シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
- 2012.02.06 達人を目指せ・第2話
- 2012.02.06 達人を目指せ・第1話
- 2012.02.06 想いの伝え方・第3話
- 2012.02.06 想いの伝え方・第2話
- 2012.02.06 想いの伝え方・第1話
オムレツ作りのコンテストらしきものが開催される、と聞いて特訓しようと決意を固めた私たち。けれどオムレツに欠かせない卵が見当たらないという想定外の出来事が…。キース君とジョミー君が代わる代わる冷蔵庫を覗き込み、奥の奥まで探ってみて。
「ダメだ、やっぱり入っていない」
「ケーキとかプリンはあるんだけども…」
何処にもないよ、とジョミー君が嘆きました。
「それにご飯も入ってないし! 炒飯だって無理だってば!」
「…本当に卵はないようだな…」
キッチンをチェックし終えたキース君も困惑顔。フライパンだけは人数分揃っているのですけど、食材がなくては使えません。オムレツも炒飯も出来ないとなると、いったい何を練習すれば…?
「まさかと思うが揚げ物なのか…?」
キース君が冷蔵庫からチーズの塊を取り出しました。
「フライパンなら少しの油で揚げられる。チーズのフライは美味いんだぞ」
「それにしたって卵が要るわよ?」
パン粉だって、とスウェナちゃんが指摘し、フライの線はあえなく消滅。他にフライパンを使う料理って何でしょう? みんなで頭を悩ませていると、背後で扉がシュンと開いて…。
「やあ。頑張ってる?」
入って来たのはソルジャーの正装の会長さんでした。こうして見ると別の世界のソルジャーと全く区別がつきません。記憶装置まで着けてますから! 会長さんはツカツカと近付いて来て、テーブルの上に並べてあったフライパンを一つ、手に取ると。
「なんだ、練習してないじゃないか。全然使った気配がない」
「当たり前だろう、卵が1個もないんだぞ!」
食ってかかったキース君でしたが、その表情がハッと変わって。
「おい、手にしただけで分かるのか? 俺たちがそれを使ったかどうか?」
「まあね。ついでに誰がどれを持っていたかも見当がつくよ。残留思念とでも言うのかな? 普通に料理をした程度なら残らないけど、これを渡されて戸惑った気持ちが残っているんだ」
「「「………」」」
「真剣に練習していたんなら、その時の気持ちも残ってくる。だけどこれには…戸惑いだけだね。ジョミーのフライパンだろう?」
「え? え、えっと…。多分そうかも…」
自信なさげなジョミー君に会長さんは苦笑しながら。
「何処に置いたかも自分で覚えてないんだね? どれを使っても問題ないから構わないけど、もっと真剣に取り組まなくちゃ。フライパンは貴重なんだってこと、しっかり思い知っただろうに」
「うん…」
ジョミー君が項垂れ、私たちも食堂で見たフライパン待ちの列を思い返して身震いしました。今、シャングリラ号で熱い話題はフライパンです。おまけに、とっても貴重品。それを一つずつ持っていながら何も出来ない私たちって最悪認定ですか? ソルジャーのお友達から左遷で降格という恐ろしい言葉が浮かびますよう~!
「左遷で降格? なんだい、それは?」
不思議そうな顔をした会長さんは次の瞬間、おかしそうに笑い出しました。
「そうか、左遷で降格ねえ…。それが本当ならフライパンなんて渡さないよ。特別に用意した気持ちを汲み取って欲しいんだけど? 存分に練習できるようにね」
「…さっきから練習、練習と言っているがな…」
切り返したのはキース君です。
「俺たちにはサッパリ分からないんだ! これで練習して何をしろと? オムレツ作りのコンテストと聞いたが、単にフライパン料理だという話もあった。現に炒飯を作っている人もいたし…。とにかく何かを作るんだろうと戻ってみれば食材がない」
「それで練習していないんだ?」
「当たり前だろう! 卵もなければ飯もない。これでオムレツだの炒飯だのを作れるヤツがいるもんか!」
「…焦がしちゃったら勿体無いしね」
フライパンを眺める会長さん。
「食堂でちゃんと見てきただろう? 作ったものは必ず食べる! ぶるぅの美味しいオムレツや炒飯を食べ慣れた君たちに焦げた料理は食べさせたくない。だからさ、練習は基礎の基礎から」
「「「基礎…?」」」
いったい何をどうやって、と首を傾げる私たちに会長さんは一旦フライパンを置き、キッチンの方へ向かいました。少しして戻って来た会長さんの手にはお皿を拭くのに使う布巾が…。
「はい、これ」
「「「???」」」
一枚ずつ布巾を手渡された私たちがキョトンとしていると、会長さんは残った一枚の布巾をフライパンにポンと放り込み、そのフライパンを右手で握って。
「いいかい、よく見ているんだよ? これがフライパン料理のお手本。ぼくもオムレツは得意なんだ」
会長さんの右手が軽やかに動き、フライパンの上で布巾がクルクル宙返り。それを何度も繰り返してから「やってみて」と言われ、私たちは慌ててフライパンを握りました。えっと、布巾を上に乗っけて…。あれ?
「…ほらね、やっぱり基礎がない」
誰も布巾を上手に引っくり返せません。端に寄ったり勢い余って飛び出したりと、宙返りには程遠く…。
「布巾も上手に返せないんじゃあ、オムレツなんて全然無理だね。当分それで練習したまえ。卵を渡さなかったのは正解だったよ」
呆れ顔の会長さんにキース君が。
「待ってくれ、本当にオムレツなのか? 炒飯ではなく?」
「さあね。でも、フライパンを操れない人に勝ち目がないのは間違いない。練習しといて損はしないと思うけど?」
布巾が終われば次はこれだ、と宙に取り出されたのは塩がドッサリ入った袋。
「これも食品に違いないけど、使い回しがきくからねえ。使った後はこっちの袋に入れてくれれば、厨房の方できちんと処理して普通に料理に使うから」
「塩…?」
どうするの、とジョミー君が尋ね、会長さんはジョミー君からフライパンを受け取って…。
「布巾は重さが足りないんだよ。あれでコツを掴んだ後は重さも加えて練習しないと。そこで塩の出番になるのさ。これはこうして…」
会長さんはフライパンに塩をたっぷりと入れ、布巾を引っくり返すのと同じ要領で鮮やかに上下を入れ替え始めました。その手つきは実に見事です。なるほど、いつも「そるじゃぁ・ぶるぅ」のフライパン捌きを何も考えずに見てましたけど、あんな感じでやってますよね。
「分かったかい? まずは布巾で、次が塩。塩をマスターすれば一人前だと言いたいけれど、そこまで辿り着けるかどうか…。実質残り半日だ」
そろそろ夕食の時間だよ、と会長さん。残り半日ってことは、コンテストとやらは明日の午後?
「そうなるね。別に明後日でも良かったんだけど、フィシスがゆっくり楽しみたいって言うものだから…。最終日だと下船準備でバタバタするし、明日にするのが一番かなあ、って」
「「「………」」」
残り半日でフライパンを操る達人になれと言われても…。けれど会長さんはクスッと笑っただけでした。
「負けたくなければ頑張りたまえ。そうそう、布巾と塩で練習するのは本物の料理人でも同じだよ。最近は流行らないかもしれないけれど、昔は定番だったんだ。食材を無駄にしないためにね」
健闘を祈る、と軽く手を振り、部屋を出て行く会長さん。ソルジャー自らフライパン料理の基礎を教えに来てくれた以上、これはやるしかないんですよね…?
夕食のために食堂へ行った私たちが見たのは更に長くなったフライパン待ちの列。食堂の中では定食よりもオムレツや炒飯が大人気……と言うより、自分で作ったヤツなんでしょうね。自前のフライパンがあるのを今ほど有難く思ったことはありません。
「みんな真剣にやってるよねえ…」
凄いや、と感心するのはジョミー君。
「だってさ、たかがフライパン料理のコンテストだよ? ぼくたちみたいにフライパンを押し付けられたら特訓するしか道はないけど、自発的に練習するなんてさ」
「…それなんだがな…」
キース君が焼肉定食を頬張りながら。
「思い出したんだ、去年のことを。ほら、福引があっただろう? 俺がブルーを引き当ててしまって酷い目に遭った…」
「そういえば…」
綺麗サッパリ忘れてましたが、去年は草餅を作った後で福引大会があったのでした。特別賞は会長さんと一晩一緒に過ごす権利で、それを当てたキース君が危うく坊主頭にされそうになったという大惨事。結局、教頭先生が乱入してきて、キース君は助かったのですけれど。
「去年が福引大会だ。そして今度がフライパン料理コンテスト。今回も豪華賞品が出ると誰もが思っているんじゃないか?」
「あれは凄かったですもんねえ…」
相槌を打ったのはシロエ君です。
「地球で使える有効期限無しの食事券に金券、旅行券! あんなのが出ると言うんだったらフライパン修行も人気なわけですよ。…あれ? じゃあ、別に真剣に練習しなくったって、罰ゲームとかは無いですよねえ?」
「分からんぞ。なにしろアイツがフライパンを用意した上に極意を伝授しに来たんだからな、練習不足で最下位にでもなろうもんなら何が起こるか…」
考えただけでも恐ろしい、とキース君は髪を押さえています。坊主頭はキース君限定の罰ゲームでしょうけど、確かに真面目に取り組まなければ大変なことになるのかも…。
「後悔先に立たずって言うぜ」
サム君が拳を握りました。
「ブルーの期待も裏切れないし、俺、頑張る! もしかしたら特別賞は今年もブルーかもしれないし!」
「俺はブルーは要らないんだが…」
キース君がぼやきましたが、練習の必要性は嫌と言うほど分かっています。シャングリラ号のクルー全員が燃えているらしいコンテストでソルジャーである会長さんのお友達が悪い成績を取ったりしたら、会長さんは赤っ恥。そうならないためにフライパンが用意されたのですし。
「仕方ない、とにかく練習するか」
溜息をつくキース君に、私たちも揃って頷きました。あ、サム君は例外です。とっくの昔にやる気満々、特別賞を思い描いて瞳がキラキラしていますから! そうと決まれば惜しいのは時間。私たちは大急ぎで夕食を食べ終え、トレイを返して会議室へと。しかし…。
「なんか……腕が重いんだけど…」
ちょっと痛いし、とジョミー君が腕をさすっています。言われてみれば私も筋肉が張っているような…。昼間の「そるじゃぁ・ぶるぅ」とのハードな鬼ごっこのツケが今頃出てきてしまったのでした。筋肉痛というヤツです。逃げ回る「そるじゃぁ・ぶるぅ」を追い掛けるのに身体を目いっぱい使った結果がこの痛み。
「これじゃフライパンが上手く振れないよ。誰か薬とか持ってきてない?」
ジョミー君が見回しましたが、二泊三日の宇宙の旅に筋肉痛の薬を持参するわけがありません。けれど普段から鍛えている柔道部三人組以外は全員、腕も脚もしっかり筋肉痛。これでフライパンを器用に操るなんて、どう考えても無理ですってば~!
「メディカル・ルームに行ってみるか?」
キース君の提案に私たちは飛び付きました。今までは縁の無かった所ですけど、初めてシャングリラ号に乗り込んだ時に見学に行った覚えがあります。最新鋭の設備を揃えたあそこだったら、きっと湿布も置いてるでしょう。塗り薬も充実していそうです。まずはコンディションから整えないといけませんよね。
「いたたた…」
サッカー部でたまに遊んでいるくせに、ジョミー君も足まで筋肉痛でした。サム君とスウェナちゃん、私なんかは言わずもがなです。柔道部三人組も普段使わない筋肉を使ったらしくて心なしか肩が重いとか。
「教頭先生はやっぱり凄いな。ぶるぅをあれだけ遊んでやれるんだからな」
改めて感動しているキース君を先頭にして、私たちはメディカル・ルームに向かいました。途中で通った食堂の前には未だに長い行列が。そしてメディカル・ルームには…。
「あれ? ここも行列?」
ジョミー君が見つけたのは扉の前に出来た列。ここも順番待ちなんですか? みんな手首や腕をさすってますけど?
と、扉が開いて看護師さんが。
「次の方、どうぞ! あら? あなたたちも筋を傷めたの?」
「「「は?」」」
「フライパンでしょう? 夕方からずっと行列なのよ。ちょっと待ってね」
看護師さんが奥に消え、私たちは行列をよく見てみました。フライパンだの筋を傷めるのって、もしかしてフライパンの振りすぎですか? シロエ君が最後尾の男性クルーに話しかけると。
「うん、ちょっと張り切りすぎたかもなぁ。20分でやめときゃよかった。俺、4回も並んだんだよ」
「俺、5回!」
「へえ~。俺なんて6回だぜ?」
たちまち始まる回数自慢。私たちもトレーニングの時間を訊かれ、全くやっていない事実をどうしたものかと窮したのですが。
「ソルジャーのお友達だから優先しますって。どうぞ!」
さっきの看護師さんが呼びに来てくれ、羨ましそうなクルーたちの視線を浴びつつ部屋の中へ。入ってすぐの処置室では数人のクルーが看護師さんの手当てを受けていました。手首に湿布と包帯が王道ですけど、塗り薬の類もあるようです。これならきっと筋肉痛も…。
「どうなさいました?」
「「「!!!」」」
奥の診察室から聞こえた声で背筋にゾクッと走った悪寒。こ、この声は、もしかして…。
「どうなさったのですか、と訊いているのですが?」
顔を覗かせたのは白衣を纏ったエロドクター。なんでドクターがシャングリラ号に!?
