シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
入試の合格発表が終わるとバレンタインデーが目前でした。温室の噴水が期間限定のチョコレートの滝に変わって大人気。去年も目にした光景ですが、ミカンやバナナをコーティングして楽しんでいる生徒が大勢います。ちょっとしたお祭り気分ですね。そんな平和なある朝のこと。
「諸君、おはよう」
1年A組の教室に現れたグレイブ先生は1枚の紙を持っていました。
「バレンタインデーが近づいているが、校長先生から諸君へのお言葉がある。読み上げるから静粛に」
なんでしょう?首を傾げるA組一同。グレイブ先生は紙を掲げて軍人のみたいに直立不動。
「在校生の諸君、我がシャングリラ学園はバレンタインデーにおけるチョコレートのやり取りを非常に重視するものである。この時期、温室の噴水をチョコレートの滝に変えてあるのは、懐の寂しい生徒が容易にチョコレートを入手できるようにとの配慮であるから、持ち帰りは大いに奨励される」
えっ、チョコレートの滝はお遊びじゃなくて実用品!じゃあ、去年お小遣いをパンドラの箱の要求で使い果たしてしまった私が、あの滝のチョコを取って固めて「そるじゃぁ・ぶるぅ」にプレゼントしたのは正しい利用法だったんですね。
「なお、ここまでお膳立てをしてもチョコレートのやり取りをしない生徒は礼法室にてバレンタインデーに説教をする。当日の終礼までにチョコを1個も貰えなかった男子および1個も渡しに行かなかった女子は覚悟するように。…以上」
グレイブ先生が朗読を終え、眼鏡を指先で押し上げて。
「校長先生もこのようにおっしゃっている。風紀に厳しい我が学園だが、バレンタインデーは特別なのだ。年に一度くらい男女の交遊をさせてやろうという、校長先生の寛大な思し召しを無駄にしないよう心がけたまえ」
「質問です!」
男の子がサッと手を挙げました。
「もしもチョコレートを貰えなかったらどうなるんですか?」
「礼法室で説教だ。その後は何故チョコレートを貰えなかったか、自分の至らなかった点を自問自答し、反省文を校長宛に提出する。反省文は四百字詰め原稿用紙に手書きで2枚以上。書き終えるまで下校は不可」
ひゃああ!…女子はチョコを誰かに渡しさえすればオッケーですけど、男子はそうはいきません。誰からもチョコを貰えなかったら、お説教の上、反省文…。
「男子諸君は頑張りたまえ。…そうそう、一つ教えておく。どう頑張っても女子にチョコを下さいと言えない生徒もいるだろう。少々不甲斐無い気がしないでもないが、そういう男子は友人同士でチョコをやり取りするのが許可されている。我が学園では『友チョコ』と呼ばれ、これがけっこう評判がいい」
おぉぉっ、と男子がどよめきました。それならチョコレートを手に入れる道が開けます。
「要するに、説教と反省文の対象になるのは男女ともに努力しなかった者だけだ。男子に渡す度胸の無い女子も友チョコが許されているからな。…諸君、ベストを尽くすように」
そう言ってグレイブ先生は朝のホームルームを終えました。チョコレートの滝に加えて友チョコ制度。これだけ揃えてもらっているのにお説教と反省文の刑を食らう生徒がいるんでしょうか?…後で口コミで知った話では、過去に該当者は無いそうです。でも期末試験が近づいているのに、浮かれ騒いでいていいのかな?まぁ、そんな所がシャングリラ学園の校風なのかもしれませんけど。
その日はクラス中がバレンタインデーの話で持ちきりでした。チョコレートの滝と真剣に向き合ってきたクラスメイトもいたみたい。放課後になって「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ行くと、テーブルの上に乗っていたのは…何種類ものケーキとスコーン、それにフィンガーサンドイッチ。アフタヌーンティー用の食べ物です。こんな準備がしてある日は…。
「かみお~ん♪みんな座って、座って!もうすぐフィシスとリオが来るよ」
ティーセットを用意してお湯を沸かしながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」は御機嫌でした。
「今日のスコーンも自信作なんだ。ケーキも好きなだけ食べていってね、沢山作ったんだもん」
会長さんに促されてソファに座るとすぐに紅茶が出てきます。その内にフィシスさんとリオさんが来て、和やかなお茶会が始まりました。
「…今日はいったい何があるの?」
ジョミー君がクロテッドクリームをたっぷり塗ったスコーンを頬張りながら尋ねます。アフタヌーンティーの時は決まって生徒会の用事があるのでした。私たちは何の役目も持ってませんから、ただ聞いているだけなんですけど。
「バレンタインデーに決まってるじゃないか」
会長さんが即座に答え、詳しいことはキース君たちが来てからだ…と言いました。珍しいこともあるものです。いつもなら会長さんとフィシスさん、リオさんの三人でテキパキと話を終えてしまって、キース君たちがやって来る頃にはおしゃべりタイムになっているのに…。
「君たちにも聞いておいて欲しい話だからさ。普段している仕事と違って、ちょっと特殊な仕事なんだよ」
普段の生徒会の仕事は他の学校と変わりません。行事の準備や学校側との打ち合わせなど、会長さんがサボリを決め込む用事が殆どです。そのサボリ大好き会長さんが乗り気に見える特殊な行事って何でしょう?早くキース君たちが来ないかなぁ…。あっ、やっと入ってきましたよ。いつも練習、お疲れ様です!
「やあ、三人とも、待っていたよ。…まずは座ってゆっくりしたまえ」
会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の淹れた紅茶をキース君たちに渡し、お腹を空かせた三人組がサンドイッチやスコーンをたっぷり食べてケーキの方に移るのを待って。
「そろそろいいかな。…リオ、今年のチョコレートの手配の方は?」
「順調です。注文書が届いてすぐに発注してありますし、間もなく全て完了するかと」
えっ、チョコレートの手配ですって?…もしかして生徒会もバレンタインデーにチョコを配るんでしょうか。でも、それなら『友チョコ』なんていう制度が無くても、全員チョコを貰えそうな気が…。あ、女の子は渡しに行かないといけないんですし、貰うだけではダメなのかな?
「違うよ、チョコレートを手配してるのは同じシャングリラでも学校じゃなくて船の方」
「「「船!?」」」
私たちは驚きのあまり、ケーキやサンドイッチを取り落としそうになりました。シャングリラという名前の船は宇宙クジラしかありません。二十光年の彼方を航行中の宇宙船にバレンタインデーのチョコレートを?
「シャングリラは今、月の裏側まで帰ってきてる。何光年も離れた場所までチョコレートは届けられないからね」
賞味期限の問題もあるし、と会長さん。
「あらかじめ送ってもらった注文書どおりにチョコレートを用意するんだよ。みんな色々こだわりがあるし、これがなかなか大変で。…リオがいなけりゃ、全員チロルチョコかもね」
「そんなことになったら、皆、泣きますよ。とても楽しみにしてるんですから」
「分かってるって。リオには感謝してるんだ」
会長さんはクスクスと笑い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」を呼びました。
「ぶるぅ、もうすぐチョコレートが用意できるそうだよ。今年はどうする?シャトルを降ろしてもらって運ぶか、一気にシャングリラまで移動させるか。…ぼくはどっちでも構わないけど」
「うーんと…。シャトルを降ろしてもらっても、そこまで運ばなきゃいけないし。面倒だから送っちゃおうよ、シャングリラまで」
いつも一気に送ってるもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコ顔です。
「分かった。…それじゃ、リオ。チョコレートが全部用意できたら、シャングリラに衛星軌道上に移動してくるよう連絡を。ステルス・デバイスは月を離れた時点で起動」
「「「ステルス・デバイス?」」」
聞き慣れない単語をオウム返しに聞き返してしまう私たち。ステルス・デバイスって何でしょう?
