シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
夜勤のクルー以外は寝静まったミュウたちの船、シャングリラの夜更け。ハーレイはフウと
溜息をついて額の汗を袖で拭った。
(…なんとか間に合いましたよ、ブルー…)
床の上に置かれているのは木目を基調とした船長室にはまるで似合わない大きなカボチャ。
怪物じみた目と不気味に裂けた口とが彫られ、中身を刳り抜かれたジャック・オー・ランタンと
呼ばれるものだ。
それはハロウィンの夜に明かりを灯すカボチャのランタン。木彫りを趣味とするハーレイ
だったが、これだけの大きさのカボチャをたった一人で彫り上げるのは大変だった。以前なら
ハロウィンが近付いてくれば手の空いたクルーが公園などに集まってお祭り騒ぎで作ったもの
なのに、今年はそういうわけにもいかない。
「ギリギリになってしまいましたが、今はこういう時ですから…。このカボチャだって手に
入れるのに散々苦労しましたよ」
分かるでしょう? と誰もいない部屋で一人呟き、ハーレイは用意してあった蝋燭にそっと火を
点すとランタンの中に差し入れた。部屋の明かりを消せば黒々と浮かび上がったカボチャの目と
口からオレンジ色の光が漏れて、文字通りお化けカボチャのようだ。
(見えますか、ブルー? 今夜は死者が帰る夜だと仰ったのはあなたですよ)
ミュウを導くソルジャーがブルーであった時代にシャングリラで始められたハロウィンの
催しは、昨年までは途切れることなく続いていた。ジャック・オー・ランタンや様々な仮装、
「トリック・オア・トリート?」と声を張り上げて艦内を回る子供たち。しかし、地球を目指す
戦いを繰り広げる今、そういう余裕は残されていない。
けれどハーレイはキャプテンの権限を密かに行使し、なんとかカボチャを入手した。ランタン
作りの助手の調達は不可能だったが、彫るのは自分の腕だけで…と決めていたからカボチャさえ
あれば充分だ。もっとも、これほど手強い相手とは予想だにしていなかったため、ハロウィン
当日の夜に至るまで彫り続ける羽目になったけれども。
(これが見えたら帰っておいでになるのでしょう? そうですね、ブルー?)
苦心して彫り上げたカボチャのランタンをベッドから良く見える場所に据えると、ハーレイは
布団に潜り込んだ。
ブルーがシャングリラからいなくなってから随分経つ。
想いを交わし、身体を重ねて長い年月を共に過ごした大切な恋人。
初めの内は思念体となった彼が戻って来るものと固く信じてひたすら帰りを待ち続けたのに、
ブルーは姿を現さなかった。いくら呼んでも応えすら無い。
(あなたの力でも死という壁は越えられなかったということでしょうか…。けれど今夜は戻れる
でしょう? そのためにこれを彫ったのですから)
あなただけのための道標ですよ…、と心の中でブルーに語り掛ける内にハーレイの瞼が重く
なる。キャプテンとしての激務と連日連夜のランタン作りで疲労が溜まっていたらしい。
(すみません、ブルー…。戻っておいでになったら私を起こして頂けますか? 明日も仕事が
忙しいので…)
徹夜するわけにはいかないのです、という思念を最後にハーレイは眠りに落ちていった。
ハロウィンの夜は深まり、此処が古の地球だったなら異界の者たちがそぞろ歩きを始める頃。
「…ハーレイ。これは嫌がらせかい?」
耳に届いた懐かしい声にハーレイは勢いよくベッドから跳ね起き、そこに忘れようの無い
姿を見付けた。
常夜灯とカボチャのランタンだけが灯った部屋でも仄かな光を纏ったブルー。
赤い瞳も銀色の髪も、あの日から全く変わってはいない。
「ブルー…! 戻ってらっしゃったのですね…!」
「嫌がらせかい、と訊いているんだけれど?」
感涙にむせぶハーレイに、しかしブルーは冷たかった。これが数ヶ月ぶりに会った想い人に
対する言葉だろうか、と不安が頭を擡げるほどに。
もしかしたらブルーは、あちらの世界で新たな恋をしたのだろうか?
手が届かなくなった恋人よりも、身近な誰かに目が向くことは多いと聞く。まさか、
ブルーも…?
戸惑うハーレイを見詰めるブルーが突然クスクスと笑い始めた。
「誰が恋人を作るんだって? ぼくは君だけで手一杯だよ」
「………?」
何を言われているのか分からず、ハーレイは怪訝な顔をする。
「まったく…。ずっと君の側にいたというのに、君は全く気が付いてないし! タイプ・
グリーンの力というのも考えものだね。一度シールドを張ったが最後、ぼくの思念も
受け付けやしない」
ブルーはベッドの端に腰を下ろすと、ハーレイの額に指先で触れた。その感触は分から
なかったが、穏やかな思念が伝わってくる。
「すぐに帰って来なかったのが悪かったのかな? だけど仕方が無かったんだよ。ナスカに
取り残された仲間たちを向こうへ送り届けるのもソルジャーの務めの内だろう? それに
ソルジャーというだけで頼られちゃうから忙しかったし」
あっちで色々と用事があって、とブルーが微笑む。
「みんなが落ち着いたのを見届けてから戻ってきたら、君はシールドの中だった。戦いの中で
撒き散らされる断末魔の悲鳴をシャットアウトするために張ったんだろうけど、ぼくの声まで
届かないとは思わなかったな」
「…で、では…」
ハーレイの声が掠れて震えた。
「私はあなたを無視したままでいたのでしょうか? 今日までずっと…?」
「そういうことだね。挙句の果てにランタンなんか彫っちゃって…。こんな嫌がらせを
されるんだったら、君が言うように新しい恋人でも探した方が良かったのかな?」
大袈裟に肩を竦めてみせるブルーに、ハーレイは慌てて懸命に詫びる。
「も、申し訳ありません! シールドはすぐに解きますから! それにランタンは嫌がらせ
などではないのです。あなたがシャングリラを見失っておられるのでは、と道標に…」
「…分かっているよ、ハーレイ」
君の側にいたんだから、とブルーは柔らかな笑みを浮かべた。
「でもね…。君は勘違いをしているようだ。ジャック・オー・ランタンはハロウィンの魔除け。
悪い霊が近寄らないよう、脅かすために置くものだけど?」
「…………」
それで嫌がらせかと訊かれたのか、とハーレイの背中を冷や汗が流れる。ブルーを延々と無視し
続けた上、とどめのように置いた悪霊除けのカボチャのランタン。別れ話を切り出されても
反論できない事態ではないか。
「…馬鹿だね、ハーレイ。ぼくが何処かへ行くとでも…?」
行きやしないよ、とブルーの重さも熱も無い腕がハーレイの首に回される。
「そうするんだったらとっくに行ってる。…君の所へ戻って来たのも、ずっと一人で君の側に
いたのも、ぼくがそうしたかったから。…君に取り憑いていると解釈するなら悪霊だとも
言えるかな?」
「いいえ…。いいえ、決して悪霊などでは…!」
ハーレイは抱き締められない思念体のブルーを胸に閉じ込めるようにして口付けた。唇は決して
触れ合うことなく、互いを求める熱い想いだけが混じり合い高まってゆくだけだけれども。
「ありがとう、ハーレイ。…あのランタンを作ってくれて」
長い口付けの後でブルーが床に置かれたランタンを見遣る。魔除けのカボチャに灯された蝋燭は
消えかかっていて、せわしない明滅を繰り返していた。
「君が道標にしてくれたから、君のシールドを突き抜けられた。戻って来いと願っただろう?
だから波長が合ったんだよ。…でなければ君に声すら届かないまま、ぼくは哀れな浮遊霊だ」
「…もう無視しないでいられるのですか? 私にはシールドをコントロール出来ている自覚が
無いのですが…」
「大丈夫。現にこれだって夢じゃないしね。でも、死んでしまうとジョミーでさえも、ぼくの
姿が見えないらしい。…人目のある場所では話しかけたりしない方がいいよ」
気が狂ったかと思われるから、と綺麗な笑みを宿すブルーをハーレイがもう一度引き寄せた時に
蝋燭の焔が音も無く消えた。
常夜灯だけが灯された闇が薄明へと変わる刻限には、まだ遠い。
ハロウィンの夜が明けると万聖節。
死者たちの霊が戻ってくると伝わる夜に戻って来たのは、幽明を異にする恋人たちを結び
合わせる確かな絆。たとえその手は重ならなくとも、心は常に互いの側に…。
キャプテンのランタン・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
人の目に映る其処は機械やモニターが並ぶ無機質な印象の実験室。それ以上でも以下でもありは
しないが、足を踏み入れた者がミュウであったなら一秒たりとも自分の意思で留まることは出来
ないであろう。
壁に、床に、その天井に…余すところなく染み込み、塗り込められた怨嗟の思念。理不尽に握り
潰された命が残した断末魔の悲鳴…。
「今日はここまで…か」
白衣の男が顎で促し、部下の研究員が台の上に仰向けに固定されていた被験者のヘッドギアを
取る。
此処は惑星ガニメデの育英都市、アルタミラに設けられたサイオン研究所という名の実験施設。
サイオンを持つ新人種、ミュウの研究と分析と称して幾多の人体実験を重ねてきた場所。
「こいつは当分、使えないな」
ひくり、と喉を震わせただけの被験者を研究者は鼻で嘲笑った。
「檻を壊してくれたサイオン・バーストは凄まじかったが、お蔭で興味深いデータが取れた。
…だが、あの檻の修理と補強には時間がかかる。こいつのサイオンを封じ込めるにはそれ相応の
設備が無いと…。まあいい、適当に放り込んでおけ」
「それが…。今日、新たなミュウどもが到着しまして、檻は満杯になっております」
「ふむ。では、一匹連れて来て処分するか。…ん?」
研究者の視線が止まった先には時計があった。勤務時間を大幅に過ぎたことを示しているそれを
眺めた彼は忌々しげに舌打ちをして。
「貴重な時間をネズミ退治に費やすというのも腹が立つ。空きが無いなら詰めればよかろう。
適当にな」
後は任せた、と手を振って彼は出てゆき、残されたのは研究員たちと意識を失くした銀髪の
被験者。まだ手足を拘束された状態の被験者は、成人検査を終えて間もないと思われる年頃の
少年だった。
「適当に詰めろと言われてもなあ…。どうする?」
「その辺の檻に詰め込んだって、窮屈になるだけで死にやしないさ。ちゃんと換気はしてるんだ
からな。…そうだ、あいつの所はどうだ? あの体格だ、狭さで言ったら一番だぞ」
「なるほど…。どうせ退屈してるだろうしな」
相談を始めた研究員たちの顔に酷薄そうな笑みが浮かんだ。
研究所の厳重な管理区域に研究員たちが『檻』と呼ぶミュウの独房が並ぶ。
生を繋ぐのに必要な最低限の設備と広さしかない文字通りの檻。外に出られるのは人体実験を
される時だけという檻の一つに放り込まれて、もうどのくらい経ったのだろう?
成人検査に脱落してからの月日を数えることは止めて久しい。ただ、青年と呼ぶのが相応しく
なった自分の身体に、彼………ウィリアム・ハーレイは流れ去った時間の長さを思う。
ミュウは概して虚弱らしいが、ハーレイは聴力が少し弱いという点を除けば身体的な異常は
無かった。そのせいだろうか、最初の頃は頻繁にあった心理探査は殆ど無くなり、今では肉体に
負荷をかける実験に思い付いたように呼ばれる程度だ。
どうやら研究員たちはハーレイを「飼って」データを取ることだけに集中し始めているらしい。
今日も何事も起こらないまま一日が終わる、と毛布さえ無い床に転がった時、ガチャリと檻の
扉が開いた。
「おい、お仲間だぞ」
声と共に乱暴に放り込まれたのは幼さの残る銀髪の少年。
「この馬鹿が檻を壊したんだが、生憎と檻の空きが無い。毎日退屈してるんだろう? 面倒を
見てやるんだな」
「………?」
意図が掴めないハーレイに、研究員は苛立ったように声を荒げた。
「こいつの檻の修理が済むまで同居してろと言っているんだ! 痛めつけてやったから当分は
目を覚まさんだろうが、扱いはせいぜい丁重にな。…こう見えても年はお前より上だ。お前たちの
オリジンだと言えば分かるか?」
「…オリジン…?」
「一番最初に生まれたミュウだ。そしてサイオンは誰よりも強い。悪夢を見たショックで起こした
サイオン・バーストで頑丈な檻を壊した程にな。…何度も繰り返されてはたまらん。今は夢すら
見てないだろうよ」
自我が崩壊する寸前まで実験を続けてやったのだから、と研究員はせせら笑った。
「檻の修理が済んだら引き取りに来る。…言い忘れたが、名前はブルーだ」
一方的に告げられ、檻の扉が再び厳重に閉ざされた。
外の物音は檻の中まで届かない。研究員が立ち去ったのかどうかは分からなかったが、どうせ
檻は一日中、監視されている。それに面倒を見ろと言ったのは研究員だ。意識を失くした少年に
近付き、触れたところで咎められることは無いだろう。
ハーレイはブルーと呼ばれた少年の手首をそっと握った。
激しい人体実験を受けたというブルーは高い熱があり、苦しげに浅い呼吸をしている。細い手首
から伝わってくる脈も速くて、ハーレイの眉が顰められた。ブルーの腕に無数に残る注射の痕。
幼い少年に惨いことを…、と溜息をつくが、研究員の言葉が真実だとしたら…?
(本当に…この少年がオリジンなのか? 私よりも年上だと…?)
