シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
夕食を終え、片付けを済ませて、シャワーも浴びて。覚え書きのような日記をつけたハーレイは書斎から離れられずにいた。
机の上に広げられたソルジャー・ブルーの写真集。『追憶』というタイトルのそれは、ブルーと再会して暫く経ってから買ったもの。
書店に出掛けた目的はシャングリラの写真集だった。前の生で自分が舵を握り、ブルーが守った白い船。今はもう無い船を見たくて買いに行ったが、其処で目にした本が『追憶』であった。
ソルジャー・ブルーの最期を捉えた写真を何枚も載せた写真集。人類軍が撮影していた映像から起こした写真はサイオンの青い尾を曳いて宇宙空間を飛翔するブルーで始まる。ブルーの命の最後の輝き。前の生では見たことが無かった、ハーレイの知らないブルーの姿。
メギドの装甲を破って入り込んでからのブルーは写っていない。監視カメラが映した映像ごと、メギドは沈んでしまったから。
ブルーの最期を収めた写真たちは爆発するメギドの青い閃光で終わっていた。
書店で見た時は最初の一枚で心が挫け、買って帰って書斎の机で続きを捲った。初めて目にしたブルーの最期。自分の知らない暗い宇宙で、独りきりで逝ってしまったブルー。
あまりの衝撃に心は過去へと引き戻されてしまい、ブルーを亡くした苦しみに泣いた。ブルーを喪い、孤独と悲しみの内に終わった前の生の記憶に飲み込まれて泣いた。
気付けば自分は今の書斎に居て、この家から数ブロック離れた先にブルーの家が在り、十四歳の子供の姿で暮らしている。
ハーレイもブルーも前世で目指した青い地球の上に生まれ変わって、新しい生を生きていた。
遠い日に失くしたブルーは戻って来たし、もう前の生に囚われる必要は無いのだけれど。
辛く苦しかった日々を思い出させる写真集など、持っていなくとも良いのだけれど。
ソルジャー・ブルーという副題がついた『追憶』の名を持つ写真集。
捨てることなど出来る筈もなく、目に入らない場所に押し込んで忘れることも出来そうになく。
どうしたものかと考えた末に、日記と同じ引き出しに入れた。
其処ならブルーも寂しくない。
一日に一度は座る場所だし、日記を出す時に必ず目にする。
ブルーの最期を突き付けて来る最後の章を見ることはとても辛かったけれど、たまに今のように取り出して机に広げてページを捲る。
ブルーを追えなかった自分の弱さに気付かされた時に。
失くしてしまった時の辛さを思い出した時に。
ブルーは確かに今の生を生きているのだけれども、それでも時折、前の生のブルーがハーレイの心を掠めてゆく。
サイオンの青い尾を長く曳いて暗い宇宙を駆け抜け、メギドへと一直線に飛んで行ってしまったソルジャー・ブルーが。
「…なあ、ブルー。…お前は本当にあれで良かったんだろうか」
ハーレイはぽつりと呟いた。開いたページに青い閃光。気高く美しかったソルジャー・ブルーの身体をこの世から消し去ってしまった爆発。
その瞬間までブルーが生きていたのか、息絶えていたのかは定かではない。
生まれ変わりである十四歳のブルーに訊いても、恐らく分かりはしないだろう。前の生で自分がいつ死んだのかなど、ブルーには些細なことだったから。死よりも悲しく辛い思いに包まれ、涙の中でブルーの前の生は終わったのだから。
後悔した、とブルーは言った。
死が待つメギドへ飛んだことは何も後悔していないけれど、右の手がとても冷たかった、と。
キャプテンだったハーレイの腕に最後に触れた時に感じた温もり。それを最期まで大切に抱いて持ってゆくつもりでいたのに、撃たれた痛みで失くしてしまって右手が冷たく凍えたのだ、と。
右の手が冷たいと泣きじゃくりながら死んでいったソルジャー・ブルー。
本当にあれで良かったのか、と何度思ったことだろう。
ブルー自身は「仲間たちを救えたから、それでいい」と微笑んだけれど、本当にそれで良かったのか、と考えずにはいられない。
ソルジャーだったブルーにとっては「良かった」と言える最期であっても、ブルー自身の思いはどうだったのか。ハーレイの温もりを失くしたと泣いて、後悔したと語ったブルーは…。
そのブルーが生まれ変わって話したからこそ、ハーレイはそれを知っているのだけれど。
何ブロックも離れた場所だとはいえ、ブルーは同じ町に暮らしているのだけれど。
こんな夜には、ふと辛くなる。思い出してしまって悲しくなる。
ハーレイは写真集を閉じて立ち上がり、棚から酒を取り出した。シャングリラでは酒といっても合成のものが殆どだったが、今はこの地球の水で仕込まれた酒が手に入る。
気に入りの酒と、それからグラス。気のおけない友人たちと飲むために使うグラスの中から二つ取り出し、それぞれに酒を満たしてから。
一つを『追憶』の手前にコトリと置いた。もう一つのグラスは自分の前に。
『追憶』の表紙には背景に青い地球を合成してあるブルーの顔写真。
真正面を向いたブルーの写真は、数多いブルーの写真の中でも最も知られたものだった。背景は何を合わせるのも自由だったから宇宙などもあるが、地球を合成したものが一番多い。青い地球がとてもよく似合うブルー。
(…よくも探して来たものだ、これを)
ソルジャー・ブルーの存命中に公式の肖像写真は無かった。誰も作ろうと言わなかったし、その必要も感じなかった。シャングリラを優しく包み込むブルーの思念。ただそれだけで充分だった。
ブルー亡き後は戦いに次ぐ戦いの日々で、先の指導者を偲ぶための遺影の選定どころではなく、誰もが自らの心に刻まれた在りし日のブルーを思っていただけ。
ハーレイもまたブルーを亡くした悲しみにくれる中、恋人の面影を求めてデータベースを隈なく捜し回ったが、其処に求めるものは無かった。ソルジャーとしてのブルーなら幾らでもあるのに、個人的な肖像写真と呼べそうな表情のブルーは見付からなかったと記憶している。
けれど『追憶』の表紙に刷られたブルーは気高さと凛々しさの奥に深い憂いを秘めていた。見る者を惹き付ける強い瞳に僅かに見てとれる悲しみの色。ブルーの孤独を思わせるそれ。
誰がいつ、何処で見付けたものか。由来も発見者の名も時の流れに消えてしまって分からないのだが、よくぞ見付けたものだと思う。恐らくは映像の中のほんの一瞬、この表情をしたのだろう。
ハーレイだけが知るブルーの孤独と悲しみ。それを捉えた一枚の写真。
魂の奥底に訴えかけるような眼差しをしているがゆえに、この写真がどれよりも有名になった。ソルジャー・ブルーの名を冠した本には必ず入っている写真。ハーレイが前の生で探して探して、いくら探しても見付けられなかった真のブルーを捉えた写真。
その写真が刷られた『追憶』の表紙に語りかける。グラスに注いだ酒を押しやりながら。
「…一杯やるか? お前は酒に弱くて滅多に飲まなかったが、たまには付き合え」
自分の分のグラスを軽く掲げて口に運んでから、苦笑した。
「…すまん、ソルジャーのお前に叩く口では無かったな。だが、もうこの口調で慣れてしまった。だから「お前」で許してくれ」
前の生ではブルーを「あなた」と呼んでいた。常に敬語で話していたのに、今ではまるで違っていた。十四歳のブルーに「お前」と呼び掛け、砕けた言葉遣いで話す。
ブルーは十四歳の子供の姿で戻って来た。ハーレイの前に戻って来た。なのに…。
「…俺は何をしているんだろうな?」
こんな風に酒まで置いて、と『追憶』の表紙のブルーを見詰める。
「お前は十四歳の子供で、こんな時間にはぐっすり眠っている筈なのに…。暖かいベッドで眠っている筈なのに、酒なんか供えてどうするんだろうな?」
両親と暮らす家のベッドで眠っているだろう小さなブルー。グラスに注いだ酒が届く筈もなく、届いたところでブルーは飲めない。
前の生のブルーは酒に弱くてすぐに酔ったし、二日酔いをすることも多かった。ハーレイが酒を美味そうに飲むからと欲しがった挙句、よく酷い目に遭っていた。
今のブルーも恐らく酒には弱いのだろうが、それ以前にまだ十四歳の子供に過ぎない。未成年に酒は飲ませられないし、ハーレイの仕事柄、勧めたと知れれば厳重注意では済みそうもない。
「まったく…。お前を酒に付き合わせるなんて、最低最悪な教師なんだが…」
だが、とソルジャー・ブルーの写真を苦しげな顔で眺めて言った。
「…すまん、とてもお前を忘れられそうにない。メギドで逝ってしまったお前を…」
写真集の側に置かれたグラスの酒は少しも減らなかったが、ハーレイのグラスは空になった。
暫し考えてから酒のボトルを手に取り、もう一度自分のグラスに注ぐ。この写真の中のブルーと飲む時、一杯で済んだ試しが無い。
前の生でブルーを喪った後は、酒に逃げている暇など無かった。生きていることすら辛いと思う生であっても、ブルーが遺した言葉のとおりに皆を支えねばならなかった。
どうしても眠ることが出来ない夜に「明日に備えて疲れを取らねば」とほんの僅かな寝酒を口にし、ベッドにもぐり込んだだけ。グラスに一杯分もの酒は数えるほどしか飲まなかった。
あの頃の反動が出るのだろうか、と思うくらいに、写真集の表紙のブルーを前にして酒を飲むと二杯、三杯とグラスを重ねてしまう。辛い思い出を酒で消すように、何杯もの酒を呷ってしまう。
(…これもいつかは笑い話になるんだろうが…)
ブルーと一緒に暮らすようになったら、こんな夜を過ごさなくてもよくなるのだろう。この写真そっくりの面差しのブルーが同じ屋根の下に居るようになったら、こんな思いをしなくてもいい。
写真と同じ顔立ちであっても、今のブルーは悲しみに満ちた瞳をしてはいないだろう。ただただ幸せそうに微笑み、自分の隣に居ることだろう。
もしもブルーがこの写真集を見たならば…、と思いを巡らせてみた。
懐かしそうにページを捲るのだろうか?
それとも自分の写真ばかりで埋め尽くされた本を見て真っ赤になってしまうのだろうか…。
(そうだな、お前はもしかしたら笑うかも知れないな。…俺には辛すぎる最後の章で)
メギドへと飛ぶブルーは全く気付いていなかっただろう。人類軍が映像を記録していることなど考えもせずに、メギドを止めることだけを思って宇宙を駆けたに違いない。
だから、ブルーがメギドへと飛ぶ自分の姿の写真を見たならば…。
(笑い出しそうだな、「隠し撮りをされていたなんて知らなかったよ!」と)
そして十四歳のブルーなら…、と今の小さなブルーを思い浮かべる。
ハーレイと一緒に暮らせるほどに大きく育ったブルーだったら「隠し撮りだね」と楽しむ余裕もありそうだったが、小さなブルーは脹れっ面になりそうだった。
(あいつなら、きっと「酷いや!」と言うな)
ぼくは必死に飛んでいたのに、と怒るブルーが目に見えるようだ。
死を覚悟して駆けてゆく姿を隠し撮りされた上に、写真集まで出されてしまっていた、と。
「…そうだな、お前なら文句たらたらだな」
うん、と頷いてグラスに残った酒を飲み干したハーレイだったが、新たな酒は注がなかった。
写真集の表紙のブルーのためにと満たしたグラスの酒の方は「…うーむ…」と少し考えてから。
「供えた酒を捨てるのもなあ…。まあ、このくらいはまだ問題ないか」
それにブルーの分だしな、と言い訳してから一息に呷る。実のところ、ハーレイは酒には強い。一人でボトルを空けてしまっても、翌日まではまず残らない。
しかし同じ酒なら楽しい酒にしたかった。前の生の辛く悲しい記憶を打ち消すための一人きりの酒宴は、文字通り酒に逃げるもの。何度もそういう夜を過ごしたが、今夜は逃げ切れそうだった。
「…ブルー、お前のお蔭だな」
写真集の表紙にではなく、心に浮かんだ小さなブルーにそう声を掛ける。
「ありがとう、ブルー。…小さなお前の脹れっ面を思い出したら元気が出たさ」
お前は確かに生きているんだな、とブルーがベッドで眠っているだろう家の在る方角へと視線をやった。何ブロックも離れている上、今の世界ではどの家も思念を遮蔽する加工が施されている。そのせいで気配を感じることさえ出来ないけれども、ブルーがこの町に生きている。
隠し撮りをされたと怒りそうなブルーが。
前の生の自分の悲しい最期を収めた写真集を見て、脹れっ面をしそうなブルーが…。
(うんうん、右の手が冷たかったことも、泣いていたことも忘れて怒るな)
子供だからな、と可笑しくなった。
そして今よりも成長したなら、きっと笑ってくれるだろう。こんな隠し撮りをされていた上に、本まで出されてしまった、と。「まるで有名人みたいだね」とクスクス笑って、「恥ずかしいな」と頬を染めるのだろう。
前の生の最期に凍えた右手を「温めてよ」と差し出しながら……。
(さて、片付けを済ませたら寝るか)
明日も学校に行かねばならない。教師の自分が居眠るなどは言語道断、柔道部の朝練習もある。朝一番での走り込みに備えてしっかり休んで、きびきびと指導しなければ。
酒のボトルは棚に戻して、二つのグラスは綺麗に洗って…。
だが、その前に。
「…おやすみ、ブルー」
写真集の表紙のブルーの写真の向こうに小さなブルーの顔を重ねた。
「ちゃんといい夢を見るんだぞ? メギドの夢なんか見るんじゃないぞ」
いいな、と小さなブルーに言い聞かせてから、引き出しを開けて写真集を入れた。
その上にそっと自分の日記を乗せる。
まるで上掛けを被せるかのように、写真集に大切に覆い被せる。
「…ゆっくり眠れよ。こうして俺が守ってやるから」
俺がお前を守ってやるから、と前の生では叶わなかった願いを祈るように口にし、自分の日記で写真集をすっぽり覆い隠した。
こんな風にブルーを守りたかった、と思いをこめて、祈りをこめて。
(…今度こそ俺がお前を守る)
この身体で、俺の全身全霊を懸けてお前を守る。
「ブルー、お前は俺の影に隠れていればいい。いいか、決して出るんじゃないぞ」
守らせてくれ、と日記の下の写真集の表紙のブルーに告げて引き出しを閉めた。
今度は俺が全力でお前を守ってやるから、と……。
追憶の夜・了
※『追憶』という写真集の表紙を飾るブルーの写真は、劇場版ポスターのイメージです。
ハーレイの日記を被せて貰って、大切にされて。前のブルーもきっと幸せ一杯です。
聖痕シリーズの書き下ろしショート、40話超えてますです、よろしくです!