「おやおや、そんなに驚かなくても…。ドクターたる者、ソルジャーがシャングリラ号に乗られる時にはお供するのが常識です」
「あんた、去年はいなかったろうが!」
キース君の叫びに眉を顰める看護師さんたち。キース君は慌てて言葉を切り替えました。
「し、失礼しました。…確か去年は乗っておいでにならなかったと…」
「ええ、そうです。正確に言えばお供する義務があるのは春休みだけです。あの時期は必ず乗っていますよ、年に一度はきちんと視察をしませんとね」
「でも…。俺、いえ、ぼくたちが初めて乗った時にはお会いしなかったように思うのですが」
「おや、そうでしたか? あの時もいたのですけどねえ…」
この部屋に、とエロドクターは悠然としています。
「皆さんが見学にいらした時には休憩時間だったのでしょう。今回は去年の福引大会の噂を耳にして乗り込むことにしたのですがね」
「「「………」」」
やっぱりそうか、と頭痛を覚える私たち。福引大会の特別賞は会長さんだったのですから、エロドクターが二匹目のドジョウを狙わないわけがないのです。ということは、ドクターも…? 視線を奥にやると案の定、机の上にフライパンが。
「いいでしょう、あのフライパン。ここには当直のメンバー用にキッチンがありますし、もちろんフライパンもあるわけです。もっとも私は練習するまでもないのですが…。オムレツは得意料理です」
できる男とはそういうものです、と得意満面のエロドクターは軽くフライパンを振ってみせました。会長さんに負けず劣らず、見事なフライパン捌きです。私たちがポカンとしていると…。
「で、どうなさいました? フライパンの振りすぎで筋を傷めたクチですか?」
まだ若いのに、と小馬鹿にした調子で言われてジョミー君が。
「違うよ、筋肉痛だってば! ぶるぅと鬼ごっこしたら手も足も…」
「ぶるぅですか…。筋肉痛なら特に手当ては要りませんね。これでもつけておきなさい」
渡されたのは噴きつけるタイプの筋肉痛の薬でした。
「私は忙しいのです。次の人、どうぞ」
出て行けとばかりにシッシッと手で追い払われて、私たちは処置室を通って再び通路へ。フライパンで筋を傷めた人はまだ行列をしています。ここまでクルーが熱くなるフライパン料理だかオムレツだかのコンテストとは、いったいどんなものなのでしょう? おまけにエロドクターまで来ているとなれば、このコンテストは荒れそうですよ~。
元の会議室に戻った私たちは筋肉痛の薬をスプレーしてからフライパンを握り、布巾を引っくり返す練習を始めました。これがなかなか難しくって、ちっとも上手くいきません。
「よーし、休憩!」
キース君の号令でフライパンを置き、メディカル・ルームのお世話にならなくて済むようストレッチ。そこまで頑張らなくてもいいのでは、と言う人は誰もいませんでした。オムレツは得意だというエロドクターが参戦する以上、私たちがボロ負けしたら会長さんに思い切り皺寄せが行きそうです。ここは根性を見せないと! …でも。
「ねえ、ゼル先生ならいい線いくんじゃないのかな?」
ドクターよりも、とジョミー君。
「機関部に専用キッチンがあったでしょ? あそこで特訓していそうだよ」
「船霊様の所ですよね」
覚えています、とシロエ君が言い、私たちの脳裏に浮かぶ船霊様の記憶。このシャングリラ号を守っている船霊様は黒い招き猫の像なのでした。福猫だとか人を招くとか、ゼル先生は色々蘊蓄を垂れてましたが、愛用の黒いライダースーツとフルフェイスのヘルメットを見てしまった今となっては、黒は単なる好みだという気がします。もっともペットが二匹の大型犬でしたから、招き猫は本当に縁起物かもしれませんけど。
「ゼル先生が本気を出したらドクターに軽く勝てるって! そう思わない?」
「しかしだな、ジョミー」
難しい顔で腕組みをするキース君。
「ブルーがわざわざフライパンを寄越したからには、何かある。俺たちに期待を寄せているんだ。無様な負けっぷりは見せられないぞ。そこそこ腕を磨かないことには…。よし、休憩終わり!」
私たちは10分フライパンを振り、5分休憩という形で特訓中でした。そろそろ日付が変わる頃です。これを最後の練習にして、続きは明日の朝一番からと予定を決めていたのですが。
「かみお~ん♪」
いきなり扉が開いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が入ってきました。
「頑張ってる? ブルー、寝ちゃったからこっちに来たの! 青の間は立入禁止なんだよ」
「「「立入禁止?」」」
「うん。だってフィシスが一緒だもん! 子供はいい子で一人で寝るの!」
「「「………」」」
あまりにも無邪気な言葉に私たちは絶句するばかり。いつも良い子の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は普段からこんな調子で放り出されているのでしょう。で、会長さんがフィシスさんとどうしているかは聞くだけ野暮というもので…。
「そうか、ぶるぅは一人で寝るのか…」
いい子だな、とキース君が小さな銀色の頭を撫でて。
「俺たちの練習ももう終わりだが、見て行くか? 直せそうな所があったら直してくれ」
「オッケー!」
元気一杯に答えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は私たちの最後の練習に付き合ってくれ、一人一人のフォームをチェックし、コツを教えてくれました。お蔭で全員が布巾を三回くらいは上手に引っくり返せるようになり、ひたすら感謝、感謝です。その上に…。
「せっかくだから夜食も作るね! みんな遅くまで頑張ったもんね。あのね、フライパン、ここまで出来れば最高だよってブルーが言ってた!」
見てて、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が瞬間移動で取り寄せた食材で作り始めたのは炒飯です。しかもキッチンに大音量でお気に入りの『かみほー♪』を流し、曲に合わせて踊りながら炒めるという凄い技。いくらなんでも私たちには真似のできない芸当でした。たかがフライパン、されどフライパン。まだまだ奥が深そうです…。
その晩、私たちは全員フライパンの夢を見ました。山ほどのフライパンに追われた人やら、巨大なフライパンに潰された人やら。私が見たのはフライパン片手に細い吊り橋を渡る夢です。必死にバランスを取りながらフライパンの上の布巾を引っくり返し、目の眩むような谷に架かった吊り橋を…。
「あ~あ、夢の中までフライパンだよ」
泣きそうだった、と言うジョミー君は夢の中では小学生で、宿題に使うフライパンを学校に忘れてしまって必死に取りに戻ったのだとか。いくら走ってもスピードが出ないというのが夢ならではのお約束です。
「俺なんか木魚の代わりにフライパンを叩いていたんだぞ? それで親父に音が悪いと怒鳴られるんだ」
理不尽な、とキース君もゲッソリした顔。けれどフライパン修行を投げ出すわけにはいきません。食堂で揃って朝食の後は会議室に戻ってひたすら練習。会長さんが用意してくれた塩の袋には辿り着けそうもなく、ひたすら布巾を引っくり返して頑張って…。
「シャングリラの諸君!」
全艦放送で教頭先生……いえ、キャプテンの声が流れたのは昼食を終えて再び練習していた最中でした。
「今日はソルジャー主催のイベントがある。色々と噂があったと思うが、参加したい者は一時間後に公園に集合するように。準備のために公園は今から閉鎖する」
「「「公園?」」」
意外な場所に私たちは首を捻りました。フライパンなだけに厨房のある食堂だろうと見当をつけていたのですけど…。
「準備のために閉鎖するって言ってましたよ」
きっとコンロの準備ですよ、とシロエ君がフライパンを軽く振ります。
「シャングリラ号にどれだけの設備があるのか知りませんけど、炒飯は火力が要りますからね…。公園に持ち出せる程度のコンロじゃ難しいでしょう。やっぱりオムレツなんですよ」
「…それって、ぼくたちヤバイんじゃない?」
ジョミー君が声を潜めました。
「フライパンの特訓はやっていたけど、本物のオムレツは一度も作ってないんだよ! ドクターは自信ありそうだったし、ぼくたち全員、予選落ちとか…」
「「「………」」」
それはマズイ、と私たちの背中に冷たいものが流れました。けれど会長さんから渡されたものはフライパンと布巾と塩だけでしたし…。
「塩をクリアしたら卵が届くんだったんじゃないの?」
恐ろしい読みをするジョミー君。でも……それって有り得るかも…。
「だとすると…。塩にも手が届かなかった俺たちはブルーに見捨てられたということか?」
「きっと卵が来なかった段階で降格決定で左遷なんだよ! イベントに出ても席が無いとか、参加もさせて貰えないとか…」
ジョミー君は次々と最悪の事態を口にしてきます。どうしましょう、本当に公園に入れて貰えなかったら? 入り口で追い返されたら、悲しいなんてものではなくて…。
「落ち着け、ここで愚痴っていても始まらないぞ」
とにかく行くだけ行ってみよう、とキース君が檄を飛ばしました。
「その前に最後の練習だ。ベストを尽くしておかないとな」
私たちはフライパンを構え、真剣に布巾を引っくり返して頑張ったものの、やはり本物のオムレツが作れそうな手ごたえはありません。ぶっつけ本番で成功したらいいですけども、失敗したら…?
「失敗以前の問題として、会場に入れるかどうかだな。まあ、ブルーのことだし、少々汚い手を使っても入れてくれそうな気はするが…。左遷で降格というのでなければ」
行くぞ、と扉に向かうキース君の右手にはフライパンが握られていました。あのぅ…。それって持って行くの?
「ぶるぅに用意させたと言ってたんだし、他のクルーも知っていたしな。やはり馴染んだ道具を使うのが一番有利だ。お前たちも自分のフライパンを持って行った方がいいだろう」
「そっか、スポーツ選手のラケットとかと同じ理屈だね!」
確かに良さそう、とジョミー君が歓声を上げ、私たちはフライパン持参で行くことに。果たしてどんなイベントになるのか、私たちに参加資格はあるのか否か。いろんな意味でドキドキです~!
今年のゴールデンウイークは飛び石でした。私たちは登校義務のない特別生ですから好きに休んでいいのですけど、どうもそんな気になれません。纏まったお休みは5月の3日から5日まで。その間は何処も混むのが目に見えるようです。そうなってくると…。
「えっと…。今度の連休、シャングリラ号はどうなるの?」
ジョミー君が会長さんに持ち掛けたのは放課後の「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でした。今日のおやつはホイップバターとメイプルシロップをたっぷり添えたパンケーキ。会長さんはフォークを止めて怪訝そうに。
「シャングリラ号がどうしたって?」
「…えっ…。あの、だから…。去年の連休はシャングリラ号に行ったでしょ? 今年はどうかなあって話してたんだ、みんなで」
その話が出たのは昼休みだったので会長さんは当然いません。連休の穴場と言えばシャングリラ号! 春休みにはシャングリラ・プロジェクトでパパやママたちも乗り込みましたし、家でもたまに話題になります。シャングリラ号を知らない人には宇宙クジラと呼ばれる未確認飛行物体ですが、久しぶりに乗りたいじゃないですか。
「ふうん…。今年もシャングリラ号で過ごしたいって?」
「連休が短かすぎるからダメ?」
「そうでもないけど」
会長さんはカレンダーをチェックしてから。
「君たちの狙いは5月3日から5日までの間と見たね。当たってるかな?」
コクコク頷く私たち。第一希望はその日でした。ダメなようなら学校を休んで他の日に、という所まで実は相談してあります。会長さんは全てお見通しらしく…。
「サボリはあんまり感心しないな、ぼくが言うのもアレだけどさ。…君たちの読みどおり、シャングリラ号はゴールデンウイークに合わせて地球に戻る。ハーレイたちが揃って乗り込める時期だからね」
会長さんの説明では、長老の先生方による船内チェックが恒例なのだそうです。あ、先生方というのはおかしいかな? 船長に機関長、航海長などシャングリラ号での役職名がありましたっけ。とにかくシャングリラ号が先生方を迎えに来るのは確かでした。去年はそれに便乗したわけです。
「乗りたいんなら別にダメとは言わないよ。だけど今年はフィシスも行くから」
「「「え?」」」
「フィシス、去年は旅行の先約があってシャングリラ号に行けなかったんだ。だから今年は乗り込むつもりで用意をしてる。もちろんぼくはフィシス最優先で動くし、それでも良ければ一緒に来れば?」
「「「………」」」
私たちは顔を見合わせました。フィシスさんが来るってことは、私たちは放っておかれる可能性大。それって、ちょっぴりつまらないかも…。
「かみお~ん♪ みんなも来てよ、一緒に遊ぼう!」
ブルーはフィシスとデートだもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が割り込みます。
「公園で鬼ごっこするの、楽しいよ? サイオンだって使い放題!」
「…俺たちは思念波くらいしか使えないんだが…」
キース君が返しましたが、会長さんが。
「うん、いいね。ぶるぅの遊び相手に良さそうだ。オッケー、シャングリラ号に連絡しとく。ハーレイたちにも言っておくから、今度の連休は宇宙ってことで」
「わーい!!!」
歓声を上げたのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。うーん、私たち、鬼ごっこをしに行くんですか? でも、まあ…。
「宇宙船の中で鬼ごっこというのも珍しいか…」
非日常だな、とキース君が言い、サム君が。
「いいじゃねえかよ、鬼ごっこでもさ。シャングリラ号に乗れるんだぜ? 最初の希望どおりじゃねえか」
「サムはブルーのいる所なら極楽だもんね」
「言ったな、ジョミー!」
この野郎、とサム君がジョミー君の頭を拳でグリグリしています。会長さんと公認カップルを名乗って三年目のサム君は今も変わらず純情でした。ともあれ、連休はシャングリラ号! 会長さんがいなくったって、みんなと一緒なら楽しい旅になりそうですよ~。
去年はマザー農場でヨモギを摘んでいってシャングリラ号で草餅作りをしたのですけど、今年はそういうのはありません。会長さんとフィシスさんが乗り込むことはとっくに決まっていたのだそうで、クルーへのお土産は二人で選んでしまったとか。私たちは単なるオマケで、さほど歓迎されそうにもなく…。
「あーあ、シャトルまで別にしなくても…」
あんまりだぜ、とサム君が未練たらたらで呟いたのは5月3日の朝のこと。旅行用の荷物を持って会長さんのマンション前に集合した私たちを待っていたのはマイクロバスです。七人もいるのですから当然ですが、問題なのは黒塗りのリムジンが隣に停まっていたことで…。
「仕方ないですよ、会長はソルジャーなんですから」
シロエ君の言うとおり、会長さんは確かにソルジャーです。けれど普段はソルジャーとして扱われるのを嫌っているんじゃなかったのでは? リムジンなんかよりマイクロバスでは…?
「フィシスさんを乗せたかっただけだと思うぞ」
そういう奴だ、とキース君。
「現に恭しく手を取って乗せてやってたじゃないか。ぶるぅも一緒に乗っては行ったが、車でもシャトルでもラブラブだろうさ」
「そうなんだろうね…」
ジョミー君がガックリと肩を落としました。
「ぼくたち、ぶるぅの遊び相手って待遇だっけ? 去年はソルジャーのお友達だったのに、これって降格?」
「降格どころか左遷かもしれん」
だからあんまり期待はするな、とキース君が溜息をついた所で青空にキラリと光るシャトルの機影。私たちは専用空港の待合室で会長さんたちを乗せて行ったシャトルが戻るまで待たされていたのでした。一緒に乗せてくれればいいのに、と言うだけ野暮というものでしょう。だってリムジンとマイクロバスの差は歴然としているのですから。
「シャングリラ号でも左遷かなあ?」
飛び立ったシャトルの窓から外を見ながらジョミー君はまだブツブツと言っています。
「去年は一人部屋だったけど、今年はいきなり大部屋とかさ」
「大部屋はないと思うわよ?」
スウェナちゃんが冷静に突っ込みました。
「初めてシャングリラ号に乗り込んだ時に聞いたじゃない。クルーの人たちのプライバシーの尊重のために基本は一人部屋だ、って。大勢で泊まれる部屋っていうのはそれなりに立派な部屋だった筈よ」
「そうですよね。キッチンとかもついてましたっけ」
マツカ君が相槌を打ち、サム君が。
「俺も思い出した! 徹夜の宴会とかに使えるようになってたっけな、あそこだったら問題ないって!」
「そっか。ああいう部屋でもいいかもね」
たちまち御機嫌になるジョミー君。窓の向こうにはシャングリラ号の優美な姿が見えてきています。シャングリラ学園の紋章と同じマークがついた巨大な船にシャトルが滑り込み、格納庫から通路に出ると…。
「ああ、その問題はページの下の方にだな…」
携帯電話で話していたのはクルーの制服姿のシド先生。その右手にはなんと教科書。シド先生、何をしてるんでしょう?
