなっちゃった、と視線を向けた。機械が倒している柱。あの柱がとても好きだったのに。
柱の側で猫が昼寝をしている姿は、まるで絵のようだったのに。
「ありがとう、家を気に入ってくれて。この家だって喜ぶよ」
ポーチはそっくりのを作るからねえ、今のと変わらない材料で。
「え?」
どういうこと、と丸くなった目。そっくり同じに作るのだったら、壊さなくても、と。
「改築って言葉を知ってるかい? 建て直すんじゃなくて、少し直すんだ」
元の家は残して、家の中を作り替えるとか…。こんな具合に、ちょっと壊して作り直すとか。
趣味のアトリエが欲しいんだけどね、あのままだと無理なものだから…。
家をちょっぴり広げるんだよ、と教えて貰った。
壊すのは家の一部だけ。御主人の趣味のアトリエを増やして、玄関の辺りの間取りも変えてやるために。壊さないと上手く繋がらないから、元からの家と。
必要な部分を機械が壊した後には、大工さんたちがやって来る。新しい壁や床を作りに。
新しいけれど、元からある家にしっくり合うよう、材料や色を合わせての工事。
出来上がったら、前とそっくりなポーチも戻って来るらしい。
今ある場所とは違うけれども、元通りに家の顔になるよう、玄関を作ってゆく場所に。
御主人は説明してくれた後で、まだ壊している家の方に視線をやってから…。
「工事が済んだら、こんな感じの家になる予定さ」
「わあ…!」
思念で送って貰ったイメージ。サイオンはとことん不器用だけれど、送って貰えば受け取れる。壊す前より、もっとお洒落になるらしい家。御主人の趣味のアトリエつきで。
(ポーチもホントに前のとおんなじ…)
家を広げた分、誇らしげな感じがするポーチ。「前より立派になったでしょう?」と。
「素敵だね。今、壊してる家も好きだったけど…」
今度の家もうんと素敵で、ポーチは今よりいい感じかも…。
同じポーチなのに、なんだか不思議。…何処もデザイン変えてないのに…。
「そう言って貰えると嬉しいよ。それに、ブルー君のお気に入りの家だったなんてね」
知っていたなら、変な心配をしなくて済むよう、お母さんにでも話しておいたのに…。
よく会うからねえ、買い物に行った時だって。
「玄関の辺りを少し直しますから」と工事の予定を知らせておいたら、ブルー君も安心して見ていられたのに…。ごめんよ、ちっとも気が付かなくて。
でも、この通りに、もうすぐ生まれ変わるから。…壊しているのは今だけなんだ。
ああいう機械も、明日の午前中には出番が終わって帰って行くかな。
そっちが済んだら直ぐに工事に取り掛かるんだよ、新しく増やす部分の基礎を作って。
出来上がったら、また見に来て欲しいね。
壊す時と違って大きな音はしないだろうから、出来上がっても音では分からないけれど。
「見に来る…!」
大工さんが家を作ってる音は、たまに聞こえると思うから…。
学校の帰りに回り道するよ、どのくらい出来て来たのかな、って。
前より素敵になるんだものね、と眺めた家。お気に入りだったポーチは戻って来る。
まるで壊しているようだけれど、新しく生まれ変わる家。
明日になったら壊す機械が運び出されて、代わりに大工さんたちが来て。
良かったよね、とホッとして帰った自分の家。御主人に「さよなら」と挨拶をして。
制服を脱いで、ダイニングでおやつを食べる間も、あの家のことを思い出す。
(まだ住めるのに、壊しちゃうなんて…)
可哀相、と早合点をしてしまったけれど。
あの御主人たちは家を売ってしまって何処かに引越し、新しく来る人が家を壊して、自分たちの好きな新しい家を建てるのだと勘違いしていたのだけれど。
そうではなかった、大好きな家。猫がのんびり昼寝をしていた、ポーチがとても似合う家。
(作り直すんなら、あの家だって喜ぶよ)
生まれ変わって、もっと素敵になれるから。御主人の趣味のアトリエが増えて、前のとそっくり同じポーチも玄関に作り直されて。
(きっと、おじさんたちも、あのポーチが好き…)
だから全く同じデザインにするのだろう。少しも変えずに、元あったものとそっくりに。
あの家の猫も、きっと喜ぶ。昼寝する場所がまた出来るのだし、居心地もいい筈だから。
(みんなポーチが大好きだよね?)
