シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
十四歳の小さなブルー。アルビノであることや前世の記憶を持っていることを除けば、見た目はごくごく普通の少年。整った顔立ちは人目を引くけれど、それでも特異な存在ではない。
しかし前世のブルーは違った。迫害されていたミュウたちの長として立ち、白いシャングリラを守っていた。最後の最期まで守り続けて、独りきりでメギドを沈めて死んだ。
今の小さなブルーからすれば恐ろしくもさえ思える前世。その始まりはアルタミラでの成人検査からであったし、それよりも前の記憶は無い。辛くもアルタミラを脱出した後も不遇の人生だった気がする。ささやかな幸せはあったけれども、毎日が船の中だった。
船から出る時は戦いか、仲間の救出ばかり。外の世界は人類のもので、ブルーには手の届かない世界。いつか行きたいと焦がれた地球にも辿り着けずに、ただ独りきりで宇宙に散った。
けれど……。
(…ハーレイが居たから幸せだったよ)
自分のベッドに仰向けに転がり、ブルーは前の生の自分を思い出す。
ソルジャー・ブルーと呼ばれていた頃のブルーを側で支えてくれたハーレイ。キャプテンだったハーレイはブルーの右腕であり、私生活ではブルーの恋人。二人の仲を誰にも明かせはしなかったけれど、心も身体も固く結ばれた恋人同士であったハーレイ。
(ハーレイが居てくれたから幸せだったし、幸せな記憶ってハーレイばかりだ…)
どんな幸せにも、必ずハーレイの姿があった。恋人同士で過ごす時間はもちろんのこと、日常の小さな幸せでさえもハーレイから貰っていたように思う。公園の花が咲きそうですよ、と誰よりも早く教えてくれたり、「試作品が出来たそうです」と勤務時間中にお菓子を届けてくれたり。
食堂の新しいメニューの試食はキャプテンの仕事の範疇だったが、ソルジャーは違う。ブルーを神のように崇めたクルーたちは完成品しか届けたいとは思わなかった。だから試作品は貰えない。アルタミラの地獄を、その後の物資不足の時代を生きたブルーは焦げていたって平気なのに。
(…ハーレイはそれも知ってたものね)
ブルーが「普通の仲間でありたい」と思っていたことを。失敗作のお菓子を皆と一緒に試食してみたり、その失敗を笑い合ったり。そうした人間味の溢れる時間が欲しかった。けれど、青の間にそういったものを持ち込もうとする者は誰もいなくて…。
(ハーレイだけが持って来てくれてたんだよ、試作品のお菓子)
流石に焦げてはいなかったけれど、改良の余地がありそうなお菓子。青の間に届けられる頃には完璧に仕上がっているだろうそれは、少し硬かったり、甘すぎたりして面白かった。
(お菓子は部屋でも食べられるから、余分に貰うって言ってたっけね…)
自分の部屋でも試食するから、と嘘をついてブルーの分を貰ってくれたハーレイ。料理の試食はその方法が使えないから、食べられたものはお菓子だけ。それでもブルーは嬉しかった。
日常の幸せから、非日常まで。何処にでもハーレイの姿があったし、いつもブルーに寄り添って幸せをそっと与えてくれた。
戦いから戻れば皆が労ってくれたけれども、キャプテンの貌をしたハーレイの言葉が心に優しく染み通った。無事に戻れたと、ハーレイの所に帰って来られたと幸せな気持ちが溢れて来た。
地球を抱く女神、フィシスを見付け出した時も、まずハーレイに相談した。フィシスの生まれが普通ではないことも、ハーレイにだけは素直に明かした。それでも連れて来たいと思う、と。
ミュウではないフィシスを船に迎える。反対されるだろうと考えたのに、ハーレイは否と答える代わりに「私は何も聞きませんでした」と笑みを浮かべた。地球の映像を抱く神秘の少女。彼女が抱く地球はシャングリラの皆を癒すだろうから、それで充分ではないか、と。
(…記憶を消せとまで言ったよね、君は)
うっかり秘密を漏らさないよう、自分の記憶を消してしまえとハーレイはブルーに進言した。
ブルーの我儘に過ぎない偽りに加担した上、それが偽りだと知られないよう、真実を知っている自分の記憶を消去しろとまで言ってくれたハーレイ。その優しさに涙が零れた。もちろん、記憶は消さなかった。そしてハーレイは何も言わずに、フィシスを船に迎え入れてくれた…。
(…君のお蔭で、ぼくはいつでも地球を見られた。あの地球はぼくの憧れだったよ…)
フィシスの記憶に刻まれていた地球。本物の地球だと信じていた。いつかあの青い地球まで辿り着くのだと自分を鼓舞した。挫けそうになる心を叱咤していた。いつか必ず青い地球へ、と。
それが叶わないと気付かされた時、ハーレイの胸に縋って泣いた。もう行けないと、自分の命は地球に着くまで持たないのだと。地球に行けないことも悲しかったけれど、それよりもずっと…。
(…君と別れるのが悲しかったよ。死んでしまうのが悲しかったよ…)
ハーレイは泣きじゃくるだけのブルーを抱き締め、いつまでも背中を撫でていてくれた。耳元で何度も繰り返してくれた。「私がいます」「大丈夫、私がお側にいますよ」と。
いつまでもお側にいますから、と告げられて心が温かくなった。離れ離れにならなくて済むと、ハーレイが側に居てくれるのだと。それはハーレイの死を意味したけれども、幸せだった。自分は独りで逝くのではないと、何処までもハーレイと共に在るのだと。
(…それなのに破らせちゃったね、約束…)
優しかったハーレイの手を振りほどいてメギドへと飛んでしまった自分。ハーレイに次の世代を託すと言い残したから、ハーレイはブルーを追えなかった。独りぼっちで長い時を生き、死の星と化した地球に着くまで生き続けねばならなかった。
(君はぼくに幸せを沢山くれたのに…。ぼくは君に幸せをあげるどころか、取り上げちゃった…)
辛かっただろうと想像がつく、残されてしまったハーレイの生。
前の生でハーレイは幸せだっただろうか? 自分は沢山の幸せをハーレイから貰ったけれども、そのハーレイは幸せな生を生きたのだろうか…。
とても心配になったから。前のハーレイは幸せだったか、とても心配になってきたから。訪ねて来てくれたハーレイに問い掛けてみた。自分の部屋でテーブルを挟んで、向かい合わせで。
「ねえ、ハーレイ。…キャプテン・ハーレイだった頃って、幸せだった?」
「なんだ、それは?」
ブルーの意図を掴みかねたハーレイが問い返してきた。
「幸せと言っても色々とあるが…。シャングリラという居場所があったのは幸せだったな。それがどうかしたか?」
「そうじゃなくって…。えーっと、それじゃハーレイが一番幸せだったことって、なに?」
「シャングリラでか?」
「んーと…。ハーレイの人生って言うのかな? 前に生きた中で一番幸せだったこと」
何だった? と尋ねると、ハーレイは少し考えてから。
「…お前に会えたことだな。そいつが一番幸せだったな、間違いない」
おまけに恋人同士になれた、と嬉しそうに微笑む。心の底から幸せそうな笑顔。ブルーの心配を吹き飛ばすのには充分すぎる笑みだったから、ブルーも釣られて笑顔になった。そしてハーレイに告白する。自分もそれが幸せだった、と。
「ぼくもだよ。ハーレイに会えて幸せだった。…フィシスを見付けて手に入れたことより、ずっとずっと幸せだったよ、君と一緒にいられたこと。もしも地球まで行けていたとしても、一番は君に会えたこと。…フィシスより、地球より、やっぱり君だよ」
「そうなのか? 地球よりも、とは光栄だな」
もっともそいつは、前の俺だが。
そう言って笑うハーレイは今も幸せそうだったから、ブルーは更に尋ねてみる。
「それじゃ今は? 今の一番の幸せって、なに?」
「もちろん、お前と出会えたことだな。…今のところは」
「えっ?」
ブルーは赤い瞳を見開いた。「今のところ」とは何だろう? 不安が膨れ上がりそうになるのをハーレイの言葉が一気に鎮めた。片方の目をパチンと瞑って、ハーレイがブルーに微笑みかける。
「まだ出会ったというだけだろう? 前の分にはまだまだ足りない。…こうして二人でお茶を飲むとか、飯を食うのが限界だからな。俺の幸せはまだ始まったばかりだ、ってことだ」
当分、結婚も出来そうにないしな。
前は結婚出来なかったから、その先にある幸せってヤツは未経験な分、楽しみなんだ。
そうだろう、ブルー?
お前もそいつは未経験だしな、うんと楽しみにしておけよ?
今度は二人で何をしようか、とハーレイが鳶色の瞳を細める。
前の生では出来なかったことが今の生では溢れすぎていて、一通り体験するまでだけでも相当に時間がかかりそうだ、と。
「ブルー、お前は何をやりたい? 前は出来なかったことが今では山ほどあるぞ」
「ハーレイと一緒なら何でもいいよ。何をやっても幸せになれるよ」
だからハーレイのやりたいことがいい。前はハーレイから沢山の幸せを貰ったから。それなのにぼくはお返しもせずに、ハーレイを置いて行っちゃったから…。
ごめん、とブルーは謝った。
ハーレイの気持ちを考えもせずに、ミュウの未来を押し付けて逝った。貰った沢山の幸せの分を返す代わりに、重荷だけを背負わせてしまってごめん、と。
「…ごめんね、ハーレイ…。ひょっとして罰が当たったのかな、ぼくの右の手…」
メギドで冷たく凍えた右の手。ハーレイの温もりを失くした右の手。
「…ぼくが勝手なことをしたから…。お返しどころか酷いことをしたから、神様が怒って取り上げちゃったのかもしれないね…。もうハーレイは要らないだろう、って」
「そんなことがあるわけないだろう。神様は全部ご存知だったさ」
あの時がどういう状況だったか。
どんな気持ちでお前が俺を置いて行ったか、何もかも知っていらっしゃったさ。だから…。
「神様は怒っていらっしゃらないし、俺にだって謝らなくていいんだ。…俺は充分に幸せだった。お前と一緒に生きていた間、俺は本当に幸せだったし、あれが一生分だったんだ」
一生分の幸せをお前から貰った、とハーレイは穏やかな笑顔で言った。
負い目に思う必要は無いと、自分は充分に幸せだった、と。
「…お前は沢山の幸せをくれた。お前を失くして、幸せも全部消えちまったと思ったもんだが…。それは違うな、一生分の幸せってヤツは残っていたな」
此処の中に、とハーレイの指が自分の左胸を指す。
「お前の夢を何度も見た。目を覚ます度に悲しかったが、夢の中では俺は幸せだったんだ。…俺の隣にお前が居た。幸せそうに笑うお前と過ごす間は幸せだったさ、そいつはお前がくれた記憶だ」
胸の中に仕舞った一生分の幸せの記憶。
それを支えに自分は生きた、とハーレイはブルーの瞳を見詰めた。
「もちろん悲しい夢だって見たさ。…お前が飛んで行っちまう夢だ。何度捕まえたか分からない。お前の身体を何度抱き締めても、お前はメギドへ行っちまうんだ。俺の腕なんかすり抜けてな」
そして泣きながら目を覚ますのだ、と悲しい夢の話もするハーレイだけれど。幸せな夢があった分だけ救われていた、と真摯に語る。一生分の幸せの記憶が自分を生かしてくれていたのだ、と。
「全部、お前がくれた記憶だ。お前と生きた幸せの分だ」
それがあったから生きていられた、とハーレイは胸に手を当てた。
「この中に全部残っていたから、独りきりになってしまった後でも夢の中で思い出せたんだ。俺の側に居たお前の姿を、幸せそうに笑うお前の顔を。…ちゃんとお前は俺にくれたさ、一生分な」
だから前の生の分は貸し借り無しだ、と鳶色の瞳が優しく輝く。
ブルーがハーレイに貰った分と同じだけの幸せを自分もブルーから貰っていた。もしかしたら、ブルーがいなくなった後に長く生きた分、自分の方が多めに貰っていたかもしれない、と。
「というわけでな、お前は俺に借りなんか無い。あるとしたら貸しだ、俺が余分に生きていた間の支えの分だけ、お前の貸しになるってことだ。…お前は心配しなくていいさ」
「でも、ハーレイ…。ぼくがいなくなった後、ハーレイは独りぼっちになっちゃったのに…」
「…まあな。お前の後を追おうと思ったことが無いと言ったら嘘になる。…それでもお前が遺した言葉を守らなければ、と歯を食いしばって地球まで行った。それが出来たのはお前のお蔭だ」
此処に幸せが在ったからだ、と自分の胸を軽くトントンと叩く。
「辛い記憶しか無かったとしたら、俺が耐えようと頑張ってみても途中で崩れてしまっていたさ。お前の言葉を守るどころか、確実に後を追ってたな。…夢の中に幸せなお前がいたから頑張れた。いつかお前の所に行こうと、そしてお前の笑顔を見ようと…」
何もかも途中で放り出して会いに行ったら、お前は笑顔で迎える代わりに怒るだろうしな。
違うか、ブルー?