「そうそう、そこに書いてある。あとは分かるな? いつでも遠慮なく訊いてこいよ」
じゃあな、と電話を切ったシド先生は私たちの視線に気付いたようで。
「見てたのか? なんだ、おかしな顔をして…。そうか、これか」
教科書を閉じたシド先生は私たちのシャトルを操縦してくれていたのですけど、今の電話はいったい何処から? それにシャングリラ号で何故に教科書?
「今の電話は生徒からだよ。操縦中は流石に出られないしな。オートパイロットの時なら問題ないけど、格納庫の手前で鳴りだしたんだ」
「ここって圏外じゃないんですか?」
シロエ君が尋ね、私たちは反射的に自分の携帯を取り出しました。表示はしっかり圏外です。そりゃそうでしょう、成層圏に近いんですから…って、シド先生の携帯電話は特別製? シド先生は得意そうに「ほら」と携帯の画面を向けてくれ、そこには立派なアンテナマークが。
「市販の携帯電話にちょっとした細工がしてあるんだ。どこでも普通に受信できるし、宇宙に出ても問題ない。ワープ中は流石に圏外だけどな」
「「「………」」」
凄い仕様の携帯電話もあったものです。シド先生は携帯と教科書を鞄に入れると先に立って歩き出しました。
「シャングリラ号に乗ってる間も教師の仕事は休みじゃないんだ。ゼル先生たちも似たようなものさ。やっぱり生徒を教えるからには、きちんとフォローをしてやらないと。…おっと」
明るい着信メロディーが鳴り、今度はサッカー部員からでした。顧問のシド先生がお休みなので自主練習中らしいのですが、フォーメーションについて相談してきたようです。シド先生はテキパキと指示をし、電話を切って。
「悪いな、いつもはこんなにかかってこないんだが…。それじゃ部屋の方に案内しようか」
船内を走るリニアに乗って居住区へ移動。割り当てられたのは一人部屋でした。
「荷物を置いたら好きに遊んでくれればいい、とブルーが言っていたぞ。みんなでワイワイ騒げるように会議室も一つ空けてある」
場所はここ、と説明してくれたシド先生はブリッジに向かい、私たちが自分の部屋をチェックしている間に発進準備が整ったらしく…。
「シャングリラ、発進!」
全艦放送で教頭先生…いえ、キャプテンの号令が流れ、シャングリラ号は出航しました。目指すは二十光年の彼方、シャングリラ号の定位置です。
「ブルー、来ないね…」
ジョミー君が扉の方を見るのは何度目でしょうか。ワープアウトしたら会長さんが遊びに来るかと思ったのですが、昼食に行った食堂でも姿は見えず、シド先生に教えて貰った私たち専用の会議室に移動してからも音沙汰なし。
「やっぱり降格で左遷なんだよ。この部屋だって誰も来ないし…」
「あら、お茶とお菓子はあったじゃないの」
こんなに沢山、とスウェナちゃんがテーブルの上を指差します。ケーキに焼き菓子、おせんべいにポテトチップス。飲み物も紅茶やコーヒーの他にジュースが色々揃っていました。それを食べたり飲んだりしながらゲームをしたりするわけですけど、シャングリラ号に来たという実感があまりないような…。
「確かにな…」
今一つ宇宙らしくない、とキース君が壁を眺めます。
「星でも見えれば違うんだろうが、この部屋に窓はないからな。展望室にでも行ってみるか?」
「展望室よりブリッジがいいな」
面白そうだよ、とジョミー君。
「運が良ければサイオンキャノンを撃たせて貰えるかもしれないし! ブリッジにしようよ」
「そうですね。ぼくも計器が見たいです」
シロエ君が賛成し、ブリッジへ行く方向で話が纏まりかけた時。
「かみお~ん♪」
いきなり扉がシュッと開いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が現れました。
「ごめんね、遅くなっちゃって…。お客様をお待たせするなんて悪いなぁって思ったんだけど…」
「えっ? べ、別にぶるぅは悪くないし!」
さっきまで左遷だの降格だのと愚痴っていたジョミー君は大慌て。三百歳を超えているとはいえ小さな子供の「そるじゃぁ・ぶるぅ」を責めても仕方ありません。悪いのは多分、会長さんです。どうせ今頃は青の間か天体の間でフィシスさんとイチャイチャと…。
「ううん、ぼくが荷物にきちんと書けばよかったんだよ」
「「「荷物?」」」
「うん、荷物。いろんな物を積み込んだから行方不明になっちゃって…。でも見つかって良かったぁ!」
はい、と宙から湧いて出たのは箱でした。マザー農場で野菜の出荷に使う段ボール箱。そういう箱を使ったせいで貯蔵庫の方へ運ばれてしまい、それと知らない「そるじゃぁ・ぶるぅ」は食糧とは関係のない倉庫を探していたのだそうです。
「ゼルが見つけてくれたんだよ。ゼルもお菓子の材料が行方不明になったんだって。それで貯蔵庫に行ったら、箱と中身が合いそうにない箱があるって教えてくれて」
「「「???」」」
箱にはサニーレタスと書いてあります。えっと、どうすれば中身が合わないって分かるんでしょう? 首を捻った私たちに「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコッと笑って。
「だって、レタスはそんなに重くないでしょ? この箱、中身がこれだもん!」
ほらね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が箱に突っ込んだ右手に握られていたのはフライパンでした。
「…フライパン…?」
そう言ったのは誰だったのか。わざわざ積み込まれた荷物の中身がフライパンだなんて意外すぎます。しかもフライパンは一個ではなく。
「はい、一人に一つずつあるからね」
「「「………」」」
サニーレタスの箱にはフライパンが七個。どれも使いこまれて黒光りした同じ大きさのフライパンです。パンケーキを焼くのにぴったりサイズの「そるじゃぁ・ぶるぅ」の愛用品。料理上手の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は幾つものフライパンを同時に並べてパンケーキを焼くのが得意なのです。
「…おい」
一番最初に我に返ったのはキース君。
「一人に一つずつとか言ったな? このフライパンをどうしろと?」
「ブルーが貸してあげなさいって言ったんだよ」
「だからだな、どうしてそういうことになるんだ? フライパンを使って何かするのか?」
「フライパンは今、貴重だしね」
キース君と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の会話は全く噛み合っていませんでした。そうでなくてもフライパンが貴重だなんて話、耳にしたこともありませんが…?
「本当に貴重なんだよ、フライパン。それよりフライパンは無事に見つかったんだし、公園で鬼ごっこしに行こうよ! ブリッジに行こうとしてたんでしょ? 公園はブリッジがよく見えるし!」
「あ、ああ…。そうだったな」
キース君はフライパンの謎を追求するのを放棄しました。鬼ごっこは最初からの約束ですし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が満足するまで付き合ってやれば謎が解けるかもしれません。私たちは会議室のテーブルに七個のフライパンを積み上げておいて公園へ。あそこ、けっこう広いんですよね。
シャングリラ号の公園はブリッジの真下にありました。正確には公園の端の方にブリッジが浮かんでいると言うべきか…。鬼ごっこは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が瞬間移動を使いまくって逃げ回ったり鬼になったりと神出鬼没、実にハードな遊びです。
「も、もうダメだあ…」
走れないよ、とジョミー君が音を上げ、キース君たち柔道部三人組も肩で息をしています。サム君は芝生に倒れていますし、スウェナちゃんと私はとっくの昔にギブアップでした。
「なんだい、なんだい、だらしないねえ!」
ブリッジから容赦なく飛んできた声はブラウ先生。シャングリラ号では航海長です。
「それでも高校一年生かい? ハーレイならもっと頑張るよ」
「そうじゃ、そうじゃ! 頑張らんかい、気合で走れ!」
ゼル先生も野次を飛ばしてきますが、私たちは本当にもう限界でした。けれど「そるじゃぁ・ぶるぅ」はまだまだ遊び足りない様子。そこへ教頭先生が苦笑しながらブリッジを出てやって来て…。
「交替しよう。まだ夕食までは時間があるから、食堂で喫茶をやってる筈だ。ゆっくり休憩してきなさい」
「「「あ、ありがとうございます…」」」
膝が笑ってる、と情けないことを言いつつ公園を出る私たちの背中に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「うわ~ん、ハーレイに捕まっちゃったあ! 投げられちゃう~!」
「「「えっ!?」」」
振り返った私たちが見たものは、教頭先生に両足首を引っ掴まれて振り回されている「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿でした。ブンブンと振り回されて遠心力がついた所でパッと手が離れ、小さな身体がヒューンと勢いよく飛んでいきます。キャーッと悲鳴が上がりましたが、それはどう聞いても歓声で…。
「ああいう鬼ごっこをするとか聞いた気がするな…」
キース君が額を押さえました。
「俺たちも投げる方向でやるべきだったか? そしたら消耗しなかったかも…」
「もう手遅れだよ!」
そんな体力残ってないし、とジョミー君。私たちは教頭先生と「そるじゃぁ・ぶるぅ」の過激な鬼ごっことやらを暫し眺めてから食堂を目指し、ティータイムのメニューにありつこうとしたのですが。
「あれ? 混んでる…」
「本当だ…」
食堂の前の通路にズラリと列ができていました。みんなクルーの制服ですから、一番暇な時間帯でしょうか? それとも人気メニューが出ているのかな? と、食堂のスタッフが通路に出てきて。
「次の方、五人どうぞ!」
その声で先頭の五人が食堂へ入り、その分だけ列が進みます。私たちも並ぶべきか、元の会議室に置いてきたお菓子で済ませるべきか…、と目と目で相談していると。
「ソルジャーのお客様ですよね?」
さっきのスタッフが声をかけてきました。
「奥へどうぞ! 今日は木イチゴのタルトがお勧めですよ」
「「「え?」」」
行列は? と尋ねる前に私たちは中へ案内されて公園が見える奥の席へ。これってVIP待遇ですか? 会長さんは姿を見せませんけど、左遷でも降格でもなかったんですか?
「こちら、メニューとなっております」
メニューには美味しそうなケーキが並んでいました。どれにしようかと悩んでいる間も行列は全く動きません。いいんでしょうか、会長さんの知り合いってだけで先に注文しちゃっても…? 迷いながら目を向けた公園では教頭先生と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がまだ鬼ごっこをしています。
「ご注文はお決まりですか?」
笑顔でやって来た女性スタッフに、キース君が。
「すみません、あっちで行列している人を抜かしてしまっていいんでしょうか? 並ぶつもりで来たんですが…」
「いえ、その必要はないですよ? ソルジャーから伺っておりますし」
やったあ、VIP待遇ですよ! ソルジャーの肩書きって凄いんだ、と改めて感動の私たち。ところが…。
「フライパンはお持ちなんですよね?」
「「「は?」」」
フライパンって…なに? メニューによっては自分で作れと?
「あちらはフライパン待ちの列なんですよ」
「「「フライパン待ち!?」」」
頭の中が『?』マークで一杯になった私たちに、スタッフは厨房の入口を指差しました。
「あそこに張り紙があるんですけど…。一度に五名様までです」
「「「………」」」
春休みのサイオン強化合宿のお蔭か、遙か遠くの張り紙の文字がハッキリ見えます。そこにデカデカと書かれていたのは次のような文句でした。
『フライパン、あります。お一人様、一回20分まで』。
なんですか、あれは? フライパンがあったら何がどうだと言うんですか~!
「オムレツ作りのコンテストがあるって噂ですよ」
注文したケーキやタルトをテーブルに並べながらスタッフが教えてくれました。
「いえ、本当にオムレツかどうかは分かりませんけど、とにかくフライパンを使う何かのコンテストです。シャングリラ号では自炊する人は殆ど皆無ですからねえ…。フライパンなんて部屋に持ってませんし、食堂のを借りて練習しようと長蛇の列で」
「それで1回20分なんだ…」
目を丸くするジョミー君のカップにスタッフが苦笑しながら紅茶を注いで。
「時間制限がないと不公平になるでしょう? 作った物は必ず食べて頂くことになっております。黒焦げのオムレツでも、焦げた炒飯でも、宇宙船の中では貴重な食品ですからね」
「「「………」」」
私たちは言葉を失いました。失敗作でも食べろというのは厳しいかもです。言われてみれば食堂のあちこちで悲壮な顔をして食事中の人がいるような…。
「皆さんはご自分のフライパンをお持ちだと伺いましたよ。いいですよねえ、お好きな時に練習できて。…ここにはフライパンは沢山あるんですけど、仕事中は練習禁止なんです。私も勤務が終わったら並ぶんですよ」
ごゆっくりどうぞ、とお茶を注ぎ終えたスタッフは厨房に去っていきました。そして間もなく「次の方どうぞ!」の声が聞こえて行列が進み、入れ換わりにトレイを持ったクルーが五人、厨房の奥から出て来ます。トレイの上には湯気の立つ炒飯やオムレツなどなど…。
「フライパンが貴重品だとはこういう意味か…」
キース君が大きな溜息。
「しかもわざわざ俺たちの分を持ち込んだってことは、俺たちも参加するんだよな?」
「そうみたいだね…」
ジョミー君が公園で遊ぶ「そるじゃぁ・ぶるぅ」に目をやって。
「ぼくたちのフライパンを用意されても、料理ができなきゃ意味ないし! オムレツなんて自信ないよ」
「俺も同じだ。オムレツは意外に奥が深い。…どうする、ぶるぅに教えを請うか?」
「うーん…。交換条件に鬼ごっこなんか持ち出されたら大変だしね…」
それだけは御免こうむりたい、とジョミー君が言い、私たちも賛成でした。あんなハードな鬼ごっこよりは自主トレの方がまだマシです。幸か不幸かフライパンだけはあるのですから。
「仕方ない、自力で頑張るか。…よし、食い終わったら部屋に帰るぞ」
努力あるのみ、と決意を固めるキース君にジョミー君が。
「部屋じゃなくって会議室! それとも部屋で練習するの?」
「うっ…。確かにあそこは会議室だが…。まあ、とにかく帰って練習だ。でないと何が起こるか分からん。なんと言っても言い出しっぺがアイツだからな」
「「「………」」」
アイツというのが誰を指すのか、言われなくても分かりました。シャングリラ号ではソルジャーと呼ばれる会長さんは仲間の頂点に立つ人です。その会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」にフライパンを持ち込ませてまで何かをしようと言うのですから、逃亡はまず不可能でしょう。
「会議室にキッチンがついていたのもこのためなのか…」
キース君の嘆きに私たちも泣きそうでした。コーヒーや紅茶を淹れるためのお湯を沸かせるようになっているのだと喜んでいれば、その実態はフライパン料理の練習用。この調子では会議室に戻れば山のような量の卵が届いているかもです。まさか卵を片手で割れとは言わないでしょうが…。
「分かりませんよ? ぶるぅは片手で割っていますし、コンテストとなればどの段階から審査されるか…」
マツカ君の言葉にウッと息を飲む私たち。卵を片手で割れる腕前は誰も持ち合わせていませんでした。コンテストで低い評価がついたら凄い罰ゲームが待っているとか、いかにもありそうな話です。こうなった以上、そこそこの点数を貰えるようにフライパンを持って頑張らなくては…。
「食い終わったか? 行くぞ」
キース君が立ち上がり、私たちも続きました。公園では教頭先生と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が今も元気に鬼ごっこ中。教頭先生のあのスタミナを見習いながらフライパンを振り回さねば! 覚悟を決めて食堂を後にし、会議室に戻った私たちは積み上げてあったフライパンを一人一個ずつ握り締めて。
「持った感じはまずまず…か」
少し軽いが、とキース君。
「このサイズからして炒飯の線はないと見た。噂通りにオムレツだろう。さて、と…」
次は卵だ、と冷蔵庫を開けたキース君が固まりました。
「おい…。嘘だろう…?」
「えっ、どうしたの?」
覗き込んだジョミー君にキース君が冷蔵庫の中を探りながら。
「卵が無い…。どこにも卵が入ってないんだ!」
「「「えぇっ!?」」」
山ほどの卵も困りものだとは思いましたが、まさか卵が無いなんて! それでどうやってオムレツ作りを練習しろと? フライパンだけ渡されたってどうにもこうにもなりませんよ~!