御主人たちも、猫も、壊されていたポーチが大好き。元の通りに作り直そうと思うくらいだし、いつも見ていた自分と同じに、あのポーチが好き。
(早くポーチが出来るといいよね)
そしたらゆっくり見に行こう、と考えながらケーキを食べて、紅茶も飲んで。空になったお皿やカップを母に渡して、戻った二階の自分の部屋。
窓の所に行って眺めた、あの家の方。他の家の屋根や庭木に隠れて見えないけれど…。
(あそこで生まれ変わるんだよ)
壊す機械が運び出されたら、大工さんたちがやって来て。
御主人が話してくれていたように、増やす部分の家を基礎から作っていって。
ポーチの基礎も一緒に作ってゆくのだろう。前とそっくり同じになるよう、計算された設計図。それの通りに基礎を作って、柱を立てて、屋根などもつけて。
そうやって立派に出来上がる家。ポーチが戻って、御主人の趣味のアトリエも増えて。
出来上がったら見に行かなくちゃ、と思う家。大工さんが工事している音が聞こえたら、帰りに回り道もして。「どのくらい出来て来たのかな?」と。
きっと通る度に、新しい顔が見えて来るのだろう。基礎が出来ていたり、柱が立ったり、屋根の梁が上に乗っていたりと。
(壊すんじゃなくて、ホントに良かった…)
元の家を少し壊すにしたって、素敵に生まれ変われるのなら、と考えていたら掠めた記憶。
遠く遥かな時の彼方で、前の自分が見ていたもの。
(…シャングリラ…)
あの船もあれと同じだった、と気が付いた。壊されるのだと勘違いをした、ポーチのある家と。
元は人類のものだった船がシャングリラ。前の自分たちが暮らした船。
メギドの炎で燃えるアルタミラから、あの船を使って逃げ出した。人類が捨てていった船だし、誰も乗ってはいなかったから。
充分な食料を載せていた船は、前の自分たちを生かしてくれた。コンスティテューションという名前だった船。人類はそう呼んでいたらしい。
船での暮らしに馴染んだ後に、シャングリラと名付けて長く宇宙を旅して回った。人類軍の船に出会わないよう、慎重に航路設定をして。
そうして旅を続ける間に、培った技術や生まれたアイデア。それらを生かして、ミュウの箱舟を作ろうと決めた。自給自足で何処までも飛んでゆくことが出来る、白い鯨を思わせる船を。
(元の船を改造するのが決まって…)
設計図が作られ、資材の調達なども順調。其処までは良かったし、白い鯨は立派に完成する筈。計画通りに進めさえすれば、船の中だけで全てを賄うことが可能な箱舟が。
さて、と改造に取り掛かろうとしていた時に、前の自分が気付いたこと。ある夜に、ふと。
(壊さないと…)
元からの船を壊さない限り、出来上がらないのが新しい船。白い鯨になるだろう船。
ソルジャーの自分が暮らす部屋はもちろん、食堂もブリッジも、何もかもを。
皆の憩いの場の休憩室も、それぞれが使っている部屋も。
どれも壊してしまわないと駄目で、新しい船に残せはしない。船の心臓である機関部さえもが、まるで違うものになるのだから。今とは全く違うシステム、それを組み込んでゆくためには。
無くなるのだ、と見回した自分の部屋。壁も天井も全部壊して、此処には何が出来るのだろう?