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「いたっ!」
ブルーが小さな悲鳴を上げた。向かい合わせで座っていたハーレイが「どうした?」と尋ねる。此処はブルーの部屋で、怪我をするようなことは無い筈なのだが。
「…引っ掛かった…」
左手を見詰めているブルー。ハーレイとティータイムを楽しんでいる最中なのに、何処に左手を引っ掛けたのか。ブルーの前にはテーブルと紅茶が入ったカップ、それに焼き菓子の皿しか無いというのに。
「………」
よほど痛かったのか、血でも出たのか。左手を軽く握ったままのブルーに、ハーレイはもう一度尋ねてみた。
「どうしたんだ?」
「…ちょっとだけ…」
そう答えたブルーは、まだ手を見ている。
「見せてみろ」
小さな左手を引き寄せたハーレイは「これか」と僅かに血を滲ませた人差し指に気付いた。白い指先の爪の際にポツンと赤い血。雫とも呼べない、ほんの僅かな血の滲み。すぐ側に薄くめくれた皮が少しだけ。
「ささくれか…。こいつを引っ掛けちまったんだな?」
「うん…」
元々、めくれかかっていたのを服にでも引っ掛けたのだろう。薄皮が引っ張られ、めくれて血が出た。そんな所だ。激痛とはとても呼べないけれども、引っ掛ければ痛いものではある。
「お前、お父さんかお母さんに逆らったか?」
「なんで?」
「ささくれは親不孝をすると出来るというんだ。…お前はあまりしそうにないが」
「逆らってないよ。…でも出来ちゃった」
ブルーは左手を自分の前に戻すと、ささくれを右手の指で引っ張ろうとした。取り除こうとしているのだろうが、ハーレイの経験からしても上手くいくことは滅多にない。
「こら、引っ張ったら酷くなるぞ。爪切りは持っているんだろう?」
「んー…」
「不精していないで取ってこい。俺が切ってやるから」
その言葉にブルーはパッと顔を輝かせ、「取って来る!」と部屋から駆け出して行った。階段を下りてゆく軽い足音。
(…そうか、この部屋には無かったのか…)
爪切りを取りに階下へ行く時間すらも、ブルーは惜しかったのだろう。少しでも長くハーレイと一緒に過ごしていたくて。
薬箱から取って来たのか、はたまた何処かの引き出しからか。爪切りを持ったブルーが間もなく戻って来た。自分でささくれを切ってくればいいのに、「はい」とハーレイに爪切りを差し出す。ついでに自分の左手も。
「…本気で取って来たんだな? お前、自分で出来ないのか?」
「出来るけど、ハーレイが切ってくれるって…。ダメ?」
期待に満ちた眼差しと、小首を傾げたその愛らしさ。ハーレイは「参ったな」と呟いて爪切りを受け取り、ブルーの小さな左手を掴んだ。
ささくれだけを切り取るために最大限の注意を払う。ブルーの肌を傷つけないよう、ささくれを引っ張ってしまわないよう。そうっと、そうっと爪切りを大きな手で扱って…。
「よし、これでいいな。…どうだ、まだ引っ掛かるか?」
「ううん、大丈夫」
もう痛くない、と左手を撫でて自分の椅子に戻ったブルーだったが。
「…ふふっ、左手」
嬉しそうに微笑むブルー。左手が何だと言うのだろう、とハーレイは爪切りをテーブルに置いて問い掛けた。
「左手がどうかしたのか、ブルー?」
「ハーレイに握って貰うの、いつも右の手ばかりだから…。左手が自己主張したのかな、って」
「…そうかもな。お前が喜ぶのは右手だからな」
前の生で最期を迎えたブルーは右手が凍えて冷たいと泣いた。最後にハーレイの腕に触れた右の手に残った温もりを失くしてしまって、独りぼっちになったと泣きながら死んだ。
その記憶が今も残っているから、右手を握ってやると喜ぶ。機嫌を損ねてしまった時でも、右の手を握って語りかけてやれば次第に笑顔が戻ってくる。
再会してから今日までの間に、何度、右の手を握っただろう?
けれど左手をしっかりと握った覚えは一度も無かった。右手は甘やかしてやっているのに、その陰に隠れて忘れられがちなブルーの左手。
ブルーがささくれを作らなかったら、あんな風に優しく扱う機会は無かっただろう。ささやかな自己主張をしてきたブルーの左手。普段はかまってやらない左手…。
ささくれが出来ていた辺りを撫でているブルーの小さな手。ソルジャー・ブルーだった頃よりも小さな手をした十四歳のブルー。前の生ではしなやかで長かった指が、今は細っこくて柔らかい。
(…ブルーの手も滑らかで柔らかかったが、子供の手と比べるとやはり違うな…)
そんなことを思いながら見ていて、ふと気付いた。前の生と今の生との大きな違い。
「そういえば…」
口を開くと、ブルーが「何?」と見上げてくる。ハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「いや。…昔は俺だけの特権だった筈なのにな、と思ってな」
「何が?」
「お前の手だ。お前、いつも手袋をしていただろうが」
「あっ…!」
自分でも忘れていたのだろう。ブルーがしげしげと自分の両手を見詰める。手のひらを眺めて、裏返してみて。手の甲をじっと見てから、また手のひらに視線を落とす。
「…ホントだ、手袋のことなんか忘れてた…」
「俺も今の今まで気付かなかったさ、していないのが普通になってたからな。…前は俺とドクターくらいしか見ていなかったのを惜しげもなく大盤振る舞いか」
「見られたって減らないと思うけど…」
「減りはしないが、俺の特権が一つ無くなった。そいつが実に残念だな」
残念だ、とハーレイはブルーの手を取った。右手も、忘れられていると自己主張をした左手も。
「…こうして見てみると小さいだけで、他はあんまり変わっていないか…。お前の手だという気がするからな。指紋なんぞは気にしなかったし、手相を見ることも無かったが…。お前の手だな」
「そう?」
「ああ。他の奴の手を差し出されたって俺には分かる。お前じゃない、と」
「そうなんだ…。ぼく、自分でも分からないかも…。だって、殆ど見なかったから」
前の生のブルーは常に手袋をはめていた。ソルジャーの衣装の重要なパーツの一つであったし、戦闘に赴くブルーの身体を保護するためのものだったから。
「…ハーレイ、手だけでも分かるんだ? ぼくの手だ、って」
「自信はあるな。なんだ、偽物の手でも出してくるのか? そういう童話もあったっけな」
「墨を塗った手でも、ぼくだと分かる? 泥だらけの手でも?」
「お前の手ならな」
任せておけ、とハーレイは笑った。扉からそういう手が突っ込まれたなら、掴んで引っ張って、捕まえて。墨でも泥でも洗い落として悪戯者の正体を暴くまでだ、と。
「…そっか、手だけで分かっちゃうんだ…」
しきりに感心しているブルー。前の生では手袋があまりにも普通だったから、そちらの記憶しか残っていない。自分の指紋がどんな風だったか、手のひらを走る三本の線がどうだったかも曖昧なもので、いざ目の前に突き出されたとしても自分の手だと即答出来るかどうか。
「ハーレイ、凄いね」
「そりゃあ、俺しか見なかったしな? 俺だけが見られる宝物だぞ、じっくり観察して当然だ。…もっとも、お前、明るい所は嫌がったからな…。そんなに長くは見られなかったな」
「ちょ、ハーレイ…っ!」
ハーレイが何を言っているのかに気付いたブルーは真っ赤になったが、ハーレイはブルーの手を離さない。「子供のお前には何もしないさ」と捕えた両手を愛おしそうに眺める。
「…お前の手。前はもう一回りは大きかったな、そのくらいまで育たんとな? あの頃はゆっくり見られなかったし、今度はじっくり見させて貰う。そしてたっぷり味わうのさ」
今でも美味しそうなんだがな、とハーレイは名残惜しそうにブルーの手を解放した。
「これ以上見ていたら食いたくなる。…此処までだな」
「味見していいよ?」
「そういう台詞は育ってから言え」
ハーレイの軽い拳がコツンとブルーの頭を小突いた。
「食べ頃に育つまで食わないと俺は決めているんだ。育った方が断然、美味い」
「柔らかいよ? 多分、今の方が」
手も柔らかい、とブルーは両手を差し出したけれど、ハーレイは鼻で笑っただけだった。
「まあ、子牛でも子羊でも柔らかいしな? しかしだ、ミルク臭いとも言う」
「ミルク臭い!?」
「味わい深くはないってことだ。柔らかいだけでは旨味が足りない。…ミルク臭いお前もいいかもしれんが、やはり育った方がいい」
「…ミルク臭いなんて、酷いよ、ハーレイ!」
ブルーは頬を膨らませたが、「それで間違いないだろう?」と返された。
「お前、本当に毎日ミルクを飲んでいるしな? 背が伸びるようにと頑張ってるだろ、ミルク臭くなっていると思うぞ」
「……それ、子牛とかとは違うと思う…」
「似たようなモンだ。分かったらその手は仕舞っておけよ」
俺が味見をしたくなる前に、と促されたブルーは両手を膝の上に置いてテーブルの陰に隠した。意地悪なハーレイに見せてたまるものか、と意地になったまではいいのだけれど。
(……どうしよう、これじゃ食べられないよ……)
両手を隠してしまったブルーは直ぐに窮地に陥った。テーブルの上の紅茶と焼き菓子。どちらも手が片方でも空かない限りはブルーの口には入らない。サイオンで運ぶという手もあったが、今のブルーはサイオンに関しては不器用だった。紅茶は零してしまいそうだし、焼き菓子も落とす。
(…うー……)
食べたいけれど、食べられない。そんなブルーの悩みを他所にハーレイは紅茶で喉を潤し、空になったカップにティーポットから熱いおかわりを注ぎ入れた。焼き菓子も美味しそうにモグモグと食べて、「美味いぞ?」とブルーに微笑みかける。
「どうした、今日は食べないのか? まだ半分以上残っているが」
「………手!」
「手?」
「ハーレイが手は仕舞っておけって!」
自分が勝手に仕返しとばかりに仕舞ったくせに、ブルーはハーレイに怒りをぶつけた。
「ぼくの手、テーブルの下だから! 手が使えないから食べられないし!」
「……うんうん、なるほど。良く分かった」
こういうことだな、とハーレイの手が伸ばされて。
「ほら、ブルー」
ブルーの唇の前に焼き菓子を刺したフォークが突き出された。焼き菓子もフォークも、ブルーのもの。ハーレイが切って、突き刺して差し出しただけで、ブルーの焼き菓子とブルーのフォーク。
「…な、何なの、ハーレイ?」
「手が使えないから食えないんだろう? これなら食えるな?」
「…う、うん……」
答えるために開けた口の中に焼き菓子が素早く押し込まれた。有無を言わさぬハーレイの動きにブルーは目を白黒とさせたけれども、噎せ返るような突っ込み方では無かったから。
(……く、悔しいけど……。悔しいけど、美味しい……)
無言で噛んで飲み下したら、今度は紅茶のカップが出て来て。
「まだ熱いから気を付けろよ?」
「ハーレイ、これって…!」
「お前の両手を甘やかしてやることにした。…右手は元から甘えん坊だし、左手も今日は甘えたいようだしな? 食わせてやるからゆっくり食べろ」
こんなチャンスは滅多に無いぞ、と覗き込んでくる鳶色の瞳があまりにも優しかったから。
ブルーの八つ当たりじみた怒りと子供っぽい意地は何処かへ消えた。そして大人しく食べさせて貰う。前の生で倒れて寝込んだ時などに、ハーレイがそうしてくれていたように…。
ハーレイに食べさせて貰った紅茶と焼き菓子。紅茶はおかわりも淹れて飲ませてくれた。まるで小さな子供にするように、あるいは前の生で倒れたブルーにしていたように。
食べ終える頃にはブルーの胸一杯に幸せが溢れ、もっと、もっと、と強請りたいほどで。
「…ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「もうすぐお昼御飯だけれど…。食べさせてくれる?」
本当に強請ってみたら、ハーレイはブルーが両手を隠したテーブルにチラリと視線をやって。
「お前の両手がそう言ってるのか?」
「…うん。今日は一日、お休みだって」
「夕食までは知らんぞ、俺は。お父さんとお母さんの前では流石に出来ん」
「晩御飯の時には起きるらしいよ。だから、それまで。…ダメかな、ハーレイ?」
左手はうんと重傷なんだよ、とブルーはささくれの痕を示してみせた。つまりは両手がテーブルの下から外に出てしまったわけで、ハーレイがプッとたまらず吹き出す。
「出て来たようだが? お前の両手」
「重傷だってば! 体育の見学みたいなものだよ、出て来ていたって休みなんだよ!」
「そう来たか…。分かった、今日の昼間は見学なんだな」
