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シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。

終礼が済んでクラスメイトたちが家へ部活へと散って行った後、私たち七人グループは1年A組の教室に残ったままでした。グレイブ先生の置き土産の教頭先生からの伝言とやらが足を教室に縫い止めています。いえ、伝言はそういう内容では無かったのですが。
「…ブルー、来ないね…」
返事も無いよ、とジョミー君が呟きます。私たちは会長さんに思念波を送ってみたのですけど、答えは返って来ませんでした。もちろんメールにも返信は無し。そういう時は大抵、会長さんの方から出向いてくるか、何らかの動きがあるものですけど…。
「もしかすると先に行ったのかもしれませんよ?」
シロエ君の言葉にアッと息を飲む私たち。その可能性がありましたっけ。なんといっても伝言は…。
「教頭室まで来るように……だしな。行ったかもしれん」
大いに有り得る、とキース君。柔道部所属のキース君たちはともかく、私たちは教頭室にはあまり馴染みがありません。行く時は必ず会長さんが一緒ですから、教頭室と聞けば会長さんの顔が頭に浮かぶほどです。そんな教頭室への呼び出しとあれば、会長さんは確かに一足お先に行っていそうで…。
「あいつだけ先に行ったとしたら、ロクなことにはならないぞ」
キース君に言われるまでもなく、私たちの思いは全く同じ。悪戯好きの会長さんを自ら召喚してしまったら、教頭先生、何をされても抵抗できない立場です。これは急いだ方がいいかも…。
「もう手遅れかもしれませんけどね」
「シロエ! 言霊と言うから黙っておけ!」
行くぞ、と駆け出したキース君を追い掛ける形で私たちは走り出しました。いつもは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋から教頭室のある本館へ向かっているため、今日のルートはなんだか新鮮。その分、妙に緊張感も高まるのですが、教頭先生、どうか御無事で…! 祈るような気持ちで本館に飛び込み、走りの方はそこでストップ。
「くそっ、走るのは禁止だからな…」
キース君が『走るな』の注意書きに舌打ちしながら早足で歩き、私たちも叱られない程度のスピードで教頭室を目指します。そうそう、あそこの重厚な扉! 現時点では飛び出してくる人影は無く、会長さんが来ていたとしても騒ぎは起こっていなさそう。静かに現在進行中かもしれませんけど。
「…みんな、心の準備はいいか?」
扉の前でキース君が振り向き、私たちが無言で頷いて。
「失礼します」
会長さんがしているように軽く扉をノックしたキース君に「入りなさい」と教頭先生の声。扉を開けて入って行くと…。あれっ? 会長さんは? 「そるじゃぁ・ぶるぅ」は?
「なんだ、どうしたんだ?」
キョロキョロと部屋を見回す私たちに教頭先生の視線も釣られて移動。ということは……会長さんの到着はまだ? 私たちが先に着いちゃいましたか? 教頭先生は部屋を一通り見渡してから。
「何か気になるものでもあったか? 虫などは入っていないようだが…。そうだ、呼び出してすまなかったな。実はお前たちに頼みたいことが…」
「「「えっ?」」」
私たちに頼みごとですか? いったい何を、と思う間もなく教頭先生は書き物をしていた机から立ち、奥の仮眠室へ。まさか其処に会長さんが隠れているというオチとか? 引っ張り出して連れ帰ってくれとか、そういう依頼が来るのだろうか、と私たちが顔を見合わせていると。
「…すまないが、これを届けてもらいたい」
教頭先生が持って来たのはアルテメシアでも指折りのケーキ屋さんの紙袋でした。
「私は甘い物は苦手だからな、今一つ良く分からないので売れ筋のを詰めて貰ってきた。ブルーが一人で食べるのも良し、ぶるぅと分けて食べるのも良し。…とにかく頼む」
「あ、あのう…」
口を挟んだのはキース君です。
「それをブルーに届けるんですか? 俺たちが?」
「ぶるぅの部屋は教師は立ち入り禁止だろう? だからと言って呼び出したのでは感謝の印にならないし…。お前たちは毎日行っているから、ついでに頼んでも大丈夫かと…」
「届けるのは別に構いませんが……それでわざわざ呼び出しを?」
「うむ。でないと届けそびれるからな。いつも終礼が終わった後は一直線だと聞いているぞ」
私たちは配達係でしたか! ケーキが部屋まで届くとなれば会長さんが来ない筈です。余計な心配をして損をした、とケーキの袋を謹んで預かる私たち。キース君が代表で受け取り、教頭先生は「メッセージカードを添えてあるから」と特に伝言を頼むでもなく…。
「なあんだ、ケーキの宅配便かあ…」
お使いの御礼に1個欲しいな、とジョミー君が紙袋を覗き込んだのは廊下に出てから。袋の中には大きな箱が入っています。一人1個なら全員で食べても問題なさそうなサイズでした。どうしていきなりケーキなのかは謎ですけども、こんなお使いもたまにはいいかな?

大きなケーキの袋を提げて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと、案の定、会長さんが待ちかねたように。
「やあ。ハーレイからの預かり物は?」
「これだ。やっぱり知ってたんだな」
キース君が差し出した袋を受け取った会長さんは早速、中から箱を引っ張り出して。
「ぶるぅ、みんなに飲み物を淹れてあげて。お茶にしようよ」
「オッケー!」
すぐに紅茶やコーヒーが揃い、お皿とフォークも出て来ます。会長さんが箱を開けると美味しそうなケーキが何種類も詰め込まれていて、思わず唾を飲み込んでみたり…。
「どれが食べたい? 重なった時はジャンケンだね。あ、でも…優先権はぼくにあるのかな?」
「そうだと思うぞ、あんたに届けるようにと仰っていたし…」
キース君の答えを聞いた会長さんは「じゃあ、これ」とカシスのムースケーキをお皿に載せて、残りは私たちと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が分けることに。それでもケーキは余りますから、希望者がお代わりと決まったのですが。
「ちょっと待った!」
いきなり部屋の空気が揺れて紫のマントが翻りました。言わずと知れたソルジャー登場。ケーキに釣られてやって来たのか、と私たちはゲンナリです。
「えっとね…。そのシブーストにしようかな? だけどフランボワーズのムースも捨て難いし…。最初から貰っておいてもいいよね、お代わりの分」
ここに載せて、と厚かましくお皿まで手にしていたり…。テーブルのお皿は減ってませんから、キッチンの棚から瞬間移動で失敬してきたものでしょう。どうしてこうも鼻が利くんだか、と溜息をつきたい気分でしたが。
「どうしたのさ? 2個貰っても数は全然問題ないだろ? 第一、これは本来ぼくのケーキだ」
「「「は?」」」
どういう理屈でそうなるんですか? ケーキの箱は教頭先生から会長さんへのお届けもので、私たちが預かってきたのです。ソルジャーが立ち入る隙は何処にも無いと思いますけど? 会長さんも呆れた顔で。
「君がケーキに目が無いことは知っているけど、妙な主張をしなくても…。これを貰ったのはぼくなんだから」
「それが間違っているんだってば!」
ソルジャーは譲ろうとしませんでした。
「メッセージカードがついてる筈だよ、ハーレイからの。カードを見ればすぐ分かるって!」
「カード? そういえば何か入っていたね」
床に捨ててあった袋の中から封筒を取り出す会長さん。キース君が「すまん」と頭を下げて。
「教頭先生がメッセージカードを添えておいたと仰っていた。ウッカリ伝え忘れていたんだ。申し訳ない」
「…ハーレイには申し訳ないかもしれないけどさ、ぼくはカードは気にしないよ」
ケーキに意義があるんだし、と封筒に入っていたカードを開いた会長さんですが。
「えっと…。なんだろう、これ? 日頃の気遣いに感謝をこめて…って、何の冗談?」
「「「気遣い!?」」」
何ですか、それは? 会長さんが教頭先生に気遣いって……そんなの覚えがありませんけど?
「だからぼくのケーキだって言ってるだろう?」
ソルジャーが胸を張りました。
「色々お世話になったからねえ、感謝をこめて恩返し強化月間なんだ」
「「「恩返し!??」」」
私たちの声が揃って引っくり返り、会長さんは目が点です。恩返し強化月間って、なに? まさかソルジャーが教頭先生に恩返しをしてたりするのでしょうか? 恩返しって、鶴が助けられた御礼に機を織ったりするヤツのことで合っているのか、それとも他に何らかの意味が…?

「…恩返し強化月間って何さ?」
辛うじて声を絞り出したのは会長さんでした。
「感謝をこめてとか言っていたけど、誰が誰に恩返し? そもそも恩返しってどういう意味?」
「知らないかなぁ、恩返し。SD体制よりもずっと昔の伝説が色々残っているよ。亀を助けたら竜宮城に連れてってくれるってヤツとか、君たちの世界にもあるだろう?」
あらら、本当に文字通りの恩返しというヤツなんですか? でも、なんで…? 会長さんも其処が気になるらしく。
「分かった、鶴が機を織るという類のアレだね。で、その恩返しが何だって?」
「ぼくが恩返しをしてるんだよ。こっちの世界のハーレイのお蔭で、ぼくのハーレイが最近けっこういい感じなんだ。バカップルごっこで覚えたシチュエーションを生かしてくれる時もある。…通路なんかでいきなり抱き締められてキスされちゃうと燃えるものだね」
「「「………」」」
そりゃまた随分積極的な…。ソルジャーとキャプテンの仲はバレバレだとは聞いていますが、バレていないと思い込んでいるらしいのがキャプテンです。それだけに二人の仲を知られないよう努力していると聞いているのに、なんと通路でキスですか!
「バカップルは周りが見えないものだ、っていう教えをアレンジしているみたいだよ。人がいないことを確認済みでやってるんだと分かってはいても、公共の場で仕掛けられるとグッとくるんだ」
「…ふうん…。そりゃ良かったねえ、お幸せに」
会長さんの顔には「さっさと帰れ」とデカデカと書いてありました。ソルジャーがアヤシイ話を始めない内に放り出そうという魂胆でしょう。けれどソルジャーは気にも留めずに。
「ハーレイはぼくとノルディの結婚式もどきで真剣に危機感を覚えたらしい。こっちの世界で現地妻なんかを作られちゃったら自分の立場が無いだろう? なんと言ってもノルディはテクニシャンが売りなわけだし、ぼくがそっちに溺れないという保証は無い」
夜な夜なノルディを引っ張り込むというのもアリだ、とニヤニヤ笑っているソルジャー。
「ぼくがこっちの世界に来るより、ノルディを呼ぶ方が遙かに楽だろ? ベッドで楽しく過ごすだけだし、後腐れも無いし…。そうならないよう努力しているのさ、ハーレイは。あの時、チャペルで叫んだとおりに」
えっと。キャプテンが叫んだ台詞といえば…。顔を見合わせる私たちに向かってソルジャーは。
「そう、一生満足させてみせます、って言い切ったヤツ。…なかなか頑張っていると思うよ。マンネリに陥ったらマズイからだろうね、四十八手にも挑戦中! 前は薬を飲まされた時しか絶対挑戦しなかったくせに」
「………ブルー。言いたいことはよく分かったから、ケーキを持って帰りたまえ」
会長さんが深い溜息をつき、「そるじゃぁ・ぶるぅ」に視線を向けると。
「ぶるぅ、お客様のお帰りだ。持ち帰り用の箱を用意して」
「はぁーい!」
けれど、駆け出そうとした「そるじゃぁ・ぶるぅ」のマントをソルジャーがハッシと引っ掴んで。
「ケーキは此処で食べるからいいよ。ああ、でも、そうだね…。ぼくのぶるぅが青の間で留守番をしてくれているから、1個届けてあげようかな? 小さな箱は?」
「分かった、1個だけ入るサイズのだね!」
大人の話がサッパリ分からない「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さな紙箱を持って戻ってきました。ソルジャーはケーキの箱を覗き込み、「これがいいかな」とモンブランを指差して。
「ぶるぅはボリューム第一なんだ。ぼくは上手に入れられないからお願いするよ」
「うん!」
いそいそとモンブランを箱詰めしている「そるじゃぁ・ぶるぅ」。詰め終わると箱を閉じ、綺麗にラッピングしています。ソルジャーは満足そうにそれを眺めて、空間を越えて「ぶるぅ」にお届け。…つまりソルジャーは居座ったままというわけで…。
「まだ恩返しのことを全く話してないだろう? 謎が多いと思うんだけどねえ、このケーキとか、最近のハーレイの様子とか」
そう言いながらソルジャーはシブーストを一口頬張りました。
「日頃の気遣いに感謝をこめて…、ってカードに書いてあるのは何故なのか。ブルー、君はハーレイに気遣いなんかしていない。ついでに球技大会の日にも言われた筈だよ、お前のお蔭で頑張れた…ってね」
「「「あ…」」」
その言葉には確かに覚えがあります。御礼参りが終わった後で、教頭先生が会長さんに向かってそんなことを…。御礼参りに指名されたことへの感謝なのかと思ってましたが、違うんですか?
「ほらね、やっぱり分かってないし! 話は最後まで聞くものだよ」
ソルジャーはゆったりとソファに腰掛け、リラックスモード。お帰りになる気は無いようです。恩返し強化月間とやらについて語り終えるまで、ケーキを食べつつ此処でのんびり過ごす気ですね…。