ウェディング・ドレスを持ち込んできて「ハーレイにはライバルを!」と言い放ったソルジャーが何を考えているのか分からないまま、会長さんが健康診断の結果を聞きに行く日になりました。私たちは例によって放課後「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に集まり、キース君は会長さんから風呂敷包みを渡されて…。
「よろしく頼むよ。ノルディがおかしな振舞いをしたら…」
「分かっている。これを殴ればいいんだろう?」
任せておけ、とキース君。風呂敷包みの中身はもちろんドクター人形です。でも…。
「要らないって言った筈だよ、その人形は。信用ないなぁ…」
会長さんの制服姿のソルジャーが苦笑しました。
「今日のノルディはぼくに夢中さ。そのためにドレスを持ってきたんだ。やっぱりライバルがいると違うだろうと思うんだよね、いくらハーレイがヘタレでもさ。…あ、ぼくの世界のハーレイだよ? ぶるぅに手紙も持たせておいたし、大いに期待してるんだ」
「「「………」」」
ソルジャーが良からぬことを企んでいるのは明らかでしたが、それでエロドクターの矛先が逸れるなら大歓迎。口を挟まず、好きにさせておくのが吉でしょう。やがて約束の時間が来たので私たちはタクシーに分乗し、エロドクターの診療所へ。ソルジャーは荷物を持ってませんけど、ウェディング・ドレスはきちんと修復済みでした。
『あれの出番はまだ先なんだよ』
お楽しみは取っておくのだ、とソルジャーから笑いを含んだ思念波が届き、タクシーは目的地に到着です。風呂敷包みを抱えたキース君を先頭にして診療所の中に入っていくと、今日もスタッフは誰もいなくて…。
「ようこそ。お待ちしておりましたよ」
満面の笑みのエロドクターが両手を広げてソルジャーに近付き、熱い抱擁をしています。なるほど、確かに会長さんの身は安全そう。それでも警戒を怠らなかった私たちですが、健康診断の結果は「問題なし」とアッサリ告げられておしまいでした。
「ソルジャーとしての健康管理は万全でらっしゃるようですね。…たまには治療もしてみたいですが」
残念です、と言うドクターにソルジャーが。
「ぼくじゃ代わりにならないかな? やっぱりブルーの方がいい? だったら帰らせてもらうけど」
「お、お待ち下さい! 今日は楽しむお約束でしょう?」
「まあね。…それじゃ予定通りにいこうか、そろそろ時間の筈だけど…」
「そうですね。もう間もなくといった所でしょうか」
壁の時計を眺める二人に会長さんが。
「何をする気か知らないけれど、ソルジャーの義務は果たしたよ。ぼくは帰るね」
「どうぞ御自由に」
鷹揚に頷くエロドクター。会長さんさえ自由になれば後は野となれ山となれですし、私たちはそそくさと診察室を出、ソルジャーを残して引き揚げようとしたのですが。
「「「!!!」」」
診療所の扉が外側から開き、大きな人影が入って来ました。スーツ姿にきっちりネクタイ、褐色の肌はどう見ても…。
「「「教頭先生!?」」」
どうして教頭先生が此処に? ソルジャーとドクターが話していた「そろそろ時間」ってこのことですか? 教頭先生も驚いています。
「なんだ、全員揃ってどうした?」
「それはこっちの台詞だよ」
気を取り直した会長さんが教頭先生をジロリと睨んで。
「ノルディと何をするつもり? 奥にブルーが残っているんだ、何も知らないとは言わせないよ」
「…ブルーだと!? 聞いていないぞ、私はノルディに呼ばれただけで…」
「呼ばれた? なんで?」
「うっ…。うむ……その……なんと言うか…」
しどろもどろの教頭先生に会長さんは眉を寄せました。
「ほら、言えない。普通の用事で来たんだったら素直に言える筈だけど? さあ、白状してもらおうか」
「…………」
教頭先生の額に脂汗がびっしり浮かんでいます。これは相当に後ろめたいことがありそうだ、と私たちが冷たい視線で見守っていると…。
「こんばんは。相変わらず時間厳守ですね。お出迎えが遅くなりまして…。つい、面白かったものですから」
のんびり観察してしまいました、と現れたのはエロドクター。
「皆さんが誤解しておられますから、私から説明いたしましょう。ハーレイも健康診断ですよ、私が呼ばせて頂きました」
「「「健康診断?」」」
「ええ、そうです。ソルジャーに健康診断が欠かせないのと同じでキャプテンにも健康診断が義務付けられていましてね。もっとも、こちらはシャングリラ号に乗船中に済ませることが多いのですが、今日は特別なのですよ。…なにしろ緊急事態ですから」
え。緊急事態って、教頭先生、何処か具合が悪いのでしょうか? 特別に健康診断だなんて、春休みにシャングリラ号で検査した時に何か気になる数値でも? 日を置いてから再検査ってケース、けっこうあるって聞きますものね。
「ハーレイが健康診断だって…? 特に報告は来ていないけど」
教頭先生を診察室へと促すドクターの背中に会長さんが声を掛けました。
「シャングリラ・プロジェクトのついでに検査したのは知っている。異常なしって聞いたと記憶してるけど、勘違いかな?」
「いえ、間違いではございませんよ」
足を止めて振り向くドクター。
「あの時点では実に健康そのものでした。問題が起こったのはその後です。…私の所に泣きの電話が夜中にかかってきましてねえ…。迷惑な話もあったものです」
「お、おい、ノルディ…」
教頭先生がドクターを肘でつつきましたが、ドクターはまるで気にしない風で。
「まあ、男子一生の問題ですから焦るのは仕方ありません。しかし、それから特に相談にも来ず、病院を受診した形跡もなく…。どういうことかと思っていれば治ってしまったそうですねえ」
「「「!!!」」」
ドクターが何を言っているのか、やっと合点がいきました。先日のED騒ぎです。では、教頭先生はEDが本当に治ったかどうかを調べるために呼ばれたとか…? エロドクターはニヤリと笑って。
「お分かり頂けたようですね。ブルー、あなたが自ら治療したと聞いては私も黙っておれません。本当に治っているのかどうか、キッチリ検査しなくては…」
「…ブルーが? どういうことだ?」
教頭先生は不審そうに眉を潜めています。会長さんは「知らないね」とプイッとそっぽを向いたのですが、ドクターが喋らない筈もなく…。
「ハーレイ、あなたは幸せ者ですよ。ブルーの悪戯のせいでEDになってしまったようですが…治療もブルーがしたのですから。ええ、あなたのEDは加齢ではなく心因性です。ブルーに振られて傷ついた所へ速い乗り物でショックを受けて立ち直れなくなったわけですね」
「……そうなのか……?」
「残念ながら事実です。あなたには消えて頂きたくて加齢だと申しておきましたのに…。けれど復活なさったものは今更どうしようもありません。一応、検査はいたしますが」
念のために、と教頭先生を診察室へ促すエロドクター。
「ブルーはあなたに治ってほしくてデートに誘ったそうですよ。ドリームワールドで絶叫マシーンを制覇されたと伺いました。治療法としては間違ったものではないのですがね、医者としては診察しておきませんと」
「…そうだったのか…。あの時のデートは私のために…」
教頭先生は感無量でした。会長さんに熱い目を向け、目尻に光るものがあります。
「ありがとう、ブルー。確かに私は幸せ者だな…」
愛している、と言葉を紡ぐ教頭先生。
「お前の悪戯が原因だとは思わなかったが、お前が治療をしてくれたのにも全く気付いていなかった。そんな私を見捨てないでいてくれるとは…。やはりお前は最高だ」
「ストップ!」
会長さんが教頭先生を遮り、深い溜息を吐き出して。
「その調子だから暑苦しいって言うんだよ。…さっさと検査に行ってくれば? ぼくは済んだからもう帰るけど」
「…そうか…。とにかく改めて礼を言う。世話をかけた」
「どういたしまして。じゃあね、ハーレイ」
行くよ、と踵を返した会長さんに私たちも続いたのですが。
「…おや。お帰りになるのですか?」
ドクターの声が背後から。
「お忘れになったようですね。奥にブルーが残っていると仰ったのはあなたですよ、ブルー? EDの検査に来たハーレイをブルーが素直に帰すとでも? そもそもブルーの注文なのです、ハーレイを検査に呼び出すことは…ね」
「なんだって!?」
会長さんが弾かれたように振り向き、私たちはサーッと青ざめました。すっかり忘れてしまってましたよ、奥にソルジャーがいることを! 教頭先生を呼び付けたのがソルジャーだったら、検査だけでは済まないのでは…?
ソルジャーの名前に青くなったのは私たちだけではありませんでした。教頭先生も真っ青です。EDが治って会長さんにプロポーズし直したばかりだというのに、ソルジャーに割って入られた日には何が起こるか分かりません。場合によっては会長さんに愛想を尽かされ、今度こそ捨てられてしまうかも…。けれど誰よりも焦っていたのは会長さんです。
「なんでブルーがハーレイを? 君が目当てだと思っていたのに…」
呆然とする会長さんにドクターは。
「ライバルを募集中だと伺いましたが? あちらのハーレイもかなりのヘタレだそうですね。奮い立たせるにはライバルが必須だとか仰いまして、とにかく今日はハーレイを呼べ、と」
「「「………」」」
全員が声を失いました。ライバルってドクターのことではなかったのでしょうか? ウェディング・ドレス持参でエロドクターと楽しむのだと言っていたように思いましたが…。と、診察室の扉が開いて。
「遅いよ、ノルディ」
顔を出したのはソルジャーその人。足早に近付いてくるとドクターの肩をポンと叩いて。
「ちゃんと診察するんだろう? あまり長いこと待たされるのは好きじゃないんだ。ハーレイがその様子だと、ぼくは席を外した方が良さそうだね。勃つものも勃たなくなっちゃいそうだし」
「……!!!」
ビクッとする教頭先生にソルジャーは嫣然と微笑むと。
「呼び出したからには相応の御礼はさせてもらうよ。じゃあ、また後で。…ノルディ、検査を」
「分かりました。…あなたは先にあちらの方へ?」
「もちろんさ。ハーレイを連れてきてくれるのを楽しみにしてる」
「承知しております。では、参りましょうか」
ドクターは固まっている教頭先生を診察室へと引き摺っていってしまいました。EDの検査がどんなものかは知りませんけど、問題は検査が終わってからです。ソルジャーは何をしようとしているのでしょう? 気になるものの、今はさっさと逃げ出した方がいいですよね…? けれど。
「おっと、何処へ行こうというのかな?」
診療所から出ようとしていた会長さんの前に立ち塞がったのはソルジャーです。
「君たちに協力してもらおうと思っているのに、逃げ出すなんて許さないよ。…ああ、心配しなくてもブルーの身の安全は保障するから大丈夫。もちろん人形も必要ないさ。誓ってもいい」
「…協力って、何を?」
不信感も露わな会長さんに、ソルジャーはパチンとウインクをして。
「審査員って言えばいいのかな? ぼくのハーレイのライバルに相応しいのはノルディかハーレイか、それを採点してほしい。審査の様子はぶるぅが中継してくれるんだ」
「「「えぇっ!?」」」
「だってさ、ぼくのハーレイが危機感を持たなきゃ全く話にならないし! そういう審査をするっていうのは昨日の手紙に書いたんだ。現地妻募集コンテスト、って」
「「「現地妻!?」」」
なんですか、それは? そもそも現地妻って言葉からして完全に間違っているような…。妻と言うからには女性でしょうし、エロドクターや教頭先生はどう考えても妻だの女性だのとは正反対だと思うんですが…?
「ああ、細かいことは気にしないで。ぼくのスタンスの問題だから」
大混乱の私たちにソルジャーはニッコリ笑いました。
「ぼくはね、どうも食べられるっていうのが好みじゃなくて…。食べられる方の立場だけども、主導権はキッチリ握っていたい。だから食べるのはぼくの方! そういうわけで現地妻を募集」
あくまで夫は自分なのだ、とソルジャーは妙に威張っています。あちらのキャプテンがヘタレになるのも無理はないような…。でも、現地妻募集ってどういう意味…?
