シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
- 2012.01.17 お祭り大好き 第1話
- 2012.01.17 グルメの功罪 第3話
- 2012.01.17 グルメの功罪 第2話
- 2012.01.17 グルメの功罪 第1話
- 2012.01.17 農場夢草子 第3話
教頭先生が裸エプロンを披露してから数日が経ったある朝のこと。1年A組の教室はいつもと変わりはありませんでした。会長さんが来ているわけでもなくて、キース君は大学の朝のお勤めを終えて普段どおりに登校して来て…。本鈴と同時に現れたグレイブ先生が出席を取り、「諸君」と眼鏡を押し上げます。
「来月は学園祭がある。シャングリラ学園ではクラス単位で演劇や教室を使っての展示などをすることになっているのだが…。我が1年A組が何をするかを三日以内に決めてくれたまえ。その日が学園への届け出期限だ。以上!」
カツカツと靴音をさせて先生が立ち去った後、クラスメイトは大騒ぎ。カフェだ、お化け屋敷だと賑やかですが、グレイブ先生はそういうのはお嫌いなんですよねぇ…。どうせ今年も展示でしょう。演劇は準備や練習が大変ですから。そして放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ行くと…。
「かみお~ん♪ 今日のおやつはタルト・タタンだよ! 柔道部のみんなが来たら焼きそばにするね」
焼きたてのお菓子の匂いが漂い、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が切り分けてくれます。柔道部三人組が部活を終えて到着すると今度は焼きそば。その一部を会長さんがタッパーに入れ、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が教頭室へ差し入れに出かけて行きました。持ち帰ったのはさっきのとは別の空のタッパー。
「ブルー、今日もお手紙ついてるよ」
はい、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が差し出した封筒を会長さんは一瞥するなり青いサイオンの炎で燃やしてしまいました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」はションボリとして。
「…やっぱり読んであげないんだ…」
「読まなくっても分かってる。差し入れのお礼にかこつけたラブレターだ。裸エプロンまでさせられたのに、全然懲りていないんだから」
「でもハーレイ、ブルーのお返事待ってるよ?」
「差し入れが貰えるだけで十分じゃないか。催促されたらそう言っといて」
会長さんにスッポン料理とスッポン入りの漢方薬の代金を毟り取られた教頭先生は今も耐乏生活です。それでも柔道部の指導を休まないのは責任感の表れかも。そんな教頭先生に会長さんは色々と差し入れをしているようで、酷い目に遭わせた自覚はあるのだろうと私たちは思っているのでした。張本人の会長さんは今日もタルトをつつきながら。
「そういえば、今日は学園祭の発表があったんだよね? 君たちは何かしたいわけ?」
「えっと…」
首を傾げる私たち。特別生の私たちと違って、クラスのみんなには一度限りの一年生です。何をやるかは好きに決めて貰えばいいし、それに従うつもりでしたが…。
「ぼく、劇がいい!」
叫んだのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」でした。
「去年も劇がやりたかったのに、クラス展示にされちゃったんだ。今年はちゃんと投票日に1年A組に行くからね! そしたら本物の投票用紙が貰えるんだもん」
「ぶるぅは劇がやりたいそうだ。君たちも演劇に投票したまえ。もちろんぼくも一票を入れる」
重々しく宣言する会長さん。うーん、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が劇をしたいなら、演劇に一票で決まりでしょうか?
いつもお世話になってますしね。
投票は三日後の終礼前のホームルーム。朝から教室の一番後ろに机が増えて、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が姿を見せていましたが…クラスのみんなはお化け屋敷に熱意を燃やしているようでした。グレイブ先生が投票用紙を配り、私たちは『演劇』と書いて投票箱に入れたのですけど…。
「ふむ」
黒板に『正』の字を書いていたグレイブ先生が最後の一画を書いて振り向きました。
「圧倒的多数でお化け屋敷か。私が担任しているからには、もっと格調高い展示を行って欲しいものだが…。今までそのように指導してきた。演劇ならば演目を厳選し、クラス展示も遊びがメインと思われるものは悉く却下してきたのだ」
「「「………」」」
あーあ、やっぱり…。クラス中にガックリ感が漂います。が、グレイブ先生はニヤッと笑って。
「お化け屋敷がくだらないという自覚はあるようだな。分かっているならいいだろう。諸君、何事にも例外はある。今年は私の結婚生活一年目だ。記念すべき特別な年だ。…よろしい、特別に許可しよう。1年A組の今年の展示はお化け屋敷だ!」
「「「やったーっ!!!」」」
歓声と拍手喝采の中、後ろを見ると「そるじゃぁ・ぶるぅ」がトボトボと出てゆくところでした。劇がやりたくて投票に来たのに、結果がお化け屋敷では…。案の定、終礼の後でお部屋に行くと「そるじゃぁ・ぶるぅ」はしょげていました。
「…ひどいや、お化け屋敷だなんて…」
モンブランが載ったお皿を配る手にも元気がありません。
「ぼく、お化けとか苦手なのに…。決まっちゃったんだし、1年A組はお化け屋敷をやるんだよね。ジョミーもサムも、みんなお化けをするんでしょ?」
ぼく行かない、と呟いて「そるじゃぁ・ぶるぅ」は隅っこの土鍋で丸くなります。
「脅かされるの嫌だもん。ブルーがやるなら凄いお化けが出てきそうだし、ぼく、ここのお部屋に隠れてるもん…」
会長さんが溜息をつき、立って行って小さな頭を撫でました。
「ぶるぅ、そんなに嫌なのかい? だったら…」
何か言いかけた所へ柔道部三人組が部活を終えて登場です。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は慌てて跳ね起き、お好み焼きをせっせと焼いて、教頭先生にも差し入れに行って…。
「ブルー! ハーレイ、もうすぐお給料が出るんだって! そしたら差し入れは要らないからって言ってたよ。でね、今日もお手紙がついてるんだけど…」
「却下」
会長さんは今日も教頭先生の手紙を燃やしてしまいました。可哀想だよ、と言う「そるじゃぁ・ぶるぅ」に会長さんは苦笑しながら。
「ぶるぅはお化けが苦手だろう? ぼくはハーレイの手紙が苦手なんだよ。…そうそう、話が途中で終わってたっけね。お化け屋敷をするのが嫌なんだったら、1年A組とは別に何かをしてみるかい?」
「別?」
まん丸い目をする「そるじゃぁ・ぶるぅ」。別って…どういう意味でしょう?
「ぶるぅ、ここにいるみんなは特別生だ。特別生はどんな時でも別行動が許される。学校に来るのも自由、来ないのも自由。だからもちろん学園祭でも、クラスメイトと一緒に動かなくてはならない理由は無いんだよ」
そういえば…そんな話を聞かされたような気もします。大学に行ったキース君まで毎日登校してきていますし、放課後はみんなで「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に集まって遊んでいるのですっかり忘れていましたが…。
「だからね、ぶるぅ」
会長さんが私たちをグルッと見回して言いました。
「このメンバーで何かするなら、届け出を出せば済むことなのさ。学園祭では1年A組とは別に行動します、ってね。…そうするかい? お化け屋敷をやめて劇をするとか?」
「「「劇!?」」」
ポカンとする私たちを他所に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が飛び跳ねています。
「わーい、わーい! みんなで劇だ! みんなで劇だぁ♪」
「ちょっと待て!」
叫んだのはキース君でした。
「…みんなで何かというのを止めはしないが、俺は外して貰いたい。今は大事な時期なんだ」
「大事な時期…?」
怪訝そうな会長さんにキース君は舌打ちをして。
「あんただったら分かってくれると思っていたが…。もうすぐ二年生の先輩たちが三週間の修行に出る」
「言われるまで完全に忘れていたよ。もう秋学期の道場入りか」
「ああ。で、俺も来年の秋には是非行きたいし、そのためには必要な単位を取っておかないと。…先輩たちの修行中にある特別講座は落とせないしな」
「…なるほど…」
会長さんは納得した様子で頷きました。
「そういうわけなら仕方ない。ぼくたちだけで行動できるよう届けは出すし、キースの名前も書いておくけど…名前だけっていうことで。君は大学の方を頑張りたまえ」
「感謝する」
深々と頭を下げるキース君。こうして私たち七人組は1年A組を離れ、会長さんたちと一緒に学園祭で劇をすることに決まったのでした。
1年A組から独立するにあたって必要なのはグループ名と責任者の先生が一人。グループ名は会長さんの鶴の一声で『そるじゃぁ・ぶるぅを応援する会』という選挙活動みたいな名前になってしまいました。
「これでいいんだよ、ぶるぅが独立したがったんだし」
「……でも……」
オシャレじゃない、という私たちの不満が聞き入れられる筈もなく…グループ名はこれに決定。責任者の先生は会長さんの強力な推しで教頭先生に決定です。
「グレイブじゃ融通が効かないんだ。今年は新婚モードで甘いとはいえ、そうそう羽目は外せない。少人数でお客を呼ぶには堅い演目じゃ駄目だろう? 遊び心を分かってくれるハーレイにするのが一番なのさ。ぼくの担任だからグレイブも文句はつけられない」
届け出はぼくがしておくよ、と言った会長さんは本当に許可を貰って来ました。グループ結成が決まった次の日の放課後には「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に許可証があり、いよいよ活動開始です。柔道部三人組は特別生の立場を生かして学園祭までは休部し、劇に専念することに…。キース君は劇には出ませんけれど、特別講座の時間以外は顔を出しに来てくれるそうです。
「で、肝心の劇だけど…」
何にする? と尋ねる会長さん。何にする? と言われても…。
「キース先輩が出られないってことは八人ですよね」
シロエ君が人差し指を顎に当てました。
「裏方とかも必要ですし、大したものはできませんよ」
「ああ、裏方なら大丈夫だよ。いざとなったらリオやフィシスも助けてくれるし、ぼくの名前を出せば職員さんたちも手伝ってくれる」
生徒会長とソルジャーの名は活用すべきだ、と会長さんは自信満々でした。
「だから全員が舞台に出たって問題ない。八人でも見栄えがするものがいいね」
「でもって一人は子供なのよね…」
スウェナちゃんの言葉どおり一人は「そるじゃぁ・ぶるぅ」です。演目はかなり限られそうだ、と思った時。
「ぼくが主役のお話がいい!」
無邪気な叫びが上がりました。声の主はもちろん…。
「「「ぶるぅ!?」」」
「ぼくを応援する会だもん、ぼくが主役をやってもいいでしょ? 1年A組で劇をするんだったら脇役でも平気だったんだけど、せっかくだから主役やりたい!」
頑張っておやつ作るから、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は譲りません。そりゃあ…グループの名前が名前ですから「そるじゃぁ・ぶるぅ」が主役であっても不思議に思う人はいないでしょうし、その方がいいのかもしれませんけど…。
「じゃあ、『三枚のお札』にしようか」
そう言ったのは会長さんでした。
「小僧さんが山姥に追いかけられて、三枚のお札に助けられる。小僧さんが主人公だし、ぶるぅにピッタリの役だと思うよ。お札で火や川を出すんだけれど、ぶるぅのサイオンなら迫力満点の特殊効果が…」
「やだ!!!」
かっこよくないもん、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」は膨れっ面です。
「ぼく、そのお話、知ってるよ。一番最初はトイレの窓から逃げるんでしょ? そんなの、なんだか恥ずかしいや。もっと素敵な話がいいなぁ…」
「一寸法師は?」
ジョミー君の提案に「ナイス!」と拍手する私たち。小さい主人公が大活躍なら文句は無いと思ったのですが…。
「ぼくはいいけど、鬼は誰?」
「「「うっ…」」」
鬼をやりがたる人はいませんでした。こんな調子で演目はサッパリ決まらず、ついにブチ切れた会長さんが。
「もうシンデレラでいいよ、それにしとこう。…ぼくが王子で」
「「「えぇっ!?」」」
シンデレラといえば継母と意地悪な姉娘が二人。会長さんが王子役を持っていった以上、この三人の役は残りの誰かです。スウェナちゃんと私が二人分は引き受けるとしても、確実に誰かが女装の悪役…。ジョミー君かな? それともサム君? ああっ、魔法使いの役も要りましたっけ~!
「そっか、ブルーが王子役でシンデレラの劇だね」
ニコニコと「そるじゃぁ・ぶるぅ」が頷きます。
「シンデレラだったら主役をやるより魔法使いの役がいいなあ♪ ドレスとかカボチャの馬車を出すんだよね! ぼくのサイオンも使えそうだし、それがいい!」
えっと。…もしかして「そるじゃぁ・ぶるぅ」は主役でなくても目立てばいいってことなのでしょうか? だったら他にもマシな何かがあるような気が…。それともシンデレラで決定ですか~?
