シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
- 2012.01.17 それぞれの愛 第1話
- 2012.01.17 招待は突然に 第3話
- 2012.01.17 招待は突然に 第2話
- 2012.01.17 招待は突然に 第1話
- 2012.01.17 諸人こぞりて 第3話
元老寺で新年を迎えた私たちのその後は平穏でした。三が日の間はキース君は元老寺の本堂で初詣に来る檀家さんのお相手でしたから、三が日が済んでからみんなでアルテメシア大神宮へ初詣に。会長さんも誘ったのですけれど、フィシスさんとデートだとかで断られました。そんなこんなで冬休みも終わり、今日は三学期の始業式です。1年A組の教室に行くと…。
「おはよう」
「かみお~ん♪」
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が教室の一番後ろに増えた机に座っています。会長さんが椅子で「そるじゃぁ・ぶるぅ」は机の縁に腰掛けて元気よく手を振っていました。すぐ側にアルトちゃんとrちゃんの姿もあって、新年早々またプレゼントを貰ったみたい。会長さんは二人に微笑みかけて席から立つと、私たちの方にやって来ます。ええ、ジョミー君たちはとっくに登校していたのでした。
「みんな、例のモノは持ってきてくれただろうね?」
「もちろんだぜ!」
サム君が答え、キース君が自分の鞄の中から四角い箱を取ってきます。
「持っては来たが、これは何だ? 開けるなと注意されてもな…。中身くらいは教えておくのが礼儀だろう」
「そうかなぁ? 新年恒例イベント用だって分かってるんだし、特に説明しなくても…。食べ物なのは確かだよ」
「…それはそうだが…」
言い淀んでいるキース君。シャングリラ学園の新年恒例行事は『お雑煮食べ比べ大会』でした。男女別に学園1位が決められ、1位のクラスは先生を一人指名できます。その先生を待っているのは恐怖の闇鍋。1位のクラスの生徒が持ち寄った食べ物が全て放り込まれた闇鍋を食べねばならない決まりです。去年、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が持ち込んだのは『くさや』とドリアン。そんな会長さんが昨夜、私たち全員に『持参する食べ物』を瞬間移動で送って寄越してきたのでした。
「それ、みんなに同じものを送ったんだけどさ。素人が開けると危険なんだ」
会長さんは真顔です。
「「「危険?」」」
「そう、危険。見事1位を獲得したら、ぶるぅが鍋に入れに行くから預けてやって」
え。「そるじゃぁ・ぶるぅ」に任せなくてはいけないくらい危険な物って…本当に食べ物なんでしょうか。キース君が手にしているのと同じ箱を私も鞄に入れてますけど、中身は生きたサソリだとか…?
「サソリですか…」
有り得ます、とシロエ君。
「揚げると美味しいらしいですよ、小エビみたいで。でもサソリにしては重かったような…」
「ああ。これにギッシリ詰まっているなら話は別だが、それだと既に死んでいる筈だ」
窒息してしまう、とキース君が箱を眺めています。
「冬眠中の毒蛇かもしれんな。小さくても猛毒の毒蛇がいるし、毒蛇料理も存在するし…」
「それって鍋に入れたら危ないんじゃあ…」
ジョミー君が首を傾げましたが、キース君は。
「だからぶるぅに任せるんじゃないか? 毒抜きも簡単にやりそうだ」
「毒蛇料理はしたことないよ?」
ゲテモノだもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が割り込みました。
「えっとね、それは蛇じゃなくって…」
「ぶるぅ」
会長さんにジロリと睨み付けられ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はビクンとして。
「あっ、いけない! 内緒、1位を取るまで内緒だったっけ! ごめんね、今は言えないや」
「…よくできました。そういうわけで、知りたかったら1位を目指して頑張るんだね。お雑煮食べ比べ、健闘したまえ」
ニッコリ笑う会長さん。うーん、危険な食べ物って何…?
毒蛇を除いた危険な食品について悩んでいる間に登場したのはグレイブ先生。
「諸君、あけましておめでとう。…やはりブルーが来ているのか…」
溜息をついて出席を取り、クラスを引率して始業式の会場へ。卒業を控えた三年生への訓示の間にアルトちゃんとrちゃんを見ると、二人は肘でつつき合いながら複雑な顔をしていました。去年の私たちと同じでアルトちゃんたちも特別に卒業するようです。やっぱり来年からは二人とも特別生になるんですねえ…。一通りの行事が済むと教頭先生がマイクを握って。
「では、これから新年恒例お雑煮食べ比べ大会を開催する。全員、体育館へ移動するように」
ワッと歓声が上がり、体育館へ移動していくと司会は今年もブラウ先生。「一番沢山食べた生徒が在籍するクラスが学園1位」のルールも去年と同じでした。男子の部と女子の部に分かれますから、1年A組は男子に会長さん、女子に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が加わります。
「いいかい、制限時間は二十分だ。それじゃ1年生、テーブルについて!」
はじめ! の合図と共に白味噌仕立ての甘い御雑煮との戦闘開始。経験していてもヘビーな味に変わりは無くて、私たちは早々にリタイヤしました。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は平然と食べ続けています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は底なし胃袋、会長さんはサイオニック・ドリームの応用で「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお椀に自分の分を転送中。終了の合図までに積まれたお椀は半端な量ではありませんでした。そんな記録を破れる人がいるわけもなく…。
「よーし、今年の優勝は男子も女子も1年A組! 優勝祝いのお楽しみ会はグランドでやる。1年A組の生徒は用意してきた食べ物を持って集合だよ」
ブラウ先生の指示で私たちは教室にとって返しました。学校からは一昨日に「これだ、と思う食べ物を一品持参するように」と謎のメールが来ただけですけど、クラスメイトの中には闇鍋をやると知っていた人もいるようです。キース君たちの柔道部と違って、軽いノリのクラブなんかは先輩から情報が入るんでしょうね。
「俺はクリームパンなんだ」
「シュークリームも凄いと聞いたぜ」
怪しげな…いえいえ、食べ物としてはまっとうなモノを鞄から出す人がいるかと思えば、去年の私たちみたいにお歳暮の残り物を持ってきた人もありました。私たちは…会長さんから送られてきた謎の箱です。黒幕の会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は机の下から大きな保冷ボックスを引っ張り出して…。
「それじゃ行こうか。今年は豚骨らしいんだよね」
「「「トンコツ?」」」
「うん。去年は味噌仕立てだっただろう? ぼくとぶるぅが入れたヤツのせいで凄い匂いになったのがウケて、より悪臭になりがちな出汁をベースにしようと決まったみたいだ」
どこのクラスが優勝してもね、と会長さんは楽しそうです。お祭り好きな学校なのは知ってましたが、最初から悪臭狙いで出汁を作っていいのでしょうか? 誰が闇鍋を食べる羽目になるのか分からないのに…。
「先生方は平気だよ。ほら、ギブアップの制度があるだろ? 食べられそうもないモノが出来た場合はギブアップすれば済むことだから、ブラウが大いに煽ったらしい。自分は食べる気ゼロのくせにね」
どうせ被害者は決まっているも同然だし…、と唇を舐める会長さん。そうでした。会長さんが1年A組に頻繁に出現しているからには闇鍋だって狙うに決まっているのです。ならば犠牲者も容易に想像がつくわけで…。教頭先生は確定ですし、担任のグレイブ先生と…他に誰か一人。去年はゼル先生が指名されましたけど、今年は誰が…? グランドに行くとブラウ先生が威勢良く声を張り上げました。
「さあ、1年A組の登場だ! 優勝記念に男子と女子は先生を一人ずつ指名しておくれ。さあ、誰にする?」
会長さんはクラスメイトに自分と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に指名権をくれるように頼むと、サッと手を挙げて。
「男子は教頭先生を指名させて頂きます!」
続いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」がピョンピョン飛び跳ねてはしゃぎながら。
「ぼくはシド! 去年ゼルにしたから、今年はシド!」
うわぁ…。シド先生の顔が青ざめています。実はシャングリラ号の主任操舵士だと聞いていますが、普段は爽やかなスポーツマン。こんなイベントに巻き込まれるとはなんと不運な…。ブラウ先生がククッと笑って。
「よし! ハーレイとシド、それと1年A組担任のグレイブ! 以上三名に決定だ。では1年A組の健闘を讃えて、新年恒例、闇鍋開始! みんな持ってきた食べ物をあそこの鍋に入れるんだよ」
グランドの中央には大きな鍋が置かれていました。煮え滾っているのは会長さんが言っていたとおり豚骨スープ。今のところはいい匂いです。教頭先生とグレイブ先生、シド先生は逃げ出せないように周囲を固められ、悄然として立っていますが…。
「ブラウ先生!」
会長さんが叫びました。
「なんだい? 何か質問でも?」
「ううん、注文があるんだけど…。今年は最初から目隠しルールにしたいなぁ、って。誰が何を入れたのか分からない方が面白そうだし、恨まれることもなさそうだし…」
「なるほど、それも一理あるねえ…」
どうしようか、と先生方と相談したブラウ先生は…。
「オッケー、目隠しをさせておこう。…うん、用意ができたみたいだね。それじゃ食べ物を入れとくれ」
教頭先生たちはキッチリ目隠しされていました。男子生徒が飛び出して行って次々に食品を投げ入れています。カップ麺の中身やレトルトカレーや、他にも色々。女子もあれこれ入れてますけど、アルトちゃんとrちゃんは食べやすいサイズに切った大根と山芋を放り込んだではありませんか。去年の惨事を知っているだけに、普通の具材を選びましたか…。
「違うよ、あれは二人の心遣い」
私たちが持ってきた箱を回収しながら会長さんが言いました。
「二人ともハーレイの隠れファンなんだ。こうなるだろうと分かっていたから、健胃作用のある食べ物を選んだらしいね。…まあ、焼け石に水だけどさ」
さて、と箱を開ける会長さん。出てきたものは保冷剤と缶詰です。重かった理由が分かりました。缶詰の数は全部で七個。えっと…これで何をすると…?
「…あ、あの…。その缶詰はもしかして…」
マツカ君の声が震えています。缶詰に書かれた文字はアルファベットに似ていましたが、読んでも意味が分かりません。でもマツカ君には心当たりがあるようでした。会長さんがポケットから缶切りを取り出し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に手渡して。
「頼んだよ、ぶるぅ。…気をつけて」
「かみお~ん♪」
七個の缶詰を抱えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が大鍋の方へ走ってゆきます。既に魔女の薬と化している鍋から少し離れた地面に座った「そるじゃぁ・ぶるぅ」の身体が青く発光しました。シールドです。身体の表面だけを覆うシールドですが、そんなのを張っていったい何を…?
「…いろんな意味で遮断しないとヤバイんだよね、あの缶詰」
腕組みをしている会長さんにマツカ君が。
「それじゃやっぱり…」
「君の考えで正解だよ。あれはシュールストレミングだ」
「「「…シュール…???」」」
超現実的な…なんですって? 聞いたこともない単語に私たちが首を捻った瞬間、プシューッという音がしました。そこへ冷たい北風がゴオッと吹きつけ、風下にいた生徒たちが…。
「「「ぐわぁぁぁ!」」」
凄まじい悲鳴が上がり、「臭い、臭い」と誰もが鼻を押さえています。風上では「そるじゃぁ・ぶるぅ」が缶詰をキコキコと開けていますが、ひょっとしてあの缶詰が…?
「シュールストレミングというのは世界一臭い缶詰さ」
会長さんが涼しい顔で解説します。
「中身はニシンの塩漬けなんだ。発酵中に缶に詰めるから中で発酵が進行してね、缶を開けると猛烈な匂いがするらしい。ついでに汁も噴き出しちゃうし、だから危険だって言ったんだよ。保冷剤を一緒に入れてあったのは爆発するのを防ぐためで…」
「「「爆発!?」」」
「うん。空輸中に気圧が下がると爆発するって話だけれど、発酵が進み過ぎても缶が膨れるらしくって。膨れたくらいじゃ爆発しないとは思うんだけどね…。万一っていうこともあるから保冷剤。でも怖いのはサイオンかな」
下手にサイオンを使われた方が恐ろしい、と会長さんは思ったようです。開けるなと注意されたのはそのためでした。
「箱を開けてみて謎の缶詰が入っていたら気になるだろう? キースはネットで調べそうだけど、ジョミーあたりはサイオンで中身を覗き見したくならないかい? そんな能力はまだ無いくせにさ」
「…う……。そうかも…」
ジョミー君が呻き、サム君が「俺もやりそう…」と呟きます。
「そうだろう? サイオンは便利だけれど両刃の剣だ。使いようによっては爆発くらい簡単に…。あ、サイオンに関する話は他の人には聞かれないように細工したから安心して。…で、あの缶詰」
キコキコキコ。青い光に覆われた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は噴き出す液体をシールドで弾き、六個目の缶詰を開けていました。グランドのあちこちで生徒が鼻を押さえていますが、1年A組は全員無事。会長さんがシールドを張っているものと思われます。
「あれって半端なく臭いそうだよ。この際だから、ちょっと体験してみたいよね」
「「「えぇぇっ!?」」」
遠慮します、と叫ぼうとした次の瞬間。
「「「おえぇぇぇ!!!」」」
ものすごい臭気が私たちの鼻を襲いました。この匂いは…下水? それとも汚水? 人間が食べるものとは思えません。どちらかと言えば排泄物です。あぁぁ、目の前が暗くなりそう…。
「なるほど…。ドブ川を煮詰めたような匂いだって聞いたとおりだ。納得した」
満足そうな会長さんの微笑みと共に臭気はフッと消え失せて。
「A組のみんな、ぶるぅの力に感謝したまえ。…ぶるぅが防いでくれているから、ぼくたちは無事でいられるんだ」
でなけりゃ今頃あのとおりだよ、と会長さんが指差す方では全校生徒が鼻を押さえたり摘んだり。
「でも、そろそろ助けてあげないと…。恨まれちゃったら大変だしね。ぶるぅ、ハーレイたち以外にシールドを」
「かみお~ん!!!」
プシューッと七個目の缶詰から液体が勢いよく噴き出しましたが、悲鳴は上がりませんでした。臭気は綺麗に消えたようです。ん? そうでもないのかな…? 目隠しをされた教頭先生とグレイブ先生、シド先生が両手で鼻を覆っています。闇鍋を食べる先生方はシールド効果の対象外になっていたのでした。それに気付いた全校生徒は拍手喝采。なまじ悪臭を体験しただけに、喉元過ぎれば…というヤツです。
「入れてきたよ、ブルー!」
空き缶を大鍋の近くに放ったらかして「そるじゃぁ・ぶるぅ」が戻って来ました。片付け上手な「そるじゃぁ・ぶるぅ」が缶を放置ということは…缶から悪臭がするのでしょう。気の毒な教頭先生たちは鍋と空き缶、両方からの匂いに耐えて闇鍋を食べねばならない羽目に…。
「ありがとう、ぶるぅ。匂いは平気だったかい?」
会長さんの労いに「そるじゃぁ・ぶるぅ」は元気一杯。
「うん! 大丈夫、匂いも汁もくっつかないように注意してたし、平気、平気!」
「よかったね。…本当に凄い匂いだったよ、ちょっと体験してみたけどさ」
「そうなんだ…。えっと…?」
好奇心旺盛な子供の「そるじゃぁ・ぶるぅ」は自分の周囲のシールドを一瞬だけ解いてしまったらしく、ウッと呻いてパタリと地面に倒れました。
「……くひゃい……」
臭い、と言ったつもりでしょうが、可哀相に呂律が回っていません。けれど立ち直りは早くって…。ムクリと起き上がった「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大きな保冷ボックスの蓋を開けます。
「今度はぼくたちの番だよね? ブルー、どっちにする?」
よいしょ、と中から取り出したのは二個の金属製の大きな器。あの焼き型はケーキでしょうか、それともクグロフ…? 世界一臭い缶詰に比べればケーキなんて、と顔を見合わせる私たち。今回の悪役はシュールストレミングの運び屋をさせられた私たちですか、そうですか…。
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が一個ずつ抱えた器は、ケーキにしては重そうでした。アルミ箔を被せてあるのでどんなケーキか分かりません。ドライフルーツがみっしり詰まったヘビーなヤツとか…?