少年が目覚めたら言葉遣いに気を付けねば、とハーレイは思う。年長者は常に敬うべきだと彼に
教えたのは記憶も薄れた両親だったか、それとも教師だったのか…。
敬語など長らく使ってはいない。研究員に強制されて使ったことは幾度もあったが、自発的に
使うのは何年ぶりになるのだろうか。人間らしい生活の欠片を取り戻したような気分になった。
(子供相手に敬語で話す、か…。傍から見れば滑稽かもな)
忘れ果てていた笑みを唇に刻んで、ハーレイはブルーの身体を抱え上げた。
研究員が放り込んでいった場所よりも落ち着ける所を知っている。檻の奥に近い、自分の
寝場所。
照明がやや暗くなる其処をブルーに譲り、ハーレイは消えることの無い明かりに背中を向けると
入口付近に横になった。
彼らミュウには人権など無い。監視するのに不都合だからと夜になっても完全な闇は与えて
貰えず、檻の中は黄昏の一歩手前程度の明るさを保つ。心安らぐ闇が欲しいなら光源から遠ざかる
より他に無いのだ。
そんな生活にももう慣れた。だが、深い眠りが心身の回復を促すことを忘れてはいない。
ブルーの身体が少しでも早く癒えるようにと、ハーレイは祈るだけだった。
翌日…と言っても明確な時間の感覚は無いが、檻の扉が開いた音で目が覚める。すっかり
明るくなった照明の下でパック入りの食事が入口に置かれ、扉はすぐに閉じられた。
いつもより多いな、と感じてすぐに思い出したのは昨夜連れて来られた少年のこと。食事の量は
二人分だが、彼は食事を摂れるのだろうか…?
恐る恐る近付いてみるとブルーはぐっすり眠っていた。熱も下がっているようだ。栄養を摂る
べきだと判断したハーレイはブルーの身体を揺すってみる。
「…ブルー? ブルー?」
何度か呼べば銀色の長い睫毛が眠そうに上がり、現れた瞳は血の色を宿したように鮮やかな赤。
驚きに息を飲むハーレイに、ブルーもまた怪訝そうな表情をした。
「……誰?」
細められた瞳が何度か瞬き、それから大きく見開かれて。
「誰? 今度は何を実験する気? そんな格好をしてまで何を…!」
怯えるブルーはハーレイを研究員だと勘違いしてしまったらしい。実験が目的で自分と同じ
簡素な服を着、檻に入ってきたのだ、と。
「違う、私は研究員では…。研究員ではありませんよ」
敬語を使うと決めたのだった、と途中で気付いてハーレイは言葉遣いを改めた。狭い檻の中で
後ずさろうとするブルーの手を取り、もう片方の手で己の首に嵌まったリングを示す。
「私もあなたと同じミュウです。サイオンの制御リングがあるでしょう?」
「…これも実験? ぼくは…今までずっと一人だったのに…」
ブルーは他のミュウに出会ったことが一度も無かった。ハーレイは実験室で何度もミュウを
見かけていたし、他の檻にミュウが一人ずつ入れられている事実も早くから知っていたの
だが…。
なのにブルーは何も知らない。オリジンとして隔離されていたのか、それとも記憶を
失くしたか。ハーレイが語り掛けても返って来る言葉は外見どおりの幼いもので、年上とは
とても思えなかった。
「本当に…何も覚えていないのですか?」
「うん。成人検査を受けて、そのまま射殺されそうになって…。ミュウだとかオリジンだとか
呼ばれているのは知っているけど、ぼくが君より年上だなんて…。そんなの信じられないよ」
嘘だよね? と首を傾げたブルーが覚えていたのは自分の名前だけだった。
「成人検査を受ける前には、ぼくの瞳は青かったんだ。だからブルーと名付けたんだよ、って
誰かが言ってた…。あれは父さんだったのかな? それとも…。駄目だ、なんにも思い出せない。
どうして…」
両手で顔を覆ったブルーを、ハーレイは思わず抱き締めていた。
「大丈夫ですよ、私も似たようなものですから。父も母も顔を覚えていません。…それよりも
食事をしなくては。あなたは酷く痛めつけられていて、身体が弱っている筈です」
堰を切ったように泣きじゃくるブルーの背中を擦って宥め、落ち着いた頃合いを見計らって
味気ない食事の封を切る。それを差し出せば、ブルーがふわりと笑みを浮かべた。
「…ありがとう。此処に来てから誰かと一緒に食事をするのは初めてだよ」
いつもよりずっと美味しい気がする…、と喜びながら食事とも呼べない代物を食べ終えた後、
ブルーはハーレイに問い掛けた。
「そういえば君の名前を聞いてなかった。…なんて言うの?」
「ハーレイです。…ウィリアム・ハーレイ」
「…ウィリアム…ハーレイ? そうか、名前が二つもあるんだ」
ブルーには自分のファミリーネームの記憶が無かった。そしてウィリアムの名は呼びにく
かったらしく、ハーレイと呼びかけて子供のように甘えてくる。
「ハーレイは大きくて温かいね。ずっと一緒にいられたらいいね…」
それはハーレイにとっても心が温かくなる言葉だった。
自分を頼ってくれる者がいるのは何と嬉しいことだろう。起きている間は実験のことを
忘れさせてやろうと他愛も無い話を交わして、食事を摂って…夜は二人で寄り添って眠る。
けれど…。
「ブルー、お前の檻がやっと出来たぞ。さあ、出るんだ」
無情な研究員の一言で穏やかな日々は砂上の楼閣の如く崩れ去った。ブルーは全てを諦め切った
顔でハーレイを見詰め、逞しい褐色の手をキュッと握って。
「…さよなら、ハーレイ。ありがとう…。君といられて楽しかったよ」
忘れたくないよ、と一粒の涙だけを残して、ブルーは白衣の男たちに連れてゆかれた。その先に
待っているのは人を人とも思わぬ実験。記憶も何もかもを失うほどにブルーの心身を苛む絶え間
ない責め苦…。
二度と会うことは叶わないであろうブルーを思って、ハーレイは日夜、胸を痛めた。あんなにも
細い身体を、成長し切っていない心を、研究者たちはどうして罪の意識すらも抱かず切り刻む
ことが出来るのか…。
ハーレイの思いを他所にサイオン研究所での実験は続く。
相変わらずハーレイが引き出されるのは肉体への負荷の実験のみだが、同じ実験をブルーが
あの華奢な身体で受けているのかと考えただけで心臓が凍りそうだった。丈夫な自分でも場合に
よっては起き上がれない程に疲弊する。ならばブルーは? ブルーの身体は…?
研究員はブルーを強いサイオンを持つオリジンだと言った。しかし数日間だけ一緒に暮らした
ブルーは自分よりも幼く、ハーレイという縋れる相手を見付けたせいか、弱音を吐くことも
しばしばで…。
ブルーはあれからどうしただろう? 名前以外の全てを忘れてしまったろうか…?
どうしてもブルーのことを考えずにはいられない。実験に連れ出される時も、檻にいる時も。
その夜もハーレイは膝を抱えて蹲ったまま、銀色の髪と赤い瞳の少年を思い浮かべていた
のだが…。
「…!」
出し抜けに檻の扉が開いて何かがドサリと投げ込まれた。顔を上げたハーレイの目に映った
ものは片時も心を離れなかったブルーの姿。
「お前に仕事だ。こいつを使えるようにしろ」
白衣の研究員が冷ややかな声でハーレイに命じる。
「急ぎの実験が待っているのにダウンされてしまってな。いいか、明後日までに元に戻すんだ。
どうやらこいつは、お前と相性がいいらしい。…ミュウには相性というヤツがある。相性がいい
ヤツと一緒にすれば相乗効果でサイオンが強くなることは分かっていたが、回復まで早くなる
とはな」
この前の時は劇的だった、と研究員は愉快そうに笑ってみせた。
「当分は再起不能なレベルにまで痛めつけてやったというのに、明くる朝にはお目覚めだ。檻の
修理さえ間に合っていればすぐにでも引っ張り出せたほどにな。…今回も期待しているぞ」
実験は明後日の朝に開始する、と言い捨てて研究員は扉を閉めた。
ハーレイの身体が小刻みにガクガクと震え始める。
ブルーを実験動物としか見ていない研究員への怒りもあったが、それ以上に自分自身が憎い。
自分の存在はブルーに害を及ぼしてしまう。側にいるだけで回復を促し、実験室へと送り込む
手伝いをすることになってしまうのだから…。
(私はブルーに触れてはいけない。出来るだけ離れていなくては…)
檻の中では距離を取るのも難しかったが、ブルーには二度と触れまいと誓う。それだけでも
少しは違うだろう。
ブルーが実験に連れ出される日は少しでも先の方がいい。怒り狂った研究員に殴られようとも、
自分はブルーを守りたいのだ…。
ハーレイの悲壮な決意も空しく、翌日の朝にブルーは目覚めてしまった。宝石のような赤い
瞳がハーレイを映し、血色を取り戻した唇が無邪気に名を呼ぶ。
「…ハーレイ? ハーレイだよね?」
会いたかった、と胸に飛び込んで来たブルーをハーレイは強く抱き留めていた。触れては
ならないと昨夜決心したばかりだが、どうして突き放すことが出来よう?
ブルーが忘れているならともかく、今も自分を覚えているのに……縋り付き頬を摺り寄せて
くるのに、温もりを求めていると分かっている手をどうして振り払うことが出来よう…?
「ハーレイのことは覚えていたんだ。忘れたくないって思ったからかな? また会えるなんて…。
しばらくは一緒にいられそうだね」
前の時みたいに、と嬉しそうに身体を預けてくるブルーに、しかしハーレイは言うしか
なかった。ブルーが此処に連れて来られた恐ろしい理由を。二人きりの世界が終わる時間を…。
「………。そうだったんだ……」
ブルーは俯いて唇を噛み締め、伏せた睫毛の端から涙が零れる。ハーレイはブルーが自分から
離れると思い、細い身体に回していた腕を外したのだが、ブルーは一層強く抱きついてきた。
「…ごめん、ハーレイ。…ハーレイは嫌かもしれないけれど……実験の手伝いなんて嫌だろう
けど、ぼくはハーレイの所に来たい。ぼくが実験でボロボロになったら、ハーレイが治して
くれるんだろう? だったら……もう実験は怖くないよ。実験のためにハーレイと引き離される
のは悲しいけれど…」
「…ブルー…?」
戸惑うハーレイの腕が躊躇いがちにブルーの背中に戻され、ブルーが安堵の息をつく。
「やっぱりハーレイは温かい…。また来るから。明日になって連れて行かれても、また来る
から…。だから待っててくれると嬉しい。…ハーレイには嫌な思いをさせるけど…」
「嫌だなどと…誰が言いました…?」
ハーレイはブルーの頬を濡らす涙を武骨な指先で拭ってやった。
「あなたのことをずっと心配していましたよ。…二度と会えないと思っていたのに、どうしても
忘れられなかった。私があなたと一緒にいれば研究者たちを喜ばせるだけだと知った時には
ショックでしたが、それでも…目覚めたあなたを目にしてしまうと、また会いたいと願って
しまう。あなたには酷なだけなのに…」
「実験なんて…大したことじゃないと思うよ、またハーレイに会えるのなら。明日の実験ですぐ
ボロボロになれればいいのに、そう簡単にはいかないだろうな…」
ぼくのサイオンは強いらしいから、とブルーは悲しげに微笑んだ。
「次に会えるのはいつなんだろう? ハーレイのことは忘れないから……忘れていてもきっと
思い出すから、待っていて。ぼくは必ず戻って来るから」
約束だよ、とブルーが指を絡めてくる。その仕草がたまらなく愛おしく思えて、ハーレイは
細く白い指に唇を落とした。
それは再会の約束の証。ブルーが無事に生き延びるように、と願いをこめた祈りの印…。
その翌日、ブルーはハーレイの檻から実験室へと連れて行かれてそのまま戻ってこなかった。
どんな実験が行われたのかは分からない。次にブルーが戻って来るのは心身の限界まで責め
苛まれてボロ布のようになった時だ。
それなのにハーレイはブルーに会いたいと願ってしまう。
自分の檻の中で休ませ、寄り添っていてやりたいと……疲れ果てたブルーの心を癒し、整った
顔立ちが花のように綻ぶ美しい笑みを見守りたいと。
(こんなことを願っていてはいけない。ブルーには会えない方がいいのだ。会えない間はブルーは
元気にしているのだから…)
そう思っても、心は常にブルーを追っている。檻の扉が開かれる度に銀色の髪を探してしまう。
研究者たちはハーレイの力を役立てるべく、幾度もブルーを檻の中に放り込みに来た。
再会する度にブルーは生気を取り戻してゆき、今はもう別れる時に「さようなら」と口に
することはない。「またね」と微笑み、研究員たちに背中を押されて名残惜しそうに去って
ゆくだけ…。
「明日になったら、またお別れだね」
もう何度目になるのだろう。消えない明かりから庇うように抱き込むハーレイの腕の中で
眠りにつく前、ブルーが寂しげな声音で呟くのは…。
やりきれない思いでハーレイは華奢な身体に回した腕に力を籠める。そうした所でブルーを
守れはしないのだったが、少しでも支えになれるのなら…、と。
「早くハーレイの所に来たいよ。なのに実験が終わらない…。ぼくの力がどんどん強くなって
いくから、新しい実験が増えるんだって。この実験が終わればハーレイの所で目が覚めるんだ、
と思っていても、気が付いたらまた実験室で…」
どうしてだろう、とブルーは顔を曇らせる。
「本当に強い力があるなら此処から出られそうなんだけど、出る方法が分からない。外へ
出られたらハーレイといつも一緒にいられるのに。離れなくても済むはずなのに…」
「サイオンのことは私にもよく分かりません。制御リングを嵌められているせいでしょうか?
自分がミュウだと何度言われても、以前と変わった所は何も…」
ハーレイの言葉にブルーは頷き、「ぼくも」と首のリングに触れた。
「成人検査で機械を壊したらしいんだけど、何をしたのか記憶に無いんだ。その後、銃を向け
られたのは覚えているけど……サイオンで弾を受け止めたなんてホントかな? こんな髪と
瞳になっちゃったから、何かあったのは確かだけれど…。ハーレイの所へ初めて来た時、檻を
壊したのが本当にぼくの力だったら…」
外へ出たいよ、と訴えるブルーをハーレイはただ抱き締めるだけ。
この檻から…サイオン研究所から脱出できたら、どんな世界が広がるのだろう?