シンデレラの配役は簡単には決まりませんでした。そもそも誰がシンデレラ役をするのでしょう? スウェナちゃんか私か、どちらかにするのが無難でしょうが、笑いを取るために誰かが女装でやるべきだ…なんて意見が出たから大変です。この際、女性役は全部男の子がやって、スウェナちゃんと私は男性役だとか大騒ぎ。
「…うーん…。これは宿題にした方がいいね」
会長さんが紅茶で喉を潤しながら。
「家で一晩ゆっくり考えてみるのも手だよ。何か閃きがあるかもしれないし、他にいい劇を思い付く可能性もゼロではない。それで駄目なら明日の放課後にクジ引きで配役を決定しよう。…王子と魔法使いを除いてね」
この二つはもう決まってるから、と会長さんは落ち着いたもの。ついでにキース君も劇に出ないので涼しい顔です。私たちは多分クジ引きになるであろう配役を心配しながら家へ帰って行ったのでした。そして翌日の放課後、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に行くと…。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! あのね、ぼくたちの劇だけどね…」
御機嫌でパンプキン・パイを切り分けながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」が話しかけてきます。
「ブルーが考えてくれたんだ。ぼくが魔法使いになって思い切り活躍できるヤツ!」
げげっ。魔法使いが大活躍って、シンデレラは中止でファンタジーですか? 剣と魔法の冒険活劇なんて八人では無理じゃないかと思うんですが…。そこへ会長さんがとても綺麗な笑みを浮かべて。
「ファンタジーじゃなくてファッションショーだよ」
「「「は?」」」
ファッションショーと聞こえたような気がします。みんなで顔を見合わせていると…。
「だから言葉のとおりだってば。ぶるぅは魔法使いの役をやってみたいし、主役もやってみたかった。それなら魔法使いが主役の劇を作ればいい。…シンデレラの魔法使いはドレスを出すよね。みんなが舞台で次から次へと衣装替えしたらウケそうだろう? ファッションショーっていうのはそれさ」
「それって劇じゃないよ!」
ジョミー君が突っ込みましたが、会長さんは全く平気でした。
「うん、劇じゃない。劇じゃないけど、舞台を使ってやるのは確かだ。学園祭で舞台を使う催しは劇の他にもダンスに合唱、ミュージカル…と色々ある。ファッションショーもかまわないんじゃないかと思って、一応、エラたちに確認してみた」
オッケーが出たよ、と会長さんは微笑んでいます。
「エラは「楽しそうな催しですね」と言ってくれたし、ブラウは「どうせなら受注したらどうだい?」と楽しい提案をしてくれた。受注するのも面白そうだと思わないかい?」
「ファッションショーって…誰が舞台に上がるんですか?」
マツカ君の質問に、会長さんはマツカ君をスッと指差しました。
「誰って…君たちの他にはいないじゃないか」
「「「!!!」」」
ウッと息を飲む男の子たち。更に会長さんはスウェナちゃんと私にウインクして。
「ファッションショーのお客さんは女性がメインになる筈だ。君たちは会場で受注係をして欲しい。こんなドレスを着てみたい、という注文を取って回るんだ。もちろん全部は受けられないし、抽選で一名だけにプレゼントってことになるだろうけど」
ドレスですって…? この口ぶりではファッションショーの中身は全部ドレス…? 他人事だと笑って聞いていたキース君が首を捻って。
「おい、ひょっとしてドレスばかりを披露するのか? まあ、ウケるのは間違いないが」
「ドレスばかりでいいと思うよ。女の子って夢が好きだし。…ね、ぶるぅ?」
「うん! ぼく頑張って作るんだ!!」
採寸、採寸…とメジャーを取り出す「そるじゃぁ・ぶるぅ」は大乗り気でした。どうやらドレスは「そるじゃぁ・ぶるぅ」の手作りになるみたいです。それなら受注も出来るでしょうが、女装のファッションショーですか…。
「いやだーっ、女装はもう嫌だーっ!!」
逃げようとするジョミー君を会長さんのサイオンが捕え、金縛りにしている間に「そるじゃぁ・ぶるぅ」が採寸します。そういえば男の子たちは去年の親睦ダンスパーティーのフィナーレで全員、ウェディング・ドレスを着せられる羽目になりましたっけ。それにジョミー君は去年の夏休みに青いベビードールも着てましたっけ…。
「ブルー、俺も手伝ってやろう。逃げるな、サム!」
キース君がサム君を羽交い締めにして、シロエ君とマツカ君に。
「お前たちも男なら逃げるんじゃない! ぶるぅのショーに協力してやれ!」
「「は、はい…っ!」」
男の子たちはキース君を除いてキッチリ採寸されました。会長さんの寸法は分かっているから必要ない…という話ですけど、本当でしょうか? 自分だけ上手く逃げおおせようと思っているかもしれません。でもウェディング・ドレスはお気に入りですし、会長さんの考えることは謎ですよねぇ…。
学園祭に向けての準備は順調でした。1年A組のクラスメイトはお化け屋敷に燃えていますし、「そるじゃぁ・ぶるぅ」はファッションショーの衣装作りに夢中です。それでもお菓子を手抜きしないのが凄いかも。今日も「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋はシャルロット・ポワールの甘い香りで一杯で…。
「かみお~ん♪ お菓子、切り分けてあるから好きなのを取ってね。シロエは先に仮縫いだよ」
「…はい…」
悄然と奥の部屋に連れられてゆくシロエ君。男の子たちは毎日のようにそこへ引っ張り込まれて、何着もの衣装を試着させられたり仮縫いしたり。それ以外の時間は会長さんがモデルウォークを仕込んでいました。
「マツカ、もっと背筋を伸ばして! ジョミー、膝が曲がってる! はい、そこでターン!」
パンパンと手拍子を打つ会長さんは鬼コーチです。そんな光景を見ながらスウェナちゃんと私、そして特別講座が終わってから顔を出すキース君の三人が和やかにお茶を飲むのが日課になりつつありましたが…。
「おや、キース。今日はずいぶん早いんだね」
会長さんの指摘にキース君がビクンと肩を震わせました。
「特別講座はしばらく続くと思ってたけど、休講なのかい?」
「…いや…。それが……」
「歯切れの悪さが気になるな。ひょっとして…サボったとか…?」
いつもなら即座に言い返す筈のキース君は無言でした。会長さんがクスッと笑って。
「ふふ、図星。…あ、ジョミー、マツカ、足を止めない! 君たちはちゃんと練習したまえ」
テキパキと指示を飛ばした所へシロエ君と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が仮縫い部屋から出てきます。
「ぶるぅ、お疲れ様。それじゃ少し休憩しようか。…面白い話が聞けそうだし」
座って、という声を待たずにジョミー君たちがソファにへたり込みます。クリームたっぷりのココアが配られ、会長さんはキース君を自分の向かいに座らせました。
「さて、キース。…どうやら君は特別講座をサボッたらしい。特別講座の単位は落とせないから学園祭のグループ発表からは外してほしい、と言っていたにも関わらず…だ。理由を聞かせて貰おうか」
「…………」
「特別講座の単位を落とせば、君は来年の秋の修行ができなくなる。二年生の秋か、三年生の春に三週間の修行道場入りをしておかないと、住職になるための道場入りの最短コースは不可能だったと思うけどな」
「……そのとおりだ……」
キース君はココアのカップを手にして俯いています。住職になるための道場入りの決心がついていないことは知っていますが、それ以外の講義や朝のお勤めには熱心な筈のキース君がサボリだなんて…。しかも最近始まったばかりの特別講座をサボったなんて、いったい何が起きたのでしょう? お父さんと派手に喧嘩したとか…? 私でさえも気になることを会長さんが見逃すわけがありませんでした。
「キース、はっきり言いたまえ。特別講座を何故サボッた? あの講座は止むを得ない理由以外で欠席したら単位は貰えないと聞いている。今日サボッたということは…落第したいということかい? それとも欠席届けを出してきたとか?」
「……出していない……」
「不可解だね。ここで落第したら特別講座は春まで無いんだ。春に単位を貰ったんでは他の講座がズレ込んで…二年生の秋に修行はできない。君が三週間の修行に行けるのは三年生の春になる。住職への最短コースに間に合うためにはギリギリの時期になるというのに、そんな道をわざわざ選ぶなんて…。君らしくないな」
トップを走るんじゃなかったのかい、と尋ねる会長さんにキース君は苦渋に満ちた表情で。
「…俺だって、成績だけの問題だったらトップを切って走りたいさ。…成績だけの問題ならな…」
成績だけの問題なら…? キース君はシャングリラ学園の普通の学生だった去年、成績にこだわっていたという記憶があります。会長さんの小細工で全員が満点を取り放題だったクラスの中で、たった一人だけ実力で満点だったキース君が、それを誇りにしていたことも。そんなエリート志向のくせに、ドロップアウトを選んだなんて嘘みたい…。
「…なんとでも好きに言ってくれ。俺にも限界はあるってことだ」
キース君は左手首の数珠レットに触れ、深い溜息をつきました。会長さんがその顔を覗き込んで。
「ふうん、限界を知ったってわけ? 自分の限界を知るのはいいことだよ。でも、それを乗り越えるのが修行の道だと思うけどな」
「…………」
答えは返ってきませんでした。限界に突き当たったというキース君。学園祭の準備も大事ですけど、キース君のことも気がかりです。ジョミー君たちも心配そうにキース君の方を見ていました。せっかく大学に進学したのに、わざと成績に傷をつけただなんて…何か相当ショックなことでも…? 心が砕けてしまったとか…?
スッポン料理屋さんのお座敷から忽然と消えたソルジャーとキャプテンでしたが、お店の人は何の疑問も持たずにお会計をしてくれました。特殊なシールドのお蔭でしょう。会長さんが教頭先生から毟ったお金はほんの僅かな額しか残らず、それは帰りのタクシー代に…。そして私たちが戦々恐々とする中、ソルジャーとの約束の土曜日がやってきたのでした。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! もうすぐブルーも来ると思うよ。今日は煮込みハンバーグなんだ」
バス停で集合して会長さんのマンションに行くと「そるじゃぁ・ぶるぅ」がダイニングに案内してくれます。大きなテーブルの真ん中の席に会長さんが座っていました。
「やあ。適当に座ってくれればいいよ。あ、サムはぼくの隣。こっちの隣はブルーの席」
みんなが席に着くのを見計らったように空間が揺れ、ソルジャーが姿を現わします。
「こんにちは。約束通り来てくれたんだね。報告に来た甲斐があったな」
会長さんの服を借りて着替えを済ませ、左隣に座ったソルジャーはとても御機嫌そうでした。報告会の内容は推して知るべしというヤツです。小さな子供の「そるじゃぁ・ぶるぅ」はそうとも知らず、昼食が載ったお皿を配って嬉しそうに。
「お客様って楽しいよね。いっぱい食べてね、ハンバーグ沢山作ったんだ!」
「ありがとう、ぶるぅは優しいね。ぼくのぶるぅは料理はダメだし、食べるの専門。ホント、ブルーが羨ましいな」
和やかに食事を始めたソルジャーですが、それで終わるわけがありません。雑談で座が盛り上がり、デザートのプチケーキと飲み物が出てきたところで…。
「そうそう、この間のスッポン料理。あれの報告に来たんだっけね」
げげっ! 私たちの顔が引き攣ります。けれどソルジャーは全く気にしていませんでした。
「あの料理、効果抜群だったよ。…ぼくはいつもと変わりなかったし、君たちもそうだと思うけど…ハーレイが全然違ったんだ。スタミナ抜群、もう壊れそうなほど凄くってさ」
ソルジャーはスッポン料理を食べた夜の大人の時間を目を輝かせて語り始めました。えっと…この内容って十八歳未満お断りでは…。分からない単語が一杯ですし! 会長さんの制止も聞かずに独演会は延々と続き、私たちは顔を赤くして俯いているしかなかったのですが…。
「それでね、ぼくは考えたんだ」
みんな聞いてる? とソルジャーの口調が変わりました。
「スッポンを食べたハーレイは本当に絶倫だった。心理的な効果だけとは思えないから、スッポンにはパワーがあるらしい。あれが薬になったら凄いだろうね。…この世界にはあるんだろう? スッポンだけで作った薬が」
「「「………」」」
誰も答えませんでした。スッポン由来の怪しい薬なら広告とかで見かけます。けれど答えていいものかどうか…。
「その沈黙は怪しいと見た。無いと即答するわけでなし…。ブルー、正直に答えてもらうよ。スッポンだけで作った薬はあるのかい?」
「………。悔しいけれど存在する」
「よしっ! これでヌカロクも夢じゃない!」
「「「ヌカロク?」」」
それって何のことでしょう? 誰もが首を傾げましたが、会長さんはキッと柳眉を吊り上げて。
「ブルー! おかしなことを吹き込んだら許さないからね! ぼくにも我慢の限界がある!」
「ごめん、ごめん。つい嬉しくって…。で、スッポンの薬だけども。何処に行ったら買えるかな? お土産にぜひ欲しいんだ。君が買ってくれないんなら、今からちょっとノルディの家に…」
「それは困る!」
「じゃあ、買ってくれる?」
どうする? と笑みを浮かべるソルジャー。会長さんは額を押さえて考え込んでいましたが…。
「スッポンの薬…ね…。分かった、ハーレイに買わせよう。そんな怪しげなモノ、ぼくのお金で買いたくないし」
片付けが済んだら呼び出そう、と紅茶で喉を潤している会長さん。教頭先生、またまたお金を毟られることになりそうです。既に赤貧の筈なんですけど、この上にまだ毟りますか~!
リビングに移動した後、会長さんは早速サイオンの青い光を走らせました。教頭先生がセーターにジャケットというラフな格好で部屋の中央にパッと現れ、驚いた顔で周囲を見回します。
「こんにちは、ハーレイ。よく来てくれたね」
会長さんがニッコリと笑い、教頭先生が提げているスーパーの空の袋に目をとめて。
「あれ、買い出しに行くところだった? レジ袋持参なんて真面目じゃないか。お金もありそうで安心したよ」
「…今の私にそんな金があると思うのか? この袋はマザー農場で余った野菜を貰おうと思って…」
「なんだ、そういうことなのか。食材なら分けてあげてもいいよ。ぶるぅ、その袋に適当に入れてあげて」
「オッケ~!」
キッチンに走って行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」はすぐに袋を一杯にして戻って来ました。大きなタッパーも抱えています。
「煮込みハンバーグの残りを入れておいたよ。作りたてだから冷蔵庫に入れてくれれば明日も食べられるし!」
「くれるのか? それはありがたい」
お肉も魚も食べていないという教頭先生が手を伸ばした途端にタッパーはフッと消え失せ、会長さんが。
「ちゃんと冷蔵庫に送っておいたよ。食材も野菜室とかに分けて入れといた。…本当にお味噌しか入ってなかったね、冷蔵庫」
「誰のせいだと思ってるんだ! それにいったい何の真似だ? 宅配サービスをしに呼び出したのか?」
「まさか」
会長さんはクッと笑うと、ソルジャーの方を指差しました。
「ブルーがね。打ち上げパーティーで食べたスッポン料理が気に入ったらしい」
「…スッポン…?」
高かった筈だ、と呻く教頭先生。会長さんは気付かないふりをして続けます。
「その時、ブルーの世界のハーレイも一緒に食べたんだ。そしたら凄くスタミナがついて、最高の夜になったんだってさ」
「………!!!」
「でも、ブルーの世界ではスッポンは手に入らない。それでスッポンの薬が欲しいって言い出して…。ハーレイ、買い物に付き合ってくれるかな? 漢方薬の店に行きたいんだよ」
「な、なんで私が…」
オロオロとする教頭先生。ソルジャーが欲しがっているスッポンの薬が精力剤なのは明白です。会長さんに振られ続けている身だけに、精力剤のお買い物なんかには付き合いたくもないでしょう。けれど会長さんは平然として。
「じゃあ、ぼくに買えって言うのかい? この若さで? ずいぶんキツイ話じゃないか。そんな物にお金を出したくもないし、ハーレイにしか頼めないんだ。…現金の持ち合わせはなくてもクレジットカードは持ってるよね? それで買ってよ。食材もサービスしてあげたんだし」
「わ、私にスッポンを買いに行けと!?」
「安心して。付き合ってほしいって言っただろう? 買いに行くのはみんな一緒だ。漢方薬屋さんを貸し切りだよ」
シールドを使って他のお客さんはシャットアウト、と微笑む会長さん。
「ちょっと待て!」
キース君が割って入りました。
「みんなって…俺たちも連れて行くっていうのか?」
「もちろん。でないとハーレイが逃げちゃいそうだし。…ブルー、ぶるぅ、行こう、みんなを連れて飛ぶよ」
「「「えぇぇっ!?」」」
絶叫が終わらない内に私たちは青い光に巻き込まれました。身体がフワッと浮き上がります。ソルジャーのお買い物に付き合わされるとは想定外かも~!