特に左手が重傷なのか、とハーレイはテーブルの下から姿を現したブルーの手を見た。
「ささくれの所、まだ赤いな。…まだ痛むか?」
「少しだけ…。でも重傷だよ?」
「分かっているさ。少しとはいえ血も出てたしな。…前のお前は怪我をしていても黙っていたが」
「……そうだったね」
ソルジャーだった頃のブルーは戦闘で傷を負うこともあった。小さな傷でも侮れないから、必ず治療は受けたけれども、ノルディには固く口止めしていた。ブルーが負傷したと知れたら、誰もが酷く心配するから。ほんの小さな掠り傷でも、それをブルーに負わせてしまったと気に病むから。
「そしてお前が黙ってた挙句、俺だけが気付く羽目になるんだ」
「…何度もそれで叱られたっけね…」
「当たり前だ! いつもお前は黙っているから、俺は本当に気が気じゃなかった。お前が戻る度に、怪我をしていないかとノルディに訊いて…。あいつも「ご無事です」としか答えないから、船の中が落ち着いて青の間に行くまで無傷かどうかも分からないんだぞ!」
「ぼくは大抵、無傷だったよ?」
そう答えたけれど、無傷ではない日も何度もあった。だからハーレイは溜息をつく。
「…無傷のことが多かった分、たまに怪我をされると堪えたんだ。…守れなかった、と」
前の生でブルーが戦いに出る時、シャングリラの指揮はハーレイが執った。ブルー以外に戦える者はおらず、戦闘班と言っても戦線に出るにはあまりに弱い。ゆえに戦闘の殆どをブルーが担い、戦闘班が補助することになる。彼らに指示を下す立場がハーレイだった。
戦闘班の力が充分であれば、ブルーが負傷することはない。ブルーを守ろうとハーレイは懸命に指揮を執るのだが、力及ばず、守り切れなくて傷を負わせて。…それがハーレイには辛かった。
「俺はお前を守りたかった。…それなのに俺には力が無いんだ」
「そんなことないよ。ハーレイはいつも頑張ってくれた」
「どうだかな…。お前の手袋やマントの方が、俺より優秀だった気がする」
「…あれはそのために作ってあったよ。その代わり、いつも着てなきゃいけなかった…」
手袋だってはめたままだよ、とブルーは呟く。
「いくら慣れてても、素手とはやっぱり違うもの…。ハーレイの前で外してた時は幸せだった」
そのぼくの手を覚えててくれた、とブルーは微笑む。
「自分でも記憶があやふやなのに…。ハーレイは手だけでぼくが分かる、って。そんなにしっかり見てくれてたんだ、と思ったら嬉しくなった。…ハーレイはぼくより詳しいんだ、って」
「そりゃあ、俺だけの特権だしな? じっくり見なけりゃもったいないじゃないか」
そしてその手をまた見られた、とハーレイはブルーの手を取った。
「俺の記憶よりも小さくなったが、お前の手だ。…しかも、ささくれが出来たりする」
「ささくれ?」
「あの手袋をしていた頃には無かっただろうが? ささくれなんかは」
「うん…。そんなのが出来る手袋だったら意味が無いしね」
戦闘の時にブルーの身を守るために作られた特別な手袋。人の温もりは伝えるけれども、爆発や炎から来る攻撃的な熱は通さない。「身に着ける人を守りたい」というミュウたちの思いを集めて作り上げられたソルジャーの衣装。それを着けていれば、ささくれが出来る筈もない。
「…俺はささくれの出来る今の手が好きだな、同じお前の手には違いないが」
「………。ハーレイ、もしかして荒れた手が好き?」
ブルーは赤い瞳を見開いた。ささくれが出来る手が好きだなんて、変わっていると思ったのに。
「いや、滑らかな手が好みだが? お前の手は別に荒れてもいないし」
「でも、ささくれが好きだって…」
「ささくれが好きというわけじゃない。ささくれが出来て痛がる手が好きなんだ」
「…えっ……?」
ますますもって分からない。途惑うばかりのブルーの左手にハーレイが触れた。
「お前、痛いと叫んだだろう? そういうお前の手が好きなのさ」
ハーレイは大きな両手でブルーの左手を包み込み、穏やかな声で語りかけた。
「…前のお前は、ちょっぴり皮が剥けたくらいで声を上げたりしなかった。こんな小さなささくれ程度で「痛い」と叫びはしなかった。…違うか?」
「そうだけど…」
「もっと酷い傷を負った時でも、お前は隠して微笑んでいた。俺の前でも「大丈夫だよ」と笑っていたっけな。…だがな、ささくれ程度で痛がるお前が本当なんだ。それが本当のお前の手だ」
こんな小さな傷でも痛がるお前が本当なんだ、とハーレイはブルーの右の手も掴む。
「…それなのに、お前は戦っていた。この右の手が冷たくなるまで……あんなに酷い傷を負うまで戦い続けて、逝っちまった。本当はささくれ一つで痛いくせにな」
「あの頃のぼくはソルジャーだったよ。だから当然…」
「当然も何もあるもんか。痛いものは痛いし、それが普通の反応だ。今のお前は普通に「痛い」と叫ぶことが出来る。小さなささくれで痛いと叫べる。…そんな手をしたお前がいいな」
これが本当のお前なんだ、とハーレイはブルーの両方の手を並べて優しく撫でた。
「今日はこの手は休業らしいが、これからもうんとサボッていいぞ? 前のお前の手は我慢強くて働き過ぎた。その分まで俺が甘やかしてやる。ささくれで重傷になるんだからな」
「…それでいいの?」
「ああ。俺はお前を甘やかしたいし、本当のお前が大好きだからな」
うんと甘えて幸せに生きろ、とハーレイの手が前の生で凍えたブルーの右手と、ささくれの痕が残る左手を強く握った。
ブルー、今度は痛い時は「痛い」と素直に言えるお前のままでいてくれ。
俺が必ず守ってやるから。
今度こそ、俺がお前を守ってやるから。
ささくれが痛くて叫ぶお前を守ってやるから。
分かるな、ブルー?
お前は強くならなくていい。その分まで、俺が強くなるから……。
甘やかされる手・了
※ささくれが出来た、と痛がるブルー。前のブルーよりも弱くて甘えん坊な手。
今度はブルーが頑張らなくてもいい世界。守って貰える世界なのです。
※聖痕シリーズ、書き下ろしショート、増殖中。お気軽にどうぞv
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学校が夏休みに入ってカラリと爽やかに晴れた日のこと。いい天気なのにハーレイは車で現れ、そのトランクからキャンプ用のテーブルと椅子が引っ張り出された。それらを庭で一番大きな木の下に据えて、ハーレイがブルーを手招きする。
「どうだ、ブルー? デートのための場所が出来たぞ」
「うん。今日は二回目のデートなんだね」
ブルーは椅子にチョコンと座った。最初のデートは六月のことで、その時も今日と同じテーブルと椅子をハーレイが持って来てくれた。母からも見える場所だけに、ハーレイの膝に座ったりすることは出来ないけれども、普段と違う場所でのティータイムはとても心が弾んだものだ。
初めてのデートの再現のようなテーブルと椅子。特別な時間が始まる予感。
間もなく母がアイスティーと菓子を運んで来てくれ、二度目のデートの開幕となった。木の葉を透かして漏れて来る光が優しいレース模様を描く。シャングリラには無かった本物の木漏れ日。
本物の地球の太陽はとても眩しく、今の季節は木陰に居ないと肌が痛いほど。それでも前の生で焦がれ続けた地球に居るのだと思うと嬉しい。そんなことをブルーが考えていると。
「おっ! ブルー、見てみろ。梯子が出来たぞ」
「梯子?」
キョトンとするブルーに、ハーレイが「あそこだ」と空を指差した。澄んだ青空に幾つか、白い雲。それは見えるが梯子の形はしていない。何処に梯子があるのだろう?
「知らないのか? 雲の間から光が射しているだろう?」
「あれが梯子なの?」
「そうさ。ああいう光の梯子を使って天使が行き来しているそうだ。ヤコブの梯子という名が本当なんだが、天使の梯子の方が通りがいいな」
ヤコブの梯子は聖書から来た名前なのだ、とハーレイはブルーに教えてくれた。
「ヤコブという男が見た夢の中で、天使があれを梯子にしていた。それでヤコブの梯子なのさ」
「そうなんだ…。ぼくは天使の梯子の方が好きかな、梯子の名前」
「俺もそっちの方が好きだな。…こういう時に雲の端っこをよく見てみるとだ、天使が顔を出しているらしい。おふくろに聞いた話なんだが」
「えーっと…」
ブルーは光が射してくる雲間に目を凝らしたが、天使の姿は見付からなかった。前の生では神も天使もさほど信じていなかったけれど、ハーレイと再会出来た今ではどちらも居ると信じている。そうでなければ生まれ変わって出会うことなど決して出来はしなかっただろう、と。
「…見えないね、天使」
残念そうにブルーは呟く。せっかく天使の梯子があるのに、昇り下りする姿も見られない。
「そう簡単には見えんだろう。頑張って探せば、生きてる間に一度くらいは見られるかもな」
「見てみたいな…。天使って凄く綺麗だろうから」
「そりゃあ、神様の御使いだしな? しかしだ、お前も負けてはいないと思うが」
「えっ?」
何のことか、とブルーが首を傾げると、ハーレイは「お前だよ」と繰り返した。
「お前も天使みたいじゃないか。今の姿は可愛らしいし、育てばとびきりの美人になる。どっちも天使に負けていないし、おまけに空も飛べるしな?」
背中に翼は生えていないが、と目を細めながらブルーを眺める。
「…お前なら綺麗に飛ぶんだろうな。俺は戦いの時しかお前が飛ぶのを見ていないしな…。平和になった今の世界で見たいもんだが、この辺りは飛行禁止だし…。庭で出来るのは二階の窓まで舞い上がるくらいか、残念ながら」
ハーレイはブルーを見詰めたままで一つ小さな溜息をついた。
「いつかお前が大きくなったら、飛べる場所まで連れてってやろう。そうしたら俺に見せてくれ。天使みたいに空を舞うお前を、俺は存分に見てみたいんだ」
期待に満ちたハーレイの眼差し。出来るものなら応えたかったが…。
「ごめん、ハーレイ。…ぼく、前と違って飛べないみたい」
「飛べないだと?」
ハーレイの鳶色の瞳が丸くなった。
「瞬間移動が出来ないことは知ってたが…。飛べなかったのか、今のお前は」
「うん。…飛べてたら、この木だって登れていたよ」
頭上に枝を広げた木の高い梢をブルーは仰ぐ。
「遊びに来た友達がよく登ってた。ぼくも登ってみたかったけれど、木登りなんか出来ないし…。もしも飛べたら、登らなくっても一番高い場所まで行けたよ」
「それじゃ、お前は見ていただけか?」
「…うん。楽しそうだなあ、って見上げていただけ」
「そうだったのか……」
木登りは実に楽しいんだが、とハーレイはブルーが登れなかった庭で一番高い木を見上げた。
「お前が飛べないとは思わなかった。どおりで飛び降りて来ないわけだな」
「何の話?」
「俺がこの家に来る時だ。いつ来ても二階の窓から手を振るだけだし、大人しいのかと思って見ていたんだが…。要するに、お前、窓から飛んだら落っこちるんだな?」
「落ちるんじゃなくて、飛べないんだってば!」
ブルーはむきになって反論した。飛べないことと落っこちることを同列にされると腹立たしい。飛べないことは個性であって、落っこちることは間抜けな証拠。だから懸命に主張する。
「ぼくは飛べないけど、落っこちないよ! 落っこちるようなことはしないから!」
「なるほど、なるほど。つまり飛べないから飛び降りない、と」
「そうだよ! 二階の窓から飛んだりしたら落っこちてケガするだけだもの!」
現に一度も飛ぼうと試みたことは無い。友人たちの中には高い木や二階の窓から飛ぼうと挑んで怪我をした者が何人もいるし、名誉の負傷扱いのそれは勇気の証明でもあるのだが…。
前の生の頃と違って今はタイプ・ブルーも珍しくない。その中の多くが飛行能力を持っており、それゆえに不測の事態が起こらないよう市街地での飛行は全面的に禁止されている。飛びたい者は許可が下りている場所へ出掛けて、一種のレジャー感覚で飛ぶ。
それが社会のルールだけれども、子供はルールなど気にしない。飛べることは「かっこいい」と考えているし、その能力の有無に関わらず飛んだ挙句に怪我をするのが当たり前。
もちろん学校では安全のために「飛ばないように」と教えられるが、守らないのも子供の特権。ゆえにブルーの友人の中にも負傷者多数となるわけで…。
「ぼくは失敗してないから! 飛んでないから!」
一括りにされてたまるものか、とブルーは叫んだ。
「それに、怖くて飛ばなかったわけじゃないからね! 飛べないのに飛んだら馬鹿なだけだし!」
「分かった、分かった。…しかしだ、お前、本当に今は飛べないのか?」
前の生でのブルーの能力が抜きん出ていただけに、ハーレイにも信じ難かったのだが。