「…怒らないとは思うけど……」
ハーレイが来てくれたならば嬉しい。どんな状況でも嬉しいと思う。
けれど、ハーレイが自分の命を自ら断って追って来たなら、複雑な気分ではあるだろう。幸せになれる筈の命を捨ててしまったかもしれないと。自分のせいでハーレイの未来を消してしまったと悔やんだだろう。生きてさえいれば、幸せはいつか訪れるのかもしれないのだから。
「怒らないけど、泣くかもしれない。…幸せになれたかもしれないのに、って」
「……お前が泣くのか?」
「うん。…ハーレイが生きていたら貰えた筈の幸せをぼくが消しちゃったかも、って」
「そうか…。お前、そう言ってくれるのか…」
ありがとう、とハーレイは唇に笑みを湛えた。
「お前の方がうんと辛かったのにな、独りぼっちで逝っちまったのに……。それなのに俺の心配をしてくれる上に、泣くとまで言ってくれるのか…。やっぱりお前に借りがあるかもしれないな」
俺が貰った幸せの量、と胸を指差す。前の生でブルーから自分が貰った幸せの方が、ハーレイがブルーに贈った分より多かったのかもしれないと…。
「なあ、ブルー。お前は俺に貸しがありそうだし、どうやらお前が優先らしいぞ」
今度の人生での幸せ作り、とハーレイはブルーに語り掛けた。
「お前から沢山貰いすぎた分、頑張って返していかんとな。…お前は何をしてみたい?」
「ハーレイと一緒なら何でもいいよ、って、さっきも言ったよ」
前の生では出来なかったこと。
シャングリラの中では出来なかったことも、誰もが認める恋人同士でないと出来なかったことも沢山ありすぎて選べない。普通の人生なら当たり前のことが出来ない世界に居た自分たち。今度は何でも出来るからこそ、当たり前のことでも幸せになれる。
たとえばハーレイと手を繋いで二人で歩くこと。
歩いて行く先は公園でもいいし、買い物にだって二人で行ける。公園はシャングリラにもあったけれども、手を繋いでは行けなかった。買い物はシャングリラでは出来なかった。
そんな「今では当たり前」のことで幸せになれる自分たち。
今度の生では前よりもずっと沢山の幸せをハーレイから貰って、ハーレイに贈って、どれほどの幸せが訪れるだろう。前の生での一生分をあっという間に超えてしまって、それでもきっと増えてゆく。溢れ出してもまだ増え続けて、それこそ想像もつかない量の幸せがきっと降って来る。
「ねえ、ハーレイ。…ぼくたち、まだまだこれからだよね?」
幸せ作り、とブルーが問うと「当たり前だ」と答えが返った。
「結婚さえもしていないんだぞ、これからどころかスタート地点に立ってもいないさ。…いいか、お前は前よりも幸せになれるんだ。まだ俺たちは出会ったばかりで、これからだしな」
「うん。…ハーレイと一緒に何処へだって行くよ、そして今度は離れないよ」
約束するよ、とブルーは微笑む。
決してハーレイを独りにしないと、二度と独りぼっちにさせはしないと。
「俺も同じだ。今度こそお前を行かせはしないさ」
独りで行くなら買い物くらいにしておいてくれ、とハーレイが笑う。でなければ家の近くを歩く程度で、出来ればそれも同行したい、と。
「ぼくも一緒に行きたいよ、それ。散歩と買い物!」
「ははっ、一つは決まったな。いや、二つか…。一緒に散歩と買い物だな、うん」
そうやって幸せを作っていこう、とハーレイはブルーに微笑みかけた。
幸せを貰って、自分も贈って。
そのために自分たちは生まれ変わって、この青い地球で再び出会った。
今度こそ幸せに生きてゆくために。
お互いの手を固く握って、何処までも二人、幸せを贈り合いながら生きてゆくために…。
貰った幸せ・了
※前のハーレイから沢山の幸せを貰ったブルー。なのに、お返しが出来なかったみたいです。
今度は幸せをハーレイに贈って、自分も貰って、幸せに生きていける未来が待ってます。
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朝から曇り空だったのが、午後の授業の途中から雨。終礼が終わる頃には本降り、窓から見ても雨音が聞こえてきそうなほどの雨脚となった。天気予報で言っていたとおり、明日まで止みそうもない暗い空。傘を用意してきて良かった、とブルーは鞄を開けたのだけれど。
「あっ…」
鞄の中を覗いたブルーは自分の目を疑い、それからガックリと肩を落とした。
入っていた筈の折り畳み傘。端の方に入れてあった傘が見当たらない。
そういえば昨夜、鞄の中身を整理していた。友人がコッソリ学校に持ち込んだキャンデーを鞄に入れてくれたのはいいが、其処で先生が入って来たから「お前の分な!」と文字通り放り込まれて散らばってしまい、幾つあったのかも分からなくて。
(…全部、引っ張り出したんだっけ…)
教科書もノートも、文房具も出して鞄の中からキャンデーを探した。色とりどりのキャンデーは個別に包装されてはいたが、学校はお菓子の持ち込みは禁止。うっかり何かを取り出した時に床に落ちたりしたら非常にまずい。いくらブルーが優等生でも先生に見付かれば叱られる。
キャンデーの回収作業の真っ最中に母に呼ばれた。父がケーキを買って来たから食べないかと。ケーキはもちろん食べたかったから作業中断、階下へ急いだ。
その時、荷物を広げていた机の引き出しをパタンと閉めたけれども、折り畳み傘は其処に落ちて紛れていたかもしれない。雨の降りそうな時しか用意しないから、鞄に無くても気が付かない。
(……やっちゃった……)
鞄の中身はきちんと詰めた筈だったのに。教科書もノートも全部あったのに、折り畳み傘だけが何処にも無い。小雨だったらまだ良かったのに、本降りの雨。傘が無くてはどうにもならない…。
予報通りの午後からの雨。降り始めたのを窓越しに眺めた時には大丈夫だと思っていた。鞄には傘が入っているから、それを差して帰ればいいだけなのだと。
(…忘れちゃったなんて…)
気落ちしているブルーを他所に、みんな次々と帰ってゆく。クラスメイトの鞄から出て来る折り畳み傘が羨ましい。普段の自分なら決してしない忘れ物。
こんな日に傘を忘れた経験がまるで無かったから、ブルーは見事に出遅れた。バス停の方へ行く誰かの傘に入れて貰えば良かったというのに、思い付く前にクラスメイトたちは消えてしまった。家へ、あるいはクラブ活動へと。
(そうだ、学校の傘があったっけ…!)
急な雨の日のために用意されている予備の傘。あれはどうやって借りるのだったか、と考えつつ置き場所に行けば、傘はすっかり無くなっていた。元々、全員の分は無い傘。空っぽになった傘の置き場を眺めていても傘が出て来る筈も無い。
(……どうしよう……)
鞄を抱えて校舎の出口に立ち尽くす。そんなブルーの脇を通って雨の中へと駆け出す男子たち。傘は差していないが、彼らの周りに赤や緑のシールドが見えた。雨を防げるサイオン・シールド。ソルジャー・ブルーだった頃なら出来たが、今のブルーには不可能な技。
シールドで雨を避けられはしないし、傘だってブルーの手には無い。校門からは少し距離があるバス停までは、この雨の中を走ってゆくには遠すぎた。
濡れてしまえば風邪を引く。けれども濡れない方法が無い。
(…ママに連絡して貰おうかな?)