ブルーも自分も人体実験から解放されて人間らしく暮らせるだろうか? それともやはり
化け物と呼ばれ、何処までも追撃されるのか…。
答えは全く分からなかった。けれど一つだけ確かなことは、研究所から解き放たれたらブルーと
離れずにいられること。研究員たちの都合で引き離されずに、いつも一緒にいられること…。
(…夢物語というヤツか…。どうせ死ぬまで出られはしない)
絶望感がブルーに伝わらないよう、ハーレイは努めて笑顔を作ると銀色の髪を優しく撫でた。
「もしも外の世界へ出られたら…いつまでも一緒に暮らせるのですよ。ですから希望を捨て
ないで。…いつか必ず、此処から出ると……それまで生きると誓って下さい」
「…そうだね…。実験で死んでしまったらハーレイに会うことも出来なくなるし…。外へ出られる
時が来るまで、ぼくは何度でも此処へ戻って来るよ。ハーレイが待っているのが分かっている
から、記憶も消えなくなったんだしね」
以前は過酷な実験の度に記憶を失くしたというブルーだったが、ハーレイと出会ってからの
記憶は鮮明だった。それもハーレイとの相性のせいか、と研究員たちは様々な検査を試み、
ブルーの負担は一層増える。
それでもブルーは耐え続けた。ハーレイが待つ檻の中で目覚め、共に過ごせる僅かな時間の
輝きだけに縋りながら…。
そんな日々がどのくらい続いたのか。
ある朝、ブルーが連れ去られた直後にハーレイも檻から引き出された。
こんなことは今までに一度も経験が無い。ブルーと同じ内容の実験を受けるのだろうか、と
考えながら長い通路を歩いて階段を下り、堅固な扉の前へと連れて行かれる。研究員が暗証番号を
打ち込みながら唇を歪めた。
「あの世への土産話に教えてやろう。お前たちミュウの命は今日で終わりだ」
「なんだと?」
信じ難い言葉にハーレイの瞳が見開かれる。
その前で扉のロックが外され、薄暗い空間に閉じ込められた大勢の人間が視界に飛び込んで
きた。一目でミュウだと分かる揃いの服の男女の群れ。押し寄せてくる悲鳴と怒号。
「このガニメデごと処分してしまえとグランド・マザーが仰った。惑星破壊兵器のメギドが既に
狙いを定めている。俺たちがこの星を脱出したら、お前たちは星ごと焼かれるんだ。お前の
大事なブルーもな。だが…」
ブルーの姿がありはしないかと目を凝らしていたハーレイの背に冷たい銃口が突き付けられた。
「二人一緒に死なせてやるほど酔狂ではないさ、我々は。…入れ!」
突き飛ばされるようにして潜った扉が背後で閉ざされ、それきり開くことは無かった。
部屋にいるのはサイオン制御リングを首に嵌められ、押し込められたミュウたちだけ。
泣き叫ぶ者や啜り泣く者、扉を叩いて喚く者…。
誰もが恐慌状態の中、ハーレイはブルーを探し求める。けれどブルーは見つからないまま、
遠くで爆発音が響いた。
爆発と何かが崩れ落ちる音が間断なく続き、凄まじい揺れが襲ってくる。研究員が言って
いたとおり、この惑星ごと滅ぼされるのだ。
(ブルー…!)
ハーレイの脳裏をブルーの泣き顔が掠めていった。こんな時に側にいてやれない。きっと
何処かで泣いているだろうに、自分はブルーの所に行けない…。
(くそっ、どうしてこんな時に…!)
拳を壁に打ち付けた瞬間、ブルーの叫びが耳に届いた。
『開けろ、ぼくらが何をした! 何をしたって言うんだ!』
「ブルー?」
この部屋にブルーはいないのに…自分の聴力は弱い筈なのに、それは間違いなくブルーの声。
涙交じりに絶叫する声。
何処に…、と周囲を見渡したのと、ひときわ大きな爆発音が部屋を揺るがしたのとは同時
だった。
「……!」
凄まじい爆風と衝撃が突き抜け、首に嵌められていたサイオン制御リングが砕け散る。床に
伏せていた身体を起こすと、部屋は跡形も無くなっていた。
いや、研究所そのものが吹き飛んでしまったと言うべきか…。これもメギドのせいなの
だろうか? だが、ミュウたちは一人も傷ついておらず、その首からはサイオン制御リングが
消え失せている。
(さっきの声…。まさか、ブルーが? ブルーが全てを壊したのか?)
何が起こったのかも分からないまま、ハーレイは声が聞こえたと思った方へと駆け出して
いった。
炎の色に染まった空が頭上に広がり、廃墟と化した研究所からミュウたちが先を争って
逃げ出してゆく。他人を気遣う余裕などがあろう筈もなく、倒れた者は踏み付けられて置き去りに
されてゆくだけだ。
その人波に抗うように進み、ついには誰一人いなくなった廃墟の中を探し続けて…。
「ブルー!」
ハーレイの瞳が求める者の姿を捉えた。
自分の身体を両腕で抱き、蹲っている小さなブルー。青い光をその身に纏い、瓦礫の間に
埋もれるように。
急いで駆け寄り引きよせてみれば、血の気の失せた薄い唇から漏れる言葉は…。
「嫌だ、死にたくない。ハーレイのいない所で死にたくない…」
「ブルー、私は此処にいます!」
細すぎる肩を掴んで揺すると、ブルーは何度か瞬きをしてハーレイを赤い瞳に映した。
定まらなかった焦点が合い、青い光が見る間に薄れ、唇が微かに戦慄いて…。
「…ハーレイ…? ハーレイ…!」
しがみ付いてきたブルーを抱き上げ、ハーレイは炎を掻い潜って懸命に駆けた。
街を、全てを舐め尽くそうとする悪魔の舌が大気を焦がし、噴き上げる火の粉が行く手を
阻む。
アルタミラが燃える。この惑星ごと地獄の劫火に包まれてゆく…。
(死んでたまるか! ブルーだけでも……ブルーだけでも逃がさなければ…)
何処か安全な場所は無いかと必死に考えを巡らせていると、ブルーがハーレイの名を呼び、
炎の彼方を指差した。
「…多分、あっちに宇宙船が…。あそこまで行けば逃げられるかも…」
宇宙船の影が見えた気がする、とブルーはハーレイの顔を見上げた。
「ぼくは出たいと願ったんだ」
ハーレイの負担になるから、と自分の足で走り始めたブルーが息を切らしつつハーレイに
告げる。
「殺されるって分かった時に……ハーレイは別の所に連れて行かれたって分かった時に、
あそこから出たくて泣き叫んで…。気が付いたら全部無くなっていた」
部屋も研究所も首のリングも…、と。
自分のサイオンがそれらを引き起こした事実にブルーは恐れ戦き、その場から動けなく
なってしまった。
ハーレイの名をただ繰り返すだけで、自分の殻に閉じ籠もっていたブルーを見付け、
救い出したのは力強く太い褐色の腕。
「死にたくないよ。やっと自由になれたのに…」
ハーレイと外へ出られたのに、とブルーの声に涙が滲む。
「まだ終わりではありませんよ。宇宙船が見えたのでしょう? そこまで行って
みなければ…」
諦めるのは早すぎます、とハーレイはブルーの華奢な手を強く握った。
「私たちが閉じ込められた場所を粉々にしたと言いましたよね? その力で宇宙船の在り処も
分かったのでしょう。…とにかく今は逃げることです。宇宙船に乗れれば生き延びられます」
もしも脱出できたなら…、とハーレイはブルーの手を引いて走る。
「二度とあなたの手を離しません。あなたの側から離れはしないと約束します」
「そうだね。…二人で自由にならなくっちゃね…」
ハーレイと一緒なら何処へでも行ける、とブルーが涙に濡れたままの瞳で微笑み、ハーレイの
手を握り返した。
宇宙船はまだ見えてはこない。けれどブルーも、そしてハーレイも希望に向かって走り続ける。
滅びゆく星を後に振り捨て、二人で空へと飛び立つために。
共に生きたいと願う気持ちを何と呼ぶのか、二人とも未だ気付いてはいない。互いを求めて
やまない想いが身の内に満ち、密やかに溢れて実を結ぶのは遠い宇宙へ出てからのこと…。
巡り逢いの扉・了
※葵アルト様の無料配布本からの再録です。
『…ハーレイ』
入っても、いいかい…?
遠慮がちに問うてくる思念にハーレイは手を止め、穏やかな笑みを浮かべて振り返った。夜勤の
クルーに引き継ぎを済ませ、ブリッジから自室に戻って来たのは一時間ほど前のことだ。
扉を開く代わりにほんの僅かに空気を揺らし、部屋の中に人影が現れる。そんな風に彼の部屋を
訪れる者は一人しかいない。
「どうなさいました? ブルー」
ほぼ書き終えた航宙日誌を閉じて羽ペンを所定の位置に戻せば、来客は静かに部屋を横切り、
奥まったソファに腰を下ろした。
「…少し飲みたい気分なんだ。君さえ良ければ……だけど」
ああ、とハーレイは破顔して頷く。来客はソルジャーと呼ばれ、最強のサイオンをその身に
宿すが、華奢な身体は丈夫ではない。そのせいか酒にも強くはなくて、僅かな量で酔い、眠って
しまう。それでも彼はハーレイの部屋で共にグラスを傾けることが好きだった。
アルタミラからの命懸けの脱出を経て辿り着いた惑星、アルテメシア。その雲海に潜み、改造を
重ねた彼らミュウの船、シャングリラ。白く優美な船体に人類の目から逃れるためのステルス・
デバイスを備え、居住空間として安定するまで長く続いた緊張の日々。
人類との遭遇に誰もが怯えていた頃、酒に酔える余裕などあるわけもなく。戦闘能力を有する
唯一のミュウゆえに皆の長、ソルジャーとなったブルーに気を抜ける時間は一秒とて無く…。
そんな時代を経てきたからこそ、あまり飲めない身体であっても、ブルーは酒を酌み交わせる
ひと時が好きだ。
量を過ごせば正体を失くしてしまう甘美なそれを、望んだ時に口に出来る世界を彼らは確かに
手に入れた。宇宙船という、限られ、閉じた空間の中であっても。
二人分のグラスを棚から出してテーブルに並べ、黄金色のブランデーを注ぎ入れる。ブルーの
グラスには、ほんの少しだけ。自分のグラスには充分な量を。
それはいつの間にか決まった約束事で、ブルーのグラスには薄めるための水も欠かせない。
贅沢な時間を共有するための手順どおりに、ハーレイは水割りを作ろうとしたが。
「…今日はそのままで」
ブルーの声がそれを止めた。
「このままで? あなたには強すぎると思うのですが…。これは果実酒ではないのですよ?」
酒の種類にも疎いブルーの表情を窺いながら、ハーレイはボトルを揺すってみせた。果実酒
ならばブルーも普通に飲めるが、ブランデーは水で割らないと無理だ。
けれどブルーは頑なに「そのままがいい」と繰り返す。
「あなたがそこまで仰るのなら。…良くないことでもありましたか?」
酔い潰れたい気分なのかもしれない、と気遣いつつもグラスを差し出せば、否と答えが返って
来た。
「その逆…かな? いつ来ても此処は落ち着ける」
「気分が高ぶってらっしゃるのですか?」
「…そう…かもしれない」
ブルーは濃さを保ったブランデーのグラスを手に取り、目の高さまで掲げてみて。
「この部屋では色が鮮やかだ。これは何色と呼ぶんだろうね?」
「………。青の間の灯りはお嫌いですか?」
「そんなことはないよ。ぼくの瞳は光にあまり強くない。あのくらいの明るさにしておかないと
目に良くない、とドクターも言うし」
でも、と赤い瞳が照明を映して微かに揺れる。
「この部屋の灯りも好きなんだ。全てが自然な色をしている。此処で過ごせる時間も好きだよ」
「…お好きなのは灯りと部屋だけ…ですか?」
「まさか」
笑みを湛えたブルーの目尻がほんのりと赤い。まだグラスには唇も付けていないのに。
今夜の酒は強すぎるから、ブルーはすぐに酔うだろう。酔いが回ると眠ってしまうブルー。
眠りの淵に沈んだ彼に己のベッドを貸す前に…、とハーレイの中で頭を擡げるものがある。
この部屋をブルーが訪れる時は、それもまたお決まりの約束事で。まだ一口も飲んでいない
から、と拒まれることもないだろう…とハーレイは笑みを深くする。
「…ブルー…」
細い肩に腕を回そうとした時、不意に問われた。
「私有財産について、どう思う?」
あまりにも雰囲気にそぐわぬ言葉に、ハーレイは暫し固まった。
「…ごめん」
クスクスと悪戯っ子のような笑いを漏らして、ブルーがハーレイの額に触れる。
「皺。…普段よりも少し、深くなってる。ぼくのせいかな?」
「何の前触れもなく面妖な事を仰るから…。一体何をお考えです? この船の中で手に入る物は
限られますが、そんな世界でも……皆が個人的な物を持っているのは御存知でしょうに」
「とてもささやかな物だけどね。…一般のミュウだとブランデーでも合成品だ」
「………それは…」
苦いものを飲み込んだような気持ちになった。
自分とブルーの前にあるのはシャングリラで合成したものではなく、醸造と蒸留とを経て熟成
されたブランデー。物資調達のために人類社会に潜入した部隊が奪取してきた戦利品だ。
高級な品、珍しい品が手に入った時はソルジャー、長老、各セクションの責任者たち…といった
順序で分配される。それがシャングリラでの秩序で、決まりごとだった。
船長のハーレイに本物のブランデーが届けられるのは自然なことだが、他の仲間が合成品を
飲んでいるのに自分だけが…。果たしてそれで良いのだろうか?