「…無理みたい…。学校でプールに入った時にね、前の記憶を使ってみたら水に浮くことは出来たけど…。その要領で浮こうとしたって、空中ではほんの少ししか…」
このくらい、とブルーは両手で高さを示した。五十センチにも満たない高さ。
「これは記憶が戻る前から出来たんだよね。でも、これだけだと…」
「窓から飛んだら大怪我だな、うん」
ハーレイは深く頷いた。
「飛ばなかったのは賢明だ。ただでも弱いのに、怪我までしてたら目も当てられん」
前世では自由自在に飛んでいたのに、今は全く飛べないブルー。それを知ったハーレイは驚いたのだが、考えてみれば今の世界では飛べなくても何の問題も無い。現に今日まで飛べないことすら知らずに過ごしていたのだから。
「…お前が飛ぶ姿を見られないのは残念だがなあ…。だが、飛べないのはいいことだ、うん」
「ハーレイ、言うことが滅茶苦茶だよ? 飛べるのと飛べないのと、どっちがいいの?」
「それはまあ…。両方だな。どちらも俺の我儘なんだが」
ハーレイは右手を伸ばしてブルーの前髪をクシャリと撫でた。
「お前が飛ぶのを見てみたかったのは本当だ。…さぞかし綺麗だろうからな。お前ならきっと翼が無くても天使みたいに見えるんだろう。そういう意味では飛べる方がいい」
「飛べない方は?」
「お前が飛ばなくてもいい世界なんだな、と思ってな。…前のお前は戦う時にしか飛ばなかった。戦うために飛んで、守るために飛んだ。…そんなお前が飛ばなくて済むのが平和の証拠さ」
飛べないお前も俺は嬉しい、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべる。
「お前は一生、飛ばなくていい。お前はメギドまで飛んじまったしな。もしもお前が飛べなかったなら、俺はお前を失くさなかった。…お前はメギドに行けないんだからな」
二度と飛ぶな、と諭すようにブルーに言い聞かせる。
俺の腕の中から飛んで行くな、と。
「ごめん、ハーレイ…。でも、あの時は行くしかなかった。ぼくしかメギドを止められなかった」
「分かっているさ。だから今度は飛ばなくていい。飛べないお前でいい、と言ってる」
もう飛ぶなよ、とハーレイはブルーに念を押した。
その年ではもうやらないだろうが、高い木や二階の窓から飛ぶのもやめろ、と。
ハーレイに「飛ぶな」と何度も繰り返されたブルーだったが、さっき教わった天使の梯子が目に焼き付いて離れない。ソルジャー・ブルーだった頃にもアルテメシアで眺めた雲間からの光。
あの頃はそれを何と呼ぶのか知らなかった。ゆっくり見ている余裕も無かった。射してくる光に当たらないよう避けて飛ばねばならなかったし、道を急ぐ途中の景色でもあった。シャングリラに戻る時であったり、敵地に赴く時であったり。
名前すら知らなかった天使の梯子。ヤコブの梯子とハーレイは言ったが、天使の梯子と呼ぶ方が耳に心地よい。天の御使いが行き来する梯子。それを昇ってみたい気がする。前の生では光の中に入れなかったが、その中を昇ってみたい気がする…。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「ハーレイはぼくに飛ぶなと言うけど、飛んで欲しいとも思うんだよね?」
「ん? …そりゃあ…。見たいとは思うがな? 落っこちて怪我をされてもなあ…」
飛べないんだしな、と苦笑するハーレイに、「でも…」とブルーは口ごもりながら。
「…ちょっとだけ飛んでみたい気がする。天使の梯子を昇る分だけ」
「おい。それは「ちょっと」じゃないだろう」
ハーレイは呆れた顔で天使の梯子があった辺りの空を見上げた。
「どれだけあると思っているんだ、あの高さを? お前が浮き上がれる高さはほんのこれだけで、天使の梯子を昇るどころか普通の梯子も無理だと思うが」
「…そうなんだけど……」
昇ってみたい、とブルーは続ける。
「アルテメシアで何度も見たんだ、あの梯子。…だけど名前を知らなかったし、綺麗な光でも中に入ったら人類軍に見付かるし…。いつも見るだけで避けて飛んでた。…中に入っても大丈夫なのが今の世界で、それに天使の梯子なんだよ?」
「なるほどな…。しかし、お前は普通の梯子で届く高さでさえ飛べないわけで…」
「分かってるけど……」
でも昇りたい、と叶わない夢を口にする。
ハーレイと眺めた天使の梯子があまりにも綺麗だったから。
大好きなハーレイに教えて貰った天使の梯子を昇る姿をハーレイに見せたかったから…。
「…お前が高く舞い上がる姿は俺も確かに見たいんだがな…」
どうしたもんかな、とハーレイは腕組みをして考えを巡らせた。
ハーレイに飛ぶだけの力は無い。あったならコツを教えられるが、それは出来ない相談だった。
飛行能力を持つタイプ・ブルーの知り合いもいない。許可された場所で飛んでいる愛好家たちに頼めば指導を引き受けてくれそうだけれど、ブルーの身体が弱すぎる。
(…どのくらいの体力が要るのか、俺には見当がつかんしな…。おまけにブルーは頑固なヤツだ。今日はここまで、と止めたって聞きやしないしなあ…)
指導してくれる人が見付かったとなれば、ブルーは確実にのめり込む。簡単に覚えられるのなら問題は無いが、そうでないなら頑張りすぎて倒れてしまうこともありそうだ。
(…ウッカリ預けるわけにもいかんか…。かと言って俺には何も出来んし…)
せめて柔道か水泳だったら、と心の中でぼやいた所で閃いた。
ブルーは「プールで浮くことが出来た」と言わなかったか?
前の生での記憶を使ってみたら水に浮くことが出来たのだ、と。
(水か!)
あれなら浮くな、とピンと来た。ブルー自身が前世でのコツを思い出すまで、浮力のある場所で気長に付き合ってやればいい。プールならハーレイは得意どころか、指導できる腕前なのだから。
「ブルー。…お前が昇りたい天使の梯子なんだが」
そう切り出すと、ブルーは顔を曇らせた。
「…やっぱりダメ?」
「そうじゃない。お前を昇らせてやれるかもしれない。…お前の努力次第になるがな」
「努力って…。ハーレイ、空を飛べたっけ?」
「いや。飛べないが、水の中なら飛べる。…水族館の魚なんかは飛んでいるように見えないか?」
ハーレイの例えにブルーの瞳が輝いた。
「…うん、飛んでる! 前にペンギンが飛んで行くのも見たよ。ペンギン、空は飛べないね」
「そうだろう? 水と空とじゃ違うんだろうが、コツを掴むにはいいと思うぞ」
俺と一緒にプールに行くか、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
「プールで練習すればいい。どうやって空を飛んでいたのか、感覚だけでも取り戻すんだな」
「いいの? ハーレイがプールに連れてってくれるの?」
「……いずれな」
今は駄目だ、と釘を刺す。
「教師と生徒の間は駄目だな。ついでに俺がだ、水着姿のお前を見たって平常心でいられる状態にならないとな?」
「水着って…?」
なんで、と訊き返しかけたブルーの頬が真っ赤に染まった。
(…ハーレイも水着なんだよね? ぼくも水着で、二人でプール…!)
実にとんでもない格好なのだと気付いたブルーは慌てたけれども、教師と生徒な間柄に終止符が打たれる頃になったら、プールも平気になるかもしれない。本物の恋人同士な二人だったら水着も着けてはいない仲だし…。
(でも、でも、でも………)
今は相当に恥ずかしい。想像しただけで耳の先まで赤くなっていくのが自分で分かる。
(と、飛びたいけど! 空は飛びたいけど、でも、水着…。ハーレイとプール…!)
ブルーの弱い身体はプールの水には十分間しか入っていられない。十分が経てば上がって休憩、その休憩が五分間。ハーレイと一緒に水着姿で五分間もプールサイドに居るなんて…!
(……耐えられないかも……)
恥ずかしすぎる、と茹でダコのようになったブルーの心はハーレイに筒抜けになっていた。前の生では有り得なかったが、今のブルーは感情が高ぶると心の中身が零れてしまう。パニック状態のブルーが撒き散らす初々しい悩み。
ハーレイは気付かないふりをしつつも、頬が緩むのを抑え切れない。この愛らしい恋人を連れてプールに行けるのはいつだろう…?
ようやっとブルーが落ち着きを取り戻し、改めてプールの約束をして。
ハーレイはまだ少し頬が赤い小さな恋人に微笑みかけた。
「水泳は俺の得意技だし、水の中を自由に飛ぶ方法なら手取り足取り教えてやるさ。…生憎と空は全く飛べんが、お前が飛べるようになったならドライブするか」
「ドライブ?」
「ああ、そうだ。町の中では飛べんだろう? 飛べる場所まで連れてってやろう、俺の車で」
この辺りだと何処になるかな、と飛ぶための許可が出ている場所を幾つか挙げる。海辺もあれば川沿いもあるし、広い森林公園なども。ブルーには何処がいいのだろうか、と考えていると。
「天使の梯子がある場所がいいな」
絶対に其処、とブルーが言い張る。
「おいおい、天使の梯子は場所は関係ないんだぞ? あれは雲と太陽との間でだな…」
「天使の梯子が似合う場所! それっぽい場所! ぼくは天使の梯子を昇りたいんだから!」
「…それを言うなら、俺はお前が飛んでる姿が一番綺麗に見える所がいいんだがな?」
ついでに天使の梯子つきで、とハーレイは唇に笑みを湛えた。
「だがな、天使の梯子を昇って行っても必ず下りて来るんだぞ? …飛んで行っちまうのは二度と許さん。昇った先にどんなに綺麗な場所があっても俺が呼んだら下りて来るんだ」
「飛んで行かないよ」
戻って来るよ、とブルーはハーレイの右手の小指に自分の小指をそっと絡めた。
「これが約束。天使の梯子は昇りたいけど、ぼくの一番はハーレイだもの。ハーレイのいない所に行ったりしないよ、ハーレイが下で待っててくれるって分かってるから昇りたいんだよ」
だって、ハーレイが見たいと言ったんだもの。
空を飛ぶぼくを見てみたかった、って言ったんだもの。
ぼくが飛んでゆく姿をハーレイに見せてあげたくなった。
そう考えたら、天使の梯子を昇りたくなった。
ハーレイが教えてくれた天使の梯子。大好きなハーレイに教えて貰った天使の梯子。
昇った先に何があっても、ハーレイが呼んだら、ぼくは急いで下りて来る。
ハーレイの側よりもいい所なんて、何処にも在るわけないんだから。
天使が昇ってゆく世界よりもずっと素敵で、其処に居るだけで嬉しくなる場所。
そのハーレイが見たいと言ったから、飛べないぼくでも飛びたくなった。
いつか必ずぼくは空を飛ぶ。ハーレイにコツを教えて貰って、天使の梯子を昇るためだけに…。
天使の梯子・了
※今のブルーは、実は飛ぶことが出来ません。前のブルーは自由自在に飛べたのに。
ブルーが空を飛べなくてもいい世界。それが平和の証拠です。
聖痕シリーズの書き下ろしショートもよろしくですv
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八月二十八日はハーレイの三十八歳の誕生日。劇的な再会を遂げてから初めて迎えるハーレイの誕生日にブルーは羽根ペンを贈りたかった。ところが予算を軽くオーバー、十四歳の子供には些か高すぎる品。買って買えないことはないのだが、ハーレイに気を遣わせてしまいそうで。
(…羽根ペン、プレゼントしたいんだけどな…)
諦め切れないブルーの悩みは早々にハーレイに見抜かれた。悩みの中身までは掴めなかったが、気付いたハーレイは気分転換にと夜の庭での夕食を持ち掛け、ブルーは楽しい時間を過ごす。星が瞬く下での夕食。しかもハーレイと二人きりとくれば、心に残らないわけがない。
羽根ペンが買えない悩みを引き摺りつつも、ブルーは少し欲張りになった。星空は堪能したから次は夜明けを見てみたい、と。
「ねえ、ハーレイ」
訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合いながら切り出してみる。
「ハーレイと日が昇る所を見てみたいな。星はこの前、一緒に見たから」
「日が昇る所?」
「うん。夜が明ける所を見たいんだけど…。きっと素敵だと思うんだよね」
空が次第に明るくなってゆき、星の数が減って、やがて太陽が昇って来る。星空もいいけれど、この地球を照らす太陽が顔を覗かせる瞬間をハーレイと見てみたかった。しかし…。
「お前なあ…」
ハーレイが呆れた口調で言った。
「夜明けを見るって、夏休みにか?」
「そうだよ、ハーレイのお休みが沢山あるもの」
「…お前、最近、何時に起きてる?」