ブルーの身体が弱いことは担任の教師も承知していたし、頼めば連絡してくれるだろう。母には迷惑をかけるけれども、風邪を引いて寝込めば母はもっと困る。それしか無い、と考えていたら。
「おい、どうした?」
傘が無いのか、と声が掛かった。
「…ハーレイ先生?」
振り向いた先に、好きでたまらないハーレイが居た。
まだ柔道着に着替えていないハーレイ。部活に出掛ける途中なのだろう。
問われるままに傘を忘れたいきさつを話すと「お前らしくない失敗だな」と笑われて。
「着替える前で丁度良かった。…ちょっと待ってろ」
クラブのヤツらに言ってくるから。
ハーレイは渡り廊下で校舎と繋がった体育館へと歩いて行って、暫くしたら戻って来た。そしてブルーを連れ、職員室に向かう。科目別に整えられた準備室ではなく、朝と放課後とに教師たちが集まる職員室。ハーレイがブルーと一緒に其処に入ると、入口にいた男性教師が直ぐに気付いた。
「おや。ハーレイ先生、今日は今からお仕事ですか?」
教職員たちは皆、ハーレイの役目を知っている。聖痕者であるブルーの守り役。ミュウの初代の長、ソルジャー・ブルーが最期に負った傷痕をその身に写し出す聖痕者と診断を下されたブルー。二度と出血を引き起こさぬよう、ハーレイが側につくと決まった。
聖痕者の出血が酷すぎた場合、寝たきりになる例もあったらしいと古い資料が示していたから。ソルジャー・ブルーの傷痕はメギドで負った傷なのだから、メギドではない場所に居たなら傷痕が浮かび上がりはしない。そのためにハーレイが選ばれた。
ソルジャー・ブルーの右腕だったキャプテン・ハーレイそっくりのハーレイ。そのハーレイさえ側に居たなら、其処はメギドではないのだから、と。
それゆえにハーレイはブルーの守り役に選ばれ、時間が許す限りブルーの側で過ごすのが仕事。男性教師が言う「仕事」とは、ブルーの側に付くことだ。今からブルーの付き添いなのか、という意味の問い。ハーレイはそれに「いいえ」と答えた。
「今回は時間外でしてね。傘を忘れて来たらしいので、バス停まで送り届けませんと」
「それはそれは…。その後で通常業務でしたか、お疲れ様です」
「いえ、柔道部の指導は私の趣味でもありますから。…では、行ってきます」
ハーレイは自分の仕事机の下から二本の傘を引っ張り出した。折り畳みではない普通の傘。雨の予報を聞いて家から持って来た分と、急な雨に備えての傘なのだろう。
それを抱えて「待たせたな」と出て来たハーレイ。扉を閉める彼の背後から労いの声が聞こえ、ブルーは申し訳ない気持ちになった。だから…。
「ぼく、傘を貸してくれたら一人で帰るよ」
うっかり敬語を忘れたけれども、大丈夫だとハーレイに告げた。すると即座に返事が返る。
「見付けちまったら放り出せんさ」
他の先生も言ってただろう。俺はお前の守り役なんだ。
濡れないように送って行くさ。バス停まできちんと送り届けるのも役目の内だ。
そう話しながら辿り着いた、先刻ブルーが出られずに立っていた校舎の出口。ハーレイが大きな傘を広げた。ブルーは借りた傘を持っているのに、笑顔で「入れ」と差し掛けてくれる。
「俺が送ると言っただろ? 遠慮しないで入って行け」
校舎から出ると、思っていた以上に大粒の雨。バラバラと傘を叩く雨粒の音が途切れない。傘の端からは雫が滴り、ふと見ればハーレイのスーツの肩の部分が雨に濡れて色が変わっていた。
「…ハーレイ先生、スーツ、濡れてる…」
校内だからブルーは「先生」と呼び掛けたけれど、続きの言葉は普段どおりになってしまった。雨が降りしきる中、誰も歩いてはいなかったから、ついつい生徒の立場を忘れた。それにブルーは全く濡れてはいなかったから。ハーレイの大きな傘に守られて、雨に打たれはしなかったから。
ハーレイが自分を大切に雨から庇って歩いてくれる。そのせいで恋人気分になった。ハーレイは自分の守り役でも教師でもなく、守ってくれる恋人なのだと。
ブルーの口調からハーレイも感じ取ったのだろうか、傘を差しながら「ははっ」と笑った。
「相合傘と洒落込みたかったが、俺の身体では無理があったか。…はみ出してるな」
お前が無事ならいいんだがな、と濡れた肩を気にせずに歩くハーレイ。そのハーレイは前の生と同じタイプ・グリーンで、防御能力には自信があると聞かされていた。シールドする力も高い筈。雨粒くらいは防げるのでは、とブルーは疑問を口にしてみた。
「ハーレイ、確かシールド出来たんじゃあ…? こんな雨くらい」
「まあな。しかし、それでは雨を味わえん」
「雨?」
味わうとはどういう意味だろう? 訝るブルーにハーレイが語る。
「ナスカでゼルがやったそうだぞ、雨を体感したくてな。わざわざシールドを解いたのはいいが、ついでに滑って転んだらしい。エラが見ていて語り草になっていたもんだ、うん」
それで自分も真似をしてみた、とハーレイは言った。
「流石に人目があるとちょっとな…。誰もいない場所でコッソリと、な。これが雨か、と妙に心が弾んだなあ…。シャングリラの中には降らないからな」
ナスカの雨でも嬉しかったのに地球の雨だ、と傘の外に褐色の手を出す。傘の柄を握っていない方の手。その手のひらで雨粒が跳ねる。透明な雫が滴り落ちる。
「ほらな、地球に降る恵みの雨だ。…味わってこそさ、シールドで避けるんじゃなくってな」
子供のような笑顔のハーレイだったが、傘からはみ出した肩を濡らす雨は衰えを見せない。肩はとっくに濡れそぼっていて、背中の方まで色が変わり始める。
これではいけない、とブルーは手にした傘を持ち上げた。
「ハーレイ、ぼくも傘を差すから」
しかし、その手をハーレイが制する。
「そう言うな。…そうそう出来んぞ、相合傘は」
な? と大きな傘をブルーに差し掛け、ハーレイは微笑んだのだった。
「…次の機会はいつになるかも分からんからなあ、相合傘」
「そうだね。その時もハーレイ、濡れちゃうのかな?」
「多分な。…お前を濡らすわけにはいかんし、かといって雨合羽を着るのもなあ…。シールドってヤツも情緒が無い。お前ごと包むなら話は別だが」
それもいいな、とハーレイが頷く。自分のシールドでブルーも包んで、傘は差さずに二人で雨の中を歩く。傘を差す手が必要無いから、互いの手をしっかり握り合って。
「いいね、それ。…いつかやろうね」
「二人で何処かへ出掛けられるようになったらな。その時は相合傘も堂々と出来るぞ」
「どっちもやろうよ、雨が降ったら」
他愛ない夢を語り合いながら二人歩いて、大きな傘に雨の雫を受けて。
甘い言葉を、教師と生徒の会話には聞こえない言葉を、雨音が包んで隠してくれる。
学校の広い敷地を抜けて、校門を出てからバス停まで。
ほんの少しの距離だったけれど、それは雨の中、二人だけのデート。
ハーレイはデートとは言わなかったし、ブルーも訊きはしなかったけれど、こんな散歩もきっとデートと言うのだろう。散歩ではなく教師が生徒を送ってゆくだけなのだけれど、二人は恋人同士だから。誰もそれとは気付かなくても、前の生から二人はずっと恋人同士だったのだから……。
スーツの肩から背中にかけて濡れてしまったハーレイは、バス停の屋根の下に着いても帰らずに待っていてくれた。ブルーが乗り込むバスが来るまで、傘を畳んで待っていてくれた。
部活の無い生徒はとっくに帰った後だったから雨のバス停には誰もいなくて、ハーレイと二人でバスを待った。雨は止まなくて、通る車が二人に気付いてスピードを落とす。タイヤで飛沫を撥ね上げないよう、気を配って通過してくれる。
傍目には教師と生徒だろうが、恋人同士に見えるといいな、とブルーはちょっぴり夢を抱いた。バスに乗る恋人を見送りに来た優しい恋人。バス停の屋根の下からバスに乗るまでの僅かな距離に恋人が雨に打たれないよう、傘を広げて差し掛けるとか…。
そんなシーンを何処かで見た。母が見ていたドラマだろうか、と考えていたら。
「おい、バスが来たぞ」
あれだ、と指差したハーレイが傘を広げた。ブルーが思い描いたドラマのワンシーンのように、雨を遮る傘をブルーに差し掛けてくれた。滑り込んで来たバスの扉の直ぐ前へと。
「ほら、ブルー。気を付けて帰れ。…もう傘を忘れたりするんじゃないぞ」
「うん。…ありがとう、ハーレイ」
貸して貰ったハーレイの傘を大切に抱えてバスに乗り込む。
ついに出番が来なかった傘。ハーレイが差した大きな傘に入っていたから、差さずに抱えていただけの傘。
ブルーの背後でバスの扉が閉まって、ハーレイが笑顔で手を振った。傘からはみ出していた肩と背中の色が変わってしまったスーツで、それでも嬉しそうな笑顔で。
だからブルーも急いで座席に座って手を振る。傘と鞄で塞がった手では振れないから。雨の中を送って来てくれたハーレイに向かって、精一杯に手を振りたかったから…。
バス停が遠ざかり、其処に立つハーレイも雨に煙って見えなくなって。
ブルーは一度も差さずに此処まで持って来たハーレイの傘に目をやった。家に忘れた折り畳み傘よりもずっと大きなハーレイの傘。折り畳みではないブルーの傘より明らかに大きいと分かる傘。
(ハーレイ専用ってことはないよね?)
父の傘より大きそうだけれど、まさか特注ではないだろう。ハーレイのように立派な体格をした人たちのために作られているに違いない。今日はブルーが一緒に入ってしまったせいでハーレイの肩が雨に濡れたが、一人だったら楽に入れる特大の傘。
(だけど重くはないよね、うん)
作りはしっかりした傘なのに、ブルーの手でも重くはなかった。それなりに重いが、その重量は安心感を与える重さ。雨も風もしっかり防いでみせます、と傘が自信を持っている重さ。
(…ハーレイの傘かあ…)
職員室の机の下から引っ張り出していたハーレイの姿を思い浮かべる。天気予報を聞いて持って来た傘か、急な雨に備えて置いてある傘か。
どちらにしてもハーレイの傘。ハーレイのために役に立つべく買って来られた大きな傘。
いつもはハーレイを雨から守るのを仕事にしている傘が、ブルーのためにと貸し出された。傘を忘れたブルーを守って無事に家まで送るように、と。
(…ふふっ、ハーレイの代わりなんだね)
ハーレイの代わりにぼくを守ってくれるんだね、と滑らかな傘の柄をポンポンと叩く。ブルーの手には少し大きいサイズの傘の柄。持ち主の手ならしっくり馴染むと容易に想像出来る傘の柄。
よろしく、と心で語り掛けた。
ハーレイを守るのが役目の雨傘。今日は家までぼくを守って、と。
家の近くのバス停で下りて、下りながら傘を広げてみたら。
予想したとおりに本当にとても大きな傘で、ハーレイに守られているような気分になった。
(凄く大きい…)
ハーレイと二人で入っていた時も充分大きいと思ったけれども、一人で差せば更に大きい。雨の雫はブルーの身体から離れた所で傘から滴り、周りにぐるっと雨の降らない安全地帯。
ブルーの傘ではこうはいかない。安全地帯はもっと狭くて、油断すれば鞄が濡れたりもする。
(……ホントにハーレイと居るみたいだ……)
守られている安心感。
前の生からブルーを気遣い、包み込んでくれていたハーレイ。
そのハーレイを思わせる傘がブルーを雨から守ってくれる。ハーレイから借りた大きな傘が。
降りしきる雨は傘の上で音を立て、路上でも跳ねているけれど。雨脚はかなり強かったけれど、この傘があれば気にならない。
自分は守られているのだから。ブルーの身体が濡れないようにと、傘が守ってくれるのだから。傘の持ち主のハーレイの代わりに、家まで守ってくれるのだから…。
(うん、ハーレイの代わりだもんね)
家までくらい直ぐだものね、とブルーは元気に歩き始めた。
傘を忘れたと気付いた時にはショックだったけれど、素敵な傘を貸して貰えた。ハーレイの傘に一緒に入ってバス停まで相合傘で歩けた。
(…次はいつかな、相合傘…)
