シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
蘇った地球に生まれ変わり、前世で愛したハーレイと再び巡り会ったブルー。
其処までは嬉しいことだったけれど、残念なことにブルーは十四歳になったばかりの少年だった。おまけにハーレイはブルーが通う学校の古典の教師。色々な計らいのお蔭で休みの日にはハーレイと一緒に過ごせるようにはなっているものの…。
「あっ、いけない!」
ママだ、とブルーは慌ててハーレイの広い胸から離れた。
前世で失った時間を取り戻すかのように、ブルーはハーレイの胸に抱かれて過ごすのが好きだ。ハーレイが訪ねて来てくれる休日には必ず強請って抱き締めて貰うが、生憎と今のブルーには両親がいる。特に母の方は客人であるハーレイを何かと気遣い、ブルーの部屋の扉をノックするわけで。
「ブルー? 入るわよ」
階段を上がって来る足音に気付いて離れていたから、母は何事も無かったかのように向かい合って話すハーレイとブルーにニッコリ微笑む。
「お茶のお代わりを持って来たわ。…ハーレイ先生、今日も夕食を御用意させて頂きますから」
「すみません、お気遣い頂きまして」
「いいえ、ブルーがいつもお世話になっているんですもの。どうぞ御遠慮なく。夕食の支度が出来たら、また声を掛けに来ますわね」
ごゆっくりどうぞ、とティーセットを新しいものと入れ替え、空になっていたケーキ皿の代わりにクッキーを盛った器を置いて母は部屋から出ていった。扉が閉まって、階段を下りてゆく軽い足音が遠ざかる。それが聞こえなくなるのを待って、ブルーは小さな溜息をついた。
「……またその内に来るんだよね、ママ…」
「ん? そりゃまあ、なあ…。夕食時まで覗きに来ないってことはないだろうな」
いいお母さんじゃないか、とハーレイが穏やかな笑みを浮かべる。
「お客さんを放っておくわけにはいかんだろう。お前はまだまだ子供だしな」
「見た目だけだよ!」
「そうか? しかしだ、現にお前はお茶の用意も出来ないわけで」
「お茶くらいちゃんと淹れられるよ!」
ブルーはムキになって反論したが、空になったティーポットやカップ、ケーキ皿などを下げることも忘れてハーレイに甘えていたことは事実。これが気の利いた大人であれば、頃合いを見て熱いお茶のポットと入れ替え、菓子も新たに用意した筈だ。たとえ先の分でお腹一杯であったとしても。
「…お前、いい加減、覚えたらどうだ? ポットもカップも空になったら新しいのが要るだろう」
さっさと下げて入れ替えてくれば少なくとも一度は母の訪問回数が減る、というハーレイの指摘は正しかった。それでもブルーは毎回忘れる。目の前のハーレイに夢中になってしまうから…。
「…わざと忘れてるわけじゃないんだけれど……」
シュンと項垂れるブルーの姿に、ハーレイが「じゃあ、年のせいか?」とからかってくる。
「三百にプラス何歳だった? 少なくとも今が十四歳だし、前世の分まで合わせて数えりゃ平均寿命も間近ってトコか。物忘れが酷くなっても仕方がないが、同じ三百歳を超えた年でも前のお前は冴えてたなあ…」
物忘れなんかしなかったっけな、とハーレイは可笑しそうに笑ってみせた。
「俺が約束の時間に遅れたと何度文句を言われたことか。…絶対に忘れなかったんだよなあ、たまには忘れてくれてもいいのに」
「忘れるわけがないよ、ハーレイと二人きりになれる時間の約束をしたんだもの」
「だったら、今度も覚えておけばいいだろう」
「ママが来る時間は決まってないし! 決まってるんなら覚えるよ!」
お茶を淹れてから一時間後とか、とブルーは唇を尖らせたけれど、実際の所、覚えていられる自信は無かった。ハーレイの姿を目にしたが最後、他は全くどうでもよくなる。ケーキをすっかり食べてしまおうが、ポットもカップも空であろうが、ハーレイさえいればもう幸せでたまらない。
(…ホントにわざとじゃないんだけどな…)
今日だってハーレイが部屋を訪れるまでは覚えていた。母が用意した菓子が無くなるか、ポットのお茶が空になったら先手を打って自分で下げて、新しいものを貰ってこよう、と。そうすれば母が扉をノックする前に余裕を持って行動出来るし、母の来訪も一度は減るし…。
「…どうして忘れちゃうんだろう…」
自己嫌悪に陥りそうなブルーの額をハーレイの指がピンと弾いた。
「それはお前が子供だからさ。…前のお前は大人だったから、今のお前より遙かに年を重ねていたって周りがきちんと見えていたんだ。次に自分が取るべき道を見据えていたと言うべきか…。俺と一緒に過ごす時にも決してシャングリラを忘れなかった」
「……そうなんだけど……」
そのことはブルーも覚えている。ハーレイと恋人同士の時を過ごして、どんなに我を忘れようとも心の何処かに白く優美なシャングリラが在った。
守らなくてはならないもの。決して忘れてはならないもの…。
巨大な船を常に意識し、その隅々まで思念を行き渡らせることに比べればティーポットや菓子の皿など微々たるもの。ソルジャー・ブルーであった頃の自分なら、意識せずとも忘れないもの。
それなのに毎回、忘れてしまう。自分は馬鹿になったのだろうか?
「…テストの点数は悪くないって思うんだけどな…」
言い訳のように呟いてみても、現に今日だって綺麗に忘れた。やっぱり自分は前世よりも馬鹿で覚えが悪くて、たかがティーポットすらも頭の中に留めておけない間抜けだとか…?
そんなブルーの頭をハーレイがポンポンと優しく叩く。
「お前、頭は悪くないだろ? 運動の方はからっきしだが、他の科目は小さい頃からトップクラスで今の学校へ入った時にも首席だったと聞いているが?」
「…だけど、頭は悪いのかも…。テストでいい点が取れる理由はソルジャー・ブルーの頃の記憶を持っているからで、ぼくが覚えたわけじゃないかも…」
思い出す前から全部知ってたのかも、とブルーは落ち込みそうだった。お茶を取り替えることも忘れる自分が授業の中身を人並み以上に覚えていられるわけがない。無意識の内に前世で蓄えた知識を引き出し、スラスラと問題を解いていただけで…。
「そうだな、馬鹿かもしれないな」
ハーレイの言葉に傷つきかけたが、その言葉には続きがあった。
「…さっきお前が忘れる理由を言った筈だが、それも全く分かっていない辺りがなあ…。いいか、お前は子供なんだよ。目先のことしか見えない子供だ。子供ってヤツはそういうモンだ」
「ぼくは子供じゃないってば!」
馬鹿と言われるのもショックだけれども、子供扱いはもっと堪える。いくら背丈が前の生よりもずっと低くて、生まれてからの年数が今のハーレイの半分にさえもならないとしても、ソルジャー・ブルーだった頃の記憶はあった。自分はハーレイと恋人同士の筈なのに…。
「子供じゃないと言い張る所も立派に子供の証拠だな。ちゃんと立派に育った大人がよく言う台詞を知ってるか? 「まだまだ若輩者でして」と自分は若すぎて経験不足だと謙遜するんだ」
「でも、ぼくは…!」
「ソルジャー・ブルーの生まれ変わりで俺の恋人だと言いたいのか? それは認めるが、子供は子供だ。お前がどんなに背伸びしたって三百歳を超えるどころか俺の年さえ越えられないさ」
だから、とハーレイの手がブルーの髪をクシャクシャと撫でた。
「お前は周りがきちんと見えない。自分のことだけで精一杯で、そのせいで色々失敗もする。お茶を淹れに行こうと思っていたって忘れちまうのも子供だからだ。心配は要らん」
当分はお母さんに任せておけ、とハーレイは笑うが、ブルーにしてみれば母の存在は大問題で。
「……でも……。ママが来ちゃうと離れなくっちゃいけないし…」
さっきみたいに、とブルーは俯いた。
「ぼくはハーレイの側に居たいのに、ママに見付かったら大変だもの…」
自分たちの前世が何であったかは両親だって知っている。しかし恋人同士だったことは何処にも記録されてはおらず、その上にハーレイもブルーも男。事実を知ったら両親は腰を抜かすだろう。
今の時代でも男同士のカップルは至って少数派。結婚は出来るし問題は無いが、それでもやはり普通の恋とは言い難い。いつかは両親にもきちんと話してハーレイと共に暮らしたいけれど、其処に至る前に知れて驚かれることは出来れば回避したかった。
せっかく休日はハーレイと過ごせるようになっているのに、恋仲とバレればどうなるか。下手をすればハーレイは出入り禁止で、ブルーも自室に閉じ込められてしまうとか…。
ブルーは切々と訴えた。
自分が育って大きくなるまで、母の目を気にして過ごさなければいけないことが辛くて悲しくてたまらないのだ、と。
「…ハーレイはキスも駄目だって言うし、ママの前ではくっつけないし…。こんな我慢がいつまで続くの? 早く大きくなりたいよ…。なのに大きくなれないんだもの…」
頑張って沢山食べようとしても食の細いブルーには無理だった。ミルクを飲んでも背丈は伸びてくれず、学年で一番小さいまま。ハーレイと前世のような仲になれる日は一向に訪れそうもない。
「本物の恋人同士になるのも無理で、くっつくのも駄目。本当に悲しすぎるんだけど…」
「子供だから仕方ないだろう、と何度も言った筈なんだがな…。これだから子供というヤツは…」
手がかかりすぎて扱い辛い、とハーレイの眉間に皺が寄る。
その顔つきにブルーは首を竦め、「怒らせた」と目を固く瞑ってしまったのだが。
(…えっ?!)
グイ、といきなり強い力で抱き寄せられた。テーブルを挟んで座っていた筈なのに、ハーレイの腕に囚われる。更にそのまま床へと引き摺るように倒され、慌てて抵抗しようとした。
本物の恋人同士に早くなりたいと願い続ける毎日だけれど、母がいつ来るかも知れない部屋でだなんて思いもしない。
ハーレイのことは大好きだったし、いつそうなっても構わないとは思ったけれども、こんな所で押し倒されてそんな関係になるなんて…!
「やだっ…!」
嫌だ、とブルーは叫んだ。力でハーレイに勝てないことは明らかだったが、逃れようともがく。細い手足をバタつかせて暴れ、逞しい腕を振りほどこうと足掻けばハーレイの力が不意に緩んだ。
「……何もしないと言ってるだろうが」
「…ハーレイ…?」
涙が滲みかけた瞳にハーレイが映る。その顔は懸命に笑いを堪えている顔。
「お前、襲われると思っただろう? キスもすっ飛ばして誰が襲うか、舐められたもんだ」
で、この状態ならお気に召すのか、と訊かれてブルーはようやく気が付いた。
絨毯に正座したハーレイの太ももを枕に自分は床に寝ていて、いわゆる膝枕の状態なのだ、と。
「どうだ、これならお母さんが来たって大丈夫だと俺は思うがな」
ただの昼寝だ、とハーレイが笑う。
「眠いならベッドで寝たらどうだ、と言っている間に床に転がって寝ちまった、と言えば通るし、お母さんが恐縮するだけだ。…なにしろ俺の足がお前の重みで痺れるからな」
「…そんなに重い?」
なんとか気持ちが落ち着いてきたブルーが尋ねると「まさか」と直ぐに答えが返った。
「お前の小さな頭くらいで痺れていたんじゃ柔道なんぞは出来ないさ。身体を鍛えることも大事だが、柔道は礼儀作法も大切なんだぞ。正座は基本の中の基本だ、そう簡単に痺れはせん」
気にしないでゆっくり寝ているといい、とハーレイの指がブルーの前髪を優しく梳いた。
「本当は少し辛いんだがな…。お前が下手に暴れたお蔭で、俺の理性が吹っ飛びかけたぞ。危うく食っちまう所だったが、此処が我慢のしどころってヤツだ」
好物は最後まで取っておくのが好みなのだ、とハーレイがブルーの顔を見下ろす。
「お前はまだまだ子供だしな? しっかり育って食べ頃になったら美味しく頂くことにしておく。それにクビにもなりたくないし…。お前を食ったら俺は立派な犯罪者だ」
「……告げ口しないよ」
「こら! 子供のくせに背伸びするんじゃない。さっき必死で暴れてたくせに」
俺はしっかり見ていたんだぞ、とハーレイの鳶色の瞳がブルーを映して穏やかに揺れる。
「お前に「嫌だ」と言われちまったが、いずれ逆の意味で「嫌だ」とお前に言わせるさ。…覚えているだろ、どういう時に「嫌だ」と言ったか」
「…ちょ、ハーレイっ…!」
ブルーは耳まで真っ赤になった。
前世で「嫌だ」とハーレイに何度言っただろう?
それはベッドの中での睦言。本当に嫌で言ったのではなく、その逆の意味で…。
「思い出したか? あれは子供のお前には言えん。…もっと大きく育たないとな」
しっかり食べて大きくなれよ、と温かな手が額に置かれた。
「…分かったんなら少しだけ眠れ。驚かせてしまって悪かった」
「……ううん…。ぼくこそ、暴れちゃってごめん」
緊張が一気に緩んだせいか、急な眠気に襲われる。眠るつもりは無かったのだけれど、一つ欠伸をしてしまったら瞼が重くなってきて……。
そうして眠ってしまったブルーは、母が「熱いお茶を持って来ましょうか?」と扉をノックし、覗きに来たことにも気付かなかった。
「あらあら、この子ったら、ご迷惑を…。駄目でしょう、ブルー!」
起きなさい、と言いかけた母に、ハーレイが人差し指を自分の唇に当てる。
「いえ、こういうのは慣れていますから。…昔、よく母の猫が膝の上で眠ってましたしね」
「…でも……」
「寝かしておいてあげて下さい。今日は話が弾みましたから、多分、疲れが出たのでしょう」
なにしろ積もる話は三百年分ほどもありますので、というハーレイの言葉に母はようやく笑顔になった。
「そういえば…。ついつい忘れてしまいますわね、ブルーがソルジャー・ブルーなことを」
「ブルー君のためにはそれでいいんだと思いますよ。今は普通の十四歳の子供ですから」
「…ええ。私たちの大事な一人息子です」
ブルーをよろしくお願いします、と頭を下げた母が「コーヒーをお持ちしますわね」と部屋を出てゆくのをハーレイは苦笑しながら見送った。
その大切な一人息子を自分の伴侶に貰い受けたい、と告げたら彼女はどうするだろう?
