忍者ブログ

シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

(ブラウニー…)
 お菓子の記事だ、とブルーが覗き込んだ新聞。学校から帰って、おやつの時間に。
 添えられているお菓子の写真は、チョコレート色の小ぶりなケーキ。今の自分も馴染みのもの。
(おやつ、ブラウニーじゃないけれど…)
 今日のおやつはタルトタタン。甘く煮たリンゴがとても美味しい、母の手作り。
 けれどブラウニーを食べている日もあるから、興味津々。記事の中身に。ブラウニーについて、ちょっぴり詳しくなれるかも、と。
(アメリカのお菓子だったんだ…)
 母が時々作るブラウニーは、遠い昔のアメリカ生まれ。十九世紀には食べられていたのが、今のレシピのようになって世界に広がったという。コーヒーショップなどとセットで。
 人間が地球しか知らなかった時代のアメリカ生まれ、と歴史に思いを馳せたけれども、お菓子の名前。ブラウニーの方が引っ掛かる。
(…アメリカじゃないよ?)
 ブラウニーは妖精の名前じゃないの、とポンと浮かんだ国はイギリス。遥かな昔の地球の島国、貿易などで栄えた大英帝国。其処に昔からいたのが妖精、ブラウニーも妖精だった筈。
 アメリカはもっと歴史が浅いと思ったけれども、妖精も移住したのだろうか。新大陸と呼ばれた時代のアメリカ、新天地を目指した人たちと一緒に船に乗り込んで海を渡って。
(…妖精も一緒に行っちゃったの?)
 でも、アメリカの妖精なんて知らないけれど、と読み進めたら、イギリスも出て来た。アメリカよりも古い時代から、イギリスにあったお菓子だという説。名前の由来は、もちろん妖精。
(昔でも分からなかったんだ…)
 二十世紀の末の段階で既に、謎だったというブラウニー。何処で生まれたか、何処から来たか。とても愛されたお菓子だったのに、謎に包まれていたというから面白い。
(タルトタタンなら…)
 今の時代も、ちゃんと名前が残っているのに。最初に作ったタタン姉妹の名前。お菓子が出来た理由も有名、一番初めは失敗作。引っくり返ったアップルパイから生まれたお菓子。
 作った姉妹の名前ごと知られたお菓子もあるのに、ブラウニーの方はまるで謎。生まれた国も、いつから作られていたのかも。…イギリスの古いお菓子だったか、十九世紀のアメリカなのか。



 二十世紀の末には、もう謎だったブラウニーの生まれ。大勢の人にとても愛されたお菓子でも。今の時代も母が作ってくれるくらいに、人気のお菓子の一つでも。
(きっとイギリス生まれです、って…)
 そう推測して書いている記者。「もちろん作り話ですが」と断って。
 イギリスのスコットランドの伝説、家事が得意なブラウニー。名前の通りに茶色い妖精。人間が留守にしている間や、眠っている間に色々な家事を手伝った。人間の代わりに、懸命に。
 その妖精が作ったお菓子がブラウニー。美味しかったから、人間が教えて貰ったレシピ。そっと手紙を家の隅に置いて。
(ブラウニーに仕事をして貰ったら、御礼に何か…)
 家の隅などに置いたらしくて、それと一緒に「レシピを教えて」とお願いの手紙。ブラウニーはレシピをくれたけれども、家の手伝いをしていることは人間には秘密なのだから…。
 教えて貰った人間の方も、誰にも話さなかったレシピの秘密。「ブラウニー」とだけ、名付けておいて。「分かる人には分かるだろう」と、作って広めた妖精のお菓子。
(うん、その方が面白いよね!)
 アメリカ生まれの謎のお菓子より、断然素敵、と記者のセンスに嬉しくなった。
 きっと妖精も、本当にいると思うから。聖痕を持った自分と生まれ変わりのハーレイ、どちらも神様が起こした奇跡。神様がいるなら、妖精だって何処かに隠れているだろう。今の時代も。
(ホントに妖精のお菓子なのかも…)
 そう思ったら、ブラウニーまで食べたい気持ち。妖精が人間に教えたのかもしれないお菓子。
 明日のおやつにリクエストしてみようかな、と考えながら記事の続きを読み進めたら…。
(…ブラウニーに纏わる悲しいお話?)
 なあに、と少し驚いた。お菓子に悲しいお話なんて、と。
 お菓子なのだし、お姫様か誰かの話だろうか、と続きを読んだらシロエの名前。
(…セキ・レイ・シロエ…?)
 なんで、と瞳を見開いた。前の自分と同じ時代に生きた少年、セキ・レイ・シロエ。今も歴史に名が残るけれど、ブラウニーとは時代が違いすぎる。
 十九世紀には食べられていたお菓子がブラウニー。もしもイギリス生まれだったら、もっと昔に遡る歴史。SD体制の時代とは千年以上も離れてしまって、少しも重なりそうにない。



 どうして此処でシロエの名前が…、と目をパチクリとさせた。「あのシロエだよね?」と。
 前の自分は、深い眠りの底でシロエの声を聞いたから。それと気付かずに、最期の思念を。
(…ブラウニーと、シロエ…)
 まるで関係無さそうだけれど、実はシロエと縁があるらしい。チョコレート色のこのお菓子は。
 シロエの母が得意だったお菓子がブラウニー。子供時代のシロエも好きで食べていた。手作りのそれを、とても喜んで。「ママのブラウニー、大好き!」と。
 SD体制が崩壊した後、シロエの養父母だった夫妻がそれを証言しているけれど…。
(ブラウニーが好きだったことを、シロエが覚えていたかどうかは分かりません、って…)
 そうだったんだ、と悲しい気持ちに包まれた。これがブラウニーに纏わる「悲しいお話」。
 成人検査で子供時代の記憶を消された、機械が支配していた時代。それでも成人検査をパスした子供は、前の自分のように「全てを忘れた」わけではない。ぼやけてはいても残った記憶。
 ただし、何もかも曖昧になる。シロエの場合は、マヌカ多めのシナモンミルクを覚えていたのは確かだという。それも故郷で好んだもの。母に何度も作って貰って。
(前にハーレイが教えてくれた、ホットミルクのシロエ風…)
 風邪の予防にと教えて貰って、今ではホットミルクの定番。母がマヌカを入れて作ってくれる。そのシロエ風のホットミルクが今頃出て来た。新聞記事の中に書かれて。
 それを注文していたシロエの姿を、SD体制が終わった後に思い出した当時の候補生。シロエと同じ時期にステーションに在籍していた一人。
 お蔭でそちらは分かるけれども、ブラウニーの方は分からない。シロエがブラウニーを注文する姿は、誰も覚えていなかったから。…ブラウニーが好きな子だったと知られた後にも、思い出した人はいなかったから。
(覚えていたと思いたいですよね、って書かれても…)
 シロエ…、と胸を締め付けられるよう。SD体制に逆らい続けて、宇宙に散ってしまった少年。それも機械に利用された末に、そうなるようにと追い込まれて。
 マザー・イライザが無から作った生命、キースの資質が開花するよう、計算されたプログラム。その中にシロエは組み込まれたから、ああいう風になってしまった。殺されるために生きただけ。
 ジョミーが彼を救っていたなら、白いシャングリラで生きられたのに。
 成人検査をパスしていたって、マツカのように生き延びられたかもしれないのに。



 前の自分に届いた思念。シロエが最期に紡いだ思い。切なくて、とても悲しかった声。
(ごめんね、シロエ…)
 あの時、宇宙を駆けて行った彼を捕まえることが出来なくて。…前の自分なら出来たのに。深い眠りの底にいたって、気付いていたなら捕まえられた。飛び去ろうとするシロエの思念を。
 捕まえていたら、キースのことも分かった。どういう生まれの人間なのか。それを知ったなら、後に出会った時の流れが変わっていた筈。
(キースに向かって、シロエの名前を出すことだって…)
 出来たわけだし、そうなっていたらキースと話せたかもしれない。もっときちんと向き合って。人質を取って逃げ出す道とは、違う方へと歩ませることも。
 それが出来なかった、前の自分。シロエは誰かに自分の思いを伝えたかったから、思念が船まで届いたのに。…白いシャングリラは、彼の思念が届く所を飛んでいたのに。
(…シロエ、ブラウニーが好きだったんだ…)
 捕まえ損ねてしまったシロエ。彼が伝えたかった思いを、前の自分は聞きそびれた。
 ブラウニーについて書かれた記事の結びは、「食べる時には思い出してあげて下さいね」。SD体制の時代に生きた、独りぼっちのミュウの少年。可哀想だったシロエのことを、と。
 そういうことなら、やっぱりママにブラウニーを頼まなくちゃ、と思ったけれど。ブラウニーを作って貰って、シロエが好んだ味を自分も、と考えたけれど。
(…ちょっと待ってよ?)
 シロエは彼の母が作ったブラウニーがとても好きだった。今の時代まで伝わるほどに。
 けれど成人検査でE-1077に連れてゆかれて、二度と食べられずに死んでしまった。それにシロエがブラウニーのことを覚えていたのか、それさえも謎。
 大好きだった両親の家で、シロエが食べたブラウニー。幼かった頃から好きだったお菓子。母がキッチンで作る姿を、いつも笑顔で見ていたろうか。「もうすぐかな?」と。
 今の自分がそうだから。
 母がお菓子を作る時には、よく覗き込んで待っていた。美味しいお菓子が出来上がるのを。
 アップルパイもタルトタタンも、もちろんブラウニーだって。
 材料を計って、混ぜたり捏ねたり、お菓子が形になってゆくのをワクワクしながら待った自分。きっとシロエもそうだったろう。故郷の家で、両親と暮らしていた頃は。



 今の自分の母も得意なブラウニー。今から頼めば、明日のおやつに作って貰えそうなのだけど。足りない材料があったとしたって、母なら買い物のついでに揃えてしまいそうだけど…。
(ぼくがブラウニー、頼んでもいいの?)
 この記事の中に「食べる時には思い出してあげて下さいね」と書かれた、シロエという少年。
 機械の時代に抗い続けて、育ててくれた養父母のことを忘れまいとして足掻いて、宇宙に散っていったシロエ。…彼が好きだった、母の手作りのブラウニー。
 今の時代の子供だったら、この記事を読んで、無邪気に頼んでいいだろうけれど。ブラウニーをおやつに作って欲しいと、母に強請ってもいいのだけれど。
(…シロエのことを思い出しながら食べたって…)
 普通の子ならば、それはとっても素晴らしいこと。シロエが生きた辛い時代を思って、シロエのことを胸に刻むだろうから。「これがシロエが好きだったお菓子」と。
 そうすればシロエが生きた事実は、その子の中で生き続ける。ブラウニーが好きな子供として。歴史の授業で習う名前より、ずっと確かな存在感。等身大のシロエの姿。
 だから普通の子供ならいい。この記事に惹かれて、ブラウニーを自分の母に頼みに行ったって。
 けれど自分はソルジャー・ブルーで、シロエと同じ時代を生きた。遠く遥かな時の彼方で。
 その上、養父母の記憶を失くしてしまって、今でも思い出せないまま。シロエが憎んだ、過去を奪った成人検査を前の自分も受けたから。…それに過酷な人体実験、白紙になってしまった記憶。
 シロエが味わった悲しみと辛さ、その気持ちはよく分かるのだけれど…。
(でも、ぼくは…)
 またこうやって生きてるんだよ、と見回してみたダイニング。
 青く蘇った地球に生まれて、本物の両親の家で暮らしているのが今の自分。養父母ではなくて、血の繋がった両親と。
 ブラウニーを作って欲しいと頼む相手は、本物の母。お腹で育てて産んでくれた母で、十四歳になった今でも当たり前のように甘え放題。「ママ!」と、おやつを強請ったりして。
(なんだか、シロエに悪いかも…)
 ぼくがブラウニーをママに頼むなんて、という気がしたから、注文しないことにした。さっきは頼みたかったけれども、また今度、と。
 ブラウニーとシロエの話は、おやつに出たら思い出せばいい。母が作ったブラウニーが。



 それが一番、と二階の自分の部屋に帰って、考えた続き。シロエが好きだったブラウニー。
(シロエはブラウニー、食べられなくて…)
 E-1077に行った後には、覚えていたって無理だった。懐かしい母には会えないから。母が作ってくれるブラウニーは、二度と食べられはしなかったから。
 あの時代に生きた子供は、みんなそう。成人検査を終えたら大人の仲間入り。記憶を消されて、大人の社会へ送り込まれた。最初は教育ステーションへと送り出されて、社会に出る準備。
 前の自分も同じように歩む筈だったけれど、ミュウだと判断されたから違う道を辿った。大人の社会へ旅立つ代わりに実験動物、狭い檻の中に閉じ込められて。
 それでも子供時代の記憶は消されて、養父母の家にも帰して貰えるわけがない。前の自分は独りぼっちで放り出されて、心も身体も成長を止めた。
 育っても何もいいことは無いし、未来など見えはしなかったから。微かな希望の光でさえも。
(だけど、ぼく…)
 今は青い地球の上に生まれ変わって、母のお菓子を食べ放題の十四歳。誕生日は三月三十一日、今の学校に上がる前に迎えた。前の自分が生きた時代なら、今頃は教育ステーション。
(パパとママには二度と会えなくて、ママが作るお菓子も、もう無理で…)
 そんな時代に生きた筈の自分が、「十四歳の誕生日を迎えた後」も両親と一緒に暮らしている。成人検査などは無いから、引き離されずに、記憶も消されてしまわずに。
(ぼくは沢山食べられないから…)
 一度に食べる量はともかく、いくらでも母が作るおやつを食べられる。今日はタルトタタンで、明日も学校から帰れば美味しいお菓子が待っている筈。母が作ってくれたお菓子が。
 もちろんブラウニーだって注文できるし、強請らなくてもその内に出て来るだろう。
(ママの御飯も…)
 食べられるのだし、来年も、その先も、結婚しても食べに来られる。この家に来れば、いつでも母が作ってくれて。「はい、どうぞ」とテーブルにお皿を並べてくれて。
 今の自分には当たり前のことで、幸せに生きているけれど。
 「ブラウニーを頼むのは、シロエに悪い気がするから」と母に強請るのをやめて、部屋に戻って来たけれど。…この部屋だって、前の自分が生きた頃なら、もう「いられない」場所。
 十四歳になった子供は、両親の家を離れたから。成人検査の後は家とはお別れだから。



 この部屋だって無くなっちゃうんだ、とゾクリと肩を震わせた。前の自分が生きた時代は、この年ならもう家にはいない。部屋の記憶も薄れただろうか、ミュウと判断されなくても。
(…家に帰りたい、って思う子供は記憶処理で…)
 家を懐かしがる気持ちを消されたのだろう。シロエのように特殊なケースを除いては。シロエは両親と故郷への思慕を、機械に利用されたから。…キースを育ててゆくために。
 今の自分には普通のことが、普通ではなかった前の生。機械が人間を支配していた時代。
 SD体制が敷かれた時代に、十四歳の誕生日を迎えた後にも、母親が作るおやつや御飯を食べていられた子供は…。
(…トォニィたち?)
 自然出産で生まれた子供だったものね、と考えてから「違う」と気付いた。
 血の繋がった「本物の両親」を持っていた子供たちだけれど、トォニィの母のカリナは死んだ。逃亡を図ったキースがトォニィを殺そうとした時、「トォニィは死んだ」と思い込んで。
 仮死状態で生きているとは知らずに、悲しみのあまり起こしたサイオン・バースト。船の仲間を巻き込みながら、カリナの命も燃えてしまった。悲しい爆発を繰り返した末に、灰になって。
 他のナスカの子供たちの親も、メギドの炎で死んだという。子供たちの方は、昏睡状態になった時点でシャングリラへと運ばれたのに。
(…お母さんたちは、ナスカが大切だったから…)
 離れようとせずに命を落として、ナスカの子たちは親を失った。アルテラもツェーレンも、他の子たちも、一人残らず。
 だからSD体制の時代には、一人も生まれて来なかった。十四歳の誕生日を迎えた後にも、母が作るおやつや食事を食べられた「幸せな子供」は。
 今の自分のような子供は、一人も生まれはしなかった。本物の両親の家で育って、十四歳になる誕生日が来ても何も変わらない子供。それまでと同じ日々が続いてゆく子供。
(…シロエのブラウニー、可哀想…)
 成人検査が何かも知らずに、それを受けたのがSD体制の時代の子供たち。記憶を消されるとは思いもしないで、「大人の仲間入りをする日」だと頭から信じたままで。
 トォニィたちは本物の親を亡くしたけれども、幼かった分、悲しみも早く癒えただろう。地球を目指しての戦いの日々もあったわけだし、なおのこと。けれどシロエは…。



 今のぼくと同い年だっけ、と思い浮かべたシロエのこと。キースが船を撃ち落とした時は、もう少し育っていたけれど…。
 E-1077に連れて行かれた時には、シロエは今の自分と同じ十四歳。成人検査を終えたら、直ぐに教育ステーションへと送り出された時代だから。
(もしもシロエが、ブラウニーのことを覚えていたら…)
 どんなに悲しく辛かったろうか、それを食べられないことが。顔さえぼやけてしまった母でも、シロエは忘れはしなかった。その母がとても好きだったことを。…本当に最後の最後まで。
(ぼくがシロエなら…)
 ステーションでは、ブラウニーを頼まないかもしれない。E-1077にあったというカフェ、其処でブラウニーを見付けても。「ブラウニーがある」と目を留めたとしても。
 自分がシロエで、故郷の母が作るブラウニーのことを覚えていたら。
(マヌカ多めのシナモンミルクは…)
 記憶にあるのと同じ味がしたことだろう。シナモン入りのホットミルクならば、何処で頼んでも味はそれほど変わらない。今はともかく、あの時代なら。
(美味しい牛乳が自慢の星とか、そんなのは無かった筈だしね?)
 まして育英都市となったら、条件は同じにしてあった筈。どの星の上にある育英都市でも、違う環境にならないように。特に学校や食べ物などは。
 今の時代なら、牛乳だけでも色々な種類。乳を出す牛の種類で変わるし、育て方や餌でも違いが生まれる。それにシロエが好んだマヌカの蜂蜜は…。
(今だと、種類が山ほどなんだよ)
 ハーレイに「シロエ風のホットミルク」を教わって、母に頼んだ時。「はい」と渡されたホットミルクは薬っぽい味で、とても困った。好き嫌いの無い自分だけれども、薬は苦手。
 それでハーレイに苦情を述べたら、「違うマヌカを買って貰え」という助言。癖のあるマヌカも多いけれども、そうでないものも多いから。「試食して選んで貰うといい」と。
 お蔭で今は薬っぽくない、母が作ってくれるシロエ風のホットミルクの味。今はマヌカも色々な味で、「マヌカ多めのシナモンミルク」の味も幾つもありそうだけれど。
 シロエの頃には、きっと一つしか無かった種類。牛乳もマヌカも頼む場所で味が変わるくらいに種類は無かった筈だから。せいぜい熱いか温いかの違い、その程度だと思うから。



 きっとシロエも感じなかった筈の違和感。E-1077で、故郷の家で好んだものを頼んでも。
 「シナモンミルク、マヌカ多めで」と注文したら、同じ味のを飲めただろう。いつも一人だったらしいカフェのテーブル、其処でカップを傾けたら。
(…シナモンミルクは、記憶の中のと同じ味でも…)
 問題はブラウニーの方。見た目はそっくり同じものでも、そちらは味に違いが出そう。シロエの母が作っていたなら、作り手の味になる筈だから。
(材料もレシピも、シロエのお母さんが工夫していそうだし…)
 得意なお菓子だったというなら、レシピにもきっと一工夫。お菓子作りの腕の見せ所。レシピに工夫が無かったとしても、作り手の癖が出るのがお菓子。
(ママのパウンドケーキと同じで…)
 シロエのお母さんだけの魔法があるよ、と今の自分だから確信できる。調理実習くらいしか経験していないけれど、魔法があるのがお菓子作りの世界。
 今の自分の母が焼いてくれるパウンドケーキは、今のハーレイの「おふくろの味」。ハーレイの母が隣町の家で焼いているのと全く同じ味だという。
(だからハーレイの大好物で…)
 母も知っているから、出番が多いパウンドケーキ。ハーレイが訪ねて来る週末には。
 材料はとても単純なのに。卵と砂糖と小麦粉とバター、それをそれぞれ一ポンドずつ。そういうレシピが基本のケーキで、料理が得意な今のハーレイも何度も挑戦したらしいけれど…。
(どう頑張っても、お母さんの味にはならないんだ、って…)
 ハーレイから何度も聞いたお蔭で、お菓子の魔法を知ることになった。同じレシピで同じように焼いても、違う味になるパウンドケーキ。他のお菓子も理屈はきっと同じ筈。
 シロエの母が得意だったブラウニーだって、魔法がかけてあっただろう。シロエの舌が美味しく感じる魔法。「ママのブラウニーだ」と、食べた途端に分かる魔法が。
(E-1077でブラウニーを見掛けて、頼んでみても…)
 それが母のと違う味なら、シロエはとてもガッカリしたことだろう。「ママの味じゃない」と。
 そんな悲しい思いをしたなら、自分なら二度と頼まない。違う味がするブラウニーなど、偽物で全く違う食べ物。食べたら気分が沈むだけだし、頼もうとも思わないだろう。
 母が作ったブラウニーの味は、E-1077には無いのだから。違う味しかしないのだから。