「シャングリラがレーダーに探知されない為の技術だよ。起動中は肉眼でしか捉えられない。…普段は使わないんだけれど、地球に近づく時には必須」
「…あんた、シャングリラの何なんだ?」
キース君が会長さんを真剣な目で見つめました。
「チョコレートの件はまあいいとして、月から地球の衛星軌道に移動させろと命令したり、ステルス・デバイスの起動を指示したり…。船長は教頭先生なんだろう?…なのに、あんたが指揮できるなんて…。本物の船長はあんただってことはないだろうな?」
「それは無いよ。この件だけは特別だから、ぼくの都合に合わせてるんだ。バレンタインデー用のチョコレートをシャングリラに配達するのに船長の手を煩わせることはないだろう?…運ぶのはぼくとぶるぅだし」
チョコレートを詰めた箱ごと瞬間移動させるんだよ、と会長さんは微笑みました。
「ついでに言うなら、チョコレートの購入資金は生徒会から出てるんだ。ほら、こないだの入試で試験問題やお守りを売って稼いだだろう?…あれでチョコレートを買うんだよ。他にも一年を通じて色々なものを差し入れしてる」
「…福利厚生って本当だったんですか…」
シロエ君が目を丸くしています。会長さんは確かに「シャングリラ号の乗組員の福利厚生に充てる」と言っていましたけれど、私も含めて誰も信じていませんでした。
「うん、本当。…たまには仲間の役に立つことだってしておかないとね」
ぼくは遊ばせて貰ってるんだし、とウインクをする会長さん。シャングリラ号に乗り組んでいる人たちの為にバレンタインデー用のチョコレートを用立てて運ぼうだなんて、驚きです。いつも生徒会をサボッてばかりなのに、私たちが知らない所できちんと仕事をしてたんですね。
それから後はバレンタインデーとチョコレートの話に花が咲き、私が1年前にチョコレートの滝のチョコをお弁当箱の蓋に入れて固めた話は大ウケしました。
「パンドラの箱って金欠になるほど凄かったんだ?」
ジョミー君が笑い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が「いっぱい食べさせてもらったもんね」と威張っています。駅前商店街のタコ焼きに始まってアイスキャンデーを全種類だとか、他にも食べ物関係の注文満載。それは凄まじい要求で…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の胃袋を満たそうっていうんですから、今にして思えば当然ですけど。
「みゆの手作りチョコ、嬉しかったよ♪」
チョコレートの滝を固めたチョコでも気持ちが嬉しかったんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ブルーは沢山チョコを貰うけど、ぼくにくれる人っていないんだよね。…今年は誰かくれるかな?」
こう言われてはプレゼントしないわけにはいきません。いえ、最初から贈るつもりでいましたけれど、これは会長さんと同じレベルの本命チョコをプレゼントするのが筋でしょうか?…いつも御馳走になってますしね。
「あら」
フィシスさんが私に顔を向けました。
「ブルーにチョコレートを贈るんだったら、一緒に買いに行きましょうか?」
「えっ?」
「明日はお休みですし、買いに行こうと思ってましたの。一人で行くより楽しそうですし、如何かしら?」
願ってもないお誘いです。フィシスさんなら会長さんが好きそうなチョコを知ってるでしょうし、これを断る手はありません。「行きたいです!」と勢いよく言うと、フィシスさんはニッコリ微笑んで。
「スウェナさんも御一緒にいかが?…せっかくですもの、女の子ばかりでチョコレート探し」
「いいんですか?」
スウェナちゃんもチョコレートを買いに行きたかったみたいです。話はトントン拍子に決まり、明日は3人でバレンタインデー用の特設売り場に出かけることになりました。
「ふふ、女の子って可愛いよね。…どんなのを買ってくれるのかな?」
会長さんが楽しそうに言うと、サム君が。
「なぁ、俺の分も買ってきてくれよ。義理チョコってヤツでいいからさ」
「あ、ぼくも!ぼくも義理チョコ買っといて欲しい!」
ジョミー君が叫び、シロエ君たちも義理チョコを頼むと言い出しました。お説教と反省文から逃れたいという気持ちが見え見えです。でも、サム君もジョミー君も…みんな親睦ダンスパーティーでワルツを踊るメンバーに選ばれてたじゃありませんか。義理チョコなんかに頼らなくても大丈夫だと思うんですけど…。
「ほらほら、みんな無理を言わない」
止めに入ったのは会長さん。
「心配しなくても週明けから保険の集金が始まるよ」
「「「保険!?」」」
「そう、保険。…誰からもチョコを貰えなかった場合に備える友チョコ保険さ。女の子はチョコを買いに行くから、頼まれなくても友達の分まで美味しそうなチョコを買って配ったりしてるよね。でも男の子がこの時期にチョコを買いにいくのはキツイだろう?」
言われてみれば、女性で賑わうバレンタインデー前に男の子がチョコを買いに行くのはかなり勇気が要りそうです。ジョミー君たちも顔を見合わせて「キツイかも…」と呟きました。
「ほらね。そういう君たちのために友チョコ保険があるんだよ。3年生が中心になってお金を集め、その子たちのお母さんやお姉さんたちがチョコレートを買ってきてくれる。保険金さえ払っておけば、バレンタインデー当日にチョコが届くというわけだ。友チョコ保険の主催者は複数いるから、主催者同士はお互いに交換し合えばオッケーってわけ」
ぼくは申し込んだことないけどね、と会長さん。リオさんは「ぼくは毎年お願いしてます」と言い、ジョミー君たちも申し込むことに決めたようです。男の子って大変かも…。
あくる日、スウェナちゃんと私はフィシスさんと待ち合わせをして、デパートの特設売り場へチョコレートを買いに出かけました。土曜日だけに凄い混雑ぶりですけれど、ここで負けてはいられません。まずはジョミー君たちへの義理チョコです。予算の範囲内で見栄えのするのを…って、思ったよりも難しいですね。スウェナちゃんと迷っていると、フィシスさんが。
「大きさで選ぶなら、さっきのお店はどうかしら?パッケージデザインだったら、これが素敵だと思うのだけど」
うわぁ…凄い記憶力です。私たち、何処で何を見たのか混乱しちゃって分からないのに。おかげでスウェナちゃんと私は、それぞれ別のお店で義理チョコっぽく見えないものを首尾よくゲットできました。これでジョミー君たちに2種類の義理チョコを渡せます。さて、次のお買い物は本命チョコ。スウェナちゃんはどうするのかな?
「…えっと…私も会長さんに…」
だって会長さんって素敵だもの、とスウェナちゃん。ライバル出現!というところですが、焦る気持ちは出てきません。会長さんにはフィシスさんという大本命がいるんですから、勝てっこないって分かっています。私が本命チョコを買うのは、憧れの王子様へのプレゼント。渡せるだけで十分です。フィシスさんは会長さんの好みのチョコを幾つか教えてくれ、私たちは今度も別々のチョコを買いました。それに「そるじゃぁ・ぶるぅ」の分も。
「お買い物はこれで全部なのね?」
フィシスさんに聞かれて頷くと、「じゃあ、お茶にしましょう」と誘われて。
「沢山歩いて疲れたでしょ?ここのシフォンケーキは美味しいの」
ブルーと何度か来ているのよ、と素敵なカフェに連れて行ってもらったのですが。…チョコレートが入った紙袋を置こうとして気付いたのです。フィシスさんが何も買ってはいなかったことに。
「あ、あの…」
フィシスさんがシフォンケーキと紅茶を注文してくれた後で、私は頭を下げました。
「すみません!…お買い物、わざわざ付き合って下さったんですね。私が会長さんの好きなチョコ…って思ったから…」
「あら、そんなこと気にしないで?私も楽しかったんですもの」
女の子だけで出かけたかったの、とフィシスさん。いつもは会長さんとチョコレート売り場に行くのだそうです。うーん、さぞかし目立つんでしょうね。じゃあ、フィシスさんは会長さんと出直してきてチョコを買うのかもしれません。
「私がブルーにプレゼントするのはお菓子なのよ。…そうね、クイニーアマンに似てるかしら」
作るのに手間がかかるのだけど、というそれはフィシスさんの家に伝わる古いお菓子で、お祝い事の時に作るそうです。
「シャングリラ学園に来て、ブルーの誕生日に作ってみたの。そしたら…これはアルタミラのお菓子だ、って」
会長さんの故郷の記憶を持っているフィシスさんが故郷のお菓子を作ってくれた時、会長さんはどんなに嬉しかったでしょう。もうアルタミラは無いんですもの。
「それからずっと作ってるのよ。ブルーの誕生日と、バレンタインデーと」
もっと簡単に作れるのなら毎月だって作るのだけれど、と少し悲しげな笑みを浮べるフィシスさん。会長さんが『ぼくの女神』と呼ぶのも無理はありません。三百年以上前に失くしてしまった故郷の記憶を見せてあげられて、故郷のお菓子まで作れるんですから。…あ、もしかして「そるじゃぁ・ぶるぅ」も作れるのかな?
「ぶるぅはアルタミラではお料理をしてなかったんですって。だからレシピを教えたわ。でも、ブルーは私が作った方が美味しいって言って譲らないのよ。同じ味だと思うのに…」
あう。同じお菓子を作ってあげても「そるじゃぁ・ぶるぅ」よりフィシスさんですか!これじゃ、私が買ったチョコなんて意味ないかも…。
「大丈夫よ。ブルーにちゃんと言ってあるから。今年はあなたたちが大好きなチョコを買ってくれるわ、って」
おぉっ!流石は女神様です。お買い物に連れてってくれただけでなく、会長さんに伝えてくれただなんて。
「ブルー、楽しみに待ってるの。だから忘れずに渡してあげてね」
「「ありがとうございます!」」
私たちは深々と頭を下げました。会長さんもお気に入りというシフォンケーキはフィシスさんが御馳走してくれ、それから少しお散歩をして、一緒にお昼ご飯を食べて。…フィシスさんは「また三人で出かけましょうね」と優しい笑顔で手を振りながら、雑踏の中に消えていきます。もしかして会長さんと待ち合わせかな?…ずっと向こうに銀色の髪がチラッと一瞬、見えたような…。
『ここだよ。ぼくの女神、ぼくのフィシス』
会長さんの声が聞こえた気がしましたが、ふわりと落ちてきた雪のひとひらが運んでいってしまいました。
水中かるた大会の後、シャングリラ学園は『白鳥の湖』の話でもちきりでした。王子役のグレイブ先生とオデット姫の教頭先生、二人の踊りと息の合ったリフトは語り草です。グレイブ先生たちが本当にバレエの知識を脳髄に叩き込まれたことを知っているのは、先生方と私たちの仲間だけ。でも最近のグレイブ先生、実はちょっぴりノリが良かったり…。
「諸君、おはよう」
ガラリと扉を開けて入ってきた先生に今日も誰かが叫びます。
「いよっ、ジークフリート王子!」
グレイブ先生はタンッ!とその場でポーズを決めて、ニヤリと唇の端を上げました。
「おはよう。…今日も私は絶好調だが、諸君はどうかな?」
元気でーす!とみんなが答え、朝のホームルームの始まりですが…。
「来週、我が学園の入試がある。諸君も去年は受験生だった。下見に来ている者をチラホラ見かける時期だが、学園の品位を落とさないよう、言動に注意してくれたまえ。入試期間は休校になり、部活も休みだ。不要不急の登校は控え、家や寮で勉学に勤しむように」
そっか、受験シーズンなんですね。去年は色々ありましたっけ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に迷い込んで特待生と勘違いしたり、入試に落ちて会長さんに『パンドラの箱』を売ってもらったり…。感慨に耽っている間にグレイブ先生は姿を消して、入れ替わりに会長さんがやって来ました。アルトちゃんとrちゃんに声をかけ、小さな包みをを渡しています。
「はい、これ。…1年前のぼくからプレゼント」
「「1年前?」」
アルトちゃんたちは怪訝な顔。会長さんはクスッと笑って「開けてみて」と言いました。包みの中から出てきたものはパワーストーンのストラップのように見えますが…。
「シャングリラ学園の受験シーズン名物、試験に落ちない風水お守り。本当に効果があるんだよ。分かりやすいように風水って言ってるけれど、ぶるぅの力が入ってるんだ。だからね、これを持っていればどんな試験も大丈夫」
ん?試験って…会長さんのサイオンで1年A組はいつでも無敵。そんなもの必要ないのでは?アルトちゃんたちもそう言っています。
