シャングリラ学園シリーズのアーカイブです。 ハレブル別館も併設しております。
「いたっ!」
ブルーが小さな悲鳴を上げた。向かい合わせで座っていたハーレイが「どうした?」と尋ねる。此処はブルーの部屋で、怪我をするようなことは無い筈なのだが。
「…引っ掛かった…」
左手を見詰めているブルー。ハーレイとティータイムを楽しんでいる最中なのに、何処に左手を引っ掛けたのか。ブルーの前にはテーブルと紅茶が入ったカップ、それに焼き菓子の皿しか無いというのに。
「………」
よほど痛かったのか、血でも出たのか。左手を軽く握ったままのブルーに、ハーレイはもう一度尋ねてみた。
「どうしたんだ?」
「…ちょっとだけ…」
そう答えたブルーは、まだ手を見ている。
「見せてみろ」
小さな左手を引き寄せたハーレイは「これか」と僅かに血を滲ませた人差し指に気付いた。白い指先の爪の際にポツンと赤い血。雫とも呼べない、ほんの僅かな血の滲み。すぐ側に薄くめくれた皮が少しだけ。
「ささくれか…。こいつを引っ掛けちまったんだな?」
「うん…」
元々、めくれかかっていたのを服にでも引っ掛けたのだろう。薄皮が引っ張られ、めくれて血が出た。そんな所だ。激痛とはとても呼べないけれども、引っ掛ければ痛いものではある。
「お前、お父さんかお母さんに逆らったか?」
「なんで?」
「ささくれは親不孝をすると出来るというんだ。…お前はあまりしそうにないが」
「逆らってないよ。…でも出来ちゃった」
ブルーは左手を自分の前に戻すと、ささくれを右手の指で引っ張ろうとした。取り除こうとしているのだろうが、ハーレイの経験からしても上手くいくことは滅多にない。
「こら、引っ張ったら酷くなるぞ。爪切りは持っているんだろう?」
「んー…」
「不精していないで取ってこい。俺が切ってやるから」
その言葉にブルーはパッと顔を輝かせ、「取って来る!」と部屋から駆け出して行った。階段を下りてゆく軽い足音。
(…そうか、この部屋には無かったのか…)
爪切りを取りに階下へ行く時間すらも、ブルーは惜しかったのだろう。少しでも長くハーレイと一緒に過ごしていたくて。
薬箱から取って来たのか、はたまた何処かの引き出しからか。爪切りを持ったブルーが間もなく戻って来た。自分でささくれを切ってくればいいのに、「はい」とハーレイに爪切りを差し出す。ついでに自分の左手も。
「…本気で取って来たんだな? お前、自分で出来ないのか?」
「出来るけど、ハーレイが切ってくれるって…。ダメ?」
期待に満ちた眼差しと、小首を傾げたその愛らしさ。ハーレイは「参ったな」と呟いて爪切りを受け取り、ブルーの小さな左手を掴んだ。
ささくれだけを切り取るために最大限の注意を払う。ブルーの肌を傷つけないよう、ささくれを引っ張ってしまわないよう。そうっと、そうっと爪切りを大きな手で扱って…。
「よし、これでいいな。…どうだ、まだ引っ掛かるか?」
「ううん、大丈夫」
もう痛くない、と左手を撫でて自分の椅子に戻ったブルーだったが。
「…ふふっ、左手」
嬉しそうに微笑むブルー。左手が何だと言うのだろう、とハーレイは爪切りをテーブルに置いて問い掛けた。
「左手がどうかしたのか、ブルー?」
「ハーレイに握って貰うの、いつも右の手ばかりだから…。左手が自己主張したのかな、って」
「…そうかもな。お前が喜ぶのは右手だからな」
前の生で最期を迎えたブルーは右手が凍えて冷たいと泣いた。最後にハーレイの腕に触れた右の手に残った温もりを失くしてしまって、独りぼっちになったと泣きながら死んだ。
その記憶が今も残っているから、右手を握ってやると喜ぶ。機嫌を損ねてしまった時でも、右の手を握って語りかけてやれば次第に笑顔が戻ってくる。
再会してから今日までの間に、何度、右の手を握っただろう?
けれど左手をしっかりと握った覚えは一度も無かった。右手は甘やかしてやっているのに、その陰に隠れて忘れられがちなブルーの左手。
ブルーがささくれを作らなかったら、あんな風に優しく扱う機会は無かっただろう。ささやかな自己主張をしてきたブルーの左手。普段はかまってやらない左手…。
ささくれが出来ていた辺りを撫でているブルーの小さな手。ソルジャー・ブルーだった頃よりも小さな手をした十四歳のブルー。前の生ではしなやかで長かった指が、今は細っこくて柔らかい。
(…ブルーの手も滑らかで柔らかかったが、子供の手と比べるとやはり違うな…)
そんなことを思いながら見ていて、ふと気付いた。前の生と今の生との大きな違い。
「そういえば…」
口を開くと、ブルーが「何?」と見上げてくる。ハーレイは穏やかな笑みを浮かべた。
「いや。…昔は俺だけの特権だった筈なのにな、と思ってな」
「何が?」
「お前の手だ。お前、いつも手袋をしていただろうが」
「あっ…!」
自分でも忘れていたのだろう。ブルーがしげしげと自分の両手を見詰める。手のひらを眺めて、裏返してみて。手の甲をじっと見てから、また手のひらに視線を落とす。
「…ホントだ、手袋のことなんか忘れてた…」
「俺も今の今まで気付かなかったさ、していないのが普通になってたからな。…前は俺とドクターくらいしか見ていなかったのを惜しげもなく大盤振る舞いか」
「見られたって減らないと思うけど…」
「減りはしないが、俺の特権が一つ無くなった。そいつが実に残念だな」
残念だ、とハーレイはブルーの手を取った。右手も、忘れられていると自己主張をした左手も。
「…こうして見てみると小さいだけで、他はあんまり変わっていないか…。お前の手だという気がするからな。指紋なんぞは気にしなかったし、手相を見ることも無かったが…。お前の手だな」
「そう?」
「ああ。他の奴の手を差し出されたって俺には分かる。お前じゃない、と」
「そうなんだ…。ぼく、自分でも分からないかも…。だって、殆ど見なかったから」
前の生のブルーは常に手袋をはめていた。ソルジャーの衣装の重要なパーツの一つであったし、戦闘に赴くブルーの身体を保護するためのものだったから。
「…ハーレイ、手だけでも分かるんだ? ぼくの手だ、って」
「自信はあるな。なんだ、偽物の手でも出してくるのか? そういう童話もあったっけな」
「墨を塗った手でも、ぼくだと分かる? 泥だらけの手でも?」
「お前の手ならな」
任せておけ、とハーレイは笑った。扉からそういう手が突っ込まれたなら、掴んで引っ張って、捕まえて。墨でも泥でも洗い落として悪戯者の正体を暴くまでだ、と。
「…そっか、手だけで分かっちゃうんだ…」
しきりに感心しているブルー。前の生では手袋があまりにも普通だったから、そちらの記憶しか残っていない。自分の指紋がどんな風だったか、手のひらを走る三本の線がどうだったかも曖昧なもので、いざ目の前に突き出されたとしても自分の手だと即答出来るかどうか。
「ハーレイ、凄いね」
「そりゃあ、俺しか見なかったしな? 俺だけが見られる宝物だぞ、じっくり観察して当然だ。…もっとも、お前、明るい所は嫌がったからな…。そんなに長くは見られなかったな」
「ちょ、ハーレイ…っ!」
ハーレイが何を言っているのかに気付いたブルーは真っ赤になったが、ハーレイはブルーの手を離さない。「子供のお前には何もしないさ」と捕えた両手を愛おしそうに眺める。
「…お前の手。前はもう一回りは大きかったな、そのくらいまで育たんとな? あの頃はゆっくり見られなかったし、今度はじっくり見させて貰う。そしてたっぷり味わうのさ」
今でも美味しそうなんだがな、とハーレイは名残惜しそうにブルーの手を解放した。
「これ以上見ていたら食いたくなる。…此処までだな」
「味見していいよ?」
「そういう台詞は育ってから言え」
ハーレイの軽い拳がコツンとブルーの頭を小突いた。
「食べ頃に育つまで食わないと俺は決めているんだ。育った方が断然、美味い」
「柔らかいよ? 多分、今の方が」
手も柔らかい、とブルーは両手を差し出したけれど、ハーレイは鼻で笑っただけだった。
「まあ、子牛でも子羊でも柔らかいしな? しかしだ、ミルク臭いとも言う」
「ミルク臭い!?」
「味わい深くはないってことだ。柔らかいだけでは旨味が足りない。…ミルク臭いお前もいいかもしれんが、やはり育った方がいい」
「…ミルク臭いなんて、酷いよ、ハーレイ!」
ブルーは頬を膨らませたが、「それで間違いないだろう?」と返された。
「お前、本当に毎日ミルクを飲んでいるしな? 背が伸びるようにと頑張ってるだろ、ミルク臭くなっていると思うぞ」
「……それ、子牛とかとは違うと思う…」
「似たようなモンだ。分かったらその手は仕舞っておけよ」
俺が味見をしたくなる前に、と促されたブルーは両手を膝の上に置いてテーブルの陰に隠した。意地悪なハーレイに見せてたまるものか、と意地になったまではいいのだけれど。
(……どうしよう、これじゃ食べられないよ……)
両手を隠してしまったブルーは直ぐに窮地に陥った。テーブルの上の紅茶と焼き菓子。どちらも手が片方でも空かない限りはブルーの口には入らない。サイオンで運ぶという手もあったが、今のブルーはサイオンに関しては不器用だった。紅茶は零してしまいそうだし、焼き菓子も落とす。
(…うー……)
食べたいけれど、食べられない。そんなブルーの悩みを他所にハーレイは紅茶で喉を潤し、空になったカップにティーポットから熱いおかわりを注ぎ入れた。焼き菓子も美味しそうにモグモグと食べて、「美味いぞ?」とブルーに微笑みかける。
「どうした、今日は食べないのか? まだ半分以上残っているが」
「………手!」
「手?」
「ハーレイが手は仕舞っておけって!」
自分が勝手に仕返しとばかりに仕舞ったくせに、ブルーはハーレイに怒りをぶつけた。
「ぼくの手、テーブルの下だから! 手が使えないから食べられないし!」
「……うんうん、なるほど。良く分かった」
こういうことだな、とハーレイの手が伸ばされて。