 ぼくならそうする、と思うブラウニー。今の自分がシロエだったら、E-1077にいたら。
 懐かしい故郷で母が何度も作ってくれた、ブラウニーが其処に無いのなら。
(ブラウニーは二度と頼まないから、誰もなんにも知らないまま…)
 それがシロエの好物だとは。シロエの母の得意なお菓子で、シロエも大好きだったとは。
 シナモンミルクは「シロエが注文していた」ことを思い出した人がいたらしいけれど、一度しか頼まなかったブラウニーなら誰の記憶にも残らない。
 記憶処理などしなくても。マザー・イライザが何もしなくても、覚える理由が無いのだから。
(何度も注文してるんだったら、印象に残りもするけれど…)
 好物らしい、と考える人も出てくるけれども、一度きりなら傍目には単なる気まぐれ。たまたま気付いて注文しただけ、それだけのことに過ぎないから。
(今のぼくだって、友達が食堂で頼んでる料理…)
 端から全部を覚えてはいない。今日のお昼にランチ仲間が何を食べていたか、それさえも記憶を探らなければならないほど。楽しいお喋りの方に夢中で、トレイの上はろくに見ていないから。
 今の自分でもそうなのだから、E-1077にいた候補生たちも似たようなもの。
(シロエがブラウニーを頼んでいたって、一度きりなら…)
 それを目にした翌日にはもう、すっかり忘れていただろう。その日の夜でも怪しいくらい。誰が自分の前にいたのか、注文の時の順番でさえも人によっては忘れそうだから。
(…そんな感じで、誰も覚えていないってだけで…)
 きっとシロエはブラウニーのことを覚えていたよ、と考えていたら、チャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、ぶつけた質問。
「あのね、シロエはブラウニーのこと、覚えていたと思わない?」
「はあ?」
 シロエって…。それはセキ・レイ・シロエか、あのシロエなのか?
 いきなりどうした、俺にはサッパリ分からないんだが…。
 なにしろ此処に着いたばかりで…、とハーレイが軽く広げた両手。「座ったトコだぞ?」と。
 「さっきまで車を運転してたし、最新のニュースは知らないんだが」とも。
 セキ・レイ・シロエに関する大発見が何かあったのか、と訊かれたものだから…。



 失敗だった、と反省した自分の尋ね方。今の訊き方では、勘違いされても仕方ない。SD体制の時代を研究している誰かが、シロエについての新説を発表したかのように。
「…ごめん、ハーレイは知らなかった?」
 ぼくの言い方が悪かったよね…。新発見でもなんでもなくって、知ってる人は知ってる話。
 シロエはセキ・レイ・シロエだけれども、好きで調べている人たちだったら常識なのかも…。
 でもハーレイは知らないのかな、と繰り返した。さっきブラウニーの名前を口にしたのだから、知っているなら何か反応がありそうなもの。ブラウニーが好きだったシロエのことを。
「知らないって…。何をだ?」
 お前の質問、最初のと変わっているんだが…。シロエを覚えているか、という風に聞こえたぞ。
 そいつが今度は「知らないのか」でだ、ますます話が見えないんだが…?
 最初のをもう一度言ってくれ、とハーレイに注文をつけられた。「何の準備も無かったしな」と苦笑しながら。「いくら俺でも、謎の質問には咄嗟に反応できん」と。
 それが柔道の技だったのなら、身体が勝手に動くらしいのだけど。思ってもみない技をいきなり繰り出された時も、瞬時に自分の取るべき動きを決められてこそ、と笑っているけれど。
「…ぼくは柔道なんか無理だよ、ハーレイに技はかけられないよ」
 それに、やっても負けちゃうんでしょ。今のハーレイの話し方だと、ぼくの負け。…ハーレイに敵うわけがないもの、プロの選手になれるような腕じゃないんだから。
 えっとね、ぼくが質問したのは、シロエとブラウニーのこと…。
 今日の新聞に載ってたんだよ、ブラウニーの記事にシロエの名前が。お菓子の話と一緒にね。
 シロエはブラウニーがとても好きだったんだって…。子供の頃は。
 お母さんが作るブラウニーが大好きだったんだけれど、覚えていたかどうかは謎なんだって…。
 成人検査を受けた後にもブラウニーのことを覚えていたのか、それが謎。
 マヌカ多めのシナモンミルクは覚えていた、って証言した人がいるらしいけれど、ブラウニーは誰も覚えていなくって…。シロエが注文していたかどうか。ステーションにあったカフェでね。
 今のハーレイ、シロエ風のホットミルクのことは知っていたから…。
「ああ、あれなあ…。お前に教えてやったヤツだな、マヌカ多めのシナモンミルク」
 そういや、ブラウニーの話も聞いてたか…。前に何処かで。
 聞いたんじゃなくて、本か何かで目にしたのかもしれないが。俺は色々読むもんだから。



 料理の本ってこともあるな、と言うハーレイは、料理や菓子に関する本も読むらしい。レシピが書かれた本はもちろん、歴史やエッセイなどの類も。
「その手の本なら、シロエの話が載っていたって不思議じゃないな。…ブラウニーのトコに」
 何処で知ったのかは覚えちゃいないが、シロエとブラウニーのことなら俺も知ってる。
 それでだ、お前は何を言いたいんだ?
 ブラウニーの話には違いなさそうだが…、と逆にハーレイに問い掛けられた。ブラウニーの話とシロエの話を、どういう具合に繋げたいのかと。今も分かっている事実の他に。
「…新聞には謎だって書かれてたけど…。証言した人は誰もいなかったけれど…」
 ぼくね、シロエは覚えていたと思うんだよ。お母さんが作るブラウニーが大好きだったこと。
 E-1077でも、きっと注文したんだと思う。ブラウニーを忘れていなかったから。
 だけど、ステーションのカフェで出て来たブラウニーの味は、お母さんの味と違ったから…。
 シロエが好きだった味じゃなかったから、悲しくて、二度と頼まないまま。
 きっとそうだよ、ステーションのブラウニーは、おふくろの味じゃなかったんだもの。シロエのお母さんが作る味とは違う味がするブラウニー。
 ぼくがシロエなら、そんなの二度と注文しないよ。あんなのブラウニーじゃない、って。
 ハーレイがよく言っているでしょ、と母のパウンドケーキを挙げて話した。今のハーレイは母が焼くパウンドケーキが好きだけれども、それは「おふくろの味」だから。
 シロエの母は本物の母ではなかったとはいえ、あの時代ならば立派に「おふくろ」。おふくろの味を覚えていたなら、両親のことが好きだったシロエは、偽物を食べはしないだろう、と。
「なるほどなあ…。おふくろの味のブラウニーか…」
 シロエがステーションでブラウニーを食っていなかったのは、忘れたからではないんだな?
 きちんと記憶は残っていたというわけか。…エネルゲイアの家で食ってたブラウニーのこと。
 此処にもあるのか、と頼んでみたら、違う味のが出たもんだから…。
 「これは嫌だ」と二度と注文しなかった、というのが事の真相だってか。
 あの時代を生きて、今を生きてるお前ならではの推理だな。
 …それで合ってるかもしれん。俺がシロエでも、同じことになっていただろう。
 前の俺には、子供時代の記憶は全く無かったんだが…。幾らかは持ってステーションってトコに行っていたなら、おふくろの味と違う味がするブラウニーなんぞは御免だな。



 二度と頼みやしないだろう、とハーレイも同じ意見になった。シロエは母のブラウニーを忘れてなどはいなくて、逆に覚えていたかもしれない、と。
「…シロエだったら、充分、有り得る。ピーターパンの本を持ってたくらいだからな」
 あんな時代に、子供時代の宝物を持ってステーションに行こうってほどだから…。
 育った家も、両親も、故郷のエネルゲイアも、何もかもが大切だったんだろう。
 成人検査で記憶を消されちまった分、忘れなかったことには強く執着したんだろうし…。
 ブラウニーが好きだったことを覚えていたなら、それはシロエの宝物だ。おふくろの味を覚えていたわけだからな。…ブラウニーの味はこうだった、と。
 覚えていたなら、偽物なんかを食うわけがない。ガッカリするのも理由の内だが、ブラウニーの味を忘れないためには「食わない」ことだ。偽物の方を。
 本物を二度と食えない以上は、その味を忘れないためにもな。偽物に慣れたら忘れちまうから。
 いつか本物の味に出会った時に分からなくなる、とハーレイが語ったシロエの気持ち。何処かで懐かしい味に出会えるかもしれない、と心の底に仕舞い込んだ母のブラウニーの味。
「そうだったのかも…。凄いね、ハーレイ」
 ぼくだと、其処まで考え付かなかったよ。偽物だから食べたくない、って所までで。
 偽物の味に慣れてしまったら、本物の味を忘れちゃうんだ…。こういう味だ、って思い込んで。
「俺は料理をするからなあ…。ついでに、お前より長く生きてる」
 前の俺に比べりゃ、何の苦労もしてないが…。その分、経験を積んでるんだな、人生の。
 俺がおふくろの味を忘れないのは、今でも何度も食ってるからだ。隣町まで出掛けて行ったら、おふくろの料理もパウンドケーキも、好きなだけ食える。
 お蔭で舌も忘れやしないし、安心して他所で色々と食っていられるんだが…。
 二度と食えないってことになったら、俺だって封印するだろう。これだけは、と思う大切な味を忘れないように。…そっくり同じ味じゃないなら、其処では食わないといった具合に。
 シロエもきっと、覚えていたならそうするだろう、と鳶色の瞳が見ている遠い時の彼方。遥かに流れ去った時間を、ハーレイの目が捉えている。「酷い時代だった」と。
 今のハーレイよりもずっと年下の、今の時代なら子供のシロエ。
 そんなシロエに「ブラウニーは食べない」と決意させるほど、あの時代は残酷だったのかと。
 まだ母親が恋しいような年頃の子でも、大人の仲間入りをさせられる時代だったとは、と。



「本当に惨い話だな…。前の俺たちも酷い目に遭ったが、シロエも悲しい目に遭ったなら」
 キースに殺された件はともかく、ブラウニーの話がお前の推測通りだったら可哀想すぎる。
 一度だけしか食ってないなら、誰も覚えていないだろうし…。
 そうでなくてもマザー・イライザの記憶処理のせいで、皆の記憶が消されていたんだからな。
 ブラウニーのことを覚えていたのに、食わずに過ごしていたんなら…。
 今のお前と変わらない年で、そんな悲しい決心をしていたんだったら、可哀想だ。
 いくら時代がそうだったとはいえ、シロエみたいに機械に逆らう子供じゃなければ、もっと楽に生きられたんだから。忘れちまったことは、忘れたままで。
 忘れたことさえ気にしないでな…、とハーレイが指摘する通り。前の自分たちが生きた時代は、そうだった。成人検査に疑いを持つ人類などはいなかったから。…誰一人として。
 シロエはミュウ因子を持つ子供だったから、人類とは違っていた気質。家族や過去を忘れまいと生きて、それでも忘れさせられていって、苦しみもがいていた人生。
 ピーターパンの本と一緒に、練習艇で逃げるまで。キースの船に撃墜されて、短かったその生を終えた時まで。
「…シロエがブラウニーを食べてたかどうかは、もう分からないの?」
 E-1077で注文したのか、しなかったのか。…一度だけ頼んで、それっきりとか…。
 ステーションに連れて行かれて直ぐに、一度頼んでいるんなら…。
 その後は二度と頼んでないなら、ぼくたちの考え、きっと正解なんだけど…。ブラウニーの味を覚えていたから、食べずにいたんだろうけれど…。
 そういうデータは調べられないの、と尋ねてみた。前の自分たちが生きた時代のデータは、今も豊富に残っている。前の自分の写真集まで編まれるくらいに、ふんだんに。
 だからシロエのステーション時代の注文だって…、と考えたのだけれど。
「残念なことに、そいつは無理だな。E-1077はキースの野郎が処分したから」
 マザー・イライザもろとも惑星の大気圏に落とされちまって、バラバラに壊れて燃えちまった。
 そのせいで、そういう細かいデータは一切残らなかったんだ。
 キースの野郎を作った実験、そいつの方なら、他の方面から復元可能だったんだがな。
「…そっか……」
 分からないんだね、シロエの注文。…ブラウニーを頼んでいたのかどうか。



 シロエ…、と俯いてしまった顔。ブラウニーが好きだったことを覚えていたのか、今はそれさえ掴めないシロエ。こうして二人で推理してみても、裏付けが得られないなんて。
 母が作るブラウニーが大好きだったシロエは、もういない。ブラウニーのことを成人検査の後も覚えていたのかどうかも、謎だとされている少年。
 前の自分は、シロエを捕まえ損なった。深い眠りの底で出会った一瞬、白いシャングリラの側をシロエは駆けて行ったのに。…悲しいほどに切ない思念に、前の自分は触れたのに。
(…前のぼくはシロエを捕まえ損なっちゃって…)
 彼の思いを聞けないままで、シロエは宇宙に消えて行った。自分が捕まえなかったから。
 それから長い時が流れて、今の幸せな自分がいる。シロエは幸せになれないままで、暗い宇宙に散ったのに。大好きだったブラウニーさえ、二度と食べられはしなかったのに…。
「おいおい、しょげるな。シロエのことなら心配は要らん」
 前にも言ったが、シロエはきっと幸せだったさ。籠から逃げて、自由に飛んで行けたんだから。
 あんな時代に生まれちまったら、あれでもハッピーエンドの内だ。
 二度と機械に追われはしなくて、何処までも自由に飛べたんだからな。…広い宇宙を。
 人間はもう懲りていたって、今の時代なら「また人間も良さそうだ」と思いもするだろう。
 機械の時代はとうの昔に終わって、人間はみんなミュウなんだから。うんと平和な世界でな。
 とっくに青い地球に生まれて、ブラウニーを食っていたかもしれないぞ。
 本物のお母さんが作ってくれる美味しいブラウニーをな…、とハーレイが言うものだから。
「ホント?」
 シロエも青い地球に来られて、またブラウニーを食べられたかな?
 今度は本物のお母さんのを、と瞬かせた瞳。それならとても幸せだから。シロエには前の記憶が無くても、きっと幸せだろうから。
「うむ。俺たちは「前と同じに育つ身体がいい」と我儘を言ったお蔭で今になったが…」
 そんな贅沢を言わなかったら、シロエはとっくに地球に来てだな…。
「鳥になって様子を眺めた後には、人間になった?」
 今はどういう世界なのかを、ちゃんと自分の目で確かめて。
 人間になっても良さそうだよね、って思って人間に生まれたのかな…?
 シロエだった頃の記憶は無くなっちゃっても、本物のお母さんに育てて貰える幸せな子供に…。



 お母さんにブラウニーも作って貰ったかな、と目をやった窓の向こう側。
 この地球の上に、シロエも生まれて来たのならいい。悲しすぎた前の生は忘れて、今度は本物の両親の家で育って、幸せに生きて。
「そうじゃないかと思うがな?」
 いつまでも人間はもう御免だなんて、思い続けやしないだろう。機械の時代が終わったら。
 また人間にならなきゃ損だぞ、シロエだった頃の記憶は消えてしまうにしたってな。
 今の平和な地球を見てれば、意地を張ってはいられないさ、というのがハーレイの読み。空から観察している間に、舞い降りたくもなるだろうと。…また生きてみようと、人間の中に。
「そうだといいな…。ブラウニーを見たら、悲しくなるのは嫌だから」
 シロエのことは忘れちゃ駄目だし、きちんと覚えていたいけど…。
 ママがブラウニーを焼いてくれる度に、悲しくなるのも辛いもの。ぼくだけ幸せになっちゃっていいの、って何度も何度も考えるのは…。
「シロエもそんなのは、きっと望んじゃいないだろう。幸せに生きたかったんだから」
 あんな時代に生まれなかったら、お父さんとお母さんの側で、ずっと暮らしたかったんだ。
 それがシロエの夢だったんだし、そういう風に暮らしている子供には幸せでいて欲しいだろう。
 お前もブラウニー、お母さんに頼んでみるといい。…お母さん、ブラウニーも得意だしな?
 今のお前は幸せに生まれて来たんだから、と優しい言葉をくれたハーレイ。
 母にブラウニーを頼もうとしてやめたことなど、ハーレイには話していないのに。シロエに悪いような気がして、ブラウニーを注文しなかったことは。
(…でも、ハーレイもママに頼むといい、って言ってくれたし…)
 ブラウニーの話を二人でしていたのだから、土曜日のおやつにと母に頼んでみようか。
 土曜日はハーレイが来てくれる日だし、シロエの思い出のブラウニー。
 新聞の記事にも、「食べる時には思い出してあげて下さいね」と書かれていたブラウニー。
 それも素敵だから、ハーレイが好きなパウンドケーキと秤にかけて考える。
 「どっちをママに頼もうかな?」と。
 ブラウニーはシロエの「おふくろの味」で、パウンドケーキは今のハーレイのそれ。おふくろの味のお菓子が二つで、二種類。どちらを母に頼むのがいいか、とても幸せな悩み事。
 うんと欲張りに両方もいいねと、今は本物のママのお菓子を十四歳でも食べられるから、と…。



              ブラウニー・了


※幼い頃にシロエが好きだったブラウニー。けれど、成人検査の後も覚えていたかは謎。
 でも、きっとシロエは「覚えていた」に違いありません。違う味のは、注文しなかっただけ。
 ←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













PR
(お父さんとお母さんに、感謝しましょう…)
 ふうん、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 子供向けの記事で、教訓も兼ねた、ちょっとしたコラム。歴史なんかも絡めてみて。
(ずっと昔は…)
 お父さんもお母さんもいませんでした、と書いてある。誰も持たなかった、血が繋がった本物の両親。温かい家庭を与えてくれる、優しい人たち。
 SD体制が敷かれた時代は、その両親はいなかった。養父母が育てていたというだけで、一緒に暮らせる期間も限られていた時代。十四歳になったらお別れ、二度と会うことは出来なかった。
 それが今では本物の両親、いつでも側にいてくれるのだし、感謝の心を忘れずに。
 両親と暮らせる家があることにも、毎日、食事が出来ることにも。
(当たり前だよね…)
 感謝の心を持つということ。こうして記事にされなくても。学校の先生に言われなくても。
 幼い頃から感謝していた、今の自分の優しい両親。他の子供より、ずっと弱くて手がかかる子を育ててくれた。すぐ熱を出して、色々な予定が狂っても。両親まで出掛けられなくなっても。
(旅行に行っても、ホテルでぼくの世話ばっかりとか…)
 遊びに出掛けた先で「疲れちゃった…」と動けなくなって、大慌てて帰ってくるだとか。両親にかけた迷惑の数は、覚えているだけでも数え切れないほど。他にもきっと山のよう。
 それでも困った顔もしないで、笑顔で接してくれた両親。息子が不安にならないようにと、手をしっかりと握ってくれたりもして。
 だから大好きだった両親。どんな時でも幸せだったし、感謝で一杯。「ありがとう」と言いたい気持ちで一杯、熱が下がらなくてベッドにいても。
 子供心に、いつも持っていた感謝の気持ち。「ぼくが幸せなのは、パパとママのお蔭」と。



 ごくごく自然に心に生まれた、両親への感謝。あまり口にはしていないけれど。
 昔みたいに幼くはないし、「パパ、ママ、大好き!」と抱き付くのは少し気恥ずかしいから。
(だけど、前のぼくの記憶が戻っちゃったら…)
 前よりも一層、両親に感謝するようになった。両親がいてくれるという幸せに。前の自分は子供時代の記憶をすっかり失くしたけれども、あの時代ならば、記事にある通り。
 子供は人工子宮から生まれて、親は養父母。機械が選んで「この家の子に」と渡した時代。愛を注いいで育ててくれても、十四歳になったらお別れ。成人検査で引き離されて。
(前のぼくみたいに、全部忘れてしまわなくても…)
 薄れたという養父母の記憶。自分が育った家のことさえ、機械に消されて曖昧だった。
 けれど今では、十四歳でも義務教育の期間中。両親の家で暮らすのが普通。SD体制の頃の教育ステーション時代を引き継いだらしい、四年間を今の学校で過ごす。義務教育だから。
 その間も育ててくれる両親、お別れの時は来はしない。上の学校に行っても同じで、家から遠い学校でなければ、そのまま家から通い続ける。一人暮らしをしてみたい子は別だけれども。
(ぼくはお嫁に行くんだけれど…)
 上の学校に通う代わりに、ハーレイの家へお嫁に行く。まだ両親には話していないのだけれど。チビの自分が言い出したならば、厄介なことになりそうだから。
 それでも心に決めていること。結婚できる十八歳になったら、進学しないでお嫁さん。
 その道を選んで家を離れても、両親は今と全く同じに自分を愛してくれるのだろう。お嫁に行く日も、朝から二人であれこれと気を配ってくれて。体調はどうか、疲れてしまいはしないかと。
 結婚式の会場にだって、両親と一緒に出掛けてゆく。ドキドキと胸を弾ませながら。
(お嫁に行っちゃった後も、この家に呼んでくれたりして…)
 可愛がってくれそうなのが両親。ハーレイも一緒に家で食事だとか、色々と。ハーレイが仕事で留守になるなら、その間も家に呼んでくれそう。お互いの家は、それほど離れていないのだから。
(何ブロックも離れていたって、バスに乗ったら来られるものね?)
 一人で来たら、母が迎えてくれるのだろう。お昼御飯や、美味しいおやつを用意して。
 きっといつまでも、両親と一緒。結婚して家を離れても。…この家の子ではなくなっても。
 優しくて温かい父と母には、ずっと感謝の気持ちで心が一杯の筈。同じ屋根の下で暮らす時代が終わった後にも、ハーレイの家で暮らし始めても。



