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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

カテゴリー「シャングリラ学園・番外編」の記事一覧

海の別荘の滞在予定は一週間。それだけの長期休暇をもぎ取って来たソルジャーとキャプテン、それに「ぶるぅ」が張り切っているのは当然です。一応、非常事態に備えて自分たちの世界のシャングリラ号を常に追ってはいるそうですけど、まず心配は無いのだとかで。
「初日から海を楽しめて良かったよ」
明日以降はどうなるか分からないから、とソルジャーが言ったのは夕食の席。別荘のシェフが腕を揮ったコース料理を味わっている真っ最中です。私たちの前にはホワイトソースの焦げ目が食欲をそそるロブスターのテルミドールが…。
「どうなるか分からないだって? 自制すれば済むことじゃないか」
それが出来ないのならお好きにどうぞ、と会長さん。
「海で遊ぼうと思ってるんなら、夜の時間は控えめに! 夜の時間の方が大事だと言うなら止めないよ」
「んー…。大事だと言うか、何と言うか…。ハーレイと二人きりで過ごせる時間はシャングリラでは殆ど無いし、この機会を逃したくないんだよ。次に長期休暇を取れるのがいつになるかも分からないんだし」
「「「………」」」
それを言われると私たちだって何も反論できません。仕方ないか、とロブスターをナイフとフォークで殻から外し、切り分けて口に運んでいると。
「あ、そうだ」
ソルジャーが唐突に声を上げ、ロブスターの身を刺したフォークを手にしたままで。
「ジンゼンシキって、何なのさ?」
「「「…ジンゼンシキ?」」」
それはこっちが訊きたいです。テーブルの上には今夜のメニューが置かれていますが、そんな料理は載ってませんし…。顔を見合わせている私たちの様子に、ソルジャーは。
「うーん…。その感じだと、一般的ではないのかな? ブルーが浜辺で言っていたから、常識なのかと思ってたけど」
「「「???」」」
ますますもって心当たりは皆無でした。会長さん、そんな単語を言いましたっけ? 浜辺での話題はソルジャーのお肌自慢とバカップル。それから後は海で砂浜でと遊びまくってワイワイ騒いでいただけで…。しかし、会長さんには思い当たる節があったようです。
「えっと…。それって、もしかしてハーレイ……。そう、こっちのハーレイとぼくとの会話?」
「うん。君がズラズラと立て板に水の勢いで並べ立てていたヤツ」
「神前式に仏前式…って言った続きに?」
「そうそう、それの続きにジンゼンシキだよ」
ぼくの記憶に間違いなし、と語るソルジャーは得意げでした。
「そこまでの流れが流れだからねえ、結婚式の一種かなぁ…って。初耳だから気になってさ。…ジンゼンシキってどんなヤツだい? 人の前って書くのかな、と勝手に想像してるんだけど」
「……書き方としてはそれで合ってる。だけど中身は色々だよ」
特に約束事は無いようだ、と会長さんは指を折りながら。
「まずは指輪の交換と……誓いの言葉も言うのかな? 結婚証明書も作ると思う。だけどその辺も自由なんだよ、人前式は」
「へえ…。もしかして凄く簡単だったりする? 結婚します、の一言だけで済むくらい?」
「極端に言えばそうなるね。人前式って言うくらいだから立会人とでも言うのかな? 式に参列してくれた人が結婚したことの証人です、っていう形だよ。それだけのことだから挙式する場所も何処だっていいし、宗教だって気にしない。最近、人気があるみたいだね」
「なるほどねえ…」
そういう形もあるものなのか、とソルジャーは感心しています。エロドクターと模擬結婚式を挙げようとしたソルジャーだけに、結婚式というのは一大イベントだと思い込んでしまっていたらしく…。
「そんな風に挙式出来るんだったら、もしかして今でも出来るわけ? たった今、ぼくが結婚しますと宣言しても無問題?」
「「「は?」」」
「だからさ、今、ぼくのハーレイと結婚します、と宣言しても結婚したことになるのかな、って訊いてるんだよ。指輪も何も用意が無いけど」
「「「!!!」」」
なんと、そういう展開でしたか! バカップルだとは思ってましたが、夕食の席で電撃結婚する勢いで付き合っていたとはビックリです。いえ、深い関係なのは知ってましたよ? 知ってましたけど、結婚ですか…。

ポカンと口を開けたままの私たちを無視して、ソルジャーは人前式を挙行する気になっていました。ロブスターのお皿は下げられ、牛リブロースステーキが各自の好みの焼き加減で届いています。この後はデザートのケーキにフルーツ、コーヒーか紅茶で夕食は終わり。
「ぼくの世界じゃシャングリラの中しか暮らせる所が無いからねえ…。結婚式だって簡単なものさ。人前式ってヤツと似てるかな? ぼくはハーレイと結婚したって構わないんだけど、なにしろハーレイが乗り気じゃなくてさ」
そうだよね? と問われたキャプテンは咳払いをして。
「え、ええ…。ブルーのことは愛していますが、そのぅ……ソルジャーとキャプテンが結婚となると、シャングリラの秩序がどうなるのかと…。ソルジャーにしてもキャプテンにしても、最高権限を持つ役職です。そんな二人が結婚すれば、シャングリラを私物化していると思われそうで…」
「大丈夫だって言ってるのにさ、そうは思いません、の一点張り! ぼくたちの仲はバレバレなんだし、結婚しようが何も変わりはしないのにねえ? なのに隠し通そうと頑張ってるんだ、ハーレイは。…この辺りのヘタレ具合も直らないらしい。それでも前よりは遙かに情熱的だし、多少のヘタレは大目に見ないと」
欲張ったらキリが無いんだし…、とソルジャーがキャプテンの手を軽く叩くと。
「…分かりましたよ、どの辺りを食べてみたいんです?」
キャプテンは自分のお皿に乗ったステーキを切り分け、ソースを絡めて。
「どうぞ」
「ん…。…………。やっぱりお前とは好みが合いそうにないな」
美味しい肉には違いないけど、と呟くソルジャー。要するに私たちの目の前で「キャプテンに食べさせて貰っていた」わけです。このバカップルを何とかしてくれ、と叫び出したい気分でしたが、それよりも。
「…多少好みが合わないからこそ、結婚してみる意味もあるかと…。ぼくたちの世界で結婚するのは無理そうだから、こっちの世界で結婚しようと思うんだよね。人前式なら今すぐだって出来ちゃうんだろう?」
デザートが終わったらやっていいかな、とソルジャーは赤い瞳を煌めかせて。
「それとも食事が済んでから場所を移した方がいい? プールサイドも良さそうだよねえ、ライトアップが綺麗だし…」
「ちょ、ちょっと…」
ちょっと待った、と会長さんがやっとのことでソルジャーの話を遮りました。
「人前式で結婚するって、本気かい? 君のハーレイは結婚に賛成していないんだろ?」
「それはぼくたちの世界での話! こっちで結婚したからといって、あっちで公にしたりはしないし、ぶるぅだって秘密は守れるさ。…出来るよね、ぶるぅ?」
「うん! ブルーとハーレイはぼくのパパとママだもん! ちゃんと結婚してくれた方が嬉しいもん! 言っちゃダメなら内緒にしとくよ」
約束するもん、と「ぶるぅ」も結婚に大乗り気です。ということは、残るはキャプテンの意見次第で…。
「ハーレイ、お前はどうなんだ? シャングリラには影響が無いと分かっている世界でも、ぼくと結婚するのは嫌か?」
「と、とんでもありません!」
なんと、キャプテンは即答でした。
「あなたと結婚したくないわけがありません。ただ……ただ、そういう機会が無かっただけで……」
「決まりだな。…結婚しよう、ハーレイ」
「……ええ、ブルー……」
デザートのお皿も来ていないというのに、バカップルは熱いキスを交わしてしっかりと固く抱き合っています。会長さんは何て言いましたっけ? 誓いの言葉さえあれば人前式は成立するんでしたっけ? なし崩し式に立会人にされてしまったようですけども、ソルジャー、キャプテン、御成婚おめでとうございます~!

翌日の朝、バカップル……いえ、ソルジャーとキャプテン夫妻は朝食の席に姿を現さず、代わりに「ぶるぅ」がトコトコと一人でテーブルにつき、明るく元気一杯に。
「かみお~ん♪ 今日からよろしくね!」
「「「えっ?」」」
「えっとね、ブルーもハーレイも朝御飯の時間は疲れてるから、お休みなの! 起きられるようになったら出て行くよって言っていたけど、それまでお世話になりなさい…って」
「「「………」」」
新婚熱々の御夫妻は育児を放棄したようです。私たちに「ぶるぅ」の面倒を見させて、自分たちは何をしているのやら…。文句タラタラでトーストやサラダ、ソーセージなどを頬張る私たち。
「そういや、あいつらの部屋の前に「起こさないで下さい」って札があったな」
キース君が毒づけば、マツカ君が。
「ええ。朝食はお電話があったらお届けすることになっているんです」
「なんだって? そこまで決まっていたのかい?」
いつの間に、と会長さんが尋ねると、マツカ君はニッコリ笑って。
「ご結婚なさったわけですからね、色々と気配りが必要かと…。それで執事に相談したら、お食事は御希望があればルームサービスにした方が良い、ということで」
「「「ルームサービス!?」」」
「そうなんです。お飲み物などもお届けすることに決まりました。お食事は基本はルームサービス、お部屋の掃除はお二人がお出掛けの間に手早く、です」
あちゃ~…。ということは、最悪の場合、御夫妻とは最終日まで顔を合わさないかもというわけですか…。執事さんが有能なのは素晴らしいですが、新婚バカップルの愛の巣なんかをわざわざ作ってあげなくても…。
「なんでこういうことになるかな…」
会長さんが頭を抱えているのとは逆に、教頭先生は感動中。いつかは自分も同じような『邪魔の入らない新婚旅行』を実現させたいみたいです。もちろん相手は言うまでもなく会長さんで。
「ブルー、二人を祝福してやらないと…。私たちの世界に初めて来てから今日までの間に何年かかった? 想い合っていても三年以上もかかったんだ。片想いだけで三百年だと先は長いな」
「先は長いって…。本気で言ってる? まあいいけどね、思ってるだけなら実害は無いし。…その点、ブルーはどうかと思うよ。散々バカップルっぷりを垂れ流した挙句にお籠りだって?」
考えただけで溜息が出る、と会長さんは新婚夫妻の部屋の方角へ目をやって。
「マツカ、ぼくが頼んでいた夜釣りだけどね。予定変更、今日から毎晩! 漁船のチャーター費用ってヤツは思った以上に安いようだし」
「毎晩ですか? そりゃあ……チャーター費用は充分ですけど…」
「お釣りが来るだろ、毎晩でも? バカップルがお籠りしているんだよ、少しでも離れていたいじゃないか」
夜釣りが済んだら寝に帰るだけ、と主張している会長さんに私たちも大賛成でした。昼間はビーチで、夜は海の上。バカップルとは距離を置くのが一番被害が少なそうです…。

お籠り中の新婚夫妻はその日は姿を見せないまま。もしかしたら昼食は部屋から出たのかもしれませんけど、私たちの方がビーチから戻らずに過ごしていたので分かりません。育児放棄された「ぶるぅ」は「パパとママがラブラブなのはいいことだ」と思っているらしく、御機嫌で海で遊び続けて…。
「ねえねえ、夜釣りって何をするの?」
そっちも楽しみ、と「ぶるぅ」は早めの夕食の席ではしゃいでいます。船に乗るので夕食は軽めのメニューでした。とはいえ、シェフの気配りで栄養たっぷり、バテないように色々工夫が。
「夜釣りかい? 魚を釣りに行くんだけどね、ぼくが頼んだのは釣りじゃない」
「「「え?」」」
会長さんの答えに『?』マークだらけの私たち。彩りよく盛られた海老やグレープフルーツ入りのアボカドのカクテルを食べている手も止まりましたが。
「行けば分かるさ、港に行けば…ね。ぼくも初めて挑戦するんだ」
釣りじゃないのに夜釣りとは如何に? 深まる謎に夕食のテーブルは大いに盛り上がり、食後はハーブティーを飲んでいざ出発! マイクロバスで小さな港に着くと明かりの点いた漁船が待っていました。
「いらっしゃい! まず救命胴衣を着けて下さいね。それから、いきなり船の上で振り回すのは初心者さんには難しいですから、そちらで練習なさって下さい」
「「「……えっと……」」」
船長さんの指示通り救命胴衣を着けた私たちの前に並んでいたのはスチール製の握りがついたタモ網でした。長さは私たちの背丈ほど。教頭先生には余裕の長さですけど、「そるじゃぁ・ぶるぅ」と「ぶるぅ」には少し長すぎませんか? でも…。
「ああ、お子様でもそのサイズです。でないとトビウオは掬えませんよ」
「「「トビウオ!?」」」
「皆さん、御存知なかったんですか? これからトビウオ掬いに出航します。相手は空も飛びますからねえ、そのくらいの網が必要なんです。充分に素振りしておいて下さい」
出航準備をしてきます、と船長さんが乗り込んで行くと、お手伝いらしき船員さんが。
「もっとこう、大きく振り回さないとダメですよ。集魚灯に向かって泳いでくるのを掬うんです。場合によっては飛んでますから、その時は虫採りの要領でパッと」
まさか空飛ぶ魚を獲りに行くとは想像もしていませんでした。網は見た目よりも軽く、「そるじゃぁ・ぶるぅ」たちもブンブン振って遊んでいます。これって釣りより面白いかも? 間もなく出航した船は夜の海を沖へと進み、集魚灯を点けて待機中。んーと…。何もいませんよ?
「海をよく見て下さいね。青白いものが近付いて来たら、そこをすかさず掬って下さい」
船員さんに説明されても何の事だか…って、キース君!?
「お見事!」
キース君のタモ網の中で魚がピチピチ跳ねていました。船員さんがトロ箱に入れています。トビウオ掬いは競い合うのが醍醐味だそうで、人数分のトロ箱が。これは私も頑張らないと、と思う間もなく会長さんが掬ったようです。続いて「ぶるぅ」が、ジョミー君が…って、うひゃあ!
「かみお~ん♪」
私の目の前に飛んで来たトビウオを「そるじゃぁ・ぶるぅ」の網が一閃、素早くキャッチ。こうなってきては負けられません。えーい、掬って掬って掬いまくっちゃえー!
「そっち、そっち!」
「うわーっ、来たー!」
トビウオ掬いは体力勝負。どのくらいの時間を戦っていたのか分かりませんが、港に戻った私たちは新婚バカップルの存在を気持ちよく忘れて眠れる程度に疲れていました。一番沢山掬い上げたのはキース君で、次点が教頭先生です。新鮮なトビウオはフライにすると美味しいそうで、明日の朝食が楽しみかも…。