「これだけ言っても分からないかな? 万年十八歳未満お断りの集団とぶるぅはともかく、ブルーも分かってくれないなんて…」
野暮だよね、と大袈裟に嘆いてみせるソルジャー。
「ぼくのハーレイにライバルを作るのが目的なんだよ? こっちの世界で大人の時間を付き合ってくれる人材を募集中なわけ。遊びに来た時のパートナーってことで現地妻! ハーレイがいいかな、それともノルディ? 満足させてくれそうなのは断然ノルディだと思うんだけどね…」
どっちがいい? と妖しい笑みを浮かべるソルジャー。
「審査はノルディの家でやるんだ。会場の用意もバッチリさ。もちろん一緒に来てくれるだろう? でないとぼくが勝手に決めるよ、一方的に。それでいいなら帰ってくれてもかまわない」
「「「………」」」
とんでもない展開になってきました。私たちは会長さんの顔を窺い、会長さんは額を押さえながら。
「…念のために訊くけど、審査結果はきちんと尊重してくれるのかい? 君の意に副わない結果になっても審査員の決定に従うと…?」
「まあね。ぼくのハーレイにダメージを与えられれば満足なんだし、ノルディでも君のハーレイでも問題ないよ。君たちが意図的に点数を操作するのもアリだ。…で、どうする?」
審査員をするならこっちの方へ、とソルジャーはドクターの屋敷に続くドアを開けます。会長さんは暫し悩んだ後、キッと顔を上げて。
「分かった、君に協力しよう。でも、他のみんなは…」
「俺はやるぜ!」
そう叫んだのはサム君でした。
「ブルー、誰を選べばいいのか決めてくれよ。そっちに票を入れるからさ。ジョミーたちも協力しろよ」
「そ、そうだね…。そうした方がいいのかな?」
首を傾げるジョミー君にキース君が。
「点数の操作が可能だというなら審査員の数が多くなるほど有利かもしれん。どんな形式なのか知らんが、とにかく協力しておこう」
「そうしましょう! で、誰を選べばいいんですか、会長?」
シロエ君の問いに会長さんは「ハーレイかな…」と返しました。
「ノルディを選んでしまった場合は文字通りの現地妻になりかねない。ぼくを食べる気満々なんだし、ぼくそっくりのブルーも食べたいと思ってるしね。…ノルディがブルーで味を占めたらぼくの危険も増すだろう? だけどハーレイなら極め付けのヘタレだからさ、現地妻になっても名前だけだよ」
「教頭先生を選ぶんだな?」
了解だ、とキース君。思い切り出来レースっぽくなってきましたが、ソルジャーはこれでいいんでしょうか? 平然と先に立ってエロドクターの屋敷に入っていきますけども…。
「ぼくはどっちでも気にしないってば。…えっと、二階の突き当たりの部屋が会場だから。ぼくは支度があるから先に行ってて」
どうぞ、と勝手知ったる様子で二階を示すとソルジャーは姿を消しました。私たちはキョロキョロしながら階段を上がり、コンテスト会場の扉を開けて…。
「「「!!!」」」
えっと。広い部屋には応接セットや優美な彫刻などがありますけども、わざとらしく扉を半開きにした続き部屋には大きなベッド。なんだか嫌な予感がします。こんな所でコンテストをして現地妻とやらを決定だなんて、ヤバイなんてものじゃないのでは…?
「マズイな…」
会長さんがそう呟いて続き部屋との間の扉を閉めました。
「このセッティングはノルディだと思ったんだけど……どうやらブルーの差し金らしい。ハーレイを勝たせても無事に済むという自信がなくなってきた」
「…家出中だしな…」
そろそろ欲求不満なのかも、とキース君が頭を抱えています。ソルジャーは過去に何度も教頭先生を誘惑しては鼻血を噴かせた人なんですし、教頭先生が現地妻に決定したら一体何をやらかすか…。
「でもノルディが勝ったら何倍もマズイことになる」
呻くように言う会長さん。
「ブルーがどこまで本気か知らないけれど、肩書きだけでも現地妻ってことになってごらんよ。ノルディはブルーに血道を上げるに決まってる。…でもってブルーが来ない時には今まで以上にぼくを追い掛け回すんだ」
「「「………」」」
その光景は容易に想像がつくものでした。絶対にエロドクターを勝たせるわけにはいきません。八百長だろうがヤラセだろうが、教頭先生に勝って頂くのです! 私たちが決意を固めた所へ扉が開いて、入って来たのは…。
「やあ、お待たせ」
綺麗に直ったウェディング・ドレスを身に着けたソルジャーが微笑んでいます。真珠のティアラに長いベールで見た目は麗しい花嫁そのもの。けれど、その後ろには現地妻候補の教頭先生と白衣を脱いだエロドクターが立っているではありませんか。これでも花嫁と言えるんでしょうか? 初々しさも何もあったものではないような…。
「あ、やっぱり花嫁は無理があるかな? このドレスだって何度も使っちゃったしねえ…」
色々と、と意味深な台詞を口にするソルジャーにエロドクターはイヤラシイ笑みを浮かべていますが、教頭先生は怪訝そう。まさか大人の時間に使われたとは夢にも思っていないのでしょう。ソルジャーも説明しませんでした。
『だってさ、説明したら鼻血を噴いて倒れちゃうじゃないか』
それじゃ審査が成立しない、とソルジャーの思念が流れてきて。
「えっと…。ハーレイにもきちんと説明しておいた。こっちの世界でのぼくのパートナーを募集中、ってね。最初は辞退されたんだけど、そうすると自動的にノルディに決まると言ってあげたら参加する気になったらしいよ。ねえ、ハーレイ?」
「…正直、自信はないのですが…。ノルディがあなたのパートナーに決まってしまうとブルーが迷惑するのではないかと…」
「そうなんだよね。…ブルー、君はとっても愛されてるよ。じゃあ、ノルディとハーレイ、二人とも三回ずつぼくにプロポーズしてくれるかな? どんな形でもかまわない。審査員はこの札で一回毎に点数をつけて」
その合計で決めるから、とソルジャーが私たちに手渡したのは1から5までの数字が書かれた札でした。私たちは顔を見合わせ、「ドクターには1点、教頭先生には5点をつける」と会長さんと思念で確認。やがて始まったプロポーズ合戦はエロドクターがガンガン攻めていったのですけど…。
「どうして私が負けるのですか!」
納得できません、と怒り心頭のエロドクター。
「ブルーが受け取ってくれそうもないので指輪まで贈ったのですよ! あのクラスのルビーはそう簡単には…」
「そうだろうねえ。…とても綺麗だ」
気に入ったよ、と左手の薬指を眺めるソルジャー。
「これだけでも十分に現地妻の資格がありそうだけど、審査員には逆らえないし…。ああ、いいことを思い付いた。ハーレイはEDになっちゃったくらい繊細な上に童貞だから、パートナーとしてはイマイチだ。どうだい、ノルディは愛人ってことで?」
「ほほう…。愛人ですか、それはいい」
ゴクリと唾を飲み込むエロドクターにソルジャーは腕を差し伸べ、会長さんが先刻閉ざした続き部屋へと視線を向けて。
「じゃあ、早速…。ぼくも家出してから長いからねえ、そろそろ我慢の限界なんだ。愛人となれば大いに楽しませてくれるんだろう? ああ、ハーレイも一緒においでよ、三人っていうのもどんな感じか興味がある」
ねえ? と艶やかに微笑むソルジャーは大人の時間に突入する気満々でした。ど、どうすればいいんですか、私たち? 会長さんは思わぬ事態に顔面蒼白、思考が止まっているみたい。えっと…ソルジャーを全力で止める? それとも会長さんを連れて逃げ出す…? もうダメかも、と思った時。
「ブルー!!!」
パアッと青い光が走って、飛び込んで来たのは「ぶるぅ」と「ぶるぅ」のマントをしっかり掴んだキャプテンでした。
「も、申し訳ございません!」
ガバッと土下座したキャプテンの姿に私たちはビックリ仰天、エロドクターは不機嫌な顔。教頭先生は明らかに困惑しています。キャプテンは絨毯に額を擦り付け、ソルジャーのベールの端に口付けて。
「何度でもお詫びいたします! ですから……ですから現地妻は取り消して頂けないでしょうか? どうしてもダメだと仰るのなら、せめて一人に絞って下さい! 二人がかりで挑まれたのでは私に勝ち目がございません!」
「無いだろうな」
ソルジャーはフンと冷笑すると。
「お前はライバルに勝ちたいのか? だったら誠意が必要だ。そこの二人はよく頑張った。ぶるぅの中継で見ていただろう? ノルディは指輪も贈ってくれたし、熱烈にプロポーズしてくれた。こっちのハーレイも積極的とはいかないまでも、ぼくをノルディに渡すまいという決意は伝わってきたさ」
だから審査に勝てたのだ、とヤラセの件は棚上げにして冷ややかにキャプテンを見下ろすソルジャー。
「で、どうする? この一週間、ぼくがお前に貰ったものはセンスのない手紙にパクった手紙。そもそも最初にパクった台詞を告げたからこそ家出されたと分かっていると思ったが…?」
「そ、それは…。ですが、気の利いた言葉を思い付くようなら、最初から御機嫌を損ねることもなかったかと…」
ひたすら頭を下げるキャプテンに、ソルジャーは「そうだったな」と溜息をついて。
「お前にセンスやオリジナリティーを期待するだけ無駄かもしれない。…だが、今回で分かっただろう? ぼくたちのシャングリラではライバルがいなくて快適だろうが、こっちの世界には少なくとも二人、ぼくを手に入れられそうな連中がいる。…つまり、ぼくがその気になりさえすれば現地妻はいつでも調達可能だ」
「………」
「そうだ、お前も審査をしてもらうか? 隠し芸でも披露できれば高い評価がつくかもしれない」
「生憎、私にはそのようなものは…」
キャプテンは既に半泣きでした。それをソルジャーは面白そうに飽きずに眺めていましたが…。
「隠し芸か…。ハーレイに芸が無いのは分かってるけど、いっそ歌なんかどうだろう?」
「「「歌?」」」
鸚鵡返しに訊き返した私たちの前にヒラリと落ちてきたのは一枚の楽譜。
「ハーレイが手紙に書いてきた歌だよ、これを熱唱してもらう。腐っても結婚式で人気のラブソングだし、ぼくはウェディング・ドレスを着ているし…。上手く歌えれば花嫁を連れてシャングリラに、ってことで。…どうする、ハーレイ? 歌うのか、それとも歌わないのか?」
「う……歌わせて頂きます!」
心をこめて、と言い切ったキャプテンは大真面目に歌い出しました。あれ? なんだか聞いたことがあるような…?
「へえ…。同じ歌があるのか、偶然だね」
会長さんが感心したように。
「何年か前に流行ったテレビドラマのエンディングさ。『Love is…』ってタイトルだったかな? パッヘルベルのカノンがモチーフ、歌っていたのはミリヤ・カトーだ」
「ああ、ヒットチャートに入っていたな」
聞き覚えがある、とキース君。ソルジャーは「ふうん?」と首を傾げて。
「ぼくの世界じゃ古い歌の部類に入るんだけどな。で、ハーレイの歌の評価は? ぼくを連れて帰る資格がありそう? それとも…」
朗々と歌い上げるキャプテンのラブソングにはソルジャーへの想いがこめられています。私たちは一斉に5点の札を差し上げ、ソルジャーは「それもヤラセじゃないだろうね?」と困ったように微笑んでから。
「…ハーレイ、審査員たちに感謝したまえ。そして謝る機会を作ってくれたぶるぅにもね。…帰るよ、家出はおしまいだ」
「…ソルジャー…」
「ブルーでいい」
空間がユラリと揺れてソルジャーとキャプテン、「ぶるぅ」の姿が消え失せました。
「かみお~ん♪ また来てね~!」
無邪気に手を振る「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんが疲れ果てた声で私たちに。
「…どうやら無事に終わったらしい。健康診断の結果も聞いたし、当分はノルディの顔を見なくて済むかな。毎回迷惑かけてすまない…」
「いや、今回はブルーのせいだし!」
謝る必要なんかないぜ、とサム君が力強く言い切り、ジョミー君が。
「そうだよ、今度のは全部ソルジャーのせい! でも、人形の出番は確かに無かったね」
その部分だけは評価できると私たちは思いましたが、他の部分は評価したくもありません。変な審査に駆り出されるわ、キャプテンの歌は聴かされるわ…。そんなに下手でもなかったですけど。
「…ブルーの心を射止めるには歌が一番のようですねえ…」
勉強になりました、というドクターの声で私たちは我に返りました。ここはエロドクターの家の中。長居は無用の危険な場所です。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が青いサイオンを迸らせて、会長さんの家まで一気に瞬間移動して…。
「ここまで逃げれば大丈夫だよね」
会長さんがドクターの家の方角を眺めています。
「ハーレイとノルディは歌の効能について語り合っているようだ。あんなのブルー限定だってば、ぼくには絶対効きっこないし!」
バカバカしい、と吐き捨てる会長さん。けれどソルジャーには確かに効果があったのでした。プライドをかなぐり捨てたキャプテンに憐みを感じたというのが真相なのかもしれませんが。
「まあいいや。この人形はまた来年まで忘れておこう。…こんなのを作るブルーはやっぱり相当変わっているよ」
現地妻なんて理解不能、と会長さんはドクター人形を包み直しながら毒づいています。ソルジャーの家出は今度で何度目だったでしょう? 家出の度に迷惑するのは私たち。キャプテン、お願いですから家出されないように誠心誠意ソルジャーに尽くして下さいです~!