その時は堂々と何処までも二人で歩きたいな、と雨を降らす空を仰ぎ見る。
きっといつかは、この傘に二人。
ハーレイの肩がびしょ濡れにならないような小糠雨の日に、相合傘で…。
相合傘・了
※あの17話が放映された7月28日から今日で8年です。やっぱりこの日は更新しないと…。
ハーレイとブルーの相合傘です、生まれ変わって幸せな二人。
こういう二人を書ける日が来るとは、聖痕シリーズを始めるまで夢にも思いませんでした。
ハレブル別館、今日から暫く週2更新にペースを上げます。
月曜日の更新は固定、もう1回は多分、木曜辺りです。
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なんだか妙に息が苦しい。ブルーは自分のベッドの中で意識は半分眠ったままで寝返りを打ち、丸くなろうとしたのだけれど。
(…うーん……)
身体に纏わりつく重い感触。蹴飛ばしてみたら軽くはなったが、今度は少し肌寒い。ブルーの上から上掛けが消えてしまったらしい。
(……んー……)
確かこの辺、と手を伸ばして探る間に意識が浮上し、上掛けの端を掴んだ時には眠りから覚めてしまっていた。寝ぼけ眼で上掛けをグイと引っ張り上げれば、パジャマの裾まで一緒に上がった。上掛けの下で細っこい腹だか、胸あたりまでが晒されてしまったと言うべきか。
起き上がって直すのも面倒だから、と押し下げようとしたが、眠っている間に緩んでいたのか、一番下のボタンが外れた。こうなると些か始末が悪くて、上掛けの下では留めにくい。
「…うー……」
手探りでボタンをはめる間に気付くあれこれ。乱れたパジャマも問題だったが、上掛けもかなり変なことになっているようだ。眠りながら身体に巻き付けていたか、引っ張ったか。定位置に無いそれを被って寝るには、今のブルーは意識がハッキリし過ぎていた。
(…寝にくいよ、これ…)
足が片方はみ出しているし、その足を覆う筈のパジャマのズボンも裾が上がってしまった状態。上掛けを蹴飛ばした時に巻き添えになったものと思われる。ベッドに寝転がったままでは元通りにするのが難しそうな上掛けとパジャマ。
それでも暫し格闘した末、諦めて起き上がることにした。常夜灯だけが灯った部屋は薄明るく、目が慣れてくれば充分に見える。ベッドから這い出し、裸足で床へと下り立ってみれば。
(…………)
蹴り飛ばされた上掛けの一部がベッドからずり落ち、パジャマのボタンも下の二つが外れていたらしく、一つだけ外れたと思い込んで手探りではめた結果は違う位置へと留め付けることで。
(…あーあ…)
情けない気持ちでずれたボタンの位置を直して、上掛けもきちんとベッドに被せ直した。これで安眠出来るだろう、と再びベッドにもぐり込む。くるりと丸くなり、大きな枕に顔を埋め…。
(これで良し、っと)
夢の世界を目指そうとした時、ふと思い出した。前の生での自分のことを。
(前のぼくって器用だったよね…)
あんな格好で寝てたんだから、とソルジャーの衣装を思い浮かべた。青の間のベッドで眠る時も着たままだった服。上着どころかマントもあったし、手袋とブーツもセットだったそれ。
ソルジャーの象徴でもあった正装を解かずに眠っていたのに、前の自分はベッドの中でも姿勢が良かった。目覚めた時にマントが身体に巻き付いていたことは一度も無いし、上掛けだって…。
(…今のぼくだと、あの服は多分……)
見るも無残な状態になったソルジャーの衣装は容易に想像がついた。自分のマントにぐるぐると巻かれた姿はさながらクレープ、紫色をしたクレープの中も酷いことになっているだろう。上着のファスナーは半分でも留まっていればいい方、アンダーのファスナーさえも怪しい。
(…絶対、苦しくて開けちゃうんだよ)
ぴったりとしていた黒いアンダーは首の半分を覆っていたから、今のブルーなら無意識に襟元を開けて緩めてしまうに違いなかった。ついでにマントの襟も邪魔だと留金を外し、ブルーの肩から外れたマントはクレープのように巻き付くどころか蹴り飛ばされて落ちていそうで。
(ぼくだとホントにやっちゃいそうだ…)
そんな寝姿、披露出来ない。
前の生でブルーが眠っている時にも青の間に人の出入りはあったし、枕元で会議が開かれたことさえもあった。思念だけで応えるブルーは眠ったままで、長老たちが集まって。ブルーが行儀よく眠っていたから会議は粛々と進んだけれども、もしも寝相が悪かったなら…。
(…そっちが気になって会議どころじゃなかったよね、きっと)
几帳面なエラはせっせと上掛けを被せ直してくれそうだったし、服やマントはハーレイやゼルといった男性陣が整えたり留めたりしただろうと思う。それでは大切な会議どころか、みんな揃ってブルーのための世話係。そうならなくて本当に良かった。
(後で文句も言われそうだしね?)
ソルジャーの威厳を保つためにも動かずに寝ろとか、せめて上掛けは蹴り飛ばすなとか。
丸くなって眠るのが好きな今のブルーには無理な注文。ソルジャー・ブルーだった自分のように仰向けの姿勢で服を乱さずに朝まで寝るなど、どう考えても出来るわけがない。
(…前のぼく、ホントに器用すぎだよ…)
仰向けに寝るのが好きだったのか、寝相が素晴らしく良かったのか。どちらも今の自分には到底出来ない芸当。
眠る時には手足を丸めてコロンと横になるのが好きだ。目覚めたら仰向けという時はあっても、断然、横向け。前の生でも、よく丸くなって…。
(…あれ?)
好きだった寝方は、前の生でも丸くなる方…?
何か変だ、とブルーは違和感を覚える古い記憶を探った。ソルジャー・ブルーだった頃の自分が好んだ寝方。それは仰向けでは無かった気がする。今と同じで丸くなるのが好きだったような…。
(…えーっと…。丸くなってピタッとくっついて……)
そう、ピッタリとくっついて寝るのが好きだった。いつも側にある優しい温もり。その温もりの元に身体を擦り寄せ、包まれて眠るのが大好きだった。
とても幸せで心地よかった時間。丸くなって、くっついて眠った時間…。
(……んーと……)
あの温もりは何だったろう。温かかったものは何だったろう…?
眠る時には必ず側に在ったそれ。くっついているだけで心が温かく満たされた温もり。どんなに疲れ果てた時でも、それに包まれれば幸せになれた。くっついているだけで幸せだった。
(…何もしなくても幸せだったよ、くっついていれば…)
君さえいれば、と揺蕩う記憶の海に揺られて、うっとりと心の中で呟く。
(…そうだよ、ハーレイ…。君さえ側に居てくれたなら……)
其処でブルーはパチリと瞳を見開いた。
(ちょ、ちょっと…!)
部屋の中は真っ暗だったけれども、頬が真っ赤に染まるのが分かる。
あの温もりはハーレイだった。
ソルジャー・ブルーだった頃の自分がくっついていたものはハーレイだった。
丸くなってハーレイの身体にくっついて眠り、その温もりにいつも包まれていた。
ブルーを抱き締めるハーレイの腕。その中で自分は眠っていた…。
(……そうだったっけ……)
眠る時はいつでもハーレイが居た。二人で眠って、目覚めたらソルジャーの衣装に身を包んだ。ハーレイは船長の服を身に着け、マントを羽織ってブリッジへ。
ということは、ソルジャーの衣装を着けて眠っていたわけではない。それどころか…。
(…ひょっとして大抵、裸だった…?)
ブルーの頬がカアッと熱くなる。ハーレイと二人で眠る時にはソルジャーの衣装も船長の服も、互いを隔ててはいなかった。ついでにパジャマの記憶は無い。
今でこそ当たり前になったパジャマだけれども、前の生ではブルー専用のパジャマは無かった。シャングリラの者たちに支給されるパジャマさえ持たなかったし、眠る時にはソルジャーの衣装。ハーレイの分のパジャマはあったが、それを青の間に持って来たことは一度も無くて…。
(…ぼ、ぼくはパジャマを持ってなくって、ハーレイは持たずに青の間に来てて…)
それなのにソルジャーの服だの、船長の服だのに隔てられて眠ったことは無い。
ハーレイの身体にピタリとくっつき、温もりを感じて眠っていた時、服もパジャマも無かったのならば、二人ともが…。
(…た、大抵じゃなくて、いつでも裸…!?)
ブルーは軽くパニックになった。温もりの記憶は温かいけれど、裸だったとは恥ずかしすぎる。せめてアンダーウェアくらいは、と切に願った。裸で眠っていた夜が殆どにしても、たまには何か着ていて欲しい、と。
それくらいに恥ずかしい光景だったが、幸せな記憶には違いない。丸くなってハーレイの身体にくっつき、温もりに包まれて眠った記憶。今と同じで丸くなるのが大好きだった前の生の自分。
(……だけど……)
大抵は裸で眠っていたらしい前世の自分。ソルジャーの衣装で眠っていた時はともかくとして、裸で眠っても大丈夫なほどに青の間は暖かかっただろうか?
(…空調は多分、普通だったと思うんだけど…)
ブルーの枕元で会議をしていたゼルたちは「暑い」と言わなかったし、ハーレイもキャプテンの服を着ていた時間に上着を脱いだりはしなかった。ソルジャーの衣装は特別だから暑さや寒さとは無関係としても、ハーレイや長老たちの服は温度差を感じたと思う。
(空調、特に調節していなかったよね?)
バスローブで居ても平気な室温ではあったけれども、だからと言って裸で眠ればブルーは風邪を引きかねない。今のブルーなら確実に引くし、前の自分も虚弱だった。
(…ハーレイが毛布の代わりだったとか?)
きっとそうだ、とブルーは思った。上掛けにプラスしてハーレイの温もり。それがあったから、裸で眠っても風邪を引いたりしなかったのだ、と。
毛布代わりにしていた前世のハーレイ。ぴったりとくっついて眠るブルーは暖かかったが、当のハーレイはどうだったろう?
(…ぼくが暖かかったってことは、ハーレイ、ひょっとして寒かったかな?)
自分に温もりを奪われてしまって寒かったかも、と考えたものの。
(だけどハーレイ、風邪なんか引いていないよね?)
ぼくよりも大きい身体で丈夫だったから平気だったのかな、と納得した。
(うん、ハーレイはきっとパジャマとかが無くても平気なんだよ)
あの体格ならそうだと思う。虚弱体質が多かったミュウの中では飛び抜けて頑丈だった前の生のハーレイ。補聴器が必要な耳の他にはこれという欠陥を持たなかった。
当時のハーレイでさえもパジャマが要らない丈夫さだったら、今のハーレイはどうなのだろう。
(…今でも裸で寝てるのかな?)
ハーレイの生活に興味が出て来た。
包み込んでくれる温もりが無い今の自分はパジャマが必須な毎日だけれど、ハーレイは前よりも更に丈夫になっている筈。柔道と水泳で鍛えた身体は伊達ではないし、パジャマなんかは全く必要ないかもしれない。
(ひょっとしたら雪の降る日でも裸?)
自分たちが生まれ変わって来たこの地域には四季がある。冬ともなれば白い雪が舞い、ブルーは部屋に暖房を入れて上掛けも増やして眠るのが常。しかしハーレイなら厳寒の頃もパジャマなどは着ず、裸に上掛け一枚なのかも…。
(…だとしたら、ハーレイ、凄いよね…)
ブルーにはとても真似が出来ない眠り方。丈夫なハーレイだからこそ出来る眠り方。
今も裸で眠っているのか、寒い冬でも裸なのかを知りたくなった。
(でも…。今も裸で寝ているの? なんて、恥ずかしくって訊けないよ…)
前の生の自分がいつもどうやって眠っていたのか、思い出しただけで頬が熱かったから。
ハーレイが裸で眠っていたことを思い出した切っ掛けがそれだったから…。
それでもハーレイの今を知りたい。
今の眠り方を教えて欲しい…。
どうしても気になって、訊きたくてたまらない今のハーレイの眠り方。
何と尋ねればいいものなのか、とあれこれ考えを巡らせた末に、ブルーは名案を思い付いた。
(これだったら変に思われないよね?)