「ほら、ブルー」
ブルーの唇の前に焼き菓子を刺したフォークが突き出された。焼き菓子もフォークも、ブルーのもの。ハーレイが切って、突き刺して差し出しただけで、ブルーの焼き菓子とブルーのフォーク。
「…な、何なの、ハーレイ?」
「手が使えないから食えないんだろう? これなら食えるな?」
「…う、うん……」
答えるために開けた口の中に焼き菓子が素早く押し込まれた。有無を言わさぬハーレイの動きにブルーは目を白黒とさせたけれども、噎せ返るような突っ込み方では無かったから。
(……く、悔しいけど……。悔しいけど、美味しい……)
無言で噛んで飲み下したら、今度は紅茶のカップが出て来て。
「まだ熱いから気を付けろよ?」
「ハーレイ、これって…!」
「お前の両手を甘やかしてやることにした。…右手は元から甘えん坊だし、左手も今日は甘えたいようだしな? 食わせてやるからゆっくり食べろ」
こんなチャンスは滅多に無いぞ、と覗き込んでくる鳶色の瞳があまりにも優しかったから。
ブルーの八つ当たりじみた怒りと子供っぽい意地は何処かへ消えた。そして大人しく食べさせて貰う。前の生で倒れて寝込んだ時などに、ハーレイがそうしてくれていたように…。
ハーレイに食べさせて貰った紅茶と焼き菓子。紅茶はおかわりも淹れて飲ませてくれた。まるで小さな子供にするように、あるいは前の生で倒れたブルーにしていたように。
食べ終える頃にはブルーの胸一杯に幸せが溢れ、もっと、もっと、と強請りたいほどで。
「…ねえ、ハーレイ」
「なんだ?」
「もうすぐお昼御飯だけれど…。食べさせてくれる?」
本当に強請ってみたら、ハーレイはブルーが両手を隠したテーブルにチラリと視線をやって。
「お前の両手がそう言ってるのか?」
「…うん。今日は一日、お休みだって」
「夕食までは知らんぞ、俺は。お父さんとお母さんの前では流石に出来ん」
「晩御飯の時には起きるらしいよ。だから、それまで。…ダメかな、ハーレイ?」
左手はうんと重傷なんだよ、とブルーはささくれの痕を示してみせた。つまりは両手がテーブルの下から外に出てしまったわけで、ハーレイがプッとたまらず吹き出す。
「出て来たようだが? お前の両手」
「重傷だってば! 体育の見学みたいなものだよ、出て来ていたって休みなんだよ!」
「そう来たか…。分かった、今日の昼間は見学なんだな」
特に左手が重傷なのか、とハーレイはテーブルの下から姿を現したブルーの手を見た。
「ささくれの所、まだ赤いな。…まだ痛むか?」
「少しだけ…。でも重傷だよ?」
「分かっているさ。少しとはいえ血も出てたしな。…前のお前は怪我をしていても黙っていたが」
「……そうだったね」
ソルジャーだった頃のブルーは戦闘で傷を負うこともあった。小さな傷でも侮れないから、必ず治療は受けたけれども、ノルディには固く口止めしていた。ブルーが負傷したと知れたら、誰もが酷く心配するから。ほんの小さな掠り傷でも、それをブルーに負わせてしまったと気に病むから。
「そしてお前が黙ってた挙句、俺だけが気付く羽目になるんだ」
「…何度もそれで叱られたっけね…」
「当たり前だ! いつもお前は黙っているから、俺は本当に気が気じゃなかった。お前が戻る度に、怪我をしていないかとノルディに訊いて…。あいつも「ご無事です」としか答えないから、船の中が落ち着いて青の間に行くまで無傷かどうかも分からないんだぞ!」
「ぼくは大抵、無傷だったよ?」
そう答えたけれど、無傷ではない日も何度もあった。だからハーレイは溜息をつく。
「…無傷のことが多かった分、たまに怪我をされると堪えたんだ。…守れなかった、と」
前の生でブルーが戦いに出る時、シャングリラの指揮はハーレイが執った。ブルー以外に戦える者はおらず、戦闘班と言っても戦線に出るにはあまりに弱い。ゆえに戦闘の殆どをブルーが担い、戦闘班が補助することになる。彼らに指示を下す立場がハーレイだった。
戦闘班の力が充分であれば、ブルーが負傷することはない。ブルーを守ろうとハーレイは懸命に指揮を執るのだが、力及ばず、守り切れなくて傷を負わせて。…それがハーレイには辛かった。
「俺はお前を守りたかった。…それなのに俺には力が無いんだ」
「そんなことないよ。ハーレイはいつも頑張ってくれた」
「どうだかな…。お前の手袋やマントの方が、俺より優秀だった気がする」
「…あれはそのために作ってあったよ。その代わり、いつも着てなきゃいけなかった…」
手袋だってはめたままだよ、とブルーは呟く。
「いくら慣れてても、素手とはやっぱり違うもの…。ハーレイの前で外してた時は幸せだった」
そのぼくの手を覚えててくれた、とブルーは微笑む。
「自分でも記憶があやふやなのに…。ハーレイは手だけでぼくが分かる、って。そんなにしっかり見てくれてたんだ、と思ったら嬉しくなった。…ハーレイはぼくより詳しいんだ、って」
「そりゃあ、俺だけの特権だしな? じっくり見なけりゃもったいないじゃないか」
そしてその手をまた見られた、とハーレイはブルーの手を取った。
「俺の記憶よりも小さくなったが、お前の手だ。…しかも、ささくれが出来たりする」
「ささくれ?」
「あの手袋をしていた頃には無かっただろうが? ささくれなんかは」
「うん…。そんなのが出来る手袋だったら意味が無いしね」
戦闘の時にブルーの身を守るために作られた特別な手袋。人の温もりは伝えるけれども、爆発や炎から来る攻撃的な熱は通さない。「身に着ける人を守りたい」というミュウたちの思いを集めて作り上げられたソルジャーの衣装。それを着けていれば、ささくれが出来る筈もない。
「…俺はささくれの出来る今の手が好きだな、同じお前の手には違いないが」
「………。ハーレイ、もしかして荒れた手が好き?」
ブルーは赤い瞳を見開いた。ささくれが出来る手が好きだなんて、変わっていると思ったのに。
「いや、滑らかな手が好みだが? お前の手は別に荒れてもいないし」
「でも、ささくれが好きだって…」
「ささくれが好きというわけじゃない。ささくれが出来て痛がる手が好きなんだ」
「…えっ……?」
ますますもって分からない。途惑うばかりのブルーの左手にハーレイが触れた。
「お前、痛いと叫んだだろう? そういうお前の手が好きなのさ」
ハーレイは大きな両手でブルーの左手を包み込み、穏やかな声で語りかけた。
「…前のお前は、ちょっぴり皮が剥けたくらいで声を上げたりしなかった。こんな小さなささくれ程度で「痛い」と叫びはしなかった。…違うか?」
「そうだけど…」
「もっと酷い傷を負った時でも、お前は隠して微笑んでいた。俺の前でも「大丈夫だよ」と笑っていたっけな。…だがな、ささくれ程度で痛がるお前が本当なんだ。それが本当のお前の手だ」
こんな小さな傷でも痛がるお前が本当なんだ、とハーレイはブルーの右の手も掴む。
「…それなのに、お前は戦っていた。この右の手が冷たくなるまで……あんなに酷い傷を負うまで戦い続けて、逝っちまった。本当はささくれ一つで痛いくせにな」
「あの頃のぼくはソルジャーだったよ。だから当然…」
「当然も何もあるもんか。痛いものは痛いし、それが普通の反応だ。今のお前は普通に「痛い」と叫ぶことが出来る。小さなささくれで痛いと叫べる。…そんな手をしたお前がいいな」
これが本当のお前なんだ、とハーレイはブルーの両方の手を並べて優しく撫でた。
「今日はこの手は休業らしいが、これからもうんとサボッていいぞ? 前のお前の手は我慢強くて働き過ぎた。その分まで俺が甘やかしてやる。ささくれで重傷になるんだからな」
「…それでいいの?」
「ああ。俺はお前を甘やかしたいし、本当のお前が大好きだからな」
うんと甘えて幸せに生きろ、とハーレイの手が前の生で凍えたブルーの右手と、ささくれの痕が残る左手を強く握った。
ブルー、今度は痛い時は「痛い」と素直に言えるお前のままでいてくれ。
俺が必ず守ってやるから。
今度こそ、俺がお前を守ってやるから。
ささくれが痛くて叫ぶお前を守ってやるから。
分かるな、ブルー?
お前は強くならなくていい。その分まで、俺が強くなるから……。
甘やかされる手・了
※ささくれが出来た、と痛がるブルー。前のブルーよりも弱くて甘えん坊な手。
今度はブルーが頑張らなくてもいい世界。守って貰える世界なのです。
※聖痕シリーズ、書き下ろしショート、増殖中。お気軽にどうぞv
←拍手してやろうという方は、こちらからv
←書き下ろしショートは、こちらv
学校が夏休みに入ってカラリと爽やかに晴れた日のこと。いい天気なのにハーレイは車で現れ、そのトランクからキャンプ用のテーブルと椅子が引っ張り出された。それらを庭で一番大きな木の下に据えて、ハーレイがブルーを手招きする。
「どうだ、ブルー? デートのための場所が出来たぞ」
「うん。今日は二回目のデートなんだね」
ブルーは椅子にチョコンと座った。最初のデートは六月のことで、その時も今日と同じテーブルと椅子をハーレイが持って来てくれた。母からも見える場所だけに、ハーレイの膝に座ったりすることは出来ないけれども、普段と違う場所でのティータイムはとても心が弾んだものだ。
初めてのデートの再現のようなテーブルと椅子。特別な時間が始まる予感。
間もなく母がアイスティーと菓子を運んで来てくれ、二度目のデートの開幕となった。木の葉を透かして漏れて来る光が優しいレース模様を描く。シャングリラには無かった本物の木漏れ日。
本物の地球の太陽はとても眩しく、今の季節は木陰に居ないと肌が痛いほど。それでも前の生で焦がれ続けた地球に居るのだと思うと嬉しい。そんなことをブルーが考えていると。
「おっ! ブルー、見てみろ。梯子が出来たぞ」
「梯子?」
キョトンとするブルーに、ハーレイが「あそこだ」と空を指差した。澄んだ青空に幾つか、白い雲。それは見えるが梯子の形はしていない。何処に梯子があるのだろう?