 そうだよね、と胸にじんわり温かな思い。今の自分の両親のこと。
(言われなくても、感謝だから…)
 ぼくは普通の子よりも感謝、と新聞を閉じて、戻った二階の自分の部屋。キッチンの母に、空のカップやお皿を返して。「御馳走様」と。その言葉にも感謝が一杯。
(ケーキはママが焼いてくれたし、紅茶も淹れてくれたんだから…)
 感謝をこめて「御馳走様」で、今日はいつもより感謝が沢山。さっきの新聞記事のお蔭で。母に伝えていないというだけ、やっぱりちょっぴり恥ずかしいから。
 前の自分の記憶がある分、有難く思う両親のこと。いてくれることと、引き離されずに、ずっと一緒にいられること。別々の家で暮らし始めても、いつでも会えるのが今の両親。
(それにママだって、本物のママ…)
 今の自分をお腹で育てて産んでくれたし、それを考えただけで幸せ。人工子宮で育って生まれた前の自分よりも、遥かにずっと。
 生まれる前から、母のお腹にいた自分。温かな羊水の中に浮かんで、色々な夢を見たのだろう。胎児が見る夢は謎だけれども、きっと暖かくて幸せな夢。いつだって母と一緒だから。
(人工子宮なんかは、機械だから…)
 母のお腹とは全く違う。冷たい機械と繋がっている、ガラスケースのようなもの。そんな中では夢を見たって、幸せかどうか分からない。母の代わりに機械に繋がり、命を繋いでいたのだから。
(見る夢の中身、違うのかもね…)
 同じ人間の胎児でも。母の胎内で育つ子供と、人工子宮で育つ子とでは。
 そういう研究は無かったけれども、トォニィはきっと、誇らしかったことだろう。赤いナスカで皆に祝福されてその生を享けた、SD体制始まって以来の初めての自然出産児。
 カリナのお腹の中で育って、父のユウイもいたのだから。血の繋がった両親が。
 ミュウの世界に成人検査は無かったけれども、それまでは無かった「親」というもの。ミュウと判断され、処分される所を救われた子たちは養育部門の者が育てた。皆、平等に。
 誰もに公平に注がれた愛情、それは本物の親とは違う。いくら「別れ」が来なくても。十四歳を迎えた後にも、白いシャングリラで共に暮らしてゆけるにしても。
 養父母さえもいなかった世界に、現れた本物の父と母。トォニィの両親。その後に赤いナスカで生まれた子たちも、皆、両親を持っていた。人工子宮など知りもしないで。



 あの子供たちこそが本物の子供。SD体制の時代の最後に、母親のお腹から生まれた子たち。
 機械は全く関与しないで自然に生まれて来たんだから、と思った所で、心を掠めていったもの。本物の子供だった彼らとは逆に、機械が作った生命のこと。
(フィシスと、キース…)
 前の自分は、どちらにも会った。フィシスは前の自分が白いシャングリラに迎え入れた少女で、キースはミュウを滅ぼすために来た者。
 まるで違うように見えるけれども、二人とも生まれは全く同じ。機械が無から作った生命。幼い頃に前の自分が攫ったフィシスも、メンバーズとしてナスカに来たキースも。
(マザー・システムが、やってた実験…)
 人類の理想的な指導者、それを自ら作り出そうと。優れた者を作るためには、優れた因子を探し出すより、優れた因子を作った方が効率がいい、と考えたのがマザー・システム。
 三十億もの塩基対を繋ぎ、DNAという鎖を紡ぐ。そうすれば「ヒト」が出来上がるから。より優れた者を作りたければ、そのように「作れば」いいのだから。
 神の領域に踏み込んだ機械。無から生命を、ヒトを作って育てればいいと。
 そして作られたフィシスとキース。「生まれた」者はあの二人だけ。他は途中で処分されたか、何処まで育つか調べた末に標本にしたか。どれも「外では」生きていない。
 彼らを育てた強化ガラスの水槽の外では、一瞬さえも。生まれた場所も、死んでいった場所も、同じガラスの「ゆりかご」の中。人工羊水の中に漂い、其処で繋いでいた命。
 フィシスは成功例として「外」の世界に出されたものの、実は失敗作だった。盲目だったのとは無関係に。…視力が無くとも、優れた者ならいるのだから。
(それで水槽の外に出したけど…)
 研究者たちは直ぐに気付いた。フィシスが「ミュウ」であることに。彼らが全く知らない間に、前の自分がサイオンを与えてミュウにしたフィシス。
(ミュウは抹殺しなきゃ駄目だから…)
 フィシスは失敗作と判断されて、処分が決まった。とはいえ、それは事故のようなもの。
 ミュウでさえなければ、フィシスは優れた指導者になった筈だ、と考えた機械。それを踏まえて次の人間を作ろうと。フィシスの遺伝子データをベースに、新しい命を無から作り出そうと。
 そうやって作り出されたキース。実験の場を宇宙に移して、E-1077の奥深くで。



 機械が無から作った二人。対とも、親子とも言えたフィシスとキース。彼らを作ったDNAには同じ要素があったから。…キースはフィシスを元にして作り出されたから。
 そのキースは後に自分の生まれを知ったけれども、フィシスの場合は…。
(誰も教えなかったから…)
 知らないままで生き続けた。白いシャングリラで、青い地球を抱くミュウの女神として。
 前の自分は攫う時にフィシスの記憶を消したし、船の仲間にも語らなかった。フィシスが無から作られたことも、本来はミュウではなかったことも。
 船の仲間を欺いてまでも、欲しいと思ったフィシスの地球。機械がフィシスに与えた映像。青い地球に向かう旅の記憶は、前の自分を魅了したから。
 悩み、迷って、ハーレイにだけ打ち明けた。地球を抱く少女に魅せられたことと、その正体を。
 ハーレイが「船に迎えればいい」と言ってくれたから、連れて来たフィシス。サイオンを与えてミュウにした後、処分される彼女を救うふりをして。
(本当は、ぼくのせいだったのにね…)
 フィシスが失敗作になってしまったのも、処分される運命だったのも。…前の自分がフィシスをミュウにしなかったならば、人類の指導者としての道を歩んだ筈なのだから。
 けれどフィシスは知らなかったし、ユニバーサルでの記憶も消した。船の仲間も知らない真実、本当のことは前のハーレイが知っていただけ。
(フィシス、自分でもみんなと全く同じつもりで…)
 生まれについては、疑いさえもしなかったろう。前の自分が教えた嘘を信じて。
 ユニバーサルで生まれたミュウとは言っても、人工子宮から生まれたのだと。普通の人間と全く同じに、ガラスケースで育ったと。…人工羊水の中で胎児として。
(胎児より、ずっと大きくなるまで水槽の中に浮かんでたのに…)
 そうとは知らずに育ったフィシス。白いシャングリラに来る少し前まで、水槽の中にいたなどと誰が思うだろう…?
 だからフィシスは素直に信じた。前の自分が話した嘘を。
 本当だったら養父母の許で育つ所を、何かの都合でユニバーサルで生まれて育ったのだと。
 けれど途中でミュウだと分かって、悲しい過去を背負ったのだと。幼い少女が持ち続けるには、あまりにも悲しすぎる過去。それで記憶を消されたのだと、自分もそれを望んだのだと。



 フィシスが信じ続けた過去は、偽物の過去。本物の過去は前の自分が消した。
 本当のことが船の仲間に知られないよう、跡形もなく。…フィシスが本物のミュウになるよう、あの船で生きてゆけるよう。
(…そのせいで、何も知らないままで…)
 その過去を消した前の自分がいなくなるまで、フィシスは夢にも思わなかった。自分の生まれが他の人間とは、まるで全く違うことなど。…無から作られた生命だとは、知らずに生きた。
(前のぼくがメギドで死んでしまって…)
 薄れ始めたフィシスのサイオン。それを与えた者が消えたら、新しく分けては貰えないから。
 フィシスは予知能力を失くして、どれほど心細かったろう。どんなに途惑っていたことだろう。其処に追い打ちをかけたトォニィ。「あのメンバーズと同じ匂いがする」と指摘して。
(…フィシス、後になって…)
 SD体制が倒れ、地球が燃え上がった後で、自分は誰かを皆に語った。
 白いシャングリラで地球を離れた仲間たち。生き残ったミュウの仲間たちを前に、涙ながらに。
 ずっと長い間、船の仲間を騙していたと。自分は本当は人でさえもないと、機械が無から作った生命だったと。…それがミュウのふりをしていただけ。ソルジャー・ブルーから貰ったサイオン、それを使っていただけなのだと。
 誰もフィシスを責めなかったけれど、逆に慰めたと伝わるけれど。
(其処までのことは、調べたら分かることなんだけど…)
 その後のフィシスがどう生きたかも。カナリヤの子たちを立派に育てて、幼稚園を作って回ったフィシス。今の時代は「フィシス先生」、幼稚園に行けば真っ白な像があるほど。
 今の自分も幼い頃には、フィシス先生の像が好きだった。膝の上に登って、ウサギの小屋などを眺めるのが。小屋の前が混んで近付けなければ、其処が空くまでフィシス先生の膝の上。
 フィシスは幸せに生きたけれども、そうなるまでのフィシス。
 船の仲間たちに全てを打ち明け、「本当の自分」を受け入れて貰える日が来るまでのフィシス。
(辛かったよね…)
 それにどんなにショックだったことか、自分の生まれに気付いた時は。
 ユニバーサルで生まれたミュウだというのは、嘘なのだと。本当は無から作られたもので、他の仲間とも、人類とも違う存在なのだと知った時には。



 フィシスがどうして真実を知ったか、それは今でも分からない。少なくともチビの自分には。
(…フィシス先生のことで、ちょっぴり調べただけだから…)
 調べ方が足りないだけかもしれないけれども、謎のままだということもある。フィシスには辛い話なのだし、他の者たちも無理に尋ねはしなかったろう。
 自分が誰かを明かしたフィシスを、仲間たちは許したのだから。…改めてミュウの船に迎えて、一緒に旅をしていたのだから。
 フィシスを仲間と認めたのなら、きっとそれ以上は尋ねない。トォニィだって、もう酷いことを言いはしなかったろう。ソルジャーの称号を継いだ以上は、船の仲間を気遣うもの。
 たとえフィシスがナスカの悲劇の原因の一つだったとしても。…その上、ミュウではなかったとしても、白いシャングリラの仲間には違いないのだから。
 そういう風に暮らしていたなら、フィシスは誰にも話さずにいたのかもしれない。本当のことに気付いた理由も、その時に受けた衝撃のことも。
(…キースが来たから、薄々、変だと思い始めて…)
 前の自分も詳しいことは知らないけれども、フィシスはキースに惹き付けられた。同じ生まれの人間のせいか、あるいは符号を感じ取ったか。
 ジョミーたちがキースを調べていた時、フィシスのそれと全く同じ地球を見たから。フィシスがその身に抱く青い地球、其処への旅と同じ映像を皆が目にしたから。
(…そんなのがキースの中にあったら、気になるよね…)
 キースはいったい何者なのか、どうして同じ映像なのかと。…あの映像は何か、フィシスは全く知らなかったのだから。機械が無から作る生命、それに共通の映像だなんて。
(…前のぼくだって知らなかったけどね、キースに継がれていたなんて…)
 それにキースが作られたことも。…フィシスが失敗作になった後にも、あの実験が宇宙に移って続けられていたということも。
 だからフィシスも何も知らずに、近付いてしまったキースの牢獄。惹かれるままに、自分なりに答えを得ようとして。…自分とキースの共通点は何なのかと。
 けれど、あの頃にはキースも知らなかった自分の正体。無から生まれた生命だとは。
 フィシスは答えを得られないまま、逆に情報を奪われた。シャングリラから逃れるための道筋、どう行けば船を出られるのかを。



 地球に至るまでの長い年月、フィシスが自分を責め続けたこと。キースに自分が漏らした情報、そのせいで起こったナスカの悲劇。
 キースが船から逃げなかったら、悲劇は起こらなかったから。トォニィが牢獄を破壊したって、道順がまるで分からなければ、キースは取り押さえられた筈。格納庫に辿り着く前に。
(…あれはホントに不幸な事故で…)
 不可抗力だったとは思うけれども、フィシスが皆に話していたなら、結果は違っていただろう。牢獄には監視の者がつけられ、万一に備えて格納庫にも配備されたろう警備の者たち。逃亡を防ぐ手立てはあった。…フィシスが正直に話していれば。
(嘘をついてでも、みんなに話していてくれればね…)
 キースに近付いた理由は何かを、誤魔化してでも。それとも、あれも歴史の必然だろうか。前の自分が目覚めたように、フィシスがキースに近付いたことも。…皆に黙っていたことも。
 後に心の傷になるほど、フィシスを後悔させたキースとの出会い。牢獄を覆うガラス越しに手を重ねたこと。キースから何かを得ようとして。
 けれどフィシスは答えを得られず、キースも持ってはいなかった答え。自分たちの生まれ。
 フィシスは手掛かりさえも掴めないまま、白いシャングリラに残された。逃げたキースが戻った時には、メギドの炎を連れて来たから。…前の自分はメギドを沈めて死んだから。
 サイオンを与えた自分が死んだら、薄れて消えてゆくフィシスのサイオン。心細い日々を過ごす間に、きっとフィシスは…。
(自分の記憶の中を探って…)
 答えを見付け出そうとした。自分はいったい何者なのか、どうしてキースに惹かれたのか。
 多分、トォニィの言葉が切っ掛けになって、記憶が戻ったのだろう。
 「あのメンバーズと同じ匂いがする」という冷たい言葉。「ミュウではない」と切り捨てるかのような、残酷だけれど真実を突いていた言葉。
 そう言われたら、過去を探りたくもなる。ただでもサイオンが薄れ始めて、不安なのだから。
 予知能力の次は何を失くすか、恐ろしくてたまらなかった筈。「自分はミュウだ」という証拠が欲しくて、フィシスは過去へと遡ったろう。
 前の自分が消してしまった、「ユニバーサルでの悲しい記憶」を追って。



 そうやって記憶を辿っていったら、見付かるだろう「ソルジャー・ブルーとの出会い」。それがフィシスの最初の記憶だろうから。…機械が与える知識とは違う、「ヒト」との出会い。
(研究者たちとも違うものね…?)
 彼らはフィシスを水槽越しに観察していただけ。たまにガラスを叩いたりして。
 けれども、前の自分は違った。フィシスが夢見る地球に魅せられ、触れたくなった幼い少女。
 ガラス越しでもかまわないから、と中の少女に呼び掛けた。「こっちへ」と「手を重ねて」と。応えるかのように微笑んだフィシス。…人魚のようにゆらりと揺れて、ガラスの側に来た少女。
(あれが、フィシスと前のぼくとの出会い…)
 フィシスがそれを思い出したら、ほんの一瞬の記憶にしたって、色々なことが掴めた筈。
 前の自分と出会った時には、「間にガラスがあった」こと。「周りには水があった」事実も。
(ガラスと水に気付いたら…)
 分かるだろう、フィシスがいた環境。其処が「人工子宮ではなかった」こと。水の中なら、人工子宮と人工羊水だろうけれども、其処は胎児がいるべき所。自我さえも無い生命が。
 なのにフィシスは、もう胎児ではなくなっていた。幼かったとはいえ、少女と呼ぶのが相応しい姿。とうに人工子宮から出て、養父母たちの許で養育されているべき筈の。
 フィシスでなくとも、おかしいと気付く自分の生まれ。胎児ではないのに、どうして人工羊水の中にいるのか。何故「生まれては」いないのか。
(それでも、マザー・システムの実験までは…)
 幼かったフィシスには分からないのだし、キースからも情報は得られないまま。
 シャングリラが燃える地球を後にし、フィシスが自分の生まれを語った時には、キースの正体はまだ明らかになっていなかった筈。もう少し時が経つまでは。
 だからフィシスは本当のことを知りようもないのに、それをシャングリラで話したとなったら、きっとフィシスは…。
(他の水槽にあったサンプル…)
 その存在を思い出したのだろう。水槽の記憶を追ってゆく内に。
 成長したフィシスにそっくりだった、目を開けていた標本を。虚ろな目をして死んでいた女性、あれに気付けば「自分だ」と分かる。「同じようなモノが幾つもあった」と。
 そういう標本が幾つもあるなら、きっと自分は「作られたモノ」に違いないと。



 フィシスはか弱い女性だったけれど、予知能力があったほどだし勘は鋭い。自分の正体に纏わる情報、それを得たなら見抜いただろう。同じ標本が幾つもあっても、クローンではないと。
(…クローンだったら、あんな大掛かりな実験を…)
 するわけがないし、水槽で育てる必要も無い。様々なピースを組み立ててゆけば、いずれ答えは自ずと出てくる。「無から作られた生命」だと。「機械が自分を作ったのだ」と。
(…そんな形で知るなんて…)
 自分はいったい何者なのかを、恐ろしい形で悟ること。
 フィシスはそれに耐えたけれども、自分だったら耐えられない。自分とそっくり同じ顔をした、標本を思い出すなんて。…自分の「死体」を目の前に突き付けられるだなんて。
 いくら記憶の中だとはいえ、血が凍るような思いだろう。死体になった自分を見るのは。自分と同じ顔の死体が、すぐ側でこちらを見ているなどは。
(…今のぼくなら、怖くて泣いちゃう…)
 自分が誰かを思い出す前に、「自分の死体」の記憶だけで。しかも標本になった死体で、自然な死とは異なるもの。何の感情も無い表情でも、もうそれだけで恐ろしい。
 彼らは「目を開けている」のだから。その虚ろな目がギョロリと動いて、こちらを見そうなほどなのだから。…「お前も私と同じモノだ」と。
 そんな記憶と向き合ったフィシス。前の自分でさえ、あの標本からは目を背けたのに。
 アルタミラの地獄を見て来た自分でさえも、直視は出来なかったのに。…水槽の中の夢の少女と同じ姿の標本たち。もっと幼い標本もあれば、これから育ってゆくだろう筈の姿も。
(…なんて悪趣味なことをするんだろう、って…)
 標本を残す必要があるにしたって、別の所に置けばいい。今「生きている」少女の目にまで映る所に置かなくても。…水槽の中から見回したならば、目に入る場所に並べなくても。
(そう思ったから、いつも…)
 水槽の中のフィシスを訪ねる時には、自分が立つべき位置を選んだ。あの忌まわしい標本たちと自分が、フィシスの視界に一緒に入らないように。見えない瞳が標本を捉えないように。
 それほどに避けた、フィシスの「死体」。幾つも並べられた標本。
 フィシスがあれを思い出した上に、恐怖を誰にも話せないまま、「自分は何か」に気付いて怯え続けたなんて。ミュウではなくて「無から作られた生命」、それを悟って苦しんだなんて。



(前のぼく、酷いことをしちゃった…)
 恐ろしい思いをさせてしまったフィシス。…前の自分の我儘だけで、攫って船に迎えたのに。
 前の自分がミュウにしなければ、フィシスは盲目の指導者として後世に名を残した筈。ミュウを容赦なく殺し、追い詰める敵だったとしても。あるいはキースのような人類が、何十年か早く世に出ていたか。…SD体制を前の自分と一緒に滅ぼす存在として。
 その道をフィシスは歩めなかった。前の自分が青い地球が欲しくて、横から掠め取ったから。
 フィシスの未来を閉ざしてしまって、「処分」される方に進ませたから。
 自分の望みを叶えるために手に入れたならば、責任を持つべきだった。フィシスが歩む人生に。途中で自分がいなくなるなら、なおのこと。
(それに、前のぼくが死んじゃったら…)
 フィシスは力を失うのに。…ミュウの証のサイオンを失くして、船の仲間が頼りにしている予知能力も消えてしまうのに。
(サイオンが消えたミュウの話は知らなかったけど…)
 きっとフィシスなら乗り越えられる、と勝手に思っていた自分。フィシスの意見も聞かないで。
 どうしてフィシスに「本当のこと」を話してやらなかったのだろう。前の自分が死んだ後には、どんな未来が待っているのかも。
 真実を知って衝撃を受けるフィシスを、慰めてやれただろう間に。前の自分がしたことを詫び、これからフィシスが歩むべき道を示してやれただろう間に。
(…ぼくに余裕が無かったから…)
 赤いナスカが見える宇宙で目覚めた時には、命の終わりが見えていた。…予知が出来なくても、予兆なら分かる。「何かが起こる」と、「此処で自分の命は尽きる」と。
 命の終わりが近いのだから、迫り来るハーレイとの別れ。
 十五年もの長い眠りから覚めて、ようやく出会えた愛おしい人。けれどシャングリラの中は混乱していて、二人きりの時間は持てないまま。多忙を極めていたキャプテン。
 このまま別れるしかないのか、と悲しみに心を覆われていたから、気が回らなかったフィシスのこと。天体の間を訪ねて行っても、どうするべきかを考えなかった。
 自分が船へと連れて来たくせに。自分が死んだらサイオンが消えるのも、知っていたくせに。
 フィシスは不安を口にしたのに、死神のカードを燃やしただけ。曖昧な言葉を口にしながら。