歓迎とは程遠いムードの私たちを他所に、ソルジャーは意気揚々と。
「恩返しってヤツは押し付けになってはダメなんだよね。こう、控えめにこっそりと! 竜宮城くらいのレベルになったら派手にやっても値打ちがあるけど、王道は鶴の恩返しとか笠地蔵とか…。秘すれば花って言うんだっけ?」
とにかく目立つとアウトなんだ、と自説を展開するソルジャー。
「恩返しをさせて頂いてます、と主張したんじゃ恩着せがましくて興醒めだろう? だから黒子に徹したわけ」
「「「黒子?」」」
「そう、黒子。幸い、ぼくとブルーは筆跡まで完璧に瓜二つだしね。ブルーの名前でカードを書いては、あれこれ差し入れしていたんだよ」
「なんだって!?」
会長さんが聞き咎めましたが、ソルジャーの話は途切れずに。
「いつも覗き見してるんだけど、教師ってけっこう大変じゃないか。しかもハーレイは教頭だから雑務も沢山あるだろう? なのに仕事で疲れて家に帰っても、迎えてくれる人はいないよね」
それは教頭先生が会長さんにこだわるからで…、と溜息をつく私たち。縁談が持ち上がったこともあったのですし、教頭先生さえその気になれば迎えてくれる奥さんは居た筈です。好きでやってる独身生活、放っておいても無問題! なのにソルジャーは「ダメダメ」と人差し指を左右に振って。
「普段だったらぼくも知らんぷりだけど、ハーレイのお蔭で自分が幸せたっぷりなんだよ? 大恩人が帰宅する度に真っ暗な玄関先で溜息をつくのを見ないふりっていうのはねえ…。それで恩返しをすることにした。お帰りなさいのメッセージカード」
「お帰りなさい? なんなのさ、それ…」
あまり聞きたくないけれど、と眉を顰める会長さんに、ソルジャーは「そのまんまだってば」と笑みを浮かべて。
「ハーレイの家のポストに入れておいたんだ。『お帰りなさい、いつもお仕事お疲れさま』って書いて差出人はブルー」
「ちょ、ちょっと…! それだと君だと分からないし!」
ぼくと間違えられちゃうよ、と真っ青な顔の会長さん。
「ブルーの名前でカードというのは、ブルーとだけ? どっちのブルーとも書き添えずに?」
「決まってるじゃないか。…さっきからの話をよく聞いてた? 恩返しってヤツは控えめに! ぼくがやってるって見え見えだったら押し付けになってしまうんだよ」
「じゃあ、名前を書かなきゃいいじゃないか!」
「それだと恩返しにならないんだ。…ハーレイが喜んでくれないからね」
名前も書かずに「お帰りなさい」のカードを贈れば一つ間違えるとストーカー、と言われてみればその通りかも…。ストーカーとまで行かなくっても気味が悪いかもしれません。ソルジャーは「ね、そうだろう?」と私たちを見回して。
「そりゃあ、ハーレイは教師だからさ、教え子からのカードだって線もゼロではないかもしれないけれど…。どうせなら貰って嬉しい差出人! ブルーが労ってくれたと思えば疲れも一気に吹っ飛ぶよ。現に吹っ飛んじゃったしね」
「「「………」」」
残業を終えて帰宅してきた教頭先生、いつもの習慣でポストを開けてダイレクトメールなどを取り出し、玄関へ。門灯は暗くなると自動的に点灯するそうですが、家の中まではそういう仕組みにしていないので真っ暗です。誰もいない家の鍵を開け、明かりを点けて…。
「炊飯器だけはセットしていくらしいんだよ。その日はおかずを作る気力も無かった上にスーパーに寄るだけの余力も無かった。レトルトカレーで済ますつもりでキッチンに行ってさ、ポストの中身をテーブルに置いた所でメッセージカードに気がついたわけ」
自分の世界から覗き見していたソルジャーによると、カードを見付けた教頭先生は何度も繰り返し確認してからカードにキスをし、その場で万歳したのだとか。
「しかも思いっ切り疲れ果てていたから、夕食の後でお風呂に入ってそのまま寝ようとしていたくせに……予定変更で熱いシャワーでリフレッシュ! でもってきちんと部屋着を着込んで、おかずに味噌汁、サラダも作って夕食なんだよ。テーブルの上にカードを飾って缶ビールを開けて乾杯してた」
それは凄い、と私たちは思わず感動。会長さんから「お疲れさま」と労いのカードを貰っただけでパワーがチャージされるんですか! そこまで惚れ込んでいたなんて…。
「正直、ぼくもビックリしたよ。あそこまで喜ばれるとは思わなかった。でも恩返しした甲斐があったな、って実感できたし、その路線で続けることにしたわけ」
手応えを感じたソルジャーはメッセージカードをポストに入れる代わりにキッチンのテーブルに置くようになり、コンビニおにぎりとか、おつまみに良さそうな柿の種なども添えるようになって…。
「球技大会の前の夜には栄養ドリンクを差し入れたんだ。…ハーレイが「お前のお蔭で頑張れた」って言っていたのはドリンク剤への御礼なんだよ」
「…じゃ、じゃあ……日頃の気遣いに感謝をこめて、っていうこのケーキは……」
愕然としている会長さんに、ソルジャーはパチンとウインクすると。
「ぼくのケーキだって言ったじゃないか。あれこれ届けて労っていたぼくへの感謝の気持ちなのさ。ハーレイは君がやったんだと思い込んでるから君の所に届いただけで。…でも恩返しってそういうものだし、ぼくは全然気にしない。みんなも食べてよ」
遠慮しないで、と言われても……本当に食べていいのでしょうか? 食べたらソルジャーに恩返ししなくちゃならなくなるとか、そういう展開じゃないでしょうね? 不信感丸出しの私たちですけど、ソルジャーは。
「警戒しなくても平気だってば。恩返し強化月間はぼくが勝手にやってることだ。ハーレイが喜んでくれればそれで満足! 君たちに何かしろとは言わないよ」
気遣い無用、と微笑まれると断れないのもまた事実。えーい、気にせず食べちゃいますか!

こうして教頭先生が用意したケーキは私たちの胃袋に収まりました。ソルジャーが自分の世界に送ったモンブランも「ぶるぅ」が一口でペロリと食べたようです。教頭先生は会長さんが食べてくれたと思い込んでいるのでしょうけれど…。
「いいじゃないか、君たちに届けてくれるようにと頼んだ時点でお裾分けの方も計算済みだよ」
ハーレイだもの、とソルジャーが断言します。
「ブルーが気遣ってくれるっていうだけで嬉しくて嬉しくて堪らないんだ。そのブルーが大事にしている友達の分までケーキを買うのは当然だろう? 試験の打ち上げパーティーだってその精神で毎回御馳走してるじゃないか」
ああ、なるほど。そう考えれば私たちにもケーキを食べる権利はあります。本当はソルジャーが貰うべきケーキであったとしても、贈られたのは会長さんだったわけですし…。それに善行をした人とは別の誰かが御礼を貰ってしまうケースというのも昔話にはありがちですよね。人魚姫とか…って、あれは童話でしたっけ。
「そうだよ、ぼくのポジションは人魚姫さ。まさにそんな感じ」
私たちの会話を聞いていたソルジャーが我が意を得たりと頷きました。
「せっせと労いのカードを書いて、あれこれ頑張って差し入れしても全く気付いて貰えない。でもってブルーが代わりに御礼を言って貰って、こうしてケーキを贈られる……と。恩返しってそういうものだよ」
「それで文句を言わないだなんて、なんだか裏がありそうだけど…」
疑心暗鬼な会長さん。それをソルジャーは笑い飛ばして。
「無い無い、今回は裏なんて無いよ。本当に感謝してるんだ。…ぼくのハーレイは根がヘタレだから、その内に元の木阿弥だとは思うけど……今の所はパートナーとして文句なし! こんなに幸せでいいのかな、って思っちゃうから恩返しなんだ。幸せは還元しないとね」
「…君がそれでいいなら恩返し強化月間でもいいけどさ…。勘違いされてるぼくの立場は? こっちのハーレイだってヘタレだけどね、ブライダルフェアの例もある。舞い上がっちゃってプロポーズされるとか、御礼代わりにってデートの誘いが来るとか、そうなっちゃったらどうしろと?」
おっと、その心配がありましたか! 教頭先生は会長さんが気遣ってくれていると信じてケーキを寄越したのですし、恩返し強化月間がこのまま続くようなら更なる御礼が来そうです。それもグレードアップして…。
「あ、そうか。…そこまで考えてなかったよ」
悪びれもせずに答えるソルジャーに会長さんは頭を抱え、私たちも額を押さえました。密かに恩返しは美談ですけど、問題なのは教頭先生の勘違い。ソルジャーが幸せのお裾分けだか還元セールだかに燃えている内に、教頭先生の頭の中では「会長さんに気遣ってもらえる自分」が大きく育っていそうです。
「……考えていなかったって……君は人の迷惑を顧みないで恩返しとやらをしてたわけ? 今はケーキで済んでいるけど、この先、何が起こるやら…。フォローする気が無いんだったら恩返しはすぐに中止して!」
これ以上ハーレイに近付くな、と会長さんはソルジャーにビシッと指を突き付けて。
「いいかい、ハーレイは本気でぼくに惚れているんだ。勘違いして暴走されたらツケが回ってくるのはぼくだ! 今なら単なる気まぐれでした、でカタがつく。ぼくが適当にあしらっとくから恩返し禁止!」
「うーん…。恩返し禁止? ぼくはこんなに幸せなのに、恩返しをしちゃいけないのかい?」
ハーレイは大恩人なのに、とソルジャーは納得がいかない様子です。恩返しをしたい気持ちも分からないではないですけれど、ソルジャーが頑張って恩返しとやらを重ねてゆけば教頭先生の勘違いの方も積もり積もって雪だるま式に膨らんでいくのは確実でした。
「禁止と言ったら絶対禁止! ぼくが迷惑!」
「でもハーレイには恩があるんだ。ぼくは恩返しをしたいんだよ」
「だったらコソコソ隠れていないで表に出たらいいだろう!」
鶴の恩返しじゃないんだから、と会長さん。
「正体がバレたら二度とハーレイの前に出て行けないってわけじゃなし…。恩返しなら堂々と!」
「堂々と…?」
それじゃ恩返しにならないような…、とソルジャーは腕組みをして悩んでいます。だったら中止の方向で! それが一番の上策ですよ~!



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シャングリラ学園に中間試験の季節がやって来ました。私たちは慣れっこですけど、1年A組のクラスメイトには初の経験。教室の一番後ろに机が増えて会長さんが登場し、「そるじゃぁ・ぶるぅ」の不思議パワーだと解説しながら全員の意識の下に試験問題の正解を流し込むというお決まりのパターンの展開です。
「なんか試験って楽勝だった?」
「いつもの抜き打ちテストの方が難しいような気がするぜ」
不思議パワーは本当に凄い、とクラスメイトは大感激。しかも満点が約束されているとあって、会長さんの机の上には「そるじゃぁ・ぶるぅ」への貢物が山盛りに。試験最終日には貢物は抱え切れない程の量になったのですが、それが一瞬の内に瞬間移動で消え失せたのでクラスメイトはまたまたビックリ。
「か、会長…。お菓子とか何処へ行ったんですか?」
「ああ、ぶるぅが貰っていったんだよ。これも不思議パワーの内の一つさ。ありがとう、って伝えてくれって」
会長さんがウインクすると感謝の拍手が沸き起こりました。最終日の試験も1年A組は絶好調! 誰もが明るい笑顔です。終礼が済むとグレイブ先生の注意も聞かずに打ち上げをしにダッシュで下校。教室に残された私たちも「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に向かって移動しながら。
「今日の打ち上げ、やっぱり焼肉?」
ジョミー君の質問に会長さんがコクリと頷いて。
「あそこのお店は美味しいしね。君たちもお気に入りだろう? この間もみんなで出掛けたし」
「うん。せっかく金券を使うんだから、あそこがいいって思ったんだよ」
金券というのはGWにシャングリラ号で貰ったヤツです。会長さんを筆頭とするソルジャー・チームと教頭先生たちの長老チームの二手に分かれて三日間争い、勝利を収めて手に入れたもの。ソルジャーの名前で発行されているのですけど、地球に戻って手続きを取れば色々な場所で使えるのでした。
「あの金券は便利だろ? 大きな声では言えないけどね」
シャングリラ号の存在自体が極秘だから、と会長さん。えっ、その名前を校内で出して大丈夫かって? もう生徒会室まで来ちゃってますから問題なし。私たちは壁の紋章に触れて「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋の中へと移動しました。
「かみお~ん♪ 試験、お疲れさま!」
元気一杯の声が迎えてくれて、すぐに出てくるウェルカム・ドリンク。みんなの好みに合わせた飲み物が置かれ、それから焼き立ての手作りピザが数種類。
「やっぱりお腹が空いてるでしょ? 焼肉の前にも食べなくっちゃね」
「「「いっただっきまーす!」」」
私たちは早速食べ始め、アッと言う間にピザのお皿は綺麗に空に。その後は…。
「じゃあ、出掛けようか」
立ち上がったのは会長さん。でも行き先は焼肉店でもバス停でもなく、中庭の向こうの本館で…。これも定期試験のお約束の一つでした。ゾロゾロと本館に入り、目指すは教頭室の重厚な扉。会長さんが軽くノックして。
「失礼します」
ガチャリと扉を開けると教頭先生の穏やかな笑顔が待っています。
「来たか。今日も多めに入れておいたぞ」
教頭先生は机の引き出しを開けて立派な熨斗袋を会長さんに手渡すと。
「沢山食べてくるといい。…変な遠慮は要らないからな」
「…遠慮?」
会長さんが首を傾げました。
「遠慮したことなんてあったっけ? いつも楽しくやっているけど…」
「そうか、それなら別にいいんだ。私が好きでしていることだし、余計な気遣いは無用だぞ」
「………? 言ってる意味が分からないけど、気遣い無用は嬉しいね。じゃあ、遠慮なく貰って行くよ」
軽く手を振る会長さんに「気をつけてな」と目を細めている教頭先生。ずっと前には打ち上げパーティーの度に会長さんがあの手この手で悪戯を仕掛けて費用を毟っていたのですけど、最近は至極平和です。熨斗袋を貰ってそれでおしまい。騒動に巻き込まれずに済むというのはいいことですよね。

焼肉店で食べて騒いで、数日経つと1年A組の一番後ろに再び会長さんの机が出現。今度は「そるじゃぁ・ぶるぅ」も来ています。ということは…。
「諸君、おはよう」
靴音も高く入ってきたグレイブ先生が出席を取り、ツイと眼鏡を押し上げて。
「やはりブルーが来ているな。…諸君は全く知らないだろうが、ブルーは無類のお祭り好きだ。試験以外で来ている時はイベントがあると思っておけば間違いない」
「「「イベント?」」」
クラスメイトたちは怪訝な顔。グレイブ先生はプリントを配り始めました。
「健康診断のお知らせだ。ただし、ブルーの目当ては健康診断などではない。…その後に球技大会がある」
球技大会は来週だ、とグレイブ先生。
「我が校の球技大会はハードなのでな、健康診断は欠かせない。ブルーは球技大会に参加したくてお知らせを貰いに来ているわけだ」
「かみお~ん♪ ぼくも忘れないでね!」
ぼくだって参加するんだから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が声を張り上げ、グレイブ先生は「分かっている」と不機嫌そうに。
「ぶるぅは女子の部に参加だったな。今年も頑張るつもりだろうが、他の諸君はほどほどにしておきたまえ。私は一位が好きだと常に言っているが、球技大会についてはその限りではない」
一位にこだわる必要は無い、とグレイブ先生が言った途端に「質問です!」と手を上げたのは会長さん。
「ブルーか…。なんだ?」
「念のために確認するけど、君は一位が好きだよね? この間の中間試験もA組が学年一位を獲得したから大喜びだった筈だろう? 球技大会だって立派な競技だ。どうして一位を目指さないのかな?」
会長さんの指摘にクラスメイトがざわめいています。特別生の私たちは理由を知っているのですけど、入学して間もない1年生がそんなことを知る筈も無く…。グレイブ先生は「静粛に!」と注意してから。
「学生の本分は勉強だ。球技大会は体力を激しく消耗させる。脳味噌に栄養が回らなくなって勉学に支障が出ると困るのはクラスの諸君ではないかと思うのだが?」
なるほど、グレイブ先生、正論で真っ向勝負ですか! けれど会長さんは平然と。
「その件だったら特に問題ないだろう? ぼくとぶるぅがいるんだよ。みんなを消耗させちゃう前に簡単に勝ちを収められるし、心配無用。要らないと言っても一位は頂く。…それも学園一位の座をね」
おおっ、とどよめくクラスメイトたち。学園一位とくれば無理もないでしょう。上級生のクラス相手に勝つというのは普通だったらまず不可能です。会長さんはニッコリ笑って。
「グレイブは話す気が無いようだから、代わりにぼくが説明しよう。学園一位には副賞がある。どんな中身かは当日までに耳にすることもあるかもね。とても楽しいイベントだから期待しててよ。ついでに、ぼくとぶるぅが仲間入りをする件もよろしく」
「「「はーい!」」」
教室の主役は完全に会長さんでした。グレイブ先生は苦虫を噛み潰したような顔つきで健康診断に関する注意を行い、ブツブツと口の中で文句を言いつつ朝のホームルームを終える羽目に。学園一位の副賞が何かはその日の内に知れ渡ってしまい、誰もが球技大会に燃えています。
「学園一位を獲得したら御礼参りが出来るんだってな」
「聞いた、聞いた! クラス担任の他にもう一人、先生を指名できるって」
そう、御礼参りとは文字通りの御礼参りでした。シャングリラ学園の球技大会はドッジボールの勝ち抜き戦。学園一位になると先生チームと戦う権利が貰えるのですが、先生チームは内野が二人で外野が一人。内野に入った先生相手にボールをぶつけまくれるというのが御礼参りの名の由来です。
「会長、学園一位を取れるって言ってたもんなあ…。腕が鳴るぜ」
「俺たちだって頑張らないとな!」
自主練しようぜ、と盛り上がっている男子もいます。火付け役になった会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は朝のホームルームが終わるとサボリとばかりに消えてしまってそれっきりですけど、二人のインパクトは思い切り大。健康診断の日に登場したら貢物の山が出来上がるかも…?