「知らないのか? 雲の間から光が射しているだろう?」
「あれが梯子なの?」
「そうさ。ああいう光の梯子を使って天使が行き来しているそうだ。ヤコブの梯子という名が本当なんだが、天使の梯子の方が通りがいいな」
ヤコブの梯子は聖書から来た名前なのだ、とハーレイはブルーに教えてくれた。
「ヤコブという男が見た夢の中で、天使があれを梯子にしていた。それでヤコブの梯子なのさ」
「そうなんだ…。ぼくは天使の梯子の方が好きかな、梯子の名前」
「俺もそっちの方が好きだな。…こういう時に雲の端っこをよく見てみるとだ、天使が顔を出しているらしい。おふくろに聞いた話なんだが」
「えーっと…」
ブルーは光が射してくる雲間に目を凝らしたが、天使の姿は見付からなかった。前の生では神も天使もさほど信じていなかったけれど、ハーレイと再会出来た今ではどちらも居ると信じている。そうでなければ生まれ変わって出会うことなど決して出来はしなかっただろう、と。
「…見えないね、天使」
残念そうにブルーは呟く。せっかく天使の梯子があるのに、昇り下りする姿も見られない。
「そう簡単には見えんだろう。頑張って探せば、生きてる間に一度くらいは見られるかもな」
「見てみたいな…。天使って凄く綺麗だろうから」
「そりゃあ、神様の御使いだしな? しかしだ、お前も負けてはいないと思うが」
「えっ?」
何のことか、とブルーが首を傾げると、ハーレイは「お前だよ」と繰り返した。
「お前も天使みたいじゃないか。今の姿は可愛らしいし、育てばとびきりの美人になる。どっちも天使に負けていないし、おまけに空も飛べるしな?」
背中に翼は生えていないが、と目を細めながらブルーを眺める。
「…お前なら綺麗に飛ぶんだろうな。俺は戦いの時しかお前が飛ぶのを見ていないしな…。平和になった今の世界で見たいもんだが、この辺りは飛行禁止だし…。庭で出来るのは二階の窓まで舞い上がるくらいか、残念ながら」
ハーレイはブルーを見詰めたままで一つ小さな溜息をついた。
「いつかお前が大きくなったら、飛べる場所まで連れてってやろう。そうしたら俺に見せてくれ。天使みたいに空を舞うお前を、俺は存分に見てみたいんだ」
期待に満ちたハーレイの眼差し。出来るものなら応えたかったが…。
「ごめん、ハーレイ。…ぼく、前と違って飛べないみたい」
「飛べないだと?」
ハーレイの鳶色の瞳が丸くなった。
「瞬間移動が出来ないことは知ってたが…。飛べなかったのか、今のお前は」
「うん。…飛べてたら、この木だって登れていたよ」
頭上に枝を広げた木の高い梢をブルーは仰ぐ。
「遊びに来た友達がよく登ってた。ぼくも登ってみたかったけれど、木登りなんか出来ないし…。もしも飛べたら、登らなくっても一番高い場所まで行けたよ」
「それじゃ、お前は見ていただけか?」
「…うん。楽しそうだなあ、って見上げていただけ」
「そうだったのか……」
木登りは実に楽しいんだが、とハーレイはブルーが登れなかった庭で一番高い木を見上げた。
「お前が飛べないとは思わなかった。どおりで飛び降りて来ないわけだな」
「何の話?」
「俺がこの家に来る時だ。いつ来ても二階の窓から手を振るだけだし、大人しいのかと思って見ていたんだが…。要するに、お前、窓から飛んだら落っこちるんだな?」
「落ちるんじゃなくて、飛べないんだってば!」
ブルーはむきになって反論した。飛べないことと落っこちることを同列にされると腹立たしい。飛べないことは個性であって、落っこちることは間抜けな証拠。だから懸命に主張する。
「ぼくは飛べないけど、落っこちないよ! 落っこちるようなことはしないから!」
「なるほど、なるほど。つまり飛べないから飛び降りない、と」
「そうだよ! 二階の窓から飛んだりしたら落っこちてケガするだけだもの!」
現に一度も飛ぼうと試みたことは無い。友人たちの中には高い木や二階の窓から飛ぼうと挑んで怪我をした者が何人もいるし、名誉の負傷扱いのそれは勇気の証明でもあるのだが…。
前の生の頃と違って今はタイプ・ブルーも珍しくない。その中の多くが飛行能力を持っており、それゆえに不測の事態が起こらないよう市街地での飛行は全面的に禁止されている。飛びたい者は許可が下りている場所へ出掛けて、一種のレジャー感覚で飛ぶ。
それが社会のルールだけれども、子供はルールなど気にしない。飛べることは「かっこいい」と考えているし、その能力の有無に関わらず飛んだ挙句に怪我をするのが当たり前。
もちろん学校では安全のために「飛ばないように」と教えられるが、守らないのも子供の特権。ゆえにブルーの友人の中にも負傷者多数となるわけで…。
「ぼくは失敗してないから! 飛んでないから!」
一括りにされてたまるものか、とブルーは叫んだ。
「それに、怖くて飛ばなかったわけじゃないからね! 飛べないのに飛んだら馬鹿なだけだし!」
「分かった、分かった。…しかしだ、お前、本当に今は飛べないのか?」
前の生でのブルーの能力が抜きん出ていただけに、ハーレイにも信じ難かったのだが。
「…無理みたい…。学校でプールに入った時にね、前の記憶を使ってみたら水に浮くことは出来たけど…。その要領で浮こうとしたって、空中ではほんの少ししか…」
このくらい、とブルーは両手で高さを示した。五十センチにも満たない高さ。
「これは記憶が戻る前から出来たんだよね。でも、これだけだと…」
「窓から飛んだら大怪我だな、うん」
ハーレイは深く頷いた。
「飛ばなかったのは賢明だ。ただでも弱いのに、怪我までしてたら目も当てられん」
前世では自由自在に飛んでいたのに、今は全く飛べないブルー。それを知ったハーレイは驚いたのだが、考えてみれば今の世界では飛べなくても何の問題も無い。現に今日まで飛べないことすら知らずに過ごしていたのだから。
「…お前が飛ぶ姿を見られないのは残念だがなあ…。だが、飛べないのはいいことだ、うん」
「ハーレイ、言うことが滅茶苦茶だよ? 飛べるのと飛べないのと、どっちがいいの?」
「それはまあ…。両方だな。どちらも俺の我儘なんだが」
ハーレイは右手を伸ばしてブルーの前髪をクシャリと撫でた。
「お前が飛ぶのを見てみたかったのは本当だ。…さぞかし綺麗だろうからな。お前ならきっと翼が無くても天使みたいに見えるんだろう。そういう意味では飛べる方がいい」
「飛べない方は?」
「お前が飛ばなくてもいい世界なんだな、と思ってな。…前のお前は戦う時にしか飛ばなかった。戦うために飛んで、守るために飛んだ。…そんなお前が飛ばなくて済むのが平和の証拠さ」
飛べないお前も俺は嬉しい、とハーレイは穏やかな笑みを浮かべる。
「お前は一生、飛ばなくていい。お前はメギドまで飛んじまったしな。もしもお前が飛べなかったなら、俺はお前を失くさなかった。…お前はメギドに行けないんだからな」
二度と飛ぶな、と諭すようにブルーに言い聞かせる。
俺の腕の中から飛んで行くな、と。
「ごめん、ハーレイ…。でも、あの時は行くしかなかった。ぼくしかメギドを止められなかった」
「分かっているさ。だから今度は飛ばなくていい。飛べないお前でいい、と言ってる」
もう飛ぶなよ、とハーレイはブルーに念を押した。
その年ではもうやらないだろうが、高い木や二階の窓から飛ぶのもやめろ、と。
ハーレイに「飛ぶな」と何度も繰り返されたブルーだったが、さっき教わった天使の梯子が目に焼き付いて離れない。ソルジャー・ブルーだった頃にもアルテメシアで眺めた雲間からの光。
あの頃はそれを何と呼ぶのか知らなかった。ゆっくり見ている余裕も無かった。射してくる光に当たらないよう避けて飛ばねばならなかったし、道を急ぐ途中の景色でもあった。シャングリラに戻る時であったり、敵地に赴く時であったり。
名前すら知らなかった天使の梯子。ヤコブの梯子とハーレイは言ったが、天使の梯子と呼ぶ方が耳に心地よい。天の御使いが行き来する梯子。それを昇ってみたい気がする。前の生では光の中に入れなかったが、その中を昇ってみたい気がする…。
「ねえ、ハーレイ…」
「なんだ?」
「ハーレイはぼくに飛ぶなと言うけど、飛んで欲しいとも思うんだよね?」
「ん? …そりゃあ…。見たいとは思うがな? 落っこちて怪我をされてもなあ…」
飛べないんだしな、と苦笑するハーレイに、「でも…」とブルーは口ごもりながら。
「…ちょっとだけ飛んでみたい気がする。天使の梯子を昇る分だけ」
「おい。それは「ちょっと」じゃないだろう」
ハーレイは呆れた顔で天使の梯子があった辺りの空を見上げた。
「どれだけあると思っているんだ、あの高さを? お前が浮き上がれる高さはほんのこれだけで、天使の梯子を昇るどころか普通の梯子も無理だと思うが」
「…そうなんだけど……」
昇ってみたい、とブルーは続ける。
「アルテメシアで何度も見たんだ、あの梯子。…だけど名前を知らなかったし、綺麗な光でも中に入ったら人類軍に見付かるし…。いつも見るだけで避けて飛んでた。…中に入っても大丈夫なのが今の世界で、それに天使の梯子なんだよ?」
「なるほどな…。しかし、お前は普通の梯子で届く高さでさえ飛べないわけで…」
「分かってるけど……」
でも昇りたい、と叶わない夢を口にする。
ハーレイと眺めた天使の梯子があまりにも綺麗だったから。
大好きなハーレイに教えて貰った天使の梯子を昇る姿をハーレイに見せたかったから…。
「…お前が高く舞い上がる姿は俺も確かに見たいんだがな…」
どうしたもんかな、とハーレイは腕組みをして考えを巡らせた。
ハーレイに飛ぶだけの力は無い。あったならコツを教えられるが、それは出来ない相談だった。
飛行能力を持つタイプ・ブルーの知り合いもいない。許可された場所で飛んでいる愛好家たちに頼めば指導を引き受けてくれそうだけれど、ブルーの身体が弱すぎる。
(…どのくらいの体力が要るのか、俺には見当がつかんしな…。おまけにブルーは頑固なヤツだ。今日はここまで、と止めたって聞きやしないしなあ…)
指導してくれる人が見付かったとなれば、ブルーは確実にのめり込む。簡単に覚えられるのなら問題は無いが、そうでないなら頑張りすぎて倒れてしまうこともありそうだ。
(…ウッカリ預けるわけにもいかんか…。かと言って俺には何も出来んし…)
せめて柔道か水泳だったら、と心の中でぼやいた所で閃いた。
ブルーは「プールで浮くことが出来た」と言わなかったか?
前の生での記憶を使ってみたら水に浮くことが出来たのだ、と。
(水か!)
あれなら浮くな、とピンと来た。ブルー自身が前世でのコツを思い出すまで、浮力のある場所で気長に付き合ってやればいい。プールならハーレイは得意どころか、指導できる腕前なのだから。
「ブルー。…お前が昇りたい天使の梯子なんだが」
そう切り出すと、ブルーは顔を曇らせた。
「…やっぱりダメ?」
「そうじゃない。お前を昇らせてやれるかもしれない。…お前の努力次第になるがな」
「努力って…。ハーレイ、空を飛べたっけ?」
「いや。飛べないが、水の中なら飛べる。…水族館の魚なんかは飛んでいるように見えないか?」
ハーレイの例えにブルーの瞳が輝いた。
「…うん、飛んでる! 前にペンギンが飛んで行くのも見たよ。ペンギン、空は飛べないね」
「そうだろう? 水と空とじゃ違うんだろうが、コツを掴むにはいいと思うぞ」
俺と一緒にプールに行くか、とハーレイは片目を瞑ってみせた。
「プールで練習すればいい。どうやって空を飛んでいたのか、感覚だけでも取り戻すんだな」
「いいの? ハーレイがプールに連れてってくれるの?」
「……いずれな」
今は駄目だ、と釘を刺す。
「教師と生徒の間は駄目だな。ついでに俺がだ、水着姿のお前を見たって平常心でいられる状態にならないとな?」
「水着って…?」
なんで、と訊き返しかけたブルーの頬が真っ赤に染まった。
(…ハーレイも水着なんだよね? ぼくも水着で、二人でプール…!)
実にとんでもない格好なのだと気付いたブルーは慌てたけれども、教師と生徒な間柄に終止符が打たれる頃になったら、プールも平気になるかもしれない。本物の恋人同士な二人だったら水着も着けてはいない仲だし…。
(でも、でも、でも………)
今は相当に恥ずかしい。想像しただけで耳の先まで赤くなっていくのが自分で分かる。
(と、飛びたいけど! 空は飛びたいけど、でも、水着…。ハーレイとプール…!)
ブルーの弱い身体はプールの水には十分間しか入っていられない。十分が経てば上がって休憩、その休憩が五分間。ハーレイと一緒に水着姿で五分間もプールサイドに居るなんて…!
(……耐えられないかも……)
恥ずかしすぎる、と茹でダコのようになったブルーの心はハーレイに筒抜けになっていた。前の生では有り得なかったが、今のブルーは感情が高ぶると心の中身が零れてしまう。パニック状態のブルーが撒き散らす初々しい悩み。
ハーレイは気付かないふりをしつつも、頬が緩むのを抑え切れない。この愛らしい恋人を連れてプールに行けるのはいつだろう…?