(…まあいいさ。まだまだ先の話だからな)
追い追いゆっくり考えればいい、と自分の膝で眠るブルーを見下ろす。
「お前が暴れてくれた時にはドキッとしたがな、お前、もう少し育たないとな」
嫌だという声に色気が足りない、と呟きながらもハーレイの心は今なお微かに波立っていた。
此処がブルーの部屋でなかったなら、ブルーを組み敷いていたかもしれない。
俺もまだまだ修行不足だ、と自分自身を叱咤する。
自分の膝を枕に眠るブルーは十四歳になったばかりの無垢な子供で、守るべきもの。
前の生で守れなかった分まで守り慈しみ、いつの日にか…。
(……お前を俺の伴侶に貰える日までは手は出せないな)
早く大きく育ってくれよ、とハーレイは願う。
ブルーが「早く大きくなりたい」と願うよりも更に切なる想いをこめて、ただひたすらに……。
恋する十四歳・了
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
シャングリラ学園、本日も平和に事も無し。とはいえ、新年早々、恒例の闇鍋大会に水中かるた大会と立て続けに行事がありましたから、気分はお疲れ休みです。会長さんが合格グッズの販売に燃える入試シーズンまでの間は、のんびりゆったりしたいですよね。それでも登校してくる理由は…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! 授業、お疲れ様ぁ~!」
ケーキ焼けてるよ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そう、この放課後の溜まり場がお目当てで真面目に授業に出ているのです。特別生には出席義務なんか無いのですから。
「はい、今日はクッキー&クリームケーキだよ♪」
冬はチョコレートが美味しいよね、と出されたケーキはチョコレートムースとチョコレートコーティングされたクッキークラム入りのクリームが二層になったもの。表面はザッハトルテみたいに滑らかなチョコで艶やかな仕上げ。
「「「いっただっきまぁーす!」」」
紅茶やコーヒー、ホットココアなどをお供にケーキを頬張ると濃厚な味が口いっぱいに。今日のおやつも最高です。やがて部活を終えた柔道部三人組も加わり、部屋はますます賑やかに。
「キース先輩、お父さんは今日は法事でしたか?」
シロエ君の問いに、キース君が苦笑して。
「いや、璃慕恩院に用があってな。ついでに仲間と食事に行くそうだ。…そのせいで俺にお鉢が回って来た」
「ああ、それで…。月参りで遅刻って珍しいですし」
普段は休日担当ですよね、とシロエ君が言う通り、キース君は元老寺の副住職である以前にシャングリラ学園特別生。学校を優先するということで、月参りはアドス和尚が今も続けているのです。とはいえ、たまには今日みたいな展開もあるわけで…。
「本当だったら昼休みには学校に来られたんだが…。行き先でちょっとトラブルが」
「へえ…。トラブルって木魚を割ったのかい?」
それは凄い、と会長さん。
「力任せに叩いたんだろ、たまに割れるから気をつけないと」
「誰が木魚を割ったと言った!」
「違うのかい? それじゃアレだね、バイの先っぽが吹っ飛んだんだ?」
「「「ばい?」」」
何ですか、それは? 首を傾げる私たちに向かって、会長さんは。
「しもくとも言うけど、木魚を叩く棒のことだよ。先っぽが取れちゃうこともあってさ」
それでも動じずに叩き続けるのが坊主の務めらしいです。もちろん音はポクポクではなく、カンカンとかになるようで…。
「それも違うな。その程度なら俺はトラブルと言わん。…親父と一緒に月参りをしていた頃に吹っ飛ばれてな、木魚を担当していただけに焦ったが…」
あの頃はまだ駆け出しで、と懐かしむようなキース君。その後もバイが外れちゃったことはあるそうですけど、焦ったのは最初の時だけで。
「親父が後から怒るんだ。木魚を叩くリズムが乱れていた、とな。しかしだ、親父も経文の同じ所を二回も読んだし、どうこう言えた義理ではない。あれ以来、俺は平常心を心がけている」
「それでもトラブルが起こるわけ?」
何をやったの、とジョミー君は興味津々、サム君も。
「俺もすっごく気になるなぁ…。将来のためにも何があったか教えてくれよ。俺もいずれは坊主だからさ」
「………。役に立つとは限らないぞ?」
それでもいいなら、とキース君の口から出た言葉は。
「……ラグドールだ」
「「「ラグドール?」」」
そんな仏具がありましたっけ? それともアレかな、バイと同じでお坊さんの専門用語とか…?
キース君の月参りのトラブルの元は木魚ではなく、ラグドールとやら。どんな仏具かと皆で身を乗り出していれば、キース君がプッと吹き出して。
「お前たち、何か勘違いをしているだろう? ラグドールと言えば猫だろうが」
「「「猫?」」」
猫は三味線の皮に最適だと聞きます。それを使った仏具って…なに? ますます気になるラグドールですが、キース君は笑いを堪えながら。
「とことん仏具だと思っているな? 猫の品種だ、ラグドールは。シャム猫みたいな模様なんだが、ペルシャとバーマンの交配だったか…。それだけに長毛種で、おまけにデカイ」
「なんで猫なんかでトラブルなのさ?」
お仏壇に猫の餌は置いてないよね、とジョミー君が首を捻ると、サム君が。
「悪戯じゃねえか? こう、仏壇にアタックされて、線香立てとかがキースの上に」
「「「うわー…」」」
それは最悪、と容易に想像出来ました。お線香の灰だの、花立の花や水だのが法衣に飛び散ってしまったとしたら、月参りはそこでギブアップ。元老寺に戻って着替えをしてから続きをするしかありません。学校に来るのが遅くなるわけだ、と皆で納得しかけていると。
「いや、仏壇にアタックではない。…ある意味、そうとも言えなくはないが」
「「「???」」」
「俺専用の座布団が無かった」
「「「はぁ?」」」
なんとも意味が不明です。お仏壇アタックが無かったんなら、どうしてキース君の座布団が?
「寝ていやがったんだ、座布団の上で! それも仏壇のすぐ前で! 月参りに備えてエアコンの他にヒーターも置いて下さったんだが、そのせいで暖かい場所だったらしい」
素晴らしく大きな猫が俺の座布団の上で爆睡、とキース君は遠い目をしています。
「月参りに行く家は坊主専用の座布団を用意してくれるんだがな…。そこにラグドールが鎮座していて、だ。檀家さんが叱っても薄目を開けるだけで、またウトウトと…。しかも巨体で、檀家さんの手では持ち上がらない。どうぞ遠慮なく蹴って下さいと言われても…。坊主が蹴れるか?」
法衣でなければ蹴ってもいいが、と嘆くキース君と檀家さんとはラグドールをどけようと四苦八苦。しかし時間が無駄に過ぎてゆくばかりで、最終的には。
「「「座布団ごと?」」」
「そうだ。檀家さんと俺とで座布団を持って、ラグドールごと脇の方へだな…。それでも薄目を開けただけだぞ、もうラグドールは御免蒙りたい」
二度と出るな、と疲れた顔のキース君。巨大猫を運搬させられた上、お坊さん専用の座布団を奪われ、普通のお客様用座布団に座ってお勤めしてきたらしいです。ラグドールの御機嫌伺いならぬ移動のお願いに費やした時間は月参り一軒分に匹敵するもので…。
「お蔭で予定が大幅にズレた。猫を仏間に入れないようにして下さい、とも言えんしな…。二度目、三度目があったらマタタビでも用意して行くとするか」
「それだと衣がズタボロかもねえ…」
会長さんが可笑しそうに。
「庫裏から外へ出た途端にさ、猫が寄って来て衣をグイグイ引っ張るとかさ…。しかしアレだね、猫で月参りに手間取るなんていう笑える話もあるんだね。…犬なら扱い易いだろうに」
「そうだな、犬はあそこまでデカくもないしな」
あのラグドールは特大だった、とキース君が両手を広げて猫のサイズを示しています。重さも十キロ近かったかも、という話ですから、そりゃ犬の方がマシですってば~!
キース君の月参りに思いっ切り足止めを食わせた巨大猫。犬ならもっと物分かりが良く、さほど大きくない筈です。せいぜいキャンキャンうるさいだけだ、と語り合っていると、会長さんが。
「甘いね、君たちが想像しているような小型犬だけだと思うのかい? 大型犬の室内飼いだって世間一般には珍しくないよ。レトリバーとかボルゾイとかね」
そんなのが出たらどうするんだ、と会長さんはクスクスと。
「座布団くらいじゃ済まないだろうね、場合によっては飛び掛かられるよ? ぼくが璃慕恩院の老師の所へ遊びに行ったら、そういう話を聞かされたさ」
老師じゃなくて勤めてるだけの人なんだけど、と会長さんは前置きをして。
「小さなお寺じゃ檀家さんの数も少ないからねえ…。璃慕恩院のお手伝いをしてお給料を貰う人もいる。その一人が笑える体験談を持っているから聞かせてやろう、と老師が呼んでくれたわけ。…なんかね、月参りに出掛ける前の晩にさ、電話で「和尚さん、犬は大丈夫ですか」と訊かれたらしい」
「なるほど、猛犬注意だな?」
たまにあるな、とキース君。月参りに行った家で玄関先に繋いだ犬を檀家さんが押さえているケースも多々あるそうです。しかし、会長さんは「違うんだな」と人差し指を左右にチッチッ。
「それなら電話は要らないだろう? 犬を押さえれば済むことだ。でなきゃキッチリ繋いでおくとか…。で、その人は犬が苦手ってわけでもないから「大丈夫です」と答えて出掛けた。その檀家さんの家は農家で、家の周りに田畑がある。月参りは一声掛けてから勝手に入ってやるという決まり」
農作業を中断するのは大変だしね、と会長さん。件のお坊さんは作業中の檀家さんに挨拶をして、玄関を開けたわけですが…。
「途端に中からボルゾイが二頭! 凄い勢いで飛びついてこられて受け止めたものの、二頭同時のアタックだけに転んじゃってさ。その隙に二頭とも逃げ出しちゃって、檀家さんと一緒に大捕物になったそうだよ。…知り合いの犬を預かっていたって話だったね」
「…そ、そうか…。俺も犬には気を付けておこう」
法衣で捕物は大変そうだ、とキース君は同情しきりです。ボルゾイを二頭、受け止める自信はあるそうですけど、逃走劇を防ぐのは無理らしくって。
「やはりアレだな、犬でも猫でも日頃の躾が大切だな」
「「そうだね、ぼくもそう思う」」
えっ? 会長さんの声、ハモりました? それも全く同じ声音って、誰の芸当?
「こんにちは」
「「「!!!」」」
優雅に翻る紫のマント。もしかしなくてもソルジャーです。勝手知ったるなんとやら…でソファに腰掛け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」にケーキと紅茶の注文を。今日の話題は月参りなのに、なんでまた? ケーキが美味しそうに見えたのかな?
キース君のラグドール事件に始まり、法衣でボルゾイ大捕物という月参りネタが只今絶賛炸裂中。そんな所へソルジャーが来ても、話に混ざれそうもありません。要はおやつを食べたいだけだな、とクッキー&クリームケーキを頬張るソルジャーを眺めていると。
「犬は躾が大切なんだよ、そこは大いに賛成だね」
手抜きは犬のためにも良くない、と分かったようなことを話すソルジャー。えーっと、ソルジャー、犬なんか飼ってましたっけ? 会長さんも同じ疑問を抱いたようで。
「犬を飼ったことがあるのかい?」
「うん、もちろん。チョコレート色の大型犬だよ」
「「「………」」」
あらら。自分のお部屋も掃除するのを面倒がる人が犬ですか! さぞかしクルーが苦労しただろう、と思ったのですが…。
「ぼくの犬はね、世話が要らなかったものだから…。その点は非常に優秀だった」
「世話が要らないって…。誰に丸投げしたんだい、それを」
会長さんの鋭い突っ込みに、ソルジャーは紅茶を一口飲むと。
「誰って、犬に決まってるだろう?」
「自分の世話をする犬なんて、ぼくは聞いたこともないけれど?」
餌やトイレはどうするんだ、との指摘は至極もっとも。野良犬なら自力でなんとかしますが、ソルジャーが住むシャングリラ号で野良犬だなんて…。厨房と農場がエライことになっていそうです。なのにソルジャーは平然として。
「それが出来るんだな、出来て当然! ぼくの役目は躾だけってね。…ずいぶん昔の話だけどさ…。今は躾の必要も無いし、そんなプレイも求めてないし」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と頭上に飛び交う『?』マーク。ソルジャーは嫣然と微笑むと。
「チョコレート色の大型犬で分からないかな、生息場所は主にブリッジ。普段はシートに座ってるけど、たまには舵も握ってるよね」
「ま、まさか……」
会長さんの掠れた声にソルジャーがニッコリ頷いて。
「そう、犬の名前はウィリアム・ハーレイ! ぼくの大事な犬だったわけ。…今じゃ夫婦だし、パートナーとか伴侶でいいかな。犬の躾は良かったねえ…」
あの頃は色々とあったから、とソルジャーは記憶を手繰り寄せています。
「なにしろハーレイは犬なんだから、ぼくの命令には絶対服従! どんなプレイを求められても応じられなきゃ躾不足だ。例を挙げるならヌカロクとかさ」
「「「!!!」」」
ソルジャーがキャプテンに何をしたのか、万年十八歳未満お断りでも薄々見当がつきました。大人の時間な話です。日々、あれこれと刺激を求めるソルジャーのために飼われていたのに違いなく…。
「き、君は…。またしてもロクでもないことを…」
退場!!! と会長さんがレッドカードを突き付けましたが、ソルジャーは。
「えっ、犬の躾の話だろ? 猫じゃないよね、苦労したとか言ってたし…。座布団ごと移動しか手が無い猫より、人に忠実な犬がいい。きちんと躾ければ断然、猫より犬なんだってば!」
だからハーレイを犬にしてみた、とソルジャーの唇に浮かぶ笑み。
「ハーレイの忠誠心ってヤツはダテじゃない。…たまに飼い犬に手を噛まれるって言うのかなぁ? ちょっと激しくヤられすぎちゃったこともあるけど、それも犬を飼う醍醐味だよね。あ、そうだ」
君もどうだい? と、ソルジャーは会長さんに視線を向けました。
「こっちのハーレイも君の命令なら喜んで何でも聞きそうじゃないか。この際、一度、飼ってみたまえ。君の好みで躾が出来るし、いつか結婚する日のためにさ」
楽しげに煌めくソルジャーの瞳。会長さんは「却下!」と即答だろうと思ったのですが。
「…チョコレート色の大型犬ねえ……」
いいかもしれない、と考え込んでいる会長さん。ちょ、ちょっと…。ソルジャーの話をきちんと聞いていましたか? 何か大きな勘違いってヤツをしていませんか、会長さん…?