こうして球技大会は開幕前から耳目を集め、健康診断も話題の的に。女子の部に入る「そるじゃぁ・ぶるぅ」が女子と一緒に健康診断を受けるというだけでもクラスメイトは興味津々だったのですが、会長さんの方は更に色々と驚きの連続だったからです。
「えっと…。会長は体操服じゃないんですか?」
男子の一人が尋ねたのは健康診断に出掛ける前。体操服で受診するよう言われていたのに、会長さんだけは病院で出てくるような水色の検査服を着ています。紐で結ぶだけのバスローブみたいな形のヤツで、いつも健康診断にはコレなのですけど、今のクラスメイトたちは初めて目にするわけでしたっけ…。
「ああ、これかい? ぼくは別枠扱いだからね、検査用の服も別枠らしいよ」
「「「別枠?」」」
「うん。このクラスの健康診断が全部終わってから呼ばれるんじゃないかな、多分、今日も」
会長さんの予言は的中しました。健康診断はまずは女子から。保健室では、まりぃ先生が待ち構えていて…。
「あらあ、ぶるぅちゃん、いらっしゃい!」
待ってたのよ、と大喜びのまりぃ先生。まりぃ先生の趣味は男子生徒へのセクハラまがいの接触です。その一方で幼児体型の「そるじゃぁ・ぶるぅ」を触りまくるのも大好きらしく、いつも持ち場を放り出しては保健室の奥へと連れ込むのでした。そこにあるのは立派なベッドとバスルームを備えた特別室。
「ぶるぅちゃん、今日もセクハラしてあげるわね」
「わーい! せくはら大好き!」
歓声を上げた「そるじゃぁ・ぶるぅ」がまりぃ先生と一緒に向かった先はベッドではなくバスルーム。まりぃ先生とお風呂に入る「そるじゃぁ・ぶるぅ」がピカピカのホカホカになって戻って来るまでベッドルームで待っているのがスウェナちゃんと私のお役目でした。え、健康診断はどうなっているのかって? それは…。
「やっぱりヒルマン先生なのねえ…」
お決まりだけど、とスウェナちゃん。まりぃ先生はセクハラ・タイムに突入する前に内線でヒルマン先生を呼び出し、健康診断の代役を頼むのです。ヒルマン先生は医師免許も持っておいでですから何の問題もありません。ただ、毎回それをやらかしていても大丈夫なのはコネ…なのかな?
「1年A組の健康診断って言うと消えちゃうものねえ、まりぃ先生…。言い訳はしてるけど、毎回毎回、生徒が気分が悪くなりました…って無理があるわよ」
それも毎回同じ生徒だ、とスウェナちゃんが溜息をついています。そう、まりぃ先生はスウェナちゃんと私と「そるじゃぁ・ぶるぅ」を気分の悪い生徒に仕立てて、付き添いが必要だからと特別室へ引っ込むのが常。しかも引き籠りは一度では済まず、お次は会長さんを特別室に連れ込んで…。
「ヒルマン先生も本当に人がいいんだから…。絶対気付いていると思うの、ホントは遊んでいるだけだ…って」
元ジャーナリスト志望のカンよ、とスウェナちゃんが保健室に続く扉を見詰めました。
「でもって、まりぃ先生が野放しなのは理事長の親戚だからよ、きっと。何をやっても許されるんだわ」
会長さんの検査服だって、とスウェナちゃんは鋭い指摘。あの検査服は会長さんの担任である教頭先生の所に届けられると聞いていますし、まりぃ先生が一枚噛んでいるのは確実でしょう。それより何より、この部屋が…。
「そうよね、まりぃ先生が作らせたのよねえ、特別室って。…着任したての保健室の先生なんかに出来ることではないわね、普通…」
コネって怖い、とスウェナちゃんと私はブルッと身体を震わせました。まりぃ先生、そんな会話になっていたとは全く知らずに「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れてバスルームから出てくると。
「はい、今日のセクハラタイムはおしまい。ぶるぅちゃん、気持ち良かったかしら?」
「うんっ!」
「先生もよ。ぷにぷにのほやほや、最高だわぁ。次は生徒会長を呼んできてね」
あの子は虚弱体質だからキッチリ健康診断をしておかないと、と言われましても…。先生、それって本当ですか? 喉まで出かかった言葉をグッと飲み込み、スウェナちゃんと私は「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れて1年A組に戻りました。健康診断はヒルマン先生の代打でサクサクと進んだらしくて受けていないのは会長さんだけ。
「ぼくの番かい? じゃあ、行ってくるよ」
戻ってくる予定は無いからね、と会長さんが出て行ってしまうと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も山のように貰った貢物を抱えて帰ってしまい、残されたクラスメイトたちはザワザワと。
「まりぃ先生、生徒会長だけは特別扱い?」
「そうらしいぜ。俺が先輩に聞いた話じゃ、保健室の奥に特別室っていうのがあってさ…」
「え、保健室の先生と生徒会長のイ・ケ・ナ・イ時間? マジで?」
あちゃ~、長年やってる間にしっかり噂になっていますよ! イケナイ時間は存在します、と暴露したくなるじゃありませんか。実態は会長さんがサイオニック・ドリームでまりぃ先生に大人の時間な夢を見せてるだけなんですけど……その間に特別室のベッドで昼寝をしているだけなんですけど、イケナイ時間には違いありません。
だって堂々とサボリですから! とはいえ、会長さん相手には言うだけ無駄かな…。

球技大会の日は1年A組、朝も早くから絶好調。私たちが登校してみると自主練習を終えたクラスメイトたちが次々にグラウンドから戻ってきます。
「あーあ、もうグラウンドは使用禁止だってよ」
「仕方ねえよ、コートの準備があるんだろ。ギリギリまで使わせてくれたんだしさ、良しとしようぜ」
学園一位を取ってやる、と燃え上がっている所へ会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がやって来ました。
「かみお~ん♪」
「やあ、おはよう。みんなホントに熱心だねえ。そんなに勝ちたい?」
「「「はいっ!」」」
「当然、御礼参りが目当てだろうね。…グレイブだろ? あれだけ派手に抜き打ちテストを繰り返していれば恨まれるか…」
自業自得、と会長さんはニヤリと笑って。
「もう一人指名出来るっていう権利なんだけど…。その権利、ぼくに譲ってくれるかな?」
あーあ、今年もこうですか…。クラスメイトたちは揃って快諾、教頭先生に御礼参りフラグが立ったわけで。朝のホームルームに現れたグレイブ先生も覚悟を決めているようです。
「諸君、おはよう。私から言うことは何も無い。…全力を尽くして戦うように」
「「「はーい!!!」」」
威勢よく返事した1年A組、グラウンドに出ての第一戦に見事に勝利。これは男子の部でしたけども、応援に行った女子生徒たちも手に汗握る名勝負でした。なにしろ相手チームは一つもアウトを取ることが出来なかったのですから! シャングリラ学園の球技大会のドッジボールは「どちらかの内野が空になるまで」戦うルールなんですけどねえ…。
「生徒会長、凄いよな!」
「おう。俺たちがカバーし切れなかった所を一人で走り回ってたもんな」
まるで分身の術だった、と感動している男子たち。それは応援していた女子の方でも同様で…。
「さっきあっちに居たと思ったら、アッと言う間に移動してるなんて…。よっぽど足が速いのよね」
「運動神経が半端じゃないのよ。でも……大丈夫かしら、ちょっと心配」
会長さんは試合が終わると救護テントに行ってしまって簡易ベッドで休憩中です。虚弱体質だと本人がアピールしていただけに、心配する女子も数多く…。でも、それ、問題ないですから! あの程度のことでダウンするほどヤワな人ではないですから! 分身の術かと見まごうほどの鮮やかなプレイは無論、サイオン。
「ブルー、今年も頑張るよねえ…」
ジョミー君が救護テントに視線を向ければ、キース君が。
「目指すは御礼参りだぜ? それにあいつは息をするようにサイオンを扱ってやがるからな…。俺たちが同じことをやろうとしたらヘトヘトだろうが、多分、全く消耗してない」
救護テントはパフォーマンスだ、というキース君の言葉を待つまでもなく、テントからシド先生が飛び出してゆくのが見えました。そして「そるじゃぁ・ぶるぅ」が羨ましそうに。
「いいなぁ…。ブルー、疲れてお腹がペコペコだからハンバーガーを食べるんだって! ぼくも試合が済んだらシドに頼みに行こうっと♪」
走り回るとお腹が減るもんね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。会長さんが本当に消耗したのだったらハンバーガーなどと我儘を言える余裕は無いでしょう。お使いに走って行ったシド先生の次の任務は「そるじゃぁ・ぶるぅ」の注文でハンバーガーを買うことなのか、はたまた会長さんの追加注文か…。さあ、次は女子の部、一戦目!
「かみお~ん♪ 任せといてね!」
自分の前のボールだけ見てて、と胸を張っていた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は小さな身体で広いコートを縦横無尽に走り抜けます。ボールを素早く受け止めては投げ、飛び上がって掴み取っては投げ…。会長さん以上に目立つ姿は相手チームには脅威だったでしょう。
「やったー!」
最後の一人をアウトにするなり「そるじゃぁ・ぶるぅ」は救護テントにまっしぐら。クラスメイトは会長さんとの作戦会議だと思っていますが、ハンバーガーが欲しいだけなんですよね。シド先生、お使い、ご苦労様です…。

ハンバーガーやお菓子やケーキで英気を養いまくった会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」は素晴らしい戦果を上げました。1年A組、負け知らず! 学年一位を勝ち取った後は2年、3年の一位のチームと男女別に対戦し、共に学園一位を獲得。表彰式には会長さんが代表で出て、そこで副賞の発表が。
「シャングリラ学園名物、御礼参りの時間だよ!」
ブラウ先生がマイクを握って。
「1年A組、どの先生を指名する?」
会長さんがスッと指差したのはジャージ姿の教頭先生。
「教頭先生を指名させて頂きます!」
ワッと湧き立つ全校生徒。2年生と3年生は既にパターンを知っていますし、1年生にも聞いたことのある生徒が多い筈。知らなかった生徒は生徒で、体格のいい教頭先生に御礼参りと聞いて興奮気味です。そんな中でブラウ先生が1年A組にコートに入るように指示し、先生チームもコートへと。外野はお馴染みシド先生。
「試合開始!」
ホイッスルが鳴り、会長さんが教頭先生の頭めがけて思い切りボールを投げ付けました。御礼参りではアウトを取られない頭を狙うのがお約束です。ただしミスして身体に当たっても先生チームはアウトにはならず、ひたすらコートを逃げ回るのみ。私たちのクラスの方は普通にアウトになりますが…。
「「「頑張れー!!!」」」
全校生徒の応援を受けて1年A組は先生チームにボールをボコボコ。日頃から抜き打ちテストや実力テストで恨まれているグレイブ先生にヒットした時は拍手まで起こる有様です。教頭先生は恨みを買ってはいないのですけど、会長さんが面白がって集中的に狙っているため、クラスメイトからも攻撃されて。
「試合終了!」
制限時間の終わりを告げるホイッスルが鳴った時にはグレイブ先生も教頭先生もボロボロでした。すぐに救護テントから顔を冷やすための冷却シートや氷嚢が運ばれ、スポーツドリンクも差し入れられます。そんな先生方を見物しようと生徒たちが集まり始め、私たちも野次馬根性丸出しで近付いて行ったのですが。
「…ブルーか」
教頭先生が少し腫れた頬を冷やしながら会長さんに微笑みかけたからビックリです。片想い歴三百年以上、散々な目に遭わされ続けてそれでも諦め切れなくて…。御礼参りでボコボコにされても会長さんを好きな気持ちに変わりはないというアピールの微笑みなんでしょうねえ。…しかし。
「ありがとう、ブルー」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と会長さんも私たちも首を傾げて怪訝な顔。ありがとう…って、いったい何が? 御礼参りで指名してくれて感謝しているとか、そういう意味? 中身こそ凄まじい御礼参りですが、会長さんとの貴重な触れ合いタイムには違いないですし…。
「お前のお蔭で頑張れた。…本当にありがとう」
「「「???」」」
今度こそ意味がサッパリでした。会長さんはポカンと口を開け、それから「うーん…」と額を押さえて。
「ハーレイ、打ちどころでも悪かった?」
「いや。私は至って正気だが…。感謝の気持ちを伝えておきたいと思っただけだ」
気にするな、と教頭先生は穏やかな笑みを浮かべています。やはり御礼参りに指名されたことへの感謝でしょうか? 会長さんの関心が他の先生に移っちゃったら触れ合いタイムは無しですもんね。
『…教頭先生ってマゾなのかな?』
ジョミー君の思念波が届き、クスクス笑い出す私たち。
『否定し切れん部分はあるな』
同意の思念波はキース君。会長さんからも『そうだよねえ』と肯定の思念が。顔を冷やしている教頭先生には聞こえていないみたいです。私たちのサイオンの扱いもその程度には上達したわけで…。えっ、なんですって?
『違うよ、ぼくがブロックしてるんだ』
ハーレイたちに聞こえちゃったら大変だしね、と会長さんに言われて私たちはガックリと肩を落としました。サイオンはまだまだヒヨコのレベルでしたか…。先生たちと御礼参り以外で互角に渡り合えるようになるのは何年くらい先なんでしょうねえ?

こうして球技大会が幕を閉じ、翌日の朝のホームルームに登場したグレイブ先生の顔は元通り。御礼参りは「恨みっこなし」が鉄則ですから話が蒸し返されることもなく、平和な一日の始まりです。私たちはのんびり授業を受けて、学食でランチを食べて、午後の授業が済むと終礼。放課後は「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋が待ってますからワクワクです。ところが今日はいつもと違いました。
「そこの特別生、七人組!」
グレイブ先生の声でハッと前を見る私たち。な、何かマズイことでもやったでしょうか? 頭の中は今日のおやつのことで一杯になっていましたけれど、それが顔にも出てたとか…?
「何を慌てているのかな? 諸君にとっては終礼も退屈なほどワンパターンだと分かってはいるが、やはり心は此処に在らず…か。まあいい、呼ばれたことには気付いたのだから良しとしておく」
「「「………」」」
この展開はマズイです。何か重要なお知らせでも聞き逃してしまったのかな? …と、グレイブ先生が唇を笑みの形に吊り上げて。
「安心したまえ、諸君へのお知らせはこれからだ。…教頭先生から御伝言を預かっている」
「「「えっ?」」」
教頭先生からの伝言ですって? 会長さんに何か伝えることでも…? なにしろ「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋は教師は立ち入り禁止ですし…って、ええっ?
「以上だ。分かったな?」
グレイブ先生は一方的に伝言を告げると終礼を終え、さっさと立ち去ってしまいました。訊き返す暇も与えずに…です。
「な、なんだったの? あの伝言って…」
分かんないよ、とジョミー君が問えば、サム君が。
「俺にだって分かんねえよ! キース、お前は心当たりは?」
「…無い…。俺やシロエやマツカというなら分からないでもないんだが…。柔道部の方の用事だということもあるしな」
だが分からん、とキース君も頭を抱えています。教頭先生からの伝言は私たち全員宛でした。七人揃ってどうしろと? 会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」もこの伝言を聞いたのでしょうか? グレイブ先生、質問の時間を残しておいて欲しかったです~!



