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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「シャングリラ学園・番外編」の記事一覧

キース君の副住職の就任披露はそれは立派なものでした。お十夜の法要の方はお念仏がやたらと多くて私たちまで何度も唱和させられましたが、檀家さんたちは真剣そのもの。お坊さんたちも緋色の衣の会長さんを筆頭に居並び、荘厳で…。
「うーん、まだ肩凝りが治らないや…」
痛いんだよ、とジョミー君が肩を擦っているのは翌日の放課後。明後日から中間テストですけど、特別生には無関係とあって今日も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でのんびりです。
「法衣を着ただけで肩凝りだと? ろくに仕事もしなかったくせに」
修行が足りん、とキース君が言えばサム君が。
「だよな、俺は手伝わせて貰ったけどさ…。ジョミーは下手に手伝うとボロが出るから最初から最後まで座ってたもんな」
「それでも肩が凝るんだよ! 周りはみんなお坊さんだし、一番端っこの席って目立つし!」
正座を崩す暇すら無いよ、と嘆くジョミー君が座っていたのは末席でした。なんと言っても下っ端ですから、檀家さんと違ってお坊さん専用の場所には入れますけど、それが限界。お盆の棚経や春のお彼岸のお手伝いなどで檀家さんに顔が知れているだけに、どうしても注目を浴びてしまうわけで。
「やっと法要が終わったと思ったら副住職の就任挨拶で正座のままだし、ホントに肩が凝ったんだってば」
「ついでに足も痺れたってか? あの後、立つのに苦労してたな」
キース君が可笑しそうに笑っています。
「その辺もお前の修行不足だ。何のために法衣を着ているんだか…。あれは普通の着物とは違う。上手く座れば衣の下で足を崩すのも可能なんだぞ」
「えっ、ホント? それ、どうやるの?」
「さあな? 俺みたいに年がら年中付き合っていれば自然と身につく技の一つだ。まあ、頑張れ」
「うー…。ブルーの家まで朝のお勤めに行くのは嫌だし、行っても衣じゃないみたいだし…」
ブツブツ呟くジョミー君は、キース君の副住職就任挨拶が済んで記念撮影という段になって立ち上がれずに悪目立ちしてしまったのです。他のお坊さんたちは勿論、檀家さんたちもすぐに立って移動出来たのに…。
「肩凝りに痺れ、大いに結構。それを教訓に頑張りたまえ」
会長さんがニッコリと。
「失敗を糧に成長するのも人ってヤツさ。それに御馳走は食べられたんだし、いいじゃないか」
「そりゃそうだけど…。なんか、頑張れって言われちゃったよ? 飴も貰った」
誰か知らないお坊さんに、とジョミー君が首を捻ると、キース君が目を見開いて。
「飴だって? ブルー、あんたは知ってたか?」
「うん、貰う所は見ていたよ。就任披露で挨拶していた人だろう? 君がお世話になった人だとかで」
「そうだったのか…。ジョミー、お前は幸せ者だな。早く道場に行った方がいいぞ」
「え? なんでそういう話になるわけ?」
飴玉を一個貰っただけだよ、と怪訝そうなジョミー君ですが。
「あの人は伝宗伝戒道場に行った連中に仏と呼ばれる人なんだ。住職の資格を貰いに行くアレだが、厳しいって話は何度もしたよな? その修行中に色々と優しくしてくれる」
キース君の言葉に会長さんが「それで仏か…」と応じると。
「風邪を引きそうなヤツを指導と称して暖房の効いた部屋に呼んでくれるとか、廊下ですれ違った時に袂から飴やチョコレートを出してコッソリ渡してくれるとか…。文字通り地獄で仏ってヤツだ」
「へえ…。じゃあ、君も恩恵に与ったとか?」
「いや、俺は断固固辞したクチだ。そしたら覚えがめでたくなって、知らない間に評判を広めて下さったらしい。お蔭で同期で道場に行ったヤツの中でもトップと認めて貰えたんだ。…たかが副住職の就任披露にお招きしても来て下さったし、本当にいいお人柄だぞ」
あの方が璃慕恩院にいらっしゃる内に道場入りをしておくべきだ、とキース君は力説しました。
「どうせなら仏がおいでの間がいいだろう? 暖房の効いた部屋と差し入れだぞ」
「…だけど道場まで最短コースで二年なんだよね? 鉄拳道場なら一年でもさ」
そんなの嫌だ、とジョミー君。仏と称されるお坊さんとやらが璃慕恩院にいらっしゃる間に道場入りは出来るのでしょうか? 会長さんの読みでは軽く百年はかかりそうですし、恩恵は蒙れないんでしょうねえ…。

それからの話題は昨日の宴会。アドス和尚が吟味を重ねた料理は絶品、しかも仕出しではなくて元老寺の調理場で作られた熱々だけに蒸し物や焚合せなどが最高で…。
「次に食べられるのは何年後かなあ?」
もう立ち直ったらしいジョミー君ですが、キース君は素っ気なく。
「まず五十年は無理だろうな。いや、親父がいるから早ければ二十年も有り得るが」
「そんなにかかるの?」
「宴会に相応しい行事が無いんだ。親父が年を取らない以上、俺が住職になることは無い。住職の就任披露ともなれば派手なんだがな…。それ以外で一席設けるとなると、緋色の衣になった時だ」
これがハードルが高いんだ、とキース君。
「緋色の衣は大僧正しか着られない。坊主で一番上の位だ。そこまで昇るのが大変で…。親父も頑張っているが、まだ紫だしな」
そういえば法要の時にアドス和尚が着ている衣は紫です。その上が緋色らしいんですけど、位が上がれば着られるものでもないそうで…。
「親父はともかく、俺の場合は年齢という壁がある。順調に行けば十年ほどで紫の衣を着られる位を貰えるんだが、紫を着ていいという許可が出るのは四十歳だ」
「「「えぇっ?」」」
「それまでは松襲で我慢しろとさ。…青紫のことだが、松という字に襲うと書いて『まつがさね』と読む。緋色の場合は七十歳が目安だからな、親父でもまだ二十年近くかかるんだ。ブルーは全く問題ないが」
えっと…。じゃあ、会長さんが高校生の外見で緋色の衣を着てるってことは、それだけで凄いわけですね? 見た目以上の年齢である、と分かる人には分かるんですから。法衣姿の会長さんに出会ったお坊さんたちが仰天するのも当然で…。知らなかった、と騒ぐ私たちに向かって会長さんは。
「素人さんだと仮装なのかと思うだろうけど、本職が見れば分かるんだよね。まずは着物の材質が違う。ついでに袈裟も格が違うし、ぼくの噂を知ってる人ならピンと来るわけ」
キースがそこまで辿り着くのは早く見積もっても五十年後、と会長さん。宴会はそれまでお預けになるみたいです。アドス和尚が緋色の衣をゲットした時に招待してくれるかもですけれど、知り合いの数が多いでしょうから、私たちは呼んで貰えない気が…。
「無理だろうねえ、サムとジョミーがそれまでにモノになるとは思えないから」
まずは法類が最優先、と会長さんは人差し指を立てました。
「お十夜にもお坊さんが沢山来ていただろう? 殆どの人が法類さ。法類っていうのは同じ宗派で密接な付き合いがあるお寺。親戚筋だと身附法類、お寺同士の御縁だったら寺附法類」
「「「ミツキ? …テラツキ?」」」
何の事だか良く分かりません。会長さんによれば法類同士は住職がお寺を空けねばならない時に代理を務めたりするらしく…。
「キースの就任披露がお十夜だったし、みんな自分のお寺のお十夜の日程をずらしてくれたみたいだよ。キースは本当に果報者だよね」
「…まあな。親父も最初は遠慮して別の日を予定していたんだが…。法類同士で飲みに行った席で「お十夜にやってみたかった」とポロッと零してしまったそうだ。そしたらアッと言う間に段取りがついた」
そういえば副住職の話を初めて聞かされた時、就任披露は「秋のお彼岸が終わった後にするから、その日は法事の予定を入れない」とキース君が言ってましたっけ。元々はお十夜じゃなかったんですね。
「うん、お十夜は後付けだよ」
会長さんがパチンとウインクをして。
「本当だったら次の日曜日の筈だった。ちなみにその日は、予定が空いたと分かった途端に法事の予約が入ったけれど…ね」
お寺は年中無休が基本。キース君も副住職になったからには今までみたいに遊べないとか…? 急に心配になった私たちですが、会長さんは。
「平気だってば、アドス和尚が頑張ってるし! 長髪を貫くような不肖の息子は脇役で充分。…そうだよね、キース?」
「そんな所だ。あんたの境地には遙かに遠いさ」
まだまだ普通の高校生だ、というキース君の答えに一安心。副住職の就任披露の宴会の御馳走は凄かったですけど、あれがキース君との最後の晩餐になってしまったら悲しすぎです~!

そうは言っても美味しかったお料理は記憶にバッチリ。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も参考にすると張り切ってますし、元老寺で宴会の機会は無くても会長さんの家で食べられるかも? それもいいね、と話していると…。
「本当に美味しかったよね、あれ。…キースのお父さんに感謝しなくちゃ」
「「「えっ?」」」
いきなり部屋に出現したのは紫のマントのソルジャーでした。昨日の宴会にソルジャーは招待されていません。シールドを張って紛れ込むことは可能だったかもしれませんけど、お料理はキッチリ人数分しか無かった筈です。それとも予備があったとか? ホテルの宴会なんかの場合は余分に作ると聞きましたけど…。
「…キース、君が招待したのかい?」
会長さんの問いに、キース君は即座に否定。
「招待するわけがないだろう! ブルーの存在は秘密なんだぞ。仮に正体を誤魔化すことが出来たとしても、招待客を選ぶ権限は俺には無かった」
「そうだよねえ…。でもって、料理は厳選された材料なだけに予備は作ってない筈なんだ。おまけに盗み食いが出来る場所でもないし…。ん? まさか料理をしている端からコッソリ掠め取ったとか?」
やりかねないよね、とソルジャーを見据える会長さん。
「数が決まっている焼き物とかは無理だろうけど、和え物なんかは摘めそうだ。どの辺を失敬したんだい、君は?」
「失礼な…。ぼくはきちんとお金を払ってお店のお座敷で食べたんだけど?」
「「「は?」」」
ソルジャーが何を言っているのか、全く理解不能です。昨日の宴会は元老寺のお座敷が舞台でしたし、お店の出る幕は無い筈ですが?
「分からないかな、料理人を派遣していたお店の方に行ったんだってば! この間から君たちが盛り上がっていたし、きっと美味しい料理だろうなぁ…って。それで予約してハーレイと二人で」
それは思い切り盲点でした。会長さんもポカンとしています。
「え、えっと…。あれはアドス和尚…いや、キースのお父さんの特注メニューで、一般客には出さない筈で…。少なくとも来年のこのシーズンまでは封印かと…」
老舗料亭とはそういうものだ、と会長さんがやっとのことで切り返しましたが、ソルジャーは喉をクッと鳴らして。
「そういう方針みたいだねえ? でも店をやっているのは人間なんだし、暗示は簡単にかけられる。情報操作もお手の物! ぼくとハーレイが二人で楽しく食べた記録は欠片も残っていやしないさ。あ、代金の方も調整済みだよ、お店に損はさせてない」
食べた分だけ儲かっている、とソルジャーは自信満々です。
「ハーレイと結婚したのはいいけど、シャングリラの中で二人で食事じゃつまらない。だからといって育英都市に潜入するのも何処か変だし、たまにこっちに食べに来るんだ。夜景が綺麗なスポットとかね。…ノルディのお勧めは外れないよ」
「今もノルディにたかってるって!?」
会長さんが叫びましたが、ソルジャーはクスッと笑みを零して。
「慰問活動と言って欲しいな。君がつれなくするものだから、ぼくが顔を見せただけでも大喜びさ。ぼくのハーレイとデートなんだ、と正直に言っても色々な場所を教えてくれるよ。…昨日の店の件でも同じで、食べたいと言ったらポンとお金を渡してくれたし!」
遊び人のエロドクターは「舞妓さんを呼ぶと楽しいですよ」と花代まで上乗せしたらしいです。
「でもね、ハーレイと二人きりの方がいいだろう? 舞妓さんなんかを呼んでしまったら、食べさせ合ったりできないしさ」
「「「………」」」
ソルジャーとキャプテンのバカップルぶりは健在でした。老舗料亭の贅を尽くしたお座敷なんかで、凝ったお料理をお箸で「あ~ん♪」。女将さんとか仲居さんとかがウッカリ目撃してしまってたら、お気の毒としか言えませんです…。

「それで? 君は何しに来たんだって?」
バカップル自慢じゃないだろうね、と会長さんのソルジャーを見る目が据わっています。喋りまくっていたソルジャーの前には栗のエクレアのお皿と紅茶が置かれていますが、それは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出したもの。会長さんの顔には「早く帰れ」とデカデカと書いてあるような…。
「あ。そういえば忘れてた」
ウッカリしてた、とソルジャーがキース君の方へ視線を向けて。
「お祝いを言いに来たんだよ。…副住職就任、おめでとう。頑張ったよね」
「は?」
あまりにも意外な言葉に目を丸くするキース君。そこへソルジャーが差し出したのは水引が掛かった箱でした。黒と白の水引ですけど、法事でも頼むつもりでしょうか?
「…なんだ、これは?」
「えっと、お祝いなんだけど…。ぼくとハーレイから心をこめて」
「………。あんたの世界ではお祝い事にも黒白なのか?」
文化の違いが大きすぎる、とキース君が呟けば、ソルジャーは。
「ぼくの世界じゃ贈り物にはリボンだよ。水引は無いね。…だけどこっちじゃ水引らしいし、ノルディに訊いたら「お寺さん宛には黒白ですよ」って」
そうだったのか、と納得しかけた私たちですが、遮ったのは会長さんです。
「お祝い事には紅白だってば、お寺でもね。…ちゃんと確認しなかっただろう、ノルディには?」
「え? う、うん、お坊さんに物を渡す時にはどうするんだい、って尋ねただけで」
「…そのせいだよ…。法事をする時のお供え物はお寺の分も用意する。それに水引をかけるなら黒白。お坊さんに渡す御布施も黒白。お坊さんの所へお祝いに行くっていうシチュエーションは普通は滅多に無いからねえ…。ノルディが勘違いしたのも無理はない。知識としては知ってる筈だよ、お祝い事には紅白って」
無駄に長いこと生きてるから、と会長さんが指摘すると、ソルジャーの姿がパッと消えたではありませんか。もちろん箱も残っていません。
「…何だったのさ?」
おやつも食べずに帰っちゃったよ、と会長さんが部屋を見回し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「帰るって言ってくれたら、エクレア、箱に入れたのに…。お代わり用に紫芋のも作ってあるのに…」
ちょっと残念、と小さな手がソルジャーのお皿を片付けようとした途端。
『すぐ戻るから置いといて!』
飛び込んできた思念はソルジャーのもので、私たちの頭上に『?』マークが飛び交います。ソルジャーは何処へ行ったのでしょう? と、部屋の空気がユラリと揺れて。
「ごめん、ごめん。大急ぎで直して貰ってきたよ。…改めて、副住職就任おめでとう、キース」
はい、とソルジャーがキース君の前に置いた箱には紅白の水引が掛かっていました。
「…本当に俺宛だったのか?」
「そうだよ、間違えてしまってごめん。デパートで包み直して貰ったんだ。包んで貰ったのもデパートだったし」
えっと。ソルジャーの衣装は紫のマントの正装ですけど、その格好でデパートに? まさか、まさか…ね…。私たちの目線に気付いたソルジャーはクッと笑って。
「この服かい? その辺はちゃんと誤魔化してるさ。…それよりも、これ」
開けてみてよ、と促すソルジャーに、キース君が警戒の色を露わにしつつも水引と掛け紙を外すと、出て来た物は桐の箱。何が入っているんだろう、と全員がキース君の手元を覗き込む中、蓋が取られて…。