「うん、そうだね…今は必要ないね。でも来年はクラスがどうなるか分からないし、クラスが違えば助けてあげられないだろう?もちろん同じクラスなら嬉しいけれど。だから来年のために持ってきたんだ。このお守りは受験シーズンしか売らないしね」
「売り物なんですか?」
rちゃんが尋ねました。そういえば受験に来た時、売りに来ていた覚えがあります。今から思えば売り子はフィシスさんでした。
「生徒会の資金稼ぎにしてる。売値は…」
会長さんが囁いた値段にアルトちゃんたちはビックリ仰天。一ヶ月分の授業料です。
「そ、そんな高いもの、いただけません!…だって…だって…」
「いいんだ、原価は大したものじゃないんだよ。…それよりも去年、君たちに売りつけずに済んだことが嬉しくて。受験生向けに売り出す分は入学試験にしか効かないんだ。そういう仕様になっている。そんな期間限定モノを凄い値段で売りつけていたら、ぼくは自分が許せなかったと思うんだよね。…大切な人には本物をあげたいじゃないか」
そう言って会長さんはアルトちゃんたちの手にストラップをしっかり握らせました。
「もしも1年前に戻れるんなら、君たちに本物のお守りをプレゼントしたいんだ。だから、今ここにいるのは1年前のぼくだと思って、このお守りを受け取って?…これから先の試験もずっと君たちを守ってあげられるように」
「…いいんですか…?」
「うん。このストラップは、ぶるぅの力。…クリスマスにあげた指輪は何の力もないけれど…君たちを守ってあげたいというぼくの気持ちが詰まってるんだ。あの指輪をいつも嵌めていてくれて嬉しいよ」
ひゃああ!学校ではアクセサリーは禁止です。会長さんがアルトちゃんたちの指輪をいつも見ているということは…今も変わらず寮のお部屋に通っているに違いありません。そして今度はストラップ。「1年前のぼくから」だなんて気障なセリフはシャングリラ・ジゴロ・ブルーならではです。アルトちゃんたちは感激しながらストラップを握り締め、何度もお礼を言っていました。
その日の放課後、いつものように「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと、テーブルの上に天然石の丸いビーズが入った小さなお皿が。お部屋の主の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さな手で丸いビーズを持ってストラップ作りに励んでいました。
「かみお~ん♪今日のオヤツはスフレだよ。休憩がてら作っちゃおうっと」
作りかけのストラップを1つ仕上げて「そるじゃぁ・ぶるぅ」はスフレ作りを始めます。オーブンに入れて焼き上がりを待つ間に、壁を通り抜けて入ってきたのは会長さん。
「やあ、ぶるぅ。ストラップ作りはどんな具合?」
「ん~とね…。今日、持って帰って夜なべをしたら仕上がると思う。ブルーの方は?」
「クーラーボックスは注文してきた。今年は沢山売れるといいね。…後は試験問題だけど、どうしよう?みんなも連れて行くべきかな」
えっと。クーラーボックスというのは私が買った『パンドラの箱』のことですね。試験問題は…会長さんに「午後の試験問題を買わないか」と持ちかけられたアレでしょうか?受験シーズンは生徒会も色々大変みたい。スフレが焼きあがる頃、部活が終わったキース君たちがやって来ました。
「わーい、タイミングぴったりだぁ!スフレはしぼむと美味しくないし」
キースたちの部活の様子も見てたんだよ、と自慢しながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出来立てスフレを運んできます。熱々のをスプーンで食べながら、去年の受験の話になって…。
「私、この部屋に迷い込んじゃった。ぶるぅがアイスを食べてたっけ」
「うん。ぼく、みゆが来てたの知ってるよ。遊んでくれるかと思ったけれど、帰っちゃったね」
「だって…。すごく立派なお部屋だったし、特待生かお金持ちの子の専用室だと思っちゃって…叱られそうで」
あはは、と皆が笑いました。今じゃすっかり溜まり場と化してるお部屋ですけど、最初は謎の部屋だったんです。
「そういえば俺も来たんだっけ。…迷い込んだんじゃなくて探し回ったけど」
サム君がそう言ってから慌てて口を塞ぎました。
「ん?どうしたんだい、変な顔して」
会長さんが覗き込みますが、サム君は首を左右に振るばかり。何事なのかと思っていたら、ジョミー君が両手をポンと打ち合わせて。
「思い出した!…サムったら、ぶるぅを見つけて殴ったんだよ」
「「「えぇっ!?」」」
柔道部三人組が叫びました。サム君が「そるじゃぁ・ぶるぅ」を殴った話は、合格発表の日に耳に挟んだような微かな記憶が…。
「すまん!…俺、あの時は試験のことで頭が一杯だったんだ!」
一度も謝っていなかったっけ、とサム君が土下座しています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコと笑い、「気にしてないよ」と答えました。柔道部三人組はまるで話が分かっていません。サム君は頭を掻き掻き、事情を説明し始めました。
「あのさ…。入試の前に噂を聞いたんだ。不思議な力を持つマスコットがいて、そいつに試験前に頭を噛んでもらうと、追試にも赤点にもならない…って。だから必死に探したよ。やっとの思いで探し当てたら、こいつだろ?噛み付くどころか、お茶とお菓子を出してきたんだ。それじゃ噛み付いてもらえないじゃないか。困ってしまって、つい、思い切り…」
殴ったのだ、と白状しながらサム君はまた土下座です。
「それで噛み付いてもらえたのか?」
キース君が尋ね、サム君は。
「おう、バッチリ!…おかげで一発合格だった」
今年のヤツらも噛んでもらえばいいのにな、と言ったサム君は「そるじゃぁ・ぶるぅ」にアドバイス。
「俺みたいなヤツ、今年も来るかもしれないぜ。お茶なんか出していないでガブリといけよ」
「えっ、お客様に噛み付くの?…そんなことしたって意味無いよ。サムの時はビックリしたから噛んじゃったけど」
「お前が頭をガブリとやったら試験に落ちなくなるんだろ。みんな藁にも縋りたいんだ」
サム君が力説した時、会長さんが吹き出しました。
「その噂、全面的に間違ってるよ。ぶるぅが噛んでも何も起こりはしないんだ。噂の元はこの学校の生徒じゃなかったのかもしれないね。試験に効くのはぶるぅの手形なんだから」
「えっ!?」
ポカンと口を開けるサム君。会長さんはクックッと笑い続けています。
「ぶるぅの赤い手形を押して貰えば0点のテストも満点だけど、それ以外の試験に役立つ力は…このストラップだけなんだ。ただの天然石のビーズに見えるだろ?でも、ビーズにはぶるぅが手形を押している。これを持って試験に臨めば、答案用紙に赤い手形の力が移って満点扱いになる仕掛けなのさ」
作りたての天然石のストラップ。この石の中に赤い手形の不思議パワーが…。
「そんなわけだから、ぶるぅの力で合格できるのはストラップを買った受験生だけ。手形はぶるぅの右手から出る。噛み付いたって手形の力は発動しないよ。…つまり頭を噛まれたサムは噛まれ損だね」
「それじゃ、俺って自力で合格?」
「そういうこと。もっと自信を持ちたまえ」
会長さんはストラップを手に取って軽く揺らします。
「このストラップは期間限定、期限付き。ぶるぅの手形を答案用紙の枚数と面接の分しか押してないんだ。それ以後の試験はフォローできない。…やろうと思えば卒業までに行われるテスト全ての回数分の手形を押すことが可能だけどね」
あ。今朝、アルトちゃんとrちゃんが貰っていたのはそのバージョン!まさに特別製だったんです。会長さんはアルトちゃんとrちゃんのために特製ストラップを作ったのか、と思うと二人が羨ましいような…。『パンドラの箱』を買わされた私とは大違いです。会長さんは私の視線に気付いて微笑みました。
「そうそう、ぶるぅの力で合格する方法はもう1つだけあるんだよ。みゆが持っているパンドラの箱。…ぶるぅとの文通用になってるけれど、元々は補欠合格用のアイテムなんだ。この箱の中にぶるぅが入れる注文メモを全てこなした人の書類に、ぶるぅが手形を押しに行く。すると補欠で合格できる」
「そうだったんだ…」
やっと仕組みが分かりました。書類に手形を押してもらう為に、注文をこなす必要があったんです。そりゃあ…たったの二千円という破格の値段で手形の力を手に入れるなら、それを押す「そるじゃぁ・ぶるぅ」に気に入られるしかありませんよね。最後は男湯にまで行きましたっけ。
「みゆ、頑張ってくれたよね♪」
ニコニコ顔の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年も沢山のパンドラの箱に注文メモを入れるのでしょう。
そんな調子でワイワイ騒いで盛り上がっていると、会長さんが時計を眺めて立ち上がりました。
「そろそろいいかな。試験問題を手に入れに行くから、みんなも一緒についておいで。ぶるぅ、シールドを」
えっ、シールド?…私たち、極秘でお供するんですか?
「ぼく一人しか行けないんだ。…試験問題を貰うんだよ?他人がいたら絶対に渡してくれないだろう。でも、せっかくだからギャラリーが欲しい」
「「「ギャラリー!?」」」
この単語が出るとロクなことにはなりません。でも拒否権は無いようで…気付けば私たちはシールドの中。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に連れられ、向かった先はやはり本館でした。教頭室の扉を会長さんがノックもせずに開けて素早く滑り込みます。私たちも大急ぎ。
「やあ、ハーレイ。とっても稽古熱心だね」
「ブルー!?」
教頭先生は窓枠に手をかけて片足を上げているところでした。これってバレエのバーレッスンでは?
「ブルー、入る前にはノックしてくれ」
慌てた様子で足を下ろした教頭先生。
「いいじゃないか。…バレエの練習してただなんて、面白いもの見ちゃったな」
「誰のせいだと思ってるんだ。白鳥の湖を踊らされてから、身体がどうも落ち着かん。仕事で長時間座っていると、無性にこれがやりたくなって…」
「バレエは身体にいいらしいよ。ストレッチ代わりになりそうだね、それ。…ぼくがプレゼントしたレオタードとかバレエシューズは使ってくれてる?」
「あんなものが着られるか!」
「…そう。残念」
会長さんはクスッと笑って教頭先生のそばに近づきました。
「実はバレエはどうでもいいんだ。ぼくが来たのは大事なこと。…入試の試験問題を貰いたくって」
「……今年もか?」
「うん。いつものようにお礼はするよ。ハーレイが嫌でなかったら」
「……………」
試験問題の横流し。そんな大それたことを頼もうという会長さんは凄いですけど、どうやら恒例行事のようです。教頭先生は複雑な顔をしていましたが、しばらくして「分かった」と短く答えました。
「ありがとう、ハーレイ。お礼はもちろん先払いだよね?…一緒に来て」
会長さんは教頭先生の腕に自分の腕を絡ませ、仮眠室へと入って行きます。そして自分から大きなベッドに上り、真ん中あたりにストンと座ると、教頭先生を手招きしました。
「ほら、早く。…年に1回だけなんだから」
げっ。仮眠室のベッドの上で、年に1回だけ…何をすると?っていうか、2歳児…もとい自称1歳児をシールド要員で連れてきておいて、この展開は何事ですか!?ジョミー君たちもパニック寸前。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は何も分からない子供ですから、平然としていますけど。
「…ハーレイ。お礼が要らないんなら、問題はタダでもらっていくよ?」
会長さんに急き立てられて、教頭先生は頬を染めてベッドに上がりました。そして会長さんに近づき、ゴロンと横に…って、会長さんの膝枕?
「ふふ。…もう顔が真っ赤になってる。動かないで」
会長さんの右手の中にフッと現れたものは竹製の『耳かき』でした。白いフワフワの毛がくっついたそれで始めたのは当然、耳掃除です。くすぐったそうな顔の教頭先生の耳を会長さんは馴れた様子で掃除し、反対側も。耳掃除を終えた会長さんの手から耳かきが消え失せましたが、教頭先生は膝枕でまだ目を閉じています。
「…ブルー…。今年もこれだけか?」
「うん。膝枕で耳掃除という約束だものね、昔から」
「…そうか。無理強いをするつもりは無いが…」
ヘタレで名高い教頭先生、今日はいつもと違うようです。膝枕をして貰って目を閉じていると気分が大きくなるのでしょうか?