食堂も通路もブリッジだって、欠片すらも残さず壊されてしまう。白い鯨にするために。
新しく出来る白い鯨は、今の船にある部屋も設備も、必要としない船なのだから。
(ずっと、ぼくたちを守ってくれて…)
一緒に旅をして来た船。元はコンスティテューション号だった船。
白い鯨に改造した後も、船そのものは残るけれども、色々なものが無くなってしまう。邪魔だとばかりに壊されていって、別の何かが其処に生まれて。
このまま使い続けるのならば、まだまだ宇宙を飛べるだろうに。きちんとメンテナンスを施してやれば、きっと数百年だって。
(それを壊してしまうだなんて…)
自分たちの命を守ってくれた、頼もしい船。アルタミラからも脱出させてくれた船。
まだ充分に寿命があるのに、その船を壊す自分たち。改造とはいえ、船に残るのは恐らく、固有周波数だけ。元はコンスティテューション号だった、と識別可能なものはそれだけ。
今日まで守ってくれたのに。…この船で宇宙を旅して来たのに。
改造しようとさえ思わなければ、元の姿を保ったままで飛び続けることが出来るのに。
(なんだか申し訳なくて…)
いたたまれなくて、何度も部屋を眺め回した。「まだ使える」と。
改造のために壊さなければ、何十年だって使えるだろう。壁や天井が汚れて来たなら、掃除してやればいいだけのこと。床を磨くように、汚れがすっかり落ちるまで。
照明や空調などが故障したって、修理すればまた使ってゆける。必要だったら、交換用の部品を奪いに出掛ければいい。人類の輸送船を探して、「これとこれだ」と調達するだけ。
今はそういう生活なのだし、それを続けるなら、船はこのまま。
壊されはせずに、今の姿を保ってゆける。コンスティテューション号だった時の姿のままで。
けれども、それではミュウの箱舟は作れない。
自給自足で生きてゆける船を作りたいなら、壊すしかない今の船。
まだ充分に飛べるのに。…数百年だって、このままで飛んでゆけるだろうに。
新しい船を作るためとはいえ、今ある船を壊してしまう。自給自足の船にしよう、という考えを起こさなければ、この船は生きてゆけたのに。少しも形を変えることなく飛べたのに。
(なのに、壊してしまうんだから…)
船に申し訳ないような気がして、どうしてもそれが拭えない。
一度、気付いてしまったら。まだ使える船を端から壊して、白い鯨にしてしまうのだという罪の意識が生まれたら。
生きるためには必要だけれど、罪は罪。船を壊してしまうこと。命の恩人だった船なのに。今日まで守って来てくれた船。…この船の寿命は、まだ充分にある筈なのに。
何日もあれこれ考え続けて、ついに相談することにした。長老と呼ばれるヒルマンたち四人と、キャプテンを集めての会議。その席で「船が可哀相だ」と。
「そう思わないかい? この船は壊されてしまうんだよ」
今のままでも、宇宙船としては優秀なのに。…ミュウの箱舟には向かないだけで。
自給自足で生きていこうとか、ステルス・デバイスやサイオン・シールドを載せようだとか…。
そんなことさえ言い出さなければ、この船でやってゆけるのに…。
船は壊されたりしないのに、と出席した皆に訴えた。「まだ生きられる船なのに」と。
「なるほどね…。壊さなければ、改造出来はしないのだからね」
生まれ変わって新しい船になりはするのだが…、とヒルマンが顎に手をやった。
「今のままでも使える船を、壊すというのは確かではある」と。
「壊されちまう部屋ばかりだねえ、言われてみれば。…この部屋もさ」
あたしたちがいる会議室だって残らないね、とブラウも頷いた。会議室もブリッジも、機関部も全て壊されちまう、と。今ある船を壊さなければ、新しい船は作れないから。
「そうだろう? 何一つとして残らないんだよ、今の船はね」
姿もすっかり変わってしまって、まるで違う船になるのはいい。…そういう船が必要だから。
ぼくにも、それは分かっている。改造するには、壊さなくてはならないことも。
ただ…。
要らないから、と壊すだけでは可哀相だ、と曇らせた顔。ずっと暮らして来た船なのだし、命を守ってくれた船。元が優れた船でなければ、今日まで飛んではいられない。
「違うかい? アルタミラから脱出して直ぐに故障していたら…」
皆に充分な知識が無いまま、エンジントラブルを起こしていたなら、皆、死んでいる。
エンジンが止まれば、空調も全部止まるから。…船の酸素が尽きてしまうから。
そうならなかったのは船のお蔭で、ぼくたちを今日まで生かしてくれた。