「「「!!?」」」
箱の中身は数珠でした。水晶とかの石ではなくて渋い木製、紫の房が付いています。
「ぼくとハーレイの手作りなんだよ」
得意そうに胸を張るソルジャー。
「ハーレイは木彫りの趣味があるからね。珠は百八、ちゃんと数を調べて作ったさ。ハーレイが大まかな形を彫り上げて、ぼくがサイオンで綺麗な球体に整えて…。ついでに文字も入れたんだけど」
「「「…本当だ…」」」
数珠の珠には細かい文字が彫られていました。なんでも百八の煩悩とやらを一つの珠に一個ずつ刻んであるのだそうで。
「ぼくの世界にも資料は揃っているんだよ。だけど意外なヤツが煩悩なんだねえ、睡眠はともかく愛まで含まれてしまうなんてさ」
ぼくもハーレイも煩悩まみれってことじゃないか、とソルジャーは不満そうですけれど、何かと言えば大人の時間でバカップル三昧のくせに煩悩まみれじゃないとでも? でもまあ、キース君のために手作りの数珠というのは凄いです。水引だって直して来ましたし、大真面目なのは間違いなく…。
「親玉は水晶にしといたよ。そっちはハーレイの腕じゃ無理だし、ぼくがサイオンで加工した。ただ、最後に数珠に仕上げるのだけが、どうにもこうにもならなくて…。そこだけ、こっちの世界のプロにお任せしたんだけどね」
ソルジャーは念珠店……いわゆる数珠の専門店に出掛けて行ったみたいです。紫の房もお店のチョイスらしいのですけど、それ以外のパーツは全てソルジャーの世界のもので。
「木と水晶なら別の世界から来たヤツだって分からないだろ? 本当に使うかどうかはともかく、ぼくとハーレイからの気持ちをこめてプレゼントするよ。…高僧になれるように頑張って」
「あ、ああ…。有難く頂戴する」
キース君が数珠入りの箱を押し頂くと、ソルジャーは。
「本音を言えばね、思い出した時に使ってくれると嬉しいな。…ぼくの世界では大勢のミュウが殺されちゃったし、今この瞬間にも何処かの星や実験施設で抹殺されているかもしれない。弔ってくれる人が誰もいないのは悲しいからさ、別の世界とはいえ本職が祈ってくれるといいな、って」
「…そうだったのか…。だったらこれは使わないとな」
でなければ坊主失格だ、とキース君は数珠を箱から出すとスッと両手にかけ、慣れた手つきでジャラッと鳴らして。
「作りたての数珠というのは硬いんだ。糸が馴染んでいないんだな。何度も繰り返して使う間に柔らかくなっていくから使い込んだ数珠はすぐ分かる。…あんたとキャプテンが仲間を思って作った気持ちを疎かにすることは俺には出来ん。約束しよう、今日から一日に一度はこれを使うと」
親父に文句は言わせないさ、と数珠を再び箱に仕舞うキース君に、会長さんが。
「ぼくからのプレゼントだってことにしておけばいいよ。それなら堂々と使えるだろう?」
「それはそうだが…」
「大丈夫。君が普段に使ってる数珠よりも素材が劣る、と言いたいんだろうけど、銀青からのプレゼントだよ? お念仏を唱えれば人は等しく極楽に往生できるんだ。人間が皆、平等なのに、数珠の素材はそうではないと? 草木国土悉皆成仏…ってね」
最近は山川草木悉皆成仏と覚え間違えてる一般人も多いけど、と会長さん。
「「「ソウモクコクド…?」」」
「シッカイジョウブツ。存在する全ての物質は同じであり、全てに仏性が宿る。残念ながら仏典には載っていないんだよねえ、これ。この国の造語さ。…だけど考え方は正しいと思う。数珠の素材に優劣は無いよ。…キース、もしもアドス和尚が文句をつけたらそう言っておいて」
「分かった。…あんたの教えまで貰ってしまうと更に重みが増してくるな。サイオンを持った仲間の供養か…。なまじ世界が分かれている分、責任の方も倍増だ」
俺の力ではまだまだ届かん、とキース君は修行を積む決意を固めた様子。ソルジャーの世界を覗く力はタイプ・ブルーの会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」しか持っていません。それほど遠く離れた世界に向けて読経三昧とは、キース君、いつか会長さんと肩を並べる偉いお坊さんになれるかも…?

キース君に手作りの数珠を贈ったソルジャーは、毎日のお勤めに使って貰えるということに決まって喜んでいるみたいです。年に一度でも出して貰えれば充分だと思っていたようで…。
「悪いね、キース。…ぼくは嬉しいけど、君には押し付けがましいプレゼントって形になっちゃって」
でも折角の機会だし、とソルジャーは蓋が閉じられた数珠の箱を指差して。
「お坊さんには数珠だろう? 副住職就任の話は聞いていたから、お祝いついでにお願いしようと思ったんだ。…ブルーが前から色々やってくれているけど」
「「「えっ!?」」」
「あれっ、知らなかった? ブルーの正体はお坊さんだって分かった時から頼んであるんだ、個人的にね。春と秋のお彼岸と、夏のお盆と」
「…適当だけどね…」
あくまでぼくの生活優先、と会長さんは苦笑していますが、キース君ですら頑張ろうと思う役目です。高僧である会長さんが手抜きなんかをする筈もなく、私たちの知らない間に真剣に読経しているのでしょう。そこにキース君が加わるとなれば、別の世界で亡くなった人でも救われるかもというもので…。
「ぼくとハーレイの分も宜しく頼むよ、いずれはね」
まだ早いけど、と軽く片目を瞑るソルジャー。
「地球を見るまでは死ねないさ。…此処も地球だけど、ぼくの世界の本物の地球。地球に着いたらソルジャーもキャプテンもお役御免だ。そしたら結婚するんだよ」
何のしがらみも無くなるから、とソルジャーは綺麗に微笑みました。
「今はまだシャングリラの要職同士だ、結婚となると何かと面倒。ぼくはそれでもいいんだけれど、前にも言ったとおりハーレイが…ね。だから結婚は肩書きがスッパリ無くなってから! こっちの世界じゃ神様も認めるカップルだけどさ」
誓いを破ると地獄落ちになるブラウロニア誓紙が裏に貼られているのがソルジャーとキャプテンの結婚証明書というヤツです。つまりブラウロニアの神様が認めたカップルなわけで…。
「地球に着いたら何処で結婚しようかな? なにしろ地球の情報が無くて…」
座標も掴めていないんだよ、と苦労話を口にしつつも、ソルジャーの地球への憧れと夢は大きくて。
「こっちの世界と同じじゃなくても、再生は果たしているんだからね。やっぱり地球で結婚するなら海が見える所が最高かな、ってハーレイと何度も話してるんだ。なんと言っても水の星だし、こっちで結婚したのも海の別荘だったしさ…」
自分の世界の地球に着くまでブラウロニア誓紙は大切に仕舞っておくのだ、とソルジャーは幸せそうでした。青の間には掃除嫌いで片付けが苦手なソルジャー対策で掃除部隊が突入することが多いらしくて、下手に隠すと見つかってしまう可能性大。それでキャプテンに預けたらしく…。
「ハーレイの机の引き出しの底を二重底にして隠したんだよ。あれがある限りウッカリ死ねない。ぼくたち二人に何かあったら、ハーレイの部屋も片付けられて発見されちゃう」
そうなる前に地球に辿り着いて結婚しなくちゃ、とソルジャーは至って真剣です。ちょっと動機が不純ですけど、バカップルが円満なのは良いことですから手を取り合って地球を目指して貰わねば…。
「ぼくたちが地球に着くのが先か、キースが高僧になるのが先か。賭けはしないけど、お互い、夢は実現させなくっちゃね。でなければ夢で終わってしまうし」
頑張ろうよ、とキース君の肩をポンと叩いてソルジャーは帰ってゆきました。もちろんエクレアの残りを詰め込んだ箱を持って、です。代わりに残された数珠入りの箱はキース君の肩には重そうですけど、副住職になった以上はお勤めの方も頑張って~!



 

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先生方とのモグラ叩き勝負が副賞だった水泳大会が終わると、次の行事は収穫祭に学園祭。盛りだくさんな二学期ですけど、どちらの行事もまだ先です。暦はしっかり秋だとはいえ、暑さが残る今の季節にそう言われてもピンと来ず…。セミだって未だに鳴いてますしね。
「うーん、いつまで暑いのかな?」
もうすぐ長袖になっちゃうのにさ、とジョミー君がカレンダーを眺めているのは放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋です。十月になれば衣替え。どんなに半袖気分であっても制服は容赦してくれません。
「ねえ、特別生には制服免除って制度は無いの?」
あればいいのに、とジョミー君が会長さんに視線を向けると。
「そんな制度は存在しないよ。…そもそも登校義務が無いんだからね、長袖が嫌なら休めばいい」
目から鱗とはこのことでしょうか。特別生になって四年目、その発想は無かったです。制服が気温と合ってない日はサボリだなんて…。ジョミー君もポカンとしています。
「まさか気付かなかったのかい? 登校義務が無いってことは休む時にも理由は要らない。長袖にピッタリの季節が来るまで休んでいたっていいんだよ。…学校側だって校則違反の服装をして来られるよりは休んでくれた方が嬉しいんだ」
「…そんなものなの?」
校則違反よりもサボリの方がマシなのか、とジョミー君が重ねて訊けば、会長さんは。
「そうだけど? 君たちが入学してくるずっと前にね、パスカルとボナールが厳重注意を受けている」
「「「えっ?」」」
パスカル先輩とボナール先輩といえば数学同好会の重鎮です。実はグレイブ先生夫妻と同期だという噂もあるほどの特別生の古参兵な二人が厳重注意を受けたとは何故に…?
「だから制服の話だよ。あの日は大雪が積もってねえ…。ぶるぅが中庭で大きな雪だるまを作るんだ、って張り切っててさ。ぼくの住んでるマンションがまだ無かった頃で、家の庭で雪だるまを作っても見てくれる人がいなかったんだよ」
今ならマンションの住人全員が見てくれるけど、と会長さん。そういえば雪が積もった日に会長さんのマンションに行くと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が庭や駐車場で雪遊びをしていることが多いです。あれは作品を披露するためでもありましたか! いえ、それよりも会長さんに一戸建てに住んでいた過去があったとは…。
「え、だって。あの頃の集合住宅ってヤツは今ほど快適じゃなかったしねえ…。ぼくが今の家に移ったのはさ、マンション暮らしが流行り始めてからなんだよ」
新しい物が好きなんだ、と会長さんは言ってますけど、本当でしょうか? あの部屋は二十光年の彼方を航行中のシャングリラ号とも連絡が取れる特殊な場所です。普通の一戸建てにそういう設備を置いておくより、住人をサイオンを持った仲間で固めたマンションの最上階の方が安心なんじゃあ…?
「まあ、そういう説もあるけどね」
私たちが口にした疑問に、会長さんはアッサリ頷くと。
「それは置いといて、雪だるまの話。ぶるぅが滅多に人前に出ない時代だったし、雪だるま作りで表に出る以上、期待してしまう生徒もいる。当時から不思議な力を持つマスコットとして知られていたしね」
「何処がパスカル先輩たちと繋がるんだ?」
分からんぞ、とキース君が突っ込みましたが、会長さんは意にも介さずに。
「話は最後まで聞きたまえ。ぶるぅが姿を見せる以上は、ぼくもセットで出るってわけ。だって、ぶるぅは子供だろう? 何かとフォローが必要だ。それで朝から中庭で雪だるま作りを見てたんだけど、そこにパスカルとボナールが来た。寒いからとドテラを羽織ってね」
「「「ドテラ…?」」」
「そう、ドテラ。いわゆる綿入れ。でもって一緒に雪だるま作りを見物してたらエラが通りかかって厳重注意。「寮の普段着を学校に着て来られては困ります」って凄い勢い」
エラ先生は今も昔も風紀の鬼。パスカル先輩たちはドテラを没収されてしまって防寒着を失い、その日は早退したのだとか。より正確に言えば朝のホームルームが始まる前に寮に逃げ帰ったというわけで…。
「だけど二人とも、お咎めは無しさ。ドテラなんていう校則違反なヤツを着込んで出席するより、欠席の方がマシだってこと。…君たちも衣替えの後に半袖で来るよりサボリの方をお勧めするよ」
「えっと…。そこまではまだ思わないかな…」
特別生でもヒヨコだし、というジョミー君の意見に私たちも賛成でした。制服が暑すぎるなんて理由でサボれるほどには年季を重ねていませんってば…。