「今年こそは、と秘かに思っていたんだがな。お前が1つのクラスに在籍し続けることなんて無かったし…心境に変化が起こったのかと」
「それで積極的だったわけ?婚約指輪まで買っちゃってさ。…読み違えているよ、ハーレイ。ぼくは何にも変わっちゃいない。楽しい仲間が沢山増えて嬉しかったのは本当だけど」
「やはり気持ちは変わらない…か。私がどんなに想っていても」
「痛い目に遭いたくないからね」
会長さんは小さく笑って教頭先生の頭をどけるとベッドから滑り降りました。
「ハーレイ、練習したこと無いだろ?…どんな目に遭わされるかと思うと、怖くて相手できないよ。まだノルディの方がマシかもしれない。…ノルディなんか大嫌いだけど」
ハーレイのことは大好きだよ、と微笑む会長さんをベッドから降りた教頭先生は一度だけ強く抱きしめ、仮眠室から教頭室へ。そして金庫の鍵を開けると試験問題のコピーを取り出し、会長さんに渡したのでした。
「これで全部だ。…いつかこういう取引じゃなくて…」
「ぼくと一緒に過ごしたい?…だったら努力してみればいい。ぼくを陥落させたいならね」
じゃあ問題は貰っていくよ、と会長さんは綺麗な笑みを浮べて教頭室を出て行きました。シールドの中の「そるじゃぁ・ぶるぅ」と私たちを引き連れて。
「耳掃除で試験問題漏洩か…」
キース君が気の抜けた声で呟きます。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋に戻った会長さんは試験問題をせっせとコピーしていました。これとストラップの売り上げが生徒会の主な資金源。もっとも正規の資金ではなく裏金というヤツですが。パンドラの箱は値が安いので、重視されてはいないそうです。
「ハーレイがヘタレな間は耳掃除でいけるから楽勝なんだよ。ぼくは永遠のヘタレを希望」
コピーしながら言う会長さんに良心の呵責は無さそうでした。そして入学試験当日も会長さんはリオさんとフィシスさんを助手に試験問題のコピーやストラップを売り、合格発表の日はパンドラの箱を売り捌いて。
「ふふ、今年の売り上げもなかなかだったよ」
影の生徒会室で通帳に並んだ数字を眺め、会長さんは御機嫌です。このお金は宇宙クジラことシャングリラ号の乗組員の福利厚生に充てるんだ、なんて言ってますけど、真相はいったいどうなんでしょうね?
シャングリラ学園新年恒例『かるた大会』は1年A組の圧倒的勝利で終わりました。輝く学園1位の座です。本年度最後の全学年での順位争いを制してプールから上がると表彰式。教頭先生から表彰状を受け取ったのは会長さんです。全校生徒が拍手を送ってくれましたけど…。あれ?これでおしまいなんでしょうか?…先生方や職員さんが会場の片付けを始めています。
「えっ…。もしかして、なんにもないの?」
ジョミー君の言葉はみんなの心の声でした。学園1位を獲得すれば絶対に何か美味しいイベントに巡り会えると思ったんですが…深読みのしすぎだったかも。期待したのに賞状だけか、とA組全員がちょっとガッカリしかかった時。
「さあ、みんな着替えを済ませて講堂に移動しておくれ」
ブラウ先生がマイクを手にして言いました。
「1年A組は好きな先生を一人だけ指名してくれるかい?…かるた大会では、学園1位を取ったクラスに指名された先生とクラス担任が寸劇を披露するのが伝統なんだ。希望の演目があった場合は御注文にも応じるよ」
なんと!…グレイブ先生が逃げ腰だった理由はこれですか。A組の生徒の瞳が一気に輝き始めました。グレイブ先生と誰かが寸劇を披露してくれるとは愉快です。私たちは歓声を上げ、視線は自然に会長さんの方向へ。指名権を欲しがることは分かってますし、会長さんならきっと素敵なことを考え出してくれるでしょう。
「…ぼくが選んでいいのかい?」
指名よろしくお願いします、とみんなに言われた会長さんは案の定、とても嬉しそうで。クラス一同が「はい」と頷くとスッと指差したのは他ならぬ教頭先生でした。
「1年A組は教頭先生を指名させて頂きます」
「了解。…ハーレイ、御指名だよ」
ブラウ先生が教頭先生の肩を叩いて「頑張りな」とウインクします。
「じゃあ、寸劇はグレイブとハーレイがするんだね。演目の指定はあるのかい?」
私たちはドキドキワクワク。会長さんは「待ってて」と言うとブラウ先生の所へ行って耳元で何か囁きました。ブラウ先生がプッと吹き出し、堪え切れないように笑い出して。
「去年もなかなか凄かったけど、今年の舞台も面白いことになりそうだ。さあさあ、みんな着替えた、着替えた。講堂の座席は1年A組が一番前だよ。大いに期待しておくれ!」
まだ笑っているブラウ先生が教頭先生とグレイブ先生の背中をバンバン叩いていますが、会長さんは何を言ったのでしょう?着替えを終えて講堂へ入る直前にA組の生徒は会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」を捕まえ、演目について質問しました。でも会長さんは「それは見てのお楽しみだよ」と微笑むばかり。
「それじゃ去年は何だったの?」
そう言ったのはジョミー君。
「ブラウ先生が凄かったって言っていたけど、もし見てたんなら教えてほしいな」
そうだそうだ、と好奇心を隠せない声が二重三重に重なります。会長さんは悪戯っぽい笑顔になって。
「…聞きたいかい?」
「「「もちろんです!!」」」
凄かったという去年の寸劇、いったいどんなものだったのか。ここで聞かなきゃ大損です。会長さんはクスクスと笑い、私たちの顔を見渡しました。
「去年、ぼくはカルタ大会には参加してない。ただのギャラリーだったんだけど、寸劇は見せてもらったよ。学園1位を取ったのは3年生のクラスで、担任はゼル先生だった」
ゼル先生…。私たちはゴクリと唾を飲みました。じゃあ、相方になった先生は誰?
「指名されたのは教頭先生。…演目は『ロミオとジュリエット』だった」
「「「!!!」」」
誰の趣味なんだ、と頭を抱える私たち。会長さんが関与しなくても教頭先生は貧乏くじを引かされてしまうことがあるようです。ゼル先生と教頭先生、どちらがロミオでジュリエットやら、考えただけでお腹の皮がよじれそう。
「演じてくれたのはバルコニーの場面だよ。配役はジャンケンで決めたみたいだね。…髪の毛が無いジュリエットというのは凄かったな。衣装も用意すべきじゃないかと思ったけれど、あれはあれでウケが良かったし」
3年生にとっても卒業前のいい思い出の1コマだった、と楽しげに語る会長さん。今年の演目も気になりますが、『ロミオとジュリエット』も見たかったなぁ…。
講堂に入って行くと、他のクラスは既に着席していました。1年A組は用意された特等席に陣取り、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も二人並んで座っています。舞台にはしっかり幕が下ろされ、中の様子は窺えません。時々ドスンと重たいものが落っこちる音や奇妙な足音が聞こえてきますが、いったい何をしてるんでしょう?しばらく待つとブラウ先生がマイクを持って出てきました。
「長いこと待たせてすまなかったね。リハーサルにちょっと手間取ったんだ。本番も上手くいくかどうかは分からないけど、なにしろ素人芝居だから。…まぁ、暖かい目で見てやっておくれ」
パチパチパチ…と拍手が鳴って、ブラウ先生は満足そうに。
「期待してくれて嬉しいねぇ。それじゃ演目と配役を発表しよう。今年は寸劇じゃなくてアッと驚く舞踊劇だ。バレエ『白鳥の湖』から王子とオデットのグラン・パ・ド・ドゥ…と言いたいところなんだが、そんな難しいのは出来なくってさ。…お馴染みのテーマ曲、『情景』に合わせて二人で派手に踊ってもらうよ」
げげっ!は、白鳥の湖ですって!?あの有名な曲でグレイブ先生と教頭先生が…バレエもどきを踊るんですか!これはスーツじゃ無理ですよね。ジャージで登場するのかな?
「踊りの方は適当だけど、見どころはたっぷりあるからね。配役は1年A組からの指名で王子がグレイブ、オデット姫がハーレイだ」
「「「えぇぇぇっ!?」」」
演目が分かった時からザワついていた講堂の中は大混乱。ミスキャストだとか、それでこそだとか、ワイワイと凄い騒ぎです。えっと…配役も演目も会長さんが一人で勝手に決めたんですが、お笑いを目指したことは分かりました。グレイブ先生が王子で教頭先生がオデットだなんて、体格からして普通は逆だと思うんです。どんな踊りを見せてくれるのか、想像するのも怖いような…。
「みんな、今からビビッてたんじゃあ、本番はとても耐えられないよ?覚悟しときな」
ブラウ先生がサッと右手を高く差し上げて。
「…さあ、開幕だ。盛大に拍手しておくれ!」
割れんばかりの拍手と歓声、そして口笛が講堂を揺るがせ、静かに幕が上がりました。チャイコフスキーの不朽の名曲が大音量で鳴り響く中、舞台の上に立っていたのは王子の衣装とバレエタイツのグレイブ先生。ジャージ姿ではありません。
「おおっ、今年は衣装つきかよ!」
上級生の誰かが驚いています。そこへ舞台の袖からオデット姫が現れました。真っ白なチュチュに真っ白なタイツ、トウシューズまで履いた教頭先生の頭には羽飾りとティアラもくっついています。開幕前に聞いた奇妙な足音はトウシューズの靴音だったんですね。
「「「わはははははは!!!」」」
全校生徒が爆笑する中、舞台にスポットライトが当たってシャングリラ学園版『白鳥の湖』、いよいよ開演。舞台狭しと踊りまわる王子とオデット姫はとんでもなくダイナミックでした。私たちはこみ上げてくる笑いを押さえきれずに涙が出てくる始末です。二人の踊りはハチャメチャでしたが、リハーサルで誰かが指導をしたようで…。
「さ、三十二回転って黒鳥よね…?」
スウェナちゃんが笑いをこらえて話しかけてきます。今、教頭先生がやっているのは一ヶ所から動かないで回る連続回転、グラン・フェッテ・アン・トゥールナン。オデットじゃなくて黒鳥の…オディールの踊りだと思いますけど、細かいことを言っているより見て楽しければいいわけで…。多分、そういう発想で織り込まれた踊りなんでしょう。
グレイブ先生はヤケクソで高くジャンプしながら舞台の上を回ってますし。
「ブラボー!」
会長さんが叫び、教頭先生の回転に合わせて手拍子を打ち始めました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も一緒にパチパチ。もう二十回くらい回転していた教頭先生はクラクラしているようでしたけど、広がってゆく手拍子に励まされて回り続けます。えっ、ちゃんと爪先で立ってるのか、って?…いくらなんでもそれは無理。三十、三十一…三十二!ドスドスと回り続けた体格のいいオデット姫はフラフラしつつも次の踊りへ。そして格調高い名曲をブチ壊しながら踊りまくったシャングリラ学園版『白鳥の湖』の締めくくりは…。
「「「おぉぉぉっ!!」」」
講堂中が湧き立ちました。グレイブ先生が根性で教頭先生を高々と差し上げ、見事なリフトを決めたのです。講堂に来た時、舞台の上から何度か聞こえたドスンという音は多分リフトの練習中の落下事故…。教頭先生はグレイブ先生にリフトされつつ、オデットらしく可憐なポーズでピタリと静止していました。名曲が終わるのと一緒に幕が下りてゆき、会場は拍手と爆笑の渦。
「アンコール!…アンコール!」
叫び声と拍手に合わせて幕が上がると、グレイブ先生と教頭先生がヘタクソながらもバレエのお辞儀を繰り返します。ブラウ先生が閉会を告げるまで、拍手は鳴り止みませんでした。
かるた大会1位の栄誉は最高のショー。終礼のために戻った教室は興奮さめやらぬクラスメイトの声と笑いで騒然としていました。
「あの衣装はあんたが用意したのか?」
キース君が会長さんに尋ねます。去年の『ロミオとジュリエット』を見た会長さんが「衣装も用意すべきじゃないか」と思った話を聞かされてますし、そうでなくてもクラス中が衣装の出処で盛り上がっている真っ最中。もしかして「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ったのではないでしょうね?