 怯えるフィシスに、「君にかけられた呪いを解く時が来たようだ」と告げたのだけれど。
 遠回しすぎて、あれで通じるわけがない。「呪い」は前の自分のサイオンだなんて。長い年月、フィシスを縛っていた呪い。それが解けたら、何が起こるというのかも。
 呪いが解けて「サイオンを失くした」後のフィシスが、「自分の足で歩いてくれれば」と願ったけれども、それは自分への言い訳だろう。フィシスに何も教えはしないで、去る自分への。
(…前のぼくって、残酷すぎたよ…)
 フィシスの生まれを、自分の口からフィシスに話さなかったこと。
 機械が無から作った生命、神が全く関与しない命。そう生まれたのは、フィシスの責任などではないというのに。…フィシスには何の責任も無くて、ただ「生まれて来た」だけなのに。
 そういう生まれのフィシスを自分が「望んだ」のなら、機械から奪い取ったなら。
 責任を取るべきなのは自分で、フィシスの苦痛を和らげるべき。「君のせいじゃない」と、全て機械がやったことだし、「君は生まれて来ただけだよ」と。
 それに、そうして生まれたフィシスを「欲しがった」のが自分だから。…船の仲間たちを騙してまでも、ミュウにして「連れて来た」のだから。
(…前のぼく一人だけにしたって…)
 欲しがる人間がいたのだったら、フィシスの命に意味はある。無から生まれた生命でも。機械が作ったものであっても、「望まれて」生きているのだから。
 それをフィシスに話してやったら、どれほど喜んでくれただろう。自分の生まれを知って衝撃を受けた後でも、きっと笑みさえ浮かべていたに違いない。「生まれて来られて幸せでした」と。
 もしも標本にされていたなら、それこそ「役に立たないモノ」。
 前の自分に青い地球の姿を見せられもせずに、ガラスケースの中に浮かぶだけ。虚ろな顔で。
 そうはならずに生きられたのだし、フィシスは涙も流したろうか。シャングリラで生きた年月を思って、「此処に来られて幸せです」と。
 フィシスの生まれを教えた後には、サイオンがいずれ消えてゆくことも、一緒に話しておくべきだった。「今すぐじゃないよ」と、優しい嘘をつきながら。
 前の自分の寿命の残りが少なかったことは、船の誰もが知っていたこと。ずっと前から。
 ジョミーを船に迎える前から皆が覚悟をしていたことだし、不審がられはしなかったろう。その時が来たら何が起こるか、フィシスに聞かせておいたとしても。



 メギドへと飛んで行ってしまう前に、出来ることなら幾つでもあった。…フィシスのために。
 前の自分の我儘だけで、攫ったフィシス。歩んでゆくべき道を狂わせ、台無しにしたフィシスの人生。もしも自分がミュウにしなければ、輝かしい未来があったのに。機械が無から作った生命、盲目の女性としてであっても、立派に人類を導けたろうに。
 そちらの道を歩んでいたなら、ジョミーとキースがそうだったように、前の自分と敵対した後、友になれたかもしれないのに。
 けれど、自分がそれを奪った。フィシスの身から、自分勝手な我儘で。
 そうやって船に連れて来たなら、その責任を取るべきだった。サイオンを失くした後は、仲間とどう生きるべきか。それを誤魔化すか、理由は不明だと皆に話して、同情の中で生きてゆくか。
(サイオンを失くしちゃったんなら…)
 船の仲間たちは心配しつつも、フィシスの面倒を見てくれただろう。予知能力で皆を導いて来た功労者だけに、それこそ引退生活という形でも。
 フィシスの生まれを知らないままなら、皆はきちんと世話してくれる。サイオンの力で得ていた視力を失ったならば、誰かが側で支えてやって。身の回りの世話をする係も増やして。
 きちんとフィシスに話しておいたら、その方法も可能だった筈。フィシスは皆に嘘をつくことになるのだけれども、それが一番いい方法。原因不明で失くしたサイオン、そういうミュウだと偽ること。生まれのことは明かさないで。
(前のぼくが、そう教えておけば…)
 最善の策だと話しておいたら、フィシスは素直に従ったろう。それがソルジャー・ブルーの意志なら、良心の呵責は押し込めておいて。「これがブルーの望みだから」と。
 そうすればフィシスは、後に苦しみはしなかった筈。
 自分のサイオンが何故消えたのかを、どうしてキースに惹かれたのかを、自分で探って恐ろしい答えを得るよりは。…水槽の中で暮らしていた頃の記憶を頼りに、全てを思い出すよりは。
(…前のぼくと出会った記憶はいいんだけれど…)
 自分そっくりの標本が「生まれ」の手掛かりだなんて。
 虚ろな目をして並んだ標本、あれをフィシスが思い出したなんて。
 きっとフィシスは悲鳴を上げたことだろう。…前の自分でさえ、目を背けていた光景だから。
 ガラスケースの中に並ぶ標本、それをフィシスが目にしないように、気を配り続けたのだから。



 前の自分がフィシスに歩ませた、残酷な道。…黙ってメギドへ飛んで行ったせいで。
(…ぼくって駄目だ…)
 フィシスに味わわせた、酷い運命。前の自分がいなくなった後で。前の自分だけを慕い続けて、青い地球を見せてくれていたフィシス。心優しい、ミュウたちの女神。
 船の誰もが注目する立場にフィシスを立たせて、それなのに船に置き去りにした。機械が無から作った彼女を、ミュウでさえもなかった哀れなフィシスを。
 しかも「自分はヒトでさえもない」と、フィシス自身に悟らせたなんて。…サイオンを失くして心細い中で、水槽の記憶とおぞましい標本たちの群れから気付かせたなんて。
(自分は誰かを、みんなに話せるようになるまで…)
 どれほどフィシスは辛かったことか、苦しかったことか。白いシャングリラに、頼れになる者は誰もいなかったから。…前の自分がいなくなったら、もう誰も。
 フィシスの生まれ以外のことなら、皆が相談に乗れるのに。…「サイオンを失くしたミュウ」のフィシスなら、誰でも味方になってくれるのに。
 けれど、一人もいなかった味方。周りは全て敵のようなもの。フィシスの本当の生まれを知った途端に、手のひらを返すように背を向けるだろう。
 人類どころか、「機械が無から作った生命」なのだから。理想的な人類の支配者として、機械が作った者なのだから。
(ハーレイは知っていたのにね…)
 フィシスの生まれも、前の自分がどうやって船に連れて来たかも。
 船の仲間たちを裏切ることになるのを承知で、サイオンを与えてミュウにしたフィシス。それをハーレイは知っていた。ハーレイにだけは全てを話して、その上でフィシスを迎えたから。
 そのことをフィシスに話しておいたら、ハーレイが支えになっただろうに、と思ったけれど。
 前の自分がいなくなった後は、ハーレイがフィシスの相談相手になった筈だと考えたけれど…。
(…ハーレイがフィシスの相談相手…)
 そうなるのならば、フィシスは何度もハーレイの許を訪ねただろう。困りごとが出来た時にも、良心の呵責に耐えかねた時も。「…話を聞いて頂けますか?」と。
 もちろんハーレイはフィシスを迎えて、きちんと向き合って話を聞いて…。



 ふと目の前に浮かんだ光景。キャプテンの部屋を訪ねるフィシス。…ハーレイの仕事が終わった後に。航宙日誌を書いているだろう、そういう時間に。
 チリッと微かに痛んだ胸。「その椅子は、ぼくの椅子なんだよ」と。
 ハーレイがフィシスに勧める椅子は、前の自分が座っていた椅子。キャプテンの部屋を訪ねて、机の側で。航宙日誌を綴るハーレイを見守っていたり、二人、色々な話をしたり。
 其処に自分がいなくなった後、フィシスが座る。…キャプテンの部屋を訪ねて行って。
 「どうぞ」と椅子を引いて貰って、紅茶なども淹れて貰ったりして。
 もう其処に自分は座れないのに。死んでしまって、ハーレイが勧める椅子に座れはしないのに。
(…そのせいで、前のぼく、黙っていたの…?)
 まるで自覚は無かったけれども、フィシスへの嫉妬。白いシャングリラに残ったフィシス。前の自分が飛び去った後で、命の焔が燃え尽きた後で。
 自分がいなくなった後にも、ハーレイと同じ船でフィシスは生きてゆくから、「渡さない」と。
 いくらフィシスが辛い思いをするにしたって、ハーレイに慰めさせてたまるものか、と。
 それで黙って飛び去ったろうか、メギドへと…?
 天体の間でフィシスと話した時には、自分の命が何処で尽きるか、場所までは掴めていなかったけれど。漠然と「死ぬのだ」と思っただけで。
 それでも死には違いないから、フィシスにハーレイは渡せない。自分のための椅子をフィシスに譲れはしない。…ハーレイは自分の恋人なのだし、死んだ後なら、なお譲れない。
 自分が戻ってゆけない場所に、代わりにフィシスがいるなんて。
 ハーレイの優しい慰めの言葉、それを貰うのがフィシスだなんて。
(そうだったわけ…?)
 嫉妬で黙っていたってこと、と前の自分がしでかしたことに愕然とした。
 自分の我儘でフィシスを攫って連れて来たくせに、最後は嫉妬で突き放すなんて。…フィシスの力になれそうな人を、近付けないようにしたなんて。
 「ハーレイだったら相談に乗ってくれるからね」と言いもしないで、飛び去った自分。
 そのハーレイは自分の恋人なのだし、フィシスに渡してたまるものか、と。



 ますます酷い、と呆れ返った、前の自分がフィシスにやったこと。あまりにも自分勝手で我儘、まるで小さな子供のよう。…今の自分はチビだけれども。
 ホントに酷すぎ、と思っていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、テーブルを挟んで向かい合うなり、打ち明けた。
「あのね、前のぼく、酷かったんだよ…」
「はあ?」
 いきなり何を言い出すんだ、と怪訝そうな顔をしたハーレイ。「何の話だ?」と。
「フィシスのこと…。どういう生まれか話さないままで、船に放って行っちゃった…」
 キースと同じで、機械が無から作った生命。…それがフィシスで、ミュウでもなくて…。
 前のぼくの我儘で攫わなかったら、フィシス、普通に生きていけたと思うのに…。
 ホントのことを黙ったままで行っちゃったんだよ、と話した前の自分のこと。フィシスに明かす機会と時間はあったというのに、それをしないで行ってしまった、と。
「あれはお前なりの配慮だったろ?」
 フィシスが一人で歩けるようにと、お前はわざと突き放したんだ。いなくなっちまう前のお前に頼っていたんじゃ、フィシスは前には進めないから。…お前無しでは。
 違うのか、とハーレイも信じ込んでいる前の自分の言い訳。前にそういう話をしたから。
「…そう思ってたけど、違ったみたい。今のぼくも、そのつもりだったんだけど…」
 よく考えたら違ってたかも…。前のぼく、フィシスに嫉妬していて、そのせいで…。
「嫉妬だって? お前がか?」
 なんでまた、とハーレイは驚くけれども、さっき自分が感じた痛み。胸にチリッと。あの痛みは多分、本当に嫉妬。…前の自分がきっと感じただろうもの。
「うん、嫉妬…。フィシスの生まれを話すんだったら、ハーレイのことも話さなきゃ…」
 前のハーレイだけは知っていたでしょ、フィシスが何処で生まれたか。…正体だって。
 だからフィシスに言わないと…。ハーレイは全部知っているから、力になってくれるよ、って。
 前のぼく、それを言うのが嫌だったのかも…。ぼくに自覚は無かったけれど…。
 ハーレイをフィシスに盗られちゃう、って。ぼくはハーレイの側に、いられなくなるのに…。
「なるほどなあ…」
 俺が相談役になるなら、そうなるか…。フィシスの居場所は、俺の側だな。お前じゃなくて。



 分からんでもない、と頷いたハーレイ。
「それまでだったら、フィシスの居場所は前のお前の隣だったが…。それが変わる、と」
 お前がいなくなっちまったら、フィシスは独りぼっちだし…。サイオンだって消えちまうし…。
 もしもフィシスを託されたんなら、前のお前の分まで懸命に世話しただろう。
 あれこれと手を尽くして回って、フィシスが傷つかないように。
 サイオンが消えた件はもちろん、前のお前ならこうしただろう、って色々とな。
 それがキャプテンの務めでもあるし…、とハーレイは否定しなかった。フィシスの世話を焼くということを。相談役としても、ソルジャー・ブルーに代わる保護者としても。
「やっぱりね…。今のぼくが思った通りだよ。前のハーレイがフィシスにしてあげること」
 ハーレイならそうだと思っていたから、前のぼく…。わざと黙っていたのかも…。
 ホントに酷すぎ、ちゃんと話してあげないで…。前のぼくがフィシスをミュウにしたのに。
 フィシス、自分がどういう生まれか、一人で気付いて、うんと苦しんでいたんだろうに…。
 酷すぎだよね、とハーレイに話した標本のことや、フィシスが感じたろう恐怖。そういった道に追い込んでしまった前の自分は酷かった、と。自分勝手で我儘すぎた、と。
「そうだったのかもしれないが…。フィシスも辛い思いをしたかもしれないが…」
 前のお前は、フィシスよりもずっと辛かった。…違うのか?
 俺と離れてしまうと知ってて、メギドへ飛んで行ったんだ。挙句に独りぼっちになって…。
 右手に持ってた俺の温もりを失くしちまって、泣きじゃくりながら死んだんだろう?
 それを思えば、フィシスはきちんと生きてた分だけ、マシだったさ。命を持っていたんだから。
 最後はフィシス先生なんだぞ、大勢の幼稚園児たちと一緒に幸せに生きていたわけで…。
 辛い思いを乗り越えた後にはハッピーエンドの人生だった、とハーレイが言ってくれるから。
「…ぼくのこと、許してくれるかな…?」
 我儘でフィシスの人生をメチャメチャにしちゃった、ぼくを。…おまけに最後は嫉妬して…。
 つまらない嫉妬なんかのせいで、フィシスのための相談相手を教えてあげずに行っちゃった…。
「許してくれるさ、フィシスならな」
 前のお前の側に長くいたのがフィシスだろうが、きっと笑って許してくれる。
 お前の恋人が実は俺だったんだ、と聞かされようが、そのせいで俺が相談相手になれないままで終わっちまおうが。…なんと言っても、ミュウの女神だったフィシスなんだから。



 心配しなくても大丈夫だ、と慰めてくれるハーレイの温かな声。穏やかな光を湛えた瞳。
 その優しさに心が丸ごと包まれる。まるで抱き締められているかのように。
(やっぱりハーレイは、うんと優しくて…)
 ぼくのことを誰よりも分かってくれる、と思うと、前の自分が渡せなかったのも納得できる。
 残されて苦しむだろうフィシスに、相談役としてのハーレイを。
(ハーレイは、ぼくのハーレイだもの…)
 誰にも渡さないんだよ、と今の自分も欲張りな気持ち。前の自分とそっくり同じに。
 今のハーレイも、誰にも渡してしまったりはしない。譲りもしないし、貸したりもしない。
 いつまでも何処までも、ハーレイと一緒。
 誰かに「ケチ」と言われても。
 みんなの憧れの「ハーレイ先生」を、いつか結婚して、一人で独占してしまっても…。



           フィシスの生まれ・了


※前のブルーが、フィシスに何も話さないまま、メギドへ飛んでしまった理由は、嫉妬。
 自分がいなくなった後、ハーレイをフィシスに盗られないように。前のブルーの最後の我儘。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv




















 今年もシャングリラにクリスマスの季節がやって来た。ブリッジが見える広い公園には、とても大きなクリスマスツリーが飾られていて、クリスマス気分を盛り上げている。
「今年も、じきにクリスマスだよね!」
 プレゼント、何を貰おうかな、と大きなツリーを見上げているのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」だ。それはとんでもない悪戯小僧で、船の仲間たちも年中、酷い目に遭っているのだけれど…。
「これからは、うんといい子でいないと、大変なことになっちゃうし…」
 悪戯、我慢シーズン開始! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は年に一度のビッグイベントに向けて、自分に誓いを立てていた。悪い子は、サンタクロースからプレゼントが届く代わりに、鞭を貰うのに決まっているから、それを避けたい「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、毎年、クリスマスの前だけは…。
「今年も、いい子になるんだも~ん!」
 頑張らなくちゃ! と気合を入れて、それから少し小さめのツリーに目を遣った。
 「お願いツリー」と呼ばれる、これもクリスマスの風物詩。クリスマスに欲しいプレゼントを、備え付けのカードに書いて吊るしておけば、サンタクロースが届けてくれる。大人の場合は恋人や、友達なんかがカードを見付けて、書かれたプレゼントを贈り合ったりするらしい。
「えーっと、ぼくが欲しいのは…。んーと…?」
 何だったっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は頭の中を探すけれども、素晴らしいものが出て来てくれない。「これだ!」と思うプレゼントが、まるで一つも浮かんで来なくて、困ってしまう。
「地球を下さい、って言っても無理だしね…」
 大好きなブルーが行きたがっている、青い星がとても欲しいとはいえ、サンタクロースは地球をくれはしないと分かっている。地球へ行くための方法だって、思い付いても、失敗ばかりだし…。
「頼んでみるだけ無駄ってヤツか、いい方法を思い付くかの、どっちかで…」
 だけど、なんにも思い付かなーい! と、すっかりお手上げ、気分転換に出掛けることにした。
 アルテメシアの街でグルメ三昧、食べまくる内に、アイデアだって浮かぶだろう。悪戯出来ない船にいるより、そっちの方が断然いいに決まっているから、ヒョイと船から出て行った。
 瞬間移動はお手の物だし、「何処がいいかな?」と、とりあえず、街へ。



「クリスマス前だし、何処も綺麗に飾ってるよね…」
 お店も、食事が出来る所も、と見回しながら街を歩く間に、新しい店が目についた。
「あれっ、こんなの、あったっけ?」
 レストランみたいに見えるけれど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が眺める先に、ちょっとお洒落な一軒の家が建っている。今どきの家とは違った作りで、昔の地球のヨーロッパなんかにありそうだ。
「だけど、看板…」
 建物に合っていないよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、玄関にあたる所の扉の上を、まじまじ見詰めて首を傾げる。そこには木で出来た看板が掲げられていて、そこまではいい。問題はセンスの方だった。
「なんだっけ、ジャポニズムだったっけ…?」
 分かんないけど、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭を悩ませるソレは、昔の日本の古民家に似合いそうな古びた木の看板で、キッチリ四角い形でさえない。自然のままといった形の板切れ、おまけに書かれた文字の方まで…。
「風の砦…?」
 下に読み方が書いてあるほど、しっかりガッツリ、「日本語」だった。どういうセンスの店主がいるのか、まるで全く謎だらけな店。かてて加えて扉の脇には「ジビエ料理の店」と、こちらの方は普通の文字の立て看板。
「ジビエって、確か、野生の動物のお肉のことで…」
 今の時代にあるわけないし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」だって知っている。SD体制が敷かれた理由は「地球を再生させるため」だし、地球以外の星もテラフォーミングされた星ばかり。野生動物なんかいるわけないから、「名前だけ」ジビエなのが今の時代というものだった。
 とはいえ、珍しい店ではある。グルメを自負する者が目にして、スルーするなど、有り得ない。
「よーし!」
 此処に決めたぁ! と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、早速、店に入って行った。妙なセンスの木の看板の下の、扉を開けて。



「いらっしゃいませー!」
 どうぞ、お好きな席へ、と笑顔で迎えた店主は、気の良さそうな「おじさん」だった。ついでに店も、外見通りに洒落た内装なのだけれども…。
「なに、これ…?」
 ジビエって、鳥のお肉だっけ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は店内の壁を眺め回した。店中の壁に飾られている写真は、何処から見たって「猛禽類」だ。ワシとかタカとか、そういった鳥が猛禽類。
 けれど、席について広げたメニューは、鹿やイノシシなんかばかりで、鳥のは無い。
 ますます謎だ、と首を捻りつつ、「本日のおすすめ」コースを選んで、ついでに店主に質問してみることにした。
「あのね…。鳥のお肉の料理は無いのに、なんでコレなの?」
 写真、と壁を指差してみたら、店主はたちまち嬉しそうな顔で、カウンターの向こう側で料理をしながら、あれこれ説明してくれた。
 木の看板の日本語からして、とても大事なポイントらしい。地球が立派に青かった頃の日本で、『風の砦』というタイトルの映画が撮られたという。
「野生のイヌワシを、一年かかって撮ったらしいんですけどね…。警戒心が強い鳥なので…」
 撮影に入る前の年から小屋を建てて、と店主が話してくれた中身は凄かった。小屋に出入りするスタッフの数も、きちんと「同じ数だけ」を交代させるなどして、「小屋には誰も残っていない」と見せかけて撮ったという。どれもこれも、鳥に人間の姿を「見られない」ための工夫。
「今と違って、便利な道具も無い時代の話ですからねえ…」
 でも、壮大なロマンですよ、と熱く語る店主が作る料理は絶品だった。イノシシや鹿や、どれも癖がある肉らしいのに、実に美味しく仕上がっている。煮込みも、パイ皮包みなども。
「すっごく美味しい! ホント、最高!」
「いやあ、この看板を出したくて、あちこちで腕を磨きましたからねえ…」
 お礼はイヌワシに言って下さい、と店主は壁を埋め尽くす写真を指してニコッと笑った。もしも『風の砦』に出会わなかったら、店を出す所までは行っていないから、と。