よりにもよってキャプテンを犬の代わりにしていたソルジャー。具体的に何をやらかしたのかは分かりませんけど、ソルジャー好みの大人の時間を演出するべく躾をしていたみたいです。そのソルジャーに教頭先生を犬にするよう、唆された会長さんは…。
「ハーレイを犬の代わりに飼う、と…。それはハーレイが狂喜しそうだ」
「そうだろう? ハーレイを飼うのは、ぼくのお勧め」
毎日がグンと楽しくなるよ、とソルジャーが煽れば、会長さんも。
「本人が喜んで犬になるなら、躾もビシバシやれるよね。それにハーレイは噛まないし! いや、噛めないと言うべきか…」
「残念だけれど、その点だけはねえ…。童貞一直線だっけ…。でもさ、時と場合によってはガブリとやるかも!」
ガブリとやられて食べられるのも素敵なんだよ、とソルジャーはニコニコしています。私たちにはサッパリですけど、いい思い出があるのでしょう。会長さんはそれをサラリと流して。
「食べられる趣味は無いんだよ。それくらいなら殺処分! まさか本当に殺すわけにもいかないからねえ、保健所送りってことで出入り禁止で丁度いいかと」
「…なんか穏やかじゃないんだけれど…。でも、ハーレイを飼うんだよね?」
ぜひ飼いたまえ、とソルジャーが更にゴリ押しを始め、会長さんの瞳の奥にも妖しい光が揺れていて。
「…よし、決めた! このマンションはペット禁止になっていないし、君のお勧めの大型犬を試しに飼ってみることにする。…チョコレート色がいいんだよね?」
「そうだよ、断然、チョコレート色! 白だとノルディで忠誠心に欠けていそうだ」
「ああ、なるほど…。じゃあ、飼う前にペットの品定めかな?」
それじゃ早速ペットショップへ、と腰を上げかけた会長さんですが。
「…いけない、開店前だった。この時間だと、ハーレイはまだ教頭室だよ。そんな所でペットの話は出来ないし…。夜になったらハーレイの家へ行こうかな? 一人で行くのは禁止だからねえ、そこの君たちの付き添いで」
「ちょっと待て!」
なんで俺まで、というキース君の絶叫に私たちも乗っかったのに、まるで聞かないのが会長さん。ソルジャーは元から野次馬するつもりですし、計画はトントン拍子に纏まってしまい…。
「ぼくの家でみんなで夕食を食べて、それからだね。チョコレート色の大型犬かぁ…。どんな躾をしようかな? 基本は「おすわり」と「おあずけ」だっけ?」
「「「………」」」
好きにしてくれ、と頭痛を覚える私たちを他所に、会長さんとソルジャーはチョコレート色の大型犬の話題で意気投合して盛り上がっています。会長さんが教頭先生に大人の時間な躾をするとは思えませんけど、いったい何をするのやら…。
教頭先生を飼う計画に巻き込まれてしまい、瞬間移動で連れて行かれた先は会長さんのマンションでした。お馴染みのダイニングで「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製のビーフシチューオムライスの夕食に舌鼓を打ち、さて、その後が問題で。
「デザートも食べたし、そろそろいいかな? ハーレイの家まで行きたいんだけど」
「嫌だと言っても聞かんだろうが!」
キース君が声を荒げれば、会長さんは。
「話が早くて助かるよ。ペット選びの先達としてはブルーがいるけど、付き添いとしては全く役に立たないからねえ…。ぶるぅ、準備は?」
「かみお~ん♪ いつでもオッケー!!!」
青いサイオンがパァッと迸り、瞬間移動で教頭先生宅のリビングへ。食後のコーヒーを飲みつつ新聞を読んでいた教頭先生、バサッと新聞を取り落として。
「ブルー!?」
「こんばんは。悪いね、大勢でお邪魔しちゃって」
「い、いや、それは…。それは全くかまわないのだが、生憎、茶菓子が全く無くて…」
コーヒーでいいか、とキッチンに行こうとした教頭先生に、会長さんが。
「お茶もお菓子も期待してないよ。それはペットの範疇外だし」
「…ペット?」
「うん、ペット。…ベッドじゃないから間違えないように」
ちょっと失礼、と教頭先生に歩み寄った会長さんは棒立ちの身体に腕を廻してギュッと力を。傍目には抱き付いているとしか思えない状況に、教頭先生は真っ赤になって硬直中です。
「…んーと…。よし、固太りしてるかな?」
「「「固太り?」」」
どういう意味だ、とオウム返しに声が揃えば、会長さんが振り向いて。
「ペット選びの基本だよ。犬は固太りしてるのがいいんだ」
「…いぬ?」
怪訝そうな教頭先生にかまわず、会長さんは大きな身体の腕や足などを指で押したり、掴んだりして検分すると。
「よしよし、全身、固太りってね。これなら健康な犬だと言える。…ハーレイ、明日は土曜日なんだけど…。ぼくの犬になる覚悟はあるかい?」
「…何のことだ?」
「さっきから何度も言っているだろ、ぼくはペットを探してるんだ。チョコレート色の大型犬が飼いたいなぁ…って思うんだけどさ、君が条件に合致したわけ。だけど嫌なら他のペットを探すしかないってことなのかなぁ?」
「他のペット…?」
話が全く分かっていない教頭先生がそう応えれば、会長さんの赤い瞳が悪戯っぽい光を湛えて。
「チョコレート色の大型犬はね、実はブルーのお勧めなんだよ。飼っていたことがあるらしい。でもさ、ペットに好かれないんじゃ意味ないし…。君がダメなら白い色をした大型犬かな、ノルディって犬種なんだけど」
「そ、それは…! そんなペットは危険だろう!」
「だったら君を飼わせてくれる? 明日、ぼくの家まで来て欲しいんだけど」
「もちろんだ! 私は犬でいいんだな?」
喜んでお前の犬になろう、と教頭先生の頬が染まっています。
「明日だけと言わず、日曜も、その次も……ずっとペットでかまわないのだが」
「本当かい? 嬉しいな。楽しみにしてるよ、ぼくの犬だね」
首輪を用意しておくよ、と極上の笑顔の会長さんと、感無量の教頭先生と。ペットごっこは明日の朝から始まるそうです。今夜は一旦、会長さんの家に引き揚げてから解散ですけど、教頭先生が犬で、おまけに首輪。明日は一体、どうなるんでしょう…?
翌朝、私たち七人グループは会長さんの家から近いバス停に集合。厳しい冷え込みの中をマンションまで歩き、管理人さんに入口を開けて貰えばフワッと空気が暖かく…。エレベーターで最上階に着くとチャイムを鳴らす前に扉がガチャリと。
「かみお~ん♪ ブルーが待ってるよ! ブルーも来てるの!」
「「「………」」」
あのソルジャーが早起きするとは、それだけで不安倍増です。リビングに案内されてみれば、案の定、そこには諸悪の根源とも言えるソルジャーがちゃっかり座を占めていて。
「やあ、おはよう。見てよ、ブルーが選んだ首輪さ」
「大型犬用のを買ってみたんだ。ハーレイのサイズはデータベースに入ってるしね」
ほら、と会長さんが掲げて見せる首輪の色は赤でした。シャングリラ号のクルーや会長さんのソルジャーの衣装、教頭先生の船長服などに共通のデザイン、赤い石のイメージで選んだそうで。
「本当はねえ、紅白縞の首輪が欲しかったんだけど…。特注しないと無いらしくって、それだと今日に間に合わないんだ」
「赤い首輪もいいと思うよ。ぼくは色々揃えていたけど……キャプテンの服にはコレが映えるね」
保証するよ、とソルジャーが指差す先には教頭先生の船長服がありました。なんでもソルジャーに「赤い首輪をさせるならコレ!」と言われた会長さんが瞬間移動で取り寄せたらしいです。えっ、その服は何処に在ったかって? 教頭先生の家のクローゼットに何着も…。
「ふふ、ハーレイもまさか服まで用意したとは思わないだろうねえ?」
「そりゃそうさ。犬っぽく見えるセーターとかを朝から物色してただろう?」
健気だよねえ、と語るソルジャー。朝早くから二人揃って覗き見していた模様です。教頭先生がどんな服で来るのかと思っていれば、やがてチャイムがピンポーン♪ と。飛び跳ねて行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が教頭先生を連れて戻って来て…。
「かみお~ん♪ ハーレイが来たよ!」
「すまん、早く来たつもりだったのだが…」
「気にしない、気にしない。ぼくたちが早めに揃っただけさ」
どうぞ入って、と会長さんが促し、教頭先生はコートを脱いでリビングへ。うーん…。犬っぽい服…ですか…? ただの焦茶色のセーターとズボン…。あっ、もしかしてチョコレート色のつもりでしょうか?
「犬だと言うから動きやすい服にしてみたが…。ついでに色はチョコレートだ」
「それは殊勝な心がけだね。だけど先達のブルーの話じゃ、この色の首輪にはキャプテンの服が似合うんだってさ。はい、着替えて」
船長服を差し出す会長さん。受け取った教頭先生が着替えに行こうとすると、途端に会長さんのストップが。
「ちょっと待った! 何処の世界に更衣室に行く犬がいるんだい? 着替えは、此処で」
「し、しかし…」
「セーターとズボンを脱ぐだけだろ? 早くして」
下着まで脱ぐ必要は無し、と会長さんが鋭く命じ、教頭先生は仕方なくセーターをゴソゴソと…。あれっ、この寒いのに肌着は一枚も無しですか?
「ふうん、素肌にセーターねえ…。何を考えていたか大体分かるよ、その分じゃ下も同じだろ?」
「…お、お前の犬だと聞いてだな…」
「スケベな犬は要らないんだよ!」
そっちはブルーの御用達、と会長さんの眉が吊り上がり、教頭先生は着替えを続行。ズボンの下はやはり紅白縞のトランクスが一枚だけでした。船長服の上着を先に着てからズボンを履き替え始めましたし、いささか……いえ、かなり間抜けなお姿を拝むことになってしまいましたよ~!