こうして私たちの別荘ライフは昼間はビーチ、夜は漁船で海の上。新婚バカップルがビーチに来る日もありますけれど、バカップルだけに不可侵条約が暗黙の了解事項になっていて…。ともあれ、無視する術は身につけました。バカップルは食事もルームサービスで食べるのですから。しかし…。
「うーん、やっぱり一発お見舞いしないと気が済まないよね」
不穏な台詞を口にしたのは会長さん。別荘ライフも残り三日という日のことです。朝食のテーブルで揚げたてのトビウオを頬張りながら、会長さんは真剣な顔で。
「…ブルーが結婚したいのは分かる。そして結婚したらしい。…でもって、ぼくたちが迷惑を被ってるわけで、ここは仕返ししておきたい」
「やめなさい、ブルー」
止めに入ったのは教頭先生。
「人の恋路を邪魔するな、と昔から言われているだろう。馬に蹴られて死にたいのか?」
「だから色々考えたさ。邪魔にならなくて、仕返しも出来て、一石二鳥の方法を…ね。もしかしたら仕返しどころか喜ばれちゃって終わりかもだけど、そうなったらそれはその時のことで」
「…何の事だか分からんのだが…」
「結婚証明書を用意してあげようと思うんだ。せっかく結婚したというのに証人がいただけだろう? 思い出になる品を持って帰れれば幸せだろうし、証拠にもなる」
それが最高、と会長さんはブチ上げましたが、結婚証明書の何処が仕返し? 喜ばれて終わるのは火を見るよりも明らかですが…。「ぶるぅ」だってワクワクしてますし!
「かみお~ん♪ 結婚証明書って、結婚したって証明だよね? わーい、本当にパパとママが結婚したって証拠が出来たら、今よりもっと仲良くなるよね! それって最高!」
用意してよ、と「ぶるぅ」はピョンピョン飛び跳ねています。食事の最中に跳ね回るのは、お行儀がいいとは言えませんけど…。ところで、結婚証明書って何処に行ったら買えるのでしょう? それとも会長さんが手作りするとか?
「朝御飯が済んだら出掛けよう。今日もたっぷり泳ぎたいから、用事は早めに済ませたい」
そう宣言した会長さんは、食事が終わると私たち全員に「一緒に来るかどうか」を意思確認し、全員が「行く」と答えた時点で会長さんの泊まる部屋へと移動して…。
「何処へ行くんだ?」
教頭先生の問いに、会長さんは。
「ブラウロニア」
「「「えっ?」」」
それって大きな滝と原生林とで有名な場所の名前では? そんな所へ何をしに、と思う間もなく会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオン発動。私たちの身体がフワリと宙に浮き、降り立った場所は神社の境内でした。確かブラウロニアの三つの神社を巡る参詣道が世界遺産で、そのパンフレットで見たような…?
「ブラウロニアの本宮だよ」
滝があるのは別の神社、と説明しながら会長さんはスタスタ歩いてゆきます。そっか、やっぱりブラウロニア三山っていう神社の一つに来ているんですね。だけど、どうしてブラウロニアへ…?
「ちょっと買い物。いや、買い物と言ったら罰が当たるかな? 頂きたいものがあるからさ」
何が何だか分からないまま、私たちは神社にお参り。お参りが済むと会長さんは社務所に向かって…。
「おカラスさんをお願いします」
「「「???」」」
なんですか、それ? キョトンとしている私たちの後ろで教頭先生がウッと息を飲んだのが分かりました。会長さんが受け取った袋に視線が釘付けですけど、ちょっと大きめの紙袋に入っているのが『おカラスさん』かな? これで用事は終わったらしく、私たちは再び瞬間移動でマツカ君の別荘へ。
「ぶ、ブルー…」
紙袋を備え付けの机の引き出しに入れようとしている会長さんに、教頭先生が震える声で。
「おカラスさんとか言っていたな? その言葉には聞き覚えが無いが、その紙袋はブラウロニア誓紙か?」
「…流石は古典の教師だけあるね。正式名称はブラウロニア牛王神符、通称『おカラスさん』。世間一般にはブラウロニア誓紙と呼ぶようだけど」
これで結婚証明書の用意はバッチリ、と微笑む会長さんに、教頭先生が心配そうに。
「いや、その…。最盛期には遊女と馴染み客の間でも交わしていたと聞くがな、大丈夫なのか、本当に?」
「高僧のぼくが扱い方を誤るとでも? 問題ない、ない」
さあ海に行こう、と会長さんが号令をかけ、私たちは着替えに走りました。今日もビーチでバーベキュー! 夜はトビウオ掬いですよ~。

別荘ライフも残り二日となった日の朝、食堂のテーブルには熱々のトビウオのフライ。毎朝美味しく食べてましたが、この味とは今日でお別れです。楽しかったトビウオ掬いは昨夜が最後だったのでした。今夜も行くのだと思っていたのに、会長さんが予定変更してしまって…。
「トビウオ掬いは来年だって行けるしね。それでも行きたくてたまらないなら、シーズン中にまた連れて来てあげる。瞬間移動でパパッと来ちゃえば宿の手配も要らないしさ」
だからおしまい、と会長さんが言い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「えっとね、今夜はパーティーするんだって! ハーレイとブルーが結婚したでしょ、そのお祝いをしていないから、みんなで祝ってあげなさい、って」
「「「………」」」
そう来たか、と私たちは昨日の『おカラスさん』とやらを思い返して納得です。あれで作った結婚証明書を渡してお祝いしようと言うのでしょうけど、食事はルームサービスで食べるバカップルが出て来るのかな…?
「ブルーの部屋には手紙を入れておいたんだ。結婚式をした思い出に最後にパーティーしないかい、って。どうせ明日には揃って電車に乗り込むわけだし、お互い無視し合った状態のままで最終日を迎えてしまうよりかは、賑やかに祝福のパーティーを…とね」
ああ、なるほど。それでバカップルが出てくれば良し、出て来なければ豪華な夕食でおしまい、と。毎晩トビウオ掬いでしたから、船酔いしないよう夕食メニューはサッパリしたものが続いていました。今夜は久々にコッテリ系かな? 海で丸一日遊びまくれるのも今日が最後ですし、しっかり泳いでおかなくちゃ!

日が傾くまで海で遊んで、更にプールでひと泳ぎ。その間にバカップルとは一度も出会いませんでした。これは駄目かもしれないね、と話しながら部屋に戻ってお風呂と着替え。それから食堂へ出掛け、テーブルについて…。主賓のソルジャーとキャプテンの席は空席です。
「…来ないのかな?」
ジョミー君が呟いた所へ「ごめん、ごめん」と声がして。
「こういう席には何を着るのか分からなくって…。それで様子を見てたんだ。普通の服で良かったんだね」
「お招き下さってありがとうございます。…恐縮です」
ソルジャーとキャプテンがラフな格好で現れました。そっか、お祝いの席にはドレスコードというものが…。何も考えていなかった私たちはTシャツなどの普段着です。会長さんも教頭先生も改まった服は着ていませんし、会長さんの連絡ミスか、はたまたこれも仕返しなのか…。真相は分からないまま、まずは乾杯。
「ブルー、結婚おめでとう。それにハーレイも」
会長さんがシャンパンのグラスを手にして祝辞を。
「お祝いが遅くなったけれども、二人の前途を祝して乾杯!」
「「「かんぱーい!!!」」」
和やかに食事が始まり、素晴らしい料理が次々と。ソルジャーとキャプテンはお互いに食べさせ合ったり、キスをしたりとバカップルも此処に極まれりです。会長さんが毎晩トビウオ掬いに連れ出してくれていなかったなら、私たち、バカップルが気になって寝不足に陥っていたのかも…。
「幸せそうで良かったよ。…ところで、ブルー」
残るはデザートという段になって、会長さんがソルジャーに。
「君の性格からしてウェディングケーキは今更じゃないかと思ったんだよね。君の世界のハーレイも甘い食べ物は苦手らしいし、お祝いのケーキが仇になるのは良くないだろう? だからデザートは普通なんだけど、代わりにプレゼントを作ってみたんだ」
「…プレゼント?」
「うん。結婚証明書を手作りしたのさ。新郎新婦と立会人の代表が署名する仕様。ぼくの署名はしておいたから、後は君とハーレイが署名をすれば完成だ」
「本当かい?」
ソルジャーの顔がパッと輝き、キャプテンの頬も緩んでいます。
「結婚証明書ですか…。お心遣いに感謝します」
「嬉しいよね、ハーレイ。早速署名といきたいけれど、食事の後かな?」
尋ねられた会長さんが頷いて。
「お遊びのヤツじゃないからね。証明書にも敬意を払ってほしいんだ」
「ふうん…。なんだかドキドキしてきたよ。じゃあ、食事が済んだら宜しくね」
ハーレイと仲良く署名するんだ、とソルジャーは大喜びでした。ほーら、やっぱり仕返しになっていませんよ…。

そして訪れた署名の時間。二階の広間に場所を移して、中央にテーブルが据えられています。白いテーブルクロスと生花で飾られた其処へ、会長さんがスッと一枚の紙を。
「これが結婚証明書。ぶるぅのママがどっちなのかで揉めたりしたのを知っているから、新郎とも新婦とも書いてはいないよ。二人の名前を書く欄があるだけ。どちらの欄に署名するかは好みでどうぞ」
「そこまで考えてくれたのかい? えーっと、ソルジャーのぼくの名前が先でいいかな? それともキャプテンの署名の方が先なのかなあ?」
「ソルジャーが先だと思いますよ、ブルー。あなたあってのシャングリラです」
お先にどうぞ、とキャプテンが譲り、ソルジャーはテーブルに備え付けられていた羽根ペンでサラサラと署名しました。続いてキャプテンがペンを手にしたのですが、会長さんがスッと制して。
「…署名する前に、大切なことを言っておかないと…。この証明書の裏には『おカラスさん』が貼ってあるんだ。ほらね、カラスの模様が可愛いだろう?」
裏返された証明書の裏には沢山のカラスが躍っていました。それで『おカラスさん』なんですね。
「とある神社が発行していて、ブラウロニア誓紙と呼ばれている。この紙に書いた誓いを破ると神社のお使いのカラスが一羽亡くなり、誓いを破った人間の方も血を吐いて地獄に落ちるんだってさ」
「「「!!!」」」
か、会長さんったら、そんな恐ろしい物を作ったんですか? それが結婚証明書ってことは、ソルジャーとキャプテン、別れたりしたら大変な事に…。けれど顔面蒼白の私たちを他所に、キャプテンは迷うことなく署名して。
「…ブルー、誓ったのは私の方です。私が誓いを破った時は血を吐いて地獄に落ちるでしょう。けれど、あなたはどうぞ自由に…。あなたが私を捨てて行かれても、あなたは地獄に落ちません」
「……ハーレイ……?」
「あなたが先に署名なさって良かったです。後に書き込んだ私一人が罰を受ければ良いのですから」
縛られることなく御自由に…、と微笑むキャプテンは包容力に溢れていました。ソルジャーは「馬鹿っ!」と叫んで、「一人で地獄に行かせはしない」と命令口調で言い切った後は、キャプテンと強く抱き締め合って二人の世界。会長さんの仕返しとやらは脅しにもならず、絆を深めるだけの結果に…。
今年の夏の海の別荘は結婚式の会場となり、帰りの電車でも新婚バカップルは熱々でした。ソルジャー、キャプテン、どうぞ末永くお幸せに~!


 

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海の別荘へ行きたい一心で棚経をクリアしたジョミー君。サム君の方は「いい勉強と修行になった」と思っているようですが、ジョミー君は「また坊主に一歩近づいてしまった」と悲しんでいる様子です。とっくの昔に僧籍のくせに、今更何を言ってるんだか…。そんな二人がお盆の行事を全てこなして、今日は休養日。
「二人とも、よく頑張ったね。お蔭で恥をかかずに済んだよ」
弟子の不始末は師僧の責任になるんだから、と会長さん。元老寺でのお盆の最大の行事、施餓鬼会とやらには会長さんもお目付け役で出掛けたという話でした。もちろん高僧の証の緋色の衣を纏って、です。会長さんの登場で法要の格が上がったとアドス和尚は非常に喜んでいたそうで…。
「要らないよって言ったのにさ、どうしても受け取ってくれって渡されちゃって…。どうする、これ?」
私たちは会長さんの家に遊びに来ていました。明日からマツカ君の海の別荘に出発ですけど、その前の打ち合わせのようなものです。会長さんがテーブルの上に出してきたのは熨斗袋でした。
「けっこう入っているんだよ。…だけど別荘でかかる費用はマツカが出すと言ってくれてるし、普段に遊ぶ費用はハーレイから巻き上げてなんぼって所があるからねえ…」
「巻き上げなければいいじゃないか」
それが一番、とキース君。
「あんた、教頭先生には御迷惑を掛けっ放しだろう。その金は次の打ち上げパーティーにでも使うんだな」
「普通に考えればそうだろうけど、ハーレイの場合は違うんだよ。ぼくに貢ぐのが生甲斐になってる部分があってさ。…嘘だと思うなら試してみようか?」
会長さんは携帯を取り出し、教頭先生を呼び出して。
「もしもし、ハーレイ? ちょっと聞きたいことがあるんだ。明日からマツカの海の別荘に行くんだけれど、一緒に行く?」
「「「えぇっ!?」」」
なんでそういう展開に? 貢ぐかどうかを訊くのが目的だったんでは…? けれど会長さんは私たちにパチンとウインクしてみせて。
「あ、そう。…忙しいんなら仕方ないね。えっ、一日で片付ける? でもって残りは代理を立てる…? そりゃあ、来てくれるのは嬉しいけれど…。でも、代理を頼んでスカンピンになった君じゃ全く意味が無いんだよね」
へ? 代理だのスカンピンだのって、どういう意味? 顔を見合わせている私たちを他所に、会長さんは。
「高くついても構わないって? じゃあ、楽しみにしてるから。…っていうのは冗談、臨時収入が入ったんだよ。え? ええっ? …ちょっと待ってて」
そこで会長さんが私たちの方へ視線を向けて。
「ほらね、財布代わりにされると分かっていても一緒に来たいのが証明されたと思うけど? 臨時収入があったと言ったらショックを受けてる。今年は呼んで貰えないのか…って。自己負担でも構わないから行きたいらしいよ。…どうかな、マツカ?」
「教頭先生も一緒にですか? ぼくは構いませんけれど…。もちろん費用は頂きません」
「それは嬉しいね。ハーレイを呼ぶ気は全然無かったんだけど…。来たなら来たで楽しいだろうし、よろしく頼むよ。…あ、ハーレイ? マツカがどうぞ来て下さい、って。費用もマツカが出してくれる。持つべきものは出来る弟子だね。心から感謝しておきたまえ」
集合場所とかは後でメールする、と告げて会長さんは電話を切りました。なんと、教頭先生も一緒に海の別荘へお出掛けですか! まあ、毎年おいでになってますから、特に問題ありませんけど。
「…というわけで、ハーレイも参加するってさ。今から仕事を大車輪だね、何処まで出来るか知らないけどさ」
クスクス笑う会長さんに、キース君が。
「おい、代理を立てるとかいうのは何だ? 代理を頼むとスカンピンだとか言っていたな」
「あれっ、前に話さなかったっけ? ウチの学校の教職員は全員がサイオンを持っているから、仕事の引き継ぎも代理を引き受けるのも朝飯前だ…って。ハーレイの仕事が今日中に終わらなかったら、残った仕事は代理を募集するんだよ」
言われてみれば聞いた気もします。確か代理で仕事をすれば特別手当が入るとか…。
「そう、そのシステムのことを言ってるのさ。特別手当は学校の方から出るんだけれど、予め届け出がしてあった時は学校が全額を負担。今のハーレイみたいに急遽募集ということになると、頼んだ方も自己負担をする決まりでねえ…。最近の比率は何割になっているのかな? とにかく負担はゼロにはならない」
「「「………」」」
教頭先生、自腹を切って代理を雇ってでも会長さんと海の別荘ですか…。なんとも見上げた心意気です。会長さんがアドス和尚から貰ったお金で払ってあげればいいのでは?
「うーん…。このお金でハーレイをオモチャに雇うって? それはちょっと…。もう少し、こう…。いい使い道っていうのは無いかな?」
せっかく御礼に貰ったんだし、と熨斗袋を見詰める会長さん。そこへ…。
「ぼくが使ってあげようか?」
「「「!!?」」」
紫のマントがフワリと翻り、現れたのはソルジャーでした。暫く姿を見なかったのに、このタイミングで来るなんて~!