「そうだ、年季で思い出した」
ひとしきり盛り上がった後でポンと手を打ったのは会長さん。
「キースが長年努力して勝ち取った住職の資格。副住職の就任許可はとっくの昔に出ていたけれど、就任披露が来月なんだよ。そうだよね、キース?」
「ああ、お十夜とセットでな」
「「「…オジュウヤ…?」」」
なんですか、それは? 首を傾げる私たちに、会長さんが。
「元々は旧暦の十月五日の夜から十五日の夜まで十日間ぶっ通しでお念仏を唱えるって行事。これをやると千日間お念仏を唱え続けたのと同じ功徳があるんだよ。でも最近は短縮されてて、三日間とか一日だけとか…。元老寺の場合は一日コースで新暦だから、今年は十月十四日なんだ」
えっと。それって大事な行事なのでは? ぶっ通しでお念仏では就任披露をやってる暇も無いのでは…? お坊さんの世界は分かりませんけど、そんな印象の行事です。お坊さんとしてデビューしているジョミー君とサム君も怪訝そうな顔をしてますよ?
「なあ、それってさあ…」
サム君が口を開きました。
「お十夜ってヤツは初耳だけど、一日中お念仏するわけだろ? そんな日に就任披露をするわけないよな、前の日だよな?」
十三日は土曜日だし、と壁のカレンダーを示すサム君。なるほど、それなら納得です。まずは就任披露を済ませて、その翌日にお十夜とかいう一大行事を行う、と…。でもキース君は首を左右に振って。
「いや、お十夜の日に就任披露だ。十四日ということになる。…ブルーに前から言われているから、お前たちも招待する予定だが」
「要らないし!」
即答したのはジョミー君です。
「それって檀家さんとかも来るんだよね? 初詣と春のお彼岸とお盆の手伝いやっちゃったから、絶対覚えられてるし! そんな所へ顔を出したらアウトだよ!」
「…とっくにアウトだと思うけど?」
会長さんがクスッと笑って割り込みを。
「元老寺の檀家さんにはしっかり覚えられてるよ。秋のお彼岸も手伝わせようかと思ったけれど、秋休みは無いから可哀想かなぁ、って見送った。お十夜の方も同じ理由で参加見送りのつもりでいたけど…」
「……つもりでいたけど……?」
何なのさ、と不安な気持ちが顔一杯のジョミー君に向かって、会長さんは。
「前言撤回、お十夜には君も参加したまえ。キースの副住職就任披露という大事な席を蹴るような弟子は性根が腐っているからね。根性を叩き直さないと」
「ちょ、ちょっと…。なんでそういう方向に!」
「自業自得と言うんだよ。本当だったらお十夜の後の就任披露と宴会だけで済んだのにねえ? はい、決定。師僧の言葉は絶対なのが坊主の世界だ」
「……嘘……」
愕然としているジョミー君を救おうという奇特な人はいませんでした。キース君は腕組みをして頷いてますし、サム君は「俺もお十夜に出席する!」と言い出しましたし、私たちに至ってはお坊さんの世界が分からない上、会長さんに逆らうなんて恐ろしいことは間違ってもやりたくないですし…。
「というわけで、十月十四日は全員予定を空けておいてよ? 御馳走を食べ損なってもいいんだったら知らないけどね」
「「「御馳走?」」」
会長さんが口にした御馳走という言葉に反応してしまった私たち。お十夜に出ろと言われて悄然としているジョミー君の耳も音を拾ったみたいです。ピクリと背中が動いた瞬間を会長さんが見逃す筈が無く。
「ふふ、ジョミーも御馳走と聞いたらやる気が出たかな? 副住職の就任披露ともなればアドス和尚が張り切るに決まっているだろう。宴会の料理を手掛ける店は君たちも聞いたことがあると思うよ」
「えっ、あそこですか? 本当に?」
凄いですね、とシロエ君が感動しています。マツカ君は御曹司だけに動じませんが、聞かされた店の名前は超一流。そこから料理人を呼んで厨房で作って貰うのだそうで…。
「アドス和尚が早くから献立を吟味してるよ、下手な料理は出せないからね。試食を兼ねて店にも何度か行ってるようだし」
「…俺も何度も付き合わされたが、親父とは趣味が合わないからな…」
料理は確かに美味いんだが、と苦い顔をするキース君。いったい何があったのかと思えば、アドス和尚は「せっかく料亭に行くのだから」と舞妓さんを呼ぶらしいのです。イライザさんも一緒に行っているというのに、そんな態度でいいんでしょうか?
「ああ、その辺は個人の趣味だよ。奥さんもいる席に舞妓さんや芸妓さんを呼ぶ人は珍しくないさ。呼ばれる方だってプロだからねえ、女性向けの話題もバッチリなんだ」
「………。さては、あんたも呼んだクチだな?」
上目遣いに睨んだキース君に、会長さんは「あ、分かる?」とパチンと片目を瞑ってみせて。
「フィシスと出掛けた時に何度も呼んでいるんだけどね、女性同士で気が合うようだよ。ぶるぅを連れて行っても子供向けの遊びをやってくれるし、その道のプロは凄いってば」
「かみお~ん♪ 舞妓さん、大好き!」
優しいお姉さんなんだ、と無邪気にはしゃぐ「そるじゃぁ・ぶるぅ」は会長さんの趣味に既に毒されているようです。会長さんでこの調子なら、アドス和尚が舞妓さんを呼んでしまうのは仕方ないとしか言えませんよね…。

そんなこんなで収穫祭を迎える前にイベントが一つ増えました。十月十四日は元老寺に行ってキース君の副住職就任披露に出席です。秋のお彼岸で忙しくしていた元老寺の行事が一段落した九月の末に招待状が届き、正式決定。会長さんはもっと早くに招待状を貰っていたようですけど…。
「ぼくは主賓ってヤツだからねえ」
招待客の中でも最上位、と得意げな会長さんも私たちも今日から制服が衣替え。ジョミー君が墓穴を掘った日には少し先のことだと思っていたのに、アッと言う間に長袖です。幸い、暑さはかなり和らぎ、会長さんが推奨していた「長袖で暑いのが嫌なら登校しない」という選択は頭を掠めもしませんでしたが。
「とりあえず暑さがマシになって良かったじゃないか。暑さ寒さも彼岸まで…ってね。さてと」
十月になったことだし、と会長さんが見据えた相手はジョミー君。
「そろそろお十夜に向けて勉強をして貰おうか。ああ、サムはいいんだ、もう勉強済み。ぼくの家まで朝のお勤めに来ているんだから、そのついでに…ね。お経もかなり覚えているし」
「お、お経って…。お念仏じゃないの?」
「確かにお念仏がお十夜のメインなんだけどさ…。それだけで終わると思ってたのかい? キースが送った招待状は見たのかな?」
あそこに予定が書いてあったよ、と会長さんは鋭く指摘。言われてみれば招待状と一緒に案内状が入っていました。副住職の就任式の時間だけを見て忘れてましたが、その前に法要という文字が…。
「いいかい、午後の1時から法要! 法要ってヤツがお念仏だけで済むわけがない。君は全く関心が無いから思い切り忘れているだろうけど、お盆の棚経みたいに短いヤツでも欠かせないお経はあるんだよ。同じ理屈で念仏三昧でもこれだけは、ってヤツがあるわけ」
覚えておかないと大恥だよ、と会長さんはジョミー君にお経の復習を始めるように言ったのですが。
「……えっと……」
「ん?」
「…何だったっけ、一番最初に唱えるヤツ…。お経も名前も出て来ないんだけど…」
「君はそこまで忘れたのかい!?」
棚経であれだけ仕込んだのに、と会長さんがテーブルに突っ伏しています。そうなる気持ちは私たちにも分からないではありませんでした。お盆の棚経を控えていた時にジョミー君とサム君が練習していた読経の声は今でも耳に微かに残っているのに、読んだ本人が忘れたですって…?
「ホントに覚えてないんだよ! 棚経でかいた汗と一緒に出ちゃったんだよ!」
絶対そうだ、と主張しているジョミー君の辞書には学習という文字が無いのかも…。会長さんは溜息をついて宙に一冊のお経の本を取り出すと。
「君には期待するだけ無駄という気がしてきたけどね、これだけは覚えておきたまえ。これと、これと……それから、これ」
最低限のお経だから、と印をつけたお経本をジョミー君に押し付け、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「今日はジョミーのおやつは無しで。…これからお経の練習をさせる。喉が渇くから飲み物だけを用意しておいて」
「かみお~ん♪ じゃあ、ジョミーの分はジャンケンで分けて貰えばいいね!」
チョコレートタルトに無花果を詰めたよ、と御機嫌な顔の「そるじゃぁ・ぶるぅ」。ジョミー君はガックリと肩を落としましたが、私たちはサックリ無視してジャンケン勝負を始めました。お経を忘れるお坊さんなんて、お師僧さんが会長さんでなければ蹴り出されているか、破門ですってば…。

翌日も、その翌日もジョミー君はおやつ抜きでした。最低限のお経とやらは頭に入ったらしいのですけど、お十夜の意味がどうしても覚えられないのです。今日も会長さんが指先でテーブルをコツコツ叩きながら。
「何度教えたら覚えるんだい? 門前の小僧とか言うけどね…。ひょっとしたらシロエやマツカの方がマシかもしれないよ。…どうかな、シロエ?」
「えっ、お十夜の意味ですか? 確かお経の中に十日十夜の間、善行を積めば他の仏様を千年拝むよりも効果がある、と書いてあるからお十夜ですよね」
「そのとおり。流石キースをライバル視しているだけのことはあるよね。お念仏を唱える由来の方もバッチリかな?」
「えーっと…。そっちもお経で、阿弥陀様の名前を唱えるお念仏を十日十夜の間続ければ阿弥陀様を見ることが出来て、極楽往生間違いなし…っていうので合ってましたっけ?」
ちょっと自信が無いですけれど、とシロエ君が答えれば、会長さんはパチパチパチと拍手して。
「完璧だよ、シロエ。…あーあ、ジョミーに君の才能があったなら…。なんであそこまで覚えないのか、情けなくって涙が出そうだ」
「ぼくだって涙が出てきそうだよ! 毎日毎日おやつ抜きだし、シロエと取り替えたらどうなのさ!」
もう嫌だ、と喚くジョミー君。
「破門でいいよ、破門してくれればいいんだよ! お坊さんなんかやりたくないのに勝手に弟子にされちゃって! ぼくを破門してシロエを弟子にすればいいだろ!」
「そう来たか…。残念だよ、ジョミー」
会長さんの沈痛な声に私たちは息を飲みました。まさかジョミー君、破門ですか? キース君が副住職に就任するというお目出度いイベントを迎える前に仏門から追われてしまうとか? ジョミー君には願ったり叶ったりかもしれませんけど、キース君の就任披露に思い切りケチが付きそうな…。
「お、おい、俺の就任披露が目前だぞ? 事を荒立てないでくれ!」
頼むから、とキース君が頭を下げると、会長さんは。
「心配しなくても大丈夫だよ、ぼくは極めて冷静だから。…君なら分かると思うんだけど、ぼくたちの宗派で歓迎されない育成コースは何処だっけ? 殴る蹴るは指導員の愛で、暴力沙汰ではないって所」
「…カナリアさんの修練道場のことか?」
「うん、あそこ。…手に余る弟子はあそこで鍛えて貰うしかないよね、残念だけど」
「なるほど、そういう流れなわけか…。それも一つの道ではあるな」
たった一年の辛抱だし、というキース君の言葉にジョミー君は真っ青です。
「な、なんなの、それ…」
「カナリアさんまで忘れたのか? 俺が修行に行ってた時に高飛びに誘いに来ただろうが」
みんなで焼肉を食べに行ったじゃないか、とキース君は楽しそうに。
「正式名称は迦那里阿山・光明寺。カナリアさんは通称だ。あそこには修練道場というのがあってな、そこで一年だけ修行をすれば住職の資格を取る道場への道が開ける。たった一年は魅力的だろう?」
「…で、でも…! さっき、歓迎されないって…」
「当然だ。あそこに入れば自分のスペースは一畳半だけ、プライバシーは一切無いぞ。来る日も来る日も読経と勉強と掃除だけして、失敗すれば指導員から鉄拳が飛ぶ。…あまりの過酷さに心の病になってしまって脱落するヤツもいると聞いたな」
「…そ、そんな…。破門の代わりに其処なわけ!?」
会長さんが深く頷いた次の瞬間、ジョミー君は思い切り土下座していました。
「ごめんなさい! 二度と破門って言いません! お経も真面目に勉強するから、道場だけは許して下さい、お願いです~!」
いきなり丁寧語になって謝りまくる哀れな姿は同情を通り越して滑稽としか言えません。会長さんに逆らおうなんて三百年以上早いんですってば、今更気付いても遅いですけど…。ここはしっかり気合を入れて、お十夜まで精進あるのみですよね。

破門の代わりに鉄拳道場を突き付けられたジョミー君は必死に努力し、明日はお十夜という土曜日も会長さんのマンションで読経三昧。当日の法要では法衣を着るので、法衣着用での最終練習が行われています。サム君も一緒にやっていますがキース君は明日の法要の準備で不在。
「かみお~ん♪ 晩御飯、出来たよ!」
キッチンに行っていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の元気な声で私たちは和室からダイニングに移動し、真鯛のスフレと牛頬肉の赤ワイン煮に舌鼓を打ちながら。
「えっと…。明日って御馳走なんですよね?」
シロエ君が尋ねれば、会長さんが。
「勿論だよ。キースが言っていただろう? アドス和尚が吟味を重ねたメニューが出るさ。ぼくも本当に楽しみだから、途中から覗き見はやめたんだ」
「それなんですけど、お十夜っていう大事な行事と宴会なんかを一緒にやってもいいんですか? 副住職の就任式を同じ日にやるっていうなら分かりますけど、宴会の方は顰蹙な気がするんですよね」
「へえ…。本当にシロエは真面目だね。ジョミーと取り替えたい気持ちが湧き起こるけど、師僧たるもの、一度取った弟子は最後まで面倒を見るというのがお約束だし…。うーん、選択を誤ったかなぁ…」
「いえ、ぼくなんか、とてもとても」
単なる頭でっかちですから、とシロエ君が予防線を張っているのが分かります。会長さん自身がこれ以上の弟子は面倒見切れない、と宣言したのはお正月のことでしたけど、あの時、シロエ君は本気で恐れていましたし…。けれど会長さんはクスッと笑って。
「心配しなくても弟子になれとは言わないよ。サムとジョミーが巣立った後に手が空いていたら勧誘するかもしれないけどさ、ジョミーの出来がアレだから…。きっと百年は手一杯」
早く肩の荷を下ろしたいよ、と大袈裟なゼスチャーをする会長さん。
「でもって、明日の宴会だけれど。…お十夜と副住職の就任披露を重ねるくらいは無問題! どちらもお寺の大事な行事だ。それにお十夜の後で宴会をするという習慣がある地域もあるよ」
「そうなんですか?」
「うん。檀家さんが大勢集まるからね、地元の集いで大宴会さ。…それに副住職の就任披露をお十夜という宗教行事に重ねてやるのはいい形だよ。檀家さんだって集まりやすいし、法要とセットで記憶にも残る。…アドス和尚は正統派なんだ」
副住職の就任披露を結婚披露宴にぶつけた人がある、という会長さんの話を聞いて私たちはビックリ仰天。結婚披露宴って、いったい誰の?
「本人のヤツだよ、副住職の。仏前結婚式をしてから披露宴っていう流れだけれど、その披露宴で副住職に就任しましたっていう報告を…ね。最近のお寺は進んでるんだ」
「「「…結婚披露宴で副住職…」」」
その披露宴は有難いのか、お目出度いのか、どっちでしょう? 会長さんは結婚式と披露宴に呼ばれて御馳走を食べてきたらしいんですけど、披露宴会場は立派なホテルでお料理はフルコースだったそうです。副住職の就任披露に結婚式とナイフとフォークのフルコース。世の中、ホントに広いとしか…。