船長服に着替え、マントも着けた教頭先生。着替えが終わると会長さんが赤い首輪を首元にキッチリ嵌めてみて。
「いいねえ、確かに映えるよ、これ」
「だから何度も言ってただろう? ハーレイの服には赤が一番!」
ね? とソルジャーは自画自賛。会長さんもその件に文句は無いようです。満足そうに教頭先生を頭のてっぺんから足のつま先まで見回すと…。
「さてと、早速、始めようか。…おすわり!」
「あ、ああ…」
教頭先生は手近なソファに腰を下ろそうとしたのですけど、そこでピシッと鋭い音が。
「床!」
そこの床へ、と促す会長さんの手には、いつの間にか鞭がありました。
「愛玩犬ならソファもアリかもしれないけどねえ、大型犬だとソファが埋まるし…。そうでなくても躾の基本はおすわりなんだよ、床に座る!」
「う、うむ…」
「正座じゃないっ!」
ピッシーン! と鞭が床を叩いて、会長さんは厳しい顔で。
「もちろん体育座りでもなく、胡坐をかくのも論外だから! 犬のおすわりっ!」
「「「………」」」
それはスゴイ、と誰もがビックリ。けれど言い出した張本人は鞭を振り振り、教頭先生に犬のポーズでおすわりを仕込み、得意げに。
「チョコレート色の大型犬かぁ…。なかなか絵になる光景だよ、うん。それじゃ、ぼくたちはお茶にするから。ぶるぅ、ハーレイにはミルクをね」
「かみお~ん♪ お皿にたっぷりだね!」
はい、と良い子の「そるじゃぁ・ぶるぅ」が大型犬用と思しき餌入れの器を教頭先生の前の床に置き、紙パックから牛乳をドボドボと…。絶句している教頭先生を他所に、私たちには焼き立てのジンジャーパウンドケーキと飲み物などが。
「「「いっただっきまーす!!!」」」
フォークを手にした私たちとは真逆に、教頭先生にはミルクの入った器だけ。会長さんが紅茶のカップを傾けながら、優しい声音で。
「ハーレイ、おあずけはもういいよ? それともミルクは嫌いだった?」
コーヒーの方が良かったかなぁ、と親切そうなことを言いつつ、テーブルに立てかけた鞭をちらつかせて。
「こぼさないように飲むんだよ? あ、犬は器を持ち上げたりはしないから! 手足を使うってコマンドは無いから、ちゃんと犬らしく飲んでよね」
「…そ、それは無理だと思うのだが…」
絶対に無理だ、と教頭先生が口にした途端、ヒュンと閃く鞭の音。
「無駄吠え禁止! うるさく吠える犬ってヤツは御近所から文句が出るらしいね。…それで困って保健所に持ち込む飼い主もいると聞いたよ、保健所送りを希望なわけ?」
「い、いや、それは…!」
「じゃあ、無駄吠えはしないこと! ミルクが要らないなら残していいけど、食事もそういう食器だからね」
ついでにドッグフードだから、と告げられた時の教頭先生の表情ときたら、憐れでは済まないものでした。会長さんの犬という言葉に何を期待なさったのか知りませんけど、どうやら、とことん犬扱い。お皿でミルクにドッグフードって、犬座りどころの騒ぎでは…。
ミルクとドッグフードの食事は、チョコレート色の大型犬には向いてなかったみたいです。私たちの昼食は床に座って無駄吠え禁止な教頭先生を横目で見ながら、ダイニングの大きなテーブルでワタリガニのトマトクリームパスタ。犬でもパスタは食べられそうな気がするのですが…。
「ダメダメ、今は躾の真っ最中だよ? おやつをあげるには百年早い」
そもそも犬のおやつとは…、と会長さんは指を一本立てて。
「子犬ならともかく、成犬だしね。上手に芸が出来た時とか、そういう時におやつをあげなきゃ」
「芸ってなんだい? ぼくのハーレイなら色々と思い付くんだけれど…」
本物の犬には馴染みが無くて、とソルジャーが尋ねれば、会長さんがパチンとウインク。
「そりゃもう、色々あるんだけどねえ…。やっぱり基本は「取ってこい」かな、投げたボールとかを咥えて戻る!」
「うーん…。同じボールを咥えるんなら、ぼくとしては咥えて欲しいかな…。もちろん、ぼくのを」
「「「???」」」
ソルジャーもキャプテンに「取ってこい」を仕込んでいたのでしょうか? 青の間でボールを投げていたのか、はたまた公園で投げたとか…? あれ? 会長さん…?
「その先、言ったらブチ殺すからね!」
レッドカードが見えないのか、と会長さんが激怒しています。ついでに床に犬のポーズで座ったままの教頭先生が耳まで真っ赤に。…ということは、今のソルジャーの発言は…。
「君たちは何も追究しなくていいんだよ! 食事が済んだらハーレイに芸を教えようかと思ってるから、そっちのやり方を考えたまえ! フリスビー犬に仕込むんだから!」
「「「フリスビー犬!?」」」
「そうさ、投げたらジャンプして口でパクッと受け止めるヤツ!」
犬の芸とくればフリスビーだ、と会長さんが主張する横からソルジャーが。
「口で受け止めるのは基本の中の基本だろう? 飲むかどうかは置いておいてさ」
「「「えぇっ!?」」」
フリスビーなんて、どうやって飲むと? 鹿せんべいサイズなら分からないでもないですけれど、相手はフリスビーですよ? 喉に詰まるとか、そういう以前に口から殆どはみ出してますよ?
「はみ出さないと思うけど? ぼくがハーレイのを、ってことになったら、はみ出しちゃうのが当然だけどね」
意味不明な台詞を紡ぎ続けているソルジャーに、会長さんは。
「死にたいわけ!? フリスビーと言ったらフリスビーなんだよ、君の意見は訊いてないっ!」
余計なことばかり喋るんだったら叩き出す、とか言ってますけど、それについては教頭先生のミルクやドッグフードと同じ。どちらも相手に歯が立たないのが共通点というヤツです。でも、ソルジャーは何の話がしたいんでしょうね、ボールがどうとか、はみ出すとか…?
結局、教頭先生はミルクもドッグフードも食べられないまま、午後の躾の時間が開始。会長さんが鞭を手にして、空いた方の手にはフリスビーが。練習場所はリビングです。
「ハーレイ、ぼくがこれを投げたら口で上手にパクッとね。キャッチ出来たら、おやつはコレ」
美味しいよ、と会長さんが取り出した物は骨の形のガムでした。ペットショップとかで扱っている犬のおやつの定番です。
「噛めば噛むほど味が出るらしいし、頑張って」
「………。この体勢からジャンプをしろと?」
相当に無理があるのだが、と教頭先生が弱気になるのも自然な成り行き。犬は四足歩行ですから、教頭先生も四つん這いなのです。
「無駄吠え禁止と注意したよね? それに四つん這いでない犬なんてさ、はしゃいで後足で立ち上がる時か、でなけりゃ芸の最中だけだよ」
会長さんが鼻を鳴らせば、ソルジャーも。
「抵抗あるのは分かるけどねえ…。でもさ、ぼくが四つん這いになってる時にはハーレイだってそれに近いよ? 後ろからのしかかって貫くわけだし、犬の交尾と似たようなもので」
「退場!!!」
さっさと出て行け、と会長さんは大爆発ですが、ソルジャーが退場する筈も無く…。
「まあまあ、君もキレてばかりじゃお肌に悪いよ? フリスビーだって仕込まなきゃだし、落ち着いてハーレイの躾をしないと」
「誰のせいだと思ってるのさ! あれっ、ハーレイ、どうかした?」
「う、うむ…。実は、そのぅ……」
教頭先生が小さな声でボソボソと囁き、会長さんはニッコリと。
「ああ、トイレ! ぶるぅ、トイレに行きたいそうだ」
「かみお~ん♪ ちょっと待っててね~!」
トコトコと駆け出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が頭上に担いで戻った物体。それはどう見ても大型犬用のトイレトレーというヤツでした。中にトイレ用シートが敷かれています。リビングの隅にトレーが置かれて、教頭先生を促す会長さん。
「お待たせ、ハーレイ。あそこに座ってすればいいから」
「す、座る…。わ、私は普通のトイレにだな…!」
「無駄吠え禁止!」
ピシリと床を打つ会長さんの鞭。
「どうしてもトイレに行きたいのなら、犬になるのは諦めるんだね。…選びたまえ。ぼくの犬として勤め上げるか、トイレに走って犬の資格を失うか。簡単なことだよ、二つに一つさ」
「……に、二択……」
脂汗を流す教頭先生に、ソルジャーが艶やかな笑顔を向けて。
「犬の世界は素晴らしいよ? ぼくのハーレイの場合、もう本当に色々と…。犬の真価は夜に問われる。選ぶまでも無いことだよねえ?」
「……し、真価……」
教頭先生はトイレトレーと犬の真価とやらを秤にかけておられましたが、最終的にはリビングから一番近いトイレに突撃してゆかれました。切羽詰まっておられたらしくて、四つん這いのままで猛スピードで…。バタン! とトイレのドアが閉まって、会長さんが。
「はい、失格。…さてと、あの犬、どうするべきかな?」
「また飼えば? 今日は首輪を回収しといて、気が向いた時に」
その時こそ本物の犬の躾が出来るといいね、と期待に満ちた瞳のソルジャーに会長さんが「絶対に無い!」と返しています。えーっと、本物の犬の躾って何でしょう? 教頭先生にリベンジのチャンスがあるのかどうか、躾とは何か。犬の世界は深すぎますけど、いつか答えが知りたいですよね~!
ペットと躾と・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
来月はアニテラでのソルジャー・ブルーの祥月命日、7月28日が巡って来ます。
ハレブル転生ネタを始めましたし、追悼も何もあったものではないのですが…。
節目ということで、7月は 「第1&第3月曜」 の月2更新にさせて頂きます。
次回は 「第1月曜」 7月7日の更新となります、よろしくお願いいたします。
7月28日には 『ハレブル別館』 に転生ネタを1話、UPする予定でございます。
「ここのブルーは青い地球に生まれ変わったんだよね」と思って頂ければ幸いです。
毎日更新の場外編、 『シャングリラ学園生徒会室』 にもお気軽にお越し下さいませv
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、6月はソルジャー夫妻とスッポンタケ狩りにお出掛けのようで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「ぼくは猫でもいいんだけどな…」
ブルーはポツリと呟いた。
今日は土曜日、本当だったらハーレイと一緒に過ごせる休日。けれどハーレイに仕事がある時はブルーの家のチャイムは鳴らない。今日がその日だと分かってはいても、ついつい窓から表の庭と門扉を眺めてしまう。もしかしたら、と。
ハーレイが来られないことを知っていたから、朝から全く調子が出ない。休日は普段以上に張り切ってしている掃除も気分が乗らず、ブルーにしては珍しく机の上に読みかけの本が雑然と載っていたりする。
(……ホントに猫なら良かったのにな……)
前にハーレイが見せてくれた写真の真っ白な猫。昔、ハーレイの母が可愛がっていた猫で、名前はミーシャ。よくハーレイのベッドにもぐり込んで来たというミーシャがブルーは心底羨ましかった。ミーシャはハーレイの膝の上も好きで、甘えん坊で…。
(…ぼくも猫だったらハーレイの家に居られるのに…)
ミーシャはとても人懐っこい猫で、来客の時も客間に出入りし、おやつを貰っていたと聞く。もしもブルーが猫だったならば、今日はハーレイの家に居て…。
(ハーレイの膝に乗っかっていたら撫でて貰えて、おやつが貰えて…)
本当に猫になりたかったな、とブルーは窓の外の庭と門扉を寂しさを堪えて見下ろした。
今日はハーレイの家に同級生たちが大勢遊びに行っている。ハーレイが指導する柔道部の生徒が招かれ、賑やかに食事をしている筈だ。ブルーは両親と食べたのだけれど、これがいつもの土曜日だったら昼食の席にはハーレイが居る。ブルーの部屋で二人で食べることもあるし…。
(…ハーレイの家に居たかったなあ…)
猫でもいいから、と何処までもミーシャが羨ましい。
実際にはミーシャはハーレイの猫では無かったのだし、ハーレイは今の家でペットを飼ってはいない。しかし、ブルーが猫だったならハーレイは飼ってくれるだろう。
(…猫に生まれてたらハーレイと一緒に居られたよね?)