「凄いお店に行っちゃった…」
 でも、本当に美味しかったし、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は船に帰って、自分の部屋で考える。あの店はグルメ三昧のリストに加えて、月に何度も行くべきだろう。
「お礼はイヌワシに言って下さい、って真面目に本気だったよね…」
 映画の話も凄かったもん、と思い出す内に、「あれ?」と頭に閃いた。
「ミュウなら、サイオンで姿を消せるし、その映画、楽に撮れるよね?」
 便利な道具は何も無くても、と考えたけれど、人類はサイオンなどは無いから、やっぱり今でも道具に頼って撮るより他に無いだろう。もっとも、野生のイヌワシがいれば、の話だけれど。
「でもって、人類の船は、姿なんかは消せないんだけど、シャングリラだと…」
 ステルスデバイスで「見えなくなる」んだよね、というのが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の「閃き」だった。サンタクロースに頼むのは、コレに限るだろう。
「ステルスデバイス、土鍋に搭載して貰ったら…」
 それに入って人類軍の船に密航、出来ちゃうよ、とワクワクしてくる。人類軍の船にコッソリ、乗り込んでいれば、幾つかの基地や星を経由して、きっと地球にも辿り着けるに違いない。
「この船だったら、地球に行きそう、っていうのを見付け出したら、一発で地球へ…」
 それで着いたら、地球の座標も分かるんだから、と自分のアイデアにウットリとした。密航中もサイオンで姿を消してさえいれば、食事も出来るし、快適に旅をしてゆける。
「これに決めたーっ!」
 ステルスデバイス搭載の土鍋、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は急いで「お願いツリー」の所に瞬間移動で、いそいそカードに書き込んだ。
 「ステルスデバイスを搭載した、土鍋を下さい」と。
 そしてツリーの枝に吊るして、大満足で部屋に帰ったけれど…。



 今年も、またまた「そるじゃぁ・ぶるぅ」のカードは、キャプテン・ハーレイの頭を悩ませた。回収した係が届けに出掛けて、「こんなのです」と見せた途端に。
 ハーレイは青の間のブルーに相談に行く羽目になって、ブルーも「今年もかい?」と苦笑する。
「ステルスデバイス搭載の土鍋ねえ…」
「コストの方も半端ないですが、何をやらかす気なんだか…」
 ろくなことにならない気しかしません、と呻くハーレイは「悪戯」を想定しているのだけれど、ブルーは真意に気付いていたから、嬉しくはある。どうしてそれが欲しいのか、という気持ちの方。
「地球の座標を知るためらしいよ、人類軍の船に密航してね」
「そうなのですか!?」
「うん。そうは言っても、危険すぎるし、止めないと…」
 ぼくに任せておきたまえ、とブルーは、ハーレイを帰らせた後で、青の間の冬の名物、コタツに入ったままで「そるじゃぁ・ぶるぅ」を思念で呼んだ。「ちょっと、おいで」と。
「かみお~ん♪ おやつ、くれるの!?」
 なあに、と瞬間移動でヒョイと出て来た「そるじゃぁ・ぶるぅ」に、ブルーは「あのね…」と、カードの話をし始めた。
「ステルスデバイスを載せた土鍋で、どうするんだい?」
「えっとね、人類軍の船にコッソリ入って、密航して、地球に行くんだよ!」
 そしたら地球の座標が分かるし、ブルーも地球に行けるよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意満面、胸を張って説明したのだけれども、ブルーは顔を曇らせた。
「いいアイデアだし、ぶるぅなら、出来るかもしれない。だけど、土鍋が問題で…」
「えっ?」
「ずっと土鍋に入ったまま、とはいかないだろう? ぶるぅが留守にしている間に、人類が…」
 土鍋を見付けたら大変なんだ、とブルーは真剣な表情になった。
 人類軍の船に土鍋など「あるわけがない」し、当然、不審物として調べることになる。そうして詳しく分析したなら、ステルスデバイス搭載がバレて、人類に…。
「ミュウの機密が知れるわけだよ、それこそ最高機密がね」
 ステルスデバイスの仕組みを人類に知られてしまえば、ミュウはおしまい、とブルーは超特大の溜息をついた。シャングリラは丸見えになってしまって、あっという間に沈められる、と。



「…いいアイデアだと思ったのにな…」
 だけど、ブルーの言う通りだし、と肩をすくめた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、今年もまたまた、お願いカードを書き換えるより他は無かった。
 どうしようもなく「普通」になってしまったけれども、「ステージ映えするマイクを下さい」と書いてツリーに吊るしたわけで…。
「来年も、ヤツの歌を死ぬほど聞かされる羽目になるわけですね、我々は…」
「ハーレイ。君もキャプテンなら、ステルスデバイスの仕組みが人類にバレるよりかは…」
「分かっております、行って参ります」
 これも私の役目ですので、とクリスマスイブの夜、ハーレイはサンタクロースの衣装を纏って、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋へと出掛けて行った。肩に背負った袋の中身は、プレゼントだ。
 注文の品のマイクは、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が魂を撃ち抜かれて通い詰めている、例のジビエ料理の店『風の砦』に敬意を表して、ジャポニズム。漆や螺鈿で装飾された最高級品、そう簡単には手に入れられない品だけれども、ブルーのサイオンを舐めてはいけない。
「あのマイクなら、ぶるぅもきっと喜ぶよ」
 わざわざ特注したんだからね、とブルーはコタツでミカンを剥きながら笑みを浮かべる。いくらお安い御用とはいえ、注文のために「アルテメシアの街に降りた」のは、ブルー本人だった。プロの歌手が「お忍び」で来たかのような服を着込んで、サングラスもかけてみたりして。
 そんなブルーがミカンを美味しく食べている頃、ハーレイは真っ暗な「そるじゃぁ・ぶるぅ」の部屋でプレゼントを幾つも袋から出しては、ベッドの側に並べていた。
「まったく、みんな、どうしてヤツには甘いんだ…」
 これがエラので、コレがブラウで…、と長老たちからの分はもちろん、機関部にブリッジ、厨房などなど、各セクションからもプレゼントの箱を預かっている。全員、もれなく酷い悪戯の被害者のくせに、「これを、ぶるぅに」と綺麗にラッピングして寄越すのだ。
「これだから、ヤツがつけあがって…」
 リサイタルを開きまくるんだぞ、とブツブツとぼやくハーレイだけれど、彼のプレゼントも袋の中に入っているから、人のことなど、言えた義理ではないだろう。



 こうしてイブの夜が過ぎて行って、クリスマスの朝がやって来た。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」はパチリと目を覚ますなり、プレゼントがあるかベッドの側を確かめ、大歓声で箱を開け始める。
「やったあ! 今年もいい子にしてて良かったよ!」
 凄いマイクに、こっちはお菓子で…、とリボンをほどきまくる間に、大好きなブルーから思念が届いた。
『ぶるぅ、お誕生日おめでとう! 公園にケーキの用意が出来てるよ!』
「あっ、そうだった!」
 お誕生日を忘れてたあ! と瞬間移動で、ブリッジが見える公園へと飛び込んでゆくと…。
「「「ハッピーバースデー、そるじゃぁ・ぶるぅ!!!」」」
 今年も、お誕生日おめでとう! と船の仲間たちが揃って拍手で、それは大きなケーキがドンと飾られている。全員で分けて食べていっても、まだまだ充分、余りそうなくらいの特大が。
「わぁーい、一杯、食べなくちゃ!」
 それに御馳走もあるんだよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大喜びで跳ねているから、歌が飛び出すのも多分、時間の問題だけれど、なんと言っても、誕生日。
 特注品のマイクで歌って、踊って、リサイタルでも、みんな笑顔で許す筈。
 ハッピーバースデー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」。今年もお誕生日、おめでとう!



             見えない工夫・了


※「そるじゃぁ・ぶるぅ」お誕生日記念創作、読んで下さってありがとうございます。
 管理人の創作の原点だった「ぶるぅ」、いなくなってから、もう6年になります。
 2007年の11月21日に初めて出会って、そこから始まった創作人生も16年目。
 良い子の「ぶるぅ」ばっかり書く日々ですけど、悪戯小僧の方の「ぶるぅ」も大好きです。
 お誕生日のクリスマスには必ず記念創作、今年もきちんと書きました。
 「そるじゃぁ・ぶるぅ」、17歳のお誕生日、おめでとう!
 2007年のクリスマスに、満1歳を迎えましたから、16年目の今年は17歳です。
 アニテラの教育ステーションだと、来年は、いよいよ最上級生になれる年。
 卒業まで残り1年だなんて、メンバーズがもう目前ですねえ、「いい子」だったら…。

※過去のお誕生日創作は、下のバナーからどうぞです。
 お誕生日とは無関係ですけど、ブルー生存EDなんかもあるようです(笑)








「こらあっ、そこ!」
 手を上げろ、と飛んだハーレイの声。古典の授業の真っ最中に。
 ハーレイの指が指した生徒は、ブルーの席から数列前にいる男子生徒で。
「そう、お前だ。そのまま両手を上げてろよ?」
 動くんじゃない、と睨むハーレイ。鋭い視線で、教室の前の教卓から。
(えっと…?)
 何事だろう、と窺った男子生徒の様子。居眠りなどしてはいなかった筈で、隣と喋ったわけでもない。それに授業中の私語を咎めるのならば、誰かが一緒に指されるだろう。「お前もだ」と。
 けれど何かが起こったからこそ、ハーレイが命じた「手を上げろ」。「動くな」とも。
 いったい何が原因なのかと、男子生徒の席を後ろから眺めていたら…。
(机の下…!)
 其処から出て来た一冊の本。膝の上に置いて読んでいたのか、教科書の陰にあったのか。後ろの方から見ているからこそ、それに気付いた。ふうわりと浮いて、彼の背後に回り込む本に。
 サイオンで浮かせているらしい本。今は運んでいる所。何処かに向けて。
(…何処に隠すの?)
 本の存在がバレないようにと、努力している男子生徒。後ろの生徒に頼む気だろうか、思念波でコッソリ連絡をして。「暫く、持っていてくれ」と。
 問題の彼は、今も手を上げたままだから。まるで動けはしないのだから。
(凄い…)
 本だけ逃がすつもりなんだ、と驚かされた証拠隠滅。いくらハーレイが発見したって、その本が何処にも無かったならば、「読んでいた」と叱ることは出来ない。「先生の見間違いです」と彼が主張したなら、そういうことになるだろう。本は見当たらないのだから。
(咄嗟にあんなの、思い付くなんて…)
 きっと昔から常習犯。下の学校に通う頃から、何度もやったに違いない。こういう時は、と頭に入っている手順。そうでなければ、直ぐには動けないだろうから。
(サイオンは心と繋がってるから…)
 パニックになれば、上手く操れなくなるもの。今のように叱られたりすれば。不意打ちされたらビックリするから、本を隠すなどまず不可能。「どうしよう?」と慌てる間に没収で。



 慣れてるんだ、と感心した男子生徒の行動。褒められたことではないのだけれども、間違いなく持っている度胸。「バレた時には隠せばいい」と、「後ろの生徒に頼もう」と。
 けれど、彼より上手だったのがハーレイの方。教卓を離れて歩き出しながら…。
「動くんじゃないと言ったがな? 手を上げたままで」
 大股で歩く机の間。男子生徒の席に向かって。
「動いてません!」
「なら、これは何だ?」
 捕まえたぞ、とハーレイの手が掴んだ本。後ろの生徒が机の下で受け取る前に。「没収だ」と。褐色の手は、証拠の本を捕まえた。それは見事に、逃げられない内に。
 その場でパラパラめくった後には、教卓に戻って「刑は重いぞ」という宣告も。教卓に置かれた問題の本。それの表紙をポンと叩いて。
「素直に没収されてりゃいいのに、隠そうとした所がなあ…。刑を重くもしたくなるだろ?」
 これは今日中には返してやらん。俺の授業が次にある日まで、預かっておく。いつだっけな?
 その日の授業が終わった後に、俺の所へ取りに来い。宿題と引き換えに渡してやるから。
 お前だけのために宿題プリントをサービスしよう、とニヤニヤ笑い。宿題が嫌なら、没収されたままでいろ、とも。
「そんな…!」
 困ります、と彼は叫んだけれども、ハーレイは涼しい顔で返した。「俺は少しも困らんぞ」と。
「お前の本が職員室の備品になろうが、知ったことではないからな。まだ本棚に空きはある」
 俺が貰って読むのもいいなあ、この本はまだ読んでないから。…子供向けだしな?
 たまには若いヤツらに人気の本を読むのもいいだろう。書斎でゆっくり、コーヒーも飲んで。
 恨むんだったら、自分の愚かさを恨むんだな、と男子生徒を見据える瞳。いつもの穏やかな光の代わりに、ちょっぴり怖い色を湛えて。
「せ、先生…」
 すみません、と男子生徒が頭を下げても、まるで聞く耳を持たないハーレイ。教卓に置いた本を眺めて、腕組みをして。
 悪いのは明らかに生徒だから。誰に訊いても彼が悪くて、ハーレイは悪くないのだから。



 次の授業まで没収だ、と繰り返してから、ハーレイがぐるりと見渡した教室。「注意しろよ」という風に。「お前たちだって、こうなるのかもしれないぞ?」と。
「俺は容赦はせんからな? 授業の時間に読んでいい本は教科書だけだ」
 それと参考書なら問題は無いが、無関係な本は許さんぞ。証拠隠滅を図るようなら尚更だ。
 もっとも、瞬間移動で飛ばされた時は、現場を押さえるのは難しいんだが…。いくら俺でも。
 やりやがったな、と気が付いたって、飛んでった先が掴めないんじゃな。しかしだ…。
 このクラスには…、と名簿をチェックしたハーレイ。「瞬間移動が出来る生徒はいないな」と。
(…タイプ・ブルーは、ぼく一人だけ…)
 前の自分が生きた頃より増えたとはいえ、珍しいのがタイプ・ブルー。いるとなったら、話題に上る。「ウチのクラスにいるらしい」と。
 だから誰もが知っていること。タイプ・ブルーの生徒がいるのも、それは誰かも。
 ところが、とびきり不器用な自分。タイプ・ブルーは名前ばかりで、瞬間移動で本の一冊さえも飛ばせはしない。クラスメイトも承知なのだし、弾けた笑い。「このクラスにはいないな」というハーレイの声で。本当は一人いるのだけれども、いないのと変わらないのだから。
(あーあ…)
 カッコ悪いよ、とガッカリな気分。下の学校の生徒だった頃から不器用なのだし、慣れっこにはなっているけれど…。
(今だと、遥かに情けないってば…)
 自分が誰かを思い出したから、情けない。前の自分はソルジャー・ブルー。使いこなせた強大なサイオン、今の時代も名前が残る大英雄。同じ魂を持っているのに、全く駄目、と。
 どうしてぼくは駄目なんだろう、と不器用すぎるサイオンのことを嘆いていたら…。
「おい、ブルー」
「え?」
 隣の席の男子生徒に呼び掛けられた。思念波ではなくて、ヒソヒソ声で。今度は何、と彼の方を見たら、彼は親切に教えてくれた。教室の前を指差しながら。
「当てられてるぞ、さっきから」
「ええっ!?」
 ちょっと待って、と見上げた先にハーレイの顔。さっきみたいに腕組みをして。



 隣の生徒の声に気付くまで、知らなかった「当てられている」事実。もう本当に赤っ恥。
 ハーレイにも失笑されてしまった。「上の空とは、お前もなかなかいい度胸だな?」と、没収の刑を食らった生徒と並べられて。
(聞こえてなかった…)
 自分のサイオンのことに夢中で、授業が再開されたことにも気付かない始末。ハーレイが投げた質問が何かも分からないから、隣の生徒に訊くしかなかった。「何だったの?」と。
 やっとのことで、肩を落として答えた解答。蚊が鳴くような声で、俯いたままで。
 そんな具合で終わった授業。ショックが抜け切らない内に。大好きなハーレイの授業で大失敗をやったわけだし、放課後になっても悲しい気持ち。
(…今日は散々…)
 せっかくハーレイの授業だったのに、とションボリ帰って行った家。路線バスでも俯き加減で。バス停から家まで歩く道でも、足元ばかりを見てしまって。
 家に帰り着いて、おやつの間も思い出す授業中の光景。上の空で恥をかいてしまった原因の方が大いに問題。タイプ・ブルーに生まれたくせに、瞬間移動も出来ない自分。
 タイプ・ブルーなら、瞬間移動は簡単なのに。ハーレイの授業で叱られた男子、彼がサイオンで本を運ぼうとしていたみたいに、タイプ・ブルーなら出来る瞬間移動。あそこまで、と頭に描いた場所へ、一瞬で。手を触れもせずに、とんでもなく遠い所へだって。
 前の自分なら、たやすく出来た。息をするようにサイオンを操り、使いこなしていたのだから。瞬間移動で物を動かすことも出来たし、自分自身を飛ばすことだって。
(シャングリラの中でも、何処でも飛べたよ…)
 行こうと思えば、一瞬の内に船の外へも出てゆけた。ハッチの一つも開けはしないで、宇宙船の堅固な外壁を抜けて。間に挟まる幾つもの部屋、それらも通り抜けさえしないで。
(外へ出るんだ、って思ったら外…)
 ついでに船の外に出たって、同じように移動してゆけた。気が遠くなるほどの距離だって。
 宇宙船を使って飛んでゆくなら、かなり時間がかかる距離でも、ほんの一瞬。あそこまでだ、と狙いを定めて飛びさえしたら。
 空を飛ぶようにも飛べたけれども、瞬間移動ならもっと速くなる。ワープみたいに越える空間。ワープドライブは使いもしないで、サイオンの力だけを使って。



 意志の力で何処までも飛べたソルジャー・ブルー。前の自分なら、星と星との間でさえも、瞬間移動で飛べたほど。最後にメギドへ飛んだ時にも、瞬間移動で距離を稼いでいたのだから。
 もしも弱っていなかったならば、一瞬で飛んで行けたろう。赤いナスカから、忌まわしい兵器を陰に隠したジルベスター・エイトまでの距離。それこそメギドの制御室までも。
 けれども弱った身体では無理で、相当に無駄にした時間。メギドに着いて制御室まで歩く間も、それまでに飛んだ宇宙でも。…本当だったら、もっと簡単に飛び込めたのに。目的地へと。
 弱っていたって、あれだけの距離を瞬間移動で飛んでゆけたのがソルジャー・ブルー。その魂を持っているのが、今の自分の筈なのに…。
(今のぼくだと、赤ちゃん以下…)
 人間が全てミュウの今では、生まれた時から誰もが持っているサイオン。赤ん坊だって、漠然とした思念波くらいは紡げるもの。言葉にはなっていなくても。
(だけど、ぼくだと…)
 それさえも不器用だったと言うから、どうしようもない。子育てに苦労したらしい母。ミルクが欲しくて泣いているのか、眠いのかさえも分からなくて。
 赤ん坊にも敵わない自分。前の生の記憶が戻って来たって、サイオンの方は戻らなかった。今も自分の中で眠って、一向に目覚めてはくれない。タイプ・ブルーなら使える筈の力は。
 一度だけ出来た瞬間移動は、神様の奇跡だったのだろう。メギドの悪夢を見て怯えていたから、特別にたった一度だけ。「ハーレイに会わせてあげよう」と。
 目が覚めたら、ハーレイのベッドだったから。眠ったままでハーレイの家に飛んでいたから。
(あの時だけで、普段はなんにも出来ないし…)
 瞬間移動で飛べないどころか、おやつのケーキに添えて貰った紅茶。母が淹れてくれたカップの中身を見詰めてみたって、紅茶には小さな波さえ立たない。
 前の自分が持っていたサイオン、あれは水との相性が良かった筈なのに。ひっくり返って零れた水さえ、コップに戻せたほどだったのに。
(だから青の間に貯水槽…)
 サイオンを高めるためには水だ、と船の仲間たちに説いた長老たち。それにキャプテン。お蔭で巨大な貯水槽があった、前の自分が暮らしていた部屋。
 本当はこけおどしだけれど。ただの演出、あんな水など無くても力を使えたけれど。



 今の自分だと、瞬間移動は一度きり。おまけに自覚もまるで無いから、何の参考にもならない。もう一度やってみたくても。…ハーレイの家まで瞬間移動をしたくても。
(クローゼットに印を書いてた時も…)
 前の自分の背丈は此処、と床から測って鉛筆で微かに引いた線。其処まで大きくならない限り、ハーレイはキスをしてくれない。けれど、其処まで育ったら…。
(前のぼくだった頃と全く同じに、ハーレイと過ごせるんだから…)
 これが目標、と書き込んだ印。母に見付かって叱られないよう、ごくごく薄く。その線を引いた日、サイオンで浮いていた自分。「この高さだよ」と頭を其処に合わせるように。
 前の自分の視線の高さで、部屋のあちこちを見回してみた。「育った時にはこう見えるよ」と。床に下りてはまた浮き上がって、何度も確かめていた視点。前の自分の背丈の高さで。
 浮いたり下りたりしたのだけれども、あれだって前の自分の仕業。…今から思えば。
 新しい命と身体を貰って、きっとはしゃいでいたソルジャー・ブルー。前の自分が身体の中からヒョイと出て来て、サイオンを使ったのだろう。新しい身体の使い心地を確かめるように。
(今のぼくだけど、中身は前のぼくだから…)
 同じ魂が入っているから、そういうことも起こる筈。無意識の内に瞬間移動をやったみたいに、知らずに使っていたサイオン。あの時は少しも不思議に思いもしなかったから。
(もし気付いてたら、大事件…)
 サイオンが不器用な自分にとっては一大事件で、大感激だったことだろう。「ぼくも出来た」と大喜びで、クローゼットに書いた印の意味も忘れて…。
(ママを呼びに走って行っちゃいそう…)
 この高さまで浮けるんだから、と自慢したくて。浮いたり下りたり出来る自分を、母にも褒めて欲しくって。「ほらね」と何度もやって見せては、得意になって。
 けれど自分は気付かなかったし、母は今でも知らないまま。クローゼットの印はもちろん、印を書いた日に一人息子がサイオンを使いこなしたことも。…床から浮いて下りるだけでも。
(前のぼくでないと駄目なんだよね…)
 瞬間移動も、身体を床から浮かせることも、色々なサイオンの使い方。前の自分は鮮やかに使いこなしたけれども、自分は赤ちゃん以下だから。
 タイプ・ブルーに生まれて来たって、何一つ出来はしないのだから。