「これはケーキじゃないんだよ。対闇鍋の最終兵器さ」
「「「最終兵器?」」」
私たちとクラスメイトが覗き込む中、会長さんはもったいぶってカウントダウンを始めました。
「いいかい? 十、九、八、七…」
五まで数えてアルミ箔の端に手を掛けて。
「三、二、一……。はい、ぶるぅ特製ブルーハワイ・ゼリー!」
「「「は?」」」
現れたのは真っ青な色のゼリーでした。大きなケーキ型とクグロフ型の縁までビッチリ入っています。これの何処が闇鍋用の最終兵器…?
「見てれば分かるよ。ぶるぅ、行こうか」
特大のゼリーを抱えた会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は悪臭を放つ大鍋――私たちはもう悪臭を感じませんが――の所まで行き、ゼリーをドボンと投げ込みます。グツグツと煮える豚骨ベースの出汁に青いゼリーがたちまち溶けて、出汁はみるみる青色に…。それは出汁とも思えぬ不気味さでした。青いゼリーは綺麗でしたが、青い色をした出汁なんて…。全校生徒が凍りつく中、ブラウ先生が。
「1年A組、闇鍋は準備完了かい?」
「そうだねえ…」
会長さんがクラスメイトを見回してから頷いて。
「うん、具は全部入ったみたいだよ。始めてくれていいと思う」
「よーし! それじゃシャングリラ学園、新年恒例の闇鍋ルールの説明だ。ハーレイ、グレイブ、シドは改めてよっく聞いときな。各自、お椀に一杯ずつ掬う。掬った分は完食すること。…これは無理だと思った場合はギブアップだけど、全く食べずにギブアップするのは認められない。最低、三口。食べずに逃げるヤツが出てきた時は残った者が責任を持ってその分を食べる。…いいね?」
「「「………」」」
教頭先生たちが無言で拳を握り締めます。あの悪臭を今も嗅いでいるなら、鍋への恐怖は大きいでしょう。ブラウ先生は更に続けて。
「もしも全員がギブアップしたら、1年A組の生徒全員にお年玉のプレゼントだ。食堂の無料パスを一週間分!」
大歓声が上がりました。先生方がギブアップすれば無料パス。嬉しくないわけがありません。1年A組以外の生徒も、大鍋の中身の恐ろしさに固唾を飲んで見守っています。やがて教頭先生たちは大鍋を囲むように座らされ、目隠ししたままでおたまを持たされ、それぞれお椀に一杯ずつ…。不幸なことにお椀は白い陶器でした。目隠しを外した先生方は湯気の立つ青い汁を見るなり顔面蒼白。
「…青は食欲減退色さ」
得意そうな会長さん。
「「「…ゲンタイショク…?」」」
それってどういう意味なんでしょう?
「青い色の食べ物は自然界には殆ど存在しない。ソーダアイスとかブルーハワイは涼しい気分になれるからね、平気で食べられるものなんだけど…青い色の温かい食べ物なんてゾッとするだろ? あそこの闇鍋みたいにさ。…脳は青色を本能的に毒物と認識するように出来ている。危険回避のための信号」
「…あれって毒…?」
ジョミー君が大鍋の方を指差します。会長さんはクスッと笑って。
「まさか。ブルーハワイ・ゼリーだって言っただろ? ただの合成着色料だし、食べても身体に問題はない。ついでにシュールストレミング…。悪臭も脳に危険を知らせる。腐ってますよ、と警告するわけ。色と匂いのダブルパンチを克服できるか楽しみだな」
「…あんた、去年より悪質だな…」
キース君が言いましたけど、会長さんはクスッと笑っただけでした。全校生徒がドキドキしながら教頭先生たちを見ています。と、シド先生が立ち上がって。
「…ぎ……ギブアップします! 俺、無理です!」
一口も食べずに走り去ったシド先生の後を追うようにグレイブ先生が逃げ出しました。こちらのお椀も手つかずです。ということは…教頭先生、三人分のノルマを食べ切らないとギブアップ不可…? 色と匂いで「食べられません」と自己主張する恐ろしいモノを三口分で三人前…。誰もがダメだと思いました。ところが…。
「うおぉぉぉぉっ!!!」
一声叫んだ教頭先生はお椀の中身をガツガツと食べ始めたではありませんか。あの具は…多分アルトちゃんたちの大根です。お次はベーコンみたいですね。続いて青い汁を一気に飲み干し、シド先生の分のお椀を掴んでガツガツガツ。溶けかかったクリームパンと青い汁をお腹に収め、残るはグレイブ先生の分。これにはシュールストレミングの缶から出てきたニシンの塩漬けも入ってましたが、教頭先生は息もつかずに完食でした。
「…………」
無言で箸をきちんと揃えて「ごちそうさま」と合掌をする教頭先生。次の瞬間、グランド中に割れんばかりの拍手が起こり、教頭先生コールが響きます。教頭先生は左手で口を押さえながらも右手を高く上げ、大歓声に送られて悠然とグランドを出ていきました。残されたのは青い汁を湛えた大きな鍋。…1年A組、お年玉も貰えず完敗です…。
「どうしてあんなことになるのさ!」
終礼が終わって「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ向かう道中、会長さんは不機嫌でした。
「吐き気がしそうな青いスープに、あの匂いだよ? 激マズな具まで入っていたのに、完食しちゃって余裕の合掌。去年はくさやとドリアンだけでギブアップしてたヘタレなんかに、食べられるわけがないじゃないか!」
「そうですよね…。去年も酷い匂いでしたけど、今年ほどではなかったですよね」
シロエ君も不思議そうです。シロエ君だけではありません。誰もが疑問を抱いていました。去年の教頭先生は自分の分と、一口で逃げ出したゼル先生とグレイブ先生のノルマの残りの計七口でギブアップ。しかもその場にへたり込んでしまい、まりぃ先生からペットボトルの水を貰っていたと記憶しています。
「あんなハーレイ、有り得ないよ。絶対、正気のハーレイじゃない。…君たちも変だと思ってるだろ?」
そう言いながら会長さんは生徒会室の壁の紋章に触れ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋の中へ。私たちも順番に足を踏み入れたのですけれど…。
「こんにちは」
ゆったりとソファに座っていたのは会長さん。いえ、会長さんがもう一人いるということは…ソファに座っているのはソルジャーです。ソルジャーは会長さんの制服を着て、襟元の校章だけを外していました。制服を借りる時の約束事で、これで区別をつけるのです。ソルジャーは立ち上がり、私たちに手を差し出して…。
「あけましておめでとう。今年もよろしく」
にこやかに微笑まれると場が和みます。私たちは新年の挨拶と握手を交わしましたが、会長さんはプイッとそっぽを向いたまま。挨拶する気もないようですけど、ソルジャーはいつから此処に居たんでしょう? 勝手に制服を引っ張り出して着替えまでしているお客様。ただでさえも機嫌が悪い会長さんがブチ切れちゃったりしませんように…。
どっしりとしたアドス和尚の大学時代の渾名はクリームちゃん。「ちゃん」付けはイライザさんだけだと聞きましたけど、なんとも凄い渾名です。お坊さんとしての名前で漢字二文字の法名ってヤツがアイスだったからクリームだなんて…。呆然としている私たちを他所に会長さんが微笑みます。
「遊び心に溢れてるだろ? アイスクリームなんてセンスいいよね」
「私も可愛いなって思ったんですのよ。…なのに身体はガッシリしてて…その辺りのギャップに惹かれましたの」
イライザさんの言葉にアドス和尚は照れ笑い。
「いやいや…。わしも驚きましたわい。新入生の中でもピカイチの美女が手作りの菓子をくれましてな。何の冗談かと思いましたが、イライザは至って本気だったようで…」
「色々と調べましたもの。お坊さんっていうだけじゃ駄目ですものね、元老寺を継いで下さる方でないと。そしたらお寺の三男坊で実家のお寺はお兄さんが継いでるらしい、って耳にして…。これはアタックするしかないわ、と」
頑張りました、とイライザさん。
「いきなりウチのお寺を継いで下さい、なんて言えないでしょう? 普通にデートして、半年ぐらい経った頃でしたかしら…。お寺の一人娘なんです、と打ち明けたらとっても喜ばれちゃって」
「何処かの寺へ婿養子に入るのが夢でしたからな。…そういう話が無かった時は就職しようと思ってまして、教員免許を目指してました。ここへ来られたのは御仏縁で…」
有難いことです、とアドス和尚が床の間に掛かった南無阿弥陀仏の掛軸に手を合わせます。うーん、これもラブロマンスって言うんでしょうねえ…。と、シロエ君が急に真面目な顔で。
「え、えっと…。おばさまはお父さんからお寺を継げって厳しく言われてたんですよね? でも…ぼく、この前、聞いちゃったんです。キース先輩の曾お祖母様のこと。…それって、おばさまの…お祖母様なんじゃ…?」
「あらあら、曾お祖母ちゃんの話ってことは…テラズかしら?」
「はい。伝説のダンス・ユニットだって聞きましたけど、おばさまのお祖母様は…その…おばさまがお寺を継ぐっていう件については何も仰らなかったんですか? テラズ・ナンバー・ファイブって名前で踊っておられたみたいですから、進歩的な考えをお持ちだったんじゃないのかと…」
「積極的に攻めていけ、って言われたわねえ…。尼さんになりたくないんだったら、まずは自分を売り込めって。アピールする相手が増えれば増えるほどいい牌が来るって言われたんだけど…曾お祖母ちゃんほどの勇気は無かったのよ」
尼さんになるのは嫌だったけど、とイライザさんは溜息をつきました。
「だってね、私、運動神経ゼロですもの。ダンスなんて絶対に無理! …曾お祖母ちゃんはテラズの御縁でお婿さんをゲットしたっていうのに、私は手作り菓子だったのよねえ…」
「曾祖母さんの血はキースが継いだなぁ…。わしも柔道は子供の頃からやっておったが、キースと違って優勝なんぞはしとらんし…。運動神経の良さは曾祖母さんから継いだとみえる。おまけに強情な所まで似てしまいおった」
「……親父……」
余計なことを、とキース君の声が低くなりましたが、アドス和尚は聞いていません。
「坊主なんか絶対嫌だ、俺はやりたいようにやる…と反抗しまくった次は坊主頭は嫌だ、嫌だ…と。坊主が坊主頭にしないでどうするんだと思うのですが、全く聞く耳を持たないようで」
「キースの自由にさせてやれ…って言っただろう」
会長さんが割り込みました。
「無理強いするのはよくないよ。強情なのは修行の時に役に立つ。人に弱みを見せたがらない性格なんだし、誰よりも頑張って修行する筈さ。広い心で見てやるといい。…アドス和尚だって元老寺に来た頃は先代とかに温かく見守ってもらったんだろ?」
「それはまあ…そうですが。先代にも曾祖母さ……いえ、先々代の大黒様にも可愛がって頂きまして」
「ほら、入り婿だった君でもそうだ。キースは実の息子だよ? 厳しくするだけじゃ伸びないってことを覚えておいた方がいい。…焦る気持ちは分かるけどね、住職を継ぐって言い出しただけでも進歩じゃないか」
「そうですな。あなたが遊びに来て下さったお蔭で決心をしてくれたんでしたな…」
緋の衣を着けた会長さんに対抗心を燃やし、住職を目指すと決めたキース君。坊主頭の件はともかく、緋の衣を許された高僧になりたいことは確かですから…ドロップアウトはしないでしょう。回り道はするかもしれませんけど。
話は和やかに続きました。アドス和尚は大学を卒業してから一年間の厳しい修行に行って、それからイライザさんと結婚したのだそうです。
「厳しいって…?」
首を傾げたのはジョミー君。
「ブルー、楽だって言わなかったっけ? だから厳しい修行がしたくて恵須出井寺に行ったんだ…って」
「興味を持ってくれたのかい? 嬉しいな、ジョミーもやってみる気になった?」
ニッコリ笑う会長さんに、ジョミー君は震え上がって。
「ち、違うってば! そうじゃなくって、変だな…って。話が違うって思っただけで!」
「残念。…でも覚えててくれたんだね。なかなか将来有望かも…」
「勝手に決められるのは御免だよ! お坊さんになんかならないからね、絶対に!」
ジョミー君の必死の叫びを会長さんはサラッと無視して、私たちをぐるりと見渡しました。
「君たちも変だと気付いたかな? 璃慕恩院の修行は楽な筈ではないのかって」
「「「………」」」
首を左右に振る私たち。アイスちゃんだか、クリームちゃんだか…アドス和尚の過去に驚いたせいで、会長さんの修行のことなどすっかり忘れていたのです。そんな中でも覚えていたとは、ジョミー君って素質があるかも…。
「ほらね、ジョミー。みんな気付いてなかったようだよ。君は修行に関心あり…、と。覚えておこう」
「忘れていいっ!」
「そう言わずに…。本山の修行体験ツアーにも行ったことだし、敏感なのも無理はない。で、君の疑問はもっともだ。ぼくは修行は楽だと言ったし、アドス和尚は厳しいと言った。…璃慕恩院にもそれなりに厳しいコースはあるんだよね。だけど自分で選べるんだ」
要らないと思ったらしなくても済む、と会長さんは言いました。
「そこが恵須出井寺との違いかな。あっちは修行の途中で逃げ帰ったら二度と寺には戻れない。住職の資格が取れなくなるのさ。…璃慕恩院はそこまで厳しくはないし、修行期間も短いね。アドス和尚が行ったコースはそれとは別モノ。修行を積みたい人だけが行く道場だ。来る日も来る日もお念仏だよ。おまけに外部との連絡は禁止」
「「「………」」」
「運動できるのは掃除の時だけ。他の時間はお念仏か読経か、勉強か…。恵須出井寺みたいな荒行は無いけど、厳しいことは間違いない。アドス和尚が行ったってことは、いずれキースも行くかもね」
うわぁ…。キース君なら行きかねませんけど、一年間も会えなくなるのは寂しいような気がします。いざとなったら会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」に手伝ってもらってコッソリ面会可能でしょうが…。
「そうだ、キースが行くんだったらジョミーとサムも一緒にどうだい? 人数制限は特にないから問題ないし」
「嫌だってば!」
即座に断るジョミー君の横でサム君が。
「俺は別に行ってもいいけど…。でも…一年かぁ…」
会長さんの顔を見つめるサム君の考えはすぐに分かりました。アドス和尚とイライザさんがいるので口にしないだけで、大好きな会長さんと会えなくなるのが辛いのに違いありません。会長さんも気が付いたようで…。
「君たちが揃って修行に行くなら、ぼくが面会に行ってあげるよ。ぼくは何処へでも顔を出せるし、差し入れしたって問題はない。本当は差し入れ厳禁だけどさ」
ペロリと舌を出す会長さん。
「なんなら高飛びも手伝おうか? 修行中の連中がコッソリ抜け出して遊んでるのはよくある話だ。それがバレたら大惨事だけど、ぼくと一緒なら大丈夫。ぼくが連れ出したって言えば通るからね」
「おお…」
アドス和尚が会長さんを伏し拝みました。
「ありがとうございます! せがれはクソ真面目な所がございまして…。やはり人並みに羽目を外すことも覚えませんと、檀家さんの相談ごとにも上手に対応できないのではと心配いたしておりました。せがれが修行に行きます時には、よろしくお導き下さいませ」
「任せといてよ。緋色の衣はダテじゃないさ」
大船に乗った気持ちでいて、と請け合う会長さんにアドス和尚は大感激。キース君、まだ住職の資格もないのに先の予定まで決められちゃって、引き返す道は無さそうです。順調に行けば今年の秋には髪を短く切っての修行で、来年の暮れには剃髪で…。えっと…本当に大丈夫かな…?