教頭先生の参加に加えてソルジャー出現。驚きの連続で声も出せない私たちには目もくれないで、ソルジャーは熨斗袋を手に取ると。
「ひい、ふう、みい…。思った以上に入っているね。キースのお父さんは気前がいい」
「それが相場だよ! 勝手に数えないで貰おうか」
会長さんが叫び、ソルジャーが。
「開けてないからいいじゃないか。…これが相場って、お坊さんという職業は儲かるわけ? 君は座ってただけだろう? それもたったの半日だけだ」
「…言いたくないけど、坊主丸儲けって言葉ならある。そしてぼくが自分から参加したというんでなければ、法要に出た御礼として頂ける金額の相場がそれなわけ。坊主の場合は御礼じゃなくて御布施だけどさ」
「ふうん…。坊主丸儲けねえ…。そんなに儲かる職業を嫌がるなんて、ジョミーの気持ちが分からないや。…それはともかく、このお金。いい使い道を探してるんなら出資してよ」
「出資?」
怪訝そうな顔の会長さん。私たちも訳が分かりません。ソルジャーの世界と私たちの世界は違いますから、こちらのお金を持ち帰っても役に立たないと思うのですが…。
「分からないかな、ぼくも海の別荘に行きたいんだよね。それにハーレイも、ぶるぅも行きたがっている。三人揃って休暇を取るために根回ししていて今日までかかった。このお金で三人分の旅費が出せるだろう?」
「と、とんでもない!」
声を上げたのはマツカ君です。
「費用なんか頂けません! ぼくの両親はぼくに友達が大勢出来たことを本当に喜んでいますから……お金は頂けないんです。休暇が取れたと仰るのなら、是非、皆さんでいらして下さい」
「本当かい? それは嬉しいな。喜んでお邪魔させて頂くよ。…突然のお願いですまないね。でも、ほら、ぼくの世界は色々と問題が山積みなものだから…。計画通りに事が運ぶかは直前になるまで分からないんだ」
「そんなこと、お気になさらなくても…。じゃあ、教頭先生も入れて四人追加でいいんですね」
マツカ君は執事さんに電話をかけるとテキパキと指示。別荘行きの面子がアッと言う間に四人も増えてしまいました。賑やかなのはいいことですけど、波乱の予感がするような…。
「えっ、波乱?」
ソルジャーが私たちを見回した所を見ると、誰もが私と同じ考えだったみたいです。海の別荘行きは毎年騒ぎになっていますし、去年なんかはキャプテンが一人旅に挑戦したばかりに要らない知識まで仕入れちゃって…。
「そういえば鏡張りの部屋は去年だったね」
あのラブホテルは最高だった、と頷くソルジャー。鏡張りとは電車を乗り間違えたキャプテンが何も知らずに泊まってしまったラブホテルにあった部屋のこと。それをソルジャーが気に入ってしまい、その後もキャプテンと何度か泊まっているのです。
「鏡張りねえ…。今のぼくたちには刺激は特に必要ないけど、あの頃はぼくも必死に頑張ってたっけ。なにしろハーレイがヘタレだったし、おまけにマンネリ。それに比べて今は天国!」
だから波乱はお断り、とソルジャーはニッコリ微笑みました。
「一生満足させてみせます、って叫んだハーレイの言葉はダテじゃなかった。ぼくだって家出して来ないだろ? 本当に至極円満なんだよ、こんなに幸せでいいのかな…って思うくらいに」
「分かった、分かった」
ノロケはもういい、と会長さんがソルジャーを遮って。
「幸せ気分を振り撒きたいのは分かるんだけどね、この子たちが万年十八歳未満お断りな事実は忘れないように。別荘でも露骨にイチャイチャしてたら叩き出すよ?」
「それは困るなぁ。…大人しくするよう努力してみるよ、休暇をもぎ取った以上はね。…あ、マツカ。ぼくとハーレイはダブルベッドの部屋でお願いしたいな」
それじゃよろしく、と言い残してソルジャーはフッと姿を消したのですけど。
「「「…来ちゃったよ…」」」
ガックリと肩を落とすジョミー君にサム君。会長さんやキース君たちも思い切り脱力しています。思えば棚経の練習が始まって以来、ソルジャーのことは忘れていました。そのツケが今頃来たのでしょうか? いえ、ツケでなくても海の別荘にはソルジャーの姿が付き物でしたが…。
「……このお金……」
会長さんが疲れた口調で。
「漁船でもチャーターして海釣りに行く? 一般人が操舵している船の上ならブルーも静かだと思うんだ」
「なるほどな…」
名案かもしれない、とキース君。
「波乱はお断りだと言ってはいたが、バカップルも大概迷惑だ。一日くらいは休養したい。いや、丸一日も船の上では疲れるか…。その辺は適当に考えるとして、一般人つきの漁船は使えるんじゃないか?」
「だよね、サイオンで誤魔化し可能と言っても、誤魔化しながらのバカップルだと気分もイマイチ乗らないだろうし…。よし、このお金でぼくたちの心の平穏を買おう。…頼めるかい、マツカ?」
そう問い掛けた会長さんに、マツカ君は。
「漁船をチャーターするんですね? その費用も出させて頂きます、と言いたい所ですけれど…。分かりました、漁協の方に問い合わせをさせておきますよ。ぼくは釣りには詳しくないので、楽しめそうな釣り場とかを」
「悪いね、急に色々と…。そうだ、釣りなら夜がいいかな」
夜釣りに行けば夜の時間を削れるから、とニヤリと笑う会長さん。
「ブルーの行動が怪しくなるのは主に夜だし、ついて来ないなら放っておいて遊べるしさ。…うん、夜釣りで」
「夜釣りですね。その方向で調べさせておきます」
任せて下さい、と答えるマツカ君が神様のように見えました。ソルジャーの動きを封じてしまうか、あるいは放ってトンズラするか。どちらにしても夜釣りは大いに期待出来ます。会長さんがアドス和尚に貰ったお金で夜の平和をゲットですよ~!

翌朝、海の別荘へ出掛ける面子がアルテメシア駅の中央改札前に集合。ソルジャーとキャプテン、「ぶるぅ」の姿も当然のように…。ソルジャーたちの服は私たちの世界の夏物です。また会長さんたちに借りたのでしょうか?
「やあ、おはよう。…この服かい? ノルディに貰ったお小遣いで買ったんだけど」
「「「………」」」
悪びれもせずに答えるソルジャー。えっと、最近はキャプテンとの仲が良好で家出の必要も無くなったと聞いてましたが、エロドクターは別格ですか? 会長さんも額を押さえています。
「え、だって。こっちの世界は魅力的だし、なんと言っても本物の地球! 暇が出来たら息抜きを兼ねて遊びに来るんだ。自然の中で過ごす分にはタダだけれども、店に入るにはお金が必要。…お金とくればノルディに頼むのが一番だよね」
気前が良くてお金持ち、とソルジャーは至極御機嫌です。エロドクターは遊び人だけに、ソルジャーに今もせっせと貢ぎ続けているらしく…。
「ぼくはハーレイで満足してるから出番は無いよ、って言ってるのにさ。たまに顔を見せて一緒に飲んだり、ランチやディナーに付き合うだけでポンとお金をくれるわけ」
「…まだやってるとは知らなかったよ。君のハーレイはそれでいいわけ?」
呆れた口調の会長さんに、キャプテンが。
「ブルーは日頃からソルジャーとして戦い続けているわけですし…。気分転換に出掛けたくなるのは自然なことです。こちらの世界でフォローして下さる方がおいでだと私も安心です」
「君のブルーと挙式しようとした男だけどねえ? まあ、君たちがそれでいいなら、ぼくからは何も言わないけどさ」
好きにしたまえ、と大袈裟な溜息をついた会長さんは、私たちに。
「さて、駅弁を買いに行こうか。ハーレイ、今年も買ってくれるよね?」
「もちろんだ。…ただ、そのぅ……。なんだ、安い弁当を選んでくれると嬉しいのだが」
教頭先生のお仕事は昨日一日では片付かなかったみたいです。代理の人を頼んだ費用がお高くついてしまったのでしょう。けれど会長さんが情状酌量する筈も無く、駅弁の売り場で受け取ったのは予約してあった高級料亭の特製弁当。私たちはサンドイッチや格安のお弁当を買いましたけど、これじゃ焼石に水ですよねえ…。
「そうか、こっちのハーレイは金欠なのか」
貸し切りの車両の中でソルジャーがクスクス笑っています。そのソルジャーとキャプテン、「ぶるぅ」の三人が食べているのは、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が買ったのと同じ特製弁当だったりして…。
「此処のお弁当は美味しいよねえ、本当に。ハーレイが金欠だって分かっていたら、余分に予約をしてあげたのにさ。…ぼくの幸せの恩返しに」
「い、いえ、それは気にして頂かなくても…!」
謹んで遠慮させて頂きます、と教頭先生は耳まで真っ赤になっていました。ソルジャーが『恩返し強化月間』と銘打って来ていた時のあれやこれやを思い出してしまった様子です。行きの電車からしてこの調子では、別荘に着いたらどうなるのやら…。夜釣りで逃亡するにしたって、毎日毎晩海の上では落ち着きませんよ~。

電車の窓から青い海が見え始め、やがて停まった海の別荘の最寄り駅。迎えのマイクロバスに乗り込み、お馴染みの別荘に到着すると。
「いらっしゃいませ、ようこそお越し下さいました」
此処でも執事さんがお出迎えです。使用人さんたちが荷物を運んでくれて、割り当てられたゲストルームへ。お天気がいいですから、早速ひと泳ぎするべく水着に着替えて玄関前に集合で…。
「かみお~ん♪ この水着、持って来ちゃった!」
浮き輪を抱えて飛び跳ねている「そるじゃぁ・ぶるぅ」が着ている水着は明らかに女子用でショッキングピンク。そこに金銀ラメで派手な模様が入っています。こ、この水着はもしかしなくても…。
「そうだよ、イルカショーでぶるぅが着ていたヤツさ」
ニッコリ笑う会長さん。
「ハーレイもお揃いのを持ってくるかもしれないよ、って言ったら大喜びで荷物に詰めていたんだけれど…。残念ながら違うようだねえ?」
会長さんの視線の先には教頭先生がごくごく普通のボックス水着で立っていました。会長さんに「そるじゃぁ・ぶるぅ」、私たちにまでジロジロ見られた教頭先生は申し訳なさそうに。
「す、すまん…。特にリクエストも無かったわけだし、それに、そのぅ……」
「ああ、その状態で着るのは無理かもね」
了解したよ、と会長さんが頷いて。
「脛毛もバッチリあるみたいだし、それでハイレグは視覚の暴力! …ところで、脛毛はサイオニック・ドリーム? それとも本物?」
「お前なら訊かなくても一目で分かるんじゃないか?」
「そりゃね、サイオンで調べてみれば一発だけど、他の子たちには分からないし…。だから訊いてる。もう大丈夫なレベルに伸びたってわけ?」
「ま、まあな…」
多少不自然さは残っているが、と教頭先生は自分の足を見下ろしています。えっと、おかしくないですよ? 普通に金色の脛毛ですよ?
「ハーレイは長さが不十分だと言いたいらしい。それと剃られてから後に生えた毛はともかく、剃られた時に発育途上だった毛は毛先が自然じゃないからねえ…。細くなる代わりにスッパリぶった切られているのが分かるし、その辺のことが気になるわけさ、ハーレイは」
滔々と説明してくれる会長さんに、私たちは改めて教頭先生の脛毛を眺めましたが、褐色の肌に金色なだけに今一つ分かりませんでした。教頭先生が気にするほどのことは全くありません。良かったですよね、剃られちゃった毛が生え揃って。と、ソルジャーがヒョイと教頭先生の前の方へと回り込んで…。
「…で、こっちの方は?」
ソルジャーの指が示した先は教頭先生のボックス水着。
「ノルディが綺麗に剃り上げてたのは脛毛とかより後だよねえ? こっちの長さはどうなのかな? ハイレグ水着だとはみ出しちゃうのかもしれないけれど、まだ充分とは言えないんじゃあ…?」
「…え、ええ…。そ、そうですね、ま、まだまだという所でして…」
教頭先生は気の毒なほど脂汗をかいておられます。ソルジャーと会長さん、それにエロドクターという豪華メンバーの悪戯のせいで、教頭先生は水着の下に隠れて見えない部分にとんでもない秘密を抱える羽目に。指一本分の幅のワンフィンガーとやらだけを残して毛を剃られた上、残っている毛も見栄え良くカットされていて…。
「ふうん…。辛うじて伸びました、って感じだねえ。だけどハイレグ水着は無理かぁ…」
サイオンで水着の下を確認したらしいソルジャーは「ちょっと残念」とキャプテンの方に目をやって。
「凄かったんだよ、ハイレグ水着。ほら、こっちのぶるぅが着てるだろ? それとお揃いのデザインでさ…。覗き見だけでもインパクトがあったし、肉眼で! と思ったけれど…。あ、大丈夫、お前に着ろとは言わないからさ」
「………。本当ですか?」
「本当だってば。着るには下準備が必要なんだ。…こんな感じで」
ソルジャーは思念でキャプテンにワンフィンガーの情報を送ったみたいです。キャプテンがゲホゲホと激しく咳き込み、「ごめん、ごめん」と謝るソルジャー。
「お前がそんな姿になったら夜の時間が楽しめないよ。…いや、夜に限らず、朝でも昼でもぼくはいつでも大歓迎! せっかく休暇をもぎ取ったんだし、地球の休日を満喫しよう。ダブルベットの部屋も用意して貰ったものね」
とても楽しみにしてるから、とソルジャーがキャプテンの首に腕を回すと、すかさず始まる濃厚なキス。えっと…。此処はマツカ君の海の別荘の玄関先で、まだビーチではないんですけど…。執事さんだって「ご用があるかも」と向こうに待機してるんですけど、いきなりバカップルですか…。