 おやつを食べ終えて部屋に帰っても、零れる溜息。何もかもまるで駄目な自分。勉強机に頬杖をついて、振り返ってみる不器用さ。勉強はともかく、サイオンだったら赤ん坊以下。
(今のぼくだと、ソルジャーになんかなれないよ…)
 瞬間移動はとても無理だし、生身で宇宙に出られもしない。白いシャングリラを守るどころか、今の自分が暮らす部屋さえ、風からだって守れはしない。窓を開けている時に突風が来たら、もう一瞬でメチャクチャになる。軽い紙などが飛んでしまって、床の上などに散らばって。
(自分の部屋も守れないんじゃ、ソルジャーは無理…)
 絶対に無理、と考えていたら、ふと思ったこと。
 今の不器用な自分ほどではないにしたって、前の自分が普通のミュウに生まれていたら、どんな人生だっただろう、と。
 タイプ・ブルーではなくて、平凡なミュウ。ハーレイみたいなグリーンでもいいし、イエローやレッドでもかまわない。どれも突出してはいないし、攻撃力も持っていないから。
(えーっと…?)
 前の自分が普通のミュウなら、成人検査用の機械は壊れていないだろう。ハーレイたちは壊していないし、他のミュウも壊していない筈。…前の自分が知る限りは。
(記憶を消されるのが嫌で、叫んでたって…)
 機械が壊れないのだったら、何かエラーが出た程度。検査室とガラスで隔てられた部屋、其処に白衣の大人たちがいるのが見えたけれども…。
(見てたモニターの表示が変になるとか、そんな感じで…)
 成人検査は、きっと中止になったろう。正常に終わりはしなかったのだし、恐らくは保留。日を改めて実施するとか、そういうケースもあったのだから。
(…家には帰れないんだろうけど…)
 それだけのことで、ミュウだとバレない可能性もある。検査を受けたその場で、直ぐには。
(ぼくが初めてのミュウなんだから…)
 他に前例の無いケース。表示されたエラーが何故そうなったか、係の者にも分からないだろう。別の日にまた検査してみて、同じエラーで中止になったら、やっと変だと思い始める。
 それでもバレない自分の正体。人類ではなくてミュウだということ。
 彼らはミュウを知らないから。SD体制の時代に入った後には、ミュウは生まれなかったから。



 多分、謎だったろうエラーの理由。成人検査が上手くいかなくて、中止になってしまう原因。
 アルタミラにもあったのだろう、マザー・システムの端末に尋ねてみるまでは。成人検査が失敗ばかりの子供が一人、とエラーになってしまう理由を。
 其処で答えが出なかったならば、地球に据えられたグランド・マザーに問い合わせるとか。
(…そこまでされたら、バレちゃうよね…)
 どうしてエラーばかりになるのか、その原因が。
 SD体制に入る前の時代に、ミュウは生まれていたのだから。研究者たちは何度も検討した末、ミュウの因子を排除しないで残そうと決断したのだから。
 それを知るのがグランド・マザーで、当然、ミュウも知っている。成人検査を受けさせたなら、どんな結果になるのかも。
 だから係の者に伝える、「その子はミュウだ」という事実。人類とは違う種族で異分子、社会に出してはならないもの。何故なら世界は人類のもので、ミュウのものではないのだから。
 SD体制の時代だったら、抹殺すべき存在がミュウ。けれど、最初に発見されたミュウの自分が無害だったら、人類はどう扱ったのか。
(成人検査は、パスさせて貰えないけれど…)
 どうなったのだろう、その後の自分は。
 成人検査を何度も受ける間に、子供時代の記憶をすっかり失くしてしまっていそうな自分。前の自分がそうだったように、養父母の顔も忘れてしまって。
 けれど、それだけ。成人検査の機械も壊さず、大人しく検査を受け続けただけ。促されるままに何回も。記憶を消されるのがどんなに嫌でも、機械を壊せはしないのだから。
(逃げ出すことだって出来ないし…)
 仕方ないよね、と諦めて検査を受けさせられていたのだろう。「今度は何を忘れるだろう」と、失うことだけを恐れ続けて。色々なことを忘れさせられる、検査の度に悲しみながら。
 たったそれだけ、前の自分が普通のミュウに生まれていたら。
 前の自分のような危険は、まるで無さそうな大人しい子供。ミュウの子供だというだけで。
 それが発見第一号なら、人類はどう扱っただろう?
 前の自分は問答無用で撃たれたけれども、それは機械を壊したから。看護師が「殺さないで」と叫んだくらいに、危険すぎるサイオンを持っていたから。



 そういうミュウでなかったら。タイプ・ブルーではない普通のミュウなら、前の自分はどういう道を辿っただろう。…成人検査を通過し損ねた後は。
(あそこの施設で観察なのかな…?)
 研究所ではなく、成人検査のために出掛けた施設。成人検査をやり直すケースがあった以上は、その子供たちを待機させる部屋もあったろう。前の自分もミュウと断定される前なら、その部屋に留め置かれた筈。養父母の家には帰せないから。
(その部屋に入れて、様子を見るとか…?)
 特に危険が見られないなら、そういうことになるかもしれない。人類が初めて目にするミュウ。それはどういう生き物なのかと、社会には出さず、ただ観察をするだけで。
(ただの子供で、思念波だって…)
 相手が思念波を持たない人類ばかりだったら、わざわざ使いはしないだろう。成人検査を受ける前には、そんな力は持たない子供だったから。人類と同じに言葉で会話していたのだから。
(人体実験をする価値、無いよね…?)
 普通のミュウに生まれていたなら、どうなるのかな、と考えていたら、聞こえたチャイム。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、一気に引き戻された気分。大恥をかいた授業の時間に。
 だからハーレイとテーブルを挟んで向かい合うなり、まずは授業の話。
「今日のハーレイ、凄かったね。手を上げろ、って」
 ビックリしたけど、流石ハーレイだと思ったよ。本を読んでた生徒に気が付いちゃうんだから。
 それにサイオンで隠そうとしたの、隠すよりも前に見破ったしね。
 本を没収しちゃったじゃない、と褒めたハーレイの勘の鋭さ。きっと武道で鍛えたお蔭で、身についたものだと思うから。…サイオンなどとは無関係に。
「そう言うお前は、大いに間抜けだったがな」
 俺の授業中に上の空とは恐れ入ったぞ。俺に見惚れていたなら許すが、違うようだし…。
 ボーッとしていて質問さえも聞いてないんじゃ、考え事っていう所だろ?
 いったい何をやっていたんだ、今日のおやつが気になってたのか、晩飯なのか?
 少なくとも俺のことではないだろうと踏んでいるんだがな…?



 俺が関係していたのならば、もっと真っ赤になる筈だ、というのがハーレイの指摘。同じように真っ赤になっていたって、教科書さえも取り落とすほどに慌てるだとか。
「どうなんだ、おい? 上の空だったお前の頭の中身は…?」
 お母さんが焼くケーキのことか、とハーレイはまるで気付いていない。前の自分と今の自分の、あまりにも違いすぎる能力の差に頭を悩ませていたのだとは。
「それなんだけど…。ママのケーキとか、晩御飯は関係ないんだってば」
 関係があるのはハーレイの授業で、授業って言うより「手を上げろ」の方…。
 ハーレイに本を没収された子、サイオンで本を隠そうとしていたけれど…。ぼくの席からだと、よく見えたんだよ。手を上げたままで、サイオンで本を運ぶのが。
 隠す前にハーレイにバレちゃってたけど、あれって絶対、常習犯だよね。パニックになったら、サイオンは上手く使えないから。…「バレちゃった」って慌てていたんじゃ、絶対に無理。
 それで、とっても感心してて…。今のぼくって、サイオンがうんと不器用だから。
 前のぼくとは違うよね、って考えてたんだよ、あれから後も。
 ハーレイが本を没収しちゃって、「瞬間移動なら現場を押さえにくい」って言った後もね。
 今のぼくだと、瞬間移動は無理だから…。タイプ・ブルーだから出来る筈なのに…。
 不器用すぎて出来ないもの、と項垂れた。それが自分の考え事で、上の空になっていたのだと。
「瞬間移動は無理だ、って…。お前、そんなの気にしてたのか?」
 そいつが今のお前ってヤツで、俺はすっかり慣れちまったが…。前のお前とは違うよな、と。
 不器用なお前も可愛いもんだし、悪くないと思っているんだが…?
 今度こそ守ってやれるからな、とハーレイは言ってくれるけれども、授業の時は違ったから。
「でも…。ハーレイも、クラスのみんなも笑うんだもの…」
 ぼくのクラスには瞬間移動が出来る生徒はいない、ってトコで。…名簿にはちゃんと書いてあるでしょ、クラスのみんなのサイオン・タイプ。…タイプ・ブルーのぼくがいることも。
 タイプ・ブルーなのにカッコ悪いよ、って思ってた間に当てられちゃった…。ハーレイに。
「おいおい、理由は分かったが…。それにしたって、授業中だぞ」
 考え事と余所見は良くないってな。いくらお前が優等生でも、授業は聞かなきゃ駄目だろうが。
「うん…。それは分かっているけれど…」
 だから真っ赤になっちゃったんだし、大恥だってかいたんだけど…。



 それでね、とハーレイにも話してみた。さっき自分が考えていた、別の話を。
 前の自分が普通のミュウに生まれていたなら、どうだったろう、と。
「…普通のミュウだと?」
 タイプ・ブルーじゃないって意味なのか、前のお前のサイオン・タイプが。…攻撃力が無い他のタイプで、俺みたいなグリーンとか、エラみたいなレッドとか、そういうことか…?
 まあ、イエローでも必死になれば凄いわけだが…、とハーレイが挙げるサイオンの力。ごくごく普通のミュウの場合も、追い詰められれば反撃する。でないと死んでしまうのだから。
 そうした時の力が強いのがイエロー、けれど普段は大人しい。自分から攻撃したりはしないし、あくまで反撃するというだけ。自分の方から仕掛けてゆくのは、タイプ・ブルーしかいなかった。
 前の自分は、不幸にもそれに生まれただけ。一番最初のミュウだったのに。
「…そうだよ、不器用なタイプ・ブルーっていうわけでもなくて、ホントに普通」
 そういうミュウなら、成人検査用の機械を壊していないだろうから…。
 記憶を消されそうになって叫んでも、攻撃力が無いんだものね。殺されそうなら反撃したって、そこまではされていないんだから…。泣き叫ぶくらいが関の山だし、思念波だけでしょ?
 そしたら出るのはエラーくらいで、機械は壊れはしなくって…。
 最初の間は成人検査のやり直しとかで、その内に、ぼくがミュウだってことが分かっても…。
 前のぼくの時みたいに撃ち殺そうとしたりはしないで、暫く観察になるのかな、って…。
 ミュウはどういう生き物なのか、部屋に閉じ込めて様子を見るとか。
 どう思う、と尋ねてみたら、ハーレイは「ふむ…」と顎に手を当ててみて。
「その可能性は大きいだろうな。殺さなきゃいけない理由が無いし…」
 前のお前の場合だったら、殺さなければ殺される、と考えて撃って来たんだろうが…。
 お前が何もしないとなったら、観察したくもなるだろう。初めて発見されたミュウだし。
 俺たちが成人検査を受けた施設に足止めじゃないか、外の世界には出せないからな。成人検査をパスした子供が行ける場所には送り出せない。…ミュウである以上。
 ならば、あそこの施設が一番妥当だろう。かなり大きな建物だったし、一度目の検査で不合格になった子供たちを待機させておく部屋だってあっただろうしな。
「やっぱり…?」
 いきなり檻に入れるんじゃなくて、普通の部屋が待っていたのかな…。普通のミュウなら。



 ハーレイもそう考えるのなら、有り得たかもしれない別の人生。前の自分がタイプ・ブルーではなくて、他のサイオン・タイプだったら。…攻撃力が無い普通のミュウなら。
「…部屋に閉じ込めて観察だけなら、もしかして、人体実験も無し?」
 ミュウだってことがバレてしまっても、何も出来ないミュウなんだから…。
 頭の中身を無理やり調べてみたって、考えてるのは御飯のこととか、そんなのばかり。役に立つことは何も入っていなくて、普通の人間と変わらなくって…。
 それに機械を壊すことさえ出来ないミュウだよ、人体実験をする価値なんて無さそうだけど…。
 下手にやったら死んじゃいそう、と前の自分を思い浮かべた。タイプ・ブルーだったからこそ、繰り返された過酷な実験。低温実験や高温実験、様々な薬物の投与なども。
 けれど、普通のミュウだったなら。…銃弾を受け止めることも出来ないようなミュウなら、酷い実験をすれば直ぐに死ぬ。虚弱に生まれついた身体は、頑丈に出来ていないのだから。
「実験か…。そいつも無かったかもしれん。…お前というミュウに害が無いなら」
 タイプ・ブルーじゃなかったんなら、人類の方も身の危険ってヤツを感じないからな。人類とは違う種族がこれか、と考えるだけで終わっただろう。まるで怖くはないんだから。
 前のお前がやったみたいに、成人検査の機械を壊してしまうとか…。銃弾を全部止めてしまって無傷だったとか、そんなのがあれば、ミュウを恐ろしいと思ったろうが…。
 そういったことがまるで無ければ、異分子が発生しただけのことだ。社会からは抹殺すべきものでも、社会に出さなきゃいいんだし…。
 どうやってミュウを退治すればいいか、それを慌てて考えなくてもいいからな。
 お前を閉じ込めておくだけで済むし、とハーレイの意見も似たようなもの。人体実験をする必要などは無くて、ミュウという生き物を観察するだけ。
「普通のミュウなら、そうなったかな…?」
 人体実験なんかはしないで、ぼくを閉じ込めておくってだけ。…出られないように。
「そうだったんじゃないか? なにしろ初めてのミュウだ」
 SD体制が始まる前にも実験室では生まれたと言うが、前の俺たちが生きた頃にはいなかった。
 そいつが目の前に現れたんなら、どんな生き物かを探ろうと考えはするんだろうが…。
 ミュウの特徴の思念波なんかも調べるだろうが、それも酷くはなかっただろう。
 実験というよりテストみたいなものかもしれんぞ、色々な質問をしてみたりしてな。



 人類にとって脅威にならない普通のミュウなら、閉じ込めておくだけで観察対象だった可能性。前の自分がやられたように、殺されそうにはならないで。
 酷い実験もされることなく、「ミュウというのはこういうものか」と研究者たちが眺めるだけ。たまにテストをされる時でも、機械を使った拷問ではなくて、言葉を使った質問だとか。
「…そっちだったら、前のぼく、幸せだったかも…」
 大人の社会に出られないから、不幸には違いないけれど…。閉じ込められたままなんだけど。
 それに記憶も失くしてしまって、パパもママも思い出せなくて…。
 自分の家が何処にあったかも、思い出せなくなっちゃって…。
 それでも、前のぼくより幸せ。人体実験なんかは無くって、檻じゃなくて部屋で暮らせるなら。部屋の外には出られなくっても、ちゃんとベッドや椅子があるなら…。
 幸せでも、チビだろうけれど。大人になれなかったショックか、「人間じゃない」って言われたショックで、ビックリして年を止めちゃって。
 …大きくなっても、いいことは何も無いんだから。…前のぼくほどじゃないけどね。
 心も身体も育つのをやめてしまいそう、と言ったらハーレイも頷いた。
「そうかもなあ…。いくら平和に暮らしていたって、お前、繊細そうだから」
 育っても何もいいことは無い、と気付いた途端に成長を止めてしまいそうではある。前のお前がそうだったように、チビのまんまで。…ミュウは誰でも、外見の年齢を止められるからな。
 そうやって成長を止めていたって、酷い目には遭わずに済んだだろう。…どういう仕組みで年を取らなくなっちまったかも、病院の検査の親戚くらいで終わっただろうな。
 定期的に血の検査をするとか…、というハーレイの読みは正しいと思う。思念波くらいしか力が無いなら、そのくらいしか調べる要素が無い。他の部分は人類と変わらないのだから。
「血液検査で済みそうだよね…。ぼくが育たなくなっちゃっても」
 後は食べ物を変えてみるとか、その程度。栄養がつくものを食べさせてみたら、育ち始めるかもしれないから。…栄養不足で育たないのか、って勘違いして。
「栄養不足か…。人類だったら思い付きそうなことではあるな」
 ミュウがすくすく育つためには、人類よりも沢山の飯が必要なんだ、という誤解。
 もっと沢山食べてみろ、と山のような量の飯をお前に食わせるだとか。量が沢山入らないなら、栄養価の高い食い物ばかりを与えるとかな。



 飯も美味くて好待遇か、とハーレイが笑う「もしも」の世界。前の自分がタイプ・ブルー以外のミュウに生まれていたなら、あったかもしれない別の人生。
 閉じ込められてチビのままでも、人体実験などは無い生活。研究者たちが観察するだけ、たまに検査をされるだけ。採血をしたり、思念波のテストをやってみたりと。
「お前がタイプ・ブルーでなければ、同じミュウでも、幸せに暮らせていたんだろうが…」
 前のお前の人生よりかは、遥かに恵まれていたんだろうが…。
 しかし、時間の問題だぞ。お前がのんびり暮らせる世界が終わっちまうのは。
 いつまでも平和に暮らせやしない、とハーレイが言うから驚いた。前の自分がチビのままでも、普通のミュウには違いない。人類にとって脅威になりはしないのだから。
「…どういうこと?」
 前のぼくは何もしたりしないよ、育たないだけで。…サイオンも強くなったりしないし、普通のミュウのままなんだから。…閉じ込めておけば充分なんだし、ぼくも文句は言わないし…。
 逃げ出そうともしない筈だよ、と首を傾げた。平和な日々が終わる理由が分からないから。
「簡単なことだ。…前のお前がタイプ・ブルーじゃなかったとしても…」
 前のお前みたいなミュウが、いずれ出てくる。危険なタイプ・ブルーのミュウが。
 そしたら、お前も檻に押し込まれて、平和な日々はおしまいだ。
 「ミュウは危険な生き物なんだ」と人類が思い知るからな。タイプ・ブルーが出てくれば。
 そうなればお前も同じミュウだし、のんびり飼ってはいられない。ミュウは纏めて檻の中でだ、チビのお前も檻に入れられちまうってな。
 無害なままで何年生きていようが、そいつは考慮されないぞ、と告げられた終わり。前の自分が普通のミュウでも、いつか終わりが来るのだと。
「そんな…! ぼくは、なんにもしていないのに…!」
 ずっと大人しく生きていたのに、それでも檻に入れられちゃうの…?
 危険なんか無いって分かってるくせに、ぼくまで檻に閉じ込められるの…?
「ミュウが進化の必然だったら、そうなるさ。…いつかはタイプ・ブルーが出てくる」
 そいつが来たなら、お前だけを特別扱いは出来ん。どんなに無害なミュウでもな。
 人類ってヤツは小さな子供も殺していたんだ、ミュウというだけで。
 そうなったのも、ミュウは危険だと分かったからだろ、アルタミラで滅ぼし損なっちまって。



 もっとも、檻に入れられたとしても、最初のミュウなら別扱いかもしれないが…、という話。
 他のミュウとは違う区画に入れておくとか、その程度の違いなのだけど。
 ただ、それまでは平和に暮らしたチビのミュウ。普通のミュウに過ぎない前の自分が、メギドの炎で燃えるアルタミラから無事に逃げられたかどうか…、とハーレイは首を捻っている。
 ミュウを殲滅しようとメギドが持ち出された時、何処のシェルターにいたかで分かれた運。命を拾った者たちもいれば、死んでしまった者たちも。
「お前が一番最初のミュウでも、きっと容赦はしなかったろうし…」
 今後の研究に役立てようと、連れて逃げたりもしなかっただろう。研究者どもは。
 そうなると、お前もシェルターに閉じ込められるわけだが…。そのシェルターの場所が問題だ。
 地震で壊れちまったヤツが幾つもあったろ、押し潰されたり、地割れに飲まれてしまったり。
 あんな具合に壊れたシェルターの中にいたなら、お前、自分を守れないぞ。
 タイプ・ブルーじゃないんだからな、と聞かされてゾクリと寒くなった背筋。のんびりと平和に暮らしたミュウなら、シールドも張れはしないだろう。張ってみたことも無いのだから。
 現にアルタミラで死んだ仲間は、皆、ミュウだったのに、自分を守れなかった。死が迫っても。
「本当だ…。ぼく、そんな場所だと死んじゃうよ…」
 シェルターごと潰されちゃった仲間みたいに、ぼくも死んじゃう。自分の身体を守る方法、何も分かっていないんだから…。
「俺と一緒のシェルターにいれば、俺が守ってやるんだが。…潰されないように」
 お前を見たならチビの子供だと思い込むから、俺の身体で庇ってやって。「こっちに来い」と。
 後は火事場の馬鹿力だよな。俺のサイオンが働いてくれれば、シールドも張ってやれるから。
 お前を守ってやらないと、という一念だけでシールドを張れれば、もう大丈夫だ。
 タイプ・グリーンの防御力ってヤツは、タイプ・ブルーに匹敵するしな、と話すハーレイなら、やり遂げてくれることだろう。地割れに飲まれてゆく中でも。上から押し潰されそうな中でも。
「きっとそうだよ、ハーレイと一緒」
 前のぼくが普通のミュウだったとしても、ちゃんとハーレイが助けてくれるよ。
 ぼくの力じゃ生きられなくても、ハーレイがいてくれるから…。
 同じシェルターの中にハーレイがいるよ、ぼくを助けてくれるためにね。



