シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「今の時代は、こういう文化は無いんだが…」
話の種に聞いておくんだな、と始まったハーレイお得意の雑談。教室の前のボードに書かれた、「切符」という文字。どう見ても切符。列車に乗るための乗車券。いわゆるチケット。
ある筈だけど、と首を傾げたブルー。他のクラスメイトたちも。
切符と言う人やら、乗車券やら、呼び方は人それぞれだけれど、今も存在している切符。これを買わないと乗れない列車。何処へ行くにも必要なもの。列車に乗ってゆくのなら。
皆の疑問を読み取ったように、ニヤリと笑みを浮かべたハーレイ。腕組みをして余裕たっぷり、「ただの切符だと思っているな?」と。
「…違うんですか?」
ぼくたちの思う切符とは、と男子の一人が声を上げたら。
「もちろんだとも。特別に売られた切符なんだぞ、俺が言うのは」
期間限定と言うべきか…。ある時期が来ないと発売されない切符だな。
「記念切符は今もありますが?」
イベントに合わせて、絵がついてるのとか、何かグッズがつくだとか…。
今だって、幾つも売られていると思いますけど。
「違うな、もっと特別だ」
ついでに、切実でもあった。こいつに全てを賭けるとまでは言わんが、手に入れたい切符。
まあ、今の時代も、記念切符を手に入れようと行列するヤツはいるんだが…。
朝も早くから駅に出掛けて、並んでるヤツも多いんだがな。
しかし、俺が言う切符は遥かに特別だった。そういう記念切符とかよりも、ずっと。
合格切符、とハーレイが書き加えた「合格」の文字。ボードの「切符」のすぐ前に。
ざわめくクラスメイトたち。合格の意味は分かるけれども、合格切符とはなんだろう?
学校で受ける様々な試験、体育や他の授業でも。合格したなら、次のステップへ進める仕組み。逆に落ちたら、「出来ていない」と補習があったり、余分に課題を貰ったり。合格するまで。
けれど、合格に切符は要らない。自分の努力が必要なだけ。そもそも切符が売られてはいない、職員室に出掛けて行っても。合格のための切符なんかは。
ハーレイは「知らんだろうな」とクラスを見回して。
「ずっと昔には、受験というのがあったんだ。SD体制が始まるよりも前のことだな」
受験だから、試験を受けるわけだが…。お前たちが知ってる試験なんかとは全く違った。
そいつに落ちたら、行きたい学校に行けないどころか、後の人生まで変わるんだ。夢に見ていた未来が壊れちまうとか、それは散々な目に遭った時代。
努力で挽回出来ればいいがな、出来なかったら「あの時、合格していれば…」と、一生、嘆いているしかなかった。スタートラインで失敗した、と。
そうなっちまえば人生台無し、誰だって行きたくない道だろう?
避けるためには合格すること、それが大切なんだから…。合格したい、と買いに出掛けたのが、合格切符というヤツだ。
買ったら受かるというわけじゃないが、合格しそうな気分になれる。お守りだな。
切符には行き先とかが書いてあるだろ、そいつで縁起を担ぐんだ。
駅の名前を上手く並べて読んだら、「本調子」になって調子が出るとか、そんな具合に。
本調子で試験に臨めたんなら、実力を発揮できるしな。
色々なパターンがあったんだぞ、とハーレイが挙げる合格切符。遠い昔の日本の文化。
「ずいぶん人気を集めたらしいが、今の時代は縁が無さそうだな、こいつはな」
それにSD体制の時代は、縁が無いなんていうものじゃなかった。合格切符は。
「受験が無かったからですね?」
「その通りだ。あの時代にも試験は色々あったわけだが…」
お前たちの知ってる試験と変わりはないなあ、必要な知識や技術があるかを調べるためだし。
だが、その前が全く違った。昔の受験に当たる部分だな、自分の進路を決めたい学校。
其処に行くのに、選択肢ってヤツが存在しなかった。
あの時代は何もかも、問答無用だったんだ。機械が決めていたんだぞ、進路。
パイロットになりたい、と思っていたって、菓子職人のためのコースに放り込まれて、ケーキを作る一生なんかは当たり前だった。
どうする、そんなことになったら?
夢も希望もありやしないぞ、自分じゃ選べはしないんだから。やりたい仕事も、未来もな。
「困ります、それは!」
スポーツ選手は流石に無理でも、仕事は自分で選びたいです、と大騒ぎするクラスメイトたち。自分の能力の限界はともかく、行きたい道に行きたいんです、と。パイロットでも、料理人でも。
「だろうな、普通はそういうもんだ。…だから人生、楽しいわけだ」
パイロットの道に行った後でだ、やっぱり漁師になりたいだとか。
農業が好きでやっている内に、栽培技術を極めてみたくて、研究者の道に行っちまうとか。
好きに選べて、なんとでも出来る。
その楽しみってヤツを奪っていたのがSD体制だったわけだな、合格切符の時代より酷い。
合格切符の時代だったら、努力次第で巻き返しだって出来たんだから。
SD体制の時代に生まれずに済んで良かったな、とハーレイは笑っているけれど。クラスメイトたちも「ホントにそうです!」と、みんな明るい笑顔だけれど。
(ハーレイ、あの時代の生き証人…)
前のハーレイは死んでしまったから、生き証人と言えるかどうかはともかく、SD体制の時代に生きていたのが前のハーレイ。自分の他には、両親と聖痕を診てくれた医師しか知らないけれど。
機械が統治していた歪んだ世界。今は誰もが誤りだったと認める時代。
其処で確かに生きていたのに、こうして話のネタにしているハーレイは強い。
前の自分たちは、進路すらも決めては貰えなかったのに。ミュウに生まれたというだけで。SD体制が良しとしなかった因子、それを持って生まれて来ただけで。
けれど、ハーレイの話はそちらに行かずに…。
「合格切符は今では人気が無さそうなんだが…。売っても誰も買いそうにないが…」
同じ時代に、幸福切符もあったんだ。幸福駅に行くための切符がな。
「幸福駅って…。それは欲しいです!」
欲しい、と上がった幾つもの声。男子も女子も、瞳を輝かせた幸福切符。
「やっぱりなあ…。幸福行きの切符は欲しい、と」
残念ながら、こいつも今は無くなっちまった。
なにしろ幸福駅が無いから、其処へ行くための切符も無いんだ。当然と言えば当然だろうが。
幸福切符を売るためだけに駅を作るのも…、と言われてみればもっともな話。合格切符も本当にあった駅の名前を使ったからこそ、人気だった切符。その駅は実在したのだから。
実在しない駅をわざわざ作って幸福切符を売り出したって、それでは効き目が無いだろう。駅は新しく作られたもので、有難味が全く無いのだから。
(…でも、ずっと昔の幸福駅って…)
やっぱり誰かが作ったのだろうか、切符を売ろうと幸福駅と名前をつけて。それが次第に人気を集めて、新しい駅でもかまわないから、と大勢の人が買ったのだろうか、と考えたのに。
「勘違いしているヤツもいそうだから、言っておくがな…」
幸福切符の幸福駅は、最初から本物の幸福駅だぞ。切符を売るための駅名じゃなくて。
「えっ!?」
本当ですか、と驚くクラスメイトたち。彼らも疑っていたらしい。商売用の駅名では、と。
「正真正銘、本物だ。幸福は駅の名前でもあったが、そういう地名だったんだ」
まだ人間が住んでいなかった土地を開拓した時、幸福という名を付けた。同じ住むなら、素敵な地名がいいに決まっているからな。それで幸福駅が生まれた、其処に線路が敷かれた時に。
ただ、人間の住む土地は変わってゆくもんだ。幸福駅の近くで暮らす人が減って、列車の乗客も減っちまったから…。幸福駅を通る線路は廃線になって、列車は走らなくなった。
そうなった後も、幸福駅は残ったそうだ。駅があるなら、入場券があるからな。入場券が欲しい人が大勢買いに来るから、列車が通らなくなった後にも、幸福駅はあったらしいぞ。
本当にあった幸福駅。其処を通る列車が無くなった後も、入場券が売れたという駅。今はもう、何処にも無いけれど。地球が滅びてしまった時代に、幸福駅も消えてしまったけれど。
(合格切符はどうでもいいけど、幸福切符は欲しいよね…)
今の時代も、幸福駅があったなら。幸せになれる切符がある駅、幸福駅。
合格切符の方も、ちょっぴり欲しい気持ちがするけれど。体育の時間の実技試験に、ポンと合格できるなら。いつも落っこちてばかりなのだし、合格切符で受かるなら。
(だけど、落ちるの、ぼくのせいだし…)
自分のせいだと自覚はあるから、合格切符は無くてもいい。落っこちるのも自分の個性。
けれど、幸福切符は欲しい。幸せを運んでくれそうだから。幸福駅に行く切符だから。ホントに欲しい、とクラスメイトたちもワイワイ騒いでいるけれど。
「文化は色々復活したがだ、幸福駅を作るってのはなあ…」
この辺りに駅があったんです、と調べることは簡単なんだが、今の時点で計画は無いな。線路を作ろうって計画の方も。
まあ、いつか出来るかもしれないが…。夢のある駅だし、誰かがやろうと言い出してな。
お前たちの中の誰かが作るかもな、と締め括られた今日の雑談。作るんだったら頑張れよ、と。
今は無いという幸福駅。
幸福切符は欲しいけれども、買いに行こうにも、無いらしい駅。
とても素敵な駅名なのに。その駅があれば、幸福駅へ行ける切符が買えるのに…。
ちょっと残念、と考えたせいか、家に帰ってから思い出したのが幸福切符。母が作ったケーキを食べて、幸せな気分で戻った部屋で。
(幸福切符…)
そういう切符があったんだよね、と頬杖をついた勉強机。合格切符が手に入らなくても、今なら困らないけれど。体育の実技試験に落っこちていても、人生が狂いはしないのだけれど。
(SD体制の時代だったら、困ってたかもね?)
成人検査にパスしていたなら、運動が苦手な子供だからと何処へ行かされただろうか。
(エリート候補生は無理…)
全ての面で優れた子供しか入れなかった教育ステーション。前の自分はどう転んでも、地球には行けていなかったらしい。エリート候補生になれなかったら、一生、地球には行けないから。
(だけど今だと、運動が駄目でも困らないんだし…)
手に入れるのなら、合格切符より幸福切符。断然、そっちが欲しいのだけれど、幸福駅が無いというなら仕方ない。存在しない駅の切符は買えない。
(誰か、駅を作ってくれてたら…)
幸福切符が買えたのに、と惜しい気持ちがしてしまう。幸福駅行きの素敵な切符。眺めるだけで幸せがやって来そうな切符。
沢山の文化を復活させるついでに、幸福駅も作って欲しかった。遠い昔に駅があった場所に。
もしもあったら、どんな駅だろう、と想像してみた幸福駅。きっと昔の幸福駅にそっくりな駅。小さくて可愛い駅なのだろうか、白く塗られていたりして。木で建てられた素朴な駅で。
今もあったら、と思い描いた幸福駅の駅舎だけれど。幸福駅に行ける切符も買えるけれども。
(幸福切符を買わなくっても、みんな幸せ…)
人間が全てミュウになった今は、もう争いも起こらない。せいぜい喧嘩で、喧嘩したって直ぐに仲直り出来るのがミュウの特徴。相手の気持ちが分かるから。心を読まなくても、表情だけで。
すっかり平和になった時代に、幸福駅は要らないのだろう。幸福切符を手に入れなくても、人は幸福なのだから。幸せに生きてゆけるのだから。
もっと、もっと、と欲張って幸福を求めないように、幸福駅も幸福切符も無いのだろう。誰もが充分に持っているから、幸福を、幸せというものを。
(神様にだって、都合があるよね…)
平和な時代をくれた神様。人間が幸せに生きられる世界をくれた神様。それだけで奇跡、神様が創った最高の世界。おまけに地球まで青く蘇って、誰でも地球を見られる世界。
こんなに幸福な今の時代に、「もっと」と考えるのは欲張りだから。もっと幸せになりたい、と願うのは我儘だろうから。
(幸福駅も、幸福切符も…)
無いんだよね、と納得出来る。あったら欲しい切符だけれども、それが無いのも当然な時代。
誰もが幸せになったから。幸福切符を持っていなくても、幸せがやって来るのだから。
前の自分が生きた時代なら、そうではなかったのだけど。不幸だらけの世界だったけれど。
ミュウに生まれただけで不幸だった、と言い切れる世界。前の自分が生きていた時代。
(…ミュウだとバレたら、それでおしまい…)
その場で撃ち殺されて終わりか、実験施設に送られるか。人間としては扱われなくて、実験用の動物になるか、生きる価値も無いと処分されるか。
なんとか其処から逃れたとしても、シャングリラの他に居場所は無かった。閉ざされた世界で、箱舟の中でしか生きられなかったミュウという種族。
それが今では、誰もがミュウ。
もう人類は追って来ないし、殺されることも無い時代。シャングリラの中で生きた頃には、誰も想像出来なかったくらいに幸福な世界。ミュウのために世界があるのだから。
けれども、前の自分たちは…。
(ホントに不幸だったんだよ…)
幸福駅行きの切符があったら、縋りたいほどに。ただの切符でも、幸福駅と書かれているだけの切符でも。
いつか幸福に辿り着けそうな気持ちがするから、きっと大切にしただろう。
生き地獄だったアルタミラから逃れ、シャングリラという船を手に入れた後も、まだ欲しかった幸福の切符。そういう切符があったとしたなら、幸福駅に行こうと願っただろう。
切符に書かれた幸福の文字を、何度も何度も見詰めながら。
これがあったらきっと行けると、幸福が溢れる幸せな駅に行くのだと。
前の自分が幸福切符を持っていたなら、どんな幸福を夢見ただろう。今のような時代は、きっと夢にも思わないから、もっと小さくてささやかな幸福。考え付く限りの、幾つものこと。
(ミュウが殺されない時代になりますように、って…)
それに地球にも行かなければ、と前の自分になったつもりで色々と挙げてみたのだけれど。幸福切符に託したい夢を、一つ、二つと数えたけれど。
(……切符……)
シャングリラには無かったっけ、と気付いた切符。幸福切符も、合格切符も、普通の切符も。
あの船からは、何処にも行けはしなかったから。切符は売られていなかったから。
(シャングリラの中が、世界の全部…)
外の世界は人類の世界。ミュウを受け入れてはくれない世界。
白いシャングリラが出来上がった後も、バスにさえ乗りには行けなかった。アルテメシアに辿り着いても、雲海の中から出られなかった。外へ出たなら、たちまち攻撃されるから。
ミュウの仲間を救い出すために、人類の世界に紛れ込んでいた潜入班。彼らはバスに乗っていたけれど、あくまで任務で、自分のために乗ったわけではなかったバス。乗る時にだって、データを誤魔化して乗っていたから、乗車券を持っていたとしたって、買ってはいない。
(…それに、バスが限界…)
アルテメシアには二つの都市があったけれども、潜入するなら片方だけ。同じ人間が同時に二つ担当したなら、発見されるリスクが高くなる。アタラクシアに派遣する者と、エネルゲイアとは、必ず別にしてあった。だから長距離移動はしないし、乗るならバスだけ。
白いシャングリラには切符が無くて、人類の世界に降りた者でも、バスが限界。
ミュウに生まれたというだけのことで、バスにしか乗れはしなかった。列車にも、船にも、他の星へゆく宇宙船にも。
人類の世界に降りることが出来た、潜入班所属の者たちでさえも。
誰も持ってはいなかったんだ、と思い出した切符。シャングリラには切符が無かったから。
(前のぼく…)
一度も切符を手にしなかった。あの時代にも切符はあったのに。
切符と呼んでいたかはともかく、列車に乗るにも船に乗るにも、切符は必要だったのだから。
(合格切符や幸福切符は無かったけれど…)
アルテメシア行きの切符もあっただろうし、アタラクシア行きやエネルゲイア行きの切符。首都惑星だったノア行きの切符や、あちこちの教育ステーションに行くための船の切符やら。
(でも、地球行きの切符は…)
無かったのだろう、あんな赤茶けた死の星では。…前の自分は知らなかったけれど、青い地球は無かったのだから。
マザー・システムが人類の聖地と呼んだ、母なる地球。その地球は青くなくてはいけない。青く輝く水の星だと、皆に教えていたのだから。宇宙で一番美しい星、それが地球だと。
けれど、本当は違ったから。地球は死の星のままだったから。
誰も行かせては貰えない。青い地球などありはしないと、皆に知れたら大変だから。
あの時代に地球まで辿り着けたのは、秘密を漏らさないエリートだけ。一般人を乗せた宇宙船が地球に行くことは無いし、地球行きの切符は無かっただろう。エリートたちを地球へ運ぶ船なら、切符は要らないだろうから。「ご苦労」と乗り込み、偉そうに乗ってゆくだけだから。
無かったよね、と思った地球行きの切符。今の時代なら、何処の星でも買えるけれども。自分が住んでいる青く蘇った地球、此処へと向かう宇宙船の切符。
(あれ…?)
そういえば、と浮かんで来た記憶。シャングリラには無かった切符のこと。
前の自分も、切符というものを手に取ったことはあったのだった。白い鯨になる前の船で。
人類の輸送船から奪った物資で皆の命を繋いでいた頃。物資の中に、たまに紛れていた切符。
(誰かの荷物が混ざってたりして…)
明らかに個人の持ち物と分かる、切符が入っていた荷物。それを開けたら出て来た切符。
そんな荷物に出くわす度に、切符を失くした持ち主はどうしているだろう、と笑い合っていた。無事に行き先へ着けるだろうかと、まさか船から放り出されはしないだろうが、と。
切符が無ければ、船に乗る資格が無いのだから。そう言われても仕方ないから。
(SD体制の終わりの頃に…)
冬眠カプセルに入れられて宇宙に放り出された人があった、と何かで読んだ。ミュウが落としたアルテメシアなどからの移民船で。
まだ人類の勢力下にあった星に移住しようと、全財産を処分してまで乗り込んだ人を。
大勢の人類を乗せていた船は、まるで奴隷船のようだったという。混み合っていた上に、食料も充分ではなかった船。乗組員の機嫌を損ねたら最後、宇宙に放り出されてしまった。一人減ったら増えるスペース、食料だって余裕が出来るのだから。
(酷い話だよね…)
けれど、前の自分が奪ってしまった切符の持ち主。その人類は無事に目的地に着けただろう。
切符を持っていないことが知れたら、始まっただろう取り調べ。本人に事情を訊くよりも前に、問い合わせる先はマザー・システムが持つ個人情報。この人間で間違いないかと、船に乗り込んだ目的は、と。
瞬時に分かる、その人間が切符を持っていたこと。切符を紛失しただけなのだ、と。
そういう意味では、マザー・システムは有難い存在だった。徹底していた管理社会も。
何度か出会った、人類の持ち物だった切符たち。行き先は宇宙に散らばる惑星だったり、様々な場所へ向かう船が集まる中継用の宇宙ステーションだったり。
(あの切符の中に地球行きのは…)
一枚も無かったのだった。今の自分は無かった理由を知っているけれど、前の自分は本当に何も知らなかったから、地球行きの切符が欲しかった。青い地球へと向かう船の切符。
それがあったら、大切に持っていたかったのに。
いつか地球まで辿り着けるよう、お守りにして眺めていたかったのに。
(あれって…)
幸福駅行きの切符と同じ、と気が付いた。前の自分が欲しいと思った地球行きの切符。
地球に着いたら、きっと幸せになれるから。苦しい時代はきっと終わって、青い水の星で幸せに生きてゆけるから。
その地球へ行けると書いてあるのが、地球行きの切符。まるで幸福切符のように。
(…そんな切符は無かったんだけど、知らなかったから…)
地球行きの切符の方が欲しかったのに、と見ていた違う行き先の切符。ミュウだった前の自分は買えもしないのに、「地球行きの切符だったら良かったのに」と。
前の自分が生きた時代に幸福切符は無かったけれども、いつの時代も人は求めていたのだろう。
幸福駅へと向かう切符を、幸福という駅に行ける切符を。
手に入れたいと願う幸福、其処へと自分を運んで行ってくれる素敵な夢を乗せた切符を。
前の自分が欲しかった切符。幸福駅へ行く切符ではなくて、地球行きの切符。
けれども、それは前の自分のための幸福切符だから。欲しいと願った切符だから。幸福駅行きの切符を教えてくれた、ハーレイに話したい気分。「前のぼくも欲しかったんだよ」と。
(ハーレイ、来てくれたらいいのにな…)
帰りに寄ってくれないかな、と窓の方に何度も目を遣っていたら、聞こえたチャイム。待ち人が訪ねて来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、今日の授業の時に言ってた、切符の話…」
こんな切符があったんだぞ、って話していたでしょ、昔の切符。
「合格切符か、面白い話だっただろう?」
「そっちじゃなくって、幸福の方だよ! 幸福切符!」
幸福駅行きの切符の話…。幸福駅、今は無いらしいけど…。
「なんだ、お前も幸福切符が欲しいのか?」
クラスのヤツらも欲しがっていたが、お前も欲しいクチなんだな。幸福切符。
「うん。でも、欲張り…」
今の時代は、幸せが沢山ある時代だから…。みんな幸せに暮らせる時代で、幸せ一杯。
そんな時代に幸福切符を欲しがったりしたら、欲張りだよね、って。
クラスの友達はかまわないけど、ぼくだと欲張りすぎだから…。
前のぼくよりずっと幸せなんだし、もっと幸せになりたいだなんて、欲張りすぎだよ。
「まあなあ…。俺たちの場合はそうなるだろうな」
もっと幸せになりたいんです、とは言いにくいからな、前が前だけに。
今の時代の暮らしだけしか知らなかったら、欲張りってことにはならないだろうが。
「ハーレイだって、そう思うでしょ?」
今のぼくだと、幸福切符を欲しいと思うのは欲張りすぎ、って。
でもね、そういう切符なんだけど…。
欲しかったんだよ、と打ち明けた。「ぼくじゃなくって、前のぼくが」と。
「前のぼくが欲しかった切符は、地球行きの切符。たまに切符が紛れてたでしょ?」
人類の船から物資を奪ってた頃に、時々、人類が持ってた宇宙船の切符。
見付かる度に、地球行きの切符があればいいな、って思ってたんだよ。
「そういや、お前、欲しがってたなあ…」
今度も違った、って残念そうな顔で見てたな、違う行き先が書かれた切符。
地球行きのヤツが欲しいのに、と。
「うん…。地球行きの切符が手に入ったら、大切に持っていたかったのに…」
お守りにしたいと思っていたのに、いつだって別の行き先ばかりで…。
とうとう一枚も無かったんだよ、地球行きのは。…切符、何度も紛れていたのに…。
「そうだったっけな。…あの頃の俺は、きっと航路が違うんだろうと思っていたが…」
地球へ向かう船は、もっと違う所を飛んでいるんだと信じていたな。
座標も分からなかった星だし、そう簡単には近付けない所にあるに違いないと。
コソコソ隠れて飛んでいる船じゃ、地球行きの船と航路が交わりはしないんだろうと…。
「前のぼくも、そうじゃないかと思っていたけど…。きっと出会えないだけなんだ、って」
だけど、本当は地球行きの船が無かっただけ。青い地球は何処にも無かったから。
普通の人を地球まで載せて行く船は、あの頃は一つも無かったから…。
あるわけないよね、地球行きの切符。そんな切符を持っている人がいないんだから。
「まったくだ。あの時点で気付くべきだったんだな、あちこちで物資を奪ってたんだし」
どうも怪しいと、誰も地球へは行こうとしないと。
切符の数は、それほど多くはなかったが…。それにしたって、人類の夢の星だったんだから。
一枚くらいは混じっているのが普通だよなあ、地球行きの切符。
誰もが行きたい夢の星なら、地球へ向かうヤツも多いんだろうし。
「そうなんだよね…。地球に住めるのは一部の人でも、行くのは自由だろうから」
地球を見に旅行するんです、って人が沢山いる筈なんだよ。本当に人類の聖地だったら。
青い地球が何処かにあったなら。きっと人類は旅をしたのに違いない。地球を見ようと、其処に住めるほど偉くなくても、青い星を一目見てみたい、と。
けれど無かった地球行きの切符。それを持った人が何人も旅をしているだろうに、一枚も手には入らなかった。…今から思えば、とても奇妙なことだったのに。
「前のぼく、なんで気付かなかったんだろう…」
地球行きの切符が無いっていうのは、変だってこと。
他の星へ行こうとする人の数より、地球へ行こうとする人の方が多そうなのに…。
それが一枚も混じっていないだなんて、なんだか変じゃないか、って。
「地球行きの切符だったからじゃないのか?」
前のお前が行きたかった星で、幸福駅行きの切符みたいなものだろう?