そして翌日、ジョミー君とサム君は一足お先に元老寺へと出発しました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はタクシーのお迎えつきで、私たちは路線バス。バス停で降りて山門まで行くと、元老寺の紋が入った幕が飾られ、本堂などの建物には五色の幕が張られています。
「うわ、凄いですね。お彼岸の時と変わりませんよ」
シロエ君が山門を見上げ、マツカ君が。
「それだけ大事な行事なんでしょうね、お十夜って。…キースのお父さん、いい人ですよね」
こんな日に副住職の就任披露をするんですから、とマツカ君は感激しています。檀家さんも次々に本堂の方へと向かっていますし、お客様は多そうでした。そんなに大勢に御馳走しちゃって、アドス和尚のお財布の方は大丈夫かな?
「問題ない、ない。全員が宴会に出るわけじゃないよ」
「「「!!?」」」
バッと振り返った私たちの後ろに緋色の衣の会長さんが立っていました。今、タクシーで着いたそうです。隣には小僧さんならぬ紫の袴に金襴の着物姿の「そるじゃぁ・ぶるぅ」が…。これってどういう趣向ですか?
「ぶるぅかい? お稚児さんだよ、似合うだろ? 住職になる式の時だと稚児行列が出たりするけど、副住職では特にイベントも無いからねえ…。お十夜にお稚児さんが練るお寺もあるから、そっち絡みで着せてみたんだ」
せっかくの就任披露に花を添えてあげたいし、と言う会長さんは伝説の高僧、銀青様の貌でした。私たちを引き連れ、アドス和尚とイライザさん、それにキース君に副住職就任のお祝いの言葉を述べる時にも普段は見せない瞳の色が…。それはソルジャーとしての瞳の色。三百年以上の時の流れを見てきた瞳。
「おめでとう、キース。ついに元老寺の副住職だね」
「いや、まだだ。お十夜の法要を終えて檀家さんの前で挨拶をするまでは、ただのキースだ。…いや、休須だと言うべきか…」
自分からは一度も口にしたことがなかった『休須』の法名を自然に名乗っているキース君もまた、私たちの知らないキース君。お坊さんとしての修行を積んで、住職の資格を貰って、ついに元老寺の副住職に…。サム君とジョミー君が後に続く日は遙かに遠い、という気がします。
「なんだ、お前たち? 俺の顔に何かついているか?」
法要の用意があるからもう行くぞ、と軽く手を振って本堂に向かうキース君はいつもどおりの笑顔でした。会長さんも「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「法要が済んだら御馳走だよね」と楽しそうに言葉を交わしてキース君に続きます。
「キース先輩も会長も、なんだか別人みたいに見えませんでしたか?」
シロエ君の問いに私たちはコクリと頷き、会長さんたちを追って歩き始めました。もうすぐキース君が副住職になり、人を導くお坊さんとしての責任を肩に負うのです。
「ジョミー先輩やサム先輩も、さっきの二人みたいな顔をする日が来るんでしょうか…」
お坊さんって色々と達観してるんでしょうね、と呟いているシロエ君。それを悟りと言うのかも、と語り合いながら向かう先には本堂が…。もうすぐお十夜の法要です。キース君、副住職就任、おめでとう。お坊さんは毎日が修行だと聞きますけれど、緋色の衣の高僧を目指して頑張って~!



 

ついに開催となった水泳大会。シャングリラ学園自慢の体育館は更衣室の数も豊富です。全学年が一度に着替えても部屋もロッカーも余裕でした。スウェナちゃんと私はお肌に傷が無いか互いにチェックし、問題なしと判断してからクラスメイトたちと廊下へ出て行ったのですが…。
「やあ。ぼくも女子だし、よろしくね」
ニッコリ笑った会長さんにクラス中の女子の黄色い悲鳴が炸裂しました。会長さんは特例で男子用水着を着用ですけど、なにしろ普段は授業に出て来ませんから、水着姿は超のつくレアもの。携帯を教室に置いて来てしまった、と悔しそうな声も聞こえてきます。
「えっ、写真? 大丈夫だよ、広報部が何枚か撮ると思うし、欲しいんだったら希望者には実費で分けてあげるように言っておくけど?」
流石はシャングリラ・ジゴロ・ブルーです。普通は広報部から写真を入手なんて出来ないんですが、生徒会長の権限を振りかざすつもりなのでしょう。クラスメイトは大感激で「買いに行きます!」と瞳がキラキラ。あーあ、去年まではここまで派手じゃなかったのに…。
「御要望にお応えするのは基本だろ? ましてや女の子の希望とあれば…ね」
聞かなくっちゃ、と会長さんはパチンとウインク。またまた上がるキャーッという叫びに軽く手を振り、女子を従えてプールのあるフロアへ。既に閉鎖は解かれたらしく、扉が大きく開け放たれています。去年は入口に受付の机があったのですけど、今年は何も無いようですね。
「うん、無いね」
会長さんがスウェナちゃんと私、それにアルトちゃんとrちゃんに視線を向けました。
「どうやら今年は女子も男子も妙なアイテムは無いようだ。…だとすると純粋に競技内容で勝負かな? まあ、シンクロだったら特に道具は要らないけれど」
「「「シンクロ?」」」
即座に反応したクラスメイトたちに、会長さんは。
「噂だよ、噂。…シンクロって線もあるかもね、っていう…。あれならノーズクリップがあれば問題無いし、男子シンクロならそれも要らないし」
「えぇっ、男子シンクロなんですか?」
「きゃーっ、素敵かも!」
あれって憧れだったんですぅ、という声は一つや二つではありませんでした。あちこちの高校の学園祭なんかで人気ですから、我が校にも! と思う生徒がいても不思議じゃないのですけれど…。
「この声をジョミーたちに聞かせてあげたいねえ? きっと感激すると思うよ」
「「………」」
無責任な会長さんの声にスウェナちゃんと私は無言でしたが、アルトちゃんとrちゃんは他の女子たちと一緒になってキャーキャー叫んではしゃいでいます。キース君がいい、とか、ジョミー君もカッコイイかも、とか、当人たちが聞いたら嘆くこと必至な言葉が次々と…。
「…シッ、そのくらいにしておきたまえ。怖いのが来た」
会長さんが注意したとおり、プールの方から開け放たれた扉をくぐってやって来たのはゼル先生。
「こらぁ、いつまで騒いでおるかぁ! 通行の迷惑になっておるわい、早く入らんか!」
「すみません、ぼくの不注意です」
「またお前かいっ! ったく、女子にしておいてもロクな結果にならんのう…。特例なんぞ認めん方が良かったわい。女子用水着じゃったら大人しく隅っこにおったじゃろうが」
「「「女子用水着!?」」」
ゼル先生の爆弾発言に女子はまたまた大騒ぎ。ゼル先生はニィッと唇の端を吊り上げて。
「実はな、ブルーが本当に女子用水着を着ておった年があるのじゃぞ? 残念ながら写真は無いがな、これは本当の話じゃて」
カッカッカッ…と高笑いしながらゼル先生は肩を左右に揺らしてプールへと戻ってゆきました。会長さんの方はと言えば、ゼル先生の思わぬ攻撃に額を押さえて沈黙中。つまり女子用水着を着ていたことを認めてしまったも同然で…。
「今の、本当なんですか?」
「女子用って、私たちの水着と同じですか!?」
「いやーん、その格好も見たかったですぅーっ!」
キャイキャイと跳ね回らんばかりのクラスメイトたちに、会長さんは暫しの打撃から立ち直ると。
「…ぼくも一応、男だからね? 女子用水着は機会があったら見せるってことで」
「じゃあ、来年? 再来年?」
「本当に見せてもらえますか!?」
矢継ぎ早の質問に対する会長さんの答えはこうでした。
「さあねえ? そう簡単には見られないこそ、見られた時の嬉しさも増す。…待つのも楽しみの内ってことさ。自分の運を信じたまえ。女の子は誰でも幸運を持っているものだしね」
「「「はーい!」」」
待ってますね、と歓声を上げるクラスメイトたち。会長さんったら、見せてあげる気も無いくせに…。頬を紅潮させる女子たちを連れてプールへと向かう会長さんは正にシャングリラ・ジゴロ・ブルーです。女子用水着を着た姿を餌に釣っても大漁だなんて、男はやっぱり顔なんでしょうか?

水着騒ぎは入口前で会長さんが制止し、私たちは二列に並んでプールへと足を踏み入れました。心配していた磯の香りはしてきません。塩分濃い目は無さそうだ…、とホッと一息ついたのですけど。
「…なんなの、あれ?」
「えっと…。フロート…?」
プールには色とりどりの亀やアヒルがプカプカと。どう見ても浮き輪というヤツです。その間を縫ってコースを仕切るロープが張られていますが、あれに掴まって泳ぐ…のかな? 会長さんにも浮き輪の意味は分からないらしく、先にプールサイドに陣取っていた男子たちの横のスペースに座ると。
「ぼくには浮き輪にしか見えないんだけど、あれは何かな?」
「んーと、んーと…。浮き輪だと思う!」
ぼくのアヒルちゃんにソックリだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。そう言えば海やプールに連れてきているアヒルちゃんの浮き輪に似ています。でも、浮き輪で何をするのでしょう? 浮かんでいるのは半端な数ではないですよ? と、全校生徒が揃ったらしくて開会式が始まり、校長先生の挨拶の次は教頭先生。
「諸君、校長先生も仰ったように、全力を尽くして戦って欲しい。しかし、くれぐれも無理しないように」
棄権するのは恥ではない、と教頭先生が語っているのは「撤退する勇気」。余力のある内に引き下がる勇気と決断力が身を守る、と言われても…。浮き輪だらけのプールの何処が危険だと? どれでもいいから掴まってしまえば溺れる心配は無さそうですけど。
「競技の説明はブラウ先生にお願いしたい。まずは女子の部の競技からだ。…ブラウ先生、お願いします」
教頭先生がマイクを渡したのはジャージ姿のブラウ先生。先生方は全員ジャージを着ておられます。これも水泳大会ではお馴染みでした。必要に応じてジャージを脱ぎ着するわけですが、教頭先生の水着は今年も褌かな? おっと、いけない、競技説明の時間です。
「それじゃ説明を始めるよ! 今年の女子の部は「泳いだら負け」だ」
「「「えぇっ?」」」
声を張り上げたブラウ先生に、全校生徒はビックリ仰天。水泳大会なのに泳いだら負けって、そんな競技があるのでしょうか。泳いでなんぼのモノなのに…。
「まずはプールを見ておくれ。浮かべてあるのは浮き輪ってヤツさ。色も形も色々だけど、浮き輪って所は全部同じだ。でもって浮かべる場所を変えてあるだけで、どのコースにも同じ形のが同じ数だけ浮かんでる。よーく確認しておきな」
えっと。ひい、ふう、みい…。確かに間違いありません。みんなが数え終わった頃合いでブラウ先生が「数えたかい?」と念を押してから。
「泳いだら負けと言っただろう? 女子にはあの上を走ってもらう。浮き輪の場所は固定してあるし、浮き輪を踏んで濡れずにコースを往復するのさ」
「「「!!!」」」
そんな無茶な、と悲鳴と怒号が飛び交っています。浮き輪は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が言っていたとおり子供用。高校生が満足に浮けるかどうかも分からないのに、その上を走り抜けろですって? でもブラウ先生は気にしていません。
「昨日一日、プールを閉鎖していた秘密が此処にある。浮き輪には仕掛けがしてあってね、上手く踏んだら沈みも引っくり返りもしない。ただし先の子が踏んだのと同じ場所を踏んでセーフかどうかは分からないよ? その辺は自在に切り替わるんだ」
あちゃ~。またしてもゼル先生が噛んでいそうです。ブラウ先生はクックッと愉快そうに笑いながら。
「踏み損なって落ちた時には這い上がってから再スタートになる。落ちなかった生徒は当然先に進んでるんだし、ロスした時間は大きいよ? クラス全員が往復し終えた時点でのタイムを比較するから、クラスのみんなに迷惑をかけないように頑張りな」
まずは1年生からだ、と号令がかかり、私たちは凍り付きました。とりあえず浮き輪自体の浮力不足は無さそうですけど、踏み損なったらドボンとは…。這い上がるのもまた大変そうです。スウェナちゃんと二人で心配していた「塩分濃い目で浮きすぎるプール」も大概でしたが、浮かないと負けと言われても…。

「ど、どうするんですか、これ…」
女子の一人が縋るような目で会長さんを見詰め、他の子たちの視線も会長さんに。女子の部な上に「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーを引き出せると信じられているのですから、無理ないですけど。
「うーん…。ちょっと待ってよ」
ぶるぅに相談してくるね、と会長さんは腰を上げました。男子の席にいる「そるじゃぁ・ぶるぅ」と言葉を交わしていますけれども、それとは別に思念波で会話しています。
『どう思う、ぶるぅ? あれにサイオン検知装置は?』
『入ってないよってブラウが言った! だけどクルクル切り替わるから、指示を間違えたらドボンだって』
『なるほどね…。要は集中力で勝負ってことか。仕掛け自体は機械なんだね』
『うん! ゼルの自慢の…。なんだったっけ、プログラム? ブルーが読んで指示を出すのと切り替わるのと、どっちが速いか勝負らしいよ』
頑張ってね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコニコ笑顔でエールを送り、会長さんが戻って来て。
「ごめん、ごめん。待たせちゃったね。…ぶるぅが協力してくれるってさ。君たちは思うとおりに走ればいい。落っこちそうな所を踏んでしまっても、ぶるぅの力が補助してくれる。落ちる心配は無用ってこと」
さあ、行こう、と会長さんに微笑みかけられ、女子はポーッと見惚れています。難しそうな競技をクリアできる上、会長さんが助太刀してくれるとあれば舞い上がらない方が不思議というもの。会長さんの力ではなく「そるじゃぁ・ぶるぅ」の力であっても、それをくれるのは会長さんですし…。
『会長さんの力だっていうこと、いつまで秘密にするのかしらね?』
スウェナちゃんの思念波での問いに、私は『さあ…』としか答えられませんでした。そうとしか答えられないことはスウェナちゃんだって知っています。サイオンの存在を公表できる時が来るまで、サイオンのことは絶対に秘密。会長さんがソルジャーなことも、力があることも明かせないわけで…。
『いつか堂々と、会長さんの力です、って言える日が来るとホントにいいわね。ぶるぅの力っていうんじゃなくて』
来年とかには無理そうだけど、とスウェナちゃんが送って来た思念に私が『うん』と返した所へ、会長さんの思念波が。
『そんな心配、しなくていいよ。それもソルジャーの仕事の内さ。今はみんなが楽しく暮らせればそれで充分。…ほら、グズグズしてると出遅れちゃうよ?』
クラスの女子はスタート地点に整列しつつありました。スウェナちゃんと私も慌てて並び、アンカーになったのは会長さんです。走る順番は普段の水泳のタイムを参考にして組み上げて…。
「1年生女子、準備はいいかい?」
ブラウ先生がマイクを握り、シド先生が号令をかけて競技スタート! 他のクラスが第一歩からプールに落ちる中、1年A組の最初のランナーは快調に走り、濡れたのは足にかかった水飛沫の分だけ…という素晴らしさ。二人目が走り始めた時点で他のクラスは向こう側にも着いていません。
「ふふっ、ぶるぅの御利益は素晴らしいよね」
こんなものさ、と満足そうな会長さんの視線の向こうで「そるじゃぁ・ぶるぅ」が懸命に応援しています。本当に応援しているだけで、浮き輪の何処を踏めばいいかは会長さんが意識の下に指示を送っているのですけど、それはまだまだ内緒の秘密。いつ明かせるかも分からなくって…。
『心配無用って言っただろう? 君の番だよ』
会長さんの思念に促されて私は走り出しました。他の生徒と違う所は直接思念で指示が来ること。えっと、次のアヒルは右側を踏んで、亀は左の端の方…、っと! アルトちゃんたちも走り終わって最後はアンカーの会長さんです。
「「「頑張ってー!!!」」」
女子も男子も懸命に叫ぶ中、会長さんは軽々と亀やアヒルの上を走って息も切らさずにゴールイン。1年A組はぶっちぎりの勝利を掴み、2年も3年も私たちの記録を破ることは出来ずに学園一位がアッサリ決定。ここで昼休みになるようですけど…。
「ねえ、他のクラスはボロボロだよ?」
ジョミー君が指摘するとおり、私たちを除いた女子はヘトヘトな上にボロボロでした。何度となくプールにドボンした上、這い上がってはドボンですから下手な持久走より疲れた筈です。お弁当も開けられずに倒れている子も数多く…。
「あんたが女子の部になった理由は男子の部がハードだから…だったよな?」
これでも女子はハードじゃないのか、というキース君の問いに、会長さんが困った顔で。
「さあ…? ぼくなら楽に乗り切れるから問題ないって意味だったのかも…。だって男子がこれよりハードって、有り得ないだろ?」
「そう願いたいが、どうなんだかな…」
俺はドボンは御免だぞ、と呻くキース君に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「かみお~ん♪ 男子はぼくにお任せ! 一位で楽々ゴールインだよ♪」
「ぶるぅ、そこは「男子も」って言うんだよ」
「あっ、いけない! 男子もお任せ~!」
会長さんが注意した意味に気付いているのは私たちとサイオンを持つ特別生だけ。他の生徒が聞いていたとしても全く気にしていないでしょう。この大らかさがシャングリラ学園ならではです。サイオンを使ったズルが許される校風、いつまでも続いてくれますように…。