 きっとハーレイがいるんだから、と笑顔で見詰めた恋人の顔。前の生から愛し続けて、今もまた一緒に生きている人。…この地球の上で。
 そのハーレイなら、前の自分が普通のミュウでも、きっと助けてくれる筈だと思ったのに。
「どうだかなあ…。俺はお前を助けてやりたいんだが、俺の運命が許してくれるかどうか…」
 お前を助けてやることを、とハーレイが言うからキョトンと見開いた瞳。
「運命って?」
 ハーレイの運命が何だって言うの、ぼくを助けるのと、どう関係があるって言うの…?
「いや、俺は…。未来のソルジャーってヤツと一緒に、他の仲間を助けに行くのが俺だから…」
 前のお前とそれをやったろ、シェルターを端から開けて回って。
 だから、お前の他に未来のソルジャーがいるんだったら、俺はそっちに行くのかもな、と…。
 タイプ・ブルーのミュウが他にいるなら、そいつが未来のソルジャーだろうが。
「えーっ!?」
 そんなの嫌だよ、ハーレイが他の誰かと行ってしまうだなんて…。
 ぼくを助けてくれる代わりに、他の誰かと一緒に走って行くなんて…。
 そうなっちゃったら、アルタミラから脱出できても、ハーレイの側にはその人がいて…。
 ハーレイはその人を手伝うわけでしょ、ぼくの側にはいてくれないで…?
「俺だって嫌だ、そんな運命が待ってるのはな」
 お前と一緒に閉じ込められて、お前と一緒に逃げたいもんだ。…普通のミュウのお前でも。
 あの船じゃただのミュウの二人で、ソルジャーでもキャプテンでもなかったとしても。
 断然そっちの方がいい、とハーレイが口にした人生。二人揃って、ただのミュウ。
「ねえ、ハーレイ…。それって、とっても幸せじゃない?」
 ただのミュウ同士なら、恋人同士になっても平気。ずっと幸せに生きていけるよ、あの船で。
「まあな。幸せに生きてはゆけるんだろうが、その後のことが問題で…」
 平凡に生きて死んだだけだと、こうして生まれ変われるかどうか…。
 俺たちの絆はきちんとあっても、今の時代に、青い地球まで来られたかどうかが気になるな…。
「そっか…」
 二人一緒に天国に行って、それでおしまいかもしれないね。
 前のぼくが普通のミュウに生まれて、ハーレイもキャプテンにならなかったら…。



 やっぱりソルジャーでなくちゃ駄目かな、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前の自分は、その運命を生きるべきだったろうか、と。普通のミュウには生まれないで。
「…前のぼく、やっぱりタイプ・ブルーでなくちゃ駄目…?」
 とても酷い目に遭っちゃったけれど、あの人生でなくちゃ駄目かな…?
「多分な。こうして二人で、青い地球まで来るためには」
 前のお前が頑張ったお蔭で、今のサイオンが不器用なお前と、教師の俺が地球にいる、と。
 青く蘇った地球に二人で生まれて、一緒に生きてゆけるってわけだ。うんと平和に。
 いつかはお前と結婚できるし、いつまでも一緒なんだから。
 そうなるためにも、前の俺たちの人生はあれで良かったんだ、と言われたらそう思えるから。
 ハーレイと一緒に此処にいられる今がいいから、前の自分はあれでいい。
 ソルジャーとして生きた人生はとても辛かったけれど、ハーレイという人に会えたから。
 前のハーレイと恋をして生きて、今は二人で青い地球の上にいるのだから…。



            別の人生なら・了


※前の自分がタイプ・ブルーではなかったら、と考えたブルー。人体実験などは無いかも。
 人類が初めて目にしたミュウというだけ、観察対象で済んだ可能性。危険だと分かるまでは。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv













(確かに花には違いないけど…)
 ちっとも綺麗な花じゃないよ、とブルーが眺めた新聞記事。学校から帰って、おやつの時間に。
 一度は滅びて死の星だったのが、青く蘇った今の地球。遥かな昔にそうだったように。
 青い水の星が宇宙に戻って、「大抵の場所には花が咲きます」という記事だから飛び付いた。
 なんて幸せな時代なんだろう、と。
 平和になった今の時代は、花が何処にも無い時なんかは無い時代。地球はもちろん、他の星でもそうだろう。戦争などは何処にも無いから、武器の代わりに花がある時代。
(資源採掘用の基地でも、きっと誰かが育てているよ)
 緑の一つも無い所ではつまらないから、丈夫な植物。花が咲いたら楽しめるように。
 この地球のような惑星だったら、花屋さんの店先に溢れている花。家の庭で育てる花たちが眠る真冬にだって。
(地球の反対側は春だし、そっちから運んでくる花も沢山…)
 反対側まで出掛けなくても、赤道に近いほど暖かくなる。温暖な場所なら花が咲くから、其処で育った花たちも。それに温室で早めに咲かせて、店先に並ぶ花だって。
 とにかく花が絶えない世界。それだけでも素敵になったと前から思っていたけれど。前の自分が生きた時代より、ずっと豊かで幸せな時代だと思っていたけれど…。
(今の地球なら、南極でも花…)
 蘇った青い地球の上では、南極にも花が咲くという。文字通り地の果てになるのが南極、厳しい気候が支配する場所。死の星でなくても、植物たちが生きていくのは大変そうな場所なのに。
 けれど、其処にも咲くらしい花。今の時代は地球はすっかり青くて、緑を育てられるから。
(南極に花があるなんて…)
 いったいどんな花なのだろう、と心を躍らせたのに。雪と氷に覆われた大地、其処に咲くという強い花たちに夢を描いていたのに…。
 南極の花はたった二種類、それしか花をつけないという。他の植物には花が咲かない。
 「これが南極の花たちです」と添えられた写真、それを目にしたら零れた溜息。頭の中に描いた花とは、まるで違ったものだったから。
 ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ、南極に咲くのはその二種類だけ。おまけにとても地味な花。特にナンキョクコメススキの方は。



 しげしげと見詰めた二つの写真。南極の地面を彩る花たち。花と言われれば花だけれども…。
(こんなの、ススキじゃないんだから…)
 ススキはもっと綺麗だもんね、と思い浮かべたススキの穂。お月見の時に、ハーレイがススキを持って来てくれた。「今夜は中秋の名月だしな」と。
 煌々と輝く月を仰いで、庭でお月見。冴え冴えとした月にも見劣りしなかったススキ。もっともあれはススキの穂だから、花の時にはもう少し…。
(地味だろうけど、でもこれよりは…)
 ちゃんとススキに見える筈だよ、と眺めるナンキョクコメススキの花。何処となく稲に似ている花。けれど稲ほど立派ではなくて、まるで雑草。道端や庭の嫌われ者の。
 「また生えて来た」とヒョイと抜かれて、捨てられてしまう雑草の花。それの一つだと書かれていたって、きっと疑わないだろう。ナンキョクコメススキの花は。
 もう一つの花のナンキョクナデシコ、そちらもナデシコらしくない。ナデシコだったら、もっと花びらが目立つのに。花を見たなら「ナデシコだよね」と分かるくらいに。
 けれどナンキョクナデシコの花は、まるでナデシコに似ていない。その上、花もうんと小さい。これから咲くのかと思いそうなほど、控えめすぎる白い花。
(…ちょっとガッカリ…)
 せっかく花が咲くというのに、こんな花では見応えがない。咲いていたって、気付きもしないで通り過ぎそうなくらいに目立たない花。ススキも、それにナデシコだって。
(砂漠に出来る花園だったら、綺麗なのにね…)
 雨が降ったら生まれるという砂漠の花園。その花たちの写真もある。何も無い時の砂漠の写真も添えて、「花が咲いたらこう変わります」と。
 色鮮やかな砂漠の花たち、そちらは如何にも花らしい。見に行くツアーも人気だという。花園が生まれそうな季節に、砂漠がある地域に滞在する旅。雨が降ったら、砂漠に出発。
(砂漠の花園も、ヒマラヤに咲く青いケシの花も…)
 青い地球の上に生まれたからには、見てみたい気がするけれど。前の自分が焦がれ続けた、青いケシは是非、と思うけれども、南極の花は要らないかな、という気分。
 ハーレイといつか出掛けてゆくには、あまりにも地味な花だから。こんな所にも花があるよ、と眺める相手が雑草だなんて、旅に出掛ける甲斐が無いから。



 こんな花だとガッカリだしね、と新聞を閉じて戻った二階の部屋。勉強机の前に座って、頬杖をついて考える。さっき見て来た花たちのことを。
 今の時代もある南極。前の自分たちが生きた時代と、大陸の形は違うけれども。それでも地球の南の果てには南極大陸、雪と氷に覆われた世界。
(もっと素敵な花が咲くなら…)
 ハーレイと行ってみたいのに。「凄いね」と南極に咲く花を眺める旅に。
 一度は滅びてしまった地球。それが蘇って南極にまで花が咲くなら、ハーレイと二人で出掛けてみたい。母なる地球は豊かな星だと、きっと実感できるから。
 たとえ寒くても、雪と氷に覆われていても、かまわない。其処で逞しく生きる花たち、その花を見に行けるのならば。…寒すぎて風邪を引いたって。後で寝込んでしまったって。
(雪のシーズンだと咲かないのかな?)
 どうなんだろう、と思った南極に咲く花たち。二種類だけの地味な花たちが咲く季節。
 記事の写真には無かった白い氷と雪。たまたま写っていなかっただけか、違う季節に写したか。南極にも短い夏があるから、その頃に咲く花だとしても…。
(やっぱり地味…)
 雑草にしか見えないススキと、ナデシコらしくないナデシコ。もしもこの辺りで咲いたなら…。
(家の庭ならママが抜いちゃって、道端だったら誰かが抜いて…)
 きっとゴミだ、と断言できる。誰も愛でたりしない花たち。「雑草が生えた」と抜くだけで。
 雑草だって、綺麗な花を咲かせる種類があるというのに。庭の芝生のクローバーだって、雑草の内には違いない。広がりすぎたら芝生が駄目になるから、と抜いたり刈ったりするのだから。
(クローバーの方が、ずっと綺麗な花だよ)
 南極に咲くというススキとナデシコ、あれよりはずっと。白いシャングリラの公園にもあった、花らしい花がクローバー。
 それに比べて地味すぎるのが、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ。
 地球に焦がれた前の自分も、あれには焦がれなかっただろう。青い地球まで辿り着いたら、見てみたかった色々な花。スズランやヒマラヤの青いケシには夢を抱いていたけれど…。
 あんな花ではとても駄目だ、と思う南極の地味な花たち。前の自分が知っていたって、見たいと望みはしなかったろう。「何かのついでに行くことがあれば」と思う程度で。



 きっとそうだよ、と考える、前の自分が地球に描いていた夢。青く輝く星を見るのが夢だった。青い水の星に持っていた夢は、どれも素敵なものばかり。
(もっと綺麗で夢がないとね?)
 前のぼくの憧れになるのなら、という気がするから、南極に咲く花たちは無理。前の自分の夢のリストに加えて貰えはしない。いくら健気に咲いていたって、地味すぎるから。
 ヒマラヤの青いケシの花なら、天上の青だと思ったけれど。人を寄せ付けない神々の峰に、凛と咲く青いケシの花。地球に着いたら見に行きたいと、ヒマラヤまで空を飛んでゆこうと。
 スズランの花も欲しかった。五月一日には恋人たちが贈り合うから、ハーレイに贈ろうと夢見た花。希少価値が高い森のスズラン、自生しているスズランの花を探して摘もうと。
 そんな具合に描いた夢。沢山の夢を持っていたけれど、南極の花は夢見なかった。花が咲くとは知らなかったし、知っていたとしても、見に行きたいとは…。
(思わないよね、あんな雑草みたいな花じゃ…)
 わざわざ出掛ける値打ちが無いよ、と思っていたらチャイムの音。仕事帰りのハーレイが訪ねて来てくれたから、あの花を持ち出すことにした。ハーレイだって、夢が無いと思うだろうから。
「あのね、南極の花って知ってる?」
 南極に行ったら咲いている花。…地球の端っこみたいな所で。
「南極なあ…。咲くだろうなあ、花だって。…今の地球なら」
 前の俺が見たような地球だと、南極でなくても花なんか咲きやしないんだが…。あんな星では、花も緑も無かったんだが…。今なら花も咲くだろう。地球は立派に蘇ったから。
 南極で育つ植物に花が咲くんならな、と頬を緩めたハーレイ。「厳しい気候の場所だが」と。
「二種類だけ咲くって書いてあったよ、今日の新聞に」
「ほほう…。苔だけじゃないんだな。その様子だと」
 どんな花なんだ、俺は詳しくないからな。南極に出掛けたことも無いから。
 それに古典の舞台でもない、と言われた南極。古典と呼ばれる名作を書くには、確かに不向きな場所だったろう。人がのんびり暮らしてゆけるイメージはまるで無いのだから。
「それがね…。花なんだけれど、凄く地味なんだってば」
 ススキとナデシコらしいんだけど…。
 名前だけなら、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコって、立派な名前なんだけど…。



 南極って名前がついているだけ、と差し出した右手。「ぼくの心を読んでみて」と。
 サイオンが不器用な今の自分は、思念を上手く紡げないから。あの花たちの写真を直接、思念で送れはしないから。
「こんな花だよ、手を絡めたら見えるでしょ? …これだってば」
 夢が無いよね、と見せたイメージ。雑草みたいな二種類の花。ハーレイは暫くそれを見詰めて、手を離してから微笑んだ。それは穏やかに。
「確かに地味だな、ススキとナデシコとついてる割には」
 ススキはススキに見えやしないし、ナデシコだって同じ花とも思えないほど地味なんだが…。
 しかし夢なら詰まってそうだぞ、この花たちは。…お前は夢が無いと言ったが。
 この中に夢がたっぷりだ、とハーレイが言うから驚いた。前の自分の夢のリストに、入りそうもない花なのに。青いケシやら、森のスズランとは違うのに。
「…なんで? どう見ても雑草だよ?」
 前のぼくだって、憧れそうにないけれど…。南極の花だって聞かされたって、見に行きたいとも思わなくって。…綺麗な花じゃないんだから。
「そうだったかもしれないが…。その花が咲くのは南極だろう?」
「そうだよ、今の時代の地球の。南極大陸は今もあるしね、形は変わっちゃったけど…」
 地球の南極に行けばあるよ、と答えた花たちが咲いている場所。雪と氷が覆う大陸。
「其処だな、俺が言いたいのは。…夢が詰まっているというヤツ」
 青い地球が立派に蘇ったからこそ、その花たちも咲けるんだ。南極に行けば花が見られる。
 それも大切だが、南極って所はどういう場所だ?
 地味な花しか咲かない場所だ、というのは横へ置いてだな…。南極のことを考えてみろ。
 南極はどんな所なんだ、と尋ねられたから傾げた首。どの辺りが夢に繋がるのだろう、と。
「えーっと…?」
 何も無いよね、南極って…。うんと寒くて、雪と氷の世界だから。
 冬になったら真っ暗になって、太陽が出て来なくって…。逆に夏だと、昼間がうんと長くって。
 後はペンギンが住んでいるんだよね、皇帝ペンギンだったっけ?
 シロクマがいるのは南極じゃなくて、北極だったと思うから…。ペンギンくらい…?



 そういう場所でしょ、と今の自分が知っている南極のことを話した。遠い昔も、あまり変わりはしなかったろう。地球が滅びに向かうよりも前の、元の南極大陸だって。
「それで合ってはいるんだが…。今の南極はそんな具合で、ずっと昔も同じだな」
 人間が地球しか知らなかった時代は、観測所くらいしか無かった所だ。…南極ってトコは。
 あちこちに国があったというのに、南極だけは何処の領土にもならなかった。色々な国が観測に出掛けて、基地を作っていたらしいがな。
 しかし、それだけで終わっちまった。南極にだけは国境線を引かなかったんだ。そうしよう、と全部の国の間で決まったから。「南極は何処の領土にもしない」と。
 そういう決まりを作ってみたって、誰も反対しなかった。戦争だらけの時代だったのにな?
 土地があるなら占領したいし、其処で採れる資源なんかも欲しい。そいつを巡って争いばかりの時代だったのに、南極だけは違ったわけだ。何処も奪いやしなかった。
 それほど自然が厳しかったということだな。是非うちの国の領土に欲しい、と思ってみたって、管理するのも大変だから。雪と氷に覆われてるんじゃ、住むだけでも苦労するだろうが。
 兵隊だって逃げ出しちまう、とハーレイが軽く広げた両手。「寒いんだぞ?」と。
「そうだよね…。人類なんだし、寒くてもシールド出来ないし…」
 防寒具だって、そんな頃だと今よりもずっと落ちるから…。前のぼくたちが生きた頃より、まだ前の時代の話なんだから…。
 凍えちゃうよね、住んでるだけで。…建物の暖房が壊れちゃったら、それでおしまい…。
 中で凍えて死んでしまうよ、と震わせた肩。前の自分がアルタミラでされた低温実験、その時の寒さと恐ろしさを思い出したから。…強化ガラスに幾つも咲いた氷の花を。
「そうなったろうな。暖房器具は壊れてなくても、エネルギーの方が切れちまったら」
 食料も燃料も、他所から運んで行ったんだから。悪天候で補給出来なきゃ終わりだ、暖房設備が止まっちまって。…ありったけの服を着込んでみたって、まず耐えられはしなかったろう。
 そんな場所でも花が咲くんだ、ずっと昔から。
 地球が滅びてしまう前には、さっきお前が見せてくれた花たちが咲いていたってな。
 今の地球では、昔の通りに植物を植えているわけだから…。
 南極に二種類の花があるなら、そいつは元からあったんだ。滅びてなくなっちまう前には。



 ススキに見えないススキもそうだし、ナデシコだって…、と説明されなくても分かる。遠い昔も南極に行けば、あの花たちがあっただろうと。
(だけど地味だし、南極なんかは寒いだけだし…)
 前のぼくは憧れたりはしないよ、と思う南極の地味な花たち。夢は詰まっていそうにない。どう考えてみても、過酷なだけの南極大陸。アルタミラの地獄を思い出したほどの寒さだから。
(夢なんか、何処にも無さそうだけど…)
 誰も欲しがらなかった場所だよ、と不思議でたまらない「夢」のこと。何故、ハーレイは南極の花に夢があるなどと言うのだろう、と。
「…ハーレイ、夢は何処にあるわけ?」
 南極にも花にも、夢は少しも無さそうだけど…、と尋ねてみたら。
「慌てるな。ちゃんと順番に話してやるから」
 南極って所がどういう場所かは分かっただろう。今も昔も雪と氷で、とても過酷な環境だと。
 其処で立派に花が育って咲いてるわけだが、アルテメシアはどうだった?
 前の俺たちがいたアルテメシア、と問い掛けられた。「雲海の星のアルテメシアだ」と。
「え? アルテメシアって…」
 あそこは人が暮らしてたじゃない、育英都市が二つもあって。…アタラクシアとエネルゲイア。
 南極なんかとは全然違うよ、誰も凍えたりしなかったしね。家の中に籠っていなくても。
 でなきゃ育英都市を作りはしないよ、と答えたけれど。あの星は恵まれた星だったけれど…。
「人類が暮らしていた場所だったら、お前が言ってる通りなんだが…。それ以外の場所だ」
 育英都市の外は荒地だったぞ、あそこに花はあったのか?
 俺たちの船が飛んでた雲海の下は、何処でも荒地だっただろうが。あの荒地にも花はあったか、それをお前に訊いている。お前、あそこで花なんか、見たか…?
 前のお前は見掛けたのか、という質問。アルテメシアの荒地に花はあったのか。
「どうだったんだろう…?」
 あんな所には降りてないから、知らないよ。前のぼくは上を飛んでいただけ。
 ミュウの子供を殺す人類、あそこまでは出て来なかったから…。潜む必要だって無かったもの。
 あそこに花が咲いていたって、前のぼくは気付きもしないってば。
 降りて眺めることが無いから、どんな花が咲いていたってね。



 綺麗な花は無かっただろうと思うけど…、と思い浮かべたアルテメシア。
 二つの育英都市の外には、荒涼とした荒地だけ。あそこに花があったとしたって、美しい花ではなかっただろう。それこそ南極の花たちのような地味な雑草、その程度で。
「ほらな、お前も知らないわけだ。ついでに花を目にしちゃいない、と」
 あの時代には、俺も調べちゃいないがな…。あそこに花が咲いてたかどうか、そんな細かいことまでは。…調べても意味が無いもんだから。何の役にも立ちやしないし。
 データを集めてさえもいないが、しかし、今なら俺にも分かる。
 多分、花など無かっただろう。荒地の何処を探してみたって、花なんてヤツは欠片さえもな。
 育英都市は二つもあったが、テラフォーミングをしてあった所は都市だけだ。人間が暮らす都市部分だけで、山だって放ってあったんだから。岩山のままで。
 山を越えるな、という規則を作ったせいだけじゃない。…きっと面倒だったんだ。どうせ誰一人行きやしないし、外に出るのは限られた人間だけだったから。
 そんな所まで整備しなくても誰も困らん、といった具合で放っておいたというわけだ。
 ただ、そうやって放っておかれたアルテメシアの荒地って所。
 お前が言ってた南極に比べりゃ、遥かにマシな環境だろうと思わんか…?
 寒くもないし…、と言われればそう。アルテメシアの雲海の下は、雪と氷の世界ではなかった。荒れ果てた大地が広がる世界で、人間が住んでいなかっただけ。
(ペンギンも住んでなかったけれどね…)
 南極だったらペンギンだよね、と思った生き物。その生き物の影も、アルテメシアでは目にしていない。二つの育英都市の外では。
 いくら降りてはいないと言っても、いたなら気付きそうなのに。植物は動きはしないけれども、動物は動くものだから。「何か動いた」と、何かのはずみに。
「…南極よりかはマシそうだよね…」
 アルテメシアの荒地の方が、よっぽどマシ。寒すぎもしないし、雪と氷の世界でもないし…。
 だけど本当に荒地だったよ、生き物だって見なかったから。
 南極だったらペンギンがいるけど、あそこでは何も見てないんだもの。動くものはね。
 うんと小さなネズミとかなら、見落としたって不思議じゃないけど、それでも群れなら気付くと思う。何かいるな、って気配くらいは分かりそうでしょ?