クリームちゃんなアドス和尚は御機嫌でした。キース君と一緒に修行してくれそうな人が二人も現れた上に、会長さんのサポートまで約束されたのですから嬉しくなって当然です。否定し続けるジョミー君にも愛想をふりまき、サム君には仏門の素晴らしさを説き…。イライザさんも二人にせっせと食べ物やジュースを勧めてますし!
「キースをよろしくお願いしますね」
美人のイライザさんにそう言われては、ジョミー君も怒鳴れません。なんとか話題を逸らそうとしたジョミー君は…。
「そうだ! アイスっていうの、本名ですか?」
「お坊さんにとっては本名ですわね。…きっとあなたも素敵な名前がもらえましてよ。銀青様がお付けになるのでしょう?」
「ぼくは弟子入りしてません! それより、本当にアイスなんですか? クリームちゃんって聞いた後では冗談にしか聞こえないんですけど…」
よくぞ聞いてくれました! みんな思いは同じらしくて、アドス和尚に視線が集中しています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も好奇心に瞳を輝かせて。
「ねえねえ、ホントにアイスなの? ぼく、アイスクリームは大好きだよ♪」
「…そのアイスとは違うんですがなあ…」
アドス和尚が苦笑しながら坊主頭に手をやりました。
「わしの名前は親父がつけてくれたんです。アドスの名前を活かしたものを…、と思ったんですな。埃という漢字に須弥山の須と書きます。須弥山は仏教では世界の中心に聳えておる山のことでして…数ならぬ人の身といえども須弥山の埃くらいにはなってみせろ、との親父の願いがこもっております」
「「「………」」」
分かったような、分からないような。顔を見合わせていた私たちに会長さんが教えてくれました。
「須弥山は人間が辿り着ける場所ではないよ。ぼくたちの住む世界と須弥山の間には幾重もの山や海があるんだと言われてる。そして太陽と月は須弥山の周りを回っているんだ」
げげっ。それはスケールでかすぎるかも…。その須弥山の埃だなんて、ちょっとやそっとの修行では…。
「須弥山の埃になるっていうのが大変なことは分かっただろう? アイスだからって笑えないのさ。もちろんアドス和尚も名前に誇りを持っている。…あ、今のはシャレじゃないからね」
「…すげえ名前…」
呟いたのはサム君です。仏門に入ってもいいかな、と思ってるだけに羨ましいのかもしれません。クリームちゃんという渾名に親しみを覚えた私たちですが、アイスの意味は深すぎました。
「そっか…。アイスって、アイスクリームじゃなかったんだ…」
言いだしっぺのジョミー君は悔しそう。仏門から話題を逸らしたつもりが、思い切り仏教世界のド真ん中まで突っ込んでいってしまったのですから。
「じゃあ、キースは?」
ヤケクソになったらしいジョミー君が繰り出したのは禁断の質問というヤツでした。
「キースの名前は何なんですか!?」
「馬鹿野郎!」
聞くな、と叫ぶキース君。いつも必死に隠し続けて、会長さんに何度も「ばらす」と脅しをかけられてきた名前をそう簡単に明かされたのでは、キース君も浮かばれないでしょう。ところが…。
「キュースですわ」
イライザさんがアッサリ答えました。
「「「キュース?」」」
「ええ。元々の名前とそっくりでしょう?」
コロコロと笑うイライザさん。キース君は頭を抱えていますが、キュースの何処がいけないと…? ごくごく普通な感じです。特に何にも思いつきませんし、隠す必要はなかったんじゃあ…?
「ええと…。それって、どんな漢字を書くんですか?」
ガッカリ感が滲み出た顔で質問を投げるジョミー君。ここまで来たら全部聞くぞ、と思ったに違いありません。
「休むという字に須弥山の須ですな」
須の字はわしと同じです、とアドス和尚が答えました。
「わしは須弥山の埃が限界ですが、せがれには須弥山で休めるくらいの器になって欲しいと思いまして…。わしのように妙な渾名がついても困る、と候補も絞り込みました。自信を持ってつけたというのに、せがれときたら…」
どうしても名乗りたがらんのです、とアドス和尚は深い溜息。須弥山で休むなんていう壮大な名前をキース君はどうして隠すんでしょう? 名前負けとかそういうレベルの問題なのかもしれませんが…。
「ね、君たちだっていい法名だと思うだろう?」
会長さんに改めて言われなくても、いい法名に決まっています。キース君、何が嫌なのかな…?
宴会は午前三時を回った頃にお開きになりました。朝の六時には山門を開けておかなくてはならないそうで、九時からは本堂でアドス和尚が初詣に来る檀家さんたちを迎えるのだとか。キース君も私たちが帰った後は同席することが決まっています。この初詣のために坊主頭にされる所だったキース君を会長さんが助けたというのが意外ですけど。
「ブルーなら剃らせる方だと思ったけどなあ…」
ジョミー君の言葉にマツカ君が。
「そうですよね? ぼくたち、それを阻止するために呼ばれたのに…」
私たちは宿坊の中の会長さんに割り当てられた部屋に来ていました。二間続きの立派な部屋で、控えの間なんかもあったりして…。会長さんは立派な布団の上に寝そべり、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はもう一組の布団の上でウトウトと。子供ですから眠いのでしょう。キース君は庫裏の自分の部屋に帰っています。
「ぼくってそんなに信用ないかな? いくらなんでも本当に坊主頭にはしやしないよ」
恨まれてしまう、と会長さん。
「アドス和尚はキースの頭を剃り上げようとしていたんだ。馴れない間は自分で剃るのは難しい上に、キースが自分で剃るわけがないし。…そりゃ、そういう時でもサイオニック・ドリームで誤魔化すことは出来るけどさ…。面倒じゃないか。何日間も坊主頭のフォローをしなくちゃいけないんだよ? それくらいなら阻止する方が楽でいい」
「…面倒かどうかで決めたんですか?」
呆れた声のシロエ君。会長さんは「どうだろうね?」と微笑んで。
「強制されて坊主になるんじゃ意味がない。須弥山で休む境地にはとてもとても…。で、君たちは初日の出を拝むのかい? 元老寺の山門からだと綺麗に見えると思うんだけど」
「んーと…。今から寝るよりは徹夜がいいよね」
ジョミー君の提案に賛成した私たちですが…。
「じゃあ、君たちは勝手に徹夜したまえ。ぼくは寝るよ。…大丈夫、年寄りは朝が早いんだ。それじゃ、おやすみ」
言うなり会長さんは布団を被って寝てしまいました。すぐに寝息が聞こえてきます。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も爆睡中ですし、ここで徹夜は悪いかも…。私たちはジョミー君とサム君の部屋に移って雑談やテレビで時間を潰し、空が明るくなってきた頃に玄関先へ移動しました。
「やあ、おはよう」
「かみお~ん♪」
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が爽やかに声をかけてきます。
「君たち、顔は洗ったんだろうね? 歯磨きは?」
「「「え?」」」
「えっ、じゃない。初日の出を拝みに行くんだろう? 身を清めるのは最低限の礼儀ってものさ」
「「「すみません~!」」」
大慌てで洗顔を済ませて戻るとキース君が来ていました。うわぁ、朝からバッチリ墨染の衣…。それからみんなで山門に行って、凍えるような寒さの中で石段の一番上から眺めた初日の出は神々しいほどの美しさでした。会長さんとキース君はきちんと両手を合わせています。なるほど、拝むものなんですねぇ…。気付けば後ろにアドス和尚とイライザさんも。
「皆さん、あけましておめでとうございます」
アドス和尚の挨拶に、一気に気分はお元日。私たちも声を揃えて挨拶をして、それが済むと宿坊の食堂に案内されました。キース君は一緒でしたが、アドス和尚は初詣の準備を整えに本堂へ。食堂には御雑煮とおせちが用意されています。イライザさんが配ってくれた湯飲みの中には、梅干しと結び昆布が入ったお茶。お正月のお茶、大福茶です。酸っぱいですけど、縁起ものですし飲まなくちゃ…。
「おかわりは普通のお茶がいいかしら?」
イライザさんの好意に私たちは素直に頷き、会長さんだけが「このままでいいよ」と答えました。
「無病息災のお茶だからね、これをおかわりしなくっちゃ。それより、初詣の準備の方はアドス和尚だけでいいのかい? お茶のおかわりだけ運んでくれれば、後は勝手にやっとくけれど」
「あら…。申し訳ございません。では、お言葉に甘えまして…。あ、お片付けは後でお手伝いの人が来てくれますから、放っておいて下さいね」
そしてイライザさんはお茶のおかわりが入った大きな土瓶と人数分の新しい湯飲みを運んでくると、忙しそうに行ってしまったのでした。会長さんの大福茶ですか? それは梅干しと結び昆布が残った湯飲みに普通のお茶を注げばいいようですよ。
元老寺の元日の行事は初詣客の応対です。アドス和尚が本堂に座って檀家さんをお迎えし、お屠蘇を勧めたり、子供連れの人にはお菓子を渡したりするそうですけど、キース君は食堂に残って私たちとお話し中。
「俺の仕事はブルーの相手が最優先だ。…親父からそう言われているし、坊主頭の危機から救ってくれたし…丁重にもてなしをさせて頂く」
キース君は会長さんの湯飲みに土瓶のお茶を恭しく注ぎ入れ、私たちには土瓶と湯飲みを指差して。
「おかわりはそこだ。自分で好きに淹れてくれ」
うっ。私たちはセルフサービスですか…。キース君に呼ばれたお客様なのに、会長さんとは身分の違いがあるようです。仕方なく土瓶の取っ手を握ったところへ「そるじゃぁ・ぶるぅ」がサッと出てきて。
「任せといて! はい、順番に回してね」
手際よく注がれたお茶を手渡しで順に送っていると、会長さんが声をかけてきました。
「ぶるぅ、大きな土瓶だけど重くないかい? お前がやるんならイライザさんに頼んで急須を…」
「平気だよ? もっと重たいお鍋も使ってるもん!」
「でも…急須の方がいいんじゃないかな」
「平気、平気! ほら、もうおしまい」
これで全部、と得意そうに胸を張る「そるじゃぁ・ぶるぅ」。いつもながら頼もしい家事上手です。…あれ? キース君、どうしたの? なんだか顔色が悪いみたい…。でも会長さんは気付かない風で。
「やっぱり急須と替えてもらおう。…キース、悪いけどこれを急須に…」
頼むよ、と土瓶を持ち上げる会長さん。
「ぶるぅには大きすぎるんだ。小さい身体には急須が一番」
「…分かった…」
キース君は土瓶を持って出てゆきました。なんだか足取りが重そうです。代わりに行くべきだったでしょうか…?