新しい船を作ることまで思い付くほどに、ぼくたちが知識や技術を身に付けるまで。
その船をただ壊すなんてね…。もう用済みだと、まるでゴミでも捨てるみたいに…。
ぼくには出来ない、と溜息をついた。「必要なことでも、やりたくはない」と。
「あたしも、そんな気がして来たよ」
ブラウが言ったら、ゼルが「わしもじゃ」と声を上げた。
「長年、世話になった船じゃし、あちこち修理もしてやったんじゃ。一つしか無い船じゃから」
なんとか出来ればいいんじゃが…。この申し訳ない気持ちをじゃな…。
伝えてやれればいいんじゃが、と髭を引っ張ったゼル。「わしの気持ちを、この船にも」と。
「そういうことなら、感謝の言葉を贈るというのはどうでしょう?」
壊す前に、とエラが提案した。
元はコンスティテューション号だった船に、今日までの感謝の気持ちをこめて言葉を贈る。
ソルジャーとキャプテン、それに長老たち。他にも主だった者たちを集めて。
其処が食堂なら、厨房で働いて来た仲間たち。他の場所でも、其処に馴染みの者たちが集う。
彼らと一緒に、「今日までありがとう」と、船に御礼を。壊す前には、そういう集い。
「感謝の言葉を贈る集まり…。それはいいかもしれないね」
船も喜んでくれそうだ、と肩の荷が下りたような気がした。御礼を言うなら、この船も分かってくれるだろう。用済みだからと壊すわけではないことを。誰もが感謝していることを。
「ソルジャーが代表で御礼を言うのがいいと思うよ」
皆を纏める長なのだから、とヒルマンが述べて、エラは「キャプテンもですよ」と付け加えた。
「いい船にする、と誓いを立てるべきでしょう。今のこの船に」
きっといい船にしてみせるから、と安心させてやって下さい。今日まで守って来てくれた船を。
「良さそうじゃな」
そうするべきじゃぞ、わしも大いに賛成じゃ。…船のヤツらも、誰も文句は言わんじゃろうて。
こうして決まった、感謝の集い。元はコンスティテューション号だった船に御礼の言葉を。
船全体を一度に壊すわけではないから、あちこちを順に回って行った。
其処を壊すという予定が立ったら、食堂もブリッジも、休憩室も。皆が暮らしていた居住区も。
ソルジャーだった前の自分が、「ありがとう」と船に贈った言葉。
御礼を言いに出掛けた先で、きっと一番役立っただろう所に立って。食堂だったら、皆の食事を作った厨房。ブリッジだったら、船の進路を決め続けて来た舵の前。
「ありがとう」と御礼を言った後には、前のハーレイが誓いを立てた。キャプテンとして、船に誓っていた。「今日までの働きに感謝している」と、「きっといい船にしてみせる」と。
(そうだったっけ…)
至る所で、それまでの御礼を言って回ったシャングリラ。
壊す予定が立った時には、ハーレイたちと出掛けて行って。その場所をよく使っていた者たちも寄って、皆で感謝の気持ちを捧げた。「今日までの日々をありがとう」と。
新しくなった船で長く暮らして、すっかり忘れていたけれど。
白いシャングリラに慣れてしまって、改造前の船との別れの儀式も、記憶の海に沈んだけれど。
(…ぼくとハーレイ…)
二人で御礼を言ったんだっけ、と思い出していたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合わせで問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。シャングリラを改造した時のことを覚えてる?」
人類から奪った船だったのを、白い鯨に。
あれですっかり変わってしまって、元の船とは違う船になってしまったけれど…。
姿も、それに船の設備も。…誰が見たって、同じ船だとは分からないほどに。
「もちろんだ」
俺が忘れるわけがなかろう、あの船のキャプテンだったんだぞ?
改造前には何度も会議をしてたし、改造に取り掛かってからもキャプテンの俺が纏め役だ。
現場はゼルが仕切っていたがな、それにヒルマン。あいつらの独壇場ってトコか。
とはいえ、毎日報告は来るし、進捗状況も把握してなきゃいかん。
誰かに質問された時にだ、答えられなきゃ話にもなりやしないんだから。
忘れるものか、とハーレイは自信たっぷりだけれど、きっと忘れているだろう。元になった船を壊すのだから、と感謝の言葉を贈ったこと。…ハーレイも誓いを立てていたこと。
「覚えてるんなら、御礼のことも覚えてる?」
とても大事なことだったけれど…。改造するなら、その前に御礼。
「御礼だって?」
誰に御礼を言うというんだ、ゼルやヒルマンに礼を言うのか?