早速、週末に訪れたハーレイにぶつけてみる。自分の部屋で向かい合わせに座ってから。
「ねえ、ハーレイ。…ハーレイのパジャマって、どんなパジャマ?」
「パジャマ?」
怪訝そうなハーレイに「パジャマだってば」と畳み掛けた。
「寝る時に着るパジャマだよ。…どんなパジャマなの?」
「どんなって…。ごくごく普通のパジャマだが?」
サイズはうんとデカイんだがな、という答えに、思わずブルーの本音が漏れた。
「えっ。…着てたんだ……」
「はあ?」
ハーレイの鳶色の瞳が丸くなった。
「着てたんだ、って…。寝る時は普通、パジャマだろうが。どういうのを期待してたんだ、お前」
「…え? えっと……」
言えない、とブルーは口ごもる。ハーレイは裸で寝ているのかも、と想像しただなんて、とても言えない。恥ずかしくてもう黙るしかない、と思ったのに。
「シャネルの五番じゃないだろうな?」
「……しゃねる?」
ハーレイが妙なことを言うから、オウム返しに「しゃねる」とやらを復唱した。
「何なの、それ?」
「ははっ、やっぱり知らなかったか! 古典の授業とは関係無いがな、遙か昔の名文句だな」
俺もキャプテン・ハーレイだった頃には知らなかった、とハーレイが笑う。
「SD体制に入るよりもだ、千年以上も前の言葉さ。当時の有名な女優が言ったらしいぞ、記者の質問に答えてな。…寝る時には何を着ていますか、という質問だったそうだ」
「それで?」
「シャネルの五番を着て寝るわ、と女優は答えた。…シャネルの五番というのは香水の名前だ」
香水しかつけていないという意味なんだ、とハーレイは片目をパチンと瞑ってみせた。
「つまりだ、お前が期待していた俺の答えはそいつなのか、と訊いたのさ。実は裸で寝ています、と言わせたかったんじゃないだろうな、と」
「違うから!」
そうじゃないから、と叫んだものの、ブルーの顔は耳まで真っ赤。語るに落ちるとはこのことであって、ハーレイの笑いが止まらなくなる。パジャマで寝ていて悪かったな、と腹を抱えて。
散々笑って笑い転げてから、ハーレイは脹れっ面になったブルーの額を指でチョンとつついた。
「どういう発想で、その質問を持って来たのか知らんがな…。お前が喜びそうな答えってヤツは、今の俺には手持ちが無いな。…前の俺ならありそうなんだが」
「ハーレイ、裸で寝ていたからね」
ブルーが唇を尖らせる。
「思い出したから訊いただけだよ、今も裸で寝てるのかな、って」
「それだけか? だったら前の俺からの答えは要らんな、お前が喜びそうだったんだが」
やめておこう、と言われたけれども、ブルーは好奇心をかき立てられた。
前の生のハーレイなら持っていそうだというパジャマに関する質問の答え。
自分が喜びそうなものだと耳にしてしまえば、追求せずにはいられない。やめにしておくなんて出来はしないし、ぜひ聞きたい。
「教えてよ、それ!」
「…ん? だったら俺に質問してみろ、回りくどくパジャマなんぞを持ち出さずにな」
「えっ?」
ハーレイの言う意味が分からない。キョトンとするブルーをハーレイが「ほら」と声で促す。
「さっき教えてやっただろう? 寝る時は何を着ていたんですか、と訊くだけでいい」
「ええっ?」
前のハーレイが寝る時に何を着ていたか。
着ているも何も、裸だったことを思い出したからパジャマに関する質問をした。それなのに…。ハーレイは何を着ていたと言うのだろう?
「どうした、ブルー? お前が訊かないと答えてやれんぞ、知りたくないなら教えないが」
「聞きたいってば!」
「なら、訊いてみろ」
「…………」
堂々巡りになってしまった「知りたいこと」。訊かない限りは教えて貰えそうにない。
からかわれているような気もするけれども、訊かないと何も始まらない。ブルーは渋々、さっきハーレイに聞いた大昔の名文句とやらに纏わる問いを投げ掛けてみた。
「ハーレイ、寝る時は何を着ていたの?」と。
これでハーレイの答えが聞ける。自分が喜びそうだとハーレイが言った答えが聞ける、と期待に胸を高鳴らせるブルーに、ハーレイがニヤリと笑みを浮かべた。
「そうだな、前の俺の場合は「ソルジャー・ブルーを着て寝ます」だな」
「ちょ、ハーレイ…!」
よりにもよってその答えなのか、とブルーは耳まで赤く染まった。けれどハーレイは涼しい顔でこう付け加える。「お前は俺を着てたんだろうが」と。
「ちょ、ちょっと…!」
先の言葉が続かなかった。怒りたいのに怒れない。それは本当のことだったから。
怒鳴りたいのに怒鳴れない。とても恥ずかしくてたまらないけれど、また嬉しくもあったから。
前の生では二人抱き合って、裸で眠った。
ハーレイはブルーを、ブルーはハーレイをパジャマの代わりに着て眠っていた。互いの温もりを素肌に感じて、二人ぴったりと寄り添い合って…。
「分かったか、ブルー? うん、嬉しかったと顔に書いてあるな」
見れば分かるさ、と鳶色の瞳が細められる。
「俺はお前を着て寝てたんだが、今のお前は俺が着るには早すぎだ。…そしてお前も俺を着るには早過ぎる」
子供はきちんとパジャマを着て寝ろ。
そう諭されたブルーは頬を膨らませて「ちゃんと着られるよ!」と抗議したが。
「まだまだ駄目だな、サイズ違いというヤツだ。俺のパジャマはモノによってはサイズが無いぞ」
大きすぎる身体も困ったもんだ、とハーレイが自分を指差した。
「お前が俺のパジャマを着たなら、余るなんていうモンじゃない。もっと大きく育たんとな?」
前のお前と同じくらいに育った時には、前みたいに俺を着られるさ。
それまではパジャマで我慢しておけ、俺じゃなくて……な。
(…………)
ハーレイの微笑みがあまりにも優しかったから。
鳶色の瞳の底に揺らめく熱い焔を見てしまったから。
ブルーは何も言えなくなってしまい、ただハーレイを上目遣いに睨み付けているだけだった。
優しくてちょっぴり意地悪な笑みを湛えた、前の生からの大好きな恋人。
いつかきっと、この褐色の肌をした恋人を素肌に纏って眠る。
前の生で彼を着ていたように。彼が自分を着ていたように、裸の身体に彼だけを着て……。
暖かなパジャマ・了
※前のブルーが着ていたパジャマは、実はハーレイだったのです。暖かで頼もしいパジャマ。
マリリン・モンローが言った「シャネルの五番」、今も伝わっているのが凄いかも。
あの17話から明日、7月28日で8年になります。
今まで週1更新でやってきたハレブル別館、明日から暫く週2更新になりますです。
月曜更新は固定、他に何処かで1回。多分、木曜辺りじゃないかと。
今週は「7月28日記念」で明日も更新、ゆえに週3回更新です~。
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それは見慣れ過ぎていたから全く気付かなかったもの。
夏休みのハーレイが来られない日に、母と二人で庭に居たから目がいった。庭で一番大きな木の下に据えられた白いテーブルと椅子。午前中のまだ涼しい時間に母と二人で座っていた。
ブルーのお気に入りの場所。ハーレイと初めてデートをした場所。その時は今のテーブルセットではなく、ハーレイが家から持って来てくれたキャンプ用のテーブルと椅子だった。ブルーの気に入りの場所になったからと父が白いテーブルと椅子を買ってくれて…。
いつもならハーレイが座っている椅子。母に取られたくないから自分が座った。ハーレイからは自分がどんな風に見えているのかと、向かい側に座る母を観察していた。母の背後に見える庭木や生垣、そういったものを背景にした自分はハーレイの目にはどう映るのかと。
もちろん母の仕種も眺める。アイスティーのグラスをストローでかき混ぜる右手。露を浮かべたグラスに添えられた左手。白い左手に「あっ」と思った。その薬指に結婚指輪。
ブルーが物心ついた頃には両親の左手に指輪があった。銀色に光るシンプルな指輪。
あまりにも毎日目にしていたから、其処にあることすら気にも留めずにいたのだけれど。改めて気付くと羨ましい気持ちになってくる。
いつかハーレイと結婚するまで、自分の指には嵌まらない指輪。その日は未だ遠くて見えない。父とお揃いの結婚指輪を嵌めている母は、どんなに幸せなのだろう。母とお揃いの指輪を嵌めて、今日も仕事に出掛けた父も…。
(……いいな……)
羨ましいな、と母の薬指に嵌まった指輪を見ていて、ふと考えた。
前の生で暮らしたシャングリラ。あの船の中に結婚指輪はあっただろうか?
ソルジャー・ブルーだった自分が十五年間もの長い眠りに入る前には確かに無かった。しかし、自分が眠っている間にナスカで生まれた自然出産の子供たち。彼らの両親の薬指には…?
彼らは指輪を嵌めたのだろうか。
前の生での自分とハーレイは結婚指輪を嵌めるどころか、恋人同士であることさえも隠し通して生きたのだけれど。そんな自分たちと同じ船の中に、指輪を嵌めた恋人たちがいたのだろうか…。
今となってはどうしようもない過去だというのに、それが気になる。祝福されて結婚出来た恋人たち。彼らが幸せな仲だと教える指輪はあの船の中にあっただろうか、と。
父と母との指に嵌められた結婚指輪。一度気付くと目に入りやすく、夕食の席でも翌日の朝も、ブルーの瞳には二つの指輪が飛び込んで来た。父と母の左手に当たり前にあるもの。それを自分が嵌められる時は、いつになるのかも分からない指輪…。
そうしてブルーは、訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合う。庭の白いテーブルと椅子でお茶にした後、暑くなる前にと引き揚げて来て、母からは見えない場所で二人きり。それを待っていたように切り出した。
「ねえ、ハーレイ。…シャングリラに結婚指輪って、あった?」
「結婚指輪?」
怪訝そうなハーレイに「そのまんまだよ」と自分の左手の薬指を示す。
「この指に嵌める指輪のこと。アルテメシアを出て、ぼくが眠りに入る前には無かったけれど…」
誰も嵌めてはいなかった、とブルーはハーレイを正面から見た。
「無かったから、ぼくは一度も羨ましがらずに済んだんだ。君と恋人同士なことは秘密だったし、誰にも明かせなかったけど…。シャングリラには結婚指輪が無かったから平気だったんだ」
それが無かったから、羨ましいとは思わずに済んだ。
堂々とそれを嵌めていられる恋人たちを羨むことなく生きていられた。
もしもシャングリラに結婚指輪があったとしたら、自分は平静でいられたろうか…?