 岩盤に押し潰される衝撃が来るまでの時間は酷く長かった。砕けたシールドの欠片が青い光の
粒に変わるのを赤い瞳でぼんやりと見ながらハーレイを想う。今度こそハーレイは泣くだろう
けれど。…でも、キースたちを守って無事に地上へ戻って欲しい。地球の未来を見届けて
欲しい…。


「ブルー!!!」
 視界に青い光が溢れ、ブルーをまさに押し潰さんとしていた岩が粉々に弾け飛んだ。現れたのは
ジョミーではなく、オレンジ色の瞳のトォニィ。
「間に合った…。飛ぶよ、ブルー!」
 燃えるような髪を持つ青年の腕に抱えられ、一瞬の後にはジョミーたちが待つ地下通路へと移動
していた。
 トォニィはブルーを両腕で抱いたままでジョミーに向かって叫ぶ。


「グラン・パ、上の方も崩れ始めてる! 歩いていたんじゃ間に合わない。ぼくとグラン・パの
力で飛ぼう。何度かに分ければ上に出られる!」
 ぼくはそうやって降りて来た、というトォニィの提案にジョミーが頷き、ハーレイがブルーを
腕に抱き取った。そんな中でジョミーが「すみません」とブルーに謝る。
「あなたを迎えに飛ぼうとしました。…そこへ地震が起こってしまって、目標を定められなく
なった。もしもトォニィが来てくれなかったら…。本当にすみませんでした」
『…君が謝る必要はない。あそこに残ると言ったのは、ぼくだ。…君が地震の中で飛べない程に
消耗したのはグランド・マザーのせいだろう? …気に病むな、ジョミー。それよりも、上へ』
「はい…!」


 行きましょう、とジョミーとトォニィがハーレイとキースを挟んで向かい合った。ハーレイの
腕の中にはブルー。キースの腕にはマツカ。二人のタイプ・ブルーが力を合わせれば、その
サイオンは相乗される。テレポートを重ねて上へ、上へと飛んでゆく間、ハーレイはブルーを
しっかりと抱いて離さない。


『ブルー…。今度こそ駄目かと思いましたよ。…ソルジャーとしての御判断も結構ですが、もう
おしまいにして下さい。私の心臓が保ちません』
『…ぼくを生かしている分を削れば大丈夫だろう?』
『何度も申し上げた筈ですが…。あなたが生きていらっしゃることこそが、私の生きている
意味です。…ですから生きて下さい、ブルー』
 シャングリラに帰ったらすぐに手当てを、とハーレイは言うが、痛みはそれほど感じなかった。
傷口を凍らせられていることもあったが、それ以上に精神的なものが大きい。一つ判断を誤れば
皆を巻き添えにしかねない状況だけに、気をしっかりと保たねばならぬ。…そう、地の底から
脱出するまでは。


「グラン・パ! 上に誰か居る!」
「なんだって?」
 何処だ、と問い返しながらもジョミーはトォニィと共にブルーたちを連れてテレポートする。
ぽっかりと開けた空間は薄暗かったが、そそり立つ扉と女神のレリーフに見覚えがあった。
カナリアと呼ばれる子供たちがいたフロアだ。
「ゼル!? それに…ヒルマンたちか?」
「「「ソルジャー!?」」」
 ジョミーの呼び掛けに応えた声は長老たちのもの。絶え間ない地震で壁がひび割れ、落下物が
散乱する暗い広間に彼らは居た。


「こんな所で何をしているんだ! 崩れるぞ!」
「…ソルジャーたちを探して此処まで降りて来たんじゃが…」
「先へ進めなくなっちまってさ。でも、あんたたちが無事で良かったよ。…と、無事ってわけでも
ないようだね」
 ブルーの傷と気を失っているマツカに気付いたブラウに、ブルーは声を出す代わりに思念で
尋ねた。
『…此処に子供たちがいなかったか? それとも脱出した後だったか…』
「あの子たちならシャングリラに送り届けました。…それにフィシスも」
 ヒルマンが穏やかな瞳で高い天井を仰ぐ。
「こんな所に子供がいたのには驚きましたが、見殺しには出来ませんでしょう。私たちの力を
合わせればそのくらいは…。ただ、私たちが戻るのはもう無理なようです」


 来た道は塞がってしまいましたし、とヒルマンが指差す先には崩れ落ちた通路。此処はまだ
地上までの中間地点に過ぎず、脱出不可能と悟った彼らは子供たちと年若いフィシスを優先して
逃がしたのだろう。
「ソルジャー、あなたは逃げるんじゃ。勿論、ソルジャー・ブルーもですぞ」
「ハーレイ、あんたも行くんだよ。ブルーはあんたがいなけりゃ生きられないし、シャングリラ
にはキャプテンが必要だからね」
 行きな、とブラウが明るく笑い、ヒルマンやエラたちも声を揃えた。ミュウと人類の未来の
ためにも自分たちを捨て、ジョミーやキースたちが生き残って皆を導くべきだと。

 

 

 

「ほらほら、何をグズグズしてるんだい? 早く逃げないと崩れちまうよ。…そこの大将も上で
お供が待っているんだ」
 ブラウが大将と呼んだのは他ならぬキースのことだった。
「あんただよ、国家主席様。…人類にはシールドなんて器用なことは出来ないからねえ、よろしく
頼むと言われたんだ。探しに行くなら閣下も是非…って。シャトルが出られるギリギリまでは
待ってるってさ」
「…では……会談は無事に終わったのだな?」
 キースの問いにゼルがフフンと余裕の笑みを浮かべる。
「当然じゃろう。…まったく、あんなメッセージを流したくせに無責任に出ていきおって…。
お前の部下たちは気の毒じゃったぞ、右往左往というヤツじゃ。あちこちの星で暴動が起こるわ、
軍人どもは戦いを放棄するわで後始末に頭を痛めておったわい」
 早く戻って手伝ってやれ、と促したゼルの目が不審そうに細められた。


「…なんじゃ? この感覚は…。もしやミュウではあるまいな? お前はミュウを連れて
おるのか?」
「連れているとも。マツカはミュウだ。…そして私自身も…ミュウらしいな」
 唇の端を吊り上げたキースの身体からサイオンのイエローが立ち昇る。長老たちは息を飲み、
其処へジョミーが今に至るまでの経過の全てを思念で伝えた上で畳み掛けた。
「分かるな、これからが大切なんだ。逃げるなら誰一人欠けてはならない」
「ソルジャー! 無茶を仰られては困りますな」
 どうぞお早く、とヒルマンがブルーたちから離れて退き、ブラウたちも壁際に下がろうと
したが。


『アルテラ! タージオン、ペスタチオ、みんな、手を貸せ!』
 トォニィの強大な思念が遙か上へと向かって放たれ、ナスカの子供たちの青いサイオンが
シャングリラからユグドラシルの地下深くへと飛び込んで来た。そのサイオンに巻き上げられる
ようにゼルが、ブラウが、ヒルマンとエラの姿が消えてゆく。
「「「ソルジャー…!!!」」」
「先に戻っていろ! ぼくたちもキースを送り届けたら戻る!」
 行け! とジョミーがシャングリラが浮かぶ宇宙へと思念を送り、ブルーたちの方を振り
返った。
「ぼくたちも行こう。…急ぐぞ、ユグドラシルが崩れてしまったらシャトルが飛べない」
「グラン・パ、シャングリラからもシャトルが出てる!」
 アルテラに聞いた、と告げるトォニィに、ハーレイが満足そうな微笑みを見せた。
「シドが決断を下したか…。地球を離れる代わりに人命救助の道を選ぶとは、いいキャプテンに
なるだろうな」
「まだキャプテンは君だろう? 行くぞ、トォニィ!」


 ジョミーのサイオンがトォニィのそれと重なり、ブルーたちを連れてユグドラシルの上を
目指して飛ぶ。点在する空間から空間へと、地震と地鳴りの間隙を縫って。
 そうやって辿り着いた地上は激しい揺れと地割れからの噴火に見舞われ、ブルーとハーレイに
とってはアルタミラの惨劇を思い起こさせる熱く燃え盛る大気の中を何基ものシャトルが
上昇してゆく。地球にいた人類たちは皆、無事に脱出できただろうか?

 

 

 

 ユグドラシルの地上部は壁や通路のあちこちが裂け、照明すらも落ちた内部に人影は無い。
辛うじて外部からの有毒ガスだけはまだ入り込んでおらず、地震の度に縦に横にと揺れる通路を
格納庫へと進んでゆくと。
「アニアン閣下!」
 キースの側近の一人だった浅黒い肌の国家騎士団員の青年が、一基だけ残っていたシャトルの
中から駆け出して来た。
「閣下、御無事で…! マツカは!?」
「大丈夫だ、まだ死んではいない。私を庇って怪我をした。…そこのミュウたちが応急処置を
してくれたのだ。私を此処まで連れて来てくれたのも彼らだ」


 キースの言葉に青年はジョミーたちに最敬礼をし、続いて深々と頭を下げた。国家騎士団と
言えば軍人の中でもエリート中のエリート。その騎士団員がミュウに対して礼を取るという
行為が新しい時代の始まりを示していた。
「ありがとうございました! …閣下、此処はもう危険です。ユグドラシルにいた者たちは
脱出しました。我々も早く!」
「ああ、急がねばな。…世話になった、ジョミー。ソルジャー・ブルー。…そしてトォニィ。
それにキャプテンも……。礼を言う」
 また会おう、とマツカを抱いたまま会釈し、キースはシャトルへと乗り込んで行った。既に
準備が整っていたシャトルは滑るように離陸しようとしたが、その瞬間にユグドラシルが大きく
揺れる。天井に激突しかかったシャトルを間一髪で支え、燃える空へと解き放ったのは
ジョミーとトォニィのサイオンだった。


『…すまない、最後まで世話をかけたな。お前たちも早く逃げてくれ』
 キースから届いた思念波にジョミーが遠ざかるシャトルへと手を振り、ブルーたちの方を
振り向く。
「ぼくたちが最後らしいです。…帰りましょう、シャングリラへ。もう地球で出来ることは
何もありません」
『…そうだね、ジョミー。…こんな星へ行けと頼んですまなかった』
「ブルー、これからが新しい時代ですよ。ミュウにとっても、地球にとっても。…見届けて
下さい、あなたのその目で」
 帰りますよ、と強い意志を秘めたジョミーの瞳が大気圏内に降下してきていたシャングリラを
見上げ、最後のテレポートがブルーたちを展望室へと運んだ。
 ガラス張りの窓からユグドラシルが沈み、崩れ落ちてゆくのが見える。地球に寄生していた
SD体制の象徴たる忌まわしい毒キノコが宿主の怒りに触れ、毟り取られて踏み躙られ、
地の底へと葬り去られる姿が…。


『…ハーレイ……。地球が……燃える…』
 アルタミラみたいに、と思念で呟くブルーを両腕で抱いたまま、ハーレイも窓の外を見詰めて
いた。
「そうですね…。けれど、私は地球は再生すると信じています。あなたに青い地球を見て頂ける
日が必ず来ると信じていますよ…」
 あなたが生きて下さったように、とハーレイの思念がブルーの心に囁き掛けた。
『ソルジャーに戻ると仰った時、私は覚悟を決めていました。…あなたに万一のことがあったら、
私も生きて戻りはすまい……と。ですが、私たちはシャングリラに戻ってきたでしょう?
青い地球にもきっと行けます。あなたが生きて下されば……きっと……』


 そのためにも早く傷の手当てをなさらなければ、とハーレイに促され、ジョミーが思念を
飛ばしてドクターと医局の者たちを呼び寄せても、ブルーは赤々と燃え上がる地球から視線を
離そうとはしなかった。
 長い年月、焦がれ続けた青い水の星………地球。
 この星がいつか元の姿を取り戻す日が来るのだろうか、と地表を流れる灼熱の溶岩と
マグマが噴き出す無数の地割れとを眺め続ける。ドクターに打たれた麻酔のために意識が
薄れ始めても………地球を。

 

 

 

 重傷を負ったブルーの手術はメギドから帰還した時ほどに長くは掛からなかった。傷は深いとは
いえ一ヶ所だけであったし、ジョミーが取った処置とハーレイが注ぎ込んだ命が体力の消耗を
防いでいたために回復も早い。ブルーが意識を取り戻した時、最初に瞳に映ったものは…。
「…ハー…レイ…?」
「はい。ずっとお側にいましたよ、ブルー…」
 見覚えのあるメディカル・ルームのベッドの脇にハーレイが優しい笑みを湛えて腰掛けている。
「……地球は……どうなった…? 人類…と…ミュウは…?」
「キースとマツカを救ったのがミュウだと公表されたお蔭で一気に距離が縮まりました。あの後、
すぐに人類側の旗艦ゼウスの艦長でマードックと名乗る人物がシャングリラに表敬訪問を…。
私が船内を案内しましたが、友好的な男でしたよ。…ナスカでの戦いの直後に残存ミュウの
掃討命令を無視したそうです」
 人類側も好戦的な者ばかりでは無かったのですね、とハーレイはそっとブルーの手を取った。


「あちこちの惑星で起こったという暴動も、全てマザー・システムの破壊が目的でした。
施設に収容されていたミュウは自由になり、人類と共に暮らし始めているとのことです。
人類のミュウ化も既に報告が入っております。…これは機密扱いだったそうですが、
国家騎士団員の中にも少し前から潜在ミュウが」
「…それもマツカのせい…なのかな…?」
「恐らくは。…けれど他にも事例があるようですから、ミュウ因子を持った者がいたの
でしょうね」


 これからはミュウの時代ですよ、と微笑むハーレイにブルーも笑みを返す。地球は青くは
なかったけれども、幾つもの星がミュウが踏みしめられる大地になったのだ。SD体制は
過去のものとなり、ミュウは頸木から解放された。
 地球を目指せと約束の場所として掲げ続けた自分の罪はこれで少しは軽くなるだろうか?
青い地球を夢見て死んでいった者たちに少しは顔向け出来るだろうか…。


「ブルー? …まだ苦しんでおられるのですか、地球の姿に?」
 ハーレイはブルーの命を繋ぎ続けているだけはあって、心の動きにも敏感だった。
否定しようかと一瞬迷ったが、ブルーは頷いて銀色の睫毛を悲しげに伏せる。
地球を……見たかった。朽ち果てた姿でも紅蓮の焔に包まれた姿でもなく、青く輝く水の星を。
 地球に降りた日の夜にハーレイが見せてくれた、彼の心の中に在る青い星。自分とハーレイの
命が尽きる時にはあの青い地球へ行けるのだろうか? 地球を夢見て斃れた仲間たちも皆、
青い地球に辿り着けただろうか…。


「ブルー…。あなたが焦がれておられた青い地球まで、お連れ出来るかもしれません。
夢ではなくて、このシャングリラで。…ヒルマンも人類側の学者たちも皆、その可能性を
語っていますよ」
「……まさか……」
 そんなことが、と目を瞠るブルーにハーレイは小さなスクリーンを開いてみせた。
「御覧下さい。あなたが眠っておいでになった数日間の間の地球です」
 時間を縮めて再生される映像の地球は噴き上げるマグマに深く切り裂かれ、地表を覆うのは
燃える溶岩。どんな生物も棲めぬであろう海が煮え滾る岩の熱で干上がり、豪雨となって地上に
降り注ぐ。ブルーが見た地球が死の星ならば、この地球は地獄と言うべきだろうか。


「グランド・マザーは人類の留まる場所としてユグドラシルを維持していたようです。
マントル層にまで達してはいても、それを動かしはしなかった。…けれど今の地球は文字通り
地の底から動き始めています。汚染された大地を地下深く引き込み、新しい大地を生み出そうと
しているのですよ」
「…そういえば……最初の生命が生まれた頃の地球はこんな風だった、という説があったかな…」
「ええ。まるでその時代に戻ったようだ、とヒルマンたちは言っています。この速さで地殻の
破壊と再生が進むようなら、落ち着いた頃にテラフォーミングを施してやれば青い地球へと戻るの
ではないか…と。我々にも要請が来ていますよ。ナスカでの経験を地球に生かさないか、と」


 ナスカは人類が見捨てた惑星だった。それを草花の育つ星にしたミュウの力が地球の再生に
有効ではないか、と人類側の学者たちは考えたらしい。既にヒルマンと連絡を取り合い、情報
交換が始まっているようだ。


「ナスカか…。ぼくは一度も降りなかったけれど、あの星と地球が繋がるのなら……死んでいった
仲間たちも喜ぶだろうか? そうなってくれれば…ぼくも嬉しい…」
「ジョミーが話していましたよ。ナスカで最初に根付いた植物を植えてみようかと。…ブルー、
あなたも御存知の植物です。あなたが改良なさった豆があったでしょう? あれがナスカで
最初に根付きました」
「…あの豆が…? あの豆を……地球へ…?」
「はい。生命力がとても強いですから、緑化には有効な植物です。それに植物は酸素を作り出し
ますし…。人類側の学者も興味を示しているそうです」
「……そんなつもりで作ったわけではないんだけれど……」
 食料が乏しかった時代にシャングリラの中でも簡単に育てられる食物を、とサイオンを
使って改良したのがハーレイが言う豆だった。環境が改善されるにつれて忘れ去られたものと
思っていたが、その豆がナスカの大地で育てられ、今度は地球の再生のために使われようと
しているとは…。