「んーと……。学校は無いけど早起きしてるよ、目覚ましはいつもどおりで七時!」
得意げに答えたブルーだったが、ハーレイは「話にならんな」と苦笑した。
「どおりでとんでもないことを言い出すわけだ。夜明けは何時か知ってるのか?」
「……五時頃かな?」
「その時間なら付き合ってやるが、残念ながら五時にはすっかり明るいぞ」
日が昇るのはもっと前だ、とハーレイがフウと溜息をつく。
「お前が言うような夜明けを見るなら四時には此処に来ないとな。俺は早起きも得意な方だが、そんな時間に俺がチャイムを鳴らしてみろ。お前のお父さんとお母さんが大迷惑だ」
訪問するには早過ぎる時間。非常識にもほどがある。
「それとも俺に泊まれってか?」
冗談で口にした言葉だったが、ブルーは「そうだね」と頷いた。
「それならハーレイも四時頃に起きればいいんだものね。じゃあ、泊まってよ」
「おい! お前が勝手に決めてどうする!」
両親に訊きに行こうともせずに決めるブルーを、ハーレイは大慌てで止めにかかった。
「人を泊めるのは簡単じゃないぞ? 部屋はあってもお母さんに余計な負担がかかる。一晩しか使わなかったシーツなんかも洗わなければいけないんだしな」
「それはそうだけど…。パパもママも許してくれると思うよ、ハーレイだもの」
泊まりに来てよ、とブルーは赤い瞳を輝かせた。
「どうしてぼくが夜明けを見たいか、ハーレイは分かる?」
「星を一緒に見たからだろう?」
「…半分は当たりで、半分はハズレ」
ハズレな方の半分がブルーにとっては重要だった。当たり前のように来る朝だけれど、前世では朝日は見られなかった。地球の太陽はもちろんのこと、アルテメシアにあった太陽でさえ。
「ハーレイ、シャングリラに居た頃の朝を覚えてる?」
「朝?」
「そう。船の中だったから何処でも外を見られるってわけじゃなかったけれど…。シャングリラでは雲が白くなったら朝が来るだけで、太陽が昇るのは見えなかったよ」
いつも雲海の中に潜んだままだったシャングリラ。サイオンシールドとステルスデバイスで姿を隠した船だったから、雲海からは出られなかった。浮上すれば目視で発見される。
「朝になったら雲が白くなって、暗くなったら夕方で…。夜明けなんか一度も見られなかった」
「…それはそうだが…」
「でしょ? だからハーレイと一緒に夜が明ける所を見たくって…。おまけに地球の太陽だよ?」
二人で見よう、とブルーは強請った。
「シャングリラでは見られなかった夜明けが見られて、昇ってくるのは本物の地球の太陽だもの。せっかく二人で地球に生まれて来たんだから、夏休みの間に一緒に見ようよ」
「…お前の気持ちは分からんでもないが…。俺はこの家に泊まる気は無いぞ」
「なんで?」
「子供のお前には分からん理由だ。説明はするだけ無駄ってヤツだ」
そう返してハーレイは沈黙した。ブルーの家に泊まり込むなど、冗談ではない。よりにもよってブルーと同じ屋根の下。耐えられないのが目に見えている。
(…ブルーに手を出すつもりは無くても、俺は健康な成人男性だしな)
いくら小さな子供の身体であっても、ブルーはブルーだ。前の生で愛したソルジャー・ブルーの生まれ変わりで、今も変わらず恋人同士。前世と違って結ばれていない分、ハーレイは辛い。
(…それに同じ屋根の下だけで済むとも思えないからなあ…)
ハーレイとブルーが恋仲なことをブルーの両親は全く知らない。それだけにハーレイを泊めるとなったら、気を利かせてブルーと同じ部屋にしかねなかった。二階にある二人用のゲストルームを「どうぞ」と提供されてしまったら断れない。
(そうなったら蛇の生殺しだぞ、俺は)
同じ屋根の下よりも厳しい「ブルーと同じ部屋」は回避したいし、なんとしても勘弁願いたい。ブルーの家に泊まるだなんてとんでもない、とハーレイは固辞することにした。
「とにかく俺は泊まらないからな。朝日はお前が一人で見ておけ、夏休みの宿題にちょうどいい」
「宿題って?」
「絵日記だ。夏休みの宿題の定番だろうが」
「そこまで小さな子供じゃないよ!」
ブルーは頬を膨らませたが、ハーレイの気持ちは変わらない。シャングリラに居た頃は無かった朝日を見たがるブルーの心は分かるけれども、それに付き合ったら身が持たない。
そんなハーレイの思いに気付かないブルーはと言えば、どうしても夜明けを見たいわけで…。
「泊まれないなら、朝に来てよ。チャイムを鳴らさなくても大丈夫だから」
「どうするつもりだ?」
「ハーレイが来るよりも早い時間に起きるだけ! そうっと下に下りて開けるから」
玄関を開けて門扉も開ける、と名案を思い付いた顔でブルーが微笑む。
「それならハーレイも何も心配しなくていいよね。パパとママを起こさないように静かにしてればいいんだもの」
「静かに…って、お前、何処から朝日を見るつもりなんだ?」
「あっちの部屋だよ」
ブルーは壁の方向を指差した。
「東向きの大きな窓があってね、太陽が昇って来るのがよく見えるんだ。…だから足音を立てないように二階へ上がって、窓から二人で見てればいいよ」
「俺に挨拶も抜きで上がれと?」
「パパとママ? 朝御飯の時に挨拶すればいいんじゃないかと思うけどな」
「……お前……」
子供ならではの発想の凄さにハーレイは頭を抱えそうになった。この家の住人のブルーが一人でコソコソするなら問題は無いが、それに付き合えと言われても困る。
訪問を知らせるチャイムも鳴らさずに門扉をくぐって玄関から入り、足音を忍ばせて二階まで。それだけでも非常識な客人なのに、朝食の時間になったらダイニングに出掛けて挨拶だとは…。
如何にブルーの守り役として出入り自由な身分といえども、厚かましいを通り越して傍若無人な振舞いと言うか、コソ泥のようだと言うべきか。泊まり込むのも勘弁だったが、こっそり入り込むコースの方も大概だった。家人が寝静まっている間にブルーの手引きで忍び込むなど論外だ。
(…しかし、俺には選ぶしか道が無さそうなんだが…)
ブルーは小さくて愛らしかったが、頑固さだけは前の生と変わっていなかった。こうと決めたら譲らない。たった一人でメギドへ飛んだ時と同じ勢いを発揮する。
(…メギドよりかはマシなんだがな…)
選択権が俺にある分だけは、とハーレイは眉間の皺を深くした。
前の生でブルーがメギドへ向かった時には、ハーレイに選ぶ権利は無かった。ブルーが一方的に告げた遺言を守り、シャングリラに残って生きてゆくより他には道が無かった。
それに比べれば、ブルーの家に泊まり込むのか、忍び込むかを自分で選べる今回はマシだ。まだマシなのだが、どちらの道もなかなかに酷い。泊まり込んでブルーと同室にされて蛇の生殺しか、忍び込んでバツの悪い顔で朝食の席に出てゆくか。
(…辛い目に遭うか、大恥をかくか…。俺としたことが、比較対象がメギドだとはな…)
前の生で一番辛くて苦しかったブルーとの永遠の別れ。それを持ち出して比べるには小さすぎて情けなくなる悩みなのだが、此処でメギドが出てくる辺り、心の傷が癒えつつあるのだろうか。
ブルーを喪った時の悲しみの記憶は今もハーレイを苦しめる。夢に見て叫び、その声で目覚めることもある。そんなメギドを引き合いに出せる分だけ、傷は癒えたのかもしれないが…。
(……今は選ぶしか無いんだよな?)
目の前で小首を傾げたブルーがハーレイの答えを待っている。ハーレイと一緒に夜明けを見ようと決めたブルーが、計画を実行に移すための方法はどれになるのかと待ち受けている。
(…泊まり込むも地獄、忍び込むも地獄か……)
他に選択肢は無いのだろうか、とハーレイは懸命に考えた。ブルーの望みは叶えてやりたいし、夜明けを見たいと言い出した理由ももっともなものだ。アルテメシアの雲海の中に潜んでいた頃、シャングリラの船体が朝日に照らされることは無かったのだから。
だが、生き地獄な蛇の生殺しも、コソ泥も遠慮したかった。他に何か…、と苦悩する内に閃いた一つの考え。これならば、とハーレイはそれをブルーに伝えた。
「いいか、ブルー。俺が泊まるとお母さんたちに気を遣わせるし、忍び込んでも結果は同じだ。…俺はどちらも乗り気になれんな。…そこでだ、朝早くから俺がチャイムを鳴らしても誰も困らない日があるようだったら来ることにしよう」
「…どういう意味?」
「お父さんたちが早起きする日だな。まだ暗い内に出掛ける用事があるとか、そういうことだ」
そんな日があれば、夜が明ける前に来て東向きの窓からブルーと一緒に朝日を見てもいい。
そう言われたブルーは「分かった」と答え、ハーレイもこれで朝日の件は当分の間は保留だろうと思っていたのに…。
「パパ! 朝早く出掛ける用事って、無い?」
夕食の支度が出来たと呼ばれて下りてゆくなり、何の前置きもなくブルーが叫んだ。唐突すぎる問いに、テーブルに着いていたブルーの父が「なんだ?」と驚く。
「どうした、ブルー?」
「何か用事ないの? 暗い内から出掛けなくっちゃいけないような!」
「………? お前、何処かへ行きたいのか?」
「そうじゃなくって!」
ブルーは子供ならではの我儘っぷりを爆発させた。
「ハーレイと夜明けを見てみたいのに、ハーレイ、泊まるの嫌だって…。朝早くにウチに来るのはかまわない、って言ってくれるけど、パパたちが早く起きる日でなきゃダメなんだって!」
だから用事、と父に詰め寄る。
「暗い間に出掛ける用事って、なんにも無いの!?」
無ければ作れと言わんばかりのブルーに気圧されつつも、其処は父だけに。
「…どうして夜明けを見たいんだ? お前は朝も弱いだろう?」
「シャングリラで一度も見てないからだよ! 外は真っ白だったから!」
「真っ白?」
「雲海の中にいたんだってば! だからハーレイと朝日が見たい!」
夏休みの間に絶対見たい、とゴネ始めたブルーにハーレイは肝を冷やしたのだが、勝利の女神はブルーの上に微笑んだらしく。
「…なるほど。パパの知らない頃のお前が見たいわけだな、夜が明けるのを」
「うんっ!」
「そういうことなら、一つ用事を作るとするかな。…どうかな、ママ?」
父に問われた母が「ええ」と頷く。
「でも、用事って…。暗い内からって、会社の門もまだ開いていないでしょ?」
「前から釣りに誘われてるんだ。朝が早過ぎるからと断っていたが、一度行ってみるさ。ブルーもそれでいいんだろう?」
「パパ、ホント?」
「ああ。今週の土曜も行くと言ってたし、パパは釣りだ。お前はハーレイ先生と朝日を見なさい」
望みが叶ったブルーは歓声を上げて父に抱き付き、ハーレイの土曜日の予定も決まった。朝日が顔を出す前にブルーの家に来て、門扉の横にあるチャイムを押す。その頃にはブルーの父の愛車がガレージから消えているだろう。朝一番から釣りに出掛ける友人たちと合流するために。
念願叶って土曜日の朝。朝と呼ぶにはあまりにも早い三時半すぎにブルーは父に起こされた。
「ほら、ブルー。朝だぞ、ハーレイ先生がおいでになる前に起きるんだろう?」
「…パパ、眠い……」
「知らんぞ、パパは出掛けるからな」
ブルーの上掛けを引っぺがした父は、いそいそと釣りに出掛けて行った。その父の車がガレージから走り去っても起きて来ないブルーに、今度は母が階段を上がってやって来る。
「ブルー、そろそろ起きないと…」
「…眠いよ、ママ…」
「もうすぐハーレイ先生がいらっしゃるわよ?」
「ハーレイ!?」
ガバッと飛び起きたブルーは時計を見るなり悲鳴を上げた。
「酷いよ、ママ! なんで起こしてくれなかったの!?」
「パパが起こして行ったでしょ? ママで二度目よ」
「間に合わないよーーーっ!!」
ハーレイが来ちゃう、とブルーがアタフタしている間に門扉の横のチャイムが鳴らされ、客人の来訪を母に知らせた。母は「開けてこなくちゃ」と部屋を出てゆき、ブルーはパニック状態で。
「さ、先に歯磨き? 着替えるのが先?」
ドタバタと駆け込んだ洗面所でパジャマ姿で顔を洗っていると、背後から「おはよう」と笑いを含んだ声がかかった。
「寝起きのお前を見るのは何年ぶりだか…。いや、ナスカのアレもカウントするのか? 格納庫で小さいトォニィを抱えて、ナキネズミに顔を舐められてた時な」
「ハーレイの意地悪っ!」
こんな所を見に来なくても、と鏡に映ったハーレイを睨み付けても笑われるだけ。寝癖がついた髪もパジャマ姿もしっかり見られた。どうせならもっと色っぽい所を見て欲しかった。なのに…。
「やっと着替えか。覗かないから早くしろよ」
じゃあな、とハーレイはブルーの部屋の扉を外からパタンと閉ざしてくれた。
(…酷い!)