ようやっとブルーが落ち着きを取り戻し、改めてプールの約束をして。
ハーレイはまだ少し頬が赤い小さな恋人に微笑みかけた。
「水泳は俺の得意技だし、水の中を自由に飛ぶ方法なら手取り足取り教えてやるさ。…生憎と空は全く飛べんが、お前が飛べるようになったならドライブするか」
「ドライブ?」
「ああ、そうだ。町の中では飛べんだろう? 飛べる場所まで連れてってやろう、俺の車で」
この辺りだと何処になるかな、と飛ぶための許可が出ている場所を幾つか挙げる。海辺もあれば川沿いもあるし、広い森林公園なども。ブルーには何処がいいのだろうか、と考えていると。
「天使の梯子がある場所がいいな」
絶対に其処、とブルーが言い張る。
「おいおい、天使の梯子は場所は関係ないんだぞ? あれは雲と太陽との間でだな…」
「天使の梯子が似合う場所! それっぽい場所! ぼくは天使の梯子を昇りたいんだから!」
「…それを言うなら、俺はお前が飛んでる姿が一番綺麗に見える所がいいんだがな?」
ついでに天使の梯子つきで、とハーレイは唇に笑みを湛えた。
「だがな、天使の梯子を昇って行っても必ず下りて来るんだぞ? …飛んで行っちまうのは二度と許さん。昇った先にどんなに綺麗な場所があっても俺が呼んだら下りて来るんだ」
「飛んで行かないよ」
戻って来るよ、とブルーはハーレイの右手の小指に自分の小指をそっと絡めた。
「これが約束。天使の梯子は昇りたいけど、ぼくの一番はハーレイだもの。ハーレイのいない所に行ったりしないよ、ハーレイが下で待っててくれるって分かってるから昇りたいんだよ」
だって、ハーレイが見たいと言ったんだもの。
空を飛ぶぼくを見てみたかった、って言ったんだもの。
ぼくが飛んでゆく姿をハーレイに見せてあげたくなった。
そう考えたら、天使の梯子を昇りたくなった。
ハーレイが教えてくれた天使の梯子。大好きなハーレイに教えて貰った天使の梯子。
昇った先に何があっても、ハーレイが呼んだら、ぼくは急いで下りて来る。
ハーレイの側よりもいい所なんて、何処にも在るわけないんだから。
天使が昇ってゆく世界よりもずっと素敵で、其処に居るだけで嬉しくなる場所。
そのハーレイが見たいと言ったから、飛べないぼくでも飛びたくなった。
いつか必ずぼくは空を飛ぶ。ハーレイにコツを教えて貰って、天使の梯子を昇るためだけに…。
天使の梯子・了
※今のブルーは、実は飛ぶことが出来ません。前のブルーは自由自在に飛べたのに。
ブルーが空を飛べなくてもいい世界。それが平和の証拠です。
聖痕シリーズの書き下ろしショートもよろしくですv
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八月二十八日はハーレイの三十八歳の誕生日。劇的な再会を遂げてから初めて迎えるハーレイの誕生日にブルーは羽根ペンを贈りたかった。ところが予算を軽くオーバー、十四歳の子供には些か高すぎる品。買って買えないことはないのだが、ハーレイに気を遣わせてしまいそうで。
(…羽根ペン、プレゼントしたいんだけどな…)
諦め切れないブルーの悩みは早々にハーレイに見抜かれた。悩みの中身までは掴めなかったが、気付いたハーレイは気分転換にと夜の庭での夕食を持ち掛け、ブルーは楽しい時間を過ごす。星が瞬く下での夕食。しかもハーレイと二人きりとくれば、心に残らないわけがない。
羽根ペンが買えない悩みを引き摺りつつも、ブルーは少し欲張りになった。星空は堪能したから次は夜明けを見てみたい、と。
「ねえ、ハーレイ」
訪ねて来てくれたハーレイと自分の部屋で向かい合いながら切り出してみる。
「ハーレイと日が昇る所を見てみたいな。星はこの前、一緒に見たから」
「日が昇る所?」
「うん。夜が明ける所を見たいんだけど…。きっと素敵だと思うんだよね」
空が次第に明るくなってゆき、星の数が減って、やがて太陽が昇って来る。星空もいいけれど、この地球を照らす太陽が顔を覗かせる瞬間をハーレイと見てみたかった。しかし…。
「お前なあ…」
ハーレイが呆れた口調で言った。
「夜明けを見るって、夏休みにか?」
「そうだよ、ハーレイのお休みが沢山あるもの」
「…お前、最近、何時に起きてる?」
「んーと……。学校は無いけど早起きしてるよ、目覚ましはいつもどおりで七時!」
得意げに答えたブルーだったが、ハーレイは「話にならんな」と苦笑した。
「どおりでとんでもないことを言い出すわけだ。夜明けは何時か知ってるのか?」
「……五時頃かな?」
「その時間なら付き合ってやるが、残念ながら五時にはすっかり明るいぞ」
日が昇るのはもっと前だ、とハーレイがフウと溜息をつく。
「お前が言うような夜明けを見るなら四時には此処に来ないとな。俺は早起きも得意な方だが、そんな時間に俺がチャイムを鳴らしてみろ。お前のお父さんとお母さんが大迷惑だ」
訪問するには早過ぎる時間。非常識にもほどがある。
「それとも俺に泊まれってか?」
冗談で口にした言葉だったが、ブルーは「そうだね」と頷いた。
「それならハーレイも四時頃に起きればいいんだものね。じゃあ、泊まってよ」
「おい! お前が勝手に決めてどうする!」
両親に訊きに行こうともせずに決めるブルーを、ハーレイは大慌てで止めにかかった。
「人を泊めるのは簡単じゃないぞ? 部屋はあってもお母さんに余計な負担がかかる。一晩しか使わなかったシーツなんかも洗わなければいけないんだしな」
「それはそうだけど…。パパもママも許してくれると思うよ、ハーレイだもの」
泊まりに来てよ、とブルーは赤い瞳を輝かせた。
「どうしてぼくが夜明けを見たいか、ハーレイは分かる?」
「星を一緒に見たからだろう?」
「…半分は当たりで、半分はハズレ」
ハズレな方の半分がブルーにとっては重要だった。当たり前のように来る朝だけれど、前世では朝日は見られなかった。地球の太陽はもちろんのこと、アルテメシアにあった太陽でさえ。
「ハーレイ、シャングリラに居た頃の朝を覚えてる?」
「朝?」
「そう。船の中だったから何処でも外を見られるってわけじゃなかったけれど…。シャングリラでは雲が白くなったら朝が来るだけで、太陽が昇るのは見えなかったよ」
いつも雲海の中に潜んだままだったシャングリラ。サイオンシールドとステルスデバイスで姿を隠した船だったから、雲海からは出られなかった。浮上すれば目視で発見される。
「朝になったら雲が白くなって、暗くなったら夕方で…。夜明けなんか一度も見られなかった」
「…それはそうだが…」
「でしょ? だからハーレイと一緒に夜が明ける所を見たくって…。おまけに地球の太陽だよ?」
二人で見よう、とブルーは強請った。
「シャングリラでは見られなかった夜明けが見られて、昇ってくるのは本物の地球の太陽だもの。せっかく二人で地球に生まれて来たんだから、夏休みの間に一緒に見ようよ」
「…お前の気持ちは分からんでもないが…。俺はこの家に泊まる気は無いぞ」
「なんで?」
「子供のお前には分からん理由だ。説明はするだけ無駄ってヤツだ」
そう返してハーレイは沈黙した。ブルーの家に泊まり込むなど、冗談ではない。よりにもよってブルーと同じ屋根の下。耐えられないのが目に見えている。
(…ブルーに手を出すつもりは無くても、俺は健康な成人男性だしな)
いくら小さな子供の身体であっても、ブルーはブルーだ。前の生で愛したソルジャー・ブルーの生まれ変わりで、今も変わらず恋人同士。前世と違って結ばれていない分、ハーレイは辛い。
(…それに同じ屋根の下だけで済むとも思えないからなあ…)
ハーレイとブルーが恋仲なことをブルーの両親は全く知らない。それだけにハーレイを泊めるとなったら、気を利かせてブルーと同じ部屋にしかねなかった。二階にある二人用のゲストルームを「どうぞ」と提供されてしまったら断れない。
(そうなったら蛇の生殺しだぞ、俺は)
同じ屋根の下よりも厳しい「ブルーと同じ部屋」は回避したいし、なんとしても勘弁願いたい。ブルーの家に泊まるだなんてとんでもない、とハーレイは固辞することにした。
「とにかく俺は泊まらないからな。朝日はお前が一人で見ておけ、夏休みの宿題にちょうどいい」
「宿題って?」
「絵日記だ。夏休みの宿題の定番だろうが」
「そこまで小さな子供じゃないよ!」
ブルーは頬を膨らませたが、ハーレイの気持ちは変わらない。シャングリラに居た頃は無かった朝日を見たがるブルーの心は分かるけれども、それに付き合ったら身が持たない。
そんなハーレイの思いに気付かないブルーはと言えば、どうしても夜明けを見たいわけで…。
「泊まれないなら、朝に来てよ。チャイムを鳴らさなくても大丈夫だから」
「どうするつもりだ?」
「ハーレイが来るよりも早い時間に起きるだけ! そうっと下に下りて開けるから」
玄関を開けて門扉も開ける、と名案を思い付いた顔でブルーが微笑む。
「それならハーレイも何も心配しなくていいよね。パパとママを起こさないように静かにしてればいいんだもの」
「静かに…って、お前、何処から朝日を見るつもりなんだ?」
「あっちの部屋だよ」
ブルーは壁の方向を指差した。
「東向きの大きな窓があってね、太陽が昇って来るのがよく見えるんだ。…だから足音を立てないように二階へ上がって、窓から二人で見てればいいよ」
「俺に挨拶も抜きで上がれと?」
「パパとママ? 朝御飯の時に挨拶すればいいんじゃないかと思うけどな」
「……お前……」
子供ならではの発想の凄さにハーレイは頭を抱えそうになった。この家の住人のブルーが一人でコソコソするなら問題は無いが、それに付き合えと言われても困る。
訪問を知らせるチャイムも鳴らさずに門扉をくぐって玄関から入り、足音を忍ばせて二階まで。それだけでも非常識な客人なのに、朝食の時間になったらダイニングに出掛けて挨拶だとは…。
如何にブルーの守り役として出入り自由な身分といえども、厚かましいを通り越して傍若無人な振舞いと言うか、コソ泥のようだと言うべきか。泊まり込むのも勘弁だったが、こっそり入り込むコースの方も大概だった。家人が寝静まっている間にブルーの手引きで忍び込むなど論外だ。
(…しかし、俺には選ぶしか道が無さそうなんだが…)
ブルーは小さくて愛らしかったが、頑固さだけは前の生と変わっていなかった。こうと決めたら譲らない。たった一人でメギドへ飛んだ時と同じ勢いを発揮する。
(…メギドよりかはマシなんだがな…)
選択権が俺にある分だけは、とハーレイは眉間の皺を深くした。
前の生でブルーがメギドへ向かった時には、ハーレイに選ぶ権利は無かった。ブルーが一方的に告げた遺言を守り、シャングリラに残って生きてゆくより他には道が無かった。
それに比べれば、ブルーの家に泊まり込むのか、忍び込むかを自分で選べる今回はマシだ。まだマシなのだが、どちらの道もなかなかに酷い。泊まり込んでブルーと同室にされて蛇の生殺しか、忍び込んでバツの悪い顔で朝食の席に出てゆくか。
(…辛い目に遭うか、大恥をかくか…。俺としたことが、比較対象がメギドだとはな…)
前の生で一番辛くて苦しかったブルーとの永遠の別れ。それを持ち出して比べるには小さすぎて情けなくなる悩みなのだが、此処でメギドが出てくる辺り、心の傷が癒えつつあるのだろうか。
ブルーを喪った時の悲しみの記憶は今もハーレイを苦しめる。夢に見て叫び、その声で目覚めることもある。そんなメギドを引き合いに出せる分だけ、傷は癒えたのかもしれないが…。
(……今は選ぶしか無いんだよな?)