家出してきてしまったソルジャーは私たちの世界に居座りました。会長さんの家に泊めて貰って好き放題にしているようですけども、放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋にやってきます。私たちの憩いの時間に恒例になった行事というのが…。
「…却下」
短く告げたソルジャーに「また?」と答えたのは「ぶるぅ」です。あちらのシャングリラ号の様子はソルジャーには手に取るように分かっている筈ですが、毎日「ぶるぅ」が報告という名目で空間を越えてくるのでした。本当の所はもちろん報告なんかでは全くなくて…。
「ねえ、ブルー。…ハーレイ、とっても頑張ってるよ? それでもダメ?」
「頑張りじゃなくてセンスの問題を言ってるんだよ」
とにかくダメだ、とソルジャーがビリビリと破り捨てたのはキャプテンからのラブレター。ソルジャーに言わせれば詫び状だという話ですけど、「ぶるぅ」はラブレターだと主張しています。いつもお菓子や花が添えられている所からしてラブレターじゃないかと思うんですが…。ソルジャーは破った手紙をゴミ箱に捨て、「ぶるぅ」が持ってきたドーナツを「はい」と「ぶるぅ」に差し出して。
「食べていいよ。…こんなのでぼくが釣れると思っているのが浅はかと言うか、なんと言うか…。こっちには美味しいお菓子が沢山あるっていうのにさ」
今日のも最高、とソルジャーが褒め称えるのはクリーム・ブリュレ。お使いに来る「ぶるぅ」の分も、と大量に作られたそれは舌触りが良く、カロリーが高いと分かっていても、ついついお代わりしちゃうのです。「ぶるぅ」は既に5個目を平らげ、ソルジャーに貰ったドーナツも一口でペロリと食べてしまって…。
「ゼルのドーナツ、美味しいよね。ブルーも大好きだったと思うんだけど…いいの?」
「食べちゃってからそれを言うのかい? いいんだってば、ハーレイからの貢物なんて欲しくはないし…。帰ったらちゃんと報告するんだよ。ブルーは今日も怒ってた、って」
「うん! えっと、センスの問題なんだね」
ハーレイはセンス悪そうだもんね、と素直に納得している「ぶるぅ」。あちらのキャプテンが毎日必死に寄越す手紙は悉く却下されていました。チラと目を通したかと思うと即、ゴミ箱。いくらなんでも気の毒なのではないでしょうか…。
「気の毒だって、どの辺がさ?」
キャプテンに同情していた私たちにソルジャーが冷たい視線を向けます。
「あれが本気のラブレターだなんて、情けなくって涙が出るよ。ぼくに家出をされてしまって焦ってるのがバレバレだ。もっと文章を練るべきだよね、「心から申し訳なく思っています」なんて書かれた日には興醒めだってば」
「…謝らないと話が前に進まないんだと思うけど?」
会長さんが指摘しました。
「そもそもの原因は丸暗記した言葉を使った件だし、そこを詫びないと話にならない。…まずは謝罪を済ませてから、と考えそうなのがハーレイだよ。なにしろキャプテンという要職なだけに根が真面目」
「まあね…。分かってはいるんだけどさ」
でも許す気になれないのだ、とソルジャーは今日も不満そう。
「本当にぼくを愛しているなら、口で言うのが恥ずかしいくらい熱い言葉を贈って欲しい。…君のハーレイだってトチ狂った時は熱烈な手紙を寄越すんだろう?」
「…一応、あれでも古典を教えているからねえ…。いわば言葉のベテランってヤツ。長年の間に読み込んできた古典文学に現代文学、そんな知識が山ほどあったら気の利いた台詞も出てくるよ。…今までの最高傑作は結び文だった」
「…ムスビブミ? なんだい、それは」
「千年くらい昔に貴族の間で流行していたラブレターさ。季節の花や木の枝に手紙を結びつけるんだ。もちろん筆でサラサラと書いて、恋の歌……あ、歌って言っても和歌ってヤツで形式が決まっているんだけども、それを添えるのがお約束」
あれはパンチが効いていた、と会長さんは笑っています。教頭先生は熱い想いを綴った手紙に香を焚きしめ、初咲きの梅の枝に結わえて送ってきたのだとか。…箱詰めにして宅配便で。
「結び文をやり取りしていた時代は文使いというのがいたんだよ。召使に届けさせるのが常識なのに、今どきだからって宅配便はないだろう? 届いた時には爆笑したさ」
中身を読んでまた爆笑、と会長さん。けれどソルジャーは羨ましげに。
「…ぼくのハーレイにもそのくらいのセンスと根性があればいいんだけどねえ…。ヘタレな上に愛の言葉もロクなのを思い付かないとなると、なんだか愛想が尽きそうだ。…あーあ、ホントに羨ましいな…」
明日はもう少しマシな手紙が来るといいけど、とソルジャーは「ぶるぅ」にお土産用のクリーム・ブリュレが入った箱を渡しました。
「それじゃハーレイによろしくね。もっと危機感を持つようにって」
「オッケー!」
また来るね、と手を振って「ぶるぅ」の姿が消え失せます。ソルジャーの家出は今日で五日目、こんな日が当分続くんでしょうか…?
「…やっぱりハーレイの一人勝ち状態なのがいけないのかな?」
ソルジャーがフウと溜息をついて「ぶるぅ」が帰っていった辺りを眺めました。あちらのシャングリラ号を見ているのかもしれません。
「一人勝ちって?」
疑問を素直に口にしたのはジョミー君。ソルジャーは「気になるかい?」と微笑んで。
「ライバルが誰もいないって意味さ。だから少々ヘタレだろうが、ぼくの機嫌を損ねていようが、他の誰かにぼくを盗られる心配は無い。…前から問題だとは思ってたけど、手の打ちようがなくってねえ…」
「「「は?」」」
手の打ちようって何でしょう? まさかライバルを作るとか…?
「…そのまさかさ」
これでも努力してみたんだ、とソルジャーの瞳が不穏な色を湛えています。
「こっちの世界に来るようになるまでは諦めていた。ソルジャーなぼくに懸想しようって命知らずがいるわけないし、いたとしたって満足できる相手かどうかも分からないだろ? ぼくが仕込むのも面倒だしさ」
えっと。仕込むって…大人の時間のことですよね? 頬を赤らめる私たちにソルジャーはクスッと小さく笑って。
「純情だねえ、君たちは。そういう初心な仲間をたらしこんだら面白いかな、とも思ったけれど、船の風紀が乱れそうだし…。これは我慢するしかないな、と思っていた頃にノルディに会った。…もちろん、こっちの世界のね」
「「「………」」」
「こっちのノルディは淫乱な上にテクニシャンだ。ブルーそっくりのぼくを食べようとしてシャングリラまで来た時のことは忘れられないよ。…あの時は返り討ちにしちゃったけども、今から思えば食べられておいた方が良かったかもねえ…」
失敗した、とソルジャーは如何にも残念そうです。ソルジャーの世界に出掛けていったエロドクターは、ソルジャーの命令であちらのキャプテンに食べられてしまったのだと聞いていますが、そうしなければ良かったと…? 私たちが顔を見合わせていると、ソルジャーは。
「あの時にぼくが食べられていれば、ハーレイだって危機感ってヤツを持ったんだ。いくら別の世界の人間とはいえ、一度来たからには二度、三度…って足しげく通うようになるかもしれないしね。そうなればぼくの心がノルディに傾く可能性も出てくるわけだし、ハーレイも努力せずにはいられないさ」
ぼくに捨てられないように、とゴミ箱をチラリと見遣るソルジャー。
「ハーレイのヘタレと失敗の多さは目に余る。…だからこっちのハーレイと浮気するぞと脅してみたりもしたけれど…一時しのぎにしかならないんだよ。こっちのハーレイが童貞なのがバレているから、高をくくっているのかも…。それで、もっと強力なライバルを作ってやろうと思ったんだけど…」
「…エロドクターか?」
キース君の突っ込みにソルジャーは「ううん」と首を左右に振って。
「ぼくの身近にいる人物で、大きな可能性を秘めていそうな逸材。…ぼくの世界のノルディのことさ」
「「「えぇっ!?」」」
あまりと言えばあまりな名前に私たちはビックリ仰天。ソルジャーの世界にエロドクターそっくりのドクターがいるとは聞いていますが、仕事の虫で色恋沙汰とは無縁だったような…。けれどソルジャーは「だからこそだよ」と澄ました顔。
「こっちのノルディに似てるってことは、上手く仕込めば凄いテクニシャンになるかもしれない。そしたらハーレイの強力なライバルになるし、ぼくも大いに楽しめる。これを放っておく手はないって思ったのにねえ…」
落とせないんだ、とソルジャーは再び大きな溜息。
「なにしろ仕事の虫なだけに、誘惑しようにも難しくって。メディカル・ルームに押し掛けてみたら好機とばかりに医療チェックをされただけだし、仮病を使って青の間に呼んでも淡々と診断を下して帰ってしまった。…もうヤケクソでノルディの部屋に夜這いをかけても効果なし」
寝惚けているのかと勘違いされて終わりだった、と嘆くソルジャー。あちらのドクター・ノルディはとことん堅物みたいです。エロドクターと取り換えてくれれば平和なのに、と私たちも泣きたい気分でした。どうして世の中、思うようにはいかないのでしょう?
「ぼくだって取り換えて欲しいよ、こっちのノルディと! 気前がよくて後腐れがなくて、もう最高の浮気相手だ。…まだ最後まではいってないけど」
「いかなくていいっ!」
会長さんが叫びましたが、ソルジャーには馬耳東風でした。
「ちょっと食事に付き合っただけでお小遣いをたっぷりくれるし、口説き文句もなかなかだし…。あれがライバルっていうことになれば、ハーレイだって焦るだろうに」
ソルジャーは何かといえばエロドクターを引っ張り出してお小遣いを稼いでいます。そういう時はサイオンで情報を撹乱しているらしく、会長さんがエロドクターと一緒にいると勘違いする人はいないのだとか。…まあ、そうでなければ会長さんがソルジャーを野放しにしているわけがないのですけど。
「こっちのノルディも本格的にブルーを落とすつもりのようだし、利害は一致しているかもね。この際、ノルディと手を組もうかな? やっぱりライバルは必要なんだよ」
「「「「え?」」」
「だからさっきから言ってるじゃないか。ハーレイの一人勝ち状態なのが諸悪の根源!」
打倒ハーレイ! とソルジャーは拳を握り締めています。
「決めた、ハーレイにはライバルを! 詫び状ばかり貰っていても進展しないし、対抗意識を燃やして貰おう。そうと決まれば…善は急げと言うからね。うん、ちょうどノルディは休憩中だ」
御馳走様、と紅茶を飲み干したソルジャーは瞬時に姿を消していました。止める暇も無いとはこのことです。今の流れでエロドクターの所へ行ったとなると、先の展開はどう考えても…。
「………見なかったことにしておこう」
呟いたのは会長さんです。
「ぼくは何も聞いていないし、見ていない。ブルーのすることには関知しないさ、火の粉を被りたくはないからね」
「…それでいいのか?」
危なそうだぜ、と言うキース君に会長さんは。
「健康診断の結果さえ聞けばノルディとは縁が切れるんだ。聞きに行くのは明後日だけど、この調子ならノルディはきっとブルーに夢中になっているだろう。…結果だけ聞いてさっさと逃げよう」
もちろん例の人形を持って、と開き直っている会長さん。確かにエロドクターがソルジャーと深い付き合いになっている真っ最中なら、逆に会長さんの身は安全なのかもしれません。ドクターだって会長さんに下手に手出しして痛い目を見るより、ソルジャーと楽しんでいる方がいいでしょうしね。そう考えるのが一番です~!
あちらのキャプテンにライバルを、という言葉を残して消えたソルジャーはとうとう帰って来ませんでした。けれど次の日の放課後に「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと、先に来ていて会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」とティータイム中。昨夜は会長さんと喧嘩になったりしなかったんでしょうか?
「えっ、喧嘩? してないよ?」
必要ないし、と会長さんが答えました。
「ブルーはブルーの考えで動くし、ぼくはぼく。明日は健康診断の結果を聞きに行くけど、ノルディがぼくに手出しする心配は無いらしい。…詳しい事情は知りたくもないから聞かなかったけどね」
「そういうこと。ぼくたちの関係は至って良好」
ソルジャーがニッコリ笑いましたが、会長さんは全面的に信用したわけではないらしく…。
「ブルーが大丈夫だって言っているだけでは心許ない。だからノルディの人形は予定通り持って行くことにする。キース、万一の時は頼むよ」
「もちろんだ。あんたには恩があるし、ドクターには恨みがたっぷりあるからな」
エロドクターが怪しい動きを見せたら即、呪縛! とキース君は使命感に燃えています。と、空間がユラリと揺れて…。
「かみお~ん♪」
「あっ、いらっしゃい!」
現れた「ぶるぅ」を大喜びで迎える「そるじゃぁ・ぶるぅ」。毎日繰り返されている光景ですけど、今日の「ぶるぅ」は小さな両手に大きな袋を抱えていました。キャプテンからの贈り物でしょうか?
「こんにちは。なんだか大きな荷物だねえ…」
大丈夫かい、と尋ねた会長さんに「ぶるぅ」は「平気!」と元気一杯に答えてからソルジャーを見て。
「えっと…これはぶるぅに渡せばいいの?」
「そうだね、ぶるぅは専門家だ」
「えっ、ぼく!?」
なんだろう、と首を傾げる「そるじゃぁ・ぶるぅ」の目の前で袋が開けられ、中から引っ張り出されたものは…。
「「「………」」」
それはお世辞にも綺麗とは言えない状態に折り畳まれて皺くちゃになったドレスでした。純白の生地にレースと真珠があしらわれた品は嫌というほど見覚えがあります。会長さんが愛用していたウェディング・ドレスで、今はソルジャーの私物になっている品で…。
「…ぼくのシャングリラでは手入れが上手くできなくてねえ…」
こうなっちゃった、と言うソルジャーの横から「ぶるぅ」がすかさず突っ込みました。
「ブルーが脱ぎ散らかすからいけないんだよ! ぼくが土鍋から出てきた時にはいつだって床に落ちてるもの!」
「それはハーレイに言ってほしいな。…さあこれから、って時に丁寧にクローゼットまで片付けに行かれても興醒めだけど」
要するに雑な扱いをされた挙句にこうなってしまったみたいです。けれどソルジャーは悪びれもせずに「そるじゃぁ・ぶるぅ」に。
「このドレス、手入れできるかな? 前に借りてって汚した時にはマツカが専門店に出してくれたんだ。…今度もそうした方がいいならノルディに頼んで専門の店に…」
「んーと…。それって急ぐの?」
「明日には使いたいんだよ。ノルディと一緒に楽しみたいから、出来ればサプライズでこっそり内緒で直したいな」
不穏な台詞を口にしているソルジャーですが、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は何も気付いていませんでした。どう考えても大人の時間に使われてヨレヨレになったらしいドレスをチェックしてからニコッと笑って。
「明日でいいなら間に合うよ。染み抜きとアイロンかけとを超特急だね」
ここで出来そうな分はやっちゃおう、と奥の作業部屋にドレスを運んでいく「そるじゃぁ・ぶるぅ」。早速仕事を始めるそうで、「ぶるぅ」の分のおやつの用意は会長さんがすることに…。とはいえ、ケーキはホールが基本の「ぶるぅ」ですから、イチゴのシフォンケーキが丸ごとドカンとテーブルに置かれただけですが。
「いっただっきまぁ~す!」
と、お皿を抱えて傾けようとした「ぶるぅ」に向かってソルジャーが。
「ぶるぅ、手紙は?」
「あっ、忘れてたあ! 今日も預かってきてたんだっけ」
はい、と取り出されたのはキャプテンからの手紙ではなくて箱でした。いつもならお菓子や花束に手紙が添えてあるのですけど、箱ですか…。中にカードが入っているとか? ソルジャーは怪訝そうに首を傾げて「これだけかい?」と尋ね、「ぶるぅ」が「うん」と頷きます。
「ハーレイ、うんと頑張ったみたい。センスが悪いって言われてたよって教えてあげたし、ブルーが危機感を持てって言っていたのも伝えたし! だから今日のはマシになってるんじゃないのかなぁ…」
「…ふうん?」
どうだか、と疑わしげなソルジャーの前で「ぶるぅ」はシフォンケーキを一気に平らげ、箱を指差して「開けてみてよ」と促しました。
「ゴミ箱行きでもかまわないけど、開けてくれないとお使いが終わらないもんね。…今日はブルーのお使いもしたから、手紙のこと、忘れかけちゃった」
「ごめん、ごめん。…ドレスは急に使うことになったから…。で、これがハーレイからの手紙ってわけか。箱を包装するとかリボンをかけるとか、そういう発想がないって所が致命的だ」
ソルジャーが指摘するとおり、箱は素っ気ない実用的な紙箱でした。段ボールでないだけマシなのでしょうが、私たちの世界とソルジャーの世界は違いますから、あちらでは段ボール感覚で使われる箱かもしれません。箱を開けるソルジャーの手許に私たちの視線が集まり、次の瞬間。
「「「!!!」」」
「…………」
息を飲んだのが私たちで、沈黙したのがソルジャーです。箱の中身は想像を上回る…いいえ、予測可能な代物と言えないこともないのですけど、これはまた…。
「………こう来たか………」
呆れ顔のソルジャーが箱の中から取り出したのは瑞々しい真紅の薔薇の花。花束でもアレンジメントでもなく一輪だけで、茎に折り畳んだ紙片が結んであります。これって昨日の話題になってた『結び文』っていうヤツなのでは…?