見るんだったら着替えじゃないの、と泣きたい気持ちになってくる。寝坊したブルーが悪いのだけれど、みっともない部分だけを見られて「色っぽい」であろう着替えは無視。
(…ぼく、ハーレイの恋人なのに…)
思わず声に出た「ハーレイのバカッ!」を、当のハーレイは扉の向こうで笑いを噛み殺しながら聞いていた。一人前に「覗き」を期待したらしい小さな恋人の脹れっ面を思い浮かべて。
すったもんだはあったけれども、太陽はブルーの身支度が整うまで出るのを待っていてくれた。いつものブルーの部屋とは違って、来客用に整えられた部屋。東向きの大きな窓はまだ真っ暗で、カーテンを開けると空の端の方だけがほんのり明るい。
「よし、間に合ったな。まだ星もあるぞ」
「ホントだ。けっこう沢山光ってるけど…。東の方にはもう見えないね」
「みるみる内に見えなくなるさ。ほら、あの辺りもさっきまで星があったのにな?」
白み始めた空は瞬く間に明るさを増してゆく。窓の向こうの木も黒々とした塊だったのが茂った葉になり、その遙か上を何処へ行くのか何羽もの鳥が飛んでゆく。
「…夜が明けるのって、太陽が昇ってくるだけじゃないんだ…」
「そりゃまあ……なあ? 雲海の上なら太陽だけかもしれないけどな」
今なら空気も違う筈だ、とハーレイが窓を開けると涼しい風が流れ込んで来た。夜気の名残りに爽やかな緑の匂いが混じる。露を帯びた木々を渡ってくるからだろうか。
「どうだ、お前が見たかったものは?」
「…シャングリラの朝とは全然違うね。公園なんかは朝も夜も再現していた筈なのに…」
「人工の照明とは比べようもないさ。おっ、出て来るぞ」
サアッと辺りが明るくなった。太陽の欠片が顔を出しただけで世界に一気に色が付く。
「本物の地球の太陽だ…。ぼくが見たかった地球の太陽…」
「俺は一応、見てはいるんだがな…。あんな汚い空気の中ではサッパリ駄目だな」
この太陽とは別物だ、とハーレイが笑う。
「ガキの頃から日の出は散々見て来たんだが…。記憶が戻ると味わい深いな、同じ太陽でも」
「ぼくはあんまり見たことないや…。朝には強くないんだもの」
「それは今朝のでよく分かった。俺と約束していたくせに寝坊するとは天晴れだ。しかも夜明けを見たいと言い出したのはお前なのにな?」
「…ホントに朝には弱いんだもの…」
そういう言葉を交わす間に太陽はとても見ていられない明るさになり、やがて階下から母が来て朝食は何処で食べるかと訊いた。ダイニングか、それとも庭の木の下のテーブルか。
「木の下がいい!」
「はい、はい。それじゃ用意をしてくるわね」
母の姿が消えて間もなく、窓からの風に焼き立てのパンの香りが加わった。他にも美味しそうな匂いが混じる。そして母が「朝御飯、用意出来たわよ」と呼びに来て…。
「こいつは最高に贅沢だな」
朝一番から外で食事か、とハーレイが分厚いトーストを齧り、ブルーは普通サイズのトースト。庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子の周りの芝生はまだ朝露が光っていた。
「ハーレイ、朝からよく食べるよね」
「お前が食べなさ過ぎなんだ。しっかり食べて大きくなれよ、と何度も言っているだろう」
「…入らないんだもの……」
特に朝は、とブルーが唇を尖らせると。
「ふむ。そういう時には運動がいいぞ? ああ、そうだ。もう少ししたら公園に行くか」
「公園?」
「夏休みの間は朝に体操をやってるようだ。掲示板に時間が書いてあったぞ、六時からだ」
ハーレイはパチンと片目を瞑った。
「食べ終わって少し休憩してだな、それから朝の体操をする。どうだ?」
「えっ…? ぼ、ぼく、朝の体操は…」
「行ってみたことが無いってか? 連れてってやるぞ、健全なデートといこうじゃないか」
「む、無理! 今日はとっても早起きしたからもう眠い!」
眠いんだもの、と言えば「朝の体操はシャキッと目が覚めるぞ」などと言い返されて。
けれどブルーの身体が弱いことを知っているハーレイは決して無理強いしなかった。公園に行く代わりに他愛ない話をして笑いながら過ごす。
ここ数日、ブルーの頭を悩ませている羽根ペンを買うべきか買わざるべきか、という悩みも今は幸せな時間に溶けて消えていた。
早起きのせいで眠いどころか、ブルーの心は満ち足りていて元気一杯。うんと早起きをしたから今日はハーレイと普段よりも長く一緒にいられる。
体操デートはしたくないけれど、朝と呼べる時間もまだたっぷりと残っている。
今日はハーレイと何を話して過ごそうか?
二人で眺めた今日の夜明けに、シャングリラに居た頃の雲海の夜明け。
どちらもハーレイと眺めた景色。ハーレイが隣に居てくれる幸せ。
ハーレイが好きでたまらない。前の生も、今も、これからも………ずっと。
夜明けを見たい・了
※シャングリラでは見られなかった日の出をハーレイと二人で見られる幸せ。
ブルー君、早起きした甲斐があったみたいですね。
聖痕シリーズの書き下ろしショート、30話を超えてしまいました…。
←拍手してやろう、という方がおられましたらv
←書下ろしショートは、こちらからv
※シャングリラ学園シリーズには本編があり、番外編はその続編です。
バックナンバーはこちらの 「本編」 「番外編」 から御覧になれます。
シャングリラ学園番外編は 「毎月第3月曜更新」 です。
第1月曜に「おまけ更新」をして2回更新の時は、前月に予告いたします。
お話の後の御挨拶などをチェックなさって下さいませv
今年も楽しい夏休み。恒例の柔道部の合宿と、ジョミー君とサム君の璃慕恩院での修行体験ツアーが終われば遊び放題の日々の始まりです。キース君にはお盆に備えての卒塔婆書きなんていう仕事もありますが、それも一段落しましたし…。
「かみお~ん♪ 夏はやっぱりバーベキューだね!」
沢山食べてね、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」。私たちはアルテメシアの郊外にある涼しい谷間に来ていました。とっても素敵な河原ですけど、そこへ行くにはハードな山越えが必須。暑い盛りに山道を歩いてバーベキューに行こうなんて人はありませんから貸し切りです。
「ホントのホントに穴場だったね!」
凄いよね、と御機嫌で串焼き肉に齧り付いているジョミー君。私たちは反則技の瞬間移動で会長さんの家からやって来ましたが、こんな場所でも春と秋にはそこそこ賑わっているのだとか。
「アウトドアが好きな人にはいいらしいんだよね」
だけど夏場は流石にちょっと、と会長さん。
「辿り着いたら涼しいけどさ、途中の山道が暑いしねえ…。もちろん帰りも汗だくになるし、来ようって人はまず無いよ」
バーベキューだと荷物も多いし、なんて言ってますけど、その点については山越えでも問題なかったような気がします。何故かと言えば…。
「ブルー、そろそろ鍋も乗せるか?」
「鍋だって? ダッチオーブンと言って欲しいね、そりゃあ見た目は鍋だけど」
火の番もしっかりしといてよ、と顎で使われている教頭先生。バーベキューに欠かせない竈を河原の石で組み上げ、更に火起こしと火の番をするために駆り出されてしまわれたのでした。山越えだった場合は全ての荷物が教頭先生の肩にかかっていたことでしょう。
「えとえと…。この辺に乗せてね、お肉とかも焼かなきゃいけないし!」
ここにお願い、と「そるじゃぁ・ぶるぅ」が頼んだ場所に教頭先生がダッチオーブンを乗せました。朝一番に市場で仕入れたというシーフードたっぷりのパエリアが出来る予定です。
「缶ビールチキンは?」
どうやるんだい、と興味津々で覗き込んでいる会長さんのそっくりさん。山奥の河原でバーベキューパーティーという情報を掴んでキャプテン連れでの参加を表明、ちゃっかり登場。あちらの世界のシャングリラ号には特別休暇だと言って来たとか。
「んーとね、缶ビールの蓋を外して…」
「中身を飲んで空にするわけ?」
「飲んじゃダメ―ッ!」
ビールが大事なんだから、と缶を抱え込む「そるじゃぁ・ぶるぅ」。文字通りザルなソルジャーにかかっちゃ、缶ビールなんてアッという間に全滅ですよ…。
缶ビールチキンは丸ごとのチキンをビールの缶に被せて焼くという豪快なもの。ビールの湯気で蒸し焼きになり、バーベキューの炎で皮がこんがり。ダッチオーブンで炊き上がったパエリアと共に今日のバーベキューのメインです。
「うん、美味しい! はい、ハーレイ。あ~ん♪」
「…ああ、これは…。美味しいですね」
ソルジャーが差し出すチキンの足をキャプテンが齧り、代わりに「どうぞ」と自分のお皿のパエリアを。スプーンで掬われたそれをソルジャーが御賞味、そこから先のソルジャー夫妻はお互いのチキンとパエリアの食べさせ合いで。
「…また始まったぜ…」
キース君が毒づけば、シロエ君が。
「さっきまでより悪化しましたね、肉とかも「あ~ん」でしたけど…」
「うっわー、あそこまでやるのかよ…」
パフェとかだったら王道だけどな、と呆れるサム君の視線の先では、キャプテンとソルジャーが一本のチキンの足を両側から美味しそうに齧っていました。これぞバカップルというヤツです。止めるだけ無駄、見るだけ目の毒、と視線を逸らしていたのですけど。
「…おしどり夫婦か…」
「「「えっ?」」」
なんだ、と振り返ると教頭先生がチキン片手に涎の垂れそうな顔でバカップルの姿を見ておられました。おしどり夫婦と言われてみれば、そういう言い方もあるような…。
「なにさ、ハーレイ。羨ましいわけ?」
バカップルが、と会長さん。
「そりゃそうだろうねえ、君には理想のカップルだもんね? あっちのハーレイは君にそっくり、ブルーはぼくと瓜二つ。あれが自分とぼくだったら、と思わずにいられないんだろう?」
「い、いや、まあ…。それは確かに理想ではあるが……」
無理そうだしな、と教頭先生はションボリと。
「お前は一向に応えてくれんし、どうにもならん。バーベキューのお供がせいぜいだ」
「ふうん…。一応、分は弁えてる、と」
もっと馬鹿かと思ってたけど、と会長さんは遠慮がありません。
「おしどり夫婦を目指そうだなんて、色々な意味で無理があるんだよ。まず、訊こう。君は美しさに自信があるわけ?」
「「「…は?」」」
教頭先生ばかりか、私たちまで間抜けな声が出てしまいました。美しさだなんて、どういう意味?
おしどり夫妻なソルジャー夫妻が羨ましくてたまらない教頭先生。いつかは自分も、と夢を見たい気持ちは分かりますけど、それに対する会長さんの突っ込みは斜め上ではないのでしょうか? 教頭先生と美しさって、どう考えても結び付かない要素なのでは…。
「何をポカンとしてるんだい? ぼくはハーレイに訊いてるんだよ、自分の美しさに自信があるのかって!」
「…う、美しさだと…? それを言うならお前の方が…」
「ぼくの方が美しいだって? 決まってるじゃないか」
でなきゃシャングリラ・ジゴロ・ブルーはやってられない、と自信満々の会長さんは超絶美形。それに対して教頭先生は威厳があるとしか言いようのない、非常にいかつい御面相です。
「ぼくの方が綺麗だって言い出す時点で失格なんだよ、おしどり夫婦! 世間一般ではそれで通るかもしれないけれども、ここは厳格に言わせて貰う。…オシドリはオスの方が断然綺麗で、メスは思い切り地味なんだけど」
「た、確かに…」
華やかなのはオスだったな、と応じた教頭先生に、会長さんは。
「おしどり夫婦を目指したいなら、君も美形でなくっちゃね。それともアレかい、ぼくがオスでもかまわないと? 当然、ぼくがオスの立場で」
「そ、それは困る!!」
「ぼくも嫌だよ! 女性はもれなくオッケーだけども、君を相手にするのはねえ…。というわけで、ぼくの心を射止めようだとか、そういう以前に却下なんだよ、おしどり夫婦」
さっさと諦めて成仏しろ、と、けんもほろろな会長さん。ところが横からソルジャーが…。
「そう言わずにさ。…ぼくからすれば充分に美しく見えるんだけどねえ、ぼくのハーレイ」
「…君の目はいわゆる節穴だろう!」
そうでなければ恋は盲目、と会長さんは即座に言い返しましたが、ソルジャーはチッチッと指を左右に振ると。
「違うね、これは見方の問題! ハーレイの魅力は顔じゃない。もちろん顔も大切だけれど、まずは逞しい身体だよ。ぼくの身体とは比べ物にならない筋肉に覆われた身体がいいんだ、あれは綺麗だと思うけど?」
そこの君たちはどう思う、と尋ねられてみれば否定できない部分もあります。柔道十段、古式泳法でも鍛え上げられた教頭先生の身体、肉体美という観点から見れば「美しい」としか譬えられないような…。
「ね、本当に綺麗だろう? ブルーよりもさ」
これでバッチリおしどり夫婦、と言われましても。会長さんが納得しなけりゃ無理だと思いますけどねえ…?