「いらっしゃいませ!」
愛想のいい初老の男性の声で我に返った私たち。周囲の棚には草や木の実を乾燥させたモノがギッシリ並んでいます。漢方薬屋さんの店内に瞬間移動したようですが、これだけの人数が一度に出現しても驚かれないのは例の特殊なシールドの効果でしょう。会長さんが教頭先生の背中をバン! と叩いて。
「出番だ、ハーレイ。…スッポンを買ってくれるよね」
「…うう…」
教頭先生はカウンターに行き、頬を真っ赤にして「スッポンを…」と言いました。ところが店主の男性は…。
「粉末ですか、それともエキス? 黒焼きなども取り扱っておりますが」
「そ、そんなに種類が沢山あるのか?」
「当店はアルテメシア随一の品揃えを誇る老舗でして。お客様のご注文に合わせて各種調合も承ります」
「…どれなんだ、ブルー?」
教頭先生が振り向いた先には会長さんとソルジャーが双子のように並んでいます。進み出たのはソルジャーの方。
「えっと…分からないから効き目優先。夜の生活のパワーアップ」
「ああ、なるほど。…お相手が一度に二人でしたら、こちらなど…」
お盛んですねぇ、と笑う店主は教頭先生が双子相手に頑張っていると勘違いしてしまったようです。棚から薬の瓶を取り出し、中身の説明を始めました。
「当店自慢のスッポンセットでございます。スッポン粉末の他にマムシ粉末、マムシの肝など…」
「マムシも入っているのかい?」
興味津々で尋ねるソルジャー。マムシを知っているようですが、マムシも希少品だったりするのでしょうか? その辺の事情を知らない店主はニッと笑って。
「ええ、マムシも入っておりますよ。原料も揃えてございますので、お客様のニーズに合わせて一からお作りすることも…」
「そうなんだ。…じゃあ、夜に効くのはどの薬? ぼくたちのパートナーにピッタリの薬が欲しいんだけど」
ソルジャーが教頭先生の腕に抱き付き、会長さんを振り返ります。会長さんは棚の影に隠れ、教頭先生は真っ赤な顔で額の汗を拭うばかり。店主は主導権はソルジャーにあると見切ったらしく、あれこれ説明したり怪しげな干物を持ち出してきたり…。オーダーメイドの薬が出来上がる頃にはソルジャーはすっかり通になってしまったようでした。
「お買い上げありがとうございました! また御贔屓に」
サービスです、と教頭先生にスッポンドリンクを差し出す店主。教頭先生がカードで支払った額は先日のスッポン料理の二人前を軽く超えていました。それでたったの二百グラムというのは驚きですが、分量にすれば三ヶ月分になるのだとか。薬の瓶はソルジャーが受け取り、私たちは再び瞬間移動で会長さんのマンションに戻りました。
「まったく…。ぼくまでハーレイの相手だってことにされちゃうなんて! 店主の記憶は操作したからいいけどさ」
ブツブツと文句を呟く会長さん。その横から更に恨みがましい低い声が…。
「それを言うなら私の方だ。バカ高い薬を買わされた上に、妙な誤解を受けたんだぞ!」
「えっ? …ハーレイ、まだいたの?」
「お前が連れて来たんだろうが! 私は瞬間移動は出来ん!」
「家に帰したつもりだったんだけど…。ごめん、間違えちゃったみたいだ。さっきは支払いありがとう」
じゃあね、と会長さんがサイオンを発現させようとするよりも早く、ソルジャーが口を開きました。
「ぼくがハーレイを呼んだんだ。…ちょっと実験してみたくって」
「「「実験?」」」
不穏な響きに全員がソルジャーを眺めると…ソルジャーの手には小さなスプーンが。さっきのお店で貰っているのは見ていましたが…。
「ほら、ハーレイ。一回分はスプーン一杯だってさ。でね…」
これを飲んで、とソルジャーが水の入ったコップを教頭先生に渡します。教頭先生がコップを傾け、次の瞬間、ウッと呻いて。
「ブルー! …いえ、ソルジャー……まさか今のは…」
「うん。水を飲み込むタイミングで薬を放り込んだけど? もっと警戒するかと思ったのに」
ソルジャーは指を折って薬の原料を数えました。
「えっとね、マムシの他にコブラもお薦めですって言っていたから、蛇が二種類。違った、ハブも入れたんだった。それから海馬に鹿の角に…。オットセイも入れて貰ったし、とにかく抜群に訊く筈で…。どう、ハーレイ? アヤシイ気分になってきた?」
ソルジャーが話している間に教頭先生の息が荒くなり、「ちょっと…」と席を外そうとしたのですが。
「待って、ハーレイ。責任はぼくが取ってあげるよ。…実験だなんて言ってたけれど、薬を買ってもらったお礼がしたくて…」
高かったしね、とソルジャーは教頭先生にすり寄ります。
「ブルー、君のベッドを借りるよ。ついでに君のハーレイもね」
「えぇっ!?」
会長さんが叫んだ時には二人の姿はありませんでした。更にシールドを張られたらしく、会長さんは瞬間移動で追いかける代わりに廊下を走って行ったのですが…。
「ダメだ、扉が開かない」
寝室の扉を何度も叩いた末に、会長さんはペタリと座り込みました。
「ぶるぅと一緒にシールドを破ればいいんじゃないですか?」
シロエ君が提案しても会長さんは首を横に振って。
「…中の状況が状況だからね…。ぶるぅを巻き込みたくはないんだよ。でもジョミーにはまだ無理か…」
「ごめん。ぼく、サイオンは全然使えないんだ」
ジョミー君が項垂れ、キース君が。
「そうだ、あっちの世界のぶるぅはどうだ? あいつは妙にマセたガキだし、ちょっとやそっとじゃ驚かんだろう」
それを聞いた「そるじゃぁ・ぶるぅ」は急いで「ぶるぅ」と連絡を取っていたようですが…。
「うん、ぶるぅに聞いたらオッケーだって! すぐに送ってくれるらしいよ」
「「「送る?」」」
それは何かが違うんじゃあ…と思う間も無く、青い光が廊下に溢れて。
「ソルジャーがどうかなさったのですか!?」
「「「キャプテン!?」」」
立っていたのは「ぶるぅ」ではなく、船長服のキャプテンでした。扉の向こうではソルジャーが精力剤を飲んだ教頭先生の相手をしているというのに、そこへキャプテンが来るなんて…。ひょっとしてこれは修羅場ですか? 血の雨が降ったりしちゃうんですか~!?
とんでもない事態に震え上がった私たちでしたが、思念で詳細を知らされたキャプテンは至って冷静でした。扉は開かないままだというのに、落ち着いた口調で会長さんに。
「ここで騒いでいても無駄ではないかと思います。…ソルジャーは頑固な方ですから」
「じゃあ、どうしろと? 放っておいてお茶でも飲んでいろと?」
「それが最善だと思われますが」
「君は耐えられるのか、この状況に!?」
キャプテンは「はい」と静かに頷きました。
「ソルジャーが良しとなさったのなら私は何も言えません。…自分に嫉妬するのは不毛だと以前に申し上げたのですが、お聞き入れ頂けなかった…。それだけのことです」
凄いです、キャプテン! 目と鼻の先で浮気をされているのに許せるなんて…。それともヘタレゆえなのでしょうか? 恋人の浮気を止められないのは自分の甲斐性が足りないからだとキッチリ自覚してるとか? と、そこでカチャリと扉が開いて…。
「…ハーレイ?」
バスローブを羽織ったソルジャーが顔を覗かせ、キャプテンの身体が硬直します。
「お前がいるとは思わなかった。…なんで浮気がバレたんだろう?」
「…そ、ソルジャー…。や、やはり……やはりこちらの……」
さっきまでの威厳は吹っ飛び、憐れなほどにうろたえるキャプテン。ソルジャーはクスクスと笑いながら廊下へ出てきて胸元を緩めて見せました。
「ご覧、ハーレイ。…ほら、痕ひとつ無いだろう?」
「あ、あの……」
「今回も呆気なく轟沈したよ。ぼくの胸に鼻血を垂らしただけで、ね。…鼻血を洗い流すためにシャワーを浴びた。バスローブは置いてあったから借りた。…他に訊きたいことはある?」
事情は知ってるみたいだね、と微笑んだソルジャーはスッと寝室に姿を消すとソルジャー服に着替えて戻って来て。
「こっちのハーレイはお昼寝中だ。リビングに行こうか、戦利品を見せたいし」
「戦利品?」
「お前が呼ばれた原因の薬。まだ実物は見てないだろう?」
先頭に立って歩くソルジャーは楽しそうでした。教頭先生がアッサリ失神してしまうことを見越して寝室を占拠したのでしょうか? わざわざシールドまで張っていたのは私たちを騙すため…?
「決まってるじゃないか」
リビングに戻って会長さんに問われたソルジャーは悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「君たちは…少なくともブルーは、ハーレイの生態を熟知してると思ったけどね。いくら薬を飲ませたからって、ヘタレが治るわけではないよ。身体の方は凄かったけれど、それだけさ。パワーに気持ちが追い付いてない。獣になるには百年早いっていうところかな」
「……獣…ですか」
呆れたように言うキャプテンの目の前にソルジャーが薬の瓶を突き出して。
「そう、獣。お前ならこれで獣になれると思うんだ。スッポンにマムシ、コブラにハブに…他にも色々。スッポン料理なんか目じゃないってさ。こっちのハーレイは高いお金を払ってくれたし、お礼に付き合ってあげたんだけど…失神されちゃ興醒めだよね。続きはお前にお願いしよう」
「は?」
「ほら、水だ。飲んで」
あ。このパターンはついさっきの…! キャプテンは見事に引っ掛かり、口の中に広がった異様な味に目を見開きましたが手遅れです。ソルジャーは喉の奥でクッと笑って。
「それが獣になる薬だよ。さあ、帰って青の間で楽しもうか。…ぼくが二人いたって頑張れるほどのパワー溢れる薬なんだ。そう言って作って貰ったんだし」
「…ソルジャー…!」
「そんな情けない声を出さない。薬はたっぷり買ってきたから、目標はヌカロクで行ってみようか。サービスにスッポンドリンクも貰ったしさ」
ソルジャーはキャプテンの腕をグイと掴んで青いサイオンを迸らせます。
「じゃあね、また近いうちに遊びに来るよ。君たちのハーレイの後はよろしく」
目指せヌカロク! という声を残してソルジャーはキャプテンと共に消え失せました。修羅場は回避できましたけど、教頭先生の方はどうしたら…?
ソルジャーたちが帰った後、会長さんはリビングのソファで頭を抱えたままでした。教頭先生を強制送還するんだったら、早い方がいいと思うのですが…。失神している間に家へ送れば完了です。意識が戻ると話が何かとややこしそうで…。
「おい、いい加減に放り出さないと教頭先生が目を覚ますぞ」
キース君が会長さんの肩を揺さぶります。
「…そうだね…」
「そうだね、って…。目を覚まされたら厄介だろうが! それとも薬はもう切れたのか?」
「…切れてない…」
なんとも頼りない様子ですけど、こんなことをしていていいのでしょうか? さっきの薬が効いてるんなら、さっさとお帰り願った方が…。
「ブルー、とことん遊んでいっちゃったんだ」
深い深い溜息をついて会長さんが顔を上げました。
「「「は?」」」
「ハーレイをぼくの寝室に引っ張り込んで、すっかり脱がせてしまったんだよ。それから二人でぼくのベッドに…。シールドされてたから現場を見ていたわけじゃないけど、今の状況を見てみれば分かる。ぼくのベッドに…何も着てないハーレイが…。あんなモノ、瞬間移動をさせるのもイヤだ」
「「「………」」」
スッポンポンの教頭先生。それは確かに関わりたくないかもしれません。瞬間移動は便利ですけど、いくら手を触れずに移動可能であっても『移動させたい』と念じなければ動かせませんし、そうする為には対象物を把握しておく必要が…。
「ハーレイにお洋服を着せればいいの?」
ツンツン、と会長さんの袖を引っ張ったのは「そるじゃぁ・ぶるぅ」。
「ぼく、お洋服、着せてもいいよ? パンツを履かせて、それからシャツも…」
健気に言った「そるじゃぁ・ぶるぅ」を会長さんは驚いた顔でじっと見つめていましたが…。
「そうか、その手があったんだ! 着せられないなら着せればいいんだ」
さもいいことを思い付いた、とばかりに手を打ち合わせる会長さん。
「ありがとう、ぶるぅ。着せてしまえばいいんだよね。ぼくのベッドを使われたのも頭にくるし、けじめをつけて貰おうか。…ハーレイが気付くまでにはしばらくかかる。その間に…」
会長さんが「そるじゃぁ・ぶるぅ」の耳に何やらゴニョゴニョと囁きます。
「………。というわけだけど、頼めるかい?」
「うん! すぐに帰ってくるからね~!」
かみお~ん♪ と雄叫びを上げて「そるじゃぁ・ぶるぅ」が出かけて行きました。おつかい、おつかい…と楽しそうに飛び跳ねながら。おつかいって何? それに何処へ?
リボンでラッピングされた箱を抱えた「そるじゃぁ・ぶるぅ」が戻ってきたのは、それからすぐのことでした。会長さんは満足そうに頷き、箱のオマケのメッセージカードに何やらサラサラと書き込むと…。
「ぶるぅ、これをベッドの横に置いてきて。それからね…」
またゴニョゴニョと囁いています。「そるじゃぁ・ぶるぅ」は素直に頷き、箱を抱えて出て行って…。戻ってきた後は早めの夕食。手際よく作ってくれたカレードリアは冷凍してあったカレーを使ったらしいのですが、そうは思えない出来栄えです。ダイニングで美味しく食べていると、会長さんが人差し指を唇に当てて。
「シッ! …ハーレイが目を覚ました。みんな静かに」
「「「???」」」
「いいから黙って静かにしてて。すぐに分かる」
音をさせてはいけないよ、と言われて食事の手を止める私たち。もちろん会長さんもです。やがて扉がガチャリと開いて…。
「ブルー!!」
飛び込んできた教頭先生を見た私たちは石化しました。瞬間的に意識を失ったかもしれません。それは教頭先生も同じだったらしく、ダイニングに入ってすぐの所で見事に石像と化していますが、その姿は…。
「うん、なかなかにいい出来だ。ぶるぅ、いいのを選んできたね」
「ほんと? ピンク色のもあったんだけど、ブルーが白って言ったから…」
「こういうのは白が王道なのさ。それにピンクはハーレイじゃ似合わないんだよ。肌の色が濃すぎるから」
「あっ、そうか! ピンクよりも白がいいんだね」
会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」の声がとても遠くで聞こえます。頭も視覚も衝撃から立ち直っていないのでしょう。教頭先生が着けているのはフリルひらひらのエプロンでした。しかも…それだけ。エプロンから覗く手にも足にも、布は欠片も見当たりません。これって…もしや噂に聞く…。
「どうだい、ハーレイ? 裸エプロンの感想は」
とんでもない単語を口にしたのは会長さん。ああぁ、やっぱり裸エプロン…! それじゃエプロンの下は完璧に裸? 紅白縞のトランクスも無し?