玄関先でのキスに始まり、ソルジャーとキャプテンの仲が良好なことは嫌と言うほど分かりました。真っ白な砂が眩しいプライベート・ビーチに着いた途端に、ソルジャーが始めたのはお肌の自慢。
「見てよ、傷一つ無いだろう? あ、違う、違う、ぼくの世界のハードさを言っているんじゃなくてさ」
そっちの怪我はまた別モノ、とソルジャーはとても得意そうです。
「ぼくは場数を踏んでるからねえ、そう簡単には怪我しない。でも、ここ数日は気を付けていたよ、せっかく海に行こうというのに泳げなくなったら元も子も無いし…。だからハーレイに毎晩念を押していたんだ。決して痕をつけないように、って」
「「「!!!」」」
そっちの方を言ってたんですか! そう言えばキャプテンと一緒に海に来る度に、ソルジャーは大人の時間が原因になって泳げない日がありましたっけ。つまり最近は毎日毎晩、キャプテンと大人の時間を過ごしているというわけですね?
「決まってるじゃないか。いい感じだって何度も言ったろ、こっちのハーレイに恩返ししたくなるほどにさ。…ついでに解説させて貰うと、痕を付けずにぼくを満足させるというのは難しいんだよ? それを頑張ってくれるハーレイを見てると愛されてるんだって実感するよね」
もう本当に幸せで…、と赤い瞳を輝かせているソルジャーの隣でキャプテンが真っ赤になっています。人前で堂々とキスは出来ても、まだ免疫が足りない部分もあるようで…。それに気付いたソルジャーは。
「うーん、完全にヘタレ脱却とはいかないか…。でも、そんな所も好きだよ、ハーレイ」
「…私もです、ブルー…」
あぁぁ、またしても二人の世界ですよ~! バカップルは放っておいて泳ぎに行くとしましょうか。あれっ、教頭先生、視線がバカップルに釘づけに…。その背中を会長さんが指でトントンと軽く叩いて。
「…ハーレイ? ハーレイってば!」
「…!? あ、ああ……。なんだ、お前か」
「ご挨拶だねえ、ぼくはどうでもいいってわけ? あっちの二人に混ざりたい? ブルーは心が広いからさ、一晩くらいなら混ぜてくれるかもしれないよ」
「い、いや、それは…!」
慌てて鼻を押さえる教頭先生。バカップルを見ている間に妄想が広がっていたのでしょう。けれど、どんなに姿形が似通っていても、ソルジャーと会長さんは別人です。夢に見ている結婚どころか、バカップルすらも夢のまた夢。
「君が何を考えていたかは、およそ想像がつくけどね…。ぼくとああいうことをしたけりゃ、まずは結婚を前提としたお付き合い! それが始まりもしない内から大それた夢を持たないように」
「…分かっている…。ついでに望みも無いんだったな」
「無いね、可能性は限りなくゼロ! お遊びの結婚式なら挙げてあげてもいいんだけどさ、結婚証明書に名を連ねるのは勘弁だよ」
チャペルで挙式も神前式も仏前式もお断りだ、と会長さん。
「もちろん人前式も嫌だし、入籍なんて論外だからね。つまり結婚する気は無し!」
「……そのう、なんだ…。改めて言われると堪えるな……」
教頭先生は苦笑しつつも、そこは片想い歴三百年以上。サックリ切り替え、バカップルへの未練も捨てて私たちを連れて海の方へと…。今日はバーベキューの予定もありませんから、素潜りはメニューに入っていません。みんなで泳いだり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持ってきていたビーチボールで遊んだり。
「うん、やっぱり本物の地球の海は最高だね」
来られて良かった、とソルジャーが満足そうに言えば、隣で「ぶるぅ」が。
「ぼくたちの世界のアルテメシアにも海はあるけど、あそこじゃ遊べないもんね…。えとえと、こっちじゃ毎日遊んでいいんだよね? ハーレイがお疲れ気味で遊べなくっても、ブルーが壊れそうでベッドから出てこられなくっても、ぼくだけ遊んでいいんだよね?」
「うん。ぼくはハーレイと好きに過ごすから、お前も自由にするといい」
そのために部屋も分けてある、とソルジャーは余裕の笑みを浮かべていました。マツカ君が手配したソルジャーとキャプテンの部屋に続き部屋があるのは知ってましたが、それは「ぶるぅ」のためでしたか! でもって、お疲れ気味だの、壊れそうだのって…。
「ぼくたちの夜の時間に決まってるだろう? 地球で過ごす夜を満喫しないと」
ぼくたちに構わずお好きにどうぞ、とパチンと片目を瞑るソルジャー。ビーチから引き揚げて夕食が済んだら部屋に引き籠るつもりのようです。会長さんが夜釣りを手配したのは正解でした。こんな調子で毎日毎晩ベタベタされたら目の毒どころか、私たちの方がお邪魔虫気分。えっと、夜釣りに行くのはいつでしたっけ…?


 

特別生になってから後では初めての山の別荘行き。4年ぶりに訪れた高原は普通の1年生だった夏と全く変わらず、爽やかな空気と清々しい緑が私たちを迎えてくれたのですが…。数年間のブランクの間に変わっていたのは私たちの方でした。歳を取らない身体とサイオン。それだけでも充分、普通じゃないのに。
「全部お前が悪いんだ、お前が!」
キース君が怒鳴っているのは会長さんの家の広いリビング。怒りの相手はジョミー君です。
「心霊スポットへ行こうだなんて言い出しやがって! おまけに本物の心霊スポットに建ってる寺で戻り鐘なんか、普通は撞くか!?」
坊主としての自覚が足らん、とキース君は激昂中。そう、前にマツカ君の山の別荘に出掛けた時には、高僧である会長さんを除けばキース君だけがお坊さんで元老寺の跡取り、他は普通の一般人で…。けれど今ではジョミー君とサム君が会長さんの直弟子なのです。増殖したお坊さんたちが調子に乗ってやらかしたのが心霊スポット云々な事件。
「…戻り鐘は一応、常識だしねえ…」
教える必要があるとは思わなかった、と会長さんがアイスティーをのんびり飲みながら。
「師であるぼくの責任ってことになるのかな? だったら、ぼくに怒ってくれれば…」
「そういうわけにはいかんだろう。…あんたが助けてくれなかったら、俺たちがどうなっていたかは分からん」
「別に命までは取られはしないと思うけどねえ? ただ、運気は思い切り落ちるだろうから、結果的に車に撥ねられるとか、その手の事故が全く無いとは言い切れないけど」
無事に終わったんだしいいじゃないか、と会長さんは笑っています。山の別荘での最後のイベントはジョミー君がネットで見付けたという心霊スポットへのお出掛けでしたが、これが本当に危険な場所だったのが不幸の始まり。あまつさえジョミー君が寝た子を起こす形になってしまって、会長さんが後始末を…。
「あの後、数珠さえ切れなかったら親父にはバレなかったんだがな…」
ブツブツと呟くキース君の左手首にはお馴染みの数珠レットが嵌まっていました。一見、普段と変わらないように見えるのですけど、実はこの数珠レットは新しい物。私たちが見慣れていたヤツは別荘ライフから戻った次の日の朝に切れてしまったらしいのです。
「切れる時には切れるものだし、君の言動さえ怪しくなければ何も問題は無かったかと…。だって中身はゴム紐だよ? 輪ゴムよりかは強いけどさ」
力いっぱい引っ張れば切れる、と会長さん。けれどキース君は「それが…」と顔を曇らせて。
「あんたの事だし、とっくに全部お見通しかと思ってたんだが…違うようだな。数珠は切れたが、それだけじゃない。親玉が見事に真っ二つに…」
「「「は?」」」
親玉って…なに? 首を傾げる私たちに、キース君は「これだ」と左手を差し出して。
「この大きい玉を親玉と呼ぶ。ただ大きいというだけじゃなくて、数珠の中心になる玉なんだ。俺たちの宗派だと親玉は阿弥陀様でもあるわけで…。それが真っ二つに割れたとなると、俺でなくても青くなるだろうな」
「ああ、なるほど…。それはマズイね、坊主じゃなくても」
非常にマズイ、と会長さんが頷きました。
「君たちが背負ってきた霊は全部あの場でお浄土に上げてしまったけれど、それよりも前に親玉に負荷がかかっていたか…。君の身代わりになって力を使い果たしたわけだ」
「へえ…。そういうことって、よくあるのか?」
サム君が尋ねると、会長さんは。
「いや。世間ではパワーストーンだとか、身代わりになって色が変わるとか、割れてしまうとか、色々言われているけどねえ…。実際の所、そこまでの力を持っている数珠の玉は滅多に無い。普通は単なる偶然だ。でも、キースの場合はきちんと修行を積んでいるから、正真正銘、身代わりだよね。いいことじゃないか」
「…そう言われると悪い気はせんが、割れた理由が理由だしな。…青くもなるさ」
キース君が言うには、数珠が切れたのは朝のお勤めをしようと早起きをして、顔を洗おうとした直前のこと。パァン! と鋭い音が響いて数珠が飛び散り、ゴムが切れたのだと思ったキース君が玉を拾い集めていると親玉が割れていたのだそうで…。
「そこへ親父が来たわけだ。あんな事件さえ起こってなければ、俺だって「なんだか縁起が悪そうだよな」と話して終わっていただろう。…だが、実際は違ったわけで……親父の前で挙動不審に…」
ポーカーフェイスが得意なキース君ですが、アドス和尚は実の父親。いつも冷静なキース君が挙動不審な言動をすれば「何かある」とピンとくるでしょう。ダテに長年キース君の父親をやってませんから、問い詰めるのにも長けています。その結果、キース君は心霊スポットに突入したことを白状する羽目になってしまって…。
「未熟者めが、と怒鳴られた。数珠はその日の内におふくろが新しいのを買って来てくれたが、それまでの間が大変で…。身代わりになって下さった御本尊様にお詫びしろ、と、ひたすら本堂で五体投地を…」
「ふうん? それで怒っていたわけだ。もしかして全身筋肉痛かな?」
クスクスと笑う会長さんに、キース君は「千回だぞ!」と悲痛な顔つき。
「…修行道場で失敗しても一度に千回とまでは言われなかった。これが冬だったら全身に湿布を貼れるんだがな…」
夏では無理だ、とキース君は呻いています。本当に身体中が痛むみたいで、ジョミー君に当たり散らしたくなるのも仕方ないかも…。ジョミー君が言い出さなければ事件は起こらなかったんですしね。

怒り心頭だったキース君ですが、親玉が割れたのは日頃の修行のお蔭で阿弥陀様が守って下さったからだ、と会長さんに言われて落ち着いた様子。事件の直後にも「更に修行を積む」と誓ってましたし、こうなると切り替えは早いです。
「ところで、ジョミー。…お前の修行はどんな具合だ?」
「え? え、えっと……。どう…なのかな?」
ジョミー君が会長さんの方へ視線を向けると、会長さんが。
「なんとか形にはなってると思う。ただ、本番ではどうなるか…。なにしろ暑いし、一日中だし、慣れない衣で自転車だし…。正直言って、保証はしかねる」
「やっぱりそうか…」
こっちの方がよっぽどマズイ、とキース君は顔を顰めました。お盆が近くなってきたので元老寺の方は超がつく多忙。そこで会長さんがキース君に代わって、ジョミー君とサム君を直々に指導しているわけですが…。
「棚経はただでもキツイものだし、ぶっ倒れる坊主も少なくはない。だから見習いの小僧が倒れても檀家さんは暖かく見守って下さるだろうが、ご迷惑をかけるわけにはいかんしな…。仕方ない、俺がジョミーの係か…」
「「「えっ?」」」
それってどういう意味ですか? 首を傾げた私たちに、キース君は苦笑して。
「棚経のお供だ。親父と俺とで一人ずつ。…どちらがジョミーの係をするかで親父と相談していたんだが、ブルーの目から見て大丈夫そうなら親父が受け持つ筈だった。なんと言っても親父の方が貫録があるし、落ち着きのないジョミーを連れて出掛けてドジを踏まれても、その場を上手く取り繕えるかと」
「だったらアドス和尚でいいじゃないか。ジョミーがぶっ倒れてもフォローは完璧」
そっちを推すよ、と会長さんは言ったのですけど、キース君は。
「いや、それが…。ドジで済むレベルなら心配無いんだ。そこは親父もプロだからな。…ただ、棚経ってヤツはその親父でもハッキリ言って相当にキツイ。時間に追われて心に余裕が無くなってくる。そこでジョミーが致命的なミスを犯してみろ。たちまち瞬間湯沸かし器だ」
「「「…うわー…」」」
簡単に想像がついてしまいました。檀家さんの前でジョミー君を叱り飛ばしたりしようものなら、アドス和尚の威厳が失墜します。その点、キース君なら若いですから、ブチ切れて怒鳴り散らしていたって「若い者は元気がいいねえ」と笑って許して貰えそう。元老寺の将来のためにも、ジョミー君はキース君について行った方が…。
「…というわけだから、ジョミーには俺と組んで貰う。倒れた場合は捨てて行くからその気でいろよ」
道端だろうが放って行く、とキース君は冷たく言い放ちました。
「明らかにヤバイと思った時には救急車くらいは呼んでやるがな、次を急ぐから付き添いは出来ん。一人で病院に運ばれて行け」
「そ、そうなるわけ? 倒れたら終わり?」
「終わりだな。…それが嫌ならブルーかぶるぅに助けて貰え。謝礼は高くつくと思うが、見殺しにだけはされんだろう」
「うう…。そっちも何だか嫌っぽい…」
どんな謝礼か分からないよ、とジョミー君は泣きそうでした。お坊さん関連で会長さんに借りを作ったら、最悪の場合は坊主頭にされてしまうことも有り得ます。問題の棚経はもう目前。でも、そこを乗り切れば海の別荘が待っているわけで。
「…もしも倒れて入院してたら、別荘行きはどうなるのかな?」
ジョミー君の問いに、マツカ君が。
「途中参加もOKですよ。必要だったら迎えのヘリも出しますし」
「ありがとう、マツカ! ちょっと元気が出て来た気がする」
頑張るよ、とジョミー君がグッと拳を握り締めます。棚経を終えて、お盆の間のお手伝いをして、それが終われば海の別荘。ジョミー君、途中からの参加にならないように、ここは一発、ファイトですよ~!

明日はいよいよ棚経本番。朝が早いため、ジョミー君とサム君は前の晩から元老寺に泊まることになりました。なにしろ朝6時には最初の檀家さんの家に着いていないといけないのです。それまでに朝のお勤めなどなど、することは山ほどありますし…。
「さあ、どうなるか楽しみだよね」
会長さんがウキウキと焼いているのは特上の肉。キース君たち坊主三人組を除いた面子が会長さんの家に泊まりに来ています。早起きに備えて体力をつけよう、と焼肉パーティーの真っ最中で…。
「…いいんでしょうか、先輩たちは精進料理みたいですけど…」
シロエ君が口ではそう言いつつも、自分用の肉をキープ中。こだわりの焼き加減があるんでしょうねえ、基本的には「そるじゃぁ・ぶるぅ」が次から次へと肉や野菜を手際よく焼いてくれるんですし。
「お盆の棚経に行こうって坊主が焼肉なんかはもっての他だよ。それに、お盆はとっくに始まっている」
「「「え?」」」
会長さんの言葉に首を傾げる私たち。お盆の初日が棚経なのだと聞かされています。その棚経は明日ですが…?
「世間一般にお盆というのは明日からの三日間だけど…。迎え火ってヤツがあるだろう」
「え? えっと…。送り火じゃなくて?」
聞き返したシロエ君に、会長さんは。
「送り火の方は観光行事になってる所も多いからねえ、圧倒的にメジャーなだけさ。本来あれは迎え火とセット。お盆の前の夜に家の前で焚くのが迎え火なんだよ」
「「「へえ…」」」
そんなのは知りませんでした。会長さんによると、昔はお仏壇のある家は何処でも焚いていたそうですけど、最近は生活様式の変化などもあって焚く家が激減したのだとか。
「だって、ほら…。ぼくもこういう家だしね? 玄関の前で迎え火なんかを焚こうものなら、スプリンクラーが即、作動する。火災報知機だって鳴り響くんだよ」
だから省略、と会長さんは澄ましていますが、私たちが夕方にお邪魔した時、微かにお香の香りがしました。珍しいな、と思ったあれは、今から思えば迎え火の代わりに焚かれたお香だったのでしょう。会長さんが何故、お坊さんの道を志したかは去年の夏に知りましたから…。
「というわけで、迎え火は御先祖様をお迎えする火だ。つまりお盆のスタートなわけ。そもそも、お盆の前にお墓参りもしたりするよね。お坊さんにとっては忙しい時期さ」
その絶頂が明日の棚経、と会長さんは香ばしく焼けたお肉をニンニクたっぷりの特製ダレに浸しながら。
「時間との勝負でひたすら読経、しかも場所がどんどん移動する。下手な修行より余程ハードだ。サムは日頃から頑張ってるから大丈夫だろうと思うんだけど、ジョミーの方はギブアップかな。討ち死にしたら骨はきちんと拾ってあげるさ、ぼくも本職の坊主だからね」
「会長…。その冗談は笑えません…」
ホントに倒れたらどうするんですか、とシロエ君が言えば、マツカ君が。
「ここが対策本部じゃなかったんですか? 救護所も兼ねて」
「ああ、それかい? 人聞きが悪いから表向きは…ね。真の姿は見物用の桟敷席だよ」
食事と冷たい飲み物つき、と会長さんがクスクス笑っています。やっぱりそういうオチでしたか! 対策本部を設置するから、と呼ばれた時点でアヤシイ予感がしてましたけど。
「でもね、まるっきり嘘ってわけでもないさ。ちゃんと真面目に頑張るようなら、水分補給のポイントを随時設けてフォローくらいはしてあげようと…。ね、ぶるぅ?」
「うん! スポーツドリンク、沢山冷やしてあるもんね。缶ジュースを買ってる時間は無いし、飲まず食わずで突っ走らなくちゃいけないし!」
冷たいおしぼりも用意するんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は得意そうです。対策本部は確かに存在するようですが、機能するのは真剣に棚経をこなした時だけ。そうでなければ高みの見物、しかも桟敷ときたものです。今夜の焼肉パーティーからして、他人事な姿勢が出まくりですって…。