あいつらが設計していた船だが、わざわざ礼まで言わなくても…。あいつらの役目なんだから。
礼を言いに出掛けた覚えは無いぞ、と顔を顰めているハーレイ。やはり忘れているらしい。
「ゼルたちのことじゃないってば。…シャングリラだよ」
前の船に御礼を言いに回ってたよ、ぼくとハーレイ。
まだ使えるのに、壊して改造しちゃうから…。壊さないと改造出来ないから。
次に壊すのは此処だから、って予定が立ったら出掛けていたよ。食堂にも、他の色々な場所も。
ぼくが御礼で、ハーレイは誓い。「次の船もいい船にしてみせるから」って。
「あったっけな…!」
そういや、御礼を言う集まりがあったんだ。…壊す部分と縁が深かった仲間も集めてな。
まだ充分に役に立つのに、そいつを壊しちまうんだから…。
申し訳ない、って詫びの気持ちも含めて、船に感謝をして回ってた。壊す前には、忘れずに。
俺がお前にスケジュールを届けに行っていたのに、すっかり忘れちまってた。
「次の集まりは此処になります」と、場所と集まる時間なんかのスケジュール。
あの案内をしておかないと、ソルジャー不在になっちまうから…。他の仲間は集まっていても。
もっとも、お前、俺が知らせるのを忘れていたって、ちゃんと現れただろうが…。
皆の動きに敏感だったし、きちんとな。…でもって、後で俺に嫌味だ。「忘れただろう?」と。
しかしだ、よく思い出したな、そんなこと。何か切っ掛け、あったのか…?
「今日の帰りに、改築している家を見たから…」
ぼくが大好きなポーチのある家、壊してる所だったんだよ。
壊しちゃうんだ、ってガッカリしてたら、その家のおじさんが来てくれて…。
壊すんじゃないって教えてくれたよ、ちょっと壊して新しい部屋を増やすんだって。
出来上がったら、ぼくの好きなポーチも戻って来るよ、と説明をした。壊していたのと、何処も変わらないデザインのポーチ。それが新しく出来るのだ、と。
「ホントだよ。おじさんにイメージを見せて貰ったから」
前よりも素敵な家になりそう、ポーチもグンと立派に見えて。…同じポーチが出来るのに。
デザインも材料も前と同じので、何処も変えたりしないのにね。
「なるほどなあ…。家の前だけ改築するってことか」
新しい部屋が増えたりするから、その分、立派に見えるんだろう。お前が好きなポーチ。
シャングリラの時とはかなり違うな、前の建物のままで残る部分が殆どだから。
お洒落に生まれ変わる家か、とハーレイも笑顔なのだけど。「それは素敵だ」と頷くけれども、ふと浮かんだのがシャングリラ。白い鯨に改造した船。
(…シャングリラ…)
せっかく立派な白い鯨に生まれ変わったのに、トォニィの代で役目を終えた。
最後のソルジャーだったトォニィ、彼が決断したシャングリラを引退させること。平和になった宇宙のあちこちを旅して回った、白い鯨は消えてしまった。
アルテメシアとノアと、二つの母港を持っていた船。
どちらの星でも歓迎されたし、シャングリラを係留したかったろうに。引退したなら、もう旅に出ることは無い船を。ミュウの歴史を築いた箱舟、宇宙で一番愛された船を。
けれど、トォニィはそうしなかった。
宇宙の旅から退いた船を、母港に繋ぎはしなかった。係留しておけば、見学者がひっきりなしに訪れ、写真を撮って行っただろうに。とても人気の観光資源になっただろうに。
そうなる代わりに、解体されたシャングリラ。…トォニィがそれを決めたから。
白い鯨は、もっと宇宙を飛べただろうに。
コンスティテューション号が建造された年代は確かに古かったけれど、白いシャングリラは固有周波数くらいしか引き継がなかった。新造船と呼んでも良かったくらいの新しい船。
だから、まだまだ飛べた筈。きちんと手入れをしてやったならば、数百年でも。
トォニィの命が尽きた後にも、係留されたまま、きっと残った。
充分に飛べる船だったのだし、見学用なら、もっと寿命は延びただろう。過酷な環境とも言える宇宙空間を飛ばずにいたなら、船は傷みはしないのだから。
もっと生きられたシャングリラ。何百年でも、アルテメシアかノアの宙港で。
なのに解体されてしまって、何も残りはしなかった。改造ではなくて、解体だから。新しい船に生まれ変わりはしなくて、宇宙から消えてしまったから。
「ハーレイ、シャングリラ、可哀相…」
壊されちゃった、と見詰めた恋人の鳶色の瞳。「消えちゃったよ」と。
「なんだって?」
シャングリラだったら、立派に生まれ変わっただろうが。白い鯨に。
元の船の姿は消えちまったが…。端から壊しちまったからなあ、でないと改造出来ないから。
「生まれ変わったシャングリラだよ。…ぼくが言ってるのは、白い鯨の方」
トォニィが引退させてしまって、解体を決めてしまったから…。
解体なんだよ、それって壊すのと同じことでしょ?