「……ブルー……」
教頭先生の肩がブルブル震えています。会長さんはクスクスと笑い、手にしたスプーンで扉を示して。
「カードはちゃんと読んだよね? ベッドメイクを宜しく頼むよ。ブルーとベッドで楽しんだろう? そんなシーツで寝るのは嫌だし、新しいのと取り換えて。やり方は去年、お手伝い券で家政婦をしたから知ってる筈だ。…終わったら此処へ報告に」
「この格好でしろと言うのか!?」
「うん。ぼくのベッドで裸で昼寝した罰だ。終わるまで服は預かっておく」
「…………」
なんだか凄いことになったようです。教頭先生は全身を真っ赤に染めてジリジリと後ろに下がりましたが…。
「その不自然さはいただけないな。ちゃんと回れ右してくれないと。さあ、聞こえたんなら回れ右! そして出て行く!」
気の毒な教頭先生はクルリと反対を向きました。逞しい腰に蝶々結び。その下には…むき出しのお尻。あぁっ、凄いものを見ちゃったかも~! バタンと扉が閉まった後も私たちは固まったままでした。
「ふふ、裸エプロン、素敵だろう? 例の薬は効いてるけれど、もうそれどころじゃないだろうね。フリルでカバーするまでもなく萎萎さ。ベッドメイク完了の報告に来たら家に帰すし、薬の効果は一人でじっくり…。ぼくの水着アルバムで存分に盛り上がれるよ」
服はぶるぅが隠したんだ、と楽しげに笑う会長さん。教頭先生ったら、スッポン料理の代金を毟られ、スッポン配合の漢方薬代を毟られ、ついに服まで毟られて…スッポンポンでエプロン一枚。あまりにも可哀想とは思いますけど…思いますけど、どうしても…。
「「「ぎゃははははは!!!」」」
笑い声がダイニングに響き渡りました。誰もがお腹を抱えて笑っています。教頭先生、こんなギャラリーが注視する中、戻ってくる勇気があるのでしょうか? 戻れなければ裸エプロン、戻れば笑いの渦の中。そんなこととは知らないソルジャー、今頃はきっとキャプテンと…。ところでヌカロクって何なのでしょう? 教頭先生が無事にエプロンとお別れできたら、会長さんに訊いてみようかな…?
三日間の中間試験が終わり、シャングリラ学園は開放感に溢れていました。1年A組のみんなも会長さんにお礼を言って元気に教室を飛び出してゆきます。そんな中、私たち特別生七人組は会長さんより少し遅れて、いつもの「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋へ。
「かみお~ん♪ いらっしゃい! ブルーも来たよ」
嬉しそうに出迎えてくれた「そるじゃぁ・ぶるぅ」の左右に会長さんが一人ずつ。つまり、どちらかがソルジャーです。わざわざ同じ制服を着なくっても…。
「こんにちは。ハーレイは後から来ることになっているんだ」
そう言ったのがソルジャーみたいですけど、どうやって見分ければいいんでしょう?
「ごめん、ごめん。やっぱり区別がつかないんだね」
「君が制服を着たがるから! 今日は入れ替わりをするんじゃないし、もっと普通の…」
着替えを勧める会長さんにソルジャーは「嫌だ」と即答して。
「試験の打ち上げパーティーなんだし、制服でなくちゃ楽しくないよ。見分けがつかないって言うんだったら、キースが付けてるヤツはどうかな」
「俺?」
首を傾げるキース君。キース君って、何か付けてましたっけ?
「それだよ、左手首のヤツ。…なんて言ったかな、よく触っているよね」
「ああ、数珠か。俺も一応、坊主だからな」
「それそれ! 数珠レットって言うんだっけ? ブルーがそれを付ければいい。お坊さんだし、持ってないことはないんだろう?」
会長さんに…数珠レット。なんとも凄い提案ですが、高僧なのは事実ですから案外それでいいのかも…。けれど会長さんは首を縦には振りませんでした。
「ダメだね、数珠は神聖なものなんだ。ぼくはこれからハーレイのお金を毟りに行くんだよ? 色仕掛けで。これは仏様の教えに背くし、そういう時に数珠を付けるのは御免だな。…それより君が校章を外したまえ。一目で見分けがつくようになるよ」
「ちぇっ…。これも結構気に入ってるのに」
残念そうに襟の校章を外すソルジャー。あちらの世界では同じ紋章がミュウの紋章になっているそうです。ともあれ、これで会長さんとソルジャーの見分けは心配無用。お昼御飯のキノコのパスタを食べながら、ソルジャーは嬉々として語り出しました。
「ハーレイには何を食べるのか話してないんだ。時間になったら呼ぶからね、とだけ言ってきた。来てのお楽しみっていうヤツさ」
「…君の世界のハーレイはスッポンを知っているのかい?」
会長さんの問いに、ソルジャーはクスッと笑って。
「知らないことはないと思うよ。ヘタレだけど年は食ってるんだし、キャプテンを務めるからには知識も色々必要になる。ぼくの前では黙ってるだけで、多分ムッツリスケベだね」
色々と雑誌も渡しているし、とソルジャーは自信満々でした。脱・マンネリとか色々な特集があるようですけど、いったい何の雑誌なんだか…。
昼食の後はのんびりしてから教頭室へ出発です。私たちもお供するんだと思っていたのに、会長さんは。
「君たちとブルーは隠れていたまえ。でないと効果がイマイチだ」
色仕掛けにはサシでないと、と指示されたのは『見えないギャラリー』。シールドに入って見物をするパターンです。ソルジャーもシールドから出ないようにとキッチリ釘を刺されました。
「調子に乗って出てきたりしたら、スッポンを食べさせてあげないからね。財布はぼくが握ってるんだ。…ノルディに頼めば食べられるだろうけど、君のハーレイの分は断られるよ」
「そうだろうね…」
大人しくする、とソルジャーは神妙な顔で約束します。エロドクターにスクール水着を買わせたソルジャーですが、恋人と一緒の食事のスポンサーにエロドクターが不向きなことは流石に分かっているようでした。
「じゃあ、行こうか。ぶるぅ、シールドをお願いするよ」
「オッケー!!」
小さな身体から青いサイオンが迸り、私たちはたちまちシールドの中。ソルジャーも一緒に入っています。
「ぼくは信用されていないし、シールドはぶるぅに任せておくよ」
「いい心掛けだ。キース、もしもブルーがおかしな真似をしそうだったら…」
「技をかければいいんだな。シロエ、マツカ、お前たちもブルーに気をつけろよ」
「「はいっ!!」」
監視役の手配を終えた会長さんは壁を通り抜け、本館の方へと歩き出します。何人かの生徒と擦れ違いましたが、誰も私たちには気付きません。会長さんが一人で歩いているように見えるのでしょう。本館に入るとソルジャーが…。
『ブルー、上手にやるんだよ。練習した通りに、色っぽくね』
『分かってるさ! でも割り込みはお断りだよ』
思念を交わした会長さんは階段を昇り、教頭室の重厚な扉をノックしました。
「失礼します」
カチャリと扉が開き、素早く滑り込む私たちとソルジャー。そんなオマケがいるとも知らず、教頭先生は笑顔でした。
「おお、今日は一人で来てくれたのか。…それだけで幸せな気分になるな」
羽根ペンを置き、机の引き出しから熨斗袋を出して会長さんを手招きします。
「お前一人だと言ってくれれば、菓子くらい用意したんだが…。まあ、その分は打ち上げで楽しんでくれ。足りなかったら私の名前でツケればいいぞ」
「ありがとう。…でも…」
「なんだ? 何か気になることでも?」
教頭先生は近付いてきた会長さんの意図に全く気付きません。人の好い笑みを浮かべた瞬間、会長さんが教頭先生に抱きつきました。
「ブルー!?」
驚き慌てる教頭先生の耳元で、会長さんは熱い吐息と共に…。
「……欲しいんだ、ハーレイ……」
「…ブルー……?」
教頭先生の顔がみるみる赤くなります。ソルジャーに猛特訓された会長さんの悩ましい台詞にハートを直撃されたのでしょう。ギュッとしがみつく会長さんをどう扱えばいいのか分からず、教頭先生はパニックです。
「は、離れなさい、ブルー! こんな所を誰かに見られたら…」
「…欲しいって…言ってるのに……」
この一言で教頭先生の理性は焼き切れたらしく。
「ブルー…!」
思い切り会長さんを抱き締め返すと、上ずった声で言いました。
「…分かった…。本当にいいんだな? だが、ここはまずい。隣の部屋へ…」
仮眠室に連れ込もうとして会長さんを抱き上げます。この展開はヤバイのでは…、と青ざめる私たちを他所に、会長さんは教頭先生の胸に身体を擦り寄せて。
「…もっと…もっと、欲しいよ……ハーレイ…」
甘い声音に唾を飲み込む教頭先生。会長さんの右手がスルリと教頭先生の懐に滑り込み、教頭先生は感極まったように。
「ああ、ブルー…。私も…ずっとお前が欲しかった…」
教頭先生がキスをしようと唇を重ねかけた時、会長さんは突然クスクス笑い出しました。
「…ブルー!?」
急な展開についていけない教頭先生の腕を振り解いた会長さんが床にストンと降り立ちます。
「ふふ、お財布ゲット」
「!!?」
会長さんの手には、教頭先生の懐から抜き取ったらしいお財布が…。おねだりどころか強奪ですか~!
「悪いね、ハーレイ。…欲しかったのはこれなんだ」
硬直している教頭先生の前で会長さんは財布を開き、お札を全て引っ張り出します。熨斗袋も開け、合わせたお金を何度か数えて満足そうに頷くと…。
「ありがとう。これだけあれば足りると思う。足りなかったらツケておくよ」
「……足りない…って…」
ようやく我に返った教頭先生が掠れた声を上げました。
「いったい何をする気なんだ? 打ち上げパーティーじゃなかったのか…?」
「打ち上げだよ? 今回はゴージャスだから、一人前がね…」
会長さんが告げた数字に愕然とする教頭先生。
「ブルー…。その値段はちょっと高すぎないか? お前とぶるぅはともかく、他の子たちは…」
「今日はブルーも来るんだよ。ソルジャーとして頑張っているブルーをもてなすからには、高くつくのは仕方ないよね」
「………。そうか、ブルーか…。だが、どうして私が支払わなければいけないんだ?」
「だって打ち上げパーティーだし! いつも払ってくれるじゃないか。高すぎるのは分かっているよ。だからサービスしてあげたんだ。…いい夢を見られたと思うんだけど」
ねえ? と妖しい笑みを浮かべる会長さんに、教頭先生はアッと息を飲んで。
「…さっきの……アレか…? あれがお前のサービス…なのか…?」
「うん。盛大に勘違いしただろう? 欲しかったものはお金だけれど、そうは聞こえなかったよね。もう一回言ってあげようか? 欲しいんだ……ハーレイ…」
教頭先生は短く呻いてティッシュで鼻を押さえました。ソルジャー直伝の声と視線のダブルパンチで、耳の先まで真っ赤です。
「ほら、やっぱり声だけで十分じゃないか。今日のサービスはこれでおしまい。じゃ、有難く貰っていくからね」
「待ってくれ、ブルー! 給料日までどうやって暮らせばいいんだ!」
「…お金ならたっぷり持ってるくせに」
会長さんの視線はとても冷たいものでした。
「薄給なのは知ってるよ。…でも、それは教頭としての給料で…。シャングリラ号のキャプテンの方は相当な高給取りだろう? 全額貯金してるんだっけね。…ぼくと一緒に暮らす日のために手をつけないでいるんだっけ…? あれを使えばいいじゃないか」
ぼくは全然気にしないから、と言い放った会長さんは空の財布を指差して。
「そこにカードが入ってたよね。それで引き出せば済むことさ。…嫌だと言うなら耐乏生活。米と味噌だけで頑張ればいい。マザー農場に行けばクズ野菜とかが貰えるし」
「…お前のために貯めている金を使うわけには…」
「ぼくがいいって言ってるのに? じゃあ仕方ないね。学食のパンの耳とかもフル活用だ。…大丈夫、ハーレイなら乗り切れると信じているよ。期末試験の打ち上げパーティーも期待してるから」
情け容赦のない言葉を投げつけ、会長さんは教頭室を出てゆきました。私たちも後に続きます。気の毒な教頭先生は空になった財布を手にして溜息をつくばかりでした。
会長さんの『おねだり作戦』は見事成功。毟ってきたお金は十分な額がありそうです。教頭先生のことは心配ですが、貯金を沢山持っているなら安心かな? ジョミー君もそう考えたらしく、「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋に着くなり、会長さんに質問しました。
「教頭先生って、お金持ちなの? キャプテンのお給料ってそんなに凄いの?」
「…そうだねぇ…。その気になればノルディなんかより、いい生活が出来るかも…。でもハーレイは庶民派だ。ぼくと結婚しても、贅沢したいって言わない限りは今の生活を変えないだろう。あの家でぼくとぶるぅと三人で幸せに暮らすのが夢だっていう男だからさ」
「いっそパーッと使わせちゃえば?」
恐ろしいことを口にしたのはソルジャーでした。
「君のために貯めているんだろう? 結婚をちらつかせれば派手に散財しそうじゃないか」
「それは確かにそうだけど…。いくらぼくでも結婚詐欺はやりたくないよ。勝手に貢いでくれるんだったら大歓迎だし、毟り取るのも大好きだけどね。…どうやらハーレイ、米と味噌だけで頑張る決意をしたようだ。まあ、いざとなったら見かねた誰かがサポートするさ」
夕飯を御馳走するとか、お惣菜のお裾分けとか…、と会長さんは笑っています。教頭先生、涙ぐましい努力を重ねて貯金をしても、会長さんが相手じゃ永遠に報われないような気が…。けれどソルジャーはそうは思ってないらしく。
「さっきの演技はなかなかだったよ。君のハーレイもすっかりその気になってたし…。抱き上げられて熱い瞳で見つめられたら、君も乗り気にならなかった? あのままベッドに行ってもいい…って」
「冗談! そんなのお断りだよ」
「…そうかなぁ…。あの状況で財布だけ抜き取っておしまいなんて、ぼくなら物足りないけどね。せめてキスくらいはしておかないと」
「ぼくは君とは違うんだってば!」
会長さんとソルジャーは不毛な言い争いを始めました。この二人の恋愛観も交わることは無さそうです。そして決着がつかないままに打ち上げパーティーへ出発する時間になって、会長さんが。