家に来るなと言われもしないし、ベッドの中にもぐり込んでも叱られない。ハーレイの大きな身体に甘え放題、好きな時にピッタリくっついて…。
「……猫になれたらいいのにな……」
そしてハーレイの家で暮らしたいな、とブルーは小さな溜息をつく。いつもハーレイの側に居られて、可愛がって貰える真っ白な猫。名前もミーシャでかまわない。ハーレイと一緒に暮らせるのならば猫で充分、それで幸せ。
そう思い込むと止まらない。もしも本当に猫だったなら……。
次の日、ハーレイは「昨日は来られなくてすまなかったな」と、何の変哲もないクッキーの詰め合わせを手土産にブルーを訪ねて来てくれた。母が淹れた紅茶とセットでテーブルに置かれたクッキーをハーレイが「美味いんだぞ」と言いながら自分も手に取る。
「俺の家の近くに店があるんだ。クソガキどもが遊びに来る時の定番でな」
「…そうなの?」
意外な言葉にブルーの瞳がまん丸になった。
確かに美味しいクッキーだけれど、ハーレイが指導しているクラブは柔道部。今までに勤めた他の学校でも柔道か水泳だったと聞いているから、クソガキとやらは運動をやる生徒ばかりだ。ブルーが貰った詰め合わせなぞはアッと言う間に無くなりそうで…。
「ははっ、説明不足だったか。…お前の分が特別なんだ。きちんと詰めてあっただろう? あれが本来の商品なんだが、大食らいのガキどもに食わせる分にはお徳用ってヤツで充分だ」
割れたり欠けたりしたクッキーばかりを詰めた袋があるのだ、とハーレイは説明してくれた。
「そいつの一番でかいヤツをな、幾つか買っておくんだが…。あいつらにかかれば一時間もせずに食い尽くされて空っぽだ。お前とは似ても似つかんヤツらさ」
「ふうん…」
ハーレイが手で作ってみせた徳用袋の大きさはブルーの想像を超えていた。何人がハーレイの家に行ったのかは分からないけれど、ブルーだったら食べ尽くすまでに何日かかるか分からない。
「驚いたか? いやもう、本当にあいつらときたら…。俺の懐は寂しくなるし、お前に会いには来られないしで散々だったさ、昨日はな。…お前も寂しかったと思うが…」
それでクッキーを買って来たのだ、とハーレイは言った。
「俺がどういう菓子や食事を用意してたか、お前が随分気にしていそうな気がしてな。菓子はこいつで食事はピザだ。宅配ピザだが、遠慮なく高いのを注文しまくって食われちまった」
苦笑するハーレイを見ていると光景が目に浮かぶようだ。自分もその場で見ていたかった、と思ったはずみに昨日の考えが蘇る。もしも自分が猫だったなら……。
「ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「ぼくが猫ならハーレイは飼ってくれたよね?」
「……猫?」
唐突すぎる問いにハーレイは鳶色の瞳を大きく見開き、何度もパチパチと瞬きをした。
「…それでお前は猫になりたい、と」
ブルーの懸命な訴えを聞き終えたハーレイの手がブルーの髪をクシャリと撫でる。
「なるほど、手触りは悪くない毛皮だな。ミーシャは真っ白で可愛かったが、銀色の猫もいいかもしれん。…しかしだ、お前、猫は言葉を喋れんぞ?」
「サイオンがあるよ。…ぼくが猫に生まれてハーレイに会ったら、ナキネズミみたいに喋れるよ」
「……ふうむ……」
喋る猫か、とハーレイの目が細くなった。
「それは考えもしなかった。…そういうお前に出会っていたなら、俺は喜んで飼ったと思うが…。名前もきちんと『ブルー』と付けてやったと思うが、お前、本当に猫でいいのか?」
「ハーレイと一緒に暮らせるんなら猫でいい。…今みたいに離れ離れで暮らさなくてもいいもの」
ブルーは心の底からそう思った。
前の生ではソルジャーとキャプテン、恋人同士なことさえも秘密。それでも夜は必ず会えたし、会わずに過ごした日などは無い。
けれど今では家は別々、学校に行けば教師と生徒で、恋人として会える時間は休日だけ。いつも一緒に過ごせるのならば、本当に猫でもかまわない。ハーレイに飼って貰って沢山甘えて、夜はベッドにもぐり込んで…。
「……お前が猫か…。どんな姿のお前に会っても俺はお前を好きにはなるが……」
困ったな、とハーレイの眉間の皺が深くなる。
「お前が猫に生まれていたなら、俺はまたお前を失くすことになる」
「なんで? ぼくは何処にも行かないよ」
ハーレイが帰って来るまで家で待つよ、とブルーは無邪気に微笑んだ。
「仕事の間はちゃんと待ってる。…だけどクラブの生徒を呼んだ時にはハーレイの側に居てもいいよね、膝の上とか」
「…お前に何処かへ行く気が無くても、お前は俺を置いてっちまうさ。猫なんだからな」
ミーシャは二十年ほどしか家に居なかった、とハーレイは深い溜息をついた。
「それでも長生きした方だ。俺が生まれる前から家に居て、死んじまったのはいつだったかな…。お前も猫に生まれていたなら、二十年ほどしか生きられないんだ」
「えっ……」
それは考えてもみなかった。猫の寿命は人間よりも遙かに短い。人間が皆ミュウとなった今、外見で年齢は分からないけれど、平均寿命は三百歳を超えている。もしもブルーが猫だったなら…。
「…生まれたての時にハーレイに会って、飼って貰っても二十年なんだ…」
たったそれだけで寿命が尽きておしまいだなんて、ブルーは思いもしなかった。今の生でハーレイと出会った十四歳の時まで会えないのならば、寿命の残りは六年しかない。
「お前、目先のことに夢中で何も考えていなかったな?」
ハーレイに指摘されてシュンと俯く。自分が猫に生まれていたなら、どんなに頑張って長生きしたってハーレイを置いて逝かねばならない。それもたったの二十年で。
「……ごめんなさい…。猫になりたいって言うのはやめる」
「是非そうしてくれ。お前を失くすのは二度と御免だ」
今度は先に逝かせて貰う、というハーレイの台詞にギョッとする。
「ハーレイ…。今、なんて?」
「俺が先だと言ったんだよ。順番からしたらそうなるだろう? 俺の方がかなり年上だしな」
「やだよ、そんなの! 冗談でもそんなの言わないでよ!」
ブルーはハーレイに殴りかからんばかりの勢いで飛び付き、大きな身体に抱き付いた。
「ハーレイがいなくなるなんて嫌だ! 独りぼっちになるなんて嫌だ!」
死んじゃ嫌だ、と涙交じりにハーレイの胸をポカポカと叩く。
「離れ離れになってもいいから、死なないで! ぼくも絶対に死なないから!」
いつかはそういう時が来るのだと分かってはいるが、それはまだずっと遠くて見えない時の彼方で、まだまだ考えたくもない。なまじ前の生の記憶があるから、ブルーは普通の十四歳の子供よりも遙かに「死」という言葉に敏感で激しく反応する。
それだけは嫌で避けたいもの。出来ることなら世界の中から消し去りたいもの。
「嫌だよ、ハーレイ…。居なくなるなんて言わないでよ…」
赤い瞳から涙が溢れてブルーの頬を伝い、ポロポロと落ちる。ハーレイは「すまん」と一言謝り、ブルーの涙を武骨な指先で優しく拭った。
「…もう言わん。そしてお前の前からも居なくならない。…それでいいんだな?」
「…うん……。会えなくてもいいから、ずっと生きてて。ぼくも生きるから」
「ああ。…お前を置いては逝かないさ。いや、逝けないと言うべきだな」
こんな泣き虫を置いて逝けるか、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「心配でとても死ねそうにない。…だからお前も約束してくれ。二度と俺を置いて逝ったりしない、と。俺はお前を失くしたくない」
「……うん。…うん、ハーレイ……」
だからハーレイも。約束だよ、とブルーは細い指をハーレイの指に絡ませた。
お互いに置いて逝ったりはしない。いつまでも決して離れはしない、と。
こうしてブルーは「猫になってハーレイに飼って貰う」夢を見ることをやめた。
ハーレイの側に居られる生活は素敵だけれども、猫の寿命はあまりに短い。それを思えば今の生での待ち時間など全く大した問題ではなく、四年も経てば義務教育の期間が終わる。そうすれば教師と生徒に分かれてしまった互いの立場は解消されて、恋人同士として付き合える筈。
それにその頃にはブルーの背丈も前の生でのソルジャー・ブルーと同じくらいに伸びるだろう。悲しくてたまらない子供扱いもされなくなって、本物の恋人同士になって…。
「うん、猫になるよりもそっちの方が断然いいよね」
もう少しかな、とブルーはクローゼットの隣に立って自分が付けた印を見上げた。
床から百七十センチの場所に鉛筆で微かに引いた線。それがソルジャー・ブルーの背丈。
「……あと少しだけの我慢だし!」
たったの二十センチだし、と痩せ我慢をする小さなブルーの背丈は百五十センチしか無かった。
ソルジャー・ブルーと変わらない背丈にならない限りはハーレイが言うところの「立派な子供」で、キスすら交わすことも出来ずに離れ離れの生活で……。
それでも猫の短い寿命を使ってハーレイの長い生での一瞬だけを分かち合うより、これから先の長い未来を一緒に過ごす方がいい。ハーレイの家で共に暮らすか、ブルーの家にハーレイが来るか。
(……えーっと……)
パパとママには何て言おう? とブルーの頬が真っ赤に染まった。
本物の恋人同士の関係となれば、前の生での記憶からしてもキスどころではない深いもの。
これからそういうコトを始めるから、と両親の前で宣言できる度胸はブルーには無い。
(………ハーレイに言って貰おうかな?)
猫のぼくを飼うより簡単だよね、と考えるブルーは「大人」というものを分かっていなかった。
本物の恋人同士な関係を自由に持てる大人にとっては、その関係は基礎の基礎だと勘違い。小さな自分は恥ずかしくてとても言えないけれども、大人のハーレイは恥ずかしくないに違いないと。
「うん、ハーレイならきっと大丈夫!」
今だってちゃんと大人だもの、とハーレイの姿を思い浮かべてニッコリ微笑む。
「その時」が来たら、両親への報告はハーレイに頼んでやって貰おう。
猫を飼うには餌だの世話だのと手間がかかるけれど、報告は言葉だけで済むから簡単だろう。
「よろしく、ハーレイ」
声に出してみてブルーは「よし!」と頷いた。
ハーレイと本物の恋人同士になる宣言はハーレイに任せておくのが一番。
なんと言っても立派な大人を何年もやっているのだから。
その宣言が「ブルーを自分の伴侶に欲しい」という申し込みと同じ意味だとブルーが気付くのはいつだろう?
気付いてもハーレイに任せておくのか、それとも自分で宣言するか。
「猫になりたい」と本気で考えたような小さなブルーが其処まで辿り着く日は遙かに遠い。
とりあえず猫になるのはやめたらしいが、ハーレイと共に暮らせる日までの我慢はまだ長い…。
猫でもいいから・了
ハーレイが訪ねて来てくれる土曜日の朝。
目覚めて直ぐに土曜日だと気付き、今日はハーレイと何を話そうかと考えを巡らせかけたブルーの耳が音を捉えた。激しくはないけれど、屋根を叩く水の雫の音。
「…雨だ…」
先日までの天気予報では雨は降らないと言っていたのに、予報が変わって曇りになったのが昨日の朝のこと。土曜日は早朝から釣りに出掛けるのだと話していたクラスメイトの顔を思い出す。曇りならともかく、本降りの雨。彼は釣りに行くことが出来ただろうか?
(ぼくは何処にも出掛けないから関係ないけど…)
きっと何人もの休日の予定が変更になるに違いない。外でやるスポーツやハイキング。車で出掛ける人にしたって、遠出をやめて近い所へ行くかもしれない。その点、ブルーは家でハーレイの来訪を待つだけなのだし、何も変わりはしないのだが…。
(ハーレイ、今日は車かな?)
ブルーの家を訪ねて来る時、ハーレイが使う方法は三通り。路線バスと自分の車と、自分の足と。雨が降る日は大抵が車で、晴れか曇りなら路線バス。運動を兼ねて歩いて来る日は雨とは無縁の天気が良い日。
そんなことをつらつらと考えながら着替えを済ませて両親と一緒に朝食を摂った。雨は一向に止もうとはせず、どうやら夜まで降り続くらしい。
(夜まで降るなら、釣りはやっぱり無理だったかな?)
クラスメイトのガッカリした顔が目に浮かぶようだ。ブルーは生まれつき身体が弱かったから、雨で変更を強いられそうな予定とは殆ど縁が無い。屋外でスポーツなどはしないし、長距離を歩くハイキングだって学校の遠足くらいなもの。それすらも参加出来ずに家に居たことも度々で…。
(雨って、色々と大変だよね)
いつものように部屋を掃除し、後はハーレイが来るのを待つだけ。自分用の椅子に座って窓から表の庭と通りを見下ろす。ハーレイは車か、はたまた傘を差しての到着か…。
「あっ!」
やっぱり車、と見慣れたハーレイの愛車が来客用のスペースに入ってゆくのを眺めた。ハーレイの車を見るのは好きだ。今はまだ一緒に乗せては貰えないけれど、大きくなったら…。
(車で何処でも行けるんだよね)
一日でも早く大きくなって、ハーレイが運転する横で助手席に座って、いろんな所へ。そうなる頃には雨に降られて気落ちすることもあるのだろうか?
(…えーっと…。雨が降ったら駄目な所って何があったかな?)
屋根の無い公園、それから海辺。山も駄目かな、と指を折って順に数える途中で気が付いた。雨が降ったら台無しどころか、もっと大変なとある事実に。
車をガレージに停めたハーレイが母の案内でブルーの部屋までやって来る。軽いノックの音に声を返すと扉が開いて、ハーレイが「おはよう」と穏やかな笑顔で現れた。ブルーの向かいの椅子に腰掛け、母がテーブルに紅茶と焼き菓子を置いて…。
「ごゆっくりどうぞ。何か御用がありましたら、ブルーに仰って下さいね」
「ありがとうございます。今日もお世話になります」
ハーレイは丁重に礼を述べるが、本当の所、世話になっているのはブルーの方だ。ブルーが此処に居なかったならば、ハーレイには自分の時間を自由に使える休日が今日もあった筈。土曜日と日曜日が巡ってくる度、ブルーはハーレイを拘束している。雨降りよりも厄介な存在が自分。
「どうした、ブルー?」
元気が無いな、とハーレイに顔を覗き込まれた。母はとっくに扉を閉めて出て行ったらしい。
「…うん……。…ううん」
曖昧に答えたブルーに、ハーレイは「気になることがあるのなら言え」と促してくる。
「お前、どう見てもおかしいぞ。甘えもしないし、喋りもしない。……何があった?」
「……えっと……」
どうしようかと言い淀んだものの、ブルーがハーレイの休日を殆ど一人で独占している今の状態は今後も続く。ハーレイがそれを選んだとはいえ、無期限でブルーの守り役として。
前世では心も身体も結ばれた恋人同士で、今の生でもハーレイはブルーを恋人だと言う。ブルー自身も恋人だと思っているのだけれども、実際はキスすら交わしてはいない。そんなブルーに付き合い続けて休日の大半を潰してしまって、ハーレイはそれでいいのだろうか?