「いいんだよ。甘やかしてやる必要はない。同類嫌悪に陥っているだけだから」
「「「同類嫌悪?」」」
「そう。…分かるかい? キュースが急須を取りに行った」
「「「ああっ!」」」
アクセントが全く違っていたので誰もが気付いていませんでした。キュースと急須。キース君の法名には恐ろしい落とし穴があったのです。アドス和尚とイライザさんは気付いているのか、いないのか…。どうなんだろう、と騒いでいるとキース君がお湯がたっぷり入ったポットと急須を持って戻って来ました。襖がカラリと開いた瞬間、私たちは一斉に吹き出していて…。
「しゃべったな、ブルー!!!」
キース君の怒声が食堂に響き渡ります。申し訳ないとは思っていても、笑いのツボにハマッたものはそう簡単には抜けません。急須を手にしたキース君。キュースが急須を持ってるわけで、急須がキュースの手の中に…。あああ、もうダメ、笑い死ぬかも~! 笑いすぎておかしくなった喉を潤そうと湯飲みを持てば、またまた急須を連想しますし…。
「いい加減にしないと片付けるぞ!」
怒鳴りながら湯飲みを回収しようとするキース君の衣の袖を会長さんがハッシと掴みました。
「こらこら、そんなに怒らない。頭から湯気が出てしまうよ?」
「俺の名前はヤカンじゃないっ!!!」
「じゃあ、土瓶? それとも茶瓶? …もっと捻って茶っ葉とか? 急須と茶っ葉はセット物だよね」
「勝手にどんどん捻り出すなぁぁっ!!!」
キース君には悪いですけど、笑うなと言うだけ無駄ってものです。土瓶に茶瓶、キース君の自己申告ではヤカンも急須の連想ゲームに入ってるみたい。アドス和尚の「クリームちゃん」より惨いかも…。声が嗄れるまで笑って笑って、キース君は頭を抱えて呻くしかなかったのでした。
「…だから言いたくなかったんだ…」
やっとのことで笑いが鎮まった後、キース君は仏頂面で私たちを睨み付けました。
「お前たちなら絶対ネタにすると思って黙ってたのに、おふくろのヤツ…」
「勘違いをしちゃいけないよ、キース」
注意したのは会長さん。
「あの時点では誰も反応しなかった。お母さんは訊かれたことに答えただけだし、お父さんだって名付けた理由を話してくれたじゃないか。この子たちも全員、素晴らしい名前だと思ってたんだ。…急須のことに気付くまではね」
「………。つまりあんたが悪いってわけか」
ドスのきいた声に、会長さんは肩を小さく竦めてみせて。
「どうだろう? 急須、急須と連発したのはわざとだけれど、隠していてもいつか誰かに気付かれるよ? 陰でコソコソ笑われるより、パアッと派手にバラされた方が傷が浅いと思うんだけどな」
「…そうきたか…。実際、俺も怒りのやり場がなくて困ってるんだ。親父とおふくろは急須を見せても無反応だし、俺の法名と急須の繋がりに気付いていない可能性もある。だとしたら…騒ぎ立てても気の毒だしな。…仕方ない、バレてしまったことは諦めよう。その代わり…」
ビシッと私たちを指差すキース君。
「俺の名前はあくまでキースだ。法名の方で呼ぶんじゃないぞ。…呼びたいヤツは覚悟しておけ」
「やれやれ、物騒な話だねえ…」
会長さんが苦笑しながら右の手のひらに青いサイオンの光を浮かべました。
「それじゃ早速…。はい、キュース」
「なんだと!?」
「一応、覚悟はしてるんだけどね? これ、お年玉」
「お年玉…?」
不審そうなキース君に渡されたのは、会長さんがサイオンで宙に取り出した包み。リボンで綺麗にラッピングされた手のひらサイズの箱みたいです。
「開けてみて。これからの君に必要なものだ」
「……???」
ガサガサと包みを開けて中身を取り出すキース君。高級そうな箱の中から出てきたものは…銀色に輝く円形の綺麗なコンパクトミラー。四葉のクローバーが彫り込まれていて、どこから見ても女性用です。
「なんだこれは!?」
「…魔法の鏡。君の真実の姿が映る」
「また馬鹿なことを…」
コンパクトをパカッと開けた瞬間、キース君の顔が凍りました。どうやら声も出ないようです。
「どうだい? 新年初の坊主頭はいいものだろう」
会長さんはニッコリ笑って。
「アドス和尚にはああ言ったけど、君の将来のためを思えば…やっぱり馴れが大切だよね。そのコンパクトに映った君はいつでも坊主頭に見える。笑顔、泣き顔、困り顔…いろんな時に開けてみたまえ。その内に坊主頭も悪くないかと思える時が来る…かもしれない」
「…………」
「ぶるぅと二人で力を合わせて作ってあげた鏡だよ? 一万回くらい使える筈だ。期限切れになったらチャージするから持ってきて。四葉のクローバーの模様にしたのは幸運のお守りっていう意味で…。そうそう、ジョミーも欲しいかい? 欲しいんだったらお年玉に…」
「要らないってば!!!」
逃げ腰になるジョミー君を他所に、キース君は固まったままでした。手には魔法のコンパクト。法名の秘密をバラされた上に怪しい鏡を押し付けられて、踏んだり蹴ったりの元旦です。私たちも会長さんも、もうすぐ家に帰るんですけど…キース君、お見送りしてくれるかな? このままバッタリ倒れてしまって寝込むなんてことはないですよね? 今年も賑やかな年になりそうです。初笑いのネタにしちゃってホントにごめんね、キース君…。
除夜の鐘を撞きにきた人の列はキース君が言っていた通り午前一時まで続きました。いったい何回鐘が鳴ったのか、テントの中の私たちにも分かりません。一番最後に並んだ人が撞き終わった後、会長さんが鐘に向かって両手を合わせ、一礼してからゴーンと鳴らして…年越しの行事は無事に終了。甘酒のお接待もおしまいです。会長さんが私たちのテントにやって来て…。
「寒かっただろう? お疲れ様。じゃあ、本堂の方に行こうか」
え? 本堂って…宿坊に帰るんじゃないんですか?
「まだ修正会があるんだよ。君たちも一緒にお参りしたまえ」
「「「シュショウエ?」」」
「新しい年を迎えて、社会の平安と人々の幸福を願う今年最初の法要のことさ。熱心な檀家さんも参加する」
さあ、と有無を言わさぬ口調の会長さん。キース君も「参加してくれて当然」という顔で頷いてますし、アドス和尚は本堂の方に行っちゃいましたし…もう諦めるしかないでしょう。私たちの新年はお線香の煙と共に始まりました。鐘や木魚が打ち鳴らされて、本堂に響く読経の声。会長さんも真面目にお経を唱えています。厳かな修正会は一時間も続き、やっと解放された時には足が痺れて立てませんでした。
「いたたたたた…」
ジョミー君が足を擦っています。でもシロエ君とマツカ君、それにサム君は平然として。
「柔道では礼儀作法を重んじますしね。正座くらいは常識ですよ」
「ぼくは茶道も習ってますので…」
「俺もブルーの家で週に一度は座ってるしな。初めの頃に苦労したから、家でも座る練習してるぜ」
うーん、やっぱり日頃の鍛練が必要みたい。スウェナちゃんと私は転ばないよう注意しながら立ち上がりました。修正会に参加していた檀家さんたちは既に出口に向かっています。アドス和尚と会長さん、「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにキース君は座ったまま。私たちは一般の人が帰るまで本堂の出口付近で待って、それからキース君に連れられて宿坊に戻ったのでした。
「おふくろが食事を用意してるから、先に食堂へ行っといてくれ。俺は庫裏で着替えてくる」
キース君が出てゆくと会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も部屋に着替えに行きました。先に食堂へ…とは言われましたけど、気おくれして玄関付近にたむろしている間に会長さんはすっかり普段着に。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はいつものソルジャー服のミニチュア版です。
「おやおや、こんな所にいたのかい? 食堂で待っていればいいのに」
精進料理じゃないみたいだよ、と会長さん。
「宿坊って言ってもね…。最近じゃ肉も魚もオッケー、お酒だって用意している所が多いんだ。時代に合わせて変化するものさ。元老寺だって同じだよ」
「えっ? でも、去年の夏も今日のお昼も精進料理だったんだけど」
ジョミー君の問いに会長さんはクスッと笑って。
「去年…いや、もう一昨年か。あの夏休みは修行体験、今日のお昼はこけおどし。…君たちはアドス和尚にハメられたんだよ」
「「「えぇぇっ!?」」」
ひどい、と叫ぶ私たち。前の夏休みのお寺ライフは演出されたものでしたか…。
「貴重な体験が出来たんだからいいじゃないか。ここの宿坊は璃慕恩院にお参りするお客さんが多いんだ。璃慕恩院にも宿坊はあるけど、街から離れているからね…。こっちの方が何かと便利で、けっこう繁盛しているんだよ」
なるほど。お手伝いの人を何人も雇っている理由が分かりました。会長さんが言うには、普通のお客さんは掃除も朝晩のお勤めも参加しないでいいのだそうです。単に「お寺に泊まる」というだけ。もちろん食事は肉も魚も、それにお酒も…。
「ぼくたち、騙されちゃったんですね」
やられました、とシロエ君。キース君とは先輩後輩の付き合いですけど、宿坊の内部事情までは知らなかったらしいです。非日常体験という会長さんの言葉に乗せられ、抹香臭くなってしまった一昨年の夏休み。今回も順調に抹香臭くなりつつあるものの、もしかして…?
「とりあえず今夜は普通のおもてなしさ。未成年だからお酒は無理だけどね」
会長さんについて食堂の方へ歩いて行くと、美味しそうな匂いがしてきました。精進料理では考えられない香りです。夕食が早かったせいでお腹はペコペコ。これは期待しちゃっていいかも~!
食堂ではイライザさんが待っていました。
「みなさん、お疲れ様でした。お腹が空いてらっしゃるでしょう? たくさん召しあがって下さいね」
幅の狭い机を幾つかくっつけて並べ、大きな机にしてあります。その上にはお寿司やピザやフライドチキン、サイコロステーキなんかも乗っかっていて、何種類かのサラダが山盛り。正座スタイルは変わりませんけど、このノリならば足を崩しても平気そうです。
「なんじゃ、まだお座り頂いていなかったのか」
ドスドスドス…とアドス和尚が作務衣姿で入って来ました。後ろにはセーターを着たキース君が続いています。アドス和尚は会長さんを上座に据えようとしましたが…。
「いいじゃないか、適当で。それに色々と話もしたいし、キースはそこで…お父さんとお母さんはここがいいかな。他のみんなは好きな所でいいと思うよ」
そういうわけで私たちは好みの場所に座布団を置き、楽しく食事を始めました。もちろんジュース飲み放題です。ワイワイと騒いでいると、アドス和尚がいきなりコホンと咳払いをして。
「キース、楽しい正月になって嬉しいだろう。友達と一緒に年を越せたし、どうだ、思い切って頭を剃っては? 檀家さんにアピールするのも重要だぞ」
「…えっ…」
一気に青ざめるキース君。私たちも青ざめましたが、アドス和尚は御機嫌でした。
「お前も知っておるだろう。三が日は檀家さんが初詣に来る。本堂でお迎えするのは住職の大事な務めの一つで、お前は次の住職だ。お前が寺を継ぐと決心したんで檀家さんは期待しとるぞ。大学生になったことだし、今年はきちんと頭を剃って檀家さんをお迎えしろ」
「で、でも…。俺はまだ住職の位が無いし…」
「そんなことは分かっとる。だがな、檀家さんは坊主というだけで安心なさるものなんだぞ。同じ墨染の衣を着ても、有髪と剃髪とでは有難味が全然違うと思わんか、キース」
「……うう……」
グウの音も出ないキース君を他所に、ジョミー君が首を傾げました。
「…ウハツって、なに?」
「髪の毛があるっていう意味だよ」
有る髪と書く、と会長さんが説明してから自分の髪を指差して。
「盛り上がってるところを悪いけどさ。…アドス和尚の説からいくと、ぼくは有難味がないってことかな?」
「え。…あ、ああっ、これは失礼を…!」
アドス和尚は蛙のように平たくなって会長さんに謝りまくり、イライザさんも一緒になって謝ります。会長さんは苦笑しながら「気にしないで」と二人を座り直させ、銀色の髪を引っ張って。
「…ぼくはね、修行時代と剃髪必須の期間だけしか剃ってないんだ。それでも今じゃ緋の衣さ。坊主の価値は外見で決まるものじゃない。大切なのは中身なんだよ。キースもいつかは剃髪しなきゃいけないけれど、その時期だって押しつけるのは良くないと思う」
順調に行けば来年の暮れには道場入りで剃髪だけど、と残酷な現実を口にしつつも会長さんは大真面目でした。
「キースは今も剃髪に抵抗があるようだ。剃髪を受け入れられる心境にならない間は、道場に行っても無駄かもしれない。短く切るのさえ嫌みたいだし、この秋の修行道場だってどうなるか…。でもね、大切なのはキース自身の心なんだよ。キースが自分で決めるんでなけりゃ、道は決して開けやしない」
「…そういうものでございますか…」
アドス和尚の寂しそうな声に、会長さんは深く頷いて。
「そういうこと。仏の道に進みたい、仏様の教えを受け入れたい、と心の底から思うようになれば、髪を下ろそうと考える筈さ。修行には邪魔なものだからね。…一通りの修行を済ませた後で有髪に戻るのも一つの選択。雑事に心乱されない境地を目指すんだったら有髪を選ぶのもいいと思うよ」
「せがれにはまだまだ先の話のようですが…」
「まあね。元老寺を継ぐには住職の位がを貰わないといけないし、そのための道場入りには剃髪しないといけないし。…越えなきゃいけない壁は高いけど、キースならきっと越えられるさ。自分から乗り越えようという気構えになるまで、無理強いしない方がいい。強制されて坊主になっても、外見だけでは意味がないんだ」
人を救うのが仕事だからね、と会長さんは微笑みました。
「自分の中に迷いがあるのに、人を導けると思うかい? キースを立派なお坊さんにしたいんだったら、迷いが消えるまで暖かく見守ってあげたまえ。…そうは言っても檀家さんの手前もあるし、一日も早く形だけでも…と思う気持ちは分かるけどね」
「はあ…。分かったような気がいたします。せがれの器も考えませんで、身なりばかりにこだわっていたとは…私もまだまだ未熟者で」
アドス和尚は会長さんに丸めこまれたようでした。キース君はホッとした顔をしています。会長さんのせいで剃髪させられてしまうかも…と私たちを助っ人に招集したのに、剃髪だと言いだしたのはアドス和尚で、それを止めたのが会長さんとは…。キース君、会長さんに大きな借りが出来たみたいですけど、高僧としての見解ですし、世俗とは無縁で貸し借りなんて関係ないかな?