しかも薔薇の気高い香りに混じって何やら不思議な別の香りが…。
「だからハーレイはセンスが無いって言ったんだ!」
薔薇の香りが台無しだよ、とソルジャーの瞳に揺らめく怒りの色。
「おまけにオリジナリティーも無い。昨日ぶるぅが聞いて帰った話をパクっただけじゃないか!」
「え、えっと…、えっと、えっと…」
パニックに陥ったのは「ぶるぅ」でした。
「ぼく、教え方を間違った? ブルーが「ハーレイにもそのくらいのセンスがあれば」って言っていたから、ハーレイに教えたんだけど…。あっちのハーレイはこんな手紙を出したらしいよ、って…。間違えちゃった?」
泣きだしそうな顔の「ぶるぅ」の頭をソルジャーの手がクシャリと撫でて。
「いいや、お前は間違ってない。…間違えたのはハーレイの方だ。同じパクリでもセンスがあれば少しは救いがあったのに…。こんなに香水を振りかけてどうする?」
薔薇の茎から解いた手紙をソルジャーは汚らわしそうにパタパタと振り、薔薇とは異なる妙な香りがフワリと部屋に立ちこめました。なんですか、これは? ソルジャーは畳まれた手紙を広げながら。
「…シャングリラで流行りのモテ系トワレさ。女心をくすぐる香りだとかで若いクルーに人気なんだ。…でも、ハーレイの歳と外見に似合うとでも? 見かけだけならぼくも若手だけど、ハッキリ言って好きな香りとは言い難い。人工的な香りは嫌いだってこと、知ってる筈だと思ったけどな」
あーあ…。きっとキャプテンはお香の概念が理解できずに、モテ系という言葉だけで選んでしまったのでしょう。お香というのは贈る相手や季節なんかを考えながら選んで焚きしめるものなのに…。ソルジャーの嫌いな香りを使った上に薔薇の香りまで打ち消していては、センス以前の問題です。これでは恐らく手紙の方も…。
「………」
ソルジャーの頬がピクピクと引き攣り、私たちは戦々恐々。しかし読み終えたソルジャーはプッと吹き出し、狂ったように笑い転げて…。
「まさかここまでセンスが無いとは思わなかったよ。ラブソングなんか書かれてもねえ…。しかもこれ!」
ほら、とテーブルに置かれた手紙を覗き込んだ私たちも笑うしかありませんでした。ソルジャーの伝言を伝えた「ぶるぅ」の言葉を重く受け止めたキャプテンが書いたのは五線譜つきのラブソング。几帳面に定規を使って書かれた楽譜が気の毒なほどに可笑しくて…。
「結婚式の定番のラブソングだよ。決まった形式の歌って所にこだわった結果がこれらしい」
馬鹿じゃなかろうか、と冷たいソルジャー。
「勘違いしてパクリまくってきたってことは箱に入っていたのもパクリか…。ちゃんとブルーが言ってたのにねえ、宅配便を使った方が間違いだ、って。せっかくぶるぅに持たせるんなら箱は全然要らないのにさ」
「そうだね…」
可愛い文使いがいたのにね、と会長さんも笑っています。いろんな意味で外しまくったキャプテンの手紙は例によってビリビリと裂かれ、ゴミ箱に放り込まれました。薔薇の花の方もへし折られるかと思ったのですが、そうではなくて…。
「紙を一枚貰えるかな? それとペンを貸して」
ソルジャーの言葉に首を傾げる会長さん。
「いいけど…。どうするんだい?」
「心をこめて返事を書くのさ。突っぱねるのも面白いけど、明日にはライバル登場だしね? ぼくは楽しく暮らしています…って近況報告」
ちょっと向こうで書いてくる、とソルジャーはキッチンに行ってしまいました。ですからソルジャーが何を書いたかは分かりません。戻って来たソルジャーは作業部屋にいた「そるじゃぁ・ぶるぅ」と何やら話して、それから二人でキッチンへ。
「ふふ、完成。ぶるぅお勧めのバニラエッセンス!」
折り畳まれた手紙からは甘いお菓子の香りがしました。あちらのキャプテンも甘いものが苦手だと聞いてますから、どう考えても嫌がらせです。ソルジャーは手紙を薔薇の花に結び付けると「ぶるぅ」にポンと手渡して。
「いいかい、これをハーレイに。…ついでにこういう手紙は箱に入れずに使いの者に持たせるんだってしっかり教えておいてよね」
「…やっぱりぼくが間違ってたんだ…」
しょげている「ぶるぅ」にソルジャーは「間違ってないよ」と微笑むと。
「お前は小さな子供だからね、分からないことがあってもいいんだよ。だけどハーレイはいい大人だから、そうはいかない。きちんとセンスを磨かないことには捨てられたって文句は言えないさ」
「…捨てちゃうの?」
「さあね。ライバルを越えることがハーレイに出来るか、その一点にかかっていると思うけど? とにかく明日は楽しむ予定。お前が運んできてくれたドレスでたっぷりと…ね。しっかり中継をお願いするよ」
「うん、分かった! ぼく、頑張る!」
だからブルーも早く帰ってきてね、と健気に言って「ぶるぅ」はソルジャーの手紙を預かり、シャングリラ号へ。それを見送った後、会長さんが。
「…ノルディと何をする気なのかは聞かなくても見当がつくけれど…。いいのかい、あれで? 君のハーレイを傷付け過ぎると修復不可能なヒビが入るよ?」
「君が心配してくれるとは光栄だねえ。…そうだ、君も一緒に楽しんでみる? きっとノルディは大喜びさ」
「お断りだ! ぼくは健康診断の結果を聞いたらさっさと帰る!」
付き合ってなんかいられない、と一蹴する会長さんに私たちも賛成でした。触らぬ神に祟りなし。ライバルがどうのとか、ソルジャーとキャプテンの関係の行く末とかは考え始めたら負けなんですよ…。
会長さんが住むマンションの庭が真紅の薔薇で埋め尽くされてから日は経って…新入生歓迎のエッグハントだの親睦ダンスパーティーだのも終わって一段落です。教頭先生が会長さんに贈った薔薇の一部は薔薇ジャムになり、私たちの放課後のティータイム用に。残りはマザー農場で香油などに加工されて出荷されてしまったとか。
「かみお~ん♪ 今日のおやつはコーヒーティラミス! 薔薇ジャムはちょっと合わないよね…」
ロシアンティーよりココアにコーヒー、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が笑顔で用意してくれます。特別生になって三年目の春も順調でした。教頭先生のED騒動も無事に解決、なべてこの世は事も無し…と思ったのですが。
「あのさ。明日、付き合ってくれるかな?」
会長さんが真剣な瞳で切り出しました。
「今年も健康診断なんだ。…ノルディの所に行かなきゃならない」
「「「………」」」
またこの季節になりましたか! 会長さんの健康診断はソルジャーの義務。しかも三百歳を超える会長さんの健康チェックはエロドクターことドクター・ノルディに一任されているのです。隙あらば会長さんを食べてやろうと企んでいるドクターだけに、ボディーガードは欠かせません。
「…そうか、そういうシーズンか…」
溜息をつくキース君。
「正直、あいつとは顔を合わせたくないんだが…。俺も酷い目に遭ったしな」
「それを言うなら全員ですよ!」
シロエ君が顔を顰めて。
「みゆとスウェナは外野だったからいいですけどね、ぼくたちは…」
「…すまん、何もかも俺のせいなんだ」
キース君が項垂れています。去年の暮れにキース君が修行道場に行くにあたって、サイオン・バーストを起こす危険性が無いかチェックするようにと学校から指示がありました。指定されたのはドクター・ノルディの診療所。そこで待ち構えていたエロドクターとソルジャーのせいで男子は全員バニーちゃんの衣装を着せられたという…。
「先輩は悪くないですよ。諸悪の根源はドクターですし! どうしてああも悪趣味なんだか…」
信じられません、と悪態をつくシロエ君に会長さんが。
「ノルディは変態じみてるからねえ…。で、そんな所へ健康診断に行く可哀想なぼくに付き添ってくれる奇特な人は? キースの時の騒ぎがあるから今回は期待できないかなぁ…」
顔を見合わせる男の子たち。が、サム君が決然と。
「俺は行く! ブルーを放っておけないぜ。誰もいなかったらブルーがどんな目に遭うか…。正直、腕に自信はないけど」
「嬉しいよ、サム。その気持ちだけで十分だってば」
今回は最終兵器もあるし、と会長さんが宙にフワリと取り出したのは…。
「「「!!!」」」
忘れてましたよ、ドクター人形! キース君たちが強制されたバニーちゃんコンテストでトロフィーになった品ですけども、元はソルジャーが作ったもの。サイオンを伝達しやすいジルナイト製で、上手く使えばドクターの身体を呪縛することができるのです。
「…そういえばあったな、こういうヤツが…」
正視に堪えん、とキース君が呻き、ジョミー君が。
「ソルジャーが作ったヤツだもんね。だけど効き目は確かなんだし…」
「そうなんだけどね…」
会長さんが人形の頭を指で弾いて。
「この格好は頂けないな。だから健康診断の時期が来るまで何処にあるかを忘れるように自分に暗示をかけたんだ。健康診断の通知が来たから思い出した。これを大いに活用しよう」
サムでも簡単に扱えるから、と人形を眺める会長さん。ドクター人形は全裸でポーズを決めています。これに会長さんがサイオンで細工するだけで、エロドクターの身体や痛覚とシンクロさせられる仕掛けでした。
「…俺がやろう」
名乗り出たのはキース君。
「あいつには個人的に恨みがあるしな、仕返しのチャンスは逃したくない」
「なるほどね。じゃあ任せるよ、指で弾くだけで大ダメージを与えられるようにしておくからさ。…他のみんなは?」
会長さんの問いには有無を言わさぬものがあります。ここで断っても強制的に連行されてしまうでしょう。私たちは「行きます」と答え、明日の予定が決まりました。ドクター・ノルディの自宅に併設された診療所まで付き添いです。きっと今年もロクなことにはならないんでしょうねえ…。
翌日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋で夕方まで待ち、タクシーに分乗してエロドクターの診療所へ。豪邸の隣に建つ診療所の扉を開けると人影はやはりありません。普段は受付の人や看護師さんもいるそうですが、会長さんの健康診断の日はスタッフはお休みになるのでした。
「ようこそいらっしゃいました」
診察室から白衣のエロドクターが出て来ます。
「お待ちしておりましたよ。…おや、その物騒な人形は…」
キース君が風呂敷包みを解くなり、ドクターは顔を顰めました。
「トロフィー代わりに差し上げたのは覚えていますが、後生大事にお持ちでしたか。…暴力には反対なのですけどねえ?」
「あんたの場合はセクハラだろうが! 俺にも色々しやがって…。だが今日は個人的な恨みは置いておく。その代わりブルーに何かしてみろ、即、思い知らせてやるからな!」
「…なるほど…」
それは恐ろしい、と大袈裟に肩を竦めるエロドクター。
「痛い思いは御免です。今日は吉日なのですよ。御存知でしたか、大安でしてね。ですから平和にいきましょう。ブルー、そちらの部屋で着替えを」
「…大安? なんだい、それは」
怪訝そうな会長さんですが、エロドクターは答えません。会長さんも心を読むほどでもないと思ったらしく、更衣室で検査服に着替えてきて…それから健康診断開始。いつもならセクハラまがいの触診などがつきものですが、どうした風の吹き回しなのか今日のドクターは淡々と…。
「なんだか変だと思わない?」
スウェナちゃんに尋ねられたのは待合室のソファでした。心電図やレントゲンになると女子は追い出されて男子だけが付き添います。それで出てきたわけですけども、待ち時間はとても手持無沙汰で…。
「絶対に変よ、今日はアッサリしすぎているわ」
再度繰り返すスウェナちゃん。
「うん…。採血も痛そうじゃなかったもんね」
「でしょ? いつもだったら採血する前に腕を散々撫で回すのに、普通に消毒だけだったし…。何か企んでなければいいけど」
「大安だからって言ってたのは?」
「その大安に裏がありそうな気がするのよねえ…」
覚悟しといた方がいいわよ、とスウェナちゃんが声をひそめた所で診察室の扉が開きました。もう診察が終わったようです。会長さんは更衣室に入り、キース君がドクター人形を手にしたままで。
「…これの出番は無かったぞ。大安とはそんなに有難いものか?」
「どうでしょう?」
首を傾げるシロエ君。
「暦のことは先輩の方が詳しいんじゃないかと思いますけど…。お寺には欠かせないんでしょう?」
「それはそうなんだが、合点がいかん。大安だからと言ってエロドクターが大人しくなるとは思えんのだがな…。ぶるぅ、前にもこういうことはあったのか?」
話を振られた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は記憶を探っているようでしたが…。
「んーと、んーとね、無かったと思う。ぼく、ブルーの健康診断についてきた時はお菓子を貰って待ってたんだよ。ブルー、いつも嫌そうにしてたし、終わった後も嫌そうだった。でも…今日は平気みたい」
珍しいよね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は更衣室の方を見ています。やがて扉がカチャリと開いて制服姿の会長さんが現れました。キース君の時は制服の代わりにバニーちゃんの衣装が用意されたりしましたけれど、そういうこともないらしく…。これが大安効果でしょうか?
「お疲れ様でした。では、結果は一週間後ということで」
エロドクターが診察室に消え、キース君が『?』マークの書かれた顔で。
「おい…。何もないといっそ不気味なんだが、一週間後というのが問題なのか? それとも検査で引っ掛かりそうで精密検査が必要だとか?」
会長さんは診察室の方を伺い見ながら。
「うーん…。ぼくにもサッパリ分からないけど、ノルディの心はあまり読みたくないからね…。とにかく今日は終わったんだし帰ろうか。その人形もさっさと仕舞って」
「あ、ああ…。そうだったな」
見ているだけで不愉快になるし、とキース君がドクター人形を風呂敷で手早く包んでゆきます。と、診察室の奥から白衣を脱いだエロドクターがやって来たではありませんか。しまった、片付けるのが早すぎましたか!?