「いいんだよ、それで」
ハーレイの感情が零れていたのか、ブルーが柔らかなテノールで言った。
「キャプテンの責任はとても重いし、他のミュウでは務まらない。危険手当だとでも思えばいい」
「危険手当…ですか? ならば、あなたの分はどうなります?」
仲間の危機に飛び出してゆくのはブルーだったが、物資の優先配分量が特に多いということは
無い。それを口にすると、ブルーは少し困ったように。
「ぼくには青の間で充分だよ。…たった一人の人が住むのに、あの部屋は大きすぎないかい?」
「あれはあなたのサイオンなどを考慮して作られた特別な部屋で…! 必要な広さと言うの
です!」
「…そうなのかな? だったら、ぼくが…」
特別な何かを個人的に所有したいと言ったら、それは欲張りだと思うかい?
そう尋ねられて否とは言える筈もない。
ブルーはこの船とミュウたちをたった一人で守り戦い、導いてゆく孤高のソルジャー。他の者
とは比較にならない重責を担う彼なのだから、普通のミュウたちには望めない何かを独占したとて
許されるだろう。
それともブルーが私的に所有したい物とは、船長の意向を確かめなくてはならない程に危険な
物質なのだろうか? そのような物を欲しがるブルーとはとても思えないのだが、何か理由が
あるのかもしれない…。
無意識に眉間に皺を寄せていたらしく、ブルーが「皺!」と指でなぞった。
「心配しなくても、そんな危ない物じゃない。ぼくの我儘のためにシャングリラや皆を危険に晒す
ような真似はしないよ。でもね…」
個人が所有できるようなレベルの物じゃないかも。
そう呟いたブルーの掌の上に何処からかフッと現れたものがテーブルにコロンと転がり落ちる。
ブランデーの色を湛えた透明で温かそうな塊。掌にすっぽりと収まるほどの、卵を思わせる
滑らかな形。
「どうしても我慢できなくってね…」
持って来ちゃった、とブルーはそれを愛おしそうに撫でた。
ブランデーが固まって出来上がったような不思議な物体。まろやかで飴玉と見紛うほどだが、
しかし手に取ると驚くほどに軽い。石の一種かと思った自分はどうやら間違っていたようだ。
「この色だよ、ハーレイ」
白い手が伸びてグラスを塊の隣に並べた。透き通ったガラスの器の中でブランデーが微かに
波立つ。液体と、つややかな塊と。どちらもが部屋の自然な灯りを映して、柔らかな色合いを
その中に宿す。
「もしかして……これは」
琥珀ですか…?
ハーレイの問いにブルーはコクリと頷いた。
「ぼくも本物を手に取ったのは初めてだ。アタラクシアの博物館に巡回展が来ていてね…。古代の
地球ってテーマの、よくあるアレさ。思念体で覗きに行ったら化石が沢山並んでいたよ。何億年も
昔の植物、魚類、それに恐竜。…その中にこれも並んでいたんだ」
ほら此処に、とブルーは琥珀の一点を示す。
「虫の姿が見えるだろう? 三千万年以上も前の昆虫らしい。まだ人類も現れていない、ずっと
昔の…太古の地球をその翅で自由に飛んでいた虫だ」
「琥珀の中に虫…ですか? そんな化石もあるのですか?」
遙か古代に絶滅した植物の樹脂が琥珀だと聞いた。幹から滴り、長い年月をかけて化石となった
……その昔、遠い地球だけで採れた飴色の宝玉。
人類が地球しか知らなかった頃に愛でられ、宝石と呼ばれた鉱物たちは他の惑星からも産出
される。その価値は地球産か否かで天と地ほどにも異なっていたが、それでも同じ鉱物はある。
けれど琥珀は地球にしか無かった。青い水の星で育まれた太古の森しか、それを産み出せ
なかったから。人類は第二の地球をついに見いだせなかったから。
ゆえに琥珀は遠い昔の動植物の化石たち同様、稀少で、貴重。
育英惑星では子供たちに地球への憧れを抱かせるために化石の展示が行われるが、その思い出で
しか琥珀を知らない人間もまた多かった。
辺境の惑星や軍事基地にでも配属されれば、地球に生きたものたちが姿を変えた石に二度と再会
することもなく、地球に降りる機会すらも与えられずにその生涯を遠く離れた宇宙で終える…。
「見ているだけで済ませるつもりだったんだけどね…」
ブルーは琥珀を指先でつついた。コロコロと軽やかに転がる琥珀に、封じられた虫も一緒に
転がる。
「琥珀が樹脂の化石だというのは知ってるだろう? それが固まるまでの間に虫がくっついて
しまうんだってさ。…そして一緒に化石になる。虫の代わりに木の葉や水滴を中に閉じ込めた
琥珀もあって……。此処を見て」
時を止めた虫の周りに光の泡が散らばっていた。模様なのかと思っていたが、この泡は…。
「地球の空気。地球の水滴。…その両方が入っているんだ、この琥珀には」
だからどうしても触れたかった、とブルーは琥珀を掌に乗せた。
…だって。
この琥珀は地球の空気と水とをその身に抱いているのだから。
思念体で抜け出して見つけた虫入りの琥珀を手に取りたいと願ったブルー。その思いは遙か
空間を隔てたアタラクシアの博物館から無意識の内にそれを拾い上げ、シャングリラへと運んで
しまったらしい。
青の間に居たブルーの手の中に現れた琥珀は、己が宿した地球の欠片を封じ込めた泡に青い
仄かな光を受け止め、弾き、部屋の主を虜にした。地球を覆う大気と水との確かな証がその内に
ある……と。
「この部屋で見ると琥珀色だね、本当に。…青の間の灯りだと違うんだ。やっぱり琥珀はこの
色が似合う」
うっとりと琥珀を眺めるブルーはブランデーのことなど忘れてしまったようだった。
「それを確かめに私の部屋へ? 飲みたい気分とは口実でしたか?」
「いや。ブランデーが本当に琥珀の色をしているのかも気になった。だから水で割らずにその
ままで…、と言っただろう?」
そういえば…、とハーレイはブルーのグラスに目を移す。中身は少しも減ってはいない。
ブランデーの色を琥珀色だと何気なく何度も口にしてきたが、遠い記憶の中の琥珀とブランデー
とを比べたことは無かった気がする。今夜のブルーは好奇心を満たすためだけに来たのだろうか、
と苦笑した時。
「…私有財産についてどう思う、って訊いたよね。ぼくが琥珀をこのまま仕舞い込んで
しまったら…? 二度と人類の手には返さず、シャングリラの皆で共有するというわけでも
なくて……一人占めにしてしまったら…?」
君はぼくを強欲なのだと軽蔑するかな…?
探るような目をして見上げるブルーに、ハーレイの胸が詰まる。
誰よりも地球に焦がれて止まないブルー。あの青い星へ辿り着くために、アルタミラからの長い
年月をソルジャーとして、たった一人で戦い続けてきたブルー。
その彼が手にした琥珀の中に地球の空気と水滴がある。それを人類に返すべきだとは思わない。
ミュウは人類から激しい迫害を受けて久しく、いくらブルーが共存の道を求めるからと言っても、
琥珀くらいは貰ってしまって良いだろう。それが人類の至宝だとしても。
けれど、シャングリラのミュウたちは? 幼い頃に救い出されたミュウは化石を目にしたことが
無い。かつてそれを見たミュウたちにしても、シャングリラの中で地球の記憶を秘めた琥珀に
出会えるとなれば喜ぶ筈だ。ヒルマンに渡せばライブラリーに専用の展示ケースが出来上がり
そうで…。
琥珀にはそれほどの重みがあった。
しかし展示ケースに収めてしまえば、今のように気安くは触れられない。いくらブルーが
ソルジャーであっても………いや、ソルジャーだからこそブルーは琥珀を手にはするまい。
ブルーはこの船のミュウたち全てと同じ立場でありたいと望む。皆が気軽に触れられないなら、
自分も決して手を触れはしない…。
船の隅々まで慈しみの思念を広げ、安らげる場を守りながらも、ブルーはソルジャーとしての
務め以外で特別な扱いを受けることを嫌う。この船に暮らす皆も自分も、等しく一人のミュウ
なのだから…と。
それゆえに琥珀をシャングリラの皆で共有するなら、ブルーは二度と触れないだろう。その
内側に包み込まれた地球の欠片に、どれほど焦がれていたとしても…。
「…私は何も見ませんでした」
ハーレイは琥珀から目を逸らした。
「ですから、それはあなたのものです。個人の私有財産について、キャプテンに処分権限は
ありません。そのまま青の間にお持ち下さい」
「…いいのかい?」
途方もない金額を出しても買えない人類の至宝なんだけど…?
そう念を押すブルーに答えた。
あなたが持つのが相応しいのだと思います。
いつか地球へと辿り着くために。
地球の記憶が刻まれた琥珀は、あなたの希望になるでしょうから…。
飲みたい気分だと言って来た時、ブルーの神経は本当に高ぶっていたのだろう。琥珀を手に
入れたのは恐らく今日。自分一人の身には過ぎた宝を、どうするべきかと考えた末にハーレイの
部屋を訪れた。
もしかすると密かに隠し持つことが出来るかもしれないと、微かな期待を胸に抱いて。
叶うとは思っていなかったろうが、ブルーの地球への想いを知るハーレイには取り上げること
などとても出来ない。独占欲とはおよそ無縁のブルーが、あの琥珀に強く魅せられている。普段は
何を手にしたとしても、皆で分けようと言い出すブルーが。
それほどにブルーを惹き付けたものを、どうして奪うことが出来よう? 第一、ブルーの強い
サイオンが無ければ、琥珀は今もアタラクシアの博物館の展示ケースに陳列されていたわけで…。
つらつらと思いを巡らせていたハーレイの補聴器が音を拾った。
「………レイ、…ハーレイ?」
「ブルー? お帰りになったのでは…?」
青の間に戻った筈のブルーが知らぬ間にハーレイの隣に腰掛けている。先刻、琥珀を大切そうに
両手で包んで、空間の狭間に姿を消したと思ったのだが。
「どうして? 飲みたい気分だと言っただろう? まだ一滴も飲んでいないのに」
「ですが、先ほど…」
「ああ。何処に置こうかと迷ったんだよ。手許にあると嬉しいけれど、青の間ではせっかくの色が
暗く沈んでしまう。…やっぱり自然な光がいい」
テーブルにコトリと琥珀が置かれた。ブランデー色の軽い塊が光を映してコロコロと揺れる。
「これを預かって欲しいんだ。此処なら隠し場所も沢山あるだろう? なにより琥珀の色が
映えるし、君と一緒に飲みたい時にもすぐ手に取って眺められる」
「では……琥珀を肴に飲みますか?」
一人で飲みかけていたブランデーのグラスをブルーのグラスの隣に戻すと、琥珀の持ち主は
「その前に」と琥珀に右手の指先で触れた。
「ブルー…?」
細くしなやかな指が青い焔にも似たサイオンを纏い、ブルーの他には誰も持たない神秘の青が
琥珀の表面を大気圏のように淡く包み込む。それは琥珀の上に暫し留まり、やがてフワリと
其処から離れてハーレイのグラスへ流れ込んだ。
青い光がブランデーに溶け、ゆっくりと底に沈んで琥珀の色へと変わってゆく…。
「…上手くいったようだよ、ハーレイ」
「えっ?」
ほら、とブルーが指差した。
「ブランデーの中を覗いてごらん。…地球の空気が見えるだろう?」
グラスの底に一ミリにも満たない気泡があった。それは見る間に更に細かい粒に分かれて
ブランデーの中を漂い始める。
ゆらゆらと揺れながら昇っていったそれらが消え失せた時、沢山の泡たちが歌う地球の讃歌が
耳に届いた…ような気がした。
琥珀と共に化石になった気泡の中身をブランデーの中に溶かしたのだ、とブルーはハーレイの
グラスを示して微笑んでみせた。
脆い琥珀を損ねることなく、それが真珠を包む母貝の如くに身の内側に抱いた空気をサイオンで
外の世界へと移す。ハーレイには思いもつかなかった技だが、ブルーには造作もないことだった。
そしてある程度の力を持ったミュウなら、誰でも出来るに違いない。生憎、ハーレイは
サイオンを物の移動に用いることは不得手なミュウであったけれども。
「だから一人占めにしたかったんだよ」
誰もが中身を欲しがったなら、すぐに琥珀は空っぽになってしまうだろう? とブルーは呟く。
そうしたら地球の欠片が無くなってしまう。触れるどころか、眺めることさえ出来なくなる。
いつまでも傍に在ってほしいのに……と。
「ぼくは、この中の地球を失くしたくない。でも、触れたいとも思うんだ」
地球を覆っていた太古の大気のほんの小さな粒の一つに。そこから生まれた水の雫に…。
「この次は水滴を抜いてみようか? 地球の水を溶かしたブランデーなんて、きっと最高の贅沢
だよね。地球で暮らせるエリートだけしか地球の水の味は知らないだろうし」
「そうですね。…まさかミュウがその水を手にしているとは、人類も思わないでしょう」
少し愉快な気分になった。ブルーが持ってきてしまった小さな琥珀。掌にすっぽり隠れるほどで
しかないのに、それはどれほど大きな夢の翼を自分たちの背に広げてくれることか…。
「内緒だよ、ハーレイ」
ブルーが声を潜めて囁く。
「この部屋に琥珀が隠されてるのは、ぼくと君だけしか知らない秘密。ぼくが琥珀を盗み出した
ことも」
「いいんですか、そんなに私を信用しても…? 私がこっそり中身を抜くかもしれないのですが」
そんなことをする気は微塵も無いが、つい、からかってみたくなる。…これも琥珀のせいかも
しれない。見ているだけで人を心地よく酔わせる、ブランデーの色に染まった宝玉。
「君には微細なコントロールは無理だろう? 琥珀を壊してしまうのがオチだ」
クスクスクス…と花が綻ぶような笑みをブルーが浮かべる。
「………。私は防御専門ですから」
ハーレイのサイオン・タイプはグリーン。碧色のそれはブルーをも凌ぐ堅固な防御能力を持つ。
「頼もしいね」
知らず苦い顔になっていたハーレイにブルーはそう言い、そのサイオンを愛おしむように語り
掛けた。
コントロールだけが能ではない。守り抜く力も大切なのだ、と…。
「君は番人に打ってつけだ。ぼくの琥珀は君に預ける。何処よりも安全な場所だと思わない
かい?」
そしてね…。
此処ならば……君の側ならば、ぼくは安心出来るから…。
ブルーは地球の空気を溶かし込んだハーレイのグラスにそっと手を添え、香りを吸った。
「これからは何かの記念日ごとに泡の中身を一つだけ抜いて、ブランデーに溶かして飲んで
みよう。今日、溶かしたのは地球の空気。…このブランデーの味はどんなだと思う?」
ぼくにも地球の空気を分けて、と少しだけブランデーが注がれていた自分のグラスを差し出す
ブルー。
ハーレイのグラスから足された酒が元からの分と混じり合うのを待ち侘びたように、ほんの
僅かを口に含んで、時間をかけて味わって……白い喉がコクリと飲み下す。
「…地球の空気の味…なのかな? 少しではよく分からない」
「これだけ全部を飲み干してみても分からないかと思うのですが…」
ハーレイは自分のグラスを掲げる。酒に強い彼のグラスに満たされていたブランデーの量は
多くて、ブルーのグラスに注ぎ分けた今もまだたっぷりと残っていた。
地球の空気を含んだ泡は琥珀色のそれに紛れて、何処に溶けたかも定かではない。
「でも、君の分とぼくの分とを混ぜ合わせれば、泡一つ分は確かにある。全部飲み干せば二人で
泡一つ分を味わったことになるんだけれど…?」
「計算上ではそうなりますね」
「じゃあ、飲んで。…そうすれば君の身体に地球の空気を取り込めるだろう? ついでにこれも」
やっぱり少し強すぎる、とブルーは自分のグラスに残った酒をハーレイの前に押しやった。
「…君が飲んで、その後で……ぼくが一口だけ飲み込んだ分と合わせてみよう。…地球の空気が
どんな味なのか、二人でなら分かるかもしれないから」
どうやって? とは聞くまでもなかった。
ブルーが飲み下した地球の空気と、自分の中にブランデーごと取り込んだものと。
混ぜ合わせる方法は考えるまでもなく、答えは二人の身の内にある。
息を、想いを混ぜ合わせれば……互いを求め合う想いを交わせば、全ては共有できるのだから。
「…ねえ、ハーレイ…」
飲み込んだ地球の空気の欠片を心ゆくまで分かち合った後、ブルーが耳元で囁いた。
甘い余韻に蕩けた声が夢見るように言の葉を紡ぐ。
「記念日ごとに一つずつ。…一つずつ、泡の中身を抜いて…それを二人で味わって。いつか
地球まで辿り着いたら、琥珀を地球の海に還そう。琥珀は海から打ち上げられる宝石だった
そうだから」
「樹脂なのに…ですか?」
ハーレイは太古の地球に息づいていた原始の森を思い浮かべる。其処に水辺はあったの
だろうか…?