ブルーの思いにハーレイも気付いたのだろう。「無くて本当に良かったな」と頷いてから。
「…そう言われれば、無いままだったな。トォニィたちが生まれた頃にも」
「ホント?」
「一番最初に自然出産のために結婚したのがカリナとユウイだ。…あの二人が嵌めなかったから、それが普通になったんだろうな。誰も指輪とは言わなかったな…」
ハーレイはキャプテンとして全ての結婚式に立ち会っているが、其処で見たものは誓いの言葉とキスだけだった。今の生ですっかり見慣れてしまった指輪の交換は見ていない。
「俺が思うに、制服のせいではなかったかと…。シャングリラでは女性は手袋だったしな?」
「ああ、そっか…。ぼくと同じで手袋だったね」
シャングリラの女性クルーの制服は長い手袋。男性は手袋無しだったけれど、女性は誰でも手袋だった。あの制服では結婚指輪を作ったとしても…。
「嵌めています、って見せられないんじゃ仕方ないかな、作っても」
うん、とブルーは納得した。幸せの証は二人揃って嵌めるもの。片方の指輪が手袋の下に隠れて見えないのでは、嵌めている意味が無いだろう、と。
そういう理由で結婚指輪は無かったのか、と思うと嬉しくなった。自分たちには許されなかった結婚指輪を誰かが嵌めていたかもしれない、と少し心配だったから。
するとハーレイが問い掛けて来る。
「お前はその点、どうだったんだ? 手袋の下でも嵌めたかったか、結婚指輪?」
「……うん」
嵌めたかった、とブルーは素直に自分の思いを口にした。
「ぼくは手袋に隠れて見せられなくても嵌めたかったよ、結婚指輪。でも、ぼくたちは…」
誰にも言えない、秘密の恋人同士だった。
結婚指輪を作ったとしても、手袋に隠れて誰にも見られない自分だけしか嵌められなかった。
「…ハーレイの指には嵌められなかったもの、ハーレイは手袋をしてなかったし…。嵌めていたら直ぐにバレてしまうし、嵌められないよね。…ぼくだけ嵌めても意味が無いもの…」
嵌めるのであれば、二人揃って。結婚指輪はそういう約束。
自分一人がこっそり嵌めても、ハーレイの指にお揃いの指輪が嵌まっていなければ意味が無い。
「…嵌めている人がいない世界でホントに良かった。…ぼくが長いこと眠っている間に嵌めた人がいなくてホントに良かった…」
良かった、と何度も繰り返すブルーに、ハーレイが「そうだな」と頷き返して。
「お前を嬉しがらせるようだが、俺の命があった間に嵌めたヤツらも無かったな。…もっとも俺は地球で死んだし、その後どうなったのかは知らんがな」
資料を漁れば分かるだろうが、と言われたけれど。
自分たちがいない所で過ぎ去った過去はどうでもよかった。
大切なことは生きていた間に起こった出来事。ブルーの命があった間も、ハーレイが独りきりで生きた時代も、あの白い船に結婚指輪は無かったのだ…。
「…そっか…。ハーレイが生きてる間も無かったんだ…」
ぼくが生きてた間だけじゃなくて、とブルーは安堵の吐息をついた。
「ハーレイが生きてた間に嵌めた人たちがいなくて良かった。もしもいたなら、ハーレイ、きっと辛かったよね?」
ハーレイは独りだったのだから。ブルーがいなくなってしまって、独りぼっちでシャングリラで生きていたのだから。
「そりゃまあ……。そんなものがあったら辛かったろうな」
ハーレイが自分の左手を眺め、それからブルーに視線を向ける。
「なんで俺の指には無いんだ、思い出さえも無いんだろうと…思わずにはいられなかっただろう。もしも俺たちに結婚指輪があったとしたらだ、お前が片方を持って逝っちまった後も、俺の指には片割れが残っていただろうしな」
お前と揃いで作った指輪の片割れが、とハーレイは自分の左手の薬指に触れた。まるでその指に結婚指輪が在ったかのように。
前の生では其処に確かに嵌めていたのだ、と感触を思い出すかのように。
そんな風に「見えない指輪」を其処に探して、ハーレイの指がブルーの左手に移る。小さな手の薬指の付け根をトントンと指先で軽く叩いて微笑みかける。
「この指に俺と揃いの指輪があったら、お前の手も冷たくならなかったかもな…。此処に指輪さえ嵌まっていたなら」
「…冷たくなったのはぼくの右手で、指輪、右手じゃないんだけれど……」
メギドで冷たく凍えた右の手。最後にハーレイに触れた右手に残った温もりを失くし、右の手が冷たいと泣きながら死んだ。独りぼっちになってしまったと、もうハーレイには会えないのだと。
あの時、左手にハーレイとお揃いの結婚指輪が嵌まっていたなら、独りぼっちではないと感じていたかもしれない。まだハーレイとは繋がっていると、結婚指輪があるのだからと。
でも…、とブルーは自分の左手に触れて離れていったハーレイの手を見詰めて零した。
「だけどハーレイと結婚出来ていたなら、あんな風には別れていないね」
ハーレイの腕に触れ、思念を送っただけで別れた。その思念さえも次の世代を託すための言葉。ハーレイへの想いが入り込む余地は何処にも無かった。
もしも自分たちが結婚出来ていたのなら。
揃いの指輪を左手の薬指に嵌めた、誰もが認める恋人同士であったなら…。
「…きっと二人でキスは出来たね、「さよなら」って…」
そしたら、きっとぼくの右手も…。
凍えずに済んで、ハーレイの温もりを身体中で覚えたままで逝けたんだよね……。
「そうだな、何もかもが違っていたかもな…」
俺もお前も、とハーレイがブルーの左手を取った。
「此処に指輪が嵌まっていたなら、俺はお前を失くさなかったかもしれないな…」
「…ハーレイ?」
「お前が「さよなら」とキスをしていたら、俺はお前を行かせてはいない。恋人が死ぬと分かっているのに行かせる馬鹿が何処にいるんだ、全力でお前を止めたな、俺は」
ソルジャーだったから止められなかった、とハーレイは呻く。
ブルーがソルジャーとして振舞ったがゆえに、自分もキャプテンになってしまった、と。
「キャプテンらしく、と思ったばかりに俺は選択を誤ったんだ。キャプテンだったら黙ってお前を行かせるだろうが、恋人はそうじゃないだろう? 俺はそいつに気付かなかった」
大馬鹿者だ、と深い溜息が吐き出される。
「お前を止めるか、追い掛けるか。…そのどちらかが恋人なんだ。そしてお前が結婚指輪を嵌めていたなら、止める方だな。恋人が死ぬと分かって行かせる馬鹿は何処にもいない」
「でも、あの時は…!」
「メギドがどうした、ナスカに残っていた馬鹿どもを強制的に回収したなら飛べていた。ワープは充分間に合ったんだ。お前は第一波を防げただろう?」
そこまでで終わりにするべきだった、とハーレイは悔しげに言葉を紡いだ。
「お前とジョミーとトォニィたちを船に戻して、ナスカの馬鹿どもを回収して…。そうする時間はあったと思う。お前がメギドへ飛ばなかったら、俺はそういう選択をした」
「それは今だから言えることだよ。…あの時は誰にも分からなかったよ」
「そうかもしれん。しかし、俺にもこれだけは言える。お前が俺との結婚指輪を嵌めていたなら、俺以外にも誰かがお前を止めた。…エラかブラウか、あるいはゼルか。お前を止めろと俺を怒鳴りそうなヤツが一人くらいは居た筈なんだ」
この指に嵌めた指輪にはそういう力がある筈だから、とハーレイがブルーの左手に触れる。細い薬指の付け根の辺りに、其処に指輪が在るかのように。
「俺とお前は結婚してると、二人で一つの存在なんだと、此処に嵌めた指輪が教えてくれる。誰が見たって分かるようにな。…その片方が消えてなくなるだなんて、誰も黙って見てはいないさ」
さよならのキスを交わした時点で皆がお前を羽交い締めだ、とハーレイはブルーに語り掛ける。
何をしようとしているのかがゼルやブラウに知れてしまって、シャングリラから一歩も出られはしないと。ハーレイがキャプテンとしてブルーとの別れを承知していても、周りの者たちが許しはしないと。
ブルーはハーレイの伴侶だから。二人で一つの存在なのだと、嵌めた指輪で分かるのだから…。
前の生での運命さえをも変えていたかもしれない指輪。
運命を変えるには至らなくても、メギドで死んでいったブルーを独りにはさせず、後に残されたハーレイの指にもブルーと揃いで作った片割れが嵌まっていたであろう結婚指輪。
それは実際には作られることなく、結婚指輪そのものがシャングリラには存在しないままで前の生は終わってしまったのだけれど。
もしもその指輪が在ったならば、と二人で思いを巡らせる。
ブルーはメギドに行かずに残って、地球まで辿り着けていたかもしれない。その前に命尽きたとしても、ハーレイやシャングリラの皆に看取られ、静かに旅立っていたかもしれない。
そういう穏やかな別れも良かった。
運命は変えられず、メギドが二人を引き裂いたとしても、薬指に互いの存在を思い、死んで、残されていたならば…。
ブルーの右手は冷たく凍えず、ハーレイもまた孤独の内にもブルーを感じていられただろう。
悲しい別れには違いないけれど、それでも幾らかは救われただろう。
けれど指輪は互いの左手の薬指に無く、ブルーは泣きながら死ぬしか無かった。ハーレイは深い孤独と悲しみの内に、残りの生を生きてゆくしか無かった。
そう、指輪さえ薬指に嵌まっていたなら、何もかもがまるで違っていたのに。
ほんの小さな、左手の薬指の付け根をくるりと取り巻くだけが精一杯の細い指輪が在ったなら。
高価な貴金属ではなくてもいいから、二人お揃いの結婚指輪があったなら…。
それを二人で嵌めたかった、と今でさえ思う。
遠い時の彼方に消えてしまって失くした身体に、そういう指輪を嵌めたかった、と。
叶う筈もない夢だったけれど、本当は指輪を作りたかった。
互いが互いのために在るのだと、誰が見ても一目で気付いてくれる結婚指輪。
自分たちは二人で一つの存在なのだと、証してくれる結婚指輪を…。
「ふふっ、とっくの昔に手遅れなのにね…」
でも欲しかった、とブルーは自分の左手を翳して笑った。
「ホントのホントに欲しかったんだよ、結婚指輪。…嵌められないって分かってたから、諦めてたけど。ハーレイと二人で嵌められないから、要らなかったけど…」
二人で嵌めなきゃ意味が無いもの、と言ってはみても、結婚指輪は憧れだった。シャングリラの中で嵌めている恋人たちが居なかったお蔭で耐えられただけ。
もしも誰かが嵌めていたなら、悲しくて泣いていたかもしれない。
ハーレイが前の生を終えるまでシャングリラに無くて良かったと思う。ハーレイに孤独を余計に感じさせずに済んだことだけは良かったと思う。
それでも本当は欲しかった。
ハーレイと自分は二人で一つだと、結ばれた恋人同士なのだと、その証が指に欲しかった。
二人お揃いの結婚指輪。
ハーレイの左手の薬指と、自分の左手の薬指。
全く太さが違う指に嵌まったお揃いの指輪を目にする度に、そうっと指先でそれに触れる度に、どれほどの幸せに包まれることが出来ただろうか。
地球までの道が辛く長くとも、どれほど心が救われたろうか…。
夢だけれど、とブルーは左手を眺めて呟く。
この手に指輪は無かったけれど、と。
「…そうだな、最後まで俺たちの指に結婚指輪は無かったな…」
そしてそのまま終わっちまったな、と言いながらハーレイがブルーの左手を掴む。
「前のお前の手を俺は失くしてしまって、今もこの手に指輪は無いが…」
いずれ此処に、とハーレイの指が捉えたブルーの左手の薬指の付け根に優しく触れた。
「此処に指輪が嵌まる予定だ、お前が大きく育ったならな」