「借りたんだよ」
みんなの疑問に会長さんはアッサリ答えてくれました。
「男ばかりのバレエ団があるのを知ってるだろう?…ほら、暮れからアルテメシア公園のホールに来ているヤツ」
「…エンディミオン・バレエ団か…」
キース君がポカンと口を開けています。私もポスターで知っていましたが、見に行ったことはありません。会長さんはそんな所にまでコネを持っているのでしょうか?そりゃあ、三百年以上も生きているのですし、どんな知り合いがいたって驚くことはないのですけど。
「ホールの支配人さんがシャングリラ学園の卒業生なんだ。だから頼みに行ってきた。衣装を貸して貰えませんか、って」
「…じゃあ、あの服は本物の…」
「うん、本物のバレエの衣装。ちゃんとグレイブ先生と教頭先生のサイズを言って昨日から借りてあったのさ。トウシューズもね」
後で返しに行かなくちゃ、とウインクしてみせる会長さん。グレイブ先生がやって来るまで、私たちは笑い続けていました。
「諸君、静粛に!」
スーツに着替えた先生を見ても、やっぱり笑いは止まりません。教頭先生を見たら笑い死にしてしまいそうですが、どうしましょう?…うーん、当分、教頭室には近づかないのが吉でしょうね。
終礼の後「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと、テーブルの上にシュークリームが山盛り出てきました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は紅茶とコーヒーを淹れると忙しそうに奥のお部屋へ。
「ごめんね、みんな好きに食べてて。ハーレイたちの服を返しに行かなきゃいけないから…お洗濯しておかないと」
えっ、あんな特殊なモノを自分で洗濯するんですか?
「ぶるぅに任せておけば安心だよ」
会長さんがシュークリームをお皿に取って。
「シュークリームも色々あると言ってたっけ。カスタードの他にラムレーズンとかキャラメルとか。…ぼくが見たってどれが何なのか分からないけど」
サイオンを使えば別だけれども、と言いながらフォークを入れた会長さんは「外しちゃった」と苦笑しています。
「…絶対マロンだと思ったのに…。こういうのはフィシスが得意なんだ」
会長さんのシュークリームはマロンではなくショコラでした。常にサイオンを使っているわけではないというのが嬉しいです。だって私たち、サイオンなんて使えませんし。
「サイオンは必要が無ければ使わずにいていいんだよ。…その方が普通の人間との差が無くていい」
「…そうか、それなら安心だ」
ホッとした顔のキース君。今日はカルタ大会で体力を消耗した人が大多数なので柔道部の部活はお休みなんです。
「俺も一応、坊主だし…柔道も長くやってるし。だから精神統一には自信があったが、一度も人の心が読めない。あんたが冬休みに誘導してくれて以来、ずっと練習しているんだがな…」
ひゃああ!キース君ってやっぱり努力家です。私なんかやってみようと思ったこともありません。
「自主練習は頼もしいけど、今はやっても無駄だと思うよ」
会長さんが2個目のシュークリームを取り、フォークで刺して「またハズレだ」と呟きます。
「卒業するまでは普通の生徒としての時間を大事にするよう言っただろう?…だから君たちのサイオン能力が表に出ないよう、ぼくの力で押さえてるんだ。…もっともキース以外に練習した人はいなかったから、対象者はキース限定だけど」
「…そうだったのか…」
無駄な努力をしてしまった、と言っているくせにキース君は嬉しそうです。天才肌のキース君には「サイオンを使いこなせない」自分が許せなかったのかもしれません。でも「使えないようにされている」のなら話は別。会長さんもちゃんと教えてあげればいいのに、黙ってるなんて意地悪かも…。
「サイオンは使わなくてもいいんだけれど、上手く使えば便利でもある。たとえば…」
「シュークリームの中身が分かれば便利だよな」
サム君が4個目を頬張りながら言いました。
「俺、ラムレーズンが食いたいんだけど、まだ1個も当たってねえんだよ」
「そういう使い方は基本中の基本だね」
会長さんはクスクスと笑い、「はい」とシュークリームを1個手に取って差し出しました。
「サムのお望みのラムレーズン。4個も食べて当たらないっていうのは気の毒だし」
「おおっ、サンキュ!」
早速かぶりついたサム君は「ラムレーズンだぁ!」と大喜びです。なるほど、確かに便利かも。
「…シュークリームの中身当てより、もっと面白いことが出来るんだよ。そう、『白鳥の湖』とか」
「「「白鳥の湖!?」」」
「うん。…今日のバレエの踊りのこと。ド素人のグレイブとハーレイがメチャメチャであってもバレエらしきものを踊れた秘密はサイオンなのさ」
「「「えぇぇぇっ!?」」」
私たちはビックリ仰天です。言われてみれば、それなりに指導が入ったような踊りに見えたのは確かですが…もしかして指導が入ったのではなく、あの踊りは実力だったとか?
「そう。二人の踊りにはちゃんと裏づけがあったんだ。…サイオンは一人が得た知識を一瞬で相手にコピーできる。身体能力の問題もあるから、踊りとかだと完璧にとはいかないけれど、知識として叩き込むことは可能なんだよ。今日の演目をバレエにしたいとブラウに頼んで、バレエをやってる仲間を調達してきて貰ったのさ」
教頭先生とグレイブ先生にバレエの知識をコピーしたのはシャングリラ学園の職員さんでした。普段からパートナーを組んで踊っている仲のいいカップルらしいです。
「そ、それじゃ教頭先生たちは…本当にバレエを踊れるんですか!?」
シロエ君がひっくり返った声で尋ねました。
「そうなるね。…グレイブは王子のパートを全部踊れるし、ハーレイはオデットも黒鳥もこなせる筈だ。ただし身体がついていけば、の話だけれど。…ハーレイはまだ爪先で立てなかったから、もっと頑張って練習しないと」
練習用のレオタードをプレゼントするのもいいかもね、と会長さんは笑っています。
「柔道十段の上に古式泳法の名手なんだし、身体能力は十分にあると思うんだ。毎日欠かさずレッスンすれば、エンディミオン・バレエ団に入団するのも夢じゃないかも…。衣装を返しに行ったついでに入団テストの申し込みをしてきてあげようかな」
「「「!!!」」」
教頭先生が入団テスト!?いくらなんでもそれだけは…。
「あはは、心配しなくてもやらないよ」
会長さんはシュークリームを手に取り「はい、キャラメル味」とサム君に。
「すげえ!…俺、キャラメルも食いたかったんだ。サンキューな!」
「どういたしまして」
嬉しそうに食べるサム君を見ながら会長さんはニッコリ微笑んで。
「やっぱり人に喜んでもらえることをしたいよね。ハーレイに入団テストはまだ早すぎる。でも、いつか上手に踊れるようになったらデビューをさせてあげたいし…。今、喜んでもらえそうなのはレオタードとバレエシューズかな?トウシューズも添えた方がいいかも」
バレエ団に衣装を返しに行ったら団員に相談してみよう、と会長さんは真顔でした。そのプレゼントは喜ばれないと思うんですが…きっと言っても無駄でしょうね。こんな人に三百年以上も片想いなんて、教頭先生、マゾなのかな?
明日はシャングリラ学園恒例の『かるた大会』。健康診断が必要な体力勝負ということは…グランド中を走り回って大きな取り札を奪い合うとか?我が1年A組には会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」という助っ人が来る筈ですが、今日は普通の授業の日なので二人の姿はありません。
「諸君、おはよう」
カツカツと靴の踵を鳴らしてグレイブ先生がやって来ました。
「明日は『かるた大会』だ。全員、水着を持参するように」
「「「水着!?」」」
思わぬ言葉にクラス中が大騒ぎです。カルタ大会に何故、水着が?
「静粛に!…我が学園で行われるのは水中かるた大会なのだ。温水プールが会場になる」
そういえば温水プールがあったのでした。水泳の授業は夏の間しかありませんでしたが、水泳大会の会場にもなったシャングリラ学園自慢の大きな屋内プールは冬の間も現役です。水泳部が使ってるんでしたっけ。
「もちろん今度も順位を競う。…学園1位になれとは言わんが、学年1位は取ってくれたまえ」
グレイブ先生は1位が何よりお好きです。学園1位を取れ、と言わない辺りがなんだか怪しい感じでした。案の定、先生が出て行った後のクラスの話題はそれで持ちきり。
「なぁ、学園1位を取ると何かやらせてくれるんだよな?」
「あの言い方だとそうだよなぁ。…グレイブ先生は絶対に何かやらされると見た」
今までにそんなことが2回ありました。クラス担任が連帯責任で貧乏クジを引かされてしまう、学園1位のクラスを対象とした御褒美イベント。1回目は球技大会の『お礼参り』でドッジボールの的にされてましたし、2回目はつい先日の闇鍋です。今度はいったいどんな行事が…?