幸福を運んでくれる切符なんだと思い込んでいたから、手に入らなくても不思議じゃない。
素敵な夢の切符ってヤツは、そう簡単には手に入らないからこそ価値がある。
地球行きの切符が山ほどあったら、有難味も何も無いからな。お守りどころか、ただのゴミだ。
「そう、それなんだよ!」
前のぼくは幸福切符も、幸福駅も知らなかったけど…。
幸福駅行きの切符の代わりに、地球行きの切符が欲しくって…。お守りに持っていたくって。
もしも地球行きの切符があったら、地球まで運んでくれそうだから。
幸福行きの切符で幸せになれるみたいに、地球に行けるお守りになりそうだから…。
人間って、いつの時代でも同じなんだね。
幸せになれる切符が欲しくて、行き先が地球か、幸福駅かの違いだけなんだよ。
「そうかもなあ…」
前のお前は、幸福切符を知らなかったが、同じような意味で地球行きの切符が欲しかった。
SD体制よりも前の時代の日本のヤツだと、幸せになりたくて幸福切符。
わざわざ幸福駅だけ残して、入場券を買いに出掛けて…。
同じようなことをしたかったんだな、前のお前も。地球行きの切符を、幸福行きの切符にと。
面白いもんだな、考えてみると。…前のお前が幸福切符を探してたなんて。
SD体制が始まるよりも遠い昔に、人気を集めた幸福切符。幸福駅という名の駅名の切符。その駅を通る列車が無くなった後も、幸福駅は残り続けた。切符を欲しがる人がいたから。
幸福という駅に行きたくて。幸せに辿り着きたくて。
前の自分は、それと同じに地球行きの切符が欲しかった。行き先に「地球」と書いてある切符。
そういう切符が手に入ったなら、地球まで運んでくれそうだから。その切符が使える宇宙船には乗れないけれども、いつか地球まで行けそうだから。
「…前のぼくは地球行きの切符が欲しくて、ずうっと昔の人は幸福駅行きの切符が欲しくて…」
どっちも幸せになれる切符で、今だって欲しがる人はいるのに…。
クラスのみんなも欲しがっていたし、ぼくだって欲張りすぎでなければ欲しいよ、幸福切符。
そう思うけれど、幸福駅、今は無いんだね。
…ちゃんとあっても良さそうなのに。日本の文化で、作っておいてもいいと思うのに…。
幸福駅があった所と同じ所に、昔のとそっくりな幸福駅を。
きっと人気が出ると思うよ、列車が通る駅じゃなくても。駅だけポツンと建っていたって。
「今は無いのは、要らないからだろ。…幸福駅が」
観光名所にはなりそうなんだが、心の底から幸福が欲しくて駅に行くヤツがどれほどいるか…。
いつか幸せになってみせる、と頑張らなくても、幸せを持っているんだから。
前の俺たちなら、幸福切符が欲しいと本気で願っただろうが…。幸福駅に行ける切符ってヤツが欲しかったろうが、今の俺たちだと、そいつは本当に必要なのか?
そうじゃないだろ、幸せはとっくに山ほど持っているんだから。
他のヤツらも同じことだな、幸福切符を手に入れなくても幸せなんだ。もうちょっと、と欲張ることはあっても、ほんの小さな幸せじゃないか?
デカイ幸せは、最初から持っているんだから。暖かな家も、温かな家族も、何もかも全部。
そうだろうが、とハーレイが穏やかに微笑む通り。
今の時代は、幸福を求めなくても幸せな時代。幸福駅行きの切符に縋らなくてもいい時代。
誰もが幸せに生きてゆけるし、幸福切符で貰える幸福は小さなもの。もうちょっとだけ、と願う小さな幸福、ささやかな幸せ、たったそれだけ。
「そっか、幸福駅行きの切符が無いのは、欲張りになっちゃうからだけじゃなくて…」
幸福切符を持っていたって、あんまり意味が無いからなんだね。大きな幸せは、みんな最初から全部揃っているんだから。
「そういうことだな、幸福駅も幸福切符も必要ないのさ。…今の時代は」
俺たちだって要らないだろうが、幸福切符は。
前の俺たちには必要だったが、今の俺たちには要らないってな。
「んーと…。ホントは、ちょっぴり欲しいんだけど…」
幸福駅が今もあるなら、幸福駅行きの切符が欲しいよ。
前のぼくは地球行きの切符を手に入れられなかったから…。代わりに、今の幸福切符。
「おいおい、そいつで何をするんだ?」
どんな幸せを頼むつもりだ、幸福切符に?
「決まってるでしょ、ハーレイと幸せになりたいんだよ」
前よりも、うんと幸せに。…結婚して、ハーレイと一緒に暮らして。
「幸せにって…。なれないわけがないだろう…!」
そんな切符に頼らなくても、お前は幸せになるんだろうが。
今度こそ俺と一緒に暮らして、いつまでも幸せ一杯で。
お前は帰って来たんだから。…俺の所へ。
新しい命と身体を貰って、うんと幸せに生きて行ける地球に生まれて来たんだから。
幸福駅の役目がすっかり終わっちまったほど、平和で幸せな青い地球にな。
そうじゃないのか、と言われた通りに、今の時代は幸福駅が要らない時代。幸福駅行きの切符が無くても、生きているだけで誰もが幸せになれる。青い地球でも、他の星でも。
人間は全てミュウになったし、大きな幸せは最初から持っているものだから。もうちょっと、と願う幸せも、生きていればきっと貰えるのだから。
「いいか、今の俺たちが生きてる時代ってヤツは、だ…」
誰でも幸せを山ほど抱えて、幸福駅に向かって歩いているってな。自分の足で。
自分だけの幸せを見付けていくんだ、歩きながら。幸福駅はいつでも、目の前なのさ。
一歩進めば、直ぐに幸福駅に着く。もっと、と先へ進んで行ったら、其処にも幸福駅ってな。
「そうかもね…!」
歩けば歩くほど幸せになってゆけるんだものね、今の時代は。
明日は今日よりもっと幸せで、その次は、もっと。
いつかハーレイと結婚したって、幸せはまだまだあるんだもの。幸福駅が一杯、駅が山ほど。
自分で歩いて見付けるんだね、今の時代の幸福駅は…。
幾つも幾つもある幸福駅、と胸に溢れた幸せな気持ち。今は幸福駅が幾つも。
この幸せな今の時代を、ハーレイと二人で歩いてゆこう。
幸福駅に行く列車は無くても、線路も無くても、幸福駅はあるのだから。
切符が売られる駅とは違って、誰の前にもある幸福駅。
何処までも、いつまでも、幸せの中を、ハーレイと歩いてゆけるのだから…。
幸福への切符・了
※遠い昔に実在していた幸福駅。そこの切符が人気だったように、前のブルーが望んだ切符。
地球へ行く切符は、手に入らないままでしたけど…。今は幸福駅の切符も要らない時代。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
さて…、とハーレイが皆を見回した古典の授業。小さなブルーも座っている教室。
昼間だが怖い話でもするか、と。
「今は怪談の季節だからな。シーズンにピッタリというヤツだ」
職業柄、怖い話は山ほど知ってる。どんなのが聞きたい、怖くて眠れなくなるようなヤツか?
シーズンだしなあ、とびきり怖いのを話してもいいぞ。
「間違ってると思いますが!」
今が怪談の季節だなんて、と声を上げたクラスのムードメーカーの男子。怪談の季節はとっくに終わっているから、ハーレイ先生は間違えてます、と。
「間違えてるだと? それはお前だ、間違ってるのはお前の方だ」
だが…。お前だけでもないんだろうなあ、間違えてるのは。
よし、怪談の季節は夏だと思うヤツは手を挙げろ。俺が数えるから。
夏なヤツは、と訊かれてサッと挙がった何人もの手。もちろんブルーも。
(…夏だもんね?)
見回してみたら、全員の手が挙がっていたからホッとした。ぼくだけじゃない、と一安心。
けれど、ハーレイの方は「ふうむ…」と腕組みをして。
「みんな揃って夏だと来たか。何処で訊いてもこうなるんだが…」
間違ってるのは俺の方だと言い返されるのも、定番なんだが…。怪談は夏のものだとな。
作られたイメージは今も健在ってことか、SD体制の時代は遠い昔のことなんだが。
「え?」
クラス中がキョトンと見開いた瞳。SD体制の時代とは、いったいどういう意味だろう?
遥かな昔に機械が統治していた世界。機械が作った偽の情報を誰もが信じた時代。当時は死の星だった地球が青いと思い込まされたり、血縁の無い親子関係が普通なのだと思っていたり。
その時代はとうに過去のものになって、支配していたマザー・システムも壊された後。
なのにどうして、作られたイメージが今も残っているのだろう?
しかも怪談の世界なんかに、SD体制の名残などが。
変だ、と誰もが首を傾げる中、ハーレイは「マザー・システムは無関係だぞ?」と前のボードをコンと叩いた。俺の話とSD体制は関係無い、と。
「似てるトコはだ、作られたイメージを信じ込んでる所だな。怪談は夏のものなんだ、と」
だが、間違えて覚えてるのもいいことだ。
SD体制が消しちまってた、日本の文化が復活している証拠だからな。怪談は夏だ、というのは日本の文化の一つだ。他の地域じゃ、特に夏とは言わないんだから。
ついでに日本も、昔は夏とは決まってなかった。
…百物語というのがあるだろ、集まって怖い話を披露するヤツ。百話目を語り終わった途端に、本物の化け物が登場すると言われているが…。
百話だぞ、百話。それだけの怪談を繰り広げるなら、夜の時間が長くないとな?
夏は日暮れが遅いものだし、夜明けも早い。そんな季節にやっているより、時間がたっぷりある季節の方が雰囲気が出る。だから、元々は春雨の夜や、秋の夜長が怪談の季節だったんだ。
つまり今だな、秋は怪談のシーズンだった。ずっと昔の日本ではな。
ところが、とハーレイがボードに書いた「歌舞伎」の文字。江戸時代に流行った歌舞伎のことは授業で教わる。後の時代まで愛された芝居。
「こいつが季節を変えちまったんだ、怪談の。…歌舞伎は年中、やってたわけだが…」
夏になったら、芝居小屋の入りが悪くなる。今と違って冷房が無いから、人の集まる所なんかに行きたくないのが人情ってモンだ。
どうせお客は来ないんだから、と人気役者も休みを取ってた。そうなると残るのは若手だろ?
自分たちの人気では客を呼べんし、ただでも客が来ない季節だし…。
なんとか人を呼べないものか、と目を付けたのが怪談だった。大掛かりな仕掛けや、本物の水。そういったものを派手に使って、怖い芝居をやったわけだな。
そいつが人気を集めたもんで、夏に怪談をやることになった。客の方でも、夏は怪談を楽しみに出掛けてゆくって寸法だ。芝居小屋へと。
「へええ…。それで怪談は夏なんですか…」
江戸時代に決まっちゃったんですか、と目をパチクリとさせているクラスメイトたち。
まさか歌舞伎のせいだったとはと、それまでは春や秋だったのかと。
「そうなるな。夏になったら、怪談をやって客を集めるわけだから…」
芝居の中身も、本来は冬の場面だったヤツを夏に置き換えて演じるとかな。
季節感ってヤツも大切だろうが、芝居の世界に客を引き込むには。
「季節を変えるって…。そこまでやってたんですか!?」
「客を呼べないと話にならんし、サービス精神だったんだろうな」
芝居を見ている客の方でも、「おや?」と思うヤツはいたんだろうが…。
面白かったらそれで充分、と文句はつけなかっただろう。せっかくの芝居見物の席で、つまらん話はするもんじゃない。無粋な客だと思われちまうし、周りも楽しくないからな。
そういうわけで…、と続いた話。
江戸時代に出来てしまったイメージ、夏になったら怪談の季節。芝居小屋の目玉が怪談だけに、芝居小屋の外でも流行った怪談。怖い話は夏が似合う、と。
お蔭で後の時代になっても、怪談と言えば夏のもの。客を怖がらせるお化け屋敷も、夏に幾つも作られたという。
「怖いと背筋が寒くなるしな、暑い夏にはピッタリだったというわけだ。涼しくなって」
生憎、SD体制の時代には消されちまっていたが…。怪談は夏だというイメージは。
それが立派に復活して来て、お前たちも夏だと思い込んでる。日本の文化が戻ったからだ。
だが、秋だからと油断するなよ。年中、お化けは出るもんだ。
「出るんですか!?」
「夏は作られたイメージなんだ、と言った筈だぞ」
お化けや幽霊にシーズンオフは無いんだからな、と結ばれたハーレイの今日の雑談。
如何にも出そうな夜中なんかは気を付けるように、と。
(お化けにシーズンオフは無し…)
ちょっぴり怖い、と震えたブルー。
フクロウの声をお化けだと思って怯えた、幼かった頃。幸い、本物の幽霊やお化けに出くわしたことは無いのだけれど。
(一年中、出るってことだよね…?)
夜に一人で歩くのはやめよう、と肝に命じた。
元々、夜の散歩はしないけれども。庭がせいぜい、垣根の外へは行かないけれど。
学校が終わって家に帰って、おやつを食べて。
美味しかった、と部屋に戻ったら、ハーレイの雑談を思い出した。ずっと昔は、秋は怪談。夜の時間が長くなるから、百物語に丁度いい季節。気候も快適、寒くも暑くもない季節。
(本当は今が怪談の季節で、お化けとかにはシーズンオフが無いんだったら…)
出るのだろうか、お化けや幽霊。
夜にパチンと明かりを消したら、この部屋にだって。何処からかスウッと入り込んで。
ああいったものに、壁などは意味が無いだろうから。屋根だって通り抜けるだろうから。
(今のぼくだと、大丈夫だけど…)
お化けはともかく、幽霊の方は部屋に入って来ないだろう。恨まれるような人は誰もいないし、恐ろしい目にも遭ってはいないから。…幽霊のいそうな場所に行くとか。
(でも、前のぼく…)
チビの自分はいいのだけれども、生まれ変わる前の自分の方。
ソルジャー・ブルーだった頃の自分は、恨みを買ってはいないだろうか。普段はすっかり忘れてしまっているのだけれども、前の自分は人を殺した。ミュウの未来を守り抜くために。
躊躇いもなくぶつけた強いサイオン。いったい何人殺しただろうか、あのメギドで。前の自分が倒して進んだ警備兵たち、彼らの数だけ命も思いもあったのに。
(恋人がいた人とか、家に家族がいた人だとか…)
そんな兵士もいたかもしれない、あの中には。
メギドへと飛ぶ前の自分を撃ち落とそうとして、同士討ちになってしまった人類の船。幾つもの船が宇宙に散ったし、彼らも恨んでいたかもしれない。前の自分に出会わなければ、と。
恨まれてはいない、と言い切れないのが前の自分。人を殺して、人類軍の船に同士討ちをさせてしまった自分。もしも彼らが恨み続けて、幽霊になっていたのなら…。
(…もしかして、出る?)
この部屋にだって、と見回したけれど、前の自分は彼らの幽霊に出会ってはいない。前の自分が見ていないものは出ない筈、と安堵しかけて気が付いた。
(ぼく、死んじゃったし…)
それでは出会うわけがない。恨んで出たって相手も幽霊、まるで話にならない状況。幽霊同士で会った所で、怖がっては貰えないのだから。
(じゃあ、今のぼくに…)
その分を返しに来るだろうか、と肩をブルッと震わせたけれど、今の自分はもう時効だろう。
ソルジャー・ブルーにそっくりなチビでも、同じ魂でも、時間が経ちすぎているのだから。
自分がこうして生まれ変わって来たのと同じで、彼らも何処かで新しい命を貰った筈。人類軍にいたことは忘れて、今の時代ならミュウとして。
ひょっとしたら、何処かで会っているかもしれない。幼かった自分に、公園でお菓子をくれたりした人たち。その中に混じっていたかもしれない、温かな笑顔の人たちの中に。
今は平和な時代だから。人殺しなどは起こらない時代、人を恨みもしないから。
どうやら会わなくて済みそうな幽霊。前の自分が、誰かの恨みを買っていたとしても。
心配なのはお化けくらいで、幽霊の方は大丈夫だよ、と思った所で気が付いた。
(シャングリラ…)
前の自分が暮らした船。三百年以上もの時を過ごしたけれども、幽霊が出るとは聞かなかった。ただの一度も聞いてはいないし、幽霊はいないのかもしれない。
(怪談、沢山あるんだけれど…)
今の時代も語られるけれど、シャングリラには無かった幽霊話。あれだけ大きな船になったら、一つくらいはありそうなのに。
(アルタミラで殺されてしまった仲間が、夜になったら歩き回るとか…)
あるいは助けられずに殺されてしまったミュウの子供たち、彼らの声が聞こえるだとか。照明を落とした夜の通路で、はしゃぎ回る子供たちの声や足音。
あってもおかしくない話。見た人がいたり、聞いた仲間が何人もいたり。
けれど、一つも無かった怪談。幽霊の話は誰もしなくて、前の自分も聞いてはいない。そういう話があったのならば、確かめに行こうとする筈だから。
アルタミラで死んでしまった仲間や、助け損ねた子供たち。
彼らが船に乗っているなら、助けてやらねばならないから。…いつまでも船に乗っていないで、また幸せに生きられるように。
どうしても船に残りたいなら、船の仲間たちを怖がらせないように注意もして。
前の自分はソルジャーだったし、それも仕事の内だったろう。船に幽霊が出るというなら、皆が怯えてしまわないよう、手を打つことも。
その必要は無かったけれど。
シャングリラに幽霊は乗っていなくて、怪談も無かったのだから。
でも…。
ふと思い出した、幽霊のこと。前の自分が聞いていた言葉。
(誰か、幽霊って…)
幽霊などはいなかった筈のシャングリラ。なのに幽霊を探していた誰か。
誰だったのか思い出せないけれども、確かに誰かが探していた。出る筈もない幽霊を。あの船で誰も見なかったものを。
(誰…?)
いったい誰が探していたのか、何故、幽霊を探すのか。怪談が好きで探すにしたって、そういう噂も無かった船では、探し回るだけ無駄だったろうに。
探していた人も、理由も全く分からないや、と小さな頭を悩ませていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり切り出した。
「あのね、幽霊なんだけど…」
幽霊のことで、ハーレイに教えて欲しいんだけど。
「お前、幽霊、見たことあるのか?」
「ううん、一度も見たこと無いけど…」
ぼくも、前のぼくも、幽霊には会っていないんだけど…。
「なら、怪談をしてくれってか? とびきりの怖い話ってヤツを」
今日の授業では話さなかったが、今は怪談のシーズンだしな?
どんなのがいいんだ、俺が帰ったらガタガタ震え出すほど怖い話か?
この部屋で一人で眠れなくなって、お母さんたちの部屋に行くようなヤツ。…風呂もトイレも、とても一人じゃ入れません、って泣きながら付き添いを頼むくらいの。
「そうじゃなくって…!」
本物の怖い話じゃなくって、幽霊の方。
幽霊が出て来る話を聞かせて欲しいんじゃなくて、幽霊のことを訊きたいんだよ…!
でも、その前に、と釘を刺すのも忘れなかった。「怖い話はしないでよ?」と。
とびきり怖い怪談とやらを、聞かされたのではたまらないから。小さなチビの自分が聞いたら、きっと酷い目に遭うだろうから。
「ホントに怪談は要らないからね。…授業中に聞かされちゃったら諦めるけど、今は嫌だよ」
それで、幽霊の話なんだけど…。
今日のハーレイの話を聞いたら、色々と思い出しちゃって…。
シャングリラには幽霊、出なかったでしょ?
見たって話も聞かなかったし、出るって話も無かった筈。だけど、誰かが探してたんだよ。幽霊なんかは出ない筈の船で、幽霊探し。
「なんだって?」
そんな酔狂なヤツがいたのか、シャングリラに…?
怪談を楽しむ余裕があるなら結構なんだが、出て来ないものは探しても無駄だと思うがな?
「そう思うんだけど…。だけど、確かに幽霊を探していたんだってば」
誰だったか思い出せないんだけど…。何故、幽霊を探してたのかも。
「それは、いつ頃のシャングリラだ?」
「えっ?」
「アルタミラから逃げ出した後か、白い鯨になった後かだ」
時期によって探す幽霊が変わって来そうだからな。
白い鯨なら、助け損ねた子供の幽霊。…アルタミラの方なら、船に乗れなかった仲間たちだ。
逃げ出す前に死んじまった仲間は大勢いたから、幽霊になって乗っていたっておかしくないし。
「そうだね、時期は手掛かりになりそう…」
誰だったのかも分からないけど、船の景色とかで思い出せるかな…?
改造してすっかり変わっちゃったし、幽霊探しの場所くらいなら分かるかも…。
えーっと、と遠い記憶を手繰る。幽霊を探して歩いていた誰か、その人が行った所は、と。
(誰だっけ…?)
それに何処、とハーレイに貰ったヒントを頼りに探ってゆく。場所は何処なのか、いつの話か。おぼろげな記憶は頼りなさすぎて、何も掴めそうにないのだけれど。
(…乗降口…?)
其処だ、と浮かんだ小さな手掛かり。いつも閉まっていた扉。
白いシャングリラに乗降口と呼ばれるものなどは無くて、改造前の船にあったもの。宇宙空間に乗り降りをする場所は無いから、常に閉まっていたわけで…。
(ハンス…!)
たった一度だけ、乗降口を使った時。アルタミラから脱出する時、皆が其処から乗り込んだ。
もう生き残りは一人もいない、と確認した後もギリギリまで待って離陸した船。誰かいるなら、助けたいという一心で。誰もいないと分かってはいても。
そうして地面を離れてゆく時、閉めるのを誰もが忘れた扉。ブリッジの者たちは全く気付かず、乗降口から外を見ていた前の自分たちも、閉めることに思い至らなかった。開けたままだと危険なことにも、離陸するなら閉めるものだという鉄則にも。
其処から放り出されたハンス。ゼルの弟。
ゼルはハンスの手を握り締めて、引き上げようと力を尽くしたけれど。その手は離れて、燃える地獄へ落ちて行ったハンス。「兄さん」という叫びを残して、ただ一人きりで。
思い出した、と蘇った記憶。
ゼルが弟を探していた。夜を迎えて明かりを落とした船の中で。暗くなった乗降口の辺りで。
もしや姿が見えはしないかと、幽霊でもかまわないからと。乗っているのかと、ハンスの幽霊を探したゼル。いるのなら、きっとこの辺りだと。ハンスは此処しか知らないから、と。
「ゼルだった…!」
幽霊、ゼルが探していたんだよ。ホントだよ、ずっと若かったゼルが。
「あいつがか?」
「うん…。ハンスの幽霊を探していたよ。乗降口の所に行って」
夜になったら探してたんだよ、毎日かどうかは知らないけれど…。
前のぼくが泣きそうな思念を拾った時には、いつだってゼル。…ハンスの幽霊を探してたゼル。
知ってたの、前のぼくだけなのかな?
そういう話は聞いていないし、前のハーレイも知らなかったのかな…?
「ゼルなあ…。待てよ、そういえば…」
俺も会ったな、幽霊を探していたゼルに。
夜に通路を歩いていた時、妙な方から来たもんだから…。そっちに用があったのか、と訊いたらハンスを探していたんだ。乗降口まで行った帰りだと答えたっけな。
幽霊でもいいから会いたいんだが、と話していた。「今夜も会えなかったがな」と。
「ゼル…。ハンスの幽霊に会えたのかな?」
会えたから、探さなくなったのかな?
もう一度会えて、もしかしたら話も出来たとか…?
「会えていないと思うがな…?」
ずいぶん後になってからでも、酔った時にたまに零してた。
ハンスときたら、会いにも来ないと。幽霊になって来ればいいのに、一度も会いに来ないとな。
だから会えてはいないんだろう、とハーレイはフウと溜息をついた。ゼルがいつまで幽霊探しをしたかはともかく、ハンスには会えなかったようだ、と。
「幽霊ってヤツは、この世に思いを残して死んだ人間の霊だという話だから…」
そいつが本当の話だったら、ハンスの幽霊が出てもおかしくはないが…。
ゼルと一緒にシャングリラにいたくて、乗っていたって少しも不思議じゃないんだが。
「幽霊、いないの?」
ハンスの幽霊が出なかったんなら、幽霊は存在しないものなの…?
「そう思うのか?」
「だって、見たことがないよ、前のぼくは」
三百年以上も生きていたって、ただの一度も。
アルタミラだったら、幽霊、山ほどいそうなのに…。研究所の中、ミュウの幽霊だらけで。
それにシャングリラだって、幽霊は沢山いそうな感じ。ハンスもそうだし、アルタミラで死んだ仲間たちが大勢、「乗せてってくれ」って乗っていそうだし…。
アルテメシアで助け損ねた子供たちだって、乗せて欲しくて来そうだよ?
だけど幽霊の話は一つも無くって、前のぼくも見てはいないんだから。
「前の俺も、其処は同じだが…」
あの船で幽霊を見てはいないが、幽霊が存在するかどうかってことになったら…。
今の時代もいるかはともかく、昔はいたんじゃないかと答える。魂は存在するんだから。
お前も俺も生まれ変わりだ、魂があるって証拠だろうが。
身体を持たずに此処にいるなら、俺たちは立派に幽霊なわけだ。
つまり、幽霊は存在する。魂があるなら、幽霊だって存在しないわけがないからな。
ただ、問題は出るかどうかで…、とハーレイの指がトンと叩いたテーブル。魂があっても、姿を見せに行かない限りは幽霊になれはしないから、と。
「お前も俺も、魂を持っているわけで…。こうして生まれ変わる前なら、幽霊になれた」
思いを残して死んだ人間しか出ないにしたって、残した思いがあったなら…な。
俺はお前を追い掛けることしか考えていなかったわけだから…。
思い残すことは無かったわけだが、お前は違う。…地球を見たかった、という気持ちはどうだ?
本当に微塵も思わなかったか、地球を見ないままで死ぬのは嫌だ、と。
「…ちょっぴりなら…」
ほんの少しなら思っていたかも…。
シャングリラが地球に行くんだったら、幽霊になって一緒に行きたかったかも…。
それに船にはハーレイもいるし、幽霊になることが出来るなら。
「ほらな、お前は幽霊になれる資格があったんだ。…何処にも生まれていなかったんなら」
死んだ途端に、何処かに生まれ変わっていたなら、幽霊になってる暇は無いんだが…。
今頃になって俺と二人で地球にいるんだ、生まれ変わっていたとは思えん。お前も、俺もな。
そして、お前が幽霊になって出てゆきたいなら、俺も一緒に行っただろう。
アルテメシアでも、解体される前のシャングリラでも。
「…でも、前のぼくの幽霊、出ていないよね?」
ハーレイと二人で出てはいないよね、出たなら記録がありそうだから。
「まったくだ。…ソルジャー・ブルーとキャプテン・ハーレイの幽霊なんだぞ」
怪談じゃなくて、神様が現れたみたいな扱いになっていそうじゃないか。
此処に確かにいたんです、って像が出来たりして、観光名所になっちまってな。
「ホントだね…」
恨んでます、っていう顔で出るんじゃないから、見た人、大喜びしそう…。
凄い幽霊に出会ったんだ、って自慢して回っていそうだよ。
もしもカメラを持っていたなら、ぼくたちの幽霊、写真に撮ろうと大慌てかも…。撮影するまで消えないで下さい、ってカメラを向けて、うんと沢山、写真を撮るかも…。
幽霊の写真、撮れるとは限らないのにね…?
きっと撮っても写らないよね、とハーレイに言ったら、「そうでもないぞ?」と返った返事。
遠い昔には、幽霊の写真が流行った時代があったのだという。人間が地球しか知らなかった頃、大流行した心霊写真。人間の目には何も見えなくても、カメラが捉えた幽霊の姿。
「本物かどうかは分からないがな、ずいぶん流行っていたそうだ」
此処へ行ったら撮れるらしい、って場所に大勢、カメラを持って押し掛けるとか。
「そうなんだ…。じゃあ、撮れたのかもしれないね。前のぼくとハーレイの幽霊だって」
だけど、幽霊が出たっていう記録も無いみたいだし…。ハーレイも知らないみたいだし。
出ていないんだね、前のぼくたち。…幽霊になり損なっちゃった。
ジョミーたちなら出ていたのかなあ、アルテラだとか。
「そっちも知らんな、もしも出たなら有名になってる筈だから…。出ていないんだろう」
ジョミーはともかく、アルテラだったらトォニィのことが心残りで出そうだが…。
出ても少しも不思議じゃないのに、出ていない。…ハンスと同じだ。
「ミュウは幽霊になれないのかな?」
魂はあっても、幽霊になれる資格がありそうな人も、ミュウだと幽霊になれないだとか…?
だからハンスもアルテラも駄目で、幽霊は出ないままだったのかな…?
「そうかもなあ…。ミュウは幽霊になれないのかもな」
アルタミラにあった研究所とかなら、物凄い数の幽霊が出そうな気がするんだが…。
あそこでさえも一つも見てはいないし、前のお前も知らないと言うし。
第一、ミュウが幽霊になれるとしたなら、人体実験をやめちまったかもなあ、研究者どもは。
「夜になったら幽霊が出て来て、怖くて腰を抜かすから?」
「そういうことだ。…それに幽霊は昼でも出るぞ」
本当に強い恨みがあったら、昼間でも遠慮はしないんだ。それが幽霊の怖いトコだな。
しかし、アルタミラにミュウの幽霊は出なかった。
シャングリラにも幽霊は出ないままでだ、アルテラの幽霊だって出てはいないんだよなあ…。
実に不思議だ、と考え込んでいるハーレイ。今の今まで気付かなかったが、なんとも妙だと。
「アルタミラにしても、シャングリラにしても…。幽霊は出そうな感じなんだが」
実験で殺されちまったヤツらや、シャングリラに乗れなかった子供の幽霊やらが。
ところが、まるで出なかったもんで、そういうもんだと思ってた。
キャプテンだった俺にしてみれば、有難いことではあったわけだが…。
幽霊が出るって噂が立ったら、きちんと対処しなくちゃならん。怖がるヤツらも多いだろうし、夜勤をしないと言い出すヤツらも増えそうだ。それは大いに困るからなあ、キャプテンとしては。
「そっか、ハーレイの仕事になるんだ…。幽霊対策」
前のぼくだと思っちゃってた、仲間たちの幽霊なんだから。ぼくが話を聞いてあげたり、いてもいい場所を教えてあげたり。
「いや、まあ…。俺の仕事だというだけのことで、俺には何も出来んしなあ…」
昔話の坊さんみたいに、出なくなるような有難い話も聞かせてやれんし、前のお前に頼むことになっていただろう。あそこに出るから、なんとか出ないようにしてくれないか、と。
幸い、何も出なかったが…。お蔭で俺は助かったんだが。
「ミュウの幽霊、なんでいないんだろ?」
どうして一人も幽霊にならなくて、アルタミラにもシャングリラにも出なかったんだろ…?
「俺が思うに、思念体ってヤツのせいかもなあ…」
「思念体って…。どういうこと?」
なんで幽霊にならなくなるわけ、思念体のせいで?
「俺は思念体になって抜け出すことは出来ないんだが…。昔も今も」
しかし、前のお前やジョミーは抜け出せたろうが。身体からヒョイと、精神だけで。
魂が自由に出入り出来るようなモンだろ、あれは?
あそこまでの技は、生きてる間はサイオンが強いヤツにしか出来ない芸当なんだが…。
ミュウは誰でも、死んじまったら思念体のようになるんだろう。ああ、これか、と気付くんだ。
だから、魂が本当に身体を離れちまった時に抵抗が無いのかもしれん。
死んじまった、とは思うんだろうが、「まあいいか」と、そのまま飛んでっちまう。この世への未練が少ないわけだな、しがみ付いてなくても次があるさ、と。
幽霊になって恨みがましく残るよりかは、次の世界に行くんじゃないか、というハーレイの説。言われてみれば、そんな気がしないでもない。今の自分は思念体にはなれないけれど。
(ぼくのサイオン、不器用だから…)
とても抜け出せない身体。けれども、前の自分は違った。思念体で身体を抜け出していた。
精神だけがスルリと身体を離れて、様々な場所へ。…あまり遠くへは行けなかったけれど。
(身体に戻れなくなったら困るし…)
このくらいかな、と考えていた限界。これより先へ行っては駄目だ、と。
その限界が無くなったなら、と思ったことは何度もあった。いつか寿命が尽きた時には、身体を離れるだろう魂。その時が来たら、地球へまでも飛んで行けるだろうか、と。
青い地球まで飛んで出掛けて、心ゆくまで眺めてみたいと。
(でも、ハーレイがいないんだよね…)
死んでしまったら、ハーレイとの間に出来てしまう溝。死者と生者を隔てる壁。
それが恐ろしくて、離れたくなくて、いつも途中で打ち消した思い。魂だけで地球に行くより、ハーレイの側がいいのだから、と。
前の自分が考えていたことを思い出したら、腑に落ちた思念体のこと。
アルタミラの研究所で殺されていった多くの仲間も、アルテメシアで救い損ねて死んだ子供も、幽霊になって残る代わりに未来へと飛んで行ったのだろう。希望の光が見える方へと。
「ハーレイの言う通りかも…」
前のぼくもね、たまに思っていたんだよ。いつか死んだら、青い地球まで行けるかも、って。
思念体だと遠い所へは行けないけれども、魂だけになったなら、って…。
「なるほどなあ…。前のお前は、そうやって飛んで行ったんだな」
シャングリラで地球を目指して行くより、その方がずっと速いんだから。
幽霊になって船をウロウロするより、断然、そっちだと思ったわけか。
「…どうだったのかは分からないけどね」
ぼくは地球に行くより、ハーレイの側にいたかったから…。
幽霊になってハーレイの側で暮らせるんなら、そっちを選んだだろうけど…。
でも、前のぼくの幽霊、出ていないんだし、真っ直ぐに地球に行っちゃったかも…。
だけど、青い地球は無くてガッカリしちゃって、その後は何処へ行ったのかな…?
「行くべき所ってトコじゃないのか?」
俺の所へ戻って来るより、これだと思う道があったんだろう。先に死んだ仲間が行った道がな。
思念体になれるミュウの場合は、前向きに未来を目指してゆこうとするのかもしれん。…幽霊になって過去にしがみ付くより、とにかく先へ進もう、ってな。
「そうかもね…」
ハーレイの所へ戻らなかったの、そのせいかもね。
幽霊になって戻って行くより、先に行って待っていよう、って。
いつかハーレイが来てくれた時は、あちこち案内しなくっちゃ、って。
何があるのか、どんな所か、うんと詳しく調べておいて。こっちだよ、って迎えに出掛けて。
きっとそうだよ、と綻んだ顔。ハーレイが来るのを待っていようと、前の自分は考えたろう。
幽霊になって、元の世界にしがみ付くよりも。…他の仲間たちも通ったろう道、その道を行った先の世界で、ハーレイが来るまで待つのがいいと。
「ふむ…。お前が言うなら、そうなんだろうな。ミュウの幽霊が出ない理由は」
そういや、今の時代もだ…。幽霊が出たという話は全く聞かないし。
いない幽霊が出るわけがないな、誰も幽霊にはならないんだから。
「んーと…。夏の怪談は?」
怖い話はハーレイも沢山知ってるんでしょ、幽霊はやっぱりいるんじゃないの?
「それはそうだが…。具体的な情報ってヤツを、聞いたことがあるか?」
あそこに出るのは誰の幽霊で、生きていた時の住所は此処で、といった具合に。
漠然と白い影が出たとか、そういう話はアテにならんぞ。誰の幽霊か、知っているのか?
「ううん、知らない…」
名前や住所は聞いたことがないよ、怖い話を聞かされたって。
ずうっと昔の幽霊だったら、ぼくにも名前は分かるけど…。地球が滅びる前の人なら。
「ほらな、ミュウじゃない幽霊だろうが」
でもって、そういう時代の幽霊は、だ…。
きっと、とっくに生まれ変わって何処かで生きていると思うぞ。
こんなに平和でいい時代なんだ、幽霊のままで踏ん張ってたって、損をしてると思わんか?
美味いものも食えなきゃ、あちこち旅にも行けないってな。
そんなつまらん幽霊なんかをやっているより、新しい命を貰うべきだろうが。
幽霊なんぞはいないだろうな、今の世界は。とうの昔に生まれ変わって、全部絶滅しちまって。
絶滅と言うかどうかは知らんが、多分、一人もいないだろうさ。
今も残っている可能性があるのは、お化けの方だ、と笑ったハーレイ。
幽霊は絶滅しただろうけれど、お化けだったら出るかもな、と。
「お化け…。ハーレイ、夏に探してたっけね」
帰り道で会えるかもしれないな、って帰って行ったよ、楽しそうに。
夏だけのものじゃなさそうだけど…。今日のハーレイの話を聞いたら。
「うーむ…。俺もすっかり毒されていたか、今の文化に」
これは一本取られたな。夏にやってた、俺のお化け探し。
「秋もお化けのシーズンなんでしょ、本当は?」
おまけにシーズンオフは無くって、一年中、いつでもお化けのシーズン。
気を付けろよ、ってハーレイ、授業で言ったんだから。
「よし。…ここは前向きに受け止めるとするか、ミュウの幽霊が出ない理由を見習って」
せっかく怪談のシーズンなんだし、失敗をバネにお化け探しだ。
今もいるかどうか、頑張って探すことにするかな、次に歩いて帰る時から。
今日は車で来ちまってるから、今度の土曜の帰り道からだ。
「お化け探し…。それ、見付けちゃったら怖くない?」
凄く怖そうだよ、今の時代まで生き残ってるほどのお化けだなんて。
「何が出るかは知らないが、だ…。かかってくるなら、投げ飛ばす!」
ダテに柔道はやっていないぞ、投げてしまえばこっちのもんだ。
参りました、と降参するまで押さえ込んでギュウギュウ締め上げるってな。
お化けなんぞはただの化け物、と言うハーレイなら、確かに投げ飛ばせそうだから。カッコ良く投げて、ギュウギュウ締め上げて、お化けを降参させそうだから。
「お化け、見付けたら教えてね」
どんなのだったか、ぼくに詳しく説明してよ?
怖くて寝られなくならない程度に、姿とか、お化けの声だとか。
「もちろんだ。俺の武勇伝つきで語ってやるさ」
それにだ…。いいか、年中、お化けのシーズンなんだぞ?
お前も一緒に探しに行こうな、いつかはな。結婚したなら夜のデートで、お化け探しだ。
出るそうだという噂を聞いたら、俺と二人で出掛けて行って。
「えーっ!」
待ってよ、なんで二人で行くの!?
ハーレイが行けば充分じゃないの、お化けが出たらどうするの…!
今のぼくはサイオンが上手く使えないから、見付かっちゃったらおしまいだってば…!
お化けを投げ飛ばせるのはハーレイだけだし、ぼくは逃げるしかないんだから…!
怖いじゃない、と叫んだけれども、楽しそうではある、お化け探し。
今の時代は幽霊がいなくて、シャングリラの時代はお化けの方がいなかった。
昔話に出て来る沢山のお化け、百鬼夜行の化け物だって。
けれども、今は幽霊の代わりに、お化けの方がいそうだから。
何処かの闇からヒョイと出て来て、人間をビックリさせそうだから。
シャングリラの時代はいなかったお化け、それを二人で探してみようか。
青い地球なら、何かいるかもしれないから。
SD体制よりも古い時代に生まれたお化けに、バッタリ会えるかもしれないから。
シーズンオフが無いらしいお化け。
出会って怖い思いをしたって、きっとハーレイなら、カッコ良く投げてくれるだろうから…。
怪談の季節・了
※ハンスの幽霊を探していたゼル。けれど出会えず、シャングリラには出なかった幽霊。
何故かは全く謎ですけれど、今の時代にいそうなのは、お化け。いつか探すのも楽しそう。
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※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
元老寺の除夜の鐘で古い年を送って、ピカピカの新年。冬休みが終わればお雑煮大食い大会だとか、水中かるた大会だとか。一連の行事が終わった途端に迎えた週末、お正月気分も延長戦。会長さんの家でダラダラ過ごした土日の後は月曜、学校に行く日だったのですが。
「なんかさ、今日はおかしくない?」
雰囲気変だよ、とジョミー君が朝の教室で言い出しました。私たち七人グループが揃って直ぐのことです。最後に来たのってマツカ君だっけ…?
「雰囲気が変とはどういうことだ?」
俺は全く気付かなかったが、とキース君が返すと、ジョミー君は。
「じゃあ、マツカは? 特に何にも思わなかった?」
「はい…。門衛さんもいつも通りでしたよ? 貼り紙とかも無かったですし」
「そういう変じゃなくってさあ…。男の先生!」
「「「は?」」」
男の先生がどうかしましたか、私は今朝は先生自体に会ってませんが…。男も女も。男の先生、何処かで何かをしてましたかねえ、グラウンドに穴を掘っていたとか?
「そんなんじゃなくて! 一人も会わなかったんだけど!」
いつもなら誰か会う筈なのに、とジョミー君。運がいいのか悪いと言うのか、普段だったら教室まで来る途中に出くわすそうです、そして挨拶。
「…偶然じゃねえの?」
むしろ毎回会う方が不思議だ、とサム君が。
「俺たちが校門前で揃った時にはよく会うけどよ…。俺なんかブルーの家に朝のお勤めに行ってるせいかな、瞬間移動で登校が多いし、そうは会わねえぜ」
「私もジョミーほどではないわねえ…」
百発百中ってコトは無いわね、とスウェナちゃんも。
「きっと偶然よ、変だとしたなら今日のジョミーの運だと思うわ」
「俺も全く同意見だな」
男の先生にはちゃんと会ったからな、とキース君。
「えっ、何処で!?」
いつの間に、とジョミー君が訊くと。
「柔道部の部室だ、朝練をやってる後輩に伝言があったからなあ、メモを置きに」
其処で教頭先生に会った、という話。ほらね、やっぱり男の先生、ちゃんと学校にいるじゃないですか、ジョミー君が変なだけですってば…。
「…ぼくの運勢の問題なわけ?」
一人も会わなかった理由は、とジョミー君は不安そうな顔。
「もしも運なら、今日のぼくって大吉なのか、大凶か、どっち?」
「知るか、お前の運勢なんか」
俺は占い師じゃないからな、とキース君。
「第一、どうして大吉と大凶の二択になるんだ、もっと他にもあるだろうが」
「…一人も会わなかったわけだし、凄い吉なのか凄い凶かと思ったんだけど…」
「とことん極端なヤツだな、お前」
おみくじでももっと奥が深いぞ、とキース君は呆れた顔で。
「おみくじを置く寺も多いからなあ、俺の家にも見本のカタログが来るわけだ。置きませんかと」
「へえ…! それって面白そうですね!」
キース先輩の家におみくじ、とシロエ君が食い付きました。
「置いてみませんか、除夜の鐘とかの時に引きますから!」
「駄目だな、おみくじってヤツは普段から順調に出てこそだからな」
宿坊のお客様だけでは心許ない、とキース君。
「毎日のように団体様のお参りがあるとか、観光名所の寺だとか。そういう寺なら置いた甲斐もあるが、ウチでは手間が増えるだけだな」
だから置かない、と前置きしてから。
「そのカタログで見ていると、だ…。とんでもない運勢があったりするしな」
「どんなのですか?」
今日のジョミー先輩にピッタリですか、とシロエ君が訊くと。
「ピッタリかどうかは分からんが…。凶のち大吉、という凄いのがあった」
「「「凶のち大吉!?」」」
なんですか、その天気予報みたいなおみくじは? 本気でそういうおみくじがあると?
「あるらしいぞ。この近辺で採用している場所だとあそこだ、南の方のお稲荷さんだ」
「「「えーーー!!!」」」
そんなカッ飛んだおみくじを置いていますか、あそこのお稲荷さん。ちょっと引きたい気もしますけれど、凶のち大吉ならともかく、その逆だったら大変ですし…。
「おみくじは遊びじゃないからな。今日のジョミーの運勢は知らん」
フィシスさんにでも訊いてこい、とキース君が切り捨て、後は普段の雑談に。先生に会ったか会わないかなんて、別に占いにもなりませんってば…。
朝の雑談、話はあっちへ、こっちへと。とはいえ、ジョミー君が振ったネタは健在で。
「店だと、最初の客が女性なら吉だと聞くな」
キース君が何処かで聞いて来た話。店を開けて最初に入って来たお客が女性だったら、その日は儲かると言うんだそうです。けっこう有名な話だそうで…。
「それって、男の人しか行かない店でも?」
ジョミー君の質問に、キース君は「馬鹿か」と一言。
「状況に合わせて考えろ! そんな調子だから、男の先生に会わなかった程度で変だの何だの言い出すんだ」
「そうですよ。ジョミー先輩、気にしすぎですよ、偶然ですって」
でも…、とシロエ君が顎に手を当てて。
「最初のお客さん絡みのネタなら、ぼくも聞いたことがありますね。…何処のお店かは忘れましたが、中華料理のお店の話で」
「どんなのだよ?」
面白いのかよ、とサム君が反応。シロエ君は「そうですねえ…」と。
「お店にしてみれば、あまり嬉しくはないんでしょうが…。無関係な人には面白いですね」
「ほほう…。どういうネタだ?」
俺も気になる、とキース君が尋ねて、私たちも。シロエ君は「炒飯ですよ」とニッコリと。
「最初のお客さんが炒飯を注文しちゃうと、その日は儲からないんだそうです」
「「「へええ…!」」」
それは面白い、と思いました。そのお店で開店の前から待って注文したいくらいです。もちろん炒飯、それから居座ってどうなりそうかと見届けるとか…。
「ね、そういう気持ちになるでしょう? だからお店には嬉しくない、と言ったんです」
「なるほどな…。そうなってくると、今日のジョミーはどうなんだろうな」
何かあるかもしれないな、とキース君。
「お前、やっぱり、フィシスさんの所へ行って来い。お前の今後に興味がある」
「嫌だよ、ネタにされるのは!」
ぼくはオモチャじゃないんだから、とジョミー君は拒否しましたけれども、俄然、知りたくなってしまった私たち。フィシスさんの所へ行く、行かないと騒いでいたら…。
「静粛に!」
嘆かわしい、と飛んで来たグレイブ先生の声。いつの間に来ていたんですか~!
予鈴が鳴ったのには気付いていました。でもでも、グレイブ先生の足音は独特、軍人さんみたいにカツカツと靴の踵を鳴らしてやって来るだけに、それを合図に静かになるのがお約束。そのカツカツが聞こえなかった、と声の方を振り向いてビックリ仰天、クラスメイトも全員、目が点。
「諸君、おはよう」
君たちの日頃の生活態度が良く分かった、とグレイブ先生は顰めっ面で。
「要するにアレだ、私の足音が猫の首の鈴というわけだな。聞こえてから黙れば叱られずに済む、そういう態度だと思っていいかね?」
「「「………」」」
誰も反論出来ませんでした。グレイブ先生の言葉は正しく、靴音が合図だったのですから。不意を突かれたショックも大きいですけど、それ以上に…。
「私の格好がどうかしたかね、これがそんなに気になるのかね?」
それではこの先どうするつもりだ、と厳しい視線がクラスをグルリと。眼鏡の向こうの眼光は鋭く、いつも通りのグレイブ先生なのですが…。
「諸君の無駄口を減らすためにも、此処で説明しておこう。…イメチェンだ」
「「「イメチェン?」」」
それはいったい…、とオウム返しに見事にハモッたイメチェンなる言葉。グレイブ先生はツイと眼鏡を押し上げて。
「イメチェンという言葉を諸君が知らないとまでは思わないがね? イメチェン、すなわちイメージチェンジ。イメージを変えようという意味なのだが?」
こうだ、と黒板にチョークで大きく「イメチェン」の文字。すると本気でイメチェンですか?
「もちろん、私個人の趣味ではない。神聖なる職場で個人の趣味には走れないものだ」
これは学校の方針なのだ、とグレイブ先生はイメチェンの文字を指差しました。
「諸君も知っての通りだと思うが、間もなく入試のシーズンだ。下見の生徒もそろそろやって来ることだろう。本校は授業をしている間も、見学者を広く受け入れている」
教室にまでは入らせないが、という話。この学校がそういう姿勢で下見の生徒を受け入れることは知っています。私だって下見に来た日は平日、普通に授業をやってる日でした。授業中の教室は外から覗くだけにして、あちこち自由に歩いて回って…。
そうそう、あの日に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に最初に入ったんです、生徒会室から迷い込んじゃって。凄く立派なお部屋だっただけに、大金持ちの特待生用のお部屋なのかと思いましたっけ、あのお部屋。それが今では溜まり場ですけど…。
下見に来た頃にはいろんなことが…、と懐かしく思い出しました。試験本番の日にも色々、会長さんとバッタリ出会って合格グッズを買わないか、と持ち掛けられたり、買わずに滑ってしまったり。不合格になってしまったというのに、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に助けて貰って…。
補欠合格だったことやら、それに至るまでの苦労なんかや、頭の中は走馬灯。でも…。
「いいかね、イメージが大切なのだよ。イメージが」
イメージだ、と繰り返すグレイブ先生から目が離せません。クラス中の視線がグレイブ先生の方へと釘付け状態、余所見をする人は誰もいなくて。
「本校の売りは、自由な校風だと諸君も知っているだろう。しかし、我が校を見に来ただけでは、その校風を体験できるチャンスは非常に少ない」
特に授業の時間ともなれば…、と言われてみればその通り。生徒は授業を聞いていますし、先生の方は教えているだけ。何処が自由なのかはサッパリ分からず、他の学校と似たり寄ったり。
下見に来た時の私にしたって、「この学校に決めた」と思った理由は下見した印象ではなかった筈です。それまでに聞いた噂や情報、そういったもので選んだ筈で…。
「諸君も下見でこの学校に決めたわけではないだろう。そういう生徒も中にはいる。しかし多くは事前の情報などで選んでいるわけで…。それでは下見の値打ちが少ない」
もっと幅広く生徒を獲得したいのだ、とグレイブ先生は黒板のイメチェンの文字をチョークで丸く囲みました。
「何の気なしに寄ってみただけ、という下見の生徒もガッチリと掴む。配布している願書を手にして帰って貰う。…そのためのイメージチェンジなのだよ、諸君」
この姿を見れば自由な校風の端っこくらいは掴めるだろう、とグレイブ先生。首から上はいつものグレイブ先生でしたが、下が問題。キッチリ着込んだスーツの代わりに紺色の着物、いわゆる和服というヤツです。男物のそれをビシッと着こなし、羽織までが。
着物に靴だと似合わないだけに、足元は足袋と草履でした。これでは足音がカツカツと高く鳴るわけもなくて、ペッタペッタと鳴っていたのか、はたまたズッズッと摺り足だったか。何にしたって静かにするための合図は聞こえず、叱られる羽目に陥ったわけで…。
「今日から当分、授業の際には着物となる。他の先生方も着物で授業をなさるわけだし、いちいち驚かないように。平常心で臨みたまえ」
「「「………」」」
平常心だ、と念を押されても、これが冷静でいられるでしょうか? 先生方が揃ってイメチェンだなんて、どう考えても話題沸騰だと思うんですけど~!
入試を控えて先生方が打ち出したイメチェン、着物作戦。下見に来た生徒のハートを掴むためには有効でしょうが、既に通っている生徒からすればお笑いネタかもしれません。女の先生だと、バラエティー豊かに華やかに着こなしておられそうですが…。
「我々のイメチェン計画だがね。…イメチェンは男子教員のみだ」
「「「へ?」」」
何故に男の先生だけか、と思ったら。
「女性が着物を着るとなったら、何かと手間がかかってしまう。着付けもそうだが、ヘアスタイルも普段のままでは似合わない先生も多いのだからな」
「「「あー…」」」
なるほど、と私たちは揃って納得。ミシェル先生なら髪飾りでもつければパーフェクトですし、飾りは無しでもいいでしょう。けれどロングヘアのエラ先生だと結い上げなくてはいけないわけで、ブラウ先生などはドレッドヘアだけに、どうすればいいのか謎な髪型。
「ついでに、女性が着物となったら華美な方へと走りがちだ。それではファッションショーになってしまう、と男子教員のみのイメチェンとなった」
女性教師は普段通りだ、とグレイブ先生はイメチェン計画の全貌を話して、「なお」と追加で。
「体育の先生も気になるだろうが、そちらは作務衣だ」
「「「作務衣!?」」」
作務衣ってアレですか、お坊さんの普段着と言うか作業服と言うか…。たまに元老寺でキース君が着てたりしますが、それを体育の先生が…?
「作務衣は動きやすく出来ているそうだ、お坊さんはアレを着て大工仕事や山仕事などもするらしい。イメチェン計画が出た当初には、柔道などの道着という案もあったのだがね…」
それではサッカーなどの授業でイメージが狂う、とグレイブ先生。指導内容と噛み合わない服で教えていたのでは何が何だか、下見の生徒も混乱するだろうと選ばれた作務衣。
「そういうわけで、シャングリラ学園の男子教員は今日から着物だ。朝のホームルームの前の時間に礼法室で揃って着替えというわけだ」
私も其処で着付けをした、と聞いた途端にピンと来ました、ジョミー君がさっきしていた話。男の先生に会わなかった、という事件の裏には着替えタイムがあったのです。男の先生は礼法室で着替えをしていて、ジョミー君とは出会わず仕舞いで…。
「では、諸君。今日も一日、真面目に授業を受けるように」
出欠を取る、と出席簿が開かれ、いつもの朝のホームルームが形だけは戻って来ましたが…。なんだか気分が落ち着かないです、お正月に逆戻りしちゃったような…?
グレイブ先生がホームルームを終えて出て行った後は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになってしまいました。なにしろイメチェン、男の先生がもれなく着物だと言うのですから。クラスメイトも騒いでますけど、私たちだって。
「すげえな、ジョミー! お前のカンって凄かったのな!」
見直したぜ、とサム君がジョミー君の背中をバンバン叩いて、キース君も。
「…すまない、適当に聞き流していて悪かった。お前の運勢とはまるで違っていたようだ」
「ほらね、だから変だって言ったのに…。雰囲気がさ」
ぼくだって一応、タイプ・ブルー、と言いかけたジョミー君にシロエ君が鋭くシッ! と。
「その話、此処ではタブーですよ。周りは一般生徒ですから」
「ご、ごめん…。でもさ。ぼくのカンだって当たる時には当たるんだよ」
「そのようだな。…しかし、イメチェンとは…」
思い切ったことを、とキース君。
「この学校らしいと言えばそうだが、着物姿を売りにして来たか…」
「そんな学校、確かに何処にも無さそうだわねえ…」
遊んでるわね、とスウェナちゃん。
「先生方だって遊びたいのよ、それでイメチェンしちゃっているのよ」
「着物で済んだだけマシだったかもしれないなあ…」
下手をしたらハロウィンもどきになっていたかもな、というキース君の意見に「うん」と頷く私たち。遊び心溢れる学校なだけに、そういうチョイスも有り得ます。そっちだったら女の先生も全員仮装で、魔女やら妖精やらが校内を闊歩していたわけで…。
「…遊び過ぎないために着物なのかもね」
ジョミー君が呟き、シロエ君が。
「恐らく、そんなトコでしょう。ウチの学校、ノリの良さではピカイチですから」
何処と比べても負けません、というシロエ君の読みは大当たりでした。授業が始まってから分かった真実、着物なるものの奥の深さと先生方のノリの良さ。
「…裃も着物の内だしな…」
「何処の御老公だよ、ってスタイルも着物には違いないよな…」
ゼル先生にはハマり過ぎだぜ、と大ウケしていた御老公スタイル、杖をつきつつ教室に入るなり、「この紋所が目に入らぬか!」と突き付けられたシャングリラ学園の紋章入りの立派な印籠。裃で来たのはヒルマン先生、どっちも確かに着物ですけどね…。
昼休みの校内はイメチェンの話題で盛り上がっていて、教室も食堂もワイワイガヤガヤ。私たちは午後の授業に備えて情報収集、古典の時間に教頭先生が来る筈です。
「…教頭先生、八丁堀だって?」
そういう噂が、とジョミー君。食堂でのランチタイムが終わって教室に戻って来たんですけど…。
「なんだよ、八丁堀ってよ?」
何処のお堀だよ、とサム君が返すと、ジョミー君は。
「…何だったかなあ、なんかそういう…。ショボイ役人だって噂で」
「俺も聞いたな、奥さんと姑に頭が上がらない小役人のスタイルでいらっしゃるとか」
ずっと昔に大流行りした時代劇らしい、とキース君。
「確か必殺仕事人だ。親父が好きで再放送を何度も見ているからなあ、あれの主役のことだろう」
通称が八丁堀だった筈、というキース君の解説で思い出しました。噂に高い必殺シリーズ、それのしがない同心だった、と。それじゃ刀も差してますかね、教頭先生?
「それがさ…。刀は持っていないらしくて、余計にショボイって」
だけどガタイはいいから別物らしい、とジョミー君が集めて来た情報を披露しました。着ている着物と役どころはショボくても、教頭先生の立派なガタイで格好良く見えるらしいのだ、と。
「「「へえ…」」」
それは楽しみ、と迎えた古典の授業。チャイムが鳴って、ワクワクと前の扉に注目していたのですが、カラリと開いたのは後ろの扉で。
「「「え?」」」
なんで先生が後ろから…、とクラス全員が振り返ったら。
「御免下さいませ、ウィリアム・ハーレイでございます」
腰の低すぎる挨拶と自己紹介の言葉。そういえばこういうキャラでしたっけ、八丁堀。ガタイが良すぎて別物だとしか思えませんけど、着物は本当に八丁堀スタイル、ただし刀無し。
教頭先生は八丁堀よろしく教室の脇をスタスタと歩いて教卓まで行くと、教科書を広げて。
「授業を始める。…居眠りした生徒は切って捨てるから、心して授業を聞くように」
「質問でーす!」
男子の一人が手を挙げました。
「刀が無いのに、どうやって切って捨てるんですか、ハーレイ先生!」
「それはもちろん、成績の方だ。切り捨て御免だ、満点を取ろうが評価はしない」
「「「うわー…」」」
ヤバイ、と真っ青、1年A組。満点が通用しないとなったらヤバすぎですって、八丁堀…。
試験勉強なんかはせずとも、全科目で満点を取れると噂の1年A組。何かと言えば混ざって来たがる会長さんのお蔭です。表向きは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーとなっていますが、実の所は会長さんのサイオンが成せる業。
定期試験の度にクラスに混ざって試験を受けつつ、問題の答えをクラスメイトの意識の下へと送り込むという凄い技です。これさえあれば誰でも満点、勉強なんかは何もしなくても百点が取れて、成績だって最高の評価がつくんですけど。
その満点を評価しない、と言われてしまえば文字通りの切り捨て、バッサリ切られて成績表には見るも無残な評価がついてしまうでしょう。
「…誰だよ、イメチェンなんかを言い出したのはよ…」
居眠りしたら終わりじゃないかよ、と誰かがぼやいて、教頭先生が「ふむ」と。
「何か聞こえて来たようだが…。切り捨てていいか?」
「「「い、いいえ!」」」
困ります! とクラス中が声を揃えました。木の葉を隠すなら森の中。誰が言ったか分からなければ無問題だ、と思ったのに。
「…ほほう、困る、と…」
この辺りから聞こえたのだが、と教卓を離れた教頭先生。机の間の通路をスタスタ、ぼやいた生徒の持ち物らしい机を指でトントンと。
「いいか、私は仕事人ということになっているからな。諸君の年では知らない生徒も多いと思うが、殺しを請け負う凄腕の剣客と言えば分かるか?」
「「「は、はいっ!」」」
教室中の生徒の背筋がピシイッと伸びて、教頭先生が「よし」と腕組み。
「私は柔道十段だ。気配に敏いし、仕事人並みに勘が冴えていると言っていいだろう。試験でなくても、遠慮なく切る。この役どころをしている内はな」
私を敵に回さないように、と八丁堀、いえ、教頭先生はスタスタと教卓に戻ってゆくと。
「朝のホームルームでイメチェンの話は諸君も聞いているだろう。イメチェンするからには徹底的に、というのが私の信条だ。切られたくなければ頑張ることだ」
居眠りはその場で切り捨てる、と怖い台詞が。居眠りでなくとも授業中に御機嫌を損ねてしまえば叩き切られてしまう結末、成績表には強烈な評価。
(((ヤバすぎる…)))
死ぬ、と1年A組、顔面蒼白。未だかつてない強敵登場、切り捨て御免の仕事人では誰も太刀打ち出来ませんってば~!
クラス中を恐怖の坩堝に叩き込んでくれた教頭先生は、授業が終わると悠然と去ってゆきました。来た時と同じに後ろの扉から、コソコソと本物の仕事人のように。
「…ヤバイぜ、イメチェン、いつまでなんだよ…!」
俺って切られていねえよな、と机を叩かれた男子生徒が震え上がって、他のクラスメイトもザワザワと。「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーでも仕事人には勝てないのか、と。
「なあ、どうなんだよ、何か方法ねえのかよ!?」
切られたら終わりらしいけど、と縋るような目で見られた私たち。あの仕事人をどうにかしてくれと、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーで、と。
「えーっと…。ぶるぅが出て来てくれないと…。でなきゃ、ブルーか」
どっちか必要、とジョミー君が返して、キース君も。
「すまん、俺たちでは手も足も出せん。…不思議パワーは管轄外だ」
「そこを何とか…! 俺、マジで切られそうだったから!」
机を叩かれた男子が土下座で、他の生徒も口々に「頼む」と言い出しましたが、会長さんがクラスのみんなに約束したのは百点満点、他は約束していません。テストの他にも一位を取らせると公言してはいるのですけど、成績の切り捨てなんかは一度も無かったことですし…。
「…どうしようもないよね、ぼくたちだけじゃあ?」
ジョミー君が私たちを見回し、シロエ君も。
「ええ。ぼくたちの手に負えないことだけは確かですね」
「それじゃ、なんとか頼んでくれよ! 生徒会長と、そるじゃぁ・ぶるぅに!」
俺、このままだと確実に死ぬから、と土下座の男子生徒が床に額を擦り付け、他の生徒も首をコクコク。土下座男子はクラスのムードメーカーなだけに、彼が切られたら教室がお通夜ムードになるのは確実です。ムードメーカー、すなわち少々、言葉が多め。
「…俺、絶対にまた何か言うから! 余計なことを!」
普段だったら笑って流して貰えるけれども仕事人じゃあ…、と土下座する男子。どういう基準で教頭先生が切るか分からず、切られたら最後、成績表が無残なことに…。
「…どうするよ? 俺たちじゃ役に立たねえけどよ…」
サム君が改めて言うまでもなく、何の力も無い私たち。けれど、このまま放置も出来ず…。
「ブルーに相談するしかないな…。それと、ぶるぅに」
キース君がフウと溜息をついて、私たちは放課後、終礼が終わると同時に「頑張ってくれ」とクラス全員の期待を背負って送り出されました。仕事人対策、会長さんは持ってますかねえ…?
「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かう途中にも出会ったイメチェン中の先生たち。印籠を持った御老公姿のゼル先生には「お供を募集中なんじゃ」と声を掛けられ、バイトしないかと美味しい話が男子たちに。
成績も出欠も問われない特別生ならではのアルバイトだと、毎日登校するだけに有望株だと殆ど名指しのスカウトでしたが、キース君たちは。
「すみません、今、急いでいるので…」
「ほう? 時給は相場より高く出すんじゃが、バイトせんのか?」
「特別生は他にもいますから! 数学同好会の部室に行けば誰かがたむろっています」
パスカルだとかボナールだとか、とキース君が言い抜け、シロエ君も。
「セットもので二人の募集でしたら、B組のセルジュ先輩も有望です! 相棒がいます!」
「ふうむ…。欠席大王のジルベールがバイトをしてくれるかのう…?」
「セルジュ先輩とセットなら希望があります、あの二人だったら目立ちますよ!」
ぼくたちなんかより華があります、とシロエ君も必死の言い逃れ。ここで捕まってバイト契約をしているどころではなく、仕事人対策をしなくては…!
「華と来たか…。確かにそうじゃのう、引き立て役は華があるほどいいからのう…」
わしも目立つし、とゼル先生は私たちのグループの男子を放って数学同好会の部室の方へと向かいました。運が良ければジルベールが其処で捕まるでしょうし、ジルベール抜きでもセルジュ君は部室にいる筈ですから、バイトを頼めばいいわけですし…。
「…バイト、楽しそうで儲かりそうなんだけどね…」
ジョミー君が名残惜しげにチラリと振り返り、サム君も。
「悪くねえんだよなあ、御老公のお供で教室を回って印籠を出せばいいんだからよ」
それで時給があれだけかあ…、と残念な気持ちは男子の誰もが抱いていたと思います。しかし、私たちには重大な使命というヤツがあって、1年A組のみんなのためにも先を急ぐしかありません。バイトで儲ける話が如何に美味しくても、クラスメイトが優先ですって…!
かくして駆け込んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でしたが、出迎えてくれた「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんは呑気なもので。
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
「やあ、イメチェンとやらも面白そうだね」
ゆっくり羽を伸ばして行ってよ、と会長さんが言えば、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がバナナと黒糖クリームのティラミスとやらのタルトを出してくれました。飲み物の注文も取ってくれましたが、今はおやつよりも用件が先で。
「あんた、此処から見てたんだったら、俺たちのクラスを何とかしてくれ!」
このままではお先真っ暗だ、とキース君が単刀直入に。
「教頭先生が仕事人モードになっているんだ、一人切られるトコだったんだ…!」
「ああ、あれねえ…。他のクラスとか学年でも切っていたねえ、ハーレイ」
「「「ええっ!?」」」
既に被害者が出ていたんですか、切り捨て御免の仕事人。とはいえ初日のことなんですから、まさか本当に切り捨てられてはいないと思うんですけれど…。
「甘いね、君たちのクラスは居眠っていたというわけじゃないから死んでないだけで…」
他のクラスではバッサリ切られた、と会長さんは証言しました。教頭先生が授業の時に持ってくる生徒の名前が書かれた帳面、それに「済み」のマークが書かれているとか。
「「「…済み…?」」」
「そう。切り捨てました、という印だよ。仕事は終わった、と」
「じゃ、じゃあ…。それを書かれたら、成績は…」
どうなっちゃうの、というジョミー君の問いに、会長さんはアッサリと。
「そりゃあ、最低最悪ってね。幸い、学年末だから…。一学期と二学期の分も合わせて成績がつくから、それまでの成績が良かった場合は1ってことにはならないけどねえ…」
「「「…1…」」」
つまり本当に最低なのか、と仕事人の怖さを思い知りました。私たちのクラスの土下座男子は今日の所は無事だったようですが、明日以降は…。
「うん、切られたら終わりということだね。彼に限らず、クラスの誰でも」
「お、おい! あんた、俺たちのクラスをフォローしてくれるんじゃなかったのか!」
キース君が食い下がりましたが、会長さんは。
「個人的なフォローはやっていないよ、考えてみたまえ、今日までのことを」
あくまで1年A組のみ、と言われて思えばその通り。1年A組、終わりましたか…?
個人的なフォローはしていない、と断言されてしまった以上は、どうすることも出来ません。仕事人と化した教頭先生、居眠った生徒を端からバッサリ。定期試験が何もしなくても満点なだけに、居眠る生徒は日頃から多いわけですし…。
「やむを得ん。俺たちで居眠る前に起こすか?」
キース君が提案しましたけれども、ピンポイントで送れる思念波、一般人向けに使えるレベルになっていません。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるで、全員でやれば効くかもですけど…。
「…居眠りそうなのを見付けたら思念波で合図してですね…」
それから「せーの」で起こしましょう、とシロエ君が呼び掛けましたが、相手は必殺仕事人。私たちが連絡を取り合っている間に居眠りに気付いてバッサリなのでは…。
「そ、そっか…。時間が足りないか…」
ジョミー君が唸って、サム君も。
「思念波で気付かれるってことだってあるぜ、誰か居眠ってるみたいだな、って」
「「「うわー…」」」
これぞ藪蛇、そういう恐れも充分あります。いくら教頭先生が仕事人でも、黒板にせっせと書いてる間は気付かない可能性もゼロではなくて…。
「ど、どうしよう…?」
「諦めて切られて貰うしかないか…?」
ブルーが乗り気でない以上はな、とキース君が肩を落とした所へ。
「こんにちはーっ!」
遊びに来たよ、と翻った紫のマント。ソルジャーが来たみたいですけど、この人こそ何の役にも立ちはしないな、と思っていたら。
「なんかハーレイ、イメチェンだって?」
普段と雰囲気が全然違うね、とソルジャーがタルトを頬張って。
「コソコソと出入りするのはともかく、居眠った生徒を端からバッサリ! 柔道十段はダテじゃないねえ、惚れ惚れとしちゃう仕事ぶりだよ!」
あの着物姿に思わず惚れそう、とズレているのがソルジャーの視点。そのバッサリが困るんですってば、切り捨てられたら成績がアウトなんですから…。
「えーっ? あのハーレイ、カッコイイけどなあ…」
ずっとイメチェンしてればいいのに、とソルジャーならではの迷惑発言。イメチェンが早く終わってくれないと、1年A組、古典の成績が最悪なことになる被害者続発なんですが…!
「困るだなんて…。ぼくはハーレイのカッコ良さに見惚れているのにさ…」
仕事人なハーレイだったら嫁に行ってもいいくらい、とズレまくっている異世界からのお客様。会長さんはフォローしないと言い切りましたし、諦めるしかないのでしょうか?
「いいじゃないか、別に。君たちの成績が下がるわけでなし」
あのハーレイは実にカッコイイから、とソルジャーは「嫁に行きたい」を連呼。とっくに結婚しているくせに嫁に行くも何も…、とブツブツ言っていた私たちですが。
「待てよ、あいつが嫁に行くなら使えるぞ」
キース君が妙な発言を。
「使えるって?」
何に、とジョミー君が尋ねると、キース君は。
「…仕事人の弱みは嫁だった筈だ。嫁と姑の最強コンビで毎回、話が終わる仕組みだ」
「「「へ?」」」
そうだったっけ、と乏しい知識を総動員して、キース君の話も聞いてみたらば、必殺シリーズの王道がソレ。大トリを飾る仕事を果たした八丁堀が家に帰ると、嫁と姑にコケにされた挙句、仕事で儲けた報酬までをも掻っ攫われるというシナリオで…。
「姑が足りない気がしないでもないが、この際、嫁だけでいいだろう。あいつが押し掛けて仕事の報酬を寄越せとゴネれば、懲りて仕事をしなくなる……かもしれない」
あくまで希望的観測なんだが…、とキース君がソルジャーを眺めて、ソルジャーが。
「…ぼくが鬼嫁? あのハーレイの?」
「あんた、とりあえず、惚れたんだろうが! だったら、嫁に行ってくれ!」
ついでに婿をいびってくれ、と無茶な注文、無理すぎる頼み。そんな仕事を頼んじゃったら、私たちがソルジャー相手に仕事の報酬を支払う羽目になりそうですが…。
「いいよ、タダ働きになっちゃっても。…仕事の成果を取り上げちゃったらいいんだろう?」
済みのマークを消してしまえばいいんだよね、とソルジャーがニコリ。
「でもねえ…。カッコイイ姿も見ていたいから、1年A組限定でどう?」
「有難い! もしかして、サイオンでやってくれるのか?」
帳面に細工をしてくれるのか、とキース君が確認をすると、ソルジャーは。
「そうじゃなくって、必殺シリーズの王道ってヤツ! どんなものかは分かったから!」
そっちのコースで楽しくやるよ、とソルジャーはウキウキしています。詳しくは今夜の中継で、なんて言ってますけど、いったい何をやらかすんでしょう…?
その夜、私たちは会長さんの家で夕食を御馳走になることに。「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から揃って瞬間移動で、ソルジャーも一緒に寄せ鍋パーティー。それが終わると、ソルジャーが「行ってくるね」と姿を消して、壁に現れた中継画面。その向こうでは…。
「こんばんは、ハーレイ」
教頭先生の家のリビングにソルジャーがパッと現れ、ニコッと笑って。
「えーっと、婿殿、だったっけ? …仕事人のお嫁さんの台詞は」
「…は? え、ああ…。まあ、そうですが」
仕事人がどうかしましたか、と怪訝そうな教頭先生はとっくに私服。ソルジャーは笑顔で近付いてゆくと。
「婿殿、イメチェンしてる間の仕事だけどねえ…。1年A組の分だけ、済みのマークは無効にしておいてくれるかな?」
そのマークはぼくが貰うから、と艶やかな笑みが。
「婿殿の報酬は奪ってなんぼで、だけどカッコイイ君だって見たい。1年A組につけた済みのマークをぼくが奪って、君はせっせと仕事をするんだ。バッサバッサと切り捨て御免で」
1年A組の分の報酬をぼくにくれるなら…、とソルジャーが教頭先生の首に両腕を回して、頬にチュッとキスを。教頭先生は耳まで真っ赤になりましたけれど。
「ね? 悪い取り引きじゃないだろう? 婿殿のためには毎晩、こういうキスをあげるから」
代わりに1年A組の分の済みのマークを寄越すように、というソルジャーの提案、教頭先生はその場でオッケーしてしまいました。更に…。
「そのぅ…。仕事をもっと頑張った時は、キスが増えるとか、そういうのは…」
無いのでしょうか、と欲張りな台詞。ソルジャーは「いいよ」と即答で。
「ぼくは仕事人姿に惚れたんだ。イメチェン期間中、君のカッコ良さを山ほど見られるんなら、いくらでも! 頬っぺたどころか本気のキスでもプレゼントしたいくらいだよ!」
ねえ、婿殿? と悩殺の微笑み、教頭先生、もうフニャフニャで。
「が、頑張ります…! 1年A組でも切って切りまくります!」
「いいねえ、そこでゲットした済みのマークをぼくが奪うということで…!」
イメチェン万歳! とソルジャーがブチ上げ、教頭先生も仕事人に徹する決意を固めて…。
「え、マジかよ!? 俺たち、切られても無効だって!?」
次の日、例の土下座男子が躍り上がって、1年A組に溢れる大歓声。イメチェンで仕事人と化した教頭先生がいくら切ろうが、1年A組だけは成績に響かないということになったのですから。
「すげえな、やっぱ、そるじゃぁ・ぶるぅの力は思い切り効くんだなあ…!」
「頼みに行って貰った甲斐があったよな、そるじゃぁ・ぶるぅに御礼、よろしくな!」
「「「う、うん…」」」
今回は「そるじゃぁ・ぶるぅ」は全く関係ないんだけれど、という裏事情は決して言えはしなくて、ソルジャーならぬ「そるじゃぁ・ぶるぅ」の株がググンと上がりました。二時間目にあった古典の授業は、いつも通りに居眠りの生徒が続発で…。
「御免下さいませ。ハーレイでございます」
机の側まで出掛けて行っての、この台詞。言われたら切られてしまうわけですが、切られたマークを書かれた所で無効なのだと知っているのが1年A組、眠りまくりの切られまくりで。
『うん、カッコイイねえ…』
惚れ惚れするねえ、と思念波が届き、何事かと思えばソルジャーが教室の後ろに立っていました。私たちにだけ姿が見えるよう、シールドを張って。
『現場を見ちゃうと一層惚れるよ、こっちのハーレイの意外な魅力を発見だよ…!』
ずうっとイメチェンしてて欲しいくらい、とウットリしているソルジャーの思考はサッパリ謎で分かりません。けれども、お蔭で1年A組、切られても無事に済むわけですし…。
(((あそこの馬鹿は放っておこう…)))
蓼食う虫も好き好きなんだ、と私たちはソルジャーを放置することに決めました。教頭先生は家へ帰ればソルジャーに「婿殿」とキスが貰えて万々歳。もっと仕事を頑張ろう、と居眠る生徒を切りまくりですが、他のクラスの学年末の成績表は…。
「どうなるんだろう?」
「…俺たちには関係無いからな…」
居眠るヤツらが悪いんだ、とキース君。イメチェン期間はまだ続きます。入試直前まで続きますから、今日も必殺仕事人。ゼル先生のお供はセルジュ君とジルベールですし、シャングリラ学園のイメチェン作戦、下見の生徒にウケますように~!
変えたい印象・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
男の先生が全員、着物でイメチェン、そういう計画。シャングリラ学園ならではです。
仕事人な教頭先生の切り捨て御免が怖いですけど、ソルジャーが役に立ったというお話。
次回は 「第3月曜」 10月19日の更新となります、よろしくです~!
※毎日更新な 『シャングリラ学園生徒会室』 はスマホ・携帯にも対応しております。
こちらでの場外編、9月といえば秋のお彼岸シーズン。はてさて、今年は…?
←シャングリラ学園生徒会室は、こちらからv
「おーい、ブルー!」
(えっ?)
いきなり呼ばれて、ギョッとしたブルー。大きな声で叫んで駆けて来る友達。グラウンドの側に立っていた時、意外な方から。周りに生徒は大勢いるのに、友達は真っ直ぐ走って来て。
「何してんだよ、こんな所で?」
先に行くね、って言っていたから、教室の方か、図書室なんだと思ってたのにさ…。
なんでグラウンドの方なんかに、と訊かれたけれど。
「えーっと…」
どう答えようかと泳がせた視線、友達は直ぐに気付いたらしい。人が大勢いる理由にも。
「ああ、ハーレイ先生な!」
カッコいいよなあ、ハーレイ先生。柔道と水泳だけじゃないんだよなあ、なんでも出来て。
うっわー、今の見たかよ、ブルー!?
あんなトコからロングパスだぜ、しかも囲まれていたのによ…!
すげえ、と興奮している友達。もちろん周りの生徒たちだって、歓声を上げて大騒ぎ。昼休みにグラウンドでサッカーに興じているハーレイ。サッカー部の生徒に誘われてプレー中らしい。
食堂でランチを食べていた時、聞こえて来たハーレイの名前とサッカーの話。もう始まるから、急いで見物に行かなくては、と。
思わず耳を澄ませてしまったハーレイの名前。ウサギだったら、長い耳がピンと立っただろう。幸い、耳が立ちはしないから、ランチ仲間は気付かなかった。ハーレイの名にも、サッカー見物に行くと話した生徒の声にも。
見たい、と思ったハーレイのサッカー。それも誰にも邪魔をされずに、ワクワク心を躍らせて。感想を話し合ったりしないで、ハーレイの姿だけを見詰めて。
ランチ仲間が気付かなかったのは好都合だ、と考えた。彼らも話を聞いていたなら、見に行くに決まっているのだから。
「お前も行くだろ?」と肩を叩かれて、みんな揃ってゾロゾロと移動。グラウンドに着いたら、たちまち始まる賑やかな会話、ハーレイだけを見てはいられない。視線は逸らさずに済んだって。グラウンドをじっと見ていられたって、生返事することは出来ないから。
切れてしまうだろう集中力。友達の会話を聞き逃すまいと、生返事をしてしまわないよう、と。
ハーレイの姿に夢中になれないサッカー見物。そうならないよう、ランチ仲間と別れて行こうと決めたグラウンド。一人の方がきっと素敵で、ハーレイのプレーに酔えるだろうから。
そう思ったから、「先に行くね」と出て来た食堂。何気ないふりを装ってトレイを返して、まだ座っているランチ仲間に手を振って。行き先は教室でも図書室でもなくて、グラウンド。
もう始まっていたサッカーの試合、山と溢れる見物人。噂を聞き付けて一人、また一人と増える観客、ハーレイの腕と人気が凄いという証拠。
頬を紅潮させて見ていた試合。ハーレイが決める見事なシュートや、サッカー部の主将たちでも手も足も出ない巧みなドリブル。この腕だからこそ誘われたのだ、と誰が見ても分かる。
本当に凄い、と見入っていた所で、「おーい、ブルー!」と呼ばれてしまった。別れて来た筈のランチ仲間たちに発見されて。
(バレちゃった…)
サッカー見物に来ていたこと。たちまちランチ仲間に囲まれ、一緒に見るしかなくなった。先に心配していた通りに、自分に向かって掛けられる声。
皆、ハーレイを褒め称えるから、それは嬉しいのだけれど。あれこれ感想を話しながらの見物も楽しいものだけれども、ほんのちょっぴり、残念な気分。「一人で見ていたかったのに」と。
ハーレイはプレー中に気付いて、自分に向かって手を振ってくれた。余裕たっぷりのハーレイの姿に、またも上がった大きな歓声。ボールを追いつつ、観客の方へと手を振るのだから。
そのハーレイは、友達の声で自分に気付いてくれたのだけれど。
「おーい、ブルー!」と呼びながら駆けて来たランチ仲間がいなかったならば、きっと気付いてくれないままで終わっただろうと思うのだけれど…。
(手なんか、振ってくれなくていいから…)
ゆっくり眺めていたかった。他の生徒の中に混じって、ハーレイだけを。友達との会話に時間を割かずに、集中力を持って行かれずに。
ハーレイがボールを操る姿を、誰にも邪魔をされることなく。
その内に鳴ってしまったチャイム。昼休みが終わる時間が近い、と知らせる予鈴。それを合図に終わってしまったサッカーの試合。ハーレイが「今日はここまで」とボールを手にして。
試合を終えたハーレイはサッカー部の生徒たちのもので、彼らと一緒に去ってゆくから。やがて授業も始まるのだから、夢の時間はこれでおしまい。心が躍ったサッカー見物。
校舎の方へと歩く途中も、ランチ仲間たちはハーレイのプレーに感動しきりで、興奮していて。
「お前、いいよな…。あんな中で手まで振って貰えて」
あれって、お前に振ってたんだろ、名前は呼んでなかったけど。
ドリブルしていた最中なんだぜ、余裕だよなあ…。俺がやったら、ボールは消えるぜ。
「うんうん、俺でも取られて終わりだ。とても目なんか離せやしない」
ハーレイ先生、ちゃんと全部が見えてるんだよな、周りのヤツらがどう動くかも。
カッコいいよな、サッカーでも相当いい線いってたんだろうな、柔道とかが好きだっただけで。
本当にブルーが羨ましくなるなあ、あんなの見たら…。
ハーレイ先生と友達みたいなものなんだし…。家にだって来て貰えるんだし。
いいな、と羨ましがるランチ仲間たち。今日の昼休みのヒーローのハーレイ、皆が憧れる先生を独占できるなんて、と。
誰もが称賛していたハーレイ。何度も上がっていた歓声。
そんな試合の真っ最中に振って貰えた手は誇らしいけれど、やっぱり残念でたまらない。自分は注目を浴びなくていいから、一人でこっそり見たかった、と。
他の生徒の群れに混じって、ただの観客の一人になって。ハーレイだけを目で追い続けて、弾む心で。サッカーもあんなに上手なんだと、あの凄い人がぼくの恋人、と。
学校が終わって家に帰っても、まだ残念な気持ちが消えてくれない。ハーレイの雄姿をじっくり見ていたかったと、ランチ仲間が自分を見付けなかったなら、と。
グラウンドに行くとは言わなかったのに。いつもの自分の行動からすれば、グラウンドよりかは図書室で調べ物なのに。そうでなければ、教室の方。何か用事を思い出して。
(なんでバレちゃったの…?)
ぼくがあそこに混じっていたこと、と考えてみる。おやつをモグモグ頬張りながら。母が作った美味しいケーキを、フォークで口へと運んでは。
サッカーを見ようと群がっていた大勢の生徒たち。あの中でどうしてバレたのだろう、と。
(前のぼくならバレるだろうけど…)
白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。ブリッジが見える広い公園や天体の間などに、皆を集めて混じったとしても、直ぐにバレただろう自分の居場所。
仰々しかったソルジャーの服で。紫のマントや、誰も着ていなかった白と銀との上着のせいで。他の仲間たちが着ていた制服、それとは全く違ったから。
でも、今は普通の制服なのに。同じ学校に通う男子は全員同じで、色も形もそっくり同じ。髪の色にしても、銀色の生徒は何人もいる。赤い瞳は自分一人だけれども、あれだけの群れに混じってしまえば分からない。幾つもの顔が周りに一杯、それにグラウンドを見ていたのだし…。
(ぼくの目、見えなかったと思うんだけどな…)
ランチ仲間たちが来た方からは。後ろか、せいぜい斜め後ろから自分の姿を見付けた筈。
だから違う、と断言出来る赤い瞳という特徴。他には何があるだろう?
(チビだけど…)
学校でもチビの部類に入るのだけれど、男子では一番のチビだけれども。似たような背丈のチビならいるし、と零れた溜息。
自分一人が目立つほどチビではない筈なのに、見付かっちゃった、と。
ハーレイのサッカーを一人でゆっくり見損ねちゃったと、どうして見付かったんだろう、と。
おやつを食べ終わって部屋に戻って、本を読んでいたら聞こえたチャイム。昼休みにサッカーをしていたハーレイ、友達も羨む今日のヒーローがやって来た。仕事が早く終わったからな、と。
母がお茶とお菓子を運んでくれたテーブル、それを挟んで向かい合わせに座ったら…。
「お前、見に来てくれたんだな。俺のサッカー」
サッカー部のヤツらが宣伝していたわけでもないのに、あんなに大勢見に来るとはなあ…。
まさか、お前まで来てくれるとは思わなかったぞ。何処で噂を聞き付けたんだか。
「食堂にいたら聞こえたんだよ、他の生徒が喋ってたのが」
もう始まるから急がないと、って。ぼくは食べてる最中だったけれど。
だから最初から見てはいないんだけど…。ぼくが見てたの、嬉しかった?
わざわざ手まで振ってくれたし…。あれで余計に大騒ぎだったよ、見てた人たち。
「そりゃまあ、なあ? お前がいると分かれば張り合いが出るさ」
いい所を見せたくなるってもんだろ、恋人が見に来ているんだから。
学校じゃ恋人扱い出来んが、カッコいいサッカーを見せてやるのは当然だ、うん。
「でも…。ぼくはコッソリ見ようと思っていたのに…」
他のみんなの中に混じって、ぼくがいるのが分からないように。手なんか振って貰うよりかは。
「どうしてコッソリ見たかったんだ?」
堂々と見てればいいだろうが。悪いことをするわけじゃないんだから、コソコソせずに。
「だって、ハーレイ、楽しそうだったから…」
サッカーに夢中のハーレイは凄く楽しそうだったし、カッコ良かったし…。
そういうハーレイを見たかったんだよ、ぼく一人だけで。ドキドキしながら、一人でこっそり。
誰にも邪魔をされない所で、ゆっくり見ていたかったのに…。
「おいおい、そいつは俺としては嬉しくないんだが?」
せっかくお前が来てるというのに、知らずにサッカーしているだなんて。
「そうなの?」
「決まってるだろう…! さっきも言ったが、恋人の前だぞ」
張り切っていこうって気になるじゃないか。生徒相手でも、昼休みのサッカー試合でも。
ヘマをしないで、カッコ良く。ボールは絶対に取らせないぞ、と。
同じ試合なら、観客の中に恋人がいる方がいいに決まっている、とハーレイは言うものだから。より素晴らしいプレーが出来る、と力説するから。
「じゃあ、バレちゃって良かったのかな…」
「バレた?」
いるのが俺にバレたってことか、それなら俺には最高の瞬間だったわけだが…。
お前が見に来てくれてるんだ、と嬉しくなるじゃないか。来ると思っちゃいなかったんだし。
「そうじゃなくって…。ハーレイにもいるのがバレちゃったけど…」
ぼくの友達にバレちゃったんだよ、グラウンドで試合を見ていたことが…!
一人で見よう、って別れて来たのに、いるのを見付けられちゃったんだよ…!
「なるほど…。それでお前の友達が叫んでいたのか、お前の名前を」
誰か遅れて来たヤツなのかと思ってたんだが、違ったんだな。
お前がいるのを発見したから、名前を呼びながら走って来たという所か。
「うん…。なんでバレたんだろ、ぼくだってことが」
先に行くね、って食堂を出たから、普段だったら図書室か教室。グラウンドにはいない筈だよ。あんなに大勢集まっていたら、ぼくなんかには気が付かないと思うんだけど…。
「目立つからだろ、お前の姿」
あそこにいるな、と直ぐに分かるさ。生徒が山ほど集まっていても。
「目立つって…。制服はみんな同じだよ? 学年とかで分かれていないし、それこそ山ほど…」
銀色の髪の生徒も多いし、ぼくと変わらないくらいにチビの生徒も、ちゃんといるのに…!
「やれやれ…。お前、分かっていないんだな。目立つってことが」
同じ制服で立っていたって、似たような背格好だって。何処か違うぞ、お前の場合は。
「何が違うの?」
他のみんなと何処が違うの、目の色は確かに違うけど…。ぼくだけ赤い瞳だけれど。
「それとは違うな、雰囲気ってヤツだ」
お前を取り巻く空気が違うと言うべきか…。とにかく、ハッと人目を引く。
俺がお前に惚れているのとは別の話で、お前は視線を惹き付けるんだ。其処にいるだけで。
遠目でも分かる、とハーレイが浮かべた穏やかな笑み。後姿でも充分に、と。
「俺でなくても分かる筈だぞ、お前なんだと。大勢の中に混じっててもな」
人混みだろうが、みんな揃って体操服で群れていようが。あれじゃないか、と直ぐに目がいく。
「そういうものなの?」
だからバレちゃったの、ぼくがサッカーを見に行ってたのが…?
探すつもりで来たんじゃなくても、ぼくがいるのが分かっちゃった?
「多分な。それに友達なら、俺と同じで親しいわけだし…」
普通以上に見付けやすいと思うぞ、特徴ってヤツを知っているから。まずは目がいく、そしたら誰かと考え始める。情報が多いほど答えが出るのが早いわけだな、お前なんだと。
それが分かれば、後は名前を呼ぶだけだ。お前の友達がやってたように。
ん…?
待てよ、と首を捻ったハーレイ。前のお前もやらなかったか、と。
「やるって、何を?」
「コッソリってヤツだ、今日のお前が目指してたヤツ」
俺のサッカー、コッソリ見ようとしたんだろうが。友達にも俺にも気付かれずに。
お前は失敗しちまったんだが、前のお前もやっていたような…。そういうコッソリ。
「え…? 前のぼくって…」
コッソリと何を見に行くっていうの、ハーレイの日誌は見てないよ?
ホントに一度も読んじゃいないし、第一、他のみんなに混じって読みには行けないじゃない!
大勢でハーレイの部屋まで押し掛けてみても、絶対、入れてくれないんだから。
航宙日誌が目当てなんだ、って直ぐに見破られて、扉に鍵をかけられちゃって…!
「いや、そういうのじゃなくてだな…。コッソリ何かを見るんじゃなくて…」
お前がコッソリ隠れるってヤツだ、今日のお前が隠れたつもりでいたように。周りに生徒が大勢いるから、すっかり溶け込んだ気になって。…お前、いるだけで目立つのに。
前のお前も似たようなモンで、それがコッソリ…。そうだ、お忍びだったんだ…!
「お忍び?」
「そういう言葉があるんだが…。今の時代は、そうそう出番が無いからなあ…」
身分を隠して出歩くことだな、お忍びってのは。偉い人だと分かっちまったら、普通の暮らしが出来ない人たちがやっていたんだ。特別扱いされない暮らしをしてみたくってな。
今は存在しない貴族や王族、そんな人々。買い物に行こうが、旅に出ようが、何処でも特別扱いされる。気軽に買い食い出来はしなくて、一人で旅行も出来ない有様。
そういう暮らしは面白くない、と考えた人は、身分を隠して出掛けて行った。普通の身分の人に混じって、同じような服を身に着けて。普通の身分に見えていたなら、自由に動き回れたから。
「色々な人がいたらしいなあ、貴族は入りもしないような酒場がお気に入りだとか」
其処に入って飲むだけじゃなくて、楽器を奏でてチップを貰っていた人だとか。
もちろん客の方では知らない、貴族だなんて思いもしない。チップをはずんで、一緒に飲んで。朝まで歌って踊り明かして、すっかり友達になっちまうんだ。「また来いよ」ってな。
それと同じだな、前のお前も。王様や貴族ほどじゃなかったが、特別扱いを嫌がって…。
他のみんなと同じにしたくて、せっせと努力をしてたんだ。コッソリ普通の暮らしをしようと。
「そういえば…!」
やっていたっけ、みんなと違いすぎたから…。
ソルジャーなのは仕方ないけど、こんなのは望んでいないから、って。
やたらと目立つし、前よりもずっと偉そうな感じにされちゃって…。それが嫌だから、コッソリみんなと同じふり。これさえ無ければ普通だよね、って。
確かにアレってお忍びだったよ、いつも失敗してたけど…。一度も成功しなかったけど…!
時の彼方から戻って来た記憶。ソルジャー・ブルーだった前の自分がやっていたこと。なんとか普通になろうとして。他の仲間たちと同じになりたくて。
遠い昔に、前のハーレイと暮らしたシャングリラ。まだ白い鯨になる前の船で、制服が生まれて間もない頃に。
(あの服、目立ち過ぎたから…)
ソルジャー用にと作られた制服は、思った以上に特別すぎた。誰も着てはいない白と銀の上着、大袈裟に過ぎる紫のマント。それを普段から着ろと言われても、迷惑なだけ。やたらと目立つし、他の仲間たちからも「特別な人」という目で見られてしまう。制服のせいで。
(あれを着せられる前は、もっと普通に色々話してくれたのに…)
エラが「ソルジャーには敬語で話すように」と注意したって、聞かない者も多かった。リーダーだった頃と同じに、親しい口調で話してくれた仲間たち。立ち話だって普通に出来た。
ところが、御大層な例の制服。あれを着た途端、明らかに変わった仲間たちの自分への接し方。何処から見たって、彼らとはまるで違うから。ソルジャーの上着も、紫のマントも。
(注意しなくちゃ、って顔に書いてあって…)
誰もが敬語に切り替えてしまい、たまに普通に話してくれても、気付いた瞬間、謝罪の言葉。
何処へ行っても、誰と話しても、それは変わりはしなかった。ソルジャーなのだ、と服が教える肩書き。近くに寄って向き合う前から、姿が見えたその時から。
つまりは充分に準備できた時間、ソルジャー向けの敬語に切り替える時間。あの制服を見たら、心の中で。きちんと敬語で話さなければと、ソルジャーに失礼がないように、と。
(みんな、緊張しちゃってて…)
今までとは違う付き合いになった仲間たち。自分は何も変わらないのに、開いてしまった皆との距離。これは困る、と前の自分は考えた。元の関係に戻すためには、どうすれば…、と。
明らかに制服が悪いと分かる。それを着るまでは、こんな風ではなかったのだから。
前と同じに仲間たちの中に溶け込みたいから、普通に話して欲しかったから。
(あの制服さえ無かったら、って…)
脱いでしまえば、きっと緊張しないだろう仲間。ソルジャーなのだ、と身構えないで済むから、口調も元に戻る筈。敬語なんかは出て来なくなるに違いない。
そう思ったから外したマント。何処から見たって偉そうなのだし、これが一番悪いのだ、と。
マントを脱いだら、後はせいぜい上着だけ。皆は着ていない上着だけれども、マントとは性質が全く違う。単なる制服、そういうデザイン。威圧感などは与えない筈。
(それに、上着さえ着ていれば…)
ちゃんと制服は着ているのだから、誰も文句はつけないだろう。マントを省略したというだけ。たまにはそういう着こなしだって、と心の中で作った言い訳。今日はマントを着けない日、と。
これで仲間たちの口調も元の通り、と颯爽と出掛けて行ったのに。どうしたわけだか、たちまちバレた。「ソルジャー、今日はマントは無しですか?」などと掛けられた声。出会う仲間に。
せっかくマントを外して来たのに、と途惑う間に、飛んで来たエラ。そのお姿では困ります、と着けるように言われた紫のマント。「直ぐにマントを着て下さい」と。
そうなるからには、どうやら上着も問題らしい。自分一人しか着ていないのだし、白い上着では何かと目立つ。それさえ脱いだら皆と変わりはしない筈、と次は上着も脱ぐことにした。ブーツが少し気になるけれども、足元までは誰も見ないだろう、と。
今度こそ、と皆と同じになったつもりで歩いた船の中。けれど、やっぱりバレてしまった自分の正体。敬語で会話をすべきソルジャー、出会う誰もがそう扱った。「上着は窮屈ですか?」とか。
(誰も普通に喋ってくれなくて…)
エラにも苦情を言われる始末。「ご自分の立場がお分かりですか?」と。
これでは何の意味も無い、とスゴスゴと戻った自分の部屋。上着まで脱いでも駄目なのだから。
(一度、しみついちゃったことって…)
変わらないのだ、と前の自分が零した溜息。制服のせいで皆が敬語に切り替えること。
そうすべきだと皆は思っているから、自分が姿を見せた途端に、口調がガラリと変わるらしい。あの制服を着ていなくても、自分の姿を見ただけで。…前はそうではなかったのに。
その日、仕事を終えたハーレイが部屋を訪ねて来てくれたから。
「入って」と勧めた、いつもハーレイが座る椅子。そして早速、今日の出来事を打ち明けて…。
「どうしてバレてしまうんだろう? ぼくだってことが」
ぼくはぼくだけど、敬語で話さなければ駄目になっちゃった方の、制服のぼく。
あの服のせいだ、って思ったから脱いで行ったんだけど…。あれさえ着てなきゃ、みんな普通に話してくれると思ったんだけど…。
駄目だったんだよ、みんながぼくだと気付いちゃうから。近付くよりも前に。
直ぐ側に行くまでにバレるってことは、服のせいだけじゃないってことで…。やっぱり髪かな?
この色の髪は目立つ色だし、それのせいかな…?
「さあ…。ソルジャーの他にも、銀の髪の者はおりますが?」
確かに目立つ色ではありますが、彼らをソルジャーと見間違える者がおりますでしょうか?
「うーん…。この髪、染めたらいいかな?」
もっと目立たない、黒とか茶色に。そしたら誰も身構えないから、普通の言葉に戻りそうだよ。
敬語で話す準備が出来ていない内に、目の前にぼくが来ちゃうんだから。
「髪を染めておいでになっても、直ぐにバレると思うのですが…?」
どんなに目立たない色になさっても、ついでに制服も脱いでおられても。
ソルジャーは独特の雰囲気を纏っておいでですから、直ぐ分かります。きっと、誰が見ても。
ずっと前からそうでしたよ。…ご自分では全くお分かりになっておられないだけで。
何処におられても、どんな格好でも分かりますね、とハーレイに断言されてしまった。髪の色を変えても、制服を脱いでも無駄だろうと。きっと誰もが敬語で話すに違いないと。
「そんなの、ぼくは困るんだけれど…。普通に話して欲しいんだけど…」
バレない方法、何か無いかな?
ぼくが纏っている雰囲気とやらを消せる方法。君なら何か思い付かないかな、いい方法を。
「そうですねえ…。これと言った方法は思い付かないのですが…」
私と一緒にお歩きになるのは、控えられたらどうでしょう?
「どうしてだい?」
「私も目立ちますからね。この図体もそうですが…。キャプテンですから」
皆とは制服も違っていますよ、あなたと同じで。
悪目立ちする私と一緒にいらっしゃったら、あなたも余計に目立たれるわけで…。
ソルジャーがキャプテンと一緒においでになった、と皆が緊張しますから。普段以上に。
つまり、あなたが望んでおられる普通の会話が遠ざかります。お一人で歩いておられるよりも。
ですから、制服を脱いだり、髪を染めたりと努力をなさるおつもりでしたら、お一人で。
私が目印になってしまいますからね、ソルジャーが此処にいらっしゃる、と。
「それじゃ、君と一緒に歩こうとしたら…。バレるってことだね、どう努力しても?」
頑張って方法を見付け出しても、独特の雰囲気を消せたとしても。
他のみんなと変わらないように見える方法、なんとか手に入れられたとしても…。
君と一緒に歩いているだけで、それの効き目は無くなってしまうわけなんだ?
「そうなるでしょうね、私がお側にいたのでは…」
私の身体は小さく出来ませんから、どうしても目立ってしまいます。
これからも努力をなさるのでしたら、何処へ行かれるにも、お一人でどうぞ。
より目立たない道をお求めならば、とハーレイは提案してくれた。キャプテンとしての役目以外では、近付かないようにするから、と。目立ちたくない前の自分を、無駄に目立たせないように。
「あなたのお気持ちは分かりますよ」と、穏やかに微笑んでいたハーレイ。
特別扱いは嫌なものだし、元の通りに話して欲しいと願う気持ちも理解できると。
(いい方法が早く見付かるといいですね、って言ってくれたけれど…)
それが見付かっても、ハーレイと一緒に歩いていたなら、効き目は全く無くなるらしい。自分は目立っていなかったとしても、ハーレイが皆の目を引き付けるから。
(キャプテンだ、って誰でも気付くし…)
そうなれば、一緒にいる人間にも向くだろう視線。あれは誰か、と浴びる注目。正体を知ろうと思って見たなら、きっと分かってしまうだろう。目立たないけれどソルジャーだ、と。
其処で正体がバレてしまえば、元の木阿弥。皆は敬語で話し始めて、いつもと何も変わらない。前と同じに話の輪の中に加わりたくても、開いてしまう距離。ソルジャーだから。
(…せっかくハーレイも一緒なのに…)
仲間たちと楽しく話したいのに、ハーレイがいるとそれが出来ない。自分一人ならば上手くいく方法を見付け出せても、ハーレイが効き目をすっかり消してしまうから。
それでは少しも楽しめない、と思った自分。一番の友達だったハーレイ、そのハーレイと一緒に仲間たちの間に溶け込むことが出来ないなんて、と。
一番の友達と歩くことさえ出来ないのでは意味が無い、と諦めたお忍び。正体を知られないよう努力すること。制服を脱ぐのも、髪を染めようかと考えるのも。
(ハーレイと一緒に歩けないなんて…)
つまらないから、と前の自分は結論付けた。
まだハーレイと恋人同士ではなかったけれども、二人でいるのが好きだったから。二人で一緒に歩きたかったし、それをやめたくはなかったから。
そう決めたのが前の自分で、目立たないよう努力するのを諦めたのに。髪を染めるのも、制服を脱ぐのもやめたというのに、今のハーレイは「そういえば…」と顎に手を当てて。
「お前、あれっきり、やらなくなったが…」
どうすればいいのか俺に相談してから後は、バッタリやらなくなっちまったが…。
心境に変化があったのか?
お前がマントを脱いでいたとか、挙句に上着も着なかっただとか、エラから報告は来てたんだ。俺も一応、キャプテンだしなあ、ソルジャーの情報も入ってくる、と。
ところが、お前、二度とやらかさなかったんだ。せっかく相談に乗ってやったのに…。
一緒に歩かないようにしよう、と提案してやったのに、きちんと制服を着込んじまって…。髪を染めると言っていたのも、一度も試さないままで。
いったい何があったと言うんだ、俺に相談した後で?
「ハーレイに相談したからだってば!」
「はあ?」
俺は真面目に答えたじゃないか、俺と一緒に歩かないのが一番だ、とな。
目立たないようにしたいんだったら、悪目立ちする俺とは離れておくのがいい、と。
「それだよ、ハーレイと一緒にいられないんだよ!」
ハーレイといるだけで、ぼくの正体もバレる、って言ったの、ハーレイじゃない!
キャプテンなのと、身体のせいとで、ハーレイはとても目立つから…!
「その通りだが、どうしてお前が努力するのをやめるんだ?」
お前はお前で頑張ってみればいいと思うのに、なんだって試しもしなかったんだか…。
髪の毛を染めて制服を脱ぐとか、お前らしさを消す方法を。
「ハーレイが一緒にいると効かない方法なんて、探しても意味が無いんだよ!」
上手に誤魔化せるようになったとしたって、ハーレイのいない時だけだなんて…。
君と一緒に他の仲間と楽しめないなら、努力する意味が無いじゃない!
ぼくの一番の友達はハーレイだったし、いつも一緒にいたかったんだよ、離れるんじゃなくて!
恋だと気付いてはいなかったけれど、特別な存在だったハーレイ。前の自分の一番の友達。
お忍びに未練はあったけれども、ハーレイと一緒にいる時は正体を隠せないらしい自分。一番の友達が側にいるだけで、誰なのかバレるらしいから。
それでは駄目だ、と諦めた自分。誰よりも一緒にいたい人と離れなければいけないなんて、と。
「…そうだったのか…」
お前が努力を投げ出した理由、俺だったんだな。…俺と一緒だとバレちまう、と。
髪の毛を染めようかとまで言っていたのに、やけにアッサリ諦めたなと思っていたら…。
「うん。…だって、ハーレイと離れていないと効かないだなんて、そんな方法…」
見付け出しても意味が無いでしょ、いくら普通に扱って貰える方法でも。
みんなが普通に話してくれても、きっと楽しくないんだよ。…其処にハーレイがいなかったら。
どうしてハーレイはいないんだろう、って考えてしまうに決まっているもの。
…でも、今のぼくでも、ハーレイといたらバレちゃうね。
目立たないように隠れようとしても、今日よりも、ずっと。周りが普通の生徒ばかりなら、まだマシだけど…。ハーレイと二人なら、アッと言う間に見付かっちゃうよ。あそこにいるな、って。
「お前、今度も隠れたいのか?」
「そんなことないけど…」
ハーレイをコッソリ見られなかったのは残念だけれど、今は普通の生徒だもの。
みんなが敬語で話しはしないし、正体がバレても、前みたいに困りはしないんだけど…。
「今のお前は普通の生徒で、将来も普通の嫁さんだろ?」
男にしたって、嫁さんには違いないんだから。
俺と一緒に暮らす嫁さんで、誰もお前を特別扱いして困らせることはない筈だぞ。
俺の嫁さん、それで全部だ。今度のお前は。…俺と一緒に何処に行っても。
だからバレてもかまわないよな、とハーレイの顔に浮かんだ笑み。
俺と一緒にいるばっかりに、お前が此処にいるんだとバレてしまっても、と。
「いいよ、ハーレイと二人でいられるのなら。バレちゃっても」
だけど、制服は学校の生徒の間だけしか着られないから…。
制服を着なくなった後だと、今よりもうんと目立つかも、ぼく…。
「おいおい、其処は逆なんじゃないか?」
制服の群れの中にいる方が目立つぞ、お前。…前のお前の制服みたいな感じでな。
みんなの個性が減っている分、分かりやすくなっているんだな。あそこにお前、と。
だからだ、普通の服になっちまったら、バレにくくなると思うんだが?
色々な服の人がいるしな、実に賑やかに。
「前と同じだよ、ハーレイといたら目立つんだよ!」
ぼくが制服を着ていなくても、同級生とかはハーレイのことを知っているもの!
街とかでハーレイを見付けた途端に、隣のぼくまで見付けるんだよ!
前のぼくがハーレイと一緒にいたなら、直ぐにソルジャーだとバレた頃みたいに!
「そういうことか…。あの頃と同じか」
俺の隣にお前がいるな、とバレるわけだな、俺が発見されちまうから。
そいつは確かにそうなんだろうな、教師ってヤツは教え子に直ぐに見付かっちまうし。
歩いていようが、買い物に行こうが…、と苦笑するハーレイ。あいつらは目ざとい、と。
「前の学校で教えたヤツらも覚えているしな、俺のことを」
思わん所で声を掛けられたりするもんだ。「ハーレイ先生!」と、いろんなヤツらに。すっかり大人になったヤツから、今の学校の連中までな。
いつかはお前も巻き添えなわけか、そうやって俺が見付かった時は。
「そうなんだけど…。いいよ、バレちゃっても」
だって、ハーレイはぼくのだから。
「おっ?」
お前のと来たか、この俺が?
「そう! ぼくのハーレイだよ、って自慢するからバレても平気」
バレたら、みんなに自慢するんだよ。いいでしょ、って。ハーレイはぼくのだからね、って。
「自慢って…。今日のコッソリと違っていないか?」
友達にも内緒で、俺を見ようとしていたくせに。
他の生徒の中に混じって、誰にも見付からないように。…バレちまってたが。
「今だからだよ、ハーレイと一緒にいられる時間が少ないからだよ!」
だから誰にも邪魔をされずに、ゆっくり見ていたかっただけ!
結婚したら、いつもハーレイと一緒だし…。隠れなくても、いろんなハーレイを見られるし…。
だから、コッソリはやめて、バレた時には見せびらかすよ!
ぼくの大好きなハーレイだもの。ぼくのハーレイなんだもの…!
それに、今の自分は、もうソルジャーとは違うから。
正体がバレても、特別扱いされてしまいはしないから。仲間たちとの距離が開きもしないから。
目立ってもいいし、注目されてもかまわない。
どんなに目立ってしまったとしても、ただのブルーで、ハーレイのお嫁さんだから。
「そう思うでしょ? 前のぼくとは全然違うよ」
見付かっちゃっても、ぼくは困りはしないんだよ。得意になれることはあっても。
ぼくがハーレイのお嫁さん、って嬉しくなることは何度もあっても。
「ふむふむ、ただのブルーで嫁さんなんだな、今度のお前は」
バレちまっても、周りのヤツらの態度が変わるってわけでもない、と。誰もが敬語になっちまうことも、特別扱いを始めることも。
「ホントにただのブルーだもの。…ただのハーレイのお嫁さんの」
今度はハーレイの方が、ぼくより特別。みんなに人気のハーレイ先生。
柔道と水泳の腕がプロの選手並みで、サッカーだって上手くって…。今日みたいに大勢の生徒が集まっちゃうしね、ハーレイがいるっていうだけで。
「まあなあ…。生徒に人気はあるな」
ずっと前にいた学校のヤツらも、街で出会ったら声を掛けてくるし…。
クラブで教えた生徒だったら、未だに憧れのヒーローみたいな扱いになるのも間違いない、と。
俺は今度も目立つわけだな、キャプテンじゃなくなったんだがなあ…。
お前を巻き添えにするのも同じか、とハーレイは苦笑いをしているけれど。
そのハーレイと一緒にいたなら、今の自分も前と同じに目立ってしまうのだけれど。
(…ぼくは今度は平気だしね?)
友達が敬語になってしまったり、距離が開いたりはしないから。本当にただのブルーだから。
ハーレイのお嫁さんになるというだけで、他には何も変わらないから。
正体がバレてしまった時には、今は大人気のハーレイの隣で、ハーレイは自分のものだと自慢をすることにしよう。「ぼくのハーレイなんだから」と。ハーレイの腕にギュッと抱き付いて。
そう、今度はバレてしまってもいい。目立つ姿でもかまわない。
自分が特別扱いされない世界で、幸せに生きてゆけるのが今の自分だから。
ハーレイの方が目立つ世界で、大きな身体と一緒に歩いて。
早く見付けて欲しいくらいに、きっと心が弾むのだろう。
幸せを自慢したいから。「ぼくのハーレイだよ」と、幸せ一杯で誰もに自慢出来るのだから…。
目立つのは嫌・了
※雰囲気だけで人目を惹いてしまうのがブルー。前の生でも、普通なふりをするだけ無駄。
ハーレイと一緒だと、更に人目を惹くのですけど、ソルジャーではない今は、それも幸せ。
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(うーむ…)
相変わらず高い、とハーレイが唸ってしまった広告。なんて値段だ、と。
ブルーの家には寄れなかった日、夕食の後で開いた新聞。まだコーヒーは淹れていなくて、少し座って一休み。鍋や食器は綺麗に洗って片付けたから、一仕事終わった、といった感じで。
帰宅して夕食を作る間に、新聞にも目を通したけれど。ザッと一通り見たというだけ、興味深い記事を中心に。その読み方だと、見落としてしまうものもある。授業で使う雑談ネタとか。
だから、こうして改めて読む。何か無いかと、読むべきものは、と。
そうやって読むと視点が変わって、見えなかったものが見えて来るから…。
(キャプテン・ハーレイの航宙日誌…)
さっきは気付いていなかった。立派なカラーの広告なのに。
キャプテン・ハーレイが羽根ペンで綴っていた文字をそっくりそのまま、再現してある復刻版。文字の滲みや掠れ具合まで、それは忠実に写し取ったもの。
日誌を読み込む研究者向けで、装丁までが本物と同じ。表紙の色やデザインはもちろん、厚みもサイズも同じに出来ているという品。
(本物は簡単に読めないからなあ…)
宇宙遺産になってしまって、収蔵庫に収められている航宙日誌。特別公開もされたりはしない。触れられるのは、ごくごく一部の研究者だけ。選ばれた一流の学者だけしか読めない日誌。
けれど、研究には欠かせない日誌、学者たちは研究費用で買って揃える。自分の書庫に。
本来はそういう本だけれども、学者でなくても欲しい人間はいるものだから。
(…俺が行ってる理髪店の店主も…)
欲しいんだった、と苦笑い。キャプテン・ハーレイのファンだと語った店主。そうとは知らずに通っていたのに、最近になって聞かされた。
航宙日誌も全巻揃えているそうだけれど、持っていないのが復刻版。いつかはそれも、と店主が口にしていた夢。「孫や曾孫が笑うけれども、欲しいんですよ」と。
身近な所にもいる、復刻版の航宙日誌が欲しい一般人。意外にニーズがあるのだろうか、たまに目にする立派な広告。研究者ならば、広告が無くても買う筈なのに。それが必要なのだから。
しかし、と眺めてみた広告。ズラリ並んだ、前の自分の日誌そっくりな復刻版たち。
(まったく、とんでもない値段だな…)
これ一冊で普通の本が何冊買えることやら、と考えてしまう。航宙日誌の中身だけなら、手軽に買える文庫版まで揃っているのに、この値段。それだけの手間がかかっているとは承知だけれど。そうでなくても、研究者向けの専門書の類は高いのだけれど…。
(こいつの原価はどれだけなんだか…)
原価と言ってもコレじゃなくて、とクックッと笑った前の自分の航宙日誌。シャングリラでは、こんなに高くはなかった、と。
高いも何も、シャングリラには無かった通貨や店。ゆえに値段がつきはしないし、売る相手さえいなかった。高かろうとも、在庫一掃セールでも。
売ろうにも売れなかったんだが、と考え始めた前の自分の日誌の原価。今の時代は復刻版でさえ目を剥くような値がついているけれど、元々の値段はどんなものかと。
あれを書くのにかかった費用はどのくらいかと、それを勘定するならば…、と。
(俺が書く手間賃などは要らんし…)
航宙日誌を書いておくことはキャプテンの仕事の内だけれども、半分は自分の趣味でもあった。今日はどういう日だったかと、日誌を書きながら思い返す時間が好きだったから。
一日の出来事を思い出しては綴るのだから、その日を二回味わえる。過ぎた時間を自分の好みのペースに戻して、もう一度。
(どんな日だって、いいことの一つや二つはあるもんだしなあ…)
目が回るような思いをしていた日でも、何処かにコロンと宝物のように素敵な時間。コーヒーを飲む暇さえ無かったんだ、と嘆きたい日でも、誰かに貰った一言が嬉しかったとか。
(…前のあいつを失くしちまうまでは、そういう日誌だったんだ…)
ブルーを失くして、独りぼっちになるまでは。絶望と孤独に囚われるまでは。
前のブルーが長い眠りに就いてしまって、目覚めなくても。青の間で眠り続けるブルーを見舞うことしか出来ない日々でも、素敵な時間はあったから。
仲間たちと過ごす間もそうだし、青の間にブルーを見舞う時には、いつも幸せだったから。まだ生きていてくれるのだと。このまま深く眠っていたなら、ブルーは地球まで行けるのかも、と。
日々の出来事から幸せを拾い上げては、噛み締めた時間。航宙日誌を書いていた時間。
もっとも、見付けた幸せのことを日誌に記しはしなかったけれど。無駄なことだと全部省いて、淡々と書いておいたのだけれど。
半分は趣味で書いていたなら、貰える筈もない手間賃。好きでやっていることなのだから。
それにキャプテンには無かった給料。通貨が存在していない船に給料は無くて、働いてもそれを貰えはしない。残業代だって支払われはしない、ブリッジ勤務を終わらせた後に書いていたって。
手間賃はタダな航宙日誌。色々な意味で、タダでしかない。それがタダだと、他の費用は…。
(紙と、表紙と、インクに羽根ペン…)
いわゆる実費というヤツだ、と思い浮かべた、日誌を書くのに必要だったもの。日誌の本体と、文字を書くための文具。
レトロな羽根ペンを愛用していたけれども、羽根ペンになる前は、普通のペン。何処にでもある普通のペンで綴っていたのが初期の頃の日誌。
(羽根ペンにしても…)
今でこそ高い値段の文具で、小さなブルーが買い損なったくらいだけれど。今の自分の誕生日に贈ろうと買いに出掛けて、手も足も出なかったほどなのだけれど。
前の自分が使っていたのは、買った羽根ペンなどではなかった。前のブルーが奪った物資の中にあった羽根ペン。大量に混ざっていたものだから、不自由しないで使い続けた。ブルーを失くしてしまった後にも、前の自分が命尽きるまで。
(奪ったヤツだし、タダみたいなもんだな)
それを載せていた人類の船に、代金は払っていないから。ブルーが奪ってそれでおしまい。白い羽根ペンも、それに合わせたペン先も。
(インクは船で作って貰っていたが…)
いくら丁寧に保管しておいても、羽根ペンと一緒に手に入れたインクは古くなったら使えない。物資を奪う時代が過ぎたら、専用に作って貰っていた。
とはいえ、さほど高いものでもなかっただろう。他のペンにも使うインクを、自分専用のインク壺に入れて貰っていただけだから。「これに頼む」と、愛用の物を係に渡して。
使っていた文具はそんな具合で、航宙日誌を綴っていた紙も、最初は平凡なノートだった。船に何冊もあったノートで、前のブルーが奪ったもの。
(纏まった量になって来た頃に…)
何冊か纏めて綴じたのだった。ノートを挟めるファイルノートを倉庫で貰って、それに挟んで。
背表紙にあった、タイトルを書いた紙片を入れられる部分。其処に「航宙日誌」の文字と、中のノートを綴った年号などを書き入れた。後になって分かりやすいようにと。
それを本棚に突っ込んでみたら、グンと値打ちが増した気がした航宙日誌。ノートの形で並べておくより、断然、こっちの方がいい。一冊の本を書き上げたようで、ノートの時とは重みが違う。綴り続けた日々の価値まで、上がったように思えたから。
(もっと見栄えを良くしたくてだな…)
ファイルノートでこれだけ値打ちが出るのだったら、本物の本の形にしたなら素晴らしくなるに違いない。本の中身の価値はともかく、見た目に栄える。こうして本棚に並べた時に。
そう思ったから、製本しようと考えた。暇を見付けて、少しずつ。元のノートを分解してから、丁寧に糸で綴ってゆく。出来上がったら表紙をつけて…、と。
作業自体は経験済みだし、時間をかければ充分に出来る。ノートを本に仕上げることも。
早速、次の日から取り掛かったノートの製本だけれど。
(ブルーが手伝いに来やがって…)
何処で嗅ぎ付けたか、たまたま部屋を訪ねて来た時、自分が作業中だったのか。本にするのだと知ったブルーは、いそいそと手伝いにやって来た。
「料理のレシピを本にする時、ぼくも一緒にやったから」と助手に名乗りを上げたブルー。本にするなら手伝うからと、二人で作った方が早いと。
有難そうに聞こえるブルーの申し出。二人でやれば確かに早いし、大いに助かるのだけれど。
問題は本にしたい中身で、料理のレシピとは全く違う。日々の出来事を綴った日誌で、ブルーが興味津々のノート。いったい何を書いているのかと、隙を狙って盗み見ようとしている日誌。
「手伝ってくれ」と言おうものなら、まさしくブルーの思う壺。手伝いと称して、堂々と読める航宙日誌。製本しながら、次から次へと。
その手は食わない、と断ったけれど、諦めないのがブルーだから。
(追い払うのが大変だったんだ…!)
さて、と作業に取り掛かったら、ヒョイと現れるものだから。「手伝おうか?」と。
ブルーが顔を覗かせる度に、「いや、大丈夫だ」と身体で隠した航宙日誌。その度に作業は一時中断、まずはブルーを追い払うこと。好奇心の塊が部屋にいたのでは、決して続けられないから。
初期の日誌は自分で製本、表紙も自分で作っていた。レシピ本の時の要領で。
その内に本作りの好きな仲間が気付いて、「最初から本に書けばいい」と専用の物を作り上げてくれた。立派な本の形だけれども、何も書かれていない物を。しかも、こだわりの一冊を。
何度もデザインを訊きに来てくれて、サイズも色々検討して。表紙の色を好みで選べて、入れる文字の色も書体も選べた専用の日誌。一冊使い終わる頃には、また新しい物を作ってくれた。
(あれが今でも残ってるヤツの原型なんだ…)
前の自分の制服が出来た後、表紙の色を制服に合わせて渋い茶色に、と注文したら。
本作りが好きな仲間たちは喜んで応じてくれた。その上、それまでの航宙日誌の方まで、それと揃いに出来るようにと新しい表紙を作ってくれた。
「自分で作り直せるだろうし、揃いの表紙の方がいいから」と。
仲間たちの好意で貰った表紙を付け替えていたら、やはり現れたブルー。「手伝おうか?」と。二人でやった方が早いと、料理のレシピの本作りは一緒にやったじゃないか、と。
もちろん、お帰り願ったけれど。中身を読まれてはたまらないから。
本物のキャプテン・ハーレイの航宙日誌は、そうやって出来た本だった。原価はせいぜい、紙と表紙とインク代。綴るのに使った糸や接着剤、それを入れても微々たるもの。
(タダとは言わんが、その辺の本より安いんじゃないか?)
日記帳の値段くらいだろうな、と結論付けた。沢山書けて、本の形になっているような日記帳。今の自分も使っているから、少しも高くないことは分かる。ノートよりかは高いけれども、普通の本を買うよりは安い。同じような形の本を買ったら、作者などに支払う分が上乗せされるから。
(やっぱり、べらぼうに高いぞ、これは)
原価を思えば、ぼったくりにしか見えない値段の復刻版。気軽に買えはしない本。
けれど、そっくりには出来ている。前の自分の遠い記憶が「違う」と言いはしないから。本当にとてもよく出来ていると、こんな日誌が部屋にあった、と懐かしさが心に広がるから。
遠く遥かな時の彼方で、せっせと書いていた日誌。ブルーが覗き込もうとする度、身体で隠して「俺の日記だ」と守り続けた航宙日誌。
(いつから書いていたんだっけな…?)
ブルーを部屋から追い出す時には、「俺の日記だ」が決まり文句だった。常に敬語で話すようになっても、その時だけは。恋人同士になった後にも、一度も読ませはしなかった日誌。
決まり文句になった言葉は、恐らくは最初からのもの。製本していた時からのものか、それとも日誌を書き始めて直ぐに使っていたか。
(あいつが黙っているわけがないし…)
きっと一冊目のノートの頃から来ていただろう。いったい何を書いているのかと、覗き見たくて何度でも。その度に決まり文句を使って、ノートをパタリと閉じたろうけれど。
その一冊目は、いつから書いていたのだろうか。前の自分の航宙日誌。
はて…、と考え始めたこと。一番最初の日付はいつのものだったろうか、と。
キャプテンだから、と書いていたのが航宙日誌。シャングリラでの日々の出来事、それを綴っていた日誌。初めの間は、倉庫で貰った平凡なノートに、普通のペンで。
(いきなり初日から書くか…?)
キャプテンになったその日に書くだろうか、と浮かんだ疑問。それこそ「キャプテンに就任」と書いて終わりになりそうだから、書いていないと思うのだけれど。
船のあちこちを把握してから、書き始めそうな気がするのだけれど。
何故だか、「書いた」という記憶。自分はその日も日誌を書いたと、確かに書いていたのだと。
(だが、書くようなことがあるのか、初日に…?)
キャプテンに就任、と書いたら終わりだろう初日。それを自分は書いたのだろうか、短い文を。右も左も分からないような新米キャプテンなのに、倉庫でノートを貰って来て。
(一人前に航宙日誌ってか…?)
スタイルにこだわる方ではないが、と自分でも不思議に思える記憶。書くようなことも無かっただろうに、航宙日誌を書き始めた理由が分からない。
データベースにアクセスしたなら、無料で見られる本物の航宙日誌の文字をそっくり写し取ったもの。それを読んだら、記憶の小箱を開けられるけれど。
前の自分が綴った文字から、その時の思いを読み取れるけれど。
(こういうのはだな…)
簡単に出来る種明かしよりも、手掛かりを一つ、二つと集めて思い出すのが楽しいから。日誌を書いていた時のように、過ぎた時間を追体験できるものだから。
(よし…!)
考え事をするなら書斎なんだ、と移動を決めた。熱いコーヒーも淹れて行って、と。
そうして移った、気に入りの書斎。いつもの椅子に腰を下ろして、コーヒーを一口。
あの頃には本物のコーヒーを飲んでたっけな、と思い出が一つ蘇る。白いシャングリラになった後には、キャロブのコーヒーだったけれども。
さてと、と手繰り始めた記憶。キャプテンになった初日のこと。
(羽根ペンはまだ無かった時代で、普通のペンで…)
そのペンで何を書いたのだろうか、前の自分は?
まだキャプテンの部屋も無かったし、元の部屋をそのまま使っていた。厨房時代の部屋で、机は愛用していた木製。白い鯨が出来た時にも、それを運んで行ったほど。木で出来た机は年月と共に味わいが増すし、磨いてやるのが好きだったから。
机だけは立派にキャプテン・ハーレイ。初日から整っていたと言える舞台装置で、レトロだった趣味の品なのだけれど。
他には特に無かった持ち物。キャプテンならばこれ、といったもの。制服も無くて、動きやすい服を着ていただけ。厨房時代と変わらないものを。
(キャプテンになったし、キャプテン・ハーレイではあったんだが…)
就任式も特に無かった。今日からキャプテン、そういった感じ。
ブリッジの仲間と挨拶を交わして、「よろしく」と握手した程度。船の仲間が揃いはしないし、乾杯だってしていない。キャプテンという職が出来ただけだし、祝い事とは違うから。
(厨房の方なら、引き継ぎを済ませたんだがなあ…)
自分が抜けたら、色々と変わってくるだろう厨房。手作りのレシピ本を譲り渡して、愛用の鍋やフライパンなども「大事に使ってやってくれ」と仲間に譲った。「後は頼むぞ」と。
けれど、ブリッジの方では違った。操船技術も持たないキャプテン、レーダーの見方も知らない有様。引き継ぎどころか、新入り同然。求心力だけを買われて就任したのだから。
着任したって、ブリッジでは役に立たないキャプテン。それでもいいから、と請われたのだし、恥じることなど無かったけれど。
(いずれは操舵も覚えるから、と挨拶はしたが…)
あの段階では基礎も分かっていなかったのだし、計器の一つも読み取れはしない。そんな自分がキャプテンになって、初日は何をしたのだろうか。
(ボーッと立ってもいられないしな…)
座っていたってそれは同じで、いたずらに場所を塞ぐだけ。
(視察にでも出掛けて行ったのか?)
それはブルーの役目の筈だが、と考えたけれど。視察の時にはブルーが先に立って、前の自分は後ろを歩いた。ソルジャーと並んで歩ける立場にいなかったから。キャプテンだから。
けれど、自分がキャプテンになった頃のブルーは…。
(まだリーダーで…)
ソルジャーという呼び名は無かった。あくまでリーダー、皆のために物資を奪うだけ。あの頃のブルーは視察をしてはいなかった。
そうなってくると…。
(俺の役目だよな?)
船内を視察して回るのは、と蘇った記憶。かなりの間は、前の自分がやっていた視察。
ブルーがソルジャーになるまでは。…キャプテンを従えて堂々と歩き始めるまでは。
ならば視察に出たのだろうか、とブリッジの景色や扉などを思い浮かべていたら。
(待てよ…?)
外側からスイと開いた扉。其処から入って来たブルー。
「行こう」と誘われたのだった。キャプテンなら船を知らなくては、と。ブリッジだけでは船の全ては分かりはしないし、ぼくと一緒に見て回ろう、と。
(思い出した…!)
君は厨房一筋で来ていたからね、と船の中を連れ回してくれたのがブルー。次はこっち、と。
(俺だって充分、詳しかったが…)
厨房が居場所だったとはいえ、備品倉庫の管理人をも兼ねていた。ブルーが奪った物資の分配も前の自分がしていたほど。倉庫に入れたり、必要な仲間に配ったり。
「見当たらない物があるなら、ハーレイに訊け」とまで言われた自分。だからキャプテンに、と頼まれた。船の仲間を纏め上げるには適任だ、と。そういう人間が必要だから、と。
厨房だけに籠っていたなら、そんな自分は出来上がらない。船のあちこちに出掛けていたから、詳しくなった船の中やら仲間の事情。
けれど流石に、機関部などの奥となったら管轄外。部外者は邪魔になるだけだろう、と遠慮して入っていなかったから。
そうした所へもブルーと二人で出掛けて行った。キャプテンなのだし、遠慮は要らない。確かに知っておくべき所。船の心臓なのが機関部。
ゼルが出て来て、「こっちだ」と案内してくれた。「気を付けろよ」と注意しながら、立ち入り禁止の区画までをも。「キャプテンだったら見ておけよ」などと、分かりやすく説明してくれて。
(厨房にもブルーと行ったっけな…)
其処は充分知っているから、と言っているのに、腕を引っ張られて入った厨房。
昨日まで一緒に料理をしていた仲間たちが拍手で迎えてくれた。「おめでとう」と、凄い出世をしたものだ、と。
祝って貰った、キャプテン就任。
リーダーのブルーも一緒なのだし、と心尽くしの祝いの一皿。「食べて行ってくれ」と、笑顔で作ってくれた仲間たち。けして豪華ではなかったけれども、美味しかったと今でも思う。ブルーと二人で食べる分だけ、皿に盛られていた料理は。
隈なく回った船の中。全部の通路を歩いたのでは、と思うくらいに。一回りしたな、と自分でも分かったものだから。
(帰ろうとしたら…)
ブリッジに向かう通路の方へと足を向けたら、「まだ見ていない所があるよ」とブルーにクイと引かれた袖。「キャプテンなら船を見ておかなくちゃ」と。
「船って…。もう見たじゃないか」
全部お前と回った筈だぞ、それこそ奥の奥までな。見落とした所は無いと思うが…。
「でも…。アルタミラでしか見ていないよね?」
この船の全体像ってヤツは、と微笑んだブルー。だからハッキリ知らない筈、と。
アルタミラでは駆け込んだだけの船だったのだし、きっと分かっていないと思う、と。
「いや、見たが…」
これでもキャプテンになったわけで、だ…。
難しいことは何も分からないが、どんな船かは知っておかんと…。
ゼルたちもそういう考えだったし、ちゃんと見せては貰ったんだ。それこそ色々な角度から。
絵を描けと言われても困っちまうが、船の姿なら把握してるぞ。こういう船だ、と。
「それって、全部データでしょ?」
アルタミラでは肉眼だったけど、今は宇宙に出てるから…。
船を外から見るのは無理だし、ハーレイが見たのは元からあったデータの筈だよ。
船外活動、最低限しかしていないもの。船の姿を掴めるほどには、誰も離れていないんだよ。
ぼくは何度も外に出たから、よく分かる。
たったあれだけ離れたくらいじゃ、船は壁にしか見えないよね、って。
本物の船を見せてあげる、とブルーは腕を引っ張った。「こっちに来て」と。
まさか格納庫に行くつもりでは、と思う間に、連れて行かれた先にはハッチ。補修などで船外に出る時に使う、減圧室の先の小さなもの。宇宙服を着た人間が二人、辛うじて擦れ違えるくらいのサイズの円形の扉。
「ま、待て、出るのか!?」
此処から外へ出ようと言うのか、この向こう側は宇宙なんだが…!
こんな所から外へ出るのか、格納庫にある船を使うんじゃなくて…?
「大丈夫。ハーレイくらいは守れるからね」
それに格納庫の船なんか…。誰も一度も使っていないし、それこそアテにならないよ。
ぼくに任せておいてくれれば、ちゃんと案内してあげるから。
この船が外からどう見えるのかも、ハーレイが見たいと思う角度も。
「なら、宇宙服を…!」
ちょっと戻って探してくるから、待っていてくれ。減圧室には置いてないしな、宇宙服。
俺が着られるデカいサイズのヤツ、直ぐ見付かるといいんだが…。
とにかく急いで行ってくるから…!
「要らないってば、宇宙服なんか」
ぼくは一度も着たことが無いよ、あんなのを着たら動きにくいと思うけど?
視界だって狭くなってしまうと思うから…。そのまま出るのが一番なんだよ、船を見るなら。
強化ガラスを通して見るより、肉眼の方がずっといいから…!
「ま、待ってくれ…!」
お前はそれで大丈夫なのかもしれないが…!
俺は宇宙に出たことは無くて、宇宙服だって、まだ一度もだな…!
着てみたことが無いんだが、と言い終わらない内に、ブルーが開けてしまったハッチ。
円形に開いた穴の向こうは真空なのだし、吸い出されると思ったけれど。
「大丈夫だと言ったよね?」
ハーレイ、ちゃんと息が出来てる筈だよ、外にも放り出されてないし…。
この減圧室、少しも減圧しなかったのにね?
「そのようだ…。これもお前の力なのか?」
生きた心地もしなかったんだが、何も起こらん。お前、ハッチを開けちまったのに。
「ぼくはいつでも、ハッチも開けずに飛び出してるよ?」
瞬間移動で出て行くんだから、壁なんか無いのと変わらないしね。
だけど、今日はハーレイがビックリしないようにと、此処に来たんだ。
いきなり宇宙に飛び出して行けば、ホントに驚くだろうから…。ハッチを通って外に行くなら、他のみんなと全く同じ。
宇宙服があるか無いかの違いだけだよ、船外活動の時は、みんな此処から出るんだから。
ほら、其処が宇宙。ハッチの向こう。
あの真っ暗な所はすっかり宇宙なんだよ、船の外壁を通り抜けたら。
行こう、とブルーに手を引かれた。いつの間にか消えていた重力。二人揃って床を離れて、壁に開いた丸い穴へと。元は閉まっていたハッチ。其処を通って、船の外へと。
息は少しも苦しくはなくて、周りの温度も変わらないまま。まるで見えないカプセルに入って、宇宙に浮いているかのように。
ブリッジでも見ていた瞬かない星、それが幾つか散らばる空間。星と船とを除いた所は真っ暗な闇で、遥か彼方に恒星が一つ。
その星の光で浮かび上がったシャングリラ。元はコンスティテューションだった船。
ブルーは何もしていないように見えるけれども、船との距離が離れてゆく。最初は聳え立つ壁に見えたのが、壁の周りに少しずつ宇宙が見え始めて。
「こんな船なのか…」
外から見たなら、こういう風に見えるのか…。見せて貰ったデータのままだが、やっぱり違う。
俺がこの目で見ているせいか、本物なんだって感じがするな。
この船の中にみんなが乗ってて、俺たちが生きてる世界がそっくり乗っかってるんだ、と。
「ね、見に出て来て良かっただろう?」
ハーレイはこの船のキャプテンなんだよ、これからハーレイが守っていく船。
ぼくも守るけど、船のみんなの暮らしを守っていくのはハーレイ。ぼくは物資を奪うだけだし、それを上手に使っていくのはキャプテンの仕事。食べるのも、船を修理するのも。
「そうなるんだな…」
みんなの命を守るんだよなあ、この船を焦がさないように。
昨日までならフライパンだったが、今日からは船を焦がさないのが俺の仕事だ。
こうして見るとデカイ船だな、フライパンとは比較にならん。…焦がさないのは大変そうだが、焦がしちまったらエライことになるし…。
頑張らないとな、船のみんなを守れるように。この船もきちんと守ってな…。
これがシャングリラという船なのか、とブルーのお蔭で実感出来た。船の中だけを歩いたのでは掴めなかっただろう感覚。この船が全てなのだ、と分かった。自分たちの世界を乗せている船。
「ハーレイ、船を何処から見たい?」
一周してはみたけれど…。此処からだとかなり遠いしね。
もっと近くで見てみたい所、あるんだったら近付いてみるよ?
船全体は見えなくなるけど、しっかり見たいと思う部分があるのなら…。
「ブリッジの方が気になるな…」
俺の居場所になる所だしな、見られるものなら見ておきたいと思うんだ。
このくらいの距離のままでいいから、ブリッジが見える方へと回ってくれないか?
「了解。…それじゃ、近付いてみるね」
ブリッジを外から覗けるトコまで。みんなの顔が見えるくらいに。
「待て、近付くって…! そんな所まで接近したら…」
ブリッジのヤツらが慌てるだろうが、俺たちが外に出ているだなんて知らないんだから…!
操船ミスをしたらどうする、とんでもない方向へ舵を切るとか…!
「平気だってば、見えないようにしておくから」
ぼくたちが外を飛んでいることが、分からなければいいんだしね。
宇宙だけしか見えなかったら、いつもと同じなんだから。
任せておいて、と笑みを浮かべたブルー。姿を消すのは簡単だから、と。
人類の輸送船に近付く時には、よく使う手だとブルーは言った。サイオンで乱反射させる情報、姿が見えなくなるのだという。其処にいるのに、いないかのように。宇宙の闇に溶けてしまって。
今から思えば、後に生まれたステルス・デバイスの原点だろう。
そして真空の宇宙空間で生きていられたのは、ブルーが張っていたシールドのお蔭。あの時点で使いこなせる仲間は、ブルーの他にはいなかったけれど。
ブルーは前の自分を連れて宇宙を移動し、ブリッジの方へと近付いて行った。強化ガラスの直ぐ側まで。中にいる者たちが見える所まで。
「あそこがハーレイの席だったんだよ、空いてるだろう?」
誰も座っていない、あの席。これからハーレイが座る場所はあそこ。
キャプテンの席がきちんと決まるか、決まらないかは分からないけど…。
あそこだと思っておけばいいかな、今日はあそこに座っていたしね。
「そうか、あそこか…」
あそこに座って指揮を執るのか、これから先は。
このシャングリラが焦げちまわないように、みんなが安心して暮らせるように。
「うん。…ハーレイがキャプテンになってくれて良かった」
本当にハーレイで良かったと思う、この船のキャプテン。
ぼくの命を預けられるよ、君にならね。
そう思ったから、「ハーレイがキャプテンになってくれるといいな」と言ったけど…。
改めて思うよ、こうして君と二人でいると。
ハーレイがキャプテンで良かったな、って…。君と二人なら大丈夫だ、って。
本当だよ、と柔らかく笑ったブルーと一緒に、船をもう一度一周して。さっきのハッチから中に戻って、ブルーが閉ざした宇宙への扉。宇宙は壁の向こうになった。重力も床に戻って来た。
「はい、おしまい。…これで視察は済んだよ、全部」
ハーレイ、キャプテンの仕事、頑張って。
ぼくと二人で焦がさないように守って行こうね、シャングリラを。
「ああ、分かってる。お前の期待を裏切らないようにしないとな」
焦げたじゃないか、と睨まれないよう、精進するさ。…なったばかりの新米だがな。
努力しよう、とブルーと別れて戻ったブリッジ。自分のための席に座って、眺めた強化ガラスの向こう。漆黒の闇が広がる宇宙を、ブルーと二人で飛んだのだった、と。
誰も気付いてはいなかったけれど、ブリッジの外を、確かに二人で。船を眺めに。真空の宇宙を移動しながら、あらゆる角度で見て来た船。自分たちの生きる世界を乗せている船。
(この船を守る…)
シャングリラという名の、仲間たちと一緒に生きてゆく船を。世界の全てに等しい船を。
それを預かるキャプテンとして。文字通り、船の長として。
今はまだ右も左も分からないけれど、計器もレーダーも読めないけれど。
こうしてキャプテンになったからには、操舵を覚えて、船を自在に動かしてゆこう。
宇宙まで視察に連れて行ってくれた、まだ少年の姿のブルー。
「ハーレイがキャプテンになって良かった」と、ブルーは言ってくれたから。その信頼と期待を裏切らないよう、しっかりと立ってゆかなければ。
ブルーと二人で、この船を守る。今日から、自分はキャプテンだから。
フライパンから舵に持ち替えて、船を操ることを覚えて。
決意を新たにしたブリッジ。漆黒の宇宙を飛んでゆく船で、いつかは自分がこれを動かそうと。
ブルーが望む通りの場所へと、自分で船の舵を握って。
(頑張らないと、と思ったんだ…)
着実に前へ進んでゆこうと、一日たりとも無駄にすまいと。一足ずつ前へ歩み続けて、一日でも早く船を操れるキャプテンに、と。この決意こそが最初の一歩、と。
(何をしたわけでもなかったんだが…)
決意してみても、意味が読み取れない計器。どう使うのかも分からないレーダー。もちろん舵を握れはしないし、「触らせてくれ」とも言えずに終わった初日。キャプテンになった最初の日。
けれど、此処から進んでゆかねばならない自分。真のキャプテンへの道を。
だから書こうと思ったのだった、自分の歩みを綴る日誌を。
ブリッジの皆が共有している記録とは別に、個人的なものを。日々の出来事を書き留めようと。
そう考えたから、勤務時間が終わった後に出掛けた倉庫。ノートを一冊貰って帰った。いつもと変わらない部屋へ。昨日までいた厨房時代と、何も変わっていない部屋へと。
机に向かって広げたノート。それにレシピを記す代わりに、記した自分の一日の記録。今日から船のキャプテンになった、と書き始めたのだったか、一行目は。
船をあちこち視察したことや、機関部の奥に初めて入ったことなどは確かに書いたけれども。
(ブルーと宇宙を飛んでいたことは…)
微塵も書きはしなかった。ブリッジの仲間は知らないのだから、伏せておこうと。宇宙服を着て出たならともかく、ブルーの力で生身で出掛けていたのだから、と。
(あれが前の俺の、隠し事の始まり…)
全てを書いたわけではなかった航宙日誌。「俺の日記だ」とブルーにも見せなかったけれども、個人的な思いを記してはいない。ブルーとの恋も、二人で過ごした時間のことも。
(そうか、初日からブルーとのことを隠していたか…)
こりゃ傑作だ、と可笑しくなった。恋をしていたわけでもないのに、伏せてしまったブルーとの思い出。二人で宇宙から眺めていた船、宇宙服も無しで。
明日は小さな今のブルーに話してやろう。「初日から嘘を書いていたぞ」と。
土曜日だから、ブルーの家を訪ねてゆく日だから。
そして次の日、小さなブルーと向かい合わせで座った部屋。お茶とお菓子が置かれたテーブル、それを挟んで切り出した。
「俺の日誌のこと、覚えているか?」
前の俺のだ、キャプテン・ハーレイの航宙日誌。…あれにそっくりの復刻版が出てるだろ?
「買う決心がついたの、ハーレイ?」
やっと買うの、とブルーが瞳を煌めかせるから。
「いや、高いなと広告を見てて…。べらぼうな値段の本だろうが」
元の日誌はタダのようなモンだったのに、と考えていたら、あれこれと思い出してだな…。
それでだ、俺のキャプテン初日の日誌なんだが…。
「日誌、初日から書いてたの?」
真面目だったんだね、ちゃんと初日も書いたんだ…。もっと後からかと思っていたのに。
「まあな。それも真っ赤な嘘というヤツを」
「え? 嘘って…」
ありもしないことを書いておいたとか、凄くカッコ良く脚色したとか…?
「その逆だ。お前が連れて行ってくれた視察を伏せた」
実に劇的な出来事だったが、前の俺は書かなかったんだ。お前と一緒に視察したことを。
「視察って…。あちこち案内してあげたのに?」
「そいつは書いてあるんだが…。締め括りのヤツだ、宇宙からの視察」
お前、連れて行ってくれただろうが。船を見るなら外からでないと、と。宇宙服も無しで。
「…あれ、書いてないの?」
「うむ。どうせ仲間は誰一人として気付いちゃいないし、その方がいいかと…」
宇宙服も着ないで外に出るなど、キャプテンがすべきことでもないしな。
「酷い…!」
ハーレイに船を見せてあげなくちゃ、と思ったから連れて行ったのに…!
二人きりで船の外に出たのに、何も書かずに済ませたなんて…!
酷い、とブルーは膨れたけれど。暫くは膨れっ面だったけれど、初日から書かれずに伏せられてしまった、キャプテン・ハーレイが経験したこと。宇宙からシャングリラを眺めた事実。
それを書かずに済ませたほどだし、一事が万事だと悟ったようで…。
「…だったら、前のぼくとのことは…」
宇宙からの視察も書いてないんじゃ、恋人同士になってからのことも…。
「何も書くわけがないってな」
あの視察以上にマズイだろうが、後になって誰かが読んだ時に。…お前とのことを書いたなら。
「今度の日記も同じなんだね。今のハーレイが書いてる日記」
日誌じゃなくって日記だけれども、ぼくのこと、書いていないんでしょ?
「今のトコはな。どうせ元から覚え書きだし」
航宙日誌とはまるで違うぞ、本当に日記なんだから。後進のために書いてもいないし。
「いいけどね…。ぼくのこと、生徒としか書いていなくても」
他の生徒と区別がつかない書き方でも仕方ないけれど…。
今はいいけど、今度は結婚するんだから。ずっとそれだと、ぼく、怒るからね?
それと、前のハーレイの航宙日誌…。
いつかは買って欲しいんだけど、と強請られた。例の高価な復刻版。
今のブルーは、それの秘密を知っているから。書かれたままの文字を見たなら、蘇ってくる遠い日々の思い出。其処に書かれた文字以上のことを、今の自分は読み取れるから。
(きっと買わされちまうんだろうなあ…)
結婚して二人で暮らし始めたら、あの高い本を丸ごと全部。前の自分が綴り続けた長い日誌を、最初の巻から終わりの巻まで。
(おまけに、その日は何があったか、解説も無理やり…)
させられることになりそうだけれど、きっと幸せだろうから。
ブルーと二人で開く日誌は、前の自分が手に入れられなかった幸せの中で読むのだから。
「知らんな」とケチなことは言わずに、ブルーに説明してやろう。
「この日はだな…」と、隠し事はぜずに、正直に。前の自分の想いもこめて。
きっとブルーには、最初から恋をしていたから。
アルタミラで初めて出会った時から、きっと惹かれていた筈だから…。
航宙日誌の始まり・了
※前のハーレイが書いていた航宙日誌。ブルーとのことは、初日から書かなかったのです。
けれど、復刻盤を見たなら、全てを思い出せる筈。いつか買って、ブルーに解説することに。
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