「……うん……」
そうだね、とブルーは自分の小さな左手を見た。
ソルジャー・ブルーだった頃より小さく、幼い左手。その薬指も細いけれども、ハーレイが言うとおり、いつか其処には結婚指輪が嵌まるのだ。
前の生で欲しいと夢見た結婚指輪。
さっき、ハーレイと「もしもあの時、在ったならば」と昔語りをしていた指輪が。
「ブルー、今度は二人で堂々と嵌められるんだぞ、何処ででも…な」
誰に見られても困りはしない、とハーレイの手がブルーの左手を包み込んで撫でる。
「お前は今度こそ俺のものだし、俺だけのものだ。そういう証拠をしっかり嵌めて貰わんとな」
「うん。…ハーレイも嵌めてくれるんだよね?」
「もちろんだ。でなければ意味が無いだろう? お前も何度も言っていたがな」
結婚指輪は二人揃って嵌めるもの。
お揃いの指輪を左手の薬指に嵌めていてこそ、二人で一つの恋人同士。
「…ハーレイと一緒に嵌められるんだ…。ハーレイとお揃いの結婚指輪」
「ああ。サイズはまるで別物になってしまうんだろうが、お前とお揃いの結婚指輪だ」
手を並べれば直ぐに分かる、とハーレイが微笑む。
指輪の大きさがまるで違っても、二人の薬指を並べて見ればお揃いなのだと一目で分かると。
「お前は手袋を嵌めていないし、誰にでも結婚指輪が見えるぞ。そして指輪を嵌めた手の持ち主の美人は俺のものだ、と俺の手の指輪が自慢するんだ」
「うん…。早く嵌めたいな、ハーレイとお揃いの結婚指輪」
この指だよね、とブルーは自分の小さな左手の薬指を右手の指先で摘んでみた。
細っこい指はソルジャー・ブルーだった頃よりも頼りないけれど、結婚指輪を嵌められる頃には今よりも長くてしなやかな指になる。
そしてハーレイに嵌めて貰うのだ、ハーレイとお揃いの結婚指輪を。
いつかハーレイと自分の指とに嵌まるであろう結婚指輪。
どんな指輪が其処に嵌まるのか、想像するだけで心がじんわり温かくなる。
前の生では嵌められなかった結婚指輪。欲しかったけれど、叶わなかった結婚指輪…。
「ふふっ、今度は嵌められるんだ…。結婚指輪」
早く嵌めたい、と繰り返すブルーに、ハーレイが「まだまだ先の話だからな」と釘を刺す。
「お前が大きく育たない内は結婚しないと言っただろうが」
「…そうだけど…。直ぐに大きくなると思うよ、ソルジャー・ブルーと同じくらいに」
育ったら此処に結婚指輪、と左手の薬指を引っ張って見せれば、「忘れてるぞ」と笑われた。
「その前に、まずはプロポーズだろう? いきなり結婚指輪は有り得ん」
「だったら、結婚式もだよ!」
「そうだな、其処で指輪の交換だったな。…シャングリラでは一度も見かけなかったが」
ハーレイがキャプテンとして見て来た式では誓いの言葉とキスがあっただけ。結婚指輪の交換は無かった。シャングリラにそれは無かったから。結婚指輪が無かったから…。
「じゃあ、ぼくたちが第一号かな?」
「そういうことになるんだろうなあ、シャングリラはもう何処にも無いがな」
初代ソルジャーと初代キャプテンが第一号か、というハーレイの言葉に二人揃って笑い合う。
遠い昔に結ばれながらも隠し通した恋人同士。
ソルジャーとキャプテンだった二人が遠い未来に結婚するなど、誰も思っていなかったろうと。
青い地球の上で結婚指輪を交換し合って、嵌めるなど想像しなかったろうと…。
(…ぼくとハーレイとの結婚指輪…)
ブルーはうっとりと夢を見る。
大きくなったらプロポーズされて、それから結婚式をして。
前の生では嵌められなかった結婚指輪を二人して嵌めて、同じ屋根の下で二人で暮らして…。
(ハーレイと結婚出来るんだ…。今度は結婚してもいいんだ、結婚指輪も…)
そうしてハーレイと歩いてゆく。青い地球の上で、幸せな時を紡いでゆく。
沢山、沢山のぼくたちの未来。
ハーレイとお揃いの指輪を左手の薬指に嵌めて、何処までも二人で歩いて行ける。
もう手袋は要らないから。
ハーレイが指輪を嵌めた手を見られても、困りはしない世界だから。
二人お揃いの結婚指輪。
それが祝福される世界に、ぼくたちは生まれて来たのだから……。
薬指の指輪・了
※前のブルーとハーレイの指には無かった結婚指輪。それがあったら強い絆になったのに。
今度は嵌めることが出来ます、お揃いの指輪を左手の薬指に。結婚式を挙げて…。
そして、あの17話から7月28日で8年になります。
今は週1更新のハレブル別館、その日から暫く週2更新にペースを上げますです!
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明日はハーレイが来てくれる日。母に「早く寝るのよ」と言われなくとも、ブルーは早めに寝るつもりだった。お風呂に入ったら夜更かしをせずに直ぐにベッドへ行かなければ。
(本の続きは明日にしようっと)
ベッドで読むとついつい夜更かししてしまう。それくらいなら朝早く起きて読んだほうがいいと判断をして、ブルーは本を閉じ、バスルームに行った。
ゆったりと手足を伸ばして浴槽に浸かり、一向に大きくなってくれない身体を眺める。前の生の自分も細かったけれど、今の身体は細いどころか小さすぎだ。
(…あと二十センチ…)
ソルジャー・ブルーだった頃の背丈は百七十センチ。たったの百五十センチしか無いブルーとの差は二十センチで、その差が埋まってくれない限りは大好きなハーレイとキスも出来ない。本物の恋人同士になるなど夢のまた夢、いつになったら初めてのキスが出来るやら…。
(一年で二十センチは無理だよね…)
いくら成長期でもそんなに伸びてはくれないだろう。前世の自分はアルタミラからの脱出直後にぐんぐん伸びたが、あの頃は定期的に測っていなかったから、どのくらいかけて百七十センチまで成長したのか分からない。
(…それに環境も違うものね…)
成人検査を受けた直後の姿で何年くらい成長を止めていたのか。その反動で早く成長したのかもしれない。だとしたら前世のような目覚ましい伸びは期待出来ないし、今の姿が成長期のそれだと考えること自体が間違いなのかも…。
(もっと先にしか育たないかも…)
学校のクラスメイトたちを見ていても、目立って伸びている子はいなかった。母の友人には卒業間近で急に伸びた人もいたというから、十四歳の今が一番伸びる時期とは限らない。
(…うん、きっとそうだよ、来年になったら伸びるとか…)
来年までは長いけれども、このまま伸びないよりはいい。ハーレイは「ゆっくり育てよ」とよく言うのだが、いつまでも小さいままなのは嫌だ。ハーレイと早くキスをしたいし、その先だって。
(早く大きくなりたいよ…)
前と同じに、と溜息をついてバスルームを出た。身体を拭いて、パジャマに袖を通す途中で鏡に目がいく。其処に映った細っこい自分。ソルジャー・ブルーよりもずっと小さく、顔立ちも子供。
(うーん…)
全然ダメだ、とガッカリした。十四歳の「小さな子供」が鏡の中に映っている。ハーレイと恋人同士だった自分は、もっと背が高くて大人びていて…。
見れば見るほど悲しくなってくるから、ブルーは急いで自分の部屋へと引き揚げた。
鏡に映る自分はいなくなったけれど、ベッドに入ろうと腰掛けた所で目に入った手。両方の膝にチョコンと置かれた小さな手の甲。前の生では手袋に覆われていることが多かった手。
(えーっと…)
その手を見ていて、ふと考えた。
(…おんなじなのかな?)
十四歳の自分の身体。前の自分とそっくり同じだと思うけれども、本当に前と同じだろうか?
(ぼくの身体はぼくのだけれど…。これってホントに前とおんなじ?)
SD体制の頃と違って、今の自分は自然出産で生まれた子供。それに生まれた時からアルビノの子供で、其処は前世と大きく違う。前の生では成人検査が引き金になってアルビノに変わり、その前は金髪に青い目だった。
(…もしかして、別の身体なのかも…)
急に心配になってきた。顔は同じだと自分でも思うが、馴染んでいた顔は十四歳の顔ではなくてソルジャー・ブルーだった頃の顔。十四歳の姿で長く過ごしたとはいえ、アルタミラでは鏡に顔を映す余裕などまるで無かったし、脱出した後もそれは同じだ。
(…そっくりなんだと思ってるけど、でも本当は違うとか…?)
同じなのだと思いたい。百七十センチまできちんと育って、あの頃のような姿になれる身体だと信じたいけれど、何処に証拠があるだろう?
(…ハーレイが前とそっくりだから、ぼくもそっくりになるんだろうけど…)
神様がそういう身体を選んでくれたとブルーは思うし、ハーレイも「前の自分とそっくり同じに育つ器が見付かる時まで生まれ変わらずに待ったのだろう」と言うのだが…。
(でも、ハーレイもホントに同じか分からないよね?)
自分の手でさえ前と同じか自信が持てない。顔と違って鏡に映さなくても見える部分で、多分、一番頻繁に目にした身体のパーツ。ところが前の生では殆どの時間が手袋の下で、それを外す時はお風呂か、でなければ…。
(ダメダメダメ~~~っ!!)
顔がカアッと熱くなる。
ハーレイとベッドで過ごす時には手袋をはめていなかった。でも、自分の手はハーレイの背中に回されているか、ハーレイの手と絡み合っているかで、じっくり眺めるどころでは…。
そのハーレイ。
キャプテン・ハーレイそっくりに見えるハーレイは前とそっくり同じだろうか?
熱くなった頬が鎮まるのを待ち、ブルーは前の生の記憶と今の記憶を重ねてみた。
誰よりも大好きでたまらないハーレイ。いつでも側に居たいと思うし、居て欲しいと心から願う恋人。前の生でもそうであったし、今の生でも変わらない。
叶うものなら片時も離れず過ごしたいのに、今も前世もそれが叶わない自分たち。だから僅かな逢瀬でさえもハーレイの姿を心に刻む。会えない時には思い浮かべてハーレイを想う。愛しい姿を忘れはしないし、いつでも心に描くことが出来る。
(…ハーレイ、前とおんなじかな?)
遠い記憶の中のハーレイと、今の記憶にあるハーレイと。
(んーと……)
顔はそっくり同じに思えた。印象的な褐色の肌の色まで前と同じで、眉間の皺の寄り具合まで。もちろん髪や瞳の色は微塵も違わず、ソルジャー・ブルーの記憶そのまま。
(身体だって多分、おんなじだよね?)
キャプテンの制服を着たハーレイと、今のハーレイ。体格が違うようには見えない。服に隠れた部分までは分からないけれど…。
(…ハーレイ、服は脱がないもんね)
考えた途端に気が付いた。今のハーレイは服を着た姿しか知らないけれども、前世では違った。青の間で、あるいはハーレイの部屋で、服の下にある逞しい身体を目にしていた。
(……………)
愛し合う前に、愛し合った後に。部屋で、バスルームで、それを見ていた。自分の細い身体とは正反対のハーレイの身体に見惚れていた。あのガッシリとした大きな身体が好きだったけれど。
(…ぼ、ぼくって、どうして見ていられたわけ!?)
もう恥ずかしくてたまらない。思い出しただけで顔が熱くなるのに、それをウットリと見ていた自分はどれほど度胸があったのだろう?
恥ずかしさを堪えて懸命に記憶を辿ってみた。大きな身体に何か目印は無かったのかと。
ほくろとか、小さなアザだとか。
そういう何かがあったなら、と思うけれども覚えが無い。もしもそういう印があったら、度胸があった前の自分がまじまじと見ない筈が無い。
(…だけど見えない所もあるしね?)
きっと、と心で呟いて遠い記憶が入った箱を閉じる。
(そうだ、ハーレイに訊いてみようっと!)