プールサイドでの昼食タイムは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の特製サンドイッチも出てきてゴージャスでした。カツサンドにオムレツ入り、スモークサーモンや生ハムを挟んだ物も。男子の競技は何なのだろう、と話しながら食べている間もプールの方はそのままです。
「…浮き輪の回収は無いようだな」
あれを使うということか、とキース君が首を捻れば、会長さんが。
「そうだろうね。…だけど、女子と全く同じ競技ってことがあるのかな? 今までのパターンだと女子と男子は別モノだったし」
「問題はそこだ。男子は難易度が上がってくると見るのが妥当か?」
「さあ…。女子以上に難しいコースってことは有り得るけれど…。踏んでも大丈夫な部分がグンと減るとか、浮力少なめで誰でも多少は足が沈むとか」
水の抵抗ってヤツは大きいから、と会長さんが自分の足を指差して。
「踝くらいまでなら沈んじゃっても問題無いけど、膝下の半分くらいまで浸水しちゃうとキツくなるよ? 次の一歩を踏み出すにしても、女子の部みたいに走るって速度は出せないだろうね。こう、よいしょ、よいしょと踏んで行く…って感じ?」
「そこへドボンが組み合わさったら悲劇だな…」
体力を削がれるなんてものじゃない、とキース君は天井を仰いでいます。
「女子の部よりもハードだというのが男子の部だ。浮き輪が放置されているから、グレイブ先生が言っていたのは単なる脅しかとも思ったが…。ウチの学校に限ってそれだけは無いという気もするし」
「無いと思うよ、グレイブが言った以上は本当にハードなんだと思う。…ぼくを女子の部に回すくらいだ、浮力不足でドボンじゃないかな」
「「「うわぁ…」」」
勘弁してくれ、と頭を抱えるキース君たちですが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」がニコニコと。
「平気だってば、ぼく、頑張って支えるもん! でも…足が沈むのは我慢してよね」
そこまでは常識の範囲内だから、と言われてみればその通り。ドボンに比べれば普通のことです。どうやら男子は「よいしょ」の掛け声が必須のようで…。頑張って、と応援していると会長さんが。
「よいしょリレーじゃ語呂が悪いね、どっこいしょリレーと呼ぶべきかな?」
「…あんた、明らかに他人事だと思っているな?」
キース君の恨めしそうな視線を会長さんはサラリと流して。
「他人事だし仕方ないだろ? あ、そろそろ競技説明が説明が始まるのかな?」
昼食を食べに何処かへ消えていた先生方が戻って来ました。もちろん監視役として常時数人は残ってましたし、入れ替え制での昼食タイムだったようですけれど。先生方はプールサイドを見回り、生徒全員が昼食を食べ終えているのを確認してから。
「さてと、お昼も終わって充分休憩出来たようだね」
ブラウ先生がマイクを握っています。
「午後はお待ちかねの男子の部だ。浮き輪を回収していないから色々な読みがあったと思う。だけど断言させて貰うよ、正解に辿り着いた生徒は一人もいない!」
「「「えぇっ!?」」」
そんなの分からないじゃんか、と不満の声が噴出する中、ブラウ先生はニヤリと笑って。
「じゃあ、訊くよ? 障害物競争だと思ってた生徒は手を挙げな!」
「「「障害物?」」」
足が沈むのは障害物になるんだっけ、とジョミー君が尋ね、キース君が。
「ど、どうだろう…。一応、手を挙げた方がいいんだろうか?」
「当たったら何か出るかもしれないし! 挙げちゃおうよ」
ジョミー君が手を挙げ、キース君がそれに続くとシロエ君たちも挙手しましたが、他の男子生徒は動きません。要するにジョミー君たち五人だけが手を挙げているというわけです。ブラウ先生は面白そうに男子五人を指差すと。
「あんたたちの読みもハズレじゃないかと思うんだけどね? どんな障害物なんだい?」
「沈むんです、足が」
キース君が代表で答えました。
「女子は浮き輪を上手に踏めば全く濡れずに走れましたが、男子は浮力不足で足がある程度まで沈むかと…。そうなると水の抵抗の関係で走りにくいのは必然です」
「なるほど、それも良かったかもねえ…。そいつは考えつかなかったよ。はい、ハズレ」
男子の予想はアッサリと外れ、ブラウ先生は勝ち誇った顔で。
「男子の競技も基本は女子の部と変わらない。ただし障害物競争がもれなくオマケでついてくる。今、言ったとおり、足が沈むというヤツじゃないよ? 障害物競争にはやっぱり網だね」
「「「網!?」」」
なんですか、それは? そりゃあグラウンドを走る障害物競争なら網をくぐるのは定番ですけど、プールで網? もしやプールサイドから先生方が投網を投げて妨害するとか…? たちまち大騒ぎになった全校生徒をブラウ先生が「こらあっ!」と一喝。
「人の話は最後まで聞く! 網は浮き輪に仕掛けてあるんだ。ドボンすればその場で絡まる仕組みさ。これを抜けなきゃ這い上がることは出来ないよ? もちろん網は一個じゃないし、運が悪けりゃ全部で絡まってしまうかもねえ?」
頑張りな、と笑うブラウ先生の前で男子は全員無言でした。ただドボンして這い上がるだけだった女子でもボロボロだったのです。ドボンすれば網が絡まるだなんて、どれだけ消耗するのやら…。

お通夜のような雰囲気で始まった男子の部。まずは1年生からです。私たちのクラスは「そるじゃぁ・ぶるぅ」をアンカーに据え、やる気満々で燃えていますが、他のクラスはスタート前から意気消沈。そんな調子ではツキも落ちるというもので…。
「スタート!」
シド先生の合図で一斉にプールに足を踏み入れた男子、A組以外はドボンと派手な水飛沫。それと同時にシュルンと白い網が浮き輪の下から飛び出してきて、その場で捕獲されてます。水中で絡まった網はそう簡単には解けないらしく、悪戦苦闘している間にA組は楽々往復してきて次の生徒にバトンタッチ。
「かみお~ん♪ 頑張ってねー!」
飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」を他のクラスの生徒が羨ましそうに眺めていました。無敵の不思議パワーのお蔭で1年A組は負け知らず。女子の部よりもハードになっている男子の部でも誰一人プールに落ちていません。
「いいなぁ、俺たちもA組になりたいなぁ…」
「来年は御利益が貰える立場になりたいな、って思うけどなあ…」
1年生限定なんだってな、と嘆き合う声が私たちの所まで聞こえてきます。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が決して2年生には進級しない、というのも今ではすっかり周知の事実。御利益に与れるのは1年生だけ、それもA組限定だという噂は既に伝説の域で。
「A組、頑張れー!」
他のクラスをぶっちぎれ、と上の学年から応援の声が飛んできました。去年に、一昨年に1年A組で一緒だった生徒もいれば、そうでない生徒も叫んでいます。
「学園一位を取るんだぞー!」
「今年も期待しているからなー!」
走って走って走りまくれ、という声援は学園一位で出て来る何かをゲットしろというエールでした。何が出るかは分かりませんけど、会長さんが1年A組に属する以上は楽しい結果になるだろう、と誰もが踏んでいるのです。他のクラスに奪われたのでは面白くない、と応援してくれているわけで…。
「「「頑張れー!!!」」」
上の学年が、そして私たち女子が応援する中、A組男子は誰も落ちずに華麗にプールを駆け抜けてゆき、ついにアンカー、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の登場です。元気一杯に飛び出した「そるじゃぁ・ぶるぅ」は走るどころか十八番の『かみほー♪』を歌いながらスキップで浮き輪を踏んで往復してきて…。
「かみお~ん♪」
「「「あぁっ!?」」」
最後の浮き輪に飛び乗った「そるじゃぁ・ぶるぅ」がドボンと落下し、まさかの出来事に誰もが声も出せない中を。
「わーい、いっちばぁ~ん♪」
どうやって網をすり抜けたものか、ピョーンとプールからジャンプした「そるじゃぁ・ぶるぅ」は宙返りして最後の浮き輪をトンと踏み付け、そこからストンとゴールイン。
「一位、A組!」
シド先生が右手を高々と上げて宣言するのに「そるじゃぁ・ぶるぅ」の無邪気な叫びが重なって…。
「網抜け、やってみたかったんだ! 脱出マジック~!」
拍手、拍手~! と踊り回る「そるじゃぁ・ぶるぅ」に惜しみない拍手が送られています。これからドボンするであろう上の学年の男子生徒たちも歓声を上げて拍手喝采。A組以外の1年生男子はそれどころではないようですけど、根性で網と戦いながらゴールインして下さいです…。

こうして大多数の男子生徒がボロボロになった水泳大会が終了しました。最後に走った三年男子の復活を待って表彰式が行われ、学園一位は無論1年A組で。
「おめでとう。今年の副賞は楽しみながら勝ち取って貰う形式だ」
そう言ったのは教頭先生。会長さんが校長先生から表彰状を受け取ったのを見届けてからの台詞です。
「準備があるから待っていてくれ。…すぐに終わるが」
「「「???」」」
何だろう、と首を傾げていると職員さんたちがパネルを担いで入って来て…。
「えっと…プールに蓋しちゃうわけ?」
「そのようだな」
ジョミー君とキース君が言葉を交わす間にもプールはパネルで覆われてゆきます。蓋らしいことは分かりましたが、所々にポッカリ開いた真ん丸い穴はなんでしょう? 不規則に開けられているみたいですけど…。
プールが覆い尽くされた所で進み出たのはブラウ先生。
「今年の副賞はモグラ叩きというヤツだ。御覧のとおりプールには蓋がされている。水面と蓋との間に多少のスペースはあるんだけどね、モグラ役の先生が充分に息をしようとすると穴から頭が覗くんだ。そこをハンマーでポカンと一発!」
これがハンマー、と1年A組の生徒全員に配られたのは縁日の露店などで見かける空気で膨らませた巨大ハンマーのオモチャでした。
「オモチャといえども叩けばモグラは引っ込むよ。ただし、繰り返してると息が続かなくなってギブアップということもある。モグラがギブアップしたら学食のランチ券をクラス全員にプレゼントだ。制限時間内にギブアップを勝ち取った回数分だけランチ件ゲット!」
おおっ、と盛り上がるクラスメイトたち。ここでパネルの一角が開けられ、モグラ役の先生方がプールへと。筆頭は赤褌の教頭先生、続いてゼル先生にグレイブ先生、そしてまさかのシド先生。先生方の姿が消えるとパネルは再び閉じられて…。
「1年A組、準備はいいかい? 制限時間は十分間だ。何処からどんなモグラが出るのか、走って叩いて頑張りな!」
「「「はーい!」」」
蓋をされたプールに散らばった私たちはハンマーを構え、ブラウ先生がホイッスルを。穴の数は生徒の数より多いですから、一ヶ所で待っても無駄というわけで…。
「そっち行ったぞー! …多分」
「わあっ、こっちかよ!」
モグラは素人の敵う相手ではありませんでした。先生方、絶対サイオン全開で私たちの動きを読んでいますよ! ジョミー君たちも私もサイオンを持ってはいてもヒヨコですから読まれ放題、どうにもこうにも勝負にならず。でも…。
「かみお~ん♪」
「息をしたけりゃランチ券! さてと、何枚毟れるかな?」
パッコーン! と小気味よいハンマーの音を響かせているのは会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」でした。いくら先生方でもタイプ・ブルーに勝てる筈もなく、次々と上がるギブアップの声。
「弱いね、ハーレイ。君が一番鈍いんじゃないの?」
これで何度目のギブアップかな、と笑う会長さんは明らかに教頭先生狙いでした。えっと、及ばずながら私も一発お手伝い出来るといいんですけど…。ハンマーで殴りまくってランチ券を沢山貰って、楽しく打ち上げしましょうね~!