「いいかい、これはブルーの頼みなんだけど…。今日の料理がスッポンだってこと、ぼくとブルーが口にするまで言わずに黙っていて欲しい。あっちの世界のハーレイへのサプライズにしたいらしいんだ」
「そうなんだよね。スッポンだって知らずに食べて、後になってから分かった方が素敵じゃないかと思ってさ」
「「「素敵…?」」」
「そう、素敵。…有難味がグッと増しそうだろう? それにスッポンだと分かっちゃったら、食べてくれない可能性も…」
伝説の精力剤の材料だから、と笑うソルジャー。
「ぼくのハーレイはヘタレだしね。君たちの前でスッポンを食べろと言ったら逃げ出しそうだ」
うーん、確かにそれはそうかも。スッポン料理は私たちの世界では単なる高級料理ですけど、それを知らないキャプテンにすれば、とんでもない料理かもしれません。…ここはソルジャーに任せましょうか。
予約していたスッポン料理専門店は高級なお店が軒を連ねるパルテノンの一角でした。タクシーに分乗して行き、お店の表でキャプテンを呼び寄せるという手筈です。瓜二つの会長さんとソルジャー、それに教頭先生そっくりのキャプテンという面子なだけに、目立たないようシールドを張っておくのだとか。
「今、展開しているシールドはね…」
お店の前に並んだ私たちに会長さんが説明しました。
「ぼくたちへの注意を逸らす効果があるんだよ。人が集まってるのは分かるけれども、それが誰かは気にならない。同じ顔が二人いるとか、いきなり一人増えたとか…。細かいことに気付かないよう、情報を撹乱してるのさ」
「…そんなこともできるのか…」
感心しているキース君。そこへサイオンの青い光が走って、制服姿のソルジャーの隣に、船長服のキャプテンが…。
「ほら、ハーレイ。挨拶を」
「これは…。御無沙汰しております」
キャプテンが笑顔で右手を差し出します。いつぞやのスクール水着騒動の時に会ってはいますが、話をする余裕はありませんでした。豚かつパフェという恐ろしいモノがキャプテンを待ち受けていたのですから。…それを食べさせた張本人のソルジャーはニコニコとして。
「今日はゲテモノじゃなくて、ちゃんと普通の料理だよ。とても美味しいらしいんだ」
「…らしい、とは…。召し上がられたことはないのですか?」
「実はぼくも初めてでね。でも、ブルーとぶるぅは何度も食べているんだってさ」
それを聞いたキャプテンの視線が会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」に向けられます。
「かみお~ん♪ ぼく、このお店、大好きだよ! ホントのホントに美味しいんだから!」
「ぼくも好きだな。きっと君たちも気に入ると思う。…それじゃ、入ろうか」
いかにも老舗らしい暖簾をくぐって会長さんが入ってゆきます。私たちはビクビクですが、会長さんは平気そう。年のせいかとも思いましたけど、マツカ君もビクビクしてはいませんし…やっぱり馴れの問題でしょうか。案内されたのは畳敷きの重厚なお座敷でした。みんなの席が決まった所で会長さんが仲居さんに。
「…食事の後で持ってきて欲しいものがあるんだけれど…」
いいかな? と何やら小声で囁いています。サイオンでシールドされていたのか、私たちには全く聞こえませんでした。仲居さんが出て行った後、ソルジャーも不思議そうに首を傾げて。
「何を頼んでいたんだい? ちょっと聞こえなかったんだけど」
「ほら、君が見たいって言ってたヤツ」
「…ああ、あれね。で、見られそうかい?」
「大丈夫だって。楽しみにしてて」
双子みたいな会長さんとソルジャーは顔を見合わせてクスクス笑っています。食事の後に何が起こると…? 私たちやキャプテンが尋ねても二人は答えず、そのまま食事が始まりました。
一番最初に運ばれてきたのは綺麗なグラスに入った赤いジュース。会長さんの瞳みたいに真っ赤です。でも飲んでみるとリンゴ風味の果汁でした。美味しいね、とジョミー君が喉を鳴らしています。甘いものが苦手だというキャプテンも、このジュースの味は気に入ったようで…。
「リンゴのような味がしますが、リンゴそのものではないようですね。地球にしかない果物でしょうか?」
「そういうわけではないんだけれど…。地球にしかない、という点に関しては正しいかな」
意味深な笑みを浮かべる会長さん。赤いジュースの正体は、献立が出ていない為に私たちにも分かりません。前に教頭先生がパルテノンの料亭でゼル先生とヒルマン先生に絞られるのを見に行った時は献立がちゃんと出ていたのですが、ここのお店は出さない主義かも?
「違うよ」
私の思考が零れ出したのか、会長さんが口を開きました。
「普通なら献立は出るんだけれど、今日はサプライズだからね。…献立は食事の後で持ってきてくれる。そう言って予約しておいたから」
なるほど…、と頷く私たち。献立にはスッポンの文字がある筈ですし、料理の正体がキャプテンにバレてしまいます。お店の暖簾には屋号しか書かれておらず、キャプテンはスッポン料理専門店だと気付いていません。ソルジャーに『地球の伝統あるコース料理』が食べられる店だと説明されて、部屋の構造を興味深そうに眺めているだけです。
「伝統建築というヤツですか…? 私たちの世界では失われてしまったものですね」
「面白いだろう、ハーレイ。だからこの店を選んだんだよ。ぼくたちの世界にも遥か昔はこういう建物があったらしいとヒルマンに聞いた。…人類がまだ地球にいた頃」
その地球にいた幻の生き物、スッポンを食べに来ていることをソルジャーはしっかり黙っています。次に運ばれてきた唐揚げは、どうやらスッポンのようですが…。
「これ、ニンニクを絡ませてあるから美味しいんだよ」
大好きなんだ、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が嬉しそうに頬張り、ソルジャーとキャプテンも満足そう。その次がメインのお鍋です。一人用の土鍋にグツグツとスープが煮えたぎり、一口大に切ったお肉がたっぷりと…。火傷しそうに熱々のスッポン鍋は凄い値段がするだけあって絶品でした。
「本当に美味しい料理ですね」
感心したように呟くキャプテン。
「何の肉が入っているのでしょう? 牛や豚ではないようですし、魚でもないようですが…」
「地球でしか獲れない貴重な肉を使ってるんだ。ぼくたちの世界では食べられないよ」
「そんな貴重なものなのですか? では味わって食べないと…」
キャプテンは何度も「美味しいです」と繰り返しながらスッポン鍋を完食しました。お鍋の次はスッポンのスープを使った雑炊です。これがまた深いお味で、ソルジャーもキャプテンも大満足。もちろん私たちも舌鼓を打ち、雑炊の後はお漬物と果物が出て…会長さんがソルジャーに。
「どうだった、ブルー? 君が食べたかった料理の味は」
「最高だよ。ハーレイも気に入ってくれたようだし、機会があったらまた食べたいな」
「それもいいかもしれないね。…献立は記念に持って帰るだろう?」
「もちろん。ぼくも正式な料理の名前を知りたいし」
そこへ仲居さんが献立を持ってきてくれたのを、会長さんが受け取って皆に配って回ります。でもキャプテンの分だけは…。
「はい、ブルー。君とハーレイの分」
ソルジャーが纏めて貰ってしまい、キャプテンは見事に蚊帳の外。何処までスッポンを伏せる気だろう、と思いつつ献立を見た私たちは…。
「「「生き血!?」」」
赤いジュースの正体は、スッポンの生き血にリンゴジュースを混ぜたものでした。と、とんでもないモノを飲んじゃったかも~!
スッポンの生き血をジュースと信じて飲んだ私たちは上を下への大騒ぎ。まだスッポンだとは明かせないので「ビックリした」とか「飲んじゃった」とか、そういうことしか言えないのですが…キャプテンの耳には十分に届いていたらしく。
「生き血…ですって…? ブルー、さっきのジュースのことですか…?」
「うん。実はそうなんだ」
献立を隠すようにしながら答えるソルジャー。まだスッポンとは言いません。
「生き血とは穏やかではありませんね。いったい何の生き血だったと…?」
「もうすぐ分かる。ブルーが頼んでくれていたから」
ソルジャーがそう言った時、「失礼いたします」と男性の声がして、襖がカラリと開きました。板場の白い服と帽子を着けた若い男性が正座しています。その隣には大きな木桶が一つ。
「ご注文の品をお持ちしましたが、どちらに置かせて頂きましょうか?」
会長さんが頷き、床の間の方を指差して。
「そうだね…。あっちの隅に置いて貰おうかな」
「かしこまりました」
男性は木桶を重そうに床の間に近い隅っこに置くと、一礼して去ってゆきました。桶の中にはいったい何が…?
「気になるんなら覗くといいよ。ブルーが見たがっていたものだけど、君たちが見てもいいだろう」
会長さんが言い、早速ソルジャーが見に行きます。パシャン、と小さな水音がして…。
「凄いよ、ハーレイ! ぼくたち、これを食べたんだ。献立に書いてあるだろう?」
見においで、と招くソルジャーの手から献立が一枚、キャプテンの前へと飛んで行って…。
「スッポンですって!?」
驚いたキャプテンが桶に近付き、覗き込みます。私たちも覗きましたが、そこには生きたスッポンが…。キャプテンは目を白黒とさせ、桶の中身を見下ろして。
「スッポン…ですか…。この亀が…?」
「間違いない。ライブラリで見たデータと同じだ。ハーレイも知っているだろう? 伝説の薬の材料だよ」
「それは…存じておりますが…。あのスッポンを…食べてしまった…と…」
キャプテンは真っ赤になって私たちをグルリと見回します。
「ブルー、あなたは…何を思ってスッポンなんかを!」
途端に青い光が走り、キャプテンの姿は消えていました。ソルジャーがフゥと溜息をついて。
「危ない、危ない。小さな子供も聞いているのに、凄いことを叫ばれる所だった。…楽しい夜になりそうだから、ぼくも失礼しようかな」
「ブルー!!」
会長さんが叫ぶよりも早く、ソルジャーは制服からソルジャー服に着替えて青いサイオンの光に包まれてゆき、残された思念が伝わってきます。
『また報告がてら遊びに来るよ。土曜日のお昼頃、みんなでブルーの家に来て』
ええっ? いきなり報告会? それも強制参加ですか…?
「なんだか嫌な予感がする…」
報告だけで済めばいいけど、と呟いている会長さん。ソルジャーの惚気を聞かされるのは確実です。しかも十八歳未満お断りな話をたっぷりと…。これはスッポンの祟りですか? 生き血を飲んだせいで呪われましたか~?
収穫祭が終わるとシャングリラ学園は中間試験を迎えます。でも会長さんのお蔭で1年A組は試験勉強とは無縁でした。更に特別生ともなれば成績なんかは二の次で…。中間試験は三日間。二日目の試験を終えた私たちは「そるじゃぁ・ぶるぅ」のお部屋でシーフードたっぷりのグラタン風オムライスを食べていました。
「試験の時って、お昼御飯も食べて貰えるから嬉しいな♪」
自分の分をパクつきながら「そるじゃぁ・ぶるぅ」はニコニコ顔です。
「今日の卵はマザー農場で貰って来たんだよ。こないだ、ブルーと一緒にお泊まりした時、農場長さんが好きなだけ貰いに来ていいよ、って言ってくれたし」
「…マザー農場ね…」
ジョミー君が溜息をつきました。
「あそこのせいで、ぼくの人生、狂っちゃったよ。…テラズ様にさえ会わなかったら…」
「テラズ様? もう落ちてこないし、いいじゃない。ねえ、ブルー?」
「ああ。ただの人形に戻ったし、魂はちゃんと成仏している筈だよ。後はジョミーが供養してやれば、喜ぶだろうと思うんだけどね」
お念仏の声は極楽浄土まで届くんだ、と会長さん。
「農場長が言ってたよ。キースのお勤めも良かったけれど、ジョミーのお勤めも見てみたい…って。頑張って高僧になって下さいね、と伝えておいてくれってさ」
「…え? そんなの言ってたっけ? 確かに握手はされたけど…」
「あの日じゃなくて、また別の日だよ」
会長さんがオムライスをスプーンで掬って。
「この間の土曜日に行って来たんだ。アルトさんとrさんを連れてね」
「「「えぇっ!?」」」
アルトちゃんとrちゃんがマザー農場に? いずれ仲間に…とは聞いていますが、もう行動を起こしましたか!?
「違う、違う。あの二人にはシャングリラ号のことは教えてないし、ぼくたちの正体も明かしてはいない。君たちも経験してきたとおり、話すとしたら冬休み頃になるだろう。…マザー農場に行ってきたのは気分転換」
「気分転換?」
なんだそれは、とキース君が尋ねると…。
「ほら、いつも逢瀬は女子寮だからね。忍び込むのも迎える方もスリル満点で素敵だけれど、たまには見咎められない場所で会うのもいいかと思ってさ。あそこの宿泊棟は快適だったし、食事もとっても美味しかったし」
「泊まったのか!?」
キース君が叫び、私たちの目が点になります。会長さんは悪びれもせずに頷きました。
「そうだけど? アルトさんとrさんの部屋は個室にして貰ったんだ。ぼくは二人が一緒の部屋でも気にしないけど、女の子ってデリケートだしね。…両手に花で楽しくやるにはまだ早すぎる」
「た、楽しくって…」
口をパクパクさせるキース君でしたが、会長さんは全く気にしていませんでした。
「楽しくの意味が分からない? 女の子の部屋へ夜中に遊びに行ったら、やることは一つしかないだろう。ふふ、農場の夜も良かったよ。前と違って余計な邪魔も入らなかったし。ね、ぶるぅ?」
「うん! テラズ様がいないと静かなんだ。ブルー、ぐっすり眠れたみたい。ぼく、ブルーが帰って来るまで起きていようと思ったんだけど、すぐ寝ちゃった。朝になったらブルーもベッドで寝てたけど」
うーん…。会長さんったら、アルトちゃん達を外泊させちゃったみたいです。しかもマザー農場でお泊まりだなんて! そりゃあ、下手にホテルなんかに連れ出すよりは人目につかないと思いますけど…。
シャングリラ・ジゴロ・ブルーな会長さんは糾弾するだけ無駄でした。マザー農場の職員さんたちにも「特別に目をかけている子」だと紹介したらしく、アルトちゃん達は二日間の農場ライフを満喫して寮に帰って行ったのだとか。そんな話、私たちは全然聞いていないんですけど~!