シャングリラ、まだ生きられたのに…。何百年でも、きっと宇宙を飛べたのに。
「そういや、そうか…」
消えちまったんだなあ、白い鯨は。
前の俺はとっくに死んじまっていたし、データくらいしか知らないが…。その後のことは。
引退したことも、解体のことも、今の俺が知っているだけだから。
「トォニィ、もっとシャングリラを生かしてあげれば良かったのに…」
今も人気の宇宙船だよ、白い鯨は。…見学用に残しておいても、大人気だったと思うけど…。
アルテメシアかノアに降ろして、宇宙の旅からは引退させて。
「そいつは無理というもんだろう。ミュウの箱舟はもう要らなかった」
人類とミュウが和解したなら、箱舟に乗っていなくてもいい。何処ででも生きてゆけるんだ。
新しい時代に過去を引き摺ることはあるまい、とトォニィは決断したんだな。
あのデカイ船は、維持するだけでも大変だっただろうから。
ミュウの世界を丸ごと乗せてた時代だったら、隅々まで目も行き届いていたし、人手ってヤツも充分すぎるくらいにあったんだがな。
「でも…。シャングリラ、いなくなっちゃった…」
ぼくたちを守ってくれていたのに、何処にもいなくなっちゃったんだよ…。
壊されちゃった、と零れた涙。白い鯨は、もっと生きられた筈だから。
あの白い船をもっと飛ばせてあげたかったと、宇宙の旅から退いた後も、母港でのんびり余生を過ごして欲しかったと。
「だってそうでしょ、まだ生きられる船だったもの」
白い鯨はとても頑丈に出来ていたから、何百年だって飛んでいられたよ。
飛ぶのをやめたら、もう傷んだりはしないから…。それこそ千年以上だって…。
きっと宇宙に残っていたよ、と溢れた涙を指で拭った。泣いてもシャングリラは戻らないから、恋人を困らせるだけだから。
「…泣くんじゃない。シャングリラは解体されたわけだが、そいつは考え方の違いで…」
平和な時代を立派に築いたトォニィだって、ちゃんと色々考えただろう。
白い鯨をどうすればいいか、もちろん、そのまま残しておくってことも含めて。
だがな、たとえ千年持ち堪えたって、シャングリラは宇宙船なんだ。星とは寿命が全く違う。
いつか間違いなく寿命を迎えるもんだから…。それを防げやしないから…。
きっとトォニィは見届けようと思ったんだろうな、白い鯨を最後まで。
自分が充分に元気な間に、あの船を送り出してやろうと。…自由に飛んでゆける世界へ。
それに、シャングリラは消えちゃいないぞ。お前、勘違いをしているようだが。
「え…?」
勘違いって…。間違えてないよ、改築していたポーチの家なら間違えたけど…。
壊してるんだと思ったけれども、シャングリラはホントにもう無いんだから。解体されて。
「其処だ、其処。…トォニィはきちんと考えていた」
船の形をしたままだったら、今の時代まで残すことはとても無理だったろうが、今も生きてる。
シャングリラは今も生きているんだ、この宇宙で。
「生きてるって…。何処に…?」
「シャングリラ・リング、忘れちまったか?」
あれはシャングリラそのものなんだぞ、白い鯨の船体の一部なんだから。
「そうだっけ…!」
シャングリラ・リングがあったんだっけね、結婚指輪になってしまったシャングリラ…。
そうだったよね、と眺めた左手の薬指。其処に嵌めたいシャングリラ・リング。
白いシャングリラの船体の一部、今も残されている金属の塊。それを使って、一年に一度、結婚指輪が作られる。決められた数だけ、対の指輪が。