「陸からも採れたらしいけれどね。でも、還すなら海がいい。…その頃、泡の中身は何個くらい
残っているんだろう? 百個以上はありそうだけど、記念日は一年に一日くらいに留めておく
のがいいのかな…」
地球への道は遠そうだし…、とブルーは暫し考え込んでから桜色の唇に笑みを湛えた。
「一年に一度だけなら、君の誕生日を記念日にしておきたいな。…ぼくは誕生日を覚えて
ないから」
それに、とブルーの赤い瞳が過ぎ去った日々を懐かしむように細められる。
「ぼくが初めてこの部屋に来たのも、君の誕生日の夜だった。…それまでも何度も来ていた
けれど、泊まりに来たのはあの日が最初で、二人で此処で乾杯して…」
「あの夜のことは忘れるわけもございません。ですが、私があなたを青の間にお訪ねしたのは
別の日でした。あの日の方が……あなたと初めて想いを交わしたあの夜の方が、私たちの
記念日にするのに相応しいのでは…?」
その夜のことをハーレイは今も鮮やかに覚えている。目を閉じずとも、胸の内から溢れ出る
ように湧き上がってくる愛しさと……熱と。
それはブルーも同じだったが、あの夜を共に過ごしたがゆえに、記念日として選びたい日は
譲れなかった。
愛を交わせるのは、想い合う相手があればこそ。
地獄と呼ばれたアルタミラでの奇跡にも似た出会いの時から、ブルーが想うのはただ一人
だけ。共に生きたいと……離れたくないと、その思いだけで未来を拓き、ミュウたちを導いて
此処まで来た…。
「君が生まれた日が大切なんだよ。…君がいたから、生きる望みを持つことが出来た。
アルタミラから今までの長い長い時も、君が一緒にいてくれたから迷わずに前へ進めたんだ。
…だから……」
君の誕生日が、全ての始まり。
君が生まれて来なかったなら、ぼくは今、此処に存在していない…。
ブルーはハーレイの唇を自らの細い指先でなぞり、熱い吐息をそれに重ねた。
ハーレイ。
君が支えていてくれるから、ソルジャーとして立っていられる。
君が抱き締めていてくれるから、ぼくは希望を失くさずにいられる。
行こう、地球へ。
君と二人で、この船を連れて。
地球に着いたら………互いの役目から解き放たれたら、その時は…
二人きりで地球の海辺を歩こう。
他に誰一人いない波打ち際で、琥珀を地球の海に還そう。
その後は、君が行きたいと望む所へ…ぼくを連れて行ってくれるかい…?
ブルー…。
あなたが焦がれる遙かな地球まで、命を懸けて共に行きます。
その日まで、あなたの夢も想いも全て抱き締め、私が守り抜きましょう。
いつか、必ず。
地球の海に二人で琥珀を還す時まで…。
そうしたら、あなたは私一人だけのブルーになってくれますか…?
ハーレイの机の引き出しの奥に仕舞い込まれた虫入りの琥珀。
それを二人で幾度も取り出して眺め、年に一度だけ共に地球を味わう。
地球はまだ遠い。
けれど…。きっと、いつか二人で………。
泡沫の約束・了
居心地のいい部屋を後にして向かった公園には既に大勢のクルーが集まっていました。三日間も続く勝負の間、纏う衣装が決まるとあれば誰だって気になるでしょう。会長さんはにこやかに挨拶しながら公園の中央に向かってますけど、前哨戦って何をするのかな?
「待ちかねたぞ、ブルー! …いや、ソルジャー」
特設ステージに立っていたのは長老服のゼル先生です。その後ろにはキャプテンの制服の教頭先生を始め、長老の先生方がズラリと…。会長さんはステージの階段に足をかけ、私たちにもついて来るよう合図してからステージの上へ。
「そっちはスタンバイ出来てるようだね。選手は誰かな?」
「ソルジャー、それは反則なのでは?」
選手は同時に発表です、と教頭先生が返すと、会長さんは。
「やっぱり引っ掛からないか…。それと敬語とソルジャー禁止! 他のクルーは仕方ないけど、みんなはシャングリラ学園流でお願いしたいな。なんだか調子が狂いそうだ」
「ほほう…。では、あえてソルジャーとお呼びしますかな?」
それも戦術かと存じますが、とヒルマン先生が言えば、ブラウ先生が。
「面白いかもしれないねえ。でもさ、やっぱり普段通りが肩が凝らなくていいじゃないか。ブルーはブルーさ」
「ありがとう、ブラウ。だけど御礼に手加減したりはしてあげないよ?」
「そうこなくっちゃ。あんたが静かじゃつまらないしね」
ソルジャーと呼んだら借りて来た猫になっちまう、と豪快に笑うブラウ先生。でも…会長さんはソルジャー扱いでも好き勝手にやらかしているような? 去年も一昨年もGWのシャングリラ号は賑やかで…。あ、そういえば長老の先生方は敬語を使っていなかったかも!
『そうなんだよね。他のクルーだと敬語でもソルジャーでもいいんだけどさ』
ハーレイたちにやられると寒いんだ、と会長さんの思念波が。途端にピーッと電子音。
「ブルー、何か悪口を言いおったな?」
分かっておるぞ、とゼル先生がステージの床を指差して。
「サイオン検知装置を仕込めと言ったのはお前じゃろうが。悪口はともかく、いざ勝負じゃ! 選手は決まっておるんじゃろうな?」
「うん、ぼくの独断と偏見で」
えっ。私たちは顔を見合わせました。選手って…誰? 何の勝負かも分からないのに…。けれどブラウ先生が進み出ると。
「よーし、それじゃ選手は前へ! 勝負は早食い競争だ!」
な、なんと! どうなるんだ、と思った途端に会長さんがジョミー君の背中を押して。
「君が出たまえ。他の子たちはファミレスでたらふく食べていたからねえ…。君の胃が一番余裕があるんだ」
「ぼ、ぼく? ぶるぅの方がいいんじゃあ…」
「ぶるぅは桁外れに食べられるから、最初から外されていたんだよ。とにかく頑張ってくるんだね。…ぼくたちの衣装は君の胃袋にかかっているのさ」
負けたらハーレイたちが選んだ衣装だ、と肩を叩かれたジョミー君の対戦相手は教頭先生。これって不戦敗とか言いませんか? まるで勝てる気がしないんですけど~! ん? 食べるパンを選ぶことが出来るのかな? 教頭先生とジョミー君がジャンケン勝負をしています。で、でも…。
「「「……負けた……」」」
ジョミー君は教頭先生にアッサリと負け、教頭先生は余裕の笑みで二つのパンの片方をチョイス。気持ちサイズが小さめです。もうダメ、この勝負、最初から負けに決まってますよ~!
「では、ジョミーの強運を称えて乾杯!」
会長さんがグラスを差し上げたのは私たちに与えられた部屋に戻ってから。早食い競争は運も勝負の内だったとかで、パンは二種類あったのでした。片方はジャムパン、もう片方はカレーパン。ジャンケンで勝った教頭先生がチョイスしたのはジャムパンで…。
「サイオン検知装置を仕込んでおいた甲斐があったよ。パンの中身を透視されたらおしまいだからね。あそこでハーレイがカレーパンを選んでいたらジョミーの負けだし、透視が出来ないジョミーが勝ってジャムパンを選んでいてもジョミーの負け。…ハーレイがジャムパンだったから勝てたんだ」
会長さんは御満悦です。甘いものが苦手な教頭先生、早食い競争だと分かってはいてもジャムパンを猛スピードで食べ尽くすことが出来ずに惨敗。お蔭で前哨戦は私たちの勝利に終わったわけですが…。
「あれっ、嬉しくないのかい? 記念すべき第一戦に勝ったのに」
「そりゃあ……勝ったけどさぁ…」
乾杯なんて気分じゃないよ、と膨れっ面のジョミー君。私たちも勝利の美酒とは全く言えない気持ちでした。いえ、グラスの中身は元からお酒じゃないですけども…。
「かみお~ん♪ みんな似合ってるよ? もしかしてウサギさんの方が良かった? ごめんね、ブルーが勝手に決めちゃって…」
だけどブルーが大将だし…、と謝る「そるじゃぁ・ぶるぅ」にキース君が。
「いいんだ、ウサギでも大して変わらんからな。…いや、ウサギの方がもっと酷いか…」
「決まってるじゃないか! こっちの方がまだマシなんだよ」
でもイヤだ、と叫ぶジョミー君の頭には黒い猫耳がくっついていました。キース君もサム君も、マツカ君もシロエ君も…みんな頭に猫の耳。いわゆる猫耳カチューシャです。もちろん私の頭にだって…。グラスを掲げて御機嫌な会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の頭上にも。
「猫耳、いいと思うんだけどなぁ。ぼくたちのチームは猫耳、長老チームはウサギ耳! これだと頭に乗っけるだけだし、制服の邪魔にならないんだよ」
名案だろう? と自画自賛する会長さんの説明によると、一見して同じに見えるクルーの制服にも実は違いがあるのだそうです。肩や袖にシャングリラ学園の校章に似たマークがついている人とそうでない人、それぞれ役職が違っていたり…。
「耳だとマークが隠れたりすることはないだろう? それにパッと見てどちらのチームか一発で分かる。ランチタイムが済んだら本格的な勝負開始で、自分が対戦相手に勝ったら自分側の耳に付け替えさせると宣言したし…。猫耳の人で溢れ返ったらぼくたちが優勢、ウサギ耳が多いようなら巻き返さないと」
いろんな意味で便利なんだよ、と語る会長さんは猫耳にまるで抵抗が無いようです。
「猫耳には特に嫌な思い出も無いからねえ…。ウサギの耳ならあるけどさ」
「待て! その先は言うな」
俺たちだって聞きたくない、とキース君が遮りました。この中で誰が一番ウサギの耳が嫌かと言えば恐らくキース君でしょう。一時期、エロドクターまで乗り出してきたほどに流行りまくったウサギ耳。その正体はバニーガールの仮装で、最初にそれをやらされたのがキース君です。会長さんはクスッと笑って…。
「なんだ、やっぱり覚えてたのか。大丈夫、今回は耳だけだから! だけど勝負は真剣にね。今回も勝ったチームには賞品が出るんだ」
「えっ、ホント!?」
ジョミー君が一気に立ち直り、私たちも浮上しました。シャングリラ号での賞品と言えば超豪華! 地球で使える旅行券とかが惜しみなく出るのがお約束です。これは頑張って勝たないと…。猫耳ごときでヘコんでいては運が逃げるじゃないですか!