「アルトさん達は質問されない限り、わざわざ話しはしないと思うよ。普通はそういうものだろう?」
プライベートなことなんだし、と会長さん。二人とも外泊許可はきちんと貰ったらしいのですが、同行者の欄にはフィシスさんの名前を書いて提出していたらしいです。それを聞いたキース君が顔をしかめて。
「あんたがそう書けと言ったんだろうが、フィシスさんはそれでいいのか?」
「いいんだよ。フィシスはぼくの女神だからね、ぼくのことには寛容だ。…ぼくがハーレイと泊まると言っても、きっと微笑んで許してくれるさ」
「「「教頭先生!?」」」
「…そんなにビックリしなくても…。冗談に決まっているじゃないか。ハーレイと同じベッドで寝る趣味は無いよ。ぼくがハーレイとそういう仲になることよりは、ジョミーが高僧になることの方が現実的な話だよね。…まだまだ先の話だけれど」
ねえ? と言われてジョミー君が金色の髪を押さえます。
「やっぱりお坊さんにならなきゃダメ? ぼくもいつかはツルツルに…?」
「そうしてくれると嬉しいねえ。サイオンで誤魔化すという手もあるけれど、坊主頭は基本だし…。キースも一度は剃ったことだし、ジョミーも剃髪してみるといいよ。ぼくが綺麗に剃ってあげようか、冬休みにでも?」
「やだよ! キースだって剃っていないのに!」
「簡単に決心はつかない…か。じゃあ、キースが道場に入る時に合わせて得度するかい? 二人一緒なら心強いだろう。…キースも坊主頭には抵抗があるみたいだからね、ジョミーが道連れっていうのは名案じゃないかと思うけど」
水を向けられたキース君は「なるほど…」と深く頷いて。
「それは確かに嬉しいな。一人よりは二人の方がいい。ジョミーも今から頑張っておけば、俺みたいに大学に行かなくっても道場入りが出来る筈だ。どうだジョミー、お前が道場に入れる時まで俺も入らずに待つっていうのは」
「ぼくの将来を決めないでよ! テラズ様のせいでおかしなことになっちゃったけど、まだ諦めちゃいないんだから! それに坊主ならサムがいるだろ!」
サムが剃髪すればいいんだ、とジョミー君はビシッと指差したのですが…。
「サムはダメだよ」
会長さんがすかさず割って入りました。
「ぼくの恋人候補なんだから、並んだ時に絵にならないのは困るんだ。坊主頭なんてもっての外さ。そうだよね、サム?」
「うん。…ブルーに前から言われてるんだ。剃髪だけはいけないよ、って」
デレッとした顔で答えるサム君。ジョミー君とキース君は顔を見合わせ、それから会長さんを見て…。
「「贔屓だ!!」」
「それが何か?」
会長さんは当然という風でした。
「悔しかったら、君たちも頑張りたまえ。ぼくの心を動かせたなら、剃髪コースを逃れられるかもしれないよ?」
「それより先にお坊さんコースから逃げてやる!」
ジョミー君が叫びましたが、そう上手くいくものでしょうか。マザー農場での一件以来、会長さんに仏弟子認定されているのは事実です。朝のお勤めをしに来るように、と勧誘されたり脅されたり。今のところは「そんな朝早く起きられない」とか何とか言って逃げてますけど、いつか捕まってしまいそうな気が…。
お坊さんは嫌だ、と騒ぐジョミー君の姿はすっかり名物になってしまっていました。会長さんが乗り気なだけに、助け船を出す人もありません。サム君は同士が増えたと喜んでますし、キース君も同じでした。今日は剃髪が関係していただけに少し流れが違いましたけど、基本はやっぱり変わらなくて…。
「いいんだ、どうせ誰もブルーを止めてはくれないんだ…」
いじけてしまったジョミー君。
「ぼく、お坊さんにされちゃうんだ。パパもお祖父ちゃんもハゲてないのに、ツルツル頭になっちゃうんだ…」
「落ち着きたまえ、ジョミー。誰も今すぐとは言ってない」
君を苛めるつもりはないし、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」に食後の飲み物を頼みました。
「ゆっくり考えてくれればいいよ、出家のことは。仏様の道に親しむことから始めよう、って言ってるだろう。ほら、ジュースでも飲んで気を静めて」
これもいつものパターンです。根が楽天家のジョミー君は喉元過ぎれば熱さを忘れるタイプ。みんなでジュースや紅茶を飲んで雑談する内に、お坊さんの話題は何処かへ消えてしまいました。
「でね…」
明日はどうしよう、と会長さん。
「打ち上げパーティーは何を食べたい? この前は焼肉だったし、そろそろ鍋もいいかもね」
「串カツ!」
ジョミー君が元気一杯に叫び、みんな口々に意見を述べます。その最中に会長さんが言い出したことは…。
「今回はゴージャスに毟り取ろうと思ってるんだ。いつもの倍の予算でもいいよ」
「「「ゴージャス!?」」」
「うん。…最近のハーレイは熨斗袋を用意しているから、つまらなくって。この間のデザートバイキングの時はブルーが乱入して来て酷い目に遭ったし、今度はリベンジ」
「リベンジって…」
何をやらかす気だ、とキース君が尋ねると会長さんは悪戯っぽい笑みを浮かべました。
「おねだりだよ。…言葉通りのおねだりだけど?」
「…それの何処がリベンジなんだ?」
「ふふ、知りたい? じゃあ、予行演習しとこうか」
スゥッと息を深く吸い込んだ会長さんの唇が動き、そこから紡ぎ出された言葉は。
「……欲しいんだ、ハーレイ…」
吐息混じりの甘い声音に、私たちはビックリ仰天。な、なんですか、この声は!?
「…もっと…もっと、欲しいよ……ハーレイ…」
切なげに眉を寄せる会長さん。表情も普段とはまるで違って見えます。なんというか…妙に艶めかしいような…。と、そこへ突然、空気が動いて。
「やり直し!!」
「「「えぇっ!?」」」
いきなり姿を現したのは、会長さんそっくりのソルジャーでした。紫のマントを着けて部屋の中央に立っています。
「今の、最初からやり直し! 全然気持ちがこもってないっ!!」
「え、えっと…。何…?」
衝撃から立ち直った会長さんが何のことかと問いかけると、ソルジャーは優雅にソファに腰をおろして。
「まるで分かってないみたいだね。やり直し、って言ってるんだ。NGって言えば分かるかな? 大根だって言いたいんだけど」
「大根?」
「そう、大根。…大根役者」
ソルジャーはクスッと笑いました。
「今の台詞。ハーレイを落とすつもりなんだろ? 君のことだから冗談なのは百も二百も承知だけれど、ぼくとしては見ていられないな。下手くそすぎて涙が出るよ。…演技指導をしてあげよう」
「ちょっ…。ブルー、演技指導って!」
椅子ごと後ずさる会長さんにソファから立ち上がったソルジャーがゆっくりと近付きます。
「いいから、いいから。…さっきの台詞が完璧になるまで付き合おう。さあ、始めて」
「ブルーっっっ!!!」
絶叫する会長さんの腕をソルジャーがしっかりと掴み、ソファへ引き摺って行きました。並んで腰かけさせられてしまった会長さんは真っ青です。…演技指導って、いったい何?
「いいかい、君がおねだりするのはお金じゃなくってハーレイなんだ。ハーレイ自身が欲しいんだろ?」
ソルジャーは会長さんの肩に両手を乗せて妖しい笑みを浮かべます。
「さっきの演技じゃ全然ダメだね。何が欲しいのか、一言でハーレイに分からせないと。…ぼくがあんな調子で同じ台詞を言ったら、ハーレイはきっとこう言うよ。何をお持ちしましょうか…って」
お腹が空いて死にそうだとしか聞こえないし、と会長さんをなじるソルジャー。えっと、会長さんがおねだりしなくちゃいけないものは、お金じゃなくて教頭先生? それってやっぱり十八歳未満お断り…?
「そうだよ」
思考が零れてしまったらしく、ソルジャーがこちらを振り向きました。
「ブルーは色仕掛けでハーレイから毟り取ろうと思ってたのさ。…確かに君たちの世界のハーレイならば、あれで十分なのかもしれない。でも、その道の先達として下手な演技は許せないんだ。もっと迫真の演技でハーレイに迫ってくれないと…。ほら、ブルー。もう一度」
「…そ、そんなこと…言われたって…」
「その気になれない? じゃあ、その気になれるようにおまじない」
会長さんの顎を捉えたソルジャーが唇を重ねようとするのを、会長さんは必死の形相で振り払って。
「ブルー! き、君はいったい…」
「嫌だった? 前はキスしてくれたのに…。ああ、そうか。あれは交換条件だっけ」
ソルジャーは青ざめている会長さんに「ごめん」と謝ったものの、肩が笑いで震えています。
「そんなので色仕掛けなんて、百年早いと思うけどね。でも、やろうと思った以上はやり遂げたまえ。…ぼくは乗りかかった船は絶対に降りない主義なんだ。さあ、頑張って練習しようか」
気の毒な会長さんは蛇に睨まれた蛙でした。まずは表情から、と言われて四苦八苦。
「ダメだ、もっと瞳を潤ませないと。もっと、そう…欲情に濡れた感じが欲しいんだけど」
「ぼくには絶対無理だってば!」
「じゃあ、目薬」
持ってきて、と指図が飛んで「そるじゃぁ・ぶるぅ」が走ります。目薬でなんとかクリアしたか…と思ったら、鬼監督はそれでは済まず…。
「今ので少しは分かっただろう? 次は目薬無し。もっと切なく!」
厳しい指導が飛びまくるせいで、台詞の妖しさは感じられなくなってきました。私たちの感覚の方が麻痺したのかもしれません。やっとのことでオッケーが出た時、会長さんも見ていただけの私たちもすっかり疲労困憊でした。
「うん、これでなんとか見られるレベルになったかな。…ぼくのハーレイでも落とせそうだ」
満足そうに微笑んだソルジャーは壁の時計に目をやって。
「あれっ、おやつは? 今日はまだ出して貰ってないよね」
「忘れてたぁ! 取ってくるから、ちょっと待ってて」
キッチンに駆けてゆく「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、ほんの小さな子供です。お芝居の稽古みたいだ、とはしゃいでいたのは最初の内だけ。同じ台詞の繰り返しに飽きると土鍋の中に入ってしまい、ウトウト昼寝をしていましたから、おやつも忘れていたのでしょう。
「かみお~ん♪ お待たせ! 今日はサバランを作ったんだよ」
シロップたっぷりのお菓子が入った器がテーブルに運ばれてきました。疲れに効くのは甘いもの。サバランで疲労回復ですよ!
美味しいお菓子と生クリームたっぷりのココアで人心地がついた頃、口を開いたのはソルジャーでした。
「明日は打ち上げパーティーだろう? ぼくも混ぜて欲しいんだけど」
夏休み前のパーティーが楽しかったから、と言われると会長さんも断れません。
「…それで演技指導に来たってわけ? 君の分の費用も毟り取るために?」
「うーん、それもあるけどね…。正確に言うと、もう一人混ぜて欲しいんだ。ついでに、まだ何を食べるかが決まっていない段階だろう? ぼくに選択権をくれないかな」
「君が料理を決めるって?」
「………ダメかい?」
私たちを見回すソルジャー。別の世界のシャングリラ号に住むソルジャーの生活はグルメなどとは無縁です。そのソルジャーに食べたい料理があるなら、ここは譲るしかないでしょう。でも…ソルジャーって私たちの世界の料理に詳しい人でしたっけ…? 会長さんも同じことを考えていたようで。
「決めるのは別にかまわないけど、行きたい店があるって言うほど食べ歩きをしていないだろう? そりゃ…何度かは一緒に行っているけれど」
「ぼくも店のことはよく知らないんだ」
ソルジャーは素直に頷きました。
「ほら、ぶるぅが前にアルテメシアのグルメマップを貰っただろう? 来る時の参考にしたいから、って」
「そういえば…渡したっけね。あれが何か?」
「この間、借りて読んでみたんだ。そしたら信じられない料理があった。あれって本当にそうなのかな…」
自信が無い、と呟くソルジャー。信じられない料理って…まさかソルジャーが食べたい料理は、ゲテモノ料理だったりしますか? 二人分と言い出すからには「ぶるぅ」も一緒に来るのでしょうが…。
「信じられない料理って、何さ? それを食べたいって思ってる?」
「うん。…あれが本当にそうならね」
「それじゃ全然分からないよ。あれって何なのかを言ってくれないと」
痺れを切らした会長さんに、ソルジャーは珍しく言い淀んで。
「…でも、本当に自信が無いんだ。ぼくが思っているとおりの料理だったら、ぜひ食べたい。それも一人じゃなくて二人で。…もしも違うなら、選択権は要らないよ。食べに行くのもぼくだけでいい」
「ますます分からないってば! とにかく料理の名前だけでも…」
「……スッポンなんだ」
「「「は?」」」
全員の頭の上に『?』マークが出たと思います。スッポンって…亀ですよね? スッポン鍋とかスープとかで食べる、あのスッポン? それがソルジャーの食べたいもの?