会長さんの家のリビングに設立された、お盆の棚経対策本部。棚経の日の朝、私たちは早朝に叩き起こされました。
「かみお~ん♪ 5時だよ、起床、起床ーっ!!!」
廊下を走る「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声で目覚めて急いで着替え、顔を洗って対策本部に出掛けてゆくと…。
「やあ、おはよう。ジョミーたちはとっくに準備を始めているよ」
会長さんが爽やかな笑顔で迎えてくれて。
「ここから眺めてもいいんだけれど、まず朝御飯を食べようか。ぼくたちだってお腹が空くしね。ぶるぅがダイニングで用意してくれてる」
行こう、と先に立つ会長さん。ダイニングのテーブルには焼き立てのパン、ホットケーキにソーセージなど。卵料理も「そるじゃぁ・ぶるぅ」が注文に応じて作ってくれます。
「卵も野菜もマザー農場で新鮮なのを貰ってきたよ。沢山食べてね♪」
「ジョミーたちの代わりに食べるといいよ。あっちは今朝も精進料理さ」
栄養は足りてるんだけど、と会長さんは言っていますが、修行道場で慣れているキース君はともかく、ジョミー君とサム君は精進料理じゃパワーはチャージ出来ないでしょう。なにしろ一番の栄養源が胡麻豆腐だと言うのですから。
「胡麻のパワーは凄いんだよ? イライザさんが張り切って手作りしたのに、ジョミーは全く分かっていない。これじゃ足りないと思ったようだ。…流石に口には出さなかったけど」
そのジョミー君は法衣に着替えて本堂で朝のお勤めをしているそうです。それが済んだら棚経に出発。朝食を終えた私たちも飲み物を手にリビングへと。
「ふうん…。キースの方が先発隊か。ぶるぅ、頼むよ」
「オッケー!」
たちまちリビングの壁の一部がスクリーンと化し、自転車を押して境内を出てゆくジョミー君とキース君が映し出されました。自転車で山門の階段は下りられませんから、裏手の駐車場から出るようです。アドス和尚とサム君はまだ庫裏の玄関で草履を履いている真っ最中。
「キースは秋には副住職になるからねえ…。檀家さんに顔を売っておかなきゃダメだし、元老寺から遠い区域を任されたようだ。近い場所なら普段から顔を合わせるものね」
「そうなんですか? でもキース先輩、前から月参りには行っていますよ。顔は知られているんじゃあ…」
シロエ君の問いに、会長さんは。
「月参りは断る家も多いんだ。毎月決まった日にお坊さんが月参りに来るというのは迎える方も大変なんだよ。仏間だけじゃなく仏間に行くまでに通る所も掃除しておく必要があるし、何より留守に出来ないし…。準備万端で待っていたって、お坊さんの滞在時間は短いしねえ?」
お茶とお菓子を用意していても一軒あたり三十分が限界だろう、と会長さん。
「元老寺みたいに檀家さんが多いと月参りも一日に何軒もある。時間どおりに回って行かないと次の檀家さんに御迷惑が…。檀家さんの方でも頑張って掃除した挙句に三十分ではキツイよね。月参りの時間次第では外出だって難しくなるし…。そういう訳で月々の回向はお寺の方でお願いします、って家も増えたのさ」
その手の檀家さんはキース君と馴染みがありません。棚経は殆どの家を回るそうですが、キース君がアドス和尚のお供につくようになったのは最近です。なんとなく顔は覚えている、という程度の人も多いらしくて…。
「だから今年は一人立ちの宣伝も兼ねて、道ですれ違う機会も少ないような地域をメインに回るみたいだ。さて、ジョミーは何処まで頑張れるかな?」
会長さんの説明を聞いている間にジョミー君もサム君も元老寺の駐車場から出発しました。サム君はアドス和尚のスクーターを追い掛けて自転車を漕ぎ、ジョミー君はキース君の後ろを自転車で。朝の6時前とはいえ、お日様はとっくに昇っています。気温も上昇中でしょう。サム君もジョミー君も、頑張って~!

中継画面はジョミー君とキース君を中心に据えたようでした。サム君の方は会長さんが思念だけで追い、万一の時にはスポーツドリンクなどを差し入れる方針。つまり見物の対象として有望なのはジョミー君というわけですね?
「決まってるじゃないか。ジョミーだって面白そうだけど、キースも気になる。若いお坊さんというだけで舐められる可能性もゼロではないし」
「「「…舐められる?」」」
「うん。ぼくが探った情報によると、ストップウォッチが待ってるようだ」
「「「はぁ?」」」
なんですか、それは? 何故に棚経でストップウォッチ?
「元老寺の辺りは田舎だろう? そのせいかどうか、悪ガキが多い。そこへ棚経が若和尚だという噂が回って、夏休みの日記のターゲットにされてしまったんだよ。小学生の男の子たちが時間を計って日記に書き込んでトトカルチョを…ね」
「と、トトカルチョって…。もしかして賭けの対象ですか!?」
シロエ君の声が引っくり返り、会長さんが。
「そういうこと。誰の家の棚経の読経時間が一番長いか、賭けをするようだ。小学生だから賭けているのはアイスだけれど、ワクワク気分が漂っていてね。…キースが回る範囲をサイオンで下見した時に読めちゃったわけ」
「「「………」」」
小学生の男の子がいる家に行くと、もれなくストップウォッチで時間を計られてしまうようです。そうとも知らないキース君はジョミー君をお供に、早速一番最初の家へ。自転車を降りて衣を整え、打ち水がされた玄関先からスタスタと…。
「失礼します」
上がり込んだキース君にジョミー君が続き、お仏壇の前へ。キース君が読経を始め、ジョミー君も唱和しています。お経の途中でキース君が供えられていた木の枝を手に取り、お仏壇に向かって空中に何か書きながら。
「のうまくさらば たたぎゃた ばろきてい おんさんばら さんばらうん」
えっ? こんな呪文がありましたっけ? 会長さんがジョミー君たちに教えていた中には無かったような…? それにジョミー君も黙って座っているみたいですし…。
「ああ、あれかい? あれは変食陀羅尼と言ってね、お供えしてある御膳を仏様に差し上げるために唱えてるんだよ。ジョミーとサムは唱えるにはまだ修行不足だ。もう少ししたら阿弥陀如来根本陀羅尼という更に長いのを唱えるけれど、そこもジョミーとサムは頭を下げて合掌するだけ」
会長さんの言葉の通り、間もなくキース君が呪文を唱え始めました。
「のうぼうあらたんのうたらやぁや のうまくありやみたばや たたぎゃたや…」
ひぃぃっ、頭が混乱しそうです。お坊さんってこんなのを覚えなくっちゃいけないんですか! さっきの短いのはカッコイイ気もしましたけれど、この長いのは勘弁ですって…。しかし呪文はこの二つだけだったらしく、間もなく棚経は終わりました。キース君が御布施を押し頂いてから衣の袖に入れ、ジョミー君と再び自転車に。
「一軒目は無事に終了か…。サムの方も順調にこなしているよ」
流石はサム、と会長さんは嬉しそうです。ジョミー君は緊張のあまりカチコチですけど、サム君は檀家さんにも愛想よくお辞儀し、堂々と振舞っているようで…。
「やっぱり日頃の努力が物を言うね。付け焼刃のジョミーとは雲泥の差だ。さてと、次の家にはストップウォッチがあるようだけど…」
ニヤニヤしている会長さん。キース君が自転車を止めた家の前には如何にも悪ガキという顔の男の子が…。けれどキース君は「熱意溢れる子供」と受け取ったらしく、笑顔で挨拶をして奥へ入ってゆきました。ジョミー君を従え、クーラーの効いた仏間で更に団扇で煽いで貰いながら一連の読経を終えた所で。
「2分6秒!」
子供の声が響き渡ってキース君はビックリ仰天、檀家さんの方は大慌て。謝りまくられたキース君ですが、なんとか平常心は保てたようです。しかし何軒もの家でストップウォッチの刑に処される内に…。
「…なあ、ジョミー。俺は自信が無くなってきたぜ。俺は本当にちゃんとお勤め出来てるんだろうか? ストップウォッチで計って誤差が数秒あるか無いかの流れ作業をやってるだけ…とか…」
本当に自信が無くなったんだ、と高く昇った夏の太陽の下を自転車で走りながら話すキース君。
「どう思う、ジョミー? ブルーなら「その程度のことで揺らいでどうする」とか言いそうだが…って、おい、聞いてるか?」
ジョミー君の答えはありませんでした。懸命に自転車を漕いでいるだけで、無我の境地というヤツです。
「…ジョミーの方が真面目なのかもしれないな…。動機はどうあれ、迷いが無い分、俺よりも格が上かもしれん。…負けるわけにはいかないってか」
頑張るぞ、とハンドルを握る手に力を籠めるキース君。ジョミー君はとっくの昔に棚経しか頭に無いのですから、ある意味、お坊さんとしては素晴らしいのかもしれませんね。

会長さんが設置した棚経対策本部は「高みの見物」と言いつつ、立派に役に立ちました。アドス和尚のスクーターを追う内に貧血を起こしかけたサム君をサイオンで素早くフォローし、衣の下にコッソリ冷却シート。必死に自転車を漕ぎ続けるジョミー君にも冷却シート。そして…。
「かみお~ん♪ 給水スポットだよ!」
周りには見えてないから今の間に飲んでよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がシールドを張りつつスポーツドリンクに蜂蜜などを加えた特製ドリンクを差し入れです。もちろんアドス和尚にも…。
「ご苦労様。不肖の弟子が足を引っ張っていなきゃいいけど」
会長さん手ずからコップを渡され、アドス和尚は大感激。この日はこの夏の最高気温を更新しましたが、対策本部の働きもあって最後まで誰も倒れることなく棚経は無事に終わったのです。もっとも、自転車で走り回った上に朝から夕方まで読経三昧だったジョミー君とサム君は元老寺に帰還した途端にダウンでしたけど。
「対策本部を立ち上げておいた甲斐はあったね。サムもジョミーも立派にお盆の行事をこなせそうだ。十六日のお施餓鬼も長丁場だけど、元老寺でやるから肉体的な負担は軽いし…」
揃って海の別荘へ行けるよ、と会長さんは微笑みました。お盆は残り二日です。サム君、ジョミー君、根性を見せて乗り切って~!


 

山の別荘と海の別荘、両方への旅を楽しみたければ「お盆の棚経を頑張ってこなせ」と言われてしまったジョミー君とサム君。サム君の方は会長さんと公認カップルを名乗るくらいの惚れ込みようですから、デート代わりに会長さんの家まで朝のお勤めに行き、たまに手料理を御馳走して貰って喜ぶ日々。でも…。
「サムだけが行けばいいじゃないか! なんでぼくまで!」
ジョミー君の方は仏弟子の自覚が皆無です。無理やり出家させられた上に会長さんの直弟子として本山に登録済みだというのに、何の修行もせずに悪あがき。そのツケが回って来たのが今回の棚経修行でした。沢山の檀家さんを回り切るために必須の足は自転車ですけど、法衣で乗るのは大変です。
「いたたたたた…。誰か助けてよ、起きられないよ!」
私たちが見物に現れた早々、元老寺の境内で派手に転んだジョミー君。自転車のハンドルに絡まってしまった衣の袖を外そうと格闘中ですけども、それよりも前に口をついて出たのが「なんでぼくまで」の文句とあっては、会長さんの態度が冷たくなるのは自然な成り行き。
「…最初から救助要請してれば、ぼくも考えたんだけどねえ? いきなり文句を投げ付けられては、気分を害するに決まってるだろう。自分で起きるか、それともサムかキースにお願いするか。…ここの連中はギャラリーだから無関係だよ」
手助け無用、と私たちに釘を刺している会長さん。言われなくてもスウェナちゃんと私は倒れた自転車を引き起こすなんて力仕事はしたくないですし、シロエ君は最初から高みの見物。ついでに「そるじゃぁ・ぶるぅ」はと言えば、会長さんから「あれは自転車に乗る練習だから、邪魔しないようにね」と説明されておしまいです。
「うう…。どうして衣で自転車なんかに…」
呻きつつもなんとか起き上がったジョミー君ですが、自転車のハンドルに絡んだ衣は無残に着崩れてしまっていました。おまけに裾もメチャクチャです。墨染めの衣の下に着た白衣が乱れて脛が丸出し、見られたものではありません。
「その格好でうろつかれては檀家さんに申し訳ない。さっさと庫裏で整えてこい!」
キース君に怒鳴りつけられ、ジョミー君は倒れた自転車を放置して庫裏へ去ろうとしたのですが。
「おい、自転車はちゃんと端の方に片付けて行けよ。あそこの木の下でいいだろう」
示されたのは境内に聳える大木の根元。ジョミー君は纏わりつく白衣に足を取られつつ、すごすごと自転車を押してゆきます。おまけになんだか足取りがおぼつかないような…?
「靴ずれを起こしているんだよ」
会長さんがクスッと小さく笑いました。
「慣れない衣に足袋だろう? おまけに草履ときたものだから、普通に歩くだけでも長距離はキツイ。自転車を漕ぐとなったら力の入れ方も靴の時とは違うしねえ…。靴ずれと言うか、鼻緒ずれ? 指の間も足の甲の方も、真っ赤に擦れて痛いと思うよ」
「じゃあ、サム先輩はどうなんですか?」
今も自転車を漕いでますけど、とシロエ君。サム君の方は砂利でガタガタの境内の中を左右に揺れながらも走っています。衣の裾を気にしているのでスピードは大して出てませんけど、足が痛む様子は見られません。
「ああ、サムかい? 昨夜の内にメールしたんだ。自転車を漕ぐなら草履の鼻緒が当たる部分に絆創膏かテープを貼っておくように…ってね。ぼくの大事な直弟子だもの」
ケロリとした顔の会長さんに、私たちは「贔屓だ」と口々に突っ込みを入れたのですけど。
「え、なんで? 普段から修行を積んでいる弟子の体調を気遣ってあげるのは師僧の務め! 日頃ご無沙汰な弟子が困っていようと知ったことではないんだよ」
だからジョミーは自業自得、と会長さんは思い切り見捨ててかかっていました。着崩れを直して庫裏から戻ったジョミー君がキース君に「その着付けはなんだ!」と叱られようが、知らんぷりです。結局、この日の自転車修行はジョミー君の身体に無数の青あざと生傷を作って終わりました。そして次の日も、また次の日も…。