「分かってくれたみたいだね。じゃあ、改めてジョミーの強運にあやかるためにも…乾杯!」
「「「かんぱーい!!!」」」
カチン、とグラスを合わせてジュースを飲み干す私たち。そろそろランチタイムです。これが終わると対戦開始。ウサギ耳の人を猫耳に付け替えさせるための予備の猫耳は私たちにも配られていますが…。
「そうだ、長老の先生たちが考えてた衣装って分かりますか?」
何だったのか気になります、とシロエ君が会長さんに質問しました。それは私も知りたいです。ジョミー君たちも興味津々! 会長さんは「知ってるよ」と微笑んで。
「あっちが用意していたヤツはゼッケンと鉢巻だったんだ。それも紅白。ハーレイたちが白で、こっちを赤にする気でいたらしい。…そんなダサイのは御免だよ。それに赤は年寄りチームが着けるべきだと思うんだけどねえ?」
還暦の赤に健康長寿の赤パンツ、と論っている会長さん。えっと…赤か白かはともかくとして、ゼッケンと鉢巻って運動会とかで普通に使うじゃないですか! 猫耳なんかよりも余程マトモかと…。
「「「…そっちの方が良かったです…」」」
揃って呟いた私たちの声は無視されました。こんな結果なら前哨戦は負けてしまった方が良かったのでは? けれど初戦で敗北というのも全体の士気に関わりますし、この機を逃さず勝ち進むしか…。えーい、猫耳で目指せ、豪華賞品!
ユニフォームならぬ猫耳をつける羽目に陥ってしまった私たち。この格好で部屋の外に出るのは憂鬱ですが、長老チームと勝負するには出て行かないといけないのです。快適なお部屋に引き籠っていては勝負の機会を逸しますし…。
「この部屋と青の間には長老チームは立ち入り禁止! 逆にぼくたちはブリッジがダメだ。それと長老たちの部屋だね」
それ以外の場所は何処で勝負を挑んでもいい、と会長さん。もちろん逆に挑まれることもあるわけです。どんな勝負が待っているのか、それは挑戦者次第であって。
「君たちの方から仕掛けていってもいいんだよ? ハーレイ相手に果たし状を出して公園で柔道一直線とか」
「…遠慮しておく」
そんなことをしたら確実にウサギの耳にされてしまう、とキース君が呻きました。そう、私たちが負けたら猫耳はウサギの耳と交換しなくてはなりません。君子危うきに近寄らず。負けが見えている勝負はしないが吉です。
「慎重だねえ…。まあ、とりあえずお昼ご飯を食べに行こうか。ランチタイムが終了したら食堂だって戦場だ」
あそこにもウサギ耳のクルーがいる、と会長さんに指摘された私たちは食堂へ急ぎ、ランチを注文。なるほど、注文を取りに来た女性クルーはウサギの耳をくっつけています。でも全員がそうというわけでもなくて…。
「だってクジ引きで決めたわけだし、猫とウサギはランダムだよ。…ん?」
会長さんの視線がテーブルに釘付けになりました。今日のランチはカツレツですけど、お皿が並べられた隣に伏せて置かれているのは一枚の紙。此処で伝票は無い筈なのに…。
「なんだろう?」
紙を表返した会長さんの目が丸くなり、それからクスクス笑い始めて。
「早速挑戦状とはね…。ランチタイムが済んだら勝負を挑ませて頂きます、って書いてある。皿洗いで勝負するらしい。どちらが早く洗い上げるか、是非ともお願いします…ってさ」
「「「皿洗い!?」」」
そんな勝負もアリですか! ここは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に受けて立って欲しい所です。家事万能ですし、華麗に勝つと思うんですけど…。ところが会長さんは人差し指をチッチッと左右に振って。
「向こうもきちんと考えてるさ。ぶるぅ相手じゃ敗北は必至。対戦相手は話題のお坊さんチームにしたいと書いてあるよ」
「お、お坊さんチームって…」
ぼくたちのこと? と情けない声を出すジョミー君。いくら広報誌で特集記事を組まれたとはいえ、「お坊さん」で一括りにされるのは不本意でしょう。けれどクルーの方からすればジョミー君たちは「お坊さんチーム」。名指しで勝負を挑まれた以上、知りませんでは済みません。
「御指名を受けたからには頑張って洗いまくるんだね。キースは柔道部の合宿で皿洗いも経験していることだし、いい線いくと思うんだ。それより何より、負けたらウサギの耳になるのは君たち三人。ぼくも含めて他のみんなは無関係!」
連帯責任じゃないんだから、と会長さんに冷たく言われたジョミー君たちは厨房の方を眺めて深い溜息。なんと言っても対戦相手は皿洗いのエキスパートです。卑怯なり、と文句をつけたくなるのは山々ですが…。
「どんな形で勝負するかは切り出した方のアイデア次第。負けちゃった時は勝てそうな戦法を考え出して雪辱戦をするしかないさ」
勝ち負けは時の運なんだから、と会長さん。やがてランチタイムが終わって、全艦放送でブラウ先生が。
「さあ、お待ちかねの勝負の時間が始まるよ! 猫耳が勝つか、ウサギの耳か。…始めっ!」
カーンとゴングの音まで入って真剣勝負の開幕です。ジョミー君たちは厨房のスタッフ三人に皿洗い勝負に連行されて…。
「………。要するに、派手に負けたわけだね」
会長さんの視線がジョミー君たちの頭上に注がれています。三人の頭には猫耳の代わりにウサギ耳。キース君が不満そうに。
「俺は決められた量の皿とカップを一番に洗い上げたんだ! なのにジョミーとサムがグズグズと…。でもって、勝負はチーム単位のものだから、と俺までウサギにされてしまった」
「なるほどねえ…。お坊さんチームだから仕方ないか」
諦めたまえ、と会長さん。開戦早々、負けてしまったジョミー君たちに巻き返しのチャンスはあるのでしょうか? それに明日は我が身という話も…。全員ウサギになってしまう前に、急いで撤退しなくっちゃ~!
長老チームは立入禁止の部屋へと戻る途中は生きた心地がしませんでした。あっちにもこっちにもウサギ耳のクルーがいるのです。もしも勝負を挑まれたなら断ることは出来ないわけで…。
「くっそぉ…。なんで最初から負けるんだ!」
部屋に入るなりキース君が悔しそうにテーブルを叩きました。自分は勝ったのに連帯責任でウサギ耳では、やり切れないものがあるのでしょう。ジョミー君とサム君は申し訳なさそうに項垂れていますが、会長さんは可笑しそうに。
「ウサギの耳が嫌だったんなら挑戦すればよかったのに。誰に挑んでもいいんだよ? 通路に何人もウサギがいただろ、ジャンケンしてみれば猫耳に戻れていた…かもしれない」
「そこで負けたらウサギの耳がダブルになってしまうんだろうが!」
キース君の叫びにアッと息を飲む私たち。確かにもう一度ウサギに負ければ耳がダブルになりそうです。そういう場合は二つ同時に着けるとか…? 恐る恐る会長さんに尋ねてみると。
「もちろんダブルさ。更に負ければトリプルになるし、頭にくっつけるには多すぎる量の耳を持つ羽目になる…かもしれない。そういう時はね…」
会長さんがそこまで説明してくれた所でピーッという音が鳴り響きました。公園で聞いたサイオン検知装置の警告音に似ています。なんで此処で? と思った途端に部屋に開いたのはスクリーン。シャングリラ号独特の、円形で縁に葉っぱをくっつけたようなデザインで…。
「コッソリ付け替えは反則ですわよ?」
スクリーンの中で微笑んでいたのはフィシスさんでした。
「今のはジョミーへの警告ですわ。手持ちの猫耳と取り替えようとしたでしょう?」
「「「え?」」」
指摘を受けてジョミー君を見れば、確かに右手に猫耳が。私たちが勝った場合に敗者に着けさせる猫耳です。ジョミー君ったら、なんて姑息な真似を!
「ち、違うよ! この部屋は中立地帯だって言うし、休憩中くらいウサギの耳を取ってもいいかなぁ…って思っただけで!」
「そうかしら? あわよくばこのまま誤魔化せないかな、と思っていたから警告させて頂きましたわ。…ブルー、しっかり監督しないと反則負けになりますわよ」
気を付けて、と通信が切れるとスクリーンも消え、ジョミー君が猫耳を手にしたままで。
「い、今の通信は何だったの? 警告だって言っていたけど、ぼくたちって監視されてるわけ?」
「監視対象は君だけじゃないよ」
艦内全部だ、と会長さんが答えました。
「猫の耳にもウサギの耳にも思念波の検知装置が仕込まれている。不正に外そうという考えを起こすと反応する仕組みになってるのさ。それを監視して警告するのがフィシスの仕事。補佐役のリオと一緒に天体の間で頑張ってるよ」
「「「………」」」
「ついでに多すぎるほどの耳を持つことになった人の管理もフィシスの管轄。これ以上は頭に載せられない、という状態に陥った時は増殖した耳を天体の間で一時預かり」
あちゃ~。載せきれないほどのウサギの耳って考えたくもありません。みっともない姿になりたくなければ勝負に勝たねばならないのです。既にウサギ耳になってしまったキース君たちの場合は猫耳に戻る所から始めなければ…。
「やっぱり負けが込んだらウサギの耳が増えるのか…」
困ったものだ、とボヤいたキース君に会長さんが。
「だけど増殖を恐れて勝負を投げればウサギの耳のままだからね? まあ、ウサギならサムとジョミーも現時点ではウサギだし……どっちかに勝てば猫耳に戻れないことはない。負けた方はウサギ耳がダブルだけどさ」
おおっ、そんなのもアリですか! あれ? でもサム君もジョミー君も猫耳のスペアは持ってますけどウサギの耳は持ってませんよ? 首を傾げる私たちに向かって会長さんは。
「その辺のフォローもフィシスたちの仕事! 手持ちの耳が足りないという思念も天体の間に伝わるからね、すぐに追加が届くんだ。ぼくとぶるぅが配達係さ」
瞬間移動で待たせずお届け、とウインクされて背筋が寒くなりました。こんな勝負が三日間も続くんですって? 勝てる自信が無いんですけど、私たち、これからどうなっちゃうの…?
ウサギの耳と猫の耳。休戦になるのは夜間だけです。他の時間はもれなく熾烈な戦いが続き、私たちの頭の上にはウサギ耳が載ったり、猫耳に戻ったりと大忙し。ソルジャーである会長さんの悪友という認識だけでも目立っているのに、今をときめくお坊さん三人組までいたのでは…。
「なんとか全員、猫耳に戻れたみたいだねえ?」
会長さんがそう言ったのは勝負の最終日の朝のこと。いわゆる端午の節句の日です。今日の正午で勝負は終わりと聞いていますし、後は猫耳を死守していればいいんですよね?
「そういうことになるのかな。欲を言えばもうちょっと積極的に挑んで欲しい所だけれど…。実は大接戦になってるんだよ」
ほら、と会長さんの指が閃き、私たちの休憩室である中立地帯にスクリーンがパッと出現しました。そこに映し出されたデータは天体の間でリアルタイムで集計中のウサギ耳と猫耳の勢力図。何度か目にしてきましたけれど、これは確かに大接戦です。ウサギ耳と猫耳がほぼ同数。
「猫耳が少しリードしてはいる。だけど何が起こるか分からないしねえ? まあ、君たちが頑張ったって他の誰かが派手に負ければ猫耳チームの負けなんだけどさ…」
僅差で負けるのは嫌なんだ、と会長さん。けれど迂闊に勝負を挑んで逆に負けたら大変ですし…。
「ダメダメ、それじゃ勝てないよ。今日までの勝負で分かっただろう? 挑戦する方が有利なんだ。自分の土俵で戦えるから」
言われてみればその通りです。そうなると期待の星はキース君率いるお坊さんチーム。キース君がシャングリラ号の中で書き上げた勤行用のお経をズラリとコピーした冊子が武器でした。これを勝負の相手に渡して、淀みなく読み上げた方の勝ち。私たちだって強化合宿などのお蔭で素人さんよりはマシに読めますし…。
「「「頑張ってきまーす!」」」
こうして私たちの最終日の勝負は読経三昧。途中で挑まれたジャンケン勝負で敗北した分も読経勝負で取り返しましたし、猫耳チームの勝利は確実でしょう。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」も広いシャングリラ号の何処かで最後の戦いをしている筈です。そして正午の時報が艦内に響き、天体の間からフィシスさんの放送が。
「間もなく結果発表を行います。手の空いている方は公園の特設ステージ前までお越し下さい」
「へえ…。公園で発表なんだ」
前哨戦も公園だったね、とジョミー君。あそこでチーム分けは猫耳とウサギ耳だと決定してから長かったですが、それもようやく終わりの時が。勝ったら何が貰えるのかな? ドキドキしながら私たちは揃って公園へ。すると入口にリオさんが立っていて…。
「皆さんは特設ステージに上がって下さい」
「「「え?」」」
「勝負がつかなかったんですよ。大将チームの対決になります」
「「「えぇぇっ!?」」」
た、大将チームって……私たちと長老の先生方との対決ですか? 今度こそ負けるに決まってますよ…。それにしてもなんで勝負がつかなかったんだろう、と話し合っていると。
「やあ。リオから話は聞いているよね? 一緒に行こう」
現れた会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はウサギの耳を着けていました。よりにもよって最後の最後で負けたんですか、大将とその側近が…?
「だってさ、二人差で猫耳チームが勝ちそうになっていたんだよ」
しれっと言ってのける会長さんに、キース君が。
「二人差で負けそうだったから挑みに行ったと言うなら分かる。なんで勝ち戦なのに負けに行くんだ!」
「決勝戦をやってみたくてねえ…。大差だったら諦めるけど、接戦となればヤラセでいける。わざと負けるのも楽しいものさ」
足取りも軽く特設ステージに向かう会長さんは何を考えているのでしょう? わざと負けてまで決勝戦を希望だなんて、それって一体どんなものなの?