「…スッポンって…」
会長さんが恐る恐るといった様子で切り出しました。
「スッポン鍋? それともスッポン尽くし? 店は色々あるけれど…確かに高級料理の部類に入る。ハーレイの懐も、とても寂しくなりそうだ。でも、なんでまたスッポンなんか…。君は食べたことがあるのかい?」
「…ぼくが知ってるスッポンだったら、多分一生食べられないよ」
「一生食べられないって…どんなスッポン?」
「亀さ。…グルメマップにはスッポンとしか書いてなくって、写真も調理済みのヤツばっかりで…。亀かどうかは分からなかった」
大真面目なソルジャーの言葉に頷くしかない私たち。スッポンといえば亀に決まっていますし、わざわざ書きはしないでしょう。会長さんは宙にグルメマップを取り出し、パラパラとページをめくってみて。
「うーん…。君の言うとおり、これだけじゃスッポンが亀かどうかは分からないね。…で、結論から言えば、ここに載ってるスッポンは全部、亀なんだけど。君の世界では絶滅したとか?」
「いや、絶滅はしていない。…していない…と思う。多分ノアには、いるんじゃないかな」
「ノア?」
「首都惑星の名前さ。ぼくの世界を統治する政府が置かれている星。何処にあるのかは知らないけれど、メンバーズエリートだとか、元老だとか…お偉方が沢山住んでいるらしい。その連中くらいしか手に入れられないのがスッポンなんだ」
なんと! ソルジャーの世界でスッポンと言えば超のつく高級食材でしたか…。会長さんも唖然としています。
「…そうなんだ…。じゃあ、究極のグルメってわけだね」
「グルメどころの騒ぎじゃないよ。そのスッポンを食べるだなんて、本当に信じられないな」
「でもスッポンは食べ物だよ?」
「…ぼくの世界じゃ薬なんだ。それも薬の材料の一つ。スッポンだけで作った薬も昔はあったと聞いているけど…今は無い。とにかく希少な生き物なのさ。生息環境が限られていて、地球ではかなり早くに絶滅したと聞いている。それが食べられるんなら、食べてみたいよ」
薬ですって? スッポンが? 言われてみれば怪しげな薬の広告なんかにスッポンが…。と、シロエ君が。
「もしかして漢方薬の材料ですか?」
「そう。漢方薬は地球に昔からある薬だってね。ぼくの世界では入手できなくなった材料が多いらしくて、データしかない薬もある。スッポンだけで作った薬もそうなんだ」
我が意を得たり、とソルジャーは嬉しそうでした。怪しげな薬ではなくて普通に漢方薬でしたか…。ソルジャーは嬉々として続けます。
「効能が素敵なんだよね。スッポン配合を謳った薬も凄そうでさ…。でも、高級以前に希少品。お偉方しか入手できない。ぼくたちの船が隠れているアルテメシアじゃ、お偉いさんが小物すぎるから輸入されることもないだろう」
「…ブルー…」
低い声を出したのは会長さん。
「その薬って、ろくでもないヤツじゃないだろうね? スッポンといえば滋養強壮、健康維持に冷え性、美肌。でも一番先に思い付くのは…」
「精力増強、夫婦円満」
ソルジャーがサラッと言い放ちました。げげっ、やっぱり怪しい薬じゃないですか! 会長さんも不機嫌な顔で。
「夫婦円満は知らないけれど、一般的には精力剤だ。それを承知で君はスッポンを食べたい、と?」
「うん。スッポン配合の薬でさえ手に入らないと思っていたのに、原料のスッポンが食べられるんだよ? まるで夢みたいな話じゃないか。あ、ぼくの世界の薬っていうのも精力剤さ。メンバーズって独身が条件のくせに、お盛んだよねえ。そんな薬が入り用だなんて」
クスクスと笑うソルジャーは壮大な勘違いをしていそうです。スッポンを食べただけでは劇的な効果は無いんじゃないかと思うんですけど…。会長さんもその点を指摘しましたが。
「いいんだ、スッポンは伝説に近いからね。食べたってだけでも心理的な効果はあるかと」
「効果って?」
怪訝そうな会長さんに、ソルジャーはクスッと笑みを零して。
「二人分、って言っただろう? もう一人はぶるぅじゃなくてハーレイなんだ」
「「「ええぇっ!?」」」
「ハーレイにスッポンを食べさせたい。だから打ち上げはスッポン料理!」
勝ち誇ったように言うソルジャーの瞳は本気の色を浮かべていました。打ち上げパーティーにスッポン料理。しかもソルジャーの世界のキャプテンまでがやって来るって、何ごとですか~!
パニックを起こした私たちでしたが、ソルジャーは譲りませんでした。どうしてもキャプテンにスッポン料理を食べさせたい、と言うのです。
「だってさ。…伝説の精力剤の原料だよ? 粉さえも手に入らないものが料理になって出てくるんだよ? そんなのを食べたら効きそうじゃないか。ハーレイったらヘタレだからね、自発的に精力剤を飲んでくれたりはしないんだ。だから食べさせようと思って…」
それに美味しいって書いてあるし、とグルメマップを示すソルジャー。根負けした会長さんが選んだお店はスッポン料理専門店でした。お店の案内を覗き込んだ私たちは料金に顔面蒼白です。
「…ブルー、ほんとにこの値段なの?」
震える声はジョミー君。一人前のお値段は、一泊二日の安いツアーなら十分お釣りがくるほどで…。
「どうせなら此処がいいだろう。何回か行って美味しいことは分かっているし、ハーレイの懐への打撃も大きい」
「ぼくもその店を見てたんだ。夢が叶って嬉しいよ。…明日はスッポンが食べられるんだね」
ソルジャーはとても幸せそうに微笑み、「じゃあね」と帰ってゆきました。えっと、えっと…明日は打ち上げパーティーで…教頭先生からお金を毟って、ソルジャーとキャプテンを連れてスッポン料理。なんだかとんでもなさそうですけど、食べに行くだけだし、平気ですよね…?
屋根裏の箱に戻されたのに、脱出してきたテラズ様。キース君の曾お祖母様の魂が宿っているのだと思っていたら、そうではなくて付喪神…。しかもジョミー君に一目惚れだなんて、本当でしょうか? 疑わしそうな目で会長さんを見る私たち。日頃の行いが行いだけに、簡単には信じられません。
「…疑われてるみたいだね。でもテラズ様は付喪神だし、ジョミーに一目惚れっていうのも本当のことさ」
「なんで…ぼく?」
ジョミー君の問いに、会長さんは肩を竦めて。
「さあね? 多分、好みに合ったんだろう。最初にジョミーの前に落ちてきたのはそのせいなんだ。存在をアピールするには、まずお近づきにならないと」
「…………」
言葉が出てこないジョミー君。私たちはテーブルに置かれたテラズ様とジョミー君を交互に見つめ、顔を見合わせては肘でつつき合っていましたが、そこへ職員さんたちがヒョッコリ顔を覗かせました。
「朝御飯の支度が出来てるけれど、もう持ってきてもいいのかしら?」
朝一番の騒ぎを聞き付けて階段を上って来た職員さんたちを「なんでもないから」と下がらせたのは会長さんです。朝食の用意が出来たら声をかけて、と頼んでましたし、様子を見にきてくれたのでしょう。
「ああ、さっきはごめん。キースの朝のお勤めも済んだし、お願いするよ」
会長さんが笑顔で応え、職員さんたちは厨房からハムや卵料理、サラダなどを運んで来ました。テーブルにお皿を置こうとすると、嫌でもテラズ様が目に入ります。配膳の手がピタリと止まって、職員さんたちは…。
「…テラズ様…?」
「もしかしてさっきの凄い騒ぎは…」
ジョミー君の顔が引き攣り、会長さんは軽くウインクしました。
「分かってくれた? またテラズ様が出たんだよ。ジョミーのことが好きなんだってさ」
「「ええっ!?」」
「ああ、勘違いしないようにね。実はテラズ様に宿ってるのはキースの曾お祖母様じゃない。古い道具とかに魂が宿る付喪神っていうヤツだけど、どうやらジョミーに惚れたらしくて…。天井裏に戻された後も諦めきれずに、夜中に頑張って出てきたみたいだ」
「…付喪神ですか…」
「放っておいてもいいんですか?」
職員さんたちは心配そうにテラズ様を眺めています。この建物の上棟式に納められた人形だけに、それが付喪神になって出歩くとなれば、気になるなんてものじゃないでしょう。
「大丈夫だと思うけどね。建物そのものの霊っていうわけじゃないし、座敷童子に近いかな。座敷童子は悪戯好きだと聞いているから、出歩くくらいは平気だろう」
それより早く食べたいんだけど、と催促をする会長さん。職員さんたちが搾りたての牛乳と焼きたてパンを配ってくれて、テラズ様を囲んでの朝の食事が始まりました。
朝食の材料はマザー農場で生産されたものばかりです。お料理が大好きな「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、これが楽しみだったようでした。
「産みたての卵って美味しいよね。時々、分けて貰うんだ。日曜日とかに」
会長さんが起き出す前に農場に来て、卵とかを貰って帰るのだとか。もちろんそれは会長さんの食卓に…。
「自分でお料理するのもいいけど、お客さんになるのも楽しいや。ブルーは滅多にお料理しないし」
「ぶるぅの方が上手だからね」
クスクスと笑う会長さんに、サム君が意外そうな表情で。
「えっ、ブルーが料理を?」
「そうだよ。いつも言ってるじゃないか、大抵のことは出来る、って。ハーレイがギックリ腰で寝込んでた時は、ぶるぅを手伝いにやらせたからね。…掃除も洗濯も全部自分でしてたけど?」
「じゃ、じゃあ…。あの時にブルーの家で出して貰った朝御飯って…」
「ぼくの手料理に決まってるだろ。ふふ、朝のお勤めに必死で気付かなかった?」
サム君は会長さんの家へ阿弥陀様を拝みに通っています。お勤めに出かけた日は御褒美に会長さんと朝御飯を食べ、一緒に登校してくるのですが…なんと手料理を御馳走になっていましたか! でもサム君は手料理だったとは気付かずに今日まで来たようで…。
「そうか…。ブルーが作ってくれてたんだ…。駄目だよな、俺…」
恋人候補も失格かも、と嘆くサム君。会長さんの手料理だったと気付かなかったショックもさることながら、大好きな会長さんが初めて作ってくれた記念すべき料理を、じっくりと味わいもせずに食べた自分が許せないということらしいです。
「あの時、何を食べたっけ? オムレツだっけ、それともスクランブルエッグ…? えっと、えっと…」
「ぶるぅ直伝のオムレツとトースト、サラダにフルーツ。…細かい所はぼくも忘れた」
「オムレツ!?」
うわぁぁ、とサム君は頭を抱えました。「そるじゃぁ・ぶるぅ」が作るオムレツはふんわりしていて絶品です。それと変わらないレベルのオムレツを会長さんが作ってくれたというのに、記憶に無いのは無念でしょう。スクランブルエッグか目玉焼きなら少しは救われたのでしょうが…。
「せっかく…せっかくブルーが作ってくれたのに…。俺って馬鹿だ…。ぶるぅが留守にしてるんだから、朝飯が出るってことはブルーが作ったってことなんだよな…」
「何もそんなに気にしなくても…。また機会があったら作ってあげるよ」
だから頑張って朝のお勤めに通っておいで、と会長さんに優しく微笑みかけられ、サム君の頬が染まります。会長さんとの朝食の他に手料理という御褒美が加わった以上、サム君は更に気合いを入れて朝のお勤めに通うでしょう。幸せそうなサム君をキース君がジロリと睨んで。
「…朝のお勤めはとても大事なものなんだぞ。デート気分でやられたんでは…」
「いいじゃないか、キース」
会長さんが割って入りました。
「動機は何であれ、お勤めをしようと思う心が大切なんだ。テラズ様のことで騙した件は謝るよ。だからサムを苛めないでやってくれないかな」
「…テラズ様、か…。あんた、付喪神だと言っていたな。俺にはサッパリ分からないんだが、本当にこいつが動いてたのか? おまけにジョミーに惚れただなんて…」
動かないぞ、とテラズ様を指先で弾くキース君。会長さんはニッコリと笑い、サラダを頬張っているジョミー君に。
「ミルクをおかわりしないかい? それともジュースがいいのかな」
「…えっと…。オレンジジュース! こっちに回して」
「了解」
会長さんのすぐ横に牛乳やジュースを入れた容器が並んだワゴンがあります。会長さんは新しいコップを手に取り、オレンジジュースを注ぎ入れて…。
「はい」
コトン、と置いたのはテーブルの上。隣のサム君が運ぼうとして伸ばした手を遮ると、会長さんはテラズ様をトントン、と軽く叩きました。
「聞こえたかい? ジョミーはオレンジジュースが欲しいらしいよ。運んであげたら喜ぶだろうね」
「「「ええぇっ!?」」」
ピョコン、と跳ね起きたテラズ様。まさか本当に動けるんですか!?
「び、びっくりした…」
ゼイゼイと肩で息をしているジョミー君。私たちは宿泊棟が遠くに見える牧草地の端に来ていました。乳牛を飼っている牛舎があって、その隣の作業員用らしき小屋の扉を会長さんが押し開けます。
「入って。…まさかここまでは来ないだろう」
我先に中に入ると「そるじゃぁ・ぶるぅ」が扉を閉めて、中から鍵をかけました。会長さんは宿泊棟の方を思念で探っているようでしたが…。
「うん、大丈夫みたいだよ。どうやら宿泊棟の外に出ることはできないらしい。…この先はどうなるか分からないけど」
「わ、分からないって…」
ジョミー君の声が震えています。
「ぼくを追っかけてくるってこと? こんな所まで?」
「…力が大きく伸びるようなら、農場だけでは済まないだろうね。いずれ学校やジョミーの家まで…」
「……そ、そんな……」
ジョミー君は真っ青でした。追いかけてくる、というのはテラズ様です。朝食のテーブルで起き上がったテラズ様は、オレンジジュースが入ったコップの周りをコトンコトンと跳ね回ったものの、手足が無いためにコップを運ぶことができません。そこでジョミー君の前まで跳ねて行くと謝るようにペコペコ身体を傾け始め、我に返ったジョミー君の悲鳴が響き渡って…。
「なんで人形が動くのさ! おまけに追っかけてくるなんて…」
朝食を放り出して逃げたジョミー君と、それを追ってきた私たち。テラズ様もジョミー君を追ってテーブルから飛び降りたのは知っていますが、その後のことは謎でした。会長さんの話では宿泊棟の玄関から外に出ることが出来ず、力尽きて床に転がっているのを職員さんが拾ったようです。
「屋根裏に戻そうか、と思念波で連絡が来たけど、どうする? 戻してもジョミーの滞在中は確実に落ちてくるだろうね。で、ジョミーを探して歩き回る、と。…それくらいなら戻さない方が平和じゃないかな」
「……そうだね……」
悔しいけれど仕方がない、とジョミー君は同意しました。会長さんは職員さんたちと思念で連絡を取り合い、テラズ様は食堂に置いておくことに決まった様子。でも、テラズ様に追いかけられるジョミー君の運命は…?