「上の学年に聞いてみたいけど、秘密だって言うだろうなあ」
「先輩たち、口が堅いからなぁ…。まぁ、学園1位になったら分かることだけどな」
グレイブ先生が何をすることになるのか楽しみだ、とみんなワクワクしています。競技ルールも大会の全容も知らない内からこれなんですから、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」への期待は嫌でも高まりますよね。
大会当日、二人の助っ人は当然のようにやって来ました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はちゃんと女子用スクール水着。会場の温水プールの周りにクラス別に座り、まずは校長先生の挨拶から。新年を寿いで…とか難しいことを言ってますけど、要するにお正月だからカルタ大会というわけです。校長先生は挨拶だけで引っ込んでしまい、この後は教頭先生が最高責任者になるみたい。
「諸君、今日のカルタ大会は本年度最後の全学年で順位を競う行事だ。学年1位というのもいいが、ここは志高く学園1位を目指してほしい。では、ブラウ先生からルールを説明してもらう」
教頭先生がブラウ先生にマイクを引き継ぎました。
「みんな、新年かるた大会が水中かるた大会だっていうのは知ってるね?」
「「「はーい!!!」」」
「よし!いい返事だ。…カルタ大会には違いないけど、実際に使うのは百人一首だ。取り札は百枚ということになるよ」
おおぉっ、と声が上がります。水中でカルタと聞いて移動に体力が要りそうだとは思ってましたが、取り札が百枚となると確かに体力勝負かも。健康診断があった理由が素直に納得できました。
「勝負はクラスごとの総当り戦。男女別じゃなくてクラス丸ごとでの対戦だから、男子は紳士として振舞うこと。女子に不埒な真似を働いたら承知しないよ。もちろん逆も、だ」
ドッと広がる笑い声。さすがに逆は無いでしょう。
「競技はクラス同士の対戦方式。プール中に散らばった取り札を1枚でも多く取ったクラスの勝ちになる。さて、ここからが肝心だ。取り札は必ずプールサイドの所定の位置まで届けること。取り札は水に浮くから、それを押しながら歩いていくか、泳いで行くか。もしも途中で手を離したら、相手クラスに札を取られても文句は言えないルールだよ」
えぇっ!?一度取った札は責任を持ってプールサイドまで届けろ、ですって?
「取り札を運んでいる途中のあからさまな妨害行為は禁止。ただし、水をかけることは許可されるから、水をかけられた者が取り札から手を離しても妨害行為にはならないからね。取り札を自分で運べないと判断した場合は1回だけバトンタッチが許される」
んーと…。1回だけならバトンタッチがオッケーですか。じゃあ、リレー方式で運べば問題ないのでは、と思ったのですが。
「取り札1枚につき、搬送人員は相手チームも含めて合計4名。それ以上の人数が関与した場合、お手つきとして無効になるよ。その札は後で改めて読み直しの上、奪い合うことになっているから要注意だ」
リレー方式は無理らしいです。じゃあ、札を取ったら頑張って運ぶか、1回限りのバトンタッチか。あんまり遠い距離は運びたくないという気がしてきました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はどんな形で力を貸してくれるんでしょう?
「試合は1年生のクラスから。担任による厳正な抽選の結果、第一試合はB組とE組。ミーティングが終わり次第、プールサイドに集合のこと!」
よかった。第一試合じゃないようです。どんな感じかも分からない内に勝負というのは避けたいですし…。B組とE組の生徒がプールサイドに並ぶと、取り札が運び出されてきました。畳の半分くらいの大きさがある白い発泡スチロールです。それを水着のシド先生たちがプール全体にまんべんなく浮かべ、次に生徒がプールに入って…。
「いいかい、B組が取った札はこっち側の端。E組はあっちの端に運ぶんだよ」
五十メートルプールの両端が札の置き場所に指定されました。最初から札に手を触れている生徒もいます。その札が読まれたら運ぼうという作戦でしょう。札の読み手は教頭先生。百人一首を読むのですから、古典の先生が係になるのは当然といえば当然です。
「はじめっ!」
ブラウ先生の合図で教頭先生が立ち上がりました。マイクを前にして渋い声が朗々と…。
「わたの原~…」
「はいっ!」
わっ、早い!取り札を掲げた男の子が名乗りを上げて、札をプールに戻すと押しながら泳ぎ始めます。たちまち起こる水かけ攻撃。起こった波で他の札が揺れ、それを避けて泳ぐのは難しそう。諦めた男の子が歩き始めると水かけは更に激しくなって…とうとう札が手を離れました。すかさず対戦相手のクラスの男子が札を奪って反対の方向へ…。
「思ったよりハードそうだね、これ」
ジョミー君が呟き、キース君が。
「ああ、運ぶ距離によってはかなりの負担を強いられそうだ」
「…あっ、また札を取られましたよ」
マツカ君が言うとおり、取り札はまた別の男の子の手に渡っています。これで3人目。最初に取った子のクラスに札が戻ったわけですが…今度札が手を離れたら、関与できるのは一人だけ。更に激しくなる水かけ攻撃の中、札は4人目の手に渡ってしまって、その子のクラスのものになるのかと思いきや…。
「わっ、ここまできても攻撃するんだ!」
ジョミー君が驚くのも不思議ではありませんでした。4人目の生徒をゴールさせまい、と相手クラスの子たちが揃って水かけ攻撃に出ています。一斉に攻撃されると札を押し続けるのは困難で…。
「そこまで!」
ブラウ先生の声が響きました。
「4人目の手を離れたね。今の札は保留になる。後で読み直されるまで、そのままだよ」
「「「えぇぇぇっ!?」」」
激しいブーイングの中、教頭先生は次の読み札を手に取って。
「みかの原~…」
「はいっ!!」
再び起こる水かけ合戦。百枚の取り札が全てプールサイドに置かれる頃には、B組もE組も男女を問わずヘトヘトになってしまったのでした。恐るべし、水中かるた大会。私たちの試合はこの次です。
「対戦相手はC組か…。サムとシロエのクラスだな」
キース君が言い終えない内に合図がされて、ミーティング開始。A組の男女が集まる中で会長さんがスッと右手を上げました。
「さっきの試合を見ていたろう?…普通に札を運んでも無駄だ。体力は消耗するし、ゴールできるという保証も無い。…だが、水かけ攻撃の影響を受けない者が一人だけいる」
「「「一人?」」」
「…ぶるぅだよ。ぶるぅなら五十メートルが百メートルでも、浮上せずに潜ったままで札を運んで行けるんだ。発泡スチロールの札を持って潜ることだってわけはない。そうだね、ぶるぅ?」
「うん!ぼくに札をくれればゴールまでちゃんと運んで行くよ♪」
取り札を「そるじゃぁ・ぶるぅ」にバトンタッチ。それならとても簡単そうです。でも…どうやって「そるじゃぁ・ぶるぅ」に連絡を?呼んでいる間に他のクラスに札を取られてしまうのでは…。
「大丈夫。君たちは見つけた札をキープするだけでいいんだよ。自分のそばにある札が何かを考えていれば十分だ。ぶるぅはぼくの指示で飛び出す」
試合を始めてみれば分かるよ、と会長さんは笑っています。ミーティング時間終了の合図と共に私たちはプールサイドに行き、ゴールを指定されました。またシド先生たちが取り札をばらまき、それが終わるとプールの中へ。温水プールの中いっぱいに広がってゆく途中でシロエ君とすれ違ったら…。
「A組なんかに負けませんよ。キース先輩にそう言っといて下さい」
ニッと笑ったシロエ君は見るからに闘志満々でした。私が居場所に決めた所はプールの真ん中あたりです。たまたま浮いていた取り札がお気に入りの一首だったんですが…。
「小野小町が好きなのかい?」
いきなり会長さんの声が聞こえて私は飛び上がってしまいました。
「花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせし間に…か。ぼくには意味が無い歌だよね」
そこから後は思念波の声。
『小町には悪いと思うけど…実際、年を取らないんだから仕方ないや。君やスウェナやジョミーも似たようなことになると思うよ』
えっ、と声を上げそうになったところへ今度は声が。
「で、どうして小野小町が好きなんだい?」
「えっ…。えっと、それは…小野小町の札が…着物がすごく好きだったんで…。あの、あの…坊主めくりをやってた時に…」
「ああ、坊主めくりか。女性の絵札は綺麗だよね」
うーん、呆れられちゃったかもしれません。歌より絵柄がお気に入りなんて。
「そんなことないさ。綺麗なものを綺麗だと思う気持ちは、とても大事だと思うけど?…女の子なら尚更だよ。綺麗なものを知れば知るほど、人は綺麗になるからね」
サラッと言われた殺し文句に私が頬を染めたところへ泳いできたのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「あれ?みゆ、どうしたの?…ほっぺたが真っ赤」
「う…ううん、全然平気。ぶるぅもここで待つのかな?」
「うん!ブルーの合図があったらいつでも飛び出せるようにしておかなくちゃ」
スクール水着の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さいですから、プールに立つと首から上しか見えません。こんな身体で取り札を運ぼうというのですから驚きです。やがてブラウ先生がマイクを持って…。
「みんな準備はいいようだね。…それじゃ、はじめっ!」
教頭先生が読み札を手にしました。
「花の色は~」
「は、はいっ!!」
まさか一首目で来るなんて!私は目の前に浮いていた札をガシッと掴んで差し上げます。会長さんがすかさず「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「頼んだよ、ぶるぅ。みゆ、取り札をぶるぅに渡して」
小野小町の下の句が書かれた札を渡すと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はプクッと潜ってしまいました。小さな影が凄い勢いでプールの底すれすれに泳いでいきます。会長さんが言っていたとおり、水かけ攻撃が不可能な場所に行ってしまったわけでした。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は上手に人を避け、一度も息継ぎをせずにアッという間にゴールに浮上。
「はい。これ、A組の分」
待機していたグレイブ先生の前に取り札を置き、悠々と泳いで戻ってくる「そるじゃぁ・ぶるぅ」にC組の生徒は歯噛みするばかり。「泳いできたら踏んでやろうか」と言った誰かにブラウ先生が「妨害行為は反則だよ!」とすかさず警告を飛ばしました。教頭先生は次の読み札を取り、大きな声で。
「小倉山~」
「はいっ!」
頭上に札を掲げたのはアルトちゃんでした。かなり離れた所にいます。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は泳いでいくものとばかり思いましたが…。
「ぶるぅ!」
会長さんがサッと両手を差し出し、水中から躍り出た「そるじゃぁ・ぶるぅ」が会長さんの手をジャンプ台にして飛び上がりました。
「かみお~ん!!」
雄叫びと共にピョーンとみんなの頭上を飛び越え、アルトちゃんのそばで水飛沫が。そして札を受け取った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は水中に潜り、誰もがポカンとしている間にグレイブ先生が待つゴールに辿り着いたのでした。これで早くも2枚です。でも、C組の生徒が取り札を取ってしまったら…?