「ブルー。…長生きはしてみるものでしょう? もうソルジャーに戻られる必要も無いの
ですから、生きて下さい。私がこの船で青い地球へとお連れする日まで」
 約束ですよ、と強く握られた手をブルーはまだあまり力の入らない手で握り返した。
 ……約束するよ、ハーレイ。
 君が連れて行ってくれると言うなら、青い水の星に還れる時まで生きていよう。でも……。
「…ハーレイ…。生きているのは地球に着くまででいいのかい?」
 ハーレイがハッと息を飲み、慌てて叫んだ。
「いいえ! いいえ、ブルー…。その先まで。ずっとずっと遙かな未来まで、私と生きて
頂きます!」
 青くなり、すぐに耳まで真っ赤に染まったハーレイの顔がとても可笑しくて、ブルーは
フフッと小さく笑った。
 分かっているよ、ハーレイ。
 君と一緒に、遠い未来まで……。

 

 

 

 シャングリラは揺れ動く地球とソル太陽系を離れ、アルテメシアへと戻っていった。地上で
暮らしたいと願った者たちを降ろし、その後は……SD体制下で首都星と呼ばれていたノアへ。


 ジョミーはミュウの長として人類側の代表であるキースと共に新しい体制を創り出すために
奔走していたが、住居とする場所はシャングリラだった。かつて人類軍がモビー・ディックと
名付けた白い巨艦はミュウの自由の象徴となり、見学希望者が後を絶たない。
 人類の過半数がミュウ化した時点でキースが自身とマツカのミュウ化を明らかにする声明を
出すと、頑強にミュウとの接触を拒んでいた者たちも一気に軟化し、人類の進化は加速してゆく。


「ブルー」
 務めを終えて戻ったジョミーがハーレイを伴い、青の間へと入って来た。
「この調子だと、あと半年も経たない内に全員がミュウになりそうですよ。自然出産をする
人たちも増えています。地球の地殻変動は続いていますが、大きな地震は減ってきましたね。
…調査船からの報告では汚染物質は既に地表には全く残っていないそうです」
「凄いね、人は…。それに地球も…」
「ええ。思った以上の速さで時代は変わり続けていますよ。…それなのに、あなたは相変わらず
……ですね。楽な服をいくら届けさせても、着替える気にはなれませんか…」
 ジョミーが深い溜息をつく。彼の服装はノアの統治機関での勤務用ですらなく、慣れ親しんだ
家で寛いだひと時を過ごすのに相応しいラフで着心地の良いものだった。しかし、対するブルーは
頑なに、白と銀の上着に紫のマントというソルジャーの衣装しか着ようとはしない。


「これはぼくへの戒めなんだよ。青い地球へ還り着くのだと繰り返し唱え続けた以上は、その
地球へ皆が行ける時まで、ぼくの務めは終わらない。ぼくを信じてついて来てくれた仲間たちを
皆、地球へ連れて行ってやらなければ」
「もうソルジャーは必要ないんですけどね…。でも、あなたが地球を目指さなかったら何も
始まりはしなかった。誰もがそれを認めていますし、キースたちも理解してくれています。
…ですから、地球が再生したら………ブルー、あなたが最初に降りるんですよ」
「……ぼくが……?」
 俄かには信じられない言葉に、ブルーは赤い瞳を零れ落ちそうなほどに見開いた。ジョミーが
頷き、キャプテンの制服を纏ったハーレイをブルーが腰掛けるベッドの方へと押し遣る。


「今日の重要な議題の一つが地球のテラフォーミングの件でした。地殻変動が落ち着き始めた
地域については開始するという方針です。…それでキースと休憩時間に話をしていて、
テラフォーミングが成功したら最初にあなたを降ろすべきだ…と。勿論、ハーレイと
一緒にですが」
「何故、ぼくを…」
「それが最良だからですよ。誰だって一番最初に地球へ降りたいに決まっています。
下手をすれば争いになりかねない。…けれど、あなたなら誰も文句は言えないんです。あなたが
降りて、その後は公平に抽選にでもしようかと…。ぼくとキースは多分、二番手で降りることには
なるのでしょうが」


 楽しみに待っていて下さい、とジョミーは明るい笑顔を見せた。
「あなたが改良したという豆もテラフォーミングに使います。生命力の強さでは飛び抜けた
ものがあるらしいので…。緑に覆われた地球で咲いている姿を見たいでしょう? 安定し始めたら
成長の早い植物を育てますからね、恐らく三十年も経てば人が降りても問題ないレベルまで自然が
回復するかと」
 たったの三十年ですよ、と告げてジョミーが出て行った後、ハーレイがブルーの隣に座って
その肩を抱く。


「…ブルー、お聞きになったでしょう? あなたを青い地球までお連れ出来ます。三百年以上も
生きてこられたあなたにとって、三十年は長くはない筈です。私もお側におりますから…」
「キャプテンとして、ジョミーの補佐役として色々と多忙みたいだけれど?」
「す、すみません…! 確かに夜まで戻らない日が多いですね…。ゼルたちに任せてもっと時間を
取るようにします。せめて昼食は御一緒に…」
「いいよ、今のままで」
 クスッと笑ってブルーはハーレイの大きな身体に凭れかかった。


「ぼくの力はもう必要とされていない。…だから君の力が役に立つなら、ぼくの分まで存分に
動いてくれればいいよ。ぼくが自分の力で生きていられる身体だったら、ジョミーの力にも
なれただろうに…。それだけが少し悔しいかな。君に生かして貰っている身で、こんなことを
言うのは我儘だけれど」
「ブルー…。あなたは充分に力を持っておいでですよ。でなければ地球が蘇った暁に最初に降りて
頂くことなど、誰も考えたりはしません。…いいですか、あなたが全ての始まりなのです。
キースたちは今はいい意味でオリジンと呼んでいますよ、あなたのことを」


 御自分を卑下なさらぬように…、と温かい手で頬を撫でられ、ハーレイの唇が寄せられる。
「行きましょう、ブルー。いつか蘇る青い地球まで、このシャングリラで」
「…うん……。行こう、ハーレイ。ぼくたちの約束の場所だった星へ…」
 口付けを交わす間にハーレイが今も心に抱き続ける青い水の星の幻が見えた。ハーレイの地球に
引き寄せられるように、ブルーも自らの心の遮蔽を解いてゆく。
 身体を、心を融け合わせて過ごす至福の時。互いを求め合う夜を幾重にも重ね、身体も心をも
結び合わせて………いつの日か………地球へ。

 

 

 

 グランド・マザーとユグドラシルを地の底深く葬った地球は廃墟と化した高層建築群をも
飲み込み、溶岩と共に新たな大地を送り出した。強酸性の海は蒸発し、雨となって降り注いでは
再び気化され、その繰り返しが水と大気から毒素を取り去り、青い海と空が蘇る。


 其処から先は人間たちの腕の見せ所だった。
 幾つもの惑星を人が棲める場所としてテラフォーミングしてきた技術を惜しみなく投じ、
海には微生物や海棲藻類、それらを糧とする生き物たちを。大地には数多の草木を茂らせ、
其処を宿とする生命たちを…。


 死の星だった地球が胎動を始めた時、学者たちが予言していたとおりに青い水の星は再生を
遂げた。人の手が二度と母なる星を損なわないよう、定住は認めないというのが皆の一致した
見解だったが、許可を得た者が短期間だけ滞在することは許される。
 その青い星へ一番最初に降り立つことを全ての人間が認め、心の底から祝福したのがミュウの
先の長、ソルジャー・ブルー。彼が青い地球を約束の地として示したからこそ、地球は古えの姿を
取り戻せたのだと。


「ブルー。もうすぐ地球が見えます」
 ハーレイがシャングリラのブリッジでブルーの肩を抱き、スクリーンに映る月の彼方を指差す。
 まだ人類との戦いの只中に居た頃、同じ言葉を思念波で聞いた。あの時はこうして二人で
寄り添うことも出来ず、ただ手を握り合って立っていただけ。
 そして月の向こうから現れた地球は…。


「………地球だ………」
 ブルーの瞳から涙が零れて頬を伝った。
 遠い日に見た赤黒い残月と化した地球と同じ星とはとても思えぬ、何処までも青く美しい星。
白く渦巻く雲を纏わせ、緑の大地をその身に鏤めた一粒の真珠。
 気が遠くなるほどの長い歳月と、戦いの日々と……。幾つもの奇跡がブルーの命を繋ぎ止め
続け、ついに此処まで還って来た。何度となく諦め、見られぬと涙し、最後には夢をも
打ち砕かれてしまった青い星。何処にも存在しなかった筈の青く輝く母なる地球へ、
ブルーは生きて還って来たのだ。


 シャングリラが地球へと降下してゆく。
 地表の七割を占めると言われる真っ青な海が近付いて来る。これほどの豊かな水を持つ星は
未だに一つも見つかっていない。この大海原こそが水の星、地球である証。


「ブルー、シャトルを降ろします。ハーレイと一緒に格納庫へ」
 久しぶりにソルジャーの衣装を纏ったジョミーの言葉に、ブルーは首を左右に振った。
「…要らないよ。此処からならハーレイと一緒にテレポートで飛べる。地球の大気を守るためにも
シャトルは出さない方がいい」
「それを言われると、ぼくたちの立場が無いんですけどね…。ぼくはともかく、キースやマツカや
長老たちは飛べないんですよ」
 ジョミーたちはブルーが降り立った後、少し経ってから第二陣として降りて来ることが
決まっていた。あの日、地球の運命を変えた勇気ある者たちとして、文句無しに選ばれ、皆、
シャングリラに乗っている。キースとマツカはシャングリラに続いて降下予定のゼウスの
シャトルに。


「君たちは構わないだろう? きちんと計算されて選ばれた人数とシャトルなのだから。
…使わないのは、ぼくの我儘だ。シャトルの中から出るのではなくて、地球の大気に直に
飛び込みたいだけなんだよ」
 だから帰りは君たちのシャトルに乗せて貰うさ、と微笑んでブルーはハーレイの手を握った。
「飛ぶよ、ハーレイ。…行こう、地球へ」
「ブルー? しかし、お身体が…!」
 皆まで言わせず、ブルーはサイオンを発動させた。
 一瞬の後に、濃すぎるほどに感じる大気と身体中を押し包む湿気とに抱き止められる。
 焦がれ続けた星、地球の清らかな大気。足許には緑の草に覆われた大地が広がり、少し先には
豊かな森と水平線まで続く海とが…。

 

 

 

 吹き抜ける風にそよぐ草に混じって淡い桃色の花が揺れていた。遠い昔にブルーが作り出し、
シャングリラの中で育てていた豆。その花が夢にまで見た地球の大地に咲いているとは、自分は
どれほど幸運なのか。
 そしてハーレイと二人きりで青い地球へ最初に降り立つことを許されるとは、どれほど恵まれて
いるのだろうか…。


「…ハーレイ…。本当に……地球だ。君が連れて来てくれたんだ…」
「いえ、私は……。私には此処まで飛ぶ力は…」
「違うよ、ハーレイ。ぼくの命も、ぼくのサイオンも…君がいなければ無いものだろう?
君がぼくを生かしてくれたし、地球まで連れて来てくれた。…ぼくは約束を果たせたんだよ、
君のお蔭で」
 ブルーは高く澄み切った空を仰いだ。シャングリラは白く小さな点にしか見えない。
 あの船で青い地球へ行こうとミュウの仲間たちに初めて語ったのはいつだったか…。その約束は
死の星だった地球に覆され、紆余曲折を経てやっと叶った。これで青い星へと皆を導ける。
喪われた命にも、これから地球を目指す者にも、幻ではない青い水の星を…。


「ありがとう、ハーレイ…。やっとソルジャーの務めを果たせた。君には心配ばかり掛けて
きたけど、今度こそ、ただのブルーに戻るよ。だから…」
 ジョミーたちが地球へ降りて来たら。
 みんなと一緒に地球で過ごしてシャングリラへ戻ったら、君がソルジャーの衣装を脱がせて
くれるかい…?
「…ブルー…。ええ、ブルー…!」
 感極まったように声を詰まらせるハーレイの逞しい腕に抱き締められて、ブルーは銀色の睫毛を
伏せた。地球の風が頬を撫でてゆく。爽やかな風は馨しく心地良く感じられたが、それよりも
ハーレイの変わらぬ温もりと厚くて広い胸とが嬉しい。


 ミュウたちを導くソルジャーとして焦がれ、還りたかったのは母なる地球。けれど、一人の
人間として帰りたかった場所はハーレイの腕の中だった。
 メギドで命尽きようとしていた時も、この地球でグランド・マザーと戦った時も。
ソルジャーとしての務めの重さと青い地球までの道の遠さに押し潰されそうになって涙していた、
辛く苦しかった日々の中でも…。


「帰ろう、ハーレイ。蘇った地球から、ぼくたちの船へ…」
 青く輝く奇跡の星から、ぼくたちが共に暮らした船へと。君と渡ってきた星の海へと…。
 君と一緒なら、ぼくは何処まででも行くことが出来る。
 この青い星を遠く離れて、今度こそ………君と二人で歩く未来へ。

 

 ぼくはもうソルジャー・ブルーじゃない。
 青い地球の呪縛から解き放たれた、君一人だけのブルーだから。
 此処まで連れて来てくれた君のためだけに、これからのぼくは生きてゆくから…。
 ………愛してる………。
 ハーレイ……。

 

 

 

 

               奇跡の青から・了


    以下、作者メッセージです。「読んでやろう」という方はどうぞ。

····· 作者メッセージ

 間もなく国家騎士団の制服を纏ったマツカがリボーン職員に連れられて到着した。彼もキースの
メッセージを聞いていたらしく、少し青ざめた顔でミュウの代表たちを見回している。
「マツカ。…グランド・マザーの所へ出掛ける。ミュウの方々に失礼のないようにな」
「は、はいっ!」
 最敬礼したマツカを従え、リボーン職員に先導されたキースが部屋を出てゆくのにジョミーが
続いた。ブルーがジョミーの背を追うように歩き始めるとハーレイが後ろについたのが分かる。


「…行ってくるよ。大丈夫、ハーレイも一緒だから」
 長老たちに微笑みかけると、その間からトォニィが一歩前に出てジョミーを呼び止めた。
「グラン・パ! 機械の思考は読めないんだ。そいつの目的が何か知らないけど、危険
なんじゃ…」
「さっきのメッセージを見ただろう? …キースにぼくたちへの敵意は無い。ぼくたちが
戻るまでの間に皆で話し合っておくがいい。人類は、ミュウはどうすべきかと。…行こう、
キース」
 ジョミーが促し、足を止めていたキースが再び歩き始めた。会談が行われていた部屋から
無機質な通路を進み、ユグドラシルの中央に出る。ブルーの思念でも探れなかった部分に
隠されていたのは地下へと降りる専用のエレベーターだった。乗り込み、降下が始まってから
かなり経っても一向に止まる気配が無い。


「…ずいぶん降りるんだな」
 ジョミーが漏らした声にキースが応じた。
「このユグドラシルはマントル層にまで到達している。そこから直接エネルギーを取り出し、
地上の浄化を進めている」
「浄化だって? そんな風には見えなかったが」
「…お前たちにもそう見えるか。だが、我々はそれを信じてやってきた」
 微かな揺れがエレベーターの停止を伝え、外に出てみたが其処にグランド・マザーの姿は
無かった。リボーン職員に導かれた先には不自然なまでに明るい空間。壁一面に青空と
大きな草花が描かれた広間の奥から大勢の子供たちが我先に此方へ駆け寄ってくる。


「ねえ、外に出られるの?」
「浄化は終わったの?」
 口々に問われてブルーたちは言葉を失った。何故、こんな所に子供がいるのか。外とは、
浄化とは地球のことなのか…? リボーン職員に視線を向ければ明快な答えが返って来た。
「カナリアと呼ばれる子供たちです。地球の浄化が終わった暁には彼らが大地を謳歌する
予定です」
「いつなんだ、それは! この子たちの世代で浄化が終わるとでも? それとも今すぐにでも
外へ出すつもりなのか?」
 ジョミーの厳しい表情と声音に子供たちは一瞬、怯えを見せたが、すぐに無邪気な笑顔に
戻った。広間を隔てた通路へと歩き出すブルーたちに「またね」と手を振り、笑い掛ける。