特設ステージの上にはウサギ耳を着けた長老チームが勢揃い。私たちがステージに上がるとリオさんとフィシスさんもやって来ました。この二人は審判みたいな役割ですからウサギでも猫でもありません。公園に集まっているクルーの方は猫とウサギが半々で…。
「それでは発表いたしますわね。猫とウサギは同数でした」
フィシスさんの声に広がるどよめき。どうなるんだ、と騒ぐ人々をリオさんがマイクを握って制して。
「勝者は大将チームの対決によって決まります。対戦方法は予め届け出済みとなっていまして、前哨戦を制したチームが提出した案が採用されます」
え。なんですか、それは? 私たち、何も聞いてませんが…。会長さんの方を盗み見てみるとニヤニヤしているのが分かります。と、フィシスさんがリオさんに封筒を渡しました。
「対戦方法は封印されておりましたので、私たちも何か知りません。こちらがソルジャー・チームからお預かりした封筒です。…では、発表させて頂きます」
封筒の中身を取り出したリオさんがウッと息を飲み、それから大きく深呼吸をして。
「対戦方法はポッキー・ゲーム! ポッキー・ゲームと決まりました!」
「「「えぇぇっ!?」」」
ポッキー・ゲームって、一本のポッキーの両端を二人で咥えて齧っていって、先に口を離した方が負けだって言うアレですか? 大将チームの戦いってことは、会長さんと教頭先生が…?
「いかん、いかんぞ!」
わしは反対じゃ、とゼル先生が叫んでいます。
「ブルーとハーレイにポッキー・ゲームなぞさせられんわ! 万一のことがあったらどうするんじゃ!」
「楽しいじゃないか、そういうのもさ」
ニッコリ笑う会長さん。
「それとも団体戦にしてみるかい? 団体戦だと同じチームの中で二人組を作るんだよね。でもって残ったポッキーが短い方のチームが勝ち…、と。ただし団体戦は目を瞑ってポッキーを齧る決まりだ。不幸な事故でキスする羽目になっても気にしないんなら団体戦で」
「「「!!!」」」
今度は私たちが猛烈に抗議する番でした。どう組んだって事故った時には悲劇です。長老の先生方も同じ考えだったらしくて、団体戦の話はお流れに。ということは、決勝戦は…。
「位置について!」
リオさんが何処からか調達してきたポッキーを差し出し、ウサギ耳を着けた会長さんと教頭先生が向かい合いました。まずはポッキーを咥える所から。会長さんが片方の端をヒョイと咥えて上目遣いに教頭先生を見ています。その教頭先生は耳まで赤くなり、額に汗が噴き出していて…。
「勝者、ソルジャー・チーム!」
リオさんの声が高らかに響き、猫耳のクルーたちが大歓声。特設ステージの上には教頭先生が仰向けに倒れ、ゼル先生が忌々しげに蹴りつけながら。
「万一のことなぞ心配するだけ損じゃったわ! ええい、不戦敗になりおって! だらしない!」
教頭先生はポッキーを咥える寸前に鼻血を噴いて倒れてしまい、私たちのチームが勝ったのです。会長さんが決勝戦に持ち込みたかった理由はコレでしたか…。
「だってさ、最高に素敵だろ? ハーレイの鼻血を大公開! 撮影していた人も多いし、次の月刊シャングリラでは特集記事が組まれるかもね」
上機嫌で頭のウサギ耳を引っ張っている会長さんに、キース君が。
「キャプテンの威厳はどうなるんだ! あんた、一応、ソルジャーだろうが!」
「クルーの心を掴んでおくのもキャプテンの重要な仕事の一つだって前にも言わなかったっけ? ポッキー・ゲームで鼻血で失神って美味しいネタだと思うけどな」
恥ずかしいのは本人だけ、と会長さんは涼しい顔です。
「月刊シャングリラは新鮮なネタが売りなんだ。猫耳とウサギ耳の勝負もいい記事になるよ。あちこちで写真が撮られていたのは知っていた?」
げげっ。それは気付いていませんでした。クルー同士の記念撮影だと思っていたのに、あれって取材?
「決まってるだろう、シャングリラ号を挙げてのお祭り騒ぎを取材しないでどうすると? ああ、今回は君たちは特に協力していないから家のポストに届きはしないさ」
安心して、と言われても…。ウサギ耳やら猫耳やらの写真が記事になるのは確実です。ソルジャー・チームの代表として扱われていたわけなんですから、何処にも逃げ場がありません。
「…どうしよう…。お坊さんの次は猫耳だよ…」
ジョミー君が嘆けば、キース君も。
「ウサギの耳の方かもしれんぞ。畜生、二ヶ月続けて時の人ってか…」
災難だ、と頭を抱えるキース君たちの隣で私たちも泣きそうな気分でした。これから豪華賞品が発表されるそうですけども、それよりも記事を消したいです。賞品なんて……賞品なんて…。
「おや、要らない? 今回は本当に豪華なんだよ」
地球で使える金券がこんなに…、という会長さんの声で思わず歓声を上げてしまった私たち。その瞬間にフラッシュが光り、「笑って下さーい!」と注文が。ええい、こうなったらスマイル、スマイル! 今年のGWは宇宙で猫耳、ウサギ耳です~!
スウェナちゃんが書いた特集記事のせいで、危うくお坊さんとしての進路指導をされてしまう所だったジョミー君。会長さんの助け舟のお蔭で九死に一生を得たわけですけど、完全に逃げられたわけでもなく…。会長さん曰く、ジョミー君の未来を拓くためには私たちの結束だか団結力が必要だとか。
「たった一人で頑張るというのはジョミーには無理があるんだよ。ぼくは一人で修行したけど、お寺にはぶるぅが一緒に来てくれたしねえ…。本当に一人ぼっちの修行だったら途中で挫けていたかもしれない。キースにも大学の仲間がいたから、まるで孤独ってわけじゃないよね」
道場で私語は禁止だけれど、と会長さん。
「覚悟して修行の道に入ったぼくやキースでもキツイんだ。そうじゃないジョミーは挫折する可能性も高いわけ。それを防ぐには団結力! 一人じゃないんだ、という心の支えが必要不可欠」
「そっか…。俺じゃ足りねえかな?」
名乗りを上げたサム君に、会長さんは。
「もちろんサムには期待してるよ、ジョミーと一緒に修行してくれそうなのはサムだけだしね。でもさ、苦楽を共にするかどうかはともかくとして、応援してくれる仲間というのは多いほどいい。そこで団結力の出番だ。友達というのは一生モノの財産だよ」
「なるほどな…。それで俺たちの結束を高めようと言うわけか」
キース君が頷いています。
「で、シャングリラ号に誘うってことは、合宿か? また強化合宿をしようと言うんじゃないだろうな」
「「「強化合宿!?」」」
私たちの脳裏に蘇ったのは抹香臭い思い出でした。去年の三月末にパパやママたちがシャングリラ・プロジェクトで宇宙の旅をしていた間、会長さんのマンションで行われていたのがサイオン強化合宿です。集中力の訓練だとかでキース君の指導でお勤め三昧、鐘や木魚を叩き続けてお経を読んで…。まさかシャングリラ号でアレをやるとか?
「ちょ、ちょっと…。なんで宇宙で強化合宿?」
あんまりだよ、とジョミー君の泣きが入りました。
「そりゃあ、ぼくだって……あんな記事が出ちゃった以上はマズイってことは分かるけど……でも…! せっかくシャングリラ号に乗り込めるのに、どうしてお経の練習なのさ!」
「…それを言うなら他のみんなの方が気の毒だと思うけど? 完全に君の巻き添えなんだし」
会長さんがフウと溜息をついて。
「やっぱり団結力に問題アリだね。一枚岩には程遠い。みんなが自分の好きにしてたら結束どころかバラバラだってば。…こんな調子じゃ心を一つにして事に当たるのは難しそうだ。いい機会だから頑張りたまえ」
えぇっ、やっぱり強化合宿ですか? シャングリラ号でお経の練習? 指導役がキース君から会長さんに変わるってだけで、宇宙に行っても木魚をポクポク…? あんまりだ、と肩を落とした私たちに向かって、会長さんは。
「どんな場所でも努力は大切! シャングリラ号ではクルーのみんなも期待してるよ」
「「「………」」」
そういえば月刊シャングリラは宇宙にだって届くのです。会長さんの話によるとシャングリラ号のクルーに配られる分は船の中で印刷製本されているそうで、発行日は地球と全く同じ。つまり今頃はジョミー君たちの特集記事がクルーの話題になっているわけで…。
「特集されたお坊さんが三人も乗り込むんだから、注目の的になるのは間違いないね。それに二人はぼくの直弟子! 何かと耳目を集めると思う。きっと楽しい旅が出来るよ」
ソルジャーのぼくが保証する、と断言されても嬉しくはありませんでした。シャングリラ号に乗って二十光年の彼方で読経三昧。これなら混み合ったドリームワールドとかで行列に並ぶ方が遙かにマシかも…。とはいえ、今更遅いですよね? 会長さんに逆らったりしたら、強化合宿の訓練メニューが大幅に増えるだけですってば…。
こうしてGW後半戦の予定が強引に決められてしまいました。5月3日から6日までの間はシャングリラ号でサイオン強化合宿。そう言えば聞こえはいいんですけど、中身はお勤め三昧です。それを言い渡した会長さんはGWに入るなりフィシスさんと旅行に出掛けてしまい、「そるじゃぁ・ぶるぅ」もくっついて行って…。
「あーあ、なんだか鬱になりそうですよ…」
シロエ君が愚痴っているのはアルテメシアの繁華街にあるファミレスです。会長さんは旅から戻っているようですけど、シャングリラ号に乗り込む準備だとかでシャングリラ学園には来ていません。当然「そるじゃぁ・ぶるぅ」も登校しておらず、いつもの溜まり場は使えないのでした。それで放課後はファーストフード店やファミレスに…。
「鬱って…。だったらカラオケでも行く?」
ジョミー君の提案に、シロエ君は。
「遠慮しときます。どうせ明日から四日間ほどお経ばかりで、声が嗄れるに決まってますし…。今、カラオケなんかに出掛けて行ったら喉を痛めるじゃないですか! ただでも鬱になりそうなのに、喉までやられたら悲惨です」
「そうよね…。ホント、考えただけでも暗くなりそう」
あんな記事を書くんじゃなかったわ、とスウェナちゃんが頭を抱えました。
「あれさえ無ければジョミーのおバカ発言は無かったわけだし、会長さんも強化合宿なんて言い出さなかったと思うのよね。普通にシャングリラ号に乗せて貰って自由にあちこち見られたんだわ」
「それはそうかもしれないな…」
相槌を打つキース君。
「完全に自由かどうかはともかく、サイオン強化合宿だけは無かっただろう。…もっとも、去年のパンケーキレースとどっちがマシかって話もあるが」
「「「あー…」」」
あれか、と遠い目になる私たち。去年のGWもシャングリラ号で三日間を過ごしたのですが、乗り込んで間もなく渡されたものはフライパン。シャングリラ号のクルーたちが熱くなっていたのもフライパン料理の練習でした。噂は色々ありましたけど、結局、フライパンはパンケーキレースに使用するもので…。
「あれも酷かったと思うけど?」
筋肉痛になったじゃない、とジョミー君が言えばサム君が。
「でも、パンケーキレースは元から決まっていたんだぞ? 俺たちが後から混ざっただけで…。賞品も用意してあったんだし」
「一昨年は餅つき大会と福引でしたね…」
マツカ君の言葉で私たちの記憶は更に過去へと遡りました。あの年はマザー農場でヨモギを摘んで行ってクルー総出の草餅作り。それを美味しく頂いた後で福引があって、豪華賞品が色々と出て…。特別賞の会長さんを引き当ててしまったキース君が、緋の衣を着た会長さんに坊主頭にされそうになった事件もありましたっけ。
「ね、普通にシャングリラ号に乗せて貰ってもヤバイ時にはヤバイんだよ」
鬱になるより踊らにゃ損々、と笑うジョミー君の頭をキース君が拳でゴツンと一発。
「いたたた…! キース、何するのさ!」
「自覚が全く無いようだから、目が覚めるかと思ってな。パンケーキレースにしても福引にしても、黒幕と言うか……戦犯はブルーというヤツだ。だが今回は事情が違う。念仏三昧になってしまったのは誰のせいなのか分かっているか?」
「うーん…。やっぱり、ぼくのせいってことになるわけ?」
「決まってるだろうが! 喜んで朝のお勤めをしているサムと元から坊主の俺はともかく、他の皆にはいい迷惑だ。お詫びの気持ちを示すためにも、今日はお前の奢りだな」
此処で謝罪をしておくべきだ、とキース君は私たちにメニューを差し出しました。
「ブルーが強化合宿と言い出した以上、俺たちの食事は精進料理かもしれないぞ? 今日の間に納得がいくまで食っておけ。肉でも魚でもデザートでも…だ。ジョミーの財布が空になったら俺が貸す」
「えっ、キースが?」
いいのかよ、と目を丸くするサム君に向かってキース君は。
「大学に行く時に親父がカードを作ってくれた。だから安心して食ってくれ」
「本当ですか? うわぁ、ぼく、何にしようかなぁ…」
鬱な気分が吹っ飛びました、とシロエ君がメニューを覗き込んでいます。スウェナちゃんも私も早速デザートのページを端から物色中。ジョミー君のお小遣いが何ヶ月分吹っ飛ぼうとも、明日からの地獄の日々を思えば羽を伸ばしておかなくっては…!