「そうはならない」
会長さんが泳いでくる「そるじゃぁ・ぶるぅ」に手を振りながら余裕の笑みを浮べています。
「ミーティングの時に言ったろう?自分のそばにある札が何かを考えていれば十分だ、って。どの取り札がどこにあるのか、ぼくには見えているんだよ。だから取るべき札に一番近い子の意識の下に呼びかけるんだ。そこにある札を取るようにって」
その後の展開は会長さんの言葉通りになりました。取り札はA組の手にしか渡らず、配達係は「そるじゃぁ・ぶるぅ」。C組は水かけ攻撃を繰り出す暇もないまま惨敗です。プールの中で奔走したのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」一人だけ。飛び出すためのジャンプ台を務めた会長さんは「ちょっと疲れたから」と、まりぃ先生が待つ救護所へ行ってしまいましたが、単に昼寝がしたいだけかも…。
私たちの試合を見ていた人たちは、取り札は潜って運べばいいと思ったようです。ところが次の試合でそうしようとしたクラスは早々に挫折しました。畳半分サイズの発泡スチロールの浮力はどうも半端じゃないみたい。それじゃ、小さな身体で軽々と沈めて運んでいった「そるじゃぁ・ぶるぅ」は?
「ぶるぅの力は知ってるだろう?取り札が浮かないようにしてしまうくらい、わけはないのさ」
会長さんがジュース片手に笑っていました。救護所から戻ってきたようですけど、ハンバーガーまで持っています。えっと…今は飲食できる時間じゃないのでは?
「まりぃ先生におねだりしたんだよ。ほら、ぼくは身体が弱いから…。腹が減っては戦ができぬ、って昔の人も言っているしね」
ドクター・ノルディという主治医がいるほどですし、虚弱体質だというのは本当でしょう。でも日常生活に支障が出るレベルではない筈です。どちらかといえば虚弱体質を売りにして肉体労働をサボッているのが実態なのでは…。体操服も持ってなかったくらいですから。会長さんの顔を窺うと不意に思念が届きました。
『用も無いのに走らされたり、泳がされたり…って面倒じゃないか。それに年寄りの冷や水って言うし』
ね?と微笑む会長さん。どこが年寄りだ!と思いましたが、他の人には今の言葉は聞こえてなかったわけですし…グッと我慢の二文字です。会長さんはハンバーガーをぱくつきながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」にフライドポテトを持たせていました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がつまみ食いをしていましたけれど、A組生徒が先生方に通報するわけありません。なんといっても大恩人です。
「食べるんだったら俺たちの後ろに隠れとけよ」
何人かの男子が盾になるのを見た会長さんは、「じゃあ、ぶるぅの分も貰っちゃおうかな」と救護所へ出かけていきました。貰ってきたのはホットドッグ。さすがに短時間でハンバーガーは無理なんですね…っていうか、わざわざ買いに行かせていたと分かってまたビックリ。買いに走ったのはシド先生だよ、と事も無げに言う会長さんに私たちは唖然とするばかりでした。
「だって、体力を消耗しちゃって倒れたら学校の責任問題じゃないか。栄養補給は大切なんだ」
平然としている会長さんは次の試合が終わった後も救護所に直行してしまいました。総当り戦の結果、1年生の勝者はA組。会長さんは何度も救護所へ行ってサボリと栄養補給をしながら、2年、3年の1位が決まってからの学園1位決定戦でも「そるじゃぁ・ぶるぅ」とタッグを組んで勝利を掴んでくれたのでした。
「やったぁ、俺たち1位だぜ!」
男の子たちが叫んでいます。本年度最後の全学年で順位を競うイベントも1年A組が貰いました。まさに無敵の1年A組。さぁ、とうとう学園1位です。お楽しみイベント、今度は何かな?
始業式の翌日は何故か健康診断でした。体操服を持って登校すると、教室の一番後ろに会長さんの机があります。会長さんはアルトちゃんとrちゃんに話しかけていて、机の上には「そるじゃぁ・ぶるぅ」が…。
「諸君、おはよう。やはりブルーとぶるぅが来ているな」
グレイブ先生は二人が来ることを予測していたようでした。
「今日の健康診断は来週行われる『かるた大会』に備えるものだ。体力勝負の大会だけに、健康診断が実施される」
かるた大会が体力勝負?なんだか意外な気がしますけど、この学校なら何でもアリかも。みんなも同じことを思ったらしく、教室はちょっとザワついただけですぐに静かになりました。いつものように体操服に着替え、会長さんの方を見てみると…今日も水色の検査服です。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は体操服で女子に混ざって保健室へ。
「ぼく、今日も『せくはら』してもらうんだ♪」
この前の時、まりぃ先生にセクハラされた「そるじゃぁ・ぶるぅ」。特別室の奥のお風呂で身体中を念入りに洗われちゃったわけですけれど、それが気に入ったみたいですね。スウェナちゃんと私の間に並んで順番待ちをしている間もウキウキしているのが分かります。
「お待たせ~。あらあら、今度はぶるぅちゃんなのね♪」
まりぃ先生はスウェナちゃんと私も一緒に呼び込み、テキパキと身長や体重を測って問診をして…。
「二人とも、ちょっと熱があるわよ」
「「えぇっ!?」」
そんなことないです、と答えた途端、まりぃ先生は体温計を2つ取り出し、洗面台の蛇口を捻りました。給湯器から流れ出すお湯に体温計を浸け、ピピッと鳴らして。
「ほら、微熱。頭も痛いんじゃないかしら?」
頭の上にボテッと落ちてきたのはゴマフアザラシのゴマちゃんでした。天井に貼り付いていたんでしょうか?
「ごめんなさいねぇ、最近、忍者ごっこが好きで。…ねっ、二人ともコブができたでしょ?」
うーん、コブは大丈夫だと思うんですけど、頭がちょっとズキズキします。
「微熱に頭痛。休んでいった方が良さそうね」
まりぃ先生は廊下に続く扉を開けると、順番待ち中のクラスメイトに…。
「スウェナちゃんたち、頭が痛くてお熱なの。私が付き添うことにするから、代わりの先生が来るまで待っててちょうだい。…そうそう、ブルー君は今日もA組かしら?」
誰かが「そうです」と答えると、まりぃ先生は。
「じゃあ、ブルー君には私が復帰してから来るようにって言っておいて。あの子は虚弱体質で特別だから、私が診なくちゃいけないの。それじゃ、よろしく~♪」
パタン、と扉を閉めたまりぃ先生は内線でヒルマン先生を呼び、健康診断の代理をお願いしています。了解を得ると
「そるじゃぁ・ぶるぅ」の身長や体重を測り、問診を済ませてしまいました。決まり文句の「男の子は上半身を脱いでもらうことに…」がありません。どうなったのかな?
「ぶるぅちゃん、センセ、今日もみっちりセクハラをしてあげたいわ。奥のお部屋へいらっしゃい」
「ほんと!?」
飛び上がって喜ぶ「そるじゃぁ・ぶるぅ」。まりぃ先生は私たちを特別室に入れて鍵をかけ、大はしゃぎの「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れてバスルームに消えていきました。
「行っちゃった…」
「でも、お風呂だって分かってるんだもの、気が楽よね」
とはいえ、特別室は会長さんがまりぃ先生に「あ~んなことや、こ~んなこと」をしている夢を見せる場所です。ソファやベッドを眺めているのは落ち着きません。バスルームに続く扉にしたって同じことです。私たちは保健室と繋がる扉の前に立ち、部屋に背を向けて扉を見ながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」を待ちました。
やがてバスルームの扉が開く音がして、まりぃ先生の弾んだ声が。
「はい、今日のセクハラはこれでおしまい。気持ちよかった?」
「うん!!」
ちゃんと白衣を着たまりぃ先生と体操服の「そるじゃぁ・ぶるぅ」が上気した顔で出てきます。前回はバスローブ姿とフルヌードでしたから、服を見ただけでホッとしますね。
「ぶるぅちゃんったら可愛いのよ~。一生懸命洗ってあげるとキャッキャッ言って喜ぶんだから♪」
「だって、くすぐったいんだもん。まりぃ先生、いっぱい触るし」
いったい何処を触られたのかは聞かない方がいいでしょう。幸か不幸か「そるじゃぁ・ぶるぅ」はセクハラという言葉の意味も分かっていない子供ですから。
「じゃあ、ぶるぅちゃんとお遊びするのはここまでね。センセ、お仕事に戻らなきゃ。…みゆちゃんとスウェナちゃんもお熱が下がって良かったわ。ぶるぅちゃんと一緒に帰りなさいね♪」
のぼせた顔が元に戻ると、まりぃ先生は保健室への扉を開けてくれました。これで自由の身に戻れます。保健室ではヒルマン先生がC組女子の健康診断中でした。
「おお、もう具合はいいのかね?…まりぃ先生も復帰できそうかな?」
ヒルマン先生が気遣ってくれ、少し心が痛みます。温厚な先生に嘘はつきたくありませんけど、こればかりは仕方ないですよね。…ん?もう一人、男の先生が…。白衣を着て問診をしている後姿に、まりぃ先生が呼びかけました。
「あらぁ、ドクター!お久しぶりですぅ」
ドクターと呼ばれて振り返ったのは天然パーマの髪と特徴的な鼻を持った人。初めて目にする顔でした。こんな先生、いましたっけ?
「まりぃか。…希望通り養護教師になれたようだが、ちゃんと責任は果たしているか?」
「あ、あは、あはは…。えっと、そこそこ頑張ってます」
「よし。ヒルマン先生の所に行ったら、保健室だと言われてね…健康診断を手伝っていたんだ。君の仕事ぶりも見ておきたいし、このまま続けてみたいと思う。ヒルマン先生、よろしいですか?」
「そうじゃな…」
ヒルマン先生は白い髭を撫で、「いいだろう」と頷きました。
「私は仕事があるから戻るが、よろしく頼むよ、ドクター・ノルディ」
ドクター・ノルディ。名前を聞くのも初めてです。でも「そるじゃぁ・ぶるぅ」は顔馴染みらしく、頭を撫でて貰ってニコニコ顔。私たちは首を傾げながら保健室を後にしました。
「ぶるぅ、あの人、いったい誰なの?」
教室へと歩く途中でスウェナちゃんが尋ねると…。
「お医者さんだよ。滅多に会わないけど、ブルーの主治医をしてるんだ。ブルーは虚弱体質だもん」
そっか…。本物のお医者さんなのか。
「うん。それに、ぼくたちの仲間だよ。二百年以上は生きてたと思う」
そんな話をしている内に1年A組の教室に着くと、会長さんが待ちかねたように立ち上がりました。
「やっとぼくの番が来たみたいだね。行ってくるよ」
殆どのクラスメイトが制服に着替えを終えた中、水色の検査服の会長さんは保健室へ向かったのですが…。終礼の時間になっても会長さんは戻らないまま。助っ人が現れたせいで、まりぃ先生、張り切ってるとか?それとも会長さんがまりぃ先生に特別サービス?