 

教頭先生のブラウロニア誓紙騒ぎでスタートを切った新学期。会長さんが要求した莫大な御布施と迷惑料と慰謝料とやらは、期限内に口座に振り込まれたとのことでした。差し押さえ部隊として待機していた私たちには少し残念なような…。
「やってみたかったよねえ、差し押さえ」
せっかく札まで用意したのに、とジョミー君が口を尖らせています。放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋のテーブルの上には真っ赤な札が。教頭先生が支払わなかった場合に使う予定だった強制執行とやらの必須アイテムだそうで、札にデカデカと書かれているのは『御布施滞納処分差押財産』の文字と会長さんの名前。
「支払うだろうとは思っていたけど、ぼくも差し押さえの方が良かったな」
そっちの方が楽しいし、と会長さんもつまらなそうです。何を差し押さえるのかをリストアップまでしていただけに、空振りしたのが悔しいのでしょう。まあ、差し押さえ部隊が突入していたら、教頭先生は全財産を差し出してでも貼られた札を剥がして貰っただろうと思いますけど。
「…あんたのリストは普通じゃないしな。差し押さえるのは金目の物が基本だと聞くぞ」
俺も現場を見たわけじゃないが、とキース君。たまに墓地の運営なんかに失敗したお寺が差し押さえを食らうらしいです。車は確実に対象になり、掛軸や仏具、仏像なんかも差し押さえ。お金になりそうだと判断されたら襖までもが。
「寺の襖絵は名の知れた画家が手掛けることも多くてな。だから襖も差し押さえるわけだが、ブルーが作ったリストときたら…。何処に換金価値があるんだ」
「あるわけないだろ、端から期待してないし! それにハーレイがキャプテンとして受け取る給料は多いと言ったよ? そっちからなら返済可能だ。ぼくとの結婚生活に備えて貯めてるんだし、先払いと思えば安いものだと思うけどねえ?」
クスクスクス…と笑う会長さんが差し押さえ用に作ったリストの中身は爆笑モノ。差し押さえ部隊が最初に向かうのは二階の寝室の予定でした。教頭先生が会長さんへの想いを押さえきれずに集めまくった数々の品に差し押さえの赤札をベタベタと…。
「やりたかったなぁ、ハーレイの目の前で抱き枕とかアルバムとかを差し押さえ! ぼくの写真が入ったヤツは漏れなく差し押さえの対象だしね」
「あんたの写真を取り返すためなら教頭先生も必死だろうしな…。下手に車なんかを差し押さえるよりも効果的だというのは認める」
あくまでも教頭先生限定だが…、とキース君は苦笑い。幻に終わった差し押さえ部隊は今日ものんびり、まったりです。でも…。
「明日が健康診断ってことは、もうすぐ水泳大会だよね?」
ジョミー君が口にした単語にピキンと凍りつく私たち。二学期は何かと行事が多いのですけど、最初に来るのが水泳大会。それに先だって健康診断が行われ、水泳大会の日が正式に発表されるという流れ。
「…しまった、そっちでもハーレイを脅迫するべきだった」
ぼくとしたことが失敗した、と天井を仰ぐ会長さん。
「すっかり忘れてしまっていたよ。…去年みたいな展開になったら目も当てられない。セーラー服はキツかったんだ」
あの格好は二度と御免だ、と会長さんは嘆いています。去年の水泳大会に女子の部で参加した会長さんですが、女子の種目は着衣水泳。それも学校側の指定で白いセーラー服だったという…。
「でもさ、男子も嫌だと言ってなかった?」
ジョミー君が突っ込み、サム君が。
「そうそう、蛇の目傘を持って泳がされたし! アンカーは足で扇子を広げろっていう無茶ぶりだったし!」
「…どっちに転んでも試練に不本意とフィシスの占いには出ていたけどね…」
今年は何が出てくるんだか…、と会長さんは不安そうです。気になるのならサイオンで探ればいいのでは、と私たちは提案したのですけど。
「それをやったら面白くない、って毎年言っているだろう? 正攻法で聞き出してなんぼ! せっかくのチャンスだったのに…。慰謝料ついでに喋ってもらう、と脅せば一発だったのにさ」
脅しの何処が正攻法だ、と誰もが思いつつ、口には出しませんでした。会長さんに二度目のチャンスは無いでしょう。今年は女子の部か、男子の部なのか。どちらにしても「出場しない」という選択肢だけは会長さんの頭の中に入ってはいないようですねえ…。

健康診断が行われる日の朝、1年A組の教室には会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がやって来ました。全員が体操服に着替えている中、会長さんは例によって水色の検査服です。でもって「そるじゃぁ・ぶるぅ」は保健室の奥の特別室でセクハラと称されるバスタイム。まりぃ先生は絶好調で、バスタイムの次は会長さんを特別室へと引っ張り込んで…。
「会長、やっぱり帰ってきませんでしたね」
シロエ君が呟き、キース君が。
「いつものパターンどおりだな。終礼に出てきて女子か男子かを決めるんだろう、ぶるぅの分も」
「どっちを選ぶか賭けませんか? ぼくは男子だと思うんですけど」
「ブルーがか? それとも、ぶるぅか?」
「会長に決まっているじゃないですか。長年女子で出てましたから、今年はきっと男子ですよ」
自信満々のシロエ君。そういえば会長さんは私たちが普通の1年生だった年を除けば女子での参加ばかりです。そろそろ男子で出たくなるかも、と賭けが始まりかけたのですが。
「待て。…よく考えたら賭けるだけ損だ」
キース君が待ったを掛けてきました。
「ブルーは水泳大会の種目絡みではサイオンを封印しているようだが、俺たちに対しても同じだと思うか? 違っていたら賭けていたのは即バレだぞ」
「あー…。それはそうかもしれないね」
充分あり得る、とジョミー君が頷き、キース君は更に続けて。
「バレていた場合、賭け金はまず間違いなく、巻き上げられて終わりだろう。ついでに娯楽の提供費として余分に毟られる危険性が高い。…この間の教頭先生にしたって慰謝料と迷惑料を別にカウントされていたんだぞ」
「どっちも似たような項目ですよね、慰謝料と迷惑料…。分かりました、賭けはやめときましょう」
損をしたくはないですし、とシロエ君が作りかけの表を破り捨て、賭けの話は無かったことに。…案の定、終礼の直前に戻って来た会長さんは破り捨てられた表をゴミ箱から拾い上げてきて。
「…賭けてくれればよかったのに。ぼくは今年こそ男子の部でいく」
「本当か? まだ分からんぞ」
グレイブ先生がどう出るか、とキース君が言った所でカツカツと高い靴音が。
「諸君、静粛に!」
いつものことながら嘆かわしい、と手を打ち合わせるグレイブ先生。私たちは慌てて自分の席へと戻り、水泳大会の日取りが発表されました。予定通りに来週です。
「さて、此処で話があるのだが…。ぶるぅはどうした?」
「もう帰りました。用件はぼくが伝えておきます」
会長さんが声を上げると、グレイブ先生はツイと眼鏡を押し上げて。
「そうか、ぶるぅはいないのか。今年も男子で参加させるよう、上からの指示が来ているのだが」
「え? じゃあ、ぼくは…?」
「例年通りに女子の部だ。特例の男子用水着の着用許可も既に出ている。今回は選択の余地は無い。いいかね、これは決定事項なのだよ」
「で、でも…!」
反論しようとした会長さんに、グレイブ先生は出席簿に挟まれた紙を見せながら。
「虚弱体質の上、本日の健康診断においても時間中に倒れ、保健室にて静養させたと書いてある。この弱さでは男子の部は無理だ。ぶるぅに任せておきたまえ」
分かったな、と強く念押しをしてグレイブ先生は終礼を終え、教室を去ってゆきました。クラスメイトたちは会長さんが女子の部という衝撃的な話題に大興奮ですが、会長さんは大ショック。今年こそ男子と意気込んでいたのに、選ぶ自由も無かったのですから。それだけに「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に引き揚げた後も…。

「ぶるぅはいいよね、元気一杯で…」
「かみお~ん♪ 子供は風の子、元気な子だもん! 夏バテだってしないもん!」
まだまだ暑いしアイスが最高、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はアイスケーキを切り分けています。アイスとクレープを何層も重ね、仕上げは滑らかなクリームで。早い話がキャラメルナッツのアイスクリームのミルクレープですけど、これが絶品。水泳大会の話題も忘れてしまって味わっていると。
「…なんで男子になれないのかな…」
何処から見ても男なのに、と会長さんが深い溜息。
「保健室の話だって、まりぃ先生と特別室のベッドに行ってたからで…。まりぃ先生、どうして考慮してくれないんだろう?」
「あんたが倒れたってことにしておかないと自分がヤバイからだろうが」
分かり切ったことを、とキース君。
「ヒルマン先生を代理に立てておいて、あんたと奥で遊んでました……なんて素直に報告すると思うか? いくら理事長の親戚筋でもヤバイ時にはヤバイんだ。男子で出場したかったんなら昼寝は控えるべきだったな」
「……今、猛烈に後悔しているよ。報告書の内容なんて考えたことも無かったし…。そうか、男らしさをアピールするには保健室でサボリは逆効果だったか」
「まりぃ先生にサイオニック・ドリームを見させておいて、あんたはベッドで昼寝しているだけなんだろうが。まりぃ先生には男らしさをアピール出来ても、ヒルマン先生は虚弱体質と勘違いしておいでだと思うぞ」
「…身から出た錆って、こういうヤツを言うのかな? まりぃ先生にはサービスしたのに…」
大人の時間なサイオニック・ドリームの大盤振舞いをしてきたという会長さんはガックリと肩を落としていました。まりぃ先生は幸せ一杯、お色気たっぷり、お肌ツヤツヤらしいのですけど。
「うーん、時間さえ遡れたらなぁ…。保健室に行く直前まで時計の針を戻せないかな?」
「かみお~ん♪ 何時に戻すの?」
簡単だよ、と壁の時計を下ろそうとしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」の可愛い反応に私たちは拍手喝采。やはり男子の部には「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出るべきです。時計の針すら戻す勢いで飛び跳ねてくれるパワーがあれば1年A組の勝利は間違いなしで、女子の部の方も会長さんのサイオンと機転があれば安泰で…。
「あんたは女子の部で頑張るんだな。女子に感謝されて悪い気持ちはしないんだろう?」
キース君の鋭い指摘に、会長さんは「そうだったね」と気分を切り替えたみたいです。
「女の子たちの熱い視線を間近で浴びるのも悪くない。…うん、男子にエールを送られるよりも、女子の黄色い悲鳴がいいよね」
目指せ、女子の部のスターの座! と会長さんは開き直りました。今年の水泳大会、どんな種目が来るんでしょう? 女子が何かも気になりますけど、虚弱体質だと出られないという男子の種目が心配かも…。

謎の種目な水泳大会。体力勝負らしい男子の部がどんな内容になるのか見当もつきませんでした。過去の水泳大会で一番ハードだったのは恐らく寒中水泳でしょうが、あの時のような凍結プールを作り出すにはそれなりの準備が必要です。プールを全面的に閉鎖し、時間をかけて凍らせないとダメなのですから。
「…今日もプールは閉鎖してないね」
普通だよ、とジョミー君が言っているのは放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。私たちは毎朝と終礼後の掲示板チェックを欠かしていません。プールに何らかの動きがあれば掲示板にお知らせが出るのは確実です。けれどプールも水泳部の部活も普段と全く変わりは無いまま。
「水泳部のヤツらにも訊いてみたんだが…」
特に変化は無いようだぞ、とキース君。
「ただ、水泳大会の前日だけは部活が休みになると聞いたな。英気を養っておくように、との学校側の意向らしいが、運動ってヤツは日々の鍛錬が大切なんだ。水泳大会に備えるんなら、その前日も普段どおりに泳いでおくのがベストじゃないか?」
「そうですね…」
おかしいですよ、とシロエ君が頷いています。
「ぼくたちだって大会の前は怪我をしないよう注意しますけど、練習は普通にやりますしね。完全に休んでしまうと身体の調子が狂いますってば」
「やっぱり妙だと思うよな? また何か仕掛けてくるんじゃないのか」
怪しいぞ、と体育館の方向を眺めるキース君に、会長さんが。
「まあ、何か仕掛けが出て来たとしても、酷い目に遭うのは男子だしね。ぼくは女子だから、のんびりやらせて貰うまでさ」
「くそっ、完全に開き直りやがって…。女子の部のスターに男子は関係無いってか?」
「うん。せいぜい頑張って学園一位を狙ってよ。ぶるぅがいるから大丈夫だとは思うけれども」
「かみお~ん♪ ぼく、頑張る!」
男の子だもん、と拳を突き上げている「そるじゃぁ・ぶるぅ」は種目なんかは気にしていません。水泳大会に出るということ自体が楽しみでたまらないのです。そういえば去年もアンカーになって足で扇子を広げる技を嬉々として披露してましたっけ…。
「あーあ、ぶるぅは気楽でいいよな」
サム君が溜息をつけば、ジョミー君が。
「ぶるぅが巻き返してくれるってヤツならいいんだけどね…。いくらぶるぅの力があっても人魚とかは御免蒙りたいな」
「「「あー…」」」
そういうのもあった、と脱力している男子たち。教頭先生の人魚ショーが人気だった一昨年の男子の種目は人魚泳法。銀色の人魚の尻尾を着けて泳がねばならず、ジョミー君たちは人魚泳法をマスターしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」にサイオンで泳ぎ方を伝授して貰ったのでした。
「ぶるぅか…。今、ぶるぅが持っている技は何があった?」
人魚は二度と出ないとして、とキース君が首を捻れば、会長さんがニッコリ笑って。
「プールで出番のあるヤツだよね? 今年の旬はシンクロだよ」
「「「……シンクロ……」」」
愕然とする男の子たちに、会長さんは楽しそうにクスクス笑いながら。
「校外学習の水族館でハーレイと披露してただろう? イルカショーに花を添えるためにさ。お揃いの水着まで誂えたんだし、今、熱いのはアレじゃないかな」
「…し、しかし! シンクロはそう簡単に身につくものでは…」
ぶっつけ本番では絶対無理だ、とキース君が切り返しましたが、会長さんは意にも介さずに。
「ぶっつけ本番、大いに結構! ウチの学校がそんな事を考慮するとでも? なるほど、シンクロも有り得るかもねえ…。女子の部にされてしまったことを感謝しておこう。…で、どうする?」
「…何をだ? 俺たちに逃げ場は無いと思うが」
「いや、準備とかはしなくていいのかなぁ…って。シンクロだったら、より美しくキメたいよね。ぼくのオススメは此処なんだけど」
今ならキャンペーン期間中で割引があるよ、と会長さんが取り出したのはメンズエステのチラシでした。
「足脱毛とか、必要ない? 君たちは目立つってわけじゃないけど、同じやるならツルツルの方が…」
「なんでそうなる!」
お断りだ、とキース君が叫び、シロエ君が制服のズボンの裾を捲り上げて。
「…えっと…。特に気にしてなかったですけど、これ、目立ちますか?」
「大丈夫じゃねえの?」
分からねえよ、とサム君が答えたとおり、シロエ君の体毛は「言われてみれば分かるレベル」に過ぎません。同じく黒髪のキース君でもそこは同じで、脱毛なんて要らないんじゃあ…?
「うーん、やっぱり必要ないか…」
ちょっとは期待したんだけれど、と残念そうな会長さん。いつぞやの教頭先生じゃないんですから、脱毛まではしなくても…、と思った所でキース君が会長さんの手からチラシを奪い取ると。
「分かった、あんたの狙いはコレだな? 御紹介キャンペーン中と書いてある。客を連れて行ったら紹介料が入る仕組みか!」
「バレちゃったか。…お小遣い稼ぎに良さそうだろ?」
「だからといって俺たちを売るな!」
売られてたまるか、と食ってかかるキース君に他の男子も続きました。流石のサム君も脱毛サロンに売られるのは御免みたいです。はてさて、男子の水泳大会、いったい何が出て来ますやら…。