剃髪の危機を免れたキース君は嬉しそうでした。一方、論破されたアドス和尚は…。
「お教え、心に留めておきます。…しかし私も修行の足りぬ身、せがれの長髪を目にする度にムカムカするのは事実でしてな。それに比べて、同じ有髪でも貴方のお姿を拝見しますと自然と頭が下がります。せがれから三百年以上も生きておられる、と聞いておりますし、いつぞやは掛軸の件で大変お世話になりまして…」
「ああ、そういう話もあったねえ。あれは愉快な掛軸だった」
会長さんがニッコリと笑い、私たちも思い出しました。アドス和尚が檀家さんから預かったという「いわくつき」の掛軸、『月下仙境』。そこに描かれた月の中から「ぶるぅ」が飛び出して来たんでしたっけ。しかしアドス和尚は怪訝な顔。
「…愉快とは…。あの掛軸がどうかいたしましたか? 明星の井戸のお水で書いて頂いた光明真言のお蔭で、もう化け物は出てこない…と、せがれが申しておりましたが」
「うん。実は、あれの御縁で素敵な友達が出来たんだよ。三百年以上生きたぼくでも思いもよらない友達が…ね」
「………。魑魅魍魎の類ですかな?」
「いや、化け物ってわけじゃないけど。…でも、あの掛軸と出会わなかったら会うこともなかった友達だ。ぼくに任せてくれて感謝してるよ」
別の世界から来たソルジャーについて話すのかな? と思いましたが、会長さんは語りませんでした。アドス和尚も首を捻って「はあ…」と言うより他はなく。
「私のような凡人などでは一生会えそうにありませんな。もっと修行に励みませんと…。ところで、明星の井戸と聞いた時から気になっていたことがございまして。…それを直接お聞きしたくて、お招きさせて頂きました」
「なんだい?」
どうぞ、と先を促す会長さんに、アドス和尚は姿勢を改めて。
「…明星の井戸は璃慕恩院の奥の院にあり、高僧の中でも入れる方は少ないのだと聞いております。そこのお水が手に入る上に、銀色の髪でお名前がブルー。おまけに三百年以上も生きておられるとなると、どうしても…。そのぅ、とある御方が思い浮かびまして…。もしや、あなたは銀青様では…?」
「あーあ、とうとうバレちゃったか」
「やはり…! これ、キース、イライザ、お辞儀をせんか!」
深々とお辞儀するアドス和尚に、会長さんは困ったように溜息をついて言いました。
「いいんだってば、ただのブルーで。それにキースはもう知ってるよ、ぼくが銀青だったってこと。…銀青の名前は記録から消えて百年以上も経っている。その銀青が今も生きていると知っている人はごく少数だ。何百年も姿が変わらず、時々姿を現す謎の高僧の噂は流れていると聞くけどね」
「…私も修行中に耳にしました。まさか、その高僧が銀青様とは…。しかも我が家に来て下さるとは、なんとも有難いお話で…」
「だから、特別扱いは要らないってば。そういうのはあまり好きじゃないんだ。緋の衣には誇りがあるけど、銀青の名はどうでもいいのさ。…キースの友達で、何故か高僧。その辺にしといてくれないかな」
ぼくは人生を楽しみたいし、と会長さんはアドス和尚に釘を刺します。
「いいかい、ぼくの正体は他言無用だ。でないとキースを苛めるよ? 知らないふりをしててくれれば、キースの役に立つこともある。…取引としては悪くないんじゃないかな、ぼくは本山に顔が利くから」
「分かりました。そう仰るなら、気付かなかったことにいたします。…ですので、せがれをどうぞよろしく」
「そんなにお辞儀しなくっても…。今までどおりの調子で頼むよ、でないと肩が凝りそうだ」
ねえ? と私たちにウインクしてみせる会長さん。私たちは一斉に頷き、アドス和尚はイライザさんと顔を見合わせてから、照れたように笑い出したのでした。
正体は会長さんだという伝説の高僧、銀青様。アドス和尚とキース君、イライザさんはどんな人だかよく知っているようなのですが、私たちにはサッパリです。お坊さんの名前なんてエラ先生の歴史で習った幾つかの宗派の開祖くらいしか知りません。…うーん、とっても気になります…。
「銀青様って、偉いんですか?」
ズバリ切り出したのはサム君でした。会長さんに弟子入りしているだけに、好奇心を抑えきれないみたい。アドス和尚は「それはもう…」と言ってしまってから会長さんの顔色を窺い、不機嫌でないことを確認して。
「皆さんご存じないようですし、少しお話ししておきますか。色々と教えなども残しておられるのですが、そちらは素人さんにお聞かせするにはちょっと難しすぎますな。…修行時代の逸話くらいがちょうどいいかと」
よろしいですか、と尋ねられた会長さんはクスッと小さく笑いました。
「いいけどね。誰も信じてくれそうにないよ」
「そうでしょうな。…実際、私も信じられない気持ちです。あの伝説の銀青様が、お元日からフライドチキンを美味しそうに食べてらっしゃるなんて…」
「人生を楽しみたいって言ったじゃないか。だから銀青の公式記録をキッチリ途絶えさせたんだ。死んだと思われてる方が暮らしやすいし」
精進料理なんて御免だよ、とサイコロステーキを頬張る会長さん。アドス和尚は「同感ですな」とフライドチキンに齧り付きながら、愉快そうに話し始めました。
「…銀青様の凄い所は、本来ならば必要のない修行をなさったことでして。元老寺が南無阿弥陀仏なのはご存じでしょう。璃慕恩院の教えも南無阿弥陀仏の一語に尽きます。ですが、開祖の上人様は別のお寺で長年修行をなさっておられました。…これは歴史では習いませんかな?」
「知りませんでした…」
マツカ君が素直に答えます。開祖だけなら授業で習っているのですが。
「学校ならそんな所でしょう。その上人様が修行なさったお寺というのが、恵須出井寺です」
「…エスデイデラ…」
棒読みで呟いたのはジョミー君でした。恵須出井寺はアルテメシアの郊外に聳える一番高い山の頂上にあって、昔は山法師と呼ばれる僧兵で有名だったお寺です。卒業旅行で回ったソレイド八十八ヶ所を開いたお大師様と喧嘩別れした人を開祖と仰ぎ、千日回峰という荒行なんかで知られていたり…。
「へえ…。あの人、千日回峰とかもやったのかぁ…」
感心しているサム君に、アドス和尚が。
「上人様は千日回峰はやっておられませんよ。ですが、恵須出井寺の修行は厳しいんです。そこで修行を積んだ末に、普通の人々を救う道を求めて山を降りられ、南無阿弥陀仏をお教えになった。…銀青様はその上人様と同じ修行を志されて、恵須出井寺まで行かれたんですな」
「「「えぇっ!?」」」
あのグータラな会長さんが…わざわざ厳しい修行をしに?
「修行だけでも大変なものだと思うのですが、当時はもっと大変でした。璃慕恩院と恵須出井寺は宗派が違いますからな…。璃慕恩院で出家なさった銀青様が修行したいと申し出られても、そう簡単には通りません。十日間に亘る問答の末に、ようやく許可が出たのだそうで」
今は試験に通れば誰でも修行できるシステムですが、とアドス和尚は言いました。
「銀青様は恵須出井寺で二年も修行なさって、璃慕恩院に戻られたのです。皆さんはご存じないでしょうが、恵須出井寺では、こう…印を結んで御真言を唱える他に、座禅なんかもやるんですな。つまり仏教の有名どころの要素を押さえている。その辺りも銀青様が入門なさった理由だったと聞いております」
「まあね。…色々と興味があったから」
会長さんは否定しませんでした。と、いうことは…。本当に二年も修行三昧、荒行三昧…?
「起床は午前一時だったよ。一番厳しかった修行の時は」
「「「一時!?」」」
「うん。起きたらすぐに水をかぶって、お経を唱えながら山道を歩いて、仏様にお供えする水を汲みに行くんだ。帰ってきたら午前二時から朝の五時まで座禅をやって、それから護摩の焚き方とか印の結び方とか、とにかく寝るまで勉強しかない」
「「「…………」」」
サラッと言ってのけてますけど、聞いただけで気絶しそうな凄まじいハードスケジュールです。いくらサイオンが…最強のタイプ・ブルーのサイオンがあっても、これではどうにもならないのでは…。
『水をかぶる時はシールドしてた』
私たちにだけ伝わる思念波を送ってよこして、会長さんが微笑みました。
「アドス和尚は感激しているようだけど…ぼくにとっては修行も興味の延長線上。璃慕恩院の修行は楽だって言われているんだよね。それは昔も今も同じさ。だから厳しい修行をやってみたいと思ったわけ。せっかくだから極めたいじゃないか」
「お言葉ですが、誰にでも出来るものではございませんぞ。せがれでも無理かと存じます」
アドス和尚の言葉に必死で頷くキース君。うかつに何か言ったりしたら、会長さんが修行したのと同じ道へ送り込まれそうな気がしたのでしょう。会長さんは「そうだろうね」と笑みを浮かべて。
「…ぼくみたいな修行をやってみろとは言わないよ。でも、気が向いてチャレンジするなら助言はするさ。キースに限らず、ジョミーでも…そしてサムでも、やりたくなったらいつでも言って」
「「「!!!」」」
凄い勢いで首を横に振るキース君たち。アドス和尚はサム君を見詰め、「ほほう…」と息を漏らしました。
「あなたも仏門を目指しておられるのですな。せがれも心強いことでしょう。いや、シャングリラ学園にお世話になって本当によかったと思いますなぁ…」
うんうん、と感慨深げなアドス和尚。サム君はともかくジョミー君は仏門なんか全く目指していないのですが、どんどんヤバイ方に向かって話が転がって行ってるような…?
銀青様こと会長さんの過去の偉業は認めざるを得ませんでした。サイオンで多少ズルをしてても、やり遂げたことは確かです。アドス和尚が語ってくれる恵須出井寺と璃慕恩院の修行メニューに耳を傾けていると…。
「ぼくのことばかり話していないで、元老寺の話もしてほしいな」
会長さんがニコニコ顔で割り込みました。
「この子たちも元老寺には興味津々なんだよ。…キースの法名限定だけどさ」
「さようですか…。キース、まだ友達には教えてないのか?」
「………」
沈黙しているキース君。法名というのはキース君のお坊さんとしての名前です。漢字二文字で、分かっているのは『ス』という音が入ることだけ。アドス和尚は苦笑いをし、イライザさんがコロコロと笑って。
「駄目ですよ、キース。お友達に尋ねられたら、ちゃんと答えるものでしょう?」
「…それは…」
「あなた、大学でもキースのままで通しているの?」
「…え、ええ…」
しどろもどろのキース君。優しそうなお母さんですけど、それだけに逆らいにくいのかな…。でも大学で名前がキースじゃダメなんでしょうか? お坊さんを育てる大学ですし、そういうこともあるのかも…。
「大学で使う名前は、別にどっちでもいいんだよ」
会長さんが言いました。
「法名を使う学生もいるし、そうでない人も沢山いる。…キースのお父さんはどうだったのかな?」
「もちろん法名でしたのよ」
ニッコリ微笑むイライザさん。
「私、キースと同じ大学でしたの。一人娘でしたし、お坊さんと結婚できなかったら尼さんになって寺を継げ…って父に言われて焦ってましたわ」
なんと! この美人のお母さんが尼さんになるかどうかの瀬戸際に…? イライザさんはキース君の肩をポンと叩いて。
「尼さんに比べたら、お坊さんなんて大したことではないでしょう? でもキースったら嫌だ、嫌だ…って言うんですのよ。お坊さんの勉強は始めたものの、坊主頭は嫌なんですって」
仕方ない子ね、と溜息をつくイライザさんですが、キース君が可愛くて仕方ないのは分かります。キース君だって「おふくろは俺に甘い」と言ってましたし。
「…でもね、きっとなんとかなりますわ。銀青様…いえ、素晴らしい先輩にお会い出来たのが運のいい証拠。私だってもう駄目だ、と諦めてたのにクリームちゃんに会えたんですもの」
「「「クリームちゃん???」」」
クリームちゃんって…なんですか、それ? 誰もがポカンとしている中で、イライザさんは…。
「もちろん主人のことですわ。法名だったと言いましたでしょ?」
え。会長さんが言っていたことが本当ならば、アドス和尚の法名は『ス』の字が入っている筈です。クリームちゃんだと、どう転んでも『ス』の字は入り込めません。私たち、会長さんに騙されましたか…?
「母さん。…クリームちゃんって渾名の方だろ」
おふくろは親父にぞっこんだから、とキース君が額を押さえました。
「みんな呆れているじゃないか。頼むから早く訂正してくれ」
「あらあら、私、うっかりしてて…。ごめんなさいね、クリームちゃんは大学でついた渾名ですの」
「ちゃん付けはお前だけだったろうが」
アドス和尚が恥ずかしそうにイライザさんを見ています。
「そうだったかしら? 初めて聞いた時は意味がさっぱり分からなくって、坊主頭なのにヘアクリームを使ってるのかと思いましたわ」
大学時代に剃髪していたアドス和尚。どおりでキース君の長髪に我慢ならないわけですが…クリームって、なに?
「アイスクリームの略なんですって」
おかしいでしょ、とイライザさんは口元を押さえて笑いました。
「最初は法名だったらしいんですけど、途中で誰かが渾名をつけて…私が出会った時にはクリーム。法名がアイスだからクリームだなんて、本当にお茶目な話ですわね」
「「「アイス!?」」」
確かに『ス』の字が入っています。…アドス和尚の法名はアイス? でもってアイスがアイスクリームで、アイスクリームがクリームちゃんで…。キース君が必死に隠す法名ってヤツも、ネタにされそうな名前ですか~?
賑やかだったクリスマスが済むと普通の日々が待っていました。冬休みですからジョミー君たちとドリームワールドに行ったり、スウェナちゃんと街でお買い物をしたりしている内にパパのお仕事もお休みになって…。特に旅行の予定とかも無く、明日は大掃除かな…なんて考えていた夜のことです。
『起きてるか!?』
いきなり飛び込んできた思念波の主はキース君でした。みんなに一斉に呼び掛けたらしく、ジョミー君やサム君も思念波で返事をしています。…なんでメールじゃダメなんでしょう?
『すまん、メールではうまく伝わらないんだ。思念波の方が間違いがない』
『『『………?』』』
『みんな、年末年始は暇か? …いや、忙しいなら仕方がないが…』
キース君にしては歯切れの悪いもの言い…いえ、思念波です。暇かと言われれば暇ですけれど、私たちに何か用事があるのでしょうか。
『暇なら頼まれてほしいんだ。年末年始は…』
そこまで思念波が届いた時です。
『ふうん? 楽しそうな相談だねえ』
割り込んできたのは他ならぬ会長さんの思念波でした。
『サイオンもろくに扱えないレベルのヒヨコが夜中に揃って密談かい? チャットの方がマシじゃないかな』
その方が楽だし確実だよ、と笑う気配が伝わってきて…。
『まあ、心意気だけは買ってあげよう。今、チャット部屋を用意するから』
『『『は?』』』
会長さんって、そういうのをやってましたっけ? 聞いたこともないんですけど…って、ええっ!?
「かみお~ん♪ いらっしゃい!」
突然の青い光と浮遊感に包まれた直後、目の前に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が立っていました。そこは見慣れた会長さんの家のリビングで、キース君たちもポカンとした顔で揃っています。
「こんばんは。チャット部屋へようこそ」
パジャマ姿の会長さんが微笑み、「そるじゃぁ・ぶるぅ」は誕生日に私たちがプレゼントしたアヒルちゃんパジャマ。ああっ、いけない! 私もパジャマでしたっけ~! スウェナちゃんもピンクのパジャマです。男の子たちも全員パジャマ。
「パジャマ・パーティーってところかな。…でも女の子はそれじゃマズイか」
会長さんの指先がキラッと光って、私の手の中にバサッとガウンが降ってきました。スウェナちゃんもガウンを手にしています。
「フィシスのだよ。ぼくの家にも置いてあるんだ。遠慮しないで借りるといい」
フィシスさんの置きガウン…。そんなものが何故あるのかを考え始めたらドツボですから、私たちはお礼を言って素早くガウンを羽織りました。軽くて暖かくて…見た目も華やか。ううん、これ以上は考えたら負けというヤツです。
目の前では「そるじゃぁ・ぶるぅ」が嬉しそうに飲み物とお菓子を用意していて…。
「ブルーがね、パウンドケーキは日持ちするから多めに焼こうって言ったんだ。そしたらお客様がこんなに沢山…。ねえねえ、ブルー、お客様が来るって知ってたの?」
「まあね。…フィシスに占ってもらわなくても分かる時には分かるものさ。さあ、遠慮なく相談を始めたまえ」
どうぞ、と笑顔の会長さん。…えっと…とりあえず座ればいいかな?
みんなが腰掛けてココアや紅茶を飲み始める中、キース君は沈黙していました。コーヒーカップを両手で包み、複雑な表情をしてますけれど…。
「キース。君がみんなを呼んだんだろう? 黙っていたんじゃ失礼だよ」
会長さんが促しましたが、キース君は口を開きません。ひょっとして私たちへの頼みというのは会長さん絡みの何かだったとか…?