教頭先生の方が綺麗でなければ却下されるらしい、おしどり夫婦。会長さんは首尾よく蹴り飛ばしたつもりだったのでしょうが、混ぜっ返したのがソルジャーで。
「ぼくはハーレイの方がぼくより綺麗だと思うわけ。…そうでなければ夜も満足できないしねえ? 夫婦は夜の時間が大切なんだよ」
もちろん昼間でも大人の時間は大歓迎、とキャプテンの腕に抱き付くソルジャー。
「この肉体美が最高だってことが分からないようじゃ、君もまだまだ…」
「分かりたいとも思わないってば!」
「うーん…。それはハーレイがヘタレだからじゃないのかなぁ…」
ヘタレてなければ君にも分かる、と主張するソルジャーと大反対な会長さんはバーベキューそっちのけでギャンギャンと言い争いを始めました。実に不毛な応酬です。火元になった教頭先生は巻き込まれては災難だとばかりに背を向けてバーベキューの世話係。
「もっと野菜も食わんといかんぞ、肉ばかりでは栄養が偏ってしまうからな」
「「「分かってまーす!」」」
でも美味しい、とジューシーに焼き上がったローストビーフをパクついていると。
「あーっ、食べられてる!」
「…ホントだ、ぼくとしたことが…」
油断した、と慌てて戻って来た会長さんとそっくりさん。「そるじゃぁ・ぶるぅ」特製のソースで頂くローストビーフで一時休戦らしいです。食べ終わったら再び喧嘩かと思っていれば。
「………肉体美ねえ…」
それだけではちょっと足りないな、とローストビーフを頬張る会長さん。
「ハーレイとは付き合い長いんだよ。素っ裸だって何度も見たしさ、今更惚れろと言われても…。もっと強烈にアピールするなら別だけど」
「アピールって…。いわゆるセックスアピールかい?」
そう言ったソルジャーの額にピシャリとイエローカードが。
「もっと上品に言えないかな、君は! オシドリのオスは特にコレということはやらないけどねえ、クジャクのオスだと派手にやる。クジャクも綺麗なのはオスだよね? でもってメスの気を引くためには尾羽をパァーッと広げるわけで」
「それならぼくも知ってるよ。…そういうアピールを希望なんだ?」
「そう! ハーレイの肉体美の凄さが引き立つアピール!」
「なんだ、それなら簡単じゃないか」
そこの柔道部員を纏めて一度に投げ飛ばせば、とソルジャーが返し、キャプテンも大きく頷いています。でも、キース君たちを投げたくらいで教頭先生の株が上がりますか…?
会長さん曰く、教頭先生が自分の肉体美を示したいならアピールが必要。オシドリならぬクジャクのオス並みの派手さで気を引け、と言い出しましたが、具体的にはどういったことを希望でしょう? 一筋縄で行くわけがない、と私たちにだって分かります。そして案の定…。
「キースたちを纏めて投げる? その程度のこと、普通じゃないか」
楽勝で出来る技を見せられたって、と、会長さんはツンケンと。
「ヘタレ返上くらいの勢いでやってくれなきゃ話にならない。だけどベッドに付き合いたいとも思わない。…ついでにベッドじゃ鼻血で終わりだ」
「…うっ……」
教頭先生が鼻の付け根をギュッと摘むのを見て、せせら笑っている会長さん。
「ほらね、想像しただけでコレさ。…なのにバカップルが羨ましいと言うんだからねえ…。しっかりアピールしてくれたなら、まずは「あ~ん♪」から始めてもいい。そしていずれは二人で一つのパフェを食べるとか、缶ビールチキンを齧るとか」
「ほ、本当か!?」
本当なのか、と喜色満面の教頭先生に向かって、会長さんは。
「この件に関しては嘘は言わない。でも、その前にまずはアピールありきだよ」
「…分かっている。私は何をすればいいのだ? 鍛え上げた身体を見て貰うには、夏だけに遠泳あたりだろうか?」
海の別荘行きの時に披露しよう、と教頭先生はグッと力瘤を見せたのですけど。
「違うね、それも君にとっては大したことじゃないだろう? ぼくの希望はヘタレ返上! 鯉が龍に化けるくらいの勢いが欲しい」
「「「…鯉???」」」
なんですか、それは? 鯉ならそこの川にも泳いでいますし、教頭先生も怪訝そうな顔。しかし、会長さんは鯉が泳ぐ川を指差して。
「…知らないかなぁ、登竜門。君は古典の教師だよねえ?」
「もしかしてアレか? 滝を登り切った鯉は龍になるという伝説のことか?」
「そう、それ! 君も根性で滝を登れば龍になったと認めてもいい。鯉から龍に変化したなら立派にヘタレ返上だ。…君に滝登りの経験なんかは無いだろう?」
「う、うむ…。クライミングは範疇外だ」
滝など登ったこともない、と答えた教頭先生に、嫣然と微笑む会長さん。
「じゃあ、決まり! キースたちが忙しくなるお盆の前にみんなで行こうよ、遊びにさ」
大きな滝がある所へね、と誘われた教頭先生は二つ返事でOKしました。クライミングは超初心者でも、会長さんを射止められるチャンスとあれば滝登りにチャレンジらしいです。教頭先生、明日あたりからクライミングの特訓かも?
大盛況に終わった河原でのバーベキューパーティーから一週間後が教頭先生の滝登りの日。夏真っ盛りで雨の心配も全く無さそう。物見高いソルジャー夫妻も参加するそうで、教頭先生が見事やり遂げた時はバカップルの先達として祝福するとか言ってましたが…。
「…本気で滝登りで教頭先生を認めるわけ?」
サムの立場は、とジョミー君が心配している三日目の午後。私たちは会長さんのマンションに遊びに来ていました。教頭先生はあれから毎日、クライミングの練習中です。
「サムかい? まず大丈夫だと思うけどねえ、公認カップルは揺らがないかと」
ハーレイごときに滝登りは無理、と言い放つ会長さんの隣で「そるじゃぁ・ぶるぅ」も。
「んとんと、ぼくも無理じゃないかと思うんだけど…」
「本当か? かなり上達しておられるぞ」
凄いペースで、とキース君。壁に中継画面が映し出されていて、そこでは教頭先生が懸命に岩場を登っておられました。アルテメシアの北の方にあるロッククライミングの練習場です。頭にヘルメットを被り、ザイルを握って着実に上へ、上へと歩みを。
「まあねえ、いい師匠がついたみたいだし…。持つべきは山をやる仲間だよね」
プロだから、と会長さんが教えてくれた教頭先生の指南役の若い男性の実年齢は百歳超え。国内の山はとっくの昔に登り尽くして、もちろん海外遠征も。世界三大北壁と呼ばれて登り切った人は非常に少ない高峰の断崖も制覇したという猛者だそうです。
「滝を登るならフリークライミングもやっておくべき、とアドバイスしたのもこの師匠だよ。そっちは別の人が教えているだろ?」
「そうでしたね…」
そっちも上達なさってますよ、とシロエ君が口にするとおり、教頭先生は道具を使わずに手足の力だけで登るフリークライミングも頑張り中。練習場所は同じですけど、これは先生が変わります。人工的な足場とかを一切使わないため、転落率も非常に高く…。
「ザイルがあるから下まで落っこちていないけど…」
落ちたら完全にアウトだよね、とジョミー君が言い、キース君が。
「滝登りの本番はブルーが安全面をサイオンでカバーするんだろうが…。これほどの努力をなさっているんだ、俺としては無事に登り切って頂きたい」
「無理、無理! それが出来たらハーレイじゃないね」
滝はそんなに甘くない、と会長さんはケラケラと。とはいえ、教頭先生の技術は日に日に向上しています。滝登りの日まで練習日はまだ三日もありますし、登り切られる可能性は大ですよ? それとも会長さんが妨害するとか? それも無いとは言い切れませんね…。
滝登りに出掛ける日はアッと言う間にやって来ました。今度の行き先も歩いて行くには難しいそうで、会長さんの家に集合して瞬間移動で出発です。私たちがお邪魔した時にはソルジャー夫妻が既に来ていて、間もなく教頭先生も。
「おはよう。ついにこの日が来たな」
猛特訓をしてきたぞ、とリュックを背負った教頭先生は自信に満ちておられました。ロッククライミングの練習場でも最も難しいと言われるルートを制覇なさったらしいのです。
「フリークライミングで制覇は流石に無理だが、あれで大いに自信がついた。大抵の滝なら大丈夫ですよ、と太鼓判を押して貰えたし…。今日の私に期待してくれ」
「はいはい、分かった。それじゃ行こうか」
会長さんが投げやりに言えば「そるじゃぁ・ぶるぅ」が。
「お弁当の用意も出来てるよ! それじゃ、しゅっぱぁ~つ!」
パアァッと迸る青いサイオン。会長さんと「そるじゃぁ・ぶるぅ」、それにソルジャーの力で移動した先では見上げるような滝が轟々と音を立てて流れ落ちています。
「「「……スゴイ……」」」
こんな滝の横を登るのか、と濡れた岩肌を驚愕しながら眺めましたが、教頭先生は腕組みをして「ふむ」と一言。
「これなら充分いけそうだ。濡れてはいるが、靴もアドバイスして貰ったからな」
よいしょ、と教頭先生がリュックを下ろし、取り出したものに私たちの目が一気に点に。どう見てもコレは地下足袋です。教頭先生は靴を脱ぎ、靴下も脱いで地下足袋に合った靴下に履き替え、地下足袋を。えーっと、素材はゴムですかねえ?
「沢登りにはこれが一番だそうだ。岩を登るにはこれも必須と教えて貰った」
この上からコレをこう履いて、と装着されたアイテムは草鞋の親戚みたいなモノ。濡れた岩でも滑らずに登れて足の力もしっかり伝える登山靴の一種らしいのですが…。
「変な靴だと思っているな? だが、この靴とかは高いんだぞ」
普通の地下足袋よりも遙かに高い、と聞かされたお値段はゴージャスでした。会長さんや「そるじゃぁ・ぶるぅ」ならランチを一回食べれば消えそうな値段ですけど、ファミレスだったら十回は軽く食べられそうです。
「この靴があれば滝くらいはな…。さて、行ってくるか」
濡れても大丈夫なウェアも用意してきた教頭先生、ヘルメットを被り、ザイルとハーネスとかいう腰につける安全ベルト、落下防止のための道具にハンマー、他にも色々なアイテムを持って滝へと向かいかけたのですが。
「ちょっと待った!」
君が登るのはソレじゃない、と会長さんのストップが。まさかの道具無しですか? この滝でフリークライミングをやるんですか~!?
濡れた岩場でフリークライミングなんて、素人が見ても無理すぎます。まして初心者な教頭先生、いくら特訓を積んだと言っても真っ逆さまに落ちそうな気が。会長さんの狙いはコレだったのか、と誰もがゾッとしたのですけど。
「…ふ、フリークライミングで行けというのか…?」
教頭先生の声も震えていました。
「や、やってやれないことはないかもしれんが、こう濡れていては…」
「じゃあ、やめておく? 龍になる前に鯉で終わるんだね?」
それもヘタレらしくて良きかな、と会長さんが嘲笑うと。
「いや、やろう! ただ、そのぅ……。万が一、落ちてしまった時は…」
「分かってるってば、いくらぼくでも殺しやしないよ。ちゃんと責任を持って助けるさ」
「そうか! 助けてくれるか、ありがとう、ブルー」
感極まった様子の教頭先生、ハンマーなどの道具をリュックの中に。いよいよフリークライミングでの出発です。あれだけ頑張っておられたのですし、せめて半分くらいまでは…。え? なんですって、会長さん?
「だから待ってって言ってるんだよ!」
その靴とかは要らないだろう、と会長さんがビシバシと。道具無しどころか裸足なのか、と私たちが絶句していると。
「かみお~ん♪ 靴を履いてたら入らないもんね!」
「「「は?」」」
なんのこっちゃ、と思う間もなく「そるじゃぁ・ぶるぅ」が宙にボワンと取り出したものは。
「「「………!!!」」」
「あはははは! これはいいねえ…」
最高だよ、とソルジャーがお腹を抱えて笑っています。
「そ、そ、それで登るんだ…? ホントに鯉の滝登りだねえ…」
来た甲斐があった、と遠慮会釈なく笑い続けるソルジャーの隣でキャプテンが。
「し、しかし…。あれで登るのは無理なのでは……」
「だからこそだよ、登り切ったら鯉でも龍になれそうだってば」
それだけの値打ちは充分にある、と笑い過ぎで涙を流さんばかりのソルジャー。それもその筈、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が瞬間移動で運んだアイテムは魚の尻尾だったのです。足ビレなんかではありません。その昔、教頭先生のために会長さんが特注してきた人魚の尻尾というヤツですよ~!
「「「…………」」」
教頭先生も私たちも地面にゴロンと転がっている人魚の尻尾を凝視していました。目に痛すぎるショッキングピンクで鱗と立派な尾ビレつき。身体にぴったりフィットが売りだったかと記憶しています。会長さんはニコニコと…。
「ハーレイ、君も覚えているだろう? この尻尾をつけて人魚泳法を極めてたよねえ、あっちのブルーの世界のハーレイと組んでハーレイズなんかもやったっけ。鯉の滝登りは魚の姿で登ってこそだよ、人魚の姿でやりたまえ」
「ま、待ってくれ、ブルー! この尻尾がいくら丈夫か知らんが、岩で擦れたら傷んでしまうぞ」
そうなったら二度と使えないが、と教頭先生は必死の逃げを打ちましたが。
「ああ、その点なら大丈夫! サイオンでコーティングすれば岩に擦れても引っ掛かっても傷ひとつつかなくなるからねえ…。安心してやってくれればいいよ」
「…ほ、本当にこれでやれと……」
滝と人魚の尻尾の間を教頭先生の視線が忙しなく往復し、キャプテンが気の毒そうな表情で。
「無理はおやめになった方が…。これではとても登れませんよ」
「い、いえ…。フリークライミングで両腕はかなり鍛えましたし、足でキッチリ支えられれば絶対に無理とは言い切れないかと…」
諦め切れない教頭先生の気持ちは嫌と言うほど分かりました。この滝を登り切りさえすれば、会長さんとの甘い日々が待っているのです。結婚までの道は遠くても「あ~ん♪」だの二人で一つのパフェだのがあれば幸せ一杯、夢一杯。ダメ元でチャレンジしたくなるのも至極当然。
「ふうん、諦めないわけだ?」
君は意外と度胸があるね、と会長さんの手が閃いて。
「それじゃ、まずは専用下着から! でないと身体にフィットしないし」
服を脱いでから履き替えて、と紫のTバックが教頭先生の目の前に。そういえば人魚の尻尾はTバックを履いて装着がお約束だった、と蘇ってくる懐かしくも恐ろしく笑える記憶。着替え用のテントも身体を隠すバスタオルも無い状況ですけど、果たして教頭先生は…?