「ハーレイ…。一つ訊いてもいい?」
ブルーは思い切ってハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「なんだ? 俺で分かることならいいんだが…」
「…ハーレイにしか答えられないことだよ。……ハーレイ、休みの日は前は何をしていたの?」
「休みって…。今日みたいな土曜とか日曜のことか?」
「うん。……ぼくの所へ来なくちゃいけなくなってしまう前は何をしていたのかな、って…」
其処まで言うのが精一杯。ブルーは俯き、黙ってしまった。
自分が知らないハーレイの休日。今よりも遙かに充実していて、色々な場所へ出掛けて行って…。
ハーレイの答えを待つまでもなく分かっている。自分がハーレイを独占する前は何通りもの休日の過ごし方があって、ハーレイはそれらの日々を心から楽しんでいたに違いないと。
「……なるほどな……」
ハーレイはクッと小さく喉の奥で笑い、ブルーの銀色の髪を右手でクシャクシャと撫でた。
「…お前の質問への答えだが」
その言葉にブルーはピクリと肩を震わせた。それを見たハーレイがクックッと笑う。
「まずは、一つ目。…ブルー、お前は重大な勘違いってヤツをしているぞ。俺は強制されて此処へ来ているわけじゃない。建前上はそういうことになっているがな、お前まで勘違いを起こしてどうする。俺はお前に会いたいから此処に来るんだぞ」
「…でも……。ぼくは小さいから、ハーレイの恋人っていうのは名前だけだよ」
「名前だけでも充分なんだよ、俺にはな。…お前が昔の姿に育つ時まで何十年でも待てると何度も言っているだろう? 見張っていないと他の誰かに盗まれそうだ」
お前はとてつもない美人に育つんだしな、とハーレイはパチンと片目を瞑る。
「自分の宝物の番をしたくないヤツは居ないと思うぞ、盗まれそうなモノとなったら尚更だ」
「…だけど……。ハーレイのための時間が全然無いよ」
「俺のためだろうが、今だってな。とびきりの美人に育つ予定のお前の姿を眺めて暮らす。しかも将来は俺のものになると言ってくれる可愛い恋人なんだぞ? こんな贅沢な時間は無いと思うが」
おまけに美味い飯だの菓子だのも付く、とハーレイの指が焼き菓子の皿を指差した。
「この菓子もお前のお母さんの手作りだしな? その辺のヤツより美味い菓子が食えて、飯だって色々作って貰える。俺も料理は得意な方だが、作って貰った飯というのは格段に美味い」
「…それでもやっぱりハーレイが自由に使える時間は無いよ…」
「俺としては今現在も自由時間のつもりだが? 恋人と二人で過ごせる時間が自由時間でないヤツがいたら、是非ともお目にかかりたいな。そんな馬鹿野郎には恋など出来ん」
そして、と褐色の手がブルーの髪を優しく梳いてゆく。
「お前の質問への二つ目の答え。…お前という宝物があるなんてことを知らなかった頃は、休みと言ったら運動だったな。柔道もいいし、水泳もいい。道場に行って指導もしてたし、一日中プールで泳ぎまくったり…。それはそれで楽しい休日だったが、宝物を見付けてしまうとなあ…」
値打ちがググンと下がるもんだ、とハーレイはニッコリ笑ってみせた。
「俺だけの宝物を眺めて過ごせて、しかも飯付き。それに比べれば、自由を満喫していたつもりの昔の俺ってヤツは悲惨だ。ただの寂しい独身男さ、嫁も彼女も居ないんだからな」
「……本当に? ハーレイは本当に今みたいな休みでかまわないの?」
「当たり前だろうが、何度言えば分かる? 俺は自分の宝物の見張りに通っているんだ、盗られたり逃げられたりしないようにな」
この宝物には綺麗な足が生えているから、とハーレイの足がテーブルの下のブルーの足に触れて、直ぐに離れた。
それは本当に一瞬のこと。小さなブルーは知りもしないが、倍以上もの年を重ねたハーレイの方は立派な大人の男性。ほんの少し足が触れ合っただけでも身体の奥に熱がじわりと生じるのだから。
宝物のブルーを他の誰かに盗られないよう、ブルーが逃げてしまわないよう、その側で見張る。
それが自分の休日であって、最高に贅沢な過ごし方だとハーレイは言った。
「盗まれてから歯軋りしても遅いし、逃げられたとなると泣くしかない。そんな惨めな目には遭いたくないからな。…特にお前が逃げる方は、だ」
「…逃げたりしないよ、ぼくはハーレイしか好きにならない」
「……どうだかな?」
分からないぞ、とハーレイが難しい顔をする。
「前のライバルはシャングリラのヤツらだけだった。しかし今度は違うからな…。地球だけでも凄い人数が居るし、宇宙には星が幾つも散らばってやがる。そしてお前は美人ときた。目をつけるヤツはきっと多いぞ、お前と釣り合う年のヤツらも掃いて捨てるほど居るんだからな」
こんなに老けたオッサンよりも若いヤツの方がいいだろう? と訊かれたブルーは「ううん」と首を左右に振った。
「ハーレイだから大好きなんだよ、ハーレイが若く生まれていたなら若いハーレイでもいいんだけれど…。ハーレイ以外の恋人なんて欲しくもないし、そんなの要らない」
「もしも若いゼルが居たらどうする。…まだ出会っていないだけかもしれない」
「ゼルは最初からどうでもいいよ! シャングリラに居た頃から興味無しだよ!」
「そうか? …お前より年上のジョミーというのも可能性はゼロではないんだが」
その辺からフラリと出てくるかもな、と言われたけれども、ジョミーだってブルーはどうでも良かった。シャングリラに居た頃、ハーレイとジョミーと、どちらがモテていたのかと問われれば恐らくはナスカでほんの数日だけ目にした青年の姿のジョミーだろうが…。
「ジョミーだって好きにならないし! ヒルマンも要らないしノルディも要らない!」
ハーレイが更なる名前を持ち出す前に、とブルーは先手を打って叫んだ。
「まかり間違ってキースが来たって、ぼくは絶対断るから!」
「…ははっ、キースか! そう来たか!」
アレな、とハーレイが眉間に寄せていた深めの皺が崩壊した。
「分かったよ、お前の本気の凄さは。…要するにお前は俺から逃げる気は無い、と」
「逃げたりしないし、盗まれもしない。キースが来たら断ってダッシュで逃げることにするし!」
メギドでブルーを撃ち殺そうとした男、キース・アニアン。今でも時々夢に見るけれど、彼もまた何処かに居るのだろうか? 彼は最期にミュウの未来を拓いてくれたと学校で習う。今の生で彼と出会えたならば語り合いたいとは思うけれども、それと恋とは全く別で…。
「ホントのホントに逃げるんだから! でも、逃げ遅れて捕まってたら…」
助けに来てくれる? と尋ねてみる。前の生でのハーレイだったら無理だった。しかし、今の生のハーレイは違う。今のハーレイなら、恐らくは、きっと…。
「お前が盗まれてしまった時か?」
取り返すために殴り込むさ、とハーレイは豪快に笑い飛ばした。
「盗んだ男をタコ殴りにして窓から捨てるくらいはするぞ? もちろん、死なない程度の高さの窓からだがな。…しかしだ、お前が逃げた時には俺は黙って見送ってやる」
本当だぞ、とブルーの髪を大きな褐色の手がグシャグシャと撫でてかき回した。
「今のお前は逃げる気なんぞは本当に全く無いんだろうが、人生ってヤツは分からんものだ。俺が今頃になってやっとお前と出会えるくらいだ、お前の人生にも何が起こるか分からんさ。…そしてお前が他の誰かに惚れたと言うなら、俺はお前のために身を引く」
……俺にお前を縛る権利は無いからな。
そう言いつつも、ハーレイは「だから」とブルーの頬を指先で軽くチョンとつついた。
「だから、お前に逃げられないように番をするのさ。そのために俺は此処に居る。その脹れっ面、「ぼくは絶対」と言いたいんだろ? だがな、人生には「絶対」は無い」
現に俺だってお前に惚れた、とハーレイの鳶色の瞳が悪戯っぽい光を宿した。
「俺の家には子供部屋まであるんだぞ? なのに子供はどう間違えても無理そうだしな! お前が産んでくれるというなら話は別だが、お前、産めるか?」
「えっ…。そ、それはちょっと…」
無理! とブルーは耳の先まで真っ赤になった。
いつかはハーレイと本物の恋人同士になるのだと固く心に決めているけれど、そうなっても子供は作れない。どう頑張っても男同士では無理なことくらい、小さなブルーでも分かっている。
「ほら見ろ、俺の人生の設計図ってヤツがお前に出会って崩れたわけだ。子供部屋まで作っておいても子供は無しな人生なんだぞ、お前の人生もどうなるんだか…」
「ぼくはホントに逃げないってば! でも捕まって盗まれちゃったら…」
「取り返す!」
お前に万一のコトが起きてしまう前に何処であっても殴り込む、と告げてハーレイは立ち上がり、ブルーの背後に回り込んだ。小さな身体を椅子ごと抱き締め、その耳元で熱く囁く。
「…いいな、俺の休日はお前のものだ。俺が自分でそう決めた。お前は心配しなくていい」
「うん…。ハーレイがそう言うのなら……。それでね…」
ぼくのお休みの日はハーレイのものでいいんだよね、とハーレイの腕に甘える小さなブルーはまだまだ分かっていなかった。ウッカリ盗まれてしまおうものなら自分の身に何が起こるかを。
それが起きる前に何処であろうとも殴り込む、と言うハーレイがどれほどにブルーを大切に想っているのかも理解し切れない十四歳の小さなブルー。
そんなブルーのためだけにあるハーレイの休日は、ハーレイの身には少しだけ切なく甘かった…。
雨の降る日に・了
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
それは春休み前のとある一日。三月に入ってまだ日も浅く、シロエ君は卒業式で披露する技の仕上げに余念がありません。毎年恒例、校長先生の銅像を変身させるイベントです。とはいえ外見はほぼ完成だとかで、後は目からビームなどの仕掛けや配線なんかで。
「ふう…。これで動けばいいんですけどね」
トントンと肩を叩いているシロエ君に「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッとコーヒーのカップを。
「かみお~ん♪ お休みなのにお疲れ様ぁ! はい、どうぞ」
ホイップクリームたっぷりだよ、と差し出すコーヒーを淹れている所は見ていました。オレンジリキュールを加えてホイップクリームをふんわり沢山、トッピングにカラフルなお砂糖を散らしていたのです。なんだかアレって美味しそうかも…。
「あれっ、みんなもコーヒー欲しいの?」
ハイ、ハイ、ハイッ! と手が挙がりまくり、淹れて貰えました、特製コーヒー。今日は土曜日、シャングリラ学園はお休みです。私たちは会長さんの家に遊びに来ているわけですが…。
「いいなあ、ぼくにもコーヒー淹れてよ」
「「「!!?」」」
バッと振り返った先で紫のマントがフワリと翻り、ソルジャーが姿を現しました。リビングのソファに腰を下ろすとニッコリと。
「コーヒーと、それにケーキもね」
「はぁーい!」
ちょっと待ってね、とキッチンに駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。間も無くコーヒーのカップとアプリコットのタルトがソルジャーの前のテーブルに…。
「ありがとう。ちょうどね、暇にしていたものだから…」
「こっちは暇じゃないんだけれど?」
特にシロエが、と会長さんはしかめっ面。けれどソルジャーが気にする筈もなく、クリームたっぷりのコーヒーに顔をほころばせて。
「いいね、これ。コーヒーって感じがあんまりしないや、リキュールが入っているのも嬉しい。…で、暇じゃないってどういうことさ? ああ、これか…」
今年も慰安旅行なんだね、とソルジャーの視線が捉えた先には旅行パンフレットが山積みでした。卒業式と同じく恒例になってしまった春の慰安旅行。元老寺で春のお彼岸のお手伝いをするジョミー君とサム君の慰労会です。
「只今、行き先を検討中って所かな? ぼくの意見を言ってもいい?」
「乗っ取り禁止!!」
話に入るな、と会長さんの厳しい声が飛び、ソルジャーは。
「うーん…。でもさ、毎年、お邪魔してるよ? だからたまにはぼくの意見も」
「乗っ取られるだけでも迷惑なんだよ、ジョミーたちの身にもなってみたまえ! 毎年々々、君たちに旅行を乗っ取られてさ…。慰安旅行は君たちのためにあるんじゃないんだから!」
黙ってタルトを食べていろ、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」にお代わりを用意させました。こっちに来るな、と顔に書いてあります。ソルジャーは大きく伸びをして。
「…分かったよ…。じゃあ、君たちだけでお好きにどうぞ」
もちろんお昼も出るんだよね、とソルジャーは居座るつもりです。来てしまったものは仕方ない、と私たちは無視する方向に。休日返上のシロエ君の作業が一段落したら、慰安旅行の相談ですよ~!
「暖かい所もいいんだけどさあ、温泉なんかもいいかもね」
ゆったり浸かって疲れを取って…、とジョミー君。
「お彼岸って正座地獄だし…。膝にくるから、露天風呂とかで温めたいな」
「若くねえなあ…。どうすんだよ、お前」
今からそれでは先がないぜ、とサム君は呆れ果てた顔。
「お彼岸くらいで地獄だったら締めの道場はどうなるんだよ? アレって相当キツイと聞くぜ。そうだよな、キース?」
「伝宗伝戒道場か? あれを終えないと住職の資格が取れないだけに、定年退職後に僧侶を目指すって人も何人か来ていたが…。正直、泣きの涙だったようだぞ、膝の問題は」
休憩時間にマッサージ、とキース君。
「正座もキツイが、五体投地を嫌と言うほどさせられるしな…。膝がヤバイという理由で下山した人は俺の年にはいなかったんだが、そういう人が出る年もある。ジョミーの外見で膝で下山だと、後々までの語り草だな」
「えーーー! げ、下山って、追い出されるって意味だっけ?」
「まあ、それに近い。お山を下りる…。つまり寺から出て行くという意味だが、膝で下山をしたいのか?」
恥さらしだぞ、とキース君は可笑しそうに笑っています。
「見た目年齢は高校一年生だしなぁ…。根性が足りないヤツと話題になるか、実年齢の方で評価されるか。何歳で道場に行くかにもよるが、四十代とかだと言われるぞ。これだからオッサンというヤツは…、とな」
「……お、オッサン……」
「オッサンでなければ中年ってトコか。道場のメインは大学三年生だってことを忘れるなよ? 四十代は立派な中年だ。下手をすれば三十代でも危ない」
オッサンが膝が辛くて下山していった、と津々浦々で語られるのだ、とキース君に言われたジョミー君は派手に打ちのめされています。
「そ、そんな…。オッサンだなんて……」
「嫌なら若い間に道場に行くか、正座を克服するかだな。ああ、正座だけでは足りないか…。五体投地もキッチリやって経験値ってヤツを上げとけよ」
「酷いや、お彼岸だけでも沢山なのに! それと棚経で充分なのに!」
「それで足りると思うんだったら、甘く見たまま道場に行け。そして落伍して見事にオッサン認定ってわけだ」
まあ頑張れ、とキース君はまるで他人事。そりゃそうでしょう、自分はとっくに道場を終えて今や立派な副住職です。ジョミー君が落伍したって法話のネタにしちゃうかも…。
「高校生なのにオッサン認定…。なんか物凄く傷ついたかも……」
傷を癒すにはやっぱり温泉、とジョミー君は温泉旅行のパンフレットを広げ始めました。この季節だとカニ料理がセットの温泉旅行が目立ちます。カニ料理なら食べるのに夢中で沈黙しがち。バカップル対策には最適かも、と私たちの気持ちも温泉ツアーに傾き始めていたのですが。
「…えーっと…。お取り込み中を悪いんだけど、ちょっといいかな?」
「「「???」」」
掛けられた声は存在をスル―していたソルジャー。あれ? あんなパンフレットあったかな? って言うか、ソルジャーに旅行のパンフレットは渡していなかったと思うのですが…?