咄嗟に身構えた私たちを軽く一瞥してからエロドクターは会長さんにスタスタと近付き、取り出したのは小さな箱。手のひらに収まるサイズで綺麗にリボンがかけられています。
「…今日は大安だと言いましたよね」
改めて念を押すエロドクター。会長さんは後ずさりながら「それで?」と辛うじて声を絞り出しました。
「大安ですね、と言ったんです。…これをお渡しするには最高の日だと思うのですが、是非受け取って頂きたい」
「は?」
狐につままれたような顔の会長さんの手にドクターは箱を押し付けて。
「どうぞ開けてみて下さい。お気に召すと思いますよ」
「…???」
ドクターの気迫に押された会長さんがリボンを解きます。包装紙を剥がし、箱の蓋を開けると出てきたものは革張りの小箱。えっと…これがプレゼントですか? けれどドクターは「開けて」と更に促しました。そっか、あの中にまだ何か…。って、えぇっ!?
「「「………」」」
私たちは目の玉が飛び出すくらい驚きましたし、会長さんは硬直中。箱の中身は…。
「あなたの瞳の色に合わせて誂えました。…最高級のピジョン・ブラッド、ナチュラルです」
得々として解説を始めるエロドクター。
「大抵のルビーは色を良くするために加熱処理がしてあるのですよ。ヒート・エンハンスメントと言いますが、この処理は公に認められています。…自然のままで美しい色をしている石はナチュラルもしくは非加熱と呼ばれ、ことにピジョン・ブラッドとなりますと…滅多に出ないルビーですね」
如何です? とドクターが指差す先には真紅のルビーがメインストーンの見事な指輪。
「ハーレイがあなたにルビーの指輪を贈ったことがあったでしょう? あれとは格が違います。非加熱以前にピジョン・ブラッドでもなかったですし…。この柔らかな色合いがピジョン・ブラッドの身上ですよ。…あなたにもこんな柔らかな瞳をして頂きたいものですが…」
警戒心丸出しの瞳ではなく、とドクターは猫撫で声で続けました。
「先日、小耳に挟んだのです。ハーレイがあなたのマンションの庭一杯に真紅の薔薇を並べたとか…。そういう歌がございましたね、貧乏な画家が家とキャンバスを売って、惚れた女優に百万本の薔薇を贈るという。なのに振られる以前に存在にも気付いて貰えなかった。ハーレイもそれに近いのではないかと思いますが」
「………」
「薔薇のその後も聞いていますよ。マザー農場に送られて有効活用されたとか? 実にあなたらしい突っぱね方です。しかしハーレイが動いたとなると私も負けてはいられません。…あちらが薔薇なら私の方は指輪です。正式にプロポーズさせて頂きたい」
「「「!!!」」」
げげっ。なんで指輪なのかとは思いましたが、プロポーズ!? 会長さんを食べるのではなくてプロポーズ…。なんでまた、と声も出せない私たちと会長さんにドクターはニヤリと笑みを浮かべて。
「やはり正式に結婚しないと落とせないのかと思いましてね。ハーレイがとある理由で脱落するかと喜んでいたら復活を遂げたようですし…私も本気を出さないと。あなたをモノに出来るのだったら指輪くらいは安いものです。…いえ、結婚したらもっと贅沢をさせて差し上げますとも」
「……そういう問題じゃないんだけど……」
会長さんの声が低くなりました。
「さっきから大安にこだわってたのはプロポーズ日和っていうわけか。お断りだね、ぼくが指輪に釣られるとでも? これは女性に貢ぎたまえ。きっと喜んでもらえるさ」
「とんでもない。それくらいならコレクションにしておきますとも、あなたの瞳にそっくりですから」
美しいでしょう? とエロドクターが箱の中から取り出したルビーは確かに綺麗な色でした。ピジョン・ブラッドとは鳩の血という意味らしいですが、ただ赤いのとは違うのです。ふんわりとした柔らかみを持つ不思議な赤。会長さんが優しく微笑む時の瞳の色を映したような…。けれど今の会長さんの眼光は鋭く、ドクターをジロリと睨み付けて。
「言いたいことは全部でそれだけ? だったら帰るよ、なんだかドッと疲れたから」
「ほほう…。今日は珍しく強気でらっしゃる。まあ、それでこそソルジャーですがね。…そういうあなたもそそられますよ、怯えるあなたも素敵ですが…。では、お帰りになる前にこれを」
会長さんの左手を掴み、指輪を薬指に押し込もうとしたエロドクターを阻んだのはキース君でした。
「待て!」
ドクター人形を包んだ風呂敷を構え、「動くと開けるぞ」と脅します。
「こいつの威力は知ってるな? ブルーを放せ。でないとこいつを殴らせてもらう」
「そう来ましたか…。仕方ありません、指輪は受け取って頂けるまで保管しておくことにしておきますよ」
残念ですが、と会長さんから離れて指輪を眺めるエロドクター。
「綺麗だと思うのですけどねえ…。ブルーの瞳に映えそうですし、白い肌にもよく映る。…それはさておき、お帰りになる前に伺いたい。ハーレイの薔薇は噂通りのプロポーズですか? それとも錯乱したのでしょうか?」
「「「え?」」」
プロポーズに決まってるのにいきなり何を言い出すのでしょう? しかしドクターは大真面目でした。
「ハーレイはプロポーズなど出来る状況ではなかった筈だと思うのですよ。…少なくとも先日まではそうでした。守秘義務というものがありますからね、詳しいことは言えないのですが…。で、どちらですか、ソルジャー・ブルー?」
うわぁ…。ソルジャーの尊称をつけてきましたよ! これじゃ会長さんは適当に誤魔化すことは出来ません。どうなるんだろう、と思った時。
「…プロポーズだよ」
あっさりキッパリ答える声が。そして空間がユラリと揺れて、優雅に翻る紫のマント。…会長さんのそっくりさんがソルジャーの正装を纏って立っていました。また来たんですか、この人は! しかもエロドクターの診療所にまで押しかけるなんて、良からぬことでも企んでますか…?
「おやおや…。お久しぶりですね」
ソルジャーの登場に笑み崩れているエロドクター。この二人はキース君と男子全員を屈辱に遭わせたバニーちゃんコンテストで手を組んでいた過去があります。そうでなくてもソルジャーはエロドクターからお小遣いをせしめてみたり、妖しげな写真を撮らせてみたりと良からぬことばかりしているわけで…。
「ぼくが呼ばれたんだと思ったけどな? ソルジャー・ブルーと言ったじゃないか」
ウインクしてみせるソルジャーに、会長さんが舌打ちをして。
「…どうだか…。どうせ覗き見していたくせに」
「まあね。でもさ、君は決して答えないだろうし、代わりに答えてあげようかと…」
ボランティアってヤツだよね、とソルジャーはニッコリ笑いました。
「それでノルディは何を知りたい? 多分ぼくでも分かると思う。ここ最近のブルーの様子はだいたい把握しているからね」
「なるほど…。では、先日の薔薇の話は御存知で? ハーレイがブルーの住むマンションの庭一面に真紅の薔薇を撒いたのですが」
「ああ、あれね。とっても派手なプロポーズだったよ、ぼくも見ていて感動した」
「……プロポーズですか……」
ドクターは苦虫を噛み潰したような顔になり、指輪を持った手を握り締めて。
「あのまま脱落するかと思っていたのにプロポーズとは…。諦める前の死に花なのかと思ってもみたのですけどねえ…」
「死に花ねえ…」
生憎そうではなかったようだよ、とソルジャーは会長さんに視線を向けます。
「そうだよね、ブルー? ハーレイは庭一面に薔薇を並べて、薔薇の花束を抱えてきて…君にプロポーズをしたんだっけね、改めて」
「改めて…?」
聞き咎めたドクターにソルジャーは「うん」と事も無げに頷き、世間話でもするような調子で続けました。
「君はとっくに知ってるだろう、ハーレイがEDになってしまったことを。…脱落するって踏んでた理由もそれだよね? …でもハーレイは治ったんだ。ただ、その前にもうダメだって思ったらしくて、さよならデートをしたものだから…」
「さよならデート? デートですって!?」
「一対一じゃなかったけどね。そこの連中やぶるぅも一緒に出掛けていたから問題ないさ。だけどハーレイにとってはブルーへの想いを断ち切るための最初で最後のデートだった。ところがその晩にEDが治っちゃったから…さよならデートをチャラにしようとプロポーズ。…庭一面の薔薇は感動的だったよ」
ロマンティック、と熱い溜息をつくソルジャーの前でドクターはポカンと口を開けて。
「治ったですって? …EDが? 私は治療をしていませんし、病院にも診察を受けに来た様子は無いですが…」
「心因性のEDだしねえ…。ついでに言うなら治療したのはブルーだよ」
「ブルー!!!」
余計なことは言わなくていい、と叫んだ会長さんは無視されました。ソルジャーはクスクス笑うと「ほらね」とドクターに視線を向けて。
「ハーレイがEDになったのはブルーに騙されたせいなのさ。それだけってわけでもないんだけれど、とにかくブルーは責任ってヤツを感じたらしい。…身を引かれるとつまらなくなるし、そうなるよりは…って治療する道を選んだらしいよ」
「治療…。また随分と思い切ったことを…」
「ノルディ、君の考えは先走り過ぎだ。あのブルーがハーレイのために身体を張るわけないだろう? 治療方法というのはデート。絶叫マシーンでスピード克服」
「スピード克服?」
話についていけない様子のエロドクターにソルジャーは思念で仔細を伝えたみたいです。ドクターがプッと吹き出し、「失礼」と普段の顔に戻って。
「実にハーレイらしいですね。…立ち直りの早さも素晴らしい。私も負けてはいられませんよ、いつか必ずブルーをモノにしてみせます。…指輪はそれまでお預けですか…」
せっかく用意しましたのに、とドクターは残念そうでした。けれども無理に押し付けたりしない辺りは流石に大人。ルビーの指輪は箱に仕舞われ、健康診断も無事に終わって…後は一週間後に検査結果を聞きにくるだけでオッケーです。私たちとソルジャーは呼んでもらったタクシーに分乗して会長さんのマンションに向かいました。
夕食を兼ねた慰労会は焼肉パーティー。お肉の他に海老やホタテもたっぷりあって、締めは「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作ってくれるガーリックライス。今日はエロドクターがセクハラをしなかったせいで平和でしたし、ドクター人形も出番がなくてラッキーでした。指輪には驚きましたけれども…。
「あの指輪。…値打ち物だよね?」
リビングに移ってジュース片手に寛ぎながら口を開いたのはソルジャーです。
「非加熱のピジョン・ブラッドだっけ? ぼくの世界だと地球で採掘された宝石ってだけで破格の値がつく。鑑別に出せば産地は簡単に分かるものだし、あれ1個あればシャトルくらいは造れるかも…」
「じゃあ、貰ってくればいいじゃないか」
おねだりするのは得意だろう、と会長さんが言いましたが。
「うーん…。あの手の物を売買するには特殊なルートが必要だから、売るのはちょっと難しいかな。でも君はつくづく恵まれてるよね、ノルディは指輪を買ってくれるし、ハーレイは薔薇を贈ってくれるし」
「…ぼくには迷惑なだけだけど?」
「贅沢な悩みってヤツだよ、それは。…ハーレイの薔薇は本当に羨ましかったんだ。ぼくのハーレイはヘタレな上に、ぼくとの仲を必死に隠しているからね…。君がハーレイに庭一面の薔薇を貰ったって話をしても「そうですか」としか言わなかったし、一面の薔薇もくれなかった」
「「「………」」」
そりゃそうだろう、と私たちは納得しました。ソルジャーとの仲を隠しているのに派手なプロポーズは不可能です。ついでにシャングリラ号という閉ざされた世界で大量の薔薇をどうやって入手できるでしょう? 手に入ったとしても飾る場所が…。青の間の水に浮かべるわけにも、公園を薔薇で埋め尽くすわけにもいきません。
「…本当にそう思うかい?」
無理だよね、と話し合っていた私たちにソルジャーが割って入りました。
「ぼくとハーレイの仲はバレバレなんだよ、実際の所。だからハーレイが青の間とか公園を薔薇で埋めても問題ないと思うんだけど、ハーレイはそこを分かっていないんだ。でも、問題は薔薇より情熱。こっちのハーレイを見習いたまえ、と言ってやったらどうしたと思う?」
「…えっと…。花束を持って来たとか…?」
首を捻りながら答えた会長さんに、ソルジャーは「大正解!」と頷いて。
「薔薇の花束を持って来たんだ、真紅のヤツをね。…どうやって調達したのかを考えてみると、そこまでは評価できるんだけど…。その後が悪い。これをどうぞ、って言われても! プロポーズの言葉はどうなったんだ、と」
ソルジャーは明らかに不機嫌でした。
「薔薇の花束を用意すればいいってモノじゃないんだよ! 前にこっちのノルディが薔薇の花束を買ってくれたことがあったけど…。あの時は「この薔薇を散らしたベッドで素敵なことをしませんか?」って口説かれた。そっちの方がよっぽど気が利いている」
「「「………」」」
「だから出直せって言ったんだ。気の利いた口説き文句の一つでも提げて出直してこいって言ったんだけど…」
嫌な予感がしてきました。ひょっとしてキャプテン、またも失敗しちゃいましたか? ソルジャーの御機嫌を損ねたとか? 戦々恐々とする私たちに向かってソルジャーは。
「ハーレイはきちんと出直してきたよ、とても気の利いた台詞つきでね。それは素晴らしい歯の浮くような口説き文句を。…ただし問題は嫌というほど見覚えのある台詞だったって所かな。…恋愛小説」
「「「は?」」」
恋愛小説って何でしょう? 色々と種類はありますけども、参考にしてはダメなんですか?
「参考にしたんなら許せるさ。…朴念仁のハーレイがやらかしたことは丸暗記! ぼくのシャングリラで人気絶頂の恋愛小説に出てくる台詞を丸覚えして出直してきたんだ、薔薇の花束を抱えてね。…よりにもよって丸暗記! 庭一面の薔薇に感動したって言っていたぼくにこの仕打ち!」
許せないよね、とソルジャーは柳眉を吊り上げて。
「だから家出をすることにした。…ブルーの健康診断結果が心配だからって書き置きを置いて出てきたけれども、ぶるぅにきちんと言い含めてある。折を見て家出の本当の理由をハーレイに説明するように、って」
あちゃ~…。また家出してきちゃいましたか、ソルジャーは! エロドクターとの縁が切れない期間中にソルジャーがこっちへ来てしまうなんて最悪です。会長さんも真っ青ですけど、これってやっぱり大惨事ですか…?