「分かった。女子は後ろを向いていてくれ」
着替えるから、と言い切った勇気ある教頭先生に、会長さんは。
「ダメダメ、それじゃ鯉だよ、龍ならもっと堂々と! 女子にはモザイクをサービスするから、衆人環視の下で着替えがぼくのお勧め」
「…堂々と、か…。そうだな、鯉では未来が無いのだったな」
私も男だ、と教頭先生は服を脱ぎ捨て、紅白縞も放り投げました。途端にスウェナちゃんと私の目にはモザイク、やがて紫のTバック一丁の教頭先生が滝を背に。それから間もなくショッキングピンクの人魚が出現したわけですけど…。
「はい、お疲れ様。滝壺まではサイオンで運んであげるから」
後は自力で頑張って、と会長さんの青いサイオンが教頭先生人魚をフワリと包むと滝壺へ。古式泳法の達人にして人魚泳法もマスターしている教頭先生、渦巻く水流をものともせずに滝の脇の岩壁に取り付くと。
「よし、行くぞ!」
気合の入った声が滝の響きに負けずに届きました。両腕の力と人魚な下半身の支えだけを頼りにザイルも無しでのクライミングとは、まさに命がけ。何処まで行けるか、と私たちが固唾を飲んだ時です。
「違うよ、岩を登ってどうするのさ!」
会長さんの叫びに教頭先生がこちらを振り向き、私たちの頭上に『?』マーク。岩を登らずにどうすると? 滝を登るんじゃなかったんですか?
「違うんだってば、鯉の滝登りと言っただろう! 鯉は岩なんかを登らないよ! 滝を登ってなんぼなんだよ、でなけりゃ龍になれないし!」
「「「滝!!?」」」
それこそ無茶な注文です。そうめん流しみたいにショボイ滝ならともかく、轟音を立てて流れ落ちる滝。こんなのを登れる鯉なんて…。そんなのがいたら本当に龍になれるでしょう。まして龍どころか人間にすぎない教頭先生、登れるわけがないですよ~!
「…た、滝を…か…?」
無理だ、と呻く教頭先生の呟きがハッキリ聞こえます。会長さんがサイオン中継しているんだと思いますけど、教頭先生、これでギブアップとなるわけですか…。なるほど、「公認カップルは揺らがない」と会長さんが言っていたのも納得かも。
「…無理だろう、ブルー! 人間が滝を登るなど!」
最初から私を騙したのか、と泣きの涙の教頭先生に会長さんはニッコリと。
「まさか。…君ならあるいは出来るかも、と思っただけだよ、ね、ぶるぅ?」
「んとんと…。ハーレイ、ホントに出来ない?」
ぼくでも登れちゃうんだけれど、とピョーンと宙に飛び出して行った「そるじゃぁ・ぶるぅ」は、滝壺の表面に着水するなり水面を蹴って飛び上がりました。
「「「わわっ!!?」」」
落下する滝にヒョイと足をつけ、それを足場にポーンと上へ。ピョンピョンと滝の水を蹴り、ヒョイヒョイヒョイ…と上へ上へと登ってゆくと…。
「わぁーい、いっちばぁ~ん!」
登っちゃったぁ! と滝の上の岩を舞台に十八番の『かみほー♪』熱唱です。なんなの、今の、なんだったの~!?
御機嫌で歌い踊る「そるじゃぁ・ぶるぅ」をポカーンと見ている教頭先生。私たちも何が起こったか分かりませんでしたが、ソルジャーがクッと喉を鳴らして。
「なるほどね…。水を足場に登ったわけだ?」
「そういうこと!」
相槌を打つ会長さん。
「昔からよく言うんだよねえ、右足が沈む前に左足を出せば沈まずに水面を走れるってね。ぼくやぶるぅには簡単なことだ。君にも出来ると思うけど?」
「それはもちろん。上まで競争してみようか」
ぼくが勝つ、とソルジャーが飛び出し、殆ど同時に会長さんが。二人は先を争って滝を駆け登ってみせると「そるじゃぁ・ぶるぅ」を連れて揃って飛び降りて。
「どう、ハーレイ? これでも滝は登れないと?」
諦めるんなら今の内、と滝壺の水面に立った会長さんが笑っています。両隣には同じく水面に立つ「そるじゃぁ・ぶるぅ」とソルジャーが。サイオンで身体を浮かせているのか、水に細工をしているか。いずれにしてもタイプ・ブルーならではの技ですけれど…。
「…の、登れるのか……」
教頭先生の苦悶に満ちた呻きに、会長さんは。
「そうだよ、これが龍の実力。それも無いくせに、おしどり夫婦なんて絶対無理だね。ぼくにアピール出来ない自分の限界ってヤツを思い知ったら?」
「…そ、そんな……。いや、諦めるにはまだ早い! 私は諦め切れんのだ…!」
このチャンスをモノにしてみせる、と教頭先生は猛然と泳ぎ出しました。滝の真下へと泳ぎ着くなり、両手を広げて水を掻こうとしましたが。
「…うわぁ…っ!」
ドオォッ、と流れ落ちる滝に飲まれて教頭先生の姿が消滅。これって物凄くヤバイのでは?
「こらぁーっ!」
キース君の絶叫が滝壺の上に立つ会長さんたちに。
「見てずにサッサと救助しろ! 滝壺に引き込まれたら終わりだぞ!」
「平気、平気! だって相手はハーレイだしね」
会長さんがヒラヒラと手を振り、ソルジャーが。
「人魚泳法だけじゃなくって古式泳法だったっけ? 平気だってば、ちゃんと泳いでる」
「「「へ?」」」
だって姿が、と言い終える前にプハーッ! と大きな呼吸音が。滝壺から流れ出す川にショッキングピンクの人魚が浮かび上がりました。えっ、川上に向かうんですか? また滝壺に戻る気ですか、教頭先生?
「…いやあ、諦めが悪いね、ホント…」
まだやってるよ、と滝へと顎をしゃくるソルジャー。私たちは滝がよく見える場所にレジャーシートを敷き、「そるじゃぁ・ぶるぅ」が腕を奮ったお弁当に舌鼓を打っていました。涼しげな滝と木陰にピッタリの鮎の姿寿司をメインに胡麻豆腐やら天麩羅やらと盛りだくさんです。
「そう簡単には諦めないと思うけどねえ…」
ぼくに恋して三百余年、とクスクス笑う会長さん。
「それにさ、鯉はけっこう諦め悪いよ? いつだったかなぁ、鯉の滝登りって動画を見付けてさ。タイトルからしていつか登るに違いない、と延々と十分以上も見てたんだけど…」
「ダメだったわけ?」
ソルジャーの突っ込みに、会長さんは「うん」と素直にコックリ。
「沢山いたから一匹くらいは、と思ってたのに…。どれも流されちゃうんだな。滝と言いつつアレは段差だね、たかだか数十センチじゃないかと」
「それでも登れなかったのかぁ…。なら、ハーレイも無理っぽいねえ」
「どうでしょうか…。要はサイオンの使い方ですし、もしかするかもしれません」
力はおありだと思いますので、とキャプテンが海老の天麩羅を齧った時です。
「うおぉぉぉぉーーーっ!!!」
滝の方から教頭先生の雄叫びが響き、流された川から滝壺に向かって全力で泳ぐ人魚が一匹。
『ここで諦めるわけにはいかん! なんとしてでも滝を登ってブルーの愛をーーーっ!』
ビンビンと頭の中に木霊する思念波は教頭先生の心の叫びでした。会長さんがプッと吹き出し、笹で巻いた鰻の粽寿司を剥きながら。
「愛をあげるとは一言も言ってないけどねえ?」
「例によって妄想大爆発だろ? 一を聞いたら十くらいまで突っ走るよねえ、こっちのハーレイ」
その辺が面白いんだけれど、とソルジャーが返した、その瞬間。
『ブルー、今、行くーーーっ!!!』
凄まじい思念の爆発と共にドォォーン! と上がった水飛沫。滝壺が爆発したかのような凄い飛沫は滝よりも高く遙か上まで吹き上げ、私たちの方にも鉄砲水さながらの勢いで。会長さんたちがシールドで防いでくれなかったら服はビショ濡れ、お弁当も吹っ飛んでいたでしょう。
「…きょ、教頭先生……?」
まさか登った? とジョミー君。滝壺に人魚の姿は見えません。キャプテンが言った「もしかすると」がついに実現したのでしょうか? 教頭先生、内に秘めたサイオンを爆発させて見事に滝を登りましたか?
会長さんたちがやって見せたのとは別の方法で登ったらしい教頭先生。滝壺の水ごと逆流させれば、それに乗って上に登れます。長い年月、教頭先生をからかい続けてきた会長さん。とうとう年貢の納め時か、と私たちは滝を見詰めました。
「…ついに登ってしまわれたか…」
流石は教頭先生だ、とキース君が感慨深げに呟き、シロエ君が。
「そうですね…。でも、サム先輩はどうなるんです?」
「俺かよ? やっぱり身を引けってことになるかな、ブルーは言わねえだろうけど…」
教頭先生に睨まれちまうのはマズイしよ、とガックリと肩を落とすサム君。でも、サム君よりも会長さんが問題です。これからは教頭先生と「あ~ん♪」な日々。二人で一つのパフェを分け合う暑苦しい夏が現実に…。
バカップルなソルジャー夫妻だけでも沢山なのに、そっくりさんな会長さんと教頭先生までが「あ~ん♪」になったら、今年の夏の海の別荘、私たちには生き地獄では…。
「そ、そっか…。海の別荘、ヤバイよね?」
どうしよう、とジョミー君の泣きが入った所へ、会長さんが。
「…バカバカしい。誰が年貢の納め時だって?」
「「「………」」」
あんただろう、と告げたい言葉を私たちはグッと飲み込みました。会長さんも怒りMAXなことは確実です。逆鱗に触れて突き落とされたら滝壺で溺れかねない末路なわけで…。
「ふん、その末路ならハーレイだよ」
「「「えっ?」」」
「…見ていたまえ。今に浮かんでくるから」
「「「えぇぇっ!?」」」
会長さんの指が示した辺りにショッキングピンクの人魚の尻尾がプカリと浮かび上がりました。教頭先生は尻尾を捨てて飛んだのだろうか、と思う間もなく…。
「…女子にはモザイクつきってね」
ポカリと仰向けに滝壺に浮かんだ教頭先生はパンツを履いていませんでした。あまつさえ気絶しているようです。もしや、さっきの大爆発は……。
「カッコ悪いねえ、史上最悪じゃないのかい?」
少なくともぼくは見たことないね、とソルジャーがレジャーシートの上に転がされた教頭先生をチラチラと。腰にはタオルがかけられていますが、他の部分はスッポンポンです。
「ぼくも今回が初めてだよ! なんでサイオン・バーストしたら尻尾とパンツが吹っ飛ぶのさ!」
そんなパターンは聞いたこともない、と呆れ顔の会長さんにキャプテンが。
「…推測の域を出ませんが…。常にあなたを想っていらっしゃいますし、バーストの直前にも強い思念を感じましたし…。恐らく無意識の内にあなたのベッドに飛び込まれたかと」
あくまで妄想の世界でですが、と聞かされた会長さんは一分間くらい固まっていたと思います。それからワナワナと震えながら。
「そ、それじゃ思い切り脱ぎ捨てたわけ…? バーストの余波で心の枷まで吹っ飛んだと…?」
「そうなりますね。そしてあなたのベッドへ、ですよ」
「………。最低だってばーーーっ!!!」
ハーレイのスケベ、変態、エロ教師、と罵倒しまくる会長さんの後ろでソルジャーが。
「…それで、始末書、どうするんだい?」
この件がバレたら始末書だよね、と言われた会長さんは顔面蒼白。教頭先生をオモチャにした上、サイオン・バーストさせたなんてことが長老の先生方に知れたら始末書どころか謹慎かも…。
「ぼくが揉み消してあげようか? ハーレイの記憶も適当に改ざんしといてさ」
高くつくよ、という提案に会長さんが土下座したことは改めて言うまでもありません。その日、ソルジャーとキャプテンは贅を尽くした高級料亭での夕食の予約とホテル・アルテメシアのスイートルームの宿泊予約とをゲットして御機嫌で帰ってゆきました。そして…。
「…教頭先生は溺れたってことで終わりみたいだけど、ぼくたちの記憶はどうなるわけ?」
ジョミー君が零せば、キース君が。
「諦めろ。俺なんか一生モノの秘密を抱えたんだぞ、教頭先生は俺の柔道の師だからな」
今日の記憶は消えないようだ、と頭を抱える私たち。思わぬ展開と想定外の出費で打撃を食らった会長さんが立ち直ったら消してくれるでしょうか? 御自宅のベッドでお休み中の教頭先生、笑ったことは謝りますから、私たちの記憶も消えてくれるよう、よろしくお願い申し上げます~!
肉体美を示せ・了
※いつもシャングリラ学園を御贔屓下さってありがとうございます。
教頭先生の人魚泳法とかハーレイズとか、覚えてらっしゃる方、あるのかなあ…。
「笑顔に福あり」と「特訓に燃えろ」ってヤツでしたけどね。
次回、5月は 「第3月曜」 5月18日の更新となります、よろしくです~!
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こちらでの場外編、4月はお花見、お寺の瓦で焼肉をするそうですが…?
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