水泳大会の前日、キース君から聞いていた情報どおりにプールは閉鎖されました。体育館は開いてますけど、プールのあるフロアは立ち入り禁止。体育の授業もプールを使わない内容に変わり、生徒たちは興味津々です。
「何年か前にさ、似たようなことがあったらしいぜ。…噂だけど」
「プールが凍った? なんか凄すぎ…」
「生徒会長が女子の部にされたのはその時が最初って話も聞いたな」
凍結プールは私たちが特別生になった年のことですから、体験した生徒はもう学校には残っていません。とはいえ、縦の繋がりが強い体育系のクラブなどでは先輩が指導に来ることもあり、過去の水泳大会の噂も自然と伝わっていくようで…。
「今年も生徒会長は強制的に女子の部だしなあ、プールが閉鎖ってことは何か仕掛けがありそうだぜ」
「一日では凍らないとは思うけどな…。プールにサメってのも定番だっけか?」
「サメかあ…。今頃、水族館から輸送中とか?」
海水に棲むサメに合わせてプールの水質を調整中、という説がまことしやかに流れています。一日だけの閉鎖ですから水質調整はありそうでした。プールは真水ですもんねえ。
「…ふうん? 水質調整中だって?」
それは無いとは言い切れないね、と会長さんが大きく伸びをしたのは、もちろん「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋。水泳大会を明日に控えて部活の時間も短縮になり、柔道部三人組も交えてワイワイおやつを食べている真っ最中です。身体を冷やさないようにとアイス禁止が辛いですけど。
「えっ、アイス禁止は当然だろう? 体調は整えておかなくちゃ」
特に男子は、とビシッと指差す会長さん。
「虚弱体質のぼくが外されちゃうような種目なんだよ? シンクロにせよ、サメに追いかけられて逃げ回るにせよ、体力勝負だと思うんだ。アイスくらいは我慢したまえ。ちゃんとクーラーも効いてるんだし」
「シンクロよりかはサメの方がマシだな」
俺はそっちを希望する、とキース君。
「サメの牙は削ってあるんだし、噛まれたとしても大したことは…。それに比べたらシンクロは心に傷が残りそうだ」
「そうかな? ハーレイは残ってなさそうだけど?」
「あんたが仕掛け人だからだろう! 教頭先生は心底惚れていらっしゃるから、あんたの悪戯も許せるんだ。…あんな酷い目に遭わされてもな」
キース君はそこで言葉を切りましたけど、その後に続くであろう文句は容易に想像出来ました。シンクロ用の悪趣味な水着とか、水着を着るために脱毛サロンに連行したとか。あまつさえ脱毛サロンで、水着とは全く関係無いのにツーフィンガーなんかにされちゃって…。
「ハーレイの場合、惚れた相手にかまってもらえるだけで嬉しいというのが泣けるよねえ…。でもさ、水泳大会、シンクロのリスクもゼロではないよ? 水質調整しててもね」
「「「えっ?」」」
何故にシンクロで水質調整? そんなことして何になると? 首を傾げた私たちに、会長さんは。
「水質調整で気が付いたんだよ。もしもプールが塩分濃い目になってたら? 塩分が濃くなると浮いちゃうことは知ってるだろう」
「ああ、そんな湖がありましたね」
楽しいんですよ、とマツカ君。
「小さな頃に行きましたけど、泳げない子供でも浮くんです。父なんか浮かんだまま本を読んでましたっけ。…でも、あんまり長い時間は入ってられないそうですよ」
マツカ君が話す湖のことは知っていました。魚も棲めない塩辛い水で、カナヅチな人でも楽々プカプカ。でも、長時間は駄目だというのは初耳です。…なんで?
「えっと…。塩分が海水の十倍ですしね、身体に悪いらしいんです。長くても十五分くらいで上がってシャワーで洗い流しておいて、まだ入りたかったら一休みしてから。シャワーを浴びずにそのままでいると全身から塩を吹くと聞きましたよ」
「「「……塩……」」」
それは凄い、と驚いていると、会長さんがニヤリと笑って。
「もしもプールがそんな水質になってたら? シンクロするのも一苦労だろうね、潜れないんだし」
「お、おい…。そんな調整もアリなのか?」
キース君の問いに、会長さんは。
「凍結プールを作り出すような学校だよ? 沈まないプールが出ても不思議じゃないと思うけど? でもってそこで泳ぐとなったら大変かもねえ…」
浮力はあっても水の辛さは半端ではない、と真顔で続ける会長さん。おまけに塩分が濃いわけですから、小さな傷でもあろうものなら、文字通り「傷口に塩を塗る」のと同じだそうで。
「「「…………」」」
「悲惨な顔をしなくってもさ、そうと決まったわけじゃなし! 明日になったら普通の海水でサメとかイルカがいるだけかもね」
でもまあ覚悟はしておくように、とウインクされて私たちは泣きそうな気分でした。会長さんは水泳大会については一切サイオンを使っていないと言ってますけど、本当でしょうか? 明日になったら塩分濃度が海水の十倍なプールが出るんじゃないでしょうね…。

キース君たちはシンクロに怯え、スウェナちゃんと私は塩辛い水の恐怖に震えてお肌のチェック。小さな傷でも防水の絆創膏を貼っておかねばなりません。間違っても新しい傷なんか作らないよう用心しながら登校した翌朝、1年A組の教室には既に会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が来ています。
「かみお~ん♪ 水泳大会、凄く楽しみ!」
「やあ、おはよう。ぼくもしっかり頑張るからね」
学園一位を頂かなくちゃ、とニッコリ微笑む会長さんにクラスメイトは大歓声。シンクロや塩分濃い目のプールについては会長さんから「憶測でものを言わないように」と釘を刺されているので話せません。思念波でコソコソやり取りしたものの、裏付けは誰も取れていないそうで…。
『今朝もプールは立ち入り禁止だ。何がどうなっているのか分からん』
水泳大会が始まるまで謎は解けないだろう、というキース君の思念に私たちは溜息をつくばかり。そこへグレイブ先生が現れて…。
「諸君、おはよう。今日はお待ちかねの水泳大会だ。学園一位になる必要は無い、と言いたい所だが、諸君には言うだけ無駄だったな」
「「「はーい!!」」」
元気よく返事したクラスメイトの中から男子の一人が手を挙げて。
「質問でーす! 学園一位になると何かが貰えるんですか?」
「フッ…。その件については諸君も噂を知っているだろう。貰える年もあり、そういう形ではない年もある。今年がどちらかはお楽しみだ。逃したくなければ頑張りたまえ」
グレイブ先生は余裕綽々。ということは、私たちが学園一位になってもグレイブ先生だけがババを引くわけではなさそうです。これは遠慮なく勝ちに行けそうですけど、その前に競技種目の方は? それを質問した生徒に対するグレイブ先生の答えはこうでした。
「余計な心配をする暇があれば、競技に全力を尽くすのだな。学園一位を他のクラスに掻っ攫われてもいいのであれば好きにすればいいが、そうでないなら努力あるのみだ。いいか、私は一位が好きだ!」
すっかりお馴染みになった熱い演説を滔々と聞かされ、朝のホームルームは終了しました。他のクラスがゾロゾロと廊下を歩いています。私たちも水着やタオルを詰め込んだバッグを抱えて一斉に飛び出し、体育館の方向へ。目指すプールに何が出ようと、栄えある学園一位の座だけは1年A組がゲットですよ~!


 

お盆と棚経という一大イベントが加わった上に、山へ海へと忙しかった夏休み。締めの納涼お化け大会にも顔を出したりしていたせいで、海から後はアッと言う間に始業式の日になりました。今年も残暑が厳しいですから気分は真夏のままだというのに、暦はしっかり九月です。
「暑いよねえ…」
早く涼しくならないかな、とジョミー君がぼやいているのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でした。始業式が済み、早速やって来たわけです。此処も教室もクーラーが効いているのですけど、途中で通った中庭などにクーラーがある筈も無く。まだまだ蝉もうるさいですから、文句も言いたくなるわけで…。
「かみお~ん♪ チョコレートパフェにしてみたよ! リキュールも入れたし、夏バテ、飛んでけ~!」
栄養第一、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が特製パフェをテーブルに並べ、スプーンを握る私たち。こだわりの材料を使ったパフェは美味しいんです。チョコも絶品、アイスも滑らか。お代わりだっていけそうだね、と笑い合いながら食べていると。
「そうそう、忘れるとこだった」
会長さんがソファから立って、奥の部屋へと向かいました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」もくっついて行って、二人が両手に提げて来たのは紙袋です。
「んーと…。これがジョミーで、こっちがキース、と」
ジョミー君とキース君の脇に紙袋が置かれ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が提げていた袋はサム君とマツカ君の足元に。えっと、これって何なのでしょう? 会長さんたちは再び奥の部屋に入って、今度は紙袋が合わせて三つ。
「シロエにスウェナに…。はい、これで全部」
お仕事完了、と会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はソファに腰掛け、パフェの続きを食べ始めます。紙袋についての説明は無く、私たちは互いに顔を見合わせて…。
「何なんだ、これは?」
キース君が紙袋を見下ろし、シロエ君が。
「名札が付けてありますけれど、袋には文字が無いですね…。その割に立派なヤツですけども」
「うんうん、無駄にしっかりした作りだよな」
重い物でも大丈夫そうだ、とサム君が袋を持ち上げてみて。
「こういうのって、こないだ見たぜ。…そうだ、親父が貰って来たんだ、結婚式で」
「ああ、引き出物か。そう言えばこういう袋だな、あれは」
見覚えがあると思った、とキース君。言われてみればパパたちが貰って来ることがあります。でも、あの袋にはホテルとかのロゴが入ってますよ? この袋は完全に無地なんですけど…。
「…会場がホテルじゃなかったからねえ…」
「「「は?」」」
会長さんの言葉に私たちの目が真ん丸に。いったい何の話でしょう?
「もう忘れちゃった? バカップルだよ、ブルーとハーレイ」
「「「あー……」」」
会場がホテルでなくって結婚式というのが、この夏、確かにありました。マツカ君の海の別荘でソルジャーとキャプテンが人前式とやらで挙式してしまい、新婚の日々を過ごした挙句に結婚証明書をお土産に貰って幸せそうに帰って行きましたっけ…。
「あの二人からの引き出物なんだってさ。二人とも存在が秘密だからねえ、みんなの家に直接送るとマズイっていうんで預かる羽目になったんだ。まったく、人前式なら地味婚らしく引き出物も無しにしとけばいいのに」
迷惑なんだ、と会長さんは引き出物の袋を指差して。
「この袋までが必須らしいよ、誰かさんの妄想のお蔭でね。…ブルーときたら別荘からの帰りの電車でハーレイ……もちろん、こっちの世界のハーレイにだけど、思念波で指示を仰いだらしい。理想の結婚式について教えてくれ、って」
新婚熱々のバカップルは電車の中でも二人の世界に籠ってましたが、その最中でも教頭先生に質問が出来ていたとは驚きです。流石はソルジャー、ダテに場数を踏んでいません。
「でもって結婚式が簡単だった分、引き出物を送っておこうと思ったようだ。自分の幸せっぷりを自慢したいだけとも言うけどね。…なにしろ、あっちの世界に帰れば誰にも言えない結婚だから」
「そうだったな…」
その点だけは同情する、とキース君が溜息をついて紙袋に手を突っ込んで。
「で、あいつは何を寄越したんだ? さっぱり見当が付かないんだが」
「開ければ分かるよ、それもハーレイの趣味だと思う」
「「「???」」」
何だろう、と紙袋から取り出したものは綺麗に包装された箱。ソルジャーも出入りしているデパートのロゴが入っています。金と白という慶事用の紙を剥がして箱を開けてみれば、中身はペアのワイングラスで。
「…お名前入れサービス券?」
何だこれは、と紙片を手にするキース君に、ジョミー君が。
「これじゃない? ほら、こっちのグラスは名前入りになっているけど、こっちは何も書かれてないよ」
「…俺の名前が入っているな…。お前のはお前の名前なのか?」
「うん。此処にアルファベットでジョミー、って」
「俺のはサムって書いてあるぜ」
「ぼくはシロエになっていますよ」
「ブルーだったよ、ぼくのヤツはね」
見てごらん、と会長さんが宙に取り出した箱の中身もグラスでした。ペアの片方に会長さんの名前が刻まれ、もう片方には何も無し。これって、いったい…。
「いつか結婚相手が出来たら名前を入れるって趣向じゃないかな。ペアグラスだし、そうじゃないかと…。ぶるぅにまで送って寄越されたって、ぶるぅが結婚するわけないし!」
「それを言うなら俺たちだって同じだぞ」
万年十八歳未満お断りだ、とキース君が苦笑し、私たちへの引き出物とやらは会長さんの家の物置に死蔵されることになりました。お酒だって飲めない身なのに、ワイングラスは要りませんってば…。

一方的に幸せ自慢し、引き出物まで寄越したソルジャー。別荘から後は会ってませんけど、元気にしているみたいです。そのこと自体は喜ばしい、と私たちは引き出物は放置でワイワイと…。
「結婚したっていうことはさ…」
二度と家出もして来ないよね、とジョミー君が言えば、会長さんが。
「長い目で見れば夫婦の危機はよくあることだし、絶対安全とは言えないけどさ。でも、今までみたいに些細な理由で家出したりはしないだろうね。ハーレイの方も相当な覚悟があるみたいだから」
「…地獄に落ちても本望らしいな、あいつが幸せに過ごせるんなら」
凄すぎるぜ、とキース君。
「あんたが使ったブラウロニア誓紙とかいうヤツなんだが、帰ってから色々調べてみたんだ。ブラウロニア三山で神前式で式を挙げたら、裏にアレを貼った結婚証明書が発行されるということだった。…それがヒントか?」
「ご名答。でもってハーレイがブラウロニアで言っていたように、全盛期には遊女と馴染み客の間でも交わされた程の人気アイテム! だから誓いを破ったからって地獄落ちは無いと思うけど…」
バカップルにムカついたから脅してみた、と会長さんはパチンとウインク。
「あっちのハーレイもヘタレだろう? 離婚になったら地獄行きだと聞かされたんじゃあ、署名しないかもと思ったんだよ。ブルーが後から署名することになっていたとしても、必死に止めようとするとかね」
「…思い切り逆になったようだが? 署名した上に、あいつのためなら地獄に落ちると宣言してたぞ」
「甘く見すぎていたかな、ぼくも。同じヘタレでも三百年も指を咥えて見ているだけの超絶ヘタレと、暴れ馬に振り落とされても手綱にしがみ付こうと頑張っている健気なヘタレじゃ中身が全く違うみたいだ」
だからこそ両想いになれたのかもね、と感慨深げな会長さん。えっと、それなら教頭先生がもっと真剣にアプローチして来たら、考え直すということですか?
「えっ、まさか。それだけは無いよ、有り得ないし!」
全然無い、と笑って右手を左右に振っている会長さんに、キース君が。
「あんたはそうでも、教頭先生の方はどうなんだか…。あんたのためなら地獄に行ける、と思ってらっしゃるかもしれないぞ」
「無理無理、ぼくが署名しないと誓約自体が成立しない。行きたくっても行けないんだよ、地獄には…ね」
残念だけど、とクスクス笑う会長さん。
「ハーレイの思い込みの激しさは超一流で、妄想の方も最大級。ブルーが寄越した引き出物だってハーレイの妄想の産物なんだし、引き出物の候補だけでも頭の中に幾つ入っているのやら…。でもね、妄想は所詮、妄想だ。妄想で結婚は不可能なんだよ」
結婚証明書を作成するには相手が必要、と会長さんは自信満々。
「そういうわけで、いくらハーレイが地獄行きの決意を固めたとしても、無理、無茶、無駄というヤツだ。どうしても地獄に行きたいのなら勝手にどうぞ、という所だね。ぼくには全く無関係!」
ぼくはお浄土に行くんだからさ、と会長さんはニッコリ微笑みました。
「仏門に入って修行を積んで、事ある毎にお念仏! これで極楽浄土に往生出来なきゃ頑張って来た甲斐が無い。…もっとも、いつになったらお迎えが来るか、まるで見当も付かないけどね」
百年くらいでは来そうにも無い、と言う会長さんは千年経っても生きていそうな気がします。みんなも同じ考えらしく、「不死身かもね」なんて話になって、そうなると地獄も極楽も行けそうにないと大笑いして…。
「おっと、ウッカリ忘れてた」
壁の時計を見た会長さんがペロリと舌を出し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「アレ、取ってきてくれるかな? まだ遅刻って程でもないよね」
「かみお~ん♪ ちょっと遅れたくらいだと思う!」
もっと遅くなった事だってあるし、と奥の小部屋に走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」が運んで来たのは嫌と言うほど見覚えのある箱でした。お馴染みのデパートの包装紙に包まれ、リボンがかかった平たい箱。新学期の始業式の日は、コレが出てくるのが恒例で…。
「よし。君たちの記憶にも刻み込まれていると分かって嬉しいよ。新学期といえば青月印の紅白縞! 教頭室までお届けってね」
さあ出発! と会長さんが先頭に立ち、紅白縞のお届け行列が「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋を出ました。新学期を迎える度に教頭先生にトランクスを五枚お届けするのが会長さんの約束事です。
「いっそ、こういうヤツをブラウロニア誓紙に書けばいいんだ」
生徒会室側へ抜けた時点でキース君がボソッと口にし、揃って吹き出す私たち。紅白縞をお届けします、と『おカラスさん』ことブラウロニア誓紙に書き込んだ場合、届けなかったら会長さんが地獄行き。教頭先生は受け取らなかった場合が地獄行きですし、やっぱり地獄には行けそうもなく…。
「教頭先生が受け取らない筈が無いもんね」
どう考えても地獄は無理、というジョミー君の意見に賛成しながら、私たちはトランクスの箱を掲げた「そるじゃぁ・ぶるぅ」と会長さんの後ろを歩いてゆきました。教頭先生、もうすぐ青月印が届きますからね~!