「カナリアか…。遙か昔に、空気に有毒なガスが含まれていないかを確かめるために
カナリアという小鳥を使っていたと聞いたことがある。その意味でカナリアと呼んで
いるのか、キース・アニアン?」
 ブルーの指摘にキースもリボーン職員も答えず、やがて巨大な女神のレリーフが施された
扉の前へと案内された。扉の奥にはリボーン職員も進めないらしい。其処に入れるのは……。

 

 

 

「国家主席、キース・アニアン!」
≪承認。キース・アニアン≫
 国家主席たる者の名乗りに耳障りなコンピューター・ボイスが響き、扉が左右にスライドする。
キースが中へと一歩を踏み出し、ブルーたちの方を振り返った。
「行くのだろう? グランド・マザーはこの下にいる」


 リボーン職員だけを残して乗り込んだエレベーターは更に下へと降下してゆく。周囲は
壁面のライトを除いて一面の闇。何処まで降りるのか、何があるのか、ブルーのサイオンでも
捉えられない。その闇を眺めながらキースが呟いた。
「…愚かしいだろう、人類は。地球が浄化出来ると信じて全てをマザーに委ねた挙句にこの
有様だ。あのカナリアにしても矛盾している。仮に浄化が完了したとして、地球が彼らの
物になるなら、育英惑星で育てられた者たちの立場はどうなるのだ? 何もかもが欠陥
だらけなのだ…」


「キース! でも、あなたは人類を代表する者として…」
 遮ろうとしたマツカをキースが静かに振り返る。
「私は懸命に努力してきた。人類の理想の指導者たるべく、生ずる疑問を封じ続けて生きて
来た。…だが、マザーにミュウ因子の排除の禁止とミュウの抹殺という相反するプログラムが
施されていたと知った瞬間から、歯車が狂ってきたのだろうな」
 自分の心に嘘はつけない、とキースは深い溜息をついた。


「…私もまた、排除されるべきミュウの一人だ。しかしマザーは違うと言い切る。その上で
マザーは判断を私に委ねた。ミュウと交渉するも良し、焼き払うも良し…と。ならば賭けて
みようと思ったのだ。人類ではなく、新人種であるミュウの未来に」
「…あなたが……ミュウだと言うのですか…?」
 マツカの瞳が大きく見開かれ、キースは低い笑いを漏らした。
「お前には信じられないだろうな。だが、そこのミュウたちは全員が知っているのではないか?
誰も驚かないのがその証拠だ。お前が皆に話したのだろう、ソルジャー・ブルー?」
「ジョミーとハーレイの二人だけにね。…君の考えが読めない以上、皆に知らせれば混乱を招く」
「それは賢明な判断だったな。ミュウが挙って私を仲間扱いしていたならば、あの会談が無事に
終わったかどうか…。人類はミュウの意見に耳を傾けはしない。…今となっては違うだろうが」
 聞け、とキースが操作したのは胸に着けていた通信機だった。スピーカーに切り替えられた
それから流れて来るのは国家騎士団員たちの声。


≪…各地で戦線が崩壊していく…≫
≪戦闘を放棄した艦隊が多数…≫
≪我々はミュウに敗れたということなのか?≫
≪…そうではないだろうが…戦い続けるのは不可能だ…≫
 彼らの言葉は戦いの終わりを意味していた。人類とミュウとの間に横たわっていた溝が
崩れ落ち、まさに埋まろうとしているのだ。キースが賭けたミュウの未来が開けつつある。
人類とミュウとは、キースがあのメッセージで語ったとおりに手を取り合って進化の階段を
登ってゆくことになるのだろう。


「キース。ミュウの長として君の決断に感謝する。…ありがとう」
 ジョミーが頭を下げようとするのを、キースは「まだだ」と手で制した。
「礼を言うのはまだ早い。…グランド・マザーは私の意見をまだ聞いていない。決定権がマザーに
あるとは思いたくないが、グランド・マザーが存在する限りSD体制は続くのだ」
「では、グランド・マザーを……破壊するしかないというのか?」
「分からない。…マザーは私に任せると言った。私の答えは決まっている。しかし、マザーが
それを受け入れ、承認するかどうかはマザー次第だとしか答えられない。…ついて来てしまって
良かったのか? ジョミー・マーキス・シン。ソルジャー・ブルー。…そしてソルジャー・
ブルーの想い人…だったな」


 キースの鋭い視線がジョミーを、ブルーを、ハーレイを射る。けれど誰の心にも後悔は
無かった。
 ジョミーにはソルジャーとしての責任があり、ブルーにはジョミーを選び地球を目指した
前ソルジャーとして果たさねばならない目的がある。ブルーの命を繋ぎ続けて地球まで連れて
来たハーレイにもまた、ブルーの側を離れないという固い決意と約束とが…。


「…着くぞ。無事にマザーと折り合いがつくよう祈るがいい。…生きて地上に戻りたければ」
 エレベーターが止まり、通路を抜けて辿り着いたのは円形の部屋。扉が開き、広がった光景に
ブルーたちの息が一瞬、止まった。地下とは思えない高い青空。人工的ではあるが、夢に描いた
青い地球の空そのもののように澄み、地平線まで続く緑の大地がその空の下に広がっている。
 だが、そのままであれば美しいとも形容できる風景の中央にそそり立つ白い巨像と緑の大地を
埋め尽くす黒いモニュメントが禍々しい空気を地下空間いっぱいに満たしていた。


(これが……グランド・マザー……)
 ブルーと時を同じくしてジョミーも掠れた声で呟く。凄まじい威圧感に押し潰されそうな中、
巨像の胸の辺りの空間に不釣り合いなほど大きな女性の目が浮かび上がり、ゆっくりと開いて
ブルーたちを遙かな高みから睥睨した。

 

 

 

 地球の浄化と再生の名の下、SD体制を維持し続けて来た永遠の命を持つ機械の女神。
数多のミュウの血を贄として啜り、犠牲の命を貪りながらも地球を蘇らせられなかった
グランド・マザー。
 明らかに人間のものとは異なる瞳がブルーたちを見下ろし、異質な声で問い掛ける。


≪キース・アニアン。結論は出たか? …ミュウの根絶は我に与えられし絶対命令。この
プログラムを変更できるのはそのために創られた完璧な人間のみ。…答えを聞こう。
人類は我を、必要や、否や?≫
「「「…キース!?」」」
 この質問に答えるためにキースは此処まで降りて来たのか、とブルーたちはキースの表情を
窺う。キースはSD体制にミュウを受け入れるためのプログラムは存在しないと語っていた。
プログラムの変更とは即ち、グランド・マザーの停止を意味しているのだろう。


 マザーに判断を任された時から考え続けてきたというキース。自らがミュウであることを認め、
全宇宙に向けてマザー・システムを否定するメッセージを発信した以上は、彼の答えは…。
「もういい、あなたは時代遅れのシステムだ。我々はあなたを必要としない」
≪理解不能。我は人類が造りし最後の良心である。SD体制は人類の欲望を制御し、世界に
恒久的な秩序と調和を齎した≫
「あなたが排除してきたミュウこそが次の時代を担う種族だ! 人類の進化を妨げるあなたが
良心でなどあるものか! プログラムを変更して貰おう。ミュウを根絶してはならない!」


 叩き付けるようなキースの叫びの後、暫しの沈黙が地下の空間を支配した。グランド・マザーが
停止するのか、あるいはプログラムを書き換える方法があるというのか。針が落ちる音すら
聞こえそうなほどの静寂が破られたのは、巨像に至る真っ直ぐな道の両脇に並ぶ甲冑が
捧げ持つ剣たちによって。
≪…精神解析終了。キース・アニアンはミュウ化の傾向あり。これを速やかに処分すべし≫
 無数の剣が甲冑から離れ、グランド・マザーに答えを告げるべく前に出ていたキース目掛けて
降り注ぐのを目にしたブルーが、ジョミーが動くよりも早く。


「キース!!!」
 テレポートにも近い速さで飛び出して行ったのはマツカだった。キースを庇うように覆い
被さったマツカの背に深々と一本の剣が突き刺さるのを認め、ジョミーの全身から青い
怒りの焔が立ち昇る。
「貴様…。機械め…!」
 ジョミーが地を蹴り、グランド・マザーの懐に飛び込んで行った。タイプ・ブルーのサイオンと
グランド・マザーが造り出すシールドが拮抗し、強大なエネルギーの激突に青いプラズマが
地下空間を走り抜ける。


「ハーレイ! 頼む、キースとマツカを!」
 咄嗟に自分たちの周囲に張り巡らしたシールドの中でブルーは叫んだ。キースが自らを
庇って倒れたマツカの名前を呼び続けているが、マツカの意識は戻らない。そうさせた
のは……ブルー。
「此処ではマツカの手当てが出来ない。ぼくが彼の身体を凍らせた。…ぼくの力が
及ばなくなったら君が力を引き継いでくれ。そして二人のシールドを頼む。君の
力なら大丈夫だ」
「ブルー、あなたは!?」
「ソルジャーに戻る。ジョミーだけに血は流させない…!」


 …頼んだよ、ハーレイ。
 同じ言葉を遠い昔に口にしたような記憶がある。そういえば、あれはナスカ上空での
ことだったか、と走馬灯のように流れてゆく過去とハーレイへの想いを振り捨ててブルーは
翔んだ。
「ブルー!!!」
 ハーレイの血を吐くような叫びにブルーの胸が微かに痛む。
(…ごめん、ハーレイ。…戦うことになってしまって……ごめん)
 けれど、戦いはこれで最後。人類とミュウとが和解しつつある今、グランド・マザーを倒しさえ
すればSD体制は終わり、もうソルジャーは要らなくなる。そのためにジョミーと共に戦うのが
自分の最後の務めなのだ、とブルーは渦巻くプラズマの只中に向かって滑り込んで行った。

 

 

 

 ぶつかり合うサイオンとマザーの電気エネルギーとが作り出す磁場。平衡感覚さえ狂わせる
ほどの電磁波が荒れ狂う地下の空高くブルーが舞う。
(ジョミー! ぼくも今、行く)
 グランド・マザーと死闘を繰り広げるジョミーはブルーの参戦に気付いてはいない。ブルー
自身も機械のエネルギーに抗い、サイオンを高め続ける間にジョミーのことを気遣う余裕など
無くなっていった。マントル層に根差すグランド・マザーはタイプ・ブルーのサイオンをも
軽く凌駕する圧倒的な破壊力を持つ。


≪お前たちの力で勝てはしない。我は永遠。我の力は地球と共にある≫
 嘲笑うグランド・マザーが放つ力に高く投げ上げられ、振り回されて地面に叩き付けられる。
その衝撃をシールドでかわし、合間に青いサイオンを炸裂させては巨像と巨大な瞳とを少しずつ
切り裂き、出来た裂け目を押し広げてゆく。あと少し。…あと少しだけの力があればグランド・
マザーを倒すことが出来る…。


『全てのミュウよ。ぼくに力を! …地の底へ。地球へ向けて…!』
 ジョミーの思念が協力を求めて呼び掛けるのがブルーにも聞こえた。瞬時に意識をジョミーへと
飛ばし自分のサイオンを同調させれば、ミュウたちの思念をその身に集めた若きソルジャーが
一筋の青い光となってグランド・マザーの瞳を破魔の矢の如くに射抜き、撃ち抜く。瞳の奥に
聳え立つ白い巨像をも。
(ジョミー…!!)
 地下空間を揺るがす爆発が起こり、グランド・マザーは二人のソルジャーとミュウたちの
エネルギーの前に屈した。空からの光もプラズマも全て消え失せ、漆黒の闇が訪れる。その中に
灯る淡い光はジョミーとブルーが纏う青いサイオンと、激しい戦いの最中も消えることがなかった
ハーレイのシールドを示す碧と。


≪…この力。破滅の力。力は欲望により解放される。我…欲望を制御し…世界に秩序と…≫
 崩れ落ちた機械が発する音声は急速に乱れ、やがて沈黙していった。
 終わった。…ついに終わったのだ、長い戦いが。そして…。
(…ハーレイ…。ありがとう、ハーレイ…。君のお蔭で戦うことが出来た。…ソルジャーの務めを
果たすことが出来た…)
 先に地表に降りたジョミーがハーレイたちの元へ駆けてゆくのが見える。消耗してはいるの
だろうが、流石に健康で若い身体は疲れを知らない。
『ハーレイ…。ごめん、ぼくの身体では走れないよ。もう少し待っていてくれるかい…?』
『ブルー、御無事で…! どうぞ、ごゆっくりお戻り下さい』
 待っていますよ、と返すハーレイの隣ではジョミーがマツカの身体に手を翳していた。この地下
深くから地上に脱出するまでの間、仮死状態が解けないように力を注いでいるのだろう。


(良かった…。これで皆で揃って地上に帰れる。誰も欠けずに済んだんだ…)
 疲労で崩れそうになる足で瓦礫に覆われた地面を踏みしめながらハーレイたちの所へと歩いて
ゆく。シールドを解いたハーレイがブルーの微かな足音に気付き、振り返って微笑むと迎える
ために立ち上がった。
「おかえりなさい。ブルー…」
 ああ…。帰って来た。ぼくは生きて……また生き延びて、ハーレイの所へ帰ることが出来た…。
 涙が溢れそうになるのを堪えて懐かしい温もりに身を委ねようとしたブルーの意識を、
冷やかな殺意が不意に掠めた。


「危ない、ジョミー!」
 グランド・マザーの残骸から放たれた一本の剣。
 真っ直ぐに飛んだ剣が貫こうとした若きミュウの長を、ブルーは残された渾身の力で
突き飛ばす。脇腹に鈍い衝撃と熱く鋭い痛みとが走り、ハーレイの絶叫が地下空間の
暗闇に響き渡った。
「ブルー!!!」
(……ごめん。ごめん、ハーレイ……)
 夢を見ているような気がした。唇から血が溢れ、身体がゆっくりと……酷くゆっくりと
倒れてゆく。こんな筈ではなかったのに。…ハーレイを最後の最後で悲しませるつもりなど
なかったのに。
 本当に…ごめん。
 ハーレイ…。ぼくは君と一緒に帰りたかったよ……。ごめん…。

 

 

 

 ハーレイが一杯に伸ばした腕に抱き止められたブルーは自分の命が消えてゆくのを感じていた。
グランド・マザーとの戦いで力を使い果たした身体に時間はいくらも残されていない。右の
脇腹から流れる鮮血と共に残り僅かな命までもが砂粒のように零れ落ちてゆく。
(ハーレイ…)
 愛する者の名を呼ぼうとした口から溢れ出したものは血の色の泡。もうハーレイに声すら
届けられない。
『…ごめん…』
 薄れかける意識を懸命に繋ぎ止め、ブルーは最期の思念を紡いだ。
『……ごめん、ハーレイ……。でも……約束は守ったから…。君の…腕の届かない所で、死んで
いったりはしないから……』
「ブルー! 生きて下さい、ブルー!」


 ハーレイの歪んだ泣き顔がブルーの霞んだ瞳に映る。けれどブルーを生かし続けて来た
ハーレイの祈りは弱り切った身体を満たす代わりに傷口から虚しく流れ去るばかり。もう
この身体は限界なのだ、とブルーはハーレイを切ない思いで見詰めた。
 ハーレイの腕の中に戻れて良かった。…最期に見るものがハーレイの姿で本当に良かった。
出来ることなら泣き顔ではなく、微笑んでいて欲しかったけれど。でも、そんな我儘は
言えないから…。
(……ありがとう、ハーレイ……。ついてきてくれて……)
 最期の想いを届けようとして果たせず、一粒の涙を零して重い瞼が閉じてゆく。これで終わり。
呆気ない幕切れだったけれども、ハーレイと交わした約束だけは……。