目の前で小首を傾げたブルーがハーレイの答えを待っている。ハーレイと一緒に夜明けを見ようと決めたブルーが、計画を実行に移すための方法はどれになるのかと待ち受けている。
(…泊まり込むも地獄、忍び込むも地獄か……)
他に選択肢は無いのだろうか、とハーレイは懸命に考えた。ブルーの望みは叶えてやりたいし、夜明けを見たいと言い出した理由ももっともなものだ。アルテメシアの雲海の中に潜んでいた頃、シャングリラの船体が朝日に照らされることは無かったのだから。
だが、生き地獄な蛇の生殺しも、コソ泥も遠慮したかった。他に何か…、と苦悩する内に閃いた一つの考え。これならば、とハーレイはそれをブルーに伝えた。
「いいか、ブルー。俺が泊まるとお母さんたちに気を遣わせるし、忍び込んでも結果は同じだ。…俺はどちらも乗り気になれんな。…そこでだ、朝早くから俺がチャイムを鳴らしても誰も困らない日があるようだったら来ることにしよう」
「…どういう意味?」
「お父さんたちが早起きする日だな。まだ暗い内に出掛ける用事があるとか、そういうことだ」
そんな日があれば、夜が明ける前に来て東向きの窓からブルーと一緒に朝日を見てもいい。
そう言われたブルーは「分かった」と答え、ハーレイもこれで朝日の件は当分の間は保留だろうと思っていたのに…。
「パパ! 朝早く出掛ける用事って、無い?」
夕食の支度が出来たと呼ばれて下りてゆくなり、何の前置きもなくブルーが叫んだ。唐突すぎる問いに、テーブルに着いていたブルーの父が「なんだ?」と驚く。
「どうした、ブルー?」
「何か用事ないの? 暗い内から出掛けなくっちゃいけないような!」
「………? お前、何処かへ行きたいのか?」
「そうじゃなくって!」
ブルーは子供ならではの我儘っぷりを爆発させた。
「ハーレイと夜明けを見てみたいのに、ハーレイ、泊まるの嫌だって…。朝早くにウチに来るのはかまわない、って言ってくれるけど、パパたちが早く起きる日でなきゃダメなんだって!」
だから用事、と父に詰め寄る。
「暗い間に出掛ける用事って、なんにも無いの!?」
無ければ作れと言わんばかりのブルーに気圧されつつも、其処は父だけに。
「…どうして夜明けを見たいんだ? お前は朝も弱いだろう?」
「シャングリラで一度も見てないからだよ! 外は真っ白だったから!」
「真っ白?」
「雲海の中にいたんだってば! だからハーレイと朝日が見たい!」
夏休みの間に絶対見たい、とゴネ始めたブルーにハーレイは肝を冷やしたのだが、勝利の女神はブルーの上に微笑んだらしく。
「…なるほど。パパの知らない頃のお前が見たいわけだな、夜が明けるのを」
「うんっ!」
「そういうことなら、一つ用事を作るとするかな。…どうかな、ママ?」
父に問われた母が「ええ」と頷く。
「でも、用事って…。暗い内からって、会社の門もまだ開いていないでしょ?」
「前から釣りに誘われてるんだ。朝が早過ぎるからと断っていたが、一度行ってみるさ。ブルーもそれでいいんだろう?」
「パパ、ホント?」
「ああ。今週の土曜も行くと言ってたし、パパは釣りだ。お前はハーレイ先生と朝日を見なさい」
望みが叶ったブルーは歓声を上げて父に抱き付き、ハーレイの土曜日の予定も決まった。朝日が顔を出す前にブルーの家に来て、門扉の横にあるチャイムを押す。その頃にはブルーの父の愛車がガレージから消えているだろう。朝一番から釣りに出掛ける友人たちと合流するために。
念願叶って土曜日の朝。朝と呼ぶにはあまりにも早い三時半すぎにブルーは父に起こされた。
「ほら、ブルー。朝だぞ、ハーレイ先生がおいでになる前に起きるんだろう?」
「…パパ、眠い……」
「知らんぞ、パパは出掛けるからな」
ブルーの上掛けを引っぺがした父は、いそいそと釣りに出掛けて行った。その父の車がガレージから走り去っても起きて来ないブルーに、今度は母が階段を上がってやって来る。
「ブルー、そろそろ起きないと…」
「…眠いよ、ママ…」
「もうすぐハーレイ先生がいらっしゃるわよ?」
「ハーレイ!?」
ガバッと飛び起きたブルーは時計を見るなり悲鳴を上げた。
「酷いよ、ママ! なんで起こしてくれなかったの!?」
「パパが起こして行ったでしょ? ママで二度目よ」
「間に合わないよーーーっ!!」
ハーレイが来ちゃう、とブルーがアタフタしている間に門扉の横のチャイムが鳴らされ、客人の来訪を母に知らせた。母は「開けてこなくちゃ」と部屋を出てゆき、ブルーはパニック状態で。
「さ、先に歯磨き? 着替えるのが先?」
ドタバタと駆け込んだ洗面所でパジャマ姿で顔を洗っていると、背後から「おはよう」と笑いを含んだ声がかかった。
「寝起きのお前を見るのは何年ぶりだか…。いや、ナスカのアレもカウントするのか? 格納庫で小さいトォニィを抱えて、ナキネズミに顔を舐められてた時な」
「ハーレイの意地悪っ!」
こんな所を見に来なくても、と鏡に映ったハーレイを睨み付けても笑われるだけ。寝癖がついた髪もパジャマ姿もしっかり見られた。どうせならもっと色っぽい所を見て欲しかった。なのに…。
「やっと着替えか。覗かないから早くしろよ」
じゃあな、とハーレイはブルーの部屋の扉を外からパタンと閉ざしてくれた。
(…酷い!)
見るんだったら着替えじゃないの、と泣きたい気持ちになってくる。寝坊したブルーが悪いのだけれど、みっともない部分だけを見られて「色っぽい」であろう着替えは無視。
(…ぼく、ハーレイの恋人なのに…)
思わず声に出た「ハーレイのバカッ!」を、当のハーレイは扉の向こうで笑いを噛み殺しながら聞いていた。一人前に「覗き」を期待したらしい小さな恋人の脹れっ面を思い浮かべて。
すったもんだはあったけれども、太陽はブルーの身支度が整うまで出るのを待っていてくれた。いつものブルーの部屋とは違って、来客用に整えられた部屋。東向きの大きな窓はまだ真っ暗で、カーテンを開けると空の端の方だけがほんのり明るい。
「よし、間に合ったな。まだ星もあるぞ」
「ホントだ。けっこう沢山光ってるけど…。東の方にはもう見えないね」
「みるみる内に見えなくなるさ。ほら、あの辺りもさっきまで星があったのにな?」
白み始めた空は瞬く間に明るさを増してゆく。窓の向こうの木も黒々とした塊だったのが茂った葉になり、その遙か上を何処へ行くのか何羽もの鳥が飛んでゆく。
「…夜が明けるのって、太陽が昇ってくるだけじゃないんだ…」
「そりゃまあ……なあ? 雲海の上なら太陽だけかもしれないけどな」
今なら空気も違う筈だ、とハーレイが窓を開けると涼しい風が流れ込んで来た。夜気の名残りに爽やかな緑の匂いが混じる。露を帯びた木々を渡ってくるからだろうか。
「どうだ、お前が見たかったものは?」
「…シャングリラの朝とは全然違うね。公園なんかは朝も夜も再現していた筈なのに…」
「人工の照明とは比べようもないさ。おっ、出て来るぞ」
サアッと辺りが明るくなった。太陽の欠片が顔を出しただけで世界に一気に色が付く。
「本物の地球の太陽だ…。ぼくが見たかった地球の太陽…」
「俺は一応、見てはいるんだがな…。あんな汚い空気の中ではサッパリ駄目だな」
この太陽とは別物だ、とハーレイが笑う。
「ガキの頃から日の出は散々見て来たんだが…。記憶が戻ると味わい深いな、同じ太陽でも」
「ぼくはあんまり見たことないや…。朝には強くないんだもの」
「それは今朝のでよく分かった。俺と約束していたくせに寝坊するとは天晴れだ。しかも夜明けを見たいと言い出したのはお前なのにな?」
「…ホントに朝には弱いんだもの…」
そういう言葉を交わす間に太陽はとても見ていられない明るさになり、やがて階下から母が来て朝食は何処で食べるかと訊いた。ダイニングか、それとも庭の木の下のテーブルか。
「木の下がいい!」
「はい、はい。それじゃ用意をしてくるわね」
母の姿が消えて間もなく、窓からの風に焼き立てのパンの香りが加わった。他にも美味しそうな匂いが混じる。そして母が「朝御飯、用意出来たわよ」と呼びに来て…。
「こいつは最高に贅沢だな」
朝一番から外で食事か、とハーレイが分厚いトーストを齧り、ブルーは普通サイズのトースト。庭で一番大きな木の下の白いテーブルと椅子の周りの芝生はまだ朝露が光っていた。
「ハーレイ、朝からよく食べるよね」
「お前が食べなさ過ぎなんだ。しっかり食べて大きくなれよ、と何度も言っているだろう」
「…入らないんだもの……」
特に朝は、とブルーが唇を尖らせると。
「ふむ。そういう時には運動がいいぞ? ああ、そうだ。もう少ししたら公園に行くか」
「公園?」
「夏休みの間は朝に体操をやってるようだ。掲示板に時間が書いてあったぞ、六時からだ」
ハーレイはパチンと片目を瞑った。
「食べ終わって少し休憩してだな、それから朝の体操をする。どうだ?」
「えっ…? ぼ、ぼく、朝の体操は…」
「行ってみたことが無いってか? 連れてってやるぞ、健全なデートといこうじゃないか」
「む、無理! 今日はとっても早起きしたからもう眠い!」
眠いんだもの、と言えば「朝の体操はシャキッと目が覚めるぞ」などと言い返されて。
けれどブルーの身体が弱いことを知っているハーレイは決して無理強いしなかった。公園に行く代わりに他愛ない話をして笑いながら過ごす。
ここ数日、ブルーの頭を悩ませている羽根ペンを買うべきか買わざるべきか、という悩みも今は幸せな時間に溶けて消えていた。
早起きのせいで眠いどころか、ブルーの心は満ち足りていて元気一杯。うんと早起きをしたから今日はハーレイと普段よりも長く一緒にいられる。
体操デートはしたくないけれど、朝と呼べる時間もまだたっぷりと残っている。
今日はハーレイと何を話して過ごそうか?