「ブルー、ぼくのお部屋に帰ったみたい」
会長さんの椅子に腰かけていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が終礼の後で言いました。
「元気がないけど、どうしたのかな?…ちょっと心配」
えっ、あの会長さんが…元気がない?それは確かに心配です。ジョミー君やキース君たちも鬼の霍乱だと言いつつ、不安そうな顔。私たちは会長さんのカバンを抱えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」に先導されて影の生徒会室へ向かいました。今日の柔道部は朝練だけで、放課後の部活は無いんです。
壁を通り抜けて入った部屋の中では、会長さんがソファに寝転んで暗い顔。あまつさえ「そるじゃぁ・ぶるぅ」まで「眠くなっちゃった」と土鍋に入って寝てしまったではありませんか。えっと…私たち、どうしたら…?
「…ぶるぅはぼくが寝かせたんだ…」
会長さんが億劫そうに身体を起こしてソファの背もたれに寄りかかりました。
「聞かせたくない話なんだよ、子供にはね。…これを見て」
制服のワイシャツのボタンを外した会長さんの白い胸元に赤い花が1つ咲いていました。まりぃ先生、またキスマークですか!私たちの顔はみるみる真っ赤に…。
「…違うんだ。まりぃ先生は騒いでただけ。…ノルディのヤツにしてやられたよ」
「「「ノルディ?」」」
ジョミー君たちは怪訝そうです。スウェナちゃんと私は今ひとつ話が飲み込めません。
「ああ、ごめん。君たちは知らなかったんだっけ。…こんな男さ」
会長さんが思念でドクター・ノルディの姿を伝えてきました。
「ぼくの主治医をしてくれている。でも…ちょっと困った性癖があって、あまり診察されたくないんだ。ハーレイはぼく一筋の片想いだけど、ノルディは本物なんだよね」
「「「本物?」」」
何が本物なんでしょう?それに教頭先生の名前が出てくるわけは?
「…君たちも知っているだろう?ハーレイがぼくをどうしたいのか。…なのにヘタレで何もできないから楽しいんだ。だけどノルディはそっちの道では百戦錬磨のテクニシャン。…そのノルディに前から迫られてるんだよね…。抱かせてくれ、って」
ひぇぇぇ!!!私たちは度肝を抜かれました。教頭先生の他にも会長さんを欲しがってる人がいたなんて。でも、会長さんなら夢を見せて逃げれば済む話では…?
「それが…ノルディには通用しないんだ。夢で誤魔化そうとしたらバレちゃって…。まさかバレると思わなかったし、腹立ち紛れについ、うっかりと…」
余計なことを言っちゃったんだ、と会長さんは項垂れます。
「ぼくを抱きたいだなんて百年早い。もしもキスマークをつけることが出来たら抱かせてやるから、顔を洗って出直して来い、って。それから長いこと、上手に逃げてきたんだけれど…」
「…じゃ、…じゃあ…」
ジョミー君が唇を震わせました。会長さんの肌に赤い痕があるということは…。
「そう。ノルディが口説きながら顔を近づけたんで、まりぃ先生がキャーキャー騒いじゃって。…そっちに意識が行った途端にやられたんだ。ぼくはどうしたらいいと思う?…ノルディが思念で伝えてきた。今夜あなたの家に行きます、って」
「「「えぇぇぇっ!?」」」
こ、今夜ですって!?…会長さんの夢攻撃が通用しない人が相手だと、会長さんの身が危険です。タイプ・ブルーの力にモノを言わせて撃退するとか、居留守を使って逃げるとか…。
「ダメなんだ。ノルディは居留守くらいで諦めるようなタイプじゃないし、仲間を攻撃するのも避けたい。…なんとか穏便に済ませたいけど…」
会長さんは思い詰めた顔をしていましたが、白い左の手をじっと見据えて。
「…やっぱり、ハーレイのものになるしかないかな」
昨日のルビーの指輪が宙に現れ、会長さんはそれを左手の薬指に。
「今、ノルディは教頭室にいる。みんな、証人になってくれるよね?…ぼくはハーレイと婚約してる、って。後はハーレイ次第だけれど」
ハーレイの所に行くよ、と立ち上がった会長さん。いったいどうする気なんでしょうか?
見慣れた扉を会長さんがルビーの指輪を嵌めた手でノックし、「どうぞ」という声が聞こえてきます。
「…こんにちは、ハーレイ」
教頭室に入った会長さんは、応接セットのソファに腰を下ろしたドクター・ノルディの姿を見るなり小さく悲鳴を上げました。テーブルを挟んで座った教頭先生が驚いた顔で。
「どうした、ブルー?…来客中だと気付かなかったか?いつもの連中もいるようだな」
「…ハーレイ…」
次の瞬間、会長さんは教頭先生に飛びつくようにしがみついて。
「ハーレイ、ぼくたち婚約したよね?…ぼく、ハーレイと一緒に暮らすんだよね…?」
「…ブルー…?」
戸惑う教頭先生の肩に顔を埋めて会長さんが訴えます。
「ぼく…。ぼく、ハーレイと婚約したのに…。ノルディが今夜、ぼくを抱くって。家に行くって脅すんだ。嫌だよ、ハーレイ…!昨日婚約したばかりなのに…」
「…なんだと…?」
教頭先生の目が険しくなり、眉間に皺が寄せられました。向かいに座ったドクターを睨み、会長さんを強く抱きかかえて。
「ノルディ…。ブルーが言っていることは本当なのか?」
「…本当ですよ」
ドクターは不敵に笑いました。
「以前からの約束だったのです。ある条件をクリアできたら抱かせてもらえる筈でした。今日、やっと条件を満たしたのですが…手遅れだったというわけですか。いくら私でも、婚約者がいるのに無理強いしたりはしませんよ。…本当に婚約しているのなら」
嘘も方便と言いますし…、と会長さんの指輪を見つめるドクター。
「婚約指輪は認めましょう。ですが、そんなものは何とでもなる。今まで歯牙にもかけなかった相手と急に婚約だなんて、不自然だとは思いませんか?…他に証拠があるならともかく」
「…証人が…。証人になってくれる子たちが…そこに…」
教頭先生の腕の中から、会長さんが指差したのは私たち。ドクターの鋭い視線にたじろぎながらも、私たちは震える声で、会長さんの婚約に立ち会ったのだと証言しました。これが認めて貰えなかったら、会長さんは…。
「なるほど。…ですが、教頭。あなたからは何も聞いていません。婚約なさったのなら、そうおっしゃれば…。お祝いの都合もありますしね」
「…校内で話すことではないと判断した」
威厳に満ちた声でピシャリと言って、教頭先生は会長さんを抱き締めます。
「ブルーは私の婚約者だ。…ある条件を満たしたら…、と言っていたな。ブルーに何かしたというなら、黙って見過ごすわけにはいかない。ブルーは私が全力で守る」
ヘタレな教頭先生とは思えないほどの気迫でした。ドクターはフッと笑って、楽しそうに。
「では、キスをしていただきましょうか。…婚約も済ませてらっしゃるのですし、それくらい問題ないでしょう」
「……!!」
教頭先生はウッと息を詰まらせ、私たちも息を飲みました。ドクターが言っているキスは唇を重ねるキスでしょう。けれど教頭先生と会長さんは全然そんな仲ではなくて、それどころか教頭先生ときたら会長さんの額にキスする度胸も持ってなさそうなヘタレです。…ヤバイなんてものじゃありません。
「…いいよ、ハーレイ…。ぼくにキスして?」
会長さんが細い声で言い、教頭先生を見上げます。赤い瞳が誘うように揺れていましたが、教頭先生は金縛り。もうダメです。…百戦錬磨だというドクター相手に嘘をつき通せるわけが…。
「…そんなにブルーが大事ですか?」
ドクターがクッと笑いました。
「あなたは昔からブルーに甘い。知っていますよ、散々オモチャにされてらっしゃることは。それでも大切に想い続けて、未だにキスひとつ出来ないままで…。よくも我慢ができるものです。指輪は本物みたいですがね」
どうせ受け取って貰えなかったのでしょう、と図星を突いて。
「…あなたの我慢強さと三百年の忍耐に免じて、ブルーは見逃してあげますよ。ただし今回限りですが…。お楽しみはまた次の機会に」
そしてドクターはソファから立つと、教頭室を出て行ったのでした。
「…ハーレイ…」
会長さんが身じろぎをして、教頭先生の腕から抜け出します。
「ノルディが家に来るって言った時には、おしまいだって思ったよ。ドジを踏んだのはぼくなのに…昨日、指輪を騙し取ったのに、ぼくを助けてくれたんだ…?」
「……当たり前だろう」
教頭先生は頬を赤らめて視線を逸らし、静かな声で言いました。
「三百年以上、お前のことを見てきたんだぞ?…ノルディに何をしたのか知らんが、二度と馬鹿な真似はしないようにな。お前の悪戯が通用するのは、私だけだと思っておけ」
「…うん…。確かにノルディには通じなかったね…」
今回の騒ぎの発端は、会長さんが言い出した約束でした。教頭先生をからかって遊ぶのに馴れてしまって、からかったら危険な相手に同じようなことをしたわけで…。もしもドクターが引き下がってくれなかったら、会長さんは食べられてしまう所だったんです。
「ハーレイ。…この指輪、返しておくよ。これが無かったら、ノルディは諦めていないと思う。ぼくを助けてくれたプレゼントなのに、フィシスにあげてしまうのは…いくらなんでもあんまりだろう?」
会長さんはルビーの指輪を抜き取り、教頭先生の手に乗せました。
「今日のお礼に預かっておいて。…いつか本当に貰いたくなったら、改めてプレゼントしてもらうから」
「…ブルー…。希望を持ってもいいのか?」
「いいと思うよ。それじゃ、またね。…ありがとう、ハーレイ」
指輪を手にして感激している教頭先生。ドクター・ノルディの魔手から逃れた会長さんも本当に嬉しそうでした。教頭室を出た会長さんは、すっかりいつもどおりです。…会長さんを襲った未曾有の危機とドクター・ノルディの魔手を退けたのは教頭先生。三百年越しの片想いが実るとはとても思えませんが、ルビーの指輪が手許に戻っただけでも、きっと気分は最高でしょう。
「うん。それに希望もあげたしね」
会長さんが極上の笑みを浮べました。
「人生、希望を持たなくちゃ。そういう意味で言ったんだけど、ハーレイは誤解しちゃったかな」
あぁぁ、また教頭先生をからかって楽しんでいるようです。それでこそ会長さんですけれど、教頭先生、ご愁傷様…。