 何もいない荒地だったみたい、と前の自分が見ていた景色を思う。
 雲海の下を何処まで飛んでも、生き物の影は無かった星。人類が暮らす育英都市に着くまでは。あそこで目にした動くものと言えば、二つの育英都市の間を移動してゆく車両などだけ。
(あれは人類が乗ってたんだし…)
 荒地で生きる動物ではなくて、其処を通ってゆくだけのもの。それ以外に動くものなど無かった不毛の大地。今の地球にある南極よりも、遥かにマシな環境なのに。雪も氷も厳しい寒さも、あの荒れた土地を覆い尽くしてはいなかったのに。
「前のぼく、生き物は何も見ていないけど…。花だってそれと同じかな?」
 ハーレイが無かったって言ってるみたいに、あそこに花は無かったのかな…?
 前のぼくが見てないだけじゃなくって、降りてみたって何処にも無くて。テラフォーミングしていないんだったら、何も植わってないままで…。
「そうじゃないかと思うんだが…。整備しなけりゃ、何も育ちやしないから」
 テラフォーミングした惑星の場合は、そうなっちまう。元は何も無い場所なんだしな。
 アルテメシアがそういう星でなければ、事情は変わっていただろう。最初から植物が育つ環境、そいつを持った星だったなら。
 あの荒地だって、今の地球なら岩砂漠ってことになると思うぞ。岩だらけの砂漠、色々な地域にあるというのは知ってるだろう?
 岩砂漠でも生き物はいるし、植物だって育つんだ。アルテメシアが地球のような星なら、荒地に似合いの植物が。…雲海が影響しないんだったら、うんとデカくなるサボテンだって。
 雲海のせいで湿度が高くなるなら、昔の地球にあったギアナ高地に似ていたかもな。
 岩の具合が少し似てるか…、とハーレイが笑みを浮かべるけれど。
「ギアナ高地って…?」
 それって何なの、今はおんなじ名前の地域は無いの…?
 今もあるなら、ハーレイ、そっちを挙げそうだものね。「知ってるか?」って。
「冴えてるな、お前。…生憎と今は無いんだよなあ、ギアナ高地は」
 新しい陸地が生まれたからって、何もかもが前と同じようにはいかないらしい。流石の地球も。
 ギアナ高地を名乗りたくても、同じ地形と条件の場所が何処にも無かったモンだから…。



 その名の通りに消えちまった、とハーレイが教えてくれた本。ギアナ高地を描いたもの。
 「失われた世界」というタイトルのそれは、紀行文ではなくて、想像だけで記された本。ギアナ高地に近付くことは、当時は不可能だったから。
「失われた世界、と名付けるほどだし、大昔のままの世界だと思われていたんだな」
 テーブルみたいな高い台地が、幾つも聳えていたらしい。切り立った崖で、とても登れそうにはないヤツが。見上げるような岩の壁だな。
 その上に行けば、恐竜が今も生きているんだ、という話まであって、「失われた世界」の中身はソレだ。そういう世界を探検してゆく、冒険物語といった所か。
 読んだヤツらが納得しなけりゃ、物語としては失敗なんだし、当時は信じて貰えたわけだ。あの場所だったら、恐竜がいてもおかしくない、と。
 長い長い間、誰も近付けやしなかった。ギアナ高地の名前ばかりが有名になって。
 それでも雨が多かったせいで、植物がとても豊富に茂っていたそうだ。やっと人間が辿り着いてみたら、恐竜がいる世界の代わりに豊かな緑。
 今の時代も、同じ地形が出来ていたなら、きっと再現したんだろうが…。
 残念なことに、何処を探してもギアナ高地に出来そうな場所は無かったんだ。失われた世界は、名前の通りに二度と戻って来なかった。
 だがな…。そんな具合に人間が眺めに出掛ける前から、ギアナ高地はあったってわけで…。
 この意味が分かるか、と尋ねられた。「人間は誰も見に行かないんだが?」と。
「んーと…。今までの話と関係があるの?」
 その質問、とキョトンとしたら、「大いにな」と返った返事。
「誰も見に来ちゃくれなかったんだぞ、崖を登って行ける時代が来るまでは」
 どんなに綺麗な花が咲こうが、緑がドッサリ茂っていようが、感動してくれる人間は来ない。
 それでもせっせと花を咲かせて、種を落として、次の世代を育て続けていたわけだ。人間の目は気にもしないで、いるかどうかも考えないで。
 南極にしても、それと同じだ。
 ギアナ高地は、恐竜がいると思われたほどだから暖かいんだが…。人間にとっては過酷な場所に出来ていたから、南極とさほど変わりやしない。「誰も来ない」という意味ではな。



 南極の花も、ギアナ高地の花も、人間のために咲いてはいない、と言うハーレイ。今の時代は、ギアナ高地は無いけれど。其処を描いた本のタイトルのように、失われた世界なのだけど。
「人間様がいようが、いまいが、関係ないのが地球って星だ」
 地球を滅ぼしたのは人間だったが、そうなる前は地球が全てを育ててた。植物も動物も、地球が生み出しては育てて来たんだ。
 そんな星だから、花たちだって何処ででも咲いた。南極だろうが、ギアナ高地だろうが。
 今の花たちは蘇った地球に植え直したヤツだが、昔の地球では人間なんかがいなくても咲いて、誰も来なくても咲き続けたんだ。地味な花でも、鮮やかな花でも。
 だから南極で生きている花も、立派に咲く。お前に「地味だ」と言われちまっても。
 しかし、アルテメシアじゃ何も咲いてはいなかった。…育英都市から出てしまったら。あそこに植物は生えていなくて、花だって咲いちゃいなかったんだ。
 その必要は無かったんだから、と言われれば分かる。前の自分が生きた時代の話なのだし、地球さえも死の星だったほど。他の星にまで、余計な手間はかけられない。
「…テラフォーミングは必要な部分だけ、ってことだね…」
 星全体に手を加えられるほど、人間に余裕が無かったから…。アルテメシアを丸ごと全部、緑の星にしてはいられないから。…技術もコストも、かかりすぎて。
 だから荒地に植物なんかは無かったんだね、とアルテメシアの岩砂漠を思う。人類が手を入れていなかった場所に、花は咲かない。元から種など無かったのだし、芽吹くことなど無いのだから。
「あの時代だから、それで当然なんだがな…」
 首都惑星だったノアは、地球のようだと思ったくらいに青かった。人類が最初に入植した星で、長い年月をかけて整備をしていたから。…だが、それ以外の星は何処でも中途半端だ。
 俺たちがナスカに降りた時にも、自生している植物なんかは影も形も無かったな。
 人類が破棄して、撤収しちまった後は、手が行き届かなくなって絶滅だ。せっせと育てただろう作物も、庭に植えてた木や花だって。
 雑草でさえも消えてしまっていたなあ、「何も無い星だ」と誰もが思った。
 トォニィが生まれた時に降った雨、あれで花園が生まれるまでは。…人類が植えた植物は全部、滅びたんだと思われていた。それまでは何処にも、何も見当たらなかったんだから。



 そういう時代に生きていたのが前のお前や俺たちで…、とハーレイは語る。人間が暮らす場所でだけ植物が育った時代。何処の星でも、人間のためにあった植物。
 育英都市が二つもあったアルテメシアも、けして例外ではなかった時代。都市を出たなら、もう植物の影は無かった。人類はそれを育てようともしなかったから。…そんな場所では。
「ところが、今の時代はだな…。人間様が行かないような場所にも花なんだ」
 ギアナ高地は消えちまったが、南極は今もあるってな。相変わらず厳しい気候のままで。
 其処に咲いてる花なんだから、地味でも別にかまわんじゃないか。お前が「地味だ」とガッカリしようが、花たちはまるで気にしちゃいない。そういう姿の花なんだから。
 ナンキョクコメススキも、ナンキョクナデシコも、ずっと昔から同じ姿で咲き続けてる。
 地球が滅びちまった時には、保存用の施設に移住するしか無かったろうが…。今は元通りの所に戻れて、南極で咲いているってわけだ。
 いいか、よくよく考えてみろよ?
 花たちは何のために咲くんだ、どうして花を咲かせるんだ…?
 お前に見て貰うためなのか、とハーレイに覗き込まれた瞳。「どう思うんだ?」と。
「…次の世代を育てるためだよ、花が咲かなきゃ種が出来ないし…」
 種以外で増える植物もあるけど、種で増えるのなら花が咲かなきゃ…。地味な花でも、ちゃんと咲かないと種が出来てはくれないから…。
 ぼくが見てるか見ていないかは関係ないよね、と落とした肩。どうやら自分は、南極に咲く花を誤解していたらしいから。過酷な場所でも咲いているだけで凄いのに。
「分かったか? 南極の花は、「見て下さい」と人間のために咲く花じゃないんだ」
 庭に植えて楽しむ薔薇なんかとは違う、本当の意味での花ってヤツだな。
 薔薇は人間が手を加えすぎて、自分の力じゃ子孫を増やせない品種も多いらしいから…。逞しく生きてゆくには不向きで、ひ弱になった花とも言える。
 本物の花は南極の花で、地味でも立派に咲いて子孫を増やすんだ。雪と氷の世界でも。
 まあ、ヒマラヤの青いケシだって、似たようなものではあるんだが…。
 今のお前が見に行きたくても、そう簡単には見られない。高い山でしか咲かないだけに、酸素も薄くて、登ってゆくのも息をするのも大変だしな。過酷な環境で咲くというのは似てるだろう。
 もっとも、あっちは、高い峠を越えてゆく人間は見ていたそうだから…。



 人間が行ける環境だったら、喜びそうな花が咲くのかもな、とハーレイは笑う。
 「神様も考えて下さっていたかもしれん」と。青い地球の上に花を作る時に、いつか見るだろう人間のことまで考えて。
「ヒマラヤの青いケシならそうだろ、高い峠を越えようとしたら咲いているんだから」
 よく頑張って此処まで来たな、と旅の疲れが癒えるように咲かせて下さった花。…果物みたいに食えはしないが、ホッと一息つけただろう。綺麗な花だ、と心が和んで。
 南極の花も、お前は地味だとガッカリしてるが、神様の御褒美かもしれん。
 地味な花でも、其処まで行こうって探検家たちには、喜ばれそうだと思わないか…?
 彼らは華やかな花には期待していなかったろう、と言われてみればそうかもしれない。雪と氷の大陸に行くなら、植物があるというだけでも奇跡。岩だらけの荒地ではなくて。
(…それに苔とか、そんなのじゃなくて…)
 曲がりなりにも花が咲くもの、雑草のような花だって。庭や道端に生えていたなら、雑草として引っこ抜かれそうな姿を持っているものだって。
「…そっか…。地球だからだよね、何処に行っても花があるのは」
 南極でも、今は無くなっちゃったギアナ高地っていう所でも。…人間は関係なかったから。
 神様が植物を作り出した時に、其処で育ってゆけるように、って色々なのを作ったんだから…。
 地味な花でも花は花だし、地球だから何処に行っても花…。
 テラフォーミングをしたわけじゃなくて、最初から植物が育っていける星だったから。
 それで人間が行ったことのない場所にも花があったんだよね、と遥かな昔に思いを馳せる。今はもう無いギアナ高地は、人間が其処に登る前から豊かな緑を育て続けた。…誰も来ないのに。
 雪と氷に覆われた世界、南極でも花が咲き続けた。南極を目指す探検家たちが、厚く凍った海を乗り越えて、大陸に足を踏み入れるまで。「花が咲いている」と驚く時がやって来るまで。
「分かったようだな、花があるってことの素晴らしさが」
 人間が手を加えなくても、何処にだって花があったのが地球だ。
 あんな崖はとても登れやしない、と見上げるだけだったギアナ高地でも、あまりの寒さに探検家さえも近付けなかった南極でも。
 そいつが昔のアルテメシアなら、育英都市から外に出た途端に、花なんか消えていたんだが…。
 雑草さえも生えはしなくて、荒れ果てた岩の砂漠が広がっているだけだったがな…。



 花がある場所を考えてみれば、夢もロマンもたっぷりだろう、とハーレイに教えられたこと。
 地味だと思った南極の花も、夢がたっぷり詰まっている。あまりに地味な花だったせいで、夢が無い花だと決め付けたのに。…ハーレイにもそう話したのに。
「…南極の花、夢が一杯なんだね…」
 前のぼくが最後まで行きたかった地球、あの頃は青くなかったけれど…。死の星のままで、花は何処にも無かったんだけど…。
 滅びる前の青い地球だった頃は、人間なんか行かない場所でも、いろんな花が咲いてたんだね。
 それから滅びてしまったけれども、今はまた青い地球があるから…。
 ギアナ高地は消えちゃったけれど、南極には今も花が二種類。昔のまんまのススキとナデシコ、ちゃんと今でも咲いてるんだね…。
 ススキにもナデシコにも見えないけれど…、と苦笑した。夢が一杯詰まった花でも、地味な姿は変わらないから。ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコは、見た目は雑草なのだから。
「そいつが少々、残念な所なんだがなあ…。南極の花は」
 ヒマラヤの青いケシの方なら、誰が見たって綺麗なんだが…。今も人気の花なんだがな。
 南極の花は、とんと知らんと思ったら…。あんなに地味では仕方ない。
 わざわざ花を眺めに行こう、とツアーを組むには地味すぎる。青いケシとか、雨の後に生まれる砂漠の綺麗な花園だったら、見に行くツアーも多いんだが…。
 あれじゃ無理だ、とハーレイも認める南極に咲く花たちの姿の地味さ。旅に出掛けて、この目で見たい、と誰もが夢見る綺麗な花とは違うから。
「そうだよね…。夢は一杯なんだけど…」
 ツアーの話は、新聞にも載っていなかったよ。砂漠に生まれる花園だったら、ちゃんとツアーがあるって書かれていたけれど…。
 季節になったら出掛けて行って、雨が降るのをホテルで待つ、って。
 ヒマラヤの青いケシの花だって、見に行くツアーがあるんだよね…?
 前にハーレイが言ってたみたいに、ヤクの背中に乗っかったりして山を登って行くツアー。
 だけど、南極のは無いみたい…。花を見に行くツアーなんかは。
 きっと南極ツアーだったら、花を見るよりペンギンだよね…。



 そっちの方が人気がありそう、と思った南極に行くツアー。地味な花より、可愛いペンギン。
 南極に咲く花の価値には、大抵の人はきっと気付きはしないから。…青い地球に焦がれた記憶を持っている今の自分も、「夢が無い」と思ったほどだから。
「…ねえ、ハーレイ。今の地球だと、南極にも花が咲くけれど…。昔の地球と同じだけれど…」
 他の星だとどうなってるかな、今の時代は?
 やっぱりテラフォーミングされた場所しか植物は無くて、人間が住んでる場所だけなのかな…?
 花や緑がある所は…、と訊いてみた。学校の授業では教わらないから、まるで知らない。
「俺もそれほど詳しくはないが…。アルテメシアなら、ずいぶん変わっているようだぞ」
 雲海の星なのは同じなんだが、もう荒地ではないらしい。…昔みたいな岩砂漠が減って。
 アタラクシアとエネルゲイアの他にも町が出来てるそうだし、それを繋いでる道路も出来た。
 前の俺たちが生きてた頃には、アタラクシアとエネルゲイアを結ぶ道路も無かったのにな…?
 機械が決めた規則が消えたら、色々と変わるものらしい、と教えて貰った今の雲海の星。荒地に生まれた新しい町や、町と町とを結ぶ道路や。
「…じゃあ、植物も増えたかな?」
 町や道路が出来たんだったら、その分、緑も増やさないとね。…町には街路樹も公園も要るし、道路にだって街路樹がありそう。
 アルテメシアにピッタリの木が…、と思った街路樹。あの星の上にどんな道路が走って、どんな街路樹が植わったろうか、と。
「そりゃ、植物も増えただろう。お前の言うような木だって増えるし…」
 人間が自由に行き来するんだから、町から離れた道路沿いにだって住んでいる人がいそうだぞ。前の俺たちがナスカでやったみたいに、岩砂漠の荒地を開墾して。
 車で走れば、驚くくらいに広い農場があるかもな。トウモロコシとかをドッサリ植えて。
 見に行きたいか、今のアルテメシアを…?
 あそこにはシャングリラの森もあるしな、と出て来た名前。白いシャングリラを解体した時に、移された木たちが植えられた森。今はどの木も代替わりをして、子孫になっているけれど。
「んーと…」
 シャングリラの森は、見てみたい気もするけれど…。
 でも、前のぼくが知っていた木たちは、とうに寿命で、今は子孫の木になってるしね…。



 どうしようかな、と考えたけれど、アルテメシアに行くよりは地球の方がいい。
 同じように旅をするのなら。
 植物があるかどうかを見に出掛けるなら、南極とか、砂漠の花園だとか。…どの花たちも、人がいなくても咲いていたもの。遠い昔から、この地球の上で。
 一度は滅びてしまったけれども、また蘇った青い地球。ギアナ高地は無くなったけれど、南極は今もあるのだから。…ちゃんと二種類の花が咲く場所が。
「アルテメシアまで旅行するより、南極がいいな」
「南極だって?」
 お前、ペンギンが好きだったのか、とハーレイが目を丸くするから、首を横に振った。
「ペンギンにも会ってみたいけど…。それよりも花を見に行きたいな」
 雪と氷の世界の中で、頑張ってる花を見に行くんだよ。南極って名前がついているけど、地味なススキとナデシコを。
 どっちもうんと地味だけれども、とても頑張って南極で咲いているんだから…。
 花を見に行くツアーも無いのに、ちゃんと毎年咲くんだから。人間が見てくれなくっても。
 それに砂漠に出来る花園、それも見に行きたいんだけど…。
 ナスカに生まれた奇跡の花園、前のぼくは見ていないから…。それの代わりに、今の地球のを。
 砂漠の花園みたいだったんでしょ、とハーレイの鳶色の瞳を見詰めた。前のハーレイの同じ瞳が花園を見た筈だから。…赤いナスカに生まれた奇跡の花園を。
「南極と砂漠の花園か…。俺たちの旅先、また増えるのか?」
 旅行の予定は色々とあるが、今度は南極と砂漠が追加されるってか…?
「…駄目…?」
「いや、いいが…。そいつがお前の夢だったらな」
 植物を見に行く旅もいいよな、前から約束してるのもあるし。
 ヒマラヤの青いケシを見るのと、森のスズランを探しに行くのと…。
 それから砂糖カエデの森だな、メープルシロップの材料になる樹液を集めるシーズンに。
 前のお前と約束していた旅も多いし、今のお前の夢が増えても俺は一向にかまわないから。



 南極と砂漠の花を見る旅も追加なんだな、とハーレイがウインクしてくれたから。
 「お前の夢を叶えてやるのが、俺の役目というヤツだ」と頼もしい言葉もくれたから…。
 いつかハーレイと結婚したなら、南極に咲くという地味な花たちを見に行こう。
 砂漠の花園も素敵だけれども、それにも心惹かれるけれど…。
(同じ花なら、ナンキョクコメススキとナンキョクナデシコ…)
 南極の地味な花がいいよね、と膨らむ今の自分の夢。ハーレイの話を聞いたお蔭で。
 二種類の花は地味だけれども、遠い昔から、人が見なくても咲き続けて来た花だから。
 蘇った青い地球だからこそ、昔の通りに南極で花を咲かせるのだから…。



             南極の花・了


※地味なように見える、南極の花。確かに地味な花なのですけど、咲く環境が凄いのです。
 荒地どころか、酷寒の場所でも花が咲くのが地球という星。それを考えると、夢が一杯の花。
←拍手して下さる方は、こちらからv
←聖痕シリーズの書き下ろしショートは、こちらv










Copyright ©  -- シャン学アーカイブ --  All Rights Reserved

Design by CriCri / Material by 妙の宴 / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]