「これ、これ! これが気になるんだけど…」
ソルジャーが私たちの前に置いたパンフレットには見覚えがありませんでした。『プリンセスになれる旅』と大きく書いてありますけれど、誰がこんなの持ってきたわけ…?
「「「プリンセスになれる旅…?」」」
私たちは顔を見合わせ、パンフレットを持ち込んだ犯人探しが始まりそうになったのですが。
「ごめん、ごめん。パンフレットは君たちが独占しちゃってたから、旅行代理店に置いてあるのを見てたわけ。ぼくならサイオンで見放題だし…。そしたら、こういうパンフレットが」
面白そうだから瞬間移動で貰っちゃった、とソルジャーはパンフレットを広げました。
「お姫様扱いしてくれるらしいよ、ホテルとかレストランとかで! 朝食はルームサービスでどうぞって書いてあるしさ、こういう旅も良さそうだなぁ…って」
「じゃあ、そっちに行けばいいだろう」
今年の春は別行動だ、と会長さん。
「そもそも春の慰安旅行に君たちが来るのが間違っている。君のハーレイと行ってきたまえ、素敵にお姫様気分になれるさ」
「……ハーレイと……?」
お姫様ってキャラじゃないんだけれど、とソルジャーはパンフレットを眺めながら。
「食事はともかく、エステにスパだよ? 何かが違うと思わないかい?」
「それを言うなら慰安旅行だって同じだよ! こんな面子でお姫様も何も…。そりゃあ、女子には夢の旅行だろうけど、ジョミーたちはね…」
「うん、要らない!」
それは要らない、とジョミー君は即答でした。
「キャプテンと行けばいいじゃない! キャプテンがキャラじゃないって言うんだったら、エステとかスパは一人で行ってさ…。ちゃんとお金を払いさえすれば断ってもいいと思うんだよね」
「俺もジョミーに賛成だ。あんたはそっちに行くんだな」
そして俺たちは温泉だ、とキース君が話題を元に戻した途端に、ソルジャーは。
「いいかもねえ…。お姫様気分でハーレイと旅行ね、そういうヤツにも憧れないってことはない。ぼくたちは新婚旅行をしていないしさ、この際、ハネムーンと洒落込もうかな?」
「はいはい、ハネムーンでも何でも好きにしたまえ」
その代わり費用は自分持ち、と会長さん。
「慰安旅行に同行されたら支払い義務も生じるけどねえ、別行動なら無関係! 今年の春はハーレイの財布に優しい春になりそうだ」
慰安旅行の費用は何故か教頭先生の負担になっていました。会長さんと旅が出来る代わりに全額負担が条件なのです。ソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」が割り込んでくると費用は馬鹿にならないわけで…。
「財布に優しく、目にも優しい旅ってね。君たちの熱々バカップルぶりを見せ付けられなくて済むんだからさ、もうハーレイは大喜びだよ」
「うーん…。だったら費用はノルディの負担ってコトになるのか…」
「別にいいだろ、しょっちゅうたかっているんだし…。そのパンフを持って行っておいでよ、きっと喜んで出してくれるさ。場合によってはノルディも参加するかもだけど」
「えっ、ノルディ?」
それは微妙、と呟くソルジャー。
「ハネムーンにノルディってお邪魔虫じゃないか! あれは二人の世界のものだろ?」
「そうと決まったものでもないよ? 昔はそういうツアーもあったし」
よく聞きたまえ、と会長さんは指を一本立てて。
「旅行が今ほどメジャーじゃなかった時代にはねえ、ハネムーン専門の団体旅行があったわけ。右も左も新婚カップル、移動の飛行機もバスの中でも他のカップルがついてくる。もちろん食事も隣のテーブルに同じツアーのカップルが…。二人の世界じゃないよね、それは」
それに比べればノルディくらい、と会長さん。
「他のカップルと自分たちとを比較して落ち込む必要もないし、ノルディを連れて行ってきたまえ。見せつけるのは大好きだろう?」
「…それはそうだけど……」
どうせなら何かもうちょっと、とソルジャーはパンフレットを見詰めて考え込んでいましたが。
「そうだ、他のカップルと一緒に旅行! 比較しながら幸せたっぷり!」
「「「は?」」」
「こっちのハーレイ、ブルーのためなら頑張るからねえ…。だけどブルーは突っぱねるしさ、喧嘩しそうなカップルを見ながらハネムーンというのも面白そうだよ」
そっちの線でノルディと相談、と意味不明な台詞を吐いたソルジャーはパッと姿を消しました。えーっと……。ソルジャー、なんて言いましたっけ?
「「「…ノルディと相談…?」」」
ソルジャーが何を言いたかったのか、理解出来る人はいませんでした。いえ、理解出来たら末期でしょう。とにかく今は慰安旅行のプランを練るべし、と再び話題は温泉ツアー。カニもいいですが、御当地グルメもそそられます。ジョミー君とサム君次第ですかねえ?
お昼も食べる、と言っていたくせにソルジャーは戻らず、私たちは有難く「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製の牛肉の赤ワイン煮込みの昼食を。デザートが出てもソルジャーはやはり戻って来ません。エロドクターとランチに出掛けたに違いなく…。
「これは間違いなくフルコースだねえ…」
そのまま向こうに帰ってしまえ、と会長さんが毒づき、シロエ君が。
「でも、お蔭で旅行のプランはほぼ決まったじゃないですか。それに今年は来ないようですよ」
「だよね、それだけでポイント高いってば!」
初めてのぼくだけの慰安旅行、とジョミー君はウットリと。
「これでお彼岸も頑張れるよ~。終わったら温泉と御当地グルメが待っているんだ~」
「おい、お前な…。親父の前で温泉気分を全開にするなよ、しごかれるぞ」
五体投地を百回とか、とキース君が脅した時です。
「…ごめん、ごめん。遅くなっちゃって。…あっ、サヴァランだ! ぼくの分は?」
シロップのラム酒がいいんだよね、と降って湧いたソルジャーにとってはデザートは別腹が基本です。エロドクターと豪華ランチをしてきたくせに、シロップたっぷりのサヴァランをペロリと平らげて…。
「慰安旅行の話だけどさ…。今年はうんと安く上がるよ、ノルディが出してくれるんだって」
「「「???」」」
「こっちのブルーとハーレイも連れてハネムーンツアーに行きたいんだけど、と言ったわけ。そしたら凄くウケちゃって…。こっちのハーレイがヘタレちゃったら自分の株が上がるかも、と大乗り気なんだ。ぜひカップルで別荘にどうぞ、って」
「「「別荘!?」」」
なんじゃそりゃ、と誰もが目が点。エロドクターは大金持ちだけに別荘だって持っています。もしかして私たちに別荘へ行けと? エロドクターの…?
「そう、別荘。ジョミーが温泉に行きたがってたし、その話もした。条件にピッタリの別荘があるんだってさ、温泉付きの」
其処をみんなで使い放題、とソルジャーはパチンとウインクを。
「場所がノルディの別荘だからね、瞬間移動でお出掛けしたって全然問題ないらしいよ。でもって使用人さんたちにも気軽に御用命下さい、だって」
「「「………」」」
どうしろと、と愕然とする私たちを他所にソルジャーは夢のハネムーンに燃えていました。
「ハネムーンなんだし、ぶるぅは留守番させようかな? ハーレイにお姫様扱いして貰うといいですよ、ってノルディも言ってくれたしね…。ブルーはどうする? こっちのハーレイに甘やかして貰って、お姫様気分で旅行する?」
「……勝手に決めてくれちゃって……。ジョミーたちの慰安旅行だよ?」
「ああ、そこは心配無用だってば! ホテルだと思って出掛ければいい。食事だって希望すれば時間をずらせるらしいから」
ついでに食事の内容も、と語るソルジャーに罪の意識は無いようです。ジョミー君たちの慰安旅行を乗っ取ったばかりか仕切り倒しているわけですけど、こうなってしまったら逆らえません。今年の春の慰安旅行はエロドクターの別荘へ。温泉付きっていう所だけが評価の高いポイントかも…。
こうして強引に決められてしまったジョミー君たちの慰安旅行。会長さんは教頭先生に内緒で出掛けるつもりでしたが、しっかりバレてしまったようで。
「…ハーレイから電話が掛かって来たんだよ…」
昨日の夜に、と落ち込んでいる会長さん。今日はシャングリラ学園の卒業式で、私たちは卒業してゆく三年生たち………かつての1年A組のクラスメイトたちを校門前で見送りました。シロエ君の力作の校長先生の銅像の変身は今年も好評、目からビームも打ち上げ花火も完璧な出来。なのに…。
「シロエの仕事はホントに最高だったんだけど…。昨日の夜の変身作業も上手く行ったし、気分良く寝られる筈だったんだけど…」
そこに電話が、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋のソファに沈んで呻いています。
「第一声は「今、帰ったのか?」ってヤツで、今年の銅像も楽しみだな、って。…だから適当に流していたら、旅行の話が出てきたわけ。ブルーが報告に行ったんだってさ、ぼくが内緒にしてたから」
日程も行き先も全部バレバレ、と会長さんの声は投げやりで。
「ブルーときたら、ハネムーンツアーをカップル二組でやりたいんだってキッチリ説明したらしい。それでハーレイが燃え上がっちゃって、旅は任せろと妄想爆発。…思い切り甘やかしてやるから、お姫様になったつもりでいてくれ、って」
もうダメだ、と会長さんはお手上げ状態です。教頭先生の思い込みの激しさと妄想の凄さは誰もが認識している事実。バカップルなソルジャー夫妻と張り合うつもりで爆発されたら何が起こるか、想像するだに恐ろしく…。
「…気の毒だが、ここは潔く諦めるんだな」
俺たちは普通に温泉旅行だ、とキース君が言えば、サム君が。
「真面目に対応しようとするからいけねえんだよ。気分が悪いって部屋に引き籠もってればいいんでねえの?」
ハネムーンなんかじゃねえんだし、という説には一理ありました。ハネムーンで部屋に引き籠もってしまえば離婚まっしぐらのフラグです。その手を使って乗り越えるべし、と私たちが励まし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」もニコニコと。
「かみお~ん♪ ブルーがお部屋から出ないんだったら、ぼく、ハーレイに遊んでもらう! 肩車とか鬼ごっことか、ハーレイ、とっても上手だもん!」
「ああ…。将を射んと欲すればまず馬を射よ、と言うからな」
そう呟いたキース君の頭上でパッシーン! と弾ける会長さんの青いサイオン。
「いたたた! 危ないじゃないか、何をしやがる!」
「余計な台詞を喋るからだよ、坊主頭にされたいわけ!?」
次に言ったら髪の毛を容赦なく吹っ飛ばす、と脅かされたキース君が大慌てで両手で髪をガードし、大爆笑の私たち。会長さんには悪いですけど、教頭先生が登場したって私たちには関係ありません。バカップルと同じでスル―あるのみ、慰安旅行を楽しむだけです~!