「いいけどね。喋る気がないんだったらそれはそれで…。だけど呼ばれた方はいい迷惑だ。ぶるぅのパウンドケーキくらいじゃ時間外労働には足りやしない」
「………」
「君が言わないのなら、ぼくが話そう。キースが君たちを呼んだのは…」
「いいっ!」
俺が話す、とキース君が会長さんを遮って。
「…仕方ない、ブルーに気付かれないように…だなんて、考えるだけ時間の無駄だったんだ。こういうヤツだと分かっていたから、みんなに頼もうと思ったんだしな」
「「「???」」」
「頼む、年末年始に特に予定が無いんだったら、俺の家へ泊まりに来て欲しい。…除夜の鐘が撞けるし、甘酒のお接待もある」
「除夜の鐘?」
楽しそうだね、とジョミー君が反応しました。会長さんから仏門に入れと脅されてるくせに、自分の方からお寺に近付いていっていいのでしょうか? まあ、除夜の鐘は大晦日の最大のイベントですし、抹香臭いイメージも全然ありませんけど。
「来てくれるか? 他のみんなは?」
「そうですね…。家にいたって別になんにもありませんし…先輩の家に行こうかな」
シロエ君は行く気のようです。私も除夜の鐘に興味津々でしたが、キース君からの急な思念波が心に引っ掛かっていてすぐには返事できません。他のみんなも同じような考えらしく、探るような視線を交わしていると…。
「…すまん…。理由も言わずに頼みごとをしようという俺が間違っていた」
キース君はコーヒーカップをテーブルに置き、ソファから立つとガバッと土下座をしたのでした。
「頼む、助けると思って来てほしい。…親父がブルーを招待したんだ。年末年始という節目の時にブルーなんかが寺に来てみろ、いったい何をやらかされるか…。下手すりゃ初日の出前に坊主頭だ」
「「「………」」」
会長さんが元老寺に招待されたとは初耳でした。キース君のパパの恰幅のいい姿が目に浮かびます。高僧である会長さんにペコペコ頭を下げてましたっけ。…あのアドス和尚を会長さんが上手に焚きつけ、キース君を坊主頭にしてしまうことはありそうです。…絶対ないとは言い切れません。
「ブルーの暴走を止められるのはお前たちくらいしかいないんだ。…お前たちがいてもダメかもしれんが、ベストは尽くしておきたいんだ! 頼む」
このとおりだ、と絨毯に頭を擦りつけているキース君。土下座なんてしてくれなくても、窮状を知った今となっては断る方が鬼ってものです。私は「行く」と答えました。スウェナちゃんもサム君も。そしてマツカ君は…。
「よかったです、早めに連絡して下さって。…明日から両親と出かけるところだったんですよ」
自家用ジェットで外国へ行く予定だったらしいですけど、マツカ君は穏やかに微笑んで。
「お城は逃げたりしませんしね。次の機会がありますよ」
観光だとばかり思っていたら、マツカ君のパパのお城だそうです。マツカ君、どこまで凄いんだか…。
大惨事を回避するアイテムならぬ助っ人を得たキース君はようやく笑顔を取り戻しました。大晦日は私たち全員、キース君の家にお泊まりです。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」もお泊まりに行くわけですが…。
「君たちを巻き込んじゃうとは思わなかったな」
会長さんが紅茶を口に運びます。
「ぼくとしては久しぶりにお寺で過ごす年末年始を満喫したかっただけなんだけどね?」
「久しぶりというのが恐ろしいんだ! 来るわけないと思ったのに…」
フィシスさんはどうする気だ、とキース君。
「親父はフィシスさんのことなんか知らないからな、悪いとも思っていないようだが…。フィシスさんはあんたの嫁も同然だろう? 一人ぼっちで年越しさせて、あんたは胸が痛まないのか? フィシスさんの手前、なんだかんだと理由をつけて断ってくると信じてたんだ!」
「…フィシスならいないよ?」
旅行に行った、と会長さんはニッコリ笑いました。
「フィシスは未来が読めるだろう? 冬休みはどう過ごそうか、と希望を訊いたら言われたんだ。キースのお父さんがぼくを誘ってくる筈だ、って。断るかどうかはぼく次第だ…ともね」
フィシスさんはシャングリラ学園の女の先生たちと食べ歩きツアーに出かけたそうです。女の先生ばかりのツアーにいつも誘われるらしいのですが、会長さんと一緒に行くことは出来ませんから滅多に参加しないのだとか。
「ほら、ぼくだって男だし…あのツアー、男子禁制だしね。いい機会だからフィシスは旅行、ぼくはキースの家に行くことにした。何も問題ないと思うな」
「…俺をどうするつもりなんだ?」
「別に? ぼくはご招待をお受けしただけで、元老寺の内部事情に口出しする気はさらさら無いさ。君の父上がご希望ならばともかく、そうでなければ衣を着ようって気もないし」
「親父は期待してると思うぞ…」
溜息をつくキース君。会長さんの緋色の法衣は最高位のお坊さんのシンボルです。会長さんを招待したからには、アドス和尚は緋色の衣とセットで考えているでしょう。もちろん会長さんだって無関心を装いながらも、衣を用意して行くに決まっています。
「ぼくはね、君の将来をとやかく言おうとは思っていない。君が自分で決めるんでなけりゃ、道は決して開けやしないよ。…それだけは肝に銘じておくんだね」
珍しく真面目な言葉を口にして、会長さんは私たちを見回しました。
「夜中に呼び出しちゃって驚いただろう? でもサイオンでやりとりするより分かりやすかったと思うんだ。キースの土下座はサイオンで密談してても見られないし…。じゃあ、大晦日に元老寺で会おう。ぶるぅも君たちがいた方が退屈しなくていいかもしれない」
万年十八歳未満お断りだし、とウインクしてから会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」と協力して私たちを瞬間移動で順番に家へ。青い光に包まれ、自分の部屋に帰った時には借り物のガウンはありませんでした。…夢を見てたわけじゃ…ないですよね?
『迷惑をかけてすまなかった』
キース君の思念波が届きました。
『年末年始はよろしく頼む。詳しいことは後でメールするから』
本当に夢じゃなかったみたいです。今年の大晦日はキース君の家で除夜の鐘。…なんだかワクワクしてきましたけど、キース君は会長さんの訪問を控えてブルブル震えているのかな?
郊外の山沿いにある元老寺に私たちが到着したのは大晦日の昼前のことでした。電車と路線バスを乗り継いでくるとかなり時間がかかります。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はリッチに迎えのタクシーか何かで来るのでしょうが…。石段の上に山門という本格的なお寺の構えは何回見ても非日常です。
「えっと…庫裏の方へ行けばいいんだよね?」
ジョミー君が荷物片手に先頭に立って境内を進み、庫裏の入口まで行ったところで。
「かみお~ん♪」
元気な声が聞こえて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が宙返りしながら降って来ました。
「ブルー、とっくに着いてるよ? ご飯の用意もできてるんだ」
ほらこっち、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」に案内された先は前に泊まった宿坊でした。扉を開けてキース君のお母さんが出てきます。黒髪美人の着物姿って素敵ですよねえ。
「こんにちは。いつもキースがお世話になって…。どうぞお入り下さいな」
イライザさんは私たちに部屋を割り当ててくれ、荷物を置くと食堂へ連れて行ってくれました。これから二日間、正座が基本の生活です。畳敷きの食堂には既に会長さんの姿があって…。
「やあ、遅かったね。同じような時間に出た筈なのに、この差はいったい何なんだろう?」
「ブルーは車で来たんだろ!」
唇を尖らせたのはジョミー君です。
「ぼくたちは電車とバスなんだから! これでも乗り継ぎは上手くいったと思ってるんだよ!」
ちゃんと時刻表を調べて来たんだ、とジョミー君は膨れっ面。元老寺へのバスは通勤時間帯を除くとあまり本数がないのでした。とはいえ一時間に三本は走っていますし、ド田舎ではないんですけども。
「ごめん、ごめん。ぼくとぶるぅは迎えの車が来たものだから…。アドス和尚も心得てるよね」
そう言っている会長さんは緋の衣どころか制服でもなく、普段着のセーター姿でした。招待を受けたというならそれなりの服装というものがあるのでは…? しかも会長さんが座っているのは私たちの前にあるものよりも遥かに立派な座布団です。…と、サム君がハッと姿勢を正して。
「あ。俺、この席じゃマズイんだ。…えっと…」
入った順番で座ろうとしていた私たちの後ろをサム君が通り抜け、入口に一番近い所へ。もしかして下座ってヤツでしょうか? 普段は会長さんの隣や向いが指定席なサム君ですが、お寺に来たら師弟関係優先ですか? 会長さんはサム君を見て満足そうです。正式に弟子入りしたわけでもないのに、サム君、とっても健気かも…。
「これはこれは。ようこそ、皆さん」
ドスドスと重い足音と共にアドス和尚が現れました。墨染の衣ですけど、袈裟は着けていません。その後ろから同じく墨染の衣のキース君が入ってきて、サム君と席を譲り合った後、一番下座へ。アドス和尚は会長さんに手招きされて「そるじゃぁ・ぶるぅ」を間に挟んで座ることに。
「キース、今日はお坊さんをやってるんだ?」
軽いノリで尋ねるジョミー君。サイオンで坊主頭に見せかける訓練をキース君と一緒にやってるくせに、除夜の鐘と聞いて元老寺行きを即決したのと同じで危機感というものが無いようです。キース君は苦笑しながら「俺も一応、坊主だからな」と答えました。
「住職を任される資格は無いが、ちゃんと得度はしてるんだ。寺を継ぐという決心もしたし、行事のある日は衣を着るのが当然だろう」
「そっか。でも袈裟までは着けていないんだね。…それが普段着?」
明日は我が身という危機感ゼロのジョミー君は好奇心の塊でした。そんなことを聞いて大丈夫…?
「流石だね、ジョミー。見どころがあるよ」
あぁぁ、やっぱり~! 声の主は上座の会長さんです。
「普段着っていうわけじゃないんだ。袈裟は神聖なものだから、不浄な場所では外す決まりになっている。トイレなんかはもっての外だし、食事も同じさ。…それで外しているんだよ。細かい所に気を配るのは修行の大事なポイントだ。ジョミーは素質十分だね」
「ほほう…。せがれが修行を共に出来そうな友達が出来たと言っておりましたが、あなたでしたか」
キースを宜しくお願いします、と相好を崩すアドス和尚。ジョミー君は真っ青になり、キース君は舌打ちをして「馬鹿め…」と呟いたのでした。
精進料理のお昼御飯を運んできてくれたのはイライザさんとお手伝いのおばさんたち。去年の夏もお手伝いの人が何人もいましたし、元老寺の宿坊って儲かるのかな? 私たちの他に泊まり客の姿は無いですけれど…。
「年越しでやってる宿坊は少ないんだよ」
私の疑問を読み取ったらしく、会長さんが言いました。
「元老寺の宿坊も休業中だ。ぼくたちは例外みたいなものさ。いわばお客様。…そうだよね、キース?」
「ああ。休業してる間にブルーを呼びたい、と言ったのが親父。ついでだから友達を呼びたい、と言ったのが俺だ」
どうせ大晦日は手伝いの人を頼むんだし、とキース君。除夜の鐘の時のお接待は人手が要るので、宿坊に勤めている人を呼ぶのだそうです。
「イライザはせがれに甘いもので…。恥ずかしながら、わしも妻には頭が上がらんのです」
婿養子でして、とアドス和尚は恐縮中。そういえばお寺の三男坊だ、って会長さんに聞きましたっけ。でもイライザさんは昼食の席には来ていませんし、お寺の奥さん…確か大黒さんでしたか……として裏方に徹しているのでしょうか。
「キースのお母さんは忙しくなさってるんですか?」
マツカ君が尋ねました。
「大晦日ですし、正月の準備もありますしな。…せっかくお越し頂いたのですし、せがれのことなどお話したいと申してまして…。除夜の鐘が終わりましたら、皆様とぜひご一緒したいと」
アドス和尚の答えに会長さんが頷きます。
「うん、そうだね。ぼくもそういうつもりで来たし…堅苦しいことは抜きで話をしたいな」
「もったいないお言葉でございます。お偉い方にお目をかけて頂き、せがれは本当に幸せ者で…」
ペコペコと頭を下げるアドス和尚。会長さんの正体を知っているのか、いないのか…。昼食が終わるとキース君を残してドスドスと出て行ってしまいました。迎春の飾り付けやお供え物の点検だとか、今年最後のお勤めのための準備とか…仕事は山のようにあるのだそうです。
「俺も手伝えとは言われているが、あんたのおもてなしが最優先だというんでな」
仏頂面で会長さんを見詰めるキース君。
「そのまま大人しくしててくれれば非常に助かる。…頼むから騒ぎを起こさんでくれ」
「頼まれなくてもやらないよ。これでも高僧なんだからね」
お寺の行事に悪戯を仕掛けることはない、と会長さんは約束しました。
「元老寺で派手にやらかしたら璃慕恩院に聞こえかねない。…普段だったら平気だろうけど、大晦日だけは流石にちょっと…」
「「「???」」」
大晦日はマズイって…何故でしょう? 璃慕恩院といえばジョミー君とサム君が修行体験ツアーに行かされた山奥にある総本山。元老寺とは格が違うと思ってましたが、私たちが知らないだけで元老寺も実は由緒があるとか…?
「…ここは璃慕恩院に近いんだよ。近いと言ってもそこそこ距離はあるんだけどさ」
会長さんが指差したのは裏山がある方向でした。
「あの山の奥に聳えてる山に璃慕恩院があるのは知ってるだろう? 璃慕恩院の除夜の鐘撞きは有名だ。君たちもテレビで見たことくらいはあるんじゃないかな」
「「「あ…」」」
璃慕恩院の除夜の鐘撞きは、前日の練習風景が毎年ニュースに出るのでした。撞木にぶら下がって加速させたお坊さんが補助の綱を握るお坊さんたちと力を合わせて巨大な鐘を撞くんですけど、テレビで見ても迫力満点。
「心当たりがあったようだね。親綱にお坊さんが一人、補助の子綱には十六人。息が合わないと上手くいかないから事前の練習が必要だ。一回撞くのに時間もかかる。だから撞き始めが他のお寺より一時間ほど早いんだよ」
「へえ…」
知らなかった、とサム君が感心しています。
「ブルーが修行していた寺なんだろう? ブルーも撞いたことがあるわけ?」
「…どうだろうね。それはともかく、あの鐘撞きは見物客が多いんだ。一般人は見るだけなのに、観光バスで駐車場が埋まるくらいさ。撞き始めが早いから、見物してからアルテメシアの街へ戻ってくれば自分で除夜の鐘を撞くことができる」
なるほど。一時間も早く始まるのなら、余裕で戻ってこられそうです。会長さんに続いてキース君が。
「百八回にこだわらないで無制限に撞ける寺も沢山あるしな。…うちもそうだが」
「そこなんだよね。璃慕恩院からの帰り道にあって、同じ宗派で、撞きたい人はもれなく撞ける。それに惹かれて元老寺の除夜の鐘を撞きたいという信者さんが来ちゃうんだよ。信者さんの前で騒ぎを起こすのは非常にマズイ」
「「「………」」」
「大丈夫、今夜は何もやらかさないさ。安心したまえ、キース・アニアン」
フルネームでキース君を呼んでるあたりが怪しいような気もしましたが、会長さんが高僧なのは事実です。除夜の鐘が鳴り終わるまでは何も起こらないと安心していていいんですよね…?