うだるような暑さの構内を歩き、中庭を抜けて本館へ。教頭室に着くと会長さんが重厚な扉をノックして。
「失礼します」
遅くなってごめん、と入っていった会長さんの姿に顔を輝かせる教頭先生。
「…来てくれたのか。もう来ないのかと心配だったが」
「お喋りしてたら盛り上がっちゃって…。はい、いつもの青月印だよ。紅白縞を五枚だよね」
教頭先生は差し出された箱を押し頂いて机に置くと。
「これが来ないと新学期を迎えた気がしない。…お前が嫁に来てくれたなら、そういうことも無くなるだろうが…」
「あーあ、またまた言ってるし! 二人で仲良く下着を選びに行くんだっけ?」
「それが出来たら幸せだろうと思うのだがな…。やはり今でも気は変わらんか?」
「残念だけど、ぼくは結婚する気は無いから」
フィシスとだってしてないんだし、と会長さんは微笑んでいます。
「そういう束縛は好きじゃないんだ。あ、もちろんフィシスは別格だよ? でもね、結婚しちゃうと女神じゃなくなってしまいそうでさ…。そういう意味で保留なだけ。そして君とは絶対結婚したくない。一生束縛されるだろうし」
「…私はそういうタイプではないが…」
「そうかなあ? 君の理想の結婚生活ってヤツを知る度にそういう認識が深まるけれど? 束縛しているつもりは無くても、ぼくの方が息が詰まるんだ。四六時中ベッタリ貼り付かれるとね」
適度な距離を保ちたい、と言う会長さんの意見は一理あるように思えました。教頭先生の妄想の一部は私たちだって知っています。家に帰ると会長さんが迎えてくれて…、というヤツですが、それを実現しようと思えば、会長さんは教頭先生の帰宅時間に合わせて動かなければいけないわけで…。
「君の夢見る結婚生活は妄想の中に留めておくのがいいと思うよ。妄想する分には大目に見るさ。…夫婦茶碗を飾っていようが、ペアグラスにぼくの名前を刻もうが」
「「「!!!」」」
ペアグラスって、もしかしなくてもアレですか? さっき会長さんの家の物置に瞬間移動で放り込んで来たソルジャーとキャプテンの結婚祝いの引き出物の? 教頭先生は耳まで真っ赤に染めてしまって。
「そ、そのぅ…。せっかく貰った引き出物だし、名前入れ用のサービス券も入っていたし…。個人的に棚に飾る分には問題無いかと…」
「それで注文しちゃったわけだね、ぼくの意見も聞かないで。…事後承諾ってことで許すけれども、そこまでだよ? ついでにゼルとかが遊びに来た時、見られないように気を付けて。でないと、ぼくが君に惚れたと盛大に誤解されちゃいそうだ」
「…分かっている。夫婦茶碗と一緒に寝室の棚に飾るつもりだ」
「「「………」」」
夫婦茶碗には思い切り覚えがありました。春休みに行った温泉旅行に乱入してきたソルジャーとキャプテンが買って帰ったのが羨ましかった教頭先生、すったもんだの末に会長さんから片方が割れた夫婦茶碗を貰ったのです。いえ、代金は教頭先生が支払う羽目になったんですけど。
「夫婦茶碗にペアグラスねえ…」
止めないけどさ、と溜息をつく会長さん。
「夫婦茶碗は君の分を真っ二つに割っておいたというのに、金継ぎなんかに出しちゃって…。修復済みというのが泣けるよ、そこまでして揃えておきたいものかな? 今度のワイングラスにしたって、ぼくの名前を刻んだ所で夢が叶うわけじゃないけれど?」
「それでもいつかは…と思ってしまうし、想い続ければ叶うかもしれんと信じている。…現にブルーも結婚したしな」
「あっちのブルーは別物だよ!」
ぼくとは思考回路が違うんだ、と会長さんは力説しています。なのに教頭先生は分かっているのか、いないのか…。
「とにかく私はお前が好きだし、お前以外の誰かを嫁に欲しいとも思わない。…神に誓ってお前だけだ」
「はいはい、それじゃそういうことで」
じゃあね、と手を振りかけた会長さんを教頭先生が呼び止めて。
「…これを貰ってくれないか? 嫌なら私が保管しておくが」
「え?」
何さ、と首を傾げる会長さん。私たちも回れ右しかかっていた足を止め、教頭先生の方に向きました。えっと…引き出しを開けてますけど、お小遣いでも渡す気でしょうか? お小遣いなら会長さんは大喜びで貰う筈だと思いますですよ~。

「…頑張って回って貰って来たんだ」
大変だった、と教頭先生が取り出したのは何の変哲もない書類袋。さほど厚みもありません。お小遣いでは無さそうですし、頑張って回ったとはスタンプラリーの類とか? 全部回ると賞品をくれるスタンプラリーが流行りですから、後は賞品を引き換えるだけというシートが中に…?
「ふうん…。何を頑張ってきたんだい?」
興味津々の会長さんに、教頭先生は自信たっぷりに。
「おカラスさんだ」
「「「おカラスさん!?」」」
私たちの声が揃って引っくり返り、会長さんも目を白黒とさせています。おカラスさんと言えばブラウロニア誓紙。さっき話題にしていたアレを教頭先生が貰ってきたと…? ブラウロニアって日帰りで行こうと思えば行けるでしょうけど、辺鄙な場所だけに大変ですよ?
「ハ、ハーレイ…。おカラスさんって……頑張って回ってきたって、まさかブラウロニアの三山を全部?」
会長さんの震える声に、教頭先生は大きく頷いて。
「もちろんだ。やはり誓いを立てるからには回るべきかと思ってな…。しかしアレだな、あそこは車があっても不便だな。高速道路も通っていないし」
「つまり車で行ったわけだね?」
「ああ、日帰りで強行軍だ。新学期までに日が無かったし、早くお前に渡したかったし…」
本当にとても大変だった、と教頭先生が書類袋から三枚の紙を出しました。どれもカラスが躍ってますけど、デザインが全部違います。会長さんが使っていたのはどれでしたっけ?
「これがブラウロニア本宮のだ。お前が貰いに行ったヤツだな」
「…それで?」
腰が引けている会長さんに、教頭先生は穏やかな笑み。
「やはり一番大事な誓いは本宮で頂いたものに書くべきかと…。これでどうだろう?」
教頭先生が裏返した『おカラスさん』には毛筆でこう書かれていました。
『私は一生、ブルーを愛し続けると誓います』。
ひいぃっ、教頭先生も誓いを破れば地獄落ちという紙に誓いを立ててしまうとは…。思い込みの激しさは超一流だと会長さんが評してましたが、ここまでやるとはビックリです。キャプテンの言葉に触発されてブラウロニアを目指し、おカラスさんを三枚も…。
「他の二枚はこうなのだが」
「「「………」」」
裏返された二枚の紙に誰もがポカンと立ち尽くすだけ。そこに書かれた言葉はこうです。
『結婚するなら神に誓ってブルーだけです』。
『初めての相手も、その後の相手も、私には一生ブルーだけです』。
あちゃ~。教頭先生が口にするのは幾度となく聞いてきましたけれど、改めて書かれると迫力が…。おまけに書き付けた紙はブラウロニア誓紙。誓いを破れば地獄落ちという恐ろしい紙が合計三枚。教頭先生がブラウロニア誓紙で地獄に落ちるには会長さんとの結婚証明書が必須なのだと思ってたのに…。
「……やっちゃったか……」
ここまでされると正直怖い、と会長さんが首を左右に振って。
「ハーレイ、これじゃストーカーと変わらないんじゃないかと思うけど?」
「ストーカーだと? 何故だ、これは私の本心からの気持ちを綴った誓いの紙で…」
熱い想いを籠めたのだ、と語る教頭先生に、会長さんは。
「だからさ、それが迷惑なんだよ。…君が誓いを破った場合は地獄に落ちるわけだろう? ぼくにしてみれば、君の想いを受け入れないのは君を地獄に落とすのと同じ、と脅迫されてる気分になるわけ」
「わ、私はそんなつもりでは…!」
「違うだろうねえ、君からすれば。…悪気が無いのは分かってるけど、ストーカーだってそういうものさ。自分の想いを分かってくれ、と自分本位で追い掛け回すのがストーカー! この紙もそれと似ているんだよ」
困ったモノを作ってくれちゃって…、と会長さんは自分の肩に手をやって。
「君が地獄に落ちるかどうかが、ここにズッシリ乗っかったのさ。ぼくは一生、君を気にして生きて行かなきゃならなくなった。…君の心が離れそうになったら引き止めなくっちゃいけないんだよ? ぼくだけを想ってくれていたんじゃないのか、と。…これさえ無ければ、君が誰かと結婚するなら心から祝福出来たのに」
うわわ、そういう展開ですか! 確かにこの紙が存在する以上、教頭先生が会長さんから別の人に心を移せば地獄落ちということになりますが…。
「ハーレイ、ぼくは束縛されたくないって言ったよねえ? この紙はそれよりも前に既に書かれていたわけだけど、これが束縛でなければ何だと? 君は自分の地獄落ちを盾にぼくを脅して、一生、縛り付けるんだ」
「す、すまん…。本当にそんなつもりじゃなかった。私の想いを証しておこうと思っただけで…」
教頭先生は真っ青になり、平謝りに謝っています。けれどブラウロニア誓紙に誓った言葉は破れないのがお約束。破ればブラウロニアの神様のお使いのカラスが一羽亡くなり、誓いを破った人間もまた血を吐いて地獄に落ちると言われているんですよね…。

土下座して床に額を擦り付け、「すまん」と謝る教頭先生。けれど会長さんの表情は険しく、ついに横からキース君が。
「おい、本当に地獄落ちってわけじゃないんだろう? 最盛期には遊女と馴染み客も交わした人気アイテムとか言わなかったか?」
「アイテムとしてはそうかもしれない。でもね、こういった類のヤツは真剣に願えば効力が増す。ハーレイが自分で言っただろう? 自分の想いを証するために書いたんだ、って。…実際に地獄落ちまで行くかどうかは分からないけど、ぼくを縛るには充分なんだよ」
万一ってこともあるんだから、と会長さんは大真面目でした。
「ぼくのせいで地獄落ちなんてことになったら、ぼくの来世にも差し障りが出る。極楽往生する気でいるのに、六道輪廻に差し戻しかもね。ハーレイを地獄に落としておいて自分は極楽浄土に行くなんてことを、阿弥陀様は許して下さるのかい?」
「そ、それは…。お念仏を唱えれば極楽往生出来るんだから、あんたほどの高僧だったら…」
「仮説の域を出ないよね、それ。…ぼくも地獄に行くかもしれない。全部この紙のせいなんだけどさ」
よりにもよって三枚も、と会長さんが溜息をつけば、教頭先生は大きな身体を縮こまらせて。
「すまない、ブルー。お前を困らせるつもりは無かった。わ、私が全部背負ってゆくから……地獄へは私一人で行くから、お前は極楽へ行ってくれ」
「そう言われてもねえ…。おカラスさんが存在する限り、どうすることも出来ないんだよ。破っていいなら破るけどさ」
「や、破る…? 破ったら地獄に落ちるんだぞ!」
やめなさい、と教頭先生が叫びましたが、時すでに遅し。会長さんは三枚のブラウロニア誓紙を重ねて掴むと真っ二つに引き裂いてしまいました。これには私たちも顔面蒼白、悲鳴すらも喉から出ては来ず…。ブラウロニア誓紙は更に細かく破られ、サイオンの青い焔で燃やし尽くされ、会長さんが何やら呪文を。
「のうまく しっちりや じびきゃなん たたぎゃたなん…」
な、なんですか、これは? 意味不明な上に長いです。
「…たらまち しったぎりや たらんそわか」
唱え終わった会長さんはクスッと笑うと。
「ハーレイ、今のは高くつくよ。三枚もチャラにしてあげたんだし」
「な、何をしたんだ? あれを破ればお前も地獄に…」
無茶な事を、と教頭先生は半ばパニック。けれど会長さんは涼しい顔で平然と。
「チャラにしたって言っただろう? おカラスさんは消しちゃったから誓いは無効だ。そして破ったことで生じる罪も消滅ってね」
「…消せる……のか…?」
「ぼくを誰だと思ってるのさ? 今、唱えたのは大金剛輪陀羅尼。一切の罪業が消滅すると言われている。半端な人間が唱えたんでは神様相手には無理だろうけど、ぼくなら可能だ」
御布施の相場はこんなもの、と会長さんが机の上のメモに書き付けた数字は強烈でした。三日以内に会長さんの口座に振り込まないと、教頭先生の家に乗り込んで差し押さえだとか。
「それと迷惑料と、精神的苦痛を被ったことへの慰謝料と…。えっと、ハーレイ、聞こえてる? ハーレイってば!」
教頭先生の口から魂が抜けていくのが見えました。落ちるかもしれない地獄などより、生きて赤貧地獄の方がダメージが大きいみたいです。支払わなければ差し押さえ。おカラスさんに「支払います」って誓いを書くのも一興かも…?


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