『ブルー!!』
 ハーレイのそれとは違う強い思念がブルーを揺さぶり、消えかけた命の底で弾けた。
『ここで諦めてどうするんです! 生きるのでしょう、ブルー、あなたは!!』
(…ジョミー? 君…なのか? ……ぼくは…もう……)
『自分で生きるのは無理かもしれない。でも、ぼくがあなたを死なせません! この傷口さえ
閉じてしまえば、あなたの命は消えない筈だ!!』
 キィン、と剣が砕け散る音を聞いた気がした。ジョミーの一途な、直向きなサイオンが
流れ込んでくる。遠い日にアルテメシアの上空から落ちてゆく自分の身体に送り込まれたものと
同じ、熱い思いが…。


『ブルー、あなたが望んだ地球です。見届けて下さい、地球が、ミュウと人類が何処へゆくのか。
生きて未来を見届けるのでしょう、ソルジャー・ブルー!!』
(…ジョミー…)
 ブルーは意識しなかったのに、閉じていた瞼が自然に開いた。驚きに揺れる赤い瞳をジョミーの
深い緑の瞳が覗き込む。
「傷口だけを凍らせました。本当は仮死状態にするべきでしょうが、あなたはそれを望まないと
思いましたから。…脱出します。此処はもうすぐ崩れ落ちてしまう」


 ハーレイ、と若き指導者は傍らに控えていたキャプテンを呼んだ。
「ブルーを頼む。今までどおりに祈ればいい。それでブルーは生き延びられる。傷の手当ては
此処を脱出してからだ」
「分かりました。…ブルー、痛むかもしれませんが、上に着くまで暫く我慢していて下さい」
 逞しい腕がブルーの身体を抱き上げる。ブルーは思念で「うん」と頷き、ハーレイの腕の中から
地下の空間を見渡した。ジョミーが見届けろと言っていた未来。新しい地球の未来が、今、胎動を
始めている。


(…ぼくは未来を見られるのか…。ハーレイと一緒に、地球の未来を)
 もう無いものと思っていた命が再び満ちてゆくのが分かった。それはハーレイの心からの祈り。
ブルーの命をひたすらに守り、生かそうと願い続けるハーレイの祈り。
『…ごめん、ハーレイ…。ぼくがいては動きづらいだろうに』
「そうお思いなら、気をしっかりとお持ち下さい。気を失ってしまわれれば重くなります」
 私の事なら大丈夫ですよ、と返してくれる声が嬉しい。そして、今度こそ消えると思った命が
まだ未来へと繋がっていて、ハーレイと共にこの地の底から出てゆけることが…。

 

 

 

 グランド・マザーの制御を失った大地は鳴動していた。揺れる度に地下空洞の天井が崩れ、
落ちて来た岩が次から次へと行く手を塞ぐ。
 怪我人を伴って歩くことも覚束ない道をゆくのはハーレイ一人だけではなかった。背を血に
染めて意識を失くしたマツカを背負い、キースがジョミーのすぐ後を進む。キースの周囲に
張られたシールドの色は、マツカの碧とは異なるイエロー。それこそがキースがミュウである証。
 落下してくる岩をシールドで防ぎつつ歩むキースの後ろに続くのはハーレイ。防御に優れた
タイプ・グリーンだけに、キースの力では防ぎ切れないと判断した場合はサイオンの補助を
惜しまない。


 先頭をゆくジョミーは立ちはだかる岩を破壊し、あるいは抜け道を求めて岩壁を砕いては上へ、
上へと向かっていた。
「…キース。君の飲み込みが早くて助かった。シールドを張るのは初めてだろう?」
 通路を塞いでいた巨岩を少しずらして通り抜けられる隙間を確保したジョミーが振り返って
訊くと、キースが不敵な笑みを浮かべる。
「当然だ。ミュウの力を使える立場にはいなかったからな。…だが、私を誰だと思っている?
メンバーズの戦闘訓練を受けてきた身だ、使えない力など持ってはいない」
「なるほどね…。流石に大した自信だ。しかし、これは…」
 どうしたものか、と首を捻ったジョミーの視線の先には完全に崩落した通路があった。
グランド・マザーが据えられていた地下空洞と地上を繋ぐのは専用のエレベーターと非常用の
脱出通路のみ。エレベーターが使えない今は階段とスロープで構成された通路を行くしか
ないのだが…。


「この上が崩れ落ちている。通れる隙間も作れそうにない。…テレポートでなら抜けて
いけるが、今のぼくでは一人を連れて飛ぶのが限度だ。一人ずつ運ぶ間に大きな地震が
起こったりしたら…」
「なら、怪我人から先に運べばいいだろう」
 キースの意見にジョミーは首を左右に振った。
「それは出来ない。運んだ先で怪我人がどうやって身を守る? 次の一人を運ぶまでの
時間が危険すぎる。最初にハーレイを移動させれば向こうでのシールドは完璧だろうが、
今度はこっちが…」
「私だけでは心許ないということか…」
 そうだろうな、とキースが唇を噛む。キースのシールドは此処までは保ったが、ハーレイの
補助があってこそだ。キース一人の身を守るだけでも場合によっては危ういというのに、
ブルーとマツカまで守り抜くことは難しい。そして地震は間断なく襲い、今も小規模な
揺れが続いていた。


 ブルーはハーレイの腕に抱かれたまま、辛うじて使えるサイオンで周囲の空間を探ってみる。
崩壊した通路の先までは見えず、かなりの距離が崩れ落ちてしまっているらしい。更に
自分たちがいる辺りの天井にも亀裂が走っており、次の揺れで其処が崩れれば果たして
脱出できるかどうか…。
『…ジョミー…。ハーレイを連れて先に飛ぶんだ』
 体力の消耗を避けるため、ブルーは思念で呼び掛けた。
『ぼくの力でも少しの間ならシールドを張れる。…その間にキースとマツカを向こうへ』
「ブルー! それは……今のあなたにそんなことは…!」
『このままでは誰も助からない。…だから最善の道を行くんだ、ジョミー。…それにハーレイも』


 行って、とハーレイの心に直接語りかければ、出来ないと思念が返ってくる。
『…出来ません、ブルー…。もしもあなたに何かあったら…!』
『此処までぼくが生きているのが奇跡だろう? これ以上はもう望まない。ぼく一人のために
全員を巻き添えにしたくないんだ。…こんな地球へと皆を導いたぼくに、それ以上の罪を
重ねさせようというのかい?』
 行くんだ、と強く思念を送ってハーレイの腕に手を掛けた。ハーレイが自分を置いて
行けないのならば、その手から逃れてしまうまで。…自分さえいなければ、少なくとも
キースやマツカたちは…。


「…分かりました。ブルー、私が先に行きます。いいですか、力は最小限に留めるのですよ」
 苦渋の決断を下したハーレイはブルーを通路の端にそっと下ろすと、傷に響かないように
横たえた。キースを呼び、その脇に座らせる。
「キース。ブルーはこのお身体です。あなたとマツカの身は、出来るだけあなたの力で
守って下さい」
「言われなくても分かっている。早く行け、でないとまた崩れるぞ」
 キースのシールドがマツカとブルーをも包み込むのを確認したジョミーは、ハーレイを連れて
テレポートした。間もなく戻り、今度はマツカを。次はキースを。


(それでいい、ジョミー)
 ジョミーとキースが消えるのを認めた瞬間、突き上げるような揺れが襲った。すかさず張った
シールドの上に天井が崩れ落ちてくる。ジョミーが戻るまで持ち堪えねば、と思いはしたが、
予想を上回る重量の岩にブルーのシールドは軋み、サイオンも急速に失われてゆく。
 最後に残った者がキースだったらシールドを保つことが出来ただろうか、と浮かんだ考えを
ブルーは即座に打ち消した。
 シールドを使うのは初めてだと言っていたキースが無事でいられる保証は無い。それに人類は
国家主席たるキースの力を必要としているだろう。グランド・マザーを失った人類を導いて
行けるのはミュウの前ソルジャーなどではなくて、あくまで人類であったキースだ。


(…ぼくは間違っていなかったと思う。…でも……)
 ハーレイ。…君との約束を果たせなかった。
 ごめん。此処まで連れて来てくれたのに……一緒に帰ることが出来なくて……ごめん。
 ぼくの分まで地球の未来を生きて見届けてくれるかい?
(……ハーレイ……)
 巨大な岩の直撃を受けたシールドが微塵に砕け散ってゆく。
(…ハーレイ…。ごめん……)
 ぼくは先に行って待っているから。君は全てを見届けてから、遠い未来にぼくの所へ…。








 

 ユグドラシルの内部は基本的にはテレポートで抜けてゆくことが出来る。グランド・マザーの
居場所たる地下はその限りではないが…。しかし、国家主席の部屋の周囲にはグランド・マザーの
力の一部が及んでいた。其処に至る最後の一区画だけは自分の足で歩くしかない。
 だが、警備兵は眠らせてゆくつもりで来たというのに、一人もいないのはどうしたわけか。


(…罠か? だとしても……。いや、そうだとしたら余計に引き返すわけにはいかない)
 ミュウに害意のある者を放ってはおけない、と唇を引き結び、ひと際大きな扉の前に立つと、
それは微かな音を立てて開いた。照明を落とした部屋の向こうに取られた窓から射し込む
光は……宇宙から見た残月ではなく、真円の月。地球の衛星が赤く濁った大気を通して
屍と化した高層建築群を煌々と照らし出している。
 その月を窓際で仰ぐ国家主席は背後を振り向きもしなかった。


「…やはり来たか。ソルジャー・ブルー」
 分かっていた、と言わんばかりの言葉と警備兵の不在と。訝るブルーの心を読んだかの
ように。
「お前が来ると思っていたからな。無粋な兵たちは遠ざけておいた。…メギドから生きて
戻れる程の男だ、来ないわけがない」
 ゆっくりと向き直ったキースの唇の端が吊り上げられた。


「それは違う。…ぼくはメギドで死ぬ筈だった。地球にも来られる筈がなかった。此処まで
来られたのはジョミーの力だ」
 相対しながらキースの心に入り込めないかと探ってみるが、ブルーが現れたことにすら
驚かない男は隙など見せない。
「ほう…。では、あいつがメギドから救ったのか。あの戦闘の最中に大した余裕があった
ものだな」
「…ジョミーではない」
「そういえば他にも何人かいたか、タイプ・ブルーが。…まあいい、お前は何処まで知って
いる? 私の所に来たということは何か目的がある筈だ。見抜いたのか、私の正体を?」
「…マザーが創り出した生命体。君の心を覗いた時に見えたイメージはフィシスのものと
同じだった。フィシスも君と同じ生まれだ。…その君がミュウをどうするつもりか、それを
探りに来たんだが」


 隙が無いなら正面から突破するまでだ、とブルーは敢えて真実を口にしてみた。しかし
キースは低く笑うと、「分からないか?」と挑むような視線を向ける。
「そう簡単に心を読ませはしないからな…。オリジンといえども気付かないのも無理はない。
だが、そんなことではミュウの仲間をまた失うぞ、ソルジャー・ブルー」
「あのミュウのことか? 君の側にいるタイプ・グリーンの」
「ユグドラシルにいるミュウがマツカだけだと思うのか? お前たちはミュウだけで固まって
いるから気付かないのかもしれないな。…ミュウはいくらでも増やすことが出来る。人類もまた、
ミュウに変化する」
「知っている。…ぼくがフィシスをミュウにした。だが、このユグドラシルの中に他にも
ミュウが?」


 信じられない、とブルーは赤い瞳を見開いた。ユグドラシルを探った時に見付けたミュウは、
キースがマツカと呼んだタイプ・グリーンの一人だけだ。長い年月、アルテメシアで仲間の思念を
見付け出しては救出してきた自分のサイオンがミュウの存在を見落とす筈がないのだが…。
「なるほど、あの女がミュウになったのはお前のせいか。…私の母親が世話になったようだな。
親子揃ってミュウになるとは、マザーにも計算外だっただろうが」
「君が…ミュウだと…? 馬鹿な……」
 予想だにしなかった事を告げられ、ブルーは目の前の男を見据える。固い心理防壁は微動だに
せず、キースの心は今も読めない。本当にキースがミュウだというのか? これも罠では
ないのだろうか?


「信じられないか、私の言葉が? 我々は様々な実験をしてきた。その過程で分かったことは、
ミュウと人類を一緒にしておけば人類はミュウに変わるという事実だ。お前たちは人類に
向かって常に意識下で働きかける。自分と同じように変革しろ…と。そして人類はミュウに
なってしまう」
「……そんなことが……」
「あるわけがない、と言いたいのか? だが、これは本当のことなのだ。若い者ほど変化は
早い。幼い子供ならば一週間もあれば変化する。そして私ほどの訓練を受けた者であっても、
逃れることは不可能だったようだ。私を創る元になった遺伝子データの持ち主もミュウに
なっていたのは運命の皮肉と言うべきか…」
 キースは深い溜息をついた。


「グランド・マザーは私にミュウ化の傾向は無いと断じている。しかし自分が何者なのかにも
気付かないほど私は愚かではない。…マザー・システムにミュウ因子を取り除くシステムは
無いが、生まれて来たミュウは抹殺する。その矛盾したシステムが認めた指導者がミュウでは
何かと都合が悪いのだろうな」
「…では、君は……」
「私がミュウをどうするつもりかは、今は言えない。お前がミュウの指導者であれば、明かして
いたかもしれないが…。でなければ私をミュウと見抜くか。それが出来なかった者に多くを語る
つもりはない」
 帰るがいい、と再び背を向けたキースが送って寄越したものは……思念。

 

 

 

『私をミュウに変えたのはマツカだ。…マツカに自覚は全く無いが、彼を側に置いていたのが
原因なのだと思っている。もっとも、マツカも私がミュウだとは未だに知りはしないのだがな』
 そう簡単に読ませるものか、と笑う思念は正しくミュウのそれだった。人類が心を読まれる
ままに任せるものとは根本的に性質が違う。
『キース…。君は本当に……』
『分かったのなら、せいぜい努力するがいい。マツカと私、少なくとも二人の仲間を失くさない
よう気を付けることだ。…明日の会談が楽しみだな。お前は体調が優れないと聞いた。よく
眠っておけ、ソルジャー・ブルー』
 こんな夜中にウロウロするな、と言い捨てたキースは二度と振り返りはしなかった。心も
完璧に閉ざされ、僅かな感情すらも漏れてはこない。しかし、キースがミュウであるなら、
明日の会談がブルーたちにとって不利な展開になったとしても希望は残る。


「…君を信じよう、キース・アニアン。ぼくからも一つ、明かしておく。…メギドから
ぼくを救い出したのはハーレイだ。タイプ・ブルーなどではない。…マツカと同じタイプ・
グリーンだ」
「マツカと同じ…? その程度の力でメギドから救い出しただと? モビー・ディックは
ジルベスター・セブンに在った筈だ。それとも別の船で近くに潜んでいたというのか?」
 背を向けたままのキースの表情は見えなかったが、驚いているのは間違いない。何処までを
話しておくべきか、とブルーは一瞬、迷ってから。


「…ぼくはマツカのサイオンを見てハーレイを思い出したんだ。ハーレイを呼ばずには
いられなかった。…その思念を受け止めたハーレイがジョミーのサイオンを無意識に操り、
ぼくをメギドから連れ戻した。ナスカの上空にいたシャングリラ………君たちの言う
モビー・ディックの中に居ながら」
「キャプテンゆえの責任感というヤツか。命拾いをしたわけだな。…お前の捨て身の戦いぶりに
敬意を表した私にすれば、なんとも残念な結末だが」


「そうだったのか? それは御期待に添えなくて申し訳ないことをした。では、更に失望して
貰おうか。…ハーレイがぼくを救い出したのはキャプテンとしての行動ではない。…ぼくを
助けたかった、ただそれだけだ。ぼくがハーレイの何であるかは御想像にお任せしておく」
「なんだと!?」
 それ以上を話すつもりはなかった。頭脳明晰なマザーの申し子ならば考えた末に答えに
辿り着くだろう。踵を返して部屋を出てゆき、テレポートで抜けられる地点まで歩く途中で
微かなキースの思念を拾った。確固たる信念に基づき、動こうとする者の強い意志。