それから夜まではお寺ライフかと思ったものの、大晦日の元老寺は関係者以外は立ち入り禁止な雰囲気でした。本堂もピカピカに磨き上げられ、私たちはお掃除もさせて貰えません。キース君が墨染の衣でスックと立って。
「馴れてないヤツに掃除をされて失礼があったら困るからな。俺は昨日まで必死に掃除をしてたんだ。努力を無駄にしたら怒るぞ」
手出し無用、と言われたのでは宿坊の中でゴロゴロするしかなさそうです。会長さんはイライザさんが用意したお茶とお菓子で寛いでますし、私たちも怠惰に過ごすのが一番みたい。忙しそうに走り回っているキース君を他所にゲームにお喋り、日が暮れると早めの夕食で…。
「昼間にも言ったが、うちの除夜の鐘は無制限だ」
夕食を済ませた食堂でキース君が言いました。
「だが、放っておいたら朝になっても終わらないからな…。一応期限は設けてある。年が明けてから一時間以内に並んだ人が対象だ。そして百八回目と最後の鐘は親父が撞く」
大トリはアドス和尚でしたか! 元老寺の住職ですし、当然と言えば当然かも。
「…そういう決まりになっていたんだが、今年はブルーが撞くことになった」
「「「えぇっ!?」」」
私たちの声が裏返りました。よりにもよって会長さんにそんな大事なお役目を…? けれど会長さんは涼しい笑みを浮かべただけで、悪戯心は無さそうです。
「ぼくって信用ないみたいだねえ…。煩悩を祓う除夜の鐘だよ? そんな所で悪戯するわけないじゃないか。ね、ぶるぅ?」
「うん! ブルー、真面目な時は真面目だよ。でなきゃソルジャーやってないもん! とっくにクビになってるもん!」
「…ありがとう、ぶるぅ…」
フォローになってないけどね、と苦笑いをする会長さん。そう言いつつも緋の衣に着替えてキース君と小坊主スタイルの「そるじゃぁ・ぶるぅ」を従えて本堂に向かう姿は高僧らしく見えました。除夜の鐘の前に今年最後のお勤めがあり、私たちも見学です。それが終わると除夜の鐘で…。わあっ、寒い! おまけにけっこう並んでますよ!
「最初が親父で、次が俺だ。…お前たちは一般の列に並んでくれ。俺は関係者だから別行動で頼む」
キース君が鐘楼の方へ歩いて行きます。その後ろには会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ごめんね、ぶるぅもぼくと一緒で別枠なんだ。関係者席はあっちなんだよ」
鐘楼の近くに仮設テントがありました。甘酒のお接待をするための場所と、関係者席と。ストーブも置かれて暖かそうです。でも一般客の列に暖を取るものはありません。こんな時にサイオンでシールドできる力があれば…と思念波でグチを言い合いながらも誰一人として脱落しないのは物見高さの所以でしょうか。やっとのことで順番が回り、一番先にジョミー君。それから後は次々に…。
「うー、寒かった!」
「手が完全に凍えちゃってる…」
イライザさんやお手伝いのおばさんたちから甘酒を受け取り、私たちはストーブの側で震えていました。鐘はもうすぐ百八回目。年明けと同時に鳴らす百八回目を会長さんが鳴らす筈ですが…。あっ、隣の関係者用テントから会長さんが出てゆきます。アドス和尚の先導でキース君と「そるじゃぁ・ぶるぅ」をお供に連れた会長さんに、見物客…もとい鐘撞きに来た人たちの目が釘付けに。
「やっぱり凄く目立ちますよね…」
シロエ君が言い、サム君が。
「当然だろう、ブルーだぜ? あんな綺麗な人は他にいないさ」
「中身は分からないけどね…」
「なんだと、ジョミー!?」
やる気か、と身構えるサム君の肩をマツカ君がポンと叩いて。
「言いたいことは分かりますけど、始まりますよ? もう階段を上ってます」
「あっ、ホントだ! サンキューな、マツカ」
会長さんが優雅な身のこなしで鐘楼に上り、撞木の綱を握りました。腕時計とかはしていませんが、サイオンで情報を得ているのでしょう。ゆっくりと綱を引き、緋色の衣の袖を翻して鐘をゴーン…と厳かに鳴らした瞬間、新しい年が始まりました。あけましておめでとうございます。今年もいい年でありますように…。
昼食は今年もケータリングでした。お誕生日の主役に料理をさせるというのは間違っている、という会長さんの意向です。ローストビーフにオマール海老のショーフロア、色とりどりのカナッペなどなど…。食事が済むと大きなバースデー・ケーキが二個も運ばれてきました。
「ぶるぅ、誕生日おめでとう。蝋燭は今年も一本だったね」
会長さんが片方のケーキに蝋燭を立て、もう片方には「ぶるぅ」が蝋燭をズラリと並べています。そういえば「ぶるぅ」が何歳なのかは聞いたことがありません。かなりの数の蝋燭ですが…。
「ぼくも忘れてしまったんだよ、ぶるぅが何年前に生まれたのか」
ハーレイなら覚えているだろうけど、とソルジャーが「ぶるぅ」と顔を見合せて笑いました。
「だから蝋燭の数は適当。ぶるぅが多い方がいいって言うからケーキのサイズに合わせて頼んだ。…いいんだよ、そもそも誕生日が適当なんだし」
「「「は?」」」
誕生日が適当ってどういう意味? 今日が誕生日ではないのでしょうか?
「ぼく、クリスマスがお誕生日の筈だったんだ。…だけどブルーに放っておかれたんだよ」
プゥッと頬を膨らませて「ぶるぅ」がケーキを見つめています。
「クリスマスに卵から生まれる予定で、サンタさんが服をプレゼントしてくれたのに…。ブルーったら二日も服に気が付かなくて、気付いた後もそのままで! お正月が済んでお掃除しなきゃ、って時にハーレイが来てサンタさんのカードを見付けて、やっと二人が揃ったんだ」
カードには「よろしく」とだけ書いてあり、プレゼントの服というのは「ぶるぅ」が着ているのとそっくりなソルジャー服のミニチュアだったそうです。でもソルジャーとキャプテンが揃わないと「ぶるぅ」が生まれてこられないって…。何故に?
「だって。卵を温めてくれた人が揃っていないとダメなんだもん」
「「「えぇっ!?」」」
卵は温めて孵化させるのが基本ですけど「そるじゃぁ・ぶるぅ」は違います。だから「ぶるぅ」も同じだと思っていたのですけど…温める必要があったんですか! しかもソルジャーとキャプテンが…って、それじゃ「ぶるぅ」の卵は二人のベッドに…?
「ぼくのベッドと言ってほしいな」
かさばって大変だった、とソルジャーが両手で大きな丸を作りました。
「最初は指先くらいの小さな石で、それからどんどん大きくなって…最後は抱えるほどになっちゃった。ぼくとハーレイで温めたんだよ、卵だしね。どうやら両親が揃った時に生まれる仕様になってたらしい」
「「「両親!?」」」
「うん。ぶるぅが最初に言った言葉は「初めまして、パパ、ママ」だった」
「「「!!!」」」
パパ…。ママ…。ソルジャーとキャプテンがパパとママ…!?
「どっちがパパかで悩んだらしいね。でもハーレイをパパと呼んだ。…ついでに、ぼくをママとは呼ばなかった」
「ブルーも男だったんだもん…。ぼく、ママはどこかに行っちゃったのかと思ったんだ」
そしたらパパが二人だった、と「ぶるぅ」はニッコリ笑います。
「でもね、二人ともパパって呼んだら怒るんだ。子持ちになった覚えはない、って。予定してた日には生まれられないし、パパって呼ぶこともできないし…。グレちゃったって仕方ないよね。だから悪戯が大好きなんだ」
うーん、どこまで本当でしょう? ソルジャーは笑いを堪えていますし、「ぶるぅ」も幸せそうですし…話半分に聞いておくのが一番かな?
バースデーケーキの蝋燭を「ぶるぅ」と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が揃って吹き消し、「おめでとう」の声と拍手が響きます。大きなケーキが二個もあってもスイーツ大好きソルジャーと大食漢の「ぶるぅ」がいては一切れも残らず、次はプレゼントの出番でした。私たちが用意したアヒルちゃん模様のパジャマ――片方は会長さんが買い足してくれたものですが――はウケたようです。
「可愛いね! アヒルちゃんと一緒に寝られるよ」
「うん、ぼくたちパジャマもお揃いだね」
御機嫌の二人の前にフィシスさんが差し出したのは小さなクッションと大きなクッション。
「小さい方はいつものですわ。これはぶるぅに。…大きい方は、そちらのぶるぅに。卵には戻らないのでしょ? 普通のクッションでないと使えませんし」
「えっ? 卵って…」
キョトンとする「ぶるぅ」は「そるじゃぁ・ぶるぅ」が六年ごとに卵に戻るのを知りませんでした。卵に戻っている間、フィシスさんの手作りクッションが敷かれた籠に入ることも。
「そうなんだ…。ぼくたち、そっくりだけど違うんだね。じゃあ、ぶるぅはパパもママもいないわけ?」
「いないよ。ブルーはお兄ちゃんみたいなものだもん」
「そっか。その方が気楽でいいよね。パパたちがいると気を遣うんだよ、大人の時間は一人で寝なくちゃいけないし…」
無邪気に語る「ぶるぅ」ですけど、おませさんな理由が分かったような気がしました。卵を温めていたという一年の間、ソルジャーが大人の時間を控えていたとは思えません。「ぶるぅ」は容赦ない胎教を受け、生まれてからも色々と無駄な知識を仕入れたのでしょう。そんな「ぶるぅ」の頭をソルジャーがコツンと軽く叩いて。
「喋りすぎ! で、ぼくからのプレゼントは…これ」
ヘソクリ菓子のお裾分けだよ、とソルジャーはキャンディーやチョコレートが詰まった小さな箱を一個ずつ二人の前に置きました。
「二人分にしようと思うと少ししかなくてね。ゼルに作らせようとしたのに、捕まらなかった」
それでも二人のぶるぅは嬉しいようで、箱の中身をテーブルに並べて数えています。ヘソクリ菓子というのはソルジャーが青の間に隠し持っているお菓子のことで、厨房からくすねてくるのだとか。本当にお菓子が好きなんですねえ…。さて、会長さんは何をプレゼントするのでしょうか?
「ほら、ぼくのプレゼントもお揃いだよ。開けてみて」
手渡されたのはリボンがかかった四角い箱。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が丁寧にリボンを解いている横で「ぶるぅ」がバリバリと包みを破り、箱の蓋をパカッと開けると…。
「わあ、マントだぁ!」
箱の中身は新品の紫のマントでした。なんの捻りもないですけれど、子供って新しい服が好きですし…。包装紙をきちんと畳んだ「そるじゃぁ・ぶるぅ」も急いで箱を開けています。ソルジャーが「ふん」と鼻を鳴らして。
「なんだ、マントか。…ヘソクリ菓子の方が心がこもっているよ。ぼくの大事なとっておきだ」
「そうかな? ぶるぅ、箱から出して着てごらん」
会長さんに促された「そるじゃぁ・ぶるぅ」がマントを取り出し、羽織ろうとして広げてみると…。
「わあっ、アヒルちゃんだあ!」
「えっ、どれどれ!?」
慌てて「ぶるぅ」もマントを広げ、私たちが見たものは……マントの裏に一面に描かれた黄色いアヒルの群れでした。昨日、ここへ来る途中でジョミー君が「マントの裏にアヒルちゃんとか…」なんて言ってましたが、もしかしてあれは予知能力!?
「すげえな、ジョミー! お前ってこれが分かってたんだ?」
サム君が言い、キース君が。
「タイプ・ブルーはダテじゃないな。…すまん、馬鹿にして悪かった。センスが悪いわけじゃなかったのか」
このとおりだ、と謝るキース君でしたが、ジョミー君は困ったように頭を掻きました。
「違うよ、偶然の一致ってヤツ。ぼく、こんなビジュアル見てなかったし」
「おやおや…ジョミーが予知をしたのかい?」
詳しく話を聞かせてほしい、と会長さんが割り込みます。その結果、導き出された結論は…。
「やっぱり一種の予知だろうね。フィシス、君もそうだと思うだろう?」
「ええ。ジョミーはタイプ・ブルーですもの」
「ほらね、フィシスもこう言っている。ジョミー、君の能力は活かすべきだよ。出家して仏の道を目指そう」
「なんでそういうことになるのさ!!」
お断りだ、と髪の毛を押さえるジョミー君。アヒルちゃんマントは予知なのでしょうか? それとも会長さんがジョミー君を陥れるために意識の下に情報を…? 真相は多分、永遠に藪の中ではないかと思いますけど。
ジョミー君が騒いでいる間に二人のぶるぅはアヒルちゃんマントに着替えました。普通に立っていれば分かりませんけど、飛んだり跳ねたりすればアヒルちゃんが覗きます。オカリナで『かみほー♪』を吹きながら踊り始めるとアヒルちゃんの裏地がよく見えて…。
「ふうん、なかなか可愛いね」
ソルジャーが感心したように言いました。
「裏地にアヒルちゃんをプリントするなんて、考えたこともなかったよ。…マントは実用的な面でしか見ていなかったし」
「ぼくにとっては飾りだからね。防御性には優れてるけど、戦ったことは一度もないから…。ごめん、気を悪くしちゃったかな?」
心配顔の会長さんにソルジャーは「全然」と微笑んで。
「君の世界が平和だからこそ、こうして遊びに来られるんじゃないか。…ひょっとして君もマントの裏に何かを描かせたことがあるとか?」
「………」
「やっちゃったんだ?」
「一度だけね」
本当に一回だけなんだよ、と会長さんは苦笑しました。
「それ、今もある?」
「えっ? う、うん…。持ってるけど…?」
「ぜひ見たいな。ちょっと見せてよ」
「で、でも…」
ふざけ過ぎてるし、と渋る会長さんですが、ソルジャーは引き下がるような人じゃありません。根負けした会長さんは寝室に行き、大きな箱を抱えてきました。マントにしては大きすぎるような…?
「話すと長くなりそうだから、先にこれを見てよ。学ランっていうヤツなんだ」
箱から出て来たのは応援団の人などが着る丈の長い黒い制服の上着。会長さんったら、応援団もやってたんですか?
「何年か前の学園祭で着たんだよ。制服の上着みたいなものでね、裏地に凝るのがオシャレでさ。…こんな風に」
「「「!!!」」」
リビングの絨毯の上に広げて置かれた学ランの裏地は、それはとんでもないモノでした。赤や紫ではないんですけど、ある意味、それより派手というか…。裏地の黒を夜空に見立てて見事な枝垂桜の木と舞い散る花びら、淡い月。あまつさえ桜の木は裏地の下半分に描かれ、上半分には『応援歌』の文字とシャングリラ学園応援歌の歌詞が書かれているではありませんか!