自分たちの身体は本当に前と同じものなのか、ハーレイの意見も聞かなくては。
背丈のことはもう、どうでも良かった。それは純粋なブルーの興味。前の身体と今の身体は同じものなのか、別なのかと。
次の日、訪ねて来たハーレイと自分の部屋でテーブルを挟んで向かい合ったブルーは早速、例の質問をハーレイにぶつけた。
「ねえ、ハーレイ。その身体、前の身体と同じだと思う?」
「身体?」
いきなり訊かれて、ティーカップを傾けていたハーレイの手がピタリと止まる。
「何の話だ?」
「身体だってば! ハーレイ、キャプテン・ハーレイだった頃とそっくりだけど…。その身体って前と同じなのかな、って。…どう思う?」
「そういう意味か…。急に何事かと思ったぞ」
質問は順序立ててしろ、と教師らしい意見を述べてからハーレイはカップをコトリと置いて。
「お前の言う同じ身体というのは遺伝子的にか? それとも見た目か?」
「んーと…。遺伝子的には、どうなんだろう? ハーレイも、ぼくも」
「そいつは恐らく別物だろうな、何処かは同じかもしれないが…」
遺伝子的に全く同じということは無い。それはブルーにも理解出来る。クローンででもない限り不可能だったし、同じだったらそれこそ奇跡だ。奇跡は存在するけれど。…ハーレイとこの地球で再会した今、奇跡はあるのだとブルーは信じているけれど…。
「やっぱり遺伝子レベルじゃ別だよね…。じゃあ、見た目は?」
「…少なくとも俺の手は俺の手だな」
ハーレイは自分の両手を目の前に並べ、じっと見詰めた。
「うん、間違いなく俺の手だ。前の俺の手も、こういう手だった」
「覚えてるんだ?」
凄い、とブルーが感心すると「なんとなく…だがな」と苦笑が返った。
「俺はけっこう自分の手ってヤツを目にするチャンスがあったしな。…シャングリラの舵を握っていた手だ、そう簡単には忘れんさ」
「そうなんだ…。ぼく、自分の手に自信が無いよ。いつも手袋をはめていたもの」
「いや、それはお前の手だと思うが?」
ハーレイがテーブルに乗せられたブルーの両手に目を細める。
「小さいが、そいつはお前の手だ。…俺は絶対に間違えん。俺だけが見ていた手なんだからな」
手袋の下を。
その意味にブルーは赤くなったが、ハーレイの自信に嬉しくもなった。そこまで自分を見ていてくれたハーレイならば、ブルーの身体が前世と同じなのかも答えてくれるに違いない…。
手袋に隠されていた手と同じくらい、自分では記憶があやふやな身体。そんな自分がハーレイの身体は覚えていた。これという目印になるものは無かった、と記憶していた。
なら、ハーレイも覚えている筈。ブルーの身体に目印になる何かがあったか、無かったかを。
「ハーレイ、ぼくの手が前と同じだったら、ぼくの身体もおんなじなのかな?」
ブルーは小首を傾げて尋ねた。
「ぼくはハーレイの身体の目印とかには全然気付いてなかったんだけど…。ほくろとかアザとか、ぼくにはあった?」
「…目印だと?」
「うん。前の身体にはこんなのが、っていう目印。ハーレイには一目で分かる印は無かったと思うけれども、ぼくの身体にはあったのかな、って」
それは本当に純粋な興味。昨夜、前世のハーレイの裸体に頬を染めたことをブルーは忘れ去ってしまっていたし、問われたハーレイにも質問の意図はよく分かる。小さなブルーが良からぬ魂胆で持ち出してきた妙なものではないらしいことが。
だからハーレイは小さく笑って答えてやった。
「…残念ながら、無かったな。お前の身体には小さな傷一つ無かったさ」
研究者どもは見事な仕事をしていたんだな、と鳶色の瞳が少しだけ翳る。
「前のお前に聞いた話じゃ、実験で火傷も凍傷も…。それだけじゃない、切り刻まんばかりの酷い実験もあったと聞くのに、そんな傷痕は一つも無いんだ。あいつら、また実験をするために…」
「うん。治さないと使い物にならないものね」
苦しかったアルタミラでの研究所時代、ブルーは貴重なタイプ・ブルーのサンプルとして丁寧に扱われ、治療をされた。地獄のような苦痛を与えられた後でベッドに運ばれ、癒えるまでは実験も行われない。ブルーの身体が完全でないと、正しい結果が得られないから。
どんな火傷も刻まれた傷も、全て完璧に治療する。それが彼らの方針だったが…。
「なんだか残念…。一つくらい何かあれば良かった…」
溜息をついたブルーに、ハーレイが「いいや」と首を横に振った。
「俺は何ひとつ無かったことに感謝しているぞ」
「なんで? ぼくは目印が欲しかったのに…。ほくろとかアザも無かったわけ?」
「無かったな。本当に綺麗な肌をしてたさ、前のお前は。…そして俺が感謝している理由は二つ。一つはお前に傷が一つも無かったことだ」
もしもあったなら目にする度に苦しかっただろう、とハーレイは言った。
その傷をブルーに残した者が憎くて、引き裂きたい気持ちになっただろうと。
「…お前の身体に傷が無かったから、アルタミラを忘れて過ごすことが出来た。…お前との時間に酔うことが出来た。あの時間だけは思い出さずに済んだんだ。お前を苦しめた遠い過去のことを」
俺が知らなかった時代のことを、とハーレイの顔に苦渋が滲んだ。
「お前は俺の知らない所で酷い目に遭って、それでも人類を憎まなかった。…研究者たちでさえ、マザーの命令に従っただけだと許していた。だが、俺がお前の受けた仕打ちを知っていたなら…。たとえお前が許すと言おうと、決して許せなかったと思う」
もしも傷痕が残っていたら…、とハーレイは呻く。
自分はブルーが受けた仕打ちを片時も忘れず、人類を憎み続けただろうと。
「お前に傷一つ無かったからこそ、人類と手を取り合いたいというお前の意見にも賛成出来た。…しかしお前に傷があったなら、俺はヤツらを許せなかった。そうせずに済んだのが感謝の理由だ」
「…そっか……」
ごめん、とブルーは謝る。ハーレイはブルーを苦しめた者が憎いと言うけれど、そのハーレイも過酷な実験をされていたことを知っているから。それなのに自分が受けた苦痛よりもブルーの身に起こったことばかり案じ、その傷痕が無いことに安堵を覚えていたと言うから…。
「何を謝る? 俺が勝手に思ったことだ。それに苦しんだのはお前の方だ」
「でも…」
「俺は感謝していると言ったんだ。お前に傷が無かったからな」
「じゃあ、もう一つの理由って、何?」
ブルーは赤い瞳でハーレイを見上げた。
自分の身体に何ひとつ目印になるものが無かったことにハーレイが感謝する理由は二つ。一つは今ので分かったけれども、もう一つの理由は何だろう?
「…もう一つか? ほくろにしろ、アザにしろ、もしも何かがあったなら。お前、今、確かめろと言い出すだろうが? 同じ目印が今もあるのか、と」
「うん。だって自分じゃ分からないもの、あるんだったら調べて欲しいよ」
自分では分からない、前の身体に在った目印。
それが小さな傷であっても、ほくろやアザの類だとしても、今の身体にあるのか知りたい。同じ所に同じほくろやアザがあるのか、それとも今は何も無いのか。
その目印があれば嬉しいし、無くてもそれも嬉しいと思う。新しく貰った今の身体は、どちらにしても奇跡だから。前と全く同じであっても、別物の身体であったとしても…。
ハーレイなら知っているかもしれない、と期待してしまった前世の身体にあった目印。どうやら目印は無かったらしいが、それを確かめて欲しかったハーレイは何に感謝をするのだろうか?
「ねえ、ハーレイ。…なんで、ぼくに目印が無かったら感謝するわけ?」
「お前、自分で言っただろうが」
ハーレイが苦い顔をした。
「あるんだったら調べて欲しいと俺に自分で言わなかったか?」
「言ったけど…。それがどうかした?」
「そいつが俺は困るんだ! あったら調べさせられるからな、お前の身体を!」
「そうだけど…」
なんで困るの? と口に出す前にブルーは気付いた。ハーレイが困るブルーの身体にある目印。小さな傷でも、ほくろやアザでも、それが今も在るかどうかを調べるためには…。
「そっか、目印、足なら良かった? あったとしても」
「………。足も困るな、お前が自分で気が付きそうな所以外は困るんだ、俺は!」
普通に見える所ならいいが、お前が脱がないと見えない所の目印は困る。そんな目印が無かったことに感謝している、と告げるハーレイの顔は赤くて。
「ふふっ、ハーレイ、真っ赤になってる!」
「誰が真っ赤だ、そこまでじゃない!」
せいぜい頬が赤い程度だ、とハーレイはブルーの頭を軽く小突いた。
「子供のくせに大人をからかうな!」
「でも、赤いもの! そんなハーレイ、珍しいもの!」
ブルーはクスクスと声を立てて笑う。
前の身体と今の身体が同じかどうかを知りたいと思っただけなのに…。
思いもかけずにハーレイの赤くなった顔が見られて、ちょっと嬉しくて得をした気分。
(こんなハーレイ、ホントに滅多に見られないものね)
いつも落ち着いていて、大人なハーレイ。
キスを強請っても軽くあしらわれてばかりの自分の言葉で、そのハーレイが真っ赤になった。
前の身体と今の身体が同じかどうかを確かめる目印が無かったことが少し残念。
何か目印があったなら…。
(…何処かにあったら良かったな、ほくろ)
アザでもいいな、とブルーはクスクスと笑い続けながら考える。
そういう何かがあったというなら、是非ハーレイに今もあるのか調べて確かめて欲しかった。
(…背中がいいかな、それとも腰とか…?)
ふふっ、と笑いは止まらない。
ブルー自身には見えない部分で、ハーレイには馴染み深い場所。そういう所は沢山ある。前世でハーレイが愛してくれた場所がブルーの身体には沢山、沢山…。
(お尻だったら、調べてって言ったらパニックかもね)
狼狽えるハーレイが目に見えるようだ。
そんな目印を見てはいないと誤魔化して必死に逃げを打つとか、あるいは忘れたと言い出すか。
(…まさかホントは知っているくせに、そういうトコロだから知らんふりとか…?)
一瞬、そうとも考えたけれど、ハーレイに限ってそれは無い。自分の質問に真面目に答えていたハーレイ。こんな結果になってしまうなんて、ブルー自身も思わなかったし…。
(目印、ホントに欲しかったな…)
ハーレイが調べるのに困る所に、とブルーはまだ頬が赤いハーレイの顔をチラリと眺めた。
ねえ、ハーレイ。
前と同じ身体かどうかを教えてくれる目印が無いのもガッカリだけれど、それよりも。
君がこんなに赤くなるなら、ホントに小さなほくろでいいから、一つ目印が欲しかった。
君が調べるのに困る何処かに。
困るから嫌だ、と言いそうな場所に。
目印で困る君の姿を見てみたかったよ、ほんのちょっぴり。
だけど目印は無いらしいから、赤くなった君で我慢する。正直な君が大好きだから。
ぼくを子供扱いしているくせに、赤くなってくれる君が大好きだから……。
身体の目印・了
※傷痕一つ無かった、前のブルーの身体。その代わり、ほくろやアザも無かったようです。
同じ身体かどうかが分かる目印、あったら良かったかもしれませんね。ほくろとか。
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