二人で眺めた今日の夜明けに、シャングリラに居た頃の雲海の夜明け。
どちらもハーレイと眺めた景色。ハーレイが隣に居てくれる幸せ。
ハーレイが好きでたまらない。前の生も、今も、これからも………ずっと。
夜明けを見たい・了
※シャングリラでは見られなかった日の出をハーレイと二人で見られる幸せ。
ブルー君、早起きした甲斐があったみたいですね。
聖痕シリーズの書き下ろしショート、30話を超えてしまいました…。
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夏休み真っ只中の八月の初め。ブルーはハーレイが訪ねて来られない日に一人でバスに乗り、町の中心部にある百貨店へ出掛けた。目指すは文房具を売っているフロア。其処でハーレイの誕生日プレゼントを買うつもりだった。
ハーレイが前の生で愛用していた羽根ペン。予算はうんと奮発してブルーのお小遣い一ヶ月分。
前世でハーレイが書いた航宙日誌は今や超一級の歴史資料となり、様々な形で出版されている。中でもとびきり高価なものがハーレイの筆跡をそっくりそのまま再現してある研究者向けの書籍。大人でも気軽に買える値段ではないが、データベースでなら同じ内容のものを無料で読めた。
ハーレイによると、活字になった航宙日誌は「ただの日誌」だが、当時の筆跡を留めたものならそれを書いた時の自分の心境が鮮やかに蘇るらしい。キャプテン・ハーレイであったハーレイだけしか真の意味が読めないタイムカプセルのような航宙日誌。
羽根ペンでそれを綴っていたから、今の生でも羽根ペンを持って欲しかった。
ハーレイは「最近、欲しいような気もしてきたんだ」とは言ったけれども、使いこなせる自信が無いから買わないという。ならば自分がプレゼントしようと決心したのに。
(……高すぎるなんて……)
勇んで買いに行った羽根ペンはブルーが買うには高価すぎた。もちろん貯金を使えば買えるが、そこまで背伸びして贈ったところでハーレイは手放しで喜んではくれないだろう。子供には高価に過ぎる羽根ペン。ブルーのお小遣いが減ったのでは、と心配されるのが目に見えていた。
(でも…。ぼくはハーレイに羽根ペンをあげたいのに…)
他のプレゼントなど思い付かない。航宙日誌に纏わる話を聞いた時から「特別な」羽根ペン。
再会してから初めてのハーレイの誕生日だからこそ、前の生での記憶を今なお留める航宙日誌を書いた羽根ペンに似た羽根ペンを探して贈りたかったのに…。
百貨店には予算分のお金しか持って行かなかったから、諦めて帰宅するしかなかった。そうして家には戻ったものの、どうしても羽根ペンが諦め切れない。
(…他の物なんて思い付かないよ…)
羽根ペンを買うのだと決めていただけに、買えなかったショックは大きかった。ハーレイは今の生でも日々の出来事を簡単に綴っていると聞いたし、それを思い出深い羽根ペンで書けるようにと考えて決めたプレゼントなのに…。
潔く諦めて別の物にするか、貯金を使って羽根ペンを買うか。
(羽根ペンがあんなに高いなんて知らなかったもの…)
ハーレイに羽根ペンを贈りたい気持ちは変わらない。贈りたいのに、子供が買うには高すぎる。
(…羽根ペンを買おうって決めていたのに…)
どうすればいいのか、ブルー自身にも分からなかった。自分の意志を貫いて買うか、ハーレイの気持ちを考えて子供らしい品物に変更するか。いくら考えても答えは出なくて、次の日が来て…。
「ブルー、おはよう」
訪ねて来てくれたハーレイをブルーは笑顔で迎えた。庭で一番大きな木の下にあるお気に入りの場所、白いテーブルと椅子でお茶にし、それほど暑くはならなかったから昼食も其処で。
昼過ぎになると流石に暑さが増してきたため、二階のブルーの部屋へと移った。それまでの間も自分の部屋に移動した後も、元気に振舞っていたブルーだけれど。
ハーレイと向き合っていると昨日買いそびれた羽根ペンのことが頭を掠める。ハーレイには羽根ペンが良く似合うのに、と思う度に気分が少し落ち込む。
ブルー自身は上手く隠したつもりだったが、ハーレイにはすっかり見抜かれていた。とはいえ、ハーレイも原因が羽根ペンだとまでは分からない。
(…ブルーに何があったんだか…)
それとなく探りを入れてみても判然としなかった。あくまで普通に振舞うブルー。
(夏休みの宿題で行き詰まったか? …いや、こいつに限ってそれだけは無いな)
友人と喧嘩をしそうにもないし、原因が思い当たらない。しかし明らかに落ち込んでいる。
(うーん…。俺にも言わないとなったら、どうしたもんかな)
無理に訊き出すにはまだ早い、と教師の勘が告げていた。この状態が何日間も続くようならば、それから訊くのが良さそうだ。
(とりあえず今は気分転換をさせてやるのが一番か。…深刻な悩みでなければそれで消えるさ)
その気分転換をどうするか、とブルーと向かい合わせでテーブルを挟んで考えてみて。
(そうだ、あれがいい)
ブルーが喜びそうなこと。それを思い付いたハーレイは「お母さんに用があるから」とブルーに言って階下へ下りた。リビングに居たブルーの母に相談ごとを持ち掛ける。「お手数をおかけしてすみません」と頭を下げたが、彼女は「いいえ、お世話になるのはブルーですもの」と二つ返事で引き受けてくれた。
ハーレイが二階に戻って、ブルーの母がお茶のおかわりを持って来て。二人でゆっくりと過ごす間に夏の長い日も暮れて来た。夕闇が迫って来る頃、夕食の支度が出来たと呼ばれたのだけれど。
「…あれっ、ママ?」
先に立って階段を下り、ダイニングの扉を開けたブルーは目を丸くした。父も帰っていて食事の用意が整っているのに、父と母の分しか置かれていない。普段、ハーレイとブルーが座る席の前のテーブルはがらんとしていて何ひとつない。
「…ママ、御飯は?」
何ごとなのかと訝るブルーに、母が明るい笑顔を返した。
「御飯なら外よ」
「外?」
「ハーレイ先生がね、授業の補足を兼ねて外で夕食にしたいので、って仰ったのよ」
「えっ?」
それホント? とハーレイを見上げれば「本当だ」と大きな手がブルーの頭に置かれた。
「お母さんにお願いしておいたんだ。セッティングは俺も手伝ったんだが…。ちょっと移動させるだけだとはいえ、お母さんに力仕事は向かんしな」
「力仕事?」
「ああ。俺にとっては力仕事とは言えんレベルだが…。まあ来てみろ」
ハーレイが玄関を出るのに続いて庭に出たブルーは驚いた。木の下が定位置の筈の白いテーブルと椅子が芝生の真ん中に移動させられている。
「…ハーレイがやったの?」
「もちろんだ。もっとも俺は動かしただけで、その後はお母さんに頼んだんだが…」
テーブルの上に母がたまに灯しているガラスのランプ。ほのかで柔らかい光の中に夕食の用意。
「…あそこで食べるの?」
「そうさ、たまには課外授業もいいだろう?」
ちゃんとしっかり勉強しろよ、と笑いながらハーレイはブルーを促してテーブルに着いた。
「…よし、丁度いい頃合いだな」
上を見てみろ、とハーレイの指が頭上を示して。
「ほら、ブルー。あれが夏の大三角形というヤツだ。アルタイルとベガとデネブだな。アルタイルとベガは俺の授業で教えただろう? 七夕の時に」
「…あっ…!」
そうだった、とブルーは思い出した。それを習った後、家でハーレイと話をした。もし自分たちが一年に一度しか会えない恋人同士だったら…、という話。
「ハーレイ、天の川でも泳いで渡って来てくれるんだっけね」
「お前との間に天の川が出来てしまったならな。…お前を決して泣かせやしないさ、どんな川でも渡ってみせると言っただろう? たとえ向こう岸が見えなくてもな」
「…外で授業って、これのことなの?」
「立派に七夕の補足だろうが。学校で星は見上げていないぞ、昼間だったからな」
授業なんだぞ、とハーレイは片目を軽く瞑ってみせた。
「そして本当なら、あの辺りに天の川がある筈なんだが…。流石に此処からはちょっと見えんか」
「ハーレイは天の川、見たことあるの?」
「何回もあるぞ。明かりの少ない郊外へ行けば良く見える。海辺なんかも狙い目だな。いつか俺の車でドライブに行くか、天の川を見に」
そう言われてブルーの心臓がドキリと跳ねた。羽根ペンが買えなかったことなど綺麗に忘れて、ハーレイの話に夢中になる。この家の庭からは見えない天の川。写真でしか知らない天の川を見にハーレイの車でドライブだなんて、どんなに楽しいことだろう。
「天の川が見える所って、遠い?」
「そうでもないぞ。郊外なら少し走れば着くさ。雄大な天の川を見るなら断然、海だが」
「そっか…。じゃあ、ハーレイが泳ぐなら郊外の天の川がいいね。そっちの方が川幅が狭そう」
「川幅と来たか…。確かに少しでも狭い方が泳いで渡るには好都合だな」
そして此処なら、とハーレイは天の川が見えない頭上を仰いだ。
「天の川は水が無いようだ。俺は泳がなくても渡れるらしい」
「ふふっ、そうだね。それなら走って渡って欲しいな。少しでも早く会いたいもの」
「おいおい、俺だけが走るのか? 水が無いならお前も歩けばいいだろう」
早く会いたいのなら歩いて来い、とハーレイが笑う。天の川は自分しか泳ぎ渡れそうもないから泳ぐことにするが、水が無いならブルーも頑張って歩くべきだと。
「いい運動になると思うぞ、なんなら少しは走ってみるか?」
「ハーレイが来てよ、泳ぐのよりはずっと楽だよ」
「こらっ、お前は動かないで待つつもりだな? 運動不足になっても知らんぞ」
「ぼくが歩き疲れて倒れちゃったら、ハーレイも困ると思うんだけど…」
一年に一度しか会えない場面で寝込むわけにはいかないから、と主張するブルーと、運動不足は身体に悪いと言うハーレイと。
星空の下での特別授業は妙な所で平行線を辿り、やがて二人して笑い合った。天の川があっても無くても、体力勝負になりそうな距離を越えてゆくにはハーレイの方が適任だと。
「…結局、俺が頑張らないといけないんだな」
「うん。ハーレイの方が丈夫だもの」
「そしてお前は俺を待つ間、のんびりと飯を食うつもりだな?」
「御飯の用意が出来ていたらね」
今みたいに、とブルーは微笑む。
ランプの明かりに照らされた夕食はいつもよりもずっと特別に見えた。
冷たいスープとチキンのハーブ焼き。同じものでも明るい部屋で父や母も一緒の夕食だったら、これほど美味しいと思えただろうか?