結婚を決めたカップルだったら、誰でも申し込んでいい。抽選のチャンスは一度きりだけれど、当たればシャングリラ・リングが届く。白い鯨が姿を変えた、イニシャルなどが入った指輪が。
「トォニィ、今まで残してくれたんだ…。シャングリラを」
船のままだったら、とうに駄目になって、もう見ることも出来ないけれど…。
写真集の中に姿が残ってるだけで、本物は宇宙の何処を探しても、見付けられない筈だけど…。
指輪になって今でも生きてるんだね、と思いを馳せたシャングリラ・リング。
トォニィが解体を決めたからこそ、シャングリラ・リングは今も作られ続けている。白い鯨から結婚指輪に生まれ変わったシャングリラが。
「そうさ、俺たちも運が良ければ出会える。抽選で当たってくれればな」
シャングリラ・リングに会うことが出来たら、礼を言うことも出来るんだぞ。
ずいぶん時間が経っちまったが、前の俺たちを助けてくれていた、あの白い船にな。
「あちこちに連れて行けるんだっけね、シャングリラを」
旅行にも、食事にも、ぼくたちと一緒に。指に嵌めていたら、何処へだって。
良かった、シャングリラも新しく生まれ変われたんだ…。船の頃よりも、ずっと素敵な形で。
「うむ。それにだ、其処まで考えたトォニィだから…」
シャングリラを解体する時には、きっと花だの酒だの、山ほど贈ってやったんだろう。
感謝の気持ちをたっぷりとこめて、「ありがとう」とな。
トォニィは最後に酒を注いでやったそうだから。引退してゆくシャングリラにな。
「前のぼくたちがやったみたいに?」
壊す前の船に、感謝の言葉を贈って回ったみたいに。…あの船の中を、端から全部。
「言葉だけじゃなくて、間違いなく酒や花だったろうな、トォニィだから」
花も酒も手に入れられた時代だ、もう惜しみなく贈ってやったと思うぞ。シャングリラ中に。
「きっとそうだね、そして今でもシャングリラは生きているんだね…」
トォニィのお蔭で生まれ変わって、広い宇宙の色々な所に出掛けて行って、うんと幸せに…。
宇宙のあちこち、結婚指輪に姿を変えて旅を続けているシャングリラ。
懐かしい、白いシャングリラ。
今の時代まで、遥かな時を越えて来た白い鯨に、もう一度会って御礼を言いたい。
左手の薬指に嵌まる形で来てくれたならば、感謝の言葉と、御礼も沢山。
(御礼、一杯する予定だけど…)
ハーレイと二人で、山のような御礼。御馳走も旅行も、白いシャングリラにドッサリと。
いつも左手の薬指に嵌めて、何処に行く時もシャングリラを連れて出掛けて。
(…御礼を言うには、シャングリラにちゃんと会わないと…)
シャングリラは今も宇宙にいるから、指輪サイズの白いシャングリラに出会いたい。
トォニィが残してくれたお蔭で、今も生きている白い鯨に。
「前のぼくたちを守ってくれてありがとう」と御礼を言うために。
「ぼくは幸せだよ」と、「ハーレイと幸せに生きているよ」と、きちんと報告するために。
あの船が守ってくれていた恋、それが今度は実るから。青い地球にも来られたから。
いつかハーレイと二人で暮らす時には、白いシャングリラも一緒がいい。
シャングリラは今も生きているから。
新しい姿に生まれ変わって、左手の薬指に嵌めることが出来るのが今のシャングリラだから…。
生き続ける船・了
※元の船を壊さないと、改造は無理だったシャングリラ。御礼の言葉を贈った改造前の船。
そうして出来た白い箱舟が解体された後も、船は生き続けているのです。指輪の形になって。