心置きなく食べまくった私たちは家で一晩ぐっすり眠って、翌朝早くシャングリラ学園の職員さんが運転するマイクロバスに乗り込みました。パパもママも今は仲間ですから家の前までお迎えが来ても大丈夫。ただ、遊びに行くのだと思われているのが悲しいような…。
「そう? ぼくは頑張って修行しなさいって言われたけどなあ…」
ジョミー君は仏頂面です。昨日、財布が見事に空になってしまい、キース君に返すお金を前借りするのに事情を話すしかなかったらしく、仏道修行のサイオン強化合宿だとバレバレになっているのだとか。そんなジョミー君を「自業自得だ」と皆で囃し立てている内にマイクロバスはシャングリラ学園専用の空港に着いて。
「おはよう。みんな元気そうだな」
シド先生がシャングリラ号のクルーの制服を着て滑走路の手前に立っています。
「ソルジャー……いや、ブルーは先に行っているから、俺たちのシャトルが到着したら宇宙に向かって出発だ。今年も楽しくなりそうだぞ」
「「「はーい…」」」
仏道修行の何処が楽しいんだ、と私たちは心で半泣きでしたが、そんなことを言える筈もなく。シド先生が操縦するシャトルは私たちを乗せて滑るように離陸し、雲海を抜けて青い空に浮かぶシャングリラ号へ…。白く輝く宇宙クジラが四日間の合宿所です。あぁぁ、もう格納庫に着いちゃいましたよ~! シド先生はシャトルを降りると居住区へ案内してくれて。
「君たちの部屋は去年と同じでこのブロックだ。一人部屋にするも良し、相部屋も良し。俺は出航の準備があるからブリッジに行くが、君たちは自由にすればいい。集まるのなら大きい部屋は其処にあるから」
そう言い残してシド先生はブリッジへ。私たちは部屋に荷物を置いて、シド先生が教えてくれた大きい部屋に行ってみました。去年のような会議室かと思いましたが、これはどう見ても休憩室です。
「…なんだか居心地良さそうだね」
絨毯もソファもフカフカだ、とジョミー君。観葉植物なんかも飾られ、サイオン強化合宿という名の仏道修行をしに来た身には贅沢すぎる部屋ですけども。
「…このくらい心安らぐ空間が無いと耐えられないほどビシバシ修行の日々かもしれんぞ」
キース君の鋭い指摘に私たちはズーン…と落ち込みました。その間に出航準備が整ったらしく、全艦放送で教頭先生の号令が。
『シャングリラ、発進!』
何の振動も感じさせずに宇宙クジラの出航です。いよいよ二十光年の彼方へ修行の旅に出発ですか…。
シャングリラ号は地球を離れ、月の裏側からワープイン。私たちの部屋に船の外を覗ける窓は無いので分かりませんが、外は緑色を帯びた時空間になっているのでしょう。間もなくワープアウトの放送が流れてシャングリラ号の定位置に到着。ということは…。
「そろそろブルーが来るんだろうな」
覚悟しておけ、とキース君が表情を引き締めました。
「恐らく修行するのはこの部屋ではない。此処には阿弥陀様も置かれていないし…。何処かに本格的な修行部屋を作っていると見た」
「本格的…?」
それって何さ、とジョミー君が尋ねると。
「俺たちが知っているシャングリラ号に和室は無かったが、模様替えくらいは何とでもなる。ソルジャーの意向となれば尚更だ。まず間違いなく畳だな。四日間みっちり正座だろう」
「「「………」」」
うわぁ、と青ざめる私たち。正座と読経がセットとなるとキツさは一気にグレードアップ。今いる部屋が息抜き用に用意されたのも納得です。たまにはのんびり足を伸ばせないと倒れてしまいますってば…。こうなったのもジョミー君の迂闊な発言のせいだ、とブチ切れたって許されますよね? 責められまくったジョミー君は。
「昨日、みんなに奢ったじゃないか! あれでチャラだと思うんだけど…」
「甘いですよ、ジョミー先輩! ぼくたち、四日間も精進料理なんですからね!」
食べ盛りには耐えられません、とシロエ君が文句を言えばキース君が。
「ブルーのことだ、精進料理も恩着せがましく出すだろうさ。宇宙船の中では考えられない贅沢メニューだとか、食堂のメニューとは別に作らせているんだからとか…。そうなると般若心経もセットか」
「「「般若心経?」」」
なんですか、それは? 般若心経は食べるものではないんですけど、どうして精進料理とセット…? ジョミー君への怒りも忘れて目を丸くする私たちに向かって、キース君は。
「俺たちの宗派が般若心経を使わないのは気付いているだろう? 前のサイオン強化合宿でも唱えていないし、俺の家でやる法要にも般若心経は入っていない。だが、一つだけ例外がある。…食事の前だ」
え? それってまさか、食事の前に般若心経を唱えるとか…? でも、そんなこと、やった覚えは…。
「やった覚えは無いだろうな。恐らくサムも知らない筈だ」
なんと言っても道場で修行する坊主専用、とキース君は続けました。
「住職の資格を貰う時に限らず、寺でやってる道場に行くと作法は一気に厳しくなる。あれこれ細かく守らなくてはいけない決まりが出てくるわけだが、般若心経もその一つなんだ。食事の前には必ず唱えなくてはならない。…まあ、初めて唱えるお経じゃないから大丈夫だろう」
多少年数は経っているが、と言われなくても般若心経の思い出はガッツリ残っています。シャングリラ学園を普通の生徒として卒業した時、卒業旅行先にチョイスされたのはソレイド八十八ヶ所お遍路の旅。キース君が歩いて巡拝すると決めたので見物がてら出掛けたのですが、会長さんが八十八ヶ所の御朱印を集めていたもので…。
「あの時は大変でしたよねえ…」
シロエ君が天井を仰ぎました。
「お寺に着いたら般若心経を唱えなくちゃいけなかったんですし! それも二ヶ所も!」
「本堂と大師堂でしたっけ?」
唱えたかどうかチェックしているお寺が幾つもありましたっけね、とマツカ君。とにかく般若心経をメインに据えた数分間の読経をしないと御朱印が貰えなかったのです。ですから八十八のお寺で般若心経を二回ずつ唱えて回ったわけで、その大変さは今も忘れていません。なのに食事の前に般若心経を唱えろですって?
「いや、確証はないんだがな。…大丈夫だと言い切る自信も無い」
心の準備はしておいた方が…、とキース君が私たちを見渡した所で部屋の扉がシュッと開いて。
「やあ。…暗い顔してどうしたんだい?」
颯爽と入って来たのはソルジャーの正装をした会長さん。記憶装置も着けています。
「かみお~ん♪ 朝、早かったからお腹が空いてるんじゃない? 差し入れ持ってきたよ」
はい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」がテーブルに置いたバスケットの中身はサンドイッチ。美味しそうなコロッケサンドにカツサンド、スタンダードな卵やハムも…。あれ? 精進料理じゃ…ない…? それとも最後の晩餐ならぬ精進料理突入前の最後の朝食?
「えっ、最後の晩餐って……なんの話さ?」
誰の心が零れていたのか、会長さんが首を傾げました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」も不思議そうに。
「えっと…お昼御飯は普通にあるよ? まだ食堂はランチメニューの時間じゃないから作って来たけど、もしかしてケーキセットとかを食べに行く方が良かったのかなぁ?」
「「「???」」」
精進料理一直線だと思い込んでいた私たちは意表を突かれ、全く状況が掴めません。ぐるぐるしている頭の中を会長さんが読み取ったらしく、いきなりププッと吹き出して…。
「そうか、そういう話になっていたんだ? シャングリラ号で精進料理に般若心経とはゴージャスだねえ…。誰もそこまで言ってないけど?」
「えっ、じゃあ……もしかして、ぼく、大損したわけ?」
昨夜は奢らされたんだよ、というジョミー君の必死の訴えは会長さんに大ウケしました。おかしそうに笑い転げてますけど、精進料理じゃないんですか? ちょっとだけ救いが見えてきたかも…。
食事は普通のメニューらしい、と知った私たちは差し入れのサンドイッチを早速パクパク。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飲み物も用意してくれます。この部屋にはキッチンもあるのでした。座り心地のいいソファで寛いでいると、サイオン強化合宿に連れて来られたことを忘れてしまいそう。気を引き締めてかからないと…。
「おやおや、まだ勘違いしているのかい?」
クスクスクス…と笑う会長さん。私たちは顔を見合わせ、勘違いとは何のことかと揃って首を捻ったのですが。
「ホントに分かってないみたいだね。精進料理と般若心経も凄かったけど、思い込みの勝利と言うべきか…。ジョミーにファミレスで奢らせるほど追い詰められていたんだったら、期待に応えてあげようか?」
「「「は?」」」
「だから、期待に応えて仏道修行! 一応、青の間にも緋色の衣は置いてあるんだ。着替えてきて指導をしてもいいんだけれど、それだとクルーの期待を裏切る」
「「「えっ…?」」」
会長さんが何を言っているのか、全く分かりませんでした。私たちがシャングリラ号に乗り込んだ目的は結束と団結力を高めるためのサイオン強化合宿です。なのに会長さんが指導役を買って出るとクルーの期待を裏切ることになるんですか? クルーの人もジョミー君たちの将来を期待してるんじゃあ…?
「ああ、サムとジョミーの将来ねえ…。キースともども注目されているようだけど、期待と言ってもそれほどのことは…。だって、所詮はお坊さんだよ?」
実生活では役立たないよね、と会長さん。
「ぼくの直弟子のサムとジョミーが高僧になれるかどうかで賭けをしようかって話ならあった。でもさ、住職の資格が取れるまでに何年かかるかってことを思うとすぐに結果は出ないよねえ…。だから立ち消え。とりあえず一時的なスターに過ぎない」
人の噂も七十五日、と会長さんはペロリと舌を出しました。
「シャングリラ号の中でジョミーたちを見ても「ああ、特集記事に載ってたな」くらいの認識だよ。ソルジャーの悪友という印象の方が遙かに強い」
「「「悪友……」」」
酷い話もあったものです。真面目に修行に来たというのに、これでは私たちも浮かばれません。会長さんに指導して貰うとクルーの期待を裏切るだなんて、会長さんには他に重大な役目でも…?
「それなんだけど、大前提からして激しく間違っているんだってば」
会長さんがクッと喉を鳴らして。
「ぼくは君たちの結束を高めようと言っただけだよ? サイオン強化合宿をするとは一言も言っていないんだけれど…?」
「「「えぇっ!?」」」
私たちはビックリ仰天。慌てて記憶を辿りましたが、確かに会長さんは合宿とは言っていませんでした。思い込みと憶測で話を進める私たちに相槌を打っていただけで…。それじゃ、シャングリラ号に連れて来られた目的は? クルーの人たちも期待していると聞きましたけれど…?
「うん、思い切り期待はされてる。…ただしクルーの半数から…ね」
「半数だと?」
なんだそれは、とキース君が突っ込みました。
「あんた、投票でもさせてたのか? 坊主に期待するかどうかで」
「違うよ、まだ思い込みが抜けないかな? 坊主は何の関係も無い。ついでに期待しているクルーはクジ引きでソルジャー側に決まったクルーで、長老側になったクルーは恐れていると言うべきか…」
「「「???」」」
今度こそ何が何だか分からなくなってしまいました。ソルジャー側だの長老側だの、いったい何の話でしょうか? 私たちの団結力に期待する人と恐れている人、おまけにクジ引きがどうのとか…。仏道修行は確かに関係なさそうですけど、だったら何で団結しろと?
「5月5日は子供の日という祝日だけど、本来は端午の節句なんだよ」
会長さんの言葉は思い切り斜め上でした。私たちが尋ねているのは祝日の由来なんかではなく、シャングリラ号で何をすべきか、何処で団結するべきなのかで…。
「話は最後まで聞きたまえ。端午の節句と言えば菖蒲だ。菖蒲は勝負に通じるからね、男の子の節句で兜なんかも飾るだろう? この日に凧上げ合戦とかをやってる地方なんかもあって…。今年はシャングリラ号でも勝負しようかって話になった」
「「「勝負?」」」
「そう、勝負。クルーを二手に分けて賑やかに競い合おうってわけ。それでクジ引きで決めたのさ」
やっと話が見えてきました。要するに私たちはソルジャーである会長さん側というわけです。クルーの人から期待されてるのは戦力としてだったんですねえ…。
「そういうこと。長老側との勝負となれば力を合わせて頑張らないとね? だから結束を高める必要がある、と言ったんだよ。団結力も欠かせない。…その辺の所を君たちが一方的に勘違いして暴走したのさ。面白いから黙っていたら、まさかジョミーが毟られるとはね」
「どうして教えてくれなかったのさ! ぼく、向こう三ヶ月間、お小遣い無しだよ! 赤貧だよ!」
あんまりだよ、と食ってかかったジョミー君に、会長さんは。
「大丈夫。御両親にはちゃんと訂正してあげるから。ちょっと行き違いがあって不幸な事故になったんです、とお詫びの電話をしておくよ。地球に帰ったらぼくが弁償したっていいし…。もっとも、払うと言っても遠慮されちゃいそうだけどね」
そりゃそうだろう、と溜息をつく私たち。会長さんの正体が知れている以上、よほどの大金でない限り請求しにくいものがあります。第一、勘違いをして毟り取ったのは会長さんじゃないですし…。とはいえ、ジョミー君のお小遣い差し止めが解除されるのは喜ぶべきことで、おまけに仏道修行も無し。勝負が何かは知りませんけど、修行よりかは楽しいですよね?
「もちろんさ。クルーのみんなも盛り上がってるよ。勝負は今日から始まるんだ」
「端午の節句だけではないのか?」
えらく長いな、とキース君が言うと、会長さんは。
「最終的には大将同士の一騎打ちかもしれないけどね。そうなれば勝負は一瞬だからつまらない。どっちが勝つのか、三日間ほど競い合うから楽しいんだよ。その過程で団結力も生まれる」
なるほど、私たちが勘違いをした団結力とはこれでしたか! 会長さんはニッコリ笑って。
「シャングリラ号も定位置に着いたし、昼食の前に前哨戦だ。ソルジャー側が勝つか、長老側が勝つかでチームの衣装を決定するのさ」
「「「衣装?」」」
「うん。せっかく勝負をするわけだしね、どちらのチームか一目瞭然というのがいいだろ?」
おおっ、ユニフォームまで揃えて本格的に勝負ですか! これは絶対勝たなくちゃ、とジョミー君たちが拳を握り締めます。更に会長さんが気合を入れるように。
「ここで負けたらハーレイたちが選んだ衣装になっちゃうんだ。あっちのセンスは期待できない」
なんと言っても長老チーム、と言われて頭に浮かんだのは長老組の制服です。キャプテンはともかく、あの服はちょっと…。負けてしまったらあんな衣装を着せられるのか、と思っただけで背筋が寒くなりそうでした。
「ね、負けるわけにはいかないんだよ。おっと、そろそろ時間かな?」
前哨戦の会場は公園なのだ、と会長さんが立ち上がりました。長老の先生方が選んだ衣装を着たくなければ勝負に勝つしかありません。ここ一番の勝負、勝ち星を挙げてみせますよ~!