(…あの時の…。だが、あれの中身は何なのだ…?)
 ユグドラシルを探っていた時、誰もいない部屋で話すキースを目にした。何をしているのかと
気になったそれは、メッセージの収録であったらしい。キースはそのデータを何処かへ送信
するべく机の上の端末を操作している。
 だが、内容も誰に向けてのメッセージなのかも読み取ることが出来なかった。ミュウと化した
ことを明かしてもなお、キースは心を読ませない。


(キースが我々のことを前向きに考えてくれていればいいのだが…。人類側の代表としてでは
なくて、一人のミュウとして冷静な判断を下してくれるよう祈るしかない…)
 最悪のシナリオとしては、キースが自らのミュウ化を明かすと共に自分とマツカの処分という
道を選ぶ可能性もゼロではなかった。
『…キース…。何を考えている…?』
 そっと送った思念に対する応えは無い。ブルーは後にしてきた部屋の方角へチラと視線を
走らせてから、ハーレイが眠る部屋に向かってテレポートで瞬時に空間を抜けた。

 

 

 

 戻った部屋は暗く、閉ざされたカーテンは満月の光も通さない。それとも月は見えない位置に
あるのだろうか、と埒もないことを考えながらクローゼットの扉を音を立てないように注意して
開く。マントを肩から外そうとした手が後ろから不意に掴まれた。
「…ブルー。何処へ行っておられたのですか?」
「ハーレイ? …君には敵わないな…。これから出掛けようとしていたんだよ」
 少しだけね、と誤魔化そうとして強い力で捕えられる。
「嘘を仰られては困ります。お身体がこんなに冷えておられるのに…。正直にお話し頂け
ませんか? ベッドを抜け出して、いったい何処へ…? 話して下さらないのなら私にも
考えがありますが」


 そう言いながらハーレイはブルーのマントを外し、上着を脱がせてクローゼットに片付けて
ゆく。
「アンダーも着替えて頂きます。夜着では流石にお出掛けもお出来にならないでしょうし」
 これを、と強引に押し付けられたのはブルーのための夜着だった。
「大人しく着替えて下さらないなら、私がお手伝いいたします。…あなたの肌を目にして
心静かにいられる自信は今は全くございませんが…。抜け出そうなどとお思いになれぬように
するには、何が一番かは分かっておられる筈ですね、ブルー?」


 顎を捉えられ、口付けられる。ただ触れるだけの口付けだったが、ハーレイが何を
言わんとしているのかはそれで充分に伝わった。拒否すればブルーを抱き、心身ともに
融け合わせてから遮蔽を外すと脅しているのだ。そうされたくなければ自分で着替え、
行き先も素直に話すように…と。
 以前のブルーなら、そんな脅しは通用しない。けれどハーレイの祈りと願いで生かされて
いる今の身体は、その命を繋ぐ力の主の前では簡単に同調し、遮蔽も脆く崩れてしまう。
ハーレイがそれをしたことは一度も無いが、そのくらいは互いに理解していた。


「…ごめん。ちゃんと着替えて話すから…。君には叱られそうだけれども」
「悪いことをしたという自覚はおありのようですね。…では、あちらでお待ちしております」
 ハーレイがベッドに腰掛けて背中を向ける。その間にブルーはアンダーを脱ぎ、夜着に
着替えてからハーレイの隣に腰を下ろした。
「…いつ気付いたんだい、ぼくが部屋から抜け出した…って」
「恐らく、すぐだと思いますが…。まだ温もりが残っていました」
 本当に困ったことをなさる方だ、とハーレイはブルーの身体を抱き寄せ、ベッドに入る
ようにと促す。ブルーは逆らわずにハーレイと共に横になり、逞しい腕に頭を乗せた。


「何から話せばいいんだろう…。ぼくの心を読んで貰った方が早いと思うけど、これだけは
言葉で言うべきだろうね。…キースの所に行っていたんだ」
「なんですって!?」
 ハーレイは酷く驚き、ブルーの身体を折れんばかりに抱き締めた。
「よく……。よく、御無事で……。どうして、お一人でそんな所へ…。キースはあなたを
殺そうとした男ですよ? 今の状況では殺されることは無かったにしても、それでも
危険な所でしょうに…」
「そうだね…。それは分かってた。だけど……行かずにはいられなかったし、今では
行って良かったと思う。君には謝るしかないんだけれど…。黙って危ないことをして
しまってごめん」


 後はぼくの心を読んで…、とブルーはハーレイに心を明け渡す。キースとの会話、見て
来たことの全て。ハーレイが息を飲み、ブルーの身体を抱き込んだ腕に力が籠る。
「…まさか…。まさか、キースがミュウだったとは…。ミュウと居るだけで人類がミュウに
変化してしまうとは…」
「ぼくも本当に驚いたよ。…でも間違いなく、キースはミュウだ。それをキースがどう考えて
行動するかは分からない。仲間を失わないように気を付けろ、と言っていたから生き残る意思は
あるんじゃないかと思わないでもないんだけれど…」


 彼の心は分からない、とブルーはハーレイの胸に頬を擦り寄せた。
「マザー・システムは矛盾しているとキースは言った。そのシステムを彼はどうしたいのか…。
明日には全てが分かる筈だけど、地球でさえもこの有様だ。…確かな未来など在りはしないと
いう気もするよ」
「それでも……ソルジャーに戻ろうと仰るのですね、あなたは」
「ハーレイ!?」
 弾かれたように顔を上げたブルーをハーレイが引き戻し、その腕の中に閉じ込める。


「…先ほど見えてしまったのです、あなたの心が。…ソルジャーにお戻りになることを止めは
しません。けれど、グランド・マザーの下へ行かれるのなら必ず私もお連れ下さい。それだけが
私の命をお使いになる条件です。…お分かりですね? あなたの命は私が差し上げたものなの
ですから」
「駄目だ、ハーレイ! 危険すぎる」
「だからこそ…です。私の腕が届かない所であなたを喪うのは二度と御免です」
 それだけは約束して下さい、と強く請われたブルーは頷かざるを得なかった。ハーレイを
危険な目に遭わせたくはない。なのに、その一方で嬉しいとも思ってしまう自分がいる。
もう二度と……ハーレイの側を離れたくはない…。


「ブルー。私のことなら気になさらなくていいのですよ。あなたは約束して下さいましたね、
メギドから戻ってきた時に。…私の腕が、心が届かない場所で一人逝ったりは決してしない…と。
その約束を果たして頂くために私がついてゆくだけですから」
 今は安心して眠って下さい、とハーレイはブルーの銀の髪を撫でた。


「朝食は部屋に運んで頂くように言っておきます。ですからごゆっくりお休み下さい。
…いいですか、お疲れになったお身体では何もお出来にならないのですよ。充分に
眠って頂かないと…」
「…うん…。心配ばかりかけて、本当に…ごめん…」
 勝手なことばかりして、無茶ばかりして…ごめん。何度も声で、思念で謝りながらブルーは
眠りに落ちていった。傍らにはハーレイの優しい温もり。この腕が…ハーレイの心が側にいて
くれるなら、どんな相手にも向かっていける。一人きりで戦うしかなかったメギドとは比較に
ならない力を誇るグランド・マザーであろうとも………きっと。

 

 

 

 会談の日の朝、ブルーが目覚めたのは太陽が高く昇ってから。閉ざされたカーテンが地球の
景色を遮っていたが、ブルーはハーレイに頼んでそれを開けさせ、荒れ果てた大地と朽ちた
廃墟を静かに見詰める。


「…会談の結果がどう転ぶかは分からないけれど…。こんな星でも来て良かった、と思える
方向に行って欲しいな…」
 ブルーの呟きに隣に立っていたハーレイが頷き、肩に手を置いた。
「そうですね…。しかし、まだどうなるかは分かりません。場合によっては戦うおつもり
なのでしょう? 朝食をしっかり召し上がって下さい。あまり時間がございませんし…。
ジョミーには会談の前に寄ってくれるようにと言っておきました」
「ジョミーに?」
「はい。キースのことをお話しになるかもしれない、と思いましたので…。そのおつもりが
無いのでしたら、朝の挨拶だけでよろしいでしょう」
「いや…。ありがとう、ハーレイ。ジョミーも多分怒るだろうけど、伝えておくべき情報だしね。
会談に向かう途中で思念で送るつもりでいたんだ」


 時間が取れるとは思わなかったし…、とブルーはハーレイの心配りに感謝していた。
 キースがミュウと化していた事実は仲間たち全員に明かすには時期尚早だ。トォニィも重要な
戦力とはいえ、ミュウの未来を左右しかねない判断を委ねられるほどの経験を積んではいない。
伝えるならばジョミーだけに、と思っていたのをハーレイは感じ取ってくれたのだろう。


 そのハーレイはテーブルを挟んだ向かい側に座り、ブルーに窓の向こうの地球を意識させまいと
他愛ない会話を交えたりしながら朝食を摂り、細々と世話を焼いてくれている。トーストに
バターを塗りつけるくらい、大した手間ではないというのに。
「この地球が青い星だったなら…。きっと幸せな朝だったろうね…」
「私にはこれで充分です。あなたが生きていて下さるだけで本当に幸せなのですよ。…約束は
守って頂きます。何処までも私をお連れ下さい」
「…分かってる…。それが君の望みだと言うのならば」
 決して一人で行きはしない、と誓えば、ハーレイは満足そうな笑みを湛えてブルーの右手を
強く握った。


 二人が朝食を終えて間もなくジョミーの思念が来室を告げ、入って来たのは若き指導者。
朝食の席に現れなかったブルーの体調を気遣った彼は、そのブルーから知らされた昨夜の
出来事に息を詰めた。
「キースがミュウだと言うのですか…。だとすれば、今日の会談は…」
「そう。実質上、代表者はミュウ同士だということになる。キースが自分のミュウ化を誰にも
明かしていない以上は、人類とミュウとの会談だが…。だから、君も慎重に動いて欲しい」
「そうですね…。人類側の反感を買わないように気を付けます。キースの決断次第によっては
退却も視野に入れておきましょう。敵の懐の中に居たというのに、ぼくも些か甘過ぎたようです」


 ぼくが行動するべきでした、と詫びてジョミーが部屋を出てゆく。会談の時間が迫っていた。
ブルーはハーレイを見上げ、背伸びして唇に軽く口付けて。
「行こう、ハーレイ。…これからミュウの未来が決まる」
「ええ。…あなたは御自分のお心のままに動いて下さい。私はあなたについてゆくだけです」
 これだけは絶対に譲れません、とブルーの細い身体を力の限りに抱き締めてから、ハーレイは
先に立って通路へと繋がる扉を開いた。恋人同士でいられる時間は終わったのだ。甘い時間を
生きて再び持てるのかどうか、ブルーにも先は分からない。


(…でも、ハーレイが来てくれる…。今度は一人きりじゃないんだ、ぼくは)
 一人きりで戦ったメギドでも沈められたのだから、必要とあらばグランド・マザーをも倒して
みせる。其処で自分は命尽きようとも、ミュウたちの未来を切り開くために…。

 

 

 

 人類側の代表団との会談の席。現れたのは国家主席たるキースと八人のリボーン職員だった。
席に着き、口火を切ったのはキース。
「ミュウが此処まで辿り着いたことと、圧倒的な戦力は認めざるを得ないと言えるだろう。
だが、我々にミュウを受け入れる用意は無い。ミュウは何処までも異端なのだ」
 自らもまたミュウだというのに、キースの発言はミュウに対する否定そのもの。たまらず
ハーレイが口を開いた。
「それがあなた方自身の意志なら我々も考えよう。しかし、コンピューターの意志は
受け入れない!」
「マザーを否定するのですか!」
 すかさず上がったリボーン職員の声が合図であったかのように、会談の席は相反する発言の
応酬となった。
 しかしキースは黙したままで動かない。ジョミーも動かず、ブルーも自ら動くことはしない。


「マザー・システムを否定するなら誰が地球を再生すると!?」
「再生じゃと? この地球の何処が!」
 会談はマザー・システムとSD体制の是非を巡って平行線を辿り、ついにジョミーが声を
発した。
「そんなにもSD体制が人類にとって大切ならば、遠くの星に我々は去ってもいい。生まれて
来るミュウの存在を認め、我らの許に送り届けてくれるならば」
「それは出来ない!」
 キースが即答し、ジョミーが切り返す。
「何故、出来ない!?」
「我らの尊厳に関わるからだ!」
 返された答えに会談の場にどよめきと緊張が走った。予想だにしない発言だったらしく、
リボーン職員たちの間に困惑が広がる。


「…どういう意味ですか、閣下!」
「ミュウが我々の尊厳にどう関わると?」
 動揺するのはミュウもまた同じ。人類の尊厳と急に言われても、人類がミュウ化する事実を
知らない仲間たちには意味が全く掴めないだろう。
 人類とミュウ、双方の混乱を制するかの如くキースが右手を上げ、その動きにつれてテーブルの
上に複数のスクリーンが前触れもなく迫り出した。


「質問の答えは今から全宇宙規模で放送される。私が自由アルテメシア放送のスウェナ・
ダールトンに託したデータだ。人類側の放送システムには弾かれてしまう内容だからな。
…よく見るがいい」
「閣下!?」
「何を放送するというんじゃ!」
 リボーン職員やミュウたちの声はスクリーンに映し出された女性のアナウンスによって
中断され、続いて始まったキースのメッセージに誰もが食い入るように見入った。


(…キース…。昨日、君が収録していたメッセージがこれか。君は全てを明らかにしようと
いうのか、マザー・システムに逆らってまで…)
 スクリーンの中のキースは衝撃的な内容を表情を変えることなく話し続ける。一個人としての
話だと前置きしつつもミュウは進化の必然だと説き、マザー・システムの欠陥をも。


≪SD体制にミュウを受け入れるためのシステムは存在しない。プログラムは完璧ではないのだ。
マザーに全てを委ねていられる時代は終わった≫
 静まり返った室内にキースのメッセージだけが響いていた。
≪だが、諸君。ミュウという種は寛容だ。我々人類を劣等種として蔑みはしない。共に進化の
階段を登るべく、手を差し出すのがミュウに備わった特徴なのだ。手を取り合うか、頑なに
旧人種の殻に籠って生きるか。…これからは一人々々が、何をすべきかを考えて行動せよ≫
 そう告げてキースの姿が画面から消える。同時にスクリーンも元の場所へと収納されてゆき、
あちこちからキースへの声が上がった。


「か、閣下…。今の放送は…」
「あたしたちが進化の必然だって? だったらあんたはどうするのさ!」
「そうです、閣下! この会談をどうすれば…」
 キースは薄く笑って人類側の代表たちを見詰める。
「自分で考えて行動せよ、と言った筈だが? …私はグランド・マザーの所に行く。お前も
来るか? ジョミー・マーキス・シン」
「勿論だ! ミュウを抹殺し続けてきた機械をこの目で見ずに帰れるとでも?」
 ジョミーが立ち上がり、キースの随行員として一人のリボーン職員がついた。その機を逃さず、
ブルーも進み出る。


「ぼくも行く。…ミュウの長として長い年月、ぼくはマザー・システムと戦ってきた。その要を
一目見ておきたい。そして…」
「私がブルーに同行することをどうか許して頂きたい。詳しい説明は省略するが、ブルーの命は
私から離れると危うくなる。体調が優れないと言っていたのはそのためだ」
 ハーレイの申し出にキースは頷き、リボーン職員たちが異を唱えた。ミュウの方の数が
多すぎると。
「なるほどな。…では、私の随行員を一人増やそう。マツカを此処に呼んで来るように」
 ジルベスター・セブン以来の側近の名に安堵の空気が広がってゆく。そのマツカもまた
ミュウであると知ったら、彼らはどんな顔をするのだろう?


 いや、それよりも前にキース自身がミュウなのだ。それをメッセージで明かさなかったのは
恐らくパニックを避けるため。既にミュウと化した国家主席の言葉を受け入れることは難しい。
だが、メッセージを聞かされた後に国家主席がミュウ化したなら、人類からミュウへと変化する
ことを人類は恐れはしないだろうから…。












 

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