「ぼく、これからどうなっちゃうんだろう…? 付喪神だか何だか知らないけれど、ずっと追いかけ回されちゃうの? 一目惚れだなんて聞かされたって、ぼくには何にも分からないよ!」
「…まあ、今のジョミーには無理だろうね」
会長さんが小屋の中の椅子に腰かけ、私たちも他の椅子に座りました。手作りらしい木製の頑丈な椅子です。おそらく休憩用の小屋なのでしょう。会長さんはジョミー君を見つめ、腕組みをして。
「テラズ様の思考はサイオンの力では読み取れない。ベクトルがちょっと違うんだ。ぼくは高僧としての力があるから付喪神だとすぐ気付いたし、ジョミーに一目惚れをしていることにも気付いたわけさ。君はテラズ様の声を聞いたそうだけど、見つけた…っていう声だけだよね。テラズ様の心の声は聞こえない」
「聞きたくもないよ、そんなもの!」
「…聞きたくないのはかまわないけどね。相手の声が聞こえないってことは、対処の仕方が無いってことさ」
「えっ…」
息を飲んだジョミー君に、会長さんは畳みかけるように。
「君にはテラズ様の心が分からない。つまり気持ちが通じ合わない。通じない以上、迷惑だ、って叫んだところでテラズ様は分かってくれないよ。…テラズ様は君に惚れたんだ。きっと健気に追いかけてきてくれるだろうねぇ」
「で、でも…」
「今はまだ宿泊棟から出られないけど、力がついたら知らないよ。何処へだって行けるようになったら、君は立派な付喪神憑きだ。テラズ様が身の回りのことをしてくれる日も遠くはないかもしれないね」
そういう例を知っている、と会長さんは言いました。とある高僧の持ち物だった人形に魂が入り、書の手伝いをしたり、お寺の夜回りをしたりして仕えたとか。
「君もテラズ様を便利に使ってみたらどうだい? 手足が無いのが難点だけど、恋する一念でカバーするさ」
「やだよ、あんなの! 第一、ぼくの好みじゃないし…」
「好みじゃなくても一緒にいるしかないと思うよ。気持ちを伝える方法が無けりゃ、喧嘩することも出来ないしね。一方的に惚れられたまま、有意義な日々を過ごしたまえ。…大丈夫、ぼくもハーレイとは三百年以上の付き合いだ」
それじゃ、と出て行こうとする会長さんを止めたのはキース君でした。
「ちょっと待て! あんたの話を聞いた感じじゃ、テラズ様を止めるには…調伏するしかないってことか?」
「そうなるね。調伏するか、魂を抜くか。…どっちにしても坊主の出番さ」
でも、と会長さんはニヤリと笑って。
「ぼくは手を貸すつもりはないよ。ジョミーは仏の道への誘いを断ったからね、阿弥陀様を拝みに来ないか…って言ったのに。だから坊主の力を借りずに自力でなんとかしてみたまえ。…ぶるぅ、行こうか」
おやつのケーキが焼けたみたいだ、と会長さんは「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れて小屋を出て行ってしまいました。
開け放された扉から覗くと、宿泊棟の前で職員さんが手を振っています。美味しいケーキは魅力的ですが、あそこに帰るとテラズ様が…。私たち、いったいどうしたら…?
その日からテラズ様はジョミー君にベッタリでした。何をするわけでもないんですけど、ジョミー君の行く先々にコトンコトンと付いていきます。行動範囲は日増しに広がり、今は農場の中なら何処でもオッケー。バスルームまでくっついてきて、トイレ以外は常に視線を感じるのだとか…。同室のサム君は「音と姿くらいしか気にならない」と言っていますし、私たちもそれは同じです。
「うん、馴れてくると可愛いものだね」
健気なペットみたいに見える、と会長さんが微笑んだのは収穫祭の日の朝食の席。もうすぐシャングリラ学園の生徒たちが来て、農場体験とジンギスカン・パーティーのお祭り騒ぎが始まります。つまり私たちの宿泊体験は明日まで。それまでの間にジョミー君からテラズ様が離れなかったら、その時は…。
「いい雰囲気になったことだし、テラズ様とジョミーも今や公認カップルかな。ジョミーは明日には家に戻らなくっちゃいけないけれど、この調子なら一緒に暮らせるようになる日も近そうだ」
テラズ様が農場を出られないならジョミーがマザー農場に就職すればいいんだし、とニコニコ笑う会長さん。本気で言っているのでしょうか? 朝食が終わると会長さんはシャングリラ学園の生徒たちを乗せたバスを出迎えに行ってしまって、それっきりでした。
「アルトとrが目当てだろうさ。フィシスさんも来るしな」
女好きめ、とキース君が毒づきます。キース君はあれから色々な手を試したのですが、テラズ様を封じる方法はついに見付かりませんでした。
「…すまん、ジョミー…。俺にもっと力があれば、そいつをなんとか出来たんだがな」
「仕方ないよ。キースのお父さんでもお手上げだって言ったんだろう? きっと究極の秘法なんだ。…それを知ってるブルーに頼めば、坊主になれって言われちゃうんだ」
もう諦めることにした、とジョミー君は溜息をつきました。
「テラズ様がぼくの家に来たらパパもママも腰を抜かすだろうけど、ぼくがツルツル頭のお坊さんになって帰るよりかはビックリしないと思うんだよね。…ほら、夏休みに璃慕恩院の修行体験に行ったじゃないか。あの時、ママがお坊さんになるのかって心配そうにしていてさ…」
「まあ、普通はそうかもしれないな。俺の場合は坊主頭を大いに期待されてるようだが」
似合わないと思うんだがな、と呟くキース君。テラズ様はジョミー君のカップの横で楽しそうに跳ねていました。やがて農場長さんがシャングリラ学園のみんなと遊ばないのか、と聞きに来ましたが…。
「行きたいのは山々ですけど、テラズ様がくっついて来るのは確実ですし…」
マツカ君がテーブルの上を指差し、私たちは一斉に頷きます。
「うーん、すっかり懐かれてしまったねえ。うちは構わないから連れて帰ってくれてもいいよ」
「…ありがとうございます…」
力無い声のジョミー君。テラズ様はジョミー君にくっついて回り、私たちはシャングリラ学園のみんなの楽しそうな声を遠くに聞きながら宿泊棟で過ごしたのでした。
収穫祭が終わり、生徒たちを乗せたバスも帰って日が暮れてきた頃、賑やかな笑い声と共に現れたのは…。
「「「教頭先生!?」」」
農場長さんや会長さんと一緒に教頭先生が立っていました。左手にボストンバッグを提げています。
「みんな元気にやってたようだな。今夜は私も世話になるんだ」
特別生の宿泊体験最後の夜は、教頭先生がシャングリラ号のキャプテンとして泊まる慣例があるのだそうです。マザー農場とシャングリラ号が密接な関係にあるからでしょう。教頭先生は職員さんに案内されて二階へ荷物を置きに行き、すぐに私たちのいる食堂へやって来ましたが…。
「そこで跳ねてる妙なのはなんだ?」
ジョミー君が座っている椅子の周りでテラズ様が跳ねていました。さっきは視界に入ってなかったみたいです。会長さんがクスクスと笑い、ジョミー君を指差して。
「紹介するよ。彼女はジョミーの恋人なんだ。テラズ様って名前でね、この建物の上棟式で屋根裏に納められた人形が本体の付喪神。名前の由来は…」
一部始終を聞いた教頭先生はしばらくの間、笑っていました。
「テラズのナンバー・ファイブがモデルだなんて、言われなければ分からんな。私もたまに木彫りをするが、ここまで凄いものはなかなか…」
「テラズ様に失礼だよ、ハーレイ。女性の心は繊細で傷付きやすいってこと、分かってる? まあ、あんな不細工な木彫りが作れる君には言うだけ無駄だと思うけど。…ほら、これがハーレイの作品の一つ。ぶるぅを彫ろうとしたらしいんだ」
「「「ぶぶっ!!」」」
会長さんが宙に取り出したのは鏡餅のような物体でした。丸まった「そるじゃぁ・ぶるぅ」の姿を彫ったのでしょうが、どう見ても鏡餅もどきです。教頭先生がアタフタする中、彫刻はフッと消え失せました。
「ところで、ハーレイ。…シャングリラ号に人形は乗っていないだろうね? 船霊様がどうとかって言った仲間がいたのを思い出したら心配になって…。あるとしたら機関室の中か、ブリッジの近くだと思うんだけど」
「船霊様…? 人形は乗っていないと思うぞ。だが、船霊様なら機関室に」
「あるのか!?」
「いや。…祀ろうとした仲間がいたが、ゼルと喧嘩になったんだ。機関室はゼルの管轄だからな、センスが無いとかなんとか言って怒って御札を撤去していた」
その後は知らない、と教頭先生。もしかしたらゼル先生のお好みに合った御札か何かが祀られてる…のかも知れません。会長さんは頭を抱え、教頭先生に機関室のチェックを命令しました。
「いいかい、妙な人形とかがあったとしても、迂闊に近寄らないように。でないとジョミーの二の舞になる。こうなりたくはないだろう?」
「…うむ。私が付喪神を持ち帰ったら、お前に散々笑われそうだ」
「お祓いするのも高くつくよ。ぼくはタダ働きって好きじゃないんだ」
そうだろうな、と苦笑いする教頭先生。食事の用意をしてくれていた職員さんたちも笑っています。テーブルにはビーフシチューや新鮮な野菜のサラダが並び、マザー農場最後の夕食が始まりました。テラズ様はジョミー君のお皿の横でクルリクルリと回転中。明日、ジョミー君が家に帰ってしまったら…テラズ様はどうするんでしょうねえ?
夕食が済んでお風呂に入り、スウェナちゃんと一緒に片付けられた食堂に行くと教頭先生と農場長さん、二人の女性職員さんがキース君の夜のお勤めを見ていました。マツカ君にシロエ君、会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」もいます。キース君のお勤めは管理棟の人たちの名物になり、朝のお勤めの時はいつも複数の人が見に来ていたり…。
「お念仏って効かないんだよね…」
罰当たりな言葉と共に現れたのはジョミー君でした。肩にテラズ様が乗っかっています。
「おい、ジョミー! 阿弥陀様に聞こえるぞ」
サム君が指を唇に当てましたけど、ジョミー君は更に唇を尖らせて。
「お念仏を唱えれば救われる、って璃慕恩院で教わったのに、嘘ばかりだよ。テラズ様にくっつかれてから、キースに言われて何度お念仏を唱えたと思う? だけど全然ダメじゃないか」
キース君が叩き鉦をキーンと打ち鳴らしました。ここから先はお念仏の繰り返しです。会長さんがジョミー君の方を振り向き、思念波に乗せて。
『ジョミー、お念仏を唱えたまえ。阿弥陀様に失礼なことを言っただろう』
「失礼ってなんだよ!」
ついにブチ切れたジョミー君。
「阿弥陀様が何なのさ! ぼくのお願いも聞けないくせに、偉そうな顔して大っ嫌いだよ! お念仏なんて絶対嫌だ! 阿弥陀様なんて大っ嫌いだーっ!!」
絶叫と共にジョミー君の身体が淡い光に包まれました。あの青い光は…サイオン…? キース君は全く気付かず、お念仏を唱えています。朗々と響く南無阿弥陀仏の声と叩き鉦。鉦がキィンと鳴った瞬間、食堂の床からポウッと無数の花の蕾が現れ、たちまち開いて美しい蓮が部屋一杯に。
「「「えぇっ!?」」」
しかしサイオンに包まれたジョミー君は何も見ておらず、キース君も無我の境地でした。打ち鳴らされる鉦の音とお念仏の中、紫の雲が棚引いて…御厨子に納まった阿弥陀様の手から五色の糸がスルスルと伸び、ジョミー君の左手首にクルリと巻き付き、目の眩むような金色の光がジョミー君を覆ったと思ったら…。
「…南無阿弥陀仏」
チーン、と鐘が鳴り、お勤めが終わりました。金色の光も蓮の花も見る間に消え失せ、キース君がジャラジャラと数珠を擦り合わせています。ジョミー君がハッと我に返って。
「あれ? ぼく、今…」
「おめでとう、ジョミー」
満面の笑みでやって来たのは会長さん。
「阿弥陀様に選ばれるなんて、君の素質も大したものだ。みんなの目にも見えただろう? 蓮の花が咲いて、五色の糸が阿弥陀様とジョミーを結んだ。ジョミーは阿弥陀様にお仕えする人になるんだよ。…テラズ様、残念だけど君はジョミーの修行の邪魔になる。ジョミーを思うなら身を引きたまえ」
いいね、という会長さんの声が終わらない内にゴトンと鈍い音がして…テラズ様は床に落ちていました。
「えっ?」
驚いたジョミー君が拾い上げてもテラズ様は二度と動かず、会長さんが水晶の数珠を取り出してテラズ様を撫で、口の中で何かを唱えて農場長さんを手招きすると。
「…終わったよ。もうテラズ様は動かない。元通り、ただの人形さ。明日、屋根裏に戻してくれ」
「はあ…。いったい何をなさったのです?」
「ぼくが発動させるつもりで仕掛けを撒いておいたんだけどね。まさかジョミーが自分でやるとは…。仏弟子として目覚めたらしい」
会長さんは御機嫌でした。蓮の花も五色の糸もサイオニック・ドリームの一種で、テラズ様にジョミー君を諦めさせるために仕掛けておいたみたいです。何が起きたのかを聞いたジョミー君とキース君の反応は…。
「嫌だよ、なんで阿弥陀様にお仕えしなくちゃいけないのさ!」
「そんな凄いことが起こっていたのか…。ジョミー、お前の力で仕掛けが発動したというなら、それは立派な御仏縁だ。仏の道に入るべきだぞ」
「嫌だーっ! テラズ様の方がまだマシだーっ!!!」
泣き出しそうなジョミー君でしたが、テラズ様に憑かれるよりは修行の方がマシなのでは…。そして翌朝、テラズ様は屋根裏に戻され、阿弥陀様は瞬間移動で会長さんの家に送られました。
「いやあ、昨夜の光景は本当に有難いものでしたよ」
どうぞ精進して下さい、と農場長さんがジョミー君の手を握ります。
「あなたがタイプ・ブルーだったとは…。テラズ様に惚れられたのは災難でしたが、これに懲りずにまた遊びに来て下さいね。シャングリラ号の乗員を兼ねている者も多いですから、ソルジャー候補は大歓迎です」
「ソルジャーはぼくだ。当分、譲るつもりはない」
会長さんが偉そうに言い放ちました。
「ジョミーはソルジャー候補じゃなくて、大事な高僧候補なんだよ。これからじっくり仕込みたいから、シャングリラ号には乗せたくないな。サイオンの訓練よりも今は修行を先行させる」
「…修行って…」
不安そうなジョミー君の声に、会長さんはニッコリ微笑んで。
「まずは朝のお勤めから始めようか。君が立派な高僧になればテラズ様の魂も喜ぶだろう。一目惚れした君の将来のために、テラズ様は身を引いたんだから。…そうだろう、キース?」
「一理あるな。付喪神だか何だか知らんが、お前に惚れ抜いて側にいたいのに涙を飲んで消えたんだ。生涯をかけて供養するのが正しい道だと俺は思うぞ」
会長さんとキース君。二人がかりで畳みかけられ、進退極まったジョミー君は屋根裏に向かって大声で。
「テラズさまーっ! 帰ってきてよ、テラズ様ってばーっ!!」
けれど血を吐く叫びも空しく、テラズ様は落ちてきませんでした。迎えのマイクロバスが横付けされて、私たちと教頭先生を乗せて走り出します。マザー農場での日々はテラズ様を巡る民話のような不思議体験。シャングリラ号を陰で支える仲間たちとの交流という目的からは大きく外れていたような…。まあ、ソルジャーである会長さんが満足ならば、それでいいのかもしれません。ジョミー君には気の毒ですが、ここは諦めて貰いましょうか…。