「ぼく、なんだか分かって来たって気がするよ」
ジョミー君がボソッと呟いたのは棚経修行の最終日。明日は山の別荘へ出発だという日の朝のことです。私たちは毎日、みんな揃って瞬間移動で野次馬に来ているわけですが、キース君が作った修行メニューは午前が自転車、午後がお勤め。お昼休みは宿坊で私たちの分まで昼食が出ます。
「…なんだ、悟りが開けたのか? いいことだ」
キース君が応じましたが、ジョミー君は止めてある自転車に寄りかかりながら。
「ほら、たまに道路で見かけるじゃない。お坊さんがスクーターで走ってるヤツ」
「それがどうした? 俺の親父も月参りにはスクーターだぞ」
「あれってさあ…。車で乗り付けた先でガレージが無かったら困るからだと思ってたけど、違うんだね」
「「「は?」」」
ジョミー君が何に開眼したのか、キース君にも私たちにもサッパリ分かりませんでした。お坊さんにスクーターは定番なのだと思ってましたが、あれには深い理由でも…?
「おい、ジョミー」
言っておくがな、と口を開いたのはキース君。ジョミー君やサム君と一緒で法衣と輪袈裟を着用です。鬼コーチをしている時にもこの姿ですが、住職の位を持つだけはあって流石の貫録。外見は同じ年頃なのに落ち着きようは大したもので、見習い小僧とは月とスッポン、雲泥の差とでも申しましょうか。
「ウチの親父が月参りに行くのはスクーターだが、車で行く人も大勢いるぞ。檀家さんの家にガレージがあるのが前提だとは聞くが、コインパークなどを利用するというケースも聞くな。…そういえば、俺の大学の先輩が先月の末の月参り中に駐車違反の切符を切られたそうだ」
「「「駐車違反?」」」
「ああ。いつもは空いている貸しガレージが満車だったとかで、少しの間ならいいだろう…と。その間に運悪くパトカーが巡回してきたらしい」
「うわぁ…」
やっぱり車はダメなんじゃない、とジョミー君が深い溜息。
「スクーターが一番なんだよ、自転車修行をしている間に気が付いたんだ。自転車は跨らないと乗れないけれど、スクーターなら足を揃えて座れるし! あれなら衣の裾が乱れないから、お坊さんが愛用してるんだよね? 車と違ってドアを開けなくてもサッと乗れるし」
次の檀家さんの家に向かってすぐに出発できそうだ、とジョミー君は力説しています。自転車修行で分かったことってコレですか? だからと言ってどうすると…?
「えっと…。すぐに免許が取れる所って無いのかな? あったら棚経までにスクーターを…」
「馬鹿野郎!」
炸裂したのはキース君の怒鳴り声。
「俺だって自転車で回っていると言っただろう! もう住職の位も取ったし、副住職にもなれそうだから今年の棚経はスクーターにしたい、と親父に頼んだら却下されたぞ! 住職と副住職の差はデカイんだ。おまけに俺は親父の弟子だし、スクーターなぞ二十年早いと…」
「「「二十年?」」」
なんですか、その二十年という長い年数は? せめて五年とか、十年とか…。
「甘いな。せめてシャングリラ・プロジェクトが無かったら…。親父が順当に歳を取ってくれれば、十年くらいでスクーターの許可が下りたかもしれんが、親父も俺も歳を取らない。…親父が言うにはスクーターってヤツはそれなりの年季が入った坊主が乗るものだ…と」
若人は黙って自転車で、というのがアドス和尚の譲れないポイントらしいです。お坊さんの世界は師僧の言葉に絶対服従。アドス和尚に二十年先と言われてしまえば二十年間、キース君は自転車を漕いで月参りに行くしかないのでした。ということは、更に下っ端のジョミー君たちは…。
「サムは頑張って修行を積んだら俺よりも早くスクーターに乗れるかもしれないな。なんと言ってもブルーの弟子だし、親父はブルーに頭が上がらん。…まあ、そうなるにはサムも何処かの寺の住職になって一人立ちするのが前提だがな」
しかし元老寺の徒弟扱いの間は自転車あるのみ、とキース君は境内をビシッと指差して。
「いいか、自転車修行は今日中に完璧に仕上げるんだぞ? 午前中で無理なようなら午後の時間も自転車に充てる。読経の稽古は旅行先でも指導できるが、自転車の方はそうはいかない」
「おや、そうかい?」
会長さんが口を挟みました。
「マツカの山の別荘にも自転車はあるし、法衣持参でお出掛けすれば練習できるよ。空気が綺麗な高原の道を疾走するのもいいかもねえ…。高く聳える山をバックに白樺林や湖の岸辺を自転車で走るお坊さん! きっと絵になると思うけどな」
「…それは他の観光客に迷惑だろう…」
坊主だぞ、とキース君はジョミー君たちと自分の衣を眺めています。
「この格好で連想するのは通夜か法事か葬式か…。月参りにしても棚経にしても、仏壇と縁が切れないぞ。アルテメシアは寺が多いから、この格好でうろついていても「修行中だな」と暖かい目で見て貰えるが、別荘地なぞに坊主が出たらロクな発想にならんと思うが」
「なるほどね。…ちょっとワケ有りで読経に行くとか」
うんうん、と頷いている会長さん。ワケ有りで読経って、どういう意味? 私たちが首を捻っていると、会長さんはクスッと笑って。
「山に湖、自然満載の別荘地! そこでお坊さんが呼ばれるとしたら、遭難した人を山の麓まで下ろして来たとか、湖に仏様が上がったとか…。まあ、別荘地でも管理人さんとかが住んでいるから、お葬式とか法事の可能性もゼロではないけど」
「「「仏様…」」」
会長さんが言う仏様とやらが阿弥陀様だの御釈迦様だのという仏様とは別物なのは明白でした。要するに「今すぐにお経を唱えてあげる必要がある」仏様です。わざわざ別荘地まで出掛けて行って、その手の仏様は御免ですとも! そんなシチュエーションを連想させる別荘地での自転車修行はさせられません。
「分かったな、ジョミー? 自転車は何が何でも今日中にマスターして貰う。サムは問題無さそうだから、安全運転で好きに境内を走ってくれ。近所だったら路上でもいいぞ」
俺はジョミーを指導する、とキース君は燃えていました。改めて自転車の乗り降りに始まり、裾を乱さないペダルの漕ぎ方、着崩れしない力の入れ方。なんともハードな自転車修行は昼食の後も続行です。サム君の方は修行完了のお墨付きを貰い、クーラーの効いた宿坊の一室で会長さん直々にお経の稽古。
「そう、そこで御仏壇に一礼を…ね。本番の時にはクーラーが無い家も多いだろうけど、頑張って」
君なら出来る、と会長さんは満足そう。けれどジョミー君は蝉の大合唱がうるさい境内で必死に自転車を漕ぎ続けるだけ。靴ずれならぬ鼻緒ずれやら筋肉痛やら、打ち身、切り傷、擦過傷。満身創痍の状態ですけど、明日からは楽しい山の別荘暮らしです。心置きなく別荘ライフを楽しむためにも、自転車修行を頑張って~!

そして翌日。元老寺と縁が切れた私たちは電車に乗り込んでマツカ君の山の別荘へ向かっていました。貸し切りのグリーン車は追加で連結された車両です。他のお客さんが乗ってませんから騒ぎ放題、気分は殆どお座敷列車。お菓子や駅弁を食べている内に目的の駅に到着で…。
「やったぁ、山だー!」
さあ、遊ぶぞ! とジョミー君が万歳しています。棚経の練習も暫くお休み、心ゆくまで高原の休日を満喫しながらリフレッシュ。迎えのマイクロバスが来ていて、4年ぶりの山の別荘に着くと。
「いらっしゃいませ」
お馴染みの執事さんがお出迎えです。あれっ、豪華客船クルーズのお供に行っているんじゃないんですか? 私たちの驚いた顔に、マツカ君が。
「船には仕事を持ち込まないのがルールなんですよ。でも、会社の方まで休みってわけには行きませんから、そっちを仕切る人と父との間の連絡係が必要で…。ですから残っているんです」
なるほど、そういう理由でしたか。だったら遠慮なくお世話になって遊びまくってもいいですよね? 執事さんは早速、制服の使用人さんたちを指図し、私たちを部屋に案内してくれて…。
「やっぱり会長の部屋が最上級ってわけですか…」
他とは格が違いますよ、とシロエ君。滞在中の予定を立てるべく集まってみた会長さんの部屋には寝室と居間の他に応接室までついていました。会長さんがソルジャーであることはマツカ君の御両親も御存知ですし、最高の部屋を提供するよう指示して行ったに決まっています。
「別にいいじゃないか、応接室があると便利だしさ。これだけの人数が来ても余裕だ」
で、どうする? と会長さん。
「せっかく来たんだし、登山に乗馬? 自転車修行をやった後なら馬くらいきっと楽勝だよ」
「うーん…。思い出したけど、ぼくたち、落馬の王子様だっけ…」
ジョミー君が言っているのは山の別荘に初めて来た時のエピソードです。みんなで乗馬に出掛けたものの、会長さんとマツカ君を除いた男の子たちは揃って落馬。会長さんが白馬に乗って難しい障害コースを走る姿と自分たちの惨めさを引き比べた上で生まれた言葉が『白馬の王子様』ならぬ『落馬の王子様』でした。
「そういえば、そんな言葉もあったねえ…」
すっかり忘れてしまっていたよ、とクスクス笑う会長さん。
「あの頃は君たちも特別生ではなかったし……サイオンの存在も全く明かしていなかった。でも今となっては事情が違う。棚経でズルは許さないけど、乗馬くらいはズルもいいかな」
「「「???」」」
「乗馬は趣味と娯楽だからね、サイオンでコツを伝授してもいいよ。ほら、ハーレイがバレエを踊れるのと理屈は同じさ。…その代わり、棚経は全力で頑張って貰わないといけないけれど」
毎朝、毎晩、きちんと復習! と会長さんがジョミー君をビシッと指差し、それを見ていた男の子たちが。
「御指名だぜ、ジョミー。俺と違って基礎が全く無いもんな」
「ああ。サムは殆ど問題無い。要はジョミーだ」
「頑張って下さい、ジョミー先輩! ぼくたちの命運が懸かってるんです」
口々に迫られたジョミー君はウッと息を飲み、天井を仰いでから諦めたように。
「…分かったよ。朝晩お経の練習をすればいいんだろ! それで落馬をしなくなるなら頑張るよ!」
「了解。約束を破った場合は伝授したコツは消去ってことで」
それもサイオンで簡単に出来る、と会長さんが軽く片目を瞑ってみせて、キラリと光った青いサイオン。えっ、まさか今ので伝授完了? まさか、まさか…ね…。
「そのまさかさ」
クスクスクス…と会長さんが笑っています。
「後は個々人の素質と身体能力かな? 女子にも伝授しておいたから、明日にでも乗ってみるといい。前に来た時は乗馬クラブの人に手綱を引いて貰っていたよね? 今度は一人で乗れる筈だよ、コースの方だって自由自在さ」
馬で湖への散歩にも行ける、と聞かされてスウェナちゃんと私は大感激。そういうのって憧れじゃないですか! 別荘地を馬で優雅に散策。会長さんが白馬で一緒に来てくれれば気分最高かもしれません。せっかくのコツを消去されてしまわないよう、ジョミー君には毎朝毎晩、せっせと読経をして貰わねば…。

会長さんが伝授してくれた乗馬のコツは本物でした。翌朝、ジョミー君が別荘の和室で棚経用のお経を練習するのを見届けてから朝食を食べて、みんな揃って乗馬クラブへ。前に来た時はクラブの人に任せっぱなしだったのに、気付けば一人で馬に跨り、コースに出ている自分がいたり…。
「すげえや、マジで乗れるじゃねえかよ!」
これは絶対落ちないぜ、とサム君が大喜びではしゃいでいますし、キース君もシロエ君も、ジョミー君だって手綱さばきは鮮やかなもの。落馬の王子様たちは乗馬の達人に華麗な変身を遂げていました。障害コースも何のそのです。スウェナちゃんと私は障害コースよりも外へ散歩に行きたくて…。
「外へ行くのかい? じゃあ、ぼくも一緒に行こうかな」
やった、会長さんが来てくれますよ! それも白馬で。
「かみお~ん♪ ぼくも! ぼくも行きたい!」
ポニーに乗った「そるじゃぁ・ぶるぅ」も行くと言うので、私たちはクラブのスタッフさんをお供に出発することに。…えっ、どうしてお供が必要なのかって? 馬は生き物ですからねえ…。おまけに馬用の公衆トイレはありませんから、公道とかを汚さないよう掃除係が要るんですって! それでも散歩は素敵でした。
「おーい、そっちはどうだった?」
クラブに戻るとジョミー君が大きく手を振っています。男の子たちはマツカ君でも難しいという障害コースの最上級のに挑戦している真っ最中。前に会長さんが楽々走り抜けていたコースです。
「ふうん、ずいぶん自信がついたようだね」
ヒヨコのくせに生意気な、と鼻で笑っている会長さん。
「ぼくたちの散歩コースは最高だったよ。クラブの人が教えてくれたカフェのケーキも美味しかったし、あちこちで写真も撮られたし…。この別荘地の広報誌を出してる人にも頼まれてモデルをしたから、次の号あたりに載るのかな? 悪い気分はしないよね、うん」
モデルを務めた会長さんは住所と名前を訊かれてましたし、きっと広報誌を貰えるのでしょう。残念ながらスウェナちゃんと私と「そるじゃぁ・ぶるぅ」はお呼びではなく、会長さんだけが白樺並木と湖を背景にポーズを決めたり、白馬で疾走してたんですけど…。
「あんた、モデルをやってきたのか!?」
何処まで目立てば気が済むんだ、とキース君が呆れています。会長さんはそんな男の子たちに障害コースでの勝負を挑み、見事トップでゴールインして…。
「付け焼刃の君たち如きには負けやしないさ。もっとも、その付け焼刃の腕前すらもジョミーがサボれば消滅ってね。嫌ならキッチリ監視したまえ。滞在中にジョミーが一度もサボらなければ本物になるさ」
御褒美としてプレゼント、と会長さんが約束をしたものですから、男の子たちは結束を固め、ジョミー君を和室へ連行するのが習慣に。とはいえ、ジョミー君だって乗馬の技術は欲しいのですから、逃亡したりはしませんけどね。