そうこうする内に春休みが来て、ジョミー君とサム君は春のお彼岸のお手伝いで元老寺へ。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はシャングリラ号で春の定例航海です。シャングリラ号に乗せて貰えないシロエ君とマツカ君、スウェナちゃんと私は元老寺のお彼岸を冷やかしに…。
「来たな、お前たち」
路線バスを降りて山門前に辿り着くと、法衣のキース君が立っていました。
「見付けた以上は逃がさんぞ。まあ、入れ」
「え、遠慮しておきます、キース先輩!」
けっこうです、とシロエ君が叫びましたが、キース君には勝てません。発見されたのが運の尽き。私たちはキース君曰く、特等席な本堂の最前列に近い場所へと連行されて正座の刑で。
「今年は失敗しましたね…」
マツカ君が小声で囁けば、スウェナちゃんが。
「マツカは正座も平気じゃない! お茶かお花か知らないけれど」
「それはそうなんですけれど…。でも、お寺はぼくも範疇外です。今日は長丁場になりそうですよ」
「「「………」」」
特等席は途中退場不可能です。お彼岸の法要の冷やかしは毎年やっているんですけど、キース君に見付かった時は特等席。見付からなければ人を押しのけて退場可能な席に紛れるのがお約束。今日は退場不可能ですから、痺れる足を宥めつつ耐えるしかない地獄の法要フルコース…。
「…ぼくも慰安旅行が必要って気がしてきましたよ…」
足がヤバイです、とシロエ君の声に泣きが入る中、スウェナちゃんと私も心で同意。法衣のキース君やジョミー君、サム君たちは立ったり座ったりの五体投地もやっていますし、さぞかし膝に来ているでしょう。ああ……早く温泉に行きたいなぁ……。
「これって会長の祟りでしょうか?」
今頃はシャングリラ号で宇宙ですよね、とシロエ君が嘆くと、マツカ君が。
「…どうでしょう? 思い切り嫌がっていましたしねえ、新婚旅行…」
「違うわよ、マツカ。新婚じゃなくて慰安旅行よ、バレたら確実に殺されるわよ?」
今の失言は忘れましょ、とスウェナちゃんが肩を震わせています。私たちが行くのは慰安旅行で、新婚旅行ではありません。新婚旅行はソルジャー夫妻限定なのだ、と分かってはいるんですけれど…。
「「「……嫌な予感が……」」」
無事に済むという気がしない、と見事にハモッた私たちのぼやきにアドス和尚やキース君たちが唱えるお念仏の声が朗々と…。
「「「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」」」
まさにそういう心境です。何が起こるか分かりませんけど、アンラッキーなのは今日だけで沢山。両足の痺れは耐え抜きますから、助けて下さい、南無阿弥陀仏…。
法要フルコースを食らったお彼岸のお中日の後も、ジョミー君とサム君は元老寺でせっせとお手伝い。お彼岸が明けるまでは檀家さんがお寺を訪れますから、お墓に供える卒塔婆を書いたりするのです。墓回向に忙しいアドス和尚とキース君の代理で受付なども頑張って…。
「やっと終わった―! 慰安旅行だぁー!」
温泉だぁ! と拳を突き上げているジョミー君。今日は慰安旅行の出発日でした。行き先がエロドクターの別荘ですから瞬間移動でお出掛けOK、集合場所は会長さんの家ということになっています。私たちはバス停で待ち合わせてから会長さんのマンションに行き、エレベーターに乗って…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
旅行だよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が弾む足取りで先に立ってリビングへ。そこには会長さんと教頭先生、ついでにバカップルことソルジャー夫妻が…。
「こんにちは、今日からお世話になります」
「違うよ、ハーレイ。お世話になるのは向こうの二人さ」
他は単なる通りすがり、とソルジャーが指差す二人とは、会長さんと教頭先生で。
「ぼくはお世話なんかしないからね!」
「そう言うな、ブルー。私は大いにお前の世話をしようと思って来たんだからな」
「それが余計だと言うんだよ!」
お前なんか置き去りにして行ってやる、と叫んだ会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の青いサイオンがリビングに溢れ、私たちは空間を一瞬で飛び越えて…。
「「「うわぁ…」」」
スゴイ、と思わず息を飲む雪景色の中に立派な別荘。マツカ君の山の別荘にも負けていません。山間の保養地に建つエロドクターの別荘は広い庭と木立に囲まれた素晴らしいもので。
「えとえと…。お邪魔しまぁす、でいいのかなぁ?」
ピョンピョン跳ねてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が玄関のチャイムをピンポーン♪ と押すと、ガチャリとドアが開きました。
「いらっしゃいませ」
ようこそお越し下さいました、と丁重にお辞儀する紳士の後ろにズラリと並んだ使用人さん。私たちの荷物をサッと持ってくれ、部屋へと案内してくれるのですが…。
「ブルー、荷物は私が持とう」
「なんで居るのさ! 置き去りにしたと思ったのに!」
教頭先生と会長さんが喧嘩を始めかけると、ソルジャーの声がのんびりと。
「ハネムーンの後で決裂するっていうなら分かるんだけどさ、最初から置き去りにするのはちょっと…。連れて来たのは勿論ぼくだよ、今からこれでは心配だよねえ…」
「本当に。…ブルー、私たちは上手くやりましょうね」
「決まってるじゃないか。期待してるよ、思いっ切り……ね」
甘い時間に大人の時間、とバカップルは玄関ホールで固く抱き合った上に誓いの熱いキス。あーあ、早速始まりましたよ、もう片方のカップルとやらは離婚以前の問題ですけど…。
エロドクターの別荘ライフはバカップルと会長さんさえ気にしなければ快適でした。暖炉が素敵な一階の広間に座っていれば、すぐに飲み物の注文を聞いて貰えます。ケーキなんかも好きに選べて、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は嬉しそうにレシピを教わっていたり…。
「かみお~ん♪ カヌレみたいって思ったんだけど、揚げミルクだって! ホワイトソースにお砂糖、卵とレモン! 面白そう~♪」
これは帰ったらチャレンジしなきゃ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の好奇心をくすぐったお菓子は確かにカヌレに似た味わい。四角い形をしていましたから「あれ?」とは思いましたけど…。エロドクターが外国で食べて、レシピを持ち帰ったらしいです。
「此処ってけっこう当たりだよねえ、お昼御飯も美味しかったし」
ジョミー君が喜ぶ横では、キース君が。
「持ち主が誰なのかさえ考えなければ、大当たりだろう。…それと恐怖のバカップルとな」
「でもさ、二人とも籠もってるから関係ないよね」
お昼御飯もルームサービス、とジョミー君が親指を立てれば、サム君が。
「だよな、いつもの「あ~ん♪」は見なくて済んだよな!」
「そこなのよねえ…。教頭先生、ショックを受けてらっしゃったでしょ? 自分の配慮不足だとか、なんとか」
どうなるのかしら、とスウェナちゃん。教頭先生は昼食の席にソルジャー夫妻がいない理由を使用人さんから聞かされ、酷く落ち込んでらっしゃったのです。会長さんをお姫様扱いしようと意気込んでやって来たのに、その他大勢と一緒に食事をさせてしまったのですから。
「会長、激怒してましたからね…。調子に乗って遊び過ぎだと思うんですけど」
あれは絶対マズイですよ、とシロエ君。会長さんときたら、教頭先生の思慮の足りなさを詰りまくって、デリカシーに欠けると罵倒した挙句、部屋に籠もってしまったのでした。教頭先生は己の至らなさを恥じ、会長さんが好きそうなケーキと紅茶のセットを用意してせっせとアタック中で。
「あっ、ハーレイ! ブルー、出てきた?」
どうだった、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が見詰める先にはトボトボと階段を下りてくる教頭先生。大きなトレイに載ったケーキは手つかずです。
「…ダメだ、うんともすんとも言わん。ドアには鍵が掛かっているし…。紅茶も冷めてしまったからな、新しいのを用意して貰う」
焼き立ての菓子があるようならそれもセットで、と教頭先生は重い足取りで厨房の方へと向かいました。後姿が見えなくなった途端、フワリと広間の空気が揺れて。
「やあ、お勧めは揚げミルクだって?」
「「「!!?」」」
瞬間移動で現れた会長さんの姿にビックリ仰天。えーっと…部屋にお籠りだったのでは?
「まさか。ハーレイが憐れな声を出してる間にキッチンに行って、アフタヌーンティーのセットを用意して貰ったよ。部屋でのんびり食べていたけど、こっちのお菓子も美味しそうだし」
鬼の居ぬ間に調達を、と会長さんは使用人さんを呼んで揚げミルクや他のお菓子をお皿に盛って貰っています。もちろん香り高い熱々の紅茶のポットとカップも忘れずに…。
「あっ、ハーレイが戻って来るかな? それじゃ、またね」
晩御飯の時間には出てくるから、と会長さんがパッとかき消えた後に重そうなトレイを手にした教頭先生が。
「…今度こそ食べてくれるといいのだが…。いくら昼食を食べたとはいえ、飲まず食わずではな…」
「「「うぷぷぷぷぷ…」」」
プハーッ! と堪らず吹き出した私たちですけど、何も知らない教頭先生は大真面目な顔で。
「お前たち! 笑いごとではないのだぞ? お茶を飲んでいる暇があったら、お前たちも思念でブルーに呼び掛けるとか…」
「「「は、は、はい~…」」」
そうですねえ、と同意しつつも、やっぱり笑いは止まりません。教頭先生には悪いですけど、所詮は他人事ですってば…。
結局、会長さんは夕食まで部屋に立て籠もりました。ようやっと出て来た会長さんに教頭先生が必死に声を掛けていますが、見事なまでにスル―されてしまい…。
「夕食だってね、メニューは何かな?」
楽しみだねえ、と広間に座っていた私たちにだけ微笑みかける会長さん。教頭先生はケーキと紅茶のトレイを厨房に返しに行き、その間に先に食堂に入ってみれば。
「こんばんは。ハーレイ、締め出しを食らってたんだって?」
「お気の毒です、本当に…」
同情しますよ、とバカップルが席に着いているではありませんか。な、なんで…? 食事はルームサービスなんじゃあ…?
「幸せ気分を満喫するには、他人の不幸が最高なんだよ。…ああ、来た、来た」
こんばんは、とソルジャーは教頭先生に向かってニッコリと。
「ブルーに籠られちゃったらしいね、夜には突破出来そうかな?」
「…そ、それは……。出来れば突破したいと思うのですが……」
教頭先生がそこまで言った瞬間、会長さんの地を這うような冷たい声が。
「夜だって? 昼間でも絶対開かない扉が夜に開くと思うわけ? 思い上がりも甚だしいね」
水でも被って頭を冷やせ、と会長さんは隣の席に座ろうとした教頭先生をゲシッと蹴ると。
「夜這いをしようと思ってるヤツをぼくが隣に座らせるとでも? 君は末席に行けばいいだろ、この席は空席にしとけばいいよ」
一番端にセッティングを…、という会長さんの指示でテーブルの端っこに教頭先生の席が作られました。密着バカップルとは正反対な離れっぷりの中、オードブルのお皿が運ばれてきて…。
「はい、ハーレイ。あ~ん♪」
「あなたもどうぞ、ブルー。あ~ん♪」
例によって始まる食べさせ合い。他人の不幸が最高だと言っていたソルジャー、教頭先生をチラチラ横目で眺めながら。
「そうそう、ハーレイ。…君が締め出されていた間だけどさ、ぼくたちは何をしてたと思う? 気持ち良かったなぁ、カップルエステ」
「「「カップルエステ!?」」」
私たちの声が揃って裏返り、ソルジャーは。
「うん。ハネムーンっぽくやりたいんだけど、とノルディに頼んでおいたんだ。ぼくのハーレイは嫌がるかなぁ、って心配したけど、取り越し苦労! 二人でエステを受けた後はさ、フラワーバスに一緒に入って…。そこまでやったら、もう盛り上がるしかないもんね」
お風呂から出たらベッドに直行、と輝くような笑顔のソルジャーと、恥ずかしそうなキャプテンと。二人ともお肌ツヤツヤです。
「どう、ハーレイ? 君も滞在中に是非、ブルーと二人でカップルエステを」
「却下!」
「……カ、カップルエステ……」
バッサリ切り捨てる会長さんと、妄想の域に入ってしまった教頭先生。ダメ押しのようにソルジャーが私たちにはサッパリ謎な大人の時間の濃さと中身を語りまくったから大変です。教頭先生、耳まで真っ赤になってしまって鼻血がツツーッと流れ落ちて…。
「ふうん…。一日目にして轟沈ってね」
失神して倒れた教頭先生が担架で運ばれてゆくのを見送るソルジャー。
「ハネムーンツアーは二泊三日だけど、これってリタイヤも有りだっけ?」
「…意地でもリタイヤしないと思うよ、ハーレイだから」
諦めだけは悪いんだ、と会長さんが深い溜息。
「明日はカップルエステに行こうと誘いに来るかな、部屋の前まで。妄想たっぷりに生きてる割に、ヘタレでどうにもならないくせにね」
「それはノルディが喜びそうだ。君がハーレイに愛想を尽かせば自分の出番だと思ってるから」
早く愛想を尽かすように、と煽るソルジャーに、会長さんは。
「ノルディはもっと却下だってば、あっちはシャレにならないよ! それくらいならハーレイに頑張って粘りまくって貰うさ、場合によってはカップルエステもやぶさかではない」
後はハーレイの運次第、という会長さんの素晴らしい台詞を教頭先生は聞き損ねました。あわよくば会長さんを射止めようとの下心を持ったドクター・ノルディも報われることは無さそうです。
「うーん…。まあ、こっちのハーレイには頑張れとだけ言っておこうかな、残り二日間」
「そうですね…。私たちだけが幸せというのは、私には、ちょっと」
出来れば幸せになって頂きたいものです、と熱く語っていたキャプテンは…。
「「「……スゴイ……」」」
「ふふ、これでこそハネムーンってね。じゃあ、おやすみ~♪」
「それでは、私たちは失礼します」
一礼したキャプテン、なんとソルジャーをお姫様抱っこして食堂から出てゆきました。居心地のいい別荘で食事も美味しく、温泉を引いたお風呂もあるんですけど…。
「…これが続くの? あと二日も?」
ぼくの慰安旅行はどうなっちゃうわけ、とジョミー君が叫び、キース君が。
「嫌ならお前は下山しろ! …いや、俺だって下山したいような気もするが……飯は美味いし、部屋もいい。文句を言ったら罰が当たるぞ」
「なるほど、下山ねえ…。半分修行で半分遊びか…。ハーレイには修行三昧っぽいけど」
楽しめる分は楽しもう、と会長さんまでが開き直りの境地です。ソルジャー夫妻のハネムーンツアーに付き合わされるのも修行でしょうか? 下山しちゃったら別荘ライフにサヨナラです。ここは一発、修行半分、お遊び半分、別荘ライフを満喫するのが正解ですよねえ…?
差がつく新婚・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
最近ハレブル別館の更新が増えておりますが、あちらとシャン学はキッパリ別物。
執筆スタイルからして違いますから、きちんと共存&住み分け。
足の引っ張り合いとか共倒れとかは有り得ませんです、書いてる人間が同じなだけ~。
来月は 「第3月曜」 6月16日の更新になります、よろしくお願いいたします。
毎日更新の場外編、 『シャングリラ学園生徒会室』 にもお気軽にお越し下さいませv
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、5月は季節外れのキノコで騒ぎになっているようで…。
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv