シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
(んーと…)
ブルーが目を留めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間にダイニングで。
テーブルの上に載っていた新聞、何気なく開いて見付けた誕生日用の料理の特集。特に珍しくもない筈なのに、幾つも並んだ写真の中の一枚が目を引いた。
思わず息を飲んだくらいに。
(食べたいってわけじゃ…)
ないと思う、おやつのケーキを食べた所だし、お腹が空いてはいないから。
けれど気になる一枚の写真、他の写真は「ふうん?」と眺めただけなのに。誕生日パーティーに似合いの料理特集、一枚の写真に様々な料理の取り合わせ。「こんな感じで如何でしょう」と。
彩りも鮮やかなパエリアが主役の料理だったり、ちらし寿司がメインの和風だったり、大人から子供まで主役に合わせて提案された幾つものパーティー料理のメニュー。
この手の特集はよく組まれるから、本当に見慣れた紙面の筈。美味しそうな料理を捉えた写真も色々と見たし、食の細い自分は「これは何かな?」と思う程度で。
わざわざ覗き込もうとはしない、息を飲むほど惹かれもしない。「美味しそう!」と思うよりも前に「食べ切れないよ」と現実がヒョイと顔を出すから。
母に強請って写真の通りのパーティー料理にして貰ったって、食べ切れないで挫折するから。
なのにどうして惹かれるのだろう、たった一枚の料理の写真に…?
目新しい所があるわけでもない、ごくごく平凡なパーティー料理。他の写真の料理と比べたら、如何にも定番、要は誰でも喜びそうな料理の取り合わせ。それこそ子供から大人まで。
けれども、どうにも心を捉えて離さない写真。自分の瞳を引き寄せる写真。
(何処が…?)
好き嫌いが全く無い自分だけに、ますますもって分からない。好き嫌いがあれば「好物ばかりを集めた素敵な食卓」で「夢の食卓」、そう思うこともありそうだけれど。
(ぼくの大好物ってこともないよね…?)
チキンの丸焼きに、テリーヌに、パテ。スープにサラダに…、と順に料理を眺めていたら。
(…あれ?)
何故だか記憶にあるような気がする、この料理が。写真の中の取り合わせが。
もしかしたら自分は、これを見たことがあるのだろうか?
写真ではなくて、本物の料理。母が作ったパーティー用の料理が、写真の通りにテーブルの上にズラリと並ぶのを。
それならば分かる、何故だか心惹かれる理由も。目を留めた訳も。
幼かった頃の誕生日パーティー、大喜びではしゃいだ記憶が胸に残っていたのだろう。あの日の料理だと、まるでそっくりだと飛び跳ねる心。
きっとそうだ、と心が躍った。いつの誕生日かは分からないけれど、母に確認しなくては、と。
子供時代の素敵な思い出、幼稚園の頃か、下の学校に入って間もない頃か。
記憶がハッキリしないのだから、その辺りだろう、とワクワクしていた所へ扉が開いて。
「あっ、ママ!」
上手い具合に入って来た母。通り掛かっただけかもしれないけれども、呼び止めて「これ!」と例の写真を指差した。こういう料理を誕生日に作ってくれただろうか、と。
「もちろんよ。ブルーのお誕生日だものね」
チキンもテリーヌも作ったわよ。…ええ、この写真にあるお料理は全部。
「じゃあ、この写真はやっぱり、ママのお料理…」
見たような気がしたんだよ。他の写真は何とも思わないけど、これはドキッとしちゃったんだ。
本物を見たことがあったんだったら、ビックリするのも不思議じゃないよね。
ぼくがすっかり忘れちゃっていても、お料理の記憶、残ってたんだ…!
「それはそうかもしれないけれど…。ママは作ってあげたんだけれど…」
でもねえ、ブルーはいつも少ししか食べないでしょう?
お誕生日に作ったお料理、ブルーに合わせて少なめにしてあったから…。
この写真そっくりにテーブルに並べたことは一度も無いわ、と母は料理を覗き込んだ。
チキンの丸焼きは主役になるから、それだけは丸ごと一羽分。写真と同じになるのは其処だけ。他の料理はテリーヌがこのくらい、サラダはこのくらい、スープの器がこのくらい…、と。
料理の量と盛り付けた器の例まで挙げられてみれば、まるで違うとブルーにも分かる。自分用のパーティー料理が並んだテーブルと、この写真は少しも似ていないと。
共通点はチキンの丸焼き、それだけでは此処まで惹かれはしない。他の部分が違うのでは。
「…それじゃ、違うの、ママのお料理とは?」
ぼくは確かに見たんだと思ったんだけど…。
ママが違うって言うんだったら、本か何かで見たのかな、これ…?
「さあ…。それはママにも分からないけれど、誕生日パーティーのお料理なの?」
「うん、きっと。誕生日のだ、っていう気がするから」
パーティーをする日は色々あるけど、これは誕生日のお料理だよ、って。
「だったら、ソルジャー・ブルーじゃないの?」
「えっ?」
「ソルジャー・ブルーよ、ブルーはソルジャー・ブルーだったんでしょ?」
その頃のお誕生日のお料理じゃないの、この写真。
シャングリラで食べて、その思い出が残っているとか…。
「それは無いと思うよ…」
ソルジャー・ブルーだけは絶対に無いよ、前のぼくっていうことは無いよ。
こんなお料理、誕生日に食べたことが無いから。
誕生日を覚えていなかったから、と説明したら。
ハッと息を飲み、口に手を当てた母。その瞳がみるみる悲しそうな色を湛えて。
「…ごめんなさいね、ママがウッカリしてたわ」
ブルーは誕生日がいつだったのかも忘れてしまっていたのよね…。
何も覚えていなかったのよね、成人検査よりも前にあったことは全部、忘れてしまって…。
「ううん、ママが謝らなくてもいいよ」
ママのせいなんかじゃないんだもの、あれは。全部、機械のせいなんだから。
ぼくは平気だよ、忘れちゃったのは前のぼくだし、ずうっと昔のことなんだし…。
今はママの子で、誕生日だってちゃんとあるもの。
だから平気、と笑顔で母に返したけれども、やはり気になる写真の料理。
自分はこれを何処で見たのか、今も記憶に残っているほどに印象的だった取り合わせ。誕生日のパーティ用には定番の料理、斬新なわけでも特別なわけでもないというのに。
「…誰の誕生日だったのかなあ?」
友達の家で見たんだったら、それっきり忘れていそうだけれど…。
ぼくにはとっても食べ切れないや、ってビックリはしても、覚えていそうにないんだけれど…。
とても特別だったって感じがするんだよ、このお料理が。
「シャングリラにいた頃に見たんじゃないの?」
ブルーじゃなくって、ソルジャー・ブルーが。
こういうお料理、シャングリラでも充分、作れたんじゃないかと思うわよ、ママは。
「…鶏はいたから、チキンの丸焼きは作ってたけど…」
他のお料理も、作ろうと思えば作れそうだけど…。材料は船にあった筈だし。
「ほらね、きっと誰かの誕生日よ。シャングリラで見たのよ、このお料理を」
「…そうなのかな?」
「ソルジャー・ブルーには誕生日は無くても、子供たちにはあったんでしょう、誕生日」
アルテメシアで助けた子たちは、誕生日を覚えていた筈よ。成人検査を受けていないんだから。
「ホントだ、子供たちにはあったんだっけね、誕生日!」
お祝いもあったよ、せっかくの誕生日なんだから。
成人検査の時にミュウだと分かって怖い目に遭った子供たちでも、誕生日は特別。
育ててくれた人たちと祝った幸せな思い出が沢山あったし、成人検査とは別だったんだよ。
成人検査の日は十四歳の誕生日。前の自分が生きた頃には「目覚めの日」と呼ばれて、養父母に別れを告げる日だった。
普通は記憶を処理されてしまい、もう養父母とも会えないけれど。
その日にミュウの力に目覚めてシャングリラに連れて来られた子供は、養父母と暮らした日々を忘れはしなかった。それまで一緒に誕生日を祝ってくれた父と母とを。
だから目覚めの日に何があろうと、どんな酷い目に遭っていようと、特別だった誕生日。
白いシャングリラに迎えられた後も、彼らは誕生日を祝って貰って喜んでいた。成人検査よりも前に救い出されて、船に来た子と同じように。
「今日は誕生日だから」と用意された特別な料理を楽しみ、幸せそうな顔をしていた。
十四歳の誕生日だった、目覚めの日に彼らを襲った恐怖。
その体験さえも、誕生日パーティーというイベントの前では霞んで消えてしまって、船で出来た友達に囲まれて、嬉しそうだった子供たち。
大人になった後も彼らは毎年、誕生日を祝い合っていた。友達を集めて、毎年、毎年。
母のお蔭で思い出すことが出来た、シャングリラにいた子供たちのための誕生日。
シャングリラのことは、母も自分が話した分だけ、色々と覚えてくれているから。今日のように思い出してくれたりもするから、頼もしい。
前の自分を忌み嫌わないで、そっくり丸ごと受け止めてくれる母の優しさと温かさが。二人分になってしまった記憶も、途惑うことなく受け入れてくれる心の広さが。
その母は例の写真を見ながら。
「思い出せるといいわね、これ」
誰のお誕生日かはママには分からないけれど、きっと大切なパーティーでしょう?
今でも覚えているほどなんだし、ソルジャー・ブルーの大事な思い出の一つじゃないの?
「うん…。ぼくもそういう気がするけれど…」
誰だったのかな、前のぼくが覚えているほどの大切なパーティーだなんて。
誰のお祝いだったのかなあ、このお料理…?
「この新聞記事、切って行ったら?」
何度も見てたら思い出せるかもしれないわよ、何かのはずみに。
机の前に貼っておくとか、引き出しの中に仕舞っておくとか。
「…いいの?」
「せっかくだものね。パパだって何も言わないわよ、きっと」
新聞は読んでから出掛けたんだし、裏側の記事はパパが好きそうな記事でもないし…。
切っちゃっていいわよ、パパが「なんだ?」って不思議がったら、ちゃんと説明しておくから。
記憶の手掛かりに持って行きなさい、と貰った切り抜き。ハサミでチョキチョキ切った新聞。
それを手にして自分の部屋に戻ったけれど。
勉強机の前に座って、料理の写真と向き合ったけれど。
(うーん…)
いくら頑張っても思い出せない、写真の中の料理の記憶。自分の心を惹き付けた料理。
チキンの丸焼きに、スープにテリーヌ、パテにサラダに…、と並んだテーブル。
確かに自分は見たと思うのに、何処だったのかも分からない。白いシャングリラの食堂にあったテーブルだったか、子供たちがよく集まっていた部屋のテーブルか、それすらも。
誕生日パーティーが開かれた場所は色々、子供たちが自分で好きに選べた。その日の主役になる子が選んだ、この場所がいい、と。
そんなわけだから、ヒルマンが授業をしていた教室、其処で祝った子だっていた。公園を選んでガーデンパーティー気分の子供だっていた、展望室を選んだ子だって。
とびきりの場所で開かれたパーティーの料理だったろうか、この写真は?
こういうアイデアもあったのか、と前の自分が驚いたほどの穴場と言おうか、素敵なスペース。子供ならではの柔軟な発想、それが生かされたパーティーの料理だったとか…?
けれども戻ってくれない記憶。料理も、それが披露された場所も。
(ハーレイだったら…)
もしかしたら、覚えているのだろうか?
元は厨房の出身なのだし、料理に対する関心は前の自分よりも遥かに高かったろう。同じ料理を目にしたとしても、「俺ならこうする」と考えてみたり、「いい出来だ」と心で頷いていたり。
(…でも、誕生日…)
子供たちのための誕生日パーティーに、ハーレイは呼ばれていただろうか?
ソルジャーだった自分は子供たちと遊ぶことが多かったし、それを仕事にしていたほど。船での仕事を手伝いたくても、皆が遠慮して何の役目もくれなかったから。
「ソルジャーがなさることではありません」と断られてしまった仕事の数々、仕方ないから養育部門を手伝った。子供たちと一緒に遊ぶ分には、誰も文句を言わなかったから。スタッフの仕事も楽になるから、仕事のつもりで子供たちの相手。
それだけに、誕生日のパーティーに出席したことも多い。会議などが入っていなければ。
ハーレイの方はどうだったろうか、と記憶を手繰って。
(うん、たまには…)
白いシャングリラの舵を握っていたキャプテン・ハーレイ、穏やかな笑顔のキャプテンは人気があったから。子供たちにとても好かれていたから、誕生日パーティーにも招かれていた。
ブリッジの仕事を抜けられそうなら参加していた、前の自分と同じように。
そうなってくると、ハーレイが覚えているかもしれない。
自分には思い出せないパーティー料理を目にした記憶があるかもしれない、白い鯨で。
(ハーレイが来たら訊くんだけれど…)
料理の写真は貰ったのだし、「これだよ」と見せて訊くことが出来る。得意ではないサイオンを使って自分の記憶を見せなくても。
今日は仕事の帰りに寄ってくれるか、どうなのだろう、と考えていたらチャイムが鳴って。そのハーレイが来てくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
例の切り抜きを持って来てテーブルに置いて、「これなんだけど」と。
「あのね、この料理を覚えてる?」
此処に写っている料理。ハーレイ、覚えていないかな…?
「はあ?」
覚えてるかって…。俺がチキンの丸焼きを食ったかと訊いているのか、その質問は?
「そうじゃなくって、これ全部だよ。チキンもパテも、テリーヌもサラダも」
全部纏めて一つなんだよ、シャングリラのだと思うんだけど…。
きっと子供たちの誕生日パーティーの時の料理で、こういう風にズラッと並んで。
「…俺には全く見覚えが無いが?」
チキンもそうだし、テリーヌもパテも、スープもだな。
どれも全く覚えちゃいないぞ、シャングリラの料理だと言われればな。
誕生日パーティーの料理としては、と断言された。
こういう料理は有り得ないと。
「いいか、子供の誕生日パーティーなんだぞ。そこの所をよく考えてみろ」
子供のパーティーにここまではしないな、今の時代なら普通なんだろうが…。
シャングリラの食料事情ってヤツからすればだ、この手の料理は大人向けだな。チキンを丸ごと一羽分だぞ、子供たちに出すなら丸焼きじゃなくて他の料理だ。同じ鶏を一羽分にしても。
「そういえば…。丸焼きはちょっと豪華すぎるね」
子供たちだと、丸焼きを綺麗に食べるというのも難しそうだし…。肉が沢山残りそうだし。
そうなっちゃうより、チキンを使った他の料理を作った方が良さそうだものね…。
ハーレイの指摘の通りに豪華すぎる料理。
チキンの丸焼きもそうだけれども、他の料理も白いシャングリラで作るとしたなら、手間や味が分かる大人向け。スープはともかく、テリーヌやパテは。
子供たちのための特別となれば、せいぜいケーキ。誕生日パーティーのテーブルで主役を務める甘いケーキで、子供たちの年の数だけ蝋燭を立てて…。
(ケーキ…?)
そこで引っ掛かった、ケーキの記憶。
ケーキだった、と料理と一緒に浮かび上がったケーキだけれど。
チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、スープやサラダと盛り沢山に並んだテーブル、其処には当然ケーキの姿もあったのだけれど。
(…箱…?)
新聞に載っていた写真によく似た食卓の上に、ケーキの箱。
明らかに買って来たケーキだと分かる紙箱、その中に入っていたケーキ。箱から出されないで、紙箱のままで。
どんなケーキかも分からないケーキ。
生クリームたっぷりのケーキだったか、フルーツで飾られたケーキだったか、それすらも謎。
箱に仕舞われたままなのだから。大皿に載ってはいないのだから。
「シャングリラじゃない…!」
ママでもないよ、と叫んだら。間違いないよ、と声を上げたら。
「おいおい、それが何故分かるんだ?」
何処で見たかも思い出せないと言っているくせに、急にキッパリ違うだなんて…。
どういう根拠で言っているんだ、シャングリラでもお前の家でもないと。
「ケーキだよ。…ケーキの紙箱が置いてあるんだよ」
ぼくが覚えてる、この写真に似た料理が並んだテーブルの上に。
お店で誕生日用とかの大きなケーキを丸ごと買ったら、専用の箱に入れてくれるでしょ?
ああいう箱だよ、ケーキは箱に入ったままで置いてあるから…。
「そいつは確かに有り得ないな。お前の家でも、シャングリラでも」
シャングリラだったら、ケーキは紙箱に入って売られちゃいないし、その光景はまず無いな。
お前の家だと、誕生日ケーキはお母さんが手作りするんだろうし…。
仮にお前が「お店で売ってるケーキがいい」と強請って買って貰ったとしても、紙箱のままっていうのはなあ…。
パーティーの時には、箱から出して皿に載せなきゃ話にならん。
でないとケーキの見せ場も無ければ、蝋燭を飾って吹き消すことも出来ないし…。食事の後でと思っていたなら、傷まないように冷蔵庫に入れておくだろうしな。
ますます深まってしまった謎。
テーブルに並んだ料理はともかく、紙箱に入ったままで置かれたケーキは…。
「誰のだろ…?」
あのケーキの箱、誰のだったんだろう…?
箱がああいう大きさなんだし、もう間違いなく誕生日パーティーだと思うんだけれど…。
「前のお前か?」
成人検査を受けるよりも前に、誕生日を祝って貰った時の記憶か?
「分からない…」
そうかもしれない、っていう気もするけど、どうなんだろう?
とても大切な料理なんだ、って思ってるんだし、その可能性もゼロじゃないけれど…。
前の自分の誕生日か、と問われてみれば「違う」と即座に否定は出来ない。
チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、今の自分を一目で惹き付けてしまった料理の写真。こういう料理を何処かで見たと、確かにこういうテーブルだった、と。
けれど、前の自分が生きていた頃でさえ、全く無かった誕生日の記憶。
祝って貰った思い出どころか、この世に生まれた日付でさえも。
前の自分が死んでしまった後で、シャングリラが向かったアルテメシア。あの雲海の星で戦いの火蓋が切って落とされ、勝利を収めて、テラズ・ナンバー・ファイブを倒して。
やっと手に入れた膨大なデータ、地球の座標を含んだその中に前の自分のデータもあった。前のハーレイが記憶したそれを、今の自分が教えて貰った。誕生日のことや、養父母のことや。
生まれ変わって今の自分になるまで、知らなかったままの誕生日。思い出せなかった、養父母の顔や暮らしていた家。
そんなにも遠い、前の自分の誕生日。いつだったのか、誰と一緒に祝っていたのか、遥かな時の彼方へと消えた今頃になって知った日付と、養父母の顔と。
その誕生日の料理の記憶が、今頃戻って来るだろうか?
前の自分が生きた頃でさえ、思い出そうと懸命に足掻いた前の生でさえ、戻らなかった記憶。
ついに戻っては来なかった記憶…。
(成人検査で殆ど消えて…)
記憶を手放せと命じた機械の声。次々に消去されていった記憶。
それが悲しくて、嫌で、耐えられなくて。
手放すものかと抵抗したのが引き金になって、ミュウに変化してしまったのが自分。金色だった髪は銀髪に変わり、水色だった瞳は色を失って血の赤になった。
ミュウになった上に、姿もアルビノに変わった自分は、もはや人間扱いはされず、ただの動物。
実験動物として檻に入れられ、繰り返された人体実験の末に残った記憶も全部失くした。
忌まわしい成人検査の記憶だけを残して、他のことは全部。
一種の健康診断なのだと思い込んでいた検査の直前、それは覚えているのだけれど…。
順番を待っていた部屋の壁に映った、金髪だった頃の自分の姿。今と同じに子供の姿で、周りを見回したりもして。
これから始まる検査で全てが変わってしまうなどとは、思いもせずに。
何も知らなかった無邪気な自分。成人検査の正体も知らず、健康診断だと思っていた自分。
機械がそのように仕向けたとはいえ、なんと自分は馬鹿だったのか。
それから後の長い長い生は、成人検査との戦いの日々。ミュウを弾き出そうとする機械に抗い、何人の仲間を救い出したことか。
記憶を消してしまう成人検査。ミュウに変化する引き金にもなる成人検査。
(…成人検査…?)
それが心にふと引っ掛かった、あの食卓と重なった。
チキンの丸焼きにテリーヌにパテ、ケーキの紙箱が置かれたテーブル。
誕生日を祝うために作られた数々の料理、それを用意して貰った子供の名前は…。
「そうだ、ジョミーだ!」
あの料理を食べようとしていた子供はジョミーなんだよ!
「ジョミーだと?」
おい、あのジョミーか、ソルジャー・シンだったジョミーのことか…?
「うん、この写真とそっくりだった。ジョミーが作って貰ってた料理…」
目覚めの日の前祝いにパーティーしよう、って、前の日の夜にジョミーのお母さんが…。
ケーキはお父さんが買って来たんだよ、仕事の帰りに。ジョミーのために。
…ジョミーは心理検査をされてしまって、パーティーどころじゃなかったけれど。
「ジョミーの祝いの料理って…。お前、そんなの覚えていたのか」
料理に興味があったようには思えなかったがな、前のお前は。
俺が厨房にいた頃は、手伝ったりもしてくれていたが…。
チキンが丸焼きになっていようが、捌いてソテーになっていようが、気にしないと言うか…。
パーティー用の豪華料理でも、普通の飯でも、要は食えれば充分と言うか…。
「そうなんだけれど…。ジョミーの食事は、見ていたからね」
次の日に迎えに行くと決まっていたジョミーだよ?
しかも、前のぼくを継ぐソルジャー候補。
気にならない筈がないじゃない。いざとなったら予定を早めて救出しなくちゃいけないし…。
実際、ユニバーサルに心理検査を捻じ込まれたよね、強引に。
そんな時だから、ずっと見ていた。…ジョミーのお母さんが料理を作っていた所も。
キッチンで腕を奮っていたジョミーの母。
スープを仕込んで、テリーヌにパテに、それからサラダ。丸ごとのチキンにたっぷりの詰め物、オーブンで焼き上げて、足に飾りの紙とリボンを巻いて。
自分もあんな風だったろうか、と眺めていた。
記憶は失くしてしまったけれども、育てられた家で最後に食べた母の手作りの料理。父も一緒に囲んだのだろう、目覚めの日を迎える前の夜の食卓。
(あの頃は、何処の家でもパーティー…)
目覚めの日が何かを子供は知らなくて、養父母も機械に記憶を書き換えられた後だったから。
記憶を消される日だとも思わず、人生の節目の一大イベント。
育てた子供の巣立ちを祝ってパーティーをするのが普通で、家で開くか、食事にゆくか。
前の自分がどちらだったかは分からないけれど、きっと家だという気がした。母が作ってくれた料理で、父も一緒に囲んだ食卓。
温かかっただろう、パーティーの夜。ケーキもあったに違いない。
母の手作りか、ジョミーと同じに父が買って来たのか、目覚めの日を祝う大きなケーキ。蝋燭を立てて、火を点して。
十四歳を表す数の蝋燭を吹き消しただろう、フウッと力一杯に吹いて。
養父母に優しく見守られる中、明日は巣立つのだと、誇らしげに。
ジョミーのように養父母との別れが悲しく辛かったとしても、心配させまいと得意げな顔で。
母の心尽くしの料理を、父が買ったケーキを、ジョミーはその夜に食べ損なったけれど。
ケーキを手にした父が帰った時には、心理検査の真っ最中という有様だったけれど。
(…だからケーキは箱に入ったまま…)
紙箱に入れられたままのケーキを自分は見ていた、ジョミーはどうかと見守る間に。
昏々と眠るジョミーの側にも立ったけれども、養父母の様子も、祝いの料理も眺めていた。箱に入ったままのケーキも、翌日の朝食に回すことになった冷めた料理も。
(…ジョミーは、次の日…)
心理検査を受けたことなどすっかり忘れて、母が作った祝いの料理を食べて出掛けた。ケーキも朝から切って貰って、養父母と囲んだ旅立ちの食卓。
ジョミーは「さよなら!」と叫んで家を飛び出して行ったけれども。
それが別れだと分かっていたけれど、羨ましかった。
養父母と過ごした温かな時間、自分は失くしてしまった時間。欠片さえも残っていない思い出。
こんな風に自分も旅立ったのかと、ほんの少しでも思い出せればいいのにと。
「それに、ジョミーは忘れなかったんだよ…」
前のぼくが成人検査を妨害したから、お母さんが最後に作ってくれた食事を。
目覚めの日の朝に温め直した料理だったけど、何を食べたか、どんな味だったか、覚えたままでシャングリラにやって来たんだよ…。
だから余計に、ぼくも忘れなかったんだろうね、ジョミーのお母さんが作った料理を。
今頃になっても、これがそうだ、って思い出せるくらいに覚えてしまって。
「そういや、そうだな。ジョミーは忘れちゃいなかったんだな、前のお前が見ていた料理」
この写真とそっくり同じだった、っていうパーティーの料理を覚えてたんだな、忘れないで。
前の俺たちは何も覚えちゃいなかったが…。
料理どころか、育ててくれた親の顔さえ、綺麗サッパリ忘れちまって何も残らなかったんだが。
「あの時代は普通は忘れちゃったよ、何を食べてから出掛けたかなんて」
養父母の顔だって霞んでしまって、ハッキリしないのが成人検査の後なんだもの。
料理なんかは忘れてしまって当たり前だよ、誰だって。
それを忘れずに覚えていたジョミーは、とても幸せだったよね…。
シャングリラに来た子供たちの中にも、そういう子供は何人もいたと思うけど…。
ジョミーが覚えていたっていうのは、きっと大きな力になったよ。
前のぼくみたいに忘れてしまったソルジャーじゃなくて、ちゃんと覚えていたソルジャー。
もしかしたら、トォニィたちを生み出したアイデアの元も、そういう所から来ていたかもね。
「そうかもなあ…」
育ての親でも、きちんと思い出が残っていたのは大きいかもな。
家族というのは大事なもんだと、親子の絆はとても強いと、何処かで気付いていたかもなあ…。
そのせいでホームシックになっていたが、と笑うハーレイ。
せっかく安全な場所に来たのに、家に帰ろうとしていたんだが、と。
「あれでお前は酷い目に遭って…。ただでも残り少なかった力を使っちまって…」
危うく死んじまう所だったんだぞ、ジョミーを助けに飛び出して行ったまではいいが…。
ついでにリオもだ、巻き添えにされて心理検査を受けさせられて。
前のお前が帰してやれと言ったばかりに、とんでもない結果になったんだがな?
シャングリラまで浮上させる羽目に陥っちまって、人類軍との戦闘だ。
ジョミーをしっかり閉じ込めておけば、ああいうことにはならなかったと思うわけだが。
「…まあね。でも、分かるよ。今のぼくなら、ジョミーの気持ちが」
あの時は「頭を冷やしてこい」っていうつもりでシャングリラから家に帰したけれど…。
帰ったって何も残っていやしない、って分からせるつもりでいたんだけれど…。
ジョミーにしてみれば人攫いの所から逃げ出せたような気持ちだっただろうね、家に帰る時は。
「確かにな…」
人攫いだったろうな、前のお前も、俺たちも、みんな。
ジョミーにとってはシャングリラは本当に人攫いの船で、箱舟には思えなかったんだろうな…。
あの頃の自分たちには分からなかった。
どうしてジョミーが、あんなに帰りたがったのか。
成人検査が失敗に終わって銃撃された上に追われていたのに、家に帰ろうと考えたのか。
「今のぼくなら、帰っちゃうよ。…ジョミーみたいに」
家に帰ったら殺されちゃうよ、って言われたとしても、帰ってみるよ。
本当か嘘か分からないんだし、家に帰ったら、パパとママが守ってくれる筈だし…。
きっとジョミーがやったみたいに、「家に帰して」って怒って帰って行っちゃうんだよ。
「俺でも間違いなく帰るだろうなあ…」
誰がなんと言おうが、自分の目玉で確かめるまでは信じないってな。
殺されるだなんて嘘を言いやがって、と怒鳴り散らして出て行くだろうな、シャングリラから。
ジョミーみたいに船を出しては貰えなかったら、盗み出してでも逃げるだろう。
どうやって操縦するのかサッパリ分からなくても、ヤケクソってヤツだ。
こんな人攫いの船にいるよりよっぽどマシだと、こうすりゃエンジンがかかるだろうと。
「…ハーレイ、そこまでやっちゃうんだ?」
「当たり前だろうが、人攫いの船から逃げなきゃいけないんだぞ?」
帰して下さいとお願いしたって無駄となったら、後は行動あるのみだ。
俺が間違ってはいないんだったら、道は自然と開けるってな。
…もっとも、あの時代にそれをやってりゃ、撃墜されるか、墜落するかのどっちかだがな。
ある日突然、両親と引き裂かれてしまったら。
知らない所へ連れてゆかれて、其処で生きろと言われたなら。
今の自分なら、耐えられはしない。ハーレイでさえも、家へ帰ろうとして逃げると言うから。
「…ぼく、酷いことしちゃったかな…」
ジョミーに悪いことをしちゃったのかな、お母さんたちから引き離しちゃって…。
「いや、間違ってはいなかったんだが…」
お前が妨害しなかったなら、ジョミーは成人検査を無事にパスして行ったんだろうし。
そうなっていたら、シロエみたいになってしまったか、何もかもを忘れて普通に生きたか。
どっちにしたって養父母の記憶は薄れちまうし、料理のことまで覚えちゃいないぞ。
そいつを覚えたままでいられたんだし、ジョミーは幸せだったんだ。
最初の間は派手にお前を恨んだだろうが、後になるほど感謝してたさ、自分がどれほどラッキーだったか気付いたら。
何一つ忘れずにいられるのは誰のお蔭かってことに気付けば、もう恨んだりは出来んだろう。
お前に直接、礼を言うことは無かったとしても、感謝の気持ちはあった筈だぞ。
あれで良かったんだ、とハーレイは大きく頷くけれど。
前の自分がジョミーをシャングリラに連れて来たことは正しかったと言ってくれるけれど。
「…だけど、やっぱり…。ちょっと罪悪感…」
お母さんの料理を思い出しちゃったら、悪いことをしたって思っちゃう。
ジョミーはお母さんが作った料理をもう一度食べたかったんだろうな、って…。
「そう思うんなら、謝っとくか?」
何処にいるかは分からないがだ、この際、ジョミーに。
俺も一緒に謝ってやるから、頭でもペコリと下げておくんだな。
「うん、そうする…」
窓に向かって謝ればいいかな、外にいるのは確かなんだし。
方向がちょっと違っていたって、きっと届くよね、ジョミーの所に。
ごめん、とハーレイと二人で窓に向かって謝った。
ジョミーの姿は見えないけれども、其処にジョミーがいるつもりで。
知らない世界に連れて行ってごめん、と。
お母さんの料理が二度と食べられない船に乗せてしまって本当にごめん、と。
「…ジョミーも何処かで幸せになってくれてるといいな」
今度はお母さんの料理を好きなだけ食べて、お父さんが買って来るケーキを何度も食べて。
「そうだな、何処かで幸せにな」
この写真みたいな料理を作って貰って、誕生日のパーティーをして貰って。
お母さんたちと別れさせられずに、そのまま幸せに大きくなって…。
俺たちみたいに、うんと幸せな人生を生きてくれるといいなあ、ジョミーもな。
「うん…。うん、ぼくたちも今度はきちんと覚えているものね」
パパもママもいるし、ずうっと一緒。
結婚式にも来て貰えるもの、パパもママも、ハーレイのお父さんたちも…。
そうだよね、と訊けば「そうだな」と柔らかな笑みが返って来たから。
今度は本当に幸せに生きてゆける、ハーレイと二人、生まれ変わって来た青い地球の上で。
誕生日のパーティーを何度も開いて、皆で賑やかに食事をして。
いつかはハーレイの両親も一緒に誕生日のパーティーを開くのだろう。
結婚して「お父さん」「お母さん」と呼べる時が来たら。
今はいつまでも覚えていることが出来る父と母の顔、温かな家や家族で囲む食事のテーブル。
其処に新しい両親が増える、ハーレイの父と母とが加わる。
ハーレイと二人、幸せな道を一緒に歩み始めたら。
同じ屋根の下で暮らすようになって、いつも二人で過ごせるようになったなら。
今度はハーレイと何処までも一緒。
手を繋ぎ合って、いつまでも二人、誕生日パーティーを何度も何度も開きながら…。
誕生日の料理・了
※ブルーの記憶に残っていた、誕生日パーティー用らしき料理。それも前のブルーの記憶。
その正体は、ジョミーの誕生日用の料理だったのです。ジョミーが好きだった、お母さんの。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(えーっと…)
学校の帰りにブルーが乗り込んだ路線バス。空席は幾つもあるのだけれども、お気に入りの席が塞がっていた。ぼくは此処、と決まったように腰掛ける場所に先客の姿。
仕方ないから、こっちでいいか、と別の席に座って、普段とは違う角度の車内を見回していて。
(あ…)
ふと目に入った車椅子の絵をあしらったマーク。自分が座った座席ではなくて、別の席の側に。バスの壁にペタリと貼り付けてあった、此処の座席は優先席です、という印が。
今日のように空いているバスなら意味の無いマーク。混み合って大勢が乗っている時に、効果を発揮するマーク。
「この席が必要な方にお譲り下さい」と、「必要も無いのに座っていてはいけませんよ」と。
車椅子のマークがついているけれど、それは遥かな昔からの伝統。SD体制が始まるよりも前の時代から使われていた、優先席を表すマーク。誰が見ても一目で分かるようにと。
遠い遠い昔、地球が滅びるよりも前に生まれた由緒あるマーク。
(そういえば…)
ハーレイの授業の雑談で聞いた、優先席の歴史というものを。
古典とは何の関係も無いのだけれども、一種の薀蓄。「車椅子のマークは、古典と同じくらいに長い歴史があるんだぞ」と。かぐや姫の話や源氏物語などよりかは千年ほど新しいんだが、と。
車椅子のマークが表している優先席。車内が混んだら、必要な人に譲るのが決まりの座席。
その席は昔はお年寄りのためのものだった。それと身体が不自由な人。
お年寄りは足腰が弱いものだから、席があるなら譲るべきだという時代。身体が不自由な人でも同じで、立たせておくなど言語道断と生まれた優先席。
もっとも、車椅子のマークを貼っておこうが、座席に「優先席」と書いておこうが、座席の色を変えておこうが、効果があるとは言えなかった時代でもあったらしいけれど。
車椅子のマークが生まれた頃の地球では、人間は人類だったから。ミュウとは違って自分勝手な人間が多かった人類だけに、優先席も車椅子のマークも無視されがちな社会だったという。空いている時に座るならばともかく、必要な人が乗って来たって寝たふりをして座っているとか。
授業で聞いたクラスメイトは「信じられない」と驚いていたけれど。
人類とはそんなに酷いものかと、だからこそミュウを平気で虐げたのかと騒いだけれど。
(仕方ないよね、本物の人類を知らないんだし…)
今は誰もがミュウだから。
人類との戦いも遠い歴史の彼方の出来事、見て来た者など誰もいない世界。
その世界から生まれ変わって来た、ハーレイと自分を除いては、きっと。ただの一人も。
すっかり変わってしまった世界。地球は一度は滅びたのだし、SD体制の時代もあった。地球は再び蘇ったけれど、その地球はミュウが暮らす世界で、車椅子のマークが出来た時代とは…。
(違うんだよね、優先席だって…)
歴史あるマークは今も使われているけれど。バスの壁に貼られているけれど。
そんなマークを貼っておかずとも、席は自然に譲られるもの。「どうぞ」と席が必要な人に。
とはいえ、譲る心は大切だから、と子供たちが学べるように貼ってあるのが今の時代で。
(優先席に座る人にしたって…)
お年寄りも身体の不自由な人も、昔とはまるで意味合いが違う。
医学が進歩したお蔭で、治らない障害は無くなった。車椅子も、松葉杖も治療中の期間だけしか使われない。それを使っている人にとっては一時的なもので、いずれ要らなくなってゆくもの。
(お年寄りの杖はお洒落なアイテムなんだし…)
遥かな昔の紳士よろしく杖を持つだけで、それに決して頼ってはいないお年寄り。杖が無くても全く平気で、スタスタ歩いてゆけるのが普通。
その上、車椅子などの人が滅多にいないのと同じで、老人の姿をしている人も珍しい。ミュウは外見の年齢を止めてしまえるから、三百歳でも若い人は若い。前の自分がそうだったように。
年を取っている人は自分の好みで老けているだけ、だから身体も達者なもので。
(あんな席には…)
座りたいとも思っていないし、座る必要も全く無い。杖をついていても、急ぐ時には杖を抱えて走り出したりするのだから。邪魔だとばかりに小脇に抱えて、それは元気に。
彼らが座りたがらないからには、優先席は文字通りに身体の不自由な人のものだけれど。医学の進歩で減ってしまった、車椅子の人や松葉杖の人。
優先席に座る権利を持っている人が殆どいないのが今の時代で、車椅子のマークが貼られた席はあっても、混んでいる時に小さな子供を連れた人が「どうぞ」と勧められる程度。
ハーレイの雑談で聞いた遠い昔とは、まるで違った優先席。
つらつらと考えながらバスに乗っていた間も、優先席は空いたままだった。他に座席は幾らでもあるし、混んで来たって、本当の意味で必要な人は滅多に乗っては来ないのだろう。
お年寄りには意味が無い席、松葉杖などの人くらいしか必要とはしていない席。そういう座席があるということを、「必要な人には席を譲る」ことを子供たちに教える車椅子のマーク。
「ハーレイが言っていた通り、昔とは意味がホントに違う」と思いながら降りたいつものバス。
其処から家まで歩いて帰って、ダイニングでおやつを食べる間に、また思い出した。
あまり意味の無い優先席。身体の不自由な人はともかく、お年寄りには不要な席。年を取っても元気一杯、杖はお洒落なアイテムだから。
第一、あまり見掛けないお年寄り。今日のバスでも見なかった。
(お祖母ちゃんたちだって…)
遠い所に住んでいるから、滅多に会えない祖父母たち。通信で声を聞くくらい。
その祖父母たちも、そんなに年を取ってはいない。「お年寄り」にはとても見えない、何処から見たって父や母よりも年上な程度。何歳くらいと言えばいいのか、直ぐには思い付かないけれど。
(ぼくが生まれた頃には、まだ年を取るのを止めてなかった…?)
どうだったっけ、と悩むくらいに若い祖父母たち。お洒落な杖さえ似合わない姿。お年寄りには見えないのだから、杖をついたら「怪我ですか?」と訊かれるだろう、きっと。足を怪我したから杖の出番かと勘違いをされてしまうオチ。
年を取っている知り合いと言えば誰だったろう、と考えたけれど。
生憎と自分の周りにはいない、親戚も近所の人たちも老人とまで言える姿になってはいない。
そうなってくると…。
(ハーレイのお父さんたちくらい?)
年を取るのを止めると決めたのが、今年の夏の終わりだから。それまでは年を取り続けたから、祖父母たちよりも年を取っている筈。
ハーレイの両親に会ったことは無いし、姿も知らないままだけれども。
ヒルマンに少し似ているというハーレイの父は、きっと…。
(お年寄りだよね?)
足腰は充分すぎるほど達者で、釣りが大好きなハーレイの父。魚が釣れる場所があるなら山にも登るし、暗い内から海にも出掛ける行動派。
とにかく元気なハーレイの父だけに、ヒルマンほどに年を取っているかは分からない。真っ白な髭を蓄えていたヒルマンは、今の時代なら最高齢の部類に入るだろう。外見の年は。
テーブルの上にあった新聞を広げてみたって、見当たらない年を取った人の姿。街をゆく人々を捉えた写真も、郊外の景色を楽しむ人々を写したものにも、お年寄りと言える姿は無くて。
子供か、若いか、祖父母たちくらいか、そんな見掛けの人ばかり。雑踏の中も、自然の中も。
(一人もいないよ…)
端から探した新聞の写真。遠く離れた他の地域の写真もチェックしてみたけれども、老人らしき背格好の人さえ見付からない。
つまりは広い地球でも希少なお年寄り。ごく少数派の、年を取るのが好きな人。
(ホントのホントに少ないんだ…)
前の自分が生きた頃には大勢いたのに、と思ったけれど。
人が集まる場所に行ったら、お年寄りの姿は当たり前のようにあったのだけれど。
(あれ…?)
ちょっと待って、と自分自身に問い掛けた。前の自分に。ソルジャー・ブルーだった自分に。
大勢いた筈のお年寄り。あちこちで姿を見掛けたけれども、それは人類が暮らす場所だけだったような気がしないでもない。前の自分が何度も降りたアタラクシアの育英都市。
白いシャングリラにも年を取った人間が大勢いたかと尋ねられたら自信が無い。
ミュウの箱舟だった船には、お年寄りの姿が多かったろうか…?
唐突に浮かんで来た疑問。前の自分が暮らしていた船。
記憶を探って確かめなければ、と部屋に戻ってゆっくり時間を取ることにした。キッチンの母に空になったお皿やカップを渡して、「御馳走様」とピョコンと頭を下げて。
そうして座った、自分の部屋の勉強机の前の椅子。机の上に頬杖をついて遠い記憶を手繰る。
(んーと…)
前の自分が目にした大勢の老人たち。人が沢山集まっていれば、お年寄りの姿も混じっていた。少なくとも人類が暮らす育英都市では、そうだった。
アタラクシアでもエネルゲイアでも、養父母の役目を終えて引退生活をしていたのだろう人々の姿を幾つも見掛けた。夫婦や仲間同士で連れ立っていたり、一人で外出中だったり。
白いシャングリラの外の世界では珍しくもなかった老人たち。
ミュウの子供を救出するための下見の時やら、情報収集のために降りた時やら、人類が生活している世界に行く度、何度も見掛けた老人の姿。人混みの中に混じっていた。
けれど…。
シャングリラの中はどうだったろう、と馴染んだ船に視点を移せば、消えてしまったお年寄り。老人らしき姿が見付からない。大勢の仲間が乗っていた船で年寄りと言えば…。
(ゼルとヒルマンだけ?)
長老と呼ばれた二人の他には思い浮かばない高齢者。お年寄りという言葉が似合う人間。
白い髭がトレードマークだったヒルマンと、禿げ上がった頭がよく目立ったゼル。彼らの他には男も女も思い付かない、老人らしき姿は見当たらない。
いくら記憶を掻き回しても。遠い記憶を手繰ってみても。
(ぼく、忘れちゃった…?)
まさか、と順に挙げてゆく名前。白いシャングリラで共に暮らした仲間たち。
ソルジャーだった自分が彼らを忘れる筈が無い、と指を折りながら数えてゆく。船の中心だったブリッジから始めて、機関部や農場、厨房に養育部門に、メディカル・ルームに…。
一通り数え終わったけれども、仲間たちの顔も名前も浮かんだけれど。
重なってこない、年を取った仲間たちの顔。
ゼルとヒルマンの二人の他には、誰一人いない老人の姿をした仲間。
念のために、とアルタミラから一緒だった古参の仲間を数え直したけれども、その中にも一人も見当たらない。ゼルとヒルマンを除いては。
(もしかして、他にはいなかった…?)
あの二人しかいなかったろうか、白いシャングリラに乗っていた老人は。
実年齢はともかく、外見の上ではお年寄りと呼べる人間が他にいなかったろうか、あの船は…?
それとも自分が忘れ去っただけで、シャングリラにも老人は何人もいたのか、それが謎。
もしも忘れたのなら酷い話で、ソルジャー失格な気分になる。
(生まれ変わる時に、何処かに落として来ちゃったにしても…)
忘れた仲間に申し訳ない、と溜息をつきながら悩んでいたら、チャイムが鳴った。窓から覗くと門扉の向こうで手を振るハーレイ。
応えて大きく手を振り返して、「丁度良かった」と頷いた。
ハーレイだったら、きっと覚えているだろう。長年キャプテンを務めたのだし、シャングリラの仲間たちの姿がどうであったか、年を取った仲間がいたかどうかも。
部屋に来てくれたハーレイと二人、テーブルを挟んで向かい合わせ。お茶とケーキもそこそこにして、早速、ハーレイに問い掛けた。
「あのね、ハーレイ…。ゼルとヒルマンなんだけど…」
年寄りだったことは覚えているよね、あの二人が…?
「そりゃあ、間違えても忘れはせんが…。どうかしたか?」
ゼルとヒルマンがどうかしたのか、夢にでも出たか、あいつらが?
「そうじゃなくって…。他にも年を取った仲間はいたっけ?」
「はあ?」
なんだ、とハーレイが鳶色の瞳を丸くしたから。
思い出せないんだよ、と白状した。
みんなの名前は覚えているのに、ゼルとヒルマンの他にも年寄りがいたかどうなのかを、と。
「…酷いでしょ?」
生まれ変わってくる時に落っことして来ちゃったのかな、みんなの顔を。
若い顔しか覚えていなくて、頑張っても思い出せなくて…。
今のぼくはソルジャー・ブルーじゃないけど、これじゃソルジャー失格だよ。
みんながどういう顔をしてたか、すっかり忘れてしまったなんて。
自分でも情けないんだけれど、とブルーは頭を振ったのだけれど。
ハーレイの方はクッと短く喉を鳴らして、「年寄りなあ…」と笑みを含んだ声で。
「いるわけないだろ、あいつらの他に」
「えっ?」
「お前の記憶で合っているんだ。シャングリラで年寄りと言ったら、あいつらだけだ」
好きに年齢を止められたしなあ、年寄りなんぞはいやしなかった。ゼルとヒルマンの他にはな。
そもそも、何のための長老だったんだ?
そこの所をよく考えてみろよ、どうしてゼルとヒルマンは年を取ったんだっけな…?
「えーっと…」
前のぼくが若すぎたからだったっけね、ソルジャーなのに。
それじゃ睨みが利かないから、ってゼルたちが年を取ったんだっけ…。
言われてみれば、自分たちの威厳を保つためにと年を取り続けたゼルやヒルマンたち。
他の仲間が若い姿なら、年を重ねれば自然と重みが増すだろうから、と止めなかった外見年齢。
後に長老と名付けられたのも、姿の関係なのかもしれない。年齢だけなら同じような仲間は他に何人もいたのだから。アルタミラからの古参だったら、誰でも長老なのだから。
とはいえ、エラとブラウは早めに外見の年を重ねるのを止めてしまったけれど。ヒルマンたちのようになるまで老けずに、髪に白髪も混ざらない内に。
ハーレイだって、ゼルたちよりは遥かに若かった。他の仲間たちよりは年かさと言うだけ、まだ老人とは言えない姿。今と同じで、せいぜい中年、初老と呼ぶにもまだ早かった。
その差は何処から来たのだろう、と不思議に思った前のハーレイと長老の四人。
同じように年を取ってもいいのに、何処で違いが生じただろう、と首を傾げたら。ハーレイにはそれだけで通じていたのか、あるいは心が零れていたか。
言葉にする前に答えが返った、ハーレイから。
「前の俺たちの外見の違いというヤツか? それはだな…」
簡単なことだ、エラとブラウは女心だ。
少しでも若い方がいいと思うのが女性ってヤツで、あのくらいの年が限界だったわけだな。
まだまだ充分、女性らしい魅力が漂う姿で、なおかつ年も重ねてとなると、あの辺りだった。
もっと老けたら綺麗じゃなくなると思ったってことだ、あの二人はな。
「…ハーレイは?」
ハーレイはどうなの、女心じゃなくって男心とか…?
あれよりも老けたらカッコ良くないとか、そう思ってあそこで止めちゃったの?
「俺は船を操る関係上な…」
シャングリラの操舵は場合によっては力仕事だ、何時間だって立ちっ放しってこともある。
それに機敏に反応出来なきゃ話にならんし、キビキビ動ける身体を持っていないとな…?
ウッカリ年を取りすぎるとマズイ、と笑うハーレイ。
自分の好みと言うだけだったら、もっと年を取っても良かったんだが、と。
「今の俺だって、そういうつもりでいたからなあ…。お前に出会って止めちまったが」
年を取るってことに関しちゃ、俺は取りたい方なんだ。
前の俺だって、キャプテンという仕事をやっていなけりゃ、どうなっていたか分からんぞ。
これが俺かとお前が驚くくらいの姿になってたかもなあ、もっと年を取って。
「…じゃあ、ヒルマンとゼルは?」
どうして二人だけ、あそこまで年を取っちゃったの?
ヒルマンもゼルもすっかり白髪で、ゼルはツルツルに禿げちゃっていたよ。髪の毛が薄くなって来たかも、って気が付いた所で年を止めていたら、あんな風に禿げたりしなかったのに…。
ヒルマンにしたって、あそこまで年を取らなくてもいいと思うんだけどな。
シャングリラにお年寄りは二人だけだった、って聞いたらなおのことだよ、適当な所で止めれば普通で済んだのに…。
エラとかブラウとか、ハーレイみたいに。
あの二人は年を取りすぎだったと思うけれど、と呟いたら。
やり過ぎだろうと、ゼルとヒルマンの姿と他の仲間たちの姿を頭の中で比べていたら…。
「あいつらの姿は、完全に趣味だ」
俺と同じだ、年を取るのが趣味だったんだ。だからヤツらは後悔してない。白髪だったことも、綺麗サッパリ禿げちまったことも、あいつらにとっては趣味の副産物ってな。
「…趣味だったの?」
あれってゼルたちの趣味だって言うの、シャングリラで二人だけしかいなかったお年寄りの姿。
そりゃあ、今でもああいう姿が好きな人はたまにいるけれど…。
「俺が言うんだ、間違いない」
あの二人とは数え切れないほど一緒に酒を飲んだし、飲み友達っていうヤツだ。
ただの友達ならばともかく、飲み友達に嘘は言わんだろう。
酒が入れば本音も出るしな、普段は言わない文句や愚痴も出てくるもんだ。
あいつらの愚痴は散々聞いたが、白髪や禿げについては一度も聞いちゃいないぞ。むしろ自慢の種ってヤツだな、ヒルマンの髭とゼルの頭はな。
「わしの頭はよく光るんじゃ。上等なんじゃ!」と磨き始めたとか、「この髭は君が生やしても似合わないだろうねえ、品の良さとは逆になりそうだよ」と得意げに何度も引っ張ってたとか…。
頭が光る件はともかく、髭の方は確かに否定出来んな。
俺がヒルマンみたいな髭を生やしてたら、見た目はまるで海賊だろうし…。そう思わないか?
飲み友達だけに間違いはない、と説得力のある言葉。
愚痴も本音も山ほど聞いて来たから、二人が年を重ね続けたのは明らかに趣味だ、と。
「だが、あいつらの他には知らないなあ…。そういう趣味の持ち主はな」
少なくとも、俺たちの船にはいなかった。トォニィの代になったら誰かいたかもしれないが。
俺たちの時代には見事に全員、若かったわけだ、俺ですら年を取ってた部類だ。
お前の記憶に無くて当然っていうことになるな、年寄りに見えた仲間ってヤツは。
「それじゃ、あの二人だけが例外だったの?」
他のみんなには年を取ろうっていう趣味が無くて、若い姿のままだったんだ…?
「そうなるな。シャングリラでは貴重な年寄りってことだ、あの二人の他にはいないわけだし」
船の中を隈なく捜し回っても、他の年寄りは何処にもいなかった。若いヤツなら山ほどいたが、年寄りとなると二人だけだぞ、ゼルとヒルマンだけだったんだ。
…それでだ、お前、知ってるか?
「何を?」
ゼルとヒルマンのことはハーレイには敵わないけれど…。
ぼくが知ってるのはソルジャーとして分かる範囲で、愚痴や本音は詳しくないよ?
「都市伝説っていうヤツなんだが」
知らないか、そいつ?
「都市伝説…?」
なんなの、それって、どういう意味?
都市伝説っていう言葉も知らないけれども、そんな言葉、シャングリラにあったっけ…?
まるで知らない、とキョトンとしてしまったブルーだけれど。
それも当然、都市伝説とは今のハーレイが得意な雑談のネタの中の一つで。
SD体制が始まるよりも遠い遥かな昔の地球。この地域の辺りにあった小さな島国、日本という国で使われた言葉が「都市伝説」。
まことしやかに囁かれる噂をそう呼んだと言う。根拠も無いのに、本当のように伝わる話。
「その都市伝説。シャングリラは都市ではなかったわけだが…」
閉じた世界で、あの船の中が世界の全てっていうヤツが殆どだった船だが…。
「何かあったの、都市伝説が?」
本当かどうかも分からないのに、何か噂が流れていたの…?
「うむ。ゼルとヒルマンに関するヤツがな」
今の俺なら「都市伝説か」と思うわけだが、あの頃はそういう上手い言葉は無かったなあ…。
「どんな噂なの?」
「それはだな…。シャングリラに来たガキどもは必ず、一度は聞くってヤツでだな…」
何処からともなく耳に入るんだな、その噂。
遊び仲間のガキが喋るとか、とっくに大人用の制服になった先輩が耳打ちしに来るとかな。
その噂が、だ…。
ハーレイが言うには、都市伝説とは「ゼルとヒルマンは年を止めるのに失敗した」という噂。
ああなりたくなければサイオンの猛特訓をしろ、と囁かれていた白いシャングリラの都市伝説。
「えーっ!」
知らなかった、とブルーは仰天した。
ソルジャーとしてシャングリラを守り続けたけれども、一度も耳にはしていない噂。子供たちの間でまことしやかに流れ続けた都市伝説。
しかも根拠は本当に無いし、それどころか噂は間違いだから。
ヒルマンもゼルも自分の意志で年を取り続けていたと言うから、あまりにも酷い間違いで。
二人の名誉にも関わることだし、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。
「…誰がそんな噂を流したの?」
酷すぎるじゃない、都市伝説にしたって無責任だよ!
前のぼくがそれを知っていたなら、絶対、違うって子供たちに言いに出掛けたのに…!
「いや、その必要は無いってな。なにしろ、噂を流していたのは…」
あいつら自身だ、ゼルとヒルマンが積極的に関わってたわけだ。実はこうだ、と。
「…なんで?」
自分の名誉の問題なんだと思うけど…。失敗したなんて、とってもカッコ悪いんだけど…!
「そう脅してやれば頑張るだろうが、ガキどもが」
でないと適当にサボっちまうしな、シャングリラに来ればもう安全だし…。
人類に追われた時の恐怖も、喉元過ぎれば何とやらってな、直ぐに忘れるガキだけにな。
とんでもなかった都市伝説。ゼルとヒルマンが年寄りだった理由に纏わる恐ろしい噂。
サイオンの訓練をきちんとしないと年を取ってしまうと、サボッた末路は白髪やハゲだと。
ゼルとヒルマンが流した噂のお蔭で、訓練をサボらず頑張ったという子供たち。
あの二人のようになっては駄目だと、なんとしても年を止めなければ、と。
「ヤエなんかは特に必死だったようだな、サイオンの訓練」
「…ヤエ?」
「うむ。覚えてるだろ、ブリッジの眼鏡の女の子だ」
ルリと同じくらいにチビの頃からブリッジにいたな、あのヤエは。
…って、お前はルリはチビの頃の方が馴染みがあるのか、アルテメシアじゃチビだったし…。
大きくなったルリはメギドに行く前にチラッと見ていただけってことだな。
「そうだけど…。大きくなったなあ、って見ていたよ」
仲間たちが揃ってこんな風に大きく育てるように、と思って見てた。
そのためにもシャングリラを守らなくちゃって、ナスカの仲間も助けなくちゃ、って。
でも、ルリじゃなくてヤエがどうかした?
前のぼくがまだ元気だった間に、すっかり大人になっちゃってたけど…。
「それがだ、ヤエはあの外見を保っていたが、だ…」
どうやら死力を尽くしたらしいな、若さを保つという方向で。
他の方面で凄い才能を持っていたから、まさか若さにこだわってたとは思わなかったが…。
ブリッジで主に分析を担当していたヤエ。
メカにも強くて、地球へ向かう時、トォニィたちが乗る戦闘機の開発や整備を手掛けて、ゼルの船にステルス・デバイスを搭載したほど。
それほどの才媛が若さを保とうと努力していたと言う、でないとモテもしないから、と。
「若さって…。モテるって、そうなるわけ?」
ヤエほどの才能があったら、別にモテなくてもいいんじゃあ…。
他の仲間たちから注目されるし、尊敬だってして貰えるし…。
「いやいや、モテも大切だぞ?」
今の俺だから分かるんだがなあ、注目と尊敬だけじゃ人生に潤いってヤツが無いんだな。
うん、今ならヤエに言ってやれるな、「人生、まだまだ捨てたモンじゃないぞ」と。
「…言ってやれるって…。その話、なんでハーレイが知ってるの?」
ヤエがホントはモテたかったってこと、誰に聞いたの?
「トォニィとアルテラが仲良く喧嘩をしてた時にだ、愚痴ってたのを聞いちまった」
あいつらは青春してるというのに、自分は駄目だとガックリしてなあ…。
格納庫でトォニィの専用機を整備していた時だな、シンクロ率を上げるとか言って調整中で。
偶然聞こえただけなんだがな、と苦笑するハーレイ。
格納庫の今の様子はどうか、と覗いたモニターの向こうの出来事だった、と。
若さを保って八十二年になるというのに、トォニィたちの方が青春しているなんて、と格納庫で嘆いていたらしいヤエ。整備中の専用機の影で肩を落として、滂沱の涙で。
「そうなんだ…」
ヤエったら、きっと必死に頑張ったんだね、ゼルとヒルマンの噂を聞いて。
ああなっちゃったら終わりだと思って若い姿を保っていたのに、努力は空振りだったんだ…?
「そのようだ。モテてたんなら、ああいう嘆きは出てこないからな」
とはいえ、あの事件、前のお前が死んじまった後のことだがな。
トォニィはすっかりデカくなってたし、他のナスカの子たちも成長していたし…。
「ハーレイ、笑った? ヤエの台詞を聞いちゃった時」
「もちろんだ。…声にも顔にも出せなかったが」
ブリッジにいたんじゃ笑えないしな、その分、必死に顰めっ面だ。
もしかしたら誰かに怖がられてたかもな、何かミスして怒鳴られるんじゃないかと勘違いして。
「それなら、良かった…」
声に出せなくても、顔に出すことも出来なくても。
今も覚えてて、ぼくに話してくれるくらいに可笑しいと思ってくれたんだったら…。
その時、ハーレイが笑えたのなら、それで良かった、と微笑んだ。
ぼくが死んだ後にも、ハーレイが笑っていてくれたなら、と。
「そりゃあ、たまにはな?」
笑いだってするさ、どんなにドン底な気分でいたって、俺も人間には違いないんだ。
色々と話してやっただろうが、前のお前が死んじまった後に起こった愉快な話を。
地球へ向かう途中に立ち寄った星で、とんでもない買い物をしていたヤツらの話とかをな。
「うん…。でも、こうして聞けると嬉しいよ」
ハーレイがブリッジで笑いを堪えてた顔が見えるみたいだよ、その時の顔。
誰かに言おうにも言えやしないし、真面目な顔をしてるしかないし…。
その上、ヤエが戻って来るんでしょ、暫く経ったらブリッジに?
「まあな。…もう、あの時の俺と言ったら…」
笑いを堪えるだけで精一杯だったな、ヤエの顔を見るなり吹き出しそうでな。
もう懸命にキャプテンの威厳を保ったわけだが、今の俺なら、ヤエを呼び出しだな、休憩室に。
でもって、何も知らないふりして、何か飲み物でも勧めてやって。
日頃の努力を労いながらだ、ふと思い付いたみたいに「人生は長いぞ」と話すんだ。
いつか花が咲き、実もなるもんだと、俺もお前ほど若けりゃもっといいんだが…、とな。
「ハーレイが言うと、説得力があるのか無いのか、謎だよ、それは」
薔薇のジャムが似合わないんだもの…。そのハーレイに言われても…。
「そこがいいんだ、強く生きろというメッセージだ」
俺ですら諦めていないんだぞ、とアピールだな。この年になっても努力してるんだぞ、と。
「そっか、そういう方向なんだね」
だったら、ヤエが聞いたら励みになったかも…。
まだまだ諦める年じゃないって、ハーレイよりも見た目も年も若いんだから、って。
思いがけない素敵な話を聞けたけれども。
都市伝説だの、ハーレイが耳にしていたヤエの話だのと、思い出話が幾つも出て来たけれど。
もしも、シャングリラで二人きりの年寄りだったゼルとヒルマンが今、いたならば…。
「ねえ、ハーレイ…。あの二人、今なら若いと思う?」
前のぼくたちが生きてた頃より、年を取った人はグンと少なくなっちゃったけど…。
ゼルたちだったらどうするんだろう、今の時代に生まれて来たら…?
「どうだろうなあ…。時代に合わせて若い方を選ぶか、年を取るのか…」
そいつは謎だな、と首を捻るハーレイ。
けれど、シャングリラで二人きりだった年寄りの二人、都市伝説まで流した二人。
あの二人なら、今の時代に生まれても、きっと…。
「おんなじだろうね?」
年を取るのが趣味なんだ、って白髪になったり、禿げちゃったりで。
「多分な、俺もそういう気がする」
周りのヤツらが何と言おうが、我が道を行くというヤツだ。
二人揃って友達同士に生まれていたなら、もう無敵だな。
若いヤツらは話にならんと、人間、年を重ねてこそだと、酒を飲んでは演説だぞ、きっと。
蓄えた髭まで白くなろうが、頭がすっかり禿げ上がろうが。
あの姿が好きだったというゼルとヒルマン、趣味で年を取った二人だから。
白いシャングリラで二人きりだった年寄りの二人、白髪やハゲが自慢だった二人。
(…きっと、好みは変わらないよね?)
お年寄りの姿が珍しくなった今の時代に生まれたとしても、きっと、あんな風に。
シャングリラで暮らした頃と同じに年を重ねて、その姿が自慢なのだろう。
今はすっかり意味が変わった優先席。
お年寄りのためにあるのではない、車椅子のマークが貼られた座席。
もちろん其処に座りもしないで、二人とも、元気一杯で。
自分とハーレイが地球での毎日を満喫しながら生きているように、ゼルたちも、きっと。
(うん、きっと…。そうだといいな、ゼルとヒルマンも、ぼくたちみたいに)
今は平和になった宇宙で、青い地球の上で、前の自分たちが生きた時代の思い出話。
これからも幾つも語り合っては、幸せな今を生きてゆく。
ハーレイと二人、手を繋ぎ合って、いつまでも、何処までも、幸せの中を…。
年を重ねた人・了
※ゼルとヒルマンの他には一人もいなかった、シャングリラの老人。趣味で年を重ねた二人。
そのせいで生まれた都市伝説やら、ヤエの話が聞けて嬉しいブルー。素敵な思い出話が沢山。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(んーと…)
これって模様じゃなかったんだ、とブルーが驚いた新聞の記事。
学校から帰って、おやつの時間。ダイニングのテーブルに置いてあった新聞、遠い昔の肖像画。毛皮の縁取りがある真紅のマントを羽織った王者の姿が添えられているのだけれど。
記事の中身はその人物のことではなかった、服装について書かれた文章。王者に相応しい高価な衣装についての解説、それもマントについてだけ。
SD体制が始まるよりも遥かな昔の地球の王侯貴族たち。彼らの肖像画でよく見るマント。
長く引き摺るマントの縁には毛皮が定番、それはブルーも知っている。白地に黒の斑点がついた独特の毛皮、マントの縁を飾った毛皮。
肖像画やら、戴冠式の様子を描いたものやら、そういった絵ではお馴染みのマント。縁に毛皮がくっついたマント。
どの絵を見たって同じ模様の毛皮だったから、白地に黒のブチがついた毛皮、そんな模様の動物なのだと頭から信じていたのだけれど。
毛皮の持ち主の動物が何かは、考えたこともなかったけれど。
まじまじと覗き込んでしまった新聞、よく見ようと注目したマント。王者のマントの縁飾り。
残念なことに、新聞の写真では小さすぎて全く分からない。黒い斑点の正体が。
(これって、尻尾…)
信じられない、と思うけれども、別に添えてある毛皮の写真。「現在のものではありません」と撮影された時代の但し書き。地球が滅びるよりも遥かな昔に撮られた写真のデータです、と。
今では撮れないという写真。こんな毛皮は作られていないし、もう本物も残っていない幻の品。
白い毛皮からは尻尾が幾つも生えていた。先っぽだけが黒い尻尾が。
ついでに愛らしい動物の写真、イタチに似ていて毛皮は真っ白。尻尾の先だけが黒いけれども。
(オコジョの尻尾だっただなんて…)
マントの縁取りに使われた毛皮はオコジョの冬毛。冬の間だけ白くなるオコジョ、それを捕えて毛皮を集める。小さな身体のオコジョの毛皮を。マントの縁取りと裏地にするのに充分な数を。
オコジョの毛皮はとても高価で、そう簡単には手に入らない。それをふんだんに使ったマントの縁飾りだから、使われたオコジョの数が分かるよう尻尾も一緒に縫い付けられた。
白い毛皮に先が黒い尻尾、それの数だけ使ってあるオコジョ。尻尾の数が、黒い斑点かと思った部分が多いほど立派で豪華なマント。
王者の威厳が一目で分かる尻尾だったから、その尻尾だけを好みの所に付け替えることも珍しくなかったという。より目立つように。先が黒い尻尾が引き立つように。
とてつもなく高価で、かかった値段が一目で分かる仕組みになっていたマント。
同じ時代に生きた人なら、誰でも分かったことだろう。あれだけ尻尾がついているなら、値段も途方もないものなのだ、と。
値段を表すオコジョの尻尾。王者のマントの縁飾りと裏地。王や王妃が身に着けたマント。
(これに比べたら、前のぼくのマントは…)
まだまだ普通だったんだ、と考えざるを得ない気がしてきた。
ソルジャー・ブルーの紫のマント。床にまで引き摺る丈があったマント、ソルジャーの証。
立派すぎると、大袈裟すぎると何度文句を零したことか。
シャングリラが白い鯨に変身を遂げて、マントの素材も頑丈なものが開発されるまでは、本当に飾りだったから。
何の役にも立たなかったマント、身体を保護するためのものではなかったマント。
炎や爆風から身を守れる素材になった後なら、必要なのだと諦めることも出来るけれども。あのマントつきのソルジャーの衣装が出来た頃には、ただの紫の布だった。
白い上着がそうだったのと同じで、ソルジャーの身分を表しただけ。マントを着けられる立場にいると、床にまで届くマントが相応しい人物なのだと。
前の自分はそれが不満で、なんとも気恥ずかしくて脱ぎたかったマント。
これを着けるほど偉くなどないし、出来ることなら丈を短くして欲しいと。ハーレイのマントと同じくらいの長さがあれば充分だから、と。
けれども一蹴されてしまった、ヒルマンとエラに。
(威厳の問題、って…)
マントの丈が長いほど身分が高い証だから、と譲らなかったヒルマンとエラ。
ソルジャーといえばミュウの長だし、これを着けねばならないと。長いマントが必要なのだと。
(ヒルマンたちが尻尾の話を知ってたら…)
白い毛皮の縁取りのマント、オコジョの尻尾が幾つもついた王者のマント。
彼らがそれを知っていたなら、マントにつけられていたかもしれない。沢山の尻尾つきの毛皮をマントの縁と裏とに。
こんなに沢山の尻尾つきだと、ソルジャーのマントは王者のマントに負けていないと。
(多分、模造の毛皮だろうけど…)
制服が出来た頃のシャングリラで本物のオコジョの飼育は無理だったから。
自給自足の白い鯨は出来ていなくて、家畜も飼ってはいなかったから。
(…それとも、やった?)
模造ではなくて本物の毛皮の縁飾り。
白い毛皮が威厳を高める役に立つなら、ソルジャーのマントの裏打ちと縁取りのためだけに縫い付けたかもしれない、あの頃であっても。
(物資は全部、人類の船からぼくが奪っていたんだし…)
食料も、服も、布地の類も、輸送船から失敬しては持ち帰っていた。シャングリラに。
そうして材料はもう充分に集まったから、と生まれた制服。船の仲間たちが望んだ揃いの制服、ソルジャーの衣装もその時に出来た。
あれをデザインされていた頃に、ヒルマンとエラに縁飾りを思い付かれていたならば…。
(…毛皮つきのマント…)
白いオコジョの毛皮つきのマント。先っぽが黒い尻尾が幾つもついた王者のマント。
そういうマントにするのだから、と注文が入っていたかもしれない。備品倉庫に縁飾りに出来る白い毛皮が無かったとしたら、それを奪ってくるようにと。
本物のオコジョの毛皮は無理でも、そのように見える真っ白な毛皮。ソルジャーのマントの縁と裏とに縫い付けて飾って、尻尾も作ってくっつけようと。
白い毛皮を尻尾の形に縫い上げ、先っぽだけを黒く染め上げた飾り。それをマントの縁と裏とに幾つも幾つも、遥かな昔の王者のマントの真似をして。
想像してみたら怖くなってきた、まるで有り得ない光景だったとは言い切れないから。
ソルジャーに対する礼儀作法にうるさかったエラ、ミュウの紋章入りのソルジャー専用の食器を得々と披露していたエラ。
彼女だったら旗を振りかねない、オコジョの尻尾付きのマントの。
それにヒルマンもエラの味方をしただろう。「素晴らしい思い付きだよ、それは」と。
(尻尾にこだわり始めたら…)
本物のオコジョの飼育を始めて、毛皮と尻尾を集め始めた可能性もある。シャングリラの改造が済んで自給自足の船になったら、オコジョくらいは飼えただろうから。
さほど大きな動物ではないし、使い道があるなら「役に立たない」わけではないから。
(普段は普通のマントだろうけど、儀式用にって…)
マントの素材が特別になって、耐久性がグンと上がった後でも毛皮つきのマント。ソルジャーの役目でシャングリラの外へ飛び出す時には使えなくても、仲間たちの前で身に着けるマント。
たとえば新年を迎えるイベント、皆で乾杯する時などに。
(…ホントに大袈裟すぎるんだけど…!)
本物のマントよりもずっと酷い、と思わず頭を振ってしまった。毛皮の縁取りつきなんて、と。
やられなくて済んで良かった毛皮つきのマント。
ホッと息をついて新聞を閉じた、「ぼくが着せられなくて良かった」と。
空になったケーキのお皿や紅茶のカップを母に渡して、部屋に戻って。
勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。さっきの新聞で目にしたマント。
(オコジョの尻尾…)
多いほど威厳が高まる尻尾。マントの縁を飾った白い毛皮に幾つも幾つも、先が黒い尻尾。
本当に危なかった、と思う。
前の自分の紫のマント、あれの縁と裏に尻尾付きの毛皮を縫い付けられていたかもしれないと。
もしもエラたちが知っていたなら、ヒルマンたちがデータベースで王者のマントについて詳しく調べていたら。マントの縁には白い毛皮だと、オコジョの尻尾で飾るものだと気付いていたら。
(でも…)
もしかしたらヒルマンとエラは、見逃してくれていたのだろうか?
前の自分がマントだけでも嫌がっていたから、縁に毛皮は可哀相だと考えて。
そうでなければ、尻尾付きの毛皮を縫い付けるほどにこだわらなくても、と思ったか。あの船にソルジャーは一人だけだったし、マントがあればもう充分だと。
博識だったヒルマンとエラ。調べ物も得意な二人だったし、オコジョの毛皮も尻尾も知っていたかもしれない。王者のマントに縫い付けてあることも、尻尾は多いほど素晴らしいことも。
知っていたけれど、見逃してくれた。前の自分が着けるためのマントに、尻尾付きの毛皮は縫い付けないで。
(その可能性も…)
あったのだろうか、今となっては分からないけれど。
白いシャングリラも、ヒルマンもエラも、遥かな遠い時の彼方に行ってしまって手が届かない。訊いてみたくても答えは聞けない、前の自分のマントの話は。
オコジョの毛皮を縫い付けたかったか、沢山の尻尾で飾りたかったか。
それを二人に尋ねたくても、もう手掛かりは何処にも無い。
前の自分が着けていたマント。丈が長いと、大袈裟すぎると何度も文句を言っていたマント…。
いくら嫌だと愚痴を零しても、着けるようにと言われてしまった長かったマント。身体を覆ってしまうくらいだった、幅も長さも。
せめて長さだけでも短かったら、まだ幾らかはマシだったのに。
とはいえ、オコジョの尻尾付きのマントの存在を知ったら、長さくらいは我慢するべきだったと思えてくるから不思議なもの。尻尾が幾つもついたマントを着せられるよりは、丈が長すぎる方が見た目はマシだという気がするし…。
長いマントも恥ずかしかったけれど、長いだけで尻尾付きの毛皮の飾りは無かったし…。
なにより、ヒルマンとエラが譲らない。マントの丈に関しては。
威厳を保つには長いほどいいと言った二人が許しはしないし、尻尾付きの毛皮を免れただけでも良かったと思っておくしかなくて。
(…そうだ、長さ…!)
マントの長さでもめたのだった、と遠い記憶が蘇って来た。
前の自分のマントではなくて、ハーレイのマント。
キャプテンの制服の背に付けられていた濃い緑色のマント、それの長さが問題だった、と。
前の自分が羨ましかったキャプテンのマント。自分のマントもあれくらいの丈で充分なのに、と何度も眺めてしまったマント。
床まで届くほどの長さではなくて、腰よりも少し下までの丈。
(ぼくはあれでいいと思っていたのに…)
前のハーレイのマントの長さ。ハーレイに似合うし、短い丈が素敵だった。ズルズルと床に引き摺ってしまう自分のマントよりも、ずっと実用的で。
服飾部門のデザイン係がデザイン画を描いて、仲間たちも賛成して決まったキャプテンの制服。マントの丈は短めがいい、とデザインされていた制服。
キャプテンは操舵をすることもあるし、船の中をあちこち駆け回らねばならない仕事でもある。動きづらい服では話にならない、だからマントも短めに。
いざという時、動きを妨げないように。
マントが邪魔して走れないとか、裾を踏んで転んでしまうだとか。
それではキャプテンの制服としては失格だからと、あえて短めのマントが選ばれた。本当ならばソルジャーに次ぐ立場がキャプテンなのだし、マントも長めにすべき所を。
けれども、シャングリラが白い鯨に変身を遂げてから辿り着いた星、アルテメシア。
雲海の中に潜む間にミュウの子供たちの悲鳴に気付いて、救い出しては連れて来た。何処よりも安全なミュウの箱舟、楽園という名のシャングリラに。
アルタミラを知らない子供たちが増え、やがて育って大人になって。
そうなれば船での役目を担うし、若い者たちにも目を光らせねばいけなくなって。
(長老だけでは威厳不足だって…)
四人だけでは監視が行き届かない、と言い出したエラやヒルマンたち。
ミュウは見た目が若い姿だから、どうしても軽く見られがちだと。そんな人間が注意をしたって効き目の方は怪しいものだと、もっと威厳を持たせねばと。
そうは言っても、今頃になって年を取れと強制出来はしないし、皆も嫌がるに決まっている。
何か方法は無いのだろうか、と考え続けたエラたちが思い付いたものがマントだった。
当時は長老の四人だけが着けていたマント。それを古参の者たちにも、と。
マントの下に着る制服は今まで通りでいいから、マントだけでも着けて欲しいと。
制服の上にマントを羽織れば、威厳は自ずと滲み出る筈。
それを作ろうと、アルタミラからの古参の仲間はマントにしようと出された意見。
(もめたんだけどね…)
マント着用の案が皆に伝えられた段階で。古参の仲間たちの意見を募った時点で反対多数。
若い者たちは「そういう決まりになるのなら」と提案を素直に受け入れたけれど、肝心の古参の仲間たち。マントを着ることになる者たちから反対の声が多く上がった。
長い年月、長老だけが着けていたマント。
それを着けられるほどに自分は偉くはない、と拒否されてしまったマントを着けること。
結局、様々な部門の責任者だけがマントを作るということになった。責任者ならば威厳も必要、その部門では偉い立場になるのだからと。
もっとも、そうして作られたマントの出番は殆ど無かったのだけど。
自分用のマントを手にした者たちは、やはり恥ずかしがったから。
「自分が着るには過ぎたものだ」と誰もが思った、長老の四人と揃いのマント。シャングリラを束ねる四人の長老、彼らと肩を並べて立つには自分は器量不足だと敬遠されてしまったマント。
よほどでないと彼らは着なかった。
部下の若い者が重大なミスをしでかしてしまい、ブリッジにまで詫びに出向かなければいけないような時だとか。ミスをした部下の付き添いでシャングリラ中を回る時には着けていたマント。
そのくらいしか普段の時には着ていない。マントは大袈裟すぎたから。
作りはしたものの、出番が滅多に無かった古参の者たちのマント。
自分たちには相応しくないと反対意見が大多数を占めてしまった、マント着用という提案。
(あの時、ハーレイのも長くするべきだ、って…)
短めだった前のハーレイのマントに彼らは目を付けた。マントを着たくなかった仲間たちは。
自分たちに長老の四人と同じ長いマントを作るのだったら、キャプテンにも、と出た文句。
マントは威厳のためだろう、と。
ブリッジで操舵や指揮をしている時はともかく、ここ一番という威厳を示すべき時。
そういう場面ではキャプテンも長いマントにせねばと、自分たちがマントを着けるのだったら、キャプテンにも威厳を保つためのマントが必要だろうと、一種の屁理屈。
長年、マント無しで気楽に過ごして来た古参の者たちは頑固に言い張った。
自分たちにマントを強制するなら、キャプテンも丈の長いマントを作るべきだと。そうするなら譲歩してマントでもいいと、ただし普段は着ないけれども、と。
(あれで、結局…)
前のハーレイも作らされたのだった、丈の長い威厳のあるマントを。キャプテンの制服の背中に付ける濃い緑色のマントの、床まで届く丈があるものを。
けれど、前の自分はそれを一度も見ていない。
作られたことは知っているけれど、デザイン画も見せて貰ったけれども、ハーレイがそれを着た所を。試着した所さえ見てはいなくて、どんな感じになるのか知らない。
新年を迎えるイベントだとか、行事は色々あったのに。
「此処で着るべきだ」と促したりもしたというのに、いつも曖昧な言葉で濁され、キャプテンは逃げて行ってしまった。
丈の長いマントを一度も着ないで、「必要な時が来たら着ますよ」などと誤魔化して。
だから今まで存在すらも忘れたままでいたマント。
ハーレイのマントは短かったと思い込んだままで、ハーレイのマントはそういうものだと頭から信じて疑いもせずに。
長いマントはあったのに。
濃い緑色の、床まで引き摺る丈のマントは確かに作られ、白いシャングリラにあったのに。
前の自分がただの一度も見ないで終わった、ハーレイのマント。丈の長いマント。
(ぼくが寝てた間に…)
アルテメシアから逃げ出した後に、十五年間も眠り続けた自分。その間の出来事は分からない。深く深く眠ってしまっていたから、白い鯨で何があったかまるで知らない。
前の自分が深い眠りに就いていた間に、着たのだろうか、ハーレイは?
いつもスルリと逃げてしまって、着てはくれなかった長いマントを。丈の長い緑色のマントを。
(ジョミーのソルジャー就任式とか…?)
それがあったなら、もう間違いなく長いマントの出番だったと思うけれども、就任式は無かったらしい。アルテメシアからの脱出直後のゴタゴタ、ようやっとそれが落ち着いた途端に前の自分が眠ってしまって、就任式どころではなかったから。
ソルジャー不在でいられるわけがないから、なし崩しにソルジャーになってしまったジョミー。
何の儀式も行われないまま、前の自分がするべきだった引き継ぎのメッセージも流れないまま、ソルジャー・シンの時代になった。
つまりは無かった就任式。
それが無いなら、ハーレイがあの長いマントを着た筈がない。ジョミーをソルジャーと呼ぶだけだったら、マントの有無はまるで関係無いのだから。
(他に劇的な出来事って…?)
ナスカへの入植に、トォニィの誕生。どちらもミュウの歴史に残る出来事、今の時代にまで語り継がれているのだけれども、マントの出番ではない気がする。式典があったとは聞かないから。
他に何か…、と考えてみても思い浮かばない、ハーレイが長いマントを着そうな時。
そういう機会があったかどうかと悩んでいたら、チャイムが鳴った。門扉の脇にあるチャイム。それを鳴らして仕事帰りのハーレイが寄ってくれたから。
これはチャンスだと、部屋でテーブルを挟んで向かい合うなり訊いてみた。
「あのね、前のハーレイのマントなんだけど…」
前のぼくが寝ちゃった後に着たかな、ハーレイのマント。
「はあ?」
俺のマントって…。俺の背中にはいつもマントだったが、キャプテンだしな?
「それじゃなくって…。長いマントを作っていたでしょ、あれ、着てた?」
床まで引き摺る長いマントだよ、前のぼくが寝ていた間に着たの?
「あのマントか…。お前も知っての通りだが?」
のらりくらりと逃げていたってこと、お前だって百も承知だよなあ?
ジョミーがソルジャーになったからって、俺の考え方が変わると思うのか?
そりゃあ、ジョミーのソルジャー就任式でもあったら別だが、そいつは無かったわけだしな…?
ハーレイの口ぶりからして、どうやらマントは着ていないらしい。前の自分が眠っていた間も、ただの一度も着ていないマント。
そうなってくると逆に気になる、着るような機会が存在したのか、しなかったのか。ハーレイはマントから逃げていたのか、単に着る機会が無かっただけか。
だから質問を投げることにした、前の自分が眠っていた間に機会はあったか、無かったのかと。
「えーっと…。前のぼくが眠ってしまった後には、長いマントの出番はゼロ?」
他のみんなだよ、ハーレイじゃなくて。
ゼルたちと同じ長老のマントを持ってた人たち、何人もいたよね。…あれの出番は?
みんながマントを着るような場面、一度も無いままで十五年経ってしまったの…?
「………」
返事の代わりに返った沈黙。ずうっと昔に曖昧な返事で長いマントから逃げていた頃と同じ。
「…あったんだね?」
みんながマントを着るような時が。でも、ハーレイは着なかったんだね…?
「まあな」
別に何とも言われなかったぞ、エラもヒルマンも諦めていたのかもしれんがな。
「いつなの?」
何があったの、みんながマントを着ていただなんて。
ぼくには少しも心当たりが無いけれど…。
「ジョミーの思念波通信の時だ」
人類に向かってメッセージを送った話は知ってるだろう?
歴史の授業でも習う筈だぞ、逆に人類から追われる羽目になっちまったが…。
仕方ないんだがな、教育ステーションに被害が出たんじゃ、ミュウの攻撃だと思われてもな…。
キースとシロエがいた教育ステーション、E-1077を巻き込んでしまった思念波通信。
意図して起こした事故とは違って、そういう結果を招くとも思わず送られた思念波。
ミュウと人類との間に横たわる溝を埋めるべく、地球の最高府とのコンタクトを目指して。
それをジョミーが送ろうという時、皆がマントを着たという。
天体の間から行われた通信は、一大イベントだったから。もしも通信が上手くいったら、地球と直接交渉が出来る道が開けるわけなのだから。
「…ハーレイ、そんな時でも着なかったんだ!?」
本当に凄いイベントじゃないの、地球とコンタクトを取ろうだなんて。
歴史が変わるかもしれない時だよ、それなのにマントを着なかったわけ…?
「悪いか、俺には似合わないんだ!」
仕方ないから作りはしたがだ、長いマントは柄じゃないってな。
「そんなこと…!」
似合わないなんていうことはないでしょ、ハーレイ用のマントなんだから…!
ちゃんと服飾部門がデザインして作ったマントなんだし、制服にもピッタリ合う筈なんだよ…!
ハーレイは「似合わない」と言い張るけれども、それは有り得なかったと思う。
試着ですらも見てはいないマントでも、ハーレイ専用なのだから。ハーレイのためにとデザインされた特別なマントなのだから。
「ハーレイ、そこで着なかったんなら、いつ着るの!」
せっかく作ったマントなんだよ、何処で着ようと思っていたの…!
いつもいつも着ないで逃げてばかりで、地球に着いた時だって着ていないよね、あのマント…!
「あれなあ…。お前と地球に着いた時に着ようと俺は思っていたからなあ…」
「え?」
地球って、前のぼくと一緒に?
ぼくと一緒に地球に着いたら、あのマントを着るつもりだったの…?
「そうさ。前の俺の人生最高の儀式は、そこより他には無いだろうが」
前のお前を乗せたシャングリラを、俺が地球まで運んで行くんだ。
辿り着いたら、もう間違いなく最大のイベントになるわけだからな?
そこで着ようと決めていたんだ、あれは。前のお前の隣に立って。
どうだ、最高の儀式でイベントだろうが、お前と一緒に地球に着くのは。
「うん…」
そうだね、本当に最高だよね。
ハーレイとぼくと、二人一緒にちゃんと地球まで行けていたなら。
「分かったか? 俺がマントを着なかったわけが」
とっておきだったんだ、俺の人生で最高の瞬間に着るための。
なにしろ威厳がどうとかっていう、御大層なマントだったしなあ…。
ここぞって場面のために取っておかなきゃ意味が無いだろうが、俺のマントは他にあるんだし。
地球に着くまでは短い丈のマントのままで。
青い地球まで辿り着いたら、そこで丈の長いマントを初めて着けて。
後は自由になるつもりだったという、キャプテンの立場と責任から解き放たれて、前のブルーと二人で自由に。ソルジャーではなくなったブルーと二人で。
「…じゃあ、ハーレイの長いマントの出番は…」
長いマントも必要だから、って作らされてたマントの出番は…。
「前のお前の寿命が尽きると分かった時点でもう無かったさ」
お前と二人で地球に着く日は来ないんだ。
俺の人生で最高の日が来ない以上は、あの仰々しいマントなんぞは着けないってな。
「…ぼくのお葬式は?」
前のぼくがメギドへ行かずに、シャングリラで寿命を迎えていたら…。
そしたらシャングリラでお葬式だよ、その時にも着てはくれないの、マント…?
「ああ。着ろと言われても着るつもりは無かった」
決して着ないと決めていたなあ、前の俺はな。
「…なんで?」
お葬式だよ、前のソルジャーのお葬式っていうことになったら正装だよ?
エラやヒルマンだって、あのマントをどうして着ないんだ、って怒りそうだけど…?
「怒りたいなら怒らせておくし、怒鳴りたいなら気が済むまで怒鳴らせておくまでだ」
礼儀知らずと罵られようが、何と言われようが、絶対に着ない。
お前の隣で着ようと決めていた大切なマントなんだぞ、お前がいないのに着てどうする。
いくらお前の葬式にしても、其処にお前の魂はとうにいないんだからな。
「…そっか…」
お葬式なら、ぼくの身体だけしか無いものね…。
ぼくの魂は何処かに行ってしまって、ハーレイの隣にはいないんだものね…。
一度も出番が無かったというハーレイのマント。丈が長かったキャプテンのマント。
濃い緑色のそれはハーレイの部屋のクローゼットに仕舞い込まれたまま、ついに一度も使われることなく終わってしまった。
シャングリラが地球まで辿り着いても、ハーレイが地球へと降りた時にも。
「…あれを着たハーレイ、見たかったな…」
ホントに一度も見ていないんだもの、試着くらい見に行けば良かったよ。
きっとその内に着るんだろうから、って待っていないで、出来たっていう報告が入った時に。
「俺もお前の隣であれを着たかった。俺の人生最高の日にな」
しかし、その日は来なかったんだし、お互い様っていうことだ。
お前は俺が着ている所を見損ねちまって、俺は着るための場所を失くしちまった。
せっかく作ったマントだったが、御縁が無かったって言うんだろうなあ、こういうのはな。
…ところで、どうしてマントなんだ?
それも今頃になって突然どうした、前のお前が生きてた頃には着ろとも言われなかったんだが?
「…えっとね、尻尾…」
「尻尾?」
マントに尻尾があると言うのか、どんなマントに尻尾があるんだ?
「…マントじゃなくって、マントの縁だよ」
毛皮がついてるマントがあるでしょ、昔の王様の肖像画とかで。
あれの毛皮は白地に黒のブチだと思っていたんだけれど…。
違ったんだよ、黒いのはオコジョの尻尾の先っぽ。
王様のマントは尻尾が一杯、沢山あるほど立派なマントで、見せびらかすための尻尾なんだよ。
ソルジャーのマントをそんなマントにされなくて良かった、と微笑んだら。
エラとヒルマンが前のぼくを見逃してくれたのかも、とマントが苦手だった話をしたら。
「ふうむ…。オコジョの尻尾がついたマントなあ…」
お前がそいつを持っていたなら、俺も着たかもな。
「えっ?」
着るって、ハーレイ、何を着るの?
前のぼくが尻尾つきのマントを持っていたとしたら、ハーレイは何を着るって言うの…?
「マントに決まっているだろう。出番が無かった俺のマントだ」
お前がオコジョの毛皮つきのマントを着ている時には、俺も丈の長いヤツを着るってわけだ。
毛皮つきのマントはお前の正装用のヤツになるんだろうから、それに合わせて相応しくな。
「そうなんだ…!」
ハーレイ、合わせてくれるんだ?
前のぼくが派手なマントを着せられていたら、ハーレイも普段は着ていないマント。
長いマントを着てくれたんだね、ぼくのとんでもないマントに合わせて…。
それを聞いたら、オコジョの尻尾が幾つもついた立派すぎるマント。
白い毛皮の縁飾り付きのソルジャーのマントも、あった方が良かったかもしれない。ヒルマンとエラが見逃してくれていたと言うなら、見逃す代わりに「着て下さい」と押し付けられて。
尻尾だらけのマントがあったら、珍しいハーレイを見られたから。
前の自分がただの一度も見られずに終わった、長いマントを着けたハーレイを見られたから。
でも…。
「…ハーレイのマント、出番が一度も無かったっていうのも、ちょっと嬉しいかな」
見られなかったのは残念だけれど、ぼくと二人で地球に着く日の晴れ着だったと言うんなら…。
最高の日が来るまで取っておこう、って残しておいてくれたんだったら。
「そう言って貰えると、俺も嬉しい。…あのマントから逃げていたわけじゃないからな」
前のお前にも本当のことは言えずに終わってしまったが…。
サプライズっていうのは、そうしたもんだろ?
この日のために取っておきました、って取り出すまでは誰にも話しちゃ駄目だってな。
そいつを渡そうっていう相手にだって内緒にするのがサプライズだ。
…もっとも、あのマントは渡すんじゃなくて、前の俺が着るっていうだけだがな。
前の俺の取っておきだったんだ、とパチンと片目を瞑るハーレイ。
そのサプライズを前の自分は貰い損ねてしまったけれども、時を越えて自分が受け取った。
オコジョの尻尾のマントのお蔭で、あの記事に出会って読んだお蔭で。
前の自分と地球に着いた時、ハーレイが着ようとしていたマント。
たった一度だけ、前の自分の隣で着るために取ってあったハーレイの丈の長いマント。
それをハーレイが持ってくれていたのが嬉しいと思う、前の自分たちが自由になる日のために。
ずっと秘密だった恋を明かして、二人で自由になれる日のために。
着られずに終わったマントだけれども、それを着ないでいてくれたのが。
とっておきだと、晴れ着なのだと、大切に持っていてくれたのが。
そのハーレイと二人、今度は何処までも、いつまでも離れずに生きてゆく。
背中にマントはもう無いけれども、二人で目指した青い地球の上、幸せに手を繋ぎ合って…。
丈の長いマント・了
※ハーレイのだけ、丈が短かったマント。けれど、正装用に長い丈のも持っていたのです。
着ないままで終わってしまいましたけど、ブルーには少し嬉しい理由。最高の晴れ着。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
「よし、今日はコレだ」
知ってるだろう、とハーレイが教室の前のボードに描いた相合傘のマーク。生徒たちの集中力が切れてしまわないよう、絶妙のタイミングで繰り出される楽しい雑談の時間。
愉快な話の時もあったり、薀蓄だったり、聞き逃すと損をしてしまうから、居眠りしかけていた生徒もガバッと起きる。これは聞かねば、と。
ハーレイは満足そうに頷き、「由緒正しいおまじないだぞ」と相合傘の絵をコンと叩いた。
傘のマークの下に名前は無いけれど。「此処に名前だ」と丸が幾つか書かれたけれど。
ハーレイ曰く、相合傘のマークはSD体制が始まるよりも遠い遥かな昔に生まれたおまじない。この地域の辺りにあった小さな島国、日本で幾つも、幾つも描かれた相合傘の絵。それに名前も。
「この人と両想いになれますように」と祈りをこめて相合傘と、自分の名前と、相手の名前。
念願叶って恋が実ったカップルも描いた相合傘。「カップルなんです」と誇らしげに。喫茶店や旅先などで、「自由に何でもお書き下さい」というノートに会ったりした時に。
由緒ある日本のおまじない。恋の成就を祈って描くのが相合傘。
描き方は色々、傘の上にハートのマークを描いたり、傘の柄の線を伸ばしたものが傘の真ん中を横切っていたり、横切る線は無かったり。
傘の真ん中を線が横切ると傘が二つに断ち切られるから、「別れるマークだ」と嫌っていた人もあったという。
今の時代は好みだけれど。真ん中の線を描く人もいれば、描かない人も。
ただし、必ず傘のマークは一筆描きで。それが大切な決まり事だから、上手に相合傘を描くなら真ん中の線はあった方がいい。バランスが取れた傘が描けるし、相合傘の見栄えが良くなるから。
傘の下にはそれぞれの名前、傘の柄を挟んで自分と好きな人の名前と。
それを書く場所も、自分の名前が左だったり、女性が右だと言い張る人があったり、傘を横切る線と同じで入り乱れた説。
こちらも今では決まり事は無くて、どう書くのも自由。
相合傘の下に名前を書きさえすれば。恋する相手と自分自身と、二人分の名前を並べて書けば。
「そして、こいつは俺の学校でのオリジナルだった相合傘のおまじないだが…」
オリジナルと聞いて身体を乗り出すクラスメイトたち。オリジナルなら他所には無いのだから。
おまけにオリジナルとして伝わっているなら、きっと効果は抜群だから。
ハーレイは「おいおい、正直なヤツらだな」と苦笑しながら、「よく聞けよ?」と話し始めた。
今の学校の上の学校、義務教育を終えた十八歳から後に進む学校。
かつてハーレイが通っていた学校もそれの一つで、その学校の運動部員たちの間のオリジナル。相合傘を使った恋のおまじない。
オムライスの上にケチャップで描いた相合傘。傘のマークと、二人分の名前と。
相合傘を描いたオムライスは残さず綺麗に食べ切る、それが運動部員たちが使ったおまじない。
オムライスの上にこのマークだ、とハーレイがコンと叩いたボード。
「相合傘はともかく、名前も書かなきゃ駄目だしなあ…。こいつがなかなか難しいんだ」
思った通りに上手くは描けんものだぞ、お前たちも自分でやってみれば分かる。
何が何でも描いてやるんだ、と特大のオムライスを作って描いてたヤツなんかもいたな。
運動部員ならではってトコだ、こんなにデカいオムライスを一人で食わなきゃいけないんだぞ。残しちまったら、相合傘を描いた意味が全く無いんだからな。
「そのおまじないは効くんですか?」
オムライスのは効きますか、とサッと手を挙げたクラスのムードメーカーの男子。
「効くんだろうなあ、そういう噂だったからこそ伝わってたんだし」
そうでなければ何処かで消えてしまっただろうさ。あんなのはただの遊びなんだ、と。
「ハーレイ先生もやりましたか?」
オムライスに描いた相合傘、と興味津々の男子だったけれど。
「さてなあ…? そいつはコレとは関係無いしな、このマークとは」
授業に戻るぞ、と相合傘のマークが消されて終わった雑談。
けれどもブルーの胸にしっかり刻み込まれた、相合傘のマークとオムライスを使うおまじない。
ハーレイが通った学校には変わったおまじないがあったようだと、相合傘を食べるのかと。
心に残ったハーレイの雑談、相合傘のおまじないの話。
学校が終わって家に帰っても、忘れ去ってはいなかった。ダイニングでおやつのケーキと紅茶を味わう時にも、相合傘が頭にぽっかり浮かんで来たから。
ハーレイがボードに描いていた絵と、おまじないとが鮮明に浮かび上がって来たから。
(ぼくは相合傘、描かなくっても…)
もうハーレイとは両想いなのだし、結婚すると決まっているから、相合傘のマークは必要無い。おまじないなどはしなくていい。
自分の名前とハーレイの名前を並べた相合傘を描くとしたなら、授業中に聞いた喫茶店だの旅先だので出会った記念のノート。「ご自由にお書き下さい」と置かれているノート。
でも…。
(ちょっとおまじない、しておきたいかも…)
念のために、と思うわけではないけれど。
相合傘のおまじないが無くても結婚出来るし、とっくの昔に両想い。
前の自分たちが生きた頃から両想いだった恋の続きで、今度こそ晴れて結婚式。前の生では隠し続けた恋を明かして、二人で誓いのキスを交わして。
その日が早く来るといいから、早く来て欲しいと思うから。
祈りをこめて相合傘だ、と考えた。せっかくハーレイの授業で教わったのだし、と。
そうと決まれば、相合傘のおまじないはハーレイの学校のオリジナル。
同じやるならハーレイに習ったそれをやりたい、オムライスの上に描く相合傘。綺麗に食べれば恋が実ると伝わる素敵な相合傘。
まずはオムライスが必要だから、と空になったケーキのお皿やカップをキッチンの母に渡して、何食わぬ顔で訊いてみた。
「ママ、晩御飯は何?」
もう決まってるの、晩御飯のメニュー。…決めてないなら…。
「どうしたの、何かリクエストなの?」
食べてみたいお料理が急に出来たの、晩御飯に作って欲しいものが?
「うん、オムライスが食べたいなあ、って…」
「あらまあ…」
学校で誰かが話してたのかしら、それとも食べたい気分になって来たとか…。
いいわよ、ブルーが「これが食べたい」ってリクエストすることは珍しいものね。
オムライスくらいはお安い御用よ、晩御飯、楽しみにしていて頂戴。
いともあっさり、オムライス作りを引き受けてくれた優しい母。
夕食はそれにしておくわね、と。
(やった!)
小躍りしながら部屋に戻った、今夜はオムライスが食べられるから。
母が作ってくれるオムライス、それに相合傘を描こうと。赤いケチャップで相合傘。ハーレイの名前と自分の名前を並べて書いて、おまじない。
(上手に描いて、しっかり食べて…)
そうすれば恋が叶うから。とうに叶っている恋の場合は、きっと絆が固くなるから。
結婚式の日が早く来るとか、プロポーズの日が早まるだとか。オムライスの素敵なおまじない。
(ふふっ、相合傘…)
名前を書きたいハーレイは寄ってくれなかったけれど、今日はその方が都合がいい。夕食の席にハーレイがいたら、とても恥ずかしくて相合傘を描けはしないから。
「お前、早速やっているのか?」と笑われるだろうし、からかわれたりもするだろう。
普段だったら、ハーレイが寄ってくれなかった日はガッカリだけれど、今日は特別、いない方が嬉しい気がするハーレイ。
おまじないをする所を見られたくないし、でも、おまじないはしておきたいし…。
そんなことまで考えたのに。「ハーレイが来なくて良かった」と胸を撫で下ろしたのに。
いざ、夕食になって、母に呼ばれて勇んでダイニングに出掛けて行ったら。
「はい、召し上がれ」
ブルーのリクエストのオムライスよ。パパはこれだと物足りないでしょ、コロッケもどうぞ。
「おっ、悪いな、ママ。…わざわざコロッケ作らなくても、デカいオムライスで良かったのに」
ブルーみたいにオムライスだけで、と笑顔の父。ブルーのリクエストとは珍しいな、と。
オムライスは作って貰えたけれども、両親も一緒の夕食の席。同じテーブルに着いている両親、当然、ブルーの前に置かれたオムライスの皿は丸見えで…。
(…これじゃ無理だよ…)
描けるわけがなかった、ハーレイと自分の名前を並べた相合傘。
両親が側に居たのでは。ケチャップでそれを描いていたなら、もう絶対に見られるのだから。
これでは描けない、相合傘も、大好きなハーレイの名前ですらも。
オムライスに描いた相合傘のおまじないは出来ない、ハーレイが此処にいなくても。
描くに描けない相合傘。両親の前では描けはしなくて。
(うー…)
なんということになったのだろう、とショックだけれども、リクエストまでしたオムライス。
これさえあったら、とても素敵なおまじないが出来る筈だったオムライス。
けれど描けない、相合傘は。おまじないに使う傘のマークは。
(でも、何か…)
こうして作って貰ったからには、真似事くらいはしておきたい。相合傘は無理でも、何か。何かケチャップで描いておきたい、オムライスを使ったおまじない。
自分の名前だけでも書いておこうか、と思ったけれども、ハーレイの名前が無くては片手落ち。自分の分しか書けない名前は少し癪だし、ウサギを描こうと決意した。
(ぼくも、ハーレイも、ウサギ年…)
お揃いだった生まれ年の干支。
お互いの前世はウサギだったかも、という話もした。前の自分たちに生まれる前には、ウサギのカップルだったのかも、と。
白いウサギと茶色いウサギで、同じ巣穴で仲良く暮らしたウサギのカップル。最後は一緒に肉のパイになったかもしれない、白いウサギと茶色いウサギ。
だからウサギ、とケチャップの容器を手に取った。
オムライスにおまじないをかけておくなら、ウサギのカップル。ウサギ年の恋人同士だよ、と。
オムライスの上、真っ赤なケチャップで描いたウサギの顔。一つだけしか描けなかったけれど。
「あら、ウサギ?」
もしかして、それが描きたかったの、ウサギの絵が?
「そういや、ブルーは小さい頃には、ウサギになるって言ってたっけなあ…」
思い出したのか、将来の夢を?
それでウサギの絵なのか、ブルー?
こいつはなんとも傑作だよなあ、今頃になってウサギか、うん。
しかしだ、上手く描けたじゃないか。ウサギになるって言ってた頃には描けなかったのに。
「そうねえ、失敗してたわねえ…」
ウサギの耳しか描けなかったり、顔を描いたら耳を描く場所が無かったり…。
あの頃よりもずっと上手よ、ちゃんとウサギに見えるものね。
ウサギの絵が描きたくなったからオムライスなのね、と母が微笑み、父も笑っているけれど。
「絵が描きたかったのなら、もっとデカいのにすればウサギを丸ごと描けたぞ」などと言われたけれども、描きたかったものは相合傘。ウサギの全身を描いても何の意味も無いから。おまじないにはなってくれなくて、ただのウサギというだけだから。
欲しかったのはオムライスそのもので、絵は二の次だと嘘をついておいた。今日はオムライスが食べたい気分で、だからオムライス、と。
ケチャップの絵は、子供の頃に描こうとしたのを思い出したからやってみただけ、と。
ウサギの絵つきのオムライス。相合傘は無いオムライス。
食べ終えて母に御礼を言ってから、部屋に帰って。
(失敗しちゃった…)
オムライスで出来るおまじない。相合傘を描いたオムライスをペロリと平らげるおまじない。
ハーレイが通っていた学校に伝わっていたと聞いたオリジナル、それを試してみたかったのに。
オムライスの上にケチャップで描いた相合傘。
自分の名前とハーレイの名前、傘の柄を挟んで並べて描いてみたかったのに…。
(相合傘、描けなかったっていうことは…)
まさか、両想いになれる代わりに、別れてしまうという意味にはならないだろうけど。
そんな結末になりはしないと思うけれども、少し恐ろしくなってきた。
相合傘を描こうとオムライスを用意したというのに、描けずに終わってしまったから。相合傘の欠片も描けずに、ウサギの絵になってしまったから。
(まさかね…?)
大丈夫だよね、と自分に言い聞かせるけれど、募る心配。
オムライスのおまじないが失敗したなら、その恋はどうなってしまうのだろうか、と。
描けなかったケチャップの相合傘。出来なかったオムライスのおまじない。
恋の行方が気掛かりになって、次の日になっても忘れられなくて。
(どうなっちゃうの…?)
ぼくとハーレイ、と勉強机の前に座って溜息をついていたら、そのハーレイが来てくれたから。仕事の帰りに寄ってくれたから、いつものテーブルを挟んで向かい合わせで切り出した。
「あのね、ハーレイ…。昨日、授業で言ってた相合傘のおまじない…」
もしもオムライスに相合傘が描けなかったら、どうなるの?
そういう時には別れてしまうの、相合傘に名前を書こうとしていた二人は?
「いや、そうじゃないな。相合傘を描かないことには恋が実らないっていうだけだが?」
ついでにオムライスも綺麗に平らげないとな、相合傘を描いたら終わりじゃなくて。
「じゃあ、相合傘を描こうとしていたのに描けなかったら?」
相合傘を描くんだ、ってオムライスを用意したのに、相合傘を描けなくなっちゃった時は…?
「描けなくなった、という時か…。そいつは望みが無いってことになるかもなあ…」
相合傘を描くだけ無駄だ、という意味になるのかもしれん。最初から描けないわけなんだし。
二人の名前を並べて描ける日なんかは絶対に来ない、ってことで、望みは無し、と。
俺はその手の噂は知らないが、とハーレイは付け加えてくれたけれども。
描けなかったケースは聞いていないし、あくまで俺の推測だから、と言ってはくれたけれども。
(望みが無い…?)
それはショックな一言だった。
別れるどころか、望み無し。二人の名前を相合傘に並べて描ける日などは来ない、と。
恋が実ってカップルになったら、色々な所で相合傘を描けるのに。
喫茶店やら、旅先やらで見付けたノートに相合傘。二人で来ました、と恋の記念に。誇らしげに二人の名前を並べて、描いて置いてゆく相合傘。
そういう素敵な相合傘を描ける日は来ないというのだろうか?
ハーレイの名前と自分の名前を並べられる日は来ないのだろうか…?
(もしかしたら、ぼくの恋、実らないの…?)
大きくなったら結婚出来ると信じていたのに、その日を夢見て生きているのに。
今度こそハーレイと結婚式だと、二人一緒に暮らせるのだと信じて疑いもしなかったのに。
けれど、冷静に考えてみれば、自分もハーレイも男同士で、普通の結婚とは違うから。
両親に強く反対されてしまって、結婚は無理だというのだろうか?
ハーレイとも会えなくなってしまうのだろうか、両親に見張られて、家にも鍵をかけられて…。
(…そんな…)
まさか望みが無いなんて、と落ち込んでしまった気持ちと心。
砕けてしまいそうな自分の未来と、ハーレイと二人で築く筈だった幸せな未来。
「どうしたんだ?」
おい、急に黙ってしまって、どうした、ブルー?
「…なんでもない…」
「なんでもないって顔じゃないぞ、お前」
お先真っ暗って感じの顔だが、いったい何があったんだ?
俺が来た時から、心配そうな顔つきには見えていたんだが…。そういや、お前、オムライス…。
例のおまじないがどうこうと俺に訊いていたよな、もしかして、アレか?
相合傘がどうかしたのか、とハーレイに尋ねられたから。
「うん…。ハーレイが言ってた、オムライスに描く相合傘…」
描けなかったんだよ、描こうとしたのに。
ハーレイが言った「望み無し」だよ、ぼくとハーレイの名前、相合傘の下には書けないんだよ。
最初から並べて書ける望みが無いから、オムライスに相合傘を描くのは無理だったんだよ…。
昨夜、描き損なっちゃった、と白状した。
オムライスの夕食をリクエストしたのに、同じテーブルに着いた両親。相合傘などは描ける筈もなくて、挑戦する以前の問題だった、と。
「なるほどなあ…。それで代わりにウサギを描いた、と」
しかしだ、お前のオムライスじゃなあ…。
相合傘と二人分の名前はサイズ的に描くのに無理がないか、と言われてみれば。
そうかもしれない、昨夜の自分用のオムライス。
父のオムライスは大きかったけれど、自分の胃袋に合わせて母が作ってくれたオムライスは…。
小さめだったオムライスの上には、相合傘を描くのは無理かもしれない。ウサギの顔を描くのが精一杯で。
(…余計に無理…)
絶望的だ、と肩を落とした相合傘。オムライスを使った恋のおまじない。
それが出来ない自分の場合は、ハーレイとの恋は「望み無し」。
二人分の名前を相合傘の下に書ける日などは永遠に来ない、喫茶店でも、旅先でも。
「ご自由にお書き下さい」と置かれたノートを見る度に泣くのだろうか、いつか、自分は。
これにハーレイと二人で描きたかったと、相合傘を描く筈だったのに、と。
思わず零れ落ちそうになった涙をグイと拭ったら。
今から泣いていては駄目だと、あれはハーレイの推測だから、と泣きそうになる自分の心に言い聞かせようとしていたら…。
「お前、相合傘、描きたいのか?」
オムライスの上に、相合傘。…望み無しだ、と言われないように。
「…うん…」
だけど無理だよ、ぼくのオムライスには相合傘は描けなかったんだもの。
パパとママがあそこにいなかったとしても、ぼくのオムライスは本当に小さすぎるから…。
「分かっているさ。大丈夫だ、土曜日の昼飯にリクエストしとけ、オムライス」
「え?」
土曜日のお昼御飯って…。ハーレイが来る日?
「そうだ、その日だ。相合傘、俺が描いてやる」
お前のオムライスに、ちゃんと相合傘。そしたら望みが無いってことにはならないだろうが。
「ホント!?」
本当に描いてくれるの、相合傘を?
ぼくのオムライスは小さいのに…。ホントのホントに、ウサギくらいしか描けないのに…。
このくらいのサイズなんだけど、と両手を使って作ってみせたオムライスの大きさ。
ハーレイと一緒に食べたことも何度もあるのだけれども、改めて伝えておきたかったから。
「任せておけ。なんたって、俺はプロだからな」
相合傘くらいはお安い御用だ、お前の望み通りに立派なのを描いてやるってな。
「…ハーレイ、相合傘、描いていたの?」
オムライスにケチャップで相合傘。
授業中に訊かれた時には、「さてな?」って答えただけだったけど…。
「いや? 俺は一度も描いていないが」
おまじないをしたい相手がいなかったしなあ、いつも見ているだけだったが。あのおまじない。
「でも、プロだって…」
「勘違いするなよ、相合傘の方のプロじゃない。単に料理のプロだってだけだ」
今の俺はプロの料理人ってヤツをやってはいないが、前の俺は厨房にいたろうが。
あの頃の俺と比べて腕は鈍っていない筈だぞ、むしろ上達してるんじゃないかと思うわけだが。
「そっか、ケチャップの使い方…!」
ぼくよりも上手く描ける筈だよね、ケチャップを使った模様とか。
やっとウサギが描けるようになったぼくなんかよりも、ずっと凄いのが描けるんだものね…!
首を長くして待った土曜日、母にオムライスをリクエストしておいた日。
朝食のテーブルで母に訊かれた、「またウサギ?」と。
「えーっと…。ウサギになるかな、この間は上手に描けたから…」
もっと上手に描いてみたいけど、パパが言ってたみたいにウサギを全部描くのは無理かも…。
尻尾が描けなくなってしまうとか、耳がはみ出してしまうとか。
「ハーレイ先生と遊びたいのね、オムライスの絵で」
きっと先生の方が上手よ、先生はお料理なさるんだから。
「そうだぞ、それにハーレイ先生のオムライスはグンと大きいからな」
お前よりも絵を描ける部分がグッと広いし、見栄えのする絵が描けそうだ。
ウサギの絵、お前、負けるだろうなあ、きっとハーレイ先生に。
負けても悔しがったりするなよ、最初から勝ち目は無いんだからな。
両親はウサギか何かのケチャップ絵で勝負をするらしいと思い込んでしまった昼食。
その方がずっと都合がいいから、「頑張るね」と笑顔で返しておいた。
やがてハーレイが訪ねて来てくれて、待ちに待っていた昼食の時間。母が作ってくれたふんわり金色のオムライスが二つ、ハーレイ用の大きなものと、ブルー用の小さなオムライスと。
それにケチャップ、相合傘を描くための。
母はウサギだと信じている絵。オムライスの上にケチャップで描いて食べる絵。
「ハーレイ、これに描いてくれるの?」
ぼくのオムライス、と尋ねたら。
「そのオムライス、皿ごと、こっちに寄越せ」
「え?」
お皿ごとって…。何をするの?
今の場所だと描きにくいの、とオムライスの皿を手渡してみたら、ハーレイは「よし」と。
「こう並べて、だ…。俺の皿が此処で」
いいか、ここからが肝心なんだ。
こっちが俺ので、こっちがお前で。相合傘、描いてやるから、よく見ていろよ…?
半分ずつ描くのがポイントなんだ、と二人分の皿を並べたハーレイ。
オムライスの間を隔てる距離が出来るだけ短くなるように。二つ仲良く並ぶように。
こうだ、とハーレイが手にしたケチャップの容器、引いてゆかれる赤い線。
まずは相合傘の傘から、「一筆書きとはいかないんだがな」と断りながら。「そいつをやったらテーブルも皿も汚れちまうし、気分だけは一筆書きってことで」と。
ハーレイの分と、ブルーの分。オムライスの上に相合傘の傘の部分が半分ずつ。
それが描けたら隣り合ったオムライスが並んだ部分に、「本来、こいつは一本なんだが」と傘の柄が描かれた、オムライスの端に引かれた線。
早い話が、相合傘が二つに分かれた、ブルーの皿とハーレイの皿のオムライスの上に半分ずつ。
「…さてと、お次は名前だな」
これはオムライスの持ち主の名前でいいだろ、こっちにブルー、と。俺のがハーレイ、と。
…でもって、最後にコレをつけんと。
ハートのマークも半分ずつだ、と描いて貰った相合傘。
二つのお皿に分かれたけれども、相合傘はきちんと描けた。傘の上にハートのマークもつけて。
「わあ…!」
凄いね、ハーレイ。ホントに本物の相合傘だよ、オムライスのおまじないの相合傘…!
ぼくのオムライスだと絶対無理だと思っていたのに、相合傘、ちゃんと出来ちゃった…!
「俺はプロだと言っただろうが。…相合傘の方のプロじゃないがな」
もう安心だろ、オムライスの上に相合傘は描けたんだ。
お前が泣くほど心配していた「望み無し」ってヤツにはならんさ、こうして描けた以上はな。
後はおまじないの方の仕上げだ、このオムライスを残さないで綺麗に平らげる方だ。
この相合傘、俺もお前も全部ペロリと食わんとな。
お前のオムライス、いつもと同じで小さいんだから、お前、充分、食べられるだろ?
「うんっ!」
オムライスの大きさも大切だけれど、相合傘を描いて貰ったし…。
これでおまじないが出来るわけだし、全部しっかり食べるよ、ぼく。
綺麗に食べたら恋が叶うっておまじないでしょ、頑張らなくちゃ。
望み無しかと思っちゃった分、うんと幸せに食べられるよ。だって、相合傘、出来たんだもの。
一度は諦めかけてしまった相合傘。
オムライスのおまじないが出来ない自分は「望み無し」だと、絶望しそうになった相合傘。
ハーレイと二人で描けはしないと、それを描ける日は来ないのだと。
それなのにハーレイに描いて貰えた、相合傘を。二人で一つの相合傘を。
(ハーレイとぼくと、半分ずつ…)
なんて幸せなんだろう、とオムライスをパクリと頬張っていたら。
ケチャップで描かれた相合傘が消えるのが惜しくて、塗り付けないでそのままスプーンで掬って口へと運んでいたら、ハーレイも同じことをしながら。
自分の名前も相合傘も、ハートのマークも壊さないようにと、模様のままで掬いながら。
「うん、やっぱり二人で一緒に食ってこそだよな、相合傘のオムライス」
おまじないで一人で食うのもいいがだ、そいつが叶った後にはなあ…。
一人で食うより、やっぱり二人だ。
オムライスの相合傘で叶った恋なら、こうして二人で食わないとなあ、相合傘のオムライス。
この食べ方をやってたヤツらを見たことがある、と微笑むハーレイ。
俺が学生だった時代に、通ってた学校の食堂でな、と。
「食堂って…。ホント?」
そんな所で相合傘なの、学校の食堂だったら他にも人が大勢いそうな気がするけれど…。
だけど二人で相合傘を描いたオムライスだったの、これみたいな…?
「うむ。これよりもずっと凄かったがなあ、あのオムライスは」
俺の友達の中の一人だ、オムライスの相合傘のお蔭で出来た彼女だ、と食堂に連れて来てな。
やたらデカい皿を持って来たな、と思っていたらだ、オムライスを二つ注文したんだ。二つだ、自分の分と彼女の分だ。
そいつが出来たらデカい皿の出番で、その上にオムライスを二つ並べてくっつけちまった。
後は分かるな、ケチャップでデカデカと相合傘だ。
俺たちのヤツは二つの皿に分かれちまってて、傘の柄が二本あるわけなんだが…。
デカい皿の上でくっつけてあれば、柄は一本で足りるだろうが。
実に見事な一筆書きで仕上がっていたぞ、デカい相合傘。
俺たちのと同じでハートマークが上に描いてあって、友達と彼女の名前を並べて書いて。
本当に凄い相合傘だった、とハーレイが語る、二つ並んだオムライス。
恋人同士だった二人は、それを半分ずつ、仲良く食べていたと言うから、すっかり綺麗にお皿を空にしたと言うから。
「凄いね…。周りに他の人もいるのに、ハーレイだって見てたのに…」
だけど二人でオムライスなんだね、相合傘が描いてあるヤツ。二つ並べて。
「そりゃもう、熱々のカップルだったってな」
この食堂のオムライスの相合傘が結んでくれた御縁だから、って食べに来たんだ、二人でな。
食堂で相合傘のオムライスを一人で食っていたのは、俺の友達だけなんだが…。
おまじないをしたのはそいつだけでだ、彼女の方は相合傘のおまじない、しなかったんだが…。
それでも相合傘のオムライスを食べに付き合おうってほどの彼女だからなあ、最高の仲だ。
もちろん結婚したんだぞ。学校を卒業した後にな。
だからだ、オムライスの相合傘は効くぞ、俺が保証する。
こうして二人で食べたからには、「望み無し」には絶対ならんさ。
お前は俺と結婚するんだ、そして目出度く相合傘をあちこちで描いて回れるってな。
「ご自由にお書き下さい」と書いてあるノートを見付けた時とか、好きに何でも描き殴っていい落書きだらけの壁だとか…。
そういった所に二人で描くんだ、俺とお前の名前が並んだ相合傘をな。
ハーレイが「いつか描ける」と保証してくれた相合傘。二人の名前を並べて書ける相合傘。
それもいつかは描きたいけれども、今は半分ずつで柄が二本もある相合傘。その柄を一本だけにしてみたい、ハーレイに聞いた熱々のカップルがやっていたように。
大きなお皿にオムライスを二つ、くっつけて並べて、柄が一本の相合傘を一筆書きで。
「ねえ、ハーレイ。オムライスを二つ、お皿の上で並べたヤツ…」
相合傘を一筆書きで描けるオムライス、ぼくもやりたいよ。
ハーレイと二人で食べてみたいよ、大勢の人が見てる食堂では恥ずかしいから嫌だけど…。
二人だけしかいない所でハーレイに大きく描いて欲しいな、今日みたいに。
「ふうむ…。いつかお前との結婚が決まったら、やってみるとするか」
今日みたいに半分ずつに分かれちまって、一筆書きでもないヤツじゃなくて、正真正銘、本物の相合傘ってヤツを。
オムライス二つに一筆書きで描くってわけだな、俺が昔に見てたみたいに。
「やろうよ、二人で半分ずつの相合傘!」
半分ずつでも、二つ並べたら本当に一個の相合傘。
今日のおまじないが叶いました、ってオムライスを二つくっつけて並べて相合傘だよ…!
「よし、その時は俺が作ろう、オムライスを」
二人だけで食べたいと言うんだったら、それが一番いい方法だ。
店に行ったら人が見てるし、お前の家でも「大きな皿は何に使うのか」と不思議がられるし…。
オムライスを二つくっつけるんなら、そいつは俺が作ってやるさ。
俺の家でな、とハーレイがパチンと片目を瞑るから。
「お前の胃袋に丁度いいサイズに作ってやろう」と、ドンと引き受けてくれたから。
いつかは大きな一枚の皿に、二人分の並んだオムライス。
ハーレイのオムライスは大きなサイズで、自分のオムライスはきっと小さめ。
今日のよりは幾らか大きくなってはいるだろうけれど、ハーレイの分には敵わない。
そのオムライスを二つくっつけて、並べて置いて。
ハーレイがケチャップで相合傘を見事に描いてくれるのだろう。
一筆書きで、ハートマークもつけて。
それを二人で食べた後には、もう幾つでも描ける相合傘。
何処へ出掛けても、描いていい場所があったなら。
ハーレイと自分の名前を並べて、傘の上にハートのマークも描いて、幾つも幾つも相合傘を…。
描きたい相合傘・了
※今のハーレイの学校にあった、オリジナルの恋のおまじない。オムライスに描く相合傘。
ブルーの挑戦は失敗でしたけど、ハーレイが描いてくれたのです。二人の恋は叶いますよね。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv
(たまにはコレが美味いんだ)
うん、とハーレイが大きく頷いたシーザーサラダ。平日の夜に、自分の家のダイニングで。
たっぷりの新鮮なロメインレタスに、海老や茹で卵なども加えてメインディッシュに。もちろんドレッシングは手作り、クルトンだって。
パルメザンチーズを振ってから豪快に混ぜた、食べる直前に混ぜるのがシーザーサラダの醍醐味だから。気の利いた店だと、客の目の前で混ぜてサービスするのがシーザーサラダ。
今日はブルーの家に寄るには遅くて、けれども時間はあったから。
こんな日にはメニューを考えながらの買い出し、シーザーサラダが食べたくなった。クルトンを作る所から始めて、海老や卵も茹でて入れて…、と。
パンを小さなサイコロ形に切ってカリッと焼き上げたクルトンは多めに作ったから。ついでだと食パン二枚分をクルトンにしたから、シーザーサラダに沢山入れても…。
(明日の朝にも使えそうだな)
朝食のスープに浮かべてみるとか、レタスと混ぜてシーザーサラダもどきと洒落込むか。
これは美味いし、と取り分けたシーザーサラダを頬張る。大きな器に盛ったサラダは、そのまま食べたい気分だけれど。どうせ一人しかいない食卓、食べ切るのだからかまわないけれど。
(…やっぱり行儀というヤツがだな…)
学生時代に水泳や柔道の先輩たちから叩き込まれた礼儀作法。一人の時でも「いただきます」と合掌するのを忘れないのと同じくらいに、気になる食事のマナーというもの。
大皿から直接食べるなどは論外、必ず器に取り分けろ、と何度も言われた、先輩たちに。羽目を外していい時だったら一興だけども、普段にやっては絶対駄目だ、と。
そんなわけだから、適量を取り分けて口に運ぶサラダ。フォークでパクリと。
思った通りになんとも美味しい、決め手はドレッシングとクルトン。ガーリックを刻んで入れたドレッシングもいいのだけれども、さっき作ったばかりのクルトン。これが無くては決まらない。
レタスやドレッシングと一緒に味わうカリッとした味、口の中でサクッと砕けるクルトン。
食べる直前に混ぜるからこそクルトンが生きるシーザーサラダ。出来たての味。
これがいいんだ、と顔が自然に綻ぶクルトン、ポタージュスープにも浮かべておいた。サラダとスープと、どちらもクルトン。
明日の朝にも使いたいクルトン、多めに作ったのだから。
スープか、朝からシーザーサラダか。悪くないな、と眺めた器に盛ったクルトン。
(ガキの頃は嬉しかったんだ)
クルトンを入れて貰うのが。パンを四角く切って焼いただけなのに、何故だか、これが。
自分の家でもクルトンが入れば嬉しかったし、たまに連れて行って貰ったレストラン。スープが器に注がれた後に、スプーンで加えてくれるクルトン。
特に決まりは無かったのだろうか、浮かべてくれる量はまちまちで。多めに入れて貰えた時には心が弾んだ、「今日はクルトンがこんなにある」と。
クルトンを入れてくれる人を見詰める子供時代の自分の瞳が輝いていたのか、あるいは無意識の内に心が零れて「もっと!」と叫んでいたものか。
常よりも沢山入れて貰えたことが何度か、それはもう得をした気分。
大喜びで味わったクルトンたっぷりのスープ、たかがパンをカリッと焼いただけのものなのに。レストランならば幾らでもある、少し固くなったパンを使ったものだったろうに。
子供だった頃の憧れのクルトン、レストランでスープを飲むならクルトン。
多いといいなと、沢山入れて貰えるといいなと、何度ウェイターの顔を見上げたことか。多めに入れてくれそうな人か、気前よく入れてくれるだろうかと。
(懐かしいなあ…)
両親と出掛けたレストランでの、幸せな思い出。スープに浮かべて貰ったクルトン。
今ではスープも、クルトンも自分で作れるようになってしまって、凝ったシーザーサラダまで。入れ放題になったクルトン、なにしろ自分で作るのだから。沢山作っていいのだから。
(ここはだな…)
せっかく思い出したからには、やらねばなるまい。
もう一杯、とポタージュスープをおかわりして来て、クルトンをたっぷり、スプーンで掬って。惜しげもなく入れた、四角く切って焼き上げたパンを。
(よし!)
ガキの頃の夢だ、と満足感が湧き上がるスープ。ここまでの量のクルトンは入れて貰った覚えが無い。自分の家での食事はともかく、レストランでスープを飲んだ時には。
もう最高に贅沢な気分、子供時代の自分の夢。熱いスープにクルトンたっぷり、パラリと一匙の量と違ってドッサリと。
流石にスープよりもクルトンが多くはならないけれど。所詮はスープの浮き身だけれど。
やっぱり美味いと、シーザーサラダもスープもクルトンがあってこそだと味わっていたら、心をフイと掠めた記憶。
(…待てよ?)
前にもこうしてクルトンを入れた。器からスプーンで掬って、たっぷり。
ポタージュスープが入った器に、パラッと飾りに振るのではなくて、もっと多めに。
(…なんたって俺の夢だしな?)
子供時代の憧れのクルトン。自分で好きに入れられるのだから、きっと前にもやったのだろう。今夜のように子供だった頃の自分がヒョイと顔を出して、クルトンの思い出が蘇ったはずみに。
(スープはしょっちゅう作るしなあ…)
クルトンだって、と納得しかけて「違う」と気付いた。
あれは自分の器ではなかった、自分はクルトンを掬って入れていたというだけ。誰かのスープにたっぷりクルトン、子供時代の夢そのままに。
普通はこれだけの量だけれども、ここは沢山入れなくては、と。
自分のものではなかったスープと、それにドッサリ加えたクルトン。今の自分のスープと同じ。レストランなどでは貰えない量、こんなには入れて貰えない。
それを自分が誰かのスープに入れたとなると…。
(俺の家で作ったスープだよな?)
レストラン勤めの経験は無いし、柔道や水泳の合宿には無いお洒落なクルトン。スープを作ったことはあってもクルトンまでは作ってはいない、見た目よりも量が大切だという場所だったから。クルトンを作る暇があったら、同じパンで一品作って来い、と言われそうな世界だったから。
(…俺の家で作るスープとなったら…)
教え子たちがやって来る時にも、たまに料理はするけれど。
ドカンと大皿で出すような料理が定番、それにスープをつけただろうか?
パエリアなどの類だったら、多分、つけてはいるだろうけれど。ろくに味わいもせずガツガツと平らげる運動部員たちを相手に、洒落たクルトンなどをわざわざサービスしてやるだろうか?
はて…、と考えたけれど、分からない。
とはいえ、料理が好きなのが自分。たまに気まぐれでお洒落に演出したかもしれない、こういうスープも作れるんだぞ、と。クルトンも俺が作ったんだ、と。
ただ、そうやって作ったスープ。それにクルトンを入れてやるなら…。
(公平にだぞ?)
生徒の扱いは公平にするのが大原則。見込みがあると目を掛けてやっている教え子がいたって、食事の席で贔屓はしない。あくまで平等、スープの量も、それに加えるクルトンも。一人分だけを多くするなど、有り得ない。
けれども、自分が他の誰かにスープを振舞うとしたなら、それくらい。
教え子たちを家に招いての食事、他には全く思い付かない。友人たちも招くけれども、そうした時には食事よりも酒、そちらの方がメインになるから。スープにクルトンと洒落ているより、同じパンからカナッペでも作って出した方がよほど喜ばれるから。
そうなってくると、あの記憶はやはり教え子との食事。ポタージュスープにクルトンたっぷり。生徒を贔屓はしないけれども、そんな教師ではないけれど。
(…クルトン好きのヤツでもいたのか?)
家を訪ねて来た教え子の中に。手作りのスープを御馳走してやった運動部員たちの団体の中に。
クルトンを入れに回っていた時、その子に頼まれただろうか。「多めに下さい」と、クルトンが大好物なんです、と。
(それだったら…)
多分、喜んで入れてやっただろう。おかわりを頼まれるのと変わらないのだし、多めに掬って。
「もっと入れるか?」などと冗談交じりに、山ほど掬って見せたりして。
ついでに記憶に残っていそうでもある、それを頼んだ生徒の顔が。
クルトン好きとは実に面白いと、遠慮しないで頼む所が気に入った、と。
誰だったのだろう、あの生徒は。クルトンを沢山欲しがった子は。
(…誰だ…?)
愉快な奴だ、と記憶を手繰るけれども、その子の顔が浮かんで来ない。「多めに下さい」と注文した子が思い出せない、今まで教えた子供たちの顔は一つも忘れていないのに。
その中にいない、クルトンを多めに入れてやった子。こいつだ、とピンと来ない顔。
けれども確かにクルトンを入れた、スプーンでドッサリ掬ってやって。
(俺がスープを作ってだな…)
それに入れた、と思った途端。
手作りのスープに手作りのクルトン、気前よく振舞ってやったのだった、と思った途端。
(シャングリラか…!)
この家のことじゃなかったのか、と気が付いた。遠い記憶が蘇って来た。
前の自分が暮らしていた船、シャングリラ。あの船の中で、前の自分が入れていた。クルトンをスプーンで掬ってたっぷり、ブルーのスープに。
今の自分の教え子ではなくて、前のブルーのスープのために。
遠い遠い昔、シャングリラがまだ白い鯨ではなかった頃。
前の自分もキャプテンではなくて、厨房で料理をしていた頃。あれこれと工夫を凝らして様々な料理を作った、その時々の食材で。
シャングリラはまだ、自給自足の船になってはいなかったから。前のブルーが人類の輸送船から奪った食料、それを頼りに生きていたから。
そうは言っても、ブルーの能力は非常に高くて、食材が偏ってジャガイモだらけになったりした時代はほんの初期だけ。「急いで奪って急いで戻れ」とうるさく言われた時期を過ぎたら、楽々と奪いに出掛けたブルー。輸送船の積荷を短時間で見抜いて、食料も物資も充分な量を。
人類の船から失敬して来た食材で作っていた料理。
同じ食事なら心が豊かになるものを、とデータベースで色々調べて、ポタージュスープの演出に使えそうだと思ったクルトン。少し固くなったパンも活用できるし、美味そうでもあるし…。
やってみよう、とパンを小さなサイコロ形に切る所から始めた試作。オーブンを使うほどの量は無いから、とフライパンを用意していたら、厨房を覗きに来たブルー。小さなブルーと似たような姿だったブルーが、刻まれたパンを指差して訊いた。
「何が出来るの?」
こんなに小さく切ってしまって、何を作るの、このパンで…?
「スープがお洒落に変身するのさ、こいつを作って入れてやればな」
その筈なんだ、とフライパンでカリッと焼き上げたクルトン。一つ食べてみて、その香ばしさに成功作だと確信したから、試食用にと作ってあったポタージュスープを器に注いで。
こんな具合に使うもんだ、とクルトンをパラリと入れて見せたら。
「へえ…!」
スープの真ん中に浮かべるものなんだね。飾りみたいに?
「な、お洒落だろ?」
ちょっと豪華に見えてこないか、いつものスープと同じヤツでも。
「うん、そうだね!」
それに食べたらカリッとしていてとても美味しい、と笑顔になったブルー。
パンが素敵に変身したね、とクルトンをそのままで一つ食べてみて、次はスープに入れてみて。
「スープに入れるのが断然美味しい」と大喜びで、「もっと沢山入れていい?」と尋ねられた。スープは今の量でいいから、四角いパンをもっと入れてもいいか、と。
「もちろんだ」
此処で食ってるの、俺とお前しかいないしな?
試作品だし、好きなだけ食え。お前、あんまり食わないんだから、これくらいはな。
こいつだって元はパンだし、栄養はちゃんとある筈なんだ。それに立派な名前もあるぞ。由来は知らんがクルトンだそうだ、ポタージュスープにはクルトンだってな。
どうやらブルーは、クルトンが気に入ったらしいから。
試作品だったクルトンをせっせと自分のスープに入れては、嬉しそうに口に運んでいたから。
(あいつが喜んで食ってくれるんなら、って思ったんだよなあ…)
今と同じで食が細かった、前のブルー。おかわりなどはしなかったブルー。
そのブルーが自分から進んで食べたがったパン、正確にはパンの加工品。パンそのものなら少し食べれば「御馳走様」と言っていたくせに、クルトンは沢山食べてくれたから。スープに浮かべてやった量より、もっと余計に五つ、六つと追加で食べてくれたから…。
(あいつのスープには、沢山入れてやっていたんだ…)
食堂で皆にポタージュスープを出した日、クルトンを披露して、大評判を取った後。
船の仲間たちが「あれは美味かった」と、「また作ってくれ」とクルトンの味を覚えた後。
何度も作ってはポタージュスープに浮かべたクルトン、それをブルーには多めに入れた。食堂の給仕係は他にいたから、クルトンの日だけは「俺がやる」と入れる役目を引き受けて。
前のブルーの席に行ったら、スプーンで掬ってたっぷりと入れてやったクルトン。他の者よりもずっと多い量を、軽く二倍はあったろう量を。もっと多めの時だってあった。
(嬉しそうな顔して見ていたからなあ…)
自分のスープにプカプカと浮かんだクルトンを。「もっと貰える?」と声に出しこそしなかったけれど、クルトンを入れる前の自分の手元を、顔を見上げる瞳が輝いていた。宝石のように。
だから幾つも入れてやったクルトン、贔屓だと言う者はいなかった。
ブルーのクルトンだけが多かったとしても、クルトンの元はブルーが調達して来た食料だから。それが無ければクルトンは出来ず、ポタージュスープも出来ないのだから。
(そうか、クルトン…)
前のあいつの思い出だったか、とシーザーサラダを頬張った。これも決め手はクルトンだな、とサクサクと砕ける食感を楽しみ、ポタージュスープにもクルトンを追加。
白いシャングリラで作ったクルトン、前のブルーにたっぷりと入れてやったクルトン。
小さなブルーにも、これを食べさせてやりたいけれど。「覚えてるか?」とポタージュスープにクルトンを浮かべてやりたいけれども、手料理を持って行くのは無理で。
ブルーの母に気を遣わせるから、自分で作って行けはしなくて。
(しかし、クルトンを買って行くのもなあ…)
いつも行く食料品店の棚にはクルトンも置いてあるけれど。忙しくて作っている暇が無い時は、便利に使える品だけれども。ブルーの母は手作り派だった、よく御馳走になるから分かる。其処へ店で買ったクルトンを持って行くというのも失礼すぎるし…。
(こうなってくると…)
ブルーの母に頼むしかないか、と腹を括った。
土曜日が来るまでに通信でも入れて、と。
小さなブルーと二人で食事が出来るのは週末の昼食だから。そこで思い出のクルトンを山ほど、ブルーのスープに入れて食べさせてやりたいから。
そう考えていたら、上手い具合に次の日、寄れたブルーの家。
仕事帰りに訪ねられたから、門扉を開けに出て来てくれたブルーの母に挨拶を済ませ、玄関へと二人で歩く途中に頼んでみた。
「すみません。厚かましいとは思うのですが…。今度の土曜日のことでお願いが…」
昼御飯にポタージュスープを作って頂けないでしょうか、材料は何でもいいですから。
「えっ?」
どうしてポタージュスープなのだろう、と驚いているらしいブルーの母。食材を指定すれば少しマシだったろうか、と反省しつつも、二人で入った玄関のスペースで説明をした。
「本当にスープの味は何でもいいんです。…スープよりもクルトンが大切でして…」
クルトンを入れてあげたいんです、ブルー君に。
実はシャングリラで私が厨房にいた頃、何度も入れてあげたのだった、と思い出しまして…。
シャングリラの思い出の味なんです。
ご無理をお願いして申し訳ありませんが、作って頂けるようでしたら…。
「分かりましたわ、それなら普通のポタージュスープが良さそうですわね」
ごくごく基本のポタージュスープ。それとも、これだというスープが何かあるんでしょうか?
「いえ、普通ので充分です。こだわりたいのはクルトンですから」
そして、クルトンは浮かべずに器に入れておいて頂けますか?
私が掬って入れるというのが、シャングリラの思い出になりますので。
「ええ。別の器にクルトンですのね」
それなら多めに用意いたしますわ、その方が見栄えも良くなりますし…。
ブルーがなかなか思い出せなくても、クルトンが無くなりはしないでしょうし。
快く引き受けてくれたブルーの母。「忘れずに、土曜日のお昼御飯にお出ししますわ」と。
玄関スペースでそんな遣り取りをしていただけに、少し遅れたブルーの部屋へと移動する時間。
小さなブルーが「ハーレイ、ママと話してた?」と尋ねるから。
「少しだけな」
なあに、大したことじゃない。お前の成績のことでもないさ。
ちょっとした時候の挨拶ってヤツだ、たまにはそういうことも大事だ、いい天気ですねと。
「ふうん…?」
いいお天気が続いているけど、大人って、ちょっぴり面倒かもね。
ぼくなんか、友達の家に行っても、「こんにちは」って挨拶してるだけだよ、それで充分。
…前のぼくだと、「こんにちは」では済まなかったけど…。
「ほらな、そいつと同じだ、同じ」
大人ってヤツには色々あるんだ、チビと違って。たかが天気の話でもな。
だから…、と誤魔化しておいたブルーの母との立ち話。
クルトンのことは話さなかった。もちろんポタージュスープのことも。
ブルーの母にも「ブルー君を驚かせたいので」と口止めしたから、秘密は漏れはしないだろう。前の自分たちの記憶を呼び戻すクルトンのことは。小さな四角いクルトンの遠い思い出話は。
そうしてブルーが何も気付かないまま、土曜日が来て。
クルトンの名前も、ポタージュスープも、まるで関係無いことをブルーと話して、笑い合って。
やがて迎えた昼食の時間、運ばれて来たポタージュスープ。約束通りに、クルトンを別の小さな器にたっぷりと入れて、スプーンもつけて。
小さなブルーはニコニコとして、昼食の皿が並んでゆくのを見ていたけれど。野菜のキッシュやパンのお皿が全て揃うのを待っていたけれど、用意が整って母が出て行った後。
赤い瞳でテーブルの上をまじまじと眺め、困ったように呟いた。
「ママ、忘れたまま行っちゃった…」
クルトンを入れずに出て行っちゃったよ、ごめんね、ハーレイ。
お客様に自分で入れさせるなんて、あんまりだから…。ぼくが入れるよ、ママの代わりに。
「いや、お母さんは忘れたんじゃない。俺が頼んだんだ」
クルトンは別に出して下さいと、この前、俺が来た時にな。
「え? なんでクルトン…」
どうしてクルトンが別なのがいいの、スープに入れて直ぐのが好きなの?
キッチンからママが入れて来たんじゃ、湿ってしまって美味しくないとか…?
「おいおい、そういう贅沢を言うと思うか、この俺が?」
好き嫌いが無いというのも売りだが、今では前の俺の記憶もあるってな。
グルメなんかを気取ってられるか、キャプテン・ハーレイなんだぞ、俺は。
クルトンは入れたばかりでないと、なんて食通ぶりを発揮するどころか、すっかり冷めたスープだってだ、「美味しいですね」と言える自信があるんだが?
その俺だ、前の俺の話だ。
思い出さんか、このクルトンとポタージュスープを見たら…?
お前のスープにはクルトン多めだ、とパチンと片目を瞑ってみせた。
キャプテン・ハーレイの話ではなくて、俺が厨房にいた頃なんだが、と。
「クルトンの時だけは、俺が給仕に回ったんだが…。普段はやってはいなかったけどな、配膳係」
俺がクルトンの器を持って回って、端から順に入れていくんだ、スプーンでな。
前のお前の所まで来たら、うんと多めに掬ってやって。
…そうだな、こんな具合だったな、前のお前のスープにだけは。
ほら、と掬って入れてやったクルトン。ブルーのスープに、スプーンで掬って。
小さなブルーは目を丸くしてから、「ああ…!」と顔を輝かせた。
「思い出したよ、ハーレイのクルトン!」
いつも沢山入れてくれたよ、ぼくのスープに。
最初は試作品を作っていたよね、厨房でパンを小さく切って。フライパンで焼いて、クルトンが出来て…。スープに入れたのを貰ったんだっけ、ぼくが一番最初に。
あれからクルトンが食堂に出来て、ハーレイが配って回ってて…。
ぼくのスープには、いつでも沢山。
もっと欲しいな、って思った分だけ、いつもドッサリくれていたんだよ、何も言わなくても。
前のぼくは思念も飛ばしてないのに、ハーレイは分かってくれていたっけ。
嬉しかったんだ、あのクルトン。
ぼくだけオマケでうんと沢山貰ったけれども、材料は固くなったパンだったしね。
他の食べ物と違って遠慮しないでドッサリ貰えた、と小さなブルーは笑顔だから。
材料が何か分かっていたから、好物を沢山食べられたっけ、と懐かしそうにスープを掬うから。クルトンを食べて、「うん、この味!」と本当に嬉しそうだから…。
「ふうむ…。ガキはクルトンが好きなんだよなあ…」
「え…?」
ガキってぼくのことなの、ハーレイ?
それとも、前のぼくのことかな、クルトンを沢山入れて貰って喜んでた頃の。
ハーレイがキャプテンになった後にはクルトンの係は代わっちゃったし、「もっと入れて」って頼まなかったから…。
みんなと同じ量のクルトンがあれば充分だったし、前のぼくが今と同じでチビだった頃…?
「そうじゃなくてだ、ガキっていうのは俺のことだ」
今の俺がガキだった頃に好きだったんだ、このクルトンが。
レストランで多めに入れて貰えたら嬉しかったし、もっと入れて欲しいと思ってたもんだ。
そいつを懐かしく思い出してて、スープにクルトンをドカンと入れて…。
ガキの頃の夢だと、こいつがやりたかったんだ、と食っていたら思い出したんだよなあ、前にもこういうことがあったな、と。
クルトン多めだとスープに入れたと、あれはいつだったかと考えていて…。
今の教え子かと思ったんだが、そうじゃなかった。前のお前のスープに入れていたんだ、お前の好物だったからな。入れてやったら嬉しそうだから、山ほど、クルトン。
ガキはクルトンが好きらしいな、と話してやった自分の子供時代。
前のお前が好きだったのも、子供だったせいかもしれないな、と言ったのだけれど。
「それ、違うかもしれないよ。…ハーレイ、ぼくのことを覚えていたとか…」
クルトンが好きだった前のぼくのこと、ハーレイ、覚えていたんじゃないの?
それで沢山入れて貰うと嬉しかったっていうことはない?
前のハーレイの記憶は戻ってなくても、クルトンは沢山入れるんだ、って。
「まさか…。いくらなんでも、偶然だろう」
俺は本当にクルトンが好きで、沢山入れて貰った時には得をした気分で。
今だってガキの頃の夢だと山ほど食ったぞ、この記憶が戻って来た日の夜に。
シーザーサラダとポタージュスープで、クルトン、沢山食っていたしな?
お前もシーザーサラダは知っているだろ、アレはクルトンが無いと全く話にならないだろうが。
だから関係無いと思うぞ、前の俺の記憶というヤツは。
前のお前の好物がアレだと覚えていたとは思えないがな、クルトンが多めだったってこと。
そうは言ったものの、そうかもしれない。
自分でもまるで気付かない内に、前のブルーの好みを真似していたかもしれない。
前の自分が愛したブルー。最後まで恋をしていたブルー。
その恋人が子供の姿をしていた頃に好きだったクルトン、それはこうして食べるものだと。
ポタージュスープにたっぷりと入れて、カリッとしたのを心ゆくまで。
多いほどいいと、嬉しいものだと、それを好んだ人の真似をして。無意識の内に恋人を追って。
前の自分が失くしてしまった愛おしい恋人、その恋人が好んだクルトン。
それが欲しいと、それが食べたいと、前の自分がヒョッコリ出て来ていたかもしれない。
なにしろ自分は好き嫌いが無かったのだから。
クルトンの量など、さほどこだわらなくてもいいのに、何故か多めが良かったクルトン。
これが好きだと、今日は多めだと嬉しかったのは、きっと…。
前の自分か、と思い当たった。今頃になって。
クルトンが沢山入ったスープが好きだった子供時代の自分は、前のブルーを真似ていたのかと。
「そうか、俺は…。知らずにお前の真似をしてたんだな、前のお前の」
スープにクルトンを入れるんだったら多めでないと、と前のお前を見てたってわけか…。
前のお前を俺はすっかり忘れていたのに、お前の食べ方、覚えていたのか…。
「きっとそうだよ、ハーレイだもの」
ぼくにクルトンを多めにくれてた頃から…。ううん、アルタミラで初めて会った時から。
ハーレイはぼくの特別だったし、ハーレイもそれは同じでしょ?
だから忘れていなかったんだよ、前のぼくのこと。
クルトンを沢山入れたスープが好きだったことも、ハーレイが多めに入れてくれたことも。
「そうなんだろうな、俺は忘れていなかったんだな…」
前のお前がいたってことを。スープに沢山、クルトンを入れてやってたことを。
…そう言うお前はどうなんだ?
今もクルトンは多めがいいのか、さっきたっぷり入れてやったが。
「クルトン…。多めがいいな、って思うほど沢山食べられないから…」
パパやママとレストランで食事をしたって、すぐにお腹が一杯になるし…。
最初に出て来るスープの時から「多めがいいな」って思ったりはしないよ、クルトンだけでも。
お料理、全部食べ切れるかな、って心配ばかりで、多めなんかは絶対に無理。
もっと少ない量でいいのに、って考えながら飲んでるスープに、クルトンは沢山要らないよ。
小さなブルーに、クルトンは多めがいいと思った記憶は無いと言うから。
前の自分とは違うようだと首を振り振り、クルトンたっぷりのスープを掬っているから。
「そりゃ残念だな、こうして用意をしてやったのにな?」
わざわざお前のお母さんに頼んで、前のお前の好物を出して貰ったのに…。
今のお前はクルトンはどうでも良かったんだな、前と違って…?
「そうみたいだけど…。前のぼくが好きだったことは、すっかり忘れたみたいだけれど…」
でも、ハーレイが覚えてくれていたなら、充分だよ。
子供の頃から、ずっと覚えてて、クルトンは多めがいい、って思って食べて…。
ハーレイのお蔭で思い出せたよ、前のぼくのこと。
自分でも忘れてしまっていたのに、ハーレイ、覚えていてくれたんだ…。
凄く嬉しい、とブルーが微笑むから。
前の記憶が戻る前から真似をしてくれていたなんて、と幸せそうな笑みを浮かべているから。
「明日には忘れちまっているかもしれないんだがな、クルトンのことは」
たまたま思い出したっていうだけなんだし、いつまで覚えているやらなあ…。
次にクルトンを食った時には、綺麗サッパリ忘れているってこともあるよな、前の俺のことは。
「うん、ぼくも…」
ハーレイみたいにクルトンに特別な思い出が無い分、ハーレイよりも早く忘れそう。
ママが「クルトンの思い出って、なんだったの?」って訊いてくれても、「なんだっけ?」って言ってそうだよ、明日になったら。
ぼくよりもパパとかママの方がずっと頼りになるかも、クルトンのことは。
今日の間に訊いてくれたら、二人とも、ちゃんと覚えていそうだから…。
前のぼくの思い出、今のぼくのと同じくらい大事にしてくれてるから、パパとママは。
…ぼくが話した思い出は、全部。
ハーレイと恋人同士だってことは話していないよ、と肩を竦めるブルーだけれど。
前のブルーの思い出話のクルトンのことを、ブルーの両親が耳にして覚えてくれるかどうかは、まるで予想がつかないけれど。
もしも、今夜の夕食の席でクルトンの話題が出ずに終わって、ブルーも自分も、それをすっかり忘れたとしても、またいつか思い出すだろう。
結婚して二人で暮らし始めたら、食卓にクルトンも出るだろうから。
スープの皿に入れようとして思い出すとか、入れて貰って思い出すだとか。
「クルトンか…。お前と結婚した後に思い出したら、たっぷりと入れてやらんとな」
今日のスープみたいに、お前の皿に。このくらいだったな、と景気よくな。
「うん、お願い」
ハーレイが入れてくれるんだったら、沢山が好き。前のぼくと同じで多めのがいいよ。
「よし。ついでにシーザーサラダも作るか」
クルトンを沢山作るとなったら、シーザーサラダも是非、作らんとな。
「ハーレイ、得意?」
「うむ。シャングリラには無かったような豪華版だぞ、現にこの前のもそうだった」
海老をドッサリ入れていたんだ、シャングリラに海老はいなかったろうが。
あれは養殖していなかったし、白い鯨になった後には海老の料理は無理だったってな。
海老に限らず、シーザーサラダは色々あるしな、美味いのを作って食わせてやるか。
前の俺には作れなかったヤツを作ってやろう、と約束した。
ふんだんに手に入る地球の食材、それを使ってうんと豪華に、と。
「きっと美味いぞ、地球の食材は何でも美味いんだからな」
そいつを沢山使って作れば、もう最高に美味いシーザーサラダの出来上がりだ。
ポタージュスープもシーザーサラダもクルトンたっぷり、前のお前の大好物を山ほどな。
「いつかやろうね、そういうクルトン一杯の食事」
ハーレイと二人きりで食べられるんだし、前よりもずっと美味しいよ、きっと。
「だろうな、今度はお前と結婚出来るんだしな」
俺たちの家で二人で食べよう、クルトンのことを思い出したら。
前のお前は好きだったよな、と多めにたっぷり入れていたことを今みたいに思い出したらな…。
今日のクルトンは忘れてしまうかもしれないけれど。
自分もブルーも、また忘れるかもしれないけれど。
いつか結婚して二人で暮らし始めたらきっと、忘れてもまた思い出す。
何度忘れても、また思い出して、クルトンを作って、二人で食べて。
そしてポタージュスープとシーザーサラダが揃う食卓が、定番になってゆくのだろう。
何度もクルトンを作っている内に、シャングリラの思い出が刻み込まれて。
子供時代の自分の中にも、前の自分がいたように。
クルトンが沢山入ったスープが好きだった人を、無意識に真似ていたように。
その恋人とまた巡り会って、恋をして、共に生きてゆく。
今度こそ二人離れることなく、この青い地球で、しっかりと手を繋ぎ合って…。
クルトンの記憶・了
※前のブルーが大好きだったクルトン。前のハーレイがブルーにだけ多めに配ったもの。
残念なことに、今のブルーに好みは継がれていませんでしたが…。いつか二人でたっぷりと。
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