乗馬クラブに、湖でのボートに、初心者向けのトレッキング。山の別荘ライフは快適に過ぎて、明後日の朝にはアルテメシアへ帰るという日の夜のことです。いつものように棚経の練習を終えたジョミー君が、暖炉のある広間で声を潜めて。
「…あのさ…。これって、来る前に調べて来たんだけどさ…」
「なんだ? 勿体つけずにさっさと言え!」
キース君が先を促すと、ジョミー君は。
「……心霊スポットがあるらしいんだよ」
「「「はあ?」」」
なんじゃそりゃ、と私たちは大きく仰け反りました。平穏極まりない別荘地の何処に心霊スポットがあるんですって? そんな噂すら聞きませんけど…。
「あ、別荘地の中ってわけじゃないんだ。えっとね、車で向こうのトンネルを抜けて、隣の村になるんだけれど」
「なんでそんなのを知っているんだ?」
胡乱な目をするキース君に、ジョミー君は「夏といえば怪談が定番だから」と澄ました顔で。
「この近くにも何か無いのかなぁ…って調べていたら見付かったわけ。ちょっと半端じゃないらしくって、心霊写真がバンバン撮れて、心霊体験も山ほどあるって」
「…まさか行く気じゃないだろうな?」
「えっ、行かないでどうするのさ? サムは霊感バッチリなんだし、キースはプロのお坊さんだし、ブルーは無敵の高僧だし! それでも何か起こるのかどうか、行ってみたいと思わない?」
好奇心の塊と化したジョミー君には自分も僧侶の端くれである、という自覚は全くありませんでした。供養しに行こうと言うならともかく、物見遊山はマズイんじゃあ…。案の定、黙って聞いていた会長さんが。
「行ってもいいけど、ぼくは責任持たないよ? 正確に言うと、ぼくが行ったら出るものも出ない。端から成仏させちゃうからね。…それは心霊スポット見物じゃないし、ぼくは入口で待機してるさ」
「入口で待機?」
「そう、君たちのお手並み拝見。キースは本職、君とサムも棚経の稽古でそこそこのお経は読める筈だ。心霊現象の十や二十は自力で解決してくるんだね。…どうにも出来ませんでした、っていう分だけを成仏させよう」
ホントは行かないのが一番だけど、と会長さん。会長さんはジョミー君の心を読んだらしくて、そのスポットがどういう場所かをキッチリ把握したようです。
「山の中腹にお寺があるんだろう? でもって、そこまでの道が心霊スポット。この地方で亡くなった人の霊はそこの山からお浄土に行く。…成仏出来なかった人が山道に大勢いるってわけだ」
「「「………」」」
それは怖い、と背筋が寒くなったのですけど、夏はやっぱり怪談ですよね。何かあっても最終的には会長さんが助けてくれるわけなんですから、山の別荘での思い出作りにチャレンジするのも一興かも…。

別荘ライフで気分が盛り上がり、ナチュラルハイな状態だった私たち。普段なら心霊スポット行きを止めるであろうキース君までが腕試しになると思い込んでしまい、翌日、ジョミー君の朝の読経と朝食が終わるとマイクロバスを出して貰って隣村へと出発です。別荘地の外れから長いトンネルを抜けると小さな村が…。
「はい、到着。頑張って行ってくるんだね」
ぶるぅとバスで待っているから、と会長さん。オバケが苦手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」は会長さんの隣で震えています。
「大丈夫だよ、ぶるぅ。誰かが背負ってこない限りは結界から出ては来ないから! 一応、あそこに結界石が」
登山道の両脇に苔むした石碑が建っていました。つまりその先が心霊スポット、無法地帯というわけです。その割に立派な駐車場があったりするのは、亡くなった人の供養に卒塔婆を背負って上のお寺まで届けに行くという風習が今も残っているからだそうで…。
「お寺参りをする人のために、お助け杖も置いてあるだろ? かなり険しい山道と石段が続くようだし、足に自信が無いんだったら借りて行くのもいいと思うよ」
確かに『お助け杖』と書かれた杖が何本も置かれています。借りようかな、とも思いましたが、心霊スポットの備品を借りるというのも薄気味悪く…。
「じゃあ、出発! 行ってきまぁーす!」
やる気満々のジョミー君を先頭にして私たちは登山を開始しました。山道は所々で石段に変わり、道の脇には石仏や石塔が。おまけに大木が鬱蒼と茂って、いい天気なのに薄暗く…。
「おい、本当に出るのかよ?」
見えねえぞ、とサム君が言い、キース君も特に感じる所は無い様子。雰囲気だけは満点ですけど、普通の山道と変わらないんじゃあ…?
「騙されたかもしれないな…。あいつだったらやりかねないぞ」
キース君が溜息をつき、ジョミー君が。
「ええっ? それじゃガセネタだったわけ?」
「そういうのは大抵ガセなんだ。そう簡単に本物は無い。…くそっ、こんなオチなら乗馬クラブに行けば良かった」
そっちの方が実りがあった、とキース君は残念そうです。誰もが同じ思いでしたが、だからと言って心霊スポットとやらを踏破しもせずに山を下るのも悔しいですし…。
「此処まで来たんだ、寺にお参りして帰ろうぜ。あいつに笑われたくはないしな」
それだけは避けたい、とキース君が拳を握り、私たちはお寺を目指して登山を続行。やっとのことで辿り着いたお寺の本堂の前でお賽銭を入れ、お参りをして、さあ、帰ろう…とした時です。
「あれ? あんな所に鐘があるんだ」
撞いてこよう、とジョミー君が走って行って…。
「おい、ジョミー!」
撞くな、とキース君が止める暇も無くゴーンと鐘の音が響き渡りました。
「馬鹿野郎! 戻り鐘なんか撞きやがって!」
「何、それ?」
「寺参りの鐘はお参りの前しか撞かないんだ! 出る前に撞くのは葬式の列が出る時だけで!」
「え…?」
そうだったの? とジョミー君がキョトンとしている所へ、お寺から老僧が現れて…。
「お参りですかな? ご苦労様です。ああ、振り向いていいのは此処までですぞ」
「「「???」」」
「山門の手前に赤い橋がございましたでしょう? あれを極楽橋と言いましてな。そこから先の帰り道では、下の結界の石を抜けるまで決して後ろを向かれませんよう…。振り向くと帰りたい霊を背負って降りると言われております。…では、お気を付けて」
「「「………」」」
私たちは顔面蒼白でした。ガセだと信じて登って来たのに、思い切りマジネタっぽいじゃないですか! しかも振り返ると背負うだなんて…。
「…お、おい、ジョミー…」
サム君の声が震えています。
「も、門の所に…。山門の外に、なんか山ほど…。みんなお前を見てるんだけど…」
「ちょ、サム、マジで?」
冗談はやめてよ、と叫んだジョミー君にキース君が。
「戻り鐘だ…。あれで期待を掛けられたんだ、お前が連れて帰ってくれると…」
「「「ぎゃーっ!!!」」」
それから後は何が何だか、誰も覚えていませんでした。とにかく自分が大事です。後ろを決して振り返らずに、前だけを見て必死の山道。転がるように走り下って、結界石の向こうの明るい駐車場にスックと立った会長さんの緋色の衣が眩しくて…。

「…結局、三人とも、まだまだってことさ」
修行が足りない、と可笑しそうに笑い続ける会長さん。いつの間に衣に着替えたのかは謎ですけれど、助けられたのは確かです。心霊スポットを嘗めてかかったジョミー君は更なる修行を約束させられ、サム君とキース君は自発的に研鑽を積もうと決意を新たに。まずはお盆の棚経だそうで…。
「棚経でお迎えする霊がどんな人なのか、それも分からない間は駄目なんだよね。きちんと相手が見えていないと話も通じず、どうにもならない」
迷っている霊を成仏させるなど夢のまた夢、と会長さんはピシャリと言い切りました。山の別荘での最後のイベントは夏の定番のお楽しみから仏道修行の一過程へと変身を遂げたみたいです。ジョミー君には気の毒ですけど、自業自得ってこのことですよね…?




 

会長さんの阿漕な出店がボロ儲けをした翌日からは夏休み。私たちは早速、夏休みの計画を立てに「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に来ていました。会長さんの家に行ってもいいのですけど、夏休み初日は毎年この部屋で話し合うのが恒例です。
「キースたちは明後日から合宿に行くんだったよね?」
手帳を見ながらチェックしている会長さん。
「ハーレイのワンフィンガーも無事に誤魔化せそうだし、何の問題も無さそうで良かったよ」
「…本当に大丈夫なんだろうな?」
キース君が念を押したくなるのも分かります。教頭先生の紅白縞に隠された大事な部分には指の幅一本分しか毛がありません。脛や脇の毛は少し伸びたかもですけど、剃られて間もないワンフィンガーはまだまだ人目には晒せそうもなく…。
「大丈夫な筈だよ、本人も度々確認してるしね。ゼルを誘って銭湯に行ったり、一人で銭湯巡りとかさ。…とりあえず変な目で見られてないから問題無いっていうことで」
「銭湯か…。確かにハッキリしそうだよな」
露骨に目をそらされてしまうとか、とキース君は納得しています。教頭先生のワンフィンガー限定のサイオニック・ドリームはちゃんと身についているようでした。冷静に考えてみれば情けないサイオンの使い方ですが…。
「えっ、そうかな? 三百年以上もサイオニック・ドリームとは無縁で来たハーレイが操ってるってだけで凄いという気がするけれど?」
会長さんの言葉でアッと口を押さえたのは私一人ではなく、ホッと一息。みんな考える所は似ているみたいで安心です。それはともかく、キース君たちが合宿にお出掛けということは…。
「柔道部の合宿は例年通りに一週間だし、サムとジョミーも毎年お決まりのコースでいいよね?」
ニッコリ微笑む会長さん。
「璃慕恩院では今年も夏の修行体験ツアーの参加者を絶賛募集中! 璃慕恩院の老師の方から早くに電話が来てたんだ。サムとジョミーは来るんじゃろうな、って」
「うえ~…。今年も行くの?」
辟易した様子のジョミー君に会長さんは「決まってるだろう」と冷たい口調。
「喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言うけれど、君の場合は喉元どころか唇かもね。出家したのが去年の秋で、ぼくの直弟子として登録されたのが春のお彼岸だった筈だよ。…春のお彼岸には元老寺に行って色々お手伝いをしていたのにさ」
「あ、あれは……あれは不可抗力っていうヤツで!」
「君がどう言おうと、ぼくの直弟子になった事実は変わらない。ぼくが破門だと言わない限りは逃亡は不可能だと思いたまえ。そして師僧としての命令だ。この夏も璃慕恩院で仏弟子として修行を積むこと!」
師僧の命令は絶対だ、と告げる会長さんの横からサム君が。
「諦めろよ、ジョミー。お師僧さんのお言葉は絶対だぜ? 何があっても逆らえないんだ」
「そ、そうなの?」
「おう! お師僧さんが白いと仰ったらカラスも白いのが坊主の世界。お前、普段は自由にさせて貰ってるんだし、夏休みくらいは真面目にやれって」
「自由にって…何処が?」
覚えが無いよ、とジョミー君が返すとキース君が鋭い視線でギロリと睨んで。
「ならば聞かせて貰うがな…。お前、一度でも朝のお勤めに行ったのか? サムは熱心に通っているのに一度も行っていないだろう! 朝は眠いとか、ブルーの家まで遠いとか言って!」
「だ、だって…。ホントに早起き出来ないんだから仕方ないだろ! ブルーも何も言わないし…」
「それを自由にさせて貰っていると言うんだ! 俺なんか実の親でも本当に容赦無かったぞ」
朝は早起きして朝のお勤めに境内の掃除、とキース君。坊主頭が似合わないと気付いて反抗し始めるまでは、小さい頃から真面目に小僧さん生活をしていたそうです。アドス和尚もビシバシしごいていたらしく…。
「境内の掃除は専属の人がちゃんといるんだ。それでも一緒に掃除してこい、と冬の朝でも叩き出された。雪が積もった朝は嬉しかったな、境内全部を掃除しなくて済むからな」
「「「…境内全部…」」」
それはスゴイ、と尊敬の眼差しを送る私たち。子供の頃から頑張ったからこそ今のキース君があるわけで…。
「まあ、子供が掃除をすると言っても大人には敵わないんだが…。俺が掃除した後を大人がきちんと掃除しないと見られたものではなかったんだが、親父は本当に厳しかった。ジョミーはその頃の俺より大きいんだ。朝のお勤めくらいしなくてどうする!」
「で、でも…。好きでお坊さんになったわけじゃないし!」
悪あがきをするジョミー君でしたが、会長さんがスッと巻紙を差し出して。
「修行体験が嫌だと言うなら、これに紹介状を書く。宛先は……誰がいいかな、少人数でやってるお寺の方が目が行き届いていい感じかな? ひと夏預かってやって下さい、と書けば一発」
「え? ええっ?」
「ぼくの直弟子を仕込んで下さい、って書くんだよ。どうも覚えが悪くって、と書き添えておけば完璧だね。そっちのコースを希望する? それとも一週間だけサムと一緒に璃慕恩院に…」
「璃慕恩院に行く!」
ジョミー君は即答しました。夏休み中ずっと知らないお寺で修行よりかは一週間の璃慕恩院行きを選んだ方がお得です。明後日から柔道部三人組は合宿、ジョミー君とサム君は璃慕恩院。お馴染みのコースの始まりですよ~!

男の子たちが柔道部と璃慕恩院の二手に分かれて旅立った後、留守番組はのんびり夏休み。フィシスさんも一緒にプールに出掛けたり、会長さんの家で男の子たちの様子を覗き見したり。柔道部の方では教頭先生がサイオニック・ドリームを頑張っているのも分かりました。そうやって一週間が経ち…。
「かみお~ん♪ お帰りなさ~い!」
元気一杯の「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声が会長さんの家に響いて、男の子たちのお帰りです。去年まではシャングリラ学園の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で出迎えていましたが、今年はこっち。何かと気楽で話しやすいというのが理由です。だって、ワンフィンガーとか…ねえ…?
「で、ハーレイはどうだった?」
覗き見をして知っているくせにワクワクしている会長さん。スウェナちゃんと私に届いた思念波によると「四六時中見ているわけではないから」らしいのですけど。
「教頭先生は平常心でいらっしゃったぞ。合宿の風呂もいつもどおりだ」
普段から鍛錬を積んでおられるだけのことはある、とキース君が言えば、会長さんは。
「どうだかねえ…。たまに夜中に飛び起きていたみたいだよ。サイオニック・ドリームを発動させるのを忘れてお風呂に入った夢を見て…さ。柔道部員に点目で見られて愕然とするヤツと笑われるヤツの二通り」
「あんた、覗き見していたな!」
「うん。ハーレイがお風呂に行く前に部屋の鏡に向かって気合を入れるの、そこの子たちも一回見たさ。もちろん、ぶるぅの中継で」
「くそっ、あんたというヤツは…!」
何処まで性根が腐ってるんだ、とキース君は呻いています。私たちの名誉のために付け加えると、中継で見せて貰った教頭先生は後ろ姿で、お尻しか見えなかったのですけど…。教頭先生、紅白縞を下ろして鏡を眺めていたのです。鏡にはワンフィンガーな姿が映っていたのか、誤魔化した姿が映っていたのか、それも身体の陰で見えなくて…。
「いいじゃないか。ハーレイのワンフィンガーは、このメンバーには周知の事実! せっせと育毛剤を塗っているけど、夏休みの間に何処まで伸びるか…。本来は頭に使う薬を変な所に使ってるのは笑えるね。普通は脱毛したい場所だろ?」
会長さんはクスクス笑って合宿中の教頭先生の姿を思念波で私たちに送って来ました。育毛剤の瓶をしっかり握って布団の上で屈み込んでいる所です。電灯が真上にあるので大事な部分は真っ暗ですが。
「夜な夜な、こんな感じで育毛中! もう合宿も終わったからね、一日に三回くらいは塗るんじゃないかと思ってる。朝昼晩の毎食後とかさ。…育毛剤の使い方ってヤツは知らないけれど」
ぼくには無縁のモノだから、と笑い飛ばしてから、会長さんはジョミー君とサム君の方に向き直って。
「ところで、そっちはどうだったのかな? 文字通り育毛剤とは無縁の世界に生きている先輩たちにビシバシしごいて貰ったかい?」
「…いきなりジョミって呼ばれたし!」
ジョミー君は仏頂面でした。
「サムはそのまんまサムだったのに、ぼくだけジョミだし!」
その言葉を受けてブッと吹き出すキース君。
「お前、法名で行ったのか! そいつはいいな、さぞ可愛がって貰えただろう」
「笑い事じゃないよ! 名簿が配られたら徐未って書いてあるし、一緒に参加した本物のお寺の息子さんたちから何処のお寺の跡継ぎなのかって訊かれるし!」
「なるほどな。それで何と答えてきたんだ?」
「違います、って言いたかったのに……なんでか知らないけど口が勝手に「元老寺の徒弟です」って!」
次の瞬間、広いリビングの中は爆笑の渦。どうやら会長さんがサイオンで操っていたらしいのです。意識の下の情報を操作し、ある種の質問をされた時にはそういう答えが出てくるように。
「…げ、元老寺の徒弟って…」
それって見習い弟子ってことですよね、とシロエ君が笑い転げています。会長さんが思念波で一瞬にして送ってくれた情報の中には徒弟の意味も含まれていて、もう誰もかもが可笑しさに涙を流していたり…。サム君の方は法名で登録されていなかったそうで、ジョミー君の友達とだけ認識されていたのだとか。
「酷いよ、お坊さんの修行をしてるのは本当はサムの方なのに! サムは「在家の人なのに凄いよな」って褒めて貰えて、ぼくは「お前、将来苦労するぞ」って!」
ジョミー君は危うく同年代のお寺の跡継ぎ集団に仲間入りさせられる所だったと泣きの涙で語っています。携帯が持ち込み禁止だったお蔭で逃げられたものの、そうでなければアドレス交換は免れなかったと。
「せっかくだから解散式の後で交換してくれば良かったのに…」
勿体無いよ、と会長さんが言っていますが、ジョミー君にとっては望まぬ付き合い。うっかりメーリングリストでも出来ようものなら、将来の道場入りに向かって一直線に決まっています。君子危うきに近寄らず。逃げ帰って来て正解ですって!