ハーレイと二人きりで食べているから特別なのか、星空の下だから特別なのか。
そんな疑問を口にしてみたら、「両方だろう」とハーレイが穏やかな笑みを浮かべた。
「これもちょっとしたデートってトコだ。お母さんは授業だと信じているがな」
ハーレイはブルーに教えてやった。落ち着いた雰囲気を演出するために明かりを抑えてある店もあるのだと。店内の照明をわざと暗くし、テーブルに蝋燭やランプを置いて。
「そういうレストランもあるし、今みたいな季節だと庭にテーブルを置いている店もあるんだぞ。一人で行ってもつまらんだけだが、その内に是非行かんとな」
「つまらないのに?」
美味しいものでもあるのだろうか、とブルーは思った。ハーレイの好物とか、他では見かけない珍味だとか…。つまらなさを補ってなおあまりある料理が出るのだろう、と考えたのに。
「つまらなくないさ、お前と一緒だからな」
「ぼく?」
キョトンとするブルーに、ハーレイは「そうだ」と大きく頷いた。
「だが、今じゃないぞ? その内に是非、と言っただろう? いつかお前が大きくなったら連れて行ってやるさ。明かりを抑えた店も、庭にテーブルを出してる店もな」
そして二人で食事をしよう。
お前が帰りの時間が遅くなるのを気にしないでいい年になったら。
そう告げるハーレイの瞳は優しかったが、その奥に熱い焔が宿っていた。
「…ハーレイ、それって…」
口ごもるブルーに、ハーレイは「気が付いたのか?」と目を細めた。
「いわゆる恋人同士で食事ってヤツだ。正真正銘、デートだな。…お前の帰りが遅くなっても心配されない年になったら、そういう店にも連れてってやる。…嫌か?」
「ううん、嫌じゃない。…早くハーレイと一緒に行きたい。だって…」
今はこんな所でデートだもの、とブルーは呟く。
いつもの夕食より特別な気がして嬉しいとはいえ、所詮は自分の家の庭。こんなに素敵な未来の話が出たというのに、ハーレイの膝に座ることさえ出来ないし…。
「仕方ないだろう、お前は子供だ。子供には子供向けのデートコースがあるってことだな」
「……そうなんだけど……」
残念でたまらないといったブルーの様子に、ハーレイは少しおどけてみせた。
「子供向けのデートをしていたつもりだったが、もっとお子様向けがいいのか? なら、この次は庭でままごと遊びにしよう。本物の飯の代わりに木の葉や泥の団子でな」
「それは嫌だよ! 木の葉っぱなんて食べられないし!」
「そうでもないぞ? きちんと料理すりゃ食える葉もある」
桜餅の葉っぱとかだな、と例を出されてブルーは「もうっ!」と頬を膨らませたが、話題は子供向けのデートコースを切っ掛けに逸らされてしまって出発点には戻らなかった。「これも授業の内だしな」などと澄ました顔のハーレイを睨み付けても、「ちゃんと聞けよ」と授業は続いた。
これは果たして古典の授業の範疇だろうか、と何度も首を傾げてしまった星空の下の課外授業。
前の生のハーレイはキャプテンだけに様々な知識を持っていたけれど、今のハーレイも負けてはいなかった。
「この辺りじゃ星座は本来、二十八個だぞ」と大真面目な顔で言われた時には「嘘!」と叫んでしまったものだが、どうやら本当のことらしい。前の生の頃より遙かに古い時代の地球。そこには二十八宿と呼ばれる別の星座があったのだそうだ。
そうかと思えば「もうすぐ秋だな」などと言う。八月はまだ始まったばかりなのに、八月七日が秋の始まり。立秋という言葉を教えて貰った。ついでに八月は葉月だとも。
食べられる葉っぱの話からは「春の七草」と「秋の七草」を教わった。春の七草は食べるもの。秋の七草は見て楽しむもの。どうして両方とも食べられるものにしなかったのだろう? 間違えて食べてしまったらどうするの、と訊いたら「そんな馬鹿はお前くらいだ」と真顔で言われた。
古典の範囲だか、そうでないのか、ブルーには全く見当もつかないハーレイの授業。そういったことを楽しげに話すハーレイを見ていると幸せな気持ちになってくる。
前の生のハーレイの膨大な知識はシャングリラのために必要だったからこそ覚えたもの。それが無ければ明日の生さえ危うかったもの。
けれど今のハーレイが身に付けた知識は古典の世界を深く味わうのに欠かせないもので、それは無くても困らないもの。あれば心が豊かになって生の喜びが増してくるもの。
沢山の知識を持っている点は同じであっても、内容が違うとこうも変わってくるものなのか、とブルーは本当に嬉しくなった。生き残るための知識ではなく、生を楽しむための知識がハーレイの中にぎっしりと詰まっていることが…。
これが自分たちの今の生。歯を食いしばって生きる代わりに、自由に羽ばたいてゆける生。
だからハーレイは柔道と水泳だけでも充分なくせに、古典の教師にまでなった。体育の教師でもやっていけるのに、よほど古典が好きなのだろうか。そう尋ねたら、「まあな」と答えが返った。「遠い昔の地球の姿が見えてくるような気がするじゃないか」と。
星空の下の課外授業と食事が終わると、ハーレイは「また明日な」と手を振って帰って行った。自分の家まで歩く間にも、きっと色々な楽しいことを見付けるのだろう。「大昔の地球じゃ、夏は怪談だったらしいぞ」などと言っていたから、オバケを探しながらの帰り道かもしれない。
「オバケかあ…」
出来ればあんまり会いたくないな、とブルーは思った。前世の自分だったらともかく、十四歳の子供の自分はオバケを倒せそうにない。今のハーレイなら投げ飛ばして倒せそうなのだけれど。
(…夜遅くなると出るのかな、オバケ)
いつかハーレイとデートに出掛けて遅くなったら、家まで送って貰わなければ。素敵なデートをして帰る途中でオバケなんかに会ってしまってはたまらない。でも…。
(そうだ、ハーレイと結婚してたら帰りの道も一人じゃないよね)
ハーレイと二人で住んでいる家に帰ってゆくなら、遅い時間でも大丈夫。オバケが出ようが一人ではないし、それに時間が遅くなっても…。
(ハーレイと一緒に帰るんだから、うんと時間が遅くなっても誰も心配しないんだっけ)
心配しそうなハーレイはブルーと帰宅時間が一緒。帰ってゆく家も全く同じ。
(…早くハーレイと結婚したいな)
そして食事に行くんだよ、とハーレイが話してくれたレストランを思い浮かべる。今日のデートよりもずっと素敵な時間を過ごして、美味しいものを食べて、ハーレイと暮らす家に帰って…。
家に着いたら強く抱き合ってキスを交わして、それから、それから……。
その夜、ブルーは幸せな気分に満たされたままで眠りに就いた。
ハーレイと星空の下で食事を始める前まで心を悩ませていた羽根ペンのこともすっかり忘れて、それは幸せだったのだけれど。
翌朝、目覚めると昨夜の星空の下での素敵なデートを思い出して再び考え始めた。
幸せな時間を作り出してくれたハーレイのために羽根ペンが欲しい。
大好きでたまらないハーレイと再会してから初めてのハーレイの誕生日。
その特別な日に羽根ペンをプレゼントしたい、とブルーの思いはますます募る。
ハーレイはブルーの「特別」だから。
前の生から愛し続けて、再び出会えた恋人だから……。
星空の下で・了
※ハーレイ先生と、星空の下での課外授業。そういう名前のデートですけど。
こういう優しい時間を過ごせるのも今の地球ならではです。
聖痕シリーズの書き下ろしショート、本編絡みのも幾つかあります。
増えても告知はしていませんから、覗いてやって下さいねv
←拍手してやろうという方がおられましたらv
←書き下ろしショートは、こちらv
十四歳の少年として青い地球の上に生まれ変わって来たブルー。前世で恋人だったキャプテン・ハーレイもまた、同じ地球に生まれ変わって三十七歳の学校教師として生きていた。
そのハーレイがブルーの通う学校へ年度初めに少し遅れて赴任してきて、二人は再会出来たのだけれど。ハーレイは前の生よりも頑丈な身体を持っていたのに、ブルーは弱いままだった。聴力は普通でも虚弱な身体。体調を崩しやすくて、欠席や早退はよくあることで…。
ブルーが学校を休んだ時には、ハーレイが様子を見に訪ねて来てくれることが多かった。学校の帰りに見舞いに寄って、ブルーの食欲が無かったりすると野菜のスープを作ってくれる。
何種類もの野菜を細かく刻んで、基本の調味料だけでコトコト煮込んだ素朴なスープ。ハーレイ曰く、「野菜スープのシャングリラ風」。
それは前世でハーレイがブルーのために何度も作っていたもの。ブルーにとっては懐かしい味のスープで、匂いが鼻腔を擽っただけで食べたい気持ちになってくるもの。
今日もブルーは朝から体調が優れず、泣く泣く欠席を余儀なくされた。学校に行けばハーレイに会えて、三時間目には彼が受け持つ古典の授業もあったのに。無理をしてでも行きたかったのに、身体がそれを許さなかった。
丸一日ハーレイの顔を見られないのかとブルーは悲しく、明日は登校出来ますようにと祈りつつ昼間をベッドで過ごした。けれど夕方になっても下がらない微熱。明日も学校に行けそうもない。
(…明日もハーレイに会えないなんて…)
泣きそうな気分でベッドの中で丸くなっていたら、ハーレイが野菜スープを作りに来てくれた。熱いスープを冷ましながらスプーンでブルーの口に運んで一匙、また一匙。
そうやって食べさせて貰い、スープの器が空になったら「頑張ったな」と大きな手で頭を撫でて貰えた。その手に甘えて離れようとしないブルーに「明日も作りに来てやるから」と言い聞かせ、「またな」と手を振ってハーレイが帰って行った後。
明かりを消した部屋で一人になったブルーは、熱で重く感じる身体をベッドに横たえ、遠い過去へと思いを馳せた。
ハーレイが作って食べさせてくれた素朴なスープ。野菜スープのシャングリラ風。
あの懐かしくて優しい味のスープにそんな名前がまだ無かった頃。わざわざ「シャングリラ風」などと名付けるまでもなく、白いシャングリラがブルーの世界の全てだった頃。
何度となくハーレイがスープを作ってくれていた。今の生のように多種多様なスパイスがあったわけもなく、ブイヨンさえも食堂で必要な分だけが作られていた頃。ブルーが寝込んでいるからといって、そうそう特別なメニューを何食分も用意出来るだけの余裕は無かった。
ハーレイの野菜スープはそんな中で生まれ、ブルーはその味が大好きになった。シャングリラの食堂のクルーや物資に余裕が生まれてブルーのために病人食を作れる時代になっても、ハーレイが作る素朴なスープがブルーの身体には一番合った。
スープを作り始めた頃には、まだ結ばれてはいなかったハーレイ。恋人同士でさえなかった筈のハーレイだったが、とうにお互い、惹かれ合い、大切な存在なのだと感じ始めていたのだろう。
ブルーを気遣うハーレイが作ってくれた味。想いが通じ合うよりもずっと前から、ハーレイとの間を結んで繋いでくれていた味。
だからこそブルーは何よりも自分の身体に合う味として特別に思い、あのスープが食べたかったのだろう。身体が弱ってしまった時に、その身に宿る魂を充足させてくれる大切な栄養源として。衰弱した身体をその内側から蘇らせるために欠かせない、心を満たす食べ物として…。
青の間の小さなキッチンを使って、ハーレイが作ってくれた野菜のスープ。キャプテンとしての仕事が忙しい時でも、必ず作りに来てくれた。時間をやりくりしてブルーだけのために。
ブルーの身体がすっかり弱って眠っている時の方が多くなっても、目覚めればハーレイが野菜を刻む音が聞こえて、優しい味のスープが飲めた。食事を受け付けられない状態の時も、あのスープだけは喉を通った。
そういった日々さえ間遠になって、とうとう長い眠りに就いて。
夜毎、ブルーの手を握っては日々の出来事を語り聞かせるハーレイの声だけを遠く近く聞いて、ほんの一瞬の星の瞬きのようにも思えた長い長い眠り。
その眠りから覚めたと思ったら、其処に穏やかな日々は無かった。
ブルーは青の間に一人きりで居て、ハーレイの気配も感じない。代わりに青の間の静けささえも掻き乱すほどの不穏に過ぎる何者かの存在と、混乱の渦に陥ったシャングリラと。
何が起こったのかも分からないままに、よろよろと青の間から外へ出た。満足に動いてくれない身体で長い通路を歩く間に、把握した事態。
地球の男。
ミュウに、シャングリラに、不吉な死の影を投げ掛けつつある黒い髪の男。
弱った身体に鞭打ちながら先回りをして、格納庫で彼を倒そうとした。メンバーズ・エリート、キース・アニアン。
彼こそが自分に死を運んで来た使者だとも知らず、ミュウの未来のためだけに。
仕留め損なってしまったキース。
シャングリラから首尾よく逃れた彼は、メギドを携えて戻って来た。
彼が戻るまでの時間は慌ただしく過ぎて、仲間たちをナスカから脱出させるために多忙を極めていたハーレイは野菜スープを作る僅かな時間さえも捻り出すことが出来なかった。
「すみません、ブルー。…あなたがお目覚めになったのに…」
こんな時にこそスープを作って差し上げたいのに、と見舞いに訪れたハーレイを覚えている。
「かまわないよ。…また今度、船が落ち着いたら作って欲しいな」
「ええ、必ず。ナスカを離れて、あの男の追跡を無事に振り切ったら作りに来ます」
「ありがとう。…此処で楽しみに待っているから」
そう告げながら、心では「ごめん」と謝っていた。予知能力は大して無かったけれども、二度とハーレイの作る野菜スープを味わえないことが分かっていたから。
自分の目覚めは地球の男を倒すため。…そして自分の命も其処で尽きる、と。
ブルーの悲しい予感は当たった。
メギドを携えて戻ったキース。第一波を受ける前からそれを感じ取り、シャングリラを離れた。
ハーレイに次の世代を託して、最後に彼の腕に触れた右手に残った温もりだけを大切に抱いて、ブルーは死が待つメギドへと飛んだ。
どんな運命が待っていようとも、ハーレイの温もりがあれば充分だった。自分は決して一人ではないと、ハーレイの温もりと共に在るのだと、死を受け入れるつもりでいた。
それなのに…。
キースに撃たれた傷の痛みがハーレイの温もりを消してゆく。弾が身体に食い込む度に温もりは薄れ、右の手が冷たくなってゆく。
最後に右の瞳を撃たれた激痛。それが完全に消してしまった。ブルーが最期まで共に居たかったハーレイの温もりを、右の手に大切に持ち続けていた優しすぎる温もりの最後の欠片を。
(…ハーレイっ…!)