「なんというか…。凄いね、これ。桜なんだ?」
ぼくのシャングリラにも桜があるよ、とソルジャーは学ランを眺めました。
「ぼくが植えたのは普通の桜だったんだけど、枝垂桜も綺麗かも。いや、あの公園には似合わないか…。それで、この学ランとマントは同じ桜の模様なのかい?」
「ちょっと違う。…こっちがマント。学ランで裏地の粋に目覚めて作らせたんだ」
バサッと箱から出されたマントの裏地は学ランと同じ黒でした。けれどマントに応援歌は無く、桜も枝垂桜ではなくて満開の枝が幾重にも重なり、花びらが舞い、ぼんやり霞んだ十五夜の月が。会長さんはセーターの上からマントを羽織り、背筋を伸ばしてピシッと立つと。
「ね、見た目には分からないだろう? どこから見ても普通のマントだ」
「確かに…」
ソルジャーが頷くのを見た会長さんは、いきなり右手を高く上げて。
「シャングリラ、発進!」
翻ったマントの裏で桜の花が咲き誇りました。つ、つまり…このマントを着てシャングリラ号で指揮を執ったら、もれなく桜吹雪が舞うと…。ソルジャーも唖然としています。
「ブルー。そこでシャングリラの名前が出るってことは、もしかして本当に着たのかい? それ…」
「もちろん。たった一回だけだったけどね。あ、でも…滞在中はずっと着てたし、三日間か」
「士気が下がったりすることは…?」
「むしろその逆。ソルジャーが身近に感じられる、と評判良かった」
なのにハーレイと長老たちには不評だったんだ、と唇を尖らせる会長さん。
「ブリッジで発進命令を出すまで全く気付いてなかったくせにさ。ぼくが青の間に引っ込んだらすぐに追いかけてきて、ソルジャーの品格が下がるから普通のマントに取り替えろ…って。せっかく誂えたマントだったのに、頭ごなしにダメはないよね」
「それで三日間、着続けたんだ? ハーレイはともかく、よくエラたちが引き下がったね」
私たちの世界の先生たちとソルジャーの世界の長老たちは性格もそっくりだと聞いています。エラ先生は風紀にうるさいですし、ソルジャーの世界でも多分似たようなものなのでしょう。会長さんはニヤリと笑い、マントの裏地を見せびらかして。
「脅しをかけてやったんだよ。…裏地は目立つって言うんだったら、見えない場所ならいいんだね…って。たとえば肌とか」
「「「肌!?」」」
「うん。マントの模様を却下するなら代わりに背中一面に…と脅してやったらおとなしくなった。おかげで三日間、裏地のオシャレを楽しめたよ」
こんな風に、とマントを翻してみせて会長さんは上機嫌です。そりゃあ…背中に模様を背負うなんて言われちゃったら、長老の先生方全員、沈黙するしかないですよね…。
会長さんが学ランとマントを片付けた後も「そるじゃぁ・ぶるぅ」たちはアヒルちゃんマント姿ではしゃいでいました。あれくらいなら可愛いですけど、会長さんの夜桜マントは可愛いなんてものじゃありません。遊び心にもほどがある…、と私たちは思ったのですが。
「裏地に絵柄か…。いいかもね」
遊び心を理解したのは、よりにもよってソルジャーでした。
「普通にしてれば分からないのが素敵だな。ぼくも桜の花は好きだし、君の学ランみたいに文字というのも面白そうだ。ハーレイの名前を書いておいたら、ハーレイが挙動不審になると思うよ。誰かに見られたらどうしよう…って」
あちらのキャプテンは、ソルジャーとの仲がバレバレな事実に全く気付いてないのだそうです。
「ぼくもマントの裏地で遊んでみたいけど…君以上に顰蹙を買いそうだ。うっかりゼルを怒らせちゃったら、お菓子を作ってくれなくなるし」
ゼルのお菓子は絶品なんだ、と自慢してからソルジャーは会長さんに向き直って。
「ところで、君が長老たちを脅した時の話だけれど。…肌にっていうのは刺青のこと?」
「そうだけど? 君の世界にもやっぱりあるんだ」
「あるよ。海賊のホーム……拠点みたいな場所なんだけどね、そこで実物も幾つか見てる。でも背中一面っていうのが分からない。それってどういうものなんだい?」
「「「は?」」」
今度は私たちが首を傾げる番でした。刺青といえば背中一面の龍や唐獅子牡丹が真っ先に思い浮かびます。手首や二の腕にワンポイントっていう控えめなのもありますけども、刺青の定番は背中でしょう。ソルジャーは更に言葉を続けて…。
「海賊たちが彫ってたヤツは腕に名前とか、碇のマーク。あとは肩甲骨の辺りに翼とかを彫ってる人もいたっけ。ぼくが知ってるのはそれくらいかな。…だから背中一面なんて想像できない。君は桜が好きみたいだけど、あんな桜も彫れるんだ?」
「え? えっと…。桜はもちろん彫れるけれども、背景が真っ黒なのはどうだろう? ぼくも刺青にはそんなに詳しくないんだよね」
ちょっと待って、と会長さんはパソコンを起動し、何度かキーを叩いてから。
「背中一面の刺青っていうと、この辺りかな。ここは刺青専門の店で、注文に応じて彫るんだよ」
なんと刺青専門サイト!? ソルジャーの後ろから私たちも画面を覗き込みます。お決まりの龍や牡丹の他に昇り鯉とか般若とか…。そこはディープな世界でした。ソルジャーは興味津々であちこちクリックしていましたが。
「ふうん…。消える刺青っていうのもあるんだ?」
「ああ、フェイクタトゥーは一週間もすれば消えちゃうよ。早ければ三日ほどで消えるって書いてあるだろう?」
会長さんが指差す部分を読んだソルジャーは更に数回クリックして。
「マントの裏に模様を入れても、刺青をしても思い切り文句が出そうだけれど…。このフェイクなら楽しめそうだね、それもハーレイ限定で」
「え?」
思わず聞き返した会長さんにソルジャーはパチンとウインクしました。
「発見したのも何かの縁だと思うんだ。マントの裏地で遊ぶ代わりにフェイクタトゥーをやってみたいな。ほら、ここに自分で描けるキットもあるし…。見た目は本物そっくりなんだろ? ぼくが刺青を入れたと思い込んで腰を抜かすハーレイを見てみたい」
悪戯心と遊び心に燃えるソルジャーを止められる人は誰もいません。数分後には会長さんがフェイクタトゥーのキットを扱う店に瞬間移動で行かされることになったのでした。
「ただいま、ブルー。…買ってきたよ、注文のヤツ」
ソルジャーが欲しがった模様は蝶と薔薇。どちらもステンシルのシートになっていて、薔薇は真っ赤な花に葉っぱが一枚と短い茎。蝶は一枚に一匹ずつです。…そう、ソルジャーは複数を注文したのでした。会長さんからシートと染料、筆が入った袋を受け取ったソルジャーは中身を確かめて…。
「確かに誰でもできそうだけど、自分の背中に描くのは難しそうだね」
「普通ならね」
描いてくれ、と言われてはたまらないと思ったのでしょう。会長さんは素っ気なく答えました。
「サイオンを使えばいいじゃないか。背後に意識を集中するのは面倒だって言うんだったら、合わせ鏡で楽勝だ」
「ぼくはとことん不器用なんだよ。君に描いてもらうつもりで沢山注文したのにさ」
「だったら背中にこだわならくても! 足とかに描くって手もあるし」
「嫌だ。背中っていうのがポイントなんだよ。ハーレイの意識をなんとか背中に…って、そうか!」
その手があった、と言い終わらない内に青いサイオンがリビングに走って…。
「「「!!!」」」
教頭先生が呆然とした顔で立っています。ソルジャーったら、また教頭先生を呼び出しましたか…。
「こんにちは、ハーレイ。昨日は色々とありがとう」
ニコニコ顔のソルジャーに、教頭先生は明らかに警戒した顔で。
「あなたがお呼びになったのですか。…ご用件は?」
「お願いしたいことがあってね。フェイクタトゥーって知ってるかい?」
「聞いたことならありますが…」
「それをね、君に頼みたかったんだ。プロ顔負けのエステティシャンだし、身体のことならプロ級だろ?」
ここにキットが、と差し出された袋を手にした教頭先生は説明書を読んで頷きました。
「描きたい部分にシートを貼って、筆で染料を塗るだけ…ですね。しかし誰でも出来そうですが、何故私に?」
「君が一番適役なんだよ。とにかくやって貰おうかな」
ソルジャーは床にクッションを並べ、セーターとシャツを脱いで上半身はすっかり裸に。教頭先生の頬が微かに染まるのを無視して、うつぶせになって寝そべると…。
「描いて欲しいのは背中なんだ。でも具体的な場所は決めてない。マッサージの要領でこう…手を滑らせてくれないかな?」
「はあ…。こう…ですか?」
「そう、そんな感じ。…ぼくが「そこだ」って言ったら、そこにタトゥーをお願いするよ」
「分かりました」
エステティシャン魂に目覚めた教頭先生は真剣な表情でソルジャーの背をマッサージして、指示された場所にステンシルのシートを貼っては蝶や薔薇の花を描いていきます。うわぁ…本物の刺青みたい…。でも、どうして教頭先生が呼ばれたのでしょう? 手先の器用さなら「そるじゃぁ・ぶるぅ」だって負けてはいない筈なのに…。
「それがラストの一枚か。どこにしようかな…」
もう少しマッサージを念入りに、と注文をつけたソルジャーはうっとりと目を閉じ、気持ちよさそうにしていましたが…不意にピクンと背を震わせて。
「あ、そこ! そこにしておいて」
「ここですか?」
「うん。…そこが一番いいみたいだ」
「は?」
怪訝そうな教頭先生に「なんでもないよ」と返すソルジャー。教頭先生は言われた場所に丁寧に真っ赤な薔薇の花を描き、フェイクタトゥーが完成しました。
ソルジャーの背中のあちこちに咲いた真紅の薔薇と、気紛れに飛び交う鮮やかな蝶。合わせ鏡で眺めたソルジャーは満足そうな笑みを浮かべてセーターを着ると、教頭先生に向き直ります。
「ありがとう、ハーレイ。君のお蔭で綺麗に出来た。…そう、君でなくっちゃ駄目だったんだ。ぼくのハーレイとそっくり同じな手指でやってもらわないと…ね」
「「「え?」」」
会長さんも私たちも…教頭先生も意味が分かりませんでした。ソルジャーはクスッと小さく笑って。
「ぼくのハーレイはヘタレだって言っているだろう? マンネリコースが精一杯で、背中までは滅多に愛してもらえない。だから目印。…フェイクタトゥーを入れてある場所は、ぼくが感じる所なんだよ」
「「「!!!」」」
ウッと短い呻き声を上げて教頭先生が鼻を押さえます。けれどソルジャーは平然として。
「ぼくが感じる場所は何処なのか、感じやすい部分はどこか。それを確かめるには君の手で探るのが一番だろう? いつも触れてくる手と同じだから。他の誰かじゃ駄目なんだよね。…そう、君の手は最高だった」
マッサージだけでゾクゾクしたよ、と唇を舐めてみせるソルジャー。
「そうだ、お礼をしなくっちゃ。ぼくだけ気持ちよくなるっていうのはずるいもんね。…脱いで、ハーレイ」
「い、いえ…。け、けっこうです…!」
アタフタとする教頭先生の胸にソルジャーが身体を擦り寄せます。
「遠慮するのはよくないよ。ぼくは舐めるの得意なんだ。…ぼくのハーレイなんか胸の辺りまで舐められただけでイッちゃったこともあるんだけれど、体験したいと思わないかい?」
「…そ、それは…」
チラ、と会長さんを見る教頭先生。会長さんは柳眉を吊り上げ、不快感を露わにしていました。教頭先生がウッカリ頷いたりしたら、血の雨が降るかもしれません。もちろんソルジャーもそれは承知で…。
「なるほど、君のブルーが怒るってわけか。もったいないね、チャンスなのにさ。…ぼくだって君にお礼をしたいし、他に何か…。あ、そうだ!」
ソルジャーはフェイクタトゥーに使った染料の瓶を手に取り、軽く揺すって。
「まだ染料が残ってる。これで印をつけてあげるよ、ぼくのハーレイが感じてくれるのと同じ所に。それをどうするかは君次第かな。ブルーに舐めてもらうのも良し、自分で触ってドキドキも良し。…ふふ、脱がないんなら脱がせちゃおう。ぶるぅ!」
「かみお~ん♪」
青いサイオンを迸らせたのは「ぶるぅ」でした。教頭先生の上半身から服がすっかり消え失せています。脱がされた服は絨毯の上。我に返った教頭先生が大きな身体を縮める前に、ソルジャーが懐に入り込んで…。
「まず、鎖骨。…確かこの辺」
「ひっ!」
情けない悲鳴を上げた教頭先生の肌に赤い印がつきました。ソルジャーが手にした筆に染料を含ませ、先端で軽く触れたのです。
「筆で触れても感じるんだ? それともぼくを意識しちゃった? 次は…」
チョンチョンと筆が触れていく内に教頭先生の顔は真っ赤に染まり、鼻からツーッと赤い血が流れて……ドッターン! と激しい震動が床に。
「あ、倒れた」
事も無げに言うソルジャーの足許で教頭先生は見事に失神しています。
「うーん、やっぱり胸まで保たなかったか…。まあいいや。ハーレイが感じる場所はね、ここと、ここと…」
ソルジャーは教頭先生の裸の上半身に印を付け終え、背中の方をどうするか少し悩んでいましたが…。
「どうせ自分では見えないんだから無駄だよね。ブルーは舐めてあげないだろうし」
「当然だろう!」
「じゃ、一人で盛り上がって貰おうか。…消えかかってくる頃にキスマークみたいに見えたら極楽だよ。気持ちだけで昇天できるさ、なんといってもハーレイだもの。ぼくのハーレイもね、身体より先に気持ちがイッちゃったことがあったんだ」
自信満々のソルジャーは教頭先生を服ごと家に送り返して、それからソルジャーの衣装を着けて。
「ありがとう、素敵なクリスマスだった。今夜はフェイクタトゥーで楽しむよ。本物の刺青だって騙して驚かせてから、ゆっくりじっくり愛してもらって…。ぶるぅ、お前は土鍋だからね。ほら、帰る前にみんなに御礼は?」
アヒルちゃんマントの「ぶるぅ」がピョコンと頭を下げます。
「プレゼントいっぱい、ありがとう! また来るね」
「それじゃ帰るよ。ブルー、気が向いたらハーレイにつけた印で遊んであげて」
会長さんが「お断りだ!」と絶叫する前に二人は姿を消しました。お騒がせな二日間でしたけれども、とっても充実していたような…。「そるじゃぁ・ぶるぅ」がオカリナで『かみほー♪』を奏で始めます。一年前の私たちはシャングリラ号の存在すらも知らなかったのに、今はソルジャーや「ぶるぅ」まで。万年十八歳未満お断りでも、人生バラ色ってヤツですよね…?