さて、男の子たちの合宿と修行体験も一件落着、これからは楽しい夏休み! 宿題の無い特別生には遊び放題の日々の始まりです。今年は何処で何をしようか、それを決めに集まっているわけですけど…。
「山! 久しぶりに山がいいなぁ」
ジョミー君が意気込んで提案しました。
「入学した年にマツカの家の山の別荘に行ったでしょ? あれっきり山には行けていないし、別荘の都合がつくんだったら絶対、山!」
「なるほど。山の別荘か…」
そんなのもあったね、と会長さんが腕組みをして。
「マツカの意見はどうなのかな? 別荘にお客様をお招きすることも多いだろう。ぼくたちが行って御迷惑をかけても悪いしね」
「えっと、この夏は特に長期の御滞在は無かったと思うんですけど…。ちょっと確認してみます」
マツカ君は携帯を取り出し、執事さんと話し合ってから。
「全く問題ないそうです。この夏のお客様へのおもてなしはクルーズなんで、別荘の方は山も海のも殆どおいでにならないようで…。いつでもどうぞ、と言ってました」
「へえ…。クルーズって、豪華客船貸し切りとか?」
サム君が尋ねると、マツカ君は。
「ええ。せっかくの夏ですからね、世界一周とまではいかないものの、かなり長期になるようですよ。あちこちの寄港地でお客様を乗せたり、下ろしたり…。ヘリでおいでになる方もいらっしゃるとか」
「うっわ…。なんだか世界が違うね」
まるで想像もつかないよ、とジョミー君が目を白黒とさせています。マツカ君の話によると船の中には幾つものレストランにプールにカジノ、映画館やダンスホールやフィットネスクラブも完備だそうで。しかもマツカ君の御両親が招いたお客様しか乗りませんから、クルーの方が多いのですって!
「それって、いつかぼくたちでも乗せて貰えるのかな?」
ジョミー君の期待に溢れた瞳は私たちの総意でした。歳を取らない長い人生、一度くらいは豪華クルーズもしてみたいです。マツカ君はニッコリ笑って…。
「ぼくが父の手伝いとして間に合うようになったら、お招きさせて頂きますよ。招待の基本は「お友達」ですし、その内に」
「いいねえ、ぼくも楽しみだな。ソルジャーの肩書でゴリ押ししたら今でも乗せて貰えそうだけど」
だけど一人じゃつまらない、と会長さん。多分ソルジャーとして乗り込むのなら「そるじゃぁ・ぶるぅ」も行けるのでしょうが、大人の中に二人だけでは確かに面白くないですよね。
「じゃあ、会長もみなさんも、いずれ御招待させて頂きますね。ところで山の別荘ですけど、いつからお出掛けになりますか?」
「うーんと…。すぐにでも、って思ってたけど…」
大事な用事があったんだっけ、と会長さんが人差し指を顎に当てました。
「マツカが一人前になったら豪華クルーズに御招待、って話で思い出したんだ。…キース、副住職の就任許可が下りたんだって?」
「な、なんであんたが知っている!?」
「ほら、ぼくは璃慕恩院の老師とツーカーだから。夏はお盆で慌ただしいし、秋はお彼岸でドタバタするし…。それが済んだら就任式をするんじゃないかと思ってさ」
「…ま、まあ…。許可は下りると踏んでいたから、親父が根回ししてはいた。法事を全て断る予定の日は決まっている」
わわっ、ついにキース君が副住職に就任ですか! それはおめでたい話ですけど、山の別荘とどう繋がると? 私たちが首を傾げていると、会長さんが。
「分からないかな、キースは秋には副住職になるんだよ? 檀家さんへの顔繋ぎなんかも今まで以上に重要になる。だからお盆は頑張らないと」
「「「お盆…?」」」
お盆と言えば墓回向。初めてキース君の家にお邪魔した時にもアドス和尚が日盛りの墓地で墓回向中で、キース君がお手伝いに行きましたっけ。あれを一人で頑張るのかな、と思ったのですが…。
「違うよ、お盆で大切なのは棚経と法要なんだってば。墓回向は檀家さんが都合のいい時にお参りに来るのをフォローしてればそれでいいけど、棚経の方はそうはいかない。お盆の初日に全部の檀家を回り切るのが理想だね。…檀家さんが多いと二日間になることもあるけどさ」
「棚経ですか…」
ぼくの家には来ませんね、とシロエ君が言い、私たちも頷きました。そもそも家にお仏壇というのがありません。お坊さんもお寺も縁のない生活をしているわけです。たまーに、お彼岸のお墓参りに行くだけで…。
「まあ、棚経は月参りと同じで、直接家でお祭りしている御先祖様がいらっしゃらない家には行かないしね。御先祖様の供養にお経を読んで、お位牌の戒名を端から読み上げて…。月参りと違うのは全部の家に分け隔てなくお参りに行くって所かな。月参りは御命日にだけ行くものだから」
会長さんの説明によると、棚経というのは「お盆の間、出来れば初日に」御先祖様の霊にお唱えするお経だそうです。檀家さんを全部回るのですから、並大抵のことではないらしく。
「元老寺は檀家さんが多いからねえ、一番最初にお参りする家に到着するのは朝6時! そこから延々回り続けて、お昼御飯もお茶漬けをかき込んで、次に出発。最後の棚経が終わる時間って何時だっけ?」
会長さんの問いに応えてキース君が。
「夕方の五時過ぎって所だな。…今年はもう少し早く終わるかと」
「君が何軒かを引き受けるからってことだよね? 普段から顔馴染みの御近所の分を」
「ああ。…だが、それがどうかしたか?」
住職の位を取ったからには一人で棚経に行くのは当然だ、とキース君。月参りだって一人で行くことがあったのですから別に不思議じゃありませんけど、大変そうなのは確かです。だってお参りに回る家の数が多いんですし…。
「キース、君に折り入ってお願いがある」
会長さんが姿勢を正しました。
「アドス和尚にも頼んでおくけど、サムとジョミーを棚経のお供に連れてってやって欲しいんだよね」
「「「えぇぇっ!?」」」
私たちの声が見事に引っくり返り、ジョミー君の顔は引き攣っています。た、棚経のお供って…。それって一体、何をするわけ…?

会長さんの申し出にキース君は目が点でした。しかし仏道修行と柔道部で鍛えた精神力はダテではなかったようで、一分間ほどの沈黙の後に。
「…そういえば前にそんな話をしていたか…。初詣デビューと春のお彼岸も手伝ったからには次はお盆の棚経だ、とな」
「うん。思い出してくれて嬉しいよ。お坊さんが三人も一度にお邪魔したんじゃ檀家さんもビックリしちゃうし、アドス和尚と君とに一人ずつお供を付けて欲しいな。…君だって最初はお父さんと一緒に回ってただろう」
「それはそうだが…。あれは檀家さんに顔を覚えて頂くためと、お参りする家の場所と仏壇の場所を覚えるためでもあったわけで…」
「でも、一番の目的は場の雰囲気に慣れておくことと、お経に馴染むことだよね? 出家したての子供の頃からお父さんと一緒に行ってた筈だよ。それくらい、ぼくが知らないとでも?」
心を読むのは簡単なんだ、と会長さんが片目を瞑ればキース君は。
「…分かった。要するにサムとジョミーにも慣れさせておけ、と言うんだな。二人とも既に出家してるし、連れて行くのに問題は無い。だが、それなりの作法は覚えて貰うぞ。小さな子供とは訳が違うからな」
キース君にギロリと睨まれ、ジョミー君が竦み上がりました。
「ええっ? た、棚経なんて知らないよ! 見たことも無いし、どうすればいいのか分からないし!」
「その辺の事情はサムも同じだ。だが、サムの方はブルーの家で朝のお勤めをやっているから少し仕込めば形になる。問題はお前の方なんだが…」
どうするか、と溜息をつくキース君。
「なにしろ暑さが半端じゃない。暑いからと言って衣の下に冷却シートは許されないぞ。ついでに汗もアウトだな。檀家さんが用意して下さっている扇風機やクーラーを有難くお受けし、涼しい顔でお勤めしてこそ棚経を喜んで頂けるんだ。御高齢の方になると扇風機も無しで団扇で煽いで下さる家もある」
「う、団扇って…。たったそれだけ?」
「それだけだ。そして棚経は数をこなさなくてはいけないからな、お茶やお菓子を頂戴している暇はない。お参りが終わったら直ちに失礼させて頂いて、次の家へと走ることになる」
「は、走る…?」
それって譬えというヤツだよね、とジョミー君は訊いたのですが。
「甘いな。文字通り走るんだ。親父の場合はスクーターだが、俺は昔から自転車だ。安心しろ、お前とサムも自転車の持ち込みは許してやる」
「「自転車…?」」
サム君とジョミー君がポカンと口を開けました。ただでも着なれない法衣を纏って自転車ですか! しかもアドス和尚と組まされた方はスクーターに負けない速度でペダルを漕いで走るんですか…。
「まずは法衣で自転車に乗る練習からだな。慣れないと一発で着崩れてしまうし、そんな姿で棚経に行くなど許されない。二人とも、明日から特訓だ! 自転車を持って俺の家に来い」
「そ、そんなぁ…。なんでせっかくの夏休みに!」
涙目になるジョミー君。けれど会長さんが鋭い口調で。
「夏休みを心置きなく楽しみたければ、棚経の練習をしておくんだね。山の別荘だけでいいと言うなら構わないけど、海の別荘にも行きたいんだろう? 両方こなすなら、二つの旅の間あたりがお盆になるんだ」
「「「………」」」
えらいことになった、と私たちは冷や汗ですけど、山の別荘にも海の別荘にもお邪魔したいのが本音です。ジョミー君たちが無事に棚経を終えてくれれば海の別荘への道が開けるとあれば、ここは一発、犠牲になって貰うしか…。火元になった会長さんは壁のカレンダーを指差して。
「山の別荘に出掛ける前に自転車はクリアして貰おうか。…元老寺の境内は広いからねえ、練習するには丁度いいさ。時期的にお墓参りに来る人もあるし、墓回向の方も見ておくといい。それとお経の稽古だね。…最低限のヤツは頼むよ、キース」
「承知した。流石に陀羅尼は教えられんが、朝のお勤めと共通の分にプラスアルファで仕込んでやろう。…それで、山の別荘へはいつ行くんだ?」
「うーんと…。みんな、基本は暇だよね? ここだけはダメっていう日はあるかい?」
そんな日は誰もありませんでした。習い事はしていませんし、夏期講習も塾も無関係。柔道部は部活がありますけれど、特別生の生活が長くなった今、練習は出ても出なくても同じ。ですから予定はトントン拍子に纏まって…。
「じゃあ、五日後に出発ってことで。マツカは別荘の手配を頼むよ」
仕切りまくっている会長さんにマツカ君が頷き、執事さんに電車の切符の手配なんかを頼んでいます。繁忙期なのに数日前でも席が取れるのが凄いですけど、グリーン車で貸し切りと聞けば納得ですよね。豪華客船でクルーズが夏のおもてなしという家なんですから、それくらいのことは朝飯前!

翌日からジョミー君とサム君の棚経修行が元老寺で開始されました。棚経に修行も何も…、という気はしますが、二人とも会長さんの直弟子である以上、「見栄えが大切」らしいのです。修行する二人と指導係のキース君以外には無関係な四日間の強化合宿ならぬ強化訓練。でも、見たい気持ちは止められません。
『かみお~ん♪ みんな、準備はいい?』
家でのんびり寝坊してから朝食を食べ、クーラーの効いた部屋で漫画を読みつつダラダラしていた私の頭に「そるじゃぁ・ぶるぅ」の思念が元気よく。
『用意できてるみたいだったら、元老寺まで飛ぶからね! あ、シロエがまだかな?』
シロエ君は趣味の機械弄りをしていたらしくて、キリがいい所までやってしまわないと後が大変なのだそうです。待ち時間の間に持っていくバッグの中身を再確認し、それから会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の青いサイオンに包まれて…。
「はい、到着~!」
移動した先は真夏の日差しの照り返しが眩しい元老寺の境内のド真ん中でした。そんな所へ瞬間移動で出現しちゃって大丈夫なのかって? そこが会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」のサイオンの技の見せどころ。お墓参りのついでに本堂の方にも寄って来たらしい人が何人かいますが、全く気にしていないようです。それよりも…。
「どっちかと言えば、あっちの方が目立つと思うね。この状況じゃ」
会長さんの視線の先には自転車が二台。境内に敷かれた石畳の通路は檀家さんの通り道と決まっているので、砂利が敷き詰められた所をガタガタ揺れながら走行中です。
「こらっ、衣の裾を乱すな! ペダルはもっと静かに漕ぐんだ!」
「で、で、でも…。ゆっくり漕いだら安定が…。わわぁっ!」
キース君の怒号に続いてジョミー君の悲鳴が境内に響き、自転車の片方が転倒しました。放り出されたジョミー君は自転車の下敷きになってしまった上に、衣の袖がハンドルに絡んで起き上がれそうもありません。棚経の修行は自転車からとは聞きましたけど、これはなんともハードそうです。
「…頑張れとしか言えないよね、もう」
衣も自転車も慣れるしか無い、と笑って見ている会長さん。墨染めの衣に輪袈裟のジョミー君とサム君、山の別荘への出発までに華麗な走りを披露できるようになるんでしょうか…?



 

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