失くしてしまった。ハーレイの温もりを失くしてしまった。
自分は独りきりになってしまった、と青い閃光が溢れるメギドでブルーは泣いた。凍えて冷たくなった右の手。ハーレイの温もりは何処にも無くて、ブルーは独りぼっちになった。
もう会えないと、ハーレイには二度と会えないのだと泣きじゃくりながら、凍えてしまった右の手が冷たいと泣きじゃくりながら、青い閃光に包まれてブルーは死んだ。
凍えた右手と自分が流した涙を最後に、前の生の記憶はプツリと途切れる。
気が付けば両親と戯れる幼い自分。
歩き始めて間もない頃か、それとも初めて歩いた日なのか。光が溢れる今の家の庭で、父と母が手を差し伸べていた。そちらに向かって懸命に歩く。今よりもずっと小さな足で芝生を踏みしめ、父と母の腕の中を目指して。
それが一番最初の記憶で、そこから優しい時が始まる。
父の肩車ではしゃぎながら回った動物園。両親としっかり手を繋いで出掛けた遊園地。浮き輪を引っ張って貰って泳いだ気分になっていた海や、お弁当を広げた郊外の山。
数え切れない両親との思い出、友人たちと遊んで笑い合った日々。
沢山沢山の幸せな時間がブルーの上を流れて、そうして再びハーレイと出会う。
今でこそ自然に繋がってしまった記憶だけれども、ブルーの中には微かに残っていた。後に聖痕現象とされた右の瞳から流れた血。両親に連れて行かれた病院の医師から、ソルジャー・ブルーの生まれ変わりではないかと言われて恐ろしくなった。
自分が自分でなくなるのでは、と考える度に怖くて震えた数日間。
ソルジャー・ブルーになど、なりたくなかった。十四歳の自分のままが良かった。
そう思って震え続けていたのに、そのすぐ後に幸せな日々がやって来た。
自分は変わらず十四歳の少年のままで、それなのに前世の記憶がきちんとあって、前世で愛した恋人までがついてきた。
前世の自分がもう会えないと泣きじゃくりながら死んでいった恋人、キャプテン・ハーレイ。
今の生ではブルーが通う学校の教師で、学校で呼ぶ時はハーレイ先生。
家に来てくれて二人で過ごす時には、前の生と同じでハーレイ。
二度と会えないと思った筈のハーレイに、ブルーは再び会うことが出来た。
遠い日にメギドで失くしてしまった筈の温もりが右の手に戻り、独りぼっちではなくなった。
前世の自分が死んでしまってから、今の自分が生まれるまでの長い長い時間。
ハーレイたちがシャングリラで辿り着いた時には死の星だった地球が蘇り、青い水の星となって人が暮らせるようになるほどの時が、気付けば流れ去っていた。
気が遠くなりそうなくらいに長い時間が通り過ぎてゆく間、自分は何処に居たのだろう?
前にハーレイが言っていたとおり、時を待っていたのであれば…、とブルーは祈るように思う。
ブルーにはブルーの、ハーレイにはハーレイの、それぞれの前の生での姿とそっくり同じに育つ器が生まれてくるまで、自分たちは時を待ったのだろう、とハーレイは語った。
そのとおりなのだと思いたい。ハーレイと二人、待ち続けたのだと信じたい。
何処に居たのかは分からないけれど、自分たちは共に居たのだと。
どうかハーレイと離れることなく、長い時を共に越えて来たのであるように…、と。
(…そうでなければ悲しすぎるよ)
これほどの時が経つまで離れ離れで過ごしたなどとは思いたくない。
きっと二人で何処かに居たに違いない。生まれ変わる時には不要だからと神がその記憶を消してしまっただけで、共に過ごした幸せな時が必ずあったに違いない、と。
(……でも……)
ブルーはハーレイの姿を思い浮かべた。
自分は死んで直ぐに長い長い時を越えたけれども、ハーレイは?
前の生でブルーよりも長く生きた分、悲しみを抱え続けたであろうハーレイは…?
ブルーを喪った後のハーレイはどれほどに辛く、悲しい時を生きたのだろう。自惚れるわけではないのだけれど、自分がいなくなった後のハーレイの魂は死んだも同然ではなかったろうか。
ブルーが次の世代を頼むと告げなかったなら、ハーレイは追って来たかもしれない。
キャプテンの責務もシャングリラをも捨て、メギドまで追い掛けて来たかもしれない。ブルーを独りで逝かせないために、自分も共に逝くためだけに。
けれど、ハーレイはそうしなかった。ブルーの遺言がそれを許さなかった。
恐らくはブルーが遺した言葉を守るためだけに、ハーレイは生きた。ブルーがいなくなった後のシャングリラで、ただ一人、恐ろしいほどの孤独を噛み締めながら。
ブルーが独りきりになってしまったと泣きじゃくりながら死んでいったように、ハーレイもまた独りきりになった。ブルーのいない船に一人残され、それでも生きてゆくしかなかった。
孤独の中でブルーの遺言だけを守って生きたハーレイ。
ただ独りきりで、何年間もの戦いの時間をハーレイは生きて、そうして死んだ。
時には笑うこともあっただろうけれど、孤独は癒えなかっただろう。
ハーレイは独りきりだったから。ブルーを失くして独りきりになってしまったから…。
広いシャングリラに一人残されたハーレイが味わった孤独を思うと、この地球にハーレイが先に生まれて来ていて良かったのだ、と心から思う。
ブルーよりも先に生まれたがゆえに、前の生で別れた時そのままの姿をしたハーレイに出会えたことも大切だけれど、何よりも…。
ハーレイもまた自分のように、自らの死で途切れた記憶の後に今の生の記憶が挟まるのならば。
地球の上に生まれてから前世の記憶を取り戻すまでの時間が間に入るのならば…。
今の生で過ごした幸せな日々が長ければ長いほど、ハーレイの傷の痛みは薄れるだろう。
ブルーを喪ってからの辛い時間を、今の生での時間が癒してくれるだろう。
家族や友人たちと過ごした日々の記憶、好きな柔道や水泳に夢中になって打ち込んだ時間。
ブルーが生まれて来るよりも遙かに前に生まれたハーレイは、沢山の思い出を持っている筈だ。
(…うん。色々と話してくれたものね)
再会してから今日までの間に聞いただけでも、充実した今のハーレイの生。
そのハーレイが時折、特に理由もなくブルーの身体を強く抱き締めていることがある。
「なんでもないさ」「甘やかしてやっているだけだ。嬉しいだろう?」と言っているけれど…。
ああした時にハーレイが前の生を思い、失くしてしまったブルーの温もりを求めているのなら、心に刻まれた深い深い傷を癒すためには幸せな記憶が沢山要る。
自分は間違いなく生きているのだと、この地球の上にブルーと共に生きているのだと、その心に強く訴えかけてくれる今の生での幸せな時が。
(…ぼくでも、今も悲しいんだから…)
ハーレイの温もりを失くしたと泣いて、右の手が冷たいと泣きながら死んだ前世の自分。
それを最後に時を越えたのに、今でも夢に見て悲しくて泣いて目が覚める夜がたまにある。
前の生でハーレイと別れて飛び立ってから、メギドでの死を迎えるまでには数時間しか無かっただろう。もしかしたら一時間も無いのかもしれない。
その自分でさえ夢を見る。独りぼっちになってしまったと泣いていた自分の夢を見てしまう。
悲しくて辛く、涙が零れてしまう夢。
今の生の十四年分もの幸せな時を持っていてさえ、此処にいる自分は幻なのかという恐怖に心を支配されてしまう。あまりの怖さに泣きながら眠り、無意識のうちにハーレイの家まで瞬間移動をしてしまった事件があったくらいに。
死んだ直後に、独りきりになってしまった直後に時を越えた自分でも、これほどまでに前の生の悲しみに囚われて泣いてしまうのだから。今の生は夢か幻なのかと怯えるのだから…。
ブルーよりも長い孤独の時を生きたハーレイには、きっと自分よりも沢山の今の生の時間が必要だろう。確かに今を生きているのだと教えてくれる多くの記憶が。幸せに満ちた時の記憶が。
だから、ハーレイが先に生まれて来ていて良かった。
自分よりも先に地球に生まれて、沢山の幸せの中で生きていてくれて本当に良かった…。
(…神様はきっと、それも考えていてくれたんだよね)
ハーレイの方が先に生まれて、前の生で辛い思いをした分も幸せな時間で埋められるように。
すぐに時を越えた自分よりも長い時を独りきりで生きていた分、それを埋め合わせられるだけの時間を幸せの中で過ごせるように。
ブルーには十四年分の地球での時間。両親や友人たちと過ごした時間。
ブルーよりも長く孤独の時間を過ごしたハーレイには三十七年分の地球での時間。ブルーの分の二倍どころか、更に十年近くも多めの時間。
(…そんなに沢山の時間が要るほど、ハーレイは独りぼっちで辛かったんだ…)
ごめん、とブルーは小さく呟く。
君を独りぼっちにさせてしまって、シャングリラに残して行ってしまって本当にごめん、と。
そういったことを考えながら眠りに落ちたブルーだけれど。
次の朝、目が覚めて新しい日がブルーを迎えてくれると、前の生の記憶に根ざした思いは薄れて朝の光に溶ける。
ハーレイの辛さに想いを馳せていた時間の記憶も、十四歳の子供の心の弾けるような輝きの前に薄れてしまって何処かに消える。
そしてブルーは無邪気に待つ。
今日もハーレイが懐かしい味の野菜のスープを作りに訪ねて来てくれるのを…。
必要だった時間・了
※ハーレイとブルー、前世の記憶を取り戻す前に過ごした、それぞれの時間。
悲しみの記憶を補えるだけの幸せを貰ったのでしょう。心の辛さが癒えるように…。
聖痕シリーズ、今月から毎週月曜更新です。ペース上げます、よろしくです。
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